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風土への愛情「向井潤吉」画業を一覧できました

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5月3日は憲法記念日、テレビでは憲法改正問題が流されています。
私には憲法記念日は改憲問題を論じるより「憲法と現実の乖離」こそ問題にして欲しい、思います。
年々命を粗末にする風潮等は、憲法のアカンタビリティー(達成率)が低下している、と思えるのです。
 
先日、神奈川新聞の取材に協力しました。
お礼に、「向井潤吉」の展覧会招待券をいただきました。
私も家内も向井潤吉氏を敬愛しています。
ですから、久々に二人して横浜駅西口、高島屋に向いました。
 
横浜駅西口の雑踏には困惑しましたが、高島屋は落ち着いていました。
そして、向井潤吉会場は私と同年輩が集結、列を為しての見学でした。
向井潤吉の描いた「日本の原風景」を記憶している世代です。
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私が向井潤吉を知ったのは昭和42年頃、JTBの月刊誌「旅」に旅行記を掲載されていたからでした。
紀行文の中でも強く井印象を受けたのは「田麦俣」でした。
 
山形から寒河江を経て、湯殿山にいたる、峠道にあるのが田麦俣の集落です。
飛騨高山よりも遥かに寒村、でも、茅葺・大屋根の民家が並んだ風景は同じように美しいものでした。
田麦俣は雪深ので冬場は二階から出入りします。
従って、茅葺屋根は兜の様な姿をしていて、二階が窓であり玄関でもあります。
これを「多層民家」と呼びます。
 
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向井氏は此処で写生旅行をします。
民宿も無い時代ですから、農家にお願いして泊まらせて頂きます。
村内には粗末な真言宗のお寺が三つもあります。
それぞれのお寺に「即身成仏」が祀られています。
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ネットから転載(田麦俣)
江戸時代、飢饉が連続します。
修験者「鉄門海上人」は救生済度の願をたて、五穀を絶ちます。
上人は見る見る瘠せますが、気力は増してゆきます。
生きたまま仏になって、その功徳力によって、田麦俣の農民が飢饉から救済される、誰もが確信していたのです。
そんな即身仏が三体も祀られているのでした。
向井さんの文章の隅々に、田麦俣への愛情と理解が滲んでいました。
大学生になった私は、向井潤吉さんの紀行文を下に、田麦俣を旅しました。
 
向井潤吉展には田麦俣の連作が展示されていました。
展覧会場で最も多いのが、川越を初めとした武蔵野の民家風景、そして白馬村などの信濃風景、そして生まれた京都、でも田麦俣の民家が圧倒的に多いのでした。
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            (白馬風景/遅れる春の風景/複製画を撮影)
 
1914年、潤吉は京都本願寺の宮大工の家に生まれました。
親の期待を裏切って画家になります。
日本画を学び、パリに留学ルーブル等で模写に励みます。そして昭和13年従軍画家になります。
従軍画家としての作品は残されていないようです。(私は見た事がありません)
 
 
展覧会場で1枚この時期の画がありました。
画題はは「蘇州上空から」。
運河が蛇行していて、瓦屋根の民家が連なっています。
潤吉の乗った戦闘機が民家の屋根に影を落としています。
日華事変の起きる直前の絵画でありましょう。
従軍画家ではなく「反戦画家」の作品です。
屹度、生活の為に従軍画家になっても、描きたいものは無かったのでしょう。
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昭和20年、終戦を迎えます。
潤吉は越後の魚沼、川口(現長岡市)に写生旅行に出かけます。
そこで、雨に濡れる茅葺屋根の民家を描きます。
越後の風景は潤吉を優しく迎えてくれたのでしょう。
そして「愛する農村風景を描こう」一生の仕事を見出したのでしょう。
以来、潤吉は民家を描き続けます。
 
 
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   (これは忍野の富士山)
 
民家は茅葺屋根、農民の生活があって、山川があって、花が咲いていて・・・・・
要するに、日本の風景を、風土を描き続けました。
茅葺屋根の少ない、中国・四国、そして九州は描いていません。
展示会では、大和民家(甘樫丘)が最も南の民家でした。
 
昭和40年代、潤吉の画業は最高に乗ってきます。
基礎をしっかり学んだ描写力、建築の構造への理解、何よりも風土への愛着が「民家風景」を描かせます。
一方、茅葺民家は次第に減少してきます。
民家を描く事は潤吉の天命と確信したのでしょう。
社会も「民家画家、向井潤吉」を高く評価しました。
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   (川越、向井潤吉の絵の大半は秋から初春です。理由は緑が苦手だから・・・と話されたそうです)
 
平成7年、95歳で向井潤吉は亡くなります。
同じ頃大和を写し続けた入江 泰吉も他界します。
レンズと絵筆、手に握ったツールは違っても、風土への愛着は変わらないようです。
向井潤吉への敬愛の念が一層深まる展示会でした。
 
(5月9日まで展示します)
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(会場出口、販売所風景)
 
 
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高貴な桐の花(峰の薬師にて)

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上海万博の賑わいがテレビに映ります。
日本館も上位の人気のようです。
中国は長い歴史、文化資産に恵まれた国。
矢張り、歴史や文化に特徴のある国が人気になるのでしょう。
日本館のデザインはシルクの「繭玉」だそうです。
外観は藤色です、日本人にとって最も尊い色です。
青(水)と赤(太陽)を併せると藤色になります。
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            (上海万博、日本館公式HPから)
 
私は会津が大好きで、度々旅行に出かけました。
今頃の季節には、田圃に水鏡が出来て、桐の花が映っていました。
早乙女が水面を割って、田植えをします、桐の木の樹下で寛いで、又田植えに励んでいました。
美しい、会津の景色です。
会津は奈良、京都に次いで仏像(国宝・重文)が多い土地です。
 
 
 
昔は、横浜でも鎌倉でも桐の花は良く見られました。
女の子が生まれると必ず桐の木を植えたものでした。
嫁ぐ頃には成木になって、嫁入り道具「桐箪笥」の材料になるのでした。
 
桐の木の成長は速いものがあります。
葉っぱは逆ハート型で大きいのです。
子供の日の頃に花を一斉に咲かせます。
円筒型、円錐状につきます。
その姿が高貴で、花陰に鳳凰が依ると言います。
桐の紋章は花の姿をデザインして作られました。
花序の花の数によって、五三、五七、五四、九七の桐、などと呼ばれます。
 
成木になって、高貴な花を無数につけるころ、娘は成人になります。
 
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       (山藤と桐の花、どちらも薄い紫色。天皇家と藤原氏の家紋になりました。峰の薬師にて)
 
鎌倉時代には桐紋は、菊花紋と同じく皇室の紋章に指定されていたようです。
天皇家は桐紋をあちこちに下賜して皇室を護衛させたり、武家のご機嫌伺いに使いました。
武家も家の箔付けにと、武家羨望の紋章となりました。
豊臣秀吉の”五三の桐”を家紋としました。
勿論、天皇家は”五七の桐”でした。
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                              ご存知五七の桐
 
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   (峰の薬師の大きな桐の木、三本も並んでいます)
 
横浜・鎌倉一帯で特筆物の「桐の木」があります。
5月4日、家内を誘って桐の花見物に出かけました。
在るのは円海山の東側、磯子区峰にある「峰の薬師・護念寺」です。
本堂の南側に宿坊が続いています。
その横に三本、大きな桐の木が植えられています。
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   (峰の薬師護念寺の本堂(右) 左端が桐の木)
 
桐の花は満開です。
樹形は円錐状です。その頂上付近に花をつけています。
でも、樹下からは花は葉っぱの陰で、良く見えません。
見上げれば眩しい初夏の陽射しです。
 
ただ、ひっきりなしに花が降って来ます。
花は円筒状です。そのままの形で落ちてきます。
羽子板の羽、バトミントンのシャトルのように、クルクル舞いながら真っ直ぐに落ちてきます。
羽は草叢に吸い込まれます。
辺り一面、桐の花が散っています。
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桐と言えば葉っぱの散る姿が日本人の心に刻まれました。
「桐一葉」は坪内逍遥の戯曲、大阪冬の陣を経て、豊臣一族の滅亡を素材にしています。
秋が深まれば、桐は落葉します。
初夏、桐の落花もまた印象的であります。
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桐の花を見るには峰の薬師を下って、遠望しなくては見られません。
円海山の中腹にそれは見られます。
常緑樹の濃い緑の中に、薄紫の三つの塊が見えます。
それが、桐だと知らなければ、藤と見誤る事でしょう。
 
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 (竹林の中を1キロほど下らないと、桐の花が見られません)
 
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桐の花を遠望します。
山風が吹き降ろして、爽やかです。
 
今年も、会津には行けませんでした。
でも、まだまだ横浜には豊かな自然が残されています。
 
この桐の巨木にはどんな思いがたくされているのでしょうか?
峰の薬師にお嬢さんが生まれて、その幸福を祈って植樹されたのでしょうか?
でも、伐採されて桐箪笥にならなかったのは、何故?
私の娘も、もう三十路です。
この桐の巨木も同年齢でしょう。
 
何時までも、何時までも高貴な花を咲かせ続けて欲しいものです。
 
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   (桐の花、遠望)
 
 
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チャペルの藤の花(明治学院大学横浜キャンパス)

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私の住む町、横浜の上倉田町には明治学院大学横浜キャンパスがあります。
私が遊んだ里山を1985年開発して開校したものです。
今でこそ、明治学院大学は港区白金にありますが、横浜山手で開校した「ヘボン塾」が始まりです。
横浜がルーツです。
 
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    (花水木のある広場)
 
今日は5月の連休、大学キャンパスをお散歩です。
学生の姿はありません。
グランドから体躯部の掛け声だけが響いてきます。
守衛さんが声をかけてきます。
「会長さん、今日は休校で誰もいませんが?」
「いやチャペルに、藤の花を見に来ました・・・」
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   (鈴蘭、その横にもうじきアンネの薔薇が咲き出します)
 
 
大学から戴いた案内では、『緑の丘陵を残して「シンプル」と「清廉」をテーマに開発した』 書かれています。
正門を入ると、なだらかな坂が続いて、鈴懸けの並木道が続きます。
木漏れ日をあびて坂道を登ると汗が滲んできます。
薫風が気持ちよく吹いて、汗を乾かしてくれるようです。
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      (正門から続く鈴懸けの坂道)
 
チャペルでは、平日の昼休み礼拝が行われます。
授業の合間に学生が礼拝する、そんな期待です。
でも、ガッカリするほど学生は無頓着です。
日曜日には地域住民の礼拝を期待しています。
此方も、広々とした空間と、素晴らしいオルガンの響きが勿体無い、思うほど人数は疎らです。
でも、教会は礼拝者の数に無頓着なように、毎日毎日、礼拝を続けています。
 
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          (チャペル、左が樅の木の大木、その右テラスの上に藤が咲いています)
 
コンクリートの打ち出し、飾り気の無い素朴でシンプルな教会です。
真っ直ぐに伸びた尖塔、壁にはめ込まれたステンレスの十字架がこの建物がチャペルであることを示しています。
チャペルの玄関に大きな樅の木が植えられています。
その下に掲示板があって、チャペルの行事案内が示されています。
そこから、チャペルの扉までテラスで、私達を誘ってくれます。
テラスに入ると、香しい花の香が漂ってきます。
頭をあげてみれば、一面の藤の花が迎えてくれます。
垂れ下がった花房の隙間からは尖塔が見渡せます。
 
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ヘボン神父は最初に聖書を翻訳された方、日本人語の文法に合わせて、また日本人の感覚に沿うように努められました。
結果、聖書は最も日本人に読まれる宗教書になりました。
 
このチャペルの設計者の名は知りません。
大学の案内書にも出ていません。
日本人の感覚にマッチしています。
大変に優れた方と確信いたします。
 
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(チャペルのテラスを覆った藤の花)
 
キャンパスには人影は全くありません。
連休明けには青年達の歓声が響く事になるでしょう。
薄紅の花水木が学生達の戻ってくるのを待ちきれず、散り始めました。
鈴蘭の花が癒してくれることでしょう。
山桜の根元にエビネが満開です。
明日、5月6日には学生達が戻ってきます。
 
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    (エビネの花)
 
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双体道祖神と山野草(鎌倉古道にて)

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芭蕉が江戸深川の採荼庵を出発して、奥の細道の旅に出たのが元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)でした。旅行には最適な季節、みちのくの遅い春を追っての旅だったのでしょう。
 
その序文には「道祖神の招きにあいて・・・・・・」と記しています。
みちのくの道祖神が
「芭蕉さん、雪も溶けて旅には良い季節になりました。是非お越し下さい。」手招きしている、
そう思ったのでしょう。
 
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      (舞岡公園内の鎌倉古道に咲いた黄ケマンの花)
 
高校の授業では「道祖神」を「旅行者の安全を守る神像」、程度の説明であったように記憶しています。
でも、地域によって、歴史によって「道祖神」は様々です。
多くがアベックの男女神像で、子供が恵まれるように、又は農作の豊穣を約束してくれる・・・・信じられていました。
そして、時代が下がったり、街道でなどでは、「村に厄病が入らないように(賽の神)」、さらに「旅行者の安全を守る」神様として信仰されたようです。
 
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(風鐸草、風鐸とは仏堂の庇に飾られた風鈴状の飾り、黄ケマンも仏殿の飾り。ですから地蔵様を飾る花です)
 
私の住む上倉田とお隣の舞岡町との境には里山が続いています。
その尾根にある細道が鎌倉古道、中道でありました。
奥州征伐に鎌倉武士が駆け、新田義貞が鎌倉に攻め上がった道でした。
また、近世には生活道路の役割を果たしていました。
 
その雑木林の道に双体道祖神がひっそり祀られています。
一帯は舞岡自然公園でありますから、自然が大切に守られています。
私達は大切な歴史資産として維持して行こうと考えています。
 
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(鎌倉古道/中道)
 
ウォーキングする人がいます。
バードウォッチングする人、山野草を観察する人、様々な人が尾根道を辿ります。
ボランタリーの人が、下草刈りや雑木の伐採をしています。
そのお蔭で、木漏れ日が差し込み、藪が払われ、昔ながらの里山の環境が保たれています。
 
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   (里山の風鐸草、向こうに双体道祖神が祀られています)
 
5月初旬、金蘭が咲いています。
その脇にはエビネが・・・。黄ケマンは鮮やかです。
そして、風鐸草(ふうちゃくそう)が群れて咲いています。
昭和30年代は何処でも見られた山野草でした。
それが、里山に人手が入らなくなると消えてしまっていたのです。
此処、舞岡自然公園内は里山の環境が保存され、お蔭で昔ながらの山野草が復活しているのです。
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      (雑木林の金蘭の花、数株ありました)
 
鎌倉古道の双体道祖神、正しくは「双体地蔵尊」と呼ぶべきでしょう。
二体の地蔵尊が仲良く並んでおいでです。
少し、微笑み笑いをしておられるようです。
 
お地蔵様は「死の旅に出た人を、三途の川の淵で導いてくださる」 信じられました。
丸い坊主頭は人に最も近いお姿です。
 
旅人を守る、そんな役割にも最適なお姿だったのでしょう。
同時に、倉田村に厄病が入らないように、見守ってくださるようです。
 
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   (尾根道を下ったところにある双体道祖神(双体地蔵尊)。誰かが筍を捧げていました)
 
舟形の光背には明和年間(1760年代)の作である事が記されています。
 
奥の細道では次の俳句が記されています。
 
   行く春や 鳥啼魚の目は泪
 
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       (尾根道の双体道祖神(双体地蔵尊)、風鐸草が供花されていました)
 
今年の春ももうお終いです。惜春の情が深まります。
頭上では小鳥が鳴き続けています。
今晩は馴染みの魚屋に寄って、鰹をいただく事にしましょう。
 
もうじき卯の花も咲き始める事でしょうから・・・・。
 
 
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阿弥陀寺のドラエモン

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一昨日、円海山山麓にある「峰の薬師護念寺」の藤の花の見事さを書きました。
実はもう一本、負けず劣らず素晴らしい巨木の桐があるのです。
場所は磯子の阿弥陀寺参道です。
 
護念寺は阿弥陀寺の奥の院とも呼ばれています。
また、お檀家の話では、阿弥陀寺、護念寺のご住職は兄弟、と聞いています。
桐の巨木はどちらも同じ程度のサイズです。
略同時に植えられたのでは無いでしょうか?
と、思えば先代が両方のお寺の境内に同じ桐の木を植えて、子供の誕生を祝い、お寺の継承を祈念したとも想像できます。
何かの機会に阿弥陀寺の寺族の方に、「どなたが、何の為に桐を植えられたのか?」
「護念寺の桐との関係は?」
訊ねてみたいものです。
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                (阿弥陀寺観音堂、その屋根の上に桐が咲いています)
 
磯子カントリーの入り口辺りから、だらだら坂を登ってゆくと阿弥陀寺が見えてきます。
この丘陵地帯を「峰」と呼ぶのは、16号線の通る磯子の海辺から登ってくるのが大変だからでしょうか?
参道の入り口、道の両側にお地蔵さんが出迎えてくれます。
左側が赤ちゃんをしっかり抱いた「子安地蔵」さんです。
 
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     (阿弥陀寺参道を入る、右手箒が立てかけてあるのが桐の巨木)
 
お地蔵さんにご挨拶して、暫く進むと中門があります。
その間は畑であり果樹園です。
夏蜜柑や柚子、枇杷など様々な果樹が植えられ、見事になっています。
でも、食べているのはカラスに台湾リスのようで、誰も見向いていないようです。
ゴロゴロ転がった夏蜜柑はカラスに突っつかれています。
屹度、木になった実よりも落果した実の方が甘いのでしょう。
カラスはそれを知っていて、落果した実を突っついています。
 
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   (子安地蔵さんのゆだれかけに、桐の花を入れて、一寸悪戯)
 
家内が笑っています。
どうしたか?
訊ねれば、先の子安地蔵の後姿が面白い、とのことです。
見れば、「ドラえもん」が其処に居るようです。
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      (子安地蔵さんの後姿はまるでドラエモン)
 
参道は一面桐の花が散っています。
矢張り、羽子板の羽根の様に、クルクル廻りながら、天空から垂直に落花して来ます。
ポタン、ポタン、地面に当たります。
すると、コテンと横になります。
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       (桐の花)
 
護念寺の桐は遠くから眺めないと全容は解りませんでしたが、阿弥陀寺の桐は何処からもその姿が確認できます。
 
家内と雑談です。
紫は色も高貴であり、染料(紫の根)も高価でありました。
坊さんの衣は濃い紫、助六が頭に巻いた手拭の色は江戸紫。
青みが強い菖蒲色です。
京紫は赤みが入った桔梗のような色。
奈良時代の色「古代紫」はぶどう色が少しくすんだ様な・・・・。
紫と言っても多様です。
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      (桐の木の威容)
 
紫といえば「紫式部」。
源氏物語の紫は?
桐壺、藤壺、の紫は藤色です。
若紫は藤色に少し赤味が入ったイメージかな?
紫の上は京紫のイメージかな?
 
私達の思う紫よりも浅い色、藤色です。
紫式部は屹度、スミレや桔梗より桐の花が好きだったのでしょう。
桐の紫の方が高貴に思ったのでしょう。
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   (観音堂、甍の上に桐の花。手前は未だ実が青い枇杷の木。)
 
家内が又言います。
「お寺さんの標語、自筆だと良いものですね!」
見れば、門前の掲示板にポスターが貼られています。
それは、ご住職のお言葉で、ご自身の筆に拠るものなのでしょう。
本庁が作った印刷では出て来ない温もりがありました。
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ご住職は未だお若くてお子さん達が境内を走り回っています。
私も、生家のお寺でかくれんぼをしたりして、走り回っていました。
境内には二本の桐の木がありましたが、いつの時にか伐採され、墓地に変わってしまいました。
何処かで、歯車が狂ってしまったように思えます。
 
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桐の花は高貴で美しい。
水を含んで、燃え難く、虫も寄せ付けない。
人の温もりを伝えます。
樹木も人と同じ命。
木を大切にするお寺であって欲しいものです。
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受け継がれる龍宝寺の愛情(自然に、歴史に、地域に)

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大船駅の西側、高台に大船観音像が立っています。
その丘陵には長尾城がありました。
更にその奥は一段高く広い丘陵が続いています。
其処が玉縄城の城址です。
玉縄は今でこそ、落ち着いた住宅、清泉女学院、栄光学園などがある文教地区ですが、私が子供の頃は唯山深く、棚田があるだけ、変哲も無い田舎でした。
 
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(龍宝寺、正面本堂、その左に桐の花、更に左がメタセコイア。本堂裏に北条氏一族の墓、山の尾根の向こうが栄光学園。境内隅々までマーガレットの白い花)
 
龍宝寺は第三代玉縄城主北条綱成(つなしげ)が1575年に建立しました。
更に北条氏勝が玉縄北条氏の菩提寺として支援したのでした。
ところが、1590年豊臣秀吉が小田原攻めをします。
北条氏勝は玉縄城に篭城、家康に徹底抗戦の構えでした。
家康は、龍宝寺の住寺「良達」に氏勝を説得(降伏)してもらいます。
お蔭で大船鎌倉は戦火を免れました。
 
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                               (源平草の横、石段の上が北条氏一族の墓所)
 
大船は軍政上の要所であり、度々戦火で焼かれますが、龍宝寺の住職は地域の平和の為に尽力を続けてきました。
 
私は、父に連れられて龍宝寺、夢我想山(大船観音寺の隣)等の仏事に出かけました。
私は倉田の貧乏寺の三男でしたから、隣近所の曹洞宗のお寺さんに顔を売っていたのでしょう。
いずれ、住寺の籍が空いたら、継がせてあげようと・・・・。
誰もが思っていた事でしょう。
 
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              (手前芍薬、奥に桐、左にメタセコイア。何れも先代が植えられた)
 
私は、中学生になりました。
私のイガグリ頭を撫でながら、「もう中学生か!何処の中学に行ったのか?」
訊ねられ・・・・。
「栄光学園です」
答えても、その学校がカトリックの学校だとは知られてなかったようです。
 
先代住職の下に、清泉女学院が「横須賀から移転したい」 やって来ました。
玉縄城の丘陵が龍宝寺の山だったのでした。
続いて横須賀にあった栄光学園も訪問しました。
住職は、「教育は大切だから、地域の振興に役立つから・・・・・」
二つのカトリック系学校にお山を譲りました。
住職は女学校の庭に咲いていた「マーガレット」を美しいと思われたのでしょう・・・境内に植えました。
矢車草の間でマーガレットは白い花を咲かせました。
何時しか、矢車草を押しのけて、花が盛んになりました。
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(手前、マロニエの木、もうじきピンクの花をつけます。根元に庚申塔・馬頭観音が祀られています。不思議な調和です)
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     (マロニエの樹下の庚申塔群)
 
檀家総代の石井家が立替する、聞きました。
400年も経つ「田の字」形の住宅が壊されてしまうのは勿体無い・・・思いました。
そこで、境内に移築させました。
「鎌倉地侍の家」です。
後年、文化省の役人が来て、重要文化財に指定して帰りました。
それからが、大変です。
茅葺屋根は20年毎に葺き替えしなくてはなりません。
葺き替え費用の2割はお寺が用意しなくてはなりません。
雨漏りがしても、吹き替えできませんでした。
 
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                       (重文石井家住宅、写真は工事前、現在は覆われています)
 
お嬢さんが生まれました。
桐の木を三本植えました。
参道に、庫裏の入り口に、本堂の西に、計3本植えました。
本堂横の桐は、今年、例年になく見事に花を着けました。
沢山の参詣客が見上げて誉めて帰ります。
隣の曙杉が伸びています。
もう、数年前から背丈を追い越されてしまいました。
曙杉は弟、姉さんを追い越したようです。
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        (手前は姉さんの桐、後ろが弟分のメタセコイア/曙杉)
 
参道の桐も大きく育っていましたが、数年前根元にノウゼンカズラを植えられてしまいました。
葛の根っこが、桐の軟い幹に食い込んできました。
ノウゼンカズラは毒があります。
その毒が桐の体中に浸み込んで、今年は芽も吹くことは出来ませんでした。
 
庫裏横の桐は幹を切られてしまいました。
畑に植えられた芍薬に影を落としてはいけない・・・・・新住職の考えでした。
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                 (ノウゼンカズラに毒されて、立ち枯れしてしまった桐)
 
毎年毎年、お寺の裏山には筍が出てきます。
伐採しても食べ切れません。
本堂横に並べて、参詣客に持ち帰って貰う事にしています。
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    (残り一本の筍、この後楽しみにして来た子供にあげてしまいました)
 
マーガレットの花畑の中に、養蜂箱を置いてみました。
日本蜜蜂が帰巣するか楽しみです。
幼稚園も経営しているので、心配する声もありますが、日本蜜蜂は人を刺したりしません。
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先代住職の地域・植物・歴史への愛着は新住職にも受け継がれています。
愛着は暖か味、参詣すると「ホッ」安堵します。
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(手前黄花菖蒲、山藤、芍薬畑の向こうが本堂)
 
何時もより沢山お賽銭を預けて、筍を抱いて帰る事にしました。
「ああ!もう筍さん残っていないよ!」
声が聞こえます。
筍は私のオートバイのボックスから男の子の手の中に移ってしまいました。
「抱くと、筍の皮毛が肌を刺して痒くなるよ・・・・・」
心配です。
 
石井家住宅の茅葺屋根葺き替え工事は順調に進んでいるようです。
梅雨明けには工事竣工するでしょうか・・・・。
龍宝寺は年々綺麗な花園になるようです。
 
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カイツブリの子育て

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私のサラリーマン時代、職場のお隣が三井物産でした。
その前庭の池で毎年、カルガモが子育てしていました。
カルガモは屹度人間は恐くない、知っていたのでしょう。
わざわざ人が集まるところで巣作りして、歩き回れるほどに成長を見届けて、お堀端にデビューしていました。
内堀通りを横断する時は、シャッターの砲列される中、堂々の行進でした。
 
もう、5月も半ば、そんな季節がやってきました。
金井遊水池でも野鳥の子育ての最中です。
青鷺は人間を信用していないのでしょう。
堤防から最も遠い、芦原の中で抱卵しているようです。
いや、いや、時々立ち上がって、不思議な素振りです。
もう、孵化しているのかも知れません。
葦原の前では連れ合いが餌を探して、せわしなく動いています。
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(抱卵中の青鷺、怪しげに腰を浮かせました)
 
カイツブリは青鷺と正反対、わざわざ人の集まる堤防の下で子育てです。
 
今年は葦を根っこから引っこ抜きました。
理由は「北限植物・ミズキンバイ」を育成する為です。
ミズキンバイの苗床が作られました。
其処は水鳥の天国です。(此処に集まる野鳥は別の機会に紹介します)
浮き上がって、枯れた葦はカイツブリの格好の浮巣になりました。
去年は私達の目の前で、卵三つを青大将に呑まれてしまったカイツブリです。
 
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カイツブリは多くが渡り鳥と聞いていますが、金井遊水池、堤防下のカイツブリ夫婦は渡らないようです。
此処に住み着いています。
屹度、夫婦関係は死ぬまで続いて行くのではないでしょうか?
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           (カイツブリの家族、子供一羽は右(母?)の背に、もう一羽は中央にいます)
 
今年は二羽の子供を育てているようです。
子供が見えるのは夫婦が子育てを交代する時。
背中に乗って、両翼の間に隠れていた子供は、サット飛び出して、別親の背中に飛び乗ろうとします。
でも、上手くは行かないので、その間、水の上を葦原の間を泳ぎまわります。
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子供を連れ合いに預けた親は食事に潜水します。
カイツブリの食事は小魚です。
潜水して、子供に食事を与えて、自分でも腹を満たすのでしょう。
暫くすれば、又相方と子守りの役を交代します。
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夫婦分担と言っても役割は均等のようです。
「息が合っている」とはこの事でしょう。
背中に乗った子供は両翼の間から顔を出します。
水の上を泳ぎまわってみたそうな表情にも見えます。
「でも、寒そうだな」そんな風にも見えます。
「親の背を離れると危険だぞ!」
そんな感覚は無さそうです。
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親同士の子守りバトンタッチ、の時には子供の歓声も聞こえます。
「餌がほしいよ!」
大口を開けて訴えているようでもあります。
これから秋口まで、カイツブリ家族の光景が私達を楽しませてくれそうです。
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葦原を越えて五月の風が吹いてきます。川風の香か、緑の匂いか・・・わかりませんが、心地良い風です。
今年はミズキンバイも見事に咲いてくれるでしょうか?今から8月が楽しみです。
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ミズキンバイの苗床。向こうの芦原が青鷺の営巣地。
 
 
 
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これから、シベリアに行くの(黄色い脚の鴫)

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カイツブリ親子の仕草を見詰めていると、時間の経つのを忘れてしまいます。(昨日報告)
私の頭上「ピューイピュイ」と澄んだ鳴き声が通って行きます。
『何かな?』
見れば、4羽のカモメ程の水鳥が遊水池の中に降り立ちました。
場所は遊水池の堤防寄りです。
今年の初め、ミズキンバイの生育地として用意され苗場です。
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       (水鳥のステージ?ミズキンバイの苗場)
 
中々、スマートな水鳥です。
鳴き声は、いかにも「千鳥」です。
でも、ふた周りくらい大きいし、カゴメに比べれば嘴も長いし、脚もスラットしています。
鴫のようです。
他のバードウォッチャーに尋ねます。
「あの、都鳥みたいなのは何ですか?」
「知らない!」
矢張り、カイツブリの子育ての方が興味があるようです。
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その水鳥は、長い嘴で水中をチョンチョン突っついています。
どうも小魚やおたまじゃくしを追っているようです。
苗場の淵は板で囲ってあります。
その淵まで追い込んで、捕食しているようです。
二羽、三羽、四羽、仲間が集まって来ます。
そして、同じ要領で、小魚を板囲いの淵に追い込んで、捕食しています。
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抜き足、差し足、しながら魚に近づきます。
黄色い脚が鮮やかです。
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帰宅して調べました。
名前は「黄脚鴫/きあししぎ」、千鳥目、鴫科の水鳥だそうです。
夏にシベリア東部で繁殖し、冬には南(台湾など)に渡るそうです。
日本はその途中に寄るだけ・・・。
南風に乗っても、シベリアは遥か遠くです。
シベリアの夏は束の間です。
その間に子育てして、皆で北風に乗って南に渡るのは、本当に大変でしょう。
ここ、金井遊水池ならば一年中食べる事に事欠かないようにも思うのですが・・・・。
此処で抱卵、子育てしたら・・・叔父さんがウォッチング出来ますのに・・・。
実に、ご苦労さん・・・です。
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サッと四羽とも飛び立ちました。
何かと見詰めれば、「バン」が苗場にやってきました。
真っ赤な鶏冠、真っ黒でずんぐりした体、少し不気味な格好です。
此方も苗場でお食事です。
水草の芽を食べているようです。
コッチは草食ですから俊敏さに欠けるようです。
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(ずんぐりした「番/ばん」)
ミズキンバイの苗場は次々に野鳥がやってきます。
野鳥のデモ場のようです。
 
もう数日したら黄脚鴫も姿を消してしまう事でしょう。
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(白鷺の足許に咲き出したのがミズキンバイ/水金梅。柏尾川はこの水草の北限と言われており、保護に努めている。苗場もそのための物)
 
 
 
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白雲樹下に憩う

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友人T氏のメールで、今年の北鎌倉浄智寺の白雲木はもうお終いです、伝えられました。
五月の連休に参詣した時は未だ固い蕾でした。
それが、あっと言う間に咲いて、直ぐに散ってしまったなんて・・・・・。
驚いて、再度参詣してみました。
 
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      (浄智寺参道、木漏れ日と石段が心地良い。右手、樹樹の間に4本の白雲木があります)
 
 
同氏はこの木がお好きで、ご自宅のシンボルツリーにされたそうです。
拙宅は白木蓮、白いところは似ていますが、この年齢になると「白雲木にすれば良かった」、思います。
白木蓮は天に向けて咲きます。
白雲木は地に向けて房状に咲きます。
下向きの方が寛げます。
又、散った花が長く変らず美しいのです。
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                                 (白雲木の落花は腐らないので長く美しい/昨年撮影)
 
建長寺、円覚寺は南向きの整然とした伽藍配置で、山門で瞬時佇んでしまいます。
ところが、浄智寺の門は自宅に戻った時のような、寛ぎを覚えます。
「また、おこしいただきましたね・・・」
木戸を潜るような、懐かしさがあります。
 
木戸には「梅花樹下」と書かれた扁額が架かっています。
書院に入れば、正面に源氏山が見られます。
左手に本堂「曇華殿(どんげでん) 」の甍が見渡せます。
は三間四方の小さなお堂です。
その間に古い白梅があります。
ですから「梅の花の下のある方丈・・・」そんな意味でしょう。
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                    (門の向こうに山藤が見事に咲いていました)
 
曇華殿の甍の上方に、大きな白雲木が見渡せます。
方丈に座れば、早春に白梅が、そして初夏には白雲木が楽しめるのです。
 
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   (白雲木の下からを曇華殿の甍を仰ぐ。方丈は曇華殿の向こう、逆の位置になります。昨年撮影)
 
 
白雲木は白い小花が房状に集まって咲きます。
その姿が雲のように見えるから、その名がついたのでしょう。
一つ一つの花はエゴの木に似ています。
五弁の白い花弁、その真ん中に黄色い蕊が見えます。
強い芳香が当たり一面に漂います。
熊蜂や蝶が集まって、騒がしいようです。
 
T氏の報告のように、大樹の白雲木はもう数えるほどの房花しか残っていませんでした。
もう、大きな丸い葉が茂って、緑陰を作っています。
その緑の下に佇むと大きな寛ぎを感じます。
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           (梅花樹下の名の因になる白梅、この幹には大きな洞があって、四十雀が子育て中です。2月            3日撮影)
 
 
浄智寺さんが白雲木を植えられたのは、この木が菩提樹に最も似ているからだと確信しています。
菩提樹はお釈迦様がその樹下で悟りを得られた、聖なる樹木です。
でも、日本でも中国でも元祖菩提樹は生育しません。
で、最も似ている木を探しました。
 
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                          (書院の屋上に山藤が咲いていました)
 
映画が音楽の「菩提樹」は水木の大樹でありした。
インドでの菩提樹はイチジクの仲間と聞きます。
いずれも、大きな葉っぱで、葉の重なりが緑のグラデーションを作って、その樹下に佇めば大きな安心を得る事ができます。
その幹を背に座れば、大樹の息遣いが、自分自身の息遣いと一緒になることでしょう。
無数の梢が葉を茂らせ、樹下に座った人にピラミッドパワーを伝えます。
 
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   (緑陰の白い花、青い空が清々しい)
 
人間が息をすればCO2が排出されます。
樹が営みをすればCO2が炭水化物に同化されます。
同化・異化で循環が成り立ちます。
循環を釈迦は輪廻と呼ばれました。
 
釈迦は沙羅の樹に囲まれた中で亡くなります。
沙羅双樹は夏椿とも呼ばれるそうです。
此方も白い花です。
 
白雲木は花の後に沢山の果実をつけます。
お数珠のように葉っぱの下に連なります。
 
その実が芽吹いて沢山の子孫を為したのでしょう。
参道の右手に4本も連なっています。
此方は老杉の木陰にあるので花が遅れているようです。
親樹のように大きな花ではありませんが、未だ未だ花を沢山つけていました。
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     (浄智寺、第二世代の白雲木は筍と競って育っていました)
 
今年も白雲木を見られた・・・・!
安心しながら浄智寺を後にしました。
夫婦揃って白雲木の樹下で寛げる幸いが何時までも続くように、曇華殿の三世仏に祈って・・・。
 
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浄土庭園のスッポンはお昼寝中!

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県立神奈川文庫と称名寺とは小山が隔てています。
山を刳り貫いて小さなトンネルがあります。
トンネルには案内が立てられており、中世に掘られたものだそうです。
鎌倉幕府と六浦港を結ぶ、山道の最後がこのトンネルだったのでしょうか?
トンネルの入り口に今年も卯の花が咲きました。
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   (左奥、中世のトンネル入り口。白いのは卯の花)
 
トンネルを潜ると、称名寺浄土庭園が眼前に開けます。
池の淵に、中島の周囲に黄花菖蒲が一斉に咲きました。
山楓、楡、そして栴檀の大木が青葉を茂らせています。
浄土庭園が絵の様で、さながら緑は額縁のようです。
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   (トンネルを潜ると、浄土庭園の前に出ます。池面を渡る薫風が心地良いです)
 
緑陰でスケッチを楽しむ叔母さんたちが居ます。
楽しげです。
緑も黄花菖蒲も、青空を映した水面も、朱色の太鼓橋も、心地良い鮮明な印象です。
「池を見て画を描こうとすると、先ず浄土庭園を観る」事になるのかもしれません。
私の義父も引退後絵を描いていました。
きっと、叔母さんたちに囲まれて、こうして楽しげにスケッチをしていたのでしょう。
 
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池には石組みがあるものです。
称名寺庭園では石組みは少ししか残されていません。
屹度発掘すれば、鎌倉時代の遺構が現れるのでしょう。
石の上に亀の子が登って甲羅を干しています。
未だ水が冷たいので、甲羅干しをして暖を取っているのでしょう。
亀の上に又亀が登って、更に三段目の亀が乗っています。
亀の子にとっては此処は楽園浄土のようです。
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亀の間に巨大な物体があります。
遠目にも亀ではありません。
今問題の「噛み付き亀か?」
近寄ってみれば、巨大なスッポンです。
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鶴岡八幡宮の源平池の立看板を思い出しました。
「スッポン生息、危険」
このスッポンを捕獲しようとして、指を噛み付かれたら、喰いちぎられそうな、迫力です。
 
人も、亀も、スッポンも、それぞれ過ぎ行く春を惜しんでいるようです。
盛夏の前、梅雨入りの前、束の間の爽やかな季節をエンジョイしています。
 
金沢文庫のポスターが貼られています。
文庫開館80周年記念展示で、「鎌倉の茶」がテーマだそうです。
西大寺の叡尊が鎌倉に下向して、武士の間にも喫茶が始まったのだそうです。
ポスターには美しい「青磁壺/重文」がプリントされています。
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            (金沢文庫HPから)
黄花菖蒲も卯の花も、遥かに育ってしまった筍も、それぞれに美しい季節です。
そんな季節を青磁の器に入れて、一気に飲み干してみたいものです。
 
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五重塔に石楠花

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今年から町内会の懇親旅行を春に変えました。
秋には行事が多い事と、日が短いので追い立てられてしまうからです。
旅行代理店のお奨めに従って、笠間稲荷の大藤、日立海浜公園のネモフィラを見に出かけました。
その途上、笠間に「鳳台院」という曹洞宗のお寺に寄りました。
境内全面に石楠花の花が咲くという事です。
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  (鳳台院全景、右側にかけての傾斜地に石楠花が咲く)
 
私は栃木県の真名子西方村に叔父のお寺があるので、少しは土地勘がありました。
このあたりの野生の石楠花の美しさも承知していました。
でも、鳳台院は初耳です。
「そんなお寺あったっけ?まして、全面が石楠花なんて・・・・!」
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                          (農家の庭先に見つけた在来種に石楠花)
 
 
「石楠花の美しいお寺」
と言えば奈良室生寺でしょう。
室生寺川の清流に沿った谷間に日本石楠花が咲きます。
光沢のある葉っぱ、「石楠花色にたそがれる・・・・」歌の通りの美しさです。
花の奥、ヒノキの樹間に美しい五重塔が佇んでいます。
『美しい天然と、精緻な人間の細工が長い歳月の間に調和した』、楽園のようなお寺です。
でも、私は今年も行けませんでした。
 
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                                        (石楠花の咲く谷)
 
鳳台院は鎌倉時代に建てられたお寺だそうです。
山号を「国見山」と言います。
関東平野や筑波山を見渡せる高台にあるので、この山号を得ているのでしょう。
 
昭和50年荒れ放題であったお寺の大改修に乗り出しました。
本堂を建築し、平成10年五重塔を建立しました。
平成13年には禅の始祖達磨大師の大きな石像を・・・・。
伽藍は見違えるように立派になりました。
 
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  (世界最大と説明されている達磨大師、銅像のように見えますがインド産の黒御   影石だそうです)
 
 
バスは鳳台院横にある「笠間グランド」の駐車場に止まりました。
多分、この大きな運動公園の用地は鳳台院のものだったのでしょう。
その資金をお寺の整備に使った、また、石楠花を全面に咲かせる事によって、市民の憩いに、参詣客の「おもてなし」にしたいと考えられたのでしょう。
 
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      (平成10年の五重塔、長谷寺の昭和の名塔を思わせます)
 
石楠花は5部咲き(5月12日)でした。
日本石楠花は疎らで、その大半が西洋石楠花、中国の石楠花でした。
多種多様な石楠花が楽しめます。
種が多様な事は、花期が長いことで、それはそれで良いのでしょう。
また、西洋石楠花は派手でインパクトも強いものがあります。
日本石楠花はその派手さで陰に隠れてしまうようです。
 
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                             (五重塔を彩る西洋石楠花)
 
お寺の足許から傾斜地が笠間の市街地に向けて続いています。
その谷間にはかって自生の石楠花が咲いていたのでしょう。
そこで、常緑樹を伐採して、派手系の石楠花を植えて、「石楠花公園」にしてみた・・・・・・。
観光サイドにも案内したのでしょう。
 
 
 
 
曹洞宗の宗祖道元禅師には自然を素材に教えを説いた和歌が数多く残されています。
「花も月も雪も・・・・・、それぞれに、そのままで良い・・・・・」
諭されていられる、私は理解しています。
 
「自生の石楠花を抜いて、西洋石楠花を一面に植えることは、如何かな?」
思う気持ちもあります。
でも、町内会の面々が「綺麗ね!」「良かった・・・・」と話しているのを聞くと、
「これもこれで良いのか・・・・・!」
思ったりもします。
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                                    (後ろは本堂の甍)
 
 
でも、室生寺の石楠花の美しさを町内の皆さんにお見せしたい・・・・!
そんな衝動に駆られました。
同じ思いを持った人も居ました。
「この石楠花も良いのですが、室生寺には夢見るように美しい石楠花が咲いて・・・・」
声が聞こえてきました。
 
お寺くらいは「在来種」「日本種」を大切にして欲しい・・・・、思うものです。
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笠間稲荷の大藤は「平和のシンボル」

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昨夜来の雨が上がろうとしています。
今日(5月12日)は町内旅行で、笠間稲荷に大藤を見に出かけます。
参加者の大半は私が子供の頃からお世話になった、町内の古株。
お爺ちゃん、お婆ちゃんと一緒に、一日楽しんで、無事に帰る事が目標です。
 
バスは常磐道に入ります。
横浜では青空でしたが、茨城は雨が降っています。
車窓からは、田植えを終えたばかり、一面の田圃が見えます。
農家の屋敷森や樹林の梢の先に藤が咲いています。
この分では笠間の大藤も見頃だろう・・・!
期待が高まります。
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     (笠間の町屋)
 
笠間は落ち着いた綺麗な町でした。
江戸時代牧野家の城下町と記憶していましたが、近江八幡のような商人の町、そんな印象です。
街路には古い商家が続いています。
蕎麦屋にお稲荷さん屋さん、そして浅草寺門前の「仲見世」状の土産物店の店先を笠間稲荷の門前に出ます。
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                                          (笠間稲荷神社前の仲見世)
楼門を潜ると、甘酸っぱい芳香が迎えてくれます。
足は香の源泉、藤棚に向ってしまいます。
本殿前庭の東側には二つの藤棚が並んでいます。
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                                     (大藤)
手前(南)は大藤と説明されています。
花房は1メートルをゆうに越しています。
真っ直ぐに垂れ下がっています。
花房が揺れ始めました。
窓側から、私に向けて揺らぎが近づいてきます。
花房の揺れは絶え間なく続きます。
その度ごとに、房から小花が散って行きます。
地面はもう藤の花で覆い隠されてしまっています
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    (幹周り4メートルの藤、地面は落花で覆われていて、神様のお座布団のようです)
ふと思い出しました。
神道の式次第を。
神式の最初が「降神の儀」
天上から神が降り立ってきます。
そして最後が「昇神の儀」
神様が天上に昇られます。
風が吹く度に、神様が行ったり来たり、しているようです。
そして、神様のお座布団が一面に散った藤の花のようです。
 
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                                 (右が大藤、左は八重咲きの藤)
奥(北)には八重の藤棚があります。
此方は巨大な葡萄の房のように見えます。
葡萄でも「巨蜂」でしょう。
巨蜂以上に長い房です。
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                                           (藤の下でにっこり記念撮影)
説明では、樹齢400年以上、と書かれています。
笠間稲荷は常陸風土記にも記述されているそうです。
従って7世紀には有名でありました。
1400年に近い歴史があるのでしょう。
でも、関が原の合戦を経て、ようやく平和な時代が巡ってきた、
その頃笠間稲荷は牧野家の支援によって修復されたのでしょう。
本殿が出来ました。(重要文化財)
そして、内陣に二本の藤を植えて、藤棚にしました。
400年前、平和が到来した、その喜びが現代まで大切に伝わってきたのでありましょう。
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お稲荷様は現代でこそ「商売の神様」と言われていますが、元々は「田の神様」、稲作の神様です。
下野、常陸、北関東は稲作地帯、その豊作を祈って、あつく信仰されました。
牧野のお殿様は城下を代表して豊作を「笠間稲荷」に祈願した事でしょう。
 
お爺ちゃん、お婆ちゃんは
「わあ!綺麗」「見事なもんだ」 一斉に発声されます。
藤棚の下に立つと、お顔が際立って・・・美人に見えます。
思わず笑顔が、若返ったのかもしれません。
写真を撮ったり、落花を拾ったり、愉しげです。
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思います。
何故、北関東には藤の名所が多いのでしょうか?
お隣の足利、そして少し南の春日部、見事な藤が咲きます。
春日大社の藤も、宇治平等院の藤も、藤自体の見事さでは笠間稲荷に退けをとります。
地質が藤に適していたのでしょうか?
それとも・・・・・
 
「名物に美味いもの無し」と言います。
でも、正真正銘見事なのは「笠間稲荷の大藤」です。
 
戦争時下、子供を育てた町内のお爺さんお婆さんも、満足したようです。
旅行から帰って祈念写真を配ると、「笠間稲荷の藤は綺麗だったねえ・・・」
口々に言われます。
「平和を祈る気持」は牧野のお殿様と変らない事でしょう。
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                (街角の喫茶店で見つけた、大黒さま。笠間は大黒さんが似合う町です)
 
 
 
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小学生の棚田作り

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家内の友人の話に拠ると、今週は長野県内でも田植えが始まると聞きます。
先月末往訪した、奥三河の鳳来山の千枚田、棚田にも田植えが始まる事でしょう。
千枚もの水鏡に映る「田毎の月」を見ながら、仏法僧の声を聞きたいものです。
 
片瀬の「藤沢新林公園」、菖蒲の花も満開になったろう・・・・出かけて見ました。
案の定、満開どころか、最初の花が咲き終わり、順次二の花、三の花が咲こうとしています。
「見頃を少し過ぎたかな?」
それにしても、季節の進みは早いものです。
菖蒲の周囲には姫蒲が背丈を伸ばしています。
秋になれば、毛槍の先のような蒲の穂が見られることでしょう。
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                               (藤沢新林公園の棚田、菖蒲が咲いています)
此処は片瀬山の北斜面です。
溜池があって、沢が続いて、棚田がありました。
藤沢市が一帯を自然公園に整備し、古民家を移築し、梅園や藤棚を整備したものです。
管理運営はボランタリーに委託しているようです。
素人と言っても地域への愛着は人一倍なのでしょう。
セッセと草刈やお掃除に精を出しておいでです。
 
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                        (池の淵に咲く菖蒲はボランタリーお爺さんの丹精の賜物です)
 
そんなボランタリーのお一人でしょう。
棚田に通じる橋に腰掛けて、草刈鎌を砥いでおいの老人に遭いました。
 
挨拶にお声がけしてみました。
「暑くなりましたね、草刈は難事でしょう?」
思いがけない声が戻ってきました。
 
「市はボランタリーに作業を投げるばかりでね、私一人でこの棚田を守るのは大変ですよ、もう歳ですしね・・・・」
 
私は訊いてみます。
「棚田は村岡小学校5年生がやっているのでしょう。看板に書いてありますから・・・」
 
「私が田起こしして、しろかきをして、・・・子供達は田植えと稲刈をするだけですよ。先生は何もしないし、私にはもう無理なのですがね・・・・」
 
棚田は沢山ある、でも使っているのは二枚だけ、そこで菖蒲を植えたのですが、これとて手間がかかる。今日は草刈ですが、二年毎に掘り起して植え替えなければならない・・・。力仕事はもう無理なのですがね・・・・」
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                                  (ボランタリーのお爺さん、草刈の合間に・・・)
 
お爺さんは村岡か片瀬の農家だったのでしょう。
でも、今は田圃は残されていません。
住宅や工場に変ってしまいました。
 
そこで、藤沢市からの委託で棚田を作り始めた。
棚田の名前は「村岡小学校触れ合い田圃」
藤沢市はボランタリーと小学校を繋いだだけで事足りたと思いました。
 
ところが、ボランタリーはドンドン年齢を重ねて、もうギブアップ寸前。
お爺さんも「子供達に稲作の本当に大変な事を教えたい」と思っている・・・・。
すれ違いが、限界まで続いてしまいました。
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   (池の水が動かないので魚が育たない、カワセミ(藤沢市の鳥)も姿を見せなくなった、お爺さんは     嘆いていました)
 
円海山の西懐に溜池(瀬上池)があります。
瀬上川に沿った棚田を横浜の双葉小学校が「体験農園」にしています。
久々に棚田に出かけてみました。
ここでも、お爺さんが農作業をしていました。
 
話しかけてみました。
「今している作業は、田植えのし直しなのですよ。
双葉小学校では2年生が田植えをするのですがね・・・力が無いので・・・・暫くすると苗が浮いてしまうのですよ。
そこで、私が植え直しのですがね・・・・・。全部私がしてしまう方がズット楽なのですがね・・・」
「子供達は泥に塗れて楽しげに田植えをしますよ。此処はもち米ですから、秋には稲刈、そして餅つきまで行いますよ・・・・」
 
こちらは、双葉小学校からの委託農作業ですから、それなりの委託料が支払われるのでしょう・・・・・。
米作は一年中見守り、農作業も続くものです。田植えをして、次は収穫ならこれほど楽な事は無いでしょう。
体験農場が充分に農業の重労働を伝えていなくても、教育には役立っている事でしょう。
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(横浜山手にある双葉小学校の体験農場で田植えのし直しに精を出すお爺さん)
 
私の町の倉田小学校でも棚田を作っています。
棚田のある場所は「倉田の蛇坂」
名前の通りクネクネ曲がった細道があって、蛇が多く棲息しています。
こちらは、5年生の生徒が中心です。
 
田起しの時には牛蛙が出現するは、蛇に驚かされるは、それはそれは大騒ぎです。
棚田作業は社会科の勉強でもあり、生物(理科)の勉強でもあるようです。
校長先生は「エコ教育」と言っていられます。
子供達の情操には最も効果がある機会でありましょう。
 
 
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庭先のハーブ畑(スカボロー・フェアの思い出)

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私の住む町は戸塚の倉田町、お隣が舞岡町です。
その境は丘陵が続いています。
尾根道が鎌倉古道、昔ながらの里山風景と歴史資産に恵まれています。
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            (舞岡の農家。手前がハーブ畑、紫はラベンダー、オレンジはナスタジウム)
 
倉田側は明治学院大学や大規模な宅地開発が行われています。
他方、舞岡側には近郊農家が散在しています。
市街化区域指定による開発規制と、自然保護の期待から「都市近郊の農業」が模索されているようです。
農家の庭先には「完熟トマト」「取れたて野菜」が販売され、「梨・柿・梅等のもぎ取り」や「イチゴや薩摩芋」などの収穫が楽しめます。
私達住民は自然観察を楽しみながら、安心安全な食を確保できます。
 
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  (舞岡農家の庭先、咲いた花菖蒲)
 
丘陵沿いには数多くの高齢者住宅やグループホームが立地しています。
私は地域代表としてその経営状況の報告を受け、防災訓練や地域のお祭りに招待するなどしています。
農道をお散歩する患者さんを良く見かけます。
「豊かな自然がある事が病気の最高の療法になる・・・・」
実感です。
 
私は、舞岡の某農家、その庭先を楽しんでいます。
数多くのハーブが植えられているのです。
ハーブの先には葱が植えられており、数株が残されて「葱坊主」になっています。
その横には「大蒜」がマルマル太っています。
 
私はハーブなど知りませんでした。
知ったのは映画「卒業」を家内と見に行った時でした。
青年が市場に向います。
「パセリ・セージ・ローズマリー& タイム」青年は「悪魔祓い」のようにハーブの名を呟きます。
名曲「スカボロー・フェア」の歌い始めです。
 
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         (ローズマリー?)
美しいメロディー、清んだ歌声、そして摩訶不思議な歌詞。
私は童謡を思い出しました。
「カゴメカゴメ、篭の中の鳥は、何時出合った・・・・・夜明けの晩に鶴と亀が出会った・・・」
耳に新鮮なメロディー、摩訶不思議な歌詞、台地の響き、古謡を感じました。
「洋の東西に別れても、人間性は余り変らないところもあるのだ・・・。」
思ったものでした。
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農家の主人も、もしかしたら「卒業」に感動したのかもしれません。
家の前には一面にハーブが咲き誇っています。
採って販売している様子もなく、咲き乱れるままに放置して、楽しんでいるようです。
「花はそれぞれに美しい、そのまま放置しておいて、自然に任せれば、最も美しくなる」
とでも思っている様子です。
 
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   (農家のアトリエ?)
 
母屋の横に物置小屋がありました。
農夫は其処をアトリエに改造したようです。
アトリエの前は一面菖蒲やアイリスを植えました。
垣根には鉄線(クレマチス)を植えました。
コバルトブルーの美しい花弁です。
五月の風が吹いてきます。
花弁が揺れます。
 
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                                 (垣根の風車/花弁8枚 鉄線は6枚と聞きます)
クレマチスは和名を「風車」と呼ぶそうです。
鉄線(中国名)はその蔓が針金のようだから、風車は花の風情を名にしたもの・・・・。
勿論、「風車」の方が愛情に満ちています。
 
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   (ミントに来てみたテントウムシ)
 
しばし、ハーブ畑越しの風を浴びていました。
ミントの葉っぱに「ナナホシテントウムシ」がついています。
せわしなく歩き回っています。
テントウムシはアブラムシの天敵です。
でも、アブラムシはハーブにはつかないと思いますよ。
少し向こうにナス畑があるでしょう。
アッチに行けば、アブラムシは居るかも知れませんよ・・・
テントウムシに話しかけてみました。
 
家に戻ったら、古いLPを出して、「スカボロー・フェア」を聞いてみましょうか!
ハーブのように新鮮な思いにしてくれることでしょう。
 
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(葱坊主、これも和製のハーブ?)
 
 
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卯の花の垣根

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                                         緑に映える真っ白い卯の花 
 
 
「卯の花の匂う垣根に ホトトギスはやも来 啼きて 忍音もらす 夏は来ぬ」
ついつい、ハミングしてしまう、爽やかな5月です。
昨日、一昨日は雨が降って、もうじき梅雨入りでしょう。
我が家も、青梅が庭に落ちています。
見上げれば、青葉の陰に青梅が鈴なりで、今年も豊作のようです。
 
「今日は今年一番の暑さになりそうです・・・・」 
ラジオの天気予報は伝えています。
ならば、束の間の爽やかな季節を楽しみたいものです。
 
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神様は善くされたもので、この季節「青葉に白い花」を用意されました。
この色調が、最も爽快感を呼び覚ましてくれます。
日本人は万葉集の時代から、卯の花を愛してきました。
 
  春されば 卯の花ぐたし わが越えし 妹が垣間は荒れにけるかも (第10-1899)
「春が過ぎて、長雨が降りだしてきた。私の好きな人の垣根に咲いた卯の花も荒れてしまったものだ・・・・・」
そんな歌の意味でしょうか。
今年は平城遷都1300年、その頃から卯の花は垣根に使われていたのでしょう。
低木で、強く刈り込んでも枯れる事も無く、生垣に最適だったのでしょう。
恋人が、卯の花の垣根を越えてやってくる、それを待つのも良いものでしょう。
冒頭の唱歌「夏は来ぬ」の作詞者は歌人の佐々木信綱。
同氏は万葉集の研究者ですから、唱歌は前述万葉集の「本歌取り」とも呼べるものでしょう。
1300年もの歴史・文化の蓄積を踏まえた唱歌ですから、私達日本人に愛され続けているのでしょう。
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鎌倉を散歩していると、真っ白い卯の花をよく見かけます。
ですから、陰暦4月を「卯の花月」と呼んだのでしょう。
山陰やヤグラの陰に咲いています。
流石に「生垣」に使われた卯の花は滅多に見かけなくなりました。
たまたま、鎌倉玉縄に卯の花垣根を見かけました。
日傘をさしたご婦人が「チラ見」して、垣根の前を通り過ぎて行きました。
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                       玉縄で見つけた、卯の花の垣根。向かいの丘の上が栄光学園
 
卯の花は別名を「空木/うつぎ」と呼びます。
木の幹が中空になっているからです。
と言う事は、竹のように強靭なのです。
その幹を楊枝状に削って、木釘にしたとも聞きます。
私の家の垣根にも「ウツギ」を植えています。
若芽はまだしも、古い幹は刈り込みバサミでも中々カット出来ません。
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   (玉縄の卯の花垣根、正面竹林の上が大船観音様です・・・・)
 
横浜では滅多にホトトギスは見かけません。
丹沢の山にでも出かければ、もう沢山啼いている事でしょう。
佐々木信綱氏にすれば、卯の花もホトトギスも同じ5月に咲き、南国から渡って来る、季節感の強い自然なのでしょう。
我が家のウツギにはヒヨドリが遣って来ています。
実は玄関横の「南天の木」にヒヨドリが巣作りして、現在抱卵中なのです。
この観察記は子育て中に書くことにしましょう。
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 (山葡萄の葉陰で啼く鶯。ホトトギスが托卵する事が知られています)

 
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今年はマロニエの花が一際見事です

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マロニエの街路樹が目立つようになりました。
私の近くでは、港南台の表通り、高島屋の並びにマロニエが道の両側に植えられています。
港南台が開発されてもう30年は経ったでしょうか?
落ち着いた、美しい町並みに育ちました。
屹度企画段階で開発者が説明した事でしょう。
「春が過ぎて、陽射しがきつくなった頃、パリの街にはマロニエが緑陰を作ってくれます。朱色の見事な花が咲きます。テラスに座ってティーを楽しみます。テーブルの上に、路上にひっきりなしに、マロニエの花弁が散ってきます。マロニエの似合う『お洒落で、大人の街』にしたいと思います」
 
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         (港南台マロニエ街路、電線の地中化など、計画されています。)
 
お隣の笠間に「日本光学」があります。
その工場前に、4~5本のマロニエが植えられています。
此方は少し若木ですが、港南台と同じ朱色の花です。
大きな緑の葉っぱ、朱色の花、青空に白い雲、
三色旗のカラーです。
「カメラを構えたくなるようなインダスティアル・パーク」をデザインしたのかもしれません。
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              (日本光学、工場。戦前同社は戸塚駅前に工場がありました。)
 
マロニエはフランス語、日本名は「橡(トチ)の木」です。
縄文式土器の底にも残されていた、栗に似た木の実です。
実は食用(飢饉対策)にされ、今でもお土産に「橡の実餅」として利用されています。
灰汁さえ採れば、風味豊かな餅菓子になります。
幹は太くなります、また柔軟性に富んでいますからお盆や餅をつく臼に利用されます。
私の生家には数多くの生活用具が橡で出来ていました。
我が民族は太古から橡の木に親しんで生きてきました。
「マロニエ」なんてハイカラに呼ばれると、”こそばゆい”と怒るかも知れません。
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    (朱色の花、穂状の花序が特徴的)
 
山国に入れば、橡の木は多く見かけます。
でも、大木が多いので、その花は余り気付きません。
樹下から見上げれば葉隠れに白っぽい花が見え隠れします。
 
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  (龍宝寺のマロニエ、最初は白、散り際にピンクに変じます)
 
玉縄の龍宝寺の参道に二本の橡の木が植えられています。
その下にはベンチがあって、幼稚園の終了を待つ若いお母さん方が座っています。
その傍らには二基の庚申塔と一基の馬頭観音が置かれています。
石塔にもお母さん方にも緑陰を提供、お顔に陰を映しています。
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  (マロニエの根元に石仏が並んでいます。写真左が玉縄幼稚園)
 
幼稚園児は校庭に出て、先生の言葉に唱和します。
先生が言います。
「生き物は・・・・」
子供達が声を合わせて答えます。
「可愛がります」
先生が   「持ち物は・・・・」
子供達は  「大切にします」
先生は  「一日ひとつ・・・・」
子供達は  「善い事をします・・・・」
 
私は思い出しました。
幼稚園児の標語を思いついたのは、先代ご住職であろう・・・・・と。
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(背後の茅葺山門は一昨年葺き替えを終えました。今年は重文の石井家住宅/鎌倉地侍の家、を葺き替え工事中です)
 
マロニエも、庚申塔も、幼稚園児も、待っているお母さん方も・・・・・・
みんな同じ、それぞれに美しくて、
それぞれが独り立ちしているようで、実は「持ちつ持たれつ」依存しあっている事が実感されます。
マロニエの緑陰を楽しんでいると、その有り難味が解ってきます。
 
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(マロニエ樹下の庚申塔、右が馬頭観音、マロニエの花弁が散って、周囲を覆ってしまっていました)
 
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(マロニエには沢山蜜蜂が集まります。龍宝寺は今年から日本蜜蜂の養生を始めました、食べてみたい、期待しています)
 
 
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ひたすら咲かせる「芍薬」(龍宝寺の畑で・・・・)

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「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」
美人を花に準えて表現する慣用句です。
百合は花が大きく、微風でも揺れ動きます。
まるで花魁道中を見るような「歩き姿」なのでしょう。
牡丹は座り姿、そして立ち姿が「芍薬の花」なのでしょう。
大川端で浮世絵美人が佇んでいる。
川風が吹いて・・・美人の裾が乱れて、白い脛が見え隠れする・・・・・。
そんな景色を思わせます。
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                                         (龍宝寺本堂前の芍薬)
 
大船のフラワーセンターは「芍薬園」と呼ばれていました。
奈良の大宇陀、武田薬品の故郷も芍薬畑です。
一面の芍薬畑も美しいのですが、矢張り農家の庭先、お寺の境内に咲いた芍薬の方が、遥かに美しいと思います。
矢張り、花には育った畑、育てた人、育った環境、総てがあって、その美しさが引き立つように思われます。
 
フラワーセンターのお隣に龍宝寺(曹洞宗)があります。
昨日、「橡の木」が咲いてます、書いたお寺です。
境内地は円覚寺にも匹敵するような大きなお寺ですが、境内の過半が畑になっています。
今、畑には葱やジャガイモが植えられていますが、大半が芍薬畑です。
野菜は家族が食べる分だけ、残った畑は芍薬など花畑にしているようです。
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                          (龍宝寺の花畑)
 
花を栽培して売る訳でも無いし、墓参者にサービスするわけでも無いようです。
でも、手入れは怠りありません。
堆肥作りから、草むしり、花後の贈り堆肥・・・・などなのご住職をはじめご家族が精を出しておいでです。
 
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道元禅師は永平寺に入っても、日々食べる野菜はご自身で作られておいででした。
そんな姿を映画「禅」(中村勘太郎)も好演していました。
炎天下老僧が畑作業に精を出しておいででした。
若い修行僧(道元)は見かねてお手伝いしようとします。
老僧は「只今(しこん)!」と一喝して作務(仕事)を続けます。
修行僧は”只今”の大切さを悟ります。
 
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私達は家に帰るとき「只今」と言ってドアーをあけます。
家内が「お帰りなさい」言ってくれます。
『只今(ただいま)』とは、『今の時間を大切にして仕事をしてきました』報告と感謝の気持ちを表します。
道元禅師の教えと私は考えています。
 
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龍宝寺のご住職は、「只今!」心で芍薬作りの作務に精を出しておいでです。
それを知ると、芍薬を見る思いが一段と深まります。
「綺麗だな!」から「美しい!」に。
そして、
「今年も咲いてくれて有難う! ・・・・・是非とも来年も観てみたいものです・・・・」
私も、ご住職も健康ならば・・・来年も拝観する事ができることでしょう。
 
「また・・・・来年お会いしましょう・・・・・」
呟きます。
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カイツブリ、目出度く巣立ち・・・・

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金井遊水池には度々出かけています。
水鳥の観察が楽しいからです。
前回カイツブリが二羽孵化して、親にくっ付いている状況を報告しました。
その後も楽しみながら観察を続けています。
 
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(カイツブリは葦原での子育て中)
 
レンズを通して見ると、カイツブリの親の目付きは鋭いものがあります。
カルガモなど鴨や鴈の仲間は穏やかな顔つきです。
カイツブリは肉食の水鳥ですから、その表情が鷺や鵜と同じように「ハンターの顔つき」なのでしょう。
でも、小さいから、天敵の蛇、カラス、川鵜などから身を守り、卵を守り、子育てするのは難儀な事でしょう。
私の観察したカイツブリは二羽しか子育てしていませんでした。
カルガモは7,8羽も一度に子育てしているのに。
 
カルガモの巣は葦原にあります。
葦や蒲の枯葉を組んで浮き巣を作ります。
其処に卵を産んで、抱卵します。
昨年は、私達の観察する目の前で青大将が出現、巣を襲いました。
カイツブリの夫婦は激しく抵抗、でも、多くの命を呑まれてしまいました。
その後、また卵を産んで、抱卵、孵化しました。
多分、カルガモ3~3個の卵を産んで、育てるのでしょう。
事故がおきて卵を失ったら、また排卵する能力があるのでしょう。
 
母親(多分)が浮き巣で休んでいます。
時々、子供が翼の間から小さな顔を覗かせます。
キョロキョロ見回してから、また翼の中に隠れてしまいます。
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                             (浮き巣で・・・・翼の中に子が二羽隠れています)
 
父親が帰ってきました。
「ご馳走を届けたぞ!」とでも言ったのでしょうか?
翼の間から、子供が一羽飛び出しました。
父親が嘴に摘んだご馳走を差し出して、息子に咥えさせます。
大きな、白い、甲殻類のようです。
多分大きなザリガニが脱皮中に捕獲されたのでしょう。
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 (子供呼び出した父親)
 
ザリガニは脱皮中で殻こそ柔らくても、シッカリしていて中々喰いちぎれません。
まして、息子には大きすぎて鵜呑みも出来ません。
そのうちにもう一羽の娘が翼から登場です。
「私にも頂戴!」
兄さんに迫ります。
兄妹でザリガニのお食事をキャッチボールです。
父親は時々、食事を公平にするよう世話を焼いています。
母親は腰をうかせて、
「今度は私がハンティングに出かけるわ!」
そんな素振りです。
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 (ザリガニを子に与えようとしている父親、見守る母親。未だ翼の中にもう一羽隠れています)
 
それから、暫くしました。
遊水池の真ん中辺りでカイツブリの鳴き声が響いてきます。
「キュルル・キュルル・キュルル・・・・・・」
甲高い鳴き声が葦原に響き渡ります。
「ああ、もう巣立ったんだな・・・・・」思いました。
観察し始めて、もう1ヶ月になるでしょうか?
念のため、浮き巣を確認してみました。
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                (兄妹でお食事中、お母さんはヤレヤレ、腰をうかせて子育てを父親と交代します)
 
浮き巣の上には巨大な牛蛙が、デン、座っています。
カイツブリのお母さんより一回り大きそうにも見えます。
体重は数倍重たいのでしょう。
浮き巣は沈みそうです。
牛蛙は余程気に入ったお座布団だったのでしょう。
浮き巣に乗っかって、辺りを睥睨し、「グェー・グェー」唸っています。
 
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                (用を終えた浮き巣を占拠した牛蛙。重たいので浮き巣が沈みそう・・・で)
 
再び、カイツブリを望遠レンズで覗いてみました。
二組の親子がいます。
一組は親子4羽、コッチが私が観察してきた家族でしょう。
もう一組は子供が三羽、親子5羽の家族です。
池の向こう、葦原の根元あたりを基地にして、羽ばたきの訓練中です。
親は勢いをつけて滑空して見せます。
その度に水面が砕けて、白く光ります。
子供は「置いて行かないで」
親を追いかけて泳いでゆきます。
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此処のカイツブリは留鳥です。
長くは飛ぶ必要が無いのかもしれませんが、我が身を守るためには飛べなければなりません。
自分でハンティングする、危険が迫れば飛んで逃げる、この二つは子供達の必須科目なのでしょう。
 
小さくても、シッカリ者の「カイツブリ夫婦」の子育ても終盤戦のようです。
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白い風車「定家かずら」

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鎌倉の明月院道を歩くと、路上に真っ白な花が散る季節になりました。
風車か、プロペラか・・・・・美しい姿です。
驚いて見上げると、頭上に「蔦葛」が山桜の木に絡んで、無数の花をつけています。
葛の名前は「マサカズラ」。
このカズラに「定家」の名前をつけたのは金春禅竹でした。
屹度禅竹はこの花の美しさと、執拗なまでの逞しさに驚嘆したのでしょう。
 
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                               (頭上を見上げるとカズラの白い花が。明月院門前で)
 
 
そして、式子内親王の和歌を思い起こしました。
  玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることのよわりもぞする

凡その歌意は次のようなものでしょう。
「私の命など早く尽きてしまえばよい。長く生きれば、想いを胸に閉じ込めていられなくなるだろうから」
式子内親王は後白河天皇の第3皇女であり、賀茂の斎院でありました。
 
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    (鎌倉石の石段に散ったカズラの花、プロペラのようです)
 
藤原定家から見れば、内親王は遥かに高貴な育ちであり、同時に神に仕える役にありました。
憧れの人ではありますが、恋情をぶつける訳には行きませんでした。
 
式子内親王から見れば、こんな事でしょう。
私より年下の定家さんは、和歌の才能に秀でた、素晴らしい人で、私は久しく魅了されています。
定家さんと歌論を交える時は楽しいのですが、この世ではそれ以上の関係にはなれません。
せめて、歌で苦しい、切ない思いを和歌にぶちまけてみました・・・・・・。
 
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  (ツツジに絡んだ定家カズラ、既にツツジは枯れ死していました)
 
私は久しく京都に出かけていません。
今頃嵯峨野では筍が青竹に伸びて、薫風に揺れている事でしょう。
常寂光寺には藤原定家の屋敷跡があります。
此処で小倉百人一首を選んだと言われています。
お隣の嵯峨二尊院には時雨亭跡の碑があります。
 
謡曲「定家」に戻りましょう。
僧侶が嵯峨野で一夜を明かします。
すると、その旅枕に亡霊が出現します。
亡霊はお墓に僧侶を案内します。
「私は式子内親王です。私が死んで暫くして定家も亡くなりましたが・・・・。お互いの恋情はあの世に行っても止み難く、私のお墓をカズラになって縛っています。この苦しさを解いて下さい・・・。」
 
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                  (定家カズラは有毒と聞きます。でも、カタツムリが舐めていました)
 
僧はお経(薬草喩品)読誦します。
するとお墓に絡んでいた葛が解けます。
亡霊が再びお墓から出て、僧に合掌し、報恩の「序ノ舞」を舞うのでした。
 
 

定家も式子内親王も和歌の才に秀で、相思相愛でありました。
この謡曲によって二人の思いは日本人の古典になりました。
私達世代も二人に思いを馳せています。
そして、この風車のような真っ白い花を見るにつけ、果たせなかった恋情に溜息するのです。
 
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  (浄智寺のスダジイの巨木から垂れ下がった定家カズラ)
 
大岡越前の母のエピソードがあります。
越前は囲炉裏の前で老母に尋ねます。
「女性は何歳まで色恋の煩悩が続くのか?」
すると母は囲炉裏の灰を火箸で拾って、越前の掌に載せます。
越前は灰の温みを感じます。
女性は死ぬまで煩悩を離れる事はできない・・・悟ります。
 
大岡越前の話には思い当たる事があります。
私の叔父(僧侶)は岐阜の中津川で老人ホームを経営していました。
叔父は楽しそうに話して聞かせてくれました。
ホームは男性が少なく、女性ばかりが多いのでした。
一人の男性を巡って、数人の女性が刃傷沙汰になる・・・・、そんな事件は茶飯事・・・と聞きました。
でも、警察に届けた事は一度も無かったそうです。
 
叔父は「歳をとっても恋情冷めがたい」
「それでこそ、生きている証である」
そう思っていたのでしょう。
 
謡曲「定家」は今も変らず新しい、名作だとおもいます。
 
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  (夫婦ではなく、今年生まれのカタツムリの兄弟)
 
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一反木綿のような「新井白石」の碑

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NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」楽しみに見ています。
女房の背が高いので、「一反木綿のようだ!」と評し、時々女房のコメントを一反木綿が代弁しています。
「ネズミ男」が人間の狡猾さを表す妖怪ならば、一反木綿は人間の正義感を表す妖怪です。
着物一着作れる程の白い木綿です。
空を飛んで、悪人に絡みつきます。
赤ければ、ふんどしのようなデザインです。
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                          (一反木綿、水木しげるHPから)
 
大船龍宝寺に儒学者「新井白石」の碑があります。
固い岩に1坪ほどの櫓が掘られて、その中に碑石が建てられています。
その形が一反木綿のようなのです。
「新井白石は一反木綿みたいだな・・・・!」
私の第一印象です。
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   (新井白石の碑、享保10年(1725年)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公銘碑」と書かれているそうですが   判読できません)
 
我国は失われた10年以降、一途に沈んでゆくようです。
国民は一生懸命働いても、所得は減る一方で、卒業しても就職先が見当たらない・・・・。
景気刺激策を打てば、赤字国債が累積するばかりで、一向に景気は点火しません。
行過ぎたインフレに対してはデフレ対策を打って、是正する。
正鵠を得た経済政策ですが、将来に対する夢や期待があれば、自立反転します。
夢や期待を与えないで、行過ぎたデフレ策を打てば、泥沼に嵌るだけなのでしょう。
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            (奥の暗がりが新井白石のやぐら、手前は熟した蛇イチゴ)
 
江戸時代、元禄時代に入ると経済規模も拡大し庶民は平和を享受し始めます。
勘定奉行、萩原重秀は貨幣を改鋳、大量の金貨銀貨を市中に流します。
所謂「インフレ対策」を打ちます。
 
徳川綱吉が没すると、徳川家宣後継し、新井白石が登場します。
良質の正徳金銀に改鋳し、インフレの沈静に努めます。
次の世代、徳川吉宗の寛政の改革に繋がり、江戸文化は一層盛り上がり、幕政は長期安定を続けます。
 
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                      (左奥が新井白石のやぐら、手前は文旦)
 
 
新井白石の「正徳の治」と竹中平蔵の「経済改革」の違いは、同じようなデフレ対策でありながら何処が違ったのでしょうか?
私は、「国民の夢や期待の有無」にあったと思います。
 
新井白石は朝鮮外交使節がやってくると、藤沢宿まで出迎え、此処で形を整えさせて、江戸入りさせます。
また、ローマ教皇が宣教師シドッチを潜入させると、これを捕縛、海外事情を確認のうえ追放します。
興味は幅広く、基本は「国政の安定・生活の安定」にありました。
 
一方、竹中平蔵の政策は「グローバリズム」一辺倒で、国民の生活はなおざりでした。
グローバリズムの進行は労働分配率の低下を意味しています。
国民に対して、「中国人やベトナム人と対等に競争しろ!」と言われても、所詮勝ち目はありません。
庶民は政府に対して、「後進国の労働脅威に対してどのように生活を守るか」教えて欲しいのでした。
国民に夢や期待を与えながら、グローバリズムを進める必要がありました。
 
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         (やぐらの上に咲いた卯の花、右はカンゾウ。夏に夢のようなオレンジの花を咲かせます)
 
小泉龍太郎や竹中平蔵は米国から歓迎されました。
我国がグローバリズムを進める事は、米国の国益に合致したからです。
でも、我国の沈没を進めるだけでありました。
沈没が明確になった今では、米国トップは日本を見向く時間も少なくなってしまいました。
 
一反木綿に聞いてみましょう。
「正義とは社会の状況によって変化するかもしれません・・・・?」
「何を持って正義と呼ぶのですか?」
一反木綿は答えるでしょう。
「正義とは、国民多数の幸福」にあると。
 
新井白石の碑が龍宝寺にあるのは、白石の「禄」が植木村200石であったからでした。
清貧な白石だから、その視点は見誤らなかったのでしょう。
私達は国家のトップを見誤り続けているようです。
 
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                                     (やぐらの前に咲いた芍薬の花)
 
 
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