5月3日は憲法記念日、テレビでは憲法改正問題が流されています。
私には憲法記念日は改憲問題を論じるより「憲法と現実の乖離」こそ問題にして欲しい、思います。
年々命を粗末にする風潮等は、憲法のアカンタビリティー(達成率)が低下している、と思えるのです。
先日、神奈川新聞の取材に協力しました。
お礼に、「向井潤吉」の展覧会招待券をいただきました。
私も家内も向井潤吉氏を敬愛しています。
ですから、久々に二人して横浜駅西口、高島屋に向いました。
横浜駅西口の雑踏には困惑しましたが、高島屋は落ち着いていました。
そして、向井潤吉会場は私と同年輩が集結、列を為しての見学でした。
向井潤吉の描いた「日本の原風景」を記憶している世代です。
私が向井潤吉を知ったのは昭和42年頃、JTBの月刊誌「旅」に旅行記を掲載されていたからでした。
紀行文の中でも強く井印象を受けたのは「田麦俣」でした。
山形から寒河江を経て、湯殿山にいたる、峠道にあるのが田麦俣の集落です。
飛騨高山よりも遥かに寒村、でも、茅葺・大屋根の民家が並んだ風景は同じように美しいものでした。
田麦俣は雪深ので冬場は二階から出入りします。
従って、茅葺屋根は兜の様な姿をしていて、二階が窓であり玄関でもあります。
これを「多層民家」と呼びます。
向井氏は此処で写生旅行をします。
民宿も無い時代ですから、農家にお願いして泊まらせて頂きます。
村内には粗末な真言宗のお寺が三つもあります。
それぞれのお寺に「即身成仏」が祀られています。
ネットから転載(田麦俣)
江戸時代、飢饉が連続します。
修験者「鉄門海上人」は救生済度の願をたて、五穀を絶ちます。
上人は見る見る瘠せますが、気力は増してゆきます。
生きたまま仏になって、その功徳力によって、田麦俣の農民が飢饉から救済される、誰もが確信していたのです。
そんな即身仏が三体も祀られているのでした。
向井さんの文章の隅々に、田麦俣への愛情と理解が滲んでいました。
大学生になった私は、向井潤吉さんの紀行文を下に、田麦俣を旅しました。
向井潤吉展には田麦俣の連作が展示されていました。
展覧会場で最も多いのが、川越を初めとした武蔵野の民家風景、そして白馬村などの信濃風景、そして生まれた京都、でも田麦俣の民家が圧倒的に多いのでした。
(白馬風景/遅れる春の風景/複製画を撮影)
1914年、潤吉は京都本願寺の宮大工の家に生まれました。
親の期待を裏切って画家になります。
日本画を学び、パリに留学ルーブル等で模写に励みます。そして昭和13年従軍画家になります。
従軍画家としての作品は残されていないようです。(私は見た事がありません)
展覧会場で1枚この時期の画がありました。
画題はは「蘇州上空から」。
運河が蛇行していて、瓦屋根の民家が連なっています。潤吉の乗った戦闘機が民家の屋根に影を落としています。
日華事変の起きる直前の絵画でありましょう。
従軍画家ではなく「反戦画家」の作品です。
屹度、生活の為に従軍画家になっても、描きたいものは無かったのでしょう。
昭和20年、終戦を迎えます。
潤吉は越後の魚沼、川口(現長岡市)に写生旅行に出かけます。
そこで、雨に濡れる茅葺屋根の民家を描きます。
越後の風景は潤吉を優しく迎えてくれたのでしょう。
そして「愛する農村風景を描こう」一生の仕事を見出したのでしょう。
以来、潤吉は民家を描き続けます。
(これは忍野の富士山)
民家は茅葺屋根、農民の生活があって、山川があって、花が咲いていて・・・・・
要するに、日本の風景を、風土を描き続けました。
茅葺屋根の少ない、中国・四国、そして九州は描いていません。
展示会では、大和民家(甘樫丘)が最も南の民家でした。
昭和40年代、潤吉の画業は最高に乗ってきます。
基礎をしっかり学んだ描写力、建築の構造への理解、何よりも風土への愛着が「民家風景」を描かせます。
一方、茅葺民家は次第に減少してきます。
民家を描く事は潤吉の天命と確信したのでしょう。
社会も「民家画家、向井潤吉」を高く評価しました。
(川越、向井潤吉の絵の大半は秋から初春です。理由は緑が苦手だから・・・と話されたそうです)
平成7年、95歳で向井潤吉は亡くなります。
同じ頃大和を写し続けた入江 泰吉も他界します。
レンズと絵筆、手に握ったツールは違っても、風土への愛着は変わらないようです。
向井潤吉への敬愛の念が一層深まる展示会でした。
(5月9日まで展示します)
(会場出口、販売所風景)
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