今夏はかって無い暑い日が続きました。
「薩摩芋の花が咲いた」ニュースが流れて、
これも暑さの所為だ、報道されていました。
薩摩芋は南国の植物、琉球から薩摩を経て伝来したのでしょうから、
暑ければ本来の花も咲くのだろう・・・・、でも、一度は見てみたいものだ・・・・・・、
そう思って、近所の畑を観察していました。
でも、夏の間は駄目でした。
芋ほりの収穫期も終って、「やっぱり駄目か!」諦めていました。
(薩摩芋は昼顔の仲間。これはアスファルトを破って咲いた昼顔)
ところが、舞岡八幡宮の参道にある「地蔵庚申塔」をお参りした時です。
何気なしに、収穫をおえた薩摩芋畑に眼をやると、咲いています「朝顔」のような花が・・・・・。
「ああ、これが噂の薩摩芋の花か!」
感激の対面が出来ました。
(薩摩芋の花。昼顔や朝顔に較べるとガッチリしていて色も鮮明です)
朝顔のような、ラッパのような花弁(合弁)です。
花弁の淵は真っ白で、花芯は濃い赤紫色です。
ツートンカラーの朝顔はよく見ますが、概して淡い色です。
一方、薩摩芋の花は鮮明な、強い色です。
花を支える額も、その軸も太くてガッシリしています。
朝顔が「浴衣姿の手弱女」、とすれば、薩摩芋の花は「日焼けした早乙女」の風情です。
だからでしょう、薩摩芋の花言葉は「乙女の純情」だそうです。
この純情は稀にしか遇わないが、遇ったら大火傷をする事もある、
純粋だから、一気に突っ走る。
屹度、薩摩芋は「短日植物」なのでしょう。
朝顔も、盛夏よりも初秋になると花数が増えます。
日が短くなると、花数が増えるのです。
薩摩芋も日が短くなって、根っこを掘り起されて、慌てて花を咲かせたのでしょう。
「種の保存」、本来の役割を思い起こして。
だから、11月になって花をつけたのでしょう。
(舞岡八幡宮参道の地蔵庚申塔、この右横に小さな芋畑がありました、そこで薩摩芋の花を見ました)
薩摩芋といえば、青木昆陽。
徳川吉宗は飢饉の際の救済植物として、薩摩芋を研究させます。
小石川薬園(現小石川植物園)で薩摩芋の栽培を研究、千葉九十九里で試作させます。
その結果、享保の飢饉、天明の大飢饉では多くの人の命を救ったといわれます。
私の家でも薩摩芋を長い間栽培していました。
柏尾川の河川敷に相当の畑があったからでした。
河川敷ですから、砂地ですし、何時洪水になるか解りません。
ですから、薩摩芋畑にする農家が多かったのでした。
一家では食べきれない収穫量がありました。
でも、冬場は薩摩芋を防空壕の中に貯蔵して置きます。
でも、寒い日が続くと大半が腐ってしまいました。
寒さに極端に弱いのでした。
(舞岡自然公園の道端に咲いた野薊の花。薊の歌/命短し恋せや乙女・・・・「乙女の純情」を思わせます。)
腐った薩摩芋を見て、祖母はよく言いました。
「戦中・戦後此処の薩摩芋は役に立ったものだ。良く腹を空かせた人が東京から下って来て、車窓の芋畑を見つけて、戸塚で下車、お芋の無心を頼まれたもんだ。”お芋は無理でしょうからせめて茎(つる)を下さい” 依頼された。そんな時、芋を蔓に包んであげたもんだ。すると、両手を合わせてお礼を言われたもんだ・・・・・。」
”薩摩芋は飢饉食にもなるもの、腐ってしまっても栽培するものだ・・・・”
祖母は思っていたのでしょう。
(頭上のアケビももう開いて、はらわたも出てしまっています)
我が生家では「薩摩芋飯」が良く炊かれました。
お米を焚くに際して、薩摩芋を角切して一緒に入れるのでした。
「栗ご飯」に似た「薩摩芋ご飯」が出来上がりました。
最近のお芋は随分美味しくなりました。
香も、甘さも格段にアップし、昔のような水っぽさは無くなりました。
「薩摩芋ご飯に、お漬物」は「麦ご飯に自然薯」と同じように美味だと思うのですが・・・・。
今度、家内に「薩摩芋ご飯」をトライさせる事にしましょう。
11月13日には東戸塚小学校まつりで「焼き芋の模擬店」を出店する事になっています。
今秋は、倉田連合祭りに続いて二度目の焼き芋出店です。
薩摩芋には愛着があります。
薩摩芋の花も初めて見ましたが、どこか懐かしさがあります。
私達日本人は南方人だからでしょうか?
(カラス瓜も朱色が濃くなってきました、もう晩秋の風情です)
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