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初めて見る「薩摩芋の花」(舞岡八幡宮前で)

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今夏はかって無い暑い日が続きました。
「薩摩芋の花が咲いた」ニュースが流れて、
これも暑さの所為だ、報道されていました。
薩摩芋は南国の植物、琉球から薩摩を経て伝来したのでしょうから、
暑ければ本来の花も咲くのだろう・・・・、でも、一度は見てみたいものだ・・・・・・、
そう思って、近所の畑を観察していました。
でも、夏の間は駄目でした。
芋ほりの収穫期も終って、「やっぱり駄目か!」諦めていました。
 
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                       (薩摩芋は昼顔の仲間。これはアスファルトを破って咲いた昼顔)
 
 
ところが、舞岡八幡宮の参道にある「地蔵庚申塔」をお参りした時です。
何気なしに、収穫をおえた薩摩芋畑に眼をやると、咲いています「朝顔」のような花が・・・・・。
「ああ、これが噂の薩摩芋の花か!」
感激の対面が出来ました。
 
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                         (薩摩芋の花。昼顔や朝顔に較べるとガッチリしていて色も鮮明です)
 
朝顔のような、ラッパのような花弁(合弁)です。
花弁の淵は真っ白で、花芯は濃い赤紫色です。
ツートンカラーの朝顔はよく見ますが、概して淡い色です。
一方、薩摩芋の花は鮮明な、強い色です。
花を支える額も、その軸も太くてガッシリしています。
朝顔が「浴衣姿の手弱女」、とすれば、薩摩芋の花は「日焼けした早乙女」の風情です。
だからでしょう、薩摩芋の花言葉は「乙女の純情」だそうです。
この純情は稀にしか遇わないが、遇ったら大火傷をする事もある、
純粋だから、一気に突っ走る。
 
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屹度、薩摩芋は「短日植物」なのでしょう。
朝顔も、盛夏よりも初秋になると花数が増えます。
日が短くなると、花数が増えるのです。
薩摩芋も日が短くなって、根っこを掘り起されて、慌てて花を咲かせたのでしょう。
「種の保存」、本来の役割を思い起こして。
だから、11月になって花をつけたのでしょう。
 
 
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   (舞岡八幡宮参道の地蔵庚申塔、この右横に小さな芋畑がありました、そこで薩摩芋の花を見ました)
 
薩摩芋といえば、青木昆陽。
徳川吉宗は飢饉の際の救済植物として、薩摩芋を研究させます。
小石川薬園(現小石川植物園)で薩摩芋の栽培を研究、千葉九十九里で試作させます。
その結果、享保の飢饉、天明の大飢饉では多くの人の命を救ったといわれます。
 
私の家でも薩摩芋を長い間栽培していました。
柏尾川の河川敷に相当の畑があったからでした。
河川敷ですから、砂地ですし、何時洪水になるか解りません。
ですから、薩摩芋畑にする農家が多かったのでした。
 
一家では食べきれない収穫量がありました。
でも、冬場は薩摩芋を防空壕の中に貯蔵して置きます。
でも、寒い日が続くと大半が腐ってしまいました。
寒さに極端に弱いのでした。
 
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   (舞岡自然公園の道端に咲いた野薊の花。薊の歌/命短し恋せや乙女・・・・「乙女の純情」を思わせます。)
 
腐った薩摩芋を見て、祖母はよく言いました。
「戦中・戦後此処の薩摩芋は役に立ったものだ。良く腹を空かせた人が東京から下って来て、車窓の芋畑を見つけて、戸塚で下車、お芋の無心を頼まれたもんだ。”お芋は無理でしょうからせめて茎(つる)を下さい” 依頼された。そんな時、芋を蔓に包んであげたもんだ。すると、両手を合わせてお礼を言われたもんだ・・・・・。」
”薩摩芋は飢饉食にもなるもの、腐ってしまっても栽培するものだ・・・・”
祖母は思っていたのでしょう。
 
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   (頭上のアケビももう開いて、はらわたも出てしまっています)
 
 
我が生家では「薩摩芋飯」が良く炊かれました。
お米を焚くに際して、薩摩芋を角切して一緒に入れるのでした。
「栗ご飯」に似た「薩摩芋ご飯」が出来上がりました。
 
最近のお芋は随分美味しくなりました。
香も、甘さも格段にアップし、昔のような水っぽさは無くなりました。
「薩摩芋ご飯に、お漬物」は「麦ご飯に自然薯」と同じように美味だと思うのですが・・・・。
 
今度、家内に「薩摩芋ご飯」をトライさせる事にしましょう。
11月13日には東戸塚小学校まつりで「焼き芋の模擬店」を出店する事になっています。
今秋は、倉田連合祭りに続いて二度目の焼き芋出店です。
薩摩芋には愛着があります。
薩摩芋の花も初めて見ましたが、どこか懐かしさがあります。
私達日本人は南方人だからでしょうか?
 
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            (カラス瓜も朱色が濃くなってきました、もう晩秋の風情です)
 
 
 
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前庭に咲く「蔓竜胆と蔓姫蕎麦」(縁切り寺)

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秋も深まってきました。
私の楽しみに鎌倉山之内の「駆け込み寺」の前庭があります。
この庭が最も美しく輝く季節だからです。
 
縁切り寺(東慶寺)は有名で、尼五山の第二位、高い格を誇るお寺ですが、
谷戸にありますので堂塔も小さいものです。
本堂の前庭も30坪余り、少しリッチな人ならこの程度の庭をお持ちでしょう。
でも、実に美しい、そして人の心を癒してくれる庭なのです。
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                          (縁切り寺、参道の柏葉紫陽花も鮮やかに紅葉し始めました)
 
 
松ヶ丘御所の面影を宿す黒塀を右に折れると、本堂の前に出ます。
本堂は四方流れの簡素で優しい建物です。
本来の本堂は本牧の三渓園に置かれています。(重文)
本格的な唐様建物(円覚寺舎利殿/国宝)ですが、明治時代に貧したお寺が売却したのでしょう。
その後に、禅宗様建築ではなく、和様、書院風な本堂を建立したのは、賢明でありまいした。
漱石の「門」にあるように、禅宗風な建物は入りにくいのです。
入山するには相当の覚悟を求められます。
でも、書院風の建物は気軽に入る事が出来ます。
「今日は、仏様、また来ました・・・・・」
言える様な雰囲気です。
 
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                           (黒塀の向こうが本堂、手前が今日の話題蔓竜胆と蔓姫蕎麦)
 
猫の額ほどの前庭の略真ん中に石塔が立っています。
その第二段に如来が彫られています。
四方に、釈迦(南)、薬師(東)、阿弥陀(西)、弥勒(北)が向いておいでです。
その脇には枝垂れの桜があって、
その下に飛び石が敷かれてあって、お茶席につながっています。
狭い庭ですから、それ以外は平らなお庭です。
 
でも、平らな庭を飾る花があります。
一つが「蔓竜胆/つるりんどう」です。
 
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                 (手前蔓竜胆の花、奥四方仏の石塔、左奥にお茶席が設えてあります。右奥本堂)
 
 
私が蔓竜胆に魅せられたのは、今頃の季節でした。
金色に染まった落葉松林を抜けて、修那羅峠(石仏で有名)に向っていました。
その岩場に紫の花が咲いていました。
細い蔓が延びて、地面を這って伸びています。
濃い緑の葉っぱが照っていて、
濃紫の控え目な花が美しいバランスでした。
日当りでありますが、風も吹きすさびます。
懸命に花を咲かせる姿は、いじらしさを感じさせました。
 
あの蔓竜胆が縁切り寺の前庭に咲いているのです。
 
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                                (蔓竜胆、下に龍の髭、奥の太い幹は山紅葉)
 
 
もう一つ、地面をカバーするように咲いているピンクの花があります。
「蔓姫蕎麦/つるひめそば」の花なのです。
名は花の特徴を良く言い表しています。
蔓は茎がツル状になって、地面を這うように生育するから、
蕎麦はその花が「蕎麦の花」のように小さく、集約花だから、
姫は花の表情がお姫様のように可愛いからでしょう。
 
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                       (手前蔓姫蕎麦の花、四方仏の石塔、四つ目垣の奥がお茶室)
 
 
明治35年東本願寺の大谷光瑞は仏教のルーツを求めて、中央アジアに出発します。
数多くの学術探検の成果を届けます。
当時の日本人はヒマラヤに関心が高かったのでしょう。
「蔓姫蕎麦」も「ヒマラヤ雪ノ下」もこの頃日本に伝えられました。
 
蔓姫蕎麦の花は一年中咲いていますが、矢張り秋が最も花数が多いようです。
蓼科植物ですから、自然なことです。
秋が深くなると葉っぱが紅葉します。
真っ赤な葉っぱと、ピンクの花が絶妙です。
 
蔓姫蕎麦が「お姫様の花」なら、
蔓竜胆は「若様の花」のようです。
縁切り寺は植物の特徴や美しさを良く承知していて、
ご本尊の前庭に植えたのでしょう。
今では自生していて、毎年、毎年、よく咲いています。
 
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         (蔓姫蕎麦の花、背景ボケているのは二十三夜塔/綺麗な天女像(勢至菩薩)が彫られています)
 
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今朝の腰越風景

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体が「シラスを食べたい」所望するので、久し振りに腰越漁港に出かけました。
腰越漁港は鎌倉市の西端位置し、相模湾に面しています。
小動岬(こゆるぎ)の真下が腰越漁港で、その西側が片瀬東浜、その先に江ノ島が位置しています。
岬の東側は七里ガ浜をへて、稲村ガ崎が眺められます。
砂浜に沿って海岸通り(国道134号線)、その上に江ノ電が走っています。
まさに景勝地であり、テレビや映画のロケ地に、また、数多くの歴史秘話を残しています。
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                   (腰越漁港からの眺め、左が江ノ島、橋を介して右が片瀬のマンション群)
 
以前はシラスを食べさせる店は腰越の「シラス屋」だけだったと思います。
猟師直営の同店は繁盛していますが、最近はシラスを食べさせる店がずい分増えました。
江ノ島から小坪あたりまで、和食店なら必ずメニューに加えていますし、イタ飯屋でも食べる事ができます。
私のように、”カルシウムが足りないよ!”
体のサインを感知する人が多いのかもしれませんし、
サッパリした自然の味が好まれるようになったのかもしれません。
 
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                             (シラスの水揚げを終えた漁船、代わって吊り舟が出航中)
 
 
腰越漁港の猟師舟は約100隻、その半分が猟師舟だそうです。
年間のシラスの上げ高は50トン、次いで多いのが鯵の10トン、鰯の3トンですから、
腰越の猟師はシラスで食べているのです。
 
残りの5半分が釣り船なのでしょう。
朝10時、漁港に着くともう、シラスを求めるお客さんが数名、列を成しています。
大半が料理店の仕入れのようです。
生シラス、釜揚げシラスを大量に購入してゆきます。
 
私と同好の親爺も並んでいます。
結構多くて(250グラム?)550円です。
生ではこれだけは食べ切れません。
釜揚げを戴きました。
今晩から暫くはシラスが食卓に並ぶ事でしょう。
 
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                             (シラスの天干しが始まりました)
 
腰越の風景も随分変ってきました。
オリンピックで江ノ島にヨットハーバーが出来ました。
江ノ島の灯台も建て替えられました。
片瀬辺りに高層のマンションも増えました。
腰越の漁港も何処か垢抜けてきました。
毎月第一第三木曜日には朝市が開かれます。
私のような市民も漁港に出入りするようになりました。
 
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    (釜からあげられたシラスから湯気が立って、その向こうにお客がひっきりなしに来て、列を成します)
 
 
七里ガ浜を振り返れば、波乗りに興じるサーファーの姿が目立ちます。
砂浜には子供や波に戯れる人の姿が見えます。
何よりも、長い砂浜が清潔であります。
ゴミ一つ無いようです。
海草や貝殻が打ち上げられています。
でも、こんなに綺麗な砂浜は余り見たこともありません。
 
裏日本の海浜は外国から漂着したゴミが目立ちます。
都市近郊の海浜は生活ゴミで汚れている事も多々あります。
腰越の海が綺麗になったのは、流れ込む境川(柏尾川はその支流)などが綺麗になったからでもありましょう。
 
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                       (七里ガ浜、向こうは稲村ガ崎)
 
シラスが一層に美味そうな、体に良さそうな気がしてきます。
 
シラスやでは小さな小屋の中で、汗だくになってシラスを釜茹でしています。
茹でられたシラスは浜辺で天日干しして行きます。
湯気が立っています。
私は順番待ちです。
鎌倉も最近目に見えて清潔になってきました。
バブルな計画も無くなって来たようです。
”ロハスだなあ” 思います。
 
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                                                   (七里ガ浜、向こうが江ノ島)
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                                            (女性もワンちゃんも脚が長い)

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地獄に救い、箱根の地蔵石仏群

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私が元箱根の石仏群を初めて訪れたのは昭和42年の初冬でした。
大学に入学して、教養で浅子勝次郎教授(故人)の歴史をとりました。
同教授は高校で習う日本通史ではなく、地域や地勢の関連で歴史を捉えら、身近な視点を大切にされていました。鎌倉彫の消長(後藤家)、元箱根石仏群など、神奈川地方の素材を講義されました。
その度ごとに、私が現在属する日文研の学生を連れて、実査授業をしてくださいました。
深い感銘を受けました。
今も教えられた視点が私を動かしているように思います。
 
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(箱根石仏群は曾我兄弟、虎御前の五輪塔(墓標)から始まります。背後は双子山の稜線で、風が強いので灌木しか育ちません)
 
 
 
元箱根石仏群は、箱根駅伝の第5区、箱根の山登りを終えて、
芦の湯温泉を右に見て、芦ノ湖に下り始める、その辺りにあります。
灌木やススキの原の中に、石仏や墓標である五輪塔や宝篋印塔が点在しています。
ススキの原の向こうには精進池があって、そのはるか上に駒ヶ岳が仰ぎ見られます。
木枯らしが吹きすさび、鼻水をすすりながら、石仏を巡りました。
 
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               (案内板から・・・・、素晴らしいガイド棟が精進池を見下ろす位置に出来ました)
 
 
石仏は、駒ヶ岳から転び落ちた自然石に舟形の光背を刻んで、その中に浮かび上がっていました。
「教授は、何故こんな峠の、辺鄙な場所に石仏があるのか?
考えて見なさい。そして、その自然環境の中にあるからこそ、美しき輝く石仏の美しさ、を知って下さい!」
そんな、メッセージを伝えて下さいました。
でも、自然現象が襲い、トイレを探しながら、早々に退散しました。
昔日を思い起こしながら、久々に箱根石仏群を訪れました。
 
 
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 (精進池、右端が遊歩道、此処に沿って歩くと石仏、石塔が巡れます。どれも鎌倉時代の作で重文です。
   正面が駒ケ岳)
 
箱根石仏群を案内する為に、先ず時代背景等を説明します。
 
平安時代後期になると全国各地に力のある武士団が割拠し始めます。
箱根の西側、伊豆から三島にかけては北条氏が力を持ちます。
其処から見れば、箱根は北から東にかけて横たわる峰々、
死者の魂は駒ヶ岳に昇ると考えられました。
その山懐には静で綺麗な湖がありました。
火山湖で魚も棲まない池で、その池畔は賽の河原を思わせました。
「此処は地上にある”地獄”だ」確信したことでしょう。
 
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      (磨崖仏(俗称六道地蔵)を正安2年(1300)作、発掘調査の結果室町時代には鞘堂の守られていたが野      火で焼かれてしまった。白毫や錫杖は平成の補作。昔は露座であったが今はお堂の中に)
 
 
北条の一族は「力こそ時代を切り開く」、いかにも武士らしい気風を持っていました。
蛭が小島に流されてきた源頼朝の力量も評価し、活用します。
奈良興福寺の仏師であった運慶も招いて、力強い不動明王像、阿弥陀如来像(願成就院)を彫像させます。
彼らには願望がありました。
 
『自分も祖先も死ねばあの箱根山に霊が昇ってゆく。
その途中に賽の河原があって、地獄がある。
其処には魂の行く先を導いてくれるお地蔵様が居てくださらなければならない。
お地蔵様の真ん中には阿弥陀様が居られて、地獄の責め苦が明けたら救済してくださる筈だ・・・・・。』
 
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(八百比丘尼の墓と伝えられる宝篋印塔/部分欠損)
 
 
精進池の周囲にはゴロゴロ巨岩が転がっていました。
勿論、箱根山は火山です。
火成岩が長年地中で圧せられて出来たのが花崗岩、大変に堅く美しい石です。
花崗岩は美しい石仏を彫るには最高の石材です。
更に、風化し難いので美しさが長く続きます。
 
 
   
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奈良時代末期、仏教が乱れると鑑真を招いて「律」を布教させます。
時代の変革期には人の精神を戒める「律」が重要視されるのでしょう。
幕府は、西大寺の忍性を鎌倉に呼んで、「律」を指導させます。
忍性は極楽寺を創建、律の布教と、社会事業に貢献します。
箱根の峠の地獄では、忍性を導師として、霊地の石仏つくり、石塔つくりは進められます。
こうして、関東以北では最高傑作の石仏群が出来上がって行きました。
 
時代を切り開こうとする意志を強く持っていた鎌倉武士です。
彼等は古代の人には薄かった「自我」が強く芽生えます。
石仏を彫るに際して、彫像した年を記録、併せて、誰が、何の為に石仏を奉納したか・・・・、
石仏や石塔のの台座や、周囲に刻みました。
だから、私達の想像も膨らみます。
 
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  (少し赤味がかっているのは夕陽を浴びているから・・・・花崗岩に刻まれた石仏群)
 
昔も今も、人は善行だけをしたいと思っています。
でも、鎌倉時代は矛盾に満ちた時代でした。
時代を生き抜いて、力や目標を達成するには様々な悪行も重ねなくてはなりませんでした。
親戚や親兄弟も、御家人仲間も殺しました。
仕方なく行った悪行でも、重ねれば、死後の地獄の責め苦は免れません。
でも、あの世にはお地蔵様が導いてくれる。
責め苦を明ければ、生前の善行もあれば、阿弥陀様が救済に来てくれる筈だ・・・・・。
 
地蔵信仰の起こりは奈良でありました。
興福寺に近い元興寺が地蔵信仰の中核になっていました。
「大蔵安氏」が率いる「石工集団」がお地蔵さんを盛んに彫って、普及に尽くしていました。
 
中央の地蔵信仰が地方に伝播するのに時間はかかりませんでした。
信仰を形にする石工集団が呼ばれました。
幕府は大蔵安氏に「箱根に地蔵を」頼んだ事でしょう。
「此処箱根は、鎌倉幕府を開いた武士の魂が漂う霊地だ、その魂を救う仏を刻んで欲しい!」
 
石工「大蔵安氏」が最初に刻んだのは25菩薩像、(永仁元年・1293年) でした。
聖衆来迎図は平安時代末期から盛んに描かれていました。
高野山をはじめ、各地の寺院に懸けられた、その絵を転がっていた最大の石に刻む事になりました。
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                                     『聖衆来迎図、鎌倉光明寺』
 
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真ん中に阿弥陀如来を刻みました。
普通は阿弥陀様の周囲には観音菩薩や天女が描かれます。
でも、此処は地獄での来迎図、阿弥陀様の周囲は地蔵菩薩だけにしました。
大きなお地蔵様、兄弟のようなお地蔵様、石の面を使って、くまなく刻みました。
結果、25菩薩が出来上がりました。
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                                          (主尊の阿弥陀如来)
 
 
続いて磨崖仏(俗称六道地蔵)を正安2年(1300)に、
磨崖仏(俗称応長地蔵)を応長元年(1311)に造像します。
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昭和42年、私達が浅子先生に連れられて見学したときには、周囲に何もありませんでした。
荒涼とした景色の中、国道一号線の東に西に渡りました。命がけでもありました。
石仏は排気ガスで汚れて、土中に埋もれていました。
 
ところが、昭和63年から平成4年にかけて学術調査し、
重要文化財に指定されました。
また、保存事業に平成2年に着工、4年に完成しました。
1号線にトンネルを2本通して、安全に石仏石塔巡りが出来るようにしました。
そして、精進池の畔に展望施設を建立、丁寧な説明と、休憩が取れるようにしました。
地元の文化財が大切にされるのは大変に嬉しい事です。
 
石仏といえば臼杵磨崖仏が唯一、国宝です。
国東、熊野など重文の石仏は数箇所あります。
多くが地方色が強く、密教の色濃く残しています。
しかし、何れも整備が充分ではなく、臼杵始め多くが凝灰岩など痛みやすい石材である事もあって、
損傷が進んでいるようです。
 
箱根石仏群は保存の状況も良く、説明、見学の体制など実に良く出来ています。
浅子先生も、この施設があれば心行くまで授業をして下さっただろうな・・・・思います。
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家内は先刻から強風に目も開けられない・・・・、コンタクトレンズなので、必死の形相です。
山陰が精進池に及んできました。
「賽の河原を巡るのは止しにしません・・・・・」
言います。
悪霊が近くに浮遊し始めた・・・・・そう感じたのかもしれません。
夕刻の箱根地獄は、恐山以上の迫力があります。
 
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右端にあるのが六道地蔵の祀られた鞘堂、その下に国道1号線。道路を渡って精進池、河畔が賽の河原、その上に、周囲に石仏があります。国道下にトンネルがあって、安全に周遊できます。)
 
 
 
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紅葉の箱根「東光庵」

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今朝(11月11日)は冷え込みました。
紅葉前線の動向が気になります。
実は一昨日、紅葉の気配を調べに箱根に出かけてみました。
今日の報告はその時のものです。
従ってこの寒さで、箱根のお山は紅葉の見頃が来ている事でしょう。
 
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                                    (箱根芦之湯東光庵薬師堂前の紅葉/11月9日)
 
箱根の温泉町は早川の渓谷に沿って点在しています。
麓の湯本温泉から、塔ノ沢温泉、堂ヶ島温泉、宮ノ下温泉、底倉温泉に木賀温泉、
最も奥で、高い位置にあるのが芦之湯温泉です。
これをあわせて「箱根七湯」と呼ばれ、江戸をはじめ関東一円から湯治客を集めていました。
 
湯本温泉では紅葉はまだまだ、宮ノ下辺りでは梢の先がちょっぴり、
そして小涌谷小脇園では5分の色づきでした。
この分なら、芦之湯では紅葉も盛り・・・期待されます。
 
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                               (平成13年再建された東光庵、熊野堂境内にあります)
 
 
私は芦之湯には思い出があります。
小学校の夏休み林間学校で訪れたのでした。
古い大きな旅館(多分松坂屋)があって、此処を拠点に、
駒ケ岳や双子山に登りました。
夜は草原に出て、ファイヤを囲んで、満天の星座を仰ぎ見ました。
あの芦之湯にこれほど豊かな歴史資産があったとは思いもよりませんでした。
 
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   (東光庵入り口に立つお地蔵さん、”お越し下さり、お疲れさんでした”と迎えてくださっているようです)
 
 
箱根七湯で最も賑わったのが芦之湯だったのでした。
最も高く涼しかったから、硫黄の強い香りがして、湯治の効果が高かったから、箱根権現に最も近かったから・・・・、色々理由はあったものでしょう。
でも、その理由の一つに芦之湯の湯宿の主人の才気が上げられましょう。
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                                     (女性?の羅漢像、果たして誰を模したものか?
 
 
七つもの温泉があるのですから、各々が個性を出して競い合います。
松阪賢全(松坂屋主人)、勝間田茂野(芦之湯主人)は熊野堂(箱根権現支社)の境内に東光庵を建築します。
此処を湯治客のサロンにしたのでした。
湯治客になるべく長く逗留してもらう、そのためには、碁や将棋、句会や茶会をする施設が期待されます。
江戸の文人墨客が集まりました。
彼等には境内に句碑や歌碑を残してもらいました。
賀茂真淵、蜀山人、安藤広重、本居宣長、などが逗留しています。
 
湘南の俳句道場として有名であった鴫立庵(大磯)とも庵主兼任してもらうなど、交流も盛んでありました。
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(しばらくは花のうえなる 月夜哉  芭蕉、鴫立庵庵主の建立) 
 
 
 
そんな芦之湯も次第に賑わいを失ってゆきます。
東光庵も次第に廃れ、明治15年朽ち果ててしまいました。
宮ノ下富士屋ホテルが、焼失、明治17年再建されたわけでしたから、湯治場としては時代に遅れたのでしょう。
 
忘れ去られていた芦之湯東光庵には盛んであった時代の歌碑や句碑、16羅漢像などが残されていました。
箱根町は東光庵跡を史跡に指定、礎石を探し出し整備に乗り出します。
平成13年120年ぶりに東光庵は再建されます。
庵主に中曽根康弘元首相に依頼します。
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(中曽根元首相は東光庵の再建に、そしてその後の活動に貢献していられるようです。この句は日暮を吟じたもので、なるほど、思わせてくれます)
 
平成22年10月28日には「東光庵句会」を催します。
         ”東光庵屋根に秋草遊ばせて”   辰原清子さん(箱根町)
が東光庵主賞を受賞しました。
 
中曽根元首相も
          ”長命を畏れかしこみ朴の花” 
と吟じました。 (詳細:あしがらネットラジオ)
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                          (東光庵の大棟はススキが茫々で・・・・)
 
東光庵西側の岩場には16羅漢像が置かれています。
テンデンバラバラの姿が楽しげです。
どの、羅漢さんも寛いで、時間の経つのを楽しんでいるようです。
句を吟じよう、和歌の言の葉を選んでいる様にも見えます。
16羅漢とな名ばかりで、実は自分自身を写しているようにも見えます。
寛いでいるのは蜀山人で、座を正しているのは賀茂真淵かな・・・・なんて思いながら眺めます。
 
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(東光庵室内、土間から見る。1室、囲炉裏が切ってあり、板の間、座布団でも敷いて文人達が囲炉裏の前で団欒した事でしょう。傍らで囲碁に興じたり・・・・しながら)
 
 
紅葉は今盛りになる所でした。
今日から3日間くらいが最高でしょう。
ですから、芦ノ湖畔は1週間後という事になるでしょうか・・・・。
楽しみです。
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翡翠の珠「野葡萄」

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秋も深まってきました。
里山を歩く楽しみも増してきました。
道端の野アザミの花は今が盛りです。
もう暫くすれば、綿毛に変ってしまいます。
 
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                                         (里山に咲いた野薊の花)
 
 
烏瓜もオレンジ色が鮮やかになってきました。
つい、先日までは青かったのに。
山葡萄も濃い紫色に、ガマズミは深紅に、マユミの実は朱色に、臭木は奇妙な実をつけています。
 
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                                  (臭木の実は吊るし雛の飛び子のようです)
 
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                            (マユミの実は少女の桃割れ飾りのようです)
 
 
そして、一番魅力的な実は野葡萄です。
翡翠色です。
所々に浅黄色も混じっています。
そう、勾玉のような印象です。
初秋までは葉っぱも、実も目立たない、地味な植物でしたが、秋が深まると突然出現します。
「私は此処にいるのよ!、見てね!・・・・・食べてね!」
言っているようです。
 
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                                     (山葡萄の実、舞岡里山公園で)
 
 
山葡萄は葡萄の仲間、昔は歯を真っ黒にして食べたものでした。
強い酸味がありました。
野葡萄の方が遥かに美しいのですが、ゴツゴツしていて食べる気にはなりません。
今、改めて調べてみると、肝臓病などの漢方薬にはなるものの、そのまま食べてはいけないそうです。
 
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                                  (野葡萄は藪を覆い、樹上から垂れ下がっています。)
 
野葡萄は古代の色です。
屹度万葉人も愛しただろう・・・・・、思って調べると、
万葉集には一首も詠われていないそうです。
有毒と言うので嫌われていたのかもしれません。
また、野葡萄が家を覆うと貧乏になる、貧乏蔓なので敬遠されていたのかもしれません。
野葡萄は藪枯らし(やぶからし)の仲間なのです。
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               (野葡萄の実が傷んだり凸凹しているのは蜂やアブが寄生したから)
 
三浦半島荒磯海岸に苫屋があります。
漁師が暖を取ったり、用具を収納しておいた小屋です。
でも、誰も使わないので廃屋になっているものが数多く見られます。
藪枯らしや野葡萄が覆い隠してしまっています。
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                  (漁師小屋を覆い隠し、廃屋にしてしまった野葡萄。荒磯海岸で)
 
駆け込み寺の垣根にも野葡萄が絡んでいます。
参拝客は足を止めて、野葡萄に賞賛の言葉を投げかけます。
同じ野葡萄でも、廃屋を覆い隠す野葡萄もあれば、庭園を飾る野葡萄もあります。
でも、どちらも美しいのには変わりありません。
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                 (駆け込み寺の野葡萄。)
 
 
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箱根早雲寺の真樹

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湯本温泉の高台に早雲寺があります。
寺名は名立ての戦国武将「北条早雲」に由来します。
 
渓谷の東側を登ってゆき、ホテルの角を何度か曲がってゆくと、大きな森が見えてきます。
常緑の森は何と「真樹」の森であります。
黒々とした樹林の奥に銀杏の大木が見えます。
どちらも裸子植物、雌雄異株といった珍しい森です。
其処が私達が目指す早雲寺であります。
 
 
伽藍を見渡して解りました。
早雲寺は箱根旧街道に面していたのでしょう。
東向きに、石垣山に向って建っています。
背中側が湯本温泉の温泉街ですから、その喧騒に背を向けた格好になっています。
でも、扁額は「金湯山」となっています。
屹度、早雲が愛した温泉なのでしょう。
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                                       (早雲寺中門から本堂を望む)
 
相模の国の戦国武将といえば「北条早雲」です。
山梨県民が武田信玄を、新潟県民が上杉謙信を愛するように、神奈川県民は北条早雲を誇りに思っています。
一般には早雲は合戦に際し奇策を弄し、奇襲作戦が卑怯者呼ばわりされる事が多いようです。
守護大名今川氏の一食客であった身から、一代で伊豆相模の戦国大名にのし上がります。
斎藤道三・松永久秀とともに「戦国の三梟雄(きょうゆう)」などといわれ、国盗り武将として扱われています。
でも、名が体を表すというように、”早雲”は禅僧であります。
「人生は光陰のように去ってしまう、早雲のように・・・」
そんな人生観がベースにあって、成果を実現する為には手段を選ばない生き様になったのでしょう。
でも領国経営においてはは「減税政策」(五公五民を四公六民に改める)を実施、
福祉政策も好評でありました。(北条五代記)中々の名君でありました。
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                        北条早雲像(重文)
 
早雲は軍略上の要衝、箱根湯本に寺を建てるように遺言します。
早雲寺は後北条氏一族の墓所になります。
関東で最大、建長寺も凌ぐ大寺になります。(大永元年・1521)
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                                               (早雲寺本堂) 
 
天正18(1590)4月、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り、本陣とします。
早雲寺の後背地、1キロほどの高台(石垣山)に一夜城が完成、小田原城を攻めます。
小田原戦争で早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰してしまいます。
北条氏政・氏照は切腹してしまいます。
しかし、北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規が、河内狭山に約1万石を許されます。
また、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられます。(玉縄北條氏)
北条両家は早雲寺の再建に尽力します。
徳川家光から朱印を許され。寛永4(1627)年に再建します。
現在の早雲寺の伽藍が出来上がります。
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          (観音堂?/庭園を見下ろす位置にあります。銀杏の根元です)
 
 
後北条5代の墓が整備されます。
江戸時代には文人墨客が湯本温泉に遊び、早雲寺に参詣したのでしょう。
伊豆の修善寺温泉には古刹修禅寺があるように。
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   (後北条5代の墓)
 
真樹の森は屹度この頃からあったものでしょうか。
真樹とは「真実の樹」と書きます。
実に素晴らしい樹、木の中の樹といった意味でしょう。
檜に較べれば、更に木目が細やかで香もします。
難があるとすれば大樹になるまでに長い歳月を要する事、
木目が多い事、そして真っ直ぐに伸び難い事でしょう。
「檜風呂」は最高のように言われますが、その上を行くのが「真樹の風呂」です。
水を弾く所からして違います。
滅多に入れません。
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                    (早雲寺の真樹、其処此処に大木が茂っています)
 
臨西禅のお寺には何故か真樹の木が多く植えられています。
建長寺の本堂前の真樹は蘭渓道隆のお手植えと伝えられ、祖師を拝むように崇められています。
禅に修行する雲水が「あの真樹のようになりたい」、思ったのでしょう。
その思いは雲水の師匠、更にその前の師匠、更にその前の・・・・、脈々と繫がってゆきます。
「今の修行が間違いない、師匠も仰ぎ見た真樹が見ている・・・・」思ったのかもしれません。
 
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                           (真樹/槙の実、赤い部分は花托、青い部分が実)
 
早雲寺の境内には真樹の実が脚の踏む場も無いほど落ちています。
森に雌雄の木があるからでしょう。
真っ赤な実と深緑の実と繫がっています。
赤い部分は水っぽく甘い(樹の香もする)、食べられます。
実は「花托」と呼ばれ、イチゴの実と同じ部分です。
緑の部分は実そのものですから食べられません。
真樹にすれば、赤くて美味しい所を食べてください。
その代わり、種は遠くに運んでくださいね・・・・、そんな思いなのでしょう。
 
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                       (踏み場も無く落果した真樹の実)
 
後北条5代の墓、宗祇の墓を巡ると、もう踏み潰して行く外ありません。
勿体無い、気の毒だ、思うのですが致し方ありません。
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   (真樹の下に佇むお地蔵さん)
 
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「臭い木」では余りにお気の毒で・・・・(里山の臭木)

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草木の和名は日本人の思いを託しているのでしょう。
名前を知るとその草木にかけた先人の思いを知って、急に親しみが増します。
「なるほど!」と思う事が多いのですが、「気の毒に」思う事も多々あります。
「屁糞かずら」もその一つです。
 
初夏に、真っ白な花弁、その真ん中が深紅な花が咲く蔓があります。
大変可愛らしく、蔓を採って少女を飾ってあげたい、思います。
でも名前は屁糞蔓です。
 
花には屁糞の匂いもありませんが、蔓を切ると多少香ります。
そして、晩秋に黄土色の実を潰すと、大変な悪臭です。
いかなる屁糞でも、これほど嫌な臭いはありません。
 
我が家の垣根にも実ります。
実を潰さないように伐採します。
屹度先人も同じ思いで「屁糞蔓」、ネーミングしたものと思います。
 
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                            (屁糞かずらの花、晩秋に黄土色の実をつけます)
 
木で気の毒なのは「臭木/くさぎ」です。
盛夏に花が咲きます。
花びらは萼(がく)から長く突き出してその先で開きます。
雄しべ、雌しべは花弁の中から細く長く突き出ています。
白色とピンク色の綺麗なグラデーションです。
花陰に入ると素晴らしい芳香が漂います。
揚羽蝶が集まってきます。
 
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        (盛夏に咲く臭木の花、花も可愛いがジャスミンのような芳香が素晴らしい。)
 
晩秋になると、実がなります。
丁度今が見頃です。
萼(がく)が赤く開きます。
その芯に丸く濃い群青色の実がつきます。
ビロウドのような光沢があります。
萼と実で秋にも花が咲いたように見えます。
 
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                                   (臭木の実、濃い紫が実で赤いのは愕)
 
勿論里山に行けば数多く自生しています。
我が家にも、野鳥が運んできたのでしょう、数本自生しています。
樹が2メートル程に伸びると、花が咲き出すようです。
でも、花が咲くまでは全くの駄目な木なので、伐採します。
そのとき、葉っぱに傷がつき、枝・茎か切られると、大変な悪臭が立ち込めます。
花の香はウッスラ漂うから芳香なのでしょう。
でも、樹液は濃い匂いなので、悪臭になるのでしょう。
 
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                  (もう、ハゼの紅葉が始まった鎌倉中央公園、棚田が残された里山公園です)
 
臭木のネーミングは伐採した時の悪臭が原因でしょう。
 
眺めているだけならば、屁糞蔓も、臭木も素敵な可愛い名前をプレゼントされたでしょう。
でも、雑木、雑草として伐採した時の強烈な印象が、気の毒な名前を付けられた事情でありましょう。
 
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                               (縄張りを気にする?カワセミ。鎌倉中央公園で)
 
 
カメムシは危険を感じると悪臭を放って、自己防衛します。
屁糞蔓も臭木も悪臭を発する事情は理に適っています。
それに、中には「あの悪臭が好きなの!」
そう言う昆虫が居るかもしれません。
 
ヤッパリ屁糞蔓や臭木は気の毒だな・・・・、
誰か喜んでくれるような名前を思いつかないかな!
思ったりします。
もしも、別の名前があるのなら、教えてください。
 
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       (目立ち始めた四十雀)
 
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                 (草木染では臭木の赤い愕から茶を、群青の実からは空色を採取するそうです)
 
 
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戦没者慰霊祭で話した事(尖閣ビデオ流出問題のきな臭さ)

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今年も横浜市では111日、戦没者慰霊祭を三ツ沢の慰霊塔前で挙行しました。
戸塚区の慰霊祭は1126日の予定、
そして豊田・倉田の合同慰霊祭は昨日(1114)豊田小学校横の忠魂碑前で行われました。
私は、地域を代表して式典の閉会と続く直会(なおらい)で開会の挨拶をさせて頂きました。
戦後生まれの私が挨拶すると言うのですから、戦没者慰霊祭の世代交代も急ピッチです。
 
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                     (戦没者慰霊祭は地域の三ヶ寺の読経で・・・)
 
「久々に冷え込む中、長時間にわたり慰霊祭に参列戴き有難うございました。
直会ではささやかですがお食事を用意しました。戦争のおろかさを語り、英霊に報恩の思いを語り継ぐのも私達の役割、天上の魂も望んでいる事でしょう・・・・・・・・」
私が挨拶して、会食が始まりました。
 
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                                        (直会の様子)
 
「豊田」とは「豊田村」のこと、戦前の「旧鎌倉群豊田村」に依っています。
今では豊田を使っているのは農協組織と、この遺族会だけでしょう。
忠魂碑に刻まれた英霊は167柱に及ぶそうです。
遺族の方も随分少なくなってしまいました。
お稲荷さんと精進揚げに箸を伸ばしながら、しばし戦争時下の話の聞き役に回ります。
 
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 (これ以下、写真と文章は無関係です。季節の昆虫を紹介します。
                               蟷螂、卵を産み落とす場所を探しています。)
 
 
遺族会の方に伺います。
「戦時下でも、流石に農家の方は食料には困らなかったでしょう?」
と訊ねると、
「とんでもない、お米は幾ら作っても供出させられる、芋ばかり食っていましたよ」
隣の芋畑を指差されます。
お婆さんは言います。
「防空壕からグラマン(爆撃機)を見上げたものの、敗戦するとは思わなかった。何も聞かされていなかったし・・・・」
「学徒出陣から神風特攻隊、何ら不思議に思わなかった。思い返せば異常でしたが。
でも戦争は人の理性を壊してしまいます。
今では“イスラム過激派、アルカイダは判らない”と批難するが、日本も戦時下は同じ状況下にありました」・・・・と。
 
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             (アスファルトの路上で轢死してしまった可愛そうな蟷螂。お腹も膨れていたのに) 
 
話題は「尖閣ビデオを流出した海上保安庁職員」問題に移りました。
「国家機密を流出させたのですから、犯罪行為でありましょう。
しかし、国民の知る権利を守っています。職業倫理観に基づいた行為であります」
 
昨今多発している公僕の機密漏えい事件とは問題のレベルが違います。
海上保安庁職員の行為には大義があります。
 
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(晩秋、女郎花の花蜜を吸う浅黄マダラ。体力を蓄えて季節風に乗って台湾まで渡ります。尖閣列島で休憩している事でしょう)
 
外交官、杉浦千畝(すぎはらちうね)の話に転じました。
リトアニアでは亡命してきたユダヤ人が溢れていました。。
戦時下の日本政府は同盟国ナチスドイツに利する為、ビザ発行を禁止していました。
杉浦千畝は政府の指示に反して6000名のビザを発行しました。
「東洋のシンドラー」と呼ばれる立派な行為のお蔭で、命が救われました。
誰も責める事はありません。
時に政府は過ち、正すのは公務員の倫理観です。
 
海上保安庁職員を起訴、有罪にすれば問題はより本質を糾す事になるでしょう。
外交官も海上保安庁職員も国家公務員です。
公務員が「職業倫理観に基づいて、国民の知る権利を守るために」した行為を犯罪にしたら・・・・、法律やその運用の欺瞞が糾されます。
屹度、世論は海上保安庁職員を英雄視するでしょう。
悪役は菅さんか仙石さんになるでしょう。
 
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(此方は産卵直前の女郎蜘蛛、膨らんだお腹の中には万を超える卵が、模様が不気味です)
 
改めて、YOU-TUBEでビデオを見れば、何故この程度が国家機密になるのか解ら無くなってきます。
事実を隠し、機密扱いするから事態はより難しくなりました。
日本国民も中国国民も反発が強くなります。
ビデオを見れば、日本国民は「海上保安庁職員の正義」を確信し、安堵しますし、
中国国民は領土問題は別としても、ぶつかって行ったのは中国漁船だった、事実を知ります。
反日デモも起こらなかったかもしれません。
 
事実を隠して、都合の良い情報だけを流すから・・・・、
日本は太平洋戦争でアルカイダ状態に陥り、神風特攻隊になり横浜大空襲を被りました。
正しく国を導くには、キーワードは二つ「情報公開」と「個人の尊厳を守る」でありましょう。
個人の尊厳には職業倫理観も重要な要素でしょう。
 
日本が未だ自信喪失に陥る前、自民党の幹事長は野中広務(のなかひろむ)氏でした。
戦争経験が活きた政治家が沢山居ました。
まだまだ戦後は60年余り過ぎただけ、戦争体験を忘れ去ったような、きな臭い行為には警鐘を鳴らさなければならないでしょう。
 
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          (秋も深まるとシジミ蝶も色を濃くしているように感じられます)
 
 
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棚田のある小学校の収穫祭(倉田小学校)

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私の住む町は横浜・戸塚の倉田町です。
倉田の名前を冠にした「倉田小学校」があります。
創立は平成1年、昨年20周年を祝ったばかりの若い学校です。
何処にでもある郊外住宅地の小学校ですが、特徴の一つに「棚田」を耕作している事です。
 
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               (倉田のマップ、中央下に倉田小学校、その上(北)に棚田があります)
 
 
都市計画道路の工事の遅れから、偶々谷戸の奥に6枚ほどの棚田が残されています。
これを、小学生が地域の篤農家の指導を得て稲を耕作、10月に刈入れして、天日干し、11月にお餅にするなどして食べている訳です。
そこで、収穫祭を催し、私達地域はお呼ばれします。
子供達の成長の成果を見せて戴きます。
 
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                        (棚田のシロカキ作業/田植え準備をする生徒達)
 
 
体育館の舞台では、生徒が劇の形で稲作を発表しています。
様々な作業があって、手順がある事、説明してくれます。
 
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                      (刈取った稲を天日干しする”はさがけ”作業を実演する生徒さん)
 
田圃には様々な生物が生きていることを観察、説明してくれます。
イナゴは稲を食べるので害虫ですが、そう決め付けるわけにも行かないし、可愛い所もある・・・・・。
蟷螂は、イナゴも食べるし・・・・・・、生物が命をつなぐ為に連鎖している事を説明してくれます。
そして、水が一番大事、命の根源にある事を教えてくれます。
 
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                            (棚田での稲作は田圃に沢山の命を見つけます)
 
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                                            (観察します)
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生徒の関心は「カンボジア」に移ります。
「カボチャのルーツになった国だ・・・・」教えられます。
メコン川の下流域、国土の大半が稲作の国です。
班に分かれて調べました。
カンボジアのお料理、国土利用、そしてクメール民族、王国である事・・・・などなど。
でも、最大の関心は「カンボジア内戦」でありました。
 
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  (カンボジア内戦を調べました)
 
ベトナム戦争からカンボジア内戦と続きました。
ポルポトに拠る大量虐殺、続く難民問題・・・・・、難しく悲惨な状態が続きました。
国連(代表明石康)による暫定統治をへて、民主選挙が実施、日本国憲法を参考に憲法も制定されました。
平和になって、私達はアンコールワットにも行けるようになりました。
でも、地雷が未だ埋れているそうです。
生徒は、赤い布に髑髏のマーク(地雷危険)を描いて、教えてくれます。
 
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生徒の関心は「何故戦争が起こるのか!」「戦争を終わらせる事はできないのか?)、とひろがります。
戦争の原因は・・・・・宗教の違いに、最大の原因は「差別」ではないか?
差別の起こる原因は何かしら?
貧困ではないかしら・・・・、移ってゆきます。
 
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   (戦争の起こる原因を考える)
 
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 (差別の循環増幅を指摘する)
 
棚田の耕作に始まって経験が、生物多様性に、
そして食料が潤沢で、飢餓や貧困が無くなれば戦争は起こらない・・・・・・、
と感心は次々に展開しているようです。
 
私達が小学校高学年の頃、何を学んでいたか、何に関心があったか・・・・、思い起こします。
昭和30年代前半、日本は豊かさを求めて必死に働いていました。
小学校では、このまま経済成長が続けば、イギリスもドイツも追い越せるぞ・・・・、学んでいました。
そして、大学生になった頃、ベトナム戦争に70年安保、さらにカンボジア内戦・・・・・と。
小学生の発表を聞きながら、思います。
 
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  (生徒の関心は多岐に渡ります。人形劇で、日頃の当り前が実は稀で、幸福である、と指摘してくれます。)
 
 
今の小学生の視線はトンボの目のように広角なのだな!
それにしても、大変だな・・・・・。
 
「私達の発表を聞いてくださって有難うございました!」
ピョコンとお辞儀をしてくれます。
「此方こそ、教えてくれて有難う!叔父さんも考えますよ・・・・」
挨拶をお返しして帰りました。
 
校長室に寄りました。
「カンボジアの報告には感心しました?」
校長先生は、
「明治学院大学の生徒さんと交流しているのですよ・・・・・」
私は答えます。
「それは良い事ですね、大学では来春から東南アジアの生徒さんを大量に受け入れるようですよ。そうしたら直接に話も聞けるし、カンボジア料理も味わえるかもしれませんね!」
 
”棚田作り”は生徒にとっても大収穫をもたらしています。
 
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   (倉田のお囃子を聴いていただきました)
 
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紅葉の中の羅漢像(仙石原長安寺)

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インターネットで調べると、箱根も仙石原や芦ノ湖は紅葉の盛りという。
天気を見計らって、仙石原の長安寺に出かけました。
目的は勿論紅葉、そして紅葉の中の五百羅漢像を拝観しに・・・・。
 
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                                                    (長安寺参道)
 
強羅から来て、仙石原交差点を右折すれば、道の突き当りが長安寺です。
参道の両脇の紅葉は今が盛りで、相当のカメラマンが集まっています。
みんな思いは同じ、紅葉の中の羅漢像を撮影しようと・・・意気込んでいます。
 
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                     (羅漢像は主として本堂裏山の杉こだちの中に祀られています)
 
多分、我国で羅漢像が信仰されるようになったのは、鎌倉時代から。
禅宗が日本に伝来すると、お釈迦様と同じ修行をして、同じ悟りを開きたい、考えます。
羅漢とはお釈迦様に従い、死後仏典を編纂したお弟子さんたちです。
そのトップが摩訶迦葉(まかかしょう)尊者、禅宗の宗祖と崇められます。
 
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                                             (鯉ならず、鯰にに乗って)
 
しかし、盛んに信仰され、刻まれたのは江戸時代であります。
羅漢像で有名な目黒羅漢寺、川越喜多院、耶馬溪の羅漢寺も何れも江戸時代です。
北条の羅漢は「親に会いたければ北条の羅漢寺にござれ」、と俗謡で詠われるほど、人間味を帯びた石仏です。
私は江戸時代初期に盛んに造仏された羅漢像の蓄積があって、
円空や木喰の仏像が出来上がったと考えています。
 
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                                    (座禅瞑想しる羅漢さん)
 
人間でありながらお釈迦様と同じ悟りを開いた人が羅漢ですから、
本来の羅漢像は尊い、賢いお顔をしていたと思われます。
ところが、江戸時代盛んに造仏される羅漢像は喜怒哀楽を表に出した、人間味溢れる表情になります。
お釈迦様は瞑想して喜怒哀楽、老病苦死に煩わせられない、悟りの境地に到ったのでしょう。
でも、同じように修行を積んで到るのはお釈迦様だからできた事、
いっそ我々凡人は、喜怒哀楽を表に出してしまうのも、悟りに着くのも「道」かもしれない、・・・・・。
思ったのでしょう。
 
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                (人相の極端に悪い羅漢さん)
 
悲しい時は涙を出し切れば、悲しさを脱却できるように、
喜怒哀楽を突き抜ければ、別の境地がある、ことは誰しも経験があるでしょう。
そんな経験がお寺の境内に羅漢像を祀らせたと思います。
 
長安寺が五百羅漢に着手したのは昭和60年と記されています。
今も造仏進行中だそうです。
羅漢に寄せる思いは昔も今も変わらないのでしょう。
 
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                                         (まなじりをあげた、羅漢さん)
 
柿の実を戴いたら、とっても嬉しい。
お豆腐を掌に載せて、満面の笑み。
大きなお魚を抱えて、今晩は戴こうか?
どれもこれも人間味が前面に出でています。
「嬉しい時には笑え!」
「悲しい時は思い切って泣け」
その先に、心は平安になる。
羅漢さんの表情が劇画に似ているのは、平成の表現だからでしょう。
それも”あり”です。
 
紅葉が美しい!
感じ入った時には、自然に笑みが溢れます。
平成の羅漢像は「それでいいじゃないか!」
呟いていそうです。
 
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                 (柿の実を掌に乗せてご満悦な羅漢さん)
 
 
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三猿・股間に見つけた”性器”の意義

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今春、岡崎の六所神社に初孫の初宮参りに行った時のことです。
本殿の左右に見慣れない古木が立っていました。
神主に尋ねると、榊とのこと。
榊は常緑広葉樹で雌雄異株なので、本殿を飾っているのでしょう。
 
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                                  (家康の産生神六所神社、本殿前に雌雄の榊がある)
 
神棚の左右に榊の木をお供えします。
榊を差し替えるのは男性でなければならないと聞きます。
女性は生理があるので、穢れていると思ったのでしょう。
女性が土俵に上がれない・・・・・、同じ考えです。
でも、神様には女性も男性も居て、活躍しています。
平等な世界です。
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                                           (雌雄異株、雌木に実った榊の実)
 
神社の狛犬も良く見れば、稀に性器を刻んでいる事があります。
鶴岡八幡宮の狛犬(神主さんは略室町時代作だろうと言われました)、
右のは股間がモッコリしていました。
嬉しくなって左を観察すると、何もありませんでした。(残念)
藤沢・皇大神宮の狛犬は雌雄セットなのですが。
 
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                                 (鶴岡八幡宮の狛犬には股間にモッコリ・・・・・)
 
神社を参詣すると良く陰陽石が祀られています。
自然が男性器のような尖った石と、女性器を思わせる凹んだ石を用意してくれます。
豊作や子孫繁栄を願った人達が、神社に運んで祀ったのでしょう。
 
古代日本は通い婚であり、男女の交際は現代より遥かに自由でした。
これを厳しくしたのが儒教でありましょう。
儒教が身分社会を固定化し、男女交際を制限すると、突然に心中が発生しました。
近松門左衛門は曽根崎心中(浄瑠璃)を始め、多くの心中ものを得意としました。
 
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           (葉山玉蔵院の参道、銀杏の巨木の間に二基の庚申塔が祀られています)
 
かねてから、庚申塔の三猿は男かな、女かな?気になっていました。
このブログの第一回が四猿でしたが、見ざる、言わざる、聞かざるの三匹は何れも男性器がついていました。
4匹目は股間を両手で隠していますので、男女判断できませんが、多分男でしょう。
でも、これは昭和の民芸品です。
江戸時代は如何だったのか?
気になります。
 
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ようやく、発見しました。
葉山の御用邸に近い玉蔵院の境内です。
本堂前、大きな銀杏の根元に六地蔵が祀られ、その横に3基の庚申塔がたっています。
その中で最大の1基、舟形の石塔に名号(多分青面金剛)が刻まれ、その下部に三猿が刻まれています。
正面を向いたお猿さんですから、自然にお股を開いて、自然に股間に目が行きます。
見ざる(猿)には男性器が、言わ猿、聞か猿には女性器が刻まれています。
 
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                         (玉蔵院の庚申塔、三猿ははっきり男女の区別がなされています)
 
この庚申塔は寛文5年(1665)と記されていますので、庚申塔としては初期の作という事になります。
三猿は庚申塔のシンボル、沢山の石工が各々得意の姿態の三猿を刻みました。
でも、正面から見て、股間を開いた姿態はこれ一体です。(私の観察した中で)
境内のもう一基は庚申塔も近松浄瑠璃も盛期、元禄年間になります。
こちらは青面金剛像に関心が集中し、三猿は雌雄分別できません。
 
玉蔵院は葉山一色、森戸にかけて庚申塔は沢山見つけることが出来ます。
特に森戸の海岸通りに木造の祠が建てられ、10基余りの庚申塔が集められています。
町内の庚申塔を合祀したのでしょう、集合写真のように背の低い庚申塔を前にしています。(最後の写真)
従って後列の庚申塔を拝観できないのが残念ですが・・・・。
 
でも、前面に秀作があります。
青面金剛の足許に鬼が、仰向けにされて踏みつけられているのです。
 
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通常、青面金剛の足下には天邪鬼が踏みつけられています。
お寺の山門に仁王像が祀られ、聖域を護持しています。
その足許には天邪鬼が踏まれています。
そして、天邪鬼は何処にでも潜んでいます。貴方の心の中にも・・・・・。
天邪鬼は煩悩の象徴、
意地悪な心、邪な心を抑えましょう・・・・・、と説明します。
 
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(庚申塔、青面金剛の足下に踏まれた天邪鬼(顔が二つ)/藤沢山王神社)
 
こうした影響を強く受けて出来た庚申塔です。
天邪鬼から一歩前進(?)して、角が二本生えて、明らかに凄みがある、鬼です。
 
三猿に男女が意識されています。
性意識は自然なものでしょう。
儒教や仏教が伝来してから、押し隠されてしまった。
偶々、戦争が去った江戸時代初め庚申塔の三猿に現れてしまった。
 
元々は天邪鬼だが、赤鬼、青鬼の方が恐ろしいし、迫力もある。
青面金剛には恐い「鬼」を抑えてもらいたい・・・・、思った事でしょう。
 
こうした自由さが、才気は庚申塔を支えた時代、人々の特長なのでしょう。
私達世代も、そうした才気に惹かれるのです。
 
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                                 (葉山森戸の合祀庚申塔)
 
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「葉っぱのフレディー」 命の「輪」とは・・・

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今年も落ち葉の季節になりました。
公園のブランコには子供の姿はありません、淋しそうです。
木枯らしが吹いて、桜の枯葉が舞って、少し揺れたようです。
堤防の桜並木も紅葉して、枯れて、落ち葉になって、踏まれています。
もう、水仙の芽が吹いて、主役を交代しようとしています。
 
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                          (公園のブランコ)
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                             (堤防の桜)
 
車が廻るように、季節は巡ります。
春に葉は芽吹いて、夏に茂って、木が育ち、果実が実って、
秋には色が染まって、落葉して、土に戻ります。
毎年毎年繰り返します。
お寺にマニ車(転経器)があったり、五重塔の天辺に九輪があったり、
不動明王などが宝輪を持っていたり・・・・・仏教には輪が目立ちます。
屹度、葉っぱが繰り返す、季節が巡る、そんな自然の観察に由来しているのでしょう。
 
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                                   (箱根阿弥陀寺のマニ車)
 
人間も、生を受けて、子供の時の喜び、
青春の勢い、社会の役に立った時の充実感、
子供を育てる楽しみ、
精一杯生きて来ました。
 
でも、この先は、不安感に満ちています。
老いの哀しみ、不安、
死の恐怖・・・・・・、拭いきれない怖ろしさが先に現れてきます。
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(倉田小学校1年生の教室では葉っぱが一杯で・・・・・・)
 
落ち葉を踏んでウォーキングしながら、思い起こします。
絵本の「葉っぱのフレディー」を。
 
    はじめフレディは葉っぱはどれも自分と同じ形をしているとおもっていましたが
    やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきました。

    みんな春に生まれていっしょに大きくなりました。
    フレディは「葉っぱに生まれてよかったな」と思うようになりました。
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紅葉して、木枯らしが吹いて、葉っぱの友達は次々に落葉してしまいます。
フレディーは「怖いよー」思います。
でも、ダニエルが話しかけてくれます。
 
     「ねえ ダニエル。ぼくはうまれてきてよかったのだろうか。」
     「僕は死ぬのが怖いよ」 とフレディはたずねました。
     ダニエルは深くうなずきました。
     「ほくらは春から冬までの間ほんとうによく働いたしよく遊んだね。月や太陽や星がいた。
     雨も風もいた。人間に木陰を作ったり秋には鮮やかに紅葉して皆の目を楽しませたりもしたね。
     それはどんなに楽しかっただろう。それはどんなに幸せだったことだろう。」
                                     ※絵本から適宜に抜粋してあります
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落葉したフレディーは初めて木を見ます。
そして、心の底から「良かった、生まれて来て良かった」思います。
 
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私も、そうなりたい、思います。
屹度、執着を離れて、遠くから眺めた時、
命の意味に心底気づいて、「生きてきて良かった」思う事が可能になるのでしょう。
 
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                    (落ち葉は土に戻って安心します。羅漢さんも同じでしょう?/長安寺)
 
 
「葉っぱのフレディー」哲学者 レオ・パスカーリア が書いた、生涯でただ1冊の絵本だそうです。
発表されたのは1988年、子供も大人にも愛され続けてきています。
落ち葉の季節になると、フレディーの心に共感し、震えます。
叡智はアメリカ人も日本人も共通するもの・・・・・、思います。
 
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           (落ち葉の散る音を聞いて・・・・・だから仏は耳が大きい/長安寺にて)
 
 
毎年のように晩秋にはミュージカル「葉っぱのフレディー」が上演されます。
朗読会も催されます。
図書館でも読んでいる大人を良く見かけます。
みな、様々な恐怖から解き放たれているのでしょう。
良い表情をしています。
 
未だ、読んでいない方は、下をクリックしてください。
YOU TUBE、森繁久弥さんが朗読しておいでです。                  
 
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鳳来山で散った石仏

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奈良の都から信濃の善光寺を結ぶ道が屹度あったものと思います。
何故なら、善光寺の阿弥陀三尊も薬師寺や東大寺の諸仏も同いように古いこと、そして、地図上
その予測ルート上に古代まで遡る寺が数多く残されているからです。
 
伊勢から近江の平野を越えて、山深く分け入って、幾つもの山の奥に、一際高い山がありました。 
切り立った岩が屏風のように続いて、その上に一段高い峰が聳えていました。
岩屏風の周囲には常緑樹と紅葉が鮮やかな対比を見せています。
山を見た時、人は伝説(道教)に説く鳳来山を思い出したのでしょう。
憧れのユートピアです。
鳳来寺を建立しました。(702年)
山を鳳来山((794メートル)と呼びました。
 
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   (表参道の道から見上げた鳳来山、この奥に天然記念物”このはずく”を展示する自然博物館がある)
 
霊山・霊地「鳳来山」は沢山の修験者を集めました。
沢山の信者が籠もりました。
数え切れないほどの宿坊が出来ました。
旅館には芭蕉も、牧水も、山頭火も旅の疲れを癒しました。
勿論参道の両側には、門前町が出来、善男善女で賑わいました。
 
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 (鳳来山、表参道に面した旅館は雨戸を閉じたままで・・・・・・。賑わっているのは五平餅の茶店だけ。)
 
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     (岩場が目立つ鳳来山、正面が鏡岩、鐘楼が見えるものと思います)
 
 
時代が変遷し、現代ではユートピア鳳来山は忘れられてしまいました。
お蔭で、宿坊は荒れ果て、門前町にあった分教場も朽ちてしまいました。
牧水が愛したと伝えられる宿屋もなくなってしまいました。
唯、牧水の27文字、芭蕉や山頭火の17文字が残されているだけです。
 
漂泊の詩人達がしたように、
私達は、谷川の淵に立ち、高い峰を見上げます。
峻立した岩に松が生えて、
楓の朱色が鮮やかです。
 
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               (右手のモニュメントは和歌山牧水像、他に芭蕉、山頭火のモニュメントも・・・・)
 
 
明日(11月21日)からは『鳳来山もみじ祭り』です。
今年は天然記念物の”このはずく”も見つかり、全国ニュースも流れました。
この霊山の奥で「仏法僧・仏法僧」と啼く、ありがたい霊鳥です。
今晩は満月、僅かに残された旅館に宿を取り、一度は生声で”ブッポウソウ・ブッポウソウ”
聞いてみたいものです。
家内は明日、浜松で弓道の試合があり、好都合なのですが・・・・、
私の都合がつきません。
 
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鳳来寺にのぼり、紅葉を見て境内を廻りました。
伽藍は大きな岩を背にして、配置されています。
 
本堂前からは、青い山並みが見渡せます。
青い空に、紅葉が黒ずんでさえ見えます。
鳳来寺は天台・真言両宗の密教のお寺であります。
 
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                     (新道の両側には山楓の若木が育っています。紅葉も今が盛りで)
 
 
境内の回遊道には石仏が点在しています。
観音様と弘法大師像、二人がペアで、台座に並んでいます。
台座には霊場の番号が刻まれています。
此処、鳳来寺に参拝すれば、33番観音霊場を巡ったと同じ功徳がありますよ・・・・
そんな石仏たちでしょう。
弘法大師が並んでいるのは、「同行二人」の意味でしょう。
 
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                              (秋の陽だまりで温和な表情の石仏)
 
お気の毒な石仏達がおいでです。
背後の屏風岩が崩壊して、落石、微塵に壊れてしまったようです。
人間風に言えば、
「死者1体、行方不明4体、絶望、何故なら石仏は動けないから・・」
 
”痛ましい”思うのは私が未だ若いから・・・・。
 
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    (左手の谷川の石仏は落石の衝突から免れた、しかし右手岩下の石仏は微塵に壊れてしまいました)
 
お寺では、崩壊したままに放置されておいでです。
この大岩の崩壊を予防する工事も未解決ですから・・・。
 
岩なら風化して、壊れるのも自然なこと、
岩から、石に、石から石仏に・・・
石仏で居たのも一時、
小石に砕け散ったのも、自然の摂理なのかもしれません。
 
紅葉の木漏れ日を浴びて、気持ち良さそうな石仏も居れば、木っ端微塵に散ってしまった石仏もある・・・・。
人間だって、運の良かった人もあれば、悪かった人も居ます。
でも、みんな同じ土に戻ります。
岩だって同じでしょう。
 
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(辛うじて頭部破損で残った弘法大師像)
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(手前は弘法大師像、奥聖観音像)
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             (表参道に見つけた硯の製造会社、奥三河の石工の伝統と素材を活用した事業でしょう。)
 
まだ、人が活動している建物がありました。
見上げると、硯石の工場を運営しています。
 
奥三河は石仏の宝庫です。
沢山の石工が活躍していたのでしょう。
石工たちの末裔は、鑿を持ち替えて、硯石を彫り始めたのでしょう。
あの落石を使って、硯石にするのかもしれません。
 
奈良は墨の産地、ならば、鳳来山は硯石の産地、ごもっともな事でしょう。
 
※鳳来山の門谷は泥岩、砂岩、凝灰質泥岩の互層で、すずり石の産地、鳳来寺硯石となるそうです。
  石仏が散ってしまったのは、その石の性質の為でした。
 
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秋色深い「釣月禅寺」を再訪しました。

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今年の4月11日、私達夫婦は鳳来寺をくだり、四谷千枚田に向っていました。
道は伊那街道、未だ江戸時代の面影の残した田舎道です。
 
突然見つけた「釣月禅寺」の門柱、
私達は名前に惹かれて長い参道を登ってゆきました。
 
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                                           (釣月禅寺の全景、参道右手に石仏が)
 
 
途中ですれ違ったお婆さんが、お寺の大黒さまであったこと、
ご子息が次代の住職である事、後醍醐天皇の縁故のお寺である事、釣月禅寺の謂れ、
そして、先代ご住職が描かれた仏画の素晴らしさ・・・・・などなど感じ入りました。
あの感動を去りがたく、紅葉の季節にまた訪れました。
勿論、心ばかりのお土産(御仏前)を用意して。
その時の紀行文は以下に載せました。
 
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                 (千年亡くなられた先代住職の襖絵/音楽を奏でる菩薩、石仏に表情が似ています)
 
 
長い参道の行きつまりが目指す釣月禅寺です。
坂の中腹で、お寺の大黒さんが立ち止まっておいでです。
「珍しい、お寺にご用があるのかしら?」
 
私達は、止まって挨拶しました。
「それでは、先に登ってお参りしてまいります・・・・・」
 
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                          (禅寺は鳳来山の西麓に位置して、西向きに建っています)
 
今春、満開であった桃は葉っぱも散ってしまっています。
梅林も丸裸です。
でも、梅の木苔やサルオガセがぶる下がっています。
どちらも環境の指標植物、特にサルオガセは空気の綺麗な所にしか生息しない、と聞きます。
キリマンジャロや中国内陸部、桃源郷の写真で良く見かけます。
仙人が、とろろ昆布にして食べてるのかな?
思ったりします。
 
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            (参道の両側は梅林で、サルオガセが付着していました。これも空気が澄んでいるから)
 
参道にも、境内にも沢山の石仏が並んでいます。
種類も数も多いのですが、表情は良く似ています。
お地蔵さんも、観音様も、薬師さんも、弘法大師さんも・・・・・・、
どなたも下膨れ、お多福さんです。
頭が大きく、体は小さく、5頭身程度でしょうか?
親しみやすい表情です。
屹度、同じ人の作でしょうか?
 
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                        (梅の木苔がビッシリ着いて、表情を増した石仏さん)
 
本堂の裏山には紅葉も目立ちます。
石仏で高名な「仏坂峠」はこの裏山の方角に位置している筈です。
どの程度行けば辿り付けるのか私には解りません。
峠を越えて、伊那街道を更に北に向えば、有名な高遠があります。
貞次はじめ近年話題の石工も輩出しました。
此処、奥三河にも高遠に劣らない石工が居たことでしょう。
 
釣月禅寺の石仏はお上品で、雅を感じる表情の石仏です。
また、素材の石も明るい色です。
苔むした表情も詩情があります。
石仏は仏様の表情が大切ですが、自然が加える表情も重要です。
そして、人の係わり、お線香や供花、草刈なども欠かせません。
釣月禅寺は石仏拝観には至福の環境です。
 
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   (蛙股、股の中には可愛い白兎が収まっていました。細工の其処此処にも京の雅を感じます)
 
本堂の大棟には菊花紋が輝いています。
山門も優雅な姿です。
斗栱も簡素で美しく、とりわけ蛙股にはウサギが彫られていて、愛らしいものです。
 
雅を感じるのは、このお寺が後醍醐天皇に縁の深いお寺だからでしょう。
峠を越えて、その先の大鹿村には福徳寺があります。
後醍醐天皇の第8皇子宗良親王が隠れて、北朝の再起に向けて雌伏しました。
釣月禅寺は良く似た雰囲気のお寺です。
福徳寺は無住のお寺(大鹿村管理)ですが、
釣月禅寺にはお婆ちゃんとご子息がお寺を守っておいでです。
 
                        イメージ 7          (屋根は瓦葺ですが、以前は杮葺/こけらぶき、だったそうです。大棟に光っているのは菊花紋)
 
 
お婆さんが用を終えられて戻られるものと思い込み、暫く境内で遊んでいましたが・・・、
中々戻られません。
仕方なくメモをお仏前に添えて、帰る事にしました。
 
自宅への帰路、突然に携帯が鳴りました。
釣月禅寺のご住職からでした。
「私は庫裏に居たので、呼び鈴をしてくれたら良かったのに・・・・・・」残念そうです。
「来春、今度は枝垂れ桜の咲く季節に登りたいと願っています・・・・・」
お返事して、帰路を急ぎました。
 
桃源郷、その名の通りの夢のように美しいお寺です。
 
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             (境内の薬師如来も、ポッチャリ型でおいででした)
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仏の里の馬頭観音

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一昨日、鳳来寺の断崖下の33観音像が落石で微塵に壊れてしまっていた・・・・、そんな場面を報告しました。
この石を鳳来石と呼び、すずり石として活用、今も生産販売に勤しんでいます。
 
明治37年、20日以上も長雨が降り続けました。
鳳来寺の裏(北)側、鞍掛山に山津波が発生、沢に沿って営まれていた棚田に流れ込みました。
細谷の部落には大打撃・・・・・多くの死者と生命線の棚田を失いました。
農民には「離村」「廃村」と言う言葉が脳裏を掠めたかも知れません。
でも、農民は勇気を振り絞り棚田の復活に精を出します。
山津波で運ばれた石を割って、積上げ、棚田を造ります。
 
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   (正面が鞍掛山、右側峠が仏坂ふりくさみち。更に右に鳳来山が続く。この谷間に山津波が襲った。山下に    海老川が流れ、寒狭川に注ぐ。伊那街道)
 
細谷部落の北、峠を越えれば伊那に通じます。
大昔から、部落では馬を養い、旅人の役に立ってきました。
峠道が傷めば、馬に資材を積んで修理に出かけました。
馬は峠道で命を落とす事も多々ありました。
部落の人たちは馬をいとおしみ、伊那道の路肩に埋めました。
馬の墓標に「馬頭観音」を刻みました。
峠道は何時しか沢山の石仏が並びました。
峠道の名は「仏坂振草道」(ほとけさかふりくさみち)
沢山の旅人は峠を越えます。
その後ろ姿を、草薮の陰から沢山の馬達が「良かった、無事に峠越された・・・・」、見送っているのでしょう。
 
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          (現財の棚田、面積0.9R、30坪に満たない。石積み風景が懐かしくも尊い)
 
部落の人も馬も棚田の復活に精根を尽き果たしました。
お蔭で、見事に棚田1300枚が復活しました。
でも、前にも増して落命する馬が増えました。
墓標の馬頭観音はその数を増しました。
 
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                   (左手奥に釣月禅寺/昨日報告がある。田毎の月に思いを馳せる)
 
馬頭観音とは、仏像の儀軌によれば、戦いの観音像です。
ヒンズー教の毘紐拏(びしゅぬ)神が仏法の守り神に転じたもの。
多くが三面六臂、憤怒の表情をしています。
 
その怖い守護神が日本では変って行きます。
次代が近世になって、民間信仰で、
馬の無病息災を守る神様になります。
 
細谷の部落では、馬稼ぎをしていたのですから、
馬の道中の安全を守護してくれるのが馬頭観音でした。
そして、道半ばで命が尽きた馬があれば、峠道に埋めて、
その墓標に馬頭観音を立て、感謝し、冥福を祈りました。
人と馬とが生活も運命もハートも一緒にしていたからでしょう。
 
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                              (本来の三面六ピの馬頭観音像)
 
細谷の馬頭観音を観察して驚く事があります。
昭和33年、造像が意外に新しいのです。
勿論明治時代後半、大正時代も目立ちます。
 
我国の農業の変革は二度在ったといえましょう。
最初は幕末から明治にかけて、
人力による耕作から、家畜の力を使った耕作に転じたとき、
そして、次は昭和30年代、高度成長時期。
耕作の主体が、家畜力から機械に転じた時。
ですから、馬頭観音の造像年代を見れば、耕作の主体が家畜だった時代を推測する事ができます。
 
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(昭和33年馬頭観音、馬が栗毛だった事など刻まれていて、墓標仏であった事が解ります)
 
江戸時代、善光寺参りなどで馬借(ばしゃく)が活躍した時代の馬頭観音像、
近代の耕作等に馬が活躍した時代の馬頭観音像、
何れも人間と馬の関係が姿に現れて、良いものです。
 
馬頭は本来は憤怒の観音像、
それが、愛と感謝の観音像にチェンジしてしまった・・・・・、
日本人の、民間の叡智に思いを馳せます。
 
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       (笑顔が魅力の馬頭観音像、屹度人に懐いていたのでしょう)
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    (主として大正時代の馬頭観音像、石造と苔のバランスが美しさを際立てていると思います。
    ”人為と自然の妙が”石仏の魅力で、庭園に通じる所があります。)
 
 
 
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舞いの里の収穫祭

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11月23日(祝)には、舞岡公園で「収穫祭」が催されました。
主催は「舞いの里管理運営委」です。
私は地域の代表として運営委員の一員に加わっています。
朝から、お茶碗とお箸を持ってお出かけです。
とは言っても何もする事はありません。
顔を出してスタッフにお祝いを申し上げるだけ。
収穫した農作物で作った、お餅や焼き芋、トン汁、古代米お握り、そして甘酒を戴くだけです。
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                   (舞岡公園の棚田風景。一昔前は倉田舞岡はこんなでした)
 
昨夜来の雨も午後になって、青空が出てきました。
どの模擬店も行列です。
里山で無農薬で栽培した農作物です。
焼いても煮ても蒸かしても、美味しいに決まっています。
オゾン一杯の雑木林の中で食べれば尚更です。
加えて、焼き芋も50円、お餅が3個で100円です。
タッパーウェアーを持って来る人も目立ちます。
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  (舞いの里風景、模擬店や竹細工、藁細工が並んで賑わいます)
 
 
ボランティアが120人、スタッフ(年間ボランティア)が30人です。
お客さんは約4千人でしょうか?
小春日和の日差しを浴びながら、爽やかな風に吹かれて・・・・
みんな、行く秋を、舌で、皮膚で、目で、楽しんでいます。
ふと思いました。
50円、100円の売上も、今日の運営費を回収すればトントンでしょう。
だから、此処での活動はGNPには貢献していないな・・・・。
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                    (7基の手つくり焼き芋ドラム缶で焼くものの、長蛇の列が出来る)
 
私達世代は、国はGNP、企業は成長率と市場占有率、誰もが数字に追いかけられてきました。
でも、期待や満足、幸福を満たしては居なかったようです。
此処に来ればとても楽しい、
来た人は解っています。
でも、此処に来る人は健康志向の高い人ばかりで、五体満足な人ばかりです。
家族連れや友達と一緒です。
車椅子の人、孤独なお年寄りの姿は見ません。
そんな、少し不運な人が来られれば楽しいし、ボランティアの人も嬉しさが膨らむでしょうに・・・・・。
駐車場問題などありますが、多くはソフトの問題が邪魔しています。
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        (トン汁)
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                                        (赤米によるお握り)
 
収穫祭もクライマックス、案山子コンクールの発表です。
小林運営委員長がご挨拶します。
『今年は名古屋で行われましたコップ10で、舞岡公園は里山保存・・・で発表しました。生物多様性、舞いの里のテーマです・・・・・。」
拍手が沸きます。
 
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農作業をすれば癒されます。
たとえ狭くても家庭菜園をしている人に、認知症やボケの心配はありません。
子供が言っていました。
「蟻んこを見ていたら、元気になった!」
沢山の生物が共生し、時に時に食ったり食われたり共存しているから、価値があるのでしょう。
 
一寸、気になる事実があります。
舞の里の雑木林の中に、ペットボトルが吊るしてあります。
「横浜市資源循環局(ゴミの回収処分担当)職員が吊るしたものです。昨年スズメバチが大きな巣を作った事から、捕獲用のストラップを用意した・・・・」
見上げれば、透明のペットボトルの底は黒々しています。
スズメバチもオサムシも沢山の昆虫がストラップに落ちて、屍骸が累積しているのでしょう。
 
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  (スズメバチ捕獲用のストラップ)
 
今年は地域と明治学院大学、舞の里運営委員会連名で、「台湾リス、洗いくま、ハクビシン、外来動物の対策」を横浜市に意見しました。
今のところ無反応です。
そろそろ、中区の本庁に出かけて、協議しなくてはならないようです。
 
「スズメバチに市民が刺されたら、責任問題になる・・・・」
「台湾リスの食害が増えても、捕獲して殺処分したら・・・市民から可愛そうだ!非難される・・・・」
そんな返答が想像されます。
 
生物多様性はスズメバチやマムシのような危険生物もあって当然、
一方で、見た目は可愛くても、在来種の存在を否定するようになれば、駆除しなくてはならないでしょう。
コップ10、晴れの舞台に登っても、まだまだ哲学が無いな・・・、思わざるを得ません。
でも、現状の世論を観察すれば、市職員を非難する気にはなりませんが。
 
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鶴岡八幡宮、庭師の展示会

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「今日は秋晴れだ。自然観察日和だ。葛原が岡に行こう!」
御成小学校、石井繁先生の授業でした。
「今日は午後から八幡様で流鏑馬だ、早めに授業を切り上げよう!」
そう言われたか記憶に定かではありませんが、ランドセルを背中にして、
流鏑馬見物に八幡様の馬場で見物した記憶があります。
私の自然好き、歴史好きは小学校の頃に教わったものでしょう。
 
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南に面して本殿がある鶴岡八幡様で、東西に一直線「馬場」があります。
西端から掛け声を発して、人馬はスタートします、
約300m余り、馬上から矢を放ちます。
東端の武道場前まで、一気に駆け抜けます。
「格好いいな!」・・・・・・、観想でした。
 
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                                   (八幡宮の菊花展、酒樽展?)
 
そんな思い出の鶴岡八幡宮の馬場で、11月になると鎌倉造園界が主催する、
「造園展示会」が開かれます。(既に終了)
私がこのブログを開始した4年程前でした。
鎌倉小町通りに面した邸宅にお住まいの「三栄さん/こもれび緑岸」が
屋敷の道路側を商業施設に転用しようと計画されていました。
同氏のブログにこの造園展示会が案内されていました。
 
鎌倉にお庭屋さんが11軒もあったかしら?
そんな展示です。
大きな楠の根元に、馬場に沿って、横一列の展示です。
各人に与えられたスペースは2坪ほど、
狭い空間で競うわけですから、意匠も技量も簡明に表さなければなりません。
東京ビックサイトで展示と同じです。
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                                 (「水鏡」 植正庭苑緑化さんの作品)
 
桃山時代から江戸時代にかけて、京都に町屋文化が発展しました。
鴨川の川原に「川原者」とも呼ばれた人達が集まります。
彼等は町衆と呼ばれ、新時代を築く理性・感性と財力を有していました。
能、茶、枯山水など「町屋文化」が花開きます。
坪庭もこの頃始まったものでしょう。
縦長の町屋の中に必然的に生じた狭い空間、
これを活用して「坪庭」を起こしました。
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                                   (「竹を愛でる」 泉山園さんの作品)
 
狭くても、光と風を巧みに生かして、
大自然を一坪、二坪の空間に切り取ろうとします。
素材は木や砂、芝苔、灯篭等に限られていました。
これを使って自然の点景を描くのですから、
生花のような感性が求められた事でしょう。
一般に「坪庭」と言われますが、正しくは「壷庭」かもしれません。
 
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                      (「六曲一双の屏風の庭」 石井造園さんの作品)
 
現代になると様々な素材が使えるようになりました。
ガーデンライトも、鉢物も、彫刻も、手水鉢も、循環器を使えばボウフラの湧かない池も作れます。
庭師の表現が自由になりました。
ホテルやマンションの一角、料亭の個室の点景・・・・、
坪庭の活躍する場は一気に拡大しました。
 
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                                    (「古き鎌倉の庭」 蔵並正代さんの作品)
 
鎌倉に庭屋が沢山居られるのはお寺やお屋敷が多く、需要があるからでしょう。
しかし、お隣は横浜・東京、其処の業者とも競わなくてはなりません。
京都も鎌倉も大昔からインテリが多く住んで、新し物好きが多い町、
お寺の書院の庭だけ作っている業者は廃れてしまう町なのでしょう。
だから、古い物を好んで、表現は斬新でなければならない・・・・、
温故知新が伝統の町でした。
「坪庭コンテスト」も鎌倉の文化でありましょう。
 
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                          (「涼」  庭匠梅沢さんの作品)
 
一般に坪庭は限られた空間の処理で、家屋やビルには壁があります。
壁を背にして造園されます。
ところが、此処八幡宮の馬場には壁がありません。
壁を造らなければなりません。
そこで、垣が使われます。
垣は竹や柴を編んだり組んだり立て掛けたり・・・・・様々な工夫が見られます。
町屋文化のスターが「本阿弥光悦」
光悦がデザインしたのが「光悦垣」、現代の光悦が鎌倉には居るのでしょう・・・。
 
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                                        (「竹音」 岩崎造園さんの作品)
 
我が家もこのお庭を造形した庭師に頼んだら・・・・・、
溜息をつく、そんな展示会です。
 
出店する庭師さんはお金も時間も消費しますが・・・・是非頑張って継続してもらいたいものです。
 
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                               (鎌倉菊花会の展示も同時に行われていました)
 
 
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浜名湖湖北の秘めた観音像(摩訶耶寺)

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東名高速、浜名湖SAで一服します。
向かいに(東側)舘山寺温泉、背後(西側)にも湖が見渡せます。
表浜名湖に較べれば、此処奥浜名湖は山あり、里ありの懐かしく美しい風景です。
いつかゆっくり廻ってみたい、思っていました。
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                               (湖は奥浜名湖の猪鼻湖、小山の麓に摩訶耶寺があります)
 
今回は鳳来寺山に登るに際し、三ケ日インターから入り、長篠経由で入ろう・・・・、決めました。
そして、地図を見て驚きました。
このあたりを「奥三河」と呼び、湖北五山と呼ぶ古刹があるのです。
私は琵琶湖・湖北を思い出しました。
湖北には竹生島や余呉湖があり、その周囲の山里には小さな寺寺があって、
寺には必ず観音様が祀られています。
 
多くの観音像は藤原時代前期の作で、秘仏でした。
真っ白なお顔に朱色の唇・・・・・・。
 
水上勉は湖北のお堂を巡り、「湖の琴」を綴りました。
若狭の娘と村の青年との秘めた恋の話でした。
井上靖は「星と祭り」、白洲正子は「隠れ里」を書きました。
美しい湖と、簡素で美しい民家、そして信仰(仏)が作家の意欲を掻き立てたのでした。
 
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                           (摩訶耶寺は神明宮の奥にあります。右も左も欅の大樹です)
 
都から見て湖北が霊地「白山」との間にあったから、観音信仰が盛んであった、思います。
ならば、奥浜名湖は霊地「鳳来山」の入り口にあります。
藤原時代前期に起こされた寺寺が並んでいるのも納得です。
でも、この地は三河武士の故郷、徳川家康を育てたところです。
寺の堂宇は湖北に較べれば数倍大きく、拝観するものも藤原時代、鎌倉時代、江戸時代と複層しています。
歴史の表舞台でしたから、栄枯盛衰も激しかったのでしょう。
 
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                                          (摩訶耶寺門前の千手観音像)
 
光る湖から山側に折れて、蜜柑畑の間を抜けてゆくと、目指す摩訶耶寺(まかやじ)がありました。
参道の横に観音像が出迎えてくれます。
微かに摩訶耶寺の名が刻まれています。
昔は33観音揃っていたのかもしれません。
この寺のご本尊は秘仏の厄除け観音なのです。
近在の人たちは聖観音像を拝観し、
門前の観音石仏を巡れば湖北の観音霊場を巡ったと同じご利益を感じたのでしょう。
 
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                                                (摩訶耶寺門前の馬頭観音像)
 
本堂の呼び鈴を押すと、ご住職がお顔を出されました。
重い本堂の戸を開けると光が堂内に差し込みます。
住職はこの柱を見ろ!命じます。
入母屋5間4面の本堂の柱は、どれもこれも、欅の材を使っているとのこと。(寛永9年、1632年築)
言われれば、この里は欅の木が目立ちます。
寺や神社の普請を思って、欅の木を育てているのでしょう。
続いて本堂外陣の格天井を見上げます。
天井の欄間一枚一枚に花鳥画が描かれています。
描いたのは法橋「関中」、
まだまだ色鮮やかです。
 
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本堂から渡り廊下を通って、宝物館に行きました。
三体の仏像(重要文化財)が収まっておいでです。
真ん中の阿弥陀如来は藤原時代末期の作、
左右の不動明王、千手観音像は藤原時代前期の作です。
どちらも檜の一木つくりで、案内ではお顔や着衣の模様のみを彩色、檜の素地を生かしているとのこと・・・・。
木目が丁度良い位置に収まるよう設計されています。
 
とりわけ千手観音は唇に朱を残し、豊満なお顔立ち、お体です。
端正な気品が漂い、国風文化の典雅さが感じられます。
秘仏だったから、檜の木肌もま新しくて、1000年も経ているとは思えません。
私は家内に言います。
「湖北石動寺の十一面観音とそっくりだね!」
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                          (摩訶耶寺千手観音像、同寺HPから)
本堂から少し下った位置に庭園があります。
鎌倉時代の作だそうです。
平安時代主流であった浄土式庭園を鎌倉武士風にアレンジしたものでしょう。
書院から眺めるように設計されています。
池の奥に本堂の入母屋屋根が覗けて、その向こうが裏山で・・・借景になっています。
 
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書院のお隣が観音堂、
書院の棟には青鷺が止まって、銅像のようにピクリとも動きません。
まるで、鷺が「私は鳳凰よ!」
詐欺しているようです。
家内と指差して、笑っても、全く動きません。
もう、浜名湖の魚をたらふく食べて、日向ぼっこをしているのでしょう。
 
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      (青鷺)
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            (早朝の書院、まだ雨戸が閉まっています。奥が観音堂でしょうか?)
 
 
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遊行寺中雀門、愛らしい「雀」

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一遍上人の教え「時宗」で不思議に思っていることがあります。
動物を大変に愛しんでいる事です。
本堂と宗務所との間には大きな放生池がありますし、
立派な中雀門(ちゅうじゃくもん)があります。
中雀門は1859年(安政6)に建立され、菊と葵のご紋が刻まれています。
当時の施策「公武合体」、皇女和宮 を象徴している様な門です。
 
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                                    (湘南第一の大銀杏、背後に見えるのが中雀門)
 
このご門の前面庇には大きな鳳凰が刻まれています。
その後ろ側には、味のある梟があって、孔雀が居て、その隣に雀の群れが刻まれています。
彫刻師は「船橋国造菅原義正」といわれています。
相当の人物だったようで、遊行寺の彫刻は同人の作が殆どのようです。
 
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  (正面唐破風にかざられた鳳凰の彫刻)
 
中雀とは当て字で、正しくは「鍮石」、
扉などに真鍮製の飾り物を打ち付けた門のことだそうです。(広辞苑)
 
でも、私は雀の字に”こだわり”があります。
私は数多くの生物、とりわけ鳥の中でも「雀さんが大事ですよ」、説いているように思えるのです。
数メートル奥の放生池の主役は「藤沢めだか」、
境内の主役は「遊行寺雀」ですよ・・・・・、説いているように思いたいのです。
 
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                     (鳳凰の反対側は竹に雀、そして梟が刻まれています)
 
 
もう、20年以上も前のことでしょう。
中国では「四害追放運動」の反省をしていました。
雀をネズミや蝿、蚊と同じ悪い生物として撲滅しようとしたのです。
結果、害虫が大発生、雀は総じて益鳥である反省しました。
収穫の季節、お米を食べるので害鳥にも見えるが・・・・、実はかけがえの無い野鳥だったのでした。
 
日本人は誰も雀を害鳥だなんて思っていません。
大昔から、雀に親しんできました。
人に益する雀を数多く民話にしてきました。
「舌切り雀」に「腰折れ雀」など、報恩譚は数多くあります。
雀と仲良しすれば、良いことがある・・・・信じて、教えられてきました。
 
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     (中雀門を潜ると右手は放生池があります。池越しに本堂の入母屋が見渡せます)
 
昨今、雀を見かけなくなった・・・・ニュースになっています。
でも、我が家には雀の家族が巣食っています。
毎年、春先に巣作りして、初夏には雀の家族が庭をチョンチョン歩き回り、飛び回ります。
鶉小屋、鳩小屋には雀が入り浸って、食事をしています。
鶉の餌は半分雀にあげているようなものです。
 
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   (竹薮に雀)
 
雀は藪の中や林の木に巣を作るのではありません。
民家の隙間に巣を作ります。
ですから、昔風の瓦屋根であったり、茅葺で軒下の深い家、
隙間が多い家が格好の巣作りのターゲットになる訳です。
我が家では、何処に巣があるのか解りません。
我が家はモルタルスレート葺きですから、雀が巣作りをする隙間が殆ど無いのです。
多分、雨樋の隙間でしょうか・・・・・?
雀が少なくなったとすれば、家に隙間がなくなったからでしょう。
もう一つ、台湾リスが悪さをしている・・・私は睨んでいます。
 
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                              (棚田の落穂を拾って啄ばむ雀は群れています)
 
でも、秋から冬にかけて、何故か雀は群れを作ります。
舞岡公園の棚田には雀が群れを成しています。
そして、棚田に残された落穂を啄ばんでいます。
家々に点在していた雀はこの冬場にかけて、群れを為すのです。
群れるのは、餌が少なくなって、情報を共有するからでしょうか?
それとも、寒い夜に体を寄せ合って暖を取るのでしょうか?
それとも、ユスリや差し歯サシバ(鷹の仲間)など天敵から身を守る為でしょうか?
様々な理由があって、雀も、ムクドリも、ツグミも、季節的に群れを作るのでしょう。
 
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雀が少なくなった・・・・、私には思えませんが・・・・・、
雀が居ない町には住みたくないと思います。
日本人が稲作をして、最初にお付き合いした鳥が雀です。
おまけに、我が家の家紋は竹です。
竹に雀は「吉兆」と聞いています。
雀が寄り付かないような家も町も繁栄しないと思っています。
 
銀行員時代、仲良くしていた事業家が居ました。
当時の居酒屋と言えば「養老の滝」くらいででした。「和民」も目立っていませんでした。
渋谷に居酒屋、「雀のお宿」を経営していました。
私は名前の妙が気に入って親しくさせて頂きました。
「和民」さんは公開して、磐石のようです。
 
スカイラークやマクドナルドが公開して創業家と無縁になったのも考え方です。
雀のお宿は・・・・・、名前のように「大都会の憩いの場」で居続けて欲しい・・・願っています。
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(案山子は一般に「雀脅し、雀除け」と言われていますが、私は「田の神」で豊作を予祝する「おまじない」と思っています。写真はワールドカップの勝利を予告した蛸さん)
 
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