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齢長けて旅行記4(蓬莱橋)

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小夜の中山は旧東海道の掛川宿と金谷宿の中間にある尾根道でした。その尾根から西に下りました。其処は牧が原台地で一面茶畑が広がっています。茶畑の中に静岡空港があります。休憩しようと「お茶の博物館」に寄った処この日(水曜日)は定期休業との事・・・・、菊川町が運営している施設ですから致し方ありません。
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牧が原台地に広がる茶畑、手前の緑のお茶はこれから刈り取って一番茶にします。
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一番茶を刈り込んだ茶畑、真っ青な緑が枯れ枝に変じて痛々しい感じがします、遠くの山脈の遥か高みに富士山が頭を出している筈です。扇風機のような羽は88夜の頃に突然に襲う霜除け対策です。
お茶の博物館が休館でしたので、私達はカーナビに次の目的地蓬莱橋をセットしました。
蓬莱橋はNHKの朝ドラ「トト姉ちゃん」のオープニングバックに映っていますからご存知の方も多く2011年には大雨で被害を受けたので記憶に生々しいモノがあります。
牧が原台地からも観られますが茶屋は北側の島田市に多いので一度橋を渡って。島田市側から橋を渡る事にしました。
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島田市側(大井川の北)に渡る為先ず島田大橋を渡ります。眼と鼻の先に蓬莱橋が見渡せました。南側(菊川町)から見れば蓬莱橋を渡ると島田市でその上に蓬莱山である富士山が遥拝できることになります。
蓬莱橋は大井川にかかる明治時代に懸けられた木造橋で木造では世界最長です。
私達は橋の維持協力費100円を払って橋を渡ってみました。川の中州の上まで行くと、川原に真紅の花が咲いています。まるで紅珊瑚のように鮮やかな色です。
そこで橋の受付に居る島田市職員に花の名を訊いてみました、すると「虫取り撫子」との事です。真紅の小花ですから撫子の名は納得です。でも”虫取り”の名は撫子の優しさとは真逆です、食虫植物かと思って島田市の職員に訊きましたすると職員は口頭で説明した上に川原に下りて一株採取してくれました。お蔭でワイフは二泊三日の旅行中ズット虫取り撫子を管理して、我が家に持ち帰り植木鉢に植える事になりました。
何故”虫取り”なのかと云うと茎の所々にネバネバした粘液が覆っていて、虫が粘液に取られてそれ以上上れないのです。虫とは蟻の事で蟻がアブラムシ(共生関係にある)を運んでこない様に防御するストラップなのです、昔蠅取リボンがありましたが、それを発明した人はこの虫取り撫子を観て思いついたのかもしれません。撫子は綺麗で優しいようで実態は怖ろしい武器を持っているものです何時もおしとやかな女性がイザとなると攻撃的に変身するようなものです。
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これが明治2年(1869年)に作られた蓬莱橋です。全長897mは木造橋では世界一 ギネス海舟認定。向かいの牧ノ原台地に幕臣中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎等茶畑を開墾したのでした。(この件は勝海舟の『海舟座談』に掲載されています)。私達は三々五々橋を渡ってみました。下を見下ろすと中州に紅珊瑚のような花が咲いていました。「訊けば「虫取り撫子」だそうです。
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これが虫取り撫子の群落です。中州の虫取り撫子は細いし絶え絶えでしたが岸辺の撫子は見事でした。職員はこの一本を根こそぎ抜いてワイフにプレゼントしてくれました。幕臣らは牧ノ原台地を開墾し、茶を作って蓬莱橋を渡って島田から東京に出荷したのでしょう。蓬莱橋は江戸の方角であり同時に富士山(蓬莱山)に続く橋だったのです。
島田市職員の話では虫取り撫子の種が散って地中に埋もれているのですが2011年の洪水で種が流されてしまって一時はかっての群落は消えてしまったのだそうです。今年は少し快復したので今朝NHKで放映したそうです。その関係で見物人も多かろうと思って今日は「橋守り」のように袂の小屋に常駐しているのだそうです。私はかねての疑問をぶつけてみました。
1、なぜ島田で島田髷が始まったのか?
2、三島の女郎衆は有名だが島田にも遊里が在ったのか?三島より島田の方が遊里の立地は優れていたと思うが?
3、三島には 農兵節があって全国的に有名だが島田には民謡は無いのか?
すると職員さんは立派なパンフレットを取だし島田髷を解説し始めました。島田髷は埴輪にも観られる事島田の遊里で始まった髷で僕らの知っているのは文金高島田(お嫁さんの髷)娘島田(桃割れ)勝山島田は吉原の花魁勝山が結って大流行した遊女の髷であること……。等等、出発時刻に遅れないように失礼しました。


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島田髷祭りのパンフレットの表紙。祭りは毎年9月の第3日曜日に実施される島田髷祭りの写真お姐さんの浴衣姿も項もアダなのは島田髷の効果でしょう。

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上記パンフレットの祭りの様子。桃割れ島田の娘さんも可愛いです。写真を観るとお姐さんの帯に団扇が挟まっていて島田髷のファッションショーのようです、叔父さんは思わずユダレを垂らしてしまいそうな色気です。下駄に素足も良いもんですね…。そう言えば、鞠子の匠宿でも下駄作りが紹介されていました。
幸いな事に島田には遊里が残っているとのこと、何れかの機会に観に行きたいと思います。
流石に蓬莱山の麓にある街が島田です。自宅に戻って島田の民謡を調べてみるとありましたお座敷にピッタリの文句です。お座敷芸を鑑賞できるサービスが在ると良いのですが・・・・。
『夢に見る・下へ下へと 枯れ木を流す 流す枯れ木に 花が咲く・島田によ 今朝結うた髪は 主とほたえて(京言葉で戯れるの意味)乱れ髪・信州信濃のよ 新蕎麦よりも 私しゃ貴方の 側が良い』
一寸古希の爺さんには刺激が強すぎるようです・・・・が・・・。
次の目的地は塩瀬の吊り橋(日本一の吊り橋)ですが、高所恐怖症の方が居るのでいよいよ今夜の宿川根温泉をカーナビにセットして出発です。今朝京都を発った大先輩から「着いた」携帯電話も鳴りました。途中今夜のコンパのおツマミを探し探し、大井川を遡りました。明日は川根温泉を書きます。

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齢長けて旅行記5(八橋の精華)

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蓬莱橋を出て小一時間で川根温泉に着いたのは午後5時過ぎでした。
実は当初川根温泉ホテルに予約を入れておいたのでしたが。川根温泉ホテルでは講義を開く大広間が無い(使用料金が高い)ので使い難く、「川根温泉コテージ」に変更したのでした。
でも、川根温泉ホテルは「時之栖」と云う民間企業への運営委託で川根温泉コテージは川根町の直営ですから夕方5時には売店も含めて閉店で朝食も朝7時半から、町営は利用者には不便が多かったのでした。。旅行に出発直前に娘から”アソコは学校給食みたいでお父さんには不向きだと思いますよ”忠告を受けていました。
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私達の泊まったのは川根温泉の町営のコテージでした。敷地内に日帰り温泉や道の駅、大井川鉄道の「川根温泉笹間渡/ささまど駅」やゲートゴルフ場が在る、夏休み親子連れをターゲットにした施設でした。
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施設の売りは露天風呂から観られる景色ですが、実際に蒸気機関車が観られるのは昼過ぎと夕方ですから、パンフレットのような状況は滅多に会えないのです。(写真はふれあいコテージのパンフレットをスキャン)
川根温泉コテージは家族連れをターゲットにした自炊・長期滞在型のコテージで施設内に大井川鉄道が縦断し。『露天風呂の目の前を蒸気機関車が走る』のが”売り”のようです。でも川根温泉駅を通るのは昼と夕方だけで、蒸気機関車の勇姿はポスターでしか見れませんでした。
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7時から夕食冷えた白ワインで乾杯先輩何時も何時も差し入れして下さり感謝申し上げます。ところが町営施設は持ち込み料金として千円/一人を要求されたものですから(私達は20人)一悶着起って結果としては良い思い出話が出来ました。川根町も良いクレームとして、サービス水準をアップさせて欲しいモノです。
私達の仲間には慶応大学のT名誉教授も居られます。昨年は吉野山で西行法師の講義をお願いしました。今回もテーマも含めて1時間の講義をお願いしていました。
大広間で夕食を終えたのが午後8時、片付ける間も無く講義が始まりました。
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夜8時T名誉教授による講義「伊勢物語/東くだり」が始まりました。一日の疲れと温泉に浸かってワインも廻ってコックリコックリする人も出ました。
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T名誉教授は居眠りが出る事を予測してか?帰ってからも自習できるように口語訳を交えてレジュメを作成して戴いていました。

先ずは『伊勢物語東下り』がテーマでした。Yさんが居られれば録音しておいて下さる名講義で、私の隣席のワイフは今日一日の気疲れが出たのかコックリコックリし始めました。
講義終了後居眠りを正すと和歌の朗読が耳に心地よくて、それに講義の資料が口語訳も添えられていたので、家に戻ってから読めば解ると思った油断が居眠りの原因だ…と苦しい言い訳をしていました。
以下は受講しながら私が想っていたことを記します。
【業平が東くだりした理由】
講義終了後”業平が都を下った理由は左遷だったのか?”サラリーマンらしい意見が出されていました。講義では”道ならぬ恋に悩んだ挙句に恋心の未練を断つために旅立った”説明されていたのでしたが、定年退職直後の身では左遷を直感したのは致し方ないのでしょう。
教授は基本的には唐木順三の「無用者の系譜」の主張に同意されておいでのようで、”退廃においては美しく、無頼においては倫理的である”伊勢物語には西鶴の好色モノにはない清らかさ、美しさがあって、それが日本文学の骨格になった・・・・主張されました。
業平は二条の后/(藤原高子清和天皇の后)への未練を断つために旅立ちました、西行法師が平泉に旅立ったのも待賢門院璋子への道ならぬ恋心を断ち和歌に埋没する、一種のストイックな退廃美であったのかもしれません。無頼になればストーカーになってしまうだけです。ストーカーの汚名を避けるには己を律する倫理だけが頼りでしょう。
【八つ橋の美しさ】
伊勢物語のハイライトは三河の国の八橋です。蜘蛛の手のように橋が架かった河で乾飯(弁当)を食べていると目の前に杜若が咲いていました「かきつばたの五文字を入れて歌を作れと云われたので・・・。
唐衣着つつなれにし妻(褄)しあれば遥々来ぬる旅をしぞ思う
と歌ったところ衆人が感極まって落涙したので乾飯がふやけてしまった。
この和歌が日本人の心筋に響いたのでした。京都で活躍していた尾形光琳(雁金屋の主人)は再三江戸に下ります。その旅では八つ橋が何時も訪れたでしょう。。杜若を屏風に硯箱にデザインします。団扇にも八橋を描いて見せました。そいれは江戸の御用絵師であった狩野派に対抗する強い意識が在ったのでしょう。それは王朝の美意識で王朝の美とは究極の処業平のように「金は無くても美では一番」の、自覚でしょう。私達は狩野派の唐獅子牡丹図は幕府の権威を感じますが琳派の杜若図には「王朝の美」を痛感します。
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光琳の杜若図(これはМОA美術館蔵)他に八橋も書き加えられた図(ボストン美術館蔵)がある写真出典日本の美術/光琳と宗達平凡社)6面12枚の屏風を配置する事によって杜若の中を進むような感覚に陥りますし。数株の杜若をリズミカルに配置した画面は業平の和歌を詠む時の抑揚を感じさせます。「5・.7・.5.・7・7」31文字の抑揚を視覚に表現するとこんな画面になるのでしょう。
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此方は光琳の八橋の団扇(畠山美術館蔵)です写真は日本の古典伊勢物語の挿絵をスキャン
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これが光琳の杜若硯箱出典Wikipedia2段の硯箱で上段に硯と水差し、下段に和紙を収納します。黒漆に金箔で杜若が銀で八橋(黒ずんで見えます)が描かれています。狩野派の障壁画は将軍の権威をいやが上でも高めるために描かれ光琳のデザインは生活用具に王朝の美意識を表現しています。その姿勢は桂離宮にも観られる価値観で、ルーツを遡れば伊勢物語の東くだりに始まります。
ところでT名誉教授の講義はこの後西行法師の「小夜の中山「宇津谷峠/蔦の細道」に続きましたが。その段は既に書きました。
さらに、翌日は掛川の加茂菖蒲園に行きました。私達は美しく咲きそろった花菖蒲を愛で八橋を渡ってこの講義を想い起しました。明日はその加茂菖蒲園を書きます。
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これは翌日(6月9日)訪れた掛川の加茂菖蒲園八橋をデザインした池に菖蒲が自生していました。前回来た時は菖蒲が見事なだけだったのでしたが、今回来てみると橋の陰や菖蒲の花陰から可愛い水鳥が出てきて”朝ご飯を頂戴”せがんで楽しい演出が加わりました。




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齢長けて旅行記6(加茂菖蒲園)

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川根温泉で露天風呂に浸かって6月9日は朝一番で加茂の菖蒲園に向かいました。本来ならば半田市の八橋に行けば良いのですが、加茂の菖蒲園は新東名が開通したお蔭で足の便が良いのです。
菊川ICから掛川ICで降りれば加茂の菖蒲園は直ぐです。
昨晩受講した伊勢物語東下りの感興も覚めやらぬ中に加茂菖蒲園の入り口に着きました。
入場の際に一悶着ありました。
私は「65歳以上は高齢割引があるので年齢を証明モノを持参してください」依頼しておきました。
ところが団体割引(20名以上)もあるのです。
其処で会計係が躊躇していると係員が全員を一瞥して一人の女性を指さして年齢確認して、全員が高齢者でしかも団体割引の適用をしたのです。(通常1500円高齢者1200円団体高齢者1000円)。今までグループ旅行を経験してきた私達ですが団体と高齢者のダブルの優遇を受けたのは初めての体験でした。
会計係は安く済んだので嬉しそうですが、収まらないのは仲間です。平均年齢70歳の微妙な仲間でその一人を指さして『一番若く見える』指摘したのですから、穏やかではありません。彼女一人が悦んで全員が”ムッ”としたのでした。
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庄屋加茂さんの別荘は菖蒲田に囲まれて半夏生の白化し始め睡蓮や水金バ梅も咲き始めていました。6月9日時点で菖蒲は8分咲きで菖蒲は2度咲きしますからこれから見頃が暫く続く事でしょう。
加茂菖蒲園は私の学生時代から有名でした。東京の菖蒲と云えば堀切菖蒲園や明治神宮が有名でしたが、総じて首都高の橋脚があったりして菖蒲は綺麗でも背景がイマイチでした。
ところが加茂菖蒲園は背景が緑の丘陵であったり白壁・黒塀であり、花の美しさが際立って見えるのです。
女性の美しさを『何れがアヤメかカキツバタ』と云う様にアヤメ属の美しさは粋な浮世絵美女に比喩されます。
浮世絵美女が如何に美しくても着物や髷簪等バックが揃って居なければなりません。
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広重の江戸名所絵図の堀切菖蒲園。水元公園の辺りまで一面の菖蒲田が広がっていますが現代は首都高の端桁が視界を遮っています。同じく歌川豊国は三人の美女を並べて”何れが菖蒲かカキツバタを描いて見せました。観たい方は次のブログを観てください。http://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E4%BD%95%E3%82%8C%E3%81%8C%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1%E3%81%8B%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF&ei=UTF-8&xargs=3&b=141

私が未だ健康だった5年程前にも此処に来ました。その時は花菖蒲の美しさに声を発しましたがズットこの花のテーマパークは盛況で。七の育種開発や園内の整備に投資を惜しんでいないようです。多分足利フラワーパーク(藤)に並ぶ成功した花のテーマパークでしょう。
今回来てまた関心したのは菖蒲田の花陰から鴨の親子が姿を見せて朝の食事をおねだりするのでした。鴨は動作が可愛いのですが姿の美しさはイマイチです。一番に美しい水鳥はオシドリです。この花陰に鴛鴦が姿を見せたら・・いいのにな!思って見ていたら隣のゲージには孔雀や鴛鴦が居ました。何時か菖蒲田の中二雉や山鳥や鴛鴦が放し飼いになるのかもしれません。
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未だ菖蒲は咲き始めです。
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菖蒲田の意匠は伊勢物語の八橋です。向こう岸ではカルガモの親子に食事をねだられて餌播きに興じている私の仲間です。
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菖蒲田に群れるカルガモを観ていたら、”鴛鴦なら如何に美しかろう!”思いつきました。そうしたら、ゲージに鴛鴦やフラミンゴ孔雀を飼育していました。消毒薬を散布しているのかと思ったら、納豆菌を水に溶いて散布しているとの事でした向こうの黒いのはバンで嘴の細いのは鴫です。何時か鴛鴦や雉が菖蒲田に自生するようになるのかもしれない・・・。期待されます。
入場料は高齢者団体割引で大分浮きました。そんなこともあって温室内でお団子にソフトクリームを食べて10時の休憩をしました。加茂の菖蒲園を出るころには雨が降り出しました、雨に濡れれば菖蒲はもっともっと艶やかになった老…後ろ髪を引かれる想いを残しながら次の目的地森町に向かいました。
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孔雀とも梟とも遊べます。孔雀は立派ですがその足元に鶉が戯れているのも楽しいモノでした。2年目に「加茂p菖蒲園」の名を「加茂花鳥園」に改めました。菖蒲は初夏に限られますがベコニアや鳥ならば通年集客できます。アレコレ経営努力が窺がえるプロジェクトです。
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広い菖蒲園を歩き疲れたら温室で一服女性は冷たいモノで男性は冷酒で息を吹き返しました。園内は紫陽花やベゴニアの鉢植えに天井からはサフィニアが吊り下げられて楽しい空間です。

アヤメ三姉妹の見分け方】
カキツバタもアヤメも菖蒲もアヤメ属です、見分けにくいのは仕方ありません大凡次の判別が有効で恥をかかないで済みます。
①背丈が違う/アヤメが一番背が低い(30~60cm)、杜若が中間(50~70cm)、花菖蒲は背が高い(80~100cm)。
②花の大きさが違う/アヤメは小輪、杜若が中輪、花菖蒲が大輪
③細部が違う/アヤメは花の基部に綾模様がある。カキツバタは黄色か紫でその汁で字が書ける(書きつばた)菖蒲(尚武)は葉っぱが刀のように細長い。



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齢長けて旅行記7(駿河の匠の伝統)

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加茂菖蒲園の楽しみは幾つもあります。一つは菖蒲の見事さです、二つ目は鳥を観る楽しみです。三つ目は食べる楽しみです。そして4つ目が伝統工芸の展示です。
菖蒲田を見下ろす位置にお寺があります。これは庄屋の加茂家の持仏堂と思っていたら、加茂庄の一般寺院だったのだそうです。それが証拠にはお堂の裏山に一般人のお墓が並んでいます。しかしお寺の前面は加茂菖蒲園が広がっていますし、誰もお寺の修理費を出してくれる人も居ません。菖蒲園の点景のようにポツンと瓦屋根の本堂が建っています。その本堂の内陣とお庭を使って駿河の匠の展示が為されているのです。私は此処で駿河の匠の技を観るのが楽しみにしてきました。
6月9日は細井陶遊氏の茶器(志土呂焼き)と土屋誠一氏の「石彫り地蔵展」が行われていました。
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細井陶遊氏の茶器(志土呂焼き)と土屋誠一氏の「石彫り地蔵展」のポストカードです。
駿河は小堀遠州が出た国でしたから。室町時代から茶器の伝統も古く幕府も庇護したのでした。陶土は加茂の裏山に続く金谷でとれるそうです。鉄分を多く含む粘土で焼いた上にい釉を懸けて二度焼きするのが特徴で博多の高取焼きに似た雅味が魅力です。私が博多で単身生活していたのは高取窯の傍でしたので、湯呑みや花器を無闇に買い漁りました。細井氏にその時の話をすると高取窯には刺激を受けて来たそうです。
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本堂の濡れ縁に置かれた花瓶、紫陽花も引き立っています。
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「蹲る掛け花入れ」は敷居の上に置かれていました手前の穴は床柱等に掛ける為のモノです。
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本堂の内陣には水差しや茶碗が陳列されていました。もう萱草が咲き出したようです。
ところで、庭には紫陽花や雪の下が花盛りです。その花陰にお地蔵さんが花以上に優しい眼差しを向けていました。考えてみれば天竜川を遡れば江戸時代の名石工を輩出した伊那の高遠ですし東に行けば湯河原です。どちらも石工で有名です。両者の中間点である韮山に反射炉が出来たのも駿河の匠の伝統があったからこそ成功したものでしょう。「石は何処から採ったものですか?」訊けば、大井川の川原にも花崗岩は転がっているし伊豆に行けば小松石(少し黒ずんでいる粗野な感触が味わい深い石です)が在るし。素材には事欠きません。言われます。流石に石工は骨格も逞しく、ゴツゴツした指先が匠を実感させていました。

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この方が石工の土屋誠一氏です。立派な体躯で居られます。屹度貞史が五郎兵衛等と云った高遠石工もこんな体躯の匠だったのでしょう。
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紫陽花の花陰で合掌するお地蔵さん。
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双体の地蔵尊、最近この手の消費者に媚びたような石仏が多いのが気になります。石工を育てるのも現代は消費者と云う事なのでしょう。この石は花崗岩で大井川流域で採取されたそうです。
駿河は匠が居て良いなあ”思えが昨日見学した駿河匠宿でも漆の大木が在ったし下駄や風鈴や藍染め等展示されていました。今伝統工芸の存続について問題なbのは匠が少なくなったり技の伝承が困難なでは無くて伝統品の良さを見極めて少し高くても長く愛着を持って使えば安いモノだ想う審美眼が消費者に欠けて居る事でしょう。私が三越の伝統工芸展で衝動買いした弥勒菩薩は庭の露草の陰に置かれてペットや庭の主(蟇蛙)の墓標になっています。
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これは我が庭の弥勒如来の石仏手前の丸石はペットだった兎や庭の主だった蝦蟇の埋められた墓誌が書かれています。石は笛吹川の川原で拾ったものです。
土屋誠一氏のお地蔵さんは30万円台でも私は下級老人もう良いなと思ってもお地蔵さんを求める事は出来ません。大井川の川原に下りて丸石を拾って自分で鑿を打って石仏を作れという事でしょう。その為には先ず健康な身体を取り戻す事です。
そう思って土屋さんのお地蔵さんを観ると・・・”その通りだよ”言ってくれているようでした。
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これは駿河匠宿のモニュメント茶屋娘です。頭の桃割れ島田もご当地です。


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齢長けて旅行記8(消えた森町の栴檀)

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加茂菖蒲園を出るころにはコヌカ雨が降り出しました。花菖蒲は雨に濡れて一段と美しく見える事でしょう、私達は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って次の目的地遠州森町に向かいました。遠州浜名湖鉄道に沿って旧街道を走ります。以前来た時は麦の刈り入れの盛んな季節でした。天竜川の支流である大田川の堤防には栴檀の樹が花を咲かせていました。栴檀の並木道を楽しみにしてきたのでしたが、今年は栴檀の花も早咲きだったようで、既に散ってしまっていました。残念なのは花が散っていた事よりも栴檀が切られて桜に変わっていた事です。
堤防の並木と云えば全国何処に行っても桜です。これを馬鹿の一つ覚えと云うモノで、地域地域によってその歴史や物産によって地方の特色を活かすべきです。
信濃川長岡の水分では栃の樹が植えられています。最上川にも栃の樹の並木が残されています。栃が飢饉食だからです。此処森町の栴檀は栴檀の樹が舟を繋いだものでした。舟繋ぎの樹には柳や黒松が一般的ですが森町では栴檀の樹が植えられたのでした。森町と云えば次郎長の子分「森の石松」ですが。舟繋ぎ樹には栴檀を選択したのでした。以外に知的な町です。
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森町の周辺では既に麦の刈り入れを終わり水田への転作の準備に入っていましたビニールハウスは下流の浜松市に送る野菜を栽培しているのでしょう。昔は堤防には栴檀が植えられていたのでしたが、今回見ると殆ど桜でした。
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大田川の支流も桜に植え替えられていました。栴檀を観に来た私は失望しました。都心では桜田通りも東京フォーラム周辺もマロニエ(栃)の並木になっています。桜にしてもマロニエにしても”馬鹿の一つ覚え”には落胆してしまいます。
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これは以前観た大田川(天竜川の支流)の堰堤通りの栴檀の花です。加茂の花菖蒲も見事なのですが栴檀の並木も見事でした。栴檀の樹は舟繋ぎの樹として重宝されてきたと聞きます。舟が使われない現代ですから舟繋ぎの樹は不要なのでしょうが、そんな歴史を留めていた栴檀だけに大事にしてほしかったのです。
森町のアクティーという自然体験施設でランチです。
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これがアクティー森町のレストラン入口に設えらてた竈です。ご当地は火伏の神様秋葉神社のお膝元である事を納得させる見事な出来栄えでした。私達は此処で日本酒まくわ瓜等を買い込み今晩の団欒会の仕込みを終えました。
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これがアクティー森町の案内大田川の更に支流の吉川の蛇行した旧川原にレストランや農産物販売所、パターゴルフ等の複合施設ですコテージもあって昨日泊まった川根温泉より使いかってが良いようです。
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これがアクティー森町のレストランのお昼のセットランチ1080円です。観た通りにお野菜の煮しめや天麩羅とお豆腐でヘルシーでした。珈琲は別払い220円でした。
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レストランはゆったりとして空間で快適でした。
森町は天竜川の支流で、河口部には浜松があってホンダやスズキなどの企業が進出しています。
大井川鉄道の発着駅金谷に近い吉原には日産自動車も小型トラック”ダットサン”の製造工場を持っていました。そんな関係で森町には自動車の部品工場が立地していました。昔は農機具の砥石屋だった人がディスクブレーキを製造するようになりました。駿が匠宿の伝統は浜松を豊田に次ぐ自動車産業を育成したのでした。
さて次の目的地です。
ワイフが”ねむの木学園に行きたい人が多そうよ”アドバイスします。
期待に従って「合歓の木美術館」にカーナビの目的地をセットして出発です。途中菓子匠「浅岡」によって話題の「生クリーム大福」を購入しました。
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ネットで爆発した生クリーム大福を購入して車内で食べながら出発しました


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齢長けて旅行記9(合歓の木美術館)

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私が作る行程表には様々な候補を書いてあります。旅行は何時も予定通りに進行するとは限りません。そこで様々な行き先候補を書きあげておきます。当初は加茂菖蒲園の次に合歓の木美術館に寄って次に食事の予定でした。
ところが加茂菖蒲園が期待以上に美しく喫茶をしているうちに食事の約束時間が近づいてしまったので森町のアクティーで食事をしまあした。”合歓の木美術館に行きたい”声も聞こえたので、順番は前後したモノの美術館に行く事にしました。
今朝見た加茂菖蒲園への道を戻って再び菊川町に入ります。この辺りは『蛍の里』が多いようです。田圃が多いので此処は平家蛍でしょうか。田圃の中を抜けると合歓の木村の看板が出て来ます。道端には立葵が咲いています。
合歓の木村の一番奥行き詰まりに「合歓の木美術館[(ドングリ)」が建っています。
美術館の名が「団栗」ですから団栗を意匠したメルヘンな建物です。でも漆喰の白い壁と小さな窓や扉は何処か修道院を思わせます。上田の無言館を想わせる建物です。職員に設計した人を尋ねると藤城氏だと言います。でも”予約を入れて来るべきところ,ノー・アポで来たので不機嫌です。当初から肢体不自由児養護施設の児童作品を展示する美術館として設計したのですから。目的のはっきりしています。藤城で思い当たる設計者を残念ながら私は知りませんし、自宅に戻って検索(建築設計/藤城)しても解りません。
藤城で気付けと云うのなら影絵作家の「藤城清次氏」でしょうか?
この段に付き一緒に旅行したT女史からメールを戴き設計したのは紙管で著名な建築家の藤森照信氏であると教えて戴きました。同氏の作品は美術館が多いモノの仙石原の養老昆虫館(養老 孟司氏の別荘と云うかお城先日テレビで放映され批判も受けました)などユニークなモノが多いと知りました。ご出身は諏訪湖の茅野市で諏訪の名門諏訪青陵高校から東大建築学科に進み縄文建築団を主宰し、現代建築が機能と併せて自然との調和が必要と主張されておいでです
黒字の文が当初のモノでありますから訂正後の内容と併せてご理解ください。Tさん何時も何時も有難うございます。
上田の無言館の設計が作家の窪島誠一郎氏ですから、藤城清次氏が基本設計になるデザイン画を描き後は一級建築士が実施設計をすることも考えられます。何しろ修道館のような建物で壁で四方が囲まれているのですから設計士としてもスキルを発揮する場面は限られています。
団栗のような塔を抱いた修道館のようなメルヘンな子供美術館です。
私達は職員の後に従って建物の中に入り中庭をつっきり二階から美術館を巡りました。
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建物に入ると裏口から一度中庭に出て美術館二階から観て廻るように出来ていました。美術館の大棟は横一直線に山野草が自生していて信濃の民家のような趣でした。屋根に蒲公英や韮を植えるのは縄文建築団の特徴です。民家建築ではこれを「芝棟」と言います。アヤメやイチハツが有名です。(これもさきの連絡のちににかきくわえました。


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これは二階の展示室ユックリソファーに座って鑑賞できるのは嬉しい事です。
色彩豊かでメルヘンな児童画は漆喰壁に引き立てられて楽しい空間でした。
入口にシンボルツリーの合歓の木がありますが。今年は既に花も終えていました。建物の壁にはまるで地面から雛罌粟が生えたように花を咲かせています。自ずとアグネスちゃんのひなげしの花」を口ずさみたくなります。美術館は東傾斜の急斜面に建っています。団栗ならずともコロコロ転がりそうです。団栗が転がれば自ずから池に嵌って泥鰌にご対面です。泥鰌の位置には子安地蔵尊と子安神社が祀られています。子安神社の駐車場にはバス停があって朝晩2時間に一本の定期バスが掛川駅からお客を運んで来るようです。
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これが「合歓の木美術館」入口左手写真手前に樹齢30歳くらいの合歓の木がありますが花は既に終わっていました漆喰の白い壁をキャンバスに雛罌粟のような花が描かれていました。私はこの雛罌粟には想いが込められている筈だと直感して宮城まり子さんの「優しくしてね」という詩画集を読みました、そして見つけました”優しい花”と題した詩と絵です。
やさしい花やさしい花は糸のように枝を伸ばします。
そしてほんのりと咲きます。
花はね強い心と優しい花があります。
その時の心のまま花は咲くの
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これは「いちかわさちよ」さんの絵です。この絵の細い茎可愛い花を観て宮城まり子さんは上の詩を創作したものと思いました。写真出典は「やさしくね」宮城まり子著
「合歓の木学園は1968年 昭和43年)、宮城まり子氏によって設立されたで「絵画・音楽・ダンス・詩・作文・茶道・工芸など感性を育てることを重視した教育施設です。当時は養護施設の制度も無かった事から宮城まり子氏は夫の理解を得て私財をなげうって民営の擁護施設を建設したのでした。この経緯は「神様に選ばれた子供達」に詳しく著されています。最近の様子は次のHPに詳しいようですhttps://kinarino.jp/cat7-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC/12306-%E5%81%89%E5%A4%A7%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%EF%BC%81%E3%80%8C%E3%81%AD%E3%82%80%E3%81%AE%E6%9C%A8%E5%AD%A6%E5%9C%92%E3%80%8D%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%AB%E3%81%BB%E3%81%A3%E3%81%93%E3%82%8A%E2%99%AA
私達も最初に会ってから略半世紀ですから宮城まり子さんもお歳を召された事でしょう。その努力のお蔭で社会はバリアフリーは常識になって私も随分恩恵に浴しています。私達は既に知的に武装されていますから絵を観れば知的に理屈っぽく解釈しようとします。ところが脳性小児麻痺を患ったような児童は知性は未発達ですから天性の感覚でモノを観て直感で絵を描きます。常識人は思いがけずに天性の絵を観ると感動するのは知性の底に埋もれていた感性を呼び起されるからです…、そんな風にズット思っていました。山下清のちぎり絵もそんな風に観て来ました。ところが私は子供美術館の有名になった絵を観ていると”誰かの絵に似ている”直感しました。それは昭和43年当時全盛であった谷内六郎さんの絵です。そう感じて宮城まり子さんの自伝を読んでいたら、合歓の木学園創世期に谷内六郎さんの私道を仰いだそうです。谷内さんの指導によって子供達は絵に自己表現する悦びを体得したのでしょう。そして子供達は良い意味で谷内さんの技法を真似たのでしょう。
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これはドーナッツの広告で有名になったほんめつとめ君の描いたチビ猫出典はまえと同じ
そう気付くと。宮城まり子さんが谷内さんや藤城さん(影絵)など一流の人を招致したのは子供達にとって幸いでした子供は創造的でありますが真似する事でも天才なのですから小さい時にそうした体験を重ねた事は幸いだったと思います。私が中学生の頃「黄色い烏」と云う映画がありました。親の無い子が施設に預けられて絵をかくのですが烏を描くと黄色く塗ってしまうのです。大人は”烏は黒いでしょ”とたしなめます。
でも子供は家族のいる烏をお日様のように温かい生物だと直感して黄色いクレヨンを握ってしまうのでした。
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これはよしずみとも子さんの描いた「此処にいらっしゃい」出典同上
どの絵も黄色や赤の暖色が目立ちます。子供達が愛情に飢えていた証でしょう。自ずと宮城まり子さんが自身のお母さんのように思えたことでしょう。
児童の文章には東京に出張する事の多い宮城まり子氏の気遣い居ない時の寂しさを綴ったモノが多く「まり子お母さん」と呼んだり「お母たん」と呼んだりしています。実の母を慕うようにまり子さンを慕い絵に描いたようです。まり子さんも児童の寝る各部屋に自分のベッドを置いて母になり気って児童の優しさを育んだようです。
でも次の絵を観るとまり子さんには優しい母の横顔と怖い教育者としての側面を子供は敏感に見抜いていたように思います。
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写真出典は合歓の木学園子供美術館作者は「ひらたやすひこ」くん画題は「まり子」です顔が真っ白なのは女優としても宮城まり子さんを少年は知っていたのでしょう。そして画面の左半分が真っ黒なのは深夜に帰宅しないまり子さんの帰りをズットやっすひこ君が待っていたからでしょう。白々明るくなった頃漸くまりこさんが合歓の木学園に戻って来たので安堵して絵にしました・・・。
児童画一枚一枚の評価かは別にしても見ごたえのある美術館であり、宮城まり子さんの業績も尊いモノが在ると実感しました。
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齢長けて旅行記10(可睡斎のトイレ)

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合歓の木児童美術館を出て次の目的地「可睡斎」に向かいました。可睡斎と云うよりも「火伏総本山秋葉総本山」として著名だったお寺です。私の生家の台所にも秋葉山の火伏のお札が貼られていました。江戸城の南には愛宕山北には秋葉原に秋葉山が火伏の神として祀られていました。
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これが秋葉さんの火伏のお札です。火伏は火災除けであると同時に火が厄を消すと信じられていたからです。
「舘山寺の火祭り」初め遠近江には火祭りが多く残されています、修験者が火渡りの荒行をするのは厄除けの同時に火を想いの儘にコントロールしようとする呪術です。台所にガスコンロが普及し竈が無くなると佐久間ダムにある秋葉山が急速に寂れてしまいました。そこで可睡斎が秋葉山神社を勧請して。現在のようにお寺と神社が合紙されたような姿になったのです。
6月9日可睡斎は何時になく混雑していました。本堂に上るとその事情が判りました。この日は梅花講の発表会が催されていたのです。静岡県の曹洞宗の修行場としては此処可睡斎を筆頭に伊豆の修禅寺があります.
曹洞宗の各寺院で梅花講が催されています。梅花講は明治になって女性を中心に御詠歌を習う歌う集まりで、道元禅師が梅の花がお好きであった事から梅の字を冠した御詠歌を習う講なのです。その発表会を由緒ある可睡斎の本堂で実施していたのです。
御詠歌は今年の4月には三春の剛叟寺でも聞きました。今年は梅花講に縁があるのか御詠歌が復活の気運にあるのか解りませんが、本堂でカラオケ大会をするなどよりズットマシです。梅花講はお寺のミサ曲のような響きであると同時に。歌詞が美しい大和言葉ですから、平家琵琶を聴いて居るような心の落ち着きを誘ってくれます。梅花の調べを聴きながら居眠りするのは法悦でもあります。
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この日の可睡斎法塔(本堂)では梅花講の発表会が行われていました、写真はこの日の梅花講もお終いで管主さんがご挨拶されていました。多分此処にお集まりのご婦人はお寺の大黒様(奥様」でお寺に戻れば梅花講の支部長役を担う重要な人なのです。私も母も若い時はこんな夫人の一人でしたが、晩年は漢詩が趣味になって大声で漢詩を唸っていました。
私は是非とも仲間に可睡斎の東司(トイレ)を観て欲しい思ってこの古刹に上りました。と言うのは可睡斎が創建されて600年、そのトイレが営々と受け継がれて。よごれ一つ匂いの全くしないトイレが守られてきているのです。以前「トイレの神様」と云う流行歌がありましたが。このトイレは600年間も使い続けらて来たのです。
私は胃癌の切除をして1年後に脳梗塞を発症しました。脳梗塞の処方箋に薬を服用しているのですが、その薬(ボブリボーズと云う糖尿病予防薬)の副作用で便秘になり易くなって苦労しました。病院で順調に排便する時の悦びを知りました。可笑しなもので人は食べる時の悦びは誰しも大切にするのですが排泄する時の悦びは食べる時の劣らない筈なのに誰も余り問題にしません。人間の命が同化作用と異化作用の循環(輪廻)で出来ているのに、異化作用を軽視しているのは不条理です。二年前には輪島の総持寺に上って皆で精進料理を戴きました。その時は青い目の僧侶の指導で「五観の偈(ごかんのげ)」を唱和して食事しました。あの時の清々しさは深く心に刻まれました。” 5つには成道(じょうどう) のための故に、今此のを受く。”食べられる命も成仏する事でしょう。
”此処でお精進を食べたかったわね!”仲間の囁きを聴きながら本堂に上りました。各お堂が回廊で繋がれ開山堂に上るにはエスカレーターを使用していました道場のバリアフリーも進んだものです。

庫裏の案内を乞うとご年配のお坊さんが案内してくださいました。
”皆さまはどちらからお越しですか?”訊かれました。
”私達は東京から来ました”
すると
”私は松戸の寺から応援に来ました”言われます。お若い時に此処で修行され初心に戻るために応援と称して来ておいでなのかもしれません。声の通る話の上手な和尚さんでした。
見学の略最後に東司をご案内してくださいました。
現在のトイレは昭和12年に改修して衛生陶器を使っていますが、床は畳であったり天井は網代(あじろ)天井  で空気の入れ替えは万全です。創建以来臭気は全くありません。女子トイレは別になっています。女子トイレは屹度昭和12年に新築されたのでしょう。入口左に大きな睡蓮の花を模した手水が設えてありました。沢山の修行僧が一時に用を足しますので混雑します。混雑を避けるために便器も手水場も多目に出来ています。
そして「トイレ全体を見下ろしているのが烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)です」
私達の目はトイレ中央の明王像に吸いつけられました。
和尚さんは言われます
烏枢沙摩明王の作者は高村晴雲で祖父東雲を師として光雲の兄にあたります。
「師にすれば光雲よりも晴雲の方に将来を嘱望されたのではないでしょうか?」
何しろ光雲は多才でしたから・・・・・。

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この人と略同じ背丈の明王像がトイレの神様烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)です。作者は高村晴雲で高村東雲の孫になります。弟は老猿が重文に指定された高村光雲でした。写真で改めて確認するとトイレの壁(扉の横)は鏡が張られているのでした。
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手前が睡蓮の花を模した可睡斎の東司の手水。花弁の隙間から常時水が滴るのでその水で手を洗うように出来ています。清潔なうえに美しさが溢れています。これぞ文化財です。

各お堂が回廊で繋がれ開山堂に上るにはエスカレーターを使用していました道場のバリアフリーも進んだものです。可睡斎の名の起こりをお坊様は開山堂で説明されました。「このお寺を可睡斎と命名したのは徳川家康です。
と云うのは次のエピソードが伝えられているのです。
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トイレの神様烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の案内この写真を写した途端に電池が足りなくなってしまいました。私は電池の入れ替えをしようとしてカメラを床に落としてしまいました。以来当旅行では使い慣れたカメラを使えませんでした。トイレの神様に嫌われたのかもしれません。
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これは可睡斎の開山堂に祀られた円空の模倣仏右下の式紙には熱心な円空を敬愛する仏師が摸刻して歴代住職の位牌に並べたのでした。中々良く出来ています。此処の西鳳来寺山の山麓には木喰仏は幾つもありますが・・・・・。
創建は応永8年(1401年)でした。
家康は武田信玄の軍に追われて某寺に逃げ込みます。
其処で匿ってくれたのが仙麟等膳和尚でした。
後年家康は窮地を救ってくれた仙麟等膳和尚にお礼に言いに寺を訪れます。
ところが和尚は家康公の面前で居眠りをしてしまいます。
血気にはやる三河武士は激怒します。その様子を観た家康は「起こすことは無い眠ったままで良し」と云って家臣を留めたのだそうです。以来和尚の名は「可睡斎」になりました。天下人家康の付けた名を改める事は憚れます。以来ずっと可睡斎と敬意をこめて呼ばれてきました。家康は可睡斎を重んじ10万石もの石高を与え。東海道の寺院の住職などの任命権を与えます。私の住む神奈川県には大雄山最乗寺(道了尊)があります歴史も信心の厚さも可睡斎を上回る古刹ですが江戸時代を通じて人事権は可睡斎の下にあったのでした。私の生家にこの寺のお札が何枚も貼られていたの致し方ない事だったのでした。

その日の夜の懇親会の事でした。
一日の印象を述べていました。
私は”可睡斎で訊き忘れた”発言しました。
『総持寺では食前に五観の偈を風呪したのでしたがトイレに入る前にお経はよまないのか?』
すると二人から教えられました。
トイレに入る前に読むお経は『烏枢烏沙摩様、今日も有難うございました。健康で排泄させていただき感謝申し上げます』」と云う意味です。そして『家のお婆様はトイレで真言をあげていました・・・・・・』教えて戴きました

”今日も美味しく食べられた今日も気持ちよく排泄できた”これに勝る繰り返しはありません。こんな気持ちが健康寿命を伸ばし、世界一清潔なトイレ文化国家を築きあげたと確信するモノです。
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これは新東名のSAのトイレ充実の設備と清潔なメンテナンスに驚きです。こんなトイレは一朝一夕では出来ずに長い歴史や文化の堆積の成果です。中国にディズニーランドが出来てもトイレ文化は真似できないでしょう。




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齢長けて旅行記11(弁天島の鳥居の思い違い)

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6月9日は弁天島温泉に泊まりました。何時も舘山寺に泊まっていたのですが、弁天島に泊まってみたかったことと浜名湖を周遊する都合には弁天島の方が好都合と思ったのでした。ホテルの前は弁天島への渡し船の乗船口があって、この季節潮干狩りが盛んなのでしょう。浅利の味噌汁を美味しくいただきました。舘山寺よりも食事は上だと思いました。ホテルの窓からは弁天様の朱塗りの鳥居が見渡せます。私の寝た部屋は北側で窓の下に東海道と新幹線が通っています。電車の音が気になって熟睡できませんでした。朝目覚めたのは5時過ぎ、既にお日様は昇っていました。4時起きして居れば鳥居の上に朝陽が昇るが来光を拝めたのでしょう。ホテルのポスターにはご来光の写真がとられていました。
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ホテルのポスターに使われた弁天島神社の鳥居の上に昇ったご来光、昔の人は今日一日の無事を祈って拝んだものでした。
私とワイフは連れ立って弁天神社にお参りです。前夜にホテルに弁天神社の社殿を確認しておきました。
ホテルでは
”このホテルの北隣に開春閣と云うホテルがありますその隣に弁天神社が祀られています”と答えました。
私は開春閣を勝手に回春と思い込み青春が戻るなら…思いこんでお詣りです。私の宿泊したホテルも空いていましたが、開春閣は更に閑散としていました。弁天島温泉も斜陽の気配が濃いようです。
弁天神社は北向きに建っていました。鳥居は東から遥拝するように建っているのですから90度も横向きに建っているのです。屹度昭和30年代弁天島が海水浴場として賑わった時代にホテルの進出に押されて社殿が横向きになってしまったのでしょう。私は弁天様の拗ねた横顔が見えるような想いがしました。
しかし調べてみるとそんな単純な事では無いようです。弁才天のお怒りにも触れそうな思い違いが原因なのでした。
この鳥居は弁天様の鳥居では無く「浜名湖観光タワー」と云うのが正式名なのだそうです。
弁天島の斜陽気配に対策を打ちたいと思った「商工会」が厳島神社に似せて高さ18メートルの鳥居を建てる事にしたまでは良かったのですが。問題は建設費の捻出です。浜松市の補助金を申請しましたところが「政教分離」が建前ですから補助金を捻出するためには鳥居は好ましくありません。そこで「浜名湖観光タワー」に決定したのだそうです。この間苦虫を噛みながら怒りを堪えて居られたお弁天様が見えるようです。鳥居が完成したのは昭和48年8月。見事な鳥居が完成したのに弁天島に昔日の賑いは回復する気配は無いようです。この経緯は浜松市の次のHPに詳しいのです。http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/shisei_info/vol10/5.html
弁天神社の境内には弁天神社の言い伝えが案内されていました。地域おこしに懸命な昨今同じような神仏の罰当たりな行為が全国にありそうな気配です。
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ホテルの前から鳥居を見渡す。背後の長い陸橋は浜名バイパスの浜名湖大橋です。右が新居関で左が舞浜関になります。写真は潮が満ちていますが干潮なら鳥居の南は潮干狩りの漁場になります。昭和30年代は海水浴で賑わいました。向こうの砂丘を舞台にして阿倍公房が「砂の女」を書いたのでした。白砂青松の絶景に人間の欲望の深淵を覘き見る衝撃的な小説で現代版今昔物語でした。
昔、この辺りは砂州が続く「天橋立」の様な景観が広がっていました、
そんな島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。
村人は大変喜び、社を建てるのでここに留まってほしいと
お願いしましたが、天女は駿河の美保の松原に立ち去って
しまいました。
それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に
みまわれ、州崎の一部であった弁天は海に取り残されて
島となりました。
江戸時代の宝永6年(1709)航海安全(舞阪宿~新居宿の間を旅人は舟で渡っていた)のため、
この島に天女伝説に因み辯天神社が祀られたのが創建と言われています。
社殿の左手には子規の句碑が建っていました。
天の川濱名の橋の十文字/正岡子規。
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方が弁天神社の社殿です境内には幾つもの文学碑が建ってい増す。社殿の背後が開春閣になります。先の大鳥居とは90度もズレた方角を向いています。
朝5時にお散歩に出て市杵嶋姫命にもお詣りも済ませました。昨日は可睡斎で大黒天に手を合わせたし、今朝はお弁天様に柏手も打ちました。右と左の掌も一致して良い音が響きました。左の麻痺も大分改善したようです。さあ、旅行も最終日来年は立山に「風の盆」を観に行く事に決まりました。来年に向けて体がもっと改善しそうな良い予感がします。
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此方は鎌倉の鶴岡八幡宮の弁才天。弁才天は仏教の仏で神道では市杵嶋姫命/イチキシマヒメになります。天女のイメージです。


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齢長けて旅行記12(新居関の繁栄)

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6月10日旅行も今日が最終日です。連日梅雨空でしたが。今朝はスッキリ晴れ渡りました。雨が降れば鬱陶しいし、晴れれば強い日差しが気になります。何時もそうですが最終日になると、何処か寂しさを感じます。子供と同じような感傷なのでしょうか?友人のМ君に句作の状況を聴くと10句は出来たそうです。以前は手帳に書きこんでいた同君でしたが今はスマートフォンに書きこんで、これから推敲に入るのだそうです。推敲ステップに入ると10句が20句にも増えるのだそうです。
松林を左の車窓に観ながら西に向かいます。突き当りが新居関です。
時計を観れば9時前です。駐車場で時間を潰し、新居関に入場します。私は予約を入れていなかったのでしたが。20人の頭数を観て説明をしてくれました。面番所の畳の上で説明を受けました。
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広重の荒井関の図手前が舞浜で対岸が新居と思われます。この間は故意に舟便としました。石松が”寿司喰いねえ!”とやったのはこの舟では無くて江戸から金毘羅様に行く舟の上でした。
1、新居(荒井)関所は慶長5年(1600年)に開所された東海道で幕府が最重要とした幕府防衛の拠点で浜名湖を往来する旅人を取り締まりました。取締りを有効にするために浜名湖の南北に新居関と舞浜関を置きどちらにも関所の脇に徒船場を置き旅人とりわけ「出女と入り鉄砲」に監視の目を光らせました。
2、明治2年(1855)に全国の関所が廃止されると以降は新居関所は小学校や役場として利用されました。
3、昭和30年(1955年)に国の特別史跡に指定され。同46年に解体修理され護岸石組や渡船場や面番所を復元し、今後も舟会所や女改め長屋等の復元を予定しているそうです。建物の幕府の威厳を示すかのように立派ですし。面番所の蝋人形も往時を推測するには充分にリアルです。
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新居関の面番所(空港の入管審査所のようなモノ)の威容右端から入って「上の間で/20畳」この部屋には番頭(ばんがしら)の五味六郎左衛門ただ一人で検問の順番待ちをする旅人をウォッチするとともに、全体の検問の流れをチェックしていたと思われます。いよいよ面番所(おもてばんしょ)25畳に入ると給人の中山勘太夫と石原幸正が通行手形を確認しながら旅人に質問して検査します。その左の部屋には屈強な武士(足軽)が控えていて、若しも関所破りを図るような輩が出たら力で組伏したようです。若しも男装した女性のような旅人がおれば女改めの部屋(改め役は女性で役人の家族がその任に当たりました)全体で40人程度の人が関所に勤務していたと皮います。右から(舞浜方向)入った旅人は左に出ます。左は新居の宿場町になります。江戸を発って京や伊勢に向かった旅人は新居を越えれば目的地はもう近く、次の難所三ケ日の峠越しに旅立つのでした。
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一番右が番頭(ばんがしら)の五味六郎左衛門です、右から入ってくる旅人を最初に目視検査すると同時に全体の流れをコントロールします。その左の二人の武士は給人の中山勘太夫と石原幸正です通行手形に書かれている内容と本人が一致しているか面談審査すると同時に通関記録している様に見えます。給人の背後の扉を開けると女改め部屋があります。給人の左に居る役人3人は足軽で関所破りする輩を力でねじ伏せます。蝋人形は良く出来ていてどの役人も役者のように美男でした。

私達は江戸から旅立った旅人と同様に関所を出ると新居の宿場町に向かいました。次の目的地は「小松楼」です。小松楼と云えば藤沢宿の小松屋源蔵を想い出します。小松屋源蔵は湯河原の石工の倅で藤沢宿に出て旅籠を経営します。今も藤沢本町には小松屋という人気ラーメン店がありますし、英勝寺の墓地には飯盛り女の墓があります。遊女の墓は小松家の先祖代々の墓地に祀られています。この記事は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44962426.html私は小松石とか小松屋源蔵に思い入れがあるので新居の小松楼もテッキリ遊里と思い込んでいました。そこで荒井関所の次には宿場の小松楼に皆を連れて来たのでした。車は関所の駐車場に置いて歩いて来ればほんの5分なのでしたが。見世(みせ)/遊郭の格子戸)を観たくて新居の宿場町の路地を通って小松楼の前に来たのでしたが駐車場がありません。小松楼街造り交流館の職員さんには迷惑をかけてしまいました。
職員さんは迷惑を顔に出して「交流館に次に来る時は関所の駐車場に車を置いて歩いてきて下さいね!きつく言われてしまいました。そしてこの建物は遊里ではありません。この建物は芸者の置屋です」私は遊里と置屋を勘違いしている満座に恥さらしさせられてしまいました。
置屋と云えば大阪でも博多でも苦労しました。検番には顔なじみになり、芸者さんを背負ってマンションまで運ん武関係にもなりました。中でも、一番に情緒のあったのは大阪の今里新地でした。未だ船場が活況だった時代に船場の大旦那が今里新地をを可愛がったのでしょう。私は置屋の二階の欄干に凭れて常務と旦那の生田流の小唄を聴いていました。昭和40年代は未だ「座敷で小唄を被露出来ないようでは、人の上に立てない」そんな雰囲気が漂っていました。でも、現在は東京でも芸者は居なくなり、お座敷芸も座敷での接待も無くなってしまいました。遊里が消えたのは昭和30年代初めで芸者も居なくなったのは昭和40年代後半でした。小松楼の説明では浜松は新産業都市軍事産業都市TPして栄え、」新居はそこ奥座敷として繁盛したそうです。浜松の事業家と地元の漁師もお客となって、最盛期には置屋が11軒芸者さんの数も80人に上ったそうです。今では遊里や芸者の文化は遠くなって、今は矢鱈中国人旅行客とブラジル人のブルーカラーが目立つ街になってしまいました。
小松楼の職員さんは「性を売るのが遊里で芸を売るのが芸者で・・・・」と理解して遊里を一段低く思っているのでしょう。だから、置屋と遊里を混乱している私に強く当たったのでしょう。でも性と芸とはそんなに単純に分別できるものではありませんし遊里の方が芸者よりも上と云った場面は数多くありました。こんな話はまた別の機会に致しましょう・・・。
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これが新居関街作り交流館のチラシ。良く出来ています。
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街作り交流館に貼られた芸者さんの写真。新居が繁栄したのは戦前までで、漁業が支えたのでした。江戸時代の繁栄の記憶は近くの紀伊国屋館に留められているようです。
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交流館で説明を受ける



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齢長けて旅行記12(飴屋の幽霊の本興寺)

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新居関を観て次の目的地は鷲頭の本興寺です。この寺にも小夜の中山の久延寺同様に命の尊さを伝える伝説が継承されています。この伝説は良く祖母が話してくれました。お話が幽霊の話なので怖いのですが最後は命の尊さを教えてハッピーエンドになるので、寝物語してして貰っても安堵して良く寝られたものでした。先ず大凡のストーリーを紹介致します。
飴屋の幽霊】の伝説
ある夜、店じまいした飴屋の雨戸を叩く音がしました。主人が出てみると店先には青白い顔で髪をボサボサに垂らした若い女が立っていました。女は「飴を下さい」言って一文銭をさし出しました。主人は怪しんだものの女の必死さに押されて飴を売りました。
その翌晩にも女が雨戸を叩きました。主人は又飴を売りましたが”お前の家は何処か?”尋ねてみました。しかし女は無言で1文銭と飴を交換して闇の中に消えてしまいました。翌晩もその次の晩にも女は飴を買いに来ました。そして7日目の晩の事でした女は「もうお金が無いのでこれで飴を売ってください」と言いながら羽織を差出しました。
翌朝店先に昨晩貰った羽織を干しておきました。すると、通り掛かりのお大尽が飴屋に入って来ましたそして羽織を指さして言うのでした。「この羽織は先日亡くなった娘の棺桶に入れておいたものだが、何故にお前が持っているのか?」そこで主人はお大尽に「女が連日1文銭を持って飴を買いに来たこと、そして昨晩は7日目で銭が無くなったので羽織と交換して欲しい言って消えた…。」話しました
驚いたお大尽は飴屋を連れだって娘を埋めた墓地に行きました。真新しい土饅頭を掘り起こすと棺桶の中から赤子の泣き声が響いて来ます。棺桶の蓋を開けてみると女の亡骸が産まれたばかりの赤子を抱いていたのでした。
お大尽は「娘は産まれた赤子の命を守ろうとして幽霊になって夜な夜な飴屋を訪れたのだろう」と推測しました。
お大尽は娘の遺骸に向いて話しかけました。
この子は私が大事に育てるからお前は迷わずに成仏して下さいよ・・・」
娘の遺骸は頭を垂れました。
お大尽は菩提寺(本興寺)の住職に相談しました。その結果その子は本興寺に預けられて立派な御坊様/通幻寂霊(1322~1391)と言う曹洞宗の高徳の僧(総持寺5世)になったのでした。
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安田米斎画「子育て幽霊」 
本興寺の名は【常霊山本興寺】です。「常霊」は法華経に依った名ですが人々は、常に霊があるお山と云う意味で幽霊の伝説を思いついていたのかもしれません。鷲津の本興寺の辺りは裏寂しいので近寄るな幽霊に執りつかれるかも知れな、と言って避けたのかもしれません。
東海道の街道沿いには何故か命の尊さを伝える伝説が多いのです。命の尊さを教えるのなら陸奥に多く残されていても良さそうです。現に菅江真澄は陸奥の冷害や飢饉の状況を留めました。”食い物が無いので家畜を殺して食ったり行き倒れた人の肉も喰った”惨状の記録は飢饉の側面でした。そうした場面にこそ「命の尊さを伝える説話が多く残っていて良さそうに思います。でも陸奥にはそうした説話は少なく豊かなイメージのある東海道に「夜泣き石」や「子育て飴」伝説が言い伝えられて来ました。
この飴屋の幽霊の説話は此処鷲頭から京の都に登ったのでしょう。東海道の出発地点5条大橋を越して清水寺の山門下の六道珍皇寺の近くにも幽霊飴屋があります。
常霊山に相応しい古風で大きな本堂です。案内に寄れば重要文化財【戦前国宝】で1522年(天文21年)修復された事になっています。寺伝では南北朝時代の弘和3年(1838年)創建と云う事になっていますから室町時代の様式の上に江戸時代の意匠が上乗せされていることになります。
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これが本興寺の本堂です。正面5間奥行5間の堂々たる茅葺方形の建物です。巨大な建物の構造は天竺様式で束や宝珠は和様で垂木は唐様です。右奥に墓地の角柱が見えています。昭和40年代初め来た時には未だ土饅頭があって、古くなった卒塔婆が風に吹かれてカタカタ鳴っていました。
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墓地方向から本興寺の本堂を眺めるこの雄大な茅葺を維持する野は容易で無さそうです。先ずは萱場を(ススキや茅を自生させる場所。昔は入会地が何処にもあったモノでした。次には茅葺の職人を育成しなくてはなりません。南相馬の田畑を萱場にして併せて茅葺職人を育成するプロジェクトを文部省所管事業に推したいモノです。
正面5間奥行5間の矩形の上に茅葺寄せ棟を乗せた安定感ある堂々とした本堂です。細部を観れば和様をベースに唐様天竺用の三様式を折衷した室町期の遺構をとどめています。本堂は室町様式ですが書院も見事です私達は方丈から入って渡り廊下を進んで大書院(文政10年1827年)、其処で呼び戻され方丈に隣接した奥書院(延宝2年1674年)を見学しました。二つの書院に間には小堀遠州のお庭が配置されています。遠州は江戸時代初めの人物でしたから最初に庭園と方丈があって、徳川家の庇護が篤くなるに従って(朱印地10万石)書院を増築して奥書院大書院の順に整備が進んだのでしょう。でも庭園の一部は枯山水です。訊けば大書院からの眺め(自然山林の借景)を重んじたものの。松林の脂が雨水に溶けて池の魚を殺生するので蓬莱式池泉回遊庭園の松の下を枯山水にしたのだそうです。書院の襖(15面)には谷文晁の筆と伝えられる四季山水図が配置されています。本興寺は別名「文晁寺」と呼ばれるそうです「幽霊寺」よりインパクトが強いようです。
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これが大書院の文晁の間です。15面もの襖が文晁作の四季山水図で埋められています。お殿様は上段の間から小堀遠州の借景庭園を観て、襖の景色を愛でたのでしょう。お寺の案内では文晁は絶対の自信作だったのでしょう金の落款を押しているそうです。
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方丈から庭を観る写真の左に回廊があって大書院に続く右に行けば奥書院になります。二つの書院は方丈を挟んでコの字に並んでいます。何処からも遠州のお庭を観れる配置です。梅雨の季節が最もお庭が美しいようです。この日も良い香りが漂っていました。縁側に出ると香りの元はクチナシでしたし。桔梗も蕾を膨らませていました。


私が最初に此処本興寺に登った頃には墓地は卒塔婆が林立して飴屋の幽霊のイメージが色濃く残されていました。前回は10年前で記事はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?m=lc&sv=%CD%A9%CE%EE%B0%BB&sk=0に載せました。
ところが今回詣でて観ると墓地は綺麗に整備されてしまいました。墓地が綺麗であることは決して悪い事ではありませんが。大きな霊園業者が入ってピッカピッカの黒御影石が並んだ景色は飴屋の幽霊の面影を留めなくなってしまいました。土饅頭が並んで梅雨の季節になると人魂がボット燃える(燐が自然発火する)ような墓地が懐かしいです。


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齢長けて旅行記13(豊田佐吉記念館)

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本興寺を後にして私達は豊田佐吉記念館に向かいました。豊田佐吉は誰でも知っているトヨタ自動車グループの創業者豊田佐吉の生い立ちや情熱を伝える為にトヨタグループが設立した記念館です。小田原には二の宮金次郎記念館とその生家を保存しています金次郎の銅像は近時立っている姿から座った姿に変更され話題になっています。理由は「歩きスマホ」を連想させて良くないからだそうです。
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これは小田原の報徳二宮神社の二宮金次郎像です。最近学校ではこの立ち読みする姿が危険だと言って薪を下して座って読書している像が出て話題になっています。立った金次郎さんが良いか座った金次郎さんが良いか無毛な議論をするより、豊田佐吉像や本多宗一郎像の方が子供達にはインパクトがありそうです。

子供達も薪を背負って座って読書しているのでは”仕事を怠けている”ように見えないかと心配です。寸暇を惜しんで勉強する姿勢は矢張り立ち姿でなくては伝わらない様に思います。
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これは豊田佐吉記念館全景、この左手丘陵に生家が保存されています。写真出典は記念館で販売していた絵葉書
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生家の座敷からの眺め、豊田家の菩提寺「妙立寺」の日陽和尚(多分日蓮宗)の掛け軸「百忍千鍛事遂金」と書かれています。『忍に忍んで鍛錬に鍛錬を重ねれば事業を金に成し遂げる』の異で和尚が佐吉翁を評した言葉でしょう。写真出典、記念館販売の絵葉書
ところで、学校では『日本の近代化は繊維産業に始まって、豊田佐吉は自動織機を発明した』と教わりました。私には豊田佐吉の偉業にケチをつけるような気持ちは毛頭ないのですが、学校での扱いは片手落ちのような気がしてならないのです。と云うのは此処湖西市から山を越せば岡崎市です。岡崎の博物館やからくり人形を観れば豊田佐吉は発明家では無くて、日本人が工夫してきた技術を自動織機に繰り込んだまでの事と解るのです。
織物は経糸と横糸を正確に絡ませることに織られます。日本人は「鶴の恩返し」で馴染んでいる様に高台の織機に上って横糸を正確に迅速に織り込む事で出来上がります。その手順は杼(ひ)を使って経糸の間に横糸を送ることで織られます。上手な織人は杼を通したら足でペダルを送って軽く横糸を手前に押しやります。脚と手の動作が連動してリズムが一定であれば織物は均質に織り上がります。
豊田佐吉が1924年に発明、完成したG型自動織機は、世界で初めて実現した無停止自働杼換装置をはじめ24の自働化、保護・安全装置により、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく円滑に杼(ひ)を交換してよこ糸を補給することができ、生産性は大幅に向上しました。G型自動織機は総合的性能と経済性で世界一と評価されました。
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一般的な機織り機豊田佐吉はこの伝統的な機織り機をベースに並べた経糸に横糸を通して送る動作を全自動にし、その動力を人力から水力に更に蒸気力更に電力に変えて行きました。伝統技術をベースに工夫に工夫を重ねた訳でそれは三河のカラクリの技術であったのでした。


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これがトヨタのG型自動織機です。先の伝統的な機織り作業を全自動化したもので。要は①横糸を杼(ひ)を使って経糸に通して②横糸を前に押し出す作業を全自動させた装置です。歯車も含めて木工品です。



G型自動織機(無停止自 働杼換装置トヨタ産業技術記念館https://www.youtube.com/watch?v=BiHO04rmwkk)は動力源を先ず水力に求めました。と云うのは既に岡崎では水力で糸を紡ぐ装置を開発していたのでした。豊田佐吉の工夫は日本古来の織り方をベースにして経糸と横糸を交互に絡ませることを木工の歯車で完成させたのでした。自動織機はその後動力源を蒸気更に電気に変えて進歩して行きます。
工夫した事の素晴らしさでは東芝の創業者田中久重も変わりません。創業者の偉大さでは甲乙つけられないのに今日の差は如何して出来てしまったのでしょうか?それが問題です。
【王道を歩むトヨタ覇道を選んだ東芝】
両者とも日本のカラクリの技術をベースにして機械装置や生活財を作った企業でしたが。トヨタが総じて民生品を作って来たのに対し、東芝は軍事品や重工業品、医薬機会に原子力等その時々の国家や体制の期待する製品を作って来ました。製品の違いはトヨタの経営の主眼がユーザー満足(所謂CS)に向けられていたのに対し東芝の経営の主眼は発注する官僚や国家に向けられてきたと憶測されます。昭和30年代は日本中がICで燃えていました、何時もは美女の写真が掲載されている筈の週刊誌のグラビアでさえIC(集積回路)で埋められていました。三井ハイテックや東京恵レクトロンなどICの製造装置を作るメーカーが脚光を浴びていました。私達は「産業の米」がICでIC製造過程で大量の純水が必要とされその結果日本中の河川が洗浄水で汚れる事には目をつぶって来ました。ICの製造コストを低減させるためには何事も犠牲にしてきました。それはコスト削減の為に看板方式を標榜したトヨタに似ています。でもトヨタの経営の眼は畢竟ユーザーのCSに向いていましたから、結果的には経営は常に王道を進んできたのでした。排気ガス問題をクリアーし燃費効率競争でもトップを進んできました。そして現在「自動運転装置」でもCSの王道を進もうとしています。
ところが東芝の経営はその時々の政権や通産官僚の期待に向けられていました、謂わば覇道を歩んできた訳です。時の権力者の期待を慮った結果。大規模な粉飾を阻止できなかった訳でした。
此処豊田佐吉記念館を見学していると企業経営の王道を見せつけられる想いがします。今国は軍事に活用できる基礎科学に補助金を出そうとしています。軍事に秀でた企業とその基礎科学の研究を支援しようとするものです。三菱重工の潜水艦技術を支援して軍事力を増し、外貨獲得力をアップさせようとしましたが、オーストラリアには敬遠されてしまいました。。三菱重工グループの経営は屹度覇道に脱線する事でしょう。トヨタのように王道に軌道修正してほしいモノです。
豊田佐吉記念館は佐吉翁の人柄を偲ぶソフトな博物館で居心地も良いのですが技術系の人はトヨタの産業技術記念館を訪れれば知的好奇心を満たしてくれるでしょう。
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これが豊田佐吉の生家です。豊田佐吉生誕120年記念事業としてこの生家も修復整備され今年が生誕150年で地元の湖西市もPRしていました。


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齢長けて旅行記14(鵺代の千草)

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遠近江の旅も最後のランチです。折角浜名湖に来たのだから。ご当地式の鰻茶漬けを食べようと鵺代(ぬえしろ」の千草に予約を入れておきました。この店は人気店で予約を12時に入れておいたところ再三電話が携帯に入って”もう少し遅らせられないか?早められないか?”相談してくるのです。私の予約を受けた後にも団体の予約相談が多く入って調整に難儀しているようです。12時に入店すると案の定店先には長い行列が出来ていました。此処は予約を入れておかなければ大変なストレスが溜まるお店のようです。
このお店の人気の理由の第一は美味しい事ですが、風光も明媚なのです。
場所が奥浜名湖の猪鼻湖に面しています。琵琶湖もそうですが、奥琵琶湖は竹生島の陰には菅浦と云う秘境があります。浜名湖も同様で大変に美しく伝説も地でもあります。

第一地名からして伝説に塗り込められています。鵺(ヌエ)も伝説の怪物ですし、代と云うからには鵺とい翼のある怪物が此処に舞い降りて棲んでいる、と云った意味でしょう。都を旅立って新居関に着いた旅人は海岸線に沿って下れば舞阪に向かいますが。浜名湖の西の道(姫街道)を辿れば三ヶ日の峠に差し掛かります。道は狭くなるし裏寂しい想いがします。頭上生い茂った照葉樹の陰から鵺が出現するかもしれません。平安時代にはこの道に夜盗が居たのでしょう。二条天皇が妖怪に魘されて眠れないとして、朝廷は弓の達人である源頼政に命じて鵺退治をさせます。ですから鵺は真夜中に天空から降りてくる妖怪だとして、古代人の怖がるモノを寄せ集めた最強妖怪だったのでした。
鵺は平家物語では顔は猿虎の手足を持ち尾っぽは蛇で嘴は鷲のようだとされた妖怪です。都の人にとっては近江の湖の向こうには大変に怖ろしい妖怪の棲む未開地と思われたのでしょう。
源頼政に仕えた猛者が猪早太(いのはやた)でしたから、鵺代で猪早太が鵺退治をしたので湖のの名を猪鼻湖と名付けられたのでしょう。
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月岡芳年の猪早太の鵺退治の図出典はウィキペディア。
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此方は源頼政による鵺退治の図(左が弓の名人の源頼政で中央が天から落下してきた鵺を退治する猪早太で右は渡辺七唱(以仁王の乱で源頼政の最期を見届けた)です。絵は国芳で歌舞伎の看板絵です。出典はウィキペディア
奥琵琶湖は風光明媚ですからヤマハや東急によるリゾート開発が盛んでしたが今は昔日の面影で道端にリゾート物件の販売が盛んです。(こんな景色の良い所で湖の魚貝を食べて晴耕雨読の時間が過せたらさぞかし良かろう」今は想うだけです。
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これが千草の鰻茶漬け2800円で大満足でした。考えてみればこれまで二度の昼食は節約コースで済ませて来ました。
千草では予約した数の堀炬燵席を確保してくれていました。到着後10分足らずで鰻茶漬けが運ばれてきました。関東モノには鰻茶漬けの食べ方は慣れていません。精々天麩羅を茶漬けで食べる程度です。
お膳が運ばれるまでの間はメニューに綴じられた鰻茶漬けの食べ方を予習です。『そうか最初は鰻丼の要領で食べて、次は薬味を乗せて、最後ににワサビと薬味を乗せたうえでお茶づけにして』食べるのか納得です。
この辺りが東西の文化がクロスする処。”東西の食べ方の良い所どりをするのか”思えば関西の鰻は基本的には白焼きです。タレで濃い味にして食べるのは関東と九州です。要するにこの名古屋圏の文化は東西の良い所どりと云うよりは貪欲なだけのようです。貪欲は大いに結構。たらふく鰻を戴いて、今年の鰻はこれで最初にして最後の鰻のような気がします。
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解散会は予定した喫茶店が何処も満席だったので三ケ日から舘山寺の方にしばらく走って、国民宿舎奥浜名湖荘で済ませました。濃厚な三ケ日ミカンジュースで生き返りました。中央の小山が舘山寺になります。右側の小さな湖が猪鼻湖で舘山寺の向こうが浜名湖の本体になります。
遠近江の旅行記は今日でお終いまた明日からは日常に戻って歳時記風に綴って行きます。

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芝棟の美しさ

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先の駿河路の旅行で、合歓の木子供美術館の建物が諏訪で生まれた藤森照信氏であった事を知りました。
同氏が建物は自然との調和が大切であり、「縄文建設団」を主宰した事も知りました。記事はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49351797.htmlです。
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これは掛川にある合歓の木子供美術館団栗です。右端のタワーは団栗をそして大棟は草が一列に生えています。この大棟に植物を植える意匠が縄文の竪穴住居にもルーツがあって、民家に活かされてきたのです。
上が合歓の木子供美術館(団栗)です。先ず右端の団栗の袴状の塔屋部分が目につきますが次には大棟に張られた植物が目につきます。
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これが大棟を花で飾った意匠の芝棟です。これは萱草ですが他にも鬼百合や山百合高砂百合等を観ました。川崎の民家園ではアヤメやイチハツが植えられています。神奈川県下では箱根芦之湯の東光庵(ススキと山百合、横浜本牧三溪園の横笛庵等が芝棟で美しいのです。以前このブログに取り上げた記憶があります。
大棟に張られた植物と云えば民家の芝棟です。芝棟を観に川崎生田にある日本民家園に出かけました。先ず大棟の建築上の役割からご説明します。
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唐招提寺の金堂この大棟が折れる夢を観て鑑真和上像の製作を思い立ったと言い伝えられます。大棟の広がりは建物の華です。
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これが鑑真和上像
【大棟は建物の最重要部分であった事】
大棟が建物の最重要部分である事は次の伝承でも理解できます。
鑑真和上像の製作は唐招提寺の僧侶が「寺の大棟が折れた」夢を観た事から。鑑真和上のお姿を生き写ししたいと思い立った事に由来すると言い伝えられます。唐招提寺にとっては鑑真和上を失う事は本堂の大棟が折れる事に相当したのでしょう。
何故大棟が大事かと云えば高温多雨の日本です。建物は先ず大棟から崩れるのです。大棟に雨漏りが生じて建物の構造部分が腐ってしまうのでした。だから民家保存上で一番恐ろしいのは大棟の傷みから始まる雨漏りです民話の「古家の雨漏り」はこの事を伝えています。
【大棟から雨漏りさせないための対策】
大棟に雨漏りさせない対策として大棟に屋根をつけたり、瓦で覆ったり、竹を編んで補強したりした。日本民家を愛した向井潤吉氏は昭和20年代30年代未だ残されていた民家を描き続けられました。
その作品を観るとまるで大棟に就かれたようで中でも芝棟が目立ちます。
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松本の民家大棟の両端に飾られた破風はまるで花魁の髪を飾った簪(かんざし)か笄( こうがい)のように華やかです。杏の花が咲いていました。
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此方は青森二の戸の曲屋大棟には植物が生えています。相模ではこの部分にアヤメやイチハツを植えたのでした。向井潤吉氏は世田谷の弦巻にお住いでした、現在ご自宅は美術館になっています。写真出典向井潤吉アルバム
【屋根は呪術の場でもありました】
屋根は天空に向けて位置しています。天から雷が落ちて来ない様に災厄に見まわれない様に出来れば福の神が降りて来るように呪術する場でもありました。神社の千木は大棟に隙間が出来ない様に抑えたと同時に刀や槍でもって鬼神が降りてこない様に威嚇する呪術と考えられます。法隆寺の五重塔に飾られている鎌も同様です。また火事除けでもあったと思われます。
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これは山形県鶴岡市松沢の菅原家住宅(屋根の中腹に八方と呼ばれる高窓があります。此処が積雪時の出入口にもなります。大棟にはまるで神社の千木を思わせるような棟飾りがあります。これで棟を抑えつけて隙間が出来ない様にしているのと併せて厄除けの呪術と思います。流石に出羽三山の麓の民家です。

大棟は機能的には雨漏りを防いで家を長持ちさせること。そして厄除け招福の呪術ですもう一つあったのが美しさや愛着でしょう。家族が同じ屋根の下で竈を共にして生きたのですから、愛着もひとしおです。愛着があれば花も飾りたくなるものです。そこで多摩川西側の多摩丘陵では大棟の保持を兼ねてイチハツやアヤメを植えました。顔が浅い娘に簪で飾ってあげるような気持ちでイチハツを植えたのでしょう。風の強い山梨ではイワヒバを植えました。その地方地方で乾燥や強風に耐える植物を植えました。
私は駿河の旅行を終えて思い立って生田緑地に民家園を訪れたのでしたが今年も5月の連休明けが見頃でもう終わってしまったそうです。恨めしい想いで大棟を見上げてもイチハツやアヤメの葉が生い茂っているだけです。そんな花に代わって今咲いているのは姫シオン、別名貧乏草です。
川崎市の職員に訊けば今年も見事に咲いたのこと。皆に観て欲しいので今年からもう一棟芝棟を増やしたそうです。
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これは生田の民家園の江向家住宅(富山県五個荘手前の花は虫取り撫子です。この山野草の種が広瀬家住宅(山梨)の屋根にも散って咲いていました。もうじきこの庭にも七夕の笹飾りが見られるでしょう。

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これは山梨塩山の広伊勢家住宅(17世紀)風が強いので屋根が低く大棟はイワヒバ(低木)が植えられていました。虫取り撫子のバックにあるモコモコした岩のように見えるのがイワヒバです。
萱は現在は自衛隊の富士演習場の萱やススキを利用しているものの茅葺の葺き替え工事をする技術者不足で困っているとの事。多くを茨城県の職人に頼っているそうです。でも曲屋担当の職員さんが教えて下さいました曲屋の外便所の屋根に野萱草が咲き出したそうです。彼女に連れられて曲屋の案内をして貰いました。
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これは神奈川県秦野市にあった北村家住宅(国の重要文化財)貞享4年(1687)の竣工、大棟は編んだ竹で囲った上にイチハツが植えられていて5月初めには綺麗に花が咲いていたいたそうですが6月末の現在はヒメジオン(別名貧乏草)が咲いていました。
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これは川崎市麻生区岡上に会った蚕影山祠堂(こかげさんしどう(文久3年1863)養蚕の豊作を祈ったお堂。イチハツが見えます。でも今は姫シオンが生い茂っていました。
外便所とは農家の庭先に会ったトイレで、イチイチ履物を脱いで室内のトイレに入っていたのでは時間のロスなので。野良着のまま庭先トイレを使っていたのだそうです。でも岩手から移築するに際してひと回り小さいトイレにしたようです。地面に大きな樽が埋め込んであり其処に二枚の板が渡してありました。板を踏み外したら大変です。
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の建物は岩手の曲屋で工藤家住宅国の重要文化財。説明員の背が入り口でその左手に馬屋があります。向こうの建物が外便所(所謂厠)でその棟の上に野萱草が咲き始めていました。七夕の頃が見頃でしょう。
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厠の棟の上で咲き始めた野萱草。イチハツは人間が植えたもので野萱草は自然(神)が植えたものです

野萱草が満開になるのは七夕の頃でしょう。萱草は別名「ワスレグサ」です。一日で散ってしまうので忘れ草なのでしょうが。余りに美しいので憂きことを忘れる花と云った意味で愛されてきました。七夕の季節に咲きそろうとは嬉しい花です。
明日は小学校の時の同窓会です。憂きことの多い昨今ですが先生にお会いできますから。御礼を申し上げ憂きことが残らないよう毎日を過ごして、来年のイチハツの咲く頃芝棟の本物を観る事にしたいものです。


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高嶺の花と諦めて・・・。

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昨日は川崎民家園の藁葺き屋根に咲き出した「忘れ草」の花を書きました。
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これは民家園の芝棟”に咲いた鬼百合の花。建物は出羽三山に近い田麦俣の民家です。
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此方は民家園の芝棟に咲いた野萱草「通称忘れ草」の花です。未だ咲き始めたばかりですから七夕の頃が見頃になります。建物は遠野の曲屋の外便所「所謂厠)です。

ところで、今日は小学校の同窓会を鎌倉御成町の「サラマンジェド吉野」で開かれます。
先日図書館でクラスメートに呼び止められ「先生も今年で80歳になられたそうよ・・・」誘われました。
小学校を卒業して60年になります。これからは同窓会も最後の機会になるかもしれません。先生にも御礼を申し上げたいと思って楽しみにしてきました。
そこで寝床については小学校の時の思い出を辿って来ました。
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七夕飾りを皆で作ったつ小学校の時の想いを絵にしてみました。半夏生夜野萱草の咲き出した土手を七夕飾りを持って歩いて橋の上から川に流したのでした。3月の雛祭り5月の端午の祭り7月の七夕祭りどれも川に流すのは子供の身に降りかかる災厄だったのでしょう。でも現代は川を汚すので川流しは行われなくなってしまいました。短歌を添えました。
        ”齢たけて同窓会に集ふしてはともに飾りし七夕思ゆる”
ところで、小学校の時の思い出も良いモノですが私は駿河路での旅行の想いが日に日に濃くなって行くようです。旅行の中でも思い起こされるのがT教授の伊勢物語東下りの講義でした。
高校の古文の授業ではカキツバタの段について「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして〜」としか説明しませんでした。
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今年の駿河路の旅で観た掛川の菖蒲園も伊勢物語のカキツバタ(八橋)の意匠で作られていました。この前夜にT教授に伊勢物語の講座をして貰いました。
自分自身をようなき者「無用な存在」と思うのは度々ありました。左遷された時、就職や進学に失敗した時、失恋した時何れの時にも日本人は旅に出ました。旅に出れば自然に癒されて元気が湧き出る事を体験的に知っていたのでしょう。この伝統の最初に居た人物が伊勢物語の男在原業平だったのでした。私達は何故業平は我が身を無用と思ったのか。高校生の私は疑問に思いませんでした。ところがT教授はこの事由を三代実録(正史)を根拠に業平の父は父は阿保親王で母は伊登内親王で父方の祖父が平城天皇で母方の祖父は桓武天皇であったと説明されました。業平自身も在原の名を賜ったのは政治的な野心が無い事を宣言したのでしょう。政治的な野心は断っても人間の心情は理性では如何とも為し難いモノです。業平の恋心は藤原高子(右大臣藤原基経の妹清和天皇の女御で業平17歳年下。正殿の東の館に住まい一般に二条の后と呼ばれた)に向けられてしまいます。「二条の后」の住まいは正殿の東にありましたが、業平の住まいは/(現在の不退寺)正殿の西にありました。業平は”都にはもう居むまい、東に行こう”として東くだりの旅に出た・・・・。と説明されました。
私達が学生時代に愛読した唐木順三氏の「無用者の系譜」では『退廃においては美しく無頼( 正業に就かない事)においては倫理的であるというアイロニイ(不整合)は既に古代にに現われていた』と力説しておいでで私達は共感しました。
考えてみれば”アイロニイの無い人生”なんてありえません。私は幸いにして深刻なアイロニイに遭遇しないで成長し社会人になっても順調に出世街道を進んでいたのでしたが、50代になってから就職先(長銀)の破綻に遭遇して転覆してしまいました。現在無用者と思わないで過せているのは家族と友人に恵まれているからです。
T教授の専門は西行法師です。西行法師の出家の要因は幾つも説がありますが大勢は西行も業平と同じく”道ならぬ禁断の恋を断ち切るために出家した”と云われているしT教授も基本的には変わらないようです。
北面の武士佐藤義清の恋は藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ/鳥羽天皇の中宮女院になって待賢門院(たいけんもんいん)に向けられます。業平の東下りと同じ東海道を下ります。
業平にとっての藤原高子も西行にとっての藤原 璋子も高嶺の花でした。古代人は恋心を断ちきる為に「忘れ草」を眺めました。恋の未練(憂さ)を断ち切るために忘れ草を眺めたのでした。忘れ草は一日草です。咲いた花は一日で散ってしまいます。夜の逢瀬を咲いていた花も朝日が射すと散ってしまいます。
今こうしてパソコンのキーボードを叩く目の向こうには土手が見えます今年も七夕が来れば「忘れ草」花が咲き出すことでしょう。忘れ草が咲けば浅草ではホウズキ市が開催されます。
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大磯の畔に咲いた野萱草忘れ草の花この道は別名マリア道」と呼ばれています。丘の上に修道院があって修道院からシスターが歩いて大磯も町に出ていたからです。大磯の町にはカソリックの教会や戦争孤児の施設や隠れキリシタンの博物館があったりします。現在は修道院は閉鎖され大学になってしまいましたからシスターの姿は観られなくなってしまいました。
ソロソロ同窓会に出かける時間です。多分皆が戸塚駅11時5分の横須賀線に乗ることでしょう。11時半にはフランスレストランで先生を囲んで歓談です。
七夕の絵を先生にお見せして60年ぶりに褒められる事にしましょう。
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これが正真正銘のカキツバタです。私は業平はカキツバタを観て当意即妙に唐衣(からころも)きつつなれにし妻しあればはるばる来 ぬる 」と歌いましたが本来なら「忘れ草」に思いを託したかったのでしょう。

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これは箱根の仙石原の湿性花園に咲く夕菅の花です。来週にでも観に行く事にしましょう。夕菅は野萱草よりも色がはかなげで「忘れ草」のイメージの濃い花です。

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小学校の同窓会で気付いた女性の目の鋭さ

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昨日6月27日は鎌倉御成り町にある「サラマンジェ ドヨシノ」で同窓会が開かれました。同窓会は東戸塚小学校6年1組和33年卒)のそれで、私は卒業は御成り小学校でしたから、厳密には同窓会員の資格は無くて、いわば」ゲストですでも、今までも何回か御呼ばれしていますので。今回が初めての参加ではありませんでした。
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道路左の寄棟大屋根の建物が同窓会が開かれた「サラマンジェ ドヨシノ」です。このフランスレストランは葉山で成功して閑静な御成り町に昨年進出してきたものだそうです。右の生け垣の中が御成り小学校で向こうの山が御成り山でその西は佐助から長谷に繋がります。御成り山の海側の斜面に大谷美術館があります。
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この日は私達の貸切でした。ランチコースは2700円からのリーズナブルなレストランでした。「サラマンジェ ドヨシノ」は1階のテナントで二階は不動産のオーナーがお住いです。
5年生になって直に全国学力検査が実施されて、その成績を観た両親は御成り小学校への転校を画策しました。我が生家は寺ですし、鎌倉にはその縁故も多いので鎌倉の大町妙本寺の近くに私は転居した事になって、いわゆる越境転校したのでした。
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存か開発か意見が錯綜している御成り小学校の講堂。隣の旧図書館『現青少年センター』が取り壊されている状況から観るに今の鎌倉市の政治力では保存は期待薄のようです。近代美術館でさえ解体するようですからこの木造の昭和モダニズム建築はいずれ解体されてしまうかもしれません。

『地元の学校はレベルが低いのでレベルの高い学校に行くんだ』両親の説明は正しいとは思えませんでした。”クラスのリーダーである”自覚も芽生えて居ましたら転校は潔しとはしませんでした。第一学級担任のA先生にもクラスメートにも申し訳ないと思いました。その後A先生は結婚され御成り小学校に移られたのでしたから。私が東戸塚小学校御成り小学校に渡る先鞭をつけた事になります。と言ってもA先生は結婚されて住居が鎌倉市内に転居されたのでしたから、誰からも非難されることはありません。A先生が御成り小学校のクラス担任になるとクラスの6割の生徒が越境入学者だったので驚かれたそうです。
御成り小学校は両親の期待通りにお勉強のできる子が多くいました。私は出来る生徒に刺激され学力も向上しました横浜の山手学院(『中学受験予備校)の模擬試験では算数と理科では1位にもなりました。栄光学園にも入学したのでしたから両親の転校作戦も成功だったのでしょう。
A先生の後に私は挨拶しました。
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これはお料理の前菜で鎌倉野菜の他は今朝三浦の佐島漁港に上がった鱸です。
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これは完熟トマトの冷製スープです。
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主菜は筑波山の子豚のステーキでしたとても柔らかくて年寄り向きの味噌テーストの味付けでした。
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デザート、驚きの大きさの珈琲です。キウイのケーキも別腹で収まってしまいました。
「私が東戸塚小学校に居たのは5年生の1学期迄で2学期からはお隣の御成り小学校に転校しました、転校以来ズット先生にもクラスメートにも申し訳ない思っていました。3年前脳梗塞を発症して病院のベッドで考えました。”自分は何故未だ生きているのだろうか?”考えると”これからは何時死んでも良い様に遣り残しが残らない様に時間を過そう”そう思うとこの同窓会にも特別参加して”先生にクラスメートに転校した事実のお詫びとお礼を申し上げたいと思って出席しました。
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御年85歳になられた恩師を囲んで楽しい食事会は盛り上がりました。
偶々来週は七夕です。東戸塚小学校の正門前には木の橋『駒立て橋)があってその上から七夕飾りを流しました。人生は憂いや悲しみに満ち満ちています。憂いを涙に流すように七夕飾りも流したものです。
わたしはこの同窓会で皆様に御礼を言える事を楽しみにしながら、その思いを絵に描いて来ました。観てください。
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この日の同窓会を楽しみにして描いた絵。東戸塚小学校の前には木製の橋があってこの上から七夕飾りを流したのでした。学校の周囲は田圃で校歌に歌われている様に燕が飛んで山羊も居ました。
ワイワイガヤガヤ昔日の教室の雰囲気は全く変わりません。A先生の左右は面倒見の良い女性が囲んで色々世話を焼いています。先生も嬉しそうです。でも次の詰問には顔を曇らせました。
「先生卒業式のお姿は羽織袴で居られました袴の下のお腹が大きくておいででした。先生デキちゃった結婚だったのでしたか?」そんな話は私が転校した後の事です。男性は総じて無関心の風でした。そのうち先生は席を変えて男性が多い席に移られました。叔母さん達は男性達に囲まれて談笑する先生に向けて言います。
”先生は昔から男の子が好きだったのね、総じて私達には冷たかったわよね・・・・!」
矢張り女性は怖ろしい思いました。
先生もお疲れの様でしたので食事をお終えたら即解散で車でお宅までお見送りしました。女性陣はモットモットお喋りに興じたいようで喫茶店に行くようでした。私も誘われたのでしたが、私は失礼して路地裏を散歩する事にしましたと云うのは。線路脇の立葵が気になって仕方ないのでした。
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小町通りは七夕飾りで賑わっていました。

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梅雨明けを知らせる立葵の花

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御成り町で同窓会を終えて私は横須賀線の線路脇を通って雪の下に向かいました。線路脇の細道は昔ながらの砂利道です。日本中の道はアスファルトで覆ってしまいましたから日本の植生も変わってしまいました。路地裏に咲く「ドクダミ」や「ホタルブクロ」や「忘れ草」もアスファルトになったら生き残れません。線路脇の道を舗装しないのは多分地域の住人がこうした山野草を大切にしてきたからだと思います。とりわけ雪の下と駅を繋ぐ線路脇の細道は一人のお婆さんが手入れをしてきました。小さな仕舞屋にお住いで猫の額のお庭で育てられた立葵が次第に増えてお婆さんは増えた立葵を線路わきに植え替えられました。線路と細道との境は枕木を使った垣になっていましたから、隙間があって隙間をシャベルで掘って立葵の若芽を移植されたのでした。でも細道の沿った街区は急速に開発が進んで、先ずは駐車場に次いでアパートに変貌してゆきました。お婆さんの家も開発の標的とされたのでしょう。私が入院している中に更地になってしまいました。
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鎌倉駅と雪の下を繋ぐ生活道路は大半が未舗装です。未舗装部分に立葵が自生しているのです。写真はU字溝とフェンスの隙間に自生して花を咲かせた野萱草(通称忘れ草)忘れ草垣もしみみに植えたれど醜(しこ)の醜草なほ恋いにけり。万葉集12「大意:忘れ草を垣のところまでたくさん植えたのに、この草ったら、ちっとも効き目が無くって・・・・・よけいにあの人のことが恋しい。
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この電信柱の奥の更地に住んでおられたお婆ちゃんが丹精したのが此処の立葵なのでしたが
この細道を北に進むと寿福寺踏切に出て右折すれば川喜多映画記念館に出ます。今は原節子を特集しています。
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立葵の咲いていた処は参議院銀選挙の選挙ポスターが掲示されていました。ポスターが良く見えるように立葵を伐採したのかもしれません。
肝心のおば茶が住んでおられたあばら家は既にありませんし立葵も疎らにしか生えていません。線路側に自生していたカンナの方が優勢なようです。
上の写真の状態で落胆してしまいました其処で昔アップした写真と見比べてみました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48147775.html
下が以前の写真です。
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これが5年程前の私が入院する前の写真で色とりどりの立葵が咲いて電車が通るたびに大きく揺れてそれは見事でした。
お婆さんが居なくなってしまったので立葵は気力を失ってしまったのでしょうか?それとも野生と云っても立葵は人の面倒見が必要なのでしょうか?解りませんが見るからに貧弱になってしまいました。
叔母ささんのお庭は次の様でした。
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叔母さんおお家の庭越しに線路を観る

尊い土

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陰陽五行説と云うと非科学的と思われ得る昨今ですが、思い当たることが多々あります。一般には、古代中国でに始まった認識論(哲学)で。『万物は木・火・土・金・水の5つの元素から成り立っているという説』です。5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えです。5つの元素は各々別の元素と関係、「相生」と、「相克」の2種類(順と逆)の関係に在ると認識します。それを図示すると次の通りです。そして病気や災害に遭遇したならば原因を五行の元素に求めて、相性と相剋の蛇口を調節して、正常な状態をキープしようとするのです。
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五行説の概要図出典はウィキぺディア
今日話題にする「土」は(水と(木)と相剋の関係にあります。土は木の根が張ることで土の流出を防ぐことができますし、水は土に流れを抑えられることで、谷や川の形を保つことができます。土は「火」と相性の位置にあります。木が燃え続ければ火はやがて衰え、灰になって土に変わります。水が溢れ続ければ木は腐ってしまい、金属に水が着けば金属は錆びてしまいます.異常気象で雨が降り過ぎると土石流を引き起こしますし、降らなければ渇水になって、稲も人間も枯れてしまいます。雨は適当な量降るのが良いのであり。相性相剋の関係を意識して適量に調整する事を良しとします。
熊本の地震や大雨を観ていると自然と云う名の神様が身勝手な人間を諌めている様に思えてきます。
今月の初め加茂の菖蒲園で観た時の事です。早朝鶉と雉のいる厩舎を見学しました。厩舎内では職員が如雨露で水撒きしていました。私は水に殺菌剤でも含まれていると思って
「何と云う薬品かを播いているのか?」尋ねました。
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これは加茂の花鳥園(旧称菖蒲園)の雉と鶉の厩舎で納豆菌入り水を散布する風景植木はハーブであり自然の力を活用して細菌の感染を未然に防いでいました。右側のシャツの青年は背中に納豆菌入りポンプを背負って頑張っていました。
すると水の中に含まれているのは納豆菌だと云われました。土に納豆菌が含まれていればあらゆる鳥に災いする細菌やウィールスを駆逐するのだそうです。
言われてみれば肺結核を克服したのはペニシリンでした。「死の病」と怖れられた肺結核を駆逐したのは青カビの中から発見されたペニシリンと云う成分で。青カビがペニシリンを育成して自身の縄張りを広めるべく肺結核金を駆逐するのでした。こうした物質を抗生物質呼び地中には様々な微生物が居て多様な抗生物質を使って自身の縄張りを広げているのです。ペニシリンが効かない肺結核菌が出現すると人間はストレプトマイシンを発見し、以来細菌と医学は耐性菌と抗生物質の発見のいたちごっこの観を呈してきています。
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これは我が家の鏡餅に発生した青カビ、勿論委細構わず鏡開きにお汁粉にして食べましたこのブログは次の通りでしたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49098378.html青カビが生えれば、鏡餅は腐らない(ブドウ球菌が発生出来ない)訳で青カビが発生すれば食べられるサインと思っても、其処で何故青カビが生えたら食べられるのだろう?疑問に思ったところからペニシリン発見の端緒になったのでした。

昨年秋には大村智北里大学名誉教授がノーベル賞を受賞されました。熱帯の風土病と怖れられた象皮病に有効な抗生物質イベルメクチン」を発見されたのでした。テレビには。大村智先生の謙虚な生活姿勢が映し出されました。お散歩しながら土を試験管に採取される姿は敬意をもって観たのでした。土は生物の命の源であると改めて確信しました。お百姓も土を舌で確認して野菜の苗を植えたモノでした。昔の人は『土こそ恵みの源』と知っていたの只管地蔵菩薩を信仰したのでした。
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これは耶馬渓羅漢寺の地蔵様親から子供に命が引き継がれるのは土の不可思議さで地蔵菩薩を拝んだ知恵だと思うのです。
『土が穢い細菌だらけだ…』と教えて手洗いに異常な執念を沸かせたのは土に対する冒涜のように想えます。そう言う人は癌になっても抗癌剤を服用する権利は無いと思います。
ところで先週はテレビで伊勢神宮の神田で早乙女が田植えをしている風景が映っていました。
緋色の袴を着て早乙女が田植えをする景色は良いモノです。
早乙女の白い脛が土に汚れる景色を観ると久米の仙人ならずとも迷ってしまいそうです。それに泥んこは美容にも良いと聞きます。
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これは今年の伊勢神宮の神田田植えの様子写真出典伊勢市のホームページhttp://www.city.ise.mie.jp/9194.htm
昔は我家でも総出で田植えをしたものでした。田植えをして足を洗うと実に気持ちの良いモノでした。私の父は田植えを止めて会社勤めを始めてから足の水虫に苦労していました。
家族全員で父は履いた下駄を避けていましたし。父がほかの家族の履物を使わないように小言を言いました。今思い起こすと土の中には白癬菌(水虫の細菌)を駆逐する抗生物質を出す微生物が潜んでいたものと思います。
大村先生に白癬菌を駆逐する抗生物質を発見して戴き国民栄誉賞も受賞して戴きたいものです。


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紫陽花電車の楽しみ

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日本人は外国文化の受容については天才と思われます日本人の作る漢詩も素晴らしいモノがありましたし西洋の言葉を訳すにも天才でした。中華民国(Republic of China)とか中華人民共和国(People's Republic of China,)と云った国名は中国人が考えたのでなくて、日本人が先ず英語を作って次に漢字に訳したものでした。中国人が自国の国名を漢字名も英語名も日本人が付けたと知ったら怒り出すことでしょう。そんな文化を受容する天才ぶりを如何無く発揮したのは。古代の学者源 順(みなもと の したごう)でありました。源 順は「あずさい」のの大和言葉に「紫陽花」の漢字を充てたと云われています。、「あずさい」とは藍色の花のかたまりの意味だったそうです。紫陽花の漢字は白楽天の造語でライラックのような花だったそうです。
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これは諸兄の母橘橘三千代の念持仏と云われる法隆寺の阿弥陀三尊像諸兄の母橘三千代は藤原不比等と再婚し、光明皇后を産む。諸兄は好むと好まざると拘らず政争に巻き込まれ藤原氏の権勢に屈してしまいます。この念持物には橘三千代の悔悟の念が込められていると思うのです。その記事は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48772364.html写真出典平凡社(法隆寺)
源 順が光りを分解すると7色になるとは知らなかったでしょうが、「あずさい」の花が白に始まり赤から藍更には紫に代わる事に気付いて「紫陽花」の字を充てたのでしょう。誰もがこの字に共感したのでしょう。橘諸兄は万葉集に次の歌を残して居ます。
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを いませわが背子 みつつ偲はむ
                橘諸兄 (巻二十 4448)
この歌の解釈は難しく単純な相聞歌(矢富巌氏万葉秀歌)と解釈(紫陽花の花が色とりどりに咲くようにあなたも長く元気で美しく居てください・・・』と解釈するモノと自分を裏切った肉親への憎悪の歌だとするものがあります。
大意:(私の肉親はまるで紫陽花が色変わりするように私を裏切った私はこの憎悪を永遠に忘れはしない・・・)そんな意味と解釈されます。橘諸兄は幼名を葛城王(葛木王)と云った用明天皇の子孫でしたが、臣籍に降下して橘宿禰 のち橘朝臣姓となります。政争を避けたにも拘らず藤原仲麻呂の政敵とされてしまいます。まるで在原業平を想わせる貴公子です。そんな史実がこの歌の解釈を180度変えているのでしょう。原因は紫陽花の花がまるで陽の光のように7色に変化する事にあります。人間の心が移り気なのが悪いのか無常なことが真実なのか解りかねます。それだけに紫陽花の花が好きな人が多いようです。
昨日6月30日に紫陽花を観に箱根登山鉄道に乗りに強羅にでかけました。
JRで小田原に行き同駅で小田急に湯元で箱根登山鉄道に乗り替えて強羅まで上ります。昨年は宮ノ下までで行きました。今年も紫陽花を観に出かけました。箱根登山鉄道は小田急の傘下にありますからバスも登山鉄道もケーブルカーも全部接続が良いのです。箱根は外国人観光客が多く、彼等は大半が「乗り物の通し切符を買っていました。
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これは箱根登山鉄道の改札口で配布していた団扇です。夜にはライトアップされるので夢のように綺麗だと思います。
外国人も紫陽花が好きなのかな?思いながら観察していると皆車窓に見える紫陽花に向けてスマートフォンのシャッターを切っていました。
シーボルトが紫陽花をオランダに持ち帰り「お瀧さん」の名をつけて西洋紫陽花の創始となった事を考えれば紫陽花の美しさは人類に共通する感覚のようです。
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車窓から眺められる紫陽花を写真にとる中国人観光客
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大平台駅で途中下車して紫陽花の中を摺り抜ける登山電車を撮影しました。此処は急な登り道を越える為にスイッチバックするのです。比較的線路の両脇が広くて其処を遊歩道が通っているので大勢のカメラマンが居ます。職員も”事故を起こしてはならじ”懸命に大声を発して注意を促します。カメラマンたちはもう夢中でカメラを構えています。
箱根登山鉄道の着想は三井の大番頭であった益田鈍翁が行います・三井物産の創業者でもあった鈍翁はスイスの登山鉄道を学び”日本でも…”と考えて小田急を抱き込んで箱根登山鉄道の開発に乗り出します麓の小田原板橋に別荘地を開発し早雲山の麓に強羅の別荘地を開発します自身も板橋と強羅に別荘を設営し茶室を作って文人や政財界人を招きます。
鈍翁の生き様は箱根登山鉄道に引き継がれその保線区員にして、線路脇に紫陽花を植えれば観光客にも喜ばれるし。土肩が堅固にもなるし下草刈も楽になる、一石三丁の効果が期待されるのが路肩に紫陽花を植樹する事だったのでした。
私も昭和30年代までは祖母に連れられて箱根の強羅に遊びに来たものでした。廉価な県民寮があって自炊客が寝泊まりしていました。当時は紫陽花よりも箱根空木や馬酔木の方が目立っていました。紫陽花が目立ち始めたのは昭和40年代からでした。私は長銀で電鉄を担当していましたので箱根伊豆のの観光地に勢力塗り分けには留意しました。東急(伊豆急が系列下」西武(修善寺鉄道が系列下」小田急(伊豆箱が系列下)の3社が競う中で、一番大人で大人の対応を示すのが小田急・伊豆箱根グループでした。
”紫陽花を植えよう”保線区員が動き出す企業文化は小田急・伊豆箱グループだから育まれていたのでしょう。
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登山鉄道は急な登り下りでは水を流して線路と車輪との摩擦を冷やしながら空浸みます。鉄道技術のハードと資金力では快適な登山電車は出来ません。地味な保線職員の創意工夫があってこそ快適な旅を満喫できるものです。

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30日は小雨が降っていました。滴と花が綺麗でした。
紫陽花の花陰には蜘蛛が巣を張っています。今日は雨ですから蜘蛛君も獲物はかからないしひもじい想いをしていることでしょう。
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前の蜘蛛の巣は草蜘蛛の巣です。もう雨で濡れてしまって彼等も梅雨明けを心待ちして居る事でしょう。
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箱根の紫陽花の楽しさは山アジサイや球紫陽花幾つもの種類を同時に楽しめる事です。



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半夏生に蛸を喰う言い伝え

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街に七夕飾りが目につくようになりました。鎌倉の八幡宮には茅の輪が出来て浴衣姿のお嬢さんが如何廻ったら良いか思案していることでしょう。茅の輪も半夏生(今年は7月1日でした)の季節には病気にかかり易いので”気をつけろ”戒めの”知恵なのでしょうこの慣習の起源は屹度食中毒など胃腸病なのでしょうが、最近は熱中症が一番に危惧されているようです。
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デーサービスで渡された脱水症対策のポスター。こまめな水分補給は熱中症対策だけでは無くて胃腸病対策にも有効なようです。パソコンデスクの前に貼って朝晩の水分補給に努めています。
昨晩は食卓に蛸君が上りました。我家は三浦に近いので佐島漁港の蛸が名物なのですが、スーパーで買い求められたモロッコ産の蛸でした。地中海で育った蛸が地球の裏の食卓を飾るとは思いもしなかったことでしょう。”半夏生には蛸を喰え”と云った習慣も昔はありませんでした。まして”田植えを終わって疲れた体に滋養をつけると同時に苗が蛸のように沢山の髭根を張るように祈願した”なんて説明は聴いた事もありませんでした。半夏生の蛸は節分の恵方巻きと同じく関西人の商魂を匂わせます。
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近所のスーパーの半夏生に蛸を食べさせようとするチラシ広告。モロッコ産の蛸君です。
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此方な別のスーパーのチラシで色々に調理済み品が並んでいました。

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半夏生の夕飯はスーパーの思惑通りに蛸と鯵の刺身に煮付けでした。

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半夏生と云えばこの湿地に自生するカタシログサです名の通りに顔の表半分を白塗り厚化粧で裏半分は化粧しない無気味な顔です。この草を観ていると隅田川の土手に居たという夜鷹を髣髴します。夜鷹は吉原に行けないような貧乏人を誘って筵の上で春を売った気の毒な街娼です。屹度夜鷹には半夏生が似合った事でしょう。撮影場所は鎌倉中央公園です。鉄漿トンボが自生しています。
蛸と病気と云えば目黒の蛸薬師を想い出します。目黒駅を降りて権野助坂を下って山手通りを渡って目黒不動尊に向かう参道の途中に蛸薬師の案内が懸っています。その由緒は次の通りです。
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国し、たくさんの仏法を伝えました。(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です)。大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その時に念持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師は全国を巡りましたが、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせられて、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。
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目黒不動参道に有名な蛸薬師が祀られています。
要約すれば円仁大師は若いころから眼病を患われておいでで唐から帰国の際に海難に遭遇したのでしたが念持仏の 師如来の御加護で無事帰国その法悦を蛸に乗った薬師如来の姿に現しました。
古代の病気と云えば先ず眼病が思い当たります。眼病に効果が在るのが亜鉛で、亜鉛は蛸に多分に含まれていますから。蛸を喰って眼病を治癒する効果が期待されたのかもしれません。
大体、蛸は奇妙な生物ですキリスト教世界でもイスラムでも鱗の無い魚は食べる事をタブーとされています。蛸を好んで食べるのは日本人か韓国人でしょう。
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これはギリシャのミノアの壺です。リアルな蛸君が壺の全面に活き活きと描かれています。特に愛嬌のある目に引きつけられます。

中世になるとヨーロッパもイスラム世界も宗教色が強くなって無気味な蛸(悪魔の魚 devilfish)を食べる事は禁じられましたが、ギリシャ人達は蛸君を理性の眼で見詰めて好んで食べたのでしょう。日本人は古代から現代まで蛸君を食べる文化を伝承し続けて来たことになります。半夏生には蛸を喰えと云う慣習は梅雨明け夏本番の移行期は兎角体調を壊しやすいので滋養の高い蛸を喰って体力をつけろの意味でしょう。今頃は体が茗荷や生姜のような香の物を食したくなります。体がこうした薬膳を食べて体中に溜まった毒素を排出させるのでしょう。旬を食べたい気持ちが半夏生には蛸を喰わせるのかもしれません。でもこうした連想ゲームなら、蛸よりも効果が期待される悪魔の魚があります。それは好んで蛸を喰っているウツボです。ウツボも蛸と同じく鱗の無い悪魔の魚です。魚類だか爬虫類だかわからない半夏の生物です。蛸君は魚類と両生類の中途半端な生物であるのと似ています。ウツボを喰えば蛸よりも悪魔性は濃いし、土用の鰻にも似ているし良いと思います。
昔天神島に浜木綿を観に行った時佐島漁港でウツボを売っていました。今度息子に車に乗せて行ってもらいウツボを買う事にしましょう。唐揚げが良いかそれとも蒲焼が良いか漁師さんに教えて貰う事にしましょう。干物も行けるのですから美味と期待されるし。蛸以上に体には良さそうです。
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蛸が半夏生に効果が在るのなら蛸を好んで喰うウツボは蛸以上に効果が期待できるし、土用の鰻の先食いのような期待が持てます。


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菅笠に秘めたる女風の盆(夕菅花)

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6月30日箱根登山鉄道に乗って強羅まで登りました。強羅でバスに乗り換えて仙石原の箱根湿性花園に向かいました梅雨明けが待たれるこの季節仙石原は黄菅が彩るのです。テレビでは日光の戦場ヶ原や尾瀬の日光黄菅が映し出され、ハイカーは黄色の絨毯に誘われて高原の湿原に向かいます。我家からでは日光も尾瀬も遠いのですが、箱根の仙石原は手頃な距離にあるのです。
仙石原は近い事に加えて黄菅の種類が違います。仙石原は夕菅が自生しているのです、日光黄菅に較べれば色が淡くて儚げなのが夕菅です。萱草(ワスレグサ)夢も日光黄菅も夕菅も同じユリ科の植物ですが萱草、日光黄菅、夕菅の順に色が淡くなります。この黄菅三姉妹はどれも一日花です、でも少しだけ咲く時刻がズレています。陽が昇るのを待って咲き出すのが萱草や黄菅ですが。夕菅だけは陽が沈み月が顔を出す時刻に咲き出します。
昔藤圭子が「夢は夜開く」を唄ってスターダムに上りましたがこの流行歌を夕菅を髣髴しながら聴いたものでした。
『赤く咲くのは芥子の花
白く咲くのは百合の花
如何さきゃ良いのかこの私
夢は夜開くの』
歌詞でしたが
朝に咲くのは百合の花」
夕べに咲くのがを夕菅で
夢と同じで夜開く
過去はどんなに暗くても
夕菅は夜に咲く。
そんな次第で強羅から仙石原に向かいました。強羅からケーブルカーで早雲台、早雲台からはロープウエーで湖尻に向かうのが小田急グループの観光ルートなのですが大涌谷の噴火以来ロープウエーに代わってバス便がメインのようで強羅にはバス待ちのお客が多くいました。
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これが六月末の仙石原湿性花園です。遠くで光っているのがススキの原で手前が湿性花園です。紫の花は菖蒲でもうじき一面に夕菅が咲き出します。今回も少し早すぎたようでした。
大きな期待をもって夕菅を観に来たのでしたが夕菅は未だ咲き出したばかりでした。それでも樹の下闇にはササユリが咲いていましたから満足でした昨年の今頃は沼田の弥勒寺でササユリを見つけましたし。木の下闇でササユリを見つけるとかぐや姫に会ったような感動が在るものです。
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夕菅には時期尚早でしたが期せずして笹ユリを観る事が出来ました。


笹ユリも立ち擬宝 珠も松本仙翁も咲いている山野草と案内板を見比べて覚えました。
花は名を覚えると急に親しくなったような気になるもので不思議です。山野草の名を知るのはクラブやお座敷でお姉さまに名刺や千者札を貰ったような気になるものです。クラブのお姉さまの名前は直ぐに忘れてしまうのに山野草の名は覚えてしまう、モノです。屹度名前の謂れを考えて自分なりに納得するからでしょう。
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これは立ち擬宝 珠の花です。名は擬宝 珠の仲間で背が高いからでしょう。
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これは松本仙翁です。「仙翁」の名は京都府嵯峨の仙翁寺に伝わったことに由来して松本は長野の松本では無くて花の形が歌舞伎役者の松本幸四郎の紋所(撫子)に似ているからでしょう。
ところで肝心の夕菅は湿地よりは少し高い位置に咲き始めていました。夜に咲く夕菅でも陽当りの良い所から咲き出すのは少し天邪鬼な性格なのかもしれません。
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湿性花園の中でも陽当りや水捌けの良い高い場所に夕菅は咲き始めていました。
帰りの電車は平塚に停まります。期末試験を終えた高校生が大挙電車に乗り込んできました。もうじきこの街も七夕祭りで大賑わいすることでしょう。其処頃には高校生も浴衣に着替えて街に繰り出すことでしょう。家ではワイフが笹竹を伐って来ました。「今年も笹飾りをしましょう!」言っているようです。去年の短冊を出してきました『独立歩行』と書いてあります。私は未だぎこちなくても一応は独立歩行も可能な状況です。今年は天の皇帝に何を祈願しようか?考えて「来年も仲間と旅行を楽しみたい」思って短冊を作ってみました。来年は富山の八尾に風の盆を観に行く予定です。そこで”。”来年も共に行きたい風の盆”と添えてみました。風の盆で踊り手の被る傘が菅笠であることに気付いてもう一句”菅笠に秘めたる女風の盆”と加えてみました。
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風の盆2句が今年の短冊です。独立歩行は去年の短冊でした。
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キンカンは湿性花園で足を虫に刺されたので出したものです


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