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白雲洞の岩カラミ

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岩カラミは紫陽花に似た花をつける蔦です。名前の通り大岩に絡んで花を咲かせるのでその名があります。今年も鎌倉の東慶寺に岩カラミを観に行きました。その時の記事は次にアップしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49326315.html
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これが東慶寺の本堂裏の大岩に咲く岩カラミです。花は白い花弁の鍔紫陽花のようで。緑の葉っぱとのコントラストが爽やかです。
先日書いたように強羅公園は三井財閥の大番頭だった益田鈍翁が強羅公園を開発して自らもその園内にサロンを造営しました。サロンの中核は新タイプの茶室で、田舎家を移築しその大部屋でグループで抹茶を戴くと云ったスタイルでした。利休の茶室は4畳半で主人と客を合計しても精々3人の小部屋でしたが。鈍翁の茶席は
利休以来の芸能から脱し政財界の巨人同士のサロンとなっていたようです。強羅に入ったらまず一風呂浴びて大部屋に三々五々集合します。大部屋では主人の益田鈍翁がコレクションした美術品が置かれています、利休の時代だったら床の間の軸は高僧の書だったり決まっていたものが、鈍翁の茶席には色恋の和歌や絵巻物の断が懸っていたりしました。時代も既に明治でしたから基本的な制約は無く自由がベースであったのでしょう。その茶室を鈍翁は白雲洞と名f付ました。
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此処が強羅公園内にある白雲洞茶苑の入り口、此処の入場料は無料です。入ってすぐに待屋があってその奥に温泉に入れる建屋があって、そこで一風呂浴びてからお茶席に集うスタイルになっています。日本橋で鈍翁さんから”君今度の週末箱根に来ないか?”誘われたら登山鉄道を乗り継いで強羅に入り、一風呂浴びてサッパリしてから白雲洞茶席に入ると思いもよらなかった政財界の大物と同席出来たりして感動したものでしょう。鈍翁はそんなビジネスの一期一会の場所として茶席を活用したものと推測します。
お茶室の縁側に出れば外輪山(明神ヶ岳)にかかる白い雲が見渡せたのでしょう鈍翁は白い雲が好きだったのかもの知れません。そして茶室の目の前の大岩に岩カラミ植えたのでしょう。大岩に絡む白い花が峯に懸る白い雲のように思えたのでしょう。思惑は別として白雲洞のシンボルは大きな岩カラミになったのでした。今年は東慶寺の岩カラミも観たし本家本元の鈍翁の岩カラミも観たいと思って足元が不確かな中白雲洞に登ってみました。でも修理工事中でした。お蔭で強羅公園側に出た蔓の先には岩カラミが見事に咲いていたにもかかわらず、肝心要の白雲洞の前の大岩には全く咲いていませんでした。今年から数年は修理工事の影響で我慢してくださいそんな風です。
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6月30日の白雲洞縁側から観た岩カラミ。花は全く残っていませんでした。
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岩カラミの向こうが白雲洞の茶席です。

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白雲洞の茶席此は一服お点前を戴けます。500円(菓子付)です農家を移築した質実な建物が如何にも鈍翁好みです。

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これが白雲洞の岩カラミでした。修理工事の為に今年はこの本体部分は眺められませんでした、この蔦の一部分は強羅公園にはみ出して咲いていました。左上は強羅公園になります。
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これは強羅公園内の遊歩道白い紫陽花は「柏葉紫陽花で岩カラミではありません。この道の右下に大岩があって其処に岩カラミが自生していて白雲洞があります。
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この白い花が白雲洞に自生している岩カラミの一部です。陽当りの良い強羅公園に這い出している部分は見事に白い花をつけていました。
強羅公園は薔薇が咲いて夏椿も咲き始めていました。薔薇が日向の花なら岩カラミは日陰の花です。幸い地震も静まって観光客も戻って来ています。強羅公園をはじめ伊豆箱根鉄道の施設内では紫陽花の鉢植えを販売しています。今年はダンシングパーティーが人気のようです。
紫陽花は花が終われば強めに選定をします。伐採枝はそのまま火山灰土に挿し木すれば発根して来年は販売できます。鈍翁さんの商才は伊豆箱根鉄道の企業文化に根差して日本最初のホームセンター(ビーバートザン)になりました。東急ハンズよりズット先行しましたが。ドミナントエリアが狭いのが不幸でした。
でも紫陽花の伐採枝を挿し木にして鉢植えを販売するそんな姿勢に共感を覚えます。
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これが今年人気だったダンシングパーティーです。もうお終いなので半額の1500円で廉売していました


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強羅公園内のレストランCafe Pic

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箱根登山鉄道の吊革広告に眼をやると「強羅公園」内の”一式堂画廊のレストランでサンドイッチを始めた”知りました。”ハーブティーに野菜サンド”如何にも避暑地のランチに向いて居そうです。車内でズット考えました。”今日のランチは強羅で何時もと同じピックでシチューパンを齧るか?それとも新しいサンドイッチに浮気するか?”胃袋にも相談して箱根登山鉄道駅から強羅公園に向けて坂道を登りました。この坂道は記憶以上に急で。左脚が不自由な私には負担でした。考えてみればケーブルカー一駅分を歩いた事になります。道の両側には強羅の老舗レストランが軒を連ねています。
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これは箱根登山鉄道の車内彫刻の森美術館などの沿線広告と広告しなくても目につく紫陽花電車の広告が目につきます。お嬢様は強羅にある函嶺白百合学園小学校です。麓の湯本駅まで40分も懸るのですから名門小学校に通学するのも大変です。

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これが箱根登山鉄道の終着駅強羅駅です。強羅公園は此処から急な坂道を400mほど登らなければなりませんケーブルカーで1駅ですがヘビーな坂です。

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     これが強羅公園の中にあるカフェピックです。スイスの山小屋風の建物でテラス席も人気です
強羅公園の噴水の前にして右(西)にスイス風のロッジがあって其処が『Cafe Pic/カフェ ピック』です。逆の東の位置にあるのが一式堂画廊/http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/map/isshikido/で白亜の円形の建物が目立ちます。建物の周囲は紫陽花で縁取られています。Cafe Picにとっては思いがけない強力なライバルの出現になります。
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Cafe Picの店内から外を観ると噴水の向こうに白亜の円形建物が見えます。其処が一色堂画廊で最近サンドイッチレストランを始めたようです。強羅公園内を歩くと40分くらいですから時計回りに歩けば此処Cafe Picで休憩したくなり反時計回りに歩けば向かいの一色堂でソフトクリームを舐めたくなります。
何時もは直ぐに浮気をしてしまう私でしたが、この日に限ってはCafe Picに足が向かいました。今日のランチは名物のパンシチュー(950円)です。箱根は欧米人の客層も多かったせいでしょう。美味しいパン屋さんが多くてシチューパンと云えば宮ノ下の渡辺ベーカリーが人気です。Cafe Picのパンシチューは基本的には渡辺ベーカリーのそれと変わりませんが、蕩けたチーズが糸を引くホワイトシチューが特長です。私達が店内に入ると俳優さんとカメラマンが居てメインメニューの撮影中でした。屹度一式堂画廊の宣伝攻勢を受けてCafe Picも反抗宣伝に乗り出すのでしょう戦いはこの夏休み大文字焼きの頃でしょうか、噴水を挟んだ東西のレストランのパン戦争になりそうな雲行きです。それはそれで消費者にとっては楽しみです。
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Cafe Picの室内私が入った時刻には宣伝用の写真を撮影している最中でした。
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これがCafe Picのメニューです珈琲は480円ハーブティーは520円です。
Cafe Picの人気メニューは第一がカレーライスで第二はシチューパンです。モデルのお嬢さんは撮影素材のカレーを食べていました。シチューパンの欠点は食べにくいのです。
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これが今日も食べたCafe Picのパンシチューです。丸くて堅めのロールパンの頭を刳り貫いてホワイトシチュウを入れてチーズや海老スィートコーン等の具を入れてからオーブンで焼いたモノです。美味しいのですが食べにくいのが欠点です。お嬢様のデートには不向きです。食後に一色堂で名物のソフトを舐めようと思って珈琲は注文を控えました。
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Cafe Picを出る噴水を挟んで向かいにあるのが一色堂画廊です。画廊の左側に明神ヶ岳(大文字焼きで有名)が聳えています。お昼になると午前中ハイキングをした人で満席に込み合います。
ワイフは舌を火傷したようですが、私も指を汚して何時ものシチュウパンを頬張りました。多少の困難はあっても食欲は留めがたいモノがあります。満足してお店を出ました。何時の間にかテラス席は外国人で満席でした。外国人に訊いたら食べ易いパンシチュウに工夫出来そうな気がします。

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根粒菌の有難さ

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ワイフが仙台に出かけて私の好物の”ズンダ餅”を土産に手に帰りました。
先々週の大河ドラマでは北条征伐に遅れた伊達正宗が太閤秀吉の不興を宥める為に自らズンダ餅を撞いた事になっていました。史実の真偽は別として餅を撞いて一緒に食って仲を取り持つのは共同体的な発想です。
流石に仙台のズンダ餅で糯米は「都黄金」を使っているとPRしていました。でも肝心の枝豆については一言も説明していませんでした。何処かズレを感じます。ッズンダ餅の美味しさは枝豆の風味にあるからです。
梅雨明けが待たれる季節、枝豆が食べたくなるのは、ビールのツマミに枝豆が最高だからでは無くて。枝豆に含まれる植物タンパク質を体が欲するからです。
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仙台土産のズンダ餅
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ズンダ餅の案内。消費者はズンダの風味(枝豆餡子の美味しさ)を楽しみにしているのです。お餅と勘違いしているのは戴けません。筆者は宮城では無くて山形大石田のズンダ餅が最高だと思っています。
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この状態で収穫して枝ごと豆を茹でた料理が枝豆です。あの風味は若いからの特徴です。このまま田圃の畔で成熟させれば大豆になって味噌の原料になります。
そんな枝豆は田の畔で生育させます。少しでも土地を有効利用すると同時に畔を補強しようとする農家の知恵の産物が枝豆なのでした。稲の花の咲き出す季節に豆を収穫すれば青い豆で枝豆になりますし成熟させて稲刈りの季節に収穫すれば大豆になって味噌の材料になります。枝豆も大豆も同じで青い常態か成熟して黄色になってしまうか違いだけです。青ければアミノ酸、アスコルビン酸の風味がありますが成熟すると風味が減少してしまいます。勿論青い時が柔らかく歯当たりも良いのです。
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枝豆は田圃の畔の補強に撒いた大豆を青いうちに収穫して枝付のまま茹でたものです。あの枝豆の風味を生かしたまま餡子にして餅に絡ませて食べるのがズンダ餅です。
私が日本橋の証券会社に勤めていた頃近くのう蕎麦屋で”晩酌セット”を注文しました。隣の席にОL三人組が生ビールを注文して”つまみは枝豆よね!”とやっていると私はゾッとしたものでした。叔母さまが枝豆を剥いて口にする姿は叔父様の楽しみを奪うばかりか。若い男を食べる姿にも見えたのでした。
ところで、今日話題にしたいのは何故枝豆やズンダ餅の風味があってこの半夏生の季節に旬になるかと云う事です。それは枝豆の根っこを観れば直ぐに解ります。枝豆の根っこは髭根で髭根のアッチコッチにビーズのような塊が付いています。この根っこの塊の中心には根粒バクテリアが巣食っているのです。これは小学校の理科の時間に教わりました。根粒バクテリア菌は元々地中に潜んでいるのですが枝豆の根っこが伸びて来るとその組織に潜入して枝豆が用意してくれた根粒に集まります。根粒を棲家にして枝豆が運んでくる糖分を栄養にして増殖します。そして水分と一酸化炭素を原料にして空気中にある窒素をアンモニアに同化します。幾つものアンモニアは同化を繰り返してタンパク質に変化します。これがタンパク質の同化作用で枝豆の遺伝子もこうしたタンパク質で出来ています。今頃の季節一際緑の目立つ植物はそうじて根粒菌を囲っている植物ばかりです。
土手の葛も根っこには根粒菌が巣食っていてタンパク質を蓄積しますし、クローバーも根っこに根粒菌を隠して群生しています。クローバーを”馬肥し”と呼ぶのはその養分が馬の体育養生に極めて有効だからでしょう。
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白爪草(葉っぱはクローバーと呼ばれます。こんな群生はクローバーが根粒菌と共生して旺盛な増殖力を有しているからです)写真は野村不動産の造成した上郷団地の近隣公園です。
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これは葛の花です。葛も根粒バクテリアと共生していますから猛烈な繁殖力で種にタンパク質を溜めて根に糖分を蓄積します。私達がくず粉として食用にするのは根に蓄えられた糖分ですが、何時かは種に溜まったタンパク質を食べる技術を開発する事が期待されます。


この夏も植物蛋白を充分に摂取して乗り越える事にしましょう。当面は枝豆を摘んでビールは控えるしかありませんが・・・。これもサラリーr-マン時代兜町で不養生したお仕置きなのでしょうから、致し方ありません。

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梅雨明けの楽しみ

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今日は7月7日です。3月3日、5月5日は桃の節句に端午の節句、9月9日は菊の節句ですから奇数月のゾロ目の日は、何れも花が充てられた節句であります。だから7月7日は何の節句なのか調べてみると「七夕」としか答えはありませんでした。内容は「おり姫(織女星)とひこ星(牽牛星)」が天の川の両岸に最接近する日で如何にも中国の伝説です。一方古事記には「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説というのがあって、双方が習合して江戸時代に庶民の行事として「七夕」の節句となって広まったものだそうです。
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今朝のテレビ今日は七夕に加えて大西さんが旅立つのです。
古事記の棚機つ女は7月7日に水の神が天から下りてくると言われ、川、海、池のほとりに棚の構えのある機を用意して、その村で選ばれた穢れ(けがれ)を知らない乙女(棚機津女)が、神聖な織物(神が着る服)を織って、捧げていたそうです。棚機津女は、村の災厄を除いてもらうために、棚にこもって、天から降りてく神の一夜妻になり、神の子を身ごもり、彼女自身も神になると言うお話です。
「鶴の恩返し」や「皇后様の絹織神事」を髣髴させる神話です。
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此方は八幡様の乾坤式角隠しより綿帽子が良いです。

ならば、七夕等と呼ばずに和名が付いて良さそうなモノです。和名では「笹の節句」と呼ばれます。笹は花が付きませんから、花ならば「桔梗」か「笹ユリ」が最適なような気がします。
私の好きな山形県には笹ユリの愛好爺さんがおられて秘密の山中で笹ユリの楽園を手入れしておいでだそうです。
笹ユリを復活させて七夕に飾るようにしたいものです。
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これが笹ユリです。葉っぱが笹の葉に似ているから笹ユリなのでしょうが藪の中二懸命に花を咲かせている風情は如何にも手弱女ぶりです。先日箱根仙石原の湿性花園で咲き始めていました。夕菅同様にこれからが見頃です。
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文月(七月)のの絵は七夕祭りでした土手の上に居るのは山羊さんと小野道風の蛙です。

ところで7月7日は季節の変わり目でもあります。5月は五月雨で雨降り月6月は水無月は水の月の意味で田圃に水を張る月の意味です。因みに7月は「文月」で天の神様にお手紙を書く月(お祈りをする月)の意味でしょう。
今年の7月7日は小暑であり長雨もお終いでこれから本格的に暑くなる日に当たります。今朝の天気予報も今日は暑くなるそうで。暦通りになる気配です。
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これが本興寺のお小堀遠州作の庭園です。昭和40年代は見事な池泉回遊庭園でしたが、庭にも裏山にも松が自生していたので松の雄花が池に流れ込んで池の鯉が死んでしまったそうです。そこでお寺では池の半分を埋めて枯山水にしたのだそうです。池は松だけのモノでも鯉だけが住んでいるモノでも無い。お寺の判断でしょう。

ところで、半夏生には「生水は飲むな」云われ、井戸にも蓋をしました。先月奥浜名湖の本興寺を詣でて小堀遠州のお庭を見学しました。昔観た時は遠州流の池泉回遊式庭園であったのでしたがその半分の池が埋められて枯山水に変わっていましたs。お寺の説明では周囲に松ノ木が茂っているのでその樹脂が池に流れ込んで鯉が死んでしまうので止むを得ず枯山水にしたのだそうです。
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これは浄智寺の井戸です浄智寺の井戸水は鎌倉七井戸の一つ「甘露水」と呼ばれていましたが楠や高野槇等の雄花が流れ込んで池の鯉が死んでしまいました。此処の井戸は飲料水では無く墓参用の井戸ですがしっかりと蓋をしています。
天から降ってくる雨水が悪いのではなく、梅雨の季節に松ノ木の雄花が散るので雄花の樹脂が池の水に溶け込んで池の水を無酸素にするのでしょう。そう想って思い返すと北鎌倉の浄智寺さんの池でも鯉が大量死してしまう事がありました。鯉はお寺の貴重な蛋白源です。
と云って松の木を伐採する訳にもなりません。池を枯山水にチェンジするのは賢明な策です。
ところで私の生家の本堂の前天水桶の脇に母が鎌倉の友人から戴いた凌霄花(のうぜんかずら)を植えました。5年もすると見上げる高さに生育して隣の金木犀の樹に絡みつきました。その後凌霄花は金木犀を絞め殺してしまうのでしたが・・・。
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これは鎌倉の妙本寺の凌霄花です以前次にブログしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893299.html?m=lc&sv=%CE%BF%F0%BC%B2%D6&sk=0
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梅雨明けの頃はゲリラ的に雨が降るようになりました。写真はそのゲリラ豪雨に負けずに咲く凌霄花です。この年は妙本寺のご住職が遷化されました。その涙雨だったのかもしれません。この凌霄花も桜の大木に絡んで桜を絞め殺して咲いているものです。

私が凌霄花の花を見上げていると母から忠告されました。
「凌霄花を見上げてはいけませんよ。この花には毒があって花粉が眼に入ると失明しまあすよ”わたしは梅雨明けの頃鎌倉比企谷の妙本寺の祖師堂前に凌霄花を観に行くのを習慣にしていました。
凌霄花に舞う黒揚羽蝶を観ながら”なぜ母は危険な花を本堂の前に植えたのだろうか?”考えました。
「松の雄花」も「凌霄花の花粉」も自身の子孫を残す大切な役割を担っています。『子孫を残す』その大義の前には他の生命を損ねても致し方ないという事でしょう。か?
五月雨も穀雨と呼ばれて歓迎される季節もあります。しかし。小暑の季節を過ぎれば雨はゲリラ豪雨にもなるし毒の水にも転じます。
この地球は人間だけのモノではありません。ノアの方舟の神話にあるように人間と沢山の生命が同じ船に乗り合わせたようなモノです。人間の都合だけで「善悪」「用・.不用」の判断をせず。お互いに連関して相生していると考える事の様です。

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江戸金魚の文化史(墨田水族館)

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7月7日墨田区水族館に金魚を観に出かけました。
墨田区に水族館が在る事は知らなかったのでしたが、NHKの「お早う日本」で放映していたのでした。そんな次第で初めて東京スカイツリーに出かけたのでした。水族館を出てツリーの上から眺望して解りました。
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7月7日は真夏日でした、スカイツリーの周辺は七夕飾りで暑さを避けて子供達は水遊びに興じていました。スカイツリーの4階5階が墨田区水族館になっていました。
スカイツリーは西に隅田川東に中川が流れています。その中州のような位置にスカイツリーが建っているの居るのです。地盤は悪いだろうに良くこんな元湿地に建てたものだ思いました。
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向こうの川が隅田川でズット右に岩淵 水門があって荒川(中川)と隅田川に分岐しています。スカイツリーの眼下は荒川の中州で軟弱地盤だと危惧されます。だからこそ江戸時代にこの辺りで金魚の養殖が盛んに実施されたのでしょう。
この辺りは江戸の町から見れば向島の更に東でとんでもない土地だったのでしょう。
お百姓は小松菜や大根など野菜を栽培して桜草や吊忍やホウズキ等の盆栽や仏前花を栽培するか金魚を養殖して江戸の町に出て”金魚、金魚は要らんかねー”と言って売り歩いたのでしょう。私が小学生の頃は放課後に校門の前で金魚売が店を開いていたものでした。
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これは蘭ちゅうです。正しくは和蘭獅子頭(おらんだししがしら)名前からはオランダと日本の合作のような匂いがします。上から眺めて獅子頭を観るのがポイントでしょう。
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此方は正統派の和金です。日の丸カラーでおめでたい感じが良いですね。
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これは丹頂です。丹頂鶴のイメージなのでしょう。お目出度いのが嬉しいです。
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 これも蘭ちゅうです金魚が鮮やかに見えるように水槽にもデザインも和風です。
おこずかいを叩いて求めた金魚を池に天水桶に放ちました。小さな金魚は古参の金魚や鯉に追いかけられて迷惑気でした。金魚と云うと思い出がもう一つあります。
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大和郡山の金魚池近くの陵の池や灌漑池も金魚が生息しています。因みに郡山城の外堀は金魚の飼育環境調査を兼ねて水質浄化の実験が続けられています。
学生時代の春休みです。私は父の仕事の関係で秋篠川の畔に下宿した事がありました暇を持て余して川の畔で魚釣りをしました。秋篠川の土手に腰掛けて釣り糸を垂れると、簡単に釣れるです。「何が釣れるのか」それが金魚なのです。最初に金魚が釣れた時には驚きましたが、慣れて来ると次はモットモット綺麗な高級な金魚が釣れないか期待したものでした。何故秋篠川で金魚が釣れたか?それはこの辺りの陵や灌漑池で金魚を養殖していて。その養殖金魚が逃げ出して川で自生しているからなのです。
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これは大和郡山城の外堀でこの医お堀も金魚の実験池です。日本の金魚は室町時代にこの地でスタートしたのでした。
近くの大和郡山は日本一の金魚の産地です。郡山城は秀吉の実弟羽柴秀長の居城でありました。ですから秀長の平和な時代に金魚の養殖が始まっていたのかもしれません。少なくとも文化人でもあった筒井順慶が主になった江戸時代には盛んに金魚の種の開発が進んだことでしょう。江戸の向島大和の郡山どちらも平和な時代に金魚の養殖が進展したのは間違いないようです。金魚は養殖業だけでは無く玩具や盆栽や工芸にも広がります。金魚の風鈴に金魚の吊忍に金魚の提灯とブリキの金魚も作られました浮世絵にも金魚は競って題材にされました。金魚の大きな尻尾を観ていると舞妓さんのダラリの帯を想い出す人は多い事でしょう。
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日本の金魚は室町時代に鮒の突然変異種からスタートしたその系統を説明したパネル。一番左の現代種から右に進むにつれて祖先種を辿り最後は一匹の鮒に行き着きます。
舞妓さんを前から横から後ろから飽かずに眺めて居たいように金魚を上から下から横から観察できます。大きな目玉が邪魔そうなのは水泡眼(すいほうがん) で眼の下のリンパ腺が異常に巨大化したのでしょう。こんなに目が大きくなったのは餌をゲットしようと進化したのかもしれませんがこれでは直ぐに餌にされてしまいそうです。琉金は琉球を経由して日本ンに伝来した中国種の金魚だそうです。和金は日本原産の金魚でしょう。和金は日本の水に会った居そうです。丹頂は丹頂鶴ににたおめでたい日本産の金魚のようです。コメットは名前からしてアメリカ人が開発したようです。
金魚の種の開発も興味深いモノですが。工芸まで文化の裾野を広げたのは日本が最高だと確信したものです。そこで私も提灯を作りました。
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これは歌川国芳の金魚づくし 百物語
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これはリヤカーの金魚の行商の店先
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これは金魚の提灯で山が始まりだそうです。
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金魚の提灯を作らせてもらいました(素材は無料でお姉さんが指導してくれます。立ち通しで疲れまあした。


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陰暦併用カレンダーを作る

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平塚の七夕飾りは今日始まって10日までです。お客様が集まり易い暦よりもお役様の都合を優先させたのでしょう。戸塚駅にも平塚の七夕様のポスターが貼られています。でも平塚の隣には仙台の七夕のポスターも貼られています。良く視れは8月3日から8日まで開かれて居る予定です。
7月7日は太陽暦の七夕様で8月8日は太陰暦の七夕様です。
私達は既にグローバルですから如何に意味が通っても太陰暦では生活できません。世界共通の七曜表に従って太陽暦で生活しています。でも文化や伝統は太陰暦で出来ています。そこで七夕と云うと太陰暦だと何時かな?チェックします。約1箇月遅らせれば太陰暦に相当します。太陽暦の7月7日は1か月前の6月4日でした。
私達は太陽暦と太陰暦の読み替えをする時に1月前にしようか後にしようか混乱してしまいます。
第一お米造りも養蚕も太陰暦でやってきたのですから私達の体は太陰暦の方が合っているのです。多くの人が新月の明け方に産まれて満月の夜に亡くなります。お月様の引力で命が地上に産まれ天上に戻るのでしょう。
古墳の玄室に描かれた天国の絵は太陰暦に依っている様に思われます。

ところで今日は明日の参議院議員選挙の投票所の設営に行かなければなりません。明日は朝の7時に投票所を開所し、夜の8時に閉所しなければなりません。家族はもう投票管理者を10年も続けたのだから止めたら喉元まで出た声を詰まさせています。地域から期待されたらそれに応えようと頑張る事でリハビリは成功します。安易にすればリハビリは停止してしまいます。
そこで七夕飾りに「stop脱水」の提灯金魚を吊るしました。昨日はデーサービスに紫陽花に提灯金魚を結んで持参し好評でした。)金魚も人間も同じで水が命のメッセージです。
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これが提灯金魚も飾った七夕飾りです。
ところで7月を文月と呼びました。8月が葉月なのは緑陰が恋しい季節だからでしょう。でも文月は覚え難かったのでした。文月とは天の神様(織姫様にお手紙を書いても良い月の意味なのでした。在原の業平が都に残してきた奥様に短冊を託したように私達が織姫様に願ことを託しても良い月の意味なのです。
私は去年から太陽暦をベースに太陰暦も併用できるカレンダーを作成して使ってきました。今年も年初に作ったのでしたが私のパソコン環境では神の裏表や前後の調整が難しくて途中で作成を断念してしまいました。ところが研究会の同僚が陰暦や江戸時代の時刻を説明したので私は意を強くしてこの下期の太陰暦併用カレンダ^を作成しました。本来なら今日の2時にセミナーが開催されますので其処に持参してプレゼントすれば良いのですが今日の午後は戸塚スポーツセンターに投票所を設営しなければなりません。そこで大船に住んでいるもう一人の同期に託すことに致しました。
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これが2016年下期の太陰暦カレンダーです。
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世界共通の太陽暦七曜表をベースに月齢と太陰暦の応当日と24節季や主要な祭事を書き込みました

私のプリンターはこのカレンダーに先月の駿河路旅行記の印刷に獅子奮迅の活躍です。
1万円程度の安物の家庭用プリンターですがベルトドライブも伸びたり切れたりしないし随分性能がアップしたものです。感服していた処トツゼンニ”インクの吸い取りアラームが着きました。観察するにノズルから噴出させた顔料のうち余分な部分を瞬間的に吸い取る装置に異常を発生した様なのです。対策を調べると第一に買い替えろと後継機種を案内しました。)若しくは修理もするがコスパからして買い替えを推奨しているのです。
私は唖然としましたキャノンならこんなこともあるでしょうがエプソンのプリンターにそんな乱暴な皮質責任姿勢はあり得ないと思うのです。大体プリンター事業には噓が目立ちます。消耗品のインクが高すぎるし。逆に恒久品のプリンターが安すぎるのです。
鎌倉の町には未だ鍛冶屋や研ぎ屋が染物屋があります。着物を洗い張りして染め変えて作り換えるのが染物屋です。屋は包丁や鎌を研いでくれる人ですし。鍛冶屋は包丁の柄を取り替えたり釜の底が割れたりすると取り替えたり修繕してくれます。
それらは道具には夫々に霊が宿っているので道具を大事にしようとする精神です。私の身体に私の命や霊が仮住まいしているから体を大事にして使い古そうとするのと同じように道具も使い切ってあげる事が大事だとする世界観です。道具に宿っている神を付喪神(つくもがみ)と呼び道具を粗末にされると妖怪になって人間に悪さをすると怖れられました。古代に大事にされた仏具や臼や杵が粗末にされると夜になると行列を為して都大路を練り歩いたと怖れられました。京都の真珠庵には有名な百鬼夜行絵巻が残されています。来月は江戸東京博物館に来て展示されるそうですから今から楽しみです。
今頃福島の東海村では百鬼が毎晩練り歩いて居る事でしょう。
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これは古唐櫃を開ける鬼唐櫃には妖怪が閉じ込められていたのでパンドラの箱から妖怪が出るように百鬼が都大路に向けて飛び出して行きました。
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手前は墨染の衣(僧の法衣)右は錫杖の妖怪です中央は扇子の妖怪です。主に仏具の妖怪や生活道具の妖怪が出現して道具を粗末にする人間に災いします現代では地球環境を汚すプラスチックや放射能が想い当たります。

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墨田水族館の魅力

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一昨日墨田水族館で催されている金魚展を観て来た事を記事にアップしました。江戸下町の情緒金魚が大和郡山で室町時代に始まり以来500年間の歴史の中で世界に冠たる文化に進展し様々な金魚の種の開発に留まらず浮世絵に工芸に金魚文化が進展しました。どれも平和がもたらした文化で、何時までも金魚文化が存続してほしいものだと思います。何故墨田区が金魚文化をテーマにしたのかと云えば江戸時代を通して墨田区が金魚の養殖や種の開発に熱心で金魚売などの懐かしい行商人が墨田区に住んでいたからでした。
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これはスカイツリーのビル部分にある墨田水族館の位置マップです都営地下鉄からは地下3階に入場口があります。
デモ水族館ですから淡水魚だけを紹介したのでは片手落ちです。今日は墨田水族館の海水生物を紹介します。
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熱帯魚は淡水も海水も豊富に展示されています。蝶々魚も東京湾には多いのでしょう。
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これは海底の砂浜からニョロニョロ顔を出しているチン穴子此れが)昨今人気のようです。
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このチン穴子は黄色と白の縞模様がお洒落な「ニシキあなご」一見すると穴子や鰻のベビーのようにも見えますが顔を出して漂流している動物プランクトンやサンゴ礁の卵を捕食しているのだそうです。
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此方は海底の岩場に固定しているイソギンチャクです。ジュンサイのような味がしそうに見えました。
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これは下村 脩(しもむら おさむ)博士がノーベル賞を受賞して以来着目されているクラゲです。
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これは優雅であっても毒のあるカサゴのお姉さんです。触ると痛い目に遭う事必死です。

荒川や隅田川の火口にある海ですから生物は多様であります。近年はサンゴ礁も増えているようですし熱帯魚も目立っているようです。私達は江戸前の穴子や青柳などの貝類を想いますが、今人気のクラゲやイソギンチャク等も面白く見せてくれています。でも入場料2050円(年間パスポート4100円)ですから魅力も品川や江の島八景島等の水族館の上を行かなければなりません。そこで白羽の矢が当たったのはペンギンのようです。

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これは墨田水族館の過半の面積を占有しているペンギンの島です。幾つものハーレムを作ってペンギンは啼き競っています。彼等は島で暫く愛嬌をふりまいていると思えば突如海中にドブンして素晴らしいスピードで海中を泳いで見せます。
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墨田水族館のペンギンはマゼランペンギンだそうです。LEDが変化して朝昼夕方を表現しますからペンギン君も変調をきたすのではないか?心配します。
こそ老若男女誰にも愛される海の生物は無いようです。ペンギンの可愛らしさを見せる工夫には最大の努力を注いでいます。プリプリお尻を振りながら歩く姿は孫のように可愛らしいモノですが一度水を潜るとその敏捷な動きに驚かされます。そのペンギン君が行列を為して水族館を歩くようです、また今年孵化したペンギンの赤ちゃんを観る事も出来ました。フラッシュさえ使わなければ撮影自由な事も家族連れにとっては嬉しい事です。また水族館内にベンチが沢山あって喫茶が出来るなど私のような高齢者にとっては嬉しい施設です。また水族館を出ればスカイタウンが在って食事も土産品店も東京ディズニーランドに較べれば数段安い事も孫子と一緒に行くには負担も軽くて済みます。
何時か孫を連れて観に行きたいものです。
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これはマゼランペンギンのベイビー孵化(6月16日)後3週間余りで650gに成長しましたズングリモックリですが眼と嘴は愛くるしいので人気で行列に並ばなくては観られません。

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蛙の命の尊さ(選挙会場で思った事)

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昨日7月10日は参議院議員選挙でした、私はもう10年以上も投票所の管理者を仰せつかって来ました。
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町内のレストランにも地元の英雄白井健三君を使って選挙の広報活動が盛んでした。このレストランは私の仰せつかっている投票所のすぐそばにあります。投票証明書を示すとジュース一杯サービスするようなことはありませんでしたが。今年は投票証明書が不足になる程浸透してきたようです。何しろ横浜のセンター地区ではサービスが盛んですから・・・。
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駅前を歩けば投票を呼び掛ける若者向けチラシが配られていました。
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私が投票管理者を仰せつかった投票所は普段は体育館のエアロビクスルームです。四方をガラスで覆われています。この綺麗な状態でお借りして綺麗な状態に戻すのですから大変な作業です。
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私の席からは投票所の全体が見渡せて適正で公正な投票環境が維持されているかチェックできないか監視する必要があります。選挙管理委員会も毎回工夫して投票行為がスムーズに進むよう努力しています。
床に貼った養生シートとガラス戸を閉ざす作業が大変です。7月9日は此処までやって解散でした。
写真を撮ったのは後任者への引き継ぎの為です。何時でも引き継げるように作業するのはサラリーマン時代のスタイルです。


私が地区の連合町内会長を任命され最初の仕事が上倉田地域の投票所の管理者と立会人を推薦する仕事でした。先輩連合会長に相談して4つの投票所の管理者と後見人合計12人を推薦しました。管理者は受託すると次は民間従事者(8人程度)を推薦しなくてはなりません。そして民間従事者と区役所職員を指導して適正で公正な選挙を遂行する責任を負います。肝心の投票箱の監理に始まり白票や無効票の処理と未使用用紙の管理から投票所の設営から撤収、まで含めれば誰しも遣りたくない仕事です。推薦を断る人が多いのも事実です。拘束される時間が長いのも嫌がられる理由です。朝6時半から夜8時過ぎまで長丁場です。家族ももうやめたら言いたげですが、期待されたら可能な限り断らないのが私のスタイルです。なんだかんだ家族を心配させながら脳梗塞発症以来3度目の投票管理者を受託してしまいました。昨日も夜9時無事に遣り終えた安堵感に浸りながら夜9時過ぎに帰宅しました。
民間人が主体で選挙をするのは主権在民の建前だからでしょう。選挙は住民が地域の代表者を誰にも強制されずに自由に選び自身の権利を代行して貰うのが建前ですから地域の人達が選挙事務を実施して代表を選ぶのです。しかし選挙事務は役所の職員が休日出勤で民間人を補佐します。建前は民間ですが本音は自治省役人の権限発露の場です。
大体建前と本音が交錯している仕事は避けた方が良いに決まっています。事故が起きれば投票管理者に責任が負わされのが常だからです。10年前はもう少し藹々として選挙事務をこなしていましたし、選挙人とも交流していました。世間の目は厳しくなり弁当も茶菓も自前になりました。
例えばトイレも観て廻ります。テロばやりの昨今ですからトイレに爆発物が仕掛けられいるかも知れません。投票所科の窓から外に選挙ポスターが貼られていても問題ですから随時投票所の内外に注意をします。
昨日は夏日が予報されていたので熱中症も心配でした。幸い私の投票所は体育館でしたので冷房も効いていました、木造の体育館や町内会館なら熱中症のリスクもあります。
其処で先日墨田区水族館で作った提灯金魚に「stopだ阿脱水」と書いて紫陽花に結んで花瓶に生ける事にしました。

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私の目の前には墨田水族館で作った提灯金魚に「stop脱水」と書いて紫陽花に吊るしました。金魚も私も水が命です。この金魚は自らへの戒めでありこの仕事場への愛情です。昔は花でty投票所を飾る位の予算はついていたのですが。
この提灯風船を幼児が壊してしまったので私がストローを使って空気を入れていた姿を観て変え鵜の風船爆弾を想い出した人がいたのでした。
この金魚は以外に人気でお母さん連れられてきた幼児に何度も悪戯されてしまいました。金魚は潰されると私がストローで口から空気を入れて元気にしました。金魚さんからすれば可愛いお子さんに空気を入れて欲しい、思っていたことでしょう。
私が金魚を膨らませる様子を見ていた立会人が休憩時間に呟きました。
「昔蛙を爆発させたことありません?」
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これが殿様蛙逃げ足が遅いのでバカ殿様の侮蔑を込めてこの名が在るのでしょう。中学生の解剖に供されました。頻繁に殺される可哀想なバカ殿様です。先日朱鷺の巣立ちの様子をテレビで見ていたら。朱鷺の再生は泥鰌よりもこの殿様蛙でした。生物多様性環境の保全の為にも殿様蛙は貴重です。同じ命なら蛙くんも空気爆発させられたのでは気の毒です。朱鷺の命にトラバーユするのなら浮かばれるでしょう。
私は想い出しました悪餓鬼だった少年時代赤ガエルを取に行って殿様蛙ばかり取れると殿様蛙の股をひらいて黄門に自転車の空気入れを差し込んで空気を入れました、殿様蛙のお腹は異常に膨れ上がります。そして最後はパンッと破裂してしまうのです。子供は残虐でそんな様が面白かったのでした。
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これはベトナム土産の蛙くんです。灰皿になっています。
残虐な私を観て祖母がこんな話をしました
”昔蛙を無益に殺生していた子供が在る日灌漑池を見下ろした処布袋草が一面に咲いていてその先に赤い美しい蛙が見えました。子供は赤い蛙が欲しくなり布袋草の生えている池面に足を下そうとしました。その途端に布袋草はサッと水中に没しました。少年が布袋草と思ったのは実は殿様蛙の群れだったのでした。殿様蛙は悪餓鬼に復讐するためにし布袋草に化けたのでした・・・・・。
動物を虐待したいとする動機は誰もが持っているのでしょう。子供が、死に対する関心が深まると無益に殺生したい衝動に駆られます。学校で、ナメクジやカエルを解剖するようになるのは自然で、昆虫を殺すという残酷行為を少年少女時代に経験する可能性は誰にでもあるモノです。人間のこうした本性を戒めたのが仏教の「不殺生戒」なのでしょう。私に「蛙の爆弾」の話をしたのは立会人の奥様です。何時もは上品で淑やかな奥様も少女時代は「蛙の爆弾」をしたのかと思うと空恐ろしく苗ります。彼女のお嬢様は理系でこの春から秋田大学の理学部に進学されたそうです。お母様の少女時代に在った強いう好奇心をそのままに育って秋田で不在者投票をしているそうです。予め横浜の選管の発行する文書を持参すれば秋田市内で投票をすることが可能なのだそうです。
私は直ぐにトイレに直行し不審なモノ(爆発物)が無い事を確認したのでした。
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提灯金魚も紫陽花も一日ご苦労様でした。感謝の気持ちも込めて家に持ち帰りました。

幸いな事に投票率は50%に近い水準でした。忌日全投票をオンさせれば55%には届き区内でトップでしょう。旅行も終えて選挙も終えて次は旧盆に京都行きです。学生時代と同じように鍋の底のように暑い京都で合宿しようとするプランです。次々にハードルを越して人生は面白い事楽しい事が断続します。まるで節句のようです。節句を祝うようにして年々歳々過ぎて行きリハビリも進行して行きます。
今日は無益に空気爆発させてしまった殿様蛙を弔いましょう。齢長ければ無益な殺生の無益の罪に気付くものです。屹度バングラデシュのISの戦闘員も自らの狂気な行為の罪の深さに気付いて懺悔する事でしょう。出来るだけ早くその日が来てほしいモノです。


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付喪神を敬う事の大切さ

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モノを粗末に扱う事は命を粗末にすることになります。私は自分の体を粗末にしてきたので人生の折り返しを過ぎてから大病を二度三度患い、家族にも迷惑をかけて来ました。
そう後悔する時に”モノを粗末にしたのが元凶だった”確信するのです。モノを粗末にすること慣れてしまうと自分の体を損なって居る事にも気づかないように思います。
今年の5月に府中の深大寺に登りました。なんじゃもんじゃの大木に咲いた花を観る事と高名な薬師如来像を拝観する事が目的でした。
その帰路、調布の名のゆかりである「天神様(布多天神)をお詣りしました。深大寺からは一度京王帝都の調布駅に戻って駅から真っ直ぐ北に5分程歩くと天神通りです。
天神通りは水木茂さんの借家が近く、ご夫婦の生活圏だったのでしょう。商店街は別名「妖怪通り」のようでアッチコッチに妖怪のモニュメントが置かれています。
勿論ヒーローのゲゲゲの鬼太郎に猫娘は一反木綿に乗っかっています。電柱の上からは目玉親爺が見詰めています。何しろゲゲゲの鬼太郎は布多神社の森に棲んでいて調布の街の平和と発展を見守っていると云った状況設定のようです。
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これが調布の布多神社ですこの森がゲゲゲの鬼太郎の棲家と云った設定です。京王帝都調布駅から北に歩いて5分天神通りが参道のようなに位置にあります。
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天神通りはさながら妖怪通りで5つほどの妖怪キャラクターが置かれています。
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これはトラブルメーカーの鼠小僧です。隣のラーメン店のマスコットのようです。テーブル上にカップラーメンでも置いてやりたい気がしてきます。
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これは一反木綿に乗った猫娘です。一反木綿と云えば男物のの褌です。紅い腰巻では無くて白い褌に乗せた事情が興味津々です
私は何で今日妖怪がブームになったのか?不思議な気がします。
妖怪とはシャーマニズムの極め付けで森にも生物にも道具にさえ霊が宿っているといった考えで宗教学的は最も未開な信仰とされています。
近代国家日本でシャーマニズムが復活している事実に奇異な感じがします。
そこで今日は妖怪の歴史を紐解いてみたいと思います。
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これは土蜘蛛草子の挿絵です。(写真出典は小学館の図説今昔物語の挿絵)絵は東京国立博物館源頼光( みなもと の よりみつ)の土蜘蛛(つちぐも)退治の物語です。出てくる妖怪は空飛ぶ髑髏の他絵では五徳(ごとく)や角盥(つのだらい)や葛(つづら)です。京都の西神楽岡のお話です。
【平安時代の妖怪】
妖怪と云って最初に想い出すのは地獄草子や餓鬼草子に描かれた怖ろしい赤鬼青鬼です。
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地獄草子で怖いのは赤鬼や青鬼が亡者を虐待している場面です。お経では言葉で地獄を説明していますが形而上の恐怖で現実や目視した怖さに勝るモノはありません。古代から中世中世から近代何時の時代も時代の変革期に妖怪が出現しました。
地獄や餓鬼道の怖ろしさを体現しているのは亡者を虐ぶる青鬼赤鬼でした。
地獄道や餓鬼道畜生道の怖ろしさを説明するお経はあってもどれも形而上のモノで想像に過ぎません。
想像は怖くはありません。自分の目で見て体験した事の怖ろしさに較べれば大したことは無かったでしょう。
そこで赤鬼青鬼を描いて形而上の恐ろしさを補足してみせたのでした。
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餓鬼草子の絵 古代末期都大路には餓えた人が群れてさながら餓鬼道を想わせる現実が出現したのでしょう。眼に見える恐怖は地獄草子や餓鬼草子病草子等の名作を出現させました。
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没落貴族の多い都大路は地獄草子の様であっても新興商人の起した町や市は栄えてました。
何時の時代も変革は付き物で変換期に妖怪が出現したのでした。写真は洛中洛外図
赤鬼青鬼と云った形を与えられた恐怖の元凶は今昔物語になって語り継ガラれその挿絵に描かれます。大江山の酒呑童子も空想の怖いモノと現実の夜盗山賊が入り混じって出来たモノ【妖怪】だったのでしょう。
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これは京都真珠庵の百鬼夜行図。赤鬼が古寺の古い唐櫃を開けると中に閉じ込められていた妖怪が現われて人間に復讐しようと夜の都大路に繰出して行きます。右に逃げ出して行くのは狐女の妖怪です。動物の妖怪は手足が動物の儘ですが道具の妖怪は人間風の手足が付いています。
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此れも真珠庵の百鬼夜行図です。上段の古い唐櫃からは坊主の衣や錫杖のような法具・仏具も妖怪になって出て来ました。真ん中の緑の妖怪は扇子の妖怪でしょう。
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此れも真珠庵の百鬼夜行図です。鉄漿をする妖怪が描かれてその様子を他の妖怪が怖いもの見たさで覗き見しています。今でも電車に乗ればこんな妖怪に遭遇します。それも昼日中です。
平安時代に権勢を極めた貴族は没落してその屋敷は朽ち果てて行きます。
貴族の館で使われた道具は都大路に捨てられアッチコッチにゴミ屋敷が出来ます。ゴミ屋敷には野党が泊まって夜な夜な館ね餅の屋敷を襲い略奪します。羅生門の廻廊には鬼婆が住んで綺麗な女の黒髪を抜いて生活をしていましたにもで一度に痛みを感じない感覚はたので。
日本で最初に妖怪が描かれたのが平安時代末期から鎌倉時代への過渡期でした。そして次に妖怪が人気を博したのが江戸時代の後半でした。その時代を研究した折口信夫博士は今昔物語以来描かれてきた霊鬼を採取して「小さい神」と名付けられました。小さな神が道具に戻って集団的に人間に復讐すると考えました。「付喪神記」では煤祓いと云う名目で洛中洛外の家々から捨てられた古道具が一箇所に集まって不穏な共同謀議を凝らして人々に実力で復讐すると考えたのでした。
今も旧家では歳末に煤払いをしますし清水寺や東大寺などの大寺では僧侶が全員で隅々まで祓い清めます。僧侶がご本尊をはじめ仏具まで大切にしています…行為で示すもので綺麗にすることが目的と云うより付喪神への感謝の気持ちを態度で示すものです。
私の生家でも彼岸の直前には家族全員で本堂の煤払いをしました。その行為を掃除と呼ばずに煤払いと呼んだのは深い意味が隠れている様に思います。先日ロンドンのテレビを観ていたらこの夏に煙突の煤払いをしていました。私の血管も煤払いをしておけば脳梗塞にはならなかっただろうに思うとともに、付喪神を大事にしたいと思います。
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これは川鍋暁斎の百鬼夜行図です。我が生家にも全く使われなかったお琴がありました。この原画も真珠庵のそれです。8月に江戸東京博物館で真珠庵のそれを観る事が出来ます。楽しみです。
そして明治維新には川鍋暁斎が出現して「暁斎百鬼画談」を表します。さらに
昭和には水木茂さんが出現しました。時代の変革期には妖怪が頻繁に出現するのです。

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屋上の川原撫子今が見頃

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もうじきにリオオリンピックです。
日本人選手の活躍が期待されます。総じて男子選手に較べて女子選手撫子の活躍が目立っているようです。
でも、今度は撫子ジャパン(女子サッカー)はアジア最終予選で敗退(オーストラリア、中国が代表になる)してしまい、興味を削がれてしまいました。
撫子ジャパンの名は古来日本女性の美しさひたむきさを「やまとなでしこ」と評したことから名付けたのでしょう。
美しい名を冠されたのですから、その名に恥じない様に復活してほしいモノです。撫子と云えば秋の七草ですが桔梗も撫子も昨今は早く咲いてしまい、先月訪れた大井川の川原ではもう咲き始めていました。
奈良の春日大社にある万葉植物園でも今頃は既に咲きそろって居る事でしょう。
春日大社から南に行けば高円山で大伴家持の屋敷があった処です。屹度あの辺りは万葉の時代も撫子が自生していたのでしょう。万葉集中26種歌われている撫子の歌のうち半分の11種も大伴家持が歌っています。どれも想いを撫子の花に仮託したモノばかりです。
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今日の話題にしたい”川原撫子”です。戸塚区役所ビル8階の屋上庭園のビオトープ脇に咲いています今が見頃です。

「 我がやどの なでしこの花 盛りなり
    手折りて一目 見せむ子もがも 」
                        
巻8-1496 大伴家持

大意は次のような事でしょう。
『 我が家の庭の、なでしこの花が真っ盛りです。手折って一目なりと 見せてやる子がいればいいのになぁ。』 
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川原撫子の中でスット伸びているのは女郎花です。此方は盆に入ってからが見頃になるでしょう。
秋も徐々に深まって来ました。私は独り身の侘しさがますます身に染みてきます庭先の撫子の花を手折ってあの人にプレゼントしたいと思うのだがあの人はまだ子供だから・・・それも出来ない。
ところで問題は撫子の花を贈りたい人が誰であったかと云う事です。
家持の奥様は婚約者大伴大嬢に送った一首で「にもが」は強い願望(反実仮想)を表します。
「撫子を手に取り持ちて」とは「大嬢を掻き抱くことを幻想している?」にも解釈できます。すると極めて官能的な歌といえましょう。家持は26歳で大伴大嬢は未だ10歳でした。10歳の少女を掻き抱いたらもう犯罪でしょう。
もう一種家持には撫子を歌った秀歌がありま
「 秋さらば 見つつ偲(しの)へと 妹が植えし
          やどのなでしこ  咲きにけるかも 」
                      
巻3-464 大伴家持
大意は次のような事でしょう。
”秋になったら、この花を見てはわたしのことをなつかしく思って下さいね”と言いながら植えていた庭先の撫子がもう咲き出した。でも愛しい妻は先立ってしまった。実に寂しい事だ。
撫子は美しい桜色であること痩せ地でもひたむきに花を咲かせる多年草です。それだけに愛情を仮託するには最適な花です。
我が庭も私が病になって以来手入れはワイフが行っています。先月貰って帰った虫取り撫子は無事に発根したようです。でも川原撫子は自生していません。今日庭先に眼を送れば鬼百合が咲き出しています。鬼百合では家持の歌のような情緒はありません。

昨日は川原撫子の花を観に戸塚区役所の屋上庭園に行きました。
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建設途上の戸塚区役所ビル、15階建てビルの8階の屋上庭園にビオトープなどが設えてあります。柏尾川で魚取りをしているのは私が創設したジョギング愛好会もメンバーになって実施していた柏尾川追い込み漁です。
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戸塚区役所8階の農政センター前からは屋上ビオトープに出入りできます。

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戸塚区役所の屋上はもう秋の風情で川原撫子は見頃を迎え女郎花も咲き始めました。
戸塚区役所は3年前に新築移転したもので戸塚駅の西口にあります12階建ての中層ビルの8階屋上に田圃とビオトープを配置した庭園が在るのです。8階は農政関係の器官が集まっていてその眼と鼻の先に田圃と畑が設えてあるのです。無花果やブルーベリーやアケビの蔓が植えてありますから野鳥が遣って来ます。
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戸塚区役所ビル8階の屋上庭園手前に田圃奥が畑でその中間に池状のビオトープがあります。
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ビオトープには昔ながらのメダカ(多分柏尾川で採取して此処に移したものが沢山いて保育所かはたまた、学校状態でした。
落果性をカラスが穿って食べたりしています。1週間前に来た時は区職員がビオトープの底を掬って水生昆虫調査をしていました。驚いたことにアキアカネ(所謂赤蜻蛉)のヤゴが沢山採取されていました
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これは柏尾川で確認されるヤゴなどの水生昆虫と魚です。
職員に訊けばアキアカネは今頃は丹沢の山に居るモノで秋になると戸塚にも飛んでくるのですが昨秋に此処で卵を産み落としていったので今年は区役所のビオトープ生まれビオトープ育ちのアキアカネが飛び回るだろうという事でした。
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アキアカネにしては朱色がまだ浅い赤蜻蛉此処は赤蜻蛉の天国です。
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これは黄色い花を咲かせ始めた落花生。実はもうじきカラスが遣って来て土を掘ってピーナッツを食べ逃げして行きます。”権兵衛が種播きゃカラスが穿るを地に行く光景です。何故なら権田坂は戸塚の名所だからです。
ブルーベリーも無花果もみんあ野鳥の餌になっています。

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古事記の英雄倭建命の死の意味

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発陰暦併用カレンダーを作成して友人に配って自分でも使い始めました。太陽暦と太陰暦二つの暦で生活する事は複眼でモノを観るような気がして思い当たることが多々あります。充分満足とは行きませんが〝満更でも無い”満足感です。
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今月の太陰暦併用カレンダー、太陽暦の七曜表をベースに月齢と太陰暦の応当日を表示してあります。その上に24節季と祭事を記入しました。ベースは旭川情報ネットhttp://www.ajnet.ne.jp/diary/のサービスです。
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陰暦併用カレンダーはパソコンの前に貼って毎朝確認してから一日が始まります。
そんな次第で昨日(7月13日は)月齢8.7来週7月20日が月齢15満月になります。満月を過ぎて次第にお月様が欠けて来るとモノの寂しさを感じるものです。陰暦で日々をを意識すると次のような感覚を覚えました。屹度主人はお月様の満ち欠けと同時に愛する人の月のモノも意識した事でしょう。太閤秀吉が淀君が身籠ったと聞いて歓喜したのは屹度秀吉は淀君の月のモノを知っていて自分が父親だと云った確信も在ったのでしょう昨日大伴家持の坂上大嬢に撫子の花を手折ってプレゼントして”貴方は未だ子供だから抱く事も出来ない成人するのを楽しみにしましょう”そんな感慨を歌ったのも早く成人して初潮を迎えて欲しいモノだ、そんな思いが在ったものと思います。そんな風に妄想を馳せていると思い当たることがありました。
古事記の英雄倭建命(やまとたけるのみこと)」は景行天皇の皇子でしたが、景行天皇の命令で熊襲を打ち次いで東国遠征に旅立ちます。旅立ちに際して伊勢に寄り姉の天照大神に「草薙の剣」と火打石を預かります。
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これは国芳の草薙の剣図です。相模の国造の陰謀にあって火責めの難に逢った倭建命は草薙の剣で草を撫で切りして火を放ち敵方を平定します。更に東進して弟橘姫を娶るのです。

尾張の国造の娘「美夜受比売(みやずひめ)を娶ります。そして相模では弟橘姫を同行させます。走水では弟橘姫を海神に奉げて関東一円の平定に成功します。東国の平定に成功した倭建命は大和への帰路美夜受比売(みやずひめ)の館に立ち寄ります。
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倭建命の印象を伝える武人埴輪(東京国立博物館)出典小学館の日本の美
迎えに出た美夜受比売(みやずひめ)の裳裾が血で(穢れていました)
古代女性が生理を迎えた間は交ない(まぐわない)のが常識でした。月のモノが在る間はは女性は神様に仕える巫女であり、夫と云えども神様に遠慮するのが常識だったのでした。
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方は美夜受比売(みやずひめ)のイメージの埴輪(群馬県塚廻り古墳出土文化庁)。典型的な巫女の姿をしています。巫女は祭事を執り行う重要な存在であって、祭事は巫女軍事は国王のペアで各地の豪族が国家を運営していたのでしょう。巫女の呪術性を強調する意味でアクセサリーや彩色(入墨を含めて)がなされていました。古事記では倭建命が姫のスカートが血で穢れていたのに交わったと記しています。女性の生理に無頓着であった事を自らの死の不吉な兆し、としているのです。
戦いに明け暮れてい倭建命には我慢が出来なかったのでしょう。姫を抱いて神の逆鱗に触れてしまったのでした。倭建命は草薙の剣を帰路美夜受比売に預けて、大和に帰ろうとします。尾張から伊吹山に向かうと山中で巨大な白い猪に遭遇します。倭建命は草薙の剣を携帯していなかったので、伊吹山の神と戦う術もなく雨に打たれて鈴鹿の山で死んでしまいます(白鳥になって飛び去ります)
大和との国境の山脈を仰ぎ見ながら有名な望郷の歌を残します。
大和(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる 大和トしうるはし
大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた大和は、本当に美しい。
命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(魔除けとして使われた。)として挿すがよい。                                     
はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも
ああ、懐かしい。私の家の方から雲が立ち上り、こちらへ流れて来るではないか。
                                         
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逢坂池上遺跡から出土した白鳥の埴輪(大阪府文化財センター蔵)写真出典日本の古典古事記(講談社)のグラビア

考えてみれば今も神代の時代も生死は神秘で人智では計り知れないモノであります。倭建命は神でありながらも、生死の神秘には敬虔であらねばならなかったのでしょう。
ソモソモ神にも秘密な事を神秘と言います。神秘のタブーを破った時、既に倭建命の命は尽きる運命に在ったのでしょう。
昔”人命は地球より重し”と発言して超法規的措置を実施した首相がいました。ところが昨今は人命より国益が勝るそんな風潮があります。国威昂揚の為に無数の無辜の民が亡くなってから未だ70年です。「大和し麗し」は防人の歌に共通する国土愛です。国土愛は『先ず人命愛、更には生物多様性への愛着が先行し、命の尊厳さに敬意を表する事』を優先しなくてはならないと確信します。
現代の日本は倭建命のように驕り昂ぶりが顕著になって命の尊厳さを軽視している様に思えてなりません。
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これは一遍聖絵です。陸奥を旅した一遍上人は富士山の麓を遊行しながら故郷の阿波に向かいますその途上の淡路島を目前にした兵庫でで亡くなられます(真光寺)。倭建命が「大和し麗し」と云った様に一遍上人にとっても”故郷が麗し”だったのでしょう。一遍上人は臨終に際して総ての法具(版木等)を焼却し、葬式はしない事遺体は野に捨てて畜生への施しにしなさいと命じました。要するに「南無阿弥陀仏」の名号以外は何も残そうとはしなかったのです。生命への共感がそう命じたのでしょう。私は日本の国土が美しいと云われる度に一遍聖絵を想い出します。



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人食い熊の教える事(竹箆返し)

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私が長銀の大阪支店で中間管理職になっていた頃の事件でした。当時の大阪商工会議所の佐治敬三会頭が飛んでも無い暴言を吐きました(昭和63年)。当時「首都移転問題」が話題になっていて仙台や福島がその移転先の候補地に俎上に乗っていました。佐治会頭の東北熊襲発言はこの時に勃発したのでした。
仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」等とメディアで発言したのでした。
佐治会頭のレベルの低さは東北地方の蔑視だけにとどまらず、熊襲とは南九州に住んでいて朝廷に服従しなかった民俗で東北のそれは蝦夷でした。熊襲と蝦夷を混同した歴史事実の錯誤発言に驚いたのでした。
その時の批判に懲りたのかサントリーは豹変してメセナ活動に熱心になりました。でもサントリーホールを京都では無く赤坂に作ったのはメセナと云うより算盤だったのでしょう。
以来今もって私はサントリーと云う会社は信頼していません。サントリーのサプリメント等絶対に飲みません。私の好きな陸奥を侮辱したのでしたから。
サントリーは元々近畿圏の会社です。その文化の中核京都は最近元気です。元々京都は日本文化の象徴のような存在で、最近では伝統文化だけでは無く、京都市交響楽は広上 淳一氏を常任指揮者に迎え評価の上昇しているようです。サントリーホールを文化庁移転と同時に京都に移したら良さそうなモノです。
ところで天皇陛下の生前退位意向で皇室典範問題が又世論を沸かすことでしょう。
退位がなされれば天皇は国事行為を免れる事になり東京に居られる必要は無くなります。宮内庁共々京都にお戻りになれば京都府民は大歓迎。大きな経済効果をもたらすことでしょう。
天皇は日本文化の象徴であり国民の尊崇の的ですから我田引水で無く公正で幅広い国民の合意を探して欲しいモノです。でも時間の余裕はそれほどないようです。この議論が日本国民の右傾化に利用されたり世界から批難されない様に公正であると同時に議論の公開を期待したいものです。
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ところで今日の話題は「熊」の問題です。
この穀雨の季節、秋田県ではクマに襲われて3人もの人が死にました。熊の胃袋からは女性の脚も確認されました。新聞記事によると昨秋はブナが大豊作だったのでクマは多産だったのでした。そのクマの親子が好物の筍を食べようと獣道に戻って来ると女性が居た。追いかけると簡単に捕まった。喰って見たら美味しかった。そこでクマの家族は女子供を襲う様になった。熊除けに持参したラジオや鈴も熊を避けさせるよりも熊を集める効果が在ったようだ推測させています。一度人間の味を知ってしまった熊は再度人間を襲う事を警告しています。更に今年は熊の食糧になるブナの実が貧作なので今年の秋は一層警戒が必要だと注意を促していました。
私は熊が好きです。知床では鮭を獲っている人間の脇を羆が歩いている写真を観ると人間と、熊が共存している光景に安堵するモノです。
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漁師の脇に出てきて鮭に眼をやるヒグマ(写真出典道新(北海道新聞社)ウェブ
北海道と云えばアイヌコタンのクマ祭りです。カムイとはヒグマの事です。今でも阿寒湖の近くの観光村でクマ祭りを観る事が出来ると思います。私達はクマ祭りは熊を食べる収穫祭のように勘違いしていますが。熊は山の神のお供え”生贄”のようなモノです。大切なのは山の神への畏怖する気持ちです。本州では熊では無くて狼が食物連鎖の頂点にありますから、狼が大神として崇められて来ました。北海道ではクマが崇められたのは最強の獣だからと云うより神からの預かりモノで秋にはお返しする(生贄だったからでした。
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アイヌコタンのクマ祭りの図春先にアイヌは熊の子供を見つけるとこれを村で飼育して秋に山の神に送ります。このお祭りが”イオマンテ”で熊の子供は育てられても堵殺されて祭壇に供えられています。熊の霊は山に戻って豊作をもたらしてくれると信仰されているのです。図はウキペディアですが詳細はアイヌ文化研究所に詳しいです。http://www.frpac.or.jp/manual/files/2005_12.pdf#search='%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%86%E7%A5%AD'イオマンテの祭りは熊の身体から霊を分離して山に送り返す祭事です。


生贄と云えば「人身御供」が思い当たります。古事記の「八咫の大蛇退治」も「弟橘姫の悲話」も人身御供が一般に行われていたことを思わせます。若しも自分が神だったらどんな供え物をした人を可愛いと思うでしょうか。ゴッドは庶民の供え物として羊が最も真心が籠っていると判断しました。それがスケープゴートだったのです。子熊を大きく育てて返してくれれば山の神はアイヌ村の願い事を聞き入れて下さったでしょう。
私達は霊山を女人禁制としてきました。その理由は山の神は女性であって美しい女性も、そうとも言い切れない女性でも山に入ると山の神の嫉妬を浴びるからだ…教えられて来ました。また女性は月経が在るので穢れているからだとも教わりました。でも今年熊に女性が食べられた事故を見聞すると、次の仮説が正鵠を射ていると思うのです。
女性は襲っても逃げ足は遅いし襲ったりしない、加えて肉は柔らかい。だから山に登って来た女性を標的に襲ってくる。「女人禁制」の霊山は狼や熊に人間が実は美味しい獲物である事を教えない事だったのでしょう。
軽井沢や那須の別荘地では別荘住人の出す生ごみを漁る熊や猪が話題になっています。一昨日は那須の牧場では肉牛の厩舎が熊に壊されました。熊は餌に飽き足らず次は子牛更には人間を襲うかもしれません。
人間が自然を好き勝手にいじくると自然は人間に竹箆返し(しっぺかえし)をするものです。
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これは建長寺で戴いた栞です。久々に『竹箆返し(しっぺかえし)』と云った禅宗用語を使ったら建長寺に行きたくなりました。竹箆とは師が弟子を導く為の竹刀に似た修練用具です。師が弟子の逆襲に遭う事を竹箆返しと言います。人間が自然(神)を怖れ敬わず傲慢に過ぎると逆に竹箆返しを食らって熊に食べられてしまいます。

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天王祭の囃し歌の有難味

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7月14日は戸塚の八坂神社の夏祭りでした。
昨年は余りの混雑でお祭りこそ実施されましたが屋台は中止されました。その理由を戸塚警察署は”路上に250もの屋台が並んで収拾不能だから、明石の海水浴場で圧死事件も起きたでしょう”説明していました。でも区民の過半は『真実の処は”屋台を仕切るテキ屋さんとの関係が疎遠になったから”』と読んでいまあした。
区民のブーイングを受けて今年再開しました。
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これが戸塚の八坂神社の夏祭りの案内です。お祭りの楽しみは屋台です。屋台の出ないお祭りは中州で博多ラーメンが食えないようなものです。突然の屋台無しに区民は大ブーイングでした。そこで今年は第1回戸塚祭りと名付けて盛況裡に実施されました。
お祭りをしなければ人も集まらないので事故も起きません。でも年に一度の夏祭りも無いような街に住みたくはありません。地域の絆は日頃の行事就中お祭りで培われるものです。
そこで、私はワイフを誘って夕飯を兼ねて八坂神社にお参りしました。
戸塚の街には大した文化財は残念ながらありません、あえて上げれば上のチラシに印刷されているお札撒きです。
天王様のお札撒きと云えば幕末に突然盛り上がった”お蔭参り、いいじゃないか運動”を想い出します。
「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広がって、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った運動です。京都に集まった勤皇の志士がこの運動を扇動したとも言われています。お伊勢様(または京都)から起った運動は燎原の火のように東海道を江戸に向かって広がったのでした。その熱狂を残しているお札播きが唯一戸塚に残っているというのです。従って横浜市の無形民俗文化財に指定されているのです。
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これはええじゃないか運動の風刺画天から降ってくる八坂神社のお札を慶事と確信して庶民が悦んで踊り狂っています。写真出典はウィキペディアです。絵には天照大神や天神様や恵比須大黒天等様々な神仏が現われて庶民が囃し踊り興じています。
昨年の中止で怒っていた人々が夕刻に一斉に街に繰出していました。
私がお嬢さんの浴衣姿に見惚れて転ばないかワイフは気配りしてくれています。
でも夕食を終えて午後7時八坂神社の石段を登る頃には雨も降り出しました。お蔭でお札播きは安全にジックリ楽しむ事が出来ました。お札播きは以前もこのブログに書いたことがあります。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47436117.html
その時、記事を書く為囃し歌に歌われた親縁寺に行き確認した結果が次の通りでした。
 さあ来い子供 天王様は 囃子がお好き
 泣く子は嫌い 喧嘩も嫌い
 ワイワイ囃せ 天王山に登って
 獅子の毛むしって 膠(にかわ)で貼って
 これ見ろ弥吉さん
 弥吉の女房 ないないよ
 無い毛が生えた(注)
 ここらで撒こか
 入り色混ぜて 有難いお札
 授かったものは 病をよける
 コロリ(疱瘡)も逃げる ソラ撒くぞ
 
 今年も豊年だ 豊年だ 満作だ
 お米も取れる 粟も麦もとれる 
 野菜もとれる 木の実も実る
 親縁寺のお小僧が 椎の実とって食うとって
 蜂にちんちん刺されて 
 痛いとも言わず 痒いとも言わず
 タダめそめそと 
 ここらで撒こうか 色々混ぜて
 有難いお札 授かったものは 病をよける
 コロリも逃げる ソラ撒く撒くぞ
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神楽舞台の上で暫く踊った後でお札を撒きます。団扇で叩かれた五色のお札を善男善女が競って拾います。写真は今年のお札播きの光景です。
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この写真は数年前私が発病する前のモノです。
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これがお札播きで戴いたお札です。八坂神社のご守護が記されているだけですが、午頭天王の図が入っていたらもっと有難味が出そうな気がします。お札の下の絵巻物は年中行事絵巻の中の祇園御霊会です。
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ところでこれが八坂神社の祭神午頭天王(本地神素戔男尊)です。物凄い形相の明王ですが、人間に悪さをする鬼を捕まえて喰ってしまうパワフルな存在です。こうした絵は一般に辟邪絵(へきじゃえ)と呼ばれ厄災除けにされました。端午の節句の鐘馗様や桃の節句の天神様も辟邪絵です。今日は京都は祇園祭りで賑わうでしょうが。祇園祭は牛頭天王に守って戴くよう祈願するお祭りです。(写真出典日本の美/地獄絵小学館をスキャン)

親縁寺は戸塚宿の京都見付から入った丘の中腹にある時宗の古刹です。
お札播きは一遍上人が始めた布教手段でした。一遍聖絵を観れば遊行廻る光景やお札を配って布教する場面が描かれています。ですから、八坂神社のお札播きはそのまま一遍上人が始めた宗教活動なのです。
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これは一遍聖絵(国宝)の京都市屋道場での踊念仏の場面。お祭りの櫓の上で一遍上人らが踊り庶民や公家の人が見物している様子が美しく丁寧に描かれています。出典は「絵で観る一遍上人伝」(遊行寺が頒布長島尚道著)
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これは片瀬浜地蔵堂での踊念仏の絵出典は京都市屋道場のそれと同じ一遍聖絵(国宝」です。

一遍上人の始められた踊念仏が盆踊りのルーツと云われています。今年も7月31日に遊行寺の境内で実施されるとアナウンスされています。いつもは広い広いと感じる遊行寺の境内ですがこの夜に限っては狭く感じます。一遍上人が始められた遊行踊りは盆踊りのルーツと云われていますから全国の盆踊りを観る事も出来ます。
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これは遊行の盆のシンボルデザインです。毎年このデザインの団扇が配られます。満月には兎さんが付き物ですが盆踊りも良く似合います。お月様も満面の笑顔で観てござる…。想います。
郡上八幡踊りも越中おはら風の盆も阿波踊りも西馬音内盆踊りも跡部踊念仏も観られます。詳しくが藤沢観光協会のHP(http://www.fujisawa-cci.or.jp/yugyou2015/)をご確認ください。
ところで本来は厄病除けの八坂神社のお祭りですが、戸塚八坂神社の囃し歌を聴くと、ペスト除けから一歩進んで豊穣生育の祈願祭のようです。
前掲囃し歌はエロチックです。
お寺の小坊主のチンチンがハチに刺されたり、子守り娘のアソコに毛が生えたり何れも成人になった事をイメージさせます。盆踊りの鎮守の森は逢引の場所でもありました。小坊主も子守娘も子孫を残せる成人になった悦びを感じさせます。私以前このブログに囃し歌の歌詞中のエロチックな部分がカットされたのはナンセンスだと指摘した事がありました。今回はワイフに”囃し歌の歌詞に聞き耳を立てる様”言いました。エロスが教育的に問題があると云って否定するなら人間は子孫が絶えてしまいます。
今最大の問題は人口減少です。エロスの肯定がその最初の一歩である事は間違いありません。
それは古事記が『イザナギイザナミの』の物語から始まる事からも解ります。
怒ったイザナミは”これからは毎日千人人間を殺す”と云えばイザナギは”毎日1500戸の産屋を建てる”と宣言します。毎日1500人子供を産むにはイザナギは精力絶倫でなければ不可能です。エロスの肯定が一番大事です。男子はイザナギになる覚悟が大事です。
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持蓮華の尊さ

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昨日(7月15日藤沢の遊行寺に登りました。戸塚駅に遊行寺博物館のポスターが貼られていて等身大の肖像仏が写っていたのです。遊行寺博物館には”こんな肖像仏が在るのか?ならば見学せずばなるまい”思って週末博物館の開館を待って出かけたのです。実はこの肖像仏は遊行寺の4祖吞海上人でした。
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遊行寺博物館とその入口に貼られた遊行寺四祖吞海上人の坐像天正16年(1588)です。野武士のようないかついお顔つきで強い意志力や洞察力を想わせる眼光の鋭さ尖った頬骨で居られます。此処遊行寺博物館と県立博物館と上野の博物館の3館で遊行寺展を同時開催しているのです。

神奈川県にある国宝と云えば鎌倉大仏に遊行寺の一遍聖絵と数少ないのです。理由は関東大震災で焼失してしまったからでしょう。鎌倉がユネスコ遺産の指定されなかった理由も大半が何も残っていないからでしょう。
期待の一遍聖絵も展示されていませんでした。代わって一遍上人伝が2巻(室町時代と明治維新)展示されていました。
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一遍聖絵の故郷伊予を旅立つ図(弘長3年1251)父河野如仏の葬儀を終えて再度出家したのでした。春まだ浅い季節に白い鳥に導かれて足は信濃の善光寺に向かいます。
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文永11年(1274年)一遍上人は難波の四天王寺に参詣して賦算(お札を配るコト)を始めマス。四天王寺の西門で賦算する一遍上人に人だかりしています。
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文永11年(1274年)一遍一行は四天王寺から熊野に入る通りすがりの修験者にお札を渡そうとすると拒否される。布教の確信が揺らいだ一遍上人でしたが熊野権現が夢に出て神託を受ける以降一遍上人は賦算と云った信仰活動に確信を持ち信濃への旅の途上で遊行(踊念仏)を始めマス。
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弘安2年(1277)一遍聖絵の片瀬地蔵堂での踊念仏の図出典は遊行寺頒布の絵葉書
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一遍上人臨終の場面(正応2年1289年)兵庫の観音堂で亡くなります。遺言で総ての道具を焼却させ自らの体は野辺に晒して犬の供養にするように命じます。


聖絵に依れば一遍上人は死に際してその持ち物はお札やお札を擦る為の版木も総て焼却し、自らの遺体も野の犬の供養にしなさいと命じた事になっています、自身は”南無阿弥陀仏”の称名念仏以外何も残したくなかったのでしょう・・・・・。
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遊行寺本堂の東側に立っておいでの一遍上人像。今年の百日紅の花はイマイチの様子です。
一遍上人を敬愛する心情は強くそのお弟子さん達は上人の立ち姿や遊行の姿を絵巻に仏像に残しました。  そんな祖師を仏像にして残してその眼差しを浴びながら日々修行に励みたいと云った想いは日本の仏教の伝統だったのでしょう。
法隆寺の薬師三尊は聖徳太子のお姿の生き写しとして作られたと刻まれていますし、鑑真和上像も東大寺の重源像も何れも祖師を敬愛したお弟子さんが生き写しの仏像として残したものでした。
称名念仏以外は何も残さなかった一遍上人でしたが。そのお弟子さん達が仏像に残し。遊行やお札播きを伝えて来たのでしょう。一遍聖絵をコピーするかのように室町時代にも明治になっても一遍上人絵伝が描かれたのでしょう。室町時代の絵伝の鮮やかな色彩は驚異でした、顔料は孔雀石(宝石)を粉に轢いたと聞きます。宝石だから少しも褪色せずに残っているのでしょう。
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遊行寺の塔頭「真徳寺に咲き出した蓮の花」向こうの白い花は一見すると百日紅のようですが確認すると紫陽花でした。

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真徳寺の蓮の花托に止まった塩辛トンボこのトンボが赤蜻蛉にポジションチェンジすれば盆から彼岸になります。
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真徳寺の無縁仏塔去年の卒塔婆が真新しい卒塔婆に入れ替わるのももうじきです。

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盆の準備も終えて清々しい真徳寺。お寺は常に塵ひとつない様に掃き清めてあって欲しいモノです。人の心も同じです。私の連れ合いも合掌する姿がサマになって来ました。何しろ小笠原流ですから・・・。
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これが仏具屋が売り出している寺蓮華です。この素朴なモノが展示されていました。私は孫の手にもなるし肩叩きにも使えると思いました。この医意見を連れ合いに云うと”食器のレンゲ(ラーメン屋のスプーン)もマイレンゲなら持蓮華ね!”言われました。国宝の橘夫人念持仏(法隆寺)も蓮がデザインされています。
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何時しか私の書庫は一遍上人ばかりが増えていました。

私はズット一遍上人に憧れて来ました。何時しか私の書庫にも一遍上人が増えて来ました。
展覧会場に奇妙なモノを見つけました一見すると痒いところを掻く道具『孫の手』のようにも見えます。確認すると「持蓮華』と案内されています。遊行僧が常に持参したモノで形は蓮の花の蕾です。屹度現世は蓮田のように泥沼で今は泥に塗れて苦労はしているが来世(未来)は蓮が開花するように極楽世界に再生するといった願を形にしたものが持蓮華なのでしょう。家に戻って仏具屋のサイトを観ていると蓮の蕾が香炉になっていて蓋を開くと中に阿弥陀如来が収まっていました。そこで遊行寺の境内を巡ってみると蓮の蕾はアッチコッチに在りました。この蕾が開く頃は盆の入りです。遊行寺が盆踊りで賑わう頃には蓮も開花する事でしょう。今月末に再び遊行寺さんに上る事にしましょう。
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新築された『藤沢交流館』

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遊行寺博物館で吞海上人像を拝観して、バス停「藤沢橋」に戻ります。藤沢橋は昔から渋滞します。昔お正月に遊行寺坂から右折して白旗神社に向かい違反運転で反則切符を着られた苦い経験があります。右折した先の空地に藤沢警察署署員が張り付いていて次々に違反車両を空地に引き込んで反則処理を進めていたのです。その苦い思い出の浸みこんだ空き地に「藤沢宿交流館」を新築したのでした。7月16日は交流館を地元の子供に初お被露目しているのでした。庭に露店を出して大賑わいしています。
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此処が16日初被露された藤沢宿交流館です。この日はちびっ子を集めて賑わっていました。
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藤沢宿交流館に出来た高札。高札の説明のほか隣の戸塚宿。キリシタンの禁制のほか”平塚宿までの駄賃(荷物や人を馬で運び費用”が記されていまし。因みに戸塚までは86文で平塚までは160文でした。
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藤沢宿交流館のディプレイ
早速に入ってみれば往年の藤沢宿を展示説明しています。何しろ藤沢は東海道53次の6番目の宿場町であると同時に遊行寺の門前町でもあり、大山街道江の島道の分岐点でしたから大変に繁盛していたのでした。その繁盛していた証拠を色々取り揃えて説明しています。
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広重の藤沢宿、向かいの小山が藤沢山遊行寺川は境川で鳥居は江の島の弐鳥居です。人々は遊行寺坂を下って藤沢橋で左折して江の島道に入って行きます。先頭を歩いているのは盲人で按摩を生業にする検校です。
藤沢の前後は戸塚(5番目)平塚(7番目)で前後が塚(お墓」ですから藤沢は極楽で歓楽の街(精進落しの街)だったのでしょう。古市(伊勢街道)のように。歓楽地には美味しいお酒と遊女が欠かせません。浮世絵に描かれた賑いと脂粉の香りを確認して疲れたので交流館2階に上がりました2階は会議室になっていて、会議が無い時間は休憩室として利用する事が可能でした。冷たいドリンクとこの日は1階で売っていた子供向けの駄菓子を求めて暫しの休憩です。反則切符を切られた苦い思い出も消し去って好印象になりました。
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子供は夢中になって工作しています。お母様もお婆様も満足げです。様々な住人と観光客が交流する施設だからこの名が付いているのでしょう。

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廊下には広重の浮世絵と藤沢の凧(絵は義経)が懸っていました。
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藤沢橋辺りの広重の図絵が沢山懸っていました。一番右は江の島まで道案内する盲人(所謂按摩さん)が描かれています。江の島には杉山検校の墓も祀られています。その左は大山参りの客引き風景です。その左は旅籠の留め女です。留め女は客を引いて一泊の世話を焼いてくれます。飯を盛ったり布団を敷いたり慰めにも応じてくれます。奉行は留め女の管理もしていました。その左は「六部」が描かれています。六部とは神社のおさい銭を盗む盗賊で掏りの事でもあります。賑わう藤沢宿でしたから様々な盗人も集まって来たのでしょう。
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藤沢橋辺りのジオラマ境川を船が上り下りして荷物を運んでいたのでしょう。現在でもその遺構が川岸に残っています。左手前が遊行寺になります。
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色々な旅枕髷を崩さない様に工夫が凝らされていました。枕の箱には貴重品を入れたのでしょうか?この他弁当箱や水筒(酒瓶)焼や煙管に印籠に矢立等旅のグッズが沢山展示されていました。
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沢山並んだ一升徳利昭和の初めまでは藤沢には30軒余りの酒屋が在って酒屋がお得意さんに配ったものだそうです。同名の酒屋さんは今も鎌倉で繁盛していますが昨今は酒屋も楽ではなさそうです。


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暑い時には高校野球の県予選を観戦する

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神奈川テレビ(KVT)では今年も高校野球神奈川予選の熱戦を連日放映しています。私はゴロゴロしながらテレビを横目で睨んでいます。一昨日のY校VS光陵校は熱線でした。格下と思われた光陵の打線が活発で先行されては追いつき、終盤まで光陵が勝利しそうな期待を持たせました。光陵高校は権田坂にある文武両面に秀でた学校で私の街の学校区にある人気校です。近所の知人もその卒業生です。
テレビを観ているだけではリハビリも停滞してしまいます。意を決して昨日は生で観戦しようと俣野にある薬科大学スタジアムに出かけました。インターネットで調べて何時もの藤沢八部球場と俣野薬大スタジアムでの試合予定を調べた処、両球場共に応援したい学校の予定はありませんでした。例年藤沢八部球場はスグ近くの湘南高校が出るので応援に出かけてその度にこのブログにアップして来たのでしたが・・・・・。今、話題の東大宮代投手も観ていた筈なのでしたが高校時代の記憶は無く、そんな逸材になるといは思いも依らなかったのでした。
ワイフも息子も私が一人で野球観戦するのを”是”としてくれず、結果的にはワイフが連れ添って、息子が球場まで車で送ってくれることになりました。戸塚区俣野にある横浜薬科大学スタジアムは昭和30年代に横浜ドリームランドが在った跡地に出来たモノです。
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向こうが横浜薬科大学の正門です楡の木陰のベンチに座っているのは午後1時に試合開始を迎える麻生高校の生徒さんでしょう。手前の突き当りに野球場があります。
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薬科大スタジアム一塁側の入り口第一試合は11時で相模原青陵高校の応援席1時30分から第二試合で麻生高校の応援席になります。何も考えずに一塁側応援席に入場しました。

奈良ドリームランドに成功したドリーム観光が關東に進出して作った大規模郊外遊園地でした。私も子供を連れて出かけた事がありましたが。モノレールの橋脚の強度不足による運航禁止を発端にして事業は不振に陥り、ホテル棟等は横浜薬科大学のキャンバスにスケート場や遊具の置かれた場所は現在の野球場や公園墓地に変わってしまいました。ドリーム観光の面影は薬科大の教室棟と春日神社に残されています。高層棟のホテルは東大寺の7重の塔をイメージしたものだし。春日大社を勧請したのも奈良の企業らしい姿勢でした。
茅ヶ崎西浜VS相模原青陵高校の試合はエール交換が終わって11時予定通り試合開始です。考えてみれば18日は海の日(休日)で茅ヶ崎西浜は浜降り祭(無形民俗文化財)で賑わっている筈です。お祭りより高校野球が気になる人が集まっているのでしょう。一塁側も三塁側もスクールカラーはブルーです。応援合戦だけは相模原青陵が勝っている気配です。ネットで調べると相模原青陵の野球部は11人ですから控え選手は居ない事になります。応援席に陣取っているユニフォームの選手は第二試合の麻生高校の控え選手でしょう。父兄応援席に坐っていると麻生高校の父兄が目立ちます。
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1塁側の父兄応援席ユニフォームの選手や女学生は相模原青陵の生徒では無くて第二試合の麻生高校の生徒さんです。
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相模原青陵高校の応援団席。応援は同校が勝っていたのでしたが・・・・。
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向かいの3塁側茅ヶ崎西浜高校の応援団席、応援は相模原青陵高校に数とブラスバンドの迫力共に劣勢でしたが野球自体では茅ヶ崎西浜が圧倒していました。

」は茅ヶ崎西浜高校です。相模原青陵の投手の背番号は3番ですから。本来はセカンドを守っているのでしょう。エース投手は1回戦を投げたので二回戦は控えの選手なのでしょう。1番の選手は1塁をも守っています。後半になったら投手交代するつもりなのでしょう。
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自動散水で整備される球場外野席の向こうの緑は公園墓地です。
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審判は重労働です。この日東海までは梅雨明けしまあした。夏は暑いのが自然です夏に苦味のある野菜を薬膳として食べるように汗を十分にかいておくことが健康には有益なのでしょう。私は梅雨明けの季節に高校野球を観戦する事を良い習慣にしています。
背番号3の投手が投球練習に入りました。変速なモーションから山なりの球が捕手に届きます私はワイフに囁きます。”この投手ではコールド試合になるから最後まで観戦しないで、帰る事になるよ”
試合開始と共に球場近くにあったローソンで仕込んできた「ガリガリ君」を食べ始めました。何しろこの日の直射日光は強く暑いのです。熱中症を阻止するには氷と水が欠かせません。青陵高校の父兄会がレモン水を配ってくれました。魔法瓶の冷水にガリガリ君そしてレモン水を次々に飲んで「stop熱中症」に心がけます。それでも紫外線が皮膚を焼き尽くすようです。4回を終わって11対0ですから予測通りに5回コールドで試合終了の気配でした。でも5回の裏相模原青陵の猛攻が始まりました1番打者の3塁打が出て2点を返しました。ここぞと応援団は沸き立ちます。でも実力の差は歴然としていますからコールド試合を5回から7回まで先延ばししたに過ぎない予感がしまあした。この夏の高校野球も応援はしたので私は満足してワイフを誘って帰宅する事にしました。直ぐ目の先から戸塚バスセンター行きのバスが出ます。
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私が球場を後にしたときのスコアボード相模原青陵高校は5回の裏2アウト1.3塁から三塁打を打つ意地を見せ5回コールドを7回まで先送りしました。向こうの中層住宅地はドリームランド住宅地です。
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球場を出ると第二試合を戦う麻生高校の選手がアスファルトの上でウォーミングアップしていました。向こうのバス群は麻生高校の選手応援団を運んで来たのでしょう。麻生高校の善戦を確信しまあした。

高校野球は強弱様々なチームが競っています。スター選手も人気チームも玉石混交です。私のような石は路傍石のように石を応援するに限ります。この夏もう一度生の試合を観戦できれば幸いです。

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礼義廉恥(鎌倉学園野球部応援)

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戦後第1回の夏高校野球の優勝校は湘南高校でした。その後も1960年には法政二校が1970年には東海大相模1971年には桐蔭学園が優勝しました。今年は下馬評では横浜高校東海大相模の評価が高いモノの慶応高校や湘南高校も勝ち進んでおり、テレビを見れば観客数も多く盛り上がっている様に見えます。伝統校の復活がオールドファンを野球場に呼んでいるのかもしれません。野球場で旧友と会うなんて羨ましい限りです。屹度野球場に近い居酒屋は繁盛する事でしょう。横浜ベイスターズや阪神タイガースのファンで埋まる居酒屋より楽しそうです。
ところで我が次男は鎌倉学園の野球部ОBで今も昔の仲間と連れ立って応援に出かけています。一昨日は茶の間に鎌倉学園のタオルが懸っていました。
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臙脂色のタオルは応援グッズだったのでしょう私は瞬間”破廉恥鎌倉学園”と読んでしまいました。破廉恥なのは昨今の学校関係者の行為で鎌倉学園(建長寺のお膝元)はそんな事あり得ません。良く見れば「礼義廉恥」と記されています。
「礼義廉恥」の反対が「破廉恥」なのでしょう。でも私の学生時代は破廉恥は悪い意味では無く”恥を忍んでも真実を求めようとする勇気のある行為”と思われてきました。破廉恥をモットーとする女学生も居ました。そこで、「礼義廉恥」を調べてみると次のように出ていました。
廉(レン)はもともと直角に交わった板にできたピシッとした直線のことで、その様子から清く正しく無欲なことを意味します。恥(チ)は耳を赤らめて心で恥じるの意(偏が耳、つくりが心)です。ですから 廉恥(レンチ)は清く正しく無欲で、恥を知っている、という熟語です。というわけで、「礼を尊び、儀を重んじ、清く正しく無欲で、恥を知る」という意味です。
実に硬派なモットーです。ネットには鎌倉学園の校則としても紹介されていて中国の古典「菅子」に出てくるとも説明されていました。そんな次第で鎌倉学園の校歌を確認してみました。http://www.kamagaku.ac.jp/introduction/song.html松の嵐を矢叫びの声と聴くとき…耳慣れない言葉が出てきます。雄叫びは開戦に際し”エイ・エイ・オー”とか”起て!起て”と叫ぶ声の事でしょう。矢叫びは開戦に際し矢を放ち同様の声を発するのでしょう。
私は源平盛衰記の屋島の戦い”那須与一”を想い出しました。
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此方は礼義廉恥(らいぎれんち)の扁額出典は鎌倉学園のHP。
流石に鎌倉学園の校歌は古色蒼然としています。同時に勉強になります。
この夏は湘南高校同様に鎌倉学園も勝ち進んでいます。息子が応援に行ったのは2回戦昨日は3回戦をコールド勝ちしました。4回戦の相手は藤嶺藤沢高校ですから、建長寺と遊行寺の戦いです。球場は相模原でからすし遠いので私には観戦は無理なようです。
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那須の与一図(矢が扇を射抜くと敵味方一斉に矢叫びをあげました図の出典井原市のHPhttp://www.city.ibara.okayama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=780.源平に戦いは1回戦が須磨の戦いで二回戦が屋島の戦いを経て壇ノ浦までトーナメントのように勝ち抜かなくてはなりませんでした。プロ野球と違って)一度負けたら次は無い戦いが私達の共感を呼ぶのでしょう。
鎌倉学園は過去3度も甲子園に行きましたし。プロ野球選手も輩出しています。若田部健一(横浜ベイスターズ)や長田誠一郎選手(西武ライオンズ)等が居ました。伝統の校歌も良いのですが歌いやすい応援歌をОBの桑田佳祐さんに作ってもらい、元気づけをして久々に甲子園に行ってほしいモノです。
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神奈川県大会の熱戦を伝える神奈川テレビの画面。応援歌を聴きながら鎌倉学園の応援歌なら卒業生の桑田啓祐さんに作って貰ったら盛り上がるだろうと思いました。そうしたら男子ばかりのむさくるしい応援席にお嬢さんが来て気合も入ることでしょう。



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生木に仏を聴く(公朝さんの仏を観たい)

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未だ横浜は梅雨明けしません。今朝もシトシト雨が降って涼しいです。
裏の藪に棲んでいる鶯君が”ホー法華経・ホー法華経”上手に囀っています。三箇月前なら誉められるのですが、君の出番はとっくに過ぎたよ!言ってあげたくなります。
晩生の鶯君に聴きほれていると。お寺の裏山から蜩の啼き声が響いて来ました。私は寝床の中で起きようか?今しばらく微睡んで居ようか考えています。
私の脳裏には西村公朝さんが彫られた醍醐の善願寺の不動明王が浮かんできます。樹齢千年の栢の大木の幹に不動明王を彫られたものです。最初雑誌で観た時にはは”今円空”のような作為だな思っていたのですが。年々栢の大木が不動明王を体内に取り込んできていると聞いて”この夏こそ拝観したい”と思うようになってきました。
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京都醍醐の善願寺の不動明王像写真出典(公朝の仏の世界平凡社月刊太陽)この夏に拝観したいと思っています。
わが国では大木や大岩は神仏の依り代として尊ばれてきました。古事記でも『山幸彦は樹上に下りてトヨタマヒメを見染めた』のでした。
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これは青木繁の「わだつみのいろこの宮/山幸彦とトヨタマヒメの出会いの場面を描いた、1907年、油彩
考えてみれば大樹に神仏が宿るのは日本だけでは無く。釈迦も大樹を除いては考えられません。生誕も悟りも涅槃も何れも大樹の下で実現したのでした。そして、釈迦を慕う弟子たちに対して”私に遭いたいと思うのなら須弥山に上れ「霊鷲山/釈迦の住まいのあった山」に行けば私の説法する声が聞こえるであろう”説かれました。そのお経が法華経(お経の白眉)でした。霊山の山川草木に釈迦の教えが満ち満ちているといった自然観は修験道や神道に通じるもので日本人は素直に受け入れたのでしょう。釈迦を慕う弟子たちは釈迦の肖像を彫りましたし、聖徳太子を慕った人々は法隆寺を聖徳太子の肖像仏で埋めました。唐招提寺の鑑真像をはじめ法華寺の本尊(十一面観音像も光明皇后の肖像を彫って祀りました。
大木の霊性に感応して仏像を刻む事は江戸時代の円空も行いました。
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近世畸人伝の挿絵円空は飛騨の千光寺で生木に鉈を振り上げ仏像(不動明王に見えます)を彫りあげます。実物は飛騨千光寺の宝物館にあります。
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此方は若狭の 諦應寺銀杏の大木に十一面観音です。いずれ公朝さんの不動明王も大木の幹の中に隠れてしまう事でしょう。
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此方は木喰さんの生木仏(なまき仏)です栢の大木に子安観音です。写真出典は4年前の東京国立博物館「日本の木造仏像展のアルバムです。)


生木仏(なまき仏)と云えば円空を直感しますが木喰もあれば若狭の 諦應寺の十一面観音は諦應寺三十世住職仏山恵隆和尚と言い伝えられています。奇人と評された円空だけでは無く日本人お感性や霊性に相応しいスタイルだったのでしょう。円空も木喰も仏山恵隆和尚も公朝さんも大木にくっ付いて啼いていた蝉(撞く撞く法師)を釈迦の声と聴いて鑿を振るったのかもしれません。私も円空の子孫で素から生木仏の感性は良く解ります蝉の声に仏法僧の啼き声に時鳥に蛍に釈迦や祖先や恋人の霊を感じて暮らしてきました。もうじきお盆です。野山に釈迦や霊が満ち満ちる季節が又廻って来ます。
お盆はヤッパリ京都です。


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光明寺観蓮会への想い

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大本山光明寺は鎌倉の材木座にある古刹です。浄土宗の総本山は京都の知恩院さんで芝大門の増上寺(大本山)に並ぶ格式の高いお寺です。奈良京都に較べればこれと云った国宝に欠ける鎌倉ですが、光明寺には当麻曼荼羅2巻があって国宝に指定されています。私は未だ実物を拝観した事が無く。本堂の懸けられた絵に同図をイメージしています。当麻曼荼羅は中将姫の説話を伝える日本の絵画史上も文学史上も重要な蓮糸で織られた絨毯です。
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観蓮会の始まる時刻の光明寺本堂です。材木座海岸の喧騒が噓のように静寂が古刹を夢に誘います。
何度も当麻寺まで出かけて拝観しているのに近くの鎌倉のそれを拝観した事が無いのは残念至極です。
仕方が無いのでネットで調べれば親切な事にウィキペディアに載っています。
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これが鎌倉光明寺の当麻曼荼羅図絵巻上巻の長さが774m下巻の全長が687mに及ぶ大作です。私が拝観できていないの致し方ないのですが・・・・。天平時代の当麻曼荼羅と室町時代の御伽草子の中将姫物語を繋ぐ鎌倉時代の絵解き絵巻物です。これは上巻の第一段の絵で主人公の姫が深窓で育ち写経をしていました。姫は隣室に入り黒髪を僧に切って貰います、その上で墨染の衣に着替えて西向きの部屋に入り蔀戸を開きます。すると。天からは阿弥陀如来が聖衆を従えて姫の屋敷に降りようとしています。絵は住吉絵所住吉法眼慶恩の作で後京極良経の書です。鎌倉時代を代表する絵巻物が鎌倉に残っているのは老中松平定信の功績でした。
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これが修復を終えた光明寺の記主池本堂と庫裏の間に在る庭園には蓮の花が咲きます。手前が本堂に渡る廻廊です。
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廻廊から蓮池越に阿弥陀堂を眺めると観蓮会の日には扉が開かれて阿弥陀如来立像を拝む事が出来ます。この日は阿弥陀様の足元まで登って御抹茶も戴けるようです(ポスターに依れば千円です。)
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光明寺記主庭園の蓮の花中国風の八重の蓮の花です。

当麻曼荼羅絵巻では姫は生き身の阿弥陀如来観たいと誓願を立てて浄土教の書写に励みます。
一人の尼(実は観音菩薩)が姫の誓いを嬉しいとして現われ”阿弥陀仏に遭いたいならその様子を表しましょう”と誘い、蓮の糸を百駄集めるように言います。姫は近江より取り寄せた蓮茎から蓮糸を紡ぎ出し、糸を5色に染めます。部屋の北西の隅に機織り機を据えて戌の刻(午後8時)から寅の刻(午前4時)まで曼荼羅を織りました。すると尼は五色の雲に乗って稲妻と共に消え去ったのでした。尼姫は涙が乾くまで別れを悲しみました。
宝亀6年(775)尼姫は往生します。その晩は青天高く晴れて紫雲が差し来たりました。迦陵頻伽の美しい音楽が西の空から響いて聖衆が尼姫の館に下りて来ました。阿弥陀如来が「摂取不捨」の誓願通りに尼姫を迎えに来たのでした。
【女人成仏】
日本では古代から女性は不浄であるから成仏出来ないと考えられて来ました。この不条理は仏教が儒教と同時に伝わった為男尊女卑の思想が当初から日本仏教に混じってしまっていたのでしょう。
この不条理を正す為には長い歳月を要しました。その最初が中将姫の当麻曼荼羅のお話です。古代の女性が女人成仏に悩み苦しみ中世になって漸く女人成仏が普遍化しました。
当麻曼荼羅の物語も平家納経の物語も「本来成仏できない筈の姫が阿弥陀如来に迎えられた」その不思議を説いています。ですから中世に描かれた当麻曼荼羅絵巻には大きな意味が在るのです。松平定信の女性成仏を説くこの絵巻物の意義が良く解っていたので光明寺に納めたのでしょう。
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これは平家納経の扉絵に描かれた龍女が成仏する絵法華経提婆達多 品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。出典は日本の古典平家物語(集英社)のグラビア
中将姫の物語でも蓮は重要な素材になっています。当麻寺も光明寺も蓮の名所になっています。光明寺の観蓮会は今月末の30日31日です。先年光明寺では記主庭園を整備され楼閣の阿弥陀堂を新築されました南側の廻廊から池越しに阿弥陀堂を仰ぎ見ると手前に蓮池があってその先の中空に金色に輝く阿弥陀如来を拝めますまるで上の平家納経を現実に観るようなモノです。
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此方は今年の光明寺観蓮会のポスター(光明寺さんのホームページを借用)
今年は暦の悪戯で遊行寺の盆踊りと光明寺観蓮会がダブってしまいました。どちらにも行きたいものですが。身は一つです。
数年前光明寺の観蓮会を終えてそのまま材木座海岸に出ました。
材木座海水浴場は日中の日照りが落ちて夕涼みを兼ねた観光客が群れて居ました。そんな中で人だかりが出来ていました。立教女学院のお嬢さんたちがフラダンスを踊るというのです。お嬢さんのボーイフレンドが応援しようと云うのでした。
私は未だ火照りしている砂浜に腰掛けてフラの踊りを眺めていました。
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これは材木座海水浴場でフラダンスを被露する女子大生向こうの岬は稲村ケ崎になります。これを観ながらビールを飲むのもオジサンの夏の楽しみでした。
鎌倉市は昨年から海水浴場の音曲禁止を条例化したのでもうフラダンスを観る楽しみも無くなりました。
日本文化はケ(褻/日常)晴れ(祭り)が混じっています。所謂聖俗二元論です。『ケ(褻)の日に仕事を休んだり晴れの日に働く』と神は怒ります。海水浴場は晴れの場所ですから若い女性がフラを踊る事を神は喜ぶはずです。鎌倉市はケ(褻)と晴れと使い分けも出来なくなってしまいました。残念です。祇園祭でお囃子を禁止するような馬鹿げた条例です。若い人が海辺で歌も踊りも出来ないなんて女人成仏以上に不条理です。

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ミミズの尊さ

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大暑も過ぎたというのに横浜は涼しく雨降りが多いようで。心配です。我家の前のアスファルト道路に異常に大きなミミズが這い出していました。屹度下水道に詰まった落ち葉を餌に育ったミミズが余りにも快適なお天気に誘われてアスファルトの上に出て来たのでしょう。大きなミミズに驚いたのでしたが、急いで家に戻ってカメラで撮影しました。”道路に出ると雀やカラスに食べられてしまうよ”呟きながらも、私は安全な処に運んでやるほどお人好しではありません。屹度明日の朝は雀さんの砂嚢の中でしょう。
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これが我が家の前のアスファルト坂道に出現した大きなミミズです。左から右に坂を登ろうとしていました。右を少し擡げているのはその方向に進みたい意志の現れでしょうか。尻の方から体液が動き出して蠕動運動が前に伝わって前進します。運動会のムカデ競争のような神経系統が働いている様に見えます。私はミミズを観ている自分自身を蟻を観ながら脚を動かす順番を観察していたと言い伝えられる熊谷守一さんを想い起しました。ところでミミズは雌雄同体でどのミミズも雌雄の生殖器を体側に有しています。二匹のミミズが横に並んで生殖器を交叉させて子孫を残します。雌雄同体で生殖行為が簡単なのがミミズの生命力の秘密なのです。
ミミズの名は眼が無いので”眼が見えず”の意味だろうと云われています、でもミミズを観ていると必死に前進しようとして坂を登ろうとしています上の写真で見ると前方にまるで目が隠れているようです。体中が何節もの輪で出来ていて尻の方から体液が流れる事で蠕動運動して前進しています。少し頭を持ち上げている格好はまるで蛇のようです。鱗の無い蛇のようにも見えます。
ミミズの棲息する土壌は肥えていると言われました。父は野菜作りが趣味でしたので境内に散った落ち葉を掃き集めて境内の隅に積み上げて表面は筵で被せ、時々冠水して堆肥にしていました。落ち葉を崩してみてミミズが出現すれば堆肥作りは完璧です。ミミズは強烈で万能の消化液を体内に有しているので総ての有機物を消化して糞にします。糞は直ぐに醗酵しますから良質の土壌に変わります。
私が落ち葉の陰から姿を見せたミミズに小便を懸けると父に叱られました。
小便は屹度ミミズ君には熱水なのでしょう。小便を分解吸収する事はミミズ君にとって容易いのでしょうが。火傷を負うのは命とりなのでのたうちまわって逃げようとします。それが面白かったのでした。”殺生はいけない。土壌改良をする貴重なミミズの命を粗末にしてはいけない”父の戒めだったのでしょうが次のように言いました。
”ミミズに小便をかけるとオチンチンが病気になる”
今思い起こせば
”オチンチンが成人になっても役に立たなくなるオチンチンは大切な器官だから遊んではいけない”
正しい性知識が大切である事は古事記の国産み伝説にも書かれています。イザナギイザナギの最初の子供は『蛯子」であって海に流してしまいます。
ミミズの土壌改良効果は太古の地球の土壌を改良しました。その結果植物が生い茂るようになり草食動物が地球上を闊歩するようになりました。最近では水銀なヒ素等の有害重金属を吸収してくれるので汚染土壌の浄化にも役立ちました。重金属を吸収したミミズを処分する事で浄化が実現できるので汚染土壌を食料や飼料には出来ません。
【虫が嫌われるのは不条理です】
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これが節足動物多足門のムカデです。良く見ると一つの節から左右二本の脚が出ている節と1本しか出て居まい節があります。体重を三点で支える事と俊敏に動いて獲物を獲る合理性の為にこうなっているものと思います。ムカデが猛毒なのはその食性から体内に毒物を蓄積しているからでしょう。
小学生の時、次のように教わりました。『ムシはアシが6本で羽が4本なのでムシの名が付いているんだよ。虫のように体が幾つもの節で出来ていてその節に脚が付いている動物を節足動物と呼びその代表が虫です』
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化石からはムカデのような節足動物が発見されています。ムカデが早く動く為にはその神経系が発達している必要があります。夫々の節とその脚が統一されて動かないとムカデ競争のように転んでしまいます。
ムカデのように節が多すぎては混乱が生じやすくなってしまいます。そこで節足動物は必然的に節を減らそうとします。頭胴腹の三つに縮小したのが昆虫でした。頭と胴(腹と合体)の二つに縮小したのが蜘蛛でした。昆虫は肢が6本ですが蜘蛛は脚が8本です。
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これは奈良国立博物館の辟邪絵のうち天刑星蜘蛛のような怪物が鬼(災厄を招く)を食い殺しています。古代は天災の原因が鬼であって鬼を退治するのが天王様としんじていたのでした。四天王も地上の四方を守る守護神でした。四天王の足下には鬼が押さえつけられています。

問題は虫の脚の数です重い体を支える為には物理では三点で支えるのが最適です。そこで、虫は常に三本の脚で身体を支え6本の脚を均等に使って前進しようとします。熊谷守一さんの観察がロボット技術にも活きている事でしょう。
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これは池袋にある熊谷守一美術館です。コンクリート打ちっ放しの壁に代表作の蟻がデザインされています。
ところでミミズです。古事記ではイザナギが死んだイザナミを恋しく思って黄泉の国に訪れてイザナミの腐乱した体を観て余りの醜悪さに驚いて逃げ帰ろうと黄泉比良坂(よもつひらさか)を駆け上がります。イザナミは追っ手をを向かわせます。その場面は地下の国です。イザナミの遺体は地中で蛆がたかってミミズが喰っていたのでしょう。生命は同化作業と異化作業(分解)の繰り返しです。同化作業は神聖で浄く、異化作業は醜悪で穢いと考えるのは偏見です。異化作業が無ければ同化作業は進みません。人間が汚してしまった地球環境を綺麗な青い惑星に戻してくれるのは古代も今もミミズ等の原始的な動物でした。
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これは青木繁作「黄泉比良坂」です。芸大所有黄泉の国でイザナギハイザナミの腐乱した遺体を確認して怖くなって地上に逃げ帰ります。地下で遺体は腐乱して蛆やミミズがたかっていたことでしょう。古墳の玄室が朱泥で塗られているのは水銀の効果でフランを防ぐ為でした。写真出典は日本の古典集英社のグラビアです。



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