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武富士の悪夢再び

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私の長銀時代の上司だった竹内宏氏は”パチンコの経済学”を著し人気を博しました。1960年代にサラ金が公開すると次の新規公開はパチンコ会社とされて、当時長銀傘下の公開部長であった私は有力なパチンコ企業に公開の勧誘と公開の指導に日参しました。その時は”長銀の竹内さんね”歓迎されました。勿論竹内さんの紹介状を常に持参していました。
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パチンコの経済学はこの本の中に収録されています森永 卓郎氏や林修氏を観ていると竹内宏さんを懐かしく想い出します(今年4月30日に亡くなられました)。私は強い示唆を受けました以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44555739.html
しかしパチンコ会社の公開は1社たりとも実施できませんでした。それは主管庁の警察当局がパチンコ世論に気配りしたからでした。当時パチンコ依存症が社会問題化してマスコミで叩かれていたからでした。
東証も店頭登録されたばかりの武富士を一部に上場させました。その途端に武井保雄が異常な商法で逮捕されていましたし。武富士を舞台に繰り広げられたありとあらゆる裏社会の醜悪な症状を曝け出しました。
当時武富士のドンは「武井保雄」氏は深谷で「団地金融」を始めていました。大蔵省の銀行局長を経て退職していた徳田博美氏と野村証券ОBの小林等氏を監査役に迎えていました。大物先輩が厚遇されている企業に向けて当局の官吏が責任を果たすことも期待できません。
店頭登録から一足飛びに東証一部に上場し「武井保雄」は世界長者番付日本人トップ107位(54億ドル)にランクされました2006年の世界一がビルゲイツで76位がスティーブ”・ジョブズでしたから驚きです。悪い奴ほど先が見えるのでしょう。
息子を香港に常駐させ武富士をオランダ法人の子会社にして今問題になっているパナマ文書(租税回避行為)を打っていました。徳多博夫氏は関税局長も経ていましたから、悪知恵の源は徳田監査役だったのかもしれません。
武富士のお客さんは首都圏郊外の住宅地住人でした。当時2%を下回る金利で銀行から借り入れして10倍の金利で個人に貸していたのですからサラ金が儲かるに決まっています。

今日突然に武富士の事を書き出したのは次の事実を確認して怒り心頭だからです。
私の住む戸塚は深谷と同じで駅前の一等地は殆どがパチンコ屋さんです。駅前がパチンコ屋さんで、パチンコ依存症の人が消費者金融に走っている構図は武富士が叩かれた時代と少しも変わりません。
そればかりかパチンコ屋さんの店内には消費者金融会社のATМが置かれています。
昭和60年代はパチンコ依存症に陥ったお客さんの財布が空になるとお店を出て近くのサラ金のATМに行かなければ軍資金を補填できなくてその時に頭を冷やすチャンスが在ったのですが、今はパチンコ台の横にサラ金の窓口が置かれているのです。
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パチンコ店内に設置されたATМを告発する新聞。問題はこのATМがインターネットイニシアティブ(東証1部)の子会社トラストネットワークの設備で同社が武富士の残党が設立してそのトップに旧大蔵トップが座っている事なのです。
システム全体を俯瞰すれば。『精々パチンコで遊んでください、球が出ればお金に交換も出来ますし。お金が足らなくなればサラ金から借りてドンドンパチンコに注ぎ込んで下さい。』と見えます。
記事に出ている東和銀行も前橋市も武富士の縁故の都市です。そして武富士が銀行局長だった徳田氏を迎えて鎧を背広で隠したようにトラストネットワークスのトップに大蔵次官であった勝栄二郎氏を迎えているのです。
武富士の徳田さんは監査役でしたが勝氏は社長です。徳田さんは銀行局長でしたが勝氏は次官でした。大蔵省もそこまで落ちぶれたかと思い程に惨めですし。次官の肩書が社会の公正を阻害し天職に唾している事に恥は無いのでしょうか?勝氏の懐には安定したお金が払い込まれるのでしょうが、パチンコ依存症で家庭を破滅させてしまった庶民の怨念も積み上がっていることでしょう。
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これは今週の週刊新潮(2016年7月21日)の勝元大蔵事務次官の去就を糾弾する記事です。

私は大学で経済学は「経世斉民」の学問と教わりました。
神武天皇が民の竈を心配したように全国民の生活の平安を配慮する学問と教わりました。
だから大蔵官僚は倫理観は経済学手法律はその手段と考えていました。ところがノーパン接待に浮かれて何時の間に、経世斉民が自分自身の蓄財処世の方法に転じてしまいまあした。

ところで、竹内宏さんはパチンコの愛好家で居られました。前著の主張もパチンコはサラリーマンが会社勤めの疲れた時に頭を空にして遊ぶには最適だから、更に熟練の技を発揮できる奥行きがあるから・・・の指摘でありました。要するに日本人の趣向に適していて会社帰りに出張先での時間潰しに最適であるからでした。そんな視点は森永卓郎さんにも共通しています。
如何に貧しても経歴を逆手にとって民を苦しめても金の亡者には堕したくないものです。
そう書けばもうじき盆です。亡者が街に家に戻る季節です。人間は死んでも49日又は3年の間は黄泉にも現世に居られず中空を彷徨っていると聞きます。
 武富士の徳田さんは亡者で居た間中にパチンコ依存症、サラ金地獄の怨念を抱えた亡者に苛め抜かれていたことでしょう。「昔は気違いに刃物」と云われました。今はISにライフルのようですどちらもこれほど危険なことは無いの喩えです。昨今の大蔵ОBの去就を観察していると金の亡者に肩書きのようです。経歴詐称よりも遥かに有害で有罪でもあります。閻魔様の法廷は三審制でなくて10審制です亡者の審判こそ厳格に地獄の沙汰も金次第でなくて遣っているものと確信します。

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胡錦濤と集金平の違い(中華政策の大迷惑)

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新社長が登場すると前社長の業績を先ず総括したがるものです。日本企業の場合は主要な顧客や株主に向かって挨拶します。大概が前社長の功績を評価して、その上でその延長線上に新政策を説明して継続した支援を期待します。顧客も株主もそうした姿勢を評価して前体制と変わらぬ支援を約束します。こうした姿勢こそ儒教的だと思うのですが。儒教の国中国の前回の政権交代は違ったようです。
集金平はトップに就任するや、先ず「反腐敗運動」による汚職取り締まりが厳しさを増しています。胡錦濤さんもオチオチ寝て居られない事でしょう。胡錦濤さんは「調和社会の実現」を目標にしていました。最大の難関は、[都市と農村の絶大な格差]をどう解消して調和させる事でしたし「環境と産業の調和」も目標でした、そして「近隣諸国との調和」も目標だったと思います。私達は”中国がGNP世界2位の大国らしく地球上の主要な国家になってきた”と安堵しました。世界中の期待は集金平さんが胡錦濤さんの「調和社会の実現」を継承してくれるものと期待していました。そればかりか集金平さんは新たに「大中華民国の復活」を目標に掲げました。何か歴史が500年も逆戻りしたような幻滅を覚えました。『中華思想が今も中国に生き続けている』気付いた時これは大変だと思いました。米国もドイツも中国もロシアも世界中がナショナリズムを競い合う現状を加速しようとしています。今中国が『大中華政策』を標榜すると大混乱に陥る事でしょう。
トランプ米大統領候補の「GRATEFUL DEAD」と集金平の中華政策が衝突したら、日本は大変です。
日曜日のNHKのテレビ討論も米中対立した時の日本の役割に集中していました。
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日曜討論NHKの画面仲裁裁判を真っ向から否定した中国への付き合い方を討論していました。
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懸案は中国だけではありません自国内政に問題があるとどの国もナショナリズムを喧伝しポピュリズムが跋扈します。米国の大統領選挙の結果次第では危機が将来されるかもしれません。
中国の軍部は軍略の合理性から南シナ海問題で譲歩する事は期待できないようですが。最大の問題が中華思想の払拭です。
集金平の中華思想が国内矛盾「汚職問題」や「都市と農村の格差問題)を隠蔽する為にナショナリズムを必要以上に昂揚させようとしているのであれば。中国人が世界中を旅して地球住民としての目を持てば、中華思想の馬鹿らしさに気付くと思われます。
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北京の大気汚染問題を報じる新聞記事
今日本の街を旅している中国人は北京と東京の違いに驚いている事でしょう。
息が出来ない汚染空気の北京に較べ東京の空気は綺麗ですし。靴も洋服の裾も汚れそうな北京のトイレと便器に腰掛けて読書でもしたくなる東京駅の公共トイレとどちらが快適か嫌と云う程解っているから水洗トイレを買って帰国しようとします。
でも北京で水洗トイレを取り付けようとすると出来ません。北京の下水道は水洗トイレを設置できないのです。それは北京の下水道はあっても流される水質の管理レベルが低いので折角取り付けた日本製の水洗便器も直ぐに詰まってしまって使用不可能になってしまうからです。北京は中国の都でオリンピックも成功した。威張ってみても空気は汚れているし水も飲めない。ウンチも流せない・・・・、と気づいた時に初めて中国は地球上の国家として迷惑な存在である事に気付くと思うのです。
日本車の不買運動をした国民が今上海のマクドナルドで不買運動を起しているようです。
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テレビ朝日で上海ディズニーランドのお客のマナーの悪さを報じる番組こんなのは序の口でゴミ箱からはゴミが散らばる。トイレ(殆どが移設型トイレ)は汚いしこんなところに7千円も払って遊びに来る人はいないと思われます。
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今月のダイアモンドに報じられた上海ディズニーランド。賑々しくオープンしましたが中国人に中華思想が蔓延している限り香港ディズニーランド以上の赤字が累積すると思われますそんな時には東京ディズニーランドがアジアディズニーランドとも改名して三つのディズニーランドを運営する事でしょう。ディズニーランドは鹿野園や祇園精舎の様な処です。お寺や神社を清浄な空間に保つ習慣が無い限り遊園地は成功しません。
上海と云えば今年の春にディズニーランドを開園しました。でも、屹度直に閑古鳥が鳴く事でしょう。
上海ディズニーランは香港ディズニーランhttp://news.searchina.net/id/1602489?page=1以上に惨憺たる業績
になる事(年間25億円の赤字)は眼に見えています。
東京ディズニーランの楽しさは中国でのディズニーランには期待できないからです。
インターネットを叩いて東京と上海のディズニーランを較べてみました。上海ディズニーランが勝っているのは敷地面積が広いだけです。最大の違いはアトラクションの数です。で私が遊びに行ったらどうなるか?想像してみます。アトラクションは少ないし上海では東京以上に順番待ちの長い行列が出来るでしょう。遊園地のハードは東京と上海は殆ど変らないでしょう。行列が長くなるわけですからお客さん同士のトラブルが懸念されます。
自己中が並んで順番待ちが出来るかと云えば先ず期待できません。上海のお客さんは行列に割り込んだりしてアッチコッチで喧嘩が起こる事でしょう。楽しみい思いをしたくて遊園地にいって不愉快な思いをして帰って来ることになるでしょう。加えて中国人の話し声は大きいのです。話声だけで頭が痛くなります。トイレは汚いし園内はゴミだらけになっていることでしょう。
落語や歌舞伎座に遊びに行って会場に一人でもマナーの悪い人や野暮な人が居ると落語もお芝居も興醒めになってしまいます。お客さんのレベルが大切なモノです。
東京ディズニーランのトイレや芝生を体験している中国人は初めて自分達が日本に較べて劣っていることに気づくでしょう。同じようなハードでもお客さんのレベルに問題があると楽しく無い事に気付く事は中国人が地球人に成長するために通らなければならないステップです。

最近の中国人の人気観光地は東京では無くて京都奈良と聞きます。
一番中国人の目立つのは伏見稲荷だそうです。
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中国人観光客の一番人気は伏見稲荷大社と聞きます。常緑樹の緑と丹塗りの鳥居が開運スポットとして人気なのでしょうが、大前提が清浄な空間だからです。人間本来が清浄を好む(自分の命が生き生きする)ので聖地は何処も清浄な空気と水に溢れているのです。中華思想に捕らわれている限りこの真実が解りません。
丹塗りの千本鳥居が並んでいる様を観るのが楽しいそうです。
中国人にとっても狐は九尾の狐の伝説もあるように神獣なのでしょう。何よりも狐の聖地はゴミひとつな常緑樹に埋もれて居る事に感動するのでしょう。
中国人が中華思想の間違いに気づき地球の主要な住人になれるようにアドバイスするのが日本の役割であるように思います。要はそれには時間がかかる事です。
此れからの中国は胡錦濤さんの「調和社会」と「中華思想」の間を何度も行き来する事でしょう。私達は中国から漢字を無料で使わせて貰っています。多少の事は眼をつむって明治人が魯迅を匿った様に隣人としてお付き合いして行きたいものです。


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蓮花と光明皇后

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私の通った高校はJR大船駅を降りて西に坂を登った玉縄城跡にありました。歩きはじめる丘の上には大船観音で。その観音様が奈良法華寺の十一面観音のお顔の摸刻でその十一面観音が光明皇后の生き身を写したものである事は大学生になってから知りました。
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これは大船の観音様です。私の父も此処にある黙仙寺の住職と観音像の建立に尽力しました。この像のモデルが奈良法華寺の十一面観音像とは思いも依りませんでした。現実は白衣観音で十一面の密教的な雰囲気はありません。それに蛍光セメントの質感が好きになれませんでした。
ですから、私は朝晩光明皇后の眼差しの下を通学していた事になります。昨日7月25日は鎌倉学園VS慶応高校の試合が保土ヶ谷球場で挙行されましたし、テレビで中継されていました。本来なら鎌倉学園の応援に参じる処ですが、蓮の花を観に三溪園に行きました。梅雨明けの季節には蓮を観ておかないと良くないと確信しているのです。蓮と云えばベトナムの国花です。ベトナムで蓮を観ましたが日本の蓮に較べるとイマイチなのでした。何が違うんだろう?”思いながらベトナムの蓮を観ていて気づきました。日本の蓮は水面から見て高い位置にポツンと咲くのです。較べてベトナムの蓮は水面に近く。毎朝次々に咲きます。咲き終われば花弁は散って蓮台も水中に没しますし、葉っぱは枯れるモノもあります。日本の蓮は一年に一度初夏にしか咲く機会がありません。一年中蓄えたパワーを一気に開花に集中するのです。一年中試合をしているプロ野球がマンネリしているのに較べて。一年に一度の高校野球や社会人野球が感動させるようなものです。
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蘭の展覧会を開催すれば日本の蘭が優勝するのは、日本の園芸技術が秀でているというより、一年中咲くか一度咲くかの違いです。日本の蓮がベトナムの蓮より綺麗なのも同じ理由です。勿論蓮の花に寄せた日本人の2千年の思ひも詰まっています。写真は今年の世界ら蘭展日本大賞NHK)
日本で咲く蘭の花が熱帯のシンガポールやフロリダやハワイの乱の花より綺麗なのは「世界蘭博覧会」で日本の蘭が毎年最優秀賞を獲得するのも同じです。熱帯の蘭は一年中咲いています。一方日本の蘭は博覧会に向けて一度咲くのですから、日本の蘭が勝るのは自然です。
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三溪園に蓮の花を観に行きました。お人形はベトナムの水芸を観に行った時に求めたお人形です。お人形さんも蓮を観たかろうと思って連れて行きました。勿論今話題の「ポケモン・ゴー」を捩った積りです。
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此方は鎌倉光明寺記主庭園の蓮の花です。此方の蓮は中国産の蓮です。中世近世蓮と云えばこうした八重の蓮が珍重されたのでしょう。でも昭和26年千葉の検見川古墳から先史時代の蓮の種が丸木舟と共に発見され大賀博士が花を咲かせました。あの時は一重の大輪の花の美しさに驚きました。炭素化した種を分析した結果弥生時代初期と判断されました。
昭和28年千葉の検見川の遺跡で蓮の種が発見されましたその種を播いて大賀博士が弥生時代の蓮を咲かせました。日本中が大賀蓮に湧き立ちました。大賀蓮は瞬く間に埼玉の遺跡に、公園の池に三溪園の大池にも咲くようになりました。日本人が大賀蓮を観た時の興奮は第一にそのおおらかさ美しさであると同時に2千年以上も前の祖先が残してくれた種を花咲かせた僥倖だったでしょう。
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これは高野山に残された胎蔵界曼荼羅図です。この中央にある正方形が中台八葉院で大賀蓮そのものの図案です。

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これは高野山の根本中堂の内部です。胎蔵界曼荼羅図の中台八葉院を立体曼荼羅にしたように作られています。
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これは羅漢仏です。金剛界曼荼羅は産まれた自分自身が如何にして仏になるか?即身成仏するかを観想させる絵図です。日本人は弘法大師の遍路生活をお手本にして大自然と感応する一体化する道を選択しました。まるで羅漢石仏のように・・・。
でも多くの日本人は大賀蓮は何処かで観たことが在ると思いました。それは弘法大師の残された曼荼羅の図だったのでした。私達は国宝の高野山に残された胎蔵界曼荼羅図を覚えています。胎蔵界とは母親の胎中の意味です。私達がオギャーっと産まれる前の世界観です。
同図は弘法大師が人々に密教を理解させるには言葉で説くよりも絵を見せる方が良いと思われて世界観を絵図にされたものでした。その中心には宇宙の中核大日如来を置きました。そしてその四方に如来を置きました。これを中台八葉院と呼びます。中央の台座には大日如来がお座りです。その周囲には主要な如来菩薩が囲っています。それは大日如来が人間の願に応じて様々な如来に転じ、時には如来になる前の菩薩の姿を示した図で、全体を観ればまるで蓮の花のような姿でした。4体の如来(宝幢-ほうどう、開敷華王-かいふけおう、無量寿-むりょうじゅ、天鼓雷音-てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩、文殊師利菩薩、観自在菩薩、慈氏菩薩)、計8体が表しました。どの仏も大日如来の変化形で変化の原因は人間の願望です。
弘法大師は古代末期に密教を大成させた人です。朝廷は密教の力で綻びの目立ち始めた国家の安寧を図りました。仏教の力で国家の鎮護を祈ったのは、何といっても聖武天皇と光明皇后でした。
その証拠になる仏像は第一に法隆寺に残されている橘夫人念持仏です。橘夫人とは光明皇后の母で軽皇子(文武天王)の乳母も務めた賢母でした。葛城王を出生します。葛城王は臣下に下り橘諸兄の名を賜り野心の無い事を天下に表明します。ところが藤原不比等は橘夫人を見初め後妻に迎えて光明子を産みます。橘諸兄は藤原不比等の策謀に嵌って亡くなります。橘夫人は息子諸兄の死を聖徳太子にダブらせたのでしょう。法隆寺を大切にします。そんな母を観ていた光明皇后が母の菩提を弔って法隆寺に納めたのが橘夫人念持仏だったのでしょう。写真のように泥池から生え育った蓮台の上に阿弥陀三尊が衆生に微笑んでおられる美しい阿弥陀三尊像です。

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この橘夫人念持仏を法隆寺に奉納したのは間違いなく光明皇后だったことでしょう。
この橘夫人念持仏は有名な玉虫の厨子と並列して法隆寺宝物張に記録されています。
法隆寺の釈迦三蔵の光背に記された願文には「聖徳太子上宮太子が彼岸に到達できるよう」と刻まれています。聖徳太子が建てたのが法隆寺です。法隆寺に納められた仏は何れも聖徳太子への共感が動機になったモノのように思います。それだけ聖徳太子のように優れた才分がありながら不幸な一生を終えた人が多かったのでしょう。光明皇后は自邸を法華寺に改め国家の安寧を祈り施薬院等の善行を重ねたと伝えられます。光明皇后への敬愛の想いが法華寺十一面観音を彫らせその後背に蓮の花を荘厳させたのでしょう。
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これが法華寺の十一面観音像(国宝)矢張り日本人は木質の観音像に親しみを覚えます。



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セールの元町モール

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7月25日三溪園の蓮を観て、私達は中華街でランチを楽しみました。お粥を腹いっぱい食べて私は台湾風デザートで喫茶したかったのですが、予算もあります。そこで朱雀門から元町の商店街に向かいました。私が大学生だった頃元町のファッションは『ハマトラ』と呼ばれ人気でした。
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中華街の南門が朱雀門です。此処から運河を渡れば元町に入ります。中華街の街路樹は栴檀ですが、この辺りから元町一帯の街路樹は赤紫の百日紅になります。私は百日紅を観るとかき氷を想い出します。台湾かき氷はかき氷の女王だと思います。
女性ファッション誌「JJ」(光文社)は介フェリス女学院のお嬢様をモデルにしたような横浜トラディショナル(略してハマトラ)を掲載しました。男子はVANジャケットを着て女子はミニスカートで街を闊歩しました
この地が『元町』と呼ばれるようになった起源は、明治時代にまで遡ります。1860年の横浜の開港により外国人居留地が設けられたため、その地に住んでいた旧横浜村の人々が隣町の本村に強制移住してきました。そしてその後「横浜元町」に地名変更されたのが、元町の始まりだと言われています。
神戸にも元町があります。神戸も横浜も日本人が外国文化を摂取して、新しい風俗・文化を創作したのでした。
私もワイフも浜っ子で育ちましたから、晴れの日には中華街で食事をして元町をショッピングするのが習慣でした。
と云っても二人とも日吉のキャンパスでしたものの、午後の授業をサボって元町に出た事は一度もありませんで私は潮汲み坂の「汐汲坂ガーデン」しを目指して歩き出しましたが元町大通りから山手側に折れる道を迷ってしまいました。そこで既に始まった中元セール(元町では”チャーミングセール”と名付けて居ます」を観ながら元町大通りを石川町駅に向かいます。
ワイフは私に言います。
『今日が夏休みでなければ女学生が沢山いたのにね!』
もう40年も連れ添っていると私の気持ちはお見通しです。
ハマトラの3種の神器と云えば、「フクゾー」の洋服、「ミハマ」の靴、「キタムラ」のバッグ。と云われていました。
これに老舗の近澤レース店や洋風家具や外国人好みの陶器店やパン屋さんケーキ屋さんがモールを形作っています。
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これは「三種の神器」ではありませんがにんきのスミノの店頭50%オフが目立ちます。昔はJJをバックに忍ばせていたおば様も今は覘いても行きません。心なしか舗道に放置されたママチャリもリッチに見えたりします。
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これは元町ユニオンの店頭昔に比べればスーパーらしくなく専門店や喫茶室(2階)が表に出て来ました。
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これは紳士衣料雑貨ののポピーです山小屋風の建物が目立ちます。百日紅の花陰に建っている幟には横浜美術館で開催されいる「メアリー・カサット展」http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20160625-465.htmlです。日本人はルノアールが好きですから屹度多くの人が集まる事でしょう。それにしても元町の街に似合う幟です。
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此方はマクレガーの店頭です。ユニクロやH&Мに慣れたハマトラ族にはもう見向かれなくなったようです。
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ハマトラ族だった世代は孫に似合いそうなグッズに眼が向きます。孫息子夫婦そして自分達に似合う三世代衣料(トリプルグッズ)なんて良いと思うのですが。
汐汲み坂ガーデンで台湾掻き氷を食べる事を断念して私は思いつきました。
前回元町を歩いた時に近澤レース店の二階にコメダ珈琲が出店したのです。私が鎌倉深沢に出来たコメダ珈琲に行ってモーニングを食べているのに苛立って”私は一度も名古屋スタイルを体験していない”言っていたのでした。そこでユニオンやリトルマーメイドの前を素通りして近澤レースの前に着きました。レースの日傘がショーウィンドウに店内に吊るされています。関心ありそうなワイフを横目に私は狭い階段をドンドン二階上がります。階段を登ろうとするとセンサーが働いて来客を伝えます。名古屋スタイルは超合理的なシステム運営なのです。
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これは近澤レース店の店頭です。高級感あふれる日傘が吊るされていまあしたが、怖くて店内に入るのは遠慮しました。そして脇の階段を上って二階のコメダ珈琲で今年初めての掻き氷を食べました。
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これはコメダ珈琲の掻き氷です。掻き氷410円にソフトクリーム110円をトッピングして520円です。ソフトの他にも餡子等色々トッピングが出来ます。ベトナム人形はポケモンゴー人気にあやかって持ち歩いているものです
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コメダ珈琲元町店の店内鎌倉深沢テント変わらない設えでありながらお客は閑散としていました。
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コメダ珈琲の人気の秘密は新聞や雑誌が自由に読める事。最新号の雑誌を揃えて置くことと綺麗に並べる事は必須です。これもままならず加えて配達された食パンを雑誌棚に放置して置く無神経さは我慢し難いモノがあります。システムとマニュアルを整備しても実施するハートが無ければお客は避けてしまいます。
近澤レースもこんなテナントを入れては駄目です。直ぐにテナントを入れ替えて筋向いのぽんぱどーるかウチキパンにしたらよいと思います。
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これがぽんぱどーるのパンです。
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近澤レースの道路向かいが三種の神器の「フクゾー」です。私はコメダ珈琲の窓際席からお客の出入りを観ていました。まるで現役銀行員か税務署員のようです。叔母さんが懐かしそうに眺めて素通りしてしまいました。そこでフクゾーさんに提案ですこのおばちゃんの財布を開かせるには三世代ファッションでポケモンをワンポイントに入れたお洋服を作ればおばさんは買ってくれますよ。お値段は3世代セットで15千円ですよ。


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金田一温泉への憧れ

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昨晩の「ラジオ宅急便」に金田一秀穂氏と金田一真澄さんが出て、祖父[金田一京助氏]や父[金田一晴彦氏]の話をしていました。金田一真澄さんはロシア文学者で慶応大学名誉教授で居られます。
高名な言語学者の子孫として産まれながら早稲田の理工学部に学び慶応大学の工学部で教鞭をとっていた才女で居られます。経歴が屈折して居る事は複眼の眼を持っておられるという事でしょう。お話に聞き耳を立てました。先ずは珍しい「金田一」の名の因縁を話されました。荻窪に叔父様がお住いで、同じ町内に横溝正史氏がお住いだったので金田一耕輔が登場したのだそうで。この名が一番著名だそうです。そして地名としては青森県二戸の金田一温泉です。地名も氏名も陸奥南部藩の有力な藩士の一族で維新の後には実業家に転進したりした名家であり、金田一京助氏が故郷の青年石川啄木を支援したのも藩士の見識であった事を匂わせておいででした。
金田一のルーツ二戸は「座敷わらしの宿」や天台寺(瀬戸内寂聴さんが青空説法をされた)で有名で一度は泊まりたいとズット思ってきました。
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瀬戸内寂聴さんが青空説法をされた二戸の天台寺写真は二戸観光協会のHPを借用
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金田一温泉の亀磨神社温泉には座敷童の出るという旅館もあります。写真出典二戸市観光協会HP
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これは天台寺の聖観音像二戸の情法寺町に在って桂泉観音とも呼ばれているそうです。桂の一木作りである事と桂の根元に祀られていたもので霊泉の霊力が信じられてきたからでしょう。丹田の位置に書かれた梵字は仏師か施主の願文でしょう。この墨字が単に観音を意味しているのか違う意味があるのか訊いてみたいと思っています。写真は静岡銀行のカレンダーを複写。

ただ真澄さんが金田一晴彦記念図書館をルーツの八甲田山山麓ではなく八ヶ岳山麓(山梨県北杜市)に建設した事情が判りかねます。
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これは八ヶ岳山麓の尖り石遺跡から出土した縄文ビーナス(国宝)日本の美術から複写
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これは八甲田山麓の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器(メガネ)土偶。八甲田八ヶ岳似ているのは仏教の影響で理想郷を八葉と思ったから。縄文人の生活圏が人間の理想郷だったので。離れて居ても八ヶ岳と八甲田山は似たような文化が残されています。

金田一晴彦氏が別荘を八ヶ岳の麓に持っていてそれを北杜市に寄贈したのが自然な成り行きだったのでしょうが。金田一の北方系の名前(地名と氏名)を残す意味でも八甲田山麓にアイヌ文化(言語)と共に展示してほしいモノでした。真澄氏は現在長野県立大学の設立に多忙だそうです。同大学が開講の暁には私の仲間も教壇に立つ機会があるかもしれません。何処に設立されるのか公表されていませんが。その前身になる長野短期大学が善光寺の近くにあることから長野しか北杜市がどちらかでしょう。設立趣意書(http://www.pref.nagano.lg.jp/daigaku/kyoiku/gakko/kenritsu/kihonkousou/documents/01kousou-gaiyou.pdf)を読む限り交通の便や自然環境の恵まれている八ヶ岳山麓かもしれません。八ヶ岳山麓は縄文遺跡や諏訪大社の文化が色濃い処です。イメージとしては慶応大学の藤沢キャンバス(情報科学)に健康医療や農業工学等が加わった総合大学になるのでしょう。
私が1960年代後半地域振興公団に出向した時に誘致した長岡科学技術大学は近年評価を高めています。時代の変革期に創世される大学ですから日本の将来を照らす大学が出来て欲しいモノです。
ところで、早く天台寺にも参詣したいものです。出来れば桂が最も美しくしかも香り立つ初秋に行きたいものです。現代漆を採取しているのも金田一温泉周辺と聞きます。
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佐原の民俗美術館で展示されているシーボルト遺品展の案内テレビ画面。
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これは漆器の大皿で祝い事の時に盛ったそうです。大きな鯛を観ると唐津のオクンチを想い出します。博多に単身赴任して居た時唐津から通勤していた女子職員の家庭にお呼ばれしました。その時鯛の山車を曳きました。諏訪神社の祭事で鯛の山車は合点が行きませんでしたが晴れの日の祝には鯛が最適だとこのお皿を観て気づきました。
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此方は鰹の漆器の大皿です。もうじき戻り鰹の美味しい季節です。欧米人は日本の食習慣(大家族で同じ皿に盛った晴れの料理を取り分けて食べる)を知らないのに子の食器の良さが解るのか疑問です。欧米の食器は6組がベースなのに対し日本は5組がベースでお大尽の屋敷では2組を用意したモノでしたが。実に粋な漆器です。色漆器の技術が在って初めて出来た大皿です。大久保彦左衛門もこの皿に鰹の皿ち料理を盛られたら思わず眼鏡を落とした事でしょう。
今千葉の佐原の民俗博物館ではシーボルトの遺品が展示されているそうです。幕末のコレクターの眼に止まった日本民族の工芸品の美しさ漆器が第一と聞きました。
昨今は漆の木を観なくなりました、金田一温泉に浸かって漆の紅葉を観て漆器で茸料理を楽しみたいものです。
金田一温泉にも行きたいし、シーボルトのコレクションも観たいし美的欲求、知的欲求は留まりません。

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生き続ける陰陽道

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第二外国語にはフランス語を選びました。ドイツ語にはマルクスのイメージがしたからで、決してマルクスが嫌いなわけでも近代経済学が嫌いであったわけでもありません。強いて言えば街に流れていた”シェルブールの雨傘”が心地よく響いていたからです。今風に云えば街にモンサンミシェルのポスターが貼ってあるからでしょう。
フランス語の授業は苦手でした最初に躓いたのは名詞に男女の区別が在るので冠詞ごと覚えさせられたからでした。でも今なら興味深く自然に覚えられた事でしょう。何故なら男女の名詞の区別は陰陽道そのものなのですから。
日本人は無意識下に陰陽道で区別をしています。高低、明暗、強弱、大小、多少、少年少女、男女、老若、先輩後輩、上中下、松竹梅、前後、表裏などといった熟語は過去に優位と見られていたものが先に来て、それに次ぐとみられていたものがあとに続いています。陽が先で次に陰が来るのです。先に陰が在って次に陽が来るのではありません。古代人は陽次に陰が交互する事を自然に思っていたのでしょう。
次に問題になるのは言葉です。縄文人は狩猟生活をするうえで欠かせない意交流手段として言葉を生み出したのでしょう。言葉が在って初めて縄文人は巨大な熊や鹿を捕まえて食べる事を知りました。言葉に依る連係が無ければ熊に勝てる筈ありません。
【呪文の重要性】
私達は陰陽道とか密教と云うと呪術を連想します。それは近代の科学がその手法で宗教を観察して未開人が何やら理性では解釈しかねる呪文を唱える事そして呪文で何を祈ったのか訊けば、「自然の万物には形と霊が在って、霊に祈りを伝えていたのだ」と答えました。そこでこうした未開人の宗教をシャーマニズムと呼び呪文と云った祈りの言葉や祈祷を呪術と呼んで宗教の発展段階の初歩に置きました。勿論宗教は人間の発達とともに一神教に到達するのが明白な前提でありました。
もうじきお盆です。私達はお経と云う呪文を聴き塔婆に故人の名を書いて故人の冥福を祈ります。
そしてお盆の墓参りを終えるとまた翌半年間に突入します。お盆は陽の極みでありお正月は陰の極みです。
お月様が満月と新月を交互するように陽と陰の車が転がり出すのです。
自然の万物を観察してみると陽タイプと陰タイプがありました。フランス人が観察した時男性的なモノと女性的なモノが在ると思ったのと同じでした。
日本人は桜や萩の花は美しいと思いましたが陰と感じました。一方松の木は常緑であって陽と思いました。陰樹は日陰でも育ちますが、陽樹は日光が 当たらないと枯れてしまいます。個々の植物が日当たりを好むかどうか湿性土壌(水は陰)を好む植物と嫌う植物があります。これを間違えて松の木を建物の裏側(総じて日陰であり湿性土壌です)に植えれば松の木は育ちません。逆に綺麗だからと云って玄関に桜を植えれば桜は直に腐ってしまいます。こうした考えを推し進めたのがは「風水」です。庭木で云えば幸運を呼ぶ陽木は合歓の木やクチナシや夏目や柿や槇の木や橘です。
間違えると家運は衰退すると思われてきました。
【安倍清明の陰陽道】
阿倍清明が活躍した時代はまさに古代が終焉し中世に転がる変革期でした。歴史年表で観ると驚くと共に現代と似て居る事に驚かされます。
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この年表は高校時代愛用した吉川弘文館のモノに阿倍清明を掻き加えたモノ。
古代国家の骨格であった「公地公民」は荘園の普及に伴って綻びを生じます。北では平将門が西では藤原純友夷が公然と反旗を翻します【将兵天慶の乱】加えて、外敵の刀夷が侵入します。天変地異が頻発して清涼殿には二度にわたって落雷し焼失してしまいます。人々は菅原道真の怨霊に依る天変地異災害と思い込みます。
朝廷は密教を信じ醍醐寺を建立して加持祈祷に努めます。
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これは北野天神絵巻です。紫宸殿に落雷した原因を怨恨を残して亡くなった菅原道真の怨霊によるものと考え、平安京内裏の北西に北野天神を建てて道真を祀りました。同時に内裏の北東に阿部清明を住まわせました。
絵巻を見ると天神様の眷属の赤鬼が怖いというよりヤンチャで滑稽な表情に描かれていて人間味に溢れています。逃げ惑う殿上人も漫画的に描かれています。出展:若杉順治著絵巻を読み解く。
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百鬼物語絵巻です。夕暮れを迎えると都大路には沢山の鬼が行為しました。朱雀門の南羅生門には鬼が住み遺体に宿った怨霊は人間に災いをしました。そんな話は今昔物語に載せられました。百鬼を見ているとポケモンを彷彿させます。ポケモンゴーは話題ですが。思い起こしてみれば平安時代から千年の歴史を潜ってきた日本文化のエッセンスなのです。この表情の滑稽さ生き生きした感覚は最高です。
しかし一向に災厄が止まらないと見るや武士の力を頼って都や地方の平安を維持しようとします。しかし頼りにしうていた武士は朝廷の基盤を奪い逆に政権を樹立します。古代国家は終焉し中世に突入するのです。武士の時代を迎えると密教よりも個性を重んじた鎌倉新仏教が勃興します。しかし陰陽二元論は廃れません。元寇があれば鎌倉幕府も総力で加持祈祷に明け暮れると同時に蒙古軍を押し返す為の防衛戦争に尽力します。
台風で蒙古軍が海底に沈むと加持祈祷の成果と思い込み陰陽道は一層盛んになりますし。
呪術はますます盛んになります。
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羽生選手は阿部清明を演じてくれました、時代は平安時代と同じ天変地異人為災厄が重なり清明を待望する時代空気なのです。
【心体二元論】
陰陽二元論と同様に重要な考えに心体二元論があります。
心体二元論は人間は体と心の合体であるといった考えで。キリスト教やイスラム教総ての宗教に共通する世界観です。唯日本だけに特徴的な事があります。人間の心【霊】は消滅しなくて変遷すると考えました。ところが総ての動植物ばかりか石のような無機物にも霊【心】は宿ると考えたのでした。
問題は心【霊】は目に見えないことでした。で霊【心】と人間との交流手段は言葉しかありません。言葉を使った交流方法が呪文で、書が卒塔婆でした。耳無し抱一の怪談は和尚が耳にお経を書き忘れたので悪霊に対する結界が出来ずに悪霊に耳を取られてしまいました。

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土用の意味を考える

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昨日(7月29日)はようやく梅雨明け、今日30日は陰暦カレンダーを見ると「大暑」と記されています。24節気の12番目で1年で最も暑い日の意味です。今日から立秋(9月7日)までの間が暑中になります。(正確には処暑から立秋まで)大暑は1年中で最も暑い日で。暑さの峠です。暑い日から涼しい日への転換になります。転換日を土用といいます。土用は1年間に4回在って夏の土用が有名ですが冬の土用(立春の18日前)。
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これは沼田の奪衣婆昨年のサクランボの季節に詣でました。この辺りは味噌舐め奪衣婆といった特徴のある像が多いのです。http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B2%BC%E7%94%B0+%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=1&oq=numata&fr=top_ga1_saに書きました
自作の陰暦カレンダーを見ると今日は小田原で「提灯祭り」が藤沢では「遊行の盆」があることになっています。提灯も盆踊りも見頃は夕方でしょうから、出発は午後からにいたしましょう。小田原も藤沢も鰻の名店がありますが。今年は既に浜名湖でいただきましたので、今日は鰻はあきらめておきます。
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私のパソコン前に貼った陰暦併用のカレンダーです。8月7日に立秋同16日が送り盆であることを書き込んであります。写真は大覚寺池です。
西洋社会は七曜表で6日間働いて翌日は休日にしました。中近東から始まった暦は6がベースで、ヨーロッパ大陸に渡ると日曜日が「お祈りの日」としてオンされ7(素数)で1週間としたのでしょう。しかし。6がアジアにわたると、6が嫌われて(2の倍数だから)素数の5が好まれましたので5が基本になりました。
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これは箱根の精進池の池畔に祀られている宝篋印塔(重文)この塔は美しいだけではなく誰(千葉氏) が何のため(源氏の月光という女)に何時立てたかが(永仁4年1296)明白に刻まれていたこと石工は(大和の大蔵安氏)から重要文化財に指定されています。いつの日にか再び此処の石造文化財を書き改めたいと思います)
人間は「何故?」と考える性分が大昔からついていたのでしょう。現象(成果)を見ると原因を突き詰め考えようととします。不幸があると原因は神意に背いたかもしれない。悪霊が祟ったのかも知れない考えました。幸運があると神が祝福してくれたのだろうと感謝しました。そんな考え方を数字に当て嵌めると約数・倍数に及ぶと素数(割り切れない自然数)を尊いものと考えます。お寺や寺院に行くと皆素数で作られています。塔は3,5,7,11,13のいずれかです。自然の万物を観察すると『木・火・土・金・水』のいずれかに分類できました。霊は原因で『木・火・土・金・水』の何れかの形に憑依すると考えました。霊と人間と交信する手段が言葉でした。
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これは大分国東にある富貴寺の五輪塔。宇宙の万物は「木・火・土・金・水」の5元素からできていると考え。その形も四・球・三角・輪・空からできていると考えましたこの5つの形態(元素)が連関しているので五輪としたのでした。問題はこの連関の姿で順列であれば相行逆列であれば相克となります。五行思想は色々な場面で相行・相相克を見極めて振る舞うことです。正し5つの石を積み上げるに際し下から安定感のある順に並べたので下から『地・水・火・風・空』となっています。
霊は意思を表現できません。人間の口を借りて意思を表現するのが巫女でありイタコ(恐山が有名)でした。私たちはこの暑中に盆を迎えてお寺で呪文(お経)を唱えて貰い、呪文を書いた卒塔婆をお墓に立てるのは、霊と交信する手段が言葉(言霊)しかないからです。卒塔婆は木で作られていますから敷きに腐ってしまいます。永遠に呪文が残るのは石です。そこで日本人は自分と死者と神を繋ぐ呪文を石に刻みました。それが五輪塔や宝篋印塔や13重塔などの石造物です。五輪塔には誰が(施主」が何時誰のため(故人)に何を祈ったか?(願文)が刻まれています。
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五輪塔と卒塔婆の説明図図は大塚霊園です。五輪の形を分かり易いように人間の体五体に捩って説明していますが万物の基本形状が5つで偶々人間の体も5つでできていると考えたのでしょう。因みにお団子も5つが基本です。
私の父は書が苦手でした。でも母は上手でしたので、今頃は母が額に汗して卒塔婆に筆を走らせていました。でも時々誤字が生じてしまいます。黒々と墨書した後で誤字に気づいても時既に終わりです。私は書き損じた箇所に鉋をかけて塔婆の表面を削るとるのが役目でした。テレビショッピングで電動サンダーが売り出されています。私は当時電動サンダーがあったならば卒塔婆の書き損じの対策がし易かっただろうに…思ったりします。
昔から粗忽なお坊さんがいたようで、塔婆の字の過ちで困った霊が幽霊になって訂正を求めた説話も残されています。それは今昔物語で落語ではありません。
こんなことを書いていたら。今年は谷中の全生庵(三遊亭円朝の幽霊コレクションで有名)に行こうか今から考え中です。(8月11日)
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これが遊行の盆のポスターです。

今日7月30日大暑の中お出かけの目的は遊行寺の盆踊りです。一遍上人の踊念仏のお陰で日本の夏もリオに勝る夏になりました。時空を超えて先人に感謝せずばいられません。ワイフが水筒を持ってくれるので安心です。時宗は全国にお寺さんを擁しています。各地の一遍上人縁故のお寺の協力があれば。全国規模の盆踊りが実施できるでしょう。藤沢市では長後で佞武多が曳かれますし竿灯が遊行寺通りをねれば楽しいでしょう。


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秋田への想いひとしお(遊行の盆)

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7月30日暦通りの(大暑)暑さになりました。昼食を終えるとイソイソト出発して先ずは小田原城に「小田原提灯祭り」を観に出かけました。小田原提灯に満足して。
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これは小田原の提灯祭りです。外堀のお堀端には小学生の作った小田原提灯がつるされていました。
引き返して小田原駅から藤沢駅に行き。「遊行の盆」を観に寄ります。遊行の盆は何度か観に行き。会場で娘夫婦に見つかって”あら!お父さん盆踊りは観るものではないのよ踊るものよ!”言われた記憶もあります。このブログでも何度も書いて一遍上人の始めた踊念仏が日本民族の文化の骨髄に浸み込んでいると思ったのでした。言葉や理屈で解るのが顕教なら、密教は体験しなければ解らないもの。一遍上人の教えは解る様に踊りながら解らせる密教だったのかもしれません。盆踊りは観るものではなくて一緒に踊ることで櫓の下に集まった凡人が皆救われる、大衆救済の仏教だったのでしょう。
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藤沢駅と遊行寺を繋ぐ遊行寺通りの庚申塔前を練る遊行踊りの市民連コンテストでもあります。向こうの庚申堂は立派で10基近い庚申塔が並んでいます。

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遊行寺通りを練る西馬内盆踊り黒いおこそ頭巾で顔を隠し更に女性は菅傘を深々と被っています。着物は艶やkじゃな端布をつなぎ合わせて手つくりしたもので帯も含めて全容は異界(黄泉ではない)からきて踊っているものと感じました。お囃子は私たちが耳に馴染んだ秋田音頭をはじめ念仏踊りを彷彿させるのは必ずしも鉦の音色のせいではないと思いました。
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これが空也上人像(六波羅蜜寺」叩いておられるのが鉦です。一遍上人はこの姿で櫓に乗って踊りながらお札撒きをされました。その姿は一遍上人絵巻に描かれています。絵巻は踊念仏が盆踊りのルーツであることを示しています。
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片瀬地蔵堂での遊行踊りの図(一遍聖絵)
私が脳梗塞の闘病をしている間に遊行の盆も随分進化したものです。
メイン会場は遊行寺境内で変わらないようですが。昔は藤沢駅から遊行寺を繋ぐ遊行寺通りが練り歩く道でしたが旧遊行寺通りから一本南、さいか屋前のぺですとリアンデッキから遊行寺に続く少し幅広の道に移りました。道幅は広くなったし。電線も地中化したので。踊りやすく竿灯や佞武多も通りやすくなりました。
お陰で昨年から秋田竿灯も練り歩くようになったようです。
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これは西馬内の盆踊りの連三世代が千年前ルーツの盆踊りに汗していることは無上の楽しみです。
そして、昔も盆踊りのハイライトは秋田県西馬内(にしもないのぼんおどり)です。阿波踊りと郡上八幡の併せて日本三大盆踊りです。遊行の盆では三大盆踊りを同時に楽しめるのです。
私は西馬内盆踊りのお囃子のリーダーと思われる方に訊いてみました
「なんで西馬内が重要民俗文化財の指定を受けられたのですか?」
するとお長老は次のように答えられました。
「西馬内盆踊りには都風の雅が色濃いことそして歴史の深さです・・・・」
自宅に帰って西馬内盆踊りの歴史を調べてみると、ルーツは鎌倉幕府の欧州征伐に遡るようです。小野寺一族は幕府方に味方し、奥州征伐(1189)の功により雄勝を領有しました。そして西馬音内城(現在の郷ノ目周辺)をが築城して一帯を治めるようになり、付近の地域は比較的平和な時代が続いた。正応年間(1288-93)、修行僧源親が蔵王権現(現在の御嶽神社)を勧請し境内で豊年祈願として踊らせたものというようです。ですからこの盆踊りは蔵王権現をお迎えして豊作と災厄除けを祈願したものでした。踊り手はひこさ頭巾で顔を隠し艶やかなな端縫い衣装を着て頭には菅傘を深々と被って踊ります。長老は都風の雅と云われましたが。私は農村のエロティシズムと見えました。秋田の女性は総じて色白ですから。日焼けをしないように頭巾で顔を隠す(まるで浄瑠璃の黒子のようです)と何故か艶っぽく見えるのです。賑やかなお囃子は太鼓・鼓笛・三味線に混じってがたたかれます。
鉦が打ち鳴らされると一遍上人や空也上人が鉦を叩く姿が浮かんできます。西馬内盆踊りは全体として一遍上人絵巻に描かれたような場面が残されているので、重要無形民俗文化財の指定第一号の栄誉を受けたのでしょう。
来年は「小原風の盆」に仲間と出かけます。長老に「小原風の盆」との関係を尋ねると。まったく違うとのことでした。小原風の盆はお座敷芸や瞽女は、「盲御前(めくらごぜん)」の芸能であり西馬内盆踊りは農村共同体の芸能ということのようでした。風の盆は胡弓の音が痛切哀愁を帯びているので、ルーツも育ちも全く違うのでしょう。
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これは小原風の盆で胡弓を伴奏楽器に組み入れた最後の瞽女小林ハル 」の少女時代を描いた図
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これは遊行寺通りを練る阿波踊り高円寺朱雀連の一団。西馬内が端布のぱ縫い合わせなのに対して阿波踊りはピンク色の襦袢で白い脛をチラ見させて如何にも町人好みです。一遍上人の念仏踊りが農民に伝わったのが西馬内盆踊りなら町人に伝わったのが阿波踊りなのでしょう。やっぱり一遍上人は尊いと思いました。
西馬内盆踊の一行が闇の中に消えると阿波踊りの一団が通りを占拠しま明日。これは東京の高円寺にある朱雀連が躍るもので昔も遊行の盆の主役でした。西馬内盆踊が藍染だったり菅傘でいかにも農村共同体の香りがしますが阿波踊りは桃色の襦袢をはだけて白い脛を見せて、いかにも町民の踊りです。
阿波踊りが終わるとしばし遊行寺通りは静寂に包まれました。通りの彼方から太鼓の音が響いてきます。
私は駅のぺですとリアンデッキの端に陣取って望遠レンズで竿灯の出を待ちました。
竿灯は突然に目の前に出現しました。実は竿灯は伏して見えないようにして観衆の前にきてやおら立てたのです。突然に出現した竿灯の美しさに博拍手が沸き上がりました。
誰が見ても竿灯は重く稔った稲穂を思わせます。
豊年満作を祈願したお祭りであることは疑いもありません。本来なら豪華な山車を作って練り廻るのでしょうが。山車を作るのはお金もかかります。竿の先に提灯を付けただけの山車なら安くて済みそうです。そのうえ神様も先祖の霊も夜の闇に浮かび上がる稲穂のような提灯なら喜んでくれるに違いありません。竿灯の先端には幣が載っています。豊作を司る神様も綺麗な竿灯を目指して降臨するのでしょう。
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遊行寺の方から竿灯は伏せて遣ってきました。そして突然に竿灯が立ちます。この日の竿灯は3連でした。
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竿灯はお父さんの肩車に乗った子の頭に傾て来ました。この子は驚いて大泣きしましたが神様は余りの可愛らしさに除災して守護してくださる事でしょう。

遠目で観る竿灯もよいのですが。私は下から見上げたくなってぺディストリアンデッキを道路に降りました。お兄さんが竿灯のバランスをとりながら進んでゆきまます。故意に竿灯を捻ります。型車に乗ったお子さんの頭上に竿灯が降ってくるようです。お子さんは驚いて泣き出します。幣に降りた神様はお子さんの頭に乗り移ったように思いました。法先祈願の想い稲穂は同時に衆人の厄病除けにもなるのでしょう。
提灯に柳とか宝そして若と書かれているのは町の名なのでしょう。
きっと米どころ秋田はもう赤とんぼが群れていることでしょう。
一生に一度は大好きな秋田に竿灯を観に行きたいものです。秋田の美食をエンジョイしながら竿灯を見て一風呂浴びて横になれば脳梗塞の後遺症も吹き飛ぶことでしょう。

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これが本場の秋田の竿灯まつりだそうです。写真出典は秋田県観光協会やっぱりお祭りこそ地産地鑑賞です。この熱気と祈る心の中にわが身を置きたいものです。リハビリの次の目標です。

竿灯は見事に提灯竿をお囃子に合わせて、夕方から夜更けまで舞われそうです。いつか秋田県に西馬内盆踊り竿灯まつり観に行きたいものです。さすがに米どころ秋田です。どちらも弥生文化を思わせる魅力溢れる民族芸能です。

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遊行寺大盆踊り

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7月30日には遊行の盆を遊行寺通りで見物しました。そして昨日31日には遊行寺に上って「遊行寺大盆踊り」を見物に出かけました。連日遊行寺で盆踊りを踊れば良いんですが、連日の見物ですから盆踊りマニアではありません。ワイフも”貴方も好きねえ!”と諦め気味ですが付き添ってくれました。
31日は午前中からスコールのように土砂降りの雨でワイフは傘を用意しようとしています。私は
”傘は不要だよ、雨が降ったら濡れれば良いじゃないか”良寛さんも仰っておられる、不確かな事を言ってバスト電車を乗り継いて藤沢駅に降り立ちました。昨日は竿灯で熱気に溢れた藤沢駅は思いのほか静かです。
藤の花が咲いています。「狂い咲き」というのではなく刈り込んだ後に生えた新しい蔦に花芽が着いたのでしょう。
浴衣を着こんだお嬢さんの黒髪に射してあげたいような短くも鮮やかなで藤の花房です。藤の花を巨大なゴリラが見下ろしていますし。ゴリラを不気味な入道雲が見下ろしています。”矢張り傘を持って来れば良かったかな”不安になります。
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藤沢駅のぺですとリアンデッキに設えられた藤棚には短いながら鮮やかな紫色の藤の花房が垂れていました。向こうのビルは老舗の角若松です。今は貸しビル業に転身したようです。
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昨晩は気づかなかったものの、藤沢駅西口のパチスロ店の屋上には巨大なゴリラが見下ろしていました。このゴリラ君も竿灯を楽しんだのかもしれません。北側には巨大な入道雲が盛り上がって見る見る黒ずんでいました。我が家はスコールかもしれません。

蘇鉄の実(遊行寺の銘木達)

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遊行寺の境内を観て回りました。寺務所棟の前に大きな菩提樹があります。藤沢市の指定銘木第一号ですから本堂前の大銀杏や中雀門前の蘇鉄や祖師墓地の枝垂れ桜以上に高い評価を得ているのでしょう。今年も花を観ましたからソロソロ実がついている季節です。機体通り菩提樹は緑の実を沢山吊り下げていました。
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梅雨の季節の遊行寺の菩提樹、手前の大石は座禅石です。石の上に無数の菩提樹の花が散っています。今日はこの菩提樹と近くの蘇鉄を案内します。

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これがま満開の菩提樹の花です。
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此方は現在の菩提樹の梢です。緑の実が沢山ついていました。

山桜の実のような球状の実です。私は”どんな香りがするのだろう”手にして鼻先に近づけましたが匂いは全くしません。爪を立てて緑の表皮を剥こうとしましたが。硬くて剥けません。ドングリの青い実のようです。でも菩提樹樹下の座禅石の上に沢山落ちています。
菩提樹の近くには幾つもの気になる樹木があります。屹度仏教や一遍上人の教えを伝える由緒の在る樹木なのでしょう。
私は菩提樹の根元に見つけました。無数の直径2センチ弱の穴が空いています。
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穴の近くには空蝉が転がっています。屹度夕方になって鳥も飛ばない時刻を待って地中のセミ(幼虫)が地上に出てきてこの菩提所の梢に掴ってセミ(成虫)に羽化したのでしょう。
施餓鬼の季節になると祖母は私を促して地面に耳を押し当てました。するとゴーッと不気味な唸りが響きました。祖母は言いました。
ゴーッと云う不気味な音は地獄の鬼が地獄の蓋を開いたからだよ。地獄の蓋を開くと亡者は一斉に飛び出して家に戻るんだよ。施餓鬼はそんな亡者を家で迎える行事だよ・・・・”
私は背筋に凍るものを覚えました。我が家(寺)が亡者で取り囲まれている場面が見えました。亡者は一番弱そうな私を襲ったらどうしよう…思いました。
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夕闇が迫って逢魔が時を待ってセミは幼虫から成虫に羽化します。これは鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りで撮影したものです。今年ももうすぐです。2016年8月6日(土)~9日(火)
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このセミは我が家で羽化したものです。毎朝ワイフは戸を開けて羽化したセミを外に放しています。屹度ワイフは天国に迎えられるでしょうが、私は頑張らないと六道辻で離ればなれになりそうです。

そして次の瞬間に屹度セミは地獄に長い間囚われていて、ようやくお盆になると地上に出られるのだ思いました。
セミ(幼虫)にとってはこの穴が「黄泉比良坂」なのでしょう。もしかしたら地獄の亡者もセミが掘ってくれたトンネルを抜けて地上に出たのかもしれません。
セミのトンネルの出口の脇に見慣れない銀杏のような色の実が落ちていました。
私はその実を拾って和尚さんに訊いてみました。和尚さんは木遣りを歌い終えた庭師さんに訪ねてくれました。庭師さんが言われた事は
「これは蘇鉄の実ですよ・・・!」
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これは中雀門の前にある蘇鉄の雌花塀の向こうの木が菩提樹です。蘇鉄の雄花はキツネの尻尾のよぷな形で雌花の上空に咲きます。この写真は今年の初詣の時に撮影したものです。
私は蘇鉄の実なら良く承知しています。今年も初詣で蘇鉄の木の下で鮮やかな朱色の実を拾って帰りました。そして軽井沢の百観音で拾った胡桃と合わせて左手(麻痺しています)のリハビリに活用しています。
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これが私のリハビリ用具です朱色が蘇鉄の実です。その手前の大きな銀杏の実のようなものがカラスが外果皮を剥いで出てきた蘇鉄の種です。胡桃は軽井沢の百観音で拾ったものです。手前の緑色のものが菩提樹の実で。インドではこの菩提樹の実を使って数珠を作るのだそうです。青い実の皮を剥ぐと鮮やかなブルーの実が出現するのだそうです。この秋に確かめようと思います。
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これが菩提樹の種だそうです。(写真の出展はインドの民芸品店http://www.ganesha.jp/rudraksha.htm)どうもインドの菩提樹と日本の菩提樹とドイツの菩提樹は名は同じでも種は違うような気がします。
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蘇鉄の実を拾って私は14代法主真円老師に付き添っておられたお坊さんに訊きました。このお坊さんは快く木遣りを終えたばかりの庭師に訊いてくれました。
私は庭師さんに言いました
「でも、蘇鉄の実は朱色ですよね・・・。」
すると庭師さんは笑いながら言われました。
「これはカラスの悪戯ですよ・・・。蘇鉄の実は朱色ですからカラスは好んで啄んで菩提樹の樹下の座禅石に運んできて其処で食べようとしているんです。処が蘇鉄の実は硬くて如何ともなりません。そこで朱色の実の表皮が剥がれて種だけが捨てられたのですよ。蘇鉄の種ですね」
私は言いました
「カラスは烏瓜を咥えてこんなに不味いもの食えるか!といったと聞きます。蘇鉄の実にはこんなに硬いもの食えるか」ほざいて捨てたのでしょうね。蘇鉄には思うツボでしょうね」
和尚さんも庭師さんも楽しそうでした。
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これは寺務所棟と本堂の間にある針葉樹。歩きやすいように道を整備した犠牲で根が掘り出されたのでしょう。不運にも負けずに逞しく幹を支えていました。根っこは縁の下の力持ちのようです。
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これは菩提樹の横にある花梨と思われる樹木北側が写真のように洞(ウロ)になっていますが硬い外輪大樹を支えています。
遊行寺は植物にも良く教わるかけがえのないお寺さんです。



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虫を愛ずる

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高校野球の神奈川県予選も終わってしまいました。ラジオはの選挙演説(東京都知事選挙)も終えてようやく『全国こども電話相談室』」が始まりました。私は大昔からこのラジオのファンで無着 成恭先生(生活綴り方教室を主宰され子供たちの作品が「やまびこ学級/岩波文庫」や衛六輔さんもこの番組で知りました。
昨日も活発な質問が寄せられていました。虫に関する質問が目立ちました何時の時代も男の子は昆虫採集が好きなんです。
「僕はカブトムシを飼っているのですが日本のカブトムシは何故小さいのですか?僕はコーカサスオオカブトやヘラクレスカブトの方が格好良いと思うのですが?)質問が寄せられました。
矢島稔(やじま・みのる)ぐんま昆虫の森 名誉園長は簡潔に説明されました。コーカサスオオカブトやヘラクレスカブトは熱帯で育つカブトムシなのだよ。熱帯は食べ物も豊富だし一年に何度も生まれるから大きくて強いカブトムシが発生しやすいのだよ、寒い地方では大きなカブトムシは生まれないビートルズの故国イギリスでも子供達にはカブトムシは人気で。日本のカブトムシはイギリスのカブトムシより大きいので人気があるんだよ・・・。日本のカブトムシを大切にしてあげようね・・・・」
私は良いお答えだと思いました。
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これはわが庭の珊瑚儒樹についたカブトムシ実はこの根元の右手に落ち葉を積んで糠を撒いておいたところ数年をかけてカブトムシが大発生して近所の子供にプレゼントしたまでは良かったのでしたが。肝心の珊瑚樹が枯れてしまいました。私は檀林皇后の説話を思い出しました。
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これは蛹から羽化するアブラゼミもうじき焦げ茶色に変態します。変態するムシは人間の輪廻感に影響したと思われます。
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これは鎌倉八幡宮のぼんぼり祭りの風景巫女さんが灯しているボンボリは養老猛司さんのタマムシです。養老さんに会いたい人はぼんぼり祭りの初日(今年は8月6日の夕刻に訪れれば会えると思います。広い八幡宮ですが本殿の手前東側が養老さんの定位置です。
私達は学校で虫を足が6本で羽が4枚なのでムシというんだよと教えられました。
それは字が一般に読めるようになってからのことで、六や四の字を知らなければムシと名付けられません。字が日本に伝わる前には虫を何と呼んだか気になります。
そこで万葉集で確認しますと、コオロギやホタルの歌はあってもムシ全般を言い表す言葉はないようです。
私たちは分類学を教わっているからコオロギも蛍もトンボも皆虫の一種類ですが。万葉人にとっては人間以外の動物はウサギも蛇も皆ムシだったのでしょう。万葉集ではコオロギを「草雲雀」と呼んでいますから。足が六本で羽が四枚といった形態よりも鳴声の美しさに着目したのでしょう。
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これは網戸に飛んできたキリギリスです。万葉集ではコオロギのことをキリギリスと呼んでいました。でもキリギリスとは言わずに「草雲雀」と呼びました。万葉人はコオロギや鈴虫の形は観ずに声を聴いたからでしょう。
夜網戸に様々なムシが来てくれます。お盆の季節にきてくれるムシは懐かしい人の霊が憑依しているかもしれません。私は”リハビリに努めていますよ”キリギリスに報告します
でもマムシや「腹の虫」という使い方が残っているものを視るとその形態よりも影響(因果の果)が着目されたのでしょう。マムシに噛まれると死ぬ事がある。腹が痛いのは腹の中に寄生虫がいるからだ。と思ったのでしょう。そして何よりも強烈な印象を与えたのは人間の遺体が腐るといつの間にか虫がついていて遺体は消えてしまう(土に還元する)ことを観たからでしょう。その成果の原因がムシだと確信したのでしょう。
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これは京都西福寺の『九相図』です。主人公はた檀林皇后ですがされますが。朝廷で栄華を極めたものの、死んで肉体が朽ちていく様子を9つの場面に別けて描枯れています。現世の肉体の不浄、と現世の無常を説く仏教絵画(絵解き)ですが、ムシが肉体を消し去っています
ムシが活躍する民間信仰といえば三尸(さんしのむし)でしょう。間の体内には、三種類の虫がいて、庚申の夜に、この三つの虫が体から抜け出して天上に上がり、直近にその人物が行った悪行を帝釈天に報告、帝釈天はその罪状に応じてその人物の寿命を制限短縮するという信仰が古来からあり、庚申の夜には皆が集って賑やかに雑談し決して眠らず、三尸の虫を体外に出さないという庚申講が各地で盛んに行われました。
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これが三尸(さんしのむし)です。『太上除三尸九虫保生経』にある三尸の画。向かって右から順に上尸、中尸、下尸です。上尸は人間の頭に居て、頭の病気を引き起こしたり、宝貨を好ませたりする。道士の姿をしています。その左は獣の姿をした中尸で人間の腹の中にいます臓器の病気を引き起こさせます。大食を好ませたりします。一番左が下尸です。下尸は人間の足に居て腰から下の病気を引き起こしたり淫欲を好ませたりします。牛の頭に人の足の姿で描かれます。
庚申信仰は道教の教えですが病気の原因が三尸という名のムシにあるという考えは日本人の感覚に近いものだったのでしょう。
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これは片瀬の庚申塔です。主尊は青面金剛ですが帝釈天の一形態です。人間の体に巣食っている三尸のムシの報告を受けて人間に懲罰を現世で与えます。金剛の下に刻まれた三猿は人間の悪の行為を見聞きしなかった報告もしないといった意味で目耳口を押えています。

処で先日永六輔さんが逝かれました。同氏も『全国こども電話相談室』では名回答をされておいででした。調べてみると次の回答が紹介されていて(http://feely.jp/8653/)、子供ならずとも大人に響く答えでした。このラジオは甲子園で高校野球が始まるまでの短い期間です。

【Q】大人になる時間は何時間ですか?
【A】あなたが大きくなって子供が産めるようになるのを生物学的な大人といいます。人の心がわかる、人の立場に立って自分を見ることができるようになったら社会学的に大人といいます。大人になるのはなかなか大変だよ。住職・無着成恭さん)
【Q】好きな人に告白する言葉を教えてほしい
【A】言葉は一番大切です。でも、好きな人に「あ、この子好きだな」とか「いい人だな」と思われるには、「おなべをいっしょに食べて同じものをおいしいと思う」、「夕やけを見て、両方が美しいなと思う」というような同じ感動を同じ時点で受け止めるのが一番効果があります。(作家・永六輔さん)

永六輔さんや無着成恭さんのような素敵な答えができる大人になりたいものです。大人といえば「早く大人になりたいという子供に無着成恭さんはこう答えておられました”子供が産めるようになるのを生物学的な大人といいます。人の心がわかる、人の立場に立って自分を見ることができるようになったら社会学的に大人といいます。大人になるのはなかなか大変だよ。”
永さんは放送作家ですが元々は私と同じお寺の三男でした。
昭和の達人も次々に逝かれ寂しくなってきました。


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三世を考える

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結婚式の被露宴でのお決まりのスピーチで「「親子は一世夫婦は二世」が言われます。新しい夫婦は親を選ぶことはできなかった。今日此処で結婚したのだから。来世まで夫婦でいることを約束してください』そんな意味でしょう。
自己責任で夫婦を誓ったのだから来世でも契りを結ぶ事を誓った筈なのですが。最近は死語になった感がします。
でも江戸時代には現世が貧乏だったり家の軋轢があったりして現世では幸福な夫婦で居られなかったけれど、来世で夫婦生活を幸せに過ごしたい思うことは多々あったようです。
でもことフレーズはそのあとに『主従は三世』と続き、『主従関係は現世だけでなく前世と来世に亘る』といった封建制を美徳とする用語なのです。私は「良田は三世」と考えます。
今年の春田福島で植え桜を観て以来ズット考えていることがあります。
棚田があって桜が咲いていて日本人の先祖が大切に守ってきた良田が”今荒れようとていたのです。道路の傍らには放射能の汚染土壌が巨大なビニール袋に入れられ積まれていました。
棚田も一部耕作放棄され石積みも畔も崩れかけていました。それでいて猪除けの電気柵が張り巡らされていました。
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これは田村市馬酔木田の苗代桜です。牧草地の中にある黒いのは放射能汚染土壌のコンポです。桜が咲くと苗代を作るのでその名がついています
小野町の郷土資料館を見学して解りました。田村の名は清水寺を創建した坂上田村麿で小野の名は小野篁の荘園があったから・・・・。
ということは古代国家の礎を作った坂上田村麿や小野妹子の子孫が荘園を作ったのが始まりでした。学校では聖武天皇夫妻が協力して作った古代国家は「公地公民」を建前にしながら同時に「三世一身の法」を発布します。
722年(養老6)に出された良田百万町の開墾計画がそれです。基本的には良い田圃を増やす計画でしたが、」、新田の開発をすれば墾田永代私有令(723年)と「三世一身の法」を発布したのでした。
屹度中華人民共和国が資本主義を同時に導入したようなものでしょう。いつの時代も理想と建前があって理想は建前の前にもろくも崩れてしまうものです。そして今家族の絆(三世を思う気持ちが消えようとしている)が崩壊しつつあるとき日本の棚田も消えようとしています。
福島の磐越街道は興福寺の徳一上人が辿った道です。阿武隈の山麓に棚田が切り開かれています。
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これは沼田にあった奪衣婆(左)と閻魔です。この像の向こうが(お寺)が人間道か極楽の意味で此処を通る亡者を峻別しているのでしょう。道祖神も閻魔も浄界と穢土との境界に居て汚れた人や穢れた人が侵入しないよう守っているものと思われます。村落共同体の自己防衛本能で農民の差別の根源だと思います。

「三世一身の法」は新田を開発したものには新田の私有を子供から孫まで三世代の間認めたのでした。この法令に敏感に応じたのが陸奥の国の国郡司でした。
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これは一遍聖絵です生家であった讃岐の豪族河野一族の荘園で父親の葬儀を終えた一遍上人はいよいよ求道の旅立ちをします。この後四天王寺から熊野に入ってかけがえのない体験をします。私たちは学校で封建的差別は江戸時代に体制維持の為に始まったと教わりましたが、近年は差別は中世に萌芽があって、農村共同体の自己防衛機能が差別であった、といった考えがメインになっているように思います。
古代末期中世初頭になって突然に陸奥で「前9年の役」「後3年の役」が勃発したのは陸奥では力のある国郡司が出現していたことを示しているのです。
良田を子孫に伝える為には農村共同体の縛りを強固にすることが重要です。
と云うのは陸奥の棚田を観れば良くわかります。棚田を維持するには一人だけ棚田を整備しても駄目です。
隣近所の棚田も皆堅固に石積みして畔を整備して雑草を生やさず。公平に水を配分することが大事です。
灌漑や開墾の技術は徳一上人が教えましたし。農作業の手順も徳一上人が暦を読んで教えたのでしょう。
福島の美しい風景は大乗仏教の理想を実現しようとした徳一上人の情熱が一層美しい桃源郷にしたのでした。
陸奥の国司はいち早く地方豪族になり荘園を拡大していました。そんな地方豪族は平泉に猪苗代に磐城に出現していたのでした。
最近の暴力団やオウム真理教の抗争や事件を観ていると諸悪の根源は人間の本性で同時に少し大きくなった組織(共同体)の自己増殖(拡大)本能のようにも見えてきます。
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此方は田植え桜です。棚田は水平に作らなくては水が方形に張りませんし。上の田から順次下の段の田に水が巡りません。協働する気持ちが無いと稲作は続かないのです。協働しないものを追い出そうとするのは農業共同体の自己防衛本能です。大乗仏教は農村共同体の農業がスムーズに何世代も継続させるには最も有効な宗教だったのでしょう。
古代絵末期には鎮護国家の理想は荘園の為にもろくも崩れ。陸奥では荘園が普及したのでしょう。都では密教が加持祈祷をして国を守ろうとしていました。一方陸奥では徳一上人が農業や医薬の知恵を駆使して陸奥に仏教の楽園を実現しようとしていたのでした。加持祈祷より個々人に協力するよう教える事のほうが陸奥では有効だったのでしょう。
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これは田村市の田村様名前は清水寺を建てた坂上田村麿に因みます。観ての通り藁つくりの武人ですが男根がゴロン豊作の道祖神です。
徳一上人は採取狩猟を生業にしていた蝦夷の民に灌漑を教えて新田を開発させた。良田を得た狩猟民は親から子に田圃を伝えたいと思います。それは親が子供が可愛いというよりも、良田を永遠に存続させるためには”親から子に子から孫に良田を守り続ける事が最も効果的だから”でした。そんなうちに荘園領主は武士を抱え込むようになりました。武士と云っても江戸時代のそれではなくて普段は百姓でした。
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此方は会津坂下の勝常寺の薬師像。興福寺の碩学徳一上人は最澄との論争に疲れ陸奥会津に理想の国を作ります。その路の磐越に幾つもの史跡を残しています。

現代の棚田を観ていて気付く事が多多あります。棚田の石垣が崩れても放置されていることです。耕作放棄された田には雑草が生えています。現代は資本主義です個人財産も個人の行動も自由であることが憲法で保障されています。自分の田圃だからと云って自由勝手にしていると棚田全体が良田でなくなってしまいます。そんな勝手な農民は差別したくなります。自由主義個人主義は度々全体の利益に相反してしまいます。「差別はいけない」それは建前ですが全体の色に染まらないモノは追放したくなります。それは本音です。
農村共同体の自己防衛機能として異質なモノ協働しないモノを排除しようとします。個性は狩猟社会では貴重でも農村社会では迷惑なのです。農村では黒いアヒルは排除されるのです。資本主義や個人主義は狩猟社会が基本であった欧米で普及した思想でした。農村共同体には馴染みません。
でも確かな事があります。今日世界中で72億人が地球上に住んでいます地球という大きな船に72億人が乗っているのです。全員が幸福に生き続ける為には個人の自由と全体の幸福とどこかで折り合わなくてはなりません。
なんだかんだ書いてきましたが三世とは言いえて妙です。私も子供と孫に囲まれると平和を感じます。ささやかながらも藤原道長の気持ちがわかるような気がします。道長の娘が藤原 彰子(藤壺のモデル)で一条天皇に嫁します。孫が後一条天皇と後朱雀天皇になります。

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禁断の果実というけれども・・・・無花果の話

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我が家には二種類の無花果(イチジク)があります。一つは山イチジク(一般には犬枇杷と呼ばれています」もう一つが普通の無花果です。山イチジクは私が植えたのではありません。ヒヨドリ君が撒いたものです。でもヒヨドリ君は収穫に来ません。
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今日は無花果の話です。私の大好きな無花果ですが今年もこのように熟する前にカラス野郎に盗られてしまいました。
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これは熟する前に収穫した無花果です。青臭さの残る無花果も良いんですがやっぱり完熟した無花果には劣ります。
無花果の断面は不思議にエロチックです。
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これはスモモの花にきたヒヨドリです。このヒヨドリ君が山無花果を撒きました

一方私が植えた無花果は毎朝私がウォッチしているにも拘わらず。今年もカラス野郎に盗られてしまいました。ここ数年青い無花果を見つめるだけで、あの芳醇な香りと果汁を口にしていません。屹度カラス野郎も私と同じように青いうちから狙っていて、”爺が採らないうちに盗んでしまえ!”と食べているのでしょう。

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これが我が家の無花果です。写真に写して気づきましたカミキリムシがついています。樹木が柔らかいし樹液が良く出るので病虫害に弱いのが無花果の弱点です
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これは我が家の山無花果(犬枇杷」です。もう熟しているんですがヒヨドリ君は撒いたことを忘れたようです。
わが成果にも無花果の木がありました。庭と畑の境がわからないような屋敷でしたから、生ごみを無花果の根元に捨ててたい肥にしていました。生ごみを狙ってネズミが出ていました。そのネズミを待ち構えているのが青大将でしたから、無花果を収穫するときは青大将に注意していました。祖母は”無花果の乳(乳白色の樹液が出る)はイボやオデキを取り効果があるんだよ”、いいながら白い樹液を掌に受けて顔に塗っていました。私は祖母を真似て額のイボに樹液をぬった記憶があります。子供の時には皮膚薬に。今は胃腸薬や成人病に効果がありそうです。そういえば「無花果浣腸」という名の下剤がありました。形が無花果に似ているだけではなく薬効もあることから無花果の名を商品に冠したのでしょう。
「禁断の果実」といえば「林檎」ということになっていますが、私は確信をもってエデンの園でアダムとイブが口にしたのは無花果だったろうと思っています。というのは禁断の果実を食べるように唆したのは蛇だったのです。無花果の実は小動物の好みです。無花果の木の近くには良く蛇がいるのです。そして、果実を食べた二人は善悪の知識を得て、無花果の葉っぱで股間を隠します。林檎の葉では隠せません。ところが無花果の葉っぱは4本もさけめがあるので、隠したはずの股間は逆にチラチラ見えてエロチックになってしまいます。
無花果も林檎も薬効の高い果実ですが。禁断の果実には無花果の方が適当だと思うのです。
それに無花果は簡単に挿し木で増えます。果実の中で一番栽培が容易です。多分中近東で最初に栽培した果実は無花果だったことでしょう。
アダムとイブは無花果を口にしたことから。砂漠の中を苦役しながら旅をするのです。以来5千年も経ったでしょうか?、その子孫はいまだ定住できる園を探し続けています。
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これはミケランジェロ「蛇の誘惑」(1508-12年、システィーナ礼拝堂)です。イブは木に登って木の実を手渡しています。私達は木の実は林檎と教わってきましたがルネッサンスの時代には無花果と考えられていたようです。右上の天使はエデンの園から出て行け!と指さしています。
ソモソモ神は人間の子孫が反映することを期待してアダムとイブを作った筈です。それが、禁断の木の実を食べたことを厳しく咎めるのは矛盾しているように思うのです。
禁断の木の実を食べなければ子孫は産まれないのです。
禁断の木の実を食べる積極的な意味合いを教える事が必要な時代になってきたようです。
この先は「聖・俗二元論」になります。聖であり続ければ本人の心は清くても。子孫は絶えてしまいます。
俗とか汚れ(穢れ)から子孫は拡大します。
問題は「聖に偏らない事。俗に耽溺しない事」です。聖俗が車の輪のように回り続ける事が大切です。
この視点に立つと日本仏教特に浄土教の尊さが解るような気がします

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大妖怪展を観る

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私が大学生だった60年代後半は総じて江戸時代が見直されていました。高校の授業では”日本の近代化は明治維新に始まった”と教わったものでした、М・ウェーバーの『プロテスタン ティズムの倫理と資本主義の精神』を紹介された大塚久雄氏等が江戸時代の思想家を研究し。勤勉と現世利益の思想なら江戸時代に既に用意されていたと主張され、日本人の共通認識になっていたのでした。総じて江戸時代の評価が上がって町人文化や民族芸能まで江戸時代が見直されていました。例えば北斎は世界中で評価される絵師ですが、その”精神も技術も室町時代に用意されていた”と室町時代を見直す機運にあるようです。
信濃川の河口の新潟市で鮭が捕まると。河口を遡って長岡に更には飯山に千曲川に入って上田にも鮭がいた…、順次上流に上流に遡ってゆくようなモノのようです。
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これはムンクの『叫び』です。この絵を見るたびに江戸時代の地獄絵を思い出します。日本人にとって「赤い橋」は異界に通じる道で橋の袂には柳の木が生えていて、奪衣婆がいるのです。そして橋の下には幽霊が居て橋を渡る人の足をつかんで水枕(溺死)させるのです。
例えば今大人気の”ポケモン・ゴー”ですが、つい20年前はホラー映画が人気でした。幽霊は江戸時代にブレークします。鶴屋南北等の劇作家が怪談を書き、歌舞伎を盛り上げました。歌舞伎の盛行は浮世絵や落語にも影響を及ぼしました。夏の落語には好んで幽霊モノが語られました。でも、幽霊を紐解けばお能にもあるし、幽霊の意匠は江戸時代に描かれ百鬼夜行絵巻に見つけ。その百鬼夜行絵巻のキャラクターは室町時代に三つけましたし、そのルーツを探して今昔物語に遡りました。今昔物語は末法の時代でも懸命に生きようとすると人間は鬼にもなると教えているとして近代のエスプリの宝庫になりました。芥川龍之介は今昔物語を教材にしては近代作家になりえたのでした。幽霊を遡れが夢幻能に至り更に平安時代の怨霊(道真や将門)に至りました。社会が変化すれば幽霊も変化しました。幽霊に足がない方が怖い(何時でも何処でも出られる)思った江戸っ子は幽霊の足を消してしまいました。時代が下って科学が進めば進むほど”幽霊は迷信だ”思っていた現代人に、幽霊は実は人間それ自身の一面で、幽霊より人間そのものが一番怖いおぞましい心が巣食っていると気づき始めているようです。
道真や将門の時代に遡ると二人の巨人に遭遇します。その一人が比叡山の麓横川の源信です。
源信は往生要集を書きました。
プロテスたんちぃずむ

秋蜩時雨の八幡宮

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今日は8月7日、私製の陰暦カレンダーでは。月齢4.3旧暦では7月5日で立秋と記されています。
明日からは残暑になってしまいます。テレビではオリンピックに高校野球と暑い夏の盛りに突入します。今朝も網戸には数匹のセミがくっ付いています。昨晩羽化したセミ君が羽を乾かして飛び立とうと網戸を這い上がっているのです。セミ君も安全な場所を良く承知していて。カラスや蝙蝠に捕食されないように、網戸で羽を乾かすのを覚えたのでしょう。でも私にしてみれば。あの世の両親かお婆ちゃんが”倅はどうしているか?”覗きに来たように思えます。思い起こしてみれば2年前はリハビリ病院のベッドの上で先輩が差し入れてくれた「日暮の記/、葉室麟作」を読んでいました。退院した私は同名の映画を湘南テラスモールに観に出かけ、「堀北真希」さんや「岡田准一」氏を観て良い俳優さんが出てきたものだ思いました。
映画の舞台が私の好きな豊後秋月辺りだろうと思いながら明日死ぬことを覚悟した武士の潔さと美しさを涙しながら見つめました。
蝉の日暮は「ひぐらし」は普通にと書きます。屹度「カナカナ」と啼く悲しげな声が日の出日の入りの薄暮の時刻に響くのでこの一日を暮れさせる虫という字があてられたのでしょう。
でも秋蜩とか晩蝉と書くことを知ると日暮は一年を一生のお終いを告げるといった意味もあるのでしょう。
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これが「日暮の記」です。写真は城内で刃傷騒ぎを起こした檀野庄三郎(岡田准一)は豊後の山間の里で蟄居している戸田秋谷(役所工事)の監視を命ぜられます。物語は美しい山里で質素に暮らす家族を追ってゆきます。戸田秋谷の見識の豊かさにが庄三郎は何故秋谷が切腹させられるのか、そして藩の正史の執筆を命じられているのか疑問を持ちます。物語はその原因を究明する推理物語の楽しさを含んで読者を引っ張ってゆきます。そしてその原因が「主君の側室と不義密通した罪で10年後に切腹することを命ぜられたことを突き止めます。庄三郎秋谷がお家騒動(もう一人の側室による側室襲撃事件の裏に隠された、もう1人の側室の出自に関する重大な疑惑に辿り着きます(特産品花茣蓙の専売権事件の全容が解明されると秋谷の罪は消され、庄三郎と秋谷の娘(薫)の夫婦が残ります。

8月6日日が暮れるのを待ってバスを乗り継いで鶴岡八幡宮に向かいました。八幡宮裏でバスを降りますと八幡宮の森は日暮の蝉しぐれでした。
日暮は針葉樹が好きなのです。何故なら日暮の針(吸水口)は他のセミより柔いので、硬い樹皮は付刺せないのです。森中に「カナ・カナ・カナ・カナ」大合唱です。啼いているのは雄ばかりです。雄の体は雌の体に比べて共鳴質が大きくて大きな鳴声が響き渡るのです。
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これが日暮の雄です。お腹のように見えるのは共鳴室です。森中に響き渡る多くな鳴声は共鳴室のなせる効果です。
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これは数年前に八幡宮に奉奠されたボンボリです。
八幡宮に入ったのは6時半過ぎでした。
未だ陽も残っています。でも石段に腰かけて今晩の日本舞踊を観ようとする客が集まっています。
夜7時からぼんぼりに火が灯る聞かされています。私はワイフを誘って明るい内にボンボリを一通り観ておきます。というのは蝋燭の灯が灯ってからもう一度観たいぼんぼりをあらかじめ決めておく為です。
例年力作が多い養老孟司さんは今年は墨の線描でした。お忙しかったのでしょう。コクゾウムシを描かれているのは箱根の別荘に貯蔵しておいたお米に虫が付いたのかもしれません。良く見るとコブゾウムシとされていてコクゾウムシではありません。コブゾウムシを調べると白いので彩色しようがなかったのでしょう。(先輩失礼しました!)
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八幡宮の裏から入りました。
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午後7時直前の大石段舞殿で演じられる日本舞踊の席取りです。
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本殿前で鎌倉のお嬢さんの浴衣姿を眺めるのもぼんぼり祭りの楽しみです。本殿の左右のボンボリは総じて大作有名人が多いのです。
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此方が今年の養老孟司さんのボンボリです。昨年のタマムシに比べるとサッパリしていました。

一通り境内を回ると陽も沈んできました。
点灯しようとスタンバイしていた巫女さんが一斉に近場のボンボリに蝋燭を取り付け灯をともして回ります。
カメラマンが点灯する巫女さんを追ってゾロゾロト移動します。
私は気に入ったぼんぼりの前で巫女さんが灯りをつけるのを待ちます。
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これは村田林蔵氏のボンボリです。絵は中尊寺の華鬘で迦陵頻迦(かりょうびんが)です。巫女さんが灯りを手にして回ります。姿も美しいのですが仕草の美しさにも惹かれるのです。ぼんぼりの左に見えるのは先年倒れた大銀杏の幹です。幹からも新芽が株からも蘖(ひこばえ)が生えてきていました。銀杏の生命力に感服しました。
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向こうの太い幹が八幡宮のシンボルだった大銀杏。巫女さんの後ろが大銀杏の株で無数の蘖(ひこばえ)が生えてきています。鎌倉市民の愛した大銀杏は人間の生き方を指示しているように思えるのです。
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此方は八幡宮の世話人総代の人の教訓に満ちた長生きの秘訣を書いたボンボリです。大銀杏の株に生えた蘖(ひこばえ)が見えます。長老の教訓も良いのですが樹木の教訓の方が心に浸み込みます。
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これは傘寿の記念に描かれたボンボリ仲良し叔母さん二人で相合傘を談笑していました”傘は男性がさしているわよ!”左のおばあさんが言えば右のおばあさんは”こんな美人を捕まえたんだから男性が面倒みるのは当然でしょう”言っていました。



舞殿の前には大きな茅の輪が設えてあります。私も足が良くなるように願って茅の輪潜りをします。古式には左右左と三回回る様になっています。ワイフは私の足が茅の輪に架からないかと付き添ってくれます。
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大きな茅の輪は天然の茅を編んで手つくりしてあります。古式に則って潜りますから此処で渋滞してしまいます
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総てのボンボリに点灯する頃には神域は静寂で暗闇に沈んでしまいます。
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参道の両端には例年は屋台が並んでいるのですが屋台を整理したので歩きやすいし小町通りの商店街は歓迎していることでしょう。
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太鼓橋から本殿を顧みする

今晩は名古屋の長男が戻るとのことで、ワイフはソワソワしています。
そこで日本舞踊は長くは観ずにも戻ることにしました。
今年も藤間すみれ社中が奉納していました。舞殿の袖で(縁側)順番を待っている小さな女の子が可愛くて緊張しているのが良く分かりました。この少女も歳月が経てば美しい女性になることでしょう。セミが幼虫から脱皮して飛び立つように。
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舞殿の袖でお師匠さんの舞が終わるのを待つ少女。縁側の板の上では足も痛いでしょうし。目の先には座布団も置かれているのにお母さんは厳しく躾しているようです。

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日暮を歌った和歌に共感しました。
和歌が書かれたボンボリを見つけました。『8月は死者行きかへる我が耳のかなかなさえも楽をしずめつ』
先人は苦労ばかりを背負って私たちは楽ばかりしています。8月は先祖を迎え感謝し同時に我が身を顧みる月のようです。
帰りは段葛を経てJR鎌倉駅から帰りました。
大改修を終えた段葛を始めて観ました。
改修を終えた時は違和感に満ちていたのでしたが。LEDが点灯した段葛を観ると”これもありだな”思いました。
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点灯した段葛。春日大社の石灯籠に比べて軽い灯篭だと思って観たのでしたが歩行者の照明塔だと思えばおおと思いました。

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老いの坂道

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一昨日両国の江戸博物館に「大妖怪展」を見学に行った事をブログアップしました展示の構成を思い返してみます。
展示は”妖怪は縄文時代にもいたし、現代もいる”主張していました。それは、「人間は何時の時代も心の中に何かに怯えたり畏怖する心を持っているもので。縄文時代は怯える心の原因(霊)を土偶に具現化して土偶を祀りあげて災いを避けようとしました。
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此方は大妖怪展に展示されていた遮光器土偶です。出展(同展示のアルバム)これはまるでゴーグルをかけたような顔をした土偶はアイヌのコロポックルを思わせます。
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これは北野天神縁起絵巻です。紫宸殿に再三落雷して内裏は焼失します。雷の原因は菅原道真の怨霊と考えた朝廷は北野に天神社を建立し道真を祀りあげようとします
古代末期には落雷や疫病の原因を菅原道真の怨霊と考え道真を天神に祭り上げて内裏の北西に天神社を建立しました。
”いよいよ末法の時代に突入した”思った古代のインテリは、一方で阿弥陀如来に帰依して浄土に再生したいと念じるようになります。最大のきっかけは源信が著した往生要集でした。源信は優れた学者で法華経など古今の経典を調べて独自の解釈も交えて往生要集を著します。古代の貴族は極楽への憧れ以上に地獄への忌避を強くします。何故なら往生要集は甘美な極楽よりも恐怖で嫌悪する地獄を詳しく著していたからです。
時代が下って中世初頭には栄華を極めた平清盛も今頃は地獄で閻魔大王の足下で地獄の責め苦を受けていると考え、地獄の責め苦を受ける清盛が好んで描かれます。
人間は地上に誕生して以来、極楽やエデンの園を希求しましたが、それ以上に地獄への恐怖感忌避感を強く抱いていたのでしょう。
日当りの温もりを求めながらも日陰の冷たさを避けたがるように・・・・。
かくして極楽への憧れは地獄の思想を深化させます。
中世になると人々は「平清盛の一生と地獄の責め苦」を重ねてみます。
平家物語の浄邪必衰の理を身を挺して示したような清盛は熱病で死んだことから清盛は焦熱地獄に落ちて地獄の責め苦を受けていると、、確信しました。何しろ東大寺を焼いた張本人は清盛なのですから。
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これは源信の往生要集中の八大地獄を絵にしたものです出典地獄絵の世界(小栗栖健治著)どの地獄も周囲は火炎渦巻く焦熱です。清盛が熱病で死んだ事と火を怖ろしいと思ったせいでしょう。
大妖怪展には聖衆来迎寺の地獄絵も展示されていました。往生要集に著された地獄を絵にしたものが一般に「往生要集絵」と呼ばれる図です。私の生活圏では光明寺の往生要集絵が有名ですし、昨年は京都の六道珍勍皇寺や千本閻魔堂で地獄絵を拝見しました。
その地獄絵は往生要集絵とは全く違ったデザインでした例えば下の地獄絵を観てください。
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絵を下から見ると最下段に地獄が描かれています。地獄には右から血の池地獄があって沢山の女性が血の池に沈んでいます。その左の洞窟は地下から現世に出入りするトンネルなのでしょう。お盆になると亡者がこのトンネルを通って現世に戻ってきます。その左にあるのは地獄の釜で亡者は先ず釜茹での刑に処されます鬼が釜を棒で叩き亡者を熱湯につけています。地獄の上には幾つも鳥居があります。鳥居は6道の境を示すもので右中段には修羅道が描かれています。中央に閻魔大王が居て亡者が行列を為して審判を待っています。
閻魔大王の上には「心」の字があって生前の心次第では六道の何処にでも行かされることを示しています。
問題は心の字の上に架かっている虹状の坂道で人が歩いています。人を見ると右端の館で生まれて成長につれて坂を上ってゆきます。そして頂上から次第に坂を下って行きます。坂の下鳥居をくぐれば三途の川があってお地蔵さまが導いてくれます。これは一般に当麻曼荼羅のように一枚の図で地獄極楽を描いたモノです。
こうした地獄絵図は一般に「熊野観心十界曼荼羅図」と呼ばれる絵(多くは掛け軸やカーペット)です。
先の往生要集絵が大寺で参詣客が観たものでありましたが熊野観心十界曼荼羅図は使用法が異なります。
一般に熊野比丘尼と呼ばれる女性僧が運んで民衆を集めて浄土へに導きを教えたのでした。
比丘尼は橋の袂や辻でこの曼荼羅を広げて絵解きをしながら説法して回ったのでした。熊野比丘尼と呼ばれるように熊野三社の霊験を説明したのでしたが立山や白山などの霊地や善光寺等の古跡寺院を広める役割も果たしました。
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老いの坂は人間の一生を図示したもので。清盛のような姿をした時がピークでそのあとは坂を下って最期の審判を受けます。
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方は「熊野観心十界曼荼羅図」の一つ「熊野参詣図」熊野版で那智大社や速玉大社熊野大社が配置されています。
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これは住吉神社祭礼図に描かれた場面です。
橋の袂で人を集めて曼荼羅図を絵解きしている比丘尼が居ます。心の字を指示して心こそ大切です。心を汚さないよう努めましょう、さもないと・・・・地獄の責め苦を受けなければなりません”と説いているのでしょう。私達の倫理観はこうした町の比丘尼や聖の教化によって育ったものでしょう。
その倫理観が日本の近代化に貢献し。今も世界中で尊敬されているのです。

私の祖母は帰宅するとき”何だ坂、こんな坂”掛け声をあげながら長い参道を登って、帰宅していました。
老いの坂は日本中あっちこっちにあります。我が成果も清水寺も老いの坂の頂上に建っています。
「何処かで観た坂だな」と思う共感が熊野観心十界曼荼羅図を受け入れやすいものにしているのでしょう。
”何だ坂こんな坂”掛け声は本居長世さんが唱歌にしました。
人生は重い荷物を背負って長い坂道を登るが如き』卓見したのは家康でした。
家康の人生観も老いの坂道や浄土教の導きがあったのかもしれません。私は気づくのが遅きに失した感もあります。
このお盆明けの16日には友人と再び京都に遊んで清水寺や三年坂を上るのを楽しみにしています。
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これは清水寺の麓にある六道珍皇寺の図。手前の街道は一般に松原道と呼ばれる奈良への道ですこの右に東海道(との辻」があって、泉湧寺や東福寺に通じる道などが交錯して実に六道の辻です。説話と現実がクロスするような地形にあります。中世の絵が現実と見紛う町中のお寺さんです。
紺の夏も友人と京都に出かけます。六道珍皇寺参詣図を観ると熊野観心十界図と同じような境内です。今から出かけるのが楽しみです。夕方亡者の霊が集まるころにお参りして、銭湯で汗を流して…何を食べようかな、今から楽しみです。

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天皇制を考える

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私が大学生になったころ家永三郎の告訴した教科書裁判に最高裁の判決が下りました。
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兎角政治論争の種にされる歴史教科書ですが、家永三郎さんが書いた教科書(三省堂)が検閲を受けたことから「教科書裁判が始まりました。昨年来三省堂が校長先生へ出した謝礼が社会問題化していますが。この問題の根は深く文部省の期待する歴史観こそが問題なのです。
教科書裁判が私が使っていた「日本史/三省堂」の検閲が「表現の表現の自由」を保障した日本国憲法に抵触するのでので検閲自体ををやめさせようとするものですが、内容としては天皇制廃止論者であった津田宗吉の弟子であった家永三郎の見識の根本が「天皇制への疑問」にあったと思われます。
私達も学生の傾向として「日本の後進性は封建制にあり、その象徴が天皇制である」と考えていました。加えて「日本の戦争責任が明確でないのは天皇制を存続したので不明瞭に終わっている」考える人が多かったのでした。教科書裁判の論点は教科書の検閲制度が国民の自由を剥奪しているか否か」と問われましたが。根幹は「天皇制の是非」であり「戦争責任の総括」でした。
司法は天皇を日本国の象徴と規定した憲法の範囲内で判断します。「天皇制の是非」を論じる訳はありません。
そこで文部省が検閲した個所は検閲自体を認めたのでした。具体的には、先の大戦にかかわるの暗い側面記述(原爆の写真や東京大空襲の写真沖縄戦の表現。南京虐殺や朝鮮人慰安婦の記述)を訂正または削除させたものでした。
かくして長期に亘った教科書裁判はギネスブックにも乗る世界最長の民事訴訟の記録を塗り替えて終わりました。家永さんの教科書は教科書は戦争暗い挿絵が多すぎ、教科書には不適である。『無謀な戦争』という評価一方的な視点で教科書を執筆することは好ましくない」などの意見が付されました。
教科書の検定は違憲ではないと判断されたのでした。教科書検定の苦い経験が三省堂をして関係者に金券を配布する悪しき習慣を醸成させたのでした。
家永三郎氏の見解は日本の歴史(岩波新書)を読めば明らかです。無謀な戦争を停止できなかったのは皇国史観が根強かったのが原因と考えていましたから、天皇制には強い疑問符をつけていたのでした。戦後の知識人層は総じて家永三郎さんを支持していたと思います。父も二人の兄も朝日新聞を読んで、天皇制は好きでなかったと思います。戦争で拾い田畑と家族を失った恨みは天皇制に向けられていました。
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これは藤沢鵠沼にある鵠沼皇大神宮例大祭の山車です。右の山車は仁徳天皇が「民の釜戸は?」懸念されて釜戸から立ち上る煙を遠望している図です。今年も8月17日(水)に挙行されます。このブログにも幾度かアップしました。我が国皇室の最も基本的な立ち位置でありそれは儒教にも敵っています。昨日天皇陛下のビデオを見つめていて仁徳天皇を思い出しました。
そんな空気で育った私でしたからぼんやりと日本の近代化は天皇制や君主制を廃止して民主制を強固にしなければ始まらないと思っていました。
戦後生まれの私は天皇陛下を見詰めて生きてきました。祖母は明治天皇を父は昭和天皇を見詰めて生きていたものと思います。天皇と元号は民の生き方を強く影響を及ぼすと思われます。天皇の交代は元号の差し替えも行われますから重大な事です。
昭和35年(1960年)皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、は正田美智子さんとご結婚されました。
子供心にも日本の国は新しい時代を迎えることを予感しました。天皇制廃止論者も擁護論者もこの慶事を歓迎しました。
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皇太子ご夫妻のご成婚のパレード。昭和35年は若い日本で高度成長のスタート時期でありました。もちろん私もニキビ一杯の少年でした。おなり小学校の隣は鎌倉ローンテニスクラブで。パトカーのサイレンが鳴ると学校帰りにお二人を応援に出かけたものでした。
11989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇の大喪の礼が実施されました。私の職場は大手門の近くにありましたから。歴史の場面に臨みたいと思って皇居前広場で記帳させていただきました。
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平成元年(1989年)1月昭和天皇が崩御されました。元号が平成に変わって変革期を迎えたことを覚悟しました。私も皇居前と神宮外苑に詣で記帳して歴史の変わり目を肌で感じました。変革の予感は当たって私の勤務蒸した銀行は2000年(平成10年)破たんしました。
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昨日の天皇陛下のお言葉をテレビで聞かされると天皇陛下がお父様昭和天皇の苦しみを背負っておられたのがつくづくわかりました。常に「民に寄り添って全国を巡り公平に努めようとする姿勢は昭和天皇の後ろ姿だったのでしょう。
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8月7日午後3時天皇陛下はビデオでご自身の体調を話され象徴としての天皇の仕事を全身全霊を込めて成し遂げたい、離島の人も公平に寄り添いたい話されました。私は天皇制は日本文化と日本国民の核心であると思いながらビデオに聞き入りました
昭和天皇のお言葉にご自身が亡くなった時には葬儀で象徴としての天皇が機能停止してしまう懸念を話しておいででした。確かに失われた20年は天皇の交代期に始まりましたが、決して大喪の儀や殯(もがり)が日本の国の元気を喪失させたのではありません。確かに昭和天皇を失って暫くの間わが国には空白の時間がありましたが。それは象徴である天皇がワークしなかったのではなくて、それ以前の日本がバブルに浮かれ過ぎたことと財政政策規律を失っていた事の反省として引き締めが強すぎたこと。重ねてことリーディング産業の不在など不運が重なったのでした。
しかるに天皇陛下は国民の象徴である天皇が職分を果たさなかったから…と発言されておいで、そうしたことが起こらないように準備をしておきたい。希望を述べられました。私たちは承知しています。昭和天皇が遣り残した沖縄や硫黄島への慰霊訪問を果たされたのは現天皇でした。
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サイパン島で異例の献花をされる両陛下
サイパンの万歳クリフで献花される天皇陛下の後ろ姿を観他国民はて平和の尊さや平和主義の日本国憲法の尊さを痛感しました。東日本大震災の被災地の被災民を慰問されるは天皇のお姿は日本国民の象徴というより代表のように見えました。天皇皇后両陛下のまなざしに励まされた国民は多く、立ちち上がる勇気元気を取り戻しました。天皇制は「天変地異の多い日本列島に住む民が団結して難局に立ち向かう・・・・・絆という紐の核になっていると確信するものです。タイ国では政党が分裂していくらいがみ合っても国王が仲裁すると嘘のように対立は解消します。軍隊も僧侶も庶民も国王への敬愛は忘れないようです。
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皇太子時代に天皇皇后陛下は沖縄戦の慰霊に訪れました。

同じように日本はいかなる災難に遭遇しても天皇の慰問を受けると立ち直ります。屹度政治路線では対立している安倍政権と沖縄県民ですが。天皇制が存続している限り握手するときが来るでしょう。中心のように思うのです。
昨日の天皇陛下の言葉を黄泉の国の家永さんはなんと聞いたでしょうか?
家永さんは貧困家庭で育ってお父様の軍人恩給で大学を卒業されたそうです。
天皇陛下の誠実さや民に寄り添いたいと願う優しを確認したとき、戦前に始まった天皇制議論は何であったのかソロソロ答えが出てきたように思うのです。

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「観音の里の仏像展」の秀逸さ(東京芸大美術館)

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8月4日「大妖怪展」を江戸東京博物館で見学して。私達夫婦はバスを乗り継いで上野の森の「東京芸大美術館」に向かいました。同美術館では琵琶湖湖北の観音像の展覧会を催しているのです。
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これが湖北の観音像展のポスターです。写真の観音は長浜観音寺の千手観音です。
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緑陰に埋まるような芸大キャンバス内の美術館は芸大学生の作日本の美術界をリードした教授陣の作品を展示する施設とばかり思っていましたが今回のようなテーマ性を持った展示もするようです。
琵琶湖は京の都から見れは比叡山の東にありますし。琵琶湖の更に東には伊吹山(古代の名は巳高山/こだかみやまその北には白山もあります。源信が著した「往生要集」では理想郷は須弥山山頂にあって、須弥山そのものは海の中に屹立していて。海・山自体が7つの山(七金山)で取り囲まれていると説明します。また海の中には、三つの島が浮いているとも説明しています。都の人にとっては極楽は琵琶湖と竹生島そしてその東の峰々と思ったことでしょう、ですから古代末期以降湖北が「仏の里」として熱い信仰の眼差しを集めたのは自然な事でした。加えて湖北の景色はは昔から美しいし神秘に満ちていたのでした。
湖北の仏像と云えば誰しもが渡願寺一一面観音観音像を思い起こします。
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これが渡願寺一一面観音観音像です、観ての通りの天平時代の半島から運ばれた観音像です。『聖林寺十一面観音と同じようにギリシャ彫刻のような量感を持った古典的な仏像で水上勉は『湖の琴』の着想になりました。でもこのギリシャ風の仏像は小説のテーマとは必ずしも一致していません。
湖北の観音像には伝説が残されています。姉川の戦いから観音像を守るために村人は観音像を湖に沈めたり田圃に埋めて守ったと云うのです。観音像の美しさと観音像を大切にした農民の心は私達に少なからず感動を呼び覚まします。先学はこの伝説を渡願寺十一面観音像に寄せていますが。この国宝の観音像からは国家とか朝廷の厚い庇護を直感します、琵琶湖の民が守り続けたのは後世の観音像であって、農民の匂いが浸み込んだ仏像だと思うのです。そんな仏像には比叡山延暦寺等の国家密教ではなくて蓮如上人などの聖の指導があったと推測するのです。
そして井上靖の『星と祭』や水上勉の『湖の琴』、土門挙の写真などによりこの超絶美しい観音像が湖北の人々に守られてきた物語を思い起こします。
私の学生時代もそうでした。先学の仕事に少なからず影響を受けて湖北の観音様を探して歩きました。
でも、見れば見るほど納得出来ない思いが積もりました。一番最初に疑問を持ったのは長浜の山中に踏み込みモミジの中で村の堂守に観音堂の扉を開けて貰い石動寺十一面観音を拝見した時のインパクトでした。
ヒノキの一木で彫られた十一面観音は白い肌で朱の唇でまるで村の娘さんのような親しみ易い観音様でした。
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これが石動寺十一面観音像です。石動寺は真言宗豊山派のお寺で長谷寺を本山にします。井上靖の「星と祭り箱の仏像を素材にした小説です。長浜市内から伊吹山(己高山/こだかみやま」への登り路にあります。

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これは湖北の十一面観音像(出典は湖北の仏像/長浜市長浜城歴博物館)右端が石道寺十一面観音です。左端の腹帯観音像も出展されていました。大浦のこの像は晒の腹帯をしていますが。村人箱の腹帯を戴いて安産を祈願してきたそうです。美智子妃殿下にもお届けしたそうです。村民の信仰が今も守られてきていることに感じ入るものです。
石道寺観音像こそ、戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、同党こそ焼失したのだけど、本尊の十一面観音立像は、村人の手によって土中に埋められて災禍を免れてきたそのものだったでしょう。高さ1.95m、平安初期のヒノキの一木造でしす。印象は室生寺の十一面観音に似たものですが、室生寺は貴族のお嬢様の印象で、石道寺観音像はは村里の飾りのない娘さんを思わせるものがありました。以来石道寺の観音を拝んだ感動を再び味わいたいものだ…思って湖北を再訪したいと思っていたのでしたが、偶々今次東京芸大美術館で仏像展があったのでワイフを誘って両国から上野の芸大美術館に出かけました。
芸大美術館は稀に見る大混雑でした。”湖北の観音像”と云えば奈良京都の名だたる仏像に比してマニアックなものですが。こんなに混雑していることを観ると仏像人気も定着していることを思わせます。
湖北地方には仏像が160体余りも守られてきているそうです。ですから、私が拝んだ仏像は精精30体ですので。大半は訪れていないことになります。展覧会を見終えて、第一の印象はこの如何にも日本的な美しい里村に木彫の仏像が守られてきた畏敬の念でした。そして何時かまた拝観しに行きたいと思うのでした。それはこの展示を主催した長浜市の思惑でもあったのでしょう。仏像には博物館らしく所蔵している寺社名と製作時代と簡明な説明が付されていました。同時に所蔵されている寺社の写真パネルが展示されていました。寺社は必ずしも大きく立派なモノばかりではなく辻に建っている小さなお堂というか祠に収まっている事が解りました。お堂には雪が積もり季節の花が供えられていて今も篤い信仰を寄せられていることが解ります。
そして美術館の狙いも仏像の美しさを見せつけるというよりも、仏像と仏像に寄せた民衆(民俗)の情熱に向けられていました。それは先に紹介した腹帯観音にも芋観音にも確認することができます。
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これが芋観音と呼ばれる木之本町の安念寺の腐食の進行した立像です。この像も展示されていました。これこそ姉川の戦い又は賤ヶ岳の戦いを避けるために地中に埋められた(疎開された)仏像でしょう。
ギリシャ彫刻のように無機物(大理石等」なら古代の文化財が存続していることはさして不思議ではありません。でも腐りやすく燃えやすい木彫仏が現代に残されてきたのは尊いモノ(心)を敬う気持ちが里人に強かったからです。
芋観音とは長浜市木之元の安念寺に伝わる観音像で明らかに如来立像です。如来立像が何らかの事件(戦乱)に巻き込まれそうになったので土中に埋められたのでしょう。戦乱が終わって世情が安定したので掘り起こしたのでしょうが、土中にはバクテリアや虫が生息しています。観音像も表面の漆の下は木(有機物)ですからバクテリアによって腐食が進行し虫食いに遭ってしまって原型を留めなくなってしまいました。掘り起こしてみたら”まるで芋だな”というので芋仏仏と云えば観音菩薩の里ですから「芋観音」が通称になったのでしょう『芋』には農民には特別の思いを託してきました。冷害に遭えば飢饉になれば命を繋いでくれるのは芋しかありません。
『最後の食べ物は芋』なのです。そして里人の最後の頼りどころは観音仏だったのでした。芋観音のネーミングには芋のような形をした観音像である、事以上の想いが込められてきたものと思うのです、この観音に祈れば貧しい家族も救済され。不幸にも亡くなった家族もあの世で救われると信じてきたのでしょう。
湖北の観音信仰が里人の心の深味に根差していたことが子のネーミングにも現れています。

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これは芸大の学食一般人も使えます(午後5時まで)室内には若い学生が室外は濃い緑で癒されます.上野の博物館に行ったらニュー大谷のレストランも良いんですが芸大の学食も魅力です。
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芸大学食前のスダジイの大木屹度寛永寺境内の銘木だったのでしょう。


観音像に癒されたものの余りのボリュームに少し疲れました学食で休んで緑に憩って上野駅まで歩食事にしました。上野公園は余りの暑さでスターバックスは長い行列ができていました。私には芸大学食がお似合い思いながら駅に向かいました。
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大繁盛のスターバックス上野公園芸大学食は此処の北西都美術館の西側にあります。



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京都博物館の餓鬼草紙

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日本には有名な餓鬼草紙が二巻あります。一つが東京国立博物館の餓鬼草子で国宝にも指定されていますから何処かで観た記憶のある人も多いことでしょう。説話の内容よりも古代末期の都の景色を知る民俗的な価値と写実的な線描きの美しさが評価されていると思います。一方説話の価値があるのが京都博物館の餓鬼草紙です。
今夏は久々に京博の餓鬼草紙を観ようとこのお盆に出かけることにしています。
旧盆の最中です。今日は施餓鬼の話を二つの餓鬼草子を素材にさせていただきます。
昨日10日は我が生家では施餓鬼法要が営まれました。私も身に染みた法要を本堂の縁側で聞いて帰りました。
先ず彼岸の法要が執り行われます。須弥壇上のご本尊に向けて彼岸法要を終えたら今度はご本尊を背にして設えられた施餓鬼棚に向けて施餓鬼法要に変わります。当然お経も彼岸の素晴らしさを説明したお経から、餓鬼道にさまよう霊に向けて救済のお経に変わります。施餓鬼棚には飢餓と喉の渇きに苦しむ餓鬼が喜びそうな農作物とお水が供えられます。真っ赤に染まったほうずきは字の通り餓鬼が解る様に灯されたボンボリのようなものです。
施餓鬼棚の四方には未だ青い竹が立てられしめ縄を張って施餓鬼棚に悪霊が来ないように結界を張ります。施餓鬼の思想は仏教的ですが施餓鬼棚の設えは神道そのものなのが奇妙なものです。
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これは円覚寺の施餓鬼棚です。観ての通り白木と青竹と注連縄を張って作った施餓鬼棚に餓鬼を救う農作物と水を供えます。これを観て「何で?」と思うとその答えは京博にある餓鬼草子に示されているのです。
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これは私の生家で昨日営まれた施餓鬼法要です。前半はご本尊に向けて盆の法要を執り行い後半は逆向きになって餓鬼に向けて法要を執り進めます(塔婆の文字は父(町の発明家)が作ったインクジェットプリンターで書いたものです。本堂と庫裏の渡り廊下に設えて使用しています。送り装置が大きすぎて市販されませんでした。私は父の発明家としての遺伝子を引き継いだようです。
先ずは東京博物館の餓鬼草子を観ていただきます。
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これは東京博物館の餓鬼草紙((食糞餓鬼)です。都大路で小便をしている人が描かれています。小便が流されると飲もうと身構えているのが餓鬼です。出展は東京博物館のデジタルライブラリーhttp://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10476
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東博の餓鬼草子中の(塚間餓鬼)です。 塚間餓鬼とは、塚(墓)の合間を漂っている餓鬼です。この絵には、五人の餓鬼が描かれているが、いずれも墓からさまよい出てきた死者の亡霊だと思われる。彼らがさまよっているところは、古代の共同墓地なのだろう。そこには、盛土をした塚や、石で組んだ墓の外、棺に入れられた死体や、野ざらしに置かれた死体、白骨化したものなど、さまざまな光景が描かれている。この時代には、身分の高い者は墓を拵えて貰ったが、身分の低い庶民は、そのまま野ざらしに捨てられたのでしょう。現在の東山の清水寺の下の大和街道はこんな風に路傍に遺体が捨てられていたことでしょう。餓鬼は人間には見えないのです。
上が東博の餓鬼草子です。
古代末期すべての生き物は6つの冥界を輪廻するという六道思想が普及します。その六道の一つ餓鬼道を絵にしたものが東博の餓鬼草子です。餓鬼道に堕ちた餓鬼たちのおぞましい姿が赤裸々に描出されています。
東博の餓鬼草子には詞書はなくなってしまって10枚の絵だけが残っているのですが絵は饒舌で絵を観ていればおおよその事は解ります「正法念処経」の餓鬼品に説かれた36の餓鬼道から代表的な10の場面が描かれています。
上の絵のうち1枚目の絵は食糞餓鬼です(じきふんがき)です。托鉢するお坊さんに痛んだ食べ物を出すような卑しい人が陥る餓鬼道で人が排出する糞をも食べてしまうほど飢えているということです。どの餓鬼も体は骨と皮だけですがお腹は異常に膨れています。現代の飢餓状態を告発する写真も小さな子供が骨と皮で居ながら腹だけが膨れていたりします。終戦後の日本でも腹を空かせて水で飢えを凌ぐ状況でした
このような絵が古代末期に描かれたということは。総じて都では飢饉に苦しんでいて損な餓鬼が都大路に溢れていて、お坊さんに托鉢する食べ物も惜しむ人が多かったのでしょう。この絵では餓鬼は都大路で小便も狙って虎視眈々としています。
もう1枚の絵は塚間餓鬼ですこの絵は屹度清水寺の辺りの都大路でしょう。あの辺りは古代から鳥野辺と呼ばれ風葬地(墓地)でした。捨てられた遺体を食おうと獣が集まってきます。遺体の髪を抜いたり死肉を食らおうと餓鬼が彷徨ってくるというのです。
もう一つの餓鬼草子京都博物館にあります。こちらは絵も詞書きも絵巻物の完全品として保存されています。
この京博餓鬼草子は蓮華王院(三三間堂)にあったもので後白河法皇が収めたものと云われています。東博本が餓鬼道のむごたらしさを説明しているのに対し京博本は餓鬼道から救済される方策を絵巻物に説明しています。
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これが京博の餓鬼草子です。絵は7段から構成されていて右上の第1段は「正法念処経」の餓鬼品の食水餓鬼(じきすいがき)の苦しみの様子が描かれています喉を涸らした餓鬼が水を飲もうと川に寄ってくると水を守る羅刹に追い払われます。そして足跡に溜まった水さえ飲もうとするのです。第3段以降(写真の中段)は木蓮尊者が餓鬼道に落ちた母親を救済する方法と施餓鬼供養の意味を説明しています。
では絵巻物に従って説明します。
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これが京博餓鬼草子の最初の絵です。遠方の餓鬼が水を飲もうと川岸に遣ってくると羅刹に追い払われてしまいます。そこで旅人の足跡に溜まった水を飲もうとします。一人の餓鬼を同じ一つの画面に描く手法を異時同図と云い絵巻物の基本技術ですし現代の漫画にも活かされています。写真出典絵巻を読み解く(若杉準司著)

第3段以降は木蓮尊者のお母さまが餓鬼道に苦しんでいたがどのようにして救済されたか話を進めます。
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この場面は餓鬼が川の水を飲もうとしたところ水が燃え出して飲むことができませんその苦しみを仏に訴えるのでした仏は法力で水を飲ませて説法をすると餓鬼は救われて天上界に上ったのでした。出展京都博物館http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/emaki/item03.html
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これは京博の餓鬼草子の第4弾の画面です。釈迦10大弟子のひとり木蓮尊者は亡き母が餓鬼に落ちていることを知り亡母に食料を供養したものの食べ物は燃えてしまいました。木蓮は悲しみ仏に救済の方法を尋ねます。(左上画面)
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釈迦10大弟子のひとり阿難尊者が弟子の比丘尼に教えた指示に従って鉢に食べ物を盛って仏の名号を唱えると仏の法力で餓鬼が食べ物を口にすることができるようになり。山に籠っていた餓鬼も駆けつけて来るようになりました。ここで絵巻物は終わっていますが施餓鬼棚に食べ物を盛って餓鬼に施しをすることの功徳が衆知するようになりました。屹度木蓮尊者も同じ方法で亡母を救済したことでしょう。
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 阿難尊者の教えに従って始まった施餓鬼法要の図
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施餓鬼の法要で賑わうお寺の門前。


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立山曼荼羅への憧れ

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来年の日本文化研究会の旅行は「小原風の盆」を観に立山の麓越中小原に行くことになっています。越中は古代から聖地(霊地)でした。都から見れば玄武の方角にあり山が連なっています。屹度須弥山を思わせたのでしょう。
公家の家に生まれた道元が福井に永平寺を建てたのも、蓮如が吉崎に御坊を建てたのも立山の麓の聖性を感じていたからでしょう。立山の地勢が育てた文化は宗教だけではありません、仏具などの工芸品もこの地に伝統工芸が残されています。鯖江はメガネフレームの産地ですが、仏具の金属工芸があったからこそ、出来たものでしょう。先ずは空也上人の像を観てください盆踊りの原型が示されています。
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此方は空也上人像胸に吊るされた打楽器が鉦(賞)で撞木と呼ばれるかねたたきで音を出します。台風が襲来して大切に育てた稲が打撃を受けないように災厄除けに叩いた楽器でしょう。私は蓮如上人が吉崎御坊でこの鉦を叩いて農民が悲しみに耐えて団結して生き抜くことを励まされた強さを想います
近世になるとこの小原風の盆に素晴らしい楽器を挿入した人物が出現します。
佐藤千代という盲目の少女が越前に生まれたのです。少女は当地の慣習に従い瞽女として生き抜く技を仕込まれるよう越後高田の瞽女師匠の家(ごぜ小屋)に修行に預けられます。そこには各地の芸能が集積していました。全国各地で生まれた薄幸の少女がお稽古に励んでいて津軽はいや節を謡って踊っていたのでしょう。津軽の踊りは佐渡に伝わると佐渡おけさになりました。で問題の越中小原に伝わると佐藤千代の工夫によって胡弓がメロディーを奏でるようになったのでした。その哀愁を帯びた音色が胡弓をして三味線以上に日本人の心琴に響いたのでした。私たちはもう数百年も前から胡弓が盆踊りで響いていたように思っているのです。瞽女小屋でで胡弓と出会いました。おわらの唄や三味線に、何とかして胡弓を合わせられないだろうか、と研究を重ねた結果、今日のような形となったのでした。八尾が芸人の町だったことも、おわらの発展に寄与したことでしょう。芸人の町は”いいものは良い〝先取の精神に満ちているのです。
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小原風の盆の光景写真出典地元の観光サイトhttps://www.youtube.com/watch?v=aYm2mQYUUI4
もう一つ大事な文化が「小原風の盆」です。小原風の盆は日本の代表的な盆踊りで、日本人には馴染の深いものがあります。深い菅傘を被って輪踊りする光景は稲作民族日本人の原点を観る思いがします。
三味線や笛の音は郡上踊りと変わりません。でも鉦と胡弓の悲しい音は風の盆を心に浸みる芸能にしています。
文化は異文化が接触融合することで一層高みに上ります。相した異文化との接触取り込みに日本人は特技を発揮してきました。
豊田佐吉が水車の動力を活用するアイディが自動織機を育てました。精密な歯車を刻む技術は世界一の工作機械製造国にしました。そして津軽の民謡に胡弓を導入させメロディーラインを奏でさせました。楽器の主役の位置を津軽三味線から胡弓に交代させてみたら・・・・・”これがいい”発見させたのでした。華美臭い高田のお稽古部屋での新発見だったのでした。華美な座敷で始まったものではないのでした。
此方は空也上人像胸に吊るされた打楽器が鉦(賞)で撞木と呼ばれるかねたたきで音を出します。台風が襲来して大切に育てた稲が打撃を受けないように災厄除けに叩いた楽器でしょう。私は蓮如上人が吉崎御坊でこの鉦を叩いて農民が悲しみに耐えて団結して生き抜くことを励まされた強さを想います。
近世になるとこの小原風の盆に素晴らしい楽器を挿入した人物が出現します。
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高田の瞽女(ごぜ)小屋で、「盲御前」の技を仕込まれた佐藤千世は立山の阿弥陀如来の山中浄土を巡ります。絵画の後ろが立山でその手前の噴火口が血の池地獄と思われます。写真の出展最後の瞽女/佐藤千世)
日本の芸能は宗教と一緒に育ってきました。それは屹度悲しい場面を良く知っていた人々が宗教を求めていたからでしょう。裕福で満ち足りた人は宗教的渇望がありませんから宗教人としては大成しません。悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想です。“ 悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機であるといった教え以上の教義を日本人は見出しませんでした。この言葉を捩れば『逆境こそが新技術を生み、芸能もその一つである』と云えるのでしょう。

処で阿弥陀如来の山中浄土が立山であると信じられた、ように釈迦如来の補陀落浄土は熊野の山中にあると信じられていました。高野聖が全国を巡って真言密教を広めて遊行したように熊野比丘尼は全国の辻や市を巡ります。熊野の信仰を広めることが目的でした。そのツールは熊野心観曼荼羅と呼ばれる地獄絵でした。
立山にも立山曼荼羅が残されています。それは立山の山々が阿弥陀三尊であり空には阿弥陀三尊が迎えに来ていて地上には地獄があるといった絵解きでした。
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これが芦峅寺の立山曼荼羅です一番手前の堂宇が芦峅寺で寺の周囲の軍旗は修羅道を示し。寺とお山の間には地獄が描かれています。立山の山中にある堂宇は室堂と思われます。
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此方は熊野心観曼荼羅図です観ての通り手前の熊野川中段に那智大社をはじめとした熊野三社が描かれています。源信の往生要集は絵解きにされる一方で現実の聖地である熊野や立山に置き換えて信仰されてきました。
立山を中心に行きたいところは数多くあります。
小原風の盆を観たさに越中小原に行くのは古代からの信仰と芸能の関係と同じです。江戸時代にはお伊勢詣でのきっかけは門前の芸能や色町でありました。
悪人正機の説を捩れは「欲人救済の説」かもしれません。阿弥陀浄土を浴しなければ立山に行きたいとは思いません。精精三千院に行って阿弥陀浄土にイメージを馳せて来るだけです。
これから1年一層リハビリに努めて来年は立山に日文研の仲間と行くことにしましょう。


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