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羅生門の鬼天安門のモンスター

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私は週1回デーサービビスに通っています。1年前は週2でしたし、送迎車も利用していましたが、今はリハビリもかねて、徒歩で往復しています。来年の今頃は好きなバイクに乗っているのが私の目標です。その為には左手の握力を回復しなくてはなりませんし、杖無し歩行も完璧にしなくてはなりません。最近は、杖がない方がスムーズに歩けるようになってきました。。杖を突かないで歩くには目線の位置と歩道面の凸凹に気を配って歩きます。一番の危険箇所は我が家の石段です。公道から6段ほどの石段があってアルミフェンスの門があります。門の周囲は生垣です。生垣には空蝉が幾つもついています。夜のうちに羽化して羽を乾かして夜明けを待って飛んで行ったセミ君の脱いだ衣が空蝉です。夕方デーサービスから帰るころには石段に蝉の成虫が命を終えて転がっています。子孫を残して炎天下に往生したのでしょう。蝉の遺骸には蟻が群れて遺骸を解体して運んでゆきます。イソップ寓話の「蟻とキリギリス」そのものを観る光景です。イソップは蟻を誉めあげキリギリスを怠け者として謗るのでしたが、私の敬愛する一遍上人は”自分の遺骸は野に晒して獣に恵んでやれ”遺言しました。屹度一遍上人はこうした生命の輪環関係を見詰めておられたのだろう、思います。今日は旧盆の入りですから、この門に迎え火を焚いて両親を迎えなくてはなりません。
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これは法隆寺のタマムシの厨子の左側面に描かれた施身聞偈図。です釈迦は飢えた虎に自らの体を施します。

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これは餓鬼草子で描かれた都大路上段に四つの墳丘が描かれており左には棺桶に収まっていた遺体を食っている野犬が見えます。一遍上人の遺言は私が死んだら葬儀などしないで獣に施すように命じます。
昨晩はお盆飾りの菰を買いに出たワイフが”もう盆飾りの高いのに驚いた、蓮の葉っぱ(ご飯を盛る)が百円もする”言っていました。

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我が家のお盆の迎え火 牛と馬を用意し門でオカラや竹を焚きます。室内の仏壇の前には精霊棚を設えます。門は外敵や怨霊や災厄が侵入しないよう張った結界なのです。内裏や都も同じ発想です。
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蓮の葉っぱに生米と賽の目に刻んだ胡瓜茄子を盛って供えます。この蓮の葉っぱを庭先の無花果の葉っぱで我慢してもらおうと提案したのです。

私は仕方ないから無花果の葉っぱにご飯を盛ったら・・・・・!”言いました。云いながらもお母さんは吃驚するだろうな!もう無花果の葉っぱなんて私は白蓮院よ!”笑いながら抗議の声を発っしそうです。
こんなことなら来年からは庭先に里芋でも栽培することにしましょう。
さて、今日の話題は羅生門です。そう芥川龍之介の小説の羅生門です。

私は学生時代、父の事業の関係で奈良によく出かけました。父は大阪鉄鋼という機械加工メーカーけ受注をしていて。同社が自己破産したのでした。大阪鉄鋼の社長の自宅が奈良の佐紀町にありました。父は破産財産の清算を有利に進めようと思って大学生だった私を社長宅に住まわせたのでした。私は日中は奈良の寺社旧跡を巡り夕方は銭湯で体を洗って過ごしました。
社長旧宅の近くに不退寺があって麦畑が広がっていました。畑の中に柘植の木が植わっていて柘植はまるで柱のように刈り込んでありました其の柘植がが平城宮跡の朱雀門である案内してありました。柘植の木から見ると東が東大寺で。東大寺の手前に法華寺の瓦が遠望できました。陵からは佐保川が流れだし西大寺の先で秋篠川と合流し佐保川は郡山の先で大和川の意合流していましたから。西の京の薬師寺や唐招提寺にも便の良い場所でした。夜はやることもないので屋敷を探検して遊びました。社長家族が大事にしていたような書庫を開けると「生長の家」の機関誌や谷口雅春氏の著書が積まれていました。
私は生長の家に少なからず共感をもって来たのでした。
奈良への脚は東海道線の急行「銀河」か鈍行「大垣行き」に乗りました。京都から近鉄奈良線に乗り換えて夜明の頃に西大寺に着きます。三笠山の上から朝日が昇って、私は平城山を口ずさんでいました.当時から会津八一をそらんじていましたから。一季節奈良で過ごして帰りは千年余りの歴史の重みを感謝して〝さらば故郷”を口ずさんで帰りました”さらば故郷”と重ねるフレーズは”さらばならやま”と替えるだけなのでしたが。は東には東寺があって西側にく陰陽師銘じて
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此方が平城京の内裏を復元したもので。その朱雀門です。朱雀門も二階建ての楼門でした。この朱雀門から真っすぐ南に幅75メートル長さ4キロの朱雀大路が走っていて大路は現在の郡山の辺りまで続いていたそうです。郡山の高架道路下に平城京羅生門の印石が立っています。
一方桓武天皇は平安京を建立しますがそのモデルに平城京であったことはまず間違いないでしょう。
京都の内裏の南門は朱雀門で、朱雀門からは真っすぐ朱雀大路が南に走っていて都の南の門が羅生門です。
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これは京都の平安神宮の門この門は内裏の朱雀門を復元したものです。ですから桓武天皇がその高さにこだわりを持った羅生門はこんな風格だったことでしょう。でも大風で二度も倒壊し、大人の乱によって都が荒れると、楼上には盗賊が住み着き遺骸が投げ込まれ妖怪や鬼も住み着いたようです。陰陽師ではこの楼上では鬼が琵琶を弾いたり笛を吹いたり遺体を繋ぎ合わせて美人を合成したりする悍ましい話を創作しました。東寺の南には羅生門跡の脊柱が立っています。

桓武天皇は今日の都の造営を毎日のように確認して羅生門の前を通って長岡京に帰ったと記されています。そして蔵人に命じて出来かけた羅生門の軒高をもう1尺半低くするようにさせたそうです。天皇の命令の根拠は羅生門の辺りは風が通るので安全の為に軒を低くしたかったのだそうです。ところが官吏は見栄えが損なわれるなどの理由で天皇の命令に従いません。結局平安京の南門は軒高のまま竣工してしまいました。風害で二度も倒壊したと記録されているそうです。加えて応仁の乱にかけては。遺体の捨て場所になって夜盗が住み着き龍之介の小説のように遺体の髪の毛をむしり取って生活するものや夢枕獏原作の陰陽師に出てくるような遺体を寄せ集めて美人を作るような鬼が棲んだりするのでしした。羅生門の東西には東寺と西寺があったのでしたが、西側は貧民街になって荒れ果てていたようです。
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これが鬼です手の指は4本脚の指は2本です写真出典:怨念の日本文化史
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これは法隆寺金堂で軒下で庇を背負う鬼です。日本人の鬼のイメージは怖いモノで。それは人間の怨念が姿をもって出現したものと考えたのでしょう。
平城京の朱雀大路の東西は大違いであったので証では。西は貧民窟で治安は悪く、それも羅生門の外に出ればは危険な異空間で悍ましい夜盗や妖怪の跋扈する世界であったのでしょう。
貧民窟に住む人は夜になると東の町に出て都の中に忍び込んで悪事を働いたかもしれませんことでしょう。

時には内裏の中にも盗賊が親友したかもしれません。古代末期になると宮中に秘蔵された琵琶や笛が盗まれたりしました。その真犯人探しに阿部清明や武士が活躍します。犯人は鬼ということになります。鬼退治に密教が期待され。菅原道真も祀り上げられて鬼退治に活躍します。したがって北野天神には鬼を切った刀が奉納され、建築の細部に退治された鬼が耐えています。
日本人は古代から妖怪や鬼は人間の怨念であると思ってきたのでした。

元々平城京も平安京も中国(唐)の都洛陽を模して作ったのでしたから。お手本は中国です。
でも。元々の民族性が違います。
中国の門は農耕民族が騎馬民族などの外敵から都を守るために城壁を築きその都の出入り口として設備したものでした。門の内は自分と同じ血の流れている民族で、門の外は自分たちと違う血の流れている異民族で危険極まりないと思っていました。”門を一歩出れば異民族に掴って頭の皮を剥がれるかもしれないと思っていました。中国の王朝は自分自身が侵略者征服者でしたから、いつかは自分たちも征服されるかもしれない危惧していたのでしょう。城壁も門も命の民族の生命線でした。
中国では殷から秦王朝まで都は次々に変わります。それは異民族が豊饒な中国の中原を奪い合う歴史でした。
秦の都は咸陽でしたが、漢は都を長安に移します。移行黄河中流域の都市に都は変遷します。
モンゴル平原の民族が都を大都(今の北京)に移します。元の後の宋は都を大都と黄河を繋ぐ運河の中間位置にあったある開封に都を移します。
そして、には堅固な城壁で取り囲んで更に国境の様の尾根にも城壁を積み上げました。それが万里の長城であったのでした。
皇帝が城壁つくりに熱心なら一般人も同じです。屋敷はまるで野盗を防御するかのように壁を繋いで作られています。日本の家は源氏物語絵巻でも生垣で囲まれているだけですから侵入するのも簡単です中国人から見ればこんなに無防備な国家は考え難いでしょう。隣通しで味噌や醤油を融通しあう日本人には隣人は泥棒と思うような中国の文化は理解しがたいものがあります。
日本では北方の蝦夷が大和朝廷を征服したり、南方の熊襲が都に攻め込むこともありませんでした。
日本人には外敵に制圧されるリスクは思いもしなかったのでした。
唯一日本人が怖れたのは怨霊でした、政敵や肉親が恨みを残して死んだとなるとその怨霊が災厄をもたらすと危惧しました。逆に銅が発見されたり白い鳥が飛んだりすると吉兆として喜びました。そんなときは元号を変えたり。天皇が変わると怨霊が棲みこんでいる旧都を出て新都に移りました

宋を滅ぼした清は都を大都に戻します。王朝が変わるたびに都は変得ました。都を変える度に前の都は顧みることはありませんでした。
大都(今の北京)は元々は北方騎馬民族が作った元の都でしたから朱雀門に相当する門が天安門です。中華人民共和国は大都の名を北京に改め朱雀門を天安門と名を変えて毛沢東の写真を飾りました。その一方で羅生門に相当するのが安定門でしたが毛沢東は破壊してしまいました。北京オリンピックに際しては旧市街地の美しかった街並み(胡同」を壊して。道路とオリンピックスタジアムを建てて見せました。4千年の歴史は目のものを壊して都合のよいモノに作り替える事の繰り返しでした。結果、中華人民共和国の空気は汚れ水は濁ってしまいました。妖怪は異空間を融通無碍に行き来できます。空気や水も融通無碍です。
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妖怪豆腐小僧。妖怪や鬼をモンスターと英訳したのは間違いで妖怪はデビル(鬼)に近い人間味があります。出展は日本テレビの画面です。
空気も水の海も全部自分たちだけのモノとして独占利用できると考えるのは、天安門の怪物(モンスター)です。妖怪や怨霊を怖がる方が優れているし地球に優しいと確信しますポケモンが突如ブームで嬉しいことです。
明らかにポケモンの原型は鬼です。どこか愛嬌がある鬼です。鬼の祖型は人間の心ですから。ポケモンは人間の心を持っています。ポケットモンスターなんて名付けないで「鬼」で良かったように思います。鬼を英訳するとデビルです。マイデビルとかファミリーデビルとか・・・・・。

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縄文時代からのご神木

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数日前BSプレミアムでアマゾンに住むイゾラドと呼ばれる原住民の映像が流されました。http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/preview.html?i=06903.報道の概要はアマゾンの森を開拓するので森の民が文明人の村に現れて開拓していた文明人を殺傷したというのです。そこでペルー政府はイゾラドと会話ができる原住民にイゾラドとの接触を依頼します。川岸に出現したイゾラドはバナナをプレゼントされてこの人は森を破壊する人ではないことを知ります。イゾラドにも好奇心の強い若者がいます。文明人のテント小屋で略奪したTシャツを着たりアルミの鍋を使ったりしていますペルー政府はイゾラドの期待に応じてアマゾンの森林伐採を止める訳でもないのです。政府は『後2年もすればイゾラドは絶滅するだろう、だから当面の施策を改正する気持ちは無い』と説明します。私は”イゾラドが文明社会に吸収される”インディアンがアメリカ社会に吸収されたように”思っていたら、そんなことは考えていないのでした。文明人が養成した病原菌がイゾラドを絶滅させると予測しているのだというのです。
私達文系人は青黴を調べて抗生物質を発見しました。今ではペニシリンも効果がない結核菌が出現しました。文明は常に新しいパワフルな細菌やウィールスを発生させているのです。
ペルー政府はお金を使わなくても文明社会が養生したウィールスがイゾラドをアマゾンから消滅させると予測しているのです。
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これはアマゾン川に出現したイゾラドです。彼らは私達より幾分大きい、文明人が森を切り倒すので文明人を敵対視しているかと思えば好奇心が強く。決して攻撃的ではない、文明人が森を大事にして木を伐採しなければ共存する事が可能なのです。本当の文明人はイゾラドを絶滅させようなどと考えない筈です。

ペルーの観光資源と云えばクスコやマチュピチュなどインカ 文明の遺跡です。インカ文明を育てた人『インカ人」はどうしたのか?誰しもが気掛かりです。私たちは世界史の授業では『インカはスペインの征服者ピサロによって征服され、1533年に滅亡した」教わりました。でもペルー政府の施策を知ると(報道の通りなら)文明が育てた細菌がインカを滅亡させたので、同じ細菌が兵器のようにしてイゾラドを地球上から消し去ってくれると考えていることになります。ユネスコもクスコやマチュピチュを世界遺産に指定していながら。こんな野蛮な施策を傍観していて良いと思えません。
日本はユネスコの分担金が現状世界一です(米国が分担金のっ拠出を渋っている)。ですから最も発言力のある国としてイゾラドの発言を支持すべきです。それはアマゾンの森林資源の保護でもあり地球環境の保全でもあるからです。ユネスコ拠出金が文部省や外務省予算なら。環境省が発言してほしいものです。宇和島の山本議員は森と海の国です。今次の環境大臣に就任されたのですから。アマゾンの環境についても発言してほしいものです。
ところで、今日の話題は樹木です。今年は我が生家の百日紅には殆ど花が付きませんでした。寺守をしている姉に確認すると昨年、黴が付いたというのです。百日紅はデリケートな樹木で黴が付きやすく黒錆病もかかりやすいのです姉に樹木医に診せたのかと聞けば。横浜市に銘木指定の依頼をしたが駄目だった…と答えお医者さんに診せる気はなさそうです。私は”この樹木が祖母の結婚祝いに戴いたこと。百日紅は猿が滑りそうなほどツルツルしているのは、人間に撫でてほしいから…、愛情に飢えている木なんですよ”話しました。
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これが私の生家の百日紅です。祖母が新婚でこの寺に入山した時にお祝いに村の人が植えて帰ったそうです。”世田谷のお嬢様来てもらったもののに田舎のお寺に嫌気がして帰られたら大変だから・・・・”向こうの観音様は祖母が観音様を深く厚く進行していたので信仰していたので、私が太秦の鋳物やさんに出かけて作ってもらった仏です。
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此方は私の生家の百日紅です。今年は全く花が付きませんでした。寺守は黴が付いたといいますが・・・・。未だ樹齢は130年ですから老け込む年齢ではないのですが・・・・。大きな洞ができていてこれを身処治なのが災いしているような気がします。この日は彼岸会の法要があって本堂には施餓鬼棚が設えてあります。
明日15日から京都です。明日は夕方に東寺に回って盆踊りに参加する予定です東寺の百日紅は今年はどうかな?楽しみです。
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此方が東寺です。明日は京都は雨だそうですが盆踊りの時刻には上がってくれることを祈るだけです。
百日紅を観て日本一高い五重塔の下で、輪踊りすれば長生きできること間違いありません。
去年は御所で百日紅を観て、今年は東寺で浴衣のお姉さまも観て。夏は暑い処に行くに限ります。
樹木を大切にしない文化や民族に未来はないと思います。
今年は諏訪大社の御柱祭も行われました。
樹木が尊いのは天国に近いだけではありません。樹木の立ち姿が荘厳であるから紙が樹木を依代にするものだからでもあります。
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此方は佐賀県にある北山ダムに近い桂の大木。現状は株に注連縄が張られて山の神の棲む木と云われています。多分一本の桂が死んで。その株立ちが全体で一本の木のように寄り添いながら生育したものでしょう。昨年観た京都の貴船神社の桂の御神木に似た神々しさです。
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これは京都の貴船神社のご神木此方も桂です。昨年の夏和泉式部を忍びながら詣でました。
貴船神社の御神木も桂です桂は如何にも縄文文化で大半が根元に祠が祀られていてそれは山の神です。数年前に友人と奥修善寺を詣でました。当時はまだ脳梗塞の後遺症が強く残っていて、尾根道を歩くことができないので。修善寺の桂の神木は観られませんでした。でもこのリハビリを継続すれば。修善寺の御神木に辿れることでしょう。


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銀杏のヒコバエ

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昨日は桂のご神木を取り上げました。ブログにアップしてみて初めて桂のご神木は一本の樹木ではなくて一本の大木が朽ちてしまい。その株から沢山の苗木が出てその株立ちが寄り添って生育し遠目で観ると一本の大木に見えるその姿が神々しいのでご神木にあがめられている事に気づきました。
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桂の山の神を再度見てくださいこれは一本の大木が枯れてその株から無数の苗が株立ちしたものです。この苗を「比子ばえ」と呼びます。人間社会では孫の子供の事は曾孫(ひまご)と呼びます。曾孫(ひまご)は樹木の比子ばえが転じた言葉だと思います
樹木自体は縄文時代から重宝された木ですが株立ちが生育した姿は稲のようで弥生の雰囲気があります。最近も何処かで株立ちの立派な木を観たな思い返すとありま明日。東京芸大の門から上野駅に歩く途中都立美術館の庭に大きな株立ちがありました。木の種類は銀杏でした。
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これは上野の都美術館庭の大銀杏、一本の大木は齢を重ねて脇芽が伸びています。大船の常楽寺の銀杏のように落雷で突然死すると根っこが生きていて沢山の苗が育つのでしょうが、このように新しい芽が出ると親木は痩せて若木が伸びるのでしょう。何処かの親不孝息子のように。
銀杏の株立ちと云えばその数日前鎌倉の鶴岡八幡宮にぼんぼりを見に行ったときシンボルだった大銀杏の株に沢山の銀杏の苗が株立ちしていました。そのまま放置しておけば貴船神社の桂のご神木のように荘厳なご神木になることでしょう。
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倉の八幡様石段の左に樹齢千年の大銀杏がありでした。実朝殺害の歴史の証人ともいわれた八幡宮のシンボルでした。しめ縄の下の緑が大銀杏の比子苗です。
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寄せ書き絵馬の大きな幹は根元から倒れた千年銀杏のそれです。若芽が出ていますが。問題は地下の根っこです。根が出ていれば生き残ります。その向こうの石段脇の新緑が比子苗です。
杉やヒノキのような針葉樹は単根ですが桂や銀杏はひげ根です。単根の大木が腐ると根っこも全部が腐ってしまうのでしょう。根っこが全部腐っては次の世代の木は育ちません。
処がひげ根の大木が腐ってもひげ根全部が腐るわけではありません。ひげ根の内いくつかは幹が枯れても命はあってひげ根のパワーで苗を生育させるのでしょう。苗は腐った親の幹や根の栄養分を吸収して生育を続けます。人間でいえば親が居て子が育って次の世代が孫です。孫は親から見れば3代目、4代目を比子/曾孫(ひこ)云います。
人間社会でも私の両親から見れば私の子が孫。その孫も次々に子供を育てていますから比子と云えば数え切れないほどいます。大正時代に入って生まれた父でしたから生きていれば今年は102歳です。屹度数え切れない曾孫(ひこ)に囲まれて目を回している事でしょう。
ということはあのご神木の地下で爺婆がにんまりしている事になります。
稲も麦も比子苗が育つので沢山収穫できるのです。そう気づくと八幡宮の大銀杏はあの時倒れて人間に生きざまを示していると気づきました。自らは死してもし子孫は繁栄する。”子孫に良かれと思って生き抜きなさい”それこそ大乗仏教であって。稲作文化の培った思想です。
父の墓参りをして八幡宮の銀杏の比子苗を観て思ったのでした。


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桂の木の神木

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一昨日に桂の木の株立ちの話をさせてもらいました。桂は沢に多い木です。沢で黄色い葉があれば桂か水木です。勿論紅葉も沢に多く自生しています。沢は総じて水源ですから山の神や田の神又は水神様や弁天様や不動明王が祀られています。桂の大木があれば必ずと言っていいほど注連縄が張られていて祠があって中を覗くととぐろを巻いた弁天様や水神様がおられます。
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これは鳥海山由利高原に自生するの千本桂です。如何にも縄文のご神木の風格があります。
例えば京都加茂川の水源を説明します。
京都の北叡山電鉄の出町柳駅があります。
出町柳は大原三千院下を流れる高野川と加茂川が合流して鴨川と名を変えて淀川に合流します。
加茂川とは水源から加茂神社迄の名でその上流は鞍馬川と貴船川になります。鞍馬川と貴船川の合流点が叡山電鉄貴船口です。勿論川の分岐を上流に上るほど谷は深く自然は緑が濃くなります。野菜は美味いし。サンショウウオのように天然記念物が多く自生しています。
鴨川の川床は貴船川でも満喫できます。
学生時代は貴船川の川床に素足を浸したいばかりに川床に入って自制できなくなってしまいビールを飲んで大散財してしまったものでした。
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これは貴船神社のご神木の桂です。
此処まで書いたら突如思い出に耽りたくなりました。戯れに歌にしてみました。
鞍馬山(山)を越え共に遊びし川床で洗い足並べて白さを競う
何れ式部かはたまた小町かと
冷や奴口にすれば 思い起こす

 今はもう 式部も小町も嫗(おうな)ならめ
 裏山に日暮集いて
 悲し悲しと啼きやまず
  つくつく法師も唱和せし
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 ここは奥修善寺の正覚院降魔壇と書かれた断崖は弘法大師が荒行をした聖跡です。ここから桂川を1キロほど登ったところに大師桂が自生しています。その桂の樹下で瞑想されたのでした。
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修善寺奥の院は石仏の宝庫でもあります。
三島駅から伊豆箱根鉄道修善寺修善寺線に乗って修善寺で降りて桂川に沿って5キロも里山の道を辿れば山を登れば修善寺奥の院(正覚院)に着きます。お寺から更に尾根に向かった1キロも歩けば弘法の桂があります。正覚院は弘法大師が修行した聖跡でその一つが桂の大木だったというのです。その故事通りに桂の根元には弘法大師の石仏が鎮座しているそうです。
全国各地にある桂の大木には総じて次のような伝説があります。弘法大師が使われていた桂の杖で大地をトントンと突っついたところそこからは清水が滾々と湧き出した。更に杖の下から根が生えて桂の大木になった。この手の伝説は全国各地にあります。
有名なのは港区麻布にある善福寺の大銀杏です。慶応大学からも近いし福沢先生のお墓もある古刹ですからご存知の方も多いと思います。
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これは南麻布の善福寺の逆さ杖の大銀杏。一般の樹木に比べて上が大きく下が細いので「逆さ杖」の名が付いたモノでしょう。現在のお寺の案内では杖は親鸞聖人が使われた杖と案内されていますが。このお寺は深大寺に並ぶ古刹で元々は真言宗であったものが中世に浄土真宗に改宗されたものですから弘法大師故事と考えた方が妥当でしょう。

私が脳梗塞を発症するの9月中旬でした。ソロソロ胡桃も収穫できること上田から吾妻に抜ける街道を百番観音を観ながら辿ったことがありました。今話題の真田城で一族が上田と沼田を結ぶ道です。地蔵峠の先に湯の丸温泉があります。温泉の集客策として道案内を兼ねて百観音を街道沿いに立てたものでした。その50番目にあるのが立派な馬頭観音で。そこには大きな黒松が自生していました。待つにはやはり「弘法の逆さ杖」と案内してありました。
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これは湯の丸高原に続く街道に自生している黒松で弘法逆さ杖と案内されています。
この根元を左に10メートルほど行くと立派な馬頭観音が祀られています。

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これが湯の丸街道の50番の馬頭観音左の大木が上段写真の弘法逆さ杖の黒松です

親鸞聖人の「逆さ杖の」言い伝えがあるのです。
親鸞聖人の逆さ杖の伝説は上人が佐渡に配流されその後茨城の稲田御坊に行かれます。その関係もあって逆さ杖の説話が多く残されているのでしょう。気が付くのは実が食べられない桂や松ではなくて栗や銀杏など実のなる木が多いのです。実がなる木が大切にされた事情もあるでしょうが。総じて飢餓のリスクのあった農民好みの木を親鸞聖人が奨められたのかもしれません。
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今年は諏訪大社の御柱祭りが行われました。この祭りを観ていると共同体が心を合わせて巨大建築物を構築するのに必要な技術とトップからボトムまで心を一つにして励む作業の重要性が解ります。写真の蹴落としは命を懸けた危険を伴いますが東大寺や羅生門を建てる仕事は命がけでしたでしょうから、祭りに命を懸ける人は尊敬するだけです。

今年は諏訪大社の御柱祭が行われました。
何故山奥からモミの巨木を切り倒して命がけで蹴落としして大社の境内まで運ぶのか解りかねることもありました。昨年は伊勢神宮の式年遷宮で私の町の小さな神社でさえ,神社庁から手紙が届き、数十万円の奉加が要望されました。今は大人ばかりですから疑問を挟む人もいませんでした。20年ごとに神社を建て替えるのはお金がかかります。と云って国がお金を出せ婆憲法に触れます。幸い明治憲法に馴染んだ人が神社の運営をしていますから。奉加帳を回しても目くじら立てて怒ることもありません。
20年ごとに建て替えるので伝統技術が継承されるといった意見もあります。
伝統技術の継承のたっめなら御柱祭の方が優れています。一番大切な木を育てることから気宇を切り出して立てる作業をするからです・大金を費やして本殿を建て替えるより柱を7年毎に建て替える方が経済合理性があるし農村共同体の絆は守られるからです。
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これは大磯の左義長です。地面に柱を立ててその周囲を菰で撒き燃やす神事は縄文時代の竪穴式住居で芯柱を建てて産屋を建てた事を思い出させます。家を建てることは神を迎ええることでした。

御柱祭を観察していると。出雲大社の発掘された柱や青森の三内丸山遺跡の櫓上の構造物を思い出します。柱を立てる技術は法隆寺の五重塔を建てました。
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持統天皇文武天皇の愛の建物薬師寺は芯柱を四天柱で吊る耐震建築でした。耐震建築技法が普及し東大寺大仏殿も巨大な空間を実現させたのでした。伝統技術の伝承と革新的技術の開発絶えざる工夫が平城京平安京を実現しました。
法隆寺を建て技術はその半世紀の地には薬師寺を建立し。芯柱を浮かせる吊り上げ方式を実現しました。芯柱を振り子にした耐震建築でした。薬師寺の半世紀後聖武天皇夫妻は東大寺大仏殿を建てました。式年遷宮や御柱祭に培われた建築技術は絶え間ない技術革新を続け。桓武天皇は平安京を建立しました。天皇自ら羅生門の軒高を強風対策に低くするよう注文します。天皇に命じられても技術者は自説を譲りませんでした。。門は高いほど荘厳に見えるし神に近づくと思っていたのと技術的な確信があったのでしょう。柱を高く建てることは木が青空高く聳え神仏の加護が期待されると思ったのでしょう。
弘法大師が杖を立てる仕草をされることと柱を建てることは何処か似た感覚があったのではないでしょうか?
立派な樹木を観て神々しいと思った人は子の大木何故こんなに立派なのか?思ったとき弘法大師の逆さ杖を直感したのでしょう。それは法隆寺の五重塔の荘厳を仰ぎ見る思いと同じだったように思います。幸田露伴の五重塔は谷中の棟梁のお話です。棟梁は大風にも五重塔は耐えられる確信していますから大嵐の中に五重塔の上層に立って喉元に鑿を突き立て、夜叉の形相で空を睨みます。空の彼方には風神と呼ばれる鬼が隠れているのです。

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醍醐の青嵐(京都旅行記1)

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昨年は残暑の中、京都に地蔵盆を観に行きました。京都の街中の路地の奥に小さな祠があって、地蔵盆にはその扉が開けられ、お地蔵さまを拝観できました。お地蔵様のお顔は白く塗られて。紅もさされています、蓆が敷かれて子供達が集まって車座に座って大数珠を送ります。地蔵盆を観たので、次は”迎え盆””送り盆”を体験したいと思って8月15日に京都に向けて出発しました。昨年は7人の旅でしたが。今年は流石に旧盆の最中、都合のつかない人が続出で、3人で出発地元の先輩と東寺での盆踊り会場で落合4人の寂しい旅になりました。
昨晩11時帰宅すると。息子に”お父さん随分日焼けしたね!”云われました。加えて荷物は濡れモノが多くて、手足は藪蚊(石峰寺で食われた)の跡が痒く痒くてなりません。厄介なお土産を抱えての帰宅でした。
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これが地蔵盆の地蔵石仏です。勿論主役は子供達で。この祠の前に茣蓙を敷いてお地蔵様にお祈りします。

京都に着けば先ずは西本願寺さんに詣でます。古代は都に入れば羅生門を潜って。東西の大寺の間を歩いて洛内に足を踏み入れたように新幹線を降りたら東西の本願寺さんに詣でてその檀信徒会館で昼食する習慣です。軽井沢から来た友人は”流石に京都は暑いなあ!汗を拭き拭き笑顔を出してくれました。。友人は昨年参加してくれたĪさんから預かった手拭(屹度よさこい祭りで用意されたものでしょう。を差し入れてくれました。私は。北京五輪の帽子を手拭バンダをバンダナに差し替えて出発です。
先ず行き先は醍醐寺です。今春ブラブラ美術館で醍醐寺を放映していて醍醐寺の霊宝館気になっていたのでした。道真の怨霊を鎮める為に建てられただけに密教の時代の仏像が展示されているのです。
私は拝観入り口で確認すると「霊宝館の諸仏は揃って西安にお出かけ」だそうです。
私は想像しました。中国の仏像は素材が銅か石です。木を素材にした密教の仏像をどんな風に見ているん尾でしょうか?木彫の仏像には、無機物を素材にした仏像にはない味わいと霊性を供えているものです。
もう一つ「土牛さんの桜の木は何処にありますか?」
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8月15日醍醐寺に上りました。お寺はお盆の万灯会を開催していました。
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駐車場から山門までの道は馬場になっています。筆者の大阪勤務時代此処の馬場で太閤桜祭りを開催されています。1986年の春、取引先の大和実業(櫓茶屋やボトルキープバーのロイヤルを展開した企業)岡田一男社長(当時大阪商工会議会頭)が今太閤に任じられ、太閤役の栄誉に浴しました。私もお祝いで桜を観ました。この馬場は懐かしいものです。白壁の向こうが霊宝館です)
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醍醐寺の馬場通り道の左右は桜のトンネルです。道の右は清滝宮左は霊宝館向こうの壁の中が三宝院で醍醐寺座主がこの塔頭の法脈を伝えています。太閤が建てた名勝寺院であり。沢山お国宝を有しています。
醍醐の桜で有名なで千本あるといわれるれる桜の中でに、豊太閤ゆかりの桜は20本残っていると聞きます。
その内の一本が三宝院の「大紅しだれ桜」だそうで、その桜をである。奥村土牛さんは札幌でオリンピックの開かれた昭和47年醍醐寺の枝垂れ桜を描かれ院展で発表されました。
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これが奥村土牛さんが描かれた醍醐寺三宝院のべに枝垂れ桜です。
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此方が醍醐寺三宝院の唐門(国宝)です。障壁画等で国宝が沢山残された太閤の栄華を留める醍醐寺最高の塔頭です。問題の土牛さんの桜は左奥です。

醍醐寺さんは今夕の万灯会の準備も終えてお坊さんも行き交っていました。山内は蝉しぐれでした。西本願寺では全く気にならなかったつくつく法師が去りゆく夏を惜しむようです。受付のおばさんに訊けば京都でもつくつく法師はつくつく法師だそうです。青嵐の奥のヒノキ(細いので翌檜かな?。から響いてきます。
醍醐寺と云えば桜で有名ですが青嵐も良いし、桜の青葉も中々良いものです。
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山門周囲は青嵐です
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つくつく法師が響いてくるヒノキ林今回は俳句の好きな友人も長野に帰省してしまったので。私は苦吟するばかりです。
処で太閤桜ですが五重塔や本堂の周囲に集中しているようです。私は青葉を眺めながら子の青葉が来春の桜を用意しているのだ思いながら太閤桜を探して回りました。五重塔の周りにはテレビで放映していたクローン桜の若木も健康に育っています。桜は老木になると、挿し木でも接ぎ木でも育たないのでクローンで増やすんだそうです。
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清滝宮手前左が太閤桜でしょいう。社殿は重文です。
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向こうが本堂(国宝)の薬師堂です。手前に太閤桜とそのクローン桜があります。
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五重塔(国宝)とその周囲の桜は太閤桜の遺伝子を取り出してクローンで育てた桜の若木です。
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本堂の周囲に飾られた万灯会の提灯。本堂の壁に張られているのは児童の絵です。万灯会に親子で来て貰う、企画なのでしょう。
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本堂の薬師三尊像と四天王像。今日は霊宝館の諸仏は西安にお出かけなので。拝見できませんでした。
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醍醐寺を出ればお蕎麦屋さんや喫茶のお店が幾つもあります。境内には有名な雨月茶屋もあります。写真の花は凌霄花です。

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昭和の一木の明王像(京都旅行記2)

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」「桜の緑陰も良いもんだ」思いながら蝉しぐれの醍醐寺を後にしました。次の目的地は善願寺です。醍醐寺の門前の道を南東に進みます。昨年の地蔵盆の頃小町の面影を追って隋心院を巡りました。この道(大和街道)は同寺に行けそうです。、
昨年行けば良かったのでしたが、去年は奪衣婆に関心がありました。今年は興味が地獄の思想に移っています。今回の旅はお盆の最中ということもあって各寺院でお被露目されている地獄絵を見たくて回りました。
随心院には栢の実を三宝に載せてありました。小町が深草の少将が通ってきた日を確認するために庭先の栢の実を拾って数えていたのだそうです。

以前西村公朝師が樹齢千年の栢の大木の幹に不動明王を彫られた話は伺っていました。
最近の話では栢の生命力は逞しく。不動明王を樹木の体内に取り込む勢いだと伺ったのでこの機会に拝観しようと思い立ったのでした。
西村公朝師は芸大に就学中に召集され1945年にに復員され1946年に京都の33間堂の修理に復帰しされ、以降、仏師・仏像修理技師としての修行を積まれました。丁度私が生まれた頃に人生の岐路にあったのでした。1951年に得度され比叡山で修行され1955年に愛宕念仏寺の住職になられました。その後東京芸大の教授などの公職に就き院国宝修理所所も兼任されるとともに.河原で石ころを拾ってお地蔵さんにしたり粘土を握って捻り仏を作る等して仏縁を俗人に優しく諭して人気がありましたが、
2003年に亡くなられました。
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愛宕念仏寺での公朝師の表情を伝えた「生まれてよかった/太陽」のページ
午後3時境内に入ると住職がお戻りになられました。で、ご挨拶もそこそこにして。栢の大木を探して境内を回ってみましたが、それらしい大木はありません。
畑には夏野菜が栽培されていてその端っこには芭蕉や無花果が熟しています。我が生家の軽打に似ています。そこで、やむを得ずブザーを押して拝観を申し出ました奥様が出てこられて話されます。
「この寺は岩田帯の祈願で信心を集めています。安産祈願を優先していますから、お約束のない拝観はお断りしています。それに今日はお盆で忙しいのです・・・・。でもあなたたちは運が良い、たまたま今は空いていますからご案内しましょう。本堂に上ってください」
そんな次第で本堂に上がりました。肝心の栢の大木は本堂の北側の縁側に面してありました。境内を探し回っても見つけられない筈です。奥様(寺守さん)のお話は次の通りでした。
善願寺のご本尊は地蔵尊の座像で藤原時代の一木つくりで(重文)でその修理を西村公朝さんに委託されました。その折に先代の住職が公朝さんにお願いされたのだそうです。
「私(先代住職)は夢に仏がこの栢の大木から出てこられて、また大木に消えてしまうのでした、そこで住職はこの大木に仏を彫ってくれるように公朝さんに依頼されたのだそうです。公朝さんは快諾されて一晩で不動明王を彫りあげたそうです。屹度その様子は「今円空」を思わせたものでしょう。

私達は大峰山に木曽に飛騨に円空仏を探して旅してきました。醍醐に今円空があるのなら、拝観せずにおられません。
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これは飛騨千光寺の円空による立ち木仏高さは2メートルを超えます。樹種は栓の木(針桐)です。江戸時代に編纂された『近世畸人伝』に木に梯子を掛けて鉈を振るう円空の姿を描いた挿図があります。阿吽一対揃っていますが、東博「木の仏像展」の展示では保存状態の良い吽形のみ展示してありました。千光寺円空館には阿吽の二体を展示してあります。

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一方此方は木食の立ち木仏(子安観音)東博の展示から(愛媛県四国中央市光明寺。こちらは槙巻の大木です。
地面に生えたままの立木を彫刻した像は江戸時代に造仏聖によって多く彫られました。円空や木喰の生木仏は多くありますが。その多くが木が枯れてしまったり傷を癒す木の生命力によって木に埋もれてしまったりしています。で千光寺の立木仏は今から150年ほど前に根元が腐朽したので切り取られ、仁王門に置かれました。
木喰さんの立木仏は萩の願行寺など幾つも残っていますが、未だ年月が浅いので立木は青葉が茂っています。
次の写真は萩市の願行寺の立木薬師仏です。彫られたのは木喰上人で、写真のように栢の大木は青々としています。屹度今頃は沢山の栢の実をつけている事でしょう。いつかこの三人で拝観したいものです。
と云うのは一人は水墨画に励んで円空仏を描いていますし。もう一人は横浜の美術館(某百貨店の系列)で円空展を企画していましたから・・・・。屹度私以上に立木仏に興味が深いことでしょう。
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此方は萩の願行事寺の立ち木薬師仏(木喰)のある栢の大木(写真は木喰展/神戸新聞社)のグラビアを天載。

公朝さんが不動明王を彫ったのも様々な縁が重なったもので、その縁を大事にする生き方が仏教だったのでしょう。公朝さんご自身も戦地に赴き帰還してすぐに33間堂の千体観音像の修復の機会に恵まれたのも、此処の善願寺で立木仏を彫ったのも不思議としか表現できない宴だったのでしょう。そしてこの北には石峰寺の羅漢群があります。(若冲作と云われるこの後にブログにアップします)何れも深い縁の為せる成果だったのでしょう。

私は今年の秋三人目の孫に恵まれる予定です。
岩田帯を戴きたいのですが、岩田帯ばかり重なっては問題です、そこで寺守さんに頼んで「安産お守り」を戴いて帰りました。お寺を辞すると。道路は旧大和道ですこの道は奈良の般若寺から京都の清水さんの麓の六道の辻に達しています。様々な旧跡を繋ぐのが街道で、様々な縁を繋ぐのが百道のような気がします。
私達は白いアスファルト道を南に向かいました。カーナビには残り5分で日野の方界寺と示していました。
振り返れば善願寺の大栢が見送ってくれています。
善願寺では小野小町を熱愛した深草の少将はこの栢の実を拾って、小町へのお土産にしたと言い伝えられています。
栢の実なんかで小町さんの愛情を求める事は無謀としか言い切れないでしょう。若しかしたら栢の実は子作の効果があったのかな?なんて思ったりしました。栢の霊にすれば暦を数えるより口にして精力をつけて、ほしかったことでしょう。男を見向きもしなかった小町は地獄絵に描かれて老後は醜く太って、遺骸は野犬に食われて、骨は山野に晒されて骸骨は”痛い”痛い!”と泣いてしまいます。痛い原因も茅の芽でした。
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願行寺の前の通りは大和道です、和泉式部も紫式部もこの道を下って長谷籠をしたのでしょう。栢の大木が見送ってくれました。向こうの丘陵が醍醐寺の山になります。

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上の写真の逆(南向き)は奈良の方角になります。善願寺の駐車場の入り口に祀られているのはダキニ天(いわゆるお稲荷さん)です。
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此方は本来の主尊(地蔵尊)耐火建築のお堂に移されたことからが本堂に移された阿弥陀三尊と水子地蔵尊。パンフレットを複写

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此方が総ての縁の始まりとなった本尊の地蔵尊です。お寺が用意された栞では定朝作のヒノキの一木つくりだそうです。当初は安産祈願の地蔵尊では無かったのでしょうが。袈裟の下に召された下着が岩田帯をイメージさせたので安産の地蔵尊として信仰されたのでしょう。
この大和道を奈良市内まで下ると裸地蔵尊で著名な伝香寺の門前に出ますし、さらに長谷に向けて下ると帯解寺に門前に出ます。まさに安産街道の感がします。帯解寺も伝香寺もこのブログにアップしました。

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洛南高校のお接待(京都旅行記3)

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昨日は善願寺の立木仏を拝観して、公朝師が作ってくださった縁に感謝しました。
私達が友人になれたのは大学内にあった「日本文化研究会」に集ったからで、その会の創始者が京都の南枚方にお住まいです。その大先輩とは”「東寺の盆踊り会場」で会い合いましょう”約束していました。
日野の法界寺から。真っすぐに東寺に向かいました。未だ5時陽も高く、暑さも応えます。
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午後4時東寺に着き南大門から境内に入りました。盆踊りと万灯会の案内が出ていました。
東寺の境内に入ると先ずは五重塔を飾る百日紅や蓮を観て回りました。
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東寺のの蓮の花。もうたくさん実がついて夏も終わりを告げていました。
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五重塔の周囲には紅の百日紅が咲いていました。

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此方は東寺の立体曼荼羅。弘法大師が仏像を林立させて曼荼羅を実現したもので一般に立体曼荼羅と云われます。洛南高校の方角から差し込む西陽が仏像の陰影を濃くして何時も以上に荘厳でした。写真はお寺の用意した栞をスキャン。
講堂の立体曼荼羅を拝観する頃は丁度夕暮れで、連子窓の間から斜光が堂内に差し込み普段から圧倒的な迫力の四天王像や不動明王像が一段と凄みを増していました。
講堂を後にして境内に出ると赤い毛氈が敷かれた簀の子が出されて縁台代わりにここで休憩しなさい、優しさを感じました。座ろうとすると・毛氈の上にはビニールシートが敷かれてその上は滴が溜まっていました。私達が車で移動していた最中、または講堂の立体曼荼羅を見惚れている間に通り雨が降ったのでしょう。
講堂の北は食堂(じきどう」です。食堂の庇に吹奏楽器が集められていて。高校生が食堂から椅子を取り出し縁台状に並べていました。
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食堂の甍の向こうに陽が沈むと東寺は闇に包まれます。食堂の基壇をステージにして洛南高校吹奏楽部の日本の民謡、流行歌の演奏が始まりました。これが盆踊りの始まりでした。
”誰だろう?何が始まるんだろう?”眺めていると。
先輩風の学生が遣ってきました。私は明日の夜の五山の送り火を観るに絶好の場所を聞き出そうと、若い人に声掛けするチャンスをうかがいました。先輩風の学生は此処の高校(洛南高校)の卒業生で北大の学生なのでしょう。札幌六花亭のマルセイバターサンドを配っています。男子高校生が集まって遠慮なくいただいています。屹度北大生は女子高校生に食べさせたかったのだろうに…思って眺めました。遠慮しないのが高校生の特権です・・・・・。
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団扇は東寺の万灯会法要の参列者に配布されたもの黄昏コンサートの栞は洛南高校の吹奏楽部が配布したもの。歌詞とプログラムが載っていました。
6時になると食堂の甍の上に陽が沈んで逢魔が時になります。
大日堂の方から若い坊さんが来られて”これから万灯会の法要が始まります。団扇を配ります”声をかけて行きました。私達は大日堂に入りました。大日堂での万灯会の法要は今回の旅行のテーマです。明日ブログアップいたします。
大日堂での万灯会の法要が終わると砂原座主が云われます
「ソロソロ高校生の演奏が始まります。聴いていってください」そして私が遊行寺の盆踊りの話をしたこともあって「盆踊りは天台宗の元三大師が始められたモノ」と云われました。
私達は戴いた団扇を使いながら、
高校生が用意してくれた食堂の椅子に腰かけてのコンサートです。
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洛南高校吹奏楽部による黄昏コンサートが盆踊りの始まりでした。
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洛南高校吹奏楽部の演奏向こうが東寺の北大門で善女竜王の碑が建っています。その日の向いが洛南高校・中学綜藝種智院の伝統を繋いでいます。
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櫓の上ではお坊さん(座主は課長と呼んでおられました)が気持ちよさそうに川の流れに身を任せ(雲雀さん)を歌っていました。でも課長さんは挨拶の段で大失態を演じてしまいました。木蓮尊者のお名前をど忘れしてしまい、付き添いのお坊さんに教えられていました。余りも激しい京都の暑さのせいでしょうか?それともボケの出る歳の為でしょうか?
洛南高校は奈良の東大寺学園と並ぶ名門高校です。私にも友人が何人もいます。
高校の授業では弘法大師の始められた学校で「綜藝種智院」を教わりました。その伝統を引き継ぐ学校として1962年(昭和37年に)洛南高校が発足、2006年には男女共学の学校になったのでした。
私の卒業した栄光学園は昭和22年開校、昭和39年オリンピックの年に鎌倉に移転したので洛南高校より古いことになりますが。男女共学なのは羨ましく思います。心なしか吹奏楽部の生徒さんは私のニキビ時代よりも生き生きして見える気がしました。
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盆踊りも終えて旅館に帰るころには十三夜の月も出て魔物ならぬポケモンが東寺を占領する気配でした。座主さんのお言葉では東寺の境内には19人ものもポケモンが居るものの、て黙認しているとのことでした。

私達は大先輩と共に。近くの食品スーパーでビールや京都のお万歳を買い込み町屋旅館(自炊用)に帰りました。今夜も古美術談義で明かします。去年と違うのは人数が少ないこと女性が一人もいないこと。でも私の脚も随分確実になってきました。

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東寺の万灯会(京都旅行記4)

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夕闇の中。盆踊り会場で盆踊りを待っていると、お坊さんが来られて”これから大日堂で万灯会の法要が行われます。団扇も配られます!”案内されました。
私達はお坊さんに連れられて大日堂に向かいました。大日堂は食堂の北、洛南高校との間にありました。西側にあるのが国宝の大師堂です。大師堂は解体修理の案内が出されていました。高野山では御影堂、開山様を祀るお堂は和風で端正美を誇る建物です。
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大日堂から大師堂を眺める。手前のテントは万灯会の受付です。特定の故人の盆供養をしているようですが、私達のような旅行者も受け入れてくれるのです。ソモソモ、東京でのお盆は先祖の霊を供養するものですが。京都では自分の祖先に限らず衆人の霊を供養するもののようです。だから万灯会と呼ぶのでしょう。
大日堂のご本尊は胎蔵界大日如来でおられました。定朝風の端正で美しい静謐な大日如来が禅定位で座られています。この9月には三人目の孫にも恵まれる私です。胎蔵界大日如来にお祈りできるのも嬉しいご縁でしょう。
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この建物が万灯会の法要を行った大日堂です。和風の建物ですが室内は冷房が効いた天国のような空間です。美しい真言の陀羅尼を聞きながらお祈りしていると、ついつい睡魔が降り来るようでした。
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この写真は大日堂入り口で撮ったもので万灯会法要の設えが解ります。お坊様の左手前に精霊棚があって、食べ物やお水が用意されていました。関東のっ施餓鬼棚と同じで、名が違うだけです。
大日堂に入るに際して万灯会の法要式次第がプリントされた案内を手渡せられました。プリントの裏には般若心経が印刷されていました、実際に法要が始まると前半は観音経を唱和されたのですが、大半の参列者は観音経も諳んじていてお坊さんに合わせて唱和していました。私の前席のヒッピー風のヤンキーは驚いて辺りを観ていました。屹度米国に帰ったら”日本は無宗教どころか1200年も仏教が生きている”報告することでしょう。
でもこのヤンキーはお焼香の段になって,と惑いました。と云うのは私の隣席のご婦人がヤンキーが嫌がるものの順番を譲らず、ヤンキーはスゴスゴと仏前に進んで焼香したのでした。
ヤンキーはもう一言土産話をすることでしょう。”日本のご婦人は美しいけれど厳しいものがある”と
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これが万灯会法要のプログラムでし。前讃は観音経で後讃は般若心経でした。入り口でお願いすれば施主名精霊名(故人の戒名)を読み上げていただけるのです。
万灯会に先立って座主様がお話しされました。
お話は万灯会法要の意味でした。その内容は先日このブログで紹介した京都博物館の地獄絵巻でした。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49425805.html
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釈迦十大弟子の一人木蓮尊者の物語。木蓮尊者が亡くなった母を神通力で探すと餓鬼道に堕ちて苦しんでおられました。そこでお釈迦様に救済の方法を伺うと90日の托鉢を終えたお坊さんに供物しなさいその善行が餓鬼道に堕ちた衆生を救済するでしょう・・・・。云われました。この図は京博の絵巻で、先ずは中央の3人の餓鬼を観てください。3人の餓鬼は喉の渇きを癒そうと川の水を飲もうとします。すると川の水は燃え出して飲むことができません。そこで餓鬼はお釈迦様に自分たちの苦しみを訴えます。お釈迦さまはお前たちが苦しむのは”水や食べ物を自分の為に独占しようとするのが原因だ、水や食べ物を自分一人で独占しようと思わないで衆生に喜捨すれば救われる”教えました。餓鬼たちはお釈迦様の教えを実施しようとします。すると既に餓鬼を救おうと菩薩が天に現れているのでした。
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木蓮尊者の教えを都の寺で実施施餓鬼法要をしている図。このお話はインドの夏は極端に暑いことを抜きにしては理解できませんし、イスラム教のラマダンにも通じる大衆救済の教えだと思います



私はご高齢なお坊様にに向かって尋ねてみました。
「私の自宅の近くには遊行寺があって、一遍上人の遊行踊りが盆踊りの始まりだと思ってきましたが・・・・」
するとお坊様は遠路遥々友人と連れ添ってきたことを誉めて戴いたうえで、次のように言われました。
「京都では盆踊りを始められたのは比叡山の元三(がんざん)大師と思っています。元三大師は優れたアイディアマンでおみくじを考えたり魔除けのお札も考え付かれました。お札をみれば踊りの手足に似ていますよ・・・・」脚は汚れた土や熱い火の上を抜き足で歩く格好をしているのです。
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これは深大寺の魔除けのお札のデザイン獅子身中のムシともいえそうな魔物でモンスターです。深大寺元三堂の手前に庚申塔等と共に並んでいます。
私は元三大師のお札は深大寺の元三堂で確認したことを申し上げ
「お札の図はまるでモンスターですね・・・」申し上げると。
弘法大師さんは人が集まることを喜ばれました。そこで東寺では毎月21日に弘法市を開いています。そして平成1年から盆踊りも始めました。
実はこの東寺にはなんと19匹ものポケモンが棲んでいるのです。弘法大師も人が集まることを喜んでくださると思って黙認しております。御所さんでさえ任天堂さんに苦言を呈したそうですが・・・・。」
わたしが話しているうちに妙な事に気づきましたお坊様に皆さんがご挨拶して通り過ぎて行かれるのです。
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後ろ向きの人が砂原座主(執事長)で皆さんがご挨拶されていました。
私は通行人に尋ねてみて初めてこの気さくなお坊さんが東寺座主(東寺ではトップを執事長と呼ぶ)砂原師であることを知りました。京都在住の先輩に訊くと「砂原師は前の総務部長」と云われました。
私が砂原執事長で居られることも知らずに失礼な発言をしたかもしれないことをお詫びして東寺を後にしました。盆踊りも屋台も佳境でした。
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マイクを握っているのは広報課長のお坊様で。東寺の盆踊は大衆文化でした。
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境内には屋台も出て懐かしさ大盛りの東寺の盆踊りでした。
京都の盆踊りの歌は江州 音頭(ごうしゅうおんど)でした。 
”東京音頭は期待しないモノノ炭坑節でもないし「祇園囃子」か「旅の夜風」で踊ってほしいもんだね”言いながら東寺を後にしました。浴衣姿のお嬢さんとすれ違い。”今宵会う人皆艶かなり・・・・!”思いました。

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民泊宿の柳絮(京都旅行記5 

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昨年の京都合宿は知恩院門前の「白河」と云う名の町屋を1軒借りました。その町屋の本業は「餅寅」と云う名の和菓子屋で、明智光秀の首塚の「お守」をしていることもあって「光秀饅頭」が売り物でした。先日そのお世話戴いた女将さんがテレビに出て光秀の祠の扉を開いて。光秀の最期を語っていました。
今年も当初は1軒の町屋を借り切ったのでしたが、参加者が期待に届かず、一間(3人)を借りました。宿の名は「柳絮」で京都駅前を西に向かって鴨川を超えて(塩小路橋)の先を南に折れた小さな町屋が密集した中に在る筈でした。[柳絮]の女将さんから携帯に電話が入ります。
”待っているから早く来てくれ”と云った口吻です。
私は”ただいま東寺さんで盆踊りを観ています今暫くしたら入ります〝答えました。
後から分かったのでしたが「柳絮」は極めて解りにくいので、表道路に出て待っていたかったのでしょう。カーナビに住所を打ち込んで、狭い路地の奥で探し回ります。でも、どうしても見当たりません。運よく一戸建てのお家から家人が出てきました。訊けばお隣が「柳絮」とのこと。玄関に暖簾が架かっていて,暖簾をくぐれば八坂神社の粽と蒲鉾板に遠慮気味に「柳絮」と書かれていました。看板もないし、ましてネオンサインはありようもないのでした。
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私達の泊まった「柳絮」のある街並み向こうに京都タワーが見えます。赤信号の先は鴨川に架かる塩小路橋です。この辺りを「一橋野本」と云います。古代には定朝の七條仏所(仏像工房)があったあたりで東側は大和道で後白河法皇の屋敷があって、33間堂が建っています。こんなところの町屋旅館では見つからない筈です。
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宿「柳絮」の並びにあったお稲荷さんお盆ですし、怨霊が潜んでいそうな雰囲気でした。
女将さんが出てきて遠慮気味に云われます。
「今日は1階に上海のご家族がお泊りです。明日朝お帰りですが、仲良くしてください」
同僚の親友は中国や台北で百貨店を運営してきましたので、中国人と一緒と聞くと却って嬉しそうです。流暢に上海語で国際交流です。女将さんと上海ファミリーとの会話の通訳をしていました。
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これが「柳絮」を記す表示でした。真夜中にこの表札を見つけるのは至難な業です。
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私達の泊まった民泊宿「柳絮」の立地している街並みこの小路の先。”時速20キロ以下で走れ”の看板には複雑な一体であることを伺わせます。小路の先のガードの上は新幹線と琵琶湖線が走っています。

私たちの部屋は二階の東向きの1室で、幸い3ベッドが設えてありました。
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これは東寺門前の食品スーパー「フレスコ」の総菜コーナー夜7時過ぎでしたので割引販売が目立っていました。
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大先輩(左)と旧交を温める右端が筆者
西側にも和室があってその繋ぎの小部屋で食卓を置いて夕食です。
棚には沢山の京都観光資料と胡同写真集が置かれていました。胡同写真集は中国語で書かれています。女将さんが中国人向けに”京都の町屋は素敵でしょう。でも北京の胡同(町屋」も素晴らしいのですよ”そんなメッセージを込めて書棚にさりげなく置いたのかもしれません。
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食事をした小部屋の奥に3ベッドの部屋がありました。
今晩の会話は明日の五山の送り火は何処で観たらよいか?と云うことに集中しました。京都在住の大先輩は一言
”五山の送り火は鴨川沿い四条大橋か三条大橋の欄干から眺めるのがお勧めだよ!”言うだけです。僕らは既に鴨川沿いで東大文字は観ていますから。今回は残りの4つを一望したいのです。
女将さんは京都タワーや将軍塚に登ることを奨めます。
京都の地図とタブレットの画面を見詰めながら結局出町柳の三角州に行くことにしました。
食事も終えてビールも飲んで明日のスケジュールも決まれば次はお風呂です。女将さんおすすめの銭湯「桜湯」に出かける事にしました。
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宿から5分の位置のビル1階に銭湯の桜湯がありました。
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汗を流してコーヒー牛乳を飲んで1日目は無事終了です。この銭湯の女将さんは猫好きで飼い猫どら猫併せて4匹も面倒見していました。
翌朝宿を出て気づきました。南に下れば新幹線とJR琵琶湖線のガードがあって。東に行けば京阪鉄道が地下を走っているのですこの辺りは交通の便の為に忍耐を強いられた、総じて陽の当たらない一帯のようです。
女将さんは昔は綺麗だっただろう人で。ご出身を聞けば祇園の生まれだそうで。別なマンション(?)にお住まいでお客の出迎えと見送りに出て来るとのことでした。陽の当たらなかった町屋も「規制自由化」の恩恵で女将さんの様な民泊経営を可能にしているのでしょう。
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桜湯の東東福寺方面の辻に在ったピンク映画館昔は「日活ロマンポルノ」でしたが、今は何の事かわからない「エくセスンポルノ」問表示されていましたエクセレントではいけないのでしょう。
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エくセスポルノの前を北に向かって七条通りを渡ると美しい家並が続いて河合寛治郎美術館もありました。
町を東福寺方角に向かう辻には昔懐かしいピンク映画館がありました。ピンク映画館の上階は高齢者専用住宅で。その今江の道を北に進むと河合寛治郎美術館があって。民泊を利用した外国人が歩いていました。
車内で「柳絮」の話をします。今回は俳句の好きな親友は諏訪でお墓参りでした。彼が居たら屹度面白い話をしてくれただろうに・・・、でも中国での経験豊富な親友が教えてくれました。「絮」とは真綿の事で柳の花が終わると種に真綿が付いて風に飛ばされ川を流れ下って新しい命を飛翔させまます。云われてみれば中国の庭には必ず池があって池野ふ淵には柳の木が茂っています。早春は猫柳ですが晩春になれば池の面を真っ白な真綿が覆ってしまいます。
友人は更に教えてくれました。中国の官吏は辞令が出れば従って西に東に赴任しました。友人が町外れまで見送りに出てくれます。すると水面に柳絮が漂っていて風の吹くままにアッチコッチに彷徨っています。
辞令を良しとしなければ屈原のように埋もれるだけです。
私も友人も柳絮のように世界中に赴任しました。屈原のような生きざまは知っていたのですが。家族も出来て責任が出来れば柳絮は夢の意また夢でした。


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京都のモーニングサービス(京都旅行記6)

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昨晩中に大先輩は帰宅されました。今日8月16日からは元々の同期3人の旅です。
今回の旅の大目標が”五山の送り火”鑑賞です、昨晩中に出町柳の三角州に決めていましたが、やっぱりもっといい場所がないか気になります。
柳絮を出れば、家の筋向いに町内掲示板がありました。「送り盆」会場と”お供え物を川に流さないようにしましょう”書かれています。私は精霊を乗せた牛馬(胡瓜と茄子)を川で拾い集めて福神漬けにしたという川村瑞賢の故事を思い出しました。昨晩薄気味悪くてお参りしなかったお稲荷さんに詣でて駐車場に向かいます。途中和菓子屋さんの店先を通りました。ご主人が奥で白いお団子をこねています。お月見団子のように積み上げて”送り団子”とネーミングしているのです。ポスターには盆の期間中毎日お供え和菓子を差し替えるように奨めています。
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掲示板に貼られた精霊送りの案内と。「お供え物を川に流さないようにメッセージ」、ここは一橋野本町で主会場は33間堂の近くのようです。

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お稲荷さんの境内に祀られた地蔵尊。送り盆が終われば次は地蔵盆です。お地蔵様のお顔は既に化粧されて地蔵盆本番を何時でも迎えられそうです。
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これは桜湯の隣の和菓子屋さん。私はおはぎを友人は葛饅頭を戴きました。左端のお饅頭が送り団子で甘めの餅団子だそうです。
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今日(16日)は稼ぎ時気合を入れて送り団子を握るご主人と連奥様。店先のポスターにはお精霊さんをもてなすメニューが書かれていました。
朝一番の仕事は朝食です。予めモーニングサービスの人気店を調べておきました。京都博物館近くでは「甘春堂」と食ナビに出ていたのですが、今日は盆休みです。京都では甘春堂は既に大手で夫婦二人の和菓子屋とはスタンスも違うようです。七条の甘春堂、そして鴨川沿いの甘春堂を観て5条通りを東山に向かった処に偶々喫茶「アマゾン」を見つけました。店先にも脇にも自転車が放置されています。この辺りは”シルバーゾーン”モーニングを喫茶店で済ます親爺が多いのでしょう。
案の定店に入れば1階は満席で狭い階段を二階に押しやられます。コンセプトは名古屋スタイルの喫茶店で。モーニングセットが500円で、新聞も雑誌も自由に閲覧できます。若い女性がキビキビと注文を取ってくれて。厨房には初老の親爺がせわしなく料理しています。
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これが5条通りに見つけた喫茶「アマゾン」でした。モーニングサービスワンコインが全国共通相場です。
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此方は1階の店内朝8時過ぎで満席の盛況でした。店の前は5条通りで左に行って突き当りが八坂神社になります。
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私の注文はトースト、向かいの友人のオーダーはモーニングサンドどちらもドリンクセットでワンコインでした。
友人が隣の親爺に声をかけました
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ワンコインモーニングサービスの他に小倉餡子やアボガドを乗せたり、工夫を凝らしていました。
「送り火を観に来たのですが!何処かいいところ知りませんか?私達は如意岳の大文字は既に観ているので、今回は他の4つの送り火を同時に観たいと欲張っているのです。」
すると親爺さんは教えてくれました。
「大谷高校の屋上が良いよ!今晩は五山の送り火を観る人の為に解放するんだよ、私は昨年も大谷高校の屋上に上ったよ。」
大谷高校の場所をよく聞けば宿の柳絮の前の小路を南に下ってガードを超えた向こうのようです。
”何だ!”柳絮の女将さんも灯台下暗しで知らなかったのか!”思いながら今晩の見物スポットを出町柳から大谷高校に変えました.
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喫茶店アマゾンで隣り合わせて知った大谷高校屋上でも五山の送り火情報..このチラシは16日の夜大谷高校でいただいたものです。後日送り火の鑑賞記をアップします。結果から言うとゲリラ豪雨に遭遇してズブ濡れで帰宅したのでした。

15日は東寺の洛南高校に楽しませてもらい今晩(16日)は東本願寺の大谷高校にお世話になるとはもう京都の高校生に頭が上がらないと思いました。それにしても喫茶店のモーニングサービスに集まっているのは団塊世代の親爺ばかりで情報ゲットにも最高の場所です。マーケッティングにも適当でしょう。私の友人も信託銀行や保険会社が多いので。外交員をこの喫茶店に忍ばせば忍者(草)並みの業績が期待できそうです。


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京都博物館の気配り

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朝食も終えて9時過ぎ、京都博物館に出かけました。国立博物館と云えば先ずは東京上野の国立博物館、そして奈良公園の奈良国立博物館です。上野や奈良に比べて京都の国立博物館は余り馴染が無かったのが不思議です。今回はどうしても一度は京博の地獄絵巻(国宝)を観たいと思って遣ってきたのでした。
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此方が京都国立博物館、レンガ積のフランスルネッサンス様式の建築(明治25年1892年竣工、片山東熊設計重要文化財、現在は特別展示に使用)左の建物が平成知新館で2014年の開館した平常の展示館で設計は谷口吉生である。谷口吉生は丹下健三の弟子で、東京国立博物館の法隆寺館をはじめ猪熊源一郎美術館土門拳写真館など平成知新館と同じ意匠の美術館が目立ちます。
国立博物館は文化庁所管の独立行政法人ですからてっきり9時開館と思っていました。ところが開館は9時半でした。そこで順番を変えて先ず豊国神社を参拝して開館を待って入りました。既に9時半でも太陽は高く強い直射日光の下で開館を待ちました。館内は涼しそうで、屋外は炎天下、”早く開けて頂戴!”イライラが嵩じます。デパートの開店を待つような気がします。
私のお目当ては『源信の往生要集を絵解きにした地獄絵図で、地獄絵図の中には昨日東寺て聞いた木蓮尊者のお話が載っているはずなのです。
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これが私が直に観たかった京博の地獄草子(国宝)です。京博にはこのほかに六道図や病草子を所有していて、どれも絵解き、説話の要素が色濃いのが特徴です。
ホテルのコンソルジュと同じ役割の人が博物館にはいるもので。なんでも疑問は答えてくれるサービスがあります。私は入館して即座に「京博の地獄絵図」は何処にありますか?」聞きました。すると「二階の2号室」です、返答されました.新館は先ずエレベーターで3階に上がり順次に降りてくる流れです。3階は縄文・弥生の文化財を展示東博に比べれば土偶や埴輪が少なく銅鐸や銅鏡が目立ちます。
展示には工夫が凝らされていて、銅鏡は裏表両方みられるようになっています。私は。龍紋のある表面を確認してショーケースの裏に回ってみました。裏に回ったらどの程度鏡の役割を果たしているのか確認できると期待したのです。しかし期待に反して鏡の裏は緑青で錆び付いて顔を映す等及びもつかない状態です。私は監視員に訊いてみました。
「銅鏡は顔が映るんですか?」
すると中年の女性監視員は当然のごとく
「鏡ですから顔が映りますよ…心も映るんですよ!]言い放ちます。
私はこの鏡は磨けば顔が映るんですね!」念押ししました
監視員は
「当然です!」
私が納得しない表情をしていると
「私は監視員です。学芸員が回りますから学芸員に訊いてください!」云います。
2階からは「丹後の仏教美術」に移っていました。
私は林立する仏像群を素通りして絵巻物などを展示している2号室に回りました。ところがいくら探しても国宝の地獄絵巻は展示してありませんでした。コンソルジュは地獄草子絵巻を「鬼退治伝説絵巻」と「成相寺曼荼羅」と混同していたようです。観たかった地獄草子絵巻を観そびれてしまって落胆でしたが。鬼退治絵巻も成相寺曼荼羅も面白いモノでした。
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これは等楽寺縁起絵巻(上段)と斎(いつき」明神縁起絵巻。京都と丹後の国境の大江山に住む鬼を麻呂子親王(聖徳太子をイメージ)が退治した伝承を絵巻にしています。親王は出発前に7体の薬師仏を刻んで戦勝を祈願して出陣し鬼退治を終えると丹後に7体の薬師を祀った…絵物語は終えています丹後の伝承としては面白いのですが鬼が描かれていても地獄草子とは違います。麻呂子と源頼光が混同しており四天王も登場していますから今昔物語との混同も見られます。
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此方は成相寺参詣曼荼羅図です。曼荼羅の下には天橋立が描かれていて様々な庶民が描かれていて。修験者や琵琶法師もいます。中央上段が成相寺で下段の左右が智恩寺と籠神社(この神社)です。雪舟の天橋立図にも描かれた寺社です。
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此方は成相寺に伝わる半跏菩薩像(8世紀)です。中宮寺や広の弥勒菩薩を思わせます。弥勒菩薩はお釈迦様の太子時代を表現した菩薩像でしたが半島ではこうした半跏像になって、日本では聖徳太子のイメージにも重なって弥勒信仰になったと思われます。何れにしても半島に近かった丹後には奈良時代前半から半島の文化が伝わっていたようです。
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これは宮津市金剛心院の地蔵菩薩像(鎌倉時代)快慶風の忠実な人体模型の地蔵像です.姿形は表面だけではなく内臓も収まっていました(写真はアルバムをスキャン)
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これは上段の地蔵像のX線写真内臓までもが人体を模して収められています。写真出典は京博作成のアルバムです。
丹後の仏教美術は特別企画展示でしたが。特に目を引いたのが二階1室に展示されていた河内金剛寺の金剛界大日如来でした。監視員に尋ねると。現在金剛寺は修復中で仏像群は暫くの間京都博物館でお預かりしているのだそうです。昨日拝観した東寺の立体曼荼羅の主尊金剛界大日如来よりも大きく思えました。監視員に訊けばどちらも同じ丈六ですが博物館に展示すると(他に像がないので)大きく見えるのだそうです。隣の不動明王も慶派本流の作だそうです。近年運慶の新発見以来慶派の評価が上がっているように思います。金剛寺修復の機会に子の大日如来や不動明王の学術調査を進めて欲しいものです。
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此方は河内の金剛寺が工事中のため京博に預けけられている金剛界大日如来(左)と不動明王像。何方も鎌倉時代の慶派本流の作だそうです。
大日如来の筋向かいに数年前東博の「日本の木彫仏像展」で拝観した面割れしたお地蔵様が展示されていました。お地蔵様の額が割れて別のお地蔵様のお顔が覗かれている三面の地蔵立像です。西住寺さんは耐火設備がないのでしばらくは京博が預かって常時展示しているのでしょう。久しぶりにお会いできてそれは嬉しいのですが。お盆の間くらいは国宝の地獄草子を展示しておいてほしいものと思いました。



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西往寺/宝誌和尚立像(11世紀)】像高159cm。平安時代に東国を中心に流行した鉈彫一木造。中国南北朝の僧、宝誌和尚が修行中お告げにより自分の顔を切り開いたところ、中から観音様のお姿が現れたという伝えを表現

京博には喫茶室や軽食施設は無いのです。グッズ販売コーナーの脇にテーブルが置かれていて。各自、ベンディング機で飲料水を買って飲めそんな雰囲気です。外は暑いだろうなお庭を観ながらため息をつきました。観れば庭のあっちこっち、池の中にも丸いものが置かれています。掲示板には京博は方広寺の跡地に建てられていて丸い印は南大門の礎石の跡だそうです33間堂にも向かいのハイアットホテルにもお客さんが続々出入りしていました。
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京博のドリンクコーナー
京博平成知新館のエントランス設計は慶応卒の谷口吉生氏で水と水平線の多いゆったりしたデザインです。床や池の中に方広寺南大門の礎石の跡が記されています。道理で33間堂と京博の前の交差点を大仏前と呼ぶのです。


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秀吉の人気を留める豊国神社(京都旅行記7)

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京都博物館が開くまで時間があるので博物館の北に隣接する豊国神社と方広寺に上りました。
隣と云っても道の二辺を歩きますから大変な距離です。車は京博の駐車場に置いて只管歩いて豊国神社に向かいました。私も友人も何度も京都に来ているのですが豊国神社は初めてです。八坂神社や北野天神神社下賀茂神社に比べて旅行者には人気が無いように思います。でも改めて宮参りしてみると豊国神社は外の人には不人気でも京都の人にとっては大人気なのです。それは”先の大戦”と云えば”応仁の乱”を想いだす京都人にとって戦場で荒廃した京都をを復興し。町衆の都にしてくれた豊臣秀吉への人気なのでしょう。
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豊国神社前から南(33間堂方面)を観る。こんなに広い道なのに北向きの一方通行です。街路樹は五目の百日紅なのは秀吉が派手好きだったからでしょうか?左の石積みの上が京都博物館になってご条通りとの辻が「大仏前」です。
現在の京都の町割りは桓武天皇による条理ではありません。古代の条理性は応仁の乱によって崩れ去り。現代まで続く都大路そして細かな小路を築いたのは秀吉だったのでした。
秀吉の没後、方広寺に大仏を建て秀吉の供養と戦争のない社会を実現しようと方広寺を建立し奈良や鎌倉と同様に大仏様を鋳造しようとしたものの、あえなく豊臣家は滅亡の坂道を転げ落ちてしまいます。でも庶民とりわけ京都の町衆には秀吉は人気で文楽に歌舞伎に英雄として崇められました。
京博の石積みも豊国神社の石積みも立派なものです。どれも方広寺の基壇に用意されていたものでしょう。一見すると余りの立派さにお寺の石ではなくてお城の石のように見えてしまいます。
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豊国神社の唐門その奥が舞殿で奥が本殿桃山建築の豪華なモノです。重文
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豪壮な唐門
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本殿前の塀に沿って実った千成瓢箪の実と連子窓に吊るされたお杓文字。
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豊国神社の境内北側が方広寺で著名な梵鐘がありました。左の建物が方広寺の本堂です。
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大きな方広寺の梵鐘。梵鐘に貼られているのが国家安康の刻文(家二分しているのが呪ったものと云いがかりをつけられた。

方広寺の参詣も終えて。いよいよ「お盆の意味を探りに」六波羅に向かいます。

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六波羅密寺と湛慶(京都旅行記8]

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5条の方広寺を参詣して私達は次の目的地六波羅の寺々に向かいました六波羅は奈良でいえば奈良町みたいなところです。
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六波羅密寺門前の通りを右(南)に行くと奈良に向かいます。生垣の下に六波羅探題跡の石柱が建っていました。北隣が西福寺です。
奈良町は中世地蔵信仰の発祥の地で元興寺十輪院には有名な地蔵石仏もありますが、風葬地が近いことなどh奈良の奈良町と京都の六波羅は類似点が幾つもあります。
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これは奈良町の十輪院の地蔵石仏です東大寺から南に下った伊勢道の海道町であった奈良町も京都の六波羅も地蔵信仰の盛んなところでした。(十輪院は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48060613.html)
私達は六波羅と云えば平清盛の屋敷の在ったところと覚えています。六つの波羅蜜(最高であること)とは彼岸の意味でもあって、内裏から見れば加茂川を超えた彼方側の岸辺の意味だっと想像されます清盛はこの原っぱが川と山で挟まれているうえに奈良にも伊勢にも大津や比叡にも通じる地政学上の利点を評価して此処に平家の拠点としたのでしょう。鎌倉幕府もこの地に六波羅探題を置きました。
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空也上人の像、上人が眼疾が流行っている都で病気を押えようと念仏を唱えながら市井を回っていられる姿で「南無阿弥陀仏」六字の名号が阿弥陀様に変じたというまるで漫画のような一こまを肖像彫刻にしています。この分かり易さが後世の専修念仏の隆盛を招いた画期的な仏像です。
高校の教科書に空也上人の像が載っていました。我が国仏教の中心軸になった、専修念仏の起こりを説明する最重要な仏像ですし、空也上人の姿はそのまま一遍上人の姿に写され、近世の高野聖や念仏講にも引き継がれた重要なお姿です。
改めて空也上人像を拝観しました。で、「作者は誰だろう?」考えて管理人に尋ねてみました。
「管理人は運慶の4男の康勝です」云われます。康勝は東大寺南大門の金剛力士像の仏師にも名を連ねた実力者です。”やっぱり運慶の愛弟子であり実子か”即座には納得してしまいました。でもこうしてブログにアップしようとするとやっぱり気になります。六波羅密寺を建立させ、清盛の霊を鎮めようとしたのは後白河法皇でた。後白河法皇の権力への執着によって沢山の人が現世に怨念を残して他界しましたその怨念を慰撫するために33間堂を建立したでしたし、東大寺の再建を重源に命じたのも後白河法皇でした。清盛の霊を鎮めるためにその屋敷跡に六波羅密寺の建立を認めるのは自然な成り行きだった事でしょう。問題は”空也上人像や清盛像を作ったのはお寺の説明通り康勝か?”と云うことです。
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此方は六波羅密寺の平清盛像。平家物語では、傲慢で不遜極まりない人物に捉えられていますが。この像ではお経を見詰め一門の行く末を沈思黙考する高貴な人物に捉えられています。この像も康勝の作でしょうか?

後白河法皇は六波羅密寺の建設を醍醐天皇の第二皇子であった空也上人に命じました。空也は叡山で修行し市に出ては念仏を奨める町聖であり重源に似た存在でありましたから。重源と同じ方法で勧進して念仏聖の尽力で六波羅蜜寺を竣工させたのでしょう。”運慶が東大寺に重源像を収めたように康勝は空也上人像を六波羅密寺に収めた”と云うのがお寺の説明です。
でも、家で考えると『空也上人像は運慶の長男湛慶であった』と考えた方が自然なように思えてきました。仏像の体内に作者の仏師名が出てくれば別ですが・・・・。
「何の証拠があってお寺では「康勝」作と印刷しているのか?不思議になってきました。六波羅密寺には上記の空也上人清盛以外にも二体の肖像彫刻があります。
一体は運慶像でもう一体は湛慶像です。湛慶は慶派一派を奈良から京都の八条に移転させた人物です。その大英断の結果33間堂の千体の観音像や本尊の千手観音を彫りました。康勝から見れば長兄であると同時に運慶・快慶亡きあと一門のリーダーだったのでしょう。だから。六波羅密寺の空也上人像を彫る栄誉を兄の湛慶から奪い取るのは問題のような気がします。少なくても大リーダーだった運慶と一門の棟梁湛慶の肖像彫刻がある以上、開山の空也上人の像を彫る栄誉は湛慶にあったと考えるのが自然なような気がします。
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此方は三三間堂の主尊千手観音、作者は運慶の長男の湛慶で慶派を京都の八条仏所に移転した成果でした。
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此方は六波羅密寺の肖像彫刻運慶と湛慶の座像です。出典は六波羅蜜寺のパンフレット。元々京都の十輪院は運慶一派の菩提寺であって。本尊の脇時のように祀られていたものが十輪院の廃寺に伴って移されたもののようです。
もう一体気になる仏像が地蔵菩薩立像でした。現在は真っ黒い黒髪を左手に払子のように握られています。パンフレットには定朝の作と書かれていて。元六波羅密寺地蔵堂の本尊であったとも記されています。管理人は『平安時代から黒髪を握っていたわけではなく後世の人が空いた左手に握らせたものだろう』といっていました「髷掛け地蔵」と呼ばれているそうです。髪の毛は女の命、京は芸能の都でもありましたからお地蔵様に黒髪を握らせて永遠に美人であるように祈ったのでしょう。定朝作と云い伝えているようですが面相も優しく美しいこと彩色に切金細工が繊細美麗であることなどを観ると快慶と直感してしまいました。
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此方が地蔵菩薩立像右手は錫杖ですが空いた左手に黒髪を握らせています。パンフレットでは定朝作となっていますが仏像マニアは快慶と直感する人が多いと思います。
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六波羅密寺の本堂ご本尊の薬師如来および四天王像(いずれも平安時代重要文化財)は本堂西側に新築された宝物庫に収められています。この本堂は天暦5年(951年)に創建平家滅亡の際にも本堂だけが焼失を免れました。現在の建物は足利義詮により貞治2年(1363)に修営されたものです(パンフレット)本堂東側の道が大和道で道に面して「六波羅探題跡」の石柱が建っています。本堂南側の石碑のうち左が清盛塚で右が白拍子の阿古屋の塚です。
最期に本堂南側(左手)に宝篋印塔が一基、その隣に形のいびつな五輪塔が一基並んでいました。宝篋印塔は清盛の墓で五輪塔は阿古屋の墓と案内されていました。昔は露座に並んでいたのですが真新しい鞘堂が出来ていました。阿古屋とは、清盛の愛した白拍子で、歌舞伎の「出生景清」「壇ノ浦兜戦記」の場面「阿古屋の琴責め」に描かれたヒロインです。代官畠山重忠は平家の落ち武者、悪七兵衛景清の行方を探す為にに思い人で五条坂に住む白拍子阿古屋を捕らえ、彼女が景清の所在を問い質します。阿古屋が弾いた三味線、琴の調べに一点の乱れのないことに感動し彼女を釈放したというストーリーです。
先の地蔵菩薩が黒髪を握っているのは歌舞伎で阿古屋姫が人気になってからの細工かも知れません。
でも、家に帰って写真を観ていると阿古屋の墓はどう見ても五輪塔には見えません。どう見ても最初からこんな形の五輪の塔を意匠したのではなくて、この辺りに転がっていた塚石の残骸を適当に寄せ集めて積み上げたように見えます。そうです。立山の頂上に立っているケルンのような積み石です。山男が高山の頂上に
この辺りは古代からの風葬地ですから誰かの墳墓の石を適当に拾ってきて積み上げたように見えま登ると屹度霊気を感じるのでしょう、遭難した山男の霊気を感じてそれを癒そうとケルンを積むのでしょう。私は山男を京都の遊女に置き換えてみました。島原や伏見そして祇園の遊女は六波羅を訪れて。お地蔵さんに黒髪を持たせ、墓石の断片を拾い集めて阿古屋姫の塚にしたように直感したのでした。
真新しく塚の鞘堂を寄進されたのは坂東玉三郎さんでした。
ワイフに玉三郎さんの話をすれば」”昔母を誘った”ところが母に”他の人と行く約束があるの”
断られた忘れられない舞台だそうでした。六波羅密寺の北隣が西福寺さんです。明日は西福寺さんとその周囲の話をします。

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六波羅で始まった地獄の思想(京都旅行記9)

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私達は学校の授業で桓武天皇の平安遷都の理由を以下の通り教わりました。

聖武天皇が亡くなるとその娘(光明皇后との子供)娘の阿倍内親王に譲位します。阿部内親王は孝謙天皇となります。孝謙天皇は淳任天皇に譲位し称徳天皇として重祚し孝謙上皇として権力を維持します。一方奈良の寺院は道鏡が孝謙上皇の病気を治した等を契機にして精力を拡大しました。781年即位した桓武天皇は政治に介入しようとする仏教勢力の排除を意図して。平城京からの遷都をを計画します。
この歴史観は”神道を「是」とし仏教を「否」とする明治の神国国家観”を継承するものでした。
昨今は違った見方が主流のようです。『平安遷都の意味は何か?』と云えば壬申の乱の延長であって、天智天皇(神道に近い)と天武天皇(仏教を尊んだ)の争いが再発して、桓武天皇はり再び天智天皇の血統に戻そうとしたものであり。天武の血統を絶えさせたのでした。
桓武天皇の即位は藤原氏の台頭と天武帝の血統の断絶を意味するものでもありました。

桓武天皇は先ず長岡京に784年遷都しますが。洪水や疫病が相次ぎ僅か10年で再遷都を決意します。地政学的な意味を重んじて平安京に遷都を決定します。この世に「平安楽土」を実現する願いを込めて「平安京」と命名しました。
京都は東を比叡山北を鞍馬山南に開けて西に街道が通っています。
この地勢は中国から伝来した(四神相応しじんそうおう)の思想に適合していました。
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これは施餓鬼棚です中央の万霊から見ると右の黄色い幟(東)が青竜で時計回りに右手前(赤の幟)が朱雀左手前)西が白虎で左奥(北)が玄武です。お相撲の櫓の房も同じ。都の建築に際しても四神相応の地勢が選ばれました。京都も北は北山(玄武)東は青竜(鴨川)南は朱雀(開けている巨椋池)西は街道(山陽道等)が選ばれました。中世になって末法が現実味を強くすると。洛中から見て鴨川の東岸が風葬地であり山の向こうが補陀落浄土と思われたものと思います。
平安京遷都以前から。加茂川の西は東山で風葬の地だったのでした。だから今昔物語でも東山や北山は鬼や妖怪の出現する処であり。清水さんは命が再生する処でありました。平城京の都人は再生の祈りを長谷寺にしたように平安京の都人は再生の祈りを大津の石山寺やその手前の清水寺にしました。何しろ清水寺は洛中から見れば加茂川の彼岸であり、風葬の丘に近かったのでしたから。
考えてみれば京都は三方を山で囲まれています。死者が出ればその山に遺骸を晒します。遺骸から霊が昇ってゆきます。南の人は遺骸を川に流しました。今日本人がチベットに行って観る葬儀と同じです。山側の民は風葬にし川沿いの民は川に流します。
六波羅密寺を出れば大和道の北隣が西福寺です。私達は六波羅密寺から西福寺、六道珍皇寺を巡りました。
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これは東博の地獄草子。私はこの絵を観ると先史時代から風葬の地であった)飛火野がこんな風であったと思います。この絵には本来人間には見えない餓鬼の霊が描かれていますから霊を除いた捨てられた遺骸や遺骸を喰う獣墓石棺箱や髑髏等の骨だけを観れば中世の六波羅を観る想いがするのです。
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これは一遍聖絵第7巻の中の京都地蔵堂での踊念仏の場面。弘安7年(1284) 一遍上人は京都・空也上人の遺跡市屋の道場での踊り念仏を致します。 この場面は昨日書いた六波羅密寺の一角にこのような櫓を建てて専修念仏を更に一歩深めたのでしょう 
風葬の地六波羅(飛火野)に始まり大和を繋ぐ道が「大和道」でした。始点が地蔵尊の「西福寺」で終点が「元興寺十輪院(地蔵信仰の始まった寺)である事等思わせ振りです。大和道は東側の丘陵沿いに走る街道と川沿いに走る竹田街道在りました.竹田街道は京都9条から伏見に通じる街道で秀吉が大阪城を建て、伏見城を築いき京都と三点を繋ぐ道として整備した中世の街道です。一方六波羅を始点とする大和街道は古代からの街道で式部も小町もこの街道を長谷寺に向けて下ったのでした。例えば、重源の東大寺勧進は周防で伐採した檜の大木を海から河内を経て木津川を経て大和夷道を牛に引かせて東大寺に運びました。古代からの尊い信仰の街道だったのです。水運の便に恵まれた事から繁栄し、江戸時代は日本一の遊郭が栄えました。現在の国道24号線と重複しています。宇治川との合流点が中書島で今も昔も交通の要衝でした。
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30キロゾーンの道が大和道右の白壁が西福寺でお隣(南)が六波羅密寺になります。
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大和道の辻から六波羅密寺を観るその奥が西福寺になります。
東山連峰の最高峰最高峰が如意ヶ嶽(470m)です。京都府と滋賀県との県境に位置し、山域は京都側に下れば北白川、浄土寺、銀閣寺に着きます。大津側は鹿ヶ谷に出ます。如意ヶ嶽は大文字山とも呼ばれています今晩(8月16日)8時に大門字焼きが点火され京都五山の山焼きが始まるのです。半年前に奈良では若草山の山焼きが在りました。元興寺十輪院から見上げれば若草山は眼と鼻の先。若草山が新しい命の誕生を祈願する聖なる行事であれば大文字焼きは死者の魂を弔う浄めの炎です。
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これは如意ヶ嶽のお盆の送りに燃やされる大文字焼き京都の町屋に帰った祖霊はこの炎を目標にして山に(天に)戻ります。両墓制に依れば山頂は霊の宿る墓で鴨川の川原に近い六波羅の墓は「埋め墓」と云う事になるでしょう。
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まるで町屋のように狭い西福寺の門この日は本堂の座敷で観心地獄曼荼羅図と壇林皇后の9相図を拝観できます。
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西福寺は本堂の側面から拝観するような不自然な伽藍配置です。財力のあるスポンサーが見つからなかったお蔭でしょう。庶民の信仰と熊野比丘尼の説法で存続した様なお寺さんです。その分民俗信仰として尊いお寺さんです。
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中央が熊野比丘尼が絵説法に使った熊野観心地獄曼荼羅図左は地獄諸相図右は壇林皇后九相図です。
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これは西福寺の地獄諸相図です。地獄の獄卒が亡者を色々に責める様子が描かれています。これは八大地獄の中の熱地獄の図です一番右上のお姫様は二人の男性を木登りさせています。勝った鵬の男性を選ぶつもりなのでしょう。複数の異性と交わった人は串刺しにされて火にあぶられます。左の上に黒縄地獄と書かれています。人を殺したり盗みを働いた人が陥ります。黒縄とは鎖の事で、熱した黒縄で皮膚に印をつけます。その印をにそって鋸で曳きます。
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これは檀林皇后九相図。嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后(諡号)生前は橘 嘉智子(たちばな の かちこ、延暦五年(786年) -嘉祥3年(850年が、死後の自分を描かせたと言い伝えられる絵図です。九相(くそう)というのは、死体が次第に崩れ、土に還る様子を、9つの段階を追って記録しています。平安時代の初めに斯様に諦観を極めた女性が居た事は不思議です。この絵は後世に影響し主人公が壇林皇后から小野小町に変わり。髑髏小町など謡曲の素材にもなります。
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これが熊野観心地獄曼荼羅です。心の字を中心にして”自身の心を浄く保ちなさい”さもないと地獄に堕ちます。地獄はこのように苦しいあの世です、と熊野の比丘尼が説いて回った曼荼羅図です。熊野の比丘尼が五条大橋の上や京都の洛中で曼荼羅を広げて絵説きしている図が多く残っています。屹度熊野比丘尼は西福寺等の庶民的な御寺を拠点にして絵説き説法に出かけていたのでしょう。この寺に熊野の地獄曼荼羅が残されたのも自然な事だったと思うのです。江戸時代には熊野比丘尼の他にも立山や白山等の曼荼羅も多く残されています。

ところで壇林皇后の九相図です。
お寺の説明では壇林皇后が生前に自分の死後の自分の遺体を描かせ田と説明しています。”私が死ねば私の体は腐乱してウジがわき、白骨化して無くなってしまいます。だから身体は獣に喜捨してください”と命じたと言います。如何に聡明な人でも美しい姿は描かせても自分の遺体が腐って行く様は残し難いモノでしょう。中世以降はこうした絵を描いて絵解きして無常観を説いたのでしょう。

六波羅には西福寺・六波羅密寺・六道珍皇寺が、一辺100mの三角形の位置に隣り合わせになっています。私は街並みを見詰めながら3つのお寺を拝観して回りまあす。六波羅と記憶していましたが商店街は「六原」と書かれています。六波羅はサンスクリット語で六つの真理と記憶していましたが。洛中の人にとっては鴨川の東岸の『広い原っぱ』の意味だったのかもしれません。露地にも面白い名が付いています。「轆轤小路/ろくろ小路)の轆轤はロクロ首のろくろなのか茶碗作りで使うロクロなのか想像します。「笑い小路」は明るく楽しい長屋程度の意味でしょう。
西福寺の門前に飴屋が在りました。幽霊飴の看板が目につきます。今年の初夏に奥浜名湖の本興寺に詣でました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45137761.html)昔は飴は貴重でしたが今は幽霊飴は不人気なようですポケモン飴なら人気でしょうが・・・・。
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西福寺門前にある幽霊飴屋さん

西福寺は六波羅密寺や六道珍皇寺に較べると参詣客は少ないようでした。でもここの観心地獄曼荼羅図や九相図は絵説きで著名です。お盆の間は拝観が可能です陽射しが強烈である事、加えて蒸し暑い事。地獄図ばかり観て廻っていると私はフラフラしてきます。酒屋(お盆で閉店中」の暖簾の日陰でヒッピー風の外人がへたっています。聞きしに勝る京都の厚さに降参の風です。酒屋のお隣は貸衣裳屋です。覘くとお嬢さんが浴衣の着せ替え風でした。あんまり覘いていると交番に連れて行かれそうです。
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六波羅密寺界隈を六原と書いてありました。
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余りの暑さで酒屋の店先にへたり込んだヒッピー風の外国人この辺りは轆轤小路です。
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余りの暑さでツイツイ氷の暖簾に誘われて西福寺の並びのお店(サガン)に避難しました。サガンとは鴨川の左岸の意味なのでしょぷが、中々良いお店でした。悲しみよ こんにちはでは無くて涼しさよ今日はでした。
友人と相談して此処でランチすることにしまあした。私の席からは幽霊飴屋の店先が見えます。誰が買いに来るかウォッチしていたのでしたがランチが終わるまで30分お客はゼロでした。何れ飴屋はモーニングサービスの喫茶店か台湾スィーツの店に変わっているかもしれません。”悪貨は良貨を駆逐する/グレシャムの法則”は大学で習いました。文化も政治も粗悪なモノが良品を追い落とす時代であるようです・・・・。
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サガンの筋向いが幽霊飴でした


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京都のレンタル衣装(京都旅行記10)

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西福寺の並びにある喫茶店「サガン」のお隣は貸衣裳屋さんでした。向かいの幽霊飴屋さんに来客は無いモノの、貸衣裳は先刻からお客さんが頻繁に出入りしています。
今朝から京都の町には貸衣裳屋が目について気になります
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今朝の八坂神社前の交差点、浴衣姿のお嬢さんが目立ちます。
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此方は西福寺並びの貸衣裳屋さんの店先
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貸浴衣屋さん英語も中国語も載って旅行客は手軽に着れる浴衣が人気のようです。頭の先から足の下駄までソロエテ貰って3千円、5千円と云ったところが標準料金のようです。浴衣の翌日返却や髷結等はプラス千円のようです。
店先には人力車が走ります。私はサガンの店先に吊るされた八坂神社の粽は良しとしても”が気になります。”飛びっ”こは、”災いが去る・難が去る”と云った意味合いで災難除けに吊るされる猿のおまじないです。比叡山の東側日吉大社のお使いです。もう色褪せてしまった飛びっこですが何時まで祀って置くのかな?なんて考えていると。突然二人のお嬢さんが浴衣姿で入店してきました。中々に可愛らしいお嬢さんです。加えて丸髷に朱の桃割れが初々しいのです。私は”舞妓さんが遊び着で来たのかな?”テッキリそう思いました。
其処で図渦しくお嬢さんに訊いてみました
”とてもお似合いですが貴方たちは本物の舞妓さんですか?”
”ウフッ”と笑われました。満更でもないようです。そして
”今晩は大文字焼きでしょう、(デートで)勝負するのよ!”何のことは無い夜8時の点火前に浴衣に着飾って彼を虜にしようと気合が入っているようでした。
私の隣席に座ったお嬢さんでしたが五月蠅い親爺が気に障ったのか席を変えてしまいました。その足元を見て舞妓さんでは無い事を確信しました。大股歩きなんです。でも、些細な事は気にしないで。お嬢さんが可愛らしい事は良い事です。暑い夏は京都の常識。それを少しでも涼しく楽し具過そうとする知恵こそ尊いと思うのです。京都の町では浴衣も含めて着物のお客さんを優遇するアイディアを競っています。鴨川の川床も町屋の簾も露地の花も良いけれどお嬢さんの浴衣姿には及びません。お盆の浴衣姿には祇園祭の山車に匹敵する効果があります。
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喫茶店サガンで隣席に座った浴衣姿のお嬢さん二人桃割の姿に舞妓さんかと期待したのでしたが。
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私が声をかけたので五月蠅いと嫌われたか?席を変えられてしまいました。大股歩きに舞妓さん(候補生も含めて」では無いと解りましたが。500円のモーニングサービスで目の保養までさせて貰って嬉しかったのでした。
サガンを出ると坂道を登って来る人力車に追い越されました。
「若くなくては人力車は曳けない」思って車夫に声を掛けました。ところがお客さんがVサインして返してくれました。若しかしたら京阪電車の南座の前から六道珍皇寺まで人力車に乗っているのかもしれません。
私は小林幸子さんの流行歌『百花繚乱!アッパレ!ジパング!』を想い出しました。歌詞を捩れば「酒代ははずむから 車屋さんよ ひとっ走り六道の辻まで やっとくれ!」と歌い出しそうです。暑い夏こそ男は赤銅色に染まって女は襟首も涼しくしていて欲しいモノです。それこそ色気でしょう。最近は色気を忘れた日本人が多くなりました。屹度黄泉の栄六輔さんも杉浦日向子女史も同意してくれることでしょう。
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六道珍皇寺に向けて坂を登る人力車、車上のカップルは浴衣姿で私にVサインしてくれました。100円ジュースにこの辺りの民度が窺がわれます。ビルの間の細道が轆轤小路です。

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この写真は京都着物レンタル 夢館のホームページですhttp://www.kyotodekuraso.com/p/2219。同社では一日借りた浴衣が気入ればそのままプレゼントしてくれると云った出血サービスもしています。京都の商いは命がけで面白いモノが在ります。

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この写真は京都着物レンタル 夢館のユーザー投稿写真を拝借したものです。可愛いし古典ガラだし屹度お嬢さんはこの浴衣が欲しい事でしょう


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六道珍皇寺への信心(京都旅行記11)

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我家の生け垣は「五目」です。五目生垣とは槇等一種類の木の垣根では無くて、椿や連翹や雪柳や躑躅など数種類の花木を混稙した垣根です。ラーメンより五目そばが楽しいし、鉄火丼より海鮮丼の方が食べたくなることもあるように、生垣も1種類の木よりも数種類の木を五目に植える事によって、季節によって様々な表情が楽しめます。その生垣の角に柊を植えておきました。節分には柊の枝に鰯を吊るしました。通行人は柊に鰯を観て”古い人だ”笑っていたと思います。
昔から”ヒイラギの小枝に鰯の頭吊るして角口に飾って、魔よけにする風習”がありました。
この風習を揶揄して、「魚の頭も信心次第』の諺が出来たと思います。
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これは我が家の生け垣の柊です。毎年節分にはこの柊に鰯を吊るして厄除けして来たのでしたが今夏突然に柊は枯れてしまいました。この記事は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47015937.html
「どんなにつまらないモノも信心次第では値打ちがあると云った意味で使われてきました。
でも民間信仰で千年も信じられて来た風習には諺のように簡単には割り切れなし物が在るものです。
私のように脳梗塞疾患で苦労すると。”鰯の頭をもっと食っておけば良かった”思ったりします。そうすればDHAやEPAが重文で脳梗塞を未然に防いでくれたかもしれません。。鰯は脳梗塞と云う名の厄除け病魔除けに有効だという事なのです。
ところで、大切にして来た五目生垣の柊がこの夏突然に枯れてしまいました。原因はカミキリムシですカミキリムシには海棠も枯らされてしまいました。困った害虫です。天敵のスズメバチにもう少し頑張って貰わなくてはなりません。来年からは。節分の柊に代わってスズメバチの巣を吊るしましょう。通行人は一層奇異な目で我が家を観て私をいよいよ敬遠するかも知れません。

さて話を京都の旅行記に戻します。
六波羅密寺から西福寺を回って早目のランチを取って。私達は六道珍皇寺に上りました。
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六道珍皇寺の門前で
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これは関東以北では見られない水塔婆です。棚には万霊供養の為のご位牌と先祖代々の位牌と昨年一年間に亡くなられ方の霊が祀られていました。水塔婆は経木を五輪の形にデザインして戒名や○○家先祖代々の霊等と書いて水に浸して持ち帰りお墓に供えします。すると死者が塔を建てたと同じ善行を為したという事になるのでしょう。お墓に供えた水塔婆は。昔は鴨川に流したのでしたがが、今はお寺に返します。左の乾燥した水塔婆が返された塔婆で、お寺は盆明けに水塔婆を焚き上げるようです。詳しくは次を観てくださいhttp://www.rokudou.jp/visit/
実は昨年も地蔵盆の季節にこの寺に上ったのでした。再度上ったのは関東では見慣れない「水塔婆」を確認したかったし、盆行事を確認したかったのです。
実はそれ以上に私は六道珍皇寺の獄卒像(鬼)に惹かれてしまったのでした。獄卒(鬼)は2体あって小野篁の左右に従っています。獄卒/鬼ですから怖い筈なのにとても意地悪な表情で、何処にでも居そうな悪餓鬼なのです。先ずはその写真を観てください。西洋のデビルは日本では鬼で鬼は怖ろしいモノの筈なのにどこか憎めない愛らしさが宿っているのです。秋田のナマハゲが子供には怖いモノの。子供のピンチには守ってくれるように・・・・。昔の餓鬼大将は子供達のリーダーでしたが、実は子供達は一人一人が弱いモノの団結すれば強くなる事を知っていて、仲間を守ってくれたものでした。ところが最近の遊び仲間のリーダーは守るべき仲間を”気に食わない”といって殺してしまうようです。妙な事に多摩川や埼玉県東松山市の都幾川でも河川敷で仲間を苛め殺しています。水塔婆の記憶が子供達に残っていたのでしょうか?まるで、地蔵経の鬼の業です。「賽の河原」(さいのかわら)で鬼が子供の霊が積んだスクーパ(塔/五輪塔)を壊します。子供の霊は壊されても壊されてもスクーパを積みます。その始終を見詰めているのがお地蔵様で。水塔婆を髣髴させる光景です。
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これは川原に積まれたスクーパ。地蔵経では子供の霊が川原でスクーパを建ててその善業で父母の恩に報いようとしますが鬼が現われてスクーパを壊して行きます。子供の霊は壊されても壊されてもスクーパを積みます。まるで子供「缶蹴りゲーム」のようです。京都の六波羅に水塔婆が行われるのも。その自然環境や歴史的民俗的な環境が為せる成果です。
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これが六道珍皇寺の獄卒(鬼)です。小野篁は閻魔大王の客人ですから鬼は小野篁を歓迎しる役割です。足は牛や豚と同じ2本指で、手は犬猫と同じ4本指です。私は怖いというより愛嬌があると思うのです。
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水塔婆供養ははこの無数の無縁仏地蔵尊の前で行われます。
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これは六道珍皇寺の閻魔大王像。
小野篁は閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に勤めていたという事になっています伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等に確認できます。この伝説は室町時代には定着していたのでしょう。にもみえることより平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがえる。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。
  六道珍皇の本堂裏の井戸から小野篁は冥土へ通って閻魔大王の審判の仕事を補助したと言い伝えられて来ました。
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これは六道珍皇寺の「迎鐘」。鐘楼から垂れているロープを手前に引くと梵鐘が打たれます。精霊を迎えるために撞くので「迎え鐘」という。 この鐘は、古来よりその音響がは十萬億土の冥土にまでとどくと信じられ、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼びよせられるといわれています。
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これは六道珍皇寺の本堂裏の庭先には井戸があって小野篁はこの井戸を降りて冥途で閻魔大王をサポートしたと言い伝えられています。信じるか信じないかは別として。此処が先史時代からの風葬の地であった事荒涼とした川原(鴨川の)であったこと等地獄信仰を生み出すには自然環境も歴史・民俗環境も揃い過ぎて居ます。
信じるか、信じないかは人の判断です。現代人は冥界等あり得ないと思っている人が大半で、閻魔大王の審判も地獄も信じている人も稀でしょう。
私もこの齢になるまで『冥界の存在は疑わしい、人間が臆病の余り思いついたモノで。云わば芭蕉の”幽霊の正体見たり枯れ尾花”である』と思ってきました。
しかし今日ほどに命が軽んじられ人間の品性や尊厳が損なわれるのをみていると『鰯の頭も信心次第』も尊いと思われてきました。私達は人間の尊厳は理性に根拠していて科学万能だと思ってきました。しかし化学が原爆を発見させ、理性が判断を誤り原発事故を引き起こした事実を確認すると、謙虚になって自分の判断も過ちを犯すことが在るコト。科学を無限に信頼する事は危険である事を再認識する必要があるようです。
時には「鰯の頭も信心次第』と思って、科学や理性一辺倒は止しにしたいと思うものです。

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青楓の愛宕念仏寺(京都旅行記12)

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六波羅の炎天下で地獄絵を見続けると流石に疲れて来ました。そこで次は嵯峨野の奥愛宕念仏寺の五百羅漢を観に行く事にしました。今では有名な愛宕念仏寺ですが。私の学生時代には念仏寺と云えば膨大な数の墓標(五輪塔や地蔵尊)に蝋燭の灯りで供養する情景が人気でした。
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これが化野念仏寺の盆供養の千灯供養写真は京都きものレンタル(https://kyotokimono-rental.com/spot/arashiyama-and-sagano/adashinonenbutsuji.html)から借用
化野念仏寺の辺りは丹後方面からの京都への出入口で中世には再三激戦地となり無数の無縁仏が葬られたのでしょう。愛宕念仏寺は古代に創建されたものの。顧る人も無く荒れ放題廃寺寸前であったのでした。その荒れ果てたお寺に晋山(住職に入るコト)したのが西村公朝さんでした(昭和30年1955年40歳以降の記述も含めて別冊太陽/西村公朝仏の世界から引用)
公朝さんは1915年(大正4年)大阪高槻の生まれ、1935年(昭和10年)には東京芸大彫刻部木彫科に進学します。1941年(昭和16年)には卒業し国宝修理の仕事に就職し33間堂に千体観音の修理に当っていました。
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丸太通りを嵯峨の交差点で右折すればもうじき愛宕念仏寺です。山の上では今晩の山焼き(鳥居型)の準備をしていました。
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これが五山の山焼きの鳥居型です。灯篭流しは広沢の池写真の出典は京都観光情報http://www.the-kyoto.jp/festival/daimonji/愛宕念仏寺はあの鳥居型の左側になります。
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これが愛宕念仏寺の五百羅漢右の庇の見える建物が本堂(重文鎌倉時代厄除け千手観音がご本尊)向こうの中国風の建物は多宝塔でまるで土止めの石垣のように羅漢様が並んでいます。公朝さんの五百羅漢計画はお寺の再興と、仏教思想の浸透、境内の整備、の狙いを見事に達成したと思うのです。
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向こうの建物は本堂(鎌倉時代の和風建物羅漢様の背中には彫った人の名前と月日が刻まれています。作者は現代人ですから自我が強いのです。羅漢と云ってもお顔(ペルソナ)に関心が集中していてまるでモアイ像を観るような気がします。後世の人が観たら「昭和は平和な時代だった」思う事でしょう。
ところが1942年(昭和17年27歳)で召集令状が届き中国戦線に赴任します。従軍中に再三夢を観たそうです「夢の中に何千体もの仏像が現われて”言われたのだそうです、”自分を修理してほしい”
すると公朝さんは”それなら私を無事に日本に帰してください”言われたんだそうです。
その夢のお蔭か中国戦線に3年も居ながら一度も敵軍に遭遇する事も無く1945年(昭和20年/30歳)で”引聴揚げ船の第一便で帰国します。公朝さんは早速に33間堂の仏像修理に就かれました。
1952年(昭和27年37歳で青蓮院で得度しますこの時に公朝と云う法名を戴きます。そして1955年(昭和30年/40歳)で愛宕念仏寺の住職になって1957年42歳で晋山式をあげます。と云っても観光客も来ない檀家も無いお寺ですから生活は困難です。東京芸大の助教授や院展の理事比叡山大学の講師など公職を兼任しなが愛宕念仏寺の再興に腐心します。
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羅漢さんは群像であるいと迫力も説得力も増すような気がします・それでいて個個には個性の際立つ表情です。
楓の巨木の下で幹を守り根を保護するように輪になっていました。もうじき紅葉が散る事でしょう。

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石材が大谷石だから苔も蒸し良い味が出てきます。鈍重な大谷石が五百羅漢には向いているようです。シャガが咲いた時は綺麗だったことでしょう。
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これは多宝塔の主尊のお釈迦様彫ったのは西村公朝師、師の作風が素人のお弟子さんに良い影響を与えていると思います。師の作品だけが彩色を施されていました。
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これは川原に近い羅漢群です。此処の写真は紅葉に埋もれた写真が有名です。
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紅葉を浴びる羅漢様
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羅漢洞の壁には愛宕念仏寺の四季の写真が懸っています。”また別の木瀬にお越し下さい”云われているみたいです。


そして始めたのが『素人を指導して五百羅漢を彫らせ境内に奉納させる事業でした。
私は初日に訪れた善願寺に近い石峯寺(若冲の五百羅漢で有名)を観て思いつかれたのではないかと推測します。
実は17日石峯寺は参拝したのでしたが、私の目には伊藤若冲さんが鑿を振って石仏を刻んだとは思えません。若冲さんは宇治川の川原石ら野に墨で羅漢を描いて実際に刻んだのは石工か素人と思いました。と云うのは花崗岩を一人で500体もの羅漢を刻む事は想像できなかったのです。
公朝さんは栃木県の大谷から石を念仏寺の境内に運ばせました。素人に道具を与えて五百羅漢を彫らせたのです。そして公朝さんは素人を指導します。
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愛宕念仏寺で素人を指導して羅漢様を彫らせる西村公朝師写真出典(別冊太陽西村公朝と仏の世界)
同じころ山を下れば寂聴さんが寂庵にお住いでした。二人の偉人を迎えて嵯峨野は世人の注目を集めていまあした。次々に念仏寺の羅漢は増えて1991年平成3年/76歳)では五百を遥かに超えて千二百羅漢落慶法要を催すほどになりました。
今では化野念仏寺を越えるほどの人気寺院になりました。お蔭で近くの甘味処平野屋は入店も出来ないほどの人気になりました。
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これは嵯峨鳥居本の茶屋の平野屋写真出典京都観光案内http://futurebz.com/kyoto/tag/)
泊まればお散歩出来る距離でした。それがいつの間にか念仏寺と云えば愛宕念仏寺と云う程愛宕念仏寺が人気のスポットになりました。愛宕念仏寺を著名にした仕掛け人がこの旅で最初に参詣した醍醐の善願寺の立木不動明王を彫られた西村公朝師でした。その記事でも照会しましたが芸大に進学された西村公朝さんは戦後昭和22年に復員され33間堂の修復に就かれます。1951年に得度され比叡山で修行され1955年に愛宕念仏寺の住職になられました。愛宕念仏寺で五百羅漢の事業を始められます。
奈良時代に創建された愛宕念仏寺でしたが嵯峨野の中心地からも距離が在って無名の廃寺の観を呈していたのでしょう。せめて化野念仏寺を詣でた人愛宕の寺に貰うには素人の人に5百羅漢を彫って貰うのが良い”思いついたのでした。そこで栃木県から大谷石を買い出し。お寺の境内で西村公朝さんの指導の下に五百羅漢を彫って貰いました。京都の石は堅いので素人には彫るのが困難でしたが大谷石は彫り易いし価格も安い、表情も羅漢には適している特にお寺に自生している楓の樹の美しさを引き立てる…思ったのでしょう。愛宕念仏寺の五百羅漢事業はマスコミでもとりあげられました1970年代嵯峨野には優れた宗教人が二人も居られたのでした。一人が寂聴さんでもう一人が公朝さんでした。お二人とも説法に秀でておられました。公朝さんの五百羅漢は瞬く間に千体羅漢になって現在では何と三千体に及ぶようです。素人の他人が彫った羅漢を観て啓発された人が自分自身で鑿を握ったのでした。紅葉に映える羅漢を観て雪を被った羅漢を観て、更に苔むした羅漢を観ると屹度満足した事でしょう。


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内裏のススキ(京都旅行記13)

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愛宕念仏寺で5百羅漢を満喫して私達は来た道(丸太道)を引き返して内裏に向かいました。今夏から内裏の予約無し一般見学が始まったのです。何か問題が起れば取り止められてしまうかもしれません。チャンスは活かすに限ります。そんな次第で内裏に向かいました。実は昨年も内裏の十翠邸(九条家の邸宅多分カワセミが沢山見られるのでこの名が付いた)を見学しました。その時御苑の駐車場の位置の研究が不足していたので。御苑の砂利道で難儀しました。今回は友人が良く調べて居てくれて御所に一番近い駐車場に留めてくれました。先ず駐車場付属の休憩所で冷たい飲み物で一服して御所に入りました。
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京都御所のパンフレット。流石に左近の桜が満開で右近の橘も青々した写真を使っていました。
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これはパンフレット中の案内図面です弘徽殿とか、建礼門院とか滝口とか古典で馴染みの名前が沢山あって興味尽きません。
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上は御所入口に向かう。御所の外の砂利は小ぶりですが御所内は一段細かいモノの矢張り自然な砂です。縁側や廊下は鶯張り(うぐいすばり)で。安全上の配慮でしょう。


案の定御所は観光客で混雑していました。目算では日本人6割外国人4割でしょうか?パンフレットの配布状況から推定すると外国人の半分は中国人で残りが韓国人西洋人と云ったところでしょう。
入口で持ち物等の検査を受けてパンフレットを貰ったら休憩所です。冷水をペットボトルに入れている外国人が目立ちます。そうじて物価の高い日本ですし、京都は何処に行っても何を観ても有料です。御所が無料で冷水が無料なのは彼等にとっては有難い事なのでしょう。そう気付くと京都博物館でも冷水を汲んでいる外国人が目立っていました。
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手荷物等のチェックを受けてから御所見学が始まります。標準コースも決まっていますし監視員も充分配置されてい斗から、大変な費用を要しての予約なし一般公開です。
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外国人観光客の受け入れも配慮されていました。
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これは入口に設えられた無料休憩所です。此処は冷えて居ますから居心地も良いしDVDの説明も土産物もあります。此処で一服して見学に回ったのでしたがカメラのレンズが汗をかいてしまい。御所の写真はボヤケテしまいました。人が多いのはこれから見学する人も見学を終えた人も居るからです。
私はぼんやり考えました。外国人は御所をどんな思いで観ているのだろうかと?
屹度中国人は御所を観て北京の紫禁城と比べているのだろう思ったりします。
紫禁城は石積みも高いし城壁も堅固です。一方御所は砂利を敷いたり鴬張りの廊下にするなど、堅固とは云えません。一気に襲えば直ぐに占領できそうですし。豪華な装飾巳もありません。紫禁城と紫宸殿を較べれば機能的にも装飾的にも紫禁城が勝っています。ところで紫禁城は蒙古民族が作った王城です。(元にしろ清にしろ中華民族にとっては北荻です。中華民族が自慢するとすれば古都は西安です。何れ中国は西安の威風を復活させるプロジェクトを推進して、『ベトナムもフィリッピンも沖縄も自国の領土だ、』謂いかねません。ヨーロッパ人は屹度思っている事でしょう。「木と土と紙で王城を作ってそれが2千年も存続してきていることは脅威です!」
屹度西洋人は紫禁城は自分達の文化と同質だが紫宸殿は異文化でエキゾチック、東洋的であると評価する事でしょう。
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御所門から南に向かう右側は蔵で左側車寄せがあって清涼殿になります。見学者は順路に従って庭から(」『外から)見学する事になります突き当りの建物は豊楽院でその中間を左折すると紫宸殿前の承明門に出ます。

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承明門から紫宸殿を観る。まるで平安神宮のようです。(平安神宮が御所の一般見学受け入れ等想定していなかったのでしょう)この手前に建礼門があります。
紫宸殿は天皇が政務を司った建物ですその西側に清涼殿が在って天皇は日常は清涼殿で過されます。私達は春輿殿(三種の神器を守る倉庫)の横を通って清涼殿の前庭に出ます。
清涼殿の前庭はまるで町屋の坪庭のように周囲を建物で囲まれています。その味気なさを満たすように左右に竹の植え込みが在ります。天皇の座所から見て左(北)が呉竹で右が漢竹(かわたけ)で、河竹とも書いたそうで雨水が流れる側溝が在ったので河竹と呼んだのだそうです。
この清涼殿と紫宸殿の双方を警護した武士が「滝口の武士」で明治時代の近衛兵の前身で栄誉ある武士だった訳です。此処に控えていた佐藤 義清(さとう のりきよ)が御簾の間から垣間見えた女院/待賢門院(たいけんもんいん/藤原 璋子(ふじわら の しょうし 藤原球湖)の姿に恋をしてから西行が生まれます。
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これが清涼殿前庭の呉竹所謂淡竹です。
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此方は清涼殿前の漢竹(かわたけと読ませていますが河竹ともか書くそうです屋根に降った雨水を流す河が在ったのでこの名を冠したそうで屹度北面の武士佐藤 義清はこの植込みの陰から御簾の中の待賢門院を垣間見たのでしょう(寂聴さんの小説ではこの恋が西行の出家の原因だとしておいでです)
清涼殿の前庭から私達は順路に従って小御所更に御学問所に回ります。その建物の東側は庭が広がっています。所謂池泉回遊式の庭園です。一面松の緑ですが一点だけ朱の百日紅が咲いていました。
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これがお池庭です正面の石橋が欅橋で中島には大きな百日紅が咲いていました。
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お池庭に自生していたススキも穂が伸びていました。ススキを生やすくらいなら桔梗や撫子や女郎花にすれば良いモノを想ったのでした。
私は植え込みの樹木や草花を見渡します花木や松の根元に桔梗や女郎花が咲いていないかしら?秋の風情を探したのですが何にも草花は咲いていません。天皇家の紋は菊と桐ですから。改めて菊と桐を探したのですが見当たりませんでした。若しかしたら皇室の家紋が菊と桐に決まったのは中世以降で古代には家紋と云った概念も文化も無かったのかもしれません。でも庭に不思議な植物を見つけました。その一つが薄でもう一つが臭木です。
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右の建物はお花御殿何の花を愛でるのかと思えばメインツリーは百日紅でその手前には臭木が咲いていましたこの建物の更に東に茶屋風の小屋が在って「聴雪」と案内されてありました。友人と雪の積もる音を聴くなんて雅だなあ!話していると表千家では『時代の最先端であった茶室と古代以来の悠久の歴史を持つ公家様寝殿造りの融合が同居する稀有な空間」であると評価していました。詳細は表千家の次のブログをご覧ください。 http://kizuna-maboroshi.doorblog.jp/archives/21729436.html
薄は風が種を運んだもので臭木は野鳥が糞と一緒に種を落としたものでしょう。どちらも貧乏臭い植物ですから庶民にさえ嫌われています。そんな庶民派植物が御所の庭に育っているのを観ると愉快になりました。何のことは無い御所の庭もマイホームの庭も差別は無いと知りました。お茶室(聴雪)を表千家は(中世)先端の文化と古代の公家文化が融合している事実を稀有と評価する、と云われておいでですが。植物を観ると”来るものは拒まない”と云う事でしょうか?日本文化は強靭で逞しくしなやかに摂取することに在るようです。見学を終えて帰り際に御礼を申し上げ「何時まで一般公開を続けますか?」訊いた処当面止める事は考えて居ないそうです。と云う事は来春には満開の「左近の桜」を拝めそうです。

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京都の町衆の誇り六角堂(京都旅行記14)

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私が大学生になった昭和46年頃立命館大学には林屋辰三郎先生がおられ,学園紛争では学生側の良き理解者で居られました。同先生は「町衆」の研究の第一人者で応仁の乱後の京都の町の復興を果たしたのは、豊臣秀吉でも無く,ましては家康でも無くて、町衆と呼ばれた京都の商工業者で、彼等は『法華信仰宗で結ばれ京都の洛中に法華宗のお寺を築き寺には武器を常備して。町衆の自治(利益と警護)を自分達で行った…。』と説かれました。
まるで”堺やベニスのような自由都市が京都の洛中に在った”、と云う事になります。その町衆の拠点が頂法寺六角堂で、六角の建物は町衆が合議制で運営していた遺跡であると教わりました。しかし、六角堂は比叡山や近江の六角氏や一向宗と反目し、法論でメンツを潰された比叡山の僧兵等によって六角堂は焼失してしまいます。天門11年(1542年/法華一揆)。
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これは祇園祭の山鉾巡幸です応仁の乱後京都の街を復興させた町衆の心意気と文化を今日に伝えています。「写真出典は日本の街道/京の大路・小路)
六角堂は生け花の”池の坊”の発祥の地でもあります。加えて錦市場や本能寺や矢田寺にも近く私は何度も来ていたのに一度もお詣りした事はありませんでした。
江戸時代初頭町衆は光琳や宗達の琳派芸術を産み、歌舞伎や浄瑠璃を育みます。町衆の総合文化ともいうべきものが写真の祇園祭の山鉾であり、南座で催される歌舞伎です。歌舞伎や都踊り等を観る度に「これは京都の町衆の文化だなあ」と思います。町衆のシンボル六角堂に来たかったのでした。
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ビルの谷間にある頂法寺六角堂ですが、ビルのオーナーもお寺のようです。京都のお寺は総じて経営に苦心しているのでしょうがこのお寺は不動産賃貸だけでも充分のようにお見受けしました。六角堂の背後の薄紫のビルに池の坊の活花資料館が在ります。

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これが頂法寺六角堂ですお隣のビルにシースルーのエレベータがあるので乗って写しました。向こう側の瓦屋根が頂法寺の寺務棟で地下が駐車場になっています繁華街ですが意外に足の便は良いのです寺務棟と六角堂の間に小さな六角堂が在りますが太子堂です。
六角堂頂法寺の創建は平安遷都以前といわれます。
聖徳太子が四天王寺を創建する際、用材を求めてこの地を視察された時、お告げによってこの地にお堂を建てたのが始まりとされます。
弘仁2年(822年)嵯峨天皇の勅願所となり、長徳2年(996年)花山法皇の御幸があり、西国三十三所観音霊場の第十八番札所となりました。
建仁元年(1201年)親鸞聖人がここ六角堂で百日間にわたる参籠を行い、95日目に夢のお告げを受けたことが、浄土真宗開宗のきっかけとなったとも言い伝えられています。聖徳太子に法華宗に親鸞聖人日本の仏教の重なりがこの寺に詰まっているので仏前の供花もスムーズだったのでしょう。
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六角堂の内陣を望むポスターの如意輪観音は聖徳太子の霊夢の伝説を伝える秘仏だそうです
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此方は六角堂の主尊の如意輪観音像写真出典はお寺のホームページです。http://www.ikenobo.jp/rokkakudo/
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 境内には泉が湧いていて聖徳太子がその泉で沐浴されたと言い伝えられていて。その池の縁で仏前の供花を始めたので「池坊」と云うのだそうです。16羅漢もお地蔵さんも池の坊発祥の地に花を添えるようです。羅漢さんが籔内佐斗司風なのが気になりました。
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六角堂外陣の賓頭盧びんずるさんはタイ風に金箔が貼られていました。それにしても無造作な貼り方です。


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島原の銭湯(京都旅行記15)

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8月16日は早朝から随分観て廻りました。我ながら”良く歩いたなあ”思いながら左脚の脹脛を揉みました。私達は旅行に出るとその日の最後に温泉や銭湯に入って汗を流すのを習慣にしています。私は島原にある「島原温泉に行こう」提案しました。
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「吉野大夫」は吉川栄治さんの宮本武蔵にも出てくる容姿も教養も秀でた島原の名妓でした。NHKの真田丸にも登場しましたが、島原を代表する花魁の名が吉野大夫で何代も襲名されたと思えば史実の真偽を問題にすることも無いでしょう。図は伊藤深水氏
実は長銀の大阪支店勤務時代。京都の青果市場建設資金を融資した事がありました。地元の有力者から直接に申し込みが在ったのでした。京都の金融機関も力が在るのに態々大阪の長銀に申し込みが在った事に疑問はありましたが、通常通り稟議して無事に市場は完成しました。当時もう少し勉強家で居れば青果市場の計画地が遊郭の島原と鉄道の梅小路操車場の間に在る事に気付いたのでしょうが。当時は全く気づきませんでした。若し気づいて居たら島原の文化を味わえたものを・・・・、今思い返せば、残念です。
で、目的は現在の島原を確認する事でした。
島原の色街の一角は街の空気も周囲の町とは違い様な気がしました。今も「角屋」や「輪違え屋」と云った遊郭は昔の儘の建物を維持していますし。娼婦を物色させる見世(みせ)と呼ばれる格子戸や遊女や無銭客を逃がさないような竹囲いや大木戸が残されています。
私達は島原内のコインパーキングに駐車して先ず街並みを観て歩きました。
先ずは島原の玄関口「大門」に行きました。入口に井戸があってその横に大きな柳の樹が在って用水桶が積み上げられています。
”火事だ!”となれば井戸から水を汲みあげ桶をリレーして皆で消化したのでしょう。この雰囲気は江戸の吉原と同じです。それもそのはず江戸の吉原が遊郭の本家の島原遊郭を真似たのでしたから・・・。
島原の始まりは室町時代足利義満が東洞院通七条下ルに許可した傾城町を言います。桃山時代には秀吉が原三郎左衛門らに許可して傾城町を「二条柳町」を開設したのだそうです。その傾城町が島原と呼ばれるようになったのは江戸時代に公娼街を現在地に移転させようとして移転騒動になり、当時肥後で「島原の乱」が勃発したので移転先公娼街を島原と呼ぶようになりました。(大門の案内)。
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島原大門の案内
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島原大門は吉原大門のお手本です。井戸に天水桶そして大きな柳(見返りの柳)三点セットです。大門の内側には出入りを監視する役人が常駐していました。

島原は元禄時代に最も栄えたが、立地条件が他の遊郭に劣っていた事、また格式の高さが原因となって祇園町や祇園新地紙七件等の遊里にお客が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていった様です。元禄時代には吉野大夫と云った花魁も出現しましたが、総じて廃れていたようです。幕末になって西郷隆盛や久坂玄瑞や新撰組など血気盛んな地方武士が上京すると俄かに島原は歴史の舞台に再登場します。屹度地方から上った武士は下町の雰囲気の濃厚だった島原の雰囲気が肌に在ったのでしょう。
ところで大門の柳です。この柳を「見返りの柳」と呼んでいます。好みの花魁と一晩過ごして翌朝忘れ難くて柳の根元で見返ったのでその名が在るそうです。
きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
私はそんなに悠長というか艶っぽいモノではないと思います。六道珍皇寺の井戸も柳が植わっています。此処島原はお客には極楽でも、遊女にとっては地獄で逃げ出すことも不可能と諦めさせる柳であったのではないかと思いました
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これは今も茶屋としては営業もしている輪違え屋さん、この日は閉じていました。屋号通りの紋が灯篭にデザインされていました。島原の置屋を代表するお店で「置屋」とは太夫や芸妓を抱えて芸を教える教育の場。でした。基本的にはお客さんは迎えません。私はこの輪違屋がマンションや旅館や高齢者施設になるのではなく、「大江戸温泉物語」の向こうを張った「花街のテーマパーク」にしてほしいと思いました。「大江戸温泉物語/島原」を創設したら如何でしょうか?もちろん「売り」は花魁道中に浮世風呂に「耳かき膝枕」です。
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此方は角屋です。角屋は島原を代表する「揚屋」でした。「揚屋」とは現代でいう料亭にあたり、置屋に太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴をしてもらう場所です現在は「おもてなし文化館」見学を受け入れています。文久3年(1863年)には、この松の間で新撰組の芹沢鴨が大宴会を行い、 壬生の八木邸に帰宅後暗殺されるという事件がありました。
駐車場の近くに「島原歌舞練場跡」の石碑が建っていました。良く見れば島原歌舞練場は1873年(明治6年)に建築され1996年(平成8年)に解体され現在は高齢者マンションとして活用されているようです。吉井勇の歌が寂し気でした。
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これが島原の歌舞練場の跡現在は高齢者住宅やデーサービス施設になっています。『宝暦のむかしの夢は見は見つれ夜半の投節(なげぶし)聴くよしもなし 投節なげぶし」とは、島原を発祥をする遊郭での流行歌で都都逸のような節で歌ったもの吉井勇が何かの宴席で歌ったものでしょうが現在同じ場所に立ってみると宝暦の昔を「明治の昔」に差し替えればそのまま佳い歌になりそうです。
一回り島原の旧市街を回るとアッチコッチに「お知らせ看板」が建っていました。花街の建物を壊して新築住宅に変えようとするものです。此処はJR山陰線の新丹波口駅から遠くは無いのです。
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これは花街の揚屋を取り壊して「島原の宿(仮)」に建て替えようとするお知らせ看板。急速に街の表情が変わろうとしていますスプロールさせることなくせめて『おもてなしの街』と云ったコンセプトで合理的な施設に変身してほしいモノです。
それにしても銭湯が多い街です。大きな駐車場をもってアレコレ派手に営業しているのは日帰り入浴施設とか「スーパー銭湯」と云った施設です。私が行こうとしている島原温泉は入浴料430円の所謂銭湯です、スーパー銭湯に較べれば千円は安いし。地域文化が色濃く残っていると期待できます。
島原温泉はネットの口コミではマズマズの評価でした。
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この建物が島原温泉ですサウナは確かに付属していましたし。ラジウムは何処かラジウムを含んだ湯花を溶かしているのでしょう。
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向こうの高い煙突は所謂スーパー銭湯です。島原は銭湯の激戦地でした。斜陽化した花街が一斉に銭湯業に転進した為でしょう。
番台には60歳代の叔母さんが座っていました。私はシャツを脱ぎながらおばさんの視線を背に感じます。思いの他清潔でした。棚には洗面器とシャンプーが置かれています。常連客が多く自前の洗面器やシャンプーを置いているのです。壁には団扇が貼ってあり、朱色で芸子さんの名が印刷されています。
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これは島原温泉の脱衣所ロッカーの右の棚は常連客が置いている風呂道具壁に貼られた団扇はこの銭湯が揚屋だった時代に籍を置いた芸子さんが配ったモノ既に全員が冥途に逝ったそうです。
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私と入れ違いに部活を終えた高校生が入って来ました。暖簾の横の貼り紙は地蔵盆の案内です。
番台の叔母さんに訊けば芸子さんで現役の人は居なく全員冥途だそうです。
お風呂を出て珈琲牛乳を飲んで外に出ようとするとクラブ活動を終えた高校生と擦れ違いました。今時の高校生は部活を終えるとシャワーでは無くて銭湯で汗を流すようです。
爺さん3人が出て高校生がグループで入って来て番台の叔母さんは嬉しそうです。
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銭湯を出て7条通りを東に向かうと、既に夕闇も濃く加えて天気が怪しくなってきました。急速に不安な気持ちに落ち込みます。
ソロソロ暗くなってきました。今晩はラーメンを食べようという事になりました。友人はタブレットを叩いてラーメン屋さんを探します。京都駅近くを探したのでしたが駐車も困難だし満席でラーメンは食べられませんでした。一度宿に戻って傘を持って今晩の五山の送り火を観に大谷高校に向かう事にしました。宿から南に新幹線のガードを潜って、京阪電車の立体を越せば大谷高校の校舎に行けました。


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