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ゲリラ豪雨で送り火が見えなくて(京都旅行記16)

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15日は六波羅で早目にランチしました。夕方にはもう腹ペコです。”晩は京都ラーメンにしよう”相談しました。
その気になると、無性にラーメンが食べたくなるのですから、不思議な食べ物です。「日本人のソールフード」と呼ばれる所以でしょう。
私はこんなことも在ろうと思って京都の人気のラーメン店を事前に調査しておきました。東山東福寺では「大黒」と調べておいたのですが、カーナビにインプット出来ません。それに、既に車は宿近くの駐車場に置いてしまったので。只管歩いて探すほかありません。唯、望みは目的地が大谷高校ですから、高校の周辺には往々にしてラーメン屋が在るものです。京阪電車の跨線橋を渡る頃にはポツポツ雨も降って来ました。私達の前後には家族連れが歩いています。みんな五山の送り火を観に大谷高校に向かっています。
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回の京都旅行の最大の目的は五山の送り火を観る事でした。今朝5条のモーニングサービスで訊いた情報に従って東福寺門前の大谷高校の屋上に向かいました。結果を先に述べるとゲリラ豪雨でずぶ濡れで帰宅送り火は夢のまた夢でした。でも大谷高校の生徒さんのお接待を受けて良い思い出になりました。何時かもう一度トライしたいものです。
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これは京都名所図絵の大文字焼き場所は出町柳の三角州です。当初は此処に行って送り火を観る積りでした。でも此処では大文字焼きこそ観られますが他の山焼きは眺められません其処で洛南にある大谷高校の屋上に行きました。若しも此処に居たらあのゲリラ豪雨で流されていたかもしれません。そう云った意味では運が良かったのでした。画面はBSプレミアム
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これは江戸時代の五山山焼きの説明画面はBSプレミアム。NHKの考証では江戸時代には現在の五山の他に鞍馬に「い」と西大文字と鳥居型のあいだに蛇が在って嵐山小倉山の西側に払子(仏具)があって桂離宮の西側に鈴が在った事になります。集落毎に祖霊を送る山焼きが在ったのでしょうが。集落の絆が緩んで三つは消滅して現在の5つが存続しているようです。八山よりも五山の方が語呂も良いようですし・・・・。大谷高校は東大文字こそ東福寺や泉湧寺の山蔭になってしまいますが他の4つは見渡せる位置になります。
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京阪電車の跨線橋を越えたら直に大谷高校でその先に東福寺駅が在ります。
友人が訊きこんでくれた焼き鳥屋は「一番」と云う名のお店でした。入ってみると人気店らしく数組のグループが談笑会食中でした。私達はカウンターの止まり木に腰掛けてお姉さんと会話を楽しみながらアレコレ注文しました。生ビールのお代わり(私はウーロン茶ですが)をする頃には背後の小上がりで談笑中のグループと仲良くなっていました。
と云ってもグループは私の子供世代でどうも大谷高校の同窓生のようです。”校門でチェックを受けたらどうしよう?”作戦は同窓生とその父親と云う事に変更しました。大谷高校のОBに連れられて高校に向かいました。高校入り口にはジャージ姿の女子高生が笑顔で迎えてくれましたガラス戸には『ようこそ大谷高校へ』と大書されています。玄関も廊下もビニールシートが敷かれていて屋上には二張のテントが張られていました。高校生は屹度空模様が怪しいと思って急遽対策したのでしょう。
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私達が入ったのは東福寺駅前の焼き鳥屋一番。学生がテークアウトし易い様にメニューが並んでいましたまさか学校帰りに此処で一杯やるわけではありません。
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私達はカウンターの止まり木に腰掛けました後ろの小上がりのグループが大谷高校の同窓生で私達を案内してくれました。
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大将一人で若い女性2人の少人数でキビキビ働いていました8時から送り火が始まりますので間に合わなかった御握りはテークアウトしました
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焼き鳥屋「一番」を出ると雨が本降りになっていました。でもこの時は”どうにかなるだろう!通り雨かも知れない”と思っていたのでした。
皆今晩の送り火を観る為に大谷高校の屋上に向かっていまあした。校門でチェックされたら”ОBの家族です”と云う事にしよう腹を括りました。
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大谷高校は屋上を送り火鑑賞の為に開放し、更に幼児を遊ばせるために様々な工夫と受け入れ態勢を準備していました。
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ずぶ濡れのお客さんを世話してゲームを用意して高校生のおもてなしスピリットは最高です。
私はエレベーターで4階に付き添われて屋上に上りました。
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屋上のテントから北を望んでもゲリラ豪雨で何も見えませんでした。

大谷高校の屋上で送り火を眺めていたのですが、ゲリラ豪雨は一向に降り止む気配はありません。件の大谷高校同窓生がスマートフォンでテレビ画面を見せてくれました。鳥居型も西大文字焼きも妙法も船形もももう燃えているようです。私の布製のリハビリ靴はもうグショグショですし、衣服もシャワーを浴びた様にずぶ濡れです。このゲリラ豪雨を浴びて、お昼に逢った丸髷のお嬢さんはデートどころでは無くて『愛はご破算』ではないかと心配です。
家に帰ったらビデオを観る事にしましょう。でもこんな体験は二度と無い事でしょう。
東京のお祭りは総じて雨天順延ですし。今夕の状況なら8時の点火を少し早めれば良かったのに思います。
そう思って翌日滋賀の博物館で訊いてみました。ても、京都の人は「雨天順延とか。空模様を観て開始時間を早めるような事は考えないそうです。神事は暦通りに行うのが常識、暦を軽視する事は神をないがしろにするようなものなのだそうです。
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BSプレミアムの画面から大文字焼きの準備を終えたこの日の光景
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これは鳥居型焼きの本火(護摩木)に火が入った条経。このア後氏子が藁に火を移して点火して廻ります。
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これは大文字焼きの護摩木に沢山の新しい塔婆を添えたものです。大文字焼きは一番長く燃えて居なくてはならないので本火になる護摩木は赤松を用いるそうです。赤松の護摩木は次の写真のように新盆の亡者の塔婆になっていました。
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これは新盆の亡者の塔婆です。素材は赤松の丸太割です。故人は日澄居士という法名からして、日蓮宗の方なのでしょう。


ずぶ濡れになってもどうにかこうにか跨線橋を越えてガードを潜って宿に辿り着きました。
私達にとっては、忘れられない五山の送り火になりました。
観る方も忘れられないのですから催した人の困難は如何許りであったでしょうか?
千年も続ければこんなこともあるでしょう。いずれにしても長く続けてきた京都の人は素晴らしいと思います。江戸時代は八山であったものが現在は五山。人々の絆が弱くなれば五山が三山に減ってしまうかも知れません。。人は一人では生きて行けない。一人より三人、三人より五人多い程人間は逞しくしなやかに生きてゆけるものです。ズット五山の送り火が存続して欲しいモノです。

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究極の和風建築の御上神社(京都旅行記17)

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二泊三日の旅行は瞬く間に終わってしまいます。今日は(8月17日)は旅行も最終日、寂しさも漂う朝です。私が眼を覚ますと友人は既に台所で朝食の準備をしておいてくれました。
手際の良い人で、昨晩焼き鳥屋一番でテークアウトした御握りを茶碗に分けて。お茶を注いで「茶漬け」だそうです。茶漬けにクラッカーにチーズに紅茶が朝食です。これで昨日のようにモーニングサービスの店を探す手間が省けました。宿からは国道1号線を北に向かって東京都ICから名神高速に乗って野洲に向かいます。近江富士の麓にある御上神社銅鐸記念館が今日の最初の目標です。
でも銅鐸記念館の開館時刻まで時間が在ります。そこで昔写真集で観た御神神社を詣でる事にしました。楼門も拝殿も本殿も鎌倉時代の和風建築で。大変に美しいのです。本殿が国宝に他の建物は重文に指定されています。ご神体は近江富士であること神苑が杉の大木で囲まれている事などどこか奈良の三輪山と大神神社を思わせます。でも御神神社は楼門から拝殿本殿の三つの和風建物が一直線に並んだ崇高さは御神神社が勝っている様に観えます。全体に御神神社の方が一回り規模が小さいのですが隅々まで繊細で美しいのです。御神神社には手弱女の美しさが在るので何時かは参詣したいと思っていました。
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柳絮での朝食は冷えた御握りに熱いお茶をかけて、チーズクラッカーと紅茶で済ませました。この手際良さで一日のスタートがスムーズでした。
逢坂山のトンネルを越えれば左車窓に琵琶湖が見えて前方に近江富士のなだらかな山容が見えてきました。野洲川を越えればもうじきに御神神社です。
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これは名神高速の野洲川橋右側の山が近江富士南から見ると一つの山に見えますが琵琶湖側(西)から見ると三つの山に見えますまるで三尊形式です。野洲川の流域は花崗岩が多いためでしょう。採砂プラントが見えます。野洲川は古くは八洲川と云ったのではないかと推測する程中州の多い川でした。
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鳥居を潜って神苑に入ります。楼門(重文)と拝殿(重文)と本殿(国宝)が一直線に並んでいました。
私達が御神神社の鳥居を潜ると、丁度神主さんが拝殿で朝の祝詞を奏上されておいででした。
私達は拝殿で頭を垂れて神苑の静寂をキープいたしました。
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楼門の随身像と真っ白な幣浜木綿の花を想い出させてくれました。
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拝殿では朝の祝詞を奏上されておいででした天井の垂木が綺麗な模様を描いていました
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此方が国宝の本殿です。白砂と白壁と白木の構造物と檜皮葺きの屋根が美しい純和風の建物です。
早速に朝のご挨拶をして幾つか不躾な質問をさせて戴きました。
”美しいい端正なお社で感動しています!少し教えてくださいませんか”
「私は鳥居を潜る時大神神社を思い浮べていました。大神は南面して三輪山に向かって建物が一列ですが此方はお山の西に神社があって、ご神体に向かって一列では無いのですね?
社殿が南面して一列に並んでいる配置は総じて中世以降に観られます。御神神社は養老2年(718年)藤原不比等によって造営されたとものでしたが、現在の社殿は鎌倉時代に建てられたものです。重文発掘調査をしていませんから解りませんが鎌倉時代の再建に際して現在のように御神山の西側に南向き一直線に建てられたのでしょう。南向きと云う事は本殿の棟の上に北極星が見える事になります。
もう一つ教えて下さい。
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ご神体や磐座のある御神山の西側の社殿は位置していました。右が拝殿で左が本殿です。
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これが重文の楼門です。楼門上層に上る階段が無いのが不思議に見えました。お寺の山門には必ず階段が付いていますが・・・・。

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狛犬は股間に蹴鞠のような花飾り(七夕祭りで使った?)を飾っていました。
”楼門には階段が在りません。楼上に上ることは無いのですか?”
神主さんは五月蠅い老人とは思ったでしょうが笑顔で答えて下さいました。
「楼上に降りられるのは神様だけです。人間が楼上に上ることは想定していません。」
神苑の砂は屹度野洲川の川砂でしょう。花崗岩の砂は白くて堅くて清浄そのものです。一面の枯山水です。
観れは蔵が二つあって一つには古風なお神輿が納められています。もう一つの蔵は昔風の納屋で箒や熊手や蓑等の掃除道具が仕舞われていました。箒の先が綺麗に揃っているのを観て父の言葉を想い出しました。
”道具を観れば主が解る(人柄や修行の程度)。父に云わせれば御神神社の人達は出来た人達だという事になります。神社も綺麗だし神社を支える人たちの心も清浄だという事の様です。
帰り際に案内板を観ると盛大に御田植祭りが行われ神社と磐座の間には「義民の墓」も祀られているようです。
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納屋の軒先に仕舞われた掃除道具上手に使われていまあした。これなら付喪神も文句を言わないことでしょう
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御神神社近辺の案内板御田植祭りとズイキ祭が気になります。

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野洲の銅鐸博物館

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御神神社の駐車場には付近の観光案内マップが掲示されていました。
観ればご神体の近江富士には磐座(いわくら)があって、磨崖仏もあるし、麓の田圃では早乙女の御田植祭りや随喜祭りも奉納されているようです。
以前大神神社の御田植祭を拝観した想い出が蘇りました。
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これは奈良の大神神社の御田植祭、早乙女の姿動作に「祈りの原型」を教えられます。田植えは総じて女性がしましたが、大変な重労働でお婆さんに腰曲りが多かったのは田植えの所為でした。
”何時か再び来たいものだ”思いながら今日の主目的銅鐸記念館に向かいました。
銅鐸記念館は近江富士の北側山麓にあるようです。
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何時かは観たいと思っていた野洲の銅鐸記念館のパンフレット。
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銅鐸博物館のパンフレット三つ折り背後の山が近江富士(御神神社のご神体)です。
バイパスを東に折れて田圃の中を走って丘に入ると目指す銅鐸記念館が在りました。記念館建物の南には”銅鐸発見地”の記念石碑が立っていました。
発掘跡の地形を生かして。凹んだところは池や蓮田に高い所には竪穴住居や博物館をレイアウトして在りました。総じてみれば、近江平野の山と田圃が見渡せる丘陵地で大量の銅鐸が発見され、その処に博物館を建てた事が解ります。
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明治時代銅鐸が発見された所の想像絵
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博物館の南にある銅鐸出土地、円墳と云うか土饅頭の中から銅鐸が発見されたようです。
昨年私達は石山寺を詣でました。
石山寺縁起縁起絵巻に依れば『聖武天皇が巨大な弥勒菩薩を鋳造したいと”金が欲しい”と吉野の金峯山寺に祈願されたところ、琵琶湖の東に金が在ると云った霊夢を観られたので、石山寺を瀬田川を見下ろす位置に建てられた・・・・』と説明していました。
でも実際の絵巻では巨大な梵鐘が発見されたので、出土した処に石山寺を建立した事になっています。当時の人は銅鐸なんて知らなかったので梵鐘と思ったのでしょう。
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これが石山寺縁起絵巻です。梵鐘を農民が見つけて僧侶と造営史(石山寺建立を命じられた官吏)に示しています。この絵を見る限りでは聖武天皇の霊夢よりは銅鐸が発見された聖地なので石山寺を建立したと考えるのが自然です。

私達は博物館に入る前に周辺を見学して回りました。
説明に依ればれ銅鐸を最初に発見したのは近隣の農夫(小野田金太郎さん)で明治14年(1881年)14個だったそうです。次に昭和37年(1962年)新幹線工事に際して10個のの銅鐸が追加発見されました。其処で銅鐸の保存展示を目的に(昭和 にこの博物館が設立されました。私達の学生時代は銅鐸の研究が進行中で、ようやく近年大凡の学説も出そろった感が在ります。
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発掘跡地の窪みは池にして一面睡蓮が咲いていました。美しい睡蓮は埋もれた銅鐸みたいだな思いました。
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発掘跡地の小高い所は竪穴式住居が復元されていました。手前はもう花が散って実がなり出した蓮の花、弥生人にとって蓮は種も根茎も食べられるお米以上に貴重な食糧だったのでしょう。
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竪穴住居と高倉 住居の周囲には溝が掘ってあり寺院や内裏の構造と同じでした。柿の木や団栗栗等が植わっていました。
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竪穴住居の内部構造。屋根裏の木組と茅葺きが美しかったです。

いよいよ博物館の中に入りました。
私は以前から銅鐸に抱いていた疑問を学芸員にぶつけて何処を見れば解るか確認してから入りました。
1、銅鐸の製造方法は奈良の大仏の鋳造方法と同じか?又は大仏鋳造の先行技術であったか?
2、銅鐸文化圏と銅鏡文化圏の相剋
3、銅鐸文様の意味。
学芸員は快く展示場所を説明してくれました。
以下上記の疑問について書いてみます。
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銅鐸博物館には発掘品6点の他に複製品も含めて24点全部そろっています。一同に並ぶとまさに壮観でした。
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複製品でも大きくて弩迫力です。銅鐸は舌と呼ばれるパーツが身(ばけつを逆にしたようなモノ】に当って音がするベルのようなモノである事が良く解ります。
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銅鐸がベルだと思えば世界中の文化財にベルは散っています。でも銅鐸が一番美しいと思うのは身贔屓でしょうか?
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複製品の銅鐸が展示された銅鐸コーナーの入り口。三角模様が流水紋(稲作)であり鹿や猪が食料の豊穣を祈願したモノである事を示します。
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銅鐸の製造方法を説明した展示先ず。粘土と藁を混ぜて鋳型を作って表面に模様を線刻します。鋳型を立てて内側鋳型との隙間に銅と錫を溶かして注ぎます(錫は融点が低い)そして鋳型を壊せば銅鐸が出来ています。仏像も同じ手順です。
銅鐸の絵には弱肉強食や農耕賛歌といった祈願を意味しているする解釈が有力です。人物は、弓矢をもつ狩人のほかに、盾と戈をもつ武人、脱穀(だっこく)をする人、ケンカの仲裁をする人、イチ字型工具をもつ人(魚とり)などがいます。銅鐸では女性を三角頭、男性を丸頭で表現しています。鳥は祖先の霊(祖霊)や穀物の霊(穀霊)を招く神聖な動物だったと考えられるそうです。弥生時代のムラからは鳥形の木製品や埴輪が出土しますし、朝鮮半島では村の出入口にソッテという鳥竿(ちょうかん=鳥形木製品を取り付けた竿)を立て、祖霊を祀っています。鹿は列で描かれるもの、背中に矢を負ったシカや大きな角をもつシカと狩人が一対で表現されたものなどがあります。鹿は最も利用価値のある狩の対象物として、また弥生人にとって豊穣を表す象徴だと考えられていたのでしょう。絵が描かれる部分は、銅鐸の鈕、身の横帯や区画内、裾などに多く、特に鈕部分は紋様間の狭い部分に絵をならべるものがあり、身の上面にまで絵を描いた銅鐸もあります。銅鐸の表面を6区分にしているのは袈裟懸け紋と呼び。偶々僧侶の着る法衣と同じような衣装になっているので学術用語で袈裟懸け紋と呼んだのだそうです。
【銅鐸文化圏と銅鏡と銅矛文化圏】
学芸員の説明は以下の通りでした。
弥生時代になって人々の生活が稲作中心になると祭祀が重要になります。人々が共同して働く必要があったからです。共同で生活するシンボルとして銅鐸が在りました。銅鐸を鳴らせて共同作業の合図にしたり皆して豊穣を祈ったからでした。銅鐸が24個も出土したという事は野洲近辺に24の集落が在ったのでしたが。集落が次第に合併し始めるとシンボルの銅鐸も一箇所に集められました。次第に強大な集落が少数出現しました。そのうち少数の強力な部族が出現して、その部族は自身の権力や地位を子孫に継承させたいと思いました。そうなると大きな銅鐸は不必要になり小さな銅鏡で十分になりました。銅鐸から銅鏡に祭祀のシンボルが代わったのでした。
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銅鐸の変遷や地域性を解説する展示マップの中央にあるのが近畿式銅鐸圏で近畿から西日本を席捲しています。一方東海地方にも銅鐸文化圏が在って。「三遠式(さんえんしき)銅鐸」と呼ばれます。近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦紋(そうとうかもん)をつけ、身の区画帯を斜格子紋で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布します。三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、身の横帯には綾杉紋を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布します。これらの銅鐸が複数出土したものをみると野洲市大岩山銅鐸は両者の銅鐸がクロスしています。
私が高校生の頃は次のように教わりました。
銅鐸文化圏は近畿を中心にして、銅矛文化圏は北九州や出雲に多く発掘される。
そこで二つの文化圏が覇を競って近畿の銅鐸文化圏が古墳時代を経て日本国家の統一に成功した。要するに青銅器を武器にした文化圏が青銅器を祭祀にした文化圏に吸収されたのだ・・・・・・。
こんな歴史観は天皇制も是とする歴史観でした。ところが青銅器の出土量が増えて来るとそういった歴史観に疑問が呈せられて来ました。北九州周辺にも銅鐸が出土したし、(国宝の銅鐸は島根の加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から出土しています)近畿からも銅矛が出土しています。
私達は古い歴史観に基づいた歴史教育を受けて育ちました。近年次第にこうした歴史教育が是正されています。今後古墳の発掘が進めば考古学はズット楽しくなることでしょう。

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銅鐸博物館の同和対策展示の素晴らしさ(京都旅行記18

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野洲にある銅鐸博物館の展示を見て私が抱いてきた先史時代の疑問は大半が溶けました。
満足して博物館を出ようとすると展示は3階まであるようです。”3階は会議室かな?”想いながら階段を上りました。最近の博物館美術館はバリアフリーが常識になっていますから、銅鐸博物館は遅れて居ます。でも、3階の踊り場に貼ってあった年表を観て驚きました。同和問題を先史時代から紐解いて素晴らしい説得力があるのです。
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この「部落史年表」に長年疑問に思い続けて来た同和問題が氷のように溶けた想いがしました。右下から古墳時代稲作の普及により貧富の差が生まれる、「八色の姓(やくさのかばね)」によって天皇家の絶対的な地位を固める。平安京に遷都すると「穢れ」の思想が普及し毛皮をなめす人が穢れているというので差別された。
古代末期にになると浮浪民や逃散した人々が京都の鴨川川原に集住して、遺体の埋葬や枯山水『石工』芸能(歌舞伎や白拍子等の遊女)べりに人が集住してを生業にした。そして問題の江戸時代に突入します。

私は人間の「虐めや差別の気持ちは誰にでもある原罪だと思っています。『世界宗教は虐めや差別を否定して人間の尊厳や平等を説くものだ』考えています。
『穢多・非人』と云った差別用語医は仏教に負うている。”仏教は殺生を禁じているのに。殺生を生業にしている人は差別されて当然”と仏教が説いていると思われてきましたし。私達は歴史教育で”江戸時代に封建制の枠組みを強化する目的で故意に『穢多・非人』と云った被差別民を隔離した”と教わりました。でも私はそんな説明に納得していませんでした。もっともっと部落問題は根が深いと思ってきました。
琵琶湖周辺は今でもマスコミを騒がす同和問題が頻発しています。此処は草津トレセンが在るし、昔から被差別民が居て川原で牛馬の解体作業に従事してきたのだ・・・・思いながらパネルを読んでいました。
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応仁の乱による戦死者や疱瘡の大流行で病死者が多くなると。鴨川の川原で遺体を浄めて埋葬しました。こうした人の嫌がる仕事を専門にする人が必要になって川原者が出現しました。川原者は神と人間の中間に位置する者で一面は聖者(巫女)で一面は俗人(遊女)でありました。こうした専門化分業は伝染病の予防の為に必要な社会の自己防衛本能でした。
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地獄草子の墓場の場面。遺体が棄てられています。このままでは伝染病は蔓延するし野犬のリスクも大きくなります。遺体を浄めて埋葬するのが川原者の役割でした。五輪塔が在りますが霊の宿る石を割る石工は神意に逆らう仕事でしたが。墓石作りから枯山水の造園に変わって行きました。

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これは諏訪大社春宮裏の万治の石仏。石は神の降臨する神聖なモノですから石工が石を割ることは憚れました。この巨大な自然石を割って神社の礎石に使用しようとしたところ。石の傷口から血が流れたので。礎石にすることはやめて阿弥陀仏にした、伝説が残されています。この阿弥陀様の正面は杖突峠で。峠の向こうは石工を輩出した高遠になります。石工は神と人間(俗)の中間に居るモノ中世までは白拍子と同じく差別された職業集団でした。
私は大阪や博多に転勤する度に其処の同和問題の根深さや対策に腐心しまあした。原因は同和問題の原因を封建制や仏教に求める事に同意できなかったのでした。
第一考えてみてください、若しも『穢多・非人』が居なかったら。枯山水も歌舞伎も能も現存しないことになります。
京都に出かけて枯山水のお庭が無かったら味気ない事この上ないでしょう。私達は『穢多・非人』の文化を愛し堪能しているのです。
それなのに『穢多・非人』を差別する気持ちが心の底に眠っているのは矛盾しています。
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現在の同和問題を難しくしているのは江戸時代。それも享保の改革の頃の問題です。
私は学生時代丸山真男先生の「日本政治思想史」を勉強しました。
「日本の思想/岩波新書」でも思索の対象は荻生徂徠でした。荻生徂徠は綱吉の治世下で登用されます。
中心蔵の後処理で多くの朱子学者が大石内蔵助以下忠臣の助命を主張しますしかし。徂徠は法律の厳正な施行を主張し、全員を切腹させるべしとして譲りません。朱子学では「修身斉家治国平天下」(大学)を重んじます。個々人が修行して立派な人になれば国家も平穏に修まる」と云った考えでした。荻生徂徠は”個々人も大事だが法律を守らせる事こそ大切だ”主張します。ウェバーの研究者であった丸山先生は徂徠の思考にマキャベリ※を見て評価したのでしょう。※『君主論』を主張した。目的のためには手段を 選ばない、政治思想。
荻生徂徠の治世下で最大の問題は社会の流動化でした。
綱吉の時代に貨幣経済が全国に浸透した結果。武士は農業藩士の役も捨てて江戸や大坂に浪人として流れて来ていました。農家や武士の娘は遊女として売買されました。農民も農地を捨てて都市に移り住み都市は浮浪者が溢れ、混乱して来ていました。
徂徠は社会の流動化の現実を観察して社会の固定化に努めます。
第一は急速な貨幣経済の浸透をストップさせる事。そして武士は城下に農民は農地を耕作させる事でした。歴史の流れには逆らう復古政策で、部落民は部落に固定化させようとします。
1719年(享保4)には弾左衛門由緒書を示し、江戸の浅草に「矢野弾左衛門」を「浅草弾左衛門」とし、江戸の穢多頭(えたがしら)に任じます。穢多頭は非人芸能民、一部の職人、傾城屋等を取り仕切りました。弾左衛門とは頼朝が由比ヶ浜で遺体処理に任じた人でしが。徂徠は頼朝以来の権威を活用して貨幣経済の吹き溜まりを隔離しようとしたのでした。徂徠の発想は貨幣経済の浸透と共に強化されます。1778年(安永7)には「穢多非人風俗御触書」として部落の隔離は強化されます。
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明治維新になって政府は封建制度を解四民平等(1869年明治2年)としますが、「穢多・非人」は新平民として隔離を継続します。元々彼等は農地を所有する事も無かったのでしたから、新たな納税義務や兵役義務の負担が重くなりました。

銅鐸記念館を出る時思いました。古墳時代に始まり江戸時代に強化された部落問題ですから一朝一夕で解決する事は困難なのでしょう。
でも虐めや差別が許される筈は無く虐めや差別する人こそ自らを賤しい人間として貶めているのです。
虐めや差別をなくすためには個々人が相応の自覚をしなければならないのでしょう。
それにしても、銅鐸記念館の部落問題の展示は優秀でした。

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堅田浮見堂の尊さ(京都旅行記19)

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琵琶湖の東岸、近江富士の麓に在る銅鐸記念館を出て、次の目的地は琵琶湖大橋を渡って比叡山の麓にある堅田の浮見堂です。
昨日の夜食べ損ねたラーメンが気になります。道路サイドにはラーメン店が目立ちます。私の食欲をそそったのは「近江チャンポン」「長崎チャンポン」なら馴染んでいますが。近江のチャンポンはどんなお味なのか興味津々でした。
「近江八景」は江戸時代旅行ブームに沸き立つ中で近江の美しい景色を数えたものです。
その筆頭が「堅田の落雁」でしょう。
歌川広重は、堅田の浮御堂と、雁が群れをなして舞い降りる様子を浮世絵に描いて見せたものです。
誰しもが「切手」の絵で見覚えがあるものです。
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これは広重の近江八景の「堅田の落雁」図です。背後の山は比叡山で手前の甍が満月寺や浮見堂でしょう。浮見堂から東を見れば近江富士が眺められて素晴らしいのですが。江戸っ子に比叡山を見せたかったのでこのような湖の上から眺めたアングルを示したのでしょう
『浮見堂は平安時代に比叡山の恵心僧都源信が、湖上安全と衆生済度を祈願し自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで建立したモノです』
恵心僧都源信と云えば「往生要集」の著者で浄土真宗では宗祖親鸞に先行する高僧として尊崇されています。
私は源信の功績を疑う訳でも無いのですがこれほど有名にしたのは蓮如上人であって、蓮如上人の遺徳を偲ぶ「吉崎御坊送り」の所為だと思うのです。
浄土真宗隆盛の理由は先ず親鸞の教義が明快であった事でしょうが、同時に教団として隆盛させたのは”蓮如上人のカリスマ性”だと確信しているのです。
蓮如上人は親鸞上人の直系とは云え第8世でした。蓮如上人は5人もの夫人がおられました。夫人や孫にコマメに手紙を書かれます。その手紙が「お文」で浄土真宗の教義が解り易く身近に説かれているのです。
蓮如上人の布教の成果として難波に石山本願寺が建立されます。京都の本願寺から見れば難波の港に石山本願寺があって琵琶湖の湖岸に堅田本願寺があってどちらも交易の中継地として栄えます。
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これが信長に攻められた時の石山本願寺の図。石山本願寺は木津川の河口にあった要塞の地でこの後が大阪城になりました河口と云う事は港町で古代末期から中世にかけて遊女が集まった街でした。西行法師を諌めたと云われる江口の住んでいた「江口の渡」石山本願寺よりも上流で今里新地(有名な花街)にあります。四天王寺の近隣も悪所の匂いがします。

蓮如は加賀吉崎山に「吉崎御坊」を建立します。吉崎御坊は天然の要塞で、修道院の様なお寺でした。
しかし加賀一向一揆の結果吉崎御坊も焼かれてしまいます。
以降現在まで京都の本願寺から山科本願寺(蓮如上人のお墓が祀られています)を経て、堅田から加賀吉崎まで蓮如上人御影道中が続けられています。
京都の東本願寺から吉崎御坊まで門徒が徒歩で蓮如の御影(ごえい)の入った輿を運び、蓮如の吉崎下向を再現する。行事です。(4月17日に京都を出発し、琵琶湖沿岸の蓮如ゆかりの地を通り、22日に、御坊に到着し、本願寺吉崎両別院で法要が営まれるそうです。)
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これが「海門山満月寺」です。竜宮城を想わせる楼門を潜って真直ぐ北が浮見堂右側に満月寺の堂があります。境内は名勝らしく芭蕉や虚子の句碑が多く立っていました。
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琵琶湖の中に浮いている様に建てられた浮見堂湖の対岸に遠望される近江富士
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浮見堂の勾欄の上から対岸を眺めるブラックバスを釣る舟対岸の山が近江富士です。もうじきあの方角から渡り鳥が湖に遣って来るのでしょう。
堅田の浮見堂が尊いのは創建した源信の所為ですが、現在から振り返れば蓮如上人の功績こそ偉大だと思うのです。
私は親鸞聖人が好きなのは吉川栄治の小説中の稲田御坊での親鸞夫婦の生活に共感を持つものですが、如何にも善人の生活姿勢でした夫婦愛が細やかで必死に田畑を耕す姿勢には悪人の気配は全くありません。悪人正機の説」を実証したのは蓮如上人だと確信するのです。
人は厳しく内省すれば誰しも自分は悪人だと気付くものでしょう。キリスト教の原罪は悪人の自覚に始まっています。近代哲学は「悪人の自覚」から始まりました。ところが日本では中世初頭に「悪人の自覚」が始まっていたのでした。
でも現実に内省をし続けるのは辛い事です。でも「悪所」に行けばすぐわかります。
悪所とは盛り場の事です。”飲む打つ買う”の三悪揃っている場所です。
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これは晴信の西行法師を諌める遊女江口の図。遊女は古代からいました。中世までは遊女は神と人の間を繋ぐ巫女のような存在でした。額田の大君が「朝鮮征伐に出発しよう!」と和歌を唄えば戦勝必死でした。近世になって貨幣経済が浸透すると。遊女の聖なる部分と性の部分が切り離されて性が金銭で売買されました。中世まで重婚が認められていた事近世になって一夫一婦制になった事も花街のセックス産業化した事にも影響しています。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E7%B5%B5%E5%B7%BB%E6%B1%9F%E5%8F%A3&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
”酒を飲む博奕を打つ女を買う”これは古代から現代まで続く悪所の誘惑です。本願寺のある場所は何処も悪所なのです。私の生活圏でも本願寺系の寺は鎌倉の府内には無くて周辺に点在しています。それが何処も昔の花街にあるのです。
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これは浮見堂の内陣中央の黒い御厨子には阿弥陀如来が祀られ長押の上にも須弥壇の上にも千体の阿弥陀様の立像が祀られていました。蓮如上人も此処で一服されて加賀の吉崎御坊に向われたのでしょう。

石山本願寺も京都の本願寺も東京の本願寺も花街に近いのです。
「悪人正機の説」は親鸞の内省に始まったのでしたが。蓮如上人によって遊女や其処に集まる人々(顧客や関係者)の穢れた職業意識を払拭させる思想として発展したのでしょう。琵琶湖の東岸の同和問題を見て来たからこそ”誰しもが穢れている、穢れて居る事を自覚しているモノこそ救われる”教えは尊いと思いました。
そう想うと広重や北斎の落雁の意匠が意味ありげに見えてきました。キリスト教は空に大空に聳えて行きます。それは天国は大空の彼方に在ると信じて来たからでしょう。
一方源信や蓮如の地獄は何時も自分の脚の下に在りました。大空を飛ぶ雁も落下すれば死んで地獄に堕ちます。さあ、次は源信僧都が創建した聖衆来迎寺に行きます。聖衆来迎寺は源信が往生要集を書き地獄の思索を深めたお寺です。
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切手にもなった広重の月に雁の図


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聖衆来迎寺(京都旅行記20)

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堅田の浮御堂に参詣して私達はいよいよ聖衆来迎寺に向かいました。お寺は湖岸東リに面して比叡山の登り口に在りました。源信は元々比叡山の学僧でしたが、大変に熱心な勉強家、日本中国の浄土経を調べて「往生要集」を書き上げます。古代末期に著された往生要集でしたが、大変によく読まれて、我国中世の思想文化に強い影響を残します。
私の今回の京都旅行の第一の目標は地獄絵を見る事で、一番に確認したかったのが京都博物館の地獄絵巻(国宝)でしたが、特別展に展示場所を譲っていて拝観できませんでした。でも六波羅で「熊野心観地獄曼荼羅」を観られました。同図は熊野の比丘尼が布教の為に使った絵解き曼荼羅で、「往生要集」を絵解きした図は聖衆来迎寺に多く所蔵されています。
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聖衆来迎寺の地獄絵図(模写原本国宝鎌倉時代)のうち等活地獄の図八大地獄の一つ炎熱地獄の周りにある小規模の地獄で、地獄に落ちた亡者は生前の悪事に等しい苦しみを受ける。条件は当時の倫理観や仏教の教えに沿っているため、出典は地獄絵(人物往来社)。
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これが聖衆来迎寺の地獄絵の虫干し風景。私は此処で拝観したかったのでしたが。事前調査が不適格でした。残念!
今回は本家本元の地獄絵図をそのお寺で拝観する事が目的だったのでした。
私の事前の調査ではお盆に虫干し展示していることになっているのですが・・・・。
駐車も楽でしたし。境内も閑散としていました。
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これが聖衆来迎寺の参道。比叡山を背にして北向きに琵琶湖に面するように建っています。左の壁に沿って南に向かうと延暦寺に上って行きます。高校で横川の源信と覚えさせられたのは「比叡山の延暦寺の門前の川沿いに住んでいた変わり者の僧」の意味だったのでしょう。
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これは聖衆来迎寺の表門正面が開山堂ですから其処に源信が眠っておいでです。この表門は 明智光秀の坂本城の門を移築したものと伝えられ、重文の指定がされていました。
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右側(西)の建物が本堂で此処の戸が開け放たれて膨大な数の地獄絵の虫干しがされるのだそうです。側面屋根は瓦形銅板葺きで。建物周囲に廻らせた縁側が木造でなく石造とするのも類例が無いモノです。江戸時代重要文化財。
庫裏で確認すると
「昨日8月16日の送り盆で虫干しは終わりました。昨日は境内は大混雑でしたが・・・・・』云われました。
そんな次第で、地獄絵巻はこの寺でもじかには拝観できませんでした。
本堂の戸を開け放って沢山の地獄絵巻を開いて皆が観ている光景をこの目で観たかったのでしたが・・・・。
屹度大津のお婆さんがお孫さんを連れて「人を苛めたり騙したりすると・・・・閻魔様の前で糺されて地獄の鬼さんに責め苦を受けるのよ・・・・」
その時に「あの時は本気で虐めをしたではなかったの、嘘つきも成り行きだったの・・・・」言い訳しても聞いて貰えないの・・・・・」説明して、お孫さんはどんな顔をして地獄絵を観ているのか気になります。
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境内東側塀沿いの石仏塀の後ろは叡山への登り道。
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同じく石仏で中央が阿弥陀三尊右が地蔵で左が観音像です。流石に穴太衆が住んだ坂本です。石工の作が多く見られました
ところで、こんな次第で肝心の地獄絵は拝観しそこなってしまいました。
大津絵考察】
日本の民芸の中で人気のあるのが大津絵です。
何かと縁が深い高島屋の出身地がこの地で在った為か?高島屋では展示企画の種が無くなると大津絵を展示して集客と民芸品ンの売り上げアップを図っています。
先ず大津の地名です。琵琶湖に面した大きな湖があって。北周り海船を大津経由で大阪まで運んだ事情もあったでしょう。でも本当の意味は大津では無くて「逢津」だったのでしょう。京都戸琵琶湖の間に「逢坂山の関」があったように大津は古代から人と人が文化と文化がクロスする港だったでしょう。
その結果出来上がった成果が「大津絵でした。
先ずは大津絵が如何に魅力的であるのか。実例で紹介させていただきます。
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其処で。かねて考えて来た大津絵の説明をさせていただきます。
上の図は、「鬼の寒念仏」です。念仏僧が歩いて来ます。
左手には大きな奉加帳を吊るしています。
僧は”もうじき冬です、食べられない人の為に喜捨をお願いします!云いながら辻辻を回っているのでしょう。首からは鉦を吊るしています。でも僧の顔を良く見れば格好は空也上人のようですが表情は貪欲な鬼のようです。喜捨しても自分のモノにしそうな品性の劣る顔です。そう想って見ていると僧は鬼の顔になっていました。でも、憎めない鬼です。何故なら自分だって正月に食べる餅さえ買えないのですから・・・・、自分自身もいつ鬼になってしまうか?心配なのですから・・・・。
鬼の寒念仏には連歌も添えられています。
 「真なき姿ばかりは墨染の心は鬼に現れにけり」
 「慈悲も無く情けもなくて念仏をとなふる人の姿とやせん」

鬼を、鬼を擬人化しているのではなく、人を鬼に置き換えて描いているから、こんな説得力のある大津絵が出来たのだと思います。有名な徳川家康の肖像画(味方が原で信玄にも負けて焦燥を深めている図)も大津絵の影もう一つ「鬼と柊図」です。
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上の「鬼と柊」もそんな、鬼の登場する諷刺画です。
 鼠がくわえているのは、柊(ひいらぎ)の葉と鰯の頭であり、どちらも邪気・悪霊をはらう効能があると言われています。
屈強な鬼にも弱点はあり、それを突かれれば、鼠が相手でも逃げまどうばかり。
 誰にでも苦手な物はあるということですが、自分を鬼に当てはめるか、それとも鼠にするかは見る人次第です。
鬼が僧衣をまとっている絵で、慈悲ある姿とは裏腹な偽善者を諷刺したものになりますし、自分自身の力は絶大だと自惚れれば、思いもつかなかった弱点もあるものです。
「鬼の住まいは人間の心の内にある」と云う事は、描かれた鬼の角が、佛の教えである三毒(貧欲・瞋恚・愚痴)である、と自覚すれば大津絵を自室に飾って毎日観る気持ちにもなります。
大津絵のエスプリは西鶴の文学になり御伽草子になり、江戸の判じ絵に発展したと思います。
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これは江戸で流行った判じ絵です左は鈴で右の女性は逆立ちしています。だからスズメです。広重はじめ多くの作家が判じ絵を考えました。

聖衆来迎寺の地獄絵は怖い怖い鬼が主役です。でも鬼は何処か憎めない怖いだけでは無いモノに描かれました。その伝統が大津絵の鬼になって風刺絵や判じ絵に発展したと思うのです。


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門前のイケメン(京都旅行記21)

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今朝は冷えたお握り半分を茶漬けにして済ませました。
ソロソロ空腹を感じています。昨晩食べ損ねたラーメンを無性に食べたく思います。
私は車窓を見詰めて湖岸道路に出店しているラーメン屋さんを探します。
友人はタブレットを捜査してインターネットで検索します。
車は聖衆来迎寺を出て、次の目的地義仲寺に向かいます。
車窓には雄琴毎温泉の風俗街が続きます。
古刹の門前には”美味しい豆腐屋がある”よく言われます。
多分お寺自体が良い湧水の地に建立された事と。お坊さんの舌が美味しいお豆腐を育てたのでしょう。
でも、延暦寺の門前は、お豆腐よりも風俗を育んだようです……。何故かな?と思っていると。
”性衆来迎寺”何ていう罰当たりな字が思い浮かびました。
吉原は浅草寺の門前でしたし、相模の大山寺の麓も遊郭が軒を連ねていました。聖は中世のアイテムで性は近世になると「性」に変わって産業化したようです。アベノミクスも経済至上主義で聖よりも性産業を重んじそうな気配です。
皮肉はさておき。車窓には皇子山古墳の標識が見えました。出て来ました。
私はズット大津は「逢津」が変じたのだろう思ってきましたが。若しかしたら大津は「天武天皇の息子大津の皇子」に依っているのかも知れない閃きました。
万葉集で最も好きな歌人です。天武天皇の息子でありながら策謀に嵌って二上山の頂にに眠って居られます。古名であろうと書きましたが。大津の皇子に依っているのでは思い改めました。大津の皇子のお母様が天智天皇の娘天智天皇皇女の大田皇女でしたからこの地に大津の皇子の名が残っても不思議はありません。
いずれにしても皇子山古墳を発掘すれば解る事でしょう。
湖岸道路でラーメン屋さんは中々見つけられません。良さそうな店は反対車線に位置しています。
何時の間にか京阪電車(石山線)の膳所駅前に出てしまいました。もう義仲寺は徒歩圏です。車をパーキングに止めて膳所駅に向かうと。女子高生二人がラーメン店から出て来ました。未だ夏休みクラブ活動でもあって腹を空かせたのでラーメンを食べてこれから帰宅するのでしょう。
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これが京阪膳所駅に近い新感覚のラーメン店「八真道」看板にはヤマトと読めとルビを振って在り加えて”末広がりにラーメンの真の道を追求する”と心構えを開陳していました。食べログには頻繁に出ていますし高田馬場にも出店しているようですhttps://retty.me/area/PRE25/ARE119/SUB11901/100000871976/menu/
暖簾を潜れば元気な挨拶が迎えてくれて。室内はキンキンに冷えていました。
一度はカウンターに座ったのですが、厨房の熱が強すぎて長くは居られません。そこで壁際の席に移らせていただきました。壁に眼をやれば「大津市での麺屋コンテスト」で首席であったといった表彰状が懸っていました。
”新感覚のラーメン屋かと思えば実際のコンテストでも評価されているのか”感心しました。
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私はカウンターに行って従業員に声掛けしてみました。
従業員は体育会系で精悍な風貌の好青年です。
細面で白い歯を観た途端に用意した言葉を替えました。
「表彰状の”麵屋バトル”とは、ラーメンの麺では無くてイケ面のメンの事ですか?」
すると。従業員は笑顔でイケメ面はあったかも知れませんが”一番うまかった”と云った評価であったと思います。真顔で答えてくれました。
熱いラーメンを予測していたのでしたが。でてきたラーメンは若干盛岡の冷麺を想わせる極細)スパゲッティーに擦り護摩とキムチ風の辛みが効いたスープが絡んでいました。
美味しいのですが、胃癌手術後の私の胃袋さんが渋い顔をして居そうです。
良く奥歯で噛んで食べました。友人達は一気に食べ尽くしてしまいました。
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これが私の食べたヤマトラーメン(白)天かすと香味野菜が特徴でした。
「美味しかった、満足句満足」思っているとまた女学生二人組が入って来ました。
従業員は女学生がお得意さんなのでしょう。私達3人組を迎えた時以上の通る声で。
”毎度!いらっしゃいませ!”
セーラー服の女学生は屹度イケ面君と話しやすいカウンターに座るだろう”思っていると奥のトイレの横の席に座りました。
女学生の前の壁には「叡南」と書かれています。
あの席は叡南高校の席なのかな?おもいましたが。
比叡山高校は有名でも叡南高校なんて聞いたことはありません。
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これが店内後ろ姿が従業員の好青年片付けている丼は私達と入れ違いに出て行った女子高生のモノ。向こうのセーラー服の二人連れは私達の後から入って来たもの何故かこの店は女子高生のお気に入りです。
こブログアップに際して「あの女子高生は何処の高校かな?」調べてみたのでしたが解りませんでした。
でも膳所駅に近い高校は大津青陵高校と膳所高校でした。
どちらも県立高校でクラブ活動が活発な評判の良い高校と紹介されていました。
さあ。腹も満たされた。”次は義仲寺を詣でよう!”炎天下に芭蕉や木曾義仲の眠っていられるお寺に向かいました。
一生懸命にラーメンを作ることも大切です。女子高生も美味しいラーメンをお得意にして応援する事は大事な事です。食べ物と作るに際して嘘偽りを行えば糞尿地獄に堕ちます。
女子高生は太っても身体を鍛える事が今大事な事です。「痩せたい」なんて思いちがえて「食べ物を粗末ににすれば餓鬼道に堕ちます。
今回は観損ねましたが、聖衆来迎寺の地獄絵六道絵です。


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芭蕉咲く義仲寺(京都旅行記22)の

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膳所駅前のラーメン屋を出て細道を高島町に向かって100mも歩けば義仲寺です。私の友人は俳句好きが多いのでこのお寺を詣でて居ないと肩身が狭いのでかねて詣でたい思っていました。ようやく詣でられました。数年前木曽福島の興禅寺で木曾義仲親子や巴御前のお墓をお詣りした事がありましたが義仲寺は初めてです。
町屋に並んで義仲寺が建っていました。
民家風の門を潜ると地蔵尊が祀られています。拝観すれば「巴地蔵」と案内されています。
巴御前の名が付いているのに黒いお地蔵さんです。この辺りは白い御影石が多いのに少し不思議です。
暫し考えて思いつきました。この地蔵尊は江戸時代に判官贔屓や芭蕉のお蔭で人々が集まって義仲や巴御前の故郷木曾の石を素材に夫婦の冥福を祈って奉納された地蔵尊なのでしょう。
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高島町に向かう細道に義仲寺は面しています。
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義仲寺に入る手前は百日紅突き当りが翁堂でその手前右に朝日堂(開山堂)が在ります。開山堂の向かいに無名庵と云う貸室が建っています。それが芭蕉の庵幻住庵の後の建物です。
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此方は門横のお堂に祀られていた巴地蔵尊

【巴御前】について
木曾義仲は以仁王の令旨に応じて木曾から兵を起して平家を京都から追い出します。
しかし後白河法皇と不仲になって、義経の追われて宇治に逃げます。宇治川の戦い(寿永3年1184年)
に敗れると川を上って石山寺で戦います(粟津の戦い同年)巴御前は義仲の愛妾でしたが。武勇に優れ義仲を守護する役も任されていたのでしょう。粟津の戦でも敢然として戦ったようでしたが、義仲は武人らしく討ち死にする事を選択します。
残された巴御前は比叡山を目指したかのかもしれません。大津に庵を結び義仲の弔って余生を過ごします。
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楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ)の、巴御前の錦絵1899年、中央が巴御前で巴御前が敵将畠山重忠(右端)を追って二人の武将をなぎ倒した武勇伝を描いています瀬田川を渡っているのが窮地を脱した木曾義仲です。

巴御前の庵は何時しか義仲寺になります。近江の六角氏も義仲寺を支援した様でしたが何時しか荒れ果ててしまったのでしょう。
廃寺のような義仲寺に庵を結んだのが芭蕉でした。
「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄2年(1689年)9月に義仲寺に入ります。
多分、八重葎の生い茂っていた義仲寺の片隅に庵を立てて「幻住庵」と名付けます。此処での日記が幻住庵日記で学校で教わったモノでした。芭蕉が深川に芭蕉庵を営んだ頃は「俳句で日本を席捲する」野望に燃えていたのでしょうが、既に実績も上げ老境に近づいていた芭蕉翁は幻住庵」を拠点に5年弱過して、幻住庵に眠りました。
私達の好きな芭蕉の侘び錆は「大津の幻住庵」で完成したのでした。
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これが木曾義仲の墓。古風な宝篋印塔です。黒いのは白い御影石に黒錆病(樹木の病気)と苔の所為です。
義仲も侘び錆に染まってしまたのでしょうか?
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此方は一見本堂のように位置していますが開山堂です、須弥壇の中央は聖観音像その左右に沢山の厨子が並んでいます。厨子の中には木曾義仲親子や巴御前や俳人の位牌が収まっています。

義仲寺の最深部に建っているお堂は「翁堂」と案内されていました。まるで小倉山の時雨殿(36歌仙が祀られています)のような意図を持った瀟洒な小堂です。何処か大磯の鴫立庵を思わせます。
軒下には最近の俳句が掲げられていました。室内は絵葉書で案内されるばかりでした
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朝日堂から翁堂を観る。青楓が眼に浸みました。
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翁堂の内部四季の草花格天井を飾って長押には俳人の作品と肖像が36歌仙のように懸っています。俳家三十六歌仙というんだそうです。
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此方が芭蕉のお墓この右手に義仲の墓が祀られていました。
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これは巴塚形からしてもこの巨石の下に巴御前が眠って居る筈は無く。後世の人が憐れんで義仲の近くに塚を建てて差し上げたのでしょう。



木曽殿と背中合わせの寒さかな
芭蕉が住んだ幻住庵は今はもうありません。でもその精神を伝えようとしてか境内の東側の小さい建物が在りました。一見するとお茶室のようですが句会にも最適でしょう。玄関には「貸室」です、案内が建っていました。
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これは義仲寺境内の無名庵と云う名の建物。幻住庵と名付けては怖れ多いのでこの名にした貸室で茶会にも句会にも使って下さい、そんな雰囲気です。

幻住庵での芭蕉の作品は土産品販売コーナーに展示されています。
短冊には芭蕉翁の作品が展示されていて「芭蕉真筆」と案内されています。”そんな筈ないのに”思って展示品を観ると解りました。芭蕉の真筆が在って版木になっているのです。
江戸時代の旅行者が短冊に擦られた芭蕉の短冊を買い求めて帰ったのでしょう。
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芭蕉の記念品が揃った記念品販売コーナー手前の短冊式紙は芭蕉真筆と案内されていましたが、江戸時代の版木を使った木版品でした。江戸時代も芭蕉の短冊を欲しい人が多かったのでしょう。


ところでこの大津で芭蕉は89句を吟じているそうです。
白洲正子さんは「近江山河抄」で歩いておいでです。義仲寺のお土産コーナーにも短冊にも有名な句が並んでいます。私はジット見詰めました。
最晩年の芭蕉が此処幻住庵でどのように最期の時を迎えたか解るような気がします。
山路(やまじ)来て 何やらゆかし 菫草
行く春を 近江の人と 惜しみける 
春には友人が集まって来て散る桜を惜しんだことでしょう。酒の肴は舟寿司だったかも知れません
やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声 
”やがて死ぬ”の言葉には東洋的な諦観が覘いてみるようです。蝉の声は撞く撞く法師でしょうか?
木曽の情(じょう) 雪や生(は)えぬく 春の草
芭蕉は「野ざらし紀行」の旅の最後に熱田の法持寺に参詣します。この時桐葉叩瑞と三人で連歌を楽しみます。
その発句が何とはなしに何やら床し菫草(芭蕉)でした。
逢坂山を越える山路で菫を観た時に門人の桐葉が幼い娘を亡(佐代)くした事を想い起し菫の花に童女を観た感じがしたのでした。
屹度門人二人の前で芭蕉翁が述べた事でしょう。
”此処に来る途中の逢坂山の峠道ではもう菫が咲いていたよ。私は佐代ちゃんを想い出したよ。可愛い子だったなあ!”門人二人は頷いて昨春は庭で遊んでいた佐代を思い浮べた事でしょう。
この発句が最後に野ざらし紀行に載った時には
「山路きて何やらゆかし菫草」になったのでした。
考えてみれば大津は「会者定離」を必然とする地でした。
古代には藤原仲麻呂が此処で死に、中世に掛けては木曾義仲が死に、近世初頭には浅井長政、石田三成が戦死しました。大津は「逢津」であると同時に「逢えなくなる港町」だったのでしょう。
芭蕉も老境で既に死を覚悟していたのでしょう。
その覚悟が枯淡な境地に至り「侘び」「錆び」に昇華したものと思います。
でも死を覚悟しただけでは文学となって人の心を打つ事は無いでしょう。
生に裏打ちされ愛情が潜んで居たからこそ、一級の文学となってその後もズット日本の詩となって続いたのでしょう。
子規の門下は志高い人が集まり、高い理想と強い緊張感が漂っていたと思います。
一方芭蕉はそのサロンに沢山の門下を集めて。お互いを愛し激励し合った居た様に思います。
それは前記の芭蕉・桐葉・叩瑞の連化会でも解ります。
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これは門横の芭蕉大きな花が揺れていました。今頃は二度の台風で自慢の葉っぱも切れ切れでしょう。

義仲寺の堂守さんと雑談してお土産を求めて帰る事にしました。求めたのは芭蕉を染めた手拭と句作の手帳です。友人が苦吟の余り汗を拭く様子を想いました。
門を出ようとするともう萩が咲き出してその上には芭蕉の花がコックリコックリ頷いていました
”人間古希を過ぎれば友人こそ大事だぞ”云っている様に思いました。

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羅漢の石峰寺(京都旅行記23)

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義仲寺で今回の旅行も最後にする予定でしたが、一日目に善願寺に西村公朝さんの立木不動明王を拝観して二日目に愛宕念仏寺で五百羅漢を観ました。そうしたら、無性に石峯寺の五百羅漢を観たくなりました。前にも書いたように、先の戦争から帰還した西村公朝さんが、出征中に33間堂の千手観音さんが夢に現われて”早く戦争から戻って治癒して頂戴””それなら、生きて日本に帰して下さい”そんな仏像とのやり取りがあって、戦後愛宕念仏寺に入って同寺の復興に努めた結果素人に百羅漢を彫って貰う事業を思いついたのでした。善願寺に近いのが石峯寺です。そんな次第で”公朝さんは石峯寺の五百羅漢を観て愛宕念仏寺の五百羅漢事業を思いつかれたのでないか?”直感したのでした。自分の直感を確かめる為にも、友人を楽しませたいと思って一日目のコースに戻って石峯寺に回りました。
石峯寺は京都と奈良の中間ですから、何度もその門前を通り過ぎていましたが。近年伊藤若冲が人気になってこの寺も良く紹介されるようになりました。
カーナビに従って石峯寺に着いたのでしたが、其処は大規模な霊園でした。
霊園の並びは伏見稲荷(左奈良方面)と深草(右京都方面)で向かいの山脈は音羽山と醍醐山です。山脈の向こうはもう難波の街になります。斜め前方を見渡せば一日目に盆踊りを楽しませて戴いた東寺さんです。
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これは石峯寺墓地若冲の墓からの眺望。向こうの山は天保山でその下を淀川が流れています。石峯寺からは正面に醍醐山音羽山が遠望できます。お寺の麓は伏見稲荷駅になります。伏見稲荷はカメラの後ろ側になります。
駐車場から民家の間を抜けて楼門の横に出ました。近くにある黄檗宗の本山万福寺を想わす、竜宮城の様な楼門です。
それにしてもお庭は草が茫茫です。昔は東慶寺も草茫々だったな!思いながら拝観を申し出ます。
堂守さんが団扇と虫除け剤を出して”ドチラにされます?”訊かれました。
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石峯寺の境内本堂前庭は高砂百合と風蝶草が自生していて草茫茫です。野草の中に父娘が水彩画の筆を走らせていました。少女の向かいには女郎花後ろには桔梗が咲いていました。
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庫裏の玄関で拝観を受け付けて貰おうとすると「団扇?それともスプレー」と藪蚊対策を聴かれます。受け付けて貰っていると藪蚊に無防備そうなご婦人が上って来ました。
五百羅漢の拝観は藪蚊が多いので団扇を持参するか虫除け剤を塗布して行くように奨めているのでした。
庫裏の前で絵を描いている父娘がいます。もうじき夏休みもお終いです。宿題の仕上げに鞭が入っているのでしょう娘さんは水彩で風蝶草と桔梗を描いています。頭の上では私も描いて!言っている様に女郎花や高砂百合が見下ろしていました。蚊取線香の用意もして居ません。家に帰ったらお父さんはお母さんに叱られるでしょう”日本脳炎になったらどうするの!”日本脳炎はもう古くて今はジカ熱のようですが・・・
未だ小学生ジカ熱は杞憂だな思っているとご婦人が上って来ました。ご婦人こそジカ熱にケアしなければなりません。わたしは丹念に足に虫除け剤をスプレーしました。
高砂百合に迎えられて本堂の裏山に上ります。裏山は孟宗竹の竹林で竹林の中に五百羅漢が配置されているのです。
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高砂百合に迎えられて本堂裏の竹林に向かいます。裏山に五百羅漢が配置されているのです。
クリスマスにl教会に行くと「キリストの一生」が人形や絵で説明されています。絵解きです。
キリストの一生と同じよう「お釈迦様の一生」を石仏を使って表現しているのです。
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五百羅漢を素材にしてお釈迦様の一生を絵解きならぬ像説きしています。最初の場面は釈迦誕生です。手前の観音風の石仏は麻耶夫人と云う事でしょう。
本堂の裏山の最初の場面が「斜か誕生」で修行を経て「大悟」「出山釈迦」そして「説法」最後が「涅槃」でその次に「地蔵群」が在ります。死んだらお終いでは無くお地蔵さんが沢山いるのは、死んだらお終いでは無くまた生まれるので始まりだ・・・、そんな輪廻の思想なのでしょう。五百羅漢石仏群の入り口近くに伊藤若冲の墓」がありました。若冲さんのお墓に手を合わせました。
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釈迦誕生の次にこの三尊石仏が迎えてくれます。興福寺や法隆寺の五重塔には正面に現在仏(釈迦如来)東側に前世(過去)の薬師如来像、西側に彼岸(未来)の阿弥陀如来像、北側に現世の裏(夜)の宝生如来像が、それぞれ四方仏として安置されています。現世は過去と未来の真ん中で輪廻しているのですよ…、まず示されます。
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若きシッタルタ王子が出家を志し王宮を去って修行に打ち込む場面。羅漢は修行に励む釈迦と同じようなバラモンの修行僧を示していると思います。
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これは山を下りて説法をする場面羅漢が沢山集まって来て釈迦の説法に聞き入っています。
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これは釈迦涅槃の場面横たわった釈迦の周囲で羅漢が号泣しています。
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釈迦涅槃の場面の外縁部の団子三兄弟のような石仏。これは羅漢は釈迦の弟子で。三兄弟は一般人の積りなのでしょう。
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釈迦涅槃の次にある地蔵群、強いて説明すれば人間は死んでも再度生まれるその時に導いてくれるのが地蔵で、輪廻から脱する事は出来ないのです・・・。
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お地蔵様の目の先には空蝉が在りました。
私の習い性で若冲さんの戒名を確認しました「斗米庵若冲居士」となっていました。一代をなした画家にしては地味な(質素な)戒名です。でも北斎の墓誌名画狂老人卍」に較べれば常識的です。
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これが若冲さんのお墓です院号居士や院殿居士が多用される現代「庵居士」は午前中の芭蕉そして若冲さんの普段着の戒名が心に響きます。。若冲忌は9月10日です。大きな椿の樹下です

【伊藤若冲の人となり】
若冲は正徳6年(1716年)に京都の錦小路にあった青物問屋「枡源(ますげん))の長男に生まれた。23歳の時]。父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名した。しかし家業よりも絵に関心が集中しまし。
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これは若冲の野菜涅槃図釈迦の位置に大根が横たわっています。家業の青果問屋「枡源」を捩ったモノでしょう。こんな意匠の涅槃図は鰹もあります。野菜にしろ魚にしろ命を頂戴するのですから涅槃を祈らずには口に出来ません。この絵を観ていると親友の得意料理「温野菜」を戴きたくなります。野菜が美味しい季節なのに台風で野菜もさんま食卓から遠のいてしまいました。
光琳が呉服商「雁金屋」の当主であったものの、放埓で無責任な性格もあって家業を潰してまで絵や工芸に夢中になったのに比べて若冲は生真面目な側面が在ったようです。絵が好きなのは若冲も光琳と同じですが、若くして狩野派の門をくぐり勉強します。総じて光琳よりも遥かに真面目なのでした。先祖代々相国寺に親しく若冲の名を授かります。商人よりも絵とか出家に心が向いていたのでしょう。
宝暦5年(1755)に京都は大火に見舞われます。枡源は免許状(錦小路で店子に賃貸する免許)共々焼失してしまいます。枡源は他町の商人との争いに負けて到頭ヒラの商人になってしまいます。若冲と名乗って
若冲は最晩年を、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲します。1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになります。
ですから「斗米庵若冲居士」は戒名と云うよりも「1枚絵を描いて代金はお米一斗(18リットル)」ですよと云った商号なのでしょう。其処で石峯寺に墓を用意し。裏山にゴロゴロ出てきた花崗岩に鑿を立てて五百羅漢を彫らせたのでしょう。
若冲が掘り出された花崗岩に墨で羅漢の下書きをします。後は石工が鑿を使って。完成は若冲が確認します。若冲と妹と石峯寺の住職が共同してお寺の裏山にお釈迦様の一生をテーマパークにしました。この晩年が若冲にとって逆境だったかと云えばその逆で、元来無欲な若冲にとっては貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子で在ったのでしょう。石峯寺での生活は約10年続き1800年84歳で没します。
若冲が最晩年の10年を満たされて送った事実はその作品を見れば解ります。
貧乏を妬んだり不運を嘆いているモノがあんなに楽しい絵をかける筈が在りません。人
生をソロソロ灯の消えかかっている人生を呵々大笑している様に見えます。それは芭蕉の幻住庵にも共通する粋な生き様です。
石仏巡りから戻って来ると私の脛は蚊に食われて惨状でした。
どうも石峯寺に上るには最悪な季節だったようです。
飛んで火に入る夏の虫」という諺はあります。
石峯寺の羅漢巡りは”藪蚊の餌食”になってしまいます。
吸血鬼の雌蚊が美味しい親爺が来た来た腹を空かせて待っています。
何時が良いのか?それは明白です。蚊が寝てしまった晩秋紅葉の季節です。


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払子の役割

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私の生家には大きな寒山拾得(かんざん じっとく)の掛け軸が懸っていました。本堂の脇の小部屋で薄気味悪い部屋でした。この掛軸が寒山拾得と云う名の寒山寺に住む隠者である、と承知したのは大学生になってからで小さい時には怖くてなりませんでした。髭が生え放題で手足の爪が長く伸びて薄気味悪い笑いを浮かべていました。
安達ケ原の鬼婆の爺さん二人連れのような印象でした。二人の隠者の背景は深山幽谷でススキが茂っていました。ススキの根元から変なモノが顔を出していました。蛇か「ツチノコ」かと云った奇妙な物体がススキの下部から隠者の脚下に伸びていました。それが払子と云う仏具で人間の欲望や煩悩を払う道具である事は父から教わりました。
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これが寒山拾得図です。禅寺には必ずと言っていいほど一幅の掛け軸が在るものです。富岡鉄斎や白隠も好んで描いています
8月に江戸東京博物館に「妖怪展」を観にゆきました。有名な大徳寺真珠庵の百鬼夜行図に払子の妖怪が描かれていました。
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これが真珠庵の百鬼夜行絵巻鬼が古寺の葛篭の蓋をあけると葛篭の中から怖ろしい化け物が出てきます。まるで舌切り雀の貪欲婆さんが葛篭を開けた時のように「日本版のパンドラの箱/福島原発」です。上の図の中で枇杷の妖怪の後ろが靴の妖怪でその後ろにある塵祓いみたいなのが払子です
今回の旅行では払子を随分観ました。
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これは六波羅蜜寺の髷掛け地蔵尊左手に真っ黒な黒髪で出来た払子を持っておいでで右手は普通の錫杖を握っておいででした。お寺の説明では場所的にも遊女が地蔵に自らの美貌を祈願したモノとして居ましたが黒髪とか払子と云うのは後世の人の戯れで平安時代末期に作られた時は別のモノを握っておいでだったのでしょう。
先ずは六波羅密寺の「髷掛け地蔵尊」でした。お地蔵様が女性の黒髪を握っているのです。お寺の説明では女性の黒髪であるとして居ました。お寺では「阿小屋塚/清盛が愛した白拍子」もあるし・・・と云い黒髪に拘っておいででした。
欲望や煩悩を払う仏具に女性の黒髪を使ったのでは、私のような小人は煩悩の炎が一層燃え盛ってしまいそうです。
京都旅行の最後に上った石峯寺では藪蚊の餌食になってしまいました。払子は藪蚊を払う為の道具でもある、父に云われました。”座禅の時蚊に食われたら掌で叩いてはならない。殺さずに払えばよい”そうか払子は使い道が広いのだな思いました今頃地下で父は笑いながらこのブログを読んでいることでしょう。ところで、施餓鬼法要で”あなたは先代住職に似て来ましたね”言われました。
”父に似て来た”評価を喜んでいいのか悲しむべきか少し微妙なのが私の悲しい現実ですが秋のセミナーの準備で東大寺を再建した重源を確認して。比較する意味で西大寺を再建した叡尊を確認しました。重源像は快慶・運慶の作ですから当代最高の肖像彫刻です。叡尊像は重源像には及ばないものの善慶の作ですから高僧の面影を上手に写しているようです。時に元寇で国難に揺れていたのでしたが元の兵士の命も心使いしたと云います。西大寺をはじめ般若寺等も再建したのですから重源のように派手さは無くても高潔な人物だったのでしょう。
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此方は西大寺を再建した叡尊上人左手にしているのが払子。充分に払子の効いた高潔な高僧だったのでしょう。西大寺で拝観した時には眉毛が村山首相のようで親しみを覚えました。

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壇林皇后への憧れ

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京都旅行で六波羅の六波羅密寺で阿小屋塚に手を合わせてお隣の西教寺を詣でました。
白拍子阿小屋の塚は清盛塚の隣に並んでいました。私達は民法に従っていますから、清盛のお隣の墓は平時子であろうと思っています。清盛は余程白拍子が好きで祇王、阿古屋と数えたら何人になるのか解りかねます。義経の正妻は郷御前であり平泉で隣併せに眠っておいでですから心安らかでしょう。一方時子さんは菩提寺の正妻の座を白拍子に奪われて心安らかでな無い事でしょう。清盛や義経が生きた時代は未だ平安時代の自由恋愛に時代空気が流れていたので、当事者はそのお墓の横が愛妾が眠っていても正妻が眠っていても良かったのでしょう。社会学は私達が常識と思って居る事もリセットして考えなくてはなりません。屹度黄泉の清盛も義経も”自分お生きた時代は良かった”思っていることでしょう。まして後白河法皇は愛人が多すぎて子供も多すぎて正妻のお墓は未だしも名前さえ歴史に残っていません。一番に気の毒なのは後白河法皇の正妻さんでしょう。でもそうした”自由恋愛の社会でなければ、西行も生まれなかったし和歌も育た無かった”と思えば『不倫は文化だ』と噓吹くのも強ち否定出来ません。
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六波羅密寺は清盛の屋敷跡に後白河法皇の承認の下で空也上人によって建てられたお寺です。
右側が阿小屋塚で奥が清盛塚です。何で時子(正妻/二位尼(にいのあま)でないのか?思うのは現代人の常識に嵌っているからです。
そんな事を考えながら”眠ろう”と横になっているとふと思いつきました。
阿小屋の名は真珠の潜む阿古屋貝に依るモノでしょう。
白拍子阿小屋が真珠のように美しかったから・・・・・。直ぐに思いつきました。
序、お墓の穴掘りをする時に阿古屋貝を使ったのではないか?と思いつきました。
それは縄文時代の貝塚からの発想です。
六波羅の川原で平家の公達の骨を埋めます。鴨川の川原でしたから墓穴堀も重労働です。
平家の公達に愛された白拍子も川原で墓穴を掘った事でしょう。その時の道具に阿小屋貝を使ってシャベルのように砂を掘ったのではないか?阿古屋貝なら砂地を掘り易いし、再生しそうな期待が持てます。
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地獄草子の絵。亡者は喉が渇くので川原に集まって来ます。川原は亡者の水飲み場であると同時に遺体を埋めた処です。遺体を埋めたお墓は初めのうちは土饅頭ですが49日も経つと土饅頭は凹んできます。その頃には故人の想い出も消えるし関係者も減って来ます。そこで土饅頭の代わりに五輪塔などのモニュメントを建てます。そして塚から墓になるのです。(国立博物館の地獄草子)
ところで六波羅密寺の北隣が西福寺でした。西福寺では壇林皇后の9相図が懸っていました。
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これが西福寺の壇林皇后9相図、左上から名門橘家の家に生まれて延暦5年(786年)嵯峨天皇の后になる815年(弘仁6)。中段左から嘉祥3年(850年)崩御。 享年65。自分の体は何れ腐敗して骨になって散ってしまうので嵯峨の野山に晒して欲しい、説いたそうです。諸行無常を自らの体を以って示したので嵯峨野には祇王や待賢門院璋子が隠棲したものと考えます。
美人で聡明な壇林皇后が深窓に産まれて嵯峨天皇に見染められて皇后に推挙されて栄華を極めます。
皇后の叔父橘奈良麿です。奈良麿は橘諸兄です。諸兄の母は橘夫人ですから、光明皇后とは縁戚(叔母)の関係になります。
今読んでいる白州正子さんの「十一面観音古寺巡礼」では”法華寺の十一面観音が世上言い伝えられている様に光明皇后生き写しでは無くて壇林皇后生き写しではないのか?”推測しておいでです?
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これは法隆寺の橘夫人念持仏(阿弥陀三尊)藤原三千代が祈られた仏で、光明皇后が橘諸兄の不幸を観て法隆寺に奉納されたと云われています。橘夫人/藤原不比等に嫁し光明皇后を産まれた。藤原氏の繁栄と橘氏の没落を目の当りにされた気の毒な方でした。
橘 嘉智子は木津川の河口の橘家で生まれました。美貌で聡明な娘でした。橘一族の思惑もあって、嵯峨天皇が橘の館で幼い 嘉智子を見染めます。 嘉智子は内裏に入ります。沢山の麗人が競い合う中で、 嘉智子は皇后に推挙されます。屹度嵯峨天皇に一番に愛された上に、皇后候補の中で誰からも敬愛されたのでしょう。
法華寺十一面観音は一般に次のように言い伝えられています。
「天竺のガンダーラの王様が”生き身の観音様を拝みたい”と念じたところ”夢に東国の大日本国の聖武と云う王様の御后が生き仏である”。そこで、仏師を日本に派遣して光明皇后をモデルに三体の観音像を彫り、二体を持ち帰りました。残された一体が現在の法華寺の本尊であると・・・・。
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これが法華寺の本尊11面観音像一般に光明皇后生き写しと云われていますが、白州正子さんはモデルは壇林皇后と主張されています。素材は栢(壇木)ですし典型的な貞観仏ですから、白州さんの主張が妥当だと思います。
会津八一も亀井勝一郎もその言い伝えを信じました。でも白州正子さんは女性らしい直感と、たくさんの11面観音を拝んで廻った眼を根拠に法華寺11面観音は光明皇后より壇林皇后をモデルにしたのではないかと推論されます。それは。橘 嘉智子が育ったのが木津川の畔で、法華寺が保津川の畔であること。不思議に長い右手で着物の裾を持ち上げて水面を此方に歩いて来られるような仕草が、光明皇后より壇林皇后に似ていると云われます。
壇林皇后のお墓は嵯峨天皇の別荘地大覚寺の大池を挟んで大覚寺の向かいの愛宕山の山麓にあると睨んで歩き回っておいででした。
そして壇林寺に入り憮然とされます。壇林寺と称しているお寺は祇王寺の門前に在って。骨董品を並べて”これは壇林皇后の○▽」と適当な説明をしているというのです。私も学生時代そのお寺に入りましたが。街の古道具屋の始めた詐欺商法であると確信しました。
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此方は湖北石動寺の11面観音像白州正子さんは先の法華寺観音像と併せてこの像を美しいと評価されておいでです。

ところで十一面観音と云えば長谷寺のご本尊です。
白州さんは「11面観音巡礼」で次のように推測しておいでです。
『その樟の巨材は琵琶湖の周囲の森で自生していたものが嵐で湖に流されて、瀬田川から宇治川淀川を経て当麻寺に運ばれ徳道上人に認められ11面観音の素材になった。』
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これは日吉神社の11面観音白州さんはこの美しい観音を白山比瑪と直感して神が11面観音に変化(変化)したと思われました(写真出典白州さん著11面観音巡礼)
そう想うと石道寺の11面観音も長谷観音も同じ故郷の生まれで。長谷観音が法華寺11面観音に影響し、法華寺11面観音が石道寺11面観音に似ているのは自然な事になります。
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これは吉野水分神社の玉依比瑪像。この美しい姫像に11面の変化をつければ11面観音になります。白州さんの主張が歴史的事実と一致しているか?否かの議論は別にして感覚的、民俗的には生身の女性が先ず居て。その変化形に11面観音を考えた方が素直です。
白州さんは観音と云えば仏教の信仰対象ですが、仏教以前の自然信仰(白山の白山比瑪や吉野の玉依姫命(たまよりひめのみこと)等は日本に元々おられた神々が11面観音と云った変化(へんげ」したものであると結論付けておいでです。次のような美しい神々の像を見ていると神仏習合とか本地垂迹説等は仏教が主で神像は仏像の変化形と教わりましたが、本来は神像でその変化形が11面観音と云う事になります。
もうじき今年も紅葉の季節になります。神像も11面観音も白木や胡粉が目立ちます。白い胡粉は舞妓さんの白い肌を思わせますし。白い肌に似合うのは古代も現代も錦です。
今年は青楓を満喫しました。ソロソロ紅葉と11面観音を巡る旅行プランを立てる事にしましょう。



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お団子の数

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私はリハビリも進んだし。介護保険料も2割負担に倍増したのを機会にデーサービスに出かけるのも2/周から1/-週の金曜日に決めて居ます。9月9日は5節句の一つ重陽の節句でした。私はデーサービスに歩いて行く途中も壇林皇后の事を考えていました。
重陽の節句は菊の節句とも言います。菊と云えば大覚寺の嵯峨菊が有名です。
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嵯峨菊は多くの日本人に愛されて、大覚寺のみならず三溪園の菊花展でも目立ちます。この背丈の長い風情が壇林皇后を思わせます。
大覚寺は元々嵯峨天皇の離宮でした。インテリの天皇は洞庭湖を模して大池を掘り、離宮から眺めたのでしょう。
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大覚寺の月見台この広い縁台に出て嵯峨天皇はお月見をされたのでしょう。明日9月15日は中秋の名月。此処にお月見団子(京都では藷団子)を奉げて、池には舟を浮かべます。お傍にはかぐや姫のような壇林皇后が添われていたのでしょう。

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大覚寺の月見台から観た大池。この景色は洞庭湖で桂離宮の月見台もこれを模した築庭です。

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大池の弁天島から大覚寺の月見台を観た景色向かいが洞庭湖を模した堤で向かいの山が嵐山になります。百人一首の小倉山は大覚寺の甍の西です。この蓮池の手前右に小島が在って菊島と呼ばれています。菊島は嵯峨菊が自生していたからです。大覚寺は教育熱心で向かいの集落の中に(学校京都嵯峨芸術大学 京都嵯峨芸術大学)を経営しておいでです。
今も大覚寺の縁側からは愛宕山の上に出る月が眺められますし池の中には小島が在ります。島の名前は菊島です。屹度嵯峨菊が自生していたのでしょう。
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大覚寺の東、西大文字山の谷から流れ出した谷川(清滝川)は大池の水も合流させ、有栖川になります。昨年の地蔵盆の頃此処を散策しました。この道をズット行くと愛宕念仏寺の門前に辿れると思います。
嵯峨菊は花を見るというより全体の姿を観るモノだと思います。背丈が長く高貴な姿はまるで壇林皇后の立ち姿のようです。昨日書いたように法華寺11面観音が壇林皇后をモデルにしたのならば(白州正子さんの説)、嵯峨天皇は長身で立ち姿が美しかった皇后を嵯峨菊に観て居られたのでしょう。
昨年友人と大覚寺に上って大池の蓮を観て廻りました。大池の水は有栖川となって流れだし桂川に合流します。あの時は岸辺の百日紅の花を浮かべて流れていました。小川の澱みに花筏を浮かべて流れる様は嵯峨菊の様でした私は暫し有栖川を見ていたのでしたが、その先にが壇林皇后の陵が在るのでしょう。そして次の歌を想い出しました。
    みかの原 わきて流るる 泉川(いづみがは)いつ見きとてか 恋しかるらむ (中納言兼輔)
現代文にすれば大凡次のような事でしょう。
”みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか?
みかのはらとは木津川の源流で笠置の辺りです。磨崖仏が在って長谷寺のように美しい桜の名所です来春は何時もの仲間と行こうと相談しています。
ところで泉川を有栖川だと思えば嵯峨天皇の御製のように想えます。嵯峨天皇は坂上田村麻呂を蝦夷に派遣して日本を統一した文武に秀でた天皇でした。その業績も壇林皇后の内助の功でしょう。

ところで、今日のテーマはお団子でした・・・・。9月9日重陽の節句に際して私は皆にクイズを出しました。五節句のクイズでした。9月9日は一番大事な節句で菊の花を飾ります。3月3日は桃の節句ですから桃の花を5月月5日は端午の節句で菖蒲を飾ります。では1月1日と7月7日は何を飾るでしょうか?スマートフォンを叩いたり考えこんだりして答えが出されました1月は松だ椿だ水仙だ、7月は柳、アヤメ等回答が在りましたが正解は1月は松で7月は笹です。飾りは神仏に奉げたモノですから花は無くても松や笹が飾られたのです。私は奇数月のぞろ目にになる奇数日だと解説しました。その日のお八に「御手洗団子」が出されました。
何時もは物知りのお婆ちゃんがクイズを出しました。
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十五夜はお月見にお月様のお供えするお団子が欠かせません。写真はNHKの「美の壺」です。
”もうじき十五夜です。十五夜のお団子は幾つでしょうか?”
お婆ちゃんは”十五夜団子は10個だ”回答しました。
私の先の説明では神仏に奉げるモノは奇数を良しとする原則に反しています。
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これがお月見団子です。観ての通り第1段は3個ずつ3列に積みます。第2段は2個ずつ2列3段は1個を2列です。9+4+2=15個です。なお第一段を横2個並べると仏事になってしまいます。流石に写真のお団子は真ん丸でなくて少し歪んで出来ています。お月見でも真正の満月では無くて16夜とか13夜のように満月の前後が喜ばれます。


昔の私なら”間違いです。十五夜のお団子は15です”即座に訂正するのですが。もう私も齢ですから他人の間違いも指摘する事を憚る余裕が出来て来ました。そこで、私は黙して、”果たしてお団子は本当に奇数だろうか?”
考えてみました。先ずは正月の団子と云えば鏡餅です。鏡餅は重ねた姿で1個と考えます。正面から見れば一つの瓢箪です。
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東京ではお団子は3個です。団子三兄弟は東京の感覚で関西では5個になります。追分団子など殆ど3個です。小さい団子5個よりも少し大きめの団子3個の方が江戸っ子の感覚に合ったので。京都から関東に広まる途中で3個になったのでしょう。中山道の何処が三個と4個との境であったか興味がありますが私の感覚では中津川のお団子は3個で胡桃垂れが香ばしいのですが郡上八幡は5個です。お団子も関ヶ原辺りが境になっているのでしょう。
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此方は馬籠宿のお団子味噌だれに胡桃の香ばしさが載って最高です。旅人には上品さよりも腹持ちや栄養価が尊重されたのでしょう。
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此方が京都の下賀茂神社の元祖御手洗団子(みたらしだんご」写真のように5体の中頭部を少し離すのは人形だからでしょう。
次は3で団子3兄弟です。次は5で御手洗団子(京都賀茂神社)は5つです。
初盆で仏壇に奉げるお団子はこの夏京都で幾度も観ました。6個でした。お通夜で故人の枕に供える枕団子も6個です。6個は偶数ですが縁起が悪いので偶数なのでしょう。
私が子供の頃納棺し忘れた枕団子が本堂の前机の上にあって我慢できずに摘み喰いして祖母にこっぴどく叱られた事がありました。
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京都のお月見団子は上新粉では無くて里芋の小芋を使います。丁度お芋が美味しい季節になる事と小芋が沢山出来る様に子沢山に恵まれる様お月様にお祈りしたからでしょう。此処にも伝統や形式が重んじられています。実益を優先した関東とは違います。写真はNHKの「美の壺」
枕団子は亡くなった人があの世までの旅で食べるお団子だからお前が食べたら故人に恨まれるよ。子供の頃は何時も腹を空かせていて本尊に奉げられた供物は貴重なお八でした。
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これは施餓鬼棚のお供え物お寺に育つと御霊前や御仏前の供え物はお八に食べるのが楽しみでした。私が小さい時枕団子に手が伸びてしまい何時も優しい祖母に叱られたのでした。

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三つの大仏様

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良く友人と話題にすることに”三つの大仏様。どれが好き?”が在ります。
昨晩の深夜ラジオ「宅急便」で金華山(宮城)の話があって、”行基菩薩が東大寺の東大寺大勧進職となった途端に金が発掘された事から大仏を開眼出来た、金が出た処を金華山と名付けました”

第一の大仏様は聖武天皇が発願され行基菩薩が苦労されて実現した天平勝宝1年(749年)天平の大仏様です。第二の大仏様は天平の大仏様が治承4年(1180年)平重衡の兵火によって焼け落ちると、後白河法皇の命令によって重源が勧進職になって開眼したモノでした。この時の金は平泉の藤原秀衡が寄進しました。その説得に命を賭して出かけたのが西行法師でした。

第三の大仏様は、第二の大仏様が近世初頭永禄10年(1567)松永久秀軍によって放火されて焼け落ちました。

徳川綱吉が命じて元禄5年(1692)公慶(東大寺)が勧進職になって開眼しました。

古代中世近世の各時代の黎明期に大仏は開眼しその時代の社会文化の幕を開けた事になります。
三つあった大仏のどれが好きか訊く事は古代中世近世どの時代が好きかと同じことになります。
私の仲間は総じて中世の大仏様(第二の大仏)を拝みたいと云います。
そんな次第で今日はラジオに啓発されて三つの大仏を素材に仏像と社会・文化を考えてみたいと思います。
私達世代の受けた歴史教育は「明治の皇国史観」に依っています。。考える際には一度総ての常識や教育成果を無にしてリセットして、自分の観て来たもの立証出来るモノだけを集めて合理的な回折をしてみます。
【天平の大仏様】

天平の大仏様は残っていません。東大寺の記録では「美濃国の金丸と云う鋳物師(仏師)が鋳造したとだけ記されています。金を出土した処が金華山で鋳物師の故郷が美濃(岐阜城のある山が金華山)である事は何となく意味ありげです。

聖武天皇は大仏を日本国家のシンボルにしようとしました。未だ中央の豪族が覇を競い地方には隼人や熊襲が従わない時代です。大和朝廷の権威を昂揚し従わない豪族や地方を納得させる仏像を見せて統一国家強いては大和朝廷にに従わせる目的が在りました。その前の時代の豪族(氏)の拮抗していた時代を越える国家を日本中に示すには神仏中で最高の仏(廬舎那仏)を示し。大仏の背後に居る朝廷に服従させる目的が在ったのでした。では大仏のお姿は?と云えば、そんな聖武天皇の考えを端的に示す仏像を造らせたと考えます。

仏像のヒントは大仏の蓮弁に残された線刻の大仏様や東大寺に残された灯篭等に残されています。そして大仏開眼の頃に出来た仏像も参考になります。例えば木津川の岸辺にある蟹満寺です。蟹満寺には釈迦如来像が残されています。私達はこうした文化財を材料に聖武帝と光明皇后が心血を注がれた第一の大仏を瞼に思い浮べる事が出来るのです。
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此方は唐招提寺の廬舎那仏脱乾漆 作りですが仏像雄大で爽やかな表情は印象的です。特に後背の懸仏1000体を従える姿は日本国家統一を目指す志を示していると思います。
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此方は木津町の蟹満寺の釈迦如来像です。私はこの像を天平の大仏のモデルと思って拝します。木津川の上流は笠置で桜と磨崖仏の名所です。来春観に行こうと考えています。
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此方は大仏様の蓮弁に残された線刻仏一見して薬師寺の薬師如来を想わせる丸顔でおおらかな仏像です。屹度天平の大仏様はこんな丸顔でおおらかなお姿だったのでしょう。もう10年も前ですが先輩のご手配を得てこの線刻仏を大仏様のお膝元に上って拝した事がありました、貴重な体験でした。


次は、第二の大仏です。大和朝廷の統一を終えて国は各地の豪族と貴族が武力を持って荘園を経営していました。統一国家は綻び、武力を背景にした地方豪族が割拠します。統一国家は氏や家に分散します。仏教も国家を鎮護する者から各家や氏を守るモノに変質します。保元平治の乱を経て理念に依る政治よりも武力や知力や意志力が勝る事を体験するとともに、個人個人の自覚が前面に出ます。今様の「♪遊びをせん とや生まれけむ〜」が時代空気を良く現しています。重源が勧進職に就いて造った大仏様もそんな時代の社会や文化を反映します。
時代を代表した運慶の率いる慶派は天平の仏像を模範にします。その上で個人を尊重して「人間の理想像を仏像に追い求めます。眼には水晶を使って玉眼と云った技法を開発しますし。仏像の体内に臓器を入れたり釈迦が本来人間であった事から。自分自身も釈迦のようになって家や社会を救済したいと考えます。
「人間の理想像を大仏に投影しようとしたのでした。
ところで、運慶が中心になって造った第二の大仏様はどんなだったでしょうか?
想像するには運慶の仏像を観る事です。
運慶が大仏を作った直後に彫った仏像が興福寺南円堂の弥勒如来です。
無着世親像を従えた弥勒如来は理想的な人間像だったのでしょう。
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これが興福寺南円堂の弥勒如来。この40倍の大きさで金銅仏が第二の大仏だと思います。写真出典JR東海)
運慶は中金堂の地下から出てきた山田寺の仏頭も観て居たでしょうから。仏頭も参考にされたでしょう。童顔化青年を想わせる仏頭よりも壮年のお顔にしたと思います。
何よりも印象的なのはその従者が運慶の代表作と云われる無着世親像である事です。人間味の濃い無着世親の上に在るのが弥勒如来です。
私達は20年前先輩のご手配を得て重源像を拝みました。
大仏殿をそして大仏を再現した苦労が深い皴になって刻まれた上人のお顔とお数珠を握りしめて祈る姿に仏になる厳しさを想わせられました。
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此方が第二の大仏様を実現した重源像。快慶の作で運慶も係ったと云われています。積年の苦労刻むお顔の皴とと強い意志力を偲ばせる目鼻と念仏を唱えて衆生を救済しようとする姿に仏になる前の人間の理想形が表現されていると思うのです。

最後に第三の大仏です。
第三の大仏は今も私達が見上げる四角いお顔の大仏様です。第一第二の大仏様が丸顔なのに比べて四角いお顔は馴染めませんでした。
勧進したは公慶と云う東大寺のお坊さんで、実際の鋳物師は性慶と知念と云う慶派の仏師でした。
性慶も知念も第二の大仏は観た事が無いし、自由に大仏のお顔をデザインしたのでしょう。
時代は元禄時代です。近世になると人間の個性が尊重されていたのでしょう。写楽も登場して人間の個性をデフォルメして話題の役者絵が流行りました。まさか写楽の影響ではないでしょうが。大仏様のお顔は勧進職公慶に似ていました。

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此方が第三の大仏様です。
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此方が第三の大仏様の生みの親東大寺勧進職であった公慶上人眼が赤いのは蜘蛛膜下であったのでしょう。ご同輩!気をつけましょう。高僧でも血管病は命取りになります。此処までリアルに彫らなくても良かったのに…思います。
昨年伊勢神宮は遷宮されました今年は諏訪大社の御柱祭で盛り上がりました。夫々式年の間隔は違ってもお祭りを繰り返すことは尊い事です。聖武天皇も東大寺を建てる前に都を二度も移されました。木津川の畔の協恭仁京と琵琶湖に近い紫香楽京でした。
時代の変革期には大災害や天変地異が起るものです。偶々日本は人口減少と大津波を体験しました。東大寺が焼け落ちた富士山が噴火したそんな驚きです。
でも先人が東大寺を二度も再建したように日本の国の再建の為に立ちあがらなくてはいけないようです。繰り返して天変地異に見舞われるのは大陸の端っこにくっ付いて居る日本の宿命です。宿命は悪い事ばかりではありません。良い事も沢山あります。その国土を蓬莱国にする為には壊れても立ちあがる知恵と覚悟が必要なようです。


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日大生物資源科学部の学食

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昨夜は「中秋の名月」と云っても、お月様は月齢13で13夜でした。満月(月齢15)明日17日で、私の娘の初産予定日でもあります。今夏は善願寺さんをはじめ安産の神仏に詣でました。屹度古代人もお月様に安産を祈ったのでしょう。満月は”ポロン”と安産できそうなイメージです。でも発生学的にはお月様の引力が満潮を呼ぶように、お腹の海に浮かんだ命を呼ぶのでしょう。大自然の力に託した自然分免を祈るだけです。
息子に子供が出来た時は当然凄く嬉しかったのですが。娘の初産を迎える緊張は又別です。藤原道長は彰子(藤壺のモデル)の子を念願したのでしょう。でも藤壺は子供に恵まれずライバル定子の子(敦康親王)を養子に迎えた頃にはさぞ悔しがった事でしょう。ですから、彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産(1008年)。道長の喜びはさぞ大きかった事でしょう。翌年には、さらに敦良親王(後朱雀天皇)に恵まれます。結局、道長は3人もの天皇の外戚になります。そんな栄誉を受けた人は居ませんでしたから、その歌は実感が在ります。
     この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
でも一条天皇の遺品を整理した時に、一条天皇の遺品に「王が正しい政を欲するのに、讒臣一族が国を乱してしまう」と云った日記に怒り狂います。彰子も天皇も次期天皇に敦康親王の即位を期待したのに対し、道長が敦成親王(後一条天皇)の即位を推したのでした。外戚の専横は後の院政を呼び複雑な身内の争いが国家騒乱の原因になったのでした。長男相続の慣習法は身内の争いを防ぐ慣習で今夏の天皇生前退位問題にも関係する歴史認識です。次期天皇の決定には『天皇皇后の御意向を第一にする』と云った皇室典範の改正なら一条天皇ご夫妻は賛成されるでしょう。
私には財産も地位も無いので心配こそありませんが。娘の産んだ子に一番に想いが注がれるのは自然です。母系社会が農耕民族に身近なようです。
ところで、今日の話題は昨日出かけた日大藤沢キャンパスの学生食堂です。
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日大生物資源学部のポスター。ピンクのポスターは大学が常識圏外だと云っています。常識(農学部の女学生はダサイ)を外した可愛い子が居ると云った意味なのでしょうか?他方右のポスターはカミキリムシです害虫のカミキリムシの触覚の上には意味不明の呼びかけがされています。「桜の悲鳴は聴こえない今日も静かに蝕む(むしばむ)てゆく」。と書いています。2枚のポスターを合わせると次のように思えます。日大には常識はずれの可愛い子が居る。カミキリムシ(男子学生)は桜(女学生)の悲鳴を聴かないで蝕んでい・・・・。まるで先般東大で発生した婦女暴行事件を惹起させるようなポスターです。屹度職員が芸術学部の学生に丸投げして作ったポスターなのでしょうが2枚揃うと独り善がりの最悪なポスターです。学生を責めるよりも職員の常識を疑います。11月に行われる大学祭までに撤収する事を期待します。

私は旬の野菜を食べたいものの価格が急騰しているンニュースに刺激されて、藤沢の六会にある日大の生物資源科学部に出かけました。
目的の第一が、学生が栽培した新鮮な野菜の買い出し、第二が学生食堂でランチを採るコトでしたが、その序にバラ園を見て博物館を見る事にしているのです。
今日は朝の、出足が遅かったので真っ直ぐに学生食堂に向かいました。
大學の学食は随分出かけました。このブログでも明治学院大学や学習院大学や立教大学の学食を記事にしました。大学によって夫々に名物メニューがあるし、大学の醸し出す雰囲気に浸るのも心地いいモノです。
日大は大学祭の時に来るだけで平日入る事は昨日が最初でした。
慶応の藤沢キャンバス(藤沢市遠藤/合政策学部・環境情報学部)もキャンバスが広く爽快ですが、牛糞の匂いがキツイノが辛いのです。一方日大は実験農場やグランドを含めれば遥かに広いし快適です。
小田急江ノ島線の六会駅からは徒歩で5分です。樟や楡の森の中に近代的なビルが林立しています六会から東の善行の間に広がった丘陵が試験農場で西に富士山が裾を広げて居ます。裾が相模野です。

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右側が日大生物科学資源部、この道なりに行くと小田急線の六会駅に至りますこの道の街路樹は桂ですからお醤油の醗酵熟成するような芳香が漂います。
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正門横に掲示された生物資源科学部の学科案内
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日大キャンパスは花いっぱいです。向こうの校舎が第一校舎でこの建物の地下に学生食堂が在ります。
学生食堂のある第一校舎に入ります。前述のポスターの前を通って、地下1階に降ります。学生食堂入口で先ず食券を買います。食券は磁器カードで1枚千円です。千円のクオカードで食堂の何処でも残高が在る限り注文できる仕組みです。お金を手にしないで済む分衛生的だし、お客もスムーズに流れます。
学食の入り口にはテーブルとパソコンが並んでいます。弁当持参の学生さんは此処で昼食をとります。壁には大きな油絵が懸っています。日大は総合芸術学部があるので壁を飾るのには苦労しないのでしょう。
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食堂入口のパブリックスペース。弁当持参の学生は此処で食べるし、授業のおさらいをしたり準備をする学生も目立ちます。この左にはパソコンデスクが並んでいます。壁のモネ風の睡蓮は芸術学部のある事に依る贅沢でしょう。
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磁気カード千円を求めたら次は何を食べるか決めます。商品案内には価格と販売カウンターが表示されています。
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学食全景外は整備された日本庭園で優しい秋の陽射しが食堂に差し込んでいました。昔風に云えば農学部ですから男子学生ばかりかと思えば都会風のお嬢さんが目立ちます。楽しげに歓談しながら食事をエンジョイしていました。一見するとステーキランチ510円が一番人気の様でした。私の隣席のお嬢さんはステーキランチを食べた上に持参してきたお握りを口にしていました。多分午前中は農業実習でお腹を空かせていたのでしょう。日本の将来は明るいと思いました。


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私の食べたのはカレーうどん(310円)+稲荷ずし100円でした美味しくいただきました。
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食堂のテーブルの上には案内が立っていました。私はメニューかと思って確認してみると何と就職指導案内で、今日は父兄向けの案内でした。今日は15日は父兄向け案内をしているとの事。ですから私達夫婦がキャンバスを歩いていても自然に見えたのでしょう。
途端に”既に選挙権が在るのに親向け就職ガイダンスも無かろう”思ったもののそんな自分も就職は自己判断では無く肉親の意見に従っただけだ、思い改めました。
そして『TОECで600点以上を取りましょう』案内に農学部もグローバル化しているんだ、痛感しました。
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外国人学生も目立ちます。
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学生食堂のテーブルにあった就職指導の案内。今の学生を取り巻く社会に想いを馳せました。
実習農場の丘陵の西には相模野が広がっています。相模野は春には霞が漂って秋は紫に染まります。その一面の農場で学生が栽培するお野菜をキャンバスで即売するのです。私達はもう一つの目標である野菜を求めに無尽販売小屋に向かいました。正門横のログハウスが野菜売り場です。100円均一で新鮮で安全な野菜を求められるのです。孟母三遷に倣えば老いたらば「農学部の前に住め」と云う事です。
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これは正門横の野菜の無人販売コーナー

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この日は午前中11時も午後2時もおやさいは売り出されていませんでした。棚には電話番号が掲示されていたので電話で確認してから買いに来て下さいそんな感覚なのでしょう。
警備員さんに「売り出し時刻j」を訊けば「未定」だそうです。学生の作業次第で何時販売所の棚に野菜が並ぶのかは?全くの未定で2時間後に来ても野菜があるかどうか判らないそうです。そこで図書館に付随した喫茶コーナーで見張る事にしました。試験農場で収穫した野菜は軽トラックで正門前の無人販売所に並べる筈です。日大のキャンバスで3時間秋の風情と学生の醸し出す空気にリフレッシュされて帰りがけに野菜販売所に寄ったのでしたが何も売られていませんでした。残念。でも学食は良かったし半分は満足でした。

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日大博物館の日進月歩

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昨日は藤沢にある日本大学生物資源科学部の学生食堂を紹介しました。
私は此処に来ると博物館に入ることを習慣にしています。昨年は鰻の生態を展示していました。鰻資源の枯渇が話題になっていて時宜を得たテーマだったのでしょう。今年は秋刀魚の生態かも知れない思いながら入館すると、水槽に「仏泥鰌」を飼育していました。”随分髭の多い泥鰌だな””臭そうだな”思いながら見詰めましたが撮影は禁止です。何のことは無い昔は戸塚の田圃に沢山いましたが、農薬に駆逐されて今はレッドラベルが貼られているのだそうです。新潟県は真剣に保護活動をしているのは、屹度朱鷺を保護しようとした時泥鰌を守る必要を再認識したのでしょう。懐かしい仏泥鰌の顔を見れば中々愛嬌があります。ヨシノボリとかハゼと親戚のようなとぼけた顔です。
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樟の木の向こうの建物が博物館です。無料で見学できます。
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博物館の入り口のウェルカムボードはチョーク絵でした。この狼は大陸狼で屹度職員が剥製(展示してある)を見て描いたものでしょう。上手なうえに愛情が滲んでいて素晴らしいと思います。
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これが博物館の案内です。
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これは博物館1階の水槽で飼育されていた仏泥鰌です。懐かしい絶滅危惧種ですが久々に顔を見ると恍けたようで可愛い顔をしています。私も何時しか泥鰌君に顔が似て来たようです。泥鰌に似て来たら仏に近くなるのでは困りますが・・・。でも泥鰌は田圃の土を良い土壌に変える環境保全生物です。若しかしたら良い土壌を作るから泥鰌と云うのかもしれません。
仏の名はお地蔵様のような個性の掴み難い表情に所以しているのかもしれません。
水槽を観てから何時も観ている3階の稲作の展示を観に行きました。私はこの展示で如何に稲作が日本人を育て、日本の社会文化の形成に強い影響を与えて来たのか教わりました。
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博物館案内の稲のぺ―ジ。上からインディカ米下がジャポニカ米。私達はインディカ米がカレーライスに適していてジャポニカ米は粘りがあるのでお餅やお寿司に適している位の違いしか知りませんでしたが博物館に入るとインディカ稲は一年生草本で一斉に稔って直ぐに枯れてしまう。ジャポニカ稲は多年生でヒコバエも生じる、背丈が長い等の違いを指摘しています。前者は直播であるのに対し後者は苗を作って田植えが適しています。ジャポニカ稲が労働集約的である事が中国日本朝鮮半島に統一国家を作らせました。
学生の頃読んだ鯖田豊之「肉食の思想」や中根千恵の「縦社会の人間関係」も説得力がありましたが、総ての根源は稲作の栽培効率にあると解ったのです。稲作は狭い耕地で最大効率で収穫を約束するモノノ、労働集約的なのです。狭い日本で1億人もの人間を養える食料は稲作しかなく、日本の社会・文化は稲作の最適効率を約束するシステムとして発展してきたのです。
そんな風で勉強させられた展示ですが、改めて読んでみると昨年と少し絵も解説文も変わっているのに気づきました”稲作の考古学も進歩しているのだろうな思いながらパネルの文章の行間も読む積りで展示を見ました。
昨年までの展示では、”稲はヒマヤラの麓インダス川流域が発祥地でその稲が中国大陸に伝播して日本に渡ってきた”理解していました。ところが今年は多少ニュアンスが違っています。
稲にはインド型とジャポニカ型の2タイプが在るコト。そして我国に渡ってきた稲(ジャポニカ型)は揚子江中流域が発祥地でその稲がインドネシア辺りでインド型と交雑してそのジャポニカ型が沖縄の島々を伝って日本に伝播した”説明しているのです。
日本大学の学究的な姿勢が従来の説明を発展的に進歩させているのでしょう。背景には屹度遺伝子の研究や実験考古学の成果が反映しているのでしょう。
ジャポニカ稲の伝播図を見ているとこの”図は何かに似ているな”気付きました。
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これが稲の伝播図。稲はインド型(赤い処/インダス川流域)とグリーンのジャポニカ型(揚子江流域)の2タイプが在ったが、その2タイプがインドシナで交雑して海上の島々を伝って日本に来たと説明しています。
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これが稲の特徴説明です。一般にジャポニカ型とインド型の違いは粘りの有無や丸いか細長いか等形態で分けられていますが多年生か一年生か草丈の長短など全く違う事が指摘されています。この違いがジャポニカ型が労働集約的であって労働集約しやすい形(古代国家)の成立を促したと考えるのです。
それは仏教伝来図です。
仏教はインド型稲と同じヒマヤラの麓で始まりました、その仏教はインドネシアに渡ると「小乗仏教」になります。何のことは無い「原始仏教」とも呼ばれる個人の努力を前提に救済を目的にする教えです。
一方で中国に伝播した仏教は社会全体の救済を目標にします。所謂大乗仏教でした。
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これが仏教の伝来図出典は山川出版の日本歴史年表(2001年第8版)です。ジャポニカ米の伝播図と酷似しています。

日本大学の生物資源科学部は知的にも肉体的にも刺激を与えてくれます。私の生活圏には大学が多いのは幸いです。知的好奇心に若さへの欲求を満たしながら一日一日好日が続きます。


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同化と異化

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秋雨前線が停滞して良く雨が降ります。
漸く咲き出した彼岸花も雨に濡れて頭を垂れて居ます。出来れば台風が避けられたら良いのですが・・・。
庭に出てみれば植木鉢に茸が並んでいます。
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秋の長雨で植木鉢から顔を出した茸君
鉢に入れた腐葉土が完熟して居なかったので、茸が生えたのでしょう?ワイフが”植物(クリスマスローズ)に良くなければ茸を採りましょうか?”訊きますが”そのままにして置いて”答えました。
日大のキャンバスも秋色が濃くなって栃の葉も黄葉し始めていました。黄葉もしないで、病葉が散って腐りはじめて居ます。腐り始めた病葉に幾つもカタツムリが付いています。
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日大藤沢のキャンバスの栃の樹も黄葉し始めましたもうじき舗道に可愛らしい栃の実が転がる事でしょう。
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栃の樹の根元を見れば病葉を食べるカタツムリが集まっていましたカタツムリは病葉を食べて(舐めて)い糞を出します。消化(異化作用)によって発するエネルギーで生きているのです。日本のカタツムリには寄生虫が多いので食用(エスカルゴ)にはなりません。
近畿大学がマグロで先行しているのですから、日大はエスカルゴの養殖(を始めたら良いと思ったりします。勿論工場生産で。農業工学を活かします。材料は都市の伐採木です。

博物館の水槽で観た『仏泥鰌』と同じで葉っぱを食べて土に還しているのです。
泥鰌もカタツムリも茸も皆土造りをしています。
春は同化作業に適したを季節で、秋は異化作業が目立つ季節なのです。
学校の生物の授業で『同化と異化』を教わりました。
生物は生きている限り”同化と異化を繰り返す”教わりました。
同化とは幾つかの単純な物質を合成して複雑な物質を作り出す作用を言います。
炭素と酸素を太陽エネルギーを使って糖分に合成する作用を「炭酸同化作用」と云います。
そうして出来た糖分を摂取して窒素と合成する作用を「窒素同化作用」と云います。
私は糖分を食べて窒素と同化させて蛋白質に変えて体を作っているのですが。蛋白質は脂肪に同化します。
私は窒素同化作業が鈍くて糖分が過剰になってしまったので、脳梗塞を発症させてしまったわけです。タンパク質や脂肪は糖分より遥かに複雑な物質ですが、運動をすることによって消化する事が重要です。これを『代謝』と云います。
泥鰌も茸もカタツムリも生物であれば同化と異化を繰り返す事が大切だと教えてくれます。代謝が停止した状態を「」と云います。死んだら直ぐに異化作業が始まり。同化の門が開きます。
古希になって漸く中学の時教わった事を思い知りました。このために随分苦しい体験をしたものです。
鉢のクリスマスローズが来春に又咲いてくれるように。茸君が活躍して異化作用をして、クリスマスローズの栄養分を地中に蓄えてくれることを期待しています。
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これは三井寺の多宝塔です。多宝塔は初層が正方形で二層が球形で出来ています。宇宙の真理は四角と丸で出来ているとと説いているのでしょう。この仏塔は仏舎利ではなくて大日如来なのです。
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これは三井寺の大日如来。この像は快慶の作です。円成寺(柳生)の大日如来は運慶の作で有名です。円成寺と園城寺の大日如来は良く似ていてどちらが運慶か?快慶か?い度々混乱してしまいます。この秋出かけるので園城寺の大日如来をアップしました。
ところで私は常々多宝塔の形を不思議に思っていました。
多宝塔とは大日如来が収まっている仏塔です。
多宝塔は初層が四角で二層が球形で作られています。宇宙の真理は四角と球形(丸)で出来ていると諭しているのでしょう。
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防府天神を建設する光景。中世には曲尺と墨壺を使って方形と球形の建物を造ることは可能になっていました。
日本人は中世には曲尺と墨壺を使っていて四角と丸を自由に駆使していました鎌倉時代の絵巻(石山寺縁起絵巻や防府天神縁起絵巻)を見れば活き活きと神社仏閣を建築している光景が描かれています。私は絵を観ていると建築は同化で戦争は異化であると思います。更に四角は異化で丸は同化で、四角の上に丸が在るのが座りが良いと解ります。「異化が先か?同化が先か?」と云った問題は「卵が先か?鶏が先か?」と同じように難しいのですが。多宝塔を見ていると異化(鶏)が先で同化(卵)が追随していくと思うのです。



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観音に願う

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一昔前までは、キャノンと云えば日本を代表するカメラメーカーでした。
私は長銀の天神に働いていた頃には,次のように記憶していました。
創業者の御手洗 毅(みたらい たけし)氏は先祖代々医業を生業とする家で生まれました。御手洗家は熱心な観音信者で居られました。毅氏は偶々北大医学部に進学して産婦人科医(内田)娘内田嬢を知りあい結婚します。御手洗家内田家が共同出資して医療機器メーカーを創業したのでした。まず手始めは病院で使われていたドイツ製のカメラを分解して和製のカメラを作る事でした。
新会社の社名をキャノンにしたのは、御手洗家が観音を信奉していた事と、当時の医療機器と云えばカメラと聴診器だったからでした。御手洗の経営していた産婦人科病院は戦争の爆撃で焼失してしまいます。
其処で、両家は、戦争終了後キヤノンの経営に注力しました。
1970年代はカメラ事業に加えて事務機事業にも注力して日本を代表する精密機器企業になりました。毅氏は観音様への信心が厚く、家族在っての企業と云った考えが強くあったのでいち早く週休二日制等を導入しました。、最近では女性社員抜擢や産休制度など「女性社員の活躍」を促す施策を推進しています。
キャノン創業家のある佐伯は美しい街で、臼杵石仏をはじめ仏教の色濃い街です。私は臼杵も佐伯も大好きです。週末には博多から車を走らせて佐伯で民泊して海に釣りに出ました。船べりに身を擡げ「補陀落渡海」に想いを馳せていました。補陀落渡海とは海底に観音浄土が在るので、穢い現世を嫌って浄土に赴くために、小舟に乗って海の彼方を目指す行為です。
ところで、今日は娘が産院に入院する事になっていまgす。今夏は京都の安産の神仏を巡りました。京都では安産の守護神はお地蔵さまでした。近江では観音様で8月には芸大美術館で安産の観音様を拝観しました。
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これは29日に東京国立博物館で拝観予定の櫟谷寺の地蔵尊お腹に下着の紐をリボンに結んでおられる事から腹帯地蔵として信仰を集めて居ます。今夏山城の善願寺で拝んだ子安地蔵尊も腹帯のように見えます。

私達は科学を信奉する時代に育ちました。
そして原子力は未来を明るくすると信じて「鉄腕アトム」や「ウランちゃん」を愛読しました。
その人間の未来を拓くはずの科学が諸刃の刃になる事を痛い知らされました。
科学は因果律を基本にします。
病気になれば原因の細菌やビールスを見極め。病巣を切除するか薬を投与します。
でも眼にも顕微鏡にも写らない病気が在ります。精神病や鬱病なの心の病です。
心の病を治癒するために、病巣を探します。
病巣は”心臓かも知れない、脳かも知れない”そう考えて科学者は心臓や脳を隈なく調べます。そして精神安定剤や抗鬱剤を投与します。臨床的にはこうした薬が効いたのか不明ですが。心の病が治癒する事もあります。
でも薬がどんなプロセスを経て心の病気を癒やしたのかは不明です。「科学が時に人間を襲う事もある」「科学は眼に見えないことは説き明かせない」そんな科学の限界を知りました。
私は次のように考えています。
『病気が進行するのも治癒するのも本人の気持ち次第だ』。
『心配だ!心配だ!』とよくない事ばかり懸念していると心の病も癌もドンドン進行して最悪の事態に陥ります。。
『もう大丈夫だもうじきは健康になる』思っていれば心の病も癌も着実に快方に向かいます。
私の娘も”高年齢出産で大丈夫かしら?”不安が先行すればするほど拙い事になります。
”大丈夫大丈夫もうじき赤ちゃんに会える”ポジティブに思えば安産で済むしベビーも逞しく育つ事でしょう。

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此方は湖北の大浦(有名な菅浦の近く)に祀られている大浦11面観音数年前盗まれて大騒ぎで舌が幾つもの奇跡を経て現在は街が保全しています。11月25日何時もの仲間と拝観する予定ですこの腹帯を巻く事で安産のご利益があるのです。昭和34年美智子妃殿下にも贈られたそうです。
ポジティブにさせる為には。抗鬱剤や精神安定剤を飲むより神仏に祈ることの方が有効な事が多々あるものです。2近江の腹帯観音も観音様を巻いた腹帯を妊婦が巻いたので安産になる”と云った事実は科学的な解析は不可能です。
多分近江の娘が初産であっても出産当日まで働き通しだったことでしょう。でもそんな臨床的に滅茶苦茶な出産でも腹帯観音様の腹帯を巻いて居ればポジティブに出産できたことでしょう。
第一美智子妃殿下には天照大神が付いている筈です。それなのに名もない琵琶湖の湖岸の小祀の観音様の腹帯に安産を祈願するのは可笑しな事です。何故寒村の腹帯観音に霊力が宿しているのか?不思議に思います。
それはお腹の中の胎児が声を出して、腹帯で反響して来るのでしょう。
胎児と母体の間にテレパシーの交信があって、あって待望の出産を迎えるのでしょう。
そうした聞き取れない遣り取の音を差配している仏様が観音なのでしょう。
観音様は祈願する人の”祈り”と云うテレパシー(音)を聴きとって何時も”イエス・ユー・キャン”と受け入れて下さるから観音なのでしょう。
大事なことは他人には聞こえなくても仏様に聴いて貰えるように真剣に祈る事です。真剣に祈ればテレパシーはより強くなって母体にもこだまして良い結果をもたらすのでしょう。観音様に届くように強く祈って観音様専用の波長のテレパシーを発信する事が重要です。そのテレパシー(音波)が観音様に届けば良し。届かなくてもその音波が反響して自らを良い方に導いてくれるように思うのです。
こう主張すると『鰯の頭も信心次第』になってしまいますが、
科学の因果律では説明できない事も多くあって見えないモノ聞こえない音を聴く事こそ大切で。その器官を””と呼び心を観音様に向けて常時アンテナを高く掲げて置くようにすることが大切だと思うのです。
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此方は北鎌倉浄智寺の槇の大木の樹下に祀られた子安観音像。腹帯観音の次は子安観音にバトンタッチです。

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これは上田の田沢温泉の先修那羅安宮神社の森に祀られた子安観音様。出産を終えたら直ぐに母になって逞しく子育てに農作業に励むことになります。素朴なだけに一層に祈りの声が届き易い事でしょう。今頃出かければ観音様の周囲に山栗が転がって、松茸も顔を出しているかもしれません。

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ユニバーサルデザインの次にある文化

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パラリンピックも終わりました。横浜の街もリオも同じでユニバーサルデザインで満たされています。一般にユニバーサルデザインは『人間の老若男女人間違いを問わずに使いやすい施設や製品の設計を言います。交通機関の設計もエレベーターが設置されて、舗道の段差も無くなりユニバーサルデザインは工業製品から街造りまで普遍化してきました。次は2020の東京オリンピックです。街のユニバーサルデザインは一層拍車がかかることでしょう。
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これはホンダのNボックス。シンプルで量産に適していること(安い事、運転が楽な事)はユニバーサルデザインの究極だと思うのですがピラーレスであって室内空間が広い事はユニバーサルデザインの次を行っていると思うのです。「無い」事は究極です。室内空間はお茶室の空間のような自由と会話をもたらせてくれると思います。
時代は各人がこうした自動車を持つのではなく。共有するとかシェアリングするそんな文化が待たれているのです。(メーカーHPから借用)
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これは黒楽茶碗。シンプルで民芸美の至高の茶碗でショウが、時代は茶碗を占有するのではなくて”良い茶器を友人と味わう事の悦び”に移っていると思うのです。至高の茶器の価値は占有する事では無くて心の通い合う友人と使い回す事に在るのですから・・・。
私はユニバーサルデザインの先にあるモノは良い品をどのように使うか?その使い方の文化に移って行くと思うのです。

昨日は娘が無事に出産できました。湘南ライフタウンにある病院に娘と孫を見舞いました。
産院は玄関から病室までユニバーサルデザインで満たされていました。私は娘の幸福な顔と孫の泣き声を聴きながらユニバーサルデザインに飽き足らない想いを抱いていました。ユニバーサルとは没個性と云う事です。
近世は個性の主張から始まりました。そして没個性と云うのでは矛盾しています。
『機能的にはユニバーサルでも表情は個性を主張』して居なくては生活は楽しくありません。
そのことに最初に気付いたのは病院の玄関を入った時でした。
清潔で明るい病院で、玄関では靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えます。スリッパは殺菌灯が青白く光るロッカーに入っています。壁は総じて白く家具はオレンジ色で統一されています。ツートンカラーでシンプルです。
近世の建築は中世の宗教建築や王宮建築への疑問から始まりました。モダニズム建築がそれで。権威や荘厳さをよりも機能的合理的である事を優先させました市民の合議や教育の均等が叫ばれたので、モダニズム建築はホテルや学校や博物館や議会棟に目立ちました。モダニズムは建築だけでなく家具や工業製品に氾濫しました。モダニズムデザインは「シンプル・イズ・ベスト」なので工業製品の大量生産に向いていたのでした手作りの食器は消えてプラスチックの射出成型品に変わりました。自動車もハウスも手仕事では無くて工業製品に変わりました。病院で履き替えたスリッパも大量生産の工業品です。
東北大震災ではそんな工業製品を津波が破壊して太平洋の向こう岸に運び去りました。
私達は津波がカナダやカリフォルニアの西海岸に運んだ粗悪なデザインの生活用具を恥じと思って眺めたのでした。
私は左脚の麻痺が残っていますのでスリッパは履かずに靴下で廊下を歩き3階に登りました。
”ユニバーサルデザインの次は何だろう?”思いついたのは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』でした。同著は『西洋のテクノロジーは素晴らしい、でも日本の陰影のある文化を忘れてはいけない』そんな主張でした。”日本の近代化西洋化はテクノロジーでは賛成しながらもベーシックな文化は大切にしたいものだ!”そんな呼びかけでした。
『工業製品のスリッパは履いても室内を素足で歩く生活スタイルは大事にしたいものだ』そんな主張だと理解しました。素足は良いモノです。足裏には総てのツボが集中していると聞きます。足裏が大事な事は仏足石が示しています。素足の素晴らしさを発見した人物は多分足利義政だったことでしょう。
足利義政と云えば学校教育では最低の将軍と教えられました。奥様の日野富子に頭が上がらず、次期将軍を弟の義視にしたにも拘らず富子の間に子供(義尚)が生まれると、前言を翻してしまいます。9代将軍を巡る政争は有力守護大名山名細川両家も巻き込んで「応仁の乱」を呼び起こします。
一方農村部では飢饉になって餓死する者が多く現われま、土一揆も頻発します。
そんな事態にも拘らず義政は東山に籠って数寄の道に耽溺します。その成果(文化財)が銀閣であり同仁斎と云う名の4畳半でした。
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これが足利義政世界で多分唯一「無」の文化を産んだ偉大な文化人で私はユニバーサルデザインの次は「無」の文化の時代が来ると思うのです。
義政の文化観を形に成した匠が「阿弥衆」とか「同胞衆」と呼ばれた時宗の信者でした。
「阿弥衆」とは「世阿弥」「観阿弥」「相阿弥」に共通する名前です。
多分東山の麓鴨川の東岸は遺体が転がっていて「阿弥衆」が遺体を葬っていたのでしょう。
藤沢の遊行寺には「敵味方供養塔」が残っています。これは房総の里見氏が関東公方杉氏憲(禅秀)を襲撃した際に死んだ人を弔ったものでした。時宗の信徒は死者を弔う事を天命と思っていたのでしょう。その世界観が能になり枯山水や生け花になったと思うのです。
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此方が慈照寺銀閣の東求堂内の4畳半同仁斎です。シンプルの文化は桂離宮等に残されていますが此処にはシンプル(簡素)を突き抜けて「無」や「空」の文化が表現されていると思うのです。それは戦争によって何もかも失った喪失感が目覚めさせる文化です。
足利将軍家の華は義満の北山文化(金閣寺に象徴される)です。歴代の足利将軍は義満を憧れますが現実が許しません将軍家の荘園は山科・山城しかありません限られた財産の中で運営する為にはシンプルにするより他ありません。でも。周囲を見回せば死臭が漂っています。怨念に取り囲まれています。富子も自殺してしまいます。シンプルの先は「無/ナッシング」です。東山文化は簡素美/シンプルを突き抜けて無とか空の中に美や文化を見出すようになります。
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これは藤沢の遊行寺(時宗本山)境内にある敵味方供養塔です。上杉禅秀の乱の死者を時宗の信徒が葬ったモノです。この記事は次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47613368.html
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これは一遍上人絵巻の鴨川川原の図左の櫓の上では一遍上人をはじめ阿弥衆が踊念仏をして一般人や武士が見物しています。
こうしたカオスの中から能や歌舞伎や枯山水や生け花が生まれたと思うのです。

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これは国立博物館の所蔵する餓鬼草子。餓鬼が窪地に溜まった水を掬って喉の渇きを潤しています。土饅頭(遺体を葬った塚)が3つもありますが阿弥衆はボランティアで鴨川川原に流れ着いた遺体を葬ったのでした。阿弥衆の「本来無一物」とした世界観が義政の文化を表現したものと思うのです。

そう想い起すと私は次のように思うのです。
『ユニバーサルデザインの次に来るのは脱工業である』
私達は戦後食い物に渇望し材を集める事をし続けて来ました。既に日本は飽食の民族になって私も糖尿病を深刻化させてしまいました。3Cを満たせばブランド品を買い集めました。
安物の工業製品が家に蓄積しています。既に標準家庭でもゴミ屋敷化してしまいました。
家を埋めているゴミは工場で量産されたユニバーサルデザイン製品です。通産省の貼った「グッドデザインマーク」は無個性工業製品のレッテルです。
ユニバーサルデザインは一度リセットして「手の温もり」のある愛着品に差し替える事が望ましいと思います。
スリッパは捨てて義政が同仁斎に素足で入ったように。マイ茶碗は持たずに器を共用する時代になっていると思うのです。

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目の病気

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私の生活圏に「峰の薬師」が在ります。
磯子カントリークラブも。昔はこのお寺の裏山であったのは無いかと思っています。
鬱蒼とした照葉樹林の山の頂に本堂が在ります。
江戸時代は賑わった薬師様で。江戸っ子は陽向薬師(大山の麓)と磯子の峯の薬師に詣でたようです。
峰の薬師の霊験は『眼の病気』でした。今も僧坊が在って、僧坊に隣接して鍼灸施設が在ります。眼や体の不自由な人が峰のの薬師に逗留して、鍼灸に通いながら治癒しようとする仕組みです。
薬師のお寺が病院の施設も用意し、鍼灸医(座頭)も抱えていたのでした。
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これは横浜の磯子にある峯の薬師護念寺
座頭とは江戸時代の盲人の階級の一つで、転じて按摩、鍼灸、 琵琶法師などへの呼びかけとして用居られました。峰の薬師は名勝地で次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43315012.html
一方沢山いた盲人の最高位に居た人が検校で、私の生活圏には山田検校が居ます。山田検校は山田流の筝曲のトップに居た人で、江の島往還には道標が百メートル間隔で建っています。
一方北武蔵本庄村には塙保己一が出現します。『群書類従』(ぐんしょるいじゅう/北野天神や伊勢神宮など全国の神社仏閣に伝わる書籍を整理した歴史博物書)を編纂した大変なインテリでした。
盲人と云えども盲人だからこそ芸能や学問に突出した人物が出現しました。
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埼玉県本庄で生まれ総検校になった塙保己一個人でありながら大日本史を編纂した水戸光圀に匹敵する業績を残しました。

私の齢になると眼に病気を持つ人が増えます。加齢黄斑変性だ・緑内障・糖尿病性網膜症だと騒がしいモノです。眼は繊細で精密機器のようなモノですから体の欠陥は最初に眼に現われるのでしょう。
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これは油山寺(森町)の絵馬ですが病気が専門の薬師寺で昔の人の願いは眼疾に集中していたようです。相模の国の日向薬師(秦野)も峰の薬師(磯子)も眼疾に霊験のあるお寺でした
新薬師寺の薬師如来を拝観した時。ギョロロ眼で驚いた事がありました。何故新薬師寺のご本尊はギョロ眼で居られるのか調べると”光明皇后が聖武天皇の眼疾の治癒を祈ったので、眼を大きくしたのだ”もっともらしい説明を確認した事がありまあした。でも考えてみれば大仏のお身体を鍍金で覆ったとき水銀に金を溶かす(アマルガム鍍金)作業を行ったので、水銀が大気を汚し。聖武天皇が眼疾を患ったのでですから、聖武天皇は日本最初の公害病患者だった訳で(水俣病と同じメチル水銀中毒)す。
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此方は奈良新薬師寺の本尊の薬師如来。12神将像と全く違う表情で、製作技法も異なっていることにに違和感を覚えます。しかし東大寺の記録では光明皇后が聖武天皇の病気治癒(多分目の病気)を祈って建てた事になっています。建物は東大寺の食堂(天平時代)だそうです、

薬師如来を祀ったお寺には往々にして眼疾治癒を唄っています。
加賀の前田慶次は。目の悪い子の将来を考えて按摩と芸の学校を作ったと云われています。
男の子は按摩の技を覚えさせ、女の子はお座敷に出て社会に役立つように教育したのです。
加賀は元々一向宗の強い国で「説教節」の伝統とお座敷芸が混交して新しい芸能が誕生しました。
越中富山はそんな人が交わって文化がクロスする処でした。
三味線でエンヤ節を唄っていた旅芸人が何時しか三味線を胡弓に変えて「おはら風の盆」を盛り上げ「佐渡おけさ」を創作して、津軽や下北恐山ではイタコを育てました。
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左の少女が越後長岡の瞽女の佐藤千代、少女が越中で人形浄瑠璃を松本勘玄に学び小原踊りに胡弓を伴奏楽器にしたのでした。三味線より胡弓の方が携帯に便利であったこと哀調が在った事等で秀でていたのでしょう。(写真は最後の瞽女の佐藤千代」を複写。背後の山は立山です。
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瞽女の文化を支えていたのは越中や越後の富豪農家でした。瞽女は大地主農家から農家を渡って村々を旅しました。一般にこうした宿を瞽女小屋と云いました。それは円空や木喰が富豪の家を渡って旅をしながら仏像を彫っていたのに似ています。瞽女は富豪の屋敷で唄って踊って小作人の労をねぎらいました。この写真は上述と同じで富豪農家で歓迎されている光景です。こうした瞽女ぶんかも戦後の「農地解放」で没落してしまうと瞽女も居なくなってしまいました。


彼女らは一般に「瞽女/ごぜ」と呼ばれますが。オコゼと云えば鬼のように醜い魚です。瞽女は鬼の子と云うような差別用語だったのかもしれません。
加賀藩では瞽女の規律を重んじました。
瞽女は基本的に原始共産性で収入は「布施」だけです。布施(米や金)は年長に応じて分配されました。綺麗な瞽女や人気の瞽女が多く収入を得る訳ではありません。更に瞽女の恋愛や出産は禁じられていました。規律に違反した瞽女は追放されるか(放れ瞽女)か最年少瞽女にランクダウンさせられたのでした。
民俗芸能は素晴らしいものほどその陰に悲しみを秘めているものです。悲しみに裏打ちされている民俗芸能ほど心を打つものはありません。胡弓はこの上ない哀調を帯びた弦楽器なのでした。
来年の旅行会では越中小原に「風の盆」を観に行く予定です。
風の盆は私の学生時代は有名ではありませんでしたでも「越中竹人形/水上勉」や「風の盆恋歌/石川さゆり」のヒット等で日本を代表する祭りになりました。風土と歴史と盲目の娘がもたらした民俗芸能になりました。
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これは斉藤慎一氏の「越後瞽女」の絵山形県天童にある「斉藤慎一」美術館は天童の酒蔵「出羽桜」のメセナ活動です。出羽桜も豪農だったのでしょう。「越後瞽女」美術館や博物館が高田や長岡では無くて天童に在るのは不思議です。この絵で中央の大きな瞽女がお師匠さんでざちょうなのでしょう。「越後瞽女」がお座敷で説教節を歌っている間に豪農の家族が仏壇に焼香しています。


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啓蟄と蟄虫坏戸(虫隠れて戸を塞ぐ)

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ソロソロ今年もお終いです。来年のカレンダーを用意することにしました。
来週木曜日には友人と上野博物館でデートです。デートと云っても男友達ですから色気なしで来年は何処に行こうか?遊びの計画を話し合います。そのデートに際してカレンダーを用意しておくと、楽しいモノです。
私は昨年から陰暦併用カレンダーを使っています。
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これは今使用している陰暦併用カレンダーです。陰暦だと1日が新月で15日が満月に配置されます。暦は旭川情報ネットのHPから借用して全国のお祭りを載せました。レイアウトは太陽暦七曜表ですが月齢が添付されていて旧暦の応当日が記載されています写真は友人と旅した時のモノを使用しました。
親友はセミナーで陰暦と干支の解説をしました。動機は干支を知らないと時代小説を読んでも面白くないと云う事でした。私は和歌や俳句を読んで陰暦を知っていた方が興趣が深くなると思って陰暦併用カレンダーを座右に置くようにしたのです。例えば今頃を72候では「蟄虫坏戸(虫隠れて戸を塞ぐ)」と云います。半年前が「啓蟄」でしたから「蟄虫」「坏戸」が対になっているのです。啓蟄が温かくなってきたので地中に隠れていた虫が地上に出てくるの意味で逆に寒くなってきたので虫が地中に潜ってしまうの意味なのです。
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私のキーボードで暫しのお別れを告げるカマキリ君それにしても汚れたキーボードです我が事ながら呆れ返ってしまいます。
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我家の前の道で轢死してしまったカマキリ君。南無阿弥陀仏。

虫も地中に巣籠りして啓蟄まで姿を隠しているのです。
私のパソコンデスクにも頻繁にカマキリが遣って来ます。
”お前の庭は食べ物が豊富で良かったよ!また来春遣って来るから、元気でいろよ!」
励まされて居るような気がします。カマキリも「礼」を知っているようで物騒な鎌で合掌するようなポーズをとります。
と云っても、真実はカマキリ君は地中に隠れているのではなくて死んでしまって来春顔を出すのはその子供なのです。昔の人は其処までは知らなくて同じカマキリが冬は隠れて春に再登場すると思ったのでしょう。その証拠に「蟄虫坏戸」で4字熟語になっています。その意味は”虫が地中の巣に潜ってその戸を閉める”と主語は虫ですが、人々は主語は人間で”雨戸を閉める時に虫を挟まない様に気をつけろ”の意味で慣用句になっていました。ゴキブリ叩きで追い回されるゴキブリにすれば”自分も鈴虫と同じ仲間なのに酷い差別だ!”憤る事でしょう。
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田起しの景色お百姓さんは鋤やトラクターで動物や虫や仏泥鰌の命を奪わない様に注意します、晩秋に柿の実を食べ尽くさないで鳥に残してあげるのも「蟄虫坏戸」と同じ発想です。
陰暦カレンダーはこんなことも教えてくれるのですから、陽暦のカレンダーよりも遥かに日本文化の陰影を教えてくれます。
私も齢です。これからは一刻一刻をより大切に過ごしたいものだと思っています。その為にも偶々、青春を共にした友人と今又、時を同じくしていられる幸運に恵まれて居る事を良い事にして濃密な時間を過したいと願っています。
そこで、来年も手製の陰暦カレンダーを友人にギフトしようと思っています。カレンダーに必要な絵は毎月デーサービスのランチルームに貼っている絵を使う事にしました。
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来年のカレンダーで使用する絵農家が柿の実を残してあげる風習を「木守り柿」と云います。木守柿は小動物たちが命を永らえられるようにとの優しい気持ちから柿の実を残したのだ、と言う説や「山の神」への感謝の気持ちとの説が在ります。
「蟄虫坏戸」とは夏に、外で活動していた巣籠もり虫たちが、再び土の中に潜って穴をふさぐことをいいますが。虫を擬人法で「戸を塞ぐ」というところが、面白い処です。道路にはこの季節車で轢かれた蛇や蛙やカマキリが見つかります。小林一茶が観たら何と言って嘆く事でしょう。
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これも来年の陰暦カレンダーに使う絵物干し棹にTシャツを干していて燕のベビーが洗濯物を汚さない様に気遣っている処が絵のポイントです。



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