15日は六波羅で早目にランチしました。夕方にはもう腹ペコです。”晩は京都ラーメンにしよう”相談しました。
その気になると、無性にラーメンが食べたくなるのですから、不思議な食べ物です。「日本人のソールフード」と呼ばれる所以でしょう。
私はこんなことも在ろうと思って京都の人気のラーメン店を事前に調査しておきました。東山東福寺では「大黒」と調べておいたのですが、カーナビにインプット出来ません。それに、既に車は宿近くの駐車場に置いてしまったので。只管歩いて探すほかありません。唯、望みは目的地が大谷高校ですから、高校の周辺には往々にしてラーメン屋が在るものです。京阪電車の跨線橋を渡る頃にはポツポツ雨も降って来ました。私達の前後には家族連れが歩いています。みんな五山の送り火を観に大谷高校に向かっています。
回の京都旅行の最大の目的は五山の送り火を観る事でした。今朝5条のモーニングサービスで訊いた情報に従って東福寺門前の大谷高校の屋上に向かいました。結果を先に述べるとゲリラ豪雨でずぶ濡れで帰宅送り火は夢のまた夢でした。でも大谷高校の生徒さんのお接待を受けて良い思い出になりました。何時かもう一度トライしたいものです。
これは京都名所図絵の大文字焼き場所は出町柳の三角州です。当初は此処に行って送り火を観る積りでした。でも此処では大文字焼きこそ観られますが他の山焼きは眺められません其処で洛南にある大谷高校の屋上に行きました。若しも此処に居たらあのゲリラ豪雨で流されていたかもしれません。そう云った意味では運が良かったのでした。画面はBSプレミアム
これは江戸時代の五山山焼きの説明画面はBSプレミアム。NHKの考証では江戸時代には現在の五山の他に鞍馬に「い」と西大文字と鳥居型のあいだに蛇が在って嵐山小倉山の西側に払子(仏具)があって桂離宮の西側に鈴が在った事になります。集落毎に祖霊を送る山焼きが在ったのでしょうが。集落の絆が緩んで三つは消滅して現在の5つが存続しているようです。八山よりも五山の方が語呂も良いようですし・・・・。大谷高校は東大文字こそ東福寺や泉湧寺の山蔭になってしまいますが他の4つは見渡せる位置になります。
京阪電車の跨線橋を越えたら直に大谷高校でその先に東福寺駅が在ります。
友人が訊きこんでくれた焼き鳥屋は「一番」と云う名のお店でした。入ってみると人気店らしく数組のグループが談笑会食中でした。私達はカウンターの止まり木に腰掛けてお姉さんと会話を楽しみながらアレコレ注文しました。生ビールのお代わり(私はウーロン茶ですが)をする頃には背後の小上がりで談笑中のグループと仲良くなっていました。
と云ってもグループは私の子供世代でどうも大谷高校の同窓生のようです。”校門でチェックを受けたらどうしよう?”作戦は同窓生とその父親と云う事に変更しました。大谷高校のОBに連れられて高校に向かいました。高校入り口にはジャージ姿の女子高生が笑顔で迎えてくれましたガラス戸には『ようこそ大谷高校へ』と大書されています。玄関も廊下もビニールシートが敷かれていて屋上には二張のテントが張られていました。高校生は屹度空模様が怪しいと思って急遽対策したのでしょう。
私達が入ったのは東福寺駅前の焼き鳥屋一番。学生がテークアウトし易い様にメニューが並んでいましたまさか学校帰りに此処で一杯やるわけではありません。
私達はカウンターの止まり木に腰掛けました後ろの小上がりのグループが大谷高校の同窓生で私達を案内してくれました。
大将一人で若い女性2人の少人数でキビキビ働いていました8時から送り火が始まりますので間に合わなかった御握りはテークアウトしました。
焼き鳥屋「一番」を出ると雨が本降りになっていました。でもこの時は”どうにかなるだろう!通り雨かも知れない”と思っていたのでした。
皆今晩の送り火を観る為に大谷高校の屋上に向かっていまあした。校門でチェックされたら”ОBの家族です”と云う事にしよう腹を括りました。
大谷高校は屋上を送り火鑑賞の為に開放し、更に幼児を遊ばせるために様々な工夫と受け入れ態勢を準備していました。
ずぶ濡れのお客さんを世話してゲームを用意して高校生のおもてなしスピリットは最高です。
私はエレベーターで4階に付き添われて屋上に上りました。
屋上のテントから北を望んでもゲリラ豪雨で何も見えませんでした。
大谷高校の屋上で送り火を眺めていたのですが、ゲリラ豪雨は一向に降り止む気配はありません。件の大谷高校同窓生がスマートフォンでテレビ画面を見せてくれました。鳥居型も西大文字焼きも妙法も船形もももう燃えているようです。私の布製のリハビリ靴はもうグショグショですし、衣服もシャワーを浴びた様にずぶ濡れです。このゲリラ豪雨を浴びて、お昼に逢った丸髷のお嬢さんはデートどころでは無くて『愛はご破算』ではないかと心配です。
家に帰ったらビデオを観る事にしましょう。でもこんな体験は二度と無い事でしょう。
東京のお祭りは総じて雨天順延ですし。今夕の状況なら8時の点火を少し早めれば良かったのに思います。
そう思って翌日滋賀の博物館で訊いてみました。ても、京都の人は「雨天順延とか。空模様を観て開始時間を早めるような事は考えないそうです。神事は暦通りに行うのが常識、暦を軽視する事は神をないがしろにするようなものなのだそうです。
BSプレミアムの画面から大文字焼きの準備を終えたこの日の光景
これは鳥居型焼きの本火(護摩木)に火が入った条経。このア後氏子が藁に火を移して点火して廻ります。
これは大文字焼きの護摩木に沢山の新しい塔婆を添えたものです。大文字焼きは一番長く燃えて居なくてはならないので本火になる護摩木は赤松を用いるそうです。赤松の護摩木は次の写真のように新盆の亡者の塔婆になっていました。
これは新盆の亡者の塔婆です。素材は赤松の丸太割です。故人は日澄居士という法名からして、日蓮宗の方なのでしょう。
ずぶ濡れになってもどうにかこうにか跨線橋を越えてガードを潜って宿に辿り着きました。
私達にとっては、忘れられない五山の送り火になりました。
観る方も忘れられないのですから催した人の困難は如何許りであったでしょうか?
千年も続ければこんなこともあるでしょう。いずれにしても長く続けてきた京都の人は素晴らしいと思います。江戸時代は八山であったものが現在は五山。人々の絆が弱くなれば五山が三山に減ってしまうかも知れません。。人は一人では生きて行けない。一人より三人、三人より五人多い程人間は逞しくしなやかに生きてゆけるものです。ズット五山の送り火が存続して欲しいモノです。
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