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鎌倉古道の柿

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インフルエンザにノロウィールスの季節になって来ました。私の体が”柿を喰え”と欲しています。「柿が赤くなると医者が青くなる」諺も「柿の葉寿司」も柿の滋養や殺菌力を示しているのでしょう。柿の薬効と云えば①抗癌作用②、老化抑制効果、③風邪やインフルエンザの予防効果、④血圧の低下効果など、どれもこれも私の為にあるような果物です。私の体が”柿を喰え”命じるのは自然な事です。
美味しい上に春先に吹き出す芽は鶯色でとても美しいし。紅葉も見事です。紅葉の色は赤一色ですが、柿の葉は緑も在れば茶色も混じって紅葉するので、趣きがあります。
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紅葉が美しい柿の葉黒いのはカテキンが溜まった処でしす。青いのはクロロフィル葉っぱの三態が同時に観られるのが魅力の柿の葉です。今年は春先に大きな鉢に柿の木を植えました。右の葉は栞にしていたのでしたが干乾びて終った柿の葉です
柿とは「赤い木」の意味だと聞いたこともあります
私の生活圏では舞岡や俣野に柿を栽培している農家があって「浜柿」と云ったブランドで売り出しています。でも数量が揃わないので知名度は全くありません、横浜にも法隆寺がありますので「法隆寺柿」とか「総持寺柿」とでもブランド名を付ければ知名度も上がるかもしれません。
偶然でしょうが舞岡も俣野(も鎌倉古道に面しています。前者は鎌倉古道中道で後者は鎌倉古道上道(新田義貞/群馬県太田市)府中町田を経由して鎌倉を結ぶ)に面しています。
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国道1号線影取から龍長院(曹洞宗)入り口から大山街道に入ると直ぐに鎌倉古道上道に交差します。
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大山道は鎌倉古道にクロスします。この辺りは源義朝を祀った鯖神社が多いのですが向こうの鳥居は八坂神社です。其処を右折すると目指す柿農家があります。
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この辺りは市街化調整区域で農家は庭先で無人販売をしています。夏頃までは1袋100円でしたが昨今は200円にインフレしました。柿は3個で200円でした。
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八坂神社の庚申塔鎌倉古道の楽しみは豊富な石仏もあります。同時に遊行寺道でもあるので小栗判官照手姫伝説や絵巻物等も豊富です。
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境川の西岸方向を見渡すと富士山が見えます。富士山の手前に大庭城後(後北条氏)があって、慶応藤沢や日大のキャンバスも点在しています。このアングルを楽しむ為に住友財閥は俣野に別荘を建てました。昭和モダニズム建築を評価され重文でしたが横浜市に管理を移された途端に放火?全焼してしまいました。
鎌倉幕府は軍用道路を鎌倉と北関東(源氏温故の地)を結んだのでしたが、信頼していた御家人(足利氏一族)に背かれて鎌倉古道を攻め上がった新田義貞によって滅ぼされてしまいました。(新田義貞は足利尊氏と同族で主従の関係(足利市と太田市は隣接しています)
まるで府中の分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい、元弘3年1333年)はライン川を渡ってローマ街道を攻めのぼったゲルマン人がローマ軍を打ち破り飼い猫に手を噛まれたと云った戦い(トイトブルク森の戦)を髣髴させます。
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遊行寺の柿の実、柿は墓地に生えています。塔婆の裏には「若人欲了知」と書かれていました。この意味は百隠の故事に依っています。白隠禅師はある時、一人の若侍から地獄の有無を問われます。白隠は若侍を一瞥して言います。「お前は、いい年をして、まだ地獄の有無を知らないのか!とんでも無い馬鹿だ!」と罵倒します。すると若侍は刀を抜いて百隠禅師を殺そうとします。白隠は殺されかかった刹那に「そこが地獄だ!」叱声します。若侍は地獄の因果が自らに在る事を悟ります。
遊行寺を詣でて銀杏を拾ってバスに乗って影取に出ました。影取のバス停から大山街道に入って境川の河岸段丘を下ります。その河岸段丘の上に鎌倉古道が通じています。この街道沿いには鯖神ご神体源義朝/左馬頭社)が多く北条高時の言い伝えの寺等も残されています。そんな中に柿や葡萄を栽培している農家が点在しているのです。
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龍長院門前の柿畑向こうの瓦屋根の農家が柿を栽培しています。
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柿農家の庭先では縁台を出して試食販売しています。この位置に立つとお婆さんが出てきて売ってくれます、1袋12個入りで千円です、訊けば早生の柿で「伊豆」と云うんだそうです。
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我家で戴いた柿 葉っぱに載せてあるのは蒸しイモです。お芋も柿も美味しくて困ります。
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12個も買ってしまって満足です。
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お三時には珈琲に柿とヨーグルトです。柿はヨーグルトにつけると一層美味です。

でも12個も柿を買ってしまうと食べきれません。幾ら体に良くても食べ過ぎたら血糖値が上がってしまいます。で大半は柿ジャムにすることにしました。
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残った柿はジャムにして食べる事にしました。
家に戻るとワイフの友人が次郎柿をプレゼントしてくれました。流石に次郎柿は大きくて立派です。

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大きいくて座布団のようなのが戴いた次郎柿です。各地各地で柿の味も違うのがまた楽しいモノです。
今年は次郎柿の故郷と云われる奥駿河の森町に行きました。奥駿河は善光寺街道を遡れば市田柿の産地ですし。西にいって鳳凰山を越えて木曾に向えば数年前ワイフと出かけた香嵐渓のある足助です。足助では柿を喰いながら馬頭観音を巡って歩きました。一番肥沃な奥駿河で次郎柿が出来て、市田や足助では山柿なのかもしれません。
今年は紅葉を観に近江に行く予定です。湖南は柿の銘菓も多いし楽しみです。
柿は日本の風景に似合う果樹です。先日書いたように柿の文化も数多くあります。
我が生家の柿は渋いのですが野鳥が楽しみにしています。私は柿を啄む鳥を楽しみに待つ事にしましょう。これを「木守り柿」(きまもりかき)と云います先日天雅彦(あめのわかひこ)の葬儀に集まった鳥を説明しました。雀は粉ひき役でしたが。鳥に柿を残してあげるのは良い優しい風習です。
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我が生家に近い筆柿これは渋いので誰も見向きません。
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これは木守り柿に寄って来た四十雀。先日校長先生の写真に「四十雀ですね!」云うとこれは私の財布で”始終空だよ”言われました
私は四十からセカンドキャリアでしょうが、私は40から惑放しです。”言いました。


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日韓の仏像比較

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新聞で書評を観ていたら「韓国仏像史水野さや上智大教授著」が出ていました。早速に図書館に行って新書購入依頼を出すことにしましょう。水野氏は旧約聖書の研究が本職とされていますので、私と似た視点をお持ちなのでしょう。でも中京大学出版局からの刊行ですし、単価は4800円と高額です。図書館からの連絡があるのが待ち遠しい想いで洲が、連絡があるまでの間”自分ならどう考えるか?”水野先生ゼミ生徒になる意欲で書いてみる事にします。
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読売新聞の書評「韓国仏像史」水野さや上智大教授の著。

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我国国宝の第一号広隆寺半跏思惟像、筆者の学生時代はこの像は半島で作られた仏像で根拠は半島の赤松が素材)ところが昭和44年この指先を高校生が折ってしまった折に調査して躯体の内刳を分析した結果素材は樟の木である事が判明しました。今ではこの仏像は半島の帰化人の子孫が伏見から太秦に移り住んで広隆寺を創建して故郷の半跏思惟像をモデルに国内素材と漆で彫像したものと判断されています。
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これは対馬の観音寺の観音像。盗難にあって韓国裁判所が仮処分決定した事から世界中を唖然とさせました。こうして見ると装飾や頭頂部は弥勒菩薩で、印相は如来ですから弥勒菩薩と思うのが適当でしょう。
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これが韓国の半跏思惟像この像も話題の仏像で世界基準ではNYのメトロポリタン美術館の所有なのですが、現在は韓国宝に指定されています。同美術館で新羅美術展を企画し出典協力をしていたモノノ韓国は協力を拒否。屹度戻ってこないと懸念しているのでしょう。


”韓国の仏像”と云うと誰しもが広隆寺弥勒菩薩と法隆寺百済観音を想い出します。
特に広隆寺弥勒菩薩は603年(推古天皇11年)に秦河勝が聖徳太子から賜ったとの寺伝があって高校の授業では「素材は赤松であり朝鮮半島から伝わったモノであります」教わりましたから誰しも根拠がしっかりしているモノと思っています。でも韓国で文化財を観て廻れば韓国の仏像に木彫は滅多にみません。それに仏像よりももっと歴史ら民俗性に深く根差した古墳やお箸を観ると韓国の食事用具は箸(チョッカラ)とスプーン(スッカラ)共に金属製です。
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これは晴れの日に使う柳箸です晴れの日に使う箸は前後が先細です。素材も柳です。柳は聖なる木であるコト生命力が強く折れにくい事から好まれました。両端が先細なのは神と人が一堂で食べるからです。

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これが韓国の食事用具器もスプーンもお箸も金属製です。韓国は昔から金属を尊ぶ文化だったようです。写真出典みずたま雑貨店http://mizutama5.com/korea/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A9%EF%BC%88%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%A3%9F%E5%99%A8
箸と云う字は竹冠むりに者ですから、中国から箸文化が伝来しても金属に拘って来たのでしょう。元々半島は騎馬民族ですから肉を焼いて食べるには竹や木製の箸は不適当でバーベキュウで使う金串のような箸がルーツだったのかもしれません。
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     これは新羅の首都慶州の円墳です。
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 これは埼玉県行田市にある将軍塚古墳です。この他稲荷山古墳など前方後円墳が複数残されています。大規模な仁徳天皇陵や箸墓を例にするまでも無く日本では前方後円墳が一番多いのです。



古墳を観ても日韓では大違いです。
新羅の首都慶州で観た古墳は何処も小さな円墳でした。円墳には横穴があいていて玄室を覘くと高松塚古墳に似た石積み玄室がありました日本の玄室は巨大な岩を積み上げたものですが新羅の玄室は煉瓦のような石を積んだモノでした。日本の古墳の代表が前方後円墳であるのに対し、シンプルな円墳が多いのはその形に対する感覚が違っていたのでしょう。百済の首都のあった熊津(ゆうしん現在の忠清南道扶餘郡日本企業が進出している工場団地がある)では前方後円墳や日本流の宝石(勾玉)が出土したり、日本の影響も濃いのですが韓国の最大王朝のあった新羅の都慶州は高句麗との対立に備えて都を北の漢陽(ハニャン/現在のソウル)に移します。韓国文化は李氏朝鮮時代を通して一層北方騎馬民族色を濃くしたようです。日本は韓国に似ている、半島文化の影響を受けたのは事実だったでしょうが根源的な処で金属を重んじた騎馬民族と農耕を専業にした稲作民族の違いがあったように思うのです。
その違いに重きを置いて仏像を眺めると7世紀半島から海峡を渡った帰化人は重たい金属製の仏像を携帯しては居なくて日本に帰化してから日本の素材で故郷で馴染んだ仏像を製作したのだと推測するのです。
【広隆寺半跏思惟像の作者は?】
私の学生時代は”広隆寺の半跏思惟像は半島で作られ半島を追いやられた帰化人が日本に持って来た”思っていました。ところがヒョンな事件で調査され素材が半島の赤松では無くて国産の樟である事が判明しました。長谷寺のご本尊はじめ飛鳥時代の仏像は帰化人が日本の素材で彫像したもので木製が多い事が判明しました。其処で問題になるのは秦氏とはどんな帰化人だったかと云う事になります。
秦氏の神社と云えば松尾大社と伏見稲荷を想い出します。秦氏は半島で辰韓を建国していましたが新羅の抬頭で半島を追われて日本に亡命します。そして淀川沿いに定住します。
当時の日本は飛鳥時代でした。曾我氏は総じて中国【隋】を重んじまし結果。飛鳥寺などには北魏様式の仏像が招来されます。一方聖徳太子は半島の仏教に接近します。奈良平安時代を通して国難が続きます。時代のうねりは弥勒信仰を期待し、その期待に応える象徴が聖徳太子でした。そんな次第で日本の仏像は北魏様式は主流にならず、半島様式が主流になったのでした。白鳳時代の仏像も貞観時代の仏像も優しく柔和な表情でした。更に素材も木彫になったのでした。
【中宮寺半跏思惟像の美しさ】
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これが中宮寺の半跏思惟像此方も広隆寺と同じで半島の様式で国内産樟材でつくられています。
広隆寺の半跏思惟像に並び称されるのが中宮寺の半跏思惟像です。この像もクスノキでつくられています。中宮寺門跡では、聖徳太子が母君、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のお姿を刻まれた、と言い伝えられています。この寺伝に従えば聖徳太子は優しかったお母様を半島の半跏思惟像のお姿で彫刻させたのでしょう。そして樟の木肌に黒漆を塗って金箔を貼って裳は朱の漆で塗らせたのでしょう。それが歳月を経て金箔も色漆も落ちてしまい黒漆が表面に顕われました。人間の造形と長い歳月が美しい半跏思惟像を現出させました。でも。門跡寺院と云えども中宮寺は存続が困難でした。平安時代には密教が盛んになります。経済的基盤を喪失した中宮寺はこの弥勒菩薩像を流行の「如意輪観音」と表して信仰を集めたのでしょう。だから私達は広隆寺を半跏思惟像と呼び中宮寺を如意輪観音と呼んでいます。どちらも半島と同じで弥勒菩薩と呼ぶのが正しいのです。因みに弥勒信仰は所謂メシア信仰であって、現在は如何に苦しくとも遠い未来に神仏が出現して救済してくれるとする信仰です。平安時代には三井寺に引き継がれ日本仏教の大きな柱になりました。私達が真っ黒な弥勒菩薩に黒マリア像を髣髴するのは世界の宗教に共通する精神かもしれません。

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ベトナム祭りでフォーを食べる

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10月30日、横浜の日本大通りで開かれている「べトナム祭り」に出かけました。去年は藤沢の日大に出かけたのですが、ベトナムの魅力には適いません。
この日は寒くて水人形も開かれたのか解りませんでした。お嬢さんも民族衣装のアオザイを着せられて青ざめていました。風は冷たいし銀杏は臭いし、横浜は最悪と思っていたかもしれません。”昼はベトナムラーメンを食べよう”思って関内駅から会場に向かいます。でも屋台は海側や県庁前に集中しているようでなかなか食事にありつけません。仕方なくナッツを齧りながら屋台ゾーンに向けて進みます。
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横浜の日本大通りで開催されたベトナム祭りの会場。横浜市はベトナム難民【ボートピープル】を受け入れて以来ベトナムとは友好関係です。

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これは日本大通りに散っている銀杏の実です、耐え難い臭いです銀杏の実は捨てて置けばゴミですが拾えば美食です。横浜市にNPО法人「銀杏の会」を認定して貰って高齢者を募って銀杏を拾い集めて頒布して【捨てればゴミ拾えば資源】を身を挺して実施したいものです。
横浜には沢山のベトナム人が住んでいますし、我が家の近くの銀杏団地にはベトナム人対象にしたスーパーもラーメン店もあります。ベトナム人は見た目も日本人に似ていますし、私達の育った昭和の心情も持っているようですから格段の親しみを覚えます。横浜市内の大学でもベトナム留学生が目立ちます。今年は何処の大学のゼミが出店しているか関心をもってまわりました。横浜国大はベトナム産の生活用具を商っていました。私は本のしおり二つ求めました。でも神奈川大学明治学院大学(私の町内に横浜校舎がある)は影が見えませんでした。
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横浜国大ベトナム留学生学生会のブースでは生活グッズを販売していました。
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これが私が求めた栞です。左の栞は紙ではなくて簾にアオザイの少女を描いたものです。本はベトナム航空が配布していた中央ベトナム(ハイフォンやフエ)のガイドブックです。石仏もあるし雅楽も聴けるようで何時か行きたいと思いました。
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これはJICA横浜の屋台ベトナム珈琲は300円でティーは130円でした。菅笠は此処で商っていたのでした。私の親友だったY君はこの菅笠が似合う好人物でした。
ところで風は冷たいし腹が減って来ました。そこで春巻を求めて(一袋500円で4本入り)ワイフと仲良く分けて食べました。
ベトナムを稼ぎの場としている企業は揃って顔を出しています。JALにJTBにベトナム航空、一番気が利いているのがHISでした。名物のランタンの大型ポスターの前で写真を撮らせてくれます。二人連れには民族衣装も着させてくれます。私は此処で写して貰いました。気分はフエに行った積りです。
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ランタンのポスターの前でHISの社員にシャッターを押して貰いました。キャップはエースコックのブースで貰ったものです。
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県庁の前で、道路向かいが開港記念館皆温かいベトナムラーメン(フォー)を食べていました。何しろ寒かったので・・・・・。
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これは大阪のエースコック社のブースこの秋売り出したベトナム系列会社で製造してベトナムフォーで一番売れているというインスタントラーメンを日本に逆輸入して売り出しました。テレビCМでも出している様に販促に力が入っていました。私は此処で並んで一等賞を当てました(参加料100円)向こうの建物は神奈川県庁舎(昭和2年国の登録有形文化財何れ重文に指定されるでしょうキングが愛称です)です。
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これは抽籤器(ガラガラ)を回して一等賞を当てた商品インスタントラーメン二種類
フォーが沢山貰えましたので会場で立ってフォーを食べる事は止めて近くの中華街に向う事にしました。そこで運よく蘇州のラーメンンに出会いました。
翌日ワイフに香采を買って来て貰ってビーフ味のフォーを美味しくいただきました。
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これが抽選会で当った牛味のフォーです。
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これはベトナム祭りに行く前にテレビCМで知って求めた鶏出汁スープのフォーです。お人形は10年前にワイフと行ったベトナム旅行のお土産です。
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これは上記のフォーを食べた時の写真です。野菜は窓際で育てた水耕栽培の豆苗です



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三代の中華ラーメン

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横浜関内で開かれたベトナム祭りの会場を後にして、中華街に向かいました。出がけにはベトナムラーメン(フォー)を食べる積りだったのでしたが、エースコックの抽選会でフォーが当たったし、立ち疲れしたので椅子に腰かけてランチを取りたくなったのでした。日本大通りの会場から東に進めば中華街の玄武門です。500mも歩けば中華街ですから落ち着いて食べられます。玄武門近くに気になる看板がありました。ビルの1階に揚州商人の看板が見えます。https://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140104/14003120/
揚州と云う事ですから、日本人好みの味です。看板には鶏のスープに野菜が沢山載っています。黄河と揚子江の間の運河地帯が揚州で唐時代には世界から上人が集まっていました。鑑真和上は揚州の港から日本に来られました。中国人はこの港から世界中に出て行き華僑になりました。
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鑑真和上は揚州の大明寺から律を伝えに日本に渡りました。揚州から世界に進出した中華民族は華僑になりました。
習 近平(蘇州出身)は好きになれませんが揚州は好きです。ラーメンの写真につられて入店しました。
狭い店内には幾つも円卓テーブルが置かれていて既に満員状態です。雰囲気は上海屋台です。
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これが中華街の西横浜スタジアム東に出店している揚州商人の店頭子のゴタゴタ感が屋台の雰囲気を醸していて良いんです。
”3種の麺を選べます”と云うのは「細麺・太麺・刀削麺」から好みの麺をチョイスできるの意味です。
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これは舗道にまで出ていた写真看板です。この迷惑な姿勢が華僑らし異のです鶏ガラスープと中国美人に誘われて即座に入店しました。
店内の壁もゴタゴタしています。
棚が設えてあって、商売の神様でもある関羽が祀られています。
その隣にこのお店の「ラーメンに掛ける想い」が案内されています。
大正9年に現オーナーのお爺さんが日本に渡って北先住でラーメン店を始めたようです。
以来埼玉東京横浜に数店進出して今では首都圏に14店もあるラーメン屋さんのようです。http://www.yousyusyonin.com/shop/
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狭い店内に円卓テーブルが並べられ、棚も壁もゴタゴタ状態の店内です。
私が感心したのが壁の「口上書」です。現店主のお爺さんが大正9年日本に渡って来て北先住でラーメン店を始められて自分で三代目私達の血も中国の血は四分の一になってしまいました。”揚州ラーメンの美味しさをベースに日本人の好みを併せて美味しいラーメンを出して行きます”の口上はお客さんへの口上であると同時にお爺さんへの約束なのでしょう。
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これが親子三代のラーメン家業の写真、私の家族の写真を観れば4代目は日本の風俗にも溶け込んでいて幸福そうです。ズット美味しいラーメンを続けて欲しいモノです。
日本では「顔の見える農業」など作った人の顔に関心が向いて来ましたがこうして3代かけての心がけは尊いモノと思いました。華僑は自分中心で商売優先で好きになれませんがこうして頑固な処が良いモノです。
屹度14店もあるどのお店もこの横浜店と同じようにお爺さんの味を忠実に再現しているのでしょう。
私はワンタンをワイフは葱ラーメンを獲って分け合いました。
ところで大正9年(1920年)といえば辛亥革命(1911)の前で孫文は中華街から中国に戻って五四運動(パリ講和会議1919年の結論に怒った独立運動。お爺さんは不穏な情勢に危険を感じて日本に渡ったのでしょう。
お隣のОL二人組は餃子も取って白酒を飲んでいました。日本人は寒くなると熱燗にしてユックリ酒を楽しみます。セッカチな中国人は仲間が円卓に着くと一気に白酒を飲みます。
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これはワンタンです(740円)ワンタンが多いのでワンタンメンでなくて正解でした。
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これは葱ラーメン(830円)中国人のラーメンの食べ方はプラスチック(又はクジラの骨)の箸と陶器の匙です。日本人は木製の割り箸だけです。スープを丼から啜るのは中国人からするとマナー違反なのです。

鶏ガラスープと思って飲んだところが鰹出汁の味も混じっていました。お箸も杉の割り箸でした。日本人の好みを適当に入れて柔軟な姿勢で居るのは日本人の血が濃くなったからでしょうか?私はボンヤリと”日本の箸は木製で短いのに何故中国の箸は骨製で長いのだろう?”考えていました。
ベトナムラーメンも沢山貰ったし、美味しい揚州のラーメンも食べたし満足な一日でした。

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雰囲気は上海屋台です

元町のハロウィーン

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昨日11月3日は昔風に云えば天長節(明治天皇の忌日)でした。
ワイフは朝から明治神宮で奉納射会です。
夕方ワイフが帰宅してお餅を土産に帰宅しました。
神宮の道場で弓をひき参道に農産物の即売会があって、餅つきをしているのでしょう。
辛み大根がたっぷり絡んだお餅を美味しくいただきました。
もう5年も前には新潟の浦佐の毘沙門堂で菊花展を観ました。
魚沼は何処に行っても収穫に沸いていました。魚沼神社では新嘗祭で、八海山も新酒が奉納されていました。
地方は新嘗祭で湧いて居る季節、都会ではハローウィンです。
ハローウィンは10月31日、新嘗祭は11月23日です。
カレンダーを観れば陽暦の11月23日は陰暦では10月24日と表示されていますから、ハローウィンも新嘗祭も略同時期なのです。
ソモソモ、ハローウィンはケルト人の収穫祭で、彼等が新大陸に移った事から米国でハローウィンが季節行事になって、日本人も流行り出したのでしょう。
今年の渋谷の喧騒をテレビで観ていると既にクリスマス以上に盛り上がっているようです。
クリスマスは酔っ払いが街で大手を振っているのに比べて、、ハローウィン子供や若者が仮装して「トリック・オア・トリート」と言っている方が可愛いし市民性もあります。収穫祭だ新酒祭りだと云った方が俄かキリスト教信者よりも後ろめたさもありません。
さて能書きはこの程度にして1わたしはつい先日ハローウィン気分を楽しみたいと思って地下鉄に乗って横浜の元町に出かけてみました。
何処も商店街はシャッターが閉まっていて不冴えです。横浜でも伊勢佐木町の退潮は残念です。横浜駅の一人勝ですが、横浜駅も交通の便が良くなって渋谷や日本橋にお客を奪われるのは眼に見えています。
浜っ子にすればせめて元町は頑張ってほしい想うものです。私達夫婦が学生時代はハマトラと云えば一種のステータスがありましたが、今では死語になってしまいました。
”ハマトラを支えたお店も頑張ってほしい”エールを込めて”元町でハローウィン”です。
予定通り元町商店街に着くと(午後2時前)早引けの女学生が真っ直ぐ自宅に帰るか寄り道しようか?迷っている風でした。
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女学校の坂を下って元町モールで駅に向かうか躊躇する女学生お菓子の配布を午後3時に早めれば彼女達も喜ぶのでしょうが。午後4時からでは小学生も中学生も参加できません。
実はこの観察が重要で、商店街はお菓子の配布時間を午後4時からと決めないでもう少し早くするか各店の自由裁量にするべきです。午後4時まで待てない子供が多いのです、お店の都合でなくお客さんの都合に合わせて決めるのが大事でしょう。
モールには幼稚園児が悪魔の仮装で”ハッピー・ハローウィン”叫びながら歩いて行きます。
店員も仮装して、「トリック・オア・トリート」云われる前にお出迎えお菓子をあげています。
要領の良い子は首からお菓子袋をぶら下げています。
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元町のモールを行く幼稚園児達向こうの丘陵が女学校のある山の手で神社は厳島神社です。
子供達の目的地は近澤レース店や北村のお店のブロックです。この前来た時は街路樹の百日紅を観に来たので日傘が並んでいました。
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元町モールのキタムラ本店で店員も仮装して子供達を迎えていました。指さしている向かいもキタムラのお店でアッチに行けばお菓子が貰えるよ!言っているのでした。保護者も子供を喜ばせるのに懸命です。
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キタムラ本店の向かいには撮影コーナーがあってお菓子も配っていました。元町のリーダーキタムラもその2階を改装して名古屋のコメダ珈琲をテナントにしています。期待に反して楽な経営ではなさそうです。
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キタムラ本店前に人力車で遣って来た外人さん人力車に乗せられるか懸念される立派な体躯で居られます。去年に比べれば外人さんがお目立ちです。着物も着て写真も撮って横浜を満喫されているようでした。
元町モールは所々歯抜けが目立つようになっていました。テナントの出入りも目立つようです。流石に1丁目から4丁目まで往復すると疲れて来ます。
ポンパドールで休憩も考えましたが1丁目に来ると杉養蜂店が出店していることに気付きました。ソフトクリームが300円でカウンターで休めるようです。
店員に訊けば杉養蜂店は熊本の会社だそうです。
鎌倉でもお店が目立っています。
阿蘇草千里のお花畑を瞼に浮かべながら甘いソフトを舐めました。ワイフの渋い顔も浮かんできましたが・・・・。
入ってみればカウンターにカリントウが置かれていて”好き勝手にどうぞ”としていました。
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これが杉養蜂店http://www.0038.co.jp/ec/のソフトクリームとカリン糖
カリン糖を食べながらソフトクリームを戴いて時計を見れば未だ3時です。子供達が出て来るには未だ1時間もあります。大凡様子も解ったので地下鉄に乗って家に帰る事にしました。脳梗塞で倒れてこの冬で丸3年、初めての一人でのお出かけでした。
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此方はポンパドールの店頭奥にイートインがあります。
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ショーウィンドーにはもうクリスマスもありました。気が早いと云うよりもモールの教育が出来ていないと思いました。小学校の運動会と同じで不揃いだと興が乗らないものです。


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北朝鮮の農業施策を考える

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11月に入って急に冬景色になって来ました。
気が付いてみれば今年は松茸を食べていません。
”香り松茸味シメジ”と云いますからせめてシメジだけでもたらふく食べたいものです。
そこで山形の飯豊山麓の農家民宿に電話をしたところシメジも獲れるし熊も出してくれるというので早速出かける事にしました。今回もマタギのように敏捷な親友が付き合ってくれるので安心です。私の泊まる民宿は飯豊町大字岩倉と云う処で岩倉神社は熊祭りの会場で素から楽しみです。
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此方は今年も食べられなかった松茸様写真は上田別所温泉の松茸小屋TBSのバス旅の画面を写しました。
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別所温泉の裏山は赤松林です。麓は塩田平と呼ばれる美田が広がっています。赤松の落葉と溜池水田の資源の循環に合わせて人間は生活する事が一番に幸福なのでしょう。写真は上段と同じ

処で、松茸ですが数年前までは国産に拘らなければ庶民でも味わえました。何といっても北朝鮮産の松茸が出回っていましたから・・・・・。小泉さんは北朝鮮に出かけてお土産に松茸を貰って帰って来ました。私世代は北朝鮮は金日成から金正日そして現在の金 正恩(キム・ジョンウン」と三世代を観て来ているわけですが、三代目は最悪と云うか何をしでかすか解らないだけに怖ろしさがあります。何処かの坊ちゃんが「スーパーカー」を乗り回しているのなら、ハンドルを間違っても自爆するだけですがミサイルの発射ボタンを握っているとなると背筋に寒さを覚えます。
安倍首相が民意に反してNPT政府が核拡散防止条約に消極的なのは日本の原子力技術や宇宙開発技術が北朝鮮のそれを凌駕していて、北朝鮮次第では半年も在れば北朝鮮を凌駕する核兵器を用意する潜在能力があると云った事実を存続したいのかもしれない・・・、憶測したりします。
それでは広島や長崎で亡くなった人に申し訳が出来ません。
1990年代の北朝鮮は惨憺たる状況だったようです。食糧危機で氷結した鴨緑江を脱北者が渡って来ました。テロかクーデターが何時でも起りそうな気配でした。ところが最近テレビに映るハノイの景色は大分違います。
どうも私達は北朝鮮の現状について情報操作されているか、目隠しされて居るような気がします。最も気に懸り、危険と思う隣国を知らないでいるのは良く無い事です。
私が知っている北朝鮮について整理してみます。
1、【金日成時代の農業政策】
先ずは金日成時代の農業政策です。明らかに金日成は北朝鮮をソ連をモデルに率いていました。それはコルホーズと呼ばれた集団農場政策でした。ソ連が崩壊したように北朝鮮の集団農業指導体制も失敗しました。
一生懸命働いても工夫しても収入は変わらない均一だという事は労働意欲を阻害しますし。麦等の雑穀には適していても米作にも向いて居ません。
北朝鮮の風土は日本の飯豊山麓とあんまり変わりません。山谷の多い地勢です。そこで田圃を増やそうと思えば木を伐採して田圃に変えました。結果河川は直ぐに洪水になり農村は地滑りに押し流されました。天災に弱い国土になってしまったのは容易に想像されます。
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中朝国境から観た北朝鮮の山林開墾状況自然を無視した無理な山林開墾が飢饉を招来しました。写真出典北朝鮮専門ニュースサイトjジャパンNKデイリーhttp://dailynk.jp/archives/33436

2、【金 正恩の現実的な変更】
屹度金 正恩はお爺さんの始めた北朝鮮版のコルホーズを転進させたのでしょう。モデルは中国であったと思います、農民のヤル気を刺激するために「田圃担当責任制」を施行しました。ヤル気のある人工夫をする人の意欲を刺激したのでした。山を切り開いて無理に大きな田圃にすることは止めて棚田に戻しました。結果地滑りは終息しましたし。都市近郊の農家は金銭収入が増え田でしょう。山村の活況はソウルなどの都市の繁栄を支えたと想われます。中国の農村部と上海や北京のような状況が北朝鮮に観られるようになったのでした。
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急速に都市化するソウルの光景国土の過半を占める農村の復活が北朝鮮の地震を回復させていると思います。懸念されるのpは国家の体制です。既に携帯が普及している状況から何れこの非常識な体制が崩壊すると思います。その時に指導者が自暴自棄になって核のボタンを押さないか?危惧します。
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これは2012年佐渡に漂着した脱北遭難船です。最近はこんな暗いニュースも聞かれなくなって金 正恩の現実路線は先ず順調なようです。
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拉致問題も前進しません。早く横田ご夫妻の安堵の笑顔を観たいものモノです。横田めぐみさんの骨と偽って遺骨が届けられDNA検査の結果偽りが発覚して日本人は怒り心頭でした。でも北朝鮮の風習が直接埋葬であり日本が火葬であって風習の違いと思えば一方的に怒るのは疑問です。我が国にも北朝鮮の立場で考える度量が無いと無為に時間を浪費してしまいます。写真出典は画面の通りhttps://www.youtube.com/watch?v=cWrRFllIUFc

3、【我国の農業政策は】
ところで気になるのは日本の農政でも
日本の農政は未だ金日成のそれと同じなのです。
流石に日本ではコルホーズをモデルにはしませんでしたふぁ。カリフォルニアやオーストラリアやニュージーランドの大規模農場をモデルに機械化大規模化を急ぎました。全国の棚田は大きな田圃に集合させました。結果美しい山村風景は消えて、少し雨が降れば地滑りして河口は洪水になるようになってしまいました。今農村は都市労働者の供給源の位置づけです。
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戦後我国は美しい棚田を無くして大規模化機械化を選択した結果。農村の過疎化が進行し、自然災害に弱い国土になってしまいました。
北朝鮮はモデルをソ連のコルフォーズにしたように我が国はモデルをカリフォルニアに置きました。北朝鮮と大同小異でした。国土に適した選択をすべきでした。それは『農業も林業も漁業も含めて資源の循環に合わせて人間のライフスタイルも経済も循環させて未来に繋ぐ…、」と云った視点だと思うのです。
【米作しか未来が無いという事】
既に地球上に70億人が住んでいます。将来に亘る食糧危機は今後一層深刻になる事でしょう。
麦をはじめとした雑穀ではこれだけの人口を養えないのは明白です。人口を養えるのは米だけなのです。
明白なのは「少しの人が広い農地を占有して大規模農業を経営する事では無くて「「沢山の人が農業に従事する事です。自ずから一人あたりの農地は狭くなります。狭い農地を分け合って耕すモデルは棚田です。
棚田には牛を使って小型トラクターを使って年寄りも青年も奥さんも働きます。何のことは無い戦後農業改革によって小作農民が急増したあの時代に戻すのが正しい選択なのです。江戸時代末期にはカリフォルニアの農家にも劣らない大規模農家が新潟にも山形にもいました。今政府の施策は企業化といった手法で大規模化を推進しています。農業は環境施策であり国土保全施策であり福祉健康施策であります。視野の狭い山本有次農林水産大臣い過大な期待はしないで。省庁横断的に知恵を集めてアフリカの国々が驚くようなベストチョイスを見つけて欲しいと思います。

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遊行寺の木の実は薬か毒か?

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私は父から”秋には根菜を食べなさい”教わりました。父は禅僧でしたから『これから厳しい冬を越すには夏の間に野菜が貯えて滋養分を摂食するのが良い』と教えたのでしょう。そんな次第で藤沢の遊行寺に向かいました。と云うのは水曜日に川根のお百姓が軽トラで野菜を運んで来て遊行寺の境内で即売するのです。安いし新鮮だし。ご利益もあるし此処で近時高価な野菜を求めるのは理に適っています。
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これは自然薯を料理する総持寺の典座『出典野菜の食べ方』

遊行寺が近づくと芳香が漂ってきます。何かと思えば柊が咲いているのです。流石に柊も金木犀と同じ仲間です。芳香と云う事では金木犀に負けていませんし。純白の花と濃い緑のコントラストが新鮮です。でも花を覘き見れば其処に女郎蜘蛛が編を張っています。自然界はアッチコッチに罠が仕掛けてあるのです。
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これは柊の垣根。白い花が芳香を放っていました。でも女郎蜘蛛が巣を張って待ち構えていました。

遊行寺の境内に入ると一転して不快臭が鼻を刺します。
此処は時宗の総本山ですから「不許葷酒入山」ともされていません。でもこの臭さは堪りません。原因は銀杏の果皮の腐敗臭です。銀杏も種を守るためにワザと果皮を臭いモノにして猪などに食べられない様にしているのです。栃の実は硬いが居果皮で包んで栗は剣山のようなイガで大事な子孫を守っているのです。林檎や柿のようなお人好しでは賢い猿に食べ尽くされてしまいます。
遊行寺の大銀杏は屹度男性なのでしょう、実が着きません。でも敵味方供養塔や小栗判官参道方向の銀杏は女性なのでしょう。女性の樹は沢山を実をつけて丁度落果させ始めた処です。例年だと近所の人が拾いに来るのですが今年は未だ拾われていなくて車に轢かれてしまったり、U字溝に落ちたりしています。そんな銀杏が悪臭を放っているのです。
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遊行寺のランドマークツリー大銀杏は少し黄葉し始めた処です。この大木が女性だったら遊行寺中が臭くて困ったモノだったでしょう。幸いに裏口の銀杏が女性で実をつけるのです。
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これは小栗判官墓地に入る参道に散った銀杏の実自動車に轢かれたりU字溝に落ちて腐敗し始めた果皮が悪臭を放つのです。
私の祖母は良く銀杏を食べていました。特に栃木の郊外の真名子村の住職になった末の子から送られてくる銀杏が好みでした。水神池の畔にある大木で住職が掻き集めて谷川に晒して送って来るものでした。先年その叔父も他界しましたが叔母様も従兄弟(現住職)も元気なようですから何時か出かけたいと思っています。祖母の話では銀杏は活性酸素を抑え動脈硬化や心筋梗塞などの生活習慣病から守ってくれるし。免疫力を高めてくれるので風邪もひかないで済むそうです。要するに現在の私には銀杏は万能薬と云う事です。」
拾いまくっては粉末珈琲の瓶に入れます。ワイフは私に着きあいながらも「昨年の銀杏が未だ残っていますよ」言います。
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遊行寺の藤棚にブル下がった藤の実
ソロソロお腹も空いたし帰る事にしました。予定していた川根町の野菜売りは来ていませんでした。今年は出来が悪かったのか、水曜日でも毎週と云う事では無いのでしょう。トイレに寄って指先を洗って悪臭を消すことにしました。トイレの入り口には藤棚があります。昔から大きな藤が自生していたのでしたが。欅の木に絡まっていたものを藤棚を整備して誘導したものです。藤棚の下に入ってみれば見事に実がブル下がっています。巨大な枝豆加か豌豆豆と云った姿です。「これは食べれるかな?」考えてみました。
奈良の春日大社には名物の藤がありますし、春日奥山にも飛火野にも囁きの小路にも藤は沢山自生しています。でも鹿は食べないようです。鹿が食べないという事は有毒と云う事でしょう。でも有毒と云う事は薬にもなるという事で。屹度上杉鷹山は「かてもの」に加えて救荒植物としたと思われます。この自然界にある植物で有毒な植物は無い筈です。食べ過ぎれは有害ですし、少量を水で晒して灰で毒消しするれば薬になる筈です。
トイレの横に遊行寺茶屋があります。真っ赤な烏瓜と花茄子を栽培していました。。烏瓜は食えるかな?「花茄子は不味いだろうな?」思って眺めます。
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これは烏瓜悪食の烏さえ見向きもしないほど不味いと聞いていますが果たしてどうでしょうか?青いうちは美味しかったりして?
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これは遊行寺茶屋が栽培した花茄子私の直感ではミニトマトは美味しいし花茄子も茄子と同じ味だと思うのですが。誰か食べて報告して貰いたいものです。花は紫で綺麗だし熟洗馬朱くてまた綺麗で。食べれば茄子と変わらなければ三度も役にたちます。我家の唐辛子も今になって真っ赤で綺麗です。

コゲラ君ご免なさい!

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私が脳梗塞で倒れる前までは庭木の手入れを楽しみにしていました。でも発症以来どうにもなりません。道路に落葉するし雨で樋は詰まるし困ってしまいました。毎年沢山の野鳥が集まって来ます庭木に絡んだヒヨドリジョウゴも赤き熟してきました。ヒヨドリは今は槇の実を食べていますが次は自分が撒いたヒヨドリジョウゴを食べようとしているようです。
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これは槇の実です。槇の枝を落としたので庭に散っていましたワイフが拾ってヒヨドリの餌にあげる積りのようです。この実が無くなっても未だ山無花果の実もヒヨドリジョウゴの実も残っています。
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この左の石積みの上が我が家です寺の参道に張り出しているのが臭木と梅です。最も面倒なのは白木蓮です。

毎年横浜市の『緑化税』を払っていますので”「垣根もあるし緑化には協力している」ので植木屋の補助はないのか?”訊いてみました。でも何もないと確認したので仕方ありません。自腹で業者に頼むほか策はありません。
今年も落ち葉の季節になって来ました。大風が吹けば我が家の庭木の落ち葉がご近所に迷惑をかけます。そこで今が適時とばかり業者さんにお願いして伐って貰う事にしました。欅が3本臭木が一本以上4本は根元から伐採で槇と梅と白木蓮は枝撃ちです。業者さんは”これはひどい”思ったでしょうが巨大な梅や棗を確認して”お得意様”になると思ったのが、私が年金生活と見極めたのか随分お安くしてくれました。
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これが横浜緑税当初は平成25年までの約束でしたが5年間延長されました。900円/一人当たりの逆進税ですが一度懐に入ると欠かせる事は出来ないようです。当初の説明は何処にやら横浜市の緑はドンドン減って来ています。せめて老人世帯や身障世帯の庭木の手入れには補助をしてほしいと思います。雪国では除雪手当のように。」
いよいよ明日から伐採されると云った3日は好天気でした。庭木を眺めていると入れ替わりに野鳥が遣って来ます。
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白木蓮の脇の下を突いているコゲラ君。この木枯し紋次郎の合羽のような模様が堪らなく粋だと思うのです。この縞模様がお腹に在れば隣のトトロのようですが・・・・、それはツグミです。
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此方はピラカンサスの実に来たツグミ
初めは四十雀が群れて居たのでしたがサット消えました。するとコゲラが夫婦で遣って来たのでした。四十雀にすれば同じ食性のコゲラに追っ払われたのでしょう。
コゲラの模様は中々粋でお洒落です。歌舞伎役者の浴衣姿か竺仙の手拭を思わせます。火消しの半纏にも見えます。
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白木蓮から紅葉の樹に移ったコゲラ君
コゲラ君はカップルで、白木蓮の脇の下を突っ突いています。あんまり熱心に突っ突いて脳振頭を起して落ちて来ないか心配ですが屹度脇の下に虫が潜んでいると確信しているのでしょう。
四日の早朝業者さんは3人で遣って来ました。根元から伐採する木枝打ちで済ませる木各々テープで印をつけました。そして5日も3人で遣って来て遣り残しを整理して綺麗に掃いて帰りました。ワン君も鶉も陽が当って気持ち良さそうに陽だまりをエンジョイしています。屹度来年は今年以上にスモモも収穫出来る事でしょう。
大満足の庭木のお手入れでしたが。気の毒なのはコゲラ君と女郎蜘蛛です。蜘蛛の巣が片破れで風に靡いています。早く産卵して今年はもうご臨終ですよ。
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伐採を終えて見違えるように陽が差し込んできた我が庭右側の小屋は鶉を飼っていますが寒くなって全く卵を産まなくなってしまいました親爺の健康の為にも頑張って下さいよお前がサボると納豆が進まないよ。


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マタギ集落を体験する(山形県飯豊村)

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10月28日の新聞に北秋田のマタギ村の記事が載っていました。
私は自身の血に縄文人のそれが流れているを自覚しています。ですから全国の縄文遺跡を観るとワクワクします。
吉野の宮滝遺跡の縄文土器を観た時などは。縄文人は奈良県でも生きていたのか感服しますし、日本最古の狼や山の神の祠を拝見すると感激したモノでした。
今年は秋田で熊に襲われて死亡した人が出たり熊の胃袋を調べた処人の肉が確認できたことから、この先人間が熊嫌いになるのではないかと心配したりします。狼が大神として畏敬されていたものが、狼が人間の生活を脅かすものであった事から狩猟の対象とされ、特にスポーツハンティングが盛んになると絶滅してしまいました。今更ながら狼不在の悪影響が林業の衰退(カモシカが苗を食べてしまうなど)等を招いていると指摘されています。
私は新聞記事を観た途端に秋田に行きたくなりました。
その時に待てよ”秋田まで行かなくても自分の好きな山形にもマタギ集落が在った筈だ。日文研のサークルで学生が飯豊山麓のマタギをレポートした事があった。”想い出しました。
白神山地は日本一のブナ林ですが、確か第二位のブナ林は飯豊山麓だったはずです。
そこで飯豊村の観光協会のサイトで農家民宿を確認しました。http://www.iikanjini.com/minsyuku.html
10軒程の農家が民宿をしているようです。一泊2食で9800円は皆同じですから農家民宿の横のつながりは強いようです。手短に各民宿の特徴が表記されています。
天気予報を観ると11月6日。7日が連続した晴れの日でそれを過ぎるともう雪に閉じ込められてしまいそうです。この二日間泊2日の旅行をワイフに誘ってみました。ワイフが女子高生時代勉強したという上杉鷹山を研究するには米沢は最高です、でも懸念したように私の運転を反対して、同行してくれない事になりました。
止むを得ず隣駅のT君を誘いました。ティー君の合意を得て早速に農家民宿の予約を始めました。中村さんの家は「熊」を特徴にしています。中村さんならマタギの末裔かも知れない加えて熊汁を案内してくれるかもしれない、思って電話しました。でも該当日は中、村さん宅は満宿だそうで謝絶されました。次に電話した農家は牛を飼っていることを特徴にしていました。そこも満宿で駄目でした。
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米沢駅の観光案内所の電飾表示板。写真の上側が新潟でイザベラ・バードの『日本奥地紀行』に記された街道になります。手前側が会津で飯豊山を越せば喜多方です。花笠描かれた場所が飯豊村中津川地区になります。其処に1泊しました。
私は飯豊観光協会のメンバーの最後尾にあった「庄太郎さんTel.0238-77-2529」に電話しました。お婆さんが電話口に出られました。
”空いてだろうけどまた電話してください”頼りない返事です。
そこで夕方6時頃に再電話しました。
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11月6日午後3時頃飯豊村の県道378線を喜多方に向う 雪雲の切れ間から陽が差し込んでいました。

すると
”ぜひお越しください、何時頃着かれますか?”言われます。
”日没前に着きます、ところで熊汁食べられますか?”ネットで調べるとお近くの岩倉神社で今年5月に熊祭りを再開されたそうですが、其処に山の神は祀られていますか?”訊きました。
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6日の3時過ぎ農家民宿「庄太郎」に着きました。灰色の軽自動車が私達の世話になったレンタカーです。庄太郎の主人は庭で薪割りをしていました。クマ出没注意の幟が奥地にきた感慨を深めてくれました。

電話口でお婆さんに確認する声が響いて、”山の神は祀られていますよ”良い返事です。
そんな次第で11月6日出発七日帰宅の慌ただしい旅行でしたが昨夜無事に帰宅しました。
そんな次第で、今日から数回に分けて飯豊村のマタギの民俗文化を紹介します。
結論から言えば6日は曇天でしたが7日は快晴でブナ林は美しく照り輝いていました。6日は冬の飯豊村の陰鬱な体験を7日は晩秋の陽光を浴びて快適でした。そして何より楽しかったのは農家民宿の居心地の良さと伝統や習俗を確認できた事でした。
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7日の朝民宿の窓から見た景色白川に川霧が立ち込めていました。道路の右が喜多方で左は米沢になります。白川は最上川に合流します。飯豊村中津川は最上川の水源でもあるのです。手前の池は屋根に積もったりした雪を一時捨てる池です。此処で雪は溶けて川に注がれます。
7日は快調に廻って予定より1時間半も早く帰宅しました。リュックには大きな林檎6個と民宿でお土産に戴いたコシヒカリの新米を2キロも背負って帰宅しました。上野で新幹線を乗り換えれば良かったのでしたがと東京駅まで乗ってしまいました。お蔭で東京駅では座れず。横浜駅まで吊革に掴まっていました。つい3か月前までは「誰か立ってくれないかな?」思ったものでしたがたとえ杖をついていてもリュックを背負った爺さんを気遣ってくれる人は居ません。「誰からも気遣いされないのも嬉しいものだ」思いながら30分間のリハビリをしました。家についてお土産品を開帳しました。
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これがマタギ村からのお土産です。林檎はジョナゴールド、ラ・フランスもありましたが食べておいしかった林檎にしました。手前は大黒シメジです。JAで林檎とシメジで1000円でした。蔓細工は農家民宿のお婆ちゃんが手作りしたもので。ご主人が山に入ってマタタビの蔓を採取晒した後お婆ちゃんが編んだものです。私はお土産持参した事も在ってか6千円で譲ってもらいました。山ブドウの籠に較べれば雅な感じがします。お米は奥様がお土産に下さったものです。今晩は大黒シメジを焼いて汁にして飯豊村の有機新米でご馳走です。

ワイフに
『和布団でも大丈夫だったよ!寒くて三度もトイレに行ったのだけど、もうベッドでないと駄目といった状態は脱したよ』云えば
『良かったでしたね。お友達が世話して下さってくれたから。マタギ村まで行けるようになったのでしょうね』云います。実にその通りですが、美しい天然と美味しい食べ物、優しい文化や習俗に触れる事が動機で、助けてくれるのが同じ興味を持つ友人です。これから数回に分けてマタギ村の自然や人情習俗文化を綴ってみようと思います。よろしくお付き合いください。そして、少しでも共感が湧いたならば何時かの日に飯豊村の農家民宿にお出かけください。
天気予報通り今日8日は横浜も曇天で寒いです。今夕から飯豊村は積雪だそうで、これから半年は雪の下だそうです。そんな風土だからマタギ村の家族は寄り添いあって自然の恵みを大切に生きているのでしょう。
下の写真は庄太郎(これは屋号で現在の主人は4代目で写真の坊やが5代目になりんだそうです。これは地元のパンフレットで坊やも家も庄太郎です。
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写真は飯豊村のパンフレット写真が民宿庄太郎5月でも5m近い積雪が残っているのだそうです。
明日は庄太郎家で戴いた熊汁を書きます。


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熊の習俗

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”日本人のルーツをどう考えるか?”ズット考古学者等の最大の関心事でありました。
柳田国男等の民俗学者は日本人は”主として海上の道を辿って、南方から来た”主張しました。(南方説)
一方、戦後になって江上波夫等は北方の騎馬民族が日本に渡って大和朝廷を創設したと説きました。(騎馬民族説)
戦後は石田栄一郎など文化人類学者は総じて騎馬民族説を唱えています。
私の学生時代法は古い民俗学よりも新しい文化人類学の方が人気もあって、騎馬民族説が主流でした。
と云うのは、古事記も日本書紀も風土記も総じて南方民族の習俗に通じる点も多いし、皇国史観にも符牒していたのでした。南方の民族が稲作と云う文化を伴って日本列島に定住して先住民を導いて大和朝廷を創設したその英雄が「素戔男尊」や「日本武尊」だと説明したのでした。ですから民俗学者は日本人のルーツは南方で大和朝廷も南方民族だと示唆したのでした、
ところが南方民俗よりも先に日本に定住していた人がいた事は間違いありません。
旧石器時代新石器時代の遺跡や縄文遺跡は。記紀の時代以前から定住民がいたことを証明しています。
大和朝廷は縄文人が稲作の大改革をして、新種の稲をゲットして作った古代王国だった可能性も残しています。江上波男等は半島遺跡(高句麗や夫余/フヨ遺跡)と古墳時代後期の遺跡が類似している事から既に定住していた北方民族が大和朝廷を創設したと推測したのでした。
でも最近の生物科学の進歩は大半の日本人のDNAが南中国(越/春秋戦国時代楚に攻められての民俗は今のベトナム等に逃げるか海上の道を日本に渡った)と説明しました。ごく最近は実験考古学と称して葦船を作って越から日本に何回の島々を渡ってみたりしています。
総じて云えば紆余曲折を経て現代は大和朝廷のルーツは南方民族と云った説が優勢のようです。
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今年の夏葦船を作って中国の越の民族が南方の島々を伝って黒潮に乗って九州に渡ったと云う仮説を実証する冒険が行われました。(写真はNHKテレビ)
そんな次第もあって、私は大和朝廷によって征服された在来日本人の子孫だと思っています。
ですから阿倍 比羅夫(7世紀)だ坂上田村麻呂(8世紀)と云うと、あんまり好きになれません、逆に征夷大将軍に平定された阿弖流為(蝦夷のリーダー)に同情してしまいます。
【(マタギとは】
「マタギの語源は何かしら?」不思議です。同行のT君とも議論をしました。私は『飯豊の権現様に供物を奉げた処』、T君は『明治政府が米沢藩所有の山林を農民に賜った処』と云う考えましたが、二人とも漢字の「賜」に執着したのが間違いだったようでした。博物館や民宿で訊いて結局米沢駅の観光案内書で解説文書を戴きました。その解説は次のように「アイヌの言葉がルーツだと説明していました。
マタギの字は「」で獣偏に又と書きます、獣偏に鬼でも「またぎ」だそうです。アイヌ語で狩猟者を「マタンギトノ」と云うのでこれから転じた語という説でした。
私の今回のツアーは山形県「置賜/おくたま」ですから「置き霊」が語源かと思って観光案内所「米沢駅」で確認するとアイヌの言葉だという解説文書をくれました。マタギは『アイヌ言葉を漢字に当て嵌めただけ』だというのです。またマタギは日本人が東北以北の山の民を呼んだ名前と皮う説もあります、彼等山の民は『織物を知らず獣の皮や木の表皮を割いて着ていた股木(またき)と云う』説もあるようです。
一方本州に住んでいた人達は古代には蝦夷と呼んでいたのですが、近世になると蝦夷の人達のうち山の民を「マタギ」と呼んでいました、里の民は本州人と見分けがつかないのに対し山の民はは『織物を知らず獣の皮や木の表皮を割いて着ていた』のでした。だから東北以北の山の民を「木のパンツをはいた人」と云う意味でマタギと呼び。マタギには『他藩の山でも自由に出入り猟をしても良い』特典を認めていたのでした。マタギには山の民固有の生活習慣や修験道に通じた信仰が脈々と存続していたのでした。
解説を信じれば、アイヌ人は南は山形から秋田までも棲んでいて、古代大和朝廷が軍事力と稲作技術で彼等を本州を追い遣って北海道に逃れさせたという事になります。
【復活した飯豊の熊祭り】
アイヌと云えば熊祭りですから、飯豊でも熊祭りが残っていて自然です。
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飯豊村のクマ祭り写真出典飯豊観光協会http://www.town.oguni.yamagata.jp/tourist/event/kuma/kuma.html今年の5月に復興したのだそうです。善い事です。
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飯豊小玉川の熊祭り会場(今年の5月4日/みどりの日に開催されました(写真出典は小国町観光協会)私達の宿泊した中津川地区よりも下流です。写真出典は上と同じ。
あるが,マタギの名は『東北地方の山岳で狩猟をする人達』の意味で使われ、山をまたいで歩くからとか,山中を他領に越境して猟をするけんりのある山の民の意味やマタギの衣服がパンツに木の皮を剥いで穿いているので股に木だと呼んだりして何れもその生業も習俗から信仰に至るまで里人とは違っている事を指摘しています。アイヌ語が語源であれ大和言葉が語源であれマタギはその
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これは小国町で再開された熊祭りの写真です。写真出典は小国町観光協会

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飯豊村の博物館のパネルの「森の生態系」もぶなのもりは沢山の命を養ってくれていることが良く解ります。熊も狐もリスもカケスも山鳥も日本人の説話には欠かせないスターです。
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これは水源の森にある博物館に置かれていた月の輪熊の剥製ヤッパリ生態系の頂点は熊ですからアイヌは北海道もマタギも「山の神」の紳使です。
マタギの言葉自体はアイヌ言葉が語源でも、本州人は織物を使っていましたから彼等の事をパンツに木の皮を使っているといった意味で「マタギ」と差別して呼んだのでしょう。
デモ現代人から見れば腰のパンツを虎ならぬ熊の皮や樺の皮を使っているのはワイルドで魅力的です。中世以降近代までは、差別用語でも今は尊敬言葉です。
飯豊村の「水源の森」に博物館がありました。石器時代の遺跡から縄文時代の遺跡等も展示していました。6日は開館していましたが7日は休館でした。でも職員は出ていた斧を片手に水源の森の手入れをしていました。
”これからブナの森を散策したいのだが?”と聞けば白川ダム湖の上流で正真正銘の最上川の源流で職員がジープで入る道を案内してくれました。
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飯豊村の「源流の森」センター施設の2階にある博物館に展示されている新石器時代の遺品、この他にも縄文土器や旧石器遺品も展示されていました。写真の石皿の上に栃の実等を乗せて粉に曳いたものです。左は火起しの道具です。
細い調査道を歩いて下って来ると道路に大きな糞が落ちていました。今朝は狐の糞も民宿の奥様に教えてもらいました。狐の糞の5倍はボリュームがあります。そんな巨大なのは熊に間違いありません。今夏の井天候不順もあって今年はブナも凶作だったようで、熊はしっかり食べて脂肪を蓄積しないと越冬できません。食べられるものは怖い人間でも食べておかないと凍死してしまう。凶暴になって事件を頻発させているのは熊の自己保存の本能なのです。
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これは熊の主食であるブナの実の凶作の年に熊がでる事を示す図(出典飯豊村の広報パンフ)
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今年の熊の目撃マップ飯豊町村役場にも出て来たそうです。もう山形県は全域で熊が出ています。飯豊村は写真の下から峠を越えて福島県の会津にぬける街道にあります。
【熊汁を戴く】今回のツアーの目的の一つが熊を味わうことでした。予約した時”今年は熊さん食べられます?”念押ししておきました。民宿庄太郎の奥様は4時間も前から薪ストーブに大鍋を乗せて熊汁を用意して下さったのでした。熊は山の神のお使いですから、熊を戴く事は神使の命を私の体内に取り込むことになります。麻痺した体もシャッキとすることでしょう。
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この薪ストーブの上で4時間も煮て熊汁は出来ているのです。よそって下さるのは庄太郎の奥様
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熊汁の大鍋の蓋を開けると。熊の肉の他に野菜は冬瓜と長葱と人参で、野菜は熊の味が浸みて実に美味でした。
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これが椀によそった熊汁一番の美味は肉に付いた脂肪分でした。昔よく食べた鯨のベーコンの味でした、脂肪でも口に入るとサラッと溶けました。夜布団に入ると乾いていた面の皮が少し艶やかになっているような気がしました。天麩羅はヤーコンの葉です。イワナの塩焼きも熊には圧倒されていました。これがトン汁や猪汁だと脂肪分がベッタリ浮いているモノです。翌日ランチに米沢牛を食べましたが熊と牛では大違いで、体に良いのは熊のアミノ酸です。
6日の夕飯はお願いしたようにメインは熊汁です。肉はビーフシチューの牛筋の歯当たりです。でも其処は野生ですから「濃く」が違います。そして何より美味しいのは熊の脂身です。サラッとしています。脂身が美味しい”激賞すると奥様はお代わりしてくださいました。”待てよこの味何処かで食べたぞ”気付きました。
そう鯨の肉と鯨の脂身です。熊肉のことを「山鯨」と呼ぶのを納得しました。
屹度仏教では熊を食べる事を修験道でも神使を食べる事を禁じたのでしょう。
でも熊は美味しいしその肝臓は妙薬です。そこで「山鯨」という「隠語」を編み出してマタギは競って熊を狩猟したのでしょう。
「ご飯は如何しますか?」訊かれました。もう熊汁でお腹は一杯です。丁重にご飯は明朝に持ち越して貰いました。
主人が私達の話の相手をしてくれながら私の友人と冷え酒を飲んでいます。1升便が見る見る空いてしまいそうです。予算は6800円でしたがこの熊汁と日本酒では幾らになるのか心配になりました。
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茶箪笥に並んだ山形の純米酒どれも1本3千円はしそうな吟醸酒で心配でした。山形と云えば大石田の14代が人気ですがご主人の手元には届かないそうです。主人は孫さんが『パンフレットの表紙になっていました)可愛くてたまらないようですが「初孫」が似合いそうです・・・。
ご主人が晩酌に長い間付き合って下さいました。飯豊村の生活を話してくださいます。私は興味に思っていたこと疑問を総べて訊いてみました。
その要点は
1、山形県には金山等金山が在ったのでしたが、飯豊村には廃坑はありません
2、白川の下流に白川ダムが出来たのですが、ダムは下流域に恩恵を与えただけで上流の過疎化は一層進展したし、地域を分断した。でも最も気の毒だったのはダム湖の湖底に沈んだ人達(100戸余り400人)であった。故郷も生活も失った。
3、私達の学んだ学校は廃校になってしまった。廃校したモノの校舎は残っていて利用計画はまだない。
4、マタギはこの中津川地区には2人しかいない。マタギは通常15人くらいのチームで熊狩りをするのだが、一人で鉄砲を担いで狩猟をしているようで、軽トラに積んで持ち帰って来る(どうも実際はドラム缶を改造したトラップで捕獲しているようです)
5、特徴的な信仰としては「草木塔」があります。熊の供養塔が在るように木や草の供養塔で仏教が日本に伝来して日本人が仏性は人だけでは無い動物も更には植物にも在ると説きました「山川草木悉皆成仏」神道は石など無機物にも霊が宿ると説くわけですからその中間の草木にも霊があるのでその霊の供養塔を建てるのは自然なことです。この件は後日書きます。
色々聞いているうちに翌日のプランも固まって来ました。そのうちカメムシが室内に飛び出しました。
主人の話ではカメムシは天井裏に潜んでいて成虫のまま越冬して暖かくなると出てきて生殖して数を増やすのだそうです。室内が暖かくなったので。天井裏から這い出して室内を飛び回り始めたとの事。薪ストーブは燃え続けています。奥さんはカメさんを捕まえてはストーブで火葬にしています。ソロソロ布団に入る事にしましょう。これ以上大広間で寛いで居ては、奥様の殺生が増えるばかりです。
布団に入ろうとして驚きました。私は左脚が麻痺しているので布団に横になれなかったのでしたが。麻痺がやわらいでいてスムーズに寝る姿勢になれたのでした。
私の胃袋に収まった熊さんに感謝、供養しながら眼を瞑りました。
でも飯豊村の夜は冷え込み星を観る意欲も消えてしまいました。戸板の隙間から冷気が流れて来ます。
夜中2度もトイレに立ちました。その度に私の左脚の麻痺が軽くなっていることを確認できました。
こんなに寒いのにT君は寝息を立てています。

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マタギ村お婆さんのの民芸

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飯豊村の農家「民宿庄太郎」に電話予約した時最初に出たのはお婆様(81歳)でした。私はお婆さんが居られる家に宿泊できる幸運に感謝しました。
昔の話はお婆様に訊けば良い事になります。「庄太郎」は屋号であって戸主は「伊藤庄太郎」で現戸主が4代目庄太郎と云う事になります。谷戸の入り口に「花笠の里」と案内されていました。お婆様は今も現職で花笠を編んでおられます。奥様は今のうちに花笠を編めるように諭されているそうですが。まだまだお婆様はご自身で全部やってしまうそうで。奥様の役割は初夏に菅を採取して陽当りに干してお婆様の仕事(編む)の準備をすることだそうです。
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菅で編んだ買い物籠(源流の森博物館に展示)”森の名人に倣って民芸品を作ろう!”と誘っています。
6日の3時過ぎに庄太郎に着くと奥様とワンちゃんが外まで出て迎えて下さいましたがお婆様も玄関まで出て来て下さいました。お土産を渡して早速に玄関に飾られた民芸品を確認しました。訊けば全部お婆様の手作りだそうです。
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今日のテーマは飯豊村に伝わる民芸品です朝ご先祖様を祀った仏壇ならぬ神棚に神饌を供える庄太郎のお婆様。今なお菅や山ブドウを手編みして民芸品を手作りされておいでです。腰が曲がって足が弱くなったのが心配だそうですが頭も言葉も明晰です。屹度手作業をされておられることが良い効果を産んでいるのでしょう。
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これはお婆さんが作られている菅笠です。右側が最初の状態で丸い木型に菅を二重に組んで菅笠の裏表を別々に編んで行きます、最後に赤く縁どりして紅花を表わす花をつければ完成です。
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菅を使った民芸品(源流の森の博物館で撮影)左が菅笠右は炭俵。花は山形名物の紅花を意識したものだそうですが川西町のダリアのようにも椿のようにも見えます。(川西町も羽前椿も飯豊村の下流です)米沢駅の案内図でも飯豊村を花笠発祥の地と案内していました(既に写真は掲示)。パンフレットに写っているお婆さんも)庄太郎さんのお婆様です。(写真は下)
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これは飯豊村の観光案内の菅笠細工のページ菅笠を編んでいるのが庄太郎のお婆様百万人もお客さんを集める「花笠踊り」お婆さんの技が存続しなければ”ヤッショ・マカショ”となりません
お婆様にお願いして籠を一つ求めました。ワイフは昔から山ブドウやアケビ細工の籠が欲しそうだったのでした。床の居間の横には完成した作品が台所には作りかけの作品が並んでいます。白いアケビだなと思ったのですが実は違いました。
素材を確認すれば何と「マタタビ」の蔓だそうです。山ブドウに較べればズット色白ですし。雅な感じがあります。すし、手に取ると驚く程軽いのです。
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これが庄太郎のお婆様の作品群。ランプシェードは菅を素材にしていますがスツールや屑籠はマタタビの蔓が素材のようです。タペストリーもお婆さんのチャレンジだそうです。

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これが私が求めてお土産にしたマタタビの籠です経年劣化は少ないモノの手脂が着くと良い味が出るようです。縁どりや手提げの部分は山ブドウでアクセントにしています。編み方は伝統的な網代網です。繭球鬼灯は悪戯です。山ブドウの3分の1位のお値段で譲ってもらいました。

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お婆ちゃんにお見送りして戴きました。何時までもお元気で!祈りました。今度来る時は5月4日熊祭り本番の頃で屹度桜が咲く頃でしょう・・・・。
7お婆ちゃんの手仕事に刺激されて、7日の午後は米沢の民芸品工房「野の花染工房」を尋ねました。
同社は山ブドウや木通細工の製品や米沢絣の工房で三越や伊勢丹に卸している著名な民芸工房です。
アポイントもしていませんでしたが快く見せて下さり撮影も許可して下さりました。
先ずは玄関に展示された山ブドウの籠を観てください。これが山ブドウの籠細工です。
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これが山ブドウの籠です
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こちらは山ブドウの手提げ籠とです。船箪笥と良く似合います。
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素材の山ブドウは陰干しして乾燥させ70㎝90㎝200㎝の長さに整えて準備を完了します。
山ブドウは農家から買い取るのではなくて社長以下工人全員で山に入って収穫するそうです。収穫時期は5、6月だそうです。秋では遅い野で蔓が成長しきった季節に収穫するのが丈夫な籠を作る要点だそうです。秋になれば熊も出ますが、初夏は熊より怖い雷が落ちるので天候を見極めながら山に入るそうです。
収穫した山ブドウの蔓は日陰で干して乾燥させます。その上で定格の長さに切断します。この状態では蔓の太さは不揃いですから、編みながら適当な太さに蔓を切り裂きます。また曲がったり癖のある蔓は湿らせながら真っ直ぐに正しながら作業を進めます。
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木枠を使って山ブドウの蔓で編んでゆきます。その過程で蔓の癖を直し、太さも揃えて行きます
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道具は木枠の他に小刀ペンチ鋏等です。職人さんは老若男女色々でした。デザイナーも居ましたデザイナーはお客様の注文を職人さんに仲介する役です。上の写真では木枠の上に布を巻いて柔らかい曲面を出すよう工夫しています。
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これは山ブドウで編んだ大き目の下げ鞄のようです。完成品は30万もすることでしょう。
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これは小さなバッグです。バッグの下の紙はデパートから届けられた注文票です。この小モノでも三越では5万円程度で商われているそうです。向こうの女性は納品に際して検品しています。
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これはネットショップ7・5・3http://item.rakuten.co.jp/s-oasis/00013311/?scid=af_pc_etc&sc2id=65468996で商われている買い物籠(山ブドウ網代網)これで2万円程度です。頑丈だし、使い込むほどに良い味が出て来るのが民芸品の良さです。
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これは茣蓙を編む工程を展示しているモノ、飯豊の農家は長い冬の間こうした民芸をしながら過しているのでした。川下の米沢では上杉鷹山がこうした民芸を奨励したのでしょう。

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これは野の花染工房のもう一つの民芸品の米沢絣です。工房には絣も見学できました。長押には寂聴さんンが見学された時の写真が懸っていました。



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マタギ村の信仰

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農家民宿庄太郎に着くと私達は大広間に通されました。
床の間を圧するように黒漆の仏壇が置かれ長押には白木の神棚が祀られています。仏壇は大きくて立派ですし阿弥陀様が主尊ですから浄土真宗かと思えば位牌には個人名が書かれています。私は合掌してから座布団に坐りましたがT君は真言を唱えていました。尋ねてみれば庄太郎家は神道で飯豊権現では無くて出雲の神様を祀っていまっした。
夕餉の席にご主人が同席されたので私は飯豊村の信仰について細かく聞いてみました。以下は今まで各地の民間信仰を観察してきた成果と今回の見聞を総合した観察記です。
【修験道】について
修験道の始祖と云えば奈良の金剛山に棲んでいた役行者です。金剛山葛城山吉野山を駆け巡っていた役行者は当初大和朝廷に従いません。大和朝廷も武力で役行者等山の民を征服しようとはせず、役行者に一歩謙って仲良くします。役行者は蔵王権現を観想して修験道の神(仏?)として崇めます。修験道は何時しか平城京を守る役割を担います。都が平安京に移ると、役行者は鞍馬山で都の鬼門を守る役割を担わされます。
役行者の霊場は北に向かいます。伊吹山から白山に立山に更に此処飯豊山にそして出羽の湯殿山に、東には 伊豆山等に広がります。役行者が如何に神出鬼没と云ってもこれらを総ての霊場を開いたとは考え難く。国家統一されてもその権威に従わない山の民が居て、山の民は揃って役行者が開いた霊場だと主張したのでしょう。
処で問題は飯豊山です。飯豊山神社(表社)は飯豊村では無くて東側の会津喜多方にあります。ここ飯豊村は山の西で側裏に位置しています。ですから飯豊村には飯豊山登山道の下山道だけが残されています。県道8号線を喜多方に向けて走って行くと岩倉神社があります。その辻を西に折れれば飯豊山の下山口であったようです。岩倉神社は今も篤く信仰されているようで多くの井記念塔が立っていますが、昭和50年代や平成になってから建てられたものも目立ちます。岩倉神社の案内板には役行者ルーツとは云わずに古代末期に知英行者と云った修験者が建て不動明王が本尊の「飯豊山不動院岩蔵寺」として、中世から近世まで栄えたものの神仏分離令によって岩倉神社として存続し本尊の不動明王も「日本武の神/ヤマトタケル、または八幡神」と改名されたと案内しています。
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これが飯豊村中津川地区の中央に飯豊山の登り口に位置する岩倉神社。鍔紫陽花の鍔(花弁)が紅葉して居ました。
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岩倉神社の案内板
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岩倉神社の入り口に建っている道しるべ左湯殿山(米沢方面右が飯豊山登山口の案内をしています。真っ直ぐに行けば会津磐梯山喜多方になります。写真出典飯豊町観光協会ホームページ
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これが岩倉神社の本尊の不動明王です。鎌倉時代の寄木造りで、彩色されていたそうです。写真出典飯豊町観光協会のホームページhttp://www6.plala.or.jp/mount13/shigen%20iide2.html。お婆ちゃんはその記憶を下のように刺繍されました。
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これは庄太郎のお婆さんが刺繍したタペストリー玄関に吊るされていました。本体は修理中だそうで拝観できませんでした。
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岩倉神社の境内に祀られている大山祇神社(本社は静岡の三島神社とも神奈川の大山神社とも言われます何れにせよ山の神です。飯豊神社の親類を境内に祀って居るようなモノです。
私は庄太郎家は飯豊権現が祀られていると思ったのでしたが出雲大社と大黒様です。出雲大社も記紀によれば伊勢の神様に追いやられた風土記の神様ですから。どれもこれも山の民の神様です。
なんだかんだと書きましたが。仏教と伊勢神道を車の両輪で全国を統一した大和朝廷にすれば既存の国の神(風土記の神又は山の民や縄文人の神)が飯豊山では平成の時代まで信仰されてきているのです。
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冠雪して神々しい飯豊山の北西面手前が源流の森のブナ林です。此処の尾根から大河最上川が流れ出します。最上川は村山市では蔵王大石田で月山そして酒田で羽黒山等の修験の聖地の清水を集めて日本海に注がれます。
【草木信仰について】
飯豊山信仰が修験道のそれですから、森羅万象に命や神霊が宿るとし信仰の対象にします。山岳信仰が仏教以前からあって仏教が伝来すると習合し、さらには密教の要素も加味されて修験道として確立しました。人間が畏怖するのは巨大な岩や最強の熊でしたからこれを敬い。山に入る時は実を浄め血など穢れを忌みました。常に身も心も清浄であるように、大自然の霊気を自らに取り込もうと努めました。山の動物を山の神からのお裾分けとして頂戴したのが熊祭りです。
でも山の神からの恵みは山の動物(熊や鹿や猪)だけではありません。木も昨日書いた山ブドウ等の蔓も茸も山の神の恵みです。動物の宿る神霊を祀るのなら草木の霊も祀らなければバランスがとれません。神木に注連縄を張って柏手を打つのは解りますが。羽黒山の爺杉のように枯れてしまった神木や諏訪大社の御柱に伐り出されたり大仏殿の棟木に伐り出された神木の霊も祀らなければ片手落ちだと思うのです。
この片手落ちに見事に答えてくれる信仰が飯豊町中津川地区に残されていました。それが「草木塔」で街道の道端に立っているのです。雰囲気は庚申塔と同じような姿形です。自然石の表面に「草木塔」と刻まれています。大木を伐り出したのでその命を惜しむため癒す為に建てたのでしょう。
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これは上段の岩倉神社の境内に残っている杉株です。枯れたり切り倒された神木の霊を祀る事は大切だと思います。
何処に祀られていますか?訊くと庄太郎のご主人は地図に印をつけて下さいました。翌朝奥様が「見落としそうだから・・・」とおっしゃって草木塔の前まで案内してくださいました。
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中津川地区に祀られている草木塔(右の2基)左の2基は庚申塔です
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これは2013年廃校になった飯豊小学校の裏庭に二の宮金次郎像の横に小学生が建立した草木塔2基です。グランドは同時に廃校になった飯豊中学校のそれです。子供達はスクールバスで下流にある手の花地区の小中学校に通っています。学校施設の再利用計画も出来ない中の廃校には疑問を感じます。この学校は庄太郎のご主人も奥様も卒業したし同居している娘さんも卒業生だそうです。私は今からでも「マタギの村の生活館」として利用することを思いつきました。
法華経では一切衆生悉有仏性」と説かれています。この考えは原始仏教に既にあったモノでは無くて仏教伝来以前の神道にも縄文時代人も信じていたアニミズムで万物に霊が宿るとする宗教社会学上は未開人の信仰です。未開と評されようが人間の心の深淵に根を張る思想で良い信仰だと思います。私は飯豊町の義務教育で2013年までは草木塔を建てるような教育が行われていたことが素晴らしいと思うのです。奥様のお話では地区内には新旧併せて20基も草木塔が祀られているそうです。大宮の植木屋さんや盆栽業者が草木塔を祀るのなら訳があります。金銭に疎い子供達が草木に感謝して供養塔を建てるのは素敵です。
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これは源流の森に近い草木塔で中津川では最も古く文政13年(1830)に建立された。

ダムの功罪(白川ダムを考える)

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昨日飯豊町の小中学校が廃校になってしまってその中庭に建てられた生徒達が建立した草木塔を紹介しました。優しく美しい情操を育てる教育が為されてきたことが容易に想像されます。でも施設は新しく頑強ですから”勿体ない”思ってしまいます。「何故こんなに立派な校舎を建てたのに廃校になってしまったのか?」疑問を解く鍵が下流にある「白川ダム」です。
先ず白川ダムを確認します。
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これが白川ダムの吐水口です。狭い上に段差が大きいので魚道設備がありません。これでは鮭も鱒も遡上できません。素人目にもコンクリートの傷みが目につきますが、建造中に出る河床砂礫や掘削ズリにセメントを混ぜて造りますので、一般的なコンクリートより耐久性に問題があります。
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白川ダムの吐水口から下流を眺める下流は肥沃な米沢盆地で後で説明するように川西等の裕福な農村風景が広がっています。それにしても錆びついていてメンテの悪さが気になります。このダムの下まで遡上した鮭も鱒もこれ以上上流には行けません。
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白川ダムのダム湖を眺める向こうの山が「源流の森」で日本第二のブナ林です。左の建物が博物館紅葉の盛りでした。飯豊村はこのダムの上流です。私が問題に思ったのはこのダムが白川の川沿いに発展してきた地域共同体を断絶させ、下流に恩恵を与え、上流に怨嗟を呼んだ成果です。
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ダム湖の周辺は日本第二のブナの自然林です。水位は異常に低いようでした。
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白川ダム博物館に展示された小学生の感謝のメッセージ下流の川西市の小学生ばかりです。上流の飯豊町の小中学校は大半が廃校にされてダム下の手の花地区の学校にスクールバスで通っています。飯豊町の子供達がこの手紙を観たら大人の狡さと組織がらみで苛められている、と思う事でしょう。
白川ダムは昭和42年の羽越洪水の対策として計画され昭和56年に完成した多目的ダムだそうです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E3%83%80%E3%83%A0_(%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C)
ダムの湖底に沈んだ生活は139戸300人余りだったそうです。
ダムの博物館では他人事のように「139戸の皆さんの尊い協力の下に、豊かな緑と水の一大人造湖が現出しました」案内して、下流の小学生の感謝のメッセージを展示していました。
私はこの案内を聴くと直ぐに次の問いをしたくなります。
”下流の洪水対策で造ったダムだから下流の人が感謝するのは当然ですがダムに追い遣られた人や上流の人は如何なのよ!そういった人達の怨嗟の上に出来てんじゃないの!”
まず白川ダムの下流に広がる田園風景を観てみます。川西市は世界一のダリア園があるので有名です。私達は萩生町の天養寺に登りました。此処は米沢33観音に数えられていると同時に米沢盆地に点在する散居集落のある風景で有名なのです。北西の季節風が強いので農家は広い田圃の中に二三戸が寄り添うように建っていて屋敷林が季節風から家を守るように茂っています。水鏡の六月か稔りの九月が最も美しいのでしょう。同様な風景は砺波平野にも見られます。日本の農村共同体を象徴する景色です。
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これは米沢三十三観音の一つ萩生の天養寺観音堂此処の展望台から田園に散居する集落が見渡せます。
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天養寺観音堂から眺められる田園風景飯豊村では想像できない広い田圃と濃い緑の屋敷林が点在しています。屋敷林は強い季節風から農家を守ってくれます。写真の手前左が飯豊村で白川が流れて、米沢の市街で最上川に合流します。
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此方は飯豊村中津川地区から20K下流にある手ノ子小学校此処にスクールバスで通っています。中学生は更に10K下流にある飯豊中学校に通学しています。背後の森は八幡神社です。
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道の駅飯豊で商っていたイワナの塩焼き(550円)小さいのが一般のイワナで大きいの皮が赤く「縄文イワナ」と呼んでいました。民宿で訊いたらニジマスだと教えてくれました。鱒も鮭も遡上してくるのですからダムは迷惑な施設です。
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これは飯豊町役場赤いレンガ造りの庁舎でした。この庭まで熊が出没したそうで街中で熊対策を講じていました。ゴミ捨て場は鋼鉄製で頑丈でした。昔はゴミは土に埋めて肥料に戻していたのに・・・・・。

白川ダムの上流では】
ダム開発に際して収容された139戸の農家は飯豊山の麓の故郷を捨てたのでしょう。一方、上流に住む人達には木造だった学校は近代的な鉄筋コンクリートの校舎に建て替えて、更に水源涵養林を保存するために『源流の森』と称して博物館や町民憩いのパターゴルフ場に温泉施設等を整備してあげました。
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源流の森に造られたスポーツ公園。此処は5月には池に変わります。ダム湖の上流に設えた雨水調整池を渇水期にはパターゴルフ場やテニスコートゲートボール場になるのです。温泉や宿泊施設も付随しています。
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向こうの建物が温泉施設で日帰り入浴と宿泊が可能です私達が世話になった農家民宿が在る中津川地区はこの上流10分の処です。
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これは5月の上記の源流の森のスポーツ公園雪解け水で池になってしまいます。緑は柳で。一斉に若葉が燃え立つそうです。有名な笹野一刀彫はこの柳の木を素材に作るこけしです。一刀彫りは後日アップします。写真出典飯豊町観光協会
山に降った雨は木々を潤し下流の水田で稲を育てて海に注ぎます。お蔭で農家は肥料を施さなくても毎年お米を収穫出来ますし、海では海藻や魚貝を育んで呉れます。雨は川となって海に注ぎ海で蒸発して雲になって山に戻って又雨になって山に降ります。飯豊山は言い得て妙な名で豊かな食糧を約束する山なのです。飯豊山から最上川を経て酒田の海に注ぐ水の循環を妨げるのが白川ダムはじめとする最上川水系に建造された無数のダムなのです。私達世代は寒河江ダムが記憶に残っていますが幾つ作れば気が済むのか現在も小国ダムはじめ3つのダムを建造中なのです。
ダム建設に対する疑問を最初にぶつけたのは田中長野県知事でした。つい先年は民主党政権下で「八場/やんばダム」が中断されましたが、政権が代わってまた再稼働しました。八場ダムのソ総事業費は5000億円にも膨れ上がりました。水も金も血液も同じで循環してこ人間にとっては心地いいモノです。循環を断絶させれば死を招きます。ダムはこんな自明な真理に逆らう愚策です。
愚策を断行するために事業者は住民に金品をバラ撒きます。その金品が立派な飯豊町役場であり飯豊町小中学校の校舎であり水源の森のスポーツ公園であり温泉施設でした。飯豊町の住人は立派な施設に幻惑されて気がつけば鉄筋コンクリートの校舎を追い出されて麓の手の花地区の学校に移されました。生徒達はスクールバスで送り迎えされているうちに太ってしまい山の子の敏捷性を失ってしまいました。お婆ちゃんが伝えてきた山ブドウやアケビの民芸の技も断絶しそうです。問題は飯豊村の住人の生活を無視していた事です。日本の農政が”米価を高くして補助金をつけるから文句を言うな”としてきた失政と同じです,人間の生甲斐は働いて稼ぎで飯を食って子供を育てる事です。生甲斐を無視して金をくれるから同意しろと云うのでは共同体も地域も崩壊してしまいます。神々しく冠雪した飯豊山と美しい山村と素敵な農家民宿の家族を観ると白川ダムの無駄な長物に怒りが込み上げて来るのでした。
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写真は白川の上流喜多方への峠の景色美しい棚田と里山が織りなす風景が広がっています。橋は何処もPSコンクリート作りで頑強なのは此処から雪を捨てるからです。橋の柵はその傷で痛んでいました。
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雪囲いの準備も終えた美しい飯豊らしい美しい民家
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ダムの上流は廃屋が目立ちました。

強く引く 綱手と見せよ 最上川 その稲舟の いかりをさめて 【山家集】
この歌は序言葉に「ゆかりありける人」とあります。ゆかりある人とは崇徳院です。崇徳院は讃岐国で獄死された人で日本史上最強の怨霊と云われた方でした、西行が奥の細道で最上川を下った時にはこの歌が脳裏に在った事でしょう。西行法師は崇徳院のお怒りを収めてくださいあの稲船の碇のように・・・・・詠じたのでした。
西行法師が崇徳院を想い起した歌です。
「いかり」は「怒り」と「碇」の掛詞であり崇徳院のお怒りを収めてと稲船の碇を下しての意味をかけています。もう一つ「稲」は米の稲と否定の崇徳院ならずとも飯豊の山の神が自然の摂理を無視した人間の身勝手をお怒りのように思えてなりません。

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飯豊の茸と木通の味

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山形の味覚と云えば芋煮会と蕎麦です。
八月も末になれば稲の刈取りを始めて刈り終えた田圃に蕎麦を撒きます。米と蕎麦の二毛作です。蕎麦は三か月もすれば刈取りできるので、米沢盆地では蕎麦造りが盛んで刈取りを終えた蕎麦の茎が赤く残っていました。
二毛作しない田圃のは稲の切株からは孫生(ひこばえ)が育っていました。今日(11月13日)には蕎麦も稲の孫生も雪の下に隠れてしまっている事でしょう。
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稲刈りの跡の株から生えた孫生(ひこばえも)枯れた飯豊の田圃。今年は肝心のブナも不作なので獣は必死です。所々に蕎麦を収穫した田圃もありました。
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道の駅飯豊の芋煮(550円)には長蛇の列が出来ていました。鍋を覘けば醤油味で牛肉で私の好きな里芋夜長葱は少なくて矢鱈に蒟蒻が目立っていました。(世知辛い鍋の中身ですせめて茸を入れれば良いのに)同じ山形の芋煮でも荘内地方中通りはトン汁風(豚肉と味噌味)であり福島寄りの米沢は牛鍋風(牛肉醤油味)です。私は今晩は熊汁なので芋煮はパスしました。
道の駅は偶々日曜日でしたから大型観光バスが並んでいて芋煮の大鍋の前に長蛇の列が出来ていました。
芋煮は550円です。鍋を覘けば蒟蒻が目立つ味噌味です。お客さんは立って食べています。
普段なら一杯戴くのですが何しろ今晩は熊汁を戴きます。芋煮は敬遠してJA飯豊の販売所に顔を出せば立派な大黒シメジが並んでいます。一見して平茸のように見えます。スーパーのブナシメジに馴染んでいる私ですから無性に食べたくなりました。”民宿で今晩焼いて貰おうか”思って一パック/500円を買い求めました。飯豊村の温泉施設では松茸も売っています。訊けば飯豊村ではシメジもナメコモ松茸も採れるそうです。松茸の形の良いのは2万円もしました。傘が開いてしまっているのは7千円でした。
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JA飯豊で売っていた大黒シメジその晩食べる積りで求めたのでしたが民宿の奥さんが家でとったシメジを食べさせるからお土産に持って帰りなさいと云われて後ろのマタタビの手提げに入れて持って帰り家族と味わいました。お米は”美味しいと”誉めた処リュックに入れられたもの。
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JA飯豊に貼ってあったポスター。色白な山形美人も眼に着きます。直江兼続は上杉景勝の家臣であり米沢藩に常駐していました。後ろの田圃の中に農家屋敷が点在している景色がこの地方の名物です。

源流の森野博物館には取り立てのシメジが置かれていました。”職員が水源涵養林をパトロール中に見つけたようです。”欲しければあげるよ!”そんな雰囲気で無造作に置かれていました。摘んで鼻先に持って来ても匂いはしません”香り松茸味シメジ”の諺を想い出して軸を噛んでみようと思ったのでしたが、熊を食べる前の胃袋に負荷を与えない様に天然シメジを生で食すのは止めました。
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これは源流の森のセンター施設博物館のホールに無造作に広げてあったシメジ(多分、若しかしたらナメコです)、食べれば判るのですが止めました。)セルフのお茶が嬉しかったです。その晩シメジを戴き翌朝はナメコの味噌汁を戴きました。因みに「シメジ」は歯ごたえがしっかりしているものが多く、なめこはキノコの傘の部分がぬめぬめしているのです。ドッチも大好物です。屹度森の熊さんも同じでしょう。
農家民宿に着くとお風呂を奨められました。ご自宅にもお風呂が在るのですが10キロほど下った「源流の森」にある「白川温泉」を奨められました。入浴料は400円ですが、民宿宿泊者には半額補助があるとの事。私達は百円高価を4個貰って今来た道を戻りました。日中は賑わっていたのでしょうが午後5時になるともうお客さんは疎らです。広間に貼られた「どぶろくソフト/お子様も召し上がれます」を観ながら「何じゃ?このソフトはアルコール分ゼロのどぶろくがあるのか?」思いながら温泉に入りました。温泉(25度以上で治癒成分が在ることが条件)とは表示されていますが所謂鉱泉を沸かしたもののようです。舐めると塩辛いので治癒成分はあるので。熱すれば温泉で間違いないのでしょうが、正しくは「低温泉・再加熱」です。鉱泉」です。
売店に立派な松茸が置かれていました。訊けばこの近くでも自生していてベテランが獲って来てくれるとの事です。熊を獲るより松茸を探す方がズット危険もないし平和な気もします。昔のように人が良く山に入って柴刈をすれば松茸のご褒美を刳れるのでしょう。
山の神様は女性だと聞きます。山の神様は男性自身がお好きだそうですから秋田や福島に行くと巨大な藁人形が男性自身をソレ観ろとばかり開陳しています。ですから山に入って雷等の身の危険を感じたら男性自身を見せれば無事に帰宅出来ると云われたりしていますし。今年の春は福島の三春に桜を観に行って田村市を訪れたにも拘らず人形道祖神を見落としてきました。
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これは「源流の森」にある白川温泉にで売られていた産直の松茸、昔は人が良く山の柴刈をしていたので松茸も豊富に収穫出来ました。松茸は山の神の”山を大事にする人間へのプレゼントだったのかもしれません。
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これは秋田県大館に祀られている藁で作られた人形道祖神。峠や村境に祀られていて災厄が村に入らない様に警護する賽の神であると同時に山の神が田の神に変貌するものと考えられます。田の神は稲作の豊穣を約束するので。立派な男性自身を誇示していると同時に藁で作られているのでしょう。これは民俗学の類感呪術とか感染呪術と云います。。

温泉を出て民宿に戻ると既に夕餉の準備は出来ていました薪ストーブのうえでは熊汁が出来ていますし、シメジも口取に食卓に並んでいました。その横には見慣れないものが用意されていました。なんと木通の肉詰めでした。ピーマンの肉詰めは食べた事がありましたがピーマンの代わりに木通の皮を使っているのでした。肉の他に微妙な味がします。訊けば舞茸の刻みだそうです。随分手の込んだお料理です。T君は木通はバナナのような実を食べるものだと思っていたようで感心していました。
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左が木通の肉詰めそして右の椀物がシメジの口取です。
大変な大御馳走で私があの世に行ったときには両親や祖母に自慢話が出来そうです。
奥様に感謝すると同時に明日の朝は棚田米と味噌汁と漬物で十分です。申し上げました。
ところが翌朝も随分お料理を出されて恐縮しました。人間は先ず田園に戻って更に山に帰らなければならないと思いました。何しろ飯豊村の農家民宿は最高です、実にロハスです。
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翌朝の朝食この他に汁はナメコでした。
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地物のナメコはしっかりした歯応えがあってお豆腐との調和が実に美味しかったのでした
棚田米は少し甘味があって粘り気のある新米でした。私はこれが山形の「艶姫」と思って確認すると、これはコシヒカリとの事でした。艶姫は荘内地方で飯豊町は寒いので艶姫は出来ないそうです。
私は林檎5個と胃シメジ1パックと上に2キロもの新米をリュックに入れて帰宅しました。
東京も横浜も都市はもうクリスマス一色です、チルチルミチルの姉弟は幸せの青い鳥を探して森に入りますが折角見つけた青い鳥も森を出た途端に黒く変わってしまいます。落胆して貧しい我家に帰ると、灰色だった鳥が青い鳥に変わっていました。飯豊の森にこそ青い鳥が棲んでいる教えられる飯豊の農家民宿でした。屹度イザべラ・バードもそう思った事でしょう。
帰宅して食卓には飯豊のの棚田米にシメジは焼き物天麩羅とと厚揚げとの煮物が夕餉の卓に並びました。
私は飯豊は現代の桃源郷だと話して、ワイフは専ら聞き役でした。
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笹野観音寺の美しさ

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11月7日(月)は快晴でした。白川には川霧が上っています。台所を覘くと近代的なキッチンです。ご飯がおいしかったので昔ながらの竈焚きかと思えば何処にでもある電気釜です。水は裏山の湧水だそうです。春先には山から熊が降りて来るという裏の草場はもう枯れ尽くしています。
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これは飯豊の農家民宿の台所から裏山を観た光景、裏山の湧水が美味しい食事の秘訣です。奥様の話ではこの裏山は山菜の宝庫で春さき一番に熊さんが出て来るのだそうです。蕨もゼンマイも皆枯れてしまっています。
私は民宿の主人に山姥や小野小町の伝説が飯豊町に無いか聞いてみました。山姥も小町も飯豊には無くて小野川温泉に行けば良いとの事でした。そして上杉鷹山が推奨したという笹野一刀彫の素材を確認するとそれは白川の川沿いに茂っている柳が素材でタラの木(タラの芽が美味しい)でも良いとの事でした。柳とは地獄絵で描かれている槐(えんじゅ)のことで、奪衣婆が亡者の衣服を枝に掛けて生前の罪の重さを測ったと言い伝えられる木です。
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これが地獄絵の奪衣婆像、三途の川の畔の柳の木の下で亡者を待ち受けて着物を剥いで柳の枝に懸けます。枝のひなりの程度で生前の罪の軽重を測ると云われています。従って木偏に鬼と書くのです。この幹が笹野一刀彫の”お鷹ポッポ”の素材になるのです。お鷹ポッポは上杉鷹山が冬の間の手内職に奨励したと言い伝えられている我国一級の民芸品です。
飯豊町から白川に沿って米沢に下ります。昨日来た道を逆行するだけで、脳無しのルートですが。道は総て渓谷に沿っていますから。どの道も米沢の向かっていてお隣の渓谷道に移るルートは無いのです。
結局目的地笹の観音は地図上では近いのですが一度米沢の街に戻ってからもう一本北側の山麓に向って行きます。
置賜33観音がそんな具合に各谷戸谷戸に分散しているので巡るのは大変ですその点秩父の34観音霊場めぐりは廻り易く出来ています。江戸っ子は米沢流は我慢できなかった事でしょう。何事にも辛抱強い米沢人でしたから、近道を整備しなかったのでしょう。私達は結局天養寺中村観音11番(既に記事にしました)と萩生観音(4番)笹野観音(19番)を巡りました。
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此方は萩生観音の祭られている諏訪神社、境内に土俵がありましたが今は使われているのか懸念されました。
右の建物は虚空蔵堂でした。
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萩生観音の境内にはその名も「山之神神社が祀られていました。近在に祀られていた山之神が諏訪神社の境内に勧請された野でしょう。ご神体は蔵王権現か役行者かカラス天狗か?暗いお堂の中は全く解りませんでした
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此方が笹野観音寺の参道です。杉林の向こうに萱葺の本堂が見えてきました。山の神であった権現様を祀るにふさわしい重厚で質実な権現造りの高い格調がありました。
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山門の仁王像の履物の草履と天狗の履く下駄が懸けられていました。
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正面3間奥行5間の奥行きのある本堂ですがこれにも訳があって前面は観音様後ろは羽黒権現を祀る神仏習合というか二層の建物だからです。銅鑼の後ろには鈴も潜んでいるのです。仁王門の前には湯殿山の石塔もありました。
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本堂正面長押に大きな銅鑼が吊るされていますがご本尊の観音様にお参りする時にはこの紅白の綱を引いて銅鑼を鳴らします。此処は後述するように羽黒権現を祀っていますから権現様(神様)にお参りする時には銅鑼の後ろに隠れている鈴を鳴らします。実は
観音様の背後に羽黒権現が後神として祀られているのです。
彫刻を見ると棟の上に般若のようなお面は水神で防火の神様雨を呼ぶ神様で、破風には鳳凰その下龍が左右に唐獅子、左の柱に横向きに阿形の獏が右側には吽形の獏が飾られいました建物全体が彫刻で埋められていて右側面には葡萄と鼠の彫刻もありました写真には写っていませんが外陣の内側には色々な仙人の彫刻も確認できました後述するように坂上田村麻呂が創建したと言い伝えられる旧跡ですし、上杉景勝以来の厚い加護が格調ある本堂を伝えて来たのでしょう。

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これが笹野観音のご本尊だそうです。写真出典は同寺のホームページhttp://sasanokannon.com/kannondou.html私が拝観した時はご本尊は厨子の中で前立仏が2体祀られていました。
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棟飾りにも千木を想わせる神社風の意匠が確認できます。
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笹野観音堂歴史や由緒の案内板の前には笹野一刀彫の看板であるお鷹ポッポが立っていました。

お寺の前に笹野一刀彫の記念館がありましたお婆さんが二人炬燵に入って寛いでおられました。私達を確認するとお茶を入れてくださいましたが今日はオフシーズンなので一刀彫の実演はしていません、云われました。私は既に梟の一刀彫を持っているものの他のモノも欲しいと思って鷽の一刀彫を注文しました案内では3寸モノが一番小さくて500円であったり800円であったり不揃いでした。3寸が在庫不足になったので3寸も5寸も800円に価格改定したのでしょう。高々300円の違いですし私は3寸で800円だと理解すれば、怒る事もないし黙って800円で求めれば良かったのでしたが、鷽替え神事の縁起物でもあって、”今日は縁が無かった”思って求めませんでした。上杉鷹山公が農村の冬場の副業として奨励した頃は鷹だけだったのでしょうが、縁起物の鳥は幾つもあります。梟もそうですし鶏も鷽も縁起物です。
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これが笹野一刀彫のルーツお鷹ポッポです。これを枕元に置いて眠れば宝船が寄って来ます。向こうには日蓮宗の方が喜ぶ白猿が並んでいます。
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此方が欲しかった鷽です。3寸で800円と正札が立っていますが

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米沢の「かてもの」文化

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私が高校生の頃でした。英語の授業で、学校で就任したてのケネディー大統領の就任演説を暗誦させられました。
『世界は大きく様変わります。今日の我々の国は、あらゆる形の貧困を撲滅する力と、あらゆる形の人間の生命を根絶させる力の両方為す事が出来ます。』と述べ。『もし自由社会が、多数の貧しい人々を救えないならば、少数の裕福な人々を守ることは不可能です。自由を求める人々と国々が貧困の鎖を脱することを支援するための特別な誓約を提示します』と米国の果たすべき役割を述べた後国民に呼びかけます。『ですから、アメリカ国民の皆さん、国があなたに何をするかを問うのではなく、あなたが国に何ができるかを自問してください。』」シリアの内戦もISのテロも元を質せば貧困問題です。世界は格差に満ちています。ケネディーは問題の貧困を解決する浅学として上杉鷹山を紹介しました。英語を苦手にしていた中学生だった私は”上杉鷹山てどんな人だ?」思いました当時は米沢藩を改革した英邁な藩主らしい、と思った程度の認識でした。大學に入り社会科学を学び隣の鈴木牧之の「北越雪譜」を読むなどして、江戸時代後半の飢饉の惨状を知りました。知識が増すにつれて上杉鷹山の偉大さを教えられる想いがします。鷹山の教えが出羽の国の飢饉を未然に防いだのでしょう。
米沢駅を降りると駅前広場の垣根に和風の四ツ目垣が設えてありました。垣根は既に葉を落としていますから何の木か解りません。でも案内板にこの生垣は「ウコギ」の木であって、鷹山公が”飢饉対策として推奨した生垣だ”と記してありました。自宅に帰ってネットで調べれば美味しそうな緑の葉っぱで置賜文化フォーラムのサイトhttp://office.okibun.jp/log/?l=260628では「食べ物」として生垣が紹介されていました。画面を見れば我が生家にも垣根に茶の木が使われていましたから、飢饉にも喫茶にも有益だったのでした。日本中に鷹山公の発想が充満していました。
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 これがウコギの生垣です。写真出典『置賜文化フォーラム/http://office.okibun.jp/log/?l=260628
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米沢駅前の駐輪場と広場の境に植えられたウコギの生垣
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これが米沢駅です。駅舎は米沢にある山形大学工学部の校舎『維新の建物で重文指定を受けている)を模倣したものです。

米沢は上杉景勝の家臣直江兼続が治めた土地です。鷹山の前に直江兼続が居たのです。
鷹山が飢饉対策として山野の植物をカテモノと呼んで、その料理方法を民に広めました。カテモノとは救荒植物の事で屹度「糧物」と書くのでしょう。下級と書けば「ゲテモノ」です。「糧」と「下級」では音は同じでも内容は大違いです。”米沢に来たのだからカテモノを探そう”想いながら辺りを見回せば「カテモノ」は沢山あります。直江兼続の眠る林泉寺の境内は畑に使われていて大根は美味しそうだし、菊の花も朝酢のモノで戴きました。山形の代表である”ダダチャ豆」も田圃の畔を堅固にする為に撒かれたものです。猫の額の土地も大切に使う発想自体がカテモノの発想です。
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直江兼続夫妻や上杉家奥方のが眠る林泉寺の境内は大根と菊が栽培される畑でした。私の父は世に云う「生臭坊主」でしたが実は野菜作りが上手で食いしん坊の典座だったと確信するのです。
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これは山形大学工学部の校舎前庭です。林泉寺は此処の北隣です。樅や紅葉や櫟の樹下に生えた野草は瑞々しくて天麩羅で食べたいようなモノでした。自然の事ですから有機物は総て食べられて体にとっては薬にも毒にもなるのでしょう。毒にならない様にするには特別な料理方法があって上杉鷹山はその知恵を探求させ、広めたのでしょう。
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これは源流の森を歩いた時の道端に霜を被っても未だ柔らかそうな蕗です。
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これは廃校になってしまった飯豊小学校の中庭に祀られた草木塔です。小学生は飢饉に瀕した事は無いでしょうが先人はこの草に命を繋いだことが在って、草木の霊を大事にすることを教え伝えたのでしょう。経済優先の政治経済は貧富の格差を広げるだけです。上杉鷹山に学び時代は昭和40年代から少しも変わっていないようです。
帰りの新幹線の車内でダダチャ豆のランチパックを食べながら車窓の風景を楽しみました。ヤッパリ私は出羽国が好きです。
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帰路の山形新幹線はガラガラダダチャ豆のランチパックで夕飯にしました。
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列車が福島を出るころには夕映えでした。あの山の西が飯豊町です。何時までも半弦減の月が追いかけてくれました。あの月が今晩はスーパームーンだそうで歳月の経つのは早いモノです。
熊さんも戴いたし私にとってはユートピアでした。あの山を源流にして最上川は福王寺法林(画家)齋藤茂吉を産み土門拳を育てました。晩年の小松均氏『水墨画』がこの岸辺に移住されたのも山下清が最初の放浪の旅に出たのもこの大河でした。日本人はこの大河に大きな恩恵を受けて来たのに今の河川対策は恩を仇で返すようなものです。先ず第一歩は山林対策です。山林に手を入れて松茸も生えるシメジやナメコは取り放大、時には熊さんも食べられるそんなお山に返して欲しいモノです。

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奥方の墓(米沢の林泉寺で)

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11月7日は好天に恵まれ早起きした事も在ってランチを執ると米沢市内の史蹟は巡り終えてしまいました。米沢と云えば直江兼続ですから兼続夫妻の眠る林泉寺に上る事にしました。お隣が山形大学工学部(近代建築重文)ですから、好都合です。春日山林泉寺http://yone-rinsenji.com/は曹洞宗の香りが濃い古刹でした。
昨日載せた写真のように駐車場の脇は野菜畑で、屹度私の父のような住職が丹精しているのでしょう。駐車場から本堂に至る途中に拝観受付があって、堂内拝観は300円墓地拝観は100円と案内していました。屹度我が生家と同じで大名寺院だったので一般人のお檀家を受けなかったので経営が苦しかったのでしょう。そこで、墓地拝観を有料にされたのでしょう。
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此方が直江兼続夫妻の眠る米沢林泉寺の本堂です。質素で剛健な雰囲気の本堂です。手前の池は雪の捨て場です。もう冬支度を終えていました。
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 此方は本堂の裏側のお庭米沢3大名園の一つだそうです。噴水は不自然ですが、林泉寺の名の洒落でしょうか?墓地巡りはお庭も廻れるのでお得です。

私の生活圏でも有名人が眠っているので人気の寺があります。鎌倉の東慶寺や三鷹の禅林寺(太宰治)です。墓地拝観を始めるかな?なんて思いながら拝観しました。一般墓地に迷惑をかけない様に墓地内に順路が記され誰のお墓でその人の輪郭を説明して在りました。
私はお墓回りが好きなので友人やワイフからお”墓で誰かをおぶって帰ってくる”云われた事があります。
でもお墓巡りは眠っている人と話が出来るような気がするので好きなのです。
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これは直江兼続夫妻のお墓の灯明台からお墓を観たもの。美しい和蝋燭が並んでいました。防火対策を兼ねて大きな行灯型の石灯篭でした。
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此方が直江兼続公(左)奥方の「お船の方/貞心尼」のお墓です。
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大きな五輪塔は『祖師西来意』と刻まれていました、このお墓は侍大将の墓でその右側の家型の霊廟がその奥様のお墓です。面白いのは奥様や後妻もお妾も仲良く並んでいて同じく家を守っている事なのでした。
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中には馬鹿に大きな家型霊廟もありました。主人の直江兼続夫妻のお墓を凌ぐ大きさも気にしなかったようです。じっと見つめてみると三角(入母屋型)の下に四角い立方体の母屋が在って、その下は土台です。立方体は天地が無いので中を刳り貫いて蔀戸状の窓を造作しています。
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家型霊廟の中には五輪塔が収まっていましたこれは故人の舎利の意味でしょう。そしてこの窓を石を刳り貫いたものと後から木型の枠を嵌めこんだものがありました。

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此方は藩主家の墓地で奥方をはじめ家族が眠っていられます。
直江兼続公夫妻の墓をはじめ藩主上杉家の奥方のお墓も並んでいます。沢山のお墓を観て廻っている中に気になって来た事がありました。奥方のお墓はどれも家の形でその前面が蔀戸のように窓が開いているのです、何処か座敷牢の様にも見えます。奥方は家を守って室内から出てこないのでこんな形のお墓なのか?それとも霊が出てきて悪さをしない様に閉じ込める意味なのかも知れません。
明らかなお墓は歴代住職のお墓で一般に卵塔と呼ばれるお墓です。このお墓は丸坊主の姿を模した類感呪術の形でしょう、奥方の霊廟が何故座敷牢を想わせる家型なのかズット考えました。
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此方は林泉寺の歴代住職の墓地坊主姿を模した卵塔が特徴です。
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お墓を巡り終えれば自然と山門の下に出ます。もう冬支度を終えた林泉寺は静かで落ち着いた佇まいでした
先ず思いつくのは古墳に埋められていた家型埴輪です。家型埴輪が霊廟の始まりでしょう。第一古墳の玄室も沖縄のお墓もどれも家を模した形です。故人の霊が休むには最適なのは生前と同じ形の家だったのでしょう。
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                これは霊廟の祖形と思われる家型埴輪です。
家型霊廟は一般に洞(ほこら)と呼ばれ道祖神も荒神もお稲荷様もこの中に納まっています。私の住む戸塚には「歌舞伎道祖神」と呼ばれる洞が在って中には総体の道祖神が居られます。戸塚は中心蔵の「お軽/勘平」の道行きの舞台でありました。先史時代に始まり近世まで家を家庭を守るのは奥様でした。奥方様を形にしたのが家型霊廟であったのでしょう。
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これは戸塚の歌舞伎道祖神です以前次にアップしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48191047.htm...

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米沢の近代化遺産

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山形県は日本の原型を残すモノと確信しています。と云うのは県南の飯豊山や朝日連峰を水源にして最上川が米沢から北上して、山形、更に寒河江を経て大石田から天童新庄を経て西に折れて酒田で日本海に注ぎます。最上川には美しい街が点在しています。上流から米沢、山形、寒河江、大石田、天童更に新庄で西に折れて酒田と続く街には古代、中世そして近世更に近代にいたるまで史蹟がそれぞれに残されています。特に近代には維新の近代化遺産が公平に各町に分散しているのです。
私は藩主の住んでいた米沢に集中して居れば良いと思うのですが、近代化遺産は山形にも新庄にも酒田にも分散しているので、山形新幹線で各駅停車、各駅宿泊しなければ観て廻れません。原因は山形県令三島通庸の施策にあったのでしょう。「山形の近代化を図る」という構想のもとに近代的な施設を最上川沿いの各町に竣工させました。米沢には、「染織科」「応用化学科」の2科を持った高等工業高校を誘致します。『旧米沢高等工業学校本館』がそれで現山形大学工学部です。下流の山形には、「済生館」と云う名の病院を誘致します。『旧山形師範学校本館』も代表的な近代化遺産です。酒田や鶴岡にも警察署等に素晴らしい近代建築が残されています。県令三島通庸のバランス感覚が最上川の各町に分散させた成果だったのでしょう。三島は山形県令として成功すると福島県令更に栃木県令として辣腕をふるいます。
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これは山形市内にある済生館(現市立病院)写真の本館建物に続いて木造の病室が円形に囲んでいます。写真出典山形県のHPhttp://www.pref.yamagata.jp/ou/shokokanko/110001/him/him_15.html
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これは山形県庁前を描いた高橋由一筆の油絵「山形市街図」

三島通庸が近代化遺産を最上川沿いの核都市に分散させた成果かも知れませんが、山形県は最上沢沿いに文化人が排出させます。私が尊敬する福王寺法林(日本画家)をはじめ斉藤茂吉(大石田)小松均(新庄)、土門拳(酒田)等です。最上川沿いは日本を代表する地酒の産地です。各街に夫々得難い銘酒があります。
そんなわけで私達は『旧米沢高等工業学校本館』/現山形大学工学部に向かいました。
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これが。『旧米沢高等工業学校本館/現山形大学工学部です。丁度紅葉の盛りでした。学生は自転車でキャンパスを回って講義を受けていました。
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ルネサンス様式を基調とした木造2階建で、北を正面とします。 中央屋から左右に胴屋が連なり、その両端に短い翼屋を付けた形になっています。翼屋部分に教室があって中央屋は事務所教授室です。基礎の石積みは大谷石で壁面は板張りペンキ塗りのコロニアル建築で屋根は石葺きです。  正面・幅・全長94メートルに及ぶ大規模なもので爽やかなグリーンの壁に紅葉が映った窓ガラスが美しいコントラストでした。
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玄関から中を覘く、内部の見学は予約が必要です。無料今回は突然の往訪でしたので予約が出来ませんでした。
米沢には米沢絣が在る事から染織科・応用化学科を置いたのでしょう。山形県は毎年のようにノーベル賞で湧いています。一昨年は青色LEDの中村教授で湧きました。今年は大隅良典栄誉教授(酵母)で燃えました。
山形には神秘の伝統と伝統を育んだ美しくも厳しい地勢が在るのです。
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これは大隅良典栄誉教授の授賞を報じるテレビ画面オートファジーの分子機構の解析に際し天童にある出羽桜酒蔵の協力が有効だったのだそうです。
私達は夕餉で熊さんをたらふく味わったのでランチは米沢牛を戴く事にしていました。お店は米沢駅前にある音羽屋です。竜宮城のような建物が眼を曳きます。一見すると箱根の富士屋ホテルを想い出します。でもとってもリーズナブルな宿で一泊2食1万円程度ですし牛鍋定食も1200円です。でも月曜定休を確認し忘れていました。
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これは重文の山形大学工学部建物を模した米沢駅社
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米沢駅前に老舗旅館の音羽屋が立地しています。
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これが米沢駅前の音羽屋です竜宮城のような旧館の隣に近代的な新館もありました。国の登録有形文化財ですhttp://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/184850
文化庁のHPですとこの建物の竣工は明治31年(1898年)ですから。先の山形大学工学部建物(明治43年)よりも一回り古い事になります。山形大学工学部校舎は薩摩藩士だった三島通庸が権力を肩に建てたものでしょうからそれよりも古くから音羽屋を建てた民間人は偉いと思います。同時にその子孫がこの建物を使いながら守ってきた事実も頭が下がります。頑固な処も山形県人の偉い特質でしょう。
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音羽屋旧館の玄関1階は博物館のようになっています。出入りも自由のようでした。
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地域密着と貢献を留める音羽屋さんの展示です。音羽屋の名に懸けて義は頑なに守っているのでしょう。

音羽屋こそ重要文化財に値すると確信しました。1200円の米沢牛牛鍋定食は食べそびれましたので道路向かいの「まるぶん」で牛重定食100円を戴きました。でも熊を食べた私の舌には熊の脂肪分の軽さに較べると肉牛の脂肪はコッテリしていて身体には良く無さそうな気がしました。
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此方は音羽屋の向かいのまるぶんの牛重定食です。



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飯豊の冬支度

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札幌市が冬季オリンピックに立候補しています。札幌で前回オリンピックが開催された頃私は札幌に赴任していました。子供にも恵まれ良い想い出ばかり出来ました。
そんな札幌時代でしたが、冬が近づくと毎朝冬空で、来客も少なくて陰鬱な気分になるのでした”これから黄金週間まで半年はこんな鉛空の下で過さなくてはなりません。春を迎えた時の嬉しさは、冬に突入したした時の憂鬱の裏返しなのでした。
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これは飯豊の農家民宿「庄太郎」に積まれた薪ストーブで燃やす薪です。奥には雪下し用の梯子も出してありました。
飯豊の民宿で札幌時代を想い出しながら訊いてみました。
”冬を迎える今頃は憂鬱になるんじゃありませんか?”
案の定次の返事が返って来ました。
”慣れたとは云いながら矢張り雪に埋もれた生活は大変ですね・・・・”
ご主人は庭で薪割に励んで、既に壁一杯に薪が積み上げられていますし、庭木には雪囲いがしてあります。
もうじき窓全面に雪囲いを釘打ちするのでしょう。
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飯豊の民家の窓は雪囲いを終えていました。板で囲った高さまで雪が積もるのでしょう。でもサッシの隙間から吹き込んで来る令気は雪囲いでは防げません。この民家には消防用の放水銃が設置されていました。
私達は居間の隣の奥座敷で寝ましたが板戸の隙間から冷たい空気が吹き込んできます。
お蔭で眠りは浅いしトイレにも行かなくてはなりません。
その上私の御凸に何かが止まります。”何か?”と触ってみれば何か堅い感触です。
”若しかして”思って堅いモノを振り払って指先を嗅いでみれば、あの悪臭です。
堅いモノはカメムシで天井裏から私の御凸に暖を取りに来たのでしょう。
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食卓の上に飛んできたカメムシ。食事の時は気に懸らなかったのでしたが布団で寝ているときに御凸に飛んで来たのには閉口しました。カメムシも雪舞いも雪国では避けられません。雪国ならではの季語でしょう。
我慢強いワイフですが流石にカメムシは苦手でしょう。
『今回は一緒でなくて良かった』思ったのでした。
札幌や金沢は雪つりをして庭木を雪の重さから助けます。
それはパウダースノーだからなのでしょう。
デモ越後や出羽では雪囲いです。
雪が湿って重たいし西北の季節風でベト付くからでしょう。
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これは上杉屋敷のお庭の雪囲いです。躑躅等の中低木を積雪から守る役割です。兼六園の雪つりのように華麗ではありませんが質実剛健で如何にも出羽の雰囲気です。どちらも庭木も家族同様に愛情が込められています。
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これも上杉屋敷です。庭木は雪囲いをしましたが建物は南面して居れば雪対策はしなくても大丈夫のようです。
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これも上杉屋敷の雪囲いです。中央の雪囲いは躑躅の木を守っていますが、その左右は石灯籠をガードしています。
雪が付いて氷結溶融を繰り返して、石灯籠を風化させることを防ぐのでしょう。

3年前の3月に西北の季節風が吹いた夜に鶴岡八幡宮の大銀杏が根こそぎ倒れてしまいました。
霙が大樹の枝に付いて凍りつき。その重みに耐えられずに1,300年も生きてきた大銀杏が倒れたのでした。
出羽の雪は季節風とセットで大変な厄介者なのです。
雪囲いは製材所に出てくる端材を縄で結んで作ります。
この日は小春日和で縦羽蝶が出てきて、雪囲いの上で休息していました。来春まで何処かに隠れて若葉が萌え出したらセッセと結婚して卵を産むのです。越冬するに十分な英気を蓄えてあるのか訊いてみました。
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雪囲いの上で羽を休める蝶
一見すると寒牡丹の藁囲いのようでもあり雪ん子のようでもあって、庭木も家族と同じ大事にしていることが良く解ります。
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これは鶴岡八幡宮の冬牡丹の雪囲い此方は藁で雪ん子のように囲っていますが米沢は板で囲います。
我家の庭木は旅行の直前に枝打ちしました。でも君子蘭など鉢物は未だ防寒対策は済んでいません。
気温が最低で5度未満、最高で15度を割るようになったら防寒対策が必要です。自宅に戻ったらワイフに頼んで我家の植物も冬越し対策することにしましょう。
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此方は我が家の君子蘭、越冬対策をしてあげないと来春は楽しませてくれません。

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アクセルとブレーキへの疑問

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連日のように高齢者の交通事故が報道されています。
従来は高齢者は交通事故の被害者として見られて来ましたが、昨今は高齢者は交通事故の潜在加害者と観られるようになってきました。国会でも高齢ドライバーの免許更新等について厳格化を求める意見が出ています。
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横浜の上大岡の商業地の狭い道路で停車中のバスを追い越そうとした高齢者が運転する軽トラが通学途上の小学生の列に突っ込み8人もの死傷者が出ました。
でも交通不便な過疎地や農村部では自家用車は生活必需品です。農村部では一家に数台の自動車(大半が軽自動車)が在るのが普通です。マス交通機関が不便な農村部では自動車の無い生活は考えられないのでしょう。昨日の新聞では遊行寺の法主他阿真円上人(97歳)が横浜市内で高齢者の運転していた軽トラが小学生の列に突っ込んだ事故を知って、免許証を藤沢警察署に自主返納した記事が出ていました。
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これは時宗総本山遊行寺の法主他阿真円上人が運転免許証を自主返納された新聞記事です(出典11月14日読売新聞)

今年の「遊行の盆踊り」でも高い櫓に上がられしっかりと法話とご挨拶された上人様でした。踊り子のお婆様に手を握られて笑みを浮かべておいででしたから、たとえ運転されても事故を起こす危険は微塵も感じられませんでしたが。率先して免許証の自主返納をされて、命を大切にする事を垂範されたのでしょう。
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アクセルとブレーキが近い位置に並んでいる事から踏み間違いで『ヒヤリハット』が度々経験していると告発しています。ISО分析に依れば『アクセルとブレーキが並んでいて双方とも踏み込む事』に原因がある事になります。自ずから対策は「アクセルとブレーキは離してになります。おくこと」及び「操作を違える事」になります

【高齢者運転事故の原因分析/ISО9000】
それにしても不思議な事があります。何れの事故も高齢者はアクセルとブレーキを踏み間違えているのです。
今のオートマ車はペダルは右足の下に二つあって右足で車を発進するときは右側を踏み停止する時は左のペダルを踏み込む訳です。咄嗟の時に左右どちらのペダルを踏めば良いのか迷わない方が不思議です。
私を含めてl高齢者の大半はマニュアル操作で免許証を取得しています。
マニュアル車は左脚下にクラッチペダルがあって、ギヤチャンジは左脚を踏み込んでギヤをニュートラルにしてからギヤチェンジをしていました。ですからレンタカー(殆どがオート)のハンドルを握ると慣れるまでドキマギしてしまいます。高齢者は昔から三つのペダルを操作していたのですから。右脚はブレーキだと思い込んでいます。その位置にアクセルがあれば停止した積りが急発進して凶器に化してしまうのです。昨今の自動車メーカーは大金をつぎ込んで自動運転技術競争に凌ぎを削っています。私は自動運転よりブレーキとアクセルを明確に分ける方が大切で喫緊の課題だと思うのです。アクセルとブレーキを離しておくことも対策ですが、操作を違える事も対策になります。
例えばバイクです。グリップを前に回せばアクセルをふかす事になります。強く握ればブレーキです。『握ればブレーキ』は自転車で慣れていますから、オートバイやバイクでアクセルとブレーキを間違えたそんな事故は皆無です。自動車は「右脚でブレーキ」思い込んでいますから高齢者が停止しようとして、間違ってアクセルペダルを踏んでしまうのです。自転車やバイクに倣ってアクセルをハンドル(リングかセンター)につけたならばこの手の真逆な操作ミスは未然に防げるでしょう。脚はブレーキ操作手はアクセル操作です。ホンダやスズキのような二輪車も作っているメーカーにすれば容易い改良で済むでしょう。
現代は各企業でISO9000は常識です。ヒヤリハットを知らない人はいません。社会にISO9000や『ヒヤリハットの手法』を入れれば「ブレーキとアクセルが混同しやすい」原因は早急に直さなくてはなりません。
世界に冠たる軽自動車を製造しているホンダにスズキです。この機会に高齢者でも操作ミスを起こす危険の少ないアクセルをハンドルに移した4輪車を販売してほしいモノです。
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交通事故の件数は年々減少してきているものの高齢運転手の引き起こす事故のウェートが増えている事を示す報告出典警察庁http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%AB%98%E9%BD%A2%E9%81%8B%E8%BB%A2%E8%80%85%E4%BA%8B%E6%95%85&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=1&oq=koureiunn&fr=top_ga1_sa
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高齢者の引き起こす事故が増えると世論は高齢者の免許証を制限する方向になりがちですが。過疎地などの事情を考えると免許制限よりも原因(アクセルとブレーキが紛らわしい)の除去が本筋です。写真テレビ朝日
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