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年金問題の解決策

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現代の社会問題で年金問題程深刻な問題は無い事でしょう。
問題点は大凡以下の諸点に要約されます。
1、未加入者が多い問題
2、少子化問題も重なって将来の財源不足懸念
3、年金支給額の格差問題
4、年金運用の不明瞭な問題
5、日本年金機構及び上部組織である厚労省の職員の無責任な感覚、役人体質。
このうち最大の懸念は1、および2の問題で年金の制度維持と云った根幹に係る問題です。
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国民の怒りをかった失われた年金問題に続いて支給の錯誤、情報漏洩まで発生しました。社会保険庁時代には年金資金を使って全国にバブリーな箱モノを建てて年金財産を毀損しました、日本年金機構に組織替えされても職員の無責任な体質は変わらず国民の怒りを買っています。”こんな奴らに虎の子を預ける訳には行かない!”これが国民の感情です。
今国会でも年金問題は議論されています。総ては若い世代が年金に不信感を抱いているので加入者が少ない先細りの懸念です。其処で年金の必要加入期間を短縮しようと云った提案です。
『国民年金は40年 厚生年金は25年払えば、払った金額と期間によって計算され個別の年金支給額が貰える』と理解されていましたがこの期間を10年に短くして加入者を増やそう」姑息な対策です。
私はラジオで国会中継を聴きながら不思議に思っています。”何故給与の後払いである退職金を含めて年金問題を考えないのか?”
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年金の仕組みは世代間の階級闘争を招来しています。現役世代が退職世代を養う仕組みは人口や所得が右肩上がりすることを前提にしていますから。現役世代は掛け金が毀損してしまう仕組みです。世に云う「ねずみ講」のようなモノです。この不信感を訂正するには現在の給料から年金掛け金を天引きするのではなくて。退職時に受け取る一時金を原資に年金に加入する選択肢が在って然るべきです。例えば退職金を3000万円受け取れる人がその時点で年金不足額【例えば2000万円)を預ければ年金を受給出来るとすればその時点で年金に加入するか退職金3000万円を全額個人年金として取り崩して生活するかを選択すれば良い事になります。
1、何故一時払い年金を退職金まで拡大して考えないのか?
私は今子育てに懸命な子供達の生活をウォッチしています。
今は子育てにお金が懸かります。月給が50万円なら手取りは30万円で、差額の20万円は税と国民年金と厚生年金です。子供達の年金は、何れは「退職金」と云う名の一時払いがあるのです。
現役世代が子育てにお金が必要なら、今支払う年金を少なくして未払い分を退職時に一時払いする選択肢が在っても良い様に思うのです。
でも退職時には年金の未払い分がありますから、退職金は差し引かれてしまいます。
【現役世代の選択肢が増える退職金による未払い年金の一時払い制度】
年金制度の維持を現役世代の給与と将来受け取る退職金を併せて制度設計をし直せば少なくても現在のような年金制度への不信感は払拭できるように思います。
現役世代に「今給料を多く受け取ってて、年金は退職時に完納するか」「退職金を満額貰いたいので今は年金も全額納める」どちらかを選択する自由を与えて良いと思うのです。
一時払い年金を認めれば年金の加入者も増えるし、制度の安心感も増すと想われます。
今、年金制度の破綻が懸念されていますが、企業のBS上の退職給与引当金はトヨタで1兆7千億円と大した金額ではありませんが、退職金が日本の固有な制度である事からBS上では目立たないものの実際には毎年巨額を捻出させているモノであり、『退職金を原資とした一時払い年金を認める』と云った制度変更を認めれば日本の年金への信認は厚いモノになるでしょう。企業会計制度も年金の退職金を原資とした一時払いに適応できるように訂正する必要があります。

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電通の名誉挽回策の提案(貸与奨学金肩代わり)

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昨日は慶応大学日吉校舎で何時ものセミナーがあり、私にレポートする機会がありましたので午後2時半の開始に向けてパソコンを背負って出かけました。
キャンパスの銀杏並木の黄葉は未だ7分と云ったたところでした。
叔母さんが落ち葉を掃き集めていましたが。銀杏の落ち葉掃除は良い天気でも厄介なモノまして濡れ落ち葉はアスファルトにへばりついて掃除は一層大変です。竹箒で掃かれても舗道にへばりついている落ち葉を見ていると、我が身に思いつまされます。
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慶応大学日吉キャンパスの秋景(11月19日)
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並木道に散った銀杏を掃く叔母さん濡れ落ち葉は竹箒ではビクともしないので熊手で掻き集めていました。
叔母さんに訊けば「今年は既に銀杏の実は終わってしまった」そうです。
今年は実が小さかったそうで。屹度ブナの実も銀杏の実も夏の天候不順が響いたのでしょう。
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セミナーの状況パワーポイントでレポートしているのが筆者です。私の仲間応援団が集まって聞いてくれましたテーマは「東大寺に観る勧進の系譜」でした。その骨子は8月頃にこのブログにアップしました。
16人も集まってくれて私のレポートに耳を傾けて下さいました。
セミナー終了後は先輩のご手配を得て普通部教員食堂で会食会を催せました。
その席での話題でした。
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職員食堂での会食会の風景流石にビールは全銘柄が揃っていました。慶応ワインとか慶応ビールを発売すれば銘柄を取りそろえる必要も無くなるのでしょうが・・・・・。応じてくれそうなのは札幌/恵比須ビール位でしょうが・・・。黒ビールを売り出すのにはラベルさえ稲穂やペンに換えれば済むのですから容易い事です・・・。
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食事はタップリで話題もいろいろでした。
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本来なら19日は三田祭で三田の山はミス慶応で華やいでいたでしょうに。叔父さん叔母さんは職員食堂で嘆き、最後は「若き血」を唄って解散しました。塾長は学生を嘆きОBは塾長の判断の不公平不公正を口にしました。
年寄りの話は良く飛ぶもので、今夏現役学生が引き起こした事件と大学当局の対応について話題になりました。
「私達が学生の頃の公告研究会は硬派であった。あのサークルがこんな不祥事を引き起こすことはまず考えられない。当局も広告研究会を解散させただけで幕引きを図ることは間違いである。あの頃の広告研究会の学生は電通にも入社していた」
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電通の新入社員の自殺は大きな問題になりました。エリート企業の社員のストレスが悲劇を引き起こしたもので、息子世代の悲劇だけに他人事には思えませんでした。写真はNHKの「お早う日本」
そんな話題から話題は現役学生から今集中批難されている電通に移りました。
”家の息子も電通に勤務しているが、アポイントを4時と云えば普通人は午後4時を想うが電通では午前4時もありうるので確認が必要だというのです。
三共のPRロゴ「24時間戦えますか」地で行く勤務形態だというのです。
偶々厚労省が電通「働き易い職場」と云う事で過去3回も表彰していましたので。迅速に捜査に入り労基法違反等のエビデンスを掴んだようです。早く処分を発表しないと今年の流行語になってしまう事でしょう。
問題は過労死の問題であり。電通は女子社員の働き甲斐のある職場(待遇/昇進や給与)であるものの勤務時間がハードで新卒女子には折れ易い職場だという事です。私の小学校のライバルは麻布東大大蔵と超エリートコースを歩みながら昭和50年ごろ大蔵省の窓から飛び降り自殺して亡くなりました。過労死であって働き過ぎそして周囲が皆優秀だったのでした。
更に電通社員のアイディアが無ければオリンピックの催しも「日本はアイディア不足」と評価されてしまう事でしょう。世論は電通虐めに走って”電通をオリンピックから外せ”言っているようですが。それは間違いです。電通のような企業が無い限り日本は国際競争力を無くしてしまいます。マーケッティング戦略を練る企業不在では商品開発も販促もエンジンがかからなくなってしまいます。
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これは歌麿の青楼3美人図これは花魁が手紙をしたためている図ですが。筆者はこんな図をカレンダーにしようとして優秀な電通社員に助けられた事がありました。電通社員のストレスは大きなものがあります。一つ間違えれば会社にもクライアントにも損害をかけてしまいます。
私は銀行員時代パンフレットを作成していました。夏にはカレンダーを作りました。在る時1枚もののカレンダーを作る事になりました。電通から不織布を使ったカレンダーの提案がありました。
私は自分の趣味から「歌麿の美人画」を選択しました。念の為と思って全体の構想が固まった処で部長にラフを観て貰いました。すると見る見る部長の表情が曇ってしまいました。
部長は花魁の手にしているモノを指指しました。私には単なる和紙に見えたのでしたが、その和紙は手紙を書く和紙では無くて現代版のティッシュだと指摘されました、そして広告代理店を確認されました。電通が槍玉に上がりました。私はそれ以前も商品パンフレットの誤字脱字を校正段階で見逃して減点評価を受けていましたから
”仕事は迅速でも詰が甘い”評価が定着してしまう気配でした。その時電通の連絡局の部長が来られて平謝りしてくれました。以来私は電通とは凄い企業だと思い敬意を抱来ましたが。怖い職場だと思いました。
慶応や東大のお嬢様が満足に働けるような処では無いのです。
東大を卒業した自慢の娘さんが自殺してしまったご両親の悔悟の想いは深いモノが在る事でしょう。
処で今日の話題の中核は日本職場風土の問題ではありません。

私が恩義に思って来た電通の名誉挽回策です。
それはノー残業ではありません。
社員目線で「流石電通」日本の社会問題をそんな策で解決しようというのか!
そんな対策です
【電通は採用に際して第二種奨学金は代位弁済します】
私が就職する頃は支度金が支給されました。
7万円が支度金として渡されて私は母と兄嫁に付き添ってもらい横浜高島屋に向かいました。あの頃イージーオーダーの背広が5~6万円で革靴等も揃えるにはまず適当な資金だったのでした。支度金でピッカピカの新社会人が出来たのでした。スポーツ新聞ではドラフトされた野球選手が一時金1.2億円出来高払い5千万で本給1千万円等と華々しく報道されています。
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新戦力に大金を投じるプロ野球の入団発表
私が入社した時の研修会での人事部長の挨拶は「君の採用で銀行は2億円を投資した。しっかり働いて欲しい」そんな話をされました。2億円と派当時の給与規定で定年迄銀行で働いた時の生涯賃金の意味だったのでしょう。多分今も企業は採用に際して思い切った投資をする気概で居る事でしょう。
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奨学金には貰いっ放しのモノよりも貸与型が多いのです。優秀な人材を確保する為ならその教育借金は代弁するくらいの太っ腹が電通なら在っても良さそうなモノです。電通が始めれば経団連も動く事でしょう。出典/東京新聞

だったら採用に際し学生の負っていた奨学金と云った名の負債を肩代わりします・・・・。発表する事は容易い事でしょう。弱小資本で経営も不安定な球団が1億円も投資できるのであれば、電通はそんな事容易なことでしょう。電通のメリットは幾つも挙げられます。
1、今のブラック企業といったイメージが消えて社会のニーズを解決する青空のような企業と云った明るいイメージに変わる。
2、優秀な社員の採用が可能になる。
3、採用された社員の帰属意識も増す。
その詰の甘さがどれもこれも電通の責任とされてしまって代理店の仕事が大変である事は痛感していました結局カレンダーの歌麿事件は電通の非常識と云う事で済まされました。
私のような出来の悪いクライアントと製作スタッフの間に挟まって電通社員の仕事は大変なのでした。
大學を卒業したばかりの女子社員には荷が重い事は十分に想像できます。さ足ました
偶々御子息が電通に勤務されていた事も在り、電通に勤めていた仲間が先年亡くなった事も在って”電通の職場倫理に”に話題が転じました。
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問題の根本は日本の教育投資の貧困です。戊辰戦争で「米100俵」をした国民が200年後に教育資金を惜しむとは返す返すも残念なことです。資料出典東京新聞https://twitter.com/tokyohotweb/status/689580617017626625


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冬が来る前に

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飯豊村で熊さんを食べて意気堅硬に我が家に帰宅しました。飯豊では雪囲いをして冬支度も済んでいましたが、我が家の冬支度は未だ未だです。寒さに弱いジャコバサボテンやポインセチアは居間に取り込んでも君子蘭は庭で寒さ除けをしてあげなくてはなりません。薙刀のような葉っぱが霜げると直ぐに腐ってしまうのです。「冬が来る前に」即席のビニール温室を設えてあげないといけないのです。
私が就職して、間もなく結婚して、初めての地方の赴任地は札幌でした。札幌で長女に恵まれ銀行員としての自覚もスキルも生まれたのでしたが、それも上司に恵まれたお蔭でした。直接の上司が北原さんと云うエコノミストで、長野県の大門峠のご出身で居られました。大門峠は蓼科山の北茅野と上田を結び歴史的な峠でして、あんな僻地から何故あんな優秀な人が生まれたのか不思議に思っていました。
当時の流行歌に紙風船というグループが「冬が来る前に」を唄っていました。
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懐かしい紙風船もいい歳を重ねた事でしょうU-tubeはhttps://www.youtube.com/watch?v=jWEPaCjbZG4です。
私は貸出稟議書を提出してその評価を北原さんに伺いました。
私が「話をするより書く方が得意なのも」北原さんの御指導の賜物です。
私が提出した稟議書を北原さんが訂正されます。いまならパソコンで作成し、稟議も紙では無くて添付ファイルで稟議するのでしょうから、記録は残りませんが当時は鉛筆で貸出するのが妥当である根拠を縷々説明した文書を北原さんが校正して下さいました。
北原さんがちびた鉛筆と消しゴムで校正して下さいました。
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これは我が家の君子蘭です。冬越しさえ出来れば強い植物ですから毎年良く咲いてくれます。君子とは 『学識・人格ともにすぐれた、りっぱな人』の意味です。君子蘭は蘭科の植物では無く見ての通り彼岸花や萱草の仲間です。君子のように立派で蘭のように華やかな花なのでこの名が在るのでしょう。私が銀行に勤めたのは微妙でしたが。上司には恵まれました。今日のテーマは我が家の君子蘭の冬越し対策です。

初の貸し出し稟議書は豊平製鋼所の電気炉の集塵装置でした。当時は日本中に電気炉の製鋼工場が在って、屑鉄を集めて電気炉で溶かして棒鋼(コンクリートの鉄筋になる)を作っていましたが、その途上で大量の塵灰が出て大気汚染の原因になっていました。今の北京の大気汚染を見るとあの頃の日本と同じでした。
私が評価されると北海道新聞社の新本社ビルとコールドタイプの印刷施設の貸し出し稟議を担当させられました。北海道新聞社の財務課長は親切な方で印刷工場に私を引き回して。鉛の活字を拾う作業を作業を見せて下さり、これからはホットタイプの印刷は無くなりコールドタイプになると説明してくださいました。
コールドタイプ印刷は今は常識で新聞だけでなく雑誌も文庫本もチラシも総てコールドタイプになってしまいました。写真植字機やコンピュータ製版してしまう遣り方でした。1970年代は公害対策で資金需要が旺盛でした。自動車の排気ガス問題に真剣に取り組んだ日本車はその後の燃費競争でも世界をリードできました。”公害を未然に防ぐ”君子の対応”は直接はコストアップになりますが巡り捲って、強みになるのです。君子は目先の利益では無く『理に適っているか義が守られているか?』判断するのでしょう。
鉛中毒と云った食病病も無くなり迅速で省力化した新聞紙面の割り付けが出来るばかりか印刷も早く出来ました。北原さんの御指導は狸小路の居酒屋でススキのラーメン店でも実施されました。市電で山鼻社宅に帰れば私は2階で北原さんは3階でした家族全員がお世話になって5月には長女が生まれました。北原さんは今は町田の学園タウンにお住いです。
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これが株分け前の君子蘭です。根の張りが良いモノを選んで株分けをします。
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株分けする君子蘭を鉢から抜いてあげます。一方で株分け作業に必要な土を用意します。この日は君子蘭の表情を見ながら赤玉土7、腐葉土1、鹿沼土1草木灰1をミックスしておきました。腐葉土と草木灰は自宅で用意したものです。
君子蘭の冬越しの前にしなければならない作業があります。それは「株分け」です。君子蘭の根は大変に力が在って放置して置くと鉢を割ってしまいます。このまま放置すると来春眼が醒めて根が育つと鉢を壊してしまうので晩秋に株分けしてあげなくては鉢の損失にもなるし花も貧疎になってしまいます。
そこで最低温度が5度になる前に株分けをしてあげるのです。
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株分けは根を揺すりながら鋏を入れます。切断面には消毒の積りで草木灰をまぶして分けてしまいます。
作業をするのはワイフです。私はナンダカンダ注文すれば良いのですから楽なモノです。
私が脳梗塞で倒れて以来ワイフは仕方なく庭仕事をしています。でも庭で木通が実ってプラムが獲れると園芸の楽しさが判ってきたようで。腐葉土や草木灰も準備しておいてくれました。私がワイフを見下ろせば随分髪の毛も白く薄くなってきました。随分苦労を掛けて来ました。
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先ず小さい方の株を鉢に植えます。鉢底にネットを置きゴロ石を敷いてその上に薄く混合土を乗せて新株を置いて鉢を回しながら根と鉢の隙間に混合土を入れて上から指で土が根に馴染むように押し込みます。
このブログはワイフの友人も観ていますから髪は写らない様にしました。
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大きい方の株を鉢に植えて株分けは完了です。勿論水をやります。
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鉢分けが完了して一鉢増えました。他の君子蘭が羨ましそうに見ているような気がしました。どの君子蘭も我家が居心地良さそうで根が張って既に息苦しそうなのです。残りは来年株分けしてあげましょう。
ところで今回の作業の主目的は冬越し対策です。君子蘭を一箇所に集めて温室のように囲ってあげなくてはなりません。塩ビの透明波板(屋根用)等で囲って天を透明ビニールで張ってあげれば完了です。
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これで冬越し対策は略完了です。透明ビニールテープで波板を固定して屋根を透明ビニールで囲ってあげます。暑い日は屋根のビニールを開けてあげて。空気の入れ替えと水遣りをしてあげます。

君子蘭の冬越し対策を終えた処で他の植物を観て廻ります。
菫は自分の体を枯らしてセルフで防寒をします。
クリスマスローズも絶好調のようです。寒さに強いので霜が降りたり積雪が無い限り庭に放置して置いて大丈夫でしょう。いちごは室内に取り込んであげましょう。
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鉢に植えられているのはクリスマスローズです。左の方の蔓は木通ですが今年は一つも実りませんでした(昨年は実ったのに受粉に失敗したのです。
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此方は菫です。菫は葉っぱが枯れてセルフで防寒するので庭に放置して置いても大丈夫です

冬越し対策が終えたと思ったら未だ遣っていないものが足元に顔を出しました。
蟷螂のお母さんが未だフラフラしているのです。この秋は餌が少なかったので産卵する体力が無かったのか男運の悪い雌蟷螂なのでしょう。
私の長女の娘はもうじき3か月ですから初宮詣でです。子供を抱いて幸せそうです。勿論私達夫婦にとっても穏やかで良い冬越しが出来そうです。
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未だフラフラしている蟷螂の叔母さんもうじき冬ですから早く子孫を残さないと天命に背きますよ。

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人生第三コーナーを回ったら陰暦生活を!

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私が若しも父と同じだけ生きられるとしたら。既に第三コーナーを回ってしまいました。
想い起せば,父が生きていた間は、何時も顔を陽の光に向って歩んできたのでしたが、第三コーナーからは陽の光を背にして月を正面に歩み始めたような気がします。人間は二つの眼を持っているので対象を立体的に観察できるのです。片目では見えないモノも両目を開ければ見えるモノもあります。
銀行に居た頃には皆にチヤホヤされたモノでした。歳暮が届けられて近所に気兼ねしたものですが、昨今届くのはアマゾンだけです。独立してからは多くの人から距離を置かれました。親戚からもも兄弟からも距離が出来てしまいました。そうなってから本当に大切な親戚や友人の仕分けが出来る様になりました。太陽を背にして月を正面にしたからこそ見えるモノもあるものです。
【薬師如来の脇侍が日光月光菩薩である理由】
私の好きな東大寺三月堂の本尊は不空羂索観音ですが本来は薬師如来の筈です。日光月光菩薩は何処かの由緒あるお寺の薬師如来の脇侍で在ったものが、偶々三月堂に客仏されたのでしょう。でも無明のお堂の中で日光月光菩薩が並んで拝観者を待ち受けている事実は意味深長に思えるのです。薬師如来はその名の通り人間の健康を守る仏です。”健康には太陽の光と併せて月の光が重要です”諭している様に思うのです。体力に自信のある時は往々にして健康を過信してしまうものです。そんな時こそ月に向うように人間ドッグに入ってみる事も有効なモノです。私は”人生台コーナーを回ったら月光菩薩の方を向いて生活しよう”提言したいのです。
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写真は東大寺三月堂不空羂索観音の左右に日光月光菩薩が並んで迷える人の心の暗闇を照らします。
【世界の暦は太陽暦と太陰暦の二つがある事実】
処で世界には二種類の暦があります。一つが太陽暦でもう一つが太陰暦です。太陽をベースに日を数えれば太陽暦で1年は約365日になります。春分の日秋分の日は太陽暦で昼と夜の時間が同じになる日の意味です。
一方月の満ち欠けをベースに数えれば新月(1日)から次の新月までは約28日になります。
そもそも、 太陽暦は『牧畜民族』に都合よくできています。でも1月1日は未だ寒さの盛りですから、年賀状で賀春とか迎春とか書いてもピンときません。春は節分を過ぎて、弥生3月に始まるのが私達稲作民族の生活感覚です。近世になってヨーロッパ出身の牧畜民族が世界を牛耳ました。結果現代の暦は太陽暦が世界基準になりました。キリスト教徒でも無い人達が太陽暦と七曜表に従って日曜日は安息日にして、銀行をはじめ商行為はしないでいます。私も現役時代は太陽暦で生活していました。でも仕事から解放されて最大の関心事が健康だお祭りだとなると太陽暦よりも太陰暦の方が有効なのです。
そんな事実に気付いたのが長い闘病生活でした。
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これが2017年版の陰暦カレンダーの3月です
金沢文庫にあるリハビリ病棟で味気ない天井の模様を見詰めながら考えました”もうじき西行忌(陰暦の2月16日)だな!でも桜の蕾は未だ堅いじゃないか!芭蕉忌(陰暦10月12日)にしても陽暦で派感覚が合いません。”夢は枯野を駆け巡る”には未だ景色は青々していますし時雨の気配もありません。私達の文化は陽暦では無くて陰暦で出来ているのです。それは牧畜民族の音楽が長調で出来ているのに対し日本民族の音楽は短調で出来ているような違いです。私達は声明を聴いて精神が落ち着くもので、「アメージンググレース」では癒されないのです。私達の体は春は節分が過ぎてから来るものであって1月1日から春を感じる事は出来ません。太陰暦が身体にあっているのです。
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これは2017年陰暦カレンダーの7月です。2017年は4年に一度の閏月があって7月の閏月が入っています。例えば7月5日は閏5月12日と表示されています。
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此方は2017年陰暦カレンダーの8月です。
地球上の生物は月の巡りに合せて営みが進行します。とりわけ一番精巧に出来ている人間の女性は月経が月の巡りにあわせて来るように太陰暦に適応しているのです。啓蟄と云えば24節期の一つで、冬眠していた動物が地温が温まって来たので穴から出てくる季節の意味です。2017年は3月20頃になります。逆の位置にあるのが「蟋蟀戸にあり/2016年は10月18日」です。生命の営みを日本人が観察して暦に刻んできたのが24節季72候ですから、太陰暦で生活すれば大自然のリズムに自分の体をあわせて生活できるのです。
庭を見ていて蛙が出てきた、蟷螂が「雨戸」に顔出ししてきた・・・・・見ながら衣替えする方がスーパーの広告に踊らされるよりズット楽しいモノです。
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これは2017年陰暦カレンダーの9月です。
そんなことに気付いたのも私が脳梗塞に陥ってからでした。そこで、より一層季節を楽しもうと思い立って昨年から陰暦カレンダーを作りました。
私の友人のI君は”歴史小説を読む時に理解が浅いから”と云って太陰暦と時刻の研究をしてセミナーで発表しました。私は意を強くして今年の後半部分の陰暦カレンダーを増刷してI君初めお見舞い戴いた方々に感謝の意を添えて配りました。
【「2017年版太陰暦カレンダーの製作について】
2016年版の陰暦カレンダーの反省を込めて2017年版陰暦カレンダーは工夫を凝らしました。
先ずはカレンダーの絵です。
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先ずパワーポイントで陰暦カレンダーを作りました。問題は印刷と製本です。捲って絵と暦が揃う様にしなければなりません。
2016年版は友人と旅行した時の写真を使いました。2017年版は私の描いた絵を使う事にしました。1年間心を込めて描いてデーサービスの食堂の献立ボードを飾った絵です。
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キンコーズにデータを持ちこんで相談した処予算を大幅に超えてしまいました。
肝心の暦はホームページを検索して今年も旭川情報ネットhttp://www.ajnet.ne.jp/diary/?yy=2017&mm=03&youbi=0&history=-6の暦を使早生て貰いました。その暦の上に友人が関心を持ちそうな京都や奈良や東北の祭事を書き加えました。お祭りは元来陰暦で催されてきたものですから。
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裏表を注意して製本直前の状態まで準備しました。十分すぎる内助の功でカレンダー出来上がりです。
例えば明日(11月23日勤労感謝の日は)本来新嘗祭です。新嘗祭は稲の収穫を祝い翌年も豊穣であるように祈願した古くからの祭儀です。天皇陛下も明日は新穀を天神地祇に奉じることでしょう。私の生活圏では寒川神社です。新嘗祭と753のお宮参りで賑わう事でしょう。寒川神社では伊勢神宮の赤福と同じような「八福餅」が食べられます。後発だけに赤福より見た目も麗しいものがあります。
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キンコーズに持ち込んでカレンダー仕様の製本を依頼しました。
一応パワーポイントでカレンダーを作成しました。データをUSBメモリーに入れて横浜本町のキンコーズに持って行くと問題なし請け負ってくれました。でも1部2000円で2万4千円と見積もりされました。
遥かに予算オーバーです。そこで私のプリンターで全部プリントして製本だけをキンコーズに発注する事にしました。素材と穴あけと製本で3500円/10部だそうで漸く予算の範囲内に収まってくれました。
10部と云うのが微妙な数で誰に渡すか線引きが難しいのです。同期生を中心に発病以来とりわけ心配を戴い手いる人にギフトすることにしました。でもどうも悩ましくて順次増刷の必要が生じそうな気配です。
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漸く10部のカレンダーが完成です。これから数部増刷しますのでブログ読者で気に入った方はコメント欄に連絡ください印刷費+製本費+送料で1500円で送らせていただきます。アドレスなどは当方がメールします。

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諏訪大社の新嘗祭

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今日(11月23日)は勤労感謝の日です。国民の休日としてGHQの指導下の戦後昭和23年に始まりました。戦前は新嘗祭だった日を「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝し合う」としたのです。
飛鳥時代の皇極天皇の御代に始まった収穫祭が綿々と続いて、皇居では今日も天皇陛下が新嘗祭を挙行されていることでしょう。
もう6年も前ですが、私は日文研の仲間と諏訪大社を巡っていました。春社の裏山には有名な「万治の石仏」があります。石仏の周囲の棚田ではもう収穫も終わり刈り取られた稲は片隅で干されていました、役目を終えた案山子が稲の孫生(ひこばえ)を見下ろし、鶺鴒が空しく尻叩き(腰をチョンチョン上下させる行為で豊穣を予祝する行為と云われる)していました。諏訪大社(下社)の秋宮に向かうと、新嘗祭が営まれていました。
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諏訪大社の神前に供えられた田畑の恵み(新嘗祭)
私は諏訪大社は「山の神」と思い込んでいましたから神前には山の幸が供えられるとばかり思っていたのでしたが、予測に反して三宝には新米が盛られて大きな南瓜に大根に白菜が並んでいました。
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諏訪大社の御頭祭り(4月15日)には山の神饌が供えられます。次のブログにこのことは詳しく書かれています。神旅(http://ameblo.jp/taishi6764/entry-12094667801.htm)
このブログを書くに際してネットで確認すると諏訪大社の上社は春には「山の神」を祀っていて山の恵み」(鹿/神使)を供えているようです。下社は稲作の収穫を供えているのですから諏訪大社では上下の何処かに「山の神」と「田の神」との縄張りと云うか境が在るのでしょう。私の脳裏には「女人結界」とか「女人禁制」等の言葉が浮かびます。
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此方は諏訪大社春宮の裏の棚田の中におられる万治の石仏見ての通り阿弥陀様です。これは以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?m=lc&sv=%CB%FC%BC%A3%A4%CE%C0%D0%CA%A9&sk=0
吉野大峰山は未だに女人禁制を守っている修験の聖地です。
ジェンダーの時代山登りは健康なスポーツです。世論は「女人禁制」は時代に逆行しているとして批判的です。
女性は未だ土俵に上がれませんし。トンネル工事の起工式にも竣工式にも参加できません。女性が参加したら「山の神」の逆鱗に触れると信じられているのです。でも日本の最高神は天照大神ですし。皇極天皇はじめ古代は女帝も数多く居られました。
「山の神」と「田の神」の棲み分けは従来季節によって「秋分を過ぎたら山に戻って山の神になるものの春分を過ぎれば里に降りて田の神になると説明されてきました。民俗学では同じ神(祖先神)が季節によって棲み分けすると説明されてきました。棲み分けを時間的に考えるより空間的に考えた方が解りやすいモノです。
元々「縄張り」とか「境界」といった概念は時間的なものより空間的なモノの方が解りやすいモノです。
この二つの髪は縄文と弥生の違いも思わせますし文化史や社会史的には有効な考えだと思います。来年も立山に行きます。立山には「姥堂」と云う名のお堂が在って奪衣婆とも山の神とも思える鬼が祀られています。此処が山の神と田の神の棲み分け境界とも考えられます。昨年の春には桜の季節に九度山の慈尊院から刈萱堂に詣でました。どちらも聖地高野山の登り口にあって山と里の境界にあります。その奥には修験道の聖地大峰山があります。登り口の洞川(どろがわ)があります。いまもこの集落が女人禁制の結界になっています。
この問題は来年のテーマにすることにして。今日は新嘗祭に集中しましょう。
戦後国民の祝日に「建国記念日」があります。勤労感謝の日はGHQが中心になって「新嘗祭」の看板を挿げ替えたのでしたが。建国記念日は違います。元々は明治政府が明治6年に「紀元節」と決めた日です。古事記の神武天皇が紀元前660年の1月1日(太陰暦)に天皇に就任した事を根拠に2月11日(太陽暦)を祝日にしたものでした。私が高校生だった昭和41年様々な批判を無視して世界中で建国や独立の祝日が無いのは問題だとして態々紀元節だった日を充てたのでした。「憲法記念日」を以ってお祝いしても済んだのでしょうが・・・・・。国民感覚とずれていますから今もなぜ祝日奈野か解らない人が多いと思います。靖国神社の近くにお住いの人や横須賀や呉など自衛隊の街の人しか紀元節を知らないでしょう。
今日はワイフはお出かけです。新嘗祭の日には行事が多いのです。ワイフが弓道に熱心なのは良い事で。弓は山の神の道具です。弓を張ってビョロンとならせば災厄除けになります。私は久々にワンちゃんとお留守居です。元気なら八幡宮に出かけて新嘗祭を見るのですが。仕方ないのでユー・チューブで鳴弦の儀でも見て過しましょう。https://www.youtube.com/watch?v=I3Y48PP46Ks
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これは鶴岡八幡宮の舞殿で実施される鳴弦の儀です。弓で大地の穢れを払い虚空に向って弓を鳴らして邪鬼を払います。お相撲の弓取り式と同じような神事です。


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一刀彫が好きな訳

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今月初め米沢に出かけました昔から憧れていた笹野一刀彫を見学しました。しかし、案内店の不首尾に怒ってお土産に求めて帰りませんでした。でも家に戻ると年賀状の受け付けも始まって改めて来年の干支は鶏である事を確認しました。些細なことは流して笹野一刀彫を求めれば良かった後悔していますが。もう致し方ありません。少し古くなって白地の木肌が黄ばんでしまいましたが古い一刀彫を見て我慢です。
一刀彫りを見ていると気付きました。
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これが奈良の春日一刀彫です。春日大社には「春日有職」の称号を受けた職人が数多くいて杜壽が技術を承継しているそうです。、「一刀彫」の語源は力強く大きい面取りがあたかもひと太刀で彫ったかの様な豪快な印象を与えることにあると考えられます。春日一刀彫りから彩色まで一人で制作しています。白地の木肌と彩色が調和しているのは一人で全部製作するからでしょう。木の素材は奈良の人の好きな檜や樟を使用しています。
ネットで確認して盛ると既に売り切れで。孫の初節句を祝ってあげるには3年も前から注文しておかないと間に合わないようです。
次は飛騨高山の一刀彫です。
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これは高山の結納屋の商っているイチイ一刀彫の「高砂」人形です。写真出典は同社ホームページhttp://www.yuinouyasan.com/t28/

最後が米沢の「笹野一刀彫」です。
此方は笹野観音で販売されてきた郷土玩具です。笹野観音は坂ノ上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願に開基した千手観音と共に信仰玩具として興ったとされています。さらに、上杉鷹山公が豪雪にとざされる冬の農家の副業として指導奨励し今日まで継承されています。
素材は槐と呼ばれる柳です。槐は字を見ても解るように木篇に旁は鬼です。災厄を避ける呪術的な霊験が豊かだと信じられています。
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これが笹野一刀彫です。柳の木肌は白くて、彩色にも適していますが総じて木肌の良さを活かしています。彫刻面が色々で一刀彫とは信じられませんが。下記のような独特の道具を使って手作りしているのです。
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笹野一刀彫の実技。彫刻刀では無くて職人が手にしている包丁とも鉈とも見える道具一本で製作します。檜に較べれば槐の肌は白く油脂が無いモノの粘り気があるので削った面が鶏の羽毛のように処理できます。

どれも一刀彫ですが本当に道具一本だけで作っているのは笹野一刀彫です。
春日一刀彫のような雅こそありませんが。素朴で美しいモノです。白い木肌と粘り強さは流石に「おしん」を育てた出羽の国の民芸品です。
奈良も飛騨も米沢も何れも名刀の産地です。
日本人は一刀流や一刀彫が大好きです。白い紙に墨蹟鮮やかに書道をするように人生も一刀彫もやり直しが出来ません。一刀彫には消しゴムが無いのです。その潔さが日本人の好みなのかもしれません。


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寒くなったら生姜

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今年も一段と寒くなってきました。毎年この季節頼りになる食べ物がありますそれが生姜です。
「姜」の字は一字でどんな意味か解りません。「美」にも似ているし熟語では「良姜/りょうきょう」とか云いますから。健康な美人の印象がします。赤いリンゴのような美人でしょうか。
今年もインフルエンザだの「ノモウィールス」等気懸りです。気をつけよう思っていたらシベリアから渡ってきた冬鳥も鳥インフルエンザが懸念されているようです。
人間も鳥も季節の変わり目は万全の注意が必要と云う事でしょう。人間は長い時間をかkりぇこの天候不順な季節は生姜を食べて遣り過せと伝えて来たようです。
私の体も”生姜を食べたい生姜を食べたい”と欲しています。寿司屋に行ってはガリばかり口に運びます。
調剤薬局での待ち時間は「生姜+蜂蜜ドリンク(試供品につき無料」を飲みますし。荏柄天神社では甘酒に生姜をタップリ入れて戴きます。生姜を獲れば体が暖かくなるし前身の血行も良くなる気がします。
23日はワイフがお出かけでした其処で私は独りでランチです。セブンイレブンに出かけて何を食べるか検討です。豚の生姜焼きにするか考えますが中華雑炊にしました。真っ白い雑炊の上にまるで紅ショウガを千切りにしたような生姜がトッピングされています。
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これが7-11の雑炊です。赤ひげの様に見えるのは紅ショウガの千きりで白いのは鶏肉です。鶏ガラスープ味に生姜の香りが食欲を刺激して実に美味しいのでした。何処で製造したのか確認すればわらべや日洋の吉川工場(埼玉県利根川の下流)でした
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これは雑炊「重慶半纏の雑炊」の品質表示です
わらべや日洋も7/11に引っ張られていい会社になったものだ思いました。次は吉川の名物のナマズや蓮根を使った雑炊も食べたいと思いました。

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カジノは要らない

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林市長は横浜市長になって順風万帆のスタートでした。特に待機児童対策等では自治体の鏡ともいえる評価に見えましたが、昨今躓きが目立つようです。土砂崩れで死者が出た、地下鉄筋が未達の欠陥マンションが顕在化したかと思えば福島原発の疎開生徒が虐めに会うなどモラル最悪と見られても仕方ありません。
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カジノ誘致議連の事務局長にも就任している神奈川5区衆議院議員坂井学氏。カジノの日陰部分も見ないと出世街道を踏み外しますよ・・・。
そんな横浜市では地元の衆院議員坂井学氏がいます。ブログhttps://www.kanagawa-jimin.jp/kokugi/sakai-manabu/我が町内にお住みですから。私は遠慮なくモノが言える間柄です。一時は落選して浪人もしましたが同選挙区の田中慶秋議員(民主党)と入れ替わって衆議院議員に復活当選すると第一次阿倍内閣では財務副大臣に更に復興大臣政務官に就任し順調な出世街道を歩み始めました。石原 慎太郎氏を初め橋下徹等がカジノ誘致には積極的でしたから。カジノが出来るのは東京臨海部、大阪南港そして少し遅れて横浜ММと思われていました。横浜市にすれば未だ未だペンペン草の生えているММ地区カジノを含むに大規模なリゾート施設が立地すれば歳入は一気に増えるし。未稼働資産は無くなる氏良いことづくめでした。
ところが本当にカジノが横浜に必要か冷静に考えて欲しいのです。
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図はカジノの問題点を図示したモノ出典東京新聞
カジノ問題の一般的な評価】
カジノ誘致のメリットは
1、歳入の増加
2、ММ街区の不稼働土地の解消
3、観光客が増加するので地域経済化が活性化する。
一方懸念は
1治安の悪化
2、青少年への悪い影響
3、ギャンブル依存症者の増加
私の住む戸塚はММ地区から距離が在るので治安問題や青少年の非行防止の懸念は少ないのですが。既に戸塚駅周辺はギャンブル依存症地区なのです。典型的なのは川崎駅東口です。駅前に在るのはパチンコ屋ばかりで鉛筆ビルにはサラ金が立地しています。サラ金とパチンコ屋は相互扶助の関係でパチンコで負けが込んだお客さんはサラ金に駆け込んで更にギャンブルの深みに嵌ります。借金をしてまでギャンブルに嵌り込む仕組みは大麻等の薬中毒も同じです。
私の近所のスーパーもテナントの空きが目立つようになって退転したスペースはゲーム機が置かれて子供がたむろしています。まるで盛り場のゲームセンターがスーパーの中に出来たようです。町内の青少年指導員が見回りしていると小学生が遊ぶお金を借り貸ししているとの事です。子供同士でお金の貸借をすることは福島原発からの避難生徒を揺すったりする素地になっているのではないかと懸念されます。社会の歪みは弱い子供の上に降り注ぐものです。
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戸塚駅東口のパチンコ店パチンコ店と云うのは間違いでパチンコ玉は使わないし画面を見詰めてボタンを押すだけです。ギャンブルは自分の小遣いの範囲で楽しむモノでしたがもうこれではギャンブル中毒患者を増やすだけです。横浜にはもう街中にこうしたギャンブル施設が在るのですからこれ以上の施設を作ってどうするのでしょうか?巨大な賭博場を作って何処が維新なのか皆目わかりません。
22日パソコンの操作が解らなくて戸塚駅前のさくらパソコン教室に行きました、1レッスン(1時間)の指導が終わると8時前でした。帰宅のバスを待っていると尿意を催しました。そこで駅前のパチンコ店のトイレを使わせて貰負うと思いパチンコ屋の店内に入ってみると驚きました。パチンコ店と云うとパチンコ玉がジャラジャラ廻っているモノと思ったら違います。ラスベガスに来たような雰囲気です。スロットマシンを想わせる装置が壁に設置されていて遊技者はボタンを押します。テレビでは菅官房長官が「カジノ法案」を粛々と審議するとの事です。どうしてもオリンピック前にカジノ付きホテルを認めさせたいのでしょう。
市民を犠牲にしても経済を活性化させようというのは間違いです。


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天寧寺五百羅漢の伝える事

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今日の話題は彦根城を見下ろす位置にある井伊家菩提寺の天寧寺です。此処は江戸時代初期に京都の仏師に彫らせた500羅漢が祀られています。下段下からに二体目に置かれていたのは滅悪報尊者)胸を開くと中に仏が観られます。
芸大美術館の展示は素晴らしいモノでした。各々の仏像自体の美しさは勿論の事、観音像が守られて来て現代私達が拝観できる幸運を思わせました。北近江の地は近世に数度に亘り戦場となりましたが、その都度琵琶沿岸の里人が湖に沈め、土の中に埋めて、時には石を錘にして川の中や沼地に沈めて守ったのでした。守り伝えて来て下さったからこそ私達が拝観できるのですから、現地に行って拝観したいと思いました。どうせ行くのなら、季節を選んで桜の季節か紅葉の頃を見計らって行きたいと思い、何時ものメンバーに相談しました。
結果来春に行基菩薩の道を辿って石清水八幡宮から木津川を笠置に向け手遡る事にして。今秋に”琵琶湖観音の里を巡ろう”と云う事になりました。おのおの詳細のプランは私の分担です。運転は許されなくても助手席に坐ってカメラを構え其処の石仏の前で止めてそこの黒壁の民家の前で止めて好き勝手注文を出させるのは幸いです。
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此方は目黒羅漢寺の500羅漢。振袖火事の犠牲者を弔む500羅漢はそれぞれです。この点天寧寺500羅漢は施主が井伊家一人であり、仏師も決まっていましたから統一感があります。

11月24日は横浜も雪が降り出しました。朝5時起きで小田原に向けて出発です、隣駅で仲間と合流、全員が顔を揃えるのは米原駅です。当初は米原から反時計回りで琵琶湖を周回する計画でしたが、急遽米原から時計回りで進行する事にしました。いずれにしても宿泊地は1泊目が湖北の朽木になります。時計回りなら二泊目が近江八幡辺り、反時計回りにしたので2泊目は長浜にしました。。
米原駅でレンタカーを借りて最初の目的地は彦根です。彦根は天寧寺を目指しました。天寧寺は。山号は萬年山。 井伊家ゆかりの寺院の一つで、「天寧」の名は開基の井伊直中/井伊家13代藩主の戒名だそうです。
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500を越える仏像に一斉にみられていると思うと身も心も正されます。私の父の名は正 躬でしたが。”釈迦正面の座に置いても恥じない生き方をしろ”とこの名を戴いたのでしょう。
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これは羅漢堂の正面です。南向きに釈迦像が坐って10大弟子が囲んでいます。その左右と東西の壁面に500羅漢が並んでまるでスタンドのようです
私の目標は500羅漢像です。
私の生活圏の500羅漢と云えば建長寺山門の楼上のあり目黒羅漢寺や川越喜多院のそれです。
目黒の500羅漢は振袖火事の犠牲者を弔う目的で将軍吉宗はじめ吉原の遊女まで寄進(勧進)して作られたモノであり、一人一人の仏心が羅漢像の群像になっています。仏像の数だけ人々の想いが詰まっているのです。羅漢像を尊重するのは古代では無く中世からです。中世になって個人個人が重んじられるようになると個性的な羅漢像が評価されたのでしたその思想はスマップの歌「世界に一つの花」にも通じるものがあります。多くの500羅漢は500を遥かに超える数があります。昭和の500羅漢とも呼べる愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら/西村公朝師)のそれは100体を越えています。勧進と云う手法をとる限り丁度500体に納まる筈はないからです。でも天寧寺の羅漢はピッタリ500体です(正しくは500体と16羅漢像と釈迦十大弟子)
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羅漢像の中には特に大きな像がありました此方が16羅漢なのです。写真の虎に乗っているのは第6番跋陀羅尊者。干支に因んだ羅漢が目についたので鶏が無いか探したのですが見当たりませんでした。
実に曹洞宗の羅漢堂らしい厳粛なお堂は正面に釈迦如来が居られその周囲に十大弟子が囲んで南面しています。東西北の三面に500体の羅漢さんが見下ろいしています。まるで競技場のセンターで協議していて審査員や観衆に見守られている様内地関係になります。羅漢像の真ん前には縁台が置かれていてその上で座禅の修行に励むようになっています。雲水さんは羅漢像に対座して”自分も何れは羅漢になる”励むのでしょう、ですから羅漢があるから羅漢堂で座禅道場/円覚寺なら選仏堂)なのです。
私の祖母は世田谷の実相院の娘として産まれました。実相院は井伊家とは縁の深いお寺でしたから。教区の筆頭の豪徳寺同様に井伊家には深い想いを抱いていました。大河ドラマで「花の生涯」放映中の我が生家の茶の間は祖母の独演場でした。来年は「女城主/直虎」が決定しています。このお寺も来年は歴史ファンで賑わう事でしょう。
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これはNHKの来年の大河ドラマの案内です。井伊家の土台をつくった英傑のドラマのようです。

入館受付の向かいに変わった鬼瓦が置かれていました。奥様(曹洞宗では大黒様と呼びます)に伺うと琵琶湖の近くに「お浜御殿」が在ったのだそうです。江戸城の浜離宮のようなモノをイメージしました。お浜御殿の発掘調査の途上でこの鬼瓦が発見されたのでお寺に納めたのだそうです。
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この井戸の蓋の上に置かれている鬼瓦は井伊家の浜離宮(お浜御殿)の跡地で出土したものだそうです。大黒様は多くは説明されませんでしたが、伝承によると彦根藩14代藩主井伊 直亮(いい なおあき)は、、腰元の若竹が不義の子を妊娠したとの風評を耳にしたため藩の法度として死罪に処したところ、不義の相手が長子・直清(井伊 直弼の長兄)だったことが判明し、母子の追善供養のためこの寺を創建したという事だそうです。(出典ウィキペディア)
羅漢堂と仏殿(本堂)の間の空地は枯山水に作庭されています。その西からは国宝の彦根城が遠望できます。シンデレラ城のような建物が目につきます。屹度結婚式場なのでしょう。大黒様が云われます。
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左の建物が羅漢堂で右の建物が仏殿(本堂)その間を清潔な枯山水のお庭がありました。此処からの眺めは素晴らしく中景に彦根城が遠景に琵琶湖に浮かぶ竹生島琵琶湖が眺められます。
”ここからの眺望は素晴らしく特に夕景は素晴らしいんですよ。正面には竹生島も見えましたし・・・・、それがあの建物で見えなくなってしまいました。”
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天寧から西を見れば彦根城が見渡せます。写真の右奥に竹生島が見える筈ですが結婚式場が遮ってしまったのでそうです。井伊家のお墓からも見渡せることでしょう。
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此方は井伊 直弼の慰霊塔です。背中の位置に彦根城です。
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此方は長野守善の慰霊塔です。
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江戸の井伊家の菩提寺は豪徳寺です。豪徳寺と云えば招き猫天寧寺にも当然のように招き猫が置かれていました。
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羅漢道の背中の位置に布袋様が祀られています。人が布袋様に願い事をすると布袋様は羅漢さんに願い事を繋いでくれるそうです。布袋様が真っ黒なのは信者が擦ったからだそうです。さしづめ私は左脚と左腕を擦ってお願いするのが良いのでしょう。この左右には大きな「おしゃもじ」が並んでいました。
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羅漢堂の裏面に並んだおしゃもじ総持寺の玄関を入ると、大きな「おしゃもじ」と「すりこぎ」が出迎えてくれます。近江はどちらかと云えば関西文化圏おしゃもじの方が身近なのでしょうか?それに総持寺では大黒様です。此処では布袋様です。同じ曹洞宗でも文化圏によって若干の違いがあるようです。
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太子伝説の石馬寺(近江観音紀行2)

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彦根の天寧寺を後にして次の目的地は石馬寺です。娘さんがご主人の転勤で当地に住んでいるI君は詳しくてこの辺りは開基が聖徳太子と伝わる寺院や史蹟が多いと力説します。芦浦町の観音寺廃寺跡、下物町の花摘寺廃寺跡、下寺町の観音堂廃寺跡、片岡町の片岡廃寺跡、志那中町の大般若寺跡、北大萱町の宝光寺跡、長束町の長束廃寺跡の7箇所が常盤地区の白鳳寺院跡として記載されています。
梅原猛の「隠された十字架」は私の学生時代に上梓された法隆寺論でしたが、古代国家の目標を明示したのが聖徳太子でしたが、太子夫妻が法隆寺で亡くなると、皇位継承権を有していた山背大兄王(やましろのおおえのおう)は蘇我氏によって滅ぼされてしまいます。太子の理想を承継したのが天智天皇で、天智天皇は都を飛鳥から琵琶湖沿岸の滋賀に移します。滋賀に太子の伝説を留めた史蹟が多いのは天智天皇の功績でしょう。
そんな史蹟の筆頭が石馬寺です。聖徳太子の幼名が「厩戸皇子」である事も符合します。
石馬寺作成のパンフレットには次のように説明しています。
『太子が繖山の麓を進んでいた処突然に馬が止まってしまいました。風光明媚な景色を展望したいと太子は繖山に登られ”積年の望みをこの地に得たり”喜んで山頂を下られました。ところが松の木に繋いでおいた筈の馬が消えています、そして傍らの水の中に馬が石になって沈んでいたのでしたそして推古2年/594年に繖山の山頂にお寺を建立しました。』
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石馬寺はこの石段の先にあります。紅葉は既に散り始めていました、石は硬い花崗岩で階が鋭角に尖っています。転べば大変です。紅葉に誘われて石仏に見守られながらの参詣です。右端に杖が用意されていました。
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石段の20段間隔で石仏が見守って下さいました、石の何処を踏むか注意しながら登りました。「やまがら」が群れて飛んで、紅葉の種を食べているのでした。

繖山は450mの高さです。長い石段が延々と続いているようで。杖が用意されています。この高さではお寺の人も大変だと思うのです、往々にして脇に自動車道が在るものですが見当たりません。私は意を決して上る事にしました。登るのは出来ても帰る時転ぶと大変です。これまでリハビリしてきた苦労も水の泡です。紅葉と石段の端に並んだ石仏が励ましてくれます。どうにか、こうにか、仲間にあんまり遅れずに本堂前に出られました。奥に木造の本堂が在って中央に鉄筋の宝物館があります。庫裏と宝物館と本堂は渡り廊下で繋がっています。
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奥が本堂です右の鉄筋造りが宝物館です。戦前国宝の阿弥陀如来等は此処に納まっておいでです。この宝物館建設に際して道路は用意したのでしょうが。その道は既に藪の中に隠れてしまったようです。道を消してしまったのも見識でしょう。
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右が庫裏で左が宝物館です。その間を枯山水のお庭が在って奥は屏風のような大石がありました。
枯山水は明らかに馬が石になってしまった伝説を具象しています。奥の大岩の手前は池で池の中に石の馬が沈んでいます。

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左から11面観音立像多聞天広目天(160㎝)増長天(205㎝)増長天(204㎝)11面観音(168㎝)総て重文平安時代写真出典近江の仏像(JTB出版)中央に阿弥陀如来(丈六)が居られます。今回のツアーでは最高の量感でした。
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石馬寺の丈六阿弥陀如来坐像金箔と下地の黒漆が風雪を伝え美しいと思いました。この他に宝物館には大威徳明王像と役行者像が安置されていました。
帰り際に寺守さんに挨拶しました。観れば沢山の狸が置かれていました。訊けば麓にある高齢者施設(マイルド五個荘)に入っていられるご老人が新聞を紙粘土にして拵えているのだそうです。得意技は「転んでも立ち直りが早い」とされています。「起き上がりこぶし」ならぬ「起き上がり狸」なのです。
寺守さんに訊けば「此処は狸はおろか熊まで出そうな山だ」との事です。
私にピッタリだ思って買い求めました。私は未だ左手が不自由です。ですからこの紙人形を作った人は私よりズットリハビリに成功しているのでしょう。私も左手のリハビリに成功して次の目標は「彫刻刀を握って版画を作る」事に致しましょう。
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これが高齢者が手作りした紙人形の「お願いポンポコ」
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我家に着いて笑顔のお願いポンポコ



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日吉神社のお猿さん(近江観音紀行3)

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石馬寺に登ってお腹も空きました、野度川駅前の近江チャンポンの店でランチにして,次の目的地坂本の日吉神社に直行しました日吉と書いて「ひえ」と読むと記憶していました。。「ひえ」とは比叡山の事で赤坂の日枝神社(末社)と字は違っても同じ日吉神社ですしかし、改めて栞を見ると「hiyoishi]とローマ字でルビを付しています。読みます。勿論近江坂本が本社であって赤坂は有名でも末社と云う事になります。日吉神社は京都の東に在って都を守護する神社です。赤坂の日枝神社も江戸を守護する神社です。比叡山延暦寺を開いた最澄は比叡山の地主神を「山王」と呼び「山王権現」が地主神であるとして祀りました。このような最澄の「山王」の扱いが後に神仏習合の「山王神道」の成立を導いたものと思われます。
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此方は赤坂日枝神社の山王猿です。秀吉の幼名が日吉丸で仇名が「サル」だったことを思わせます。
私は石仏から宗教文化財の研究を始めましたから、江戸時代の庚申塔を観て廻りました。庚申塔の紳使はお猿さんで多くは三猿で表現されますが、三浦半島には山王猿一匹でも表現します。山王信仰のルーツは日吉神社であるにも拘らず琵琶湖周辺には庚申塔は見当たらず、関東以北に集中しています。以前から「不思議な現象」だと思っていました。屹度日吉大社の神域にも庚申塔が祀られているだろうと思って見回したのですが、見つかりませんでした。
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これは江の島にある庚申塔山王猿が刻まれています。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E7%8C%BF&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=0&oq=sannnou&fr=top_ga1_sa

既に紅葉は盛りを過ぎたようでした。有名な合掌鳥居の周囲の紅葉も散っていました。数時間前石馬寺の石段で見た「山雀」が止まって処をデザインしたのが「鳥居」なら、その鳥居の上に合掌する手を寄棟状に乗せたのが「山王鳥居」でしょうから、実に神仏習合した姿を示していることになります。
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これが日吉大社のシンボル山王鳥居です。午後3時になると比叡山の山陰に陽も隠れて急に寒くなりました。甘酒が恋しくなります。

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左奥に見えるのが日吉大社西本宮、右が宇佐宮です。その下の段に白山宮がありますそのさらに下の段に日吉大社東宮があります。東西の本宮が日吉作りの神社で国宝です。楼門は見所が多いモノの重要文化財です。
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楼門手前にある御神木の豆柿向こうの社殿は宇佐大社が招来されています。この豆柿もいずれは比叡山の山猿の食べ物になるのでしょう。私はおとぎ話の『サルカニ合戦』で猿は狡猾な悪者で最後は因果応報で蟹の連合軍に懲らしめられてしまう筋書きが納得出来ま。
西本宮楼門(国宝)の棟木の下で屋根をを支えているのも山王猿です。法隆寺等では邪鬼や力士が支えている処ですが・・・・。東西の本宮も国宝です。国宝だから素晴らしいという事はありませんが、国宝と聞かされるとじっくり見つめてしまいます。庚申塔こそ見つけられませんでしたが、其処此処に山王猿が見つけられました。絵馬は勿論お人形もライトアップに足元を照らす灯篭の表面にも大津絵の山王猿が隠れていました。猿回しは楼門前に陣取って見物客が集まるよう呼びかけています。
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これは大きな絵馬です。この左側が国宝の楼門です。この楼門の垂木を支えているのも山王猿です。
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これは垂木の先で楼門の屋根を支えている山王猿です。4隅に潜んでいます。
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これは西本宮前に祀られた山王猿、大麻(おおぬさ)を構えてお祓いをしようとする姿が微笑ましく出来ています。これは木彫でしょうか?
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此方は西本宮前に吊るされたえ願い事を書いた絵馬です。
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これは楼門前の広場で芸を見せようとしているお猿さん。この筋向いに大きな豆柿の神木があってその脇に猿小屋がありました。

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これは夜の参拝客の足元を照らす行灯で表には山王猿がデザインされていました(こうした絵を大津絵と云います)この絵は大鯰に酒を恵んで地震を起こさない様にて馴らししている山王猿でしょう。
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此方は日吉大社のお隣の西教寺の宿坊の玄関で来客を待つお猿さん。西教寺では護猿と呼んで念仏を守る役割を負っています。お猿さんの前にあるのは鉦よ呼ばれる鈴です来客は、お猿さんの手にしているバチで鈴を叩いて来意を伝えます。
日吉大社も西教寺も此処比叡山山麓に住んでいたお猿さんを山の神として重んじたのでしょう。それは飯豊山が山の神を熊さん(熊→神)としたのと同じです屹度熊野は熊が多く住んでいる神の山の意味だったのでしょう。
実はこの晩は朽木の民宿に泊まりました。
その勝手口にゴリラが居ました。主人に訊いたらば
”ここら辺は猿が悪さをするので。猿が来ない様にゴリラを置いているとの事”でした。
ゴリラなど置いておけば肝心の福も寄ってこないと思いました。
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これは朽木の民宿に置かれていた猿除けのゴリラです。



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美しい石仏西教寺の25菩薩(近江観音紀行4)

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今年の夏に同じ仲間でお盆の最中に琵琶湖沿岸の聖衆来迎寺に登りました。目標は日本の中世の信仰を築いた源信(往生要集の著者)に伝わる地獄絵図と聖衆来迎図を自らの眼で確認する為でした。でもお盆の中日にのみ虫干しを兼ねて展示しているモノで。拝見は適いませんでした。横河を比叡山に向けて登れば西教寺が在る事は承知していました。自宅に戻って白州正子氏の「隠れ里」を再読して、西教寺には美しい25菩薩像が在って、それも石仏である事を知りました。25菩薩と云えば昨年同じ仲間で宇治の平等院に登り修復された雲中供養仏や当麻寺の練供養を想い出します。
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これは平等院鳳凰堂の雲中供養仏(国宝)近年修復を終え昨年修復を終えた雲中供養仏と色褪せた供養仏を同時に観ました。
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此方は当麻寺の練供養です。写真は同寺塔頭のホームページです。(http://taimadera-gonenin.or.jp/renzo/nerikuyou/

雲中供養仏も練供養も始まりは同じで、聖衆来迎図です。平安時代末期に琵琶湖西岸横川の源信上人が「往生要集を」著し、人々の極楽往生の念願が強くなりました。盛んに来迎図が描かれ、往生の間際に西方から阿弥陀如来が沢山の菩薩や管弦を催す天女を従えて迎えに来てくれる、信じたのでした。
比叡山の頂から聖衆を従えて阿弥陀如来が降りて来られる。そして「今命の終えようとしている自分を西方浄土に迎えてくれる」確信して平和な心で命を引き取ったのでした。
ですから琵琶湖西岸に聖衆来迎寺があってその西に比叡山延暦寺そしてお山の中腹に西教寺が在るのは自然なことで。西教寺に25菩薩の石仏が祀られているのも至極当然なことです。
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此方が西教寺の25菩薩です。写真では右端に阿弥陀如来が居られその左右に観音勢至菩薩が更にその横に楽器を奏でる天女が並んでいます。写真の阿弥陀如来から左4体目の琵琶を奏でる光曙王菩薩が有名です。
この石仏群が祀られている場所は本堂の裏書院に向かう渡り廊下に面しています。写真尾石仏の背後の漆喰壁は本堂になるわけです。渡り廊下の屋根が石仏を風雨から守ってくれますし、石仏自体が硬くて美しい白御影石ですから状態はすこぶる良いのです。臼杵の石仏は凝灰岩ですから傷みも激しいのに較べて安心です。

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これが白州正子さんも激賞された琵琶を奏でる光曙王菩薩です。お顔の右に出来た裂け目が痛々しいです。私の観察では石仏は地震の揺れで倒れた時の破損が心配です。前に倒れない様に固定する事も重要だと思いました。

西教寺に入った時刻は2時過ぎ、既に陽は比叡山の山蔭に傾き陰っていました。西教寺が天台盛宗の総本山である事は初めて知りました。参道の左右に宿坊が並んでいます。全国各地の信者を地元の先達が引き連れて登って、この宿坊に泊まって翌日帰宅する、そんな施設なのでしょう、見上げると紅葉が目立ちます。紅葉を引き立てているのは立派な石積みです。此処は有名な穴太衆の膝元ですから。石積みも石仏もお手の内なのでしょう。
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西教寺駐車場のススキ向こうの山が比叡山です。
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西教寺本堂の石積みまるで城郭の石積みのように立派です。それもその筈でこの石積みも安土城を築いた穴太衆の石工が積み上げたものだからです。
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宿坊の門の屋根には鬼瓦の横に念仏の護猿が居ました。

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設備を更新中の宿坊
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宿坊からは琵琶湖の東岸が見渡せます。向こうに見えるのが近江富士出会の麓が近江八幡にある長命寺になります。近江富士の左が三成の生まれた石田村でその先が関ヶ原です。そして今回のツアーの終点でもあります。
25菩薩の石仏には案内が為されていました。
『この石仏は天正12年(1560年)粟田郡の住人富田民部進と云う人が愛娘亡くしたので、その極楽往生を願って造立供養したものです。阿弥陀如来がその願いに従って25菩薩を従えて極楽浄土に(娘の魂をを)引接したもう。元々は本堂の右に在ったモノでしたが損傷が激しくなってので此処に平成16年移しました。』
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元々25菩薩が祀られていた場所には新しい聖衆来迎菩薩が祀られていました。未だ10年しか経っていないの位に汚れて見えるのは酸性雨の所為でしょうかそれとも地衣類の生育環境が良いからでしょうか?この左上の段に石田光成夫婦のお墓がありました。私はお参りしませんでしたが仲間がお参りして「三成の奥様(うた/皎月院)は人気があるんだ!」感心していました。
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この日は客殿の広間で石田三成展が開催されていました。木像が石田三成と正室の「うた」で背後の書は「月さびよ明智が妻の話せむ/芭蕉」と読みました。明智光秀が貧乏だったので連歌の会も催せない奥方/ガラシア夫人が髪の毛を切ってお金を工面した夫婦愛を三成夫妻にも模したのでしょう。
当初の予定ではこの後鵡川の48体仏を観て夜は朽木の民宿に泊まる予定だったのでしたが西教寺を出た時には既に薄暗くなってしまいましたので琵琶湖西岸道路を走って朽木に向かいました。


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鯖街道美しい天然美しい民家(近江観音紀行5)

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西教寺を出る頃には陽も比叡山の山蔭に隠れてしまいました。
私達は予定していた鵡川48体仏や興聖寺をパスして一気に今晩の宿である朽木に向かいました。車は比良山のを越えて花折峠に向かいます。比良山の西の谷間には安曇川が流れています。比叡山の西に降った雨は小河川を急激に下って琵琶湖に注ぎます。車窓の西側には棚田が続きます。NHKの新日本紀行でこの棚田の生態系が放映された事がありました。琵琶湖の水生動物がこの棚田で子孫を育てるのです。巨大な鯰が水路を遡上して棚田で産卵し孵化した幼魚が棚田のプランクトンを食べて生育して真夏に琵琶湖に戻るのです。”稲作と云った営みが生態系の循環と理想的な調和を為している”事実を美しい画面で伝えていました。今は既に棚田は干し上がっていますから、蛙や蛇は土中で眠ってしまった事でしょう。赤蜻蛉も土中で来春の雨を待っていることでしょう。
一方、東斜面にに降った雨は安曇川が集めて小松ヶ埼で琵琶湖に注ぎます。安曇川に沿って鯖街道が延々と続きます。若狭でとれた魚を大原を経て京都に運んだ事から若狭街道と云うより「鯖街道」として親しまれています。もう10年も前に皆でこの道を通った事がありました。その時は道路は随所で工事中でしたが今回来てみると道路事情も随分良くなっていました。
車内で梅原猛の小説著 「湖の伝説」の話で盛り上がりました。私は学生時代に感動して読んだのでしたが。仲間全員も同じだったことを確認したのは嬉しい事でした。
小説の舞台であった花折峠にはドライブイン(鯖寿司の名店)も出来ていました。”若しかしたら三橋節子さんの絵もこのドライブインに飾られているかもしれない”思ったのでしたが先を急ぎました。
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これが梅原猛さんの小説「湖の伝説」です。梅原さんが芸大卒の若手女性画家(三橋節子さんの絵/表紙絵観て執筆します。安曇川に投身自殺した少女は画家(節子さん)の自画像なのです。梅原猛さんは節子さんの画業や癌との闘病生活を追いながらこの川が余呉湖(羽衣伝説)や三井寺(龍女伝説)を説明して伝統的な日本人の『死生観』を説きます。
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若狭街道(鯖街道)は美しい民家が連続しています。
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安曇川の川向こうに在る集落も美しくまるで京都の美山のような佇まいでした。私はサラr-マン時代この川原で鮎の共釣をしたことがありました。ところが囮の鮎が大きいのに比してこの川に生息する鮎が小さいので全く釣れませんでした。そこで囮の鮎を川原で塩焼きしました。
朽木の民宿に着いた時はもう真っ暗闇でした。私達が予約した宿は朽木の街から少し山側に入った牧野地区にある白谷荘と云う民宿でした。白谷には公営の宿舎もあるのですが民宿の美しい佇まいに惹かれて予約したのでした。民家は築250年/寛政3年(1791)竣工の三階建て萱葺民家(国の有形重要文化財/http://shiratanisou.com/History.html)でした。今月飯豊村の民宿で熊汁を食べて味を占めた私は「猪は食べられないか?鹿は駄目か?ジャア鴨は食べられないか?」尋ねたのでしたが、何れもノーでした”田舎料理ですが美味しいモノを用意しますから・・・・”言われます。
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これは宿泊した白谷荘を解説したDVD(高島町製作)。この民宿は江戸時代帯刀を許された名主の家(大村家)で明治時代には学校にもなった名家でした。
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これが宿泊した白谷荘、一組しかとらない民宿で最高の佇まいでした
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これは京都府南丹しにある美山民俗資料館母屋です。白谷荘はこれに匹敵する民俗文化財の博物館です写真出典は同所(http://find-travel.jp/article/21503)
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奥座敷で夕食を戴きました。長押には無数の表彰状が懸っていました。立派な仏壇があって阿弥陀様が本尊でしたので真宗かと思えば神道だそうで永平寺からの礼状も飾られていました。

大村家は京都と越前を結ぶ街道の中間にある、実力者で、明治以降も学校や村役場や事業家だったのでした。母系家族であったものの。現ご主人も地元酒蔵の生まれで、本来ならば私のような馬の骨の面倒見をするような血筋では無いのでしょうが・・・・・。御子息を尋ねれば、名門洛南高校を経て慶大経済学部を卒業しているとの事、私達は御子息の先輩である事が判明しました。
翌朝ご主人が屋敷内の民俗器を説明してくれたのでしたが、大変に熱が入って予定の時刻に出発できませんでした。加えて寝所が離れであった事も在って携帯を忘れたりして。約束の時刻より大幅に遅れて和倉観音堂『集落の人が管理しているので拝観には予約が必要でした)に着いたのでした。
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屋根裏の梁は民家の最も美しい箇所です。それは天然の素材の活用して適材適所している妙にあります。白谷荘母屋は3階建てです。
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白谷荘母屋の全景白いクラウンはご主人の愛車で茅葺屋根の左には煙取の小屋根が付いています。大和では煙取は大棟にありますが京都周辺では此処も美山も脇にあります。ちょっとした美意識でしょうか?正面右側が玄関で左は勝手口か身分の低い人が出入りする通用口で。此処から入ると土間が在って。身内用の囲炉裏が切ってあります。
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3部屋続きの和室手前の囲炉裏は主人が客を迎える部屋次の間(真ん中は)客を迎える部屋で奥が庭に面した客間です。土間は手前の部屋から右側に広がっていたのでしたが今は現代風に普請してキッチン等が設備されています。訊けば何時でも取り払われるそうですから、重要文化財へのランクアップもイメージ出来ているようです。庭先には防火用の放水銃も設置されていました。火事になると萱葺屋根から萱葺屋根に火が飛び移って萱葺屋根だけが全焼してしまうのだそうです。
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大村家の文化財はデータとして整理されていて何時でも重要文化財ランクアップの審査を受けられる体制にあると見受けました。
投身自殺した白谷荘(1泊2食10800円)は近所にある公営宿舎に較べて割高ですが。博物館に泊まる事を想えば充分満足なパフォーマンスでした。

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隠れ里山門の観音様(近江観音紀行6)

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翌朝(25日)は霧の中でした。濃霧が湖から里に向かって流れて来ます。いよいよ文化財の説明に熱の入るご主人を遮るようにして出発です。最初の目的地は牧野高原の名物曙杉(メタセコイア)の並木です。民宿の主人の話では先週末は観光客で大渋滞だったそうです。未だ早いのですが近辺に宿泊した旅行者でしょうか?数人がカメラを構えていました。
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これが牧野高原のメタセコイアの並木手前が朽木の集落で真っ直ぐ行けば若狭の小浜に着きます。白谷は田圃の奥の集落を右折して右奥になります。越前への途上です。名前からして馬の産地だったのでしょう。
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琵琶湖北岸を朽木から菅浦に向かう街路樹は桜です。白谷荘のご主人の話では琵琶湖は南の瀬田に較べて20メートルの高いので桜も咲くのが遅いので石山寺の桜が散ったらお越しなさい!との事でした。何時か桜の季節に再訪したいものです。
「野鳥観察公園」の場所を聴けば”湖岸を走れば野鳥ならそこらじゅうに居るよ!”返事でしたから朽木の野鳥公園はパスして和蔵堂に向かいました。今日廻る予定の観音像は何れも集落の人達が守り伝えて来られたもので、千年間も守って来たことの事実の尊さと奥琵琶湖の風景との調和が見所です。1週前に高島町観光協会にメールして観音堂の扉を開いて貰う事を頼んでいましたから約束を違える欠礼はしてはなりません。急いで琵琶湖の湖岸を走って、山門集落に向かいます。琵琶湖の北岸を真っ直ぐ進めば菅浦で賤ヶ岳の手前を左折余呉湖の方に折れると向かいに山が見えます。「山門/やまかど」地名通りのロケーションですこの集落の奥に井上靖氏が「飾り気と云うモノが全く無い質素な女体」と評された山の娘のようにに美しい観音様が居られるのです。
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これはJR湖西線永原駅に近い永原交差点近くに手前が菅原右に行くと余呉湖真っ直ぐ突き当りが山門でその先深坂峠を越せば敦賀に着きます。交差点には和蔵堂の案内が立っています。
和蔵観音堂は善隆寺/真宗の境内にありました。観音堂に着くと善隆寺の堂守さんが迎えて下さりました”ようお越しなさった!”いわれながらお堂の鍵をお持ちになって先導してくださいました。
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和蔵堂観音堂から善隆寺本堂を観る左は案内をして下さった堂守さんです。
堂守さんはお耳が少し遠いようでしたがお声は良く通る清んだお声で居られました。屹度お勤めで喉を鍛えておいでだからでしょう、
鉄筋コンクリート造りのお堂に観音像はおいででした。
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これが井上靖氏が「飾り気と云うモノが全く無い質素な女体」と評された11面観音像です。堂守さんは「を庭の花を供えたいのだけれど駄目だと云われているので残念です」いいながらプラスチックの造花(右の槇)を指さされました。
堂守さんが説明されます。檜の一木造の十一面観音立像で平安末期の作と云われ、国の重要文化財に指定されています。戦乱に際して土中に隠された為でしょう。お身体には虫に食われた跡が沢山残されています。近づいて見れば木喰い虫が食いちぎった跡でしょう。無数の穴が確認できました。

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此方が和蔵堂の11面観音(右)と阿弥陀如来仏頭(左)どちらも素材は檜で真っ黒いのは護摩焚きの煤か金箔の下地の黒漆の為でしょう。台座と後背は後世の補修でしょう。生花は駄目なものの、蝋燭の灯は許されるのか?思って見詰めるとLEDでした。。
今年の夏芸大美術館で展示した時のパネルが壁に貼ってありました。
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これは芸大美術館で展示された時の説明パネル、此処では桜の一木作りと説明してありますが堂守さんの説明も戴いたパンフレットも素材はとされていました。ズット檜と言い伝えられてきたものを芸大美術館が桜と訂正されたのでしょう。説明を統一するよう新説を主張した芸大が根拠を説明し徹底させる必要があると思いました。
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木喰い虫の穴だらけの観音様の下半身です。昔の写真では下半身は綿で包まれていましたから、多分観音様の体の奥を喰い進んでいた木喰い虫の幼虫を追い出す防虫剤を含んだ綿で包んでいたのでしょう。木喰い虫がつかない様に生花を禁じていると想われます。この後拝観した腹帯観音は更に木喰い虫の被害甚大でした。(何れアップします)
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此方も重要文化財の阿弥陀如来仏頭平安時代。こうして見ると大きさは丈六ですが、最初から仏頭だけだったものか戦乱に際して仏頭だけを保護したモノか解りません。
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観音堂と本堂の間にある無縁仏(墓標塔)何時の時代のモノか訊いたのですが堂守さんの耳に遠く答えて貰えませんでした。近くの(黒山石仏群は賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家の配下の兵士と云われていますから/明後日記載します)、石仏も賤ヶ岳の戦いの記憶で11面観音の損傷も同戦乱から観音像を守った里の民の知恵の証なのでしょう。


そうこうしている中に近くの山門公民館に集まっていた叔母さんが私達を迎えに来てくれました。観光案内所から連絡が在ったものの”今日は忘年会なので漢音像は忘年会の会場に置かれているので早く来て早く観て早く帰って欲しい”本音なようです。
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山門公民館から自転車で迎えに来た叔母さんに先導されて次の観音様を拝観に向かいました。此処が山門地区の家並みです。
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私達を見送って観音堂の扉を閉める堂守さん美しくて柔和な方でした。観音様はこんな方がお好きでお守りされているのでしょう。お寺を守るのが堂守ですから仏像を守る女性を「像守さん」とも呼ぶのでしょうか?・・・・。”さようなら何時までもお達者で・・・・”

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忘年会を見守る馬頭観音(近江観音紀行7)

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和蔵観音堂にお迎えが来てくれました。私達の予定は高島町観光協会にメールしておいたのでした。和蔵観音堂から次は山門公民館で,その次は大浦の腹帯観音堂午後は芋観音でした。後で解ったのでしたがこの日は山門公民館で忘年会が予定されていて,会場の床の間に重要文化財の馬頭観音が置かれているので、『忘年会の開会前に観光客に帰って貰おう』思惑だったのでした。自転車に乗った叔母さんが私達を急かせます。私達は車に乗って自転車を追いかけました。
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山門地区の住宅地を叔母さんの後を追って公民館に行きました
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此方が山門公民館の2階の忘年会会場です。その床の間に左から馬頭観音(平安時代)阿弥陀立像、阿弥陀坐像が並んでいました。阿弥陀像は鎌倉時代の快慶風の美しい仏像でした。右の叔母さんが面倒を見てくださいました。
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公民館の2階窓からの西北の景色。窓下に小河川が流れていました。向こうの山の左奥が小浜で右奥が敦賀になります。大浦は水路と陸路の結節点で交易の要衝でしたから馬頭観音が祀られてきたのでしょう。
想像通り公民館は集落の略中央橋の袂にありました。既に沢山の人が集まって。キッチンには奥様方が食材を器に盛っています。私達は追い立てられるようにして二階に登りました。二階は30畳もありそうな大広間でその床の間に黒光りして堂々たる馬頭観音が居られます。そう、数か月前に芸大美術館でお目にかかり圧倒された馬頭観音です。昨日泊まったのは牧野高原で此処大浦も菅浦も京都と敦賀や若狭を繋ぐ交通の要衝です。陸路は馬が大切此処に馬頭観音が祀られているのは納得のロケーションになります。滋賀県の馬頭観音では最古であり、全国的にみても最古の馬頭観音に属するそうです。檜の一木作りで一見して脚部や腕は寄木してあります。唯上半身(一木)とを繋ぐ鎹(鎹)に腐食が進んでいるようです。自宅で調べてみると一木の芯は仏像の中心を外しているので内刳りしていないものの状態は良いようです。
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馬頭観音を拝する、私達の前のパネルは芸大美術館で使われていたモノ。
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このパネルが今夏芸大美術館で展示されていたモノ。芸大美術館では仏像とこの説明パネルと山門の景色写真を展示していました。私はこの忘年会に集まられた人々も併せて知リたいと思ったのでした。
平安時代末期になると匠の技も進み。玉眼挿入しているかのようなリアルティーがあります。
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これが圧倒的な存在感の馬頭観音像(平安時代重要文化財)。芸大の解説を尊重すると本体は檜の一木作りで木の中心を避けて造像されている、したがって内刳りはないモノの状態は良い。脚部は上半身とは別に用意し鎹で継いでいる。三面六臂であるが、合掌した2腕はふといいのに対し他の4腕は細く、当初は三面八臂であったのかもしれません。何かの折に損傷し、急きょ4腕を補修した際に細くなってしまったのかもしれません。

私達が居るうちは忘年会は始まりません。期待に応えて早目に退去する事にしました。
帰り際に忘年会のご馳走を窺がうとキッチンに赤蕪漬けが用意されていました。
私が”一口下さい”おねだりしました。仲間も酸っぱい漬物を口にしました。これが冷酒には一番合うツマミになるのです。
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これが忘年会のお酒のおツマミです。黄色いのは沢庵で白いのはベッタラ漬けで赤いのが赤蕪漬けです。漬物だけとってみても岐阜や亰や美濃の文化が交錯しているような土地です。
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丁寧にお見送り戴いて恐縮しました。公民館の重要文化財末代までも守り伝えて欲しいモノです。



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里人が守り続けた腹帯観音像(近江観音紀行7)

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次の約束は大浦にある観音堂です。大浦の11面観音と云ううより一般に「腹帯観音」としてつとに有名な観音様です。美智子妃殿下がご懐妊の際に里人がこの観音様のお腹を巻いた腹帯をお送りした処妃殿下からお礼状が届いたのだそうです。俺が里の信心を妃殿下にお送りするのも恐れ多いというか勇気が要りますが、その皇位に礼状を出された妃殿下も立派です。大浦の里人は中々のアイディアがあるようで、この肝心要の腹帯観音像が2003年9月25日に盗れてしまったのでした。当時は美智子妃殿下に腹帯をお届けたので有名になっていましたが文化財の指定は受けていませんでした。此処まではよくある話ですが。大浦の里人の対応が秀逸でした、下のような捜索のチラシを作成して300万円の懸賞金を付けた処、地元の近江新聞はおろか全国紙にも取り上げられ観音像は戻ったのでした。犯人は懸賞金はゲットできたものの京都府警に逮捕されたのでした。その結末も観音様は御見通しだったのかもしれません。
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これが2003年に盗難に逢った時に里人が捜索に使ったチラシだそうです。左は江戸時代に使われた腹帯の木版のお札です。(近江若狭の仏像JTBブックスをスキャン)
有名になった以上これを裏市場で売却しても足が付くと観念してお堂に戻したのでしょう。
大浦観音堂のお隣は時宗のお寺でした。お寺を拝観している間に今日の当番の里人が鍵を開けに来てくれました。此方のお堂は木造です。鉄の扉を開けるより木造ガラス戸の方がお似合いです。
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此処が大浦の集落の山裾にある大浦腹帯観音堂です。お守りしているのは重文の観音様である事に加えて盗難に遭った事も在るのに無防備な感じもします。でも木造のお堂である事に懐かしさを感じます。
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この日の当番は舟大工の小川さんです。奥様が駆けつけてガラス戸を開けて下さいました。イヨイヨ憧れの腹帯観音様に御目通りです。
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此方が腹帯観音様関西では珍しい茅の一木作りです百年近く蓮池に沈んでいた事も在って損傷が激しいのですが、飾らない美しさに惹かれます。
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この下から見上げた時のお顔が一番美しいと思いました。茅の木目が頬に浮かんで見えました。


以下はは案内して下さった小川さんの説明です。観音像は茅の一木作りで平安初期の作です。室町時代の戦乱に際して里人はこの観音様を蓮沼に沈めました。戦乱も静まった、江戸時代観音像を沼から引き揚げましたが傷みが激しく、傷んだお身体をお拭いするために使った晒しを捨てる訳にもゆかず、残しておきました。この観音様の下腹部が膨らんでいる事も在って。その晒しで腹帯にすると安産であると云った信心が起って「子授け」「安産」のご利益があると云われてきました。今もこうして腹帯を巻いて腹帯をお分けしています。江戸時代には腹帯とお札を木版して頒布されたのでした。現代は岩田帯よりもネットの腹帯が人気のようです。
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此方は岩田帯ならぬ現代的なネットの腹帯です。今年は孫も一人増えて良い年でした。現代は命の尊さを実感する機会が少なくなってしまいました。出産する時の感動と隣人を無くした時の悲しみを大事にしたいと思います。
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腹帯観音に見入る私の友人自宅で見ると観音像の脇に地蔵尊と帝釈天と阿弥陀坐像が祀られていたのでした。お願いすれば御祈祷もして戴けるのでしょう。
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今夏中沢沙里さんが来られたようです。御祈祷すれば中沢さんのように美しい子を授かるの意でしょうか?高梨沙里さん(ジャンプ)の方が腹帯観音にはピッタリだと思いました。

この観音像は芸大美術館での展覧会場でも「近江の観音像」のハイライトでした。それは観音像自体の美しさもありますが。同時に大浦とその隣の菅浦の風光が美しい事と里人と観音像との強い関係が千年も続いてきたと云った事実です。
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観音堂の戸締りをされる中沢の奥様。裏山を観ておられるのは猪の気配がしたからでしょうか?
芸大は美学の対象として仏像を観るモノが多いのでしょうが美術館は史学としての視点も併せ持っておられるようで、美学が独り善がりなモノに陥りやすいのに反して史学や社会学の視点を持って展覧会を企画した事に賛意を表したいと思いました。そして夏に観た展覧会で触発されて秋に此処に来たことを正解だ。加えて友人を誘った事も正解だと確信しました。
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大浦の腹帯観音堂を後にする左のおてらは偏照寺(時宗」です観音堂の前庭は児童公園になっていました。

腹帯観音堂を辞仕様とした時気づきました。観音堂の脇に立派な五輪塔があります。一見して鎌倉時代まで遡れそうな古風な風格があります。水輪(下から2段目の球形の石)は正面が彫られて釈迦如来が浮き彫りされています。正面以外の三方は梵字です。私は梵字が読めませんが屹度四方仏(東/薬師、西/阿弥陀南/弥勒如来なのでしょう。
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これが腹帯観音堂の脇に祀られている五輪塔です問題はこの五輪塔が何時の時代まで遡られるかです。
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五輪塔の続きには墓標仏(地蔵尊)や板碑も並んでいました。近辺の石造文化財を此処に集めたモノでしょうがこれらが姉川の戦い迄遡れるか¥?それとも賤ヶ岳の戦い迄か?それとも木曾義仲(倶利伽羅峠)まで行けるかです。何れにしても此処は古代末期から近世初期迄戦いが頻発した土地でした。


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大浦の丸子舟の尊さ(近江観音紀行8)

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大浦の腹帯観音堂を案内して下さったのは小川工務店の奥様でした。小川工務店さんは湖岸道路に面していて腹帯観音堂に入る小路の角にあります。湖岸道路に面しては「大浦丸子木舟の館」があります。私達は此処西浅井の歴史民俗を知ろうと丸子舟の館に寄りました。
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左側の建物が「丸子舟の館」三叉路の角が小川工務店でその奥が大浦腹帯観音堂になります。
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これは舞鶴浦入遺跡で発掘された縄文時代の丸木舟です写真出典は浦入り遺跡HPhttp://inoues.net/tango/uranyu05.jpg。琵琶湖大浦の丸子舟もこれと似た丸木舟と思われます。琵琶湖に漂着した丸太は長谷寺の観音様になったという伝説もありますし。舟大工は観音様を彫る技術は有していたと思います。
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 先ず琵琶湖の丸子舟の全体像を示すパネルを案内します。琵琶湖の丸子舟が一番活躍した時代は江戸時代中期の享保年間で①3百艙を越えていました。湖北の大浦、塩津、菅浦、海津等と湖南の大津を舟便で繋ぎ、大浦より先は陸路を舞鶴や敦賀の港にその先は北前船が活躍していました。大津の南は瀬田から陸路で逢坂関を越えて京都に行くか宇治川淀川を経て難波に荷を運びました。近江商人は近世商業資本の蓄積ですが琵琶湖のロケーションと船大工のスキルと近江聖人の代表される儒教的倫理観の賜物と思います。
小川工務店は昔は丸子舟を作る「舟大工」だったのでしょう。でも今では家を建築する家大工のようです。もう10年も前に山向こうの舞鶴で縄文集落が発掘され丸太舟が出現しまあした。今風に云えばカヌーです。洪水で海や湖に漂着した巨大な丸太を刳り貫いて船にしたのが丸太舟で愛称の「子」を「太」に変えたのが「子舟」なのでしょう。私の生活圏では「新丸子/東横線」は丸木舟の渡し場の意味なのでしょう。舟は船板一枚下が地獄ですから釘一本。板一枚も厳格に作らねばなりません。家とは品質水準が違います。ですから、私達が観音巡礼しているのは長谷観音の孫子観音と云う事になります。湖北の里人が大事にするのは日本人が長谷観音や清水の観音様を大切に思うのと通じているのでしょう。
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大浦からは東に竹生島が眺められます島の左半島が突き出ていますがその入り江の奥にある隠れ里が菅浦です。私が此処に来る時は何時も時雨れてしまいます。竹生島の弁天様に嫌われているのかもしれません。
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道路は奥琵琶湖パークウェイ。この道は桜の名所でもあります。来春までに道路整備が進んでいました。手前が菅浦で道路の先が大浦になります。
で未だ10時前でしたが丸子舟の館は快く開けてくれました。係員の若い女性は余程嬉しかったのでしょう。私達について回って説明してくださいました。勿論私は若い女性と言葉を交わす機会もありませんから。お話が出来て嬉しいに決まっています。その上知識も蓄積します。
私が最も感心したのは舟を繋ぐ金具です。
水が最も強く当たりのは船べりでしょう。係員が説明してくださいます。舟を守るために丸太を縦に二つに割って船べりを保護しましたですから丸子舟と呼びました、何のことはありません船べりを丸太でガードしているから「丸子舟」なのです。その船べりの下に鮮やかで粋な模様がありました。係員に訊けば次の通りでした。
これを伊達鎹(だてかすがい)と呼びます。丸子船は、一枚一枚木を丁寧に継ぎ合わせて組み立てられます。継ぎ目はきっちりと合わされ、見た目には隙間はほとんどありません。しかし、それでも水は継ぎ目から染み込んできます。これを防ぐ防水処理には「槙縄」と「銅版」が使われました。槙縄は、材木として使用した槙の木の内皮を、蒸してほぐしたもので、竹のへらで丁寧に継ぎ目に詰め込み、その上から油でといた墨を塗った銅版を貼り付けました。「ダテカスガイ」は本来、接合材(鎹)としての役目を持っていたようですが、丸子船の構造が完成してくる頃には、いわゆる「伊達」となっていたようです。ともあれ、ダテカスガイは「オモギ」「カサギ」と共に、丸子船の大きな特徴のひとつとなっています。」
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これは丸子舟の「オモギ」と呼ばれる船体の保護材です。丸太を縦に割って船べりに取り付けています。丸子舟の名称はこのオモギに依っているのだそうです。このオモギの下に伊達鎹が隠れているのです。
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この模様が伊達鎹です。舟板は多く高野槇を使いその板の繋ぎ目に槇の内皮の繊維を詰めて銅版で塞ぎます。銅版は最初は赤いのですが時間が経つと写真の様に黒くなりまるで鯨の首筋のような模様が浮き立ちます。この模様が粋だというので「伊達鎹」の名がついたのでしょう。河村瑞賢が偲ばれます。

丸子舟も明治以降はエンジンが併用されたのでしたが何といっても動力は風です。大きな帆を建てて風を受けて琵琶湖を縦に走ったのです。もう一つの特徴がカサギです。カサギと云えば奈良の「笠置」や鳥居のカサギを思い浮べます。カサギは船尾についています。大きな帆を下した時に受ける台木のような装置です。
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写真は舟の交尾の部分大きな舵が目につきますがその上に鳥居の形をしたものがカサギです。カサギの上にある帆を下した時にこのカサギの上に置くのです。機能的にこの形が最適だった上に「船の運航は風頼み、神頼みだったので此処に意識して鳥居のデザインを置いたのでしょう。鳥居と呼ばずにカサギと呼んだのは粋な感覚でしょう。
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これは蝉と呼ばれた木製の同滑車です。帆を上げ下ろしする事に碇を上げ下げする時の必需品でしょう。
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これは船材を繋ぐときに使用した釘です。タカが釘一本ですが腐食が進行すれば命とりです。他にも沢山の道具が展示されていました。
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風向きと港の位置関係を示したパネル丸子舟の主たる荷は米で250俵(1俵は60キロですから150トン)を積んだことになります。船頭の命が米1俵では軽すぎます
昭和には丸子船は実用されていたようです。幾つも実際に使用された写真が展示されていました。どれも嫁入りの写真でした。「瀬戸の花嫁」ならぬ「隠れ里の花嫁」でした。
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右下の花嫁さんは菅浦から何処に嫁がれたのでしょうか?
最後に大浦のジオラマを観て係員の説明をおさらいしました。
地域に愛着を持つ人が居る事は良い事です。地域を知ることは楽しい事です。
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これは江戸時代の大浦のジオラマです。左奥川を上れば塩津から木之本に行けます。僅かな田圃はこの辺りから山門集落迄で右上は賤ヶ岳からその先が余呉湖と思われます。ですからその先が日本海の舞鶴になります。


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黒山石仏群の怒り(近江観音紀行9)

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腹帯観音を出て私達は近くの黒山石仏群に廻りました。もう一度永原駅に戻って西に向かえば山裾に黒山石仏群があります。案内板には次の様に説明してありました。
『黒山は塩津街道がなかった頃、敦賀への街道筋として栄えました。此処の石仏群は賎ヶ丘合戦の折、柴田勝家輩下の武士たちの家族が、菩提を弔って、お墓の代わりに石仏を奉った』と言われています。
『明治時代の廃仏毀釈により荒れ果てていたものが、昭和に入り、現在の地へ移して奉られるようになりました。』。此処から越前北の庄」に向かう峠に掛けては古い地蔵磨崖仏をはじめ石仏が多いそうです。
石が良いし、賤ヶ岳の戦いは天正11年(1583年)ですから、未だ中世の石仏の香りが残っていて手応えがあります。丁度石仏群の西の角に大銀杏が落葉して石仏は黄葉に埋もれていました。戦乱以来500年余兵達は無常を詠嘆して来たことでしょう。
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JR湖西線永原駅西の山裾に黒山石仏群があります。外側を五輪塔が囲んで中に地蔵尊を主にした墓標石仏が並べられています。
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これが黒山石仏群の説明板中段に「この石仏は元々は氏神神社の境内にあったモノでしたが明治維新に神仏分離令が出され一部の誤った人達の解釈によって神社から撤収されて山に捨てられていたモノをこの場所に祀りました」と明治維新政府への激しい叱責が書かれています。この里の人にとって祖先の墓を氏神の境内から山に捨て多事実は耐えられない蛮行だったのでしょう。観音様を守り通したように祖先の霊は大切に守り伝えたかったのでしょう。
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五輪塔越しに墓標地蔵像を見る。
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東から墓標石仏群を観る。巨大な五輪塔は柴田勝家配下の有力武将の墓でしょうか?大浦腹帯観音の五輪塔に酷似していました。
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民家の庭に自生した蔓姫蕎麦の花が墓地に進出していました。兵士は皆農家の大黒柱、家族を残して死ぬに死にきれない想いを残した事でしょう。
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黒山石仏群の前の道の突き当りが氏神『塩津神社)です。屹度賤ヶ岳の戦いでお父さんを失った家族が氏神の境内に埋めたのでしょう。それを明治維新に掘り起こして石仏を山に捨てたのでしょう。その行為に怒って昭和になってこの地に祀り直したものだそうです。
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これが塩津神社です。黒山石仏群は5百年の間この氏神の境内に在ったのでしたが明治の廃仏棄却で掘り起こされ墓標塔を山に捨てたのでした。昭和になって漸く墓標石仏を掘り起こして前段の地に祀ったのでした。
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これは黒山の集落に残っている鎌倉時代の地蔵尊です。見つかりませんでした。”桜が咲いたらまた来なさい”神意と考えて先を急ぎました。
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この山の向こうが敦賀になります。フェンスが確りしているのは猪や鹿の食害対策でしょう。

此処で道を引き返して大浦更に菅浦に向かいました。菅浦は仲間とf来るのは二度目です。最初の時にも時雨に遭いました。時雨と鴨は里に紅葉を運んで来るような気がしました。

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菅浦の冬支度『近江観音紀行10)

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黒山の石仏群を拝観して。また奥琵琶湖パークウェイを菅浦に向かいました。何時も菅浦に来る時は木之本地蔵尊から余呉湖を経て峠越しに来ます。今回は湖西道路から湖岸沿いに大浦から菅浦に向かいました。桜並木の向こうは湖でその狭い空間に田圃が作られていますが、屹度この田圃は菅(スゲ)が生い茂っていたのでしょう。菅浦の名前もスゲ浦だったように思います。前回来た時は仲間に琵琶の名手が居たので、竹生島で『平経正の竹生島詣』を奏でて貰いました。あの時は一天俄かに曇って時雨が湖面を叩きつけられたかと思ったら、直に晴れて虹が湖面から立ち上りました。かるで琵琶湖に棲む龍が興じて昇竜したかと思ったのでした。
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これは平家琵琶屏風(ミホ、ミュージアム)で琵琶を奏でているのは平家の副将軍平経正です。木曾義仲を迎え討とうと京都を出た平経正は竹生島で琵琶を奏でると湖面から昇竜が出現します。これを吉兆と信じて倶利伽羅峠に向ったのでしたが平家一門は負け戦になります。次に平家物語に平経正が登場するのは「都落ち」の場面です。
菅浦の表玄関は木之本地蔵尊で菅。今回、こうして朽木西浅井側から入って来るとこちらこそ正面と思われます。
ドライバーのT君に頼んで竹生島や菅浦が遠望できる位置に止って貰いました。
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二本松キャンプ場から竹生島を観る向こうの半島の付け根が憧れの菅浦になります。
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左が菅浦で右側が大浦になります菅浦文書には両村の境界地争いが頻発して狭い田圃の領有地争いが原因だったとされています。流石に菅浦文書では室町幕府は菅浦の勝訴を認めています。屹度一層貧乏だった菅浦が先に菅(スゲ)の生い茂った湿地を開墾して田圃にした先取特権が認められたのでしょう。黄色いのは刈跡の孫生(ひこばえ)です。
”桜の季節なら夢の様に美しかろう”想像します。国の重要景観に指定されている菅浦です。『浦のとまり』を字で行くような簡素で美しい家並が続いています。
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湖岸にへばりついたように並ぶ菅浦の家並桜紅葉も散ってしまいましたが既に硬い蕾が確認できました。
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菅浦のシンボル須賀神社の大銀杏、この日は時雨の降った直後で一際鮮やかな黄色でした。
そんな漁村の中央に二本の黄葉した大木が見えます。大銀杏はまるでお灯明の様に見えます。あの燈明のある位置が淳仁天皇を祀ったと伝説が残る須賀神社の表門になるのです。淳仁天皇は『恵美押勝の乱で道鏡や孝謙上皇に敗れた都を追われ、琵琶湖を渡り菅浦の地に隠棲した。』とも言われています『一般には淡路島に隠棲したと言い伝えられています』が・・・・。此処まではよくある話ですが。
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この門は四足もんと呼ばれる村の内外を示す門です。このような門が四方に在って内側が自治組織「惣」になります。私達と同年配の愛好家が須賀神社の社殿を夢中になって描いていました。この叔父さんは要領が良くて四足門の庇の下で描いていました。
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コッチのご婦人は木の下で描いておいででしたからこの後の時雨で撤収を余儀なくされてしまいました。
肝心なのは中世です。菅浦の住人は強い結束で「惣/農漁民の自治組織」を作ります。湖北の猫の額程度の狭い土地にしがみ付いて強い結束で生き抜こうとしたのでした。菅浦の民は村落の入り口に「四足門」を建てます、この門の内側は惣が支配する地域であることを明示したのでした。室町幕府も近隣の豪族も菅浦の自治組織を尊重します。結果都を追われた人も此処菅浦に身を隠そうとします。淳仁天皇もそんなモデルだったのかも知れません。藤原仲麻呂は瀬田で死んだことになっていますが若しも中世なら菅浦を目指して湖を渡れば良かったのかも。琵琶湖の湖岸は古代から近世まで政争が頻発しました。政争に敗れた人は隠棲の地を夢見た事でしょう。菅浦の自治は徹底していて『罪人と云えでも受け入れを拒否しなかったそうです。しかし『入村したならば村の掟は死守させた』そうです。美しい自然と優しい人情と揺り籠のような文化の香りがします。まるで白土三平氏の描く「カムイ外伝』の世界です。
要するに都の要人が政争に敗れて”観音の浄土に身を隠して穏やかに一生を終えたい”と思ったとしましょう。
”何処に隠れようか?”想ったとき先ず思いつくのは熊野そして菅浦だったのでしょう。熊野も菅浦も観音浄土です。現世で往生するとは今を静かに生き抜く事でしょう。”湖北に観音浄土が現出したのは此処菅浦が『浄土観の典型』だったような気がします。
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古い板塀の屋敷露地の笊菊が優しかったです。
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上段の写真のお屋敷の玄関先三本立て5本立ての大菊が咲いていました。コッチの正面はアルミサッシで一新されていました。此処は積雪もあるし季節風も強いので板塀を止めて新建材やアルミサッシで防寒したいのでしょうが。国の文化的景観に指定されたので自由にはなりません。
私達はてんでに菅浦の集落を散策しました。昔食べた民宿は今も商いをしていることを確認して安心しました。それにしても過疎化は進行しているようで眠ったように静寂です。
建て替えしている家も目立ちますが何処も陶器の屋根瓦で板塀のママです。流石に2014年に国の『重要文化的景観』に指定されたので新建材は制限されているのでしょう。そんな家並の中でアルミサッシの新しいお屋敷を見つけました。玄関先にも露地にも菊を飾っておいでです。これから孫と一緒に木の本のファミレスに出かけるのだそうです。襲い七五三のようです。
集落を巡っていると何時の間にか港に出ました。江戸時代には越前で収穫されたお米を菅浦港から積み出して大津から京都や大阪に運んだのでしょうが、今はそんな役割も終えて漁港としてだけ存続しているようです。
今、竹生島に行くと云えば長浜港から乗船するのですが。先刻見学した丸子船で菅浦港から竹生島に向えば10分足らずで渡れることでしょう。
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これが菅浦港です、今は漁港であり釣り客の拠点になっているようです。ここから古風な丸子船で竹生島に渡れたら楽しいでしょう。集落の略中央に阿弥陀寺があって民宿も数軒あるのですから何時かは此処に泊まってみましょう。
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菅浦の岸辺で大根を洗うご婦人右の長靴の人が嫁さんで左の割烹着の人が姑さんのきょうでした。
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親子で漬ける漬物は美味しい事でしょう。鴨も遠巻きにして作業を見守っていました。
湖の岸辺で大根を洗っている二人のご婦人が居ました。見るからに姑と嫁さんです。姑さんは手慣れたもので藁を掴んで大根の肌をゴシゴシ扱いて泥を落としています。嫁さんは無口に見習っています。
洗い終えた大根は湖のガードレールに干しています。大根の横には既に赤い蕪が並んでいます。屹度この家では赤蕪と大根を漬けこむのでしょう。赤蕪と大根の漬物は先刻山門公民館で馬頭観音を拝観した折にご馳走になりました。山形の古漬けに似た酸味の効いた漬物でした。山形の『おみ漬け』は屹度近江漬けが北前船で伝わったモノでしょう。斉藤茂吉の大石田では美味しいオミ漬けが食べられます。
今漬ければお正月まで残りは1箇月です。丁度食べ頃になる事でしょう。
政争に敗れた人も菅浦に隠棲して漬物を楽しんだのかもしれません。
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洗い終えた大根は先に洗われた蕪の横に吊るされました。こんな漬物は美味しいに決まっています。


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木之本の紅白の「野神」(近江観音紀行11)

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今回も同行してハンドルを握ってくれたT君が前々回の「三春桜のツアー」で古代樹の本を持参していました。同君に古代樹を観る趣味があることを初めて知りました。
以来ツアーに際しては古代樹があれば立ち寄ることにしています今回も湖北木の本から伊吹山の麓を回りますので、古代樹の期待が持てます。調べた処この辺りでは古代樹を「野の神」として豊作の神として敬っているのだそうです。長野の山奥では豊作を司る神と云えば「山の神」で森の奥に生えている神代桜や辛夷(こぶし)です。「山の神」が里に降りて「田の神」に変貌して豊作を約束してくれとと云うのです。しかし、琵琶湖周辺では団栗(樫)や楡の大木が稲作の豊作を約束してくれる「野神」と云う名の「豊穣神」だというのです。このブログでも「田の神」は再三記事にしましたが新しいタイプの「田の神」様なら、観ずばなりません。そこで木之本では「野の神」を探すことにしました。
観音様は住所や電話番号が確かですからカーナビもあって探しやすいのですが。野の神には住所も電話番号も無いので探すのは困難です、イメージとしては「田圃の中に忽然と聳えている大木」か「田圃の水源の森に枝葉を広げている大木」です。
最初の目標は「黒田の白樫」です。もう一つ「黒田の赤樫」と云うのもあるのだそうです。『両方とも廻ってやれ!』とばかりアバウトな感覚で農道を巡って探します。
最初に見つけたのは「黒田の白樫」でした。適当に走って行くと鎮守の森の裏に出ました。橋の袂の案内板には「これも野神」とされています。
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木之本一宮神社の森に自生している野神の白樫琵琶湖湖畔の田圃から見れば此処は水源の森で白樫の大量の団栗は如何にも豊穣を予祝する存在です。
この樫の木は大音集落にある伊香具(いかぐ)神社の御神木のようで、もう少し先には神社が在って此処は同神社の裏側に当るのでしょう。
一見すると二本の夫婦の木のように見えますが近寄って確認すると木の髄は既に腐って洞になっています。太い木のように見えるのは木の皮一枚なのです。
幹周/4.0m、樹高/18m、樹齢/約400年。幹内部は大きな空洞になっていますが、それでも葉をいっぱい繁らせています。
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前から見れば根を共にした二本の大木に見えますが裏側は既に髄まで腐っていて洞になっています。立っているのが不思議に思える樫の大木です。

白樫を見たら次は赤樫を観ずばなりません野神感覚で山裾を走り回ると案内板がありました。此処から200m山中に赤樫があるというのです。上り口にヤマゴボウが黒い実をつけていました。「山牛蒡」なら奈良漬でも美味しいのですが、この牛蒡は曲者で有毒です。薄気味悪い外来植物を観てしまいました。
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黒田の赤樫の登り口に実っていた山牛蒡の実この後ろに登り道が在ったのです。
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赤樫への登り道道は険しいし、団栗が沢山散っていますから滑ったら大変です。私は谷側に張ってあったフェンスを握りながら登りました、このフェンスは団栗を食べにくる猪などの野生動物が里に下りてこない様にしているのでしょう。
暫く上ると突然に開けた空間に出ました。其処は赤樫が梢を広げているので、その下闇で他の植物が生育しないのでしょう。先に登った友人らは赤樫の梢を見上げて口を開けています。野神も”どうだ俺は立派で凄いもんだろう!”威張っている様に見えてきます。大樹の前には竹を切って御幣で祀っています。
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偉大な野神を見上げて唖然とする友人ら。

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これが黒田の赤樫です山側の根が良く張っていますから樹勢はいよいよ盛んです。孟宗竹の御幣がお似合いです。
私は赤樫にあやかりたいと思って団栗を数個拾ってポケットに入れました。我が庭に撒いてみようと思ったのです。
赤樫を拝観した途端に時雨が上がり始めました。
上る時には気付かなかったのでしたが麓の家並も美しいモノです。
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黒田の赤樫の庇の下で得意満面の筆者。野神の導きで尾根を登って、徐々にリハビリも前進していることを確信しました。
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黒田の赤樫から麓の家並を見下ろす向こうの丘陵の手前に小川が流れていてその橋の袂に白樫があったのでした。
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黒田の赤樫から麓の民家を観る時雨も上がりました。


気をつけ気をつけ山道を下りました。駐車しておいた車の傍に柚子が転がっていました。柚子をダッシュボードに入れて芳香剤にします。
時雨が上がると空腹に気付きました此処でも目標は安念寺の「芋観音」に赤後寺の千手観音です。どちらも芸大美術館で拝観しました一見して強いインパクトを受けた観音様です。まるで鄙びた里の美人を探し廻るような気持ちです。

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