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芋観音を探して(近江観音紀行12)

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「山の神」が「田の神」に変じる中間のようなモノが「野の神」なのかもしれません。二本の御神木を拝んだらまた元の「観音菩薩巡り」に戻ります。目標は黒田の白樫に近い「芋観音」と呼ばれる安念寺さんです。芸大美術館で拝観した時には衝撃でした。”何で芋観音なのか?”観音様を観ればすぐわかります。破損が過ぎて既に原形を留めていないのです。破損仏と云えば唐招提寺や大安寺が有名ですが、唐招提寺などの破損仏は長い歳月を経過する中で塗装が剥げ木喰い虫や鼠に齧られて原型を留めなくなったものですが、が安念寺の破損仏はは哀れを極めています。土の中に埋めて掘り起こすのが遅れたので腐ってしまい原型が全く解りません。多分「土に変わる直前」のお姿なのでしょう。まるで畑を掘り起こして「薩摩芋」が転がり出したように見えたので「芋観音」と呼んだのでしょう。里人の愛情が感じられます。私の友人にも「芋」とあだ名されている好人物が居ます。

先ず芋観音の写真を見て貰います。
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これが安念寺の俗称「芋観音」です。写真の出典はJTB出版の近江の仏像をスキャン
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これは「唐招提寺のトルソー」と呼ばれる菩薩立像、萱の一木で木芯乾漆像の中心木が露出したモノで乾漆像から木彫仏への過渡期を示す仏像です。此方は仏像の表面が破損して顕れたものですが。芋観音は本来木彫仏であったものが故意に土に埋められ腐りかけて居た時に掘り起こされたものと考えられます。

安念寺さんには電話がありません木之本観光協会さんからは管理人のご自宅の電話を教えられていますのでカーナビに電話番号を入れたり地番表示を入れたりして安念寺を探しましたがどうしても探せませんでした。どうも白樫の前の土手沿いに東に(伊吹山方向)行けば良かったようです。そのうち時雨も強く降り出しました。後ろ髪を曳かれるとはこのことで今日参詣しなければ一生参詣できないような嫌な予感もします。
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木之本の西黒田地区を芋観音探して走り回る、折から時雨が強く降り出しました。私達はこの道を直進して川を渡って左に回ったのでしたが、家に帰って確認すると橋をを渡って直ぐ堤の上の細道を右に行けば良かったのでした・・・・「残念」。
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木之本西黒田地区の木守柿。野鳥にとってはコッチの方が野神でしょう。里人が残してくれた食べ物で冬を越せるのです。
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芋観音を探して西黒田の堤防を行ったり来たり。実は車の背後の位置に安念寺とその管理人のお住いが在ったようでした。
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芋観音を探して木の本町西黒田を走る。前方の橋の袂に立っている幟は道筋にあるレストランです。右端の小山が「一宮」の鎮守の森で黒い梢が昨日案内した「野の神」の白樫の御神木です。
それにしても美しい里です所々黄色いお灯明の様に立っている黄色いのは銀杏です。銀杏はお寺が燃えない様に防火壁のような役割を期待して植えられたものです。こうして紅葉したお山を背景にして銀杏が染まっている景色は銀杏が観音菩薩を荘厳している様に思えます。
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木之本町西黒田の里山の麓に集落が在ってその核にお寺が在ってお寺の所在を黄葉した銀杏の木が教えてくれます。写真左上の銀杏の木の根元に観音堂がありました。それが下の写真でした。
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大銀杏を目標に走って、突き当りは小さな観音堂でした。実は此処で下車しないで折り返してしまいました。写真をよく見ればお堂の前に「芋観音は左」の案内が建っていたのです。観音様のご配慮に性急な私が気付かなかったのでした。また別に機会を作ってお参りする事にしましょう。この辺りは水上勉の小説の様に美しい里ですから次回は車では無くて歩いて巡る事にしましょう。
車窓を観ていて気づきました。刈り入れを終えた田圃ですがお米が稔って稲穂が垂れています。雀や鴨がこの孫生(ひこばえ)に実ったお米を群れて食べています。柿の実を食べているのは烏にムクドリです。烏やムクドリに較べれば鴨もスズメも可愛さが勝っています。
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稲刈りを終えた切り株からは新しく芽が生えて二度目の稔を迎えていました冬鳥は日本の田圃にはお米が在る事を承知していてシベリアから遥々渡って来るのでしょう。稲にはジャポニカ種とインディカ種の二種類があります。ジャポイニカ種は丸くて粘り気がある事インディカ種は長粒米でパサパサしている事ばかりが喧伝されていますが、考古学的にはジャポニカ米は何度も収穫できる(鎌で稲穂を収穫すれば複数回収穫が出来る事が特徴です。縄文人は石包丁で稲穂を収穫していた、一方弥生人はインディカ米を持って日本に移り住んできた・・・」そんな仮説の根拠になります。
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これは琵琶湖野鳥センターに群れる鴨です。琵琶湖の名物が鴨である事は日本の稲作がジャポニカ米で刈り入れ後に孫生(ひこばえ)が育って開花し上の写真の様に結実するので。鴨君がこれを食して丸々太るからでしょう。美味しいお米で育った鴨君が美味しいのは当然です。
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此方は長浜城公園の湖岸に集う鴨君達、風に打ち寄せられた木の実や草の種を食べに鴨君は岸辺に集まって来ていますが、人や猫の気配がすると直ぐに沖に逃げてしまいました。向こうの尾根が比叡山比良山で島影は近江八幡の沖合にあるその名も「沖島」です。此処は人が住んでいます。
此処琵琶湖の名物は鴨です。「鴨」は未だ食べていません。腹も空いたので「鴨蕎麦でも食べに琵琶湖野鳥センターに向かいました。でももう一つ観音様を巡りましょう。
目標は赤後寺 (しゃくじ)です。)此方も芸大美術館で拝観していました。


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川に沈めた観音様(近江観音紀行13)

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憧れの「芋観音」の拝観は断念して赤後寺 (しゃくごじ)に向かいました。芋観音は戦乱に際し里人が観音像を土中に埋めて、掘り起こすのが遅きに失し、腐食が進行してしまったものでしょう。
一方赤後寺の千手観音は戦乱に際し観音像の千手を抜いてl躯体を川に沈めたものの。抜いておいた手を失ってしまい補修もしないままで現代に伝えたモノなのでしょう。どちらも戦乱の前後で慌てふためいた人間の起しそうな失態です。
芸大美術館の展示では沢山の観音像が林立展示されていたのでしたが、手を失った赤後寺の千手観音と聖観音ンは際立っていて、眼を惹きました。
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これが赤後寺の聖観音(左)と千手観音(右)開基は行基と云われていますが足利尊氏の庇護を受け大きな伽藍を誇った時代も在ったそうです。どちらの観音菩薩の平安時代前期の作で手足が損傷していますので躯体の檜の一木が目立ちます。手足を損傷している事pから怖れられ長らく秘仏とされていましたが、昭和44年重要文化財の指定を受けてから拝観が可能になったそうです。写真出典(JTB出版/近江の仏像)

田圃の中に集落が在りますその集落の北端に小山(湧出山/標高200m)が在って小山の中腹に南面して赤後寺が在るのです。参道を北行すると立派な石の鳥居がありました。この鳥居は日吉神社で社殿のあるべき位置に観音堂が建っていました。日吉神社の社殿は感音堂の東にこじんまり建っていました。神仏分離と云っても此処は仏が神に先行したようです。屹度観音様を小さな社殿に移すことが憚れたのでしょう。
観察するに『観音堂は奥が深いので須弥壇の背後に神棚があって前に観音、後ろに日吉権現が祀られていたのが、明治の神仏分離令で急遽後ろの神棚が撤廃され境内の東に新築されたのだろう、』推測しました。石段の下に千手観音のご利益を説明して在りました。
「転り/ころり」のご利益があるというのです。

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赤後寺には大きな石の鳥居が建っています。鳥居の扁額には「日吉神社」と書かれていますが、日吉大社固有の山王鳥居ではありません。石段を登って正面が赤後寺の本堂(観音堂)です。
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手前が赤後寺の本堂でこの内陣の厨子に観音像が祀られています。本堂の奥に見える建物が日吉神社の社殿です。
「転り観音」とされています。「コロリ観音」と読んだまでは良いのですが。私は「ピンピンコロリ」健康で長生きして苦しまないで死ねる」観音様と早ど者合点しました。どうも「ピンピンコロリ」は間違いで「重い病も噓の様にコロリと快方に向かう」と云う意味でコロリなのだそうです。『観音様を川底に沈めて戦乱を避けた』言い伝えから「コロリ」を連想させたのでしょう。観音様は長い間川底で横になられていたので、身体が痛んでしまいました。でも、芋観音様よりは病状はマシだったようです。
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二体の重文観音像『右聖観音左千手観音』を見入る。手こそ失っているものの躯体の状態は良好でした。厨子の前は護摩壇です。

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赤後寺の拝観を案内する看板赤後寺の観音を「転利/コロリ観音」と読ませていますが説明は厄を転じて福になす事と、健康に過ごして穏やかに死ぬことが出来る両面のご利益があるとしています。拝観希望は当日の当番の人に電話すれば良いのです。私達も携帯電話するとホンの2分で軽トラで駆けつけて観音堂の扉を開いてくれまあした。
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転倒防止の「コロリの糸」とは赤い木綿糸でした。昔は「赤い糸」で結ばれているのは夫婦でしたが観音様が「赤い糸」の片方を握っておいでなので転倒しないと云った意味で高齢者の転倒防のおまじないが「コロリの糸なのでした。
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これが「コロリの糸」です

赤後寺からの景色は中々良いモノでした。
石段の下には大きな丸い石が2つ転がっていて「枕石」と案内されています。説明には『戦乱(姉川の戦い?賤ヶ岳の戦いかは記していない)に際して里人がこの石を重しにして近くの赤川の水中に沈めて観音様をお隠しした』と説明しています。
「草枕」は旅の枕の事ですし「水枕」は病床の意味です。琵琶湖周航の歌ではボート部員の青春を「波枕」と歌っています。でも「石枕」では穏やかではありません。石枕とは「死者の枕」の意味ですし。「一つ宿伝説」では鬼婆が石枕で旅人の頭蓋骨を叩き割っています。「石枕」なんて言わないで「重石」とか「碇」と書けば良いのと思いました。
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これが観音様を守る為に水中に沈める為に使用した枕石だそうです。私は「枕石」は不穏当で「重し石」が適切と思います。
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此方が枕石の解説です里人は柳の木を伐って観音像の左右に並べてカモフラージュしたモノノ大水が出て頂上仏も宝冠も後背も手足も流失してしまった。痛々しい観音様を観るに忍びず、長い間秘仏にして来たと説明しています。



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赤後寺から琵琶湖方面(西)を観る。この後お腹も空いたのでなぎさ街道を野鳥公園に向かいました。

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赤後寺界隈は中々に瀟洒な民家が目立ちました。この民家の藁葺き屋根は一際美しいと思いました

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琵琶湖の野鳥公園(近江観音紀行14)

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琵琶湖には野鳥公園が少なくとも2箇所あります。一つは海津にもう一つは長浜にあります。
この朝出がけに海津の野鳥公園の場所を民宿の主人に訊いた処”野鳥なら湖岸を走れば其処ら中に居ますよ!”言われて海津に行く興味が薄れてしまいました。
そこで長浜にある野鳥公園に行く事にしました。パンフレットで見れば此処での夕映えは見事なようです。
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湖北水鳥ステーションのパンフの写真、沖合の島は竹生島です。手前は枯れた葦に柳でしょう湖に立っているのは竹ですがこれを「えり」[ 小型定置網])と呼びます。淡水魚が岸辺に向かって回遊してくるとこの「えり」で行く手を遮られると先端の「ツボ」と云う処に集まってしまって其処で一挙に捕獲されてしまうのです。「えり」は上から見ると矢のような形になっています。
魚も矢もトンボも前にしか進めませんので。その習性を利用された漁法なのです。太陽も東から昇って西に沈むだけですから、魚もトンボも神意に沿っているのでしょう。神意を逆手に取った漁法は問題なのかもしれません。
夕焼けには未だ時間がありそうですが空き腹は既に限界です。午後3時「さざ波街道」を走って野鳥公園に入りました。
此処は北に野鳥観察館があって南に道の駅があります。道の駅にレストランが在って其処の鴨蕎麦(630円)が狙いです。朝から鴨君をしばしば見て想いました。何故寒くなると鴨が食べたくなるのだろう?
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木之本から琵琶湖東岸を長浜に向かって南下します。この「さざ波街道」は空いているし、景色は良いし、最高でした。
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この建物が道の駅「湖北水鳥ステーションです。1階がレストランと物産店で二階が展望ルームと展示場です。
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これが鴨蕎麦(630円)です。鴨のロースが3枚と鴨肉の団子が1個入っていました。お腹が空き過ぎていたので一気に食べたのが災いしてヒャックリが出て止まらなくなってしまいました。実に美味しかったのでした。
鴨は寒くなると日本に遣って来ます。9月に入ると燕が南に帰って代わりに鴨が北から飛来します。寒露(24節季)の諸侯は「鴻雁来(こうがんきたる)」です。
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此処は「水鳥ステーション」の2階の展望ルーム窓際の席から水鳥を観察できます。壁には写真が展示されていました。
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こうした野鳥愛好家の作品が展示されていました。
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室内の壁には琵琶湖の豊かさ、生物多様性を説明していました。
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此方は琵琶湖北岸で漂う鴨君達鴻雁来は初秋に遥々シベリアから遣って来るの意味で待ちに待った友人がヤット来てくれたニュアンスがあります。一方3月になると鴨君はシベリアに帰ります北帰行する訳でこれを「鴻雁北」と書いて「鴻雁帰る」と読みます。鴨と「雁」は同じで、日本人には無二の親友のような思い入れがあるようです。植物の楡(楡)と欅(ケヤキ)は同じモノですが、学校の校庭に生えているのが楡でお寺の本堂の柱になっているのが欅ですから。空を飛んでいるのが「雁」で食卓に上るのが「鴨」かも知れません。こう考えると「鴻雁来」が正解で「鴻鴨来」は誤りです。


鴨が来たら冬越しの準備に入るという意味で気合が入った事でしょう。
植物も同じで冬支度に入ります。葉で作った炭水化物は貯蔵し易い糖に変じて根に蓄積します。葉緑素は分解されるので隠れていたカロチンが目立ち始めます。その緑と赤の交代が紅葉なのです。
雁まるでシベリアから紅葉を運んで来るように紅葉前線を南下させます。
鴨は鶏の中で最も美味しいと思いますが、それは人間が冬越しの為の滋養分を身体に溜め込んでいるからでしょう。
暦で「鴻雁来たる」を知ると”とさあ鴨を食べよう”鴨鍋で体を温めて鴨の滋養分を戴いて病気にかからない身体を準備しよう!”と心構えしたものと思います。そんな鴨さんでも食べ過ぎは身体によくありません。葱を併せて食べる事によって鴨肉に多量に含まれる不飽和脂肪酸をはじめ水溶性のビタミンを残らず体に取り込もうとします。同時に葱は野生動物固有の毒性も解毒してくれるのです。葱が一番おいしいのは鴨鍋に泥鰌鍋です。泥鰌は高いのでせめて今晩は「牛肉の柳川」でも造って貰いましょう。
斯様に大事な鴨ですのに花札に鴨が無いのが不思議です。「紅葉に鹿」「萩に猪」がデザインされていますが「紅葉に鴨」が最適と思います。
この日は金曜日午後から晴れた事もあってか道の駅「水鳥ステーション」は混雑していました1階が売店とレストランで2階はバードウォッチング会場と展示場になっています。この日は水鳥の写真が展示されていました。水鳥は枯草と夕焼けが似合うようで写真のテーマも水鳥の楽園を切り取っていました。
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売店には今晩の酒盛に最適なお惣菜が並んでいました。これは名物の「鯖ソーメン400円)です。黒豆コロッケも気になります。
処で肝心の鴨のお味ですが、お蕎麦に鴨肉のロースとひき肉団子が入っていました。ひき肉団子が美味しい事ロース肉も咬めば噛むほど味が濃くなる気がしました。でもお腹が空きすぎていて一気に食べようとしたのが悪かったのでしょう。食べる途中から”ヒャックリ”が出始めて止まらなくなってしまいました。
『今晩はホテルから長浜の街に出かけて「鴨鋤」でも食べようか?特別予算を組んで!』言っていたのに鴨蕎麦でダウンして鴨鋤までは胃袋に収まりようがない気配です。
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これは水鳥ステーションから長浜に向かう途中で渡った「姉川」です。明日はこのツアーも最終日で東の山際を伊吹山に向けては巡る予定です。姉川の上流が小谷山になります。
実はこの夕刻「長浜城公園」の夕焼けが「日本夕焼け百景」と知り寒風と時雨の降る中公園で夕焼けを待っていました。ホテルに着いた途端に吐いてしまい鴨鋤処では無くなってしまいました。私一人ホテルでプリンを食べて夕食にしました。でも温泉で温まると元気も気力も回復して団欒会では昨日同様に盛り上がりました。

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長浜城公園の夕暮れ(近江観音紀行15)

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琵琶湖東岸のさざ波街道を南下して今晩のホテルに着きました。ホテルの真下が長浜城で紅葉も今が盛りのようです。T君が教えてくれました”ここからの夕焼けの景色は日本夕焼け百景に数えられている”と。
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ホテルの窓からは長浜城のある公園(豊公園)が見えましたお城の奥に竹生島の影も見渡せました。
そこで、私達は夕焼けの良さそうなポイントに陣取って夕暮れを待ちました。T君はタブレットを叩いて「長浜の日没は5時45分だ」教えてくれます。日没までは残り20分。でも比叡や比良の頂は黒い雲に覆われてしまいそうです。どうも今夕の夕焼けは期待薄のようです。そのうちポツポツ降り出しました。
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豊公園の紅葉白壁に紅葉が鮮やかなコントラストでした。桜の木の目立つ公園でした。
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浪打際に鴨君が漂い対岸の比叡山の頂に陽が沈みそうな気配でしたが見る見る雲が濃くなり時雨はじめました。左の島影は「沖島」でその対岸が近江八幡になり近江富士(三上山)が聳えています。
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日没が近付くにつれて時雨が降り出して夕焼け処では無くなって来ました。夕焼けは諦めて撤収しました。因みに滋賀県は投稿サイト(滋賀の夕焼けを用意していますのでこちらで美しい夕焼けを観てください。http://photocontest.biwako-visitors.jp/photo/?p=1886
夕焼けを待っている間に想い出しました。私はもう10年も前明日香で二上山の頂に沈む夕焼けを観ていました。私も友人も皆「折口信夫氏の「死者の書」を想い起していました。二上山の向こうに陽が沈むので「死者の書」であってお日様の昇るのは三輪山か香久山になる訳です。滋賀の都から見れば陽の昇る山が近江富士(三上山)になって陽の沈む山が比叡山になります。音読みすれば「陽影山」も同じ意味です。近江富士で命が生まれ比叡山で命が終わる事になります。長浜で見れば陽の昇る山が伊吹山で陽が沈むのが比叡山です。明日香のロケーションが此処近江にも確認できます。天智天皇が滋賀の都を作ったのは明日香と同じロケーションだったからかも知れません。
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雨宿りしていた頭上のあった玉。木は柳で球は宿木(やどりぎ)です。
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柳の幹に出来た巨大な瘤、一見して癌を髣髴しました。
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此方の楡の幹には黒い入墨が出来ていました。一番盛り上がった処を触ると蜘蛛が飛び出てきました。
頭上を見上げれば幾つも球形のモノが吊り下がっています。
一見すると酒屋の杉玉の様にも見えるし運動会の鈴割の球の様にも見えます。そうこの柳の大木には宿木(やどり木)が寄生しているのです。もうじきクリスマスです。クリスマスでは宿木の下で男性は女性に求愛するのだそうです。
ケルト神話では常緑の宿木は幸福幸運をもたらすラッキーアイテムだそうです。だから宿木の下で求愛すると成功率も高いし幸福になれるんだそうです。
長浜市は其処まで読んで宿木だらけにしているようにも思えません。
ケルト人は宿木に命を直感したのに対し日本人は対極のイメージを強くしたようです。
宿木は「旅」の枕詞ですし、日本人は旅を人生そのものと観て来ました。源氏物語宇治10帖の第5帖はその名も「宿木」でした。薫は長谷詣での帰路宇治に寄ります。宇治で「浮舟」を垣間見します。浮舟はなんと大君(源氏)の面影を深く宿していたのです。浮舟は薫と匂宮との板ばさみになって悩みます。ついに死を決意をします。
現代を生きる私達は精神的には自由(自己責任)を重んじ現象を視る時因果律で考える様になりました。でも古代の人達は因果律を時間の経過の中で前世現世来世の観念で観ていました。源氏の因果が薫の巡り。薫の因果が次の世代に及ぶと考えました。



波打ち際に鴨君が集まって来ています。菱の実等の食べ物が打ち寄せているのでしょう。しきりに首を上下させて食をあさっているようです。

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横浜で国宝が…(松陰寺の飛鳥仏)

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今年は古代金銅仏で話題の多い年でした。その都度私は大学時代の恩師であった浅子教授に報告する積りでその意義を考えて過しました。
初夏には新薬師寺にあった「香薬師像」のモノと思われる右手が発見されました。その時の新聞は次で私はこのブログに書いて浅子教授にレポート提出した積りで居りました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49517071.html
図書館に飛鳥仏のポスターが貼ってありました。ポスターは横浜にも飛鳥時代の金銅仏があって10日から横浜歴史博物館で展示するとの事でした。そこで10日にセンター北駅を降りて博物館に行ってみました。
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これは都筑区庁舎に近い横浜歴史博物館の特別展入り口正面は常設展です。今日は特別展のハイライト松陰寺に伝わる金銅仏を紹介します。

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今年の8月に報道された香薬師像の失われた右手(新聞記者魂のある貴田女子が発見されたモノでした。でも肝心の本体は未だ行方知れずの儘です)
もう一つは11月11日に飛鳥寺の大仏様の科学調査の成果が報道されました。
私の学生時代は飛鳥大仏のお顔の傷みが激しい事から現在のお顔は何度か修理されたモノとの意見が大半でした。しかし韓国の研究者との合同調査の結果、7世紀建立当初のモノである事が判明したというのでした(この件については次の邪馬台国調査会の報告が詳しいです。http://www.zenyamaren.org/yamaren10.html)新聞記事では飛鳥大仏の素材の銅にはヒ素が多分に含まれている事も記されていました。飛鳥時代は掘り出されたママの銅が使われ青銅(錫との合金)は白鳳時代になってからである事も知りました。飛鳥から白鳳続いて天平時代の推移は美の様式の変化だけでは無くてテクノロジーの進歩も併せ持っていたのでした。
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此方が飛鳥大仏螺髪が抜けてお顔の継ぎ接ぎに修復説が専らでしたが今次の科学調査の結果7世紀建立当初のままである事が判明しました。(写真出典日本の美術飛鳥時代をスキャン)
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此方が深大寺の釈迦如来美しい椅像で居られます。今日紹介したい横浜鶴見松陰寺の阿弥陀如来像はこの像と下に示す法隆寺薬師如来像の双方の特長を併せ持っておいでです。鞍造鳥が日本に帰化して半世紀関東地方で金銅仏を鋳造するようになったのでしょう。
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此方が法隆寺の薬師如来像です。飛鳥大仏と新薬師寺の香薬師像との間に鋳造された金銅仏と思われます。

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此方が鶴見の松陰寺の阿弥陀如来像。(ポスターを使ったチラシをスキャンしました)如来の袈裟の処理は法隆寺の薬師如来の様式を継承し、お顔は香薬師像や深大寺釈迦如来に似た童顔で細目で微笑んで居られます。

処で関東地方の金銅仏と云うと浅子教授に連れて行ってもらった印旛沼の龍覚寺の白鳳仏と深大寺の釈迦如来が有名です。今年はナンジャモンジャの咲く5月に深大寺に拝観に行きました。処で本日メインで浅子教授にレポートしたいのは横浜鶴見の松陰寺の(伝)阿弥陀如来椅像です。大きさは深大寺の釈迦如来より二回り小さくお寺の隅に小堂が建てられ其処に祀られていたモノでしょう。神奈川県には茅ヶ崎の宝生寺に阿弥陀三尊立像があります。此方は善光寺式阿弥陀三尊の代表例として良く紹介されます。以前書きました。(=%C1%B1%B8%F7%BB%FB%B0%A4%CC%EF%C2%CB%BB%B0%C2%BA&)
私は横浜港北ニュータウンの北、都筑区区庁舎に近い横浜歴史博物館の展示場のショーケースに額をつけて見入りました。博物館員は阿弥陀像のお顔と袈裟模様を良く見て欲しいのでしょうライティングもお顔と袈裟紋をターゲットにしています。私の脳裏には仏像史があって、その系統図の何処にこの美しい椅像を置こうか考えます。博物館員は説明に飛鳥時代(8世紀)とだけ書いていますから。法隆寺建立の頃と判断しているのでしょう。光背もないし台座の裏か何処かにこの金銅仏の建立年月が施主や願文が記されていたら。この小像の歴史が明らかになって横浜市文化財どころか国の重文又はそれ以上の評価を得て居る事でしょう。でもこの小像は東博に寄託されていますから、既にその評価も固まっているのでしょう。何れ重要文化財に指定され横浜市で二体目の国宝と云う事になるかも知れません。何故2体目かと云うと1体目が運慶作と史実も明らかになって称名寺の大威徳明王像です。仏像の評価は美しい事と同時に史実の裏付けも必要です。前者は美学者が主張し後者は歴史学者が主張します。古代史については両者の評価が一致する事は至難です。もう記憶はセピア色になってしまいましたが印旛沼の岸辺の龍覚寺に白鳳の金銅仏を浅子教授に引率されて拝観した事がありました。その時は相模の方が安房よりも都に近いのに何故安房に斯様に立派な金銅仏が残されているのか?不思議に思ったのでした。それは千葉より神奈川が勝っていると云った幻覚が在ったからで、今では安房国分寺史蹟を観たりして。古代は安房国が先行していた事実を納得しました。
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此方は印旛沼龍覚寺(和銅2年709年創建)の薬師如来椅像此方は昭和7年(1932年)発見された金銅仏で半丈六仏(92㎝)ですから飛鳥大仏の半分の大きさです。松陰寺の阿弥陀如来は更にこの半分の大きさになるわけです。明らかなことはお顔は白鳳仏の童顔薄目で微笑されています。でも袈裟紋の躯体は江戸時代の作です。国の重要文化財です。
何れ優秀で情熱のある人が関東地方の金銅仏を研究して発表してくれることでしょう。
私は長生きしながらアッチコッチ自分の眼で確かめながら浅子教授にレポートできそうになって来ました。幸いにして人生に卒論の締め切りはありません。自分の眼が閉じるまで香薬師のような「ウツラ眼」でも私のウツツ頭」で卒論を書きあげて何時の日にか卒論を携えて黄泉の教授室のドアをノックしたいものです。
来春は何時もの仲間と木津川の畔の蟹満寺に上る予定です。レポート作成には此処の釈迦如来像は重要です。年々歳々卒論の輪郭がハッキリしてきます。教授も友人と一緒に拝観してきた事を悦んで下さる事でしょう。
先日この松陰寺阿弥陀像を日文研の仲間に”良いから是非拝観するように!”照会したのでしたが、そんな場でないと一笑に付されてしまいました。”眼は飛鳥仏のように見開かないで白鳳仏の様に細目が良いようです。天平時代には鉤目が主流のなってしまいます。

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「善の研究」と「禅の研究」(日本でのベルグソン考察)

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12月10日の日文研セミナーでI君がベルクソンを取り上げレポートしてくれました。
同君は慶応を卒業して東大大学院で哲学を専攻しているとの事。私は懐かしさもあって参加しました。
同君は遠慮気味に「哲学の話に多数出席してくれて感謝します」言ってレポートを開始しました。
私は”自分の学生時代は未だ哲学が求められていタラから、遠慮はいらない”激励しました。
私の本棚には岩波書店の「哲学」が並んでいましたし、『哲学の無い生き方は羅針盤の無い船で航海するようなものだ』想っていました。
私の青春時代に誰でも読んだのが「善の研究/西田幾多郎」でしたから、ベルクソンはその教師のような哲学者です。
「今頃ベルクソンを論じる若者が居るのは良い事だし、応援したい」想いました。
明治の我国哲学はカントに始まって知(理性)が重んじられました。日本人は総じて「理」が先行する事を好みません。「理」よりも「情」に訴える国民です。
「忠臣蔵だって理で考えれば仇討なんてしません、情が優先されたので討ち入りが歓迎されたのでしょう。でも昨今のテレビドラマを観ていると主君「浅野匠之上」への情よりも家族への情が勝って、討ち入りに参加しなかった武士が注目されているようです。
近代日本では総じてドイツ哲学は敬遠されていました、その反作用でしょう。大正時代から昭和前半にかけて「情」に光を当てたフランス哲学が歓迎されたのでした。時代雰囲気を代表するのが白樺派の有島 武郎です。
「一房の葡萄」
横浜では有島 武郎(ありしま たけお)が横浜の山手を舞台に「一房の葡萄」を書いて共感を得ました。一房の葡萄は有島武郎の自伝小説で大正から昭和の思潮を代表していると思います。当時は社会派文学に代わって白樺派の文学運動が盛んになります。比較的裕福な家庭で育ち知的でもあった白樺派の作家は言葉(文学)と併せて絵画や絵本や音楽(童謡唱歌)を駆使して、国民に喝采されたのでした。
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これが一房の葡萄です。横浜税関長の息子であった有島三兄弟は西洋風の教育を受けます。今の東洋英和学院に通学しますが。武夫は横浜のブルーの海を上手に描きたくなり友人の持っていた絵の具を盗んでしまいます。友人が盗んだ事実を摘発して証拠と共に美しい教師に突き出します。武夫少年に教師は窓から手を伸ばして一房の葡萄を手渡します、そして約束します「今日は家に帰ってこの葡萄を食べて休みなさい、そして明日は何があっても学校に来なさい、約束しましたよ」武夫少年は翌朝体調が壊れないかrと期待したのでしたが、登校する事になります。職員室には絵の具を盗まれた少年と先生が待っていました。そして先生はまた窓から手を伸ばして一房の葡萄を獲って、房を真ん中で切って武夫と友人に手渡してくれました。少年と武夫は握手しました。そんな話ですが。美しい手と紫の粉を吹いた大粒の葡萄は絵の様に美しかった事でしょう。美や愛があれば倫理よりも情が優先されると云った主張です。武夫少年には既に心中願望が在ったような予感がします。
鎌倉に住んだ有島 武郎は婦人公論の記者(人妻)に不倫して軽井沢で心中して果てます。遺書には、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残しました。有島 武郎は心中が成功したと信じていたのでした。
愛に殉じた生き方が多くの庶民の共感を得たのでした。「愛」と云った情が死に勝っていたと主張したのでした。でも、有島 武郎と心中した筈の秋子は生き残っていたばかりか、有島が取り交わした書簡を発表します。情は有島武郎には濃く、女性には知や欲が勝っていたのでした。。今も美しい信州新町の梓川の岸辺には稲村ケ崎のアトリエが保存されています。
フランス革命の結果獲得した「自由」の哲学は日本では「理性」の判断よりも「情」の赴くままの生き方を優先させたのかもしれません。
少なくとも日本人は近松門左衛門も井原西鶴も「情」を優先する伝統がありました。。明治の文明開化以来哲学は難解だったものの、ようやく日本人に解りやすい哲学を探した、それが大正時代の雰囲気だったことでしょう。大正デモクラシーと云うと高校では婦人参政権ばかり覚えさせられましたが、恋愛も自由の空気が充満したのでした。ですから進歩的な知識人層に心中や自殺が頻発しました。
唯物論と観念論の対立は人間の生き方の根本課題ですが。この解決を「主客合一」を説いたのが陽明学で行動を重んじたのが吉田松陰でした。西田幾多郎は行動する事を「純粋経験」と説いて”知識と倫理と宗教を一致させた生き方をしよう”と説いたのでした。
素敵な人妻を奪いたいと欲するのは倫理的には許されません。でも情は知性では止められません。そこで『自分自身は主客一致して人妻を愛して 嘘偽り一点の汚れも無いのでそれを行為で表現しようとして心中に向かわせたのでした。大学教授と美しい新聞記者の心中は学生にも影響し、慶応の学生は大磯の裏山で心中して果てました。しかし戦争が総ての思考を停止させてしまいます。
昭和30年代も心中が流行った訳ではありませんが歌で「神田橋」がヒットし漫画で「同棲時代」が読まれました。
情を重んじた生き方が評価されたのでした。戦後未消化に終わった大正デモクラシーやベルグソン哲学が戦後復活した様な風潮でした。
私達戦後生まれの団塊世代はこの未消化のベルグソン的な生き方を継承して育ちました。
問題は「知」と「情」とどちらが優先するか二者択一の問題ではありません。知に偏っても情に流されても良くありません。両者の間を融通無碍に行き交う事の出来るような自由が期待されます。友人が他界すれば私は嘆き悲しみます。そしてお経を讀んで弔う事でしょう。お経は言葉ですから意味があります。でも誰もお経の意味を理解して居ません。悲しい想いを遂げる為にお経を読むのです。僧も会葬者も故人の冥福だけを願います。この部分は情の領域です。人麻呂の挽歌も平家琵琶も言葉に意味がありますが、意味よりも調べや韻が重んじられます。韻も調べも情に訴えます。死んだという事実は心臓や脳波が停止した事実で判断されるのが知(科学)の世界ですが、情の世界では人々の記憶に故人が消えた時に死んだことになります。科学的(知)には心臓が停止し脳波が止った状態を死と云いますが情では人々の記憶から消えた時に死と判断します。肉体が滅んでも情は滅びません。平家琵琶では夜な夜な怨霊(情)が現われて嗚咽するのです。
有島武夫は大正12年6月9日に死んだのですが私達に心の中では今も生き続けているのです。情の世界でも命が絶えた時に死んだことになるのです。でも武夫の情のに重きを置く人が居る限り命を懸けて他人の妻を愛そうと思う人に共感する人が絶えぬ限り死ぬことは無いのでしょう。この意味で古典と呼ばれる文学は生き続けます。
【陽明学と禅】
ベルグソン哲学は日本人の宗教観や美意識に向いていた事は間違いないと思います。しかし、「知」よりも「情」や「行動」を重んじる生き方はズット昔からありました。「知行合一」は陽明学のテーゼでしたし、大塩平八郎から吉田松陰に引き継がれ維新の思想でありました。ベルグソンが知を軽視し情を重んじても、日本人にすれば「当然でしょう!」であります。「知」は言語でしか表現出来ません。その言葉を軽視するのは矛盾しているのです。私は脳梗塞を患ってデーサービスに週一で通っています。病気の所為で「有難う」と言いたくても大声で叫んでしまう患者もいます。「有難う」という言葉は小声で相手にだけ聞こえるように囁いてこそ伝わる情なのです。脳梗塞を患うと「有難う」の言葉がまるで怒っているような大声になってしまうのです。情と言葉の不一致が度々トラブルを引き起こします。
【無字の公案】
その情景を眺めていると私は「禅の公案」を想い出します。「無門関」や「碧巌録」にある禅問答がそれです。無門関に収録された公案に「無字の公案」があります。言葉や文字を介さない公案です。師(趙州和尚)が弟子(無門)に訊きます。 「『無』とは何か」という公案です。
趙州和尚が弟子(無門)に普段から「「一切衆生悉有仏性」」と口酸っぱく言い聞かせていました。ある時弟子(無門)が逆に師に尋ねます。
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これは三溪園を棲家にしている野良猫です。栄養常態が良いし適度に運動もしているので健康そのものの色艶です。観察していれば犬も猫も生きとし生けるものは情があります。情が在るという事は仏性が在るという事です。仏教では動物も植物も「「一切衆生悉有仏性」を基本的な世界観にしています。禅の公案では言葉に依る知的遊戯に束縛されないことを追及します。
「狗子(犬コロ)にも仏性が有るのですか又はた無いのですか?」すると師は即座に「無。」と答えたのです。その瞬間に無門は悟ったというのです。
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禅の研究【鈴木大拙】も「善の研究【西田幾多郎】もどちらも音読みは同じです。遅れて上梓された鈴木大拙さんも西田幾多郎さんも同じ東慶寺の墓所で眠っておいでです。大拙さんは黄泉で「表題の著作権」問題を詫びたでしょうか?それとも地下で激論を交わしておいでなのでしょうか?
無門は普段から「一切衆生悉有仏性」と云った仏教観を聞き知っていたのでしたからこの時も師から「犬と云えども人間と同じように仏性があるんだよ」と返事を予測していたのでした。ところが即座に「犬には仏性は無い」と聞かされた途端に悟ったというのです。「無門関」には師と弟子の顛末しか記されていません。何故師の「犬コロには仏性は無い」と聞かされた時に悟ったのか?それを考えるのが公案です。
私はベルグソン風に「知に呪縛されたいた自分を解き放たれた瞬間だった」と思うのです。知からも情からも解き放たれて融通無碍になった時自由を体得して、それを大悟したと表現したのでしょう。
知の呪縛からも自由で情にも流されないところに真の自由があってそれが禅の悟りであるという事でしょう。
私はI君にベルグソンと鈴木大拙の位置づけを尋ねてみました。生憎I君は”禅は知らない”悲しい返事でした。
セミナーを終えて帰り道に感じました「自分は何時から若い人に媚びはじめたのだろうか?」昔は違った満足感が在った。若い人が解りやすい様に解説してあげようとするのは自分の理解を深めるものの若い人の興味を重んじるほどに、自らの媚びた姿勢が老醜を放っていると感づき始めました。

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黒壁スクエアのゴブラン焼き(近江観音紀行16)

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琵琶湖の夕照を断念して私達は駅東の観光地「黒壁スクェア」に向かいました。お寺の駐車場に車を置いて黄昏の街並みを散策します。道は総じて琵琶湖に沿って南北に走っています。北国街道がメインでサブが長浜ご門(大通寺)の参道で北国街道沿いに老舗有名店が並んでいます。北国街道のバイパスも出来ていましたロードサイドの新しい業態はバイパスの方に出店しているようです。勿論目的の第一は長浜の家並を楽しむ事第二は夕食(できれば鴨鋤)のお店を探す事です。
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私は初めてですがI君はご家族の関係で詳しくていてくれます。知っている人が居る事は心強い限りです。
常夜灯を確認すると北国街道が突然に細くなりました。「武者隠し通り」と表示してあって家の角角に足軽兵が隠れている看板が建っています。如何にも城下町らしい雰囲気です。
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この細い通り(一方通行)が北国街道です。右側の建物はトタン板で覆われていますが本来ならば瀟洒ない板塀で覆われていたのでしょう「粋な黒塀の通りの積りで黒壁スクェアの名を冠したものと思います。でも所々に黒壁も確認できました。
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この辺りから道幅が狭くなりました暗渠であるのは駐車違反対策でしょうか?初めて来た人には脅威です。前方が木之本です。
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北国街道と祝町通り辻に在った土産物店のたねだ。此処で暖簾を土産に求めたのでしたがシールに「浜木綿」と書かれていました。何のことは無い長浜まで来て横浜で染めた暖簾を買ったのでした。向こうのアーケドの先に大通寺さんが在ったのでしょう。私達はこのお店の5軒先の和菓子屋さんで一服して引き返しました。
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これが黒壁スクェアのシンボルのガラス館です。もうスッカリクリスマスモードになっていました。
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長浜は叶匠寿庵を始め和菓子の有名店が多いのでしたが夕暮れとともに殆どが閉店していました此処は「安納」と云うの名の饅頭屋さんです。私はこの注連縄は何だろうと思って入店しました。すると後述するように美しいお嬢様が接待してくれました。実は「安納」と云うのは読み間違いで「納安/なすや」と云うのが正しい屋号で安納芋に曳かれて読み間違えしたのでした。内容は和菓子ハンターさんの次のブログが良く解ります。http://wagashi.okaimono-review.jp/2007/08/0708151554.shtml
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これが安納の人気商品「ゴブラン焼き」です。右から餡子が大納言(100円)焼き林檎(70円)栗(100円でした。
林檎のゴブラン焼きには浅い三姉妹も食べた林檎の能書きも添えられていました。此処で試食してお土産にも求めて帰りました。
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お店の奥はゴブラン焼きの工場でオープンキッチン風でした。冷蔵棚の上には玄関の注連縄を背負った龍のようなわら細工が恵比須様に供えられていました。一見すると横浜本牧のお馬流しの亀にも似ています。
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これはオープン工場の前のテーブルでゴブラン焼きを食べて一服するメンバーです。お嬢さんに珈琲か緑茶が飲みたいと所望したのですが笑顔で無視されてしまいました。
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皆てんでにお土産を求めました。美しいお嬢さんが応じてくれました。私のブログに応じてネスカフェのドルチェサービスでも焙じ茶でも出して貰えると良いんですが勿論有料でOKです。
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壁には長浜の民俗や和菓子の道具が展示されていて楽しくて飽きませんでした。
実はこの後一度ホテルに帰って出直そうとしたのでしたがホテルに戻った途端に私は嘔吐してしまいました。想うに体が冷え切ってしまった事と昼に食べた鴨君の脂肪分を私の胃液で消化しきれなかったのだろうと思います。その上に更に鴨鋤を食べようとするのは無謀だと胃袋が判断して嘔吐させたのだと思いました。ホテルで私は温泉に入り体を温めると嘘のように元気になりました。約2時間後友人たちは戻って来ました”鴨鋤は美味しかった?”訊くと”嫌鴨は止めてシャモにした”言います。私が羨ましがるので噓を言っているのかな?思ったのでした。差し入れの「若緑」を飲んで来春の旅行計画を練って休みました。


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橘夫人の嘆き

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橘夫人と聞いて直ぐに思い当たる人は相当の仏像ファンです。法隆寺の金堂で並み居る飛鳥仏の中に在って異色の仏像です。先ず写真で確認してください。
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此方は法隆寺金堂に置かれている橘夫人念持仏です。沼の泥の中から伸びた蓮台の上に阿弥陀三尊が居られます。光背はまるで屏風の様な意匠ですが、阿弥陀様の前に正座すると隙間に天女が確認できます。特筆するのは床面で蓮の葉と花が池面に浮かんでいてその中から3本の蓮が伸びて蓮の花を蓮台にして阿弥陀三尊が居られるのです。この繊細さは日本人の美意識の為せる技です。屏風の上部には懸仏が並んでいますこの優美な阿弥陀三尊が何故法隆寺に残されているのか?想像する事から今日の話題は展開します。
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此方は法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像推古天皇31年(623年)に鞍作 止利が鋳造したと伝えられてい舞っす。昨日紹介した飛鳥大仏は司馬達等が推古天皇17年(609)に製作した(日本書紀)事になっていますから2世代後の作と云う事になります。こうした仏像が

仏像の美学史で見る限りこの阿弥陀三尊は法隆寺の主流司馬達とその孫鞍作 止利(くらつくり の とり)の作風とまるで違います。止利一派の作風は正三角形の様式で大きく見開いた杏仁形の眼、古拙と表現される笑みいかついお顔の輪郭等が特徴です。一方この阿弥陀三尊は全体に柔和で眼は細目、伏目です。お顔の輪郭は丸顔で微笑をしておいでです。橘夫人の没年は723年ですから上掲の釈迦三尊像が作られて100年足らずの間に日本古代の金銅仏は大きな変化を遂げた事になります。今日はこの変化を施主橘夫人の体験を通して推測します。
【橘三千代の生い立ち】
橘三千代(たちばな の みちよ)は天智4年(665年)に中堅貴族県犬養氏の娘に生まれて女官として出仕します。地位は命婦でしたから父と同様に宮中中堅だったのでした。天皇御座所の清掃、天皇の食事の補助、夕方の天皇皇后の入浴補助が主たる任務でした。宮中に於いて敏達天皇の皇親である美努王(みぬ王)に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)を生みます。
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平城京時代前半の人脈図(出典ウィキペディア)三千代は宮中の女官であったが皇親の美努王に嫁ぎ葛城王を産んでいましたが文武天皇の乳母も務め藤原京末期平城京初期の宮中内側の実力者でありました。
天武天皇は天武13年(684年)に軽皇子(後の文武天皇)を出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと云われています。葛城王は皇親の実力者として藤原氏と争う程に出世します、聖武天皇就任(神亀元年724年)後はトントン拍子で位階を上げ天平3年(731年)には参議に任じられます。当時の参議は藤原宇合や藤原麻呂でしたから。聖武天皇の外戚藤原氏と天皇家の皇親葛城王が拮抗したのでした。葛城王は賢明で野心は無い事を公表するために臣下に下ります。聖武天皇は葛城王に橘の姓を与えます。紫宸殿の前に自生する橘を名乗る事は誇らしい事だったでしょう。
藤原京は天智・持統父娘が築き藤原氏が実権を握った都ですがその契機になったのが藤原不比等の略奪愛だったと推測するのです。略奪する標的は橘三千代です。三千代がどうした経緯で美努王と離別したか事情は解りませんが美努王が先に逝った事実は無いようです。(美努王の没年和銅元年(708年)光明皇后出生は大宝元年(701年)ですから美努王は別れた三千代が藤原不比等と再婚して娘を産み聖武天皇の外戚になるのを眺めていた事になります)
橘諸兄は吉備真備や玄をブレーンに抜擢して国政を担当します。聖武天皇は藤原京の遷都を意図しますが
橘諸兄の生家である木津川中流域の恭仁郷を造成して恭仁亰に遷都します。一方藤原不比等の4人の息子は天然痘で相次いで亡くなります。橘諸兄の絶頂期はこの頃でした。大宰府に赴任していた藤原広嗣は橘諸兄や吉備真備や玄を宮中から追放すると主張して挙兵します。聖武天皇は驚いて阿倍虫麻呂に命じて征討軍を吸収に派遣、広嗣は唐津で首をはねられます。恭仁亰に居た聖武天皇は内乱に嫌気を感じたのか恭仁亰を後にして紫香楽等を転々とします。藤原広嗣の乱を契機に橘諸兄は力を失い、息子の橘奈良麻呂が藤原 仲麻呂を討とうと挙兵すると橘奈良麻呂の乱/養老7年(721年)を契機に橘一族は一気に衰退してしまいます。
処で橘一族の居た山城には国宝の丈六釈迦像があります。蟹満寺のそれです。
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此方が山城国木津川の畔に在る蟹満寺の釈迦像(国宝)、美学史家は白鳳時代から天平時代への過渡期の金銅仏と主張します。上段の橘夫人念持仏と薬師寺の薬師像との中間に位置させています。来春何時もの友人と桜の木津から笠置を旅するのが今から楽しみです。
橘夫人の生家近くに上褐釈迦像が残されているのですから前褐橘夫人念持仏は夫人が手許に置いて朝晩念じておられたと云った言い伝えは信憑性があります。
次の問題は橘夫人の生家に祀られていた『阿弥陀三尊を法隆寺に納めたのは誰で何の目的が在ったのか?』と云った問題です。私的な仏像ですから法隆寺に納めたくとも受け入れてくれるとは限りません。相応に権力のある人に限定されます。私はこの兄だ像を法隆寺に納めたのは光明皇后であるに違いないと思うのです。時に聖武帝は既に崩御され、次の孝謙天皇『光明皇后の娘)が。取沙汰されていました。光明皇后が「私の母が枕元に置いて念じていた阿弥陀三尊です法隆寺でお守りください』申し出れば誰も反対できるものではなかったでしょう。勿論施主光明皇后の願は『母橘三千代の冥福を祈る』事が目的で屹度法隆寺では「三千代を追悼する盛大な法要が行われた事でしょう。だから法隆寺金堂の釈迦三尊像の隣に玉虫の厨子と並べられました。ところが最近宝物館に移されてしまいました。法隆寺は聖徳太子建立の頃の状態にしたいとして、いわゆる客仏は宝物館に移したのでしょう。私は1400年もの間金堂に祀られていた仏は移してはならないと確信するのです。光明皇后も三千代も宝物館に移された事を悲しんでいると思います。
三千代の孫の橘奈良麻呂が藤原仲麻呂に反意を持って挙兵しようとした時、三千代は胸を痛めた事でしょう。
自分が長男の葛城王を産んだ後に文武帝の乳母として内裏で力を増した。そんな私に藤原不比等が言い寄って着た。男気の勝った不比等を拒否すれば今日は無かった、不比等を受け入れたばかりに光明子と云う娘を産み不比等は聖武帝の外戚として力を増し。橘諸兄と光明子は兄妹でありながら隙間風が吹いた。専横が目立った不比等の4人の倅は天然痘で相次いで亡くなった。これも、自分と不比等が私欲に眼を曇らせた因果であろう。現世の争い汚れは沼の泥にも増して穢い。でもその汚泥に根を張って生育する蓮の花の清らかで美しい事・・・・・。阿弥陀様は清らかで美しい蓮の花の台(うてな)に居られると聞く。ならば、”その蓮台上の阿弥陀三尊を朝晩拝んで自分と不比等の犯した罪(業)を償おう”
”幸いに私の生家には優れた仏師が居る最近は蟹満寺に釈迦像を収めるそうだ、阿弥陀三尊も作って戴こう”
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此方は茅ヶ崎の宝生寺の阿弥陀三尊像三尊形式が三角形である事全体として法隆寺釈迦三尊に近い北魏の様式である事が特徴です。しかし日本の仏像は橘夫人念持仏に観られるように童顔丸顔薄目微笑が本流になります。
ところで、一般に阿弥陀信仰は平安時代に盛行したと言い伝えられ、三千代が阿弥陀様を信仰していたとするのは時期尚早な気もしますが。実は阿弥陀信仰は遣唐使の時代に既に我が国に伝来していました。一般に善光寺式阿弥陀如来と云われ全体としては法隆寺釈迦三尊に似て三角形の造形であり北魏風の金銅仏です。
先ず信濃の善光寺に伝わった事金銅仏の小像である事から信州関東に多く残されています。
飛鳥時代後期に司馬達等が伝え、その子孫が信州関東に散って善光寺式阿弥陀三尊を鋳造したのでしょう。私の生活圏にも茅ヶ崎宝生寺には立派な善光寺式阿弥陀三尊が祀られています。彼岸になれば御開帳されます。橘夫人念持仏ウィ鋳造た丸顔好みの仏師は次いで新薬師寺に香薬師を収め更に蟹満寺の釈迦如来を鋳造し更には薬師寺の薬師三尊を鋳造し増す。並べてみて気づく事があります。何れの仏像も)施主は女性です。
何れの女性も男性の権力欲に振り回されてその悲しみを癒やすかのように丸顔で薄目で慈愛に満ちた微笑仏を金銅仏にして寺に納めたのでした。

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紅葉の鶏足寺(近江観音紀行17)

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11月26日(土)楽しい時間は早いモノでもう今日が旅行も最終日です。
祈るような気持ちでホテルの窓を開ければ西は霧の中です、東は山稜に朝焼けが覘いています。あの山が伊吹山で霧が立ち込めているのは琵琶湖から昇る水蒸気の所為でしょう。
”今日は最高の紅葉狩り日和だ”確信しました。駐車場に出ると野良猫が寄ってきてしきりに私の足に身体をこすり付けます。”何か食べさせて頂戴”命がけの媚び売りなのでしょう。
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これはホテルのロビーに貼られたご当地の観光ポスター左から伊吹山に観音巡り鶏足寺で。私達の最終日の行程通りです。
優しいМ君は昨晩のおツマミを取り出してあげて遣りました。野良猫ちゃんのお見送りを受けて出発です。
今日のコースは先ず北陸道で木之本ICに戻って、鶏足寺に向います。鶏足寺から隣の石動寺を散策。北国街道の脇往還を関ヶ原に向かいます。その途中に小谷城や姉川古戦場跡等を観て伊吹山歴史民俗博物館から円空の足跡を辿り、関が原でランチの予定です。
でも何時も計画は計画で、その通り行くことは滅多にありません。皆、個個関心が違うので、計画通りに行かないのは仕方ない事ですし。友人の意見に従えば思いがけない発見があったりするものです。それも楽しい事。今日はどんな発見があるのか?この天気なら良い方のハプニングに恵まれそうな予感がします。北陸道長浜ICから高速道路に入りました。私は東の山脈を観ながら”あれが小谷山か?”確認するのですがこの辺の地理に詳しい筈のI君は返事をしてくれません。
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北陸道を長浜から木之本に向かう前方の山の辺りが木之本で山の向こうが余呉湖になります、山裾二は霧が昇って雲になっているようです。あの雲の下には川が流れているのでしょう。
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木之本ICで降りて東側、白山方面に向かえば今日の目的鶏足寺に着きます。
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北陸道からの交差点には何処も鶏足寺の案内が出ていました前回来た時は寂れた寒恋家でしたのに今では関西圏の指折りの紅葉の景勝地になったようです。
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鶏足寺に近づく向こうの山の山蔭でしょうか?紅葉は残っているか?期待に胸が膨らみました。田圃が黄色いのは収穫を終えて刈跡から伸びた新芽が稔ったものです。雲に隠れているのが修験道の聖地の巳高山922mでしょう。
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この建物は巳高庵と云う名の宿泊温泉施設で地域の公的施設です。此処の駐車場が拠点です。未だ10時前でしたので土曜日と云えども楽々駐車できました。此処には宝物館も併設されましたので鶏足寺や旧法華寺等の仏像をユックリ拝観する事が出来る様になりました。駐車料代金と拝観代金と境内保存協力金とを合わせて700円/一人を払って。紅葉狩りスタートです。仏像に関心が無くて紅葉狩りだけが目的の人には気の毒な料金体系です。
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これは巳高庵駐車場の案内図(現在地は略中央で右端に石長寺があります。此処一帯の山岳は巳高山(これたかやま)は古代「役小角」、「泰澄」が開いたとされる山岳信仰の霊地でこの日も山頂(922m)は雲の中で雨降り山(相模の大山と同じ)で山中には法華寺(廃寺)等のあったとされ、地図中真ん中上部に「オトチの洞口」と云うのは関ヶ原で敗れた石田三成が潜んでいたと云われる岩屋です。「オトチ」は「オロチ」に似た語感です。水・オロチ・観音、共通するのは水で命や清浄の根源であります。
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これは旧飯福寺本堂裏の無縁石塔これは「賤ヶ岳の戦い」に没した兵士が眠っているのか「姉川の戦い」なのか「関ヶ原の戦い」なのか解りませんでした。何しろこの辺りは近世にかけて戦乱に明け暮れたのでしたから。無名兵士を紅葉が暖かく包んであげていました。
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無縁塔群向こうの建物は旧飯福寺の薬師堂です。右側の塀の奥は興志寡神社で。一帯は既に紅葉は終えていました。でも石動寺にかけては紅葉の盛りでした。
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旧飯福寺(右の土手の上)から石動寺までは約1キロ田圃の畔と山道を辿るのどかな紅葉の散策路でした。
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道端には無人販売が続いていました柚子も欲しいし、鷹の爪も迷ってしまいます。
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畑には鷹の爪が収穫を待っていました。畑には猪除けがしてありました。若しかしたら猪は鷹の爪が辛くないのか?不思議に思いました。鷹の爪は熊除けに使う程ですから、猪も嫌いでしょうに・・・・。私は一束求めて食卓の花瓶に活けました。
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これは渓流に設えられた水車の中央の樽の中に芋や銀杏を入れておくと、芋の皮は剥けて銀杏の臭い果肉はそぎ落とされてしまいます。そうして出来た農産物を無人販売店で商っているのです。
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石動寺への中間点にお茶屋がありました。五平餅が誘っています。
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未だ御前10時お昼には混雑する事でしょう。「栃の実」五平餅にエゴマ入りと云う事は何でしょうか?食べてみれば解ります。
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鶏足寺の「天津甘栗」と云うのは訳が分かりません。
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茶畑の脇を越えれば直に石動寺です。
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この紅葉の川を渡れば石動寺の境内です。
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尾根の向こうに石動寺の本堂の甍が見えてきます。此処でコケたら大変です。慎重に石段を下ります。昔来た時の本堂の屋根はこんなトタン板葺ではありませんでした。日本人はコスト優先では無くて藁葺き杮葺き瓦葺の趣を保持した屋根材を開発してほしいモノです。文化財保護に熱心な吉野石膏さんなんかに期待したいものです。文化庁は同社に補助金を助成して開発させて欲しいモノです。
最近浅草寺の屋根がチタンを使った行基葺き屋根である事を知り。大寺の屋根材では無くて貧乏寺や民家の屋根を美しくして欲しい思いました。
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石動寺の散り紅葉後ろの樹は渋柿です。灌木は紫陽花です。
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石動寺から門前の集落を眺めるお寺の柿の実が残っていました。
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柿の実越しに本堂を見上げる。本堂のトタン板葺きが味気なく見えました。実はこの柿の実が落ちていました。多分山猿が戯れに食べて捨てたモノでしょう。猪は鷹の爪が辛く無くても山猿は渋柿が嫌いだとは知りませんでした。
私は猿蟹合戦を想い出しながらこの落柿を拾って齧ってみました。最初の瞬間こそ甘かったのでしたが直ぐに咥内中が渋で一杯になってしまいました。私の様子を見ていた女性が喉飴を恵んでくれました。
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渋柿を写す女性、彼女が私に喉飴を呉れたのでした。彼女は次の様に書いておく事でしょう。
(25日石動寺の境内に猿のような爺さんが居て柿を拾って食べました。ところがこの柿は渋柿で、見る見るお猿爺さんの顔が歪みました。私はバックから喉飴を取り出してお猿さんにあげました。お猿爺さんは笑顔を取り戻しました。お猿爺さんでなくて一寸法師なら良かったのに・・・・。思ったのでした。
鶏足寺なんて変な名前をつけたものです。本来の「飯福寺」で事足りたモノを・・・・。
鶏足とは紅葉の事ですから素直に「紅葉寺」でも、楓寺(かえでてら)でも鶏足寺よりマシです。酒吞みにとっては鶏足は豚足と同じで酒のツマミでしかありません。私の生家では祝い事が有ると鶏をバラして食べるのでした。翌朝は塵溜に白い羽毛が散乱していて、昨日までは元気に飛び回っていた鶏が想い出されて、切なくなったものでした。そんな次第で鶏足寺と云う名は好きになれません。
鶏足寺の名前の好き嫌いに係りなく、鶏足寺も隣の石動寺も紅葉は見事でした。前回来た時に里の叔母さんを待って扉を開けて戴いた時の面影は全くありませんでした。鶏足寺から谷戸を越えて尾根を越せば石動寺ですがその道すがらを農家の方々がテンデにお店を開いていました。五平餅を食べながらお餅を食べながら心行くまで過ぎ去る秋を満喫していました。鶏足寺の宝物館にも石動寺の本堂にも仏像は幾体も拝観しました。あれもこれも紹介するのは大変ですから一番有名な観音様を紹介する事にします。この観音様は「星と祭り」を書いた井上靖氏が小説のインスピレーションを与えた観音像です。
熟年の主人公(かやま)は或る日突然に娘を琵琶湖の水難事故で失います。「かやま」は悲しみも空けない中殯(もがり)の状態で娘の恋人と湖北の観音像を巡ります美しい湖北の景色と優美な観音像に接する中で「かやま」娘の死の悲しみを克服して行くのでした。星は死を象徴し、祭りは生の悦びであるのでしょう。石動寺の観音と湖北の風光が文豪の仏教観を披瀝させたのでした。
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 出典はアマゾン
石動寺の観音像は美しくも素朴な村娘のような面影を宿しているのです。加えて観音様の唇に朱が残っているのです。小説の舞台は湖北の美しい村里で、石動寺観音像の様に細面で色白で唇の赤い娘さんに会ったら屹度「星と祭」を書く事でしょう。昨日109で観た映画「君の名は」でも主人公は湖の畔の巫女さんでした。美しい里、美しい娘は誰でも大事にしたいモノ神様なら尚更です。今夏芸大美術館で拝観しました。その時も感動してヤッパリ現地で拝観したいと思ったのが今回のツアーです。芸大美術館での記憶は次にアップしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49424814.html
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此方が石動寺の11面観音像、檜の一木作りで左脚を半歩前に進めて拝観する人に寄り添おうとされています朱の鮮やかな唇が里の娘さんを思わせます。後補の光背(舟形光背宝相華模様)も見事に調和しています。


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小谷城博物館(近江観音紀行18)

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石動寺の紅葉を満喫して私達は次の目的地小谷城歴史資料館に向かいました。北国街道の脇往還(関ヶ原→木之本県道365号線)に入り只管左前方に伊吹山を眺めながら進みます。小谷城は伊吹山の西の丘陵小谷山(標高495m)の中腹にあります。石動寺に較べれば標高は低いし東ですから紅葉は遅れています。小谷と云う程ですから小山の痩せ細った谷なのでしょう。そう想って山を観れば何処も彼処も小谷です。でもレンタカーにはカーナビと云う文明の利器が装置されていますから。ほどなく小谷城歴史資料館に到着しました。
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北国街道の脇往還(県道365号線)を関ヶ原に向かいました正面が伊吹山で観る角度でこれほど変わる山は珍しいと思います。この西から観ると富士山の様になだらかで優美に見えました。
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脇往還を少し走ると北側に小谷城歴史博物館の表示が出て来ました。道路には幟が建って今夏の賑いが偲ばれます。
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これが小谷山です。正面が大嶽(浅井嶽)で大嶽丸と云う砦があり右の尾根には「山王丸」「京極丸」更に手前に本丸があったようです。左の尾根は奥から「福寿丸」「山崎丸」と呼ばれる複数の砦があって全体を小谷城と呼んでいたようです。未だ中世の山城の面影や機能を残していたようです。正面の矢来で囲まれた建物が小谷城歴史資料館で、その位置に御屋敷があった事になっていますので浅井長政もお市の方も浅井三姉妹も平時はこの山のしたの平地で過していたと想われます。
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小谷城が山城であって数多くの砦の集合体であった事を説明する地図。
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これは歴史資料館に展示してあった小谷城落城の想像図。お市の方が長政の命令に従って娘3人と共に逃げ延びる様子を描いたのでしょうが。このお城は近世の城郭で小谷城は中世の砦であった事ですから、乱暴な想像図であります。
今年は「真田丸」で此処も盛り上がったようで屋外茶店や写真用のパネル等が未だ建っていました。真田丸の前半では沢山の観光客が此処にも訪れた事でしょう。近江で痛感したのは石田三成の人気が高い事で。この後関ヶ原でも三成人気(家康不人気)に驚かされたのでした。
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道路の両脇の生け垣は和林檎で小さいながらも林檎が稔っていました。道路左の矢来の中が小谷城歴史資料館です。
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歴史資料館の壁には誘客の幕が架っていました。
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DVDとジオラマを使って熱く小谷城と浅井一族の生き様を説明する館員(ボランタリー?)此処でも滋賀県民の地元愛に感心しました。
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これは兄信長の命に従って浅井長政に嫁いだお市の方。長政との間に3人の娘に恵まれます。お市は娘達がそれぞれに活躍して、天下人の夫人になった事から、結果的には子孫に依って天下取りを為したとも云えるのでしょう。映像はNHKテレビ画面。
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此方は浅井長政




次の目的地は伊吹山民俗資料館です。
カーナビにセットして出発進行しました。
途中で姉川を渡る筈です。小谷城攻防戦の前哨が「姉川の戦い」でした。岐阜から攻め上がってきた織田軍を浅井軍は姉川を「渡らせまい」として全力で阻止しようとしたのでした。歴史は何時も勝者の視点で残されるもの、でも人生は敗者の視点で捉える程奥深く教訓に満ちているような気がします。滋賀県を旅すると、浅井長政石田三成が人気です。古代では藤原仲麻呂や淳任天皇が琵琶湖湖畔で没しました。


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姉川の川原に棲む狐(近江観音紀行19)

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北国街道脇往還に戻って関ヶ原に向かいます。カーナビに設定した「伊吹山民俗資料館」は徐徐に近づいているのでしょう。伊吹山の山容が次第に大きくなるものの形が歪んで見えます。原因は明らかで関ヶ原に面した稜線を砕石しているのです。東海道新幹線や東名高速等の砕石需要がこの霊山の姿を歪めてしまったのでしょう。山の神は女性と聞きます。顔を傷つけられた女神のお怒りは如何許りで将か?気遣いながら進むと川を渡ります「此処が姉川か?」思って堤防を見渡せば「姉川古戦場跡」の標識が見えます。私達は県道のコンクリート橋を越えて少し上流の木造橋に向かいました。橋の袂に駐車して四方を見渡します。明らかに姉川は伊吹山の山蔭から流れ出しているようです。アッチコッチにトンビが飛んでいます。トンビの下が姉川なのでしょう。私は戦記モノはあまり好きではありません。でも友人のT君もI君も関心があるようです。先に小谷城歴史資料館を観ていましたから。姉川の戦いの概要は承知しています。斉藤竜興から美濃国を奪取した信長は足利義亜昭を奉じて上洛を果たそうとします。進路を遮るのは南近江の六角氏と東近江の浅井氏です。そこで、お市に浅井長政に嫁いでもらい「織田浅井連合」を結びます。しかし浅井氏は元々越前の「朝倉氏」とは連合を約束していました。信長が朝倉義景に対し自身の上洛に協力するよう命じたものの朝倉義景は動じません、信長が越前に兵を進攻させると、浅井長政は浅いとの同盟関係を理由に信長から離反し信長の背後を攻めます。窮地を脱した信長は徳川家康との連合軍を結成して浅井朝倉連合軍を攻めます。その攻防戦が「姉川の戦い」でした。因みに湖西の延暦寺等中世の勢力は総じて浅井軍に協力的でした。業を煮やした信長は姉川の戦いが終わると比叡山を焼き討ちします。
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これが姉川戦いの布陣図です姉川の東に「勝山」があってその両側に(南北に)信長家康の連合軍が、浅井朝倉連合軍も夫々信長家康に対峙します。絵の出典はウィキペディアです。
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これは木造橋から観た姉川向こうの丘陵の上に飛び出しているのが伊吹山の山頂です。川幅は広いモノの竹藪とススキや葦が生い茂っていました。
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姉川古戦場跡(橋の西側赤い看板がある)に続く橋
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右上の三角錐が伊吹山橋の手前右に行くと勝山に着きます。その小山が信長家康連合軍が陣取りました。姉川を挟んで北側に浅井朝倉連合軍が対峙したそうです。
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これが勝山です。東名高速関ヶ原ICも近いので流通関係の拠点が目立ちます。
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此方は姉川の北(小谷城寄り)にある古戦場跡。
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これが狐さんが姿を消した姉川の川原です。
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川原や土手に自生しているのは蓬(蓬)です。黄色いのは背高泡立ち草です。蓬はご当地の名産品お灸の原料です。
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これは伊吹山文化資料館で出迎えてくれた狐の木像です。係員に訊けば狐は日常的に観られるそうです。
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これは円空の稲荷尊像(左右)中央は秋葉尊像(岐阜県金山町権現社)です。岐阜で育った円空は伊吹山に入って修験道に入りました。そして晩年は三井寺で連作し。生まれ故郷の岐阜で没しました。円空の彫る迦楼羅像も稲荷像も狐を思わせますし。写真の秋葉尊(火の神)が観音像のようですが多くは狐か狼か判然としない容姿で彫られています。写真は朝日新聞のアルバム(1994年)で左上の稲荷尊の写真は一本の丸太を半分に割って2体の稲荷を彫ったと云う木割を説明していますも。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

姉川は「血の川」とも呼ばれたそうです。私達は木造橋の上から川を見下ろしました。実際に水が流れている川幅は狭く(精々10m)川原の幅は南側でさえ100mはありそうです。伊吹山が近いので石も大きいし砂利も握りこぶしの大きさはありそうです。
川原を観ていると何やら小動物がピュンピョン跳ねています。私の直感はイタチでしたが友人らは「違う!尻尾が大きいからあれは日本狐だ!」主張します。私は豊川稲荷の僧侶の孫ですから狐をイタチに見誤ったら仏罰が当たりそうです。もう一度お狐様を拝みたい思いながら広い河原を見詰めまあしたが。狐は私達の気配に気付いたのでしょう。全く姿を見せる様子はありませんでした。友人が私に訊きます。「この川原で狐は何をしていただろうか?」
私は答えます。
「狐の好物は川原鼠だよトンビも狐も鼠を狙っているのだよ」
狐も観たし景色も綺麗だお腹も空いて来ました。次の目的地伊吹山民俗資料館に向けて再出発です。資料館には円空展示館も隣接している筈です。
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古戦場跡から観た伊吹山採石場と砕石を運ぶ道路が痛々しい姿です。手前の田圃は大豆の二毛作で今頃はお味噌に仕込まれていることでしょう。


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伊吹山文化資料館の情熱(近江観音紀行20)

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姉川古戦場跡を確認して私達は脇往還に戻って再び関ヶ原方向に車を進めました。左車窓の伊吹山は姿を変えて行きます。西側の採石場は石灰石の採石場でしょう。石灰石採石場からはスイッチバックした道路が麓まで続いています。まるでジーンズの裾上げのようなギザギザ道路が山肌を鉤裂きしています。まるで秩父の武甲山のような嘆きが聞こえるようです。目適地の伊吹山文化資料館は伊吹山中学校の隣にありました。係員に確認すれば此処は伊吹山湧く水分校と云う名の小学校の廃校舎を再利用したものだそうです。分校の校庭には竪穴住居も見えます。
私の最近の旅行は先ず地域の民俗資料館や博物館に立ち寄る事にしています。基より私の興味は歴史的文化財なのですが、文化財を観る以前に博物館に行けば其処の地誌が判るからです。地勢や植生や動物の生態も確認できます。先ず地誌を確認してからその上部構造である文化財を知ることが出来るからです。こんな単純な事が解ったのが昨春に訪れた吉野歴史資料館で壬申の乱のジオラマを観た時そして近秋に山形の飯豊村にマタギの文化財を確認に行った時も博物館(と云っても水源の森にそれらしきものが展示されていただけでしたが)。
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伊吹山の西斜面は石灰岩の採石場でした(住友セメント)住友セメントの採掘事業は終えましたが麓ではコンクリート用砕石(砂利より硬いコンクリートになる)場となっています。何時まで放置して置くのでしょうか?法律で採石場の跡地の景観と安全を義務付ける必要があるように思います。
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文化資料館の庭には竪穴住居があって向こうに石灰岩の採掘場が見えました其処の道を右に登って行けば円空仏のある大平寺なのでしょう。
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これは2013年8月の読売新聞の地域版で米原市の「伊吹山文化資料館」の地道な活動を紹介しています。
私が伊吹山で思うのは次の3点です。
【日本武尊の死地】
先ず第一が日本武尊が伊吹山で白い猪に負けて死んでしまった事です古事記の中で最強の勇者が余りにもあっけなく死んでしまったのが不思議でなりません。日本武尊は素戔嗚尊が奪った「草薙の剣」を預かって地上の国の統一に天から下った人物です。安房では櫛灘姫を犠牲にしてまでも国家統一に功績をあげて来た英雄が伊吹山で肝心の「薙の剣」を忘れていたというのは解りません。猪と云えば昨年吉野山の序に寄った葛城山の麓の「一言主神社」では雄略天皇が葛城山の猪に礼を尽くした言い伝え(古事記)を案内していました。伊吹山の猪を武力で屈服させようとして殺されてしまったこと。安房や葛城では戦わずに礼を尽くしたり奥様を犠牲にしてまでも和を重んじた事は何か象徴的です。
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日本武尊は伊吹山で金の猪に遭遇して死んで、白鳥になって飛び去ります。この像で右手に持っているのは草薙の剣では無くて笏(しゃく)です。写真出典はウィクペディア。
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これは伊吹山文化資料館の廊下の壁に貼られていた山頂付近と思われるお花畑です。ピンクは下野草と思われます、以前現皇太子様が此処のお花畑に訪れられた写真を観た記憶がありました、
【円空の出発地】
次には円空です。
岐阜の羽島で生まれた円空は母を失うと伊吹山に登って修験道に入ります。
全国を行脚して最晩年は三井寺(日本の弥勒信仰の中核)で観音群像を彫ります。最期は長良川の畔で没します。同所は弥勒寺が残されています。
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此方は伊吹山春照の大平寺の円空作11面観音象写真出典朝日新聞社円空展のアルバム
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此方は三井寺に残された円空作の11面観音像写真出典は上記
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これは円空と伊吹山を紹介したコーナーです。
【燃える想い】
三つ目は薬草です。
私の住む戸塚の倉田町は何にも無い田舎ですが唯一実方塚があります。平安のプレイボーイの藤原実方が短慮を咎められ陸奥に左遷された旅の枕で身内を亡くしたのでしょう我が町にお墓が残されているのです。
その実方の百人一首が伊吹山の薬草なのです。
かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
「さしも草」とは蓬の事で平安時代既に伊吹山で採れた蓬を使ってお灸にしていたのでしょう。(この歌を貰った人が清少納言だとしたら”燃える恋心”と云われても”お灸なんて爺臭い恋心”だと思って捨てられたかもしれません。
薬草と云えば吉野や宇陀を想い起しますが、平安時代は伊吹山だったのでしょう。私も何処かで息吹山と書かれていたように記憶しています。息を吹き返す山と云うのは薬草の豊富な山とか霊感の満る山の意味なのでしょう。それを確認したいと思いました。
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素材になる薬草を陰干しして準備をします。馴染みのある薬草ばかりですが何といっても蓬が中心のようです。
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素材を石臼で曳きます。
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石臼で曳いた薬草を唐蓑にかけて粉と余分なモノ(茎や軸)を振いにかけます。こうして出来た薬草を使いやすい様に固めたり(お灸)塗薬煎じ用にしたり加工して売り出します。

文化資料館の1階は旧分校の職員室です。2階が分校の教室だったようで今は民俗文化財を展示して居ました。感心するのは民具の保存状態が良好な事で今でも校庭に持ち出して使えばしっかり動きそうな状態である事です。訊けば展示物は春照の住人が寄付したもので、明らかに維持管理も住人の目が行き届いて居る事でした。牧野富太郎博士の標本や手紙は今でも市場では高く売買されているでしょう。
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これは伊吹山の植生を説明しているコーナー手前で友人が読んでいるのは牧野富太郎博士の私信で向こうの壁やテーブルの上には同博士のモノと思われる標本が展示されていました。
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これは牧野富太郎博士の私信でアテナの高橋七蔵氏は当地で薬草風呂を起こした実業家で文中の伊吹トウキとは芹の事でこの他に「トリカブト」も欲しいとされ、どちらも根の付いたものを鉄道便で送って欲しい依頼しておいでです。薬草が豊富だという事は毒草も豊富だったのでしょう。

私が一番に感服したのが石臼のコーナーでした。
既に蓬やお灸の展示があって、蓬からお灸を作る道具が石臼であった事は納得していたのでしたが。石臼をどのようにして作るか誰が最初に石臼を開発したかは無知でした。石臼が無ければ抹茶は出来ませんから茶道は起らなかったでしょうし。私の大好物の蕎麦も出来ませんでした。私は石臼を最初に作った人に感謝、感謝です。石臼の作り方を説明したこーバーの次に小さなパネルがあって西仏房と云う人が伊吹山山麓の曲谷で石臼を作ったのが最初だと案内していました。そこで西仏房成る人物を調べると木曾義仲が平家を追討する時に信州から付いてきた人物だとわかりました。多分名前からすると戦死者を弔う係だったのでしょう。京都では法然の教えに従ったそうです。そして木曾義仲は琵琶湖湖畔で亡くなると西仏房は故郷に戻る途上の伊吹山で過したのでしょう。伊吹山からは琵琶湖の対岸に義仲の墓(義仲寺)が見渡せます。歴史の波に翻弄されたヒーローを弔雲丹は最適だったことでしょう。墓標を建てる最高の素材は花崗岩で此処伊吹山は花崗岩の宝庫です。最初は五輪塔や板碑を彫っていたのでしょうが。観れば里人は蓬を石棒で叩いてお灸を作っています。西仏房は工夫して死者を弔う墓標から生きている人を助ける石臼に変えたのだと考えます。
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石臼の製造過程を説明する展示。素材は花崗岩で鏨とヤットコで石臼の回転軸になる穴と粉が出てくる溝を彫ります。
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西仏房の説明パネル義仲の右筆(ゆうひつ)と書いてありますが右筆とは武士の秘書役で記録を残したり文書を代筆した係の事です。私は時宗の僧がそうであったように戦死者を弔う係の念仏僧だと思います。

一般に信濃の石工と云えば守屋貞治に代表される石工集団を想い出しますが、守屋貞治以上に西仏房は偉いと思います。西仏房のお蔭でお灸も抹茶も廉価に作れるようになったのですから・・・・・・。

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関ヶ原歴史民俗資料館の臨場感(近江観音紀行21)

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伊吹山文化資料館を観てもう12時です。腹が空いて堪りません。"関ヶ原に行けば何とか食い物にありつけられそう"淡い期待をもって「関ヶ原歴史民俗資料館」にカーナビをセットしました。伊吹山文化資料館を出ると道はずっと下り坂です。.
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現在地の表示は伊吹山歴史民俗資料館でその前を東に進めば直に関ヶ原です。(このジオラマは伊吹山資料館のものです。
坂を下りきれば関ヶ原で、関が原が伊吹山の正面進入路のようです。
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伊吹山文化資料館を出て長い坂を下りきると関ヶ原でした。関ヶ原が伊吹山の登山口のようで。向かいの稜線に鉢巻のように道路が見えました。突き当りの民家を右折すれば関ヶ原歴史民俗資料館でした。
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これが関ヶ原歴史民俗資料館です。向かいが公園で東軍の大将徳川家康の本陣が置かれた場所でありました。伊吹山の博物館は民俗一色でしたが関ヶ原には民族は全くなくて関ヶ原の戦い一色でした。
坂を下りきると関ヶ原の真ん中です。「関ヶ原歴史民俗資料館」は徳川軍の陣跡の真ん前にありました国道21号線(中山道)と北国街道脇往還(365号線)の交差点です。後で気付いたのですが、何処で説明を聞いても西軍の視点で説明されます。滋賀県民は総じて石田三成への情愛が強く正義は三成にあって、家康は覇者に過ぎないのです。”だったら、三成の本陣のあった天満山に「関ヶ原歴史民俗資料館」を建てれば良かったし、説明も聞き易かった”思ったのでした。因みに三成の旗印は下の絵の通りで戦場で観ても迫力に欠けます。
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関ヶ原歴史民俗資料館のパネル左が石田三成の旗印ですが何て読むのか解らないところから負け戦の臭いがします。同じ字なら直江兼続のように「愛」とだけ書けば家族の為に戦うファイトも湧くと云うモノです。ところでこの大の字が三つもある旗頭は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味だそうです。そんなまだるっこしい倫理を旗印にするなら戦場でなくて法戦(禅道場で議論を戦わせる場)でやって欲しいモノです。この頭デッカチな処が三成の欠点だったのでしょう。
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関ヶ原歴史民俗資料館の真ん前は家康の本陣があった処で公園と神社でありました。像は家康公です。

この日は今年最後の行楽日和の土曜日でしたが、総じて歴史民俗資料館は空いていました。説明員の情熱だけがひろい館内に響いていました。
私のプランでは関ヶ原歴史民俗資料館だけで充分できれば中山道の柏原宿でユックリ常磐御前の墓や小栗判官の史蹟を確認しようと思っていたのでしたが、歴史小説好きなI君が『石田三成の本陣も観よう』提案します。仲間の提案があれば直ぐに従うのが旅を楽しlくする鉄則です。同君はタブレットを見ながら指示します。指示に従って中山道を西に折れれば丘陵に登ります。丘陵の先が笹尾山で山の上から見れば家康の本陣はすぐ下です。素人でも三成軍の方に地の利がありそうです屹度この布陣を敷いた時には三成軍は勝ち戦を確信したでしょう。
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此処が三成が陣を敷いた笹小山です右の幟は「嶋左近」の陣があった事を示すモノ。大将と雑兵に扮したボランタリーが説明してくれました。何処で訊いても三成の視点からの関ヶ原の戦いの解説でした。
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此方が笹小山と三成です。この人もボランタリーで熱烈な三成ファンでした
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関ヶ原合戦屏風この図では家康は右端(北)です。左隅に松小山(南)があって小早川秀秋が陣を敷いています。三成は中央上段伊吹山の右に陣を敷いています(笹小山)。
講談では洞が峠の小早川に業を煮やした家康が松小山に大砲を打ちかけた処。小早川が大谷吉嗣に向けて進軍したので。勝敗が決したと教えられましたが、家康の本陣から松小山までは大変な距離であります。家康から見れば足元に井伊直政その隣に本田忠勝等普代の兵が居てその隣に福島正則が居ますから。家康から福島正則までの連係が良くて、家康の指示で福島正則が大砲を松小山に打ち込んで小早川を追い込んだのが契機になって東軍の大勝に決したのではないでしょうか?「これは車中で協議した結論です)図像出典は関ヶ原町歴史民俗資料館
三成に扮した人がニコニコしながら私達に近寄ってきて聞気もしないのでしたが饒舌に講談風に説明してくれます、眼と鼻の先にある畑の中の塚を指さして其処の塚が最初の戦火を切った処です。東の丘陵を指さしてあそこが「松尾山で小早川秀秋が陣取っていました」I君はすかさず聞きます。家康の本陣から松小山までは距離があるから大砲を打っても届かないだろう尋ねます。
先ず関ヶ原歴史民俗資料館で説明を受けて次に現地を観たその順番が正解でした。学生時代も実査を重んじたのでしたが。その前に充分に予習しておくことが肝心でした。改めて実感しました。
中山道を進めば何処かにドライブインぐらいあるだろう高を括っていたのが悪かったのでした。腹はすくし、楽しいドライブも段々苦行に感じ始めました。それでも柏原宿に着けば御手洗団子か五平餅位はあるだろう思っていました。でも茶屋が開いているのは春秋の観光のトップシーズンで11月後半に開いているお店の気配はありませんでした。

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笹小山の眼と鼻の先畑の中の平塚が関ヶ原の戦いの火蓋を切った場所(向こうの幟が建っている)だそうです。
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笹小山から観たら遥か東にあるのが松小山で其処に陣を敷いていた小早川の豹変が三成にとっては誤算だったのでしょう。松小山の向こうの山脈は鈴鹿でしょうか。それとも甲賀でしょうか?次の目的地は向こうの街中に走っている中山道を右に(南)に下って柏原宿です。畑はもう起されて直に春野菜を植えるのでしょう。









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土偶は何のために(縄文考察1)

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ソロソロ年賀状を書かなくてはなりません。サラリーマン時代は版画を刷って年賀状にしていました。1月4日の仕事始めには銀行の講堂で、頭取の年頭あいさつを聴き、立食パーティーを催されるのが恒例でした。女子行員は晴れ着を着こんで、まるで別人に会う様な華やぎでした。バブルと云われようが高度成長の為せる贅沢な時間でした。私はその年賀会で同僚や上司から誉められたものでした。
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左2枚はサラリーマン時代の年賀状右1枚は移動挨拶私はズット版画でしたが、脳梗塞発症して以来パソコンで済ませて来ました。
”忙しい筈の師走によくぞ手間のかかる版画など出来たモノだと”。多くの人が印刷モノで済ませている中、私の版画年賀状は出色であった事でしょうし、私も少なからずそのことに依る”受け”を期待してていました。仕事そのもので目立たない凡庸な自分ですから、版画でも凝って目立ったものにしたのでした。その成果か?就職して早々にパンフレットやカレンダーや当時始まったばかりの財形貯蓄の印刷物を任せられたのでした。技が身を助けたのはこの版画でした。
脳梗塞発症以来時間はあっても木版をするには左手の不自由です。ここ数年はデジカメ写真をパソコンに取り込んででプリントして居ました。絵手紙では骨が折れます。来年は如何しようか?思っていたら、読売新聞に「芋版年賀状の作り方」が案内されていました。私は芋版年賀状に決めました。絵を描く時もそうですが、デザインしているときが一番楽しくて、作りはじめると自身の下手さに嫌気がしてくるものです。ワイフに頼んでお芋を買って来て貰いました。私の胃袋に収まる前に入墨されて、気の毒な金時芋です。

入墨と云えば、想い出すのが土偶です。私は土偶が大好きです。今迄も何度も書いて来ました。何でこんな姿の土偶を作ったのだろうか?そしてどんな願いを込めたのだろうか?推測する時間はこの上なく楽しいモノです。
土偶が好きなのは子供が泥団子を作るのが好きなのに似ています。小学生の時粘土細工が好きだったのも縄文人が土偶を作った気持ちと似ていると思います。そんな年賀状作りの事もあって、この年末に数回に分けて縄文文化を書いてみようと思います。お付合い下さい。
【土偶と入墨】
先ず下の写真を観てください。顔に上半身に尖ったモノで皮膚をツンツン突き刺した土偶です。このツンツンは何かな?何の呪術かな?思います。
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これは山梨の笛吹市上黒駒遺跡から出土した土偶でヤマネコのような顔と細く長い腕が特徴です。腕の付け根にツンツン穴が無数にあります。鶏の翅を毟った跡の肌のようです。指先が3本である事も含めてこの土偶は鳥の呪術で死者の霊が鳥のように飛び去ってもまた舞い戻って家族になってくれるように祈った呪術であると考えます。(所蔵東京国立博物館写真出典三上徹也著縄文土偶)
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これは青森の程森遺跡から出土した遮光器土偶です(東大所蔵)此方のツンツンは翼(肩)の部分だけではなく全身にツンツン模様が広がっています。土偶は関東以北に多いのですが全国各地から出土する土偶にツンツン模様がある事。縄文時代1万年の全期間に渡ってツンツンがある事が特徴です。このツンツン模様が何を意味するかが問題です。
縄文人にとって鳥は霊の乗りモノであった事を示していると想われます。それは、日本武尊が死んで白鳥になって飛び去った事からも神武東征が熊野で八咫烏の導きで始まった事からも、生死が霊の入れ替えで霊の乗りモノが鳥であると信じられていたことを示します。縄文人のルーツは今も鳥葬の続いている中央アジアにあると想われます。縄文人の生活は焼畑と狩猟であったのでした。別の日に説明しますが弥生時代は水田による稲作(水稲)が行われ縄文時代は焼畑による稲作(陸稲)が行われていたモノと予測します。焼畑に使用された稲は鳩麦とか唐麦と呼ばれる数珠玉(お手玉の中に入れる小豆大の種)と思うのです。海上の道(柳田国男)を伝わった弥生文化は縄文文化と交雑して、どちらかと云えば弥生人が縄文人を吸収して大和朝廷に繋がると考えます。
このツンツンは粘土細工でも私は駆使しました。粘土箱には竹のヘラの他にツンツン出来る様に焼き鳥用の串も入っていましたから、何を作っても表面をツンツンさせていました。
2年前千曲川の断崖の岩屋に鳥葬の霊地を参詣しました。
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これは和弓の矢です。本物は鷹の風切翅を使います。その翅の根元の尖った先でツンツンやって土偶の模様をつけたと思います。その呪術は以降の段で説明します。この矢はワイフの愛用品です。お友達に伝えます。此処5年近く昇段できなかった愚妻でしたが、先の週末明治神宮での昇段試験で無事に錬士になれました。代わって報告申し上げます。植木鉢は隼人瓜です。もうじき地下植えします。
このツンツンは粘土細工でも私は駆使しました。粘土箱には竹のヘラの他にツンツン出来る様に焼き鳥用の串も入っていましたから、何を作っても表面をツンツンさせていました。
2年前千曲川の断崖の岩屋に鳥葬の霊地を参詣しました。
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これは千曲川の断崖にある岩屋堂洞窟遺跡、鳥葬遺跡と云われています、次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47636362.htm...
先日テレビでマチュピチュに代表されるインカ文明の謎を放映していました私は縄文文化や邪馬台国の卑弥呼を想いながら興味深く観ました。インカ文明は石器文明のままでスペインに滅亡させられてしまいました。縄文文化との違いは縄文文化は稲を始め雑穀を食べていたこと、他方インカがトウモロコシとジャガイモを主食にしていたこと処位で太陽神や暦を読んだ巫女が皇帝や王であった事等共通していました。特に興味深かったのは死者をミイラにして祭りの主神にしている姿でした。死者は天に昇って地上の子孫を守護すると信じていたのでした。
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インカ文明を代表するマチュピチュ遺跡は太陽(暦)を測りトウモロコシやジャガイモの栽培をする重要な施設(天体測候所)でありました。
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インカ文明は死者をミイラにして祀りました。ミイラは天上から子孫を守護してくれると信じていました。
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太陽を祀る司祭が皇帝であり王でありました。この皇帝を卑弥呼に置き換えればインカと邪馬台国は酷似しています。以上3枚共にNHKのBSプレの画面を写したものです。



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清瀧寺徳源院の荘厳(近江観音紀行22)

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関ヶ原の笹小山に行って、関ヶ原の戦いの全体を俯瞰したような気持ちになりました。
中山道を下って柏原宿に向かいます。事前の調査では茶店や蕎麦屋が旧街道に点在していたのでしたが、中々見当たりません。目的地は中世、北近江を支配した京極家の菩提寺である清瀧寺徳源院http://tokugenin.maibara.jp/?p=1170です。
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笹小山の三成本陣跡から少し下ると決戦地の幟があって更に下ると中山道に続きます。そのあたりが中世の関ヶ原の関所で、更に南に下ると柏原宿です。
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中山道(21号線)のバイパスは高い位置(東の鈴鹿寄り)を走っていますので歴史的町並みを観るには西に折れて下らなくてはなりません。
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左は大鋸商店で有名な酒屋らしい道路に居る3人は私の仲間で松竹の吉村監督の生家の前で通行人に「飯を食う店が無いか」訊いているモノ朝からすでに6時間何も食べていないので必死でした。この酒屋の手前(南)が旧本陣で皇女和宮の宿所であった事徳川家茂や明治天皇が逗留した案内が出ていました。
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左の民家が旧本陣で『皇女和宮の宿所になった事。徳川家茂や明治天皇も逗留された、』と案内されていました。
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この辺りは京文化ですので民家の格子も弁柄格子で繊細で海老茶色ですこの家は医者の家
お昼はもう少し我慢して貰い西隣の宿場の「醒井楼/さめがいろう」にすることにしました。
柏原宿の史蹟と云えば「常磐御前の墓」や「小栗判官」です。まさか照手姫が小栗判官の遺体を車で曳いて柏原まで来たとは思えがせんが此処は伊吹山「息吹き山」此処の湧水を飲ませて生き返ったのかもしれません。
何といっても今回は紅葉狩りツアーですから行きたいのは清瀧寺徳源院です。このお寺は京極家の菩提寺です。京極家とは、江戸時代の譜代大名で中世以来の名家です、現在の伽藍は江戸時代の初め京極高豊が整備したもので京極家歴代34基の宝篋印塔を本堂の南西に整備したのでした。秋には本堂裏の方丈庭園の紅葉は有名です。
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本堂西南の裏は京極家の歴代墓地で格式の高そうな宝篋印塔が並んでいました。
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京極家墓所の宝篋印塔
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墓所の築地の上から方丈庭園を覘く紅葉の盛りに鑑賞してみたいものです。
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黒塀築地の奥が清瀧寺徳源院です。秋は紅葉春は道誉桜で混雑するようです。
春には京極道誉が愛したと伝えられるしだれ桜が見事に咲き誇るそうです。
柏原の旧市街からは西の山の中腹にありますのでもう紅葉は終わっていました。庫裏の前には”既に紅葉は終わっていること寺族は生憎風邪をひいてしまったので拝観は謝絶します”案内していました。
致し方ありません。方丈庭園の鑑賞は諦めました。
と云っても覘いてみたいのが心情で、京極家墓所を囲っている築地の上から背伸びして観てみました。確かに住職の案内の通り紅葉は大半散ってしまい苔を隠していました。
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これが清瀧寺徳源院。正面が本堂でその左右に大きな枝垂れ桜があります。これが道誉桜と云う名の名桜だそうです。
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この三重塔(県の重文)は江戸時代京極高豊が建立したモノ、京極高豊は中世以来の京極家(佐々木家)の墓標を集めて菩提寺として整備したものです。先の墓地はこの塔の右奥です。
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清瀧寺徳源院の三重の塔この塔は江戸時代、江戸時代初め京極高和は四国讃岐の丸亀に封ぜられ、寛文十二(1672)年その子京極高豊が領地の一部と、この地を交換して寺を復旧し、近江の京極領地に分散していた墓を此処に集めて、そのシンボルに新築したのがこの三重塔でした。シンプルでも少し鈍重な感じのする塔ですが、桜や紅葉が引き立てているのは如何にも中世に活躍したバサラ大名の菩提寺だと思いました。織田信長に滅ぼされた亰極家でしたが京極高和が復活させ、京極高豊は参勤交代の都度、領地と江戸との中間点にある此処柏原で墓参したのでしょう。因みに清瀧寺徳源院の山号はこの地の地名で「徳源院」の寺号は京極高和の戒名だそうです。息子が親に感謝して菩提を丁重に弔うのは良い事ですし。その気持ちを桜や紅葉を植樹して表現する事は素晴らしい事だと思いました。
処で「荘厳」とは仏教用語で 仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることです。お経をあげた最後に「故人の霊を荘厳する為にお経をあげました」と回向するのもお墓に供花するのも荘厳するのが目的です。日本人にとっては桜と紅葉以上に適当な植物は無いと思います。

明日はいよいよ最後のランチを松尾寺の茶寮「醒井楼/さめがいろう)」でとった報告です。近江の観音を巡る旅もこれで最後です。長らくお付き合い戴感謝します。

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冬至とクリスマス

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昨日21日は冬至でした。クリスマスは25日で日曜日です。イブは土曜日ですから今週末は賑わう事でしょう。
最近はクリスマスの狂騒も静まり家庭や恋人同士のお祝が中心になって来たようです。狂騒の方はハロウィーンに移されてクリスマスは大人のお祭りになってきたようです。キリスト教徒でも無い人が浮かれて”メリークリスマス”叫んで盛り場を右往左往するのは文化国家とは云えません。
クリスマスと冬至は同じ頃になります。クリスマスが北方の民俗行事を発祥にしていることを示唆しています。
21日冬至の日に私が通っているデーサービスでは「クリスマス会」が開催されました。私は毎週金曜日にお世話になっているのですが。”今週は21日に来て下さい、クリスマス会を開催します”案内されて、出かけました。
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クリスマス会の日は祝食です。私が描く献立ボードもクリスマスバージョンです。
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食卓に並べてみればこんな具合で観ても楽しく美味しい健康食が並びました。
デーサービスに着くなりバイタル測定し、お風呂に入るよう指示されます。一番風呂に入れば足も延ばせるし柚子も浮かんでいてハッピーです。柚子湯に浸かりながら考えました冬至は夜が一番長く昼が短い日です。古代の人は夜が怖かったでしょうから一年で最悪の日だったのでしょう。でも冬至を過ぎれば一陽来復で日が長くなります。柚子湯に入るのは一年で最悪の季節なので病にかからないように厄除けの意味なのでしょう。夜に南瓜を食べました。南瓜も同じように厄除けの意味とイロハ歌の最後の「ん」南瓜(なんがん)を喰って元に戻るぞと云った言葉遊びでしょう。ネットを観ればカピバラが柚子湯に入ってご満悦です。屹度地獄谷温泉のお猿さんも柚子湯を満喫した事でしょう。イメージ 3
これは朝日新聞デジタルの報道。今年アイスリンクに魚を凍らせてダメージを受けたスペースワールドのカピバラが柚子湯に浸かっている写真を載せていました。
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此方はデーサービスの柚子湯に浸かる私です。醜い裸を見せて失礼しました。このお風呂のお蔭で随分麻痺もとれました。初めはリフトを使って、越前蟹の釜茹でのようにして浸かっていたのでしたが、今は手摺を掴んでセルフ入浴が出来ます。
昨年は一人で風呂に入れませんでした。温泉好きの仲間に世話して貰い春には三春の温泉に浸かり。夏には大文字焼きを観る序に島原の色街と33間堂に近い路地奥の銭湯に入りました。そして初秋には飯豊のマタギ村の日帰り温泉に入りました。更に晩秋には琵琶湖の朽木と長浜で温泉に浸かりました。付き合ってくれる友人が居ればこその旅と温泉で、温泉欲求が私のリハビリの原動力でありました。
私の敬愛する土門拳が矢張り脳梗塞を発祥して信州上田の鹿教湯温泉に入り、国立療養所から蕎麦喰いたさに出歩いたのに似ています。酒田生まれの土門拳ですから。生来の温泉好き蕎麦好きがリハビリ成功の原動力だったのでしょう。私は友人はじめワイフやデーサービスのスタッフに恵まれた事がリハビリが進捗している原動力です。脳梗塞は災難でしたが一陽来復の変換点である事を示してくれた幸いでありまあした。”さあ、桜が咲いたら何処に行こうか?”お湯の中で夢を馳せました。

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醒井楼の温石(近江観音紀行23)

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もう午後2時過ぎ朝食以来8時間も食べていません。腹が空くと無口になるモノ。関ヶ原では盛り上がったものの静かな車内です。柏原で、私は小栗判官の史蹟を確認したかったのですが。ランチを少しでも早く食べたくて醒井楼に直行です。JR醒井駅から左折(東向き)して渓流に沿って山間に入ります。
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これが醒井楼の案内図です米原市内を経て琵琶湖に注ぎますが源流は伊吹山と云う事になります。
清流と所々湧水の井戸があるところを観ると米原から坂を上って関ヶ原の手前で旅人は此処で喉を潤したのでしょう。その故事が醒井の地名になって、小栗判官物語で照手姫が小栗判官の遺体を乗せた車を引いて熊野に詣でたという説教節も解るような気がします。この渓流の水源に松尾寺があってその境内に紅鱒(醒井楼では琵琶鱒と呼んでいます)の養魚場があって松尾寺さんがその池畔に懐石の茶寮を開いているのです。
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川向こうの山が松尾寺のある松尾寺山奥が霊山で手前の渓流が宗谷川で養鱒場から流れています。
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これは松尾寺の下にある養鱒場。此処は釣堀併営で、釣り人は自分で釣った魚を醒井楼に持ち込めば料理してくれるのだそうです。
友人とのツアー最後の会席を伝教大師の故寺(http://samegairo.sub.jp/wordpress/%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%A6%B3%E9%9F%B3-%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%AF%BA)の懐石料理で締めくくるのは良いアイディアです。お腹も心底空きました。
醒井楼の玄関で躊躇しました。事前にインターネットで確認した処では/懐石料理と云う程では無く。観光地の食堂並の献立が並んでいたのですが。看板の案内は2500円が最低料金です。
少し予算オーバーかな?思っても既に腹ペコで限界です。玄関を開けると女将さんが出て来ました。私は土間のテーブル席で充分と思ったのでしたが女将さんは私達を連れて廊下の奥に階段を上って奥に奥にと案内します。
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これが醒井楼の全景で奥の建物が松尾寺の核になる建物の霊山三蔵堂です。
6畳ほどの床の間のある座敷に案内されました。
実は女将さんは私達の顔を観るなり「このお客は上玉で紅鱒懐石」をオーダーすると読んで厨房にその旨注文してしまったようでした。
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これが献立表です左の懐石コースが6000円で右は300円の「おすすめ懐石」です。
卓の上に「献立表」が置かれました。私達は献立表を見詰めながら鳩首会談します。
看板にあった「三成」(紅鱒を刺身塩焼き煮魚の3方法で料理したモノ1500円」で充分だな・・・・」
そこで女将に相談です。どうも三成はランチ時間のサービス料理のようです。女将は既に板場に連絡して紅鱒の塩焼きを用意しているようでした。塩焼きを調理するには炭起しから始めるので時間がかかってしまうので客が見えると直ぐに炭起しの準備にかかるようなのです。
どうしても私達に紅鱒の塩焼きを食べさせたいようです。なんだかんだと云いながら「絶品だからお願いだから紅鱒の塩焼きを食べて欲しい・・・・」云います。
ナンダカンダ折衝した結果「ミニ懐石」ともいうべき「付け出し+塩焼き+甘露煮+ごはん+味噌汁+漬物」で1500円で着地しました。なんか女将さんが気の毒に思えて来ました。お部屋の片隅に火鉢が置かれていました。私は麻痺して冷え切った左手を火鉢に翳しました。懐石とは温石の事で現在のカイロの始まりです。屹度商い熱心な女将さんが「今日は最後の紅葉日和だからお客が未だ来るはずだ」読んで炭火を落とさないで置いたのでしょう。懐石の精神を地で行くような女将さんです。
未だ3時米原発の新幹線は5時です時間は充分あります。もう「一箇所何処かに寄ろうか?」思います。事前調査では三成が秀吉にお茶を献じた故事が残る「観音護国寺」が思い当たります。醒めたお茶を出すのも炭火を起しておくのも”おもてなし”の精神が自然と為せるモノです。
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此方は付け出しの銀杏です。団栗は木之本の野神の「赤樫』の樹下で拾ったものです。お皿に書かれた「照手一隅」とは伝教大師のお言葉(山家学生式)で「一隅(いちぐう)を照らす人になりなさい」と云う意味です。私はお部屋の隅に置かれた火鉢に手を翳しながら「翳手一隅(えいしゅいちぐう)と思い違いしました。禅宗では人をもてなすために温石を用意し、”温まってお帰り下さい”としました。森進一の襟裳岬みたいなものです
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これが紅鱒です。醒井楼では琵琶鱒と呼んでいました。養鱒し始めた頃は紅鱒だったものが何時しか本来の色になってしまったのかもしれません。女将さんは琵琶湖の鱒の意味でしょう「琵琶鱒」と呼んでいました。ニジマスも大和鱒も区別できない私ですが美味しく戴きました。
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諏訪湖で育った友人も琵琶鱒の塩焼きに満足のようです。
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これは美味しかった事から土産に求めた紅鱒の甘露煮です。1200円。メニューも商品も紅鱒と表示しています。そこで醒井楼さんに提言です。ブランド名を琵琶鱒に統一したら如何でしょうか?少なくとも紅色の斗を期待していたお客に青い鱒を皿に載せて出すと落胆させてしまいます。


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醒井の疣取り地蔵(近江観音紀行24)

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醒井楼で昼食して安堵しました。未だ新幹線の時刻には2時間もあります。一応米原駅に戻って”一台でも早い列車に乗れるなら乗ろう”と云う事にしました。醒井楼に登るとき道路脇の公園に「疣/いぼ取り地蔵」が祀られていることに気付いていました。そこで先ず疣取り地蔵尊を拝観する事にしました。疣取り地蔵尊は私の生活圏には幾つもあります。疣も痘痕も似たようなモノ、醜い顔の象徴のようなモノです。色街のあった宿場町等では疣取り地蔵や奪衣婆が祀られていてその霊験は疣取りや痘痕取り色白美肌だったりします。
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これは川崎大師の墓地入口に祀られている奪衣婆です。色白美肌に生まれ変わる霊験があるとされています。白いのは小麦粉か白粉か解りません。藤沢や足柄の地蔵尊は小麦粉で真っ白です。
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これは鎌倉植木にある貞宗寺の疣取り地蔵尊(右)左は庚申塔です。この地蔵尊は疣取りの霊験があると云われ足元の小石を預かって疣の頭を擦ると疣がコロリと落ちるのだそうですこのパターンの疣取り地蔵尊が多く此処から近い手広の「鎖大師」椿地蔵尊と呼ばれる地蔵尊(一見すると地蔵尊では無くて弘法大師に見えます)が祀られていて足元には疣取りの役を終えた小石が沢山盛られています。江の島道に近い高倉町にも慈母地蔵尊が祀られていて疣取りの霊験があると云われています。貞宗寺も鎖大師も高倉神社も何れも江の島の色街が近かったので、遊女の信仰を集めたモノでしょう。
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これが醒井のいぼとり地蔵尊です。昔は疣や痘痕のある子供が沢山いましたし。左の柱に吊るされているのは「飛びっ子」と呼ばれるお人形です。江戸時代は性病などで皮膚に痣が出来るのを避けられていました。色白美肌祈願が盛んだったのでしょう。
疣取り地蔵には次のような案内がしてありました。
傍流れる丹生川の水の美しさに見せられた旅人がこの水を手に取ったところ、手のイボがとれたとのことで、イボの取れる水として信仰を集めているそうです。丹生川の名からすれば旅人が手にした水は水銀が含まれていたのかもしれません。湧水の先は明日香の酒船石のような施設がありましたから。水銀の分溜施設だったのかもしれません。以来イボに悩める人の身代わり地。(掲示物などより)。飲まずに塗って使うようで、湧水の横にお堂も建て「いぼとり地蔵」も祭ってきたようです。
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これが湧水施設の全景です。丹生とは水銀の事ですからこの湧水には多量の水銀が含まれていて水銀の毒性で疣の組織が破壊されたのかもしれません。そうだとしたらこの酒船石のような遺構は水銀と清水とを分ける装置だったのかもしれません。
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此方は湧水の出ている処梟が見詰めていました。置かれているハンマーはこの上の段に児童公園があるのでその階段道を普請した時に使用した道具のようです。
私の生活圏は何れも色町に近い事から色白美白の霊験を求めたモノと思います。でも此処醒井には色町は思い当たりませんこの種の民間信仰は良く視ないと気が済まないのが私の習性です。思い当たるとすれば私の生活圏は小石で疣を擦れば疣が取れると云うモノお風呂で使う軽石みたいなものです。一方醒井は何といっても湧水です。湧水と云った霊水に疣を浸せば疣が取れるというのなら、「へちま水」のようなモノでしょう。私は小さい時右のお凸に小さな疣があって、ついつい触ってしまい血が滲んでいました。祖母が私を無花果の木の下に連れて行って無花果の葉っぱを剥がすとその茎からヨーグルト状の樹液が滲みました。その樹液に浸スト疣は取れる教えてくれました。以来暫くの間無花果の樹液で疣を浸しました。すると嘘のように疣はポロポロと落ちてしまいました。今思い返すと無花果の樹液に疣取りの効能があったのか?私がおばあちゃん子で云われた事を信じていたそのメンタルな所為か迷います。ネットで調べると無花果の樹液にはフェチンという蛋白分解酵素があって、抗癌効果もあるそうなので強ち迷信では無かったようです。
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疣取り地蔵の傍らは湧水があって、清水で疣を浸せるようになっています。梟が信者を見詰めています。
この後ひとまず米原駅に行きました。お世話になったレンタカーを返却して新幹線の時刻表を確認すると小田原に停車するひかり号は2時間おきで、結果的には2時間弱米原駅で時間を費やすことになりました。駅前には平和堂(滋賀県のスーパー)があります。其処で。平和堂で夕飯にして時間を潰しました。
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米原駅新幹線口にある平和堂で夕食にして新幹線を待ちましたお客が可哀想なほど閑散としていました。日本中地方はこんな状況なのでしょう。
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お客さんのご意見掲示コーナーには厳しいご意見と店舗責任者の回答が掲示されていました。私達世代が現役の頃はクレームこそビジネスチャンス」と教えられましたがこのような指摘ばかりでは責任者は頭痛が取れない事でしょう。疣がコロリと落ちるように責任者の頭痛の種が取れるにはお客が増える事以外にありません。

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お辞儀の文化

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今月我が愚妻が和弓の昇格試験に受かり目出度く錬士となりました。学生時代も弓道部に入りたいと思って日吉の弓道場の門を潜ったのだそうですが。慶応大弓道部は古くて女子の入部を認めていなかったのだそうです。已む無く日本文化研究会に入って行く末は私にゲットされてしまった次第です。
私と結婚後、家に閉じこもっているのは嫌だったようでテニスを始めました。如何にも不釣り合いな硬式テニスでしたが、町内にスポーツセンターが設備されその雨水調整池に弓道場が設置されると、勇んで弓道場に通うようになりました。以来順調に昇段試験に合格していたのでしたが、此処10年余りは鳴かず飛ばずで、昇格に失敗。全国各地で実施される昇格試験にトライし、この秋も鈴鹿で二次試験に進み奈良の畝傍御陵に行ったのでしたが落胆して帰宅しました。そして先日特別審査が先日明治神宮で実施され、見事と云うか漸く昇格して晴れて「錬士」になれた次第です。
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ワイフの昇格祝で我が家は花いっぱいです。
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居間は一杯で玄関にもお祝を置きました。私よりワイフの交友の輪が大きいのは弓道のお陰です。
【弓道の素晴らしさ】
以下は私の意見でありワイフの見解とは異なると・・・・、思いますが弓道の素晴らしさは個人の修練にある事が第一です。愚妻の受験を観ていると教科試験があります。内容を窺がうと「礼法」が骨子のように思えます。礼法を和弓の扱いを通して体得しようとするものでしょう。愚妻は10回以上も筆記試験は受けていますからもう筆記試験の準備は万端です。問題は実技で。愚妻は視力そのものに問題があったのかもしれません。JRの駅時刻表も見えないいうのでは的に当たる筈ありません。
次に和弓の素晴らしさはお仲間に恵まれる事でしょう。30年も稽古に励んでいるので近所の弓道場は勿論隣の栄区や鎌倉や横浜元町弓道場など友人の輪は横に広がっています。来年の年賀状は私より愚妻の方が多くなりそうな気配なのも私の友人の輪は停止してしまったのに対し愚妻の友人の輪は拡張し続けているからでしょう。そして、何をおいても費用が懸らない事です。アスレチッククラブや社交ダンスなら700円/1時間はかかるでしょう。でも和弓は気が済むまで練習しても略無料なのです。(会費は必要ですが)
私が脳梗塞を発症して以来兎角荷重の重なった愚妻でしたがメンタルにも安定して私をケアしてくれたのは弓道を続けて来てくれたお蔭です。それも突き詰めて考えれば弓道の根本精神である礼法のお陰です。
前置きが長くなりましたが今日は「お辞儀」を素材にして礼の文化を私なりに説明します。
【「お辞儀」の比較】
お辞儀(おじぎ)とは、相手に向かって腰を 折り曲げる動作です。挨拶や感謝、敬意などを表します。
ところで、もうじきお相撲が始まります。お相撲におけるお辞儀は蹲踞に始まります。
蹲踞はお辞儀(礼)の一つの仕草です。蹲踞こそしませんが柔道は礼に始まり礼に終わります。礼とは「相手挨拶し、感謝を伝えたりする」仕草です。礼(禮)の字は示す偏に三宝です。供え物を載せて神にお祈りするという意味ですお相撲も柔道も相手を敵と思うのではなくて神だと思って技を競うのです。
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礼(禮)の字は示す偏に豊と書きます。豊とは神に奉げモノをする三宝の事です。
この意味では剣道も柔道も礼の精神とは距離があります。弓道が最も礼の精神に近いモノと云えるでしょう。何しろ相手が敵ではなくて的なのですから。この意味では那須の与一が馬上から軍扇を射落とした故事(平家物語)は礼法の精神にピッタリです。
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那須の与一の絵馬与一は馬上から軍扇を射落とします。平家も源氏も与一の神技を誉めます。平家物語や源平戦闘記の名場面です。
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「受胎告知」の図天使が聖母に立礼【跪礼/きれい】している仕草ですが両手を胸前で交差させています。礼法では両手は自然に垂らして腰をもう少し30度くらいに折ります。お辞儀は洋の東西とも神聖な存在に対する敬愛の気持ちを表現する仕草がルーツだと思います。それが中世に入ると日本では将軍等権威者に対する儒教的な礼を表現する仕草として。西洋では淑女の優雅な仕草として発展したと考えます。
一方西洋ではお辞儀の仕草はありました、舞踏会の挨拶やフィッギアスケートのそれです。これらはがその仕草が自らを優雅に見せるから行われたと考えるのが自然なような気がします。でもルーツは宗教的に敬意を示す仕草だったのでしょう。この意味では日本のお辞儀と同じです。
ルイスフロイスやザビエロ等の宣教師が日本にやって来ると彼等は日本流のお辞儀の作法を知りません。将軍に面会する時にニコニコ笑って握手しようと右手を差し出します。通訳は先ず日本流のお辞儀の作法を教えるのが大変だったと記しています。でも幕末が近づくと彼等も手慣れて来てシーボルト等はお辞儀の作法に慣れていたようです。
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これは二条城での大政奉還の図、西洋人は立礼は未だしも座礼には馴染めず大変だったようです。今に日本人も座礼が出来なくなるかもしれません。こうした作法全体の基準となり広めたのが「小笠原礼法」でした。歴史の中では中世的なモノの典型であった小笠原礼法でしたが現代の役割や期待は大きいなものがあると思うのです。
【お辞儀のルーツ】
洋の東西を問わずお辞儀は神への敬虔な気持ちを表現する仕草として始まったようですが儒教が一般化した中国日本朝鮮では封建的な階級制を示す仕草として広がったようです。
聖武天皇が施主であった大仏開眼式の図はありませんが聖武帝光明皇后を始め全員が廬舎那仏の御前で目を閉じて立礼した事でしょう。しかしその様子を描いた絵図も残っていませんし記録も無いようです。唯一判るのは後白河法皇の描かせた年中行事絵巻です。検非違使が洛中で狼藉を働く輩を捕縛しようとしている傍らに庶民は座して「我関せず」の姿で描かれています。でも後白河法皇の前でも天皇の前でも庶民も臣下も不統一な自由な姿勢で描かれています。私達が映画や劇画で観る礼を尽くした形は事実と反していて。参勤交代の行列を土下座して遣り過すようなことは無かったのでした。お辞儀のルーツとして思い当たるのが西行法師物語で、西行法師が吉野から熊野の八上王子車を詣でた折に記拝している図が描。中世には一遍上人絵巻にも様々なお辞儀する姿が確認できますが総じて宗教的な仕草と云えます。宗教的な仕草を封建的な階級制度の仕草に仕立てたのが室町時代小笠原長清であったのでしょう。小笠原長清のお蔭で仕草が様式美に昇華され、中国にも朝鮮にも無い礼法が確立したのでしょう。昨今洋式生活の普及に伴って礼の作法は無頓着になって来ました。
デモ姿勢の良い人仕草の美しい人が寄り目立ってきたのも事実ですそうした意味でも2020年東京オリンピックの空手が正式決定した事は喜ばしい事です。屹度武道としてのルール【顔攻撃等反則が多い】と勝敗との間で議論が沸騰する事でしょうが,武道や礼法を広めるには良い機会になる事でしょう。
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これは熊野の八上王子社を詣でる西行法師(土佐本西行法師絵巻)座拝しているのは神社なのかその手前の桜なのか、どちらにも向いているのでしょう。


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零余子(零余子)播き。

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今年は未だ朝顔の種の収穫をしていません。ソロソロ種を獲って来年の準備をしなくてはなりません。
朝顔の種を探してみれば自然薯の零余子(零余子)と競うように蔓に残っています。朝顔も自然薯も蔓は干乾びてしまっていて朝顔の種も自然薯の零余子も過半が地面に落下しているようです。
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スッカリ冬モードの我が家の庭、庭いじりしているのがワイフです。愛犬のチ子ちゃんも今年は乳癌手術を奨められたのでしたが、我が家の医療費逼迫の折自力回復の道を余儀なくされてしまいましたが、今も健康そのもので食欲運動意欲とも衰えを知りません。
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これが今日の話題の自然薯の「零余子/むかご」です。零余子は自然薯の蔓に出来る珠芽で蔓と葉の境目に出来ます。これが地面に落ちて発芽発根する事で子孫が増えます。この零余子自体が野趣があって美味しいのですが、今年は写真の分を播いてあげました。
想い起してみれば先日に味噌汁に零余子が入っていました。ワイフに向って。
「零余子は野趣があって良いんだけど。零余子飯が常套だよ。季語にもなっているよ!」
云えば
「貴方が零余子ご飯を悦ぶのは解っていたけど。息子が好きだか解らないでしょ!。ご飯に炊きこめばリスクが大きいので味噌汁に入れましたよ!」
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これが美味しい零余子ご飯です。写真は自然薯を販売している仙ちゃんファーム/http://www.jinenjosenchan.com/products/mukago.htmlを拝借しました。
私は「なるほど」納得して零余子味噌汁を飲みましたが中々乙なモノです。里芋の小芋味噌汁のような味です。でも零余子は矢張り見た目が美しくありません。自然薯の蔓には花も咲きますし秋に黄色に染まると中々綺麗なモノです。色と云い形と云い狐のようなモノです。それで思いつきました零余子を播いてあげて来年は若い自然薯を食べる事にしよう。そうすれば自然薯さんも喜んで往生してくれるだろ。其処でフェンス脇のプランターに自然薯を播いてあげる事にしました。
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これが零余子も落してしまった自然薯の蔓です。自然薯の下の鉢にはクリスマスローズが生えています。屹度来年はクリスマスローズが自然薯の侵入で迷惑する事でしょう。クリスマスローズは娘からの預かりモノ大事にしなければなりません。零余子を播いたのもその対策なのです。
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自然薯の上を見上げれば朝顔の種がついていました。今夏は朝顔さんと自然薯君がスモモの梢で戦っていたのでした。今双方共に息子世代の戦いに向けて種を残そうとしているのです。
今年は秋に庭木を伐採しました、お蔭で落ち葉掃除が楽でしたし、陽の光が差し込むので満天星やブルーベリーの紅葉も見事でしたし、久々に南天も赤い実がも稔りました。庭木を伐採したので明るくなったし広くも感じられるようになったので、新婚新築時代のようにガーデニングの復活です。ガーデニングもリハビリです。何しろ植物は正直ですから。手間さえ惜しまなければ花を咲かせるし、食卓も満たしてくれるのですから。
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庭に何時の間にか育ってしまった楡の木も伐採しました。この楡のお蔭で庭は日陰になってしました。
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庭木を伐採したお蔭でお日様を浴びた満天星は久々に紅葉しました。紅い新芽も勢いがありますから来春は鈴のような花を沢山咲かせるでしょう。
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このプランターは中央が匂いスミレで左右が立ち壺菫です。匂い菫の葉っぱは未だ青いのですが立ち壺菫は既に枯れてしまっています。落ち葉の描け布団をかけて上げています。また桜の咲く季節にお会いしましょう。
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零余子播きは大型プランターに溝を掘って其処に零余子を一列に播きました。こうしておけば収穫が楽なのです来年の初秋に3㎝ほどに伸びた自然薯の芋が収穫できる期待です。1歳児のオチンチンのように綺麗で可愛いお芋です。こうして写真で見ると既にハコベやツユクサの新芽が生えています。先月出かけた伊吹山では今頃蓬も新芽を出していることでしょう。蓬の新芽は餅草とも呼ばれお餅には欠かせられません。
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零余子を播いたプランター目印に木瓜の実を置きました。考えてみれば木瓜も自然薯も種の他に子孫を増やす方法があります。
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これは窓辺で順調に生育中の隼人瓜(白・緑)です桜が咲く頃に地植えにしてあげます。

ひろく明るくなったお庭です来年は朝顔さんと自然薯さんと棲み分けして貰えそうです。それに加えて室内では隼人瓜も待機中です。隼人と云う程ですから薩摩が自生地でしょう。地植えにするのは桜が咲いてからにする予定です。植物の顔色を観ながら進めるリハビリは効果絶大だと確信しています。とりわけ自然薯(零余子)は大地の滋養分も潤沢ですし、心身ともにリハビリさせてくれそうです。想い起せば3年前の26日に脳梗塞を発症しました。昨晩は娘夫婦が来てケーキを食べて鳥のもも肉を食べました。
ワイフが云いました。
”3年前はクリスマスを大仰にお祝いして過食して翌日貴方がお友達と麻雀に行って私は午後一番で湘南鎌倉病院の集中治療室に駆け付けたのでしたね”
この3年間は世間一般に云えば災厄でしたが、お蔭で陰影の濃い人生になっているようです。

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