Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

芋版年賀状奮闘記

$
0
0
12月に入って喪中挨拶が届くようになりました。団塊世代も親を送る年齢になったという事でしょう。
喪中挨拶を受け取ると”ソロソロ年賀状を出状白”催促されたような気になるものです。毎年元旦に着かせるにはクリスマスマデニ出状させるのが慣例になっているようです。
脳梗塞を発症して以来恒例にしていた版画年賀状は止めていました。ところがセミナーでホワイトボードに字を書いていて驚きました。簡単な漢字を忘れているのです。キーボードを叩く事に慣れてしまって字を忘れてしまっているのです。字を書く習慣を取り戻さなくてはいけません。其処で。先ず万年筆を取り出しました。この秋近江に観音巡りをしようとして「白州正子さんの”観音巡り”」を読んでいて同氏の直筆原稿の写真を観ました。原稿用紙のマスブルーブラックのインクが綺麗だと思いました。
イメージ 1
白州正子さんの近江観音紀行の原稿、同氏はモンブラン万年筆を愛用されていたことを知りました。
イメージ 2
これは私がはサラリーマン時代愛用していた万年筆です。左のモンブランを使おうとしたのですが有隣堂でも修理して貰えません。万年筆も使い捨て時代になってしまったようです。
次は版画作りです。私の脳血栓の発症プロセスが、心房細動で血栓が脳に飛んだのが災いしたので、今も朝晩二回食後に「プラザサキ/血液サラサラ剤」を飲んでいますので彫刻刀で怪我をすることは避けなくてはなりません。そこで芋版版画にしました。ワイフにお芋を買ってきてもらって輪切にしてカット面に色鉛筆でデザインを写して彫刻刀で彫って行きます。でも、今時のお芋は柔らかすぎて如何も上手く彫れません。。彫刻刀を持つとツイツイ力が入ってしまう癖が災いしているのかもしれません。そこでもう少し硬いモノが無いか探してみました、硬いモノと云えば庭に咲いた木瓜に出来た瘤状の実か花梨の実です。芳香剤代わりに玄関に置いておいた花梨のうち大き目の1個を輪切して使う事にしました。花梨を切るのは初めてです
イメージ 3
2017年の年賀状は米沢のお鷹ポッポに富士になすびの縁起物を揃えまあした先ずお芋で鷹となすびを彫りました。次は富士山です。富士山を彫るのに充分な大きさのお芋はありません。南瓜も考えましたが結局花梨にしました。
イメージ 4
赤漸く出来上がった2017年鳥の年賀状です。
イメージ 5
観てお分かりのように賀状は反りかえってしまいました。お蔭でプリンターには使えず、宛名書きは筆書きの宛名リストを観ながら筆書きになりました富士は花梨の実を輪切りして充てる事にしました。
イメージ 6
プリンターが使えないので宛名書きもパソコンの名簿を観ながら書きました。
一応出来上がって気付きました。「立春大吉」と書いたまでは良かったのでしたが。北京の胡同で観た立春大吉は逆さ文字だったのです。中国人は日本人に増して「験担ぎ」で逆さ文字がk上下左右多いのです。お札は総て逆さ文字と云って良い程です。何故かと問うと「鬼が門まで来て逆さ文字のお札が貼られている」とこの家には既に用は無いと思って玄関先で踵を返して帰ってしまうのだそうです。何のことは無い版画製作に際して裏書して彫る必要は無かったのでした。
苦笑いした後版画の原画を色紙にすることを思いつきました。色紙はデーサービスに届けます。
2016年は毎月季節感のある写真をプリントして「今月のお誕生日ボード」を飾っています。毎月誕生会をしてお祝いしているのですが、写真を悦んで持ち帰って戴いています。写真より色紙の方が自宅でも飾れますし。コストも安くて済みます(3枚100円ダイソー)
そこでまず色紙を3枚描いてみました。勿論1枚は我が家の玄関に置いて鬼には帰って貰うのです。
イメージ 7
これが出来上がった色紙です絵馬を描くような気持ちでした。お鷹ポッポは貧乏臭いので止して羽ばたく鷹にしてご来光も加えました。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。





今、を出したい年賀状

$
0
0
昨日は2017年の年賀状を手書きした事実を書きました。
でも、実は心底年賀状を出したくても出せない人が居る事に気付いていたのです。その最たる人が佐々木一雄先生です。佐々木先生は慶応大学の教授だった人で。私の祖母の生家世田谷の実相院の先代住職でした。私達夫婦のの結婚式が教え子同士の結婚だったので殊の外喜んで下さり。進んで仏前結婚式の導師をして下さいました。先生が慶応を辞して後、実相院に上ると先生の書が本堂のガラス戸に貼られていました。
”親爺の声聞きたくて墓参り”と墨書されていました。
先生の親爺とは私が「ビー玉叔父さん”と読んでいた祖母の兄の事でした。
ビー玉叔父さんの名は私のネーミングで、お土産にビー玉を買ってきてくれた事と目がビー玉のように丸くてクルクル回るからでした。
我が生家は戸塚の上倉田町の地主でしたものの。農地解放後は貧乏をしたようで。祖母は実相院に物心ともに世話になったのでした。父も晋山するまでは実相院に預けられて佐々木先生と兄弟のように育てられたようでした。佐々木先生は男前であった上に粋な人で専門は西鶴でしたから、専門ガラ遊びにも長けていたようでした。ですから若い時には御父上のビー玉叔父さんがビー玉を三角にして怒った事でしょう。そう想うと先の俳句は中々の作品だと思います。”親爺の声を聴きたくて”とは”叱られたくて”の想いがあるのでしょう。
私が敬愛している日文研の最初の指導教授を務めて戴いた浅子教授と佐々木教授は同僚ですからこのことを話せば良かったのでしたが、その機会もありませんでした。
近江で観音を巡った時も「重源の大仏再建」をまとめた時も浅子教授にレポートを提出する積りで巡り、書いたのでした。若しも彼岸に届く年賀状があれば、浅子、佐々木の両教授に出したい想いがします。
ソモソモ、年賀状は現在を生きている者同士が近況を報告し、励まし合う意味でもな習慣で、多分宮中での賀詞交換がルーツでしょう。
”旧年中はお世話になりました、今年もよろしくお願いします”そんな挨拶を交わすところが飛脚制度が整備され、明治になって郵便制度が整うと簡便な方法として葉書が一般化したのでしょう。”今日は”に代わるような挨拶で。メールでは代替できません。
「今日は」の挨拶は「今日は今日は良いお天気ですね。ご機嫌良くて麗しい事です」と云った挨拶の接頭語だけが使われたものです(広辞苑)。
新年の挨拶は「今日は」と同じで、年に一度くらいは黄泉で眠っておられる先人にお便りする意味でも彼岸への年賀状は有意義だと思います。
屹度その意味でしょう多くの禅寺に庭には「多羅葉/たらよう」の木が植えられています。多羅葉は中央郵便局の植え込みにも使われています。
イメージ 1
これは横須賀にある淨楽寺の墓地にある郵便事業の父「間島密」の墓です。後ろの常緑樹は多羅葉の仲間のもちの木です。
イメージ 2
これは中央郵便局の植え込みに使われた多羅葉です私の家の近くでは小菅ヶ谷踏切に近い浄土真宗「成福寺」の墓地入口にあります笠智衆さんが眠っておいでです。以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43579305.html?__ysp=56yg5pm66KGG44Gu5aKT

多羅葉の葉は字のように数が多く表面は艶やかなのですが裏面は白くて小枝の先で字を書くと、黒く滲んで鮮やかに書けるのです。黄泉の人に送るには最適の葉書です。多分、葉書と云う名もこの多羅葉の葉を想って名付けたモノでしょう。日本の郵便制度を創設したのは前島密で墓地は運慶仏像で有名な浄 楽 寺(横須賀)にあります。お彼岸には運慶仏の開帳もありますので久々に詣でてみましょう。我が家の庭には多羅葉そのものこそありませんが弟分の「達磨の木」は数本自生しています。私が植えたのではありませんからツグミかムクドリが種を撒いたものでしょう。今夏庭木を伐採したので、急に目立つようになったばかりか達磨の名に恥じない紅色に染まって来ました。達磨の葉っぱを葉書にして彼岸の恩師に出状しましょう。
イメージ 3
これは庭に野鳥が種まきした達磨の木です。正月も近づいて紅色が目立つようになりました。達磨は多羅葉の兄弟木です。
イメージ 4
娘に子が出来たことリハビリが進行していることを年賀葉書しました。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

百人一首に観る扇の文化

$
0
0
28日娘から電話がありました「お父さんブログの更新が無いけど何かあったの?」
。私は毎日更新している積りなのですがどうも更新されないでいたようです。実は27日ブログアップした時に見慣れないマークがついていました。二人の人形がデザインされたマークは「お友達しか閲覧できない」印なのでした。私が意識しない中にお友達しか閲覧できないブログにチェンジされていたのでした。娘は月火と二日続いてブログが止まったので心配して電話して来たのでした。そこで、今日は27日アップした積りの記事を再度書く事にします。

12月の始めの日文研のセミナーでした。現役学生のОさんが「文学に観る扇」と題してレポートしました。
Оさんのレポートでは扇の使い道を次の通りに分類しました。
①、箒代わり(根拠枕草子)②、呼び止めたり呼び返したりする道具(根拠枕草子)
②短歌を書く素材
③拍子をとる道具
④宮廷人としてのたしなみや上品さを示す、顔や口元を隠す道具等
素材としては檜の薄板と竹の骨の上に絹や紙を貼ったモノ等があったとしました。
質問が出されました『では幾つもある扇をどのように使い分けたのか?檜扇と擦扇/紙扇の使い分けがあったのか?」
「文学史上の文献だけでは解らない」と云うのがОさんの返答でした。
私は帰路の地下鉄の中で考えました。民俗学の好きな私は回答を既に用意していましたが、Оさんを始めメンバーが納得する素材を探して思い巡らせました。そして思いついたのが今日のブログです。
【宮廷官人の持ち物男は笏(しゃくで女性は扇であった事】
宮中での正装は男女とも決められていました下の写真は右大臣だった菅原道真の像(鎌倉の荏柄天神社鎌倉時代)です
イメージ 1
これは菅原道真像鎌倉荏柄天神社蔵『鎌倉時代)衣冠束帯を着て宮中に昇る正装して描かれています。笏を持っていますが女官の持ち物が扇です。笏を扇の形にしたものが軍扇(武田信玄が持っている)であったり軍配(お相撲)になったりしたのでしょう。お相撲の軍配は神具であれば、行司の判断は神の判断として尊重しなければならないのでしょう。
イメージ 2
これは浄土寺に伝わる源氏物語屏風で源氏物語の各場面を扇面に描いて6曲の屏風に季節の順に貼ってあります。時代は室町時代で大和絵の技法が確立する時期に当たりますこうした伝統が先にあって百人一首カルタが完成したのでした。
イメージ 4
これは佐竹本36歌仙絵巻(鎌倉時代)の中の小野小町です。最高の美人はお顔を隠して後ろ向きで描かれています。
イメージ 3
一方此方は伊勢大輔です。典型的な宮中女官で扇も持たないしお顔が丸見えです。


源氏物語絵巻や36歌仙絵巻には扇を持った女性が多く描かれていますそれらは、日本人が抱いてきた平安美女や歌人のイメージを具象化したものでした。そしてそのイメージを定着させたのが江戸時代に盛行した百人一首カルタでした。カルタの絵札を観ながら扇の使い分けを説明します。
【百人一首カルタの始まり】
「小倉百人一首」は、藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから、始まります。
一方カルタは大牟田のカルタ博物館で観た事があります。ポルトガル人が「CARTA」と呼ばれるカードゲームに興じていた簿を観た日本人がそんなゲームなら日本にはッ昔からあったとして貝合わせの要領で絵札と読み札を用意して競ったのでした。
大牟田のカルタ博物館は三池炭鉱の遺構でしょうから、イッソ三井グループは日本橋に移転したら良いと思ったりします。
カルタを製作したのは大和絵の絵師が多く住んでいた京都でそのルーツがポケモンゴーを考えた任天堂であり「大石天狗堂」であったのです。犬棒カルタが出来「百人一首カルタ」が盛行しました。百人一首カルタの盛行の立役者は「坊主めくり」を考え付いた庶民に在ったと思います。我が生家でもお正月は炬燵部屋に家族が集まるきっかけは「坊主めくり」で最後に母が炬燵に入れば、絵札を並べて百人一首が始まりました。
私が取れる札は決まっていて伊勢大輔だけでした「いにしへの 奈良の都の 八重桜 」家族は私の得意札を良く承知してくれて私の”ハイッ”を待っていてくれました。
イメージ 5
これは京都の大石天狗堂の百人一首の絵札随分モダンなイラストになっていますが伊勢大輔は扇は持っているもののお顔は画していません、古いデザインは矢張り紙扇を持っていても顔を隠していません図像出典同社ホームページhttp://shopping.yourguide.co.jp/wordu/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96+%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F+%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%A0%82/
イメージ 6
今日の話題は百人一首の絵札を素材に扇がどのような役割を期待されていたかについて考察したものです。この画像は京都のおかきの名店「小倉山荘」さんのPRサイhttps://twitter.com/ogurasansouトから拝借しました。この「おかき」は大変に美味しく同店は早乙女さんにより御田植神事をすることに初めて製品にするまで真摯に米菓を作っておいでです。毎年日文研では百人一首かるた会が挙行され、T教授差し入れの小倉山荘のおかきを味わいながら「歌会始」ならぬ「活動はじめ」が行われます。私達夫婦は孫の「お食い初め」にバッティングしてしまい参加できません。小倉山荘は藤原定家の別荘であったものでその壁や襖に百人一首が架れていたと云われています。建築史的には鎌倉時代と室町時代が逆転していてそのようなことは無かったと思います。室町時代に定家の業績を偲んで京極家が普請し意匠を凝らしてきたものでしょう。子先月は近江に京極家の菩提寺「清瀧山徳源院」に登りました。小倉山二尊院を偲ぶ見事な紅葉でした。
イメージ 7
これは今日のこのブログの構想をまとめたレポートです。思いついた事を小論文にその都度纏めるのが私のボケ防止法です。和泉式部は檜扇を持つものの、お顔は丸見えです、一方清少納言は後ろ向きで檜扇を持っています。奈良絵の絵師にとって清少納言は特別な存在だったのかもしれません。
さてセミナーでの質問に対する回答です。
1、扇は枕草子にあるように塵をそうじする道具として巫女の持物であり女性の持物でした。最も巫女的な人物である式子内親王は檜扇を持つモノノ後ろ姿で描かれました。天皇と云えども持統天皇は御簾の陰で檜扇を持して描かれた。
2、美人は口元を隠して描かれる超美人は後ろ姿で顔は想像に任せる。
3、才女や中級女官は必ずしも檜扇は持たず顔も丸見えで描く。
歴史的にもランク的にも檜扇が一番古く上位で次が絹扇紙扇の順である。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


若草山山焼きの悦び

$
0
0
週1でお世話になっているデーサービスですが、その献立ボードを飾る絵を描き始めて3年目になります一昨年は利用者が喜びそうな懐かしい絵を描いて来ました。結果1年経ってみると12枚の懐かしい絵が残りました。2017年の陰暦併用カレンダーの絵はその献立ボードの絵をトップに置いて暦自体は旭川情報サービスのサービスに全国各地のお祭りや24節季等を書き加えました。
1枚描き終わると直ぐに翌月の絵の構想に入ります。12月の絵は「白川郷の合掌村のクリスマス」でした。それなりに好評でしたが直ぐに来年1月の絵に着手です。
イメージ 1
これが2016年12月の献立ボードの絵これを収めたら直ぐに2017年1月の絵の製作に着手です。
1月が済めば直ぐに2月で追いかけられます。1月の構想は実は1年間の構想でもあるのです。
”来年1年間何の絵を描いて献立ボードを飾ろうか?”考えた挙句に全国各地方のお祭りに思いつきました。
陰暦カレンダーにも適当であります。
そこで1月です。1月と云えば思いつくのは大宰府の『鷽替え神事』に奈良の『若草山の山焼き』をおもいつきました。大宰府の鷽替え神事は同地に私が転勤していたから知っているモノで一見してデーサービスの利用者が何だか解りません。一方若草山の山焼きは誰もが知っている「迎春」の悦びに溢れたお祭りです。
私は学生時代に期末試験を終えると直ぐに奈良に行って。山焼きを見物したのでした。
イメージ 2
私は全体の構想が纏まったら描きたいものから筆を進めます。薬師寺の東西の塔に山焼きに池の畔に鹿を置きました。
当時は紀元節(2月11日)だった記憶があるのでしたが、昨今は1月の第三土曜日になったようです。どうも観光客対策と受け入れ態勢(消防と警備対策)で平成になってから一月の第三土曜日が恒例になったようです。一番良いアングルは薬師寺の西側勝俣池の彼方から眺めるモノでした。当時は薬師寺の西塔は無くて芯楚の石だけが転がっていました。
日中には「高田後胤」さんの法話だか観光案内なのか微妙な面白いお話を聞き、夕暮れを待って勝俣池の西に廻ります。そこで山焼きが始まるのを待つのでした。勝俣池の東に薬師寺の堂塔が見えてその彼方に春日の森が黒々としていてその南に三笠山(どら焼き)が見えます。池の縁には沢山のカメラマンが三脚を建てて点火を待ち構えていました。私達が山焼きを観て血が騒ぐのは屹度j先祖が焼畑農業をしていたからでしょう。
三笠山は興福寺と東大寺どちらの所有か知りませんが実態は住人の入会地だったのでしょう。山焼きを終えた若草山は蕨など山草の摘み場になります。
イメージ 3
勝俣池の袂の竹藪には椿を描きました。実は薬師寺の築地沿いには讃岐椿が自生していて昭和の頃は近隣の井住人が紙で造花を準備して修二会に仏様を荘厳していたのでしたが、今もお土産に土鈴の讃岐椿が人気です。処で京都の東山の姿を京都の人は雅な女性の寝姿に擬えました。私は京都の東山より平城山(楢山)の方が女性的だと思うのです若草山のなだらかな山容は乳房のようにも見えます(平たい乳房ですが・・・・。
右上の冊子は「土佐光起」の大和絵です。松の木を描くお手本にしました。
若草山の山全体が野芝で覆われています。野芝は鹿の好物です。鹿は柴の芽と種を一緒に食べてしまいます。野芝の種は鹿に消化されずに糞と一緒に三笠山全域にばら撒かれます。背丈の高い草も鹿さんが食べてくれます。勿論糞は窒素肥料になります。今もゴルフ場では雌土に種を混ぜて播いています。今時の作業です。ゴルフ場のメンテナンス作業を千年以上も前から続けて来たことになります。
三笠山は鹿が種を撒き草刈りをして育てているのです。
処で次の和歌は多分女性が百忍一首の中で一番好きな歌でしょう。
君がため 春の野に出でて 若菜摘む
   我が衣手に 雪は降りつつ
  (光孝天皇)
天皇が雪の降りしきる中で若菜を摘んでプレゼントするなんて、平和で優しい国でした。
でも今時の女性は若菜をプレゼントして貰うよりもスイーツの方が歓迎でしょう。            
私は若草山を観ると若菜摘みを想い出し同時に「蕨餅」を食べたくなります。若草山の周辺の茶店では何処でも商っています。此処で採れた蕨だと思うと有難味も違います鎌倉の「こすず」も蕨餅では著名です。でも鎌倉のは見た目が美しくありません。蕨は鶯色でなくてはなりません。麦焦がしの色なのは枯れた蕨のようで美しくありません。若草山の蕨は舌の上で溶ける上品な甘さと鶯の色です。

三笠山の井所有権は東大寺では無くて興福寺にある事は明白でしょう。でも昭和の民法では奈良市民にある事は明白です。
話が脱線してしまいました。本筋に戻します。
暫く前に勝俣池の畔に行ってみました。
ところが世相を反映して山焼きを眺めた辺りは高齢者施設に開発されていました。
屹度あそこの窓からは私と同じ年齢の人達が若草山の山焼きを見詰める事でしょう。
二月には若草山の北側にある二月堂では「お水取り」が行われます。そして三月には此処薬師寺で修二会に「花会式」が行われます。村人が手作りの椿を作って薬師三尊や聖観音を飾るのです。
椿は讃岐椿と呼ばれる藪椿です。最近は池坊さんの生花が活けられているようです。http://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%A4%BF&ei=UTF-8&xargs=2&b=21。造花の方がズット尊いし綺麗だと思うのですが。このようにして民芸や地域住人の想いが断たれてしまうのは残念でなりません。屹度黄泉の高田後胤さんもそう仰ることでしょう。
イメージ 4
これが完成した若草山山焼きです。薬師寺の東の並木は秋篠川の堰堤です。大半が桜の木で此処で魚釣りをしました。この下流が郡山ですので釣れる魚は金魚が多いのです。
明日は上の絵をデーサービスに届けます。利用者が喜んでくれるか少し心配です。でも直ぐに2月を構想しなくてはなりません。2月のお祭りと云えば「札幌の雪まつり」に「横手のかまくら」に2月堂の「お水取り」に飛鳥の「御田まつり/おんだ祭り」です。描きたいのは別にして糸版喜ばれそうなモノを構想します。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


角松を飾る

$
0
0
29日に角松を飾る事にしました。生家では大掃除の進捗状況にも依りますが、30日の朝には門松を飾っていましたから昔からの習慣です。竹は庭に自生していますから小振りなモノを切って置きます。若松はワイフが買い求めておきました。大晦日に門松や松飾をすることを「一夜飾り」と云って忌み嫌われます。葬式の時のお飾りは一晩だけですから穢れたイメージを避けるのかも知れません。でも正しくは来年の歳神様が大晦日の早朝に遣って来られるので。大晦日の朝には完全に設えておかないと来年一年が災厄に見舞われてしまうと考えたのでしょう。そんな次第でかねての協議通り門松を建てたのです。紙垂(しで」の切方は父から教わっていました。先ず範士を6枚に等分します。そして左から真っ直ぐに切り込みを入れます右からは2本の切り込みを入れて。出来た半紙を雁形に折りたためば紙垂の完成です。作っていて気づきました。何のことは無い紙垂とは和紙で作った雷なのです。
イメージ 3
半紙1枚から6枚の紙垂が出来ました2枚は鏡餅の下に敷き4枚は門松に飾る予定です。この形が一般形で伊勢神宮は巾の字のような形にします。
風神雷神の雷です。菅原道真の雷神様です。雷が落ちた年はお米が豊作で松茸も沢山取れると云います。それは雷のお蔭で病虫害が減って穀物もプラスの刺激を受けるので豊作になるのでしょうが。日本人の祖先は歳神様(雷神)が豊作をもたらしてくれたと考えたのでしょう。だから雷の落ちる直前に走る閃光を「稲妻」と呼んだのです。昔は父や祖母から何とはなしに教わって来た習慣の訳を良く気付くようになりました。
イメージ 4
百人一首の菅原道真衣冠束帯の正装の上衣は紅葉になっていました。現代的な解釈です。セット(読み札取り札)で1000円程度が売れ筋のようですから色数も少なくデザインも現代的な百人一首が多いようです。写真は京都の大石天狗堂ネット通販
日文研セミナーのハイライトはT教授の百人一首を読む会でした。何度も受講している中にT教授が”皆さん聞いているばかりでなく。関心の深いテーマで発表してください”言われて昨今のように様々なテーマで学生と社会人が同じ場所で発表し意見を交換するようになりました百人一首の菅原道真の歌は次の歌でした。
このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山
   紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに
手向け山とはと東大寺の守護神で三月堂の下にあります。昔も今も紅葉の名所です。その神前を菅原道真が通ったのでしょう。でも奉納すべき幣(紙垂の別名)を持ち合わせなかったのでした。大意は次のようなモノでしょう
『今度の奈良行きの旅は急のことで、守護神に捧げる幣(ぬさ)も用意する ことができませんでした。手向山の紅葉を捧げるので、神よ 御心のままにお受け取りください。』
道真もこの時はまさか自分自身が天神という御霊神になるとは思いもしなかったことでしょう。T教授の講義で幣を知らない人が多くいられました。そして慶応大学の南校舎の芝生の脇には浜木綿が植えられていてその白い花が「幣」に酷似していることも気付かないでいたのでした。
イメージ 1
これは由比ヶ浜に咲いた浜木綿です。白く健気な花は幣に酷似しています。慶応の先輩の吉野秀雄氏がこの花がお好きでした。以前次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL6UL0mRYkR4A3CUdOfx7?p=%E7%94%B1%E6%AF%94%E3%83%B6%E6%B5%9C%E6%B5%9C%E6%9C%A8%E7%B6%BF&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
イメージ 2
これは御神神社(近江富士)の幣です。紙垂を沢山棒の先に取り付けて箒のようにしたものが幣です。神主はこの幣を振ってお祓いの神事を行います。菅原道真のような大官僚が国家の大仏の守護神の前を素通りする事は許されなかったので。紅葉の錦を奉納する歌の大意です。以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49457296.html

デーサービスから帰宅して午後4時、ワイフと二人で門松を立てます。でも肝心の藁がありません。去年も無かったのですが、植木用の棕櫚縄で代用しました。コーナンのような大きなDISの店に行けば売っているのでしょうが。私の生活圏には藁も藁縄を商っている、店は思い当たりません。縄は明日に持ち越すことにして夕暮れ門松を立てました。少し物足りません。理由は譲葉(ゆずりは)です。譲葉はあったのでしたが数年前突然に兜虫が大量発生して、枯れてしまったのでした。私が譲葉の根元に枯葉を積んで堆肥を作ろうとしたでしたが兜虫の幼虫が育ったところまでは順調だったのでしたが、カミキリムシも大量に巣食って譲り葉の髄を喰ってしまったのでした。譲葉の葉が突然に萎れて最後は茸に溶けてしまったのでした。松と竹だけでは寒々としてしまいます。常緑樹では椿や達磨や槇がありますが、イマイチ、しっくり行きません。そこでヒヨドリ上戸を飾ってみました。
イメージ 5
門の左右に門松を立てますワイフが実行部隊で私は指図するだけです。
イメージ 6
これが2017年歳神様をお迎えする門松です。後は30日に縄を張って紙垂を縄目に嵌めこむだけです。歳神とは特定の神様では無くて歳によって神様が交代するので2016年と2017年の神様は異なるのです。でも総じていえる事はどの歳でも歳神は共通していて福神であり豊穣の神(恵比須や大黒に代表される)なのです。

3年前の29日は湘南鎌倉病院の集中治療室でした。正月が開けると鎌倉の街を抜けて金沢街道を東に運ばれて称名寺の近くの若草病院のリハビリ病棟に入りました。あの時が陰の極みで今年は娘に子も産まれて正月明けにはお食い初めです。明らかに陽に向かっています。陰では色々学びました。今日の様に紙垂の形が稲妻である事にも気づかないで過してきました。こうした些細な事に気付くのも喜びです。ワイフにも苦労を掛けました。子供達にも世話になりました。孫が育つのも励みです。でも家族の尽力は自然なことです。多分縄文時代人も家族の強い絆で生き抜いていたことでしょう。今年は三春に観桜旅行をして以来梅雨には奥駿河に夏は京都に大文字焼きを観に秋には飯豊のマタギ村に熊汁を食べに晩秋には琵琶湖を回って観音様を巡りました。何時も友人に一方ならぬ世話になりました。温泉に銭湯に入っては背中を流して貰いました。旅行を励みにしてリハビリは順調に進んでいます。2017年も旅行の妄想が頭の中で渦巻いています。脳梗塞も友人の有難味を骨身にしみて感じる機会でした。先立ってしまった友人も彼岸で私を羨ましく観て居る事でしょう。このブログも彼岸で観られるのkも知れません。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。




文部省の宿題忘れ

$
0
0
29日のラジオ深夜便で唱歌の「故郷」が流れました。ゲストは【海沼実氏で副題に「文部省唱歌から童謡へ」とされていました。中山晋平/野口雨情の名コンビの唱歌を楽しみました。
極めつけは「故郷」でした。「兎追いしかの山小鮒釣しかの川♪」聞いた瞬間に先の震災を想い出しました。今年は今上天皇のご発言で驚かされました。震災後国民誰もが天皇皇后両陛下が被災地を巡り励まされる姿を観て来ました。被災地の光景は再三テレビ画面に映りました。両陛下が被災者に寄り添われる姿と、唱歌の「故郷」に落涙する光景が心に刻まれました。
その時に思いました仏人なら英国人なら何の歌を歌うんだろうか?多分英国も仏国も国歌を歌うのだろう。シャンソンでは元気が出ません。「ラ・マルセイエーズ」だから復興のパワーが湧くのでしょう。、英国ではGod save our gracious Queen(神よ国を救い給え)です。
ところが日本では「君が代」を歌う人は先ずいません「故郷/ふるさと」か「赤蜻蛉」です。そこでNHKは北郊ソング「花は咲く/復興マソング」を作りました。天皇は日本人の象徴ですが。日本人の心の柱になる国歌は不在なのです。
海沼実氏の話を聞いていると大正末期から昭和初期にかけて日本人は西洋音楽を消化して日本人のハートに響く音楽を生み出してきました。たそれは大半が文語調であったが昭和に入って口語調の唱歌に変換して童謡が主流になったのでした・・・・。童謡は海沼さんの専門です。
今日は日本の国歌の問題について取り上げます。私の怒りは現代の文部官僚のサボタージュです。事なかれ主義が学徒動員で歌われた「君が代」を存続させ、「国民が本当に心を一つにして歌いたい国歌を作る責任を果たさないで来たことです。
今年のリオオリンピックで、森オリンピック委員長は次の様に君が代」を歌わない金メダリストを批判しました
”「なぜ国歌を歌わないのか」「国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」”
でも歌いたい国歌でなければ歌わないのは筋が通っています。
森さんの指摘は文部省に向けられるべきで選手に向けるのはお門違いです。
熟の大先輩であり今上天皇の教育係も務められた小泉信三先生ならばきっと次のように仰られた事でしょう。
”金メダリストが歌いたくないような国歌を持っていることは悲しい事だ!心底誇らしげに歌いたくなるような国歌を作ろう!遅くとも2020年までには”
小泉信三先生は第一次世界大戦中ロンドンに居られました。その時の家族への書簡に次の様に認めてあったのでした(父小泉信三/小泉タエ/二女)。
イメージ 2
慶応大学三田キャンバス塾監局前には学徒慰霊の碑が立っていて台座には小泉信三元塾長の「丘の上の平和なる日々に、と刻まれています。小泉先生は美的感性からして「君が代」はお嫌いでしたが君が代で戦地に向かった学徒の事を想えば「国歌」を作って欲しい御思いでしょう。
征きて帰らぬ人々を思う」が刻まれています。
ロンドンでの音楽界で「ロシアフランスの国歌に続いて日本の君が代が演奏されました。これには閉口しました。愛国心では劣らない僕でしたが、君が代ばかりは聴いては居られませんでした。あんなに間延びして張り合いの無い歌は珍しい各国の国歌に較べると曲調が聴くに堪えない(出典3つの君が代内藤孝敏204ページ)小泉先生の直感は当時の国民大多数の意見であり。文部官僚の意見でもあったのでした。
以下国歌に係る歴史を紐解きながら、説明します。
【国歌制定の始まり】
日本の国家創設の動きは戊辰戦争で長岡に会津に進軍した薩摩の軍隊に始まります錦旗を先頭にして♪宮さん三宮さんお馬の前でヒラヒラするモノ何じゃいな?♪薩摩は進軍に軍歌の必要性を感づいていました。薩摩出身の軍人大山巌は戊辰戦争でも西南戦争でも重責を果たします。
イメージ 1
戊辰戦争で薩摩軍は錦の御旗を立てて「宮さん三宮さん」の行進曲に合わせて進軍します。国歌制定は陸軍の行進曲に始まります。絵の出典/ウィキペディア。
そして鹿鳴館時代には八重の桜の「捨松」を嫁に迎えます。鹿鳴館時代に英国と比べた時、明治日本に国歌が無い事に気付きます。この時使用されたのが「君が代行進曲」でした。メロディーは英国の公司の「ジョン・ウィリアム・フェントン」が作りました。訊けば直ぐに解りますが軍艦マーチの原曲でしたhttps://www.youtube.com/watch?v=hh-bhkkE9BM。でも流石に君が代行進曲は国歌としては避けられました。理由は「勇ましいモノノ格調と云うか荘厳さに欠けると文部官僚が指摘したのでした。この時既に国歌は軍部が決めるかそれとも文部省か所管の争いがあったのでした。荘厳さに欠けるとの指摘が妥当と判断され国歌制定の所管は文部省の「音楽取調所/祝祭日唱歌作成係」に決められたのでした。
当時の音楽取調所は小学校唱歌の作成に注力しており次のような唱歌を相次いで発表しており国民は愛唱していましたからこんな曲調の延長上に国歌が発表されると期待していたのでした。
「庭の千草」「埴生の宿」「仰げば尊し」「荒城の月」「鉄道唱歌」「夏はきぬ」
明治年音楽取調係は東京音楽学校に「祝祭日に歌うべき唱歌」の作成を指示しましたその結果8曲が候補に上がります。役所の対立を越えて超党派的指示を得たのが海軍省が作成した現在の「君が代」だったのでした。(出典/3つの君が代210ページ)。
第二の君が代は総て日本人が作詞(古謡)作曲したもので(編曲はエッケルト)第一の君が代行進曲の反省が活かされていました。でもこの「君が代」も文部省の省令で決まったモノであり法律で決まったモノでも無いので「とりあえず当面は学校での儀式ではこの歌を歌いなさい」と云った程度のモノでした。省令は明治26年発布
所管の文部省も責任者が次のようなコメントを添えて居て国歌としては物足りないと評価していたのでした
「文部卿福岡孝弟のコメント/国歌の制定は至大至重の問題であるからこの歌を日本国歌とはせず「明治頌」として更に次の案を作るように」(出典三つの君が代146ページ)
当時の唱歌の人気は高くこの情熱がある限り国民がこぞって歌えるような国歌が作れると確信していたのでしょう今私達が唱歌や童謡を口ずさむ時、『白秋や佐々木信綱や弘田龍太郎なら格調高く抒情的な歌詞を作ってくれて滝廉太郎や中田喜直なら素敵なメロディーをつけてくれたであろう』想うものです。ですから当時の判断は妥当だと思うのです。
ソモソモ音楽はメロディーが先か歌詞が先かよく議論されます。
日本の楽曲を観る限り歌詞が先行されます。本来大和言葉は耳で聴くものでしたから、調べがあるモノです。歌会始でも百人一首の読みでも私達は言葉を優先して聞いています。
他方西洋音楽は調べを優先しています。踊りや行進は調べに合せて体を動かします。調べに次いで歌詞が付いて来ます。
「君が代」は元来古謡の歌詞があって口ずさむうちに調べが付いてくるのです。日本の音楽と西洋の音楽は長調短調の違いの他に歌詞と調べ優先度の違いもあるのです。千年もの間短調で言葉優先で育った日本人にとって音楽が定着するには時間が罹るのです。外来文化を吸収するのは才能のある日本人ですが音楽と云った分野で日本人らしさを発揮するのはまだ時期尚早だったのでした。
ところが明治27年には日清戦争にその10年後には日露戦争が勃発して軍国主義の風潮は国歌問題を吹き飛ばしてしまいます。
支那事変に始まる第二次世界大戦では「君が代」が歌われ私の敬愛する大伴旅人の和歌を素材にした「海ゆかば」を歌いながらの学徒出陣」が始まったのでした。

明治26年文部省令による「君が代」は学校儀式で生徒が歌うモノとして決まった事国歌は別にする判断は妥当でした。
過ちは平成11年8月13日に施行された「国旗及びび国歌に関する法律」でした。
明治26年に省令であった過渡的措置を国歌にまで格上げしてしまった事実です。
明治26年の「君が代」ですから君とは明治天皇である事は先ず自然な解釈です。昭和憲法は「国民主権」ですから真逆の解釈です。これを君とは天皇の事も意味するが素材の「古謡」での君とは愛する人の事で「君が代」とは「皆の代」の意味だと解釈させるのは強弁です。まして各国の国歌は皆好戦的な歌で「敵を倒せ。敵兵を殺せ」と云ったコンバットマーチであり日本の国歌だけが美しい国土を歌っていると自己評価することは間違いではないのですが。ならばさだまさしさんの「防人の歌」が最適です。
イメージ 3
今年は栄六輔さんも逝かれました。栄さんなら国民全員が歓迎するような国歌の歌詞を創作してくれたことでしょう。文部官僚の事なかれ主義怠慢が国家作成の宿題を置き去りにして歌いたくない国歌を歌わされる苦痛に陥らせています。
今年は栄六輔さんが亡くなりました。栄さんなら最高の国歌の歌詞を作ってくれたことでしょう。
現代の若い世代は才能も豊かです。若い世代に呼びかけて国歌の歌詞を作って貰い曲も公募して国歌を国民運動の様にして作っては如何でしょうか?
オリンピックの表彰台で皆が大声で歌いたくなるような国歌が欲しいモノです。
そうなれば彼岸の小泉先生も喜ばれ、昭和天皇も重荷が外されることでしょう。




ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



右翼のポピュリズム

$
0
0
いよいよ2017年鶏歳の始まりです陰暦カレンダーで観ると1日元旦は庚午(こうご/かのえうま)です。陰陽五行説では庚は金の陽ですから家でテレビを観ていないでお出かけする方が良いようです。それに酉年ですから熊手を求めに大鳥神社に初詣したらいいのかもしれません。大鳥と云えば白鳥か鷹だと思うのですが縁起物店では鶏ばかりがもてはやされています。昨年は鳥インフルエンザウィールス騒ぎで沢山の鶏が処分されてしまいました。鶏さんにすればウィールスと戦わずして土に埋められてしまったのですからさぞかし無念なことだったでしょう。最悪でも人間の胃袋に収まりたかったと想像します。
イメージ 1

昨年最後の日文研セミナーは12月17日に開催され現役学生М君が「江戸の思想史と象徴天皇」と題してレポートしました。偶々今上天皇お気持ちのビデオ表明があって天皇の生前退位のご期待に如何に応えるか議論沸騰している最中でしたし。英国のEU脱退と米国で次期大統領にトランプが決まり。選挙期間中の独善的発言から世界中の右傾化(ポピュリズム」が懸念されていましたので。様々な意見が交錯して楽しいセミナーでした。終了後も日本の右傾化が気になってズット愛国心とポピュリズムを考えてきました。
先ずМ君のレポートの概要をお伝えします。此処は私のゼミでのテーマでもありました。
1、後水尾天皇時代(朝廷と幕府の緊張)幕府による朝廷統制体制の開始紫衣事件により天皇はは廃位され上皇に最後の女帝「後桜町天皇」の即位。
イメージ 2
これは修学院離宮です。後水尾天皇が造営した離宮として著名ですが実質のスポンサーは和子皇后の父徳川秀忠であったと思われます。紫衣事件で実権が何もない事を思い知らされた天皇は伝統の美学の世界に耽溺したのでしょう。写真出典京都の観光サイトhttp://yakudatujyouhou.com/%E7%B4%85%E8%91%89/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AE%E7%B4%85%E8%91%89%E3%80%81%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E9%99%A2%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2-%E4%BF%AE%E5%AD%A6%E9%99%A2%E9%9B%A2%E5%AE%AE%E3%81%AE%E6%8A%BD%E9%81%B8%E3%83%BB%E8%B5%A4/
2、儒教的尊王主義の隆盛 幕府御用学問朱子学への疑問が水戸学で発生 儒教は「皇帝は絶対の正義」を果たし臣民は絶対の忠義」が求められる。この関係に破綻をきたした時に革命や禅譲に依り皇帝の交代が行われます。皇帝が正義を失したら臣民は武力を以って皇帝を排する事が出来るとしていました。水戸光圀は徳川御三家のトップですから基本的には朱子学ですが日本の歴史を調べる中で日本には万世一系の天皇(皇帝に相当する)が存続して天皇を臣民が排した事実が無い事は「天皇を中心とした国家の仕組みが中国より優れている証であるとした。水戸学では「徳川幕府が皇帝であった天皇を覇者として排したらのであったのなら問題であった」とする儒教的な尊王主義に発展して幕末に桜田門の変を実施して井伊直助とテロしたのでした。吉田松陰も儒教的尊王主義者でした。
3、国学的日本主義本居宣長や平田篤胤は古事記や日本書紀の研究から尊王思想を深めて行きます。
中国の王朝の交代劇が武力に依り大量の人民の犠牲の上に成し遂げられてきた事(易姓革命えきせいかくめい)に較べて日本の国が平和的に変遷してきた事実は「天皇を中心とした日本国家の優越性」を示していて幕府を排して「天皇絶対国家」に復すべきと主張して行きます。
4、光格天皇(119代1771年明和8年 - 1840年天保11年 (1840年12月11日))の時代思想。
水戸儒学や国学の隆盛が明治維新を動かす思想に発展したのでしたが、光格天皇は朝廷の独自性を主張し古制の復活に努めました。結果老中松平定信とは激しく対立したモノノ徳川斉彬など幕閣にも新派を増やし。維新倒幕の素地を作ったと評されます。
М君のレポートは此処までで”江戸時代の象徴天皇は宗教的文化的な国民統合の役割を果たした事を評価したい”と結論付けました。問題はこの後に在ったのであって。松陰の弟子たち(儒教的尊王主義者)や国学者が維新政府の骨格に位置し「プロイセンを手本に明治憲法や皇室典範を決めたのでした。神話でしかない古事記や日本書紀を根拠に万世一系を尊び、女帝を排し、神風思想を蔓延させ、行き過ぎた愛国主義が日本国を戦争に導いたのでした。昨日書いたように「君が代」を学校で歌わせ教育勅語を暗誦させたのでした

次はネブタを世界文化遺産に

$
0
0
穏やかなお天気に恵まれて良いお正月を迎えました。戴いた年賀状を観るとご同輩がお孫さんに囲まれて、いい年を重ねていることが解って楽しいモノでした。
テレビでお正月恒例の初詣を観ていて気付いたことがありました。
それは東西の人気と参詣客の人数です。先ずは人気ランキングです。これは関西の有名神社が圧倒しています。順位を示すと第一位が伏見稲荷で以下次の順位です。
2位/平安神宮 3位/住吉大社4位/明治神宮 5位/目黒不動尊6位/今宮戎https://sp.jorudan.co.jp/newyear/rank.htmlと上位は関西の有名寺社が並んでいます。神田明神や増上寺成田不動尊や川崎大師は何れも10位以下です。
一方参詣客で観ると関東の有名寺社が独占してしまいます。1位が明治神宮(317万人)以下2位は成田山(309)3位川崎大師(307)4位浅草寺(291)5位鶴岡八幡宮(250)で関西では漸く6位に住吉大社(239)が入って来ます。
多分伏見稲荷を初詣したくても狭い上に大混雑で出かけられないのでしょう。
明治神宮は境内も広いし、初詣後の楽しみは多いし。交通の便も良いので実績では伏見稲荷を凌駕するのは自然なことです。
処で昨年はユネスコの文化遺産に33もの「山・鉾・屋台行事」が指定されました。

その中核は云うまでも無く京都八坂神社の祇園山笠で。ユネスコの委員も祇園祭の盛り上がりと、山車や屋台を大路を引き回す光景を観て感動された事でしょう。特に山鉾の垂れ幕に13世紀に織られた「ムガル絨毯」が今なお使われている事実に感服されたでしょう。一昨年の明治の近代化遺産の時には韓国や中国から異論も挟まれましたが今回は世界中が納得の指定でありました。
これはユネスコの委員の過半を占めるヨーロッパ委員にとって解りやすかった事もあるのでしょう。
ヨーロッパの中世にはハンブルクやベニスのような商業資本の蓄積によって栄えた自治都市がありました。そんな自治都市が日本の古代末期から中世に掛けても存在して、自治の団結の中核に八坂神社があって、商業の神様であった。その神様が自治都市の隅々まで巡回するのが「山・鉾・屋台行事」であった。説明が理解しやすかったのでしょう。
私も銀行員時代このお祭りを大阪で京都で博多で満喫しました。
博多(日田や長崎や唐津も含めて)も高山も博多も祇園山笠行事が地方に伝播したものでした。
一番記憶の残っているのは長崎と唐津の山笠行事で中核になる神社こそ八坂神社では無く諏訪神社ですが、氏子の熱意は山笠を曳く行事に現われていました。
長銀博多支店は唐津から勤務する女子行員もいましたので「おくんち」と呼ばれるお祭りの当日にはご自宅に招待されました。「おくんち」なんて変な名前だな思って聴くと次のような説明でした。
おくんちは秋祭の総称で、重陽(ちょうよう)の節供(9月9日)に実施されるので9日に接頭語の「お」をつけたのですよ。おくんちは長崎も唐津も秋祭りの意味ですよ。
イメージ 1
これは唐津くんちの山鉾です。出典唐津観光協会のHPhttp://www.sibf.jp/karatsu-kunchi/
「日頃は娘がお世話になっています。今日はゆっくりお祭りを楽しんで下さい」そんなお呼ばれでした。、理解が月鉾のムガル絨毯、山車を持った幸せを満喫

隼人瓜の蔓もたれ

$
0
0
昨年末にネットで隼人瓜を二つ(白と緑)を求めて窓辺に鉢植しておきました。
私の好物は奈良漬けにザーサイです。隼人瓜の食感は歯当りはザーサイで。漬物の味は奈良漬けに近いのです。両者の良いとこどりを期待して庭で隼人瓜を栽培して麹づけならぬ味噌漬けにしたら、”さぞかし美味しかろう”と云うのが私の妄想です。
イメージ 1
此方が現在鉢植育成中の隼人瓜です右が緑で左が白です、一般に瓜は果肉が厚くて中に小さな種が沢山あるのですが隼人瓜は果肉1個から写真の様に芽吹きます。
イメージ 2
今年は穏やかな正月で昨年春の定期検診で乳癌の懸念を指摘されたワンちゃんも今年はいい歳だ思っているようです。庭木を伐採したので冬は良いのですが夏はワンちゃんも苦痛です。その時には、隼人瓜が守ってくれます。
隼人と云う名からして原産地は薩摩なのでしょう。薩摩には鹿屋体育大学があってオリンピックになると壮行会やお祝会が開催されてマスコミの脚光を浴びます。昔は自衛隊体育学校が活躍していたのですが最近は鹿屋体育学校や仙台の東北福祉大学等が全国から将来性の高い高校生を集めて実績をあげているようです。
私は隼人と云えば「隼人の乱」を想い出します。古代大伴旅人は隼人を治める任務を帯びてこの地に赴任したのでしょう。でも薩摩の民は走るのが早くてまるで隼(ハヤブサ)のように逞しかったのでしょう。旅人の任務遂行は困難でした、一方陸奥に赴任した坂上田村麿は蝦夷地の平定に成功します。熊を服従させるのは隼を従属させるより容易だったのでしょう。サントリーの佐治社長は首都移転問題の時(東北は熊襲の産地」と発言して引退しましたし、昨年は北方担当相だった島尻 安伊子さんが答弁用原稿「歯舞」の字を読めなくて、大臣ポストをフイにしました。
イメージ 3
居間の空間は既にパッションフルーツが占拠していますこの上隼人瓜が参入したら大変です。室内ではパッションフルーツは蕾こそ持ちますが結実しません。此処まで大きく奈rと地植えするのは断念しています。
私の住む戸塚にも自然は戻ってきて境川の上を渡る水道橋には毎年隼の重源坊が営巣します。田圃に蓮華草が咲く頃です。このブログでも何回も記事にしてきました。小型の隼の重源坊が東大寺を再建した重源上人に関係するのか?私は知りません。何時か東大寺に登ったらお坊さんに訊いてみる事にしましょう。
処で我が家の窓辺で順調に育っている隼人瓜は順調に背丈を伸ばしています。ワイフはこのまま室内で育てては人間が身動き出来なくなると心配です。我家には既にパッションフルーツが空間を占領しています。この上隼人瓜が2本も伸びてはワイフも懸念も最もです。でも南国生まれの隼人瓜です3月一杯は室内で育て最低気温が15度を下回らくなったら地植えする計画です。それまでは竹の棒を支柱にしてあげましょう。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



戦後世代の染井吉野悲哀

$
0
0
1月3日、弘明寺に初詣しました。その後は地下鉄とバスを乗り継いて三溪園に廻りました美食もしたし、「和妻」と呼ばれる日本古来の手品も視たし、いい気分で帰路につきました。ところが三溪園の進入路にある「桜道」バス停で驚きの光景を観て浮かれた気分が吹っ飛んでしまいました。何と街路樹の桜の大木が4本も立て続けに伐採されていたのです。多分本牧の桜は戦後に植えられたものでしょう。
と云うのは横浜の空襲は惨劇を極めたのでした。横浜港には三菱重工の造船所があったし富塚には日本航空機の工場がありましたから空襲の標的にされたのでした。たいした工場も無い戸塚でさえ日本工学など軍需関連工場があったので空襲されたと聞いています。私の小学校の入学式での校長先生の話は覚えていませんが、唯一次の言葉は覚えています『堤防の桜の木を大事にしましょう。桜の実を獲るために枝を折ったりしてはいけません』
今最も妖艶に咲き誇っている染井吉野は大概が戦後直ぐに植え替えられたものです。
横浜で水洗できる桜と云えば第一に山手公園の桜で第二が三溪園の桜道や本牧通りの桜です。どちらも70歳に届きそうな樹齢です。その桜が根元から40センチほどの処で伐られてしまっているのです。チェーンソーで伐られた跡は生々しく夥しい大鋸屑(おがくず)が飛び散っていました。
何故伐られたのか?「切り傷」を観れば大凡見当が着きました。木の髄が空洞になっているのです。髄が腐ったり洞になっていては大風が吹いたら倒れて家屋や通行車両に被害を及ぼすかもしれません。そこで叩いて反響を確認したりエコーを撮って髄の弱っている老樹をきりたおしたのでしょう。若しかしたら切り倒された5本に限って悪い病気が発症したのかも知れません。

塩の道ブリの道

$
0
0
1月4日は”「祝膳」を用意するから来ませんか!デーサービスから誘われました。「祝膳」に誘いに弱いのが私の特長です。快く出かけました。私は我が家でおせち料理はたらふく食べましたが。デーサービスにはおせちの味に渇望している利用者も居ますので。そう云った人には祝膳は期待のお食事です。お赤飯に煮しめ等「おせち」の数々が出されました。お雑煮は餅が喉に閊えると大変なので水団(スイトン」です。でも充分にお雑煮を食べた気分になります。そしてメインの惣菜は「ブリの照り焼き」でした。脂の乗った美味しい照り焼きでした。
イメージ 1
1月4日にデーサービスのミーティングボードこのボードに書いてあることを中心に話題を追いかけます。総じておせち料理の事です。年寄りは総じて食い気が強いのです。
イメージ 2
これが祝膳でした。お吸い物が水団の雑煮風であるほか。右わきに煮しめが赤飯の左には昆布巻きにきんとんそして鰤の照り焼きがメインの惣菜でした。美味しく戴きましたし。心を込めて作ってくれたのがしみじみと解る祝膳でした。
私は祝魚の代表鰤を食べながら「ブリの道」を想っていました。
去年は親友のМ君らと「塩の道」(別名塩鰤の道)を石仏行脚しようと話していたのでしたが近江の観音に魅せられて翌年(すなわち今年)送りにしてしまったのでした。そうこうして居たら年末に大風が吹いて糸魚川の旧市街地が大火で焼けてしまいました。糸魚川市は塩の道の日本海側の出発点で終点が松本市になります。北アルプスの穂高や白馬の名峰の麓を地溝帯に沿って進む古道です。
イメージ 5
昨年末塩の道の始点である糸魚川市は大火に見舞われました写真BS1のニュース
勿論石仏や石神の多く残っている美しい街道です。親友らと石仏行脚は随分したのでしたが塩の道だけ(特に安曇野から糸魚川間)は未だ出かけていなかったのです。
【出世魚鰤】
鰤は関西では最高の出世魚です鰤の手前のサイズが「ハマチ」でその前が「イナダ」です。15センチ以下では「ツバス」ですから最高に出世した状態が鰤なのです。
イメージ 3
これは顔馴染みの魚屋で売られていた鰤です。12.7キロと箱に大書して在って魚屋は自慢気です。普通3尺10キロ以上を鰤と呼びますからこれは脂も乗っていそうで最高級の鰤です。
関東では塩鮭をご馳走にしていました。お歳暮で荒巻が届けられると昼の弁当も夕飯もメインは塩鮭の切り身でした。塩鮭の頭が大根と一緒に煮られて食卓に出れば荒巻を食べきった明日からは別のモノが食べられる安堵したモノでした。糸魚川に上がった塩鮭はそうして関東地方の食卓を賑わせました、一方関西地方は鰤食文化圏で糸魚川に上がった鰤は塩を振られて大阪に京都の市場に廻りました。ハレの日には関東や信州では塩鮭を関西では塩鰤を食べるモノです。ですからお正月に鰤照り焼きを出すのは的を得ています。
鰤は暖流に乗って対馬海流と共に夏場は秋田沖に上ります。そこで丸々と太って脂ものります。で、冬の季節風が強くなると次第に富山湾沖に戻ります、大風が吹いて雷が鳴って所謂「鰤起し」の嵐が来るころには富山湾氷見に鰤は水揚げされます。そして塩を振られるとところで蛋白質や脂肪分が酸化し難くなって何時までも美味しく食べられるのです。加えて塩が魚臭さ(トリメチルアミン)を吸収してしまうので美味しさが増すのです。
氷見で水揚げされた鰤は糸魚川で塩鰤に加工されて松本に運ばれ野麦峠を越えて飛騨にも運ばれました。飛騨高山や古川の山車祭り(昨年ユネスコの無形文化財の指定を受けました)のハレの膳には塩鰤が出されます。
イメージ 4
これはトト屋の塩鰤写真出典同社HPhttp://www.totoya.co.jp/buritumeawase.html人気商品です。
塩鮭や塩鰤が運ばれたのは江戸時代北前船が盛んになってからでした。戦国時代には信玄と謙信が争った越後と信濃です。古代から中世戦国時代まではこの道はその名の通りの「塩の道」でした。民俗学者の宮本常一氏は「製塩」に必要な大釜を貸し与えていた人が居た事を調べられました。
安寿と厨子王の安寿姫はこの辺りで人買いに掴まって山椒太夫に売られてしまいます。山椒太夫は安寿姫に潮汲みをさせ、厨子王丸は柴刈に山に行かせます。山椒太夫は屹度製塩業者だったのでしょう。大釜で塩を煮詰めていたモノと思います。そんな歴史があって謙信は自分の領地で出来た塩を信玄に送ったのでしょう。
私達が美味しく塩鰤や塩鮭を食べれるのも様々な歴史が入り組んでいるのです。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


弘明寺通りの賑い

$
0
0
ワイフと協議の結果今年の初詣は3日に弘明寺さんを詣でることにしました。弘明寺は横浜で最古の古刹ですし鉈彫りの美しい観音様がご本尊ですから。江戸っ子の浅草寺のような位置に浜っ子の弘明寺があるのです。
イメージ 1
これが弘明寺の本尊の11面観音です。以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/36685268.html
それに寿司屋や洋食屋が凌ぎを競っていますから。初詣を終えてランチを食べるには最高です。箱根駅伝がスタートして7区小田原平塚)で突然に青山学院にブレーキが懸って勝負の面白さが増した処で地下鉄に乗って弘明寺に向かいました。地下鉄の乗って驚きました車内の広告が総て「伊勢山皇大神宮」なのです。
イメージ 2
私が乗った市営地下鉄は車内広告が総て「伊勢山皇大神宮に初詣」でありました。流石に驚いて見上げる人が多く居ました。
初詣は「伊勢山皇大神宮へ桜木町駅から紅葉坂を徒歩5分です」此処までは自然です。でも次のコピーが少し疑問です「横浜の総鎮守は伊勢山皇大神宮です)。
相模の国の総鎮守は寒川神社です。天智天皇の延喜式(668年)では相模の国は寒川神社を一宮と記しました。伊勢山皇大神宮を横浜の総鎮守に定めたのは明治政府と神奈川県でしたが(1870年明治3年)でしたが昭和憲法公布と共にこの表現は許されません。浜っ子にとって横浜総鎮守と云えば伊勢山皇大神宮と思い当たる人は先ずいないでしょう。大半の人がアレコレ思い悩んだ挙句に神奈川の「浦島神社」と云うかも知れません。(本牧神社と云う人もいるでしょうが)。
加えて伊勢山皇大神宮さんはバブルの時代に結婚式場併設のホテルを建設して、平成15年(2003年)破産して横浜市民に迷惑をかけており現在は再建計画中なのです。破産管財人は誰だか知りませんが思い切った高校戦略を立てたモノです。
イメージ 3
地下鉄の階段を登れば弘明寺観音の観音通りです。晴れ着姿も皆無の寂しさです。
地下鉄を降りて階段を上ります。市営地下鉄が開通した頃はバリアフリーは徹底していなかったでしょう。地下鉄の階段を登り切れば弘明寺への参道でアーケードです。初詣の楽しみは綺麗な晴れ着のお嬢さんです。でも弘明寺は石段も高いし晴れ着姿は一人として観られませんでした。僅かに観れたと思えば不二家のペコちゃんだけです。
イメージ 4
観音通りの不二家の店先のペコちゃんは晴れ着姿でした。髪飾りがお似合いです。若しかしたら今年は黒が流行するのでしょうか?
ワイフは流石に「あの呉服屋さんは頑張ってますよ。」とか「此処は昔は何のお店だったでしたかしら?」呟きながら昭和の香りが残る商店街を楽しんでいます。
シャッターを閉めきったお店の前に「金魚すくい」ならぬ「メダカすくい」が出ていました。金魚ならまだしもメダカ等すくえるのは神業です。それに1000円/1回と表示しています。大船フラワーセンターの熱帯植物園のプールならグッピーが繁殖していますのであそこでグッピーすくいをするのなら面白そうですがこれでは鷺(詐欺師)に餌を与えるようなものです。でも隣の桶では300円/1回の案内が出ていますから1000円の方は桜のようなモノで本命は300円なのでしょう。
イメージ 5
これが路上でのメダカすくい1000円はエンゼルフィッシュ波の価格設定です。
「メダカすくい」には白けた気分になりましたが並びは和菓子屋さんの「うさぎや」さんです。お嬢さんが二人路上に出て甘酒とお汁粉を商っています。風通しが良いので冷えます。私は甘酒に吸い寄せられました。商いが上手で甘酒の隣にはいちご大福が並んでいます。傍に縁台でもあればいちご大福も食べたいのですが店内にも縁台など無いようです。仕方なく甘酒を飲みながら弘明寺の山門まで歩きました。
イメージ 6
うさぎ屋さんの店前から弘明寺を見上げる。
イメージ 7
うさぎ屋さんの前の路上では甘酒とお汁粉を商っていました。どちらも150円/1杯でした。
イメージ 8
甘酒のお隣のいちご大福(170円/1個」ですから2個パックで340円税込350円です

お相撲の礼

$
0
0
明日から大相撲も初場所です。大器と期待された遠藤も一皮剥けてきましたし。個性的な小兵力士も出現して愈々面白くなってきました。私のストレッチ体操もこれからは四股踏みになりそうです。四股ほど老人向け筋トレは無いでしょう。でも未だ蹲踞の姿勢までは無理な気配です初場所が千秋楽を迎える頃には蹲踞が出来る様にしたいものです。蹲踞とは屹度親友のT君は剣道をしていましたから詳しいと思いますがワイフに訊けば弓道でも「矢渡しの儀式」で使うそうです。武道の基本的な姿勢なのでしょう。爪先立ちで踵(かかと)の上に尻を載せて腰をおろし、膝を開いて上体を起こした状態を指します。(ウィキペディア)。「待てよ何処かで観た姿勢だな」思い返せば大名行列で行列を遣り過す時武士は蹲踞で庶民は腰を踵から落して(和風便所で屈む姿勢)で行列を眺めていました。「下エッ、下エッ」よ言われて土下座するのは水戸黄門の映画だけで庶民は見物を決め込んでいたようです。武士同士なので礼を示す蹲踞の姿勢だったのでしょう。蹲踞してお互いに掌を見せ合うのは「武器は持っていません、反則技はしません」表現しているのでしょう。
お相撲の礼で感心する事があります。それは3場所前豪栄道が白鵬を押し出した一番でした。豪栄道はその場所も負け越したのですがその11日目。ようやく白鳳に勝ったのでカド番を脱する可能性が出た一番でした。
最強の横綱に漸く勝ったのでしたから”ガッツポーズ”でも出そうな場面でしたが、悦びは笑顔だけでジット堪えていました。この時に私は豪栄道のファンになりました。名古屋場所ではカド番どころか全勝で優勝してしまいました。優勝を決めても全勝しても豪栄道はガッツポーズはしないで悦びは内に秘めていました。
豪栄道は「礼」の精神をわきまえていて心技体の心は既に横綱の域に達していることを示していました。
武道は何れも「礼に始まり礼に終わる」と云われます。
お相撲に礼を欠いたら面白味は半減してしまうでしょう。身体の大きな力士が小さな力士に勝つ可能性は高いに決まっています。相撲が柔道やレスリングのように体重別になったら面白味が無くなります。背の高いチームが低いチームに勝つのは自然です。バスケやバレーボールが面白くないのは身体の優劣が勝敗に直結しているからです。でも日本のお相撲だけは無差別級だけで、勝敗は体の優劣と無関係なのです。無差別級だけだから小兵の舞の海が子錦や曙に勝つ場面を観られたのです。でも舞の海がその都度嬉しさをガッツポーズで表現して居たらファンの罵声を浴びたでしょう。私達は相撲を国技であると確信しているのは無差別級だけで礼を重んじているからです。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


と子

座姿勢矯正作戦実践

$
0
0
私は脳梗塞発症以来、左半身の麻痺症状に困っています。最近は随分治ってきた自覚がありますが、左肩が凝り易くなっていること歩き疲れが早い事が不満です。それにシャツの釦(ボタン)を間違ってかけてしまいいます。
ぎこちない手先で釦掛を終えた時に左右がズレていた事に気付くのです。更に食後のヒャックリも困りものです。
これらの症状が左半身の麻痺による姿勢の悪さが原因だろうと思いつきました。麻痺によって左肩が脱臼しやすい事椅子に座った姿勢が悪いので胃袋の左半分が圧迫されているのでヒャックリが出易い、立ち姿が左に傾いているので歩き疲れが出易いと判断しました。
契機は読書です。
民俗学者であり宇佐八幡宮の禰宜でもある神崎宜武氏の神道儀礼の本を読んでいたら、禰宜の持っている笏(しゃく)は古代の正装であると同時に姿勢を正す道具であると書いておいででした。常態では笏は身体に平行に右手で持ち。伏するや起きる時には笏に身体を添う姿勢をとれば良い姿勢に整うのだそうです。拝する時は先ず笏を目線まで持ち上げて、拝揖(はいゆう浅い立礼)の時は両手で笏を腹の位置まで持ってきて腹部に当てれば美しい拝揖が出来る。
イメージ 1
この1,3のお辞儀をしているのが拝揖です。拝揖にも小揖(15度くらい腰を折ると深揖(90度腰を折る)をしっかり使い分けないと美しくありません。出典は出雲大社http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%8B%9D%E6%8F%96&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
拝揖こそ大事な姿勢で深揖や小揖も。座の起着も階段の昇降も神饌の拝受も一連の動作で腰を折る機会は多く上手に笏を扱う事が肝要だと説いておいででした。私達は笏を持つ事はありませんが玉串奉奠の機会は多々あります。目線の位置や玉串を奉げ持つ仕草は神主さんの笏だと思えば美しく済ませられるでしょう。
私は自分の鎮守の神主を観察してきて笏とは備忘を留めて置く道具(例えば式次第や施主の名)とばかり思っていたのですが。正しい姿勢美しい動作をする小道具と理解できました。聖徳太子も菅原道真も笏を持たなければ様になりません。
イメージ 2
聖徳太子も笏を持たないと様になりません。定家卿も頼朝も正装は笏を持っている姿が描かれています。

そこで正しい姿勢を保つ工夫を考えました。私は椅子に腰かける姿勢が多いのです。
中学に入学した時に「椅子に腰かける姿勢」を教わった記憶があります。
「背筋をピン腰を椅子の奥まで引く」事でした。
「そして両手は自然に机の前に置く。」
イメージ 3
正しい椅子に坐る姿勢出典日経ヂュアルhttp://dual.nikkei.co.jp/article.aspx?id=7817
其処で椅子に座るときは左手を机の上に置いておくことにしました。右手はキーボードを叩くか。ペンを握っているかお箸を持っているのですから、左手は常に何かを握っていることが好ましいと思いつきました。其処でデスクでは梟人形を食卓では古い貯金箱を探し出しました。どちらも握り放すを繰り返します。繰り返している中に、ゴルフを始めてグリップを強くする為何時も胡桃の実を握っ居た事を想い出しました。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

3代目たいめいけんの覚悟

$
0
0
1月14日は前々から上野の科学館に「ラスコー展」を観に行く事に決めていました。天気予報を観れば15日以降は南岸低気圧が通過するので14日に見学する他ありません。朝10時にはJRに乗ってお出かけです。電車は何と「古川」行です。このまま乗っていれば佐野薬師にも大谷観音にも初詣出来ます。JRも民営化によって随分便利になったものです。でも上野駅で降りました。
何時もは上野に出かけると広小路近辺でランチするのですがこの日は駅中の施設(エキュート)にたいめいけんhttps://www.taimeiken.co.jp/が出来た事を知っていましたので先ずは其処で腹ごしらえする事にしました。「たいめいけん」と云えば日本橋の高島屋と同白木屋の裏にある洋食屋で、サラリーマン時代も良く出かけました。私はタイメイとは銀座の「泰明小学校」の字で「泰明軒」と書くのだろう、想っていたら違って平仮名なのでした。こんなことはサラリーマン時代は気付かなかったモノです。「泰明軒」では中華料理のようです、「日本の洋食屋だと主張する為には平仮名が最適なのでしょう。でも上野駅中の「たいめいけん」日本橋たいめいけんと違ってわざわざ「さんだいめたいめいけん」と主張しています。
「昭和6年創業の本家たいめいけんとは自分等は違うのだ」と云う覚悟が響いて来るようです。
三代目と云えば半世紀60年に及びます昨今は創業家の仕事を継ぐことさえ稀になりました。まして3代目まで継ぐことは稀有です。信託銀行のCМもこのことを踏まえて「相続争族にしないために・・・・・」なんて生臭いコピーを使ったりしています三代目がしっかりしていれば暖簾は堅固になるようです。分かれ目が3代目なのでしょう。江戸幕府の家光足利幕府の義満共に歴史に残りましたでも鎌倉幕府は実朝で実権は母方に奪われてします。争族の暁に3代目は甥に暗殺されてしまったのです。
【船場吉兆事件】
私の知っている3代目の失敗では中では大阪船場の吉兆(俗称ビル吉兆)があります。私が御堂筋にあった長銀大阪に勤務している時代は吉兆本店が高麗橋にあって、御堂筋近くには船場のビルが2店ありました。昔ながらのお店が高麗橋吉兆で新しくビル吉兆が出来たのでした。銀行では改まった席(所謂ハレの席)は本家吉兆を使い、既に馴染みの客や部長同士の席なら「ビル吉兆」と使い分けしていました。当時既にバブルの予兆も見えていたのでビル吉兆の女将も脇が甘くなっていたのでしょう。
吉兆自体の創業は文化功労賞も受賞した湯木 貞一氏でしたが。同氏が神戸から大阪に進出して大成功をします。切っ掛けは茶道を志し小林一三安永安左衛門畠山一清等の知己に恵まれたのでした。
瞬く間に吉兆は大阪一の料亭に上りつめます。
湯木 貞一氏の長男は 「 湯木敏夫氏」で京都店(嵐山)を任せます。
大阪は高麗橋店を長女の湯木照子に任せ、三女の 湯木佐知子に船場の二店を任せます。佐知子には二人の息子が居ました。長男が湯木喜久郎で板場を仕切っていました次男は湯木尚治で営業を分担していました。船場吉兆の事業は傍目にも順調でした。老舗の看板を駆使して有名デパートの総菜売り場に出店し事業は拡大基調に乗っていました。また松花堂弁当を開発して評判も得ていました。
好事魔多しとはこうした好調時に起きるのでしょう。顧客が箸をつけなかった天麩羅を二度揚げしたりして使い回したようでした。これがパートの仲居さんからリークされたのでしょう。マスコミの標的にされました。またマスコミ対応も下手で、板場の責任者湯木喜久郎の面前に沢山のマイクが並んで記者の辛辣な質問に答えようとしました。湯木喜久郎は返答の言葉を失ってしまいます。すると隣席の湯木佐知子ママが耳打ちします。ママの耳打ちを高感度マイクが拾ってしまいました。マスコミにとっては格好の面白劇場になってしまったのでした。食べ残しの使い回しは続いてデパート販売惣菜の産地偽装に飛火しました。天神岩田屋で売られていた辛子明太子や阪急等の百貨店で売られていた三田牛も産地偽装されているとリークされました真相は判りませんが・・・・。
劃して湯木 貞一氏が築いた名声も暖簾も瞬時に瓦解してしまいました。保健所に営業停止を届けたのは船場吉兆だけでしたし、会社更生法に基づく更生計画を提出したのは同店だけでした。高麗橋本店も京都吉兆も原点に戻って営業し暖簾を守っているのです。船場吉兆だけが火傷をして湯木貞一氏が創業した吉兆は存続しています。吉兆事件は我国の飲食業に多くの教訓を残して居るのです。
イメージ 1
これは西の宮神社の福笹です。吉兆さんは10日戎になるとお得意さんにこの福笹を届けていました。お客さんに吉兆を届けるの意でした。写真出典西宮神社http://nishinomiya-ebisu.com/arrange/big/188a.jpg大阪には末社の今宮戎があり。福笹を持った人が街中で見かけます。

三女の湯木佐知子氏でした。板場は佐知子氏の長男湯木俊治氏で次男湯木義夫氏は主として営業をしていました。お客の食べ残しをたらいまわしている件がリークされると板場の責任者長男湯木俊治氏がマスコミの取材攻勢を受けました。俊治氏の目の前に膨大な数のマイクが並べられ激しく叩かれます。俊治氏は返答に窮してしまうと隣席のママ佐知子さんが小声で囁きます。『こうお答えしなさい』そんな囁きを高感度マイクが拾ってしまったのでした。日本一の高級料亭の一瞬の中の凋落は「吉兆劇場」でした。ビル吉兆自体の業績は使い回しをしなければならないほど窮していた筈はありません。デパート販売も含めて順調だったのでしたが。万事順調な状況が脇の甘さを産み創業の精神を忘れさせたのでしょう。3代目の精神の荒廃が創業者の気付いた名声と暖簾を瞬時に壊滅させてしまったのでした。

驚きのラスコー展

$
0
0
高校の世界史の教科書は「山川出版社版」を使っていました。その冒頭のカラーページに「ラスコー洞窟壁画」が載っていました。「同じ旧石器時代でも西洋のそれは凄いなあ」私の印象でした。日本の旧石器時代と云えば黒曜石を割って作ったヤジリやナイフ状の鋭利な石器くらいしか残っていません。石器で作った粗末な武器を持って集団でマンモスや大角鹿や熊を狩猟したのでしょうから。無事に猟が出来る様に祈ったに違いありません。でも日本では石器や食べ残しの骨しか発掘出来ません。西洋では動物画が残っているその違いに「何故?」思ったものでした。でしたからラスコーには一種の憧れがありまあした。実物では無くても概要が展示される訊いて前々から行きたいと思っていました会場は上野の科学館。何時もその前を素通りしながら子供が多い事巨大な鯨がお立っているのを観ていました。工事も終わったようなのでいい機会と思ってワイフとお出かけして先ず「たいめいけん」で腹ごしらえをした次第です。今日はラスコー展の見学記を書きます。
イメージ 1
これは山川出版の日本史総合図録(8版)私の高校時代は旧石器時代(打製石器)と新石器時代(磨製石器)と分けていましたが最近は分けないようです。氷河期が終わって針葉樹や落葉広葉樹が日本列島に生い茂って日本列島が大陸と離れた事と縄文時代の始まりが重なっていることが解ります。この図表にラスコーを載せると約4万年前マンモスと大角鹿のある辺りに位置します。

ラスコーの壁画はフランス西部ベゼール川南岸にある農村で1940年偶然に少年達が発見しました。鍾乳洞の洞窟に彩色された動物が500頭も描かれているのを発見した少年の興奮は如何許りだったでしょうか?その見事さに沢山の観光客が洞窟に押し寄せたそうです。日本では飛鳥に高松塚古墳を発掘して貴婦人群像を観た時の興奮や沢山の観光客が押し寄せた結果。壁画には黒黴が発生してしまいました。ラスコーの場合は見物客が吐く息(二酸化炭素)が石灰岩に悪さをして。壁画の傷みが進行しました。そこで洞窟は閉鎖して壁画を複製して展示し観光客の受け入れを始めたのでした。流石に観光立国のフランスです。世界各地に貸し出し用の複製を用意し、日本にも上野を皮切りに全国を行脚するようです。
イメージ 2
これが確立科学博物館で展示中のラスコー展のポスターです。
日本では何処の博物館でも、残念なことにカメラ撮影は禁止されています。ところがラスコー展ではパネルや再現蝋人形、複製画等は撮影を許されています。先ずどんな展示なのか観て戴きましょう。
イメージ 3
これがラスコーの壁画が見つかったベゼール川の河岸段丘です。白いのは石灰石だからでしょう。石灰石の表面は画布のようでも真っ暗な洞窟内で描いたのは何故?思いました
展示室のエントランスには何時頃(3万年前氷河期が開けたころ)何処で(フランス西部のベゼール川の河岸段丘に在る洞窟で)誰が(クロマニヨン人が)何をしたか(棲んでいて洞窟の壁面に夥しい壁画を描いていた)案内しています。そして第1室には洞窟の1/10の模型が展示されていました。第2室以降に素晴らしい壁画の複製画が展示されているのです。私は仏像を拝観する時と同じように何の為にクロマニヨン人は白い洞窟の壁面に動物を描いたのだろうか?ズット考えていました。良く似ているモノは日本に無かっただろうか?頭の中に在る引き出しを色々と開けて探しました。その成果はこのブログの最後に書かせていただきます。
イメージ 4
ホモサピエンスの世界に展開してゆくプロセスを説明したパネルです。アフリカで誕生した人類は4.9万年前中近東に進出し、氷河期の終わりと共にヨーロパ大陸に渡り、日本には北海道ルート対馬ルート、海上の道ルート3方から渡来したと説明しています。
イメージ 5
これが再現クロマニヨン人の夫婦の蝋人形、洞窟は住居であると同時にお墓でもあったようです、洞窟墳墓と云うと古事記のイザナミを想い出しますが日本では遺体の腐敗臭でいたたまれなくても此処はアルカリ質の石灰岩の中ですから。住居と墓が隣り合わせでも苦痛は無かったのでしょう。
イメージ 6
これがクロマニヨン人の頭蓋骨です。歯が溶けて無くなっていますので。老人で虫歯だったのでしょう。
イメージ 7
これはご婦人の遺体です。骸骨になっても美しい白い歯です。頭のナッツの実のようなものは装身具と説明していました。4.9万年前のご婦人もお洒落だったのですね。屹度良い女で和泉式部の様に人気者だったのでしょう。

前半の展示でラスコー壁画の予備知識が出来た処で、壁画の複製展示が始まります。展示は最新のテクノロジーを駆使していて最初は5秒ほど真っ暗で、その後青いLEDで壁画の輪郭線が表示されます。その後30秒近くの間ライトアップされます。洞窟で壁画を確認した時の感動を想わせる仕掛けです。
イメージ 8
これは2頭のバッファローがクロスする絵洞窟の最深部だそうで、左右のバッファローが遠近法で描かれている事もあって弩迫力の効果です。クロマニヨン人は遠近法を熟知していたのです。
イメージ 9
これは2つの洞窟の交わる処の天井に描かれた左がバッファローで右が大角鹿です。身廊とは教会の建築用語だそうです。左右の廊下を回って突き当りが祭壇で。研究者はこの洞窟がクロマニヨン人の祈りの聖地だと思ってこうした名をつけたのでしょう。
イメージ 10
右上に描かれているのは「鳥人間」と名付けられています。顔は鳥で身体が人間です。この図を観ると先のお墓の事を考え合わせると家族が亡くなると此処に埋められて霊が鳥になって大空を飛んで行くと信じられていたように思います。まるで古事記の日本武尊が白鳥になって飛んでいった様に。

ラスコーの壁画が素晴らしい事は良く解りました。私の頭にはその頃の日本列島は如何だったのか?疑問が湧きあがります。最後の部屋には「その頃の日本の石器時代」を説明していました。
ラスコーは石灰岩です、一方日本は酸性土壌ですから遺跡として残り難く腐ってしまいます。単純に比較こそできませんが大いに気になりました。でもこの土壌の違いがあったからこそ日本では土器が発達したのでしょう。
イメージ 11
その頃日本列島は?磨製石器と土器を案内していました。
【壁画は何の為に描かれたか?/私の意見】
先この件を考えるに際し気付いた事を書きあげます。
1、洞窟は住居であると同時に墓でもあった。
2、動物が何れも巨大で猛々しい動物が描かれている。小動物は描かれていない。
3、動物の狩猟は命がけであり、人間は一人では適わず。群れてし止めたと想われます。
4、動物が描かれた位置は洞窟の天井で其処には鳥人間も描かれている。

私達の文化ではアイヌの熊祭りやマタギの習俗が参考になりそうです。
アイヌの熊祭りはアイヌの言葉で「イヨマンテ」と記憶しています。イヨとは「霊」の事です。熊祭りは森の神使である熊に収穫を感謝し、翌年の豊穣を祈る神事と訊いた事がありました。
ラスコーの壁画は神の使いであるバッファローを洞窟の天上に描いて収穫に感謝して。今後の豊穣を祈る祭事に使用したと思うのが自然でしょう。霊魂は人間(祖先)も獣も違いは無く。祖先の霊が自分達を見守っていてくれると確信していたのでしょう。
イメージ 12
これは飯豊の熊祭り(出典飯豊町観光サイト)熊の毛皮を祀って山の神に感謝し翌年の豊穣を祈願する行事はクロマニヨン人の壁画が祭事に用いたと呪術を推測させます。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


寒川神社の白兎ネブタ

$
0
0
新聞に東京ドームでの「日本の祭り」が出ていました。「青森ネブタ」から「高知のよさこい祭り」まで東京ドームで観られるのです青森ネブタの写真を観ていたら、この正月は未だ寒川神社を詣でていないことに気付きました。寒川神社には、昨年は正月3日に詣でました。そのお蔭か良い歳でした。正月早々に孫のお食い初めも出来ました。”この調子で2017年も”想えば相模一宮寒川神社をないがしろに出来ません。青森ネブタにも曳かれて9日4時にワイフと一緒に出掛けました。ネブタは矢張り夜に観たいものです。駅には晴れ着姿のお嬢様が居ます。屹度新横浜の横浜アリーナで成人式を終え自宅に帰るのでしょう。
「和装で出かければ種々サービスを受けられtのが流行りです。和服は着つけるのにも費用が掛かります和服文化を伝承する為には成人祝いに手拭の一本、扇子1本も和服で参加した人にギフトしたら良かろう、思ったりします。
成人式と云うとお馬鹿20歳が暴れたりしてテレビ画面に突出していましたが、今年は福島や熊本の新成人が「地域の為」「社会の為に貢献したい」立派な姿が映し出されています。人間も国民も順境にあるとスポイルされて逆境に遭うとシッカリするようです。此処数年の私も当て嵌まるようです。茅ヶ崎に出て相模線に乗り換えて4つ目の駅が宮山駅で駅から徒歩5分500mで寒川神社です。昨年は社務所駐車場に設営された屋台街でアレコレ買って食べました。田楽も美味しいし、名物の八福餅は伊勢神宮の赤福に勝るとも劣らない美味しさです。少なくてもお餅の雅な姿は八福餅が勝っています。初詣での楽しみは食べる事も含まれます。
デモ、今年は既に松も降りてしまいました。何時までも屋台が出てお餅を求められるとも限りません。ンネブタは節分まで飾っているとの事はネットで確認しましたが屋台や八福餅は何時までも出ているとは思えません。宮山駅を降りると夕焼けでした。昨年は富士山のシルエットが綺麗だったのですが、今年は見えません。何か景色を害するようなものが建ったのかもしれません。
イメージ 1
宮山駅から寒川神社に向けて歩く昨年は富士山のシルエットを観ながら歩いたのでしたが有料道路茅ヶ崎バイパスの遮音壁で見えなくなってしまいました。
イメージ 2
参道は行燈に灯がついていましたこの突き当りに神門があってその楼門の手擦りに青森ネブタが飾られているのです。正月に青森ネブタが飾られるようになったのはもう5年も前で「阿弖流為」だったと記憶しています。
イメージ 3
これは5年も前の青森ネブタあの頃は宮崎監督の「もののけ姫」が人気でしたこの時の記事は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49085645.html
イメージ 4
これが今年のネブタです。テーマは「素兎」とされていました。稲葉の白兎の事でしょうが、皮を剝かれたので素兎と云ったのでしょう。右側に兎で中央が大黒様左端が素戔男尊です。写した時にも白く映ってしまったのでしたが、後で修正すれば良いと思ってマニュアル撮影しませんでした、白く映ってしまったのはLEDの性能がアップした為かも知れません。観たい方は寒川神社のHPhttp://samukawajinjya.jp/info/in05_02.htmlをご覧ください
神門を潜ると既に本殿は戸締まりに入っていました。昨今文化財に悪戯する輩が多発していますしお賽銭も溜まっているのでガードが優先しているのでしょう。巫女さんは破魔矢やお札の片づけをしていますし箒で掃いている人も目立ちます。
イメージ 6
閉じる直前の本殿箒で掃く人、縁起物を求める人が境内に行き交います。晴れ着のお嬢サンも目立ちます。


閉まる直前に本殿前に着いて柏手を打ちました。柏手が打てるようになったのも大きな進歩です。
イメージ 5
御祭神は寒川比古命と寒川比女命です。この2本の杉は未だ若いようですが。寄り添って立っています。縁結びを願う人が沢山おみくじを結んでいるようです。
参詣を終えて神門を出ると屋台も閉じようとしていました。そこで八福茶屋でお蕎麦を戴いて八福餅を求めて帰る事にしました。
残念なことに未だ6時だというの弐八福茶屋は閉店していました。今日は休日だというのに…。ワイフに訊けば家には塩サケと奈良漬があるとの事。自宅で夕食をしてお風呂に入って体を温める事にしました。
イメージ 7
未だ6時だというのに屋台は一斉にたたみ始めました。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


鏡餅に着いた青カビ

$
0
0
昨日(11日)は鏡開きでした玄関に飾っておいた鏡餅を撤収しました.
今年もお餅の表面は青カビが生えて痘痕面でした。昨年も青カビが一杯でしたが、もう一日早く水に浸けておけば青カビを削り取るのも楽だったのでしょうが。ワイフはが包丁で黴の根から削り取っていました。11日のお昼はお汁粉の予定です。鏡餅に依ったを歳神様を魔除けの小豆と一緒に身体に取り込まなくてはなりません。
ソモソモ、お正月は年歳神様をお迎えする行事であり、その歳神様の依り代である鏡餅を食べなくてはお正月も明けません。歳神様がいらっしゃる間の期間を松の内と言います。関東は7日までが多いようです。関西は15日のようだったと記憶しています。松飾を撤収する日は違っても鏡開きは全国的に11日のようで、朝からNHKで”今日は鏡開き”言っています。屹度祇園の甘味店では綺麗な舞妓さんがおちょぼ口でお汁粉を食べて居る事でしょう。
イメージ 1
鏡餅は11日に鏡開きしてお汁粉にして食べます。
イメージ 2
これは昨年の鏡餅です。これを食べるのには大変でした。
イメージ 3
此方が今年の鏡餅です。青カビが痘痕状に分散しています。青カビはペニシリンと思えば気になりませんが黒カビは問題です。それ以上に”黴も生えない食品こそ問題あり”です。昨年より黴が減ったのは我が家に雑菌が減った証でしょうか?昨日お汁粉になって目出度く私の胃袋に収まりました。

イメージ 4
これはワイフが黴を削って鏡割りを終えた鏡餅です。数年前まで庭に楪(ゆずりは)があったのでしたがカミキリムシの食害に遭って枯れてしまいました。そこで青木の葉っぱを代用しました
鏡餅に包丁を入れてカットするから「鏡開き」と云うのでしょうが、私の生家では刃物で切るのは縁起が悪いというので「ゲンノ」(槌)で叩いて割っていました。神社の直礼(なおらい)でお神酒の樽を割るような儀式です。女が割ると神様が不機嫌になるというので鏡割りは私の役割でした。
鏡割をする度に古代の亀ト(きぼく)を想いました。亀ト(きぼく)とは亀の甲羅を焼いてヒビの入った方向などで占いをしたものです。先日読んだ武蔵御嶽山の狼(大神)の信仰にも鹿の肩甲骨を焼いて占っていました。
青カビと割れ目の2つの偶然を掛け合わせれば面白そうな占いが可能なような気がします。”2017年は金運が舞い込む”そんな吉兆なら良いのですが。まあ、もうじき節分です。”金運好転を信じる事にしましょう。歳神様、よろしくお願い申し上げます”
イメージ 5
先ず鏡餅を焼いて
イメージ 6
別途用意した小豆汁粉に入れて戴きます。汁が少ないと善哉になってしまいます。昔は甘い食べ物がご馳走でしたからお汁粉は晴れの日の最高のご馳走でした。小豆はお豆ですから魔除けの呪物です。
イメージ 7
甘くなった口には磯部がお口直しになりました。
期待通りお汁粉が出来ました。漬物は白菜漬けです。お餅が喉に閊えたら大変、ワイフはコップにほうじ茶を用意してくれました甘いお汁粉は正月明けのご馳走でした。でも、口中が甘くなってしまいます。磯部巻にもして食べました。もう1回鏡餅は戴けそうです。七草粥にでも入れて食べる事にしましょうか。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

お食い初め

$
0
0
娘夫婦から8日(日)に「孫のお食い初め」をするから由比ヶ浜の「わかみや」に11時に来るように案内されました。私はお食い初めに立ち会うのは初めてです。娘は古風だな感心するとともに喜んで出かけました。婿殿のご両親はどんな服装で来られるか気になりましたが。季節ガラ)防寒第一の服装で、夫婦ともモコモコの格好でJR江ノ電を乗り継いで由比ヶ浜に着きました。
イメージ 1
「子供の民俗学」には「子供は7歳までは神様からの預かりモノ」と信じられた時代からの美しい習俗が丁寧に説明されています。著者の体験から鎌倉の習俗が良く採集されています。
先ずお食い初めの説明をします。「子供の民俗学」(大藤由紀著)によると次の様に説明しています。
新生児の生後100日目(または110日目、前後に行 われる儀式。 「真魚(まな)始め」または「食べ初め」、初めて箸を使うので「箸揃え」「箸 初め」とも呼ばれるほか、地方によっては「百日(ももか)の祝い」「歯がため」とも呼ばれる。ソロソロ乳歯が生える時期なので熱が出る事もある。百日咳(関)はこの頃の新生児が咳き込む固有の病気で母親の免疫が切れてしまう事から発症するモノ。母体の免疫力から新生児固有の免疫力に入れ替わる微妙な時期にあたる「ハレ」の儀式です。百日咳だけでなく新生児から幼児に代わる関所を通過するような儀式だそうです。私の孫も期待通りに首も座って来て何やら話しかけ始めました。個性も出てきたようです。娘も孫の口の中を覘いて白いモノが見えてきた嬉しそうです。直に兎の様な歯が二本観られるのでしょう。
料亭の「お食い初め」には神主さんや巫女さんが来るわけではありません。家族だけが集まって家族だけで執り行います。年長のお婆ちゃんがお食い初めの式進行を司ります。ワイフが頑張らなければならのです。ワイフは事前に仲良しさんに訊いておいたようで、頼もしい様子でした。仲居さんが全員が揃った事乾杯も終えたことを確認すると。「お食い初め膳」を運んできました。立派な尾頭付き(鯛)とハマグリのお吸い物赤飯に煮しめが運ばれてきました歯固め石は二つ、娘夫婦が箱根の九頭龍流神社で貰ってきました。真っ黒な那智黒のような石です。
イメージ 2
これが孫の「お食い初め」の膳です。生意気に「一汁三菜」が並びました。お吸い物の手前が歯固め石です。
イメージ 3
ワイフの膝の上でお食い初めをする孫。順番は赤飯が中心で魚を食べたら一度赤飯に戻って次の煮しめやお吸い物に移ります懐石と同じマナーです。「逆さ箸」や「迷い箸」や「重ね箸/同じ食べ物を続けて食べる事」や涙箸(箸から食べ物や汁を落としたり垂らすこと)等はタブーです。
初箸で食べ物を取って先ず歯固め石にチョンチョンと接して孫の口に運んで食べる真似をします。赤飯、汁物、赤飯、魚、赤飯の順番で、3回食べさせる真似をしました。孫は赤飯を食べてしまいましたが、それも吉兆だそうです。女の子ですからワイフが最初でしたが男の子だったら最初に私がこの大役を果たさなくてはならなかっらのでした。ワイフの次に婿方のお婆ちゃん、順次お爺さんが遣って最後は私の膝の上でお食い初めをしました。
大役を終えて孫は床の間の前に敷かれてお布団で寝貸されてしまいました。主役はお布団の上で玩具を握って口に持って行こうとしていました。
イメージ 4
お食い初めを終えた孫は床の間に敷かれた布団の上でお休みです。総じて娘の乳児時代よりも世話が焼けないようです。
私は家に戻って早速お食い初めを色紙にしました。アルバムの表紙にも転用します。アルバムは3冊作って各々の家に郵送しました。
イメージ 5
これは孫の「お食い初め」を描いた式紙です。
3年前脳梗塞を発症しました。同期のМ君はそのまま逝ってしまいました。私は運よく止まって脳溢血にはなりませんでした。お蔭でこうして、孫のお食い初めにも立ち会えました。謙虚に生きてさえいれば悦びは後から後から”暦を捲るように向こうからやって来てくれます”。歳神様のお好きなのが鏡餅に門松です。人間ならば謙虚で穢れの無い人でしょう。精々歳神様好みの凡人として命を全うしましょう。
イメージ 6
これは孫の誕生から「お食い初め」まで100日間のアルバムです。3冊作って配りました。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


花餅の民俗学

$
0
0
正月3日に三溪園に行きました。目的は「三溪園のお正月」で「和妻」と呼ばれる、江戸奇術を観る事でした。例年は1日のお琴2日の包丁式を観ていたのですが今年は奇術を観る事にしたのでした。
イメージ 1
これは三溪園の鶴翔閣で実施された北見翼氏http://www.revive-system.net/meet/0014.htmlによる和妻です。両手の親指を紙縒りで結ばれた状態でお客さんが投げるリングをキャッチしてみせます
伝統の奇術を観て私は園内を早春の気配を探して廻りました。合掌造りの周囲にある蝋梅を観に行きました飛騨から移築した合掌造りのお正月を確認したいと思ったのでした。
イメージ 2
これはダムの湖底に沈む危険から救出されて三溪園に移築された旧矢箆原家住宅(やのはらけ)重文です。蝋梅も今が盛りでした。
1月15日は小正月です。「小正月」とは旧暦の1月15日の事で満月です。処が太陽暦になっても1月15日の小正月は生きていて「左義長祭り」や「なまはげ祭り」等は15日挙行されています。正月明け2週間経ったのでソロソロ正月気分も空けなさいと云う意味なのか年末年始多忙であった主婦の骨休めの意味なのかも知れません。小正月には花餅を飾り花餅を食べるのが習慣です。
実は私は以前から花餅が日本列島の東西で違う事に気付いていました。どうも境目は糸魚川断層帯のようです。地溝帯以東では「繭玉」と呼びお餅が楕円形であるのに対し、西は丸くて団子状で「花餅」と呼ぶようなのです。材料は同じ紅白のお餅です。東は総じて柳の木にお餅を咲かせますが。西は柳では無くてミズキや榎を使うようです。去年東俣野の大工さんがその応接室を開放して茶屋を開店しました。開店したのは桜の季節でしたが壁には餅花を飾っていました。飛騨古川出身の女将さんに餅花の作り方を聴いていました。先ず飛騨古川の餅花を観てください。
イメージ 3
これが三溪園の合掌造り旧矢箆原家住宅に今年飾られた花餅です。使用した木は柳です。飛騨スタイルならミズキ等の雑木であるところ関東風の柳です。それにお餅の形も楕円の繭の形です。関西では花餅と呼び関東では繭玉と呼びますどちらも歳神様の依り代ですが関西はお米の豊作を祈ってお団子なのに対し関東では養蚕の収穫が大きい様に繭の姿にします。
イメージ 4
これが飛騨古川の花餅です。丸太を輪切して台座にしてその上に雑木(ミズキ)を立てて紅白のお餅を団子にして飾り付けています。一見して桃の花を思わせます。
1月15日は小正月、各地で歳神様を祀った予祝祭事が行われます。33間堂では通し矢が行われます。振袖を襷に括って新成人が放つ矢には。厄病神を怖れを為すことでしょう。
イメージ 5
これが33間堂の通し矢神事です。新成人が33間堂の前庭で通し矢を射ます。鳴弦(めいげん)の儀と同じ魔除けの呪術です。藤をあしらった袴がお揃いです。観れば京都女子大と書かれています。斯様に逞しければ120m先の金的を射抜く事でしょう。写真出典は産経デジタル新聞。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL5nwWXlY5F0AuRgdOfx7?p=%E9%80%9A%E3%81%97%E7%9F%A2%EF%BC%93%EF%BC%93%E9%96%93%E5%A0%82%E7%94%A3%E7%B5%8C%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
私の生活圏では大磯の左義長が有名です(無形民俗文化財)。昔は毎年出かけて。神事の炎で焼かれた花餅を食べるのが楽しみでした。
イメージ 6
これは久里浜のペリー公園前で開かれる左義長です。長瀬町では祭事に集まった人にお汁粉を振る舞って下さいます。私の様な外者にも快く振る舞って下さいます。原則お椀持参ですが忘れても大丈夫です、この記事は以前次に書きました。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL6NIVHlY.RkAIS8dOfx7?p=%E5%A4%A7%E7%A3%AF%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7+%E8%8A%B1%E9%A4%85&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
花餅はその生い立ちが神事である事は疑いない事実ですが。桃の花が咲き出す春を待つ気持ちに相俟って美しい民芸になっています今も商店街の飾りやレストランや割烹の床の間に飾られています。魔を払い福を招くのにピッタリの意匠です。
イメージ 7
これは東戸塚のオーロラモールにある串揚げ店のショーウィンドー餅花が飾られていましたが・・・・。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images