29日のラジオ深夜便で唱歌の「故郷」が流れました。ゲストは【海沼実氏で副題に「文部省唱歌から童謡へ」とされていました。中山晋平/野口雨情の名コンビの唱歌を楽しみました。
極めつけは「故郷」でした。「兎追いしかの山小鮒釣しかの川♪」聞いた瞬間に先の震災を想い出しました。今年は今上天皇のご発言で驚かされました。震災後国民誰もが天皇皇后両陛下が被災地を巡り励まされる姿を観て来ました。被災地の光景は再三テレビ画面に映りました。両陛下が被災者に寄り添われる姿と、唱歌の「故郷」に落涙する光景が心に刻まれました。
その時に思いました仏人なら英国人なら何の歌を歌うんだろうか?多分英国も仏国も国歌を歌うのだろう。シャンソンでは元気が出ません。「ラ・マルセイエーズ」だから復興のパワーが湧くのでしょう。、英国ではGod save our gracious Queen(神よ国を救い給え)です。
ところが日本では「君が代」を歌う人は先ずいません「故郷/ふるさと」か「赤蜻蛉」です。そこでNHKは北郊ソング「花は咲く/復興マソング」を作りました。天皇は日本人の象徴ですが。日本人の心の柱になる国歌は不在なのです。
海沼実氏の話を聞いていると大正末期から昭和初期にかけて日本人は西洋音楽を消化して日本人のハートに響く音楽を生み出してきました。たそれは大半が文語調であったが昭和に入って口語調の唱歌に変換して童謡が主流になったのでした・・・・。童謡は海沼さんの専門です。
今日は日本の国歌の問題について取り上げます。私の怒りは現代の文部官僚のサボタージュです。事なかれ主義が学徒動員で歌われた「君が代」を存続させ、「国民が本当に心を一つにして歌いたい国歌を作る責任を果たさないで来たことです。
今年のリオオリンピックで、森オリンピック委員長は次の様に君が代」を歌わない金メダリストを批判しました
”「なぜ国歌を歌わないのか」「国歌も歌えないような選手は日本の代表ではない」”
でも歌いたい国歌でなければ歌わないのは筋が通っています。
森さんの指摘は文部省に向けられるべきで選手に向けるのはお門違いです。
熟の大先輩であり今上天皇の教育係も務められた小泉信三先生ならばきっと次のように仰られた事でしょう。
”金メダリストが歌いたくないような国歌を持っていることは悲しい事だ!心底誇らしげに歌いたくなるような国歌を作ろう!遅くとも2020年までには”
小泉信三先生は第一次世界大戦中ロンドンに居られました。その時の家族への書簡に次の様に認めてあったのでした(父小泉信三/小泉タエ/二女)。
慶応大学三田キャンバス塾監局前には学徒慰霊の碑が立っていて台座には小泉信三元塾長の「丘の上の平和なる日々に、と刻まれています。小泉先生は美的感性からして「君が代」はお嫌いでしたが君が代で戦地に向かった学徒の事を想えば「国歌」を作って欲しい御思いでしょう。
征きて帰らぬ人々を思う」が刻まれています。
ロンドンでの音楽界で「ロシアフランスの国歌に続いて日本の君が代が演奏されました。これには閉口しました。愛国心では劣らない僕でしたが、君が代ばかりは聴いては居られませんでした。あんなに間延びして張り合いの無い歌は珍しい各国の国歌に較べると曲調が聴くに堪えない(出典3つの君が代内藤孝敏204ページ)小泉先生の直感は当時の国民大多数の意見であり。文部官僚の意見でもあったのでした。
以下国歌に係る歴史を紐解きながら、説明します。
【国歌制定の始まり】
日本の国家創設の動きは戊辰戦争で長岡に会津に進軍した薩摩の軍隊に始まります錦旗を先頭にして♪宮さん三宮さんお馬の前でヒラヒラするモノ何じゃいな?♪薩摩は進軍に軍歌の必要性を感づいていました。薩摩出身の軍人大山巌は戊辰戦争でも西南戦争でも重責を果たします。
戊辰戦争で薩摩軍は錦の御旗を立てて「宮さん三宮さん」の行進曲に合わせて進軍します。国歌制定は陸軍の行進曲に始まります。絵の出典/ウィキペディア。 そして鹿鳴館時代には八重の桜の「捨松」を嫁に迎えます。鹿鳴館時代に英国と比べた時、明治日本に国歌が無い事に気付きます。この時使用されたのが「君が代行進曲」でした。メロディーは英国の公司の「ジョン・ウィリアム・フェントン」が作りました。訊けば直ぐに解りますが軍艦マーチの原曲でした
https://www.youtube.com/watch?v=hh-bhkkE9BM。でも流石に君が代行進曲は国歌としては避けられました。理由は「勇ましいモノノ格調と云うか荘厳さに欠けると文部官僚が指摘したのでした。この時既に国歌は軍部が決めるかそれとも文部省か所管の争いがあったのでした。荘厳さに欠けるとの指摘が妥当と判断され国歌制定の所管は文部省の「音楽取調所/祝祭日唱歌作成係」に決められたのでした。
当時の音楽取調所は小学校唱歌の作成に注力しており次のような唱歌を相次いで発表しており国民は愛唱していましたからこんな曲調の延長上に国歌が発表されると期待していたのでした。
「庭の千草」「埴生の宿」「仰げば尊し」「荒城の月」「鉄道唱歌」「夏はきぬ」
明治年音楽取調係は東京音楽学校に「祝祭日に歌うべき唱歌」の作成を指示しましたその結果8曲が候補に上がります。役所の対立を越えて超党派的指示を得たのが海軍省が作成した現在の「君が代」だったのでした。(出典/3つの君が代210ページ)。
第二の君が代は総て日本人が作詞(古謡)作曲したもので(編曲はエッケルト)第一の君が代行進曲の反省が活かされていました。でもこの「君が代」も文部省の省令で決まったモノであり法律で決まったモノでも無いので「とりあえず当面は学校での儀式ではこの歌を歌いなさい」と云った程度のモノでした。省令は明治26年発布
所管の文部省も責任者が次のようなコメントを添えて居て国歌としては物足りないと評価していたのでした
「文部卿福岡孝弟のコメント/国歌の制定は至大至重の問題であるからこの歌を日本国歌とはせず「明治頌」として更に次の案を作るように」(出典三つの君が代146ページ)
当時の唱歌の人気は高くこの情熱がある限り国民がこぞって歌えるような国歌が作れると確信していたのでしょう今私達が唱歌や童謡を口ずさむ時、『白秋や佐々木信綱や弘田龍太郎なら格調高く抒情的な歌詞を作ってくれて滝廉太郎や中田喜直なら素敵なメロディーをつけてくれたであろう』想うものです。ですから当時の判断は妥当だと思うのです。
ソモソモ音楽はメロディーが先か歌詞が先かよく議論されます。
日本の楽曲を観る限り歌詞が先行されます。本来大和言葉は耳で聴くものでしたから、調べがあるモノです。歌会始でも百人一首の読みでも私達は言葉を優先して聞いています。
他方西洋音楽は調べを優先しています。踊りや行進は調べに合せて体を動かします。調べに次いで歌詞が付いて来ます。
「君が代」は元来古謡の歌詞があって口ずさむうちに調べが付いてくるのです。日本の音楽と西洋の音楽は長調短調の違いの他に歌詞と調べ優先度の違いもあるのです。千年もの間短調で言葉優先で育った日本人にとって音楽が定着するには時間が罹るのです。外来文化を吸収するのは才能のある日本人ですが音楽と云った分野で日本人らしさを発揮するのはまだ時期尚早だったのでした。
ところが明治27年には日清戦争にその10年後には日露戦争が勃発して軍国主義の風潮は国歌問題を吹き飛ばしてしまいます。
支那事変に始まる第二次世界大戦では「君が代」が歌われ私の敬愛する大伴旅人の和歌を素材にした「海ゆかば」を歌いながらの学徒出陣」が始まったのでした。
明治26年文部省令による「君が代」は学校儀式で生徒が歌うモノとして決まった事国歌は別にする判断は妥当でした。
過ちは平成11年8月13日に施行された「国旗及びび国歌に関する法律」でした。
明治26年に省令であった過渡的措置を国歌にまで格上げしてしまった事実です。
明治26年の「君が代」ですから君とは明治天皇である事は先ず自然な解釈です。昭和憲法は「国民主権」ですから真逆の解釈です。これを君とは天皇の事も意味するが素材の「古謡」での君とは愛する人の事で「君が代」とは「皆の代」の意味だと解釈させるのは強弁です。まして各国の国歌は皆好戦的な歌で「敵を倒せ。敵兵を殺せ」と云ったコンバットマーチであり日本の国歌だけが美しい国土を歌っていると自己評価することは間違いではないのですが。ならばさだまさしさんの「防人の歌」が最適です。
今年は栄六輔さんも逝かれました。栄さんなら国民全員が歓迎するような国歌の歌詞を創作してくれたことでしょう。文部官僚の事なかれ主義怠慢が国家作成の宿題を置き去りにして歌いたくない国歌を歌わされる苦痛に陥らせています。 今年は栄六輔さんが亡くなりました。栄さんなら最高の国歌の歌詞を作ってくれたことでしょう。
現代の若い世代は才能も豊かです。若い世代に呼びかけて国歌の歌詞を作って貰い曲も公募して国歌を国民運動の様にして作っては如何でしょうか?
オリンピックの表彰台で皆が大声で歌いたくなるような国歌が欲しいモノです。
そうなれば彼岸の小泉先生も喜ばれ、昭和天皇も重荷が外されることでしょう。
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