Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

花餅の民俗学

$
0
0
正月3日に三溪園に行きました。目的は「三溪園のお正月」で「和妻」と呼ばれる、江戸奇術を観る事でした。例年は1日のお琴2日の包丁式を観ていたのですが今年は奇術を観る事にしたのでした。
イメージ 3
これは三溪園の鶴翔閣で実施された北見翼氏http://www.revive-system.net/meet/0014.htmlによる和妻です。両手の親指を紙縒りで結ばれた状態でお客さんが投げるリングをキャッチしてみせます。
伝統の奇術を観て私は園内を早春の気配を探して廻りました。合掌造りの周囲にある蝋梅を観に行きました飛騨から移築した合掌造りのお正月を確認したいと思ったのでした。
イメージ 4
これはダムの湖底に沈む危険から救出されて三溪園に移築された旧矢箆原家住宅(やのはらけ)重文です。蝋梅も今が盛りでした。
1月15日は小正月です。「小正月」とは旧暦の1月15日の事で満月です。処が太陽暦になっても1月15日の小正月は生きていて「左義長祭り」や「なまはげ祭り」等は15日挙行されています。正月明け2週間経ったのでソロソロ正月気分も空けなさいと云う意味なのか年末年始多忙であった主婦の骨休めの意味なのかも知れません。小正月には花餅を飾り花餅を食べるのが習慣です。
実は私は以前から花餅が日本列島の東西で違う事に気付いていました。どうも境目は糸魚川断層帯のようです。地溝帯以東では「繭玉」と呼びお餅が楕円形であるのに対し、西は丸くて団子状で「花餅」と呼ぶようなのです。材料は同じ紅白のお餅です。東は総じて柳の木にお餅を咲かせますが。西は柳では無くてミズキや榎を使うようです。去年東俣野の大工さんがその応接室を開放して茶屋を開店しました。開店したのは桜の季節でしたが壁には餅花を飾っていました。飛騨古川出身の女将さんに餅花の作り方を聴いていました。先ず飛騨古川の餅花を観てください。
イメージ 1
これが飛騨古川の花餅です。丸太を輪切して台座にしてその上に雑木(ミズキ)を立てて紅白のお餅を団子にして飾り付けています。一見して桃の花を思わせます。
下が三溪園の旧矢箆原家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間)に飾られていた花餅が下の写真です。
イメージ 2
これが三溪園の合掌造り旧矢箆原家住宅に今年飾られた花餅です。使用した木は柳です。飛騨スタイルならミズキ等の雑木であるところ関東風の柳です。それにお餅の形も楕円の繭の形です。関西では花餅と呼び関東では繭玉と呼びますどちらも歳神様の依り代ですが関西はお米の豊作を祈ってお団子なのに対し関東では養蚕の収穫が大きい様に繭の姿にします。
1月15日は小正月、各地で歳神様を祀った予祝祭事が行われます。33間堂では通し矢が行われます。振袖を襷に括って新成人が放つ矢には。厄病神を怖れを為すことでしょう。
イメージ 5
これが33間堂の通し矢神事です。新成人が33間堂の前庭で通し矢を射ます。鳴弦(めいげん)の儀と同じ魔除けの呪術です。藤をあしらった袴がお揃いです。観れば京都女子大と書かれています。斯様に逞しければ120m先の金的を射抜く事でしょう。写真出典は産経デジタル新聞。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL5nwWXlY5F0AuRgdOfx7?p=%E9%80%9A%E3%81%97%E7%9F%A2%EF%BC%93%EF%BC%93%E9%96%93%E5%A0%82%E7%94%A3%E7%B5%8C%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
私の生活圏では大磯の左義長が有名です(無形民俗文化財)。昔は毎年出かけて。神事の炎で焼かれた花餅を食べるのが楽しみでした。
イメージ 6
これは久里浜のペリー公園前で開かれる左義長です。長瀬町では祭事に集まった人にお汁粉を振る舞って下さいます。私の様な外者にも快く振る舞って下さいます。原則お椀持参ですが忘れても大丈夫です、この記事は以前次に書きました。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL6NIVHlY.RkAIS8dOfx7?p=%E5%A4%A7%E7%A3%AF%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7+%E8%8A%B1%E9%A4%85&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
花餅はその生い立ちが神事である事は疑いない事実ですが。桃の花が咲き出す春を待つ気持ちに相俟って美しい民芸になっています今も商店街の飾りやレストランや割烹の床の間に飾られています。魔を払い福を招くのにピッタリの意匠です。
イメージ 7
これは東戸塚のオーロラモールにある串揚げ店のショーウィンドー餅花が飾られていましたが・・・・。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


ジャーナリズムの役割

$
0
0
1月9日(月曜日)ラジオをつけっ放しで寝ていたのでしたが突然の実況中継で眼が醒めましたトランプ次期大統領の記者会見を中継していたのでした執拗に質問するCNNの記者の口を封じようとして吠えまくる声に”これが世界のリーダーになって核のボタンを握る大統領なのか”と暗澹とした気分に陥りました。翌日10日のテレビはこの記者会見でもちきりでした。ラジオで聞いてテレビで見て次は新聞で確認する番です。読売新聞でさえその知性の欠落を指摘して嘆いて見せました。
イメージ 1
1月10日のNHKニュースでトランプ大統領の記者会見を報道する無視する。CNN記者の質問を問答無用と無視する。
イメージ 2
読売新聞がマスコミを黙殺しるトランプ大統領の姿勢を報じたのは0日の夕刊でした。
イメージ 8
株式市場もトランプ大統領の実態に反応し仮装相場は剥げてしまいました。
イメージ 3
読売新聞がトランプ批判を社説に報じたのは13日の朝刊でした。この反応の鈍さに読売新聞社の自覚の浅さを懸念します。
一方安倍首相はフィリッピンから豪州を巡って”トランプ米国を支えて中国の覇権主義の防潮堤になろう”口説いて回っていました。秀吉の手前持ちが前田慶次で家康の手前持ちが最上義光と云われます。最上義光は敢て上杉景勝を挑発して、家康を上杉討伐に向わせます。思惑通りに石田三成は挙兵して関ヶ原の戦いになります最上家は57万石の大国に持ち上げられます。手前持ちは所詮手前持ちです三成に較べれば評価は遥かに低いのです。米国には何時までも日本が手前持ちに甘んじられる国民では無く、中国が民主主義に傾けば日本は中国寄りに変貌する可能性もあるという事です。日本は15百年の間儒教を信奉してきた国なのです。信義無き国家は嫌いなのです。
イメージ 9
安倍首相はトランプ大統領の「手前持ち」宜しく東アジアの海上安保体制を確固たるものにしようと。対中国封鎖網を敷こうと努めています。戦後民主主義は百年足らず私達は6世紀からⅠ5百年の間儒教に親しんできた国民です米国一国主義の実態を観たら直に信義を重大視する儒教に戻ることでしょう。そんな時が来たらこの安倍首相の努力はどう評価されるのでしょうか?
「国家」とは一般に,領土・人民・主権(統治権)の3要素かラ成り立つと云われます。日本の場合領土は海に囲まれていますし、国民は一つですし、その統治権者たる政府は国民から委ねられています。我々は国家を意識する事は稀です。でも、先の大震災に際しては国家がしっかりしている事の有難味を痛感しました。明治維新や先の大戦の時には神国思想が強くなり多くの国民の命が犠牲になってしまいました。平和な現代に振りかえってみれば「何故日本の国は無謀にも玉砕を叫び国家を死守しようとしたのか不思議です。昨年は終戦70年、なぜ神風特攻隊や玉砕思想を防止できなかったのか思い返す年でした。今と戦前を較べた時何が違うか?ハッキリ意識する事は重要だと考えます。それはジャーナリズムの健全性や信頼感であると思います、
ジャーナリストは国家の耳であり眼であり良識であると信じられて来ました。その発言は「公正・真実」であり「正義」であることが前提です。「公正」「正義」を担保する為にジャーナリストは基本的に自由で無ければなりません。私達日本人は敗戦と云う大きな犠牲を払ってこの教訓を得たのでした。
私達は敵国であった米国を受け入れたのは米国が「公正」で「正義」であり万民に対してフレンドリーだからでした。ですからブッシュ大統領が間違いを犯してもベトナム人民を苦しめても「反米」の声は出しませんでした。でもトランプ大統領に記者会見の反知性的な発言を聴いていると”これが民主主義のリーダーか?”疑わざるを得ません。日本の企業が一斉に対米投資を引き揚げ「米ドル国債を売却したらどうなるのか?」安倍首相は真顔になってトランプ大統領を脅して欲しいと思います。現在の米国は日本と中国に背を向けられない状態です。
ところで今年も日本の国防費は増強され防衛大臣は品質も評価されていない高度防衛ミサイル(THAAD)を査察するためにグアムを訪れました。米国国防省の高官に取り囲まれた稲田大臣は可愛過ぎます。ロスの裏道でヤンキーに絡まれて逃げ場のない大和撫子のように見えます”し方ないからろくでも無い品でも言い値で買うわ!”言わされているように見えました。
イメージ 4
米軍のお偉いさんに囲まれて高度防衛ミサイル(THAAD)をお買い上げする稲田防衛大臣。礼服を着て居られるのは公式の場だからでしょう、イッソ何時ものようにチャラチャラしたTシャツで写れば良かったのに・・・・。
稲田大臣の小さな口から「米軍が東シナ海を守るには、グアムサイパン、テニアンで充分ですね。沖縄からは全面撤退してください。その代り、THAADを買います。THAADは横田基地に置いて下さい」とでも呟いて欲しいモノです。そうすれば一躍稲田さんは次期首相候補でしょう。沖縄県民も拍手喝采する事でしょう。
ところで、問題は北朝鮮問題です。THAADも仮想敵国は北朝鮮です。北朝鮮が核装備するから我が国は高高度防衛ミサイル(THAAD)を配置しなければならないのです。真偽のほどは別にして国民にはそう説明して防衛予算は拡大し、自衛隊の行動原理も広がっているのです。
処が問題の北朝鮮の事を私達はまるで知りません。ジャーナリストが期待される活動をサボタージュしているからです。
日本の北朝鮮ジャーナリストと云えば辺 真一(ぴょん じんいる」氏とアントニオ猪木氏レベルです。辺氏のコリアレポートは次です。http://www.krp1982.com/
此処10年来の辺氏の発言に従っていれば「今頃北朝鮮は経済的にも政治的にも破綻している筈です。ところが経済的には順調なようですし。首都平城の都市化は眼を見張ります。日本政府の実施している経済封鎖等効果は全く無いように見えます。封鎖しているのはモノや金の流れでは無くて情報のように想えます。エセジャーナリストの流す「北朝鮮脅威論」を信じ込ませて防衛費や軍事力の増強、自衛隊の戦闘範囲を拡大しているとしか思えません。テレビで見る限り平城の市民は皆スマートフォンを持って高層マンションに住んで、中国の地方都市レベルの生活を楽しんでいるように見えます。ジャーナリストがしっかり北朝鮮の情報を伝えれば、私達は北朝鮮脅威論を卒業して友好国に見えるのかもしれません。
イメージ 5
これは写真家初沢亜利氏が写した北朝鮮の首都平城の写真。ベンツは高級官僚や軍部のモノでしょうが、韓国製自動車がタクシーで走り廻っているし、交通量が増したので歩道橋も目立ちます。農村部はやせ細り都市が繁栄している、二重構造を予測するのですが・・・。
イメージ 6
都市近郊農村も都市の食糧基地として恩恵を被っているようです。質素であっても中国の地方都市と農村の関係のモデルが北朝鮮で成功していることを予測させます。北朝鮮がソ連型のコルフォーズから中国型改革開放政策(農民の私有財産を認めた共産主義折衷型)が成功しているのでしょう。都市近郊農民は牛を売却すれば車もマンションも買えると解れば、現体制を是認していると思われます。写真は上と同じテレビ朝日画面です。
イメージ 7
昨年の台風被害の復興現場だそうです。
北朝鮮エセジャーナリストを駆逐する本物のジャーナリストに登場して貰って客観的な北朝鮮を報道して貰いたいものです。真実に基づいて公正で正義の報道をするのがジャーナリストの天命です。そんなジャーナリストの居ない国家の繁栄はあり得ません。
今の様に経済封鎖は何の意味もありません我国が仮想敵国北朝鮮を前提に右側に舵取りするばかりです。米国のマスコミ黙殺も嘆かわしいのですが日本のジャーナリスト不在も困ったものです。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

竈の文化囲炉裏の文化

$
0
0
1月15日は小正月です。学生時代は小正月になると「どんど焼き」を観に全国各地に出かけたモノでした。会津坂下の勝常寺にほど近い田圃の中で「ドンド火」を見上げて夜は東山温泉の湯に浸かりました。14日からは寒波襲来で会津も飯豊も大雪のようです。今はあんな冒険は出来ないのでワイフを誘って川崎生田の日本民家園に出かけました。お正月飾りが小正月まで続けている事を承知していたからです。正月飾りと云えば現代は玄関や門ですが。その中核は竈(釜戸)というか囲炉裏です。食が営みの中心ですから食を作る竈や囲炉裏が中心になるのです。落語の「へっつい女房」にあるように人の霊は竈に潜むモノです。お祭りも竈を中心に営まれるものです第一「竈」とは関西の呼び名で関東以北は「囲炉裏」食や民芸を探すと日本は東西で鮮やかに分かれるモノですが煮たり焼いたりする釜戸からして違っているのです。

三和土の美しさ

$
0
0
昨日に引き続き川崎民家園の見所ももう一話させていただきます。今日の話題は「三和土(たたき)」です本来は民家の土間を平らに「敲き土(たたきつち)」もので叩いて固めたので「叩き」でしたが、赤土・砂利などにの原料に消石灰にがりを混ぜたので3種類の材料を混ぜ合わせることから「三和土」と書いたのでしょう。我が生家にも比較的広い土間があって、此処で作業をしていました。でも手入れを怠ると波打ってしまい扱いに窮してしまいます。時々波打った表面を削ってまた叩かなくてはならないのですが。コンクリートの役目をする消石灰が高いので中々手入れが出来ませんでした。
先ず重文の北村家住宅(神奈川秦野)を観てください。
イメージ 1
これが重文の北村家住宅の土間です。手入れを怠るとこのように波打ってしまいます。これを直すには表面を削って消石灰を撒いたうえで叩かなくてはなりません。地味な作業である事に加えて不自然な姿勢で屈まなくてはならないので嫌な仕事でした。奥に設えてあるのは竈です。
イメージ 2
此方は茨城の鈴木家住宅の土間です此方の三和土は凸が目立ちます。
この日は風さえなければ過しやすい日でした。陽向は陽光が注がれて良い気分です。藁細工や竹細工の同好会の人が縁側の庭先に筵を敷いて細工を楽しんでいます。屹度生田緑地に自生していた竹を割って細い竹籤(ひご)を作っています。「凧の骨にでもするのか?」訊いてみると笊を編むのだそうです。
藁は何を作るのか訊いてみれば此方は鍋敷きになるのだそうです。雨が降ったり陽射しが翳ったらば本来の土間でする作業なのでしょう。
イメージ 3
これは房総の作田家住宅の庭に筵を敷いて竹細工に興じる同好会の皆さん。縁側も庭先も土間も農作業の格好の場所であります。
イメージ 4
これが完成予定の竹の笊です。こんなのが出来たら嬉しいでしょう。
イメージ 5
これは佐久地方にあった佐々木家住宅(国の重文)の庭先で藁細工をする同好会の皆さん。藁細工は鍋敷が目標だそうです。何処か流し雛の舟になりそうなモノでした。
イメージ 6
藁で鍋敷を無心で編む叔父さん。筵の端には草履も出来ていました。
川崎民家園の土間の三和土は何処も凸凹で状態は最悪でした。何処もお金の無い処は手入れが行き届かないのも仕方ありません。そう想ったら。三溪園の合掌造りの三和土は最悪でした。誰かが気付いて凸凹の表面を削ったのでしょう。削ったら直ぐに消石灰と苦汁を混ぜて少し水分を含ませて播いて上から木槌で叩かなくてはなりません。その途中で止めてしまったので赤土の埃がたっていました。何処か美しい三和土を観た記憶がありました。必死に思い返したら昨年の6月三河森町に近い加茂菖蒲園の庄屋屋敷でした。事業が上手くいっていて三和土にまで配慮できる余裕が美しい三和土を整備出来るのでしょう。
イメージ 7
これは奥三河の加茂菖蒲園の庄屋屋敷(国の重文)の土間です。川崎民家園の様に三和土が波打っていません。

竹の効用

$
0
0
私の姓は「竹内」です。海上の道(柳田国男)に依らずとも,竹は黒潮に乗って南方から渡って来たと思われます。昨年国立科学博物館が「海上の道」を再現しようと葦を編んだ船で南の島々を飛び石伝いにして九州に渡る冒険(実験考古学)をしていましたが。葦船よりも竹を素材にした方が遥かに意味ありだと思います。竹の方が浮力もあるし、南方では竹船(筏)はあっても葦船は無いからです。私も30年も前に中国の桂林に遊び漓江下りを竹船に乗って楽しみました。
イメージ 1
これは国立科学博物館が主催した海上の道を実験考古学として実験したプロジェクト次に詳細が出ています。
イメージ 5
これが桂林の漓江下り何のことは無い竹製の筏です。弥生人は南中国から筏で黒潮に乗って日本に遣って来たと考えるのが自然でしょう。葦船よりも筏で実験すべきでした。写真出典旅行代理店「ふれあい中国」http://www.chinatrip.jp/guilin/citytour/gl01/
竹の付く地名は西日本に多く。暖流の寄せる港町にも内陸部にもあります(竹田竹原大竹武生等)。竹の自生する土地は田圃が作れませんから竹細工が盛んになります。
イメージ 2
これは笊です。素材は竹を割いて作った籤です。
イメージ 3

これは九州日置の竹箕(たけみ)です。箕戸は大豆や小豆の殻と実を振り分けるのに使う農業用具です。これは民芸品の美の極致で最近はプラスチックの粗悪品が頒布されていて多くがごみ取りに使われているようです。
イメージ 4
これは竹で編んだ籠です。これでも美しく長持ちしますが熊本では竹籠の上から漆を塗って永久的に使える籃胎漆器を編み出します。
竹取物語の「竹取の翁」も生業は竹細工であったと思われます。平安時代以前の竹細工と云えば「扇」や「笊」や「蓑」に「箒」「笛」等でしょう。”そうした竹細工を専門に行っていたのは「賤民」とよばれた被差別民だった”と云われます。「公地公民の制」が実施された古代では田圃を分けて貰えない被差別民が仕方なく竹細工を専門にやって雑穀を分けて貰っていたのでしょう。竹細工の盛んな地名には何処か貧乏臭いというか蔑視が感じられます。越前の武生には越前竹人形の芸能が伝わっていますが遊女の悲しさが感じられます。川原者については林屋辰三郎先生の研究に詳しいのですが、川原者と賤民の関係について次の様に説いておいででした。
京都の祇園社の下級神官たちは、境内の掃除をしていたが、鳥獣の死体も始末したことから、犬神人(神人とは神職のこと)と呼ばれていました。その掃除道具は箒や籠や篩(ふるい)で何れも竹細工でしたから「竹取の翁」の仕事でした。応仁の乱が起って犬神人竹細工の翁も仕事が無くなると隷属身分から解放されたのでしたが、祇園社そのもののが傾いたため、鳥獣の死体から、弓の弦を作ったり武具(革製の鐙など)、京都の町を行商して歩きました。三味線や武具を売り歩いた被差別民が祇園祭の復興に協力し、町衆自治の一員となり、やがて京都の町の清掃権を獲得して、「きよめ」と云われるようになったのでした。
人の死体のみならず、牛馬や鳥獣の死体処理をする人々は、社会に不可欠の存在にも関わらず、これをケガレたものとして差別するのは、理不尽な慣習でありました。現代でも職業に係る無意味な差別感がはびこっていて、都市の清掃でも被差別の意識が感じられます。私達が毎日快適に生活できるのもゴミや汚物を集めて処分してくれるくれる人が居てくれるからです。汚れや穢れは人間の生活の一側面です。でも神道の清浄観からすれば汚れも穢れも敬遠したいもので「綺麗で楽して安定した給金を得たいものです。でも文化は綺麗な上澄みよりも澱んだ川底で生まれて育つものです。
昨日の深夜ラジオでは韮崎の大村教授がその生い立ちを話されておいででしたが、寄生虫感染症の予防薬の開発も土壌を採取する地味な研究姿勢の積み重ねの成果でした。
処で竹の生態に話を戻しましょう。私の生家の裏山は美しい淡竹が自生していました。ご飯のおかずが無いと竹林に走って筍を取って煮付けにしました。鶉や小綬鶏が生息していました。垂直に飛ぶことを得意にするこの野鳥は竹林で子育てをしていました。青大将も竹を登る事は出来ませんし。猫に襲われる危険もありません。竹林は鶉と小綬鶏や雀の棲息には最高だったのでした。
私はかぐや姫も舌切り雀も竹林で生まれた童話だと思っていました。『清貧で正直者には福運がある』そんな話は被差別民が言い伝えた話なのでしょう。
唯偶然だけでは無い根拠もあります。それは淡竹に馴染んだモノだけが知っていますかぐや姫は竹の節の中に生まれました。父に云われて施餓鬼棚の四方を守る竹を採ろうと竹の根元の節に鉈を打ち下ろします。すると節から大量の清水が溢れ出しのです。祖母にその話をすると『竹の清水は最高の化粧水で顔に塗れば綺麗な肌にしてくれるよ』真顔で話してくれました。へちま水でさえ美顔に効果があるというのですから竹の水は一層効果がありそうです。若しかしたらかぐや姫のお話は精力に衰えを知らない竹取の翁が被差別民の娘を孕ませてしまって乳児を止むを得ず引き取って育てた処、絶世の美女に育ったものの早逝してしまった話がベースで沢山の求愛を退けたのは被差別民のレジスタンスだったのかもしれません。竹取物語ではかぐや姫は生誕3か月目で裳着(もぎ)式を執り行いました。裳とは何れ袴になる着物でこれを着る事によって少女は卒業し結婚も出来ると云った通過儀礼です。竹取の翁が「家の娘です。綺麗でしょう!『かぐや姫』と呼んでください」として公表したのが生誕3か月後にしたのでしょう、訝しがる村民に対し「この子は竹の中から生まれたんですよ。竹は3か月も経てば成長して親竹の背丈になるでしょう」云ったのでしょう。
竹の不思議は竹を燃やすときにも現われます。15日のどんど焼きの時にも出現したでしょう。竹の表面から脂が滲み出て勢いよく燃えるのです。そしてその油を集めれば「竹酢液」が採取出来るのです。竹酢液と云えば”花粉症の特効薬”として著名です。竹酢液に含まれているポリフェノールは、かゆみの元となるヒスタミンの放出を抑える作用があると言われています。
イズレニシテモ竹林で生まれ育ったかぐや姫は美しく成長が早く健康だったのでしょう。

ピンク色のカタバミの花

$
0
0
寒中ですから寒いのは当然です。と云っても此処3日間の寒さは強烈です。我が庭にも霜柱が立ちました。プランターのクリスマスローズは娘からの預かりモノです。正月には白と紫の花が咲いていたのですが流石にこの寒波で元気がありません。ワイフが心配して水遣りをしたいと云いますが。「霜柱が溶けるから水遣りは要らないよ」答えました。可愛がっている「匂い菫」も自らの葉を枯らして掛け布団にしています。

猿蟹合戦の民俗学

$
0
0

我家の白梅は今が盛りです。私がベッドに横になって障子の外を窺がうと白梅にメジロが寄って来ます。一羽が枝先に止って花を散らすと、それを合図の様にして5,6羽のメジロが群れて来ます。屹度最初の一羽が偵察して大丈夫危険が無いと判ると一族が遣って来るのでしょう。人間もメジロも同じで一人では弱いモノですから群れるのが習性なのでしょう。去年は梅干はイマイチでしたが今年は屹度豊作になるでしょう。それにワイフはもう梅干作りの熟練ですから屹度子供達にも喜ばれる梅干が出来るモノと思います。
梅が去年より早くに咲き出した、それに花数も多い、となると気になるのは桜の開花予報です。何時もの仲間と桜紀行の予定は決まっています。一泊目は醍醐寺でその後木津川沿いに遡上します。木津川沿いには海住仙寺や蟹満寺がありますし聖武帝の恭仁京(くにきょう」跡もあります。
イメージ 1
これが今春詣でる予定の蟹満寺の本尊の薬師如来像です。薬師寺の本尊にも比される立派な金銅仏です。私達は東大寺の最初の大仏様がどんな姿であったか?考えるのは楽しみです。その時この丈六の金銅仏を30倍にしたものと推測するのです
二泊目は笠置寺に近い宇治茶の民宿に泊まるプランです。行程は皆と協議するので連帯責任ですが桜にピッタリ合わせるのは一重に私の責任です。早咲きの河津さくらに染井吉野は3週間遅れ、とは教わっていても早目に予約を入れておかないと大変なことになります。去年は新薬師寺の香薬師像の手が発見され京都では飛鳥時代に半跏観音像も発見されました。
【蟹満寺の伝説】
南山城の蟹満寺の開基は東大寺大仏殿を建立した行基菩薩と云われています。
イメージ 2
これは木津川に居たであろう「藻屑蟹です」写真出典ウィキペディア藻屑蟹は何処にでもいる大型の蟹です。蟹がお握りを持っていたのは泡を吹く姿がご飯が炊ける様子に似ていたからかも知れません。
【蟹の恩返し】木津川の畔に観音菩薩を篤く信仰している夫婦がいました。或る日夫婦の娘が蟹を助けてあげました。一方娘の父は蛇が蛙を飲み込もうとしているのを見て、蛙を助けたい一心で、蛇に対して「もしその蛙を放してくれたら娘の婿にしよう」と言ってしまいます。すると蛇は蛙を放し、姿を消します。
その夜、衣冠束帯で身をただした男が夫婦の家に現れ、昼間の約束を迫ってきました。嫁入り支度を言い訳に、三日後に改めて来るようにと男を帰しましたが、その日が来ても約束を守れません。蛇は本性を現して暴れ始めました。娘が行基菩薩に相談すると菩薩は、「決して恐れることなかれ一重に仏に帰依しなさい」と諭します。
夜が明けて戸外へ出てみると、鋏で寸々に切られた大蛇と、無数の蟹の死骸が残されていたのでした。
 以上が今昔物語にも載っている「 蟹の恩返し」のお話です。
私の頭には蟹満寺の薬師如来像がアップされています蟹はどんな蟹だったろうか?大蛇を切り刻んだ蟹なのだから鋏の巨大な蟹なのだろう。
若しかしたら蟹は大蛇と戦って切り刻んだのではなくて。何かの原因で死んだ大蛇の遺体に蟹が群れて死肉を食らっていたのかもしれない・・・、なんて想像します。蟹と蛇の合戦が蟹満寺の伝説ならば蟹と猿の合戦が有名な「猿蟹合戦です。コッチの方なら想像は容易です。
【猿と柿の実】
去年日吉大社に詣でるとその神門に巨大な権現猿の絵馬があってその前に御神木の豆柿が稔っていました。豆柿ですから幾ら食べても腹が一杯になることは無いでしょうが山猿にとっては貴重な越冬食でしょう。
イメージ 3
これは日吉大社神門前の豆柿です後ろに権現猿の絵馬も見えます。猿蟹合戦では悪役の猿ですが猿は柿が好物なのでしょう。柿は低血圧を促す健康食品ですそれにこの柿は注連縄が巻かれて御神木である事を示しています。
猿は日吉大社の話をするまでもなく山の神の使いでしょう、一方蟹は水の神の使いです。木津川の中流域の畔で山の神一族と田の神一族が戦ったその結果狡猾な山の神一族は田の神一族の連合軍(蜂や臼)に負けた…。私は猿蟹合戦の背後にある民俗学に思いを巡らします。
イメージ 4
これは江戸時代の猿蟹合戦絵巻で、右下から蟹の子供に、臼牛糞、蜂があります。絵巻を観ながら子供達は道具までもが連携して仇討をした場面を想像したのでしょう。この絵では子供の遊び相手の沢蟹が描かれています。出典はウキペディア。

【猿蟹合戦】
私達が馴れ親しんだお話は大凡次の通りでした。
蟹が「お握り」を持って歩いていると、ずる賢い猿が柿の種と交換しようと言いました。蟹は最初は嫌がったでしたが、”種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので、蟹はおにぎりとその柿の種を交換してしまいました。
蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿がたくさんなった。このように風習は市田柿で有名な飯田等南信濃で多く見られます。一般に「成木責め/なるきぜめ」と呼ばれ、小正月に「今年は豊作にならないと切り倒すぞ!」と脅すのです。
そこへやって来た猿は、柿を取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登りましたが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらないばかりか、青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまいました。此処から「親の仇を子供が討つ」話に変わります。
蟹の子供達は親の敵を討とうと栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せ敵討ちの算段をしました。栗は囲炉裏に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れました。そして猿が家に入って囲炉裏で身体を暖めようとすると栗が体当たりをして猿は火傷負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとして牛糞に滑り転倒、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討ったのでした。
以下昔話にある猿蟹合戦のポイントを書き上げます。
1、蟹が最初に持っていたのは「お握り」で「お結び」ではありません。「お握り」は三角形で総じて関東以北で食べる携行食です。関西では「お結び」と呼び丸型か俵型をしています。「お結び」が吉事を思わせるのに対し「お握り」は凶事に食べられる事が多いようです。
2、蟹はお握りを持っていたが猿の誘いに乗ってしまったのが不可解です。桃栗なら3年なのに柿の種は芽吹いてから8年も経たなければ食べられません。等価交換の原則に著しく反しています。子供心にも「気の良い蟹は狡猾な猿に騙された」思います。屹度因果応報最後は猿が後悔する事になると予測します。

削り掛けの美しさ

$
0
0
去年の秋の日文献セミナーで議論された事がありました。テーマが『檜扇/檜の薄板で作った扇」「絹扇/鼈甲や竹の骨に絹を張って作った扇」と「紙扇/今日一般的な扇竹の骨に和紙を張った扇」があったのは判るがどのように使い分けたのであろうか?』そんな話題でありました。私は小倉百人一首の絵札を確認して扇の使い分けを推論しましたその骨子は
1、扇は神主が持つ笏のようなモノ。笏が檜製である以上扇は檜が原則。
2、古代は紙が貴重品だったので紙製の扇は汎用されなかった。近世になって紙が普及して以来扇と云えば竹の骨に和紙となった。、

今時の「浮世床屋」戸塚「笑髪」

$
0
0
髪の毛が伸びて煩わしく感じられて来ました。来週は暫く暖かい日が続きそうなので今年最初の床屋さんに出かけました。私の行きつけは旧旭町通りにある「笑髪」と云う名の床屋さんです。安い事と丁寧な事がプラス評価です。マイナス評価は理容師が世間話を良くするのです。私は何時も生半可な受けご答えをするのですが後から後から次々に話題を出してきます。
私は何時も次の様に注文します。「サッパリさせて下さい、1箇月の間は来なくて良い様に刈り込んで下さい」すると理容師は「バリカンを使っても良いですか?」確認します。私は1箇月の間は来なくて良い様にしてくれれば後はお任せです」云うと電動バリカンでバサバサ(云う程豊かな髪ではありませんが)髪を落します。一応髪が落ちると「交代させていただきます」断って奥様風の人に後退して髭剃りから整髪までしてくれます。私は昨今眉毛の伸びが早くて1箇月も経つと瞼に入りそうに伸びてしまいます。女将さんは「眉毛もカットしますか?」必ず聴きます。私は何度も聞かないで!次に来るのは1箇月後なのだから。それまで快適なように切ってくれれば良いのに・・・」思います。鼻毛や耳毛は黙っていても切ってくれます。眉毛だけ切っても良いか聞くのは屹度濃いのでこだわりがあるかもしれない」思うのでしょう。
私は”たそがれ清兵衛(藤沢周平)は知っているか?”訊きます。奥さんも主人も知らないと云います。
先ずお話を説明します。
舞台はこれも藤沢作品お馴染の海坂藩です(山形の鶴岡)。
主人公は下級武士の井口清兵衛(映画では真田広之」。
清兵衛は質素な生活をしており、何時も黄昏になると家に真っ直ぐに帰ります。家に帰っても奥様は長く労咳を患い先立っていましたので今は老母の面倒だけを見ています。
そんな清兵衛に後添えを世話する話もあるのですが清兵衛は頑なに断ります。
ゆとりのない家計から、仕事の後の付き合いも断り、いそいそと家路につく清兵衛。
いつしかそんな彼を同僚たちは、たそがれ時には帰る男として「たそがれ」と呼ぶ。
唯一、幼馴染の朋江(宮沢理恵)だけが、密かに好意を寄せています。
しみじみとしたドラマが藤沢作品の真骨頂が美しい庄内の自然をバックに綴られて行きます。。

やがて藩主の突然の死とともに家騒動が起ります。一刀流の使い手・余吾善右衛門がいた。余吾は切腹を命じられたが従わず、追手を倒し家に閉じこもります。藩命に逆らう余吾に討手を差し向けますが何れも返り討ちに遭ってしまい清兵衛に討つよう命令が下されます。藩命で逆賊を討つわけですが相手は剣豪です。清兵衛は仇討の正装に身なりを整えようとします。男やもめの清兵衛の面倒を見る人はいません。清兵衛は幼馴染の朋江(宮沢理恵)に依頼します。無精髭は伸び放題頭もボサボサの清兵衛の月代を朋江が剃ります。身支度を整えて清兵衛は余吾善右衛門を討ち取りに向かいます。
実はラジオ深夜便に遠藤 展子(えんどう のぶこ)氏が出て来られ藤沢周平氏の想い出話をされたばかりでした。藤沢周平氏は理髪店には行かず何時も奥様に遣って貰っていたというのです。

早春賦の故郷

$
0
0
2年前の今頃はリハビリ病院の「若草病院/金沢八景」に居ました。左半身は麻痺していても幸いに右手は自由でしたし。頭脳は壊れていないと自覚していました。アレコレ思いを巡らせているとそうだ母は”美しき天然”と”早春賦”を何時も口ずさんでいた事を想い出しました。其処でワイフに頼んで色鉛筆を持ってきてもらって早春賦のイメージを絵にしました。
イメージ 1
手拭を無造作に被って麦踏をしているのは私の母です。麦踏腰を屈めますので腰痛になります。加えて私を背負っていますから負担は腰に集中します。早春賦は1番は正月2番は麦踏で3番は野分です。美しい日本の田園の四季を表現して余りある歌詞です。
私達世代は学校で口語を教わりました。小学校の国語の授業では作文があって、出来るだけ口語で自由に思う処を表現すると誉められました。でも音楽の授業では口語とも文語(古語)とも解らぬ中途半端な歌を歌っていました。それが文部省唱歌で母が口ずさんでいる歌だと後で気づきました。
例えば故郷の歌詞で「兎追いしかの山小鮒釣しかの川」と歌いながら「兎は美味しいのかな?」思っていました」意味は解らなかったり間違えていても唱歌の歌詞の響きの良さを感じていました。
言葉がコミュニケーション手段である以上日常に自分の心や気持ちや意志を伝えるのが最大の目的です。その意味では話言葉と(口語)書き言葉(文語)と比べれば話し言葉が優先します。明治になって話し言葉で自由に表現する自由詩運動が起ったのは西洋文明を移入して必然の行為だったのでしょう。でも日本には俳句や短歌と云った文化の伝統があります。口語自由詩運動の影響もあって韻文の世界にも口語自由律運動が起りました。明治政府は音楽に着いても近代化を進めようとします

横綱の重み

$
0
0
2017年初場所は初日に天皇皇后両陛下の御観戦を仰いで稀勢の里の優勝、横綱昇進も確定化させて国民の「溜飲を下げる」着地になりました。日本人横綱は19年間も不在だったのでしたから天照大神も安堵された事でしょう。今年も日本人横綱が不在であったなら、国技館の神明造りの大屋根が落果したかもしれません。
イメージ 1
この初場所は千秋楽に相応しい幕締めで終わりました「君が代」を斉唱する観客も力士も”2017年は酉年幸先が良い”確信した事でしょう。土俵の上は伊勢神宮と同じ神明造りの屋根が吊り下げられています。天照大神も日本人横綱が20年も出ないとお怒りが爆発したかもしれません。
イメージ 2
今年正月の明治神宮での奉納土俵入り様式美の極地だと思います。写真は鶴竜
イメージ 3
此方は雲竜型土俵入りをする日馬富士蕨色の化粧まわしが新春を寿いでいました
イメージ 4
此方は不知火型土俵入りをする白鵬
今日のニュースでは既に稀勢の里の締める横綱を打つ為に白麻糸を用意し始めたのことです。横綱とは注連縄の様な綱を腰に巻く事から名付けられたお相撲さんの最高位なのです。
横綱は天下無双と云う意味で横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山)(ひのしたかいさん)とも呼ばれます。初場所だけを観れば白鵬でさえ4敗もしたのですから3横綱は「日下開山」とは呼べません。
でも来場所以降は稀勢の里対モンゴル3横綱の対立の格好になるし、3横綱共に稀勢の里をマークしてくるから。稀勢の里のお父様の云われる通りこれからが大変でしょう。ライバル3横綱共に過程を持って脇目もくれず相撲に精進しています。稀勢の里も先ず素敵な伴侶を娶り横綱の筆頭をけん引してほしいモノです。
注連縄を張られるのが横綱なのですから横綱の体はご神体(神の依り代」です。健康で美しくなければなりませんしその言動も神のようでなくてはなりません。心技体とも神のようでなくては「神がかって」いなくてはなりません。誰かのように言動に品位を欠いたり負けが込めば引退しなくては示しがつきません。
今場所も初日に日馬富士の雲竜型土俵入りを観ていて「美しいな!思ったものでした。雲竜型とはせり上がりの時に左手を胸に右手を伸ばして定位置に入る土俵入りで綱の結び目一輪です。方や不知火型は両手を水平に伸ばしてせり上がります。そして綱の結び目は両輪です。私は雲竜型は日本の山岳を象徴し山の神をイメージし不知火型は海や平野を象徴していると推測しています。現在は白鵬だけが不知火型で日馬富士も鶴竜も雲竜型です。稀勢の里は牛久の出身ですし、田子の浦部屋ですから不知火型かもしれません。でも二所一門ですから初代若の花以来の雲龍型と予想するのが大半でしょう。いずれにしても誰が横綱土俵入りの指導をするかに依ります。
それにしても八角理事長(元 横綱・北勝海)は運の良い人です。前任理事長北の湖理事長が大麻問題などで苦労し病気で訃報に遭遇すると、普通なら九重親方(元横綱千代の富士)が理事長になるべきところ推されて理事長に就任相撲界の刷新に着いては「山響親方(元貴乃花)が候補に上がりマスコミ人気などは山響親方に好意的でしたが。これで積年の課題も消えて長期政権は盤石に見えます。魅力的で将来性のある力士も出て来ましたし新弟子も増えているようです。
イメージ 5
新弟子紹介。兄弟子の化粧まわしを借りて序二段付け出しで最初の一歩を踏み出します。稀勢の里青年も2002年3月に初土俵稀に見る勢いで番付を駆け上がった事から現在の四股名をつけられたとの事だそうです。

花餅の民俗学

$
0
0
正月3日に三溪園に行きました。目的は「三溪園のお正月」で「和妻」と呼ばれる、江戸奇術を観る事でした。例年は1日のお琴2日の包丁式を観ていたのですが今年は奇術を観る事にしたのでした。
イメージ 3
これは三溪園の鶴翔閣で実施された北見翼氏http://www.revive-system.net/meet/0014.htmlによる和妻です。両手の親指を紙縒りで結ばれた状態でお客さんが投げるリングをキャッチしてみせます。
伝統の奇術を観て私は園内を早春の気配を探して廻りました。合掌造りの周囲にある蝋梅を観に行きました飛騨から移築した合掌造りのお正月を確認したいと思ったのでした。
イメージ 4
これはダムの湖底に沈む危険から救出されて三溪園に移築された旧矢箆原家住宅(やのはらけ)重文です。蝋梅も今が盛りでした。
1月15日は小正月です。「小正月」とは旧暦の1月15日の事で満月です。処が太陽暦になっても1月15日の小正月は生きていて「左義長祭り」や「なまはげ祭り」等は15日挙行されています。正月明け2週間経ったのでソロソロ正月気分も空けなさいと云う意味なのか年末年始多忙であった主婦の骨休めの意味なのかも知れません。小正月には花餅を飾り花餅を食べるのが習慣です。
実は私は以前から花餅が日本列島の東西で違う事に気付いていました。どうも境目は糸魚川断層帯のようです。地溝帯以東では「繭玉」と呼びお餅が楕円形であるのに対し、西は丸くて団子状で「花餅」と呼ぶようなのです。材料は同じ紅白のお餅です。東は総じて柳の木にお餅を咲かせますが。西は柳では無くてミズキや榎を使うようです。去年東俣野の大工さんがその応接室を開放して茶屋を開店しました。開店したのは桜の季節でしたが壁には餅花を飾っていました。飛騨古川出身の女将さんに餅花の作り方を聴いていました。先ず飛騨古川の餅花を観てください。
イメージ 1
これが飛騨古川の花餅です。丸太を輪切して台座にしてその上に雑木(ミズキ)を立てて紅白のお餅を団子にして飾り付けています。一見して桃の花を思わせます。
下が三溪園の旧矢箆原家住宅【重要文化財】1750年頃(宝暦年間)に飾られていた花餅が下の写真です。
イメージ 2
これが三溪園の合掌造り旧矢箆原家住宅に今年飾られた花餅です。使用した木は柳です。飛騨スタイルならミズキ等の雑木であるところ関東風の柳です。それにお餅の形も楕円の繭の形です。関西では花餅と呼び関東では繭玉と呼びますどちらも歳神様の依り代ですが関西はお米の豊作を祈ってお団子なのに対し関東では養蚕の収穫が大きい様に繭の姿にします。
1月15日は小正月、各地で歳神様を祀った予祝祭事が行われます。33間堂では通し矢が行われます。振袖を襷に括って新成人が放つ矢には。厄病神を怖れを為すことでしょう。
イメージ 5
これが33間堂の通し矢神事です。新成人が33間堂の前庭で通し矢を射ます。鳴弦(めいげん)の儀と同じ魔除けの呪術です。藤をあしらった袴がお揃いです。観れば京都女子大と書かれています。斯様に逞しければ120m先の金的を射抜く事でしょう。写真出典は産経デジタル新聞。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL5nwWXlY5F0AuRgdOfx7?p=%E9%80%9A%E3%81%97%E7%9F%A2%EF%BC%93%EF%BC%93%E9%96%93%E5%A0%82%E7%94%A3%E7%B5%8C%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
私の生活圏では大磯の左義長が有名です(無形民俗文化財)。昔は毎年出かけて。神事の炎で焼かれた花餅を食べるのが楽しみでした。
イメージ 6
これは久里浜のペリー公園前で開かれる左義長です。長瀬町では祭事に集まった人にお汁粉を振る舞って下さいます。私の様な外者にも快く振る舞って下さいます。原則お椀持参ですが忘れても大丈夫です、この記事は以前次に書きました。http://image.search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RCL6NIVHlY.RkAIS8dOfx7?p=%E5%A4%A7%E7%A3%AF%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7+%E8%8A%B1%E9%A4%85&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
花餅はその生い立ちが神事である事は疑いない事実ですが。桃の花が咲き出す春を待つ気持ちに相俟って美しい民芸になっています今も商店街の飾りやレストランや割烹の床の間に飾られています。魔を払い福を招くのにピッタリの意匠です。
イメージ 7
これは東戸塚のオーロラモールにある串揚げ店のショーウィンドー餅花が飾られていましたが・・・・。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

横綱の重み

$
0
0
2017年初場所は初日に天皇皇后両陛下の御観戦を仰いで稀勢の里の優勝、横綱昇進も確定化させて国民の「溜飲を下げる」着地になりました。日本人横綱は19年間も不在だったのでしたから天照大神も安堵された事でしょう。今年も日本人横綱が不在であったなら、国技館の神明造りの大屋根が落果したかもしれません。
イメージ 1
この初場所は千秋楽に相応しい幕締めで終わりました「君が代」を斉唱する観客も力士も”2017年は酉年幸先が良い”確信した事でしょう。土俵の上は伊勢神宮と同じ神明造りの屋根が吊り下げられています。天照大神も日本人横綱が20年も出ないとお怒りが爆発したかもしれません。
イメージ 2
今年正月の明治神宮での奉納土俵入り様式美の極地だと思います。写真は鶴竜
イメージ 3
此方は雲竜型土俵入りをする日馬富士蕨色の化粧まわしが新春を寿いでいました
イメージ 4
此方は不知火型土俵入りをする白鵬

今日のニュースでは既に稀勢の里の締める横綱を打つ為に白麻糸を用意し始めたのことです。横綱とは注連縄の様な綱を腰に巻く事から名付けられたお相撲さんの最高位なのです。
横綱は天下無双と云う意味で横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山)(ひのしたかいさん)とも呼ばれます。初場所だけを観れば白鵬でさえ4敗もしたのですから3横綱は「日下開山」とは呼べません。
でも来場所以降は稀勢の里対モンゴル3横綱の対立の格好になるし、3横綱共に稀勢の里をマークしてくるから。稀勢の里のお父様の云われる通りこれからが大変でしょう。ライバル3横綱共に過程を持って脇目もくれず相撲に精進しています。稀勢の里も先ず素敵な伴侶を娶り横綱の筆頭をけん引してほしいモノです。
注連縄を張られるのが横綱なのですから横綱の体はご神体(神の依り代」です。健康で美しくなければなりませんしその言動も神のようでなくてはなりません。心技体とも神のようでなくては「神がかって」いなくてはなりません。誰かのように言動に品位を欠いたり負けが込めば引退しなくては示しがつきません。
今場所も初日に日馬富士の雲竜型土俵入りを観ていて「美しいな!思ったものでした。雲竜型とはせり上がりの時に左手を胸に右手を伸ばして定位置に入る土俵入りで綱の結び目(お相撲さんの背中にある)は一輪です。一方「不知火型」は両手を水平に伸ばしてせり上がります。そして綱の結び目は両輪です。私は雲竜型は日本の山岳を象徴し山の神をイメージし不知火型は海や平野を象徴していると推測しています。
現在は白鵬だけが不知火型で日馬富士も鶴竜も雲竜型です。稀勢の里は牛久の出身ですし、田子の浦部屋ですから不知火型かもしれません。でも二所一門ですから初代若の花以来の雲龍型と予想するのが大半でしょう。いずれにしても誰が横綱土俵入りの指導をするかに依ります。
それにしても八角理事長(元 横綱・北勝海)は運の良い人です。前任理事長北の湖理事長が大麻問題などで苦労し病気で訃報に遭遇すると、普通なら九重親方(元横綱千代の富士)が理事長になると予測されましたが、推されて理事長に就任し。懸案の相撲界の刷新に着いては「山響親方(元貴乃花)が候補に上がりマスコミ人気などは山響親方に好意的でしたが。選挙の結果理事長を留任できました。そしてこの初場所に待望の日本人横綱を誕生させ、積年の課題も消えて長期政権は盤石に見えます。魅力的で将来性のある力士も出て来ましたし、新弟子も増えているようです。
イメージ 5
新弟子紹介。兄弟子の化粧まわしを借りて序二段付け出しで最初の一歩を踏み出します。稀勢の里青年も2002年3月に初土俵稀に見る勢いで番付を駆け上がった事から現在の四股名をつけられたとの事だそうです。
イメージ 7
これは初場所の初日両陛下を出迎えられた八角理事長関係者が並んで立礼しています立礼が綺麗に揃う事も大事です。こんなところにも八角親方の指導力が窺がわれると思うのです
で、最近感心する事があります。それは、お相撲さんの礼儀が立派な事です。
以前は審判員の前を通って控えに坐る時に会釈もしない力士が目立ちましたが今は出身国に依らず全力士が日本流の会釈をして通り過ぎますし通路を通って控室に戻る時にも付け人に挨拶しています。
付け人は浴衣を持って待ち受け。その後風呂に案内し、背中でも流すのでしょう。古風な相撲界にあったら当然の面倒見なのでしょうが力士の姿勢には感謝の気持ちが溢れています。一時「虐め問題」が発覚して傷害事件まで発展した相撲界でしたが。礼儀と上位の力士の感謝の気持ちが表現されるようになって「虐め」も「八百長」も「大麻」も「野球賭博」も過去の問題になったようです。時期的にはこれらの功績は八角親方に帰する事になるのでしょう。姿も心も国技に相応しくなってきた功績は関係者全員の努力の賜物でしょうが。誉められるのは角界を代表する八角親方です。八角親方なんて妙な名前だと思いましたが末広がりの目出度いお名前だったのでしょう。

イメージ 6
優勝賜杯を授与する八角理事長、実に運の良い人です。神様が下積みの苦労を観ておられて今日の僥倖を授けたのでしょう。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


早稲田大学教授の重み

$
0
0
連日早稲田大学に天下った文部省官僚の話題が報道されました。高級官僚の天下り問題はもう30年も前に問題になり公務員法の改正まで実施されました当時は金融界を監視する金融庁や産業界を指導する通産省や薬価や医療の認可権等を持つ厚労省の役人の天下り先について監視の目が向けられていました。ですから「今回文部省が」と聴くと訝しく思いました文部省は昨今さして必要とも思われない「道徳教育」を掲げ人倫を正そうと躍起でしたのに法律違反を私欲の為に犯すとは考えられなかったからです。マスコミの眼は一斉二文部省に向けられました。多分今国会でも野党は新旧文部大臣の責任を追及するでしょう。
私が解らないのは肝心の早稲田大学が文部官僚(高等教育局長)を教授に迎えて何を期待したか?と云う事です。
金融庁ОBや通産省ОBなら専門知識に秀でていて各界に顔も効く事でしょう。何を期待したのか大凡見当もつきます。今回の文部省の天下りは早稲田大学は何を期待してや受け入れたのか不明です。何のスキルも無い教授の講義を聴かなければならない学生も気の毒な気がします。其処でネットで天下り官僚の経歴やインタビューを確認してみました。経歴から解る事は京都大学卒の官僚であった事
l苦人の

神仏習合の極「春日大社の霊宝」

$
0
0
愈々東博で「春日大社/1千年の至宝」が始まりました。奈良の春は「若草山の山焼き」と続いて「2月堂のお水取り」で遣って来ます。「山焼き」は「焼畑農業の名残り」をとどめ、お水取りは「水稲農業」の伝統を伝えていると思っています。他の習俗同様に奈良の習俗や祈りは日本全国のそれを代表するモノだと確信しています。私の体さえ随意であるのであれば「若草山の山焼き」(毎年1月の第4土曜日、今年は今週末の1/28日です)に、お水取り(今年は3/1→3/14)に出かける処ですが、今はそうも出来ないので上野のお山にワイフに付き添ってもらって1月24日に出かけました。
イメージ 1
これが春日大社展のポスターです。展示は期間中に入れ替えがあります。上のポスターの中で白い鎧(白梅鶯)/国宝は出展中でしたが赤い鎧(国宝)は後期に展示する様でした
テレビでは毛抜太刀を現代匠が模造する姿を放映していましたが、その模造品と云えども驚きの精巧さで優美さでありました。
イメージ 2
これが国宝の毛抜太刀を模造複製したものです。形が毛抜きのように見えるのですがサヤにはスズメと猫が螺鈿細工されていました。写真は産経新聞社http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E6%AF%9B%E6%8A%9C&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=0&oq=kasuga&at=s&ts=4736&fr=top_ga1_sa
あれもこれも書きたいのですが、私が最も感銘した事を報告させていただきます。
それは「春日権現霊験記絵巻」です。春日大社の奇瑞を絵解きした絵巻は中世の風俗や戦闘を知る絵巻として度々観るモノでしたが、改めて自分の眼で見ると、当時の人が春日大社を拝んだ気持ちが判る気がしました。
春日権現霊験記絵巻は縦50㎝の大きな画面で全20巻で高階/隆兼等 が絵を画き、一乗院/良信( 良信 ) 詞書を書いたものでした。宮内庁はこの国宝絵巻を次のHPで紹介していますhttp://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-07.html
イメージ 12
会場の上野博物館平成館の前庭(鴎外住居跡)の池も氷が張っていました。
絵巻の16巻は次のような「若宮」創立に係る奇瑞です。
ある時突然に春日大社の森が枯れ始めたのでした。奈良の人々も「春日の神が去ってしまった」と落胆したのだそうです。常緑の古木が鬱蒼と繁った森が突然に枯れ始めた理由は当時の人にとっては「神が奈良の国を見捨てた」と直感して天災地変を危惧したのでしょう。私達は竹生島の松が枯れてしまった事を残念に観ています。でもその原因は増えすぎた鵜の糞害で土壌がアルカリ質に変わってしまったのが原因と承知しています。でも精霊を信じていた人達は神々に見捨てられたと思ったのでしょう。
でもある日突然に雷が春日の森に落ち他のでした。雷雨が上がると。見る見る春日の森に緑が蘇りました。人々は『春日の神が蘇ってお戻りになられた』確信したのでした。そしてお戻りになられた神様のお住いを新築して「若宮」ズット奈良をお守りいただくように祈りました。
イメージ 3
春日の森に雷雨が降って森に緑が戻ると神鹿も戻って来ましたそこで若宮を建立して神様のお住いを新築したのでした。
イメージ 4
正面が春日の森その手前左が春日大社正殿右が若宮です。春日大社の背後が三笠山です三笠山には月が出ていて中空には5体の本地仏(本来は春日の神であるが、仏の様相で招来した)が描かれています。
イメージ 5
これは神鹿を収めた厨子です。鹿の背に乗っているのは宝珠ですから仏舎利と考えて良い事になります。
イメージ 6
これは春日神鹿です。鹿の背に乗っているのは榊と5面の鏡です。仏教なら上写真の様に仏舎利が乗っているのですが春日大社ですから神の依り代である榊と鏡がデザインされているのです。これはポスターにも使われています。
イメージ 9
これは法隆寺の玉虫厨子です。厨子の外側は仏教説話「(捨身飼虎図」が描かれていて内側は諸仏が描かれています。何処を観ても仏教色が色濃いのですが春日大社の厨子は緑濃い春日の森に囲まれて厨子の中に神の依り代が置かれているのは日本的な解釈で良いモノだと思います。

私が見入ってしまったのが江戸時代に作られた厨子でした。厨子の前扉には仏像が描かれていて厨子の内側には翡翠で春日の森が描かれていました。厨子の中には鏡絵以外は何もありません。屹度神鹿か仏舎利が奉納されていたのでしょう。有名な法隆寺玉虫厨子では外側は説話(捨身飼虎図」や諸仏が描かれています。ところが春日大社のお厨子は春日の森だけが描かれているのです。
イメージ 10
これは近世の春日十界曼荼羅図春日の森を人間が右から左に回って行きます。その間の姿が人間の一生になっています。曼荼羅の略中央に閻魔大王が居て人の一生の善悪を審判しています。画面下半分は地獄を始とした六道が描かれていますこの意匠は伏見稲荷も同じです。春日曼荼羅は日本人の信仰の歴史そのものです。今回の展示は古代から鎌倉時代までですがこうした絵図も春日大社の重要性を示しているのです。
春日奥山を石仏を探して歩いていた事がありました。森の中は神が精霊が充満している気配でした。石仏を探していると谷風が渡って来ました。熊笹や羊歯の葉がザワザワと揺れて谷合から尾根に向いて昇って行きました。私は一歩下がって風を通しました。春日の神様が尾根に向かって昇って行かれた直感したのでしたから。
日本中に春日の森があります。
春日の森の前には三輪山があって、伏見稲荷の稲荷山も春日森に瓜二つです。日本中が神仏習合を促す風土です。無理矢理に神仏を剥が葬とした時に間違いが起りました。古代は壬申の乱、近代では西南戦争も起こりました。逆に神仏習合が進んだ時代は平和でした。
展覧会場には春日大社の神職が待機されていて質問に答えておいででした。
私は訊いてみました。
イメージ 11
今次の展覧は信仰の対象ですから撮影は出来ません。そんなっストレスを晴らす為か写真撮影コーナーが用意されていました。

「春日大社の遷宮は20年毎ですか?」
「そうです。春日大社も20年間隔で遷宮致します。お伊勢さんの3年後と記憶してください」
「横浜の皇大神宮はお伊勢さんの古宮を戴いているので立派な神明造りですが春日大社も古宮を末社に融通する便宜はあるのですか?」
「春日大社の末社は3千社に及びます。大半が西日本です。江戸時代までは古宮を融通した事がありますが明治以降は無いと思います」
博物館を出ると上野の森には寒桜が咲いていました。
さあ、これから地下鉄(日比谷線)に乗って六本木に出かけよう、富士フィルムで入江泰吉さんの写真展を観に行こう。ランチは我慢して六本木で戴く事にしよう。
イメージ 7
無事に立派に遷宮を終えた事から昨年10月から今年3月31日まで新本殿の特別拝観をしているのだそうです。これはそのポスターの表紙です。気持ち丹の色が朱に近くなったと感じます。
イメージ 8
これは今が盛りの上野の寒桜旧寛永寺の記憶を留める銘木です。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。


入江泰吉の心の傷

$
0
0
上野公園口から営団地下鉄に乗り換えるのは大変です。JR改札口ではアナウンスを繰り返して坂を下って西郷さん口まで回るように案内しています。外国人観光客や私の様な歩行不自由者の為には連絡通路が欲しいモノです。入場券を買って上野駅東口に出て、昭和通り地下にある日比谷線改札口に回ります処が営団地下鉄は階段ばかりで私は大変です。総じて階段の上りはどうにか歩けるのですが下りは歩くのが困難と云うか怖いのです。
腹が減って眩暈を覚えるモノの入江泰吉さんの写真見たさに必死に日比谷線ホームに辿り着きました。
六本木駅には入江泰吉写真展(富士フィルムギャラリー)の電飾板が案内しています。例年「新年会」をミッドタウン界隈で開催してきましたか今回は夫婦で来たのでしたが”仲間に案内すれば良かった”後悔してももう遅きに失しました。
私が大学に入学したころ入江泰吉さんは未だお元気でした。私の1年後輩の学生さんにYさんと云うお嬢さんがいました。善財童子のように顔が丸くて目がクルッとした可愛いお嬢さんで名門奈良高校の卒業生でした。昭和47年夏には私達は奈良で合宿して、その後Yさんの紹介で仏像パートの仲間が揃って入江さんのお宅を訪問したのでした。
イメージ 1
これは案内チラシの写真です。背後の白木蓮から元興寺で撮影されている入江泰吉氏と思われます。
私はそんな企画が在った事も知らなかったし、誘われもしなかったので行けませんでした。後で切歯扼腕したのでした。
イメージ 2
今回の展示会で使われている法隆寺の夕焼け。このアングルは入江氏のお好みだったようで沢山撮影しておいでです。昔は尾花の向こうに五重塔が見えたのでしたが、何時しか尾花(ススキ)がブタクサに駆逐されてしまいました。入江氏は新聞紙上で嘆いておいででした。
当時私達の愛読書は和辻哲郎氏の「古寺巡礼」と亀井勝一郎氏の「大和古寺風物詩」でした。和辻氏の著はギリシャローマの彫刻を観るような審美眼で仏像を観るモノでした。一方亀井さんの眼は心に大きな痛手を負い仏像に救いを求める著でした。戦争を総括するには未だ不十分な時代でしたから、”国破れて山河有り”、”何故無謀な戦争をして焦土にしてしまったのか?”総じて云えば日本国民は悔悟の念が強く、美しい大和の風光と優しい仏像に癒されたいと思っていたのでした。時代感覚は和辻氏よりも亀井派が多かったのでした。
イメージ 3
此方は入江氏が写された秋篠寺の伎芸天像です。(出典四季大和路/集英社)を複写、氏は仏像写真の開眼をこの写真だったと述回しておいででした。と云うのは氏がカメラをセットしてファインダーを覗いていて御坊様が竿の先にライトを縛り付けて移動させたのだそうです。ファインダー内の伎芸天の表情が刻々変化するので見惚れてしまったのでした。以来、沢山のライトを用意することはせずに、少ない光源で仏像を見詰めていて、最高の瞬間に一度だけシャッターを押すのだそうです。
写真界にも矢張り二人の巨匠がいました。一人が土門拳氏で同氏は筑豊や広島を写した社会派の眼を持っておらr手ました。ところが同氏が脳梗塞を発症して以来、ジャンルを変えて室生寺に向かい、「古寺巡礼」を上梓したり日本の歴史や文化に沈潜して行きます。でも土門さんのカメラアイは陰影が濃くロダンの彫刻を観るようでした。高田後胤さんはストイックな土門拳さんを”仏像と果し合いをするようだ”評されました。一方入江泰吉さんのカメラアイは対極でした。祈るような眼差しで仏像の前に立って何時間もシャッターを押さず、心に響いた瞬間にシャッターを押されたそうです。矢張り高田後胤さんはそんな入江さんの姿勢を”入江スタイル”と評し愛されたようでした。ルネッサンス彫刻を美術館で観るような目で仏像に対峙されたのが土門拳氏なら、戦争で傷ついた心を癒やして貰おうと仏像を仰ぎ見たのが入江泰吉さんでした。同じ室生寺の11面観音を写しても土門さんの写真は見ていると疲れてしまいますが、入江さんの写真は癒されます。
イメージ 4
これは土門拳さんの古寺巡礼の装丁に使われた薬師寺の聖観音像、土門拳写真集は私の学生時代(1960年代)出版されたのでしたが高価だったので購入できないでいた処、近時親友のお父様の遺品を恵贈して戴きました。改めて古武士のような土門さんの撮影スタイルを敬服しています。土門さんは沢山のライトを使って速射砲のようにシャッターを押すんだそうで、この写真集を推薦された高田後胤師(当時の薬師寺管主)は書いておいででした。
土門さんの対極の様な優しさや哀惜に満ちていました。
終戦を経て昭和21年入江太吉さんは当時東大寺法華堂にの四天王像が疎開先から帰還するのを目撃します。その時の東大寺の堂守は「戦勝国のアメリカが賠償として日本の古美術を持ち帰るそうだ」と噂していました。入江さんはそれでなくても心に戦争の痛手を負っておいででしたから。愕然として仏像を写真に残すことを決意します。仏像を祈る気持ちで観る姿勢は風景を観ても祈りが先行したのでしょう。
イメージ 5
これは入江氏が再三写された二上山に沈む夕陽です、手前の水面は崇神天皇陵です。入江氏は二上山を仰ぐときあの山頂に眠る大津皇子の魂に慰撫してその瞬間を待つのだそうです。出典四季大和路
二上山の夕景を撮られても美しいだけでは駄目で大津皇子の魂を慰撫する心が写真に写っていなければ満足されないと話されていました。そんなスタイルは屹度秋篠寺の伎芸天を写された時に体験されたのでしょう。入江さんがカメラを構えておられてお寺の方がライトを竿の先に取り付けて写されたのだそうです。
ライトが動くと伎芸天の表情が刻一刻変化したのだそうです。伎芸天の表情の変化に魅了された入江さんは複数のライトで陰影を強くするのではなく、優しい光で闇に浮かぶ仏像を待って写されたそうです。
イメージ 6
これも四季大和路に載せられた興福寺五重塔この写真は堂宇の位置から県庁か奈良女子大の屋上から写されたものと思います。五重塔の彼方高円山の麓が入江氏の旧居のあった場所で現在は「入江泰吉写真館になっていますこの辺りは入江氏と交友があった志賀直哉氏の旧宅もあって奈良に住む文化人村の趣があった処です。勿論風光明媚な場所です。この写真でも解るように入江さんは雨上がりや「霞んだ」景色がお好みでした。
イメージ 7
これは桜の吉野山です。観光写真では快晴満開の山桜が好まれますが入江氏は雲が湧いて霞に煙る桜を好んで写されました。

吉野山の桜も山の辺古道も得意な被写体だったようですが。どの写真も快晴では無くて雲や霞に翳っているのです。兼好法師は”「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と達観されましたが入江さんは”花は天気に観るものかは、雨に濡れ雲に霞みた時に観るこそ良し”云われたモノと確信します。霞に曇った山桜こそ美しいと主張されておいでです。
そんなわけでフジフィルムギャラリーに入って入江泰吉さんの写真を観ました。写真は全紙が最大で小さいモノばかりでした。新薬師寺に近い「入江泰吉写真館」の方が遥かに充実していました。それに入江さんの愛用のカメラが展示されているのでもなく期待外れでした。
イメージ 8
此方がミッドタウン内にある富士フィルムスクエアーにある展示会場
入江氏の写真が私達を魅了するのは氏が戦争体験の心の傷を背負っておいでだからだったのでしょう。優しい人は心に傷を負っていてその救いを仏像に大自然に求め続けて生き抜いた人だったと確信する次第です。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

ミッドタウンの早春賦

$
0
0
24日は上野で春日大社展を観て、六本木で入江泰吉さんの写真を観て食事をして欲望を満たしました。もう一つ欲求があります。それは来たるべき春を探す事です。
何時も地下1階の虎屋さんの和菓子を観ます去年は雷起しを求めました。真っ赤な達磨さんの姿をしていて福を体に取り込む想いがしました。”今年もあるかな?”楽しみにしていたのですが今年は小さな枡に羊羹を流し込んだモノをプレゼンしていました

芸大奏楽堂への期待

$
0
0
母の持ち歌だった早春賦が心に浸みる季節になって来ました。去年の夏に芸大美術館からの帰り道で都立美術館の間の空間で古社寺建築の「松井建設/一部上場」が工事をしている事に気付きました。お知らせ看板をみれば「奏楽堂の再建」と公告していました。
イメージ 3
文部省は近代化を目的に音楽についても洋風化を目指しました。島崎藤村や北原白秋に作詞を依頼し、本居長世や滝廉太郎に作曲を依頼しました。その多くは音楽掛が担当しましたが係官は芸大に協力を依頼した結果スコットランド民謡に文語調の歌詞が着きました。私達昭和育ちの情操はそんな唱歌によって養われました。
「ああ早春賦も埴生の宿も此処で作ったのか!」思ったのでした。どんな建物が出現するのか今から楽しみですが工事用の幕の上には大屋根が見えます。外観や大屋根は明治のそれを残して内装は一新するようです。家に戻ってネットで建築計画を確認すると次の通りでした。http://www.geidai.ac.jp/department/center/performing_arts_center#sogakudo
イメージ 2
明治23年の建築ながら以外にモダンな建物だった芸大奏楽堂の外観、建物全体を楽器に見立てたそうですからチェロのような外観なのかもしれません。写真出典:芸大HPhttp://www.geidai.ac.jp/department/center/performing_arts_center#sogakudo

イメージ 1
ホールの中央にはパイプオルガンが据えられるそうです。写真出典同上芸大HP/永田音響設計
イメージ 4
 これが仏製のパイプオルガンだそうです写真出典同上芸大HP/パイプオルガンはフランスのガルニエ製

計画によると今年の4月から演奏会が開かれるようで、モーニングコンサートや藝大定期演奏会が気楽に聴かれるようです。多くが芸大の生徒さんが演奏されて、オーケストラから吹奏楽・邦楽・オペラ・室内楽と幅広いようです。入場料は高くて1500円で無料のモノが多いようです。
工事現場前の空間には300人位の人が集まってフォークソングを合唱しています。歌声集会のようです。何かと思えばキリスト教の信者で教会の中でミサ曲を歌うより、外で一緒に歌を歌う事を良しとしている人達のようです。内村鑑三の無教会主義がこんなところで活発だとは驚きました。
イメージ 5
都美術館の北芸大奏楽堂の東側の公園広場でフォークソングを合唱するキリスト教信者木立の向こうに工事用幕の中で奏楽堂再建工事が進んでいます。
何で芸大が歴史ある奏楽堂を修復するのか?想像してみました。去年の7月ピアニストの中村紘子さん(慶応から桐朋大)が亡くなられました。彼女はワルシャワで開かれる「ショパン国際ピアノコンクール」で4位に入賞されたのでした。ところが200年には中国のユンディ・りさんが優勝し、2015年には韓国のチョ・ソジンさんが優勝されました。日本人は前後して内田光子さんや岡井昌平さんや山本忠志さんが入賞していますが。明らかに後れを取っている様に見えます。英才教育と云った視点で観れば我国音楽文化の立ち遅れは明白で、その責任は芸大が期待はずれであった事、逆に桐朋等私学の活躍が目立つように思えます。この傾向は美術にも表れているようです。
芸大の学内に立派な演奏会場を作ることは福沢先生が演説場(重要文化財)を建築したのと同じように教育効果が期待されるのでしょう。美術の学生は芸大美術館で作品を展示し音楽を専門とする学生さんが奏楽堂で演奏するのは奏者にとっても聴衆にとっても幸いなことです。
イメージ 6
芸大奏楽堂の再建工事外観。大屋根と外壁は明治のそれを残して内装とパイプオルガン等は一新するようです。竣工して身近に若手英才の演奏を楽しめる日が来ることが楽しみです。芸大も攻めの教育現場に転じる事が期待されます。
芸大奏楽堂が竣工して頻繁に活用される、その先には我国音楽文化が広く普及してピアノもバイオリンもバレーも世界の音楽界をリードするようになることが期待できそうです。
オリンピック選手強化を目的にナショナルトレーニングセンターが設立されていますが、芸大の施設強化も良く似たモノでしょう。オリンピックは国民の体育向上に資するものの芸大の教育能力アップは国民の情操や文化レベルの向上に役立つ事でしょう。明治維新政府が音楽掛を新設して文部省唱歌を作ったのと同じような作業が始まるようです。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

盗難金銅仏と少女慰安婦像に観る日韓文化ギャップ

$
0
0
親友が随筆を贈呈してくれた。毎年1冊綴っておいでで、鋭い感性は20歳の頃一向に衰えを知らないようです。文章が出来るのは良く承知しているのですが、話の面白さも秀逸で、一緒に雑談していると座の話題は彼女が浚ってしまいます。
イメージ 1
私の机上に並んだ友人の随筆毎年綴られておいでですのでもう、12冊にもなりました。
今回の随筆集も教唆に富んでいたのだが新興宗教の話題が特に面白く読みました。ネットの「Q&A」に出ていた話です。
”新興宗教を起してある程度成功したのだが教団運営上次の課題は何ですか?”と云った質問に夥しい回答が寄せられ、良くも悪くも現代社会の一面を晒しているというのです。
私はそんな風にネットを利用する方法もあるのだと思って最近気になっている、隣国韓国の問題をネットサーフィンしてみました。具体的には釜山に新設された「日本軍慰安少女像問題」と「対馬の盗難仏像問題」です。
イメージ 2
韓国地裁が盗難金銅仏は6百年前倭寇が非合法的手段で韓国の浮石(プソク)寺から略奪したモノであろうから同寺に返還を命じた、と云った報道。
イメージ 3
此方は平成24年に盗難されたものの韓国裁判所が日本の対馬の神社に年間を命じた新羅時代の金銅の如来立像(此方は国の重文でした。私達はこの金銅仏の返還が実現したのでこの問題は解決済みだと思っていました。ところが窃盗団は対馬でもう一体盗難していて。その仏像を浮石寺が『自分のモノだった』と主張したので今回対馬に返還してはならないと判決したのでした。

前者については海外の論調は総じて韓国に同情的であるのに対し後者は韓国に対する批難が多いようです。”史実は判らないが戦場下植民地ではそんな事もあったであろう”と云うのが戦争に明け暮れした欧米の常識なのでしょう。”一方千年近く前に海賊が略奪した文化財でも直近に盗んだ行為は犯罪であるから韓国裁判所の判断は間違っている”と云うのが後者の意見でした。若し韓国裁判所の判断が正しければ大英博物館やルーブル美術館等の所蔵品は皆返却しなければなりません。
「慰安少女像問題」に付いては日本政府も一度は怒って見せて大使や領事を帰国させて見せたものの。静観しています。米国の「日韓両国は合意を忠実に履行する事が好ましい」意見に安堵して大人の対応に変身したのでしょう。
でも日韓両国はどうしてこうもソリが合わないのか気になって仕方ありません。そこで文化人類学的な視点で考えてみました。
古い順に先ず仏像問題から取り上げてみます。
【外来文化を神として受け入れる文化】
先ずは法隆寺や飛鳥大仏です。
イメージ 4
これは飛鳥大仏です丈六の我国最初の大仏です。何度も修復されていますが左右非対称である事は杏仁形の眼を観れば良く解ります。左右対称は半島を始め北魏様式です。左右非対称は日本の感性で百済帰化人の三世(止利仏師)が日本の仏像を創作した事が判ります。
イメージ 5
此方は昨年京都の左京区の妙傳寺で発見された金銅仏重文指定は間違いないでしょう。韓国の思考スタイルではこの仏像も韓国がルーツだから返還しろと主張しかねません。
イメージ 6
これはご存知太秦広隆寺の弥勒菩薩像、私が高校生時代はこの像は半島の赤松が素材であると教わりました、だから半島の帰化人が日本に持って来たものと云うのが常識でしたが、最近は日本産の赤松が素材なので「百済帰化人の子孫が日本で彫ったモノである」と云った考えが主流になりました。明らかに北魏様式とは違って柔和な日本洋式に転じています。
私達はこの金銅仏が推古4年(596年)に止利仏師(鞍作鳥/百済の帰化人の三世)の作である事を教わっています。百済の帰化人は桧隈に多く住んでいました。桧隈は石舞台古墳の脇を飛鳥川の上流で今も棚田が広がっています。棚田の開墾も帰化人が為したもので私達はその恩恵に浴しているのです。私達の祖先は外から入って来る文化を積極的に時には貪欲に受け入れて来ました。
イメージ 8
此方は法隆寺の百済観音像和辻哲郎は古寺巡礼でこの像の美しさを支『那の仏像様式の一つで日本人の感性が磨き上げた美しさであると激賞』しています。
カールビット氏(ドイツ人美術史家大正時代に活躍した)は法隆寺の百済観音の段で次の様に百済帰化人の功績を評価しています。『百済観音は北魏様式の堅苦しさや圧迫感を払拭するために観音像は一歩前に動こうとしている様であり、全体に柔和で慈しみの表情があって拝観する人を優しく包み込むようである・・・・。それは百済帰化人が日本に土着するプロセスの中で実現した美しさなのである。』
こんな評価を鳥取生まれの民芸運動の旗手であった柳宗悦は古瓦で(半島の陶器技術を評価しています。法隆寺を始め古代の瓦が高句麗の金剛寺のそれと酷似していた事から半島文化を評価し、その恩恵に浴した幸いを感謝して』おいでです。韓国人はその先祖が日本文化に与えた功績を自慢するのは当然です。私達日本人は半島の民俗が私達の文化に良い影響を与えて来た事実を素直に認め感謝しているのです。
でも、。韓国民俗も日本民族も支那等外来のの文化を吸収したところまでは同じなのです。ところが私達は最初の一歩の違いにがあるのです。
半島も日本も6世紀は髄や唐を模範に国家の建設を進めていました。高句麗の都も新羅も百済も都は堅固な石塁で固めていました外から来るものを野蛮として排除する攘夷の姿勢です。ところが日本では都へは何処からでも入れるようになっていました。都には碁盤目状に道路はあっても。都を外敵から防御するような石垣は作りませんでした。外から来るモノ『文化、時に神仏)を常時歓迎しているのです。
日本は長安の文化を積極的に受け入れました。そして日本風に消化しようとしました。私達は中学高校の歴史の授業で「聖徳太子は遣隋使を派遣して当時の先進国髄の文化を積極的に受け入れました」と教わります、でも藤原京には城壁は無かったし洛陽は堅固な城壁が在ったのでした。法隆寺も同様です廻廊こそありますが中国や半島のお寺の様に外壁はありませんでした外者に対し無防備と云うかオープンなのが日本で常に警戒し攘夷意識が強いのが半島でした。
今法隆寺百済観音は宝物館の中の透明樹脂のボックスの中に入っておいでです。ボックスの隙間には夥しいウォン札が投げ込まれています。中国や韓国は常に自分達の周囲は野蛮な夷敵ばかりであると思って軽蔑し敵対的でありました。一方日本は自分の周囲は福の神が取り囲んでいるので常に歓迎しようと心がけていました。
多分韓国の観光客が「この素晴らしい観音像は自分達の祖先が作ったもので、野蛮な日本人が奪って行ったモノだ!。韓国人は日本人より高い位置にある。少なくても、古代は、最近の歴史こそ間違いである・・・と。そんな発想は世界の苦笑を買う事もあります。ワシントンのポトマック河畔の桜が激賞されると「桜は韓国がルーツで韓国人の祖先が日本に呉れてやったモノであった」と
少なくとも以下の事実は覆すことも出来ないと思います。
1、金銅仏を鋳造する技術は百済の帰化人がもたらしたモノであっても。小型の金銅仏を丈六にしたり更に20倍の廬舎那仏に発展させたのは日本だけである。
2、仏像を収める寺院を何度も修復して来たのは日本だけである、韓国でも中国でも仏像を必死に守って来なかった、従って自然環境は悪くても日本には夥しい仏像も寺院も残っている。
イメージ 7
此方は平山郁夫画伯の藤原京の復元イメージ図
ですから対馬に仏像が在って、それを盗んできても本来は自分のモノだ主張して何の憚りも無いのです。「悪いのは倭寇と云った海賊が新羅の国の寺院から略奪したのであって21世紀に対馬の寺院から盗んでも正統な行為なのだ」、考えているのです。それが韓国の裁判官の文化レベルなのでしょう。
【慰安少女像問題】
イメージ 9
これはソウルの日本大使館前に20011年建立された慰安少女像です。2015年日韓政府で合意されたものの、一向に撤去されないばかりか、韓国朴槿恵大統領が失脚すると、釜山の日本領事館前にも慰安少女像が新設され問題は以前にも増して深刻な状態に陥ってしまいました。
イメージ 10
此方は釜山の日本領事館前に新設された慰安婦像です。慰安婦像とは日本のマスコミがつけた名で像は「Statue of Peace/平和像」でありました。製作者が平和像と思って作ったモノを日本軍のモラル問題と受け止めたのは日本のマスコミが作った虚像です。広島の被爆少女像を米国民が心の傷みに感じないように私達日本人も製作者の意図通りに「Statue of Peace」と受け止めれば撤去に拘らなくても良い様に思われます。
此方は未だ70年も前の問題ですから生々しい問題です。少数民族は特に内部に問題を抱えた時には仮想敵を作って心のベクトルを民俗内部に向けて団結しようとするものです。それは都市の外部を城壁で取り囲んで団結する姿勢に似ています。韓国は中国やモンゴールの脅威に対して何時も団結して身を守ろうとしてきました。
先の大戦で少女が日本の兵隊に慰安婦として辱めを受けた、と云った問題の事実は別にして、それを問題視しすることが民族の団結を呼び窮地を脱する道を開くのでしょう。
古代から戦争とは野蛮な行為でした。ローマ軍はフェニキアやエジプトを負かすとその財宝を略奪して女子供は捕虜として持ち帰り奴隷として売買していました。日本国内でも戦争で隣国を破れば女子供を戦利品として連れてきました。そんなことは常識ですから、「慰安少女像問題」を聴いた欧米人は「そんなこともあったのだろうと」韓国人の主張に同情的なのでしょう。私は現状の論争「日本軍がいたいけな少女を慰安婦として連れていた」事の真偽は棚に置いて戦争とは常に「女子供の様な弱者を犠牲にする』事を問題にして『だから二度と戦争は起すまい』と云った議論に向けられないかと思うのです。先の大戦では従軍した慰安少女も犠牲者でしたが、帰国しようとした女性も辱めを受けて妊娠し帰国後出産、米軍兵士との間にも認知されない子供が多く生まれました。そんな子供がフィリッピンにもベトナムでも沢山出現したと聞きます。博多にはそんな女性の堕胎病棟が在った記録も残されています。女性や子供が弱者である事実は今日もDVやセクハラ事件が多発しています。韓国の矛先を少しだけ躱して「慰安少女像」を日本軍の犯罪行為の象徴とするのではなく、「戦争反対」や「少女の尊厳」を守る象徴」「少女を性犯罪から守る象徴」に向けられないかと思ったりします今の議論は日韓両国にとって不幸な無味乾燥な論争だと思います。少なくとも現状は日本の方が政権も安定しているし、少し余裕を以って、直ぐに約束通りに撤去させるのではなく、暫し捨て置く事が良いと思うのですが…如何でしょうか?

ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

中華街の呪術

$
0
0
1月29日は横浜の中華街に出かけました。春節ですから水餃子を食べて月餅を買いに出かけたのでした。脳梗塞発症前には毎年のように春節には中華街に出かけて美食をして獅子舞を観て竜舞を追いかけて中華大通りを巡るのが習慣でした。ソロソロ美習慣に戻そうと思ったのでした。このブログでも獅子舞も竜舞も何度も載せた記憶があります。竜舞の様子は別の機会に載せる事もあるでしょう。今日は中華街の新しい流行である「占い」の盛行と「呪術」について報告させて戴きます。
イメージ 1
これは横浜中華街のシンボル横浜媽祖廟(よこはままそびょう)です、此処は中華街の弁天様かお稲荷様のような処で善男善女の参詣が集中します。赤い絨毯を歩きお神輿の下を主殿の前に進みます
中華街を歩いていて気付くのは撤退してゆくお店が多い事です。古い店が耐震問題や老朽化対策で建て替えしているのではなく、激しい競争に耐えられなくて撤退している様に見えます。競争が激しい事は良いお店が多い事の一面です、優勝劣敗は資本主義の必然ですから避けられません。
イメージ 2
中華街の鑑定廟通りの賑い矢鱈と占のお店が表通りに目立ってきました。(以前はビルの中でヒッソリ営業していたのでしたが・・・)
【中華街のライバル】
横浜中華街は私鉄(東急東武鉄道)の経営努力によって沿線が拡大して今では埼玉県川越からも直通です。と云う事は盛り場間競争と云った意味では「川越の江戸街」「渋谷」「池袋」「横浜西口」「野毛の下町」等が競争相手になっているのです。私の様に横浜育ちのモノはハレの日には「中華街」に出かけてご馳走を食べよう、と思うのですが今では「池袋に行って餃子を食べて棘抜き地蔵をお詣りする事」も「川越で焼芋を食べて達磨さん」詣でをする事も」選択肢になるのです。ハレの日の行動には①ハレの食事②厄除け招福祈願がセットのようです。
だからでしょうか?中華街の空き店舗や空間には矢鱈と「占いの館」が増えているのです。占いの館をチラ見すれば20代30代の素敵な女性が行列をして順番待ちしています。店舗外には占い師の顔写真と得意技が案内されています。客は占い師を選ぶ事が出来ます。今日の話題は中華街で目立ち始めた「占」とそのグッズ販売店です。
占を猪宗教社会学や文化人類学では呪術と呼びます。
呪術は原始人間が共同生活を始めた時から始まります。旧約聖書の世界も呪術が一杯ですし、魏志倭人伝では卑弥呼は「鬼道」を良くすると書かれています。鬼道とは呪術の事ですから卑弥呼は力のあった巫女であった事が判ります。キリスト教もイスラム教も最初は呪術であったものがその考え方に普遍性が在ったから、時代と地域を越えて世界宗教になったのでしょう。でも原始時代も現代も人間は基本的に変わりません、一人では生きて行けない動物です。加えて動物の中で一番に脳が発達しています。社会性のある動物であって脳が発達していることだけが他の動物と違うだけなのは原始時代も現代も変わらないのですから、呪術は現代も存続している事実は至極当然です。人間が一人では生きて行けない以上呪術を避ける事は出来ないのでしょう。
それではまず「呪術とは何か?」概念を定義しておきましょう。
呪術とは一般に『神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望を実現しようとする行為、および信念。まじない・魔法・魔術」と云えます。奇術やマジックには「仕掛け」や「種」が隠されていますが、呪術にはそんな仕掛けは無く精霊や悪魔など眼には見えない霊的なモノの仕業によって種々の願望が実現し災いを忌避できるとするものです。
昨年「最後のイタコ」と呼ばれた松田貞子さんが亡くなられました。偶々テレビでTBSアナウンサーだった山本匠晃産の霊を呼び出して奥様と会話する場面が放映されました。山本夫婦しか知らない病室でのお別れの続きを観る想いがしました。ああ、”呪術やシャーマニズムは生きているな”実感したのでした。何故なら山本夫人は未だ30代なのに「残りの人生も再婚はしないで山本匠晃産の霊と一緒に生き抜きます」と力強く言っていたのです。呪術と云われようがそのおかげで残された人生をポジティブに生きられるのならどんな宗教よりも勝る呪術でしょう。
【占のライバル】
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images