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夫婦別墓の奨め

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昨日(3/21日)は終日雨でした。テレビでは靖国神社の桜が綻んだ、開花宣言です。雨に濡れた桜花が艶めいて見えました。夕飯前にワイフが言います。
「白木蓮が綺麗ですよ。観てあげて下さいね!」
ワイフのお奨めは二階の長男の部屋か,ベランダから眺める事です。
私は二階に上るのが億劫なので「食後に観ますよ」
言ったまま忘れてしまいました。
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暮れ時の白木蓮の花、数日暖かだったので直ぐに咲いてしまいました。ところが咲いた途端に冷たい雨が一日中降って、強い北風が吹き出しました。
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22日朝の白木蓮の花北風が強いので。今日が最期になることでしょう。良く咲いたね!来年も見せてね!呟きます。
ところが今朝(22日)は大風が吹いています。朝食前に白木蓮さんの事を想い出しました。
そこで二階に上りました。ワイフも後から付いてきてくれました。後ろから階段で転げたら支える積りなのでしょう。
二階の窓からは白木蓮の花が目の前に見えますし、美女の横顔を覘く位置になります。
北風が梢を揺らします。白木蓮の枝は大きく揺れています。私はワイフに云います。
「まるで、美人が強い風で鬢が乱れてているようだね!」鈴木春信の浮世絵を想い出しながら同意を求めました。「美女に強風」は「月に叢雲」に似ています。邪魔者が本体の美しさを際立たせます。

先日義母の戒名が「白蓮院」である事を書きました。若しかしたら、今はお仏壇に戻って来て私達と一緒に白木蓮を観ているかもしれません。白木蓮が義母なら北風は癌だったでしょう。長い闘病中の母の面影を宿す純白な花です。
母は自分の義母の納骨式の時に呟きました。
「私は此処のお墓に入るのは厭だわ!だって、お隣の骨と触れ合うのでしょう。」
そのお墓は田圃の隅にありました。パールバックの大地にあるようなお墓で先祖伝来の田畑の隅で田畑を見守るように建っている嫁ぎ先先祖伝来の合同墓地でした。
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これは伊奈児の光前寺の合奏墓地です。遺骸を埋めた土饅頭の墓標に地蔵尊を立てています。多分此処は穴を掘れば何処も人骨が出て来るでしょう。これほどでは無くても義母が嫌った父方のお墓はジメジメした暗い感じでした。
義父はその後直に新しい墓地を求め「○○家の墓」と刻まれた黒御影の角塔を建てました。それから数年後母はその新しい墓地の墓誌の白蓮院の名を刻みました。何時の日にか、ワイフもその横に名を刻む事でしょう。
私は「何処に眠ろうか」?時々考えます。昔、父が生家の裏山で「お前のお墓は此処だぞ!」言った事がありました。今ではその場所も開発されて墓地として売り出されています。
私は「ワイフに何時までも付いて来ないで!」云われなければ、自分でお墓を探さなくてはなりません。
「母さん私もお墓に入れてね!」頼んで「良いわ!入れてあげる」云われれば、古代と同じ母系家族です。

鎌倉には有名人のお墓が沢山あります。
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此方は東慶寺の小林秀雄氏のお墓。生前小林氏は京都に詳しい永井路子氏に依頼してこの鎌倉時代のモノと思われる五輪塔を古物商から買い求め球形の前面に阿弥陀如来を刻んでもらったのだそうです。永井氏の随筆に書かれていました。小林秀雄氏は個人の墓です。
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これは同じく東慶寺に眠る前田青邨氏のお墓です。この新しい五輪塔に画伯は眠っておいでで、奥様は入口に遠慮気味に控えておいでです。
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此方は同じく東慶寺にある仏教哲学者の鈴木大拙氏のお墓です。同氏はご夫婦で同じ五輪の塔の地下に眠っておいでです。
安国論寺には財政改革の土光さんのお墓があります。土光さんほどの人でも「土光家の墓」に先祖共々眠っておいでです。一方東慶寺には個人墓も多くあります。岩波茂雄氏も小林秀雄氏も一人墓です。前田青邨夫妻は同じ墓地でも墓標塔は別々です。奥様の方が一回り小さい五輪塔です。鈴木大拙氏は奥様とご一緒に眠っておいでです。高名な仏教哲学者はあの世でも奥様とご一緒を選ばれたのです。
「嫁が死んだら夫の先祖伝来の『○○家の墓』に埋まる」と云った習慣は明治に始まり、昭和になって一般化したものです。
昨今は「死んでから姑や舅と一緒になるのは厭だわ」意見も多く散骨する人も多いようです。
自分はどうしようか?考えなくてはいけない年齢に届いて来ました。お墓は時代と共に大きく変遷してきました。夫の家の菩提寺にある夫の家の「○○家の墓」に入ると云った考えは江戸時代明治時代に培われた封建的な実に黴臭い発想なのです。私の義母のように『私あのお墓に入るの嫌よ』と我儘を生前に口にするのは素晴らしいと思います。
最近は私は死んだら散骨してほしいわ!口にされるご婦人も多いようです。夫とも姑とも舅とも一緒になる位なら大自然の中に風の様に彷徨っていたいと思うのでしょう。ワイフが果たして如何思っているか知りませんが、ソロソロ決めておかなくてはなりません。そこで、古典を紐解きます。
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これは太秦にある仁和寺です。写真出典京都花見https://matome.naver.jp/odai/2139488669712731901/2139489346817335803
先ず、思い当たるのは藤原倫子(りんし964-1053))です。倫子の母は、母は藤原 穆子(ぼくし」父は。左大臣源雅信でした。倫子は永延元年(987年)道長と結婚して鷹司殿と呼ばれます。倫子は24歳、道長は22歳でした。道長の実父が藤原兼家です。倫子は永延2年(988)に長女彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)を、正暦3年(992年)に長男頼道を生みます。更に次女妍子(後の三条天皇中宮)を産みます。長和5(1016)年万寿4年(1027年)道長(62歳)が薨去します。
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これは道長倫子夫婦の家系図です。倫子の父は左大臣源雅信でしたから、正妻に相応しい家柄でした。家系図に在る通り倫子の娘が3人孫が2人も天皇位に就いたのでしたから、夫道長以上に名誉だった事でしょう。
鳥部野でで火葬され骨は家長の章信(のりのぶ)が首に掛け木幡(こはた/現代の位牌)を手にして宇治に宇治陵を築きます。藤原一族の墓になります。こはたみtまた長女彰子を除く娘三人にも相次いで先立たれ、長暦3年(1039年)に出家、清浄法と号します。曾孫の後冷泉天皇の天喜元年(1053)に90歳で薨去します。夫の道長以上に栄華に満ちた一生でした。
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これは栄花物語(赤染衛門)に描かれた藤原道長です。明らかなメタボですので63歳で亡くなります。一方倫子は90歳の長寿を全うします。道長は藤原一族の墓地であった宇治に埋められまあすが、倫子は皇族の一員として仁和寺に葬られます。
倫子の墓は太秦の仁和寺にあります。夫の道長は宇治陵に祀ったのでしたから相思相愛であったものの倫子には藤原家の一員であるといった意識以上に皇族の祖母としての意識が勝っていたのでしょう。夫婦別墓は古代の常識で現代の様に「夫方の家の墓に一緒に埋められる」と考えるのが非常識なのでしょう。
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宇治の平等院は道長の長男頼通が建立したものですが藤原一族の墓地であって(興福寺は藤原一族の学校の様なもの。

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桃の花「照手姫」

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遊行寺に杏花と白木蓮を観に行って、更に遊行寺の奥歴代上人墓の東にある長生院に回りました。久々に小栗判官の旧跡を詣でたいと思ったのです。「長生き院」なんて目出度い塔頭の名前です。なぜ[長生院」なのかと云えばこのお寺のご本尊が小栗判官の拝んだ阿弥陀様である事と、小栗判官縁者のお墓が祀られているからでしょう。
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遊行寺の境内の東側この六地蔵の前を北に上って行くと突き当りが長生院です。この日は彼岸中でしたので供花が一杯です。
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これが遊行寺の裏山の裾にある長生院です。この寺に小栗判官物語の史蹟が多く残されています。
小栗判官と10勇士の墓の西側に照る手姫の墓があってその周囲に桃の木が植わっていました。その桃には「照手」と札がついていました。桃の蕾は未だ堅かったのですが、どんな花なのか次の歌大友家持の歌ををイメージしました。
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此方は長生院裏の小栗判官とその十勇士の墓です。この西(左)に照手姫の墓があります。小栗判官のお墓と似た宝篋印塔です。
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此方は池に浮いたように祀られた魚籃観音です。照る手姫を髣髴しました。

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照手姫の墓の前に植樹されている桃の木はその名も「照手姫」でした。この時は未だ蕾でどんな花が咲くのか?興味だけが残りました。

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照手姫が招いたのでしょうか?美しい如意輪観音が目立つ墓地です。
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女。
その数日後大船のフラワーセンターに出かけました。するとこれから植樹しようとする咲きはじめの桃の木が10本近く用意されていました。その名札に「照手」と書かれていました。
”ああ!桃の花『照手』は大船植物園が開発した種なのか!”思ってネットで確認すると私の直感の通りでした。大船フラワーセンターは県立農業試験場でした。早咲きの玉縄桜も此処で開発された桜として有名ですし、芍薬も大船系が圧倒的に多いのです。屹度此処で開発されて近くに長生院の照手姫に因んでこの名をつけたのでしょう。
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此方の桃の花が大船フラワーセンターで植樹を待つ桃の花でその名も「照手」です。
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これが桃の花の新種照手です。写真出典神奈川県http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f450008/p581153.html。県のホームページには大船農業試験場で開発とは記されていませんが、大船産の新種で間違いないでしょう。箒の様な姿の花桃とされていました。
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此方は大船で開発された(?)新種の美しい桜早咲きで「春めき」とネーミングされていました。密集して咲くので舞妓さんの花かんざしにしたいような美しさです。大船産の桜と云うと玉縄桜が有名で3月4日には既に葉桜でしたがこの「春めき」は今が盛んであり、江戸彼岸の可愛らしさがあるので、八幡宮参道段葛の桜も染井吉野でなくてこの春めきにすれば良かったな!なんて思いました。
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手前は大船県立農業試験場だった時代の主事業の芍薬畑です。真っ赤な芽が出ていました。向こうが新種の桜の「春めき」です。私が畑の介して望遠レンズで桜に集まってくるメジロを待っていたら、一斉に飛び立ってしまいました。右側のご婦人が桜の美しさに興じて歓声をあげたのでメジロさんが驚いたのでした。春めきを悦ぶのは人間だけでは無くて鳥もモグラもみんな嬉しいのでしょう。
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小栗判官物語はモテモテの美男で武術の優れた小栗が深沼池の龍に見染められて情を交わしてしまった事から始まります。
ず説教節や浄瑠璃で有名な「小栗判官物語」は説教節で有名ですし、人形浄瑠璃で馴染まれました。
私は小栗判官も10融勇士も豪傑なのに何故戸塚の横山なる盗賊に容易く殺されてしまったのか?不思議でなりませんでした。でも最近ズット古代の「婿取り婚」と中世の嫁取り婚」を考えていて東芝製の古い電球に灯が点く様に気づきました。小栗判官物語は室町時代に出来た説教節で。素材は古代だったのです。婿取り婚時代の言い伝えを素材に「嫁取り婚」時代に普及した再生譚なのです。
明日は岩佐久兵衛版「小栗判官物語」を素材に説明させて貰います。


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小栗判官物語にみる「婿取り婚」「嫁取り婚」

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先日蜻蛉日記を素材に古代の「婿取り婚」と中世の「嫁取り婚」を説明しました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49729114.htmlその概要は次の通りでした。
道綱母(受領の娘)が名門貴族の御曹司藤原兼家(道長の父)に見染められ結婚した迄は誰もが羨む「玉の輿」でしたが、。実際の夫婦生活は正妻時子、(時子も受領の娘)に名誉は独占され、加えて時子の息子達は大栄達するし,自分は実家で肩身も狭く細々暮らさざるを得ませんでした。時子に較べれば美人であるし、和歌の才能もあった道綱母の自身のプライドはズタズタに切り裂かれ、髪を下しても兼家は見向いてくれませんでした。そこで自分の夫婦日記を蜻蛉(虫)日記としてお見せします。そんな話でしたが、社会学的に見れば次の様に解説できます。
結婚迄のプロセスは道綱母のサイドから見れば「古代の婿取り婚」でありましたが、兼家は摂政に出世して自邸を紫宸殿に似せて建築します。家族の決定権も財政権も司祭権も総て家長の兼家が牛耳る家父長的な体制に変わっていたのでした。兼家から観れば結婚時は男が惚れた女性に一歩譲歩した婿取り婚でしたが。男盛りに鳴った時には家父長による「嫁取り婚」なのでした。古代の婿取り婚に乗じて兼家は「夜這い」の暁に道綱母の性を奪い、実生活では実家に捨て置いて「金のかからない妾」状態で一生を過したのでした。
道綱母は古代と中世の家族制度の変遷の中で貧乏籤を引いた事になります。逆に正妻の時子は年長で兼家に性の手ほどき(添臥(そいぶし)をして、そのまま正妻に納まり家父長制度の下で正妻の美味しいところを独占したのでした。
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これが藤原兼家が摂政就任に際し紫宸殿に模して自邸を建てた「東三条殿」の模型です。①が兼家が居た主屋寝殿で②が正妻時子がいた北の対です。④は若い妻 藤原国章の娘 が入りました。妻が沢山居ると正妻は北の対に入り東の対東北の対等幾つも別棟が建てられました。道綱母箱の寝殿に呼ばれなかったのでした。この模型は京博のもので、ウィキペディアから借りました。道長はこの北の対で生まれた事になります。
今日は「小栗判官物語」を素材にして古代の「婿取り婚」と中世の「嫁取り婚」を説明します。
実は私”小栗判官は武勇に優れていたのに何故横浜の戸塚の山賊如きに殺されたのか不思議でならなかった”のでした。最後は二人はハッピーエンドになるのですが、その意味も不明だったのでした。
こんな疑問は、”「嫁取り婚時代」の実話を「婿取り婚」時代のお話にして、語り聞かせた”と考えると氷解したのでした。
【小栗判官物語の実話】
小栗判官物語は我国説教節の代表的な物語です。熊野信徒がその布教を目的に絵を見せながら説話物語を語り聞かせたモノでした。実話は遊行寺の塔頭「長生院」に残されています。
その実話をベースに遊行寺の僧侶が全国を行脚して語り聞かせ、熊野三社の熊野先達・御師が熊野神社の霊験を広めたのでした。その際に物語の舞台を古代の「婿取り婚」時代に設定したのでした。
実際の事件は室町時代、足利幕府の破綻時でした。話の主人公小栗判官は『上杉禅秀の乱』で常陸の国の小栗満重の嫡子は小栗助重でした。小栗満重は上杉禅秀に加担し足利持氏に敗れます。でも、小栗助重は関東に留まります。小栗助重は京に上ろうとして相模の俣野で盗賊(横山太郎)に殺されようとしたものの。遊女照手に助けられ荒馬黒鹿毛に乗って遊行寺に逃げ込みます。小栗助重は遊行寺の支援を受けて復興します。
以上が長生院に残された記録でした。(鎌倉大草紙)
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これは遊行寺境内に在る「敵味方供養塔」時宗の僧は戦死者の埋葬をしました。この供養塔は上杉禅秀の乱の死者を合同で埋葬した供養塔です。以前次に書きました。https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%95%B5%E5%91%B3%E6%96%B9%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E5%A1%94+%E9%81%8A%E8%A1%8C%E5%AF%BA&aq=0&oq=%E6%95%B5%E5%91%B3%E6%96%B9kuyoutou&at=s&ai=VEpisak5QgKw2Ww8QLfm1A&ts=5673&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

【小栗判官物語】
多くの川原者を擁した時宗の僧は遊行(盆踊りの原型)をはじめ、小栗判官物語を創作して説教節にそいて言い聞かせて全国を行脚します。岩佐又兵衛は元禄時代に古浄瑠璃の台本に絵を添えて絵巻物にします。一般に「浄瑠璃物語」と呼ばれ人口に膾炙したのでしたが、一番の力作が小栗判官物語です。東京美術出版の絵巻物を素材にして以下説させていただきます。
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モテモテの貴公子で武術にも秀でた小栗は京の深泥池の龍神に見染められて情を交わしてしまいます。その罪で常陸の国に流されます。でも、京に上ろうとします。

小栗判官は京の都の貴族の家に生まれます。男前の事に加えて武術にも秀でていましたからモテモテでした。
嫁を早くとるように説諭されましたが一向にその気になりません「何所ぞに良い娘が居ないか?」フラついているうちに深沼池の龍神に見染められてしまいます。龍神は美しい娘に変身して小栗を誘います。とうとう、小栗は龍神と情を交わしてしまいました。
「龍神と交わった」評判になると小栗は常陸の国に配流されてしまいます。
小栗は常陸の国から遥々東海道を京の都に向かいます。同行したのは10勇士でした。戸塚の俣野で大変に美しい姫が居る事を聴きます。娘は俣野の郷氏「横山の娘照手」でした。其処で自分の眼で確認します。照手に心を奪われた小栗は切々と恋文を書きます。恋文は照手に響きます。
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京への旅の途上で照手姫の評判を聴き、覗き見して一目惚れした小栗は照手姫に恋文します照手姫に仕える女房はこぞって反対したのでしたが照手姫は好感を持ちます。その晩小栗は照手姫の屋敷に訪れます。古代の婿取り婚では男性が女性の屋敷に訪れ3日続けて交われば結婚したものと見做されたのでした。照手姫の父横山太郎は小栗が娘の屋敷に止っていると聞き怒ります。
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横山は婿取り婚の手順に則り露顕(ところあらし)を提言します。今でいう被露宴です。その酒に毒を盛ります。毒が回って小栗も十勇士も死んでしまいます。横山は十勇士は火葬(仏式葬儀)にしますが、小栗は土葬(神式)にします。
十勇士の魂は閻魔大王に尋問されます。そして自分達は小栗の家来であるものの。今次横山の卑劣な策で毒殺されて慙愧に絶えない」訴えます。閻魔大王は十勇士を再生させようと思いましたが肝心の体は既に灰になっています。すると十勇士は自分達は別にして主君を再生させて欲しいと懇願します。閻魔大王は十勇士の願いを聞き入れて小栗を餓鬼阿弥にして土車に乗せてその首に札を吊るします。この餓鬼阿弥を熊野の湯の峰におくりものである。土車を曳いたモノには千僧に供養した以上の功徳がある。
一方照手は親の許可を得ずに男と交わった罪によって。相模川に流されてしまいます。漁師に助けられ人買に売買されて美濃の国青墓の宿場の遊女に売られてしまいます。しかし、照手は小栗の妻と云った強い自覚がありますのでお客を取りません。遊郭の下女に身を落としています。其処に餓鬼阿弥を乗せた土車が遣って来ます。
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美濃の青墓の遊郭に餓鬼阿弥を乗せた土車が遣って来ます。何も知らない照手でしたかお札の指示に従って土車を曳いて行きます。
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この図は熊野の御師が信者を指揮して土車を熊野の湯の峰に運ぶ場面です。
熊野の御師や信者が熊野の湯の峰に餓鬼阿弥を運び温泉に浸けます。」すると餓鬼阿弥は小栗に変わります。不思議や再生した小栗は青墓に引き返して下女に身を落とした照手と再会します。再生した小栗は領地も奪い戻して照手と幸せな生活を送りました。そしてお釈迦様の涅槃にも似て。神仏に見守られて大往生したのでした。
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この図は小栗が照手と再会して涙にむせぶ場面。
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この図は小栗が大往生する場面あらゆる神仏が見守る中で大往生を遂げました。


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困ったもんだ!カミキリムシ

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お隣の琵琶の木が枯れてしまいました。お隣は旧家で先代までは農業を営んでいて、今は戸塚駅近くの貸しビル業を営んでいますが、毎年植木屋さんを入れて管理して貰っています。私の子供のころから羨むほど大きな枇杷の実が熟していた銘木でした。枇杷が枯れるのですから「カイガラムシ」の食害に遭ったのかと思って垣根越しに観察するとどうもカミキリムシの食害に遭ったようです。枯れ木の幹に7ミリ程度の穴が幾つも見えます。
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これはお隣のお庭に在る枇杷の古木今春突然枯れ始めました。生垣はお茶の樹です。
私は再三遊行寺に上ります。我家からはバスに乗って大坂から原宿そして、藤沢橋のバス停を降りれば目の前が遊行寺です。昔からの東海道(旧道)ですので史蹟も数多くあります。「京見付」「お軽寛平の碑」「吹上一理塚」
何よりも松並木です。広重も描いています。
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これは広重の描いた戸塚宿大阪の松並木が描かれています。
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これは戸塚宿の双体道祖神です、「歌舞伎道祖神」と呼ばれています。歌舞伎の忠臣蔵で「お軽寛平道行の場」だというのです。
この黒松の並木も昭和30年代に枯れましたその時は排気ガスにやられたと云われましたが、現代の松並木はこの時に植え替えられたものですから、樹齢は60歳と云う事でしょうか。
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バスの車窓から観察すると松くい虫に寄って枯れた松が目につきます。松くい虫対策は枯れた木を燃やしてしまう事です、少しでも遅れると松くい虫はカミキリムシに寄生して拡散してしまうのです。
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これは東海道影取です。この辺りは未だ黒松が往時の面影を宿していますが松くい虫にやられて枯れ木も目につき出しました。
バスの車窓から観ると松の木が所々枯れている事に気付きました。「屹度松くい虫の食害に遭っているのだろう!」思います。
所管は関東地建戸塚出張所で戸塚の大阪にあります。松くい虫対策は林先生風に言えば「今です!明日では駄目です!」でしょう。
明日になればカミキリムシが飛んで行ってしまい。カミキリムシに寄生している松くい虫が近くの松に巣食ってしまうのです。昔は松は一番の燃料でしたから枯れ始めれば直ぐに伐採して竈で燃やしてしまいました。自然と松くい虫の蔓延を防いでいたのです。
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これは大船フラワーセンターの森の小路の黒松無気味に枯れだしています。
大船のフラワーセンターに桜を観に行きました。早咲きの江戸彼岸系の桜を観ていると松の木が枯れているのに気付きました。今湘南は松くい虫が大いに蔓延しているようです。
私は大船のフラワーセンターに早咲きの江戸彼岸桜を観に行きました。すると松が数本枯れているのです。そして技師が枯れた松を伐採してリヤカーに乗せていました。見れば松の木の幹に1㎝ほどの穴が開いていて樹皮の下の導管部が腐っていました。典型的な松くい虫の被害です。
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これは大船フラワーセンターで松くい虫で枯れてしまった黒松の幹穴はカミキリムシが開けて入った跡です。木の樹皮の下が腐っているのは松くい虫と云う名の線虫が喰った跡です。
我家には無花果やプラム等カミキリムシが好みの果樹が何本も植わっています。その対策も相談にフラワーセンター園芸相談室に行きました。相談員が懇切丁寧に教えてくれました。要点は以下の通りです。
1、松くい虫の被害は広がっている。フラワーセンターの松枯れも松くい虫の食害です。
2、松くい虫とは毛虫では無くて寄生虫(線虫)です。線虫はカミキリムシを宿主にしてカミキリムシが松の髄に食い込むと線虫は松の導管(栄養分が流れる動脈の様なモノ)に蔓延して松の木を枯らしてしまうのです。松くい虫対策はカミキリムシが飛び回る前に伐採して償却するほかにありません。
2、無花果やプラムのカミキリムシを撲滅するにはカミキリムシが幹の髄を喰った穴を探して薬剤のノズルを穴に差し込んで噴出のが一番です。
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左したの写真の様にカミキリムシが喰った跡を探して其処にノズルを差し込んで殺虫剤を噴出するのがカミキリムシの対策だそうです。
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これが松くい虫被害の原因になるマツノマダラカミキリです。このカミキリムシが宿主になってマツノゼイセンチュウと云う寄生虫(回虫と同じ線虫)をまき散らして、寄生虫が松の生命線である導管を腐らせて松が立ち枯れしてしまうのです。
庭のプラムや無花果が健康で果実をプレゼントし続けてくれるようにカミキリムシには警戒してゆくことにしましょう。

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お庭の石仏

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私が最初に石仏を求めたのは地下鉄サリン事件の起きた1995年(平成7年)でした。
当時私は第一證券と云う総合証券会社に出向して。公開部長を拝命していました。当時はソフトバンクやユニクロ等が店頭に登録した時期で、公開市場には話題が多くても玉石混交で。期待通り株価が上がらないと、投資家は公開市場離れをしました。公開部は公開企業から引く受けた株式を投資家に嵌めこむのが仕事、一方株式部は投資家に喜んで貰うのが歓びですから、私は株式部と公開企業との間で双方から叱られて、苦労した時期でした。
そんな時の癒しで昼休みには向かいの三越に出かけました。三越の美術売場で新作の陶器や仏像を観て廻っていました。三越の美術売場には新作石仏も展示即売されていました。或る日当時の私でも手の届く作品が展示されました。作家名は四国今治で石仏彫刻をして40年の馬越正八氏でした。穏やかで丸顔の如来さんで「弥勒如来」と案内していました。一見して欲しくなりました。「身近に置いて一日中眺めて居たい」想いました。価格は17万円でした。今では到底手の届かない値段ですが、当時の私には少し我慢をすれば買える価格でした。
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これが私の求めた馬越氏の彫った弥勒如来です。この絵葉書は同氏のお庭で撮影したものでしょう。
今治は好きな町である上に我が生家にも縁が深い事も何かの縁だと思いました。
弥勒如来は和室の前庭竹林の中に据えました。そのうちに可愛がっていた兎が亡くなりました。また庭の主であった、巨大な蝦蟇ガエルが蝦蟇合戦で負傷して戻りました。バケツに入れて目の前に好物のミミズも置いたのでしたが、見向いてもくれず亡くなりました。その都度庭に穴を掘って埋葬しました。笛吹川の川原で拾ってきた石にラッカーで戒名を記しました。弥勒如来は彼等の墓標にしました。
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これが馬越氏の弥勒如来です。兎と蝦蟇蛙の墓標になっています。周囲の雑草は露草とシャガです。楕円形の石は墓誌の積りです。
退職してからも全国各地を石仏行脚しています。最近は新作石仏も良く見かけます。欲しいと思う事も多いのですが、お財布に余裕はありません。神様は私の事を良くご存知で、「時間と金」、どちらかは必ず不足にしておいでのようです。小人は”金も時間もあると不全を為す”とお思いなのでしょう。でも此処数年神様は更に心配されたのか、健康面でも自重を強いられました。でも、健康に自信が在った時代には気付かなかった発見も多くしました。
数日前ネットで新作石仏が出ていることを知りました。最初は福岡の作家で「田の神様」が出ていました。奈良正暦寺下の田の神様に似た素朴な像でした。3万円も出せば落せるだろう入札しておいたのでしたが落札できず結果的には5万円で落札された事を知りました。
今月に入って那須塩原の関正利氏の作品を見つけました。
塩原神社には高名な閻魔大王像も祀られています。好きな土地です。気に入ったので適当に入札しておきました。お地蔵様に3千円双体道祖神に5千円です。
現役時代に較べれば天と地の差がある価格です。塩原の関氏には気の毒な価格差です。
結果的には2点とも落札しました。一昨日玉ねぎの段ボールに入って届きました。ワイフは何を買ったのか怪訝そうです。次には何処に置くのか不安気です。
わたしは道祖神は門から入った場所に置きました。馬酔木の花陰に据えました。道祖神は賽の神ですから招福除厄の任を果たしやすい位置です。一方お地蔵様は柿の苗の足元に据えました。折から咲き出したナズナ(俗称ぺんぺん草)がお似合いです。
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門を入った処に据えた双体道祖神です。那須の石材で下半身は一体で上半身が男女の神像です。もうシャガが咲き出しました。
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雨に濡れると表情がハッキリするのが石仏の面白いところです。夫婦仲の良い事を「比翼連理」と云いますが道祖神では「比腕連脚」です。
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此方はお地蔵さんです。柿の苗を活けた植木鉢の上に据えました。白い花弁は頭上の白木蓮です。白い小花はナズナ(ぺんぺん草)です。
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空豆の天麩羅

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俣野の畑でも空豆の花が咲いていました。花を観た途端に空豆が食べたくなりました。
スーパーのチラシには長崎や熊本産の空豆が出回り始めました。私は「最期の晩餐では空豆を、天麩羅で戴きたいね!」呟きました。
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これが空豆の花です。花が空を向いて咲けば実も空を向いて稔ります。
ワイフは「脳梗塞までして、懲りない人ね!」なんて言いながらも「空豆の天麩羅」は満更でもないようです。
ネットでレシピなど検索していると思ったら思惑通りに、夕飯に精進揚げが用意されました。素材は空豆を入れ込んだ「掻揚」アスパラに蕗の薹、そして庭に生えた蓬の若芽(俗称餅草)をあげてくれました。
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これが今晩のメイン空豆です。大きな鞘にお豆が3,4個真綿に包って入っています。
メインは掻揚です。空豆に新ジャガに新玉ねぎに蟹窯を用意してくれました。蕗の薹も、蓬の精進揚げは息子は苦手です。幸い今晩は息子は博多に出張です。屹度そんなこともあって、ワイフは精進揚げに前向きになったのでしょう。
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掻揚の素材は剥いた空豆がメインで新ジャガに新玉ねぎそれに色添えに蟹蒲鉾です。
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今晩の夕飯は空豆の掻揚天に餅草に蕗の薹の精進揚げです。
昔ピラミッドの棺の中に空豆が入っていたと聞いた覚えがあります。若しかしたらエジプトでも死者の魂は空に上ると考えたのかもしれません。だったら「ジャックと豆の木」は天空にある霊の国にジャックが昇って鬼の宝物を盗んで地上に戻った寓話なのでしょう。そう考えると空豆の花は白(霊か雲)にブルーそして黒(鬼)です。
食いしん坊の私は”花の綺麗な藤の実が若しも空豆の様に柔らければ良いのにな!”想いました。そうしたら思う存分空豆を食べられるし、「ジャックと豆の木」の豆の木とは藤であると主張できたのに・・・・。想うのです。
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これは山梨笛吹川沿いの町内会館の庭先に在る藤棚です。藤の根元にある石仏は23夜様(勢至菩薩)です。花が終われば空豆に似た鞘が沢山ブラ下がります。でも硬くて到底食べられません。採取して粉にすれば良いのでしょうが・・・・。何時か藤豆の饅頭を食べてみたいものです。

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洗濯する女性

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今春既に2度も俣野に「片栗の花」を観に出かけました。でも、二度ともまだ早く片栗は硬い蕾でした。今週末には見頃になりそうな期待が高まります。私が片栗の花が好きなのはその美しさもあるし、希少な山野草(絶滅危惧種)である事ももありますが、次の家持の和歌に依る事も大きいのです。
もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ. 寺井の上の かたかごの花. (大伴家持 万葉集巻19- 4143. )
私はズットこんな場面をイメージしていました。
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これは東俣野に咲く片栗の花です。葉っぱが緑と紫のマダラ模様なのはでんぷん質が多いからです。昔から片栗粉にしてでんぷんを食してきました。
国司のなって赴任地(越中国)に下っていった大伴家持が白山の麓の寺を通り過ぎようとした時です。お寺の井戸に娘が集まって井戸水を汲みながら何やら楽しげにお喋りしている。其処だけに陽射しが差して春が来た様に華やいでいる、その井戸の傍らには片栗の花が楚々として咲いている事よ・・・・・・。
私は娘達が集まっているのは朝餉に使う水を汲んで家に戻ってこれから飯を炊き汁を用意するモノと思っていました。
ところが最近『古代の女房の生活』を調べている中に「扇面法華経」(四天王寺国宝)の絵を観ていたら女性が井戸端に集まって石の上に洗濯物を乗せて、足踏みして洗って居る絵がありました。
ならば家持が観た娘達も井戸端に集まって洗濯をしていたのでしょう。水汲みなら直ぐに井戸端を離れてしまいます。洗濯なら暫く井戸端に居なくてはなりません。娘達は白い脛を見せて世間話に興じながら国司の視線に気づいていないのでしょう。女は古代からお喋り好きで特に井戸端会議が好きだったのでしょう。
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これが扇面法華経の図、娘が井戸端に集まっています。娘の脇には盥が在って娘は洗濯物を足で踏んでいます。一方下女風の女は裸の童子の手を曳いています。頭上には水を入れた桶を乗せています。
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一方此方の扇面法華経では下女が盥に入れた洗濯物をモノ干しに干しています。
多摩川べりの世田谷に砧があります。「砧を打つ」とは麻布を木槌でトントンと叩く事です。屹度多摩川の河川敷は麻が自生していて、女が布に織って更に砧に打って布を柔らかく光沢を出したのでしょう、砧と云えば次の和歌を想い出します。
み吉野の 山の秋風 小夜(さよ)ふけてふるさと寒く 衣打つなり
           参議雅経(古今集94番)
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和歌の大意は次の様なモノでしょう。『夜が更けて来ると山里は一段と寒くなってきました。此処昔は都のあった吉野砧を打つ音が響いて来る事よ・・・・』
砧は和歌にも絵にも描かれましたが紫式部は夕顔で上手に使っています。
『雨夜の品定め』で源氏は市井の女性が素敵で在る事を聞かされていました。源氏は偶然に乳母の館に泊まります。お隣は貧素な屋敷で、生け垣に夕顔が咲いていました。源氏はその屋敷の女性を垣間見て関心が高まります。歌を贈りますが。女は身分の違いから源氏を受け入れません。源氏はそれでも燐家に忍びます。二人は縁に出て8月15日の満月を眺めます。すると何処からともなくトントンと砧を打つ音が響いて来ます。乳母の屋敷は5条でしたから、屹度鴨川5条の川原で誰かが砧を打っていたのでしょう。でも翌朝、夕顔が萎れる時間に女は息を引き取ります。源氏は夕顔は六条御息所の生霊に取り殺された事を察知します。
紫式部は「式部」と云うのですから女官としては中級でしょう。でも和漢の才は豊富だし書も出来る人物でしたから道長が娘の彰子の相手に白羽の矢を立てたのでしょう。今で云えば和漢の才が長けた専門職でした。そんな女官がどんな生活をしていたかは紫式部日記等の日記文学に残されています。でも日記文学は狭い宮中の人だけが読者です。面白いのは庶民的な視座です。その意味では東博の「病草紙」があります。女官の登場するのは「口臭の臭い女」と「顔に痣のある女」です。
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これは東博の病草子の「息の臭い女です。右の上着を着ているのが主人で一重の女性は従者でしょう。
前者は女主人が従者二人に訊いています。
「如何?私の吐く息く無いかしら?」
すると従者は主人を指さして大笑いしています。
「とっても臭くてよ!貴方様は口うからもオナラが出ているんじゃないのかしら!」
女主人は怒りのでも無く一緒に笑っています。
平安時代のパワーエリートは庶民の生活も熟知していたし、息の臭いのも痣があるのも気にしていました。現代のОLや上級職女性と少しも変わらない可愛い女性だと思うと愛おしさが増します。


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開花をを待つ心

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先週の水曜日靖国神社の標本木に桜が咲いていよいよ桜の開花宣言がなされました。テレビで桜の開花を観ると。もう、私に桜スイッチが入ってしまいました。西行さんの気持ちが良く解ります。
おぼつかな いづれの山の 峰よりか またるる花の 咲きはじむらん
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この写真は横浜にある「瀬上池市民の森」です。尾根の向こうは鎌倉の天園ハイキングコースになります、中央の瀬上池は溜池で下流の公田村や豊田村の田圃を潤していました。この辺りは山桜が多く吉野の様な風情を宿しています。西行さんの和歌はアッチの峯コッチの山、何処で桜が咲き出しただろうか?それにしても我が宿の開花が待たれるものだ・・・・、そんな期待で膨らむ心でしょう。
西行さんは何れの山か峯か解らないけれど桜の開花が待たれる気持ちを歌われました。交通機関も発達し、日本中の情報も桜前線も毎日もたらされるので。落ち着きません。靖国神社よりも向かいの千鳥ヶ淵の方が桜は綺麗ですし、行きたいところは沢山あります。
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これは、紫香楽の畑にある彼岸桜です。背後の山の南が伊賀になります。北に行けば聖武天皇の紫香楽の宮跡です。写真出典滋賀県観光協会。
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此方は笠置です。左上に磨崖仏で有名な笠置寺があります。この辺りは天智天皇や大友の皇子の旧跡が多く磨崖仏もあるし、桜も綺麗で、奈良の長谷室生に似た風光と歴史が織り為しています。写真出典上記。

今年は4月5日から二泊三日で京都山城の桜を観に行きます。何時もの親友4人組です。去年の秋に琵琶湖を周遊して観音像を巡りましたが、その時に今春の観桜の予定を約束しておきました。
コースは石清水八幡宮から木津川を遡上して笠置に行き、笠置からは伊賀越えして紫香楽を経て大津に向かいます。前半は行基菩薩に聖武天皇の旧跡を後半は天智天皇や大友皇子の旧跡を桜を愛でながら巡ります。幸いなことに「10日間天気予報」では三日間とも好天気の予報です。靖国神社で開花して以来寒い日が続いていますので後は暖かくなって満開のピークに観桜出来そうです。西行さんは文明の利器に恵まれた私達を羨んでおいででしょう。




桜は染井吉野だけではありません。彼岸桜系は今が見頃です。私の生活圏でも江戸彼岸の綺麗な処が幾つもあります。昨日も横須賀線の車窓を観ていたら北鎌倉の浄智寺の立ち彼岸桜【天然記念物】が常緑樹の中で紅一点(正しくはピンク一点)目立って咲いていました。
【大船フラワーセンターの彼岸桜】
大船フラワーセンターは前身が県立農業試験場でしたから、桜の種の開発も熱心だったのでしょう。玉縄桜に加えて「春めき」を開発されました。名札には此処で新種が突然変異で出来たと記されています。
”桜を待っていたのは貴方たち人間だけではありません”云わんばかりにメジロが群れを成して桜の花を鍔んでいます。桜の花びらが柔らかいのは判ります。でも栄養はあるのでしょうか?美味しいのでしょうか?メジロに訊いて見たくなります。
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これが大船フラワーセンターの突然変異種の彼岸桜「春めき」です。手前は芍薬畑でフラワーセンターは元々漢方薬の農業試験場でした。
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「春めき」に集まって来たメジロ「梅に鶯桜にメジロ」です。
戸塚には早咲きの枝垂れ桜の名所「西林寺」が在ります。戸塚と瀬谷を繋ぐ街道沿いにある浄土宗の古刹です。地名は岡津(おかず)町です。岡津は家康の側室「お万の方」の生まれた土地です。だからと云う訳ではないでしょうが、矢鱈と彼岸桜が目立ちます。横浜の名門女学校「フエリス女子大」の校舎も山手だけでは狭いのでしょう。この丘陵の先に進出してきました。昔は戸塚カントリークラブしかなかった山の中なのですが・・・・。
3月29日今年の様子も見ようと出かけました。西林寺は元々教育熱心なお寺で寺小屋であり尋常小学校になり、先代住職は戸塚中学の先生を務め「戸塚区区史」の編纂をされた方です。ですから教え子の記念碑(感謝碑)が境内に何本も建っています。明治時代までなら「筆塚」なのでしょうが。筆を使わない現代では記念碑になっています。
その山門に樹齢170年の枝垂れ桜があって、丁度灌仏会の頃に満開になるのです。私達夫婦は灌仏会にお寺に上って甘茶を戴きます。本堂の西には甘茶紫陽花の植え込みがありますので、自家製の甘茶なのでしょう。甘茶は糖尿病や虫歯予防に効果があると聞かされていましたから。私達夫婦はお釈迦様に甘露をかけて、魔法瓶の甘茶を茶碗一杯戴くのが恒例になっています。
写真の様に未だ枝垂れ桜は2分咲きながら白木蓮に江戸彼岸桜は満開でした。江戸彼岸にはメジロが群れて居ました。


今時の歯医者さん。

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3月29日の深夜、歯が痛くて眼を覚ましてしまいました。
右顎上部の歯が痛くて脳天迄ヅキヅキ痛みます。鎮痛剤を飲んでいるとワイフが気付いて
「貴方は沢山薬を服用しているのだから飲み合わせは大丈夫なの?」心配します。
でも、痛くて痛くて冷静に判断出来ません。
私はバッファリンなんて汎用鎮痛剤だから飲み合わせの心配はクリアーされている筈だよ・・・・」云いました。
冷静に考えると部分入歯を作った時未処置の虫歯が上顎に残っていたような気がします。何より心配なのは4月の第一週に親友と行く約束の観桜ツアーに行けなくなるか、迷惑をかける事です。”こんなことなら処置しておけば良かった”思っても”もう過ぎ去りしで後悔先に立たず”です。早速歯医者に出かけました。
歯医者なんて何処でも変わらないと思っているので家から一番近い長堀歯科に電話しました。
ワイフが国民健康保険証に「お薬ノート」1万円持たせてくれました。
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これが我が家最短距離にある長堀歯科医院のホームページ痛くない事と最新設備である事をアピールしています。
戸塚駅近くの長堀歯科医院に行き状況を正確に話しました。全部聞いて医師はレントゲンを撮りました。
レントゲンは昔とは大違いでカメラが顔の周りをグルッと廻るだけです。結果は直ぐに目の前のLED画面に出てきます。医師はレントゲン写真を見ながら云います。「確かに上顎に歯根が埋もれていますが、どう見ても歯痛の原因とは見えません。歯根を抜くのは可能ですが、出血します。貴方の場合は溶血剤を服用されていますから、大きな病院で)抜いて貰うよう奨めます。何時でも紹介状は書いて差し上げます。
ところで、夜寝る時入歯はどうしておいでですか?「入歯を口に入れたママじゃないでしょうね?」
私は正直に「入歯は24時間嵌めています」答えると。
「寝る時は必ず入歯は外して下さい。そして洗浄剤に浸けておいてください」
私は29日の夜から云われた通りにしました。
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早速入歯を外して容器に入れてポリデントに浸けました。私はポリデントで入歯の接着が溶けてしまったと誤解したのでした
30日の昼食も終えてデザートにオレンジを食べました。オレンジをガブリ齧った時でした。何か違和感がありました。「何かな?」思って吐き出すとトウモロコシの粒の様なモノが口から出ました。何のことは無い入歯の前歯が欠け落ちたのでした。そこで、私は入歯を作ってくれた田澤歯科医院に電話しました。歯医者は横須賀線の田浦駅に近い「田澤歯科医院です。私が脳梗塞で金沢文庫の若草病院に入院中に往診して来てくれたS女医でした。
S女医は直ぐに私を想い出して懐かしそうに「何時も色鉛筆で絵を描いていた人ですね!」言ってくれて「直ぐにお越しください。期待通りに今日に出来るか解らないけど。観て差し上げます」云ってくれました。
そこで、ワイフは昨日と同じように保険証とお薬ノートと1万円を持たせて出してくれました。
田浦駅は中学の時通学の為使った駅です。私が通学した栄光学園は戦後海軍の学校施設をイエズス会が払い下げを受けて中高一貫教育施設にしたものでした。私は横須賀線に30分乗って田浦駅に着き長浦湾を半周して向こう岸の学校まで約4キロ歩いたのでした。それが5年間今は大船に移転しています。
懐かしさも在り、安心して旅行に出たい一心で私はイソイソ出かけました。
東逗子は随分変わりました。今後米軍の池子爆薬庫の土地が返還されると一層良くなることでしょう。
でも田浦はチットモ変わっていないし、倉庫街は一段と寂れている感じがしました。
田澤歯科医院の午後の診察は3時でしたので私は駅の周囲を散歩してみました。
田浦駅は上り(逗子方面)も下り(横須賀方面)もトンネルに挟まれています。上り側のトンネルは芥川龍之介の「蜜柑」の舞台になったと云われるトンネルです。改めてトンネル入り口に立ってみると明治22年竣工のプレートが貼られていました。横須賀線は明治天皇が横須賀港での海軍憲兵式に行き易くするために新設されたものです。明治天皇の憲兵が海軍の士気を高め明治27年の日本海海戦の勝利を導いたのかもしれません。
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田浦駅の上り方面の「田浦トンネル右の下り線のトンネルが明治22年に出来たモノ下り方面も同じような間隔でトンネルに挟まれています。トンネルを出れば沢山の軍艦が係留されています。
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これが田浦トンネルの表示板です。
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此方がトンネルの内部を覘いたモノです。

田浦駅の山側に降りたち、国道16号線を北に進みます。JR田浦トンネルと並んだトンネルを通って北に抜けると教会が建っています。教会の隣が目指す田澤歯科医院でした。「何時でも受診できます」看板が目立っています。
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田澤歯科医院の隣の教会(日本キリスト教団田浦教会)16号線の排気ガスでくすんだ建物でした。十字架もクロスが4つも在る見慣れないシンボルでした。
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これが田澤歯科医院の入り口です。看板は隣の田浦教会の壁に懸っています。
田澤歯科医院に着いたのは午後2時過ぎでした、約束の時間より1時間も早かったのですが、鍵はかかっていませんでした。待合室を覘くと沢山の新聞や雑誌が置かれています。珈琲こそありませんが珈琲が飲めたらコメダ珈琲(名古屋ブランドの喫茶店)です。私は迷わず雑誌を読みながら待たせて貰う事にしました。お隣が教会の所為か宗教関係の蔵書が目立ちます。私はイスラム教早わかりの書を手にしました。
午後3時診察が始まりました。私が脳梗塞で入院中往診して入歯を作って下さったS女子が来られて早速に欠けた前歯を観て「これなら直ぐ治せますよ!」云って下さいました。
そして私の口内の検査を始めました。そして云われました。
入歯をかけている下顎の歯に虫歯の懸念があります。歯痛はその虫歯の所為ですよ。治癒する時間はありますか?」訊かれます。
私は「時間は充分あります。よろしくお願いします」答えました。
歯石も綺麗にしておきましょう」云って別の女医さんに交代します。
歯石取りが終わって虫歯の治療が始まりました。最後に虫歯で空いた穴にプラスチックを詰めて治療は終了しました。
「フッ素を塗りますか?1回1080円です、半年ごとに3回も塗ればもう高校生の歯と同じ状態にキープできます」
一通りの治療が終わると田澤先生が来られて確認されました。
肌が黒光りしたサーファー風の親爺です。何処で聞いていたのか田浦に中高生時代通学していたことをご存知で
「懐かしいでしょう!田浦は。来院記念に写真を撮りましょう」云ってタブレットを取り出しました。
帰り際に写真をプレゼントしてくれました。
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治療が終わって記念撮影です。左端が院長の田澤先生右端は若草病院で往診して下さったS女子医師美人の看護師さんも写って下さいました。
地方旅館で女将さんと一緒に写真を撮ってプレゼントして貰った事はありますが。病院で写真を貰った事はありませんでした。8台も並んだ診察台は満席です。先刻から気付いていたのですが天井にはカモメが飛んでいます。屹度田澤医師は「カモメのジョナサン」世代なのでしょう。そう想うと急にジョナサンに行きたくなりました。すかいらーくグループの茅野さんの三兄弟が始めた外食事業で。スカイラークは長男が、次男三男はジョナサンとバーミアンを始めたのでした。
次回フッ素を塗るのは半年後で葉書で案内してくれるそうです。
此れだけ面倒をかけて安心を貰って費用は合計1080円です。下級老人には有難い福祉です。海の向こうの米国では『オバマケア』の全面見直しだそうです。日本で良かった思いながら横須賀線の車窓を観ながら帰路につきました。来週末の観桜旅行は歯痛の心配も無くなりました。
田浦の田澤歯科医院はソフトの素晴らしい歯医者さんです。
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病院の天井に貼られたカモメ診察台で仰向けになると自ずと目に入って来ます。これこそがソフトです。


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灌仏会の優しさ

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これは3月にデーサービスの献立表を飾った雛流しの絵です。

1箇月の経つのが早い事早い事、3月「弥生の絵」をデーサービスに届けたらもう四月です。今年は「祭り」をテーマに絵にしています。来年の陰暦カレンダーの絵に使おうと云った思惑もあるのです。2月は「若草山の山焼き」でした。3月は吉野川の「妹背山の流し雛祭り」でした。
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これは灌仏会の式紙です。デーサービスの4月の誕生者に用意しました。芒種とは72候の一つで、種播きの事で、春先の雨が農作業に必要な天からの恵みの雨で「甘露」とも言います。日本ではお釈迦様のお誕生日が桜の咲く季節と一致したことから「花祭り」となって、甘茶(甘露」をお釈迦様にかけてお祝いし豊作を祈願しました。葉月は間違い「卯月」です。惚けが出て来たようです。


そして4月は灌仏会にしようと決めました。奈良の灌仏会と云えば東大寺が有名です。東大寺の灌仏会では国の祭事で画面にも収まり難いし、詩情がイマイチです。そこでアレコレ思い巡らしました。最初は大野寺(室生寺の入り口)の弥勒磨崖仏の前での灌仏会(花祭り)を考えましたが。アレは余りにも美しいので到底私の技量では及びません。其処で2年前日文研の仲間と訪れた室生の村を想い出しました。仏隆寺の千年桜を観て雨が降る中山越えをして室生寺に向かいました。室生の里には西光寺が在って伊勢道に面して枝垂れ桜(樹齢300年)
が見事です私達は向かいの室生寺を見渡して桜を堪能しました。檜の樹間に雲が湧いて室生寺奥ノ院は雲の中でした。でも檜の常緑が桜の艶やかを引き立てていました。
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仏隆寺から伊勢古道で峠越えすると西光寺に出ます。其処から向かいの室生寺を眺めた写真です。室生に降った雨は大和平野を潤しますまさに灌仏会花祭りにピッタリの景色です。

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谷向こうの山麓に女人高野室生寺が佇んでいました。雨に煙る古刹が実に綺麗でした。
手前の棚田には蓮華草が咲いてお百姓は田起しをしていまあした。今降っている雨が棚田を潤せばすぐに田植えが始まります。室生は奈良盆地の水源です。春に降る雨を甘露と云います。甘露は人間にとっては田植えをする為の天からの恵みです。人間だけではありません。田圃の土に埋まっていた泥鰌も蛙もヤゴ(蜻蛉の幼虫)も甘露を浴びて生き返ったように眼を覚まします。
灌仏会はお釈迦様のお誕生をお祝いするお祭りです。
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これが4月の献立ボードを飾った灌仏会の絵です。

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男子の足型

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昨日(1/4)はテレビの前で感動しました。フィギアの世界選手権の中継でした。フィンランドのヘルシンキでの試合が茶の間で観られるのも興奮ですが、何といっても1・2位を独占する快挙はもう30年も昔札幌オリンピックのスキージャンプで表彰台を独占した時の興奮に勝るとも劣らない興奮でした。表彰台で君が代を歌う羽入選手の姿に森オリンピック会長も満足だった事でしょう。
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男子フィギア世界選手権で羽入選手宇野選手が1,2位の快挙を達成しました。スポーツのオフシーズンを十分楽しませてくれました。
昨今は日本のスポーツは女性上位が目立つだけに、久々の男性アスリートの快挙に世の殿方は溜飲を下げた事でしょう。4回転ジャンプを決める宇野昌磨選手の足許を見ていて想いました。北海道の伊達市に発見された北黄金貝塚で発見された足型土板です。
先ずは伊達市のHPに出ている写真を観てください。
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これが北黄金遺跡で発掘された足型土板です写真出典「北の縄文http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/life_spirit2.htmこんな足型は新潟県の上山遺跡からも発見されています。東日本の縄文遺跡に目立つ土器です。
写真を観て解るように足型の踵の位置に穴が開いています。この穴に紐を通して竪穴式住居の柱から吊るしたものと想像されます。
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これは九度山の慈恩院(弘法大師のお母様を祀ったお寺)の乳房絵馬です。足型に似た呪術でしょう。
屹度夫が狩猟に出かける間妻は家に残って土を捏ねて土器を作っていたことでしょう。円筒土器は穀物や団栗の貯蔵用に使用されたモノでしょう。土器の底には土を捏ねた時に出来たと思われる指跡も確認できるそうです。丁度長かった冬も明ける今頃の季節でした。私は札幌から車を運転して伊達に向かいました。伊達の面した洞海湾は鰈が釣り場で有名でしたから・・・・。昭和62年に北黄金遺跡は国の史蹟に指定されました。
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これは北黄金遺跡の巨大な貝塚です。丘陵の向こうが洞海湾で貝が現在も採取出来ます。
足型が吊るされた光景は神社の絵馬が吊り下げられた光景を髣髴させます。
素直に夫を送った妻が子供の健康な成長を祈ったモノと思います。
男の子だったら足が強く敏捷である事が第一です。だから、生まれたばかりの乳児を抱きかかえて縄文土器の余りを盤状にして足を押しつけたのでしょう。こうしてできた足型は男の子が一人前に成長するまでの間柱にぶら下げた事でしょう。一人前とは写真の様な大型のヘラ鹿を狩猟出来ることか、
女子と男子では祭祀の遣り方も随分違っていたようです。祭る神も違えば祭る位置も偶像も違ったようです。例えば男性のシンボルと思われる石棒は大抵が竪穴住居の左側(住居から見れば右側)に置かれていましたから、この足型も同じ左側の柱に吊るされていたのでしょう。一方女子の誕生成長を祈ったモノが土偶と云われています。最も有名な土偶は津軽海峡を挟んだ南側に発見されています。
関門海峡を挟んで本州側には青森県に亀ヶ岡遺跡があります。
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これは亀ヶ岡遺跡で発見された遮光器土偶(国宝在東博)です。母性を模った造形は女子の成長を祈ったモノでしょう。左脚が欠損しているのは。完璧な姿は凶事に繋がると思ったのかもしれません。または故意に欠いて凶事を人形に移したのでしょう。
国宝の遮光器土偶が発見された遺跡であり、昨年は八戸で発見された同様の土偶がササビーズで10億円で落札され話題になりました。「土偶が何故つくられたか?どのように使用されたのか?」判りませんが確実な事は幾つかあります。乳房が在って女性を模っている事と故意に左脚が欠損して居る事です。土偶はどれも入り口から向かって左石棒も足型も向って右に発見されているのです。
従って竪穴住居も向って左半分に女性が座って右に男性が居たのでしょう。中央に囲炉裏を切っていたと考えれば封建時代とは逆です。
昔も現代も男子は足腰が強くて敏捷な事が命です。今年は稀勢の里が活躍したし、WBCでも男性選手が活躍しました。勿論男女共に活躍できる社会が期待されるのですが、当面の課題は女性の活躍に較べて影の薄くなった大和男子の復活でしょう。

「戸塚再開発生き残り組」フルーツの豊田屋

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4月2日(日)は好天でした。午前中から今年3度目の片栗の花を観に行きました。幸い咲いてはいたのですが花数が極端に減ってしまいました何が原因なのかチットモ判りません。
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これは4/2の片栗の自生地です。花数がメッキリ減ってしまいました。
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これは同じ場所の片栗の花昔は花数も多くて遠目には絨毯のように見えます。
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地主の農家が片栗の事を慮って山桜の木を伐採しました。それは片栗は日向が大好きだからしたのでしょう。田舎娘は複雑で慮りが迷惑だったのかもしれません。逆に日陰の方が勢いがありました。
5年前までは薄紫の絨毯の様にビッシリ大地を花が覆っていたのですが。日向にしようと桜の木を伐採したのが悪かったようです。日向が好きな片栗ですが北風が強く当たるのが苦手なのかもしれません。日影の方が良く咲いているようにも見えます。現に相模原の郊外城山の片栗は墓地の中で常緑樹の日陰に群生していますし、相模湖の片栗も檜の樹林に自生しています。影取のバス停に戻って戸塚バスセンター行きのバスで帰る事にしました。終点の戸塚バスセンターは戸塚駅西口です駅前商店街を区画整理事業する計画(第二種市街地再開発事業)は昭和40年代から持ち上がっていたのでしたが、キーテナントが見つからなかったり、既存商店の合意の調整に時間が罹って、横浜市が施行者になって、事業期間は1997年 (平成9)年3月に着工竣工したのは2013(平成25)年3月。事業費約1120億円でした。私が愛着を持ってきた蕎麦屋は撤退を余儀なくされました。昔は店舗費ゼロで事業していたのに、再開発モールに移った途端に共益費や固定資産税が高くなって、居残れなくなってしまったのです。文房具の双葉屋も本屋のや文華堂も追い出されて有隣堂が威張っています。乾物屋や呉服屋は事業継続のチャンスさえありませんでした。再開発事業は民主主義の暴力の様なモノで、既存商店を追い出し全国ブランドの事業者に入れ替える事業の様なモノです。
そんなモールの中に在って今も頑張っている店が幾つかあります。その一つが「菊谷食堂」であり「豊田屋」です。
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これは戸塚駅西口モール(愛称トツカーナ)の4/2イベント案内です。賑やかに遣っていました。
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トツカーナモールのチラシ、左下が豊田村時代の名前を冠したフルーツの豊田屋の案内。
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これが豊田屋サンの店頭向こうが戸塚駅バスターミナルで通路を手前に戻るとJR戸塚駅でその先が戸塚駅東口になります。そのあたりから南が旧鎌倉郡豊田村字倉田でした。
豊田屋は昔は国道1号線に面した2階建ての商店で1階が果物店2階が喫茶店でした。今はモールの3階のバスのロータリーの連絡道にあります。
戦前まで我が家は鎌倉市豊田郡と呼ばれていますので、父は「鎌倉の叔父様」と呼ばれていました。私は横浜市と教わったので奇妙な気がしていました。戸塚区役所は今の消防署の場所に在った「鎌倉郡戸塚支所」でした。この辺りは我が生家の檀家も多いので、私はお盆の棚経(旧盆に檀家のお仏壇を巡ってお経を風呪する)して回ったモノでした。豊田屋は鎌倉郡豊田村字倉田の旧地名を残していますので愛着もあります。本堂にお霊前される果物も豊田屋から届けられました。
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これがソフトクリーム売場牛乳ソフトは300円です店内のケーキに+300円で珈琲も天内のイートインで戴けます。バス待ち時間には最高のローケーションです。
私は。トツカーナモールに出かけると”豊田屋は元気してるかな!”思いながら覘くのが習慣です。
朝から片栗の花を観に歩き疲れたので、豊田屋で一休みする作戦です。
店頭に看板が出て「牛乳ソフト/300円」を新発売したようです。バスセンターのベンチで食べても良し、店内の椅子に座っても食べられるようです。観れば既にお客さんがベンチに座っていちご生とケーキ食べながら珈琲を楽しんでいます。バスの発着を横目に見ながらケーキセットするのはグッドアイディアです。
私は隅の二人掛けの椅子に休んで牛乳ソフトを戴き、デコポン(オレンジ蜜柑)を買いました。豊田屋は「勝ち組」とは言えませんがしぶとい「生き残り組」である事は間違いないようです。戸塚駅東口に回ってバスに乗って帰宅しました。家には昨夜の参鶏湯の残り物を使った雑炊が用意されています。
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イチゴと生クリームの組み合わせは最高です。美味しい事に加えて日本人は紅白の組み合わせが大好きでこれを観たり食べたりすると元気が出るのです。平安時代も襲に愛用されました。勿論巫女さんも赤い袴に白い上衣です。雪見イチゴに珈琲なら700円です。戸塚の標準家計から見ると少し高いのでイチゴロール+珈琲なら500円台かな?
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これが4/2のセール品のイチゴロールドンドン売れていました。
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これはイートインで戴いた牛乳ソフト300えんです。「これで私は生き返りました」と云って親指を立てました。小指を立てたら「これで私は会社を辞めました」になってしまいますから・・・・。

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平安女官の悩み

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清少納言に紫式部と云えば平安時代一条天皇の后定子や中宮彰子に仕えたエリート女官だったのでしょう。和歌も上手だし書も出来る加えて漢文も諳んじている。頭脳も明晰で・・・・・。日本に科挙が無かったのはあんなエリート女官がゴロゴロしていたからでしょう。古代国や韓国は出来の悪い男性ばかりだから、科挙の試験をして優秀な官吏を選別せざるを得なかったのでしょう。そんな訳だから政変は安禄山の様に官吏が引き起こしました。また官吏は後宮にも出入りしますので、そっちの官吏は皆アソコをカットして役立たずにしました。私は高校の世界史の授業で「宦官」の説明を聴く度に「あそこの出血は止まらないだろうな?」思い皮膚看過で日本で良かった、想いました。
何時の時代もパワーエリートはいるモノです。防衛大臣の稲田 朋美サンなどは公務員試験(現代の科挙)も通っていないのに東大法学部卒を使って見事に振る舞っています。歴史観が偏っている嫌いがある事と直ぐ泣き出す性癖がある処は問題ですが、網タイツが似合うとは思いませんが、運が強くて、ライバルと目された丸川珠代氏や高市早苗氏それに昨今は小渕 優子氏もコケテいますし、運も良い様なので、何れトップに立つ器かもしれません。
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現代のパワーエリート女性稲田朋美防衛大臣、早稲田法学部出身で子持ちである所、運が在る処が良いと思います.
歴史観に偏向が目立ちますが・・・・。
パワーエリート特別職は私とは縁遠い世界です。平安時代の一般職、今日は、エリートでない女官の生活を推測してみます。
内裏と同じように摂関家も受領(国司が地方に根を張って財も実力も付けた貴族)も女官を抱えていました。女官の上位者は家の指図をし、奉公人である下男下女に命令して、家の財政を司り、食事や衣服や燃料を手配していたのでしょう。
山椒大夫の厨子王は関白師実の知遇を得て越後の国司になって離れ離れになった母を見つけます。
家族は冤罪で大宰府に流罪された父の救済の為に福島の磐城から越後から越前を経て京に旅行中に人買いに遭難したのでした。母と姉弟の面倒を見たのが奉公人の姥竹でした。名前からして竹の様に実直な乳母だったのでしょう。日本中の受領の家には姥竹のようなしっかり者が居て家の運営を任されていたのでしょう。
信貴山縁起絵巻の山崎長者の巻には、姥竹の様な女官頭が描かれています。
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山崎長者とは受領の一人です。名前からして山城の国の山崎に居た受領でしょう。サントリーの山崎工場の辺りの強欲な受領と思われます。農民から搾取をし。税(祖)は都に届けないばかりか種籾も自分の屋敷の蔵に隠してしまいます。貴山の中興である命蓮が加持祈祷すると山崎長者の蔵から米俵が飛びだして宙を舞って本来あるべき処に飛び去ったという話です。
上の図は山崎長者の蔵の扉が開いて米俵が宙を舞い始めたのを見て。女官頭が驚いている様を漫画の様に描いています。女中頭の左右には下女が居て、右側の下女は主人の処に報告に駈け出そうとしている様に見えますし、左の下女も歯を剝いて驚愕しています。館の室内には様々な仕事を分担している下女の姿も確認できます。女中頭の女官には次のような資質があったのでしょう。
①主人から絶大な信頼を胃もたれている。
②読み書き算盤が出来る(出納が出来る)
③下男・下女を指揮して家の切り守りする才覚がある。
このうち②,③は大概の女性が兼ね備えていたようです。伴大納言絵詞でも洛中の市場などで商品の販売をしているのは女性ですし、後白河法皇の梁塵秘抄(今様)では女性が洛中を行商する呼び声が記されています。下々の家では物つくりは男の仕事で出納は女の仕事に分別されていたのでしょう。物語で「柴刈り」はお爺さん「柴売り」はお婆さんの役割です。
信貴山縁起絵巻の女官(下女を含めて)は活き活きとした表情です。彼女らは雇われ人で主人の財産が無くなろうが別に問題は無いのでしょう。屹度欲張りな受領とドライな労使関係が在ったのでしょう。でも上級貴族となると違います。イメージ 3
伴大納言絵詞の左大臣源信の屋敷の様子。沢山の女官が嘆き悲しんでいます。応天門を焼いたのは自分の主人だと聞かされたからでした。物語は舎人の子供が喧嘩して、仲裁すべき親が喧嘩相手の子供を蹴とばした事から、子供が「僕は観たよ応天門に火をつけた人を!」叫んだことから真犯人が伴善雄である事が判明しました。
伴大納言絵詞は応天門が焼けて、時の大納言伴善男が「「犯人は左大臣の源信」ですと。と報告します。
すると左大臣家の女官は嘆き悲しみます。悲嘆の表情が実にリアルです。女官は「明日からは私の仕事は無い」と思ったのでしょう。高級貴族の屋敷では主人と女官は運命共同体なのでしょう。
一条天皇の寵愛が定子から彰子に移っては清少納言は自分が離縁されたような気になったのでしょう。主人と女官は運命共同体の絆で結ばれていたのでしょう。
一方高級女官もそれなりに悩みが多かったようです。病草子には現代のパワーエリートも悩んで居そうな病気が描かれています。エリートのキャリアー女性にとって仕事の他の悩みと云えば矢張り第一は美顔でしょう。下の絵は病草紙(京博)の顔に痣のある女です。女官は十二単を着こんで手鏡で自らの顔を観て、眉を曇らせています。一重の女は付け人で赤い上着の少女は娘でしょうか?二人とも心配しているのでしょうが、付け人はs不躾にも指指して何やら言っています。
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次は「口臭の酷い女」です。絵の右の女官は十二単までは着ていませんが着替え中のようです。屹度歯周病なのでしょう。右手で長い房楊枝を使って口臭の原因である歯周病を治療しています。手前の椀は薬でしょう。
一方付け人の一人は指さしていますし。もう一人は笑いこけています。主人は屹度お怒りでしょうに。
最後に太った女です。この絵は詞書きがついていますので、中央の太った女性は女官ではありません四条の高利貸しです。太り過ぎて左右の付け人の肩を借りて歩こうとしています。
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太った高利貸しの女。この絵には詞書きが添えられていますので太った女は四条の高利貸しである事が判ります。3人も付け人を従えて四条ンの市場に出たのでしょう、自分は熱いので上着は脱いで付け人に持たせています左右に付け人を添わせて肩を借りています。市場の男達も笑ってみています。市女笠の女は路傍に腰を下ろして乳を与えています。
古代も現代も女性は逞しくもしなやかに生きて来ました。でも次の事実は歴史が教えています。
①.古代は総じて母系社会で、女性がトップの時代は総じて平和を享受してきました。
②庶民の期待に反して戦乱が起きた後は女性が指導して平和を維持しました。女性は総じて聞き上手話し上手ですから、総意を形成して爺資する事に長けていたのでしょう。推古天皇も持統天皇もそんな女性固有な資質を持った指導者でした。古代末期平仮名を開発して駆使したのはパワーエリートの女官でした。私達はその恩恵を受けて平仮名で自分の考えを纏め他人に話し、文章に発表しています。考える読む聴く話す総てのコミュニケーションは平仮名の恩恵です。ソモソモコミュニケーション上手は昔も今も女性でしたから。『女性の方が長けている、特に平和な時代には』それは歴史の実証する事実で生物学は遺伝子や染色体から女性の方が優れていることを証明しています。今日も女性紺プレックに沈みながらも平和な一日が始まります。


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西林寺門前の魚光

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西林寺の枝垂れ桜は戸塚区で一番の一本桜です。毎年4月8日の花祭りの頃が見頃です。嬉しい事に甘茶の接待もして下さります。だから私は浄土宗のお寺が好きです。今では甘茶は漢方薬局のドル箱商品です。我が生家でも甘茶と菊芋は自生していてお金になるとは思っていませんでした。花祭りや盆の季節にお檀家にサービスする天然の恵みものでした。
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これは昨年の西林寺の花祭りです。この左手本堂の縁側にポットに甘茶を入れてあって自由に飲めるお接待を受ける事が出来ます。今年は4月8日(土)が灌仏会ですから枝垂れ桜も満開で良い花祭りになる事でしょう。
先日(3月31日)その西林寺に上って樹齢170年の枝垂れ桜を観に行きました。生憎2分咲きでしたが樹勢は衰えを知らず今年も美女を眺められる確信しました。
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西林寺の枝垂れ桜は早咲きなのですが3/31日には未だ2分咲きで白木蓮と江戸彼岸が見頃でした。
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西林寺の枝垂れ桜は未だ2分咲きでしたが例年以上にピンクが濃いような気がしました。
花が未だなら次は食事です。少し戻ればサンマルクレストランもありますが、同店にはもう飽きてしまいました。そこで以前来た事もある「魚光」と云う魚屋さんに向かいました。
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此方は西林寺門前にある魚屋の「魚光」です。昔ながらの街の魚屋さんが近くにスーパーが出来たのでやむを得ず店の半分を食道に仕切ったようなお店です。
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魚屋さんの店頭ショーケースにはお刺身が並んでいました。何れも1080円でした。
大体お寺の門前には良い魚屋が進出しているモノです。浅草寺の門前には「魚屋梅」があるし「寿司屋の幸」もあります。豆腐屋か蕎麦屋そして魚屋何れかが名店です。それは法事需要がある事と。坊さんの舌が庶民より肥えて居る事もあります。魚でも殺生ですが四足動物に較べれば大目に見られているのでしょう。
私は京都に行くと1食は西本願寺の檀信徒会館にある老舗割烹の出店で済ませます。
戸塚の岡津と云った辺鄙な町でも小さいなりにお寺と魚屋さんの共存関係は生きているのです。我が生家の寺でも門前に割烹「水車」が在って看板には「法事の後にお気楽に・・・」案内していますが。お寺に上る人も少ないしジリ貧気配で心配です。店主は私より2歳年長で横浜の老舗割烹で腕を磨いたのですがお寺が小さいし。女将さんも無口なので新しいお客が取れないのが致命的なようです。
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店内壁に貼られたメニューリーズナブルな価格設定です。私は先刻ショーケースで確認したので天麩羅系は避けて刺身定食860円にしました。
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これが刺身定食860円です。お茶碗の陰に白州干し大根卸しがあります。ご飯は少なくして貰いました。
後から来たお客さんが
「今日の煮魚は何なの?」大声で確認しました。
女将さんが
「今日は鰊です。鰊は今が旬ですよ!」負けず大声で案内しました。
出されたお盆をチラ見すれば鰊の甘辛煮付けにお刺身がついていました。次回は私も常連さんの真似をして「煮魚定食」にしましょう。

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香炉峰の雪

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開花宣言があったのに寒い日が続きました。4月1日は夜半から寒い事寒い事庭のプラムも可哀想です。
ラジオでは軽井沢では積雪11センチで箱根道路は通行禁止だそうです。親友のМ君は八王子で先輩のIさんは国府津です。エイプリルフールの窓を開ければ高尾山や箱根山が冠雪して居る事でしょう。
場面は定子の実家であった、三条院兼家の北の対です。定子が香炉峰の雪は?尋ねます。清少納言は、炭櫃(すびつ)に火おこして、女房達と集っていましたが、定子の声を聴くと、御格子上げさせて御簾(みす)を高く上げました。すると 笑はれました。主従が漢詩に通じて居る事を認め合ったのでしょう。
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これは上村松園の清少納言図です。香炉峰の雪は著名なので沢山の画家が描いています。あの世の清少納言は”あの頃の私はそんなに若くて美人では無くてよ・・・・”はにかみそうな美しさです。
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これは定子の生まれ育った藤原兼家の中関白家東三条邸の模型京博で展示
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これは彰子の生まれ育った御堂関白家(道長)の土御門邸(写真出典東宝源氏物語千年の恋

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これは一条天皇の時代の女房サロン右側が后の定子の実家である東三条邸(家長藤原兼家)で定子には2人の兄がいた長兄は伊周で漢学にも優れ一条天皇の漢学の師であり信任も厚かった次兄の隆家はヤンチャでトラブルメーカーでした。
【定子の三兄弟】
定子は父が藤原兼家、母が高階貴子(受領高階成忠の子)でしたから、母方は大したことはありません。道綱母がライバル心を強くしたことも納得です問題は兼家の長兄が関白長兄伊周で父が藤原師輔でした。兄父とも当代一流の学者であり漢詩を好み有職故実に明るく色好みでした。定子は14歳の時に一条天皇の后となって入内します。と云っても一条天皇は未だ7歳の童子でした。7歳の天皇に14歳の后柳川の雛祭りの様なカップルでしたからどんな夫婦生活が始まったのかしんぱいですが、一条天皇の純愛は素晴らしいモノだったようです。晩年一条天皇は道長の愛娘彰子を中宮に迎えますが定子をを粗末にする仕草は微塵も見せません。清少納言は主人夫婦の純愛の光景を誇ら気に記しています。枕草子には「大納言殿参り田給いて」に次の様なエピソードが残されています。定子様の長兄大納言伊周様が内裏に来られて帝と漢詩の話などされていました。(伊周は一条天皇の教師でありました)帝と后の前に仕えていた女房は一人減り二人減ってしまいました。そのうち帝も居眠りを始めました。私は眠いのを我慢して控えて。一条天皇は8歳定子は15歳伊周は17歳でした。居眠りしたのも仕方ありません。帝が柱を背にしてウトウトしておられるのを伊周は「もうじき日付が変わってしまうのにあんな風に居眠りして良いのでしょうかね?」云われると、定子様も「本当にそうね」云われました。
そのうちに時刻係の娘が鶏を隠しておいたのを犬が見つけました。鶏が犬から逃げて、廊下の隅で「コケコッコ!」啼きました。すると帝は目を覚まされました。女官なども鶏の声を聴いて内裏に集まって来ました。
その時伊周さんが大声で「鶏の声 明王の眠りを驚かす!」朗詠されました。
伊周の咄嗟の一言は都吉人(みやこのよしと)の漢詩を引用したモノでした。
漢詩の真意は賢帝の徳が下々にまで及んで国が栄える・・・・の意味でした。
驚くのは内裏の定子のお部屋に一条天皇の他沢山の女房そして定子の兄伊周までもが夜を明かしていた事で家族だんらんの光景が在った事です。一条天皇の先代天皇は花山天皇で。花山は内裏を忍び出て出家してしまったのでした。一条天皇は家族愛や団欒に餓えていたのでしょう。三歳年上の定子は一番に心休まる女性だったのでしょう。
定子の不運は実家の不祥事に始まります。最初に起った事件は中関白家のコア関白藤原道隆の死亡でした。
関白道隆は長年糖尿病を患っていましたから本人も一族も覚悟はしていたようです。道隆が亡くなると次の関白の椅子を兼通、兼家の兄弟が競います。兼通は一条天皇の覚えも良く関白に就任しますが折からの天然痘にかかり7日関白で終わります。すると今度は道隆の子(定子の兄)伊周と隆家が争います。大鏡によると隆家の執着は物凄く「一条天皇の指示”関白道隆の居ないは隆家に天皇の命令を伝える”を「間から替えて」と改めたのだそうです。ソモソモ関白は摂政と違って政治の権力を代行するモノではありません天皇に代わって上奏文や法令案を天皇よりも先に検閲して、天皇をアドバイスする権限があったのでした。『関白兼通が天然痘で突然死したので、当面の間隆家に上奏文を自分より先に検閲して意見をしなさい』と指示したのが何時の間にか「道隆に替って」になっていたのでは、不信感が強くなります。ソモソモ一条天皇は醍醐帝や村上帝のような賢帝志向が強かったのでした。加えて多くの参議は中関白家に対して反感を持っていました。一条天皇の母詮子は道長を推していました。一条天皇の定子に対する純愛は少しも色褪せていなかったのでしょうが、道長の愛娘彰子を中宮に迎えます。この辺りの資料は藤原実資の日記「小右記/藤原北家筋)」にも詳しいのです。
この辺りで既に中関白家の命運は尽きていたのでしょう。一条天皇の元に道長から次の不祥事件が報告されます。根拠小右記や栄華物語
『花山法皇と内大臣伊周中納言隆家の牛車が故一条太政大臣の門前で乱闘をおこし、花山法皇側の童子2人が殺され首を持ち去られた』
実際に暴挙に出たのは次兄の隆家で長兄の伊周は傍観していただけのようでしたが。この事件によって中関白家は衰退してしまいます。逆に土御門の道長に運が向いて来ます。
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これは紫式部日記絵詞の紫式部が白氏文集を彰子に講義する場面
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これは土御門邸で舟遊びする定子と一条天皇紫式部絵詞
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これは、紫式部日記絵詞の一場面です。奥の部屋が中宮彰子の部屋だとすればその控えの間で右の公達はお酒かお茶を飲んでいます、一方左の公達は女房の襟に手を入れて盛んにセクハラしています。この時代はセクハラとは云わず「色好み」と評されたのでしょう。セクハラ男が道長なら面白いのですが、紫式部日記絵詞では道長はメタボ男に描かれています。


「スズナ」と「ナズナ」

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雨の降る庭を観ていて気づく事があります。”随分「ナズナ」が生えているな!”
「ナズナ」と云えば聞こえは良いのですが俗称「ペンペン草」で知られている雑草です。今は白い小花が咲いていますが直に種が出来ます。種は三味線の撥(バチ)に似た三角の鞘に収まっています。だから三味線草の意味で「ペンペン草」と呼ばれています。「ペンペン草が生えた」と云えば貧乏の比喩です。ペンペン草の生えた庭を観ていると昔兎を飼っていた頃を思い出します。ペンペン草を抜いて兎小屋に投入れておくと。兎は上手に草だけを食べて土の付いた根っこは残しています。ペンペン草も差別用語ですが兎の三口も差別用語です。兎の口が縦横に三つに裂けているので三口の子を差別したモノでした。でも兎を観察していると三口は上手に草だけを食べる機能を満たしているのでした。
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これは庭に咲き出したナズナです。白い小花が散ると三味線の撥の様な鞘が出来て中に種が出来ます。種が地面に落ちて翌春に芽吹いて草木が茂る前に種を実らせて攪拌しますネットで購入したお地蔵さんに良くあいます。そう想って見るとお地蔵さんのお顔はスズナ(蕪)のようです。
”ペンペン草も生えないと云えば極貧であることを比喩します。
”未だ我が家はペンペン草が生えてるから良しとするか、思います。
ペンペン草は救荒植物だと確信して上杉鷹山公の「カテモノ」を調べると入っていませんでした。ペンペン草(ナズナ)は「春の七草」にも入っているので誰しもが「食べられるし健康にも良い」と知っていたので「カテモノ」には入っていないのでしょう。我が庭のナズナも天麩羅にするのなら今の内で。もうじき繊維ばかりになってしまいそうです。
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蕪が美味しい季節です。サラダに最高です。
一方「スズナ」と云えば蕪の事で、今が一番おいしい季節です。
楕円の根っこの上部が少し青味が出たり中には赤味が差したりし出すと。その部分に苦味や辛味が増して、)淡白な白い部分との相乗効果が出て美味しさが増すのです。一番おいしい食べ方はサラダ感覚の浅漬けです。昨今の赤味や紫色の射した蕪は見た目も美味しそうで堪りません。
鎌倉関屋の野菜売り場は私の好きな青空市場でしたが。今はバイクに乗れないので買いに行けません。戸塚区役所の3階の地場野菜直売場がせめてもの楽しみです。
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これは見た目も美味そうなアヤメ雪蕪です。紫色の部分に苦味や辛味が出て大人の味です、ネーミングも取ってつけたようですがグッドです。水耕栽培したくなります
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これは戸塚区役所3階にある野菜の直売所です。もうじき蕪や筍が並ぶことでしょう。新鮮な事に加えて生産者の顔が見える事は食べ方も教えて貰えるし作り方(と云っても庭先栽培や水耕栽培ですが)教えて貰えます。

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桜の心は御し難し

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4月5日日から2泊3日で京都山城をグルット廻って帰宅しました。帰りの新幹線の車中で隣席の友人と話していました。
5日の石山寺では桜は咲き始めで、醍醐寺こそ満開でしたが。観音寺(普門寺/ふもんじ)も笠置も2分咲きでした。信楽は未だ蕾でした。帰途の寄った近江八幡や彦根は7分咲きでした。
「今日からツアーなら良かったのにね!」
「去年は福島を旅したのでしたが、”勿来も三春も1週間遅れでした”、去年は桜には遅すぎたし、今年は少し早すぎた!」丁度ピッタリ合わせるのは難しいね!」
桜姫の気まぐれは読みにくいモノで、”女心に秋の空”とは云うが、”女心以上に桜の花は読めないね!”
そう想うと西行法師の歌にもアッチの峰の桜は咲いただろうか?コッチの山の桜も咲き出しただから。・・・・。そんな歌が在ったね!西行法師でさえ、桜の花の心(木霊/こだま)は読めなくて心乱れたのだから・・・僕らが翻弄されるのも致し方ないね。女心は掴み難いから、追いかけたくなるもんで何時も何時も満開を観続けられたら、感激は浅くなってしまうモノね!」何んて話していたら、
新幹線は岐阜羽島に止りました。
私は提案しました。
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これは石山寺です。4月5日今度のツアーで最初に寄りました、此処で「シジミ釜飯を戴いてツアーがスタート。偶々手前の染井吉野が咲いていて山門横の宿直殿の彼岸桜が満開でしたが境内の桜はこれからの風情でした。

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これは信楽畑の一本桜です。蕾ばかりで一輪も咲いていませんでした。これでは仏の座(紫の山野草)を観に来たようなものです。
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これは宇治川の桜丹塗りの橋の、向こうは平等院鳳凰堂です。6分咲きと云うところでした。橋の袂手前に宇治十帖夕顔と六畳の宮の像が在ってその先に宇治上神社があります。
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醍醐寺の桜は満開を拝めました。
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此方は笠置の北にある山城和束(わずか)です、まだ咲き初めでした。その代り山猿に会えました。この辺りが宇治茶の生産農家が集中していて、そんな農家の老夫婦に面倒をおかけしました。この辺りは大友の皇子(天智天皇の息子)が陣を敷き、笠置に大海皇子(天武天皇)が進出しましたこの村には茶畑の中に皇子の墓が数多く確認できました。私の高校生時代奈良の高円山の奥に大安麻呂(古事記の編纂者)の墓が茶畑の中で発見され話題になったのでしたが、茶畑と墓は不思議に縁が深いのです。
「来年は此処に来ようね!駅を降りたら円空さんが即身成仏された、弥勒寺があるし長良川にそって円空仏を拝観して。尾根谷の薄墨桜を観に行こうよ!できれば尾根谷に宿を取りたいけど満開にピッタリ行くのは神頼りするしかないね!1泊2日で良さそうだね・・・・!」
そんな次第であすからツアーでの体験をブログアップいたします。

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旅の最後に観た桜は彦根城でした。石垣とお濠の水が桜の美を際立てていました。千鳥ヶ淵も綺麗ですが遠景は新宿のビル群です、天守閣である彦根城の桜はは折からの雨で濡れていました。長恨歌を髣髴させる艶やかさでした。
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これは近江八幡のある種屋さんのお庭です。向こうの山が右と左で八幡山です。これは茅野市で縄文展示館を設計された藤森照信氏が設計した「ラ コリーナ近江八幡」http://taneya.jp/la_collina/about.htmlです。
此処で休んでいると突然雨蛙の大合唱が起きた途端に雨が降り出しました。このプロジェクトは三内丸山古墳のテーマパークの趣でこの池の7つの島も有意味です。日本史上村を囲った事はこの縄文時代、弥生初期と中世だけでした。


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尊い木津川の石

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私が学生時代に奈良に入る時は夜11時頃に横浜駅で急行「銀河」に乗ると翌朝5時に名古屋につきました。ホームで熱いきし麺を胃袋に流し込んでから,関西本線に乗ると木津川の渓流に沿って南下して朝7時過ぎに奈良駅に着きました。。お金が無い時は最終の東海道線「大垣行行き」に乗っても略同じようにして翌朝7時頃に奈良駅に着来ました。終日仏像を拝観して奈良博ぶつ館前の「日吉屋」に入ると前夜に観た顔が幾つも確認できました。そんな人に教えて貰って翌日からの拝仏プランを練ったモノでした。
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木津川を見下ろしながら走る関西本線木津川の川原は名石が転がっているので、石拾いの名所でもあります。越中の海岸で翡翠をp拾う様なモノです。
大學に入って浅古教授の授業で、「法隆寺の創建に際しては室生の山から檜を伐り出して大和川を流して斑鳩で陸揚げしてあの世界最古の木造建築群を建てた」と教わりました。都が奈良平城京を築造した時には木津川が同じ役割を果たしたのでしょう。
具体的には。琵琶湖周辺で伐り出した材木を瀬田川から淀川に流して今の八幡市まで筏に流して、
今度は木津川に浮かべて材木を遡上させ現在の加茂町で陸に引き上げ般若寺坂を引き上げて東大寺境内に運んだのでしょう。加茂町の辺りに聖武帝は恭仁京を作ったものの平安時代は廃墟になって「みかのはら」と呼ばれていました。 、(中納言兼輔は次の様に歌いました。
みかのはらわきて流るる泉川 いづみきとてか 恋しかるらん。
4月6日午後2時頃に私達は恭仁京跡に着きました。目標は恭仁小学校です。小学校の北山側が大極殿跡です。東側は原っぱでそのの中央に立派な礎石が並んでいます。子供達が礎石の上に乗って遊んでいます。
子供達に話しかけてみました、恭仁小学校の3年生で授業も終わったのでこの原っぱで遊んでから帰るのだそうです。学校は楽しいそうです。原っぱでサッカーをして疲れると礎石の上にお菓子を置いて、ゲームに興じていました。
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子の礎石は)山城国分寺の7重塔の礎石です、子供達は恭仁小学校の生徒/3年生で学校が引けると此処で遊んでから家に戻るのだそうです。この礎石も上流の笠置や和束から積み出したものでしょう。
「恭仁小の日本一は何だ?」訊いてみ間sぢた。私は「”この石が日本一だ”答えを期待したのでしたが
「恭仁小には日本一は何も無いいそうです。
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恭仁京跡地の南側に恭仁小学校があります。大極殿跡が「山城国分寺」の金堂になり、今は原っぱです。
恭仁京の礎石は硬い白い御影石です。東大寺大仏殿の裏は松林ですが点々と天平の大仏殿の礎石が残されています。三溪園の春草露の沓置き石は東大寺の礎石と表示されています。
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これは東大寺の天平礎石です。現代の大仏殿に較べれは3割程度は横広がりのおおらかな仏殿である事を証明しています。木津川の石は奈良の都の造営の為には必須のアイテムであったことが解ります。
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これは横浜にある三溪園の 春草廬(茶室)です。中央の石が東大寺の礎石であったと案内されています。
木津川の源流は笠置です。笠置寺と云えば創建が天武天皇で後醍醐天皇が行宮を置いたことで著名です。
笠置の地名は次の由緒であると説明されています。天智天皇の弟大海皇子(後の天武天皇)が鹿を追って笠置の山奥に入り込みました、ところが狩に夢中になって断崖から落ちそうになってしまいます。皇子は「山の神」に祈ります。
『私を助けて下さい、そうしたらり弥勒仏を彫ってこの山に祀ります』。その場所の目印に「笠を置いて」そして数日後約束を履行するために笠を置いた大岩の処に戻ります。改めて大岩を確認すると余り大きくてが及びそうにもありません。困っていた皇子の前に天人が舞い降り、みるみるこの弥勒磨崖仏を完成させた、そうです。
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これが笠置寺の弥勒磨崖仏です。岩の高さは15メートルだそうです。右が本堂で本堂に坐って扉を開くとこの弥勒磨崖仏を遥拝できるように設計されています。この本堂自体が清水寺の様な懸崖造りで過去に二度も焼失したそうで。その度に猛火が磨崖仏を熱したために風化が激しく形を留めていません。大岩の上部が心なしか煤けて見えました。
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此方は笠置寺の虚空蔵菩薩像が陰刻されています。此方の大岩は20メートルもあるそうです。
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これは和束の弥勒菩薩。此方は陽刻である上に状態も良い案内には「鎌倉時代1300年の作で像増330㎝とされていました。左の渓流は和束川で木津川の支流になります。この日は前夜の雨を流して激流でした。
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和束の茶畑の端には土止めに石を積み上げていました。
私は木津川の銘石を探そうと和束の弥勒磨崖仏の周辺で石を探してみました。
どれも御影石が多くて。唯御影石の裂け目に変成岩が挟まれているモノが目立ちました。下の写真はそんな中で気に入ったものです。
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花崗岩の隙間に鉄分やアルミ二ウム成分が浸入してできた変成岩です。このアルミと鉄分を含んだ岩が信楽焼の陶土のようです。
私は木津川の源流では石には磨崖仏が彫られ。民家の石垣や茶畑の石垣に使われていました。
下流の八幡市には有名な「流れ橋」がありました。
此処から石清水八幡宮の辺りまでが巨椋池で宇治川、木津川、更に鴨川、桂川が池に流れ込んだのでしょう。東大寺を建てた行基菩薩は巨椋池から木津川を中心に治水工事をしていたのでしょう。
木津川で運んだ材木や石を使って東大寺を建造するのに充分なスキルと指導力を行基菩薩は兼ね備えていたのでした。
私達は流れ橋を渡ってみました。
「橋には欄干が無いので危険です。橋の中央を歩いて下さい、自転車やバイクに乗ってはいけません」
注意書きが掲示されています。橋の上から川原を観ると砂地の上に石で文字が描かれていました。
「愛を誓った」石もあります。
男性は「石の硬さで誓ったのかもしれませんが、女性は「何れ大雨で流されるに決まっているわよ!」
「橋が流されたら、私はもうこの男に束縛されないの!」思っていたかもしれません。
妄想をしながら橋を渡っていると、川原に落ちるかもしれません。
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これが八幡市にある木津川「流れ橋」流されることを前提に作られています。
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川原の砂地に愛屋友情を誓った文字、素材の石は木津川の銘石です。


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木津川の筍と茶

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4月6日私達は「八幡市の流れ橋」から木津川に沿って遡上しました。
川は古代の道でもあります。石や材木の様な建築資材の他にお米や麻などの消費財を運び文化を伝播しました。
それが観音寺や蟹満寺等の寺院で、各々国宝の観音様や釈迦如来が残されています。
観音寺の11面観音像は白州正子氏も激賞している観音様です。
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観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。木芯乾漆像で、先ず木像を彫り微妙な部分は漆と麻で盛り上げたモノです。当時の漆は貴重品で、租庸調(税)の調として管理された。東大寺の造仏所で製作されたと思われます。聖林寺の11面観音と並ぶ天平時代の11面観音です(住職の説明)
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此方は蟹満寺の釈迦如来坐像丈六像です。私達が魅了される「興福寺仏頭」のお身体も屹度この像の様なモノだったのでしょう。創建時の東大寺大仏もこの様な金銅仏だったのでしょう。蟹満寺は白鳳期の末期(680年前後に創建された事から、東大寺大仏の開眼(752年)よりも百年弱古い事になります。この辺りは光明皇后の母橘三千代の育った地域でしたから、仏教もいち早く浸透したし、行基の活躍していたのでしょう。
私達が庫裏の「拝観受付」に回ろうとするとご住職が本堂から大声で「真っ直ぐに本堂に上りなさい!」指図してくださいました。
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これは観音寺の参道の菜の花です。住職はもうじきに田圃の肥やしになるので好きなだけお取りください云われました。
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中国人と思われるカップルが前撮りしていました。後ろは観音寺の竹林です。
私はご住職にお水取りの松明行事に使う竹を教えて戴きました。
二月堂で行われる松明行事は観音寺(昔は晋門寺、ご本尊が観音様になったので現在名で親しまれています)の境内で採られた竹に松の枝を束ねて松明にしたものです。竹は真竹と呼ばれる日本の伝統種であって孟宗竹とも淡竹とも違い節と節の間が長く緑が濃く門松に使われる竹なんだそうです。私達が筍として食べているのは大半が孟宗竹で京都名産の山崎や嵯峨野の筍は孟宗竹が多いのだそうです。勿論一番美味しいのは真竹だそうです。
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向こうの竹林が真竹で、お檀家が観音寺に真竹を届けて練行衆が松明に作り上げてお水取りの有終を飾るのだそうです。お水取りは正しくは修二会の「11面悔過(じゅういちめんけか」と呼び、日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味します天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)が始められました。良弁僧正が木津川の畔に聖武天皇の勅願により良弁が伽藍を整え「普賢教法寺」と号し、十一面観音立像を安置したと伝えられています。竹林の前を走っているマイクロバスは老人ホームの人達がお花見を兼ねて来られているモノで、住職はこの人たちを待っていたのでした。
ご住職は本堂の縁側に出て向こうの里の竹を指さしてくださいました。あれが真竹なのだそうです。
筍が美味しいのは猿や猪が良く知っていて、人間はい猿や猪が食べ残したお下がりを食べているのだそうです。
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これは「流れ橋」の農協売場に出されていた筍です。農家が2本600円の商品を並べていたのでしたが農協職員が2本800円の写真のと差し替えてしまいました。地元の叔母さんが「今年は値段が高い」と嘆いていました。
一番の悪は猪で鋭い嗅覚で土中の筍を認知して掘り出してしまうのだそうです。
「お水取りの筍」なんて食べてみたいものです。
ご住職は云われました。
「筍は食べられなくても門前の菜の花は好きなだけ摘んで下さって結構ですよ。もうじき田圃の肥やしになってしまうのだから・・・・・。
猪が筍を食べてしまう食害は和束の農家民宿でも訊かされました。木津川の南側は加茂町(浄瑠璃寺がある、北側は海住仙寺がありますがドッチを観ても竹林です。竹林ばかりなのに筍を猪に先取りされてしまうのは穏やかではありません。
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これは木津川の上流和束町です。此処は宇治茶の4割を生産しています、見渡す限り茶畑華竹林です。向かいが笠置でその奥が柳生になります。京都府と奈良県の境に木津川が流れていることになります。
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これは和束町の真竹の竹林です。この中に猿の家族が潜んでいました。
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左端の猿は見張り役です。視線の先には家族が居て地上に頭を出した筍を漁っているのです。猪は猿以上に困った存在で筍を掘って食べてしまいます。
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和束町の道端の頑丈なフェンス、高いところには高圧電線が張られていました、畑はジャガイモが植えられていました。
和束の農家民宿の話では猪は狩猟可能期間が3月16日から11月15日に限定されているのだそうです。考え方は先ず第一に野生の動物を狩猟する事は悪い事だいった考えがあって、人々が山に入る期間(山野草や茸を取る目的で人が山に入る)、に限って狩猟が可能になるんだそうです。
お茶栽培農家にしては猪は困った野生動物で。お茶の木を食べる訳では無いモノの、猪は最短距離を直進する習性があるので、お茶の木をなぎ倒して進むのだそうです。
丹精して育てたお茶の木を自動車が轢く様にお茶の木をなぎ倒してしまうのだそうです。
加えて猪の体には真ダニが寄生していて茶畑に真ダニをまき散らして行くので、茶畑に入ると真ダニに食われて足がパンパンに腫れてしまうのだそうです。
自然が豊かになったのは良いモノの。熊や猪や鹿と共生するのは難しいものだそうです。
猪等の正確な調査をして、被害の実態を広く知らしめ、原則禁漁を解除する必要があるようです。猪は美味ですし、農家の生活保護の為にも美味しい筍を食べる為にも客観的な調査と、ジビエ食肉出来る体制整備が必要なようです。
農家民宿の主人に訊くと猪を捕獲したら地元の肉屋さんが買い取ってくれるのだそうです。
実は農家民宿の食事は鉄板焼きでした、次回来ることが在れば猪や熊や鹿のジビエ焼きを食べてみたいものです。私達はその肉屋さんのお店を確認して出かけてみました。
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これは和束町の肉屋さんの駐車場に干された猪や熊の毛皮、町では気味悪いので撤収を期待しているようですが。買いたい人もいる様なので撤去しないようです。未だ脂肪や肉がついていて生乾きでありました。



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山城の水

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人間の指は5本です。だからでしょうか人間は「5」と云う数字が好きです。色も5色ですし、五輪塔も下から地輪(四角)・水 輪(円)・火輪(三角)・風輪(半月形)・空輪(宝珠形)です。山城を旅していると大自然の恵みを痛感しました。屹度観音様が笠置や和束の山に雨を降らせて、人間の穢れを流し。農作物稔らせると確信したのでしょう。瑞穂の国の水源地には11面観音が祀られています。
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聖武天皇の恭仁京大極殿の跡には住産石塔や五輪塔に宝篋印塔現代の角塔まで墓標塔が並んでいました。向こうの木造建物は恭仁小学校です。
旅先で湧水を飲めるのは日本の長所です。中国でもベトナムでも生水は飲めません。必ずミネラルウォーターを携行します。今回の旅で飲んだ生水は宇治神社で次は伏見の笠置温泉で飲みました。
先ずは伏見の御香宮神社です。この神社については私は無知だったのでしたが友人のI君が戊辰戦争に詳しくて「鳥羽伏見の戦い」の開戦の地に行きたいというので4月6日の朝一番で向かいました。本殿の横に水飲み場が用意されています。所謂手水場と違って湧水を飲む為の設備です。
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御香宮神社の総門から神殿を望む。
案内にはこの湧水が香ばしいのでこの名の神社が創建されたとあります。貞観4年(863年)に確認されこの奇瑞を悦ばれた清和天皇から「御香水」の名を賜り神社が創建され名も「御香宮神社」と呼ばれてきたそうです。香りは判りませんでしたが口当たりの良い軟水でした。
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御香宮の手水場、水面に映っている様に「飲めません」水面に浮いているのはきしみの花弁です。
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此方は御香の宮の湧水の飲み場です。青いホースは珈琲店などが業務用に利用するモノです。私達は竹桶から柄杓に湧水を受けて戴きます。若しかしたらお酒の様な芳醇な香りがするのか?思いましたが、香りも味も無い口当たりの滑らかな軟水でした。
水飲み場の傍に大きなキシミの木があって花弁が水に浮いていました。伏見では月桂冠や黄桜酒造を見学する積りも在ったのでしたから、その湧水を飲むチャンスも在ったのでしたが、開館までの時間を惜しんで次の目的地に向かいました。
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此方は黄桜酒造の展示館。開館前から長蛇の列が出来ていました。黄桜にも月桂冠にも工場内に湧水があります。伏見の水は軟水ですから、伏見の酒は口当たりの優しい女性好みのお酒です。一方灘のお酒は硬水ですから・・・・。
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此方は同じ神功皇后応神天皇をご神体に祀る城南宮の手水場です。
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城南宮で催される曲水の宴(城南宮掲示板を複写)
次に生水を飲んだのは宇治でした。
宇治神社の手水場で口を灌ぎゴクリと遣りました。
宇治と云えば大手のお茶屋さんが軒を連ねる、源氏物語の後半舞台です。

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