昨日(3/21日)は終日雨でした。テレビでは靖国神社の桜が綻んだ、開花宣言です。雨に濡れた桜花が艶めいて見えました。夕飯前にワイフが言います。
「白木蓮が綺麗ですよ。観てあげて下さいね!」
ワイフのお奨めは二階の長男の部屋か,ベランダから眺める事です。
私は二階に上るのが億劫なので「食後に観ますよ」
言ったまま忘れてしまいました。
暮れ時の白木蓮の花、数日暖かだったので直ぐに咲いてしまいました。ところが咲いた途端に冷たい雨が一日中降って、強い北風が吹き出しました。
22日朝の白木蓮の花北風が強いので。今日が最期になることでしょう。良く咲いたね!来年も見せてね!呟きます。
ところが今朝(22日)は大風が吹いています。朝食前に白木蓮さんの事を想い出しました。
そこで二階に上りました。ワイフも後から付いてきてくれました。後ろから階段で転げたら支える積りなのでしょう。
二階の窓からは白木蓮の花が目の前に見えますし、美女の横顔を覘く位置になります。
北風が梢を揺らします。白木蓮の枝は大きく揺れています。私はワイフに云います。
「まるで、美人が強い風で鬢が乱れてているようだね!」鈴木春信の浮世絵を想い出しながら同意を求めました。「美女に強風」は「月に叢雲」に似ています。邪魔者が本体の美しさを際立たせます。
先日義母の戒名が「白蓮院」である事を書きました。若しかしたら、今はお仏壇に戻って来て私達と一緒に白木蓮を観ているかもしれません。白木蓮が義母なら北風は癌だったでしょう。長い闘病中の母の面影を宿す純白な花です。
母は自分の義母の納骨式の時に呟きました。
「私は此処のお墓に入るのは厭だわ!だって、お隣の骨と触れ合うのでしょう。」
そのお墓は田圃の隅にありました。パールバックの大地にあるようなお墓で先祖伝来の田畑の隅で田畑を見守るように建っている嫁ぎ先先祖伝来の合同墓地でした。
これは伊奈児の光前寺の合奏墓地です。遺骸を埋めた土饅頭の墓標に地蔵尊を立てています。多分此処は穴を掘れば何処も人骨が出て来るでしょう。これほどでは無くても義母が嫌った父方のお墓はジメジメした暗い感じでした。
義父はその後直に新しい墓地を求め「○○家の墓」と刻まれた黒御影の角塔を建てました。それから数年後母はその新しい墓地の墓誌の白蓮院の名を刻みました。何時の日にか、ワイフもその横に名を刻む事でしょう。
私は「何処に眠ろうか」?時々考えます。昔、父が生家の裏山で「お前のお墓は此処だぞ!」言った事がありました。今ではその場所も開発されて墓地として売り出されています。
私は「ワイフに何時までも付いて来ないで!」云われなければ、自分でお墓を探さなくてはなりません。
「母さん私もお墓に入れてね!」頼んで「良いわ!入れてあげる」云われれば、古代と同じ母系家族です。
鎌倉には有名人のお墓が沢山あります。
此方は東慶寺の小林秀雄氏のお墓。生前小林氏は京都に詳しい永井路子氏に依頼してこの鎌倉時代のモノと思われる五輪塔を古物商から買い求め球形の前面に阿弥陀如来を刻んでもらったのだそうです。永井氏の随筆に書かれていました。小林秀雄氏は個人の墓です。
これは同じく東慶寺に眠る前田青邨氏のお墓です。この新しい五輪塔に画伯は眠っておいでで、奥様は入口に遠慮気味に控えておいでです。
此方は同じく東慶寺にある仏教哲学者の鈴木大拙氏のお墓です。同氏はご夫婦で同じ五輪の塔の地下に眠っておいでです。
安国論寺には財政改革の土光さんのお墓があります。土光さんほどの人でも「土光家の墓」に先祖共々眠っておいでです。一方東慶寺には個人墓も多くあります。岩波茂雄氏も小林秀雄氏も一人墓です。前田青邨夫妻は同じ墓地でも墓標塔は別々です。奥様の方が一回り小さい五輪塔です。鈴木大拙氏は奥様とご一緒に眠っておいでです。高名な仏教哲学者はあの世でも奥様とご一緒を選ばれたのです。
「嫁が死んだら夫の先祖伝来の『○○家の墓』に埋まる」と云った習慣は明治に始まり、昭和になって一般化したものです。
昨今は「死んでから姑や舅と一緒になるのは厭だわ」意見も多く散骨する人も多いようです。
自分はどうしようか?考えなくてはいけない年齢に届いて来ました。お墓は時代と共に大きく変遷してきました。夫の家の菩提寺にある夫の家の「○○家の墓」に入ると云った考えは江戸時代明治時代に培われた封建的な実に黴臭い発想なのです。私の義母のように『私あのお墓に入るの嫌よ』と我儘を生前に口にするのは素晴らしいと思います。
最近は私は死んだら散骨してほしいわ!口にされるご婦人も多いようです。夫とも姑とも舅とも一緒になる位なら大自然の中に風の様に彷徨っていたいと思うのでしょう。ワイフが果たして如何思っているか知りませんが、ソロソロ決めておかなくてはなりません。そこで、古典を紐解きます。
これは太秦にある仁和寺です。写真出典京都花見https://matome.naver.jp/odai/2139488669712731901/2139489346817335803
先ず、思い当たるのは藤原倫子(りんし964-1053))です。倫子の母は、母は藤原 穆子(ぼくし」父は。左大臣源雅信でした。倫子は永延元年(987年)道長と結婚して鷹司殿と呼ばれます。倫子は24歳、道長は22歳でした。道長の実父が藤原兼家です。倫子は永延2年(988)に長女彰子(後の一条天皇中宮・上東門院)を、正暦3年(992年)に長男頼道を生みます。更に次女妍子(後の三条天皇中宮)を産みます。長和5(1016)年万寿4年(1027年)道長(62歳)が薨去します。
これは道長倫子夫婦の家系図です。倫子の父は左大臣源雅信でしたから、正妻に相応しい家柄でした。家系図に在る通り倫子の娘が3人孫が2人も天皇位に就いたのでしたから、夫道長以上に名誉だった事でしょう。
鳥部野でで火葬され骨は家長の章信(のりのぶ)が首に掛け木幡(こはた/現代の位牌)を手にして宇治に宇治陵を築きます。藤原一族の墓になります。こはたみtまた長女彰子を除く娘三人にも相次いで先立たれ、長暦3年(1039年)に出家、清浄法と号します。曾孫の後冷泉天皇の天喜元年(1053)に90歳で薨去します。夫の道長以上に栄華に満ちた一生でした。
これは栄花物語(赤染衛門)に描かれた藤原道長です。明らかなメタボですので63歳で亡くなります。一方倫子は90歳の長寿を全うします。道長は藤原一族の墓地であった宇治に埋められまあすが、倫子は皇族の一員として仁和寺に葬られます。
倫子の墓は太秦の仁和寺にあります。夫の道長は宇治陵に祀ったのでしたから相思相愛であったものの倫子には藤原家の一員であるといった意識以上に皇族の祖母としての意識が勝っていたのでしょう。夫婦別墓は古代の常識で現代の様に「夫方の家の墓に一緒に埋められる」と考えるのが非常識なのでしょう。
宇治の平等院は道長の長男頼通が建立したものですが藤原一族の墓地であって(興福寺は藤原一族の学校の様なもの。