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皐月の爽風

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お世話になっているデーサービスの献立ボードを飾る絵を毎月描いています。先月はお花祭り(灌仏会)に因んでお釈迦様を仏殿の縁側にお出しして甘茶をおかけしている光景を描きました折か雨が降り出しました所謂穀雨で穀雨は天帝の降らせる甘茶かも知れません。
イメージ 1これが4月に使った献立ボードの絵です、花祭りの場面は室生寺をみおろす枝垂れ桜の永琳寺です。
一か月経つのは早いモノでもう5月です。5月の作品に差し替えなくてはなりません。もう少し早く完成しておけば良かったのですが4月末から歯痛に風邪ひきも在って、今月はいよいよ諦めを覚悟しなくてはならなくなってきました。ワイフは無理して起きていないで良く寝ているように云います。でも38.5度の高熱を押して描いた絵となれば想い出になります。
そこで奮い立って完成させ昨日届けて来ました。それが下の絵です。
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昨年は歳時記的な景色を意識しました今年は陰暦カレンダーに使う事も考えて祭りをテーマに描きはじめました。昨年の皐月は安曇野の水鏡でした安曇野の穂高神社の祭りは11月だったり道祖神祭りになるので違う場所を探さなくてはなりません。
そこで思いついたのが鹿児島です。巣越す郊外に出れば錦江湾を挟んで名峰桜島の勇姿が仰ぎ見られまあす。鯉幟は火の見やぐらよりも高くに泳いでいます。子供達は毎日道路に出て遊んでいます。でも夏が近づくと何時もの遊び通路に茅の輪が立ちます。子供達は通りゃんせ♪通りゃんせ♪此処は何処の細道じゃ天神様の細道じゃ歌いながら茅の輪を何度も潜り抜けます。若しも「厄が黒いシミの様なモノならいシミは取り除かれて真っ白になっていることでしょう。5月1日漸く完成した満足感を以ってデーサービスに届けました。


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厄病爺の風邪奮闘記

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4月末でした、突然に歯根が痛みだして以来38.5度が上で下が35.3度と乱高下しています。
私の係付医は脳神経外科ですので早速に飛び込みました、初診でインフルエンザでは無い事が確認され解熱鎮痛剤を含めて2種類の薬を処方されました。此処までは一昨日「鬼の攪乱」と題して書きました。
ワイフの顔は心配げではありますが、「折角のGWに風邪ひきするなんて迷惑ね!」表情に出ています。
”本来なら孫を抱いて居られるのにあなたが風邪ひきなので孫は来られませんよ。早く治って下さいな”
私はワイフが孫を抱けるように風邪を治癒するのに大きなプレッシャーを感じています。
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孫が来るのが楽しみで早くも飾られた五月人形ワイフにすれば”後はお父さんの風邪引きだけだわ!”思っています。
実は風邪を引いた瞬間を良く覚えているのです。
歯痛で田浦にある田澤歯科医院に向かって居た時です。雨が降っていました。私はJR駅を降りて16号線を追浜方向に歩き出しました。道は直にトンネルに入ります。
トンネルでは傘を閉じました。片側2車線の道路ですが相当量の交通量があります。古いトンネルですから天井や壁面煉瓦の剥落が目立ちます。トラックが通り過ぎる風圧もありますがそれ以上に北風がトンネルを吹き抜けているのです。
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田浦隧道出口の廃屋、左がトンネル出口です。玄関わきに桐の木がありますが新芽が出ていません。五月には紫の花が咲き、鳳凰が飛んでくると云うのに。
”寒いなあ!”思いました。その時ある記憶が蘇りました。生家の本堂の奥にあった書庫で陰気な本を見つけて読んだ記憶ですその本は薄い本でしたが蝋が浸みこませてありました。正法眼蔵といった専門書の脇に無造作に置かれていました。トンネルを歩いている人が気が付くと異次元の世界に出てしまうのです。異次元世界で恐怖体験して慌てて逃げ戻る・・・・と云った話です。所謂臨死体験をトンネルを舞台に描いた本でした。
嫌なトンネルだな思って振り返ると「名前は田浦隧道」出口の民家は廃屋状態でソコソコの桐の樹も新芽をよういしていませんでした。
嫌な予感は的中して私は8.5度の発熱をして係付医(脳神経外科医)で診察して貰い。既往の脳梗塞薬に加えて3種類の抗生薬を処方されました一つが鎮痛解熱薬でもう一が痰を出やすくする薬でもう一つが細菌を駆逐する薬です(グレースビット錠)
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今次の風邪で処方された薬。服用体験から最下段のカコナール錠の服薬が又私の症状から2段目のカルボステイン錠の服薬停止されました。
出された薬はどれも抗生物質でした。カコナール錠の効果は絶大でした。服用すれば体温は急降下して、震えるほどでした。でも、時間が経つと熱が上がり始めます。カコナール錠は高熱の対処療法としては効果があっても風邪ひきを治癒させるには不適当と思われました其処で体温俵と服薬実績を添えて医師に相談しました
「この症状の原因は何でしょうかね?」首を傾げながら医師は薬を減らしてくれました。
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私の体温推移俵。赤丸はカコナール錠を服薬した印。服薬しないでも36度で安定するのが私の目標です。
ワイフは医師の服薬指示に従わないことが心配な風でした。でも35度が底で38.5度まで乱高下されてはカコナール錠の実力は判っ手も飲みたくなくなります。何処の病院でも納得できなければ治療を拒否出来ると表記されています。
毎晩の夕食はお婆ちゃんに教わった葱間汁を飲んで寝ています。ワイフは娘にお父さんの体温をメールしています。昨日はお昼には35.3度まで下がりました。自分の風邪を治癒する、蚊って体験した事も無い大きなプレッシャーです。

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八十八夜のお煎茶

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今年は5月2日が八十八夜でした。庭の卯の花の白さも目立ちます。
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庭の姫空木です。卯の花の面影を遺している矮性種です。この他に箱根空木が生えています。
私の脳裏に浮かぶ景色は持統天皇の作と云われる次の歌です。
春すぎて 夏きにけらし白妙の ころもほすちょう 天の香久山)
持統天皇の皇女時代の名は「鸕野讃良/うのさらさ」です、夫大海人皇子が天武天皇になり、次期天皇として期待した草壁親王が早逝すると孫の軽皇子が聖武帝に着任するようシナリオを描き実行に移した。古代最強の女帝です。でもこの歌は女帝の歌にしては素晴らしすぎる叙景歌です。
緑の素晴らしさを引き立てるのは青空に立ち上る白い雲です。藤原宮跡に立ち北を向けば天の香久山です屹度香具山の麓の民家で麻布を干しているのでしょう。白い干し布が点々と続いています。西を観れば耳成山で背中には畝傍山が聳えています。畝傍山と耳成山は低山ではありますが尖っていたり盛り上がっていたりして男性的です。他方香久山だけは女性が横臥した様な悩まし気に見えます。
古来から三角関係を想わせる大和三山です。香具山が鸕野讃良で畝傍山と耳成山が天智天皇と大海人皇子を思わせます。私の学生時代は飛鳥の民宿に寝泊まりしながら、大和三山に模された歴史模様を飽きずに話したモノでした。私達の女友達に鸕野讃良を想わせる素敵な女性が居た訳ではないのでしたが・・・・。最近では藤原京発掘跡が池になって保存され、布袋草が自生しています、7月になれば池の前面に布袋草の花が咲きます。学生時代の仲間とお世話になった民宿に行きたいと思っています。皆ビックリすると思います。
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元薬師寺発掘跡の布袋草向こうの山が耳成山香久山は右(北側にあります素直には耳成山が大海人皇子でしょう。
処で5月3日の晩に控えていたお風呂に入りました勿論菖蒲湯にして…、そして孝謙帝の本を読みながら寝込みました。そうしたら寝汗をびっしりかいて目が覚めました。目が覚めた瞬間に風邪を治癒出来た実感がありました。葱間を喰う事身体を温めて熟睡する事が風邪を治す正解だったのです。体温を測れば35.9度です。私の平熱は36度ですから少し下がり過ぎたのかもしれません。ワイフは嬉しそうに「お父さんの袈裟の体温35.9度メールしました。
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昨日は菖蒲湯でしっかり体を温めて熟睡した事が風邪ひき完治に効果がありました。それにしても高々風邪なのに1週間も闘病時間を要したのは年齢の為と解釈しておきましょう。
昨日はお三時に柏餅を戴きました。お茶は4月に山城の和束町で求めて来た煎茶を入れました。
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これは山城和束町で求めて来たお煎茶です。
この日の為に茶箪笥に秘蔵して来た煎茶です、ご主人の教えて戴いた手順で90度くらいの熱水を一度急須に入れて湯呑に移して70度くらいに熱を冷まします。そして少し贅沢に茶葉を急須に入れて湯呑に移しておいたお湯でゆっくり蒸らします。急須の蓋を開けてみると先刻までは鉄紫色だった茶葉は緑色に蘇っていました
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民宿「茶畑和み」の主人に教わった手順で煎茶を入れてみました。)色は未だしも香りは遠く及びませんでした。煎茶の入れ方は奥が深い。
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湯呑は大分のオンだ焼きです。オンだ焼きは焙じ茶に最適だと思います。実は博多の高取焼も多く持っているのですが、次回は高取焼で煎茶を戴く事にしましょう。
草餅の柏餅では二重の呪術です。草餅に素材である蓬には災厄除けがあるし草餅を包んだ柏の葉っぱにも強い生命力を宿す霊力が在ると信じられています。柏の葉っぱは冬枯れしても葉を落とすことはありません梢の先にしがみ付いていて翌年の葉芽が大きくなるまで梢で次世代を守り通します。我家の菊も女郎花も親は枯れても新芽の成長を見届けまあした。

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団塊女子の評価

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私達の成長期に経済学者?の堺屋太一氏は戦後に生まれた一際人数の突出した世代を纏めて「団塊の世代」と評されました。それは如何にも通産官僚らしく単なる人数の多さ指摘しただけでありました。
私達は中学から高校に進学するにつれ受験戦争就職戦争(高度成長期に遇したので、総じて就職難ではありませんでしたが・・・・。
岩波信書のの日本経済図説を買わされ、昭和22年から人口ピラミッドが歪んでいることを指摘されました。
復員した兵士が家に戻って生活を始めたのですから、戦争中の歪みが人口爆発になって現出したのでした。
食糧難になり学校の施設も足らない。自ずから団塊世代は総じて我慢強く逞しく育ちました。日本史上では初めて」「主権在民」「自由平等」平和主義」を教わりましたみほん市場では糞立ちました、日本社会のキャパシティ―を越える人間が一生を通り過ぎたのでしたからその瘤が消えるまで高度成長期をを始め高齢化社会を現出しました。今お騒がせした団塊世代も舞台を降りる時期よと云わんばかりに終活」が言われています。
誰が言い出したのか知りませんが嫌な言葉です。
団塊という言葉は経済官僚がネーミング氏社会学者が同調しましたが、歴史学者は何も評価していません。
後四半世紀もして孫の世代が脚光を浴びる頃、あのマス的に突出した世代の残した歴史的文化的意義を評価してくれることでしょう。
今日は敢て私が”自分達は後世こう評価されるだろう”書いてみます。
学者bになる頃。呼び込みましたには

団塊女子の評価

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私達の成長期に経済学者?の堺屋太一氏は戦後に生まれた一際人数の突出した世代を纏めて「団塊の世代」と評されました。それは如何にも通産官僚らしく単なる人数の多さ指摘しただけでありました。
私達は中学から高校に進学するにつれ受験戦争就職戦争(高度成長期に遇したので、総じて就職難ではありませんでしたが・・・・。
学校で岩波信書の日本経済図説を買わされ、昭和22年から人口ピラミッドが歪んでいることを指摘されました。
復員した兵士が家に戻って生活を始めたのですから、戦争中の歪みが人口爆発になって現出したのでした。
社会的に食糧難になり、加えて学校の施設も足らない。自ずから団塊世代は総じて我慢強く逞しく育ちました。日本史上では初めて」「主権在民」「自由平等」「平和主義」を教わりましたみほん市場では糞立ちました、日本社会のキャパシティ―を越える人間が一生を通り過ぎたのでしたからその瘤が消えるまで高度成長期をを始め高齢化社会を現出しました。今お騒がせした団塊世代も舞台を降りる時期よと云わんばかりに終活」が言われています。
誰が言い出したのか知りませんが嫌な言葉です。
団塊という言葉は経済官僚がネーミング氏社会学者が同調しましたが、歴史学者は何も評価していません。
後四半世紀もして孫の世代が脚光を浴びる頃、あのマス的に突出した世代の残した歴史的文化的意義を評価してくれることでしょう。
今日は敢て私が”自分達は後世こう評価されるだろう”書いてみます。
孫世代が活躍し始める頃。「団塊世代の果たした歴史的文化的な評価」もつけてくれるでしょう。

リーディング企業の地元説明会(中外製薬)

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昭和30年代の戸塚は凄い熱気でした。朝晩60万人の昇降客が駅に集中して、尻押し部隊も待機していました。
私は尻を押されて乗車して大手町まで通勤していました。当時通勤とは云わず「痛勤」と呼んでいました。東京のベッドタウンとして人気が在ったのでした。また、日立製作所が進出して電話工場やテレビ冷蔵庫工場も出来ました。私が駅に向かう間、が反対側を歩いてくる女子工員と擦れ違いました。彼女たちは多くが東北地方で生まれ育った娘でした。日立製作所が7千億円もの欠損を計上し、白物家電から撤退すると戸塚の町は灯が消えた様に静かになりました。社宅や独身寮は系列の商社に売却され。小綺麗なマンションが相次いで販売されました。
愈々日立戸塚工場は元町の開発拠点に集中して戸塚町と上倉田町の日立は閉鎖されました。
戸塚区民は「この後どうなるのかしら?」心底心配しました。私のクラスメイトは日立の裏通りで「ナイトクラブ」を経営していました巣。小学校の友人は「麻雀荘」を経営していました。彼等は日立が無くなって絶望感に打ちひしがれたのでした。
その日立跡地に朗報が届きました「研究試薬大手の中外製薬が研究施設を計画しているので、地元説明会を開催する」と云うのです。
新薬承認には世界中何処でも厳しいチェックがあります。安易に新薬を承認して「血液製剤事件」を再発しては困ります。何度も実験を繰り返して無害である事が確認されなくては承認されません。
ところが日本ではとりあえず効果の期待される新薬は承認して、使っている中に副作用をチェックする方向に変わっているのです。この結果我国の新薬開発力は医療機関の充実とも相まって飛躍的に進歩しそうなのです。
そんな製薬会社のリーダーが中外製薬なのです。
中外製薬は私のサラリーマン懸け出しの頃は「5時から男のグロンサン」と云う大衆薬で頑張っていました。私の慶応大学の学友の永山治君が社長になると大衆薬から180度転向してドイツの大手製薬会社ロシュ社との戦略的提携契約を結びました。この結果中外製薬は抗癌剤部門で圧倒的優位に立ちました。長銀のМ&A部門のスタッフは永山君に採用され本来のスキルを発揮する栄誉に恵まれたのでした。
そして今回日立戸塚工場の17万平米を買収して研究開発拠点にするというのです。
同様な例は藤沢の岡本にある武田薬品の研究開発施設があります。藤沢市民は何度も施設内の視察を申し入れているのですが。武田薬品は頑として応じません。マスコミでも問題にされていました、中外は武田薬品の二の轍を踏まない様に丁寧な説明会を企画した様なのです。
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これは柏尾川下流に出来た武田薬品の研究施設大半が動物実験施設ですが、この研究施設もパナソニックの工場を転用したもので。地域住民は何が研究されているのか解らないので悪評紛紛です。
これで戸塚区も事業所税が20億程度確保できて一息つけるのかもしれません.
中外製薬は鎌倉の古館橋に研究所があります。鎌倉市は市長舎を其処に移転する計画があると聞きます。中外にすれば古館橋の研究所を戸塚に移転する計画なのでしょう。日経新聞では総事業費300億から400億と説明していましたが、圧縮記帳が可能で資本効率は下がらないのでしょう。永山さんが大改革をしてそのフィナーレが戸塚研究所の新築のようです。
25日説明会場に出かけて地元一住人の意見を提出してきました
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同田圃は我国最初の耕地整理組合事業でした。同事業の最中に薬師仏が発見され私の生家の盛徳寺に祀られています。これも何かの縁かもしれません。
勿論工場公園の植栽には遊行寺の照る手姫を推薦しました。
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 これが大船降ら和s-センターが新種開発した花桃の照る手姫です。照る手は小栗判官物語のヒロインです。


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戸塚駅の小さな気遣い

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今日もリハビリで新戸塚病院に出かけます。
朝9時ですから8時にには電車に乗らなければ間に合いません。
戸塚駅では楽しみがあります。バスの発着所前に在るパチンコ屋さんの珈琲ベンディング装置のプラスチックの屋根の上に今年も燕が巣作りしているのです。パチンコ屋さんの背中には柏尾川が流れていますから巣材の)泥も子育ての為の餌も豊富なのです。それに巣の前には人だかりがありますから天敵の猫にもカラスにも襲われるリスクは少ないのです。パチンコ屋さんは経営力が在って戸塚駅の西口も東口も同じ東横グループが独占しています。
燕さんに優しいパチンコ屋さんは地元にも理解があって「EDA装置を常備していること地震発生時には「帰宅困難者対策に協力する」旨宣言しています。そのパチンコ店の店頭に奇妙な看板が立っています。
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これが理解に苦しむパチンコ屋の看板です。
「パチンコは脳に良い」大書されていて、良と書かれパチンコ玉が脳を占領しています。
昔のパチンコは左手でパチンコ玉を送り、右手でハンドルを弾きました。立ち姿でしたし。右手と左手の違った動作を連動させないといけないのですから、昔のパチンコなら脳に良かった筈です。でも今のパチンコ店は椅子に座って右手でハンドルを握ったままですから麻雀以上に身体にも脳にも悪いお遊びです。
間違ってるな?思って見回すとこの看板の逆の位置に「低価格でパチンコ遊びのできる台も用意してあります」看板が建っています。時間潰しに遊べるし。負けても熱くならないで済む台が設置されているので年金頼りのオールドファンを誘っているのでしょう。
もう一つ判り難にモノが駅前にあります。エレベータ脇に大きなポリバケツ(樽)が置かれているのです。
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これが不思議なポリタンクです
「このオレンジのポリタンクは何だろう?」想って見ていました。タンクには鉛管が繋がれています。若しもこのタンクが水色ならタンクの表面にお花の絵でも描かれていれば直ぐに解るのでしょうが、これは天水桶なのです。ぺデストリアンデッキに降った雨水をこのタンクに溜めてデッキに植栽している草花に供しているのです。
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た脳の位置には良の字がパチンコ玉にmン小屋さんの

阿修羅像のロマン

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今年の4月NHKテレビで「謎多き仏像阿修羅像」を放映していました。私が山城旅行を終えて和束町に安積親王墓を詣で、阿修羅像のモデルは聖武天皇の第5皇子安積親王墓であると確信して居た時でした。テレビ番組はエックス線写真や現代の仏像作家の意見を参考に阿修羅像の原型を突き止め、塑像の上に木糞漆を重ね、元の像は一般的な猛々しい阿修羅であったモノが漆を重ねる事によって青年の憂いを帯びた仏像に修復したと判断しました。そして結論的には阿修羅像を修復させたのは光明皇后で産後1年足らずで早逝した基皇子の慰霊の為に”今生きていたらこんなお顔であったろうと」して阿修羅像や10代弟子を作らせたと説明していました。興福寺八部衆は
確かにそんな仮説も成り立つでしょうが1歳児の面影を仏像に写すとすれば。戦いの神様阿修羅は不適当の様に思われます。イメージとすれば光明皇后が建立した新薬師寺の「香薬師像」の方に基皇子の面影をイメージします。
光明皇后と聖武天皇の間に出来た子供と云えば阿倍内親王で首皇子が早逝さえしなければ阿倍内親王は現出しません、基皇子の母親は県犬養広刀自で地方豪族です。里中満智子氏の著「女帝の手記」によれば藤原仲麻呂が光明皇后の意を汲んで殺害した事を想わせています。
続日日本紀に依れば安積皇子は都から桜井に向かい折り返して聖武天皇がおられた恭仁京に向かい、恭仁京で亡くなった、死因は脚気であったされています。恭仁は皇親橘諸兄の膝元です。里中満智子氏は其処に仲麻呂が刺客を派遣した事を想像させておいでです。
阿倍内親王は女性でありながら日本史上最初に皇太子になった人物です。安積皇子を失って聖武天皇には選択肢は無くなりました。天平10年(738年)天平勝宝元年(749年)孝謙天皇が実現します。天平勝宝8年(756年)父の聖武上皇が崩御すると光明皇太后と阿倍仲麻呂が紫微中台から孝謙帝をバックアップします。
光明皇后も藤原仲麻呂も大事な天皇の外戚ののポジションを失いたくなかったん子でしょう。その為には無理を押しても阿倍内親王に天皇になって貰おうとしたのでしょう。阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると光明皇太后の指示を受ける紫微中台と太政官の二重の行政組織が出現します二重組織は孝謙帝の力を削ぐことになり藤原仲麻呂とは距離を生じさせ、藤原仲麻呂の乱を引き起こします。



畳屋さんの君子蘭

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場所は北鎌倉駅から西に歩いて小来坂郵便局の前を通り巨袋踏切を渡る暫く前ですこの辺りは鎌倉市台と云う名の歴史のある街で最近では一遍上人行状絵巻にも描かれた隧道を取り壊すというので揉めていました。東慶寺の井上和尚が「駆け込み寺道」としてお書きでしたから。中世から賑やかな道だったのでしょう。今も研ぎの「菊一」さんや建具八鍬さんや表具屋さんが並んでいます3月になると北鎌倉の駅前通りは吊るし鄙飾りが出ますがこの辺りの表具やさんの手作りと思います。何処も彼処も店先が雁形に出てその上に庇がある井桁造りの家が目立ちます。多分関東大震災で木端微塵に倒壊したので構造的にも単純で堅固な井桁造りの家が一気に建てられそれがアルミサッシを多用する家に押されているのでしょう。
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今年も咲いた我家の君子蘭の花、蘭とはいっても彼岸花の仲間だそうです。我家でも最初は一鉢だったものがドンドン増えて20鉢程になりました。冬越しが大変ですが芯の強う花です
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これは北カマクラに在る小坂郵便局です。話題の君子蘭が見事な畳屋さんはこの道を左に200メートいるも行ったところにあります。

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此方が古いお店で君子蘭が一斉に外を向いて咲いています。私の記憶では畳屋さんであったと思います。このお店の左には建具屋さんがあります。こうした商家の造りは二階の床板がオーバーハングになって、1階の商売部分の庇になっています、一般に井桁造りと云われ関東大震災後急激に増えました。
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木製のサッシがいい味出しています。建具を大切に扱っておいでなのが一見して判ります。こんな風に貫を出してその上に庇を作る建て方を井桁造りと云います。
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これは若宮大路の酒屋の「三河屋さん」以前は井桁の下に燕が巣食っていましたが今年はどうでしょうか?
小学校のクラスメートに金子と云う名の畳屋さんの娘が居ました、彼女の家は今小路の寿福寺近くでしたが早い時期に畳屋を撤退してしまいました店先から頭から中を覘くと土間が広くて職人さんが土間で畳の張替えをしていました。手際の良い職人の作業に見入ってしまいました。金子畳店のお隣が私の友人の家で友人の家に行くたびに職人の仕事を眺めていました。今では鎌倉でも畳のある家も減りましたし、天然の畳を使う人も稀なので畳屋さんは斜陽なのでしょう。辛うじてお寺が畳屋さんの命綱なのかもしれません。3年ほど前に光明寺の本堂の畳の張替えがありました。100枚を超える畳ですから、鎌倉中の畳屋さんが協力したのでした。
北鎌倉の畳屋さんも今では店を閉めてしまったようで。今は木製のガラス戸の奥に行儀よく並んだ君子蘭が覘いてみます。斜陽を押しとどめようと全員が通行人の方に向いて笑顔のシャワーを浴びせているようです。稼業は止めても君子蘭は昔と同じように大切に育てておいでのようです。


孝謙天皇の重荷

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私には心に刺さった書があります。唐招提寺の扁額です。この字は多くの人が手本にして同じように書いておいでです。まるでペン字の様に真っ直ぐに伸びて、ハッキリ跳ねて時に止って線は伸びやかでおおらかです。まるで唐招提寺の大棟のような雄大さも備えています。
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これが唐招提寺の扁額です。孝謙天皇の書と云われています。
初めて観た時にも心に刺さりました。便箋や小物にもこの書が使われています。注意して観れば鐙瓦の先端にもこの字が使われています。そうこの字は鑑真和上を日本に迎えて”和上どうぞ”と云って案内された孝謙天皇の書なのです。和上来日の前年には大仏殿も竣工していたので。和上は大仏殿に驚かれ孝謙女帝の人となりにも感心された事でしょう。
孝謙天皇は父が聖武帝で母が光明皇后です。お二人の間に産まれた長子でしたが幼名の「阿倍」で呼ばれていました。弟に基親王がありましたが1歳に満たずに亡くなってしまいます2歳年上に異母兄の安積親王(あさか親王)がいましたが安積親王が脚気で突然死(続日本紀)すると、女性で初めて内親王(今でいう皇太子)になります。両親特に光明皇后は藤原氏の外戚としての地位に固執していたのでしょう。
現代の親ならば娘の幸福を優先しますが。古代は個人の幸福より家や氏族の立場が優先されてしまったのでしょう。古代は女性天皇は沢山いましたが、どの女帝も夫が天皇でありました「女性の幸福」は味わった後に使命を帯びて天皇になったのでした。阿倍内親王は違います。娘の儘で天皇になり一生独身を通す事を義務付けられたのでした。。光明皇后が病に倒れると天皇位を淳人天皇に譲り光明皇后の看病に専心します。この間、藤原仲麻呂は淳人天皇の後見人として専横を極めます。
孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、淳人天皇を廃します。仲麻呂は保良宮(ほらのみや/勢田)で挙兵します。
吉備真樹備を迎えていた称徳天皇は仲麻呂を討ち取ると、奈良の10大寺に百万塔陀羅尼を納めて戦死者の慰霊を実施します。これが世界最古の印刷物です。
母光明皇后が育てた仲麻呂を討った事への想い(負担)が百万塔陀羅尼を思いつかせたのでしょうか?
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これが称徳てんのうが、藤原仲麻呂の乱による戦死者の慰霊を目的に法隆寺など10の大寺に納めた百万塔陀羅尼です。
想い起してみれば孝徳天皇はお気の毒な方でした。父は聖帝の呼ばれ高い聖武天皇でした。でも聖武帝はプランこそしても実行力完遂力に欠けていました。大仏の着想もしても途中で顎が上がってしまいました。大仏殿も中途半端でありながら都を恭仁京紫香楽京難波京にたらいまわしします。
一方お母様の光明皇后は「生き仏」と評されるほ高名な人でしたが光明皇太后に引退後も紫微台から命令を下します、実行部隊が紫微台の長官の藤原仲麻呂でした。両親を並べて佐保山に葬って孝謙天皇は深いため息をつかれた事でしょう。
保良宮で孝謙上皇は発病します。葛城山の修験僧であった道鏡が上皇の病治癒を目的に呼ばれます。以来道鏡は宮中内の仏殿(内道場)虹自由にでいる出来る様になります。
孝謙上皇はまるで藤原の呪縛を解くように無名の逸材を登用します。
その先駆けが吉備真備であり道鏡であり和気清麿姉弟でした。彼等は何れも藤原氏に敵対されます。孝謙上皇の目指した人心の一新は期せずして称徳天皇没後桓武天皇の出現によって実現します。


カラスはへっちゃらだ!」

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リハビリで東戸塚駅に行った時の事です。
駅の壁には「山形花回廊」のポスターが貼られています。最上川の源流置賜(おきたま)、地方から最上川に沿って順番に貼られています。私は11日には友人と二人で昨秋に次いで今春もこの日本のアルカディアに遊ぶ予定です。
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山形の観光キャンペーンポスター最上川に沿って左から置賜そして村山最後は庄内を案内していました
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最上川の戸沢村は最上川舟下りの拠点です。以前日文研のツアーで来た時は秋の紅葉の季節でしたが春の紅葉もまたいいものだと感じました。
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通過電車あるというのに悠然と線路の上を歩きながら阿倍られそうなものを物色するカラス君。
ポスターを暫し眺めてからホームに降りました。最近はホームからの転落事故も多発しています。意識して黄色の線の内側で柱に凭れて電車を待っていました。すると大きなカラスが私の目の前を斜めに飛んで線路に飛び降りました。線路の上をまるで平均台を渡るように歩いて行きます。線路上に何か食べ物でも落ちていると読んでいるようです。そのうちアナウンスがあって「通過電車」があることを告げています。ホームから充分安全距離を保つよう注意喚起しているのです。見る見る成田エキスプレスが入線してきました。
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平均台の様なレールから降りて何やら抓み始めたカラス君昨晩酔っ払いがホームから線路に嘔吐したモノでもあったようです。砂利を弾きながら器用に何か食べ始めました。
「危ない!カラスのお父さん轢死か」思いました。私の眼ではカラスは飛んで逃げる余裕は無かったようなのでした。私は成田エキスプレスの通過した後の線路を恐る恐る覘いてみました。
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”午前11時15分成田エキスプレスが東戸塚駅1番ホームを通過その時逃げ遅れたカラス君轢死”覚悟しました。私は怖いもの見たさで通過した後の線路を確認しました。
覚悟していたカラスの轢死体はありませんでした。その代り私の心配を嘲るようにカラス君は隣の貨物船のレールの上をピョンピョン飛び跳ねていました。
「俺は此れから子育ての重責が在るんだ電車如きに轢かれていたら命が幾つあっても足りなくなってしまう。格好良い事まるで木枯し紋次郎のようです。
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カラス君は貨物船と一般線路との境のコンクリートの上を私のハラハラを無視して悠然と歩いていました。
前に我が家の下の県道で猫の轢死体が転がっていて困ったもんだ思った事がありました。でも翌朝見れば猫の遺骸は跡形もなく消えていて事故があった事はアスファルトが其処だけ黒くなっていただけでした。
想うにカラス君が明け方前に猫の轢死体を処分(自分の胃袋に収納した)のだと思い馬ぢた。この時は町内の嫌われ者も役立っていると思ったのでした。

野草の美しさ

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2/週のリハビリの帰り道、少し遠回りをして柏尾川の堰堤を通って帰りました。先日保育園児がシロツメクサを摘んで首飾りを編んでいた辺りはコンクリート護岸壁の継ぎ目から奇妙な雑草が伸びて電々太鼓のような花をつけています。
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これは柏尾川堰堤の護岸コンクリートの継ぎ目に根を張って花を咲かせて箆オオバコの花です。箆の様な所から雄蕊が四方に向いて花粉を散らしています。
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箆(へらオオバコは遠目には地味でもアップで観れば可愛い花です。
あの飯蛸のような花は何だっけ?思い出そうとします。アレは「箆/へらオオバコ(大葉子)」です。名前を覚えるのは簡単です。オオバコは葉っぱが大きいから大葉子です。そしてオオバコに似ているのに茎が長く伸びてその先っぽにご飯を盛る箆のような格好の花が着くのでこの名があるのでしょう。
オオバコはせき止めの薬でしたから箆オオバコなら効き目はもっとあって咳も止るし。食欲も復活しそうです。
堤防を降りてJS(昔の住宅公団)の団地をすり抜けて我が家に向かうと団地の通路にスズランの花が咲いていました。
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JS(昔の住都公団)の団地の道脇に鈴蘭が咲いていました。農家の敵とされた野草も都会では人気の園芸種です。
宮沢賢治が農家の敵とした鈴蘭も今では園芸種として人気のようです。
でも毎年初夏に山菜取りに出かけた人が鈴蘭を「行者忍辱」と間違えて食し、死亡する事が報じられます。家族は鈴蘭の様な形の涙を流すことでしょう。
我家の角まで来るとお隣のお嫁さんが駐車場の草むしりをしておいででした。
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我家の下の不動産オーナーの奥様が駐車場の草取りをしておいででした。此処はアスファルト舗装しているのですがその裂け目に野草が根を張ってしぶとく花を咲かせています。町内一斉清掃では野草の種の判断せずに全部引き抜いてしまうので以下の希少種も引き抜かれてしまいます。その度に私は残念に思っています。
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これが駐車場の隅で根を張って可愛い花を咲かせた「アカバナユウゲショウ」です。花自体は現の証拠に似ています
私は「現の証拠」のピンクの花を指して云いました。
「私は此処の野草を観るのを楽しみにしています。このピンクの花が「アカバナユウゲショウ」そのお隣が「ニワゼキショウ」です。その向こうの白い小花が「現の証拠」です。昔は下痢止めの常備薬でした。
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駐車場の隅に咲いた「ニワゼキショウ」

我家の玄関に辿り着くと一斉に雀が飛び去りました。飛び去った後を観れば「カラスの豌豆」がもう実がなっていて雀さんが群れて食べていたのです。
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これがスズメの好物の「カラスの豌豆」サヤ豌豆が稔っていました。今度天麩羅で食ってみるかな!よく見ればアブラムシが湧いていてテントウムシの幼虫がアブラムシを食べようと忍び寄っていました。
「カラスの豌豆はネーミング間違い」「雀の豌豆」が正解と思いました。
牡丹も良いしもうじき芍薬がその後には花菖蒲が咲き出します。園芸種が人を魅了するのは当然です。人間が長い歳月をかけて好みに種を進化させたのだから。
でも野草には種をいじらない本来の花の美しさを留めています。
我家の野草は姫紫苑とぺんぺん草です。お隣の不動産屋さんのお大尽に較べれば貧乏を地で行くような野草です。それでも花瓶に活ければ見栄えがします。
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我が庭の姫紫苑は赤紫です。一般に白が多いのですが・・・・名の通りに紫なのが自慢です。玄関に活ければ菊よりも長持ちします。

徳一上人への憧憬(

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今春友人4人組と鳥羽伏見を観て廻りました。香水の宮(幕府軍)城南宮(薩長軍の陣が敷かれた)を観て廻っているとき、自覚しました。自分は何時も幕府軍、特にその中核であった会津軍に共感していて、”何故義を重んじた中世的な軍が、インチキの錦の御旗を押し立てた薩長軍に負けたのか?”日本史も「勝てば官軍」の悪しき風潮で書きか書き換えられました。その最たるものが「皇国史観」で「万世一系の天皇」等と云った神話が歴史観や憲法の中核に据えられました。
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これが会津坂下の勝常寺の薬師像(国宝)。徳一上人が都を離れて陸奥に理想の仏国土を作る事を目標にした時多分興福寺や東大寺の仏師を引き連れて下向したのでしょう。素材こそ萱の一木造りですが貞観仏像の弩迫力で拝む人を圧倒し尽くします。この片隅に徳一上人像がおられます。

皇国史観の完成したのは聖武天皇の鎮護国家思想の具体策として国力の実態を無視して、大仏の建立に着手した時代でしょう。仏教を国教として仏を祀って、既存の八幡信仰等を仏教を守護する信仰に組み替えました。
でも聖武天皇の理想は実現至難でした。天災地異に加えて水銀による公害病に天然痘が蔓延地震に橘奈良麻呂の変や藤原仲麻呂の変等が絶え間なく続きます。聖武天皇には統治能力に欠けて、天災地変等の原因が自分自身に在ると自覚して都を山城から難波に点々と遷都します。
そんな時代に仏教界で大論争が勃発します。一方の中核に立ったのが興福寺や東大の代表徳一上人で責める方が新興密教の中核最澄でした。
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此方が恵日寺の徳一上人像、強靱な意志力を窺がわせます
二人の論争が有名な「三一権実諍論」(さんいちごんじつ の そうろん」です。「乗」とは乗り物の意味で衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物でです。徳一は人それぞれに応じて乗り物は幾つも在ると説いたのに対し、最澄は乗り物は「法華経」唯一と説きます。
現実的には新興宗教側が優位でありました。玄((? - 746)が光明皇太后の病気を治癒させ、道鏡(700から772年)が孝謙上皇の病気を治癒させるなどの現実が続くと、旧仏教は色褪せ、密教の評価期待が増大します。
徳一上人は最澄に論争で負けた事実こそありませんが、「現世利益」を実現する新興密教に押されて、徳一上人は都を離れて磐城(平」から磐越道を会津に向かいます。
そして徳一上人が理想とした仏国土を会津坂下に実現します。
今昔物語には巻17には陸奥国女人で、地蔵ノ助ケニ依リテ活ルヲ得ル話があります。第二十九には「今ハ昔、陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」とあります。陸奥の国に信仰に篤い人が居て地蔵信仰が盛んであって恵日寺を建立した徳一上人のお蔭であると言い伝えられて来たのでした。、
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恵日寺跡から見上げた磐梯山。磐梯山の麓を米どころ仏国土に変えたのは徳一上人で。反骨や義を重んじる気風は戊辰戦争の悲劇を生みましたが1千年前の徳一上人に遡る会津人の気性骨なのでしょう。私が会津が好きな根拠でもあります。
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これが新築竣工した金堂です。その左(北)に講堂が在って更に北に戒壇院跡が並んでいました。
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これは現在復元作業中の恵日寺本尊の薬師如来像です。体は粘土(塑像)でお顔は木造で出来ていましたが現在木造で東京芸大で復元中だそうです。東京芸大の籔内 佐斗司氏が中核なのでしょう。

それが「勝常寺」や「上宇内薬師堂(重文))をはじめとした会津五薬師です。
学生時代には何度も勝常寺や立木観音を詣でた私でしたが当時は運転できなかったので、拝観にはかどりませんでした。三九郎の火祭りを観て勝常寺を詣でて東山温泉で温まれば一日は終わってしまいました。当時磐梯山を見上げてはあの広い山麓の西に徳一上人のお墓がある恵日寺が在ると仰ぎ見ていました。
「何時か」徳一廟を詣でたい思い続けていました。”今詣でなければ何時お参りできるか」判りません。そこで友人を誘って恵日寺に向かいました。早朝八時に郡山を降りてレンタカーに乗って高速道路を磐梯東河ICを降りればすぐ先が恵日寺です。
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磐梯山の麓を東から西に流れる阿賀野川ICの磐梯河東の意味は大河阿賀野川の東の意味でしょう。
向こうの山は南会津で山を越えれば日光です。山紫水明字の通りの会津です。
お天気は生憎の雨でしたが磐梯山のブナの若葉洗われて一層眩しく光り輝いていますし。点々と桜も色を染めています。周辺の畑は一面の菜の花です。南を眺めれば水田は田起しの作業が忙しくその向こうに猪苗代湖も望めます。

恵日寺博物館で展示を拝見していて気づきました。この大寺が廃寺になってしまったのが明治五年で火事でご本尊の薬師如来を始め金堂も講堂も戒壇院も焼失してしまったそうです。管理人に訊けば今は薬師如来を建立中で委託先は東京芸大だそうです。”来年には金堂に納まる予定ですから来年ぜひお越しください”言ってくださいました。加えて博物館から金堂までの道は悪路ですから車で行ってください、一般車進入禁止ですが構わず進んで行けば焼失前の金堂の様子も展示してありますよ!とても親切な女性でした。私は昔から会津の女性に弱いんです。


圧倒される弩迫力立木観音像

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憧れの恵日寺を詣でて、次の目的地は喜多方の立木観音です。私の2年後輩にS君が居て会津高校の出身でした。私が勝常寺の薬師如来を拝んだ時の感動を口にすると「立木観音こそ会津男子の誇りだと云いました。
程無く私は桐の咲く季節に立木観音を詣でました。バス停のすぐ前が立木観音で狭い境内に巨大な立木観音に接しました。見上げた時の印象は長谷観音に似ていました。長谷観音さんも清水寺の観音さんも新しくて金ピカでしたが会津の立木観音は黒光りがして28部衆を従えた圧倒感は、一番だった記憶がありました。
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立木観音の観音堂(重文)このお堂の奥に立木観音が祀られています。お寺の解説では此処に大きな欅のきがあって弘法大師が霊感を受けて803年観音像を彫ったので、その観音を雨風から守るためにこのお堂が建てられた事になります。
監視員に訊きました。
此処の観音さんは生木に観音さんを彫られたのですか?ならば観音さんを彫られたので樹は枯れてしまったのでしょうね?それとも枯れ木に観音さんを彫ったのですか?」監視員は当然のように「枯れ木に観音さんを彫られたのです。」答えられました。
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これが立木観音本体です。左右に28部衆と風神雷神併せて30体もの眷属が並んだ様は圧巻でした。
私は左脚が悪いので左脚を擦りました。黒漆が黒光りしていました。
でも録音テープの解説は違っていました。寺の歴史によれば、本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。
何だ弘法大師が生木に霊感を受けて観音を彫ったのか!生木にすれば迷惑な事でお蔭で枯れてしまったのではないか!思いましたが監視員に再度質問する事も躊躇われました。
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これは本堂の東にある三重塔の横の欅の大木立木観音にされてしまった欅の大木の子孫でしょう
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新築された三重塔その東が公園になりました。
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公園に移築された会津民家の「五十嵐家住宅/重文)
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公園から北を望む白い花は山ウドの花、向こうの果樹は名物の柿の木です。
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公園から北を望む冠雪しているのは朝日連峰その飯豊山の東脇の大峠を越えて今晩はマタギの家に泊まる予定です。田圃は雪解け水を溜めて田起しに忙しそうでした。
境内には三重塔も新築され境内の西側には公園が整備されて会津スタイルの民家も移築整備されていました。
本堂裏には大きな桐の木が生えていて、花も咲かせていました。桐の花の彼方は田起しの最中で既に水も張られて水鏡状態です。来週には田植えも終えて居る事でしょう。
会津を実感する美しくも懐かしい風景です。
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本堂の西側に大きな桐が生えていて花を咲かせ始めていました。
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桐の花を拾って匂い菫に刺してみました。晩春には紫の花が目立ち始めます。この旅では山藤の花も多く視ました。


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草木塔は狸君のお得意です。

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田沢の道の駅「和みの郷」の観光案内版に草木塔が出ていました国道121号線は笹ユリの群生地が在ったり、草木塔が祀られていたりで、植物には優しい土地のようです。草木塔は昨秋も飯豊町で探して回りました。
入田沢村では草木塔の案内塔が立っていて草木塔を探して歩く事を推奨しているようです。私達は案内板に従って先ずは曹洞宗洞松院の草木塔を確認しました。一つ確認すると次は1キロ下ると別の草木塔が在る、と案内しています。まるで江の島道の検校道標のようです。
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これが田沢集落の洞松院。門前に細い道が在って100mほど下ると草木塔があります。
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向こうの曲屋の向かいに草木塔がありました。


大峠の斑残雪にブナの新緑

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今晩の宿泊地は山形県置賜郡の飯豊町です。飯豊の現役マタギ猟師の家に民泊の予定です。熊料理のオーダーもしておきました。昨秋に味を覚えてしまった私はもう熊さんの味の虜です。同行の親友もジビエは嫌いではなさそうです。
喜多方ラーメンも食して気分は飯豊に飛んでしまいました。
夏場ならスーパー林道も通れますから、飯豊はそんなに遠くはないのですが、まだ、飯豊山は冠雪して神々しく人を寄せ付ける気配は無さそうです。
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立木観音からは会津坂下に出て国道121号線を米沢に向けて北上します。途中会津縦貫道を通り大峠を越して米沢の田沢に出ます。向かいの山脈が朝日連峰で左が新潟県境になります。主峰が飯豊山です。飯豊山や朝日岳を中心とした2000m級の山脈を東北アルプスと呼ぶのだそうです。横浜では28度と云うのにこの辺りは14度程度で肌寒く感じられました。
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喜多方の郊外は田起しの作業中でした。15日には田植えでしょう。
道は唯一喜多方河東線(国道121号線愛称田島街道日光の田島が起点で米沢まで繋がる)です。田島は桧枝岐の入り口ですから今秋は桧枝岐のマタギ集落に泊まって桧枝岐農村歌舞伎を観る予定です。私達は北の米沢に向けて走りますが後ろの南をを向けば会津若松を挟んで南に日光の山脈が見渡せます。喜多方から見れば北は飯豊連山、南は日光連山で東は阿武隈連山の南端(三春が有名)西は新潟県境の山脈で東北アルプス(飯豊山大日岳朝日岳が主峰でイザべラバードの探検した街道)です。
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喜多方の郊外(南)から西を観る低い山の手前を只見川が流れていて西会津の柳津があります。この辺りは田圃も広いのですがお墓(埋め墓)も広いようです。田圃を潰してお墓にするのはパールバックの大地のようです。それだけ祖先を大切にする土地なのでしょう。
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大型トラクターで田起ししています。正面の低い山が有名な虚空蔵菩薩の山で向こうの冠雪しているのが朝日岳だと思います。あの山の北側がイザべラバードが探検(日本奥地行)の道でアルカディアと激賞された処です。
三方を山に囲まれている意味では諏訪に似ています。今ツアーでは都合があって同行できませんでしたが友人のМ君が観たら屹度大好きになる地勢です。あの山裾は日本で唯一の笹ユリの群生地ですから何時の日にか尋ねてみたいものです。
ドライバーの親友T君がカーナビを観ながら云います。
「この道はレインボーラインとも云うようだよ!何でレインボウなのかな?」
彼の疑問は暫く走ると直ぐに判りました。
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121号線は登って次第に残雪が確認出来る様になりました。鶯色の樹木はブナで澤の赤い新芽は山楓だと思います。次第に桜が混じるようになりました。
峠の名は「大峠」でその手前に7つものトンネルが連続しているのです。東北地建の技術者が7つのトンネル工事を竣工させて思いついたのが「レインボーライン」だったのでしょう。峠の大峠のトンネルは一直線で4キロもありました。峠を越した米沢側に道の駅「田沢」があります。此処で一服、先刻から気になっていた山容の景色を堪能しました。

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峠を登るとトンネルが連続して桜の花も未だ残っていました。向こうのトンネルは不動トンネルです。不動の次に地蔵トンネルその次に薬師トンネルが在って、順番に仏のランクアップしているのでした。
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これが7番目のトンネルの御手窪トンネルです。トンネルを越えると雨が降っていました。

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これが大峠トンネル直線で4キロもありました。このトンネルの中に福島県と山形県の県境がありました

澤には点々と鹿の子斑に残雪があります。白い筈の雪の表面にはブナの葉先が散っています。ブナは一斉に鶯色の若葉を萌え出させています。ブナの新緑の間に未だ桜が咲いていますし、澤には楓の新芽が朱色です。
曇天ですが時折雲が切れて初夏の日差しが山容に差し込みます。まるで天照大神が山の美しさを知らしめる為にライトアップしているようです。鈿女の巫女のストリップショーに惹かれて天岩戸を開いて覗き見したような。邪気を感じさせる陽の光です。若しかしたら東北地建の技師もこの天照大神の邪気で虹を観てその通り「レインボーラインとネーミングしたのかも知れません。
山肌に斑に雪が残っています。
高校の授業の伊勢物語で次の歌を想い出しました。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらん
業平が東下りして富士山を見上げた時の歌です。
雪が降って鹿の子斑に新雪が積もっていたのでしょう。季節は屹度秋だったのでしょう。でも歳時記では「鹿の子斑」は3月です。此処飯豊町辺りは山深いので2か月遅れで鹿の子斑を確認できるのです。
桜のピンクと山楓の朱色とブナの鶯色が競い合って綺麗です。
大峠トンネルを越えて山形県米沢市に入ると直に「道の駅」田沢があって愛称「和みの郷」と呼ばれ山菜などが並んでいました。121号線を走っている車は殆どが軽トラの4輪駆動車です。皆、山菜取りに峠に来ているようです。
道の駅には「草木塔の案内」と木村武雄氏の銅像が立っていました。珍しい草木塔は別の機会に説明します。武雄氏は米沢の政治家で大峠の開通に尽力された人のようです。説明には大正15年生まれ明大卒となっていますから米沢の田中角栄の様な人物のようです。
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これが国道121号線大峠の開通に功績のあった木村武雄氏の顕彰碑向こうが大峠
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「道の駅田沢」から大峠方面を見返す。
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これは玉庭集落の光景桜が残っていて未だ桜があるうちに田植えを終える必要があるようです。紅い屋根の家は典型的な山形置賜の曲屋です。曲屋は別の機会に書く予定です。
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これは飯豊村中津川です。斑雪が残っていて漸く猫柳が芽吹いていました。朝には残雪から靄が湧いて幻想的でした。


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草木塔は狸君の縄張り

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田沢の道の駅「和みの郷」の観光案内版に草木塔が出ていました国道121号線は笹ユリの群生地が在ったり、草木塔が祀られていたりで、植物には優しい土地のようです。草木塔は昨秋も飯豊町で探して回りました。
入田沢村では草木塔の案内塔が立っていて,草木塔を探して歩く事を推奨しているようです。私達は案内板に従って先ずは曹洞宗洞松院の草木塔を確認しました。確認すると次は1キロ下ると別の草木塔が在る、と案内しています。まるで江の島道の吉田検校道標のようです。
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これは「道の駅田沢の案内板です。”豊かな緑清らかな水草木塔の里田沢”の標語は地域愛が滲んでいます。右上に山形県最大のブナの樹と桂の樹の表示があって121号線の小樽川沿いの旧道に面して安永9年(1780年」の草木塔が在って、最古だと示しています。18世紀末にはこんな山の中でも誰もが字が読めたのでしょう。字が読めなければお米や紅花やサクランボの絵が草木塔に刻まれていたのかもしれません。
道の駅田沢の集落には洞松院(曹洞宗)があります。その門前を谷側に入った辺りにある草木塔が最古の草木塔だというのです。私達は洞松院の門前で草木塔の案内碑を確認しました。東北自然歩道の標識には1キロ下れば戸長里の草木塔1キロ上れば入中の草木塔と案内して在りました。私達は表示に従って戸長里の草木塔を目標に進みました。
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これは洞松院です。曹洞宗らしい質素なこじんまりした山のお寺でした。
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これが洞松院前の草木塔の表示石碑です、背後の建物は洞松院。白い花は雪柳です。
案内に従って1キロも下ると戸長里集落の草木塔が祀られていました。丸みを帯びた自然石に草木塔と刻まれ草木の霊を慰霊していした。親が死ねば子はその霊を慰霊します。牛馬のように家族同然に接した家畜が死んでも人は慰霊します。慰霊は愛情と感謝の気持ちの表現です。親や家畜と同じような感謝の気持ちが草木にあれば、自ずと草木塔を建てたいと思ったのでしょう。
山で熊を狩れば熊の慰霊をします。お米やブナの樹も動物と変わらぬ命です。人間は米の命を奪って食べますし。ブナの木を伐採して食器を作り檜を殺して家を建てます。命は大切と知っていても他の生物の命を奪わなければ生存できないからです。だから、先祖の慰霊をするのと同じように草木の慰霊をするようになったのでしょう。そんな発想は空海に始まり日本固有の仏教です涅槃経には「草木国土悉皆成仏」が説かれ、”草木や国土のように心をもたないものでさえ、ことごとく仏性があるから、成仏する”と説かれました。お釈迦様の説かれたのがお経なら涅槃経は代表的な偽経でしょう。でも一番日本的なお経です。
空海の教えは全国に広まりましたが、山形県だけに草木や石や土の成仏を祈る宗教遺跡が数多く残されています。
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これが神原の勝軍地蔵堂、背側に国道121号が走っていて前面は旧道に面しています。
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勝軍地蔵尊の境内に集められた夥しい石仏の数々、中々良い石仏も多いのです。
私達は戸長里の草木塔で更に下れば神原の草木塔が祀られていることを確認しました。神原は121号線と旧道との分岐点に勝軍地蔵堂があって境内には33観音を始め近在の石仏が集められていました、水神が在って湯殿山碑があって、草木塔があります。まるで民間信仰の展示をしているようです。こんなところを観ると私は心が躍るのです。それにしても無防備で”盗まれたらどうする積り?”思います。
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これが飯豊村中津川に祀られている草木塔です。水仙の根元辺りに狸の糞が在ったのでした。狸は草木塔のお供物を戴いて序に糞をするのが習慣だったようです。
私達が草木塔に関心を持ったのは昨秋の事でした。飯豊村の民宿の主人に訊きました。「この村に山の神の像を拝めませんか?この村に石仏はありませんか?」執拗な質問に「此処には草木塔があります。草木を慰霊したものです。)そこで、中津川集落の草木塔を2基案内して貰いました。田圃の土手に建っている草木塔は湯殿山講記念塔と庚申塔と並んでいました。そしてその草木塔の前に沢山の動物の糞がありました。民宿の叔母さんが云いました。「これが狸の糞ですよ。」狸は決まった場所に糞をするとは聴いてみましたが、改めて大量の糞を観るのは初めてでした。そんな次第で私達は中津川の草木塔に向かいました。すると道路の向こうから此処に走って来る茶色の丸い物体があります。私達は即座に理解しました。”狸が草木塔に向かって走って来たのだ、”と。
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右手前に草木塔が祀られています。私達に見詰められていると察知した狸君は踵を返して右の叢に消えてしまいました
私達は民宿に着くなり興奮気味に〝つい其処で狸に遭いました!”云うと主人は笑って云われました。
”狸なんて日常茶飯だよ。狸より狐の方が珍しいしもっと稀少なのは貂(テン」ですよ!”云いながら長押を指さしました其処には白っぽい貂の毛皮が吊るされていました。
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退路を確認して私達の動向を窺がう狸君
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これが民宿の居間にの長押に吊るされた貂の毛皮です。


動物にしても植物にしても命の尊さに違いは無いのでしょう。だから私達は食事を始めるに際しては「戴きます!」合掌して食後にも「御馳走様」感謝を言葉にします。実にエコな習慣ですし、信仰です。
エコな習慣や信仰が色濃く残されているのが飯豊山の魅力です。

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熊肉のステーキ

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飯豊村の農家民宿ですからベッドはありません。畳の奥座敷に布団が敷かれていて布団で寝なくてはなりません。私は脳梗塞で半身不随ですから和布団は苦手です。昨秋に熊汁をたらふく戴いて寝た時です。朝方トイレに立った時でした。スット立ち上がれました、久しぶりに左の膝に力が入ってくれたのでした。瞬時に”昨晩戴いた熊さんのお蔭だと気付いて感謝しました。
私は味をしめたら病み付きになって、お供物を盗み喰いする狸君と大同小異です。
今春も熊さんのお肉を戴いてもっと健康体になろうと思いついて、再度の飯豊村旅行です。電話で”熊さんが食べさせてください”特別注文しておきました。今回の農家民宿は現役マタギ猟師が運営している民宿です。
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現役マタギ猟師の中村さん宅の囲炉裏の切ってある居間に吊り下げられたツキノワグマの毛皮、手前にも一枚吊り下げられてありました。
家に入るなり巨大な熊の毛皮が吊るされています。2メートル以上はあります。それが2枚もあると圧倒されてしまいます。奥さんは私達の顔を観るなり”熊肉用意しておきましたよ、これから圧力鍋で柔らかくします。暫く山葡萄酒でやっていて下さいね”、言われます。酒のツマミはマタギ村の珍味にご主人の熊狩りの経験談です。
話の中で印象に残ったのは次の話でした。
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これが飯豊村小国の熊祭り風景(毎年5月4日に開催されます。当初の旅行日程はこの日だったのですが、誰も同行できそうもないので1週間遅らせました。
【熊は急増している事実】
一昨年はブナが豊作でした結果子供が沢山産まれました。母親の子育て期間は通常2年です。今年は子育て中の熊に遭遇する危険が急増しています。そこで飯豊村の熊狩猟の上限は通常270頭の処、急遽臨時枠として300頭が認可され570頭になりました。でもマタギ猟師は高齢化して減少しています。到底目標を達する事は出来そうもありません。
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本来のマタギ猟師の狩は14人位のチームワークで成り立つそうです。熊を尾根から沢に追い込む係と待ち伏せして一発で射殺する係とが必要だそうです。この写真は2006年5月のものだそうです、中村さんもこの頃は熊狩りも楽しかったでしょう。今では高齢化と過疎化でチームも組めなくなってイヌ犬の熊太郎(明日書きます)だけが仲間になってしまったようです。写真は中村さんのアルバムを転写。
【熊の狩猟方法の制限】
熊の狩猟方法には次の三つがあります。根拠法「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」
①猟銃で射殺する方法
熊を一発で射殺するのが重要です。その為には頭か心臓を撃ち抜く無かなくてはなりません。手負いの熊は危険なのです。最適射撃距離は100mですが300mでも撃ち抜く自信があります。
②熊トリハサミを使う方法
鉄の爪で熊の足を挟んでしまう道具、小型のモノはガハサミと呼ばれ狐などの小動物を捕獲します。
③罠を仕掛ける方法
檻を設置し檻の中に蜂蜜を置いて熊を誘引します。
熊狩の危険は少ないし、効率が良いので許可してほしい方法ですが『獲り過ぎてしまうのでしまうので禁止』されているそうです。
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射殺した熊さんは現地で解体してしまうようです写真は2006年5月に中村さんが写したものです。毛皮の下はビッシリ脂肪が着いています。
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解体する熊の内臓赤いのは肝臓で肝臓にくっ付いて居る黒い円盤状のものが脾臓だそうです。これが熊の胃と呼ばれ胃腸薬に珍重されます。
【熊のお値段】
『大間のマグロは200Kも在れば、脂の乗りが良いと2千万円もの値がつきます。ところが熊は200Kクラスが取れても肉が7千円/Kですから精々140万円です。熊の毛皮が50万円です』、と云われて思わず柱に吊るされた毛皮を見上げました。そして一番貴重なのが胆嚢です。これが30万円です。云いながら真っ黒い茶卓の様な丸い物体を触らせてくれました。私は幼い時富山の置薬屋が置いていった熊の胃(胃腸薬)を想い出しました。想い出しただけで苦味を感じました。200Kもの大物を獲っても熊は200万円大間のマグロの十分の一です。「熊とマグロとどっちが美味しいか?」訊かれれ明瞭です。熊の方が美味しいに決まっています。美味しいモノは身体にも良いのです・・・・。

さてマタギのご主人の話を聞いている中に晩の御馳走が次々に炬燵の上に運ばれてきました。
付けだしは山ウドです。酢味噌をつけて食べろと云った指示です。豆の佃煮も乙なモノです。ヤマメの塩焼きに鯉の煮付け(所謂鯉こく)、こんなに出されては本命の熊料理が出る前に満腹になってしまいそうです。
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食前酒は山ブドウ酒で付だしは煮豆に山ウドの酢味噌付、にヤマメの塩焼きでした。
これは山ウドです。酢味噌をたっぷりつけて戴きました。ウドは苦手ですが山ウドは好みでした。
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これが熊肉のステーキです。
一度圧力鍋で蒸して柔らかくしてからステーキに焼いたのだそうです。付け合せは山菜のコゴミでした。土筆や知らない山菜がソースにに使われていました。
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これが熊汁です。青い野菜は野蒜でした。熊に野蒜では健康には「鬼に金棒」です。
昨秋戴いた熊に較べるとサッパリしていて筋肉質なお肉でした。一般的には脂ののっているのは冬眠前の熊さんだそうです。冬眠明けの熊さんのお肉は脂も落ちて筋肉質になっているそうです。好みにも依るのでしょうが万人受けするのは冬眠前の熊さんのお肉でしょう。折角の熊さんですからしっかり噛んでいるうちにガムの様な食感になってしまい、最後は飲みこんでしまいました。
さあ!熊さんも戴いて満足満足、奥座敷の布団に入ろうとするとペルシャ猫と何処にでも良く居る虎のような猫が先に布団の上で寝ていました。今晩は猫さんの添い臥(そいぶしでユックリ寝る事にしましょう。なにしろ中村さん宅は猫が5匹も居て内3匹が身重なのです。「何処で出産するのですか?」訊けば炬燵の横に置かれている段ボールのボックスです。ボックスの中には毛布が敷かれていました。
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明日にでも出産しそうなペルシャ猫名前を教えて貰ったのですが覚えたつもりが忘れてしまいました。


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幻の湖「源流の森白川湖」

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昭和42年の羽越豪雨がありました、最上川上流部は未曾有の大洪水になりました。また、一方では置賜地方は水不足にも悩まされ続けてきた地域でもあります。そこで飯豊の山間部に、白川ダムが計画されました。洪水と渇水に対応し、地域の発展に貢献しようとするものです。水は上から下に流れます。従って受益者は下流の置賜や川西や米沢の住民です。犠牲になるのは飯豊の住人です。
兎角不満の昂じるダム上流民対策でしょう飯豊には分不相応な立派な学校や温泉が建てられました。
「源流の森」とネーミングされたブナ林も資料館もその一つでした。源流の森には民俗資料館の他に温泉施設やパターゴルフ場も出来ました。パターゴルフ場は何のことは無い「雪解け水」の雨水調整池なのです。普段は温泉に遊んだ人の憩いの施設として、雪解けの5月は一時湖になるのです。
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これが白川ダムです。手前が下流で置賜から米沢を経て最上川の本流になります上が南で飯豊山を源流にして中津川があります。中津川が泊まった集落で、5月初めに白川湖が出現します。下流で田植えが始まると湖は幻のように消えてしまいます。写真出典は白川ダム東北地建http://www.thr.mlit.go.jp/mogami/shirakawa-info/overview.html

アイヌ犬の熊太郎

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山葡萄酒に熊肉の効果でしょう。熟睡できました。朝5時目が覚めると枕元に水音がします。今日も昨日に続いて雨天のようです山の神に嫌われたのかもしれません。温かいお布団から出る留めは枕元で叫んだ鶏の鳴声でした。そんな次第で、スッキリ目覚めて、表に出ました。水音は雨の所為では無くて雪解け水の流れ下る音でした。私が外に出る気配を察してかご主人が後から出て来られました。真っ直ぐ物置小屋に入って卵を三つ掌に抱えて出て来られました。「雌鳥のくせしてコケコッコ―は生意気ですね!」云えばこれは比内地鶏で一羽雄も混ざっているのだそうです。何故卵を産まない雄を混ぜて置くのか?、尋ねると、有精卵の方が美味しいし身体にも良いのだそうです。
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この家が泊めて戴いた現役マタギの宿中村さんたくです。クリーム色の小屋は農機具が入っていて鳥小屋兼用です。この小屋にアイヌ犬の熊太郎が住んでいます。周囲は減反中です。
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中村さん宅の北側は土砂を取っていました。
粘土かと伊思ったら、元々は珪砂(ガラスの原料)の採掘プロジェクトで、余分な土は園芸や盆栽用に人気だそうです。
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村さん宅から南に向かう、向こうの冠雪した山が大蔵山です。飯豊山はその奥で山間をスーパー林道が通っています。7月になれば桧枝岐まで開通するそうです。今日の行き先西会津は飯豊山の南ですから林道が通れればいいのですが帰りも121号線に迂回しました。黄色い花は水仙で廃屋になったお宅で育てられていたモノを中津川集落の人が路傍に植えて広めたモノだそうです。
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中村さんは熊太郎と朝のお散歩で私の後を追ってきました。中村さんがスコップを持っているのは熊太郎がウンチをしたら跡始末をする為です。
ご主人は精悍な虎模様の大型犬を連れてスコップを片手に私を追って来ました。訊けば犬はアイヌ犬で熊狩りには最高の犬だそうです。熊太郎に吼えられては流石の熊さんも退散してドンドン沢に後退してご主人の猟銃の銃口の前に追い遣られてしまうのでしょう。昨晩観た写真では2006年5月に写っていますからもう10歳は越えて老犬の部類に入っていることでしょう。ソロソロ次世代のアイヌ犬を調教する必要がありそうです。ルックスが精悍なのは当然として感心したのは私がカメラを向けると正座をしてポーズをとってくれるのです。正座すると股の間の「大犬のフグリが見えます。顔つきも立派ですが股の間の一物も圧倒する迫力です。
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私がカメラを向けると正座してポーズをとってくれる熊太郎です。正座すると厭がオウも無く立派な一物(大犬のフグリ)が目に飛び込んできます。
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これは国立科学博物館の南極犬物語の主人公タロです。犬種は樺太犬です。アイヌ犬は天然記念物として種の保存が叫ばれています。従って熊太郎の種は高価です。アイヌは精悍で良く吠えるアイヌ犬に熊を追わせました。アイヌ犬は敏捷で熊の背に回ってギャンギャン吠え立てます。熊はアイヌ犬の正面に回って鋭い爪でアイヌ犬を払おうとします。猟師は熊の怯んだ隙に毒矢を打ち込んで熊をし止めます。

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これはJR東日本の秋田のキャンペーンポスターです。日本の猟犬と云えば秋田犬、でもこれでは可愛過ぎてまるで柴犬です。熊太郎の赤ちゃんも観てみたいです。
いっその事アイヌ犬でなくても秋田犬やシベリアンハスキーに掛け合わせて子犬を種付け料で引き取ったら良いと思います。熊太郎も種の継続を願っている事でしょう。
朝食には比内地鶏の卵かけご飯に昨晩の熊汁が再度出ました熊汁は一晩置くとコクが一層増すのです。
ご主人はどんぶり飯を食らって今日も忙しそうにしておいでです。
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朝食は産みたての比内地鶏の有精卵で卵かけご飯に山菜と昨晩の熊汁を温めて出してくれました。
田圃は過半が休耕田でその保証を受けているんだそうですが。多くは山菜山の手入れのようです。山菜取りは入山料が2000円/一人で一番の人気は蕨だそうで蕨を自制させるにはブナ林の下草を綺麗に刈り取って、都会人が楽しく山菜獲りに興じられるし、蕨が自生し易い環境を整備する必要があるそうです。ご主人の携帯に絶え間なく電話が入ります。要件は蕨獲りの予約と仲間と「観光藁園」の作業打ち合わせでした。肝心の熊狩りの電話は全くないようです。ジビエ料理をもっと普及させるか、熊の罠猟を解禁でもしない限りマタギの文化は消滅してしまう運命に在るようです。
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