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菅沼の経塚桜

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スーパー林道は未だ開通していないので仕方ありません昨日来た道を戻る事にしました。でも柚餅子で有名な玉庭を通って喜多方に向かう事にしました。民宿の奥様は玉庭から飯豊にお嫁に来たそうです。
ですから飯豊と玉庭の間の名所旧跡は執拗に訊きました。”「山の神」の神社は無いか?”
『山の神ならそこらじゅうに祀られてるよ。神社なら入れば何処も山の神の洞があるし、澤には山の神の石碑が立っているよ』期待に応えてくれません。
源流の森を見下ろす菅沼道を玉庭に向けて走っていると、樹間に未だ桜が残っています。醍醐の桜を観てからもう一か月も経つのに今年は未だ桜が観られる等幸運です。
暫く先に葉桜の大木が見えました。何かと思って停車すると2メートルもの高い土手の上に巨大な桜の木が生い茂っています。桜は根屋谷の薄墨桜の様に白い花だったようです。未だ少し花が残っています。その根元に説明文と大きく「経塚桜」案内されています。
この桜は大同3年(〈807年)に弘法大師が当地の地滑りで農民が難儀しているのを見られて、澤の地滑り対策として経塚を建て桜の木を植えられたのが始まりだそうで、弘法大師お手植えの桜なら樹齢は1200年と云う事でしょう。観れば桜の木の道路を挟んで北側(山側)は現在も地滑り対策工事をしていました。今朝も観たのですがこの辺りの地質は水を良く含んで地滑りし易いようです。私は公団出向中に魚沼(長岡)の地滑り対策実験をしたことがあります。大体、珪砂が採取出来る様な土地は地滑りし易いのです。「経塚」には法華経を納めて地滑りしないように祈願したモノでしょう。経塚は全国にあります。総じて云えば古代末期末法思想が敷衍した頃にお経を経筒に納めて埋蔵しました。何れやってくる「弥勒菩薩」の救済を祈願したモノでした。弘法大師の謂れが在るという事ではこの経塚は比較的古い経塚発祥期のモノでしょう。
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これが経塚桜解説文です。弘法大師がこの沢の下にある菅沼住民の為に地滑り祈願と対策の為に桜を植えたのが始まりで昭和の地滑りで大師堂もろともに桜は土に流されたが奇跡的に桜は芽吹いて花を咲かせ続けていると解説していました。
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この桜の後ろ(南側)は源流の森白川湖になります。白川ダム建設前は菅沼集落が在ったのでしょう。
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これは伯耆一宮経塚出土品(国宝)です、一般に経塚は経典を土中に埋納した塚で本件の様に地滑り対策や築堤が堅固であるように呪術したものが多いようです。一般に経筒の中にお経が納まっています。出典はウィキペディア
経塚桜を観ていたら桜塚やっくんを想い出しました。セーラー服を着た美男のお笑い芸人です。菅沼峠を越えて玉庭の集落に向けて所々軽トラが停車していました。屹度入山料を払わないで山菜を採っているのでしょう。「入山禁止」の看板もありますが「クマ出没注意!」の看板も見えます。熊の看板の方がエスプリが効いているように思いました。
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此処が菅沼峠、此処にも桜が残っていました。切土面を観ると水を含み易い砂地で地滑りし易いと思いました。峠の向こうが玉庭村です。
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軽トラにのって山菜採りに来た人
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山菜農家にとっては山菜泥棒は死活問題です。「入山禁止」よりも「熊出没注意」の方が遥かに効果がありそうです。



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飯豊の曲屋

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「曲屋」と云えば岩手県遠野の民家を想い出す人が多いでしょう。勿論遠野の曲屋は大きくて見栄えがします。でも飯豊にも曲屋は数多くあります。遠野のように母屋が立派であるのに較べて飯豊の曲屋は母屋もこじんまり家畜屋も小さいのです。小さい方が美しい場合が多い様に思います。
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これは川崎民家園の南部の曲屋です。右側が母屋で正面は馬小屋で二棟の建物がL字型に連結しています。正面が馬屋で右が母屋です。
私の泊まった中村さん宅も曲屋だったのでしたが、家畜屋の部分は取り壊して玄関にしてしまったのだそうです。曲屋の欠点は屋根に積もった雪がうず高く積もって不便な事だそうです。
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私が泊まった中村さん宅正面が母屋で母屋に繋がっていた牛小屋は壊して玄関にしてしまいました(母屋の右側)不思議なのは手前が北側である事です。広い廊下(縁側)も北向きでは無用のように思うのですが。
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これは米沢牛の繁殖をしていた頃に使っていたサイロです。曲屋の牛小屋部分は繁殖牛の為に使用していたのでした。
物置との間にステンレス製のサイロがありました。訊けばサイロで10年も前は米沢牛の子牛の繁殖農家をしていたのだそうです。種付けから分娩(ぶんべん)、哺乳(ほにゅう)し生育専門の酪農家に販売するのが仕事だそうです。繁殖農家から牛を買って育てる農家が肥育農家です。繁殖農家の要点は毎年出産してくれる母体を大切に育てる事が大切で妊娠期間は300日弱だそうです。母牛に種付けして貰い元気なベビーの出産に立ち会いベビーの臍の緒は絹糸で結んでやるのだそうです。出産から出荷までは100日ですから、種付けから出荷までは400日に及びます。
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これは飯豊の隣玉庭村の曲屋です。紅いとんがり屋根が可愛いと思いました。今では藁ぶきの民家はなく写真の様にブリキで屋根を覆っています。誰か藁ぶきの面影を残す屋根材を開発して里村の景色を保存してほしいモノです。
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これは田沢の洞松院傍の曲屋です。藁ぶきに千木のある棟を保存する為修理を予定しているのでしょうか?ブルーシートをかけたままで工事を中断していました。是非保存してほしい小さくとも美しい曲屋です。
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この冬をあの隙間だらけの雪囲いで過したのでしょうか?室内の傷みが心配です。
母牛に種付けして出産、子牛に育てるまで400日もの間牛の命を守る訳ですから母牛を身近に置く事が重要です。曲屋が良い筈です。

芭蕉が尿前関で吟じたのが次の句でした。
蚤虱馬の尿する枕元
蚤虱に悩まされ加えて馬が枕元でジャーとおしっこをするのでとても寝られなかったのでしょう。
牛や馬を生業にする農家にとっては。牛馬を眼の届く範囲に置いておきたいことでしょう。
秋山記行』や『北越雪譜で有名な鈴木牧之は「秋山紀行」で天明の大飢饉を記しています。家畜を食らう惨状と記しました。家畜を食らえば来世は畜生道に落ちます。餓死を避けるには血涙を流して愛する牛馬を殺したのでしょう。立派な曲屋も良いのですが、質素でコジンマリした曲屋は愛おしいモノです。
 

柳津の粟饅頭

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新幹線の時刻は6時50分です。今日の主目的地は西会津の虚空堂です。西会津は再三来ていますが何時も只見川の岸辺から虚空堂の懸崖造りの舞台を見上げて帰って来ました。只見川の岸辺には斉藤清美術館もあります。それが4年ほど前に門前の名物の粟饅頭屋さん岩井屋)(が火事で焼けてしまいました。横浜のデパートで東北物産展が開催されると必ず小池屋さんの粟饅頭が出店して長蛇の列が出来ます。東京人は黍団子より粟饅頭が好きなんです。でも岩井屋さんから小池やさんに看板店が変わってしまったのは寂しい気がします。
元祖粟饅頭の小池屋さんの解説ではあわまんじゅう今からおよそ180年前、相次いで襲った災害に柳津の人々は困り果てていました。その時、「もう災害に〔あわ〕ないように」との願いを込めて虚空蔵尊に奉納されたのが、この粟まんじゅうだったとか。会津は幕末維新にかけては自然災害に人災社会災害の三重苦だったでしょうから、虚空蔵様に「もう災害に遭わないように願う気持ちは日本中で一番に強かった事でしょう。
災害除けを願う気持ちは何時の時代も同じです。でも粟饅頭が人気になっている秘訣は粟の食感と味でしょう。
昔は糯米のお餅は稀にしか食べられませんでした。粟餅を作って火鉢の上で焼いて食べたモノでした。日本人にはDNAに粟の食味が刻み込まれているのかも知れません。
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これが小池屋さんの粟饅頭です。私達は何時も冷えた饅頭を戴いています
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これは柳津虚空堂下にある粟饅頭の岩井屋さんの店頭です。
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岩井屋さんの並びに先年焼けた小池屋さんのお店が昔ながらの雰囲気で出店していました。
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岩井屋さんはお休みでしたし、私達は粟饅頭を蒸す水蒸気に誘われて並びにあった普月堂に入りました。お昼は馬刺しを食べる予定なので粟饅頭は1個で我慢しました。
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普月堂では熱々の粟饅頭をサランラップに包んで売ってくれました
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粟饅頭は漉し餡を糯米で包んでその外側に粟をまぶして蒸したもののようです。粟のプチプチした食感と食感が懐かしくも美味しいと思いました。


粟津の虚空蔵堂

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名物も粟饅頭を戴いて。虚空蔵に詣でました。只見川の岸辺から懸崖造りの虚空蔵堂は何度も見上げたのですが、舞台に上りのは初めてです。清水の舞台を遠望しても、伯耆大山の投入堂を遠望しても舞台に上らなくては飽きないようなものです。いよいよ虚空蔵堂に上れる悦びが湧いてきます。
友人は饅頭屋さんに一番舞台に近い駐車場を確認してくれました。登れるだけで満足な処一番楽して上りたいなんて私の欲望は尽きません。
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虚空蔵堂の舞台を見上げる。柳津の駅から上るのはもう大変です。この左に公共駐車場が在ったのですが此処か更に上った舞台と略同じ高さにある駐車場に車を停めて横移動しました。

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虚空蔵堂の南側にあった駐車場から上りました。マップの右奥が奥の院になります。
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虚空蔵堂南門の石段の両側には百合が自生していました。山百合より遥かに小振りなので笹ユリであろうと確信しました。
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虚空蔵堂の南側から舞台に上りました。写真の右が東で真下が只見川で眺望抜群です。
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憧れの虚空蔵堂の舞台に立って満足満足でした。写真に撮ってみると唐破風が見事な権現造り(江戸)と火頭窓の唐様(室町)の折衷建築でした。
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舞台の北側から東を望む、柳津駅から歩いて上ればコッチが正面になります。
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柳津駅から歩いて上れば此処が本堂入口になります。狛犬や獅子のいる位置に牛が待ち構えていて名物の赤べコも置いてありました。言い伝えでは1611年の大地震で会津地方は大災害に見舞われました。人々は虚空蔵堂の修復をしようと材木を浮かべて只見川を虚空蔵堂の岸辺まで運びました。でも岸辺か巖上まで運ぶのは容易い事ではありません。この時に活躍したのが何処からとも無く現われた赤い牛さんでした。そのお蔭で1617年に初めて虚空蔵堂(本堂)は現在の巌上に建てられたのでした。虚空蔵堂が建つと赤い牛さんは消えてしまいました。
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これは虚空蔵堂の奥ノ院にある弁天堂幅3間(5.4m)のサイコロ状の建物で萱葺寄棟(方形です。窓は火頭窓が更に立った紡錘形をした室町時代の禅秀建築です。国の重文です。
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これは弁天堂の北奥に祀られていたお地蔵さんです。先の東北地震の災難だったのでしょうか。お地蔵さんは前のめりに倒れた(右二体)お地蔵様はお顔を痛め、仰向けに倒れたお地蔵様(左二体」はお身体を痛めておいででした。
舞台の南側にある注射場は高々4台しか収容できない小さな駐車場でしたが、舞台との高低差は精々10mで楽して舞台に上れました。加えて緩やかな石段の脇には百合が群生しています。どう見ても山百合には見えません「これが若しかしたら笹ユリかな?」思いながら見詰めました八幡宮の七夕祭りの奉納舞で巫女さんの髪を飾っていたのが笹ユリです。昔テレビで山形の山奥で笹ユリを栽培しているお爺さんを観ました。一昨年尾瀬の入り口の弥勒寺の本堂裏でピンクの笹ユリの花を観ました。何といっても奈良の大神神社の率川神社(いさがわじんじゃ)では6月に「百合祭り」が催されます。三輪山に自生しる笹ユリを奉げて三輪市内から奈良市内を巡幸し豊作を祈願する行事です。率川神社のほーむぺーじからお写真をお借りして案内させて戴きます。
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此方が桜井の率川神社の百合祭りです。巫女さんの奉げているのがササ百合の花です。写真出典率川神社http://www.isagawa-jinja.jp/topics/2016/sasayuri.html
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これがササユリです。百合の葉っぱが笹の葉のように細くてしなやかなのでこの名が付いているのでしょう。山百合よりも遥かに乙女らしい手弱女の風情があります。
尾瀬の笹ユリも美しかったのですが虚空蔵堂に笹ユリが咲くのであれば是非見たいものです。
奥の院に回って重文の弁天堂を観ました弁天堂の脇にはお地蔵さんがおられましたが先の震災の時の傷でしょうか?お顔を破損されたお地蔵さんに仰向けに倒れられた際に身体を割ってしまわれたお地蔵さんを観ました。すると無性に石仏を観たくなりました。
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此方は奥ノ院の地蔵石仏右から二体目のお地蔵様は屹度地震の際に前のめりに倒れられたのでしょう。お顔がお面を外した様に取れてしまいました。お顔を戻せばピッタリでした。樹脂で貼り付ければ簡単に元に戻るのでしょうが、実はこの4体の他に左に2体のお地蔵さんは仰向けに倒られてそのはずみで身体を上下に割られてしまいました。参拝者は痛々しいお地蔵様のお姿に心を痛めておいででしょう。
友人にお願いして昔写真集で観た柳津久保田の33観音を巡る事に合意しました。久保田は只見川の更に上流で新潟に近い位置にあります。
石仏巡りの前に腹ごしらえで名物の「馬刺し」を食べに行く事にしました。虚空蔵堂の下を行ったり来たりですが、楽しく食事をすることも旅の醍醐味ですから致し方ありません。
ソロソロ一泊二日の旅行も大団円です。最後は石仏三昧でその前に馬刺しで腹ごしらえする事に致しました。

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粟津久保田のマリア観音

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粟津の虚空蔵堂で地震による破損仏を観たら久保田集落に祀られていると聞く33観音を無性に観たくなりました。「今日観なければ一生観られない」と思うともう制御不能です。友人の同意を取り付けて只見川を更に遡りました道は県道59号線(標識には会津三島線」と記されています。粟津では川幅も在ったのですが渓谷は次第に狭く深くなっています。
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これが只見川にかかる只見川第一橋梁です写真出典奥会津観光http://www.okuaizu.net/spot/54/
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県道59号線(会津三島街道の三島集落。新潟に多い土蔵が目につきました)
粟津の道の駅で貰った地図によればもっと川上に西山温泉があってその直前で西(新潟方面)に折れると県道53号線(会津高田柳津線)で久保田集落に着くそうです。渓谷を過ぎると突然に山間に棚田が開けて棚田の端に観音山(標高501m)があってその中腹に8字状の山道が在って山道の脇に33観音が祀られているのです。
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此方は5番観音の千手観音で山桜の下にありました。この観音が8の字の交差した位置にあってこの上にグルッと円状の道に観音様が9ばんから33番まで「回り観音」に位置しています
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此方が著名な7番のマリア観音です。4手の中の左上腕手に十字架を奉げて居る事から一般に「マリア観音」と呼ばれたのでしょうが、長谷観音もお地蔵さんの持物の錫杖を持っておいでです。錫杖の上部は十字架状ですから、十字があれば隠れキリシタンと思うのは間違いです。
5番観音は8の字の交差した位置に在って8の字の上の八巻状の道を33回廻ると霊験が一段と厚い(子宝に授かるなど)そうです。33回は無理にしてもせめて1回は廻りたいと滑る山道を必死に廻りました。Ⅰ周は精々300mですが道は狭いうえに滑りやすく倒木が道を塞いでいます。案内にはこのように円く並んでいる33観音を「まわり観音」と呼ぶのだそうです。云われてみれば金沢文庫の百観音も称名寺の裏山に「回り観音」状に祀られています。造られたのは江戸時代の文政元年(1818年)で久保田集落の人が願いを込めて、一戸一体刻んだ石の観音像だそうです。一番多いのは千手観音ついで如意輪観音十一面観音、馬頭観音などです。各家ごとの事情によって33観音の中の一体を選んだのでしょうから。”あれもしてほしい!これもしてほしい!”願の多さが千手観音になったのでしょう。私が以前写真集で観たのは「マリア観音」で7番目に祀られていました。「マリア観音も拝んだしソロソロ転ばぬ中に戻ろうか」思うと隣の8番その先の9番観音に誘われてとうとう33観音と番外2明王を回ってしまいました。出口に”やれやれ無事に戻れた”と思うと清水の水飲み場が用意されていました。


会津坂下の馬刺しの味

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磐梯高原には牧場が目立ちます。会津磐梯山の広いすそ野は牧畜業に最適なのでしょう。私は会津に来て磐梯山の雄大な裾野を観ると、無性に「馬刺し」が食べたくなります。
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磐梯山の裾野に広がる村営牧場奥に見えるのは猪苗代湖です。写真出典磐梯山村営牧場https://www.inawashiro.or.jp/institution/bokujo/
馬肉の事を一般に桜肉と云います。でも桜肉と呼ぶのは語弊で馬肉は桜色ではありません馬肉は,鉄分たっぷりの朱色です。解体した時は桜色なのかもしれません、私達消費者が視るのは何時も真っ赤なお肉です。屹度多量に含まれている鉄分が酸化しているのでしょう。私は馬刺しを食べるとサラブレッドになったような気分がして脚が早くなった気になって駆け出したくなる衝動に駆られます。博多勤務時代に再三熊本まで出かけて行って小次郎なる専門店で馬の「たてがみ)」を食べて以来馬の虜になってしまいました。たてがみ(首)は馬肉の中でも人気のある部位で、馬にしかない希少な部位です。脂分とゼラチン質で構成される真っ白なお肉で、お刺身で独特の触感と甘みを味わえるのでした。馬肉におろしショウガやおろしニンニク、刻みネギなどを薬味として戴きます。何処か鯨の刺身の食べ方に似ていました。

堀商店の神棚、賑やかで楽しいのです。
記憶に一番残っているのは馬のペニスでした。友人がどうしても食って行けと云うのでナタデココの様なゼラチン質を口の中に放り込みました。ヌルッとした食感が在って単なる脂肪の塊でした。馬肉を食べた時はサラブレッドになった気分でしたが、馬のペニスを食べてもアッチの方の自信が確かなモノにはなりませんでした。
「馬喰」と云えば馬を売買する人の事で馬を食らう人の意味ではありません。日本史上最初に「肉食禁止令」を出したのは天武天皇(大宝律令」で身近な家畜の命を奪う事を禁じたのは仏教の影響で賞、日本人は縄文時代から馬肉をは食べていたのでしょう。



猪を「牡丹」と呼んだり鹿肉を「紅葉」と呼んだりするのと同様に隠語だったのでしょう。”明治時代に本当は牛鍋を喰いたいのだが懐が寒いので、”夏バテ対策で桜でも食べに行こうか!〝なんて云うと禁を破る誘惑と薬膳料理の効果が期待されます。そんな意味では一泊二日のショートツアーですが、旅の最後に馬刺しを食べようとするのは、疲れた体を癒やすのにはグッドプランです。どうせ食べるのなら一番テンに入ろうと会津坂下の堀商店に向かいました。このお店は磐梯山に牧場を直営しているうえに加工工場も完備していて厚労省の認可も得ているのです。場所は国道49号線沿い会津坂下にあります。国道に面したビルが馬肉の販売店です。そしてビルの裏に立派な日本家屋が聳えていて其処がドライブインというか割烹です。
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右が国道49号線手前(東)が会津若松で奥(西)が柳津此処は馬肉そのものと馬肉の加工品が販売されています。
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此方がドライブインです。
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堀商店の神棚、賑やかで楽しいのです。
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付出しとして出された煮込みのボリュームに驚きです。会津人は大食いかな?
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右が馬刺し1080円です。辛子とニンニクなどの薬味の入った味噌を醤油で溶いて食べます。
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手前が私の注文したモツ煮込み定食800円です奥が友人が注文した「煮込み定食)800円です。二人とも食べきれませんでした。このお店は定食ものをオーダーすれば煮込みや馬刺しは付いています。馬刺しを注文するなら定食を完食してもっと食べたい思った時に限るのが賢明です。
先ず馬刺しを注文しました1人前千円で80g程度です。二人で半分づつ分けて戴きました。その上で献立をにらんで、私は「モツ煮込み定食」800円、友人は「煮込み定食」800円を注文しました。最初に「付出し」と称して煮込みが出て来ました。煮込み定食はダブってしまいます、煮込みを突っ突いている中に腹も塞がって来ました。次いで馬刺しが出て来ました最後に定食が出て来ました。私の場合は充分な量のモツ煮に味噌汁に漬物(キャベツ)に馬刺しが添えられていました。ラーメンを食べている人にも馬刺しや煮込みがついていました。美味しかったのは間違いないのですが食べきれなかったのは馬さんに申し訳が立ちません。次回この店に寄る事があれば最初に「アレも食べたい此れも食べたい」注文しないで食べきった上でもっと食べたい、思った時に限定しようと思います。
それにお土産には馬肉スーパーが最適です。

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只見の畔の斉藤清美術館

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画家にしろ歌人にしろその人が産まれ育った土地に立った時に初めてその作品がシックリ理解できることが多いモノです。今回のツアーで云えば冠雪した飯豊山を観れば福大路法林さんの画業や最上川の中流域大石田は斉藤茂吉さんの生家があります。
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これは米沢産まれの福大路法林さんの大作「パドガオンの月/福島県立美術館です。画伯はヒマヤラの連作で有名ですが、幼い時に米沢市街から仰ぎ見た飯豊山の神々しさがあってこの大作が生まれたと思うのです。
そして只見川柳津は斉藤清(版画家)の育った地です。私は学生時代から斉藤清さんの版画が好きでした。藁ぶき屋根の上に降り積もった雪が温かそうで三好達治の「雪」を思わせました。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
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これが斉藤清さんの代表作西会津只見川沿いの小出街道の井雪景色を詩情豊かに描いておいでです、依然次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48485968.htmlこの道は戊辰戦争で河合継之助が落命した道です。

浄智寺の「虫取り撫子」

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2年前の6月花菖蒲を観に大井川に近い加茂に出かけました。世界最長の木造橋の「蓬莱橋」を渡りました、その時瓦を観て驚きました。濃いピンク色の絨毯があったのです。蓬莱橋の管理人に訊くと「虫取り撫子」と云うんだそうです。撫子と云えば大人しくて忍耐強い日本女子の代名詞です。撫子と云う名と「虫取り」と云った食虫植物の様な取り合わせが意味白いし、何しろ綺麗なので「欲しい」と云うと島田市の職員が根付で一株引き抜いて下さいました。
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此れが大井川にかかる世界最長の木造橋「蓬莱橋」です。川原には初夏に虫取り撫子の群生が一斉に咲き誇ります。
植木鉢に移し替えて2年今年は見事に咲き出しました。花が終えたら直接地植えにしてあげる予定です。5年も擦れば大井川の川原と同じように我が庭もピンクの絨毯になってしまうかもしれません。島田市の職員の話では虫取り撫子の種は河原に広く散って。それが洪水が在ると一斉に芽を出して成長するのだそうです。ですから洪水のあった翌年は一段と見事にピンクの絨毯が観られるのだそうです。因みに虫取りとはいっても実際に虫を捕食する訳ではなく、花の5センチほど下の枝分かれした辺りに粘液が出るので、蟻(アブラムシを運んでくる)が花まで上る事を阻止しているのだそうです。花にすれば蜜を盗むだけで、効果的な受粉の役にたたない蟻がよじ登って来ないように阻止しているのでしょう。私が誘っているのは綺麗な蝶々よ短足の蟻なんか来ないように粘液で意地悪しているの…、言いたげです。花も女も意地が悪いモノです。
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大井川の川原から我が庭に移って見事に生き抜いている「虫取り撫子」後ろは鶉の小屋です。山ブドウが絡んでいます。
ところで公園の「エゴノキ」の白い花が目立ち始めました。「浄智寺の白雲木も咲き出しただろう」思って浄智寺に登ってみました。何時もは緑陰に見事な白い花が観られるのですが観られません受付の奥様に伺えば今年はGWが終わる頃が見頃だったそうです。大木の下に行くと土色に変色した花柄が地面も苔も覆っていました。
今年はGWの頃は飯豊旅行をプランしていましたので仕方ありません。
白雲木は終わってしまいましたが「方丈庭園にも楼門の下にも虫取り撫子が咲いていました。
方丈庭園は蟻さんの天国でショウから、虫取り撫子の粘液も活躍していることでしょう。
こんな庭を何て呼ぶのか知りません。禅宗寺院の方丈庭園と云えば天竜寺の様に蓬莱境をイメージしたモノが大半です。浄智寺の方丈庭園は端っこに葱や小松菜のような菜園がありそうな庭です。雑草がてんでに棲み分けしているようです。高砂百合は裏山に自生していたものが風に吹かれて方丈庭園に生還したのでしょう。三寸アヤメはお檀家の方が「雑草ばかりで寂しい」と思われて植えられたものが上手に生育してきたものでしょう。見ればもう秋明菊の背が伸びています。でも、黒くて大きな毛虫が食らいついています。お檀家の方がお気軽に草むしりでもしようものなら毛虫の餌食になってしまいそうで心配です。同じ毛虫なら青筋揚羽のように美しい蝶の毛虫なら良いし「落し文」のように優雅な毛虫か蚕のように有益な毛虫なら良いのですが。

芝棟への憧れ

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昨年の6月宮城まり子さんの主催される「合歓の木美術館」を観ました。その折に美術館の意匠の素晴らしさに驚き作者を調べたところ藤森 照信(ふじもり てるのぶ)氏である事を確認しました。氏の専門は建築史ですし、生まれも育ちも尖り石遺跡や諏訪大社のある茅野で居られますから自ずとデザインは縄文式の竪穴住居に落ち着くのでしょう。高音多湿、多雨の我国ですから建物の一番難しいところで見せ場は大棟です。唐招提寺金堂でも多くの人の眼を奪うのは大棟の反りです。(列柱と云う意見もありますが…)合歓の木美術館も大棟には芝棟と云い。棟を植物で覆っています。棟に植物等植えたら、梁が腐ってしまうだろうと思うのは素人で。植物が根を張ることで。雨漏りを防ぎ、建物を長持ちさせるのだそうです。合歓の木美術館は大棟の芝棟と団栗の袴のような事務所棟の取り合わせがメルヘンでした。
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これが合歓の木美術館の建物です。大棟の位置に植物を植えていて如何にも竪穴住居の意匠です。左の塔の部分は事務所であり意匠は団栗の袴だと確信しました。
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これは同じ藤森 照信氏の設計された近江八幡の種やのラ・コリーナ。青森の 三内丸山遺跡をテーマパークにしたものと確信しました。日本人は縄文遺跡が一番心地良いのです。芝棟にはオカメ笹を使っていました。
「合歓の木美術館」を観て帰って直ぐに川崎の民家園に芝棟を観に行きました。誰かの文章に民家園の清宮家住宅は芝棟に「一初 ( イチハツ)」を植えてあり。”一初 が棟を締めているうえに紫の花が舞妓さんの簪の様に綺麗だ”. 書いてあったのを記憶していたのでした。川崎民家園で確認すると一初はもう終わってしまったが、代わって萱草が咲いていると云って蚕宮と南部曲屋の外便所を案内してくれました。芝棟の野萱草も綺麗でしたがヤッパリアヤメに似た一初を観て観たいモノ、そこで5月23日(火)に電車を乗り継いで小田急線向ヶ丘遊園の生田緑地に出かけました。民家園入り口で確認すると「今年は一初の咲くのが早くてGW明けが見頃だったそうです。パンフレットの一初を観て我慢です。
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此れが川崎民家園の清宮家住宅大棟に紫と黄色の一初を植えてあります。

岡本太郎のレストラン

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生田緑地の川崎民家園に行きました。芝棟に咲くという「一初」の花には間に合いませんでしたが。民家園は私の三大欲望を満たしてくれます。三大欲望の第一は石仏で第二は民家で、第三は食欲です。
何時もは民家園内の蕎麦処「白川郷」で食事するのですが、この日は白川郷の団子屋で「御手洗団子」を買ってベンチで戴きました。民家園から次は「バラ園」に向かうのが当初の計画でしたが、腹も空いて来ました。そこで急遽お隣の岡本太郎美術館に向かいました。岡本太郎美術館にはレストランが在った、記憶が蘇ったのです。
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民家園の裏口を出て西に向かえばメタセコイアの並木でその奥に岡本太郎美術館があります。
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メタセコイアの並木の突き当りが岡本太郎美術館で、石段を登らなくてもエレベーターも設備されています。
の並木を越せば美術館です。メタセコイアの大木の陰で二人連れが何やら深刻に話しています。雰囲気は大学生(男の子)が女子大生に”ソロソロ僕らの将来について結論を出そうよ”迫っているようです。女学生の目は虚空から池の面に移ろって頼りなげです。男の子も”さようなら”云われるのが怖いのか?緊張感だけが漂っています。足元には「エゴの花が踏まれています。
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これが岡本太郎美術館二階建てガラス張りの美術館で自然光で作品が鑑賞出来る様に工夫されています。
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企画展は建築がテーマでした。旧都庁建物(丹下健三)や大阪万博が紹介されていました。
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常設展会場には岡本太郎さん得意の「赤の衝動」が展示されていました。
”何やら重苦しそうだね!専修大の学生さんかしら?云いながら岡本太郎美術館の近代的な建物に向かいます。高い石段の前で辺りを見回せばエレベータが設備されています。此処は生田緑地の谷戸です屹度湧水があるのでしょう。レストランは湧水を溜めた池に面しています。池の水は石段の脇を瀬になって滝のように下り落ちて行きます。池の中央には岡本太郎さんのオブジェが置かれています。握り辛夷にバッファローの角が二本生えたようなデザインです。(後で美術館の中で実物を確認しました)私達は池とオビジェの見える、「止り木席に座ってサンドイッチを注文しました。この日は火曜日お客さんは中高年齢の女性ばかりです。

田植えに想う

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横浜はこの週末五月晴れで運動会日和のようです。私も昨日27日は地域の小学校の運動会にお呼ばれして応援してきました。でも天気予報を見れば山形も福島も雨模様のようです。屹度この週末は家族総出で田植えに勤しんでいることでしょう。私の叔父たちも普段は住職で学校の教員や農協の職員を兼業していましたから、土日は農作業をしていました。でも東北で雨が続くと「やませ」にならないかと心配です。「やませ」とは夏になっても寒い東北東の風が吹く事です。やませが吹くと東北地方は必ず冷害になって、飢饉に陥ります。天明の大飢饉とか天保の飢饉がそれです。
私が高校時代は「冷害が飢饉の原因だ」教わりましたが昨今の評価は違っているようです。江戸時代貨幣経済が東北雄藩の財政を支配してくると。弘前藩などはお米を先に売って姉妹、実際に秋に収穫があると先物販売しているので、藩内のお米は払底しており食べるに事欠いてしまった。半分は自然災害だが「人肉も喰らった」と云った惨状の主因は人災であった・・・・。と
同じことは昭和の初めの米騒動にも起こりました。お米が国によって管理されている理由の大半は二度と飢饉や米騒動を起こさない事に在るのでしょう。然るに昨今の農政は総てを市場に委ねてしまう傾向にあるようです。

今時の運動会

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5月27日は地域の運動会がありました、小学生から招待状が郵送されては、出かけずばなりません。岡崎に住む孫の運動会に想いを馳せながら、一人で出かけました。午前中は運動会の応援に午後は新戸塚病院でのリハビリに回る予定です。夕刻には明治学院の大学生が出演する「郡上踊り」もあります。女子大生の浴衣姿は強い誘惑です。350ミリのお茶を携帯して、熱中症に気づかいながら出かけました。
小学校の校庭に着いたのは午前十時。もう校門から校舎の裏、プールの脇などにはカラフルなテントが張り巡らされています。どのテントとも簡易なモノで。大型の傘みたいなもので、バンと開いて地上に置けば即テントになる「大型自動傘」とも呼べるモノです。何処のテントもお弁当が置かれてその番人のお父さんが競馬新聞を観ながらお昼の時刻が来るのを待っているようです。運動会と云うと私の世代は山本有三の「真実一路」のラストシーンを想い出し ます。私生児の少年が育ての親の応援を背に受けて必死に走る姿に涙したものです。このシーンは日本人の多くの世代に共通するようで最近の小説でも「ガバイ婆ちゃん」では主人公の青年が駅伝でヒーローになります。どちらも競争で負けない主人公の姿にこの少年は「人生という競争の場でも負けませんでした」想わせるのに十分な説得力がありました。私の頃はノートや鉛筆等賞品が用意されましたが、今は賞品などは貰えないようです。午前中のプログラムを終えたら生徒達は夫々の家族の待つテントに行ってお弁当を食べるのでしょう。私の頃はお弁当の井オカズが気になったモノでしたが、夫々のテントに分散するのならば隣の豪華なオカズは気にならないことでしょう。
私の頃は運動会と云えば10月10日体育の日に行われました。今は5月の最終週です。何故秋から初夏に変わったのか訊けば先生の説明は次の通りでした。
1、秋に運動会を挙行するには練習日が炎天下になる事が多いので、熱中症のリスクを避けた。
2、新学期が始まり、新入生や新学年によるクラス替えが多かった事からその直後に運動会を実施する事によって、クラスの纏まりを良くする効果が期待される。
私はお弁当の少し前に退場する事にしました。学校の渡り廊下や雨樋に燕や雀が巣作りしている筈なのでその確認をするのが目標です。
何しろこの学校の校歌はサトウハチローさんの作で「燕も雁も(教室を)覘いてく」と云ったフレーズがあるのです。「今年は燕の巣が幾つあるか?」確認するのが私の楽しみなのです。
校庭を回って裏に行くと生徒が栽培している鉢植野菜が並んでいました。胡瓜も在れば茄子もあります。トマトもあればゴーヤやピーマンもあります。
「睦子チャンのトマト美味しそう!僕食べたいな!」云えば睦子ちゃんは気前良く分けてあげるのかもしれません。その点ピーマンやゴーヤは不人気でしょう。皆、トマトを栽培すれば無難だろうに・・・・。」思ってみました。ところで睦子チャンとは私の小学生時代の人気の女生徒でした。ミニトマトのような小さな子で今も「林檎の歌」を歌う度に「もう林檎のような赤いホッペも皴だらけで垂れている事だろう・・・・、」思ったりします。
鉢植野菜の上には桑の木が茂っていて桑の実がなっていました。桑の実はポリフェノールタップリです。
改めて桑の実を観れば庭に実ったラズベリーとよく似ています。今朝もラズベリーをヨーグルトに乗せて食べました。ポリフェノールの苦味は快感でした。私の子供の頃は桑の実も桜の実も採って食べたモノでした。
校舎の裏に廻れば栗の花が咲いています。
栗の花の匂いは不快ですし、ダランと垂れた姿も醜いモノです。花が視難いモノ程実が美味しくて材木にすれば価値が高いモノです。先日観た民家園の材木も肝心の部分は栗の材木が使われていました。
小学生の時人気独り占めだった睦子チャンは縁に恵まれずにズット独身でした。花は惨めでも実や材木が素晴らしいのが栗や桑です。人生も栗や桑も長いモノです。花が咲くのは少年少女期であっても実をつけ材木になるのは壮年期です。


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セブンイレブンの冷やし中華の味

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私が銀行員として働き盛りであった1970年代、日本には三つの流通グループがあって覇を競っていました。庶民視線で最も人気のあったのが「ダイエー」で、中内功氏がリーダーでした。もう一つが、堤清二のセゾングループでした。三番目がイト―ヨーカ堂グループでリーダーは伊藤正俊氏でした。ヨーカドーグループは、伊藤の地味な性格もあって、どこか影が薄かったのでした。にも拘わらず中西功氏も堤清二氏もバブルでとん挫して伊藤正俊氏だけが盤石の覇道を突き進んでいました。”何故伊藤正俊氏だけが生き残れたのか?”それは銀行員から見れば明瞭で伊藤氏だけが経営の根幹をキャッシュフローに置いていたのでした。中内氏も堤氏もキャッシュフローには無頓着で含み資産に着目していました。含み資産さえあれば銀行は金を貸してくれる、だから毎日店頭のPОS機に入って来るキャッシュよりも清算バランスを観ておられました。銀行員もその上部官庁である大蔵省の銀行検査も融資先の生産BSを試算して、融資に見合う資産(究極的には不動産担保)さえあれば健全融資と見做していました。この錯誤はダイエーへの貸し出しセゾングループ(代表は西武百貨店と西友)を不良資産と見做し三和銀行(ダイエーのメインバンク)や長銀に破綻の烙印を押しました。
セゾンは西友やファミリアと云う名のコンビニを持っていましたが其処に溜まったキャッシュを先行投資に回せず既に火事場に化していた旧事業部門のマッチポンプに費消していました。ヨーカ堂だけが、(2)土地・株式など投機的な財テクに一切走らずに、(3)セブン-イレブンという先行投資がコンビニエンスストアという成長分野に投資しました。
中西功氏も堤清二氏もそれぞれファミリアにローソンと云った成長子会社を持っていましたが、イト―ヨーカ堂は経営陣に創業家の伊藤家鈴木家(味の素の創業家)の緊張感がワークしていましたから、成長の見込めない部門に投資するような愚行は許されませんでした。
私が記憶しているテレビ番組にセブンイレブンのコンビニメニュー決定場面がありました。その番組は夏のコンビニメニューの決定会議でした。夏のコンビニメニューの最も顧客吸引力のある商品が「冷やし中華」であると判断して、伊藤社長が幾つも冷やし中華を食べ比べしていたのです。何も日本を代表する経営者が冷やし中華を決めるまでもなく下位代行させればよい(部門長に任せる)と思ったものでした。でも伊藤社長の情熱は充分伝わって来ました。だからコンビニ弁当ならセブンイレブンの評価が定まって来たと思います。
さて、前置きが長くなってしまいました。
先週浄智寺に上ってその帰路大船駅の東口に回りました大船駅東口は50年以上前から餃子の激戦地なのです。美味しいのは鎌倉飯店に石狩亭(この二店は私の高校生時代から人気店です、それに(現在再開発中)に加えて王将等新参組も在って競っているのです。
私は石狩亭に入店しました。後から入ってきたサラr-マンが「暑い暑い!」叫びながら冷やし中華を注文しました。
お店は「冷やし中華は遣っていない」つれない返事です。サラリーマンは「暑くなったら中華料理店は冷やし中華だろう!」クレーム口調です。
店主が応えます。
「当店は観ての通り少人数で営んでいます。冷やし中華をメニューに加えると人手不足が顕在化してしまいます。美味しく食べて戴くには今のメニューで限界なのです・・・・。」
私も俄然冷やし中華が食べたくなりました。冷やし中華の美味しい店と云えば駿河台下鈴蘭通りの揚子江飯店です。横浜中華街なら三羽楼(関帝廟通り900円)です。三羽楼の冷やし中華は蒸し鶏の前菜を冷麺に乗せたようなサッパリ味です。
私の今の生活圏でも美味しい冷やし中華のお店が無いか?ネットで調べてみました。王将も日高屋もメニューは色々あっても冷やし中華は遣っていませんでした。
私のf想像するに石狩亭の主人の言は偽りで正直に云うと
「今のスタッフではセブンイレブンの冷やし中華以上の味は提供できません」だった様に思えます。
其処で5月29日はセブンイレブンの冷やし中華をランチに食べる事にしました。
私の胃袋では未だ冷やし麺は食べられません。堅いので胃袋が拒否するのです。そこで小さいカップ(税込350円)にしました。でも蓋を開けて観て唖然としました。冷やし中華と云えば冷麺の上に金糸卵と胡瓜の千切りとチャーシューの細切が三色で載っているモノの筈です。ところがチャーシューでは無くてハムの線切が載っていたのです。

進化する横綱白鵬

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大相撲夏場所も終えてしまいました。突然に夕飯前の時間が長く感じられるようになりました。
全国の同僚諸氏もお相撲が終わってしまうと同感で食卓の椅子に座して夕刊に眼を落していることでしょう。
テレビ画面を見詰めながら最近は浴衣姿のお客が増えたな思ったり、砂かぶりにおられるお客さんを観て「如何にもその方面のお客」とわかると景気も良くなってきたんだな、思ったりします。懸賞金のスポンサーを示す幟が土俵を回る度に気になるスポンサーがいます。「永谷園だ世田谷食品」なんて言うスポンサーは納得ですが石長/京都鎌倉の墓石屋)となると逆効果のように想えます。夏場所は白鵬の全勝で終わりましたが、白鵬の相撲を観ていて気付いた事がありました。それは白鵬の取り口に風格が出てきた事です。
以前は、既に勝負は決したのに駄目を押す様に投げ捨てたり、相手の横顔を叩いたりしていました。敗者に対する敬意が全く感じられず後味の悪いモノにしていました。でも今場所はそんな素振りは全く感じられませんでした。唯一優勝を決めた14日目照るの海を押し出した後に大関の胸を駄目押しするように押しただけでした。
白鵬の成長を感じさせる言動は優勝後のインタビューでも伺えました。
稀勢の里を”良くやった”誉めた事と大関昇進を確定させた高安についての発言でした。高安に稽古をつけていた稀勢の里が胸を痛めた事から、高安の稽古相手を買って出た事に加えて「高安のお母さん/フィリッピン人)の悦びを口にした事でした。
”白鵬は38回目の優勝を決めて漸く相撲界全体を見渡せる立場に立ったんだな!”思ったのでした。
私の子供の頃はお相撲は人気でした。白黒テレビが街頭に在って良く観たモノでした。一番人気は千代の山でしたが子供心にも一番綺麗なお相撲さんは吉葉山で私は吉葉山の写真を集めました。
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昭和30年代5横綱でお相撲は盛況でした。左から栃錦千代の山東富士 吉葉山鏡里写真出典産経新聞社(https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%90%89%E8%91%89%E5%B1%B1&oq=&ei=UTF-8&b=21&atview=1


女学生と叔母さんの「他愛ない悦び」

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私の新戸塚病院でのリハビリは2回/週です。午前11時のリハビリですと、眼が霞むほど疲れます。そこで東戸塚駅前の西武百貨店のモールでランチして帰ります。デパートのモールで初老老人が一人でランチしているのが他人(ヒト)の目にどう映るのか少し心配です。何時もの寿司屋もカレー屋もパスして28日は7階のフードコートに出かけました。
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これは東戸塚駅東口にあるコンビニ「ニューデイズ」の喫茶席から西武百貨店がキー店のオーロラモールを観たモノです。背後の高層マンションから駅までの通路があります。その通路に面してフード・コートがあります。
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これがフードコートにあるファーストキッチン吊るし広告の「マル得500円がセット商品です。ハンバーグは日毎に変わります。筆者はリハビリ病院帰りに此処で食べる事があります。
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私の注文したのは珈琲に海老ハンバーグとポテトのセット締めて500円です。
フードコートは西武百貨店モールと高層マンション群を繋ぐ通路に面して設備されたレストラン街です。モールは優勝劣敗が激しくテナントが度々変わります。私の好みであったベトナムラーメン店も退転して代わってアイスクリーム店が出て来ました。数あるお店の中から好きなモノを買って席に戻って食べるカフェテリア形式です。東戸塚は総じて若い街ですからモールのお客さんも若いお母さんや中高生が目立ちます。
私はファーストキッチン(ハンバーグ店)でワンコインセットを食べる事にしました。シュリンプのハンバーグにアイス珈琲にポテトのセットで500円の設定です。年金生活者にとっては手頃なプランです。文庫本を読みながら食事をしていると何時の間にか隣に女学生3人組が座っていました。流石に若い人はワンコインセットでは物足りないのでしょう。ボリュームのあるモノを食べていました。屹度彼女達は横浜隼人高校の生徒なのでしょう、大声でノートを観ながら話しています。何かと思えば生物の「メンデルの法則」を観ながらの話のようです。彼女たちは高校1年生でもうじき中間テストでもあるのでしょう。懐かしい絵が描かれています。『紅いえんどう豆の雌蕊に白いえんどう豆の雄蕊を受粉させました。結果出来た子供達は赤いえんどう豆が3つ白いえんどう豆が一つ出来ました』メンデルが発見した実験結果が示されています。
女学生は”赤と白ならピンクのえんどう豆が出てきたら、良いのにね!」
言って大笑いです。
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此れは5月の日文研セミナーで「万世一系」は吉田松陰が愛国天皇崇拝に走った為に創作した歴史の諧謔で国学者の研究の成果の盗用だと指摘したシート。唯メンデルの法則は偶然に男系天皇の根拠になります
私は思います。こんな事で腹の底から笑える事こそ女学生の特権だな!。
高校生になって初めての中間テストとなると兎角ブルーな気持ちになるモノ、でも梅雨空の狭間の快晴の様に大笑いできるのは若さの特権です。
染色体には性染色体が在って、XYは男性、XXは女性になります。一方染色体には優性染色体と劣性染色体があります。花を紅に決める染色体は優性で白に決める染色体は劣性です。優勢と劣性が一緒になると劣性は出現しません、優性だけが出現します。おと名付けると雌蕊にはXXが雄蕊にはXY染色体があるんですよ。色の遺伝子は性染色体にあります。メンデルの実験では紅白の色を決める遺伝子が性染色体にあるとすると。子供世代にはXX、Xy、XY yyの出る確率が均等に在ります。Xが優勢遺伝子なのでXがあれば赤い花が咲き、yyの場合だけが白い花になります。そんな次第で、赤い母親と白い父親の子供は3対1の割合で赤が出るのです。
そんな説明をすれば彼女たちの疑問も解かれるのですが。
初老の叔父さんが女学生のお勉強のお手伝いをしていたら、「不良老人」とJKビジネスと間違われるかもしれません。説明したい気持ちを堪えて只管聞き耳を立てます。歪んだ社会になったモノです。
5月29日は女性フォーラムの図書館に出かけました。
暑い日だった事もあって多目的室に入ってアイス珈琲を飲んでいました。
すると私の隣りに初老のお婆さん4人組が座りました。お婆さんたちは魔法瓶のお茶を飲みながらお握りを食べ始めました。お握りはフォーラムの玄関ロビーに「まんなかのパンやさん/http://artazamino.jp/citizen-participation/mannaka-no-panya/」が出張して菓子パンやサンドイッチそして弁当やお握りを販売しているのです。
同店は身障者を積極的に採用していますので横浜市の公共施設で良く販売しています。戸塚スポーツセンターでも販売していますから横浜市民には馴染みの会社です。
お婆さんたちはご機嫌です。”今日のお握りは特大ね!」云いながら丸くて大きなお握りをパクついています。話の様子からすると4人は仲良しで昼は此処に来てお握りを食べてお喋りを楽しんで帰るようです。
私は帰り際にコヒーの紙コップを捨てる序に「お握りを販売している売り子さんに報告しました。
「多目的室のご婦人が”今日のお握りは大きい”云って大喜びしていましたよ!」
すると売り子はこう答えました。
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これが「まんなかのパンやさん」が女性フォーラムのロビーで出張販売しているお握りです。
「おかしいわね?お握りはチャンと重量を測ってから握っているので何時も同じサイズの筈なのにね!」
「でも握る人の手の大きさや力の入れ方が違うから見た目では大小のばらつきが出るのかもね」
コンビニのお握りは機械で製造していますから重量も風袋も均一です。少しでもバラツキがあった方が美味しく感じるかもしれません。そんな事よりお婆さん4人を大喜びさせるのだから大したものです。
そう想っていたら新聞に「切れる高齢者」が特集されていました。サラリーマン時代ソコソコの地位にあったものの今は阻害されている男性に切れる人が多いのだそうです。記事を読みながら想いました「私も脳梗塞の発祥暫くの間は矢鱈に怒りっぽくなっていました。一番悲しい事実でした。”脳梗塞は怒りっぽくなる病気だ”言い聞かせながら自己抑制に努めたのでした。
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読売新聞の「高齢者が切れやすい」記事
考えてみれば女学生もお婆さんも他愛ない事で良く笑います。メンデルの法則で云えば怒りっぽい性格は劣性遺伝子で協調的な性格が優性遺伝子でどちらも性染色体に位置しているのかもしれません。女性はXXですから協調性が前面に出るものの男性はXyですから怒りっぽい遺伝子がy染色体にあれば男性は怒りっぽい攻撃的な性格が出やすい事になるのでしょう。
切れるのは自らの社会を狭くしますし。怒った罵声は自分自身に浴びせ返されます。中間試験の最中でも笑っていられる事お握りの握りが甘くなっても”今日のお握りは大きいわ”といって大笑いできる方がズット賢明。ヤッパリ女性は男性より染色体が一本多い分良く出来ているようです。男は女性の下に居るのが賢明なようです。
昨日のニュースでも小池都知事丸川五輪大臣が会議をリードし。森オリンピック委員会長や県知事と円満(?)な解決を導いていました。男性の会議でしたら、罵声が飛び交っていたのでしょうが。
政治に女性が多くなれば日本はもっと良くなると思いました。

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パッションフルーツの植え替え

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私が脳梗塞を発症したのは3年前の12月末でした。緊急病院からリハビリ病院に転院して自宅に戻ったのが2014年6月でしたから、丁度3年経ったことになります。私は発症まで10年の長きに亘って町内会長を務めていたので自宅の戻ってからの介護プランの作成を町内の「助け合い戸塚」に委託しました。
同会は町内の喫茶室のような存在で毎月バザーや食事会を催しています。自宅に戻って間もない時に食事会・バザーに出かけると植木鉢にパッションフルーツの苗を販売していました。1鉢50円貧弱な蔓でした。多分会員の誰かが庭先のパッションフルーツを刈込みして、切られた蔓を挿し木した野でしょう。パッションフルーツは時計の文字盤の様な花が咲き郁子(むべ)に似た実がなるのです。郁子(むべ)は近江八幡の長命寺に自生していました。同寺の郁子は天智天皇の言い伝えのある、長命を保つ実です。
私は「何処に植えるのよ?」訝しがるワイフに逆らって一鉢求めて居間に置きました。勿論充分育つ事を計算して20㎝程の駄温鉢に受け替えました。
期待通りパッションフルーツの蔓はドンドン伸びて、居間の天井に届くようになりました。ワイフはワイヤーを張って蔓を導きました。体は大きく育っても窓際では太陽光が不十分なのでしょう。蕾こそできても時計の文字盤のような花は咲かせませんでした。花が咲かなければ実もなりません。それでも室内に緑を提供してくれます。昨年の夏にはスカイツリーの水族館に行って「吊金魚」の作り方を教わって来ました。江戸風の金魚の玩具です。「金魚は水が無ければ死んでしまいます。私も熱中症にならないように水を飲まなければなりません。吊金魚に「熱中症予防」」と書いて一夏を越しました。
そのパッションフルーツの蔓の落葉が目立ち始めました。そこでもう一回り大きい鉢に植え課る事にしました。一度庭に出せれば植え替え作業も楽なのですが、室内で行わなければ収拾出来そうもありません。

枕詞と言霊(1)

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もう5年も昔の事でしたが日文研のT教授(専門は西行の文献学的研究)の講義に2時間をかけて(枕詞)の講義がありました。教授が枕詞になった地を巡って来られて写真と併せてその現況と和歌を対比しながら解読されました。

枕詞と言霊(2)文知摺石

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昨日は「陸奥の枕詞の松」を書きました。今日は引き続き「陸奥の枕詞の石」を書いてみたいと思います。ヒントは昨日と同じT教授の講義です。
T教授は陸奥の松を巡る旅に出た話でしたが、その際に信夫山の黒塚伝説と文知摺石の報告もされました。
どちらも私の従兄弟が住職をしている福島市の郊外から遠くない処に在る伝説の地です。
信夫山は丸い(奈良の耳成山にも似た)小高い丘陵で、一見すると円墳のような山ですが、忍ぶ草が自生しています。忍ぶ草は羊歯植物で夏には風鈴を吊るして「吊り忍ぶ」にして涼をとる植物です。
その忍ぶ草を染料にした文知摺染めとは古くから伝わる染色技法で、草木汁で乱れた菱型文様に染めた絹織物です。
信夫山の麓の文知摺観音に伝説の文知摺「があります。
伝説のあらましは都の巡察官、源融(みなもとのとおる)と山口長者の娘虎女(とらじょ)の悲恋物語です。源融(嵯峨天皇の十二男)は或る日の夕暮れ信夫山の麓に宿をとろうとします。山口長者の家に入ると美しい娘(虎女」が応対します。
二人は目を交わした瞬間に恋に陥ります。
別れに際して源融は身分を明かして”必ず都に戻っても迎えに来る”約束します。
残された虎女は源融が迎えに来るのを待ち受けて観音様にお百度を踏んでお願いします。
満願の日に、ふと境内の「もちずり石」を観ると源融の面影が浮かんだと伝えられています。
そして源融からは歌が届けられます。
陸奥の しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし 我ならなくに
私の心は陸奥の信夫の里の名産、信夫文知摺のように、僕の心は乱れてしまっている、これは貴女の所為ですよ・・・・。
もう一つが其処からそれほど遠くない黒塚の伝説です。黒塚と云うより「安達ケ原の鬼婆」で有名です。屹度昔は薄の原だったのでしょうがいまは灌木の茂った青木ヶ原(樹海で有名)のような灌木とススキの原です。
其処に石舞台古墳の様な大きな岩屋があります。伝説の概要は浅茅が原(浅草観音)と似た一つ宿伝説です。
京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母がおり、姫を手塩にかけて育てていました。 ところが、 その姫が重い病気にかかったので、易者にきいてみると「妊婦の生き肝をのませれば治る 」ということだった。そこで岩手は生き肝を求めて旅に出ることにした。そして何時しか安達ケ原の岩屋に住みついてしまいました。
ある晩、若い夫婦が宿を求めて来ました。見れば女(恋衣)は身籠っています。急に産気づき、夫は産婆を探しに外に走りました。
この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝をとったが、恋衣は苦しい息の下から「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」語り息をひきとりました。岩手は恋衣の持ち物を確認します。すると見覚えのある「お守り」を発見します。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのでした。岩手は自らの犯した罪の重大さを悟った余り気が狂い鬼と化したのでした。
どちらも岩に絡んだ伝説です。


土手に南瓜を育てる

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連日佐渡の朱鷺の巣立ちだ、岡山のコウノトリの巣立ちだと賑やかです。
私の住む戸塚駅東口の燕も今週中には巣立ちすることでしょう。
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戸塚駅東口パチンコ屋さんの玄関に巣食った燕観ていると飽きません。写真の親ツバメは母親で子燕は黄色い嘴を目いっぱい広げています。でも右端の子燕は母親に向けて糞をしました。母親はどのようにして子燕の誰の口に次の餌を入れるのか解りません。子燕も成長の早い順に巣立つのでしょう。
「巣立ち」とは云いませんが苗床に播いた朝顔も「今や遅し」と苗床から鉢植や地下植えに移植する事を期待しているようです。
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これが今年栽培する事にした栗南瓜です。
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これは栗南瓜の苗床です。育った順に庭にスペースを見つけて地下植えして行きました。まるで燕の巣立ちを見守るような気分です。
先週栗南瓜の苗を移植しました。今朝は朝顔を苗床から菊鉢に移植しました。これで私とワイフの努めは終わりです。後は南瓜の実るのと朝顔の花が咲くのを楽しみに待つだけです。苗床の南瓜を狭い庭では植えるスペースもありません。南と西の崖際に植える事にしました。
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此方は南側の庭先に移植した南瓜。このまま進めは茗荷と喧嘩しそうです。でもこの南瓜が最高のスペースを用意してあげました。他の巣立ち南瓜の苦戦が懸念されます。
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これは西側の端に移植された南瓜の苗です。この辺りは宅地造成の時に瓦礫を投げ込んだモノだから育ちは悪いのです。手前の二本の苗は育ちが悪くて可哀想です。でも懸命に花芽をつけています。
上手くゆけば我が家の崖に南瓜が吊下るイメージです。
差別用語ですが「オタンコナス)に対で使われるのが「土手南瓜」です。色街で兎角執拗で再度来て欲しく無いお客さんを蔑視して浴びせかける言葉が”このオタンコナスが二度と来るんじゃないよ!”言われた客の返す言葉が”この土手南瓜が金を払うからと云われても二度と来るものか!”言って唾を吐きます。オタンコナスはオ短小茄子の意味であそこが短小で役立たずの意味で土手南瓜は土手に育った南瓜の意味で割れてしまって食べられない南瓜の意味です。我家の南側は道路です。道行く人の頭上で南瓜がユラユラ揺れていたらつい笑ってしまう人もいる事でしょう。
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l此れは茄子の花です「茄子の花は千に一つの無駄も無し」と諺になっていますが雄花は実がなりません。正しくは「親の言葉に茄子の雌花は千に一つの無駄も無し」です。
一株苗を植えては次の苗は何処に植え替えるか?スペースを探し、探ししながら進めました。結果最初に植え替えてから最後に植え替え終わるまで1週間もかかってしまいました。最初に植え替えた苗は順調に育ち幾つも花芽をつけました。南瓜は西瓜や瓜と同じで雌雄異花ですが、同じ体に雌雄別々の花が着きます。良い実を生らせ種をとる為には別の株に咲いた雄花の花粉を雌花に受粉させなくてはなりません。昔は茶碗に水を入れてその中に雄花を浮かべて筆で人工授粉させたものでした。南瓜だけでは無くて西瓜もまくわ瓜も人工授粉させました。そんな記憶を想い出しながら毎朝南瓜に咲いた花を見詰めます。
最初に咲き出したのは殆どが雄花ばかりでした。雄花ばかりでは受粉させようがありません雌雄の判別は黄色い花の下に子房が着いていれば雌花です。子房とは将来実になる部分です。花を見つけるとその下を覗き見します。私は杖の先で葉っぱを押し開けて覗き見します。覗き見を繰り返すうちにスカート捲りしているような気持ちになって来ました。”地下鉄の標語が想い出されます。”スカート覘き、それは犯罪です”

脳梗塞後遺症からの回復

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私が脳梗塞を発症したのは2013年12月29日でした。新年を控えて松飾も終えて高校の友人と麻雀で遊んでいた時でした。友人が私の異変に気付いてその2年前に私が胃癌で入院した湘南鎌倉総合病院に運んでくれました。同病院で約10日間緊急対応処置を終えると金沢文庫の門前にある若草病院(回復期病院)に転院。3か月の医療とリハビリ指導を受けました。2014年6月発症から半年後に我が家のベッドに寝る事が出来ました。自分の寝床で睡眠して想いました。自分の体は自分だけのモノでは無いと、自分が体を壊せば家族も負担になる、リハビリを完遂して家族の負担を減じる事を生きる喜びにしよう・・・。とそれに集中治療室のベッドの上で観た夢が空中を舞って奈良から国東の上空に飛んでいたのでした。私はその時の臨死体験を「アサギ斑に乗って」と云う表題で詩にしました。「死んだら自分の魂はアッチコッチに彷徨うのだ」思いました。「何処を彷徨うのか?西行法師や芭蕉は奥の細道を彷徨うのだろう。ならば自分は生きている限り綺麗な処に最高の季節に行っておこう」
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集中治療室で夢うつつの状況で私の霊は青春の想い出の詰まった奈良から直近に出かけた国東に彷徨っていました。私は浅葱斑に乗っている様な気分になって「浅葱まだら行」という詩に纏めました。
そんな次第で退院後は意識して旅行に出かけています。友人はさぞかし迷惑でしょうが、私に付き合ってくれています。温泉に行けば背中を流してくれます。悪路を登って石仏を巡ろうとする時には手を曳いてくれます。旅行自体がリハビリでしたし、旅行に出かける事がリハビリの目標になりました。
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これは先月行った西会津柳津の久保田33観音を巡った時の写真。友人に手を曳いて貰い観音石仏巡りを完遂できました。
若草病院(回復期病院)を出る時には「貴方は緊急処置は適切だったが出血箇所が悪かったので車椅子は欠かせないでしょう。右手だけで不自由が無い様リハビリに努めて下さい」云われました。家も車椅子対応に改造しました。しかし、車椅子では旅行も出来ませんし、家族の負担も大きいままです。目標は「発症前の状態」です。
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これが私のリハビリのステージアップに功績を示してくれている「促進反復療法」の新戸塚病院https://www.ims.gr.jp/shintotsuka/kawahiramethod/index.html。明るい病室は回復期病棟で、私が世話になっているのは建物の西側(向こう側)にある通所施設(トレーニングルームがある)です
ワイフがテレビを観ていてリハビリには「促進反復療法」が効果的である事を知りました。調べてみると我家から通院できる距離に「新戸塚病院」があることを確認しました。昨年6月から新戸塚病院に通院し始めました。保険の関係も在って、通院期間は3か月で3か月ごとにリハビリの成果を確認「成果あり」と評価されると次の3箇月の通院が認められます。成果を上げる為には自宅での自主トレが大事です。病院でのリハビリは自主トレの遣り方を教わるようなもので、リハビリと自主トレをセットで推進する事が肝要です。
新戸塚病院に通い始めた時の左手のテストは27点でした。6月3日3度目の通所リハビリ終了時のテストの成果は92点でした。理学療法士の評価では92点になれば左手も略生活するうえで不自由なく使える水準である事。90点台の人は偶にはいるが1年の間に27点から急上昇する事は滅多に無いと云われました。
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2年前新戸塚病院の通所リハビリに通い始めた時の左手のテストの成績28点でした。
3年前自宅に戻った時に驚いた事がありました。それはトイレの便座に座った時でした。お尻の左半分が便座からずり落ちてしまったのです。お尻の左半球のお肉が削られて便座に懸らなくなってしまったのでした。左脚も右に較べればズット細いし、左腕も右腕に較べれば骨が見えるほどに痩せ細っていました。鏡で顔を見れば左顔面は麻痺して表情が消えてしまっただけでなくて。顔自体が左に歪んでいました。モジリアニの絵か花王石鹸のマークのように歪んでしまったのでした。私の身障者手帳に貼ってある写真と今の顔は別人のように回復して発症前の顔つきに戻りました。
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2019年6月3日実施した左手の機能検査の成績92点でした。機能的には普通に生活可能で、後は筋肉をつける力らをつける(例えば握力をつける等・・・・)です。筋トレが目標と云う事です。
ケアプランに書いていた「戸塚駅まで歩いて行く」は「ジョギングしてゆく」にステージアップするようにしましょう。
美しく歩く為には①膝は曲げないでスット足を前に出す、出した足は爪先を先に出すのではなく、踵の着地を意識する。(転ばないためにも・・・)でした。ジョギングする為には膝をあげて爪先から着地して爪先で地面を蹴る事が肝要です。勿論転んだら元も子もありません。当面は正しい姿勢で早く歩く事に注力しましょう。



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