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「梅に鶯、桜に○×」神社彫刻の素晴らしさ!(西叶神社)

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東海道を戸塚宿までくだり、冨塚八幡宮前を東に折れると浦賀道に入ります。
我が家はこの分岐点に程近い所にあります。
浦賀道の終点は浦賀奉行所、その終点近くにあるのが「西叶神社」です。
 
私は浦賀に度々出かけますが、その度ごとに新しい発見があります。
西叶神社も再三参拝しますが、今回も新しい感動がありました。
 
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                                   (西叶神社、南から見上げる)
 
叶神社は平安時代末期、文覚上人が上総鹿野山に籠もります。
そこで、京都岩清水八幡宮のお告げを受けて、西叶神社を建立します。
祭神は八幡宮と同じ応神天皇、源氏の再興を願います。(1181年)
 
天保八年(1727年)火災に見舞われます。
西浦賀の親方衆(干鰯の回船問屋など)は焼失前の社殿を上回り、
更には対岸の東叶神社に勝る社殿を建立する事にしました。
そうして、天保13年(1732年)再建されたものが権現造りの現社殿でした。
 
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            (西叶神社の拝殿外陣の天井を埋める彫刻、此方は様々な龍の姿が描かれています)
 
元々、浦賀は山は高く、入江は深く、平地が少ないので、大きな神社は建てられません。
小さくても荘厳な神社を建立したいと思えば、彫刻などに力が入ります。
 
総建築費3000両、(米価で換算1.8億円。労賃で換算12億円)を要したと伝えられています。
そのうち社殿の内外装飾彫刻を受け持ったのが、安房千倉の後藤利兵衛橘義光、未だ二十代の若者でした。若い利兵衛は張り切って、魂魄を込めて鑿を振るった事でしょう。
請負代金は411両であったと伝えられます。
                           江戸彫刻については茂右衛門さんのブログに詳しい。
                               http://blogs.yahoo.co.jp/moemon13/20700563.html
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                        (本殿切妻部分はさながら彫刻の展示場)
 
多くの見学者も拝殿の彫刻を見て感心して帰ってしまいます。
私も何時もは同様でしたが、今回は拝殿から本殿に回り、建物の細部を見てみました。
本殿は切り妻です。沢山の妻飾りが彫刻されています。
私は、屋根上の千木、鰹魚木、反った屋根を飾る破、二手先の組み物、目線を上から下に下ろしてゆきました。
切り妻の平行垂木のその奥は日陰になっています。
そこで発見しました。
 
力士が蹲っているのでした。
大棟を担いで、太い梁に乗っています。
眼をむき出して、大屋根の重みに耐えています。
浦賀には大相撲も興行され、人気の雷電も寺の境内で力を見せ付けました。
 
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                           (本殿北側切妻で大棟を担ぐ力士像)
相撲は建御雷神(タケミカヅチノカミ)と建御名方神(タケミナカタノ カミ)との力較べに始まると言われます。
力士が文化史に出てきたのは鎌倉時代でしょう。
お寺の山門には金剛力士像が祀られ、境内には力士が灯篭などを支えて、闇を照らしました。
(天灯鬼。龍灯鬼/興福寺国宝)
 
江戸時代になると全国各地で神社仏閣が再建されました。
左甚五郎は全国各地で力士像を刻みました。
力士像は梁に乗って神社や本堂の屋根の重みを支えています。
でも、甚五郎のは何れも小像で、間斗束に代わるデザインものでした。
でも、西叶神社本殿の力士像は大きく、中々の力作で、名品であります。
 
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             (本殿南切妻で大棟を担ぐ力士像)
 
最初に北側で見つけました。ならば南側にも・・・・・、確かにありました。
右肩から左肩に代えて、
でも、割れ目が入っています。
痛みも気になります。
 
 
内陣を覗いてみました。
「花と鳥」の組み合わせが、格天井の一枚一枚に刻まれています。
見上げていると楽しくなります。
「梅に鶯」「笹に雀」「柳に燕」位なら誰でもしっているでしょうが・・・・・・
「撫子にヒバリ」「萩に鶉」などを見つけると、なるほど感心してしまいます。
ならば・・・・・桜には?・・・・三光鳥(山鵲)がセットされています。
利兵衛は毎日画帳を携帯し、スケッチを重ねて、それをこの天井彫刻に写したのでしょう。
花と鳥は日本の美意識「花鳥風月」によって育てられ、研ぎ澄まされてきたもの。
まさに、神社の天井を飾るには最適でしょう。
 
薄暗くて、写真は撮れませんでしたが、西叶神社のホームページを検索すれば30枚もの写真が確認できます。
外陣の彫刻は龍ばかりです。
明るいので良くわかりますが、傷んでいて、悲しい状態です。
平行垂木の天井板がもう踊ってしまっていて、暗い天井裏が透けて見えています。
200年前の浦賀は相州第二の都市、栄えていたのでしょうが、今の浦賀はマンションが目立つベットタウン。
頼みの浦賀ドックも操業していません。
マンション住人は氏子ではないでしょうから頼みになりません。
旦那衆はもう居ないのでしょう。
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                                (傷みの激しい拝殿外陣の天井)
 
折角の文化財が自分世代で傷んでしまうのは実に悲しいものがあります。
是非、力士像、そして内陣の格天井、見学されることをお薦めします。
 
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                                       (拝殿内陣の天井を飾る「花鳥図」彫刻)
 
 
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(上から 「桜に山鵲」「柿に百舌」「蕨と土筆に雉子」全部で60枚はあります)
叶神社公式ホームページ since 2009-10-07 / Copyright 2009 kanoujinja. All Rights Reserved.から転
 
 
 
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「水仙の花」の文化史

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三浦半島の先端、城ヶ島は水仙の名勝地です。
観音崎の周囲も水仙が野咲きしています。
城ヶ島と観音崎の間、金田湾に面した高台にも水仙が自生しています。
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(ペリー通りに咲いた水仙、向かいの土手にも咲いています。建物には廉価なランチレストランも営業しています)
 
国道212号線は別名ペリー通り、海岸段丘上の狭い道です。
台地の中腹にレストランが点在しています。
メニューはハワイ風のプレートランチが多いようです。
レストランの窓からは椰子の木が見えます。
海原にはサーファーの姿が見えます。
此処に居ると、裏オアフに来ているような気になります。
そして、道路端には水仙が咲いています。
水仙について、私の思いを綴らせて戴きます。
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                            (今が見頃の水仙の花/ペリー通りで)
 
正月の花と言えば先ず水仙でしょう。
玄関先に一輪、和室に一輪あれば、新春を寿ぐ気分になります。
良い香りが今年の福運を招いてくれるような気分にしてくれます。
 
長い戦乱の時代が終って、江戸時代が始まりました。
各地で茶会が開かれます。
茶会の記録が残されています。
誰かが調査したそうです。最も多く使われた茶花は「椿」、次いで「梅」、三番目が「水仙」だったそうです。
何れも、春の花、
茶会が冬に催される事も多かったのでしょうが、
一輪の花があるだけで、来るべき春を慶び、お茶席に同席できた幸いを感謝し、心を通わせる事ができます。
「水仙こそ日本の花だな!」と思うのですが・・・・・・・。
此れが意外な事に外来種なのです。
 
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                        (三浦海岸に自生している水仙、この季節そこらじゅうが水仙です)
 
万葉集をはじめ古今集・新古今集など勅撰集には水仙は一首も詠われていません。
枕草子にも源氏物語にも徒然草にも・・・・我国古典には水仙は登場しないのです。
桃山時代、本阿弥光悦も俵屋宋達も描いていません。
そんな水仙を描いてブームを起こしたのは江戸時代初頭の尾形光琳、尾形乾山兄弟。
襖絵に四季を描けば、冬の景色は雪中花(水仙)でありましたし、
茶室の軸にも、茶器にも、そして釘隠しなどの造作にも、水仙が描かれました。
 
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                  (昭和50年お正月郵便切手は桂離宮の釘隠しでした)
 
平和な時代が遣ってきた悦びと、「華」への期待と、雅な文化への憧れと・・・・・、
時代空気が水仙に現れたのでしょう。
 
 
水仙は彼岸花科の植物です、生命力が強く、球根で増えます。
球根は乾燥にも湿潤にも強いのです。
南欧原産の水仙が中国(唐)に、シルクロードを伝って渡ります。
唐人はこの花が気に入って、「水辺に咲く仙境の花」と言った意味で「水仙」と名付けます。
 
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          (海辺の水仙は背丈が低いのですが山に入ると背が伸びています)
 
その後、日本に伝来するチャンスは度々あったでしょう。
遣唐使に平清盛の日宋貿易、鎌倉時代の禅宗伝来・・・・・、でも日本人は水仙を持って帰りませんでした。
当時の時代空気や日本人の関心が水仙には向いていなかったのでしょう。
で・・・・・水仙は黒潮に乗って我国に漂着しました。
 
最近問題になっている、「海岸漂着ゴミ」と同じように、水仙の球根が波間に浮かんで、
我国海岸沿いに漂着して、活根しました。
 
観音崎も、下田の爪木崎も、福井の越前海岸も、兵庫の南淡町も、博多の能古島も、皆黒潮の洗う海岸です。
中国から日本に、1,000年の間に、人知れず漂着して、海岸に群生していたのです。
漁師などは水仙に気づいていたでしょう。
だから、水仙に花に係わる民話が残されています。
それ以上のものにはなりませんでした。
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         (磯に咲いた水仙、もう海は光って春の気配?)
 
中世の間見向かれなかった水仙が、近世になると脚光を浴びたのでした。
茶の湯に欠かせない花のポジションを獲得して・・・・、様々な処に登場します。
 
古伊万里の更に、壷に水仙が描かれました。
欧州の貴族は古伊万里を尊重しました。
白地の磁器に青絵で描かれた水仙は、馴染みの花でした。
里帰りでありました。
水仙ブームは外貨獲得する、「文化産業」になりました。
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                               (古伊万里水仙壷)
 
水仙の名所と言えば瑞泉寺でありましょう。
夢想石開基のお寺ですが、何時ごろから境内に水仙が植えられたか・・・・・、
お寺さんに訊く事が最善でありましょう。
でも、大胆に想像する所は、矢張り江戸時代初頭だと想像します。
 
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(瑞泉寺、立地は紅葉の名所だったから。山門右手にお茶室)
 
何故なら、瑞泉寺の建立は1327年。
夢想石は京都から招かれて、鎌倉で最も紅葉の美しく、幕府から遠い現在地を選びました。
 
江戸時代に入って、平和な時代になると、全国の神社仏閣の再建が進みます。
荒れていた瑞泉寺も再建の気運に乗った事でしょう。
元々寒椿が自生していました。
侘助(白椿)を植え、梅を植え、水仙も植え、「お茶室三種の花」を本堂前庭に揃えました。
 
水戸光圀はじめ文人、著名人が寺に登って、黄梅や冬桜も植えて帰りました。
「瑞泉寺茶室サロン」が盛行して、その中で水仙が植えられたと思います。
 
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(瑞泉寺茶室、筆者は瑞泉寺が江戸時代の文化サロンの役割を果たし、茶花用に水仙が植えられたと思います)
 
生えているのは昔ながらの「日本水仙」、
この名こそ水仙の生命力を示しているものです。
 
外来種でありながら、瞬時のうちに日本古来の伝統種のように錯覚させているのです。
尾形光琳らが発した水仙ブームの成果でありましょう。
歴史は浅いものの、日本文化に深く根ざした「花」です。
 
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(野薊に水仙、木枯らしにも負けないもの同士)
 
 
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大根を天日干する風景(三浦の砂浜で)

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冬至を過ぎたこの季節、全国各地に天日干し風景が広がります。
栃木や筑波山麓の干瓢を干す風景、大和三輪山の麓では素麺を干し、伊那谷では干し柿、
そして、三島や日向では大根の天日干し。
何れも、乾いた寒風と陽射しを利用して、食べ物をより美味しく、滋養分を増し、保存にも適して・・・・・・、
日本人の知恵でしょう。
 
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                      (舞岡公園の大根天日干し風景、我生家もこんな風でした)
 
 
私の生花でも大根の天日干しをしていました。
自家栽培した大根を約100本、吹きさらしに約20日間干すのでした。
我が家は横浜の戸塚、夜には霜が降り、凍りついてしまいます。
ですから夕暮れには納屋にしまい、朝方納屋から運び出して、吊るすのでした。
 
2本の大根の葉っぱの部分を結ぶと、「人」の字のようになります。
此れを屋敷森のモチノキに渡した丸太に干すのでした。
大根が重く、しかも抱きかかえるとその冷たさが堪えました。
指先に霜焼けや赤切れが出来てしまった、原因は大根干しにもあったと思います。
 
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                                      (横浜農家の大根天日干し風景)
 
干し上がった大根は半分くらいの太さになったでしょうか。
これを一斗樽二つに漬け込みます。
母は狛江の大寺「泉龍寺」のお嬢様でしたから、沢庵漬けの要領など知らなかった、想像します。
でも、誰から教わったか、1年分の沢庵を手際よく漬けていました。
干し上がった大根を丸く組みます。
米糠と塩を漬け込みます。
最後に蓋をして、沢庵石を載せれば出来上がりです。
春先には食卓に上って、一年中漬物には事欠かなくなりました。
 
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         (今日の主話題は三浦海岸砂浜の大根天日干し風景、向かいは房総半島鹿野山辺り)
 
一般に沢庵は江戸時代初頭、大徳寺の沢庵和尚が開発した・・・・言われます。
相当な人物で頑固者だったのでしょう。
紫衣事件(1627年、お坊さんに最高位の紫衣を下賜する権限が皇室にあるか、幕府にあるか争った事件)を引き起こします。
幕府にとっては厄介な人物に思えた筈ですが、逆に幕府のお見つけ役に任じられます。
江戸幕府草創期には、幕府が都合の良い人物で固めるのではなく、
辛口の人物、博識の人物を広く求めていたのでしょう。
まさに、沢庵和尚は時代の「漬物石」の役割を果たしたと言えましょう。
                    (沢庵は吉川栄治宮本武蔵のお師匠役として登場します)
でも、沢庵和尚が開発したというのは疑わしいと思います。
「沢庵漬け」は「蓄え漬け」が訛ったものと思います。
そして、沢庵和尚も推薦される滋養ある漬物だ・・・推奨されたのでしょう。
 
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     (大根二本を人の字形に結んで干すので、スカートの下からニョッと出た生足を想像させます)
 
平成になって、私は長銀の福岡支店に勤務していました。
宮崎の野崎漬物さんは古くからの取引先でしたが、もう融資も完済している先である事を知りました。
銀行の融資は冬場の「天日干し大根の仕入れ資金」「漬物工場の建築資金」だったのでした。
表向きは「どうしているのだろうか?」訊ねに、
本音は大根の天日干し風景を写真に撮りたいと、出かけました。
日向灘に面した農家の畑に、丸太組が出来ていて、4段、5段に大根を干している風景は見事でした。
夢中でシャッターを押しました。
 
当時既に、輸入物の沢庵漬けが出回りだし、国内生産地は価格競争を強いられていました。
塩分を抑えて甘くする事、ウコンで黄色く染める事、など売る為の工夫も強いられていたようです。
漬物会社にとっても転換期にあったのでしょう。 
 
私が沢庵漬けが好きなので、我が家の食卓には欠かせません。
でも、昔の味とは何処か違うな・・・・思います。
1本300円くらいで、天日干しの糠漬け沢庵が出来る筈ありませんから・・・・・。
輸入物、機械干しであるのは仕方ない事でしょう。
幸いに、舞岡公園ではボランタリーが沢庵を漬けていて、食べる機会にも恵まれています。
これは、これで美味しいのですが「マイルド」な味で、私の記憶とは少し違います。
 
時代は昔ながらの「手つくり沢庵」が見直されるようになってきました。
私も「地産地省」、少し高くても安心で美味しし沢庵を探しています。
 
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(三浦海岸砂浜での大根干し風景)
 
三浦半島先端の海水浴場、
広く長い砂浜に大根が干されています。
鉄パイプが組まれて、数千本の大根が天日干しされています。
潮風が大根を急速に乾かしているようです。
此処は我が家に較べれば遥かに温暖で、霜も氷も張りませんから、
大根は干したままで納屋にしまう必要もありません。
 
それに、我が家で扱っていた青首大根ではなく、三浦大根です。
太くて長くて、煮付ければ遥かに美味しい大根です。
沢庵漬けにしても美味しいでしょう。
 
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                         (傳兵衛農園は向かいのマンションの裏にある旧家でありました)
 
干しているのは「傳兵衛農園」さん、早速に買出しに向います。
浜辺から100メートル、立派な屋敷の奥、納屋を改造して工場にしておいでです。
ご夫婦、家族にフィリッピン人(?)を季節労働者として働かせているようです。
聞けば、天日干しは7日間、漬け込んでから10日間で出荷されるそうです。
原材料の大根の仕入れは2月まで、従って12月から2月までが沢庵漬けの事業期間だそうです。
目の前で栽培して、天日干しして、漬け込んで、美味しいに決まっているでしょう。
それに安心です。
1本400円、満足して買って帰りました。
でも、これは「大根の浅漬け」であって「沢庵漬け」ではありません。
「浅漬け」と思って食べれば充分満足です。
 
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(傳兵衛農園の漬物作業所風景、家族4人と外国人1人の家族工場で、完全手つくりでした。味は浅漬けでサッパリ、甘味がありました。でも甘味料は加えず天日により大根に甘味が出たものでした。少量の塩と米糠だけが使われていました)
 
ところで、よく「大根足」と言います。
私の小学校の同級生がフエリス女学院の進学しました。
同窓会で横浜山手での学校生活を楽しげに話してくれました。
山手駅から丘の上の学校に「大根坂」を登ってゆかなくてはならない・・・・・。
何故、大根坂かと言えば、坂がきついので自分の足が「大根」になってしまうからだと・・・・・。
 
女学生の生足が大根に比喩されるのは、昔も今も変わらないでしょう。
大根足は白くて、健康で、逞しい・・・そして美しい、
最近は綺麗な大根足を見ることも無くなって来ました。
黒いストッキングにソックスが邪魔しているのかもしれません。
でも、肝心なのは白い肌でしょう。
 
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 (三浦の大根収穫風景、畑の8割が大根、収穫後スイカ畑になる。左庚申塔の集まる神社の森)
 
横浜山の手に大根足を見に行きたいな?
思ったりしますが・・・・・、
不審な叔父さん、通報されると困るので、大根坂には行かないで、遠くから眺める事にしましょう。
 
「沢庵漬け」も「生足大根」も、遠い懐かしい記憶になってきたようです。
 
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 (三浦大根の首部分は苦味があるためでしょうか?下半分をカットして漬け込んでいるようです。遠方右端の煙  突は久里浜の火力発電所)
 
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水仙の比較文化(和水仙と黄色水仙)

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1960年、我国国論は二つに割れていました。
岸内閣が推進する「日米安保体制」は「米国軍事力の傘の下に入ること」。
その危うさを懸念して学生やジャーナリストは「反安保」を叫びました。
 
同年、米国のワシントン大学の学生4人のフォーククループ「THE BROTHERS FOUR 」がデビュー、「グリーンフィールズ」「7つの水仙」と立て続けにヒットを飛ばしました。
 
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                          (YAHOO画像検索ラッパ水仙から)
 
学生達の「60年安保体制」に対する危惧は、「ベトナム戦争反対運動」に引き継がれました。
誰しもがベトナム人民に同情し、米国の大義(社会主義国家の阻止)を疑いました。
とりわけ、細菌兵器等が開発され、美しいベトナムの農地が破壊汚染されている報道に心を痛めました。
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              (大船大長寺の竹林に捨てられて群生している日本水仙)
 
THE BROTHERS FOUR の「グりーンフィールズ」も「7つの水仙」も、
美しい自然、清い心を歌っただけの他愛ないものでした。
でも、美しいメロディー、男性コーラスのハーモニーや暖かさに私達は惹き付けられました。
今、米国はベトナムの緑を破壊している、人民を虐殺しているらしい、
しかし、THE BROTHERS FOUR は屹度ベトナム戦争に反対しているに違いない・・・・、思っていました。
米国の農園の緑や、キャンパスに咲いている「黄色水仙」を大切に思うのなら、
ベトナムの大地も大事にする筈だ・・・、そう想像していました。
 
でも、改めてその歌詞を読んでみると、それが間違いであったことに気付きます。
日本人の思考回路(類推)が米国人のそれと違っているのでした。
7つの水仙の歌詞は次の通りです。
         僕には、豪邸も、土地もない。
         手の中で皺をなす紙幣一枚さえ無い。
         けれど、千もの丘に降りそそぐ朝を、君に見せてあげられるよ。
         そして、くちづけと、七つの水仙の花をあげよう。
二番も三番も、同じような歌詞です。
「キッスと7つの水仙をあげよう・・・」の繰り返しでした。
7つとは7曜日の事、黄色水仙の花言葉は「私の愛に応えて下さい」です。
要するに、
『私には何の財産も無いけれど、大学のキャンパスに咲いている水仙を手折ってあげるよ、
キスもしてあげるよ・・・・だから貴方の愛を私が独り占めしますよ・・・・・』
そんな歌詞です。
ワシントン大学のキャンパスでノンポリの学生がギターを弾いて歌っていたのでしょう。
なんと身勝手な歌だろうか!思うのですし、
今時の女性なら「馬鹿にしないでよ、貴方のキスなどお断りよ!」
平手打ちでも食らいそうです。
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   (妙法寺墓地の土手に咲いた水仙)
 
 
最後に 「明日私は戦場に行く、恋人よ待っていて欲しい・・・・」
そんな歌詞はPPMなら挿入されていたでしょうが。
 
 
60年安保以降、日米の思い違いは10年間隔で表面化するようです。
思い違いの原因は日本側にあるようです。
フォークソングでも上記のようですし、まして政治課題になると、
米国に対する日本の過剰期待が目立っているように思います。
 
尖閣問題にしても、北方領土問題にしても、我国は「日米安保」の対象と期待していますが、
米国は中国やロシアに対して真剣に「日本擁護」を主張してくれるのか、疑問です。
「パワーポリティックス」の発想は日本人に不向きなようです。
 
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            (此方は妙法寺杉林に捨てられて、群生している日本水仙)
 
ところで、今日は水仙の話、大幅に本論からずれてしまいました。
「7つの水仙」で歌われた黄色水仙は欧米の水仙でした。
公園や西洋庭園に植えられて、「私は此処に咲いているのよ!見て!見て!」
自己主張の強い花です。
一方、シルクロードを経て、黒潮で渡ってきた日本水仙は、
梅の木の根元や、手水鉢の陰でひっそり咲く花です。
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  (遠くが妙法寺祖師堂、真下に日蓮上人像を見下ろす位置で自生している日本水仙)
 
でも、ひっそり咲く花ほど強靭な生命力を宿しているものです。
墓地でひっそり咲いていた水仙が何時しか埋め尽くしてしまって・・・・、
増えすぎた水仙の球根を引き抜いて捨てました。
捨てられても水仙は生命力が強いのです。
球根の底が地面に接してさえ居れば、根っこを生やして、何時しか株が増えて、
雑草を押しのけて、群生してしまいます。
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私の生家の墓地も同様でした。
鎌倉の寺を見て廻っても、そんな捨てられた水仙が群生しています。
水仙の花に囲まれて、無縁の石仏が佇んでいます。
無縁石仏は思っていることでしょう。
「水仙も私も同じ、縁が切れても此処に居られる、それだけで満足だ・・・・と」
 
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                      (孝玄童女のお墓、八重先の日本水仙が慰めています)
 
水仙の兄貴分は彼岸花、でも墓地には水仙の方がずっと平和です。
そして日本水仙の生命力にも似て、和の文化が自信を取り戻すよう祈念しています。
 
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  (葉山海前寺の無縁仏、何れも童子、童女の墓標であります)
 
 
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個体変異!「白いジョウビタキ」出現

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11月のある朝の事でした。
家内が言います。
庭から小鳥のさえずりが聞こえますよ、何でしょうかね?
私は耳を立てます。
「チッチ、ヒッヒ、チッチ」・・・・忙しい鳴き声が響いてきます。
 
 
庭先に降り立てば、棗(なつめ)の梢の先に、
雀を二周りもスマートにした鳥が止まって、
青空に向けて「チッチ、ヒッヒ、ヒッヒ」啼き続けています。
私は家内に説明します。
「あれは、ジョウビタキだよ。鳴き声が火打石の音に似ているから、
ジョウビタキと呼ばれるのだよ」
 
もう、棗の木は葉を落として、梢の先に夏目の実が残されています。
ジョウビタキは中国奥地、敦煌やチベット辺りから冬は日本に渡ってきます。
日本に渡ってくるなり「此処は私の縄張りよ!」主張すべく、
梢の先で宣言しているのでしょう。
 
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                                                ジョウビタキ/雌
日本は四季がはっきりしています。
日本文化は季節の移り変わりを表現する事をテーマにしています。
季節の変化は「花」や「葉」や「空気」や「空の色」、随所に現れますが、
最も鮮明なのは渡り鳥でしょう。
もう、冬鳥が勢揃いしています。
 
冬鳥はこの夏大陸で子供を産んで、晩秋に季節風に乗って日本にやってきます。
日本で成長して、初夏になればまた大陸に戻ります。
鶴や白鳥、大きな鳥が知られていますが、小さな鳥も沢山やってきます。
ジョウビタキは最も小さな体です。
そして、綺麗です。
それだけに、「今年も遥々良く帰ってきましたね!お疲れさん」
声を掛けてやりたくなります。
 
でも、名前が不運でした。
「ジョウビタキ」字数が長いので短歌にも俳句にも収まりが悪かったのです。
だから、日本人はこの小鳥が好きな筈なのですが、余り詠われませんでした。
せめて「火焚き」であれば、良かったのですが。
 
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                              (ジョウビタキ、雌)
 
そんな、ジョウビタキですが、この秋から舞岡公園では注目を集めています。
11月初めから「白いジョウビタキ」が登場したのです。
バードウオッチャーの間では「雪之丞・(雪の嬢)」と名前も頂戴しています。
 
この夏生まれた中で、突然変異で羽根が白い個体が出現したのでした。
でも、白いという事は「目立つ」と言う事、いつ天敵に殺されてしまうか心配です。
「早く見てみたい!」私はかねてから気にしてきました。
でも中々見つけられません。
広い里山公園です、小鳥も沢山居ます。
たった一羽の、小さな白いジョウビタキ、遇ったらそれこそ僥倖というものです。
 
                  
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                          もう、満開の蝋梅の花
 
私はカメラマンが写した「雪の嬢」を見せて貰います。
そして、自分に何時幸運が訪れるか楽しみにして、公園内を散歩してきました。
 
もう、舞岡公園は蝋梅も満開です。
梅の蕾も膨らんできています。
カワセミが梅の枝先に止まって、水面を見詰めています。
様々な冬鳥がやってきます。
メジロや四十雀が目立ちます。
 
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     (カワセミ、レンズを通して見ると、止まり木の冬至梅の蕾が膨らんでいました)
 
梅の皺がれた幹には小虫が潜んでいるのでしょう。
コゲラもやってきます。
私は動かずにジッと息を殺して枝先を見詰め続けます。
 
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                                                  (コゲラ)
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                               四十雀
 
来た!白い野鳥が。私にも待ちに待った幸運が訪れました。
わたしは、そっと左手を挙げます。
他のバードウォッチャーに「真打登場!」合図です。
 
 
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                              (白く個体変異したジョウビタキ、雌と思われます)
 
ジョウビタキは人間を全く警戒していません。
お食事に没頭しています。
大好物は小虫でしょうが、木の実も草の種も食べます。
私の目の前に来ても、チョンチョン動き回って、食べ物を探し続けています。
 
 
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                (私達の目の先で草の種や落ち葉の下の小虫を探す『雪の嬢』)
 
 
一人二人、五人六人、人だかりになりました。
枝先から地面に、地上から枝先に暫く動き回っていましたが、
流石に人だかりが気になったのか、竹薮の中に消えてしまいました。
ジョウビタキは危険が来たら、竹薮に逃げ込むことを知っているのでしょう。
バードウォッチャーは大満足です。
「雪の嬢は随分サービスが良い!」
好評です。
 
 
勿論、最初に見つけて合図をした私は感謝されます。
一寸した英雄気分、
こんな気持ちはガキ大将だった頃味わったかな?
思いながら、デジカメラの液晶を見詰めます。
マズマズ、雪の嬢は写っていました。
此れで、私もバードウォッチャーの間で、自慢話が出来ます。
 
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此方はアオジ、冬には山から里に下りてきます
 
 
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「ふくら雀」の愛らしさ

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いよいよ寒波襲来、今朝は一段と冷え込みました。
早速お出かけです。
行き先は舞岡の里山公園です。
野菜畑一面に霜が降りました。
霜柱も立っています。
寒くなるとお野菜は甘味が増してきます。
霜降り白菜に、霜降り葱、ホウレン草も美味しくなります。
冬は寒くなければ面白くありません。
でも、もう咲き出した菜の花は流石に応えているようで、クタンと頭を垂れてしまいました。
 
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                            (今朝の戸塚・舞岡の野菜畑)
 
雀が羽根を膨らませて、卵のような格好をしています。
膨らんでいるから「ふくら雀」、寒期の雀です。
羽根の下に暖かい空気を溜め込んで、寒さ防ぎをしています。
ただでさえ、小さくて丸っこい雀です、それが更にふっくらと丸くなっている姿は愛嬌満点です。
梢の先に雀の鈴なりです。
皆が揃っていれば気持ちの上でも暖かいのかもしれません。
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                               (着膨れ状態?を思わせる膨らんだ雀/舞岡の里山で)
 
「ふくら雀」は「福来(ら)すずめ」に繫がります。
だから、とっても縁起がよい。
お寺や神社の彫刻には「梟/ふくろう/福来(ろ)う」と共によく見受けられます。
紋所にもよく使われました。
竹に雀(松竹梅にふくら雀)もよく見かけます。
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                     (ふくら雀の紋)
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  (遊行寺中雀門の彫刻/梟、ふくら雀、竹・・・・みんな福を呼ぶもの)
 
お見合いのお嬢様の帯は「ふくら雀」に結んで・・・・・・、
可愛いし、品もあるし、縁起もよいし・・・・・、
八方上手く行きそうです。
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                    (帯結び/ふくら雀/嵯峨美のHPから転載)
 
私の叔父が木曽の中津川で住職をしていました。
本堂の裏山に竹薮があって、夕暮れには雀や鶫が餌場から戻ってきます。
竹薮が安全な”ねぐら”ですから。
それを地元の大人が「霞み網」で狩猟していました。
 
月が出て明るい方に網を張って、
逆の方から、一斉に竹を叩きながら追い出すのです。
愕いた雀は飛んで出て、霞み網に、それこそ一網打尽でした。
それから寺の囲炉裏端で、焼いて食べます。
 
蜂の子獲りも霞み網も、田舎の町の密かな楽しみだったのでしょう。
でも、子供心にも嫌だったので口にしませんでした。
叔父にも反感を持ったものでした。
 
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                                         (ふくら雀の集団)
 
晩年、叔父は脳卒中で倒れて、半身不随になってしまいました。
祖母は「リハビリをしっかり行えば完治する」厳しく叱っていたのでしたが・・・・。
祖母より早く逝ってしまいました。
 
私はサラリーマンになって、大阪支店勤務の時、伏見稲荷門前の「雀焼き」を戴きました。
食べられる所は少しだけ、大きな頭と骨がついています。
でも、味が濃いので愕きました。
「カリカリ・コリコリ」・・・・砂肝に小骨が付い歯ざわりです。
「赤蛙の焼き物に似ている・・・・、この味は癖になる」
感心したり、叔父を懐かしんだりしたものでした。
 
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                                 (我が庭にやって来る雀も丸真っこくなって・・・・)
 
お稲荷様はお米の豊穣を司る神様、お米を食べる雀を食べる事は是認されたのでしょう。
でも、無闇矢鱈と捕まえては、理にそぐいません。
霞み網みも禁止されましたし、雀焼きも見なくなりました。
雀の姿さえ見かけなくなってき他のですから致し方ありません。
「ふくら雀」を見かけなくなったら、日本は一気に落ち込んでゆくような、心配がしてきます。
 
 
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長谷観音で今年最後の紅葉狩

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もう、紅葉は見納めです。
今年も日本紅葉の精華京都には行けませんでしたが、相模や三河で随分楽しませてもらいました。
でも、私の性分は未練がましいので、「まだ見られる紅葉は何処かしら?」探し回ってしまいます。
 
寒くなって、葉を散らし前に染まるのが紅葉、暖かい処では未だ残っているかもしれません。
そんな、期待を込めて久し振りに鎌倉・長谷の長谷寺を上りました。
 
十字路を曲がって長谷寺参道に向かうと、正面に山門があって、
その下に真っ赤な提灯がぶら下がって・・・・、何時もの景色です。
山門の甍の向こうに、阿弥陀堂や観音堂の甍が重なって望めます。
 
諸堂の間に、紅葉が残っています。
「まだまだ、紅葉を残しておきましたから、是非登っておいでなさい!」
観音様が手招きしているような気がします。
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  (大仏前の道から折れて長谷観音の参道に入ると、何かホットします。右に同級生の浅羽屋、左が対せん閣)
 
長谷観音は何年か前から境内の整備をしてきました。
観音堂、経蔵の背後の紫陽花遊歩道をもっと延長する計画でした。
紫陽花は長谷寺の看板ですから、一層整備して参拝客を喜ばせたい・・・・そんな計画だったのでしょう。
その工事も終って、遊歩道は西側に広がりましたし、道幅も広くなったように思います。
庭師も、せっせと紫陽花を植えています。
来年は屹度様々な種の紫陽花を楽しませてくれる事でしょう。
奈良の長谷寺は「牡丹」が有名、ならば鎌倉は「紫陽花」なのかもしれません。
 
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                   (紫陽花道を広げたので、一層由比ガ浜が眺められるようになりました)
 
長谷寺の説明では、このお寺の開基は奈良の長谷寺と同じ徳道上人とされています。
で、ご本尊も同木から刻まれた十一面観音で・・・・・・。
でも、中世以前の記録も無く、当寺の梵鐘には新長谷寺と刻まれているので(1264年)、
中世に新築されたものでしょう。
鎌倉武士は奈良の都を模して、大仏様を鋳造し、長谷寺を勧請したのでしょう。
何も、無理して奈良の長谷寺と肩を並べる事は無意味とおもいますが。
鎌倉武士が平安時代、貴族や荘園の文化を否定し、
その前の時代(奈良時代)を理想とするのは自然なことでした。
 
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                    (観音堂への石段の踊り場から山門を見返す。山楓は黄色味を帯びた朱です)
 
長谷寺では観音堂と経蔵の間を整備して庭園にしました。
庭園の前に菩薩像を祀り、四方に守護神、四天王像を配置しました。
四天王像は東大寺の戒壇院の塑像のコピーです。
 
流石に現代でも奈良のコピーをするのは・・・・・、少し行き過ぎのような気がします。
主尊の菩薩像も如何にも海外で刻んだ風です。
 
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                                    (東大寺戒壇院をコピーした広目天像)
 
コピーと模倣は違って・・・・、形を学んでもスピリットはコピーでは写せないと思うのですが。
四天王像の前には久米正夫(鎌倉ペンクラブ初代会長)像も立っています。
久米氏は屹度このコピーに苦笑していられる事でしょう。
 
最近の長谷寺は、観光客におもねる姿勢が行き過ぎのように思うのですが・・・・。
でも、お寺がドンドン綺麗になってきている事は嬉しい事、
現に私も年間数回長谷寺に上ってきています。
 
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                        (新たに整備された石仏と四天王像、向こうが経蔵)
 
 
 
紅葉と一緒に紅梅白梅が咲いています。
更に冬桜も咲いています。
水仙は今が盛りです。
 
今は冬の盛り、此処暖かい長谷寺には秋と春がクロスオーバーしています。
秋を惜しみ、春を待ち望む人には、楽天地のような気がします。
だからこそ、癒しのお寺なのでしょう。
昔も今も・・・・。
 
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  (紅葉と冬桜)
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                                手前左は白梅、正面観音堂
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   (海に面した紅葉はマダマダ見られます。これも紫陽花道を伸ばしたから・・・・)
 
 
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「門松」と「国鱒」、共通する「いのち」

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西湖で、国鱒が発見されました。
天皇記念日の何よりも嬉しいプレゼントだったのでしょう、陛下から長いお言葉がありました。
陛下は「さかなくん」にはお会いした事は無いと想像します。
でも、旧知の間のように呼びかけられました。
「さかなくん」呼びかけられた天皇陛下には、お人柄、ユーモアを感じ、嬉しくなりました。
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                         (写真/時事通信)
 
陛下は12歳の頃大島正満博士の著書「少年科学物語」をお読みになり、国鱒の絶滅を危惧されたそうです。
国鱒が棲んでいた田沢湖を見下ろす位置に八幡平焼岳があります。
そう、八幡平を降りてくると、焼岳山麓に玉川温泉があります。
大変に強い硫黄臭がして、酸性の温泉が湧いています。
混浴の素晴らしい温泉です。
 
東北電力が開発して、その時に酸性水が田沢湖に流入、国鱒が絶滅したのだそうです。
工事は1940年、環境アセスメント法が成立したのは1997年ですから、
当時は乱暴な工事も許されたのかもしれません。
 
でも、絶滅の原因を作ったのは東北電力名のですから、
同社からコメントがあっても良いと思います。
「当社は環境を最優先します・・・・・・」現経営者が何処を向いているのか?気になります。
まして、生存が確認された西湖(山梨県)の対応も不明です。
国鱒乱獲の危険はないのでしょうか?
 
「国鱒という種が存続していた」、喜びは保存に向くのが自然です。
ところが、田沢湖が国鱒の里帰りを申し込んだ・・・・・、
西湖では地域起こしに湧いている・・・・、儲かりたい、さもしいニュースばかりです。
今、TVも新聞も不景気です。
報道関係者がお金に執着しているからでしょうか?
 
ここ数日、「鹿児島県出水市の鍋つるに「鳥インフルエンザ菌」が発見された・・・・」ニュースが流れています。
養鶏農家の対策ばかりが話題になっていますが、天然記念物の鶴の対策はニュースになっていません。
「種の保存」は容易くは無いのですから。
 
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            (筆者の町内での注連縄つくり、作品)
 
クリスマスも終ると町は一気に正月モードです。
私の町内でも「門松つくり」に「注連縄つくり」を行いました。
昨年は小学校の体育館を借りて行いましたが、作業を床に座って行うので寒い事、腰が痛くなること・・・・から「倉田コミュニティー」(横浜市施設)で実施しました。
120名のお客が、三交代で、子供は「門松」を大人は注連縄を作ります。
教えるのは老人会のおじいちゃん達でした。
勿論、外ではお餅つきをして、大いに盛り上がりました。(参加費200円。食事/お餅込)
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   (注連縄つくり風景、今年は体育館から地域施設に会場を移した。結果三交代制で120人の参加があった)
 
自分で我が家の門松を作る、注連縄を編む、その作業をするうちに「来年はよい年になってほしい」
気持ちがたかまります。
常緑の松も竹も歳神様がお好きな場所、寄代(よりしろ)です。
門松は中国伝来と聞きますが、中国では門にお札を貼るだけ、日本の門松は随分形が違います。
 
注連縄は「此処から中には不幸や災いが入らないように」結界です。
神社やお相撲さんの注連縄と同じ、我が家にも災難が来ない、厄除けに結界を張るものです。
美しい美俗は形だけではなく、心も伝えたいもの、
その為にも、「自分で作る」事が大事です。
 
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                  (門松つくり、材料を集める子供達。材料の準備は青少年指導員が行います)
 
門松、注連縄を飾リ終えると、舞岡公園ボラタリーから鏡餅も届きました。
三つ揃えて眺めていると、「国鱒」を思い出しました。
 
国鱒という「種」を大切にして、子々孫々伝えてゆく・・・・そんななかに日本の福があるのでしょう。
日本に歳神様が長く居座っていただいて、繁栄するようにするには、「いのち」「種」を大切にする事が重要です。
正月行事は総て歳神様を迎える行事です。
 
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        (我が家の戴き物の鏡餅と「ウサギの置物/私が理事長の「NPOとつかわかば」の作品)
 
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                            (我が家の門松、殆ど庭の植物で)
 
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水子地蔵を生んだ背景を考える(長谷観音で)

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長谷観音を詣でる度ごとに複雑な思いに沈むスポットがあります。
本堂に登る石段の踊り場に祀られている膨大な数のお地蔵さんです。
   (長谷寺の紅葉は次に書きました) http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44496521.html
 
真ん中に厨子が建っていて中には「水子地蔵尊」が祀られています。
池があって、その畔に奪衣婆がいます。
そして、水子地蔵尊を囲んで数え切れない数の地蔵像が奉じられています。
形は佐渡に目立つ子法師像、”こけし”の可愛らしさをお地蔵さんの姿に写した様な姿です。
古いお地蔵さんは一体一体石から刻まれています。ですから微妙に表情が違います。
でも、新しいお地蔵さんは型から作られています。
みんな同じ表情なので、並べられると異形です。
不気味な思いを抱きます。
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お地蔵さんの裏に廻るとお背中が見えます。
背中には施主のお名前、年齢、奉納年月がマジックインキで書かれています。
勿論、施主は女性ばかりです。
何処の人かは解りません。
 
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    (水子地蔵の背中には施主の名、年月、歳がマジックで書かれています)
 
東京の女性が人工中絶や流産などによって胎児を死亡させてしまった。
可哀想なことをしたし、雑誌やインターネットでは「水子の祟り」「水子の霊障」を聞いた事がある。
水子の霊を葬らなくてはなりません。
でも、何処に祀ったら良いか解らない。
今の生活圏から離れた場所で、美しいところ・・・・・・・、
長谷観音が良いのじゃないかしら・・・・・・・。
そんな次第で近年、長谷観音の水子地蔵が膨れているのでしょう。
最初は経蔵の西側に水子供養塔が建てられ、水子地蔵が祀られました。
其処が満員になり、今は踊り場、此処も満員になって新しい供養等の場所を探さなければならない事でしょう。
 
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                 (山桜の根元に祀られた水子地蔵尊、昭和50年の建立。長谷寺では古い方です)
 
 
ところで、水子(すいし/みずこ)とは本来戒名の下に付けられる位号の一つ、
「信士」「真女」「童子」「童女」などと並ぶものです。
大雑把に説明すれば、江戸時代は成人できる人は約半分、残りの半分の人はその前に亡くなってしまった。
2歳にも満たないで亡くなってしまえば、葬式も戒名も与えない。
でも、それではあんまり可哀想だ、お坊さんにお願いして、
生前の名前に「水子/すいし」と位号を与えたものでしょう。
 
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                        (長谷寺上段の水子供養群、大きな山桜の根元に並んでいます)
 
その「水子」が日本語の「水に流す」「水にする」に重ねて、「水子/みずこ」と呼ばれるようになったものでしょう。
水に流さなければ「形を成す」訳で、子供になる訳でした。
 
私の生家も、母の生家も、親戚の寺寺にも水子地蔵は祀られていません。(多分)
水子地蔵はごく最近(多分1970年代)発生したものです。
昭和23年優生保護法が出来、妊娠23週以前であって、母体を著しく傷めなければ人工中絶が認められました。
一方で医学の進歩は胎児であっても、心臓が鼓動を打って一個の人間である事を意識させました。
また、我国に欧米風の個人意識が浸透し、「命は地球より重い」と思うようになりました。
こうした、背景があって、お寺は新しいビジネスを発見しました。
 
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                              (長谷寺上段の水子供養塚からは由比ガ浜が眺められます)
 
 
 
考え出したのは秩父小鹿野町に住む「橋本徹馬」氏、
石屋と組んで、1万体もの地蔵を刻ませて、自身は紫雲山地蔵寺を建立(昭和46年1971年)、
水子供養を祀る事を世に訴えました。
地蔵とは菩薩の一人ですが、「地」は大地のこと、蔵とは「子宮」の事です。
水子供養の主尊にお地蔵様を祀る事は自然なことでした。
元々秩父は江戸に近い観音霊場、水子地蔵の信仰を醸成する土壌はあったのでしょう。
マスコミなどで扱われ話題になりました。
 
一方鎌倉の長谷寺は・・・・全国的に有名な観音霊場です。
広告するまでも無く、参拝客から「水子供養」を頼まれたのでしょう。
そこで、上記のような発展を遂げた次第です。
 
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   (長谷寺上段の水子塚、桜に紫陽花、紅葉に囲まれて、由比ガ浜を見下ろしています。此処に埋まりたい!   誰もが思うことでしょう)
 
地蔵信仰が日本に伝わったのは平安時代、浄土の対極として地獄が説明され、
そこで衆生を導くお地蔵様が信仰され始めました。
応仁の乱初め戦乱が続くと、地蔵信仰は一気に広がります。
特に「地蔵和讃」は人々の心を捉えます。
しかし、子供が薄命である事は日常茶飯事、特に祀る事は考えませんでした。
死んだら直に祖霊に戻るものと考えていました。
 
しかし、家制度が崩壊し、一方で自己意識が確立してくると、胎児の人格も成立してきます。
母親の社会的位置も重んじられてきます。
医学の進歩は「胎児の脳波や鼓動」までも見せてくれます。
 
そして、1970年代からは「水子地蔵」が出現します。
複雑な時代背景があって、人々が必死に生き抜こうとすると、新しい信仰が生まれます。
新しい信仰は新しい神や仏を創造するより、旧来の神仏に新しい役割を与えて生まれ変わらせます。
水子地蔵は我々世代が生んだ地蔵信仰でありましょう。
 
 
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       (長谷寺の奪衣婆の乳房は何故か色めいています。もっと垂れないと・・・・・)
 
 
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この世を楽しもう「江ノ島の庚申塔」

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私達夫婦は年末になると、この一年間廻った寺社を巡るようにしています。
特に意図したわけではありません。
すす払いに精を出す人、時には何時もは須弥壇の上の仏像が本堂の縁側に置かれたりしています。
そんな有様を見ていると、楽しいのです。
ああ、今年も終って、汚れを吹き払って、新しい歳を迎えるんだな・・・・・、感慨も深くなります。
過去を思えば執着も多く、煩悩の原因でしょう。
そんな汚れをすっきり洗い流して、新年を迎えられるのはあり難い事でしょう。
除夜の鐘も一年の汚れ、執着、煩悩を洗い流して、清々しく新年を迎える行事でしょう。
ならば、初詣もよし、でも「お礼詣で」も意味あるものでしょう。
この歳になると、お礼詣での方が相応しいような気がします。
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                                      (初詣の体制も出来た江ノ島神社)

江ノ島神社はもう門松も飾られ、沢山の提灯に新しい注連縄も張られ、初詣の受け入れ準備は終っていました。
片瀬海岸から橋を渡ると、青銅製の鳥居があります。
二本の柱が地面に接する辺り、波がデザインされ、その間に亀が彫られています。
その面白さに惹かれて観察すると、奉納されたのは文政4年(1821年)である事が判ります。
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    (鳥居の足元のデザイン/波に亀)
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で、感心したのは奉納した人、
左の柱には新吉原と浮き彫りされて、沢山の名前が印刻されています。
新吉原は明暦の大火(1657年)で吉原が全焼、浅草に新しく建築された遊郭街でした。
その新吉原の人達が江ノ島にも大挙進出して、参拝客にサービスしたのでしょう。
もう、一方の柱には「志ん生」と浮き彫りされ、沢山の名が印刻されています。
初代古今亭志し生は1806年、江戸落語を始めます。
沢山の名は寄席興行者の名前でしょう。
遊郭・寄席、となればもう一つが歌舞伎でしょう。
江ノ島は、「知らざあ言って聞かせやしょう」の名セリフでしられる弁天小僧菊之助で有名です。
河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画』に出てくる“白浪五人男”のひとりです。
江ノ島は江戸時代中期、文化文政時代には世界一の大都市「江戸」の芸能が集積していたのでしょう。
そんな江ノ島です。
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                  (青銅の鳥居を奉納したのは新吉原、と寄席の興行者)
 
 
庚申塔にもピカイチがあります。
場所は、江ノ島神社「奥の宮」から更に登って山頂に、此処から岩屋に向う細道が続きます。
二つ山を超えてその先、T字路の交差点にあります。
 
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                              (今日の主題、江ノ島岩屋道の庚申塔)

四角い角柱の四方に様々な形のお猿さんが刻まれています。
三体のお猿さんが一組で芸をしています。
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   (綱渡り芸を演じる神猿)

一面には3組のお猿さんが浮き彫りされています。
ですから一面9体、全部で36体かと思いきや、33体のお猿さんです。
どのお猿さんも烏帽子を被っています。
大道演芸の猿回しの姿です。
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             (梯子芸の神猿、この面のみ7体の神猿になっています)

でも、この姿は霊験新たかな「山王権現」の神猿であります。
一般に庚申塔には次の事実が刻まれています。
「誰が、何時、何のために庚申塔を奉納したか」
ところが、この塔にはその一つも刻まれていません。
せめて、「誰が」が判るかと、塔の表面を見詰め、触って見ますが、刻んでありません。
更に、庚申塔の三猿は一般に各々「眼・口・耳」をふさいで「見猿、言わ猿、聞か猿」と説明されています。
ところがこの岩屋道の塔のお猿さんは踊ったり、綱渡りしたり、梯子芸をしたりしています。(一組除く)
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                                (この三体で庚申塔である事が判断されます)
 
 
私には「庚申講、なんだそんなお説教がましい。お説教なんかは真っ平ごめんだ。
此処は有難いお弁天様のお膝の上だ。この世の極楽だ。江ノ島で人生を楽しまなければ・・・・、
野暮と言ったもの。」
そんな口上が聞こえてくるようです。
そんな次第で、お猿さんの芸だけを浮き彫りさせたのでしょう。
怖い神々も、有難い神猿も、全部腹の中に収めて、楽しんでしまう、江戸町人のパワーを感じます。
 
(他のブローがーが当庚申塔を江戸時代末期と書いている人が多いのですが、此れは妥当性を欠いていると思います。一般に庚申塔は江戸末期になるとツマラナイ字体だけのもになってしまいます。最初に書いた鳥居と略同じ文化文政時代と考えるのが妥当でしょう。)
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鎌倉で、蕎麦の楽しみ

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2006年だったと記憶しています。
最初に「チャングムの誓い」を見たのは。
今又、BS-TBSで見ています。
昨日は皇太后の病を命がけで救う場面でした。
何度見ても感心します。
日韓の文化が似ている事も痛感します。
 
その前半で、チャングムが始めて王様に食事を出す場面がありました。
蕎麦を使った「冷麺」でした。
「寒い時には冷たいものを食べる」と言った考え方です。
その時大根を添えて、「大根で蕎麦の毒を消します」と奏上していました。
蕎麦の害と言えばアレルギー症状でしょうか?
大根にそんな効用があるのかな?思いました。
日本でも蕎麦に大根おろしを添える所もあります。
でも蕎麦に添えるのは「刻み葱」と「生山葵」が普通でしょう。
こうした薬味には屹度字の如く「薬効」があるのでしょう。
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                                 (チャングム、TBSのHPから転載)
でも、冷麺と日本蕎麦は随分作り方が違いました。
「どっちが美味しいか?」その違いは別にして、
小麦をつなぎにしている日本蕎麦に比して、冷麺は澱粉をつなぎにしていました。
 
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                                   (倉田蕎麦打ち教室風景)
 
私の住む倉田町で人気が「蕎麦打ち教室」です。
横浜市の施設「倉田コミュニティー」で2回/月、先生を招いて蕎麦打ちをして、胃袋を喜ばせています。
私は同施設の運営委員長を仰せつかっています。
役得ではないのですが、偶々出かけると、蕎麦打ち教室があって、ご馳走になってしまいます。
何時も食べるばかりです。
たまには、漬物でも持参しないと、一層評判が悪くなりそうです。
 
大人が真剣に蕎麦打ちをしている姿を見詰めていると、「蕎麦は奥が深いな!」思います。
蕎麦はお茶席が始まりと聞きます。
蕎麦の香や甘さを楽しむ為に、余計なものは剥いで、純粋に蕎麦の味を引き立てようとしているように思います。
方や、冷麺は蕎麦の上に様々な味を加えて、複雑な味の組み合わせを楽しんでいるように思います。
「白菜の浅漬け」と「キムチ漬け」のような違いを感じます。
此れも、日韓の文化の違いかもしれません。
 
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  (倉田蕎麦打ち教室作品、二八蕎麦、北海道そば粉を使っています。町の蕎麦屋を凌ぐ美味しさです)
 
ところで、今年10月ミシュランのレストランガイドに横浜・鎌倉も加わりました。
蕎麦屋2店に一つ星がオンされました。
鎌倉では材木座の梵蔵さんが栄誉に預かりました。
鎌倉府内の蕎麦屋さんは多くて、約50店はあるでしょう。
その中で、何処が一番か?
喧々諤々となる事でしょう。
大仏次郎が「段葛 こ寿々」が一番・・・・、とでも言ったなら、鎌倉人は納得したかも知れません。
でもそんな事があったのなら、川端康成は「鎌倉宮の宮前」と言われるかもしれません。
収まる筈がありません。
それぞれに好きなお店があるのでしょう・・・・・。
でも、面白い事に「蒸篭」「ザル」といったところのお値段がどの店も1,000円弱で揃っているのです。
鎌倉府内はみんな中流を意識しているのでしょうか?
そして、多くが駅前から遠く、神社やお寺の門前近くにあります。
コンセプトは「参詣して、心安らいで、お庭や自然を楽しみながら、蕎麦も楽しむ」
そんな事でしょうか。
 
 
フランスは革命があった国、階級意識が強いのでしょう。
レストランもランク付けをする。
その影響か、銀行も社債もみんなランク付けをする。
格付けしないと収まらないのがアングロサクソンの文化かもしれません。
 
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(雑誌などで鎌倉山檑亭はよく紹介されています)
                           
我国でもインターネットで「鎌倉・蕎麦屋・評判」で調べれば、顧客ランク付けが為されています。
結果はミュシュランとは随分違っています。
口コミによるランキングと「伝統ある評価」とは自ずから違うのでしょう。
フランス人が「ミュシュランブックを片手に、梵蔵は何処ですか?」
訊ねられたら、私は違う店を紹介するかもしれません。
鎌倉人の「蕎麦屋コンセプト」に従って推薦したい気がします。
 
                            
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                               (檑亭の蒸篭蕎麦)
 
鎌倉山の「檑亭」(らいてい )の壁に「ぺ・ヨンジュン」が来た、と雑誌の切抜きが貼ってありました。
富士山に江ノ島、そして食事(蕎麦・石も)という事であれば「檑亭」も良いでしょう。
ちなみにぺ・ヨンジュンさんが
「檑亭の蕎麦は美味しかった!」と言ったかは不明です。
 
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                          (鎌倉浄明寺の竹庵)
 
 
口コミランキングで上位にあって、私も同感しているのが「浄明寺」にある「竹庵」です。
倉敷にありそうなナマコ壁の土蔵がお店ですから、目立ちます。
駐車場が広いので、鎌倉夫人がグループで来て、お喋りしています。
竹庵で感心する蹲(つくばい)があります。
 
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               (竹庵の内装は木版画を初め京都趣味です)
 
暖簾を潜って、店内に入ると正面に大きな丸い石があります。
形はお茶席の「棗/なつめ」です。
その上部がカットされていて、水を受けるよう窪みが出来ています。
水を張って生花を投げ入れてあります。
棗状の石の胴部に蝸牛(カタツムリ)が浮かし彫してあります。
右に大きな蝸牛、多分お父さんでしょう。
左に一回り小さな蝸牛、此方には渦状の貝の上にもう一つ小さな渦貝が乗っています。
此方は母子の蝸牛でしょう。
エプロンみたいでお洒落でもあります。
 
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(竹庵の看板「蝸牛の蹲」)
 
私は蹲のデザインに感心して、何処の誰の作品か女将に聞きます。
鎌倉の石屋三の作品か・・・と期待して。
女将は厨房に入って、板長に聞いて戻りました。
「この蹲はオーナーが京都で気に入って求めて帰ったものです。
残念ながら石長さんの品ではありません・・・・」
私は思います。
「ヤッパリ、良い作品は京都なんだな・・・・・」
石自体も、石工の技も京都は秀でています。
「でも・・・・・・、肝腎なのは蕎麦の味。蕎麦こそ鎌倉が勝っている・・・・・」
私は、竹庵の蕎麦をエンジョイします。
 
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今年の B級グルメで甲府のモツ煮が1番でした。
街道の蕎麦屋さんが蕎麦が茹で上がるまで、時間つぶしもあって出していたのが「モツ煮」でした。
此れが、サッパリした蕎麦にあうのです。
今度、竹庵の店主に提言したいと思います。
「蕎麦受けに、エスカルゴをお出ししたら良いんじゃない?」・・・・・と。
 
 
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カラスが好きです

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今年も大晦日、毎年毎年、一年が短く早く終ってしまうような気がします。
さて、今日のブログは何を書こうか・・・・、思ってぼんやり窓の外を見ます。
視線の先に、柿の実が見えます。
お隣の柿木ですが、一つも採りません。
総て、野鳥の餌にされています。
沢山の鳥が集まって騒がしい事です。
メジロも鶫も・・・仲良く食事中です。
でも、パッと散りました。
嫌われ者のカラスがやってきたのです。
カラスは言っているのでしょう。
「ここ数日、人間どもは生ゴミを出さない。仕方が無いから今朝は柿で我慢するか!」
 
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                             (柿の実を食べるカラス。鵜に較べれば可愛いものです)
 
今年は舞岡の里山公園の運営協議会で議論をした事がありました。
私が「外来動物、とりわけ台湾リス対策をしなくてはいけない!」提言した所、
別の町内会長から、「カラスの方が問題だ!当町内ではカラスの捕獲を進めている。」
私はこの発言を疑問視し、
「舞岡公園の生態系にカラスは位置している。
問題は台湾リスで、増えすぎて生態系を壊している。だから一定水準まで駆除する必要がある」
強い調子で発言したものですから、会場は白けてしまいました。
 
「生ゴミを出すのは人間で、カラスが悪い訳ではない。問題は人間のマナーだ!」
そう言われれば、町内会長は気分が悪かったでしょう。
まだまだ、私の発言が稚拙だった・・・・・、相手の立場を考えれば・・・・・。
お蔭で、台湾リス対策は私の仕事になってしまいました。
 
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                                (柏尾川中洲に集まって水浴びに興じるカラスの群れ)
 
ところで、柏尾川に行けば、カラスが集まっています。
川の中州に集まって、水浴びに夢中です。
アッチでもコッチでも、5羽、6羽も同時に水浴びをしています。
雫が四方に散って、光を反射して眩しいです。
「カラスの行水」のことわざはどうした事でしょうか?
カラスほど水浴びが好きな鳥は居ないのですが。
多分、カラスが水浴びしている姿を度々見るから・・・・・・、
「バシャ・バシャ」水浴びして、直ぐに一服してしまう。
でも、一息入れたら又「バシャ・バシャ」・・・・・、飽きずに水浴びしているのですが。
多分、カラスは清潔好きな鳥なのでしょう。
 
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    (水浴び10秒、バシャ・バシャ、1分も休む間もなく又飽きずに水浴びをしています)
 
隣の中洲には川鵜が集まっています。
水浴びに夢中なカラスを馬鹿にしているようです。
大きな羽根を広げて、陽を浴びています。
「どうだ!俺の方が立派だろう。」威張っているようです。
「カラスが鵜の黒さを笑う」
とは、カラスが川鵜を馬鹿にして言う言葉、
”自分のことは棚に上げて、他人の欠点をことさら取り立てて言う”・・・・人の常でしょう。
人は無意味な口論をしたがるものです。
川鵜は毎日水中を泳ぎまわっているから、水浴びする必要もありません。
両方真っ黒ですが、随分違います。
相手の立場になれば、口論しないで済みます。
 
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                     (ホンの10メートル下流でカラスの行水を眺めている川鵜)
川鵜の上流、中洲に白鷺が餌を漁っています。
コッチはせわしなく歩き回って、長い脚で水草をかき回しています。
愕いて出てくる川魚をゲットするのでしょう。
鵜の隣の中州が鷺のテリトリーか・・・・・、
ふと、死んだ親爺を思い出しました。
 
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                         (川鵜の上流が白鷺の餌場です)
 
「親孝行、と思えど、私は随分父親には振り回された人生でした。」
住職の父が学校を選択、カソリックの学校に通いました。
就職でも「長信銀が良い」と言うので・・・・、言いなりになりました。
さらに、父の事業を立て直して欲しい! 請われて銀行を退職しましたが・・・・・、
「最後の選択くらいは・・・・・・、フォローして欲しかった」
悔いが未だ残っています。
 
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(「鵜の目、鷹の目」と言われます。鵜の眼、気配は鷹と並び表現されます。宮本武蔵は川鵜に剣術に通じる「気」を感じていたのでしょう)
 
そんな、父は碁が好きでした。
囲碁は別の名を烏鷺(うろ)の争い」と言います。
柏尾川では鵜も鷺と棲み分けています。
父はあの世でも、囲碁仲間を集めて、楽しんでいる事でしょう。
いずれ、心の整理をして実父の墓参りもしなくてはいけない・・・・・、思うのですが。
未だ暫く、私は「山の古巣で啼いているカラス」です。
 
 
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             (川鵜、遠くの建物は武田薬品の研究所。)
 
 
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鎮守の元旦祭(子之八幡社)

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大晦日、紅白歌合戦も大詰めになりますと、私は出かける支度を始めます。
倉田(正しくは豊田村)の鎮守、子之八幡社の元旦祭が始まるのです。
私は氏神様の世話人の一人ですが、町内会長でもあるので、何かと”役”があるのです。
地域に育てていただいたのだから、ご恩にお応えしなくては・・・・・そう思って今年も出かけます。
 
お隣の蔵田寺の除夜の鐘が鳴り渡ります。
2010年お寺では、奥様が亡くなり、次いでご住職が後を追われて、山門不幸が続いてしまいました。
お子様がいませんでしたが、無事若い夫婦が後を継がれました。
何度かお経も聞きましたが、中々のものです。
子供が生まれれば子之八幡社、親が逝けば蔵田寺、それが倉田の慣習です。
 
底冷えはしても無風で、天上では明星が輝いています。
良い年になりそうな期待がします。
 
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                          (1月1日、0時30分、子之八幡社は一般道まで長蛇の参拝者の列)
 
戸塚区倉田町は戦前、鎌倉郡豊田村でありました。
歴史のある一帯です。
沢山の社が祭られていました。
明治維新があって、神社は伊勢神宮を頂点にした「社格」が作られます。
子之神社と八幡神社が合祀され「子之八幡社」が出来ます。
そして、「村社」とランクされました。
しかし、終戦を迎え、GHQの指導もあって、社格制度は廃止されます。
”問題はこのときにあった”、私は想像しています。
子之八幡社は相応の山や田圃を有していました。
名前は「倉田の入会地」
神社を建て直す為の材木、屋根を葺き替える萱、薪炭を供給する山・・・・。
それらが一気に剥ぎ取られ、社と鳥居しか残されなかった。
一気に子之八幡社は貧乏になってしまいました。
 
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                               (江ノ島神社 中津宮の社殿蛙股を飾るウサギ)
 
今又、子之八幡社は新しい危機を迎えています。
村の世話役も数が少なくなってきています。
氏子組織も消え始め、神社を運営する人が育っていないのです。
神社は様々な慣習やしきたりがあって、不文律で運営されてきています。
でも、現運営世代もl年齢になってきました。
肝腎の次の時代に背負う人が育っていないのです。
「無縁社会」は神社の存立基盤そのものを蝕んできています。
 
子之八幡社の危機は別にして・・・・。
12時、社から、一般道まで参拝者の長い行列が出来ました。
今年は吉年になって欲しい、願う人が多いのです。
勿論、私もその一人です。
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                           (1月1日11時の参拝者の列)
 
 
 
1月1日、世話人や関係者の集合時間は8時、元旦祭の始まりは10時です。
地域の顔は揃っています。
さながら、倉田の賀詞交換会です。
今年は、当一地方選挙、顔ぶれも揃いました。
私は、地域代表として、玉串奉奠、鏡割り、祝辞を述べます。
「うまし故郷の倉田が豊で、平安に、次世代も・・・・・」述べます。
冷静に考えてみると、石井宮司の祝詞とおんなじこと・・・・・。
なんだか訳のわからないお経より、ストレートな祝詞の方が気に入ってしまいます。
 
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                                  (鏡割り、筆者は左端、宮司の右は総代)
 
11時過ぎ、元旦祭は終了、私は此れで失礼しました。
例年の事、三渓園のお正月を楽しむ予定です。
でも、大半の氏子の方々は此れからが力仕事です。
準備から納会まで、神社の運営は沢山の人の協力が必須です。
 
テントを閉まって、納会をして・・・・・。
今年も、力を合わせて子之八幡社を守り立てましょう。
地縁社会を守る為に・・・・・・・。
 
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   (奥三河、釣月禅寺山門の蛙股を飾るウサギ。跳ねているウサギが魅力的)
 
 
 追記:今年も宜しくお願いします。
 
 
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お筝は楽しいのよ!(増渕陽子氏演奏会/三溪園)

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私は毎年、元旦の午後に三溪園に足を運びます。
三溪園では正月三日は「三溪園のお正月」をプラン、私達市民を歓迎してくれます。
1日が筝曲の演奏、
2日が庖丁式、『御幣の鯉』と今年は興禅寺雅楽会の演奏が聞けます。
そして3日は、“バロック・フルートで楽しむバッハ親子”が楽しめます。
特別に料金はかからないし、何をおいても鶴翔閣・原三溪さんの本宅には入れるのです。
 
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           (三溪園は門松ではなくて「池松」で歳神を迎えてくれます。池面に塔がゆくら・ゆくら)
 
原三溪は絹織物の輸出、横浜銀行の創立など事業を成功させます。
そして、明治35年(1902)に鶴翔閣(旧原家住宅)を建築します。
更に三溪園の造成に着手します。
事業家として成功を不動にした三渓でした。
これからは、文化人としての顔をみせます。
自らも画業に精励すると共に、横山大観、下村観山などの創作活動のために自宅に滞在させます。
音楽家、作家、勿論政治家など、各界のリーダーが此処鶴翔閣の玄関を跨いだのでした。
 
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 (三溪園鶴翔閣の全景、上空から見れば鶴が飛んでいるような形なのでこの名が付いています)
 
原家から三溪園を譲り受けた横浜市は平成10年(1998)から2年をかけて鶴翔閣の改修に乗り出します。
そして、修復を終えて創建当初の姿に復元しました。
で・・・・・・、鶴翔閣の一般利用を開始します。
結婚式の披露宴会場に、コンベンションに、広間を、客室を、家族室を・・・・、ご利用下さい。
15千円/4時間、からです・・・・・。
そして、入場料は500円に値上げします・・・・・。
原三溪さんの太っ腹に較べれば、横浜市は市民のふところ、みみっちいのは致し方ないでしょう。
そんな、後ろめたさがあるからでしょうか?
お正月は少しサービス致します。
 
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                  (鶴翔閣庭園入り口は未だ紅葉の残映がありました)
 
今年の筝曲は増渕陽子さん「ゆくら・ゆくら」と案内されていました。
私は全くの門外漢、何の事か解りません。
でも便利なインターネットで調べれば、凡その事は解りますし、YOU-TUBEで同氏の演奏も聞けます。
増渕陽子氏の夫は増渕任一朗氏、尺八の演奏者であり作曲の才能もおありです。
そこで、故郷下野(栃木)の万葉集を素材に、夫に作曲を依頼したのでした。
楽曲の題名が「ゆくらゆくら」・・・。
 
万葉集3272は長歌・相聞歌です。
思い人の消息が解らない、旅に出ても、空を見て嘆くばかりで・・・思い乱れるばかりです・・・・・。
そんな心のさまを「ゆくらゆくら」と表現しました。
今の言葉なら「メロメロ」でしょうが・・・・それでは美しさにも雅にも欠けます。
メロメロでは暫くすれば冷えてしまう懸念があります。
「ゆくらゆくら」では、恋わずらいは強く長く・・・・・でそのまま息が絶えてしまうかも知れません。
 
下野の一途な女性の恋心が、「お筝」と「歌」と、そして「万葉の言の葉」と・・・・、
三重奏で切なく訴えてきます。
 
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           (左端増渕陽子氏 右端増渕任一朗氏 真ん中はお母様?)
 
鎌倉でNPO法人を営み筝曲の普及に努めておいでです。
演奏会の最後は「年の初めの例とて、終りなき世のめでたさを・・・・・」合唱して、
飛び入りで「さくらさくら」を演奏させて・・・・
「お筝は楽しいのよ・・・・」仰られて演奏会は終わりました。
 
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                      (細部まで美しい琴、演奏しているのは増渕陽子氏)
 
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   (楽室棟の窓、この部屋は大広間の控え室の位置。名からすれば楽団の演奏に、応接室に使われ   ていたのでしょう)
 
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                           (奥が原三渓の書斎、手前右端に広間の縁側が見える)
 
 

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春を待つこころ(三渓園臥龍梅と良寛)

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良寛さんには「春を待つこころ」を歌ったものが多いようです。
越後国上山の冬は長く厳しい。
年老いた良寛さんには一際応えたでしょう。
でも、「寒さが応えるなあ!」とぼやかずに、
「春が来たなら何をして遊ぼうかな・・・」
春を待つ心を歌われています。
  
  なにとなく心さやぎていねられず あしたは春のはじめと思へば
 
  国上山雪ふみわけて来しかども 若菜摘むべく身はなりにけり
 
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                                      (三渓園の臥龍梅、咲き始めました。

私達夫婦は「三渓園のお正月」で筝曲の演奏を楽しみ、お庭に出ました。
もう、園内は「春を待つ」気配に満ちてきています。
子供が枯れ葉の下から「蕗の薹」が芽吹いていないか探しています。
私は梅園の奥に向います。
”今年の「臥龍梅」はどうかな?”
気になっているのです。
 
老いた白梅がまるで臥した龍のように見えるから、「臥龍梅」の名を頂戴したのでしょう。
でも、歳を重ねて勢いがありません。
年々痩せ衰え、花数も少なくなってきているのです。
 
でも、一昨年、梅の頭上を覆っていた雑木を伐採しました。
太陽の陽射しが老いた梅に精気を戻して居ると期待されます。
 
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                                (臥龍梅の足許を埋め尽くしている水仙)
 
臥龍梅の根元は水仙が群生しています。
冬枯れの木々の中で、此処だけは鮮やかな緑です。
水仙はもう咲き始めており、香しい匂いを辺り一面に漂わせています。
でも、まだ臥龍梅の蕾は固いのです。
肝腎の蕾の数は・・・・、余り増えていないようです。
一度衰えてしまった樹勢が回復するには時間がかかるのでしょう。
先ず、根が張って、幹が太り始めなくてはならないのでしょう。
 
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                                    (水仙の背にあるのは痩せ細った臥龍梅の幹)
 
家内が私の頭上を指さします。
臥した幹から太い枝が出て、何度か枝分かれして、細い梢の先です。
沢山の花を咲かせているのです。
花の向こうには三重塔の垂木が見えます。
 
臥龍梅を覆っていた雑木が伐採されて、この山陰に薄日が指して、
陽を受けた梢だけが早くに咲き出したのでしょう。
花数も此処だけは多いようです。
 
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                                   (臥龍梅は日当たりの良い梢の先に咲き始めました)
 
「臥龍爺さん、良かったね。元気も戻って・・・・・」
呟きます。
そう思って、改めて水仙を見れば此方も勢いを増しているように思えます。
 
春は先ず陽の光から・・・・・・感じられます。
陽の光は水仙にも老いた梅にも精気を回復させているようです。
 
水仙と臥龍梅が囁きあっているようです。
「良かったね、頭の上の木を伐ってくれて・・・・・」
私達はふと思い出します。
臥龍梅は良寛さんのようです。
さすれば水仙は貞心尼さんでしょう。
 
1827年秋、良寛さんを貞心尼は初訪します。
良寛さんは70歳、貞心尼は30歳でした。
 
  自から 冬の日数の 暮れ行けば
      待つともなきに 春は来にけり   貞心尼
 
  天が下に 満つる玉より 黄金より
     春の初めの 君が音信(おとづれ)  良寛
 
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                   (臥龍梅の向かいは横笛庵、垣根の前に紅梅が咲き始めていました)


二人はこころを「春を待つ」気持ちに代えて通わせます。
しかし、春は過ぎてしまうのも早いもでした。
良寛さんは1830年、大腸がんを発症してしまいます。
 
仏様が良寛さんに
 「ご苦労さん、介護役を遣わしますよ」・・・・と派遣したかのようです。
貞心尼は良寛さんの介護、とりわけ下の世話は大変な事だったでしょう。
1831年良寛さん(74歳)を看取ります。
 
人も、植物も春を待つ気持ちに変わりは無いことでしょう。
臥龍梅が香しい花を咲かせるように、良寛さんは歌を遺して下さいました。
 
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                                         (今が見頃、寒木瓜の花)
 
 
私はこのブログを書きながら、YOU・TUBEで「春よ来い」を聞いています。
シツエーションは違いますが、「春を待つ気持ち」は昔も今も少しも違いないと思います。
いい歌です。
 
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                       (海では波間が輝いて春が早く、水仙も盛りを超えようとしています)
 
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                                          (三渓園の椿の小道)
 
 
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蕎麦団子の甘さ(鎌倉山露庵)

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鎌倉の町には意外な事に甘味店が多いのです。
歩き疲れた人が甘味を欲するからでしょうか、
それとも、鎌倉の人は喫茶にお抹茶や密豆を戴くからでしょうか?
私達夫婦も息抜きに甘味店に入ることがあります。
 
鎌倉山の 「檑亭(らいてい )」に葛きりでも戴こう・・・・・、ということで寄りました。
門で女将さんに伺います。
「今日は、露庵は営業していますか?」
「ええ、今の時間は貸しきり状態ですよ、蕎麦団子がお奨めですよ!」
笑顔で答えて戴きます。
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       (露庵には観音堂の横を過ぎて、仁王像の間を通る露地で繫がっています)
 
露庵は檑亭庭園の最も南側にあります。
露地を塞ぐようにして茂っていた薄も刈られて、サッパリしています。
でも、観音堂のあたりは枯れ尾花状態です。
 
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             (甘味所、露庵全景、お汁粉の幟が誘ってくれます)
 
檑亭の建物は私に住む戸塚の豪士「猪熊邸」を移築したもの。
菅原通斉氏が鎌倉山開発の事務所として使用しました。
その後、大分の好事家が購入し、鎌倉の奥座敷として、メセナ活動の拠点として活用したようです。
 
檑亭庭園には様々な文化財が点在しています。
観音堂は斑鳩の夢殿を模したもの、
露地で迎えてくれる仁王像も大分豊後の両子寺の仁王像に酷似しています。
園内の竹林に置かれた羅漢像も豊後の香がします。
豊後は石仏でも最も優れた土地柄、
石仏が最も美しく見える環境を用意してくれています。
度々は豊後に行けない私たちです。
山桜が咲いたから、筍が生えたから、山百合が咲いたかしら、彼岸花が咲いたかしら、紅葉が綺麗だろうから・・・・、などと言いながら石仏に誘われて檑亭を訪れます。
 
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観音堂の裏に露庵があります。
女将さんの言われるとおり、無人客で私達夫婦を待ってくれていました。
お薦め通り蕎麦団子を注文します。
「どんなお味のお団子かしら・・・・・?」
「屹度、みたらし団子の、もち米に代わってそば粉を丸めてあるだろう・・・」想像します。
私は蕎麦がきが好物、蕎麦団子にも期待が膨らみます。
 
果たして、蕎麦団子は・・・・・・、団子の上に小豆餡がドサッと乗っていました。
蕎麦の香は・・・・・小豆のそれに負けてしまっています。
蕎麦の甘味は・・・・アンコの甘さに隠れてしまいました。
でも、小豆餡は自体は美味しく出来ています。
お汁粉に、密豆に、甘味所はアンコが命、
そのアンコを蕎麦団子の上にかけたのでしょう。
私の期待が違っていただけ、最初から「小豆餡かけ蕎麦団子」と判っていたら、満足です。
 
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                                 (蕎麦団子 700円)
蕎麦団子を盛ったお皿を伺います。
「このお皿は檑亭の窯で焼いたものですね、昔はお皿も販売していたのでしたが・・・・もう窯に火は入っていないのでしょうね?」
応えてくれます。
「そうですね。もうお皿も残り少なくなってしまって・・・大事に使っているのですが・・・・。」
私は、飾られた大皿を見つけて伺います。
「この大皿は益子風ですが、どなたの作ですか?」
「前の鎌倉市長で2002年亡くなられた小島先生の作ですよ。勿論此処の窯で焼きました」
「では、この露庵の文字も・・・・?」
「そうですよ、小島先生は心を寄せていただきました・・・・」
 
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                                                   (小島寅雄作大皿)
 
鎌倉山をの北、谷戸の向こうの山際には星山窯がありました。
魯山人が全国から陶工を集めて、数寄三昧に焼かせました。
そして、眼も舌も楽しませてくれるよう、お食事がより美味しく楽しんでもらう為に「器」を用意しました。
屹度、本阿弥光悦の鷹ヶ峰を模したものでしょう。
 
檑亭窯も同じような意図を持っていたものでしょう。
ところが近年、全国資本の料理店がロードサイドに出店し、価格競争、資本競争が激化しました。
概して鎌倉リージョナリズム のお店は苦戦しています。
檑亭も二の丸「山椒洞」を失い、今は必死に本丸を支えています。
小島寅雄さんも「頑張れ檑亭!」
羅漢の眼から見詰めていられる事でしょう。
 
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   (露庵の額、小島寅雄書、同氏は全国良寛会会長でもあった。良寛さんの書を髣髴させます)
 
露庵の壁にはの観音像が掛けられています。
一つ谷隔てたお隣りに棟方志功さんがお住まいでした。(現美術館)
 
彫刻刀を握り締めて、お疲れになった息抜きに・・・・・
露地を歩いてこられて、甘味を楽しまれたことでしょう。
甘味に気力を回復、やおら立ち上がられて、再び板画に向われたのかもしれません。
 
昔の鎌倉には「文化を育てる環境」が恵まれていたのに、今は・・・・。
思いながら、羅漢さんの露地を通って、帰路につきました。
 
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 棟方志功画、天女が谷を越えて露庵に向っているような絵です。
 
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   (小島寅雄著、野仏巡礼から「天上大風」。小島氏は敬愛した良寛さん、そして棟方志功の画、双方から影     響を受けていたと想像します。)
 
 
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一年生と”懐かしい遊び”をしました

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今、TBSのニュースワイド「朝ズバ」で、若いアナウンサーが謝罪しています。
先の「中村富十郎さん訃報のニュースで、中村芝翫さんの映像を流してしまいました。お詫び申し上げます」
私も家内も音声のみ聞いて、映像は見ていないので気づきませんでした。
でも、淋しい思いに駆られてしまいました。
家内は言います。
「富十郎さんも芝翫さんも人間国宝、どちらとも解らなかったのでしょうかね?
みのもんたも、コメンテーターも・・・。」
 
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季節の素材 夢幻華亭
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富十郎さん(81歳)の訃報は1月3日に流れました。
芝翫さんの(82歳)「体調不調により、壽初春大歌舞伎を休みます」ニュースは4日に流れました。
で・・・・映像が間違えてしまった・・・・・。
歌舞伎ファンでなくても、”何たる不始末”唖然としたでしょう。
 
視聴者が気づいてクレームをしたのか、TBSのモニタースタッフが気づいたのか知りませんが・・・・、
TV関係者の程度が知れてしまいます。
先般の海老蔵さん事件の扱いも、TV関係者の歌舞伎えの理解や愛情の無さに憂いました。
大宅壮一はTVを「1億総白痴化させる」と批評しましたが、白痴化させるのはTV関係者でしょう。
TV自体はテクノロジー、映像に流す内容が問題なのですから。
 
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季節の素材 夢幻華亭
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さて、文化つながりでお話したい事があります。
私の町の東戸塚小学校でのお話です。
その小学一年生はお正月を迎えて「昔遊び」を教材にしています。
昨年鈴木校長が就任されると、私達町内会に依頼されてきました。
「小学1年生200名弱に昔遊びを教えてください・・・・・。12月9日に1回、そして1月19日にもう1回。生徒は昔遊びを覚えて、来春新1年生に教えてあげなくてはなりませんので・・・・・、冬休み中にも練習するでしょう。」
 
そんな訳で、私達は「昔遊び名人」と呼ばれて、ネームプレートを首から吊るして教えてあげました。
 
 
昔遊びは「メンコ遊び」「コマ回し」「おはじき遊び」「達磨落とし」「お手玉」「剣玉遊び」の6種です。
老人会や青少年指導員に協力してもらい、名人を揃えました。
元町の町内会長は青竹を切ってお手製の剣玉を用意してくれていました。
生徒達も若い先生も目を丸くして見詰めました。
 
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                                         (先ずは名人が教室で生徒にご挨拶)
 
体育館に200名弱の子供と5人の先生、そして名人20名が一緒に昔遊びに興じました。
中には「マイ・コマ」「マイ・剣玉」を持参する子が居て、1年生でも上手な子が居ます。
「名人!家のお爺ちゃんの方が上手だよ」なんて言われながら、教えて回りました。
 
愕いたのは子供の手が熱い事。
私の手が冷たい事。
教える為には手を取らねばなりません。
「名人の手は冷たいでしょう、君の手は暖かいね!」
出来立ての羽二重団子に触れるような気がします。
 
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                                  (体育館で名人がご挨拶、半日宜しくね!)
 
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                      (手前がおはじき教室、奥の右がお手玉教室、右はコマ回し)
 
昔遊び教室が終れば、教室に戻って給食を戴きます。
愕く事は沢山ありました。
先ずは「いただきます!」「ご馳走様!」のご挨拶。
両の手を合わせて、大声を出して、みんな一緒に行います。
私のような坊主崩れは「合掌/感謝」と理解しています。
子供達に尋ねました?
「なんで手を合わせて、”いただきます”をしたの?」
「みんな一緒にすれば、心が揃うでしょう・・・・」
子供達にとっては「ヨーイ・ドン」の感覚なのかもしれません。
それで良しでしょう。
 
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                       (両の掌を合わせて、ご馳走様でした!)
 
 
パンに牛乳、メインは背黒鰯の唐揚げでした。
とても小さな鰯ですから、頭から尻尾まで食べられます。
私のグループ6名全員が完食してシールを貼ってもらいます。
 
私はふと「金子みすず」を思い出しました。
      大漁
   朝焼け小焼けだ大漁だ
   オオバいわしの大漁だ
   浜は祭りのようだけど
   海の中では何万の
   いわしの弔いするだろう
 
みすずがこの教室に居たならば、次のフレーズが出来た事でしょう。
   オオバいわしはから揚げされた
   7つの子供が声を揃えて「いただきまーす」
   みんな笑顔で「ご馳走さんでした」
   それから、元気に飛び出して
   真っ赤なホッペでまた遊べ
 
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(今日の給食、メインはいわしの唐揚げ。名人は足りないでしょう!お代わりしなさい、女の子は世話焼きでした)
 
昔遊びも「文化」でしょう。
朝ズバは未だ放送しています。
任天堂の「3Dゲーム機売り出し」を報道しています。
3Dゲーム機は屹度売れるでしょう。
TVは「何を文化とするか」考えて欲しいものです。
勿論、3Dゲームも昔遊びも文化です。
でも、GNPや外貨獲得の効果があるか、お金になるか・・・、そこに基準があるのでは無いでしょうか?
TBSは猛省して欲しいものです。 
 
 
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鎌倉・露路の楽しみ

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「お正月、松飾が解かれない内に鎌倉の露路を歩いてみよう」
1月5日、戸塚区の賀詞交換会が終ると早々に鎌倉に向いました。
 
まだ、鎌倉市外は人混みです。
段葛は人波で歩けません。
道幅が八幡様に近くなるほど狭まっています。
遠近法で作られた道ですから、混雑は次第に激しくなります。
鎌倉市民は若宮大路や小町通りは歩きません。
露地裏の細道、「露路」を通ります。
露路は時々お寺にぶつかります。
でも、境内を通り抜ける事ができます。
お寺さんも承知していて、快く通してくれます。
境内はさながら「露路のオアシス」です。
 
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                                       (本覚寺も境内通り抜けのお寺さんです)
 
お正月、NHK3チャンネルで「美の壷」を見ていましたら、「鎌倉の露路」を映していました。
源頼朝は鎌倉の町つくりを「軍略上野要衝」にしたいと考え、三方を山、一方を海に、そして市街地は軍兵が駆け回らないように、露路にした・・・・・・」
TVは説明していました。異論も出ているようですが・・・。
 
  
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       (一遍上人絵巻、中央左上人は北条時頼の部下に尋問を受ける。中世の鎌倉の道がわかります)
 
今私達がいいなあ思う露路は明治以降に整備されたもので間違いないでしょう。
明治の鎌倉の写真を見ると若宮大路の周囲には茅葺の農家が点在して、田畑が続いています。
明治から大正にかけて、東京で成功したインテリが鎌倉に進出して、農地を買い別荘地や隠居屋敷を建てたりしました。
彼等の美意識や家屋観が「鎌倉の露路」を形成したと思われます。
農道は何時しか露路に変じました。
ですから、鎌倉の露路は東京の下谷・根津辺りと似ています。
 
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                                  (鎌倉大町の露路)
 
露路は京都の町(条里制)で育ちました。
町屋と町屋を繋ぐ細道でした。
狭い細道であっても、お隣同士を繋ぐ、交流する場でありました。
交流する為に、生垣で囲ったり、花木や花を自生させたり・・・・綺麗で清潔・簡素にしました。
自然と美しくなり、その美しさがお茶席への通り道にもなったものでしょう。
 
お茶席に通うような気持ちで、玄関を「行ってきます」・・・・・声をかけます。
門を出れば、生垣に”卯の花”が匂って、”カラタチ”が咲いて、今の季節なら山茶花にヒイラギが咲いています。
ご近所の瀟洒な門には門松が飾られて、横には南天の赤い実、頭上には梅の蕾も膨らんできています。
ご用を終えて我が家に戻れば玄関横に蹲があって、お隣は南天の赤い実が・・・・・、
幸福な気持ちになって「只今戻りました」・・・・・。
 
茶道の「おもてなしの心が」生活の全般に染み渡り、路地を大切にして、育て上げたと思います。
 
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                          (鎌倉雪ノ下にて、家全体にお茶の心を感じます)
 
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                            (表通り、茶器を多く扱う道具屋さん、店先は野葡萄)
            
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クネクネ曲がった露路の向こうから「お年始帰りのお嬢様が来ないかな・・・・・」
期待して歩きますが、さすがに今日は5日です。
もう、人達は自転車で忙しそうに通り過ぎてゆきます。
 
御成小で同級生だった臼井君も元気で働いています。(八雲神社前臼井理髪店)
家内は今日から”稽古はじめ”張り切って出かけてしまいました。
ゆっくり歩いているのは私一人のようです。
 
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                             (四つ眼の竹垣の美しい民家)
 
露路を歩きながら、振り返ってみると、ランドセルの私が向こうから走ってくるような気がしてきます。
 
明日は職場で尊敬していた「路地裏の経済学」著者竹内宏さんの思い出を書くことにしましょう。
露路は「人生を振り返させる」効果があるような気がします。
 
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                 (手前着付け屋さん、奥が大仏次郎宅、玄関先は柊でした)
 
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  露路には”通る人と家主との心の交流”の役があると思います。縁側に似た「おもてなし」の役割でしょう。
 
 
 
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今も有効な「路地裏の経済学」(竹内宏氏に感謝を込めて)

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「鎌倉の路地は美しい」それは住人に「お茶のこころがあるからだろう・・・」
そんな事を昨日書きました。
 
路地を振り返ると、急に懐かしさに襲われて、私の職場時代の役員「竹内宏」氏の思い出を書きたくなりました。
 
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2008年竹内氏は「エコノミストたちの栄光と挫折~路地裏の経済学 最終章」を上梓されました。
80冊目の発表で、最終章とありましたから、「破綻した長銀」との惜別であり、エコノミストとしてソロソロ筆を折ります・・・・、竹内宏ファンへの挨拶だったのでしょう。
 
私が竹内氏の最初の講話を聞いたのは1970年、長銀での研修会でありました。
長銀調査部長の講義でしたが、当時既に「パチンコの経済学」を発表してましたので、講義はパチンコを素材に「どのようにして産業を見るか」その視点を鍛えるような内容でありました。
「変った人だな!」思うと同時に「面白い人が沢山居る銀行だな」思いました。
 
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                         (竹内宏氏)
 
既に長銀調査部は竹内宏、日下公人、二人の看板をもって、高い評価を得ていました。
竹内氏は1980年頃「柔構造の日本経済」を発表されました。
日本経済は終身雇用や年功序列賃金に代表されるように「柔構造」になっている。
その柔軟性が不況になっても高い雇用を確保し、企業も従業員も只管忍耐する。
好況に転じれば一気に心を合わせて攻勢に転じる・・・・・そんな内容でした。
何のことは無い、江戸時代の心学の経営理念でした。
でも、竹内氏の筆は説得力がありました。
沢山の話題(事実)に裏打ちされていたからでした。
 
当時F.ヴォーゲルの「ジャパン アズ ナンバーワン」が話題になりました。
日本の国際競争力が世界一だとの論文でした。
私は確信しています。日本の高い競争力の理由は竹内氏の説く「柔構造」であると。
「柔構造の日本経済」を低い視線で説いたものが「路地裏の経済学」シリーズでした。
竹内氏の人懐っこい語り口、平易な言葉、そして卑近な話題は、
「路地裏の叔母さん達の話題」に通じる所がありました。
従って、竹内宏と言えば「路地裏・・・・・」になりました。
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                       (本郷の路地裏、樋口一葉の井戸。ここに集まって助け合った)
 
1990年代私は大阪支店の次長でした。
私の担当する企業は竹内宏ファンが沢山居ました。
「竹内が来阪するから食事会をしましょう・・・・」
山村硝子、神戸屋、ナカバヤシ、フットワーク・・・・・などなど10数人の社長さんが集まりました。
皆さん情報交換と、それ以上に独特なものの見方、経済事象の見方にひかれていたものと思います。
又、竹内氏は稀に見る聞き上手で、実業家、実務家から生きた情報をゲットし、
それをエコノミストの手法に乗せて解析し、理論展開し、平易な言葉で表現しました。
 
そんな私に調査部から指示が来ました。
竹内が「鳥取県の経済風土記」、「スキーの経済学」を書く予定があるので、アテンドしろ・・・・そんな事でした。
当時の鳥取県知事は片山さん、商工部に命じて協力していただきました。
勿論、鳥取銀行や鳥取信金に依頼して鳥取県を代表する企業を紹介して貰いました。
で、私が予定した企業には往訪していただきましたが、突然に追加がありました。
弓ヶ浜絣の工房は竹内氏に逆に紹介していただきました。
 
皆生温泉では突然にお部屋から裸足で飛び出されました。
「何だ!」と思いきや「庭の錦鯉」を観に出たのでした。
「スキーの経済学」は直に上梓されました。(多くは奈良の企業を紹介しました)
でも、次は「錦鯉の経済学」だろうな、確信しましたが、何故か実現しませんでした。
パチンコの経済学の手法・視点は様々な事業を解きほぐしました。
 
「障子を開ければ、ガラス戸越しに低い堀の向こうに路地がみえる」
「路地は交際や対話の広場となり、また子供の遊び場にもなった」
「路地こそ、日本的なコミュニティーを支える重要な場であった」
そんな路地の真ん中に井戸があって、女将さんが集まって情報交換をします。
情報を寄せ集めると「生きた情報」が得られます。
また、情報のむこうに「何故?」「どうして?」「これからどうなるの?」
が見えてきます。
それは、中小企業が集まっても、中堅企業の社長さんが集まっても同じ事でした。
私のような営業の先兵が情報集めの手足になって働き、
調査部部員(何故か優秀な女性が多かった)が整理して、
最後は竹内氏が平易な言葉で書けば・・・・・・・「路地裏シリーズ」は続きました。
 
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         (路地から表通りに出ると混雑が、写真は蕎麦、蕨餅で有名な古すず)
 
長銀も興銀も「長期信用銀行法」という制度に守られていた銀行でした。
金融債を発行して一般銀行に買ってもらい、長期資金を融資する・・・・・、
そんな仕組みに長く依存する事はできない・・・・自覚は全行にありました。
倉科副頭取が部店長会議で「このままでは立ち行かなくなる・・・失職しても大丈夫なようにスキルを磨いておくように・・・・」言ったとか、私達はその通りだろう、思っていました。
 
で、「インベストバンク、やマーチャントバンキング銀行を目標にする」方針が出ました。
このあたりまでは竹内氏も日下氏も経営方針に係わっていられたとも居ます。
でも、日下氏がソフト化経済センターを設立し、竹内氏が長銀経済研究所に転じてしまうと、
距離が出てしまいました。
その辺りから長銀は振れてしまいます。
 
マッキンゼーが突然に登場し、経営方針が上位下達されました。
「マーチャントバンキング業務で長銀は世界のトップテンになる・・・、その為には各自スキルを磨け・・・・・・」
 
私は前述企業を始め沢山の企業に提案して社債を発行させていました。
社債の受託業務では件数ベースで興銀に追いついていました。(金額では遥かに及ばず)
ですから、フィービジネスにシフトする・・・・理解はしていましたし、若干の自信はありました。
でも一度も、提案が優れているから・・・引き受け能力があるから・・・・とは思っても居ませんでした。
何よりも、「取引先との信頼関係」が受託の用件でした。
 
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   (路地の出口には茶道具屋さんと洋カップ屋さんが相対で・・・)
 
 
ところが、バブルが襲ってきました。
我国企業はこぞって不動産投資に乗り出したのでした。
フィービジネスに麻薬が蔓延してきたのでした。
 
社債の受託で10百万円稼ぐのは大変でした。
けれども、海外の有名ホテルやゴルフ場を日本に持ってきて、企業に紹介し、
買って貰えば莫大なフィーが転がり込んできました。
不動産仲介だけしてれば良いのですが、事はそんなに簡単には終えません。
アレンジメント全般を受けおって、時には買手企業にバックファイナンスをする必要が出てきました。
長銀は銀行法によって大口融資には上限がありましたから、
一定金額(多分1000億)以上はリスクは取れませんでした。
でも、日本リースだライフだ・・・・・系列と目されるノンバンクがバックファイナンスをつけていました。
従ってオール長銀では不動産のアレンジメントをすればするほど、リスク融資が膨大になっていました。
 
竹内氏も日下氏もそんな背信行為は知る由もありません。
「え!EIEに長銀グループはそんなに貸し込んでいたのか!」唖然とした事でしょう。
さらに、悪かった事は「EIEの再建は長銀の試金石である」判断して再建グループを派遣しました。
何時しか、EIEの全リスクを被るような状態になっていました。
バブルの筆頭EIEが新聞紙上に躍ると、マスコミの興味はメイン銀行長銀に移りました。
でも、バッドバンクのランキングでは未だ下位に数行ありました。
でも、何れも財閥系でした。
 
 
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   (大仏次郎邸は路地に面しています)
 
一方、バブル崩壊を経て我国は緊急経済対策を必要にしていました。
小泉首相が登場し、竹中平蔵氏を右腕にします。
改革の美名で米国市場万能論が席捲しました。
日本競争力の原点であった「柔構造」を放棄して、欧米基準に擦り寄ります。
 
企業は家族経営で終身雇用するより、臨時雇用を歓迎しました。
結果労働分配率は急激に悪化、会社は儲かっているものの、個人所得は減ってきました。
臨時雇用が増えて、リストラが日常化します。
 
長銀が経営方針を竹内氏を初めとして全行員に相談することなく、マッキンゼーに丸投げして、破綻しました。
日本株式会社は竹中平蔵氏に丸投げして、それ以降のていたらくは長銀のそれを見る思いがします。
 
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   (鎌倉雪ノ下の路地、板塀が増えてきたが釣鉢の花が嬉しい)
 
竹内氏は筆を折っても、路地裏の経済学には最終章は無いと思います。
今からでも遅くは無い、鎌倉の路地を歩いていると、日本人は未だ良い習慣「思いやり」を残しています。
思いやりは、隣近所、そして孫子の代にも・・・続くように考えれば、路地裏は復活するのではないでしょうか。
幸いな事に、豊田社長は臨時雇用から正社員を増やす方向にチェンジしました。
 
長年働いた技術者を首切りして・・・・・、
技術者は中国企業に再雇用されて、新商品の開発に辣腕を振るう・・・・・、
気がついたら、中国の方が技術的に先行していた・・・・・、
そんな愚行は日本人を不幸にしています。
「他人を大事にする」思いやりが文化にも企業にも必要でしょう。
それが「路地裏の経済学」であったとおもいます。
 
民主党には松下政経塾出身者が多いのです。
彼等は、今どうしているのでしょう。
菅さんは「最少不幸社会の実現」を標榜していますが、どうも「権力に妄執」しているようにしか見えません。
小沢問題はもう結構です。司法の判断を待てば良いのです。
こんなに庶民が苦しんでいるのに「小沢問題」を俎板に載せるのは、理解出来ません。
庶民は、自殺しなくて住む社会、希望が持てる日本を期待しています。
 
路地裏の手法によれば、「あの人何故自殺したの・・・、残されたご家族はどうなるの?」
そんな、「自殺する人の実態調査」が先ず必要です。
「自殺と家族関係の相関」「自殺と収入」「自殺と社会的地位」「自殺と精神症状」など、分析が必要でしょう。
何の手順も追わないで、口先だけでは困ります。
 
松下政経塾出身者は松下幸之助の初心を忘れて、権力に眼が眩んでいるのではないか?
心配です。
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   鎌倉大町の路地
 
 
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7草粥の悦び

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1月6日は小寒、そして7日は7草です。
我が家の朝食も7草粥でしたが、お餅が一つ入ります。
若菜は、大根の葉と蕪の菜です。
ペットのウサギさんのお食事を裾分けしてもらいました。
 
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      (我が家のウサギさん、お爺さんで殆ど寝ています。孔雀鳩が世話焼きしています)
 
家内が言います。
「今日は舞岡公園の新年顔合わせでしょう。7草粥が出るでしょうから・・・・、朝も昼もお粥で精気がでますね!」
私は答えます。
「舞岡公園の7草粥はお餅が入らないから、腹持ちしない。終ったら何か食べないと・・・・」
我が家の「餅入り」が独特なだけです。
鏡開きでは当然鏡餅を割って、戴きます。
 
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            (舞岡公園、中心の古谷戸の里。手前が落ち葉のプール。向こうは種籾を干しています)
 
舞岡公園には子供達が沢山居ます。
みんな、マイ茶碗、マイ箸を持参です。
母屋の釜戸には火が入って、大釜でお粥を煮ています。
食べられるのは12時から、
それまでの間は、庭で羽根つき、竹とんぼ、竹馬・・・・・昔遊びです。
でも、一番の人気は「落ち葉のプール」
子供達は掻き集めた落ち葉に「ザブン」頭から突っ込んで、落ち葉を掛け合って大喜びです。
 
そのうち泣き出した子が居ます。
若いお母さんが手を取って尋ねます。
「どうしたの?」
「時計が無くなったの・・・・・」
見れば、手首にかけていた時計が落ち葉の中に埋もれてしまったようです・・・・・・。
 
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                                        (7草粥は釜戸で作ってくれます)
ボランタリーの叔母さんが優しく話しています。
「落ち葉のプールは明日片づけます。その時屹度見つけてあげますから、お名前を教えてね・・・・」
そうです、落ち葉は子供を遊ばせたら、今度は堆肥になるのです。
 
「7草粥ができました。皆さん並んでくださいね!」
声がかかって、みんなが古谷戸の母屋に集まります。
 
ボランタリーの炊き出し係りが説明します。
「7草とは、セリ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ・・・・・、みんな舞岡の棚田から採取しました。
一方スズナ、スズシロは舞岡の畑で作ったものです。」
 
何のことは無い、全部此処舞岡公園に自生している若菜です。
大根と蕪だけはお野菜用をウロ抜いたものです。
 
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  (此方はホトケノザ(仏の座)。多分、冬越しの間が仏像の台座に似ているから。背丈の高い草が生える前に群   生しています)
 
 
7草粥がわが国で一般化したのは平安時代、
枕草子にも出てきます。
中国では正月7日、出世栄達を願って7草を粥に入れて食べました。(人日の祝い)
それが平安貴族は「五穀豊穣・無病息災」の願いに替えました。
如何にも日本らしい変換です。
 
旧暦1月7日は新暦(今年は)の2月9日、田圃には若草が芽生え始めます。
そこで、その若草を摘んで、もち米を炊いたお粥に入れて生命力を体内に取り込んだのでしょう。
それから、田起こしして、苗代を作って、種籾を撒く・・・・・、
7草の若菜を食べるのは予祝行為だったのでしょう。
 
私は今日、朝昼ダブルで若菜の精気を体に取り込みました。
脳梗塞にも癌にも・・・・ならないで済むかな・・・・・血糖値も下がるかな・・・・・若菜の精気で・・・・。
 
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   (此方はハコベに似たオオイヌノフグリ。健気で生命力に満ちています)
 
棚田を見れば未だ氷が張っています。
バードウォッチングの仲間が、大きなカメラを担いで歩いています。
私は尋ねます。
「今年は未だ鴫を見ていませんが、渡ってきていますか?」
しわがれ声で答えてくれます。
「ああ、今日は未だだが昨日は見たよ。田鴫も青鴫も来ているよ・・・・・」
応えます。
「ああ、そうですか。それは良かった」
 
棚田には鴫が棲んでいて欲しいのです。
 
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  (日陰の田圃は薄氷が溶けないで居ました)  
 
 
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