1箇月過ぎるのは早いモノで、来週は7月です。私はデーサービスの献立ボードに添える絵を描いていますので、7月の絵に差し替えなくてはなりません。6月の絵を納入したら、すぐ7月の絵の構想に入ります。7月と云えば七夕です。7月の祭り絵に七夕にしようと決めました。次は何処の七夕祭りにするか?考えました。全国各地に七夕祭りが開催されますが。その大半が商店街の販促行事で、順風美俗とも評される七夕祭りは思い当りませんでした。
私の好きな奈良で七夕祭りが無いか?思い浮べました。私は学生時代佐紀路のお屋敷に逗留した事がありました。古墳の脇を下れば秋篠川で平城小学校の生徒が笹竹を担いで登校していました。暇な私は秋篠川に釣り糸を垂れました。するとなんと金魚が釣れまあした。あの金魚は下流の郡山の金魚が川に逃げたのか?佐紀盾列古墳群のお濠で自生している金魚が秋篠川にも流れ込んでいたのか?不明ですが、七夕の笹に赤い短冊が結ばれたように見えました。私の面倒を見てくれた人が教えてくれました。『此処を佐紀と呼ぶのは「お妃」の生家が多かったからですよ』不退寺(、平城天皇御所跡在原業平が開基したと伝わる在原業平)があるのも納得しました。
そんな次第で秋篠川の土手を七夕の笹飾りを担いで通る童を描こうと思いました。
処が肝心の神社も七夕祭りもありません。「業平神社」でも在って七夕が在れば良いのですが・・・・。
七夕に相応しそうな神社を想い起しました。
先ず思いついたのは葛城の一言主神社です。
2年前吉野山に観桜旅行をした2日目持統天武陵の近くのペンションに宿泊して真っ直ぐ一言主神社に上りました。竹林が在って、境内には乳銀杏と呼ばれる樹齢千年の巨木があって、神社自体は雄略天皇が葛城の豪族と狩猟を競ったものの負けたので敬意を払って創立された神社と云う事でした。伝説自体が大和朝廷創立の経緯を示唆するモノのようです。
此れは葛城古道の北端にある当麻寺です。葛城山の山麓に建つ2基の三重塔が美しいしのです。写真の左側(南側)に棚機神社があります。
当麻寺の北西には二上山があります。二上山は雄岳と雌岳が並んでいます。先史時代からの石切り場で雄岳には大津の皇子が雌岳には后の天の山辺皇女(智天皇皇女)が眠っています。夕陽の名所で写真の夕陽の下が竹内街道で、折口信夫先生の「死者の書」は大津の皇子の霊が覚醒する場面に始まります。
私達は葛城古道を北に進みました万葉仮名では読めない地名が連続していました。昼食は当麻寺でとったのでしたが。七夕という集落がありました。流石にこの字は「たなばた」と読めたのですが。事実は「棚機」が正解で。当麻寺の南脇に棚機神社が在るのだそうです。
ネットで調べると葛城市も棚機神社をHPに載せてPRしているようです。
これが棚機神社の七夕飾りです。写真出典葛城市のHPhttp://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,10440,53,214,html
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