私は庭に金魚池の他に睡蓮鉢を2つ置いています。金魚とメダカを飼育(飼育と云うより放置)しています。睡蓮鉢は水を替えるのも面倒なので布袋葵を浮かべています。
此れが布袋葵の花です。ホームセンターではウォーターヒヤシンスの名で商われています。水質浄化植物であり、水生動物の揺り籠にもなります。
花屋では布袋葵と云っても解らなければウォーターヒヤシンスと云えば直ぐに判ります何でこの水草を布袋葵と云ったのか?それは植物の葉っぱを観ればすぐわかります。この水草は水面上に浮かぶため葉っぱの付け根に浮き袋を持っていて浮き袋がまるで布袋尊のお腹の様に膨らんでいるのです。そして葉っぱ自体が葵の様な形をしているのです。布袋葵の生命力は物凄く一株から一夏に8つも子株を増やします。四方八方に子株を増やして行くのです。ですから我家の睡蓮鉢でさえ子株が収容できないくらいに増えます。そして晩秋にはその根っこに産み付けられたメダカや金魚が増えています。そればかりではありません。蜻蛉の幼虫(ヤゴ)も確認できます。
要するに布袋葵は水生動物のベッドか揺り籠のような役割を果たすのです。加えて真夏には涼やかな花が咲きます。水質汚染が深刻なベトナムや深圳(中国)に行くと河川や池の前面に布袋葵が自生しているのを確認出来ます。
私がカメラを向けると現地の人は「何でこんなつまらない花に感心しているのか?」怪訝です。
私は確信を持って布袋葵は汚染されたリン・窒素特に重金属等を除去する能力がありそうだ確信しています。大和郡山城のお濠の水質汚染に現在は花蝶貝を使っていますが、布袋葵の方がリン・窒素を吸収する能力がありそうだと思います。真珠を取りたい思惑は解らない訳ではありませんが、お濠を埋める布袋葵も観てみたいものです。
奈良は溜池や御陵や金魚養殖で池アオコ防止ニーズが高いのです。郡山城のお濠では池蝶(イケチョウ)貝を飼育しています。アオコがリン・窒素と太陽光で繁殖する事を考えれば布袋葵の方が効果がありそうです。 「本薬師寺の発掘跡の窪地をどう活用するか?」重大問題であったと思います。誰でも思いつくのは平城宮跡や恭仁京跡の様に一面を芝生で覆って礎石だけを露地に晒す方法です。でも此処の行政は橿原市です。橿原考古学研究所の膝元です。知恵を絞った事でしょう。結果的には本薬師寺発掘跡はビオトープにしました。ビオトープとは(bio(命) + topos(場所)の意味です。昭和40年代初頭随分話題になりました。私の町内では小学校の「校内に小川を流して源氏蛍を育てるのだ」トライしました。日本中の水質が汚染してしまい生物多様性の危機迎えていると思ったのでした。ビオトープにして子供達に観察して貰うと同時に管理して貰おうと期待したのでしょう。でも万一子供がビオトープに落ちたらどうしよう?ビオトープの底は浅くして立てるようでなくてはなりません。そこで東京国立博物館法隆寺館前の様な浅い池にしてアオコ対策を兼ねて布袋葵を育てる事にしました。
布袋葵が育てばアオコは発生しないし沢山の昆虫が飼育されます。
此れは法隆寺館の前庭です。浅い池を配しています。アオコ対策の為に水質浄化施設が何処かに隠れて居る筈です。 此方は新築された奈良博物館の前庭です。水質浄化プラントを節約したのでアオコが発生しそうです。生物多様性は確認できるでしょうが蚊のような期待されない生物も生息しそうです。 私がビオトープの縁を歩くと無数の土蛙が足元から飛び出しました。土蛙が沢山いるという事は蛇も棲息している可能性が高いのです。何しろ向こうに見える三輪山は蛇の住む神山なのですから・・・・。蛇が出てきて驚いて畔から落下してビオトープに嵌ったら一大事です。慎重に歩きます。
此れが本薬師寺発掘跡の窪地をビオトープにした池です。鴨の夫婦が北帰行せずにこの楽園に居残りました。畔に点々とオレンジ色の絵の具が付いているように見えるのはタニシの卵です。
足許から鴨の夫婦が飛び出しました。鴨は鶴のように一生連れ添うのか知りません。でも今はシベリアに戻っていなくてはいけません。今も本薬師寺跡に居るという事は余程此処が気に入ったのでしょう。飛んで行った先を観ると東塔跡の方に巣があるのかもしれません。礎石や芯礎なら巣作りに格好でしょう。観察していると肉食性のカイツブリや鷺にも恰好な環境です。
カイツブリはいないかな?思って、見回しましたがいません。カイツブリは潜水が得意、ビオトープでは底に頭をぶつけてしまいそうです。
本薬師寺跡西側から東を観る右端が西塔跡で向こうの山脈が巻向山(三輪山はその右)になります。ソーメン工場も見えます。
本薬師寺跡東側から西を望む、正面が畝傍山でもう少し左に香久山があります。遠くに二上山も見えます。振り返れば耳成山も仰げます。これで布袋葵は二分咲きで盛りには水面も見えないほど繁茂します。左端水面が見えているのは蜻蛉の産卵のスペースでしょう。
でも今年も布袋葵は見事に咲き出したようです。でも布袋葵の最も見事な盛りは子供達の主役の地蔵盆の頃です。秋の彼岸まで咲いてくれます。私の体験では気温が5度を下ると枯れてしまいます。ですから底冷えのする奈良盆地では冬越しをするには小学校の室内に移して来春最低気温が15度になったらこのビオトープに戻すのでしょう。
布袋葵は未だ2分咲き地蔵盆の頃が見頃で秋の彼岸まで楽しめる事でしょう。 子供達はビオトープに布袋葵を育てながら自然を学びます。布袋葵を育てるように見えて本当は布袋葵に育てられているのでしょう。物理学の作用反作用の法則と同じです自然に優しく接して面倒見すれば自然は子供を優しい心根に育ててくれます。生きている時に生物を苛めれば死後に等活地獄に落ちると源信は説きました。
蛇を殺したり鳥を無益に殺して喰らえば、同じ仕打ちを地獄で受けると云うのです。
此れは源信の往生要集の等活地獄の絵生前生物にした惨い仕打ちは地獄で受けると絵解きされました。
人間が環境を汚染すれば希少生物が絶滅するだけでは無くて人間自体が絶滅するのでしょう。こうした考えや生き様こそ知恵と云うのでしょう。
私は一面に広がった布袋葵のブルーを観ながら本薬師寺発掘跡の窪地活用に知恵が詰まっていると痛感しました。
東側から西塔跡を観る写真の左が金堂跡でどちらにも礎石が触れます。
持統天皇も本薬師寺跡の保存も移転後の薬師寺も御満足な事でしょう。現在の薬師三尊像等はこの本薬師寺に祀られて天武天皇の病気回復を祈られたのか、それを西の京に移されたのか?それとも西の京の薬師寺建立に際し鋳造したのか?訊いてみたいモノです。
持統天皇は西の京に新築されたという事は藤原京から平城京への遷都を考えて居て元正天皇や聖武天皇は持統天皇のプランを実施したに過ぎないという事になえるでしょう。
何れにしても現在薬師寺は東塔を修復していることからその年代が判明すれば薬師寺の文化財のうち本薬師寺から移されたモノも判明する事でしょう。
もう少し長生きすればこの疑問も解かれそうです。
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