Quantcast
Channel: 仮想旅へ
Viewing all 2868 articles
Browse latest View live

瑞龍寺 烏蒭沙魔明王の猪

0
0
8/31日羽田空港は雨でしたが富山空港は快晴でした。レンタカーに乗るのに時間を要したので、真っ直ぐに高岡の和食店に向かいお腹も満ちたので、ご機嫌で瑞龍寺に向かいました。瑞龍寺は曹洞宗の大寺で度々映画のロケ地になっています。「ラスト侍」にも「蜩の記」にも使われました。日本人にとっては懐かしい厳格さと格調の高さを兼ね備えたお寺です。私達はボランタリーガイドに従って説明を訊きながら伽藍を一周しました。
運悪く山門を始め各所で修理を実施していましたので鞘堂に隠されて伽藍の全景は観られませんでした。
イメージ 1
瑞龍寺の総門を入った景色。山門等を解体修理中でした。山門は鞘堂が覆っていますが本来ならこんな景色です。言わんばかりにパネルが置かれていました。
イメージ 2
山門の東側阿形の仁王像
イメージ 3
これは中央にある仏殿で金堂に相当します。荘重な建物で二層は扇垂木初層は平行垂木で火頭(花頭とも書く)も柱の粽も禅宗様で統一されています。従って1600年代の建築でも国宝です
イメージ 4
此れは仏殿の内部空間、外から観た時は二階建ての様に見えましたが実際は内部に巨大な空間を作る為の意匠だったのです。此処でお経をあげれば響いて荘厳さが深まるでしょう。
イメージ 5
此れは一番奥の建物の法堂です。この須弥壇に前田家のお位牌が祀られ法要が営まれました。真っ直ぐ南に8丁ほどの位置に前田利長の墓があります。法堂の主尊は観音様でしたが右側に木造烏蒭沙魔明王が祀られ左側は法要の主催者、前田の殿様の憩う書院風の部屋がありました。
開基は前田家二代目の前田利長です。親友のI君は前田利長の生涯とは「加賀百万石を築き兼六園や北陸文化を残した名君」と熱く語ってくれました。南原幹雄著「百万石太平記」を愛読したようです。思い返せば昨秋関ヶ原に行った時にI君は熱心に武将の配置をチェックしていました。今次の「風の盆」ツアーも前田利長が盲目の男子は按摩に女子は歌舞音曲を習わせ、独立して生きてゆけるよう熱心であったお蔭で、工芸や踊りや歌いに習熟したのでしょう。ガイドは瑞龍寺を評して貧乏寺と云いました。本意は前田家の菩提寺なので格式が高く一般人はお墓も作れないし縁遠かったの意味のようです。一般人は高岡大仏や真宗に心を寄せていたようです。それでも「瑞龍寺」と云えば「烏蒭沙魔明王」だというのです。
イメージ 6
座禅堂の前の廊下に吊るされた木鐸。木鐸は木魚の前身で右手の小槌で叩いて合図にします。既に叩かれ過ぎてお腹の餡子が出てしまったようです。何処か富山の名物「腹黒」のように見えました。
座禅堂の横の廊下木像の烏蒭沙魔明王が祀られていました。此処は銅器の街ですから、本物を模して前仏の位置に烏蒭沙魔明王を祀ったようです。
イメージ 7
座禅堂の前(南)に置かれた銅製の烏蒭沙魔明王、銅器の街高岡の職人さんの技です。
イメージ 8
此れがつぶらな瞳の猪の子供鹿の子供は「バンビ」と呼んで可愛がりますが日本人は猪の子供は「うり坊」と呼んで可愛がりました。
でもこのウリ坊は法衣を着ていますからそこいらの猪の子供ではありません。
見れば明王の足許に可愛いい猪の子供がチョコンと明王の脚を見上げています。早く逃げないと踏みつぶされてしまいそうです。私達は昨年の7月遠近江の可睡斎に上って高村晴雲作の烏蒭沙魔明王を観ました。
右手に髑髏を持つ弩迫力の権現像でした。でもその足元に居たのは猪では無くて小象でした。高、特に有名な功徳は便所の清めです。
イメージ 9
此れは昨年拝観した袋井可睡斎の烏蒭沙魔明王です。高村光雲の一番弟子高村晴雲は小象に法衣を着せました。
 便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっています。可睡斎は秋葉様(火の神様)を祀っていますから、小象なのかもしれません、一方本来は烏枢沙摩明王は「ウリ坊」だったのでしょう。ウリ坊は人間が便をすると綺麗に掃除(食べて)してくれます。今でも、ブータンでは二階にトイレが在って1階に豚を飼っています。2階で用を足すと豚が掃除してくれる究極のエコなのです。そんな猪の習性を観察していたのでトイレの神様烏枢沙摩明王に従うのはウリ坊にしたのでしょう。
ウリ坊の事を考えて居たら今年の夏は「まくわ瓜」を食べて居ない事を思いだしました。というのはマクワ瓜の縞模様が子供の猪の模様にそっくりだからです。ANAホテルの朝食バイキングでメロンを食べました。「マクワ瓜」を食べて居ないなあ!思いながら。
 また、下の病気や婦人科の病気からも守護してくださいます。日本では出産にあたって血の穢れを取り除く守護神として祀られていたそうです。なかなか子宝に恵まれない人を救うともされます。更には相思相愛にまでご利益があるという説もあります。

高岡鋳物師の心意気

0
0
瑞龍寺門前の「八丁味噌ソフト」に心を残しながら「高岡大仏」に向かいました。瑞龍寺からは高岡駅や高岡城を挟んで東側に位置している大仏寺に祀られています。
富山では奈良東大寺盧舎那仏像、鎌倉高桐院尾の阿弥陀大仏と併せて日本三大大仏と自称していますが。奈良、鎌倉とに較べれば歴史、格とも違い過ぎるため、一般的には認められていません。唯地域住民の掛ける愛情や尊崇する気持ちは劣らないでしょう。
高岡市内は狭いうえに一方通行が多いので、大仏様裏の駐車場に着くのに苦労してしまいました。
イメージ 1
此れが高岡大仏です。黄花コスモスが咲き誇っていました。
1900年(明治33)に高岡は大火で焼失します。大仏寺も焼け落ちてしまったのでした。その混乱の中お寺では木造の阿弥陀如来の頭を抜き取り避難しました。寄木造りでしたから混乱も無く頭部を避難出来たのでしょう。
大仏様の台座は部屋になっていて善光寺の胎内巡りの様に内部を巡回する事が出来ます。壁には諸々の絵が展示され、大仏様の真下には避難した阿弥陀如来の頭部が祀られていました。
イメージ 2
此れが高岡大仏の前身である木造阿弥陀如来の頭部です。この真上に鋳物の現在の高岡大仏が鎮座しておいでです。
高岡大仏は1221年(承久3年)に源義勝によって二上山の山麓に丈六の木造大仏が建立されました。
受領源義勝は承久の変(公家VS武士の戦い) に組みさず越中の平和を求めたのでしょう。
1745年には坂下町の極楽寺住職であった等誉上人によって金色の木造大仏が再建されました。
この大仏も1821年(文政4年)に焼失してしまいました。1841年木造の大仏が再建されます。
その大仏も1900年の大火でお身体は焼失、辛うじて頭部だけが残ったのでした。
此処までは良くある話です。 焼失後鋳物の街高岡の職人が”銅製の丈六大仏様を鋳造しよう”動いたのでした。 その成果が目の前で観る銅製の阿弥陀如来です。何故金箔を貼らなかったのか、今からでも金箔して往年の荘厳を復活させないのか多少の疑問も残りますが。今は過疎化の進んだ高岡ですから無理な注文でしょう。竹下内閣時代地方創生を目的に1億円が配布されました。岐阜県では金塊を買って鍾乳洞の中に展示しておいたところ盗まれてしまった、あの時です。富山県では高岡大仏に金箔すれば良かったのに、思うのです。
流石に日本一の銅器の産地です。奈良や鎌倉の大仏に較べれば大きさも歴史も比較になりません。でも鎌倉の大仏を”美男におわす、夏木立かな” 歌った与謝野晶子に「日本一美しいお顔だ」呟かせました。
お顔が日本一かどうか?人に依り意見は様々でしょうが、地域への愛情は勝っているように確信します。
高岡大仏の台座の下は、納骨堂かと思えば上記の木造仏の頭部や様々な展示が為されていました。
”われもまた見守られたる  その一人” 伏木出身の芥川賞作家、堀田善衞。その堀田の詩が、台座回廊の右壁面に額装されていました。墨書による本人の自筆です。兎角難解な文章を書かれた堀田善衞でしたが、この詩の通りの素直な感情や親しみを抱いていられた事に感服しました。それは顔が優しい事と、丈六と云った適当な大きさにあったのでしょう。
イメージ 3
大仏の台座になっている部屋の壁に飾られている吉崎御坊の伝説を描いた図。蓮如上人の開いた吉崎御坊の霊験を伝える説話で、姑が近所で評判が良い嫁を妬んで脅かそうと、仁王面をつけて待ち伏せたもの仁王面が顔に張り付いてしまったのでした。上人がお経を唱えると仁王面は取れたモノの、無理して剥がそうとした時の顔面のお肉が削げ落ちてくっ付いていたので「肉付き面」と呼ばれています。

高岡の鋳物博物館

0
0
高岡大仏を拝観して、次は鋳物博物館に向かいました。鋳物と云えば、古墳時代の「銅剣」「銅鐸」「銅鏡」に始まります。何れも粘土で型枠を作って溶かした銅を型に流し入れて作ります。製造技法は2千年以上変わっていないのです。銅の魅力は第一に造形が自由であった事と、叩くと美しい音が響いたことでしょう。だから銅器は祭祀用具の主たるものになりました。
銅器の需要は今も昔も寺院ですから、京都の太秦に製造業者が集中しています。でも、技術の中核は京都よりも高岡のようです。金工で人間国宝と云えば高岡に集まっています。需要のある京都よりも田舎の高岡に居られるのは、彼等を放さない高岡の魅力や作家の故郷愛の賜物でしょう。
イメージ 1
此れは我家の仏壇です。仏具は高岡産の鋳物ばかりです。
イメージ 2
此れは私には身分不相応の香炉です、作者は人間国宝の蓮田修二郎氏、量産は高岡の工房です。デザインは干支です。
高岡鋳物資料館は金屋町にありました。千保川の堰堤に駐車場がありますので其処から入りましたが正面は伝統的な街並みが美しい「金屋町通り」です。私は京都の鋳物師が転居したモノとpばかり思っていましたが学芸員に確認すると難波の河内の鉄砲造り7人を前田利長公がこの場所に移住させた結果、鋳物の街が出来たのだそうです。どうも高岡は金沢以上に経済的にも文化的にも重要な役割を果たしたようです。
イメージ 3
金屋街通りに面した「高岡鋳物資料館。伝統的な街並みが美しく、自転車で回るのが一番のようです。
イメージ 4
巨大な足踏み式の「鞴/ふいご」銅を溶かす為に送風する装置
イメージ 5
粘土で作った型枠の中に銅を流し込む事によって鋳物を作ります。とても解りやすい様に展示されていました。
イメージ 6
高岡の鋳物は鋳物技術の他に銅の表面を処理する着色・彫金仕上げ等複数の職人の合作作業の成果です。大日如来は大沢師の作品です。
gの

心地良い高岡「土蔵街」

0
0
高岡鋳物資料館のあった「金屋通り」は美しい伝統的市街地であったし、喫茶店も観られたのでしたが、私達は写真で視た「土蔵街」も観たいと思い昨年ユネスコの文化資産に指定された「山車」の展示されている「山町筋」に向かいました。「観光駐車場」は重文の「菅野家住宅/織物屋」の前にありました。思惑通り駐車場の向い菅野家住宅の隣には「喫茶店/夜音茶屋」があります。此処で、40分間解散して、喫茶する人街並みを観察する人、自由行動にしました。私は体調を考え喫茶店の引き戸を開けました。高い天井奥の間が10畳の和室控の間も8畳と云った贅沢な空間です。二階は家具の展示場になっています。60代後半の親爺と娘が共同で喫茶店を営んでいます。私を観るなり親爺は「4時に閉店しますから・・・・・」云います。
イメージ 2
これは「土蔵の街資料館」の向いにあった喫茶店「夜音茶屋」隣りが築200年の重文「菅野家住宅です。熱中症寸前の私はこのお店に転がり込みました。
イメージ 3
ギター好きの親爺と鄙には稀な器量良しの娘がお店を切り守りしていました。この店は築120年で「たいした事は無い」と云っていましたが。高岡では明治以前の建物でないと自慢できないのでしょう。此処は明らかに商店の土間(店先)で。奥の座敷が喫茶室であり夜のコンサート会場になるようです。
イメージ 4
「夜音茶屋」の室内座敷にちゃぶ台で戴く珈琲も掻き氷も良いモノです。ちゃぶ台が沢山並んでいると「ちゃぶ台返し」をしたくなります。
イメージ 5
私が注文したのは「小倉白玉700円」抹茶最中は250円でリーズナブルな価格設定でした。資料やお土産品も多く良いお店です。

やる気のない親爺です。店名の謂れを訊けば「このお店は夜になるとギターの演奏会場に使うから」云います。言われてみれば床の間にギターが二つ無造作に立てかけてありました。屹度ギター好きが昂じて喫茶店に転業したのでしょう。夜この店に来れば親爺の60年代フォークソングが聴けるのでしょう「屹度吉田卓郎の「旅の宿から」を聴かされそうです。私が「福の神」で後から仲間が連れだって入って来ました。すると親爺は奥様を呼んで応援を頼みました。親子3人千客万来で嬉しそうです。一服して気を取り替えて陽射しの強い街中に出ました。電信柱を地中化して歩き易い街です。オリンピックを控えて「入谷」や「浅草」も電信柱を地中化してほしいモノです。
夜音茶屋で生き返って陽射しの街を散策しました。首都圏で云えば川越や佐原の街を歩いている様な感じです。歩き易いし、家並も美しいモノがあります。唯違うのは人影が少ない事です。同行のI君は「高岡は文化資産が沢山ある、PR不足だ」しきりに言っています。再訪する意欲が充実している気配です。
イメージ 1これは土蔵街に在る富山銀行山町支店風の強い街ですから耐火性を優先したのでしょう。
1914年(大正3年)に高岡共立銀行本店として建てられたもので、県内唯一の本格西洋建築だそうです。現在も銀行として使用されており、東京駅の設計にあたった辰野金吾の監修を受けて、清水組の田辺淳吉が設計したものといわれている、と説明して在りました。
ところで、
イメージ 6
此れは昨年ユネスコの文化遺産の指定を受けた山車を展示している「御車山会館」です。京風の千枚格子戸(千本格子とも云う)が雅です。
イメージ 7
街には薬局が目立ちます。山車の並んだ御車祭のポスターが目立ちました。京都(祇園)より2か月も早く行われるようです。

家持の越中愛(万葉歴史館)

0
0
高岡の市中で「鋳物資料館」「土蔵の街並」を観て次の目的は「万葉歴史館」です。
同名の文学館は明日香にも筑波(防人の歌)にもありますが、未だ観て居ないのが高岡でした。高岡は万葉集の編者大伴家持が初めて国司として赴任した国だったのです。名門大伴家の嫡男として期待された家持は29歳で越中国国司に任命されます。時の天皇は聖武帝で、家持は自ずと皇親派の筆頭になります。敵対したのは藤原氏とりわけ仲麻呂に疎まれます。結果、越中国司から大宰府更に印旛国司(鳥取県)を経て最期は陸奥国司として没します。万葉秀歌として指折りされる作品の多くが越中時代の作品なのでした。そんな家持の作品の理解の為には一度は「高岡万葉歴史館」を見学したいと思っていたのです。
イメージ 1
これが高岡万葉歴史館のパンフです。表紙の絵は平山郁夫氏の「高燿る藤原京の大殿」図私の学生時代院展に発表され話題になった大作です。
イメージ 2
この日は幸いに「家持が観た薬草」をテーマに展示してありました。富山の薬は有名ですが私達は”江戸時代初期前田利長が薬業を奨励し高野聖等の伝統(お札を配る御師)が配置薬という独特な販売方法を産んだ”理解していましたが葛(内臓脂肪)や撫子(痛散湯)や桔梗(更年期障害や冷え症)等万葉の草花が薬草であることを解説していました。

家持にとって越中とはどんな意味が在ったのか?改めて整理します。
大伴家持は大伴旅人の長男で、生年は養老2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました
天平10年(738)に、初めて要職の内舎人(うどねり/天皇の雑役や警衛に当たる)に就任します。家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはの弟の書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしました。
 家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説があります。
家持が帰京した頃皇親派の橘諸兄は藤原仲麻呂との抗争に敗色濃厚になります。すると家持は天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国司に左遷されてしまいます。
家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。歌の数でも官吏としても越中は家持にとって最も充実した時代でありました。
越中時代の家持は官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として歌境を極めたと云えるでしょう。
私達が暗誦している家持の歌は大半が越中時代に歌われたモノです。
美しい田園深い人情、素朴で純情な越中の乙女が歌人家持を育んだと云えると確信するモノです。
私も長銀に勤めた最初の転勤先の札幌は子供3人に恵まれ、銀行マンとしてのスキルも磨かれた良い時代でした。
万葉歴史館の位置は越中国府の近く、二上山(ふたがみやま)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、北には奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望む位置にあります。多分この場所が家持の居宅のあった場所と推定されているのでしょう。また、西は雨晴海岸を経て能登への海路が開けています。
歴史館内でDVDで美しい風土を紹介しながら家持の歌を紹介していました。越中の風土を除いたら家持の歌は出来なかったであろうと確信しました。何故なら家持は桃や梅や堅香子の花に託して情愛を表現する他に術が無かったのですから・・・・。


絶景の雨晴し海岸

0
0
万葉歴史館を後に私達は海岸の景色で有名な雨晴海岸に向かいました。手前が白砂青松の海岸線、砕け散る波の向こうに冠雪した立山の景色は羽田空港ににもパネル(立山アルミ)もあります。富山県民自慢の絶景です。
イメージ 1
此れが雨晴海岸の絶景右側の絶壁は二上山の山脈でその北側に国府や家持の館がありました。この辺りは家持が愛した景色です。写真出典富山県観光ナビhttp://www.info-toyama.com/spot/21011/
駐車場から県道と線路(氷見線)を越えて海岸に出ます。岬に侵蝕洞窟があってその上に社が建っています。土地柄「熊野神社」かと思えば「義経神社」と案内されていまそいた。神社の案内には吉野から羽黒修験に身を変えて平泉を目指した義経主従が此処の岩穴に身を隠して雨が上がるのを待って旅を続けたとなっています。
イメージ 2
これが雨晴海岸の岩場の上に建っている義経神社です。
イメージ 3
こちらが義経神社に建っている雨晴岩の説明
イメージ 4
この岩屋で義経主従は雨が上がるのを待ったようです。
イメージ 5
向こう(西)は能登半島、雨晴海岸で夕暮れを迎えました。
イメージ 6
氷見線と県道415号線が海岸に沿って走っています。向こうが氷見漁港です。
旅行の初日は20人で出立しましたが高岡でのランチで京都からN氏が合流し今晩は松山からО氏も新幹線でО氏も合流し夕食会はANAホテルに近い居酒屋「魚鮮水産 三代目網元 富山総曲輪店 」で落ち合う事になっています。カーナビでの到着予定時刻は6時半。約束の6時は到底無理です。携帯に確認が再三入ります。
イメージ 7
ホテルに近い曲輪に在る魚屋で会食会に向かいます。この時点で予定を40分も遅れてしまいました
何時もはホテルに会場を取って食事と宴会をしたのですが今回は「風の盆」でホテルは超強気の運営です。室料も臨時に8千円もアップ、その上宴会もするとなると、年金生活者には許容できない出費です。そこで居酒屋をホテルの徒歩圏に捜して、『魚鮮水産 三代目網元 富山総曲輪店』に決めました。「ホタルイカ」や「白エビ」と云った名物こそ出ませんでしたが「腹黒」にお寿司も出て満足でした。
イメージ 8
夜7時に始まって2時間で1年ぶりの宴会は無事終了、後は、徒歩3分のANAホテルで寝るだけです。
ところで

憧れの芦峅寺

0
0
9/1日の朝です。ANNホテル富山はお城の東にあります窓からは東に立山の峰々が見渡せました。雲間から光りが差し込み荘厳な景色です。越中の人々は立山の山頂が死者の魂の戻る霊地でアリ天上と確信していたのでしょう。そう想わせるに充分な荘厳さでした。日本の国土は美しく変化に富む事から、極楽は天空の彼方では無く朝晩眺める山の頂に在ると思い、地獄は自分の立つ足の下に在ると思ったのでしょう。山脈の右(南)に位置しているのが立山の参詣道で「風の盆」で賑わう「八尾」はその参詣客の宿場町でした。天気予報では日中は天気でも夕方からは崩れるそうです。「一日お天気でありますように!」立山に向かって、お祈りするだけです。
イメージ 1
これはANA富山ホテルの窓から東を観た景色です。正面の山が立山連峰で中央が雄山左の峯が剣岳になります。右側に参詣道が繋がっていて「八尾」はその一つの宿場町です。
朝8時にホテルを出発しました。新幹線口で地元に出向中のIさん軽井沢から新幹線で遣って来るОさんを加えて22人になりました。今晩は更に増えて24人に膨らむ予定です。
”「風の盆」を味わうには先ず立山信仰を知らなくてはならないだろう”思って先ず立山修験の核「芦峅寺」に向かいます。維新政府の偏向政策である「神仏分離」で全国の神社が仏教と生身を裂くように分離させられました。羽黒山も湯殿山も寺は神社から切り離され、此処立山でも芦峅寺は分離され、跡形なくなり、雄山神社だけが残されました。
イメージ 2
雄山神社の若宮
イメージ 3
此方が雄山神社です。芦峅寺は名だけ残っていて寺院は跡形もありませんでした。
イメージ 8
雄山神社拝殿内の額絵ご神体の雄山を祀っていました。
イメージ 4
これは立山博物館の玄関ホールです。
イメージ 5
これは立山曼荼羅の副製です雄山神社の拝殿に展示されていました。山上他界観を代表する図で、立山連峰の上から阿弥陀如来が聖衆を従えて来迎する様子を描いています。右上山頂に室堂が見えます。その向かいの山の洞窟に阿弥陀如来の姿を確認できます。中段は地獄の絵図です。右下下段には樹下の奪衣婆が見えます。奪衣婆は来世側の川の岸辺に居ます。この絵では切れてしまいましたが右下には布橋を渡る女性が居て、あの世側から御坊様が迎えに出て来ています。これが有名な「布橋灌頂」です。江戸時代に霊山立山への登拝が許されなかった女性が、白装束姿で 白い布が敷かれた橋を渡り、極楽往生を願った儀式です。立山は穢れ多いので往生出来ないとされた女性の熱い信仰を集めたのでした。
イメージ 12
立山博物館にズラッと並んだ山姥像、奪衣婆でありますが、頭上に被っている座布団状の帽子は乳児に着せる産着(胞衣/えな」です。立山は往生信仰だけではなく再生信仰の霊地だったのです。
イメージ 6
立山博物館の布橋灌頂のジオラマ。右側が現世で左側が来世です。現世から布橋を渡って来世(立山の山上)に向かいます。生前に布橋灌頂を行っていれば罪深いとされた女性も往生できる、と信じられました。
イメージ 7
これが芦峅寺の布橋です。説明によるとこの橋に晒し布を敷いて女性が渡る事によって布橋灌頂を終える事が出来ます。山上他界側にはお墓が並んでいます。遥か遠くに立山の雄山が聳えて見えます。
イメージ 9
合掌集落の庭に置かれた人形熊と睨みあっているのは頼であります頼少年は父が大切にしていた白鷹を逃がしてしまいます。立山の山中奥深くまで追いかけて漸く白鷹を見つけたのでしたが熊が出現して、白鷹を逃がしてしまいます。頼少年は熊に矢を放つと深手を負った熊は山中奥深くの岩屋に逃げ込みます。頼少年が岩屋に入ると其処に光り輝く阿弥陀如来に会います。
「芦峅寺」こそ無くなってしまいましたが、「芦峅寺」に奉公した「恩師の宿坊」だけは数多く残されています。宿坊とは高野山の宿坊と同じ役割を果たしたもので、御師の自宅であり全国から集まってくる参拝客の宿でした。此処に逗留して立山を巡り六根清浄の修行をしたのでした。江戸時代は沢山あった宿坊も現在は教算坊、善道坊の二軒しか残っていません。
私達は立山博物館に隣接した善道坊に入りました。京都の三千院の極楽坊を想わせる苔むした庭園の奥に善道坊の建物があって、御師がお庭の手入れに精を出しておいででした。観れば紅葉の樹が目立ちます。いつの日にか紅葉の季節に訪れ此処に泊めて戴き御師に「立山曼荼羅」の絵解き利かせて欲しいモノです。
イメージ 10
これが、「芦峅寺」の宿坊教算坊の庭です。三千院の苔や杉苔ですが此処の苔は「山苔」です。
イメージ 11
教算坊の庭から本屋を観る。
立山は広いし奥行きも深い、改めて出直したいものです。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



地獄のテーマパーク「立山曼荼羅遊苑」

0
0
立山博物館で色々と誘われました。[お隣の御師の宿を見学しろ。]「曼荼羅遊苑は面白いですよ!。]
中々営業熱心な町営博物館です。地元に出向中のS君の話では。「曼荼羅遊苑を観るには50分程時間が罹るとの事。これから源鱒寿司」で昼食して、3時前に八尾の街に入るには丁度良さそうです。
「今更テーマパーク」も可笑しいのですが、お化け屋敷を見物する感覚で入ってみました。「立山曼荼羅遊苑」の敷地はとても広いのです。布橋から1キロ程で「曼荼羅遊苑」の入り口に着きます。苑内も1キロ以上あります。
静寂な山中にお化け屋敷固有の悲鳴が響きます。集客の為の苦心の策なのですが、此処まで来た人は必ず入場しますから。駐車場に案内や地獄の悲鳴を流した方が効果がありそうです。
一言でいえば此処は『立山曼荼羅図の中段に描かれた地獄を再現しようとしたテーマパークです。』最初のアトラクションは「針山地獄」でした。
針山地獄は衆合地獄の一つで。浮気心の男性が奥様を泣かせた男性が必ず行く地獄です。
8大地獄の中では真ん中に位置するポピュラーな地獄で生前の罪状が”殺生や盗みや邪淫に陥った”モノが行く地獄です。昨年の夏京都の六道珍皇寺で針山地獄の地獄絵と解説を読みました。絶世の美女が樹の上で「おいで!おいで!」をしています。助平な男性は邪淫を貪りたくて木を登ります。ところが樹の下には無数の針が立っているのです。まるで剣岳のようです。亡者は剣山に身体を突き刺されます。
イメージ 7
此れが針山地獄です。亡者は岩で表現されています。赤く錆びているのは亡者の血でしょう。スピーカーからは亡者の絶叫が聞こえるのかもしれません。
イメージ 8
六道珍皇寺の針山地獄の絵です。針山に美人がいます、亡者は美女に邪淫せんと追いかけています。立山曼荼羅図でも左上に針山地獄が描かれています。
イメージ 1
これは立山曼荼羅の針山地獄の場面です。閻魔大王は亡者の生前の行為を確認、鬼が観ているのは「浄玻璃の鏡」です。DVDのように生前の行為が映ります。結果「有罪」の判決が出れば。針山地獄の責め苦を受けます。

この針山地獄には邪淫をした人が行く。浮気をしたり人前で破廉恥なことばかり言っての鏡いるドスケベは、この衆合地獄行きです。
常願寺川の上に橋が渡っています。ユラユラ揺れているので高所恐怖症の人は苦手です。案内には精霊橋。橋の先端に勾玉状の鐘が吊るされています。この鐘を叩けば現世に復帰できるのです。
イメージ 2
此れは常願寺川の上にせり出した「精霊橋」この鐘を叩けば現世に生き返る事が可能なのだそうです
閻魔堂の云う名の建物は真っ暗で絶叫をスピーカーで流しています。閻魔堂内部には「地獄百景」を展示してあります。
イメージ 3
地表から1万4千キロの地底に在るという地獄『八熱地獄』をイメージしたのだそうです。
イメージ 4
これは「地唸鬼」です。この井戸に向かって叫ぶと、己の罪が鬼の声となって返ってくるという。
イメージ 5
このトンネルが一番怖かったです。これは「闇の道」だそうで、天上から現世に戻るには暗いトンネルを手探りで歩き続けなくてはならないのだそうです。このトンネルを出ると山野草の園と「逆さ須弥山」を観る事が出来ます。
イメージ 6
闇の道と呼ばれるトンネルを出ると「逆さ須弥山」の前に出ます。水鏡に八つの山頂を持った須弥山(仲間の背後にある盛り塩のような三角錐)が映っているのです。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



鱒寿司ミュージアム

0
0
旅行の楽しみの一つははその地の美食を味わう事です。十返舎 一九の「東海道中膝栗毛」も旅先の美食ガイドの趣があります。鉄道開通と共に始まった駅弁人気も江戸時代からの日本人の食道楽の流れに在るのでしょう。
富山に行けば先ず想い起されるのが「鱒寿司」です。この日の昼食は、立山から八尾に行く途中にある「鱒寿司の源]」が設立した「鱒寿司ミュージアム」にしました。
此処は「源寿司店」の工場であると同時に100年に及ぶ同社の歴史を展示した博物館と、「桜」と云う名のレストランが在るのですが、人数を22人と連絡した処”入りきれないので「待合所」に用意します”との事でした。勧められたのが1080円の「鱒寿司ご膳」でした。約束の時刻に駐車場に着くと女性職員に笑顔で迎えられました。
イメージ 1
「鱒寿司ミュージアム」でのランチは同所待合室で「鱒寿司ご膳)にしました。吸いモノは氷見饂飩でした。
イメージ 2
お弁当箱の蓋を開ければ。笹の葉に包れているのが鱒寿司です。敷き紙のデザインに描かれている鱒は中川三郎画伯の作です。
駅弁の鱒寿司が1100円ですから、工場とミュージアムを見学して1080円はとてもお安いのです。
イメージ 3
天然サクラマスの身捌き方から国産天然塩や酢の加減して。ワッパに詰めて重石を乗せて出来上がりです。近代的で清潔な工場部分と味の決め手は「塩ふり」「昆布の味だし」そして保存に「笹の葉」で包みます。こうした作業を見学できます。写真は同社ホームページhttp://www.minamoto.co.jp/museum/part/denshoukan
まで、その日に肌で感じた温度や湿度に合わせ、召し上がっていただく瞬間まで想像しながら行われている職人の作業をガラス越しにご覧頂けます。
待合所には土産店や工場の連絡通路があります。連絡通路の壁とその奥に「鱒寿司ミュージアム」が在って、百年に及ぶ同社の歴史と駅弁の変遷や江戸時代の旅行弁当などが展示されています。同時にミュージアムの通路が工場に面していますから、硝子戸越に鱒寿司の作る手順が解ります。
イメージ 4
これは待合所のロビーに飾られたネブタ状の山車です。説明には「滑川のネブタ流し」とされていて、青森のネブタを作って、毎年7月31日に滑川市の和田の浜で松明と一緒に焼いて流す厄除けの火祭りだそうです。、国指定重要無形民俗文化財だそうです。
イメージ 5
工場への通路の壁を利用して「源鱒寿司」の社史や桜鱒の生態を説明しています。常願寺川や神通川を遡上してくる桜鱒を押し寿司にするのです。
イメージ 6
源鱒寿司の駅弁の展示です。現在の駅弁(上段左)の絵は「中川三郎画伯の描いた桜鱒マスですが。何れのデザインも高名な人に委託して来たようです。
食べ物は食材からして地域の特産物ですが。寿司が醤油と同じ醸造食もつである事、昆布のグルタミン酸や天然塩や笹の葉の殺菌力を活かした、総合文化財である事を痛感します。そして見た目も美しく楽しませてくれることに感謝です。
私の生活圏には「大船軒」の「鯵寿司」がありますが。「源寿司」に較べると総合文化産業として大いに立ち遅れています。立地の良さが災いしているように懸念します。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。




お揃いの浴衣嬉しや「風の盆」

0
0
昼食も終えて愈々「八尾の街」に入ります。富山駅も高岡の街も風の盆で沸騰しています。八尾自体は金沢や高岡から立山に参詣する街道にありました。伊勢街道の「鈴鹿」や「宇陀」善光寺街道の「海野」等も参詣宿場町で今も歴史的保存地区として人気です。確認すると八尾の総人口は1万2千人、そんな鄙びた街に3日間で30万人が押し寄せるのですから。受け入れ側も大変です。車の出入りは午後3時以降は出来なくなります。私達は富山に出向中のS君の尽力によって八尾東町の公民館の前に在る町屋の二階を貸し切りました。
イメージ 1
此れが「風の盆」で賑わう八尾の街の案内図です、街の中心は駅前ではなく八尾おわら資料館の辺りです。桃色で塗った道が「日本の道百選」として整備されています。諏訪町です。私達が陣取ったのは東町の公民館前で八尾おわら資料館の並びでした。鉄道は高山線で手前が高山奥が富山です。7号線は県道で富山と八尾を結ぶ道です。地図の左の方に行くと砺波や高岡に着きます。
其処で仕出し弁当を取り宴会を催すことにしたのです。八尾東町には銀行が2軒お寺もあるし一番賑わっている街でした。
イメージ 2
私達が陣取った町屋、二階の窓の下八尾の中心通りで東町の公民館前でした。
イメージ 3
窓の下では東町の踊り連がコンテスト会場である八尾小学校に向かって出発します。男性の浴衣は昨年も使用したモノだそうでした。

女性のピンクとオレンジ色の浴衣は今年新調したモノだそうです。少女の市松模様の浴衣も今年町内で新調したモノだそうです。おはら資料館の説明では風の盆で踊りを被露出来るのは23歳までだそうで。昨今の高齢化の波には抗し難くもう2年もしたら規約の変更が必要な気配だそうです。
イメージ 4
此れは東町の子供です。市松模様に笹竜胆(東町の紋)を散らした浴衣は今年作ったのだそうです。笹竜胆は源氏の紋で帯の下地は黒で揚羽蝶は平家の紋です。子供の浴衣でも凝ったデザインです。東町で新調したのだそうですがモノ入りです。素直に”かわいいね、良くお似合いですよ”云ったらピースサインで写させてくれました。
イメージ 6
諏訪町の「連」、背後の町屋のような建物はの壁には鐘が吊り下げられているので解るようにお寺(修道寺真宗)です。手前側に地蔵堂が建っていてお地蔵さんも踊りを眺めておいででした。
イメージ 7
諏訪町の「連」を見物されるお地蔵様
イメージ 8
此方が日本の道百選の諏訪本通りですこの道の中途で左に折れると諏訪社があります。道の向こうは高岡で手前は立山です。立山詣での宿場街なのです。
で観れば「東町」「西街「諏訪町」が「風の盆」の「連」では評価されているようです。八尾の街には現在9つの町が在って、各町が「連」を組織して「風の盆」を競っているのだそうです。基本的なメロディーは「薩摩」の小原節でも歌詞は各町によって違うのだそうです。勿論着物も違います。
イメージ 5
此方は諏訪町の子供達です。向こうの道が「日本の道百選」の通りで、「連」はお寺の門を折れてコンテスト会場に向かいます
イメージ 9
「おたや階段」の上から鏡町の「連」を観る。この広場で町内の応援を得てイザ八尾小学校(コンテスト会場)に向かいます。
町屋に入るなり、私達は宴会の肴や酒を買い出しに街に出ました。酒屋は二軒あって、屋台も数多く出ています。
イメージ 11
此処は西街です。街角に酔芙蓉が咲いていました”酔芙蓉おわら流しに憩いける”
八尾自体は馬の背に在るような街で坂が多いのです。谷には井田川(神通川の支流)が流れています。
魚屋が店先で鮎を焼いていました。私はワイフと連れ添って簀子に坐って一匹鮎を食べさせて戴きました。私が鮎を食べていると後から後からお客さんが座って注文します。
イメージ 10
こちらは鏡町の「おたや階段」の上のお地蔵様です。
輪踊りも良かったおはら節も良かった何より印象深かったのはおはら町民の地域愛というか故郷に対する誇りでした。翌朝新聞は「風の盆始まる」の特集でしたが、おはら町民の「誇り」を共感する記事で埋め尽くされていました。
さて、”行は良い良い、帰りは恐い”は天神様の帰り道でしたが、私達は町屋の二階で大宴会をしましたので、車は運転できません。代行運転に委託しました。でも八尾の街にはそんな便利なサービスはありません。ピストン輸送です。最後の車がホテルに着いたのは9/2日の午前様でした。
イメージ 12
此れは時宗の総本山遊行寺での盆踊りです。全国の輪踊りが紹介されます。
イメージ 13
此れは秋田の西馬内盆踊りです。顔を黒いオコソ頭巾で隠しているのは死者の霊と子孫との交流を象徴していると考えます。ジャワの「ラマダン」を想い起します。
盆踊りは中世一遍上人が始めた「踊念仏」が始まりと云われています。私は「おたや階段」の階にこしかけて鏡町の「輪踊りの熱狂を観ています。千年前京都の川原町や鎌倉の長谷の海辺で一遍上人の主導された「念仏踊り」も”こんな風に見物人が多くて踊っている人は少なかったのだろう!”思いました。私の隣には石のお地蔵さんがおられます。長谷も川原街も「地蔵堂」という道場での「念仏踊り」でした。地蔵信仰も中世に起った庶民の信仰でした。庶民が共同体の絆を強くした時代に信仰の面で結束を一段と強めたのでした。
現代は何故か此処「風の盆」が大人気なのは若しかしたら人間同士の結束を強くしたいといった願望の表れかもしれません。
孤独に耐えられない現代人は胡弓のむせび泣くような音色に誘われて。輪踊りに興じた想い出を呼び覚ましに八尾の街に群れているのかもしれません。勿論八尾ばかりが人気なのは水上勉等の作家や「風の盆恋歌」等の人気も寄与しているのでしょうが・・・・・。
中世に始まった盆踊りでしたが、此処越中では近世になると前田利長が藩主になると、教育に腐心します。眼病の子供が産まれると男の子には「按摩」を女の子には「歌舞音曲」のお座敷芸を習わせます。目が悪くても一生を自力で生き抜く術を教えたのでした。その結果越中には「ゴゼ瞽女ごぜ/盲御前」が盛んになります。映画 『はなれ 瞽女おりん』は水上勉が恋をしたために追放された瞽女の美しくも逞しい生き様を映画にしたものでした。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。





神通川の怒り(イタイイタイ病資料館)

0
0
八尾で「おわら風の盆」を満喫しました。八尾の街を流れているのは神通川の支流の井田川で富山市街に近い沖積地で飛騨から流れてくる熊野川と合流して神通川と名を変えます。私達は学校では「じんつうがわ」と覚えました。ところが道路標識にはローマ字で「じんずうがわ」と書かれています。富山県民は「じんずうがわ」と呼んでいるようです。「じんつうがわ」では「陣痛川」と聞き間違いしてしまいそうですから、「じんずうがわ」が正解なのでしょう。でも神が通われる川の意味でしょうから「じんつう」と濁音にならない方が聞こえが良いような気がします。
私が高校を卒業する頃連日社会面を賑わせていたのが「神通川イタイイタイ病訴訟でした。それだけにイタイイタイ病記念館は観ておきたいと思い「説明依頼書」を送付しておきました。約束時刻9/2日午前9時に行くと好青年が玄関ロビーに出て待っていてくださいました。
イメージ 1
ロビーの床には衛星写真の地図がタイル写真で張られています。説明員は足元を指揮棒で指示しながら説明を始めました。

富山のお米

0
0
埼玉や武蔵野のお屋敷の屋敷森は欅が多いのです。富山の屋敷森は杉が目立ちます富山の屋敷森の美しさは有名で良く絵や写真の素材になっています。屋敷森の散った景色は一般に「散居村」と呼ばれます。昨年も散居村見たさに山形の米沢の郊外飯豊村の麓に出かけました。飯豊村の散居も樹は杉でした。今年の5月に再訪すると散居村のあちこちに白い花が咲いていました。「あの花はサクランボかそれともf蚊杏か?」訊けば「猿梨」だと教えられました先日横浜高島屋に加山又造を観に行くと「大東北美味いモノ展」が開催されていました。思いがけずに「猿梨」を試食しました。「猿梨」は猿が好んで食べるモノか!実感しました。キウィと無花果のミックスした様な味でした。もうじき飯豊村も紅葉と茸の季節です。再訪したい刺激を受けました。
イメージ 1
これが富山の屋敷森です屋敷森は家を強風から守る防風林の役目と釜戸で燃やす落ち葉を取る意味と建てかえ用の材木を育てる意味があります。裏日本は総じて杉が多いのに対し関東は檜が多いようです。
何処に行っても日本のお米は安全だし美味しいモノです。どうして美味しいのかな?ズット考えて来ました。ベトナムに行ってもマレーシアに行ってもお米は美味しいモノでした。でもベトナムやインドシナの長粒米は日本で食べたら美味しくありません。パラパラの長粒米はチャーハンにして食べるか一度粉にしてビーフンや春巻きにして食べると美味しいのです。何故美味しいのかな?インドシナの市場で考えました。
イメージ 2
未だ9月だというのにスーパーには北国の新米が出揃っています。北海道の「夢ピリカ」に山形の「つや姫」に宮城の「笹錦」に越後の「コシヒカリ」美味しいお米は北が圧勝です。
これ千葉産でも「笹錦」は笹錦、でも、宮城の笹錦の方が美味しい気がします。如何して千葉の笹錦は本家に劣るのか考えてみました。そうしたら気付きました。美味しいと云われるお米の産地は何処も味噌や醤油や「酢」の産地なのです。味噌も醤油も酢も米麹を原料に時間をかけて醸造して作ります。お寿司の美味しい富山も函館もお酢の産地なのです。函館はお米の他に酢と昆布の産地ですから寿司が美味しいのは自然な事です。千葉も魚は新鮮ですが酢や米がイマイチなのでお寿司の評判は劣ります。
イメージ 3
此れは3年前の春葛城山の麓一言主神社を詣でて、その後行った「片上醤油の醸造小屋」樽も吉野杉なら羽目板も吉野杉です。何処から何処迄が麹菌が生きているようです。
イメージ 4
片上醤油の醪樽吉野杉の樽で米麹と大豆を充分に発酵させ、最期は麻袋に醪を入れて搾れば醤油が出来ます。醤油が美味い筈です。
3年程前に奈良の葛城山の麓にある「片上醤油」を訪問した事がありました、この時は桜を観るツアーだったのでしたが私は醤油を最初に作ったのは「湯浅」の匠とばかり思っていたので、「奈良に帰化した百済人が醤油を伝えたのかもしれない」思って片上醤油に行きました。米麹に加えて国産丸大豆を使って吉野杉の大樽に醸造する姿勢に驚いたのでした。臼杵のフンドー金醤油の工場見学した折にも”米麹の醸造には吉野杉に限る”と教えられました。お米が美味しい評価を得る為には味噌や醤油や酢などの醸造品が美味しくなくてはなりません。
日本の醤油は醪(もろみ)醤油と呼ばれ、米麹に塩水を加えて醸造して作ります。我が生家でも味噌を樽に漬けこんで野菜を漬けたりしていると味噌の表面に醤油が出来て来ました。これが醪醤油で味噌が姉さんなら醤油は妹の様なモノでした。日本の醤油は醪醤油が基本です。
イメージ 5
ベトナムの食事はビーフンもフォーも生春巻きも魚醤(ナンプラー)の味付けの妙に依るモノです。
イメージ 6
ベトナムの僧坊で料理を準備する若いお坊さん。調味料は魚醤です。メコンデルタで獲った魚のうち大きいモノは家族で食べますが小魚やエビは道路で干して魚醤の工場に持って行き魚醤と交換して貰います。魚醤メーカーは仕入れと販売を物物交換できるのです。
一方タイやベトナムやインドネシアの醤油は魚醤と呼ばれ小魚を陶器の樽に長年漬けこんで醸造して作ります。ベトナムラーメンや生春巻きの美味しさは魚醤の美味しさです。東南アジアの料理の美味しさの秘密は魚醤と呼ばれる「醤油」にあるのだ!確信しました。日本の丸いネバネバしたお米が美味しいのはお握りや卵かけご飯です。御握りや卵かけご飯が美味しいのも醪醤油の味が決め手です。お米それ自体よりも調味料が美味しさの決め手なのです。
日本の米所ブランド米は総じて北日本に集中しています。夢ピリカに秋田小町に笹錦に越光りにつや姫に・・・・。ブランド米は何処も味噌や醤油の美味しい処です。
醤油のうま味はタンパク質が分解して出来るyアミノ酸(グルタミン酸)です。日本の醤油は米麹や麦麹で大豆のたんぱく質を発酵させて出来るグルタミン酸です。一方ベトナムやインドシナの醤油は小魚を陶器の瓶に漬けこんで発酵させる事で出来ます。一般にナンプラーと呼びます。秋田の「ショッツル」はハタハタをつけ込んで、輪島の「いしる」も魚醤ですが、此方は鰯をつけ込んで造っていました。鍋の美味しい地方は何れも味噌や醤油の産地です。
こんなことを考えて居たらこの秋は白神山地に行って不老不死温泉に浸かって「ショッツル鍋」を食べたくなりました。
イメージ 7
此れは秋田名物の「ショッツル鍋」です。メインの魚は鰰(はたはた)です。汁は魚醤で味付けされています。魚醤も鰰を原材料にした醸造品です。日本でも秋田や輪島に魚醤文化が残っています。



ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。

旅行ブログ
https://travel.blogmura.com/img/travel88_31.gif
ついでにこちらもお願いします。

日石寺の磨崖仏

0
0
台風18号が日本列島を縦断しそうな気配です。テレビの気象予報士が張り切っているように見えるのは自然ですが,心なしか嬉しそうに見えるのは不思議です。
「風の盆」ツアーは210日の台風被害が無い様に神々に祈ったモノと思います。もう230日ですから、18号台風は随分遅れた台風です。出来れば、米所や果樹所を避けて通り過ぎて欲しいモノです。
越中八尾の農家は既に刈り入れも終えて、肝心の、生産者米価は今年は1~5%アップだそうで、安堵して居たら、秋の締めは18号台風でハロウィーンに相当する相当する新嘗祭までは多難なようです。11月には鰤起しが吹く事でしょう。
イメージ 1
ネット上ではブランド米は10000円/30キロで売られているようです。不透明な食管を通さずに好きな産地のお米を直接に農家から買いたくなるものです。写真出典アマゾン/グー10/https://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%81%8A%E7%B1%B3%EF%BC%91%EF%BC%90&tag=yahhyd-22&index=aps&jp-ad-ap=0&hvadid=217656701253&hvdev=c&ref=pd_sl_4aqmdibwnv_b
イメージ 7
富山の郊外では刈りいれの最中でした。農家の懸念「台風」の被害にも遇わずに無事に刈りいれが出来て僅かでも米価がアップすれば先ず安堵した事でしょう。
私達は立山連峰の北の端剣岳の登山口にある「日石寺」に向かいました。田圃はコンバインが刈りいれに走り廻っています。日石寺は磨崖仏ファンの間では憧れのお寺で本堂の奥に巨大な岩があって不動明王の磨崖仏が祀られているのです。写真集で何度も観て来た重文の大磨崖仏ですが、白っぽいので白御影石かと思っていましたが、実際に観てみれば明らかに凝灰岩です。凝灰岩とは字の通り火山灰が堆積して地圧によって岩になったモノです。花崗岩よりは柔らかいので彫刻が容易である上に肌が綺麗で着色も容易なので臼杵の石仏を始め国宝クラスの磨崖仏は大半が凝灰岩です。本堂に鎮座する磨崖仏(まがいぶつ)は中央の不動明王と左右の童子立像などが凝灰岩に彫られています。この凝灰岩はフォッサマグマ(大地溝帯)にも確認できるモノで。1千万年前の岩で、大陸から分離し現在の日本列島の位置に移動したころにつくられた岩石と思われます。この10月末に親友と「塩の道」に沿って石仏行脚する予定で、糸魚川で「フォッサマグマ記念館」に行く予定ですから。確認出来ると思います。凝灰岩は加工しやすい岩石で「塩の道」の石仏も長野高遠の石工の作品が多いようです。
イメージ 8
日石寺も近い棚田の風景
イメージ 9
日石寺と富山市街の間には女川があって「弓の里歴史文化展」を開催していました。何時か来てみたいものです。
イメージ 3
此れが日石寺のご本尊不動明王像です凝灰岩の巨岩に不動明王と脇侍(セイタカ童子とコンガラ童子が刻まれています。千年の歴史がある事に加えて護摩も焚かれたでしょうに白い素肌が保存されています。これも凝灰岩の効果でしょうか?
イメージ 4
此方は3年前の晩秋に訪れた臼杵の磨崖仏(国宝)です。日石寺磨崖仏と同じ凝灰岩に刻まれていますが。僅かな着色が残されています。
「日石寺の磨崖仏」は寺伝では「行基」作だそうですが、明らかに平安初期修験道や密教の勃興期に作られたモノでしょう。臼杵の磨崖仏に匹敵する作ですが、臼杵仏が見事に着色されているのに対し日石寺の磨崖仏は凝灰岩の白い肌を活かしています。
重要な事は凝灰岩の白さの訳です。セメントと同じようなモノと思っても良いのですが。セメントの原料になる石灰岩は海の貝殻等が地圧で固まったモノです。凝灰岩には消炎薬としての薬効成分(ホウ酸)が含まれています。各種アレルギー、自己免疫疾患に効果が期待されます目が充血して居たりすると凝灰岩の溶液が炎症を治癒させるのです。ですから目の薬師は大抵が凝灰岩の地質に立地しています。日石寺の湧水も眼疾に有効なようで。瀧行にも普茶にも眼疾に有効と案内されていました。ワイフも先月白内障の手術を終えたばかりで、眼の表面を労わっています、早速に普茶を戴いていました。
イメージ 5
これは日石寺の瀧行が行われる「6本瀧」。右端に藤水の案内が為されています。「藤水」は眼病に効果があるといわれている霊水です。1702年、越後のある目の不自由な百姓が、不動明王から「日石寺の滝の脇に藤木がある。その下の水で目を洗え」とお告げを受け、さっそく目を洗ったところ目が開いたそうです。加賀藩は盲目の子供の救済策として男子は按摩に女子はゴゼとしてのスキルを習わせましたが。日石寺の霊水がホウ酸を溶かしていて眼疾に有効であった事も関係していたのでしょう。眼疾のある人には有難い霊水です。
イメージ 10
6本瀧の隣にある霊水「藤木の水」の表示眼疾に効果があるそうです。名水の表示の背後の大木は多羅葉です。「葉書の木」とも呼ばれ中央郵便局前の植え込みにもありますがこんなに巨大な多羅葉は初めてです。
イメージ 6
御手水の隣に霊水で沸かした普茶サービスがありました。美味しい焙じ茶でした。
来年は何処に行こうか?
皆と相談しました。結果福島県の信夫山に行く事になりました。文学好きには「糯摺り石」が民俗好きには「黒塚」が磨崖仏ファンには観音堂磨崖仏群を観て飯坂温泉に浸かって花を観る旅になりそうです。
イメージ 2
此れは信夫山の東峰にある磨崖仏です。平安時代後期凝灰岩の大岩に刻まれた石仏群です。
このブログを以って「今回の「風の盆」ツアーは終了です。
火山灰の岩山が立山になって、その山麓の神岡精錬所で爆弾を作ろうと亜鉛を精錬する過程でカドミウムを垂れ流しました。その結果「イタイイタイ病」が発症しました。聖地立山に降った雨が地下水になってホウ酸を溶かせば眼疾を直す霊水になり。爆弾を作ろうとすれば「イタイイタイ病に」になりました。4大公害病は水を汚した「水俣病」「阿賀野川公害」は有機水銀が原因でした。土壌をカド二ウムで汚染したのがイタイ大病で、4つ目が四日市ぜんそくでした。硫酸ガスで空気を汚したのでした。日石寺の瀧行は5本落ちています。「地」「水」「火」「風」「空」の5本だそうです。偶々ご婦人が瀧に打たれて水垢離していました。「地」「水」「空」の三種を清浄に保つのが瀧行なのでしょう。古代人は自然と同じく人間の体も心(魂)も清く保つのが「健康長生き」の秘訣である事を知っていたのでしょう。

「風の盆」の紙風船つくり

0
0
「旅行には三つの楽しみがあります。第一は実際に『知らない土地や文化を観て廻る楽しみ』です。旅のプランをするのも楽しみです。そして旅を記録誌に残すの楽しいモノです。記録誌は私が入院中にも随分激励してくれました。「元気になって再度友人と旅に出よう」そんな意欲が脳梗塞リハビリの原動力になりました。
今記録誌を編集しています。数年前「旅をして宴会するだけでは能が無いので、”俳句で遊ぼう”を始めました。でも「無理に俳句を作らせるのは如何か?」批判も出たのでと投句は自由にしました。今年は季題を決めさせて貰いました「風の盆」「鈴虫」等にさせて戴きました。
イメージ 1
此れは富山の配置薬売りのお人形です。老舗「広貫堂博物館」の入り口に展示されていました。大風呂敷に行李を包んで肩から背負い家々を訪問して回りました。各家には薬箱を配置して在り、在庫を一杯にして帰りました。半年後に再訪した時には使った薬の代金だけを請求して帰りました。行李の中には薬の他に子供の喜ぶ「紙風船」が入っていました。現代のノベルティーです。
イメージ 2
此れが魔法の行李で、開ければ薬が次々に出てきて最期の行李を開けると紙風船が出て来るのです。
イメージ 3
此れが広貫堂で貰った紙風船ですキティーチャン紙風船は3枚で350円でした。此れを参考に紙風船を自作してみる事にしたのです。
イメージ 4
此れは万葉博物館に展示してあった紙風船です。これを真似れば良かったのです。
富山の薬売りが持ち歩いていた「紙風船」はアッチコッチで観ました。最初は富山空港のロビーにありました。高岡の万葉資料館にも展示されていました。市販品を買い求めたいとホテルのコンセルジュに相談すると「広貫堂/老舗薬屋」に在るだろうと云う事でした。行ってみると確かに在りました。喉飴を買うと昔のデザインの紙風船を1枚くれました。私は孫用に「キティーチャンデザインの紙風船を買い求めました。
そして自宅で紙風船を作ることにしました。これも旅の楽しみの一つでしょう。
先ず素材の紙を買い求めに和紙店に行きました。貰った紙風船を見せると「これは和紙では無いパラフィン紙で洋紙である!」というので有隣堂に行きました。
パラフィン紙に「家持の和歌」を描きました。つぎには「風の盆」の絵を描きました。絵には自作の俳句も添えてみました。
出来上がった紙風船を膨らませて気付きました。紙風船の中に照明を入れたら綺麗だろう雪洞のように見えるかもしれない。そこで立方体をボール紙で作って窓を開けて窓にパラフィン紙に描いた絵を張りました。
出来上がった処で、パラフィン紙の縮れを直す為霧を吹きました。すると俳句の字(墨)も絵の具も流れてしまいました。そんな

雨樋の美(房総の民家)

0
0
9/19日台風一過で底抜けの青空です。こんな日は田園に出て彼岸花でも観たいと思いました。一番近くなら慶応大学藤沢キャンバスの下の小出川の堰堤です。でもネットで確認すると小出川の彼岸花祭りは9/23日との事、そこで19日は生田の川崎民家園に行く事にしました。思惑は多摩川の鮎を昼に食べる事です。実は昨年も出かけたのでしたが、お店(笙と云う名の蕎麦屋)は夕方に開店するとの事で。昨年は食べられませんでした。余程私には縁が無いお店のようで、9/19日も”知れの都合で開店は午後5時です”案内が貼られていて、多摩川の鮎は食べられませんでした、期待通り民家園の中の菖蒲田の畔道には彼岸花が咲いていました。屹度田圃の中には「仏土壌」が潜んでいるのでしょう。仏土壌は秋になると土の中に隠れてしまいます。そして翌年田植えの季節になるとノコノコ田圃に姿を現します。お百姓が泥鰌は死んでしまったと思っていたモノが、突然に出現するので驚異の念を込めて「仏泥鰌」とネーミングしたのでしょう。
イメージ 4
此れは川崎民家園の菖蒲田です畔に赤い彼岸花が咲いていました。この田圃に「仏泥鰌」が生息しているのです。
イメージ 5
水槽の底に居るのが仏泥鰌(日本の固有種)です口髭が生えている様に見えるのも愛嬌です。鮒や吉のぼり(ハゼ」も見えます。写真は柏尾川の追い込み漁をした時のモノ。
イメージ 6
此れは川崎民家園の庭に置かれた「屋敷守」の五輪塔。脇に白い彼岸花が咲いていました。
民家園は未だ夏モードで十五夜団子を飾るのは9/30日(土)だそうです。いつ来ても川崎民家園の美しさには感服します。今日は茨城や房総の民家の「雨樋」について書きます。
雨樋で有名なのは国宝の石清水八幡宮の雨樋です。八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる雨樋で一般に織田信長公寄進の「黄金の雨樋」と呼ばれています。
 天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、岩清水八幡宮の雨樋が朽ちて、雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じます。翌、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び当宮に天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し軍費に充てようとしたのだそうです。
イメージ 1
これが国宝の石清水八幡宮の本殿と拝殿の間に在る「金の雨樋)です。樋の厚さも金箔貼りであるかもわかりませんが一般には純金の雨樋でイザと云う時には軍費に充当されるのだったそうです。
イメージ 11
此れは桂離宮の雨樋です。桂離宮では屋根の重なりは下地で処理されていて石清水八幡宮のような雨樋は使われていないものの。庇の下には竹を割った雨樋が使用されています。寺院や内裏では雨樋を使わずに雨が地面に落下する場所(犬走り)には砂利を敷いたり溝を掘ったりします。

建物を長く持たせるには「雨漏り」対策が最重要です。雨漏りし易い場所は決まっています。棟の天辺に屋根と屋根の継ぎ目です。「古屋の雨漏り」の民話はこの事実を伝えるモノです。神社や寺院の場合は拝殿と本殿、本堂と庫裏や東司等屋根と屋根の継ぎ目が必ずあるモノです。そこでその継ぎ目に「雨樋」を設置したのでした。
でも民家となると状況は少し違います。本屋は家族が寝る部屋だったり仏間だったり団欒の部屋(囲炉裏)だったりします。そして本屋に準じる部屋が「家畜」の部屋だったり作業部屋(土間)だったりします。
房総や筑波の民家では本屋と土間の間の屋根の継ぎ目に巨大な柱を刳り空いてカヌーの様な雨樋を作って吊るしているのです。それが実に美しいと思いました。美しさの秘訣は「実用」に徹している事です。

イメージ 2
此方は川崎民家園の「五個荘の家」です。神通川は飛騨を流れる時は宮川と云い「合掌造り」の間を縫って日本海に注いでいるのです。
イメージ 3
これは五個荘の合掌造りの天井の梁(はり)です。豪雪で根曲りしたブナの木を組み合わせて天井裏の木組を作って豪雪と屋根の重みに耐えたのでした。これこそ「民芸美」だと確信するモノです。
イメージ 7
此れが国重文の作田家住宅です。次に民家園の解説が載っています。http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/11_sakuda_house/左が母屋で家族の生活空間です。右が鰯漁の物置小屋です、二棟の間に下の写真の雨樋が設えられています。右の物置小屋には鰯漁に必需な「櫓」や網が仕舞われています。土間で鰯を茹でて直ぐに庭に筵を敷いて乾かすのです。
イメージ 8
作田家住宅の雨樋。巨大な栗の木の幹を割って中をカヌー状に刳り貫いて雨樋にしています。樋という字は木篇で竹編や竹冠でないところを観ると中国でも木を刳り貫いて樋を作っていたのでしょう。
イメージ 9
此れは川崎民家園の大田家旧宅(国の重文)民家園は次に解説しています。http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/14_ota_house/分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口(おおどぐち)を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋(おもや)です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。
イメージ 10
此れは大田家住宅の馬屋と本屋を繋ぐ雨樋です。此方も栗の木が素材だそうです。

南部の曲屋では母屋と馬屋との接点をどのように処理しているのだろうか?思って工藤家住宅(国重文http://www.nihonminkaen.jp/facility/old_folk_house/22_kudo_house/)に回ってみました。煙が濛々と立ち上がっています。囲炉裏で職員が薪を燃やしているのです。昨日までの台風の余波で薪が濡れていたのでしょう。でも燻すには十分すぎる煙です。
私が火災報知器が作動しませんか?尋ねればこの建物にも3機報知機は設置されているのですが、薪を燃やす前にスイッチをオフにしておくのだそうです。スイッチをオンに戻すことを忘れたら大変です。
イメージ 12
此れが工藤家住宅(国重文)です。右が母屋でL字形に馬屋が繋がっています。この部分に雨樋が使われていないか確認したのですが、雨樋は使わずに屋根の下地で処理されていました。屹度頑丈な桜の樹皮等で接続部を処理したのでしょう。


今横浜高島屋では「柳宗悦の日本民芸館の展示を開催しています。副題には「美は旅をして見つけた」案内しています。旅をして観る最高の美は民家です。何故なら衣食住総てに関るのが民芸であり、民芸美の究極は庶民の日常生活と生活用具の合理性に在ると思うからです。幾ら美しい生活用具でも輸入品では意味はありません。その地方地方に産出する固有の素材でなくてはなりません。山形の木通細工が美しいのもあの山地に自生していた蔓を素材に農民が囲炉裏端で編んだのだから民芸美なのです。陶器はその地の粘土を使うから石仏はその地の意志を使うから美しいのです。高級な白御影の石仏よりも安山岩や凝灰岩を刻んだ彫刻に美を感じるのは自然な事です。最後に民家の究極の美である天井の梁組をお見せします。
イメージ 13
これは前出99里の作田家住宅(鰯漁の網元の家)の梁です。天然の素材を巧妙に組み合わせて頑丈な構造を形成しています。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。





彼岸の入りで「燕帰る」

0
0
9/20日は彼岸の入りです。台風一過で庭は大荒れです。我家の彼岸花も彼岸入り前に強風で倒されてしまいました。でも、彼岸花に代わって菊芋の花が咲き出しました。コスモスに似た黄色い花です。私の生家の畑にも自生していました。檀家の方がお墓参りに来られて供花を忘れたら菊芋の花を手折って墓前に生けて帰られたモノでした。本郷の菊坂は寺町で農家が菊を栽培して販売していたそうですが、菊芋なら花も芋も有益です。美人で才能にも恵まれた樋口一葉のような菊芋です。
イメージ 1
此れが庭で漸く咲き出した菊芋の花です。このお芋が血糖サプリメント人気№1なのです。花が終えたら芋を採取しようかな?
処で私の陰暦併用カレンダーによると9/20日は24節季の「燕帰る」月齢29で新月です。燕は南国から田植えの季節に日本にやって来て、子供を育てて再び南国に旅立つのですが、日本生まれの若者にすれば生国は日本なのですから「燕帰る」は親の事で「燕去る」とか「燕旅立つ」が正解だろうと思います。私の親友のI君の軽井沢の別荘で「燕」の旅立ちに遭遇した事があります浅間山の南麓です。
イメージ 2
此れは浅間山の南麓から集団で南国に帰ろうとしている燕です。
イメージ 3
喉元の朱がはっきりしているのは親鳥ですから「燕帰る」は正しいのですが朱が薄いのは今年生まれた若鳥ですから「燕去る」が適正な表現です。
イメージ 4
戸塚駅前のパチンコ店の珈琲自販機の傘の上で育った燕です。
イメージ 5
珈琲自販機の傘の上で育った燕も順調に育って秋になると、季節風に乗って南国に旅立ちます。戸塚は未だ自然が残されているので、観察の楽しみもあります。
イメージ 6
これは戸塚石前のパチンコ店の珈琲自販機の傘の上の燕の巣です。若鳥が産まれて育って十分役割を果たして立派に見えます。来年の田植えの季節になれば又同じ親が戻って来るのでしょうか?
電線や屋根の上に無数の燕が群れて上昇気流を待っているのです。時刻は夕方でしたから、猛禽類に襲われない夜中に台湾を目指して飛ぶのでしょう。
でも森昌子さんの演歌に「越冬燕」があります。昌子さんは「悲しみ本線日本海」等もヒットさせていますので、私は越冬燕」では無くて「越中燕」のような気がしています。今月越中八尾で「風の盆」を楽しんだのでしたがあの屋敷森の中に旅立つ事を忘れて越冬を覚悟した燕が居るのかもしれません。「越冬燕」とは病気や何かの事情が出来て南国に渡らずに残った燕、若しくは其処が居心地が良すぎて居残ってしまった燕の事でしょう。日本の家屋が温かくて食物にも事欠かなければ居残っってしまう燕も居そうです。
日本人は総じて燕を大切にしています身近に燕を観察しているので燕の深い情愛を理解しているからでしょう斉藤茂吉さんの母の挽歌は燕に託して万人の胸を打つ歌です。燕が巣作りする家は繁栄すると云います。「祖先が燕になって高砂の島に渡って富を運んで戻ってくる」と信じられたのかもしれません。
イメージ 7
此れはフィンランドの作家「オスカーワイルド」原作の「幸福な王子」の表紙写真出典アマゾンhttps://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%AD%90-%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89/dp/4893094874
北欧は日本に似ていることが時々指摘します。「幸福の皇子」は越冬燕の話です。公園の銅像の王子様の金の衣を燕が貧乏なこの家に運びます。お蔭で貧乏な子供は食べ物にも恵まれて生き延びます。ところが王子の金の衣が無くなってしまうと王子は自分の眼(ルビー」を持って行くように燕に指示します。王子は貧乏な子供が生き延びた事を悦びますが翌朝銅像の足許に燕が凍死している事実が発見されます。童話の最期がハッピーエンドで無く現実的なのはお国柄でしょうが。


「鮎」ラーメンの味

0
0
9/18日多摩川の鮎を食べようと登戸に出かけましたが、目指した「笙」(生田駅近く)」は開店は午後5時と案内されていました。屹度増水した多摩川の影響で鮎の仕入れが出来なかったのでしょう。
一度鮎が食べたいと思うと制御不能になってしまう私です。ネットで「多摩川+鮎+地名」で検索しました。地名の処に多摩川園とか二子多摩川とか和泉多摩川とか適当に入れて探してみました。結果二子多摩川に「鮎ラーメン」を見つけました。
イメージ 1
これは「鮎ラーメン」です600円写真出典「食べログ」此れは夜のメニューの塩ラーメンで、日中はつけ麺だけになります(1200円)
其処でワイフを誘って「にこたまに塩ラーメンを食べに行こう!」ネットには塩ラーメンの写真が載っていました。一見すると京都に「鰊そば」のような姿で、鰊の代わりに塩焼きの鮎が載っているのです。私は昭和50年代初め目黒の東が丘社宅に住んでいました。駒澤大学駅から地下鉄に乗れば直に双子多摩川で川を越せば川崎市高津です。
イメージ 2
右(西)のビルが玉川高島屋の本館で左が駐車場ビルこの駐車場ビルの東側に多摩川商店街があって其処に目標の「鮎ラーメン」がありました。
駒沢から上り電車に乗ればすぐに三軒茶屋で下り電車に乗れば双子多摩川で当時から「にこたま」には晴の日の語感が在ったのでした。ワイフも久々の「にこたま行き」は好感触のようです。自由が丘で乗り換えれて九品仏から「等々力」「上野毛」ワイフが女学生時代を過ごした駅を通過して双子多摩川に着けば、既に私達は土地感ゼロのお上りさん状態です。肝心の246号道路が頭上を走っています。加えて高島屋デパートが本館南館に加えて専門店モールや駐車場ビルが在るので、京都や横浜や日本橋店よりも巨大に見えます。
イメージ 3
多摩川高島屋専門店街ビル
本館の裏双子多摩川小学校の校門近くに双子多摩川通りがあります。ブランド通りが噓の様な昔ながらの商店街です。子供達の描いた絵が街を飾って懐かしさに満ちた通りです。通りをキョロキョロしながら歩いていると「鮎を焼く香ばしい香りが漂って来ました。カウンターが7席しかないラーメン店に「鮎」の字を抜いた暖簾が架っていました。店先には椅子が4脚置かれていて行列のお客の便宜を図っています。私達も並んでいる中に胃液も分泌されて鮎ラーメンを食べる体勢は用意されました。
イメージ 4
これは鮎ラーメンのある多摩川商店街通りです。ガス工事中の処の右側が目指す鮎ラーメンでした。
イメージ 5
下駄ばきマンションの1階は飲食店が多く鮎ラーメンの隣りはイタリアンでした。
何処から観ても30代の夫婦二人で店を切り盛りしているようです。店内の壁に高山の神社のお札が貼られていました。念の為にと思って「この鮎は多摩川産の鮎では無いの?」訊けば岐阜産だと云います。「長良川ですか?」訊き直せば「そうだ」と答えて「鮎はヤッパリ長良川だと云われます。
イメージ 6
通りには鮎の一夜干しの道具が置かれていました。
イメージ 11
鮎ラーメンのガラス戸に貼られた案内。夜は塩ラーメンで9月中の600円昼はつけ麺で1200円です。
イメージ 7
一見して夫婦と思われる二人で店を切り盛りしていました。女性は勘定やお茶出し、男性はラーメンを調理していました。手が空くと鮎の骨抜きをしていました。
イメージ 8
此れが私達が食べた鮎のつけ麺です。左端の竹椀に入っているのが漬け垂れで、鮎の骨の煮凝りでジェル状でした。隠れているのがご飯で鮎の骨の出汁で焚いています。ご飯の左が鮎骨の出汁でご飯に掛けて戴きます。香のモノは赤蕪漬けでした。
イメージ 9
これは鮎のつけ麺を戴いた後で用意された鮎の茶飯です。鮎の骨で採った出汁を漬けだれと一緒にご飯にかけて山椒を振って赤蕪漬けで戴きました。
長良川の源流は大日岳で同じひるが高原から庄川や宮川が流れ出し、高山を経て神通川に名を変えます。神通川や宮川の鮎と云わずに長良川の鮎というのは風評を意識しているのでしょう。
イメージ 10
此れは鮎ラーメンの店内に貼られていた高山に在る山桜神社の馬頭祭りの絵馬の手拭です。この二人は高山に強い愛着があるのでしょう。

どうしても食べてみたかった多摩川に戻ってきた鮎ですが登戸でも駄目二子多摩川でも駄目でした。
でも鮎は干しても鮎で味が濃くなったようです。次回は「塩ラーメン」の季節に来たいものです。来た道を戻って二子多摩川駅に向かいます。ワイフは「五島美術館のお庭に萩が咲いているかもよ!」言って等々力駅まで歩きたそうです。観れば高島屋の催事場では「大北海道展」を開催中との事。柳葉魚(ししゃも)かほっけでも買おうか思って入ってみました。


ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。





どうしても食べたたかった多摩川の鮎でしたがそれも敵いませんでした。

旅と民芸(柳宗悦)

0
0
9/20日出かけた目的の一つが横浜高島屋で開催される「柳宗悦展」を観る為でした。水曜日の午前10時に開店を待って高島屋に入りました。
イメージ 1
開店前の横浜高島屋。ブロンズ像は待ち合わせスポットでこの像の台座に「あら「今日は」/ 工藤健(KUDOU,Takeshi)(1937-)の1985年横浜高島屋開店25周年記念事業』と表示されていました。
イメージ 2
開店と同時に入ると美人の店員さんに一斉に挨拶されてドキドキしてしまいます。
高島屋の1階は化粧品売り場です。硝子戸が開くと同時に入店すると生きたマネキンのような美人が揃って挨拶してくれます。爺が恥ずかしげにマネキンの挨拶の放列を縫ってエレベーターに乗り込み8階の催事場に向かいます。8階催事場は「バーゲン品売り場」と「展覧会会場」が隣接しています。
イメージ 3
8階催事場に展覧会場があります。
駒場の日本民芸館には時々出かけますので、収納品は良く知っている積りです。でも「旅と民芸」の副題が付いている以上、柳宗悦氏が旅好きであった以上に訴えたいことが在るのでしょう。旅好きと云えば芭蕉が想い出されますが、旅をしなければ句作は生まれません。旅が趣味である以上に避けられない手段だったのでしょう。
イメージ 4
此れは芹沢圭介氏作日本民芸地図、マップ上にドットした民芸品は山形福島の密度が高くなっています。
イメージ 5
此れはポスターの背景に使われた上記日本民芸図です作者は芹沢圭介氏で同氏が日本民芸館に納めた染色品でしょう。原型は有田焼等で良く視ます。
展覧会場に入ると、日本全国の古地図が貼られていて、柳宗悦が好んだ民芸品を地図上で示してありました。
私の記憶では柳宗悦の生まれは鳥取です。鳥取や島根が多いのかと期待すれば明らかに一番多いのは山形で次いで福島です。山形福島は民芸王国の感がします。
倉敷に富山に鳥取今では日本各地に「民芸館」が在るのは柳宗悦の始めた民芸運動が共感を以って受け止められたその成果でしょう。私が社会人になって始めて柳宗悦の偉大さを教えられたのは鳥取信用金庫の理事長さんでした。というのは昭和50年代初頭私は鳥取信金から呼ばれて当時夢千代日記(吉永小百合主演』で人気が盛り上がってきた湯村温泉の看板旅館の建て替え資金の貸し出しの検討を依頼されたのでした。長銀には代理貸し制度が在ったので。長銀が鳥取信金を介して貸出すればニーズは満たせますが刈りいれ人は金利の他に鳥取信金に保証料を払わなければなりません。当時で0.3%が保証料でしたから、直接貸し出しの方が借入人にも喜ばれるし、湯村温泉の老舗旅館の建て替えの合理性判断も鳥取信金と長銀でたいして違わないものです。鳥取信金の理事長は一通りの説明を終えると「お昼でも案内しましょう」言って下さいました。お店は信金の真向かいにある「匠」と云う名の割烹でした。信金の説明では鳥取に柳宗悦の理解者であった医者が居て、そのコレクションを活かして匠と云う名の割烹を始めたのだそうです。同氏一族は「銀座8丁目銀座電通の並びに民芸品店も営んでいる」案内されました。昼も松葉蟹夜も松葉蟹を戴いて直接貸し出しが出来て”このお布団は小百合さんがお休みになられたお布団ですよ!」なんて言われて夢心地でありました。
福島三春の人形も現代三春で商われている張子人形に較べれば柳宗悦の審美眼に適った品は違います。
改めて驚いた民芸品が幾つも観ました。
一つが下の写真です。米俵の上に坐っておいでですから「大黒様」でしょう、魅了されるのは右手にクルス(十字架)を握っている事です。
イメージ 6
此れが米俵に坐っておいでの大黒様です。一見すると木彫のようですが大黒様のお顔を観ると砂の様な粒粒もあるので「鉄製(鋳物)かも知れません。何処で採取されたのか興味が尽きません。若しも隠れキリシタンの遺品であったなら・・・・。最高です。写真は公式絵葉書をスキャン。
イメージ 7
此れは「白掛け飴差市逗子甕」です。形からして沖縄のお墓です。この白い甕に水葬して洗われた遺骨を拾って納めたのでしょう。私のように頭が大きいと頭蓋骨だけで満杯になってしまいそうです。
イメージ 8
これは昆虫図です。馬追いと蟋蟀を横目に蝦蟇蛙が冬眠に向かう様な図で伊藤若冲にもありそうな名作です。

芭蕉が旅をしたのは句作のインスピレーションを得る為だったのでしょう。柳宗悦が旅をしたのは素晴らしい民芸品を探して古街道を巡ったのでしょう。木喰仏を山梨で見つけた時の感動が推し量られます。
イメージ 9
此方が柳宗悦が山梨の丸畑で見つけた木喰上人自刻象数ある木喰自刻像の中で一番有名な像です。
隠れキリシタンに匂いのする大黒様を見つけた時の感動は如何許りだったか?想像するのは楽しい事でした。

栗きんとんの商標権

0
0
八百屋の店先に栗の実が目立つようになりました。横浜の八百屋では茨城産が主流です。茨城産は大半が里栗で田圃を埋め立てたり野菜畑に栗の木を植えたモノですから大きな実の割に水っぽい印象があります。茨城のゴルフ場の帰りで良く見かけたのでしたが殆ど買いませんでした。美味しい栗は「山栗」ですから、木曾の中津川や恵那上田から小布施にかけての明科郡に勝る栗は無いと確信しています。今頃は桜井丹精堂やら小布施堂やらが栗の味を競っていることでしょう。童謡「里の秋」で謳われているように、日本人にとって栗は縄文時代のDNAに刻まれた食品ですから哀愁が込められています。栗が無ければ縄文時代人は生きながらえなかったでしょうから、日本のルーツは弥生文化とか古墳文化となって陰影の浅いモノになってしまった事でしょう。極端な事を云えば我国神社が伊勢神宮や三輪大社だけで、諏訪大社も三島大社も鹿島神宮も無い事になってしまいます。寂しい限りです。
相模国にも栗の産地があります。殆どが大山や丹沢の山麓です。少し離れますが茅ヶ崎の里山公園や300クラブの近隣には「栗拾い農園」もあります。9/20日高島屋に行きましたので和菓子フロアーに行って中津川の「すや」さんの栗きんとんを買い求めました。昭和30年代私は祖母に連れられて中津川に在る叔父のお寺に良く出かけました。お寺の名前は「大石山宗泉寺」で叔父の名は「大石好文」と云いました私の父は僧侶としての地位はイマイチでしたが叔父や叔母の力があったので、地方に住職ポストが空くと次々に弟を晋山(住職にする事)させまあした。その場合先住住職の一族からお嫁さんを戴き婿養子に入ったので下から苗字が変わりました。その宗泉寺の檀家が「すや」さんでしたから、自ずとお菓子と云えばすやの「栗きんとん」戴きました。今想い起せば贅沢この上ない事です。
栗きんとんは見た目も美しいし茶菓子には最適ですから、すやが独自に開発したのかというと、そんなことはありませんでした。旧家では何処でも自家製の栗きんとんを作っていたのです。栗を茹でて鬼皮と渋皮を剥いで、裏漉ししてできたきんとんを巾着に絞れば栗きんとんが出来ます。
でも、「すや」はいち早くこの栗きんとんを中津川宿の名物にしてうりだしたのでした、
広重もすやの栗きんとんを戴いたようで浮世絵に残しています。今ではすやだけでなく「南陽軒」とか「松月堂」等が進出してすやの地位を脅かしているようです。ネットでは栗きんとんのランキングが盛んです。「中津川栗きんとんのランキングhttps://travel-noted.jp/posts/664
ニューフェースが追い上げてもすやの評価はびくともしないでしょう。何故なら高島屋や西武等有名百貨店は「すや」しか扱っていないからです。一方「たねや」さんや日影茶屋等は栗きんとんを作っています。どれもすやの栗きんとんに酷似した巾着デザインです。既に400年は経過している事等の理由で商標権も成立していないのでしょう。
洋菓子の栗と云えばモンブランです。
恵那や

猿梨の味棗の味

0
0
庭の棗も色づいて来ました子供の頃はお八に「林檎みたいだ」喜んで口にしたものでしたが、今はもう食べられません。何時しか口が肥えてしまって、棗は薬で食品では無くなってしまったようです。棗と云うと韓国料理の参鶏湯(サムゲタン)に必ず入っています。北京の市場に行けば山と積まれて乾燥棗が商われています。漢方薬は酸棗仁湯(サンソウニントウ)で、薬効は老化防止に、体力の低下や睡眠不足ですから、陽から陰に季節が変わる今頃に最適な薬膳料理になります。韓国人は夏場に衰えた体力を参鶏湯で回復させる作戦なのでしょう。
我家の棗も既に樹齢50年で風格も出て来ました。元々枝が細い上に強靱な木質なので、ビッシリ実がなると枝を下げて重そうです。台風18号でも地面を覆う程に実が落ちてしまいましたがマダマダ重そうにしています。
イメージ 1
我家の棗、青リンゴ状態から赤く変じて食べ頃を教えています。取敢えずは中国人の真似をして乾燥させて保存し、雑炊に入れて食べる事にしましょうか?
イメージ 2
風が吹くたびに地面に落ちた棗の実
美味しければ食べてあげるのに思いながら美味しい食べ方を考えています。
一番美味しいのは生の儘齧るのですが、中央に二つも種が在って果肉が薄いのが欠点です。皮と3ミリほどの果肉を齧って口にすると。青リンゴの香りが口中に広がります。北部中国の市場を観ていると乾燥した棗を甕に入れて販売しています。訊けば棗茶にしたり甘露煮にするのだそうです。北部中国は冬がきついので喉飴代わりに棗の甘露煮を食べるのでしょう。中国の遺跡からは棗が良く出土するそうで。太古から不老効果があると信じられたのですから。後期高齢者入りした私には適当な薬膳です。毎朝のようにプレーンをヨーグトと一緒に食べているのですが、プレーンより棗の方が薬効は高そうな気がします。
イメージ 3
此れが棗の実の断面です。芯にピーナッツ程の種があります。種さえ無ければ食べ易いのですが・・・。
棗をフードプロセッサーに入れて蜂蜜を入れて飲み物を作ったら活けそうな気もします。ネットで誰か試していないか確認したのですが。誰も試していないようです。棗を生姜と蜂蜜を入れてフードプロセッサーで攪拌したら美味しくて薬膳にもなるドリンクが出来そうです。そうでもしないと我家の棗は活かしきれそうもありません。
処で、突然に棗の食べ方に関心が湧いたのには理由がありました。
イメージ 4
青リンゴ状態の若い棗を花瓶に活けてみました。
イメージ 5
赤く熟した棗は野草と一緒に花瓶に活けました。

イメージ 6
此れは横浜高島屋で開催された東北の物産展です。加山又造展の会場と同じフロアーでした。
高島屋の催事場で東北の物産展が開かれました。福島のコーナーで「猿梨」の実を観たのです。試食を奨められて一つ戴きました。見た目は棗の様な俵型で小さな実です。「屹度棗の様に中に種が隠れているのだろう」思いながら恐る恐る齧ってみました。そうしたら意外に柔らかくて種も芯も無いのです。加えて微妙に酸っぱいし甘味もあってキウィフルーツのようでした。商品の中に猿梨のドリンクがありましたので飲んでみました。「蜂蜜で飲み易くしてある」説明してくれました。「これは美味しい疲れを取るには最高のドリンクだ」感心しました。そんな次第で棗を使って猿梨ドリンクが出来れば最高だと思ったのでした。
イメージ 7
これは福島県の阿武隈山地にある「玉川村」の猿梨販売コーナーです。実は樹脂パックに入っています(これで600円です)写真の左端がその断面で見た目も味もキウィフルーツです。缶ジュースは130円でした。ジュースは蜂蜜で飲み易くしていました。
今年は5月に残雪の飯豊山の麓に出かけました。民宿の庭に白い花が咲いていました。訊けば「猿梨だ!」教えてくれました。『猿の好物だし雑木なので伐採しないのだ』そんなニュアンスでしたが。残雪の残る飯豊山を背景にすると実に美しい花木でした。
イメージ 8
此れは今年の5月山形県の飯豊村で見つけた白い花、私はサクランボと思ったのですが。マタギの叔父さんから”猿梨で、猿が好んで食べるし、猿の食べ物として残しているのだ”教わりました。猿梨の花樹下の家は廃屋になって朽ちていました。
イメージ 9
飯豊山の残雪を背景にすると猿梨の花は良いモノです。向こうの山を越えれば喜多方でこの道は栃木県境の桧枝岐迄続きます。5月はこの林道は閉鎖されていましたがもうじき紅葉のブナ林を縫って走られるのでしょう。
道の両端に咲く水仙は故郷を捨てた人の庭に咲いていたモノを、飯豊村村民が道に活けて増やしたものだそうです。



ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。



Viewing all 2868 articles
Browse latest View live




Latest Images