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朝顔・昼顔・夕顔

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日がドンドン短くなってきました。朝は遅いし、夕暮れは思いの外早くなってきました。太陽を命の源にしている植物は敏感に反応します。ようやく我家の菊も咲き出しました。朝顔も花数が多くなってドンドン種を用意しています。
私も来年の為に種の採取を怠りません。朝顔の種を採取しながら想いました。歳時記では朝顔は秋です。では夕顔や昼顔は夏なのだろうか?
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秋になって花数も増え目立ってきた朝顔です。花を観れば朝顔の季題は秋である事に納得です。蝶々も夏型は大きいモノの数が少なく秋型は数が多く小型です。
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此れは今夏庭で咲いた夕顔です。園芸店では「夜顔」と呼んでいます。此れは米国産の園芸花です。源氏物語の夕顔は瓜科の植物で、実は干瓢になります。有名なの花の事でこんなに綺麗では無く鄙びた花です。久隅守景の描いた夕顔納涼図(国宝)のそれが伝統の夕顔です。
結論から云えば「朝顔」は秋なのに昼顔は初夏で夕顔は盛夏です。尤もこれは花を指したもので、「夕顔の実」となると初秋なのでしょう。今頃は畑に出れば収穫し忘れたかのように夕顔や冬瓜の実がゴロゴロしていますし。八百屋の店先にもラクビ―ボールのような実が並んでいます。
南瓜も冬瓜も干瓢も瓜科の野菜は寒さに強いので。氷点下になるまで実は畑に放置されています。忘れられた様に転がっている干瓢の実や冬瓜の実になると屹度「冬の季題」になるのでしょう。今年は庭で土手南瓜を収穫しました。因みに「土手南瓜」の季語を調べると。一般には南瓜は秋の季語ですが土手南瓜になると「冬」の季語のようです。
木瓜の木にぶら下りたる土手南瓜
ホウトウなら主役は我なり土手南瓜。(9/23日夕食に際して)
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これは畑に忘れられたように転がっている南瓜です。撮影場所慶応大学藤沢校舎に近い藤沢市遠藤の畑。
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これは干瓢の実です。霜が降りるまで畑に放置しておきます。(撮影場所慶応藤沢校舎に近い小出川野菜畑)畔に咲いているのは彼岸花です。
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此れは三浦の冬瓜の畑です。まるでラクビ―ボールですから、近くの大浦高校のラガーマンがツイツイ投げたりキックしたりしたくなるでしょう。でも実際に行えば重たいので怪我をしてしまいます。


南瓜も冬瓜も干瓢(夕顔)も瓜科の植物です。瓜科の植物は一年生草本ですから。夏を過ぎれば種を残し事に専念します。結果花数が増え種も増えます。庭の菊や茗荷や藤袴は多年生草本ですから種を増やさなくても根や茎や球根を充実させれば充分です。私も庭の草花に感謝の念を込めて種を取る事にしましょう。先ずは朝顔次いで夜顔そして「来年は昼顔も咲かせよう」思って線路脇に行けば昼顔は未だ盛んに咲いていて種の気配はありませんでした。鳳仙花が”私の種も取ってね”訴えて来ました。
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線路際に咲く昼顔の花、秋になって花数が増え目立って来たようです。
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庭に咲いていた朝顔も種を収穫季節になりました。種の脇には空蝉かと思ったら羽化する前の蝉の蛹が居ました。
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此れは夜顔の種です。収穫するには未だ一月は早いようです。
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此れは鳳仙花です。種の収穫は種を包んだ苞が透明になって中のい種が透けて見え始めてからです。
今年は戸塚小学校の先生に教えられました大きな朝顔の花を咲かせるには毎年新しい種を購入して栽培するのが良いと。園芸種は毎年種を取って栽培すると年々本来の性格が顕現して。花は小さく美しさに欠けてしまうと・・・・。
それも一理あるとはいえ、毎年花を楽しませて貰うと翌年もその種を撒きたいと思ってしまいます。小さい朝顔なら「星朝顔」が思いつきます。星朝顔は薩摩芋科の植物で南部アメリカが原産の帰化植物だそうです。
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此れが星朝顔の花です。一見すると朝顔の野生種のように見えますが実は薩摩芋の仲間だそうです。確かに薩摩芋も蔓を放置しておくと星朝顔に良く似た花を付けます。今度星朝顔の根っこを掘って薩摩芋が成って居ないか、確認してみましょう。星朝顔が絡んでいるのは背高泡立ち草ですし、米国の帰化植物が原っぱを占拠しています。





小出川の彼岸花2017

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テレビで報道されていました。「天皇陛下が高麗川の巾着田を訪問され彼岸花をご鑑賞された」私は台風18号一過の9/16日に行こうと思ったのでしたが、鮎食べたさに多摩川に出かけてしまいました。私の感覚では彼岸花は彼岸入りの直前が見頃と思っていたのですが。テレビで見る限りでは藤沢の彼岸花は9/23日彼岸の中日でも間に合いそうです。そこでワイフを誘って藤沢市遠藤に在る小出川堰堤に出かけました。
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此れが小出川彼岸花祭りのチラシです。今年は祭事開始後10年目の記念事業として「スタンプラリー」を始めました。慶応大学の学生が協力しているそうです。私は右(北)から左(南)に向かって歩き出しました。実はこのルートが絶景ルートなのです。
小出川は相模川の支流で大庭城跡を水源にしています。西に慶応大学文教大学の立地している丘陵。東に300クラブ(東急系の名門ゴルフ場や茅ヶ崎里山公園と文教大学が連担している丘があります。その山間を北から南に流れる運河の様な小河川です。勿論河川に沿って美田が広がっています。開墾の秘話も伝えられています。此処は相模型双体道祖神の故郷であり庚申塔も多いのです。道祖神と庚申塔を1基に為しているなど近世の合理精神にも満ちています。
私は地下鉄で戸塚駅から湘南平に行き1番のバスで慶応大学に向かいます。
天皇陛下のニュースで彼岸花を観たくなった人が多くなったためか?土曜日なのにバスは積み残しが出るほど超満員です。慶応大学の周囲はズット家畜の糞尿臭が漂っていましたが、住宅開発や病院や老健施設が進出して様変わりです。この丘陵に上れば紫野の彼方に富士山が眺められる絶景なのです。
私達は小出川を流れに沿って北から南に向かいます。慶応大学の在るのが藤沢市遠藤で南に向かうと茅ヶ崎市芹沢寒川町おおぞうに繋がります全長3キロ略東海道と並行して歩く事になりますが。所々茶屋が出ていますし日本武尊の故事の伝承される「腰掛神社」や浄真寺(大岡越前守の墓)等名所も散在しています。疲れれば辻堂駅茅ヶ崎駅に出る事も容易です。

「蟹鍋」の奨め

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鎌倉学園高校が神奈川県秋季野球の準決勝で横綱横浜高校にコールド勝しました。でも続く準決勝で慶応に1対0で惜敗してしまいました。この夏も高校野球で熱くなりました。ソロソロクールダウンしなければなりません。クールダウンが必要なのは体も同様です。クールダウンを促す食材は総じて白いモノです。茄子や大根に白菜に蓮根に自然薯に鱈等々白い食材は数多くあります。小出川の産直で零余子(ムカゴ)を求めましたので零余子ご飯にして貰いました。
例年我が庭には零余子が沢山取れるのですが。今年は夕顔と朝顔を優遇して自然薯は圧迫して来たのです。それでも秋が深まると零余子を食べたくなるし。自然薯の葉っぱが狐の顔に似て黄色くなるのが楽しみなのです。
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此れは今年の自然薯に出来た零余子です。今年は苛めたので少ししか収穫できそうにありません。
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こうなれば零余子は収穫期です。零余子は芽胞であって、種ではありません。芽胞とは胞子のようなもので、ユリ科植物も芽胞で増殖します。塩茹でしても醤油煮しても美味しく酒の肴に最適です粋な小料理屋で女将がサッと出してくれたりします。
そして主菜は「蟹鍋」です。蟹鍋と云っても松葉蟹や越前蟹を使う訳ではありません。土鍋に白菜の芯を入れて長ネギを入れて里芋を入れて鳥肉を入れて最後に蟹缶を開けて肉も汁も入れて加熱すれば蟹鍋の出来上がりです。
此れなら。ご飯も主菜もクールダウンに格好の食べ物です。
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此れが今晩のオカズのエコノミー「蟹鍋」です。
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ご飯は零余子ご飯です。黒豆かと思って噛むとヌルットした自然薯の食感がして楽しくなります。次回は牛蒡の千切りか、銀杏を入れて、ご飯を炊いてみましょう。

「風の盆」の回り灯篭つくり

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9月1日に越中八尾に「風の盆」を観に行ったことは既にブログアップしました。旅行の想い出を大事にする為に最初は紙風船を作ったのでしたが、作成途中に「回り灯籠」にしたら・・・・。思いつきました。
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此れが最初に作った紙風船型雪洞です。LEDが3色に変化します。絵が流れてしまっているのはパラフィン紙の上に水彩で描いた後に紙の皴を伸ばそうと霧吹きした処絵具や墨が流れてしまったのです。俳句は「お揃いの 浴衣嬉しや 風の盆」です。
早速材料を買いに横浜駅東口の「ゆざわや」(手芸品ショップ)に出かけました。次いで大手家電店に行き廻る動力になる電球を求めに行きました。でも、家電店では電球は総てLEDになってしまい。白熱電球やそのソケットは売っていませんでした。加えて店員は「そんなモノはホームセンターで売っていますよ!」言います。大手家電の一人勝ち状態は店員も横柄にさせてしまったようです。電球は50円ソケットは650円でした。
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これが「回り灯籠」の動力装置です。白色電球の上に笠を置き笠の上部に風車を作ります。対流で笠が廻る仕掛けです。
要するに昔の電気スタンドを作ってその笠に「風の盆」の絵を描くのです。
笠の上部を風車状にしておけば電球の放射熱によって起る対流で傘が廻る仕掛けです。

中秋祭に想う

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私には毎月二か所に宿題を提出しなければなりません。どちらも先方から依頼されたのではなく、私が提案して実現したのです。ですから「提案型宿題」と云えます。一つが町内のNPО「助け合い戸塚」の運営する「若葉」の遊戯室に「倉田歳時記」と云ったテーマで写真と随筆を懸けて貰うのです。9月は「柏尾川の追い込み漁」を描きました。ホッとしていたらもう10月です。10月のパネルを作って差し替えなくてはなりません。
もう一つが町内のデーサービス施設のランチルームの献立ボードを飾る絵を届けるのです。此方の絵は昨年一年歳時記感覚で作って、年末12枚揃ったところで。翌年(2017年)の陰暦兼用カレンダーの絵に転用しました。陰暦カレンダーですから月齢の他24節季72候や各地のお祭りを書き込みました。自分の関心ある事は友人も関心が在る筈だ確信しているからです。9月は『風の盆』の絵を描いて届けました。さて10月のお祭り絵に差し替えなくてはなりません。10月と云えばお月見です。中秋祭です。鎌倉の鶴岡八幡宮の中秋祭は法生会を兼ねて居て、若宮の庭に鈴虫を放しています。餌(鰹節や煮干」をやれば何れ鈴虫が自生する事でしょう。日本各地に月見の名所があります。京都の渡月橋もその下流の桂離宮も月見をする為に作られた離宮です。でも、イマイチ有名ではないのはお祭りが無い為です。『お月見+お祭り+歴史』三つの言葉をインプットして私の脳に検索してみました。その結果出て来たのが宇治神社(古式には兎道神社)です。藤原氏一族は宇治に別荘と一族の墓所を作りました。藤原道長が亡くなると長子の頼家は平等院を建立して父の冥福を祈ります。宇治が月見の名所であったからでしょう。
『この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば』
は権勢を誇った道長の代表歌として著名ですが、歌った直後に満月は徐々に欠けて藤原の天下は終わってしまいました。具体的には一条天皇の中宮になった彰子について、小一条院の妻となった寛子、後朱雀天皇の中宮・嬉子、妍子ら娘たちに先立たれ、その後も入内した娘たちからは皇子が生まれなかったことで、道長によって頂点を迎えた摂関政治は月の欠けるが如く消えてゆき、院政時代に移行してしまいます。

虫隠れる

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庭先の女郎蜘蛛が大きくなってきました。お隣の白樫の大木の梢で百舌が啼き出しました。季節の巡りは早いモノです馴れ親しんだ修証義(曹洞宗の教義を纏めた和製のお経)のフレーズ”命は光陰に移されて暫くも止め難し、露命如何なる道の草にか落ちん”がつくづく納得です早春の「啓蟄」が「冬籠りの虫が這い出る」の季節であるならば「冬籠りの為に虫が隠れる」のが「蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)」です。今秋では一昨日でした。
ボヤボヤしていて小春日和を楽しんでいると百舌に食われてしまいます。百舌なら一瞬ですが雀蜂に食われるのはいたそうです。72候の啓蟄は土中に隠れていた虫が「御無沙汰しました」出て来るのですから、解り易いのですが、「蟄虫坏戸」になると感心します。虫が土中に隠れるだけでなくて戸を塞ぐのです。
イメージ 1彼岸花の前で網を張って虫を捕獲しようとする女郎蜘蛛。
イメージ 2女郎蜘蛛の網に懸ってしまった麦藁蜻蛉
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此れは南軽井沢の休耕田に自生している女郎蜘蛛の巣です。朝露が蜘蛛の巣をレースの様に美しく飾っています。陽が上れば消えてしまいます。生物が豊富だからです。
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此れは可愛い顔をして居ながら獰猛な百舌です。昆虫や蜥蜴を捕獲して枯れ木の梢に刺して冬の食糧を備蓄します。モズのはやにえ(速贄)と云います。梢の先で叫ぶように啼くのは縄張りを主張していると云われます。モズの高鳴きが響くともうじきに冬が来ます。
虫さんも百舌など天敵が出現する前に子孫を残して土中に隠れなくてはなりませません。
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私のパソコンデスクの前に出現したキリギリス。迂闊にガラス戸を締めると圧死させてしまいます。
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此方は私のPCのキーボードの上に来た朝鮮蟷螂です。こんなところに獲物はいませんよ!
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これは我家の前の道路に出現した大蟷螂こんなところで大見得を切っていると轢かれてしまいますよ!
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我家前の道路で車に轢かれてしまった蟷螂。
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此方は生垣にもう出来ていた朝鮮蟷螂の卵です。年内に無事、産卵を終えれば蟷螂のお母さんはお役目を果たした事になります。来春太陽の温かさがが卵の羽化を促してくれます。
虫も種を来年に残すことが大義です。天敵の鳥にもスズメバチにも捕食されないで卵で越冬するモノも居れば成中の儘木の葉の下や木の洞で越冬するモノも居ます。考えてみれば鳥や他の昆虫に捕食される虫も自然のサイクルに組み込まれています。
しかし。自動車のタイヤに轢かれたり殺虫剤で殺される虫は気の毒と云うか死んでも死にきれないものがありそうです。
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民家は長い廊下と座敷の間を雨戸で塞いでいます。雨戸の敷居に虫が居ないか確認して閉めないと、戸が虫を挟んでしまいます。「蟄虫坏戸」はそんな優しに満ちた72候です。
「一寸の虫にも五分の魂」命を大切に暮らしてきた日本人は虫がそんな不条理な死に方をしないように、「雨戸を閉める時にも虫を殺さないように気配りをしたのでしょう。そうした優しさが日本文化を育てて来ました。大量の農薬を散布して虫を虐殺するが如き蛮行は責められるべきであります。せめて自宅前の道路で圧死した遺骸は見たくありません。我が庭の主だった蝦蟇ガエルも自宅前で轢かれてしまいました。お墓は蝦蟇君の棲んでいた露草の陰にあります。墓標は弥勒仏です。
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虫取りに興じる坊や
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虫を食べる蜥蜴も悪がきに捕まったら不運です。”出来れば優しい餓鬼であって欲しい”祈るだけでしょう。

早慶に農業経営学部が出来る日

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9/30日(土)に日本文化研究会の秋のセミナーが始まりました。二か月振りに日吉のキャンバスに入りました。土曜日ですから公開講座も盛んに開かれています。心なしか黄ばんだ銀杏の葉を背景に公開講座の看板が立っています。大学の構内に入ると気持ちも華やいで来ます。
昨年4/1に農地法が改正され、従来お百姓しか農地を所有できなかったのが「農業生産法人」ならば「農地所有」が出来るようになりました。安倍首相の規制緩和の一環で、お百姓でなくても、食品メーカーや種苗メーカーが農業法人を設立すれば農地を所有で来て、安定的に農業を営めるのです。
慶応大学には農学部がありません。キッコーマンやサントリーや武田薬品が農業法人を設立して、安全で安定的な生産をしようとした時、大学はそのニーズに応える必要があります。慶応大学や早稲田大学には「農業経営学部」を設立する必然性があるのです。と云うのは日本の経済学は江戸時代の農業経営学に端を発しているのです。

最近の業績では歴史人口学者の速水融氏は、日本の江戸時代の農業の変革を「勤勉革命」と呼び『生産向上』を解説しています。ハード面では「大量の家畜 使用」をし、脱穀や田植え等で有効な農業用具を発明したのでした。また農本思想家を排出し、勤勉に働く事の意義を説きました。具体的には二宮尊徳の思想は現代人も多く信奉していますし、それは大規模農業経営に適していた。越中・越後に豪農が出現しますが、その思想的な裏付けは彼等農本主義者が為したのでした。
慶応大学には小泉信三先生以来マルクス経済学の伝統があり現役では大西 広教授がご活躍です。安藤昌益、帆足万里と云った農本主義革命思想家を発見しておいでです。一方近代経済学の祖マックスウェーバーの手法に倣って江戸時代を見渡すと、石田梅岩を発見しています。一般に「石門心学」と呼ばれる思想は「商売に奉公する事が”神・儒・仏”の道に適っていると説いた思想は「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を思わせます。梅岩は『正直 倹約 勤勉』の三徳の実践を説いたわけですが。一方三河の禅僧鈴木正三は平易な仮名草子を使って『農業即仏道』を説きました。
私の大学での指導教授で居られた島崎教授は鈴木正三から山岸会(農業・牧畜業を基盤とする ユートピアをめざす農事組合法人で三重にヒッピー共同体(原始共産主義)を実践しました。
慶応大学が総合大学であるためには農業の門が今も閉ざされているのです。
先学の業績を引き継ぎ現代社会経済の期待に応える為にも「農業経営学」を研究してほしいモノであります。幸いに慶応大学には医学部があり、北里大学が友好関係にあるなど恵まれています。
日大の様に「日大 生物資源科学部」(昔は農学部でしたが、種の改良が進み園芸作物や家畜や水産資源

実り過ぎた棗を如何する?

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私が庭先に棗の木を植えたのは、中津川の宗泉寺で、食べた記憶があったからです。昭和30年代は総じて貧じく、食べるモノも少なかったの、何時でも腹を空かせていました。桑の実も採って食べたし、木通も食べました。木通や桑に較べれば棗はご馳走でしたから、良い思い出だけがありました。そこで庭に1本植えたのでした。40年近く経つともう大木です。枝が撓むほどに実がなっています。鳥も食べに来ません。来るのは台湾リスだけです。
折角なってくれたのですし、薬膳でもあるので、食べてあげようと思います。一番美味しいのは生食ですが。青リンゴのような味と食感がありますが。種が邪魔です。さして果肉も厚くないので、食べるのが面倒になって来ます。
其処で干して、冬場に食べる雑炊に薬膳として入れることにしました、何時もの雑炊が”クッパ”になりますし。中華のお粥にも使えそうです。
其処で陰干しする事にしました。でも梅の事を思いだして果実酒にもしてみる事にしました。梅酒は今年も作りましたから、もう一つ棗酒を作ってみる事にしました。

新ジャガイモがで無い訳。

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秋はお芋の美味しい季節です。パン屋さんではスィートポテトパン、スーパーやコンビニではレジの傍で「焼き芋」を商っています。私は焼き芋好きですからいろいろ試しています。
磁器製のお鍋に石を敷きその上にお芋を並べて1時間もコンロに掛ければホクホクの意志焼き芋の完成です
万葉人が想いを寄せる異性を「いも/妹」と呼んだのは、妹と芋が同じ訓読みで情愛を通じる言葉だったからではないかと思います。語感からすると、「紅乙女」が一番に万葉人感覚に近いようです。
でも、私は相模生まれの相模育ちですからお芋と云えば「金時芋」です。というのは金時芋は坂田金時(金太郎)の育った足柄郡が故郷と思っているからです。
でも、最近は様々な薩摩芋がスーパーで売られています。一番人気で幅を利かせているのは「安納芋」のようです。鹿児島のシラス台地で美味しい野菜が出来る筈無い、あそこは霧島山と桜島の火山灰台地ですから、砂地に適している薩摩芋が美味しく出来る筈ない」思っていました。そこで確認すると。安納とは種子島の安納地区の事で、鹿児島では無いようです。でも狭い種子島ですから量産に問題があります。少量生産で糖度も常識外れに高いので、価格も高いのでしょう。試に安納芋で焼き芋を作ってみたのですが水っぽくてホクホク感が全くないのです。焼き芋の絶対条件はホクホク感で次いで甘い事です。安納芋の焼き芋は「甘い里芋」のようです。」です。シラス台地がお芋に適している筈無い思って調べると主産地は種子島です。砂地の種子島なら美味しいお芋が出来る筈です。
スーパーで

2018年版陰暦カレンダー作成に着手

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もう2017年のカレンダーも開いていないのは2枚を残すだけになってしまいました。齢と共に日月の進む速度は加速するようです。修証義(曹洞宗のお経)のフレーズ”光陰は、矢よりも迅やかなり 高校の英語の授業でTime flies like an arrow (時は矢のように飛ぶ)が出て来ました。曹洞宗のお坊さんがパクッタとは思えませんので日欧同じ感覚なのでしょう。修証義はこの後”紅顔何処にか去りにし、尋ねんとするに勝跡なし”と続きます。”紅顔の美少年も時間が経てば白髪の老人になっている”の意味で歳月の経つのは速いので怠りなく修行に励みなさい”の意味でしょう。
還暦を過ぎて、病気に罹って漸く修証義の意味が身近に感じられるようになりました。
時間を大切に過ごすには地球の営みに自らもあわせて日々を過すライフスタイルが勝っているように思います。
偶々親友のI君が江戸時代の暦や時間の講義をしてくれたので、私は陰暦カレンダーを一昨年に作成しました。昨年は20部作成して、日頃お世話になっている人に贈呈しました。
陰暦カレンダーを作成する作業も大変なモノで、早目に着手しないと年内に届けられません。自分が使うものですから。使い勝っては『自己中』です。私の興味がある事は友人も興味があるに決まっている、そんな前提で作成します。
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此れが今年使っている陰暦カレンダーです。絵は2016年に描いた歳時記風の絵を使い。暦は旭川情報さんのサービスを利用させて貰いました。右にチベットのカレンダーを吊るしているのは、時々太陽暦で再確認する為です。
暦自体はネットで無料のサイトを探しました。結果旭川情報ネットhttp://www.ajnet.ne.jp/diary/?yy=2017&mm=03&youbi=0&history=-1を利用しました。同社の暦に24節季72候や全国お祭りを書き込み暦は完成です。
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此れが2018年陰暦カレンダーの神無月(10月)です旭川情報さんのデータに72候とお祭り予定を書き込みました。
そしてカレンダーの12枚の絵です。今年のカレンダーの絵は歳時記風に描いた自作の絵を載せました。来年の絵は全国のお祭りの絵です。9月は「越中八尾の風の盆」を載せます。10月は京都宇治神社の中秋祭を載せます。11月は「唐津おくんち」を12月は輪島の「あえのこと」を予定しています。
年内にカレンダーを届けるには年内に12枚の絵を完成させないと間に合いません。
昨年は全部用意してからが大変でした。絵の裏に月曜表を印刷しなければなりません。11月の絵の裏には12月の月曜表を印刷しなければなりません。
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此れは2018年の神無月です。ダイソーのカレンダーの上に絵と暦を貼りました。
昨年一番困ったのは、製本に際して事務コンビニのキンコーズに発注した事でした。裏表のチェックが大変だった事と、思いのほか費用が掛かったのでした。加えて町内のデーサービスにあげた処、好評で”来年も作るのなら、実費は出すので自分の分も用意してくれ”予約が入っているのです。今年は25部は作らないといけないようです。
簡単に安く作る工夫は欠かせません。その結果が既成の100円カレンダーの上に貼る方法なのです。こうすれば陰暦カレンダーを捲れば下に陽暦カレンダーを確認できる便利さも併せ持っています。



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平山郁夫の遺訓「伝統の継承」(素心伝心)

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10/3日東京芸大美術館に出かけました。上野まで出かけると欲張って東博の「運慶展」と併せて見学する事にしました。午前中に芸大美術館、ランチは芸大の学生食堂でとって、午後は東博の予定です。
朝10時には上野ラインに乗って11時に芸大美術館に入りました。歩きながら考えます。
芸大美術館のポスターです。専門大学の美術館が作成したポスターですから等閑には見られません。
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此れが芸大美術館で開催されている「素心伝心」クローン文化展のポスターです。
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芸大美術館は右です。素心伝心のポスターの奥が芸大の彫塑教室植え込みの中にロダンのゲーテ像や岡倉天心像があります。ミニバスの喫茶店とタコス店が出ていました。
真ん中に国宝の法隆寺釈迦三尊像が置かれて、四隅に「素心伝心」と書かれています。緑地にピンクの切紙が散っていて無気味なデザインです。
「以心伝心」なら誰でも解ります。禅の真髄を伝える言葉です。以心では無くて素心なのです。素心は屹度素直な心の意味で「本心」とか「偽りの無い「飾らない心」の意味でしょう。禅の真髄を弟子に伝える様に文化財の真髄を伝えようとしているのでしょうか?
『釈迦三尊の姿を通して釈迦三尊の本心を伝えたい』そんな意味なのでしょう。
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此れが新薬師寺に祀られていた香薬師像です。二度の盗難に遭い、なくなった儘です。東博は写真等を素材に複製し、現在は複製が鎌倉東慶寺や東博にあります。この事件を切っ掛けに東博は国宝を摸刻し始めたと思われます。それは技術の解明と技の伝承をもたらします。写真出典(東慶寺)https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%83%8F&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=0&oq=%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB&at=s&ai=MfAfZ4IBRoSvbOBnFqwkOA&ts=2527&fr=top_ga1_sa

実は私はテレビで当展覧会を知っていたのです。テレビでは「クローン文化財の展示」としていました。東京芸大では昔から文化財の複製を真剣に取り組んで来ました。法隆寺宝物館で拝観する「百済観音」も芸大による複製品です。注文は東博でも芸大が複製すれば技術が伝承できます。複製を真剣に取り組んできた発端は多分新薬師寺の香薬師像の盗難紛失事件でしょう。会津八一を夢中にさせた美しく伝説に満ちた薬師像を復刻させたいと写真をもとに取り組んだ結果3体の摸刻像が出来ました。”仏像の形は摸せても、仏像の心や技術は伝えられない”批判や自省が生じます。技術を伝えるには最新の科学が有効でした。素材の分析や製法の解析は科学の力で解明されました、特に昨今の3D(立体解析)は有効でした。何しろ形は全く同じものが出来るようになったからです。テレビでは3Dで再生した仏像を「クローン」文化財と呼んでいました。クローンで不足しているのは「素心」で素心を伝えて初めて伝統文化財の価値が解るし、伝統の承継が出来る、と云いたいのでしょう。
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左が今回の展示を推進した宮廻正明芸大学長、パネルはミャンマーのパガン遺跡の修復に貢献した事からミャンマー政府から顕彰された時のもの。
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宮廻正明教授の説明を聞きながら会場を巡り自由に撮影させてもらいました。会場は法隆寺金堂と同じお香が焚かれ読経が流れていました。ポスターの釈迦三尊は実物を撮影していましたが展示はクローンですから脇侍は金色に輝き、螺髪の落ちも補正されていました。
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これはクローン文化財:高句麗古墳群江西大墓四神図です。右が玄武で左が朱雀です。高松塚古墳の壁画のルーツと直感させられます。
私達が展覧会場に入ると後から沢山の学生を従えて一見して芸大教授と思われる一団が入って来ました。教授が熱心に説明しておいでですが。学生はスマートフォンを文化財に向けてパシャパシャ撮っています。私達は子の一団に従う事にしました。学生に訊けば教授は「宮廻正明氏」との事。今回の展示の主催者として挨拶文も寄稿しておいでです。現在は芸大の学長ですが、日本画を専攻され、平山郁夫教授に師事したのでした。その薫陶を受けられたからでしょう。日本各地の文化財の復刻に尽力され敦煌やバーミアンの文化財にも深く拘られたのでした。
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此方はバーミヤン大仏の脇に展示された仏頭。これだけはクローンでは無いので絶対に触れません学生がスマートフォンで撮影しています。
高句麗の江大王墓は高松塚古墳の四神像を想わせる壁画が描かれていました。屹度新羅に追われた高句麗人が飛鳥に渡って高松塚の壁画を描いたのでしょう。説明には花「崗岩の玄室の壁に描かれた壁画をスキャンしてプリントした」書かれていました。圧巻は敦煌の莫高窟第57窟でした。
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此れは敦煌莫高窟第57窟です。壁画もさることながら仏像も素晴らしいと思いました。学生さんらは食い入るよぷに見詰めていました。壁画と仏像のセットは法隆寺金堂と酷似しています。
最初の部屋が法隆寺で、次が高句麗その次が敦煌で、その次がバーミアンと順次法隆寺金堂のルーツを遡るように展示されていました。クライマックスはバーミアン石窟でした。
バーミアンと云えばアフガニスタンのバーミアン渓谷に在る巨大磨崖仏で狂信的なイスラーム教徒にによって、2001年に爆破されてしまいました。私達はNHKのシルクロードや平山郁夫画伯の絵によって憧れていた釈迦如来立像でしたが。とうとう破壊されてしまった、あの時の落胆や違和感は未だ記憶に鮮やかなモノがありました。
バーミアンの巨大磨崖仏にも敦煌と同じように壁画で荘厳されていたのでしょう。大仏の頭上天蓋に相当する部分はトンネルの天上の様に削られていて、絵が描かれていたようです。丁度法隆寺釈迦三尊の天蓋には天女が居るようにエンジェルが描かれていたようです。
私の感動は其処で爆発しました。というのは宮廻正明教授が学生に向いて次の様に話されたのでした。『現代は宗教が原因で戦争をしていますが。バーミアンの時代は宗教を以って平和になっていたのです。釈迦の天上に居るのはエンジェルです。東西の文化の融合によって人達は友好に平和に過ごしていたのです。』
私は宮廻教授に瞬時に尊敬しました。同時にこの言葉は屹度平山先生に薫陶を受けた成果であろうと、推測しました。
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バーミアン磨崖仏の天上壁画。「天翔る太陽神」。西洋風に描かれた釈迦像の周囲をエンジェルが舞っています。平和はお互いの信仰の違いを指摘するのではなくて共通点を探すことによって実現できるようです。平和的共存は仏教を受容した日本(神道)ヒンズー教と混交した仏教等が好事例でしょう。
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バーミアン石窟の磨崖仏の位置にはスクリーンを配置してアフガニスタンの風景を写していました。
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此れが平山郁夫画伯の描かれたバーミアンの磨崖の釈迦如来像です。頭上のU字形の天井部分の壁画がクローン再生されていました。

運慶像の胎内物

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芸大を出て私達は東京博物館に「運慶展」を観に廻りました。
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芸大美術館から東博に、美術館の梯子でした。上野公園の西洋博物館角のポスター
私は脳梗塞で倒れて以来偶然ではありますが運慶を随分観て廻りました。というのは私の敬愛する日文研の先輩I氏が三越に居て運慶の大日如来に係られたのでした。ニューヨークのクリスティーズでのオークションに運慶作と確認されている大日如来がかかると報道されたのは2008年でした。日本中が運慶の流出を心配していました。当時2万㌦と噂されていましたが、バブル破裂後で総じて自信喪失気味の我国はそんな大金を投じる企業も篤志家も居まいと思われました。大昭和製紙の名誉会長であった斉藤了英氏が115億円も投じてゴッホ(医師ガシェの肖像)を買った記憶が悩ましく思い返されました。2015年朗報が流れました。三越が14億円で落札したのでした・・・・・・。
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これが2008年3月三越が真如苑の依頼に応じて運慶作の大日如来を落札した報道です。
落札したのは三越でしたが、一般人や企業がクリスティーズでのオークションに参加出来る訳ありません。三越はそのお客様の依頼に応じて落札したのでした。今では依頼主は真如苑であった事は周知です。私達は三越の美術部の要職に居たI氏に日文研セミナーで講師をして貰い、世界の美術市場の動向や仕組みや運慶落札の時の苦心話をして貰いました。その直後に金沢文庫で大威徳明王(実朝の念持仏・運慶作)が発見され、再びI氏に同行して貰い金沢文庫に出かけましたし、伊豆韮崎の願成就院にも出かけました。I氏から三河の瀧山寺にも運慶の真作があると聞き2015年晩秋に古刹に上りました。
勿論私の生活圏にある葉山の淨楽寺や横須賀の万願寺にも出かけました。2016年の盆には友人と京都の六波羅蜜寺に運慶像を拝観しました。想い起せばリハビリと運慶は深く拘りあっていました。今夏インドの仏像展を見学した折にこの秋に「運慶展」が予定されていることを知っていましたので、出かけたのでした。学生時代拝観して仏像への眼を開いてくれた円成寺の大日如来や最古の玉眼陥入仏である長岳寺の阿弥陀三尊など半世紀の時間をかけて巡って来た運慶仏を一堂に拝観できるのはチャンスです。
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これがパンフレットに並んだ運慶展の仏像案内です。でも期間中全部展示されている訳ではありません、入れ替えが在るのでチェックが必要です。今日の話題は上段左の真如苑大日如来と左の岡崎瀧山寺の聖観音です。どちらも胎内に故人の歯や髪や五輪塔が収められていました。
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東博平成館の大空間には円成寺大日如来がかかっていました。この運慶のデビュー像は第1室の最初に展示されていました。

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これは円成寺大日如来の台座裏のサインです。仏師は運慶であり運慶は康慶の長子であり大仏師である事と1175年11月24日に造りはじめたこと、給料として絹が支払われたこと、そしてこれは仏像本体の分であること(つまり台座や光背は別料金ということか)が書かれる。ここまでが前半である。 後半には、翌年(1176年)10月19日に納めたこと、そして大仏師康慶・実弟子運慶の名、そして花押(かおう、サインのこと)が記される。勿論我国仏像史上サインが在るのはこれが最初であります。写真出典小学館日本の美。

展示は円成寺の大日如来に始まり、確認出来る限りに古い順に展示されていました。具体的には父康慶の後を継いで興福寺仏所のリーダーとして運慶が活躍を始め、仏像の胎内や台座に裏に「康慶の長子であり大仏師である自分の名と肩書きを誇らしげに書いた事実を紹介し、更には仏像を造像するに際して納経した書も展示されていました。円成寺大日如来の台座裏に書かれた書は自己主張の強い自覚的な才気走った書ですが興福寺に納めた願経の書は活字の様に揃った几帳面な小さな書でした。運慶仏は総じて力感あふれる豪放磊落な仏像ですが運慶は書を観る限り仏所のリーダーに相応しい官僚的な側面もあったようです。願経は興福寺仏所や東大寺仏師にとって重要な意味を有しています。平安時代南都の仏師は定朝を筆頭とした京都九条の仏師に圧倒されていたのでしたが。無謀な平氏によって焼かれた事から東大寺興福寺の再建の機会を与えられ、東大寺大仏の再建を始め天平風の仏像造像の注文を受けたのでした。この時運慶は一門のリーダーとして。東大寺の焼け残った材木をお経の芯木として法華経8巻を納めたのでした。
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此れが一般に運慶願経と呼ばれている法華経です。運慶が一門を率いて東大寺・興福寺に仏像を納め慶派一門を率いて行こうとする決意が察せられます。運慶の真面目な顔が窺がえます。

東大寺南大門の吽形像は運慶展の後半に展示されるようです。東大寺・興福寺の再建需要に恵まれて運慶は仏師としてのチャンスを与えられました、東大寺再建のスポンサーであり警護役であった頼朝や頼朝に従った和田義盛や北条時政の知遇となり、活躍の場を関東に広めたのでした。結果、韮山の願成就院や葉山の淨楽寺を始め北関東の寺寺に仏像を納めたのでした。真如苑の大日如来もそんな一体と思われます。

展覧会場は興福寺や東大寺の運慶仏から関東の運慶に移ります第2室)。その冒頭に展示されていたのが真如苑の大日如来でした。真如苑大日如来については胎内に納まられていたお杓文字風の塔婆を説明していました、そして、その隣には岡崎の瀧山寺の聖観音が展示されて、解説には歯と髪の毛が胎内に納められていたと説明してありました。瀧山寺では歯も髪の毛も頼朝のそれと説明していましたが。その証明は出来ないので故人の体の一部を胎内に納めて冥府を祈ったというのです。展示は運慶の弟子や子供の仏像に移ります。(第3室)六波羅密寺の伝運慶像(康勝作?)は胎内には五輪塔を模した木札が収められている。また有名な鬘掛け地蔵も六波羅密寺に祀られている




上野公園の楽しみ

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流石に充実した展覧会を二つも梯子すると疲れます。東博の1階に京都の鶴屋吉信が喫茶を出しています。此処で一服して帰る事にしました。東博本館前には巨大な「百合の木」が茂っています。樹下のベンチには矢張り展覧会で立ち疲れたのでしょう。皆座って小春日和の秋の風を楽しんでいます。芝生の植え込みには白萩と宮城野萩が咲いています。
東博を出ると歌声が響いて来ます。調べは讃美歌のようです。讃美歌を謳っている人の背後には自由の女神像があります。その後ろ西側は奏咢堂です。夏に較べると修復工事も随分進んでいます。施行しているのは寺院建築で実績のある松井建設(一部上場)です。工程表を観れば来年に竣工予定のようです。案内を観れば「本居長世」の展示室もあるとの事。賛美歌は嫌いではありませんが「里の秋」を謳ってほしいモノです。
噴水前の広場にテントが張られています。真竹を切っている人が居ます。テントには「全国日本酒フェア」と書かれています。今週末からは三連休ですからこの広場で日本酒祭りが開催されるのでしょう。
真竹でお猪口を作っているのか?訊けば真竹でオブジェを作るのだとの事。10月9日体育の日は月齢19で陰暦カレンダーで確認すれば更待月(ふけまちづき)です。15夜は過ぎても日本酒祭りは屹度盛り上がる事でしょう。竹取物語ならずとも、月に竹はお似合いです。
西洋美術館の角には来週から始まる北斎展の案内が出ています。また来週上野に来ようかな?思いながらJRの改札口に向かいました。福島の犬の救済の為の募金活動やら護憲運動の署名活動も在って東京文化会館の前は大混雑です。
この上パンダの見学が始まったら。混雑に拍車がかかって半身麻痺の爺さんは依り付けなくなってしまう事でしょう。何時来ても慌ただしくも活気の漲る上野駅公園口です。




高句麗への想い

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天皇皇后両陛下が日高の高麗神社を詣でられました。
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この写真は日高の巾着田に名物の彼岸花の群生を観られて同地の鎮守である高麗神社を訪れ禰宜に案内されておられる天皇皇后陛下です。日本人なら鎮守を詣でるのはな事です。巾着田まで行かれ近くの高麗神社を表敬しな買ったら、それこそ問題です。この折に天皇陛下が「何故百済や高句麗は滅亡してしまったのか?」ご質問されたのでした。写真出典/朝日新聞デジタル。
高麗神社は私の生活圏の大磯にもあります。多摩川沿いには狛江にもありますし、埼玉の日高にもあるわけです。北朝鮮を仮想敵国にして、この衆院選を勝利しようと安倍首相は必死です
私は芸大美術館の「クローン展」で高句麗の古墳群江西大墓の壁画を観ました。明らかに高松塚古墳尾壁画は高句麗壁画の原型です。高松塚古墳の主は高句麗の帰化人と思われます。6世紀後半から7世紀にかけて大和朝廷は百済とは友好関係に高句麗とは距離を置いて「新羅+唐」の連合軍に敵対します。結果京都の太秦や伏見には百済系の帰化人が移住し、関東には高句麗からの逃亡者が棲みつきます。彼等は先進の技術者で様々な文化をもたらします。
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此れが「芸大美術館クローン展」での古墳群江西大墓の壁画です。奥が玄武(北)ですから左は白虎(西)の筈ですがクローン展では朱雀(南)を展示していました。少し顧客ニーズに慮りが過ぎているようです。
 
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此れが高松塚古墳の複製写真。正面が北面で玄武です。南面は盗掘の際に破壊されていました。高松塚の主は誰だったのか?天武の子の草壁親王説等がありますが。若しも草壁親王であれば草壁親王の孫が聖武帝になるわけで、今上天皇のルーツが高句麗(北朝鮮)という事になります。
新聞では天皇陛下は高麗神社の宮司に「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか」などと歴史について熱心に質問された、そうです。一方朝鮮日報は「明仁天皇は日ごろから、朝日古代交流史に関心が高い」と報じたそうです。北朝鮮国民は安倍首相は嫌いで天皇陛下には好印象を持っているというのでしょう。天皇陛下と首相の姿勢は随分違います。どちらが賢いか?どちらが国民の総意に近いか?歴史を学んだ者にとっては明白です。
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此れは今春の巾着田です。秋には菜の花畑や高麗川の堰堤が彼岸花で埋められます。因みにこの畑や牧草地が蛇行した高麗川に囲まれ巾着の形をしているのです。高麗神社は向かいの山の右(北)山麓にあります。
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此れが巾着田の彼岸花です。紅一点ならぬ白一点が混じっていました。

北朝鮮の核の脅威を殊更にあげつらい国民に対北朝鮮警戒心を植え付け北朝鮮の友好国であるタイやインドに出かけて経済封鎖に協力するように説得する事は、歴史の流れにも逆行しているし、将来に禍根を残す懸念が大きいと云わずばなりません。北朝鮮に「若しも本気で核兵器を使う気が在るのなら此方に!手をあげている様な効果があるでしょう。
我国古代史で高句麗の果たした役割を考えれば日本の立ち位置はズット半島寄りであるべきです。小泉さんが突然北朝鮮に出かけた時は驚きましたが、結果全員で無くとも拉致家族の半分は奪回できました。私の胃袋に松茸も収まりました。今年も松茸には縁が無さそうな気配です、選挙で安倍首相は連日「北朝鮮脅威論を声高に主張しています。それが選挙で勝利する材料になると思っているからでしょう。日本の立ち位置は地球的な視野で考えれば半島に近いのですから、半島寄りであって然るべきです。今月は神無月、出雲の白兎の月です。半島から出雲に渡ろうとした兎(高麗人)が鮫に皮を剥がされて泣いていました。でも出雲の人達は高麗人を助けてあげました。今国連で決議され世界中から爪弾きにされている高麗人に救済の手を差し伸べる時が来ているように思うのです。


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『楢山節孝』を考える

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深夜ラジオ(NHK/ラジオ宅急便)で三河憲一さんが三越劇場で朗読した「楢山節/深沢七郎原作」を流していました。三河さんは「三味線と尺八を伴奏楽器にしているとまるで新劇の様だ」と自画自賛していました。会場からは「すすり泣きが響いていたっそうです。”尺八より胡弓だろう”思いながら三河さんの話に聞き耳を立てました。
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此れは木下恵介監督による楢山節孝です。老母「おりん」は息子・「辰平」に背板に負われて楢山に捨てられに行きます。写真出典楽天によるDVD販売サイト。
一般に楢山節孝」と云うと信州上山田の『姥捨て山(冠着山)』を想い出します。姥捨て山の裾には棚田が広がっていて月見の名所です。原作の深沢七郎氏は山梨の笛吹川の水源近くの生まれですから、信州上田よりも山梨の大菩薩峠や七面山(身延山の南に在る修験の山深沢七郎の名も多分この山からとったモノと思います)に伝わった言い伝えが、名作のルーツでしょう。
というより『楢山節孝に視るような貧農や孝行が日本人の心象風景として日本各地に在った』と考えるのが自然だと思います。
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広重の田毎の月(本朝名所図出典は東博デジタル)大きな巌谷の下が鳥葬の墓地と思われます。建物は長楽寺です。
姥捨て山を越えて更に奥に入ると「聖山高原」です。聖山を越えて西山麓を降りれば信州新町です。信州新町は美しい街で有島武夫美術館があります。鎌倉の稲村ケ崎に在った有島武夫の別荘をこの犀川の岸辺に移築したのだそうです。晩秋には白鳥が飛翔してきます。聖高原は民俗学に関心のある人には面白い処で、私は長銀時代仲間と一山を共同購入しました。
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大岡村に在る藁を編んだ道祖神、同様な藁の道祖神は東北に多くあり「田村様」とか「おにょさま」等と呼ばれています。秋田の道祖神はhttp://kasakoblog.exblog.jp/15136760/に良いモノが撮られています。
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大岡村の景色遠望される山が北アルプスです。道を下れば犀川の畔に信州新町があります。信州新町を南に折れれば松本で北に折れれば明科を経て安曇野です。写真の道を右(上田方面)に行けば修那羅峠から青木村に出られます。
西側には北アルプスが遠望でき春には山菜や楤 (タラ芽)」が獲れる山でした。長銀も破綻したので共同購入した組合組織は解散して各自が2千坪毎に分散所有しています。大岡村の村営水道がある事もあって3年前までは固定資産税を徴求されていましたが、今では無税です。大岡村のホームページはhttp://www.city.nagano.nagano.jp/archives/oooka/index01.htmです。

三河さんの朗読によれば、老母「おりん」は息子の辰平が情愛を断ち切れずに姥捨て出来ないでいる事に苛立っています。おりんは正月前に姨捨されようと意を決して、「振る舞い酒」の宴を催します。この宴は既に姨捨した人が辰平に楢山への道や要領を教える場だったのでした。楢山への往路は口を利かない事復路は後ろを見返ってはならない事を教わります。

楢山への道すがら辰平は道端に散らばった白骨を見つけます。辰平のお爺さんお婆さんの骨かも知れません。路傍の白骨を観るとおりんは両親かも知れない、思います。ですからおりんは普段以上に冷静で居られます。

楢山に着くと筵を敷いておりんを置きます。そしてお白様(白飯)を置いて帰るのでした。

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此れがこの秋拝観した立山曼荼羅です。立山の山頂は極楽で麓に「芦峅寺」があります。両者の中間に地獄が描かれています。おりんは地獄に捨てられるものの魂は山頂の極楽に行き神になって息子家族を守護すると確信していた、と考えられます。
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これは立山曼荼羅に先行した熊野曼荼羅です。下段には幾つもの地獄が描かれていて鳥居を潜って山に登って戻ってくるライフサイクルに描かれています。右の鳥居を潜ればベビーで誕生です。齢を重ねて大臣のように出世して後は老いて死にます。死ねば灌頂橋を渡って死後の世界『彼岸」に入ると奪衣婆が居て閻魔大王の審判を受けて地獄の責め苦を経て生まれ変わります。

私はこの秋越中富山八尾に「風の盆」を観て来ました。立山博物館で「立山曼荼羅」を観ました。

立山曼荼羅は麓の「芦峅寺」と立山の主峰「雄山」の間に地獄が描かれています。針の山も在れば血の池地獄もあります。白骨も散らばっています。立山曼荼羅の前身「熊野曼荼羅」は虹のように山が描かれていて山頂は極楽で麓は地獄です。おりんは立山曼荼羅を知っていたら、現世が地獄であって楢山が極楽で、『自分は楢山(雄山」に登って先祖と同じように神になって今後は辰平家族を守護するのだ』そんな覚悟が出来ていて嬉々として楢山に捨てられたのだろうと、思うのです。

おりんは自分も両親と同じように神になって「、これからは辰平の家族を見守るのだ」思って嬉々としています。死ぬことは怖いのが普通ですがおりんのように悦びに変える信仰もあれば、ISのテロリストの様にジハード(聖戦)に命を懸けた死もあります。どちらの是非は人類の将来の有り様によって判断されるのでしょう。私達日本人にはおりんは理解できてもISは理解に難しいモノです。



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秋刀魚苦いか?塩ょっぱいか?

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佐藤八郎さんの詩に「秋刀魚の詩」があります。
あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
―男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける 。
幸いにして私は未だ一人ではありません、健康なワイフに恵まれているので
秋刀魚の詩の第4節の悲惨な状態とは程遠い状態です。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
―男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす
 。
そんなわけで今晩も夕餉にはお頭付が並んでくれました。
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 秋刀魚は塩焼きが最高です、我家は腹を塩焼きして尻尾は中華風(素揚げ)シテ、二日に分けて一匹を戴きます。
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我家の隣町飯島町の魚屋さん。此処で旬の魚を観て求めるのが私の楽しみです。勿論この日は秋刀魚がお目当てでした。お利口さんの柴犬がご主人のお買い物を待っていました。
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魚屋さんの店頭に並んだ秋刀魚、今秋は不漁と云っても1本100円前後であれば未だ庶民の味方です。秋刀魚の上にはカマスが売られていました。このカマスは相模湾モノです。何れ秋刀魚が高級魚になって庶民はカマスや鱧を食べるようになるのかも知れません。
小津監督の「秋刀魚の味」は次のような話でした。
親子3人の慎ましやかな家族を持っていた男(笠智衆)は妻に先立たれ娘は嫁に出ます。
本当は鱧(はも)を喰いたいのですが一人寂しく秋刀魚を膳に据えて食事をしています。
まるで佐藤八郎の「秋刀魚の詩」の場面のようです。
日本人なら秋刀魚を一匹炭火焼して酢橘をかけて食べたいものです。
でも、今年は秋刀魚が不漁で三陸の漁師も困っているし、庶民も悲嘆に暮れています。
似たような場面は秋田の鰰でも鵡川の柳葉魚(ししゃも)でも松前の「鰊(にしん)でもありました。一般に地球温暖化で寒流魚が不漁で暖流魚(鰤など)が盛んなのです。それが証拠に鮭鱒は不漁で鰤が豊漁なんて報道にも接します。
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此れは鮭鱒資源保護の為にロシアが「流し網漁(昔はハエナワ漁と呼んだ)」を禁止すると報じたニュースです。こうした資源保護施策は日本が先に言いだして然るべき施策です。
マスコミは『秋刀魚の不漁は台湾や中国が大型船団でカムチャッカ半島沖に出漁して若い秋刀魚を取り尽くしてしまう』のが原因だ報道しています。中国や台湾だって『脂の乗らない若い秋刀魚より脂ののった成熟した秋刀魚の方が美味しい』のは良く知っているでしょう。
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此れは今秋問題になっている韓国や中国の船団が出漁している海域の説明図データ出所は笹川財団https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2001/28_2.html
脂ののった秋刀魚なら、油で揚げないでもっと美味しい食べ方をするでしょう。日本の水産庁が為すべきことは中国や台湾と協議して『資源保護を目的に秋刀魚は成熟したモノを取る』事を約束する事です、その為には漁網の網目に制限を加えなくてはなりませんし、中国や台湾船団が獲った秋刀魚を日本が買い取り、『市場で販売して、販売差益を水産資源保護の為に活用する』事も考えられます。日本の零細な漁師を台湾や中国の船団と競争させるより遥かに賢明だし、日本の漁師も納得するでしょう。
もう一つ気になる事実があります。現在はブルグ氷河期(約1万年前)の末期に在るのです。ブルグ氷河期には日本は大陸と陸続きでしたから大陸と変わらない動植物が生息していたと考えられます。温暖化が地球の宿命であるのなら、寒流魚は衰退し、暖流魚(鰤や鰹)に代わられるのは地球の営みです。ブルグ氷河期が終わって温暖化が進んだので、針葉樹が後退して照葉樹が進出しました。私の好きな八ヶ岳の麓の尖り石遺跡も八甲田山麓の「三内丸山遺跡も照葉樹林が育んだ縄文遺跡です。縄文海進時の海面は現在より少なくとも2~3m高く、内陸部の奥部まで海水が侵入していて、青森平野においても内陸部まで内湾の環境が拡大していた。
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八甲田山麓の三内丸山古墳からは猪や鹿の骨の他鮭鱒の骨が出土します。(写真出典:青森県教育庁文化課)
一括して縄文時代と呼ばれますが。東日本の縄文遺跡と西日本の縄文遺跡は大違いです。東日本の方が先進しているし魅力的なのです。西日本の縄文遺跡はi東日本の縄文土器に較べれば大人しく魅力に欠けます。
というのは東日本の縄文遺跡はその前の石器文化が主として狩猟用の石器を駆使していたのに較べて。地球温暖化によって栗や楢の実を採取したり遡上してくる鮭鱒を採れば良かったのでした。従って土器は栗や楢の実を保存したり煮焚きする道具として発達しました。一方西日本の縄文社会は動物の狩猟と焼畑農業と芋を掘る程度でしたから、土器を進歩させる必要も無かったのでしょう。
3000年~4000年前、次は寒冷化が日本を襲いました。
この影響を大きく受けたのが東日本でした。寒冷化に伴い落葉樹林の分布が西日本へとシフトしていき、東日本では食糧難の時代がやってきました。
東日本の人びとは集落を捨て、南へと移動を始めていきました。ここで東日本人と西日本人が交わるわけです。
一方大陸ではアレクサンダー大王が東方遠征を契機にササン朝ペルシャが滅亡します。(BC337年)
ペルシャ人は中国の華北に押し出されます。そして中国の黄河領域には幾つもの覇者の国が並び立ち戦国時代を迎えます。戦いに勝利して帝国を統一したのが秦の始皇帝でした。始皇帝が死ぬと中国は再び戦乱に陥り漢が統一します。しかし漢が黄巾の乱によって滅亡すると魏呉蜀が各々皇帝を自称して覇を競った三国時代を迎えます。日本は弥生時代から古墳時代に移行する時期に当たりました。魏志倭人伝にみるように日本は卑弥呼を始め様々な部族が割拠していたようです。三国時代を統一したのは晋でした。この頃朝鮮半島も3国(高句麗・新羅・百済)が鼎立していました。大和朝廷は中国か半島から日本に亡命して日本国の統一に成功した部族だった、と考えられます。
西日本に出現したのが大和朝廷です。大和朝廷は天孫降臨の神話(古事記や日本書紀)から推測するに始皇帝や新羅に追い出された部族が日本列島に入植したモノと推測されます。


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「楢山節孝」を考える

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深夜ラジオ(NHKラジオ宅急便)で美川 憲一さんが楢山節孝(深沢七郎)の朗読をしていました。ご本人は三越劇場で誘われたそうですが,断りきれなくて始めた処三味線と尺八を伴奏楽器にして朗読すると会場からはすすり泣きが聞こえて新劇の様な雰囲気で満ちていたそうです。
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此れは木下恵介監督による映画の楢山節孝です。正月の三日前に息子は因習に従い老母を楢山様に捨てに出ました。
私は改めて「楢」の森の意味を考えたり。思いを巡らしました。
一般に楢山節孝の舞台は信州の姥捨て山だと考えられています。戸倉上山田温泉から冠着山(姥捨て山)に登ると長楽寺があります。長楽寺から田毎の月を見下ろす位置に巌谷があります。巌谷がまるで風葬の洞の様に保存されていて脇には芭蕉を始め多くの句碑が立っています。
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此れは広重の名所図の「田毎の月」です。棚田の遥か上に在るのが長楽寺です。お寺の背後に側の大岩がありますが、その洞は風葬による墓地だったと思われます。千曲川の河岸の断崖の洞は鳥葬や風葬の跡が多くあります。風葬の記憶が姥捨て伝説を生んだと確信しているのです。
長楽寺を過ぎて更に山を登ると古刹智識寺に出ます。この先を北に行けば石仏で著名な修那羅山安宮神社に出られますが、西に向かえば聖山を越えて大岡村に出ます。
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戸倉温泉から聖山に登る途上に真言宗の行基開基の古刹智識寺があります。聖山は高野聖の修行地だったのでしょう。
大岡村は民俗学が好きな人にとっては道祖神等で格好な素材が多い処で、正面に北アルプスを眺められます。聖山の名は修験道の聖地だったからでしょうが、何を置いても北アルプスの純白で屹立している姿が聖を想わせるからだと確信しています。私は長銀時代に仲間6人でこの村の一山を共同購入しました。山を下れば松本にも上田にも安曇野にも行けた事と町営水道の水が美味かった事等動機は幾つもありました。ところが長銀が破綻した事からこの時の仲間とも離れ離れ、共同購入の組合組織も解体して2千坪の山林が分散所有に変わりました。今では固定資産税も無税になったので後悔の念も薄くなりました。
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此れは聖山のある大岡村です。急な坂を下ると麓は信州新町です。犀川の岸辺に在る美しい村です。有島武夫美術館があります。
処で「楢」はどんな木だったか想い起す事から始めましょう。
とは「コナラ」の事で「団栗の木」と云えば思い当るでしょう。団栗は「クヌギ」にもなります。若しも楢山節孝の家族(老母・おりんと息子・辰平という親子嫁の玉、息子と娘が居る)が麓の戸倉に住んでいたのなら。楢山は冬の燃料になる薪を伐り出すと同時に飢饉になれば団栗の実で命を繋ぐ入会の山だったのでしょう。でもこの村には貧乏ゆえの厳しい因習があったのでした。
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これが「コナラ」の実です。一般に団栗と呼ばれ飢饉食にもなります。クヌギよりも木肌が白いし扱い易い雑木です。
69歳の年齢になると口減らしの為に息子が背負って楢山に捨てて来なければならないのでした。老婆のおりんは息子が山に行こうとしないのを意気地なしと思っています。家長なのだからモットシッカリして欲しい思っていて正月前に村の人を呼んで「振る舞い酒」を酌み交わします。村人は夫々捨老経験があるので辰平にタブーを教えます。往路は「口をきいてはいけない」復路は楢山を振り返ってはいけない。七曲りの坂を越えれば正面に楢山様が見える。
今年の初秋に私は仲間と「越中八尾」に「風の盆」を観に行きました。八尾は立山の参詣道に在る宿場ですから立山の芦峅寺(あしくらじ)により立山博物館で立山曼荼羅を拝観しました。ロケーションは姥捨て山に酷似しています。立山の麓は美田が広がっています。楢山節孝のおりんと辰平親子の住まいは千曲川沿いの平野だったでしょう。後ろは冠着山(姨捨山)です。立山と似ています。立山曼荼羅では立山の山麓に芦峅寺があって、お寺の背後からは地獄が広がっています。雄山の山頂には洞があって阿弥陀如来が居られます。山頂が極楽なのです。雄山の洞と姥捨て山長楽寺の洞(一見して風葬による墓場)
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此れは立山曼荼羅です。手前のお寺が芦峅寺でお寺の背後は地獄です。立山の山頂が雄山でその洞に阿弥陀如来立像が現われています。聖衆が天空から雲に乗って来迎してきています。
立山曼荼羅の絵を楢山節孝に当て嵌めてみれば、おりんは嬉々として楢山に捨てられる事になります。死ねば極楽に行ける事に加えて神になって愛する辰平家族を守護できるのです。
立山の修験道は熊野の行者が移って来て開いたものと云われています。次は有名な熊野曼荼羅です。良く京都の橋の上で熊野修験がこの曼荼羅を広げて通行人に説明し、お札を配っている洛中図が残されています。
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此れは熊野曼荼羅図です。手前右が奪衣婆でその上は地獄図です。地獄の上に山があって上り口(左端)に鳥居があります。此処から虹のように登ってゆくに従って出世します。頂上を極めると後は下り坂で歳を取って行きます。そして最初の奪衣婆に戻ります。ライフサイクルが絵解きされているのです。

一般に楢山節孝は極貧である農村の人減らし対策と捉えられて貧困の厳しさに比して人情の濃さを訴えたヒューマンな説話として理解されています。でも立山曼荼羅の伝統を見るに付け、親子の情愛の濃さと共に、子孫の為に喜んで死路に着く潔さや意義ある死に様を観るのです。


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慶応大学に農業経営学部が出来る日

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9/30日(土)に日本文化研究会の秋のセミナーが始まりました。二か月振りに日吉のキャンバスに入りました。土曜日ですから公開講座も盛んに開かれています。心なしか黄ばんだ銀杏の葉を背景に公開講座の看板が立っています。大学の構内に入ると気持ちも華やいで来ます。
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9/30日慶応大学日吉キャンパスの銀杏も黄ばんできました。
昨年4/1に農地法が改正され、従来お百姓しか農地を所有できなかったのが「農業生産法人」ならば「農地所有」が出来るようになりました。
安倍首相の規制緩和の一環で、お百姓でなくても、食品メーカーや種苗メーカーが農業法人を設立すれば農地を所有で来て、安定的に農業を営める様になったのです。
慶応大学には農学部がありません。キッコーマンやサントリーや武田薬品が農業法人を設立して、安全で安定的な生産をしようとしています。近い将来食糧危機が到来する懸念も膨らんで来ました。、大学は社会のニーズに応える必要があります。慶応大学には「農業経営学部」を設立する必然性があるのと思うのです。
云うのは日本の経済学は江戸時代の農業経営学に端を発しているのです。

最近の業績では歴史人口学者の速水融(慶応名誉教授)氏は、日本の江戸時代の農業の変革を「勤勉革命」と呼び『生産向上』を解説しています。
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川崎民家園に展示されている農機具(奥に唐蓑)真ん中に千歯こぎその右に「型付け」が見えます。家畜と農機具の改良が勤勉革命のハードでした。先月の大雨で傷んだ「朝倉の三連水車」も江戸時代に作られた灌漑用施設です。
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福岡豪雨で損傷した朝倉の三連水車も江戸時代の農業遺産です。写真出典朝日新聞デジタルニュース/http://www.asahi.com/articles/ASK7F5VMPK7FTIPE04D.html)
ハード面では「大量の家畜 使用」をし、脱穀や田植え等で有効な農業用具を発明したのでした。
また農本思想家を排出し、勤勉に働く事の意義を説きました。具体的には二宮尊徳の思想は現代人も多く信奉しています(報徳運動)。後述する農本思想家が農業労働と宗教との関係を説いた事が越後やえっちゅうに豪農を産みます。
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9/30日慶応日吉キャンバスで開催されていたシンポジウム私の興味のあるのは左の」「自然災害」の研究です。この延長上には自然災害に直接影響を受ける「農業経営学」です。
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自然災害シンポジウムの講演者の紹介。農業経営は様々な学問の境界にあって、その成果を汲み取る事にあります。
慶応大学には小泉信三先生以来マルクス経済学の伝統があり(小泉先生は当初マルクス経済学の研究をされ、晩年自由主義経済学の論拠を置きマルクス主義を批判されました)。では大西 広教授がご活躍です。
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E.ノーマン著、 大窪 愿二訳の安藤昌益の研究
安藤昌益、帆足万里と云った農本主義革命思想家を発見しておいでです。一方近代経済学の祖マックスウェーバーの手法に倣って江戸時代を見渡すと、石田梅岩を発見しています。一般に「石門心学」と呼ばれる梅岩の思想は「商売に奉公する事が”神・儒・仏”の道に適っていると説いきました。「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を思わせます。梅岩は『正直 倹約 勤勉』の三徳の実践を説いたわけですが。一方三河の禅僧鈴木正三は平易な仮名草子を使って『農業即仏道』を説きました。また冷害の地八戸には安藤昌益が出現し「自然真営道」を説きます。幕藩体制を否定し 「直耕」を人間の 本来のあり方とし,四民上下や男女の別のない理想社会である「自然世」を理想とします。マルクス主義革命を想わせる思想家でした。
私の大学での指導教授で居られた島崎教授は鈴木正三から山岸会を研究されました。山岸会とは『農業・牧畜業を基盤とする ユートピアをめざす農事組合法人』で三重にヒッピー共同体(原始共産主義)を実践しました。養鶏事業を見学に行ったものでした。安倍首相は山岸会の様な農業法人では無くて、サントリーやキッコーマンの様な資本蓄積の進んだ優良企業が川下から川上の農業そのものに進出する事によって農業の高度化競争力強化を意図しているのでしょうが。我国には江戸時代から農業の経営化が真剣に考えられて来たのです。
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鈴木正三の像は豊田の月心寺に祀られています。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?m=lc&sv=%CE%EB%CC%DA%C0%B5%BB%B0&sk=0
慶応大学が総合大学であるためには農業の門が今も閉ざされているのです。
先学の業績を引き継ぎ現代社会経済の期待に応える為にも「農業経営学」を研究してほしいモノであります。幸いに慶応大学には医学部があり、北里大学が友好関係にあるなど恵まれています。
日大の様に「日大 生物資源科学部」(昔は農学部でしたが、種の改良が進み園芸作物や家畜や水産資源の研究(鰻等)でも業績を上げています。)ならずとも農学部と経営学部と薬学との重なる部分を標準として「農業経営学部」を新設してほしいと思うのです。
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此れは慶応大日吉キャンバスの銀杏です。夥しい数の銀杏の実が落ちていました。この樹は雌なのでしょう。拾って行きたかったのですが、帰りの車内で匂って恥ずかしい思いをしそうなので止めました。再来週はビニール袋と軍手を用意して来ましょう。因みにこの樹は左列の59番です。樹の根元が黒ずんでいるのは、多分竹炭を作る時に出てくる「竹酢液」でしょう。二年前ウィールスが蔓延した時に根回りを消毒したのです。


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ドイツに於ける日本文化の現状

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9月30日日文研の「秋のセミナー」が始まりました。講師はT元慶応大学教授です。慶応大学教授時代に文献学的手法で西行の作品を研究され大著「山家集の校本と研究/笠間書院」 を上梓され、以降は「西欧における日本文化の現状」 をテーマに研鑽を積んでおられます。
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これは今秋の日文研セミナーの初回講師をされたT教授のライフワーク西行法師]の文献学的成果です。楽天https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E9%9B%86%E3%81%AE%E6%A0%A1%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%2F%E7%AC%A0%E9%96%93%E6%9B%B8%E9%99%A2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
今回はその一環として「ドイツにおける日本文化」を講義されました。幕末のケンぺル(回国奇観)やシーボルト(オランダ東インド会社の医師として来日した博物学者日本紹介の著書はドイツ語で執筆され、コレクションはバイエルン国王が購入しミュンヘンの博物館に展示されている)に始まりブルーノタウト(建築家で桂離宮を欧米に紹介した事で有名)から、現代のマンガアニメから映画食文化や文楽や盆栽や茶や禅、俳句と幅広く日本文化がドイツで愛好されている現状を説明されました。T教授はセーラームーンやドラゴンボールが好まれ、源氏物語が看過されている状況が口惜しい風でしたが、活発な意見が交換されました。
私は、常々産業革命を終えた西洋文明は「文明の行き詰まり」を予感していたので、「ジャポニズムが人気になり、イザベラ バードの「日本奥地紀行」が英国でベストセラーになり、日本人の礼儀正しさや美しい国土清潔好きな生活スタイルを激讃したと思っていましたから。「日本文化が幕末にドイツに伝播したのはドイツ文化が産業革命後の行き詰まりの一側面ではないのか?」思っていましたので、そんな意見や質問を準備していました。
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19世紀末盛んになったジャポニズムは産業革命に成功した西洋文化がその行き詰まりを予感して日本文化に関心を高めた成果と思います。写真は10/21日から上野の西洋美術館の案内です。
ところが大学院のS女史が熱い口調で質問しました。
「何故私はドイツ文化が好きなのでしょうか?」
大半のメンバーは「それは貴女の勝手でしょう!」そんな口吻でしたが、S女史が大学院の卒論に「ドイツ文化と日本」を取り上げる予定だと聞くと応援や激励のの意見が寄せられました。
一般に日本人とドイツ人は性格や趣向が日本人に似ていると云われます。ドイツの徒弟制度(マイスター制度)は「日本の匠の親方制度」に似ていますし、匠の技を駆使した自動車やカメラは日本製とドイツ製は高い信頼を勝ち得ています。でも、ドイツはナチスを経験しました。
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此れは新潟県三条のPRサイト「磨きマイスター」と自称しています。日本とドイツの徒弟制度は酷似していて、どちらも文化のスパイスになっています。写真出典http://ts-kanamono.com/
国民性が似ているという事は或る条件が揃えば日本もナチスドイツのように狂気になるという事でしょう。神風特攻隊回天(かいてん/人間魚雷)はナチス以上に狂気でした、狂気と云えば今日はイスラム原理主義者の自爆テロですが、その原型は日本海軍が先の大戦で実施していたのです。我国は米国の先棒を担いで、自爆テロを非難していますが、70年前は集団で自爆テロを遂行していたのです。
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2015年戦後70年に際し慶応大学では学徒動員に反対できなかった悔悟の念を記憶誌を発行して学徒を弔う共に図書館前に回天を展示しました。残念ながら日本もドイツも狂気に走り易い特質が共通しているようです。
S女史の質問の重さに沈黙してしまいましたが、私は以降ズットその回答を自問自答していました。
ところが10月のノーベル賞週間に入って「カズオ・イシグロ氏」がノーベル文学賞を受賞したニュースに接して改めてS女史の質問に真面目に答えようとトライしました。
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此れは英国人「カズオ・イシグロ氏」がノーベル賞を受賞した事を報じる読売新聞、日本中の書店が「村上春樹氏」の受賞を予測して準備していた事を詫びるように村上氏への配慮が記事になっていました。イシグロ氏は日本生まれ両親は日本人であるのに、日本文化と見做されないの何故だろうか?考えた時「日本民族」「日本文化」「日本国」の違いを考えさせられました。
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早カズオ・イシグロ氏の著書を買いに東戸塚の有隣堂に出かけたのでしたが、平積には村上春樹著を撤去して、昨今の話題作が並べられ、「注文は承ります」言われました。
S女史の質問は「ドイツ文化」と「日本文化」と云った視点だったのですが、私達はドイツ民族」「日本民族」と受け取ってしまいました。「国家」「文化」「民族」の問題に混線していたのです。
私達は世界に類を見ない稀少な民族国家で「日本語に代表される日本文化」と「日本国土」と「日本民族」が重複しているのです。
広辞苑で「民族/エスノス」を曳けば「一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体」と出て来ます。「国土、血縁関係、言語の」等を共有するまとまり、としています。日本民族のアイデンテティー」と云えば「日本民族が日本民族である所以のもの」という意味で、私もT教授も「話し言葉の日本語と書き言葉の平仮名」と答えるでしょう。カンボジア人は「アンコール・ワット」がアイデンティー」ですから国旗に移籍の絵が描かれr手ています。
一方国民/ネーション」は近世に出来た新しい概念で、国家という法人の構成員の事です。日本人にとって日本国民という概念は明治維新に際して意識されたもので日本国の構成員の意味です。カズオ・イシグロ氏の両親は日本人ですから、同氏が日本国籍を取れば今次の栄誉は日本人の栄誉でしたが、同氏が英国籍を選んで居たのでした。
結果、先日のような発表になったし、安倍首相は祝意を表しなかったのです。一番概念があやふやなのが「文化」です。「日本文化」とか「ドイツ文化」と云います。「文化」とは文化人類学では「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体」のことです。日本文化と云えば日本国の成員として馴染んでいる固有の文化という事になります。
カズオ・イシグロ氏で説明すれば同氏は主として英国の文化を身につけていると自覚されているので英国籍を選んだのでしょう。同氏の文学は『日本文化の脈絡で考えるより英国文学の流れの中にあって英国人としてかんがえる』と自覚されているのでしょう。
そして読者も日本人による英国の文学と受け止めているのでしょう。一方、村上春樹氏の文学は日本文学なのか「西洋文学」なのか解り難いものがあります。村上文学は世界中で評価されているようですが、レトリックが多用され日本人には馴染み難く、西洋人には馴染み易いのです。
多分大江健三郎氏や川端康成氏走らない人が多く、村上氏の方が評価されていても、村上文学は国籍不明の文学のように受け止められているのではないでしょうか?だから、毎年最有力候補に挙げられながらスェーデン王室では敬遠されているのでしょう。「日本人による西洋文学」と思われているとしか考えられません。私は早速有隣堂にカズオ・イシグロ氏の著作を求めに行ったのでしたが、平積みされているのは映画やテレビの原作となった話題作ばかりでした。

S女史は「ドイツ文化が大好きで関心は止む事が無い、一方日本人であることを自覚している」ようです。これから21世紀を通して幾つもの文化を身に付けて行く事は素晴らしいと思います。
グローバルな人材とは複数の文化を身に付けている人物の事でしょう。
「ドイツ文化」を研究するほどに「日本文化」への理解が進み、強いては世界中の文化に理解が進むでしょう。今は兎角「イスラムの文化」は敬遠されがちです。「自由平等博愛を標榜するのフランス文化は世界中で敬愛されています。「クラッシック音楽やビアホールや組織的なサッカーはドイツ文化の特長で、品質の高さの根拠になっています。日本文化は複数の文化を吸収出来る文化として期待も大であるようです。S女史がドイツ文化を研鑽して日独二つの文化を止揚して大きな視点を開いて欲しいモノです。さすれば、彼女の人生が数倍楽しいモノになる事でしょう。




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鴻雁来りても夕顔咲き続ける。

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ツバメと入れ違いに雁が北から渡ってくる季節になりました。陰暦カレンダーには『頃鴻雁来(こうがんきたる)』書かれています。窓から庭を見れば梅の木の梢に隼人瓜がブル下がっているし、瓜に負けじと夕顔が未だ咲いています。向かいの土手には高砂百合が白い花を咲かせています。高砂百合の周囲は背高泡立ち草が咲き誇っています。去年の晩秋には友人と連れ添って琵琶湖をグルッと廻って観音様を拝観しました。長浜の野鳥観察センターでは夕暮れの琵琶湖と波間を漂う雁を楽しみました。センター付属の道の駅レストランでは「鴨蕎麦」を食べました。.鴨(カモ)も雁(ガン)も同じカモ目ですが、小型のカモを鴨と呼び大型のカモを雁と呼ぶようです。
鴨を家禽化したものが『アヒル』、雁を家禽化したものが『ガチョウ』とネットでは解説していました。
北京ダッグとは北京烤鴨と書いていますから、北京のアヒルの意味でしょう。琵琶湖の鴨蕎麦は美味でした。鴨肉は入っていなくて肉団子が転がっていただけなのでしたが、肉団子は肉の他に骨も叩いて入っているのでしょう。野性の濃い味が絶妙でした。
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此れは長浜の野鳥センターです。野鳥の観察と道の駅とレストランの複合施設です。鴨蕎麦は実に美味しかった。
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此れが道の駅レストランの鴨蕎麦です。鴨の肉も骨の叩いた団子が良い味を出していました。鴨と云えば「鴨鋤」でしょうが、庶民は鴨蕎麦で大満足です。「鴻雁来りて」「鳥屋に走る」心境です。
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