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「てるてる坊主」の民俗学

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我家と駅の中間に「南横浜フォーラム」があります。そのロビーに大きなテルテル坊主が吊り下げられています。今月末に「フォーラム祭り」を開催するのでどうしても「お天気」を願っているのです。お天気を神頼みする気持ちは良く解るのですが公共の施設で坊主を吊るすのは少し違和感があります。そこで「てるてる坊主」を民俗学的手法で考察してみる事にしました。
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此れは我家から徒歩5分に在る横浜南フォーラムのロビーに吊るされた「てるてる坊主」星の王子様の衣装ですが、一見して違和感が漂います。
先ず童謡のてるてる坊主の歌詞を確認してみます。作曲は中山晋平氏ですが作詞は浅原鏡村氏です。浅村氏は安曇野の池田町に生まれ磐城の平で育ちました。池田町は道祖神の宝庫ですから、安曇野の子供達が無意識に謳っていた童歌を収録したのでしょう。
作詞・浅原鏡村  作曲・中山晋平
(1番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
(2番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
(3番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ
問題は3番の『お天気にしてくれなかったら”お前の首をチョンと切る”』と云ったフレーズです。
【折口信夫の『被差別の民俗学』】
首吊りは最も楽な人殺しの方法と思われます。
日本の刑法でも死刑は罪人が最も苦しまないで済むという理由で絞首刑が死刑の方法として選ばれています。頸動脈を圧迫するので脳の機能が損なわれるので苦しむ時間が瞬時に殺せるのでしょう。高校時代兄の書架に「13階段の道」という本がありました。ニュルンベルクの戦犯の処刑の本で、多分法学部の学生だった兄が60年安保闘争に絡んで読んだモノでしょう。内容は連合軍はドイツの政治家・軍人を捕えて絞首刑に送ったドキュメントでした。東京裁判ではA級戦犯もBC級戦犯も絞首刑が施行され、遺骨は米軍により東京湾に散骨されたそうです。
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此れは埼玉県幸手市の権現堤の桜です。権現堤は下流の田圃の洪水対策として築造したものですが再三決壊したので通りすがりの巡礼の娘に白羽を立てて堤に埋めたのでした。
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此れは権現堤に建っている人柱になった不幸な母娘を弔った碑です。
【テルテル坊主でテルテル巫女で無い訳】
坊さんは暦を掌り、天候を祈祷する役割期待を背負っていましたから、農民はお坊さんに「明日天気になれ」「雨が降って田植えが出来ますように!」祈って貰ったのでした。だから「テルテル坊主」で神主に祈って貰ったのなら「テルテル巫女」があったのでしょう。「テルテル巫女」なら、顔が白くて、赤い袴の巫女さんで可愛かった事でしょう。楽しそうです。今度何かの折に「テルテル巫女」を作ってみる事にしましょう。
畑に種を撒いた翌日に雨が降ってくれれば発芽間違いありません」
童謡の「てるてる坊主」では子供達が親がお寺のお坊さんが「明日は天気にして下さい!」祈って貰っているのを見て、子供なりに「お天気の祈りはお坊さんに頼む」モノと思い込んでいたのでしょう。
【生贄の民俗学】
農村共同体で「堤防が決壊して困る」「頑丈な橋を渡したい」等と祈願する場合良く「生贄」が神様に供えられました。「生贄」は世界中何処にも何時の時代にも在ったようで、「インカ」の古墳にも「殷・周の古代中国の古墳からも遺骨が発見されています。
日本にも各地に「生贄」の遺骨が確認されています。桜の名所である埼玉の幸手の「権現堤」も通リの「生贄」の娘が権現になっています。通りすがりの若い娘(巡礼)が(人柱)に選ばれて堤の地神に奉げられたのでした。出雲神話の八咫の大蛇と同じように、地神の生贄としてに捧げたモノと思われます。
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此れは宮崎市日南市に日南市小会議所が建てた人柱の碑です、写真出典http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/blog2/2008/04/post-168.html
日本の神は大半が土地神で出雲の神様「大国主命」も比叡山の神様「日吉神」も土地の神です。神は清いモノが好きで穢れたモノは嫌いですから、生贄には娘が選ばれて首吊りされたモノでしょう。年寄りでは神様は喜ばないし増して首を切っては出血で穢れてしまいます。
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アステカの生贄の儀式。胸を裂き、心臓を取り出して神に捧げる。穢れを嫌った日本では生贄にも出血を伴わない人柱や人身御供が選ばれました。出典はウィキペディア
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これはピネサロが描いた中世の絞首刑です。絞首刑は世界的に普遍した死刑執行方法だったのでした。出典ウィキペディアhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%8D%E3%83%AD%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91%E3%81%AE%E6%A7%98%E5%AD%90&ei=UTF-8&fr=top_ga1
「折口信夫氏」に「被差別の民俗学」と云う名の著書があります。日本各地の被差別部落を調べられたものです。折口先生は「穢多・非人」と呼ばれた被差別民は生贄の予備民だとお考えだったのではないでしょうか?もし、そうであれば「穢多・非人」というと「近世初期以降、封建的身分制で 最下層に位置づけられた人々」説明されて来ました。私達は藤村の「破戒」を読んでいますから、 「穢多・非人」とは仏教の考えが基本で、家畜の解体等血に塗れた汚らわしい仕事をする人達と理解して来ましたが、『生贄を供する人達が』ルーツだったら歴史は古代から先史時代にも遡ります。「穢多・非人」のルーツが仏教か神道か何れにしても、男女参画センターに相応しく無い事になります。

 3年前広島の住宅地が山津波で流されました。「蛇崩(じゃくずれ)」「蛇抜(じゃぬけ)」と呼ばれるものです。そのな大雨は木曾でも山津波を引き起こしました。中世なら生贄が必要な場面だったのでしょう。
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此れは木曾の洗馬宿の木曽川沿いの橋昔から木曾は土石流が頻発2014年7月にも大災害が起こりました。流石に現代は人柱を建てるなんて誰も考えませんが昔は先ず生贄を地神に奉げようとしたのでした。
流石に童謡のてるてる坊主では3番の歌詞は削除されたのでした。生贄が嫌われたのではなくて「首をチョン切る」のが相応しくないと判断されたのでしょう。
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我家の隼人瓜が道にぶら下っています。テルテル坊主を観るようで楽しいです。通りすがりの人も見上げて行きます。

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天井の美学

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私の住んでいる横浜の戸塚では今更アスベスト問題でキナ臭い状態です。
発端は例によって昭和30年、40年代に建築された老朽ビルの建て替え問題です。場所は原宿交差点のビル芙蓉ハイツですhttps://www.livable.co.jp/kounyu/m/library/mansion-119602/。近くには国立原宿病院や大正団地(旧住宅公団)がありますから大騒ぎ必至です。
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戸塚原宿の芙蓉ハイツの建て替えに際して解体時のアスベストが問題になっています。昭和40年代のビルはアスベストが必ずと言っていい程使われていました。今時アスベストが問題になるとは今住んでいる人も穏やかではないでしょう。
横浜市は遺骨灰の処理問題(遺骨灰を業者に処分を任せていたのでしたが、灰に金やプラチナが混じっている事を看過してゴミとして扱っていた。臍帯血問題に似た杜撰さでした。)やら今次のアスベスト問題などでカジノ誘致どころではないようです。もっともっと民生を丁寧に進めて貰わなくては困ります。
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此れは横浜最大の久保山斎場です。写真出典楽天の葬儀サイトhttps://plaza.rakuten.co.jp/6x6r3p9/diary/201209140000/の「火葬場アレコレ」
先日芸大美術館でバーミアン大仏の天上画をみて感服しました。天井にエンジェルが飛んでいるのです。日本の法隆寺では釈迦三尊の天蓋や平等院阿弥陀堂の天蓋に相当する位置です。
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平等院鳳凰堂の天上を飾る天蓋。
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此れは芸大美術館の「素心伝心(クローン文化財」でのバーミアン石窟の天上部分。
処で私はルーティンで2回/週新戸塚病院にリハビリ通院しています。過半の時間をベッドに仰向けに伏して作業療法士の指示に従って腕や指先を動かしています。病院の天上は何処も石膏ボードです。どのメーカ―のボードも白いセメント風で石綿こそ使っていないでしょうが、味気ないモノです。田浦の歯医者さんは院長がサーファーなので天井にカモメが飛んでいます。高々カモメが一羽でも「アレはジョナサンかな?」想ったりして気が晴れます。
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此れは病院の待合室です。何時も無愛想な部屋もハロウィンの飾りつけがあるだけで柔い雰囲気になります。ましてベッドの上の天井ですから真っ白な石膏ボードでアスベストの危険は無いのかしら?思わせるのは最悪です。イスラム寺院の天井に北極星が在るように「ノー・アスベスト」を付けても良いと思います。仏教ではさしずめ「」

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此れはサイゼリアの天井に貼られているエンジェルの絵です。病院では流石にエンジェルは厭ですがせめて花や雲の写真でも散らばせてくれれば気分もポジティブにいられるのですが・・・・。
一方イタリアンレストランの「サイゼリア」の天上には「最期の晩餐」やエンジェルが描かれています。流石に最期の晩餐ならサイゼリアは御免こうむりたいものですが、石膏ボードよりは遥かに益しで気持ちも華やぎます。病院の天井はもう少し工夫する余地が大であるような気がします。私の生家の天井は何処にも在る棹天井で杉の木の柾目でしたが、所々節の穴が空いていて天井から邪気か鬼が覘いている様な気がして眠りにつけないことがありました。
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天井板は杉や檜の柾目が普通ですが節穴が一つでも空いていると眠れないものです。
天井の節穴は困りますが病院の天井はもう少し工夫があっても良さそうな気がします。須藤恒雄吉野石膏会長は美術コレクターとして高名な方ですから、現代日本人の住まいの天井に相応しい天井ボードを開発して私達の生活を潤して欲しいモノです。吉野石膏は吉野さんの興した会社かと思っていたら山形の置賜にあった吉野鉱山をルーツにした会社だそうです。ならば、一層の事日本の伝統を活かした美しい天井ボードを作って欲しいモノです。仏教ではさしずめ「善財童子」が適当でしょう。昆虫なら天道虫(てんとう虫)です。石膏ボードの片隅に天道虫が居て「何かしら?」想わせて、実はあれは天道虫でアスベストの心配も全くない安全な石膏ボードなんだよ!」なんて言うのも良いと思います。天道虫は讀んで字の通り「太陽神」の「天道」』から取られた尊い虫なのです。
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此れが天道虫です。黒丸がテンあるからてんとう虫ではありません。実は7つです。道教に則った由緒ある虫です。勿論葉ダニを喰う益虫です。


「塩の道」足助街道

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三河の岡崎に住んでいる長男が”娘の学習発表会(昔風に云えば学芸会)があるので遊びに来い!”云ってきました。そこでワイフと連れ添って10/13日、出かけて来ました。14日無事に帰宅しました。私の父方のルーツは岡崎から三河の海に面した吉良ですので、忠臣蔵は大嫌いでした。と云うのは吉良家の主要産業(稼業)は塩の生産でしたから。塩を吉良の浜辺で生産し、岡崎までは水路で運び岡崎からは足助街道を馬に背負わせて足助まで運び足助から先は信州飯田の馬方に運んで貰って、松本や甲斐の国に運んだのでした。足助は三河の馬方から、信州飯田の馬方に中継する拠点として賑わいました。信州飯田の百姓は副業として2・3頭の馬を連ねてその背に塩を主として茶,魚,綿,米穀,酒,タバコ,麻等を運びました。一般に善光寺道で馬の背で運搬した農民を中馬と云いますが。特に足助街道の事を「中馬街道」と呼ぶようです。従って足助には見事な馬頭観音が多く残されています。今までも足助街道の馬頭観音を観て来ましたのでこの機会に馬頭観音以外の文化財を観ようと思って出かけました。

足助馬宿の美しいお婆さんの悩み

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足助の旅館は次々に閉鎖されてきているようです。一方でペンションも出来ているようです。
私は何処に泊まろうかネットで調べ電話で確認しました。以前在った「三島屋」は既に閉店してしまったとの事でした。
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天保年間に建立していた呉服屋を明治になって旅館に改装した三島屋さん、先年閉店されてしまいました。
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閉店してしまった三島館の窓はテープで消されてありました。
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此れが私の選んだ足助中馬街道に面した「山城屋」右奥が飯田方面、左に行くと坂を下って足助の繁華街に至ります。私の部屋は二階の左側で一番見晴らしの良い部屋でした。玄関の藁のブラシ状のモノは火縄花火の道具で「おしめ様」と呼び注連縄と同じように飾られているモノです。どの家も玄関に吊るされていました。
現在遣っている旅籠時代の面影を残しているのは「玉田屋旅館」と「山城屋旅館」の二軒だけとの事、前者は江戸時代の建物である事は評価されても二階にトイレが無いとの事。夜中にトイレを使うのに1階まで階段を下りるのは苦痛です。そこで二階にトイレが設備されている山城屋旅館に泊まる事にしました。一泊2食8000円です。私の決断の後押しをしたのは山城屋は馬宿だったという事でした。
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此れは川崎民家園に移築されている奥州の馬宿「鈴木家住宅/重文」です。写真の右側に人の泊まる部屋があってその枕元に馬が繋がれていたのです。
馬宿とは旅人と馬を一緒に同じ宿の下に泊めるという事です。荷主にすれば荷も馬も盗まれたら大変です。そこで馬主の目の届く先に馬を繋いでおける馬宿が人気だったのです。
午前11時山城屋に入ってリュックを預けました。
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坂道の左に在るのが山城屋旅館です。この町は山野草の目立つ街で手前は藤袴です。山城屋の並びの洋装店の女将は藤袴に「浅葱斑/渡の大型蝶)が来るのを楽しみにしていました。
そして、前回食べ損ねた「猪鍋」を食べに井筒亀(いづかめ)に向かいました。
山城屋に入ると銀髪のお婆様が大歓迎してくれました。”よう来なさった、なぜ当宿を選んだのか?”質問されます。訊けばお婆さんは昭和27年にこの旅館に嫁に来たのだそうで、生まれも育ちも稲武(いねぶ)だそうです。前回私は浜松からレンタカーで新城を経て鳳来寺山を廻り足助に向かった時に稲武は通りました団栗の里と云う名で叔母さんたちが集まって道の駅でお喋りしながらお餅や「栗どら焼き」を手作りして販売していました。
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道の駅稲武のレストランは農家の叔母さんが五平餅やトン汁でもてなしてくれました。
私はああ、あの美しくも楽しい村から足助の馬宿に嫁に来たのか!感慨深く聴かせてもらいました。山城屋旅館の創業は明治20年で、嫁入りした頃は家族や使用人を含めて13人も同じ屋根の下で寝泊まりしていたのだが今は倅と二人きりになってしまった。
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この人が山城屋のお婆ちゃん、85歳、今朝寝起きに脚を痛めてしまった、そうですが、お婆チャンのお蔭で廊下も階段も手摺が付いていたし、お風呂には我家に在る介護椅子があり、私には大変居心地が良かったのでした。
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御茶間でお婆ちゃんと一緒に撮って貰いました。
一昨年までは三島屋さんと二軒で競っていたので張合いも在ったが今では自分の所も何時暖簾を閉じようかと気が気でない。こうして奇特なお客さんが来てくれると嬉しくて嬉しくて」云いながらお茶を注いでくれました。と云ってもお茶菓子は何も出ません、経費節減なのでしょう。昭和30年代までは中馬のお客も多かったし、富山や大和の薬の行商が定宿にしてくれていた昭和40年代にはダム建築の人達が使ってくれていたが、今は客が来るのは香嵐渓の紅葉や3月の雛祭りだけで、過半は閑古鳥が啼いている状況だというのです。
「今は息子と二人で細々と宿の火を灯しているが何時まで続けられるか?」息子さんは女嫌いですか?」訊けば、「唯縁が無かっただけの事です・・・・。」
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朝の中馬道山城屋二階から見渡す。
翌朝散歩に出ると偶然三島屋さんの女将さんと話が出来ました。
私は山城屋さんに泊まった事お婆ちゃんが足を痛められた事等話しました。すると三島屋さんはこう言われました。
「山城屋さんは足助では評判の美人でしたよ!」
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三島屋さんの女将さん玄関入り口には「歴史的建造物であり観光資源である印の馬蹄が貼られています。足助は豊田氏に合併され、東大都市工学部に基本調査をして貰い観光開発の基本プランを作成して貰いました。要約すれば美しい自然資源と歴史的な資源(家並や石仏や街道)を活かした町造りです。
私は今朝起きようとして足を痛めてしまった事もあって弱気に陥ってしまいました。
お婆ちゃんは若い時にはさぞかしお綺麗だったことでしょう。

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足助の町興しプラン

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山城屋さんのお茶の間で東大都市工学部作成の足助開発報告書を閲覧しました。表題は「歴史町作り」とされていますので、歴史資源に着目したモノでしょう。都市デザイン研究室森助教の仕事で2008年に提出されています。
歴史町造りは私も共感するモノで、森助教授は高山や神田淡路町や神楽坂や鞆. 佐原. 神楽坂.  浅草等に並んで足助もターゲットにして調査をしていますから、我国で歴史資源を活かした町造りの基本設計には一番評価の高い教室なのでしょう。
今回が二度目の足助往訪でしたがそれでもこの調査報告に従って町造りが進められ、町民も協力している現状が良く解ります。
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此れが東大都市工学部工学科森教室の作成した足助の調査報告書です。町興しの為の基礎調査でありましょう。
先ず挙げられるのが香積寺下に整備されている「三州屋敷」です。足助周辺に散在していた民家を巴川の堰堤近くに移築して、匠を集めて道具の展示や民芸品の手作りする様子を見せていました。

足助の中馬柿

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3年前に足助に来たのは蓬莱山に紅葉を観てから細谷の千枚田を観てから足助に回って来ました。
既に12月に入っていましたから香嵐渓の紅葉は散ってしまい香積寺の和尚さんは掃いては散る紅葉を掃き集めて居られました。
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此れは香積寺の散紅葉掃き集めるのも大変ですが側溝に散った紅葉はモット厄介です。向こうで溝を掃除されているのが住職さんです。
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此れは前回伺った時の羅漢仏紅葉も散って梢が寒々としていました。次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/GALLERY/show_image.html?id=47754871&no=0
羅漢仏(香積寺11世住職の三栄和尚が香嵐渓に紅葉を植えたと伝えられます。三栄和尚の慰霊碑の周囲を羅漢仏が囲っています)だけが散り紅葉を満喫していました。
その折に重要文化財の鈴木家住宅を訪れたのでしたが、修復工事中で外から見るだけでした。中馬街道を挟んで向かいに和菓子の両口屋が道に簀子を出していたので其処に腰掛けて、両口屋の銘菓「中馬柿」を戴きました。それは大変に美味で、今回も味をしめて同店に入りました。雨模様だったので外で食べる訳にも行きません。そこで室内で戴く事にしました。今回も女将さんが焙じ茶を出してくれました。
私の好きな両口屋のお菓子は餡が栗きんとんで皮が市田柿(干し柿)です。前回窺がった時には向かいの家のお嫁さんが栗きんとんで有名な中津川から嫁いで来たので、「餡は栗きんとん皮は飯田の市田柿」を思いついたとの事でした。私は中津川も飯田も大好きだし。栗きんとんにも市田柿にも目が無いので、中馬柿は大賛成です。このようにして『人が移動する事によって新しい和菓子という文化が出来る』と教えられたのでした。
す屋(中津川の栗きんとんの名店)の栗きんとんは300円/1個もする銘菓ですのでそう頻繁には食べられません。両口屋の栗きんとんは250円/中馬柿は300円ですので1個ずつ求めて女将さんに半分に切って貰いました。節約したわけでは無くて美味しいモノは少し戴く事で満足感は膨らむと思っている事と健康の為です。
私は言います「足助には良い喫茶店がありますが、こうして簀子に坐らせて貰いながら景色を眺めつつ美味を戴くのが最高です。ズットこうしたサービスを続けて下さい。鈴木家住宅の改修工事が終われば両口屋さんは大繁盛しますよ。」
すると女将さんは印刷物で確認しながら言われます
「改修工事が竣工するのは平成33年です。それまでもつか心配です」
私は女将さんの言葉の意味が解りかねました。後3年余りです心配されるのは両口屋さんなのか女将さんの健康なのか」即座には判断できませんでした。それと云うのも足助には撤退したお店が多いのです。急速な高齢化の為か後継者難が理由なのか解りませんでした。
女将さんは奥に入って「栗おこわ」は如何ですか?
誘われました。
「私は栗おこわも大好きなのですが生憎その先の井筒亀さんで猪鍋を戴いたばかりなので結構です」お断りしました。次回来る時には両口屋さんの「栗おこわ」を覚えておくことにしましょう。
足助は和菓子の素材に恵まれている所為か、お大尽が多く居た所為か銘菓が多いような気がします。

足助の藤袴

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10月中旬親友のI君からメールが入りました。同君は冬以外は殆ど軽井沢の別荘で鴨長明のような生活を送っているのです。長明と違うのは同君が自転車を駆使している事とジーンズを履いている事とテニスが好きなことくらいで、山栗が道路に落ちて居れば拾って食べて、畑を耕作して野菜を作り、五味子 (ごみし)が獲れたと云っては果実酒にしていますし「茸狩」を楽しんでいます。
メールには軽井沢に藤袴の群落があって、「浅葱斑が百頭も群れていた」というのです。私が二、三頭の浅葱斑を見つけてこのブログにアップして喜んでいるのを知っているからでしょう。
浅葱斑は藤袴の密が好きです。浅葱斑を増やすには藤袴を育てる事が大切です。
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此れは白い藤袴の蜜を吸いに寄って来た浅葱斑です。鎌倉の東慶寺の藤袴に集まった浅葱斑は暫し体力を養って稲村ケ崎から台湾に飛び立ちます。だから日本人は台湾を「高砂」と呼ぶのかもしれません。新鮮組はこの大型蝶の美しさを羽織にしたのでしょう。

処で播磨はりまの瓢水ひようすいという俳人の作に次が有名です。
手に取るなやはり野に置け蓮華草
瓢水が友人が遊女を見受けしようとするのを諌めて作った句だそうです。
この句の「野」を「原」に代えて蓮華草を「撫子」に変えれば舞台は島原か「祇園(白川)」になるでしょう。実は瓢水は「野」と「原」を混同しているのです。実は字余りになってしまいますが「野」よりも「原」の方が植物生態学上は妥当なのです。
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此れは大井川の蓬莱橋の下の川原に自生した虫取り撫子の群落。洪水の後に撫子は好んで繁茂します。藤袴も川原が好きなようです。というのは日当たりの良い木や背丈の高い植物が生育しない荒れ地を好むからでしょう。
「野原」と一言で云いますが「原」は自然状態の草地で「野」は人間が焼畑などで手を加えた後草地になったモノを云います。奈良の飛火野や若草山は鹿の牧草地として保護されてきたモノですから「野」です。天平時代娘が若菜を摘んだのは原であって野ではありません。額田大王が天武に贈った歌は紫野でした。其処は薬草の畑があったからです。
 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る
福島の放射能汚染で耕作放棄された草地は一度人間の手が加えられて
「後は野になれ山となれ!」と見放されているので、草茫々でも原とは云いません。一方謡曲「黒塚」で有名な浅茅が原は自然の儘ですから「原」であって「野」ではありません。
山上憶良は秋の七草を謳いました。
当時春の七草は誰もが知っていたので「自分は秋の山野草が好きだ!」主張したのでしょう。
春の七草は乙女が摘んで口にするモノですから何れも食用です。一方秋の七草は何れも薬草であって仏前供花になります。憶良が下級官吏だった事もあるのでしょう。そして春の七草はどれも原で自生する草で秋の七草は総じて野に咲く草花です。焼畑を放棄した跡に生える草です。
処で本題の足助の藤袴に戻りましょう。
私は山城屋のを探して「ジャスト」と云う名の衣料品店の店先で女将さんに旅館の位置を聞きました。ジャストの店先には藤袴が植えられていました。
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山城屋の並びにある衣料品の「ジャスト」とその女将さん
私が藤袴を誉めると女将さんはこう言われました。
「私が藤袴を育てているのはこの花に集まってくる浅葱斑を見たいからですよ。今日は雨だから来ないけどこの秋もたくさん来てくれたんですよ!」

足助の土人形

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昨日は塩の道「中馬街道」に咲く藤袴を代表に山野草を大事にしている事実をアップしました。今日はもう一つ塩の道を飾っている土人形をご案内します。
土人形とは日本古来の伝統工芸品の人形で、低火力の素焼きの人形に胡粉をかけて表面を泥絵具で彩色した人形です。素朴な味わいが多くの人々に愛されています。昨年は春に福島の三春人形の作業を観ましたし、京都の「伏見人形」も観ました。考えてみれば素焼きの人形と云う事では埴輪も土人形ですから。日本人のDNAには土人形の愛らしさが刻み込まれているのでしょう。素朴な土人形には豪華絢爛な雛人形には無い思い入れがあるモノです。足助の「町門」土人形は陶器製で本来は泥絵具で絵付されるものですが、陶器製で釉薬で色づけされています。山の向こうは瀬戸・多治見ですから焼結は陶器窯に外注したのかも知れません。
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此れがお馴染みの伏見土人形です。博多人形と共に土人形の典型です。一方三春初め全国各地に素朴な土人形が数多くあります
塩の道に面して木製の行灯が設えらてあり其処に土人形が飾られています。
中には土人形を店内に陳列してあったりします。
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此れは塩の道に面して行灯に置かれた足助の土人形です。お人形は大黒様ですから街の復活繁栄を見詰めているのでしょう。視線の先をお婆ちゃんが坂道を登って行きました。
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山城屋の先観音山の登り口に置かれた土人形は黒い招き猫でした。黒猫は嫌われていますが、黒いまねきねこは魔除けのご利益があると云われています。 このネコちゃんは足助の街に飯田方面から入って来るかもしれない厄をガードしているのでしょう。、向かいに普通の招き猫が置かれていてが厄除け白が招福です。
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これは潮の道「中馬街道」に面した写真屋の脇に置かれた福助人形。叶福助がフルネームで『甲子夜話には『睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助』と書かれていますから私達夫婦も福助にあやかって福を授けられるかも知れません。
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これは歯医者の門に置かれた福助人形沢山見ていると「街角土人形」は足助町で一括して規格を揃えて注文したようです。一般の土人形里高熱で焼いて痛み難くしているようです。
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これも観音山の登り口に置かれた招き猫です。2つ上の黒い猫と対になっています。観音山の頂上は足助の街を見下ろす景勝地だそうです。
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此れは戌人形です。一般に犬は多産で子育て上手ですから「安産子育ての守り神」として大切にされますが旅行で携帯すると旅の災厄除けになると云われます。
以上が塩の道に置かれた足助の土人形ですが本来の泥絵具で彩色した足助土人形は骨董店の店先や老舗の和装店の店内に飾られたりしています。
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此れは骨董店の店先に置かれた足助土人形の寿老人ですお値段は良い処でしょう。
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これは着物店の天内長押に置かれた巡礼人形多分「傾城阿波の鳴門 順礼(じゅんれい)歌の段」が素材でしょう。

足助では毎年3月に雛祭りを実施していて、土人形が主役なのでしょう。江戸や京都のお雛様は一般の商家では求め難ったでしょうから素朴な土人形で娘の健やかな成長と幸福を祈ったモノと思います。丁度雛祭りの季節に足助では片栗も咲くようです。次に足助の山城屋を訪れるのは雛祭りの頃にしましょう。
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足助の塩の道「中馬街道」の山城屋の前の美容院のガラス戸に貼られた儘の「足助雛祭り」のポスター。

岡崎宿の金のわらじ

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「年上の 女房は金の草鞋で探しても持て」とか「一歳年上の嫁さんは金の草鞋を履いてでも探せ」といいました。サラリーマン時代同期の人が20歳も若い嫁さんをゲットしてにんまりしているを見ると良く嫌味を言ったモノでした。「君の結婚はもう犯罪だよ」とか「まさか浮気は出来まいな!」とか半分はヤッカミで半分は本気でした。
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此れが岡崎城下伝馬通りの交差点に置かれた「金の草鞋」です。この辺りは旧東海道が鍵形に折れ曲がっていますので「27曲りと呼ばれ。曲り角にこの金の草鞋を置いています。
最近の様に結婚年齢を過ぎても一向にその気の無い人を見ていると「金の草鞋」の諺なんか死語になったと思われます。
”何でも、誰でも良いから結婚して出生率をあげて欲しい”思ったりします。
処で岡崎市内27曲りに飾られている「金の草鞋」を観て残念に思いました。岡崎市の教育委員会は大変な思い違いをしているのです。「漢字で書けば『金の草鞋』ですが、正しい漢字は『鉄の草履』なのです。豊臣秀吉なら黄金の草鞋を履いたかもしれませんが本気で黄金の草鞋を履いたら一里も歩けません。柔らかい金は直ぐに擦り減ってしまいます。鉄の草鞋であれば幾ら探し回っても擦り切れる事はありません。
岡崎市の28曲りとは旧東海道が鍵の手に折れ曲がっているのです。27曲りには金の草鞋の他に宿場町城下町を象徴するモニュメントが置かれています。若しかしたら境港の「鬼太郎通り」をヒントに岡崎に多い石屋さんに知恵を出させてモニュメントを並べて新しい観光客を呼ぶ出し物にしたのかも知れません。その積りで観ていると十返舎 一九の「東海道中膝栗毛」の場面を見る思いです。弥次郎兵衛喜多八こそ居ませんが、黄門様ご一行も在れば・・・・・」思ったりします。
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此れはお茶壺道中です。
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これは「飯盛り女」です。東海道中膝栗毛では藤沢宿で揉め事になります。広重は現代のキャッチバーのように道に出て強引に客の袖を引きこむ女を描いています。
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此れは岡崎ならではの塩座です。
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これは伝馬通りの町並みです。古い商店、仏具屋が多い街です。
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伝馬とは伝馬」とは、 幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ、その馬のことをいいます。伝馬があったので伝馬通りなのでしょう。



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足助の石造文化

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昨日まで足助の「町興し計画」を作成した東大都市工学部の報告書「足助歴史町造り報告」に従って足助の歴史資産や自然資産を報告してきました。今日は足助と云えば「馬頭観音」ですから、石造文化財をブログアップしたいと思います。
足助は岡崎から飯田に向かう塩の道(足助街道)に面しています。岡崎は家康の本拠地でアリ、足助と岡崎の間には徳川家の菩提寺「大樹寺」があり、譜代トップの松平家の本拠「松平庄」もあります。今NHKの「おんな城主 直虎」では。これから舞台になります。松平庄の山一つ東は新城で長篠の戦いの古戦場ですから。因みに足助は本多家の知行地でした。長篠の戦いでのヒーロー逆さ磔になった鳥居強右衛門は足助から新城の奥平家の家臣でした。
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此れは足助街道井田の辻に祀られていた地蔵尊、心なしか塗料が塗られていました。
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これは「お釜稲荷」と云う名で愛されている稲荷神社の祭壇に置かれた直径2mの大釜で領主の本だけが飢饉の際に釜出しに使用したモノだそうです。家康の重臣本多家は善政を敷いたのでしょう。
私はバスの窓から路傍を見詰めて足助街道を登ってゆきました。路傍には石仏が目立ちます。それも着色した地蔵尊が眼に付きます。私が運転して居たら停車して確認して写真を撮るのですが、イチイチバスを降りて居たら到底足助に着く事は出来ません。
岡崎の街で気付くのは矢鱈に石屋が多い事です。屹度家康が築城の為坂本の穴太衆を始め全国の優秀な石工を城下に集めたのでしょう。加えてこの辺りは美しく硬い白御影石を産出します。良い素材があって優秀な石工が居たら、石仏は良いモノが残されるに決まっています。とりわけ江戸時代になると築城需要は無くなります。自ずから庶民や古寺の再建の需要に応じて馬頭観音や地蔵尊や33観音を造仏したものと思われます。足助に入って先ず正暦年間に彫られた巨大な馬頭観音を詣でました。
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巴川の堰堤から落合橋を渡って巨大な椋の樹の脇を登れば三叉路に祠があって巨大な馬頭観音が鎮座しています。この像は儀軌通りの三面八臂です石は白御影で所々腕輪や持物に翡翠色に荘厳されています。石仏に着色するのは安曇野等に特徴的なのですが、「塩の道」は足助街道から飯田を経て塩尻その先の千国街道と続いて日本海の糸魚川迄繋がっているのですから、着色石仏は塩の道が伝えた文化なのかもしれません。足助の馬頭観音は見た目新しいので制作年月や石工の名前が刻まれているかもしれない今回も確認したのですが施主「段戸組」以外に文字は刻まれていませんでした段戸組とは何かなネットで調べてみると足助の先瀬戸や設楽に行く途中に段戸湖や段戸の地名があるので段戸集落の塩を運んだ人達の集まりだったのでしょう。立派な社は柱に昭和5年建立と書かれているので、昭和5年頃は馬の背に塩や紙や綿布や魚を積んで運んでいたのでしょう。
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この社や石仏の台座には昭和5年と刻まれています
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これは足助の抱き地蔵の脇に置かれた地蔵現代的なお化粧を施したのは地元の高校生でしょうか?
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此れは足助の蕎麦屋「塩の道」の店内に飾られていた恵比須(左)大黒(右」石仏に彩色する習慣は足助街道に盛んで安曇野に伝播したのでしょうか。
岡崎から足助は石工の多い街です。加えて昭和モダニズムの時代にも盛んに石仏が彫られ、祠が建てられて来ました。そして今も大切に祀られています。気持ちの良い田舎です。最後に山城屋の女将さんが嫁いで来たどんぐり村の巨大な馬頭観音を載せます。
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此れがどんぐり村に近い巨大な馬頭観音です。向こうに見えるのは市田柿ですから、渋いので未だ烏も食べません。

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発達障害児のリース作り

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私は地域の小学校の評議員を6年も継続しています。今年は3月末に校長先生も定年になられて故郷に戻られた事から『お役御免』を期待していた処、後任校長先生に申し伝えられ重任することになりました。既に6月に第1回評議員会が開催され、議長は新任の女の校長先生で、PTA役員も大半が新顔になりました。メンバーが変わると話題も変わり、時節に沿ったテーマになりました。PTA役員から、発達障害児の扱いについて質問されると生活指導の先生が差し障りの無い解答をされました。
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10/21日台風接近の中地域の小学校の評議員会授業参観に出かけました。
「発達障害も一つの個性ですから。個性の強い児童として分け隔てなく接しています。」
するとPTA役員は執拗に質問を繰り返しました。「私の知っている児童は分け隔てなくと云った水準ではありません、学校は臭いモノには蓋と云わんばかりに距離を置いています。校長先生は生活指導の先生を応援するかのように言葉を挟みます。
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給食の配膳室の壁にはお互いの個性を尊重しよう思い遣りを大切にしよう標語が大書されたポスターがが貼られていました。言うが易く行うが難いことです。
「一口に発達障害といってもADHD、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害など、 さまざまな種類・症状があります。学校では医療機関での診断結果を踏まえて個別に対策を講じています。)
10月20日台風接近で雨が降りしきる中小学校に出かけて。先ずは授業参観をしました。続いて給食を戴き、第2回評議員会に参加して午後2時に帰宅しました。
総じて已むを得ず出席して来た私ですが今回授業参観で感動の場面に遭遇しました。
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1学年6クラスのマンモス小学校に7組が一クラスあります。それが一言発達障害児のクラスなどです。
各学年1組から6組まである横浜市ではトップ水準の大型小学校ですが、7組が1クラスあるのです。7組は全学年の発達障害児だけを集めている教室です。この日は図工の時間だったようで。黒板に「リースを作ろう」書かれていて、手順が書かれていました。二人一組になって人数分のリースを作るのです。素材は教壇の床に置かれています。
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7組の「リースを作ろう」図工の授業を様子。黒板には2人一組になってリースを作る手順が書かれていました。
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壁にはお芋の絵が描かれていました。
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教室の後ろには盥に紅乙女(薩摩芋)が置かれていました。この日のリース造りの前に絵に描かれた幸せな薩摩芋です。
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教室の壁には模造紙に薩摩芋掘りで観察したお芋が書かれていました。これは多分理科の授業で薩摩芋掘りの実習を兼ねたのでしょう。因みに学校の裏には畑があって様々な野菜や稲が栽培されています。
何のことはない「薩摩芋の蔓です。蔓を一間程の長さに切ってそれを直径30㎝弱にクルクル丸めるのです。。先生は手際よく蔓を丸めてスチールのリボンで止めて完成です。いよいよ児童が作り始めました。一人では先生の様に上手くは出来ません。ペアのお友達に抑えて貰ってリボンで止めれば先生のリースに劣らないリースが出来ました。自分のリースが出来たら次はお友達のリース造りを手助けします。見る見る10人10個ほどのリースが出来上がり、頭に載せてニンマリです。オリンピックの月桂冠のようにもエンジェルのリングのようにも見えます。児童は嬉しさのあまり教室の後ろで見守る父兄にピースサインです。父兄も嬉しそうです。
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此れが、リボンを結ぶ前のお芋の井蔓で編んだリース。これをリボンで結んで1週間乾かせば固定するそうです。
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此れはリボンで結んだリース。名前を書いた札が付いています。1週間でリースは固定されるそうです。未だ薩摩芋の青い葉っぱが付いていました。
先生は今後の手順を説明しました。来週はこのリングが硬くなっています。今はリボンを外せば元に戻ってしまいますが来週には枯れて硬くなっていますからリングの周囲に松ぼっくりや団栗を飾ってリースが完成です。それまで飾りたいものを探しておいてください。
先生は一人の生徒に尋ねました「素敵なリースが出来たらどうする?」
生徒は答えます。「リースが出来たらお母さんにあげます」
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熱心に見つめるお父さんの視線を浴びて児童は嬉しそうです。盥のお芋も蔓が活かされて満足していることでしょう。
次に先生は全員に向かって質問されました「二人ペアになって作って仲良く出来たかな?
生徒は口々に答えました。「友達が手伝ってくれたので上手に出来ました。
先生はニッコリして言われました。
先生は気付いてましたよ「皆お友達に手伝って貰って、”有難う”が言えてましたね!」
私は廊下で回ってきた生活指導の先生に言いました。良い授業を参観出来て幸いでした。前回の議論の解答を見せて貰いました。それにしても教室にはお芋も置かれていましたが蔓までこんなに活用されたら本望で喜んでいるでしょうね!
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給食を戴いて心も腹も満足して帰路につきました。




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手乗り鶉の夢

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我家には一羽の鶉が居ます。もう3歳を過ぎてしまいました最初は2羽でワイフと私納豆を食べる時に卵を取ろうと飼い始めたのですが、ワイフが面倒をみるようになり、餌やりの為に扉を開けた途端に一羽が逃げてしまい。オットリヤの鶉が残りました。でもその一羽もお婆ちゃんになってしまい二人分の卵を産んでくれなくなってきました。そこで、新しく鶉の子を買おうと思っていたのですが欲張りな私ですので、鶉が手乗りインコや文鳥の様に懐いでくれれば逃げられる事も無いし、楽しい事間違いありません。
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此れが我家の鶉でした。二羽いて仲良しで良かったのでしたが左のモックリしたのが逃げてしまいました。
インコの事を思えば産まれた時に餌をくれたモノが自分の親と刷り込まれると聞きます。そこで、孵卵器と有精卵を用意して自宅で卵を孵す事にしました。ネット(オークション)で「孵卵器」を検索すると沢山出て来ます。孵卵器は新品で2万円中古で1.5万円が相場のようでした。でも有精卵7個と孵卵器セットで2500円/1箇月を見つけました。出品者は岩手のペットショップでした。私はこのペットショップから「孵卵器+有精卵7個」を求めてベッドの床下にセットしました。音頭セットは鶉用にして装置にぬるま湯を入れればセット完了です。
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此れが鶉の孵卵器です。
最初に黒いのが一羽孵化しました。上の孵卵器の中をピーピー啼きながら駆け回ります。脚下には未だ孵化していない卵があります。蹴飛ばしながら歩いています。ワイフも額を寄せて見守ります。
「脚を脱臼しないかしら?」心配そうです。この前まで反対していたのが噓の様に鶉のひよこに愛情を注いでいる様子です。でも「7羽全部孵化したらどうするの?何処で如何遣って飼うの?世話係は私なの!」心配そうです。確かに7羽では多すぎます。第一私が過栄養になってしまいます。
次に孵化したひよこはベージュ色でした。1日違いの弟(妹?」です。先に生まれた黒いのと一緒に水槽に入れました。水槽には暖房装置(白熱電球とヒーター)を入れて37度を維持しています。
水とひよこの餌を入れて置いたところ良く食べ良く飲んで元気そのものです。
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私のベッドの下で孵化した鶉。右が孵卵器で左が孵化したばかりのひよこを入れる水槽です。
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下が遅れて産まれた白い鶉、上の殻は先に産まれた黒い鶉のもの
2羽は水槽に移して充分な暖房と餌と水をやっていますが意外と楽に育ちそうです。弟(妹?)を水槽に移すと先に移した黒いのが早速白いのを苛め始めました。嘴で突っ突くのです。元々白い上に羽毛の少ない白いのは痛々しく見えますが、直に仲良くなりました。未だ孵化しない5個について孵卵器を貸してくれたペットショップに相談すると「2羽孵化すれば良いでしょう。孵卵器は返送してください」との事でした。930円の宅配料を払って岩手に返却しました。収支を解散してみれば随分高いモノに付きましたレンタル料が2500円で返送料が930円で餌代や水槽代に積算すれば何時ものペットショップで雛を買った(600円弱)方がずっと安く上がりますし、雄ならば卵は産んでくれません。でも「手乗り鶉」の夢を追ったと思えば高いモノではありません。でも今のところ臆病者で私を見ると大袈裟に逃げ回っています。
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右が先に産まれた「」左が遅れて産まれた「白」です。


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足助でジビエ

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東大都市工学部の報告書「足助の歴史町造りプラン」には載っていませんでしたが。食文化も足助の資産の一つで、歴史と自然の生み出す資産です。
数日前にアップした「中馬柿」はその典型ですし。もう一つ、足助には食べる楽しみがあります。バスの車窓から足助街道の飲食店を見ていると「泥鰌の蒲焼」を見つけました。
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足助街道で見つけた泥鰌の蒲焼の暖簾。惣菜屋のようですが、泥鰌は「大分産」と明記されています。
泥鰌と云えばこの辺りも「仏泥鰌」でしょう、蒲焼と云う事は「丸焼き」や「鍋」とも違います。鰻以上にヌルヌルして小さい泥鰌です。どうやって捌くのか興味深々です。場所は大樹寺の少し松平寄りです。何時か息子に連れて行って貰いましょう。勿論香嵐渓を流れる巴川は清流ですから鮎が獲れます。足助街道には川魚料理店が目立ちます。
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これは足助三州屋敷の茶屋桧で戴いた、鮎と御幣餅です。鮎は香嵐渓の清流の恵みでしょう。
私は三州屋敷の桧茶屋で五平餅を戴きました。信州や岐阜では「御幣餅」と書くのですが、足助では五平と書きます。五平では五平さんが作ったお餅のようです。流石に足助の五平餅は八丁味噌を塗ってありました。岐阜や信州ではに胡桃を和えた味噌を塗ったように記憶しています。相席の親子のお婆さんが嬉しそうに五平餅を完食して、息子も嫁も嬉しそうにしていました。私は目の前の不如帰の生花越しにこの聖家族を観ていました。
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此れは足助の割烹「井筒亀」です。中馬街道に面して重文鈴木家住宅の並びですから否応なしに眼に付きます。加えて下の写真の様に猪の毛皮を干していますからインパクト強烈です。3階の窓に吊るしてあるのは鰻のオブジェで「う」の字になっています。
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中馬街道に面して井筒亀の駐車場に干されている猪の毛皮、手前の二頭の鼻からは血が滲んでいました。
実は三州屋敷に来る3時間前に私は猪鍋を食べたのでした。前回来た時には「塩の道」と云う名の蕎麦屋に入ったのでしたが、昼食後中馬街道を散策していて街道に面して猪の毛皮を7,8枚干してあるのを見つけたのでした。以来何時かはこのお店で猪鍋を戴きたいと思っていたのでした。
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此れが井筒亀のメニューです。関東では「牡丹鍋」というのですが足助では「猪鍋/ししなべ」と呼んでいました。
売値こそ案内していませんでしたが、屹度欲しい人には売ってくれるのでしょう。猪の毛皮は何を置いても「猪鍋」のPRが目的です。確認してみればこの秋捕獲された猪でしょう。鼻先に滲んだ血が未だ乾いていません。というか、一度乾いていたのにこの雨でまた流れ出したのかもしれません。
実は私はバスの中で知立の銘菓「藤田屋の大あんまき」を食べていました。「大あんまき」は何のことはない奈良の「三笠山」と同じようなモノでパンケーキの代わりに伊達巻状に漉し餡を包んだモノです。漉し餡なら180円/1本栗餡なら200円/1本と表示して東岡崎駅のモールで販売しているのです。
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此れが知立の名物「大あんまき」です。奈良の三笠山とおせち料理の伊達巻を合せたようなお菓子です。右下が「栗あんまき」です。私は「栗」と普通のあんまき(漉し餡」を戴きましたが下の段中央の「鶯豆のあんまき」を次回は戴きましょう。
お八には最適と思って各1本買ったのですが思いの外ボリュームがあって腹に詰まっていました。そこで井筒亀の女将さんにお断りして入店しました。『私は胃癌の術後で猪鍋御膳は食べきれません。そこで夫婦二人でシェアさせて下さい。3年前来た時にこのお店を見つけて”何時か来たい”思っていたのです。』
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これが井筒亀の「猪鍋御膳」関東の牡丹鍋は「醤油+砂糖+みりん」の汁を使いますが八丁味噌の汁に具を入れて鍋に煮ます。右端は自然薯と蒟蒻の刺身です。最後に饂飩を煮て「味噌煮込みうどん」状態にして完食です。二人で充分なボリュームでした。
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猪鍋の締めは味噌煮込みうどんです。
女将さんは案の定快諾してくれました。そこで猪鍋御膳一膳を二人で分け合いました。
向こうの席では不思議な男女が猪鍋御膳の他に「松茸3000円/1人前」を取っていました。
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これは割烹の井筒亀の並びにある同名の看板のあるお肉屋さん「シシコロッケ」が私を誘います。飛騨古川では飛騨コロッケを食べながら散策したいい思い出があります。
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肉屋の井筒亀の店頭豚と鳥ばかりで猪肉は売っていませんでした。この日は獅子コロッケ150円も売っていませんでした。
ジビエは昨今話題になっています。猪や鹿が増えすぎて農作物や苗木の食害が問題になっているのです。日本人もヨーロッパを旅して鹿肉の味を知っています。鹿や猪を放置すればマイナスで捕獲して食用にすればプラスですからジビエは一挙両得の妙手です。でもジビエを推進するには二つの問題点があります。一つは捕獲方法です。「罠を仕掛ければ簡単ですが、罠を許さない倫理観があります。猟銃で撃ち殺すのとストラップで捕獲するのと倫理的に如何違うのか?私には解りません。一方猟師の高齢化問題もありますし、猟には事故が付きものです。
もう一つの問題は野生肉の安全性の問題です。猪にはダニが取りざたされていますし、流通過程での腐敗も懸念されます。解体の技と保存と運搬の問題を整備しなくてはなりません。今夏山梨に貞次の石仏を巡った時には猪の解体工場が幾つもありました。解体技術の習得は簡単ではないでしょうが農村の雇用機会を生むでしょうし、お肉を冷凍運搬するのにも雇用と投資を必要とします。
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井筒鍋の店内大黒柱に掛けられた180Kの猪。昭和52年に獲れたそうです。


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八丁味噌の知恵

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岡崎の楽しみは八丁味噌料理を食べる事です。と云っても殆どの料理に八丁味噌が使われています。足助の三州屋敷の茶屋で食べた五平餅も普通は「胡桃味噌」ですが八丁味噌垂れが付いていました。また井筒亀で戴いた「猪鍋」も関東なら鋤焼風の「醤油+砂糖+みりん」の所八丁味噌でしたから鍋の最後にうどんを入れた時は「味噌煮込みうどん」状態でした。三河では何でも八丁味噌なのです。屹度味噌ラーメンも八丁味噌でしょうが、食べた事はありません。毎回「味噌煮込みうどん」を食べているのです。何時も八丁味噌が美味しいのか?三河人は信州味噌や仙台味噌は食べないで八丁味噌を豚カツやスパゲッティーに使うのか?不思議に思っていました。確かに八丁味噌は「「何にも使えて何も美味しくしてくれます。三河人はトーストに餡子を塗って食べますが八丁味噌ピーナッツクリームなんて行けるかもしれません。
今回も八丁味噌のトップメーカー「角久」に行き、また工場見学してきました。ソフトクリームが好きなんですが角久の「味噌ソフト」が一番の傑作だと確信しているのです。
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これが角久の八丁味噌ソフト(300円)です。八丁味噌のコクが絶品です。七味を振りかけてあって味噌味の煎餅が付いています。
角久の工場見学は40分を要します。私は12時に説明員に連れられて工場内に入りました。と云っても、実際の工場ではなくて、醸造蔵と歴史的な資料館です。説明によれば矢作川流域で収穫される大豆と(矢作大豆」半田や吉良町で作られる天然塩を用いて工場内で汲み上げられる地下水だけが原料で岡崎城から八丁離れた八丁村で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれたそうです。でもそんなレアな原料だけではナショナルブランドの量は確保出来まいと思って製品の袋を確認すると原料の生産地表示がありませんでした
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これは大豆を蒸した釜です。大豆麹の麹菌はこの蔵に潜んでいて杉樽に染みついているのでしょう。
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これは巨大な杉樽で30万人分仕込めるそうです。角久では自社で樽も作っていました。大豆麹は主としてこの樽に生息しているのでしょう。
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此れは仕込んだ味噌をマル2年寝かせておく蔵です。左の蔵の基礎が石積みで高くなっているのは近くに矢作川が流れていて洪水のリスクに晒されていたからです。
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これは味噌の仕込を説明する人形です。材料は大豆に塩に水だけで、良く捏ねて空気を抜き更に重石を載せて2年間この蔵で寝かせて完成だそうです。
説明員に確認すると大豆は北海道産が多いモノの国内産だけで生産しているとの事でした。我が生家では毎年味噌を作っていました。物置には大きな杉樽がありました。年末に向けて本堂の奥廊下で米麹を発酵させ。米麹と塩と蒸した大豆を杉樽に漬けこみました。準備は総て母の仕事で私も兄も素足で大豆を踏み潰しました。踏み潰すのは大豆の形を無くす事と空気を味噌の中から抜くのが目的でした。脚の踝から爪先にかけては真っ赤になりました。味噌の仕込が終われば直に正月でした。仕込んでから1年経てば食べ頃でした。こうして仕込んだ味噌の表面に「たまり」が滲み出て来ました。所謂「たまり醤油」でこれが美味しいのでした。観た眼は汚いのですが香り味共にペットボトル入りで売られている醤油の比ではありませんでした。2年前奈良の金剛山の麓にある「片上醤油」を訪問しました。懐かしい「たまり醤油」の香りが「葛城古道」に漂っていました。角久の蔵に入ると「たまり醤油」で記憶していた発酵の香りが充満していました

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角久は八丁味噌のテーマパークの楽しさでした。
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蔵に並んだ味噌樽この樽に30万人分の味噌を仕込んであるので角久の蔵には百樽3千万人分の味噌が熟成中という事になります。良い材料を使って手を抜かず、何も加えず時間を掛ければ八丁味噌が出来上がると情熱をこめて説明してくれました。信州や仙台の味噌に較べれば塩分が少なく味が濃厚な八丁味噌ですから今後も愛好したいと思います。説明員は「河村 たかし名古屋市長」に似ていました。
説明員は宮内庁御用達で美智子妃殿下もお召し上がりと説明されます。工場を出る時は一口味わって満足して帰りました。勿論お土産に「八丁味噌カリントウ」を買い込んで。
八丁味噌の美味しさは「大豆麹を発酵させるだけで。「大豆+塩+水」の他に何も加えない唯醗酵を促す為には杉樽と重石が必要なのですが。


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下駄の文化

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岡崎城の城下町に27曲りを観て歩きました。27曲りの曲がり角に「金の草履」が設えてありました。更に足助の三州屋敷では職人が下駄を作っていました。自ずと日本人の「裸足の文化」と西洋の「靴の文化」を想い較べていました。靴も下駄も草履も皆履物です。靴は革製も木製も足全体を保護しています。中国や朝鮮はどちらかと云えば靴に近く、日本だけが草履や下駄です。一方草履も下駄も素足で足の下が木であれば下駄になるし、草の編み物であれば草履になります。日本人は古来から素足(裸足)を大事にしてきました。
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此れは足助三州屋敷での草履作りの実演風景。
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これは三州屋敷で下駄を作って販売しているコーナー、下駄と云えば桐が良いと思っているのは間違いで桐は軽くても消耗が早いのです。足助では主として棒の材を使っています棒の材は堅いので、写真の様な歯が擦り切れたら歯を入れ替えれば長持ちします。写真の右には竹製の下駄があります。これならば四六時中健康竹踏みをしている事になります。
下駄の表には花緒を通す穴が三つ付いています。三つ目は、呪術的であります。両眼ともう一つ額に眼があると思えば、それは呪術です。古事記では岩戸に隠れてしまった天照大神の気を引くために、天鈿女命(アマノウズメ)は下駄を履き樽の上に上がって踊ります。屹度太鼓以上に良い音が岩戸の中迄響き渡った事でしょう。弥生の古墳からは田下駄が出土しますが、履物以上に呪術的な意味が込められていたのでしょう。
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私の家の近くにある南谷の大草鞋も呪術です。解説にはこんな巨人が棲んでいるので災厄を村に入れない「賽の神」である、書いてありますが。”脚から健康や病気が始まる”呪術と思われます。
草履も神社や寺院の仁王門に吊るされている事実は矢張り呪術でしょう。西洋が靴で足を保護する機能重視であるとして一方裸足の履物(下駄・草履)を愛用する野が日本人だとすると日本文化は遅れている様な気がしてきます。そんな事はありません。素材が西洋は革がふんだんに在ったのに対し、日本は草木を使うしかなかっただけの事です。実は下駄や草履は花緒を代えれば済むし、下駄の歯や草履の裏を張り替えれば済みます。靴より遥かにエコです。少なくとも木靴と下駄を較べれば下駄がエコ的に秀でているのは明瞭です。
先月「風の盆」で下駄を履いているお嬢さんを多く視ました。ヤッパリ下駄は良いなあ思いました。
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八尾の履物店
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「風の盆」を観て、女性の美しさは足元と襟足だと思いました
”健康も病気も足から始まる”と日本人は考えて来ました。美意識も足元を大切にしてきました。もっともっと下駄や草履更に足袋を含めた裸足の文化を大事にしたいと思います。少なくともビニールサンタルより遥かに粋だし健康的でエコだと思います。


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隼人瓜を食べる

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今年は庭の端に隼人瓜(はやとうり)を植えました。昔隼人瓜の漬物を食べて美味しいと思った記憶があったのです。それに隼人瓜の別名は『佛手瓜』ですから、阿弥陀様の手で掬い上げられたい願望のある私は『仏手柑』か『仏手瓜』どちらか欲しいと思っていました。柚子の仲間である仏手柑はグロテスクで美味しそうにありませんから仏手瓜の方が私にあっていると思ったのでした。
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此れが仏手柑です。柚子の仲間ですが指の様な果実の中は綿のようで美味しくありません香りだけです。
今年の4月に庭の端フェンス沿いに白と緑の隼人瓜を植えました。植えると云っても苗を植えたのではなくて芽が出始めた瓜を植えたのです。チューリップを花壇に埋める様な要領で庭の端に移植鏝で穴を掘って瓜を埋めました。瓜の蔓は同時に植えた栗南瓜と競って、傍に在る木瓜や椿や白木蓮を伝って上に上に伸びて行きました。南瓜が次々に花を咲かせて、その実(球)を膨らませ行くのに対し隼人瓜は一向に花を付けません。大丈夫かな?思って観ている中に南瓜は萎れ初め今度は夕顔と競っていました。
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白木蓮の樹に覆いかぶさった隼人瓜と夕顔10月10日頃白いのは夕顔で、夕顔と隼人瓜はファイトしながら育っていました。
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白木蓮の樹にぶら下った隼人瓜10月15日頃。
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寺に登る人は我家の隼人瓜を見上げて「何だ!」言って通り過ぎます。
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通行人は頭上を見上げると千成瓢箪の様に隼人瓜がブル下がっているのを眼にします。
漸く花を付けたのは10月に入ってからでした。花と云っても実に地味で小さな花でした。雌花の下には子房があって、子房が実になります。徐徐に子房が膨らみ始めて来ました。ラクビ―ボールの様な楕円形で短い方の径が10㎝長い方の径が15㎝に届いたところで獲ってみました。ワイフが調べて、中華の冬瓜風に油で炒めて肉を和えたりして食卓に出してくれました。冬瓜がフヤ・フヤであるのに対し隼人瓜は歯当たりが小気味よいのです。特にサラダにすると少し若い奈良の白瓜(奈良漬になる)を食べているようです。ネットで調べると高血圧に効果があるとかミネラルや食物繊維が豊富なので、美容やダイエットに効果が高いと案内しています。
何といっても隼人瓜がぐら下がっている風情が最高です。何処か久隅守景の夕顔納涼図の趣があります。
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これが夕顔棚納涼図(国宝)国立博物館です。私達は噴水のように上に向くモノよりはぶら下っているモノに愛着が湧くのです
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ゴツゴツした隼人瓜は来年の種にすることにして若くて顔がツルツルのを優先して食べ始める事にしました。
私はテーブルに積まれた隼人瓜を観ながら話しかけます。
『柿が赤くなると医者が青くなると云うけれど、青いのは隼人瓜で若しもお前がマンゴーなら愉快なのにね!』
結局、中華風の炒め物とサラダと漬物、酢のモノ 胡瓜揉み風。で食べていますが。到底我が家では食べ切れません。ご近所に配る等して、無駄にしないようにしようとしています。
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朝に晩に食卓を賑わす隼人瓜(左下/中華風炒め物)
隼人と云えば薩摩隼人です。朝晩隼人瓜を食べて、薩摩隼人の様に逞しく健康体になりたいものです。薩摩隼人は無理にしても、南瓜や夕顔に負けない強さのエキスを私の体内に摂取出来そうな気がしてきます。
酢のモノに漬物、サラダ等試したのですが昔食べた味噌漬け(ザーサイの様な食感)は未だ食べて居ません。
息子はマヨネーズをつけて食べるのが良いのじゃないか!言いますので明日の朝食で試してみましょう。



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モロコシ饂飩の妙味

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私はサラリーマン時代から名古屋三河に来ると必ず『味噌煮込みうどん』を食べていました。10月中旬の旅行でも味噌煮込み饂飩を食べる事に決めていました。前回は東岡崎駅に近い居酒屋風の店だったので、岡崎で一番人気の店をルルブで確認して。『大石庵釜春http://www.kamahalu.co.jp/』に行く事にしました。場所は岡崎公園駅の傍で角久迄は徒歩5分の位置です。どうせ角久の工場見学に行くのですから角久内のレストランで「味噌煮込み饂飩」を食べる事も考えたのですが、やっぱり地元の人の一番人気を確認したくなって11時の開店と同時に店内に入りました。この時には既に20人ほどが開店を待っていましたから、人気は相当なモノです。私はお客は誰しも「味噌煮込み」を注文するモノと思っていたのですが隣席の人もその隣席の人も「釜揚げ饂飩」を注文しています。朱塗りの桶に「白くてモチ・モチしてそうな饂飩が浮いているようです。朱塗りの桶は建前の時に使う「角樽」のようで、お目出度い感じがします。三河人はハレの日に饂飩を食べる習慣があるのかな?思ったりしました。私の母は嬉しい事があると必ず餅撞きをしました。関東人はハレの日にはお餅をついて神棚や御先祖様にお供えしたモノです。ハレの日の食器も決まっていました。塗り椀が使われました。
何で皆釜揚げ饂飩を食べているのか不思議に思って献立表を見れな(その案内に釜春は「釜揚げうどん」の創業者で釜揚げ饂飩の名店のようです。偶々八丁味噌の角久が近いので「味噌煮込み饂飩」の思い込みを生んでいるだけの事のようです。
其処でメニューを見ながら思案しました。「味噌煮込み饂飩」と「釜揚げ饂飩」を注文し、夫婦でシェアーするか?でもメニューに「モロコシ饂飩」が出ています。写真を見れば、卵とじ饂飩にモロコシを加えたようです。卵とじ自体にトロ味が付いていて、横浜名物のサンマー麺の「あんかけ」風のようです。興味を引かれたので「味噌煮込みうど」に「モロコシ饂飩」を一つずつ注文し夫婦で分け合う事にしました。
実はこれが大正解でした。味噌煮込みは総じて塩辛いのに対し「モロコシ饂飩」はサッパリしていて甘いのです。



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台風一過、落ちた隼人瓜

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10/22日夜のテレビは衆院選挙速報と台風報道で慌ただしくしていました。
夜半に向けて風も雨も次第に強くなります。未だ開いていない寒菊や夏の間外に出して置いたジャコバサボテンが気になります。屹度漸く咲き出した山茶花も吹き飛ばされた事でしょう。
でも、一番の気懸りは収穫直前の「隼人瓜」です。秋風にブラブラしていた風情は楽しかったのですが、台風で吹き飛ばされたのでは気の毒です。
10/23朝、庭と道路の掃除をしているのでしょう。ベッドの私の耳に、庭からワイフの素頓狂な声が響きました。何か良くない発見があったようです。
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台風一過で傷が付いた隼人瓜が庭に転がってしまいました。
私も庭に出ました。案の定庭にはワイフが拾った隼人瓜が並べてありました。
「昨晩は難儀だったね!」庭木や草花に話しかけます。山茶花は未だ咲き始めたばかりでしたので大丈夫でした。ジャコバサボテンなどの鉢類も風除けがあったので大丈夫でした。でも、隼人瓜は得意のブラブラが振り回されたのでしょう。顔に傷が出来てしまっていました。この傷が何れ「痘痕」になるのでしょう。如何しようか?考えます。
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落ちなかった隼人瓜も実は傷だらけなのです。
道に並べて”どうぞ御取り下さい、私は隼人瓜と申します。白瓜のように美味しいですよ”書いておこうかと思います。近くの割烹に届けて「お客さんで好きな人が居たら上げてください」とでも言おうか…。
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台風を凌いだ隼人瓜、覆い被られた白木蓮は鬱陶しくなくなって喜んでいるでしょう。
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物置(当初は私の書斎の積りで作ったログハウスの屋根を這っていた隼人瓜は掴むモノも無くて散々でした。手前は二階のベランダに栽培した千日紅です。千日紅はもうじき種を採取しなくてはなりまっせん。
考えました。擦り傷が痘痕(あばた)になる前に処分してしまいたい思う気持ちは親心に似ています。
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此れが台風一過の隼人瓜です。台風の前は下の写真でした。
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此れが台風が来る前の隼人瓜でした。





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「浅間に初雪」「豆腐に下仁田葱」

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昨晩私が家に帰ったのは夜9時でした。”塩の道”の観仏旅行から帰ったのでした。
何時も旅から帰ると我家のベッドは一番と思いながら熟睡します。家で待っていてくれた家族、そして同行してくれた友人への感謝の気持ちで”有難うお蔭で良い旅が出来ました”思うのです。
そして布団の中で思います。『牛方宿』の藁布団の根心地はどんなだったろうか?
我国最古の仏像は一般に飛鳥大仏(安居院/609年、鞍作止利)云われていますが、安曇野の観松院 銅像菩薩半跏像の方が古いのでは、ないだろうか?安曇族(海野族/穂高神社を祀った海野族)が飛鳥に先行して、日本に帰化して穂高神社に祀った野ではないだろうか?考えたりしながら、まど櫓んでいる中に熟睡してしまいました。朝ラジオの音で眼を覚ましました。今日(10月27日は)72候の「降霜」だそうです。『初霜が降りる日』の意味です。昨日(10/26)持ち帰ったのは佐久の長福寺で戴いた下仁田葱です。堂守は11月に入って「霜が降りれば下仁田葱が甘くなる」言って居られました。軽井沢の市場では「霜下野菜」の幟やポスターを貼ってPRしていました。親友が作ってくれた湯豆腐にはふんだんに下仁田葱が入っていました。豆腐は何処が一番美味いか?暫し酒の肴になりました。2年前「大覚寺門前の宿で食べた湯豆腐は絹漉しだったけれど、あれは盆の季節、「盆の湯豆腐より」「初冬の木綿が最高!それに「水菜よりも下仁田葱が最高」意見の一致をみました。
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これは友人と湯豆腐を楽しんだ写真、「寒い事」、下「仁田葱」が美味しい湯豆腐の不可欠与件との意見で一致しました。それも絹漉しは避けて木綿の方が大豆の味が濃いし崩れないので食べやすい。
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これは軽井沢の「発地市庭」の野菜売り場の様子、壁に『霜下野菜」と書かれた幟が貼られています。

旅は23日に出かけました。台風一過の晴天の期待で一杯でしたが浅間山は雲の中で観れませんでした。でも帰り際の26日は冠雪した麗姿が観られました。
25日の夕刻「木漏れ日」と云う名の地域温泉施設で職員が嬉々として”昨日(24日)は寒かったですね。お山も初雪が降ったそうですよ!去年より1週間早いのです”言って挨拶してくれました。「寒い!寒い、寒い沢だ!」呟いていた私は友人に訊きました。何故初冠雪をあんなに喜ぶのだろうか?「雪が深いと豊作だとは聴くが」”初冠雪が早いと何故嬉しいのだろうか?”尋ねました。
友人の趣味は俳句ですので「季語に初冠雪は無いのか?」訊けばとでもしないと「季重ね」や「季違い」になり易い一番大事な季節が曖昧になったり、間違ってしまうので「冨士に初雪」「立山に初雪」「浅間に初雪」とでもしたら!教えてくれました。
東京に住んでいれば富士山の初冠雪を望む気持ちも解りますが。軽井沢の人が浅間の初冠雪を悦ぶ気持ちが解りません。意外と野菜が甘くなる為だったりして。
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26日帰り際に観た初冠雪した浅間山手前は大賀ホールの庭の池、お椀を伏せたような山は離れ山です。
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これは姫街道発地から観た、発冠雪した浅間山



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塩の道に旅立つ

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一般に「塩の道」と言うと「糸魚川」から塩尻辺りまで日本海「越中」「越後」の塩を内陸地の山梨や長野・松本に運ぶ道を想い出します。多分塩で想い出すのは「川中島」で「信玄」と戦った「謙信」が「武士の戦いは塩でするモノではない、刀と馬でするモノである」言った事に起因していると思います。しかし、近世になって北回り廻船」が盛んになると三河産の塩を岡崎から足助を経て飯田に運んだり、駿河の興津から甲斐の塩山に運んだ道も「塩の道」と呼ばれました。
「塩の道」は塩だけを運んだわけでは無く「海の幸」と「山の幸」を運んだわけです。塩の道は同時に文化の伝播を促す道でもありました。
近世の石仏も古代の飛鳥仏も塩の道を通りましたし。先史時代(神話時代)出雲の大国主命は塩の道を通って諏訪に攻め入ったモノと思います。
そんなことを確認すべく10月初めにワイフと岡崎足助に行きました。そして今回は松本と糸魚川の間を往復する旅行をプランしたのでした。
私の主興味は石仏で友人のT君は巨大樹I君は飛鳥仏を拝観したいと云う事で夫々、テーマを別にして旅立ちました。でも共通するのは「美味しいモノを食べたい」「温泉に浸かりたい」そんな卑近な欲求です。
何時までも一生の友人で居られるのは「旅好き」「細目に出かける事」と相互の好奇心を大事にすることです。
そんな次第で今日から「塩の道」旅行で見聞きした事、考えた事を記します。
今日は刈り入れが終わった田園風景をテーマにアップしまう。
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