我家と駅の中間に「南横浜フォーラム」があります。そのロビーに大きなテルテル坊主が吊り下げられています。今月末に「フォーラム祭り」を開催するのでどうしても「お天気」を願っているのです。お天気を神頼みする気持ちは良く解るのですが公共の施設で坊主を吊るすのは少し違和感があります。そこで「てるてる坊主」を民俗学的手法で考察してみる事にしました。
此れは我家から徒歩5分に在る横浜南フォーラムのロビーに吊るされた「てるてる坊主」星の王子様の衣装ですが、一見して違和感が漂います。
先ず童謡のてるてる坊主の歌詞を確認してみます。作曲は中山晋平氏ですが作詞は浅原鏡村氏です。浅村氏は安曇野の池田町に生まれ磐城の平で育ちました。池田町は道祖神の宝庫ですから、安曇野の子供達が無意識に謳っていた童歌を収録したのでしょう。
作詞・浅原鏡村 作曲・中山晋平
(1番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
(2番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
(3番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ
(1番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに 晴れたら金の鈴あげよ
(2番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
わたしの願いを聞いたなら あまいお酒をたんと飲ましょ
(3番)
てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ
それでも曇って泣いてたら そなたの首をチョンと切るぞ
問題は3番の『お天気にしてくれなかったら”お前の首をチョンと切る”』と云ったフレーズです。
【折口信夫の『被差別の民俗学』】
首吊りは最も楽な人殺しの方法と思われます。
日本の刑法でも死刑は罪人が最も苦しまないで済むという理由で絞首刑が死刑の方法として選ばれています。頸動脈を圧迫するので脳の機能が損なわれるので苦しむ時間が瞬時に殺せるのでしょう。高校時代兄の書架に「13階段の道」という本がありました。ニュルンベルクの戦犯の処刑の本で、多分法学部の学生だった兄が60年安保闘争に絡んで読んだモノでしょう。内容は連合軍はドイツの政治家・軍人を捕えて絞首刑に送ったドキュメントでした。東京裁判ではA級戦犯もBC級戦犯も絞首刑が施行され、遺骨は米軍により東京湾に散骨されたそうです。
此れは埼玉県幸手市の権現堤の桜です。権現堤は下流の田圃の洪水対策として築造したものですが再三決壊したので通りすがりの巡礼の娘に白羽を立てて堤に埋めたのでした。
此れは権現堤に建っている人柱になった不幸な母娘を弔った碑です。
【テルテル坊主でテルテル巫女で無い訳】
坊さんは暦を掌り、天候を祈祷する役割期待を背負っていましたから、農民はお坊さんに「明日天気になれ」「雨が降って田植えが出来ますように!」祈って貰ったのでした。だから「テルテル坊主」で神主に祈って貰ったのなら「テルテル巫女」があったのでしょう。「テルテル巫女」なら、顔が白くて、赤い袴の巫女さんで可愛かった事でしょう。楽しそうです。今度何かの折に「テルテル巫女」を作ってみる事にしましょう。
畑に種を撒いた翌日に雨が降ってくれれば発芽間違いありません」
童謡の「てるてる坊主」では子供達が親がお寺のお坊さんが「明日は天気にして下さい!」祈って貰っているのを見て、子供なりに「お天気の祈りはお坊さんに頼む」モノと思い込んでいたのでしょう。
【生贄の民俗学】
農村共同体で「堤防が決壊して困る」「頑丈な橋を渡したい」等と祈願する場合良く「生贄」が神様に供えられました。「生贄」は世界中何処にも何時の時代にも在ったようで、「インカ」の古墳にも「殷・周の古代中国の古墳からも遺骨が発見されています。
日本にも各地に「生贄」の遺骨が確認されています。桜の名所である埼玉の幸手の「権現堤」も通リの「生贄」の娘が権現になっています。通りすがりの若い娘(巡礼)が(人柱)に選ばれて堤の地神に奉げられたのでした。出雲神話の八咫の大蛇と同じように、地神の生贄としてに捧げたモノと思われます。
此れは宮崎市日南市に日南市小会議所が建てた人柱の碑です、写真出典http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/blog2/2008/04/post-168.html
日本の神は大半が土地神で出雲の神様「大国主命」も比叡山の神様「日吉神」も土地の神です。神は清いモノが好きで穢れたモノは嫌いですから、生贄には娘が選ばれて首吊りされたモノでしょう。年寄りでは神様は喜ばないし増して首を切っては出血で穢れてしまいます。
アステカの生贄の儀式。胸を裂き、心臓を取り出して神に捧げる。穢れを嫌った日本では生贄にも出血を伴わない人柱や人身御供が選ばれました。出典はウィキペディア
これはピネサロが描いた中世の絞首刑です。絞首刑は世界的に普遍した死刑執行方法だったのでした。出典ウィキペディアhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%8D%E3%83%AD%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E7%B5%9E%E9%A6%96%E5%88%91%E3%81%AE%E6%A7%98%E5%AD%90&ei=UTF-8&fr=top_ga1
「折口信夫氏」に「被差別の民俗学」と云う名の著書があります。日本各地の被差別部落を調べられたものです。折口先生は「穢多・非人」と呼ばれた被差別民は生贄の予備民だとお考えだったのではないでしょうか?もし、そうであれば「穢多・非人」というと「近世初期以降、封建的身分制で 最下層に位置づけられた人々」説明されて来ました。私達は藤村の「破戒」を読んでいますから、 「穢多・非人」とは仏教の考えが基本で、家畜の解体等血に塗れた汚らわしい仕事をする人達と理解して来ましたが、『生贄を供する人達が』ルーツだったら歴史は古代から先史時代にも遡ります。「穢多・非人」のルーツが仏教か神道か何れにしても、男女参画センターに相応しく無い事になります。
3年前広島の住宅地が山津波で流されました。「蛇崩(じゃくずれ)」「蛇抜(じゃぬけ)」と呼ばれるものです。そのな大雨は木曾でも山津波を引き起こしました。中世なら生贄が必要な場面だったのでしょう。
此れは木曾の洗馬宿の木曽川沿いの橋昔から木曾は土石流が頻発2014年7月にも大災害が起こりました。流石に現代は人柱を建てるなんて誰も考えませんが昔は先ず生贄を地神に奉げようとしたのでした。
流石に童謡のてるてる坊主では3番の歌詞は削除されたのでした。生贄が嫌われたのではなくて「首をチョン切る」のが相応しくないと判断されたのでしょう。
我家の隼人瓜が道にぶら下っています。テルテル坊主を観るようで楽しいです。通りすがりの人も見上げて行きます。