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片品村のお林檎

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11月11日は地域の小学校のお祭りでした。私が町内会長時代に創立60周年を迎えた事もあって、お祭りの始まりに関係もしました。招待状に揺さぶられてワイフと出かけました。生徒数千人を超えるマンモス学校では町内会自治会やМGОが模擬店や展示をして生徒達を喜ばせています。隣近所の模擬店や展示は競争ですから、気合も入ります。始まって二年目に私の町内では「焼き芋店」と「海老釣り」を実施しました。今想い起すと「海老釣り」以上に生徒の笑顔を呼んだ企画は無かった確信しています。
海老とは「アメリカザリガニ」です。私が子供の頃は「真っ赤チン」と呼んでいました。マッカーサーと海老の色を指摘した呼び名でした。
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一棟と2棟との間の中庭が祭りのメイン会場です。
先ず柏尾川に金網(餌が入っている)を沈めて置きます。金網を時々引き上げて真っ赤チンを貯めておきます。その真っ赤チンを園芸用のPボックスに入れておいて自由に海老釣りをさせてあげるのです。勿論コストはゼロですから、欲しい子には真っ赤チンをあげます。生徒がビニールに入った真っ赤チンを持ち歩くものですから、評判になって黒山の人だかりになりました。
町内会も会長が変われば新機軸をしたいモノ昨年はトウモロコシを焼いて、今年は焼き鳥を販売していました。私は既に引退していますから出かける義理は無いのですが評議員である事と前任校長先生が遥々故郷の片品村(尾瀬の入口にある美しい村)から名産の林檎を運んで来られるので、出かけない訳には行かないのです。隣の町内会は毎年「餅つき」をしますので、お餅を食べてランチにする予定です。
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祭りに餅つきはつきものです。お餅を戴くのが私の楽しみです。
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給食の仕入れをしている大木農園さんは野菜を直売しています。
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お友達と一緒の綿飴を食べて子供達の笑顔が爆発します。この笑顔見たさにPTA地域が力を合わせて祭りを盛り立てるのです。
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私のランチはお餅とベトナムラーメンのフォーで済ませました。
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これが片品村の林檎売場です。世界一と(1個200円)冨士4個で丁度千円になります。前校長がワゴン車に林檎を満載して会場に掛け込まれるのです。
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林檎を居間に置いておくだけで芳香が漂い、満たされた気持ちになれます。美味しいりんごなのになぜ旧約聖書では禁断の木の実なのか理解に難しいのです。




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捨てられない百円傘

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津軽平野の天気、向こうの雲のかかった山脈は久渡寺山右端は13湖を経て竜飛岬になる。西からシベリア高気圧が平野に来て雪を降らすモノ青空が覘いているのは太平洋側は晴れていたから。岩木山を周回して白神山地で泊まって来たので百円のビニール傘にはお世話になったのでした。
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これは「おしら様」の総本山津軽の久渡寺の300段の石段です。何処かに車で登れる道が在る筈だ探したのでしたが地図を見ても、友人のタブレットで確認しても自動車道はありませんでした。「おしらさま」が”足が付いているのだから気張って歩いて来い”叱咤していると思って覚悟を決めて石段を歩いて登りました。3年前国東の熊野磨崖仏を詣でた時以上の危険を感じました。
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これは津軽地方で熱く信仰されている「岩谷観音」を拝観した時の参道です。此処まで下りる処で梯子段を降りたのでしたが其処が一番危険足を滑らせれば岩木川の源流に落下してしまう怖さでした。
11月13日(月)私は友人二人を誘って白神山地の旅に出て16日帰宅しました。恐山や象潟や八甲田や十和田には何度も行ったのでしたが何故か白神山地は穴が空いたように抜けていたのです。でも昨今民俗学の読書をする度に白神や津軽がテーマになっていることが多く、是非行きたいと思っていたのでした。そこで友人を誘ったのでした。友人が面倒見が良いのでワイフも安心して、快く出してくれるのです。最初は10月中旬の予定をしていたのでしたが、日本一の大銀杏(天然記念物)が白神山地が日本海に没する、北金ヶ崎(鰺ヶ沢の南)にあることを知り、調べると黄葉は11月中旬と云う事でした。そこで、当初予定を一か月遅らせて出かけたのでした。テレビの天気予報では青森も津軽も降雪の予報が出ていました。ワイフは私が雪道で滑ってしまわないかと心配しています。で、最近は杖も突かないで歩いているのでしたが、どうしても杖は持って行く様に命じます。出掛けに雨が降っていましたので、旅先で捨てても良い様に百円のビニール傘をさして出発しました。右手に杖、左手に傘をさすのは初めてです。でもどうにかこうにか無事に旅を楽しみ民俗学の興味も回答を得て帰って来れました。
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此れが久渡寺の長い石段です。急な事と苔や落ち葉で滑り易い事、更に足を置く位置を慎重にしないと石が崩れる危険がありました。杖だけが頼りでした。
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此れは岩谷観音の祠です。扉の中を観ると前立の聖観音が置かれその奥にご本尊の観音様が祀られていると確信しました
「おしらさま」の総本山久渡寺では300段も在る苔むした石段を登って憧れの「おしら様」をお拝んで来ました。岩木山の麓で広く信仰されている「岩谷観音」にも拝んで来れました。岩谷観音の参道はこれも堅い岩石と所々、階段と云うより「梯子段」でしたが、友人にお入りを押して貰い手で引き揚げて貰いどうにか、宮本常一氏が熱く語られる岩谷観音を拝せました。これも百円ビニール傘と信濃堂製の杖のお蔭です。帰宅のバスに乗って暫し考えました。「もう傘も役目は終えたので捨てて帰ろうか?」でも百円ビニール傘に愛着が湧いて捨てられません。そこで、持ち帰る事にしました。
昔テレビで放映していました。今では一般的で使い捨て傘の様に雨がふると駅前のコンビニや、キオスクに並んでいる傘ですが、昭和天皇の大葬の儀に間に合えば一気に普及したのでしょうが。某議員の選挙事務所から老舗笠問屋に問い合わせが在った事からビニール傘の開発に着手したそうです。(ホワイトローズ(株)http://whiterose.jp/history.html)今では日本人の発明として世界中で評価されています。同社の長谷川社長が「特許権」は困難でも、せめて「意匠権」を登録していれば良かったのに、思うものです。割り箸にしても使い捨てライターにしても同様に大衆を喜ばせている日本人の発明は数多くあるようです。でも件の議員さんは雨の日でも顔を覚えて貰えて当選した暁には「ビニール傘」を床の間に飾った事でしょう。
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出掛けには使い捨ての積りで携行したビニール傘でしたが捨てられずに持ち帰りました。長野の杖と共に今回のツアーではお世話になった道具です。
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横浜駅の線路に捨てられたビニール傘、勿体ないというより可哀想です。
横浜駅で電車待ちしていたら向かいの線路に何本もビニール傘が捨てられていました道具にも神が宿る(九十九神)を信じていた日本人です。使い捨ては神に唾する悪行です。百円傘にも助けられました。
使い捨てと思って持っていったビニール傘ですがまた我が家に戻りました
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我家の玄関の所定の位置に戻ったビニール傘と「信濃木」と名付けられた杖です。次のお出かけまで休んでいてください。



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「おしらさま」と白神山地

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「おしら様」が世間で知られる事になったのは宮崎駿監督による「千と千尋の神隠し」で大根の赤い浴衣を着た不可思議な大根人形が登場して「おしら様」と云って崇められていたのでした。イメージ 1
「千と千尋の神隠しに登場したおしら様は歓喜天のような大根で豊穣神を思わせました。写真出典ジブリの図鑑https://matome.naver.jp/odai/2142112394840075901/2145213842474748603
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「千と千尋の神隠し」に登場した「顔無し」は欲望の強い亡者現代人の象徴で、先祖の亡者を思わせました。

私が讀んだ宮本常一氏(現代最人気の民俗学者)の解説依ると、「おしら様」は桑の木の枝を切り取って先端を顔にして幹を体にしたゴルフのドライバー状の杖に着物を着せたモノだそうです。着物は毎年着せ替えした、古い着物の上に重ね着いるので百枚を越す厚着のおしらさまも在るそうです。
驚異するのは着物が京友禅や加賀友禅の様な高級絹織物である事そして首に巻かれた飾りが子安貝である事だそうです。子安貝は琉球で採れたもので、北前船で津軽に運ばれたモノでしょう。百枚も重ね着した絹織物を調べると民族の信仰の厚さに驚くと共に、尊く思われると結んでおられました。
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こちらがおしらさま信仰の中核にある「久渡寺」に祀られている「おしらさま」二体並んでいても夫婦ではありません、一般家庭のそれは「左が馬の顔」で右が「織姫の顔」です。
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これも久渡寺のおしらさまです。江戸時代から熱い信仰を集めていたおしらさまに囲まれると背筋が寒くなります。

今回の私の興味は「おしら様」と白神山地との関係でしたから、私は「白神西目屋村にある「ビジターセンターの職員に質問してみました。結果職員の指摘は次の様なモノでした。
1「おしら様」と「白神山地」とは無関係です。千と千尋の神隠しでおしら様を登場させてくれたのは地
  元としては嬉しいのですが、宮崎監督は「豊穣神」として扱っていいて津軽では「祖霊」「先祖神」と
  信じているし、エロぽい大根姿は面白くない」。
職員の説明を補強すると次の通りでしょう。
宝暦3年(1753年)に作成された『津軽領内山沢図』(1739年~1745年の調査成果)に「白神嵩」「白神沢」と記載されていることから、この山岳を「白神岳」と呼んでいたのは18世紀には一般化していたのでしょう。
一方『加賀の「白山』の信仰が各地に伝播します。白山を津軽に見立てて津軽の白山、「白神」に発展していったのではないかという思うのが自然です。従って白神山も白山と同じく『五穀豊穣』を祈願、する山岳信仰の中核になったのでしょう。岩木山『山岳信仰)の信仰が谷向かいの白神山に広がり津軽のオシラサマ信仰が、「オシラサマ」の響きが何となく「白神」に通ずるということで、両者は山岳信仰で共通する語源であると思われます。少なくとも津軽の人達は「オシラサマ」と「白神山地」は共通する語源なのでしょう。
宮本常一氏は民俗学者の情熱を「おしらさま」に注がれます。
毎年高級な絹織物を着せ替えるのは大変な負担ですし、貴重な子安貝で数珠を作るのも大変です。それは信念も霊験があるように」祈願したのでしょう。、安曇野の道祖神を1月15日に毎年が塗り替えられるのと同じです。
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此方は白神西目屋村の岩谷観音です。関東のお稲荷様の狐の位置に「馬」が祀られています。津軽の林檎畑の中にいくつも観ました。岩谷観音はこの参道を梯子段を伝って50mも下った岩木川の谷川の際の洞窟に祀られています。
そして「おしら様」の芯棒に桑の木が用いられるのは岩谷観音を拝観して理解できました。
岩木山は津軽の豊穣の神様であり山岳信仰です。岩谷観音の前には必ず鳥居の横に馬が置かれています。林檎畑の横にお稲荷様かと思う鳥居があって鳥居の根元に馬の像がオシラサマ信仰は、馬とお姫様の悲恋の物語であり、その忘れ形見が蚕(かいこ・飼う蚕)とされ養蚕すなわち生糸・絹糸の豊産にささげた祈りとされています。
岩谷観音の馬の横には次の様な案内が出ていました。
藩政時代に、河辺村の唐牛三左衛門が南部で木戸の上に座し2本の角がある神馬を買い求めました。ある日、三左衛門はめまいを起こし落馬し、気がつくと鞍はお倉と呼ばれる岩壁に、馬は川沿いの洞窟に倒れていました。三左衛門はいたく悲しみ、早速岩谷内にお堂を建てて馬の霊を弔ったのが由来として伝えられています
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此れは岩谷観音の参道入口に在った岩谷観音と馬に係る由緒です。




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鶴の舞橋の意匠

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私が長銀から建設省の傘下の公団に出向していた時の事でした。私は元来設計やデザインに興味があったモノですから。隣の「設計部」の設計士の作業場に良く出入りしていました。私の職掌は監理課の課長補佐でしたから、設計部では歓迎されていました。何故なら予算の承認には先ず私の合意が必要でしたから、良く説明してくれました。
「街路樹に何を植えるか?」「橋のデザインはどちらが良いか?」、「塗装は何色が良いか」素人代表として私の意見を尊重してくれました。当時はコンクリートの打ち放しや「木材の素肌を活かすのが流行りでした。そんな時に本四架橋の吊り橋と翡翠色の塗装が発表されました。本四公団の仕事でしたが設計部では賛否両論で湧いていました。
処で青森駅に降り立ち初老3人組は先ず行き先を「鶴の舞橋」にしました。数年前JR東日本の広告で吉永小百合さんが「青森にいらっしゃい!」誘っていた橋です。
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此れがJR東日本の「大人の休日クラブ」で紹介された鶴の舞橋のポスター
青森から五所川原に向うには峠を越えます。峠の先には岩木川が流れています。津軽平野の溜池として万地治3年(1660)に巨大溜池(650ha)を造成しました。ところが平成になって五所川原の経済が低迷します。 地域の活性化に資することなどを目的に, 豊かな生態系や美しい景観に恵まれた県内最大の廻堰大溜池 (愛称「津軽富士見湖」) 周辺の水辺空間を活用して開発プランを作成します。事業は 農林水産省所管の農業水利施設高度利用事業 (後に水環境整備事業へ移行) により計画され、その目玉として県産ヒバ材による木橋「鶴の舞橋」を建設したのでした。詳細は農業土木(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsidre1965/70/3/70_3_237/_pdf)に詳しい。, 景観(津軽富士を湖面に映す景色)や生態系に配慮しながら, 農業用溜池を多面的に利用するために建設された総延長300mの木橋「鶴の舞橋」を施工した。総延長300mの橋で百メートル間隔で休憩と舞台ともなるスペースを用意し、塗装は蛍の色を採用しました。勿論鶴が舞っている優雅な姿を意匠したのでした。
江戸時代は農業用灌漑用水として現代は多目的灌漑用水として併せて観光資源として活用しようと計画したのでした。
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これが鶴の舞橋です。灌漑池は廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)から「冨士見湖と改名されました。
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鶴の舞橋の現地説明、所管は農林省になっています。
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素材のヒバの木が植えられていました。
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鶴の舞橋の西側渡り口湖面には鴨の群れが大騒ぎしていました。
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現地のポスターを複写してトリミングしました冬の朝でしょう
私達が湖に着くと湖岸には白鷺と青鷺が葦の岸辺に遊んでいました。この町は北津軽郡鶴田町です。屹度江戸時代はこの巨大な溜池に鶴が飛来していたのでしょう。ところが佐渡の朱鷺と同じように農薬によって餌になる泥鰌や小魚が全滅してしまったので、鶴は姿を見せなくなったのでしょう。
職員に訊けば昔は丹頂鶴が群れていたそうです。今は湖の東の岸辺で4つがい10羽の丹頂鶴を飼育しているそうで、何時の日か根室の鶴居村を越えるような「鶴の居る村」にしたいのだそうです。今は「鶴待ち橋」と云った処のようです。丹頂鶴の飼育に成功し、朱鷺の野性化プロジェクトも順調に進んでいるようです。津軽の名峰岩木山の麓に美しい木造三連橋があって、丹頂鶴も舞っていれば、街の活性化も進む事でしょう。



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舞の海は偉い

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五所川原市鶴田町で「鶴の舞橋」を観て私達は津軽市の「民俗博物館」に向かいました。博物館は津軽市の市役所の敷地内にありました。同博物館には遮光器埴輪を展示してありました。私達はこのツアーの最後に「三内丸山遺跡」を見学する予定ですから、最初と最後が縄文遺跡の見学になりました。
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青森県津軽地方は昔から相撲が盛んで、鰺ヶ沢は舞の海の故郷であります。北前船の寄港地でも在った事から「海の駅」に海産物市場と相撲博物館が併設されています。
博物館を出ると冷たい雨が降り出していました。今日中に白神山地の宿に着かなければなりません。雨が雪に変わりはしないか?不安が胸を過ります。
氷雨も降るは腹も減るは心細い限りです。
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海岸沿いの道は「干し烏賊」のカーテンが観られて焼き烏賊が食べられると聞いていたのですが、烏賊カーテンも焼き烏賊も見えませんでした。
昼は鰺ヶ沢でとる予定です。鰺ヶ沢は何か美味いモノがありそうな響きです。ガイドブックには街道は別名「烏賊カーテン」街道とか、一夜干しの烏賊に「ジャッパ汁」にお握りなんてグッドな取り合わせです。ガイドブックには「鰺ヶ沢海の駅ワンド」は美味いモノもあるし鰺ヶ沢の英雄「舞の海」を顕彰したような「相撲博物館」もあるそうです。
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海の駅ワンドは鰺ヶ沢漁港の目の前に立地していました。イカ釣り船が寂しく岸壁に接岸していました。此処には昔からアイドル犬の「ワサオ」が居たそうで、その姿がパネルになっていました、
氷雨が降る中私達は「海の駅ワンド」に入りました。目の前には「烏賊吊舟」も停泊しています。魚市場にはタラや巨大な水蛸が並んでいます、でも肝心の烏賊は無いし、スルメさえありません。烏賊はサンマ同様に不漁を極めているようです。でも。烏賊をどうしても食べたい私でしたので、市場内の食堂で隣の叔父さんが美味そうに食べていた「味噌ラーメン」に烏賊を注文しました。ラーメン屋の女将さんは気の良い人で、駐車場に面した屋台まで行って「烏賊焼き」を求めて細く切ってマヨネーズを添えて出してくれました。
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「ワンド」とは河川用語で「湾処」と書いて河川と入江の交錯する処の意味だそうです。同時に津軽の方言では「好き」と愛着を込めて言うのだそうです。ワンドは実質魚市場で揚げられたばかりの魚を小売してくれる「魚市場」でした。鮭と「鱈」位は解っても見慣れない魚が目立ちました。期待のスルメ烏賊も干物もありませんでした。
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烏賊で売っているのは「烏賊煎餅だけでした。この店はラーメンが人気なようで地元の人が美味しそうに食べていました。
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此れは駐車場に屋台を出していたお兄さんの「烏賊焼き」です。女将さんが食べやすい様に細切にした上にマヨネーズを添えてくれました。

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此れが人気の味噌ラーメンです。青森の人気は「ホタテラーメン」と「シジミラーメンと聞いてこの日の朝青森駅前の市場でホタテラーメン(塩味)を食べていた私には味噌が塩辛いので苦手でした。
爺さん3人組が入歯を鳴らしながら烏賊焼きを食べる様子を想像して食べ易くしてくれたのでした。食事を終えたらワンドの二階にある「相撲博物館」の見学です。靴を脱いで「舞の海」を染め抜いた幟の立ててあり階段を上ると二階から大きな笑い声が響いて来ました。二階には広間があって巨大なテレビが据えられて、テレビの前の桟敷席に10人ほどのお婆さんが陣取って「舞の海20番勝負」を観ているのです。クルクル舞の海と呼ばれた。小兵力士でしたから、窮地からくるっと回転して体を入れ替えて逆転勝利するのです。おお婆ちゃんにすれば舞の海の逆転快勝を観るのは何より嬉しいのでしょう。屹度此処に集まって大相撲九州場所の観戦するより、解りきった舞の海の相撲を観る方が優先するのでしょう。
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相撲博物館の展示。懐かしい「紙相撲」とトロフィーが展示されていました。お爺ちゃんお婆さんが紙相撲に興じているのでしょう
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舞の海の化粧まわしに行李も展示されていました。勿論化粧回しの図案は鰺ヶ沢で岩木山の脇から陽が上っています。
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右の相撲77手のパネルの裏が大型テレビが据えられていて舞の海20番勝負が放映されています。
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地域のお婆ちゃんが集まって大声をあげて舞の海を応援して、クルッと廻って勝利すると拍手して大笑いします。これは健康に良さそうです。
夜のNHKニュースを見ると青森県出身力士の勝敗を流していましたし、コンビニに入れば「ラーメン」にも「レトルトカレー」にも舞の海の笑顔がプリントしてありました。お婆ちゃん達は舞の海の笑顔がプリントして在るインスタント食品で腹を満たし、舞の海の20番勝負を観て今日も元気に一日が過ぎて行くのでしょう。
そう想うと舞の海は偉い、力士冥利に尽きぬ良い男だと羨ましく思うのでした。
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階段には舞の海の幟がたっていました。
折から一年納めの九州場所種々話題やトラブルも在るようです.
暴力を働いた日馬富士が悪いのは当然として、貴ノ富士親方が相撲協会に提出した報告書の正確性や、警察への事件報告等に火の粉は移りそうです。
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青森駅前のローソンの棚に並んだ「舞の海」商品。




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遮光器土偶のある亀ヶ岡遺跡

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今年の5月驚きのニュースが報道されました。英国のササビーズで亀ヶ岡の遮光器土偶が1億8千万円で英国人によって落札されたのでした縄文土偶が外国人の審美眼に高く評価された事実は嬉しくもあり、反省も迫られました。イメージ 1


此れはササビーズで1.8億円で落札された遮光器土偶。上半身しかないものの、日本人の予測を遥かに超える高い評価でした。画像出典(夕日新聞http://news.mikimedia.net/entry/2015/05/15/170138)
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此れは亀ヶ岡遺跡から出土した重文の遮光器土偶です。フラッシュをたかなければ写真撮影可と案内されていました。左脚が欠損しているのは再生を願う呪術と云われています。
何れ青森の縄文遺跡群はユネスコの世界文化遺産に認定される事でしょう。今回の白神山地ツアーの主目的は「白神とはどんな神か?」「白神とおしらさまは同じルーツか?」そんなことを極める事でした。
その為には先ず亀ヶ岡遺跡の土偶や葬制を観ておく必要があると思いました。そこで、五所川原から津軽市の「民俗博物館」に向かいました。博物館は津軽市市役所の敷地内にありました。
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これは津軽市市役所の敷地内にある博物館「ガルコ」です。
日本の石器時代縄文時代、弥生時代の研究は近年大幅に進化しました。と云うのは私の学生時代は石器や土器がどの地層から出土したかを根拠に推測されていたのでしたが、近年は放射性年代測定法や「ウラン・鉛時計法」の測定です。ウランや鉛は時間をかけて半減する事から出土物の年代を測定するには有効なのです。化石や人骨の年代測定には「カリウム・アルゴン時計」が有効と聞きます。化石や骨に含まれるカリウムやアルゴンを測って年代を逆算するのだそうです。
それら進歩した科学的根拠を理由に、日本人のルーツや先史時代を考察するのです。今読んでいるSF小説「イブの迷宮」はイブの化石を見つけて民族の進化を計画する話で、人類の尊厳を守ろうとする西側諸国と、イブの化石とオランウータンの飼育の研究成果を掛け合わせて中華民族の人種的進歩を計ろうとする中華人民解放軍の戦いを描いています。インディアナ・ジョーンズシリーズを凌駕する面白さでした。
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此れは「イブの迷宮」と題されたSF小説です。化石や遺伝子科学の進歩がこうしたSF小説を可能にしました
近年の科学の進歩が考古学も面白いモノにし、SF小説にも新ジャンルを提供したようです。午前中から博物館を訪れる客は珍しい様で、私達を待って照明が点きました。アッチコッチに看板の遮光器土偶の複製品が展示されています。
丁度この日は特別展「縄文の人骨」が開催されていました。縄文の人骨は犬歯が発達していて、弥生の人骨は臼歯が大きいと云うのです。理屈では容易に想像されても実物を見るのは違います。
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右の3つの頭蓋骨は縄文人のモノ左の二つは弥生人のモノ食生活の変化が骨の違いを生じさせました。
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縄文人の骨の特長を解説したパネル。解説を読んで実物を確認して、納得しました。

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偶々特別展で「縄文人の人骨」を展示していました。
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これは縄文人の墓から発掘された「屈葬」の再生展示です北九州の吉野ケ里遺跡でも屈葬は確認できますが多くが甕棺に納まっています。甕棺人骨では蓋がしてあったり石を抱かせていたりして、九州と陸奥以上に違いがあるようです。
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ズラリと並べられた縄文土器左の方は囲炉裏で鍋として活用された土器ですが。右の大きいのは甕棺で幼児の死体を納棺したモノです。
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縄文時代でも土器は変遷します。展示は実に簡明に為されていました。
主食べ物の違いは究極は骨に現われますが、宗教観や住居にも現われます。

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銀杏の横綱と大関

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鰺ヶ沢の「海の駅ワンド」を後にして、私達は次の目的地「北金ヶ崎」の大銀杏に向かいました。行った日は11月14日でした。この辺りの紅葉は既に終わっています。紅葉狩りなら1箇月もズレているのですが、私は天然記念物で日本一の大銀杏の一番に神々し久輝く時に観たいと思い、この日を選んで旅立ちしたのでした。車窓の右手は日本海で空も海も濃い灰色です。本来ならこの道の海側に烏賊が干されて居る筈です。でも、今年は烏賊が不漁で烏賊のカーテンは観られないようです。烏賊焼きの屋台も閉じた儘のように見えます。
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私が観たかったのはのはこの烏賊のカーテンでした。一夜干しの烏賊を肴に今晩は地ビールを飲もうと思っていたのでしたが。烏賊が超不漁で干し場は空しく木枯しに揺れていました。

友人が呟きます。”此処は鰺ヶ沢、何故「烏賊が沢」と云わなかったのだろうか?”
鯵が適当なのか烏賊が適当なのか良く解りません。でも「ワンド」と呼ばれる地勢は、岩木川が流れ込む入り江で魚貝が生育する事は間違いないのでしょう。岩木川は「岩木山」と「白神山」の山峡を源流にして津軽平野を潤して鰺ヶ沢で日本海に注ぎます。源流地点に祀られているのが「岩谷観音」なのです。岩谷観音や岩木山神社は奈良で云えば室生寺や「室生龍穴神社」のような存在です。
11月中旬になれば、東京でも代々木の絵画館前の銀杏も黄葉します。北国青森の銀杏なら既に黄葉していて良さそうなモノでしょうが、お目当ての北金ヶ崎の大銀杏は海に面しているので黄葉が遅いのでしょう。観光地図によれば今夜の宿にしている「白神館」は大銀杏の手前を東に折れて西目屋村にあります。この空模様では雪が降り出すかもしれません、それに未だ午後3時だというのに暗くなって来ました。少し焦り気味です。
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此れが深浦町に入って最初に目に飛び込んできた大銀杏です。天然記念物の北金ヶ崎の「垂乳根大銀杏」はこれに違いないと思って勇んで鑑賞したのでしたが・・・。銀杏の左上方に見えるのが「関の甕杉」と呼ばれている大杉でこれも天然記念物樹齢千年だそうです。この小山自体が鎌倉時代の名門安東氏の古墳で「甕棺」が出土したから「甕杉」の名が付いているのでしょう。
漸く街道の先、山が海に没する辺りに行灯の様に黄色い樹木が見えてきました。
「あれが日本一の大銀杏に違いない」私達は勇んで明るい行灯を目指しました。既に数人のカメラマンが大銀杏を写そうと構えています。私達は偶々左回りに大銀杏を観て廻りました。この樹は屹度雌なのでしょう、銀杏の実は成っていません幹の根元には祠が祀られていました。神様は誰だろう?思って見詰めれば水神様のようです。田圃と云えば山と海の間に紐の様に連なっているだけです。
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後で気付いたのですがこの銀杏は「曽根の銀杏」と案内されていました。
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銀杏の北側には観音様が立っていました。観音像は豊穣を祈るモノでした。
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この看板を観て目指した天然記念物の日本一の大銀杏はこの先だと気付きました。
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これは曽根の大銀杏から見上げた位置にある「関の甕杉」と呼ばれるの大杉です。これも樹齢千年の天然記念物です。雨が降って来たし、石段も高いので見上げた儘で先を急ぎました。
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此れは関の甕杉大杉の根元です。周囲には南北朝時代の板碑があって小山全体が鎌倉時代に栄えた安東氏一族の墓所と思われます。因みに赤い鳥居は春日神社です。
実はこの大銀杏は日本一では無くてもう一本1キロほど南に日本一の横綱の大銀杏が在ったのです。
北前船も漁船もこの大銀杏を灯台の様にして航海していたのでしょう。
駐車場の横には屋台が用意されていて。お焼きを商っています。「ジャッパ汁」なら直ぐに入るモノをお焼きお三時に食べたら夕食が食べられなくなってしまいます脇には舟が置かれていて案山子のようなお人形が踊っています。屹度烏賊小屋を閉鎖して施設も人も此処の大銀杏の駐車場に移転したのでしょう。
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此れは曽根の大銀杏の駐車場の脇に出ていた屋台です。写してみて屋台の主商品が「海鮮お焼き」で在った事に気付きました。食べれば良かった後悔しました。
一回りしてから案内板を見つけて驚きました「日本一の大銀杏はこの先1.5K南にあります」
という事は私達が感嘆した大銀杏は日本第弐位大関格と云う事なのでしょう。
勇んで横綱に向かいました。
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此れが天然記念物で日本一と云われる「北金ヶ崎の垂乳根大銀杏です。黄葉は曽根の大銀杏よりもおp暮れているようでした。二基の石灯籠に龍が彫られているので銀杏の根元に祀られていた仏神は水神でしょう。手前に五能線が走っているので車窓から観られる筈です。
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銀杏の垂乳根が大地に届いてしまった大銀杏です。
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大銀杏の根元には三基の祠がありましたがそのうちの一基は地蔵尊が祀られていました。



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千畳敷の石仏群

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今回、白神山地を巡るツアーを決めたきっかけは今夏友人が送ってくれた暑中見舞いにの絵葉書でした。絵葉書は千畳敷海岸で荒涼とした磯に奇岩が林立していて、奇岩を祠にして石仏が祀られていました。
私は絵葉書を観て即座に旅立つ事を決めました。石仏を巡る楽しみは第一に石仏自体の美しさですが、美しさは石仏の置かれた風景の美しさも重要です。
千畳敷は一目見て「賽の川原」を想わせる寂寥感に満ちていました。陸奥らしい厳しい大自然の中にぽつねんとして一人佇む石仏は私の石仏行脚のテーマでした。
”どうせ行くなら初冬が良かろう”思いました。
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五能線千畳敷駅前から、千畳敷海岸を観る。駐車場に在る碑には千畳敷が1792年(寛政4年)の地震により隆起して出来た事。 その昔、殿様が千畳の畳を敷き酒宴を催したといわれる岩棚であること等が海岸隆起200年記念で碑を建立したと記されていました。
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石仏の前から駐車場とその前の茶屋を見返す。茶屋の脇に五能線が敷かれていて「千畳敷駅」があります。
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私達が千畳敷に着いた時は未だ潮が満ちていました。海猫が磯で遊んでいました。
200年前に地震によって隆起したと言われる岩は直ぐに浸食され、まるで光背か祠の様になりました。庶民は其処で石仏を祀ったのでしょう。
私は何故?何を祈って石仏を此処に祀り始めたのか関心がたかまりました。石仏の台座や光背に建立した人の名や目的や年月が記されているモノです。石仏に寄り添って確認しようと思ったのでしたが風化が激しく近くに寄っても解りそうもありませんし、雨で岩場も濡れてしまったので確認を断念しました。でもこうしてブログアップに際して写真を確認すると複数の名が刻まれていました。屹度深浦町の「講」があって講のメンバーの名が刻まれているのでしょう。それでは「講」の名はと思えば石仏は如意輪観音や千手観音が目立ちます。帝釈天と見える石仏は土地柄でしょう。
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北向きに並んだ石仏群隆起した奇石を光背か祠のようにして立っています、奇岩は明らかに砂岩ですが石仏は地中のマグマが冷えて出来た安山岩か凝灰岩(どちらも火山性の石)のようです。何処かの石切り場で採石して石仏に彫って此処に祀ったのでしょう。
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こちらは「おしらさま」状に2基の地蔵尊が並んでいました。地蔵尊には関東では子供用の「赤いユダレ懸け」が着せられるのですが。黒いキリスト教風の法服が着せられていました。実はこの後久渡寺の境内で観たお地蔵様もこんな風でした。
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此れは上段の地蔵尊に並んで祀られていた観音石仏群。アップに際し改めて見直すと一番左の如意輪観音の台座には7人の名が縦に横に講の名が刻まれていました。此方は南向きなので風化はあまり進んでいません。





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西目屋村の町興し

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今回のツアーも叔父さん3人組です。「日本文化への造詣や愛着は共通していますが。それだけでは長続きしません。建前は「日本文化」であっても本音は、私は美食で後の二人は「温泉好き」と「霊木」です。従ってプランナーの私は温泉と古木霊木を探して出かけます。効率的に3人の興味を満たす為には宿を何処にするかによって評価も満足感も大違いです。調べた挙句に「白神温泉」の「白神館」に電話で予約を入れました。すると電話口で言います。
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これは青森県が作成した白神山地のポスターです。ユネスコの自然遺産に認定された白神山地には青森県弘前から入るルートと秋田県能代から入るルートがあります。能代から入ると青池等の人気スポットがありますが、弘前から入れば西目屋村が探索の拠点になります。青森県も秋田にお客を取られない様に努力しています。
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これはJR東日本の作成した白神山地のポスターです。瀧は総じて西目屋村を拠点にした方が行き易いようです。青森県にすれば、JRが白神山地の何をPRするかが重要なようです。もうひとつは温泉やビジターセンター等の施設の充実です。
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此れは私達が宿泊した「白神館」です。正面が日帰り温泉施設でホテル棟は右にあります。おしゃれな洋風な建物は黒石市の「盛美園」を模したようです。この施設は西目屋村が建てて民間に運営を委託削いているそうです。
「本当に来てくれるのですか?白神山地は10月一杯で通行禁止区間が増えていますから当館から青池にも行けませんよ!」言われます。私は「キノコは未だ食べられるか?ジビエは無いか?」自分の欲求を当てますが既に季節が遅いとの事でした。
それでも行きます。予約を入れれば8000円/1泊2食)との事でした。
11月14日夜6時に白神館に到着すると、案の定朴訥でも、真面目そうな男性が受け付けてくれました。直ぐに温泉で冷えた体を温め7時から宴会場で夕食です。
訊けば白神館の建物は西目屋村が建てて運営は民間だそうです。
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此れが白神館の夕食です。黄色い小鉢は茸の和え物でした。これが「天然のブナシメジ」なのか天然の平茸なのか仲居さんとの間で、揉めました。何しろ私達は工場栽培の茸の味しか知らないので、ナメコと言われても平茸と云われても信じるだけなのですから・・・・・。
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此れは白神温泉の「日帰り施設」のポスターです。この温泉が最高でした。今評判の炭酸水素温泉である事に加えて湯船が青森ヒバなのです。42度の湯船の他に源泉垂れ流し湯が45度でサウナもあるのです。42度でユックリ温まり締めは45度で強く温まって食道に向かいました。コクのある地ビールが美味しかったのですが、すぐに”バタン・キュー”で寝てしまい翌朝目を覚ますと噓の様な快晴でした。
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白神館の南側にある切妻棟の建物が西目屋村役場です。バス(村内周回と弘前行)は白神館から出ます。
西目屋村が作った「白神館」の南側が村役場です。でもバスの発着所は白神館です。村民は村役場に行くよりも温泉施設や買い物に白神館に来ることが多いのでしょう。西目屋村にはもう一つ看板施設があります。「白神山地ビジターセンターです。白神館の北側、岩木山の側にあります。私達はクヌギ林の奥にある山小屋風の建物のビジターセンターに向かいました。
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此れが白神館の北側にある「白神山地ビジターセンター」です。白神山地に生育する動植物や地質等を知るには最適な施設です。残念なことに「マタギ」や「信仰」や民家や民具等民俗学や歴史に係る展示はありませんでした。フロントまでの木道の周囲に植えられている木はクヌギでブナではありませんでした。
白神山地の豊かな生態系はブナの恵みと云えるものです。ですから、展示はブナが中心になっていました。通路から下を見ればブナの根っこが見えます。レースのように張り巡らされた根が大地に張って幹を支え、水を貯え多様な動物を支えている事実をビジュアルに説明してくれます。
ブナの森の表情が春夏秋冬見せてくれます。
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通路は透明樹脂で出来ています。足許を見ればブナの根が地中に張っていることが解ります。根は垂直には伸びず横にはっています。
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地表にはブナの落ち葉が積もっています。幹は醗酵した落ち葉の栄養によってドンドン伸びて行きます。
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頭上は葉が生い茂って太陽の恵みを地下に蓄えます。緑はパネルでは無くて造花ならぬ造木です。
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ブナの幹の切り口は年輪が見事です。年輪は方角だけでなく昔の天候を記憶しています。
私は受付のお嬢さんと会話を楽しみます。衣装を誉めると季節で上着を着替えるのだそうです。今はベースになる緑で夏のブナをイメージしているのだそうです、屹度1月前まではブナの黄葉を映していたのでしょう。バンダナやスカーフのような小物でお茶を濁すのではなくて気合が入っています。
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白神山地ビジターセンターの受付嬢さん、親切で感じの良いお嬢さんでした。施設は青森県で運営は民間委託で職員は村民だそうです。
訊けば施設は青森県のモノで運営は民間に委託しているのだそうです。箱モノは公有で運営は民間委託が多いようです。西目屋村住人にとっては有難い運営委託でしょう。お嬢さんは可愛い軽自動車で通勤出来るのです。
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職場に対する愛情が彼方此方に確認できました。
ブナの生態系が展示の中心である事は納得ですが、ブナの材木を使った木工品や伝統民具・玩具の展示があれば良いと思いました。そうしたモノは向かいの西目屋村物産館(BEECHにしめや)に展示即売してあるという事でしょう。



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林檎公園の眺望

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2013年私達夫婦は湘南テラスモールで「奇跡の林檎」を観ました。菅野美穂さんのファンである事もありますが。予告編で観た「岩木山」の麓に咲く林檎の花が綺麗だった事があったのでした。先ず映画のストーリーを紹介します。
林檎農家の一人娘「美栄子/菅野美穂」と結ばれた「秋則/安倍さだお」は妻の皮膚病に心を傷めます。病の原因は林檎に播く農薬のリンであろうと判断して無農薬栽培を志します。近隣の農家は秋則の行為を非難します。無農薬栽培する秋則の果樹園から害虫や病気が蔓延すると危惧したからです。
秋則は林檎畑の土壌改良に取り組みます。しかし、いくら工夫努力しても無農薬林檎の栽培に成功しません。秋則の借金は次第に嵩みます。絶望の淵に落された秋則でしたが或る日、岩木山の山麓に神々しく咲く林檎の木を見つけます。その林檎が「奇跡の林檎」なのでした。

秋則は奇跡の林檎を果樹園に植えて、念願の無農薬栽培に成功します。まるで、現代の「岩木山信仰」を地で行くような映画でした。この話は実話で弘前の果樹農家には秋則と同じような考えがあるのでしょう。”病気を絶滅させるモノノ、害虫も益虫も皆殺してしまうリン系農薬が人間にも有害で出来れば避けたい”誰もが願っている正道でしょう。でも、収益の極大を図れば有害な農薬を頼りにしてしまうのです。農薬が愛する妻の健康を損ねている事実を目の当たりにしても、農薬を手放さないのが普通の農家でしょう。
岩木山の山の神は屹度秋則夫婦を見捨てずに「奇跡の林檎」を授けたのでしょう。
秋則の努力の成果が土壌改良に成功させたり、種の改良に成功させたのではありません。偶然に岩木山山麓に病虫害に耐性のある林檎を見つけただけでした。
山の神はブナやクヌギの雑木林の中に「木の花咲くや姫」を降誕させたように「奇跡の林檎」を授けたのでした。
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これが奇跡の林檎のポスターです。(出典ユニバーサルミュージックhttp://www.universal-music.co.jp/hisaishi-joe/products/umck-1449/
「白神山地ビジターセンター」を後に私達は「林檎公園」に向かいました。林檎公園は白神山地と弘前の中間にあるのです。加えて岩木山を遠望する景色は映画「奇跡の林檎」のショットそのものを期待をしたのです。映画で観たあの光景を観てみたいと云った気持ちは「冬のソナタ」でも「君の名は」でも社会現象になりました。
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林檎公園から遠望した岩木山。映画では一面林檎の花が咲いて菅野美穂さんが綺麗でしたが、林檎が実っている景色は幸福感を誘います。
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林檎公園は眺望が素晴らしいばかりでなく、「林檎の捥ぎ取り体験」や「スタンプラリー」や「子供の遊び場」や「林檎民家」や「レストラン」「直売施設」があります。
林檎と云えば「冨士」です。林檎公園入口に「冨士の標準木」が植えられていました。「一見して」林檎は種が安定しないので「遺伝子的に基準」を決めているのか、と思いました。家でネットで確認すると「林檎の開花の標準木」だそうです。この「林檎が咲いた」ニュースを聞いてから弘前にツアーすれば良いのでしょう。
私は林檎のフジは「津軽富士」の意味であろうと思っていましたが冨士の説明版に「冨士は青森県藤崎町の試験場で開発された記されていました。「冨士」では無くて「藤」が正解と云う事でしょう。それを云ったら岩木冨士の山の神が怒るかもしれませんが。
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代表的林檎の種「ふじ」は藤崎町にあった青森県の試験場で開発した「国光」と「デリシャス」の交配種であると説明がしてありました。
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私の好きな「信濃スィーツ」は「フジ」と「津軽」の交配種と説明していました。ふじも「津軽」も青森の林檎ですから、青森県はライバルの長野県に出し抜かれた事になります。
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これはサージェンティーと云う名の「アメリカ姫林檎」です。美味しそうなので摘まんでみたら小粒でも酸っぱい事今では観賞用に人気ですが、野生種の林檎だそうです。でもこれで甘ければ金柑の様に甘く煮たらクリスマスケーキのイチゴに代わる素材になるでしょう。右は同じような野生種林檎で中国原産だそうです。
林檎公園を一回りすれば「林檎の知識が蓄積できるように出来ています。上記の「ふじ」や「信濃スィーツ」はその一例ですが「ニュートンの林檎」「野生種の林檎」も植えてありました。でも「イブの林檎」はありませんでした。ヨーロッパに行けば「イブの林檎」はアッチコッチに植えられています。中世風の民家の庭先には林檎があって訊けば「イブの林檎」と答えられます。
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これはブリューゲル作の「イブの林檎」です。アダムとイブは地上の楽園(エデンの園)で蛇の甘言に乗って禁断の木の実(林檎)を食べてしまいます。エデンの園には創造主が二本の木を植えてあったのです。一本は「命の木」でもう一本は「知恵の木」だったのでした。知恵の木の実を食べると死んでしまうと警告を受けていたのでしたが誘惑に負けてしまったのでした。旧約聖書には木の実が林檎とは書かれていませんでしたが、ヨーロッパ人にとっては誘惑的な木の実と云えば林檎だったのでしょう。私はイチゴの方が相応しいと思うのですが。蛇イチゴも毒イチゴもあるし・・・・。

林檎は幾つも効能があります。「整腸作用やコレステロールの低下」、脂肪吸収を抑えるペクチン。デトックスに欠かせないカリウム、豊富なポリフェノール、りんご酸等が豊富に含まれています。私は血糖値を気にしながらも夫婦で半分づつ毎朝皮ごと食べています。でも旧約聖書では最大の事件が「イブの林檎」でイブのお蔭で人類は「原罪」を背負ってしまいます。これだけ立派な林檎の木が沢山あるのだから、工芸家に依頼して「藁で蛇を林檎の木に巻き付けて欲しい」思いました。
思い当るのは横浜の新羽にある「杉山神社」の藁の大蛇です。新羽中学の生徒さんが毎年作って奉納しているそうです。
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新羽のある杉山神社(日本武尊が主神)の大蛇の注連縄、新羽中学の生徒さんが作った後暫くは学校の樹木に絡ませてあるそうです。
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これは新羽中学の生徒さんが藁を編んで作った大蛇です。こんな感じで林檎公園の樹に蛇を絡ませ「イブの林檎」にしたら面白いと思うのです。写真出典学校訪問記(http://kokorono-takkyubin.com/houmon-v32.html)




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「おしらさま」の意義

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林檎公園では、津軽林檎の試食を充分にして、林檎ジュースも幾つも飲み比べして、腹にも、知識にも林檎を詰め込みました。
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私達は林檎公園で様々な林檎を試食して自宅に宅急便で送りました。

次の目的地は「久渡寺」です。東北の寺院は行基菩薩の建立であったり(寒河江の慈恩寺)、徳一上人の建立であったり(会津の勝常寺) 、(慈覚大師円仁/天台寺中尊寺立石寺)であったり仏教史を飾る高僧が多いので、国宝級の文化財も多く残されているのですが、弘前には、そんな著名な大寺院はありません。義経の伝説を秘めた寺院や「おしらさま」といった民間信仰の核になったお寺が残されているのです。
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久渡寺本堂前まで登り切って300段もの石段を見返す。

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久渡寺本堂前の庭に祀られた地蔵尊、彩色が鮮やかです。千畳敷の地蔵尊も彩色されていました。

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此れが久渡寺の「おしら様」です。着物は表面は金糸の入った西陣織下の着物は友禅が幾重にも重ね着されています。
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此方も久渡寺の「おしら様」です。数珠は子安貝では無くて鈴に代わっていましたが、宮本常一氏が観た時は琉球の子安貝であったそうです。丸いのは鏡です。
民俗学者の宮本常一氏は官立大寺院よりも高僧建立寺院よりも、民間信仰の方が面白いし、民俗的価値も高いと説いておいでです。私達は総じて「聖」は「俗」よりも尊く、一神教は民俗信仰よりも上位にあると思っています。そして、弘法大師や伝教大師は高野聖や熊野聖(元々は民間の山岳宗教者)より尊いと信じています。それは私達が「宗教の進化論」に染まっているからです。仏教もキリスト教も最初は原始キリスト教でありました。旧約聖書はシャーマニズムやトーテミズムに満ちています。
近代は「自分の頭で考え科学する事からスタートしました。ですから『原始宗教は迷信に満ちていて、未開で非科学的である』思い込んでいます。私の学生時代は実存主義が流行りました。最近はニーチェやキュルケゴールは難解なのでトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」が人気です。でもキリストの様な一生を過ごすことは至難です。私は近世の出発点「進化論」がソモソモ間違いで『宗教には進化論はあり得ない、旧石器時代も現代も人間の本質は大差がない、思うのが正しいし、幸福だと』思うのです。そう想うと高僧共々に、民間信仰や民間修道者が尊いと思えて来るのです。
青森県の話に戻すと青森市の東下北の恐山圓通寺は「死者」の魂が集まる霊地です。反対に青森市の西津軽の久渡寺は誕生の霊地なのです。
久渡寺の「おしら様」については宮本常一氏は熱く説明しておいでです。
「おしら様」の美しい着物が眼に着きますが、その顔(頭)と体は桑の木です。桑の木を採って来てゴルフのドライバー状に加工して毎年着物を重ね着させるのです。200枚もの着物を着こんだ「おしら様」があるそうです。着物は京友禅とか加賀友禅と当代一流品ばかりで加えて琉球の子安貝で作られた数珠が架っているのだそうです。
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これは群馬県中条町の道祖神です。祠の周囲にこけし状のお人形が供えられています。これも「おしら様」を思わせます。
私達は「タイラー/人類学の創始者」の「シャーマニズム論」により、原始宗教は非科学的でアンチ理性的であり一神教こそ宗教の最先端にある(宗教の進化論)と教わって来ました。
宮本常一氏の情熱は「宗教の進化論を否定して宗教の優劣、新旧を比較する事こそ無意味である』と説いておいでです。最近の文化人類学者の成果は「ニューギニア等の未開社会を観察し。未開社会であっても人々は考えて行動し。自然を観察している(即ち科学している)と報告しています。旧石器時代を研究対象にしている歴史学者も総じて云えば次の様に解釈しています。日常の生活場面では理性や科学を駆使しているものの、大自然の猛威に遭遇したりしてどうにもならない場面で突然にシャーマニズムに依存する。それは現代人も同じで何時も冷静で理性的な人が困難に遭遇すると「突然に神頼み」になったり、「お母様」に祈ったりするのと同じです。偶々偶像が残されている事から原始人が毎日偶像に祈って居たかのように思っていますが偶像は万一の場合を想定したものなのです。例えば私が遥々拝みに来た「おしらさま」も偶像の極みですが。万一の事態(江戸時代の冷害や飢饉や大地震)を避けるために霊的な存在に祈ったモノで(シャーマニズム)普段は自身の理性で考え、汗水垂らして農業に励んで居たのです。
鈴木牧之は東北の冷害飢饉をつぶさに書き綴っています。『家畜を食べ人肉も喰らった』と悲惨な状況を記しました。
人々は正常時は道徳倫理を守り理性的に科学的に生活していましたが、いざ飢饉になると、理性や科学では御し難い現実に遭遇しました。すると突如呪術に委ねるのです。呪術で人智を超えた偉大な力『神の御加護』に身を委ねた方が力強く生きられるからです。文化人類学者は東南アジアのサンゴ礁の住人を観察して、「サンゴ礁の内側/総じて安全な海)」に居る時は「理性的道徳的に行動する」がサンゴ礁の外「外洋に出ると呪術に身を委ねる」と観察しています。サンゴ礁の外は神の統治する危険な場所であると認識していたのです。
津軽に「おしら様」が居て下北に「恐山」があるのは、陸奥の自然環境が人智や道徳を越えて厳しかったからでしょう。だから、より人間の本質に近い「呪術」やシャーマニズムが生き残っているのでしょう。



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黒石の火の見櫓の貴さ

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久渡寺で「おしら様」を拝して私達は弘前市街の近代資産を観て廻りました。この日の最終目的は青森駅での解散です。新幹線の時刻表を観ながら逆算してスケジュールを調整します。黒石市の「こみせ通り」を観ることにしました。こみせとは屹度「子店」の意味なのでしょう。店先の庇を両隣と共通させて来客が便利なように意匠したもので、江戸時代のモールの事です。新潟にみられる「雁木」の事です。先月はs糸魚川で観ました。昔長岡でも観ました。雪深い長岡ではアーケード状に店先に雪囲いを整備して買物客が雁木を通るので快適に過ごせるのです。街作りを共同で行う事は良い事です。雪囲いも雪除けも通り沿いの人が心を一緒にしなくては快適ではありません。一人だけ協調しない人が出れば快適性は損なわれてしまいます。黒石の「こみせ」の核になっているのは「高橋家住宅/国の重文」です。

高橋家の当主は代々「理右衛門」を名乗り、藩政時代は黒石藩御用達の米問屋でした。主に米を扱っていたことから屋号は「米屋」といい、米だけでなく味噌や塩、油、薬などの販売・製造もしていたといわれて痛そうです。私達が高橋家の野連を潜ると、高橋家14代当主の高橋幸江さんがおられました。このお屋敷を守る人が居なくなってしまったので止むを得ず東京から故郷に戻られて喫茶店を営んでおられるそうです。
天気の良い日はお庭園で珈琲をいただけるそうです。
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これが黒石市のメイン通りの「こみせ通り」です。
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この梅花紋の暖簾の先が高橋家住宅です。「こみせ」の柱には溝が彫ってあって雨戸を嵌めこむように設えて在ります。
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高橋家住宅の土間から座敷に上れば囲炉裏が切ってあり正面が主が客をもてなす奥座敷で庭の紅葉が朱色でした。
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囲炉裏の正面東の部屋には鶴の打掛が架っていました。この部屋が家族の団欒室だったのでしょう。
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土間では珈琲を沸かすほか色々なグッズを販売していました。これは下駄とバレットです。バレットとは下駄の先に嵌めて指や花緒を保護したモノで、帯留めや髪飾りとデザインを共通させてお洒落を楽しんだモノでした。
陸奥の商家らしく土間の前に囲炉裏を切った座敷があって奥に二間設えて在りました。庭園に面した奥座敷は主が黒石藩のお役人と対面した部屋であったのでしょう。もう一間は奥座敷の東側の部屋で衣文懸けに鶴の打掛が架っていました。私は「打掛の主は幸江三ですか?」訊きたい衝動に駈られたのでしたがグッと声を飲みこみました。幸江さんのお父様は慶応義塾を卒業されたのだそうです。
高橋家に入る前に火の見櫓が目に入りました。
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これは高橋家住宅の西側にあった火の見やぐらです。
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此れは黒石市市役所に近い第一消防団第一屯所(如何にも古い呼び方です)の火の見やぐらです。木造建築の詰所の屋根に望楼を頂く、一階部分は消防倉庫にで。
 望楼は窓付きで、半鐘は軒に吊るされている。傍らにはホース干し用の簡易櫓も併設されています。
黒石市は街全体に昭和の香りがします。「こみせ」と呼ばれるモールも隣近所の強い絆を匂わせますし。火の見櫓も「自分達の街は自分達で守る」気概が見えて気持ちが良いモノがあります。

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こけしの民俗学的考察

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白神山地ツワーを終えてからも私はズット「おしら様」が頭から消えません。「おしら様」も白神山地も同じ語源で、白山信仰が北前船で津軽に広がって。「祖霊信仰」「山岳信仰」が「白神」になりその偶像を「おしらさま」と呼んだと一応の結論を出しました。私なりに解釈を終えたのですが、未だ喉に懸った骨が在ります。それは「おしら様」と「こけし」の関係です。「こけし」は何故か箱根以北にあって。京都にも奈良にも博多にもありません。
こけしとは「 木地師」が普段は汁椀や皿を作る時使っていた轆轤を回して作った玩具です。多くが温泉の土産物として販売されました。こけしが広まったのは「 木地師」が居た事と、温泉が多くあった事実が大きいのです。有馬温泉にも城崎温泉にも別府温泉にもこけしはありません。あるのは「土人形」「竹人形」です。
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此れは箱根のこけしと寄木細工です。「 木地師」の伝統が温泉地の土産物として評価されてきました。
西日本の温泉地の土産品は竹細工や土人形が多いのに対し、東日本では「こけし」が目立ちます。東日本の仏像は一木造りが大半です。東日本はソモソモ「木の文化」なのです。
私の好きな福島市から少し南、安達太良山の山麓の。福島市荒井字寺屋敷にある白山寺は、「大竹子育地蔵尊」として知らています。ここに収められている多数の木彫りの地蔵尊は、形態がこけしに通じるものがあり、こけしの前駆的な存在であろうという人もいます。一方二本松市小浜宇反町にある地蔵尊は子どもの守り本尊として「子地蔵尊」を貸し与える風習があり、子地蔵を里帰りさせ、新たに祈祷を受けるために、5月3日~5日の例大祭には 多くの参詣者が訪れ賑わいます。発祥の時代は明らかではありませんが、伊達輝宗が、その子政宗の成長を祈願して祀ったという土地の口伝もあります。
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これが二本松の「大竹子育地蔵尊」です。こけしに着物を着せ返したようなもので、意匠も目的も「おしら様」に共通しています。
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此方は小浜の万人地蔵尊です。こけしに幼児の着物を着せて東京の鬼子母神祭りの様に子供の健康成長を祈願します。この祭りは稚児行列もあって次のブログに詳しいです。http://nimosaku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-08
福島二本松の地蔵尊はこけしそのもので、こけしの原型のようにも見えます。一方で以前も紹介しましたが群馬の吾妻渓谷松川村の道祖神(童祖神とも書く)には同じようなこけしが供えられています。
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これは吾妻渓谷中条町の道祖神男女神が愛しあっているとその足元にこけしが並んでいます。子供が出来るように子供が健康に育つようにこけしを供えるのでしょう。その意味では大竹地蔵尊や二本松の万人地蔵尊と同様のこけしです。
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これは東北地方の代表的なこけしです。朱色が目立つのは「疱瘡除け」でしょう。温泉で湯治した客は家に預けて来た子供の玩具土産として最適だったのでしょう。写真出典(ウキペディア)
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これは弘前郊外にある久渡寺の「おしら様」です。意匠も目的も「こけし」と同じ子授けと健康成長祈願」です。
「おしら様」は冷害飢饉に加えて疱瘡に苦しんだ津軽固有の神様です。
津軽の自然は総じて肥沃な土地で豊饒な土地です。しかし、江戸時代後半には厳しい側面も現われました。困難に直面すると呪術に頼り超自然的な力を宿す神様に祈るのが人間の常です。 天明の大飢饉では津軽の人達は神頼みに走り「おしら様」を創造し、一心腐乱に祈った事でしょう。漸く冷害が去り豊穣な大自然が戻っても津軽の人達は「おしら様」を仏壇に祀って、岩木山の久渡寺に詣でたのでしょう。
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此れは「天明の飢饉の」の図です。一説では50万人も餓死したと伝えられます。津軽藩が藩財政の立て直しの為徴税に懸命だったので、天災に人災が重なったと云伝えられています。
「おしら様」の意匠を考えるに際し、福島安達太良山や磐梯山の「お地蔵様」の影響を受けた事は容易に想像されます。
私の家にもこけしは幾つも在ったのですが、今ではベトナムの「アオザイ人形」があるだけです。孫も増えたので来年安達太良山に行き岳温泉に泊まりますので。孫の健康を祈ってくれるこけしを求めて帰る事にしましょう。



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弘前の重文疑似洋風建築でランチ

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擬洋風建築とは、明治時代初期に、西洋建築の技術を身につけた伝統的な大工棟梁によって設計・施工された建築です。西洋建築に由来する形を持ちながら、洋風、和風、時には中国風の要素が混合され、ある種の熱を帯びたような建築群が日本各地に建てられました。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えてしまいます。建物の洋風化は衣服の洋風化と同様に進行しました。疑似洋風建築は何故か東北や信州と云った田舎から進行します。そして都会の疑似洋風建築は戦災で焼失してしまったモノの、田園の疑似洋風建築は現代に残されているのです。j弘前には重文の疑似洋風建築が多く残されています。弘前の疑似洋風建築は津軽藩のお抱え大工の長男として生まれた棟梁 『堀江佐吉』が建てたものが多いのです。堀江佐吉は函館で洋風建築の基礎を学び、弘前に数多く洋風建築を残している。旧弘前市立図書館は明治39年に斎藤主と堀江佐吉らが東奥義塾高校の敷地内に建てたもので、八角形の双塔を持つルネッサンス様式の建物でした。
これが弘前市の旧図書館です。右側の煉瓦積みの建物が現在の図書館で、弘前城に近い市役所の一角にこうした疑似洋風建築や「弘前ネブタ」等の観光施設が集積しています。この辺りの地下が大駐車場で、観光客にとっては実に便利で快適な空間です。クリスマス飾りをしていました。奥の赤い屋根の建物が旧東奥義塾外人教師館です。
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これが旧東奥義塾外人教師館です。1階は喫茶軽食で「サロンデ アンジュ」が出店していました。棟梁の堀江佐吉が建設したモノです。
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旧東奥義塾外人教師館の1階フロアーは良い雰囲気で喫茶ランチを楽しめます。
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窓の外を観れば芝生に疑似洋風建築のミニチュアが展示されていて、御伽の国に来たような気分になれます。
旧弘前市立図書館の直ぐ横にある旧東奥義塾外人教師館も堀江佐吉の仕事でした。東奥義塾は明治5年に青森県に最初に開校した私学校で、この外国人教師館は招聘した外国人宣教師のために明治34年に建てられた住宅でした。設計は米国のメソジスト伝道本部であるが、施工は堀江佐吉が行なっている。
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此れは友人が注文した「林檎カレー」です。
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此れは私の注文した「懐かしいミートライス」です。スパゲッティーミートソースのルーを白飯に添えた食べモノでした。弘前の人にとっては懐かしい食べ物なのでしょう、中々いけました。カレーもミートライスも千円でお釣が出ました。
私達は弘前の疑似洋風建築を観てソロソロ昼食を取ろうと思っていた処、この東奥義塾外人教師館の一階で喫茶軽食が出来る事を確認しました。雨の中で電気工事士が図書館と東奥義塾外人教師館の建物をクリスマスネオンの飾りつけをしています。メニューを観て、友人は林檎公園で食べ損じた「林檎カレー」を私は「懐かしいミートライス」を注文しました。弘前の人達はミントグリーンが好きなようです。一戸建て住宅もシンプルな直方体で、塗装は白とミントグリーンが目立つような気がします。
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庭先の芝生には疑似洋風建築のミニチュアが並んでいます。手前右は旧弘前郵便局建物で向こうのバロック風の建物が重文の旧図書館で、旧東奥義塾外人教師館はその右にあります。。
弘前の街並みを車窓から眺めていると、洋風好みが目に着きます。寒さ対策以上に洋風好みがあるのでしょう。弘前の藤田邸庭園の近くにスターバックス弘前公園店がありました。入りたかったのですが、前述の重要文化財でランチを取りました。
弘前公園前店は日本有数の桜の名所である弘前城公園の目の前に位置し、日本で2店舗目となる登録有形文化財の店舗だそうです。多分一店目はJR奈良駅のお店でしょう。建物は1917年に陸軍師団長の官舎として建設された木造の建物で、和洋折衷のデザインが特徴的です。
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これは弘前城の前にある和洋折衷の陸軍師団長の官舎をスタバに使わせているモノ。
弘前市民が洋風建物が趣味であるのは良しとして、重文建物をレストランに改装して、登録有形文化財をスタバに使わせて、果たして良いのかしら?疑いましたが、やっぱり雰囲気があって良いモノです。
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弘前から黒石に向かう道路にあった洋菓子店、弘前は建物も菓子も洋風好みのようです。



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三内丸山遺跡を見せる情熱

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黒石をもっとゆっくり観たかったのでしたが、午後3時を過ぎると既に夕闇も近く、私達は東北自動車道を走って三内丸山遺跡に向かいました。三内丸山遺跡は東北自動車道の青森ICから数秒の位置にありました。受付のお嬢さんに相談すると、室内展示は午後5時半閉館間際まで観られるので屋外展示を先ず観てから室内に廻るようアドバイスを受けました。展示室は実質地下1階で二階屋上から外に出ると、其処は八甲田山の山麓で眼下に青森市や津軽海狭を見下ろすロケーションでした。縄文時代は温暖で、その後氷河期に入り、海峡が後退した。目の当たりにする景色でした。
クヌギやブナや栗の木等の照葉樹林が広がっていたのでしょう。丘陵の中央に巨大な館と櫓が復元されています。今までテレビ等で何度も観て来た我国最大の縄文遺跡を観る感動は歓びであり、縄文人に対する畏敬の念が湧き立ちます。諏訪大社の御柱に接した時の感動に劣りません。
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此れは三内丸山遺跡の展示館の二階屋上から出た時の光景です。一瞬で現代から縄文時代にタイムスリップした様な感覚に陥りました。
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此れは三内丸山遺跡のジオラマです。手前は津軽海峡の海です。入江や沼が遺跡の周囲に点在しています。左上に遺跡の中心の館と櫓が見えます。
八甲田山の山麓を使って、青森市内から三内丸山古墳に入ると先ずは建物中で、山麓の地下です。室内展示を見終えてええwベータで上れば照葉樹林の中に開けた縄文遺跡で、まるでトンネルを抜けると先史時代の社会に飛び出したような気がします。私は此処のデザイン設計は別にして、グランドデザインの優秀さに感服しました。そこでグランドデザインの責任者を確認すると
「梓設計/https://www.azusasekkei.co.jp/company/about/」だそうです。同社の実績を確認すれば東京国際空港国際線旅客ターミナル」や福岡国際空港の国際線ターミナルを設計しており、地下鉄からエレベーターで上がったら、出国ロビーと云った設計は三内丸山遺跡に共通するモノです。ネットで調べると山梨博物館(釈迦堂遺跡や木喰で有名)や青森県で実績を重ねています。惜しまれるのは、櫓の上空に高圧線の鉄塔があって、照葉樹の彼方に針葉樹林が見渡せることです。遺跡の周囲はブナやクヌギや栗の様な縄文人が命を繋いだ樹木にしてほしかったモノです。
ロビーには「ユネスコの文化遺産に青森の縄文遺跡群を!」幟やポスターがてんじされていました。
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「縄文遺跡を世界遺産に!」呼びかけるポスター。
今年は「世界文化遺産に『神宿る島宗像・沖ノ島 と関連遺産群』が認定されました。北九州はユネスコが得意なようで昨年の『. 明治日本の産業革命遺産.』その前の 『祇園 山笠行事』を加えれば、3年間毎年ユネスコに認められていることになります。日本人が毎年ノーベル賞の栄誉を受けているのを隣国が妬むように、青森は北九州のアピール上手を妬んでいるかもしれません。私にとっては「沖ノ島も宗像神社も青森の三内丸山遺跡や津市の『木造亀ヶ岡遺跡』に勝るモノではありません。
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外が暗くなって氷雨も降り出したので私達は館内の展示を見始めました。右が入り口で展示施設の屋上から外に出ると、野原と照葉樹林が広がっています。
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此れはフロントのフロアーに展示してあった巨大な縄文土器の複製品。
屋外は真っ暗になってしまいました。氷雨も降り始めました。私達は館内に戻り展示を勉強する事にしました。重文の土偶が幾つも展示されています。翡翠は糸魚川産で黒曜石やアスファルトは北海道から渡って来たものだそうです。縄文時代の交易の広さに驚かされます。亀ヶ岡遺跡で遮光器埴輪の脚がアスファルトで繋がれていた説明がありましたが三内丸山遺跡では上下二つの甕棺をアスファルトで接着してある、と説明が為されていました。
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巨大な土器は大半が甕棺でした。風化した白骨を拾い集めて甕に納めて埋葬したのでした。甕は妊婦のお腹を想わせるので再生呪術と思われます。
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此れは甕棺に骨を納めて埋葬した母の人形、手前が子供の墓、奥が成人の墓
一番私が感服したのは縄文人の日常生活を家族の人形を作って再現していたのでした。
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縄文の三世代家族の人形。お婆ちゃんが縄の結い方を嫁に教えています。この縄目を土に押し付けて縄文土器がデザインされました。縄文は注連縄の意匠です。
竪穴住居では家族が囲炉裏の火を囲んで団欒しています。
ある時は母が娘の髪をそいでいました。母は誇らしげに翡翠の勾玉の首飾りをしていました。
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母が娘の髪をそいでいる人形壁には装身具が展示されています。
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縄文の日常を人形で示しています。父は釣りで息子は弓の練習でその向こうでは母娘が栗を育てています。

息子は弓の鍛錬をして父は魚を釣り上げて、母は娘と栗の種を撒いてそだてていました。何が原因か解りませんが母は甕棺を土に埋めて土饅頭にしていました。上下の土器(甕).を繋いでいるのが北海道産のアスファルトだというのです。アスファルトの他にも翡翠(糸魚川」黒曜石(北海道)琥珀(岩手)等広く交易がおこなわれていたと説明していました。
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三内丸山を中心にして広い交易権を示しています。この遺跡群を一括して世界遺産に押しているのです。





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林檎箱の再利用。

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最近は津軽の林檎も過半が段ボール箱に入れられてプチプチの緩衝材に包れて送られてきます。でも、昭和は違いました。林檎箱に入れられて緩衝材は籾殻でした。林檎箱は兎小屋に再利用しました。冬には陽当りの良い縁側に出してリンゴ箱の上で勉強をしたり紙に落書きしたりして過しました。今私は鶉を飼っています。鶉は義父が犬を室内で飼っていたので犬のゲージを再利用しています。でも犬のゲージは扉が大きいので、最初は二羽居たのですが、一羽逃げてしまいました。今鶉の卵を孵化させて順調に育っています。この調子なら、来年3月には卵を産んでくれそうな勢いです。その折に問題なのは鶉小屋です。今のゲージに入れて3羽一緒に育てたら、若い鶉が虐められるのは目に見えています。昔風に考えればリンゴ箱の再利用が良いに決まっています。津軽を旅して林檎箱をそんな気持ちで観ていました。林檎公園で幾つも試食して、林檎を自宅に送ったのですが。林檎の費用よりも送料の方が架ってしまいます。これでは津軽の林檎農家は宅急便会社の為に林檎を丹精しているようだ思えて来ました。林檎に柿に薩摩芋皆同じように林檎箱で送れば箱は再利用可能です。物流は人件費が嵩みます。
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これが林檎箱です。林檎箱で商っている店は滅多にありません。
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これは林檎公園内にある林檎農家の土間に置かれた空の林檎箱。弘前人にとって林檎箱は使い捨てでは無い、特別な思いれがあるようです。
私達は何時もツアーの最後には飲食会・反省会を開きます。友人は津軽の日本酒を飲むのを楽しみにしていたようです。青森駅前の「アウガ新鮮市場」に向かいました。青森駅前には青森市民の台所である「青森魚菜センター」が在るのですが、閉店時間が早いので、「アウガ新鮮市場」に向かったのでした。初日早朝には此処で「ホタテラーメンを食べたので、大凡の様子は承知していたのです。「林檎箱」と云う名の居酒屋があるのです。
広い土間に沢山の林檎箱が置かれていて、食卓と椅子になっています。林檎箱の上に座布団が置かれていて、それが椅子です。
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此れが「居酒屋林檎箱」の店内です。林檎箱を並べて椅子と食卓にしています。
私は「(じゃっぱ汁」と「のっけ丼」で夕食にしようと目論んでいたのですが、メニューを幾ら捲っても壁にも貼られていません。仕方ないので「煎餅汁」と「唐揚」にしました。店を出ると駅前のナショナルブランドの居酒屋があって、「じゃっぱ汁」も「ノッケ丼」も看板メニューです。コスパも含めてナショナルブランドの居酒屋の方が正解だったようです。
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此れで私の夕食、煎餅汁と唐揚でした。八戸の煎餅汁の方が煎餅が柔らかい。汁は比内地鶏の味が濃いモノの脂が強かった。
処で鶉小屋ですが。取敢えずインコの籠を求めましたが、やっぱし林檎箱を再利用した小屋が最高です。少し斜めに置いておけば卵は取り出し口の方に転がって来ますし。餌や水遣りに際して逃げられる事も無さそうです。
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これは1羽になってしまった鶉です。子犬のゲージを金網で覆って使っていますが水遣りで扉を開いた時に一羽逃げられてしまいました。
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此方は卵を孵化させてこの冬育てている鶉です。雄か雌かはいまだ判断できません。


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町田の国際版画美術館の楽しみ

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ソロソロ多摩丘陵の秋色も濃くなってきました。普段なら川崎の民家園に行って秋色を満喫するのですが、民家園はお正月飾りを終えた頃に行く事にして。町田に秋色をエンジョイしに出かける事にしました。ネットで確認すると「特別展浮世絵に視る維新の子供遊び」をしているとの事です。其処で、ワイフを誘って地下鉄小田急を乗り継いで町田に行きました。昔は小田急町田駅は賑わっていても横浜線の「原町田駅前」は閑散としていましたが二つの駅の間は既に商店やモールが出来上がっていて賑やかです。昔日の面影は全くありません。
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小田急の駅には箱根のポスターが貼られていました。ポスターは益田鈍翁の白雲洞(在強羅公園)です。普段なら箱根に向かうのですが・・・。
町田街道に一度出て東側の谷間に国際版画美術館があります。私の記憶に残っているのはクヌギ林とススキの入会地だったものを、市が公園に開発してその核施設に国際版画美術館を設置したのでしょう。町田市にゆかりの版画家「飯田善國」氏が市に寄贈したのが契機になって、宗像志功(釈迦十代弟子)等の作品を所蔵しているのだそうです。
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これが町田の国際版画美術館のエントランス。街路樹は「上野博物館にもあるユリノキ」です。
多摩丘陵の秋色を満喫して版画を鑑賞するのはグッドなプランです。
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この日は企画展「浮世絵に視る子供達の文明開化」でした。版画は棍棒を手にして運動をしている場面です。展示は「双六」や教科書を補助する浮世絵が目立ちました。
浮世絵は、文明開化に際しても、「教科書の挿絵」や双六等の玩具に活躍し、幼児教育に活用されたのは、江戸時代の「浮世草子」や「御伽草子」の伝統を汲んだモノでしょう。双六で云えば「上がり」が軍人(大将」や大臣になっていることが時代を感じさせました。女の子の双六は?探してみれば「洋風衣装で女学校に通い」上がりは「軍人の奥様になって、多くの子供に囲まれた家庭を作ること」になっていました。
男女共に「出世双六」で軍人は最高の社会的地位を得ていたのでしょう。私の嫌いな「山形有朋」は一番の憧れだったと思われます。
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女子教育双六。男子の双六の「上がり」が軍人(大将)か大臣であったように、女子の双六の「上がり」は軍人の妻でした。
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子供が観に来ることを期待して、実際に双六で遊べるように工夫しています。現代の出世双六ならば、「上がり」は軍人では駄目「アスリート」かスティーブ・ ジョブズのような実業家でしょうか?
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展示会場は原則撮影禁止でしたが、子供を遊ばせる展示については撮影可でした。
特別展を観て常設展を観て、次はランチです。
ランチは美術館1階に「ケヤキ」と云う名のレストランがあります。私はカレーライス(雑穀)ワイフはフルーツサンドセット(680円)を注文しました。
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此れは美術館ロビーからレストラン入り口に置かれていた看板。フルーツサンドを出世双六を背景に案内していました。トイレに行こうとすればレストランケヤキに足が向いてしまいます。町田市の商才を感じました。
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此れは私のランチの雑穀カレーライスです。焙じ茶が嬉しかったです。
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これはワイフの食べたフルーツサンドイッチセットです。「千疋屋のサンドを思い出したわ」なんて言っていましたが私への嫌味では無くて本当に美味しかったようです。
カレーはコクがあって実に美味しく戴きました。熱い焙じ茶も良かったです。
窓の外は多摩丘陵の雑木林が秋の深まりを示し。町田駅から自宅に急ぐ婦人に木の葉を降りかけていました。
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美術館から丘陵の石段を上って町田駅に歩いて帰ります。公園には幾つもオブジェが置かれてありました。


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婦唱夫随の「田の神様」(柿の木坂東光寺)

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11月14日15日は横浜農協は「収穫祭」を実施しました。数年前諏訪大社に登った折には「新嘗祭」が行われていました。収穫祭は本来が「今年の豊穣を感謝する祭事」です。盛大に感謝すれば神様もご機嫌で来年も豊穣にして下さるでしょう。最近は本来の意味が薄れて商業主義が前面に出てしまっています。横浜のレンガ倉庫では「オクトーバーフェア」が開催され、ビールの飲み比べが行われていますし。元町では巨大な南瓜を並べて「ハローウィン」に興じています。
ソロソロ奈良の正暦寺は紅葉の盛りです。正暦寺の谷戸は日本酒が最初に絞られた豊穣な土地です。有名な田の神様が祀られています。今年の盆に田の神様を詣でに出かけたのでしたが。転んでしまってお詣り出来ませんでした。今頃は収穫も終えて。南瓜や大根が供えられてご満悦でしょう。
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これは正暦寺の谷戸に祀られている「田の神様」です。今年も次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C5%C4%A4%CE%BF%C0%CD%CD&sk=0
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これは我家の田の神様栃木生まれです。
身近な処の田の神様としては「池袋水天宮」があります。中々味のある素晴らしい田の神様です。一体では無くて4体並んでいる処も良いのです。
池袋にはクリスマスになってから出かける事にして、都内に「田の神様」が他にないか調べたところありました「東横線都立大学駅」から近い「柿の木坂東光寺」に愛らしい田の神様が祀られていることを知りました。都立大学はワイフが娘時代を過ごした土地ですし、仲人さんの家が在ったのも柿の木坂でした。私達夫婦には縁の深い街です。ワイフは東横線電車の窓に顔を押しつけて「お友達の家がある!」言ってご機嫌です。”シメシメ今後ワイフのご機嫌を損ねたら柿の木坂に誘って好物のお寿司でも食べるとするか!”思いました。
東光寺は立派なお寺で山門には足利のマルに二の字の家紋が付いています。東光寺は吉良家の菩提寺なのです。

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これは池袋水天宮の前の公園にある田の神様です。左手が山手線右は飲食店街です。
私の祖母は世田谷の弦巻に在る実相院の生まれです。
実相院は  弦巻3-29-6にあり鶴松山實相院、勝光院の末寺。曹洞宗です。一般に世田谷城と呼ばれているのは、境内がお城の様に木々が鬱蒼と茂り、森閑としている。町の中の寺とは思えない風情があるからです。檀家総代はお寺の裏手にある代官です。この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところです。
実相院は勝光院の末寺で。開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳達大和尚、1616(元和2)年入寂。 豊臣秀吉軍による小田原攻後に、九代当主氏朝は一時下総国に下ったが、再びこの地に帰り閑居した。 その閑居した旧跡が、この実相院ですから、世田谷城と呼ばれるのは強ち間違いではありません。
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 これは実相院の先代住職の隠居宅跡に建てられた多宝塔です。この場所は大きな赤松がありましたし、歴代住職の開山堂には最適な場所です。

私達夫婦には縁の深い吉良家菩提寺に田の神様が呼び寄せたようなものです。”実相院に墓参りでもしろ”と云ったお告げかも知れません。
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これが東光寺の本堂です。
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東光寺の山門写真には映っていませんが足利家の家紋が付いていました。
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境内にある七福神背中の竹垣の向こうに背中合わせに田の神様が祀られていました。
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田の神様を家族風に祀った東光寺の庫裏の庭。田の神様の家族は「嬶/かかあ殿下」のようです。何故なら一番左の嬶の飯茶碗が最大で柄杓や体躯共に嬶が爺さんや夫を圧しています。
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此方の田の神様は夫婦のようです。夫唱婦随と云いますがこの田の神様は「婦唱夫随」です。嬶の方が大きいし、大食いのようです。
上の写真の田の神様を拝みながらワイフに言います
この家族は夫婦の立ち位置が逆転した。「婦唱夫随」だね!我家もこれからはsこんな風にしようね!」
云えばワイフは
「今頃気付いたの!」言わんばかりに憮然としていまあした。
計画通り。目黒通りに戻って寿司屋に入って九品仏への足を確認しました。寿司屋の主は私の脚を気配りしてバスは避けて自由が丘に回って浄真寺に詣でるようアドバイスしてくれました。
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東光寺本堂裏の心字池吉良家の菩提寺に相応しい大名庭園でした。
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お寿司でランチして次の目的地自由が丘に向かいました。


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建長寺に「虫塚」建立

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日に日に秋色が深くなって私の机から見渡す景色も様変わりです。鎌倉の紅葉も今が最高でしょう。そこで円覚寺から建長寺ありきたりのコースを歩いて来ました。建長寺で思いがけない発見が二つもありました。
一つは鎌倉学園の学窓に生えていた「曙杉/メタセコイア」が伐採されてしまった事です。建長寺には天然記念物の柏槇(開山の蘭渓道隆がお手植えされたと言い伝えられる樹齢八百年の老樹があり、その根元には牡丹が丹精されています。柏槇も牡丹も成長が遅く風格はあっても、手のかかる樹木です。一方曙杉は成長が早く50年も経てば巨木に成長します。案の定。建長寺から学園に対し「曙杉の生育を止める」よう注文が出たのでしょう。鎌倉学園の先生達が何と反論したか、解りませんが、樹齢30年程度で伐採されてしまいました。伐られた曙杉の嘆きは想像できても、柏槇や牡丹は安堵した事でしょう。”人間なんて勝手なもんだ!学校の塀際に自分(曙杉)を植えたら、どうなるのか将来は想像できそうなものを!”というのが曙杉の嘆きです。
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此れが鎌倉学園(向こうの白い校舎)の塀際に植えられたメタセコイアです。2017年伐採されているのに気付きました。以前「半増坊を歩く楽しみ」と題してブログアップしました。http://alexi.rssing.com/chan-2091530/all_p11.html
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此れがこの秋の鎌倉学園の東側学窓です。曙杉は伐採されてしまいました。
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以前にブログアップした建長寺の半増坊道の紅葉です。この石垣は鎌倉石を積み上げていますので保水力に富み春は「岩煙草」秋は「山紅葉」と自然美を写すキャンバスになっています。

建長寺の境内は私の小学校中学高校と遊んだ場所です。何処に何が在るか隅々まで承知していますから、効率的に紅葉のカメラポイントを廻りました。
でも12月1日では少し遅かった嫌いがありました。私の記憶より発色が悪いような気がしました。そこで、ドンドン奥に半増坊に向けて歩いて行きました。「半増坊」とは建長寺の守護神のようなもので、天狗が建長寺を災難から守ってくれる社です。従って鳥居も在るし狛犬もあります。狛犬の背後は竹林で昔から小綬鶏や鶉が餌を探しています。私は何度も撮影に成功しています。その竹林に手を入れているのは気付いていたのでしたが「誰が、何をしようとしていたのか」解ったのです。
最初に目に入ったのは夥しい数の金網です。金網は何なのか直ぐに気付きました。「台湾リスの捕獲箱」です。取敢えず半増坊前に用意してこれから天園や建長寺境内に設置して台湾リス捕獲作戦を実施するのでしょう。竹林の入り口に石のオブジェが置かれていました。オブジェと云うよりベンチです。ハイキングする人が此処で腰を下ろして休憩できるようにしてあります。
石は黒御影石ですからお金も懸っています。観れば右手がクワガタ虫で左手は兜虫です。そして竹林の中央に「虫塚」と刻まれた石柱が立っています。石柱の脇には「虫塚」を設えた趣意と発起人の名が連記されています。発起人は解剖学者の養老猛司建築家の隈研吾氏等の錚々たる面々です。養老猛司氏は中学高校の先輩で、毎年八幡宮の「雪洞祭り」に虫の絵を描いた雪洞を出しておいでですから、計画の首謀者は同氏で、デザインは隈研吾氏なのでしょう。
養老猛司氏は虫好きが昂じて箱根に博物館研究室を設えられているようです。NHKテレビでも放映されていました。屹度沢山の標本を作られてその悔悟の意識が「虫塚」に展開したのでしょう。
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右が花塚で中央が茶筅塚で左が筆塚です。(方丈の西側/重文の黒門の手前左)。
建長寺の境内には「花塚」もあれば「茶筅塚」もあります。道具の塚があるのですから「生物の虫塚」があっても何の問題もありません。
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八幡宮の雪洞祭りでは毎年養老猛司氏は本殿手前東の最高の場所に虫の絵を出しておいでです。2016年は皆が嫌うカメムシの仲間(亀葉コムシ)でした。
虫も曙杉と同じように嘆いていることでしょう。「人間は勝手なモノだ、つい30年前は農薬をばら撒いて我々を根絶やししようとしていたのに、今になって虫塚を建立して自分等の霊を弔うとは!」百年も前までは農薬など使わずに「虫送り」と称して。松明で脅していただけなのに・・・・。
江戸時代の飢饉にはウンカや蝗/イナゴによる「蝗害」がありました。飢饉に遭遇した人は不幸でしたが、「増えすぎた害虫は必ず天敵が適正水準に戻した」のでした。
人為は何時も眼の先の自分の利益を優先します。

平林寺の紅葉『観光地は作るモノ』

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脳梗塞を発症してから、最初に外出したのは武蔵の「野火止め」の平林寺でした。雑木林の細道を慎重に歩いて平林寺裏の雑木林を巡りました。
あの時の悦びが忘れ難くて、12月4日に平林寺に上ることにしました。
我家からは横浜に出て東横線、地下鉄副都心線、東武東上線と乗り継いで志木駅で降りて、バス(雲雀ヶ丘行き)に乗れば平林寺門前に着きます。東横線から先はFライナーと云う特急で乗り換えなしで着きます。文庫本を読んでいればもう志木です。
学生時代には当時の日文研の指導者だった浅子教授に連れられて、正福寺(東松山)と併せて廻った記憶があります。当時の私の目では正福寺本堂(国宝)と平林寺本堂(都重文)の区別は良く解りませんでした。それでも国木田独歩の「武蔵野」の名文の印象が強くて(原作は小手指の雑木林で古戦場)、青年らしく白秋の落葉松(カラマツ)をクヌギに置き換えて口ずさんだのでした。白秋の落葉松は軽井沢が舞台です。
『からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかり けり。 たびゆくはさびしかりけり。 二からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ』
の落葉松をクヌギに置き換えれば平林寺裏の雑木林に最適なのでした。
菱田春草の名作「落葉」を観るような雑木林でした。
これが菱田春草の「落葉」です。平林寺裏の雑木林『野火止用水が流れている)の画材になったような景色です。

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