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出初式に思う(緊急を要する放火対策)

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今日9日は横浜市出初式がミナトミライで行われます
昨日は戸塚区の消防出初式が好天下行われました。
私もコートの襟を立てながらお出かけです。
第一部は戸塚公会堂で式典が挙行されます。
式典と言っても、消防関係者の永続勤務表彰が主です。
女性消防士が増えたのは、救急車の出動が多くなって、消防署が女性の職場に転じてきたからでしょうか?
パンツ姿の女性職員に「美しいな」感じたりします。
町内会の家庭防災員、消防団員、身近な人が表彰台に登壇します。
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                 (消防ポスターを描いて表彰された小学生、この時が一番嬉しかった)
 
それにしても、戸塚区の火災は急増しています。       戸塚区火災件数(22年/21年) 86件(55件) 31件増
原因は「放火の多発」です。                    戸塚区放火件数(22年/21年) 34件(18件) 16件増
私は 式典でぼんやり考えました。
 
私が小学生だった頃(30年代)、我が家に警察官が来ました。
前日、2時頃、私が何をしていたか確認して帰りました。
実は、近くの八幡社の萱畑(入会地/子供の遊び場)でボヤが発生したのでした。
子供の火遊びが原因ではないか? アリバイの確認でした。
当時はボヤで終っても、原因の追究に真剣でした。
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   (23年勢揃いした消防車、22台は昨年の約半分、何故?減ったのと思う)
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    (22ねんの出初式、消防車はおおよそ47台程度だった)
 
もう、8年くらい前の事でしょうか?
子之八幡社の床下から出火しました。
寒中に八幡社の床下で寝ていたホームレスの焚き火が原因と言う報告でした。
以来八幡社は鉄囲いされて、入れないようになりました。
 
3年前、夏祭りの終った晩、矢張り子之八幡社の催事場が燃えました。
今度は放火、以来私達の防犯パトロールはコース変更し、八幡社の境内も見回ることになりました。
「痴漢対策」に「放火対策」が上乗せされたのでした。
でも、同じ年、魚屋さんの車両、自動二輪が続けて放火されました。
我が家の門扉には「地域防犯連絡所」の看板が貼ってあります。
でも、警察署員の聞き込みは一度も受けた事はありません。
 
放火は戸塚警察署の刑事課が所管です。
彼等にはもっと凶悪で重大な事件を追っかけているのでしょう。
放火犯は逮捕されていません。放火犯罪の抑止力は発揮されていないようです。
それで無くとも、今の社会、不満が鬱積して、反社会的な輩が増えています。
私達は今も恐々としています。
八幡様には旧い札を入れたボックスがあります。
左義長で焼く予定ですが、何時ポンと100円ライターを投げ入れる輩が出現するか・・・心配です。
 
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23年放水、水柱が上流から下流に流れて行きました。貧素な感はいがめない
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22年の一斉放水。迫力があった。
 
出初式は上野の東照宮で始まったそうです。(万治2年1659年)
周りは武家屋敷が続き、彼等が自警団(武家火消し)を作りました。
そして、正月4日に「今年も東照宮を守るぞ!」、団結と気合を入れるために、出初式を開始したのだそうです。
屹度当時は、町に不満武士があふれ出し、自警を要したのでしょう。
社会に不安定要因が溢れる時、放火は急増します。
最も肝腎なのが放火対策、従って放火犯は極刑に付されました。
 
昭和14年、警防団が組織され、警察行為に加えて戦争に供えて防空や消化を担当させました。
戦後(昭和22年)警防団は解体され、警察と消防は分離されます。
常備消防である消防本部、非常備消防である消防団の2組織で消防を分担する現体制になりました。
問題は警察と消防が分離された事です。
放火対策は警察、消防双方の空白にあるように思えます。
 
私達地域の期待する安心安全は、強盗・殺人等の凶悪犯罪防止に加えて、性犯罪防止、放火防止もあるのです。
戸塚区は22年度全国一の「オレオレ詐欺」被害が発生しています。
オレオレ詐欺は自己責任で防止も可能ですが、性犯罪と放火は自己責任の外にあります。
 
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                (出初式で配られたチラシ。オレオレ詐欺も問題だが放火対策も大事です)
 
出初式の式典に加わりながら呟きます。
消防関係者のお祭に出席を強いられるのは結構だが、
「放火対策はどうしてくれるのか!」
対策を打って、もう少し安心に住める町にして欲しいものだ・・・・。
 
今年は出初式に参加した消防自動車は半減しました。
一斉放水も淋しいものになりました。
大半の消防自動車は火災対策で消防署に待機しているのでしょう。
 
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かごめはかごめの筈だが・・・・(柏尾川にて)

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消防出初式で賑わった柏尾川に出かけました。(昨日報告しました)
「柏尾川を綺麗にする会」の仲間が堤防を、川の中州を清掃しています。
堤防にはリヤカーが置かれて、集めたゴミを運び出すのでしょう。
木枯らしが吹きすさんでいます。
ご苦労様な事です。
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  (柏尾川桜橋から戸塚駅方向を見る。川の中にカモメが居て、川沿いで清掃している人が居る)
 
ゴミが集中しているのは、桜橋と朝日橋の間、戸塚駅西口の再開発事業が進んでいます。
みれば、川面にカモメが浮いています。
30羽はいるでしょうか・・・・、みんな川下を向いています。
北風はカモメも嫌いだからでしょうか?
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                        (ゴミ拾いの人が動くと、カモメも少し動きます)
 
カモメの集団から20メートルほど下流、
川岸には鳩が、此方も30羽ほどの群れです。
岸辺に落ちたゴミの中に食べ物でもあるのでしょうか?
何か啄ばんでいます。
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                                     (下流・南側を見ているカモメ達)
 
 
カモメは海辺に棲む鳥だと思っていました。
柏尾川が海に注ぐ片瀬浜には群れています。
上流にも散見します。
でも、群れているのは大船駅西口、そして此処戸塚駅西口です。
どうも、住人が餌付けをしているようです。
 
海に居たカモメが川を遡って来たのは人間の行為のお蔭でしょう。
江ノ島の海より、戸塚駅西口の方が食物に恵まれています。
従って此処に居ずいたのでしょう。
先住民の土鳩を追い出したようです。
 
鳩もカモメも食事を運んでくる叔父さん(叔母さん?)を待っているのでしょう。
給食係りの叔父さんは何処かの陰に隠れて、柏尾川清掃作業が終えるのを待って居るのかもしれません。
野生動物の餌付けは何かと問題もあるようですから。
柏尾川には「カワセミの会」もあって、固有種の保存を大切にしています。
 
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        (ゴミ拾いが終わったら食事にありつけるかな?カモメ達は微妙な距離を保っています)
 
私は思い出しました。
大昔ベストセラーになり、映画化された「カモメのジョナサン」を。
主人公のジョナサンは飛ぶ事に目覚めます。
群れの仲間は地上に居て、楽に生活しています。
群れを離れて、天空に昇って、更に飛ぶスキルを磨きます。
ジョナサンは変哲なカモメ、仲間から嫌われるのは必然でした・・・・。
 
中島みゆきは「かもめ」を素材に作詞し、研直子に歌わせます。
「かもめはかもめ 孔雀や鳩や まして女にはなれはしない。
かもめはかもめ ひとりで空を行くのがお似合い」
 
ジョナサンも中島みゆきも群れずに孤高に(または孤独に)生きて行くことを是としています。
一方、此処柏尾川を上って来たかもめは皆「堕落したかもめ」のようです。
 
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此処から約2キロ上流にカモメ橋があります。
カモメが居るからではなく「カモメプロペラ」という優秀な企業が立地していて、
同社に入るにはこの橋を渡らなければならないからです。
カモメプロペラは船のスクリューを作らせたら、その精度・技術で世界一の会社です。
今はNC工作機械が全盛の時代、でも、同社は手で触ってスクリューを磨く匠も擁しています。
先端技術と手仕事、双方併せ持っていないと世界一を続けられないのでしょう。
 
カモメプロペラのHP www.kamome-propeller.co.jp/
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                      HPの製品案内から
 
柏尾川を海辺の片瀬からさかのぼると、世界一の優秀な会社が見られます。
新林のミネベア、古舘の神戸製鋼所、佐賀鉄工所・・・日本光学・・・そしてカモメプロペラです。
何れも80年以上の歴史がある事でしょう。(日本光学は戦後解体され戸塚工場は大井に集合された)
日本の工作機械はずっと世界で追随を許しませんでした。
しかし今や、中国に、更にドイツにも抜かれてしまいました。(金額ベース)
 
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     (神戸製鋼所)
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                (佐賀鉄工所、自動車用のボルトナットでは世界一の会社です)
 
カモメプロペラの社名は屹度「カモメのように推進力の優れたスクリューを作ろう」社是を表現したものでしょう。
でも、今や日本の機械産業は飛ぶ力を失いつつあるようです。
カモメプロペラは「カモメのジョナサン」を思い起こさせる孤高な存在になってしまいました。
私は土手の上から、太ったカモメを見つめています。
 
  追記:柏尾川流域に優秀な機械産業、パーツに特化した企業が立地したのは、戦闘機などを支えたからでし      ょう。今は自動車などを支えているようです。
 
 
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トイレの神様に思うこと(いのちの輪)

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紅白歌合戦で「トイレの神様」がヒットしていることを知りました。
「泣ける歌だ」高い評価を受けているそうです。
サビの小節
 「トイレには綺麗な神様がいるんやで
 だから毎日綺麗にしたら、神様みたいな別嬪様になれるんやで」
おばあさんの言葉が、胸に染み入るのでしょう。
今時、トイレに神様が居ると思っている人は少ないでしょう。
でも、このフレーズは日本民族の心の奥に触れるもののようです。
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                (伊藤博文野島別邸の便所)
 
私の生家は南側が縁側、北側には廊下が設えてありました。
廊下の東の際に母屋から少し距離を置いて、便所がありました。
「厠/かわや」と言う字の通りの、離れでした。
昼間でも、便所に行くのはすこし不安でしたが、夜は怖いものでした。
大便所で腰を降ろすと、板扉の木目が悪鬼の眼のように見えたり、
お尻の下から悪霊が手を伸ばして、私を便壷の中に引き摺り下ろすかも知れない・・・・・、
そんな恐怖感がありました。
 
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           (便所の構造/伊藤博文野島別邸の説明より)
 
私が小学校の6年生の事でした。
鎌倉と逗子の境にある披露山で鬼ごっこに興じていました。
鬼に追いかけられたA君が突然に消えてしまったのでした。
原因は肥溜め(野溜)に落下してしまったのでした。
たまたま、消えた事に気づくのが早かったので事なきを得ました。
当時まで、肥溜めに落ちて死んでしまう、そんな事故は多々ありました。
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                    (渡り廊下の向こう、離れが便所である事が多かった)
 
便所で排出された糞尿は肥え桶で担いで肥溜めに入れておく、
すると、肥溜で発酵する。糞尿は肥料に変じると同時に
発酵熱と日射光を受けて、殺菌されるのでした。
勿論、回虫など寄生虫の卵も死んでしまいます。
肥溜めの隣には水壷があって、肥やしに撒く時には薄めて撒きます。
水に薄めないと野菜は根腐れてしてしまいます。
そんな訳で、日本中にそこら中の畑に肥溜めがありました。
中原街道は江戸100万人が輩出する糞尿をお百姓が買出しする道でした。
多分、肥溜めの歴史は1,000年を超えていると想像します。
 
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                (手前が厠、奥が母屋。厠は東北の角が普通でした)
 
禅宗の教えには「東司(ご不浄)」を綺麗にお掃除もし、使いもする。
便所の掃除中に悟りを得たとか、悟りを「乾屎蕨(かんしけつ/ 大便をした後に拭うヘラ」に比喩するなど、
便所に係わる教えが沢山あります。
ですから、東司には幣が奉られ、便所神様が見張っておいでです。
 
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(天嶽院の東司/便所、清潔なトイレは大切な修行でした)
      
大便は肥料になって野菜を肥やして、再び人間の口から入ってきます。
生命循環のひとつです。
赤ちゃんも誕生して、成人して、働いて、子孫を生んで、死んでしまえば、土に戻ります。
これも、「いのちの循環」です。
 
昔の人は、大便の循環を見ていましたが、今は水洗ですから知らないだけです。
家族の誰かが病気である、糖尿である・・・・・などなどは直ぐに解りました。
 
人が家で生まれて、家で死にました。
今は病院で済んでしまいますから、「いのちの循環」を見ないだけです。
トイレを綺麗にする事はいのちの循環に感謝すること・・・・に通じます。
そのお陰で「良い子が生まれる、健康に育つ・・・・」など信じられ、出産後30日目には「便所回り」をしたものだそうです。
(この段はいのちの文化人類学/波平恵美子・新潮社に詳しい)
 
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                              (天嶽院のトイレの花活け、清々しい)
 
 
 
                 
ヒット曲「トイレの神様」はこうした日本民族の深層に触れる部分があって、
その通りだ・・・・・、
トイレを綺麗にする事は、先祖に感謝する事に通じる・・・・大切なハートだ。
そんな共感を呼んでいることでしょう。
 
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                           (天嶽院の便所の神様/烏彗沙摩明王(うす さまみょうおう))
 
 
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「鏡割り」で悪戦苦闘のお汁粉作り

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昨日(1月11日)朝何時ものようにブログを書いていました。
時計代わりにTVでは「NHKのお早う日本」をかけっぱなしで。
8時過ぎ「今日は鏡開き、そこで堅くなった鏡餅をつきたて状態に戻して食べる方法を案内します」と・・・・・、
私は、キーボードから眼を離して、TVに注目しました。
「あの、カチカチの鏡餅が柔らかくなる秘法があったのか!」期待が盛り上がります。
秘法とは約70度に温めたお湯に割った鏡餅を浸しておくのです。
干乾びた鏡餅は水を含んで、つき立て状態に復活するのだそうです。
 
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                                                (此れから鏡割りのお餅)
 
我が家の鏡餅は二組、早速に取り出して、食卓の上に並べます。
案の定、鏡餅の底は青黴が生えています。
青黴はペニシリンの材料、食べても害毒は無いでしょうが、美味しさを損います。
そこで、カッターや彫刻刃を使って、黴とりです。
青黴ばかりかと思っていたら、黒黴や黄色い黴も混じっています。
 
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                                  (空気に接していない面に黴が生えてしまいます)
 
神社の本殿、正面に鏡が飾られています。
あの鏡と同じように玄関先に大きな鏡餅を、小さい方は床の間に飾っておきました。
鏡餅は寄り代で歳神様が宿っておいでです。
お正月が開けたら。その寄り代を戴いて、体をリセットするのが鏡開きでしょう。
私達夫婦は歳神様を体に取り込んで、健康長寿を願います。
だから、鏡餅は歳神様が居られる幕の内の間は飾っておかなければいけないし、
幕の内が終えたら体に取り込まなければなりません。
 
でも、少し不安が残ります。
私の母は正月明けに鏡餅を水の中に浸しておいて、数日後に取り出して戴いていたように記憶しています。
NHKの放送どおり復活すれば良いのですが。
 
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(最悪は一段目の鏡餅の底の部分、黴は割れ目から根が沁み込んでいました)
 
鏡餅は縁起物です。
ですから、切ってはいけませんし、割ってもダメです。
木槌で叩いて開かなくてはなりません。
でも、我が家の鏡餅は素人の手作りです。
心が籠もっているのですが、既に割れ目が出来ています。
この「割れ目」で吉兆占いが出来るのかも・・・・?
思いながら両手で捻ってみれば、割れてしまいました。
 
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                 (黴取り処理を終えた鏡餅、手で割れてしまいました)
 
NHKの案内どおりにやってみました。
鏡餅は温水の中でふやけていました。
でも、つきたて餅には程遠いものがありました。
そこで、再度煮立ててみました。
でも、ヤッパリ固いものがあります。
家内は「水にしたして電子レンヂでチン」
これで毎年やっているのよ、
二通りでお汁粉を作りました。
 
お餅は固い部分が残っていました。
多分、鏡餅の外周部でしょう。
お餅の芯のようにして残っています。
お汁粉としては失敗作のようです。
でも、お昼の食事はこれで我慢です。
家内は電子レンヂで加熱して、全部食べてしまいましたが、
私のおわんの底には数個のお餅が、オカキのようにして残っています。
 
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                                       (鏡餅で作ったお汁粉、ヤッパリ固そう)
 
おわんの底のお餅を見詰めて、どうしようか考えていました。
外では、ペットのイヌ(チー子)が「何かご用でしょう・・・・!」言っています。
 
私は家内に相談します。
「チー子もお餅が食べたいと言っているよ!」
「お餅を喉に詰まらせたら大変でしょう!止めたら」
私は
「喉に詰まらせるには固過ぎるよ・・・、オカキのようだから」
私はチー子のお碗に食べ切れなかったお餅を入れました。
 
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                                        (お椀の底に残されたお餅)
 
喜んで食べ始めたチー子でしたが、固いお餅は苦手のようです。
先ず、甘いアンコを舐めてしまいました。
それから、やおらお餅を噛み始めます。
「なんだ、こんな食べ難いものをよこして・・・・」
私を恨めしげに見上げます。
でももう、此処まで来たら残さない限り取り上げる事は出来ません。
食べるか残すか、チー子の専決権限にあります。
 
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    (ウン、こんなもの食えるか!お餅に言わんばかりのチー子、でも取り上げようとすると怒ります)
 
それにしても、NHKの放送は、我が家の手作り鏡餅には適当では無かったようです。
でも、チー子は食べきってしまいました。
チー子は未だ10歳に満たないのですし、今年も元気に過ごせる事でしょう。
 
未だ大半の鏡餅は残っています。
どうやって食べきろうか・・・・心配の種が出来ました。
せめて小正月(1月15日)までに全部食べきらないといけません。
ヤッパリ、母(故人)のやっていた通りにして、水の中に二三日浸しておいて、
家内の言うとおり、最後は電子レンヂでチンとしようか・・・・・な・・・・。
 
 
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                  (残った鏡餅は水に浸して、・・・・母の手順で再チャレンジします)
 
 
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雄同士、カワセミの鬼ごっこ?

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年々カワセミは増えてきているようです。
鎌倉を散歩すれば、円覚寺の妙香池にも、八幡様の源平池にも、光明寺の記主庭園にもカワセミをが見られます。
30分も水面を見ていれば、「ピッ・ピー」自転車のブレーキのような鳴き声と共に、カワセミは姿を見せます。
流石に観光地のカワセミ、人間を怖れる事は無く、目の前でホバリング(滞空飛行)やダイブを繰り返し、魚をゲットします。
庭石の上などで魚を咥えなおし、頭から一気に飲み込んでしまいます。
鱗などをペット吐き出したり・・・・・見飽きません。
 
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            (円覚寺妙香池の名石「虎頭岩」に止まって、ダイブしようとするカワセミ(雌)、白いのは糞)
 
今年は小寒に入ると名の通り寒い日が続きます。
寒い時ほど、寒さを凌いで咲かせる花や、健気に生き抜こうとする小動物に眼が捉われます。
道端の「冬知らず」も咲けば、日向にはもうハコベやナズナ等春の花が咲き始めています。
季節の移り変わりを確認するのも、この季節、ウォーキングの楽しみです。
 
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                    (舞岡公園河童池、略全面結氷しています。写真は青鷺。紅梅も咲きました)
 
舞岡公園には沢山の溜池があります。
遠目に見れば溜池を囲んだ柳の大樹も少し若芽の色が混じっているようです。
 
殆どの溜池は氷が張ってしまいました。
氷が張ればカワセミも食事が出来ません。
氷の張っていない場所、日が昇ると早く融ける場所を探して飛び回ります。
すると、本来縄張りでなかった場所にも出没する事になるのでしょう。
たまたま、カワセミ同士が顔を合わせることになります。
 
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           (舞岡公園さくらなみ池、此処は氷が張っていません。でも上段の富田池は結氷しています)
 
舞岡公園の「さくらなみ池」を眺めていると、水面をカワセミが飛んでいます。
眼で追おうと、もう一羽いました。二羽で追いかけっこをしています。
縄張りを争っている気配でもありません。
「鬼ごっこ」のようです。
 
鬼は子を追いかけます。
子役のカワセミは逃げると又適当な間隔をあけて止まります。
時々、二羽は眼を合わせます。
「どうせ、捕まらないよ」言っているようです。
鬼役はまた子役を追いかけます。
池の淵で行ったり来たりしています。
鬼ごっこ遊びは水面に映って、4羽居るようです。
 
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                               (左の太目のカワセミが右のカワセミを追いかけていました)
 
「もう、恋愛の季節なのか?」
驚きと期待感で私はカメラを望遠にして覗きます。
 
嘴は上下とも黒くて、眼の下に白い毛が確認できます。
どちらも雄です。
ならば、縄張り争いのようですが・・・・・・、そんな迫力は全くありません。
 
もしかしたら、昨春巣立った兄弟カワセミが、偶々結氷したのでこの池で再会したのかもしれません。
で、思い出して、兄弟で遊んでいるのかもしれないな・・・・・・?思ったりします。
 
改めて二羽のカワセミを較べると、大きさが少し違います。
父と子のようにも見えます。
ならば、昨年初夏に巣立って、半年振りに倅が父の縄張りに戻ったのかもしれません。
「お父さん、僕のシマは氷が張ってしまった。しばらく縄張りに居候させて下さいな!」
 
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       (嘴が上下とも黒く、眼の下に白い毛があるのが雄。並んで止まったカワセミの兄弟?親子?)
 
 
でも、本気でこんなことを言ったら、生態に詳しい人から笑われるでしょう。
カワセミは生きることに懸命、巣立ったら兄弟とて敵同士、
命をかけて縄張りを守るものです・・・・と。
 
でも、恋愛の季節はまだ先です。
今は、少し余裕があるのかもしれません。
「助け合って冬を越す」事を優先しているのかも・・・・。
ならば、この二羽、「どんな関係なのだろう」  
思いを巡らします。
素人の私には全く解りません。
 
でも、素人に解らないからこそ、自然は奥行きが深いのでしょう。
時に、懐が深くて私達を誘ってくれます。
 
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    (四十雀はもう巣作りの準備を始めたのか? まさか!と思いました10分ほど旧い巣を修理していました)
 
 
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茶室の禁花(?)「冬知らず」(浄智寺にて)

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京都の字に魅せられてTVのスイッチをオン、「フェイク京都美術事件絵巻/NHK」を見ました。
あるお茶の宗匠が学徒出陣する青年にお茶を振舞いました。
使った天目茶碗は「本能寺の変を潜り抜けた」謂れがあって・・・・・。
「生きて帰れ!」心が沁みて来ます。
 
でも、ある日の茶花は「冬知らず」でした。
此処から、刑事(南野陽子)の推理が始まります。
「冬知らず」の花はお茶席では使わない花(禁花)だそうです。
何故なら千利休が切腹した時、部屋に活けられていたのが「冬知らず」だったのだそうです。
 
そうなのか、あの「寒咲きの金盞花」が「冬知らず」という名で、加えて禁花であったのか・・・初めて知りました。
でも、気になることがありました。
浄智寺のお茶室に自生していたのです。
それに、千利休の切腹シーンにこの花が出てきた記憶が無かったのです。
 
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          (舞岡の土手に咲く「冬知らず」 野生の金盞花で花が小さく、長く咲くのが特徴です。)
 
 
千利休が割腹したのは天正19年(1591年)2月28日でした。
旧暦を新暦に換算すると4月21日です。
「冬知らず」は11月頃咲き始め、春先まで花が続きます。
でも、真冬に咲いているからこそ、この名を頂戴しているのでしょう。
冬の寒さに耐えて咲く姿に美しさが際立ちます。
ですから、4月末に活けるのは如何かと思うのです。
 
冬知らずの花は舞岡の畑の土手に自生しています。
早速に確認しに出かけました。
畑には白菜やからし菜が霜を浴びています。
今が一番美味しい冬野菜の季節です。
その畑を囲む土手に、小さな、金色の・・・・・蕾が並んでいます。
未だ、お日様が高くないのので、花は開いていないのです。
金盞花やタンポポの花は陽が昇ると開花します。
これから益々花数が増して、美しさが際立つ事でしょう。
 
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           (畑の土手の冬知らず、冬菜が霜げています。花の右手土が露出しているのはモグラの仕業)
 
 
浄智寺の石段を登ります。
鐘楼門が迎えてくれます。
鐘つき堂を兼ねた山門です。扁額には「山居幽勝」と書かれています。
「此処のお寺は山住まいで良いなあ!」そんな意味でしょうか。
 
門前を右折すると、木戸のような門があります。
此方の扁額は「梅花樹下」。   字の通り、梅の木の下のお寺さんです。
 
この簡素な門を潜って、右手にお茶室があります。
お茶室の名前は「龍淵荘」、多分浄智寺の井戸の淵にある庵の意味でしょう。
茅葺の佇まいで、露地は蝋梅が囲んでいて、その根元には水仙が盛りです。
 
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                  (浄智寺の優しい石段、正面が鐘楼門。この石段を登る時が一番です)
 
 
お茶室は四季の木花、草花で囲まれています。
縁側の下にも、下地窓の外にも自生した草が交互に顔を出しています。
つい、3ヶ月前までは秋明菊が咲いていましたし、葉鶏頭(禁花とも聞きます)が、
そして今は、クリスマスローズも大きな葉っぱを茂らせています。
花の少ない季節でも、「蔓姫蕎麦」に「冬知らず」が仲良く花をつけています。
 
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    (茶室「龍淵荘」の南側は冬知らずと蔓姫蕎麦が咲いています。左手に茶室の下地窓があります)
 
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    (浄智寺の庫裏に向うには正面の梅花樹下の門を潜ります。その先右手にお茶室があります)
 
茶と言えば「和敬静寂」。
この心や環境を損うような茶花は避けた方が良いのでしょう。
その意味で、沈丁花のような強い香の花は避けた方が無難ですよ・・・・。
お仏前の花(金盞花)も相応しくないのですよ・・・・。
そんなアドバイスでしょう。
 
でもどんなお花が良いかは、主人がお客さんをもてなす為に選択するもの。
正月の人事異動で雪国に転勤を命じられた人を迎えるお茶席で、
「冬知らず」が活けてあれば、お客は心を熱くするでしょう。
 
真の自由を求めるお坊さんの修行場では、「禁花」等の決め事には無頓着なのでしょう。
無頓着である事こそ、お坊さんの面目躍如なのでしょう。
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                       (右手に井戸がある事から龍淵荘の名がついたと思われます)
 
お茶室には長い陽射しがお部屋の奥まで差し込んでいることでしょう。
陽射しの向こうには蝋梅が望めるはずです。
そして、下地窓を少し開ければ、障子の向こうに冬知らずの花と顔を合わせることでしょう。
 
一度でいいから、このお茶室でお手前をいただきたいな・・・・・、
私はクリスマスローズ、あの俯きかげんな姿が好きだな・・・・・・、
思いながら、お山を下りました。
 
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                                 浄智寺参道民家の蝋梅
 
追記
南野陽子さん主演の「フェイク京都美術事件絵巻」は中々面白かったです。
人間の思いは裏表になって様々な場面を演出します。
美しいと思う場面(善)も、風が吹けば裏に(悪)に翻ってしまいます。
脚本家はだから「フェイク/虚構」と名付けたのでしょう。
千利休が切腹を従容した、その事情は様々な説が飛び交います。
その総てを利休自身は「フェイクだよ・・・・」   言っていることでしょう。
真実は利休自身しか知らない事でしょうから。
 
 
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浜辺のどんど焼き(鴨居浜浜辺で)

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昭和43年の小正月だったと思います。
私は会津坂下に居ました。
昼間は勝常寺等の寺寺を廻り、日暮れと共に道祖神祭りに向かいました。
降り積もった雪道に、蝋燭が燃やされて、祭り会場まで点々と続いていました。
「虫送りの火祭りは五穀豊穣を祈るもの」聞かされていましたが、
火を見ると、血が沸立って、体の底から悦びが溢れてくる感触がありました。
宮崎高千穂のお神楽を見た時の思いでした。
生命の起源に触れる・・・そんな感動です。
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                         (鴨居八幡宮の正面が鴨居浜、浜辺に一本のドンドがたって居ます)
 
毎年、正月が過ぎると「どんど焼き※」を楽しみにしています。
      ※ドンド焼きは左義長/道祖神祭り/齋歳焼き/虫送り火祭り」など地方によって様々に呼ばれます。
近くでは腰越や大磯が有名ですが、人混みもあるし・・・・今年は何処に行こうかな?
考えます。
予め調査し、今年は三浦半島の鴨居浜に出かけることにしました。
 
鴨居浜は浦賀港の北側にある漁港です。
侘しげな漁港、小さな八幡宮などなど、期待が盛り上がります。
浜辺は「禊・穢れ」をはらす場所ですし・・・・。
夜にはお神楽が上演されるそうです。
 
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                               (1W前のドンド、ご近所の人が歳神様の依り代を組んでゆく)
 
朝8時に神事が始まります。
私は家内と薄暗い中お出かけです。
 
鴨居浜には鴨居八幡宮が祭られています。
その真正面が砂浜です。
祭り半纏を着た氏子が30人余り、
周囲を子供や家族連れが囲って、ドンド焼き(齋歳焼きと呼んでいました)の開始を待っています。
 
砂浜に柱(ご神木)を立てて、三本の孟宗竹を組みます。
孟宗竹の間に、丸太や松、竹、檜などの常緑樹の小枝を組みます。
すると、各戸から門松やお札、縁起達磨や、お書初め様々な「歳神さま」の依り代が積上げられてゆきます。
見る見る、円錐状のドンドが出来上がります。
 
こうして出来た巨大な松明を燃やして、歳神様にお帰りいただくのでしょう。
同時に厄や穢れも焼いてしまいます。
そして、新しい命を迎えます。
新しい命は直に新緑に芽吹いて、お米の収穫にも繫がります。
 
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                          (1月15日8時、いよいよドンドに点火される。正面鴨居漁港)
 
お盆の明けに「送り火」が燃やされます。
此方は仏教の影響が色濃いのでしょうが、
ドンド焼きには仏教以前の日本人のこころ、生命観を見ることが出来ましょう。
若狭の火送り、二月堂の迎え火を思わせます。
 
神主さんの灯した松明がドンドの大松明に移されました。
歓声が上がります。
火柱は一気に燃え盛ります。
竹が燃えると、爆竹の音が響きます。
「ドンド」の名前はこの音とも謂われるようです。
火の粉が舞い上がり、達磨も書初めも火柱と共に天空に昇って行きます。
顔に火が映えて、熱いばかりです。
 
私の目の前でお婆ちゃんが、ジッと火柱を見詰めています。
 
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お婆チャンは78歳との事、
娘時代は、この鴨居の浜に8本もドンドが立って、神主さんが走って火をつけたとの事。
各部落が競って大きなドンドを用意し、囃し立てたそうです。
ご神木の残り火でお餅を焼いて食べれば、一年中病気にはならないとの事・・・・・、
思い出を訥々お話されます。
でも、今はお餅の用意は無いようです。
 
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「お婆ちゃん、娘時代と今と、どちらが幸せですか?」
娘時代には戦争がありました・・・・・・、
一昔前なら・・・・それは「現代の方が良いわよ!」
言うに決まっていました。
でも、今は・・・・・、聞かないほうが良さそうです。
 
せめて「ドンド焼き」が、たった一本になっても続けて欲しいものです。
 
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私の目の前にも紙コップに注がれて、お神酒が廻ってきました。
お神酒で”縁”が繫がって往きます。
尊いものに思われてきます。
 
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            (ドンド焼きを見詰めるお婆ちゃん)
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               (此方は三浦半島長浜、若山牧水記念館前のドンド、明日16日朝6時半に点火されます)
 
 
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瓢箪お爺さんへの言付け

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今日の話題は下の写真、瓢箪です。
「渋い」「味がある」評価をする人多いでしょう。私もその一人です。
でも、お酒をこの瓢箪から注がれても、飲む気にはなれないかも・・・・・、少し汚いような気もします。
でも、複雑なシミの表情には「あるお爺さんの生き様と健康」が隠されています。
「尊いシミ」なのです。
 
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置かれている場所は倉田コミュニティーの玄関先です。
「倉田コミュニティー」とは、私達の町にある地域施設です。
此処を拠点に、様々な団体が活動をしています。
このブログでも、
「親爺バンド」「男の料理教室」「蕎麦うち教室」「門松・注連縄教室」「上倉田歴史教室」などなど紹介しました。
横浜市は債務過多(※)でもあり、
倉田コミュニティーは多くがボランタリーで運営されています。
 
庭の植え込みや花壇の手入れもボランタリーです。
毎年、西側には瓢箪の棚が作られて、日陰とあわせてブラーリ・ブラーリ揺れる姿を楽しませてくれていました。
お爺ちゃんの丹精のお蔭です。
 
でも、昨年は瓢箪棚は作られませんでした。
お爺ちゃんがお病気だったと言うのです。
私達は心配しました。
「瓢箪のお爺ちゃん、ご様子は如何?」
でも、一年間お姿は見られませんでした。
 
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この正月明け、施設の廊下に「書初め展」が開かれました。
私も見学に出かけました。
その時、施設玄関で前出瓢箪が飾られていたのでした。
お爺ちゃんから「私の近況を報告します」 メッセージのようでした。
 
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                                     (書初め展優秀作品の展示)
 
瓢箪の表面は複雑な模様を描いています。
茶色と白い斑点と・・・・味わいがあるのですが・・・・・、
作ったお爺ちゃんが健康です・・・・とは言っていない様な気もします。
 
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私も子供の頃瓢箪を作った事がありました。
瓢箪の実を水に浸しておきます。
暫くすると実は腐食します。
その後、棒で突っついて瓢箪の外皮を残して、実の内部を括り出します。
根気の要る作業です。
お爺ちゃんは病床で、瓢箪を眺めて、出来た瓢箪の実を、腐らすだけでやめてしまったようです。
私は子規の「病床六尺」を思い起こしてしまいます。
 
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     (良寛さんの歌で最も多いのが酒、次いで梅のような気がします。東慶寺の寒紅梅が咲き出しました)
 
私は、突然に良寛さんの一句を思い出しました。
 
     我が恋は ふくべでどぢやうを おすごとし
 
ある時、良寛が叔母のお寺に行くと仏具屋が入っていました。
良寛さんは仏具屋の筆を持って、傍に置かれていた瓢箪に漆で書いたそうです。
「私の恋は瓢箪で泥鰌を捕まえようとするもんだ・・・・・」
泥鰌はヌルヌル捕らえどころがありません。
一方、瓢箪の口は狭いもの、泥鰌が入るとも思えません。
 
勿論、良寛は禅の公案「瓢鮎図」を思い起こしていたのでしょう。
「悟り」は瓢箪で鯰を捕まえるようなものだ・・・・
「恋」は瓢箪で泥鰌を捕まえるようなものだ・・・・
ならば
「健康は瓢箪で・・・・・・捕まえられるかしら?」
そんな連想を誘います。
 
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                                  如拙筆 <国宝(京都 退蔵院)>HPから転載
でも、難しい「悟り」を得たお坊さんも沢山居ます。
良寛さんも、晩年には「恋」を得て、珠玉のような相聞歌を残されました。
様々な難病も治癒した人は沢山居ます。
 
是非とも、今年は瓢箪棚を作って戴ける様、期待し祈る事に致しましょう。
「暖かくなったら、お姿を見せてください・・・・・!」
 
 
 
 
※横浜市は市債の残高が2.4兆円、林市長が就任すると4カ年計画を発表しました。
 財政健全化と活性化、双方が目標です。
 プライマリーバランスの黒字化を達成、毎年1000億程度は市債残高が減少しているでしょうか?
 国に較べれば断然優秀です。ボランタリーには活気がああります。

 
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鎌倉で寒紅梅巡り

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花が少なくなった寒中に、咲き始めるのが寒梅です。
寒梅でも、赤い花が寒紅梅、眺めれば春を迎える悦びが膨らみます。
ですから、この季節、寒紅梅を見て歩く、楽しみの一つです。
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                                            貞宗寺の寒紅梅
 
鎌倉の旧住宅街を歩いていると、生垣の上に寒梅の梢が透けて見えます。
鶯は未だですが、メジロなど野鳥が花を巡っています。
メジロも人も梅の花を待っていたんだな・・・・思います。
万葉集で最も歌われた花は「萩」、次いで「梅」だそうです。
春の訪れ、秋の訪れを知らせる花が最も愛されたのでしょう。
 
「鶯宿梅(おうしゅくばい)」の故事を思い出します。          
村上天皇の御世、宮殿の前の梅の木が枯れてしまいます。
天皇は代わる梅を探させます。
役人がある屋敷の庭に良い梅の木を見つけました。
宮殿に移植させます。
でも、梅の梢に短冊が結ばれていました。
   勅なれば  いともかしこし  鶯の
         宿はと問はば  いかがこたえむ      
天皇は梅の木を元の屋敷に戻させました。   
           
奈良時代から、梅の木は屋敷のシンボルだったのでしょう。
梅の木を愛する日本人の心は、昔も今も変わらないのです。
 
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                                              (貞宗寺御霊や前の寒紅梅)
 
鎌倉の寒紅梅を巡ってみました。
先ず、行き先は植木の貞宗寺です。
参道を登ると、右手に御霊屋(二代将軍徳川秀忠の母方の祖母貞宗院の墓)が見えます。
その角に寒紅梅が咲きます。
球状の樹形全面に鮮やかな花が咲きます。
大奥の美女達を飾った「うちかけ」のような艶やかさです。
 
山之内の東慶寺本堂前にも寒紅梅の老樹があります。
本堂前のお庭から見れば、黒い板塀の向こうに赤い花の咲いた梢が見られます。
向かいのお茶席から見れば、柴の垣根のその上に花が見上げられる事でしょう。
梅林で有名な東慶寺にあって、最も早く咲き出し、紅一点の寒紅梅です。
 
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                                                 東慶寺の寒紅梅
 
東慶寺から「亀ヶ谷坂切通し」を越えて雪ノ下に向います。
寿福寺踏切を越えて小町に向うと、左手に立派な板塀が続きます。
板塀の中は川喜多長政氏のお屋敷、一昨年頃から「鎌倉市川喜多映画記念館」としてオープンしました。
広大なお屋敷は、そのまま山に続きます。
その中段に別邸があって、和辻哲郎氏が住まわれていました。
 
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     (雪ノ下和辻哲郎宅、手前が寒紅梅の大樹/1分咲き。此れからが楽しみです)
 
 
和辻邸の縁側からは大きな寒紅梅が望めます。
屹度、この寒紅梅が鎌倉で最大の樹であろうと想像します。
南に開けた大きな空間が大樹を育んだのでしょう。
 
和辻邸の縁側からは夏蜜柑、枇杷、そしてこの紅梅が望めます。
何れも実のなる木です。
花は一時の楽しみ、
実のなる木は様々な楽しみがあります。
 
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                   (荏柄天神社の寒紅梅は5分咲きです。此処も此れからが楽しみです)
 
私の寒紅梅巡りの最後は荏柄天神社です。
去年の今頃(国公式一次試験日)には満開でした。
でも、今年は未だ5分咲きと言ったところでしょうか?
 
でも、祈願に沢山の人が詣でています。
梅が咲こうが、咲くまいか、受験生やそのご家族は必死です。
どうも、お孫さんの受験祈願に来られている人が最も多いような気がします。
此れも、時代を反映しているのでしょうか。
 
私のようなお気楽には、寒紅梅の花、受験生、何れも「頑張れ」・・・と眺められます。
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私の楽しみは此処で一服する事です。
「期待の甘酒」です。
お巫女さんが、アルマイトの大きなお鍋蓋を開けて、ゆっくりお玉でかき混ぜます。
湯気の向こうに琥珀色の甘酒が見えます。
紙コップに甘酒が入れられて、お盆に乗せられます。
「お熱いかも・・知れません・・・」
此れで、100円です。
石段下のお茶屋さんでは310円です。
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私は縁台に腰掛けて、甘酒を戴きます。
合格祈願に参拝される方を眺めます。
本殿の向こうに見える書初めも見渡せます。
餅花(繭玉)も飾られています。
寒中も良いなあ・・・思います。
ポツン、私の目の前に紅梅が一輪落ちて来ました。
見上げれば頭上で、メジロが紅梅を突っ突いています。
 
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私は甘酒の中に寒梅を浮かべました。
良寛さんの歌を思い出します。
   その上は 酒に浮けつる 梅の花
            土に落ちけり いたづらにして
 
良寛さんはお酒好き、心行くまでお酒をいただき、会話を楽しみました。
その上に、お酒に梅の花を浮かべました・・・・・。
楽しいな・・・・・・・、
そんな歌でしょう。
今日も、越後は大雪だそうです。
雪国越後だからこそ、良寛さんはお酒と梅がお好きでした。
私は、甘党なので甘酒がお似合いです。
 
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                (菅原道真公、手前はご神木に実った銀杏。此れを食べれば・・合格必定)
 
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青鷺が牛蛙を一呑み

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今年は例年に無く寒いので、池には氷が張っています。
青鷺は肉食ですから、食べ物探しに大変だろう・・・、想像します。
好物の蛙も蛇も、エビも昆虫も姿を見せませんから・・・・、主として魚を探すのでしょうが、
氷ってしまえばさしもの嘴はトどきません。
 
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(全面結氷した河童池)
 
舞岡公園、河童池の周囲は葦原です。
枯れた葦原を差し足忍び足で青鷺が周っています。
池は全面が結氷したのでしょうが、岸辺に近い所から溶け出して薄氷になっているようです。
小魚が水が温んだ岸辺に寄って来るのでしょうか・・・・?
 
 
やおら、青鷺の首が一層長く伸びました。
何か発見したのでしょう。
鋭い嘴を、岸辺にグッと伸ばすと、その先に大きな物体が咥えられています。
「ヤッタ!」と青鷺は叫んだかも・・・・、
すると、嘴を差し上げたまま、池の中央部に移動します。
其処は厚く結氷しているので、獲物は逃げる事もできません。
「俎板の鯉」ならず、「氷上の蛙」です。
 
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                                     (ヤッタ!何か獲物をゲットした、青鷺君)
 
青鷺は蛙を嘴に抓んでは、放し、又咥えます。
頭から呑み込もう・・・・蛙の位置を変えているのです。
時々蛙の腹や背が見えます。
全面に黒い斑紋が確認できます。
牛蛙の成体で雌なのでしょう。
それにしても巨大です。
呑めるのだろうか?
少し疑問です。
 
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    (蛙の腹に黒い斑点が・・・・これは牛蛙の雌です)
 
 
我が家の近くも牛蛙が増えました。
線路脇の細道で「グェー・グェー」啼いているので、薄気味悪いものがあります。
家内の通っている弓道場でも、牛蛙が居座っていて、啼き出すとどうしても集中力を欠き易い・・・・そうです。
 
柏尾川を歩けば、沢山の牛蛙を見つけられます。
此処が中国なら、一気に人間の胃袋に納まってしまうことでしょう。
何しろ、別名が「食用蛙」、
約100年前、米国ルイジアナから大船の試験場に移りました。
で、食用蛙が柏尾川に逃げ出しました。
そこで一気に増殖しました。
「グェー・グェー」の鳴声が「牛みたいだ」として、牛蛙の名を頂戴したのでしょうから。
牛蛙にとっては柏尾川は第二の故郷なのです。
 
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                                      (カイツブリの巣を占領し、自慢げな牛蛙)
 
 
ところが牛蛙は何でも食べてしまう、貴重な在来昆虫も小動物も何でも呑み込んでしまいます。
そこで、2006年外来生物法で特定外来生物に指定され、駆除対象になりました。
在来種にとってはワースト100の上位にランクされています。
食べれば河豚のように瑞々しく淡白な味です。
実に美味しく、広東料理には欠かせない食材なのですが・・・・、
身近に居るのに見向かれません。
 
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                  (牛蛙を氷上で喰らえ直し、一気に呑みこめる様に図っています)
 
 
そんな牛蛙、成体になれば天敵など居ない、思っていたのですが、
実は青鷺が天敵だったのでした。
青鷺も、牛蛙も増えたので、今が調整過程にあるのでしょう。
当面、幾ら寒くなっても青鷺には食事に困る事は無いのでしょう。
池の淵を探し回れば、冬眠中の牛蛙がお尻を出しているのでしょう。
ボケた顔を枯葉の中に、土の中に埋めても、大きなお尻が丸見えでは、青鷺の眼はだませません。
 
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                                          (氷の上で獲物を料理しようとする青鷺)
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   (青鷺は牛蛙を呑み込んで、その形が喉で膨らんでいます。)
 
 
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神々しい「常緑の忍草」

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柏尾川の支流、鼬川を遡って行くと、次第に山の緑が深くなってきます。
一際緑の深いのが「権現山」、その中腹には「白山神社」がありました。
権現山も、その近くの「神戸」もこの白山神社の神社領であったろうと、言われています。
鎌倉幕府創設以前からの歴史のある神社でした。
今は、鼬川の淵を跨ぐ石橋「昇龍橋」が昔の信仰を留めるだけで、社殿は何一つ残っていません。
 
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   (白山神社参道にある昇龍橋、黒い部分が鎌倉石、此処に常緑の忍が茂っています。左白山神社跡、権現     山に続く)
 
 
昇龍橋は横浜市最古の石橋だそうですが、今も創設当初の美しいアーチの形を留めています。
石材に鎌倉石を使っている為でしょう、保水能力があります。
従って、石橋には常緑の羊歯が茂っています。
その大きさからして、多分「常緑忍/ときわしのぶ」だろうと思います。
  
鼬川の淵はこの辺りが最も深くなっています。
その水際の崖を常緑の忍が占拠しています。
他の植物が根を張る事は不可能なのでしょう。
唯一、常盤忍だけが過酷な環境に根を張って、葉を茂らせることが出来るのでしょう。
川面に反射する日の光が、常盤忍を照らします。
漣が緑の葉っぱで揺れています。
今は多くの植物が枯れてしまっています。
此処だけが命が満ちているようです。
 
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                   (鼬川の淵を埋め尽くした常緑の忍)
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権現山の脇を抜けて、鎌倉の府内に入ると、光触寺の案内板が見えてきます。
川沿いに登れば朝比奈の切り通しに続きます。
その谷戸の狭い空間に光触寺があります。
 
「光に触れる」の意味は多分阿弥陀様の後光に触れられる有難いお寺さん・・・・そんな意味かな、想像します。
でも、谷間のお寺ですから冬の間は太陽光が差し込む時間も短い事でしょう。
崖の中腹には沢山の氷柱が垂れ下がっています。
山風が吹いてくると、「カラン・コロン」氷柱が折れて、川底に転がってゆきます。
 
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                   (光触寺の崖に出来た氷柱、忍の緑が神々しく見えました)
 
川淵の紫陽花も枯れて幽霊のようです。
枯れ花に絡んでカラス瓜が数個残っています。
此れを食べようと、野鳥(赤腹)がやってきました。
 
氷柱の崖に緑が見えます。
此れも常緑忍のようです。
周囲は総て枯れてしまったのに、凍らずに茂っています。
私は「神々しい」思います。
 
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      (枯れた紫陽花に絡んだカラス瓜、野鳥も狙い始めました)
 
「忍ぶ草」は和歌にも数多く歌われています。
「忍ぶ」は、苦労に耐える、恋に忍ぶ・・・双方の意味がかけられたのでしょう。
「おしん」ならずとも艱難辛苦に耐えて生き抜くのが日本人の心情です。
忍ぶ草は共感を呼びました。
              陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れむと思う我ならなくに
 
 
同じ忍ぶでも、「吊り忍ぶ」に使う忍ぶは冬枯れしてしまいます。
亀ヶ谷切通しの忍は今紅葉しています。
 
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                                      (亀ヶ谷切通しの忍、今紅葉しています)
 
 
紅葉も悪くは無いものの、矢張り常緑の忍は神がかっています。
櫓の岩壁にも常緑の忍が茂っています。
緑をバックにすると石仏も嬉々としているように見えます。
 
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                                    (海蔵寺の櫓を埋めた常緑の忍)
 
山道に入れば裏白も茂っている事でしょう。
常緑の忍より遥かに大きな羊歯です。
表が深緑で、裏は白いので「裏白」と呼ばれます。
神様がすまわれる、そう古代人は直感したのでしょう。
神前に鏡餅に下敷きました。
 
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                                (瑞泉寺参道も常緑の羊歯が茂っています。溝羊歯)
 
 
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「繭玉飾り+吊るし雛+七夕飾り」=ボランティアの思い

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 笠間から真っ直ぐ北に上れば戸塚の吉田大橋に向います。
此の間の県道が江戸時代鎌倉道と呼ばれました。
鎌倉道の東側、尾根道に鎌倉古道がありました。
鎌倉古道の西側の谷戸が小菅ヶ谷、東側が鍛冶ヶ谷です。
鍛冶ヶ谷はその名の通り、鍛冶屋のある谷戸で、かの相州伝「加藤正宗」の鍛冶場も此処にありました。
従って、笠間から鍛冶ヶ谷は軍政上の要衝であったのでしょう。
 
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             (山の下が鍛冶ヶ谷、手前が小岩井家住宅。向こうに富士山)
 
鍛冶ヶ谷を見下ろす山の上に「本郷ふじやま公園」があります。
山の南の稜線に弓道場があり、西側に小岩井家住宅(横浜市文化財・江戸時代庄屋宅)があります。
流石に立派な民家で、支配階級の家としての荘厳さが残されています。
梅園を整備し、毎年育って花も成長しています。
寒紅梅越しに眺める富士山は見事です。
富士山の方向に陽が沈みます。
富士山の頂に陽が沈むのは春秋の彼岸の頃です。
でも、黄砂などの影響で、冬の間しか綺麗な「夕映えに映える富士山」は見られません。
 
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  (小岩井家住宅母屋)
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           (小岩井家住宅、障子の向こうが主人の部屋)
 
 
毎年、小岩井家住宅の土間に「繭玉飾り」が出来ます。
本来はミズキや柳の枝に繭形の団子やお餅をつけて神棚や大黒柱に飾るものでしょう。
竹の幹に柳の小枝を刺して、様々な細工品と一緒に飾っています。
繭玉と吊るし雛、双方を併せ持ったようなお飾りです。
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          (小岩井家の繭玉飾り)
 
繭玉や餅玉は新年を迎えた予祝行事です。
お餅を玉にして、その中に歳神様を迎えて、お餅を焼いて食べて、
今年も豊作である様に、また家族も健康であるように祈願したものでしょう。
繭玉は鎌倉市内の酒屋さんにも飾られていますし、
荏柄天神社の拝殿にも飾られています。
枯れ木に紅白の繭玉が咲いていると、見ただけでも元気が湧いてきます。
 
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     (荏柄天神社の拝殿に飾られた餅玉、お蜜柑セットで、こちらはミズキに飾られました)
 
昨日のTVで高山の造り酒屋が映っていました。
10軒の酒蔵を公開して、お酒の仕込みを見学させてくれるのだそうです。
良いお米、良い水、そして良い麹が出来ないと美味しいお酒は出来ないと聞きます。
麹菌は酒蔵の暗闇の中、ジメッとした空気の中に潜んでいるのでしょう。
麹菌はまるで歳神様のようで、眼には見えないけれど、お正月になると出てきて、良い麹を熟成してくれるのでしょう。
数年前、岩手の酒蔵がオーストラリアに進出しました。
海の向こうで造った方が価格競争力があるから・・・・、
日本酒をグローバルなお酒にして認めさせたいから・・・・・。
「なるほど・・・・そんなものか!」思いました。
でも、その後の状況は報道されないようです。
又、海外産の日本酒も見かけません。
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                                    (新酒の搾り出しを告げる「杉だま」)
 
麹も歳神様もグローバルにはなれないのでしょう。
ローカリゼーションを代表するのが歳神様、
イタリアのワインもフランスも・・・・・お酒は何れもローカルなものが好まれます。
 
もうじき、造り酒屋の門前には杉玉が飾られることでしょう。
お酒の仕込みが終れば、常緑の杉の小枝を組んで球状にします。
まるで、枯れ木の上の宿り木のようです。
杉球が飾られればお酒の仕込みが完了、絞り始めました・・・・合図です。
私達は、杉球が緑から茶色に変色するのを待ちます。
色が変わったら新酒が一層美味しくいただける季節です。
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         (白旗神社欅の枯れ木に宿り木が目立ちます。此処だけ神様が泊まったようです)
 
私達は卵が孵化する光景を見なくなってしまいました。
でも、一昔前まで、鶏の卵が孵化し、蛇から、亀から、鮭から・・・・・多くの命が丸い形から誕生しました。
「産まれる」その神々しい一瞬を経験し、丸い形に歳神様をイメージしたのでしょう。
お正月は、丸い形をよく見かけます。
 
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       (繭玉飾りはボランティアで行われています。細工の数だけボランティアの思いを知る事ができます。まるで、「七夕飾り+吊るし雛+繭玉飾り」のようです)
 
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寒紅梅樹下の「イボ取り地蔵さん」(貞宗院)

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私のパソコンも6年を経過し、今迄では一番長く使っています。
騙し騙ししながら使ってきたのですが、1月20日にWINDOWSが立ち上がらなくなってしまいました。
仕方なく、PCデポに行き、更にヤマダ電機に持っていって修理見積もりを依頼したところ、何れも買い替えを進められました。
でも、今のパソコンに愛着もありますし、現役を降りていますから、買い換える事も憚れます。
息子がリカバリーして、メモリーを買い替えなどして、約2000円、復旧してくれました。
そこで、数日休みましたが、また、ブログを毎日書き続けます。
 
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           (四季折々花が美しい鎌倉植木の貞宗寺。寒紅梅。背景の竹林の下に本堂がある。右手梅林)
 
今日は、鎌倉植木の貞宗寺の石仏を案内します。
 
私はこのブログで貞宗寺については何度も書いています。
ですから、一つだけ書きます。
 
徳川第2代将軍秀忠公のご生母は「お愛の局」。
その実母「貞宗院」が鎌倉にご隠居されました。
権謀術数の蠢く江戸を去って、静かで自然の美しい鎌倉を選ばれたのでしょう。
その私宅を遺言により尼寺にしたものです。
ですから佇まいは貞宗院のお人柄を忍ばせているようです。
 
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                              (貞宗寺間紅梅)
 
今は参道の途中に鮮やかな寒紅梅が咲いています。
その向かいに梅林がありますが、こちらは未だ蕾です。
寒紅梅の角を左折すると正面に御霊屋があります。
貞宗院を祀る宝篋印塔が収められています。
 
その寒紅梅の花の下に小さな祠があります。
祠の中には一基の庚申塔と石仏が祭られています。
そして、祠の壁や天井からは沢山の草履や蓑傘が吊るされています。
そして、石仏の横には石つぶて程度の小石が積まれています。
何れも武士の信仰とは違って、農民等の俗信とか庶民信仰と呼ばれる範疇の石仏です。
私はかねてから不思議に思っていました。
「何で、支配階級のお寺に庶民の石仏が祀られたのか?」
 
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    (左が貞宗寺参道、まっすぐ本堂。右に折れると御霊屋。今日の話題はこの櫓に祀られている石仏二体)
 
 
その日は、ご住職が精進落としからお戻りでした。
そこで、石仏の前でたずねてみました。
 
庚申塔は貞宗寺の門前ではなく、柏尾川沿いの街道にあったもの、
道路の拡張によって、寺が引き受けられたそうでした。
という事は、植木の住人の庚申講の成果であったのでしょう。
庚申塔が鎌倉、江ノ島道の路傍であったことから、旅人の安全を守り神様としても信仰されたことでしょう。
道祖神の役割も担ったことから、草履や蓑傘が奉納されたと思われます。
 
でも、今は草履蓑傘姿の旅人は見られません。
でも、真新しい草履・蓑傘が奉納されています。
信仰を大切にする人が居られるという事を示しています。
 
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          (庚申塔、足元に子法師像。風化が進んで時代も何も判別出来ません、)
 
その右側の石仏をご住職は説明してくださいました。
貞宗院の山を南に向かうと、高齢者施設が出来ています。
その谷間に祀られていた「いぼ取り地蔵様」を現在地に移されたそうです。
もともと、この辺りは貞宗院の寺領だったのでしょう。
それが、今では鎌倉中央病院や高齢者施設が進出しています。
その時に、いぼ取り地蔵さんは邪魔になったのでしょう。
で・・・・・、貞宗院にお移しした・・・・。
此処まではよくある話です。
気になるのは「大切に祀られていて、今も信仰されている形跡がある」ことです。
 
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               (植木の石仏がたまたま此処でご一緒して祀られています)
 
 
ご住職は「イボ取り地蔵」を説明して下さいました。
 
昔の人が「イボ」が多かったのか・・・・それは別として、
「いぼを取りたい」「美しくなりたい」願望は強かったのです。
今も変わらないでしょう・・・・。
お地蔵様に祈願します。
そうして、この丸い石をひとつ持ち帰ります。
そして、丸い石でイボを擦ります。
「綺麗になりたい、イボを取ってほしい」
念じながら何日も擦ると、徐々にイボはパラパラと散ってくるのです。
イボが取れたら、川原石をもう一つ拾ってきて、二個を奉納します。
私も、若いときは喉元にイボがあって、髭剃りの度ごとに血を滲ませていました。
そこで、イボ取り地蔵さんの謂れ通りに小石で擦ったところ、見事に取れてしまいましたよ・・・・。
 
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                 (左庚申塔。右イボ取り地蔵さん。頭上に旅人の支度品が奉納されています)
 
私はこの櫓を建てたのも、庚申塔に旅支度の用品を奉納しているのも、
川原石を積んでいるのも、このご住職であると確信しています。
 
ご住職が言われる事はこんな事ではないでしょうか。
「昔は篤く信仰した庚申塔もお地蔵さんも現代人は見向かなくなってしまいました。
でも、「安全に旅をしたい」「綺麗になりたい」そんな気持ちは昔も今も変わらないでしょう。
昔の人は庚申塔(道祖神)やお地蔵さんに祈願し、成就すれば感謝しました。
 
「心を形に表すことが大切ですよ」
それを解ってほしい、と草履や蓑傘、そして川原石を積んでいるのでしょう。
 
背の低い、優しげで、凛として美しいご住職で居られます。
きっと、貞宗院様も褒めて下さっていることでしょう。
 
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 (イボ取り地蔵さん、風化が進んでいて判明しがたい。左手が川原石。小石の霊力でイボが散れると信じられています)
 
追記
「イボ取り地蔵」は大船道に数多く祭られています。
長後、そして手広の鎖大師さん、そして貞宗院です。
「何故かな?」「たまたま偶然かな?」思ったりしています。
 
 
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観音崎・廃寺の悲しい歴史

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今朝方、夢を見ました。
数え切れない鶏が我が庭に来て、餌を漁っているのです。
屹度、寝る前に見たニュース「宮崎で鶏40万羽、殺処分」が脳裏を離れなかったのでしょう。
「健康な鶏が殺処分される」 鶏が可哀想でなりません。
 
せめて、慰霊塔を建てて、お詫びしてほしいものです。
そして、二度と殺処分はしない・・・・誓ってほしいものです。
 
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   (観音崎周辺は今水仙が満開です)
 
さて、今朝は三浦半島の旧観音寺の話をしましょう。
先日、三浦半島観音崎に近い鴨居浜のドンド焼きを取材しました
昭和のはじめまでは8基もあったドンドが今は1基になってしまいました。
でも、信仰も生きて、詩情あふれる行事であります。
その浜辺を囲む突端に「観音寺跡」を示す小さな祠が祀られています。
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             (鴨居浜のドンド焼き、正面が亀崎、此処に観音寺がありました)
 
案内板には以下の説明がなされています。
今の観音崎灯台の位置に昔から「観音寺」がありました。
勿論、ご本尊は行基菩薩が刻んだ観音菩薩でありました。
沖を通る船や漁師を守る「船守観音」でした。
 
明治13年、新政府は観音寺に移転を命じました。
移転先は亀崎(現在地)です。
廃仏毀釈・富国強兵の時代です。
有無を言わせず観音寺は撤収され、
観音寺の跡地に陸軍砲台、観音崎灯台が建立されました。
 
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 (観音寺は砲台用地として接収され、亀崎に移転しました。移転後の観音寺、昭和61年全焼してしまいました)
 
気の毒なことに観音寺は昭和61年(1986年)全焼してしまいます。
ご本尊も灰と消えてしまいました。
 
観音寺のあった亀崎は風光も優れています。
住宅地に変わってしまい、僅かな空き地に観音寺跡を示す祠を建てました。
そして、祠の中にはどなたかが観音像を刻んで納めました。
一見、円空とアイヌの彫刻を思わせる鑿の跡です。
 
 
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(観音寺跡に建てられた祠)
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                       (現在の祠に奉納されている観音様)
 
その東側に近隣公園があります。
たぶん、宅地開発の際に用意されたのでしょう。
 
その公園の脇に慰霊塔があります。
私たちは慰霊塔の下で、また悲しい歴史を知ります。
 
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(村雨殉職者の慰霊塔。背中に観音寺祠が見えます)
 
駆逐艦「村雨」は昭和18年ビラ・スタンモーラ夜戦において撃沈してしまいます。
乗員数226名、生存者129名であったそうです。
慰霊塔の石壁には英霊の名が刻まれています。
美しい赤御影石は軍艦旗の色なのかもしれません。
 
現在も盛大に慰霊祭が続けられているようです。
帝国海軍駆逐艦村雨慰霊祭の報告記事には詳細な事実と、生存した人たちの思いが記録されています。
(kouyoukai.exblog.jp/10456040/)
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この亀崎突端が慰霊塔の場所に選ばれた根拠は良くわかりません。
最後の出航が横須賀港からだったからでしょうか・・・・・。
 
海峡の向かいには鋸山が見渡せます。 
海峡の東、鋸山の中腹には日本寺があります。
海峡の西、観音寺とで海の安全を祈っています。
だから、海中に沈んだ霊を慰め、海の安全を祈るため・・・・この場所を選んだのかも知れません。
また、駆逐艦村雨の名が南総里見八犬伝の名刀「村雨」に拠っているから・・・・・
様々考えられます・・・・・。
 
残念なことに歴史は悲しい事が繰り返されます。
それが人間の業とでもいうものでしょう。
でも、反省することも人間だからこそ出来ること・・・。
同じような悲しみを繰り返さないようしたいものです。
屹度村雨の慰霊式に参列された人も、旧観音寺に眠っている人も思っていることでしょう。
 
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   (村雨殉職者慰霊塔からの眺め、正面右手の山並みに鋸山があります)
 
 
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癌に負けない(慈癌寺、癌封じの霊樹に思う)

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このブログを書き始めた一回目が「4猿」でした。
一般的な三匹の猿に加えて、四匹目が股間を押さえて「しざる」です。
腎臓癌で右腎臓の摘出を終えて、退院しました。
勤務先の長銀に復帰するに際し、私が心身共に健康ですよ・・・・、
そんなメッセージを、四猿に託しました。
 
この正月にも訃報が届きました。
私世代の一番多い死因は「癌」のようです。
 
退職して、これから夫婦で過ごす時間を大切にしよう・・・・、
そう思った矢先の発病は辛いものがあるでしょう。
加えて、生きようとする体と、増殖しようとする癌、
両者が体内で戦うわけですから、苦痛が伴います。
「完治した!」
確信している私ですが、やはり心の片隅では再発の危惧が無いわけではありません。
あの時は長銀問題の最中、「治してやる」気合がありましたが・・・・
今はもうそんな気力は沸いて来ないかもしれません。
 
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             (今日の話題は慈眼寺の癌封じの霊木と樹下のクリスマスローズです)
 
 
全国各地に「癌封じ」のお寺は沢山あります。
癌は、生病老死(四苦)の最大要因だからでしょう。
この苦しみから免れたい・・・・・、そこで神仏に祈願します。
祈願する心が、癌に戦う気力を奮い起こし、最新の医術ともあって、「死に至る病」ではなくなってきています。
 
大船駅から藤沢遊行寺に至る街道に「慈眼寺/曹洞宗」があります。
急な石段を登って山門をくぐると、大きな樹木が茂っています。
この大樹が「癌封じ」の霊木といわれ、その根株の上に祠が祀られています。
 
私達は300年を経る大樹の神々しさに圧倒されます。
そしてこの大樹の霊力で癌を封じてくれる・・・・確信して帰ります。
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で、慈眼寺のご住職はこの霊木を癌封じとして案内をされています。
 
私なりに表現すれば以下の通りでしょう。
 
この大樹は、モチノキ4株、タブノキ3株、スダジイ1株による混合樹です。
屹度300年以上前に一本の大樹が腐ったのでしょう。
其処に様々な木が芽をはやした。
8種もの木はお互いに競って、戦いながら、時には扶助しながら、巻きつくようにして成長を続けました。
一本の木から見れば、お隣の木は邪魔な存在・・・・・、
気を抜けば自分が殺されてしまう・・・、
さながら「癌」のようなものでしょう。
 
癌と戦う、様々な作戦があるかもしれません。
道元禅師はこう諭しておいでです。
「ご自身の体に癌が宿りました。ならば、事実を把握する事が最初です。
次いでお医者様に指導していただき治癒方法を判断します。
後は規則正しく、精神を集中して精進に励む(四聖諦)」
さすれば、癌は克服できますよ。
 
私のような凡人には道元禅師のような精神力には欠けています。
なので、「癌で死ぬのは嫌ですよ・・・」泣いて叫んで、神仏に祈願します。
でも、冷静に考えてみると、教えの通りだ・・・思われてきます。
現代科学も、「現実直視・観察」から始まっています。
 
で、やおら気力を奮い立たせて、「癌を患ってしまった、現実」に正対しようとします。
でも、大変なプレッシャーです。
 
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      (慈眼寺のポスター/現実(無常)を認識する事から道は始まる・・・・諭します)
 
 
慈眼寺の奥様はそんな凡人の心をご理解されているのでしょう。
「癌の木」の根元一面にクリスマスローズの花を自生させました。
毎年大寒に入ると可憐な花を咲かせます。
そして春盛り、キリスト教の受難節の頃まで、咲き続けます。
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                                  (和名が雪起こし、背景は癌封じの木)
 
クリスマスローズの名は日本には不向きのような気がします。
和名を調べてみたら、「寒芍薬」とか「雪起こし」と言うのだそうです。
 
花は俯け気味に咲きます。
雪や霜から柔らかい花弁を守るためでしょう。
そして、雪が積もっても、その強い生命力で雪を撥ね退けて成長する。
雪割草にも似ています。
 
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    (綿帽子のような雪起こし、蕾が沢山ついています。昨年木を剪定したので沢山咲きそうです)
 
その健気な姿は「癌と言う災いに負けない花の姿」を示しているようです。
私は、雪起こしの花を見て思い起こします。
道元禅師の四聖諦を・・・・・、
「ああ、この花のように精進すればよいのか・・・・!」と。
 
花は結婚式花嫁(女房)のようです。
ならば、家族の期待に沿えば良いのか・・・・・と。
 
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円覚寺池の楽しみ

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白梅も花開き始めました。
円覚寺選仏場や居士林の周囲も咲き出したろう・・・・
観梅に出かけました。
 
先日、「観音崎灯台、砲台は同所にあった観音寺を明治13年移転させて出来た・・・・」書きました。
富国強兵策の犠牲になったのは観音寺にとどまらず、此処円覚寺もそうでした。
山門下にあった「白鷺池」も半分が埋め立てられ、横須賀線(大船~横須賀)が明治17年開通しました。
横須賀の軍港が重要になったからです。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44635259.html
 
白鷺池は開山「無学祖元」が白鷺に導かれてこの場所に至り、寺を開いた・・・・言い伝えられています。
白鷺は鶴岡八幡宮の神使だったのだそうです。
屹度、この辺りは湿地で、八幡宮源平池の白鷺が飛来していたのでしょう。
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                        (円覚寺白鷺池は池面全体に緑藻が繁殖してしまいました)
 
円覚寺に登るには鎌倉道を左折して、石橋の「降魔橋」を超えて、踏み切を渡ります。
白鷺池で池面を見渡し、聞き耳を立てます。
カワセミを初め様々な野鳥を観察できるからです。
でも、姿は確認できません。
池面全体に緑の藻が張ってしまったのです。
「こんなに寒いのに、藻が繁殖するなんて・・・変だな」思います。
 
 
流石に今は大寒、参拝客も疎らです。
今日は山門が何時もにも増して大きく私を圧倒しています。
選仏場の周囲には人影が見えます。
バードウォッチングする人、、
白梅を楽しんでいる人、
居士林の佇まいをスケッチしている人、
様々ですが、みんな冬の陽だまりを浴びて嬉しそうです。
 
座禅をしながら
「梅の香りはいいなあ・・・未だ鶯のさえずりは聞こえないなあ・・・・・」
なんて思うのはダメなんだろうな・・・・・思いながら更に円覚寺の奥に歩を進めます。
 
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                                          (居士林前の白梅は今満開です)
 
道の左手(西側)に「妙香池」が見えてきます。
此処はカワセミが再三確認できるスポットです。
背黒セキレイのカップルが見えます。
でも。カワセミは居そうもありません。
何故なら、この池の緑藻は白鷺池よりも濃いのです。
これではさしもの眼光鋭いカワセミも獲物を確認できません。
              http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44585112.html
 
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         (妙香池面全体を覆ってしまった緑藻、正面の大岩が虎頭岩。スフィンクスを思わせます。岸上の           塔頭は夢想礎石作庭の後作られたものでしょう)
 
 
私が高校生だった昭和40年代、妙香池の周囲は樹林でした。
私はこの池を「防火用水」程度にか思っていませんでした。
ところが、この池を含んだ一帯が夢窓疎石の作庭によるものだと確認され、整備が始まりました。
木を伐採し、芝を張りました。
そして、草叢に隠れていた大岩を露にしました。
岩は稲村ガ崎の岩盤のように波浪によって侵食されています。
そして、明らかな積層を示しています。
屹度何億年も前に海の岩壁が隆起したのでしょう。
 
巨岩を「虎頭岩」と名づけました。
私は巨岩を眺めます。
大岩全体が虎のボディーで、南端にある小岩が頭にも見えます。
大岩が虎の頭で、こっちを見て「ガオ-」、うなり声を発しているようにも見えます。
京都南禅寺には「虎の子渡し」枯山水があります。(小堀遠州作)
枯山水は土や草木など移ろいやすい物を削り取り、変わらない物だけで万物を表現したものなのでしょう。
大岩はその代表素材・・・・・、
夢窓疎石はこの岩を見て、作庭の意欲を燃やしたのかもしれません。
瑞泉寺方丈庭園に共通する、「意匠」を感じます。
夢窓疎石の代表作は「天竜寺曹源池」(世界遺産)
後醍醐天皇の冥福を祈って作ったものでした。
従って優美で、枯山水と浄土庭園がミックスしているように見えます。
でも、瑞泉寺や円覚寺の方丈庭園は若い時の作庭、武士の魂を思わせます。
 
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  (同じく夢窓疎石による瑞泉寺方丈庭園。巨岩を掘り起こして庭のメインに置いています)
 
 
妙香池もダメか・・・・私は方丈に回ります。
方丈庭園には「心字池」があります。
カワセミは屹度この池に来ているだろう・・・期待して。
 
方丈庭園には・・・・・
居ました、居ました。カワセミが居ました。
池の中心に山楓の木があります。
その梢から、ダイブを繰り返しています。
四度に一度程度、小魚をゲットしています。
でも、池も小さければ魚も小さい、
何匹食べても腹持ちしないようで、また獲物を探しています。
見物人が増えても一向に気にしません。
 
カワセミですから翡翠色の背中が魅力です。
そして、嘴と脚が飴色です。
飴色に陽射しが差し込んで、一層鮮やかです。
山楓の梢の先端も飴色です。
 
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   (カワセミ・メスの成鳥、山楓の朱色と鳥の脚、嘴の飴色が春を感じさせてくれます)
 
 
庭師がやってきました。
「カワセミは此処に来ていたか・・・・」呟きながら、水撒きを始めました。
私は庭師と会話しますす。
 
庭師は今年の乾燥を嘆いています。
「今年の冬は雨が降らない・・・・・、方丈庭園の苔は杉苔、乾燥に弱いので毎日水遣りしているのだが・・・・・
もう真っ赤になってしまった。」
「ああ、白鷺池も妙香池も藻が一面に張ってしまったのも渇水のため・・・・、水が流れないと池には緑藻が張ってしまう・・・・。今年の冬は大変苦労が多い・・・・。」
 
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    (毎日水遣りに精を出している庭師さん。左の山楓の梢にカワセミが来ています)
 
円覚寺の方丈の再建は昭和4年、
従って、この方丈庭園心字池の修復はそれ以降のことだったのでしょう。
枯山水である事は変えられません。
その上で、白砂ともうひとつ、建長寺のように芝を張るか、苔にするか・・・・・。
苔にしても、京都好みの杉苔にするか、鎌倉に多い山苔にするか・・・・迷ったのでしょう。
で、杉苔にしました。
鎌倉では「庭師泣かせ」だったのでしょう。
 
庭は永遠に変わらない石や砂、常時変転する生物・・・・・・
双方が混在してこそ美しいもの・・・・。
紅葉も桜も・・・・藻も・・・カワセミも・・・・・。
移ろいながら・・・・・春が近づいてきます。
 
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白いジョウビタキの「続編」

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今もTVではH5型鳥インフルエンザのニュースを流しています。
この冬5例目だそうです。
心配です。農家も、鶏も、野鳥も・・・・・。
インフルエンザの媒体はバイカル湖やチベット周辺で繁殖し、晩秋に日本に渡ってくる野鳥と言われています。
最大は白鳥かなべ鶴、最小はジョウビタキでしょう。
 
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                    (ジョウビタキ(雄)/舞岡の里山で・・・)
 
 
ジョウビタキはすずめの仲間、でも一回り小さいのです。
小さいのですから遠路遥々渡らないでも、日本で一生過ごせば良かろうに・・・・・思いますが。
染色体には「渡り」が刻まれているのでしょう。
 
12月に真っ白なジョウビタキ(突然変異種)を報告しました。
私達は「雪の嬢」とネーミング、愛しています。
同時に「何れカラスやカケス等にやられてしまうかも知れない」危惧しています。
白い事は目立つ事、目立てば食べられてしまいます。
 
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                        寒いので・・・「ふくら雀」ならずとも「ふくらジョウビタキ」「ふくら雪の嬢」
 
ですから、舞岡の里山に入ると真っ先に「雪の嬢」を探します。
バードウォッチャーがすれ違えば、
「雪の嬢は○○にいたよ」挨拶代わりになります。
雪の嬢は棲家が藪で、危険が迫れば藪の中に逃げ隠れます。
雀と同じ習性です。
そして枯葉を起こして、隠れている昆虫を食しています。
木の実も食べています。
 
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                           ジョウビタキ(雪の嬢)の棲家は竹薮です
 
舞岡の里山に畑があります。
畑の隅に花畑があります。
農家が自家用の仏花を栽培しています。
そのビニールハウスの前に紫式部の実が残っています。
ジョウビタキは時々この紫の実を食べます。
でも、あんまり美味しくないのでしょう。
「仕方が無い、紫の実でも食っておくか!」そんな表情です。
もう1月も末、でも未だ沢山残っていますから・・・・今冬の食料は充分備蓄されている事になります。
ツグミやムクドリに食べられてしまえば、一日で無くなってしまうでしょうが。
 
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     (紫式部の実に止まって、食べようとする雪の嬢)
 
紫式部は写真のように小さな丸い紫の実を群がるようにつけます。
「玉紫」が普通の名でしょう。
でも、紫の実が重なるように結実するので、「紫重実/むらさきしきみ」とも呼ばれました。
「むらさきしきみ」は紫式部を連想させます。
従って、源氏物語の作者名をいただいたそうです。
 
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    (水瓶が凍りついてしまって・・・がっかりした雪の嬢)
 
紫の実を食べて、喉にでもつかえたのでしょうか?
畑の片隅に設置された水瓶に止まりました。
飲もうとしたのですが、結氷しています。
仕方が無い・・・・・、
 
目先の竹竿に止まりました。
雪の嬢のバックはもう緑が沸き立っています。
そう、ソラマメが生育しているのです。
その先にはえんどう豆も・・・・・。
 
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                   「雪の嬢」背景はソラマメ
 
もう、春は近いな・・・・・。
春になればまたバイカル湖の草原に向けて飛び立ちます。
雪の嬢の家族が増えるかもしれません。
そうしたら、今年の秋にはまた「白いジョウビタキ」を捜し歩くことでしょう。
 
 
 
 
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「梅香童子」におもう

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デパートのチラシで「九州美味いもの展」が案内されていました。
明太子、からすみ、モツ鍋に焼き鳥・・・・・
私の目は「梅ヶ枝餅」で止まります。
今、食べたいのはこの餅菓子です。
   
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                      「梅ヶ枝餅」/茶房菊池HPから
 
万葉集の時代から梅の花は愛されてきました。
梅の花が春の魁である事と、その香しさが愛された理由でしょう。
馥郁とした香りは春を迎えた喜びに満ちています。
 
菅原道真は大宰府に旅立つに際して詠んだ歌。
    東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 
伝説では京の都の庭にあった梅の木が大宰府に飛んだそうです。
勿論、従者がひっそりと梅の子株を配所に持って行ったのでしょう。
今も、天満宮の神殿前には樹齢1000年を越す白梅があります。
天満宮では最初に咲く梅です。
全国各地の天満宮にはこの神木から株分けなどされた子孫が植樹されています。
湯島の白梅ももう咲いている事でしょう。
 
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大宰府天満宮の参道にあった茶店が「梅ヶ枝餅」を考え出しました。
明治の初めの事でした。
正月は天満宮に参詣客が溢れます。
その人並みを見ながら「この人達を喜ばせたい」、考えたのでしょう。(※注)
信濃の「おやき」の要領に似ています。
小豆餡を薄い餅の生地で包みます。梅の刻印が入った「鯛焼き」器で焼いて作ります。
鯛焼きに比べれば上品です。
「おやき」に比べれば甘くてお茶請けに最適です。
何と言っても表面に「天満宮の梅の刻印」がついています。
 
天神様がお腹に入れば福が来る事間違いありません。
私は15年前、福岡に単身赴任、よく出かけて戴きました。
職場の前は「岩田屋」、梅ヶ枝餅は売られていましたが、やっぱり大宰府天満宮で戴くのが最高でした。
   (※注)茶店では「菅原道真公」に奉納するお菓子として作った、と案内しています。
 
食べ物に工夫を厭わない博多の人です。
いずれ、小豆餡に代わって「鶯豆の梅ヶ枝餅」「ズンダの梅ヶ枝餅」が登場するかもしれません。
そうしたら、また私の血糖値が上がってしまいそうですが・・・・・。
 
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                                 真言宗城護山圓光寺の本堂
 
大船駅から藤沢遊行寺に向かう道沿いに「真言宗城護山圓光寺」があります。
城とは玉縄城のこと、初代の玉縄城主「北条氏時」が僧「澄範」を招いて城内に創建した寺でした。
勿論、城の平安を祈る「祈願寺院」として建てられたのでしょう。
本尊は不動明王像、北条氏時がつくらせたという毘沙門天像などが祀られています。
何れも、祈願寺院に相応しい仏様です。
 
1619(元和5)年、玉縄城が廃城となってから現在の場所に移されたのだそうです。
 
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                                       圓光寺は白梅に囲まれています。

圓光寺は梅林に囲まれています。
私の目的は「白梅を楽しむ」ことでした。
参道から、遠目に「山門不幸」真新しい案内がたっています。
住人に尋ねればご住職のご母堂様がこの正月に亡くなられたのこと・・・・・。
圓光寺は東向きの谷間にあります。
今年の冬の寒さがお体に堪えたのかもしれません。
まだ、寺院葬の日取りも案内されていません。
様々な準備が調整が必要なのでしょう。
勿論、ご住職のご落胆も大きくて・・・・・・。
 
白梅は咲き始め、日当たりの良い梢から咲き始めています。
もう半月先に満開になるでしょうか・・・・?
その頃に葬儀が執り行われる事になるのでしょう。
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                               圓光寺の白梅も咲き始めました
 
本堂前庭に無縁仏が集められています。
私の目は墓標仏に注がれます。
「梅香童子」正月18日に亡くなった事を留めています。
屹度、幼くして落命した童子を送る時、梅の香が漂っていました。
 
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                                       墓標仏(地蔵)お名前は梅香童子
 
童子の魂はどうしたら良いか・・・・暗い黄泉の国に行けばよいのか・・・
でも、母さんの傍に居続けたいのだが・・・・漂っていたのでしょう。
お坊さんも、家族も童子に言い聞かせるようにして・・・葬儀を進めます。
「香しい梅ではあるが、いずれ散れば香も消えてしまうよ・・・・お前は黄泉に行くのだよ・・・・そして・・・」
 
 
「梅園童女」も居られます。
 
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      (赤いゆだれ掛けを一寸失礼して、お名前を尋ねたら「梅園童女」さんでした。)
 
小さくして亡くなれば戒名も4文字でしかありません。
春に亡くなれば「梅」が、夏なら「蓮」が、秋なら「萩」の一文字が入る事が多いようです。
日本人が優しかったからでしょうか?
はたまた「草木に悲しみを託して」生きてきたからでしょうか?
 
圓光寺の秘仏は60年に一度ご開帳と聞きます。
60年とは一生に一度と言う事。
山門不幸に際して、拝観する事が可能になるかも・・・・・、
思いながら、お山を後にしました。
 
 
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徹底して清潔な無料トイレ(葉山森戸神社)

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人間は苦しい時の体験を最も大切にして「初心を貫徹」させるものなのでしょう。
家康は「三方ヶ原戦役画像」(通称「顰像」)を、そして源頼朝は伊豆蛭小島の辛酸が精神力を鍛えたとおもいます。
三島神社に戦勝を祈願したものの、戦いに敗れて森戸の岬を房総に逃げ延びます。
幕府を開いた頼朝は森戸の岬に三島明神を請来して「森戸神社」を創建します。
そして、由比ガ浜から船に乗って再三森戸神社を詣でます。
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                       (松と柏槇に囲まれた葉山の森戸神社)
 
 
森戸の岬は常緑樹が茂っています。
多くの神社はタブや楠木などの照葉樹に囲まれています。
しかし、森戸神社は松と柏槇です。
屹度海風が強いので、針葉樹しか育たないのでしょう。
 
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   (森戸神社の位置は「霊感に満ちていた事」「景色が美しかった事」「頼朝がピンチであった事」にあります。
 
針葉樹は様々な逸話を残しています。
頼朝の「腰掛松」、そして「千貫松」があります。
頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩します。
岩上の松を見て「いかにも珍しき松よ」と誉めたところ、
出迎えた和田義盛が「千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたといういわれがあります。(吾妻鏡)
また、頼朝が参拝すると、三島神社から柏槇の種子が飛んできたそうです。
種子は神社の岩場に着根します。
樹齢900年の「飛柏槇」に育ちます。
何れも、森戸神社の歴史の長さと霊感に満ちたスポットである事を示しまています。
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           (飛柏槇は森戸神社の背後、大岩の中断に根を張っています)
 
 
森戸神社に祈願するに際し、人々は海に下りて体を清めます。
禊をして祓いをして、心身を清め森戸川を渡って神殿に向かいます。
「七瀬祓の霊所」と呼ぶそうです。
 
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(右森戸神社、森戸川を挟んで左が森戸海岸)
 
今は森戸川には「みそぎ橋」が架けられています。
朱色の美しい橋です。
橋の袂には葉山町の俳句協会の作品が展示されています。
そして、その横に八角の建物が二棟建っています。
「何かな?この八角建築物は・・・・」おもいます。
表面に、キングとクイーンの表示が無ければ、このお洒落な建物が「トイレ」とは思えません。
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毎日お掃除されているのでしょう。
実に清潔です。
赤i御影石と白いタイルで、綺麗な上に豪華でもあります。
入り口が狭く、中が死角になっているのは水着と着替えする人も居るからでしょう。
また、天井には明かり取りがあって、自然光が注いでいます。
様々な工夫がなされています。
 
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何故、トコトン清潔で、豪華であるのか?
それは、葉山の民度が高い事もあるでしょう。
そして、第一にこの場所が「みそぎの場所」であったからでしょう。
禊の場所がトイレ臭かったのでは困ります。
頼朝も怒るでしょう。
 
トイレは文化レベルを示していると思います。
昨今は何処に行っても日本のトイレは綺麗になってきました。
海外を旅をすると「日本のトイレ」は世界一、と思えます。
 
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「庚申塔の半裸女人像の謎」をたずねる(三浦台地)

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鴨居浜のドンド焼きをを見下ろす亀崎の断崖に二基の庚申塔が立っています。
日当たりも、風当たりも良い位置にあります。
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                           (ドンド焼きの背後が庚申塔のある亀崎)
 
未だ状態は良いのですが、お背中やお足元は岩や土砂にに埋もれて確認できません。
一基は主尊の青面金剛が左手第三手にショケラを吊るしています。
三浦半島の庚申塔は約半分がショケラを確認する事が出来ます。
「ショケラって何?」
良く議論されます。庚申塔研究の一番の面白い所です。
一般に”吊り下げ女人”と言われます。
上半身が裸で、長い髪を金剛に掴れています。
迫力もあれば、説話的でもあります。
だから、謎は謎を呼び、興味が深まります。
 
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  (鴨居浜の庚申塔、右の青面金剛は左第3手に女人を吊るしています。右はその手を合掌しています」
 
漁港鴨居浜の背後の高台に上ります。
高台の上は三浦台地、野菜畑が続きます。
今は大根の収穫が終わって、キャベツの緑と、三浦スイカの苗が育てられています。
台地は海風が強く吹きすさびます。
農家は屋敷森に囲まれて建っています。
集落の入り口に庚申塔を確認する事が出来ます。
横浜の庚申塔は道路脇に寄せ集められて、自動車の排気ガスで煤けています。
ところが、三浦の庚申塔は苔むしていたり、人家も近く、昔ながらの位置にあります。
花や、繭餅、幣などが添えられて、今も大事に祀られています。
だから、とても幸福な庚申塔であります。
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                              (三浦台地から房総館山を眺める)
 
屋敷森の角に4基の庚申塔がありました。
背中は屋敷の生垣、竹やぶです。
見れば、買い物袋が置かれていて、白葱があります。
誰かがお参りに来られて、忘れ物のようです。
私たちは庚申塔を観察します。
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お婆ちゃんが遣ってきました。
正月飾りを捨てて、新たに庭に咲いた水仙を切ってきて、活けるのです。
「今の季節は水仙しかないので、これで勘弁してもらうのですよ・・・・」
4基の庚申塔に順次活けて行きます。
「この庚申様は大正時代にお爺さんが奉納されたのでね・・・・・・」
いわれながら、文字塔に供花されます。
私は尋ねます。
「屹度お爺さんは孫子に幸福がありように・・・・お願いしたんですよ・・・・」
見れば、最も古く立派な庚申塔は享保年間、10人弱の講があった事が刻まれています。
次いで古い庚申塔は2名の信者が刻まれ、もう1人が施主になっています。
そして、大正時代の庚申塔は一人が施主で、孫子の幸福を願った・・・とは。
庚申信仰も集落の変遷に従って随分変化してきた事になります。
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                          (庭に咲いた水仙を供花するお婆ちゃん)
 
私は再度お婆ちゃんに尋ねます。
「このこけしの様なものは何でしょうか?どんな意味があるのでしょうか?」
享保年間の庚申塔の「ショケラ」を指差して・・・・・・・。
お婆ちゃんは答えられます。
「難しい事は何にも解らないでよ・・・・。昔からこのままで・・・・、(意味なんか解らんでも)良いんだよ・・・・・」
 
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 (青面金剛が左手で吊るした女人(性欲)を右手の剣で切り裂こう・・・・諭しているように私は考えます)
 
考えてみれば自然な事です。
江戸時代中期、集落全体に難が無いように祈った庚申塔、
次第に家族全体の幸福を願い、
大正になれば、孫子の幸福を祈った。
信仰は共同体から個人に移ってゆきました。
 
不動明王等には「剣に蛇」が巻きついていたります。
蛇は人間の欲望を示していると言われます。
剣は蛇を殺して、底無しの欲望を抑制する事を教えてくれます。
その「剣・蛇」を廃して「半裸女人」を吊るしているのです。
ですから、時代の変遷が「剣・蛇」が「女人」に、「性欲」に移ってきたものと想像されます。
お爺ちゃんに聞けば、「そりゃ女房以外の女に手を出すな!戒めだよ・・・・」教えてくれたかもしれません。
でも、お婆ちゃんには関心ない事だったかもしれません。
 
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   (水仙がいっぱい飾られて嬉しいことでしょう、庚申塔は)
 
「どんと焼き」も「庚申塔」も親類同士のような信仰です。
信仰がまだ形骸化していないところがよいところです。
 
 
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