九品仏の参道東側には交番があって、その横に何時も行列が出来ているケーキ屋さんがあります。この日も行には行列が出来ていました九品仏の境内を歩き回って帰り道、私達は珈琲ブレイクをしたくなりました。ケーキ屋さんに入ると「今の時間はケーキバイキングオンリーです」と断れてしまいました。メニューを観ればケーキバイキングは2500円です。ケーキは食べたし、でもバイキングは「下品下生」の私には不適当です。「また来ます!」言って自由が丘で珈琲を戴く事にしました。
ワイフは言います。「自由が丘で珈琲にしようと云う事はモンブランに行こうと思っているのではないの!アソコは昔は、貴方の好きな自由が丘夫人が来ても今はもうみんなお婆さんよ!」
此れは九品仏参道入口にあるケーキ屋さん(スブニール)の窓
入ってみると、この時間はケーキバイキングオンリーでした。
自由が丘駅前広場は私の学生時代と変わりません。変ったのはお店の名とこの後廻った駅東です。駅東は奥沢の閑静な住宅地でしたが今は駅西の賑いが伝って来たようです。
自由が丘駅前に建つ自由の女神像、自由が丘のシンボルです。
自由が丘駅前の自由の女神像彫刻家の澤田政廣氏の作品だそうで台座には「青空」と記されていました。NYの「自由の女神と」違って自由が丘の女神は翼を背負っています。青空に飛び立つのでしょう。
「澤田政広」と云えば熱海の梅園の中に美術館(https://www.ataminews.gr.jp/spot/118/)があります。仏教や神話をテーマにした木彫が多かった記憶があります。モンブランの包装紙をデザインした東郷清青児(二科展のドン)とも意気投合して昭和デモクラシーの時代に「自由が丘」の街づくりに力を合わせたのでしょう。昭和初年には猪熊源一郎が三越の包装紙をデザインし、東郷清児がモンブランのをデザインしました。
西ヨーロッパのとアール・ヌーヴォーが日本にも伝わって「ミュシャ」のような活動を日本のアーティストにも期待したのでしょう。
自由が丘モンブランの店内の壁絵、東郷青児のミューズの様な女性が誘います。喫茶室も東郷画伯の真作がさりげなく懸けられています。名画を観ながら珈琲+ケーキは至福の時間でしょう。でもデフレの現代至福の時間を過ごせる人は稀です。
ワイフは「自由が丘デパートに行こう!」誘います。自由の女神像から見ればロータリーの向い側、東横線の高架下とモンブラン通りとの間に羊羹の様に細長いビルがあり「自由が丘デパート」の看板が懸けられています。
ワイフの話では、義母はこのデパートが好きで「煮豆」だとか「食器やお鍋も」このデパートで買ってきたそうです。デパートと云うより「公設市場街」といった感じで「築地場外の商店が自由が丘に残っていて「地下1階地上2階のモルタル作りモール」のような感じです。モールを歩いて想い出しました。
新宿の西口の高架下にも 「思い出横丁」と云う名の飲屋が街がありました。大阪南には「法善寺横丁」があります。同じような昭和の超レトロなモールです。
新宿や大阪のそれは「酒飲み横丁」であるのに対し自由が丘デパートは「生活グッズ」の販売店が並んでいます。義母が贔屓にしていた雑貨屋や履物屋はまだ健在のようでしたが、随分歯抜けになっていました。自由が丘に来る客層も齢を取って、此処まで歩いて来れないのでしょう。でも、スマートフォンや腕時計の電池交換等のお店が目立っているのは時代の波でしょう。
退転した店の跡には「テナント募集」の看板が貼られています。私なら「この2坪くらいの空間で何を商うか?」考えてみます。西新宿の「飲兵衛横丁の脇には『縁起屋』と云う名の繁盛店がありました。縁起物の小モノを商っていました。黄色い鰐皮お財布に可愛い招き猫等が並んでいました。縁起モノ小モノ店も良し「占い」コーナーも良さそうです。自由が丘夫人やお嬢さんに評価される「占い」をしようかな?思いながら「大鳥神社」や豪徳寺や「浅草寺」のお札の取次も需要がありそうな気がします。友人が「高齢医療保険の相談」で手伝ってくれそうでもあります。友人が保険を販売して、私が縁起物を小売して。何か楽しそうです。
自由が丘デパートを出れば目の前がモンブランでポルシェが違法駐車しています。モンブランに入って喫茶は止めて、ケーキを買って家で戴く事にしました。
ワイフが言います。「駅東は随分変わったそうよ!」私は駅東で喫茶することにして今しばらく自由が丘の空気を吸う事にしました。