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自由が丘の日陰

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九品仏の参道東側には交番があって、その横に何時も行列が出来ているケーキ屋さんがあります。この日も行には行列が出来ていました九品仏の境内を歩き回って帰り道、私達は珈琲ブレイクをしたくなりました。ケーキ屋さんに入ると「今の時間はケーキバイキングオンリーです」と断れてしまいました。メニューを観ればケーキバイキングは2500円です。ケーキは食べたし、でもバイキングは「下品下生」の私には不適当です。「また来ます!」言って自由が丘で珈琲を戴く事にしました。
ワイフは言います。「自由が丘で珈琲にしようと云う事はモンブランに行こうと思っているのではないの!アソコは昔は、貴方の好きな自由が丘夫人が来ても今はもうみんなお婆さんよ!」
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此れは九品仏参道入口にあるケーキ屋さん(スブニール)の窓
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入ってみると、この時間はケーキバイキングオンリーでした。
自由が丘駅前広場は私の学生時代と変わりません。変ったのはお店の名とこの後廻った駅東です。駅東は奥沢の閑静な住宅地でしたが今は駅西の賑いが伝って来たようです。
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自由が丘駅前に建つ自由の女神像、自由が丘のシンボルです。
自由が丘駅前の自由の女神像彫刻家の澤田政廣氏の作品だそうで台座には「青空」と記されていました。NYの「自由の女神と」違って自由が丘の女神は翼を背負っています。青空に飛び立つのでしょう。
「澤田政広」と云えば熱海の梅園の中に美術館(https://www.ataminews.gr.jp/spot/118/)があります。仏教や神話をテーマにした木彫が多かった記憶があります。モンブランの包装紙をデザインした東郷清青児(二科展のドン)とも意気投合して昭和デモクラシーの時代に「自由が丘」の街づくりに力を合わせたのでしょう。昭和初年には猪熊源一郎が三越の包装紙をデザインし、東郷清児がモンブランのをデザインしました。
西ヨーロッパのとアール・ヌーヴォーが日本にも伝わって「ミュシャ」のような活動を日本のアーティストにも期待したのでしょう。
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自由が丘モンブランの店内の壁絵、東郷青児のミューズの様な女性が誘います。喫茶室も東郷画伯の真作がさりげなく懸けられています。名画を観ながら珈琲+ケーキは至福の時間でしょう。でもデフレの現代至福の時間を過ごせる人は稀です。
ワイフは「自由が丘デパートに行こう!」誘います。自由の女神像から見ればロータリーの向い側、東横線の高架下とモンブラン通りとの間に羊羹の様に細長いビルがあり「自由が丘デパート」の看板が懸けられています。
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此れが自由が丘デパートです。昭和一桁の匂いが残っていて楽しい事請け合いです。角の店は雑貨屋さんで義母も贔屓のお店だったそうです。
ワイフの話では、義母はこのデパートが好きで「煮豆」だとか「食器やお鍋も」このデパートで買ってきたそうです。デパートと云うより「公設市場街」といった感じで「築地場外の商店が自由が丘に残っていて「地下1階地上2階のモルタル作りモール」のような感じです。モールを歩いて想い出しました。
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草履や下駄花緒の専門店
新宿の西口の高架下にも 「思い出横丁」と云う名の飲屋が街がありました。大阪南には「法善寺横丁」があります。同じような昭和の超レトロなモールです。
新宿や大阪のそれは「酒飲み横丁」であるのに対し自由が丘デパートは「生活グッズ」の販売店が並んでいます。義母が贔屓にしていた雑貨屋や履物屋はまだ健在のようでしたが、随分歯抜けになっていました。自由が丘に来る客層も齢を取って、此処まで歩いて来れないのでしょう。でも、スマートフォンや腕時計の電池交換等のお店が目立っているのは時代の波でしょう。
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テナント募集中の空きスペース。LPレコードを置いてあるのは「モールの経営会社の提案でしょうか?」
退転した店の跡には「テナント募集」の看板が貼られています。私なら「この2坪くらいの空間で何を商うか?」考えてみます。西新宿の「飲兵衛横丁の脇には『縁起屋』と云う名の繁盛店がありました。縁起物の小モノを商っていました。黄色い鰐皮お財布に可愛い招き猫等が並んでいました。縁起モノ小モノ店も良し「占い」コーナーも良さそうです。自由が丘夫人やお嬢さんに評価される「占い」をしようかな?思いながら「大鳥神社」や豪徳寺や「浅草寺」のお札の取次も需要がありそうな気がします。友人が「高齢医療保険の相談」で手伝ってくれそうでもあります。友人が保険を販売して、私が縁起物を小売して。何か楽しそうです。
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自由が丘デパートを出ると向かいがモンブランです。
自由が丘デパートを出れば目の前がモンブランでポルシェが違法駐車しています。モンブランに入って喫茶は止めて、ケーキを買って家で戴く事にしました。
ワイフが言います。「駅東は随分変わったそうよ!」私は駅東で喫茶することにして今しばらく自由が丘の空気を吸う事にしました。
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自由が丘駅東の緑道に据えられたクリスマスツリー、女学生は甘味をテークアウトしてベンチで食べていました。ツリーの点灯は午後4時だそうです。



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平林寺の紅葉『新名所を作った情熱』

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脳梗塞を発症してから、最初に外出したのは武蔵の「野火止め」の平林寺でした。雑木林の細道を慎重に歩いて平林寺裏の雑木林を巡りました。
あの時の悦びが忘れ難くて、12月4日に平林寺に上ることにしました。
我家からは横浜に出て東横線、地下鉄副都心線、東武東上線と乗り継いで志木駅で降りて、バス(雲雀ヶ丘行き)に乗れば平林寺門前に着きます。東横線から先はFライナーと云う特急で乗り換えなしで着きます。文庫本を読んでいればもう志木です。
学生時代には当時の日文研の指導者だった浅子教授に連れられて、正福寺(東松山)と併せて廻った記憶があります。当時の私の目では正福寺本堂(国宝)と平林寺本堂(都重文)の区別は良く解りませんでした。それでも国木田独歩の「武蔵野」の名文の印象が強くて(原作は小手指の雑木林で古戦場)、青年らしく白秋の落葉松(カラマツ)をクヌギに置き換えて口ずさんだのでした。白秋の落葉松は軽井沢が舞台です。
『からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかり けり。 たびゆくはさびしかりけり。 二からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ』
の落葉松をクヌギに置き換えれば平林寺裏の雑木林に最適なのでした。
菱田春草の名作「落葉」を観るような雑木林でした。
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これが菱田春草の「落葉」です。平林寺裏の雑木林『野火止用水が流れている)の画材になったような景色です。
で、午前11時には平林寺山門を潜りました。山門や仏殿周囲の紅葉は明らかに京都風のいろは紅葉です。でも野火止用水の流れている雑木林の中に自生している紅葉は関東の山紅葉です。
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此れは平林寺山門前の紅葉です。この辺りの紅葉は先々代住職が京都から取り寄せて植えられたものだそうです。平日でも観光客が多かったです。
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平和観音周囲の紅葉もいろは紅葉でした
先月安曇野で鑑賞した七色大紅葉と同じ山紅葉です。いろは紅葉は一気に赤く紅葉しますが、山紅葉は陽当りや北風の風当たりによって紅葉のスピードが違います。
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平林寺裏の雑木林は周回路になっています。椎樫等の照葉樹に松などの針葉常緑寺そして山紅葉やクヌギなどの落葉広葉樹が混在しています。
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周回路から雑木林の向こうに見えるのは名門松下家の墓所です。雑木林の美しさは菱田春草の「落葉」を髣髴させる見事さです。
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左側にあるのは九十九塚と案内されていました解説には野火止の監視にこの塚に登ったとしてありました。
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これは業平塚の前の松林です。業平塚と云っても実際に業平の墓ではなくて矢張り野火止めの監視塔を伊勢物語に因んで「業平塚」と呼んで風流としたものであろう、説明してありました。野鳥用の巣箱が取り付けてありました。赤げらを初め啄木鳥が多く生息しているとp説明してありました。
一木総てが真っ赤になるのが綺麗だと思えばいろは紅葉が最高ですし、葉も大きいのですが、少しずつ紅葉して、緑・黄・橙・朱のグラデーションが好きなら山紅葉の方が風雅です。私が学生の頃の記憶では平林寺にはいろは紅葉では無く、山紅葉だけでした。上の菱田春草の絵画の様な雑木林でした。ところが前回登った時も今回もいろは紅葉が目立っています。そこで、山門横で入山券を販売している係員に訊いてみました。明らかに係員は平林寺のお檀家で次の様に答えて下さいました。50年以上も前でしたら。先生代の住職が京都からいろは紅葉を取り寄せて仏殿や山門の周囲に植えました。でも裏山には手を入れていませんから裏山も紅葉は山紅葉が自生して増えたまでの事です。一般に紅葉は渓流に自生繁殖します。一番の例えが法隆寺の西側竜田川の紅葉です。「神のまにまに」謳われた竜田川の紅葉は山紅葉です。樹木は総じて湿った土地は嫌いです。湿った土は息が出来ないので根腐れしてしまうのです。でも山紅葉は湿った土が好きですので渓流の周囲は紅葉だけが生育できるのです。平林寺の裏山は入間川等の伏流水が湧き出しているので野火止め用水が流れています。そんな自然環境が山紅葉の占拠を促したと思われます平林寺の本山は京都の妙心寺です。妙心寺は臨済宗の本山であると同時に紅葉の名所です。
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妙心寺には退蔵院や大法院等いろは紅葉の名所が幾つも在ります。京都五山筆頭である妙心寺の力は強く鎌倉でも建長寺の目の前の長寿寺の住職が妙心寺から送り込まれると早速にお庭を大改造していろは紅葉を植えて、山苔を剥がして杉苔を植えました。ところが長寿寺の環境に遇わずに杉苔は無残に枯れてしまいました。
屹度先々代の平林寺住職は妙心寺の紅葉に心惹かれて居られたので。その伝手でいろは紅葉を取り寄せ平林寺の境内に植えられたのでしょう。住職のその姿を観ていてお檀家の方や雲水さんが山紅葉も大事にされたので、現在の様な美しい武蔵野雑木林に本来の黄色の他に朱色を加えたのでしょう。池袋から1時間横浜から2時間足らずでこんなに美しい紅葉の名所がある事は愉快な事です。何しろ態々京都に行かなくてもいろは紅葉も武蔵野紅葉も満喫できるのですから。雑木林は天然記念物であり現皇太子のお言葉も添えられています。雑木林の中で飲食する事は禁じられています。でも至る所にベンチが設えて在って雑木林を鑑賞する事が出来ます。私はベンチに腰かけてミネラルを飲みましたが甘酒でも飲めれば最高です。そう想って山門を出れば道路向かいの茶屋のお汁粉に甘酒の看板が目に飛び込んできました。
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平林寺門前の茶屋はお汁粉と甘酒の看板が出ていました。


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『睡足軒』の読み方

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平林寺を出ると門前向かいに『睡足軒』と云う名の茶室があります。所有は平林寺ですが新座市が借り受けて「市民の文化活動」に供しています。
前回は平林寺を巡った後に睡足軒に寄ってお茶を戴きました。新座高校の女学生がお点前してくれてお菓子も付いて500円ほどだった記憶がありました。それこそ「味をしめて」また、睡足軒に寄りました。でもこの日は平日で、お点前のサービスは土休日に限定されているようで。玄関から中を覘いてお庭を巡って来ました。
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平林寺の裏山を周回して戻ると睡足軒の向いに出ます。向かいの竹林の左(北)に睡足軒があります。
睡足軒は電気王と呼ばれた松永耳庵が飛騨の農家を移築して建てたお茶室です。茶室は総じて方丈(一丈四方)ですが、それでは主人とお客二人しか入れません。益田鈍翁は農家を移築して沢山の友人等客を招いてお茶を点てようとしたのでした。それが箱根に残されている「白雲洞」で、松永耳庵も平林寺門前に農家を移築して沢山の人を同時にもてなせる茶室を設えました。「炉」には囲炉裏を転用しました。明治の事業家は同時に文人趣味で「益田鈍翁/三井物産創始者」をリーダーに原三溪/生糸王横浜正金銀行創始者」横井夜雨/王子製紙創始者)松永 安左エ門/電力王東邦電力他創業)が集ったのでした。
松永 安左エ門は雅号を耳庵と自称し、慶応大学工学部や志木高校は松永が寄贈したモノでした。
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此れは強羅公園にある茶室の白雲洞です。益田鈍翁が伊勢原の農家を移築して茶室としたもので多勢の客を同時にもてなすことが可能です。白雲洞の耳庵版が睡足軒と思われます。
そんな次第ですから睡足軒が小田原強羅公園の白雲洞(益田鈍翁作)に似ているのは自然な事です。白雲洞は伊勢原(相模)の農家を移築しているのに対し、松永の睡足軒は飛騨の農家を移築したのは、本業の事業エリアの民家に食指が伸びたという事でしょう。
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此れは平林寺の向いに在る睡足軒のエントランスです。建物は国の有形文化財です。茅葺屋根をトタン板で覆っているのは如何にも無粋ですし、建物にも良くないと思うので残念です。
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睡足軒の庭は平林寺裏山と同じような生態系の雑木林です。
睡足軒の入り口には次の様な説明があって配布しているチラシには態々「すいそくけん」と送り仮名が伏してありました。
『睡足軒』の名は白楽天の漢詩、(「香炉峰の雪」)に依ります。
一瞬、成程と思うのですが、「香炉峰の雪」の何処が「睡足軒」になるのかサッパリ解りません。まして松永耳庵ともあるインテリが陳腐な「香炉峰の雪」を褒め上げるとも思えません。
私個人としては睡足を「ひるね」とか「うたたね」と読みたくなります。
ビジネスも成功し、文人としても評価を固め後進の為に慶応工学部や高校を寄贈し、仕事を遣り終えた耳庵が好きな茶三昧の日々を送ろうと平林寺の門前に茶室を設えてさて「仲間や後進を招待しようとした時、茶席の名を何とつけようかと思ったのでしょういました。私は「自分は今は暇ですから一緒にお茶をしませんか?」誘うのが自然だと思います。ならば「すいそくけん」では固すぎて知が走っています。「ひるね」とか「うたたね」なら柔らかいし、自然体です。
そう想いながらバス停に立っていると向かいの森に「ひるねの森駐車場」の看板が立っていました。大型バスが駐車し、饂飩屋の駐車場でもあります。
「耳庵」は「睡足軒」を何と訓読していたかは全く解りません。でもこの建物を「睡足居」と名づけて居たそうです。仕事場は会社で休憩場所は箱根の別荘(老欅荘)で昼寝場所が平林寺門前の「睡足居」なら「ひるねや」が適当でしょう。そう考えながら睡足軒の室内を覗き見すると正面に丸窓が見えます。京都の祇王寺を想わせる丸窓で窓の向こうは竹林です「竹林」を丸窓越しに眺めながら囲炉裏端に腰掛けて物思いに耽り、時に眠ってしまったかも知れません。功成り、名をあげてもうこの世で「遣り残すことは無い」羨ましい身の上であった、松永耳庵ですから、「ひるね庵」が適当に思うのです。



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下品下生の楽しみ(九品仏)で

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柿の木坂東光寺で「田の神様」を詣でて私達は九品仏に向かいました。九品仏は元々は吉良家の「奥沢城の跡に「浄真寺」を建立したモノです。現在の自由が丘駅は東急線開通当時は「九品仏駅」だったものを、大正時代に現駅名に変えて、お洒落な街のコアになったのだそうです。九品仏の駅名は大井町線に残されています。九品仏の品とは上品とか下品と云う品の事で、人間の生まれを3つ育ちも3つに区分しあの世に置いても「九品 浄土(9の等級に分けられた浄土)や九品蓮台(同様の蓮台)」があると説明しているのです。「個性尊重、平等」を共通認識とする現代にはそぐわないとも思いますが。人間には様々なタイプの人が居るのは事実です。。浄土教 では極楽往生の際に九つの階位を表しており、人の往生には「上品・中品・下品」の3つがあり、 さらにそれぞれの下位に「上生・中生・下生」あり、合計9ランクの往生があると説いています。私は下品下生」ですから、下品下生の阿弥陀様に往生をお願いしなくてはなりません。何度も登っている九品仏ですが、来るたびに楽しみや発見があるモノです。都内でこんなに武蔵野の気分が味わえる処は滅多にありません。九品仏か、池上本門寺か、洗足池か井の頭公園位です。でも、指折り数えると随分沢山あります。寺も神社も来る人を拒みませんから、公園の様なモノです。日本の都市は公園が少ないので、マンションや宅地開発をする時には、公園や緑地割合を義務付けて来ましたが、こうした寺社を公園だと思えば欧米以上に公園や緑地割合が高いので、今後はこうした規制を廃止して、保育所や託児所等の施設設置を義務付けたら良いような気がします。
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東急大井町線九品仏駅から九品仏に向かう。参道の突き当りが九品仏の玄関「般舟場」の扁額の罹った西門。「般舟場」とは「般舟」とは般舟三昧の事で「つねに行道念仏して現前 に諸仏を見奉るを言うそうで、扁額は二世珂憶の高弟珂慶 上人筆と説明してありました。右側の矢板で囲っているのは何かと思えば「目黒区」が施設を新築していました。
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西門を入るとお地蔵様が迎えてくれました。小さな手で銀杏の葉を握っておいででした。
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お地蔵様の東側は閻魔堂で閻魔様が祀られています。「何れお世話になりますが、出来る限りお呼びになるのは遅くして下さい」お願いしましたが。
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閻魔様の左隣には奪衣婆がおいででした。今年は立山で安曇野(観松院)で閻魔様に奪衣婆に挨拶しました。
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此れは九品仏の仁王門です。仁王像は中々の迫力です。
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仁王門の脇 北側)には4基の庚申塔が置かれています。最初から此処に祀られていたわけでは無く、奥沢村か目黒街道沿いに祀られていた石仏を九品仏に遷座したのでしょう。この正面にベンチがあるので何時もこのベンチに腰かけて庚申塔に「最近は正直に生きています」報告しながらお茶を飲みます。
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屹度自由が丘で挙式・宴席するカップルなのでしょう。最近は中国や韓国スタイルで、記念写真を九品仏で撮影していました。化粧直しする様子を見て上品なれども「下生」だな思いました。
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此方は東側におられる「薬師如来です。この薬師さまと相対する位置に九体の阿弥陀如来が祀られています。約如来の瑠璃光浄土表現するように天蓋や欄間彫刻が絢爛と輝いています。
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薬師如来を横から見上げると驚くほど怖い表情です。というのは薬師如来は丈六である上に須弥壇上におられますので、目線が下向きなのです。近くでそれも横から見上げる事は想定していないので写真の様に目が吊りあがって見えてしまうのでしょう。
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此方は本堂と正対する位置に建っている三棟の阿弥陀堂の中で中央の上品のお堂、三体の丈六の阿弥陀様が並んででおいでですが中央が(上生)左が中生で右が下生です。前机に飾られた蓮について増上寺と知恩院から寄贈されていますがどちらも「大本山」とされています。浄土宗には本山が7つも在るので、知恩院だけが「総本山」と自称しています。その為でしょうか?増上寺の札が大きくなっていました。こんなことに気付くのは私が坊主の子倅の性分が抜けていないからでしょう。
中央の上品堂の阿弥陀様はこの春登った時は芸大に遷座されてお留守でしたがこの日は三体とも所定の位置に戻っていました。前机に飾られた花傘は修理後の開眼法要の時に奉げられたものでしょう。この日は中品堂の阿弥陀様が遷座されていました。中品堂の阿弥陀様の修理が終えたら次は下品堂です。私は自身の生まれが下品で育ちも下生だから下品堂の右側「下品下生」の阿弥陀様が私の願いを聞いて下さる思って下品堂に回ると修理前の阿弥陀様を観たいと思ってか、お客様が上品堂より混んでいました。それとも下級老人が多い所為でしょうか?今年の流行語がもうじき発表されるでしょう。「下級老人」嫌な言葉です。下品下生よりも嫌な言葉です。昭和50年代は全国民が「中品中生」と自覚して、それなりに生甲斐を感じていたのですが、昨今は少数の上品上生が出現して。多くの人が中品中生から下品下生に落下しています。
下品堂から出ると先刻遇った新婚カップルが境内を歩いていました。
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下品堂の前を歩いて帰ろうとする新婚カップル。紅葉も精一杯喝采している様に輝いて見えました。
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此方は中品堂の前の萱の巨木と紅葉。緑が濃いから紅葉も綺麗に見えます。
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此れから修理を開始する下品堂では、勧進(寄付)を募っていました。阿弥陀様の光背に付けられる懸仏(化仏)と書いています。に勧進すると名が記されるというのです。立派な阿弥陀様ですが国の文化財指定は受けていないので修理費は九品仏が工面するか東京都の支援受けなければなりません
東京都の文化財指定を受けている。今回の修理で何か発見があれば重文指定を受ける可能性は高いと思います。近年江戸時代の文化財は絵画を中心に評価が高くなっていますが仏像は鎌倉時代までで、その後の評価は悲しい程低いのです。



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遊行寺『一つ火』の尊さ

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寝室の壁には一枚カレンダーを貼ってあります。一枚カレンダーは先々の予定を練るには最適ですから。1枚カレンダーの製作は時宗青年会です。時宗の若手お坊さんの組織なのでしょう。
絵は国宝の「一遍上人絵巻」です。毎年同じ絵巻の様々な場面を使っていますので、上人の遊行の生涯を観る想いがします。
私は毎年初詣の折に新年のカレンダーを戴いて帰ります。カレンダーには時宗の年間行事も記されています。11月27日には○が書かれていて欄外に「一つ火」と案内されています。
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遊行寺の掲示板に貼られた「一つ火」のポスター。ポスターには「静寂の中火打ち石で明りが灯され、一遍上人の法灯が繋がる」の趣意が書かれています。私は「狐火」みたいな炎だなあ!直感しました。
私は「遊行の盆」には毎年参加(見物)しているのですが、「一つ火」には一度も参加した事はありませんでした。同日はワイフはお出かけ、私一人で「一つ火」を観に行く事にしました。午後3時遊行寺に入ると、本堂横にも寺務所にも「一つ火」のポスターが貼ってあります。真っ暗闇に「ボッ」と火が灯った写真です。
去年も大銀杏の黄葉を観に遊行寺に登って銀杏の実を拾って帰りました。遊行寺は大銀杏も素晴らしいし、菩提樹や白木蓮等銘木、古木が多く楽しみも多いのです。
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本堂前の大銀杏は落雷にも負けずに年々歳々春には若緑晩秋には黄葉して楽しませてくれます。
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重文の中雀門越しに観た大銀杏、寺務所前には春には牡丹秋には花茄子、初冬には写真の様に箒草が草紅葉になって楽しませてくれます。落葉掃除や庭木の手入れ草花の栽培は時宗青年会の仕事のようです。
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一遍上人像の周囲には紅葉が染まって上人を荘厳するようでした。
「一つ火」の始まるのは午後5時です。次々にお坊さんが登って来られます。屹度全国に散っている時宗のお寺のご住職が本山に集まって来ているのでしょう。良いお顔でご挨拶されています。屹度青年僧の頃に遊行寺で修行を積みこの日は久々に顔を揃える「同窓会」の様なモノなのでしょう。
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遠来の御坊様を迎える遊行寺のお坊様清々しくも爽やかな表情で居られました。
午後4時若いお坊さんが本堂に上がられ雨戸をあけて用意を始められました。
私は本堂前扉のガラス戸に顔を押し当てて本堂の中を窺がいました。
既に沢山の御坊様が集まっておいでで本堂外陣にはお檀家の方々が白い法被に絡子(らくす)を首にかけて打ち合わせをしていました。内陣と外陣の間には写真で視た注連縄が張られています。注連縄は横綱の化粧まわしの背中の様に姿で結ばれています。
私はお坊さんに訊いてみました。
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本堂の内陣と外陣の境に12本の灯心を用意し5時からの「一つ火」の開始を待つばかりになっていました。
「外陣と内陣の境に置かれているのは注連縄と考えて良いのですか?」
お坊さんは笑顔で教えてくださいました。
「あれは注連縄と云うよりは一つ火の灯心です。蝋燭の灯心と同じ役割を果たします」
私は自分の考えをぶつけてみます。
「灯心と云われても、私には横綱の化粧まわしの結び目のように見えます。土俵も注連縄で聖域と現世との境界を示すものと思えば。灯心の機能を果たしても注連縄と同じ意味と思った次第ですが・・・」
すると
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これは「一つ火」行事の写真(出典は遊行寺HP。中央の導師が本尊前の灯心に火打ち石で火を灯して。順次12本の灯心に火を移して行きます。参列者は明るくなった堂内で法悦に浸るのです。
「一つ火もお相撲も神聖な行事ですから”境界に注連縄を張る”のは自然な事です。処で今晩は冷えますから気を付けて下さいね!」
私を遊行寺の信徒と思われて、今日の宗教行事に最初から最後まで参加すると思われたのでしょう。
御坊様の期待を裏切るようですが、私は未だリハビリ中、遊行寺前から我が家に向かうバスが出ます。5時半私はバスに乗って帰路に着きました。
11月27日から今日まで3週間の間ズッと時宗に「一つ火」行事が伝わったか?考えて来ました。漸くおぼろげながらその意味も解って来たので今日ブログにアップして自分の考えを整理しておこうと思います。
【火炎土器の呪術】
今年の秋,火炎土器を観ました。観たのは糸魚川の「フォッサマグナ博物館」でした。博物館の隣が「長者ケ原遺跡」なのです。一見して長岡にある国宝の火炎土器と同じで糸魚川まで火炎土器文化圏は広がっていたのか?」思いました。一般に人類が火を使い始めたのは旧石器時代、野火を観て「焼け死んだ兎」でも食べて焼けた肉が美味しい事を知ったのでしょう。縄文時代には土器で煮焚きすれば食物の範囲が広がる事を知りました。人類が「火の利用」を始めてから、ヒトの社会文化的進化は急激に早まりました。人類は火を調理に使い、暖を取り、獣から身を守るのに使い、それにより個体数を増やし て行きました。火を使った調理は、ヒトがタンパク質や炭水化物を摂取するのを容易にしました。 火により寒い夜間にも行動ができるようになり、あるいは寒冷地にも住めるようになり、 ヒトを襲う獣から身を守れるようになった。 人類による単発的な火の使用の開始は、 20万年も前に始まるといった説が有力なようです。有名な北京原人にも火を使った痕跡が確認されているそうです。最初期は、火を起こす ことが 大変あった事から火は人間を集団生活するように促したと思われます。
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これはフォッサマグナ博物館に展示されていた糸魚川の「長者ケ原遺跡」の出土品火炎土器が出色です。
今年は先月末に亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡にも行きました。どちらも縄文土器で著名ですが、火炎土器では無く縄文の名の謂れ通りで意匠は蛇でした。蛇は気持ち悪いし神秘的です。土器に蛇をデザインしたのは土器の機能(煮焚きや貯蔵)を果たしてくれるよう蛇の呪術に期待したのでしょう。
一方火炎土器はもっと直截的で、火そのものの神秘性に期待した呪術だったのでしょう。縄文時代の食糧は獣や団栗等を狩猟し採取していました。肉を食べるには火を通す事で柔らかくなるし食中毒にもならないで済みます。団栗や栃の実は茹でる事で毒や灰汁が抜けます。貝は茹でる事で死貝と生貝を区別できます。火を通せば消化もし易くなります。火の活用で食物の範囲は拡大しましたし、暗闇も火の灯りで恐怖感を消し去れます。
陸奥の「縄文土器」よりも越後の「火炎土器」の方が類感呪術としてもストレートで解り易いのです。
【火を分ける事の民俗的意味】
縄文人は竪穴住居に住まい中央に火を焚き家族は火の回りに集って食事をし暖を取り灯りとしていたでしょう。火の回りに集えば安全であり食事もとれたのです。近世の囲炉裏も縄文時代に始まったと思われます。縄文時代には囲炉裏の周りに集まっては食物は均等に分けて食べていたのでした(原始共産制)。だから日本民族は火を大事にしてきたのです。火を粗末に扱ったり火遊びする者は厳しく咎められてきたのでした。
火の伝統は宗教の世界では「法脈」として尊重されてきました。高野山の弘法大師を照らお灯明は絶対に一瞬たりとも消しません。
民俗の世界でも大切に扱われてきました。本家からは「分家」が出来る時には本家の火を分家に分けました。一般に「竃の火を分ける」と云いました。私の生家でも「火鉢の灰」でさえ、庭の焚火の残り火や灰では駄目で秋葉様のお札に守られた台所の火や灰を種火(灰)として使っていました。法事でも蝋燭や線香の火はを百円ライターで点けずに本尊前の蝋燭の火を種にして使い回ししていました。種火は本堂の須弥壇上に置いたマッチで点けました。マッチを擦る動作は火打ち石を打つ動作と似ています。
「同じ釜の飯を食う」とは絆を固める場合に良くする事ですが「正確には「同じ火で煮炊きしたモノを食べる」事で民俗的家族的団結を強くする意味です。
【時宗にだけ一つ火が続いた訳】
火を大切にする信仰や習俗は連綿と続いてきたのですが、現代では薄れて来ました。「秋葉様」や「愛宕様」と云えば火の神様ですが今ではすっかり忘れ去られてAKB48の方が馴染みです。
ガスや電気が普及して火の管理が楽になった事も一因でしょう。
でも、火の恩恵は旧石器時代も現代も基本的には変わりません。阪神大震災や糸魚川火災の時だけ「火の怖ろしさ」に気付くだけです。
でも焼け跡を観ると気付きます。人間の欲望の的の建築物も財産も跡形も無く灰になって消えてしまっています。仏教は因果律を大事にします。欲望があるから解脱出来ないと説きます。時宗では一切合切阿弥陀如来に託すこと教えにします。欲望を消滅し切って、阿弥陀に心身を委ねる事に通じるように思うのです。一遍上人は熊野に於いて宗教人としての確信を得ます。
熊野は火祭りで有名な聖地です。時宗が火を重んじるのは宗祖以来の伝統です。
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『一遍上人絵巻』一遍一行、「右から4人目右の3人は超一(奥様)超二(娘)は熊野の「中辺地」で熊野権現の化身であった僧に出会う。左の山から降りてきた一行が熊野権現(出典遊行寺発行一遍上人絵巻。
何時かは一つ火行事の始終を遊行寺の本堂で観たいものです。後ろ髪を引かれる思いでバスに乗り込んで家路に着きました。




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『縄文お焼き』の誘惑

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戸塚駅に隣接した『戸塚モディー』の地下1階に地方の「美味いモノ店」が入れ替わり立ち代わり出店します。この前までは山形のズンダ餅でしたが、今週からは長野小川村の「縄文お焼き」に代わりました。小川村にはこの秋糸魚川からの帰り道で通りました。
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糸魚川からの帰路「塩の道」を小谷から白馬に戻り、白馬で左折北上すると長野への近道になります。その途上に小川村があります。今日の話題の「長野のソウルフードお焼き」は鬼無里の名物でしたが、長野オリンピック以降は「小川村」が最も有名になりました。
白馬から長野オリンピックに際して新設された「五輪街道」を走って川中島に出たのでしたが、その途中小川村を通りましたので「道の駅」で「お焼き」を戴きました長野を旅すると「小川村の縄文お焼き」は随分目に着きます。小布施の帰りにも「道の駅」で戴きました。飛騨の「五平餅」か、信濃の「お焼き」か双璧です。昔はドライブしていて小腹がすくと「御手洗団子」を戴いていたのですが、今は「お焼き」が圧倒しています。
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これが「小川庄のお焼きです。スタンダードは餡に「野沢菜の漬物」でしたが、最近は写真の様に様々な具が入る様になりました。写真出典小川庄のHP。
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小川庄は北アルプスの風光が明媚な事でも有名です。
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私達が小川村を通った時は雨でしたので肝心の北アルプスは眺められませんでした。でも道の駅で「お焼き」は戴きました。
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これは庄屋だった「中村家住宅/大町市美麻青具/重文」です。五輪通りの脇にあります。小川村はもう少し北(右)です。
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此れは中村家住宅の風屋(母屋)の居間です。四角い囲炉裏は「お焼き」を振る舞うには最適です。囲炉裏は字の通り。炉傍で冷えた足を温め、お焼きを食べて焙じ茶をを飲めば体の芯から温まれます。
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これは中村家の墓所に祀られた双体道祖神です。囲炉裏端は「火」を起こす聖なるところで、祖先神とも通じます。墓が四角い石になったのは最近の事で、江戸時代は自然石に写真の様な「洞」を刻みました。勿論中世は五輪塔や宝篋印塔です。中世に始まった板碑が近世の石塔墓標に変わったと思われます。この写真では左の双体道祖神が風化したので。右の自然石を新しく祀ったモノと思います。
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小川庄では囲炉裏傍で「お焼き」を焼いてもてなします。冷凍したお焼きを電子レンジでチンして食べさせるのではなく、炉端で焼いてもてなすのは楽しい事です。この雰囲気作りを「縄文」の言葉で表現したのでしょう。先月津軽の「亀ヶ岡遺跡でも「三内丸山遺跡でも囲炉裏を観ました。この囲炉裏は「四角いのですが。縄文時代の囲炉裏は丸くて、家族は炉の周りを円座に坐って食べ物を均等に分配しました。
「お焼き」の何が美味しいのか自分でも良く解りませんが、「お焼き」はチャンスがあれば食指が伸びてしまいます。本当は「月餅」の方が美味しいお菓子だと思うのですが「月餅」と「お焼き」が並べられたら、私は迷わずお焼きを手にします。
私の血液には「囲炉裏端」で食べるお焼きがの郷愁として浸みこんでいるのかもしれません。加えて小川庄は「縄文お焼き」のブランド名をつけてしまいました。序に「縄文クッキー」に「縄文珈琲」も商標登録してしまえば良いと思うのですが。
縄文クッキーはクッキーの中にナッツや団栗の粒を混入させるのです。平林寺の裏山で団栗を拾って帰りました。何時か縄文クッキーを作ってみようと思っているからです。千葉の名物「ピーナッツ煎餅」のピーナッツの代わりに団栗を入れたようなものです。出来上がったイメージは「鳩サブレー」です。
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これがピーナッツ煎餅です。縄文クッキーはピーナッツの代わりに団栗や山栗やクルミが入ります。
縄文珈琲は珈琲に「くず粉」か「片栗粉」でトロミを加えるのです。縄文お焼きには「くず粉のトロ味」の入った「城門珈琲」が最高です。くず粉のトロ味が美味しいのは秋月の名店「高木久助」の「本葛粉に小豆」等を食せば納得できます。「小豆に葛粉」でさえ美味しいのですから「珈琲に葛粉」で珈琲味の葛湯を売り出せば)人気沸騰するでしょう。
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これが「葛湯」です。秋月の高木久助商店http://www.kyusuke.co.jp/new.htmlの「葛湯」は葛粉の中に生姜や蜂蜜で飲み易く、体に良い様にしてあります。香り付に珈琲をオンしたモノが「縄文珈琲」です。これも試飲してみようと思っています。
そんなこんなで「縄文お焼き」食べたさで戸塚駅前のモディーに出かけて「城門お焼き/野菜」と「金平牛蒡」を買って来ました。ワイフと半分づつ分けて戴きました。飲み物は「焙じ茶」では無くて「珈琲+ミルク」です。ミルクの代わりに葛粉を使えば「私の推薦する縄文珈琲です。





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氷川丸でクリスマス。

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毎年12月に入ると三溪園に紅葉を楽しみ、中華街で食事をするのが習慣でした。今年も12月7日に出かけて、食事も終えて相談しました。
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写真は中華街の酒屋です。日本酒の前面に白酒の甕が並んでいました。白酒は日本で云えば濁り酒や焼酎です。今年もお終いこれから愈々寒くなる今頃は「北京ダック」か「子豚の丸焼き」と「水餃子」を食べて冬越しの英気を養います。お酒は白酒です。日本酒は杉樽で発酵させますが中国は甕で発酵を促します。「土の文化」と「木の文化」の相違を実感します。
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此れは山下公園の南を走る山下通りです。写真のホテルはニューグランドで、この通りの銀杏は名物ですが今年は少し遅すぎました。
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山下通りを越せば山下公園です。冬薔薇の向こうに氷川丸が停泊しています。
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山下公園の北側にはガールスカウトの像があります。台座には次の説明が記されています。ガールスカウト日本連盟が世界連盟加入をした1962年に記念建立。台座 には「やくそく」と名名付けられて、2人の少女(左が日本の少女)が、左手で握手右手で敬礼しています。氷川丸も日米修好の為に建造された事を想えばこの場に相応しい記念像です。
去年はこの後山手に登って西洋館を巡ってクリスマス飾りを観て廻った、これから如何する?」
中華街から山手に行くにはバス便もありません。歩くのは少し負担です。其処で対案を思いつきました。中華街から北に歩けば5分で山下公園です。山下通りは銀杏並木の名所ですし、氷川丸前はバラ園です。冬の薔薇は『冬薔薇/ふゆそうび』と呼ばれ、その香りの気高さが際立ちます。氷川丸を観て、冬薔薇を鑑賞してホテルグラントで珈琲なんて、『クリスマスの爺婆デート』には格好です。ホテルグランドはアールデコの建物でシルエットロマンスにはピッタリの雰囲気です。
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氷川丸は日本郵船の所有(国の重文)ですが、乗船口は横浜港ベイクルーズ入口の隣にあります。観光客で時間とお金の在る人はクルーズ船に乗って横浜駅東口に行きますが、氷川丸に乗船すれば動かないまでも海からの横浜の形式が満喫できます。
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氷川丸に乗船するとクリスマスムードが一杯でした。
そこで、ランチの腹ごなしに北に向いて歩き始めました。華僑キリスト教会の脇を越えて創価学会の豪華建物に反発を感じながらその脇を北に歩けばホテルグランド(西)とスターホテル(東)の間に出ます。横断歩道を越せば山下公園です。関東大震災で生じた瓦礫で埋め立てて作ったのが山下公園です。災害を克服して作った公園は横浜市民の自慢であり心の拠り所でもあります。その岸に氷川丸を停泊しているのも何かの偶然でしょうが、昭和初期に竣工してシアトル航路で活躍した三菱重工製の豪華客船が、戦後は「大陸から敦賀への引き揚げ船」として活用され日本人の目に焼き付けられました。
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氷川丸の航路を示した博物館のパネル。横浜からシアトルがメイン航路でした。
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シアトル航路用に建造された氷川丸でしたが戦中戦後は病院船・引き揚げ船に転用されました。(博物館のパネルを撮影)
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1961年からは山下港に係留され、横浜市民のシンボルとして、重文の栄誉も受けて過しています。
横浜市民でありながら氷川丸に入っていないのは引け目を感じていました。今週初めは埼玉県の志木に行きました。”埼玉からみなとみらい線に乗り継いで来た観光客は山下公園から横浜駅東口にクルーズ船に乗るか、乗らない人は氷川丸のデッキから海を見て帰るのだろう”想像しました。
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一等客室の外のデッキで写す。向こうに見えるのはみなとみらい地区、客船が停泊しているのは大桟橋。左(西)側に見えるのが山下公園です。
日本郵船には飛鳥が就航した時見せて戴きました。今迄船に乗ったと云えば新潟港から佐渡の両津港まで、博多港から釜山港まで、どちらも高速フェリーでした。ですから豪華客船に乗った事はありません。だからこうして氷川丸の桟橋を渡るのでさえ胸が躍ります。それに今日はクリスマスムード一杯なのですから。船内に喫茶スペースでもあったら、コンソメスープでも戴こうかな?欲望が頭を擡げます。
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此れは一等客室の食堂です。
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此れは一等客室の部屋です。ツインベッドにアールデコの装飾が眼に付きます。
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一等客室の廊下です。今はクリスマス飾りで統一されています。
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此れは一等客室の中でも特別な部屋です。この部屋は椿に藤に枇杷がステンドグラスされていました。別の部屋には鳥がデザインされていました。
でも。缶コーヒー一杯のサービスもありませんでした。本町にある「郵船記念博物館には喫茶コーナーが常設されているのですが。考えれば氷川丸にはそんな媚びた施設はありません。「重要文化財の中でスープを飲もう」云った下心自体が不埒なのでしょう。最近は文化財に悪戯されている事件が多発しています。彼方此方に監視カメラが設備されているし警備員が巡回していました。そんな次第で文化財のアールデコの椅子やソファーがあっても座れませんでした。
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此れが氷川丸の構造図です。煙突の真下がエンジンのある機械室その下が船員の部屋で私達が見学できるのは機械室のフロア以上です。煙突の右側進行方向に3階建部分がありますが上から操舵室船長室その下が一等客室その下が三等客室になります。何故か二等客室はありませんでした。
船は船底から数えれば5階が船長室で6階が操舵室です。杖なしで歩くには負担も危険も大きなモノがありました。でも、アールデコを目の当たりにするのは軽い眩暈と勇躍する悦びがあります。白金の庭園美術館や隣接する「朝香邸」も重文のアールデコデザインの建築ですが、氷川丸のそれは国威をかけた意匠であり、欧米のハイソを「おもてなし」しようとしたのでしたから。
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此れは一等客室の娯楽室です。トランプに興じたのでしょう。他に読書室がありました。
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此れは娯楽室の天井照明です。総じてアールデコで統一されていましたが子の天井照明だけは和風でした。
氷川丸が竣工したのは1930年(昭和5年)でした。12千トンの豪華客船でした。気になったのは氷川丸が浮いているのか、それとも船底は柱で海底に固定されているかのの疑問でした。隣にクルーズ船が発着しても少しも動じないのです。タラップを降りる時も少しもタラップは動きませんでした。横須賀の戦艦「三笠」のように固定化されているのかもしれない。固定化されていたら重文には不適格ではないか…。思いました。
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氷川丸のタラップ少しも動じないので足元の悪い私も安心して降りられました。
もう一つ調度品や甲板を磨いている少年が居たのです。
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此れは船長室のデスクです。左のラッパ状の筒は操舵室に繋がっていて此処から船長は指示を出します。
調度品は真鍮製品が多いので磨けば有毒の緑青で手が黒く汚れてしまいます。訊けば「浜中」の生徒だとの事。”「はま中」は解ったけど浜の字は如何書くの?”訊いたら、憮然として「横浜の浜ですよ」叱られてしまいました。
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操舵室から外を観ると甲板を掃除している中学生の姿が目に入りました。勿論船長室も彼等が磨き上げていました。
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船内の手摺もアールデコでした。見事に磨かれているのも浜中の生徒の情熱の成果です。氷川丸は横浜の誇りなのです。
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此れは機械室に並んだエンジンです。


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田圃に刻まれた歴史

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12月9日(土)は日吉の日文研セミナーに出席しました。先ず過って横浜博物館で観た「新羽の杉山神社の『大蛇の注連縄』を観ようと、地下鉄「新羽駅」で下車して。真っ直ぐ北に歩いて行きました。写真を撮って弘前の林檎公園に「イブの林檎」を提案しようと思い、その企画書に「藁で作った大蛇」を添付しようと想ったのでした。ところが杉山神社からの帰路の道を迷ってしまい、丘を越えて地下鉄「高田駅」まで2時間も歩いてしまいました。我ながら良九歩いたモノです。
この日のセミナーは工学部の学生が発表し、テーマは「シンセサイザー」でした。「シンセサイザー」の歴史に始まり、どうして音が出るのか電子工学的手法により電子音をを合成して聴かせてくれました。スクリーンには美しい棚田が映されていました。シンプルな電子音による音楽が棚田の美しさに通じる処があると思いました。
以来1週間私は田圃の事を考えていました。「シンセサイザー」の画面の棚田はタイの山岳地帯かフィリッピンの奥地のモノでしょう。
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これはフィリッピンの奥地の棚田です。棚田の畔は等高線に沿って石積みされていますが。日本の棚田とは違います。それは、フィリッピンやタイの田圃は地下播きで、田植えや稲刈りが無くて稲穂だけを何度も刈り取るのです。日本の棚田は田植え・草刈・稲刈り・刈干しを繰り返すので。その道具が畔にあります。
日本の棚田とは明らかに違います。等高線に沿って石垣を積んで。「方形に水を張る処は同じですが、日本のお米は手間のかかるジャポニカ米、東南アジアのお米は直播きすれば何度も稲穂を刈り入れできるインディカ米なのです。
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これは奥能登の白米千枚田です。昼間見れば田圃の畔に刈干しの木や棚が設えて在ります。
2年前の今頃私達は奥能登の「白米千枚田」を観に行きました。能登の山が日本海に没する海岸の断崖地(地滑り地)に石垣を積んで猫の額ほどの狭い田圃が鱗の様に積み上がっていました。夜に輪島の宿から千枚田を観に行くと田の畔にLED灯が点いて見事でした。
奈良の西の京は昨今は住宅開発が盛んですが私の学生時代は一面の田圃でした。薬師寺の近くのバス停は「九条」です。京都で九条と云えば京と駅前ですから、平城京の九条がこんな田圃の中かと驚きます。でも古代の条理制が今も残されていることに感慨を深くします。平城天皇は田圃を条理に区画整理して成人男子には1区画の田圃位(一反)女性にはその三分の二を口分田として分け与え。税を決めさせたでした。この時既に日本の条理は長方形に田圃も長方形に区分されていたのです。「何故田圃は正方形でなく長方形だったのか?」役人の気持ちになれば直ぐに判ります。長方形にすれば短辺を確認すれば直ぐに全体を把握できるのです。一枚の田圃を一反と数えます。一反の田圃から収穫できるお米を一石と数えます。一石のお米は俵で四つです。古代も現代も同じで役人は執りやすい方法で税制を決め。住人も田圃にくっ付けて把握しようとするのです。今進行中の住人番号制は平城京以来の役人の願望です。
大黒様は俵の上におわします。
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此れは日本最大の大黒様で鶴見の総持寺の寺務所棟に祀られています。大黒様は稲作豊穣の守護神ですから俵の上においでです。
レポーターは子工学的手法により楽音等 を合成して見せました。団塊世代からは『シンセサイザーの音はデジタルで冷たい、音楽はアナログでなくてはいけない』発言されました。私は学生世代からは楽器が苦手で音痴なのでカラオケは逃げ回っていました。そんな自分であってもシンセサイザーなら『音で自己表現』が出来ると思いました。
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此れは朝日新聞の記事日吉の銀杏と戦争の史実を伝えていました。
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此れは日吉来往館のロビーに展示された戦争体験「聞けわだつみの声」のハイライト安曇野の上原少尉の遺構がパネルになっていました。
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セミナーから帰宅する時は既に夕闇で銀杏も闇の中でした。
高校の授業では次の様に教わりました。
「平城京も平安京も唐の都長安を真似て作りました。都をの通りを碁盤の目状に整備し中央に南面して皇城(大極殿、御所)を置きました。皇城から真っ直ぐ南にのびた大道路を置き東西に西一条一里)西一条二里)と区分しました。碁や将棋で位置を示すのと同じで誰もが土地の位置を的確に把握できたのでした。平地だからこそ条理性が適用できるのであり、棚田や山では条理では呼べません。
平城京や平安京が平地だから条理性で田圃や住宅地を指示出来たのです。
碁盤も将棋盤も枡は正方形に見えますが、条里制では縦は狭く横が広い長方形です。何故長方形なのか?疑問は華南やベトナムの田圃を観れば解ります。
華南やベトナムでは田圃を耕すのは力のある牛で、牛に鍬を曳かせているのです。牛を効率的に操るには直線距離が長いと効率的なのです。平城京では既に牛を使って田圃を耕していたのです。牛と鍬が長方形の口分田を決定づけていたのです。華南やベトナムの米は長粒米(インディカ米)です、一方日本の米は短粒米(ジャポニカ米)です。ジャポニカ米は手がかかります。毎年春に植え替えします。植え替えの際して他の雑草よりも成長していないと雑草に負けてしまいます。だから稲は苗代で大きくしてから、田圃に植え替えします。植え替えに際して5株程度に揃えて植えるのも、雑草に負けない工夫です。
田植えを終えたら次は田の草取りです。田の草取りは人力だけで行います。牛は使えないのです。「鍬」を使って稲株の間に生えた雑草を鋤取ります。「鍬」は「櫛」の様な格好をしていて、雑草を「梳きとる」道具です。弥生遺跡からは色々な形をした鍬が出土しますと。

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『Eggs ‘n Things』のクリスマス。

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氷川丸でクリスマスムードを満喫したのですが、氷川丸には珈琲サービスはありません。船内を歩き廻って疲れました。何しろ素敵な椅子があっても重文だから腰掛けられないのです。そこで、当初予定通りホテルグランドの前にやって来ました。グランドもアールデコの文化財です。此処で喫茶をする積りでしたが、お隣はスターホテルです。スターホテルの1階ロビーに面して「Eggs ‘n Things」が目に付きました。「Eggs ‘n Things」は数年前来た時には長蛇の列でした。
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これが「Eggs ‘n Things」の山下公園店ですスターホテルの1階で右(西)隣りはグラントホテルです。
当時は江の島「片瀬浜店」も長蛇の列で、隣のマックが気の毒な状況でした。若い女の子のスイーツ好きは気まぐれでもう飽きられたのかも知れません。歩道から覘いてみれば子連れのお母さんが居ます。爺婆が入店しても気後れしなくて済みそうです。メニューを観れば先日観た自由が丘のモンブラン一つと看板商品の「ホットケーキ」が略同価格です。写真で視れば、ホットケーキは5枚も在るので夫婦でシェアーすればコスパは最高です。
そこで、初めて入店してみました。アロハを着てた可愛いお嬢さんがオーダーを取ってくれます。隣の席はキャピキャピギャル3人組が陣取って、やはり色々注文してシェアーしています。その中に、店員さんにスマートフォンのシャッターを押して貰っていました。観ているとホットケーキがお皿の上に5枚程乗ってまるで天神様の梅花紋の様に置かれています。「ドクダミの花」に似ています。
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此れがドクダミの花です。ホットケーキが花弁で、生クリームが雌蕊でどこと無く似ています。
5枚の花弁の中央には雌蕊のように生クリームが盛りつけられています。その上にシロップを充分に垂らして食べています。フレンチトーストよりも甘そうです。これは糖尿病の爺さんには有害なスィーツのようです。
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これが「『Eggs ‘n Things』の看板メニュー「ハワイ風パンケーキ」です。
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私達はパンケーキ1080円をシェアーして戴きました。
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既にパンケーキは充分に甘いのですが。テーブルに置かれた各種シロップを好みで掛けて(メイプルシロップやグヮバシロップ』、気が狂う程甘甘にして食べます。
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これは『Eggs ‘n Things』の店内のツリーです。
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此れはオープンキッチンと客室との境に飾られたサンタさんです。
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席は室内の他にテラス席もあります。恋人同士なら寒さも耐えられます。

素晴らしい『手作りリーフ」に感謝

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12月も中旬になれば、気分はクリスマスです。札幌時代に長女が生まれて、飾った「クリスマスツリー」を出してきて。ワイフは孫(長女の娘)の目の前でツリーを飾りました。今はLEDですから電飾も変化するし。コードも無いので安心です。飾り物も随分増えたし変わりました。最後に玄関ドアにリーフを飾りました。
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我家のクリスマスリースは貰い物ばかりです。
「小学生から、お手紙が届きました」
小学生と云っても7組の生徒です。私が評議員を務めているマンモス小学校は1学年6組ですが、所謂「発達障害児だけが学年縦断的に編成され6学年共通で1クラスあります。それが7組で1年生から6年生まで15人が仲良く勉強しています。10月の「授業参観」では学校の畑で収穫した芋の弦でリースを作っていたのでした。
リースは一人では作れません。芋弦をリングにしてお友達に抑えて貰っている中にシールで固定して、1週間陰干しすれば頑丈なリングになるのです。
『お友達が押えてくれたので上手にリングが出来たので”有難う”言って今度は自分が抑え役をしました』発表する生徒を観て教えられました。私はこの授業参観を忘れ難く、「塩の道」を歩いていて松ぼっくりや団栗を拾って7組に届けたのでした。
お手紙の内容は10月に届けた「松ぼっくりや団栗」の礼状でした。
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此れが戴いたお手紙のファイルです。ファイルにしてくれたのがFさんで、ファイルの絵はこのクラスの名が「7組」で、クラスのマスコットが「7色鯨」なのです。鯨は一等夫々に大きく立派ですが7組の鯨は夫々に個性的で、仲良しだからだそうです。鯨はグループで活動します。
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此れは手紙の一つです。差出人の字が読めないのでお返事は学校に行って確認しました。7組とは所謂「発達障害」のある子供のクラスです。手紙の差出人は最近自分の名を漢字で書けるようになったのだそうです。私は先生にお名前を確認して、お返事を完成させました。
処で、生徒達が私に手紙を出してくれたのは。クリスマスリースを飾る松ぼっくりや団栗を届けたからでした。完成したリースは下の写真の通りです。
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此れが7組の教室の廊下に吊るされたクリスマスリースです。リースの弦は芋の弦です。学校の中庭の畑で栽培したお芋を収穫して、お芋は焼いて食べたのでしたが弦は未だ若いうちに丸めてリースにしたのでした。私は授業参観でリースを作っている子供達に感動して、偶々「塩の道」の石仏巡りをした時に山道に落ちていた団栗や松ぼっくりを届けたのでした。赤いのは「烏瓜」で小さい赤い実は「弦梅もどき」です。
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此れは私が生徒に出した手紙です。
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全部お返事を手書きするのは少し骨折りでしたが。宛名が書かれていない手紙は生徒の名を先生に確認する必要があったからです。
先週は氷川丸でリースを観ました。流石にデザイナーのオリジナル作品でしたから溜息が出るほど素敵でした。
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此れは氷川丸の船長室に飾られたプロの作ったリースです。
お金を出せば素敵なリースが出来ます。でも7組のリース程、リース本来の意味に近いモノはありません。
リースは日本の門松(歳神の依り代)に近いモノです。
文化人類学の創始者フレーザーの名著「金枝編」があります。金枝とは「宿木/やどりき」の事です宿木は冬でも常緑です。クリスマスには宿木をリングに飾ってリースを作り、来年の『豊穣・平安』を祈願するモノです。金枝編は命や民俗の伝統を伝える秘密を「宿木」に擬えて著した論文です。
宿木の葉っぱ一枚一枚バラバラでも根や茎をリングにしているから強く逞しいのです。民俗も同じで個人個人バラバラでは人間は弱いものの習慣や伝統で助け合い集団生活して来たので、霊長類に進化して現代があるとした論文です。
宿木は常緑でその実は冬の食糧になります。野鳥もリスも宿木の実で厳しい冬を越せるのです。


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注連縄の民俗

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ソロソロお正月の準備です。私の役割は「門松」作りです。竹は庭の篠竹を採りますが松は花屋で「若松」を買います。脳梗塞を患う前は12月29日頃に遊行寺を詣で、遊行寺の庭師が門松を作るのを観て、その余りを頂戴していました。遊行寺では50に及ぶ門松を用意するそうで。庭師さんも大変でしょう。遊行寺では、松も竹(真竹)も本堂裏の境内地から伐採して用意しているそうです。小栗判官物語の聖地遊行寺ですから、健康長寿を願うには最適です。
今年は歳末は自宅で過し門松作りは自力でする予定です。生家の門松も注連縄も私が作っていました。「紙垂」の切り方も身に付いています。今年は11月末に白神山地に出かけ注連縄も沢山観ました。観る度に注連縄にも地方に依って随分違う事に気付きました。私の生活圏で変わった注連縄と云えば鎌倉岩瀬今泉の白山神社の注連縄です。二本の絡まった縄は普通ですが、縄の中間に7本5本3本の細い縄が垂れているのです。しめ縄を「七五三縄」とも書く事を想い出させる縄です。
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此れが鎌倉今泉の白山神社の注連縄です。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/29684679.html
私が加賀の白山神社の神使が百足(ムカデ)だから、ムカデだろうとこのブログでアップしたので何時しかムカデのしめ縄という事になってしまいました。責任を感じます。改めて聞かれれば注連縄は蛇を模した神域と俗界の境を示す縄張りで7本.5本3本の小縄は縁起モノである答えます。
「注連縄の形は何を模したモノか?」訊かれれば即座に蛇だと答えます。子供の頃と学生時代蛇の交尾しているのを観た事があります。大学生の時観た場所は三輪神社に近い西瓜畑でした。敷き詰められた藁の上で二匹の蛇が注連縄状に絡まって離れないでいるのです。雄のペニスが小さいので確実に子孫を残す為には強く絡み合っていなくてはならないのです。私は山の辺の道で「これから先は三輪大社の神域であるから入ってはならない」言われたような気になりました。しめ縄は聖域と俗界との境を二匹の蛇で明示したモノなのです。お相撲の土俵も注連縄です。

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此方は矢張り明日香川上流栢森の注連縄です。雄縄と呼ばれ縄の中央に睾丸状の物体が吊るされています。
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此方は上掲写真の2キロ下流明日香川稲渕の棚田の間に吊るされた注連縄です。此方の注連縄は縄と呼ばれ女性自身の形をしています。ペニス状の縄が風で揺れるとリング状の縄に入ったり出たりしてエロチックです。注連縄は縄張りの象徴でありますが、この注連縄は豊穣の予祝になる呪術です。
注連縄の意匠が蛇である、と云った根拠は各地に在ります。日本最大の注連縄出雲大社のそれは八咫の大蛇を想像させる迫力です。
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此れは出雲大社の大しめ縄です。
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此方は鷺ノ宮の三輪神社の注連縄です。鳥居の柱から蛇が絡んで鳥居の上から下を通る災厄を飲みこもうとしています。
処でこの11月末私は白神山地を訪れ岩木山を反時計回りに一周しました。最後は岩木山神社を詣でました。「お白様」が「白山の豊穣の神様であろう」と推測していたので岩木山神社の注連縄に興味を持っていたのでしたが、白山の様なムカデ注連縄では無くて出雲大社と同じ蛇の注連縄で中央に米俵が三つ載っていました。
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此れが岩木山神社の注連縄です。
横浜歴史博物館に新羽の杉山神社の注連縄が展示されています。2週間前実物を観ようと出かけましたが。何時も在る筈の手水の柱には懸っていませんでした。屹度今は製作している新羽中学の校庭に飾られていてお正月に杉山神社に供えられるのでしょう。またこの足の便の悪い神社を詣でなくてはなりません。
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此れは横浜歴史博物館に展示されている杉山神社の大蛇注連縄です。第三京浜都築ICに近い神社ですので宅地化が進行して氏子が注連縄を作ることを断念して新羽中学の生徒が製作して奉納しています。

『常泉寺』の河童さん。

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今月は「田の神様」に惹かれました。柿の木坂の「東光寺」に始まり、クリスマスには池袋水天宮の田の神様を観に行きます。私の生活圏には”大和の「常泉寺」にも良い田の神様が居られる、”思い出して地下鉄、小田急と乗り継いで「高座渋谷駅」に降り立ちました。駅から大山に向いて10分も歩けば曹洞宗寺院の常泉寺です。引地川の河岸段丘にある寺で、地勢的にも泉が湧き出るお寺なのでしょう。この寺には河童と羅漢の石像が沢山あります。此処に河童伝説があったわけでも無さそうなので、屹度ご住職の趣味で河童が祀られているのでしょう。河童と羅漢が遊んでいる場面が多いのは、住職が羅漢で、自然や村人が河童なのかも知れません。
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此方が大和市の常泉寺です。関東花の寺百選に指定されている寺です。今は冬桜、三俣の花芽が膨らんでいました。
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此方は常泉寺の「田の神様」です。九州に多い田の神様ですが、関東は「お茶碗とお杓文字」を持ったスタイルです。
常泉寺さんで何故「河童)を祀っているのか解りません。近くの引地川は中小河川ですから、河童が住みそうな「淀み」はありません。洪水で災害を受けた筑後川の田主丸は河童で有名です。河童は九州では「河太郎」と呼ばれ愛されています。2年前和歌山県橋本の「刈萱堂」で河童のミイラを拝見しましたが吉野川が紀ノ川に名を変える辺りでした。ミイラは「獺/かわうそ」のように見えました。今年の春は伏見の黄桜酒造の「河童博物館」を見学しました。何処でも河童は「大河」と「水清い」イメージがあります。河童の口は「家鴨」か「小天狗」のようですし。甲羅は亀固有のモノです。悪戯が好きな事素早い動きは「猿」のイメージの妖怪です。妖怪と云っても性格が良いし、何処にでも居そうな餓鬼のようなので、愛される妖怪と云えましょう。私は下戸ですから黄桜さんとは余り仲良く無くて「河童巻き」の方が好きです。本来水神になるべきモノが神になり損ねて、子供の儘でいる「大天狗」になれなかった「烏天狗」のような妖怪です。ソモソモ「妖怪」とは神になれなかったモノか神だったモノが落ちぶれたモノのような気がします。その意味では「河童」は日本人に愛された妖怪のトップでしょう。
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此れは伏見の黄桜の「河童博物館です。
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此れは清水昆さんの描いた黄桜の河童家族。設定は嵐山でしょう。
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常泉寺の境内は花木が多く、樹下には「羅漢」と「河童」の交流する像が所狭しと置かれています。私は羅漢は住職で河童は村民と思っています。ヒガンバナの名所でもあります。
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河童はお相撲が好きです。
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河童は酒好きでもあります。
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河童は勝負好きでもあります。これに加えて「女好き」なら長屋に住んでいる親爺と同じです。河童の傍の「舞孔雀」の札はそのの樹木紫陽花の仲間の品種名です
河童は相撲が好きで酒が好きなので
河童は『酒好き・賭け事好き・相撲好き』です。最近の三面記事と同じです。だから自戒の意味も込めて河童の人気は衰えないのでしょう。昨日は湘南鎌倉総合病院に「胃癌」の定期検診(エコー)に行ってきました。ワイフが「目の検診もしておきなささい」口五月蠅いので、何時もより検診の時間が罹ってしまいました。送迎バスが中々出ません。暫く待っていると「頭が禿げ上がったお爺さんが乗車してきました。満員の乗客に向けて「遅れて来た事」を詫びられました。
更に誰も聞いていないのに独り言を続けられました。
『私は2020年に満百歳です。いまからオリンピックの柔道を楽しみにしています!』送迎バスが大船駅に到着すると。
お爺さんはこう言って下車されました。
『最後に乗って最初に降ろして貰ってすいません。皆さまお達者で!』
私は河童の様な爺さんの元気な秘訣を知った想いがしました。
お喋り好きな事、そして柔道が好きな事です。
あの調子なら「テレビの前に陣取ってお相撲を観戦して喋り通しなのでしょう。
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窓際の白髪薄毛のお爺さんがマイペースで憎めません。まるで河童の様なお爺さんでした。2020年には百歳だそうで、屹度充分長生きするでしょう。
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送迎バスが到着する大船駅東口には観音様が仰ぎ見られます。


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屋根の上の隼人瓜木の上の隼人瓜

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配っても配っても食べても食べても無くならない「隼人瓜」です。ソロソロ正月準備に入ろうとワイフは「腰が痛い」泣きながら庭掃除に励んで居ます。
隼人瓜の蔓も枯れて来たので、ソロソロ撤収に懸ります。今迄食べた中で最高の叔父は味噌煮込みおでんの具にした時でした。大根より歯当たりがしっかりしていて煮崩れません。お味噌は10月に足助に止った時買ってきた八丁味噌を使いました。次回は更に「牛筋」を煮込もうかと思っています。ワイフからは「隼人瓜が健康食でも牛筋を食べ過ぎたらまた血液がトロトロになりますよ!」言われていますが・・・。
木瓜の木と梅の木の梢に隼人瓜が絡まっています。お蔭で落葉すると直ぐに花芽が見える木瓜や梅ですが来春はお休みのようです。ワイフは「”来年は隼人瓜の好き勝手にはさせませんからね”」意気まいています。でも来年用の隼人瓜は既に準備してあります。
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これは梅の木の梢に絡んで実のなった「隼人瓜」です。梅の木も災難でした。
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此方は離れの屋根の上で結実した隼人瓜です。台風で転がって傷も在るようですがどうにか食べてしまう積りです。
私が高校生の頃ミュージカル映画「屋根の上のバイオリン弾き」が上映され、サラリーマン時代には職場の近くの日生劇場でも再三上映されました。慎ましくも勤勉なユダヤ人家族の偏見にも負けずに生きてゆくお話でした。高校生の私にはユダヤ人と云うだけで差別される事に義憤を感じました。
屋根の上で結実した隼人瓜を観ていると「もう堅くなってしまっていても,公平に全部
食べてあげなくてはならない」と思えて来ます。
これから、梢の先の瓜を屋根の上の瓜を下さなければなりません。子供達が帰京する正月を待つか、歳末にするか、梢の先と屋根の上を見上げて溜息をついてしまいます。

「新羽の回し地蔵」

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横浜博物館に出かけて新羽の「回し地蔵」を背負って来ました。
「回し地蔵」は栃木県の真名子村でも体験した事があります。私の生活圏では下飯田境川沿いの東泉寺( とうせんじ )にも残っています。
藤沢市、大和市、秦野市、伊勢原市などでは、今でもかなりの地域で残っており、特に、この風習の元となったと考えられる保国寺(ほうこくじ)のある伊勢原市では、市役所を中心として盛んに研究が行われているそうです。2013(平成25)年、横浜市無形民俗文化財に指定されました。
横浜歴史博物館では新羽の西方寺の秘仏(木造11面観音平安初期登録文化財)の展示に際して無形文化財の「回し地蔵」を紹介、地蔵尊を背負えるそうです。そこで12月9日(土)に出かけました。
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此れがセンター中央の横浜歴史博物館で西方寺の秘仏を展示した展覧会。現状はこのポスターの様にお顔に金箔は貼られていませんが、東日本大震災で破損修理した時の写真には金箔が貼られてありました。午前10時に始まった説明会で尋ねると学芸員は次の様な説明をされました。
「金箔は江戸時代中旬のモノでした。文化財は当初の状態に戻すのが原則ですので、当初の状態に復元したのです。」私は満足せず「当初の状態は金箔が貼ってあったので、江戸時代の修復では金箔を貼り直したのでしょう。その金箔を剥がしたのは、江戸時代の修復が下手だったからですか?」
解答はされませんでした。一見して重文クラスの仏像です。屹度修復費用の捻出に際しても国(文化庁か国立博物館)に相談した事でしょう。先の平等院鳳凰堂の雲中供養仏の再現は見事なモノでした。金箔を剥がして、衣文等に着色して平安前期の状態にしたら『平成の修復完了』という事でしょう。その暁には重文の指定を受けて、国費投入と云う事かも知れません。
『 廻り地蔵』は江戸時代に全国的に流行った風習で、神奈川県でも広く行われていたといいます。
新羽の場合1軒の家に10日程置いて(祀って)おいて日が過ぎたらお隣の人が迎えに来る、隣りでも10日経てば更にその隣が迎えに来る。そうして同じ地蔵尊が順繰りに家々を回るのだそうです。私は学芸員に訊いてみました。「陰暦の時代に10日と云うのは不自然で1週間毎にすれば、迎える方も送る方も解り易い。(週は月の満ち欠けで満月→新月を1箇月(4週間)で循環する。江戸時代は陰暦ですから、お月様の満ち欠けを確認して「廻り地蔵」したと考えるのが自然です。
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左の写真が厨子に納まった地蔵尊を背負って我が家に欧亜媚しているモノ。右のマップは20軒程の家々を廻る順番を図示したモノ。
横浜市で廻り地蔵の風習が残っているのは、泉区下飯田と鶴見川流域(緑区白山町、都筑区池辺町、港北区新羽町)の計4ヶ所のみだそうです。
私も「背負わせてください」お願いしました。学芸員は私の体を心配してくれました。
「17キロ程ありますが大丈夫ですか?厨子はささげていますから、手を放す時には声掛けしますよ」言われます。気合を入れて背負ったのですが意外に重くよろけてお地蔵様を傷めては良くないので。断念しました。
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この後立ち上がろうとしてよろけたので背負って廊下を歩くのは断念しました。

相模国の「廻り地蔵」の中心は伊勢原市にある保国寺(曹洞宗)だそうです。同寺では1762(宝暦12)年、地蔵尊大像(親地蔵)と小さな地蔵(廻り地蔵)100体が作られたという記録があって。当時、厄病や飢餓によってあまりにも多くの子どもが亡くなることに心を痛め、子ども達の健全な生育を願って作られたものだといいます。
下飯田地区や、新羽の廻り地蔵も保国寺の子地蔵尊なのでしょう。100体も用意した「廻り地蔵」は過半が近所の寺に引き取られ、江戸時代の様に「廻」をしないのは、厄病や飢餓が減った事と、家々の連帯感が薄れてしまったからでしょう。考えてみれば「廻り地蔵」は地蔵尊のタイムシェアリングみたいなもので。車を何人かで共有し、使い分ける仕組みに似ています。科学や医学が進歩して子供の病気も減って飢饉も無くなりました。それは結構ですが隣近所の関係が希薄になった事実は問題です。「孤独死」や「徘徊老人」が問題になるのも隣近所の関係が希薄になった事が原因の一つです。

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食べ損ねた「ぼろ市/代官餅」

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私の祖母(竹内ノブ)は世田谷弦巻にある「実相院」の次女でした。大変な頑張り屋さんで且つハイカラな女性でした。私は祖母の白寿記念と一周忌に遺稿集を編纂したのでしたが、当時慶応大学経済学部の教授であった佐々木一雄教授に寄稿をお願いした処、御快諾頂き大変優秀な叔母で「今もぼろ市通りにある「桜小学校」の職員室には「佐々木ノブの優等賞證書」が展示してある」紹介してくれました。
祖母に話を聞くと「代官屋敷の娘と何かにつけて競っていたそうで、代官の娘を先生が贔屓して、自分より良い評価を受けると職員室に抗議に行ったそうです。私にもそんなガッツがあったならば人生は随分変わっていたでしょう。
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祖母「竹内ノブの一周忌に編纂した「遺稿集」祖母の和歌の他、親戚の方々から寄稿して戴きました。
佐々木一雄先生のお墓参りも兼ねて「名物のぼろ市」を観に行きました。ぼろ市の後は近くの豪徳寺に寄る計画にしました。豪徳寺の住職梅田師が祖母「ノブ」と当時「赤坂の豊川稲荷」の僧であった竹内周三の仲人であった、耳に蛸が出来るほど聞かされていたからです。因みに私の母竹内一江は豪徳寺から少し南の狛江の泉龍寺の長女でした。そんなわけで、私の親戚は多くが首都圏の曹洞宗の住職です。
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此れはぼろ市の案内マップに実相院の位置を加えたモノです。
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此れは実相院の多宝塔です。多宝塔の西にある赤松は実相院のシンボルツリーです。何せ山号は「鶴松山」というのですから。
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向こうが実相院の本堂です。名物と云えば「高橋是清」の墓くらいでしたが、昨今では近隣が開発し尽くされ、「お城」と愛称される程の緑が目立ちます。お城とは蟄居した吉良家が此処で生活していたからです。三河の吉良家の家臣が「お城」と呼んで慕っていたのでしょう。
私達夫婦は実相院住職で慶応教授で居られた佐々木一雄師の仲人で結婚しました。この時点では私の親族は私も何処かの寺の住職になるモノと思っていたと思われます。
私は出掛けに仏壇に手を合わせました。「お婆ちゃん今日はぼろ市に行って代官餅を買って来るからね!」私は祖母の喜ぶ顔を想像しながら仏前にお餅を供える予定で出かけました。
田園調布駅から世田谷区役所行のバスに乗って桜小学校前で降りれば実相院の裏門の積りでいたのですが其処はぼろ市の飛び地で道路は歩けない混雑でした加えて「代官行列」がスタートする時刻でした。佐々木一雄師の墓参りを終えて、いよいよぼろ市の見物をしました。
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此れは東急線の中吊広告です。ぼろ市は歳末と正月明けに二日づつ開催されるのです。
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此れが「ボロ市通り」です。通理に懸った横断幕に駅や代官屋敷等の案内が出ています。
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此れは世田谷代官屋敷この右(南)側に世田谷博物館があります。
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此れは世田谷博物館の庭に展示された石塔、流石に庚申塔も秀作です。「大山道」の道標は「世田谷通り」が大山神社の参詣道であった事を示しています。
一通り。ぼろ市を観て博物館を観たら腹も空いて来ました。其処で、「代官餅」に向かいました。ところが代官餅は長蛇の列です。係員に訊けば2時間待ちとの事。
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代官餅に並んだ行列。

豪徳寺の墓所

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豪徳寺は、私の生家の盛徳寺にとって御恩のあるお寺ですし。一度はお詣りしたいと思っていたのでしたが、ツイツイそびれてしまい。12月15日私の仲人を務めて戴いた千代実相院住職佐々木一雄の墓参の後に登りました。
御恩と云うのは私の祖父母の結婚の仲人を豪徳寺の住職であった大島師が努めて下さったのでした。祖父母は結婚して直ぐに大島住職の御尽力で「盛徳寺」に晋山(住職になる事)出来ました。そんな訳ですから盛徳寺は豪徳寺に脚を向けて寝られないのでした。豪徳寺とか「井伊家」の話になると正座して聞き耳を立てたモノです。
世田谷線で山下駅で降りれば小田急線豪徳寺駅の傍です。山下駅から世田谷線の線路に沿って豪徳寺商店街を抜ければ豪徳寺の参道に出ます。豪徳寺商店街には「女城主直虎」のポスターが貼られていますし、豪徳寺も大河ドラマで脚光を浴びているようです。参拝客が目立ちました。今春は彦根の「清凉寺」に登りましたから、井伊家の墓所には春秋に登った事になります。夏に東近江の「永源寺」に行っておけば井伊家墓所三箇所を一年で巡った事になります。横浜を開港したのは「井伊直亮」ですし、井伊は好印象なのです。
豪徳寺は流石に井伊家の江戸菩提寺参道の松並木からして格式が高いモノです。
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豪徳寺商店街を抜けると世田谷線の線路に出ます。暫く線路沿いに歩いて行けば豪徳寺の松並木の参道に出ます。
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豪徳寺の三重塔
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有名な豪徳寺の招き猫)、彦根藩2代の井伊直孝が鷹狩の帰路招き猫に遭遇し、従って、落雷の災難をまぬかれた事から、同所に寺を創建した。寺の名は直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」により「豪徳寺」とした。
豪徳寺の見所は何といっても歴代藩主とその家族のお墓です。墓所入口に説明版がありますので、「井伊直孝」や「井伊直亮」と云った有名人の墓所を確認して立派な笠塔婆塔を観て廻ります。宝篋印塔は中国伝来であり宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔がルーツです。公家や学者に多いのに対し江戸時代の武士は好んで笠塔婆塔を墓標(ストーバ)にしました。笠は屹度陣笠を模したモノでしょう。私達が井伊直孝の墓を観ていると沢山の人が寄って来ました。歴史愛好家のグループのようですが解説員がいます。ボランタリーでしょうか?中々の名調子で正妻と側室の機微に触れたりして聴衆を飽きさせません。
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右上の二つ目が二代井伊直孝の墓(北向き)中段左端が井伊直弼の墓(西向き)
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此れが彦根井伊家二代井伊直孝の墓。井伊家の家紋(橘紋)の付いた笠塔婆塔に台座も立派な蓮台で、周囲には囲いもあって、最高の格式です。
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此方は井伊直弼の墓です。拓本の跡が汚れて居て気の毒です。直弼は横浜市民としてはモット評価して良い様に思うのですが。
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井伊家墓所、流石に壮観ですが良く見ると差別がハッキリしています。
中高齢者のグループが次々に井伊家墓所を訪問します。皆先ず「直虎」の序でに「井伊直政」の墓を探します。大河ドラマも17日に最終回を迎え「虎松」は家康から「直政」の名を賜りました。井伊家の再興が認められ、女城主「直虎」の関係者は皆揃って「直政」に仕える事になりました。最終回の副題も「石を伝えるモノ」となっていました。直虎の「遺志」を「碁石」に擬えて、直政は碁石を握りしめました。直正の子が彦根井伊藩二代の「井伊直孝」です。豪徳寺は井伊直孝が創建した寺ですから、直孝が三河井伊之谷」から直政や直虎の墓を改葬しない限り、直虎の墓は豪徳寺にはあり得ません。皆物足りなそうな表情です。江戸っ子には幕末維新に恩人が居ます。一人が「勝海舟」でもう一人が「井伊直弼」でした。NHKでは1963年「花の生涯」を大河ドラマにして、我国植民地化の危機を未然に防ぎました。。
NHKの大河ドラマが史実を離れてファンタジー化する事に年々危険を感じながらも。この一年間楽しませて戴きました。もう柴崎コウさんの額の皴を見なくて済みます。



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唐津くんち賛美

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夜ラジオ(ラジオ深夜便)を聞きながら寝入ろうとしたら。大林監映画督が登場して「唐津くんち」の話をしていました。何かと思えば「壇一雄氏原作の檀一雄の純文学「花筐」を原作映画化をしたそうで、その宣伝も兼ねて深夜ラジオに登場されたのでした。
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此れが映画の「花筐」のポスターです。画像出典映画ドットコムhttp://eiga.com/news/20170818/3/
大林監督は「戦場場面を撮らずに反戦映画を撮り続けて来たそうで、反戦映画三部作の「花筐」がトリを努めるのだそうです。反戦テーマを貫く為に「戦争場面を撮らず」「不条理にも人生を狂わされた群像を描いたのだそうでき。私達は誰しも「反戦」映画ならば殺伐とした戦場場面を予測するのですが、戦闘場面は避けて戦争で一生を狂わされた市井の凡人を描く事によって、戦争の不条理や非人間性を描いたのだそうです。確かに私達は「聞けわだつみの声」や「無名戦士の描いた絵」を観ると反戦」「厭戦」感が強くなります。日露戦争の「二百三高地」よりも与謝野晶子の「弟よ君死に給うなかれ」を読んだ方が心を揺らされます。
「花筐」では戦争の足音が迫る時代を懸命に生きる若者たちの友情や恋を赤裸々に描き出したそうです。壇一雄氏の原作には舞台は特定されていなかったそうで、大林監督に伺ったところ。
原作者からは「映画にしたいのなら佐賀の唐津に行きたまえ!」云われたそうで。ご指示通りに唐津に行って「唐津名物」の「くんち」を観て俄然映画監督としての創作意欲が高まったそうです。唐津は狭い城下町で、同時に漁港でもあり商人町でもあります。でも「唐津くんち」には。城内の住人も城外の住人(商人や漁民)も心を一つにして「くんち」に集中するのだそうです。
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これは唐津神社を出て「お旅所」のある前浜に集合した山車です。神社の西にある前浜は海水浴場でもある広い浜辺で、正面に唐津城が見渡せる唐津を代表する光景です。写真出典(リクルート社ジャランhttps://www.jalan.net/news/article/117714/)
映画は1941年、春。佐賀県唐津市の叔母のもとに身を寄せている主人公17歳の俊彦(窪塚俊介)は、アポロ神のような鵜飼、虚無僧のような吉良、お調子者の阿蘇ら個性豊かな学友たち青春を満喫した日々を送っていました。
肺病を患う従妹・美那(矢作穂香)に思いを寄せる俊彦だったが、いつしか恐ろしい戦争の渦に飲み込まれていきます。
私は福岡の天神に在った「長銀福岡支店」に4年間も単身赴任していました。単身社宅は博多と唐津の中間の「藤崎」にありましたので。唐津には良く出かけていました。在る日唐津から通勤していた女子行員からお誘いを受けました。
「今週末は唐津くんちですからお越しくださいませんか!」
単身生活の支配人が「終末に中州で暇潰ししているより唐津くんちを観た方が健康的ですよ!」気遣いだったのでしょう。
私は単身寮から地下鉄に乗って西に向かえJR九州と接続しているので唐津は意外と近いのです。女子行員の実家は城外にありましたが、虹の松原や鏡山窯も近い処でした。
くんちとは「祭り」の事で9月9日(重陽の節句)に行われていたので「くんち」と呼ぶそうです。九州の祭りは何処も「山車」が見所です。
三大くんちと呼ばれる「博多くんち」は「山鉾」と呼ばれる巨大な山車を引き回し、櫛田神社を周回するタイムレースをします。
長崎くんちは「竜舞」や「鯨の潮吹き」等が人気です。神様が神輿に乗って巡幸する場面よりも神様を喜ばせ山車等の前座に力が入っています。
唐津くんちにの見所は「豊穣」「豊漁」を祈願する「鯛の山車」や「獅子頭の山車」です。小さな城下町に「三大くんち」が連綿と伝わって来たのは「住人の絆の強さ」にあります。城内のエリートと城外の庶民とが心を一つに平安を祈って祭りを祝う気持ちにあります。更にと美しい風光と美味しい料理と長い歴史と伝統工芸が息づいています。どれもこれも私の大好きなアイテムです。
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此れは私が唐津くんちを想い出して描いた絵です。唐津城の向い(北)の浜辺に山車が並んだ光景です。事実と違うのは唐津神社の鳥居を朱色にした事です。実際は美しい白御影石です。
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此れは製作途上の絵です。私は描きたいパーツを最初に描いて後は主題が目立つように周囲を描き加えます。今回は想いが先行したので俳句が先に出来てしまいました。俳句に「雁」があるので、慌てて絵に雁を描き加えました。

私は毎月1枚「祭りの絵」を描いてお世話になってきたデーサービスの「食堂」のメニューボードを飾って来ました。
処が10月末に「もう絵は不要です」断られてしまいました。
私はお願いされたから描いてきた来た迄で、自分がお願いしたモノでも無いので面喰ってしまいました。断られてしまったので11月の絵は描く意欲も半減してしまいました。でも絵は陰暦カレンダーに転用しますので、後2枚(11月12月)の絵を完成させないと来年用の陰暦カレンダーは完成しません。11月の絵は「唐津くんち/毎年11月3日前後)にしました。絵のテーマは唐津くんちの名物「鯛の山車」と「獅子頭」の山車です。絵も完成したので続いて12月の絵に着手して年内に陰暦カレンダーを完成させる積りです。


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『仏隆寺の除夜』への想い

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「唐津くんち」の絵を描き終えました。「唐津くんち」は例年11月3日前後です。来年のカレンダーの絵は出来上がりました。でもこの絵はデーサービス食堂を飾る事もありません。可哀想な気もします。そこで、額に入れて暫く玄関を飾る事にしました。
来年にかけて展示場所を探す事にしましょう。展示場所が決まると製作意欲も俄然高まるモノです。今回もデーサービスから声が掛からなければ絵を描く事もありませんでした。絵を描く事が私のリハビリに相当の効果を及ぼしてくれたものと確信しています。
「唐津くんち」の絵が出来たので今年の残りはもう一枚12月の絵です。12月のテーマに合わせれば「秩父夜祭」に「浅草寺羽子板市」等考えられます。テレビを観ていたら「飯山」に大雪が積もった報じています。昨年は当初飯山に行く予定でしたが、糸魚川に変えてしまいました。飯山と云えば栄山の阿弥陀堂」(阿弥陀堂便りで著名です。
町や村を見下ろす高台にお堂があって、人々の暮らしを見詰めていて下さる、そんな光景は尊いモノがあります。映画の阿弥陀堂便りも都会で精神を病んだ美しい女医さんが阿弥陀堂に参る事で精神の病を克服したお話でした。阿弥陀堂から街を見下ろせば信濃川が谷底を流れ両岸は菜の花畑です。菜の花畑の上には高野辰之記念館(朧月夜で有名)も「高橋まゆみ人形館」もあります。新旧あっても飯山に対する郷土愛は変わりません。飯山の光景の中に12月の祭りを描きたいと思いました。でも飯山にはお祭りは訊きません。12月の祭りと云えば『除夜の鐘』です。今年の春「石山寺」を詣でて、偶々この岩場で銅鐸が発見されたので石山寺を建立したと聞きました。『石山寺の除夜の鐘』であれば岩屋の上に鐘楼があって、遠方に琵琶湖足下に瀬田川が流れている光景でしょう。でも私は無性に奈良大宇陀の「仏隆寺」を描きたくなりました。仏隆寺を知ったのは日文研の指導教授で居られた浅子勝二郎先生のお話でした。奈良から伊勢に抜ける道は「伊勢街道」と呼ばれた古道で榛原駅からバスに乗って仏隆寺下迄行き、仏隆寺を登って峠を越えれば室生寺に出る。室生寺から先は「曽爾・御杖」へと抜けます。棚田と赤目48滝の繋がる美しい伊勢本街道が続きます。
2年前の桜の季節私は日文研の仲間と連れ立って仏隆寺から室生寺に出て、大野寺長谷寺を巡りました。
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仏隆寺は伊勢古道を追大宇陀から室生に抜ける峠の麓にあります。一番大きな桜が天然記念物の千年桜です。次のブログにアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893298.html?m=lc&sv=%CA%A9%CE%B4%BB%FB&sk=0
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仏隆寺は棚田の奥にあります。長い石段の上に本堂があります。彼岸花の名所でも在ったのですが、猪に球根を食べ尽くされてしまいました。
仏隆寺の名物は参道石段の右側に自生している霞桜の巨木で『千年桜』と呼ばれています。2年前は満開直前でした。このお寺に一人で来た時は彼岸花が石段の両脇に棚田の畔に咲き誇って。まるで「亡者」を仏の前に導いてくれているようでした。桜を観た時に彼岸花の姿が見えないことに気付いて訊けば「近年、猪が急増して猪が掘って彼岸花の球根を食べ尽くしてしまったのだそうです。彼岸花の球根は有毒と聞いていたのでしたが、猪君も進化して「リコリン」の有毒アルカロイド系の毒に耐えるようになったのかもしれません。
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此れが仏隆寺の「除夜の鐘」の絵です。伊勢古道の大宇陀にあり後ろの山を越せば室生寺になります。山林は室生寺の山で室生寺の五重塔の修復の時にはその桧肌が使われました鐘楼の背後の大岩に根を絡ませた大木が天然記念物の千年桜です。この桜は白く霞のような色です。
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出来上がった絵を暫く眺めていたら俳句の下の白い部分が目立ちました。絵の上部が暗色で下部が白いので不安定です。白い部分に石垣を描き加えて、お星様を加えて、完成にしました。
私達は千年桜の樹下の休屋に腰掛けて、元気な人は石段を登って本堂まで登り、当時はリハビリ途中であった私は休屋で皆が戻るののを待ちました。休屋の足許は何故か炉を切ってありました。炉で薪を燃やした形跡があったのです。小正月の火祭りの跡か除夜の鐘を撞いた時暖を取った跡と思いました。で、絵に描くに際して休屋は鐘楼に変えて小僧さんに除夜の鐘を撞かせました。村の人は除夜を聞き終えたら本堂に登ろうと集まって来ています。

二つのリース

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12月19日に向ヶ丘遊園に行きました。生田緑地行のバスを待っていると脇に「小田急フローリスト」がありました。駅に近い方の店には「クリスマスリース」が並んでいました。バス停寄りには「魂飾り/たまかざり/正月の締め飾り」が並んでいます。リースも魂飾りも何故か良く似ています。民俗学では習俗は結果的に良く似ている事は多多あるモノです。
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此れは小田急向ヶ丘遊園駅南口の小田急フローリストの店頭です。左にクリスマスリース右に正月用締め飾りを販売していました。
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手前がクリスマスリース売場で3千円台の商品が売れ筋のようです。後ろのポスターはリースの原点寄生木のイラストです。「寄生木」は文化人類学の創始者「フレーザー」が金枝編」に著した、キリスト教以前の習俗です。
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此方は正月の締め飾り売場です。注連縄は謂わば藁を編んだリースです。歳神の依り代である稲穂を始め目出度い儀礼品と厄除けの朱色の花が賑々しく並んでいました売れ筋は千五百円でした。
私は目敏く価格をチェックしました。戸塚なら千円程度のクリスマスリースが向ヶ丘遊園では3000円です。締め飾りも1500円です。ワイフに向ヶ丘遊園は物価が高いんだね戸塚は安くて良かったね!」言えば。その位の生活力のある人が住んでいるのでしょ!」つれない返事です。今日はクリスマスリースの方が高いけどクリスマスが終われば値段は逆転するんだろうね?」云えば「クリスマスリースは使い回しが出来るけど」、「しめ飾りは使い捨て」でしょう。ヤッパシつれない返事です。
私はバスを待つ間「クリスマスリース」と「しめ飾り」を考えます。序に「クリスマスツリー」と門松も似ているな!思いました。この日川崎民家園に行ったのは「正月飾り」を展示している、HPで確認したからです。
日本のお米はジャポニカ種と呼ばれる稲に稔ります。ジャポニカ種は稲穂が長い事と茎が長い事が特徴です。稲の長い茎は藁で草履を始め様々な用途に活用されますし、米は人間が食べ藁は家畜が食べます。更に藁は肥料にもなります。稲は稲穂も藁も神の依り代になると信じられて来ました。お餅は糯米で、注連縄は藁で作ります。少しも無駄にしません。今年も正月飾りは北村家(国の重文/神奈川県秦野市)で展示してあるそうです。北村家に向かう途中佐々木家(国重文/長野県佐久市)の格子に幾つも注連縄が展示してありました。この秋来た時には沢山の人が庭に筵を曳きその上に腰を下ろして注連縄を作っていましたから、作品の展示場を兼ねているようです。日本の国には様々な注連縄があることを教えてくれます。一つ一つの注連縄には作られる地方の名と形に込められた心をコメントしてあります。
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此れは注連縄が展示してあった佐々木家住宅の格子です。
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此方は御殿場の注連縄飾りで「宝船」を模しているのだそうです。赤い実は万両です。
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此れは山口の注連縄飾りで「鶴寿」としてありました。まるでJALのマークのようです。
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これは三重県岡山町の「ウマジメ」と呼ばれる注連縄です。馬が米俵を背負って豊穣を祈願しているのでしょう。
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この締め飾りは佐賀県のモノだそうで鶴の姿に南天の実が飾られています。私が欲しいと思った注連飾りです。自分でも作りたいと思ったら「多摩文化財ボランティア」に参加すれば教えて貰えるのでしょう。
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此れはごく普通の注連縄です。普通の縄と違って注連縄は左に寄って締めます(これを左縄と呼びます)
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此れは川崎の注連縄で「牛蒡締め」と呼ばれますシメ(紙垂)は折れ目が6つが基本ですが傷んでしまっています。加えて注連縄にシメは4本つけなくてはならないところ2本しかありません。作り放しでなくメンテも必要です。
魂飾りをアレコレ観て満足しました。一番大きな注連縄はお相撲の土俵です。大荒れした日馬富士の暴行問題も残すは貴乃花親方の処分だけになって、初場所は晴れて二重丸の土俵になって欲しいモノです。魂飾りも1月14日の小正月には左義長で焼いてしまいます。初場所は様々な怨恨は焼却して武道の基本に沿った国技を見せて欲しいモノです。



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お酒の民俗学

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私は生来の下戸です。父も下戸でしたから遺伝的なモノと思います。多分腎臓の機能が弱いのでアルコールの排出能力が弱いのでしょう。
サラリーマン時代は”私は下戸ですから・・・”奨められたお酒を無碍にも断れず飲んではトイレに駆けこんで吐き戻していました。
喉の奥に指を突っ込んで舌の根元を押すとお酒は簡単に吐き出せるのです。
本店の部長職に栄転して、定期検診で「腎臓癌」のエコーで右の腎臓が肥大化していることが発覚しました。病理検査の結果肥大化し多部分が悪性腫瘍だというのです。病院では「腎臓は二つあるので右の腎臓を全摘しましょう、放置しておけば二つとも癌に犯されてしまうリスクに晒されます」指摘され、即全摘手術になりました。
朝晩タクシーで根津の病院から大手町の銀行に通勤しました。部下から見れば「朝礼と終礼だけに顔を出して注文だけを付ける厄介な部長だったと思います。手術後は日本酒は避けていましたがワインだけは飲みました。「赤ワインにはポリフェノールが多量に含まれているから抗癌効果が期待できる」そんな風評を信じたのです。

世界にはいろいろな宗教がありますが、総じて云えば、お酒をタブーにしている宗教が過半で、お酒を積極的に推奨しているものは稀なようです。
イスラム教では「酒は心を乱す飲み物で悪魔の業であり」禁じています。仏教でも五戒の一つに「不飲酒」をあげています。禅寺の門にはこの戒めを刻んであります。
五戒で酒は禁じられていても、総じてお坊さんは酒好きです。
その証に古刹の門前には美味しいお酒や肴(豆腐等)の名店が多いようです。
横浜では弘明寺、鎌倉にも酒屋が目立ちます。
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これは横浜最古の寺院弘明寺の門前の酒屋、筆者は此処の甘酒を買うのが習慣です。お正月には弘明寺石段下にある和菓子の名店「月兎」さんが路上で甘酒を商っています。
屹度、仏教やイスラム教の勃興期には、在来の宗教の勢力が強くて、在来の宗教を禁じてイスラム教や仏教を布教する為には強く禁酒を命じたのでしょう。と云っても人間は生来酒好き、好色で賭博好きです。「三悪」は神代の時代から人間の本性に根差しているのです。民衆はお酒を手放せず、祭儀が終われば祭壇から酒を下してきて、神主や導司を筆頭に参列者が揃って直会(なおらい)を開始します。
祭祀の後に、神事に参加したもの一同でお神酒を戴き神饌食する行事(供飲供食儀礼儀礼)は卑弥呼の時代からの民族の慣習でした。
ダビンチの「最期の晩餐」も直会です。
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ダビンチの「最期の晩餐」も直会です。写真出典フリー素材https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%9C%80%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90&ei=UTF-8&fr=top_ga1
食卓に並んだご馳走を前にしてイエスはぶどう酒の杯を持ち弟子達に言います
「この杯はあなたがたのために流される私の血による新しい契約である」
葡萄酒が血の色をしていたからこうした発想になったのでしょう。
お酒の快感は宗教的法悦に通じるモノがあります。キリスト教はお酒のマイナス側面を意識しながらも強く信仰することによる悦びを評価して葡萄酒の酔いを「イエス」との契約の証と解釈したのでしょう。その結果修道院で「葡萄酒」を醸造する事が出来ました。
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此方は鎌倉市大船の酒屋「菅野」の店頭、日本酒の名店でしたが今では主力はワインになってしまいました。
ところで、隼人瓜は屹度千成瓢箪の親戚なのでしょう。今年は初めて庭で栽培したのでしたがどうしても処分できません。お友達にも押し付けたのですが12月に入ると堅くなってきました。後は大根の代わりに「鰤太鼓」に代わって「鰤隼人瓜」にしたり隼人瓜に往生して貰うには私が責任を持って食べ尽くさなくてはなりません。堅くなって来た隼人瓜の最終策を考えました。奈良漬の「白瓜」の代わりに「隼人瓜」の皮を剝いて漬けるのです。インターネットで奈良漬けの「漬け床」を探しましたが、思いのほか高価で送料も看過できません。
其処で、ツラツラ酒屋を想い起しました。私の生活圏の酒屋は何処も彼処も量販店に圧倒されて不冴えです。到底「奈良漬の漬け床」など商っていそうもありません。
想い出したのが鎌倉市大船の市場通りにある「菅野酒店」です。鎌倉にはこの老舗のお蔭で全国ブランドの銘酒が手に入ります。私のサラリーマン時代なら「越の寒梅」昨今なら山口んの「獺祭」も常時店頭に置かれています。お蔭で鎌倉や大船の居酒屋では飲兵衛が涙するような銘酒を飲む事が出来るのです。
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大船駅東口前の蕎麦屋でも銘酒が並んでいるのは老舗酒屋「菅野酒店」が頑張っているからです。
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人気銘酒の「獺祭」は1合1480円と高額です。
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居酒屋で飲めば1合1480円の獺祭も菅野酒店で買えば1升千円で求められます。
酒屋は食文化の集まる処です。地方を旅して地誌や地方文化で訊きたいことがあれば酒屋に行けば大概解ります。
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これが菅野酒店で売られている「高清水」の酒粕です。秋田杉の桶も買い求めたい風格です。1キロ620円のお安さです。1キロ買っておけば、鍋物にも、甘酒にもなります。
菅野酒店で訊きました。
「隼人瓜を奈良漬にしたいのですが、漬床を酒粕で作るにはどうしたら良いですか?)女子職員は店主に訊きに行って解答を伝えてくれました。
「高清水の酒粕(620円/1キロ)を求めて清酒で戻して漬床にして下さい。」
酒粕は幾つも在ります。高清水(秋田」を始め立山(富山」等々です。私は推薦された通りの高清水の酒粕を求めてリュックに入れて帰りました。これで、隼人瓜の漬物の食べられそうです。アイディアは奈良漬けですが「秋田漬け」と云う事になるのでしょうか・・・。残った酒粕で先月津軽で食べそびれた「たらのじゃっぱ汁」でも作ろうと思います。勿論隼人瓜もたっぷり入れます。


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