生田緑地の民家園に行った事はお正月の「魂飾り」の記事でアップしました。実はこの日は小学生が沢山来ていました。訊けば「高津小学校」の生徒さんで社会科の授業の一環だそうです。私達は小学生より遅れて民家園に入りましたが「合掌造り」の村で追いつきました。小学生は井戸で水汲みしていました。
此れは川崎民家園の北村家(国の重文/神奈川県秦野市)の長押に張られた「魂飾り/注連縄」です。達磨さんは左義長で注連縄と一緒に焼くかこのように毎年左から右に並べておきます。勿論神棚は豊穣の神大山祇大神(オオヤマツミ)です。此処は大山祇大神の地元ですから公的施設でも神の名を明示しているのは良い事です。
合掌造りは母屋が三棟小屋が2棟展示されています。右は富山の南砺市の山田家住宅この一角は五個荘の集落になっています。庭には大八車が置かれています。小学生は井戸の周りに集まって水汲みをしていました。
大八車を曳いてみました。
千葉の漁師民家では土間で石臼を曳いていました。先生がお米を差し込むと石臼の裾から米粉が出来て来ました。
九十九里の作田家住宅(国重文/猟師の母屋)では土間で石臼を使って米粉を作っていました。
今しがた合掌村の茶店で食べた「御手洗団子」の材料です。石臼は土間で曳いていた野ですが、庭先からは歓声が聞こえて来ます。庭に出てみれば天秤棒を担いだお嬢さんが賢明に肥桶を担いでいました。肥桶が何であるか?お嬢さんは知る由もないでしょう。高津区の幹線道路である「中原街道」が「大山の参詣道」であるばかりか大八車を曳いて、「行は大根を江戸の市中に運び、帰りは人糞を肥桶」に入れて戻ってきた」事は教室で教わって、房総の民家の庭で体験しているのでしょう。歓声はお嬢さんが重さでよろけると”人糞が跳ねるぞ”囃していたのでしょう。
作田家住宅の庭は鰯を干して干鰯(肥料)にする為にとても広いのです。そこでお嬢さんが天秤棒に「水の入った肥桶」を担いでみました。
此れは南部の曲り家の屋外便所で、便所桶を埋めてその上に板を渡してあります。板の上に屈んで用を足します。お百姓は、桶に溜まった人糞を右にある肥桶に移して畑に運んで肥料として撒きます。私はお嬢さんに”エコは綺麗事では出来ないのだよ”教えてあげたくなります。東南アジアやインドに行けばトイレは無くて皆道端や叢で用を足しています。
社会科の授業ですから江戸時代の川崎の農家の生活を体験する事が主目的なのでしょう。私は合掌造りの土間をしみじみ見詰めていた時です。目の前の窓から小学生が土間に入って来ました。生徒のルール破りに気付かれた先生は悪餓鬼生徒を捉まえて激しく叱りはじめられました。
一般人の私達夫婦の手前も在ったのでしょう。
私は悪餓鬼も懐かしく思って坊主の頭を押さえて言いました。
「先生に御免なさい!」しなさいよそうしたら、先生は許して下さいますよ!」
生徒がルール破りをした原因は、合掌住宅の囲炉裏にありました。囲炉裏でボランタリーの叔父さんが火を焚いていてその煙が部屋中に広がっていたのです。
合掌村山田家住宅 南砺波市国重文の囲炉裏端に集まったボランタリーさんが火を焚いていました。
囲炉裏端で生じた煙が母屋中に充満して格子から差し込む光りを顕在化させていたのでした。
山田家住宅の土間に脱ぎ捨てられた小学生の運動靴、悪餓鬼君が光りを観るにはこの人混みの順番を待たなければならなかったのでした。
山田家住宅の土間右側には水場があってその脇は窓なのでした。悪餓鬼君は外を歩いていてこの光りの現象に気付いて下窓から侵入してしまったのです。
煙は窓の格子から斜めに差し込む光を顕在化しています。その光の美しさに気付いた悪餓鬼君が早く視たさに窓から侵入してしまったのです。
「窓から差し込む光が美しいので思わず玄関迄廻る事が出来ませんでした。」
本当の事を話せば先生は
「君は詩人だね!」言って誉めてくれたかもしれないのに・・・・。
叱られ下手の悪餓鬼も懐かしいモノです。貴之岩が若しも叱られ上手なら、日馬富士も不本意な引退をしなくて済んだモノを。