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小学生が体験した「昔の生活」

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生田緑地の民家園に行った事はお正月の「魂飾り」の記事でアップしました。実はこの日は小学生が沢山来ていました。訊けば「高津小学校」の生徒さんで社会科の授業の一環だそうです。私達は小学生より遅れて民家園に入りましたが「合掌造り」の村で追いつきました。小学生は井戸で水汲みしていました。
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此れは川崎民家園の北村家(国の重文/神奈川県秦野市)の長押に張られた「魂飾り/注連縄」です。達磨さんは左義長で注連縄と一緒に焼くかこのように毎年左から右に並べておきます。勿論神棚は豊穣の神大山祇大神(オオヤマツミ)です。此処は大山祇大神の地元ですから公的施設でも神の名を明示しているのは良い事です。
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合掌造りは母屋が三棟小屋が2棟展示されています。右は富山の南砺市の山田家住宅この一角は五個荘の集落になっています。庭には大八車が置かれています。小学生は井戸の周りに集まって水汲みをしていました。
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大八車を曳いてみました。
千葉の漁師民家では土間で石臼を曳いていました。先生がお米を差し込むと石臼の裾から米粉が出来て来ました。
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九十九里の作田家住宅(国重文/猟師の母屋)では土間で石臼を使って米粉を作っていました。
今しがた合掌村の茶店で食べた「御手洗団子」の材料です。石臼は土間で曳いていた野ですが、庭先からは歓声が聞こえて来ます。庭に出てみれば天秤棒を担いだお嬢さんが賢明に肥桶を担いでいました。肥桶が何であるか?お嬢さんは知る由もないでしょう。高津区の幹線道路である「中原街道」が「大山の参詣道」であるばかりか大八車を曳いて、「行は大根を江戸の市中に運び、帰りは人糞を肥桶」に入れて戻ってきた」事は教室で教わって、房総の民家の庭で体験しているのでしょう。歓声はお嬢さんが重さでよろけると”人糞が跳ねるぞ”囃していたのでしょう。
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作田家住宅の庭は鰯を干して干鰯(肥料)にする為にとても広いのです。そこでお嬢さんが天秤棒に「水の入った肥桶」を担いでみました。
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此れは南部の曲り家の屋外便所で、便所桶を埋めてその上に板を渡してあります。板の上に屈んで用を足します。お百姓は、桶に溜まった人糞を右にある肥桶に移して畑に運んで肥料として撒きます。私はお嬢さんに”エコは綺麗事では出来ないのだよ”教えてあげたくなります。東南アジアやインドに行けばトイレは無くて皆道端や叢で用を足しています。
社会科の授業ですから江戸時代の川崎の農家の生活を体験する事が主目的なのでしょう。私は合掌造りの土間をしみじみ見詰めていた時です。目の前の窓から小学生が土間に入って来ました。生徒のルール破りに気付かれた先生は悪餓鬼生徒を捉まえて激しく叱りはじめられました。
一般人の私達夫婦の手前も在ったのでしょう。
私は悪餓鬼も懐かしく思って坊主の頭を押さえて言いました。
「先生に御免なさい!」しなさいよそうしたら、先生は許して下さいますよ!」
生徒がルール破りをした原因は、合掌住宅の囲炉裏にありました。囲炉裏でボランタリーの叔父さんが火を焚いていてその煙が部屋中に広がっていたのです。

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合掌村山田家住宅 南砺波市国重文の囲炉裏端に集まったボランタリーさんが火を焚いていました。
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囲炉裏端で生じた煙が母屋中に充満して格子から差し込む光りを顕在化させていたのでした。
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山田家住宅の土間に脱ぎ捨てられた小学生の運動靴、悪餓鬼君が光りを観るにはこの人混みの順番を待たなければならなかったのでした。
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山田家住宅の土間右側には水場があってその脇は窓なのでした。悪餓鬼君は外を歩いていてこの光りの現象に気付いて下窓から侵入してしまったのです。

煙は窓の格子から斜めに差し込む光を顕在化しています。その光の美しさに気付いた悪餓鬼君が早く視たさに窓から侵入してしまったのです。
「窓から差し込む光が美しいので思わず玄関迄廻る事が出来ませんでした。」
本当の事を話せば先生は
「君は詩人だね!」言って誉めてくれたかもしれないのに・・・・。
叱られ下手の悪餓鬼も懐かしいモノです。貴之岩が若しも叱られ上手なら、日馬富士も不本意な引退をしなくて済んだモノを。



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東池袋の賑いの不思議さ

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12月22日(天皇誕生日)はかねて計画通り、池袋に出かけました。第一の目的は「水天宮」門前の「田の神様」を拝す事です。次いで立教大学に回ってチャペルでパイプオルガンを聞いてクリスマスツリーの点灯を観る事です。
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此方が池袋駅東口線路脇公園の北にある水天宮前の「田の神」さんです。昨年も年末に参拝しました。一年無事にご飯を美味しく戴いた感謝です。今回は何時頃誰が奉納したか突き詰めようと神様の背中を確認したのですが何も刻まれていませんでした。田の神様の手前右にはソープランド「千姫」があって、如何にも池袋らしい盛り場です。
この日はランチをビックカメラ裏にあるベトナム料理店にしようと思ってサンシャイン通りをサンシャインプリンスに向けて歩きました。街も随分変わりました。サンシャインに似た高層ビルが何本も建っているので、再三通りがけの人に
「サンシャインはあのビルですね!」確認しました。私が銀行員時代はこの高層ビル会社は債務超過と判定されながら自社事務所を高層ビルの高層階に置いていて常識を疑う会社でした。何度も苦言を呈しに通った事が想い出されます。
サンシャイン近くの公園には露天商が何組も出て「キャラクターモノの缶バッジを販売していました。外国人が缶バッジを求めて可愛い少女の店に群がっていました。秋葉原現象が東池袋に移って来たようです。先週は世田谷のぼろ市に行ったのでしたが。池袋の公園はまるで「秋葉原のお宅文化」の燎原の火のようです。
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東池袋公園の梟の前で缶バッジを売る少女の店、私も帽子の飾り物に一つ欲しかったのですが。少女が眩しくて買えませんでした。
クリスマスツリーの点灯は午後4時半ですから、逆算すると午前10時過ぎに自宅を出てランチは池袋サンシャインの辺りになります。私達は韓国料理店に入って「サンゲタン」を食べて、サンシャイン水族館に入りました。
今は午後2時立教大学のクリスマスツリーの点灯までは未だ3時間も時間潰しをしなければなりません。
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サンシャイン水族館は60階の高層ビルの屋上にあります。天井を泳ぐペンギンと隣りの高層ビルが御ペンギンの下に見える景色は面白いモノがあります。
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2018年陰暦カレンダー作り

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自作のカレンダーはもう7年も前から始めていました。最初は普通の太陽暦カレンダーでした。「旅先で撮影した写真を利用したカレンダーで、何時も一緒に旅に付き合ってくれる友人を中心に配りましたが、4年前脳梗塞を発症してから太陽暦に代えて陰暦を使う様にしました。闘病生活中に友人のI君がセミナーで発表した「江戸時代の時刻」がきっかけでした。I君は時代小説のい出てくる時刻を現代の時刻に変換させる知恵に関心がありましたが、私は時間を大切にする思い自体に違いがある事に気付き”ならば陰暦で生活したい阿2想いました。24節季72候にしても陰暦に換算してこそ意味が解るモノです。毎日今日は大寒”と転換するよりカレンダーを観れば解る方がズット便利です。そこで去年の今頃に「2017年陰暦カレンダー」を製作して自分も使うし、お世話戴いた方に配布しました。「(2018年陰暦カレンダー」作りも年内に配るには今が駆け込みです。
絵は2017年毎月描いた「祭り」にしました。1月は「横手のかまくら/水神祭り」2月は「奈良若草山の山焼き」3月は「紀ノ川妹背山の雛祭り」4月は「室生寺の花祭り5月は「薩摩の茅の輪潜り/菖蒲祭り」6月は「奈良大神神社のお田植祭り」7月は葛城里の「機織神社の七夕祭り」8月は京都五山の送り火」9月は「立山おはらの風の盆」に10月は「京都宇治神社の月見」11月は「唐津くんち」12月は「奈良宇陀の仏隆寺の除夜」にしました。12枚の絵を見ていると、陰暦生活を基準にしてから時間を大切に過ごしてきた来た事を実感出来ました。陰暦カレンダーも作るのは楽しい事です。でも、厄介な事もあります。昨年の様に絵やカレンダーをプリントし垂れ後は「キンコーズ」に持ち込めば済むのですが、思いの外費用が掛かるのです。自分で製作しようとして手間のかかる部分をアウトソーシングするのですから仕方ありません。でも基本は自身のリハビリに在るのですから最初から最後まで手作りすることが原則です。そこで、2018年のカレンダーは手作りに徹する事にしました。
面倒なのは写真の裏に暦をプリントする事です。1月の絵が横手のカマクラですから、1月の絵を捲ったら、2月の暦と「若草山の山焼き」の絵が出てこないといけません。この確認を12箇月分12回確認してから綴らないと使い物になりません。

正月の準備に取り掛かる

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クリスマスも過ぎれば街はお正月準備に様相を変えます。何時ものSCの花屋の店先には若松や締め飾りが並んでいます。私は5年前の12月29日に高校の仲間と麻雀に興じていて脳梗塞を発症しました。その年は前日28日の夕方に「松飾」を用意し終えて、29日は朝から麻雀に興じていたのでした。
幸いだったのは高校の仲間が私の救急病院が「湘南鎌倉総合病院」である事を記憶していてくれた事でした。お蔭で救急処理は理想的に済みました。
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クリスマスが明けると12/26日私の住む戸塚の街にも松飾が設えられました。
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此れは遊行寺の冠木門の門松です。遊行寺の門松は平安時代以来の素朴な松と竹の飾り物です。
私は生家の寺でも歳末は「松飾」を分担していました。先ず、裏山に入って真竹や松を伐って来ます。真竹と松の枝を山門の柱の根元に括り付けます。縄はお檀家が用意してくれました。紙垂は半紙を折って交互に鋏を入れます。半紙を開けば雷の様なギザギザが出来ますから、6枚の紙垂を縄に垂らせば「注連縄を張った門松」の完成です。
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此れは今年用意した紙垂です。半紙を二つに切ってその半分を縦に三つ折り横に四つ折りして広げます。そして三分の二まで鋏を入れて広げれば写真の様な稲妻模様の紙垂が完成です。出来た紙垂は元旦の朝門松に括り付けます。
「門松にも禁秘がありました。「一夜飾り」と云って晦日に飾ってはいけないのです。そのことは祖母からも良く聞かされていたのですが、29日もタブーだったのは脳梗塞を発症してから気付きました。29日は「餅つき」もタブーなのです。『にじゅうく⇒二重苦』を連想させます。
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25日街に出て若松を二本求めてリュックに差し入れて帰宅しました。これで松飾の準備は完了です。
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想い起せば私が町内会長時代は小学校の体育館を借りて「注連縄つくり」をしていました。教えるのは街の古老で教わるのは小学生、誰からも喜ばれるし、年中行事を伝えるには絶好の企画でした。
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出来上がった門松を観てご満悦な子供達でした。
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庭の呉竹を伐って花屋で買ってきた若松を池に入れて準備は完了26日の午前中に松飾を終えておきます。
私は独立して一家を構えるようになってからも「松飾」は役割です。総じて祝い事は一家の主人が身体を浄めて実施する事が良しとされています。私は竹は庭の呉竹を伐採して、若松は街の花屋さんかホームセンターで買って来ます。
でも考えてみれば我家の玄関は「満年門松状態」です。縁起モノを玄関に植えて来た成果です。玄関に梅を植えないで松にしておいたら、何もしなくても「門松」が生えている事になります。現在は呉竹が生えています松こそ生えていませんが槇なら生えています。その根元には南天も万両も万年青も赤い実を付けています。
呉竹の中段に縄を張って紙垂を垂らせば「万年門松」です。ワイフに相談すれば「若松の代わりに槇を使うなんて可笑しいわよ!」相手にしてくれません。
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我家の玄関周りには縁起物の南天は生えているし、呉竹に槇更には万年青や裏白まで自生しています。呉竹の根元に縁起モノを集めれば松飾の完成です。
考えてみれば2017年は4月の定期検診で飼い犬(チーコ)の「乳癌」の指摘を受けました。娘夫婦は取分け飼い犬のチーコ)を可愛がってくれて、お散歩にもシャンプーもしてくれています。乳癌を心配してくれましたが私はペット犬に話しました。「親爺は今は経済的にお前を手術させられない。自力で乳癌を克服して欲しい」
娘夫婦も「暑い夏に手術痕」の治癒で心配するよりはペットの自然治癒力に期待する方針に納得してくれました。一方鶉の方は卵を産む勢いこそ衰えたものの元気です。庭木も宿根草も総じて元気で花も実も成っています。動物も植物も愛情さえ注げば差違はありません。
お正月に我が家にやって来てくれる筈の「歳神様」は若松や若竹」が好きで其処に依ってくれます。
クリスマスツリーも依り代と云う意味では変わりません。
クリスマスは12月25日と云う事は一年の中で一番日の沈むのが早い日に「キリスト」が生誕したと信じたのでしょう。
キリスト教が広まる前の12月25日は「夜が一番早く訪れる日」で「村の中央に常緑の樅の木を建てて祭りをしていたのでしょう。そんな風習をキリスト教は引き継いで「キリストの生誕日」としてきたのでしょう。
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これは秋田の大湯の環状列石です。スコットランドのストンサークルも同じ暦を測る装置と考えられます。私達は「冬至」と云うと夜が一番長い日と教えられましたが、上代の人は「夜が一番早い日」を観測していたのです。闇を打ち砕くのは太陽や火の赤ですからサンタクロースは赤い「魔除け」マントを着ているのです。
サンタクロースの朱色の衣装は如何にも「悪魔封じ」です。神の依り代であるクリスマスツリーを村の中央で燃やせば日本の「左義長」と同じになります。
諏訪神社の「御柱祭り」もクリスマスツリーの「樅の木」を使用します。
私は「樅の木」も「「松の樹」も「槇の木」も私には同じように常緑で尊いと思います。
「29日に門松を飾ったので二重苦の災難に遇った」と想うのは、後講釈で迷信でしょう。
そこでクリスマス明けの25日に街に出て花屋さんで若松を二本求めました。リュックに松を二本入れて歩いていると弁慶の爺さんのように見えます。
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25日、背中に若松を背負って帰りました。
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26日松飾を終えました。後は元旦の朝紙垂を吊るすだけです。
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呉竹の笹の葉は半日で色褪せてしまいました。「西側」
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東側の松飾には歳神様が好きそうな「どんこ椎茸」を供えました。
26日の午前中には門松を飾り終えました。一夜松にしろ、二重苦の松と云い人の嫌がる事は例え迷信だと確信しても避ける事にしました。
ワイフは庭を掃除し終えましたし、犬小屋も防寒対策を終えました。君子蘭も温室に納まりました。唯一隼人瓜だけが松の梢にぶら下って”私達を如何してくれるのよ!」叫んでいるようです。隼人瓜には気の毒だけど、千成瓢箪の様に見えてお目出度いのでもうしばらくぶら下っていて貰う事に致しましょう。
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これは松飾の上、梅の梢にぶら下った隼人瓜です。千成り瓢箪のようで歳神様も気に入って下さる事でしょう。

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愛犬の乳癌騒ぎの顛末

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今春の飼い犬の定期検診で我が家に近い専門医で「「乳癌」と診断されました。
手術を奨められ総費用は私の胃癌を遥かに超える金額を提示されました。私の胃癌はアフラックや日本生命の保険が適用されましたから、入院が長い程、貯蓄が増えるような状況でしたが、飼い犬(チーコ/雌)の場合は違います。全額を負担しなければならないし、子供達も可愛がっています。と云っても現在の私には経済的に躊躇う金額でした。医師に方針を確認して貰うと、犬の乳首は左右二列に6つあるのでそれを全摘するのだそうです。イメージは鯛を三枚におろす時背びれの骨を取る要領で、チーコのお腹にメスを縦に入れて乳首を6個数珠繋ぎに摘出するそうです。乳首一つが10万それに入院費等を加算すれば百万を超してしまいます。「ペット保険」が必要になるわけです。
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現在の愛犬「チーコ」は我家の三代目です。初代は写真右のホワイトテリアでした。2代目は左のビークルでした。手前の置物は2代目の死亡を嘆いて製作玄関に置いているモノです。
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初代も二代目も亡くなると庭に埋めて弔いました。墓石は私の好きな弥勒菩薩にしました。
私は脳梗塞の後遺症からのリハビリ途上です。今チーコを見捨てるのは忍びえませんし、若しもチーコが乳癌が原因で命を終えれば、私の未来も無いような気になりました。そこでチーコに向かって話しました。
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此れは今年の4月の定期検診予防接種で「乳癌」と判定されたチーコのお乳です。黄色いのは病院で薬を塗ったからです。
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この写真は娘夫婦がチーコをシャンプーしてくれた直後の写真です。清潔にしておけば痒くもないし、乳房のシコリも組織にまで浸透していないと思われました。要するに「チーコは仮想妊娠した」ので乳房が膨れたと判断したのでした。
「済まないが親爺の経済力は昔と違ってお前の手術費も儘ならない。此処はお前の生命力に賭けて自力で治癒して貰うほか無い」親爺も頑張ってリハビリするからお前も生命力を燃焼し尽くして自力回復して欲しい!」
心配顔の娘夫婦には「手術をすれば、傷跡の治癒だけで今夏を超すのも大変だろう。今回はチーコの生命力に賭ける事にしたいどうだろうか?」娘夫婦も今年娘に恵まれ自宅を取得する決断をしました。私にもっと甲斐性があったら良かったのですが長銀の破綻以来ズット経済的にも逆風続きです。娘夫婦は万事見通して同意してくれました。
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最近のチーコ食欲は旺盛だし排便も順調です。防寒対策も終えた犬小屋から出て障子を洗うワイフにじゃれていました。
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構って欲し気げなチーコ洗い終えた障子の桟ンおの向こうから見ています。
私が思い当るのはチーコの食事でした。家族の食べ残しを食べていた先代愛犬(チコ/ビークル)は癌にはなりませんでした。今回チーコとの違いはチーコは有名メーカーのドッグフードを食べているのです。ドッグフードは明らかに動物性蛋白と脂肪分を小麦粉に入れて練っています。動物性蛋白や脂肪に発癌性物質が多量に含まれていた懸念もあります。人間の腫瘍にも悪性良性があります。チーコの乳頭の下部は膨れていますが悪性とは限りません。仮想妊娠でオッパイが腫れて来たのかもしれません。加えて蚤でも湧いて居れば痒くて掻くので乳首から出血しているのかもしれません。娘夫婦は再三綺麗に洗ってお腹を清潔に保ってくれました。私はチーコのオッパイを全部触ってみました。確かに膨れていますがシコリは無いような気がしました。ネットで調べると「犬の癌の中で最も症例が多いものの一つが腫瘍で、乳癌(乳がん)と識別困難』とされていました。人間と同じで悪性な乳腺腫瘍を「乳癌」呼ぶモノノ単なる「腫瘍」も多いようです。チーコの掛かり付け医院では疑がわしくは「乳癌」と判断しているような気がしたのです。
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此れがチーコを乳癌と診断した「布川犬猫病院」です。
結果乳癌騒ぎ以来チーコの食事も高級品に代わり再三家族の食事のお裾分けに預かるようになりました。お八の「ビーフジャーキー」も「干し芋」も家族が試食してからあげるようになりました。その成果とは言い切れませんが、昨今のチーコはすこぶる健康で、良く食べるし排便も順調です。ワイフも嬉しそうにウンチを片付けて棗の樹の根元に埋めています。棗が良く稔り栗南瓜の出来が良かったのもチーコの「快ウンチ」のお蔭です。ワイフがプランターにチューリップの球根を植えて居れば「かまって欲しい」と擦り寄っています。26日は私は「門松」を飾りました。ワイフは和室の障子を張り替えました。色々在った2017年も無事終えそうな気配です。元気なチーコを観て安堵しています。幸い私もチーコに負けずに私のリハビリも順調に進行しています。「禍福は糾える縄の如し」を地で行く2017年でした。孫も若竹・若松の様に成長していますし、三男も伴侶を得ました。2018年はどんな幸福に預かるか楽しみです。


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エプソンの商売手法に疑問

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スマートフォン市場は楽天の加入で一層激しくなりそうな気配です今年の1月総務省が「携帯電話機やスマートフォン」の割引販売の自粛を求めました。消費者にとっては競争の結果価格が安くなることは嬉しい事です。それを自粛させるのは疑問でしかありません。
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2017年は総じてお佐川瀬だった高市総務大臣4月には携帯端末の販売価格の適正化を標榜し、消費者の批難を浴びました。小池都知事人気を呼び込んだともいえます。後半にはNHKの受信料問題でも事業者寄りの判断をしました。
高市早苗総務大臣に非難が集中しました。産経新聞は非難しましたが読売等のマスコミは「携帯価格の不明瞭さを改めるモノである」と企業寄りの解釈をしました。確かにあんなに便利で精密な装置を唯で買える筈ありません。先ずは市場シェアを重視して、装置は安く販売して、後で電話料金で稼ごうとする商売は解り難いモノです。この際端末機の極端な値引き販売は止めて携帯電話機の価格を明瞭にし、利用料金も明瞭にして貰い、実質どの程度の割引を適用したのか明白にして欲しいモノ」期待を述べて幕引きされてしまいました。
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私はエプソンの4色プリンターを2器揃えて使っています。PX504Aを使っていたのでしたが駆動装置のゴムが伸びたので修理に出しました。ところが期待通りに動かないので後継機PX045Aを購入しました。インクがPX504AもPX045Aにも共用できると思ったら違いました。そんなことも在ったし、両面印刷はPX504Aが出来てももPX045Aは出来ないので双方置いて使い分けています。一般に後継機と云えば前の装置とスペックは同じものを云います。エプソンの場合は最廉価機と云う意味で後継機なのです。
異常に廉価だと思うのはプリンターも同様です。この12月も年賀状の印刷を見通してプリンターの販売が熱を帯びていました。プリンターの機能や構造を観るに5,6千円で販売出来る筈ありません。末端が5千円と云う事は工場原価は2,3千円と云う事でしょう。。2千円で工場出荷したプリンターがヨドバシカメラで5千円で販売されていると思えば大凡当っているでしょう。以前のプリンターは良く壊れました。印刷用紙の送りが上手くゆかず、噛んでしまったり、インクケースを送るゴムが伸びてしまったりしたのでしたが、最近はそんなトラブルも滅多にありません。実際に製造している中国の品質管理が向上したのでしょう。でも、もう一方で事業の不明瞭さは一向に改善しません。万年筆のインクに較べてもプリンターのインクは異常に高いのです。それに昨今はエプソンの印画紙の値上がりピッチの速さは常識を逸しています。26日も上大岡のヨドバシカメラに行って驚きました1箇月前はA4印画紙100枚を1930円で求めたのでしたが、
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左はヨドバシカメラで買い置きしておいたA4印画紙1930円/100枚同じものが同じ包装で4300円になっていました。仕方なくエレコムの印画紙1690円(50枚)を購入しました。
今回は4300円に倍以上値上がりしていました。プリンター本体は安く販売してもインクや印画紙で稼げば良い」判断でしょう。エプソンもキャノンも我国を代表する企業ですし、経済界をリードする名門企業です。それが相変わらずの不明瞭な価格体系で事業を続けているのは不満です。そうした体質からは大きな破綻を露呈するモノです。今回もカレンダーを印刷している途中で、インクが不足してしまうと印刷を中断してしまいます。印刷を中断しても、インクを挿入したら印刷を再開してくれれば良いモノを。中途で吐き出してしまいます。結果半分まで3/4迄印刷して廃棄されてしまうのです。
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4色あるインクボトルの残量が減ると印刷は中断して印画紙は印刷途上で排出されます。紙もインクも無駄使いです。この時のストレスは大変なモノです。写真は2018年用のカレンダー製作途中で中断し、廃棄の運命になった写真です。
何時までこんな不愉快な状態で事業を続けているのか疑問です。時計のセイコー社(服部時計店)の恥じです。

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『穢れ/けがれ』の民俗学

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12月27日(水)はラジオで24節季の「麋角解」(さわしかのつのおつる)に当る報じていました。「さわしか」とは大きな角を持った逞しい雄鹿の事だそうです。その大鹿が角を落とすのだそうです。ラジオを聞いていながら私は春日大社の森の中で神使の雄鹿が自慢の角を落とす様子を思い浮べました。
我家の庭の「隼人瓜」も梅の梢からポトンと地面に落下しています。
古代大和朝廷の統一に際して南の隼人と北の蝦夷が抵抗しました。隼人も蝦夷も総じて云えば縄文人で大和朝廷は養老4年(4年/720年」大伴旅人を派遣して隼人を征服しました。
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此れは大隅半島にある「隼人塚」です写真出典ウィキペディア
勇猛果敢な隼人も矢が尽き刀が折れたのでしょう。隼人瓜も勇敢な隼人の名を冠しているだけに生命力旺盛な瓜です。我が庭でも木瓜の木や梅の梢を覆って繁茂していました。その成果がこの晩秋沢山の実になりました。
流石に南国の植物で寒さは苦手のようで、弦が枯れると、実を落します。落すところは大鹿の角と同じです。役割を果たしたら次世代に役に立つのが自然の摂理です。
屋根の上の隼人瓜は夏中盛んでしたが霜が降りはじめると勢いが無くなってしまいました。大和言葉で云えば「気」が枯れた状態です。宮本常一氏の著書では「気が枯れた状態を『けがれ』と云ったそうです。漢字に転換すると「穢れ」とか「汚れ」になりますが。日本民族の「宗教観・倫理観」の根本を為す概念です。テレビでは薬師寺の仏様のお身拭いを報じていました。若いお坊さんが白衣の上に墨染衣を着こんで竹箒で埃を叩いて雑巾でお身体を拭います。雑巾はタオルで汚れをふき取って桶には米のとぎ汁を用意して汚れた雑巾を絞るのだそうです。お身拭いで使用した雑巾の御利益は大きく、その雑巾で顔を拭けば美顔になれるし。腰に当てれば腰痛も消えるそうです。でも誰にでもご利益があるわけでは無く信じている人だけにご利益があるのでしょう。
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薬師寺の薬師三尊お身拭い様子写真出典薬師寺HPhttp://www.nara-yakushiji.com/contents/nenmatunensi/index.html

けがれの「け」は「気」の意味で生気の「き」の事でしょう。生気が枯れて消えてしまえば「死」です。けがれを拭い去る事は「死」を遠さける事を意味します。葬儀の後では死の穢れを塩で浄める事を意味します。身内の葬儀があればその穢れを他者に移すことを避ける為にも1年間は忌みに籠ります。穢れ特に死者の穢れを忌む事を「黒不浄」と呼びます。「黒不浄」は「赤不浄/血の穢れ」と共に穢れの基本概念です。1年間は忌み籠る事が慣習です。年賀状も正月行事も避けなくてはなりません。死者儀礼は1年に留まらず33年49年50年と長期に亘って供養する事によって穢れを拭いされます。私の父は葬儀の後の説教で回忌法要を『33年も経つと故人の骨も大地に戻るし、人々の記憶からも消えます。遺族の方は回忌法要を営む事で個人も往生できるし、力強く生きてゆけるモノです。』話していました。
遺族が逞しく生きてゆくことが故人の何よりもの供養になるのは明瞭ですし、遺族も励みになるモノです12月16日には世田谷の実相院に佐々木一雄先生の墓参りをしました。私の病気も目途がたったので報告に墓参したのでした。
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墓参りも神社詣でも、手を浄め口を灌ぐのは穢れを落とす為です。墓標に水を灌ぐのも故人の穢れを落として成仏を願う民族の習俗です。
昔日先生の俳句が佐々木嘉信先生の墓前に奉げられていました。
「親爺に 話ししたくて墓参り」
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佐々木一雄師の隠居庵跡は多宝塔が建立されました。背後の赤松は鶴松院実相院のシンボルでした。墓参りは故人の成仏を願う儀礼ですが、墓参りを終えた清々しさは墓参者の生き様に反映されます。「故人と生人との交流の場」です。
私達の立場では親爺を「仲人」に代えればピッタリです。
私も何組か仲人をしました。賀状も欠く人が増えて来ました。それも結構でしょう
23日出状した年賀状が何枚か「転居先不明」で戻って来ました。今日は出状し直します。この歳になると引っ越しする人も多いのでしょう。松の内に賀状が着くと確信するのは気持ちの良いモノです。神社に初詣した穢れを落とした時に似ています。


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「鶉の啼き声」

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昨年の夏に孵化した鶉二羽は順調に生育しています。明け方4時になると決まって「ピーヨ・ピーヨ」啼いて私は目覚めます。朝食を取りながらワイフと話します。
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此れは我家で飼っていた鶉です。姿が雅である事と納豆を食べる時に薬味と卵とを入れて食べるのに重宝していました。ところが2017年春に一羽が逃げてしまいました。
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其処で鶉を補てんする為我が家で孵化させました。7個中2羽が孵化しました。でも雌であるか確信は持てません。
「今朝も鶉の啼き声で目覚めた、鶉は鶏のように朝告げ鳥なのだろうか?」
云えばワイフは百人一首の藤原俊成の歌をとって夕暮れに啼くモノよ!」云います。
 夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり  深草の里
たいていの鳥は明け方に啼くものです。夕暮れに啼く鳥等滅多にいるモノではありません。 俊成は鶉の啼き声を知らなかったのかもしれません。古代から中世への過渡期、俊成は中世の美観に敏感で「このはずく」か「キジバト」の啼き声を鶉と聞き間違えたのかもしれません。
何しろ上記の歌は鶉でないと意味ないのです。
「鶉啼くなり深草の里」 の「下の句」は「伊勢物語」の123段の話を典拠として詠んでいるのです。捨てられた鄙の女が寂しい寂しい恋しい恋しいと泣いているのですから。夕刻に啼く「不如帰」や「郭公」のように姿も美しく声も雅であっては意味をなさないのです。
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坂井抱一の鶉図(この絵も伊勢物語深草の里を画題にしています。
この歌は「伊勢物語」の123段の話を典拠として詠んでいます。
男に飽きて来た深草の里の女に、
「私が出て行ったら、ここは深草の名の通りに一層草深くなって野原となってしまうだろうなあ」と冷たく言い放ちます。
つ男に対して、女は次の様に和歌で答えます。
野とならば 鶉となりて 鳴き居らん 狩にだにやは 君は来ざらん
おっしゃるように、ここが野原となってしまうのなら、私は、見捨てられた場所に相応しい鶉の様な女になって狩に来る貴方を待ちましょう。
男は感心して女を捨てませんでした。
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「深草の里」で想い起されるのは小野小町を弔ている「京都深草の随心院」です。此処に住んでいた絶世の美女に恋した深草の少将は百夜通いを約束しますが、約束を果たす直前に命を落とします。
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随心院では梅の季節に雅なお祭りを実施します。去年の夏に友人と訪れました、次回は紅梅の咲く季節に登りたいものです。

夫婦の結論は藤原俊成は美意識優先で実際に鶉の啼き声を知らないで和歌を創作した事になりました。正岡子規に報告したら怒る事でしょう。俊成と云えば定家のお父様、我が日文研の指導者T教授が敬愛する定家が選んだ百人一首ですから、このブログ記事が真実なら物議を醸すことでしょう。戯れの鶉の孵化飼育ですが、色々面白いモノです。来年の春には卵を産んで美味しく納豆が食べられるか?楽しみです。でも2羽とも雄だったらどうしましょうか?

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北朝鮮問題の行方

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濁年晩秋に、津軽の深浦に行きました。天然記念物の大銀杏を観て千畳敷の石仏を観て戻りましたが、名物の「烏賊のカーテン」は烏賊漁が不漁で観られませんでした。今、思い返せば烏賊の猟場は北朝鮮漁船が出漁していて、危なくて近づけなかったようです。
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これが深浦漁港の山側にある大銀杏です。11月中旬でも黄葉の盛り寸前でした。私達が帰ったら直ぐに雪が降ったので、大銀杏は吹雪の中で迦楼羅を飛ばしたのでしょう。
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これが深浦の名勝「千畳敷」大銀杏や深浦漁港は北『右側』にあります。海の向こうは北朝鮮です。
冬になると北朝鮮の木造船が深浦の港に漂着し、烏賊漁に彼等が日本領海まで出てきて密漁していた実態が解って来ました。矢代亜紀の「舟歌」のフレーズ「「肴はあぶったイカでいい」の烏賊も縁遠くなってしまいました。
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此れは通販サイト「甲羅組」のスルメ烏賊3240円/5杯です。出典http://ymall.jp/store/kouragumi/200030/
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北朝鮮の木造船写真出典共同通信社http://www.1242.com/lf/articles/82534/?cat=politics_economy&pg=asa
海上保安庁の巡視船に曳航されて深浦漁港に着岸した舟を観ていると、私はロヒンギャ問題を想い出しました。ロヒンギャ問題は『ミャンマーとバングラデシュの国境」に住む人口130万余りの民族です。
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これはロヒンギャ難民(ベンガル人)がバングラデシュに逃亡するするもの写真出典は国連難民事務所https://www.japanforunhcr.org/lp/rohingya
国連によると、イスラム系少数民族ロヒンギャ12万5000人がミャンマーでの暴力から逃れ、バングラデシュへ逃亡しようとしているのです。国籍を持たない少数民族に対する弾圧は、イスラム運動を煽り緊張の度合いを深めています。国連で北朝鮮対策を民生品にまで禁輸すると、追い込まれた北朝鮮の人民は黒竜江を渡って中国に逃げるか、韓国に亡命するか、木造船で日本海を渡る他ありません。北朝鮮を追い込む政策は「北朝鮮難民対策」も考えておかないといけないのでしょう。北朝鮮難民が深浦で「スルメ烏賊」を作るような事態も予測して奥必要があるのかもしれません。
ミャンマーのアウン・サン・スーチー国家顧問兼外相は民主化の旗手として欧米各国は称賛していましたが、今回だけは地に堕ちた偶像のようで精彩を欠いています。ミサイルも核爆弾も困ります。でも、行き場の無い小国を苛め抜くのは仁徳のある国家にあるまじき行為です。窮鼠猫を咬むの例え話もあります。トランプは相手にせず、習近平国家主席と同じ儒教国同士協議して、難民対策を日中韓三国で準備しておくべきでしょう。

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日馬富士問題の顛末

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12月29日長男が泊まって行きました。時々本社にお顔出しして。その帰りに私達夫婦の様子確認をし、孫の「お年玉」を預かって名古屋に戻りました。
食卓で、新聞の「相撲協会理事会の記事を読んでします。
理事会では貴乃花親方の行為は理事として相応しくないので、「理事を自発的に降りるか?」確認したのだが親方に拒否されたので降格の権限のある「評議会」に付議して貰う事にしたそうです。息子に「親爺は如何思う?」訊かれたので私は次の様に答えました。
「理事会と云えば企業の「取締役会」取締役会で「貴乃花取締役に辞任を促したのだが聞く耳を持たなかった其処で取締役会の上位にある「株主総会」に取締役会の意見を添えて「辞めさせたい認めて欲しい!」付議したという事でしょう。一般企業でも、こんな事件は多多ある事で、例えば日産や神戸製鋼で「品質管理に重大な犯罪がある」気付いた職員は上司や組織に報告すれば「握り潰されるかも知れない、そこで司法や監督官庁やマスコミに垂れこむ」その行為は「正義」として首肯されるが、組織人間としては問題視されてしまう。今朝の新聞では、貴乃花親方が非難されているのはマスコミとして立ち位置が間違って要る様に思う。
読売系の報知新聞も)週刊新潮もどちらかと云えば「貴乃花寄りのスタンスで「正義」は貴乃花にあるといったスタンスで下が、肝心の読売新聞の社説12/29日は「日馬富士の暴力は許されない」と主張し、看板横綱が扇動した暴力を誘発した現執行部の責任については目を瞑ったままでした。角界の暴力問題は稽古の名を借りて若い命を奪ったのはつい3年前でしたのに。
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週刊新潮の記事はどちらかと云えば貴乃花寄りでした。
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報知新聞のスタンスも貴乃花に贔屓目でした。
『貴乃花の理事降格を決議して貰う為に評議員会に決議して貰う』理事会で決議された以上貴乃花の理事降格は決定的でしょう。これが覆ったら、相撲協会は組織不全の烙印が押されてしまいます。貴乃花追い落としの包囲網は完璧でしょう。八角理事長の主流派の完勝で幕が降りる事でしょう。このような主流派反主流派のトラブルはどんな組織でもあることで、「気の毒」なのは日馬富士です。ソモソモ日馬富士が引責引退しなくてはならないような問題だったのか?判官贔屓の世論は事態を混沌とさせた「貴乃花」の頑迷さに批判的です。
何をおいても私は相撲が好きで、小兵でも「スピードと技の切れ」そしてメンタルの強い日馬富士bの勇姿が観られないのは残念でなりません。どう見ても貴乃花親方は視野が狭く今の儘では理事長の器ではないといった評価を固めてしまいました。





御神籤の民俗([ 鶴岡八幡宮にて)

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2018年の元旦、我が家の近くのバス停から、鎌倉八幡宮行のバスがでます。正月三が日だけの臨時ダイヤです。直行バスが無ければ戸塚駅から鎌倉駅迄JRに乗って、鎌倉駅からは歩かなくてはなりません。昨年は三溪園に出かけ筝曲の演奏を聴いたのでしたが、今年は久々に鶴岡八幡宮にでかけました。バスは八幡宮裏の大駐車場が終点で、歩けば百メートル足らずの処「三の鳥居」まで回り、正面から太鼓橋を渡って本殿に向かいました。流鏑馬道の辺りに縄を張って、その先には入場制限をしていました。”混雑で事故が起きたら大変”警察署の配慮です。加えて八幡様の周辺は車道は通行制限され小町通りの歩行者天国が若宮大路や八幡宮周囲の通りまで広がっていました。太鼓橋から60段の石段の上、本殿前に辿り着くのに1時間は要してしまいました。自ら「随分我慢強くなったものだ」感心していると、鎌倉警察署の整理員がアナウンスします。
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初詣の鶴岡八幡宮の周辺道路は歩行者天国です。左の鳥居が三の鳥居です。
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元旦の八幡宮は太鼓橋を渡った辺りから進行禁止で、参拝数の整理を実施していました。20m進んで15分待つ状態でした。此処から向こうの本殿前まで1時間かかりました。
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本殿前で右の人は祈祷をお願いしている人です。男子神職の袴は白と浅葱色がある事に気付きました。
「皆様は実に我慢強くされて『初詣』されています。神様も感心して、観ておられるでしょうから、ご利益は間違いありません。お賽銭は正面から入れても脇から入れても御利益に違いはありません。本殿の前に出られましたら、正面に集まらずに左右に広がって下さい。決して立ち止まってスマートフォンで写真を撮ったりしないでください!。」渋谷のDJポリスが鎌倉警察署にも居るようです。
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鶴岡八幡宮の本殿前西の御神籤やお守りの販売施設
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八幡宮本殿前、長い石段を登り終えて晴れ着のお嬢さんたちも一息です。
お賽銭を投じて柏手を打って祈願も終えたら、次は「御神籤」です。同じ御神籤なら一番綺麗なお巫女さんに手渡して貰おう期待して、御神籤売場に行きました。テーブルの上に四角い箱が立っていて、「ガチャ・ガチャ」回すと筮竹撰が出て来ました。
竹は神意を窺がう道具です。竹製の櫛は神話に再三出て来ます。私の引いた筮竹は5番と記されていました。巫女さんは目敏く5番ですね、確認されて5番の「神籤」を手渡してくれました。
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御神籤売場、筆者が美しい巫女さんを視るように女性もイケメンを観るのでしょう、イケメンが並んでいました。
5番の神籤は「吉」で、次の歌が記されていました。
みわたせ ば雲ゐはるかに雪白し ふじの高ねの明ぼのの空.
 (自宅に戻って確認すれば実朝の作で金槐和歌集三六六に収録されているそうです。流石に青年将軍実朝らしい爽やかで気有壮大な歌です。
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これが私に対するご神意です。最初に御神籤を作られたのは延暦寺中興の祖「元三大師」の百籤で形式もそれに従っていますが。御神籤の数表現は各寺社の創意に依っているようです。
ワイフは
「私は御神籤は苦手なの!親友と来た時に何度曳いても「凶」だったの!」言います。以来御神籤は「曳かない主義」のようです。
御神籤を花の様に結んだ縄を観ながら「凶の御籤は如何した?」確認すると。
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御神籤で花の様に結ばれた縄。御神籤は神意で「解りました神様、ご神意に留意して過します、神様と私を結びつける印に御神籤を結んで帰ります」そんな行為のようです。
良く見ると柱に「凶」の御神籤は赤い箱に納めるように案内されています。
ワイフは「凶の御籤」は「赤い箱」があるので其処に納めた」言います。確認すると本殿の左(西)に凶の御籤を納める赤い箱がありました。箱の上には鏑矢が置かれていて。御神籤を赤い箱に入れる手順が説明されています。御籤を折って結んで「鏑矢の鏑」を握り回転させながら御籤を赤い箱に納めるよう手解きされていました。
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これが本殿西側に設えてあった「赤い箱」です。「御神籤」が「凶」であった時には、矢を回しながら”神意は承りました。留意しますですから、運勢を変えてください”と念じるのだそうです
どうも、神意は人間の「運」は巡るモノなので、今日の神意は「凶」であっても何れ「吉運」に転じる、転じる事を心中で祈りながら御籤を神の元に「お返しする」行為のようです。
私の御籤は「吉」でしたし、和歌も実朝の格調高いモノなので、大切に持ち帰って今年の「戒め」にすることにしました。見れば脇に「鳩御籤」が置かれています。此方は箱の中に手を入れて随意に御神籤を曳くスタイルです。
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こちらが「鳩御籤」です。白木の箱に手を入れて御神籤を曳くだけです。案内を観れば御神籤に可愛い鳩の「根付け」が付いています。筮竹の御神籤は100円で鳩御籤が200円と格差があるのはこの根付の差でしょう。
御神籤を考案した人は一般に「元三 ( がんさん ) 大師」と云われています。平安時代中期比叡山延暦寺の中興の祖で、円仁と呼ばれ、陸奥の「天台寺」を始め「中尊寺」「山寺」等を創建した高僧です。
私の学生時代「ライシャワー駐日大使が円仁の「入唐求法巡礼日記」を上梓されて話題になりました。その前にはケネディーが「上杉鷹山」を紹介され、当時の米国政治家や外交官の優秀さに驚いたモノでした。
円仁が唐に留学していたので唐の寺で「御籤」を知り、日本に輸入したのではなくて、日本での布教活動の中で考案したモノだそいうです。
「御神籤」は円仁によって「仏籤」として、始まり、次いで神社が倣って「御神籤」になったモノでしょう。
御神籤は「お札」に発展します。「お札」を上手に活用したのは「一遍合上人」で「熊野権現」のお札を「遊行踊りする信者に播いたのでした。
幕末には「伊勢神宮や八坂神社のお札/天王の神意」が舞って、「王政復古」が神意のように思われたのでした。
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これは元三大師が配られた「護符」です。護符や「御神籤」等布教に際してアイディアマンだったようです。深大寺に行くと本堂より立派な元三大師堂があります。護符をデザインした。石仏も祀られています。
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此れは深大寺にある元三大師堂前の護符をデザインした石仏です。春になると「なんじゃもんじゃ」の花の傘の下になります。次に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893299.html?m=lc&sv=%A4%CA%A4%F3%A4%B8%A4%E3%A4%E2%A4%F3%A4%B8%A4%E3&sk=0
御神籤は綺麗な巫女さんに手渡して貰って100円、一方鳩御籤はセルフで済ませて200円です。どうも価格が割に合っていません。不本意そうな私の表情を観てワイフは教えてくれました。
「鳩御籤は御籤の他に鳩のアクセサリー(根付の様なモノ)が付いているので、100円は「根付」だと思えば良い。教えてくれました。八幡宮の鳩の根付なら私も欲しいたモノ。今度来る時には綺麗な巫女さんに吸い寄せられないで鳩御籤をセルフで引く事にしましょう。
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この鳩の「根付」が「鳩御籤」にはついているのです。
御神籤の基本スタイルも円仁大師が考えられ、それをベースに作り替えられて来ました。円仁の考案した御神籤は一般に「元三大師百籤」と云われています。百籤と云っても百種の御神籤が用意されているわけでは無くて鶴岡八幡宮では50番までの様に見えました。
昨今は盛り場では「運勢占い」が人気です。トランプだ星占いだ、昔ながらの筮竹を使うもの以外にも世界中の占が並んでいます。日本人は世界中の料理が好きなように占いも世界中の占が好きなようです。
横浜中華街では中華料理店が閉じられると直ぐに占い屋台が出て来ます。平安時代も現代も「占い」は人気です。
日本民族固有の問題と思えば世界中で盛んです。星占いが盛んであったから聖書では「占いを禁じ」厳しく神の声に耳を傾ける様に、戒めたのでしょう。

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「赤不浄」「黒不浄」の意味

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元旦に鶴岡八幡宮に初詣して思いました。思いついたのは「巫女さんの朱の袴」を観て「凶の御神籤」を「神様お戻しする「ポスト」が朱色である事を確認した時です。お正月は日本民俗に共通する「ハレ」の日です。何処を観ても朱が眼に付きます。まさに「ハレ」の色は「朱色」です。
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鶴岡八幡宮の稲荷神社の朱の鳥居は芸能人の蛭子さんが寄進しておいででした。
八幡様の巫女さんの袴は朱色でした、棘ぬき地蔵通りのお婆ちゃんのパンツも朱色です。朱色は魔物を避ける色だからでしょう。魔物に汚れると病気になって死んだり腐ったりする、そんな体験から「ハレ」の色は朱で、「穢」の色は林檎が腐ったような黒で炭が燃え尽きたなのでしょう。黒死病や黒カビが黒を「穢」の色である事を示しています。
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これは八幡宮の雪洞に灯りをつけに出かけるる巫女さんです。朱色の袴は「ハレ」に最も相応しい正装だと思います。神様が最もお好きな色です。
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明治時代の風俗写真鎌倉大仏で、普段着は「穢」の服装とわきまえていました。日本民俗は「ハレ」と「穢」を使い分けて来たのです。使い分けの出来ない人は軽視されました。使い分けは着物だけでは無く食事や言葉遣いまで広汎に及びました。
一方民俗で「ハレ」の反対概念が「穢れ」の「穢」です。晴れ着は「ハレ」の日に着る正装です。一方「普段着」は「汚れても良い労働着」です。柳田国男は「ハレと穢」を著し『ハレ(晴れ、霽れ)お「穢」は日本人の伝統的な世界 観』のひとつで 「ハレ」は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」で、ケ(穢)は普段の生活である「日常」と指摘しました。ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、「穢」とは明確に区別しました。ハレの場である「元旦祭」に普段着で参列すれば、非常識の烙印が押されてしまいます。ですから、元旦祭には結婚式と同じ正装で参列します。「凶」の御神籤を赤い箱に戻すのは何故かと思います。朱色の箱は「ハレ」のの入れ物だからです。
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これは青木繁の黄泉比良坂です。古事記では「イザナギ」は妻「イザナミ」の死を悲しみ黄泉に出かけて呼び戻そうとします。しかしイザナミの死体は腐乱しています。驚いて黄泉の国から逃げ戻ろうとするイザナギを醜い鬼が追いかけます。この黄泉と現世を繋ぐ坂が黄泉坂です。地底から醜い鬼が追いかけてイザナギは明るい現世を逃げて行きます。地上に逃げ戻ったイザナギは「禊ぎ」をして「穢れ」を落とします。黄泉の国で汚れた衣服などは現世で穀物になったりします。禊ぎを三度しますと、左の眼を洗った時生まれた神を天照大神、右の眼を洗った時生まれた神月読尊、鼻を洗うと素戔男尊が洗われます。この段は「死」が腐敗を呼ぶ醜い世界であり、禊ぎをすることによって穢れが洗い去られる事を示しています。

ケ(穢)は日常の現実生活で、汚れや穢れにまみれています。ハレの場に出る時には禊ぎを行い、穢れの無い心身にしたのでした。穢れの無い心身からは幸福が遣って来ると信じたのでしょう。私の直感ではこうした「ハレ」とケ「穢」の感覚は仏教以前からの伝統であり、強いて言えば縄文時代弥生時代古墳時代を通して培われた、倫理観宗教観だったと思います。ところが仏教が伝来します。仏教と従来からの神道とは対立します。とりわけ従来は土葬をして来た民俗にとって「火葬」は馴染めないものだったと思います。葬儀の仕方を巡って「神道」と「仏教」とは対立したモノと思われます。「赤不浄」とは「血」を「穢れている」と忌避する事でした。出血は死に直結するから穢れていると忌避されました。一方「死」そのものを忌避する習俗が「黒不浄」です。葬式に参列すれば「穢れる」思いましたから家に戻れば「塩」で穢れを浄めます。本来は塩水で身を浄めるのが仏教以前の習俗だったのでしょう。

葬儀のあった家では出入り口を半紙で蓋をして「忌中」と墨書しました。「家に籠っている穢れが外に出て他家に伝播しないよう慎んだのです。決して「忌中なのでハレの場に誘わないで下さい」案内したのではないでしょう。黒不浄では死の穢れを閉じ込める事に神経が集中します。死の穢れには悪魔が依ってきて更に死の不幸を拡げようとするからです。
入棺には様々なタブーがありますし、死に装束や持物も独特です。中世以降はお遍路さんの衣装を着せて6文銭と頭陀袋を持たせました。これは仏教の影響でしょう。刀剣を棺箱に入れるのは、古墳にも確認できるので仏教以前からの習俗でしょう。
問題の所在は古墳時代から飛鳥時代奈良時代にかけて行われた葬儀の形式の変遷に現われて来ます。
古墳時代の大王は総じて前方後円墳に埋められましたが、仏教の浸透に伴って火葬によって、釈迦と同じような仏塔に納められるようになります。仏教墳墓と云えば持統天皇、天武天皇陵です。
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此れが明日香にある天武持統天皇の合同陵です。従来の前方後円墳では無くて仏教墳墓ですし、内部には火葬した骨が納まられています。
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持統天皇陵の説明版。金銅製の骨蔵器の火葬された骨が納められていたと推測しています。
現在の天武持統天皇陵は土が盛られていますが。四方の石積みから八角五段のピラミッド型墳墓であったと推測されています。薬師寺を建立した古代の大王夫妻は仏式で葬儀を終え、仏式で埋葬されたのでしょう。
持統天皇陵の盛り土を剥ぐ事は出来ないのでどんなものだったかを想像すると持統天皇の末裔で聖武帝の娘だった孝謙天皇に仕えた「玄」の墓と伝えられる「頭塔」が奈良市内にあります。
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これは奈良市内割り石にある「頭塔」と呼ばれる墳墓です。ピラミッド型の段丘墳墓で瓦の下には方形の祠があって、石仏が納められています。
処で現代を生きる私達は「ハレ」は神式で「穢」は仏式で使い分ける習俗が一般化しています。此れを間違えると「とんでもない世間知らず」の汚名を被ってしまいます。
私達の葬式の習俗を見直すと神式と仏式が混在しています。
例えば納棺に際して持たせる六文銭や頭陀袋そして遍路衣装は仏式ですが、魔除けの刀や枕飯や枕団子は神式というか人情に即したモノです。総じて神式の習俗が解り易いのは神式習俗の方が人間性に基づいているからでしょうか?
もう私も6度目の歳男です。習俗を考えるまでも無く、自然に理に適った生活をしたいものです。




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鶉が初めて卵を産む

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2018年1月2日、長女夫婦が大晦日から来て宿泊していってくれます。お蔭で賑やかな良いお正月です。加えて2日には三男が彼女を連れて戻ります。
私は玄関に置いた鶉小屋が匂い出したので、小屋を掃除して入れ替える事にしました。掃除をしていて発見しました。小さな翡翠色の卵が転がっていたのです。未だ孵化して3箇月です、こんなに早く卵を生んでくれるとは思いもしませんでした。精々桜の花が咲く頃まで辛抱しなければならないと思っていたのでした。それに、2羽とも雄のリスクもあります。その場合は鶉の卵かけ納豆は諦めなくてはなりません。
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此れが私の好きな鶉の卵かけ納豆です、白い部分は山芋のすりおろしです。写真出典味の素クックパッド。

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この翡翠色の小さな卵が9月に孵化した鶉が産んだ初の卵です。大きい方の卵は以前から飼ってきた婆さん鶉が産んだモノです。
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これが鶉を飼育している水槽です。床に食べ残しと糞と水が入り混じって臭気を発します。玄関には相応しくないのですが、寒さに弱いので天井に穴を空けて発熱電球で暖房しています。昨年孵化したのは写真の二羽で白いのが産んだのが翡翠色の卵と思われます。最初に産まれたのが茶色の鶉で大人しいのですが、後から生まれた白いのは活発で、先に産まれた茶色のを苛めたり飛んで逃げたりお騒がしなので、私は白いのが雄で茶色は雌だと思っていました。
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事の始りは今春に鶉が一羽逃げてしまって、寂しくなったこと、好きな納豆の薬味に事欠くようになったので、もう一羽鶉が欲しいと思ったのでした。
鶏を飼っていて初の卵を産むと祖母に食べさせました。初卵は栄養価が高いので最年長者に食べさせるのが習慣でした。鶏は孵化して4ヵ月前後で卵を産み始めますが、
最初の卵は年寄りに食べさせ、と昔から言われております。
また、地方によっては、お産をする女性に食べさせると安産になるということで親しまれています。

初たまごは、若い鶏が産みます。
産み始めの若鶏は、『初たまご』と呼ばれる小さな卵をうみますが
味もそれほどまったりと濃いわけではないけど、美味しいです。
新鮮なので一層美味しいです。
私が鶉の卵が好きなのは卵一つ浮かべれば満月のようで綺麗な事もありますが味が濃くて食べ物が美味しくなるのです。納豆を一層美味しく食べさせてくれるので鶉卵が好きなのですが、昨今の薬膳ブームに沿って考えると「β-カロテン」が豊富に含まれているのです。「β-カロテン」には強い抗酸化作用があり、活性酸素の発生や酸化力を抑え、ダメッジを受けた細胞を修復し動脈硬化や癌の発生を予防できます。また、一部はビタミンAとして働きますので、視力を正常に保ち夜盲症を防いでくれます。どの薬膳効果も私は敏感にならざるを得ないのです。この歳になると体が欲しがる食べ物は自ずから薬膳効果がある様になっています。体が欲しがるモノを食べるという事は、旬を食べるのと同じように理に適っているのでしょう。
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此れはこの冬に芽を出し始めたどんこ椎茸です。この先3年位は収穫出来そうです。椎茸が成っているのを朝晩確認するだけで幸福な気持ちに浸たれるモノです。この上には隼人瓜がぶら下っています。
それにしても、生後3箇月足らずの程のヒヨコの癖にして卵を産むなんて驚きです。
鶉の肛門は精々5ミリでしょう。1㎝も在る卵を産むのはさぞかし大変で肛門も裂けるほどの苦痛だったことでしょう。そう想いながら鶉の顔を見ると飄々としています。
鶉の卵巣で用意された黄身は卵道を通る過程で白味や卵殻が周囲を囲みます。肛門から出る瞬間に卵殻は固まります。それまでは卵殻も白味もゲル状態です。小さな肛門から大きな卵が出てくるマジックは液体(ゲル)が排卵の瞬間に「個体(卵)」に変化する事なのです。
鶉も鶏も1日1個朝に卵を産みます。太陽光に反応して黄体ホルモンが排出されて排卵が促されるのです。既に1個卵を産んだ事実は今後毎朝1個ヒヨコは卵を産んでくれるのでしょう。
この寒い冬に鶉は初卵を産むは椎茸もどんこを生やすわ縁起の良い事ばかりです。鶉の卵かけ納豆を食べてこの冬も健康に過ごせそうです。


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困ったもんだ『霜焼』

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脳梗塞発症後5年目に突入して初めて困った事に遭遇しました。
左脚の指先「小指」と隣りの「薬指」が無性に痒くなったのです。
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失礼!これが私の左足の指です。小指の外側が痒くて困りました。確認したら霜焼けです。脳梗塞に依る左半身麻痺の後遺症で血行不良で霜焼けになったと判断しました。
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これは「名作おしん」です。子守りをしているおしんにも負ぶわれた乳児にも頬っぺたに霜焼けが出来ていて、普段以上に赤く腫れています。此れも霜焼けです。昔は靴下もないし素足に草履でしたから、手足の霜焼けは国民病だったことでしょう。
隔靴掻痒」と云った言葉は知っていても実感するのは久々です。一番痒いのは小指の外側です。靴の上から叩いても、痒さは一向に収まりません。今回も靴下を抜いて確認すると小指の外側が赤く腫れています。手で腫れた部分を揉むと瞬間痒さは収まりますが、靴下を履いて靴を履けいて暫く経てば再度痒さは復活します。
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昔は霜焼けが痒いと患部を火鉢で熱くしたものでした。

靴下を脱いで確認します。手で指を揉めば暫く痒みは止ります。でも直に痒くなってしまうのです。この痒さ記憶があります。子供の頃運動靴で遊んでいて、「霜焼け」が出来たのでした。金盥にお湯を入れて足を温め揉めば暫く楽になります。試してみたのですが高齢者の霜焼けは「そんな子供騙しは効かないよ!」云わんばかりの強烈な痒みです。血が滲み出て来そうです。揉んで治癒させることは断念しました。
靴下を羊毛製に代えて靴も内側に毛の付いているモノに代えてみる事にしました。
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霜降りは美味しい野菜の代名詞です。ほうれん草も小松菜も関東のお雑煮には欠かせません。この霜にも負けない強靱さを体内に取り込むのが「七草粥」です。お餅には神様の依った鏡餅を割って使います。

霜焼けの「原因と対策」を考えました。私は左半身が麻痺しています。原因は脳梗塞の後遺症です。左手左脚の血流が悪いので、何時でも冷えています。結果左脚の指に霜焼けが出来てしまったのでしょう。
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霜焼け対策は温かい靴を履く事と靴下を羊毛素材に代えたのでした。
霜焼けは血流が鈍くなっている所為で、未だ脳梗塞の後遺症を患っている証拠でしょう。当面前記対策を実施したので、幸い痒さを脱したのでしたが、後遺症を完治していないことを自覚させられました。


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「羽根つき遊び」の民俗学

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1月4日向ヶ丘遊園に在る川崎民家園に出かけました。例年は「三溪園」に出かけ「筝曲」を聴いたりしていたのですが、民家園で過すお正月」には「獅子舞」や「南京玉簾」が観られるのです。民家園は広大な生田緑地にあって「バラ園」と並ぶ主要な施設です。入れ物が大きいのに較べて来園者が少ないので何時来ても閑散としています。民家の庭は大抵が広いモノです。
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これは房総九十九里にあった作田家民家です。分棟型(ぶんとうがた)という民家で左側が母屋右側は鰯漁の網や櫓を納めて在ります。庭が広いのは此処に筵を敷いて茹でた鰯を干し上げる為です。
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1月4日の作田家住宅の庭、庭で正月遊びが出来るので大変な賑いでした。鰯を干した庭では都会の親子が「正月遊び」に興じていました。
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作田家の庭で「ベー独楽遊び」に興じる子供達実は子供以上に燥いでいたのは爺さん婆さんでした。この右では「独楽回し」「メンコ」、「竹馬」、「剣玉遊び」も用意されていました。
房総の民家は庭に「茹で上げた鰯を干します。『干鰯』と呼ばれる肥料にする為です。
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これは甲斐国塩山に遇った広瀬家、富士山に近いので強風対策で軒下が浅く、北面の荒壁の表情が美しくまるでミロの絵のようです。この庭で切干し大根を作り、大豆や小豆の鞘割をしたのでした。
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広瀬家住宅の軒下から庭を視る。庭では若い親子が「羽根つき遊び」に興じていました。
甲斐や相模や茨城の民家の庭では「大豆や小豆」「切り干し大根」を作ります。ですから、庭は総じて広いのです。そんな庭は普段は子供達の格好な遊び場だったのでしょう。「家庭」という言葉は家と庭で出来ています。庭が無くては家庭は形を為さないのです。マンションは家の内外が遮断されています。隣近所は壁で隔てられています。結果的に季節感の乏しい生活になってしまいます。
1月4日にはいつも閑散としていた広瀬家の庭に、正月遊びの道具が出されて子供達の歓声が響いていました。甲斐の広瀬家の庭ではチェーンでコートを仕切ってその中で「追羽根つき遊び」をしていました。
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広瀬家の庭は羽子板遊びの会場になっていました。懐かしい板絵に見入ってしまいました。羽の先端の黒いのが無患子/むくろじの実(種」です。
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羽子板には「赤い鳥」を舞台に活躍した矢部季等や黒崎義介風の懐かしい絵が描かれています。
私の生家の寺の庭でも昭和30年代までは近所の子供が追羽根をついて遊んでいました。「追羽根遊び」の羽根は無患子(むくろじ/数珠に用いられる木の種)の種子に羽根をつけて追羽根して遊びます。羽根突き歌を歌いながら遊びました。負ければ顔に墨付けされるのを含めて「厄除け」呪術が起源の遊びと思います。
ひとめ ふため
みやかし よめご
いつやの むさし
ななやの やしろ
ここのやで とお
羽根つき歌こそ聞こえませんでしたが、
広瀬家住宅も嬉しそうです。
若しかしたら「座敷童子/ざしきわらし」が縁側に出て居そうな気がしたのでしたがそれもありませんでした。
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縁側には暖かな日差しが射してお年寄りがスマートフォンを捜査していました。「座敷童子」は見えませんでしたが”久々の賑やかし良いので”、縁側に出ている気配を感じました。私達夫婦は孫にも恵まれたので精々昔遊びを教えたりしながら健康に過したいと思います。

歳末には浅草寺は「羽子板市」で賑わいます。
羽根つき遊びは一年間の営みで蓄積した「穢れ」に憑りついた厄を払うのが「羽子板」で羽子板を家に飾る事で厄を払い福の神に来て貰う呪術であったと思います。
室町時代には「胡鬼板/こぎいた」遊びが盛んになります。胡鬼板(こぎいた)とは蚊を喰う蜻蛉の形を模した虫で羽子板の原型と云われます。胡鬼板を使って羽を付いて遊ぶのですから平安時代の蹴鞠に似ています。毬を足で蹴るのは男性で女性は毬を無患子の実(種)を用いたシャトルにして胡鬼板で打ち返して遊んだのでした。無患子の種を災いの原因と思えば「悪魔祓い遊び」です。自分の家に来た悪魔を相手の家に打ち返すのです。悪魔が自分の陣地に落ちたら顔に墨を塗られるのです。
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浅草寺仲見世の羽子板市は歳末納めの市で東京の歳時記です。でも大鳥神社の催事厄除け祭事です。
羽子板が悪魔を払う道具だと思えば江戸時代浅草寺に近い大鳥神社で歳末に商われ始めた「羽子板市」も来年は羽子板を家に置いて”悪魔が遣ってきたら叩き返すぞ”意気ごみを示す行事になったモノと思います。
私は広瀬家住宅に沢山の人が集ってお正月遊びに興じているのを楽しく眺めました。建物は謂わば入れ物です。民俗は遊びに良く残されています。正月は一番の「ハレの日」です。冬は寒くて緊張を強いられます。緊張が続くと病気に成り易いモノ。正月が明ければ大寒です。そして立春、ズット緊張を強いられます。緊張は「穢」で病気に成り易いモノ、ハレで心身の緊張を解して置く事は健康の為に有効です。追羽根つきを庭ですることは健康維持の為に有効でしょう。



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ハレの食事「昆布巻」の文化

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この正月は到頭夫婦二人になってしまいました。昭和47年(1972)11月結婚して以来、46年振りの夫婦水入らずの生活が始まりました。ワイフは今年もおせち料理を作って4段のお重箱に詰めました。重箱もワイフも長持しています。ガタが来たのは私だけです。
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既に47回も使用したお重箱は叔母様の結婚祝い金を握りしめて、小田急百貨店で求めました。結婚当初は小田急線沿線の鶴川に住んでいたのでした。
長女の家族と二男が彼女を連れて顔を出してくれたのでおせち料理の作り甲斐もありました。娘は栗きんとん好き、二男は伊達巻好きですから、充分に用意しました。でも、1/7日には松も開けてしまいます、なのにおせちうは未だ残っているようで、早く食べきって重箱も明日には綺麗に拭き、乾かしていて仕舞わなくてはなりません。
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我家のおせちです。家族が5人でしたので好みが色々でした。私の好物は甘露煮に黒豆、そして昆布巻です。昆布巻の芯は関東では牛蒡が多いのですが、京風の鰊が最高だと思います。
おせち料理は語感からすると「節会料理」でしょう。節会料理とは節会の際に作られる料理で。節日のうち最も重要なのが 正月であることから、正月の節会料理が「おせち」と呼ばれるようになったのでしょう。
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此れは伊勢神宮の宮前にある有名割烹のおせちです。当然伊勢海老が主人公です。写真はのBSTーBS画面
節会は1/1の正月節会に始まり、3/3日の上巳(じょうし)節会,5/5日の端午の節会)、7/7日の相撲(すまい)節会、9/9の重陽(ちょうよう)節会、と5回/年もあります。私の母はその総ての井節会で、お餅をついて節会料理を作っていました。
今想い起せば、節会は常に緊張を強いられた大黒(寺院の奥様)の息抜きハレだったのでしょう。柳田民俗学では日常を「穢」と呼び、緊張を強いられ、身を粉にして働かざるを得ませんでした。強度の緊張は時々解かなくては病気に成ってしまいます。緊張を解くのが「ハレ」で、節会は「ハレ」の機会になっていたのでした。母は「節会料理」で贅沢する事で「ハレ」にしていたのでしょう。漸く、気付いたのでした。
我がワイフは「和弓の稽古をすることが、和弓の試合(試験)を受ける事が「ハレ(気晴らし)だと云います。義母は歌舞伎を観に行く事が「ハレ」だったような気がします。私は友人と旅行に出て美しい景色を愛で、美食して温泉に入ることが「ハレ」です。
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今年皆と行く予定の信夫山の岩谷観音磨崖仏群(平安時代)今年も旅行が「ハレ」で健康の秘訣です。
節会料理はハレの日の御馳走でした。神様は食道楽で居られるから、神様が悦びそうな美味しい料理甘い料理が膳に並んだのです。神様が最もお好きな食べ物は「伊勢海老」に「昆布巻)に甘い「栗きんとん」です。おせち料理の品目の中でも文化史的に重要なのは「昆布巻」が最重要だと思います。
おせちは歳神様を自宅にお迎えして饗往するご馳走ですから、その土地土地で神様がお好きなお料理を並べなくてはなりません。
山国では「鮭」や「鰤」がご馳走でしたから、「おせち」には鮭や鰤が料理されました。伊勢なら海老やアワビが地産地省されました。そんなご馳走の中で「昆布巻」は特別な料理です。「昆布巻」は京都で生まれたご馳走だと思います。
京都の「昆布巻」は鰊を芯にして同じくの昆布を巻いて煮た料理です。昆布も鰊も蝦夷地で獲れて北前船で京都に運ばれた素材です。江戸時代にに河村瑞賢が開発した廻船航路のお蔭です。”「昆布巻」は「喜ぶ」の語呂合わせでおせちにするんだ”、と良く聞かされますが、民俗学的に考えれば、もう少し奥行きがあります。「喜ぶ」主語は歳神様です。歳神様が好みと思う料理は人間自身も好みの料理です。日本中の人が「歳神様を喜ばせたい」思って「昆布巻」をおせち料理に加えて、お相伴に与かったのでしょう。最近は鰊ではなくて牛蒡や鮭を昆布で巻く「昆布巻」も増えて来ました。私は鰊でなくてはならないと思っています。
ところで「昆布巻」の形は良く視ます。
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伏見稲荷のお狐は玉かお経を咥えています。
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平家納経は見た目は昆布巻のようです。
「昆布巻」は伏見稲荷のお狐様が咥えていますし。平家納経のようでもあります。昆布巻を食べるのは「恵方巻」を食べるのと同じで、仏教や神道の真髄を体内に取り込み「厄除け」を祈る事で所謂呪術で「思い込み」のパワーでこの冬を遣り過す事です。昨年富山を旅行して「ハレ」の食べ物の「蒲鉾」を戴きました。形は「昆布巻」でした。
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此れが富山の蒲鉾ですが昆布巻と「鳴門巻」の意匠でした。
最後に昆布巻の本場京都の料亭のソレを案内します。
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「塩鮭」「塩鰤」の通った街道

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昨日はおせちの「昆布巻」を書きました。昆布と鰊がが小浜の港から朽木や大原を経て京都の二条市場に運ばれて町屋の食卓に並んでいる様を想いました。そのうちにお雑煮に想いが移りました。白味噌に丸餅です。汁には塩鮭の頭が煮込んであります。
昔大阪支店勤務中に京都の老舗取引先からお呼ばれされ夕食に中村楼に向かいました。お雑煮は塩鮭の兜を出汁にとった白味噌仕立てでした。醤油味小松菜鶏肉に馴染んでいた私には刺激的な美味しさでした。そして、会席の最後に出されたお雑煮がまた絶品でした。丸餅を溶ける程煮て、汁は洋辛子でした。カレーのルーを汁にして丸餅を善哉のように浮かべたモノでした。大阪の善哉の小豆汁の代わりにカレ―汁にしたようなものです。その日東京者の中間管理職を接待して京の食文化の深さを知らしめる意図があったようです。最初のお雑煮は伝統的な味で閉めのお雑煮は革新的なお雑煮でした。仲居さんは感心した私に向かって「このお雑煮が一子相伝のお雑煮どす」教えて下さいました。「今でも隆盛しているのかな?」思って「一子相伝のお雑煮」で検索すると沢山のサイトで紹介していました。
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これが京都中村楼の一子相伝のお雑煮」です。白味噌に洋辛子が絶妙です。

今年の正月は関東風のお雑煮とあわせて「京風のお雑煮」も食べたいと欲張って、歳末に丸餅と酒粕を買い求めておきました。夕食に酒粕を使って石狩鍋を食べ、翌朝にはその残りを使ってお雑煮にして貰いました。思惑通りに甘塩鮭の出汁が良く出て実に美味しいお雑煮を食べられました。
鮭も鰤も越後や越中で獲れます。その鮭や鰤の腹を開いて塩を積めて暫く寝かせる事で発酵します。発酵する事でタンパク質がアミノ酸に分解する上に脂肪分の酸化作用(腐敗」が抑制されます。要するに貯蔵に適すと同時に美味しくなるのです。
昨年秋に旅行した時富山湾に流れ込む「神通川」を何度も渡りました。
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これは鮭では無いものの神通川に遡上してくる鱒を素材にした名物の鱒寿司です。弁当紙のデザインは中川三郎画伯
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これは高橋由一画伯の描いた「鮭」(重文東京芸大)です塩鮭では無くて燻製ですが、鮭は日本の食文化の重要なアイテムの一つです。
私は直感的に「立山の神様」が砺波平野に下りて来られる川の意味と理解しましたが。鮭や鱒が遡上し、鰤を飛騨に運ぶ川だと理解し直しました。ハレのお料理に使うのは関西では「鰤」で関東以北は「鮭」です。貴重な蛋白を日本海の魚でとって来たのです。
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これはハレ料理に欠かせない鰤の最高級品「氷見の寒ブリ」です。鰤は出世魚だから祝いの席に欠かせないと云われますがそれは詰まらない薀蓄であって、鰤に含まれた蛋白や脂肪ビタミンEが貴重な栄養源だったからです。それを体験的に実感していたので。ハレの席に使われたのでしょう。
去年の秋には糸魚川にも旅行しました。「塩の道」を松本から糸魚川に下りました。
一般に「塩の道」と呼ばれて塩を俵に詰めて大八車に載せて運んだと思っていたのでしたし、その為の宿(牛も同宿出来る旅籠)や「塩の蔵」を観て廻ったのでしたが実は塩は鮭の腹にもギッシリ詰まっていたのです。「塩の道」は「塩鮭の道」でもあったのです。ホッサマグナ(大地溝帯)は日本文化の東西の境界線と云われますが、丸餅角餅と同じく「鮭と鰤」のようなハレの食事の境でも在ったようです。

獅子舞の文化史

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1月4日川崎民家園に出かけた目的は「獅子舞」を観られたからです。案内では午前11時に佐々木家住宅で開催される、されていました。
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此れは民家園の佐々木家住宅(長野県南佐久郡八千穂村国の重文)の縁側を舞台に客席は庭に茣蓙を敷いて獅子舞が演じられました。前半はオカメとヒョットコによる踊りでした。高千穂神楽はエロスがあって面白かったのですが、サッパリした踊りでした。
11時に着くには9時に我家を出発しなければなりません。1月4日は川崎市も仕事始め職員も気合が入っているし笑顔も爽やかです。民家園は尾根も在るし谷戸もあります。通路が凍っているので転ばない様に注意して佐々木家に向かいました。道祖神の前は霜柱が立っています。踏めば「ザック・ザク」音がします。道祖神様も「良く来た!」歓迎して下さっているようです。
11時前には沢山の人が佐々木家の縁側前の庭に敷かれた茣蓙に坐っていました。
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晴れ着を着て背中にお獅子を背負って踊るオカメさん。
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お化粧をするオカメさん。この後二人のヒョットコさんが登場します。オカメさんはモテモテのようです。
定刻に獅子舞が始まりました。獅子舞を演じるのは民家園に近い白旗神社/https://tesshow.jp/kanagawa/kawasaki/shrine_miyamae_hachi.htmlの氏子が作っている「連」だそうです。住所表示は「平」で白旗神社も平安時代に遡る平家の一族が住み守ってきた神社だそうです。私は白旗神社は鶴岡八幡宮の源氏池にもあるし藤沢の白旗神社のご神体は源義経ですから、源氏に近い神社とばかり思って来たのですが、平家が守ってきた神社だというのです。でも、ネットで確認すると始まりは八幡太郎義家が奥州征伐の折に建立したのが始まりだそうですから、偶々義家の家臣にいた「平」と名乗る郷士が守って来た神社だったのでしょう。
川崎市宮前区とか田園都市線の宮前と云えば首都圏では人気の住宅地ですが「宮前」とは白旗神社である事も初めて知りました。
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ヒョットコさんとオカメさんが揃って母屋の広間で踊ります。法被には「襟に平と染め抜いてありました。
白旗神社氏子連による獅子舞はオカメさんの踊りに始まりひょっとこ一が加わり面白可笑しく踊りました。そのうちひょっとこつは去ってオカメだけが縁側に残されます。
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此方はヒョットコさんが獅子舞の頭を背負って踊る場面です。
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オカメさんは獅子頭を背負って傘をさして暫くヒョットコさんと踊っていましたが・・・。
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背中に負ぶっていた獅子頭を縁側に寝かせて暫く面倒を見ています。
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獅子頭のマントを繕うオカメさん。どうもオカメさんは金太郎のお母さんで獅子頭が金太郎の様なストーリーのようです。
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赤い毛氈の上に獅子頭を置いて添い寝するような仕草をします。
オカメは縁側で背中に背負っている獅子舞の頭や唐草模様のマントを繕ったり獅子がまるで我が子の様に愛しみます。獅子頭を頭に載せて踊ります。最後は獅子の歯で観客の頭を咬んで終わるのだろう・・・。予測していたのでしたが突然に終わってしまいました。博多時代宮崎の焼酎メーカーが「高千穂の神楽を観に来い」熱心に誘ってくれたので出かけた事がありました。夕方高千穂神社に近い農家の庭先で見物しました。寒くて寒くて閉口した記憶がありましたがオカメヒョットコの道化は高千穂の方がズット面白かったのでした。獅子舞も昨日書いた追羽根と同じくむろ町時代に、伊勢ので疫病除けに獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞ったのが発祥と云われています。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞が行われるようになりました。古代に京が都であった時代は京文化が日本中に拡散したように 獅子舞が江戸で広まると日本の各地に急速に広まりました。伊勢大神楽、や熱田神楽獅子舞を舞いながら、全国を業脚し悪魔払いをしたのでした。オカメは阿亀(おかめ)と書き、お多福、阿多 福(おたふく)でもあります。
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オカメさんが面倒見した獅子頭は勢い良く踊ります。
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縁側から庭に下りて子供達の頭を齧って厄払いするモノと思っていたのですが突然に獅子舞は終えてしまいました。
歳神様は「綺麗好き」「清潔好き」そして「美食家」であって「お笑い」が大好きと思われました。そんな神様ですから、お正月は「綺麗に正装」して、「おせちの御馳走」を用意し、「お笑いの芸能」を奉納するのでしょう。「オカメ・ヒョットコ」の掛け合いは少しばかりエロが混じっていて「天岩戸の鈿女の巫女」の踊りを髣髴させます。
縁側の被り付きに陣取っていた子供達は面白く無いと思ったのか席を外してしまいました。伝統の通り演じる事も大事でしょうが、少し東に行けば「藤子不二雄ミュージアム」です。子供達の好きな演出があったらもっと張り合いが出そうな気がしました。
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民家園の入り口ロビーの天井にもオカメさんが出迎えてくれました。
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オカメのルーツは天岩戸の「鈿女の巫女」で竃の象徴と思います。
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一方ヒョットコは竃の前に蹲って吹き竹を使って火を起こそうとしている下男であると思われます。
写真は明日香村の座神社で2月に催される御田祭りです。オカメとヒョットコさんが神殿で写真の様なエロチックな仕草をして、その後田圃に下りて追いかけっこをします。見物人の女性のお尻を叩いたりします。「良い子を産め」と云った意味でしょう。奈良は御田祭りが多く残されていて西方村の池神社では2月19日に奉納されます。此方は牛と子供が主役です。どれも抱腹絶倒の祭りで、日本の正月は「笑い」が欠かせません。歳神様は「笑い」がお好きなのです。
一方獅子舞のルーツである中国の獅子舞は春節で主役になりますが。厄除け魔除けが主目的のようです。
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此れは横浜中華街の春節に登場する獅子舞です。二人で動作させます。日本に伝播すると随分変化したモノです。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893297.html?m=lc&sv=%BD%D5%C0%E1&sk=0


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「バナナの皮はなぜ滑るか」論文の功績

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NHKラジオの「子供電話相談室」が夏休みだけでは無くこの冬休みにも実施されました。私は読書しながらパソコンのキーボードを叩きながら聞き耳を立てていました。1月8日で終わってしまいましたが、実に面白かったでした。
1月8日には6歳の女の子の質問に思わず、キーボードを叩く手を止めて聞き入ってしまいました。質問は「毛虫の毛を刈ったら毛虫は如何なりますか?」という事でした。屹度女の子は毛虫が身体をくねらせて前進する態を観察して思いついたのでしょう。家族に訊いても誰も執り合ってくれないので、電話したのでしょう。先生方の笑い声も響きました。誰も思い付かないことに疑問を持つ事は、新発見への糸口です。
私は子供の時蚕を飼っていましたし、庭の百日紅の樹に樟蚕(クスサン)の幼虫付いていたので、毛虫の毛の無い幼虫は小さい時から良く見ていました。
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これが樟蚕の幼虫です、体長8㎝にもなる巨大な毛虫ですが毒はありません。大食漢ですのでこれが発生すると樹は丸坊主にされてしまいます。
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此方は黄揚羽の幼虫です。良く山ウドの葉に付きます。これも7センチほどになりますが、毛は生えません。掌に載せるとゴニョゴニョ動いて冷たいので気持ち良いです。
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6歳のシロヒトリ(成中は白い蛾です)「虫好きお嬢さんのしつもんはこんな毛だらけ毛虫の毛を抜いたら如何なるのか疑問になったのでしょう。我が庭にも出没しますが毒はありません。雀が好んで食べています。
先生の解答は『試した事は無いけど、毛を抜いたら体液「血」が流れ出して死んでしまうだろう』という事でした。若しその回答が真実なら、殺虫剤は無用で毛抜きをすれば良い事になります。
失笑してしまいそうな興味が新発見のきっかけになるモノです。
その日のNHK深夜ラジオに北里病院の馬渕教授がゲストで出られていました。
2年前の「イグ・ノーベル賞」を受賞されたのだそうです。
同賞の受賞の対象になったのは「バナナの皮は何故滑るのか?」の研究が対象になったそうです。
大学病院の教授が「何故こんなテーマの研究をされたのか?」気になります。
教授の専門は「人工関節」で患者など人工関節の説明の際に「力が入ると良く滑るのです。まるでバナナの皮を踏んだように・・・・・。)すると大半の人が納得してくれたのだそうです。でもそこは科学者「何故バナナの皮を踏むと滑るのだろうか?、自明の事のように話してきたけど本当に正しいのだろうか?」思って研究を開始たのだそうです。
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此れが人工関節の手術手順の説明図です。出典金沢医大HPhttp://ortho.w3.kanazawa-u.ac.jp/patnt/pages/jint.php左上から始まります。股関節症の患部を削ってお椀を埋め込みます。次いで大腿骨の先端にキャップを取り付けます。素材はセラミックスや金属、そしてポリエチレンだそうです。
ポリエチレンは有機物で圧迫されるとゲル化して潤滑油の効果を出すのだそうです。
若しも馬淵教授が最初に「バナナの皮を踏むと何故滑ってしまうの?」疑問に思ってから人工関節の研究に着手されたのならノーベル賞候補だったでしょう。でも事実は自明の事と思っていたことを科学論文にまとめた事からイグ・ノーベル賞になったのでしょう。北里大学は2015年大村 智(おおむら さとし)教授がノーベル賞の栄誉に浴されました。2015年に馬淵教授がイグ・ノーベル賞を受賞された訳で、凄いと思います。試みにイグ・ノーベル賞の授賞者を調べると日本人が圧倒的に多いのです。ウキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
2017年を確認すると、上村慶応大学教授が受賞されていました。テーマは「と雌で生殖器の形状が逆転している昆虫(トリカヘチャタテの存在を明らかにした」研究に対して表彰されましたこの疑問は今昔物語(取り替えばえ)の歴史を持つ中世以来の興味です。でも生殖器の研究が害虫の駆除に役立つ事も食糧危機対策に役立つ事も考えられます。少なくとも蚕の雌雄決定が可能になれば生産性は倍にアップするでしょう。6歳の「虫愛ずる少女/堤中納言物語/平安時代」の将来が楽しみです。ゴキブリを視ると逃げているお母さん方も「何れゴキブリが食糧危機を回避させてくれるかもしれない、」思えば
この化石昆虫を見る目も変わって来るでしょう。
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昨年観た新海誠監督によるアニメーション映画「君の名は」は現代版の「取り替えばや物語」でした。



「振り袖の民俗学」

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1月8日は成人式、二つのニュースに関心が深まりました。
東京の新成人の内に外国人の占める割合が2割、5割にに及ぶ区があったというのです。外国人留学生が多いからでしょう。外国人留学生はその目的(留学」通りであれば良いのですが労働力不足に起因した「技能実習生」だとすれば、問題です。
もう一つは横浜の振袖レンタル会社が振袖を届けなかった事件でした。どう見ても「詐欺」商法だったようです。新成人には口惜しい成人式になってしまったようです。振袖は「魂振り」が始まりです。古代若い男女が袖を振る仕草は愛情の表現だったのです。額田の大君が大海人皇子(後の天武天皇)に贈った次の歌は万葉集の白眉です。
  あかねさす紫野行き標野しめの)行き 野守は見ずや袖振る
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安田 靫彦画伯の額田大君の図。和歌の袖を振って好意を示していたのは「大海人皇子」です。この絵は額田大君の”主人の天智天皇が観ているし困っちゃうわ!」そんな表情かも知れません。壬申の乱の遠因は額田大君を巡る三角関係と云った説もあります。
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此れは吉野から出陣する大海人皇子を見送る鸕野讃良(うのさらら・天智の娘・後の持統天皇)写真は吉野宮滝の「吉野歴史博物館の壬申の乱」のジオラマ。
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鸕野讃良(うのさらら・天智の娘)に見送られて出陣する大海人皇子。鸕野讃良(うのさらら)は兄の大友皇子を見捨てて夫の大海人皇子を立てたのでした。お人形は武装していますから袖はありません。
現代語にすれば、額田大君は大海人王子が袖を振っているのを視て咎めたのでしょう。
”紫草の生えた野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらそんなことをなさって。あなたが私に袖を振るのを野の番人に見られてしまうではないですか、。
 ”その返し歌は
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
現代語にすれば次の通りでしょう。
紫の匂う様に美しい貴方が若しも憎かったら、人妻(兄/中兄皇子の)なのに恋い慕ったりしませんよ!
「袖を振る」仕草は、① 別れを惜しんだり、愛情を示したり意味でありました。
現代用語の「袖にする」とか「袖にされた」と云うのは「愛情を示して袖を振ったモノの、相手にされなかった。断られた」と云った意味でしょう。ですから「袖を振る」と同感覚の仕草です。でも「無い袖は振れない」と云った用語もあります。金の無心を頼まれた時の断り文句に使われて、現代人が着ている様なシャツには袖が無い事から「金が無いので頼まれてもどうしようも無い」と云った説得力のある用語です。
着物の袖は家屋の縁側の様なモノです。
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此れは能舞台の説明図です出典朝日新聞https://kotobank.jp/word/%E8%83%BD%E8%88%9E%E5%8F%B0-112015本舞台の左揚幕までの渡り廊下が袖です。江戸時代には歌舞伎舞台の「花道」に発展します。
良く似た用語に「舞台の袖」があります。「舞台の両端で幕の外」の事です。観客からは見えません。でも能舞台では「橋懸り」で「揚げ幕」と舞台を繋ぐ部分です、一の松から始まって3本の松が植わっています。能舞台を手本に歌舞伎の舞台も出来ています。袖の部分を能が「橋懸り」と呼ぶのに対して歌舞伎では「花道」と呼びます。勿論観客からは良く見えて。役者と観客とが気持ちを交錯させます。
袖は「気」を通わせる場所なのです。
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これは「はれの日」が中小企業庁から「企業価値が高い」と表彰された式典の記念写真写真の出典「同社のHP」事件直後”横浜にこんな怪しからん会社があるのか!」憤慨して検索したモノ。
日本人の民族服「着物」が育んだ「気の文化」であります。
それにしても「ハレの日」の詐欺行為は着物文化を汚す許されざる悪行です。でも若しも「晴れ着」を見直す、機会になれば「瓢箪から駒」になるでしょう。
少なくとも「袖を振る」とか「袖にする」と云った陰影のある表現(文化)は着物を着て初めて解ります。ジーンズやシャツは便利ですが陰影がありません。今日もワイフは着物に袴で弓を担いで出かけました。今年も正月は着物を着ませんでした。折角母が縫って下さったものですから、そのうち、来年は着る事にしましょう。




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