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「南京玉すだれ」の独創性

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1月4日川崎民家園の佐々木家住宅の縁側では午前11時に「獅子舞」が演じられ、午後1時からは「南京玉すだれ」が演じられる案内されていました。私達はその間2時間で昼をとり、正月飾りを見学して回りました。民家は北から奄美大島まで集められています。ですから民家園を一回りすれば全国各地の正月飾りを見学できるのです。
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南京玉簾の演じられる会場は佐々木家住宅の縁側でした。此処が民家園の略中央で、佐々木家は(佐久の民家で、向こうの合掌造りの民家は富山県五個荘南砺市の江向家(国の重文」そのひだりが山田家住宅(南砺市桂/県重文です。更にその左には山田家(県重文/岐阜県大野郡白川村長瀬/蕎麦店として活用されている)があります。
去年の秋には富山県のおはらに「風の盆」を観に出かけました。「おはら」は立山の参詣道にある宿場町で一帯は芸能が盛んでした。この道を東に行けば「五個荘」か!”桜が咲いたころまた来たいものだ”思いました。南京玉すだれは砺波のささら(竹を編んだ楽器)をベースにしているそうです。
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これが「ささら」です。写真出典鈴木楽器製作所のHPhttps://www.suzuki-music.co.jp/products/p_000661/5200円です。

芸人が威勢良い掛け声「さて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉すだれ」と共に
玉すだれをおもむろに取り出し、「ちょいとひねれば、ちょいと、ひねれば、日米国旗に早変わり。日米国旗をちょいと伸ばせば、…」といった風に、簾の形状を次々と変えて見せる。芸能です。玉簾とは何のことは無い海苔巻を巻く時に使う簾です。糸で結んだ籤(ひご」を外せば簾は様々に形を変えます。形を変えて「旗」やら「橋」やら「柳の枝」やら「塔」に変えてみせます。
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右が佐久の佐々木家住宅で奥が五個荘の江向家住宅です。どの民家も国の重文です。でもこうして活用する事で、活かされます。
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銀座の柳が出来ました。
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阿弥陀様の光背が出来ました。この光背を二人で重ねればハートになりました。
年末の深夜ラジオに大江戸玉簾の佃川燕也氏(社団法人大江戸玉簾理事長)が出ていました。話の要点は南京と云っているものの中国の南京では無くて純粋に江戸の町民が考え出した芸能で『江戸カッポレ』と共に御目出度い席で被露した芸能である事。最近は再び人気が出てきて各地の高齢者施設にお呼ばれして演じているし。愛好会も増えているそうです。川崎民家園で実演された方々も、小田急線の町田に住んで居られる方々(町田楽笑会https://ameblo.jp/205921/entry-12056834679.html)でした。笑う事も手足を動かす事も、健康には良い事と聞きます。三河万歳の頭巾がお似合いでした。屹度楽笑会の面々は健康長寿になる事でしょう。「福の神」を招く「南京玉すだれ」でした。
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高砂人形の様なお二人で見事なハートが出来ました。



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「犬は飼い主に似る」と云われるが。

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良く「ペットは飼い主に似る」と云われます。私のペット犬は初代がホワイトテリアで下が癇癪持ちで閉口しました。それに暑さに極端に弱いのでした。そこで二代目はビークルにしました。手間いらずで、利口な犬でした。三代目は現在の柴犬とビークルのミックス犬にしました。日本の風土にも適応して、利口なペットです。
何度も選んでチョイスしたので、「自分に合った犬を選んだのですから、最初から私に似ていたのかもしれません。でも、昨今の行動を視ていると、客観的に犬が私に似て来た様に思えます。私が二度も大手術をした「癌」にペットも罹病した疑いが生じた時も「何も病気まで似なくても良いのに!」思ったのでした。
陽向に毛布を持ち出して居眠りしている横顔を視ていると
”お前も歳を重ねたなあ!”しみじみ思います。
倅がお八に芋を買って来ました。ビークルだからビーフジャーキーの方が趣向に合っているように思うのですが、乳癌の疑惑と年齢から芋の方が良いと思ったようです。
処で芋は私の好物でもあります。ペット用の大学妹をくすねてみると中々いけました。大学妹と茨城名物ふかし芋の中間の印象です。
私はお三時に焼き芋を食べます。「鳴門金時」とか「五郎島金時」など金時系のお芋は少し甘くてホックホックで美味しいのです。安納芋や「紫芋」は金時系よりも甘いのですが水っぽくてホクホク感が劣るのです。私達夫婦が焼き芋で珈琲ブレークに入るとペット犬はテラスに出てきて、焼き芋のお裾分けを待っています。お裾分けと云っても焼き芋の皮です。犬にも金時芋の美味しさは解るようで、焼き芋の皮を咥えて犬小屋に戻ってユックり焼き芋の皮を賞味します。
朝晩二度の食事も私の食べ残しをドッグフードにオンして食べています。結果的に食生活も好みも主人の私に似てしまうのでしょう。
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此れは青森の三内丸山古墳の展示室のディスプレイです。柴犬風の中型犬が飼われていたようです。
日本昔話にも「犬」は再三登場します。縄文時代の遺跡からはイヌの骨が出土するので人間と犬との関係は縄文時代から連綿と続いているのでしょう。
昔話の犬と云えば「桃太郎」の犬は鬼が島まで出かけて主人と運命を共にしました 。イメージ 2
花咲か爺さんは正直者でそのペット犬は儒教の徳目「忠恕」そのものでした。忠恕とは自分の良心に忠実であることと、他人 に対する思いやりが深いことです。
花咲き爺さんの犬は「此処掘れワンワン!」と福運を導きました。八犬伝の犬は子沢山である事と忠実である事の証でしょう。

狛江「泉龍寺」の心遣い。

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1月4日向ヶ丘遊園の民家園から狛江の泉龍寺http://www.senryuji.or.jp/に向かいました。泉龍寺は私の母が産まれた寺で、現在私の従兄弟の菅原師が住職を務めています。昨年の父母や祖母の年忌法要も菅原師が導師を務めて下さいました。その御礼もあれば母方のお墓参りもしたいと思ったのです。狛江の駅も小田急線の高架工事の結果見違えるようになりました。泉龍寺も随分変わりました。境内地の東側は市役所に変りました。江戸名所の池は市が整備して史蹟公園になりました。
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江戸名所図会の泉龍寺です。手前が多摩川で境内の弁天池は振り袖火事でも枯れなかった事で貴重な泉だったそうです。でも、昭和17年以来湧水は止ってしまいました。図の出典は泉龍寺HPhttp://www.senryuji.or.jp/original4.html向こうの霞の丘が成城になります。
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狛江駅の北側の竹林の奥が弁天池で多摩川の伏流水による涸れない泉があります。右に歩けば突き当りが泉龍寺です。
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これは泉龍寺境内にある弁天池の説明板です。東大寺を創建した良弁僧正が開いた泉である事、如何なる旱魃でも水量豊かに水が湧いたこと「和泉」の地名の根拠である事弁財天は元禄時代の祠である事。近隣開発で昭和47年以来枯れてしまった事等記されていました。
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池の中島に祠があって、弁財天が祀られています。
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弁財天前から泉龍寺境内を望む。右の観音様の彼方の建物が泉龍寺の庫裏です。
1月4日午後2時泉龍寺の庫裏で従兄弟の菅原師に会いたかったのでしたが、年始回りにお出かけと云う事でお嫁さんに挨拶しました。母方の祖母は母以上に腰が曲がったお婆様でした。庫裏の暗闇から出て来られると子ども心に怖いモノでした。
でも、お百姓は得意だったようで、鳥小屋に行って卵をとって来て、境内の畑で栽培した野菜を料理して生意気な外孫に食べさせてくれました。私は母の生前に再三母を車で送って来ました。母の兄は先の大戦でフィリッピンに出征し、帰国出来なかったのでした。従兄弟が住職になるまで、寺族こそ居たが、兼任住職に頼っていたのでした。従兄弟は無事に東大を卒業し、母は甥が立職して泉龍寺の住職になった時の悦びは大きなモノがありました。そしてフィリッピンに出かけて川原の小石を拾って帰り、ました。(小石を遺骨として祀ったのでした)
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泉龍寺の楼門横の六地蔵尊
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泉龍寺と稲荷池の間の道路から境内を視る。
昨年の法要の後の精進落しの席でも菅原師とは親しく懐かしく話をしたのでしたが、泉龍寺の居間でユックリ話たかったのでしたが・・・・。
私の記憶していた境内畑は墓地に変り、その端は市役所の施設になったようです。従兄弟のは息子を副住職にし、副住職のお嫁さんにお会いできました。お嫁さんは帰り際に私に「お年賀」を下さいました。屹度菅原師が使っている年賀の品でしょう。お寺のお年賀と云えば、タオルか手拭かお線香が普通です。
家に帰ると食卓でワイフが嬉しそうな声を発しました。戴いたお年賀の封筒を開けたのでした。犬のチョコレートに絵馬の様なプリントがされた「貼りカイロ」に「金箔入り梅こぶ茶」が入っていました。どれも遊び心に富んだ入れ物に入っています。
屹度企画会社が製作してお寺に売り込んだモノでしょう。でも昔話をしたいと思って訪れた私の気持ちを見透かしたようなお年賀品でした。
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泉龍寺のお年賀品。右下がカイロその上がチョコレートと梅昆布茶です。ポチ袋に達磨がご愛嬌です。
昨今は、都会でもお寺さんは問題を抱えているようです。第一は無縁墓が増えて、経営的に不安定である事、お墓は法律的に墓地自体の所有権は寺(法人)にあって、墓として使用貸借であると割り切って、裁判所に届け出て使用貸借の打ち切りを宣言すれば、一定期間を経て、墓地の区画整理に入れます。でも、世間の眼は冷たいし、「あの世の事も金次第」と悪口を叩かれます。今後核家族化、老人単身世帯が増える一方でしょうから、無縁墓地は増えるは引き取り手の無い「お骨」が増える事でしょう。。そんな経営的逆境にあって、我が従兄弟は知恵を振り絞って旧知のお檀家を大事にしているようです。先年も「泉龍寺のきのこ」を上梓され、私にも寄贈して下さいました。屹度お檀家にも配布したのでしょう。境内地は鬱蒼とした武蔵野林です。茸が生育するには格好の環境です。墓地にヒョッコリ茸が顔を出すのを視るのも墓参りの楽しみでしょう。
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達磨さんの民俗学

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1月14日(日)は全国各地で「ドン焼き」が盛大に挙行されました。NHK総合テレビでは多摩川川原の「どんど焼き」が映っていました。私は注連縄や松飾を庭で焼きました。横浜市の条例では焚火は禁じられていますから。ワイフは気が咎めている風でした。条例と宗教慣習とどちらが優先するのか?法学部卒のワイフに確認するまでもありません。焚火が条例違反で問題にされれば、我が町の鎮守の佐渡長も問題ですし、消防隊員(公務員)が出動していることも問題です。
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NHKの夕方のニュースに報じられた多摩川の「ドンドど焼き」写真で視るとゴミの様なモノが目立ちます。相模湾では「平塚八幡宮」や「大磯左義長」が有名ですが、どちらも達磨や注連縄や松飾ばかりです。
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此れは「平塚八幡宮の左義長」です。七夕で有名な平塚八幡宮ですが、良い街です。
注連縄を始め呪術祭具は藁を使います。藁は良く燃えます。
若草山の山焼きは毎年1月の最後の土曜日ですから今年は1月28日(土)になります。現代は観光第一で、根拠を鶯塚古墳の霊の弔い、とか害虫駆除等云われていますが、古代の焼畑農業の伝統だろう、想像しています。ススキの原を焼く事によって、土は蘇ります。蕨が生えて名物の「蕨餅」の原料が収穫出来ます。ススキは稲と同じ米科の単子葉植物です。私達日本の文化は稲を米から藁までフルに活用しながら続いて来ました。注連縄は災厄をもたらす、厄神を入れない防塞呪術の祭具です。昨年一年間厄神の進入を防いでくれました。ですから注連縄には厄神が媚びり付いています。そんな厄神で穢れた藁を火で焼いてしまうのが「ドンド」の火祭りです。藁は燃え尽きると灰になります。灰は翌年の豊作を招いてくれます。
ドンド焼きの浄火で焼いたお餅を食べれば、新しい命が体内に入りますので今年も健康に過ごすことが出来るのです。

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今月末の1/28日は若草山の山焼きです。稲と同じ仲間のススキを山焼きする事は焼畑農業からの伝統です、ススキを山焼きすることで、命の再生を促します。
陰陽五行説では(赤)は木火土金水の2番目です。1番目が木(緑)です。木は水で育ちますから木は水と「相生」です。しかし火で燃えてしまうので「相克」です、火は水で消火されるので「水」とは「相克」です。火は「土」を肥やすので「土」とは「相生」です。山焼きは火を使って土を肥やして稲を再生させる神事と云う事になります。
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これは陰陽五行説の「相生」「相克」も模式図です。図の木の所を稲(米」に変えれば若草山の山焼きやドンドの火祭りの意味が解ります。
ところで、今日の話題は達磨さんです。達磨大師は中国人でインド人ではありません。日本に招来されたのは中世初頭の栄西や道元が宋に渡って禅を学んだのですが、禅の創始者が達磨大師でした。寝ても覚めても座禅をしていたその結果手足も腐ってしまった。だから手足も無く。真理を見詰めようと大きな眼が特徴です。赤い色は穢れを焼き尽くす色、誰からも愛される丸い身体、火の色が達磨さんです。禅の祖師の達磨大師が民俗信仰になると陰陽五行の赤い色で前身を染めた呪術のカラーで親しまれているのです。
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民家園の神棚に並んだ達磨さん
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寒川神社の達磨の売場赤い達磨は厄除け、金色の達磨は金運アップ、ピンクの達磨は恋愛運アップの「おまじない」でしょう。



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千住宿の遊女の墓

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1月16日(火)に芸大美術館に出かけました。目的は「宮廻 正明」副学長の退任記念展覧会です。昨年は宮廻副学長のお仕事を何度も見学しました。8月にはブリューゲルの「バベルの塔」 の展示を見学しました。11月には「クローン美術」と銘打った「法隆寺釈迦三尊像や敦煌の「莫高窟」の再現展示を見学しまあした。芸大から「不忍通り」に出れば千代田線の千駄木駅です。同駅から3つ目が北千住です。
江戸日本橋からは5街道が出ていました。東海道は「品川宿」、甲州街道は「内藤新宿」、中山道は「板橋宿」日光街道は「千住宿」が第1宿でした。千住宿は日光街道の宿であると同時に奥州街道が宇都宮からで日光街道と併用されていたので、その重要性は特に高いがありました。千住が荒川の港である事から宿場町であると同時に商業の街として繁栄したのでした。かねてから千住の街を観たいと思っていたので、上野から千駄木に出て北千住に出ました。
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此れは北千住駅西口のぺデストリアンデッキです。地下鉄千代田線の他JR常磐線の駅になっています。便利な街ですし、賑わっています。
千住と云えば「奥の細道」です。芭蕉 は 元禄2年(1689)3月27日( 新5月16日)に、門人曾良を伴い江戸深川から船に乗り日光道中初宿千住 から奥州へ「奥の細道」に旅立ちます。江戸時代は後半になるに従って貨幣経済が浸透します。加えて奥州は再三飢饉に襲われます。農家の娘は借金の質に取られ苦界に身を沈めます。奥州の出発点であった千住の街には自ずと『三悪』が揃ったのでしょう。『三悪』とは「博打」と「芝居」と「遊女」です。『三悪』の街には必ず「閻魔様」が祀られ「遊女の墓」があるモノです。新宿の街にも「大宗寺」があって、巨大な閻魔様が祀られています。「成覚寺」は1860年に建てられた「子供合埋碑」が建っています。遊女は亡くなると成人の戒名は与えられず、子供として葬られたのでした。
板橋宿にも遊女の墓がありますし藤沢にも有名な「永勝寺」には飯盛り女の墓が並んでいます。千住宿の陽のあたる文化財は「芭蕉」遺跡であり長八の鏝絵でしょう。遊女の墓や閻魔様は日陰の文化財です。近年私はどちらかと云えば日陰を好んでいますので「千住宿の遊女の墓を参りに「金蔵寺」に向かいました。
先ず「宿場通り」を歩いて街の全体像を把握して案内所で地図を始め資料をゲットしました。すると偶然に「今日は赤門專勝寺の縁日ですよ」聞きこみました。初めて来た先住が閻魔様の縁日と云う事は閻魔様に余程縁があるようです。
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露地の突き当りが赤門で閻魔様の專勝寺です。今日は一年に二度の縁日です。

專勝寺は路地の奥にありました。元々狭い路地の両脇に露店が並んでいました。露店を視て歩きます。熨斗烏賊屋が出ていました。鋳物のローラーで焼き烏賊を見る見る薄く延して行きます。屹度八戸の猟師から仕入れているのだろう思えば本堂前の一番良い場所にケバブ(トルコの焼き肉)が出店していました。「トルコ人は裏社会にも通じて来たのかな?」思ったりしました。トルコ料理に韓国料理、屋台は国際化が進んでいます。
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此れは本堂前の一等地に屋台を出していた「ケバブ」です
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これは陸奥名物の延し烏賊です。

赤門の脇に閻魔堂がたっていました。『何れお世話になります、でも今暫く娑婆を夫婦で楽しみたいので、決してお呼びにならないで下さい!」手を合わせてお線香を奉げました。
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閻魔様のお詣りを終えて閻魔堂の脇を見上げると「絵馬堂」でみた雪洞が飾られていました。
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よ皮よ

宮廻 正明]の画業を一覧して

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1月10日頃、新聞に「宮廻 正明展」の記事が載っていました。新聞には興味ある記事が載っていました。師の「平山郁夫」画伯から云われたそうです。
”私の歩いた跡には草は何も生えていないよ!”
蕨や茸を採りに草原や山に入っても上手な人の後に従っていては何も採れません。
如何に自分を慕っていても私の歩いた道を進んでいては大成しないよ!」
獅子が子を谷底に蹴落とすような心境で叱咤したのでしょう。
新聞記事では、宮廻 正明氏は平山画伯が素材にしない砂漠を疾走するジープを描いたのだそうです。
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宮廻 正明氏が師「平山郁夫」画伯の道を意識して外れて描いたと思われる砂漠の轍の絵が吊るされた展示会場で。
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宮廻氏が意識して師の平山画伯の画業を離れた絵とはこの絵でしょう。
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展覧会は「行間のよみ」と題されていました。絵を観ると「法隆寺の連子窓」のように水に映る影が揺らいでいました。宮廻氏のお弟子が「千住明」氏ですから、千住氏は宮廻師の水の連作の影響を受けたのかもしれません。
私は宮廻 正明氏とは余程縁があるのでしょう。前回クローン美術展の時には学生を連れて宮廻 氏は法隆寺釈迦如来のクローン像の前で解説しておいででした。学生たちはカメラで写していました。そしてこの日は展示会の最終日で、宮廻氏は沢山の人(スポンサーや画廊の経営者?を連れて説明をされていました。
偶然に遭遇出来たので、 宮廻氏の解説を拝聴し、咎められずに写真を写すことが出来ました。
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展覧会入口に貼られた宮廻 正明画伯の挨拶要旨は30年間務めた芸大を引退する事、そして「行間のよみ」と題した画業を振り返った感慨を記しておいででした。山頂を極める事は尊いモノの、山頂から下って再度山頂を目指して登ることはモット尊いし気力が必要だ、と指摘しておいででした。再び頂を目指すことで新しい発見をし視界も開けるという事でしょう。
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 赤い山はシルクロードの火炎山でしょう、師の平山郁夫画伯の絵を観るようでもあります。
芸大美術館は一番西奥の部屋が主たる展示場です。一昨年観た「琵琶湖の観音像」の時も奥の展示室に最も観せたい仏像を展示してありました。
宮廻 正明氏はこの部屋で止って殆ど動かれませんでした。
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奥の部屋が屹度宮廻 正明画伯の現時点集大成なのでしょう。中央が投網左右が西大寺の修正会のクライマックス裸の若者が宝木取りを競う場面です。
奥の部屋の真ん中は投網を打つ漁師で網が広がった瞬間を望遠レンズで写したような絵でした。その左右は岡山西大寺の「お札とり」の絵です。右の絵の表題は「螺」とされていました。「螺」は螺旋や螺髪の形です。貝の栄螺(さざえ」も捻子の形です。御香が焚かれていました。「太陽」という名の「香」だそうです。そしてお経が響いていました。クローン展の時も法隆寺の「香」と「お経」が焚かれ響いていました。
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四層の屏風に描かれた投網の図。
宮廻 正明氏は投網の図の前で主張されました。”東洋人は「水」と「時空」と「螺」を描かせたたら世界に通用する”仰られておいででした。「螺」は意外ですがバベルの塔も螺旋階段でした。西大寺の修正会の絵が「時空」と「螺」をテーマにされたのでしょう。
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西大寺の修正会で宝木を求め虚空に伸びる手。真っ暗な本堂の天井に宝木は隠されているのですが、人々は木の香りを求めて天井に登って宝木(お札)を奪い合うのだそうです。千年以上続いた行事です。正に「時空」を越えた行事です。
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手前が「螺」の屏風絵その隣が「投網」の四層の屏風絵宮廻氏が沢山の人を連れて西大寺裸祭りの絵を説明しておいでです。
「下司の勘繰り」というのでしょう。玄関にはお祝いの花が所狭しと飾られていました。「足立美術館」に「山種美術館」そして「西武そごう」関係者、皆宮廻画伯の作品をコレクションしているのでしょう。野田聖子氏に二階幹事長のお花も真ん中に据えられていました。
院展の正統を継いでいる事は間違いない事でしょう。
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上の段には有名画廊や美術館の祝花が下の段には政治家等の祝が並んでいました。
私の生きた時代には平山郁夫画伯にそのお弟子の宮廻画伯、そしてそのお弟子の「千住画伯」素晴らしい画業を観られました。平山画伯の前には前田青邨がおられます。この間絵の精神は脈々と伝承してきている事は間違いありません。
でも前田青邨師は法隆寺壁画の再生に腐心されました。国宝の壁絵をお手本に描いている間に法隆寺金堂は焼失してしまいました。お手本は無残にも黒炭に変じてしまいました。でも宮廻画伯の時代には三D画像処理の技術が進歩しました。昔の作品は教材として見詰める事にして、クローン美術を再生する事が可能になりました。でも、再生技術が開発された事実は古代の絵師や仏師の技術を習得しないで済むようになりました。習得を怠ればその精神を学ぶ機会も逸する事に成るでしょう。クローン技術が人類の進歩に繋がるか、退歩を促すかは微妙な問題です。



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参鶏湯七草粥に鏡開き

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子供の頃「七草」を一生懸命に覚えてお婆ちゃんと畑の畔で若菜取りしました。『セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ』子供心にもリズムが在って覚え易いと思いました。「春の雑草の命を体内に取り込む」食習慣は、呪術と云ってしまえば実も蓋も無いのですが、雑草の逞しさや栄養素を想えば科学的な根拠もありそうです。1月7日は七草粥、我が家も蕪の青菜やら色々取り揃えました。
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1月7日の朝食はおせちの残り物に七草粥で大人しく戴きました。
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でも翌日1月8日にはレトルトの参鶏湯スープをベースにして「参鶏湯七草粥」にして戴きました。
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参鶏湯スープにはお餅を入れました。此れがいけるのです。
私は1月8にも七草粥を食べたい注文しました。今回は「参鶏湯スープを使って欲しい」注文しました。1月7日は伝統的な日本の七草粥で、1月8日は「国風七草粥」で、どちらも美味しく戴きました。
「参鶏湯」は鶏の腹に玄米と「高麗人参」や「鹿茸」、「ファンギ」、「くるみ」、「松の実」、「ニンニク」、「棗」等の漢方の素材を入れてジックリ煮込んだ 薬膳スープ料理です。参鶏湯スープに春の七草それにお餅を入れれば和漢ならぬ「和韓」折衷の料理です。私らしい食道楽で隣国との日韓折衷料理です。
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お餅も食べ尽くしてしまった1月11日には鏡開きをして鏡餅を戴きます。
「鏡開き」は1月11日です。玄関に鎮座していた鏡餅ですが、年神様が依っていられる筈です。これを割って戴くのが「鏡開き」です。鏡開きではお粥でなく小豆を煮て善哉にしていただきます。何故善哉にするか?小豆の色が重要です。小豆は厄病神が嫌う炎の赤色です。小豆は色も目出度いし、如何にも健康を呼んで、災厄をガードしそうな色をしています。鏡開きでは小豆で魔除けをして更に鏡餅で神様を体に取り込む年中行事なのです。「善哉」とは「神在」の意味だそうです。7、8日に七草粥を戴いて11日には善哉を戴いて、これで平成最後の今年(30年)は無病息災で過ごせそうです。
それにしても大相撲初場所は休場力士が多い事で、「無病息災」ならぬ 「一病罹災」です。一病とは手足の病気です。私は左手足の麻痺も抜けて来て漸く「手足息災」なのですが・・・・。「稀勢の里」も「宇良」もシッカリ休んでリハビリして足腰を鍛え直して土俵を盛り立てて欲しいモノです。


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3D文化財の将来

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上野の東京芸大に「宮迫正典」展を観に出かけました。第一会場は昨日紹介した「芸大美術館」で第二会場は「 アーツ&サイエンス ラボ」でした。芸大美術館の前の道路を隔てて北側が事務棟や教室の並ぶ芸大キャンバスの中核です。その東側「黒田清輝」美術館」との境に「 アーツ&サイエンス ラボ」があります。
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宮迫正典副学長の退官記念展覧会を報じた読売新聞記事
総じて赤レンガ作りの古風な建物の中で近代的な五階建ての鉄骨造りの建物です。この中に昨年展示された「バベルの塔」や「クローン美術」の「アトリエ教室」があるようです。その建物の一階ロビーが第二会場でした。
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奥の鉄骨造り5階建の建物が「 アーツ&サイエンス ラボ」でそのロビーが第二会場でした。
先日テレビに「籔内佐斗司」氏が芸大の仏像修復工房で指導されている様子を紹介していました。
籔内佐斗司氏は「文化財の模作は仏像製作技術の確認と併せて技術の継承が目的である」と説いておいででした。でも三D技術が進歩すればいとも簡単に摸像は製作可能になってしまいます。でも、三D技術では出来ないのが「技術の継承」と「製作者のスピリットの確認」です。
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興福寺天灯鬼像の薮内教室の摸刻像出典同教室HP本文中掲載
芸大の文化財保存室のHPはhttp://www.tokyogeidai-hozon.com/aboutus/member.htmlで、実習の様子はhttp://hozonyuga.geidai.ac.jp/Lecture.htmlに出ています。技の伝承は大いに難しい事です。
上の「点灯鬼像」も平安末期の時代背景と「法灯」を担いで暗い世を照らして欲しい、とした運慶の子(康弁)のスピリットは理解も真似も出来ないでしょう。
第二会場には昨年拝観した像や絵が並んでいました。改めて法隆寺釈迦三尊像の3D製作の中間製造物である蝋型が展示してあって、まるで「空蝉」を視るようでした。ビデオには宮迫正典氏がクローン像制作の意義を説明、更に富山県高岡の鋳物の職人が尽力してくれた事を力説されていました。3Dの最新技術と高岡の鋳物職人に伝承された技術があったからこそ、クローンの法隆寺釈迦三尊は実現できたのでした。
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ビデオで高岡の鋳物職人が技を伝承してきてくれたのでクローン仏像が出来たと述べる宮迫正典氏
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此方は高岡の鋳物職人釈迦三尊像は高岡銅器で台座は井波木工で再生したのでした。
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3Dデータで先ず蝋型を作ります。蝋型に粘土押し当てて粘土の鋳型を作って次に溶かした銅を粘土鋳型に流し込みます。
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完成した3Dの法隆寺釈迦三尊像、3D技術の他高岡銅器の技術(銅器に再宿する技術や金箔を押す技術がって初めて完成しました。台座は高岡の隣の井波の木工技術に負っているそうです。
宮廻氏の指導される 「アーツ&サイエンス ラボ」ではバベルの塔やエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」も3D技術を駆使して製作していました。
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壁に懸っている絵はエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」絵をベースに像を作ることもしているようです。
私の父は三越の美術部に行って「葬儀)で使う「遺影」を写真で無く銅像にしようと試みていました。葬儀で遺骨の次には「位牌」その次に「遺影」が並んで葬儀場から家に戻って精進揚げに入ります。写真では無くて像ならば更に良い思ったのでした。私は父を激励して「遺影写真」から「遺影像」を早期に実現するよう、更に実用新案の権利を申請するよう依頼し、私の生涯事業とするよう頼みました。DDCカメラで三方からデータを取れば後は樹脂を削れば出来る事までは良かったのでしたが、今なら3Dプリンターで製作するのはモット容易になっているようです。しかし、父は卒塔婆のプリンターを実現した処で意欲を失ってしまいました。事情は長兄との不仲が表面化してしまったのでした。芸大のキャンバスには沢山の「ブロンズ像」が並んでいます。
芸大の学生が恩師の姿をブロンズに写してキャンバスに置いたモノでしょう。でも3D技術は簡単にブロンズ像を作れてもその精神や技術は伝えられません。


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芸大構内にある澤田徳夫先生のブロンズ像。何れ学生の手作り像は無くなり3D像ばかりになるかもしれません。学生も写実よりも精神性を重視した政策姿勢になるでしょう。
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芸大守衛室に並んだ団栗とカリンの実、鼻に当てると芳香が香って来ました。

籔内佐斗司」氏の「仏像修復工房」では、仏像の修復から、摸刻をしています。興福寺の阿修羅像の摸刻では、芯礎を木造で作り、表面の微妙な表現は麻布に漆で作っていました。木芯乾漆像は現代では全く廃れてしまっています。阿修羅像を現代人が摸造しようとすることは、第一に木芯乾漆の技術を再現する事でした。廃れた技術の確認と伝承の為には貴重な試みだと思います。3D技術では不可能な試みです。
更に言えば、興福寺阿修羅像を制作した仏師のスピリッツは3Dでは全く解明できないでしょう。同じく康弁が刻んだ「天灯鬼像」のスピリッツも解明できません。世が千路に乱れ「仏法の招来を祈る気持ちにならなければ、仏法を守護する阿修羅にしても世を照らす天灯鬼も理解できません。現代人には想像は出来ても理解不可能なスピリッツです。
3Dでクローン仏像を製作する過程は総て機械任せで、製作者の創意も工夫も思い付きません。ですからクローン仏像を幾つ製作しても、そのスピリッツは思いも及びません。
ですから「正統」は籔内佐斗司」氏の「仏像修復工房」にあって、宮廻副学長の「アーツ&サイエンス ラボ」は科学技術の進歩がもたらした「異端」だと思います。



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寒川神社「八方餅」の工夫

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2018/1/19(金) 午前 8:26脳梗塞闘病記(文化への憧憬)練習用
伊勢の「赤福」と云えば日本を代表する餅菓子です。デザインも優れています。お餅の表面を覆っている漉し餡は波打っています。屹度、五十鈴川の川の流れを表しているのでしょう。福田平八郎氏の日本画を視るような意匠です。

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此れが伊勢名物の赤福です。画像出典「旅ナビhttps://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_3333/
2007年秋には赤福はピンチを招きました。事件は『店頭売れ残り品を包装し直して再出荷する「まき直し」や、消費期限を先延ばしする「先付け」などの食品衛生法違反の偽装』が発覚したのでした。お伊勢様の御膝元の老舗和菓子店のこの不祥事は世間の非難を浴びました。でも今ではそんな事件も忘れ去られて「赤福」は危機を脱したようです。その前には船場の吉兆でも同様の不祥事がありましたし、最近ではマックでもありました。懲りない食品業界です。
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これは片瀬龍口寺の「龍ノ口法難」を記念した餅撒き風景です。本堂の前に吊るされたゴンドラの上から胡麻牡丹餅を投げます。子供の方が断然有利で大人は殆ど拾えません。仕方なく大人は門前の和菓子屋に向かいます。
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此れは竜の口の龍口寺門前にある扇屋さんです。昔は牡丹餅屋さんでしたが昨今は「江ノ電最中」で通っています。
私の生活圏では「赤福」に似た餅菓子があります。その一つが片瀬の龍口寺門前の牡丹餅です。日蓮上人の「龍ノ口法難」に際して、信者が上人に牡丹餅を奉げた故事による牡丹餅ですが。龍口寺の牡丹餅は漉し餡ではなくて黒ゴマをまぶしています。餅拾いは子供が有利で私は健康な時でも拾えませんでした。でもそこは片瀬の商人で門前では「扇屋」が「牡丹餅」を商っています。扇屋さんは昨今は「江ノ電最中」が売れ筋です。江ノ電に乗って極楽寺に行けば御霊神社の門前に「力餅」屋があります。此方は赤福に似た漉し餡です。
此れは坂の下御霊神社の角にある「力餅屋」です。右突き当りが御霊神社で左に行くと極楽寺坂を経て極楽寺に行けます。
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此方が坂の下の「力餅」です。美味しいのですが美しさに欠けます。
扇屋の牡丹餅も坂の下の「力餅」もデザインがイマイチです。でも一つデザインが優れた「漉し餡餅」があります。それは相模一の宮「寒川神社の門前にある「八方餅」です。八方と云うと「八方塞がり」を想って如何なネーミングかと思えば「八方無碍」で「どの方向でも視界良好・上手く行く」のだそうです。お餅の周囲に花弁か火炎の様に渦が巻いているのです。
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1月6日夕刻に寒川神社を詣でました。
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太鼓橋を渡れば寒川神社二の鳥居です。今年は思い切って杖なしで渡りました
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楼門前に手水があります。ズット青森のネブタが楼門を飾っています。ネブタを観るのも寒川神社初詣の楽しみです。
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行は中央の参道を歩くので、楽なのですが帰りは脇道の屋台の間を縫って帰るので難儀です。
「八方餅」を作った人は寒川神社二の鳥居門前のお蕎麦屋さんで、お餅は寒川神社境内を始め駅などで販売されています。
後発ですから先発のお餅を充分に研究したのでしょう。赤福は勿論、龍の口の牡丹餅も、坂の下の力餅も研究し、最も美味しく。見た目も美しいお餅にしたのでしょう。
福の神である「年神様」が悦ばれるお餅は当然に善男善女に喜ばれる筈です。
其処で思い付いたのは栄螺(さざえ)の姿でしょう。燃え盛る炎は穢れや災厄を焼き尽くします。如来の螺髪の姿であり、獅子の毛先です。。竹のヘラをどのように使えばあの姿が出来るのか解りませんが、蕎麦屋の親爺の快心の出来栄えだったことでしょう。
私は。昨年買いそびれたので、参拝前に1箱(1080円12個)を求めました。
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これが「寒川神社」の新名物「八方餅」です。餡が渦巻いています。獅子舞のマントの模様のようです

建築現場の「針千本」

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デフレが嫌われています。私が銀行員だった時代は「日本銀行は物価の番人」をj自認していました。
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日経の記者が上梓した「日銀はデフレの番人」は黒田総裁の逆転した施策を揶揄したモノです。写真出典アマゾン古本が918円です。https://search.yahoo.co.jp/image/search?fr=top_ga1&p=%E7%89%A9%E4%BE%A1%E3%81%AE%E7%95%AA%E4%BA%BA&ei=UTF-8&xargs=2&b=21

「物価の番人」とは日銀の施策の目標は「消費者物価」が安定していることが望ましく、「物価が高騰する事」は避けなくてはならないといった日銀全体の哲学でありました。
こうした民生思想は鈴木正三等の「経済学」の基本理念です。インフレで困るのは常に生活弱者であり、打壊しも飢饉もインフレによって加速されてきました。経済学(経世済民の学)は如何にしてインフレを未然に防止するかの学問でした。日銀生え抜きの三重野康」さんが総裁に就任すると世論は日銀生え抜きの総裁を「平成の鬼平」と持ち上げられました。三重野総裁はインフレファイターを標榜して、インフレ肥りの金満家を悪人として叩いたからでした。庶民は鬼平が退治するのは、金満政治家の「金丸信であり、土地成金の「渡辺鬼太郎/麻布建物」や「堤義明/国土計画」でありました。
三重野総裁は「バブル化した土地価格を安価にして庶民に「マイホーム」を持ち易くしようとしました。要するにインフレの牽引役だった地下を下げてデフレ化しようとしたのでした。そんな施策をマスコミも経済学者も賛成しました。デフレの行き過ぎを懸念した人も多かったのでしたが、三重野総裁も小泉首相も聞く耳は持ちませんでした。唯一人坪井東氏(三井不動産社長、日本不動産協会会長」だけが土地本位制の土地価格の暴落を危惧されました。金丸氏も坪井氏も行き過ぎたデフレ政策を”オーバーキル”として反対されたモノの、マスコミは「自己利益」と見做し、世論も見向きしませんでした。
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TDLも三井不動産の坪井東さんの見識で実現されたプロジェクトでした。
ところが昨今の日銀施策は全く逆です。日銀の目標は「デフレ消滅」「インフレ目標」となっています。黒田総裁は旧大蔵出ですから、経済のインフレ化は借金の目減りを招来しますので、財務省の望む処です。でも、私の様に年金生活者にとっては「インフレ」は困ります。「収入は減るは、支出は増えるは」では生活も成り立ちません。
三重野総裁時代に沢山の企業が消滅しました。私の生活圏ではダイエー(戸塚柏尾)が消滅してイオンの傘下(公開買い付け)に入っています。
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イオンの傘下で営業していた戸塚ダイエーも今年の3月に全面改築になります。写真は2011年の震災で基礎(此処は田圃でしたので軟弱地盤で営業継続困難だったのでした。
ニチイ(大船駅前/栄区笠間)もイオンの傘下に入りました。今ではスーパーマーケット業界はセブンイレブンGとイオンGの二つに席捲されています。今秋には韮崎のスーパー「株式会社やまと」が自己破産申請しました。後継会社早期に固まって社員の生活を守れれば良いのですが、心配です。韮崎の先は佐久平で佐久には「鶴屋/小諸」という名の優良会社があるので「地場資本で「亀屋」が出来たら良いのに、思ったりします。
私は鎌倉方面から自宅に帰る時大船駅から戸塚駅行きのバスに乗ります。そのバス停の横が大船イオンで現在改築中です。設計は梓設計でゼネコンは佐藤工業ですから、良い商業施設が出来るでしょう。バスセンターの容積率を買い取れば相当の床商の確保が出来そうです。私はバスを待っている間工事現場と通路を遮蔽する矢板に描かれた絵に眼を遣ります。其処には海の生物が描かれています。何処かに「江の島水族館」の看板がありそうな気がしますが水族館の広告はありません。工事のお知らせとスケジュールだけが案内されています。幾つも在る絵の中で一番目立つのが「針千本」です。針千本はフグの仲間ですが普段は箱ふぐのような表情で泳いでいます。で、針を伸ばすのは危険に遭遇した時だけです。「俺は美味くないぞ!」「俺を喰ったら口が痛くなるぞ!」脅しているのでしょう。でも膨らんだ顔や雲丹の様に針が張出た表情が可愛いので人気があるのでしょう。
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イオン大船駅前店の改築工事現場を遮蔽する矢板。お決まりのお知らせ看板の他に「海の生物が描かれています。(左からハリセンボン、白いか珊瑚です)
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針千本の絵「これを視ると居酒屋に行きたくなる人も多い事でしょう。

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これは居酒屋のフグ提灯です。愛嬌の在る姿が客を呼び貧乏神を撃退する「おまじない」なのでしょう。
広辞苑で「フグ提灯」を検索してみました。「フグ提灯」は写真の様に「針千本」でなくては「呪術」の意味をなさないからです。私は広辞苑ならば正しい説明をしているモノと信頼しているからです。処が私の愛用している第6版広辞苑には「フグ中毒」は掲載されていたモノの、「フグ提灯」は記載されていませんでした。これはオカシイ思って辞林で調べると「トラフグ等の皮を使って作った提灯」と説明していました。トラフグでは可愛いだけで「呪術」にはなっていません。
フグ提灯は軒先に吊らせるので意味があるのです。軒先は外と室内の境です。境には厄は防ぎ、福を招く呪物を置く必要があります。京都の町屋を歩けば軒下の柱や鴨居には必ず「蘇民招来」のお札が貼られています。そのお札に相当するモノが「フグ提灯」なのです。九州に行けば「辰のおとしご」や「カブトガニ」等も軒下に飾られています。「厄除け呪術です。
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神になり損ねた鬼ですから、人間の嫌いなモノは鬼も嫌いです。臭いのきつい鰯の頭も柊も鬼が嫌いであるといった想像(人類学では類感想像と呼ぶ)から節分の厄除けでは鰯の頭を家の内外の境に置きます。
もうじき節分です。節分には鬼を払う為の「呪術」が幾つも在ります。煎り豆で鬼が逃げ出すとは思えませんし、鰯の頭を嫌って鬼が避けるとも思えません。でも神になり損ねた妖怪が鬼です。日本の鬼は思いがけない弱点を持っているモノ。神は臭いモノ(鰯の頭)が嫌いで。堅い豆も嫌いだろう想像しました。フレーザーの云う「類感想像」です。”鰯の頭が嫌いな位だから「針千本」も嫌いだろう!”。思って居酒屋の軒下に吊るしたのです。針千本は怒らせれば針が突き出てきて怖そうなので「呪術」になるのです。トラフグの皮で作った提灯では酒飲みは招けても厄除けにはなりません。「針千本」を提灯にして初めて『招福・厄除け』の呪術になるのです。それにしてしても、もうじき節分です。節分は冬と春の間の節句です。節句を節句たらしめる為には相撲協会も富岡八幡も真剣に「呪術」に取り組んで、厄払いをする必要がありそうです。
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春は黄色から

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路傍に黄色い小花が目立つ季節になりました。もうじき「利休忌/3月27日」です。「冬知らず」の花も咲き始めた事でしょう。私が健康な時は三浦半島の丘の上に咲く冬知らずの群落を観に行くのですが、運転を控えさせられているので、到底出かけられません。昔撮影した写真を視て我慢しましょう。
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此れは三浦丘陵の畑の土手に自生している「冬知らずの花」です。
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浄智寺山門横の民家に咲いた蝋梅の花
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これは浄智寺お茶室の蝋梅です。
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蝋梅は香りと触れば割れそうな儚い感触と年明け最初に咲く黄色い花である事が魅力です。太陰暦であれば今日の様に愛されなかったでしょ言う。正月が太陽暦に成って得をしました。
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これは1月23日の大雪にも負けずに咲いた私の生家盛徳寺の境内の蝋梅です。
でもバスに乗れば街中に蝋梅の花も目立つようになりました。花屋の店先もピンクの桜草か、黄色いフリージアが目立つ位置に置かれています。
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福寿草も 迎春花(春を知らせる花)の必須アイテムです。食いしん坊の私は蕗の薹と同じように「天麩羅」で食べたくなりますが、これは有毒です。
成虫で越冬した虫も蝶も黄色が好きなのでしょう。人間も同じで黄色が好きです。私には淡い思い出が黄色に在ります。
御成小学校の6年生の時でした。母が高島屋の特売場で黄色いポロシャツを買って来てくれたのでした。私は喜んで翌朝黄色いシャツを着て学校に行きました。教室で驚きました。クラスで一番美しく聡明な女生徒が私と同じ黄色いシャツを着ていたのでした。私達二人はクラス中の皆に冷やかされました。その翌日私は黄色いシャツが好きなのにも拘らず、汚れた何時ものシャツで登校しました。彼女も黄色いシャツは着ていませんでした。当時同じクラスで最も学業優秀だった男子生徒は式場君(精神科医の式場隆三郎博士の子)で、映画の「黄色い烏」が有名でした。赤には呪力があるのに対し、黄色には愛があると思うのです。『寒い冬に暖かい春を待ち焦がれるように、愛情が欲しい人は黄色に染まりたい』と思うのでしょう。
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二宮駅の西側にある吾妻山の山頂には吾妻神社が祀られてその上は一面の菜の花畑です。眼下は東海道の国府津の街です。
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吾妻山の山頂から見て東側は相模湾西側は大山丹沢と富士山が眺望できます。
”菜の花畑に入日薄れ”そんな季節はもうすぐです。神奈川県には二宮があります。駅前の吾妻山の山頂に吾妻神社が祀られています。御祭神は日本武尊橘姫命です。山頂は菜の花の名所です。観椿の森を汗を流しながら登りきると。一面の名の花と西には雄大な富士山を眺める事が出来ます。橘姫命は可愛そうですが、先史時代の愛の姿です。
蝋梅も観た菜の花も観た、さすれば次に観たいのは「三俣」に「満作」の花です。
どちらも必見のスポットがあります。黄色い花を巡って徐徐に春の盛りの「桜」の見頃が近づいて来ます。今年は何処の桜を観ようか今から慌ただしい気持ちです。去年は醍醐から三笠を廻りました。
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鎌倉柄柄天神社の三俣の花。中学の受験日辺りに満開になります。
  
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舞岡公園の万作の花

私の友人で俳句の師匠の家は八王子です。
大寒に入ってから咲く花を「迎春花」と呼びます。
迎春花として想い出すのは瑞香(沈丁花)であり、福寿草であり、蝋梅です。どれも黄色です。八王子の大雪は難儀だったようです。坂道で滑っているマイカーを視て友人を想い出しました。友人の家は八木重吉の生家の近くにあります。友人らと観桜旅行に行く序に寄った事がありました。旧家らしく梅の木が自生していました。友人が私に教えてくれた重吉の詩を想い出しました。友人は屹度俳句ノート代わりに携帯しているスマートフォンに俳句を記録して迎春の思わぬ大雪を吟じていることでしょう。
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  ひとつの気持ちをもっていて 暖かく なったので 梅の花がさいた その気持ちが
  そのままよい香りにもなるのだろう。
重吉は茅ヶ崎の肺病専門病棟で息を引き取ります。 今では肺病も国民病ではなくなりましたので、病院は老人施設になりました。茅ヶ崎駅の海岸口から徒歩圏内に八木重吉の記念公園もあれば肺病病棟も残されています。この記事は以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/30702793.html?__ysp=6YeN5ZCJ44Gu6Kmp5qKF44Gu6Iqx
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東慶寺の素心蝋梅の花
東慶寺は梅でも有名な花の寺ですが「素心蝋梅」が自生しています。「素心」とは素直な心の意味でしょう。良く視る蝋梅は八重なのに較べて一重の蝋梅です。「素心蝋梅」を開発した園芸家は屹度重吉の梅の詩を想い出して「一重の蝋梅」とは云わずに「「素心」と呼んだのでしょう。


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大寒の「大雪」

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1月23日は天気予報の通り大雪になりました。加えて群馬県白根山は火山噴火してテレビでは再び「想定外の噴火で・・・!」云い訳が聴かれました。人間が勝手気儘に予報するのを嘲るように自然(神)は思いがけない災難を振り掛けます。
ワイフは「こんな事も在ろう!」想定して新しい長靴と雪搔きを準備しておいてくれました。そこで、雪の朝早速に私の生家の「盛徳寺」を詣でました。
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此れは1/23日朝の盛徳寺の参道です車の轍が在るのは22日に通夜があって23日には告別式が予定されていたのです。


「雪は豊作の瑞(ゆきはほうねんのしるし)」と云われます。
寒さが害虫を駆除してくれることに加えて。雪解け水が豊富で落葉した栄養を田圃に運んでくれるからでしょう。大雪は「晴れ」であると直感します。何故なら普段は汚く観えた景色を清純に穢れなくしてしまうからです。今年は戌年、犬は雪景色を悦んで居るのも神様も雪がお好きなのでしょう。
普段は漫然として過ごしていた江戸市民も12月14日の早朝は「赤穂浪士の討ち入りの報に歓喜したのでしょう。晴れの日には大雪が欠かせません。そこで講談でも落語でも歌舞伎でも12月14日は大雪の朝にしてしまいました。
大雪の朝の清々しさ晴れやかさが、中心蔵の景色を決定したと思うのです。

今年の開花は3月23日と予報が出ました。ですから後二箇月経てば桜の花も咲くのです。雪が深い程豊作になるし、寒さが厳しい程豊作になるとも聞きます。真偽の程は別にして、寒さが厳しかった年ほど桜は美しく見えるのは間違いないでしょう
今春の旅行計画は、4月10日頃に根尾谷の薄墨桜を観て、20日頃に福島の信夫山や二本松の桜を観て廻る事にしています。
美しく咲き誇る桜を愛でる為には開花予測こそ「想定外」は止しにしてほしいモノです。

昨年末には私の父方の実家世田谷の実相院の「墓参り」をしました。正月には母方の実家狛江の「龍泉寺」に墓参りしました。でも、肝心の両親や祖母の墓参りは未だ終えていません。雪の朝に墓参りをすれば「足跡」も残るし、清々しさは普段に勝るでしょう。そう想って下し立ての長靴を履いて盛徳寺に登りました。
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此れは大雪の朝に下した長靴です。昔はゴム製でしたが塩ビで感触はエナメルです。
新しい長靴は塩ビの感触です。小学生時代のゴム長靴とは少し違います。
サラリーマン時代福岡支店勤務時代に、私の以前の上司が月星化成の社長として来られました。月星化成(商標名/ムーンスター)は朝日靴(商標名/アキレス)はブりジストン)の子会社でした。久留米の名門会社でしたが、韓国や中国の靴メーカーの追い上げを受けて不振に陥っていました。
朝日靴は更生法が適用されてしまいました。月星化成も所謂銀行管理会社化してしまい、長銀が社長も派遣して、「責任を果たす」覚悟を表明した様なモノでした。子会社の不振を目の当たりにしてブりジストンも家族経営を取りやめて厳格な人事を推進していたのでしょう。人事課長が社長室で割腹自殺する事件が発生しました。人事課長は早期退職制度に反対していたのでした。ブりジストンと云えば世界に冠たるタイヤメーカーで石橋家の創業です。坂本繁重次郎や青木繁を育てた文化企業とは思えない事件でした。人事課長は古いブりジストンの企業風土で育っていたのでしょうが、それでは世界に伍して行けない時代が来ていたのでしょう。
アキレスの商標が印刷された箱を開けると嬉しかったのは、更生法適用会社が立派に蘇ったのを確認したからでもあります。
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此れがワイフが買い置いてくれたアキレスの長靴。ゴム長靴は朝日靴の地下足袋は月星化成の発明品です。ブりジストンのソフトな発想が子会社にも独創的な製品を生み出させました。両社ともオリジナル製品の特許を取って置けば韓国などの追い上げを受けなかったのでしたが・・・・。月星は韓国の馬産に現地法人を設立して、価格競争を乗り越えようとしたのでした・・・・。

私はこのブログで我家のルーツである、世田谷の「実相院」と狛江の「龍泉寺」をアップしました。今日はこの大雪の機会に私の生家「戸塚倉田の盛徳寺」を紹介したいと思います。
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これが大川観音です。私の祖母がコツコツ蓄財した浄財を祖母の信仰の篤かった観音にしようと父が考え、私が京都太秦の鋳物屋に行って鋳造しました。今なら間違いなく富山の高岡の鋳物職人に発注したのでしょうが、大阪から高岡は思いつきませんでした。手前は冬至梅です。JRの車窓から見えます。
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盛徳寺墓地入口の六地蔵。

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これは盛徳寺山門脇のお地蔵さんです。
良く「マリア地蔵」として紹介されていますが、次の故事を伝えるお地蔵様です。蜂須賀一族は三河の土豪でしたが、関ヶ原で西軍に組し外様大名でした。阿波(徳島」から遥々参勤交代に出かけた蜂須賀隆重公の奥方「アリカ姫は身重でした。戸塚宿で到頭産氣付いてしまいます。そこで戸塚宿の尼寺養東院/天台宗で出産したのでしたが、尼寺で息を引き取ってしまいます。蜂須賀隆重公は尼寺を建て直し4人の家来(全員鈴木姓)に寺守りを任せ。山口の功山寺から大旗義徹大和尚を招き住持としました。山号は福寿山で「盛徳寺」の名はアリカ姫の戒名としました。
このお地蔵様は生きて我が子を抱けなかった盛徳院の想いを表現しているのです。
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これは「盛徳院」の墓標です。お寺を見下ろす山道に面して眠っておいでです。
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これは盛徳寺の本堂関東大震災で倒壊してしまったので、本堂は簡素な造りです。庫裏は藁ぶきの趣のある建物でした。昭和20年代末に萱葺で葺き替えたのでしたがそれが最後で今は安易な亜鉛ブリキで覆っています。
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本堂の裏山は真竹の竹林でしたが今は墓地に代わっています。庫裏は藁ぶき屋根の上にトタン板を覆った味気ない建物になってしまいました。
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墓地の墓標石仏にも雪が覆っていました。綺麗な苔が蒸している事は戸塚は空気が綺麗なのでしょう。
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私の兄も住職にはなりませんでした。結局姉が寺に入りその息子を父が養子にとって寺を引き継ぎました。姉が花好きなので四季の間色々と花が切れません。
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これは2009年の夏休みに「倉田の石仏」と題して発表した時のPW資料です。写真の石仏が倉田耕地から発見されたモノ。明治39年日本最初の田圃の区画整理事業(耕地整理)が実施され、盛徳寺の寺有田から石像の「薬師仏」が発見されました。盛徳寺の宝物は徳島の蜂須賀博物館に供出されましたので、この薬師石仏(多分柏尾川の川上の信濃の郷士の屋敷から洪水で流出して田圃にうずまっていたモノ、佳くて室町時代)
「脳梗塞で苦労していると思っていたが、意外にシッカリ歩けるじゃないの!」両親も祖母も墓の下から声かけてくれたような気がしました。墓地の周囲はスダジイが生い茂っています。積雪で困ったキジバトや四十雀が団栗の実を啄んでいます。野鳥には困った大雪ですが、佳き時代の想い出を蘇らしてくれます。

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縄文食生活の奨め

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サラリーマン時代の愛読誌は「ダイヤモンド」と「東洋経済」でした。新聞で報じられる経済ニュースを数珠のように繋ぐ知識や視点を雑誌は提供してくれました。正月の雑誌はそんなサラリーマン読者を意識しているのでしょう。両誌ともに「健康問題」を特集していました。私は近くの喫茶室「サンマル・クカフェ」に行って存分に雑誌を読み耽りました。
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此れが本年度の「ダイヤモンド」の正月号です。健康食品に関する知識を特集していました。
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此方は東洋経済の正月号です。同じく健康常識に対する視点を提供していました。
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健康の視点は1「食生活」2「運動」3「睡眠」の三位一体です。自分自身の問題を自己採点して該当ページを読むように編集してありました。
私は癌に糖尿病に脳梗塞を疾患しました。以来「健康長寿」は自分自身の為では無く「家族への愛情」の発露だと思っています。
私の健康生活の視点は「縄文人」です。野山を走り回って狩猟・採集生活をする縄文人がするように自分もすればヶン校ライフです。縄文人の様な「食生活」をする。縄文人のように「体を使う」。縄文人のように「睡眠する」これが健康の秘訣と思っています。
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此れは現在読書中の「人体6百万年史」です
そんな縄文的生活を志していたら、「人体6百万年史/ダニエル・リーバーマン著」を知りました。
著書の骨子は「科学が明かす進化・健康・疾病」で、人類最初の分岐点は「狩猟採集社会」から「農耕定住社会」への移行に在った、と記しています。何のことは無い氷河期に日本列島に渡った原日本人が縄文文化を育てたのに対し、米作に専業した渡来弥生人が、定住して糖質ばかりを食べ始めたので、人口こそ急増したモノの病気に対する免疫を失い、様々な「進化的ミスマッチ」を生じたとするのです。著書の「キーワード」は「進化的ミスマッチ」で人間には遺伝子を介して進化する機能が備わっているのに、社会や食生活が急速に変化してしまって遺伝子進化がついて来れなくてミスマッチが生じてしまうというものです。「狩猟採取社会から農耕定住社会」への変化、「製手工業社会」から産業革命を経て「大量生産大量消費社会に移行した、大変革で生じた「進化的ミスマッチ」の結果「コレラやペストにマラリア」や「癌に脳梗塞にⅡ型糖尿病」と云った鬼子が発生した、というのです。ミスマッチさえ起こらなければ人類には遺伝子を介して、これら現代病に対する免疫遺伝子を生じる機能が備わっているのだそうです。
農耕定住生活を始めたことにより、生活圏が不潔になり、コレラやペストが大流行するようになったというのです。狩猟生活なら排泄物を草叢でしていたモノが住居の近くでするようになり、便所やごみ溜めに細菌や細菌を伝播する小動物や昆虫が棲む様になった結果、伝染病が蔓延したというのです。
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此れは三内丸山遺跡の倉です。穀物を貯蔵するとその外皮にカビが生えて腐食するので倉を用意しました。向こうの叢の先は「北の谷」と呼ばれる窪地でゴミ捨て場やトイレとして使用されていました。
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三内丸山遺跡の北の谷の説明、農耕定住生活に移行した結果、「ごみ溜め」や「トイレ」が不潔になって其処に病原菌が発生、定住集団生活していた事もあって、免疫力の無い人が集住していたので伝染病が蔓延しました。
私は「縄文人の様にすれば健康長寿を達成できる」感覚的に判断していたのでしたが、ダニエル・リーバーマンの「人体6百万年史」は私の直感を科学的に解析しているようで痛快でした。第1巻は農業にシフトした時代の文明史でしたが、これから産業革命が人類の「進化・健康・疾病」を解き明かしてくれます。目次を見れば産業革命によってⅡ型糖尿病や癌や骨粗鬆症が発生したと解説するようです。過剰に栄養を摂取する事、肉体労働をしないことは骨や筋肉のストレスを開放して、結果スカスカの骨や弱い筋肉にしてしまうのです。
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奈良県桜井市の纏向遺跡から出土した大量の桃の種。テレビでは卑弥呼は桃を好んで食べて若さを維持し、シャーマンとしてのカリスマ性を維持していたと解説していました。
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同じく纏向遺跡から出土した猪の骨、弥生時代の猪は頭蓋骨の骨格が大きいのに対し現在の猪は臼歯が多く頭蓋骨顎骨とも平たく軽くなっています。弥生時代には猪を家畜化して豚として飼育していたと説明していました。
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頭蓋骨の眼窩に細かい穴が空いている事実を鉄分不足による病気と説明していました。
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左の茶色い頭蓋骨は江戸時代人右が弥生時代人。弥生人は顎が大きく歯もしっかりしていたと説きます。当然弥生人は堅いモノをシッカリ噛んで食べたのでこうした骨格になったと説きます。江戸時代人は粉食をしていたし柔らかい食べ物を好んだので顎は小さいし小顔で虫歯も目立ったと説きます。
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顎が小さく小顔になった江戸時代食生活の変化が顎に現われていると説きます。
そんな事で読書を楽しんでいた処1/24日(水」のテレビ(BSプレミアム)で「卑弥呼の食生活」を報じました。卑弥呼は奈良の「纏向遺跡」の女王(巫女」と判断し遺跡から出土した、猪の骨、人骨、桃の種等から卑弥呼の時代に既に肺病が流行っていた事。鉄分を始めミネラル不足を原因とする病気が蔓延していたと説明します。
病気が蔓延し、農業の重要性が増していたからこそ、シャーマン卑弥呼が女王として君臨し、桃を食し、貝を食べてミネラルを補給していたのでしょう。
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纏向遺跡から出土した。脊椎骨、この骨は結核に依る「脊髄カリエス」の証であると云います。地中海からユーラシア大陸を経て弥生時代には肺病が日本に渡って来ていたのでした。
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弥生時代は海の貝などからミネラルを取得してミネラルを充分に摂取したから、免疫体質を維持して病気にもなり難いし治癒力も在った、と説いていました。卑弥呼ならずとも弥生人は自力耕作し、糖質では無くて蛋白も脂質も充分に食していたようです。偏食しない事、体を使う事、熟睡する事が雑誌の結論でした。私が懸りつけ医師に「サプリメントの効用」を質問すると医師は機嫌を悪くします。
「サプリメントなんてどれも効果はありませんよ!」
免疫力維持は「食生活」「運動」「睡眠/心身の休息」にある事は縄文時代も現代も変わらないようです。
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テレビで卑弥呼の食生活を示したモノ、ワタリガニの茹でモノノ他に牡蛎とアワビが羨ましいです。
卑弥呼の食生活、私の食生活より遥かに豪華です。取分けアワビと牡蛎が眼に付きます。今晩は牡蛎鍋にするか牡蛎フライにして貰いましょう。卑弥呼を真似て免疫力アップに志したいものです。卑弥呼の時代の病気は結核でありマラリアだったのでしょうが、現代はⅡ型糖尿病に癌に脳梗塞等欠陥病に骨粗鬆症です。現代病の免疫力を高めるには縄文人に真似る事が良いと確信するのです。


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絵馬の系譜

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昨年末から正月にかけてアッチコッチの神社仏閣を詣でました。「願い」は決まっています。「健康の恢復と出来れば金運も良くなったら・・・・」個人的な願いばかりです。初詣をする度に気になる事があります。金運は未だしも健康は捗々しく回復しています。
昔の人は年初めに「豊作祈願」し収穫を終えれば「感謝祭/新嘗祭」を行いました。私はお願いばかりで感謝に詣でていません。「願掛け」と「感謝」セットで真心が神仏に伝わるのです。お願いだけで御礼を失しては叱られます。と云っても、昨年秋に詣でた「岩木山神社」に願かけしたモノノ、お礼詣では略不可能でしょう。
という事は。願懸けした神社はしっかり記憶しておいてお礼詣でをしなくてはなりません。これからは「お願いはするものの。お礼詣では出来ません」念じて柏手を打つ事にしましょう。
処で、願掛けの際に神社に奉納する呪物です。今年も鶴岡八幡宮で寒川神社で遊行寺で沢山の絵馬が下がっていました。

此方は鶴岡八幡宮の絵馬です、白馬に跨って流鏑馬の構図です奉納費1000円
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此方は寒川神社の絵馬です。此方も白馬です。
神社仏閣に願をかけて奉納するモノを民俗学では「呪物」と呼びます。
百人一首の菅原道真の歌は「飛梅」でなくて「手向け山の紅葉」です。
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
      『古今集』羈旅・420
歌の意味はおおよそ次のようなモノでしょう。今度の旅は突然でしたので手向け山神社の門前を過ぎるに際し「幣」の用意が出来ませんでした。取敢えず手向け山の美しい紅葉を幣帛としてお供えいたします。神様御心のままにお受け取りください。現代なら社務所に寄れば「絵馬」を求める事が出来ます。でも平安時代にはそんなサービスは無かったので、幣帛を用意するのが礼儀だったのでしょう。
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百人一首の菅原道真
民俗学では願をかける時神様に供えるモノを「呪物」と云います。日本では呪物の代表が馬です。古墳から出土する埴輪は古墳の主人(祖霊」の乗り物として馬の埴輪を供えたのでしょう。本来は生きた馬を奉納したのでしょうが。古墳時代には埴輪で古代からは木製で近世になると藁人形になって、江戸時代には絵馬売りの行商人が出没しました。浅草の仲見世の様な処に来て絵馬を売っていたのでしょう。
現代の高崎達磨寺や川崎大師門前の達磨屋の前身の様なモノです。
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横浜歴史博物館の馬の埴輪これは複製で踊る人形埴輪も含めて国の重文です。
神様のお乗り物と云えば先ず想い起すのが「お神輿」です。「生き馬」を奉納して”神様に私の村に我が家に来て下さい”お願いしたのでしょう。明日香の橘寺は聖徳太子の生家としてのお堂や太子像や神馬がありますが。「厩戸皇子」の名も聖徳太子を神として崇めた為でしょう。
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これは安曇野の穂高神社の神馬です。案内板には木曽駒であると記されていました。素材は漆喰です。
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 此れは中山道小田井宿諏訪神社の藁の神馬です。大小様々な藁人形が繁華街を引き回されます。山車のような扱いです。

絵馬の系譜

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昨年末から正月にかけてアッチコッチの神社仏閣を詣でました。「願い」は決まっています。「健康の恢復と、出来れば金運も良くなったら・・」個人的な願いばかりです。初詣をする度に気になる事があります。
私の金運は未だしも、健康は捗々しく回復しています。
昔の人は年始に「豊作祈願」し、収穫を終えれば「感謝祭/新嘗祭」に詣でました。私はお願いばかりで感謝に詣でていません。「願掛け」と「感謝」セットで真心が神仏に伝わるのです。お願いだけで感謝を失しては叱られます。と云っても、昨年秋に詣でた「岩木山神社」に願かけしたモノノ、お礼詣では略不可能です。
という事は。願懸けした神社はしっかり記憶しておいてお礼詣でをしなくてはなりません。これからは「お願いはするものの。お礼詣では出来ません」念じて柏手を打つ事にしましょう。
処で、願掛けの際に神社に奉納する呪物です。今年も「鶴岡八幡宮」で「寒川神社で」「遊行寺」で沢山の絵馬が下がっていました。
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此方は鶴岡八幡宮の絵馬です、白馬に跨って流鏑馬の構図です奉納費1000円
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此方は寒川神社の絵馬です。此方も白馬です。
神社仏閣に願をかけて奉納するモノを民俗学では「呪物」と呼びます。
百人一首の菅原道真の歌は「飛梅」でなくて「手向け山の紅葉」です。
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
      『古今集』羈旅・420
歌の意味はおおよそ次のようなモノでしょう。
『今度の旅は突然でしたので、手向け山神社の門前を過ぎるに際し「幣」の用意が出来ませんでした。取敢えず手向け山の美しい紅葉を幣帛としてお供えいたします。神様御心のままにお受け取りください。』現代なら社務所に寄れば「絵馬」を求める事が出来ます。でも平安時代にはそんなサービスは無かったので、幣帛を用意するのが礼儀だったのでしょう。
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                     百人一首の菅原道真
民俗学では願をかける時、神様に供えるモノを「呪物」と云います。
日本では呪物の代表が馬です。古墳から出土する埴輪は古墳の主人(祖霊」の乗り物として馬の埴輪を供えたのでしょう。本来は生きた馬を奉納したのでしょうが。中々用意できるものではありません。
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これは横浜歴史博物館の埴輪です。馬型埴輪も踊る人形もどちらも複製で実物は国の重文です。
古墳時代には土をこねて作った埴輪で、古代に木製や漆喰で近世になると藁人形になって、江戸時代には絵馬売りの行商人が出没しました。浅草の仲見世の様な処に出張して絵馬を売っていたのでしょう。
現代の高崎達磨寺や川崎大師門前の達磨屋の前身の様なモノです。
神様のお乗り物と云えば先ず想い起すのが「お神輿」です。「生き馬」を奉納して”神様に私の村に我が家に来て下さい”お願いしたのでしょう。明日香の橘寺は聖徳太子の生家としてのお堂や太子像や神馬がありますが。「厩戸皇子」の名も聖徳太子が神の様な人物であったので乗り物は白馬だったのでしょう。
生き馬を奉納するのは大変です。そこで中世以降は木造の馬や藁製の神馬を作って奉納しました。中世以降で大事な事は個人的な祈願で神馬を奉納する訳では無くて村や部落等の共同体で共同祈願したのです。その伝統は今も信濃国には残されていて、安曇野穂高神社奉納神馬は漆喰製の立派なモノですし、中山道小田井宿に在る諏訪神社の神馬は藁で農民共同でが編んだモノです。大小様々な藁人形を子供達が曳いて小諸宿まで練り歩くお祭りは良いモノです。
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これは、小田井宿諏訪神社の藁の神馬、子供神輿ならぬ「子供神馬」です。隣の小諸まで練り歩きます。
私の書斎には三春駒の木製人形があります。大きいので扱いに窮していたのですが、今はブックエンドとして役だっています。
三春駒は馬の産地ですから、神様の乗り物では無くて愛玩用でしょう。
東北のこけし人形が神仏の霊の依り代から土産用愛玩用に転じた様に三春駒も愛玩用として生き返っているようです。
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私の書斎兼書庫の三春駒です。
神社の絵馬の馬を観ていると、幾つもの色が着いています。一番目立つのは白い色です。民俗学の著書を読むと白い絵馬は豊作祈願で、旱魃時に「雨降り」を祈願したモノだそうです。反対に黒い絵馬は雨降りが続くので洪水除けのお願いだそうです。赤い絵馬は魔除け、特に病魔除けだそうです。子供夜泣き疱瘡、等様々です。
さしずめ私は2型糖尿病除けと云ったところでしょうか。
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これは高月観音堂(近江)の黒い絵馬です。雨を願う時は白い絵馬。晴れを願うときは白い絵馬にするそうです。お天気を願うのは村落共同体に一致した願いごとでした。「共同祈願」と呼び、「個人祈願」と違った宗教神事です。現代では個人祈願ばかりですから、みんな白い絵馬です。
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これは京都伏見の御香宮神社の絵馬堂。この神社は名の通り名水で有名です。絵馬の奉納者は日本酒メーカーだったりします。
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此方は東京水天宮の絵馬です。3色あって何れも、「除災招福」絵馬ですが、ピンクは「恋愛運」で赤は「子宝祈願」で水色は「病気除け」でしょう。。子宝祈願の絵馬は同じく安産祈願に来た人は絵馬をお借りして、毎朝水をかけて、神様を呼び覚まして、安産を終えたら、新しい絵馬を添えてお借りした絵馬と一緒にお返しすると良いと聞きます。森戸神社(葉山」の子宝医石も同じように卵の様に丸い川原石を呪物にして個人的な祈願をします。

絵馬には重要な事が記されています。
「誰が」「何時」「何を祈願した」かが記されているのです。お礼絵馬の場合には誰が絵で描かれていることが度々あります。久里浜の為朝神社には弓の名人為朝を祀った神社ですが。為朝の武勇を怖れた疱瘡の厄神が退散するように祈願したモノです。私は脳梗塞の後遺症ですから、絵馬に託すとすれば鳥を描いた絵馬でしょうか?
年末に詣でた豪徳寺の絵馬が私向きだったようです。
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これが世田谷豪徳寺の絵馬です。「鳥」は後遺症の麻痺を取るから私向きだと思ったのでした。



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庶民のお墓の民俗学

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ズット考えている事があります「自分のお墓を如何しようか?」という事です。
父が生前「お前の墓は此処だ!山の中に」指差した場所がありました。その場所も含めて私の生家(寺院)の裏山は墓苑に開発されて分譲されてしまいました。ソロソロ自分の墓を用意しておかなくてはなりません。兄達は夫々自宅の近くに現代的な墓地を手当てしました。わたしも、夫婦の常世を手当てしなければなりません。
江戸時代、寺の中に墓地を手当てした人は成功者か豪農だけでした。庶民は山や畑の脇に穴を掘って埋めました。豪農は街中にある寺に立派な墓標を建てて、寺の墓に子孫や関係者が墓参(参り墓)して、遺体は山の中や畑の脇に埋めました。良く東北を旅していると、立派な一本桜が在って、その根元にお地蔵さんが立っている光景を目にします。それが「埋め墓」です。これを柳田国男は「両墓制」と名付けました。
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赤城山の西水上街道上発地にある地蔵桜。埋め墓であったと思われます。
遺体や遺骨の処理だけであれば簡単です。法律に従って、公的な焼き場で灰にして貰い、然るべき処に埋めて貰うか、散骨して貰えば済みます。葬式の方法も遺骨の処理も、憲法で「信教の自由」が認められていますから、遺言にでもしておけば、「好きな葬儀をして貰い好きな墓に埋められる」のです。海や川や空中に散骨しても良いのです。
問題は死を覚悟して「生きた証をこの世に残したいと思う」未練心です。人類は数万年昔から、肉体と霊とは別だと信じて来ました。近代医学でさえ従来「死後硬直」を死の判断根拠にしていたモノを「息が止った」「心臓の鼓動が止った」「脳の活動が止った」様々な「死の判定」基準があります。数万年の間日本人は「死の判定」は長い「殯」(もがり)を経て、何も起こらなければ「死」を判断してきました。「殯」の間に死者が現世に蘇る事があると信じていたのでした。
今上天皇は昭和天皇の「殯」が済む迄長い時間を要した事から、日本経済社会の活動が停滞した事を懸念されて「生前退位」をお口にされたのでした。生前退位が認められその翌日には皇太子の「天皇即位」が決まりました。死の判断に「殯」は不必要になったのでした。
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今上天皇は昭和天皇の「殯」によって国が委縮してしまった事に心を傷められて「生前退位」をお口にされたのでした。私も訳が分からずも、歴史の変換点である事を意識してこのご記帳の列に加わりました。
死を覚悟して、「自分はこの世に出て何も残せなかった」と思う程情けない事はありません。墓ふが「子供や孫が私を想い起して線香でも奉げてくれる標識」と思えば意義が在るのかもしれません。でも、私の墓を用意するくらいなら孫の成長のお祝いをあげた方がズット喜ばれるし、子孫の記憶の中に生き残れそうです。
大体お墓に拘るのは日本民俗の特長です。インド人や海洋民族は骨を川や海に流してお墓には何の執着もしません。
天皇や名門家の子孫ならその権威を世に示す為に巨大な陵墓や立派な墓標を必要にするでしょう。子孫の権威づけの為にもお墓は立派でなくてはならないのです。自分のお墓は如何しようか?思いながら東慶寺の墓地に行くと小林秀雄や岩波重雄等確たる「生きた証」を残した人の墓が並んでいます。
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鎌倉東慶寺に眠っていられる小林秀雄氏の墓、この墓石は白洲正子氏の随筆で記載されています。女史が京都住まいの時小林氏から「鎌倉時代の五輪塔が欲しいので探しておいてほしい」依頼を受けて、女史が京都の骨董店を巡って探し当てたのだそうです。その時は何の細工も無かったのですが、前面に阿弥陀如来が暘刻されています。屹度小林氏が鎌倉の石屋に持ち込んで細工したのでしょう。小林秀雄の命日は彼岸桜の咲き始める頃(3月1日)です。以前次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46094266.html?__ysp=5bCP5p6X56eA6ZuE44Gu5ZG95pel
大松博文氏の墓には灯明の位置にバレーボールが置かれています。バレーボールが無くても大松博文監督の名は知れ渡っています。墓地に名刺入れが設えて在るのは、遺族が墓参者に気配りをしているからでしょうか?
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東慶寺の大松博文監督の墓、左のバレーボールの下に「名刺受け」が設えられています。
1月26日先輩のI氏から本が贈られて来ました。同先輩は有名百貨店美術部に実績を残された人です。社会の耳目を集めたのは「運慶作の大日如来」の海外流出を未然に防いだ時でした。著書には「運慶作大日如来」を始め、I氏が手掛けた名作の攻防記録や思い入れが記されていました。昨年末には矢張り先輩T氏から「ドイツに渡った日本文化」の著書を戴きました。T氏が既に「山家集の校本と研究』(1993/三笠間書院)を上梓されていましたから。今回の著書は、ライフワークの追録の様な著書です。人生も第三コーナーも廻って、自身の一生を振り返ろうとする時「安倍首相から国難」と評されるような一生は悔いばかりが残ります。
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左が先輩にI氏の著「10の傑作」遺右は先輩のT氏の著書。生きた証を立派に残されました。
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先輩I氏が手掛けた傑作の内左が運慶の大日如来、右がゴッホの「愛する二人」上記著書からスキャン。
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同じくI氏の手掛けた傑作左がピカソの「マリー・テレ―ズ」の肖像右はルノアールの「赤いブラウスを着た女)同上著書をスキャン。
先輩二人が「何を為したか」著書を上梓して、贈られると、「自分は何を残せたのだろうか?」想い起してしまいます。私は長銀の破綻の判断になった「長銀の債務超過判断になった銀行検査が2年も前の検査結果の見直しであった事実に憤り「銀行検査は国民の知る権利を根拠に国民の財産保護を目的に捨て実施するモノであるから、検査を終えたら可及的速やかに公表しなくてはならない」告発した積りでした。処が上梓した本はマスコミから「暴露本」扱いされてしまい、多くの友人や後輩を失う原因になってしまいました。
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私が金融行政の恣意性に憤慨して(金融検査は国民の知る権利に基づくものだから、検査後一定期間経たならば公表すべき」と主張し、上梓したのですが世間では単なる暴露本として扱われ、自身の友人や後輩に迷惑をかけただけでした。

先輩に較べて「自分は何も社会文化に貢献できなかった半生」を空しく悲しく想います。こんな自分ですが死に係る名著が二冊あります。
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此れは薬師寺の神像です、モデルは死者の書の主人公「大津皇子」であると思います。
第一は折口信夫著「死者の書」です。脳梗塞で病院のベッドに伏せて居た時背中が痛くて仕方なくて。「この痛みや不快感は何処かで記憶している」思ったのでした。それが「死者の書」で「大津皇子」の魂が、約70年を経て塚穴の中で蘇る場面でした。折口氏の筆はオドロオドロしく描写し続けるのです。背中に冷水が浸みて来る、体中にゲジゲジが這い回る。藤原南家の郎女の声掛け(魂醒し/たまさまし」で大津皇子は蘇ります。
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此れは山の辺から見た「二上山」です右が雄峰左が「雌峰」です。大津皇子の姉「大来皇女」はこの山を視て次の様に歌っています。
      「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む
ですから、藤原京の時代でも二上山は「二人の神の山」と思われていたと思うのです。
もう一冊は「奥の細道」です。奥の細道序文は和文で最も美しく内容も日本人の崇高な精神性を表わしています。元禄2年(1689年3月27日)芭蕉は深川を出立し千住宿に向けて旅立ちます。その出で立ち姿は「常世」への旅姿であり「古人も多く旅に死せるあり」と覚悟を示しています。芭蕉の云う古人とは「能因」であり「西行」であります。道祖神の招きにあいとるモノ、とりあえず」と書いている道祖神とは笠島の道祖神であり藤原実方が探した歌枕の松であると確信するのです実方は笠島の松を探し当てた悦びに道祖神への礼を失し、笠島で客死してしまっています。「弔う」とは「訪/ともらう」事ですから、芭蕉は尊敬する西行や実方の霊を弔う為に死も覚悟しての旅立ちだったと思うのです。
芭蕉の生きた証は現代から見れば「奥の細道」をはじめとした紀行文学であります。芭蕉自身も蕉風俳句に確信を持ち、生きた証を残せる確信を持って命を懸けた旅立ちだったのでしょう。
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奥の細道旅立ちの図(蕪村画)左の見送られているのが芭蕉と曽良二人とも死出での旅姿です。蕉風俳句の完成と、敬愛する先人(実方や西行)を弔う為には命を懸けても充分な旅だったのでしょう。
「死」を自覚する事は「生きる事」を志す事です。それは私が門前の小僧で何も解らず覚えたお経(修証義)の冒頭のフレーズです「生を明め死を明むるは仏家一大事の因縁なり、ただ生死即ち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。 この時はじめて生死 を離るる分あり」
私は大病を患って病院で半生を振り返って初めて生死は人生の裏表である事に気付きました。友人は「君と旅すると墓ばかり巡って死ばかりイメージしているようだ」言います。でも、そのお蔭で「死者の書」や「奥の細道」が名作である事に気付く様になれました。

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水子の矛盾

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相模原の「山百合苑」の惨事件が発生してから1年半が経過しました。事件のその後を追った報道が盛んです。山百合苑」惨事件とは昨年の7月26日に発覚しました。旧職員が特別養護老人ホームの患者19人を無差別に殺害したのでした。
犯人にNHKがインタビューをしていました。犯人は自分が犯した犯罪である事は認めながらも「患者は生きていても社会悪であるから」と発言して、一向に後悔したり犠牲者やその家族を傷む気配を見せません。インタビュアーは堪えきれずに「貴方の家族でも身障者なら殺すのですか?」訊けば犯人は無口になってしまいます。
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津久井の山百合苑事件発生から1年半経ちましたが事件の全容も施設の建て替えも何も決まっていません。
テレビを見ながら考えました。良く似た構造の法律に認められた「大量殺人」は昔から在ったし、今もありそうだ。
昭和23年我国では「優生保護法」が施行されました。
この法律の目的は二つありました。一つは「出産しようとする母体の保護です」。もう一つが問題です。「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」事。要するに「
これから産まれてくるベビーに障害がある事が判明したら。下しても良い」と認めたのです。翌24年には「産まれようとする命を下す事由に経済的事情が加えられた事から、現在では親の任意の儘に下せるようになってしまいました。
「病気や障害をもつ子どもが生まれて こないようにする」とか「優秀な子や美人の出生を促す」と云った施策自体に問題が在りそうです。この発想自体に内包されている矛盾が出生率を下げていると思うのです。

「水子」とは云い得て妙な言葉です。「水子」とは名前も付けられずに流産 または人工妊娠中絶により死亡した胎児のことを云います。「水に流す」とか古事記の「蛭子」が語源でしょう。
私は『優生保護法を施行していながら山百合苑の犯人を断罪する事は矛盾ではないか?』思うのです。
「人の命」にかかわる同じような矛盾はアッチコッチに在ります。
二年前の夏私は京都に「地蔵盆」を観に出かけました。
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京大近くの百万辺での地蔵盆、京都の路地の奥にはこんな会場が設えられて地蔵盆が過ぎて行きます。「地蔵盆」は昔は子供が死ぬことが多かったので、その霊を地域で弔う伝統行事で主役は子供達です。
日中は町屋の中の露地で繰り広げられる地蔵盆を視て廻り、夕方は嵯峨野の奥の「念仏寺」に詣でました。
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京都化野の念仏寺地蔵盆の夜には蝋燭が灯され幻想的な光景になりました。
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これは愛宕念仏寺の羅漢像西村公朝氏の尽力で見違えるようになりました。
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此方は愛宕念仏寺の水子地蔵尊
「念仏寺」は応仁の乱等で発生した無縁仏」を祀ったお寺です。学生時代にもこの寺に上りました。でも記憶していた念仏寺と随分変わっていました。無縁仏の墓標に勝る数の水子地蔵尊が祀られていたのです。「念仏寺」ではなく「水子寺」に変ってしまったのです。
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これは「化野弘正寺」の水子地蔵尊です。現代人の「悪業」を視るようで、背筋に悪寒が走ります。
鎌倉の長谷寺に水子地蔵尊が多く祀られているのは納得です。江戸時代盛んであった「観音講」があって、早逝した子供の霊を弔ったものでしたから、子安観音に代わって水子地蔵も祀られているのでしょう。
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此方は鎌倉長谷寺の水子地蔵尊。前面のお地蔵さんは赤いので赤子ですが、後列は赤子にも満たずに流された水子の霊を祀った水子地蔵尊です。
でも「化野念仏寺」や「愛宕念仏寺/おたぎねんぶつ寺)」は別です。
本来社会の軋轢に遇って無念にも落命した無縁仏を祀ったお寺です。その寺が水子供養の寺に変っている事実に愕然としました。
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奈良山の辺の「帯解寺」の水子地蔵尊。美智子妃殿下に腹帯を届けた古刹も水子地蔵が勝る状況になっていました。
奈良山の辺の「帯解寺」も同様です。美智子妃殿下の腹帯をお届けした古刹は今では水子地蔵で一杯なのです。元気なベビーが産まれて来るように祈願した寺が水子として扱われた霊を弔う寺になってしまった事実は何れ手厳しく非難されるでしょう。

「水子」と似た行為に「間引き」があります。私達は次の様に教わりました。
『江戸時代飢饉に瀕して「子供を育て切れない」覚悟した農家は子供達の中から優秀な子を残して女子や体力の無い子は殺してしまったそれを「間引き」と呼びます。お百姓が畑に瓜や菜の種を播いて発芽した苗の内で生育の良いモノは残すものの生育の劣る苗は抜いてしまう(これを農家用語で『間引き』と呼び、家族に対しても間引きを実施した。これは農家が非倫理的な訳では無く、農家の生産力が無かったのが原因である。「間引き」は柳田国男が「茨城の間引き絵馬」を指摘した事から民俗学の脚光を浴び続けて来ました。結果間引きを指摘した文献を数多く発見してきました。
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此れは典型的な「間引き絵馬」です。多賀城にある「東北歴史博物館」蔵間引きを戒めた絵馬ですが、従来この様な絵馬が北関東から東北に多く残されていた事実から、貧困地帯では「間引き」が盛んに行われた、と解説されましたが、最近は地方の英明な藩主が”子供を大切に育てなさい”教化した絵であると説明するようになりました。歴史家の本流がマルクス主義者で占められていたのが、最近は信条に依らずに実証的に考えるようになったので、変ったモノと思います。
最近の研究成果では「間引き絵馬」は間引きが頻発していた証拠では無くて、「子供を大切にするように農家を指導した絵解きであると云った主張が主流になって来ました。絵馬が多く発見されるのは会津や水戸と云った篤農藩主の地に多く残されているのもその証左です。
例えば回向院は両国にある寺ですが。寛政5年(1739)松平定信が水子塚を建てさせ。水子供養をさせた事で創建されました。回向院にイタコを集めて水子供養をしたのでした。江戸表で水子供養をしたのですから。陸奥佐竹藩でも盛んに水子供養をしたものと考えられます。江戸で水子供養をして「子供を大事に育てよう」運動を始めて地方の藩も水子供養をしたと思われます。
江戸時代は死者の霊は空中に浮遊していて、誰かのお腹に入って産まれると信じられていました。子供を増やすにはイタコに霊を呼ばせて、「産まれて欲しい」想ったのです。
「水子寺」は子供を増やしたいと願って建てられたのでした。空中を浮遊している霊に呼びかけて女性のお腹に入って貰おうとしたのでした。人口は国や藩と云った全体の期待と子供を産む女性の考えが一致した時には急増します。明治維新では国力増強を図った国家と、自由恋愛や子育てをしたいとする女性の考えが一致したので一人の女性が7人も8人も子供を産んで育てたのでした。
終戦後も漸く平和になって女性の描く将来像が明るくなったのでベビーブームになって「団塊」が出来たのでした。国も所得倍増政策を標榜し、昭和憲法を喧伝したので国の用意した施策と女性の期待とが一致しました。結果人口の爆発を誘発しました。
現代は国の施策と女性の描く将来像が逆方向です。
子供は一人育てるのが精一杯で、二人目三人目と増えれば家庭の経済が成り立たない、思えば、出生率は下降するばかりです。
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此れは出生率の推移です。江戸時代を通じて出生率は5%あったのでしたが、江戸時代の子供は半数が7歳に満たずに亡くなってしまったので、江戸時代を通して人口は3千万人を超せませんでした。明治維新と終戦の二度に渡って出生率が上昇したのは国の施策と家庭の目標が一致したからです。更に衛生観念の向上や医学の進歩によって人口爆発して4倍増の1.2億人になりました。
現代の水子供養は「期待されない妊娠によって堕胎したりした子の霊を供養するモノです。水子地蔵尊は『水子の霊は祟るし再度妊娠できないといった風評や堕胎した女性の心の負い目を軽くする呪術です』が、定信の時代の考えは違いました。子供を増やして国を栄えさせたいと云った施策が「イタコによる霊呼び/水子供養」でした。
出生率を上昇させるには『家庭の経済的合理性を犠牲にしてでも子育てに邁進したい親の気持ちを変えるほどの未来図を提供』しなくてはなりません。「GNP極大の為に優秀な労働力が欲しい」言うだけでは「そんなら、労働力は移民に任せた方が良い」言われるだけです。
「国の描く未来図」と「女性の描く将来設計図」とが逆方向を向いている、この矛盾こそ見逃せないと思うのです。加えて問題なのは人工授精です。人工授精は夫婦どちたかの何らかの肉体的事由によって妊娠出産できない場合に限って医師の手助けで子を産めるようにした医学的技術進歩です。江戸時代は子供は「神様からの預かりモノ」と思われてきました。でも現代は医学技術の進歩に眼を奪われて子供は思いの儘得られるモノと考えるようになってしまいました。出来れば優秀な遺伝子を使いたいとか美人の遺伝子が欲しい等と尊大な期待が寄せられてしまいます。「地獄の沙汰も金次第」から「妊娠出産も金次第」の風潮を生んでしまいました。仏教用語に「無明」があります。命に係わる現代の世相はまさに「無明」そのものです。


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良いぞ!良いぞ!横浜清風高校「吹奏楽部」

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1月27日(土)横浜女性フォーラムの図書館に出かけました。玄関の右側が図書館で左側がステージです。私は先ず借りていた来た本を返却して、新しく本を借り受けてロビーでワイフの手続きが終わるのを待ちました。何時もは館内にはBGМが響いているのですがこの日は少し違いました。何かと思えばステージの方から響いて来ます。何処かで聴いた記憶があります。昨年アニメ映画「君の名は」で聴いたメロディーです。通りかかった女学生に訊いてみました。
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昨夏観た映画「君の名は」は今時高校生の支持を得ているのでしょう。でもこのアニメが東アジアの支持を得ているという事は、今時高校生の肌感覚はインターナショナルだという事でしょう。
「私は近所の住人で図書館に来たんだけどステージの中で聴いても良いですか?」
女学生はステージ出入り口でチェックしていられた教師に訊いてくれました。
今日のニューイヤーズコンサートは午後1時半開演で今は練習演奏中ですが、それでも良かったら中でお聞きください」
言って、ニューイヤーズコンサートのプログラムをくれました。
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此れが女学生から戴いた清風高校吹奏楽部ニューイヤーコンサートのプログラムです
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1/27日午後開演を前にリハーサルをしていたのでした。指導教師はジーンズに麦藁帽子の自由人でした。ネットで調べると有名な打楽器奏者でした。その為か後列のドラムの男子生徒に厳しい指導が為されていました。
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サクソフォンやチュウバと云った大型管楽器を演奏する生徒さんは大股開きで丹田に気を集中しています。爺さんは直ぐにそんなところに目が行ってしまいます。哀しい性です。
リハーサルですから指導教授と生徒の遣り取りが視られて興味深く聞き入りました。
叱正の大半は”音を揃えろ”でした。吹奏楽は嵯峨錦の様な織物に似ているな思いました。良い織物は「縦糸と横糸の織り成す綾」ですが、揃っていないと美しくありません。音量も音程も他の奏者とあわせるように注文が出されます。生徒は素直に従って何度も繰り返し繰り返し同じ章節を演奏しなおします。
中学の時の音楽の授業を想い出しました。皆で合唱していると教師が生徒の間を聞き耳を立てながら歩き回りました。教師に肩を叩かれると合唱部に入れるのです。私は気持ちよく歌っていたのですが肩を叩かれませんでした。その時に合唱隊には入れないことが判明しました。お蔭で友人は皆ミサ曲を歌えるのに私は歌えませんでした。屹度私の声は揃っていなかったのでしょう。以来私は集団の中で揃える事が苦手のようです。

家に戻って横浜清風高校(https://www.y-seifu.ac.jp/information/history/)を調べてみました。井土ヶ谷にある新しい高校のようです。以前大阪の清風高校が有名でした、当時低調であった体操界に卓越した技能を示した二人のスーパー高校生が出現したのでした。池谷幸雄選手と 西谷和也選手でした。その清風高校が横浜に進出して、1958年に明倫学園(大正12年創立)を組織替えしたのでした。京都の真言宗系の高校としては「洛南高校」が有名ですし、大阪では「清風高校」が著名です。2年前私は東寺の盆踊りを観に行って洛南高校のブラスバンドの演奏を聴きながら眼は浴衣姿の京娘を追っていました。
今日は横浜清風高校の吹奏楽部のリハーサルを聴きながら高校生と教師の遣り取りを眼で追っています。何時みても高校生は清々しくて良いモノです。
翌日曜日の朝刊をワイフが新聞を視ていて、確認しました。
「清風高校の生徒さんが女子フィギアで4位入賞したそうよ!」私達は俄か清風高校ファンになったのでした。
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青木祐奈選手の活躍を伝える読売新聞記事(横浜版)
高校総体で青木祐奈(横浜清風高校1年)さんが4位入賞したのでした。
新聞には青木選手は腰痛を克服したガッツある選手であると書いていました。
吹奏楽部のパンフレットを視ると次回の演奏会は8/19日鎌倉芸術館だそうです。
屹度出かけるでしょう。横浜女性フォーラムのある場所は、昔盛徳寺の寺田で埋もれていた「石像の薬師仏」が発掘された田圃でした。図書館があり、音楽会や映画を放映するステージがあり、良い施設になりました。


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頑張れ!「鶴竜」

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1/28日大相撲初場所が終了しました。『NHKは何故テレビもラジオも国会中継を優先して大相撲中継は第2チャンネルにしています。』受信料は国民が払っているのですから、視聴率の劣る国会中継を大相撲に優先させるのは疑問です。「明日から大相撲は観られません、どうしようかと?」と思っていたら、2月9日からは平昌オリンピック https://www.joc.or.jp/games/olympic/pyeongchang/が始まります。平昌は日本と時差が無いですから、選手も有利ですし、テレビ中継もライブで観られるでしょう。それに活躍が期待される選手が沢山います。上手くくスケジュールされています。
処で大相撲初場所です。終盤鶴竜が全勝でリードし一敗の栃ノ心が追い上げました。大半の日本人は「栃ノ心」を応援していたと思います。何時も何時もモンゴル出身力士よりもジョージアの方が良いと思ったでしょう。
読売新聞のコラムでは「栃ノ心」が黒海の沿岸のジョージア出身である事、愛国者で同名の缶コーヒーを愛飲している事。琴欧洲がブルガリアヨーグルトを好んでいた事と併せて紹介していました。私はジョージアとは米国の事で、2年前までは「グルジア」と呼んでいたモノをロシア読みから英語読みに変えた事も前記コラムで知りました。
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読売新聞のコラムで栃ノ心が愛飲しているというコカコーラの「ジョージア」同コラムで「ジョージア」はロシア読みでは「グルジア」であった事、最近相撲協会が出身国を英語読みに変えた事を知りました。
国技館には「祝優勝」と「祝出産」の垂れ幕がかかっていました。昨年は稀勢の里が横綱になり2度も優勝して前半は「晴れ」の角界でしたが「後半」は「日馬富士」ノン暴行事件に「貴乃花」の造反や立行司「木村 庄之助」のセクハラ事件が発覚して、賜杯を手渡した林文部大臣は監督官庁としての発言を求められていました。
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林文部大臣から総理大臣杯を渡された「栃ノ心」
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優勝賜杯授与式に向かう栃ノ心、師匠の「春日野親方/元関脇栃ノ若」に手順を確認していました。筋骨隆々雷電を想わせるお相撲さんですが、意外に生真面目な一面を覘き見しました。
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「栃ノ心」ファンは意外に多いのでした。「お子様おめでとう」と云った幕も懸っていました。
横綱鶴竜がピンチです。10連勝した時点ではまたモンゴルが優勝と思いました。そして11日目の相手は「玉鷲」でした。鷲の付く四股名のお相撲さんはモンゴル出身です。モンゴルでは鷲は神使だからです。週刊誌風に云えば「モンゴル相撲取りは気が通じているから九州場所は「日馬富士」初場所は「鶴竜」と思っていて「ガチンコ」勝負はしない」と思っていたのでした。私の「下司の勘繰り」を他所にして玉鷲は鶴竜に土をつけてしまいました。11日目から鶴竜は4連敗してしまいます。高安に土俵下に突き飛ばされた鶴竜は情けない顔で泣いているように見えました。私はテレビ画面の鶴竜の泣き顔を視て一転、鶴竜ファンに転向しました。鶴竜は千秋楽に連敗を止めたモノの春場所に向けて外野席が五月蠅くなることでしょう。五月蠅い雀を黙らせる活躍を期待したいです。平幕が優勝した事実は誰でも優勝のチャンスがあることを知らしめたものでした。琴奨菊が優勝して稀勢の里が発奮したように、栃ノ心の優勝が刺激になった土俵は一層白熱する事でしょう。
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4連敗した鶴竜は四股を踏む間も俯き加減で「千秋楽でも負けたら横審が何か言いだすだろう」と心配させました。
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この人の良さそうな表情が相手力士の戦意を掻きたててしまうのです。白鳳のようなふてぶてしさが在れば強いのですが・・・・。
春場所は一層熱の入った土俵が観られる事でしょう。モンゴルの三横綱三者三様で面白かったです。日馬富士が一番蒙古民族を思わせました。一途な性格に負けず嫌い精神が顔面に出ていました。速攻を視ていると成吉思汗を想わせました。日馬富士こそ騎馬民族の「蒼き狼」でした。白鳳は騎馬民族の血を引きながら悠然と構えていました。まるで清国を創設した康熙帝(こうきてい)を思わせました。鶴竜は蒼き狼でもないし皇帝風でも無いし。優しいお百姓の風体です。一番日本人に似ていると思います。ニュースでは「日本国籍」の取得を申請したそうです。日本に骨を埋める決心をしたのでしょう。モンゴル出身の親方が生まれるのもそんなに遠く無さそうです。


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排便の摂理

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夕餉の食卓も今年は夫婦二人になってしまいました。ワイフは私の箸の進み具合を横目に話します。「チコ/我家の愛犬も還暦ね!老犬の介護も大変だそうよ!」
言われてみれば我家の近くでもオシメを履かされた犬がお散歩しています。チコも14歳ですから、人間に換算すれば84歳で私より相当に老いて来ました。私の食べ残しはチコのドッグフードにオンされてしまいます。チコは私と似た食生活を送っているのです。食事を終えれば庭の隅に行って糞をします。私達は毎日二回チコの排便を眺めてチコの健康を確認します。チコは老いて益々食欲旺盛、排便も好調です。この調子ならワイフが懸念するような老犬介護の懸念は無さそうです。
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犬小屋の毛布を咥えて庭のアッチコッチで寛ぐチコ氷が張っていても小屋より地面の上が好きです。
人間には「痔ろう」という厄介な病気があります。でも犬には痔はありません。犬は心臓と肛門が水平な位置にあるので痔は起きないのです。人間は直立歩行を始めた時から痔という厄介な病が避けられなくなったのです。人間は心臓が肛門より高い位置にある為肛門に鬱血し易くなったのが痔の原因になったのです。痔の対策としては肛門を常に清潔にしておくことが肝要です。
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平城宮跡から出土した糞欠きヘラ(籌)

曹洞宗宗祖の道元禅師は食事と排泄の戒めを記しておいでです。食事は「典座教訓」に排泄は「正法眼蔵」の「洗面」と「洗浄」に記されました。、生命の維持は「異化と同化、「食事と排泄」ですから、道元禅師は「食事と排泄」の双方について修行としくてめておいでなのです。
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2009年放映された道元の生涯を描いた「禅」
排便の要領は次の通りです。
1、洗大小便を怠る事なかれ(排泄行為を軽んじてはいけません」
2、東司(トイレ)に行く時はすべからず予め行くべし(トイレは早目早目に行きなさい)
3、袈裟は畳みて案上に安んずべし(衣服は畳んで棚に置きなさい)
4、桶(便器)を汚すなかれ(便器を大小便で汚してはいけません)
5、唾狼藉するなかれ(トイレで唾を吐いてはいけません」
6、怒気卒暴勿れ(大声で喋ってはいけません」
7、退後すべからく使籌(糞欠きヘラ)すべし、淨籌すべし(排便を終えたらヘラで肛門
 に付いた大便を掻き取って、ヘラも肛門も左手で水洗いしなさい)
何のことは無い、精神を排便に集中しなさいと云った教えです。典座教訓では主に植物繊維を食し、正法眼蔵では排泄にも精神を集中しなさいと説いているのです。
では道元禅師が出現した時代のトイレ事情は如何であったか気になります。格好な資料があります。餓鬼草子です。先ず次の絵を視て下さい、場所は洛中の人の集まる通りです。多分4条通りの南北の露地でしょう。今では「錦小路」とか「綾小路」と呼ばれる盛り場の道です。誰かのお屋敷の土壁に沿って路上で大便をしています。真ん中の女性は高下駄を履いて踏ん張っています。隣の老人は食当たりでもしたのでしょう。下痢便です。沢山の餓鬼が集まって来て、便を食べようとしています。道路上には紙や糞掻きヘラが散乱しています。
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餓鬼草子(東博国宝)の図大人も子供も高下駄を履いて屈んでいます。一番左の爺さんは下痢便です。便を食べようと寄って来た餓鬼も余りの下痢便に驚いています。真ん中で屈んでいる女性の前には紙が散らかっています。古代にも紙で拭いていたのです。道元禅師は古紙で拭いてはいけないと云われています。籌(ヘラ)を使て便を掻き落として左手に水を掬って洗えと言っておいでです。


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同じく餓鬼草子の場面、原っぱの窪地で餓鬼が窪地に溜まっている便を食べています
餓鬼草子の目的は、『生前の行為が食物を粗末にしたり、欲深で、贅沢三昧ばかりしていた人は死後餓鬼道に落ちる』と教える絵なのです。修羅道の絵や地獄絵よりも餓鬼道の絵の方が良さそうです。でも、古代末期には都でさえこんな光景だったのでしょう。でも地方では大便も肥料になるし、これほどの嫌悪感を誘う景色は無かったでしょう。日本で再三起った疱瘡、中世ヨーロッパで頻発した黒死病もこうした不潔な都市に人々が集住した事から蔓延したのでしょう。
ですから、道元禅師の排泄の教えは理に適っていたし、疱瘡対策でもあったのでしょう。日本史を変えた伝染病は疱瘡であり西洋はペスト(黒死病)です。どちらも不衛生な都市の下水や汚物に鼠や蚊と云った病原菌の宿主が大量発生して流行しました。
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此れは奈良町に在る庚申堂に祀られた疱瘡除けの呪物。「猿子」とか「くくり猿」とか「身代わり猿」と呼ばれるます。疱瘡は子供に赤い発疹が出来て死ぬことから、その発疹の身代わりを祀った呪術と思います。勿論病気が「去る」と「猿」の語呂合わせでもあります。庚申信仰の神使は日吉神社の山王猿ですから、神の子を玄関に吊るして疱瘡という「厄神」を追い払ったのでした。

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