相模原の「山百合苑」の惨事件が発生してから1年半が経過しました。事件のその後を追った報道が盛んです。山百合苑」惨事件とは昨年の7月26日に発覚しました。旧職員が特別養護老人ホームの患者19人を無差別に殺害したのでした。
犯人にNHKがインタビューをしていました。犯人は自分が犯した犯罪である事は認めながらも「患者は生きていても社会悪であるから」と発言して、一向に後悔したり犠牲者やその家族を傷む気配を見せません。インタビュアーは堪えきれずに「貴方の家族でも身障者なら殺すのですか?」訊けば犯人は無口になってしまいます。
津久井の山百合苑事件発生から1年半経ちましたが事件の全容も施設の建て替えも何も決まっていません。
テレビを見ながら考えました。良く似た構造の法律に認められた「大量殺人」は昔から在ったし、今もありそうだ。
昭和23年我国では「優生保護法」が施行されました。
この法律の目的は二つありました。一つは「出産しようとする母体の保護です」。もう一つが問題です。「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」事。要するに「
これから産まれてくるベビーに障害がある事が判明したら。下しても良い」と認めたのです。翌24年には「産まれようとする命を下す事由に経済的事情が加えられた事から、現在では親の任意の儘に下せるようになってしまいました。
「病気や障害をもつ子どもが生まれて こないようにする」とか「優秀な子や美人の出生を促す」と云った施策自体に問題が在りそうです。この発想自体に内包されている矛盾が出生率を下げていると思うのです。
「水子」とは云い得て妙な言葉です。「水子」とは名前も付けられずに流産 または人工妊娠中絶により死亡した胎児のことを云います。「水に流す」とか古事記の「蛭子」が語源でしょう。 私は『優生保護法を施行していながら山百合苑の犯人を断罪する事は矛盾ではないか?』思うのです。
「人の命」にかかわる同じような矛盾はアッチコッチに在ります。
二年前の夏私は京都に「地蔵盆」を観に出かけました。
京大近くの百万辺での地蔵盆、京都の路地の奥にはこんな会場が設えられて地蔵盆が過ぎて行きます。「地蔵盆」は昔は子供が死ぬことが多かったので、その霊を地域で弔う伝統行事で主役は子供達です。
日中は町屋の中の露地で繰り広げられる地蔵盆を視て廻り、夕方は嵯峨野の奥の「念仏寺」に詣でました。
京都化野の念仏寺地蔵盆の夜には蝋燭が灯され幻想的な光景になりました。
これは愛宕念仏寺の羅漢像西村公朝氏の尽力で見違えるようになりました。
此方は愛宕念仏寺の水子地蔵尊
「念仏寺」は応仁の乱等で発生した無縁仏」を祀ったお寺です。学生時代にもこの寺に上りました。でも記憶していた念仏寺と随分変わっていました。無縁仏の墓標に勝る数の水子地蔵尊が祀られていたのです。「念仏寺」ではなく「水子寺」に変ってしまったのです。
これは「化野弘正寺」の水子地蔵尊です。現代人の「悪業」を視るようで、背筋に悪寒が走ります。
鎌倉の長谷寺に水子地蔵尊が多く祀られているのは納得です。江戸時代盛んであった「観音講」があって、早逝した子供の霊を弔ったものでしたから、子安観音に代わって水子地蔵も祀られているのでしょう。
此方は鎌倉長谷寺の水子地蔵尊。前面のお地蔵さんは赤いので赤子ですが、後列は赤子にも満たずに流された水子の霊を祀った水子地蔵尊です。 でも「化野念仏寺」や「愛宕念仏寺/おたぎねんぶつ寺)」は別です。
本来社会の軋轢に遇って無念にも落命した無縁仏を祀ったお寺です。その寺が水子供養の寺に変っている事実に愕然としました。
奈良山の辺の「帯解寺」の水子地蔵尊。美智子妃殿下に腹帯を届けた古刹も水子地蔵が勝る状況になっていました。
奈良山の辺の「帯解寺」も同様です。美智子妃殿下の腹帯をお届けした古刹は今では水子地蔵で一杯なのです。元気なベビーが産まれて来るように祈願した寺が水子として扱われた霊を弔う寺になってしまった事実は何れ手厳しく非難されるでしょう。
「水子」と似た行為に「間引き」があります。私達は次の様に教わりました。
『江戸時代飢饉に瀕して「子供を育て切れない」覚悟した農家は子供達の中から優秀な子を残して女子や体力の無い子は殺してしまったそれを「間引き」と呼びます。お百姓が畑に瓜や菜の種を播いて発芽した苗の内で生育の良いモノは残すものの生育の劣る苗は抜いてしまう(これを農家用語で『間引き』と呼び、家族に対しても間引きを実施した。これは農家が非倫理的な訳では無く、農家の生産力が無かったのが原因である。「間引き」は柳田国男が「茨城の間引き絵馬」を指摘した事から民俗学の脚光を浴び続けて来ました。結果間引きを指摘した文献を数多く発見してきました。
此れは典型的な「間引き絵馬」です。多賀城にある「東北歴史博物館」蔵間引きを戒めた絵馬ですが、従来この様な絵馬が北関東から東北に多く残されていた事実から、貧困地帯では「間引き」が盛んに行われた、と解説されましたが、最近は地方の英明な藩主が”子供を大切に育てなさい”教化した絵であると説明するようになりました。歴史家の本流がマルクス主義者で占められていたのが、最近は信条に依らずに実証的に考えるようになったので、変ったモノと思います。
最近の研究成果では「間引き絵馬」は間引きが頻発していた証拠では無くて、「子供を大切にするように農家を指導した絵解きであると云った主張が主流になって来ました。絵馬が多く発見されるのは会津や水戸と云った篤農藩主の地に多く残されているのもその証左です。
例えば回向院は両国にある寺ですが。寛政5年(1739)松平定信が水子塚を建てさせ。水子供養をさせた事で創建されました。回向院にイタコを集めて水子供養をしたのでした。江戸表で水子供養をしたのですから。陸奥佐竹藩でも盛んに水子供養をしたものと考えられます。江戸で水子供養をして「子供を大事に育てよう」運動を始めて地方の藩も水子供養をしたと思われます。
江戸時代は死者の霊は空中に浮遊していて、誰かのお腹に入って産まれると信じられていました。子供を増やすにはイタコに霊を呼ばせて、「産まれて欲しい」想ったのです。
「水子寺」は子供を増やしたいと願って建てられたのでした。空中を浮遊している霊に呼びかけて女性のお腹に入って貰おうとしたのでした。人口は国や藩と云った全体の期待と子供を産む女性の考えが一致した時には急増します。明治維新では国力増強を図った国家と、自由恋愛や子育てをしたいとする女性の考えが一致したので一人の女性が7人も8人も子供を産んで育てたのでした。
終戦後も漸く平和になって女性の描く将来像が明るくなったのでベビーブームになって「団塊」が出来たのでした。国も所得倍増政策を標榜し、昭和憲法を喧伝したので国の用意した施策と女性の期待とが一致しました。結果人口の爆発を誘発しました。
現代は国の施策と女性の描く将来像が逆方向です。
子供は一人育てるのが精一杯で、二人目三人目と増えれば家庭の経済が成り立たない、思えば、出生率は下降するばかりです。
此れは出生率の推移です。江戸時代を通じて出生率は5%あったのでしたが、江戸時代の子供は半数が7歳に満たずに亡くなってしまったので、江戸時代を通して人口は3千万人を超せませんでした。明治維新と終戦の二度に渡って出生率が上昇したのは国の施策と家庭の目標が一致したからです。更に衛生観念の向上や医学の進歩によって人口爆発して4倍増の1.2億人になりました。
現代の水子供養は「期待されない妊娠によって堕胎したりした子の霊を供養するモノです。水子地蔵尊は『水子の霊は祟るし再度妊娠できないといった風評や堕胎した女性の心の負い目を軽くする呪術です』が、定信の時代の考えは違いました。子供を増やして国を栄えさせたいと云った施策が「イタコによる霊呼び/水子供養」でした。
出生率を上昇させるには『家庭の経済的合理性を犠牲にしてでも子育てに邁進したい親の気持ちを変えるほどの未来図を提供』しなくてはなりません。「GNP極大の為に優秀な労働力が欲しい」言うだけでは「そんなら、労働力は移民に任せた方が良い」言われるだけです。
「国の描く未来図」と「女性の描く将来設計図」とが逆方向を向いている、この矛盾こそ見逃せないと思うのです。加えて問題なのは人工授精です。人工授精は夫婦どちたかの何らかの肉体的事由によって妊娠出産できない場合に限って医師の手助けで子を産めるようにした医学的技術進歩です。江戸時代は子供は「神様からの預かりモノ」と思われてきました。でも現代は医学技術の進歩に眼を奪われて子供は思いの儘得られるモノと考えるようになってしまいました。出来れば優秀な遺伝子を使いたいとか美人の遺伝子が欲しい等と尊大な期待が寄せられてしまいます。「地獄の沙汰も金次第」から「妊娠出産も金次第」の風潮を生んでしまいました。仏教用語に「無明」があります。命に係わる現代の世相はまさに「無明」そのものです。
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