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春節を待つ横浜中華街

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1月30日、連日の寒さで家の北側に積もった雪は未だ溶けません。この調子では今週末に更に降り積もってしまうかもしれません。寒い時には辛い中華でも食べて英気を養い、序に春節を控えた中華街を散策したいと思いました。ワイフと横浜中華街に出かけました。今年の正月は初詣で呪物を視て来ましたの、ツイツイ春節の呪物に眼が行ってしまいます。
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横浜中華街に貼られた春節のポスター昨年は閏月(13か月)があったので、春節は2月初めでしたが今年は2月16日に始まり3月2日までです。
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横浜中華街の弁天様(お稲荷様)の媽祖廟は工事中でした。
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此方は中華街のお稲荷様(商売の神様)の関帝廟です。
中華街に来たら、先ず「関帝廟」次いで「媽祖廟(まそびょう)」に詣でます。中華大通りの頭上には龍がうねっています。黄色い龍と赤い龍です。竜舞の龍は赤と白ですが、頭上の龍は赤と黄色です。流石に華僑福運と云えば「金運」を想うのでしょう。何処を視ても呪物は赤い色です。店先の赤い下着も巣鴨のとげぬき地蔵通りのそれと同じです。赤い下着は日中両国民とも厄除け効果があると思っているのでしょう。街中に魔除けの赤が散らばっています。
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今年は中華大通りの頭上に龍が吊るされました。奥は赤で手前は黄色です。香港で道路は龍の通り道だから龍の邪魔にならない様に街造りをするのだ聞いたことを想い出しました。奥が北(玄武門で手前(更に右折)が朱雀門です。
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上々吉の幟の掛かった中華大通りですが平日の午前中は人出もありませんでした。
万珍楼の玄関には金柑が植えられています。金柑に誘われて入店しました。まるで、ネブタのような張子の獅子が飾られていました。流石に骨は竹でも表面は絹布で出来ています。
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万珍楼のロビーは春節飾りの民俗博物館状態でした。写真は中国風のネブタです。
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万珍楼の玄関の金柑、我国の門松に相当する福神の依り代です。
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案内板には「邪気を払い福を招く南方獅子とされていました。萬珍楼は福建省の中華料理店老舗です。
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道に面して販売されていた呪物。唐辛子に赤い金魚です。他に赤い爆竹も目立ちました。
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此れは萬珍楼のロビーに吊るされた赤い爆竹。中国では厄病神を追い払うのに色の他に音や味(辛味)を使うのです。そう想うと桃太郎でもかちかち山でも鬼を成敗するのに爆竹や勝栗を使っています。
人間は赤いモノを視るとギックとします。少しでも出血すると失神してしまいます。中国人も日本人も厄病神はそんな臆病な神で赤い色を怖がると思っているのでしょう。虫送りでは赤い松明を怖れて逃げ出すと考えたのでしょう。2月の中旬私は友人を誘って角館の火振り神事を視に行く予定です。火振り神事は縄の先に松明をつけて田圃に出て縄をグルグル振り回す神事です。
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此れは角館の火振り神事です。写真出典角館観光協会http://common3.pref.akita.lg.jp/akitanomiryoku/detail.html?cid=6&id=163
厄病神を火で脅すか爆竹で脅すか辛味で脅すか(唐辛子)色々方法がありますが、人間の弱点を持っているのが厄病神、貧乏神であるのは面白いと思います陸奥の民話に「貧乏神」の話が数多くあります。飯田には「貧乏神神社」さえあります。
「鬼は外、福は内」は節分の呪言葉ですが、「鬼は内」と言う地方もあります。
「貧乏神」の話は大凡次の通りです。
東北の寒村に独り者がいました。働いても働いても楽な生活は出来ません、そこで「神様にお願いしました、お嫁さんが欲しい!」そんな独り者を天井裏に住んでいる「貧乏神」はセセラ笑っていました。でもある夜若い娘が雨戸を叩きました。
「難儀しています今晩泊めて下さい!」若者は喜んで泊めてあげました。娘は若者の家にズットいて生活を手助けしました。若者は前にも増して懸命に働きました。そんな若者と娘を視ていた貧乏神は天上裏で泣き出しました。
「もう私はこの家に居座る事は出来ない福の神と交代しなくてはならない」
貧乏神の泣き声に気付いた若者は天上裏に登って貧乏神に
「出て行かないで良い」諭しました。
結果、貧乏神は居座り福の神は追い返されてしまいました。
でも、二人は幸福な生活を送りました。貧乏若者にとって「福の神」とは押しかけ女房になった娘だったのでしょう。昔も今も「女房は福の神」のようです。
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日本昔話「天井裏に潜んでいた貧乏神は若い二人に諭されてこの家に居座ります。結果二人は裕福にはなれなかったでしょうが幸福な生活を送れました。絵の出典日本昔話データベースhttp://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=27
春節は日本でいえばお正月です。日本は太陽暦ですが、中国人の日常生活は太陰暦がまだ根強いのでしょう。春節が過ぎれば直に春です。大体1~2月は「最も寒い季節」です。冬と春の境は太陽暦の1月1日ではなくて2月16日は妥当な感じがします。中国人は太陰暦に従って2月16日から約二週間を春節としてジックリ休暇を取り、故郷の帰って大家族と餃子や月餅を食べてお祝いするのです。
私達も餃子を食べて辛い担担麺を戴いて冬越しする事にしましょう。萬珍楼は敬遠して何時もの店に向かいました。冬越しには、「インフルエンザにО157、様々な厄病神が大手を振るのが例年です。ランチは餃子と担担麺で自己免疫力を高めました。
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自己免疫力を高めそうな薬膳食材はどれも赤い(写真はクコと棗)のです。屹度赤いパンツも下半身の病除けの呪力が在るのでしょう。



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中華街のパンダ

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中華街でのランチは媽祖廟の真ん前にある「パンダ飯店」にしました。家庭的な雰囲気でリーズナブルな価格の良いお店です。四川料理ですから、担担麺やマーボ豆腐がお奨めです。
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この日のランチは媽祖廟前の「パンダ飯店」でした。黄色い建物はパンダグッズの販売店です。
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媽祖廟は工事中で真ん前がパンダ飯店のグッズ売り場です。
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パンダ飯店のお奨めの担担麺。
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パンダ飯店の餃子は大きいのです。
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楊枝入れも箸置きもトイレの消臭剤も皆パンダデザインです。

今年は上野動物園でジャイアントパンダの「シンシン」が「シャンシャン」を出産、上野は大賑わいです。私も上野に出かけた序に「シャンシャン」の箸置きを求めて帰りました。中華街の「パンダ飯店も受けに入って居るかと思えばそんな特需も無かったようで、何時もの通り落ち着いていました。週末になれば屹度賑わうのでしょう。食後は中華街をパンダを見つけながら散歩しました。
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パンダは饅頭に格好な表情です。
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パンダがデザインされているだけでバリューアップです。これはベビースターラーメンの店舗で販売しているインスタントラーメンです。240円は高すぎです。
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これは横浜バザールの店頭ワゴンにデザインされたパンダ、置かれているのは胡麻団子。
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これはパンダのニット帽子屋さん。左はお面で女学生がリュックに吊るしている様な人形もあります。私でもパンダ帽子を被ったら女学生の注目を集められるかな?
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此れは自分のお土産に求めた「胡麻団子」と「針鼠」のセット、100円/1個ですがセットで500円/6個です。針鼠の餡子はカスタードクリームです。
本来なら月餅を求めて春節を祝うのでしょうが。中華街を歩くと欲しいもの。食べたいモノが一杯です。中華街をグルッと一回りするだけで、気が勢いづいて来ます。気は「血」かも知れません。屹度赤い呪物に気が勢いづいたのでしょう。

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厄除けの唐辛子、四川料理は寒い国だけに辛さで寒さ除けなのでしょう。
汗を拭き拭きパンダ飯店で辛い担担麺を食べて薬膳の餃子を食べて、唐辛子は呪術と云っても、充分に食べて、体も火照って、元気が漲って来ました。



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彼我庭園の紅梅

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横浜中華街に出かけました、自宅からは地下鉄で関内駅に行き。関内駅から横浜スタジアムを横切って玄武門(北門」か入るのが最短です。横浜市役所は現在建て替え工事中です。新築場所はММ21街区の東端です。見れば蛇の目エリカが北風に負けずに咲いています。この花も後1度しか咲けないようです。
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横浜市庁舎の蛇の目エリカの花。道の突き当りが横浜公園で横浜スタジアムの照明塔が見えます。
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横浜公園の北側には日本大通りがあってその先は大埠頭です。楠の根元が一面チューリップが咲きます。
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横浜公園のチューリップ
我家のチューリップも芽を出しました。横浜スタジアムは横浜公園の中に在ります。チューリップの名所でもあります。楠の大木の根元が耕されて球根が埋けられているのです。芽吹き始めていますが、掘り出されてしまった球根も目立ちます。屹度楠の梢で職員がチューリップの球根を植え付けるのを視ていたのでしょう。最初は、堅い土を耕すのを視ていて掘り起こされたミミズでも食べていたのでしょうが。球根を突いてみたら思いの外美味しい事に気付いたのかもしれません。「職員が球根を埋ければカラスが突いていた」のでしょう。
横浜スタジアムはは北側(3塁側内野スタンド)で工事をしています。横浜スタジアムは赤字続きで困ったモノでしたが、昨年はベイスターズの活躍で収支も改善したようです。工事は収支改善で決まったモノでしょう。将来的には、ドーム球場になるのかもしれません。工事現場の北側には、昔から日本庭園があります。昨年中は工事をしていました。工事も終わって散策している人が目立ちます。中華街から関内駅に行くにはこの日本庭園を斜めに横切るのが最短距離なのです。私達は庭園東側から入って、中華街に向かいました。「彼我庭園」と墨書されています。
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これは彼我公園【ひがこうえん】門から園内を視た処です。「彼」とは外国人の意味で「我」は日本人の意味で外国人一緒に使う公園の意味だそうです。第33回全国緑化フェアが横浜で開催された事に因んで、彼我公園を復活させたのだそうです。
写真の看板の揮毫は金沢翔子氏によるものだそうです。門の上の瓦は、横浜発祥のフランス瓦である「ジェラール瓦」だそうです。詳細http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/make/nihonteien.pdf#search=%27%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%BD%BC%E6%88%91%E5%BA%AD%E5%9C%92%27
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岩亀楼の錦絵歌川芳員『横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図』出典朝日新聞https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E4%BA%80%E6%A5%BC-1522146
園内に入ると直ぐに石灯籠があります。一つが「岩亀楼(がんきろう)1859年(安政6)」の石灯籠と案内されています。岩亀楼とは岩槻屋佐吉が経営する「遊女屋」で岩槻の音読みから「岩亀楼」(がん きろう)と呼ばれ、数ある遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って閲覧 させました。江戸幕府は外国人専用遊女を鑑札制にし、岩 亀楼に託しました。岩亀楼内には日本人用と外国人用の部屋/遊女に分かれていたと云います。この石灯籠は差別された遊郭の光景を視て来たわけです。公園は外国人日本人の分け隔ては無かったのに遊郭は部屋も遊女も区別されていたのでした。中華街は差別もありません。春節を祝い美食を楽しめるのは「彼我食堂」です。
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これが岩亀楼にあった石灯籠です。
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この雪見灯篭はポートラ. ンド日本庭園にあるもののコピーだそうです。池は氷が張っていました。
彼我庭園の中で一箇所もう春が来た様に明るい一角がありました。紅梅が満開で近くのテラスにはキジバトが日向ぼっこを楽しんでいました。膨らスズメならぬ「膨らむ鳩」です。
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手前のテラスには鳩が羽毛を立てて陽向をエンジョイしています。その先には紅梅が満開でした。
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此れが早咲き満開の紅梅です。
楠の樹幹の向こうに中華街北門(玄武門」が見えてきました。さあ!春節を楽しんで美味しいモノを食べるぞ!ウキウキしてきます。
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彼我公園の築山の向こうに玄武門が見えます。
彼我庭園の周囲にチューリップが咲きそろうのは4月上旬です。その頃には、横浜スタジアムの改修工事も終わって彼我公園にも沢山の人が憩う事でしょう。




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鬼への愛惜

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昨日は節分でした。今日は愈々立春です。「早春賦」の歌詞通りに冷たい風が吹きています。お水取りは3月1日から二月堂の修二会は3月14日です。春を実感できるのはお水取りを済ませた後でしょう。
去年の秋には孫の学芸会に行きました。孫は女の子ですが、希望して「赤鬼」さんを演じました。瘤取り爺さんのホッペから瘤を捥ぎ取り、意地悪爺さんのホッペに瘤を押し付ける役でした。孫は「爺さんの瘤を取るとき。押し付ける時私を思い浮べたか?」気になります。
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ご存知「瘤取爺さん」は正直者で山中で鬼の宴会に遭遇して瘤を取って貰います。出典「キンダーメルヘン こぶとりじいさん」 鬼は「山の神」の眷属で神になりそびれた弱者なのでしょう。
屹度、昨日は学校の節分行事で鬼の役を再度任されて、鬼の面と角のはえた帽子を被って豆まきの標的にされた事でしょう。「鬼ごっこ遊び」にしろ、「缶蹴り遊び」にしろ「鬼」がいなくては始まりまりません。「鬼」役は嫌われ者では無く、人気者です。
鬼を英訳すると「demon」とか「devil」とか「Satan」とか言うようです。どれも神(the
GОD]の下僕でありながら誘惑に心を売って仇をなした醜い存在です。神や聖人に成り損ねた果てが鬼です。一方日本の鬼は本来は神でありながら、時代社会の変遷に附いて行けずに妖怪になって人間に敵するモノが鬼です。「山の神」の馴れの果てが鬼です。瘤取り爺さんの鬼も屹度人間が狩猟民だったころには山の神の眷属だったのでしょう。烏天狗みたいなモノです。爺さんが偶々柴刈に夢中になって深夜に樹の洞で寝てしまったので、鬼の宴に遭遇してしまったのです。驚くのは鬼の倫理観【正直は善で噓は悪】は人間にも共通しているのです。鬼のイメージは人間社会が農耕中心に変っても存続しました。日本は大陸の西の涯ですから、福の神も災厄神も大陸から海を渡って来ると信じられました。恵比寿も大黒も福の神は海の向こうから遣って来ました。一方「厄病神」も海の向こうから遣って来ました。北朝鮮の難破漁船みたいなものです。厄病神を総じて「鬼」と呼んだようです。福の神と疫病神は大差なく人間の接し方次第では「厄病神」は「福の神」に転じます。
ですから節分の夕暮れ「鬼は外福は内」と呪言を浴びせられて追い出される鬼を気の毒に思って敢て「鬼は内」と叫び鬼を迎える家も出現します。京都福知山の大原神社の節分会では「鬼は内」と呪言して豆撒きするそうです。
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京都福知山の大原神社では「鬼は内福は外」と呪言するそうです。のポスター写真出典http://cazag.com/232
鬼を厄病神として追い払おうとするのは普通です。誰でも家族が病気を患うのは嫌ですし、貧乏神に居座られては困ります。玄関に「柊+鰯頭」や「守り塩」して鬼の侵入を阻止しようとします。でも嫌われ役の「鬼」に愛情を寄せる習俗もあります。例えば京都福知山の大原神社では「鬼は内」と呪言を叫んで、豆撒きするそうですし、民話の「貧乏神・福の神」では若い夫婦が貧乏神を大事にしてあげます。
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日本昔話の若夫婦は家に居座っていた貧乏神を大事にして福の神【大黒様】を追い返してしまいます。夫婦は金持ちにはなれなかったものの幸福になれました。写真出典(アマゾンhttps://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E4%B9%8F%E7%A5%9E%E3%81%A8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E7%A5%9E-%E3%83%87%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%89%88-%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%94%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%97-14/dp/4061910140
厄病神や貧乏神、を総じて「鬼」と呼んだのでした。そして鬼に対しては「防御」しようとする姿勢とその逆に上座に迎えて酒食で奉迎したり、供え物をあげて饗応するモノがあります。輪島の「和えのこと神事」では田圃に出て「田の神」を迎えて座敷にあげてご馳走し、お風呂に入って貰います。饗応することで、豊作を約束して貰うのです。総じて裏日本には来訪者をもてなす気風があります。
そう想うと裏日本の鬼は何処か愛らしさがあります。山寺や天台寺を創建した元三大師が作られた護符は「厄病神」のデザインです。疱瘡は産まれたばかりの子供の命を奪う怖ろしい病でした。疱瘡もこの疫病神の仕業だと思ったのでしょう。円空は疱瘡神を彫っています。狐のような三角顔で狐眼です。庶民は疱瘡と云う名の厄病神を村の祠で祀る事によって疱瘡の蔓延を阻止しようと願ったのでした。元三大師の「厄病神」も円空の疱瘡もどちらも愛嬌があります。
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此れは見沼薬王寺に祀られている円空作の疱瘡神です。「薬王寺」は「薬」では無くて「厄」王寺だったのかもしれ、思ったりします。
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此れが元三大師の護符です。厄病神の姿でショウ。(首都圏では川越喜多院のほか府中の深大寺で求める事が出来ます。

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会津柳津の虚空蔵堂の赤べこは疱瘡除けの呪物ですが、種痘のワクチンに牛が使われた事は偶然でしょう。
考えてみれば日本の鬼はズット、可愛い存在でした。昨年秋に旅行した富山八尾の風の盆は二百十日の風害除けのお祭りですが、風神もお米の収穫時期に吹けば神では無く鬼です。風魔を排除するためにお祭りするのでしょう。
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風神も愛嬌があるというか親愛の情が込められている様に思います。
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天灯鬼も怖くありません。
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鬼瓦も愛嬌が目立ちます。
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戒壇院広目天の足下にうずくまる天邪鬼も鬼と云うより人です。

人が鬼になるか神になるか、悪人になるか「聖人」になるかは偶然が為すことが多いようです。人間誰しも人に嫌われたいとは思いません。出来れば誰からも好かれたいと思います。「鬼」になって嫌われるより「天使」になって好かれたい、願っていますが往々にして賽は逆の目がでてしまい、嫌われ役になってしまいます。節分では「厄歳」の人が豆を撒きますが。豆撒きには「豆を投げつける」役と「鬼」になる役がいないと出来ません。「厄」と「役」は紙一重、裏表の違いです。
怨霊であった菅原道真が天神様になれたのも日本人の庶民感覚に『「鬼」と「神」は人間次第で変わり、本来は大差ないと』思っていたからです。


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龍口寺大書院の威容

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『2月3日の節分会は、何処に行こうか?』迷った挙句久々に片瀬の龍口寺に向かいました。午後1時から水行があって、豆撒きは午後3時に始まります。1時間余り時間を持て余したので、山門前の上州屋に行き、「法難牡丹餅」を求め、境内のベンチに腰かけてお茶にしました。「厄除け牡丹餅」を戴き、豆撒きのお豆を拾って食べれば、今年の厄除けはもう万全です。
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日蓮宗の聖跡寺院龍口寺で営まれる節分会の水行
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これは瀧の口の法難の故事を伝える牡丹餅です。故事は「胡麻牡丹餅」ですが、この日上州屋は小豆牡丹餅だけを商っていました。手抜きをしていると道路向かいの「江ノ電最中」さんに水を開けられてしまいます。
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此れは龍口寺の境内、石段を登った処に「恵方巻」を商っていました。
私の目の前では地元の料理屋さんが出店して、「恵方巻」を販売しています。
恵方巻の出店の背後には、お城の様な書院が見えます。
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龍口寺書院の玄関。三重の破風はお城の様な威圧感があります。
私はこの建物が好きで以前住職に訊いた事があります。答えは昭和初年に信州上田の養蚕で成功した富豪が寄付した建物だそうです。今日はお寺の世話人も多く居られます。そこで年長者に訊いてみました。
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これは水戸藩の藩校「弘道館」です。龍口寺大書院は藩校又は藩邸を想わせる風格です。
「この大書院の威容には何時も感心しています。以前住職に上田の養蚕実業家の寄付に依るモノだ」聞きましたが。お城のような建物です。細部の意匠は花頭窓等寺院建築の意匠が観られますが躯体自体は城郭建築の様に見えますが、何かハッキリした事は解っているのですか?」
「松代藩の藩邸であったものが、昭和の初め上田の実業家を経て、龍口寺に書院として移築されたのです。何れ改修等を行えば判明するのですが・・・」
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大書院の玄関を入ると長い廊下を経てコンクリート作りの新書院に繋がります。
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長押も鴨居も長さも1間(1.8、m)×4×4=16間(30m弱)になります継ぎ目の無い豪華な建物です。木製の建具も、古い硝子も今では貴重です。
江戸から明治にかけて各藩の藩邸はは自然消滅したのでしょうが、信州の人はモノを大切にします。松代藩の中屋敷は現在佐久に残されているそうです。http://www.sanken-intl.co.jp/arcive_sanada/contents/column/edoyashiki/edoyashiki.html
ですから、此処龍口寺の松代藩の藩邸が龍口寺の大書院として活用されていても不思議ではありません。
いずれにしても解体修理してみれば判明する事ですし。耐震工事をする必要もありそうに見えます。龍口寺大書院の歴史が判明するのが楽しみです。



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龍口寺五弁の椿の子供達

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龍口寺の「五弁の椿」は銘木でした。私が小学生の頃,街中に松竹映画「五弁の椿」のポスターが氾濫していました。主演は「岩下志麻」さん、子供心にも匂うが如き色香でした。原作は「山本周五郎氏」話は大凡次の通りです。
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龍口寺の五弁の椿(2000年の頃)は囲碁の崖に岩牢があって日蓮上人が閉じ込められた洞窟です。この椿は江の島動物園から逃げ出た「台湾リス」の食害にあって、枯れてしまいました。椿の左にあるのは「淨行菩薩」像です。この写真は五弁椿が伐採された折書いたものですhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%BE%8D%E5%8F%A3%E5%AF%BA%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%BA%94%E5%BC%81%E3%81%AE%E6%A4%BF%E3%80%8D&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=%E9%BE%8D%E5%8F%A3%E5%AF%BA%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%BA%94%E5%BC%81%E3%81%AE%E6%A4%BF%E3%80%8D&ai=8sqhdFB1QfqQXO3sIk6f1A&ts=2260&fr=top_ga1_sa
【五弁の椿】の話。
純潔な娘”おしの”は最愛の父”喜兵衛”を失います。
喜兵衛は精根尽き果たして働き・・・、労咳を患った末でした。
一方母”おその”は病気の夫を嫌って移り住み、遊興に耽けり次々に男を取り替え、色欲に身を崩していました。おしのはそんな母を嫌い、母の情夫に殺意を持ちます。
おしのは母の遊び相手をその白い肌を武器にして・・・・、殺めます。
死体の傍には・・・・、椿の花弁が1枚置かれていました。
その椿は喜兵衛が丹精していた五弁の白椿でした。
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これは元気だった頃の龍口寺の五弁の椿
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此方は奈良の百毫寺の五色の椿
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淨行菩薩の背後に在った五弁の椿でしたので、切り株からは無数の 蘖(ひこ映え)が育っていました。淨行菩薩の腰に回している手はワイフで眼をお拭きして、自身の腰が悪い事も想い出して急遽腰もお拭きしたのです。
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龍口寺の寒椿を食べる台湾リス。口の周りに黄色い花粉をつけて憎たらしいばかりです。これが五弁の椿の樹皮を剥いで枯らしてしまったのです。罪は動物園の監理が不適切であった江ノ電にあります。この3月には大阪や岐阜の水族館から、「カワウソ」を譲って貰って江の島水族館で展示飼育するそうですが。同じような過ちを犯さないよう願っています。
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これはシンガポールで群れを為して棲息しているカワウソです。江ノ電は台湾リスで湘南の生態系を傷つけ、日本カワウソなら良いのですが、得体の知れない外来種のカワウソを買いとって飼育展示してシンガポールの河川や下水道や公園の池を跋扈しているような状況を再現させては困ります。写真出典(NHKBSⅢ)
私は淨行菩薩の頭ををタワシで浄めてその奥の五弁の椿の切株を見やりました。切株からは沢山の 蘖(ひこばえ)が芽吹いて背丈を伸ばし蕾が沢山用意されています。3月になれば花を咲かせる事でしょう。嬉しくなった私は境内を視て廻りました。銘木五弁の椿の子株が境内にあると確信したのです。案の定大書院の玄関脇と本山の手前、日蓮上人像の前にもう一本ありました。前者はもう一輪花を咲かせていました。私の記憶と同じで白椿で花弁に細く赤い縞が入って居るように見えました。
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大書院の前山門脇の五弁の椿。
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日蓮上人像の西側にある五弁の椿の実生の子沢山蕾が用意されていました。人が多いのは豆撒きの開始を待っているからです。


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水垢離の民俗学

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2月3日龍口寺では1時から「水行」が行われました。
私は昨年立山の「日石寺」の上り「瀧行」を視ました。古くは霊山の立山を登るに先立って瀧に打たれて心身を浄めたのでしょうが、私が視たのは三百円を払って白衣(死に装束)を着せて戴いて、二,三分瀧に打たれるのでした。瀧に打たれて『自身が犯した大小様々な罪や心身に付いた”穢れ”を洗い落す行で、心身を清浄にする行であり神道でいう「禊ぎ」と似ているが修験道では『水垢離』と呼ばれるのでしょう。
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これは立山の登り口日石寺の瀧行です。写真出典『富山県観光ナビhttp://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000012688
龍口寺の「水行」も「水垢離」でそう確信したのは「南無妙法蓮華経」お題目を唱えて、「六根清浄」唱えて、最後に”「国家安楽」を祈って水行を行う”、と風呪(回向)していました。『亡くなった人の魂を弔うのではなく、天災等起きない様に』水行をしたのだというのです。
こんな呪術の根本には日本の国は「厄に穢れているから災難が頻発する」と云った認識が在るのでしょう。個人レベルで考えれば私の心身が汚れて居るから次々に災厄に見舞われる。この際心身についた垢を落したいとして「古代の人の選択が砧で布を打った様に冷水を浴びる」のでしょう。
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これは龍口寺の水行です。盥は[鴨の鶴]の商標でした。お寺からはネットに掲載しないように言われまあしたがお顔が映っていないのでそのまま掲載させて戴きました。
私は「御坊様の水行」を視て本堂東の「淨行菩薩」をお浄めしました。
水を張った桶とタワシが用意されています。自分の体の悪い部分に手を添えて次に淨行菩薩の同じ部分を洗い流すことで自分の体の汚れ(厄)がを落ちると考えるのです。人形流しと同じです。
私は物覚えが悪くなったことや先々の「認知症」を懸念して先ず頭に手を遣って淨行菩薩の頭を洗わせて戴きました。ワイフは先ず眼を次いで腰を洗っていました。
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タワシでは淨行菩薩様も痛いでしょうに・・・。
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淨行菩薩さんの背後ではお嬢さんがチワワを撫でていました。菩薩も私にタワシで擦らてチワワが羨ましく想われた事でしょう。
私の住む倉田には「お杓文字様」が祀られていて、子供が風邪をひくと先ずお杓文字様に治癒を祈って。幸いに風邪が治癒したら使っていたご飯茶碗をお杓文字様の祠にぶつけて茶碗を割ってしまいました。風邪の厄が完全に落ちた事を茶碗が割れた事で確信するのです。
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此れは鎌倉大塔の実やの「厄割り石」土器の皿に息を吹きかけて石にぶつけて皿を割ることで厄が払われた事になります。各地にある「土器/かわらきなげ」と同じような厄落し呪術です。
『厄除け』には『防御型厄除け』が多くあります。玄関に「南天や柊の木を植えたり」部落の入り口に「道切」と呼ばれる注連縄を張るのは「此処から先には厄病神は通させぬ!」と云った防御型厄除け呪術」でしょう。
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此れは奈良山の辺の長岳寺にある道切です。この注連縄より中に災厄を入れない呪術です。
一方豆撒きやは厄病神を懲らしめる攻撃型呪術です。呪術にはもう一つ潔斎型呪術があります。「厄病神に見舞われる原因は自分自身に在る」と云った反省や自覚をベースに自分の心身に付いている汚れを洗い清めようとするモノです。前段で紹介した龍口寺の水行は潔斎型呪術です。潔斎型呪術の多くは『個人的な願望を満たす、水垢離やお百度参り』ですが、集団の願望を満たす潔斎型呪術もあります。日蓮上人は相続く天災人災を幕府の政治(祭りごと)の過ちにあると主張して片瀬で処刑されそうになりました。
政敵を呪詛殺害しようとする「黒魔術」もその一つです。韓国の歴史ドラマにも良く出て来ます。
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韓国歴史ドラマ「太陽を抱く月」です。主人公の巫女は政敵に呪詛殺害されそうになりますが、知略を駆使して后になります。

昨年葛飾の南蔵院に「縛られ地蔵」を視に行きました。
石のお地蔵様が本堂の西側に祀られていてお堂の長押に何本も藁縄が吊るされていました。説明では次の通りでした。http://shibararejizo.or.jp/picbook.htm
『呉服問屋越後屋の手代弥五郎が南蔵院前を通りかかった時に急に睡魔に襲われ門前で寝込んでしまいました。手代が眼を覚ました時には商品の呉服が失せていました。手代は奉行所に駆け込みます。大岡越前が命じます
「門前に立ちながら盗人の所業を見逃すとは、不届き千番な地蔵である。地蔵を召し捕ってまいれ」。縄で縛られたお地蔵様が台八車に乗せられ奉行所に召し上げられました。”地蔵の詮議を見物しよう”と江戸市民が奉行所になだれ込みました。
大岡越前は群衆に言い渡します。「奉行所に見物しに来るとは怪しからん!、木綿一反を科料とする」こうして集まった反物の中に手代の担いでいた反物が在ったのでした。結果、盗人が掴まりました。「縛られ地蔵尊」は厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の地蔵尊で毎年大晦日の夜に「縄解き供養」が行わるそうです。縄で地蔵を縛る事は自分の欲望を縛ることで、自己制御の形態でしょう。『水垢離』と同じ類感呪術と思います。
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此れは葛飾の南蔵院の「縛られ地蔵尊」です。お堂の長押に縄が架っています。その縄を用いてお願いをしながらお地蔵さんを縛ります。
呪術は昔も今も盛んです。「人事を尽くして天命を待つ」は古くても現代にも通じる諺です。人事を尽くす為には自らの心身を潔斎する事が第一です。もう古い話ですが、菅さんが、四国をお遍路した事がありました。結願の大窪寺で記者会見しました。その時の発言が「四国にはソーラパネルが多かった」でした。私達は「この人はもう駄目だ、少しも反省していない」思ったのでした。日本人は人事を尽くす行為に自らの心身を潔斎する事を第一に考えて来たのでした。お遍路も大自然に体を委ねる事で心身を綺麗にする事と理解して来たのです。沢山のお遍路さんの失笑を買うだけで終わりました。




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昭和の香り桜木町ピオシティー

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2月2日夜半来の雪が降りました。雪景色の三溪園を観たいと思って午後から出かけました。処が雪は止んでしまい、午後1時には行きは消えて雪景色どころでは無く、凍えて帰路に着きました。腹はすくし、散々な目にあって桜木町駅まで戻りました。
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2月2日(金)夜半来の降雪でしたので三溪園に雪景色を観に出かけたのでしたが、生憎雪は午後には消えてしまいました。
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でも翌日は結婚式日和「前撮り」カップルが数組来ていました。
駅から海側に出ればお洒落で美味しいお店がモールになっています。山側に出れば野毛の商店街です。国道16号線の上に立っているビルが「桜木町ピオシティー」です。地上はJR根岸線、地下5階が市営地下鉄ブルーライン駅です。昔、母がこの駅ビルの展示場に書道のグループ展に出典していて、何度も良く車で送って来ました。当時から「桜木町ピオシティー」は展示会場こそ在っても何処か垢抜けない「闇市」の様なビルでした。それもその筈、この辺りは60年代は日雇いの労働者がたむろして、午前中は仕事を求める労働者(主として港湾労働者)夕方にはお金を握ってお酒を吞む人がたむろしていました。「よいとまけの歌/美輪 明宏(みわ あきひろ」の似合う街でした。
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中央の道が16号線(下りの一方通行)で道路を挟んで右(北)が桜木町駅ММ21で左(南側)が「桜木町ピオシティー」です。
私達は帰るのにも便利だし、懐かしさも手伝ってピオシティーでランチすることにしました。
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ピオシティーの地下モールはそのまま立ち飲み処です。写真は立ち飲みと云っても「止り木」状のスタンドのある店。立ったまま食べれば「立ち食い」ですし、飲めば「立ち飲み」です。野毛の立飲み屋が駅まで進出してきた感覚です。
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60年代の匂いが残るお店とポスターです。
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これはピオシティーの看板寿司居酒屋の「神楽」です。視ての通りお酒とお刺身2点で千円の晩酌セットが売り物です。
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此れは私達がランチした横浜飯店です。餃子に焼売をおツマミに一杯飲むのが主流のようです。
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私のランチはタンメン(700円)に餃子(400円」薬用のお水が冷酒なら60年代にタイムスリップした感じです。
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壁には森鴎外が作詞した「横浜市市歌」が飾られていました。この額がこの後ビルの中のギャラリーを廻るきっかけでした。
食事を終えて元気になった私は「桜木町ピオシティー」を視て廻る事にしました。
案内板を視ると、地上10階・地下3階の複合ビルで、地下鉄駅は地下5階にあります。ビル竣工後地下鉄が出来たので、地下鉄に乗るには地下3階から更に2階降りなければなりません。でも、下りエレベータはありません。バリアフリーは全く設備されていないのです。
展示場は3階に集中していました。書道の道具や骨董品が並んでいます。
私の先輩も友人も書道を趣味(専門?)にする人は沢山いますが皆が眼の色を変えるような道具を展示即売していました。筆先を確認すれば「むじな」と案内されています。大半が中国製のようです。中国には未だ「むじな」が多く捕獲できるのでしょう。
「むじな」とはいっぱんには「狸/たぬき」の古語と思われています。でも漢字では「狢」と書きます。広辞苑を確認すれば狢とはアナグマの類のようです。中国では「ハクビシン」が多く病原菌の宿主と指摘された事件もありました。狸は熊の仲間ですが「ハクビシン」は猫科の動物です。筆先は「狸」か「猫」かでイメージも違います。2年前輪島で「輪島塗の工房を見学した事がありました。伝統工芸士は「輪島塗にはネズミの毛で作られた蒔絵筆が欠かせない」説明を受けました。
「熊」と「猫」と「鼠」と筆は色々のようです。
3階には書道の筆の他にも日本画の絵筆も商われていました。
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「桜木町ピオシティー」3階の売り場風景。手前の作業場では作品を展示用に「掛け軸」処理してくれる。その向い(左)は骨とう品店。突き当りに唐三彩の古美術やが出店していました。
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書道用の筆が各種半額で案内されていました。私の母も此処で道具を求め此処で掛け軸に表装して貰っていたのでしょう。
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日本画の絵筆も案内されていました。竹製の軸に「むじな」と記されていました。真っ白いのは絵の具を確認し易くするために漂白したのでしょう。
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硯も沢山展示されていました。「全自動墨擦り機」も販売されていました。
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硯も沢山展示されていましたが、4年前山梨で見学した「雨畑」工房の硯は無く中国製が売り場を席捲していました。
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高価な墨も商われていました。
腹は満ちたし、良いモノも観た、お土産の買えて「桜木町ピオシティー」は昭和の香り漂う最高のビルでした。野毛や紅葉坂に行くにも此処は拠点になります。


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湘南で善戦のファーストキッチン

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大船駅東口の駅前にファーストキッチンがあります。お隣がマックですから、何れ撤退するだろうと思って観ていました。処がフィーストキッチンは善戦してマックが撤退してしまいました。マックの撤退した跡は一時浅尾慶一郎氏が選挙事務所にしていましたが前回も落選してしまい、空き家の儘です。マック以来同ビルには貧乏神が居座っているようです。
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これは大船駅前東口にあるファーストキッチンです。この店は鎌倉女子大の生徒さんが多く、ギャルが多く居るので何時も華やいでいます。手前にマックが入居していたビルがありました。大船駅前の激戦地でファーストキッチンは善戦しています。JRの駅中には神戸屋キッチンやモリバコーヒーやアフタヌーンティー等がきしめいているのです。ファーストキッチンの前身はダイエー系の「ドム・ドム」でしたがダイエーの破綻で米系の「ウェンディ―」の資本を受けています。でも味付けは「ドム・ドム」時代の儘日本人好みです。
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ファーストキッチン大船店の店頭ポスター
2月3日、私は片瀬の龍口寺の節分会に向かいました。湘南モノレール江ノ島駅から江の島道を歩いてランチのお店を探しながら歩いて行くと何処も彼処も「シラス丼」を商っていました。千円前後が相場のようです。シラス丼よりもシラスの天麩羅を食べたいと思っていたのですが見当たりません。蕎麦屋が意外に無いのです。探し探し歩いている中に到頭江の島橋に着いてしまいました。橋の片瀬側の付け根にファーストキッチンがあります。昔から在るお店です。橋の向こう側にはマックがあります。片瀬でもファーストキッチンはマックと真っ向対立して来たのです。マックは業界一位ファーストキッチンは4位です。何れファーストキッチンは撤退するのだろう思っていたのでしたが、どうも混んでいて人気があるようです。少し歩き疲れたし私達はファ-ストキッチンに入りました。
店内は混雑しています。サーファーを描いた油絵が湘南の雰囲気を満載させています。私はポスターの「石焼パン+シチュー」にしました。何のことは無い箱根宮の下の人気店「渡辺ベーカリー」のパンシチューと同じです。半球状の石焼パンの頭を刳り貫いて出来た穴にシチューを流し込んで戴くのです。シチューには「ビーフ」「クリーム」「海老」の3つがありましたが私は「海老シチュー」を選びました。
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ファーストキッチン片瀬店のポスター。私が食べたのは右端のシチューパンです。
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手前が私の食べた海老シチューパンです。海老ハンバーガーはワイフのオーダーです。
私の向いの席には片瀬山辺りの住人でしょう。お婆さんが、孫家族と食事中です。
私達の友人も片瀬山にお住いです。都心のマンションを売却して潮風が吹き、魚の美味い片瀬に転居したのです。”如何しているかな?”気になります。
食事も終えたので江の島を眺めながら片瀬を散歩しました。方瀬川の橋を渡れば、小田急江ノ島線の終点「江ノ島駅」です。竜宮城を想わせる駅舎デザインです。昔この駅前広場にたむろしていた「暴走族」が社会問題になっていました。取材していた記者が暴走族の集団リンチを受けた事件が発生しました。
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江の島橋の東側に江ノ電「江ノ島駅」がって片瀬川の西側に小田急「江の島駅」があります。60年代駅前広場が暴走族の溜まり場でした。
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此れはハワイ系のハンバーガーショップ「クアイナ」です。私が入院する前まではマックのお店で女学生で一杯でした。
目の前を歩いていた坊屋がトンビに襲われて、手にしていたフライドポテトを落してしまいました。トンビは一斉に集まってポテトを貪り食っています。私は集団リンチ事件を想い出しました。
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江の島橋で坊屋の持っていたフライドポテトを奪って食べるトンビ向こうから渡って来たお嬢さんもびっくりしてスマホを構えました。観光案内所の向いがファーストキッチンです。
江の島橋の西袂にはマックがありました。処が何時しかマックは無くなりハワイ系のハンバーガー店に変ってしまっています。
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これは「クアイナ」のメニューです。ハワイ系と云えども日本人の胃袋にには高カロリーであるしボリュームも過大です。ファーストキッチンの敵ではないでしょう。それに価格設定も女学生のお小遣いを越えています。
大船駅東口と同じく「ファーストキッチン」は「マック」と橋の東西でガチンコ勝負して、勝利したのでしょう。片瀬も暴走族には魅力の無い、三世代家族好みの街に代わって来たのでしょう。マックは賞味期限問題やチキン問題などで逆風が吹いたので撤退を余儀なくされたのかもしれませんが、何よりもマックのハンバーガーは健康上の疑問を呈せられた事が痛手でした。親子三世代が安心して食べられるといった視点ではファーストキッチンが勝っています。
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東浜から見た江の島江の島神社の楼門が見えます。こうして見ると江の島タワーのデザインの不細工が気になります。 江の島は龍の出現した聖地なのですから、楼門の意匠とマッチした中国風の塔にしてほしかったと思います。
ソロソロ午後1時龍口寺の水垢離行の始る時刻です。私達は遠回りして南から龍口寺山門を目指して歩き始めました。
南から入ると龍口寺は美しく観られるのです。



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お箸の民俗学

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私のお箸は能登の「総持寺」でお精進を戴いた折に持ち帰った「長寿箸」です。総持寺の書院で青い目をした雲水さんの指導に従って皆で『五観の偈(ごかんのげ)』を唱和してからお料理に箸をつけました。五観の偈は曹洞宗の教えと云うより普遍的な作法でありますから、
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私の箸は黒塗りの輪島塗で総持寺で戴いたモノです。
長寿箸を愛用する事は「五観の偈」を忘れないことに通じます。「五観の偈」の要点は第4偈と第5偈に集約されます。
四 「正事良薬 為療形枯」  食とは良薬なのであり、身体をやしない、健康 を得る    ために頂きます。 
 五 「為成道故 今受此食」今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。
2月3日節分会の日私はファーストキッチンで「パンシチュウ」を手で千切りながら食べましたが、手食いは下手で、箸の有難さを思いました。箸が使えなくては「五観の偈」どころではありません。
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これは片瀬のファーストキッチンでランチしたパンシチューです。お箸の有難味を痛感しながらパンを千切って食べました
世界中で人間は食事作法に三タイプあります。シンプルな順に云えば
①「手食い」薬指中指人差し指3本の指先で掴んで口に運ぶ(インドや中近東)
②「」お箸で摘まんで口に運ぶ。箸は薬指と中指の延長です。(日本中国韓国)
③「ナイフとフォーク」更にスプーンを使って口に運ぶ(西欧)
お箸は日本文化の根本にある道具だと思います。
お箸が無ければラーメンもお蕎麦も食べられません。フォークでは美味しくないでしょう。北九州にある世界一のリードフレームメーカーである「三井ハイテック」に工場見学した時に教わりました。
リードフレームとは集積回路の製造に際して「金型」を活用する方法で一般的な印刷・腐食させる方法に較べれば汚染水が出ない事、コストが安いこと等利点が多いのですが、金型の職人技術の伝承が難しい事を説明されました。指先が器用である事、指先の皮膚感覚が鋭く研ぎ澄まされている事の重要性を説かれました。指先の感覚は7歳までに出来上がるので、お箸で食事する事が日本のハイテク企業の競争力の原点であると説かれました。「お食い初め」は生後百日目にお祝いします日本人は人生のの始まりと終いを箸に委ねているのです。
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これが世界一のリードフレームメーカー三井ハイテックの製品です。競争力の原点は写真左右の金型で中央の集積回路は金型を使ってプレス製造したモノです。箸を使って食事する文化がハイテク争力の原点です。
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これは「お食い初め」の祝食です。写真出典「ママの子」https://mamanoko.jp/箸が映っていませんが8寸の柳箸(両口箸)を使います。
日本の国で生まれた私達は気付いた時には日本語を使い箸を握ってご飯を食べています。その有難味は実に尊いモノがあります。上野に「たいめいけん」さんが出店しました。先日は牡蛎フライを戴きました。同店ではお箸も使えます。フォークの背中にライスを乗せて食べるのは実に美味しくないのです。洋食レストランでもライスを取るなら箸を用意しなくてはならなくなってきました。
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エキュート上野 3Fに出店した「3代目たいめいけん」の牡蛎フライ。
【箸の歴史】
日本民族史の最初に登場する箸は素戔嗚尊の神話です。地上に降りた素戔嗚尊は出雲の國の簸(ひ)の川上に到ります。そこで流れてきた箸を見つけます。上流に溯り、老夫婦と娘(奇稲田姫)に会います。八岐大蛇退治の物語の発端です。
出雲大社に比肩される古社である奈良「大神神社」にも箸に係る神話があります。
三輪山の麓に箸墓古墳があります。日本書紀では箸墓は第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇の叔母倭迹々日百 襲姫(やまとととびももそひめ)を葬ると記述されていますが、「卑弥呼の墓」と主張する考古学者も多く居て歴史ロマンを掻きたてる巨大な前方後円墳です。
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此れが箸墓古墳です。左奥の山が三輪山です。写真出典桜井市観光協会http://www.kiis.or.jp/rekishi/asuka/img0022.html
 三輪の巫女「百襲姫」の屋敷に通う男性(大物主神/穀物神)がいました。男性は夜しか居ません。姫が「お姿を視たい」云うと男性は、翌朝に「櫛笥/くしげの中に居る」答えられました。姫が翌朝確認すると、櫛笥の中には小さな蛇が居ました。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に隠れてしまいます。姫がこれを後悔して腰を落とした際に箸が陰部を突いた為死んでしまい、三輪山の麓に葬られました。人々は姫の墓を「箸墓」と呼びました。
「八岐大蛇退治」の神話は物語の発端を箸が果たしています。一方「箸墓神話」は物語のエンディングになっています。
人間の一生が「お食い初め」に始まりお終いが「蔭膳」です。人生の終始が箸なのです。
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これが「蔭膳」です「枕飯」とも云います、写真出典葬儀社のHPhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%94%AD%E8%86%B3&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa私の経験では横浜では白飯の上に日常使っていた箸を一本線香の様にして立てます。不祝儀の場合祝い事と逆の箸使いをします。
箸と云う漢字は竹冠ですから、中国でも箸は竹で作っていたのでしょう。でも箸だけで食事をするのは日本だけです。中国も韓国も箸の他に匙(さじ)を使います。箸文化を極めた日本文化ですから、様々な場面で箸を使い分けます。祝事用(ハレの日に使う)箸は末広がりで白い柳を使います。一方を人間が他方を神が使う、神人供食の道具です。一方日常に(けの日)に塗り箸を使います。私が総持寺で戴いた箸は輪島塗ですから、普段用です。箸の歴史の中で格段の進歩を示したのは茶懐石で使う「利休箸」です。
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これが利休箸です。写真出典ヤフーショッピングhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%88%A9%E4%BC%91%E7%AE%B8&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa素材は吉野杉では無く輸入した赤松です。20膳740円
千利休は茶席のある朝は小刀を持って山に入り赤杉を材料にして使い易く美しい使い捨てのお箸を用意したそうです。真ん中を平たく両端を細く削り両手で引き離せば二本の箸になります写真の様に利休箸は割箸の原点です。当時京都の公家が戴いた本膳料理は決まりが多く会席が和やかさに欠けてしまうのを和やかな会席する道具として利休箸を考案したというのです。吉野が利休箸の本流です。
もう一つ画期的な箸が「丁六」と呼ばれる現在も蕎麦屋で使われている「割り箸」です。丁六の名は江戸時代の銀貨が「丁銀」とか「丁六」と呼ばれていたことに起因した庶民が親しみを込めて呼んだ箸の名前です。
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これは長六とも呼ばれる元禄割り箸です。写真出典楽天https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E4%B8%81%E5%85%AD&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa1400膳/500円/素材エゾ松です。
【箸袋に箸置き】
日本文化の深層に根を張っているお箸ですが。昨今箸を使って上手にお魚を食べる人を視なくなってしまいました。箸と呼ばずに「お手元」というのは屹度美しい箸袋を綺麗に折って「箸置き」にする仕草が日常であった時代の記憶なのでしょう。綺麗に食べ尽くしたお皿や役目を終えた箸を箸袋を折って作った箸置きにさりげなく置かれていたりすると感心しますし、客が一層ゆかしく思えます。
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これは箸メーカーが綺麗な箸袋に入れて販売している案内です【写真出典楽天のサイトサンワ社https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RivQDZF3haq2EA2xgdOfx7?p=%E7%AE%B8%E8%A2%8B&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
箸はシンプルで美しいモノです。しかし箸袋や箸置き等の添え物を加えれば奥が深い文化だと思います。まして、箸を使った食事作法迄広げてみれば、日本文化の象徴でもあります。


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白笹稲荷に初丑詣で

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2月7日は初牛(はつうま」です。初午(はつうま)は、2月の最初の午の日。1月の初牛もありますが、旧暦で1月(新暦で2月)に稲荷神社の祭の日をの初午をいいます。今年は何処に行こうか?私の生活圏では鎌倉佐助の「佐助神社」がありますが、神奈川県で一番有名なお稲荷さんである「秦野の「白笹稲荷神社に出かけました。我家の居間の窓から視ると今朝も西に冠雪した大山が見えます。大山の麓にある街が秦野で矢櫃峠(やびつとうげ)を越せば清川で甲斐になります。横浜から見れば冠雪した大山は神々しく、まさに白笹です。
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此れは民家の塀に張られた白笹稲荷のポスターです。
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大山の東側高台の上に白笹稲荷神社があります。南側(写真の左)には富士山の方角です。
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民家の甍の上に富士山が頭を出しています。
地下鉄で湘南台に出て、小田急に乗り換えて相模大野駅で小田急小田原線に乗り換えて急行で7駅目が秦野駅です。駅を降りれば大山は目の前で南には富士山が遠望されます。家で観ればすぐ近くでしたが、実際に遣って来ると思いの外遠いのに驚きました。神奈川県の西の果です。でも駅前には白笹神社への直通運転バスがピストン運転をしていました。駅舎では辺りを見渡します。「今日のランチは何にしようか?」「トンカツ屋」が眼に入ります。そう此処は「高座豚」の産地なのです。それでは。真っ直ぐお詣りして帰路にトンカツを戴く事にしよう思って直通バスに乗り換えました。徒歩30分の距離ですから5分ほどで白笹稲荷に着きました。
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お馴染みお好み焼きもイケメン青年が一生懸命用意していました。
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浪花の「大蛸」と書かれた「たこ焼き屋」1個に足の半分は使われていて美味しそうでした・・・。でも今日のランチは高座豚のトンカツです。
細い道路の両側は屋台が並んでいます。時刻は11時屋台の稼ぎ時です。何処の屋台も同じで「お好み焼き」に「たこ焼」に「鯛焼き」に「ケバブ」が目立っています。小田急線沿線には外国人労働者や学生が多く住んでいます。屋台を視ても国際性を感じます。私の好きな「ベトナム」や「タイ」の屋台は全くありません。座間や長後辺りにはベトナム料理店が多いのですが・・・・。
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白笹稲荷神社の手水場、竹筒を細工して大勢の人が手を浄められます。でも口をそそぐことはできないし一寸疑問です。
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この建物が白笹稲荷の本殿です。黒い建物ですから秩父神社を髣髴させます。お稲荷さんは何処も朱塗りですが・・・。
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伏見稲荷の千本鳥居風に石段を鳥居が跨いでいましたが。30本鳥居と云った感じでした。
もう1時過ぎお腹も空きましたし、大山降ろしの風は冷たいので鼻水も垂れて来ます。駐車場脇にテントが張られ座って食べれる便宜が図ってあります。私はお餅を戴く事にしました。昨年末世田谷のボロ市で「代官餅」を食べ損ねています。そこで辛味大根餅を戴く事にしました。急いで食べて喉に閊えたら大変です。良く噛みながら大根の汁を良くつけて戴きました。大根の辛味は春(季節)と関係あるのかな?気になります。昔大根を作っていた時の記憶では、春が近づくにツレテ大根は素が入って美味しくなってきました。所謂「大根が馬鹿になるのです。大根の辛味は寒さに強く冬越しの対策なのでしょう。だから寒の入りの頃に食べる大根が一番美味しいのでしょう。
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駐車場脇に設えられた休憩所テントの下で座って食べられます。
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餅の屋台で「大根おろしに餅をまぶした「辛味大根を戴きました。
い稲荷は初めてです。でも相模の国大山阿夫利神社の麓らしくて違和感はありません。腹は満ちたしお土産も買えた、これで金運も好転するかな微かな期待を持って帰宅するとテレビは米国発の株価暴落を報じていました。
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ピーナッツは高いし高カロリーですし、お土産には起し「300円」を求めました。


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霜柱を観に行ったのに

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2月8日の朝食をとりながらワイフに訊きました。「霜柱を観た事ある?」ワイフは怪訝な顔をして答えます。
「家の裏側に回れば今朝も霜柱なら張っていますよ!」
私は答えます。
「いや、地面が凍って出来る霜柱ではなくて、シソ科植物の霜柱だよ、陽が長くなって植物が活動を始めて、地中の水分を吸い上げた途端に寒くなるとその水分が凍って出来る霜柱だよ、冬と春の間だけに観られる霜柱なのだ。観た事が無ければ大船フラワーセンターに自生しているから午前中に観に行こう!」
そんな次第で10時過ぎ我家を出ました。
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これが大船フラワーセンターの霜柱です。以前次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48523370.html
72候で「地始凍(ちはじめてこおる)」とは立冬の中旬11月12日頃です。日に日に寒くなって大地が凍りつき、霜柱も立ちはじめます。そして立春も過ぎれば,幾ら寒くても植物は活動を始めます。屹度地中の氷も解け溶け始めて、植物は水分を吸い上げ活動を始めているのでしょう。72候では今頃を款冬華(ふきのはなさく)と云います。
ワイフが指摘する我家の北側を確認すると蕗は未だ枯れた儘です。でも確実に生きていますから、屹度蕗の薹の花を付けて美味しい天麩羅になってくれることでしょう。
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此れは我家の北側に植えた「蕗」です。地上部は枯れてしまいましたが、枯葉の下から芽生えて来たので蕗の薹も期待できそうです。
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寒菊はもう新芽が出始めました。
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紫陽花も花芽が出始めました、でもその根元にはカタツムリが寝ていました。
大船駅を降りてフラワーセンターに向けて約2キロ歩きました。私が応援しているネパール人3人組の食堂も順調のようです。民家の居間を改築した「山猫レストラン」も流行って居そうです。
フラワーセンターで「霜柱を観たら」その後何処で食事にするかお店の「ランチメニュー」を確認しながら歩き続けました。でもフラワーセンター通りの突き当りには横断歩道も信号もありません。立体歩道橋はありますが、バリアフリーではありません。
漸くフラワーセンターの入場口に着いて驚きました。フラワーセンターは工事中なのです。大船駅にも通りにも何も案内はありませんでした。「フラワーセンター近道」の脇に「3月一杯工事中」の貼り紙でもしてくれていれば。「徒労に歩く事も無く、龍宝寺にでも行き先を変更したのに…」思いました。
工事看板を確認しました。どうも事務所棟やレストランの工事では無くて植栽の改修のようです。私が県の責任者なら、。先ずレストランののテナントを決めてレストランを改築します。イメージは日比谷公園の松本楼です。次いで手を付けるとすれば展示施設です。ガーデニング講座や趣味の花鳥画の展示をして、施設全体でもう少し稼げる様に致します。大きな温室も工夫の余地あります。花だけでなく、昆虫や小魚を飼育しても良いと思います。工事業者を確認すれば「三恵建設」という事になっています。鎌倉には実績もあるし信頼も置ける造園会社が沢山あります。ネットで確認してみれば八王子の電気工事会社です。
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改修工事で3月31日まで閉園の措置が講じられていました。
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フラワーセンターの所管が県住宅局とは驚きです。昔は農業試験場でしたし、現状は公園施設です。施行の有限会社三恵電設はネットで調べると八王子の電気工事会社です。左側のお知らせ看板を視ると生井興業が植栽工事をしています。ネットで確認すると寒川の会社です。地元には生駒造園と云う一流会社が在るのに・・・・。
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フェンスの隙間から霜柱の自生していた辺りを視る大きな樹林は銀杏です。その下の灌木は山茶花です。
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この樹林の下に生い茂っているのが艶蕗でその脇に霜柱自生しています。この下闇は海老根や山百合が自生しています。この写真フェンスの隙間から写したものです。
改修工事中とは思いもしませんでした。仕方なく来た道を戻ります。ワイフに確認すれば大船軒の喫茶室には入った事が無いと云います。そこで「山猫食堂」も気になるのですが、大船軒でランチすることにしました。
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住宅地に在る「山猫食堂」、奥様が料理好きで居間を改造して食堂喫茶店にした感じです。店名からして宮澤賢治の「注文の多い料理店」を思わせます。
大船軒の喫茶室に入ろうと階段を登り掛けると眼の前に薄く桃色に染まった桜の蕾がありました、そう「玉縄桜」です。フラワーセンターが新種開発した超早咲きの桜です。早咲き桜と云うと「河津桜」が著名ですが、玉縄桜は早咲きの霞桜で上品です。もう膨らんでいますから三月初めには満開になる事でしょう。「春を感じたいと思ってフラワーセンターに霜柱を観に来たのでしたが。桜の蕾を確認したので「良し」としました。
手前のモルタル造りが過っての大船軒の事務所棟でズットこの建物で鯵の押し寿司を作って大船駅で商っていましたが最近隣に工場と冷蔵倉庫を設備しました。その向こうの緑地が創業家富岡家の屋敷です。写真の左側は昔は大船軒の敷地でしたが現在はマンションです。
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寺務所棟のエントランスに在るのは大船フラワーセンターで開発された早咲き桜の「玉縄桜」です。河津桜と同じように早咲きですが色が薄ピンクで上品です。
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此れはフラワーセンター内に在る玉縄桜です以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893299.html?m=lc&sv=%B6%CC%C6%EC%BA%F9&sk=0
大船軒の喫茶室では「桜の色紙」を見つけました。
「桜の苗が大きく育つ僕らはみんな大人になるんだ」一九六六年一二月一日木下恵介劇場「記念樹」と大書し、出演者でしょう。「高杉早苗/保母役」の他「馬淵晴子/恋人役」「田村正和/主人公大船軒で弁当を売る役」等が寄せ書きしてありました。青年(田村正和)が保育施設で多くの人々の善意に囲まれて成長して行き大船軒で弁当を売って成功します。木下監督らしい家族愛のホームドラマだったようです。日本人は桜の花に人生を投影して生きて来ました。イメージ 10
これが木下恵介劇場「記念樹」関係者の寄せ書き、桜の木の下が主演(保母役)の高杉早苗 その左が馬淵晴子次が田村正和

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「押し寿司」屋のらんち。

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戦前までは横浜市南部の「戸塚区」「栄区」「泉区」は鎌倉市の一部で「鎌倉郡」でした。だから我が生家の事を「鎌倉の盛徳寺」と呼びます。鎌倉郡の実業家として有名な人は「鎌倉ハムを創業した。富岡家で戸塚に我国最初のハム工場を建設したのでした。最初の工場は明治10年創立では戸塚区柏尾にありましたが、関東大震災等で現在の主工場は栄区笠間にあります。近くの大長寺さんには富岡家が建立した「家畜碑」も建っています。
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これは1876 年(明治10年)に創立した戸塚柏尾の鎌倉ハム工場で現在は倉庫として活用されています。戸塚の数少ない文化財です。
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此れは鎌倉市岩瀬に在る大長寺の家畜碑で鎌倉ハム創業の富岡家が建立しました。家畜供養碑と書かれた板碑の表面に豚と牛が描かれていて背面に富岡家が建立した旨刻まれています。

私は中学高校と横須賀線に乗って横須賀に通学していました。大船を過ぎると車窓からは大船軒の工場が見えました。大船観音の視線の先でした。柏尾川沿いに大きな工場が建ち、看板に「大船軒/鯵の押しずし」と記されていました。
鎌倉ハムで成功した富岡家が駅弁事業を始めたのでした。
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鎌倉市岩瀬に在る鎌倉ハム工場にある資料館。次に詳しいですhttp://www.kamakuraham-tomioka.co.jp/about/outline/
大船駅に真近な工場は昭和40年代に長谷工マンションに代わり工場一部が残されて現在も駅弁事業を継続しています。鎌倉ハムの主工場倉庫は鎌倉市岩瀬に移転しました。岩瀬の拠点は道路拡幅などの計画されていますから、大船駅前からの移転は良かったのかもしれません。でも「大船軒」は駅弁の巨漢「崎陽軒」に押されて総じて不冴えの様に見受けられます。「鯵の押しずし」と云えば名物駅弁だったのですが・・・・。もう一つ看板商品がありました。「ハムサンド」でした。大船軒のハムサンドと云えば日本最初のサンドイッチで、御成小学校の家庭科の授業ではハムサンドを作りました。ハムサンドと紅茶の組み合わせが美味しい事を初めて知りました。
鎌倉郡住人にとっては富岡家の事業は地域の誇りでした。
大船軒の事務所棟は大正時代の香りが漂うモルタル作りです。昭和6年竣工と会社案内には記されています。
以前は工場はその旧ビル内に製造ラインがありましたが、近年最新の工場が隣接地に建築され、事務所棟はそのまま残され、会社の応接室会議室は、立地を活かして喫茶店として活用されています。鎌倉ハムは日本最初のハム会社と云ってもそれで創業利益を確保出来るほど実業は甘くありません。日本ハムができ伊藤ハムやプリマハム等大資本に押されます。加えて大船駅に停車する列車も減って経営環境は悪化します。昭和70年代に大船軒は工場敷地の柏尾川寄りを売却し。工場の奥に在った事務所棟と富岡家の屋敷を残して売却、工場は駅から遠い岩瀬の横浜環状道路近くに移転したのでした。
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これが大船軒の運営する喫茶室のメニューです。
私達はランチを大船軒で取ることにしました。前回来た時はハムサンドに紅茶でした。でもハムサンドは週末だけで普段はビーフカレーがお奨めとの事。私達はビーフカレーを注文しました。美味しいしボリューも程々で満足だったのですが。矢張り大船軒に来たら鯵の押し寿司が食べたくなるのが人情です。追加して押し寿司をオーダーしました。5貫で600円でした。
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手前のモルタル造り建物が大船軒の事務所棟。昔はこの建物内で押し寿司を製造していましたが20年程前に向こうのピンクの工場を建設して此処で製造保管しています。その奥の常緑樹は創業家の富岡家の邸宅です。
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大船軒の応接室を喫茶室に転用したモノ。落ち着いた空間です。
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北側の壁には神棚が在って鎌倉中のお札が供えられています。現社長は福田 利幸氏で創業家とどんな関係に在るのか不詳です。少なくとも私は良い印象は持っていません。
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此れがビーフカレー500円です。見ての通り角きりのお肉が多く入っています。
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これが鯵の押し寿司ですお吸い物が付いて600円でした。
大船駅に向けて歩きます。昔スカイラークの在った処はバスセンターになって玉縄の城廻り循環バスや藤沢駅行きのバスが発着しています。連絡橋を渡れば目の前が大船観音です。この観音像の落慶法要には学生時代に参列しました。観音像のある山が父の親友の寺有地だったからでした。白い蛍光セメントで塗られたお顔は夜見上げると怖く見えます。法華寺十一面観音のお顔をこぴーしたまでは良かったのでしょうが。戦争で工事を中断して、再開した頃に偶々蛍光セメントが開発されたので。闇夜に蛍光がどんな効果を示すか確認せずに作ってしまいました。
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大船観音像。敷地は無我想山黙仙寺の所有です。様々な人間の思惑で翻弄されてきました。
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大船駅の東西連絡橋の上に在る大船軒の弁当売場未だ「太巻き」を売っているし、客付きはイマイチのようです。一番の売れ筋は「シラス弁当でしょうか?。戸塚駅でも大船軒は崎陽軒と並んで出店していますが形勢は悪い様に見えます。


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「狐」の民俗学

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2月7日秦野の白笹神社に「初午詣」に出かけました。辛子大根のお餅を戴き満足して帰路に着きました。帰りの小田急の車中で考えました。「学生時代狐眼のT子さんには良く叱られたし、苦手だったな」
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2月7にち白笹稲荷に初午詣でしました。「油揚げ」が売られていました。竹に刺して油揚げを奉げるのは昔からの習慣でしょう。でも、本当に狐は油揚げが好きなのかな?次々に疑問が生じました。
私は古代人(総じて丸顔」が好きで近代人(総じて小顔細目)を苦手にしてきたようです。若しかしたらT子さんは私の女性への趣向を直感的に察知していて、私を視ると攻撃したくなっていたのかもしれません。
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此れは達磨売りの屋台のお狐様狐にしては丸々太っていました。メタボの狐です。
東アジアの民族は皆狐の霊性に気付いていたのでしょう。中国韓国には「九尾の狐」伝説があります。日本では「篠田の狐伝説があります。何れも巨大な白狐です。何れも母性が強く子育ての上手な雌狐でした。
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此れは洛北清明神社の狐陰陽師安部清明は篠田の狐が産んだ子でした。山犬から産まれた八犬伝など獣から英雄が生誕した伝説は世界中にあります。
伏見稲荷の狐も白狐です。処が豊川稲荷(仏教系)の狐はそれこそ「狐色」の黄土色です。曹洞宗の寺院の裏山には必ず「豊川稲荷」が祀られ、「地母神」とか「堅牢地神」の役割を担っています。私は豊川稲荷妙厳寺(みょうごんじ)に上りその裏山に祀られた夥しい数のお狐様を見た瞬間思いました。此処は元々は狐の住む穴(狐窪」であったのだ・・・・。
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豊川稲荷妙厳寺の本堂裏のお狐様の祠此処に来ると何時も背筋が寒くなります。此処は狐の巣穴だったと思うのです。
狐は肉食で農業に害する鼠の天敵です。伏し、視稲荷も豊川稲荷も憎い鼠を次々に捕獲して子供に食べさせる鼠に感謝してお稲荷さんを稲作の守護神に祀りあげたのでしょう。でも、気になる事がもう一つあります。それは白笹神社に奉げられていた「油揚」げです狐は肉食ですから豆腐を揚げた「油揚」は本当に好物だったのでしょうか。
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此れは白笹神社の子育て狐です。
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どのお狐様にも油揚げが奉げられていました。
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お稲荷様ではない末社にもお稲荷様が奉げられていました。
屹度狐は「牛筋」や「鳥皮」の方が好きなのに豆腐等嫌いではないかと思うのです。
油揚げが狐色なので、人間の思い込みで狐は油揚げが好きだと思い込んでいる(民俗学用語の類感呪術)だと思いました。
お腹もすいた、お土産に油揚げを買おうか?考えたのですが、昨年ぼろ市で食べ損ねた「カラミ大根餅」を戴いて。お土産は「おこし」にしました。でも戸塚のスーパーで油揚げ2枚を求めて帰りました。
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此れがこの日のランチの辛味大根餅です。500円
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秦野の名物ピーナッツは皮つき一升で1000円でした。
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夕飯にはスーパーで油揚げを求め狐色に焼き上げて戴きました。
東アジアの住人は身近な狐の霊性を強く感じて来ました。突然に娘が気が振れたような奇行に走ると「キツネ憑き」と云って、憑いた狐を追い出そうと加持祈祷に走り、娘の体を叩いたり煙で燻したりしたようです。死者の霊を我が身に憑けて死者の想いを聴くのが「恐山のイタコ」で、神の意思を聴くのが巫女ですから、奇行に走った娘の事が全く解らないと思えば先ず思い浮かんだのが「狐憑き」であり「狐に騙された」と云う事だったのでしょう。それにしてもカラッと焼いた油揚げに大根おろし生醤油を垂らすと美味しいモノです。これで一枚百円ですから狐様様です。


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道長の糖尿病に思う

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NHKはBSⅢで「偉人達の健康診断」を放映していて、面白く視ています。先週は「秀吉の短気」を取り上げていました。秀吉の短気の原因病気は、「眼病」、「咳」、「神経痛」を根拠に「慢性腎不全」の疑いを指摘していました。天下人になった秀吉は「茶室」や「温泉」でストレスを解消させる努力もしていましたが。最晩年には突発的に「キレる」性格が爆発して腹心の千利休を切腹させ、異母弟の秀永一族も葬ります。秀吉の短気が豊臣家の滅亡を招き、日本の歴史を変えたと指摘していました。
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偉人達の健康診断での秀吉。慢性腎不全の秀吉はキレやすく異母弟の秀長に切腹を命じて、短命政権の原因を作ってしまいました。画像出典画面に在。

吉田茂首相も「馬鹿野郎」の舌禍事件で引退させられました。苦心して権力を掌握した人は往々にして短気に陥り墓穴を掘ってしまうようです。
番組ではキレ易い性格を対処するには「怒る前に6秒間隔を置けば良い」と指導していました。怒りは「大脳前頭葉がゴーパミンを出させて全身に戦闘モードを促すのだそうです。これを制御するには「時間を置く事」だとアドバイスしていました。
縄文人は狩猟に際してドーパミンを分泌して、即座に戦闘モードに入っていたのでした。だから、即座にドーパミンを分泌するのは優性に遺伝します。私はサラリーマン時代も短気な性格自覚して、治したいと思っていましたが、中々治らず、脳梗塞を発症して以来、一層怒り易くなってしまいました。
ドーパミンを抑制する機能は現代の人類にも備わっていないのです。屹度腎臓か何処かにドーパミンやアドレナインを制御する組織が在って、そこが傷んでいるような気がするのです。従ってたった6秒でも我慢出来ないのでしょう。「自分は病人だ」自覚して、どうにか短気な性格を抑え込みたいものです。
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ドーパミンもアドレナリンも大脳前頭葉から神経細胞を介して指令を全身に伝えます。ドーパミンはメンタルな意欲を喚起させ、アドレナリンは筋肉を戦闘モードにさせます。画像出典春日クリニックhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%9F%E3%83%B3+%E6%80%92%E3%82%8A&aq=-1&ai=NxQVLMKBQhW3ShLRSqfMJA&ts=17437&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
ところで、今週は「藤原道長の健康診断」を扱っていました。道長は重度の「Ⅱ型糖尿病」だったと云うのです。栄華を極めた道長ですから、「美食と運動不足で糖尿病だった」誰しも推測します。でも、「Ⅱ型糖尿病の原因は美食運動不足では無くて、超ストレスと寝不足と下痢の所為だった」と解説するのでした。それならば会社勤めの現代人と同じです。「美食・運動不足」の自覚は大半のサラリーマンに共通していますので、対策も流布しています。でも「超ストレス」「寝不足」「下痢」と指摘されると思い当たる人が人も多い筈です。
道長がストレスの重圧に苦しんでいた原因は第一に、「彼が良く働く能吏」であった事。第二は奥方の倫子が生まれも育ちも偉すぎて道長は何時も負い目を感じていた事をあげていました。
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此れがNHKの「偉人達の健康診断/藤原道長」の画面です。
一般に現代人も古代人も「摂取エネルギー」と「消費エネルギー」が均衡していてこそ健康であります。物理学の「運動エネルギー保存の原則」と同じように人間の身体は「エネルギー均衡の原則」があります。摂取エネルギーは消費エネルギーと均衡していてこそ健康なのです。一般に次の様に短絡的に理解して来たと思います。『藤原道長は栄華を極め美食三昧していたのに運動不足で摂取エネルギー過剰であったからメタボになって、糖尿病に発症して死んだ』何なら「栄花物語絵巻の道長像はデブじゃないの。でも古代人の肖像画は何れもいメタボです。道長像は平安時代の美男の理想像であって、実際に道長が肥満であった根拠は無いようです。
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此れは薬師寺の樹下美人。古代の理想は太目ポッチャリだったのでした。道長が肥満体なのは理想的男性の姿だからです。
古代人も縄文人も摂取エネルギーが過剰であった場合は先ず筋肉内に脂肪として蓄積し、更に過剰なエネルギーは内臓脂肪として蓄積したのです。何故なら人間の体は飢饉に耐性がある様に変ったので類人猿と違って繁栄の道を歩んできたのです。道長像がは糖尿病予防の切手に採用されるように超メタボに描かれているは古代人の理想像だからです。
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薹女房の切手は道長像が採用されています。
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これは中世の病草子(国宝東博所蔵)です。中央のデブさんは都の貸金業者です。中世はデブは蔑まされていました。
今私が読んでいるダニエル・.リードマンの著「人体600万年史」では類人猿のBМIは8%と記されています。従って旧石器時代人のBМIも8%程度だったのでしょう。類人猿から進化した最初の人類は体内にエネルギーを貯蓄出来るようになりました。過剰に摂取した糖分や澱粉を脂肪酸に分解し、血液を介して筋肉や内臓に蓄積したのです。そして、飢饉に遭遇したりすると脂肪を分解してエネルギー源としたのです。女性の場合は「出産授乳」の大仕事に際しても脂肪を分解してエネルギーとして活用する必要があったわけで、美人はビーナスも吉祥天女も太目なのです。、脂肪にしてエネルギーを貯蔵しておく機能は大切でした。古代人の理想像が洋の東西共に肥満なのは出産授乳の大事を考えれば自然な事でした。私達の遺伝子も道長の身体と同じで、過剰なエネルギーは取敢えず内臓脂肪として蓄積するように出来ているのです。
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これは米国人のBМIが産業革命直後23であったものが直近は27にも急上昇している事実を示したいます。グラフ出典ダニエル・.リードマンの著「人体600万年史」産業革命によって効率的に炭水化物を摂取出来るようになった人間は先ず身長が伸びたのですが、過栄養を内蔵脂肪に蓄積した結果
BМIが急騰してしまいました。
でも中世の農業革命、200年前の産業革命によって、私達は常時摂取エネルギー過剰に成り易い環境下に暮らしています。厚労省がBМI22%が理想と云っても、私達の遺伝子はBМI8%の儘なのです。インシュリンは石器時代と同じように分泌され、過剰なエネルギーは内臓脂肪にしてしまうのです。内臓脂肪がⅡ型糖尿病や癌や心臓病や動脈硬化や骨粗鬆症(一般に贅沢病と呼ばれる)を誘発するのです。進化論的には自然選択によって過剰エネルギーを内臓脂肪にして体内に蓄積しないような遺伝子が出現してそれが優性になる筈なのですが。

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此れは各種BМI資料を総合して、美人の基準は時代と国によって違っている事実を説明した、モノです。データの出典はT-SIThttp://top.tsite.jp/news/lifetrend/o/25368866/
でも此処で結論ではテレビ聴取者の推測の範囲内で面白くも可笑しくもありません。其処はNHKで高い受信料を取っているだけの事はあります。もう一歩突っ込んで道長の糖尿の原因を追究します。根拠は道長の書き綴った日記(御堂関白記)です。
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これは「御堂関白記」です。昨年この日記を熟読して仏師「定朝」の生涯を推測した小説を読みました。価値のある日記です。細かな字で沢山書かれているのは道長主宰した会議とその出席者です。
道長の糖尿病の原因を美食と運動不足にするのではなくて、「働き過ぎ」「寝不足」「過剰ストレス」と分析しているのです。
その原因は第一に摂政に就任して栄華を極めたプロセスが天然痘でライバルが全員死亡して思いがけずに№1のポストが転がり込んで来た事実をあげています。
サラリーマンであれば道長の様な偶然は多々あります。道長は出世面では運が良かったのでしょうが、健康は損ない、ストレス過多、寝不足に下痢で悩まされます。
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道長の下痢は過敏症大腸炎だとしました。胃炎や大腸炎で苦労するサラr-マンも多いのです。
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道長の正妻は宇多天皇の曾孫で当代一の美人だったそうです。正妻に圧倒された事もストレスだった、と説明していました
に全日空烏がロッキード事件で全役員引責辞任させられ、下級官僚から転出していた若狭 得治氏が社長になり「中興の祖」と激賞されたのですが、屹度大きなストレスが在ったでしょう。のも几帳面な性格が窺い知れるばかりか、実績が上がらないのは自身の人望が無いからだと自分自身にストレスをかけていたのです。

角館の積雪

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2/15日の昼に我が家に帰宅しました。実は「角館」「大曲」「横手」のツアーに出ていたのです。去年の秋白神山地を旅行した時、今回のツアープランを思いついたのです。雪景色なら学生時代に奥只見から会津坂下にツアーしましたし、新婚生活は札幌でした、長岡ニュータウンの建設にも携わりましたから、雪国文化は身を持って体験してています。どうせなら、我国雪国の最たる処を視て廻りたいと思いました。そこで決めた行き先が角館だったのです。
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JR東日本の角館のポスター武家屋敷の黒塀越しに振袖を垂らしたような枝垂れ桜
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本家円山公園の枝垂れ桜。流石に傷みが目立ってきました。枝垂れ桜は4百歳が年頃と云う事でしょうか?角館の方が妖艶に思えます。
角館と云えば「陸奥の小京都」桜の季節が推奨されるのでしょうが、寒い季節に雪化粧した、桜を観たいと思ったのでした。
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車窓の景色、一面の雪が田圃も民家も総て覆い隠していました。小さな祠を祀って常緑の杉と桜が囲っていました。
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深夜バスで横手に着いたのでしたが角館に行くには除雪を待たなくてはなりませんでした。お蔭で大曲駅で秋田新幹線小町に乗り換えられました。(新幹線料金無し)
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角館駅前正面の建物は「蔵」という名の観光案内所、此処で長靴を貸してくれます。枝垂れ桜は重い雪にも耐えていました。桜は髄が硬くて今回の旅行でも折れた枝は見ませんでした。右端は秋田内陸鉄道線の駅舎です。
角館の紅枝垂れ桜は京都の円山公園、舞妓さんが長い袖を振ってポースを決めた様に艶やかです。「京都随一の枝垂れ桜が何故角館に自生しているのか?」不思議に思っていました。既に角館観桜を経験している、I君は歩きながら呟いています。「長浜の城下町は道はほそいうえに枡形に切ってある。角館の城下町は何故道幅が広いのか?確かに角館の道の両端には水が流れています。道幅が広く無ければ、散策中に溝に嵌ってしまいます。

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角館の武家屋敷通り桜と樅の木が目立ちます。黒塀の下は水道です。道幅は6間(11mもあります。都を模したのでしょうが、この道幅のお蔭で観光地として成り立っています。
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粋な黒塀の内側には枝垂れ桜です。
角館の都市計画はまるで今日の観光立地を先読みしたかのようです。
枝垂れ桜の巨木が黒壁越しに並んでいます。「見越しの松」ならぬ「見越しの桜」です。
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「冬語り」会場になっていた「岩橋家」手前はボランタリーで作られた「雪灯篭」
こうした私達の疑問を溶いてくれたのが岩橋家で行われた「冬語り」でした。
私は武家屋敷の囲炉裏端でお爺さんが「昔話」デモしてくれると推測していたのでしたがとんでもない、歴史講談でした。言葉も推敲されていて弁者は浪漫文学者でした。
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情熱をこめて中世の名門清和源氏蘆名家の省長を語る「語り部」さん。
角館の話は清和源氏蘆名家に遡ります。
蘆名義広は戦国大名としての蘆名家の氏最後の当主でした。
常陸の戦国大名佐竹義重の息子で佐竹家の東北進出に当って、先ず白河結城家の次いで蘆名家の養子になって、家督を継いだのでした。だがこの家督を巡って家中は「親左竹派」と「親伊達派」に分かれて蘆名家の家中も分裂してしまいます。(蘆名騒動)蘆名義広はそんな混乱をを鎮められないまま伊達正宗に負けてしまいます。蘆名義広は若年で、強者の伊達正宗の敵では無かったのでした。その後は角舘蘆名は実家の常陸にに亡命。関ヶ原では左竹本家共々西軍に組します。反徳川の烙印を押された左竹は秋田にに移封されます。
義広の弟「蘆名義勝」1万石余りを与えられ「角館」に蟄居させられます。「義勝」は中世の名門会津藩60万石復活を角館で夢見たのでしょう。京都三条西家出身のお姫様を嫁に迎えます。彼女が嫁入りの際に3本の桜の苗を持ってきたものが、現在の「角館の枝垂れ桜」の祖先だといわれています。 秋田県知事の佐竹敬久氏は角館佐竹家の直系だそうです。岩橋家(75石)は角館「佐竹家」「大番頭」として侍を統括した名門家臣でした。一方「石黒家/150石家老格/重文」は勘定方」「医心方」トップでした。冬語りの語り部は「岩橋家の贔屓で江戸初期の75石と」江戸末期の150石とでは重みが違うという事でした。「維新戦争で150石の家臣は石高に応じた兵士を出さなくてはならなかった」云うのです。
語り部の脇には斉藤茂吉さんの和歌が懸けられていました。
春ごとに しだり櫻をさかしめて 京しのびしとふ女(おみな)ものがたり


角館の「火振り神事」の貴さ

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昨日は角館の都市計画が中世の名門「会津蘆名家の復活にかけた蘆名家臣の情熱の成果であると「冬物語」で教えられた事をアップしました。今回の旅行のもう一つの目的が「角館火振り神事」を視る事でした。日中に武家屋敷通りを散策して一度宿にチェックイン、夕食と温泉を堪能してから7時に桧木内川川べりに在る駐車場に向かいました。此処は約2キロメートル桜並木の名所です。
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角館桧木内川北側から桜並木を視る。染井吉野の樹下に見えるのが駐車場で、此処で火振り神事が行われました。並木の南側が武家屋敷で左上の桜の小山が角館城のあった「古城山公園」です。
5時半に左義長の火点け祈願が行われ午後7時は「火振り神事」も佳境でした。
何のことはありません。左義長の残り火を炭俵につけて燃え盛った処で、炭俵の口を止めて在った藁紐の先端を握ってブンブン振り回すのです。スローシャッターで撮影すると火の円盤状に写るのです。
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此れが角館の火振り神事です。写真は観光協会のモノで街中に溢れていました。
会場の案内板には「この火祭りは宮中で実施されていた左義長と同じであると」と案内されていました。お姫様を癒やす為に鞍馬山の神事を真似て雪深い角館の必需品木炭を入れていた炭俵を使った神事なのでしょう。角館の人心が宮家のお姫様を愛した気持ちが尊いと思いました。火は災厄を焼き尽くす効果があると期待されています。左義長の火柱も人間界の災厄の種を焼き尽くす浄火です。火振り神事も同じ効果を期待しているのでしょう。
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私が写すと火振りしている人が燃え盛って居る様に撮れてしまいました。左端に立っているのが「左義長」です。この左義長を燃やし尽くして火振り神事は終了でした。
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「火振り」をしているのは外国人美女です。外国人はノリが良いので競って火振りに参加してお友達に写して貰っていました。これが写メールされてまた外国人が雪の角館に来るのでしょう。
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会場の北側桧木内川沿いには雪灯篭かかまくらか解らない造作物が並んでいました。ツアーで横手に行くと学生がバケツに雪を詰めてシャベルで穴を掘ってLEDを点灯していました。人が川に落ちない為の安全対策でもあるのでしょう。
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奥に在った左義長に火が点くと火振り神事も最後で、大曲の花火の準備が始まります。
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火振り神事の主催者は角館観光協会です。祭りの最後は左義長も燃え尽き「冬の花火」で締めくくりです。
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左義長も燃え尽きてしまい、いよいよ「冬の花火」の始まりです。
13日の火振り神事の主催者は観光協会で明日14日は各町内で実施されるそうです。「今年が最後ですが、来年以降も14日にお越しください」アナウンスしていました。
私達は日中観た武家屋敷をもう一度廻ってホテルに戻りました。夜はライトアップされていました。でも、日中丹精して作った「雪灯篭」にライトは点いていませんでした。角館は「春は桜」、「夏は盆踊り」、「秋は紅葉」と観光資源が盛り沢山です。雪景色は外国人にとって無類の魅力が在るようです。最後の「冬の花火」観れて幸運でしたが、最後と云わずに継続して欲しいモノです。
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もう一度夜の武家屋敷を廻ってみました。道端の雪が側溝との境になって安全でした。これも6間の幅の広い道のお蔭です。道路左側の大木は石黒家の樅の木(5メートル幹回り)です。
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昼間「冬語り」を聴いた石黒家の門前で友人は暫し佇んでいました。


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雪と石仏

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私は雪に埋もれた石仏が好きです。雪も水も凍ると石仏を風化させるので石仏には良くないのですが、雪が石仏の美しさを一層引き立ててくれるのです。特に美しく輝くのは雪が消えて春が近づいた季節で、陽光に温められた石仏は自身の周囲の行くを先ず溶かして雪原に屹立しています。今次の旅行も石仏のありそうな処を探して廻りました。角館では天寧寺に詣でました。岩橋家で実施された「冬語り」で蘆名盛隆の子「亀王丸」(生後1ヶ月)が19代当主になったものの、1586年年に3歳で病死して眠っているというお寺です。私は天寧寺の写真を視て格式の高い清潔なお寺だなと思っていました。
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宿の近くのお寺境内神社もある立派なお寺ですが雪に埋もれて、出入り不能状態です。背後の山が角館城のあった「古城山」です。
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これは第19代当主が埋葬されている天寧寺です。石仏は雪に埋もれていて拝観できません。右側の小さな建物が地蔵堂でした。左側の地蔵堂の前には行けませんでしたが右側の地蔵堂は庶民向けの地蔵堂らしく子法師地蔵などが祀られて賑やか状態でした。
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此れは武家屋敷の山側に建っている天寧寺(浄土宗)です。19代蘆名家の当主が埋葬された格式の高いお寺です。本堂左手にも地蔵堂が建っていました。この寺が僅か3歳で亡くなった19代当主亀王丸を祀っているお寺ですから子供の守護仏地蔵尊が多いのでしょう。
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上記写真右側の地蔵堂に祀られている子法師地蔵を含む地蔵群です。
私達は武家屋敷通理を離れて、商人街に在る放身寺(浄土宗鎮西派)に向かいました。城主が浄土宗なら家臣も商人も浄土宗なのでしょう。商人街の裏通りに面して放身寺がありました。入口脇には薬師堂もあって、門を入ると左右に阿弥陀仏阿弥陀三尊の石仏が祀られていました。でも砂岩質の石仏は脆くて、お顔は全く解らない程風化していました。螺髪が残っている事、左右の腕の位置から主尊は阿弥陀如来と判じました。広い墓地では卒塔婆や石柱墓標の上に雪が積もっています。墓地の中央には一本の枝垂れ桜が屹立していました。幹のも枝にも雪が固まってへばりついています。この強さが屹度美しい花を咲かせるのでしょう。
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これが角館の報身寺です。雪囲いと雪搔きが大仕事の様に見受けました。阿弥陀石仏はこの赤門の手前左右に祀られています。
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報身寺の阿弥陀如来像逆の位置には阿弥陀三尊が祀られていました。へばりついた雪が溶けて凍って石仏の風化が進行します。右が観音、左が勢至菩薩ですがどちらもお顔が跡形なく風化しておいでです。砂岩質が石仏向きではないのでしょう。
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報身寺入口の阿弥陀三尊像、「右奥が阿弥陀如来で手前右が観音左が勢至菩薩です。観音様のお顔は既に原型も解からないほど傷んでいます。角館には良い石が無いのでしょう。
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報身寺墓地の雪景色、石柱墓標や卒塔婆の天頂に雪が積もっています。石仏は雪に埋もれてしまっているのでしょう。感服するのは枝垂れ桜です。折れた枝も無く雪の重みを凌いでいます。
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報身寺の墓標石仏お地蔵様のようです。
放身寺を拝観して私達は角館駅に向かいました、列車で横手に向かいました。角館から横手に行くには直通列車は無くて、中間の大曲で乗り換えなくてはなりません。大曲駅で1時間も時間空が出来ました。そこで大曲駅舎内の観光案内所に寄って駅周辺の名所を確認した処、大曲には曹洞宗大川寺が在る事を知りました。雪深い地方には曹洞宗寺院があるモノです。南魚沼には雲洞庵がありました。
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この楼門は大曲の身延山「大川寺」です。このお寺は消雪パイプが設置されていましたので拝観は容易でした。
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大川寺の本堂、高岡の 瑞龍寺と同じく仏殿は天井が高く外から見ると二階建ての様に見えるし細部の彫刻も手の込んだ風格ある総持寺系の寺院でした。
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大川寺の豊川稲荷神社左に弁天堂もあります。
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大川寺の地蔵像
大川寺は高岡の瑞龍寺本殿(国宝)を髣髴させる見事な風格でした。境内には消雪パイプが張られているので、石仏を拝観して廻れました。上の地蔵尊は花崗岩質ですので、角館の石仏のような風化の心配はないようです。大曲の花火を実施する川を渡って雪解けし始めた舗道を苦労しながら大曲駅に戻りました。
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大川寺楼門袖に並んだ33観音像
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大曲の花火が開催される雄物川を渡って「花火通り」を大曲駅に戻りました。ロータリークラブが建立したブロンズ像も雪がへばりついていました。大川寺の名は雄物川の川沿いに建っている大寺の意味でしょう。
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大曲駅の花火のポスター。現在「大曲市」とは云わずに「大仙市」と呼び「角館市」と呼ばずに「北仙市」と呼びます。平成の町村合併で「大曲市」「角館市」では住民の合意が得られず吸収される住民の意を汲んで現在名になったというのでした。「仙」とは「鳥海山」か「出羽三山」でしょうが、私は出羽三山の北側に在る。大きな街の意味と解しました。
総ての造化は大自然と人間のハートが作るモノです。「人為」と「自然」が調和しているほど人々には感銘を深くするものです。臼杵の石仏の素晴らしさは、安蘇山の火山灰が地圧で石化した凝灰岩の大岩を刳り貫いて造化された石仏が千年の風化を耐えて来て見せる、美しさです。雪深い秋田県八幡平麓の小京都の石仏も同じで、人間の造化と自然が織りなした造化仏像の美しさです。
次に来られるのは何時になるのか解りませんが、石仏に桜の花弁が降りしきる季節に再訪したいものです。


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ふくら雀に餓えた烏

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角館の宿は武家屋敷から10キロも北で西長野にある「花葉葉館/1泊2食7500円」に泊まりました。昨秋宿泊した白神山地の白神荘(建物は青森県、運営は街を核にした三セク)と同じ形態でした。フロントには220万人達成記念の幟が立っていて順調な経営を思わせました。
長野町は「押絵人形」や酒造が盛んなようです。
フロントの空間に新しい「押絵人形」や古い「泥人形」が並んでいました。
立派な菰樽が並んで中央に祭壇があり、四方を竹で囲ってあります。鏡餅が未だ飾られています。ロビーマネージャーに訊けば
「薄い鏡餅は占いの為だ」と云います。
「鏡餅のひび割れや青黴の付き方で神意を占うのか?」訊けば
「違う。鏡餅の裏に付いた種籾を視て。今年の田植えの時期や種類を神に聴くのだ」
という事でした。
私が納得して誉めると、帰り際社長(私と同年齢)が見送りに出てくれました。
夕飯も美味しかったし、昼間買い求めた「雪蔵林檎」を食べたいと云うと気持ちよく果物ナイフを貸してくれました。
林檎を食べながら表を視ると向こうの斜面はスキー場であるとの事。玄関周りに手作りの「かまくら」があります。屋根に積もった雪ロータリーや駐車場に積もった雪を積み上げて在りますから。横穴を開ければ容易に「かまくら」が出来そうです。
そう云うと「西東京」に雪を運んで「かまくらhttps://iko-yo.net/facilities?city_ids%5B%5D=313049&feature_ids%5B%5D=5&prefecture_ids%5B%5D=13」を作ってあげているのだとの事でした。角館では除雪は出来ても雪を捨てるのが大変で、ダンプ一杯で4万円もかかるのだそうです、日本中の国道の除雪費用は3千億円でその大半が雪を捨てる費用だそうです。そのお金を毎年使うのではなくて表日本側に運んで冷蔵倉庫に使えば廃雪費用は節減できるし、食糧の付加価値も増しそうです。(冷蔵倉庫に一年貯蔵するとお米もジャガイモも林檎も蜜柑も美味しくなるそうです)
朝食も終えて庭先を視ると烏が啼いています。止っているのはゴミ桶の上です。雪国の烏は食べ物が無いので必死なのでしょう。
日中私達は角館のもう一つの武家屋敷通り「田町通り」にある「西宮家」を観に出かけました。

秋田美人を求めて

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良く言われる事です。日本海沿岸の県は北から交互に美人県と不美人県が交互するというのです。「青森は不美人」「秋田は美人」「山形は不美人」「新潟は美人」「富山は不美人」「石川は美人」「福井は不美人」「京都は美人」と云った次第です。屹度北廻船の乗員が寄港地での楽しみが「美人のお酌で・・・・・」と云った事だったからでしょう。その船乗りの意見を今でも私達は常識としているようです。
真偽の程は別にして、秋田県は伝統的な日本美人が多い事だけは間違いないようです。角館駅に貼られたポスターを視てもハットする程の美人です。
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駅舎で迎えてくれる、これぞ秋田美人白い肌と黒い瞳と黒髪が美人の必須アイテムのようです。京美人は色白でも絣は着ません。秋田美人は絣が似合います。この姿で田植えでもされて、白い脛を見せたら、久米の仙人ならずとも惑ってしまいます。
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秋田の観光資源は「美人が多い事」これは観光協会も意識していますし。旅人にも魅力です。
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横手駅のポスターは秋田の観光資源「秋田犬」と「露天風呂」と「美女」、「三種の宝」を揃えました。
美人の基準は次第に変るモノですが。日本美人となると何時の時代も変わらない2点があります。第一は色白の肌です。第二は長い黒髪です。色白の肌は秋田人のDNAが白系ロシア人に通じるからかも知れません。私が横手に出て先ず訪れたかったのが小野小町の生家が在ったという「湯沢町の小町堂」です。
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秋田新幹線小町の社内ポスター。秋田美人が「あきたこまち」を食べているからではないでしょうが、JAもJRも美人をウリにしています。
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これは小町堂で実施される「小町祭り」の写真です。出典(湯沢市観光協会(http://www.nihon-kankou.or.jp/akita/052078/detail/05207ba2212060901)市女笠の平安美女が7人も揃って、撮影可能だそうですが(会費千円だそうです。秋田はしっかりしているのです。
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此れは昨年の湯沢町のポスターです。
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横手出身の檀蜜さんは「今小町」を意識している様に見受けます。写真出典文春オンラインhttp://bunshun.jp/articles/-/5823
早朝に列車に乗りましたので、美女の卵を観たいと思って女学生を眼で追います。でも女学生の姿は疎らで納得の美女の卵には遭遇出来ませんでした、私のイメージは一昔前の桜田淳子さんに現在なら檀蜜さん(二人とも横手)です。想いを遡れば小野小町に辿り着きます。小町の生誕地伝説は各地に在ります。昨春三春に近い田村市の小野町にでは夏目川堰堤の桜を視て、小町の誕生地にも廻りました。全国の小野が我が町こそ「小町の誕生地」と主張しています。古代の名門小野一族でしたから「小野の名の付く荘園は数多くあった事でしょう。湯沢町は「小野一族の荘園があった」と云った主張から一歩進んで「小町が生まれた」事を主張しています。湯沢町に「小町堂」を建設して。6月には「小町祭り」を開いて撮影会や平安舞楽を披露しているようです。永遠の美女は何処で生まれて何処で亡くなったのか?ミステリーです。
私達3人は昨年京都深草の随心院を詣でました。其処は小町の生家で深草小将が百度参りをしたというのでした。
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これは左竹本36歌仙絵巻断簡の「小大君」です。断簡されて暫く小野小町は見つからなかったので。この図を以って平安美人の極とされてきました。
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近年発見された小野小町像です。「いろ見えでうつろうものは世の中の人の心の花にぞありける」一般に余りの美しさにお顔を描けないので後ろ姿で描かれたとされています。
湯沢町小町堂は国道から一本入った生活道路の中に在りました。レンタカーで何度も狭い生活道路を巡って「小町園」なるレストランの駐車場に止めて、小町堂を探して歩き回ります。民家の庇の上には雪が積もって、道路を歩くのも危険です。
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これは「道の駅雄勝」の看板です。市女笠を手にした小町が誘っています。観光マップでは「小町堂」はこの先なのでしたが、旧市街地旧道に面していて探すのが大変でした。
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積雪1.7m(2/19日発表)の中、細道を分け入って小町堂を探しました。右の駐車場は小町園と云うレストランで。大きな柳の下に「小町堂」はありました。
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これが「小町堂」です。雪に閉ざされて中には入れませんでした。全体は厳島神社のような建物で写真は左の翼楼でしょう。流石の柳も枝が折れていました。小町のお父さんが「小野東風/花札では柳の木の下に描かれている」ですから桜と柳が植えられたのでしょう。
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民家の庇の下から小町堂を写す。頭上の積雪も危険です。

今小町に遇うのは断念して私達は何時もの様に民俗文化財や巨木神木を探して夕暮れ迫る横手の郊外を巡りました。今小町を観たい人は田植えの季節に来たら思う存分写真に出来て、平安文化もエンジョイ出来るようです。


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