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3つ以上のグループに属している事のメンタル効果。

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深夜ラジオ「夜の宅急便」が終わるのは早朝の4時です。4時から3時間「毎朝ラジオ」に変わります。「毎朝ラジオ」は「今日の花」に始まり「今日は何の日」と続き「健康教室」に移ります。「健康教室」は2週間前までは「便秘をしないために」でしたが先週は「認知症予防」を毎朝権威ある専門医が平易に説明しています。私が毎日ブログをアップしているのも第一に文筆スキルを磨く事、第二に認知症予防です。
認知症を発症した人と健康な人を比較すると「認知症予防の役立つ生活習慣」が明らかになって来ます。認知症予防には最低でも3つのグループに属している事が効果的なのだそうです。ラジオを聞きながら私は自らを置き換えて考えます。
私が長銀を辞めて独立した時には4つも5つもグループに属していました。第一には大学時代からの友人、このグループは日本文化への興味や愛着と云った共通項がありました。第二は私の中学高校(栄光学園」の友人です。此方は懐かしさとカトリックのペーソスと云った共通項があります。第三は地域でした。私は戸塚区上倉田町の連合町内会会長に押されて、会長職を20年も勤続しました。結果林市長の催した感謝会にお呼ばれしました。その時は脳梗塞を発症していたので辞退を申し入れると介護者としてワイフも市長公舎に付き添えました。町内会の会長を辞めた現在は地域の小学校の、見守り(運営理事)をしているだけです。大学中学、高校のグループには今も属しています。唯一残念なのは私が心血注いだ職場の長銀が破綻して、長銀ОB会に属しているものの。破綻時の私の行動を理由に多くの職場友人との距離を感じて自ら遠いている事です。また兄弟や親戚からも法事くらいしか顔出ししていません。私は長銀破綻が決定した時、本を上梓しました。「長銀が破綻してその時行政が長銀を生贄にした」そんな主張の妥当性は別にして、親戚や職場の同僚との溝を作ってしまったのは事実です。

「継子いじめ」の変節

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昨今は父親に依る「継子いじめ」がとまりません。日本の文化史を紐解くと「継子いじめ」は大きなテーマになっています。どれもこれも、子供の父親が新たに妻を家に迎え、新妻が先妻の子供を苛めるのです。総じて先妻は血筋も教養も美貌も後妻より優れています。子供は先妻の良い、尊い資質を遺伝しています。そして虐めにも負けずに成長して。「メデタシ・メデタシ」のエンディングを迎えるのです。
姥皮(御伽草子)は継母に憎まれ虐待された先妻の産んだ姫君は、岩倉の観音に参籠して蝦蟇蛙から姥皮を賜りこれを着て「火焚き姥」になります。この姥皮を着ると容姿は醜くなりますが、難題を解決する知恵を授かれるのでした。姥皮を脱ぐと美しい容姿が現われます。ある時「恋煩い」で重傷な姫君を姥皮を着たお蔭で救済します。姥皮を脱いだ素顔を若旦那に見そめられ、結婚して幸せに暮らします。
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これは越水利江子著の姥皮姫です。
落窪物語巻1~2 主人公は源忠頼の娘(落窪の姫)である。母と死別した落窪の姫は継母のもとで暮らすことになったが、継母からは冷遇を受けて落窪の間(独房)に住まわされ不幸な境遇にあり、味方は女房の「あこき」と末弟の「三郎君」だけでした。そこに現われた貴公子、右近の少将「道頼」が現われ、姫君に懸想します。道頼は(落窪の姫)のもとに通うようになった。しかしそれを知った継母に納戸に幽閉され、さらには貧しい典薬の助の元へ嫁がされそうになるが、そこを道頼とあこき達に救出され、二人は結ばれます。道頼は姫君をいじめた継母に復讐を果たし、中納言一家は道頼の庇護を得て幸福な生活を送るようになった継母が、姫を寝殿造りの落窪に住まわせます。更に姫君をこき使います。道頼少将(後に太政大臣)と結婚するが、これを知った継母は、典薬の助に姫を犯すようそそのかします。しかし、危ういところで道頼少将は姫を救出して自邸に迎い入れます。
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落窪物語は平安中期の小説で、竹取物語は伝記小説伊勢物語は和歌物語であるのに対し、継子虐めといった社会問題を素材にドラマチックな展開は源氏物語に先行し、影響を与えた人気小説です。
『住吉物語』四位少将が、中納言の姫に恋文を送ります。しかし継母が四位少将を欺き、姫では無くて自分の娘と結婚させてしまいます。その後も継母は、年寄りに姫を与えようと企みます。晩秋の夜姫は屋敷を出て住吉に身を隠します。夢に依って、4位少将は住吉に行き姫と再会し結婚します。4位少将は関白に栄達します。
『鉢かずき姫』(御伽草子)「鉢かずき姫」が13歳の時母が病死してしまいます。母は病床で長谷観音の夢告を視て姫に鉢を被せてしまいます。以降、姫は継母に気味悪がれ、苛められ続きます。鉢かずき姫は亡母の墓前で「早く私は母の下に行きたい」と泣きます。継母は、「姫が墓に参って自分や殿を呪っている」と讒言します。父(殿)備中守実方は讒言を鵜呑みして姫を屋敷から追放します。追放された姫は世をはかなんで入水をしたが、鉢のおかげで溺れることなく浮き上がり、「山陰中将」という公家に助けられて、「風呂焚き」として働くことになった。中将の四男の「宰相殿御曹司」に求婚されるが、宰相の母はみすぼらしい下女との結婚に反対し、宰相の兄たちの嫁との「嫁くらべ」を行って断念させようとする。
ところが嫁くらべが翌日に迫った夜、鉢かづき姫の頭の鉢が外れ、姫の美しい顔が露わになった。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い。嫁くらべのあと、鉢かづき姫は宰相と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送りました。「鉢かずき姫」は「初瀬姫」の訛りとも云われる。長谷功徳譚です。
石堂丸と刈萱上人】(善光寺説教節) 平安末期、九州の筑前荘博多所に、加藤左衛門尉重氏という領主がいました。 ある春の花見のおり、自分の盃に桜の花が舞い落ちるのを見て世の中の無常を感じ、出家をして仏門に入る決心をしました。 家族には何も言わず、九州よりはるか遠い高野山にて修行に励み、周囲から刈萱上人と呼ばれるようになりました。 一方、残された家族には石堂丸と名付けられた赤子がおりました。 石堂丸は父を知らずに育ちますが、14歳になった頃『刈萱道心というお坊さんが 
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これは和歌山県橋本にある刈萱堂に祀られている石堂丸の母「千里ノ前」像以前次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B4%A2%B3%FE%C6%B2&sk=0
【弱法師】(四天王寺説教節)
俊徳丸(しゅんとくまる)は、「俊徳丸伝説」(高安長者伝説)で語られる伝承上の人物。河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の『弱法師』、説教節『しんとく丸』、人形浄瑠璃や歌舞伎の『攝州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)などが生まれた。
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此れは下村寒山作の「弱法師」です。寒山は三溪園の臥龍梅を視て原三渓の屋敷で描いたと云われます。国の重文
以上は総て「継子虐め」の物語でした。総て素材は平安時代ですが、良く読まれたのは中世でした。
平安時代は母系社会でした。女性は両親の家に匿われて生活します。男性は女性の家に訪問して結婚します。所謂「妻問い婚」ですから、産まれた子供は「父は誰か?」はあまり問題にされません。男が妻に厭きて若い女性を妻にすれば継子は大いに発生します。継子は後妻に虐められる運命にあって、大きな社会問題になっていたのでしょう。そして良く読まれた中世は父系社会です。尊い先妻の子を苛める後妻は成り上がり者で醜いし,知性もありません。
古代の母系社会から中世の父系社会への変換時に「継子虐め」が多発し、中世的仏教倫理感から「継子虐め」を否定する「小説」「物語」「草紙」「説教節」が隆盛しました。「子供は可愛い」「子供は神からの授かり者」と云った心情は普遍的真理ですから「継子虐め」は何時でもどんな家庭でも許されるものではありません。近世飢饉が頻発するなかで「捨て子」が増えたのも致し方ない側面がありました。童謡「7つの子」にあるように、食べ物の無い家では7つの子を山に捨てたのは、7歳までは子供は神様からの預かりモノで食べ物が無いので、「山の神」にお返ししたモノでしょう。
処が昨今は前にも書いたように若い父親が入って後妻ならぬ「後夫」になtって、先夫との間に出来た子を折檻して殺してしまいます。母は観て見ぬ振りをしているようです。「何処かが狂ってしまった」としか言いようがありません。『2010年代少子化が進行したばかりか折角産まれた子供を親がDVで殺してしまう様になった』歴史書に記されるでしょう。「親性の喪失」はどのように解釈されるのか、心配でなりません。

扇の「聖神性」

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2年ほど前に慶応大学の日本文化研究会のセミナーで現役学生が「扇の系譜」をレポートしました。その質疑応答で「竹櫛+和紙」の扇と「檜扇」とどちらがルーツか?」議論になりました。私はそのセミナーでは自身の意見を整理できないで居たのでしたが自宅に戻って百人一首の絵札を確認して、”高貴な人(皇后や中宮や斎宮)は檜扇』で、女房は紙扇で描かれている”確認しました。でも、自身納得できた訳ではありませんでした。檜扇も紙扇も女性の持ち物ですから、お洒落で使い方(仕草)こそ重要だったのでしょう。うるさ型の清少納言に「扇の使い方次第で、「すさまじきもの」にもなれば「興が深い」にもなるのでしょう。ライバルの紫式部に言わせれば清少納言や和泉式部のように機敏で行動力のある女性の扇仕草は「すさまじきもの」で赤染衛門は御淑やか出来品があると評しています。
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古代女性の必須持ち物の扇でしたが、檜扇、絹張り扇、紙張里の3種類がありました。写真は按察使大納言の「中の君」が匂宮に懸想して庭先の紅梅の枝に歌を結び匂宮に発見して欲しいと歌を描いている場面。紙製の扇を放り投げて歌に夢中です。檜扇の使用は皇后や斎宮に限られていました。写真出典「石山寺昨源氏物語カレンダー」

屹度和泉式部は安っぽい扇でパタパタ煽いでいたのでしょう。

紫式部は和泉の才能は認めながらも「けしからぬかたこそあれ」と評しています。一方赤染衛門は上品な扇で淑やかに風を送っていたのでしょう。『ことにやんごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく』と評しています。

【黒川能の王祇祭り】
今年の秋は何処に行こうか?考えて居ました。
友人とは桧枝岐にいって「村歌舞伎」を観ようか?村歌舞伎なら「大鹿村を優先しようよ!」と話していました。突然に山形県鶴岡市の黒川能を想い出しました。学生時代十和田から路線バスに乗って玉川温泉を経て黒川に出て福島の叔父の寺に出た事があったのでした。ブナの林を出ると突然に美しい集落に出たのでしたが其処重要無形文化財の黒川能が保存されている。
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これは鶴岡市黒川村の王祇会館で王祇神社に奉納される「黒川能」です。舞手が扇を持ち扇の上に載せた能面を付けて能を舞います。扇は「三宝」のようなもので、面を被ることで神になるのでしょう。床を踏む(足拍子と云い能舞台の床下には甕が埋められていて良く響く様になっています)事で大地の神に新年の豊作を促します。お相撲さんの四股や地鎮祭と同じ意味です。
扇が祭りで重要な役割を果たす例は数多くあります。有名なのは那智大社の「火祭り」です。まるで秋田の竿灯の様に扇を飾ります。
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此れは那智大社の火祭りで主役になる「神扇」です。写真出典熊野交通http://www.kumakou.co.jp/nachisan/sub02.html
扇は神様の依り代であると同時に厄も降りるのでしょう。その扇を焼く事で厄を除いて神に降臨して貰います。昨年大雪の中観に行った「角館の火振り神事」も同じで炭俵を焼いて振り回す事で厄を四方八方に追い散らすのでしょう。
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今冬見学した角館の火振り神事、扇こそ使わないものの良く似た厄除け招福神事です。
源平合戦のハイライトは「屋島の戦い」で那須与一が舟の上の扇を射落とす場面です。命を懸けた戦いの最中に何と「遊びか!」思ったのは高校の古文の授業でした。でも扇の意味を理解すれば那須与一が扇を射落したのは平家の軍の神を射落し、源氏の軍の神が上る事を示唆していたのでしょう。少なくとも古代末期の人にとっては源氏が平家を打ち破る行く末を暗示されたと思います。


栗の樹下に咲く「片栗の花」

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突然に暖かい日が続きます。NHKのお天気予報士がこんな好天気を「一円天気」と云う解説していました。
根拠は「崩れようが無い好天気」だという事だそうです。でもそんなお天気な予報をしていると、突然に「春の嵐」に見舞われるものです。天気予報氏の言葉に誘われて4月12日(火」は相模原市郊外の城山に「片栗」を観に出かけました。
我家から地下鉄で湘南台、湘南台から小田急で町田、町田からJRで橋本、橋本からバスで城山に向かいます。処が小田急車内で読書に夢中になってしまい、新百合ヶ丘で多摩線に乗り換え多摩ニュータウンの永山で京王帝都に乗り換え漸くの思いで、城山の片栗自生地に着きました。
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城山の片栗自生地の風景です。写真出典相模原市公式HPhttps://www.katakurinosato.com/

カタクリは、「片栗」と書き、かつては片栗粉の原料でしたが、今では富山県と石川県では準絶滅危惧に指定されています。
地上に姿を現す期間は4~5週間程度で、花が見られるのは2週間ほどです。森の樹木の葉が茂り、地面に日差しが届く迄の瞬時に子孫維持の活動を終えなくてはなりません。種子が地上に落ちて花を咲かせるようになるまで6、7年は懸ると云います。その儚さから、二輪草等と共に「スプリング・エフェメラル」(春の妖精)とも呼ばれます。
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此れが今年の「城山片栗自生地」のチラシです。
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此れが上掲チラシの裏の交通案内です。神奈中の橋本バス停留所に設置しています。
冬が寒ければ寒い程「春の妖精」を観たい、欲求は昂じます。「未だ早い」懸念しながらも相模原市城山に出かけました。
「片栗自生地」入り口には「片栗は咲き始めたばかりです。今日の入山料金は百円です(本来は五百円)記されて、募金箱が設置されていました。
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此れは相模原市川尻に在る八幡社の鳥居横にある白樫の巨木です。この裏(西)に片栗の自生地があります。
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饂飩屋さんの梅林竹林の脇を西に7分歩けば片栗の自生地です。
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以前は田畑の向こうに自生地が見えたのでしたが、相模原郊外の戸建て住宅が連担して屋根の向こうに片栗自生地の杉山が見えました。
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片栗自生地入り口入園料百円の案内と募金箱その奥に園内案内図が置かれています。
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漸く咲き出した片栗の花、花の脇には「名」の起源になった片栗の実が落ちていました。
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この片栗の花も栗のイガの横に咲いていました。
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片栗の脇に栗のイガを見つけて上を観れば大きな栗の木の根元でした。片栗はこの栗の木が葉を茂らせる前に花を咲かせ、種を散らし、大きな葉っぱで炭酸同化作用を営み球根に栄養を蓄えるのでしょう。
「片栗」は片栗粉が普及した近世以降の呼び名で古代は「 堅香子」と呼ばれていました。香りが良い事と、百合に較べて屹度堅かったのでしょう。 堅香子の呼び名を一般にさせたのは家持の和歌です。
750年(天平勝宝2年)、越中の国司だった大伴家持は、
もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」(万葉集・巻18)と、カタクリを詠みました(堅香子《かたかご》はカタクリの古語)。
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れは高岡の万葉博物館に展示されていた大伴家持と坂上郎女夫婦の像、昨秋行次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CB%FC%CD%D5&sk=0
この時の展示テーマは「万葉の薬草」でしたから。メインは堅香子でした。
北陸では里山に春の到来を告げる花であり、その神秘性やはかなさから絶大な人気があります。森の地面(林床)が一面紫色に染まり、この時期だけしか見られないギフチョウがひらひらと舞う風景を求めて、群生地は多くの人でにぎわっています。
2010年、紀子妃殿下は歌会始で次の歌を披露されました。
早春の光さやけく木々の間に咲きそめにけるかたかごの花
皇居内か赤坂の赤坂御用地内に堅香子が自生しているのかもしれません。この年のお題は「光」でした。春は先ず光りのさやかさに感じます。乙女は紀子妃殿下に似た眞子様佳子様を思い浮べます。娘達がお庭を散策されて春の陽射しが射していて、娘の指す指先の向こうに「堅香子」の花が可憐に咲いていたのでしょう。その眞子様の御結婚も突然黒雲に遮られてしまったようです。私が学生の頃木曾の奈良井宿の茶店で「秋篠宮ご夫妻が学生の頃寄られた写真が壁に架っていました。
大學こそちがっても同じように学窓で知り合った娘の幸運です。屹度達成させてやりたい親心でしょう。眞子様はICU(国際基督教大学)です。家持の歌は「八十乙女ら」と歌っていますが、八十は「耶蘇」でもあります。偶然ですが。親ごころは何時も春の陽射しのように優しいモノです。眞子様が堅香子の花であれば、陽の光は秋篠宮ご夫妻の眼差しで、栗の巨木は秋篠宮ご夫妻の庇護でしょう。



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総嘘つき国家の行く末

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東芝に始まり三菱自動車に神戸製鋼等日本の看板企業の噓付が問題になりました。「どうしたのか?」懸念していたら日本の最高の官僚組織財務省(旧大蔵省)で公文書偽造問題が露見しました。
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粉飾決算に続いて米国法人で巨額損失が発覚して謝罪する東芝経営者、もう売るモノは何一つ無さそうです。日本の国も東芝の様にならないよう留意しないといけません。
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燃費偽証事件で謝罪する三菱自動車の経営陣写真出典朝日新聞デジタルhttps://dot.asahi.com/wa/2016042600184.html
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”日本の国はピンからキリまで総嘘つきになってしまった”実感です。幕末維新に日本に来た外国人は異口同音に『日本人の正直、勤勉、礼儀、識字率の高さ』に感動して、日本の国の発展を確信してその旨本国に報告しています。イザべラバードは「日本奥地行」を英国で発刊して米沢市を『アジアのアルカディアである。』評しました。日本製品の高品質はこうした資質の成果ですから、嘘つきが蔓延して来た事実は日本の国家が瓦解する前兆の様に懸念されます。

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イザべラ・バードは米沢の郊外置賜地方の紀行文をデッサンと共に英国で上梓しました。日本の近代化を推進した日本人の美徳はもう過去のモノになったようです。最近は改めて着目されています。
「どうしてこんなことになってしまったのか?」 ツラツラ考えると思い当たることがあります。
変化の兆しが表れたのは2014年(平成26年)内閣人事局が出来た時でした。内閣人事局とは、内閣官房に置かれる内部部局の一つでした。従来役人の人事権は各行政府にありましたが、内閣総理大臣の掌握する官房に移ったのでした。従来『日本の国は自分達役人が責任を持つ 』自負している役人が握っていましたが、肝心要の人事権が政治家に移ってしまったのです。政治家に擦り寄った役人が出世する事態に変ったのでした。日銀総裁も日銀育ちから、大蔵ОBの黒田氏に移ってしまいました。
私の兄弟親戚には上級職が多いので、一杯飲むと話題は「政治家評」に変っていました。政治家の評価を役人がしていたのでした。役人は政治家を教え導く気概を有していました。『日本の国の進路は自分達官僚エリートが掌握している』そんな自負が嫌味に響きました。
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バブルの時代のベストセラー「ジャパン・アズ・ナンバーワン」最近は中国でベストセラーになっているそうです。写真出典/日本経営合理化協会https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCKwfqAapalXkAuQ0dOfx7?p=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%B3&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
大学生のエズラ・ヴォーゲル著「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになりました(1976年)。 戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価していました。とりわけ官僚が産業分野ごとに分析し、企業を導いて産業競争力を引き出す『日本的経営』を高く評価していました。ですから、当時の学生は「 ジャパン・アズ・ナンバーワン」が常識であり、私の勤めた長銀の上司「竹内宏」氏は『柔構造の日本経済』を上梓し日本中がオイルショックや公害病等の難題に遭遇すると、労使や研究機関や政治家官僚がこぞって難題解決に力を合せました。オイルショック下の不況では賃金カットはしても首切りはしませんでした。研究機関は低燃費エンジンの開発を推進し、日本製自動車の国際競争力を引き上げました。
こうした、難題に直面して対策を検討したのが通産官僚であり、予算を牛耳っていた大蔵官僚でした。私の兄の書斎は「農政学」や「農業の書物が積み重ねられていました。兄は官僚になった時農林担当であった事から、必死に勉強したモノと記憶しています。
でも、バブルが弾けて構造改革が始まると小泉内閣は日本の良さを顧みずアメリカ化を目指しました。「労働市場の自由化」は臨時雇用を増加させ、一億中産階級観を幻想にしました。政治家に仇する官僚組織も切り崩して館長組織の吸収合併を繰り返しました。
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ノーパンシャブシャブ事件は「酒池肉林」の過剰接待で、世論の総攻撃を受けました。堅固な堤防も鼠の一穴から崩れるように大蔵省は消えてしまいました。同時に官僚の人事権は内閣府に移され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の司令塔は沈没してしまいました。
折から官僚のリーダー大蔵省は世論から「ノーパンシャブシャブ」と呼ばれた過剰接待を非難されていましたから、抵抗する術も無く、大蔵省は解体され財務省と金融庁に解体されました。肝心要の自分達の人事権も失い上位に内閣府が置かれました。内閣府の評価によって昇進が決まる現実を見せつけられたのです。佐川理財局長にしても、当時は財務省次官や国税局局長の昇進の可能性があったのですから、政治家の忖度を期待して、あのような国会答弁をせざるを得なかったのでしょう。理財局長から国税庁長官への栄転は内閣府の常識であっても世論とは逆行していました。
哀れなのは佐川局長であって、国会答弁では内閣府の期待に沿った答弁を臆面もなく繰り返しました。理財局局員や阪神理財局職員はをテレビで観ながら、即刻稟議書を書き換えたのでした。徹夜で悪い事とは知りながら稟議書を書きかえれば、会計検査院続が来て噓の稟議書の証拠を持ち去りました。次いで検察庁が乗り込んできて「本来の稟議書」と「噓の稟議書」を持って帰りました。屹度『明日は自分も国会か県議会で証言を迫られる』思った事でしょう。自殺を余儀なくされたのでしょう。何時も哀れなのは蜥蜴の尻尾です。自分が尻尾である自覚すれば「窮鼠猫を咬む」ものです。次々に内部告発があって、政府も財務省も「稟議書書き換え」を認めざるを得ない状況に陥りました。
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国会で安倍内閣の防波堤になろうと必死に答弁する佐川国税庁長官。左は憔悴した安倍首相、明恵夫人のノーテンキを想い合わせるとこの内閣も幕引きが見えてきた気がします。私は抜本改革は官僚の人事権は官僚に戻す」事だと思います。人間たるモノ誰もが人事権者の顔色を窺って忖度するものです。
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NHKの報道姿勢にも変化が現われて、自殺した近畿理財局職員の立場に同情的になって来ました。写真は3月15日の夕刻ニュース。
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NHKの報道姿勢では検察が稟議書の改竄を確認、その時点で財務省は本省の指示で稟議書の書き換えを命じた事を認めたようでした。
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NHKの報道では麻生財務大臣が「佐川」と呼び捨て、役人の尻尾きりを示唆する麻生大臣に違和感を示していました。(世論を『佐川局長が犯罪者でその上司麻生大臣の引責』で幕引きを図る様に導いているようです。
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新聞を観れば週刊誌に佐川元理財局長が逮捕されることを示唆していました。
「総嘘つき」に陥った日本国です。立ち直りは簡単な事では無いでしょう。唯一言える事は「人事権は当該組織に委ねる事です。「御恩と奉公」は中世武士の倫理観ですが、日本人の骨身に浸みこんでいます。幾ら働いても成果を上げても評価をしたり人事権を握っているモノが組織の外に居たのでは、張合いも無いし噓も出易くなってしまいます。
更に言えば「森本問題」の始まりは「幼稚園児に教育勅語を暗誦させる」と云った時代錯誤した首相夫妻の無節操が引き起こした事件でした。国家財産を盗み取ろうとした幼稚園経営者と、それを首相の期待と忖度した哀れな高級官僚が倫理観の欠落によって落ちた「落し穴」でした。



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「横浜崎陽軒」の「春のいろどり」弁当の楽しみ

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3月13日(火)に片栗の花観たさに相模原市の郊外城山に出かけた事は一昨日書きました。我家から地下鉄で湘南台に出て、小田急線に乗り換えて、新百合ヶ丘、更に永山で京王帝都多摩線に乗り換えて終点の橋本でバスに乗り換えます。乗り換えが多いので車内で居眠りも出来ません。湘南台で乗り換えの際に地下街を歩きます。地下街に「崎陽軒」のシューマイ売場があります。私は崎陽軒の弁当のファンです。小学校の祭事や選挙の昼食に崎陽軒の季節の弁当を取ります。崎陽軒の弁当には隠れた拘りが幾つも在ります。第一は少し硬めのご飯です。うるち米に糯米を混ぜて少し硬めに炊いているのでしょう。私は良く噛んで食べます。噛むほどに甘味が口中を満たすのが良いのです。それに弁当箱です。木の素材に拘っているのです。木の香りがほのかにご飯に移っています。木は何か知りませんが米櫃を想い出させる香りです。多分熱いご飯を木の弁当箱に盛って食べる時にはご飯は冷えてしまっています。冷えたご飯でもお櫃から盛りたての感動を残すよう工夫した結果なのでしょう。
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此れが崎陽軒の春の「いろどり弁当700円」です。写真出典崎陽軒ホームページ。
そして季節の弁当は「いろどり弁当」とネーミングされています。名前の様にいろどりが華やかなのです。シューマイ以外にこれと云った豪華なオカズが入っている訳ではないのですが、色彩が華やかなのでご馳走の感じが強いのです。
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此れがオーソドックスな崎陽軒のシューマイ弁当830円です。
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此れは崎陽軒のチャーハン弁当630円です。孫の好物です。
地下鉄と小田急への連絡通路に在る崎陽軒の弁当売場で「いろどり弁当」を買い込んで、城山で片栗を眺めながら食べる事にしました。
城山の片栗自生地に着いたのは午後1時、さすがにお腹もすいたし、汗もかいてしまいました。
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片栗自生地入り口に在る納屋(右側)でランチしました。
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丸太に腰掛けて薪ストーブに暖を取りながら崎陽軒の「いろどり弁当」を開きました。
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ワイフはお弁当も食べ片栗自生地のマップを視て、どのように巡るかプランしているようです。
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薪ストーブの上にはお餅が狐色に焼けて、美味しそうでした。
以前来た時と違っているのは農家の母屋が大きな旭化成のへーベルハウスに変ってしまった事、でも自生地入り口にあった納屋は相変わらずで、残念なのはトイレが移動トイレである事でした。良く建築現場に在る簡易トイレです。もう、首都圏の有名観光地なのですから、清潔なエコトイレにして欲しいモノです。私の様な半身麻痺している人には移動トイレは掴り棒も無いので使いにくいのです。
納屋に入ると大きな薪ストーブが設えて在って、周囲にベンチと薪が積まれていました。ソロソロ昼食にしようとしています。ランチは笊そばとお餅です。



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「俯き花」に寄る蝶々

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庭のクリスマスローズは今が見頃です。考えてみると早春に咲く花は俯きに咲く種が多いような気がします。オダマキも片栗も黒百合も俯いて咲いています。一方蒲公英は太陽に顔を向けて咲きます。俯きに咲く花も在れば上向きに咲く花もあります。
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今が盛りの八重のクリスマスローズ。
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これは戸塚の俣野に自生している片栗の花です。この花にどんな蝶々が寄って来るのか一度見たいと思っています。
私は庭のクリスマスローズを観察します。どんな蝶々が遣って来るのか楽しみです。来月行く円空が生まれ育った岐阜県長良川沿いは片栗の自生地が多く、岐阜蝶も棲息しています。片栗が下向きに咲くのは「岐阜蝶」のニーズに合わせているのかもしれません。円空を拝んで、片栗や荘川桜や薄墨桜を観て、岐阜蝶にも遇えたら幸いです。
昨年クリスマスローズの葉を観ていたら大きな芋虫が付いていました。キアゲハの幼虫ですから、屹度キアゲハが密を吸いに来ていたのでしょう。岐阜蝶もキアゲハと同じ「揚羽蝶」です。でも可憐な乙女にむさ苦しい親爺が寄って来ているようで取り合わせは絵になりません。
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これは躑躅に寄って来た岐阜蝶です。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%95%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6躑躅も下向きに咲いています。蝶は長い吸収管で蜜を吸うのです。

下曽我の幸福な石仏

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私の曽我梅林ウォーキングの楽しみの一つに「石仏巡り」があります。曽我兄弟の生誕地である曽我の谷間の底には酒匂川が流れ。梅林の中を走る通称「大井街道」には相模様式の石仏が多く観られるのです。
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此れは梅林の脇に祀られていた道祖神です此れは字塔ですが、相模様式の双体道祖神の発祥地なのです。
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此れは瑞雲寺下の近隣児童公園内に祀られていた石仏、手前は滑り台で右に庚申塔左に双体道祖神が祀られています。多分この辺り一帯に祀られていた石神を近隣公園に移して祀っているのでしょう。道祖神は「童祖神」とも云われ子供の守護神ですから・・・・。
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此れが上記の双体道祖神のアップです。箱根の北は黄泉の国ですから地蔵信仰が盛んでした。六地蔵を彫るに際して二体ずつ刻んで道祖神にしたような形です。仏教がいち早く浸透した相模国でしたから、地蔵尊の双体道祖神が生まれ、神道が根強かった安曇野や吾妻渓谷には神像の「祝言型道祖神」や「睦み合う道祖神が祀られたのでした。
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此方は上掲写真の庚申塔、一般に庚申塔のシンボルとして三猿を刻みますがこれは手を合わせた二匹の猿です。寛文二年に地域の農夫が組織した庚申講が建立し、「こうして熱心に庚申信仰を守っているので功徳を下さい!」と刻んでいます。
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瑞雲寺入口の三叉路に建っている六面石塔。常夜灯風の灯籠で六面には六地蔵が彫られています。
石仏の魅力の一つは石が自然の素材である事と。彫られた後も石仏(人工物)を自然が造化をし続けていることがあります。造化が進めば石仏は砂や土に還ってしまいます。折角の石仏も土に還ってしまう事は人間も同じ宿命です。その変化を無常と呼びましたが。無常の一瞬の美しさを観る事が石仏鑑賞の醍醐味です。
此処曽我に即して言えば、曽我の石は40万年も昔に地底の溶岩が冷えて圧迫されて出来た堅い安山岩です。一般に小松石と呼ばれ、江戸城も小田原城も鎌倉の頼朝の墓も小松石で出来ています。小松石は東の名石と云われ、表面が黒い石も在れば白や赤や緑の石もあります。総じて堅いので石仏を彫るのは大変ですが、風化もしないし、細部の彫刻も出来るので石仏に適しています。
相模に良い石仏が多いのは湯河原石工と呼ばれる石工が居た事もありますが、何よりも素材の石に恵まれていたからです。湯河原石工は鎌倉の「石長」等大手墓苑会社に成長しています。
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此れは瑞雲寺の井駐車場の脇に祀られている左地蔵尊、右聖観音。逆光で白っぽく写っていますが実際は鮮やかな黄色です。ロウソク苔が覆っているのです。
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この読売新聞記事(3月7日)は真鶴石『一般には(湯河原石と呼びます。)が優秀な安山岩である事から「石メダル」の販促をしていることを奉じた記事です。墓石としても、石仏としても秀でています。
瑞雲寺の境内には素晴らしい石仏が幾つも並んでいます。一番に惹かれるのは駐車場脇の石仏です。惹かれる理由は白い小松石を素材に彫られたお地蔵様がまるでタイの雲水の様な黄色い袈裟を着ておいでなのです。
袈裟と云うのは「ロウソクゴケ」という名の地衣類です。同じ地衣類の「梅の樹苔」は一般に環境の「指標生物」と呼ばれている様に。空気が綺麗でなければ生育しません。ロウソクゴケが元気だという事は此処の空気や水が綺麗で人間の健康にも良い事を示しています。
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上掲左の地蔵尊、黄色いロウソクゴケの他にも多彩な地衣類が共生しています。割れているのは地震で倒れて自身の重みで壊れてしまったのでしょう。
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瑞雲寺境内の六角灯篭には6観音を刻んだモノもありました。此方を向いているのは馬頭観音です。
石仏が美しい為には次の3つの条件が大事です。
第一に石工の技が伝統を踏まえて居て冴えて居る事です。
第二には素材になる石が硬質で美しい事です。
第三に自然と調和していて、風景の一部になっている事です。
加えて言えば生きている人が大切に祀っている事も大事です。五木の子守歌(※1)に在る様にお墓の遺族でなくても通り係の人が野の花を供えているだけでも美しさが引き立ちます。
※1五木の子守歌は『おどんが打死(うっちん)だば道端(みちばた)いけろ通る人ごち 花あぎゅう 花はなんの花つんつん椿』と歌っています。「私が死んだも誰も悲しまないので、道端に埋めて欲しい、そうすれば通行人が椿の花を供えてくれるかも知れない・・・」

こうした『通行人にも拝まれる石仏』こそ幸福な石仏と云えます。
我家の庭の弥勒様は五弁の椿の樹下にあって、庭の主だった「蟇蛙」の墓標です。今朝観たら椿が散って弥勒様の膝にありました。
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此れは愛媛の御影石で彫られた作家モノの弥勒様です。庭の主だった蝦蟇蛙の墓標でもあります。五弁の椿は石仏の目の前に咲く庭木です。
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此れは蝦蟇合戦を戦い終えて無事帰還した庭の主の蝦蟇君です。
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此方は蝦蟇合戦で負傷したのでしょう、我が家の石段を登れないで居た処自動車に轢かれてデスマスクを晒した蝦蟇君。庭に埋めて地の神になって戴きました。






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母の名前は「白蓮院」

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3月21日は「彼岸の中日」です。「彼岸の中日」とは彼岸の真ん中の意味でしょうから、仏教徒にとって意味深い日ですが、流石に仏教の催事日を「国民の祝日」にはし難いので「春分の日/自然をたたえ、生物をいつくしむ日。」として休日にしました。
彼岸の中日ですから彼岸で咲いているとされる花が尊ばれます。彼岸に咲いている花は蓮です。仏像の台座になっている蓮です。
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京都向徳寺本堂の須弥壇左右に想像上の蓮の木が飾られています、檀上は阿弥陀浄土ですから蓮の花咲く木は木蓮をイメージします。
インドでは一年中蓮は咲いていても日本では夏にしか咲きません。春に咲く蓮と云えば「木蓮」です。日本の園芸家は一生懸命に彼岸の中日に咲く木蓮を作ろうとしたのでしょう。結果昭和30年代に木蓮に辛夷を掛け合わせて白木蓮を開発したのでした。
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これは大船に在る貞宗寺の木蓮の花です。先年この大きな木蓮を隠す位置に檀信徒会館が建立されたので今では勢いが無くなりました。以前次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893299.html?m=lc&sv=%C4%E7%BD%A1%BB%FB&sk=0
辛夷は別名「田起し花」と呼ばれます。信濃国では辛夷が咲いたら田起しして、桜が咲いたら田植えをします。「田起し」も田「植え」も先祖が開墾してくれた田圃の農作業す。先祖に感謝しながら田圃に下りて農作業に精を出します。折から彼岸ですから墓参りをして先祖に感謝します。木蓮の「花の姿」と辛夷の特徴(早春に開花する・純白である)を併せ持った新種の花を「白木蓮」と名付けました。
私は大学生の時春休みになると奈良に行きました。奈良で初めて白木蓮を観ました。場所は奈良町の元興寺でした。行基瓦を背景に白木蓮が咲いていました。感動して、入江泰吉氏の写真集を視ていると白蓮の花が秋篠寺にも咲く事を知りました。
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此れは秋篠寺の白木蓮です。40年前は私の背丈ほどの苗木でしたが壮年の樹木になりました。有名な伎芸天は建物のこちら側(西)の連子窓の向こうにおいでです。
昭和40年代半ば奈良の寺院では新種の白い木蓮がブームで、競って境内に植えられていたのでしょう。入江泰吉氏のレンズも白木蓮のブームに一役果たした様に思います。
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これは我家の西側に育った白木蓮です。亡くなった義母はこの花が好きでした。
私の義母は混じり気の無い少女のような性格の人でしたが、昭和61年、60代で亡くなりました。戒名は父が付けてくれました。『白蓮院妙純日正信女』立派な名前を付けてくれました。私は父が私と同じように義母を視ていた事に気付いて嬉しかったモノでした。義母も「お父様に立派過ぎるお名前を戴いて!」眼を細めて居ることを確信しています。そんな訳で白木蓮が咲くと仏壇や義母の魂の依り代に奉げます。
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我家の食卓にも白木蓮を飾りました。背後の茶箪笥は義母が愛用していたモノです。そして茶箪笥の上のミッキーマウスは義母と子供達と東京ディズニーランドで遊んだ時義母が子供達に買ってくれたものです。食卓に 注がるる眼差し 白木蓮
我庭には南と西に2本白木蓮が植わっています。見る見る生育して、既に私の手には負えないほどの大木になってしまいました。去年は職人さんに頼んで強く伐採した上に夏には私が植えた「隼人瓜」に絡まれて難儀な事でした。今年の花付を懸念したのですが、白木蓮は女盛りですから逆境をものかわ今年も立派に咲いてくれました。
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此方は我家の南側の白木蓮です昨年は切り詰めた事と根元に植えた隼人瓜に絡まれて難儀したのですが今年も逞しく美しく咲いてくれました。
白木蓮は綺麗で好きなのですが、少しでも風が吹くと傷んで黒くなってしまいますし、散るのが早いのです。「林芙美子の「花の命は短くて・・・・」通りの儚い花です。せめて彼岸の間は咲き続けて欲しいモノです。
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これは遊行寺の放生池の畔に咲く白木蓮です。3月1817日観に行きました。


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楽しい「春のガーデニング」

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3月12日~14日は5月の陽気で暖かでした。天気予報ではこの後,雨も降るしシベリア高気圧の冷気が横浜にも遣って来ると云います。そこでワイフと一緒に春の「庭いじり」をすることにしました。室内での指揮官はワイフですが、庭に出れば私に指揮権が移ります。何しろワイフはお嬢さん育ちで、植物の事はからきし解らないのです。放っておけばワイフが「雪割草」や「十文字草」の芽を雑草と思って摘んでしまいます。
寒菊の芽が出た」、「女郎花の芽が出た」言いながら庭いじりするのは楽しいモノです。私が無事に冬越ししたように庭の植物が冬越しして、今年も一緒してくれることが嬉しいのです。昨年挿し木した「柏葉紫陽花」も」「額紫陽花」も太った花芽をつけていました。去年は一つしか実らなかった木通(あけび)も花芽を沢山つけています。プラムも白い花を咲かせ始めました。
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春の陽射しを満喫して昼寝する犬のチコ、手前は咲き出したプラムです。
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冬越しを終えて安堵した風の庭、避寒の為室内に移して置いた植木鉢も一斉に庭に出ます。
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庭で冬越しした墨壺菫(左)も咲き始め、地下植えした額紫陽花(右)の花芽を付けています。
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冬の間は庭の主役であった「クリスマス・ローズ」も主役の位置を譲る気配です。
今日のガーデニングの仕事を確認します。
先ず、鉢植の木通の鉢を一回り大きなモノに植え替える。次いで、ビニール温室のビニールを外す事、「君子蘭」の生育を促すにはビニールを外して、呼吸し易く、雨に当てる様にすることです。今日のガーデニングの目的を確認して。先ず植え替え用の培養土を準備します。「支え木」になる竹棹も用意します。力仕事はワイフの担当です。私は久々に上から目線で指図します。
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ワイフがあけび棚の陰で鉢植の木通を植え替えします。
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この太い瘤のあるのが木通です。こんなに大きいのに実が生らないのは木通は自家受粉では実が生らないので、近くに別の木通を植える必要があるのです。鉢植の木通はその為のものです。毎年成長に併せて大きな鉢に植え替えます。
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手前の植木鉢から一回り大きな菊鉢(左)に植え替えました。
去年は君子蘭のビニールの撤去が遅くなってしまいました。狭いビニールハウスに10鉢もの君子蘭がひしめきあってしまいました。お蔭で君子蘭の花茎は伸びる事が出来ずに矮性になってしまいました。茎を充分に伸ばせて美しく咲かせるには春雨に良く当てる必要があります。そうした反省から今年は早目にビニールを外す事にしたのです。

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ビニールを外してもらった君子蘭葉先が枯れているのはビニールに接していた部分が霜や消してしまったモノ。放っておけば枯れた部分は落ちてしまいます。陽の光を浴びて活き活きし始めた様にみます。
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此れは昨年初夏に咲いた君子蘭です。葉の先端は霜焼けで枯れてたのですが復活しました、でも花の茎が育たなかったので見た目が「君子」では無かったので今年は早目に温室のビニールを剥がしたのです。
君子蘭も春用にビニールを脱ぎました。私もヒートテックの下着を脱いで、春の装いにしましょうか?


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遊行寺の杏の花

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昨年の6月、私は友人と三人で甲府を旅しました。目的は高遠石工の[貞次の石仏]
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此れが韮崎の海岸寺に祀られている貞次の33観音です。守屋貞次と云うと高遠の建福寺や桂泉院駒ヶ根の光前寺が有名ですが、海岸寺の石仏群の方が迫力も在るし、腕も冴えていると感じました。
もう2週間も経てば石仏の脇に山百合が咲いて一層美しかろうと思いました。次にアップしました。

フルーツ公園の街路樹には杏が植えてあって、その杏の果実を誰も収穫しないので、舗道に歩けないほど転がっていました。早成りの桃狩りをしようと目論んでいた私達は杏狩りをしました。街路樹の杏子は李(すもも)よりは遥かに堅く、梅の実に似ているものの酸味は少なく野生の林檎に似ていました。実に美味しく私の体は嬉々としていました。杏林伝説(薬品メーカーのCМで有名)を実感しました。杏も李も自己受粉では結実しないので、街路樹の様に前後左右に同種異株の花が咲くと沢山結実するのでしょう。
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これは台風一過の笛吹川フルーツ公園の街路樹で拾った杏の実です。次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49854865.html
私の住む戸塚の倉田には昔から杏の樹がありました。倉田小学校の南門にも初代校長先生が杏の樹を植えたので、見事に花が咲きます。でも一本だけですから実は生りません。この欠点の為に,杏子は桜や梅程に普及しなかったのでしょう。今では殆ど見かけなくなってしまいました。代わりに良く見かけるのは「豊後梅」です。豊後梅はその名の通り大分で新種改良された花梅で梅の雌蕊に杏を受粉させて出来たモノです。花は梅よりも大きく華やかですが、実は生りません。「思いの儘」という種が最人気です。
彼岸の入りの3月18日杏の花を観に遊行寺に出かけました。一遍上人像を見下ろす高見に杏の樹が一本あるのです。以前は中雀門(重文)の横にも杏が植わってい駐車場を広くする為に伐採されてしまいました。遊行寺茶店の前にも鉢植の杏子があります。
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此れが杏の花です。正面が遊行寺本堂で杏の樹は遊行寺茶屋の簀子の前に鉢植されています。本堂の手前右に一遍上人像があってその背後に杏の高木があります。
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此れが一遍上人像の背後(東側)の杏の高木です。根元の社は「俣野権現」です。俣野権現は遊行寺創建に尽力した「俣野五郎景平」が祀られている社です。
遊行寺の開山の「呑海」は景平の弟になります。
遊行寺は「花の寺」です。「花の寺関東百寺」には白木蓮で上げられていますが、杏に花桃、桜に八重桜次いで山吹に八重桜、更に春牡丹と続きます。総本山ですから若いお坊さんが沢山修行されていて「一遍上人の教えに従っていますので、花を大事にしています。
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本堂前の散り椿
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放生池の畔に咲く白木蓮
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寺務所前の花桃は蕾を膨らませていました。遊行寺は「小栗判官・照手姫物語」で著名ですからこの新種の花桃は「大船フラワーセンター(旧県立農業試験場)」で開発され「照手姫」とネーミングされ、照手姫の墓所にもう得られています。その右の梅の大木は「思いの儘」です。
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放生池の築山の頂上に彼岸桜があって築山の下には何故か「キリシタン灯篭」が建っています。私は遊行寺のお坊さんに訊いたのでしたが解りませんでした。時宗のお寺にはキリシタンの文化財が多く残されているモノです。阿弥陀様とマリア様が似ているか、他力本願のメンタルな処に共通性があるのかもしてません。その右の枝垂れ桜の樹下にはに歌人「静雲」の碑があります。


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俯き花に集まる蝶々

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庭のクリスマスローズは今が見頃です。考えてみると早春に咲く花は俯きに咲く種が多いような気がします。オダマキも片栗も黒百合も俯いて咲いています。一方蒲公英は太陽に顔を向けて咲きます。俯きに咲く花も在れば上向きに咲く花もあります。
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庭のクリスマス・ローズです。八重咲でも俯きに咲きます。
私は庭のクリスマスローズを観察します。どんな蝶々が遣って来るのか楽しみです。来月行く円空が生まれ育った岐阜県長良川沿いは片栗の自生地が多く、岐阜蝶も棲息しています。片栗が下向きに咲くのは「岐阜蝶」のニーズに合わせているのかもしれません。円空を拝んで、片栗や荘川桜や薄墨桜を観て、岐阜蝶にも遇えたら幸いです。
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これは戸塚の俣野に咲く片栗です。俯けに咲きます。どんな蝶々が寄るのか興味があるのですが、蝶々が蜜を吸っている処に来合わせた事はありません。
昨年クリスマスローズの葉を観ていたら大きな芋虫が付いていました。キアゲハの幼虫ですから、屹度キアゲハが密を吸いに来ていたのでしょう。岐阜蝶もキアゲハと同じ「揚羽蝶」です。でも可憐な乙女にむさ苦しい親爺が寄って来ているようで取り合わせは絵になりません。一番二似合う蝶々はシジミチョウでしょう。
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路傍のコンクリートの隙間に発根した匂い菫の花。我家にも自生しています。観察していると蟻が菫の種を運んで地下の巣に運んだようです。
片栗や菫が俯きに咲くのは、上向きに咲くよりも特定の蝶々に来て欲しいのでしょう。下向きの咲いた花の奥深くに蜜を用意して蝶々が花芯の奥深くに吸水管を差し込まれる間に確実に受粉するのか目的なのでしょう。片栗も菫も茎長けが短く、他の草が背丈を伸ばす前に子孫を増やさなくてはなりません。賢明さが俯き加減の花になっているのでしょう。
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スィートピーもシクラメンも俯きに咲きます。シクラメンはもうお終い。代わってスィートピーが盛んです。スィートピーにはシジミ蝶や紋白蝶が寄って来ます。
花と蝶は持ちつ、持たれつ相互扶助の関係です。俯きに咲く花は恥じらいがある少女のような、妖精のような感じがします。だから人気があるのでしょう。赤いスィトピーを歌った頃の松田聖子さんも妖精のような感じがしました。でも今では熟女です。




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西行法師に係る疑問

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愈々今年もお花見シーズンです。駅に行けば「京都に来い」「陸奥に来い」と桜の名所が誘っています。今年は4月前半に根尾谷の「薄墨桜」を観て、後半には信夫山や安達太良山の桜を観に行く事にしています。例年なら、暖かくなる事を歓迎するのですが、今年ばかりは少し寒くなって「早く咲き過ぎない様に願っています。
今さらに春を忘るる花やあらじやすく待ちつつ今日もくらさむ(岩波文庫山家集25P春歌)
桜の開花を心待ちする西行法師の歌です。
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これは大磯の鴫立庵に置かれている西行法師像です。真実を見詰めようとする眼と全国を行脚したスリムな躯体が印象的です。
歌の大意は次の様なモノでしょう。桜の花は季節が巡って来れば咲くものです。今更春の季節を忘れてしまう桜の花でもないでしょう。だから私は心安く持のんびりと待ちながら、今日も過そうと思います。
西行法師の代表歌と云えば日本人の常識で次の歌です。
ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃
ところがこの歌は新古今和歌集にも収録されていませんし。百人一首で定家だ西行の代表歌として取られたのは
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
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定家は百人一首に選んだのは「嘆けとて・・・・」でした。鴫立庵には西行像の他に芭蕉像もありますが、「どちらが西行でどちらが芭蕉だか」、解ら無い、旅姿(布施行すがた)です。この絵札は大寺に住寺している僧の姿で、江戸時代の人は旅の僧と云うよりは立派な僧のイメージで観ていたのでしょう。
です。私は桜の季節になると『願わくば・・・・』ではなくて『嘆けとて・・・・』が代表歌になっているのか不思議でした。
「願わくば…の歌」程日本人の人生観に影響を与えた歌は他にないでしょう。
現代に生きる私達は如何にも西行らしい歌として「願わくば・・・・」の歌を選びます。それは西行法師が歌の通りに桜の花の下で望月の季節に遷化した事への感嘆であると思います。至上の美意識に殉じた生き様死に際に感服したのです。「出来れば自分の西行の様に一生を終えたい」思うからです。でも中世の人々は違う時代感覚を持っていました。
新古今和歌集の編纂を命じた後鳥羽院の和歌観は私達のそれと違います。定家は新古今和歌集に編纂に当って、友人の西行の歌を一番多く収録したのは、後鳥羽院が西行の『優美で幽玄な世界』を高く評価している事を良く知っていたからでしょう。だから後鳥羽院好みの西行の和歌を新古今和歌集にも採録したし、百人忍一首にも「嘆けとて ・・・・」を選んだのでしょう。
西行の著名な歌としては次が有名です。幽玄な歌であり、中世の香りがします。
 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ/ 西行
何故定家は百人一首に「心なき」の歌を採り「嘆けとて」を取らなかったのでしょうか?次の疑問です。小倉山の麓の庵で定家が百人一首の選を思い巡らせていたのは、後鳥羽院と順徳院の歌の扱いだったのでしょう。お二人とも古代から中世への端境にあって非業の死を遂げた人です。和歌は秀作でも、その最期を想い起すと百人一首の選定に迷った事でしょう。その結果、百人一首の最後に付け足されてしまいました。
99番後鳥羽院
人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
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『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
100.番順徳院
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり
時代により、和歌の評価も変ってしまうのは致し方ない事でしょう。
定家は、『百人一首』に先行して「百人秀歌」を選定しています。「百人秀歌」には後鳥羽院、順徳院方親子の歌は選ばれていません。定家には時の権力者鎌倉幕府への配慮があったのでしょう。承久の変直後でし・・・・。
世の中が安定してから、お二人の院の歌を百人一首に加えて、和歌文化が権力や時代風潮に独立していることを主張したのでしょう。小倉山は院の別荘のあった嵯峨野にも近い処にある桜の名所です。桜の花が千年を経ても美しい事と同じように和歌と云った文化が権力や時代風潮に押し流される事なく長く続く事を確信していたのでしょう。
私達世代は「正岡子規の写生歌」を最高のモノと教わって来ました。でも定家の選は千年以上の時空を隔てて共感され日本文化の深層に浸みこんでいます。写生歌は精々百年の共感しか得ていません。

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熊谷守一の朱の輪郭線

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3月21日は春分の日でした。でも夜半から雪が降り出していました。しかし春分の日で国立近代美術館で開催されている「熊谷守一展」はお終いです。私はこの希有な仙人画家の生涯展を観たいと、以前からワイフと約束していました。我家からは意外と近く1時間余りで着く事が出来ます。東京駅で東西線(大手町)に乗り換え、隣の竹橋駅で降りて、平川門方面に2分も歩けば近代美術館です。「ランチは何処で取ろうか?」「北の丸公園」でお花見しよう!」なんて話していたのは嘘のような雪景色でした。このブログでも「池袋の熊谷守一美術館」訪問記をアップしたり、守一氏の生誕地恵那峡の付知の美術館の訪問記も書きました。
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竹橋に在る近代美術館で開催されている「熊谷守一展」は大盛況でした。外国人が多いのに驚きました。
私が長銀に勤めたのは昭和46年でした。サラリーマンらしく「日本経済新聞」を毎朝熟読して、気に懸る記事は切り抜いてスクラップブックに貼り付けていました。でもスクラップブックを埋めた記事は「熊谷守一氏」の人生録でした。というのは当時百歳を目前にして守一氏は人生を振り返っていたのでした。スクラップブックは直ぐに不要になってしまいました、というのは日経新聞社が「下手も絵のうち」なる画文集を発刊したのでした。
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熊谷守一氏は岐阜県中津川から飛騨に続く道「付地」の名門家に生まれます。生家は林業の他に紡績業も営む名門家でした。「慶応義塾に入学するなら上京しても良い」許しを得て、上野の芸大に入学します、芸大では青木繁と肩を並べます。「下手も絵のうち」で最も力の入っている文は青木繁の印象で、学生時代から頭角を現し将来を嘱望され、恋愛に画業に自由奔放だった青木繁は熊谷守一の画材を当然の様に使います。守一はそんな青木繁を優しく見守ります。在る日守一は日暮里駅で投身自殺した女性の轢死体を視ます。強い衝撃を受けた守一は「轢死」を美術展に出展しようとしまいますが主催者から展示を拒否されてしまいます。その時の衝撃は強烈だったようで、漱石も三四郎の中で著述しています。1992年(大正11年)、42歳で大江秀子(?-1984)と結婚し、5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが絵が描けず貧乏が続きます・妻からは「真剣に絵を描いて下さい、食べる為に」言われますが、生活は貧困を極めます。長女(黄)次いで長男(陽)を失います。守一氏の前半生は裕福で日向で生活していたのが、噓の様に壮年からは壮年を日陰暮らしが始まります。
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これは熊谷守一の芸大時代の代表作「蝋燭」です。蝋燭の灯りに浮き上がる自画像は青木繁と同じく「光と影」を描く普通の画学生でした。写真出典熊谷守一画集(東京出版)
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此れも学生時代の代表作「轢死」です。轢死体を観た事実は「生と死」がテーマになった事件だったのでしょう。絵の具が劣化して真っ黒ですがエックス線写真では若い綺麗な女性の轢死体でした。
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長男「陽」のデスマスクを描いた「陽が死んだ日」激しい筆致で30分で描いた説明してありました。
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長女「黄」が亡くなって焼き場から帰る絵中央の骨壺を抱えているのが守一氏でその左が奥様でしょう。この頃既に茶色の輪郭線が目立ち画面が一色で平坦に塗られています。
守一氏は「裸婦像」も多く描いています。でも「裸婦を描いても風景を描いても変わらない」と呟いていたそうです。裸婦も風景も輪郭線を描き、その内を平坦に塗っていたのです。展覧会には故郷の付知の山々や御嶽山が描かれていましたが何れも輪郭線が目立ちます。裸婦も輪郭線が特徴です。輪郭線は「ご来光」の瞬間に現われます。
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昭和37年作の「畳の裸婦像」直線の畳と曲線の裸婦の対照が強いインパクトです。
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此方は「御嶽山」4枚も出展されていました。付地からは御嶽山が真北に聳えています。御嶽山も裸婦と同じように朱色の輪郭線で描かれています。付地で御嶽山の上に昇るご来光を仰ぐ瞬間でしょう。解説では守一氏は型紙を用意して描いていたそうです。一度型紙を用意すれば同じ構図の絵が何枚も描けます。でも描くたびに新しい工夫を凝らしていたそうです。
私は、昔から熊谷守一の朱色の輪郭線は不思議だと思っていました。一般に熊谷守一はフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれています。フォーヴィスムは20世紀を牽引した美術運動で、写実を重んじるのではなく、作者の感覚を重視して色彩やデッサンを作者の主観や感覚を重視した美術運動です。マチスを旗手にします。
守一氏は青木繁と肩を並べていた時代は光と影を重んじた写生を重視し、後半生は主観や感覚を重視したのです。熊谷守一氏に貴方は「フォーヴィスムだ!」言えば守一氏は「私は野獣では無い、私は花と虫が好きで、観察を得意にしている。」言われるでしょう。『轢死体を視るのも子供を失った悲しみを絵に映すのも観察に始まっている』と思うのです。山に朝日が当たると一瞬朱色の輪郭線が出現する事があります。「闇」が明けて「陽」に変る時です。東洋人の知恵は「陰陽五輪思想」と云われます。陰陽は一つの現象の裏表であり、不断無く陰陽は繰り返すと考えるのです。守一氏は「現実は陰陽の側面がある。でも陰は暗いので描けない、陽は原色で描けば良い、しかし「陰」では描けないし「陽」だけで現実は出来ていない、「陰陽両面」を描くには自ずと朱色の輪郭線が見えてくる」。
例えば「土饅頭」と題した空豆が芽吹いた時の絵です。土饅頭とはお墓の事ですから土塊の下には死体が在る筈です。でも死体から生命が湧き立つのが現実です。土饅頭は土(死)を乗り越えて現われる「生」(豆の発芽)を描いています。
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 これが代表作「土饅頭で」す。昭和29年愛知県美術館木村定三コレクション
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これは仏前と題された卵の絵、説明では近所の方が病気の長女「萬」の見舞いの為に盛って来て下さったのだそうです。でも丸餅のように描いてその上「仏前」と題しているのは守一の「死生観」の現れでしょう。、死と生の輪郭線が朱色なのです。
処で熊谷守一の輪郭線は何処かで観た記憶があると想い出し始めました。それは縄文古墳の装飾古墳の絵です。例えば熊本の山鹿にある「チブサン古墳」はマル三角が朱色の輪郭線で描かれています。
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此れは山鹿市にある「チブサン古墳の装飾壁画です。守一氏の赤い輪郭線を髣髴させました。福岡市に在る「王塚古墳には朱色の同心円と黄泉の国に渡る船が朱色の輪郭線で描かれています。守一氏の観察や感性が古墳時代人と似ていたのか、守一氏が装飾古墳を観た事があったのか解りませんが、偶々仙人と評された守一氏の絵が古墳時代の装飾古墳と似てしまったのでしょう。
最後に王塚古墳の壁画と守一氏の「日輪」の絵を併せて照会します。
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これは王塚古墳の壁画(複製)です。同心円は太陽を鍵手の模様は「蕨」と思われます。朱は水銀に写真の出典インテリア文化研究所https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%80%8E%E7%8E%8B%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%8F&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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此れは原発に近い福島県双葉町に在る清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)の壁画です、これも日輪が同心円で描かれています。太陽は沈んでも明日必ず出てくる確信が人は死んでも直に生まれてくる確信になって古墳の装飾画になったのでしょう。画像出典東北大学https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFIsGLNa9TgAgzsdOfx7;_ylu=X3oDMTBiaGxjcmduBHZ0aWQDanBjMDAy?p=%E5%8F%8C%E8%91%89%E7%94%BA%E8%A3%85%E9%A3%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
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此れは守一氏の描いた日輪(昭和45年)最晩年はこうした絵が多かったようです。
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此れは熊谷守一美術館の打ち出しコンクリート壁画にも使われている蟻です。双葉は大豆でしょう。守一氏は庭に筵を敷いて一日中蟻を観察して蟻は先ず左の第二脚から動かす事を発見したそうです。
眼に見えない霊(アミニズム」と呼び、を万物の霊を崇拝する宗教を「シャーマニズム」と云います。守一氏の画業は生と死を見詰めて「朱色の輪郭線」を発見し描いている中にマチスの様な「フォーヴィスム」に至りました。でも最初から(若い時から装飾古墳を視ていたら子供達を栄養失調で失う事も無く。平穏な画家人生を終えていたことでしょう。遠回りしても素晴らしい作品を残せたのは観察を通して神(アミニズム)を見つけ、神が出現する瞬間に朱色の輪郭線が見えたのでしょう。後は原色で型紙を塗れば良いのでした。

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近代美術館工芸館の空間

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近代美術館で「熊谷守一」を観るとワイフが「工芸館に行きましょう」誘います。私の職場は大手町でしたから。車で出かける時は平川門前から首都高に入りました。何時も高速入口に赤い煉瓦造りの「旧近衛師団司令部庁舎(重要文化財)旧近衛兵官舎」があって一度は入ってみたい思っていたのでした。旧近衛師団司令部庁舎は昭和52年「近代美術館工芸館」として活用されて現在に至っているのでした。
近代美術館からは「紀伊坂」を500mも登って「北の丸公園」入り口に位置しています。また昭和52(1977)年には北の丸公園の開園に際してその入口にある旧近衛師団司令部庁舎を近代美術館工芸館として一般公開したのでした。旧近衛師団司令部庁舎と云えば2.26事件や5.15事件の舞台になった建物です。
正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。
周囲は皇居の桜、千鳥ヶ淵の桜に囲まれて、複雑な想いが交錯してしまいます。加えて玄関前には「北白川宮能久親王/М28年陸軍大将近衛師団長」のブロンズ像が騎乗から皇居を見詰めておいでです。
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国立近代美術館工芸館は旧旧近衛師団司令部庁舎(重要文化財)ですからその玄関前には日清戦争に際して近衛師団長で陸軍大将であった「北白川宮能久親王のブロンズ像が皇居を見渡しています。
「京国立近代美術館」は平成13(2001)年4月1日より、組織改正され、「京都国立近代美術館」、「国立西洋美術館」、「国立国際美術館」とともに「独立行政法人国立美術館を構成する美術館」となり、その後六本木に開設された「国立新美術館」を加えて、わが国における美術振興の中心的拠点として活動を展開しています。日本の工芸はパリ万博やシカゴ万博で国策として展示された超絶技巧の伝統芸です。近代化の旗手として絵画や彫刻や音楽が奨励されたのと同様に工芸が重視されたのでした。ポスターには明治の金工長谷川 の鷹が使われています。
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これが近代美術館工芸館のポスターです。使われている作品は鈴木長吉の金工細工の12の鷹です。
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これが鈴木長吉の鷹です。こんな超絶金工細工が12体も並ぶと圧巻でした。
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これは初代宮川香山《鳩桜花図高浮彫花瓶》1871-82年頃です。立近代美術館ライブラリーhttp://www.momat.go.jp/cg/collection/collection_overview/
工芸館の展示品はパリ万博やシカゴ万博に展示された伝統工芸品です。一番多いのが陶磁器で次いで漆器に絹織物、そして金工細工です。どれも今流に言えば「宮内庁御用達」明治風に云えば「皇室お買い上げ」の調度品と云う訳でしょう。
桑材で作られた机に柿材で作られた手文庫には漆細工が施されていました。
浜田庄司の益子焼に魯山人の茶碗を観ると。民陶も皇室買い上げの対象になっていた事実に驚きました。
グルッと廻ると階段上の踊り場に「椅子とテーブル」が置かれていました。腰掛けてお茶を飲もうとしても自販機は置かれていませんでした。近代美術館本館の4階にはレスト空間が用意されているので、椅子に腰かけて驚きました。飛騨の家具風の一品も展示品であったのでした。


北の丸公園の辛夷の花

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2.26事件の日は都心は大雪だったそうです。政商と政治家の癒着を危惧した近衛師団の青年将校は、1936年(昭和11年)2月26日クーデターを遂行しました。3月21日は都心は寒くて降雪しました。近衛師団司令部庁舎(現近代美術館工芸館)を出て私達は北の丸公園の淵を歩いて千鳥ヶ淵を見下ろす皇居内堀を歩きました。平川門前には紅枝垂れが咲き始めました。紅枝垂れは屹度私と同じ年齢でしょう。少し疲れて来たようですが矍鑠として濃い桃色の花を咲かし始めました。
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向こうの門が平川門です。手前が紅枝垂れ霞んでいるビルは大手町の三井物産でしょう。
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左の建物が衛師団司令部庁舎(現近代美術館工芸館)でその裏(西)に北の丸公園が広がります。濃いピンクの桜は何という種か解りませんが今が盛りでした。通路の左は首都高速の出入口です。皇居は桜の右側に広がっています。手前に坂を下ると千鳥ヶ淵を見下ろす高台に続きます。
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内堀の東側の土手は辛夷の巨木が根を張っています。皇居の堅牢地神のような存在です。
辛夷の根元には馬酔木も咲いていました。皇居のランドプランナーは白い花が好きなようです。私なら山吹を植えさせるのですが・・・。

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土の匂い

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私はズット「野菜作り」をしたいと思って来ました。父は禅の坊さんらしく、野菜作りが上手でしたので、私も手伝いをしながら農作業の楽しみを承知していました。農作業がリハビリにも良い事は薄々感じていましたが、農地が見つかりません。庭も狭いので隅に南瓜や隼人瓜を栽培して、「育てて楽し、食べて美味し」を実感してきました。もう2坪でも庭が広ければ良いのですが、私がログハウスを建てたモノですから。庭先菜園の夢は消えてしまいました。近隣の農家も畑を貸してくれそうもありません。戸塚も俣野や信濃に行けば貸農園もあるのですが、不便です。農業をするなら福島に転居するより術は無さそうです。
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これは戸塚区俣野町の貸農園です。週末になると路傍の道はマイカーが埋めてしまいます。大凡1万円/月が相場のようです。この貸農園も以前は牧草地でした。以前は道端や農家の庭先で「無人販売」していたのですが、最近は「貸農園」が流行っています。野菜を買うよりは栽培する方が楽しいのです。
そんな折に、高校の友人で麻雀仲間のSさんから「畑作り」を誘われました。畑は戸塚と大船の中間「貝殻坂」だそうです。我家から貝殻坂まではバスで10分ほどで着きます。小学生の頃は貝殻坂迄自転車で出かけました。貝殻坂はその名の通り、貝殻が沢山出土するのです。と云っても縄文時代の「貝塚」があったのでも無く、関東ローム質の赤土の中から二枚貝が出土するのでした。多分、紀元前1万年頃は、この辺りまで相模湾の海岸線が入り組んでいたのでしょう。去年三内丸山古墳を見学した時にもジオラマで「青森郊外の八甲田山の裾野まで海岸線が迫っていた・・・。」説明していました。私の住んでいる倉田にも縄文遺跡があって、今は明治学院大学の図書館の展示室にヘボン博士の業績の隣に展示されています。
朝時貝殻坂バス停でSさんと落合、畑に向かいましたバス停は貝殻坂でも住所表示は「長沼」です。長沼は昔は金魚池が広がっていた処で、今は浄水場になっています。市街化の波が長沼に迄広がっていて、隣の飯島団地には瀟洒な戸建て住宅や農家の副業のアパートが連担しています。
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栄区長沼の農家の庭先築山の畑をお借りして野菜作りのチャンスを貰いました。奥の瓦屋根が貸主の農家です。右のアパートは農家の経営しているアパートです。この畑は私よりも先に借りている方がインゲン豆を撒いたものです。私の借りた畑はこの畑よりも上の段で東にあります。
Sさんが案内してくれた畑は元国鉄職員だったIさんの作って居られたもの。10年も前にIさんのお父様が亡くなられ御屋敷が代替わりになって、庭先の畑が放置されていたモノだそうです。隣は県営団地と児童公園です。県営団地を囲む形で「緑の金網フェンス」が設えて在るので、畑の周囲も金網で囲われています。金網は葛や野藤が絡んでいます。屋敷を守っていたお稲荷さんが畑の北隅に祀られています。
お稲荷さんも葛で埋まっていたようです。
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畑の周囲は篠竹が囲んでいます。私と友人のSさんが耕す畑は先ずこの篠竹の抜根から始めなくてはなりません。
後で知った事ですがSさんは去年まで友人と二人で畑を借りていたのでしたが、友人が興味を失った事から私に白羽の矢が当たった訳でした。今年改めてSさんは畑に鍬を入れ、根を張った篠竹を伐採して来たようです。
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畑の北側には農家の屋敷守であるお稲荷さんが祀られていました。「篠田の狐」を地で行くようなロケーションでした。
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Sさんが篠竹の抜根は大凡済ませてくれていたので、私は畝を耕しながら根を捨てるのが役割でした。先ずは鍬を使って畝を耕して来週は薩摩芋の苗を植えようと思いました。
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土の中からミミズが出て来ました。という事はこの土地は痩せていないという事です。
9時から耕し始めて11時も過ぎると流石に息が上がって来ました。下の段を耕している人が新しい仲間が来たと喜んで挨拶に来てくれます。脳梗塞を発症して5年目でリハビリと野菜作りの楽しみを求めていると云えば、脳梗塞の後遺症は全く見られないと誉めてくれます。
鍬も鋤も各自が持ち込んで、農家の納屋に閉まっています。お互いに貸し借りしているようです。水は農家の庭に溜まった湧水を使います。何でも揃っているのですから、私は自宅から軽装でバスに乗って来れば直ぐに菜園つくりを楽しむ事が出来ます。篠竹の中から鶯の囀りが響いて来ました。「もう春は盛りですから、夏野菜は今用意しなくてはいけませんよ!」急かしているようです。フェンスの向こうは県営住宅の児童公園で、草原に遊具が据えられています。Sさんのお友達で麻雀仲間のIさんお宅もこの近くと云う事で寄って行くことにしました。Iさんは野鳥が好きで「ホウジロ」や「雲雀」を飼っているとの事。見せて戴きました。
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これがIさんが飼育している雲雀です。篠竹が繁茂している自然環境ですから鶯等小鳥が多く棲息しているのでしょう。こんな飼育小屋で「青大将(蛇」に狙われないか心配です。

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住友家別荘の近況

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東海道線や横須賀線の車窓を視ていると気付く事があります。横浜駅を出て保土ヶ谷駅辺り迄は市街地ですが清水トンネル前後から田園地帯に景色が変わります。大船を越えると湘南・鎌倉の文教地帯に変ります。昔から地価は戸塚が底で藤沢鎌倉に入ると上昇していました。政令指定都市横浜と、文教・観光都市湘南との端境に在るのが戸塚です。そんな戸塚にも唯一重要文化財がありました。それが「住友家別荘」です。1設計者は「佐藤秀三」でした。「佐藤秀三」昭和モダン建築を代表する設計士で「日光プリンスホテル」を始め、世田谷の「向井潤吉邸/現向井潤吉美術館」や那須住友家別荘など数多く残されていますが、重文の指定を受けたのは戸塚の「俣野別邸」だけでした。住友家本邸に勝る評価を受けているのは、昭和モダン建築の代表と評される特長を備えているからでしょう。明治以来西洋建築が奔流のように我国に押し寄せたのに対し、快適な広い空間を備え同時に伝統的な日本建築の良さを折衷した空間を用意したのです。「アントニン・レーモンド/エリスマン邸や東京女子大を設計」や「谷口吉郎/東宮御所や出光美術館や藤村記念館を設計」も昭和モダニズム建設の旗手と評価されていますが、重要文化財の評価を受けたのは戸塚の「住友家俣野別邸」だけなのでした。
唯一重文指定の名誉に浴した理由は明確です。ハーフ・ティンバー様式と伝統的な日本建築様式を折衷させ、成功しているのです。
ハーフティンバーとは北ヨーロッパやイギリスにみられる木造建築構造で、柱・梁・筋違すじかいなど骨組みとなる部分を木材で密に組み、その間を煉瓦・石・土などで充塡して壁としたものです。
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此れは鎌倉浄妙寺にある「華頂の宮邸」です。ハーフ・ティンバー様式建築ですが鎌倉の洋館として評価されているだけです。
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此れは横浜の山手に在るエリスマン邸です此れも「ハーフティンバー様式です。
鎌倉の「華頂の宮邸」や白金の「旧朝香宮邸/現庭園美術館」も和様折衷建築として評価されていますが、どちらか言えば「ハーフティンバー」は評価されず「アール・デコ」建築として評価されています。「華頂の宮」も朝香宮」も軍人としてフランスに留学していた事から、当時のヨーロッパで人気だった「アール・デコ」様式を日本に伝えたモノでした。快適で広い空間を機能的に合理的に設計するには「ハーフティンバー」が最適で、日本人のライフスタイルや「別荘」「博物館」「ホテル」等を実現したのでした。
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これは徳洲会の経営する湘南鎌倉総合病院の1階ロビーです。病院にリゾートホテルの様な大空間とやすらぎを設計する思想は、昭和モダニズム建築に始まるモノです。ル・コルビュジェの国立西洋美術館にも共通する設計思想で、現代建築の礎になった設計思想です。
私が長銀のゼネコン、ホテル担当として佐藤秀工務店やレーモンド設計事務所の仕事に再三接しました。例えば大船の「徳州会湘南鎌倉総合病院」の玄関ロビーの大空間やシースルーのエレベーターは機能と快適性と経済合理性を求めた成果だと確信します。
そんな重要な住友家股の別荘でしたが、重要文化財に指定されると、横浜市は早速に一般公開の作業に入りました。担当部署は「公園課」でした。横浜市は「緑税」を新設して、俣野別邸を公園として活用しようとしたのでした。処が工事を始めた途端に不審火で略全焼してしまいました。当時近くの小雀神社の社殿が放火され、大磯の吉田茂別荘も焼失していました。
放火のニュースに驚いて早速観に行って写真も撮ったのでした。

別荘の「目薬の樹」それとも「歯ブラシの樹」

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戸塚区俣野の住友家別荘を観に行きました。正面玄関を入った処にトイレがあります。トイレの入り口に枯山水の坪庭が設えて在ります。坪庭の横に一見して「花水木」に似た樹が植えられています。
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住友家俣野別邸の北側に在るトイレから竣工した別邸を視る、枯山水に庭の端に手水鉢があってその脇に「歯ブラシの樹」とプレートの付いた苗木が植わっていました。
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此れが手水鉢の脇に植わっていた苗木です。筆者は「歯ブラシの樹」と思ってしまいました。でも写真で良く確認すると「目薬の樹」とされていました。
「何かな?」思って苗木を視ると「歯ブラシの樹」と書かれたプレートが吊るされています。「歯ブラシの樹」興味が湧きますが、「花が咲くのか?」「葉っぱがどんな形をしているのか?」チットモ想像できません。
でも、どこかで歯ブラシの樹を読んだ記憶があります。書棚を探して見つけました。
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これは前野浩太郎氏のノンフィクション「バッタを倒しにアフリカへ」という本この文中に現地職員が木の枝をナイフで切って歯ブラシにしている段の説明がありました。歯石も取るし、歯周病予防にも効果的だというのです。
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これは月岡芳年の浮世絵です『風俗三十二相』目を覚ました花魁が朝顔の咲いている井戸端で房楊枝を使って歯を磨いています。楊枝は無患子の樹の枝で作ったモノと思います。
「前野浩太郎氏のノンフィクション「バッタを倒しにアフリカへ」という本で「モーリタニアの職員が木の枝をナイフで切って前歯で切り口を噛んで歯ブラシにしている、書かれていました。読んだときは「江戸時代の『房楊枝』か、思ったのでしたが特に気にも留めませんでした。前野氏も現地職員の真似をすると歯ブラシよりも遥かに快適で、歯も歯茎も健康であった、という事でした。歯ブラシの樹からは歯周病菌に有効な成分が含まれてい田のでしょう。禅寺では良く庭先の井戸の脇に「無患子/むくろじ」の樹が植えてあります。鎌倉の宝戒寺にも無患子の大木が井戸の脇に自生しています。無患子は歯ブラシにもなるし、成分に歯磨き粉と同薬効があるのでこの字とこの名が付いているのでしょう。私は観た瞬間に住友家の令嬢が房楊枝を噛んでいる姿を髣髴したのでした。
でも写真をじっと見ると「歯ブラシ」では無くて「目薬の樹」と書かれています。目薬の樹は上野の国立博物館の庭園で観ました。庭園は上野寛永寺の方丈庭園だったものです。天海僧正始め歴史上の怪物僧が観ていた内苑です。春は桜、秋は紅葉が彩るお庭です。そのお庭の奥「九条館」の前に山桜の巨木と目薬の樹が並んでいるのです
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此れは上野の国立博物館の内苑から博物館を観た写真です。内苑は寛永寺本堂裏のお庭でした。右側に平成館があってその裏に九条館があって「目薬の樹」があります。
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上野の国立博物館の内苑に在る目薬の樹隣は山桜でどちらも巨木です。目薬の樹ははカエデ科の樹です。向こうの建物が九条館です。その右隣りに「応挙館」があります。
御屋敷やお寺の庭には実用的な樹があるモノです。『石鹸の樹/エゴノキ又は無患子』に『歯ブラシの樹』に『目薬の樹』今度小石川植物園に行ったら教えて貰いましょう。歯ブラシの樹は一度試してみたいものです。


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旅行ブログ


鎌倉古道「西の道」の素晴らしさ。

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住友家俣野別邸の庭先に続く駐車場を出て南に200mも歩けば境川の堤防です。クリスマスローズや二輪草の咲く庭を後にして私達は鎌倉古道を北に向けて歩き始めました。
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住友家俣野別邸の馬場の跡はクリスマスローズの花壇でした。
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俣野別邸から北に北に鎌倉古道が続いています。この辺りは数年前まで牧草地でしたが今は貸農園が流行りで、マイカーに乗ってサラリーマン家族が野菜作りに汗しています。
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これは農家の納屋で販売されているトマトです。
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鎌倉古道は境川の河岸段丘に残っている細道で東側の尾根には国道1号線『旧東海道』が通っています。
この細道は鎌倉古道と呼ばれた「軍用道路」だったのでした。鎌倉幕府は中世御家人の集団指導体制でした。関東以北に多い源氏恩顧の御家人が「イザ!鎌倉」の時には軍用道路を馬で駆けて鎌倉に参集し敵(西から攻め上がると想定)を防ごうとした道だったのです。『鉢の木』で有名な佐野源左衛門はこの道を痩せ馬を駆けて北条時頼の下に駆け付けたのでした。でも承久の乱や蒙古襲来の後には奉公に報いる財源に事欠き、御家人に見捨てられ足利の新田義貞はこの軍用道路を駆け上って鎌倉幕府を滅亡させます。
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此れは佐野源左衛門の図です。旅の僧を北条時頼とは知らずに盆栽を伐って暖を用意します。出典:ウィキペディアhttps://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%BA%90%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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これは鎌倉古道に面した藤沢市高倉に在る東勝寺、案内によると北条高時は此処まで逃げ延びて自刃した事になっています。一般には宝戒寺裏の「腹切櫓」で自刃した事になっています。
最後の執権北条高時が創建した「東勝寺」も鎌倉古道に面しています。石仏も多いし、野鳥も多く楽しい古道です「道端には農家が「野菜の無人販売をしていますし、片栗等の自生地もあります。私達夫婦の好きなモノがオンパレードな道なのです。ウォーキングする人も多いので、瀟洒な戸建て住宅では奥様が居間を改造して喫茶店を営んだりしていますので、休憩スポットにも事欠かないのです。加えて小栗判官・照手姫物語の史蹟も多く日本一小さいと云われる「飯田牧場」はアイスクリームが美味しいのです。
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これは鎌倉古道に面した「飯田牧場」です蒲鉾厩舎でジャージー牛が飼われていますが、アイスクリームが人気です。向かいに花應院があります。
飯田牧場の西側には『花應院(曹洞宗』があって「小栗判官・照手姫物語」の絵巻や閻魔像が残されています。飯田牧場まで歩けるか自信はありませんが、疲れたら河岸段丘の上に上れば国道1号線ですから楽に家に戻る事が出来ます。
鎌倉古道西の道を進むと、八坂神社が見えてきます。その石鳥居の下に石仏が4基並んでいます。「右かまくら」「左はちおうじ」とも刻まれている道路標識も兼ねた庚申塔です。その庚申塔の四叉路を右折東に行けば「影取」のバス停です。バス停の前には不動明王が祀られています。この道を西に向かえば「大山不動尊」に行ける石仏は信仰のモニュメントと併せて、道案内を兼ねています。
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此れは八坂神社石鳥居の下に祀られている庚申塔寛文年間に建立されたの阿弥陀如来が主尊の庚申塔です。
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影取バス停前にある不動明王像左の道を真っ直ぐに行けば246号にぶつかり大山不動尊に行ける道でもあります。建立したのはこの先に在る龍長院(曹洞宗)の檀信徒です。
鎌倉古道西の道を歩く楽しみの一番は山野草です。土手には一面土筆が生えています。先日我家の周囲に芽を出した土筆を天麩羅にしましたが袴の口当たりが悪くイマイチでした。調べると袴は取り除く事、中華風油炒めがお奨めと云うことでした。
片栗の自生地もあります。今年は3月初めに城山に観に行きましたが、鎌倉古道の片栗は情緒では劣りません。
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土手を埋めtくした土筆
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片栗自生地、赤いのは藪椿の落花です。

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