3月21日は春分の日でした。でも夜半から雪が降り出していました。しかし春分の日で国立近代美術館で開催されている「熊谷守一展」はお終いです。私はこの希有な仙人画家の生涯展を観たいと、以前からワイフと約束していました。我家からは意外と近く1時間余りで着く事が出来ます。東京駅で東西線(大手町)に乗り換え、隣の竹橋駅で降りて、平川門方面に2分も歩けば近代美術館です。「ランチは何処で取ろうか?」「北の丸公園」でお花見しよう!」なんて話していたのは嘘のような雪景色でした。このブログでも「池袋の熊谷守一美術館」訪問記をアップしたり、守一氏の生誕地恵那峡の付知の美術館の訪問記も書きました。
竹橋に在る近代美術館で開催されている「熊谷守一展」は大盛況でした。外国人が多いのに驚きました。
私が長銀に勤めたのは昭和46年でした。サラリーマンらしく「日本経済新聞」を毎朝熟読して、気に懸る記事は切り抜いてスクラップブックに貼り付けていました。でもスクラップブックを埋めた記事は「熊谷守一氏」の人生録でした。というのは当時百歳を目前にして守一氏は人生を振り返っていたのでした。スクラップブックは直ぐに不要になってしまいました、というのは日経新聞社が「下手も絵のうち」なる画文集を発刊したのでした。
熊谷守一氏は岐阜県中津川から飛騨に続く道「付地」の名門家に生まれます。生家は林業の他に紡績業も営む名門家でした。「慶応義塾に入学するなら上京しても良い」許しを得て、上野の芸大に入学します、芸大では青木繁と肩を並べます。「下手も絵のうち」で最も力の入っている文は青木繁の印象で、学生時代から頭角を現し将来を嘱望され、恋愛に画業に自由奔放だった青木繁は熊谷守一の画材を当然の様に使います。守一はそんな青木繁を優しく見守ります。在る日守一は日暮里駅で投身自殺した女性の轢死体を視ます。強い衝撃を受けた守一は「轢死」を美術展に出展しようとしまいますが主催者から展示を拒否されてしまいます。その時の衝撃は強烈だったようで、漱石も三四郎の中で著述しています。1992年(大正11年)、42歳で大江秀子(?-1984)と結婚し、5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが絵が描けず貧乏が続きます・妻からは「真剣に絵を描いて下さい、食べる為に」言われますが、生活は貧困を極めます。長女(黄)次いで長男(陽)を失います。守一氏の前半生は裕福で日向で生活していたのが、噓の様に壮年からは壮年を日陰暮らしが始まります。
これは熊谷守一の芸大時代の代表作「蝋燭」です。蝋燭の灯りに浮き上がる自画像は青木繁と同じく「光と影」を描く普通の画学生でした。写真出典熊谷守一画集(東京出版)
此れも学生時代の代表作「轢死」です。轢死体を観た事実は「生と死」がテーマになった事件だったのでしょう。絵の具が劣化して真っ黒ですがエックス線写真では若い綺麗な女性の轢死体でした。
長男「陽」のデスマスクを描いた「陽が死んだ日」激しい筆致で30分で描いた説明してありました。
長女「黄」が亡くなって焼き場から帰る絵中央の骨壺を抱えているのが守一氏でその左が奥様でしょう。この頃既に茶色の輪郭線が目立ち画面が一色で平坦に塗られています。
守一氏は「裸婦像」も多く描いています。でも「裸婦を描いても風景を描いても変わらない」と呟いていたそうです。裸婦も風景も輪郭線を描き、その内を平坦に塗っていたのです。展覧会には故郷の付知の山々や御嶽山が描かれていましたが何れも輪郭線が目立ちます。裸婦も輪郭線が特徴です。輪郭線は「ご来光」の瞬間に現われます。
昭和37年作の「畳の裸婦像」直線の畳と曲線の裸婦の対照が強いインパクトです。
此方は「御嶽山」4枚も出展されていました。付地からは御嶽山が真北に聳えています。御嶽山も裸婦と同じように朱色の輪郭線で描かれています。付地で御嶽山の上に昇るご来光を仰ぐ瞬間でしょう。解説では守一氏は型紙を用意して描いていたそうです。一度型紙を用意すれば同じ構図の絵が何枚も描けます。でも描くたびに新しい工夫を凝らしていたそうです。
私は、昔から熊谷守一の朱色の輪郭線は不思議だと思っていました。一般に熊谷守一はフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれています。フォーヴィスムは20世紀を牽引した美術運動で、写実を重んじるのではなく、作者の感覚を重視して色彩やデッサンを作者の主観や感覚を重視した美術運動です。マチスを旗手にします。
守一氏は青木繁と肩を並べていた時代は光と影を重んじた写生を重視し、後半生は主観や感覚を重視したのです。熊谷守一氏に貴方は「フォーヴィスムだ!」言えば守一氏は「私は野獣では無い、私は花と虫が好きで、観察を得意にしている。」言われるでしょう。『轢死体を視るのも子供を失った悲しみを絵に映すのも観察に始まっている』と思うのです。山に朝日が当たると一瞬朱色の輪郭線が出現する事があります。「闇」が明けて「陽」に変る時です。東洋人の知恵は「陰陽五輪思想」と云われます。陰陽は一つの現象の裏表であり、不断無く陰陽は繰り返すと考えるのです。守一氏は「現実は陰陽の側面がある。でも陰は暗いので描けない、陽は原色で描けば良い、しかし「陰」では描けないし「陽」だけで現実は出来ていない、「陰陽両面」を描くには自ずと朱色の輪郭線が見えてくる」。
例えば「土饅頭」と題した空豆が芽吹いた時の絵です。土饅頭とはお墓の事ですから土塊の下には死体が在る筈です。でも死体から生命が湧き立つのが現実です。土饅頭は土(死)を乗り越えて現われる「生」(豆の発芽)を描いています。
これが代表作「土饅頭で」す。昭和29年愛知県美術館木村定三コレクション。
これは仏前と題された卵の絵、説明では近所の方が病気の長女「萬」の見舞いの為に盛って来て下さったのだそうです。でも丸餅のように描いてその上「仏前」と題しているのは守一の「死生観」の現れでしょう。、死と生の輪郭線が朱色なのです。
処で熊谷守一の輪郭線は何処かで観た記憶があると想い出し始めました。それは縄文古墳の装飾古墳の絵です。例えば熊本の山鹿にある「チブサン古墳」はマル三角が朱色の輪郭線で描かれています。
此れは山鹿市にある「チブサン古墳の装飾壁画です。守一氏の赤い輪郭線を髣髴させました。福岡市に在る「王塚古墳には朱色の同心円と黄泉の国に渡る船が朱色の輪郭線で描かれています。守一氏の観察や感性が古墳時代人と似ていたのか、守一氏が装飾古墳を観た事があったのか解りませんが、偶々仙人と評された守一氏の絵が古墳時代の装飾古墳と似てしまったのでしょう。
最後に王塚古墳の壁画と守一氏の「日輪」の絵を併せて照会します。
此れは守一氏の描いた日輪(昭和45年)最晩年はこうした絵が多かったようです。
此れは熊谷守一美術館の打ち出しコンクリート壁画にも使われている蟻です。双葉は大豆でしょう。守一氏は庭に筵を敷いて一日中蟻を観察して蟻は先ず左の第二脚から動かす事を発見したそうです。
眼に見えない霊(アミニズム」と呼び、を万物の霊を崇拝する宗教を「シャーマニズム」と云います。守一氏の画業は生と死を見詰めて「朱色の輪郭線」を発見し描いている中にマチスの様な「フォーヴィスム」に至りました。でも最初から(若い時から装飾古墳を視ていたら子供達を栄養失調で失う事も無く。平穏な画家人生を終えていたことでしょう。遠回りしても素晴らしい作品を残せたのは観察を通して神(アミニズム)を見つけ、神が出現する瞬間に朱色の輪郭線が見えたのでしょう。後は原色で型紙を塗れば良いのでした。
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