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遺言『遊びをせんとや生れけむ!』

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私も人生の第四コーナーを廻った自覚が強くなってきました。新聞を視れば「遺言」だ「終就」だ活字が躍っています。栄六輔さんの「大遺言」も読みました。でも、天才脚本家も粋な生き方だけが綴られていて少しも心に響きませんでした。『知識に予算はかからない」「叱ってくれる人を探す」「人間関係に順位をつけない」「人間は今が一番若い」「生きているだけで面白い」「聞くは話すより難しい」「笑うことは武器になる」と云った話題は粋に生きる上では役立つ知恵であっても、遺言というには寂しすぎます。
「栄六輔さんなら、もっと日本文化や江戸文化の本質に迫る遺言があったろうに!」思いました。そう想いながら見直すと栄六輔さんの自著ではなくてお孫さんがお祖父さんの言葉を想い起したり、栄さんの知り合いに訊きまわって上梓した本でした。
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最近養老孟司氏の「遺言」が出版されました。脳科学者であると同時に「昆虫好き」で「文化への造詣も深い養老氏」の著書ですから期待を持って読みました。ベストセラーになった「バカの壁」は養老氏の話をライターが口述筆記して出版したモノで、養老氏は滅多に自著しないのだそうです。でも「遺言」は長い航海の時間を有効に過ごす為に自ら筆を執ったのだそうで。期待を持って熟読しました。
「養老孟司氏が一生をかけて言いたかった事が「遺言」に書かれて居る筈だ、」思ったのでした。養老氏らしく、 『梁塵秘抄』の『 遊びをせんとや生れけむ戯れせんとや生れけん、」から書き出しておいでです。
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此れは岩波古典体系の「梁塵秘抄」です。
後白河法皇が謳うと反感が強くなりますが屹度時代の変革期に生きた人には「何故自分は産まれたのだろう?”は共通した「疑問」だったのでしょう。現代人も「人生の幕引き」が近づいて自問自答する人も多い事でしょう。どうせ「何の甲斐性も無い人生」です。「せめて面白可笑しく過ごしたい」というのはヘレニズム哲学の古くて新しい人生観です。一般に「エピクロス派」は「快楽主義」と呼ばれます。反対の人生観がストア派で「禁欲主義」という事になります。養老孟司氏も私と同じ栄光学園の卒業生ですからカソリックの倫理観で育っておいでしょう。従って禁欲主義に近い倫理観の中で青春時代を過ごされたと思います。でも脳科学者の遺言ですから科学者らしい視点があると期待されます。
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此れは国立西洋美術館の前庭に在るロダン作地獄門です。地獄門はダンテ作「神曲」で快楽主義者が死後行く地獄の門の意味で、西洋中世に席捲された「禁欲」それとも「快楽」二者択一の倫理観でした。養老孟司氏は”そんな選択は無意味である”と遺言しておきたかったようです。
第一章は「絶対音感」の説明に始まります。動物は総じて絶対音感の持ち主で一つの周波数の音しか聞き分けられないというのです。人間も産まれて直ぐは「絶対音感」の持ち主ですが、社会生活を営むうちに絶対音感を失い、ノイズに慣れることに依って多くの言葉を聞き分ける事が出来るようになる」、というのです。「人間の耳は元々ピアノの鍵盤のようにな有毛細胞が並んでいるのだそうです。絶対音感を持っているピアニストは鍵盤と耳の音感組織が直結していて、一定の周波数の音を聞き分けられの野だそうです。でも社会生活を営む上で雑音を訊き分ける為に絶対音感を失うというのです。鶯の囀りも絶対音感で、雄の鶯が雌の鶯に聞こえるようにしているのだそうです。
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”雉も鳴かずば撃たれまい”云われる雉の鳴声は雌の雉にしか聞こえません。何故なら雉は絶対音階なのですから。
第二章は「意味の無いモノに在る意味」と題して「感覚所与」を説明されます。「感覚所与」とは哲学用語だそうで「耳に音が聞こえる」「目に光が入る」事によって先ず感覚器官に与えられる印象と云った意味だそうです。絶対音感で云えば耳の感覚器でとらえた感覚が脳の意識器官に伝えられる前の状態で、耳の感覚器を刺激した鍵盤状の感覚が脳に伝播され意識と交流するのでしょう。目に入った光が例え黒い鉛筆で書かれた字でも脳がこの図形は「白」と云えば、白と判断するのでしょう。人間は感覚所与よりも脳に在る意識を核にして生きていることを予測させてくれます。
動物は総て感覚所与をベースに生きる事で個の生存を確保します。一方人間は感覚所与を忘れて人間同士共生する生き方を選びます。結果絶対音感を失い「ノイズ」に慣れて人間同士のコミュニケーションが可能になります。
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熊谷守一画伯の猫熊谷守一画伯は観察を重ねて感覚所与に映った映像を画布に描いたのかもしれません。人間は猫を「黒」「白」「ミケ」と名付ければ大凡の猫の姿が解りますが、それは意識と云った脳の作業の成果なのでしょう。
第三章は「人は何故イコールを理解したのか」第四章は「意識と感覚の衝突」に移って、終章に向かって意識の説明に重点は移って行きます。睡眠している間は意識が無い事、意識は在っても身体が動かない状態を「金縛り」と云ったり、意識だけが残って感覚の無い状態を「臨死体験」と云ったりする、説明します。

菫の秘密

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鎌倉の海蔵寺は花の寺です。桜が終われば「海棠」が咲きます。秋には萩が咲いて石段を瀧のように埋めます。その石段の階に菫が咲きます。剃刀の刃も通らない隙間が無い石積みです。初めて観た時には「こんな隙間に良く菫の種が発根したモノだ」不思議に思いました。
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此れは池袋にある熊谷守一美術館のコンクリート外壁に使われた守一氏の蟻のデザインです。此処は守一氏の「終の棲家」で欅の樹の下に筵を敷いて一日中蟻を観察していたそうです。
でも深夜ラジオで山野草は知恵があって菫の種は蜜が付いているのだそうです。蟻が甘い菫の種を探して巣に持ち帰った結果、石積みの僅かな隙間から発芽したのでしょう。
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此れは海蔵寺の石積みに咲いた菫です。以前次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/17926434.html
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道端のアスファルトの隙間に咲いた匂い菫
菫の花を思いがけない処で探すのは楽しい事です。山道で見かけるのは普通な事、石積みの隙間やコンクリートの割れ目で見つけた時の意外性は誉めてあげたい気になります。私は目線を下げて歩きます。
我庭にも菫が今年も咲き出しました。引っ越しした頃は庭中に菫が咲いていたのでしたが樹木が成長するにつけて菫は消えてしまいました。菫は日向が好きで日陰になった途端に他の雑草に負けてしまったようです。
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これは野原で採取してきた「立壺菫です。鉢をアッチコッチ移すことで種が散って置いておいたところから新しい芽が吹いて来ます。
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此方の匂い菫も採取してきてプランターに植えたモノです。陽向に置いておけばドンドン株が増えます。ワイフも良く水遣りしていますが・・・・。
菫と云えば「三色すみれ」やビオラを想い出します。「パンジー/三色菫」と「ビオラ」は良く似ています。花の大きいのがパンジーで小さいのがビオラです。菫の園芸種が「パンジー」で花数を増やしたのが「ビオラかと思っていました。でも庭でワイフが咲かせた「パンジー」と野生種の「匂い菫」や「立壺菫」を視ていると明らかな違いがあります。野生種は俯きに咲いているのに対し、パンジーは上向きに太陽に向いて咲いています。野生種は地面を這いつくばって生きている蟻さんにアッピールしているように見えますそれに野生種の菫は多年草です。一方パンジーは一年草ですから毎年秋になると苗を買わなくてはなりません。私の習い性で両者の違いが無いか?花弁の数を数えてみました。期待に反してパンジーも菫も花弁の数は5枚でした。唯パンジーの花弁は5枚夫々大きいのに対し、菫の花弁は下の2枚が大きくて(舌弁)あるのに対し他の3枚は(側弁)は小振りなのです。そして全体として筒状に見えます。下向きである事に加えて筒状である事から控えめでお淑やかに見えます。
日本女性の美しさや強さは「撫子」に譬えられますが、撫子よりも「菫」に譬えた方が良い様に思えます。こんなに可愛い菫ですから、万葉人が恋を託すには最適です。
先輩に戴いた「万葉花」のページを括ってみました。屹度「大伴家持」「坂上郎女」の歌に在りそうだと思っていた処山辺赤人」の歌が載っていました。
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此れは矢富巌夫著「万葉花」の菫のページです、注書きによると壮大な歌が多い赤人が可憐は菫を4首も歌っているのだそうです。
 春の野に すみれ採(つ)みにと 来(こ)しわれそ
 野をなつかしみ 一夜宿(ね)にける
大意は次のようなものでしょう。
春の野にすみれを摘みに来たのだけれど、懐かしさのあまり、つい一夜を明かしてしまった
万葉人も現代人も菫を愛しています。菫も環境こそ激変してもしなやかに生き抜いています。

帰って来た「蛙」

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『井底蛙』とは井戸の中にすむ蛙のことです。『大海を知らず』続きます。
『坐井観天』は視野の狭い人物を蔑んで揶揄した言葉です。どちらも余り良い意味ではありません。でもこんな諺からして蛙は井戸の底で暮らしているモノなのでしょう。
『蛙鳴蝉噪』とは、やかましく騒ぎ立てたること。くだらない議論や下手な文章のたとえ。です。蛙の4字熟語は総じて悪い意味が多いようです。でも、日本人は総じて蛙好きです。製薬メーカーは蛙をマスコットにしていますし。家の玄関には蛙の置物を設えたりします。
 『蛙の面に小便』と云えば「どんな目にあわされても、どんなことを言われても、一向に気にせず、平気でいることの喩です。「 図々しい奴」や「ふてぶてしい人」に対して、皮肉をこめて言うことが多いようです。悪い意味ばかりかと云えばそうでも無さそうです。信念があれば、悪口雑言に耳を貸さず信念通りに行動するので「蛙の面に小便」という事になるでしょう。
身近な小動物の蛙ですから「昔話でも活躍します。「蛙の恩返し」という話があります。
ある日爺さまが蛙を呑もうとしている蛇に、呑まんでくれたら自分の娘を嫁にやろうと言い、蛙を助けます。するとある夜一人の侍が訪れ、『自分はあの時の蛇であり嫁を貰いに来た』と言いました。本当に来るとは思わなかった爺さまは憔悴のあまり寝込んでしまいます。末娘が侍に連れられて行くことになります。末娘の所へ蛙が訪れ知恵を授けた。『巨大な瓢箪を背負い、千の針を持って行きなさい』末娘は侍に連れられて池の畔に遣って来ます。そこで背中の瓢箪を池の中に放り投げました。侍は蛇に姿を変えて瓢箪を丸呑みしました。すると蛇は苦しみ始めます。蛇の腹の中で針が暴れ出したのでした。そうして末娘は爺さんの家に戻れたのでした。
吉野山金峯山寺の【飛び蛙】
世界遺産吉野山の金峯山寺には『蛙飛び行事』という名の奇祭が行われます。修験者が岩場の修行で突然に恐怖感に陥ったそうです。”怖い助けて!”身体が動かなくなってしまいました。金峯山寺の高僧が未熟な修験者をカエルに変身させて救出したという伝説です。一時蛙に変身した修験者が高僧に謝意すると、高僧は蛙を元の人間に還してあげました。
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これは金峯山寺の奇祭「飛び蛙」です写真出典産経フォト
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此れは藤沢の引地川親水公園の欄干を飾る蛙です。鳥獣戯画をヒントに作ったモノでしょう。この他に様々な蛙がいて行司になったり蹲踞したりしています。次にアップしましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sk=0&sv=%B3%BF&p=3

長々と書きましたが日本人は蛙が好きであり日本文化の深層に蛙が浸みこんでいるのです。
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我家の主だった初代の蝦蟇蛙君黒土の上では黒いのですが、茶色にも変身しています。

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此れは我家の主であった蛙さんのデスマスクです。観ての通り、蝦蟇合戦を終えて帰還しようとして我家の石段の下で轢かれてしまったのでした。
我家には建築前から巨大な蝦蟇蛙が棲息していました。「庭の主」として敬愛していました。普段は植木鉢の中に隠れていたり下水道の枡の底に潜んで居たりして、蚊やミミズやハエを食して居るのでした。明らかに益虫(?)です。毎年3月になると蝦蟇合戦から帰還してきて庭で傷ついた体を癒やすのでした。敬愛していた蝦蟇君が轢死してから私には禍が続きました。布団の中で両手を組みます。横になっても気分は座禅を組んだ積りです。丹田に手を置いて腹式呼吸すると、私は右胸の肋骨が無い事に気付きます。腎臓癌の摘出手術の際に肋骨も伐ってしまったのでした。「蝦蟇君は車に轢かれてさぞ苦しかったろう!」思います
庭いじりをしていて気付きました、池面に何かが泳いでいるのです。最初は蛇が居るのか!思いました。でも良く見ると蝦蟇ガエルです。煉瓦を積んで作った池ですから蛙君は煉瓦色に変身しています。バシャバシャ泳いでいるのは溺れそうなのかも知れません。
「蛙が溺れたら、大変」蛙が訊けば怒りだすかもしれません。でも私が観察する限りでは、基本的には蛙は「肺呼吸」で「鰓呼吸」ではありません。適当に地上に出て空気呼吸しないと溺れて死んでしまうと思うのです。そこで廃材を池に浮かべてあげて時々廃材の上で呼吸するようにしてあげました。
私が柏尾川の澱みで観察すると上流から流れ着いた廃材の上で牛蛙が気持ちよさそうに日光浴していて、蜻蛉が飛んでくると”ぺロッ”と舌を出して捕食しているのです。
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此れは柏尾川のカイツブリの巣の上を占領した牛蛙です。蛙は肺呼吸をしているので、水中に長くは居られません。此処の上で昆虫が飛来するのを待って捕食します。以前牛蛙の生態は次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B5%ED%B3%BF&sk=0
そんな次第で池に廃材を浮かべて蝦蟇蛙の休憩場にしました。
幸いワイフは初代の蝦蟇蛙が嫌いでは無かった様です。どちらかと云えば愛犬が怖れていました。
庭でガーデニングしていて時折池の中を覘くと蝦蟇蛙の二代目は廃材の上に行儀よく坐っています。出掛ける時も帰って来た時も池を覘いて蝦蟇蛙の二代目の姿を確認すると安堵しいます。
大手町の長銀に勤めていた時は皇居側に「首塚」がありました。辞令を交付され、地方や証券会社に出向を命じられると、将門塚の蛙に「無事本社に帰還できるよう!」挨拶に行くのが習慣でした。「無事帰って栄転する」が御願ことです。
旅行に出たり、病院に入ったり、自宅を出る事は多多あります。此れからは「無事帰る」重大事です。家に二代目蝦蟇ガエルが棲息してくれた事は運が向いて来たような気がします。

親指姫はチューリップの花から生まれたという事

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蝦蟇蛙が我が庭に還って来て以来ズット蛙の事が頭を離れません。
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これはリリック絵本の親指姫です写真出店古書販売サイトhttps://www.ezimport.co.jp/product.php?id=j462750208
日本の昔話では総じて蛙は善なのですが、親指姫では悪役です。
親指姫は、チューリップの花から生まれた親指程の小さな少女でした。処が在る日ヒキガエルに誘拐されてしまいます。魚の助けで何とか脱出するものの、その後、コガネムシにも誘拐され、更に置き去りにされてしまいます。秋になり、親指姫は野鼠のお婆さんの許に居候します。しかし、隣の家の金持ちのモグラに結婚を強要される。しかしモグラの家にいた瀕死の燕を介抱し、結婚式の日に親指姫はツバメと共に、花の国へ行く。そこで親指姫は、花の国の王子様と結婚すます。

熊谷守一の朱の輪郭線

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3月21日は春分の日でした。でも夜半から雪が降り出していました。しかし春分の日で国立近代美術館で開催されている「熊谷守一展」はお終いです。私はこの希有な仙人画家の生涯展を観たいと、以前からワイフと約束していました。我家からは意外と近く1時間余りで着く事が出来ます。東京駅で東西線(大手町)に乗り換え、隣の竹橋駅で降りて、平川門方面に2分も歩けば近代美術館です。「ランチは何処で取ろうか?」「北の丸公園」でお花見しよう!」なんて話していたのは嘘のような雪景色でした。このブログでも「池袋の熊谷守一美術館」訪問記をアップしたり、守一氏の生誕地恵那峡の付知の美術館の訪問記も書きました。
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竹橋に在る近代美術館で開催されている「熊谷守一展」は大盛況でした。外国人が多いのに驚きました。
私が長銀に勤めたのは昭和46年でした。サラリーマンらしく「日本経済新聞」を毎朝熟読して、気に懸る記事は切り抜いてスクラップブックに貼り付けていました。でもスクラップブックを埋めた記事は「熊谷守一氏」の人生録でした。というのは当時百歳を目前にして守一氏は人生を振り返っていたのでした。スクラップブックは直ぐに不要になってしまいました、というのは日経新聞社が「下手も絵のうち」なる画文集を発刊したのでした。
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熊谷守一氏は岐阜県中津川から飛騨に続く道「付地」の名門家に生まれます。生家は林業の他に紡績業も営む名門家でした。「慶応義塾に入学するなら上京しても良い」許しを得て、上野の芸大に入学します、芸大では青木繁と肩を並べます。「下手も絵のうち」で最も力の入っている文は青木繁の印象で、学生時代から頭角を現し将来を嘱望され、恋愛に画業に自由奔放だった青木繁は熊谷守一の画材を当然の様に使います。守一はそんな青木繁を優しく見守ります。在る日守一は日暮里駅で投身自殺した女性の轢死体を視ます。強い衝撃を受けた守一は「轢死」を美術展に出展しようとしまいますが主催者から展示を拒否されてしまいます。その時の衝撃は強烈だったようで、漱石も三四郎の中で著述しています。1992年(大正11年)、42歳で大江秀子(?-1984)と結婚し、5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが絵が描けず貧乏が続きます・妻からは「真剣に絵を描いて下さい、食べる為に」言われますが、生活は貧困を極めます。長女(黄)次いで長男(陽)を失います。守一氏の前半生は裕福で日向で生活していたのが、噓の様に壮年からは壮年を日陰暮らしが始まります。
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これは熊谷守一の芸大時代の代表作「蝋燭」です。蝋燭の灯りに浮き上がる自画像は青木繁と同じく「光と影」を描く普通の画学生でした。写真出典熊谷守一画集(東京出版)
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此れも学生時代の代表作「轢死」です。轢死体を観た事実は「生と死」がテーマになった事件だったのでしょう。絵の具が劣化して真っ黒ですがエックス線写真では若い綺麗な女性の轢死体でした。
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長男「陽」のデスマスクを描いた「陽が死んだ日」激しい筆致で30分で描いた説明してありました。
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長女「黄」が亡くなって焼き場から帰る絵中央の骨壺を抱えているのが守一氏でその左が奥様でしょう。この頃既に茶色の輪郭線が目立ち画面が一色で平坦に塗られています。
守一氏は「裸婦像」も多く描いています。でも「裸婦を描いても風景を描いても変わらない」と呟いていたそうです。裸婦も風景も輪郭線を描き、その内を平坦に塗っていたのです。展覧会には故郷の付知の山々や御嶽山が描かれていましたが何れも輪郭線が目立ちます。裸婦も輪郭線が特徴です。輪郭線は「ご来光」の瞬間に現われます。
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昭和37年作の「畳の裸婦像」直線の畳と曲線の裸婦の対照が強いインパクトです。
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此方は「御嶽山」4枚も出展されていました。付地からは御嶽山が真北に聳えています。御嶽山も裸婦と同じように朱色の輪郭線で描かれています。付地で御嶽山の上に昇るご来光を仰ぐ瞬間でしょう。解説では守一氏は型紙を用意して描いていたそうです。一度型紙を用意すれば同じ構図の絵が何枚も描けます。でも描くたびに新しい工夫を凝らしていたそうです。
私は、昔から熊谷守一の朱色の輪郭線は不思議だと思っていました。一般に熊谷守一はフォーヴィスム(野獣派)と呼ばれています。フォーヴィスムは20世紀を牽引した美術運動で、写実を重んじるのではなく、作者の感覚を重視して色彩やデッサンを作者の主観や感覚を重視した美術運動です。マチスを旗手にします。
守一氏は青木繁と肩を並べていた時代は光と影を重んじた写生を重視し、後半生は主観や感覚を重視したのです。熊谷守一氏に貴方は「フォーヴィスムだ!」言えば守一氏は「私は野獣では無い、私は花と虫が好きで、観察を得意にしている。」言われるでしょう。『轢死体を視るのも子供を失った悲しみを絵に映すのも観察に始まっている』と思うのです。山に朝日が当たると一瞬朱色の輪郭線が出現する事があります。「闇」が明けて「陽」に変る時です。東洋人の知恵は「陰陽五輪思想」と云われます。陰陽は一つの現象の裏表であり、不断無く陰陽は繰り返すと考えるのです。守一氏は「現実は陰陽の側面がある。でも陰は暗いので描けない、陽は原色で描けば良い、しかし「陰」では描けないし「陽」だけで現実は出来ていない、「陰陽両面」を描くには自ずと朱色の輪郭線が見えてくる」。
例えば「土饅頭」と題した空豆が芽吹いた時の絵です。土饅頭とはお墓の事ですから土塊の下には死体が在る筈です。でも死体から生命が湧き立つのが現実です。土饅頭は土(死)を乗り越えて現われる「生」(豆の発芽)を描いています。
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 これが代表作「土饅頭で」す。昭和29年愛知県美術館木村定三コレクション
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これは仏前と題された卵の絵、説明では近所の方が病気の長女「萬」の見舞いの為に盛って来て下さったのだそうです。でも丸餅のように描いてその上「仏前」と題しているのは守一の「死生観」の現れでしょう。、死と生の輪郭線が朱色なのです。
処で熊谷守一の輪郭線は何処かで観た記憶があると想い出し始めました。それは縄文古墳の装飾古墳の絵です。例えば熊本の山鹿にある「チブサン古墳」はマル三角が朱色の輪郭線で描かれています。
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此れは山鹿市にある「チブサン古墳の装飾壁画です。守一氏の赤い輪郭線を髣髴させました。福岡市に在る「王塚古墳には朱色の同心円と黄泉の国に渡る船が朱色の輪郭線で描かれています。守一氏の観察や感性が古墳時代人と似ていたのか、守一氏が装飾古墳を観た事があったのか解りませんが、偶々仙人と評された守一氏の絵が古墳時代の装飾古墳と似てしまったのでしょう。
最後に王塚古墳の壁画と守一氏の「日輪」の絵を併せて照会します。
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これは王塚古墳の壁画(複製)です。同心円は太陽を鍵手の模様は「蕨」と思われます。朱は水銀に写真の出典インテリア文化研究所https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%80%8E%E7%8E%8B%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%8F&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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此れは原発に近い福島県双葉町に在る清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)の壁画です、これも日輪が同心円で描かれています。太陽は沈んでも明日必ず出てくる確信が人は死んでも直に生まれてくる確信になって古墳の装飾画になったのでしょう。画像出典東北大学https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFIsGLNa9TgAgzsdOfx7;_ylu=X3oDMTBiaGxjcmduBHZ0aWQDanBjMDAy?p=%E5%8F%8C%E8%91%89%E7%94%BA%E8%A3%85%E9%A3%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
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此れは守一氏の描いた日輪(昭和45年)最晩年はこうした絵が多かったようです。
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此れは熊谷守一美術館の打ち出しコンクリート壁画にも使われている蟻です。双葉は大豆でしょう。守一氏は庭に筵を敷いて一日中蟻を観察して蟻は先ず左の第二脚から動かす事を発見したそうです。
眼に見えない霊(アミニズム」と呼び、を万物の霊を崇拝する宗教を「シャーマニズム」と云います。守一氏の画業は生と死を見詰めて「朱色の輪郭線」を発見し描いている中にマチスの様な「フォーヴィスム」に至りました。でも最初から(若い時から装飾古墳を視ていたら子供達を栄養失調で失う事も無く。平穏な画家人生を終えていたことでしょう。遠回りしても素晴らしい作品を残せたのは観察を通して神(アミニズム)を見つけ、神が出現する瞬間に朱色の輪郭線が見えたのでしょう。後は原色で型紙を塗れば良いのでした。

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「日馬富士」に礼を尽くせ!

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大リーグで日本人選手が活躍しています。野球は観戦していて楽しいのは「高校野球」でも、アスリート同士のぶつかり遭いを視る迫力は大リーグです。
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高校野球が面白く人気が高いのは高校生の全力プレーと「礼」を重んじる武道の精神が見える事です。日本人はスポーツを神に奉げるモノとしてきましたから、礼を重視して来たのです。名門膳所高校は大敗でしたが、文武両道の爽やかさは坊主頭のようでした。
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大相撲春場所は連日満員御礼の垂れ幕が出て、遠藤など人気力士の活躍がありましたが、貴公俊関の暴力事件で改めて日馬富士事件のあと味の悪さが想い出されました。
大リーグで感心するのは人種差別が無い事です。日本人選手もその「公平・公正・正義(ルール)」な大リーグの運営の恩恵に浴しています。私は先日千秋楽を迎えた大相撲が何時の日にか大リーグの様に世界中のスポーツファンの声援を浴びる日が来ることを願っています。初場所は栃の心(ジョージア)が春場所は「鶴竜」が優勝したのは大相撲が既に国際化している事の現れでした。「公平・公正・正義(ルール)」が世界のスタンダードであると確信しています。相撲が柔道と同じように世界のスポーツに成熟する為には世界のスタンダードに適う様に変革しなくてはなりません。何時までも島国根性から抜け切れないのでは、大リーグのようにはなれません。世界のスタンダードに順じた上で日本固有の武道の基本である「礼の精神」を重んじなくてはなりません。
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これは貴公俊(兄)貴源治(弟)が看板を捧げ持った写真です。この時は貴公俊(兄)も自覚が在ったでしょうが、師匠の「角界の暴力を追放する」と云う主張に反してしまいました。貴乃花親方は青年の将来性を重んじてメンツを捨てて平謝りしました
ところで、春場所が無事に終えた途端にまた不祥事が発覚しました。「貴乃花部屋」の看板力士は『貴公俊と貴源治』の双子の兄弟です十両の貴公俊が付け人に暴行を働いたというのです。
流石に貴公俊は引退を親方に申し出たのですが、貴乃花親方は貴公俊を慰留しました。此処までは人情もあるし、有為の青年の一生を考えれば人倫に沿った行動です。問題になるのは、相撲協会が「貴公俊と貴乃花親方に如何なる処分を下すか?」が次なる問題です。今のところ貴乃花親方の処分は2階級降格、という事で貴公俊の処分は暫く出場停止程度で済ませる気配です。そんな処分で世界の世論が納得させられるのか?大いに疑問です。少なくともモンゴールの人達は納得しないでしょう。相撲協会が大相撲をメジャーリーグの様な評価を得たいと思えば貴公俊も貴乃花も日馬富士と同じ処分にすべきです。
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日馬富士は日本人力士以上に日本人の気質を有した力士でした。だから「礼を失した。貴ノ岩に怒ったのだと思います。
さもなくば、日馬富士に再度土俵に上るチャンスを与えるべきです。横綱から、大関に降格させても良いでしょう。同じ暴力でも、横綱が故郷の若者に「礼」を教える為に拳を握ったのと、付け人が時間を間違えたミスに怒ったのでは、質が違います。司法関係者に訊けば、日馬富士より貴公俊の罪状は重い事になるでしょう。
この際に日馬富士の後援会の諸氏は「日馬富士」にもう一度チャンスを!」署名集めをして相撲協会やスポーツ大臣に提出して、再考を促しては如何でしょうか?私なら「いの一番」に署名します。日馬富士は最初の外国人親方になれる器だと確信しているのです。
外国人が日本で一度失敗したら命取りと云った事実は考え直さなくてはなりません。「外国人も日本に長く住めばチャンスを日本人と同じように与えて然るべきです。

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横浜日本大通りのチューリップ

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我家の庭に植えたチューリップも今が盛りです。4月2日は以前からワイフと一緒に横浜公園にチューリップを観に出かけました。

近代美術館工芸館の空間

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近代美術館で「熊谷守一」を観るとワイフが「工芸館に行きましょう」誘います。私の職場は大手町でしたから。車で出かける時は平川門前から首都高に入りました。何時も高速入口に赤い煉瓦造りの「旧近衛師団司令部庁舎(重要文化財)旧近衛兵官舎」があって一度は入ってみたい思っていたのでした。旧近衛師団司令部庁舎は昭和52年「近代美術館工芸館」として活用されて現在に至っているのでした。
近代美術館からは「紀伊坂」を500mも登って「北の丸公園」入り口に位置しています。また昭和52(1977)年には北の丸公園の開園に際してその入口にある旧近衛師団司令部庁舎を近代美術館工芸館として一般公開したのでした。旧近衛師団司令部庁舎と云えば2.26事件や5.15事件の舞台になった建物です。
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近代美術館工芸館は皇居の平川門の西に在ります。紅枝垂れ桜が咲き出していました。
旧近衛師団司令部庁舎は正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要文化財に指定されました。。
周囲は皇居の桜、千鳥ヶ淵の桜に囲まれて、複雑な想いが交錯してしまいます。加えて玄関前には「北白川宮能久親王/М28年陸軍大将近衛師団長」のブロンズ像が騎乗から皇居を見詰めておいでです。
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国立近代美術館工芸館は旧旧近衛師団司令部庁舎(重要文化財)ですからその玄関前には日清戦争に際して近衛師団長で陸軍大将であった「北白川宮能久親王のブロンズ像が皇居を見渡しています。
「京国立近代美術館」は平成13(2001)年4月1日より、組織改正され、「京都国立近代美術館」、「国立西洋美術館」、「国立国際美術館」とともに「独立行政法人国立美術館を構成する美術館」となり、その後六本木に開設された「国立新美術館」を加えて、わが国における美術振興の中心的拠点として活動を展開しています。日本の工芸はパリ万博やシカゴ万博で国策として展示された超絶技巧の伝統芸です。近代化の旗手として絵画や彫刻や音楽が奨励されたのと同様に工芸が重視されたのでした。ポスターには明治の金工長谷川 の鷹が使われています。
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これが近代美術館工芸館のポスターです。使われている作品は鈴木長吉の金工細工の12の鷹です。
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これが鈴木長吉の鷹です。こんな超絶金工細工が12体も並ぶと圧巻でした。
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これは初代宮川香山《鳩桜花図高浮彫花瓶》1871-82年頃です。立近代美術館ライブラリーhttp://www.momat.go.jp/cg/collection/collection_overview/
工芸館の展示品はパリ万博やシカゴ万博に展示された伝統工芸品です。一番多いのが陶磁器で次いで漆器に絹織物、そして金工細工です。どれも今流に言えば「宮内庁御用達」明治風に云えば「皇室お買い上げ」の調度品と云う訳でしょう。
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近代美術館工芸館のフェンスに貼られたポスター
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近代美術館工芸館は旧近衛師団司令部庁舎ですから玄関の先は平川門です。
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2階踊り場から玄関を見下ろす。バロック調の意匠が確認できます。
桑材で作られた机に柿材で作られた手文庫には漆細工が施されていました。
浜田庄司の益子焼に魯山人の茶碗を観ると。民陶も皇室買い上げの対象になっていた事実に驚きました。
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2階の展示室の間の空間に置かれた椅子とテーブルは休憩施設かと思いましたが飛騨の家具調の工芸品でした。
左が近代美術館工芸館で右が皇居になります。
グルッと廻ると階段上の踊り場に「椅子とテーブル」が置かれていました。腰掛けてお茶を飲もうとしても自販機は置かれていませんでした。近代美術館本館の4階にはレスト空間が用意されているので、椅子に腰かけて驚きました。飛騨の家具風の一品も展示品であったのでした。
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右下は皇居の内堀になります。此処から見た千鳥ヶ淵が写真に良く撮られた絶景です。左の道を真っ直ぐ行けば英国大使館にぶつかります。土手に辛夷が咲いていました。
内堀の土手には馬酔木も満開でした。巨木が多く素晴らしい散歩道です。右の道路の先が竹橋で手前が半蔵門になります。
辛夷は「田起し花」桜は「田植え花」と云われます。信濃でも相模でも辛夷が咲いたら田圃に下りて「田起」しします。そして桜が咲いたら「田植え」をします。桜が散る前に田植えを終えなくてはならないのです。日本人の季節感は稲作をベースに養われてきました。という事は昔ながらに労働集約的な稲作をすることが最も自然で幸福なのでしょう。



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九品仏の鷺草

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昨年も今頃、九品仏浄真寺に花見に出かけました。あの時は咲き始めた桜の花を乱暴者の「尾長鳥」が食い散らしていました。今年は開花が早かったばかりか、開花後には初夏の陽気が続いてもう散ってしまったようです。横浜のММ21街区から自由が丘は行きやすくなりました。チューリップを観た後は浄真寺でお花見です。浄真寺は私の欲求を満たしてくれます。第一は仏像拝観、第二は石仏鑑賞です。更に季節の花々が見事なのです。加えて飲食にも事欠きません。”時間が余ったら自由が丘に行こう”40年以上も前もそんな風でした。
ワイフも「浄真寺に行こう」と誘うとご機嫌です。
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閻魔堂の向いは工事用の幔幕が張られていてお地蔵様と子法師像が祀られていました。
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閻魔様にご挨拶してから境内を廻ります。
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山門前の桜は略全部散ってしまいました。紅葉の若葉と山吹の花が綺麗でした。
去年の秋に来た時にはお庭の工事を始めていました。どんな工事になるのか、お知らせ看板も無いので解りません。山門を潜って本堂の前に出た参詣者は右回りに三つの阿弥陀堂を廻ります。右回りすると最初が「中品堂」で次が「上品堂」になり
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此方は私の主尊の下品堂の下品上生の阿弥陀様左右に中生下生の阿弥陀様が並んでいます。
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此方は上品上生の阿弥陀如来です。来週は灌仏会ですから綺麗な花飾りが供えられていました。
最後が一番南寄りの「下品堂」になります。三つのお堂に夫々三体ずつ「上中、下」生の阿弥陀様が祀られているので9体の阿弥陀様が揃っているので九品仏なのです。この日は中品堂の阿弥陀様を搬出(遷座)していました。工事は屹度参詣客が廻り易い様に導線を整備する工事の様な気がします。南門を潜ると右手に閻魔堂があって、その周囲にはお地蔵様が祀られています。真っ直ぐ進めば安産祈願の「観音堂です。
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此方は本堂(主尊は釈迦如来)の向いにある阿弥陀堂です。観ての通り染井吉野は散って八重桜が咲き始めていました。
此処に手水鉢がありますので、手水してから境内を廻ります。手水を始めたらワイフが目の前の飾り物に気付きました。見れば鷺草の飾りつけです。手水と云えば龍など水神に縁のある飾り付けが在るのが普通ですが。真っ白な鷺の飾りつけは斬新です。紙を切って作ったモノか良く解りません。ワイフが本堂の横の池に鷺草の自生地があるのでその関係だろう、指摘します。
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観音堂の入り口に在る手水鉢鷺草の飾りつけが斬新で素晴らしいと思いました。
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可愛い少女が鷺草を視て眼を輝かせていました。浄土宗のお寺さんは情操を養う工夫が詰まっています。
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手水の裏(西)は築山状になっていてその裾に33観音が並んでいます。一番左が33番の華厳寺になります。今日の主話題はこの石仏の風化です。
石仏には「風化」が宿命です。石は総じて堅いのですが石の種類によっては風化し易い石と風化しない石があります。関東地方で有名な石は「大谷石/栃木県」「房州石/房総の鋸山で採れる」「小松石/伊豆の湯河原でとれる」があります。石仏や墓標に最適なのは堅いし表面が美しい小松石です。一方房州石は凝灰岩で、火砕岩での上に軽石混じりの砂質凝灰岩が多いのです。柔らかいので細工に向いていますが砂岩に浸みこんだ水が氷結して風化を促進します。
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風化の進行した浄真寺の33観音像。既に観音様の表情も持物も判明できません。
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此方の11面観音様は左肩の上に地蜂が巣を作って右肩には蜘蛛の巣が張って桜の花弁が捕獲されていました。
房州石は江戸の町や城を作る時に盛んにも用いられました。浄真寺の石仏も房州石で作ったのでしょう。だから、4百年も5百年も持たない事は最初から解っていたのでしょう。「風化したらまたつくれば良い」思っていたと想像します。
ワイフに連れられて本堂横の池に行きました。池の水面は桜の花弁の吹き溜まり状態です。
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これは本堂南側の池です。芽吹いているのは菖蒲で池の中か少し顔を出しているのが鷺草でしょう。
鷺草が咲き出すのは7月でしょう。その頃このレッドリストに指定されている清純な花を観に来る事にしましょう。


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チューリップと親指姫

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ひき蛙が我が庭に還って来て以来ズット蛙の事が頭を離れません。朝起きれば新聞を取る序にひき蛙君に挨拶します。4月2日は横浜公園にチューリップを観て家に戻りました。「無事帰って来たよ」ヒキガエル君に挨拶した途端に「親指姫/アンデルセン作」を想い出しました。
親指姫は親指程の小さな少女ですが、なんとチューリップの花から生まれたのでした。
ところが、在る日ヒキガエルに誘拐されてしまいます。魚の助けで何とか脱出するものの、その後、「コガネムシ」にも誘拐され、更に置き去りにされてしまいます。
になり、親指姫は「野鼠」のお婆さんの許に居候します。しかし、隣の家の金持ちの「モグラ」に結婚を強要されてしまいます。しかしモグラの家にいた瀕死の燕を介抱し、結婚式の日に親指姫はツバメと共に、花の国へ行きました。そこで親指姫は「花の国の王子様」と結婚します。此処で読者は安堵します。

日本の昔話では総じて蛙は善役なのですが、親指姫では悪役です。
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これはリリック絵本の親指姫です。写真出店古書販売サイト/https://www.ezimport.co.jp/product.php?id=j462750208
日本の「かぐや姫」は竹の節で発見されます。しかし、親指姫はチューリップの妖精のように出現します。かぐや姫は好色な貴族に求愛されますが、拒みます。一方親指姫は蛙やモグラやに誘拐されたり求婚されます。でも「醜悪なモノは嫌い」と受け入れません。でも燕を助けたことによって「花の国の王子様」と結ばれます。
小学校の廊下を歩けばチューリップの絵が貼られています。女の子は「親指姫」が好きなのかチューリップを描いてその横に笑顔の少女を描きます。
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これはカシニヨール作「アリスと花束」です。カシニョール映像出典:絵画販売サイト/http://www.ne.jp/asahi/gallery/koyama/gaikoku/cassi/no56.htm
チューリップは子供も大人も大好きな花です。私のようにバブル経済に翻弄された者にとって、チューリップは苦い想い出も籠っています。地下も株価もが急騰し、成金がブランドショップを買い漁り、農協が買春ツアーに浮かれていた時代です。マスコミも「バブルの行方に警鐘を鳴らしていました。銀行はバブル融資に狂奔し、私の勤めた長銀は自身の不動産融資規制こそ守っていましたがノンバンクに迂回した不動産融資が膨大になって気付いた時には取り返しがつかない状態に陥っていました。当時バブル経済社会現象を教える歴史的教材に「17世紀初頭オランダに起きたチュウリップバブルを教えられました。
「チューリップ投資が儲かる」思った小金持ちは競ってチューリップに投資したのでした。チューリップの花の理論的価格よりも熱狂した投資家がチューリップを買い込んだ事から途轍もない価格に暴騰したのでした。でも、チューリップの球根が保存の効くモノであれば良いのですが、寒さに弱く腐ってしまいます。チューリップバブルは小金持ちを破綻させて弾けてしまいました。
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此れがチュリップバブルでモットも高価であったチューリップ。センペル・アウグストゥス)の水彩画(17世紀)。1637年の取引価格は1623年の取引価格の10倍に上昇していた画像出典ウキペディア/https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB#/media/File:Semper_Augustus_Tulip_17th_century.jpg
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これは我家のプランターで咲いたチューリップです。孫は花より犬が好きなようで、犬も私より孫の方が好きなようです。
4月2日に「横浜公園から日本大通り」にチューリップを観に出かけました。
JRの駅は何処も長蛇の列が出来ていました。定期券を求める学生や新社会人が並んでいるのでした。午前中のチューリップは皆太陽の方角を向いています。葉っぱが光合成する為に太陽に向くのは解りますが。花弁は光合成する訳ではありません。屹度太陽の方角から蝶々が飛んでくるのを知っているのでしょう。
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横浜公園の横浜球場前のチューリップの花。楠や桜の樹下を埋めて咲きます。この日は野球はお休みで、入社式を終えた横浜市職員や神奈川県庁職員の姿が目立ちました。また観光会社のバスガイド嬢の姿も初々しくて良かったです。
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野球場は横浜公園の東側中華街寄りにあります。西側はオフィス街です。横浜公園は日本の最初の公園ですから楠やヒマヤラ杉等の常緑樹も大きく、その足元をチューリップが埋めています。16万球の球根だそうですから100円/1球でも1600万円の費用をかけています。
横浜公園から北には日本大通りが大桟橋に向けて通っています。この通りもチューリップ鑑賞には向いています。
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日本大通りの歩道と車道を区切るチューリップ花壇。花壇の柵は腰掛けられるので楽にウォーキング出来ます。このように違う種類のチューリップを散らし寿司のように咲かせるのも楽しいモノです。
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向こうの煉瓦積みの建物は神奈川県庁です。向かいに現在新館を建築中です。横浜市庁舎も馬車道に建築中で跡地は関東学院の進出が決まっているようです。筆者は「カジノ」以外なら何でも歓迎です。
横浜の中心中区は開発が進んでいます。起爆剤はММ21街区が略埋まって来た事です。市議会ニュースを読んでいると横浜市都市開発公社に溜まっていた累積赤字も軽くなって来たようです。同赤字を吹き飛ばす妙手として「カジノを誘致」するのなら「間違っているあ!」と言うところでしたが、ММ21街区に日産に富士ゼロックス横浜銀行等が進出して賑やかになって来ました。何れ日本大通りから馬車道更にはММ21街区の並木道の足許をチューリップが埋める事になるでしょう。さすれば横浜はシンガポールに劣らない快適な都市になる様に思います。



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亀屋万年堂で寛ぐ

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九品仏浄真寺をお詣りして前回入りそびれた駅前の喫茶店に向かいました。処が駅前の行列が出来ていた喫茶店は閉店したようです。お知らせ看板を視ると「業態を変えて存続するとの事です。以前はケーキバイキングで女学生に人気だったようですが、賑わっていた事実は閉店ではなく、戦略の変更でしょう。自由が丘駅前には劣るものの九品仏門前も替え難い好立地です。そこで、方針を代えて自由が丘で喫茶することにしました。前回はモンブランでしたので、今回は亀や万年堂にしましたワイフは環八沿いの本店に行く積りだったようですが駅前ロータリーに近い新店舗に行く事にしました。
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自由が丘駅前ロータリーに面した亀屋万年堂の新店舗、1階は売場で中二階が喫茶室になっています。看板の上の連子窓の奥が喫茶室です。
亀屋万年堂と云えば王さんのCМで馴染みでした「ナボナはお菓子のホームラン王です」店内には(55周年記念商品」が並んでいました。
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亀屋万年堂の55周年記念商品
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万年堂の店頭奥に階段があって中二階が喫茶室です。
お店の奥に階段が在って中二階が喫茶室になっていました。喫茶店と云うよりお茶室か「庵」と云った雰囲気です。先客は私達より高齢者のご婦人ばかりです。聞き耳を立てた訳でも無いのに会話が響いて来ます。高齢の女性は声が大きいのです。右の婦人も左のご婦人もペットの犬の話でもちきりです。獣医に言われたそうです。「人間の食べ残しを犬にあげてはいけない」何故なら「人間の食べ物は高カロリーだから」「ドッグフードも高齢犬用にしなくてはいけない」
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此れが中二階の喫茶室です。
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これが私の注文した「和菓子アラカルト/830円です。葛餅に道明寺餅お団子みつまめアイスが少しずつ食べられますお茶は煎茶で言わなくても注いでくれます。
お隣のご婦人の奥に額が架っています。
額を観れば読んでみたくなるのが習性です。ワイフと協力して読みこなします。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 
すずしかりけり
               道元
読めて安堵します。この額なら一年中架け替えなくても済みそうです。万年堂に相応しい額です。
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道元禅師の歌を筆は「武藤寿堂」と書かれていました。




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彼我公園の亀と蝌蚪(かと)

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横浜公園の入り口にはこの公園の歴史が案内されています。横浜港が開港される前この辺りは「港埼遊郭」が在ったのだそうです。
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「港埼遊郭」大門出口の柳』五雲亭貞秀 万延元年(1860)  [国立国会図書館蔵]
しかし慶応2年10月21日に世に「豚屋火事」と呼ばれる大火で遊郭は焼失してしまい。明治維新政府は在留外国人を此処に集住させ、土木技師リチャード・ブラントンの設計によって遊郭跡地に公園、公園から港に向かって新道路が建設され、それぞれが現在の横浜公園と日本大通りとなった。
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此れは日本大通りから横浜公園に入る正門の横に案内されている横浜公園の歴史。
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横浜公園入口にある土木技師リチャード・ブラントンの胸像
なお、この折に馬車道や海岸通りもも整備しました。「横浜公園」は外国人と日本人がが共同で使用する公園であったことから、当時「彼我公園」(ひがこうえん)と呼びました。公園内には野球場(クリケット場も整備されました)。
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チューリップの向こうにあるのが「彼我公園」です。
昭和27年)公園内の野球場は「横浜公園平和野球場になり、昭和53年には老朽化した平和球場を取り壊して横浜スタジアムが建設されました。彼我公園の場所は「武道場」として活用されていましたが、県立武道館は岸根公園に移され、平成29年彼我公園が再度整備されました。
平成21年、横浜公園全体が近代化産業遺産に指定されています。
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彼我公園の池の縁子供と保母さんが集まっていました。皆が覘く池の中には亀が群れています。
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池の中に居るのは屹度また嫌われ者の「ミシシッピ赤耳亀」かと思いきや日本古来の石亀でした。
彼我公園とは良い名を付けたモノです。今流に言えば「国際友好公園」でしょう。明治維新を迎えて横浜は横浜市市歌(森鴎外作)に在るように国際化の意識が高かったのでしょう。今では常識ですが、その20年も昔は尊王攘夷が重要な価値観だったのでしたから大きな変容です。総じて「和魂洋才」で西洋の知恵や技術は習得するものの精神は日本古来のそれを堅持するものでした。
子供達が身を乗り出して池の中を見詰めています。また外来種の「ミシシッピアカミミ亀」かと思って私も池を見詰めました。私の好きな奈良の猿沢の池も外来種の亀が占領して固有種を駆逐するばかりか魚も被害になって対策に苦慮している事は有名です。横浜でもマンションの子が「緑亀」を可愛いと云って買って、家で飼っていても手が焼けるので川や公園の池に放流して、結果的には日本の在来種が駆逐されています。私の住む戸塚でも柏尾川の岸辺にはミシシッピアカミミ亀が気味悪い程集まっています。金沢文庫の浄土庭園もミシシッピアカミミ亀がゴロゴロしていてさながら地獄庭園の様相です。
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此れは金沢文庫の池です、この浄土庭園も無気味なミシシッピアカミミ亀が占領しています。
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此れも金沢文庫の浄土庭園を占領しているミシシッピアカミミ亀です。以前次にあっぷしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893297.html?m=lc&sv=%B6%E2%C2%F4%CA%B8%B8%CB&sk=0
ミシシッピアカミミ亀はその名の通り首筋の耳の辺りが赤い筋が入っているのが特徴です。気味悪さはその赤い筋が毒蛇のような印象を与えるのです。
彼我庭園の池に棲んでいる亀は赤い筋がありません。全体にくて在来種の石亀とか泥亀のようです。
安堵して池の浅瀬を観るとヒキガエルのオタマジャクシ「蝌蚪(かと)」が居ます。屹度ヒキガエルが彼我公園の排水溝や大木の洞に棲んでいてこの春先にこの池で排卵してもう孵化したのです。俳句ではオタマジャクシでは長すぎるので「蝌蚪(かと)」と呼びます。

  蝌蚪見つけ子らに教える保母若し
  春陽射して蝌蚪安らかなり彼我の池
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これは彼我庭園の池の底で平和そうな蝌蚪(お玉杓子です)
 


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大井町線の不思議

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九品仏駅のホームで向かいの御屋敷を視ていて不思議に思いました。この辺りは住居専用地域なのでしょう。家は3階建てが上限のようです。私の目の前の御屋敷は3階建て2階、3階は個室毎にエアコンの室外機が付いていますから。貸部屋なのでしょう。そうすると大家さんは1階に住んでいることになります。自宅を改造して1階は自身の住居で2,3階は貸室で合計8軒1軒が1DKとして、1軒の家賃が10万円なら都合80万円年金生活より優雅な生活が可能なようです。そう想って眺めると塀の上から覘く海棠の花も優雅に見えます。
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大井町線九品仏駅のホームの真ん前の御屋敷3階建てで庭先の海棠の花がゆかし気に咲いていました。
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御屋敷への目線を下げるとブロック塀の途中に木戸が付いていました。この木戸は何故付いているのか?考えました。
大井町線は長銀勤務時代に「鉄道財団を組成さして幹事銀行の役を担っていました。当時は田園都市線の一部として扱っていました。現在は田園都市線と云えば渋谷が始発駅で新玉川線を経て中央林間まで繋ぐ路線です。1979年8月から、現行の田園都市線大井町線に分かれて鉄道財団組成されました。大井町線は鈍行だけでしたが大井町発溝口行きの急行も運転されています。九品仏は鈍行しか停車しませんが6両編成の車両を停車させる長さが無い事から、乗車位置に注意しないと九品仏駅で乗降車出来ない事になります。
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東急の最新車両600系が大井町線を走っています。
私は昔の仕事を想い出しながら向かいの御屋敷の塀に付けられた木戸を観察しました。お隣の御屋敷も同様で線路側に木戸が付いています。良く見ると木戸のハンドルは線路側に付いています。御屋敷の内側から線路側に出る為の木戸では無くて、線路側から御屋敷に入る為の木戸です。外から出入りする扉では泥棒除けになりません。深夜にホームから線路伝いに木戸を開けて泥棒が侵入してくるかもしれません。大井町線は九品仏の先は上野毛等々力二子多摩川と高級住宅地を縫って走ります。民家の裏や軒先を掠めて走ります。線路の保線職員の苦心は並大抵の事では無いと想像されます。江ノ電が軒先を掠めて走るのは観光デモでありますが、都心の職場と高級住宅地を結ぶ大井町線では悠長にユックリ走って居られません。2分間隔で電車は走って来ます。「万一の時保線職員はこの木戸の取っ手を回してお屋敷の中に身を隠すのだろう」想像しました。現職時代でしたら直ぐに質問するのですが,今は好奇心の強い爺さんです。確かめる術もありません。



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燕を待つ

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北帰行が済んで、次のバードウォッチングの楽しみは燕のお出ましです。
堤防を良い気もちで歩いていると、眼の先を掠めて燕が飛び去ります。”私達は忙しいの!ノロノロ歩かないで!”言わんばかりの、す飛び燕さんです。一昨年の5月水鏡の安曇野を観たいと友人と常念岳の麓の穂高温泉に泊まりました。山には山藤の花が咲き、その向こうに常念の雪渓が眺められ、安曇野に降りれば農家の庭先に菖蒲が咲き出して、鯉幟に穂高中学の生徒さんが自転車で堤防を颯爽と走っていました。
命に溢れた光景の中で眩暈を覚えました。眩暈の中心は燕でした。燕ほど生きる悦びを教えてくれる生命はありません。私の入学した東戸塚小学校の校歌は次の歌詞で結んでいます。作詞は佐藤ハチローさんです。
”訓えみちびく 先生の いつもかわらぬ やさしさよつばめもかりも のぞいてく東戸塚の 学びやを”
私の鳥好きもこの校歌の役割大です。


私が学んだ頃は戸塚は田圃しかありませんでしたから、学校の渡り廊下や下駄箱の軒先には燕の巣が沢山ありました。今では燕の巣は殆ど見かけません。関越道の日高SAや東北道の羽生PAには燕の巣が並んでいます。我家の軒先にも燕が巣食ってくれると良いのですが、燕は我家には青大将が居る事カラスも飛んでくることを知っているので来てくれません。戸塚で燕を観る楽しみは駅前のパチンコ屋さんの自販機の屋根の上だけです。でも藤沢に行けば遊行寺の菖蒲田にめんした渡り廊下の軒下にも燕が巣を作ります。
私は戸塚駅東口でバス待ちの間パチンコ屋さんの自販機の屋根を眺めて”早く来ないかな!”燕を心待ちしています。

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此れは東戸塚小学校の校歌の原稿です。佐藤ハチローさんは燕の子のようにスクスクと子供が成長するよう願いを込めて作詞してくださいました。


此れはパチンコ店の玄関横に在る自販機の上に巣食った燕の巣。巣は二つあって毎年燕は補修しつつ孵化させています。
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此れは東戸塚小学校校歌の佐藤ハチローさんの書かれた原稿ですBは燕だけがテーマになっています。ハチローさんは生徒が「つばくらめ/燕の幼鳥」のように逞しく育ってほしい願を込めて下さったのでしょう。
       つばめもかりも のぞいてく
        東戸塚の 学びやを
今年は4月4日時点では未だ燕は姿を見せません。桜も散ってしまって青葉若葉の季節になったら虫が出て来ます。子育てには絶好の季節です。「初燕」は歳時記では「春」ですが私の季節感では初夏です。「時鳥/ほととぎす」も観なくなった昨今では「初燕」は初夏を代表する季語です。


今年は友人と根尾谷の薄墨桜と御母衣湖畔の荘川桜を観に行く約束にしていました。処が例年より10日も早く満開になりそうだというので急遽4月5日に出発する事になりました。何時もは自由題で俳句を楽しんでいたのですが今回は「目借時」「薄墨」「発燕」をお題にして連句遊びでもしようかと思います。いずれにしても旅行から帰った頃には燕も来ている事でしょう。









鉈彫り彫刻のルーツ「美並の粥川寺」

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私達は円空学会の研究成果に従って先ず円空誕生地と云われる岐阜羽島の「観音堂を詣で続いて母に死別された円空が預けられ得度したという『円空の父が禰宜であったという星宮神社』の神宮寺であった「粥川寺に向かいました。先ず星宮神社とはどんな神社であるかを知らないとその意味が解りません。日本三大修験地である白山は北陸の万年雪の霊場で山頂に積もった雪は西に流れれば九頭竜川(河口の町は三国)になり、北に流れ出せば庄川(河口の町は高岡)南に流れ出せば長良川(河口は名古屋)になります。水の神様であって夫々中流域には由緒深い神社が祀られています。長良川の水源地にあるのが星宮神社ですからご神体は大碓皇子(おおうすのみこ)神宮寺の粥川寺の本尊は虚空蔵菩薩です。7歳で母を失った少年円空は父を頼って美並村の星宮神社に身を寄せます。父の禰宜は別当寺であった「粥川寺」に息子を預けたのでしょう。少年円空は美並村の生業であった、森林作業を身を以って学んだのでしょう。木地師の技を覚え、村の祠に祀られた、素朴な仏像に馴染みます。それは「弾誓」上人が彫った仏像で、私は箱根塔ノ沢の阿弥陀寺や昨年は大町の弾誓寺を詣でました。(以前次に弾誓をアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46305693.html?__ysp=5YaG56m65Lul5YmN
円空仏の特長である荒々しい鑿跡の激しい彫法や木割りの技法は星宮神社時代に培ったものでしょう。1633年32歳で初めて仏像を彫った円空は白山から多分河口の三国港から蝦夷地の松前に渡り、主として東日本を修験行脚します。本格的な「作仏聖」の始まりでした。その姿は観音堂の入り口にも置かれていました。


遺言『遊びをせんとや生れけむ!』

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私も人生の第四コーナーを廻った自覚が強くなってきました。
新聞を視れば「遺言」だ「終就」だ活字が躍っています。栄六輔さんの「大遺言」も読みました。でも、天才脚本家も粋な生き方だけが綴られていて,少しも心に響きませんでした。テーマを列挙すれば、『知識に予算はかからない」「叱ってくれる人を探す」「人間関係に順位をつけない」「人間は今が一番若い」「生きているだけで面白い」「聞くは話すより難しい」「笑うことは武器になる」と云った話題で、『粋に生きる上では役立つ知恵』であっても、遺言というには寂しすぎます。
「栄六輔さんなら、もっと日本文化や江戸文化の本質に迫る遺言があったろうに!」思いました。そう想いながら見直すと栄六輔さんの自著ではなくてお孫さんがお祖父さんの言葉を想い起したり、栄さんの知り合いに訊きまわって上梓した本でした。
地下の栄さんは『遺言』を江戸っ子の為に書いておけば良かった苦虫を押し殺しておいででしょう。
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最近養老孟司氏の「遺言」が出版されました。脳科学者であると同時に「昆虫好き」で「文化への造詣も深い養老氏」の著書ですから期待を持って読みました。
ベストセラーになった「バカの壁」は養老氏の話をライターが口述筆記して出版したモノで、養老氏は滅多に自著しないのだそうです。でも「遺言」は長い航海の時間を有効に過ごす為に自ら筆を執ったのだそうで。期待を持って熟読しました。
「養老孟司氏が一生をかけて言いたかった事が「遺言」に書かれて居る筈だ、」思ったのでした。養老氏らしく、 『梁塵秘抄』の『 遊びをせんとや生れけむ戯れせんとや生れけん、」から書き出しておいでです。
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此れは岩波古典体系の「梁塵秘抄」です。
後白河法皇が謳うと反感が強くなりますが屹度時代の変革期に生きた人には「何故自分は産まれたのだろう?”は共通した「疑問」だったのでしょう。現代人も「人生の幕引き」が近づいて自問自答する人も多い事でしょう。どうせ「何の甲斐性も無い人生」です。「せめて面白可笑しく過ごしたい」というのはヘレニズム哲学の古くて新しい人生観です。一般に「エピクロス派」は「快楽主義」と呼ばれます。反対の人生観がストア派で「禁欲主義」という事になります。養老孟司氏も私と同じ栄光学園の卒業生ですからカソリックの倫理観で育っておいでしょう。従って禁欲主義に近い倫理観の中で青春時代を過ごされたと思います。でも脳科学者の遺言ですから科学者らしい視点があると期待されます。
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此れは国立西洋美術館の前庭に在るロダン作地獄門です。地獄門はダンテ作「神曲」で快楽主義者が「「死後行く「地獄の門」の意味で、西洋中世に席捲された「禁欲」それとも「快楽」二者択一の倫理観でした。養老孟司氏は”そんな選択は無意味である”と遺言しておきたかったようです。
第一章は「絶対音感」の説明に始まります。動物は総じて絶対音感の持ち主で一つの周波数の音しか聞き分けられないというのです。人間も産まれて直ぐは「絶対音感」の持ち主ですが、「社会生活を営むうちに絶対音感を失い、ノイズに慣れることに依って多くの人の言葉を聞き分ける事が出来るようになる」、というのです。「人間の耳は元々ピアノの鍵盤のようにな有毛細胞が並んでいるのだそうです。絶対音感を持っているピアニストは脳の中に鍵盤に似たイメージが出来ていて、耳の音感組織が直結していて、一定の周波数の音を聞き分けられのだそうです。でも社会生活を営む上で雑音を訊き分ける為に絶対音感を失うというのです。鶯の囀りも絶対音感で、雄の鶯が雌の鶯に聞こえるようにしているのだそうです。
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これは「雲雀」です。雄の雲雀は自分の縄張りを主張する為に囀り雌を誘っているのでありますから、他の動物に聞かれる必要も無いので絶対音感の持ち主なのだそうです

第二章は「意味の無いモノに在る意味」と題して「感覚所与」を説明されます。「感覚所与」とは哲学用語だそうで「耳に音が聞こえる」「目に光が入る」事によって先ず感覚器官に与えられる印象と云った意味だそうです。絶対音感で云えば耳の感覚器でとらえた感覚が脳の意識意識に伝えられる前の状態で、耳の感覚器を刺激した鍵盤状の感覚が脳に伝播され意識と記憶と交流するのでしょう。
「カメラアイ」があります。カメラアイとは観たモノを瞬間記憶してしまう能力です。 カメラアイは網膜の映像がストレートに「脳の意識や記憶能力が直結」してしまう能力でしょう。屹度鷲や鷹と云った猛禽類はカメラアイで、一度狙った地上の小動物を忘れずに追跡出来る能力になっているのでしょう。
動物は総て感覚所与をベースに生きる事で「個の生存」を確保します。一方人間は感覚所与を忘れて「人間同士共生する生き方」を選びます。「個の生存」よりも「種の保存」を優先しているのです。その為には人間は『結果絶対音感を失い「ノイズ」に慣れてる必要もあるしカメラアイは必要が無く、視た色や形を象形文字等で表わして人間同士のコミュニケーションを容易にしているのでしょう。
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熊谷守一画伯の猫熊谷守一画伯は観察を重ねて感覚所与に映った映像を画布に描いたのかもしれません。人間は猫を「黒」「白」「ミケ」と名付ければ大凡の猫の姿が解りますが、それは意識と云った脳の作業の成果なのでしょう。
第三章は「人は何故イコールを理解したのか」第四章は「意識と感覚の衝突」に移って、終章に向かって意識の説明に重点は移って行きます。睡眠している間は意識が無い事、意識は在っても身体が動かない状態を「金縛り」と云ったり、意識だけが残って感覚の無い状態を「臨死体験」と云ったりする、説明します。
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現代の臨死体験を描いた絵ヒエロニムス・ボス作「Ascent of the Blessed」。トンネルの向こうに光の体験が描かれている。出典:ウキペディア。日本霊異記や今昔物語には臨死体験に基づく地獄の描写が多い。
眠ってしまうと人間は意識を失います。でも睡眠中も脳は活動しているのだそうです。死んでしまうと脳は活動を停止してしまいます。「睡眠」「臨死体験」「死」は「意識」と「身体」のギャップによって違いが生じるそうです。意識の中枢器官は脳ですから脳も身体も活動している状態が「生きている」状態だそうです。体が休んで意識も休んでいる状態が睡眠だそうで、睡眠中の脳は記憶や思考を脳で秩序立てて整理しているのだそうです。「金縛り」意識は覚醒しているのに、身体が意の儘に動かない状態だそうです。「臨死体験」は心停止状態にありながら意識は完全には覚醒しておらず意識スイッチが入りかけた状態で意識が浮遊する状態だそうです。私も脳梗塞で集中治療室に居た間、臨死体験しました。青春を過ごした奈良の峰々や堂塔の甍を見下ろしていたのですが。感覚系は止っていました。気付いたのはワイフが私の手を揉んでいるのを気付いた時でした。”体は死んでも意識は生きている”状態を体験したのでしたが。古代末期であれば臨死体験が地獄を視て来た事にもなるのでしょう。
人間も生物である以上、必ず死にます。問題は”人間だけに発達した「意識」も身体の死と同時に死ぬか?”と云った問題でしょう、体が死ねば血液は脳に届きません。脳も身体に追随して死んでしまうと考えるのが自然でしょう。)スコラ哲学やダンテのように心(意識)は不滅で快楽主義者は地獄に行き、禁欲主義者は天国に行くと考えるのは不自然です。という事は、梁塵秘抄のように『遊びをする為に産まれて来た』自覚は尊いと思います。
でも感覚所与の儘に生きる事は「人間が二足歩行して共同生活を始めて以来」不可能です。感覚所与を活かして共同生活を営む上で大事なのは熊谷守一のように「生きる楽しみ」に浸ルイ着方の様に思えます。それは期せずも「アートな生き様です。養老孟司氏は第7章に「人は何故アートを求めるのか?」記しておいでです。「アートは解毒剤である」とか「コンピュータでアートは出来ない」と云ったテーマも付記されました。「意識も感覚も同じく大切なのだそうです。
今春は盛りです。私の感覚にも強く刺激してくれます。今年も何時もの友人と桜を観ながら旧街道を旅行する予定です。友人と一緒に千年も生き抜いてきた桜を視る事は楽しい事です。養老氏の「遺言」に従えば人を人間たらしめているのは共同生活を可能にしている「意識」です。今年も友人を大切にしながら四季を楽しむ事にしましょう。


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旅行ブログ

円空の産湯井戸

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私は70年代、阜羽島駅は何度も通過しました。大阪支店に転勤し、東京に往復し、岐阜羽島駅を観る度に、此処は円空の誕生地、「仏像拝観して廻りたいものだ、」思いましたが、交通費は銀行負担で、拝観して廻るのは気後れしていました。「何時か日文研の友人と気持ちよく拝観しよう!」想い留まって来ました。今回漸くその機会が出来て、円空仏を拝観しつつ、桜街道を高岡まで旅をする事が出来ました。出発は当初予定より2週間早めて、4月5日早朝でした。9時前に岐阜羽島駅に降り、駅レンタカーに乗って、先ず「羽島歴史民俗資料館」に向かいました。新幹線岐阜羽島駅の周囲は市街地化され賑わっていますが、旧市街地の「竹鼻地区は昭和30年代初頭の伊勢湾台風時代から変っていないようです。ブリキ屋根の民家は錆びて昭和の空気が流れています。歴史民俗資料館は映画館の再活用した建物のようです。古い映画の上映をしているようです。この日は「原節子主演」の日独合作映画「新しき土」を上映していました。
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羽島の旧市街地竹鼻に在る歴史民俗資料館は映画館の再利用の様でした。
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映画資料館では定期的に昭和の映画を上映しているようでした。
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竹鼻地区の表通りにjは円空仏が置かれています。誰が彫っているのかな?
円空の研究については昭和46年創設された「円空学会」が良い仕事をしてきました。こうした民俗学の仕事は可能な限り善意良識な仲間が共同してフィールドワークし、研究成果でもって研鑽を重ねる事が有効です。また円空独特の鑿技法を承継する事も意味深いと思います。こうして羽島地域の街路や公共施設に円空仏が置かれているという事は、沢山の人が円空を模倣して円空の鑿を研鑽している事の現れでしょう。
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これは1994年小田急美術館で開催された円空展のアルバム、円空学会の研究成果が活かされていました。私の学生時代には知られていなかった農家の仏壇の像や、円空以前の「弾誓」等の研究もありました。
私達は歴史民俗資料館でパンフレット等を揃えて、先ず円空生誕地と云われる「中観音堂」に向かいました。
円空研究では従来、「臨終地/関市のみ弥勒寺」は問題ないとして生誕地が不明でした。円空学会の業績は「円空の誕生地が羽島の中観音堂」であろうと云う事を示しました。「何故羽島なのか?」と云う根拠として祖師野薬師堂の木札」にある「美濃国竹ヶ鼻」と書かれていたこと、及びその間の推論として、竹鼻の貧農の娘が長良川中流域の美並にある「星宮神社」の巫女さんとして送り出されたモノの星宮神社で妊娠してしまい、故郷の実家に戻された、そして出産したのが円空でした。
しかし円空の母は大洪水で亡くなってしまいます。そこで、父親のいた美並の星宮神社(粥川寺)に預けられました。青年円空は美並の祠で「弾性上人作の仏像・神像をを視ます。その後円空は修験僧として白山から伊吹山に更に大峰山に行脚し、蝦夷松前にわたります。
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円空学会の一生を整理してみました。
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梅原猛氏による「円空の和歌」の研究成果(朝日新聞)筆者の学生時代の切り抜きです。円空は仏像に「作仏年月日目的」等を記していましたし。和歌も残しているので研究成果が上がっています。
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中観音堂の前庭には多くの円空摸刻像が並んでいます。中央の護法神像は2mもの巨像です。
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中観音堂「有宝寺」本堂は二階建ての二階に在るのは此処が洪水多発地帯だからでしょう。右の建物は2階が円空資料館の展示スペース(此処は写真撮影可)その1階はアトリエになっていて、円空像を彫ろうとする人が研鑽を積んでいます。
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本堂では住職が詳しく質問に答えてくれました。何か監獄に入れられているようで気の毒に思いました。正面厨子に本尊の十一面観音が居られます。
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摸刻像の展示室
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梅原猛氏の色紙と解説風景
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円空資料館の前庭駐車場の脇には摸刻像が林立しています。
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道路向かいには円空が産湯を使った井戸が今も使える状態でした。
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これが中観音堂の本尊11面観音です。魚籃観音を想わせる衣文が付いた2m余りの立像である事から1871年(40歳の円空が母の33回忌法要の為に帰郷して彫り上げたと云われます。11面観音は白山の本地仏であります。
今回のツアーでは、少年円空が預けられ得度(僧になる儀式)した。星宮神社の神宮寺の粥川寺と遷化した「弥勒寺」を巡る予定です。どの寺も長良川の本流と支流の岸辺に在ります。



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円空旅立ちの美並粥川村

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私達は[円空学会]の研究成果に従って先ず円空誕生地と云われる岐阜羽島の「観音堂」を詣で続いて母に死別された円空が預けられ得度したという『円空の父が禰宜であったという星宮神社』の神宮寺であった「粥川寺」に向かいました。先ず星宮神社を説明します。星宮神社を知ることは、円空を理解する上で重要だと思うのです。
日本三大修験地である「白山」は北陸の霊場で山頂に積もった雪が西に流れれば九頭竜川(河口の町は三国)になり、北に流れ出せば庄川(河口は高岡)南に流れ出せば長良川(河口は名古屋)になります。白山は水の神様であって夫々中流域には由緒深い神社が祀られています。長良川の水源地にあるのが「星宮神社」ですからご神体は大碓皇子(おおうすのみこ)神宮寺の粥川寺の本尊は虚空蔵菩薩です「星」とは北斗七星の「北極星」の事でしょう。北極星に祈ることで、災厄と豊穣を祈願する神社でした。
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岐阜羽島の観音堂の前庭に建てられた円空上人旅立ちの像3m近い大きな立像でした。
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羽島の観音堂の展示室に置かれたお人形のように柔和な円空上人像。有名な奇人伝中の円空上人を造像したモノでしょう。
7歳で母を失った少年円空は父を頼って美並村の星宮神社に身を寄せます。父は星宮神社の禰宜でしたから、息子を別当寺の「粥川寺」に預けたのでしょう。此処で円空は35歳まで過します。少年円空は美並村の生業であった、森林作業を身を以って学んだのでしょう。木地師の技を覚え、村の祠に祀られた、素朴な仏像に馴染みます。それは「弾誓」上人が彫った仏像で、私は箱根塔ノ沢の阿弥陀寺や昨年は大町の弾誓寺を詣でました。(以前次に弾誓をアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46305693.html?__ysp=5YaG56m65Lul5YmN
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岐阜羽島から関に向かう。長良川を渡ると中景に岐阜城のある「金華山」遠景に霊峰白山(大日山?)が見渡せます。今回のツアーは白山から南に流れる長良川を遡り、御母衣湖から流れ出る庄川に沿って高岡に向かう旅です。
円空仏の特長である荒々しい鑿跡の激しい彫法や木割りの技法は星宮神社時代に培ったものでしょう。1633年32歳で初めて仏像を彫った円空は白山から多分河口の三国港から蝦夷地の松前に渡り、主として東日本を修験行脚します。本格的な「作仏聖」の始まりでした。その姿は観音堂の入り口にも置かれていました。美並は長良川の中流域にある林業の町です。町村合併により郡上市美並町になっています。長良川を長良川鉄道美並駅で左折(西)の山間に入って行きます。道路に「美並故郷館の開館時刻は10時とあんないされていました。このまま行けば1時間も時間が余ってしまいます。道すがら「円空岩」や「円空洞」の案内が出ています。「水の駅」なんて言う案内もあります。時間潰しもあって、先ず円空岩に寄道しました。
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円空街道の家並み、林業の町らしく美林が続いています。
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円空街道の観光案内写真の下段真ん中が星宮神社でその左が円空洞、でその隣が円空岩です。
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ひもじい想いをした円空少年が潜んだと云われる円空岩花粉症の友人も呆然と見上げる玄武岩の大岩でした。少しでも円空にあやかりたい思った筆者は足元の小石を拾って来ました。
星宮神社は円空街道の最深部に在りました。杉の巨木の間に社と宝物館が建っていました。見れば狛犬は円空上人のそれを摸刻した石製でした。

入口に掲げられた案内板には星宮神社の由緒が記されていました。天暦のはじめ(947年頃)この地に妖怪が出現した事から朝廷は藤原高光を派遣して鬼退治をさせたのだそうです。藤原高光は歌人であり弓の名手でした。虚空蔵菩薩に祈って弓をひいて天空から襲い来る鵺(ぬえ)を退治したので此処に星宮神社を建立したとありました。
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円空街道の粥川の支流(谷本川を渡る橋の欄干には「藤原高光」の像がありました。
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円空街道沿いには貯木場が目立ちました。
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田起しの準備に入る農夫
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これが星宮神社の最後の石鳥居です。右側に絵馬懸けと由緒案内が建っています。
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星宮神社社殿(奥)と宝物館(右)
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円空の狛犬を似せた石の狛犬
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社殿前の霊杉(たま杉)郡上市天然記念物
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星宮神社の絵馬は左鎌でした左鎌は左手効きの人が使う鎌で、「草薙の剣」と同じく災厄を祓う神具でありますが、星宮神社では造林の為の「枝下し」の道具の意味でしょう。
粥川寺は「美並ふるさと館」と同じ棟に在りました。
ふるさと館は所謂民俗博物館でした。伊吹山の民俗博物館も良かったし、白神山地の民俗博物館も良い展示でした。
美並の民俗博物館は祖先への感謝と豊穣な山への感謝に満ちていました。
円空の鉈彫りが素晴らしいのは此処美並が森林を営みの場にしてきたからだ・・・・!」主張していました。町民が寄付した土人形のコレクションは稀に観る展示でした。私は藤原高光を探したのですが、勧進帳等歌舞伎モノが目立ちました何といっても一番は山から伐り出した材木を筏に組んで運ぶ術と丸太を木割りする道具類の展示でした。次には95体の円空仏が年代順に展示されており、円空の作風がどのように移り変わって行くのかがよくわかる事でした。95体は凄いのですが木端仏や15㎝程の坐像が多いので観音堂や弥勒寺の円空展示館に較べれば小粒な感がします。
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此れが美並ふるさと館の入り口で左奥の防火建築が円空仏等の文化財の展示施設です。入り口左が粥川寺です。
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美並ふるさと館の展示円空仏郡上八幡市の白山神社に多くが守られて来ました。神像は右から男神像、次いで女神は菊理媛(キクリヒメ)でしょう。
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美並も此処が円空の誕生地であると主張して展示をしています。
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美並町が円空の誕生地里主張する根拠の一つがこの観音像が母の面影を留めているからでしょう。パネルに案内されている通りこれは摸刻像なので触れます。
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ふるさと館のジオラマ。材木を筏に組んで粥川から長良川を経て下流の岐阜や河口の名古屋に運んびました。
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美並は美林の町と云う意味でしょう。伐り出された丸太を木地士が木割りして材木にしていました。少年円空はその姿を観察していて鉈彫りの技術を編み出したのでしょう。
明日は円空参詣のクライマックス「弥勒寺」を案内します。天蓋のように見事な紅枝垂れ桜がまんかいでしたし、円空の展示館も現代人の円空風鉈彫りも見事でした。




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円空の入定地「弥勒寺」

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円空学会の研究の成果に依れば円空は全国行脚を終え、母の没した羽島に近い関市の弥勒寺に入って住職になり長良川の河畔で即身成仏した事になっています。
刃物の町関市の西、山裾が平野で延びる辺りに弥勒寺がありました。長良川を渡ると。大きな観光ホテルが建っています。そう!此処は鵜飼の地で、川沿いのホテルに泊まれば舟を出して鵜飼を楽しむ事が出来るのでしょう。鵜飼ホテルの並びに壇状の盛り土があって藤棚がありました。藤棚の下に「円空入定の碑」が建っていました。「円空学会の報告書では円空はまるで湯殿山の即身仏「真如海上人」のように自ら土の穴に入って一生を終えた事になっていました。弥勒寺の歴代住職墓地には中興の住職として円空の墓標がありました、墓標の脇には立彼岸桜の古木が在って、花弁が緑苔に散っていました。円空が入定されたのはこの弥勒寺の裏山で、長良川堰堤の「入定碑」の辺りでは無いのでしょう。碑銘を読めば昭和14年に建立されています。円空がブームになって、円空の縁故地が競ってこうした記念碑を建てたのでしょう。

根尾谷の薄墨桜の感動

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今回のツアーは円空仏を親友とめぐることが第一目標でした。当初予定は4月17日出発の予定でしたが、インターネットで根尾谷淡墨桜の開花状況を確認すると4月1日に5分咲きでした。その後の天候も良く温度も高いので急遽4月5日出発する事にしました。根尾谷に近い本巣市の宿は既に予約でうずまっているので、議場八幡に宿を抑えて、今回は3人で旅立ちしました。関市の円空館を後にして一直線に根尾谷に向かいました。街道を登るにつれて桜が満開になって行きます。低地では既に桜は満開でも、高地に進むにつれて桜は未だ咲き出しているのです。桜前線が南から北上するように山の多い岐阜県では岐阜羽島では桜は散り出しても高地に行けば未だ満開の桜が観られるのです。
朝から未だ何も食べていません、でも「昨年七色紅葉を観た時の様に樹を観ながら「御幣餅」をたべよう」という事になりました。
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