私も人生の第四コーナーを廻った自覚が強くなってきました。新聞を視れば「遺言」だ「終就」だ活字が躍っています。栄六輔さんの「大遺言」も読みました。でも、天才脚本家も粋な生き方だけが綴られていて少しも心に響きませんでした。『知識に予算はかからない」「叱ってくれる人を探す」「人間関係に順位をつけない」「人間は今が一番若い」「生きているだけで面白い」「聞くは話すより難しい」「笑うことは武器になる」と云った話題は粋に生きる上では役立つ知恵であっても、遺言というには寂しすぎます。
「栄六輔さんなら、もっと日本文化や江戸文化の本質に迫る遺言があったろうに!」思いました。そう想いながら見直すと栄六輔さんの自著ではなくてお孫さんがお祖父さんの言葉を想い起したり、栄さんの知り合いに訊きまわって上梓した本でした。
最近養老孟司氏の「遺言」が出版されました。脳科学者であると同時に「昆虫好き」で「文化への造詣も深い養老氏」の著書ですから期待を持って読みました。ベストセラーになった「バカの壁」は養老氏の話をライターが口述筆記して出版したモノで、養老氏は滅多に自著しないのだそうです。でも「遺言」は長い航海の時間を有効に過ごす為に自ら筆を執ったのだそうで。期待を持って熟読しました。
「養老孟司氏が一生をかけて言いたかった事が「遺言」に書かれて居る筈だ、」思ったのでした。養老氏らしく、 『梁塵秘抄』の『 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、」から書き出しておいでです。
此れは岩波古典体系の「梁塵秘抄」です。
後白河法皇が謳うと反感が強くなりますが屹度時代の変革期に生きた人には「何故自分は産まれたのだろう?”は共通した「疑問」だったのでしょう。現代人も「人生の幕引き」が近づいて自問自答する人も多い事でしょう。どうせ「何の甲斐性も無い人生」です。「せめて面白可笑しく過ごしたい」というのはヘレニズム哲学の古くて新しい人生観です。一般に「エピクロス派」は「快楽主義」と呼ばれます。反対の人生観がストア派で「禁欲主義」という事になります。養老孟司氏も私と同じ栄光学園の卒業生ですからカソリックの倫理観で育っておいでしょう。従って禁欲主義に近い倫理観の中で青春時代を過ごされたと思います。でも脳科学者の遺言ですから科学者らしい視点があると期待されます。
此れは国立西洋美術館の前庭に在るロダン作地獄門です。地獄門はダンテ作「神曲」で快楽主義者が死後行く地獄の門の意味で、西洋中世に席捲された「禁欲」それとも「快楽」二者択一の倫理観でした。養老孟司氏は”そんな選択は無意味である”と遺言しておきたかったようです。
第一章は「絶対音感」の説明に始まります。動物は総じて絶対音感の持ち主で一つの周波数の音しか聞き分けられないというのです。人間も産まれて直ぐは「絶対音感」の持ち主ですが、社会生活を営むうちに絶対音感を失い、ノイズに慣れることに依って多くの言葉を聞き分ける事が出来るようになる」、というのです。「人間の耳は元々ピアノの鍵盤のようにな有毛細胞が並んでいるのだそうです。絶対音感を持っているピアニストは鍵盤と耳の音感組織が直結していて、一定の周波数の音を聞き分けられの野だそうです。でも社会生活を営む上で雑音を訊き分ける為に絶対音感を失うというのです。鶯の囀りも絶対音感で、雄の鶯が雌の鶯に聞こえるようにしているのだそうです。
”雉も鳴かずば撃たれまい”云われる雉の鳴声は雌の雉にしか聞こえません。何故なら雉は絶対音階なのですから。
第二章は「意味の無いモノに在る意味」と題して「感覚所与」を説明されます。「感覚所与」とは哲学用語だそうで「耳に音が聞こえる」「目に光が入る」事によって先ず感覚器官に与えられる印象と云った意味だそうです。絶対音感で云えば耳の感覚器でとらえた感覚が脳の意識器官に伝えられる前の状態で、耳の感覚器を刺激した鍵盤状の感覚が脳に伝播され意識と交流するのでしょう。目に入った光が例え黒い鉛筆で書かれた字でも脳がこの図形は「白」と云えば、白と判断するのでしょう。人間は感覚所与よりも脳に在る意識を核にして生きていることを予測させてくれます。
動物は総て感覚所与をベースに生きる事で個の生存を確保します。一方人間は感覚所与を忘れて人間同士共生する生き方を選びます。結果絶対音感を失い「ノイズ」に慣れて人間同士のコミュニケーションが可能になります。
熊谷守一画伯の猫熊谷守一画伯は観察を重ねて感覚所与に映った映像を画布に描いたのかもしれません。人間は猫を「黒」「白」「ミケ」と名付ければ大凡の猫の姿が解りますが、それは意識と云った脳の作業の成果なのでしょう。
第三章は「人は何故イコールを理解したのか」第四章は「意識と感覚の衝突」に移って、終章に向かって意識の説明に重点は移って行きます。睡眠している間は意識が無い事、意識は在っても身体が動かない状態を「金縛り」と云ったり、意識だけが残って感覚の無い状態を「臨死体験」と云ったりする、説明します。