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小倉山「大蔵寺」の筍

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「小倉山」でランチしてゆったりした気分になりました、4月23日午後の最初の目的地は福島の桜の名所「小倉山大蔵寺」です。再度阿武隈川を渡って東側の丘陵に登ります。
イメージ 1此れは小倉山大蔵寺の稚児桜です。写真出典:福島市観光サイトhttps://www.f-kankou.jp/kankou-meisho-oguraji-daizouji/住職の話では仏心を抱いて出家した稚児が鎌倉に登ったモノノ、鎌倉の坊主に一目惚れされて、仏心どころではなくなってしまい江の島の岩場(稚児が淵)で投身自殺した事を憐れんで植えられた桜だそうです。
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此れが稚児桜です。既に青葉でした、背後のプレハブの建物が住職のお住いでした。
有名な稚児桜は既に青葉になっていましたが、風雪に耐えた姿は凄まじい迫力でした。拝観料は一人目が500円、二人目以降は300円、と風変わりな料金体系です。受付の叔母さんは「遠路遥々参詣されて、尊い事です」とも云わず「予約の無い人は拝観できないのですが・・・・・、(住職に)訊かれたら予約してあった事にして下さいね!」何て言いながら住職の隠居建物(普通は住職は庫裏の方丈に居るモノですが)の玄関に入りました。私達が鉄筋コンクリート防火建築の宝物館の入り口で暫く待っていると、年老いたお坊さん(住職)が石段を上って来て、宝物館の鉄扉を開いてくださいました。住職は訥々と宝物館の諸仏を説明されました。
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寄棟の建物が観音堂で、その背後が多宝塔です。11面観音は多宝塔に祀られていたのでしたが昭和42年に重文に指定され、解体修理を終えて右奥の段にある宝物館に遷座されています。白い花はシャガです。
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住職が宝物館の鉄扉を開けて私達を導いて下さいました。
説明の要旨は『この11面観音は萱の一木作りで、坂上田村麻呂が東北鎮護の戦いに赴く際にこの地を通り、行基菩薩を開基に寺を創建し、本尊にこの丈六の観音菩薩立像を奉納した』伝えられています。
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此れが大蔵寺11面観音です。大蔵寺パンフレットをコピー。
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書庫の本で確認すると船底天井の多宝塔の中に祀られていた時代の姿が記録されていました。高橋富雄著 『みちのく―風土と心』(社会思想社刊 )        
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此れは會津立木観音此方は千手観音ですが、状態は大蔵寺の11面観音よりも良かったようです。會津は8.5mありますから大蔵寺の観音の倍もあります。でも大蔵寺の観音の圧倒するボリュームは少しも劣りません。東大寺3月堂の不空羂索観音に匹敵する存在感です。
しかし中世以降大蔵寺は衰退して、この11面観音像も腰から下は朽ちていたのでしたが、昭和43年に重文に指定され京都で解体修理を終えて宝物館に遷されたのでした。それまでは観音堂裏の多宝塔に祀られている秘仏でした。
弩迫力の観音像と云えば会津の立木観音を想い出します。昨年春にも拝観しました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CE%A9%CC%DA&sk=0。会津の立木観音は寺伝によれば弘法大師、一方大蔵寺の11面観音は行基作ですから、寺伝だけを比較しても大蔵寺の方が百年余り古い事になります。平安時代前期の貞観様式で福島県内最大のといわれる高さ4mにおよぶ一本のカヤの木から作り出された千手11面観音です。
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観音像の裏に回るとそのボリューム感に圧倒されます。
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宝物館の壁際には破損仏が並んでいました。寄木造りの破損仏ですから平安時代中期以降の作でしょう。
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これは金剛力士(仁王)の破損像、寄木造りである事から平安中期以降の作でしょう。パンフレットを複写。
稚児桜こそ観られませんでしたが、11面観音立像を拝観して満足しました、境内には出羽三山の石塔があり、足利大神の社殿前には8メートもの大草履が祀られていました。次の目的とは花見山です。愈々大蔵寺を退出しようとすると、庫裏の土間に筍が山盛りりされていました「美味しそう!」皆して覘きこみます。受付に居たお婆さんが「朝どりですよ、柔らかいし、香りも良いですよ!」しきりに奨めます。「貰って帰ろうか!今晩刺身にして酒の肴にもなるし・・・・。」その気になった途端に1本200円にしておきます。東京なら6百円はしますよ・・・!」中々に商売気のあるお婆さんです。
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山盛りされた朝どり筍
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筍を並べて商売気のあるお婆さん。


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旅行ブログ



花見山に視る「農業愛」

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阿武隈川の東岸、丘陵の連なる辺りを「渡り」というのです。阿武隈川の東側の盆地が福島で巣から、福島から更に北陸奥に下るには阿武隈川を川下りして松島から多賀城に向かうのでしょう。阿武隈川の渡り場が在ったから「渡り」でアリ。有名な「黒塚/安達ケ原」は渡りを越えた先の「一つ屋/野原の中の一軒宿」だったのでしょう。
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此れが福島の花見山公園です。向かいの冠雪した山が「安達太良山」でしょう。私達が行ったのは4月23日でしたので既に桜は散ってしまっていましたし、「天気も雨だったので、こんな写真を思い描いていたのでしたが、観られませんでした。写真出典福島市観光サイトhttps://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RivbV2SeZanHYAPBYdOfx7;_ylu=X3oDMTBiaGxjcmduBHZ0aWQDanBjMDAy?p=%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B1%B1+%E7%A6%8F%E5%B3%B6&aq=1&oq=%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B1%B1&ei=UTF-8花の彼方の冠雪した山が安達太良山を含む吾妻連峰です。
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JR東日本の駅舎に貼られたポスター、看板は花見山の桜で見頃は4月中旬とされていました。
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花見山公園の入り口に貼られた看板30分45分60分の3コースがあり、八重桜が見頃の30分コースを推薦されました。
JR東日本の駅舎には「桜は待ってくれない」コピーと福島の花見山や「秋田の角館」の写真を大写ししたポスターが貼られています。その通り4月23日を待ってくれずに青葉に変ってしまいました。臨時大駐車場には沢山の大型バスが駐車しています。屹度旅行代理店が「例年4月中旬に見頃になるので、こうしてお客さんを乗せて遥々遣って来たのでしょう。既に東北の花の名所として知られている「花見山」ですが。駐車料も入場料も在りません。駐車場と公園の間の通路に屋台が出店しているだけで、お金を使う場も在りません。公園入口に「寄付金箱」が在るだけです。名は「公園」でも公園法に依る公園ではなくて入口に在る農家「阿倍さん」の私有地だそうです。安倍さんの先代伊勢次郎氏が稼業だった養蚕を止め雑木林を開墾して花木農家に転業したのが昭和の初めだったそうです。福島市街を眼下に見下ろし市西武の吾妻連峰や安達太良山を見渡す桃源郷が出来た次第でした。花見山公園の二代目が安倍一郎氏で、同氏の愛語「信農魂」は商人には「商人の魂」があるように「農民には農民の魂」が在る、如何なる時にも「なにくそと頑張る気持ち」気概だと主張されたのでした。現在は3代目安倍一郎氏が花見山公園を主宰されていますが。駐車場料金も公園入場料も取っていないのは先代までの「信農魂」のスピリットが浸みこんでいるからでしょう。こんな精神は江戸時代の農業経済学者「鈴木正三/経済録の著者」や「安藤昌益/自然真営道」にも在りました。大都会から来て桃源郷に感激した旅行者は「どうして無料なのかしら?」思いながら昔は桑畑であった小山を周回します。
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此れは「花見山公園」の生立ちを説明した「福島通信」です。私が質問をするとこの文書を手渡されました。
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花見山公園入口に在る阿倍さん宅の縁側脇には杖が置かれていて”花を巡るには杖をお使いください”親切があふれていました。
私達は係員の推薦に従って30分コースを歩きました。30分コースの見物は八重桜と躑躅で今が見頃だそうです。上掲写真は遠くに吾妻連峰が見えるので屹度60分コースの頂上から見た写真でしょう。
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此れは花見山公園の八重桜です。
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グルッと廻って来るとチューリップを植えた畑の前に出ます。この畑は三代に渡って花見山公園を育てた阿倍さんの屋敷の裏畑で、普通なら野菜畑にする処阿倍さんがお客様を喜ばせたい一心でチューリップを植えられたのでしょう。駐車場と公園の間の畑も菜の花等の花畑になっていました。
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此れが阿倍さんのお宅です。公園を周回してくると此処に出ます。これだけの丹精を無料で見学させるのは尊い精神です。
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阿倍さんの御屋敷の土間には花見山の四季の写真が展示されていて座って鑑賞できます。此処で「商売気」を出さないのは立派です。屹度”「信農魂」は「商人魂」と違うのだ”という信念の現れでしょう。
「信農魂」に感服した私達でしたが係員の「今年は早く咲き、散ってしまったので残念な事をさせてしまいました。飯坂の花桃は今が見頃だと思いますよ」言葉に従って翌日は予定を変更して「飯坂温泉の花桃の里」に向いました。



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「飯坂温泉」の「花桃の里」の美しさ

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花見山の花は殆どがお終いでした。関東各地から集まった大型バスが駐車場で溜息をついていました。そこで、案内人に訊いてみました。「今が見頃の花はありませんか?」すると交通整理をしていた案内人が教えてくれました。「今は屹度飯坂温泉の花桃の里が見頃だと思いますよ!」翌朝地元新聞に昨日4/22日日曜日は飯坂温泉花桃の里が賑わった事、地元観光協会が”烏賊人参のチジミ」を来客にサービスした」と書かれていました。烏賊人参は福島のソウルフードですし、チジミの具にしたら実に美味しそうです。美しい花にソウルフードに誘われたら行かずばなりません。少し行程に無理が生じますが、飯坂温泉に向かって進みました。
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此れは福島市内と飯坂温泉を繋ぐ街道です。正面に見えるのが信夫山で、道路左の鉄道が福島交通の飯坂鉄道です。街路樹は花水木で雨に洗われて綺麗でした。
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飯坂温泉「花桃の里》への道。向こうの山麓を越えれば山形です。山裾の鉄筋建物群が飯坂温泉です。「花桃の里」の入り口に在る建物は野菜売り場で、週末は「烏賊人参のチジミ」をサービスしていたようです。この日は焼き芋をサービスしていました。
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この日は「焼き芋」をサービスしてくれました。「花桃の里」もン入場無料でした。
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足下が悪いし、降雨で滑らないように気を使いながら園内を廻りました。
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実の成る桃は既に摘花を終えているのですが、花桃は綺麗だし、長い間咲いているので、桜が散っても鑑賞できるのです。この意味では観光地飯坂温泉にとって「花桃の里」は格好の施設です。
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染井吉野が散って1週間たっても花桃は見頃です。
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花桃は「濃いピンク」と白い花のコントラストが鮮やかです。雨蛙を見つけて興奮です。
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「花見山」は間に合わなかったのですが「飯坂花桃の里」は見頃でした。桃源郷福島を「おもてなし」は一昨年も恩恵に預りました。あの時は「三春の滝桜」を観に行ったのでしたが、既に滝桜は終えていました。落胆する私達に係員は滝桜より少し高い位置にある「地蔵桜/滝桜の子供/田村市」や「田沢の田植え桜/田村市」なら見頃だと教えてくれました。お蔭で思いがけなくも桜と農業の強い関係を実感できましたし、石仏も多く見つけられました。
「飯坂温泉花桃の里」を実現した経緯が気懸りです。花見山が如何にも福島の「篤農家」の信念で実現し、家族三代に渡る志しで観る事が出来るのに対し、「花桃の里」は飯坂温泉観光協会が企画実現運営しているのでしょうか?
気になっていると看板が出ていました。
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これは「花桃の花園」内に建てられた案内。宇都宮大学農学部の協力と地元の協働で完成されたとわかります。
看板には宇都宮大学農学部「吉田雅夫氏の指導によって飯坂温泉と共同で世界中から集めた39品種の花桃を植栽した・・・・」案内されていました。開園は平成19年ですから私の学生時代は在りませんでした。
新しい観光地ですが、大学と温泉町のタイアップで出来た美しい桃源郷です。
花桃を満喫して私達は今晩の宿南相馬に向かいました。

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「こけし」がユネスコ文化遺産に指定される日

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此れが吾妻連峰安達太良山の山麓にある酪農農園パーク「アンナガーデン」です。喫茶食事に最適です。この日は雨でしたが天気ならば向かいに阿武隈三系が見渡せるはずです。看板の後ろがこけしのコレクションの「西田記念館」です。
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「アンナ・ガーデン」の入り口には「なんじゃもんじゃ」の花が盛りでした。
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「アンナ・ガーデン」のジェラートの店「モンジュール」で一休みしました。
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ハーブのお店にはお人形が並んでいました。
信夫山文庫で食事を終え、小倉山大蔵寺で巨大な丈六観音立像を拝観した私達は今晩の宿安達太良山の中腹にある岳温泉に向かいました。その途上「アンナ・ガーデン」という名の観光スポットに寄りました。実は私は昨年白神山地を旅行し、「お白様」を拝観しました。お白様を拝観した実感は「木偶(デク)の坊のこけしに美しい京友禅の着物を着せたモノだ」思ったのでした。
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これが青森の弘前市から白神山地に入った辺りに観られる「お白様」です。観ての通りこけしに京友禅を着せたお人形の様なモノです。昨年次にアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%A4%AA%A4%B7%A4%E9%A4%B5%A4%DE&sk=0
お白様は子供達の守り神様でお地蔵様の様な「守り神」です。私はコケシのルーツはお白様で昔の子供は薄命であった事から。お白様に守って貰い次に生まれた時には裕福な家庭で健康に育ってほしい・・・・」祈ったものと思ったのでした。こんな仮説を確認するにはコケシの始まりと云われる二本松の「大竹子育て地蔵尊」と「小浜万人地蔵尊」を視ておきたい思ったのでした。その前にアンナガーデンに在る「西田こけし記念館」でコケシの勉強をしておこうと思ったのでした。
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これは小浜万人地蔵尊の「稚児祭り」5/3日から5/5日まで子供の健康を祈願して営まれます。写真出典岩代観光協会http://www.evergreen-net.jp/saishin/komorijizou09
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これは小浜万人地蔵尊の稚児祭りに奉納されるこけし風の地蔵尊です。後で記述する近くにある土湯温泉のこけしと似ています。
それにアンナガーデンには教会が在って結婚式も行えるし食事もジェラートも食べられるのです。西田記念館はこけしの博物館として著名な施設で、福島生まれの西田峯吉氏が小暦ションした1万体余りのこけしと資料を一般公開したいという強い希望を持って、「公益財団法人東邦銀行教育・文化財団」に寄贈したモノだそうです。平成7年4月にオープンしました。(HP/http://nishidakinenkan.or.jp/kinenkan.html)
こけしのルーツには2説あるそうです。第一は子供の玩具として出来たという説で。もう一つは子供の健康や成長を祈る宗教的供え物として出来たという説です。こけしの顔に裏表が在る様に一つの文化の二つの側面でしょう。
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こけしのルーツを宗教的な供え物とする根拠の展示(最上の山の神や三春人形の(頭/右)や小浜万人地蔵尊の木偶/左を展示していました。
宗教的な意味と玩具とは両立します。正月の「独楽回し」や「羽根突き」は遊びであるものの宗教的な意味合いも濃厚なモノです。博物館らしく両説並べて紹介していました。
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これは宮城の遠刈田(遠刈田/秋保温泉)のこけしの展示です。なで肩やオカッパ頭を特徴とします。
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此れは山形の肘折り温泉のこけしです。胴が直胴である事、肩に段が在る事、首が差し込みで形態は宮城の鳴子温泉系に絵付けは遠刈田の影響が確認できるそうです。
又、東北各地に在るこけしであっても山を越せば作る手順も描く模様や表情も違うようで、愛情をこめて並列的に説明してありました。パンフレットも懇切丁寧に説明してありました。
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これは「西田記念館」作成の「こけしの11系統」と題された東北各地のこけしの特徴の解説したモノ。
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同上
こけしに似た民俗遺産としてはロシアのマトリョーシカ人形が有名ですが、日本のこけしは多種多様です一山越せば風土も歴史も違うので、こけしも微妙に変ってしまうのでしょう。でも子供の健康と成長を願う気持ちは同じです。木地師がお椀や柄杓を作る技術と素材を使って、湯治客のお土産にこけしを作った伝統産業が、少しずつ微妙に違うのは実に楽しい事です。ラジオのニュースで今年は長崎の「潜伏キリシタン文化財」ユネスコの「文化財」に適当であると諮問されたそうです。当初は「隠れキリシタン」として手を挙げたモノを一度手を下して「潜伏キリシタン」と名を代えて再度手を挙げた事が成功するのでしょう。そんな姑息な事をしなくてもこけしはユネスコの文化遺産に手を挙げれば受諾の可能性は高い事でしょう。何故なら美しい事、更に子供の健康と成長を祈る気持ちは普遍的だからです。
西田記念館はユネスコの文化遺産に手を挙げれば、有力な根拠(素材)になる事でしょう、青森の縄文遺跡が挙って推薦運動をしているように福島県が音頭を取って運動を展開して欲しいモノです。


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岳温泉は霧の中

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私が岳温泉に泊まるのは二度目です。最初は大學3年(1944年)の10月の初め紅葉の始る季節でした。私は福島の信夫山の麓の曹洞宗の寺院で住職をしていた伯父に請われて「祖母のお供」をして福島に来た居りに、伯父が岳温泉に私達を連れて行ってくれたのでした。ホテルの窓からは向かいに阿武隈の山脈が見渡せてまるで東山魁夷の名作「山脈」を視る想いがしました。
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此れは岳温泉の中心(温泉神社と鏡ヶ池を繋ぐ参道の桜のトンネルです、期待としてはこれを観に行ったのでしたが、写真出典福島県観光サイトhttps://www.fukulabo.net/event/event.shtml?id=2644
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桜のトンネルを期待したモノの青葉のトンネルでした。この道の突き当りが温泉神社です。
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此れが岳温泉の温泉神社です。社殿の奥に源泉が在るそうです。温泉らしく大黒様が勧請されていました。
4月24日晴を期待して目を覚ましたのでしたが、岳温泉「天空の庭」の窓の外は一面の霧で、向かいに見渡せる筈の阿武隈山景も背中に聳えて居る筈の安達太良山も見えませんでした。ホテルの職員に未だ残って居そうな桜を尋ねます。
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4/24日朝岳温泉「天空の庭」からの二本松方面の景色、一面の霧で阿武隈山稜は見えませんでした。
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此れは岳温泉の西側窓からの景色、隣の民家との間にクヌギの木が芽吹いていました。天気ならこの梢の間から吾妻連峰が見えるのですが・・・・。
”「鏡ヶ池」の周囲は八重桜なので今が見頃でしょう”教えてくれます。教えてくれた通りに先ず温泉神社に、続いて鏡ヶ池に向かいました。岳温泉は総じて桜も散ってヒッソリしていました。
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岳温泉の鏡ヶ池。此処は雨水調整池であると同時に下流の田圃の溜池でもあるようです。鏡の名はこの水面に安達太良山の姿が映るからでしょう。
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鏡ヶ池の周囲は八重桜が盛りで野鳥も盛んに囀っていました。
さあ!今日は昨晩のK女史の質問「光太郎の愛したのは発病後の智恵子か?発病後の智恵子か?」確認すべく「智恵子記念館」に行く予定です。


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光太郎のレモン哀歌への共感

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4月23日私達は岳温泉にある「天空の庭」に宿をとりました。
食後にはT教授にお願いして「福島の枕詞」の講義をしていただきました。教授は期待通りに、能因法師の歌
都をば霞とと共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
能因の和歌を踏まえた西行の歌
白河の関屋を月のもるかげは 人の心をとむるなりけり
更に奥の細道での曽良の句
卯の花を翳して関の晴れ着かなを解説されました。
能因法師が「本当に白川の関まで旅をしたのか否か?」は諸説ありますが、西行から芭蕉に伝わった歌の命は脈々と引き継がれています。私達現代人は先人の遺伝子を引き継いで生きている事は紛れも無い生科学の真実です。でも文化の核である文学の世界でも、先人の文学的成果をその子孫は受け継いで発展して行くのでしょう。
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これは十和田湖の休屋に置かれた少女像です。智恵子記念館にはまるで「樹下の二人」のように置かれていました。
T教授は「しのぶ文字摺り」「安達ケ原」等の枕詞の解説をして。最期に高村幸太郎の「樹下の二人」を取り上げられました。
高校の現代国語の教科書に載っていました。
安達ケ原の二本松の松の根元に立っていた智恵子の面影を追った絶唱でした。
智恵子の才能の鮮烈な印象を光太郎はレモンに比喩しました。ですから智恵子の命日は「檸檬忌」と呼ばれ、10月5日に営まれます。
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これは二本松にある「霞城」です。智恵子抄中の「樹下の二人」では松の根元に二人で立って、東を観れば阿武隈川西を見渡せば安達太良山とその麓に智恵子の生家が見渡せたのでしょう。何処に二人が立っていたのか?間違いなく霞城中の松の樹の根元でしょう。
みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫
それでは足をのびのびと投げ出して
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう あなたそのもののやうなこのひいやりと快い ・・・・。
T教授は懐かしい智恵子抄の全文をプリンとして下さいました。
能因や西行や芭蕉と違う現代詩の直截的な表現は私達にとっては極めて新鮮です。
.T教授は小学生時代お父様の仕事の関係で福島市の北東の「渡り」で過されたのでした。文学に志したきっかけに智恵子抄が在ったのかも知れません。
先輩のK女子が手を挙げて自問されました。
”皆さん、光太郎が愛した智恵子は(精神病」発病前の智恵子だと思いますか?それとも発病後の智恵子だとおもいますか?”
私達は各々が自説を用意しましたが、友人を説得するほどの根拠を即座には持ち合わせませんでした。しばし沈黙が流れてしまいました。そこで当初プランでは素通りする予定だった智恵子の実家(知恵子記念館)に、急遽充分時間をかけて見学する事にしました。
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此れは智恵子記念館のパンフレットです。左が記念館の建物と内部の展示です。
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これは智恵子記念館のポスターです。上部には智恵子の生家である「長沼酒店」とその甍の上に安達太良山が見えます。
智恵子記念館の年表を観て即座にK女子の投げかけた疑問は解けました。
光太郎と沼智恵子が出会ったのは大正元年(1912)で、 光太郎30歳、智恵子27歳の時でした。高村光雲の息子であり青年芸術家であった光太郎は人の紹介で東京女子大の女子大生だった智恵子を知りあったのでした。二人が結婚したのが大正3年(1914)、結婚生活は穏やかなものであったかどうか定かではないが、 智恵子に精神的な障害が出たのが昭和6年(1931)、闘病生活のはじまりでした。病気の進行と同時に高村幸太郎の智恵子への愛情は深化していったようです。精神を病んだ智恵子を愛しむように詩作は昇華して行きます。私達の記憶に生々しい「あどけない話」等を連作します。
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これは旧道に面した智恵子の生家「長沼酒店。看板の「花霞」は生家のブランドですが、長沼酒店が破綻した現在でも大天狗酒造http://daitengusyuzo.com/が販売しています。
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これは女学生の智恵子のしたためた手紙ですシッカリした才媛であった事が確認できました。二本松の裕福な家庭で育った智恵子は単身で上京します。福島の自然の中で純粋培養されて育った智恵子が東京の淀んだ空気に馴染めず、精神を病んだのは想像に難しくありません。
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これは智恵子の家族写真右端が智恵子で前列右が母の「せん」長沼今吉家の(二男六女)の長女として生まれた。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、 切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ・・・。
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これはゼームス坂病院跡地にある「檸檬忌」の碑です。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E6%99%BA%E6%81%B5%E5%AD%90
更には「檸檬哀歌」を作ります。
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう。
智恵子は福島県立橘高等学校時代の姿の儘人々の記憶に刻まれています。丸髷にふっくらした頬の少女は私達の憧れでした。村下孝三の初恋のCDジャケットの絵のようです。私は高校時代男子校でしたから、大学に入って初めて女性と言葉を交わしました。上手に自己表現できないので屈折してしまったモノでした。憧れは智恵子のように都会の塵に染まらない純粋培養の少女でした。その為もあってか、智恵子の写真を視ると少しだけ興奮してしまいます。
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智恵子記念館には療養中の智恵子が製作した貼り絵が展示されていました。
少なからず興奮したのは、病身の智恵子が製作した「貼り絵」です。精神を病んだ智恵子は九十九里に静養し、東京のゼームス坂病院で治療を受けます。油絵を志した智恵子でしたが「貼り絵」を推奨されます。山下清が「切り絵」をしたように智恵子は「貼り絵」に集中したのでした。智恵子記念館の壁には智恵子の製作した「貼り絵」が懸けられていました。私は数枚のクリアファイルを購入しました。
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「兎の餅つき」と題された智恵子作の張り絵、屹度光太郎もこのあどけない貼り絵を愛したのでしょう。名作智恵子抄」は智恵子の純粋さと光太郎の深い愛情があって初めて完成された現代詩の金字塔です。今晩は南相馬に泊まります。放射能に汚染されて苦しんだ相馬ですが、地域への愛情によって、復興の道を歩んでいるようです。今晩は「花霞」を飲んで語らいあう事でしょう。

安達ヶ原の鬼婆の哀歓

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二本松の霞城は桜の名所ですが、桜はもう終わってしまっていました。雨が降り止まないし智恵子抄の「樹下の二人」の位置は屹度『霞城の天守閣の位置だろう』と思いながらも雨雲が立ち込めているので、先を急いで「安達ケ原」の真弓観音寺に向かいました。
謡曲では「黒塚」、観世流では「安達ケ原」日本の文芸史に重要な位置を占める「安達ケ原の鬼女伝説ですが。そのお話は次の通りです。
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これが安達ケ原の鬼女伝説のある「真弓山観世寺」です。
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阿武隈川の土手の上から黒塚(杉の大木の根元の五輪塔)を臨む橋の向こう(右)が二本松になります。

ワキは、熊野山伏(東光坊の阿闍梨、祐慶の那智)です。
シテ(主役)は安達ケ原に住んでいる老婆です。安達太良山の東山麓まで旅をして来た熊野の山伏一行はこの草原で一夜の宿を求めます。
漸く泊めて貰えるようになった山伏一行は老婆から忠告されます。
「私の寝屋を覘いてはいけない」
でも、覘くなと云われると覘きたいのが心情で、若い山伏が老女の寝屋を覘くと夥しい死骸が転がっていました。覘かれた事を察した老女は本性を露わにして山伏一行を襲います。阿闍梨、祐慶は数珠を擦って鬼女を調伏します。鬼女は己の姿を恥じながら舞台から消えます。
以上が謡曲の「黒塚」のお話です。でも観客にはワキの老女が何故鬼に転じてしまったのか気懸りです。この疑問を補足するように様々なお話が付けたされます。
真弓山観音寺の宝物館にはこの辺の疑問を解く絵が多く展示されていました。
絵解き民話の話は次の通りです。
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観世寺の宝物館内出刃包丁や釜や鍋が展示され、それぞれが鬼女が使用した道具と案内されていますが、どれも伝説の生まれた古代から中世の民具では無くて近世の民具と思えました。
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これは観世寺宝物館に展示されていた絵馬の鬼女面です。
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観世寺境内に祀られていた奪衣婆の石像(江戸時代以降)、時代考証は別にして怖いモノ鬼女モノが集められていました。
【鬼女の由来】観世寺の近隣に「恋衣地蔵」が在りますが、これは鬼女に殺された
「恋衣」という名の女性を祀ったモノと云われています。「恋衣」が此処安達ケ原で祀られている謂われは京都の公家屋敷に遡ります。公家屋敷で「岩手」という名の奉公女が乳母として働いていました。だが、岩手が可愛がる姫君は不治の病に侵されていました。姫を溺愛する岩手はどうかして姫を救いたいと思います。姫の病を治癒するには妊婦の体内の胎児をとりだしてその「生き胆」を食べさせれば病気が治ると聞きます。そして生まれたばかりの娘を置いて京から陸奥に向けて旅立ちます。そこで安達ケ原の岩屋に住まい標的の妊婦を待ちます。長い年月が経った或る晩若い夫婦が岩屋に泊まります。妊婦は産気付き、夫は薬を求めて町に出てしまいます。岩手は「出刃包丁」を手にして妊婦を殺します。だが女の身に付けていたお守りを視て愕然とします。お守りは自身が京を発つとき娘に授けたモノでした。他ならぬ自分の子を殺めた岩手は精神に異常をきたし以来岩屋に住んで人肉を食べる鬼女に成り果てたのでした。
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岩手が旅の妊婦を殺めて胎児の胆を取り出そうとして、殺したのが自分の娘であった事に気付いた場面。
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左が鬼女の住んでいた岩屋です。明らかに「石舞台古墳」の様な古墳時代の石棺の収まっていた岩屋です。近くの阿武隈川が洪水して古墳の岩屋が露出したモノでしょう。右が観音堂です。
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境内から出土したと思われる弥生式土器も展示されていました。
 安達ヶ原の鬼女伝説程、日本人の心筋を震わす話は無いでしょう。私も小さい頃祖母に聴かされ、何度も何度も話をせがみました。話は本来は熊野修験者の強力がテーマだったのでしょうが、聴衆は鬼女の性に同情しているように思います。何処にでも居そうな薄汚い老婆が、主人の娘の健康を取り戻したくて、自分の腹を痛め立娘を殺してしまう、不条理は意図しなくても突然に陥ってしまうものです。更にそんな事故から、生きながら無間地獄に堕ちてしまう哀れさが、共感するのではないでしょうか?。地獄が想像上の宗教上の世界ではなく、現世でも在る事は原発事故でも思い知らされました。


    
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原発事故避難指示地域の現況

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私達は安達ヶ原から一度福島市内に戻りました。どうしても仕事の都合で東京に戻らなくてはならない人が3人も居られたもです。福島市内から今晩の宿のある南相馬の隣「樟葉町」の「天神の宿」に行くには150K余り距離が在ります。
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福島市内から浜通りの相馬に至る行程、カーナビは時間優先設定である事から、東北道、磐越道、常磐道と選択したのですが、私達は磐越道の「船引三春ICを降りて田村市経由で楢葉町に向かいました。
カーナビは時間距離優先で設定されていますので、カーナビの指示通り行く事にしました。どうも。指示は東北自動車を郡山迄南下して更に、磐城まで東南に下って、常磐道を南相馬ICまで行くようでした。安達太良SAでトイレ休憩して、再度コースを確認、案内所で道路状況を確認しました。その結果常磐道は通らずに船引三春ICを降りて東に向かう事にしました。
高速道路の案内所職員は親切に教えてくれました。田村市から双葉町を通る道は「帰還困難地域」を通るので原則通行禁止なのでしたが、文化財の興味と帰還困難地域の現実を観たいという関心から敢て生活道路を通りました。
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此れは磐越東線「船引駅」構内に建てられた「田村様」です。船引町芹沢地区に祀られている4m余りの巨大な藁人形で、坂の上田村麿に因んで「田村様」と呼ばれています。秋田県横手にある同様の藁人形は「鹿島様」と呼ばれているのは横手と鹿島神宮の縁の深さに起因しているのでしょう。どちらも故郷に災難を防ぐ「賽の神」信仰です。
岳温泉で観た新聞では『福島県産農産物の輸出も震災前の状態に戻った』と報じていました。放射能汚染も除染が徐々に進んでいるのでしょう。時間をかければ放射能は減衰するのは科学が確認している事です。
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福島農産物の輸出が回復した事を報じる新聞。
しかし、人間の命は有限ですし、自然科学の放射能減衰(人体に有害なヨウ素は8日セシウムは30年で半減します。)を待っている訳には行きません。日本人は歴史的困難を何度も体験し、克服してきました。克服した秘訣は『知恵』と『協力/絆』と『忍耐』でした。そして何時の場合も災難に遭遇、克服する度に飛躍を果たしてきました。原発を歓迎した昭和世代の一員として原発事故の行く末を確認しておくことは責任の一つと思っていましたから、今回のツアーは良い機会です。

先ず除染の手順を確認します。
環境省の除染の手順は次の通りです。
1、建物や構築物は洗浄します。農地や草原は表土を削り取ります。
2、放射能濃度の高い土や堆積物は纏めて処理します。
3、当初は放射能に汚染された堆積物等は汚染地域外に埋設する計画でした。
4、しかし、汚染土壌の持ち出し先が見つからず結局汚染地域内で処分する事になりました。
5.汚染土壌はコンポストに収納し、防潮堤のコア部分に積み上げ隔離します。
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これは環境省HPにある除染対策です出典http://josen.env.go.jp/about/method_necessity/method_area.html
国の作成した除染対策でしたが、現実には汚染土壌を持ち出す先の同意が得られず宙に浮いた除染対策になってしまいました。街道を走ると2年前までは道の両端に積み上げられた汚染物質の入った黒いコンポストは殆ど消えてしまっていました。
でも楢葉町や相馬の街道沿いの田圃には黒いコンポストが積み上げられていました。あのコンポスト如何するのかな?」懸念しながら楢葉町の除染広報誌を確認すると今建設中の防潮堤のコア部分に積み上げて使うようです。「そんな安易な方法で大丈夫なのだろうか?」誰しも懸念するのですが、汚染土壌の持って行く場所が無いのですから、致し方ないのかもしれません。
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此れが「防潮堤の計画」防潮堤のコア部分が黒いコンポスト(左下)です。このやり方は富山のイタイイタイ病のヒ素土壌を汚染田圃の地下に埋めたのと同じで「その場凌ぎ」に見えます。
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大熊町の道端には未だ汚染土壌を詰めた黒いコンポストが積まれていました。
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コンポストは海沿い国道6号線沿いの田圃に集められていました。「野馬追い」の絵が描かれた矢板の奥に汚染土壌の積み込まれた夥しい数のコンポストが積まれていました。
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国道6号線はコンポストを積んだダンプや建設機械を運ぶ車が走行していました。これらの車両は海岸線に沿って建設途上の津波防潮堤に向けて走っています。道路標識は「此処から先は津波で襲われた区間に入る」と表示されていました。右奥のクレーンが防潮堤の建設現場です。
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防潮堤の建設現場先ず汚染土壌を詰めたコンポストを積んで表面を土壌で覆いその上で表面をアスファルトで固めて防潮堤にするようです。汚染土壌の詰まったコンポストは廃棄も出来ないので堤防の建設素材に使っているのですが、その場凌ぎの対策にしか思えません。
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相馬から三春に向けて走ってきた大型観光バスは大熊町で、通行禁止区間の表示に従って迂回路を確認していました。
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大熊町から真っ直ぐ相馬方面には行けませんでした。帰還困難地域への進入を阻止するゲート。先ず海岸に近い富田町に出て国道6号線を北上するほかはありません。
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この住宅は大熊町の高台移転した住宅です。津波に襲われて家を失った方々がこの住宅に入居されているのでしょう。
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此れは常磐線の「木戸駅」です。駅の西側(右」はサッカーの「ジェイ・ビレッジ」です。東側には東電の遠隔操作研究施設があります。
放射能は遺伝子を傷つける恐ろしい放射線を発する物質です。最も人体に破壊的な影響を与えるのはヨウ素であって癌細胞を誘発し、遺伝子にも傷をつけます。奇形の原因にもなります。ヨウ素放射能は半減期が7日間なので2011年3月11日から18年420週も経過しているので、1/2の420周(乗)ですから、限りなくゼロに近い値になっています。心配なのは当時の子供で成長過程で、甲状腺に傷を負ってしまった可能性が高い事です。
アレコレ考えながら楢葉町の温泉施設天神温泉に着きました。。天神温泉は海岸線を眼下に見下ろし向こうの丘の先に「東海村の原子力発電所を遠望できる位置にあります。少し塩っぽいものの海藻のように滑らかな温泉に浸かって原発を東海村で無くで此処天神岬の丘の上に造れば事故は起きなかったのに思いました。日本人の思い上がりが想定外の津波を原発のメルトダウン事故を誘発させたのでしょう。天神温泉のロビーには事故当時の写真が貼られていました。見れば「新約聖書の出エジプト記」を想い起させました。


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南相馬消防署の「震災アーカイブ」

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日本人は昔から怖いモノの筆頭は「地震」であると確信してきました。昨今の地震はそんな諺を再確認させているようです。新約聖書では享楽に耽る人間に対して神の叱責場面が数多く出て来ます。出エジプト記では、海を割ってシナイ山の麓に脱出できたヘブライ人は神を忘れて牛を祀り、享楽に耽ります。我国の繁栄と享楽、傲慢な生活ぶりは同じように神の叱責を受けないか懸念します。
その意味でも東日本大震災アーカイブ を視ておくことは有意義と思って南相馬に来たのでした。ネットでは南相馬の博物館や観光協会に依頼すればボランタリーで現地で案内し、「語り部」をしてくれるのですが、私は消防署に職員に「語り部」して貰いたいと思って、南相馬市消防署に予約を入れておきました。
南相馬市の中心街は常磐線の「原町駅」ですが、消防署は原町駅前から離れた「道の駅南相馬」の近くにありました。建築2年の真新しい消防署でした。消防署事務所棟や消防自動車車庫に並んでアーカイブ が展示してありました。鉄筋3階建ての施設には「津波」「原発事故」「避難生活」「復興へのプロセス」が展示されていました。
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これは南相馬の海沿いの松並木に残った「鹿島の一本松」です。写真出典:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASKDV328JKDVUGTB001.html
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これは樟葉町が編纂した震災記録誌に出ていた定点写真です。私達が宿泊した天神温泉の丘の上から向かいの海沿いを写したもので、向かいの煙突は燃えた原町火力発電所でその先に原発建屋が見えます。「鹿島の一本松もこの海辺に在りました。
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これが震災アーカイブスを見学した南相馬消防署です。
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此れは南相馬消防署に近い「道の駅南相馬」です。此処でランチにしてお土産を買い込み宅急便で送りました。
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南相馬消防所のアーカイブ展示施設。此処では主婦感覚充分の説明職員が迫真の説明をしていただきました。
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展示は入り口から奥に震災の時間系列に殉じて展示してありました。
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先ず驚かされるのは南相馬の中心「原町地区」を襲った「津波は高さ20mでした」と云われて「柱は3階建ての天井に届く高さでした。
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南相馬の鹿島地区を襲う津波
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津波が退いた後の鹿島地区向こうの丘が私達が宿泊した「天神温泉」のある岬です。「原発を作るならこの丘の上なら事故は無かったろうに!」思う丘陵です。
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上の鹿島地区の写真と同じアングルを写したモノ枯れすすきの向こうは真野川で遠くの丘陵が天神温泉です。
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南消防署に展示されていた震災直後の写真、法被を着て捜索しているのは消防団員。
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小学生の見学も多い様で「プレート跳ねあがり型地震」の発生メカニズムを説明してありました。
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プレート跳ねあがり型地震は発生直後こそ早いモノの次第に速度は遅くなるものの高さはより高くなる事階段横の壁を使って説明してありました。
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展示施設3階には全国から寄せられた激励メッセージが貼られていました。こんな寄せ書きが一杯でした。


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昭和3代の百尺観音

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南相馬の大悲山磨崖仏を拝観して、次は相馬に在る「百尺観音」に向かいました。国道6号線には案内板が出ていますので。行きやすい観音様です。大きな駐車場の正面の小高い丘を切り拓いてその岩場に観音像を彫り出したモノで、「百尺観音」の名は完成すれば高さ百尺の意味です。現在は尊像作成途上で、坐像の上半身は完成、残すは結跏趺坐された足と蓮台のみです。脚と台座が出来れば百尺の意味です。
「拝観のしおり」と記された案内板には次の様に記されていました。
【参拝のしおり】 
 この超巨大な観音像は昭和六年に荒嘉明が建立に着手以来 、実に五十年以上の歳月がついやされており現在八十八尺であり ますが完成すれば、一一八尺の総高となります さてこの観音像は、完成のあかつきは、日本一の巨大なる仏像彫 刻となることは勿論でありますが他に全くの類例を見ないその特  徴は、ひとりの男が建立の悲願を立ててその生涯を一仏一体の建立にうちこんで完成いたそうとした点であります。 昭和三十五年、三峰山霊場近くにうぶ声をあげ、三峰山長ずるに及んで 
感ずるところあって二十三歳の年家を出て二十九歳帰山の 六年間全国を遊歴し、いたるところの古社寺 史跡をたずね秘仏を参拝し、人間修行に精魂をうちこんだのであります。その間においてさとるところがあって、千体の仏像を作るよりも 生涯一仏一体の超巨大製作をなし、ながく後世にこれを残そうと 決意したのであります。昭和五年の夏、全国遊歴に終止符を告げて故郷にに帰った青年荒嘉明は、時二十九歳で、この大製作に全力の勇気を奮い越したのであります。 しかし、世人はこのくわだてをみて、恰も誇大妄想狂として冷評  雨の如く、ほとんどそれを信ずる者とてなかったが、不屈不倒の 決意は、不動、熱願火と燃えて、あらるゆ困苦欠乏に耐え、日夜 一心不乱、ただ製作に専念しつづけたのであります。 そして歳月は春風秋雨を重ねて三十年余、これの完成をみずして三十八年三月二十五日逝去したのであります。時六十二歳。 そのあとを二代目荒保彦が引き継ぎ、一歩、一歩完成に向けて事  業を進めて参りました。
昭和四十六年春の突風により、お顔の部分の風化防止のために かけたセメントが落ちたので、四十七年一月から三ヶ月の日時を かけ完全補修工事を行いました。その後も一人つるはしをとって観音像の彫刻を続けながら霊場内の整備を行っておりましたが 、昭和五十三年三月二十八日五十三歳にして逝去したのであります
要するに 

信夫山文庫でランチ

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朝から「文字摺り観音」から「岩谷観音」を巡るとお腹も空いて来ました。今日のランチは信夫山公園内にある「信夫山文庫」という名の「茶屋」です。ネットで観ると「ランチは880円と廉価です。店の名前「信夫山文庫」も興味を惹きました。私の仲間は読書好きが多いのです。期待をして信夫山文庫にランチの予約を入れておきました。
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[天神様への細道」の途中に「信夫山文庫」はありました。向こうの朱色の鳥居が天神様です。
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これが目指す「信夫山文庫」の玄関です。暖簾には「本カフェ」とコメントされていました。「古本屋か」思われて素通りされてしまいそうな店構いです。
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「信夫山文庫」玄関のメッセージ。店主に訊くと「店主は読書好き」で信夫山の茶店を購入して「読書+喫茶」をコンセプトに開店した処賛同者が善意で蔵書を寄付していったので、現在のように本屋の呈を表するようになったのだそうです。昔の茶店ですから畳の小部屋が幾つも在りました。「畳の上に寝そべって読書三昧、珈琲を戴ける・・・・。」北杜雄の世界のようです。蔵書を観れば、顧客の幅は廣いというか、雑多のようです。
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此れがレジであり「カウンター」です。奥がキッチンです。右端のノートに借りたい本の名と自分の名を書けば貸出出来ます。旅行者は宅急便で返本すれば良いそうです。
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「信夫山文庫」のマスコットは「シノブン」という信夫山の姿です。まるでモグラが読書しながら居眠りしてしまった様な姿(筆者の姿)です。盲目のモグラが読書する筈ありません。ウィットに富んだ店主です。
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中庭に面して長い廊下があり、小部屋が並んでいます。普段は個室5室で営業しているようです。私達は予約しておいたので4部屋をぶち抜きで使わせて戴けました。
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私達の為に小部屋4室をぶち抜いて待っていてくれました。窓際には机が並んでいて蔵書を展示して在りました。気になった本を借りて座布団を枕に腹這いになって読書して過ごす、スタイルです。
電話番号でもナビは入らないので、住所地でナビを入れましたが中々信夫山文庫は見当たりません。電話で確認すると『「信夫山公園」の駐車場に駐車して、天神様の参道を下って来れば信夫山文庫に着きます』
気安く言われますが一向に見つけられません。スマートフォンを片手に探して漸く「信夫山文庫」を見つけられました。私は幹事ですから、見つかると「ホット」安堵します。
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この「火薬ご飯」がランチ880円でした。この他に珈琲が付きます。野菜は美味しいし、ボリュームも充分でした。メニューに「蒲公英珈琲」がありました。
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此れはカウンターに置かれていたフリーペーパーです。筆者はてっきり表紙の女性が店主かと思って話しかけると「私はこんなにメタボじゃなくてよ!」伐り返されてしまいました。カウンター横には「良い家庭教師紹介します」書いたポスターが貼られていましたので。信夫山文庫は地域情報の交流する場所でもあるようです。
地方の文化は「食事」と読書に特徴があるモノです。火薬ご飯も野菜の煮物も味噌汁も美味しかったのですが、ゆったりと仕事を楽しむ女将さんも魅力がありました。
信夫山公園は桜も紅葉も名所のようです。又、何時の日か信夫山公園の信夫山文庫に寛ぐ日が来るような予感がしました。


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「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の情熱

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4月24日は三春から大熊町を経て楢葉町まで走りました。海岸線沿いに開けた田畑は既に田起しを終えて田植えを待つ状態でした。
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これは「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の西側丘陵の上に設備されたサッカーのトレーニング施設「ジェイビレッジです。
人体に最も危険なヨウ素放射能は理論通りにゼロ水準になって、お米も果実も食べられる水準になったようです。でも抜本対策は終えていません。放射能汚染土壌は海岸線に沿って作られた防潮堤の中に隠されているし、メルトダウンした原発燃料デブリは未だ原子炉の底に在って、撤去の目途は点いていません。燃料デブリを安全に確実に撤去する手法を開発しなくてはなりません。「楢葉町遠隔操作技術開発センター」は燃料デブリを安全・確実に撤去する手順や道具を開発する為に最新のスキルや叡智を終結させる施設なのです。私達は原子炉撤去作業の現状を知りたくて「楢葉町遠隔操作技術開発センター」を往訪しました。
遠隔操作技術開発センターはカーナビに入らずに行くのに困難してしまいました。カーナビの指示通りに行くと防潮堤工事現場に着いてしまい、写真で視た「日本原子力研究開発機構」の研究棟が見えて来ないのです。帰路で解ったのですが。「ジェイ・ビレッジ」を目指して行きジェイ・ビレッジから木戸駅を越えて海の方に行けば「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の入り口に着けます。
「楢葉町遠隔操作技術開発センター」に着くと先ず会議室で説明を受けました。大半は東電が核を為す「日本原子力研究開発機構」の施設でありノウハウなので写真撮影は構わないが、中には民間企業が参加していて「撮影禁止」の表示がされているので注意してほしい、指示されました。
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これは「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の沿革を説明したパネル、日本原子力研究開発機構の原発関連施設は全国に散っているものの、廃炉に係る技術開発実験施設は福島県に集中しています。平成26年に設立され2年間の間に国民の期待を背負って廃炉と福島復興の道を切り拓いてきた事になります。
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後ろが「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の事務所棟で写真は開所式のモノ。
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先ず会議室で「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の使命や現況の説明、注意事項の指示を受けました。
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「楢葉町遠隔操作技術開発センター」の構内事務所棟から実験棟に向かう。
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実験棟内部は巨大な倉庫か体育館のようでした。
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実験棟内部には原発のコア施設である炉心を含んだ施設が在って、この内部でテストを実施し、その成果を確認してから、実際の廃炉手順を追うそうです。
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此れは炉神棟の内部を巡って作業するロボットです。キャタピラーの付いた駆動装置は階段を昇降する為の機構です。
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職員が指差しているのは冷却水に浸かった炉心に溜まったデブリ(高濃度放射能含んだ廃棄物)を取り除くためにプールの中で作業するロボットの遠隔操作実験棟です。ロボットの動きは右側のモニターに映されます。
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右側のバトミントンコート程度のスペースは網で囲まれています。その中でドローンを飛ばして遠隔操作を実演してくれました。どれもこれも遠隔操作技術はハイテクで凄い可能性を含んでいます。
私達は実験棟で約1時間再び事務所棟に戻って来ました。寺務所棟2階で興奮の体験をさせてもらいました。それはピラミッドの内部の様な個室に入って3D眼鏡をかけると、バーチャルですが、炉神棟の内部に入れるのです。まるでスパイダーマンのように空中を飛来し、透明人間のように炉心棟の壁をすり抜けてメルトダウンした炉心ンの内部を視られるのです。時には炉心の中に落ちそうな感覚に陥り、柱にぶつかる感覚になって気持ちが悪くなりました。東京ディズニーランドのアトラクションを凌ぐ体験でした。
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お世話になった上に礼儀正しくお見送りして戴いた遠隔操作技術開発センターの職員さん。
21世紀の初頭に遭遇した未曾有の災害と人災を体験したのが私達世代でしたが、その教訓を見える形で子孫に伝える責任も在ります。遠隔操作技術開発センターの試みはその責務を果たし、原発施設の監理技術の進展に資するモノでしょう。
何よりも感心したのは職員の熱意と礼儀正しさでした。雨の中見送って下さった職員にエールを送りながら快い疲れに浸りました。燃料デビルの撤去作業は困難な作業ですが、これを克服した時点では我国は廃炉技術では世界をリードする地位に立っている事と確信しました。間違いなく日本原子力研究開発機構には最高の人材が集結しています。





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旅行ブログ

大悲山の「磨崖仏」の「哀しみ」

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南相馬消防署の約束時刻が11時でしたので、行ったり、戻ったりしましたが再度、樟葉町方向に戻り小高地区に在る「大悲山磨崖仏」に向かいました。予定が狂ってしまったのは日本原子力開発機構の「遠隔操作技術開発センター」の説明が熱が入って当初約束の45分が90分にもなってしまったからでした。愚痴を言っては罰が当たります。機構職員は一生懸命説明して下さったのですから。感謝するばかりです。私達が大悲山磨崖仏のある丘の麓に着くと雨が強く降り出しました。足下が悪くなってしまう事は磨崖仏見学には最悪です。滑ったら一大事になってしまいます。でもお日様が燦々と輝く日に較べれば石仏の陰影が濃く、鑑賞するには最適です。
南相馬は海辺の町ですが小高区と云うだけあって此処は「阿武隈丘陵の裾」です。
谷戸に入ると古びた寺院が在ってその壁に大蛇と琵琶法師の絵が描かれてありました。大悲山の由緒に係る民話のようです。
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お寺の外壁に大悲物語の民話が描かれていました。話は右から左に進みます。琵琶法師が眼を治して欲しいと薬師如来の洞に籠って毎晩琵琶を奏でていると、立派な武士が夜毎現われました。武士は『分はこの地に棲んでいる大蛇だが池が狭くなったので、この地を大池にする積りである』話します。琵琶法師はタブーを破ってこの話を相馬の殿様に話します。でも、話した途端に琵琶法師は大蛇に浚われてしまいます。
【大悲山の民話】
南北朝時代の話です。相馬の殿様は、相馬光胤公でした。都から、玉都(たまいち)という琵琶法師がやってきて、見えない眼を治すため、大悲山の観音薬師さまに願をかけました。薬師堂の中におこもりをしているので、夜は大変さびしくて、一人で琵琶をひいて自分をなぐさめていました。
そのうち、一人の立派な武土がどこからともなくやってきて、琵琶に聴き入っていましたが、それからは武士は毎晩琵琶を聴きに来るようになりました。
 そして、ある晩、武士は『私は本当は人間ではなく、この薬師堂の池に住んでいる大蛇だ』と告げるのです。驚き慄く琵琶法師を前に、大蛇は更に『自分の体が大きくなりすぎて、もうこの池が狭くなった。だから、これから七里四方を泥池にして棲もうと思う。』だが、『お前だけは琵琶を聴かせてくれたお礼に助けてやろう、七日の間にここから出ていけ。』ただし、このことは誰にも言ってはならぬ。もし他言すれば、お前の体を八つざきにするぞ」というのです。
 琵琶法師は苦しみ悩みました。
『黙っていれば自分の命は助かる、けれども、そのために罪のない村人達が田圃を失って生きて行けなくなる。村人達を助けたい、だが、そうすれば自分の命は…。』琵琶法師はついに決心しました。小高にいた相馬公のもとに行き、事の一切を話しました。琵琶法師が城を出るやいなや、天が俄かにかき曇って物凄い天候になりました。その黒雲の間から大蛇が姿を現し、あっというまに法師の体をさらっていったのでした。琵琶法師の琵琶は天空から地上に落ちて来ました。屹度天空で琵琶法師は八つ裂きにされてしまったのでしょう。 
一方、あやうく難を知らされた城下の人々は驚き騒ぎました。「蛇には鉄が毒だ」と知って、鉄の釘を沢山作り、大悲山の山や谷に打ちこんで、ついに大蛇を退治することができました。そのことがあってから、琵琶法師の琵琶が落ちたところが琵琶橋、大蛇の耳の落ちたところが耳谷(みみがい)、角の落ちたところが角部内(つのぼうち)という地名になって、今に残っています。
大悲とは仏教用語で一般には。「衆生  の苦しみを救う仏や菩薩 の大きな慈悲(愛)」を云います。琵琶法師が自己愛に執着して居れば死ぬ事は無かったのに衆生を助けたいと思ったのでタブーを破ってしまい自己を滅ぼしてしまいました。東日本大震災に際しても家族や隣人を助けたいと思って津波に吞みこまれてしまった人が沢山いた事でしょう。また原発施設の廃棄の過程で被爆した職員にも大悲の精神が貫かれていたことでしょう。
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これが大悲山公園の案内板です。中央にお堂③が在って、手前に大杉が在ってお堂が⑭があります。⑭が薬師如来の磨崖仏で⑮が阿弥陀如来の磨崖仏で⑯は観音菩薩の磨崖仏です。(何れも重文)ロケーションも石質も技法も臼杵の磨崖仏『国宝』に酷似しています。
私達は傘をさして石段を登って磨崖仏拝観に出かけました。もう5年も前、晩秋の臼杵に磨崖仏巡りをした時も雨が降っていました。屹度私達の仲間に雨人間が居るのでしょう。
石段を登り始めて驚きました。石段が大蛇の様に畝っているのです。原因は石段の左に大杉が生えていて杉の根が石段を畝らせてしまったようです。怪力の杉です。
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薬師磨崖仏に向かう石段、大杉の根が石段をうねらせています。滑ったら大変手摺を握って慎重に登りました。
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根っこの力に驚いて見上げれば大杉の力瘤はまるで金剛力士像のようでした。見上げれば大蛇のようです。
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石段を登り切れば正面にお堂がありました。このお堂は磨崖仏を内陣にして拝観したり祈祷したりする為の鞘堂の様なモノでした。
お堂の中に入ると加持祈祷する護摩壇が在って、その正面に薬師磨崖仏が鎮座して居られました。内陣には入れないように鍵がかかっていて、照明施設も在りました。私達はこんな時の為に懐中電灯を持参しているのですから。蛍光灯でライトアップされてしまうのは少し興醒めです。でも臼杵磨崖仏を髣髴させる豊かで屹度柔和な表情の磨崖仏で居られます。衣文は朱に塗られていたようですが。今も色鮮やかですし、壁や天井の装飾紋も残っています。主たる磨崖仏は薬師如来と左右の菩薩像ですが、何故か中央の薬師如来は二体居られます。一方が薬師如来で左が阿弥陀如来かな?弥勒如来かな?考えてみたりしました。
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此れが大悲山磨崖仏の外陣です。硝子戸の右側が内陣でその先は磨崖仏です。凝灰岩の大岩を刳り貫いて磨崖仏を掘り出してあります。外陣天井には蛍光灯が設備されているので、磨崖仏の色彩が蛍光色になってしまいますし、写真を撮るとガラス戸に映った蛍光灯も映ってしまいます。向こうに神輿もあるので祭事に行けばガラス戸の中に入って磨崖仏を拝観できるのかもしれません。
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中央の二体の如来坐像右(東)が薬師なら左は何かな?考えました。発色の悪いのは蛍光灯でライトアップされている為です。
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右側の如来の更に右には菩薩像が在りました。実は反対の位置にも菩薩像が在りましたので、基本的には薬師三尊像で、薬師如来だけが二体おいでなのかもしれません。
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此方は左奥の磨崖仏で月光菩薩にも思えるし虚空蔵菩薩にも見えました。
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写真は「愛しきもの」https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/02f15beac47b3efe6fe114649fee3e21の大悲山磨崖仏御開帳に行けば4体の磨崖如来仏を確認できるのです。
このブログをアップするに際して先人のブログを確認しました。すると上の写真のように如来像が4体も並んでいるのでした。私達は内陣の戸にへばりついて目の前の如来像を視ていたので。2体と思っていたモノが実際は4体も並んでいたことになります。屹度御開帳の日があってその日に上れば蛍光灯に煩わされずに真近に4体の如来を拝観できるのでしょう。だとすれば、中央が釈迦如来で次いで薬師如来、阿弥陀如来最後に弥勒如来が並んでいると考えるのが自然でしょう。
薬師磨崖仏から東に歩くと阿弥陀磨崖仏がおいででした。磨崖仏の状態としては薬師磨崖仏より一層傷みが激しく進行していました。
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薬師磨崖仏の東に阿弥陀磨崖仏が在ります。此方は保存状態も一層悪く懸念される状態でした。
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此方が阿弥陀磨崖仏です。重文をこんな状態で風化に任せるのは充分ではありません。
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これは薬師磨崖仏と阿弥陀磨崖仏の間にある琵琶法師玉都の墓です。川原石に「玉市の碑」と刻まれていて案内にも琵琶法師の墓であると書かれていました。



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相馬の百尺観音の試み

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南相馬小高に大悲山磨崖仏を拝観して、私達は次の目的地相馬の百尺観音に向かいました。百尺観音は相馬の名物である事に加えて国道6号線沿いに案内が出ています。相馬市内から海寄りの小高い丘の裾に百尺観音はありました。駐車場からも正面に拝観できます。そこら中に山藤が自生していて蕾を膨らませていました。
お線香を求めて拝観すると直ぐ脇に案内が記されていました。案内を要約すると。
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此れが相馬の百尺観音です。
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百尺観音の周囲の丘陵は山藤が自生し、蕾を膨らませていました。

【参拝のしおり】
この超巨大な観音像は昭和六年に荒嘉明が建立に着手以来 実に五十年以上の歳月がついやされており現在88尺でありますが完成すれば、118尺の総高となります。さてこの観音像は、完成のあかつきは、日本一の巨大なる仏像彫刻となることは勿論でありますが他に全くの類例を見ないその特 徴は、ひとりの男が建立の悲願を立ててその生涯を一仏一体の建立に打ち込んで完成いたそうとした点であります。 以来三十五年、三峰山霊場近くにうぶ声をあげ、三峰山の山麓で長ずるに及んで、感ずるところあって二十三歳の年、家を出て二十九歳帰山し、六年間全国を遊歴し、至る所の古社寺 史跡を尋ね秘仏を参拝し、人間修行に精魂を打ち込んだのでした。その間に悟るところがあって、千体の仏像を作るよりも 生涯一仏一体の超巨大製作を為し、後世にこれを残そうと 決意したのであります。昭和五年の夏、全国遊歴に終止符を告げて故郷に帰った青年荒嘉明は、時二十九歳で、この大製作に全力の勇気を奮い越したのであります。

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手前はお線香を供える巨大な香炉です。向こうが百尺観音 
しかし、世人はこの企てみて、恰も誇大妄想狂として冷評 雨の如く、殆ど信ずる者とてなかったが、不屈不倒の決意は、不動、熱願火と燃えて、あらるゆ困苦欠乏に耐え、日夜を分け隔てず一心不乱、ただ製作に専念しつづけたのでありました。そして歳月は春風秋雨を重ねて三十年余、これの完成をみずして昭和38年3月25日逝去したのであります。時六十二歳。そのあとを二代目荒保彦が引き継ぎ、一歩、一歩完成に向けて事業を進めて参りました。

 

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百尺観音の前で夫婦二人を写して貰いました。
昭和46年春の突風により、お顔の部分の風化防止のためにかけたセメントが落ちたので、四十七年一月から三ヶ月の日時を かけ完全補修工事を行いました。その後も一人つるはしをとって 観音像の彫刻を続けながら霊場内の整備を行っておりましたが
昭和53年3月28日53歳にして逝去したのであります

という事は現在は三代目の荒氏が事業を承継する事を期待され、現代は4代目の荒陽之助氏の代になったモノの事業はとん挫してしまったようです。相馬は過疎化が進んでいた上に大震災で百尺観音の竣工開眼どころではないのでしょう。巨大な観音像と云えば高崎観音や富津の東京湾観音や栃木の大谷観音を思い出しますが何れも立像の白衣観音です。坐像の聖観音ではこの相馬の百尺観音が最大になるのでしょう。壮大な百尺観音の志は「是」ですが。世代を超えて精神が承継されない限り、中途半端な姿を晒して「こんなことなら何もしないで自然の儘が良かった」後世の世代から酷評されかねません。
寂しい思いをしながら百尺観音を見上げると心なしか雨で涙を流しているように見えました。
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百尺観音を遥拝する香炉の脇に掲げられた「参拝のしおり」には観音設立の発心から経緯を案内して在りました。この案内を視ると着工昭和38年)から60年以上経過して現在は事業頓挫していることが解ります。4代も経つと初心は忘れられてしまうのは悲しい現実です。

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相馬城本丸跡の「藤の花」

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相馬の百尺観音を拝観したので、次は相馬城跡に向かいました。相馬城と云っても中世のお城ですから、近世の城とは訳が違います。所謂「山城」なのです。カーナビに従って走ると駐車場も見当たらずに随分迷ってしまいました。通行人に訊けば「この濠の脇を登ってゆけば中村神社の神橋に出る、その辺りお城ですよ」アバウトな返事が返ってきました。外濠こそ水が在りますが内濠は空濠です。朝からの雨は一向に止みません。足を滑らせながら空濠を越えると、相馬の市街を見下ろす高台に出ました。
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此れが相馬城の外濠です。右手前に水門が在って外濠は灌漑池として活用されていました。
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相馬城跡には二つの神社が祀られておりこれはその一つ中村神社の御神橋で内濠に懸っています。この参道を行くと本丸跡に出ます。
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ご神橋からの眺め。下には名門相馬高校のグランドや校舎が見えその向こうに相馬の市街と阿武隈山脈が見渡せました。
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本丸の石垣の上から相馬市街を見渡す。桜の名所ですから桜並木が眼に付きます。建物は相馬高校です。
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これは相馬城跡の桜です。私のプランではこの桜を観に来たのでしたが、画像出典「お花見ウォーカー」https://hanami.walkerplus.com/detail/ar0207e25677/
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中村神社の神橋を渡ると「二宮尊徳像」が在りました。尊徳は小田原から請われて栃木、更に相馬まで行って、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導したのでした。我が故郷の偉人の大きさを改めて教えられました。
神橋を渡って二宮尊徳像の前を通って、本丸跡に出ます。桜は終わっていても八重桜は今が盛りで藤も咲き出しました。大きな藤棚が在って、藤の下は一面根が張っていました。根の張った広さは枝の張った広さと全く同じです。昔祖母から大事にしていた枇杷の樹の下で広がった枝の下には同じように根が張っているので、”落葉を掛布団の様に敷いておけば来年も美味しい実を生らせてくれる”教えられた事を想い出しました。
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これは相馬城本丸跡の八重桜です。

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此れが相馬城跡本丸跡の藤棚です。
藤棚の下で膨らみかけた藤の花房を見上げていると背に誰かの視線を感じました。振り返ると大きな白い猫が三匹私を視ていました。若しかしたら震災で飼い主を失った猫ちゃんが此処相馬城跡に住み着いているのかもしれません。猫にとっても震災は不幸な天災でした。此処は中村神社のお供えが在ったりして野生化せざるを得ない猫ちゃんにとっては格好の生活域なのでしょう。私が語りかけるとブルーノ瞳で見詰められました。私は青い瞳に弱いのです。
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相馬城本丸跡を生活圏にしている野生化した飼い猫この二匹には3匹もの子猫が居ました。猫の居る処は本丸庭園の石橋でしょうか?



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(伊達市街の疑似洋風建築」の斬新さ

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相馬の道の駅でランチして有名なB級グルメ「浪江焼そば」を食べました。相馬の野菜や果物も買い込んで宅急便で送りました。後は伊達を通って福島駅から自宅に帰るだけです。初期にプランしたモノは桜を除いて全部観ました。
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相馬から阿武隈山稜に向かう115号線(中村街道)を西に進むと伊達正宗の育った霊山を経て伊達市に着きます。
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桜が散って青葉若葉が山を覆って行きます。道路に突然猪の親子が出現して慌てたりしました。
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この景色は霊山の市街です。この市街の手前に霊山寺(廃寺)があって正宗の城が在ったのです。何時か出直してユックリ観て廻りたいものです。
友人が中村街道の遥か上で工事中の高速道路を指さして言います「もう、高速道は部分通行しているようだ!、高速道を走ってみようじゃないか?」
私達は不安と期待の入り混じった心中で高速道路に入りました。霊山町の入り口で高速道は終えていました。工事中の高速道路は常磐道の相馬と、東北道の福島北を結ぶ『東北中央自動車道 相馬福島道路』でした。福島県の「中通り」と「浜通り」を結ぶ高速道路で、周遊するには便利な高速道になるわけです。
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これは「復興支援事業の相馬と福島を結ぶ高速道路計画です。画像出典東北地建(http://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/hukkoudouro/route_115/souma_fukushima.html
伊達市の観光資産は伊達正宗関連の霊山廃寺や山城のようです。でも最大観光資産は明治維新の疑似洋風建築(重文)です。重文は二点在ります、一つが『旧亀岡家住宅』です。明治30(1897)年頃、伊達崎村(現在の桑折町大字伊達崎)に建てられた擬洋風建築。施主は当時の亀岡家当主・亀岡正元で、地元(飯坂)の大工棟梁・小笠原国太郎が施工を命じたそうです。 
 亀岡家は伊達崎村に代々続く豪農で、正元の代には蚕種製造でも成功を収めた。正元は、郡会議員などの要職も歴任した地元の名士として知られる人物。棟梁の小笠原国太郎は、飯坂温泉(福島市飯坂町)の旅館・花水館の「奥の間」や、なかむらや旅館の「新館」も手がけた名匠でした。
もう一点が旧伊達郡「郡役場」建物です。
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これは『旧亀岡家住宅』のある「果物公園」です。花水木が見頃でした。
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向こうの二つの塔屋のある建物が『旧亀岡家住宅』です。
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外観は洋風で塔屋や3階建手の階段のある中央部の塔部分が眼をひきます。
でも、内部は落ち着いた和風建築で和様折衷と云っても「外観洋風・室内和風」建築です。
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亀岡家住宅の室内の組格子戸写真出典伊達市ホームページ(http://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/16648.html

一方旧伊達郡郡役場の建物は「総二階建で、塔屋を頂く大規模な疑洋風様式」による近代役所建築。明治12年に保原町に設置されたが、桑折町の有志が誘致運動を行ったことにより、明治16年4月に本町に移されました。
疑似洋風建築と云えば山形や弘前に多く残されていて何れも県令「三島通庸」の業績が誉められています。戊辰戦争では悲惨な目に遇った東北地方でしたが維新を迎えると逆に「西洋文化」や「近代文化」に敏感でその建物として「洋風建築を競って故郷に建築したのでしょう。山形や弘前に遅れることなく伊達でも寺社建築を請け負っていた伝統建築の継承者(棟梁)が錦絵を横目に観ながら疑似洋風建築を実現したのでしょう。棟梁の新時代に期待する心掛けや、洋風建築に集まった人々の昂揚した意気を視る想いがします。
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これが旧伊達郡郡役場の建物です。
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これは旧伊達郡役場の室内です。写真出典福島県桑折町ホームページhttps://www.town.koori.fukushima.jp/kankou/sightseeing/4/4782.html。此方は外観も室内も洋風です。




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福島野菜を食べて

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昭和60年代我国は首都東京の機能を分散して、政治機能を地方に分散しようと考えていました。候補は第一に阿武隈高原、次いで冨士高原でした。阿武隈高原に政治機能を移転させる、まことしやかに検討されました。阿武隈高原が検討された根拠は、一般には地質が堅固であるから・・・・。云われていました。東京から200K足らずの距離にある事、国有地が多いこと等が評価されたのでしょう。それが、原発事故のお蔭で、猪や鹿の都になろうとしています。
私は学生時代休みになると福島に遊びに来ました。叔父が信夫山の東に在る「古舘」に在る曹洞宗の寺院の住職をしていたので、その寺を根拠に自転車でアッチコッチ走り回りました。叔父に「何故福島なのですか?」尋ねた処次の様に答えられた記憶があります。
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南相馬では4/24日には田起していました、今頃は田植えが始まっていることでしょう。
昔この辺り信夫(しのぶ)郡は見渡す限りの湖で真ん中に信夫山があった。この山には吾妻(あづま)おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。
その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。
私は福島とは「福に恵まれた島(集落)」と直観していました。夏暑く冬寒いのですが、お蔭で野菜もお米も果物が美味しく、豊富なのでした。野菜が美味しく果物が豊富である事は福に恵まれている事です。
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楢葉町の「天神の宿」にはお米の安全性をアピールしたポスターが貼られていました。
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「天神の宿」の朝食は和食バイキングでした。「生野菜」を美味しく戴きました。鮭も楢葉町に遡上してくるそうです。[美味し国」福島は名の通り山海の美味に恵まれているのです。
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ランチは「道の駅南相馬」で戴きました。
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私は道の駅でB級グルメで有名な「浪江焼そば」を戴きました。太い目もっちりした麺をモヤシと甘めのオカメ焼きそばソースで炒めたお子様用焼きそばでした。
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「道の駅南相馬」の店内ポスターは「野馬追一色でした。
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「そだねー」に笑ってしまう「道の駅南相馬」の日曜大工売場。

「道の駅南相馬」でランチして、お土産を買い込みました。私は野菜と果物を買い込んで宅急便で自宅に送りました。明日からは、福島旅行の思い出をご馳走にして食事を楽しむ作戦です。林檎に、アスパラに、椎茸に、棒玉葱に、レタスです。代金は900円余り、一方送料は1000円超です。昨秋弘前でも同じように野菜と果物を仕込んで自宅に送りました。
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ジャガイモにレタスにアスパラに棒玉葱どれも200円で大きな冨士も300円/2個です。
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福島ツアーも終えて新幹線福島駅から帰路に付きました。
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自宅に戻って翌日の夕飯は野菜尽くしです。「茄子」以外は全部南相馬産です。この野菜の中で一番放射能の高いのは椎茸でしょうが。セシウムであればもう、私には無縁です。危険なのはヨウ素放射能ですが、もう子を産ませる事もありません。福島を懐かしみながら蒸して、焼いて、生で戴きました。
こうして仲間と一緒に年1回日本各地を旅する事は私のリハビリの役に立ってきました。何時もながら温泉で背中を流して貰って、この世の極楽を味わいました。今回を以って福島旅行記はお終いです。観て戴いて有難うございます。明日からは又日常の生活を綴ります。
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これは安達太良山の山麓にある「岳温泉/天空の庭」の温泉です。硝子窓に縁に「むべ」が額縁の様に張っていました。



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旅行ブログ









足利フラワーパークの盛況

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福島の相馬では藤が咲き始めていました。福島の帰路車窓には小山駅が在りました。
小山駅で下りて両毛線で暫く高崎方面に行けば足利です。人気の「フラワーパークの大藤は今年も見事に咲いたでしょうか?」功績のあった女性園長は引退されて故郷の静岡にフラワーパークを建設しているそうです。
そんなことを考えながら帰宅すると5月27日の朝刊に「足利フラワーパークのチラシ」が入っていました。藤の花房のカーテンを視ていると。もう行かずばなりません。ワイフを口説いてイソイソとお出かけです。


牛蛙の大相撲

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足利フラワーパークは渡良瀬川河川敷の湿地帯でした。湿地帯は平常時は近寄ってならない危険地帯ですが。大雨が降れば雨水調整池になって人々を守ってくれます。その湿地帯に多量の活性炭を注ぎ込んで「地質改良」をし、元々湿地を好む藤のパークにしたのは賢明だったのでしょう。藤の巨大な幹を視ていると「ジャックと豆の木」でジャック少年が登ったのは藤の木だったのではないかと思いました。
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足利フラワーパークの池の上に懸った橋の屋根は白藤でした。皆池の面を見詰めています。
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池に懸った橋の上から池の面を観る。紅白の睡蓮と向こうに大藤が咲いていました。
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池はこの八重の大藤と黄藤の間に在りました。右奥に見えるのは橋です。
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此方は黄藤のトンネル、藤の造形的な面白味の間を遊歩道が繋いでいます。
元々は足利フラワーパークは湿地帯でしたから、その地下には豊富な伏流水が流れているのでしょう。パークは池からから池へ細道を巡れば花が観られる様に出来ていました。小堀遠州の池水回遊庭園の現代版の様な設計です。その池の中から”グエーッ・グエーッ”無気味な鳴き声が響いています。この池には「牛蛙」が棲息しているのです。日本人にとっては親しみのあるのは「蟇蛙で」で「蝦蟇の油」も「地雷也」も蝦蟇ガエルです。蝦蟇口は大切なお金を入れる財布でしたが、口が蝦蟇蛙の口に似ているのでその名が付いたのでしょう。国宝の鳥獣戯画に登場して善人役を担っているのは蝦蟇ガエルで悪人役は兎です。印象深いのは善人役の蛙が兎と相撲を取っている場面です。
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女チックな兎が雨に濡れて困っていると蛙さんは傘を差し掛けてあげます。
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傘を差しだすと「僕は濡れても大丈夫!」蛙は嬉々として戻って行きます。
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乙女チックな兎と同じ兎か解りませんが蛙は兎と相撲を取って激しく投げ飛ばしてしまいます。蛙の仲間は蛙が勝ったので喜んでいます。
現実の兎と蛙の体格差では相撲等出来る筈ありません。そもそも、どちらも二足歩行ができる動物ではありません。ところが、鳥獣戯画の中では兎と蛙はほぼ同じ体格で描かれ、また人間のような二足歩行で絵の中を動き回ります。ここまで現実の姿から改変したならば、いっそビジュアルも擬人化してしまった方がよいような気もしますが、甲巻の動物達はあくまで動物としての姿で登場しています。これは、当時の人の動物観を表しているのでしょう。つまり、当時の人は「動物は動物であり、決して人の姿にはなれないが、「人と同等か、もしくはそれ以上に振る舞えるだけの魂)があるのだ」と考えていたのではないか、と思われます。相撲も弓も娯楽であると同時に神に奉げる神事です。鳥獣戯画の出所が「高山寺」ですから、絵師は密教の関係者で密教的説話と考えるのが自然でしょう。
鳥獣戯画は中世も近世に至っても有名だったのでしょう。先日上野国立博物館で観た若冲も蛙と河豚の相撲を描いています。

上野国立博物館の「百合の樹」の花が咲いた。

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上野の科学博物館に「人体」を視に行きました。最近読んだ書物「人体600万年史/ダニエルEリバーマン」に感銘したからです。
同著は壮大な文明史観」に基づいていて、人間が集住して農業を開始した時に「人体と人間社会のギャップが生じた」人類が何世代もかけて「集住・農業社会」に対応すれば病気も発生しなかった筈で「此れを人体の適応」と呼ぶ。人体は「栄養分を脂肪や筋肉に蓄積する」仕組みになっている。処が産業革命を経て労働しなくても生活出来る社会になると、『過栄養分が体内に蓄積して様々な現代病を引き起こしている』主張です。私は思い当る事が多々あったのでこの展覧会を視る事を楽しみにしてきました。
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