4月23日私達は岳温泉にある「天空の庭」に宿をとりました。
食後にはT教授にお願いして「福島の枕詞」の講義をしていただきました。教授は期待通りに、能因法師の歌
都をば霞とと共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
能因の和歌を踏まえた西行の歌
白河の関屋を月のもるかげは 人の心をとむるなりけり
更に奥の細道での曽良の句
卯の花を翳して関の晴れ着かなを解説されました。
能因法師が「本当に白川の関まで旅をしたのか否か?」は諸説ありますが、西行から芭蕉に伝わった歌の命は脈々と引き継がれています。私達現代人は先人の遺伝子を引き継いで生きている事は紛れも無い生科学の真実です。でも文化の核である文学の世界でも、先人の文学的成果をその子孫は受け継いで発展して行くのでしょう。
これは十和田湖の休屋に置かれた少女像です。智恵子記念館にはまるで「樹下の二人」のように置かれていました。
T教授は「しのぶ文字摺り」「安達ケ原」等の枕詞の解説をして。最期に高村幸太郎の「樹下の二人」を取り上げられました。
高校の現代国語の教科書に載っていました。
安達ケ原の二本松の松の根元に立っていた智恵子の面影を追った絶唱でした。
智恵子の才能の鮮烈な印象を光太郎はレモンに比喩しました。ですから智恵子の命日は「檸檬忌」と呼ばれ、10月5日に営まれます。
これは二本松にある「霞城」です。智恵子抄中の「樹下の二人」では松の根元に二人で立って、東を観れば阿武隈川西を見渡せば安達太良山とその麓に智恵子の生家が見渡せたのでしょう。何処に二人が立っていたのか?間違いなく霞城中の松の樹の根元でしょう。
みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫
それでは足をのびのびと投げ出して
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう あなたそのもののやうなこのひいやりと快い ・・・・。
T教授は懐かしい智恵子抄の全文をプリンとして下さいました。
能因や西行や芭蕉と違う現代詩の直截的な表現は私達にとっては極めて新鮮です。
.T教授は小学生時代お父様の仕事の関係で福島市の北東の「渡り」で過されたのでした。文学に志したきっかけに智恵子抄が在ったのかも知れません。
先輩のK女子が手を挙げて自問されました。
”皆さん、光太郎が愛した智恵子は(精神病」発病前の智恵子だと思いますか?それとも発病後の智恵子だとおもいますか?”
私達は各々が自説を用意しましたが、友人を説得するほどの根拠を即座には持ち合わせませんでした。しばし沈黙が流れてしまいました。そこで当初プランでは素通りする予定だった智恵子の実家(知恵子記念館)に、急遽充分時間をかけて見学する事にしました。
此れは智恵子記念館のパンフレットです。左が記念館の建物と内部の展示です。
これは智恵子記念館のポスターです。上部には智恵子の生家である「長沼酒店」とその甍の上に安達太良山が見えます。
智恵子記念館の年表を観て即座にK女子の投げかけた疑問は解けました。
光太郎と沼智恵子が出会ったのは大正元年(1912)で、 光太郎30歳、智恵子27歳の時でした。高村光雲の息子であり青年芸術家であった光太郎は人の紹介で東京女子大の女子大生だった智恵子を知りあったのでした。二人が結婚したのが大正3年(1914)、結婚生活は穏やかなものであったかどうか定かではないが、 智恵子に精神的な障害が出たのが昭和6年(1931)、闘病生活のはじまりでした。病気の進行と同時に高村幸太郎の智恵子への愛情は深化していったようです。精神を病んだ智恵子を愛しむように詩作は昇華して行きます。私達の記憶に生々しい「あどけない話」等を連作します。
これは女学生の智恵子のしたためた手紙です。シッカリした才媛であった事が確認できました。二本松の裕福な家庭で育った智恵子は単身で上京します。福島の自然の中で純粋培養されて育った智恵子が東京の淀んだ空気に馴染めず、精神を病んだのは想像に難しくありません。
これは智恵子の家族写真右端が智恵子で前列右が母の「せん」長沼今吉家の(二男六女)の長女として生まれた。 智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、 切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ・・・。
更には「檸檬哀歌」を作ります。
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう。
智恵子は福島県立橘高等学校時代の姿の儘人々の記憶に刻まれています。丸髷にふっくらした頬の少女は私達の憧れでした。村下孝三の初恋のCDジャケットの絵のようです。私は高校時代男子校でしたから、大学に入って初めて女性と言葉を交わしました。上手に自己表現できないので屈折してしまったモノでした。憧れは智恵子のように都会の塵に染まらない純粋培養の少女でした。その為もあってか、智恵子の写真を視ると少しだけ興奮してしまいます。
智恵子記念館には療養中の智恵子が製作した貼り絵が展示されていました。
少なからず興奮したのは、病身の智恵子が製作した「貼り絵」です。精神を病んだ智恵子は九十九里に静養し、東京のゼームス坂病院で治療を受けます。油絵を志した智恵子でしたが「貼り絵」を推奨されます。山下清が「切り絵」をしたように智恵子は「貼り絵」に集中したのでした。智恵子記念館の壁には智恵子の製作した「貼り絵」が懸けられていました。私は数枚のクリアファイルを購入しました。
「兎の餅つき」と題された智恵子作の張り絵、屹度光太郎もこのあどけない貼り絵を愛したのでしょう。名作智恵子抄」は智恵子の純粋さと光太郎の深い愛情があって初めて完成された現代詩の金字塔です。今晩は南相馬に泊まります。放射能に汚染されて苦しんだ相馬ですが、地域への愛情によって、復興の道を歩んでいるようです。今晩は「花霞」を飲んで語らいあう事でしょう。