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葉山「子安の里」の謂れを考える

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湘南国際村の進入路に「子安通り」があります。
大楠山の南面が「子安の里」ですから、その名を通りに使ったのでしょう。
近代的な湘南国際村、昔ながらの「山里・子安」が隣り合わせの風景です。
それが、妙にマッチングしています。
様々な人が、子安の里を歩いて、野菜を買ったり、石仏を巡ったり、写生やバードウォッチングを楽しんでいます。
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              (葉山は暖かいのでもう春色、マーガレットの向かいに「子産み石」が祀られています)
 
 
私は前々から「何故?子安の里なのだろうか?」思って来ました。
「子安」の名は全国各地にあります。
「安産でありたい」「元気な子供を産みたい」「子供を立派に育てたい」、昔ながらの願いです。
だから「子安地蔵」や「子安観音」が祀られていますし、水天宮もそれです。
葉山の子安の里にも「子安地蔵」があるのかな?
探しましたが、「ピッタリではありませんでした」が、それらしいものが見つかったので、案内します。
 
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(葉山子安の海岸、岸辺はに良く見れば丸い石が転がっています。丸い石が卵をイメージされ、生殖の神様に発展したと思われます)
 
 
私は15年前、福岡の単身赴任していました。
普段は藤崎駅から天神に向かいます。
週末は唐津(西)に向かいます。
宇美町に「宇美八幡宮」があります。
「宇美」は「産み」が転じたもの、神宮皇后が出産した事から「安産」の神社なのです。
 
神前に「小安石」が置かれています。
丸い海辺の石です。
これを持ち帰り、安産を祈願します。
安産であったら、石の表面に名前や生年月日を書き込んでお返しします。
お返しと同時に真新しい小安石を奉納します。
こうして、安産の願いは成就し、また別の妊婦に願いは伝えられます。
1500年も前から、小安石が繰り返し繰り返し続いてきた事になります。
 
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     (葉山の子産み石、上段の大きな丸い石がそれで、周囲の丸い石は子供石でしょう
 
葉山を横須賀に向けて、海岸通を行くと「子産石」が道路脇に祀られています。
漬物石大のまん丸の石です。
舟食い虫の穴が開いていますから、波に転がされて丸くなったものでしょう。
大きな丸い石が中心に在って、周囲に小さな丸い石が囲んでいます。
大きな石が小さな石を産んだようにも見えます。
「子を生み出す石という事から、生殖の神様として信仰されてきました」
案内板がかけられています。
 
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           (右の崖、祠の中に子産み地蔵、坂を下れば海で、正面に伊豆大島が見渡せます)
 
 
其処から、山側に細道を100メートルほど上ったところに、「子産み地蔵」が祀られています。
民家の崖に櫓が掘られていて、その中に丸石が二個、雪だるま状に積まれています。
「赤いちゃんちゃんこ」を着せられていますので、お地蔵さんなのだな・・・判断されます。
 
その足元に沢山の丸い石が積まれて居ます。
宇美八幡宮の「子安石」とまったく同じです。
この丸い石が「子産み石」、お地蔵さんが「子産み地蔵」さんです。
 
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                     (全体、上段は墓標仏、祠の中が子産み地蔵さん)
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「子産み地蔵」さんから、海岸通を約2キロ逗子方向に戻ると葉山の鎮守「森戸神社」があります。
その参道に「子宝石」の祠があります。
 
此方は丸い石が二つ並んでいます。
注連縄が巻かれていますので、これがご神体と思われます。
二つですから、どちらかが男の神様でもう一方が女神なのでしょう。
 
その間に、足元に沢山の小石が積まれて居ます。
小石は「子宝石」と名付けられています。
宇美八幡宮の「子安石」、子産み地蔵の「子産み石」とおんなじ役割を担う「子宝石」です。
何れも安産でしたら、石をお返しして真新しい石を奉納します。
親の思いは新しい妊婦に受け継がれます。
 
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                                        (森戸神社の子宝石)
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私は、不思議な思いに駈られます。
丸い海岸の石(川原石でも)は地蔵和讃で積まれます。
積んでも積んでも、夜になると鬼が出てきて壊してしまいます。
悲しい・むなしい作業です。
 
同じ川原石でも、子安石は嬉しい循環です。
同じ川原石なら三途の川原石ではなくて、子安石になりたいものです。
 
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葉山「子安の里」は、子供を産むにも、育てるにも最高の場所であるから、「子安」の名がついているのでしょう。
 
 
 
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「桜貝拾い」と「ワカメ拾い」(由比ガ浜にて)

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昨秋日本文化研究会の仲間と出羽旅行に行きました。
「今年も楽しくやろう」という訳で、六本木で一杯やりました。
同席した先輩が話してくれました。
『今日、夕陽を文京公会堂の25階で眺めた。
富士山の頂に陽が沈んで、「ダイアモンド富士」は実に荘厳であった・・・・・』 と。
 
北斎の「赤富士」にダイアモンドが重なったら・・・・それは見事だったでしょう。
 
「ダイアモンド富士」は私の住む横浜・戸塚では春分の日頃です。
湘南ではもう少し後になります。
もうその頃は、黄砂が舞い、霞も出ますから、「夕陽の富士」はなかなか見られません。
「ダイアモンド富士」は、都心だからこそ拝められるのでしょう。
 
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   (戸塚の夕焼け富士、春分の頃頂に陽が沈み「ダイヤモンド富士」になるのだが・・・その頃に夕焼けが見ら     れなくなる)
 
鎌倉から眺める富士山は今頃が最も綺麗です。
富士山自体が冠雪している事、
空が澄み渡っている事、
海が紺青であり、波頭が砕けて白い事・・・・・
様々な条件が重なって、最も美しく見られるのでしょう。
 
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                  (鎌倉の海辺から「ま白き富士の嶺、緑の江ノ島・・・・」歌詞の風景を見る)
 
昔に比べれば由比ガ浜の砂浜も狭くなってしまいました。
海面上昇が原因か、駐車場の拡張のためか、良く知りません。
でも、砂浜は随分綺麗になりました。
「ゴミひとつ」転がっていません。
ワカメの根株と貝殻だけが波打ち際に寄せられています。
 
私は、少年のように「桜貝」を探します。
昔は、この砂浜に桜貝は沢山散らばっていました。
拾うのは容易な事、でも形が整っていて、大きな桜貝は滅多に拾えませんでした。
「桜貝の歌」はお隣の逗子海岸で作られました。
 
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                             (波打ち際の寄せられた貝たち、この中から桜貝を拾います)
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  (逗子、桜会の歌歌碑/麗しき桜貝ひとつ・・・・)
 
1910年、逗子開成中学の生徒さんがこの海で遭難、12人の命が散りました。
近くの「長勝寺」にはお墓や慰霊碑が建っています。
三角錫子は賛美歌に詩を載せて「由比ガ浜の哀歌(ま白き富士の嶺)」として発表しました。
あれから、100年経っても、この歌は湘南の愛唱歌です。
紺青の海と富士を眺めると、誰しも口ずさんでしまいます。
 
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   (富士の手前が稲村ガ崎、海中の碑は我が国最古の築港「和賀江島」)
 
 
お正月明けから、砂浜に繰り広がれられる「風物詩」があります。
『鎌倉ワカメの天日干し」風景です。
北西の風が吹き出しと、相模灘の海水は急に冷えるのだそうです。
すると、一斉に「ワカメ」が成長します。
新しいワカメを採取して、湯がいて、砂浜で天日干しするのです。
 
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                       (由比ガ浜のワカメ天日干し風景。家族総出で干しています)
 
 
材木座海岸から坂ノ下海岸まで、天日干し風景が点在します。
1月から、春分の日頃まで続きます。
私は天日干しに忙しいお爺ちゃん、お婆ちゃんに声をかけます。
 
「私は鎌倉育ちですが、鎌倉ワカメは滅多に食べられません。何処で買い求められますか?」
 お婆ちゃんは手を休めないで、答えてくださいます。
「私たちは鎌倉新ワカメを坂ノ下の漁師「天神丸」さんに収めています。
この砂浜のワカメは殆ど買い占められていますから・・・、その先で買い求められる事になるでしょう。
天神丸さんもその先が固まっているでしょうから・・・・なかなか買い求められないかもしれませんね。
私が茨城から鎌倉に嫁に来たのが昭和25年、当時からワカメの天日干しはしていましたよ。
でも昔は海に潜って採取していたのでしたが、今は縄に種子を植えつけて、沖合いで養殖しているのですよ・・・・・。
それを引き上げて、砂浜で湯がけば緑色に変わる、そして天日に干して・・・・、全国に出荷する。
注文はあっても、生産が間に合わないのですよ。」
 
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ワカメは北風に揺れて、見る見る乾いてしまいます。
でも、乾くと同時に丸まってしまいます。
お婆ちゃんは丸まったワカメを改めて拡げています。
そうしないと、均等に乾かないのでしょう。
乾いて黒くなったワカメは味噌汁に入れれば、また緑色に戻ります。
柔らかいし、汐の香りもあるし、命の溢れる緑色です。
 
仕方無い・・・・長谷観音の下まで買い求めに行く事にしようか・・・・・。
それとも・・・・・少し頑張って「桜貝拾い」を諦めて、「ワカメ拾い」にチェンジしようか・・・・・。
波打ち際を長谷に向かって歩く事にしました。
 
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   (森戸漁港、釜戸はシラスやワカメを湯がいて獅子奮迅の活躍です。もう、私より老いているでしょうに・・・)
 
 
 
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何故?「四十雀」なのかしら・・・・。

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最近は麻雀(マージャン)をやる機会も無くなりましたが、学生時代、サラリーマン時代、随分時間と体力を浪費しました。
当時も今も「こんなに楽しいゲームを思いつくとは、中国人は偉い!」思っていました。
麻雀牌を混ぜる(洗牌)する時、ジャラジャラ五月蝿いものです。
その音が、賑やかさが雀が数羽集まって遊んでいるようなので、この名が付いたのでしょう。
中国語で雀の事を「麻雀」と書きます。
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                               (庭先に集った雀、寒いので「ふくら雀」状態です)
 
雀は群れを成して行動します。
仲良しで、「チュン・チュン」と賑やかです。
文鳥も、山ガラも、コガラもみんな「雀」の仲間です。
一般に「ガラ」と呼ばれています。
私たちに最も身近な小鳥です。
そんな中で最も目だって、騒がしいのが「四十雀」です。
 
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                         (葦原で葦の茎を穿っている四十雀、金井遊水地で)
 
一羽居ても、雀40羽居るほど騒がしいので「四十雀」の名が付いた、と言われます。
また、愛らしい姿なので、雀40羽の価値がある・・・・、そんな意味である、と主張する人も居ます。
どれも「四十雀は一羽でも雀40羽の存在感がある・・・・」そんな存在なのでしょう。
さえずり声は「ツピツピツピツピ」と可愛いのですが、
地鳴きは「ヂュク・ヂュク」と可なり耳障りな声です。
従って、すぐに気付きます。
 
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柏尾川の金井遊水地には雀も四十雀も山ガラも・・・多く棲んでいます。
この季節、葦藁が枯れて、穂が出てきます。
その種子を食べにやってきます。
最も気性の激しいのが四十雀です。
雀と略同じ大きさですが、彼らを追い払って、葦の茎を穿ちます。
幼虫を探し出して、食べます。
虫のほうが美味しいし、栄養価も高いのでしょう。
 
葦の傍には姫蒲(ひめがま)が群生しています。
姫蒲の穂先は秋には花が咲きます。「大名行列の槍振り(毛槍)」のようです。
槍の刃先をカバーする「筒」のようで、楽しいものです。
 
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             ( 9月の姫蒲の穂先、まるで毛槍のようです)
 
その穂先が今は綿毛に変わっています。
木枯らしに綿毛が吹かれて、種が撒かれるのです。
でも、綿毛が耳に入ったり、眼に入ったり、「害」があるのだそうです。
その為、神奈川県は4年に一度ほど蒲を根こそぎ伐採します。
私は「其処までしなくても良さそうなものだ・・・・・」治水課に言うと、住人クレームが激しいのだそうです。
野鳥も迷惑しているのでしょう。
 
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蒲の綿毛は「火付け」の種として重宝されました。
縄文時代から私達人間は「蒲から種火」を採取して来ました。
でも、今は「害」が注目されています。
 
雀も四十雀も葦原から蒲原に行ったり来たりしています。
梢の位置にはカラスやトンビが止まって、見詰めています。
彼等は危険が迫ったら、蒲の中に身を潜めれば良いのです。
自分らの身も守ってくれるし、食事も供給してくれる、ありがたい場所がこの葦原であるのです。
 
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                                      (夏の葦原とダイ鷺/金井遊水地にて)
 
四十雀を見詰めていると「一休さんの話」を思い出します。
一休禅師の庵の近くに「四十雀を愛玩する男」が居ました。
朝晩可愛がっていたのでしたが。ある日死んでしまいます。
男は亡くなった四十雀が三途の川を渡って冥土に行く姿を思い浮かべます。
そこで、一休禅師に弔って戴く事にします。
で・・・・、禅師のお弟子さんがお相手をします。
その引導は・・・・・。
「お釈迦様は83歳で涅槃に入った。お前は40歳で成仏せよ・・・・!」
一休禅師は「よく出来た」と誉めました。
 
 
昔からこの野鳥は「四十雀」と呼ばれていたのです。
そして、一休さんを初めとして、誰しも「何故四十雀なの?」思っていました。
そこで、この小坊主さんが「40歳からだ」と呼んだのでした。
 
雀は精々長生きしても10歳足らず、四十雀も長命だとも思えません。
ただ、昔から四十雀は雀同様日本人が愛してきた事が判ります。
柏尾川の川風は冷たいのですが、四十雀の愛らしさは長く見詰めていても厭きさせません。
 
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                        (黒いネクタイのような四十雀、かなり気性が激しく、やんちゃであります)
 
 
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遊行寺の「節分会」を楽しむ

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今日は「立春」、天気予報では気温14度にも上昇、暦どおりの麗らかな日になるようです。
昨日は「節分」、今年は何処の寺社で節分祭(お寺では節分会と呼びます)を過ごそうか?
楽しい、悩みでした。
 
鶴岡八幡宮や江ノ島弁天宮が一番有名かしら・・・・、
でも、今年は藤沢の遊行寺にしよう・・・・、
ネットで豆撒き時間を確認して、お出かけです。
 
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                    (豆撒きを待つ遊行寺境内。私は銀杏の木の下のベンチで待ちました)
 
 
実は私は年齢を重ねると共に、一遍上人に関心が高くなってきました。
『一遍上人絵伝』(国宝)には上人の一行が伝えられています。
托鉢行はお釈迦様のお姿、日本人で最もお釈迦様を真似た人は一遍上人のように思えます。
加えて、一遍上人を慕って歩く俗・道の一団がいます。
上人一行は何故か女性が圧倒的に多いのです。
女性が最も救いを求めていたから・・・・、解り易い教えだったから・・・様々な想像が駆け巡ります。
 
絵巻物には上人の一行と併せて、美しい山河を描いています。
「花の事は花に問え・・・・」上人のお言葉も尊いものに思えます。
 
遊行寺は花が美しいお寺です。
加えて、誰でも出入りが出来て、聖俗様々な催しが広い境内、本堂内陣で行われます。
遊行の精神がお寺に満ちているように思います。
ですから、冬と春の境目「節分」を寿ぐには最高のスポット、と思うのです。
 
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      (一遍上人絵伝は美しい天然と宗教の悠然一体化した世界)
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 (一遍上人像の足元で豆撒きされます。伊予生まれの一遍上人は何故か同郷の正岡子規を髣髴させます)
 
13時、赤朱雀門からほら貝が響いて、導師や木やりを先導にして、遊行七十四代 阿真円上人様など一団が本堂に登ります。
本堂内ではご本尊(阿弥陀様)に向けて大般若経が転読されています。
転読とは「お経の最初と最後を読んで、ご利益は全部読んだのと同じですよ」・・・といった便法です。
上人の回向が聞こえて、上人様一行は豆撒きの舞台に降りて来られます。
待つ間も少なく、豆撒き本番になります。
 
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             (豆撒きの前座を務めたのは西宮のお囃子、獅子舞が活躍します)
 
私の傍ではお婆さんがお喋りしています。
「今年の豆袋の数は10,000袋、拾えるか少し心配です。でも、豆拾いに参加して怪我でもしたら大変だ。豆袋の中には当たり券が入っていて、最高は34インチの液晶TVだそうだ。やっぱ、拾いたいけど、心配だ。あっちには救急車もスタンバイしているし・・・・・」
 
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                                (豆撒き風景)
 
私は、カメラを持って、少し離れた位置から眺める事にしました。
豆袋も欲しいのですが、写真も撮りたいし、
双方を達成する事は出来ません。
 
年男・年女の人も含めて、豆撒き人は約30人、
勢い良く、豆袋が撒かれます。
前列には子供たちが勢揃い、沢山拾えます。
後列までは中々豆袋は届きません。
でも、「福は来い、豆も来い」両手を広げて豆拾いです。
 
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勿論、此処は阿弥陀様のお膝元です。
「福は内」だけで、「鬼は外」はありません。
「福は内」「福は内」が連呼されます。
 
今晩は我が家でも「福は内」をする事にしましょうか・・・・。
居間でTVを見ていると、鶴見総持寺や成田山新勝寺の豆撒き風景が放映されています。
芝増上寺はAKB48でした。
「福は内」に最も相応しいかな・・・・・、
チューリップのような笑顔を眺めて・・・・満足です。
 
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湯島天神のムクドリ「熟柿」に集まる

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久々に都心に所用があって出かけました。
丸の内も大手町も高層ビルが林立して、様変わりです。
毎年、お正月に参詣していた「首塚」もビルの谷間で、陽が当たらないばかりか、
見向かれなくなってしまったようです。
浦島太郎気分で、湯島天神に向かいました。
「湯島の白梅」見物を兼ねて、今最も賑っているはずですから・・・・。
 
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    (湯島天神西側から望む、カメラの右手に柿木があります)
 
流石に湯島まで来ると高層ビルこそないものの、低層のビルが続いています。
昔は茶屋やお屋敷が続いていたのですが、随分変わりました。
湯島天神も立派な建物に囲まれて、本殿も綺麗になっています。
梅の木も様々な種類が植えられて、庭園も工事中です。
勿論、受験シーズンです。
受験生はチラホラ、目立つのはご両親やお爺ちゃん、お婆ちゃんです。
「可愛い孫のため・・・・」「昔を懐かしみながら・・・・」湯島を詣でる人が多いのでしょう。
 
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 (湯島天神の白梅は満開の木もありますが、総じて2月末が見頃でしょう)
 
 
湯島天神は東西南北、何処からでも境内に入れます。
でも、正しくは西側、本郷の方から入るものでしょう。
本殿も、鳥居も、総て西向きに建てられています。
 
神社は参道を登る時からが楽しみです。
本郷側から正面に天神様の森を見ながら進みます。
此処は天神様に向かい細道です。
私は童謡を思い出します。
 
   とぉりゃんせ、とぉりゃんせ。
   ここは何処の細道じゃ。
   天神様の細道じゃ。
   チョット通して下しゃんせ。
   御用の無いもの通しゃせぬ。
   この子の7つのお祝いに お札納めに参ります
   ・・・・・・・・・・
   行きはよいよい、帰りは怖い
 
そら恐ろしい童謡です。
 
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                                 (ビルの谷間の柿木、野鳥が群れています)
 
ビルの谷間からけたたましい野鳥の鳴き声が響いてきました。
驚いて見上げます。
其処はしもたやが一軒残されていて、その庭に大きな柿木があって、
その梢一杯に熟した柿がなっています。
様々な野鳥が熟柿を突っついているのです。
下から見上げると目立つのは「ムクドリ」です。
「ギャーギャー」「ギュルギュル」けたたましい事、騒がしい事、これでは「公害」でしょう。
道路上にも白い糞が落下しています。
糞害も相当なものでしょう。
 
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                              (黄色い嘴、黄色い脚が可愛いムクドリ)
 
ああ、これが最近問題になっている「都市のムクドリ」か・・・・、実感します。
椋の木に集まるから「ムクドリ」なのでしょう。
特に、冬になると群れを形成します。
餌のある場所に集まります。
都市に出現するから私達の目につきます。
気に触る事もあれば、癒される事もあります。
 
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ムクドリは大食漢です。
一説では一家族で食べる虫は一シーズン100万匹と聞かされます。
虫1匹駆除するのに1円を要するとすれば、1年で100万円です。
この柿木に集まったムクドリは数千万円の害虫駆除をしている事になります。
尊い存在です。
 
「この柿木を伐採しろ・・・・」言う人が居ることでしょう。
でも、しもたやの主人は首を縦に振らないのでしょう。
「野鳥が生きているのだから・・・・・」
 
今頃は大和国では柿の実が残っているでしょう。
熟した柿の実を全部収穫する事はしません。
野鳥のため、残しておいてあげる・・・・・のです。
日本人の知恵であり優しさなのでしょう。
「生を愛しむ」心は太古から綿々と続いてきました。
 
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                     (コッチはヒヨドリ、栴檀の実が好物です)
 
「首塚」は平将門の、天神様は「菅原道真」の怨念を恐れて、
非業の死を遂げた人の霊を慰撫するため奉られた神社です。
 
「とぉりゃんせ、とぉりゃんせ」
童謡も7歳のお札参りの歌ですが・・・・、
神社に詣でるのは良くても「帰りは怖い」、となっています。
「何を怖れているのか・・・・・」大いに気になります。
 
私は、7歳まで育たないで亡くなった子供やその親の「憑依霊」を怖れているように思うのですが・・・・、
それは叉別の機会に書く事にしましょう。
 
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「梅が咲いてから春が来る」と言う教え(岩殿寺)

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BS/TBSで「チャングムの誓い」を放映しています。
最初にNHKで観たのはもう5年も前になるでしょうか、以降何度か観てしまいます。
 
医女になったチャングムは王様にこう諭します。
「冬が寒ければ疫病は流行らず豊作になります。冬が暖かければ疫病が流行って・・・・・危険です。」
私は、「なるほど、その通りだ・・・」感心します。
今年の冬は寒いし大雪が降っています。
という事は、「吉祥」なのでしょう。
 
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                                         (逗子の岩殿寺山門)
 
関東札所二番の「岩殿寺」に登ることにしました。
大寒が過ぎて、立春を迎える頃、このお寺は最も綺麗に輝くからです。
奈良の長谷寺を数段小さくしたようなお寺です。
山上に観音堂が建っていて、長い石段を登ってお参りします。
その両側に、水仙が咲いて、梅花が咲きます。
足元には沈丁花も蕾を膨らませています。
春の香りの三重奏になります。
 
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                  (岩殿寺の利生堂(八角堂)周囲は様々な水仙が埋め尽くしています)
 
 
私のように「門前ならぬ門内の小僧」は習わぬ経を諳んじているものです。
お経の意味は解りませんが、漢字で凡その雰囲気は掴めます。
「こうなったら良いな・・・」「真理とはこんな事じゃないのかな・・・・」
『想い』は蕾のような小さいものですが、突然に花開く瞬間があったような気がします。
「お経を読むこと」「写経をする事」はまるで
「自分の心の岸辺に花を咲かせるような作業かも知れないなあ・・・・」思ったりしています。
 
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                                           (沈丁花も咲き始めました)
 
 
如浄禅師(道元禅師の師)の言葉に「梅開早阜春」があります。
普通は「春になれば暖かくなって梅の花が咲く」 理解しています。
ところが、「初めに梅の花が咲いて、次いで春が来る」と逆転して教えています。
 
今年の冬は例年になく寒いにもかかわらず、梅は1週間も早く咲き始めました。
この事を言っていられる訳ではありません。
「初めに自分の心の中に梅の花を咲かせなさい・・・・・続いてお庭の梅の花が咲きますよ」
そんな教えなのでしょう。
「心の中に梅が咲いていれば、梅の馥郁とした香りも、妙なる調べも解るのですよ・・・・」
ですから、「心に花が咲いていなければ、香りも調べも・・・・何も解りませんよ」・・・となるのでしょう。
 
曹洞宗では「梅香講」があったり、境内に梅が大切にされています。
前述の教えを日常にしているからでしょう。
 
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私が大学に入学した時、同じミッション系の高校を卒業した友人が詩を教えてくれました。
作者は八木重吉でした。
     ひとつの気持ちをもって いて 暖かくなったので 梅の花がさいた
     その気持ちがそのままよい香りにもなるのだ ろう
 
如浄禅師の教えと同じなんだなあ・・・・・思います。
八木重吉は「貧しき信徒」ですから、禅は知る由も無かったでしょうが・・・・・、
800年を超えて相通じるものがあります。
 
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石段の下には「慈母観音像」「慈父観音像」が建立されています。
現ご住職がご両親に感謝されて建立されたものです。
「慈父観音像と言うのは始めてだなあ・・・・・」思いますが、父母揃っていて自然です。
紅梅・白梅の中に立っておいでです。
 
 
石段の踊り場に「子育て地蔵」が祀られています。
朱塗りの祠に収まった1mほどのお地蔵さんです。
祠の壁にはゆだれかけや、ちゃんちゃんこ、頭巾などが掛けられて一杯です。
今も、篤く信仰されている事が解ります。
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少し前屈みのようです。
背中はお着物(ねんねこ半纏?)で隠れていますが、赤子を背負っておいでのようです。
「子守唄」は貧乏娘の歌ですが、あの姉やがお地蔵様になっておいでです。
そんな姿が信者の共感を呼んでいるのかもしれません。
 
更に石段を登ると、次の踊り場に「弘法大師の爪彫り地蔵」が祀られています。
風化が進んでいますので、もう何だか全く判断できません。
雪だるまのような石の塊です。
でも、案内に書かれているので・・・・・、「そうなんだろうな」
思います。
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子供が立派に成長して、両親に感謝して建立したのが「慈母観音・慈父観音」
そして、子供を産んだまでは良かったのだが・・・・・運悪く亡くしてしまった。
亡くなった子供はどうなるのだろう・・・・?
親より先に死ぬ事は、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいません。
賽の河原にたどり着いて、その岸辺で獄卒に責められます。
川原石を積んで卒塔婆を建てても夜になれば鬼が出てきて崩してしまいます。
子供を守ってくれるのが「子安地蔵」や「子育て地蔵」でしょう。
不幸にして幼くして亡くなった子供を守ってくれるよう・・・・親が子育て地蔵を建立しました。
 
慈母観音も慈父観音も、子育て地蔵も、爪彫り地蔵も、等しく馥郁とした香りに包まれています。
最初に両親に感謝する心が無ければ、最初に早死にした子供を不憫に思う心が無ければ、
観音像も地蔵も祀られませんでした。
 
「最初に心に花を咲かせて・・・・・次いで春の花が咲き出す・・・・馥郁として・・・・・」
その通りだなあ・・・・思われてきます。
 
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横浜中華街の「春節祭り」

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今年の春節は2月3日、太陰暦ではこの日が元旦で、これから2週間の間が春節祭が行われます。
サラリーマン時代、2週間もの間工場が休むと聞かされ、顔を青くした事がありました。
でも、今では「ラマダンと春節」は常識になっているのでしょう。
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TVで日本の「獅子舞」が出ていました。
緑色の衣装を着ています。
大風呂敷を被って踊っているようで、「正月」を感じます。
万物の生命力は緑に宿ります。
緑の衣装はその生命力や霊力を象徴したものなのでしょう。
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                            (獅子舞、YAHOO画像から)
TV横浜中華街の獅子舞も出てきました。
此方は、黄色や赤様々な色の獅子舞です。
お獅子の頭も随分違います。
獅子がライオンなら、中華街の獅子はライオンに似ています。
日本の獅子は歯並びが良くて、牙がありません。
牛の頭に似ているな、思います。
同じ獅子でも随分違うもんだ・・・・・。
「マア、久しぶりに横浜中華街に行ってみるか!」出かけてみました。
 
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                (横浜中華街HPから、中華街の獅子舞)
 
まず「横濱媽祖廟」に登りました。
媽祖廟の媽祖様は「天上聖母」と呼ばれる「女神」です。
我が国では「お弁天様」か「お稲荷様」に「金比羅様」・・・様々な神仏のように慕われているようです。
横濱媽祖廟が復活建立されたのは2006年でした。
中華街の人達の熱意に沢山の人が協力して、清国領事館の跡地に再建されたのでした。
 
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                                  (媽祖廟を南側から見る)
 
媽祖廟(母神)の位置は中華街の北側です。南側には関帝廟(父神)があるわけです。
南北で中華街とその住人の繁栄を守っているのでしょう。
 
未だ10時前、横濱媽祖廟に登る人は疎らでした。
お線香(5本500円)を求めると、親切にお参りの作法を教えてくださいました。
神前に登って、両膝を突いて、三度礼を重ねます。
5人の神様が祀られていて、その順番も決まっていました。
5度もお願いすると、私の願いは総て尽くされてしまいます。
 
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                                  (媽祖廟、手前の輿に乗っているが媽祖様)
 
私は、管理人に思い切って尋ねてみました。
「何で中国のお獅子はカラフルなのか?・・・・日本の獅子は緑一色だが・・・・」
 
お返事は以下の通りでした。
①中国の獅子がカラフルなのは「色が方角を示しているから」
②日本の獅子は実はライオンではなく、狛犬であります。
③多分、日本の狛犬には雌雄の区別は無いものの、中国の獅子は雌雄が揃っています。
 
私は、媽祖廟の関帝廟の獅子を見て回ります。
どちらでも、獅子の股の間を覗きました。
確かに一物がはっきりと刻まれています。
 
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                      (向かって右側の獅子、お股の間に男の一物が覗いています)
 
何で日本では「狛犬舞」と言わないで「獅子舞」と言ったのだろうか?
次々に疑問が湧いてきます。
 
獅子も狛犬もユーラシアの向こうからシルクロードを伝わってきた神獣です。
東大寺の開眼供養でも、舞楽面を被って「狛犬舞」もあれば「獅子舞」も舞われていた・・・記憶しています。
平安時代までは宮中祭事では、狛犬舞と獅子舞が一対で舞われていました。
 
ところが、宮中文化が廃れてくると、その分別が付かない状態で町人に引き継がれたのでしょう。
町人は「犬より獅子の方が強そうだ」だから獅子舞と呼びました。
でも、「強くて覇を競う獅子」よりも「子沢山の犬」の方が有難い・・・・」
そこで、姿は狛犬にしました。
 
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                                (関帝廟前でお遊戯する幼稚園児)
 
もうひとつ疑問があります。
中国では雌雄一対の獅子であるのに、日本では「性」を余り意識していないのは何故か?
 
マア、考える前に腹ごしらえをするか・・・・・、
修学旅行の中学生と一緒に、何処のお店に入ろうか・・・・・お散歩です。
横浜中華街にいると、何故か元気が出てきます。
これを「活気」と言って「春節祭」のテーマなのでしょう。
 
 
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                          ( 関帝廟)
 
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水温む(柏尾川にて)

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立春に入って温かい日が続きます。
「春を感じたい」思いながら、柏尾川を下ってみる事にしました。
同じような人が多いのでしょう。
川べりまで降りて散歩している人が目立ちます。
 
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       (綺麗な方が小鴨、地味なのがカルガモ、仲良く水底に生え出した藻や苔を食んでいます)
 
魚影が目立ちます。
川底に藻や苔が生えてきたのでしょう。
ボラが食んでいるようです。
岸辺にはカル鴨、小鴨が仲良くしています。
一緒に潜って、川底の藻を擦って食べているのです。
 
カル鴨の家族は此処で一生を過ごしていますが、もうじき小鴨の家族はシベリアに向けて旅立ちます。
親戚同士、しばしの時間を家族付き合いをしながら、楽しんでいるようです。
 
春が来れば、冬鳥は旅立ちます。
そうしたら、鳥インフルエンザ問題も無くなる事でしょう。
出水町のナベ鶴も無事に帰られれば良いのですが。
でも、「先送り」されただけかもしれません・・・・。
 
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                  (手前がボラ、川底に生えた苔を食べていると思います。水が温んだお陰です)
 
柏尾川は古舘橋から片瀬に向けて流れを変えます。
その谷戸に新林公園があります。
二つのため池を有した里山公園です。
地元の小学校が棚田を耕しています。
ため池は水鳥の餌場でありますから、バードウォッチングの格好の場所です。
もう、蛙が卵を産んでいるかもしれません。
 
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                             (新林公園の梅林で、車椅子で来た親子さんが記念撮影)
 
梅林では紅梅・白梅が満開のようです。
でもこの梅林の主役は「思いのまま」、一本の木に紅白の花が咲く「花梅」です。
未だ、蕾です。
一番の観梅は3月に入ってからでしょうか?
でも、麗らかな春日に誘われて、様々な人が集っています。
車椅子のお母さんを倅が連れ出して、携帯のカメラで写しています。
バックは見事な紅白の梅です。
「思い出の写真」が撮れた事でしょう。
 
 
公園のシンボルツリーは曙杉、
鳥や魚は春の営みを始めたのに、この古代樹は未だ枯れた梢のままです。
でも、この木の根っこはもう活動を始めている事でしょう。
もう、数日で一気に若芽を伸ばす事でしょう。
 
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池面は、一面乳白色です。
その中に、緑の藻が丸まって膨らんでいます。
ため池に流れ込み谷川は清い水です。
この乳色は、ため池に巣食った生物の営みの結果でしょう。
先日TVで見た「ニシンの産卵(群来)」を思い起こします。
 
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                          (ため池の緑藻と乳色の水)
 
バクテリアでしょう。
バクテリアも緑藻もオタマジャクシなどの餌になるものでしょう。
谷川にはもう姫蒲や菖蒲の新芽が出てきています。
足元の土くれが盛り上がっています。
モグラが目覚めて、トンネルを掘り始めているのです。
トンネルは「ミミズを取るためのストラップ」です。
 
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                           (土くれの盛り上がりはモグラが動き出した証です)
 
陽が長くなって、最初に温かくなるのが土で、次いで水。
私の目にははっきり確認できない土や水に春が来て・・・・
空気が暖かくなって、花や芽が吹いて・・・・春本番と言う事でしょう。
 
目にははっきり解らないけれど・・・・春が来ていることが感じられます。
こんな季節が最も嬉しいものです。
 
 人影の写り去りたる 水温む  (虚士)
 
 
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片瀬川沿いに警報機が付きました。
数年前神戸六甲山で集中豪雨があったときでした。
夙川が増水、数名が落命されました。
そのレビューで、柏尾川沿いで警報機が設置されたのでした。
藤沢北警察署からの「迷子情報」です。
『善行のお住まいの82歳の男性が昨晩から行方不明です・・・・特徴は・・・・・見かけたら連絡してください』
「春が来た」
私の浮かれた気分は急速に萎んでしまいました。
「我が国に春は来ないのかなあ・・・・・・・!」
思います。
 
 
(序いでに書きました)
 
先頃からラジオでは国会中継中です。
私はこのブログを書きながら田中康夫氏の質問に「我が意を得たり」思って聞いています。
諏訪のエプソンは1兆円企業、でも法人税は払っていません。赤字会社だからです。
でも、同社が赤字だと思っている人は居ません。
 
春の陽射しは万物に公平に注ぎます。
自然の摂理は「シンプルで公平」です。
税(歳入)も執行(歳出)もシンプルで公平であって欲しいなあ・・・・思います。
 
 
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「お寺・お城・町屋」が合体した「鎌倉彫店舗」

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今朝(2月9日)は朝から冷たい雨が降っています。
天気予報では雪だったのですが。
「雪が降ったら何処に出かけようか・・・・」楽しみにしていたので、すこしがっかりです。
 
TVではJR東日本が交通案内をしています。
「只見線は会津坂下から○△の間、積雪のため運休です」
毎朝、同じ内容です。今年の冬はずっと運休になってしまいそうです。
私は会津坂下の景色を想いおこします。
一面の雪原と、その向こうに屋敷森があって、それが勝常寺、
徳一上人の古刹を思い起こします。
 
JR只見線は只見川に沿って越後小出に向かいます。
町並みと、その間に「斉藤清美術館」が目に浮かびます。
数メートルの雪に埋もれて、人影はありません。
でも、ふるさとの優しさは斉藤清を東京から戻しました。
清は雪の下から温かい雪景色を版画にしました。
 
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                    (斉藤清美術館HPから転載)
 
江ノ電長谷駅を降りて、長谷寺に向かうと、左手に古風な建物があります。
鎌倉彫の「白日堂」さんです。
建物脇に鎌倉市の景観重要建物である事・概要が案内されています。
建てられたのは1940(昭和15)年でした。
概観は寺院建築と城郭建築、表面は鉄平石張りの腰壁を持ったショーウィンドーを備えた店舗であります。
家の横に回れば、此処が工房であり同時に住宅である事が解ります。
設計・施工は「西井喜一、西井正二」とされています。
鎌倉の大工さんでした。
鎌倉ですから寺院建築はお手のうちだったのでしょう。
しかも、注文主は鎌倉彫の伝統主でした。
 
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         (白日堂正面店舗部分・右端ガラス戸に斉藤清美術館のポスターが何時も貼られています)
 
鎌倉彫は鎌倉時代の仏師を祖とします。
仏像の注文が減ると、仏具や天蓋や須弥壇など荘厳具の彫刻に、
それらも減ってしまうと、現在のようなお盆などの家庭用品に転じました。
私達は鎌倉彫の鑿の跡を見ると、日向薬師や弘明寺観音像を思います。
世に「鉈彫り」と呼ばれますが、丸い鑿跡の意匠です。
鎌倉彫はお寺に始まりました。
 
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                          (白日堂側面/南、町屋であることが解ります)
 
それで概観は寺院建築、城郭建築にしたのでしょう。
匠として頑なに伝統を守っている姿勢をアッピールしました。
同時に店舗、住宅としての機能も実現しました。
その結果がこの建物なのでしょう。
 
ガラス戸に「斉藤清美術館」のポスターが貼られています。
実は、白日堂さんはいつもこの位置に同美術館のポスターを貼り替えているのです。
両者がどんな関係にあるのか私は知りません。
ただ、鎌倉彫も版画も同じ鑿を使う伝統技、
白日堂さんは斉藤清さんがお好きなのでしょう・・・・。
だったら・・・・・屹度会津坂下も、雪深い風土も、そしてロマン溢れる表現も・・・お好きなのでしょう。
 
 
白日堂さんから長谷寺前交差点を右折して由比ガ浜通りに入ると、笹下に一寸堂さんがあります。
此方は木造3階建て、白日堂さんより一回り大きな建物です。
作られたのは昭和11年、同じ「西井喜一、西井正二」の設計・施工によります。
目を引くのは3階が三重塔の第三層のような意匠になっていることです。
その上には相輪を戴いています。
二・三重の軒は二軒の繁垂木を用いていますし、三斗の出組、花肘木、蟇股といった細部意匠は寺院の堂塔
そのものです。
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 (一寸堂の正面。漆喰壁と窓は城郭を思わせます。相輪に始り垂木や屋根は寺院意匠です。機能は町屋です)
 
 
私がガラス戸を開けて店内に入りました。
店舗には誰も居ませんでした。
奥から人影がします。
目をやれば、其処は洋風の応接間です。
 
私は陳列された鎌倉彫の調度品と、建物の構造に目をやります。
店舗の床はタイル張りです。
柱が少なく、重たい二層・三層を良く支えているものだ・・・・驚いてしまいます。
 
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  (一寸堂店舗、右奥が洋風応接間、天井は格天井、床は化粧タイル。昭和初年の鎌倉大工の技)
 
鎌倉はお寺があって、次の時代に城郭があって、近世には町屋が増えます。
一寸堂は「鎌倉の歴史を、昭和の合理性が表現したような建物なんだな・・・・・」 眺めます。
 
店を出ると通りの斜め向かいにやはり「町屋」と「寺院」の折衷建築が見えます。
1階の町屋部分は毎日新聞の配達所として利用されています。
2階は観音堂のような風情です。切妻で懸魚、重垂木、連子窓、斗の組物等が目立ちます。
 
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                  (一寸堂から道路向かいを見る。2階は切妻の観音堂風、1階及び奥は町屋です)
 
新聞配達所のお隣は「こすず/蕨餅屋・蕎麦屋」の店舗・工場です。
建物は新しいのですが、城郭風のデザインにしました。
そのお隣が鰻の「つるや」(ミシュラン一星)、向かいは井上蒲鉾店です。
由比ガ浜通りには鎌倉の老舗が軒を連ねています。
でも、人影はありません。
 
今日は雪は降らないようです。
この週末の天気予報は雪になっています。
楽しみは先延ばしにして・・・・・、
でも、会津坂下に行きたいなあ・・・・・。
 
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              (私を会津に誘う白日堂のガラス戸に貼られた斉藤清美術館のポスター)
 
 
 
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梅の香る「江ノ島道」

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江ノ島道は東海道藤沢宿から境川沿いに龍の口を経て江ノ島に至る道です。
境川の西岸には国道467号線が通っていますが、これが江ノ島道のバイパスだったのでしょう。
 江ノ島道は約一里(4キロ)の短い細い道で、いわば江ノ島神社の参道のようなものでしょう。
広重の藤沢宿の浮世絵には、遊行寺橋の袂に鳥居が描かれています。
これが江ノ島神社の一の鳥居だったそうです。
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     (広重の藤沢宿、向こうが藤沢山と遊行寺、川が境川、江ノ島に注ぎます)
 
今は、市街地の中を縫うように続く生活道路で、静かな落ち着いた道です。
11基もの「江ノ島道」の道標が立っています。
昔は48基もあったのだそうです。
80メートルおきに道標が立っていた事になりますから、親切な事この上なかったのでしょう。
道標の正面は「江ノ島道」、左右に「一切衆生」「二世安楽」と刻まれています。
「西行戻り松」の道標だけ更に同名が刻まれています。
立てたのは「杉山検校」、元禄時代に鍼・按摩の技術者で、同技術の教育や社会事業に貢献しました。
 
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   (左が江ノ島道、分岐に道標が建っています、横は庚申塔です。人通りは稀です)
 
 
道標ほどではありませんが、「庚申塔」や「馬頭観音」も多く祀られています。
様々な石仏・石神で見飽きる事が在りません。
力作が目立ちます。
江戸を初め全国各地から旅人が集まる訳ですから・・・・、旅人に石工の腕を競っていたのかもしれません。
ですから、歩いて見て、又歩いて、お隣の庚申塔を拝んで・・・・、楽しみです。
庚申塔は季節により、お天気により表情が変わるのです。
 
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    (諏訪神社下の庚申塔/享保年間は弩迫力の秀作です。高さも1.3メートルもあります)
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     (常行寺前の庚申塔/寛文年間1661年、1.6メートルもある秀作です)
 
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                                          (江ノ島神社裏の庚申塔)
 
江ノ島道の東側は丘陵で、片瀬山と呼ばれます。
片瀬山の麓には有名な神社仏閣が並んでいます。
何処も花の寺ですが、今の季節は龍口寺の椿、常行寺の枝垂れ梅が名所でしょう。
庚申塔前が常行寺です。
参道は椿が散っています。
後から参詣される方のために、 踏みつけないように進みます。
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            (常行寺参道は左右を椿が囲んでいます。山門の向こうに梅が満開です)
 
山門を入ると、元気な叔母さんたちの声が響きます。
「今日は、鎌倉を梅参りしてきたんだけど・・・・常行寺が最高ね!」
共通する感動のようです。
屹度、江ノ島が暖かいので鎌倉府内より早く咲くからでしょう。
2月前半時点では最高なのでしょう・・・、納得のあでやかさです。
 
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叔母さんたちが、蒙古使節の五輪塔の前で喧々諤々意見を交わしています。
「このお墓は何だろう・・・?」と。
どうも、元(蒙古)と高麗(朝鮮)が混同しているようです。
「案内板もあるし、卒塔婆を見ても解るだろうに・・・・・」
思っていましたが、どうもそうには行かないようです。
たまりかねて、叔母さんたちに説明を申し出でました。
 
「ジンギスカンの倅クビライは日本に服属を求めてきます。
その時の使節が5名、ところが北条時宗は彼等を龍口で処刑してしまいます。
結果我が国は元寇と言う国難に遭遇しました。
考えてみれば使節こそ気の毒です。
彼等を哀れに思って五輪塔を建てて祀りました。
そのお墓がこの五輪塔です。青いマフラーが巻かれているのは、青い色が蒙古民族の英雄の色、青き狼の色だから・・・・・。朝青龍がお参りを初め、藤沢場所に先立ってはバスに同乗してモンゴール力士が墓参に来ますよ・・・・・・」
私は、元来朝青龍好きですから・・・少し力をこめて説明しました。
                                  blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42995092.html
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                          (蒙古使節の墓前で、叔母さんたちが賑やかでした)
 
 
ところが、叔母さんたちは揃って「白鳳」ファンで朝青龍嫌い・・・・・、
「去年は朝青龍だけ来なかった、・・・・京都で細木和子の招待を受けていた・・・・、
偉いのは白鳳で、朝青龍はハートが無いのだから・・・・!」
 
私は早々に引き上げました。
地下の”元の使節”は苦笑いをしているでしょう。
「今年は八百長騒ぎで藤沢巡業はなくなってしまった・・・・・、でも郷土の英雄たちは揃って墓参してくれるだろう。今回の騒ぎだって・・・・、朝青龍のように「ガチンコ相撲」なら絶対に起こらなかった。
謝罪しているのは白鳳じゃないか・・・・・日本人はとかく世話を焼かせる民族だ・・・・」  と。
 
 
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                             (叔母さんたちが立ち去って静寂が戻った常行寺境内)
 
 
 
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300年前の健康法「自分の脚で歩きましょう」

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遊行寺前から江ノ島道を下ります。
西側が境川(この辺りを片瀬川と呼びます)、東側が片瀬山、麓は住宅と寺社で埋まっています。
湘南モノレールの終点江ノ島駅が近づくと、少し賑やかになります。
お魚屋さんに八百屋さん、昔ながらの門前商店街です。
セーラー服のお嬢さんが目立ちます。
湘南白百合学園の生徒さん、モノレールや江ノ電で通学しています。
静かな街で、お嬢さんの辺りだけが光を浴びているようです。
 
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                       (江ノ電江ノ島駅、此処から右側江ノ島橋までが賑やかです)
 
石仏や蒙古使節墓を巡ってきた私は食事処を探して街中に入ります。
江ノ電江ノ島駅から江ノ島橋までの400メートルの間だけが、門前町の風情です。
金比羅宮も伊勢神宮もこんな景色でした。
今風のファーストフードもあれば、流行のシラスを食わせる店も見えます。
私は、「満珍楼」横浜中華街の有名店と同名のラーメン屋さんに入ります。
 
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           (江ノ島商店街に面したラーメン屋さん、昔風のお醤油ラーメン550円)
 
壁に「健康十訓」がかかっています。
江戸時代の文化文政期、横井也有(尾張藩重臣、俳人)が長寿であった事から、その秘訣を記したものです。
近頃は健康ブーム、良く紹介されています。
  一.少肉多菜(肉を控えて野菜を多く摂りましょう。)
  二.少塩多酢(塩分を控えて酢を多く摂りましょう。)
  三.少糖多果(砂糖を控えて果物を多く摂りましょう。)
  四.少食多噛(満腹になるまで食べずよく噛んで食べましょう。)
  五.少衣多浴(厚着を控えて日光浴し風呂に入りましょう。)
  六.少車多走(車ばかり乗らず自分の脚で歩きましょう。)
  七.少憂多眠(くよくよせずたくさん眠りましょう。)
  八.少憤多笑(いらいら怒らず朗らかに笑いましょう。)
  九.少言多行(文句ばかり言わずにまずは実行しましょう。)
  十.少欲多施(自身の欲望を控え周りの人々に尽くしましょう。)
私はその落款を見て懐かしくなりました。
 
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     (ラーメン屋さんの壁に懸かっていた健康十訓。これでは大仙院の宗園さんの作と思ってしまいます)
 
筆は尾関宗園師、京都大徳寺大仙院のご住職です。
筆ペンで書いたような墨蹟です。
原作と比べれば順序が少し違うだけです。
屹度、満珍楼のご主人が宗園師に「健康十訓」を書いて欲しい・・・依頼したものでしょう。
でも、宗園さんなら長寿でいられるし、ご自身の健康の秘訣もおありでしょうに・・・・。
そのまま書かれた、と言う事は「実にその通りだ!ご納得なのでしょう。
 
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                大仙院枯山水、YAHOOのHP(百科事典)から。撮影禁止ですが画像は一般的です。
 
私が大学生の頃、講和の名人と言われたお坊様が二人いられました。
お一人が高田好胤師、薬師寺第百二十四世貫主で、写経 勧進を進め伽藍を復興されました。
 
もう一人が宗園師です。
奈良で生まれ郡山の慈光院も住職を務められたのですから、好胤師の説法も勉強されたのでしょう。
大袈裟な手振り身振りで大仙院枯山水を解説されていました。
ジッと庭園を見つめたい・・・・・、思う人には煩わしい・・・・・・感じられるほどに饒舌でおいででした。
でも、当時はお庭の写真を撮って帰ることが出来ました。
 
何時しか、大仙院を初め京都のお寺は大半が庭園も撮影禁止になりました。
「ご本尊やご神体を撮影しないで欲しい・・・・それは信仰している人の妨げになるから・・・・・」
そんな事情なら解るような気がします。
 
庭園・枯山水は、神や仏ではなくて、「禅」を修行する機会を提供するもの、素材のようなものでしょう。
ならば、撮影して帰って毎日眺めていれば、禅を思う(修行する)こともできましょう。
「撮影禁止」はすこし「遣り過ぎじゃないかな・・・?」思ったりします。
 
家内は娘とイタリアに、友人とフランスに出かけました。
私が一緒の時はカメラを持参しませんが、この時はデジカメを持って行きました。
モンサンミッシェルやバチカンの大聖堂の写真を撮って帰りました。
私がステンドグラス、十字架のキリスト像が好きなので、(自分も)・・・・・、
数多く写して戻り、説明してくれます。
欧米では撮影禁止は殆ど無く、模写する姿を良く見かけます。
 
「旅行マナー」にグローバルスタンダードがあれば、日本は非難の嵐を浴びる事でしょう。
屹度日本贔屓の外人観光客は「撮影禁止」に不愉快な思いを抱いて帰国、
友人家族に「日本の寺社は不遜だ!」報告している事でしょう。
 
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   (江ノ島商店街の羊羹屋さん。お店の前の縁台は優しさから・・・・・)
 
「グローバルスタンダード」なら何と言っても「著作権」でしょう。
健康十訓の著作権は期間が過ぎていますから、「著作権料」は払わなくても済むものの、
横井也有にあります。
宗園さんの色紙はご自身の作でない事を示す意味で著作者の名を残して欲しいものです。
300年も前に「車に乗らないで自分の脚で歩きましょう」
健康の秘訣の6番目に挙げているのは驚きですから・・・・。
 
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                                      (江ノ島の鵜も春の表情です。)
 
 
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雪の朝の「東慶寺」

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2月11日は午後から雪が本降りになって来ました。
倅はリュックにカメラを詰め込んで、大山に出かけてしまいました。
屹度雪深い大山寺が撮れていることでしょう。
 
私はどうしようか?
これから鎌倉に行けば、でも今は何処のお寺も4時で閉門、雪の伽藍は写せそうもありません。
迷いながらも、家に閉じこもっていました。
期待を明日の朝(12日)に持ち越して・・・・。
 
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                  (東慶寺、境内の阿弥陀仏。梅は今が見頃です)
 
東慶寺の開門は8時半です。
開門前に着いたのですが、すでに門は開いていました。
お寺のお心遣いでしょう。早くから開門したのです。
 
朝の冷気を胸いっぱいに吸って、清浄なお寺に入る事は清清しい事この上もありません。
昨夜来積もった雪は竹箒で掃いたようです。
そう、滑って転んだのではご本尊に申し訳が立たない事でしょう。
何時来ても東慶寺さんは隅々まで配慮が行き届いています。
 
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                           (東慶寺から谷向かいの円覚寺弁天堂を望む)
 
もう紅梅も白梅も満開です。
蝋梅はおしまい、代わって万作が咲き誇っています。
二十三夜様は雪に陽が照り返して、美人のお顔がアップされているようです。
観音様も雪を被って何時にない表情に見受けられます。
 
雪は多くを覆い隠して一番大切なもの、見たいものをクローズアップさせているのでしょう。
二十三夜様も観音様も慈悲の仏様ですから・・・・・、
雪が積もれば慈悲の表情が際立つのでしょうか・・・・・?
 
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もう、40年以上も前、私が石仏に魅せられた端緒になった一枚の写真がありました。
高名な土門拳が羽黒山辺りで写した写真でした。
 
一面の雪原にお地蔵さんが一体立っておいでです。
雪溶けが近いので、雪が光って眩しい乱反射をしています。
お地蔵さんの頭上の雪が溶けて、体が濡れています。
 
さらに、お地蔵さんの周りの雪だけが溶けています。
ああ、日が当たってお地蔵さんの体が温んで、その部分の雪だけが溶けてしまった・・・・、
容易に推測できましたが・・・・・・、
お地蔵さんの慈悲の心が雪を溶かしたんだな・・・・・思われてきます。
 
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(東慶寺観音像、台座にはご夫婦の戒名が刻まれています。)
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(東慶寺本堂前庭の四方仏塔。雪の日は照り返しで石仏の表情が良くわかります)
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(東慶寺の二十三夜様/女性の守り仏)
 
ドキュメンタリー写真家としてスタートした土門拳が、古寺巡礼に変わった、
最初の頃の写真だったのでしょう。
 
東慶寺の境内に人が増えてきました。
今日は駆け足です。
早々に山向かいの円覚寺さんに行く事にしました。
 
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          東慶寺の万作は今が見頃です
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雪の朝の「円覚寺」座禅道場

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東慶寺を出て私達は円覚寺に向かいました。
円覚寺は元寇戦没者の慰霊を目的に北条時宗が創建したもの、
禅寺らしい厳しさと豊かな自然が残されています。
三解脱門(山門)が杉林の中にドーンと建っています。
開山「無学祖元」が「参禅の志の無き者は山門にいる事許さじ」言っているような厳しさを感じます。
 
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                                         (円覚寺三解脱門。積雪が落下してきます)
 
27歳の夏目漱石は円覚寺に参禅します。
その時の体験を小説「門」に記しています。
主人公宗助はこの門の下で立ちすくんでしまいます。
 『彼は門を通る人ではなかった。ま た門を通らないで済む人でもなかった。要す るに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れ るのを待つべき不幸な人であった』
宗助への共感が円覚寺を「日本一の座禅道場」にしていると思われます。
 
門は二階建てです。
加えて銅板で葺かれています。
昨日来降り積もった雪が、地面に落下してきます。
「時を無為に過ごすものは、この通りだ!」
言わんばかりに、ドスーンと地響きを立てて落下します。
私は、座禅している時の「警策」を想いおこします。
睡魔に襲われたり、よからぬ妄想が湧いた時、肩から背中にたてて叩かれる、「バチーン」あの音です。
座禅していなくても、自然は人間に絶え間なく警策を立てているのかもしれないな・・・思います。
 
雲水さんが雪掻きをしておいでです。
屋根の雪が全部落ちてから雪掻きをすればよいのに・・・・思いますが・・・・、
そんな考えを「小賢しい」と言うのでしょう。
雪をネコ(手押し車)に載せて運び去ります。
又、雪をかきます。
半日仕事になる事でしょう。
 
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                              (週末座禅が催される選仏場を背景に梅が咲いていました)
 
円覚寺では週末座禅会が催されます。
屹度今朝も薄明かりの中行われたのでしょう。(5時半に三解脱門前に集合)
円覚寺の座禅は主として「選仏場」で行われます。
選仏場は本堂だった建物、現本堂の建立に際して、座禅道場にしたものでした。
人には皆仏性があって、仏になれる「玉」であります。
その玉を磨いて(座禅して)、仏になる道場ですよ・・・・・そんな意味でネーミングしたものでしょう。
「大事な本堂を一般向け座禅道場にした」
そんな施策に円覚寺の面目が現れています。
 
座禅道場の扉は開いて、正面の薬師如来を照らしていたお灯明はまだ消えていません。
選仏場のスノコに上って脚を組み、冷気に身を置けば・・・想像します。
座禅を終えて再び三解脱門を出てゆく・・・その時の清々しさは何にも代え難いものがあったでしょう。
 
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  (円覚寺選仏場薬師如来、その前にスノコが並んでいてその上で座禅を組みます。座禅する人は背中に如来   の視線を感じています)
 
選仏場のお隣は居士林です。
居士林は牛込にあった柳生家の剣道場を移築して、座禅道場にしたもの、
在家の方々の座禅道場になっています。
どちらも茅葺屋根です。
茅葺は雪を被ったままです。
白い尖がり帽子の様に見えてきます。
 
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       ((円覚寺居士林、此処は在家の方の滞在型座禅道場になっています)
 
私達は円覚寺の奥に歩を進めます。
妙香池を回ると、舎利殿の前に出ます。
舎利とはお釈迦様のご遺骨です。
お釈迦様が亡くなると、そのご遺骨は尊いものだ・・・信じられて持ち去られました。
そして、仏塔に収められ、お寺の中心に置かれました。
最も尊い遺骨ですから、最も高く荘厳な建物に収められました。
我が国に伝播すると、四天王寺、法隆寺、薬師寺位置は変わっても五重塔が伽藍の中心に置かれました。
その礎石にはお釈迦様の尊い遺骨(多くは玉)が祀られました。
 
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      (円覚寺舎利殿、積雪が余計な景色を隠して舎利殿の美しさを引き立てていました)
 
私達は奈良の町に入ると興福寺、京都なら東寺の五重塔を見て安堵します。
1000年以上も仰がれてきた五重塔を見上げられる喜びを感じます。
 
でも、禅寺には五重塔は概してありません。
古都鎌倉に塔はありません。(廃仏毀釈で八幡宮多宝塔は破壊されてしまいました)
 
禅では祖師を大切にします。
お師匠の教え、お師匠の体験を自分も行って、同じように「悟り」を得たい、修行するわけです。
自分のお師匠、その前のお師匠を大切にして開山堂に祀ります。
お師匠をたどってゆけば、最後はお釈迦様に行き当たります。
祖師と釈迦と同じように修行、座禅に励みます。
そして、開山堂も究極は舎利殿になるわけです。
禅宗のお寺に舎利殿が祀られているのは、「自分も修行を積んでお釈迦様になるのだ・・・」
そんな意味があるのでしょう。
 
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          (円覚寺佛日庵お霊屋、円覚寺の座禅に係る建物は何れも茅葺です)
 
 
舎利殿前を戻って、更に奥に登ると佛日庵があります。
佛日庵は開基北条時宗公を祀る「お霊屋」です。
矢張り、茅葺屋根です。
三角帽子に真っ白な雪が被さったままです。
円覚寺の座禅道場は何れも茅葺です。
屹度お坊さんが知っておいでなのでしょう。
茅葺屋根が最も座禅に向いていると・・・・・。
雪を被っても堂内は暖かく、雨に濡れても、乾いても、快適なのでしょう。
茅葺の下で座禅をする時間が珠玉であるのでしょう・・・。
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                         (円覚寺黄梅院裏山を見上げる、藪椿が満開でした)
 
 
 
円覚寺は登る毎に身が引き締まる思いにさせてくれます。
特に、雪の朝はその思いを強くしてくれました。
 
 
 
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円覚寺の「雪椿」

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雪の朝、深閑とした円覚寺の境内を歩くと、心身ともに清々しくなってきます。
普段は雑多な景色が目に飛び込んでくるものです。
でも、雪が降ると雑多な物が雪に隠されてしまいます。
その結果、自然の中で最も大切なもの、見詰めて欲しいものが浮き立って見えるような気がします。
 
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  (雪の朝の山之内、円覚寺は右手の木立の中です)
 
いつも飛び交っているメジロもシメもジョウビタキも、今朝は雪の陰でおとなしくしているようです。
こんな朝は飛び出すと隠れる術が無くて、すぐに猛禽に捕らわれてしまうからでしょうか。
姿形も、まして鳴き声もしません。
 
「円覚寺境内にこんなに椿があっただろうか・・・・!」
気付きました。
屹度、雪が総てを覆い隠してしまったので、紅色がさし始めた藪椿が目立ったのでしょう。
佛日庵の御霊屋(北条時宗)の雪屋根を背景に、藪椿が綺麗です。
黄梅院の裏山を背景に藪椿が咲き誇っています。
「今日こそ私を見詰めて下さいな! 私って綺麗でしょう!」
娘心の健気さを想いおこします。
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                     (円覚寺佛日庵の屋根を背景にして咲いた藪椿)
 
椿の葉っぱは深い緑色、艶々光っているので、
冷気にも強いし、雪が積もればその生命力が際立って見えるのでしょう。
葉っぱが寒さに強ければ、花も負けずに強いのでしょう。
花弁の先が少し霜焼けすれば、花芯の白も花粉の黄色も花弁の紅も一層引き立ちます。
 
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もうじき3月、薬師寺の花会式には「椿の花」だけが仏前に奉げられます。
古代の人は「仏様には藪椿が最も相応しい」思ったのでしょう。
何故なら、最も生命力があったから・・・・・、「春が来た」喜びを表すには最も適切だと思ったから・・・、
様々思いつきます。
異国で生まれた仏像に奉げるのに、日本固有の椿を供花した事に、古代人の心を強く感じます。
 
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妙香池を見下ろす高台に如意庵があります。
私達は石段を登ります。
熊笹に雪が積もっています。
「ソロソロ撥ね退けようか・・・・」笹達は積もった雪を振り払いはじめているようです。
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ご住職が石段を降りてこられます。
お隣の塔頭寺院さんに慶事でもあるのでしょうか・・・、
ハイヤーを待たせで、雲水さんがお見送りに列を為しています。
「お早うございます」ご挨拶すれば、笑顔で合掌を返してくださいます。
ご住職は朝早くから石段を掃いて、玄関に生花を活けておいでです。
今朝の花は「藪椿」でした。
屹度、「藪椿の美しさ、強さを見て欲しい・・・・・」
そんな教えなのでしょう。
 
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                              (円覚寺如意庵玄関の生花、主役はお庭の藪椿で)
 
 
裏山にも、石段の脇にも大きな藪椿が自生しています。
そして、石段の傍には侘助椿も植えられています。
どちらも雪を被っています。
葉っぱに積もった雪は滑って落ちたのでしょうが、花弁に積もった雪は中々消えそうもありません。
私はふと「雪椿」を思い起こします。
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                  (円覚寺如意庵の侘助椿)
 
雪を被った椿を言い表すのでしょう。
人が逆境にあった時にその人の真価を表すように、椿も雪を被るとその美しさが際立ってきます。
今年も豪雪に見舞われた越後長岡から会津に向かった処に越後加茂市があります。
越後の小京都と呼ばれる美しい町です。
此処に「越の雪椿」という名の吟醸酒があります。
雪椿が美しい町だからです。(市花になっています)
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                        (円覚寺黄梅院の山を背景に見事に咲いた藪椿)
 
今年も大雪の中で、湯気を立ててお酒の仕込みに励んでいる事でしょう。
「雪椿」にかけた思いを込めた吟醸酒が出来上がる事でしょう。
 
体の芯から冷たくなってしまいました。
百観音を巡って帰ることにしました。
山を下ると、山門下にトイレがあります。
此処で、用をたして・・・・・。
トイレ(東司)の屋根の上にも藪椿が自生しています。
トイレは隅々までお掃除が行き届いています。
綺麗なトイレに、今日も健康に排出できる事に感謝して・・・円覚寺のお山を下りました。
 
 
      
 
 
 
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曾我梅林で流鏑馬見学

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私が流鏑馬(やぶさめ)を初めて見たのは昭和32年、鎌倉市立御成小学校の生徒だった時でした。
担任のI先生が授業を早めにお終いにして、流鏑馬見物をするように指示されたのでした。
「今日は午後1時から八幡様で流鏑馬が行われる。
源頼朝が神事として、武芸の奨励として盛んにしたもの・・・・見て、そのまま帰りなさい」
八幡様の参道にクロスする形で設えられた馬場に三つの射的が設置され、馬上の武者が次々に射落として行く様は、爽快な歴史絵巻でした。
 
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   (4人が続けて3つの的を射って、射場を戻ると一斉に拍手が沸きます。曾我の流鏑馬で)
 
以来、流鏑馬が神奈川県の随所で行われているのは知っていましたが・・・・ついつい出かけませんでした。
曽我の梅林で流鏑馬が行われるのは「建国記念日」。
ところが今年は、同日が天候不順で13日に延期になりました。
13日は晴天で、「これは行かずばなるまい!」
家内と連れ立って流鏑馬見物に出かけました。
 
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   (曾我の梅林)
 
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、翌年建久4年5月(1193年)上京し天皇に報告します。
その旅の前後に富士の裾野で盛大に牧狩りを行います。
「これからは武士の時代だ」・・・・・「尚武」を内外に示すためだったのでしょう。
その目玉業事が「流鏑馬」でした。
この機会に曽我十郎、曽我五郎兄弟が父親の敵である工藤祐経を討ちます。
ですから、曽我梅林は流鏑馬には格好の歴史的、地理的位置にあったのでした。
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    (曾我の梅林は富士山の下で・・・・)
 
源平の戦いから南北朝の騒乱までは騎馬に乗って「我こそは・・・・」宣言し、弓を射る・・・騎馬戦でした。
ところが、戦国時代には鉄砲が出現、足軽の集団戦になりました。
従って流鏑馬も顧みられなくなってしまったのでしょう。
忘れ去られていた流鏑馬を「武道」として、「神事」として復活させたのが武田流だったのでしょう。
 
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        (曾我の梅林から小田原市街を眺める。遠くの山並みは伊豆)
 
小田原市観光協会は、小田原祭りの第二会場として曽我梅林を指定し、「流鏑馬神事」を催しました。
祭主は「宗我神社宮司」、演武は鎌倉市に拠点を置く「社団法人大日本弓馬会」でした。
大日本弓馬会は武田流流鏑馬を保存・伝承しています。(ホームページ参照www.yabusame.or.jp)
 
 
今日(13日)は快晴で、梅も見頃です。
県道(47号線)は大渋滞、でも景色は良いし、流鏑馬開始時間は午後1時、余裕があります。
私達は会場入りを諦めて、山の中腹にある曽我(宗我)神社に詣でました。
其処に駐車させていただき、約10分余り、坂を下って流鏑馬会場に入りました。
 
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                                            (宗我神社)
会場は御殿場線の線路に沿った田圃です。
一直線のあぜ道に砂を入れて230メートルの馬場が作られています。
田圃の北側は南斜面の丘陵が続いています。
其処が梅林です。
見物人は田圃に敷かれたビニールシートの上で、あぜ道で、土手の上で、思い思いに見物しています。
その数、3000人は居るでしょうか。
見物人は流鏑馬をから視線を上げれば箱根の峰峰が、西に視線を移動すれば富士山が見えます。
そして振り返れば、梅林に囲まれています。
 
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    (中央横に走っているのが御殿場線の線路、その手前に馬場が出来ている)
 
会場は射手は10人、三組に分かれて演武をします。
先ずアナウンサーが私のような素人に説明してくれます。
射手の名前、馬の名前と特徴、的のサイズ・・・・そして、見て欲しいポイント・・・・とても親切です。
「人馬ともに姿勢が良くて美しいこと」
これが武田流の特徴で、黒澤明監督も評価し映画に採用しているとの事でした。
 
次は黄靖乃さん、パンフレットに写っている射手です。馬はあずさ号・・・・、
私達はパンフを見ます。
束ねた黒髪がなびいて、美しいひとです。
最近の武道は女性の進出が目覚しいようです。
 
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                        (女性の射手、お見事でした)
 
「今、扇が返りました」
これがスタートの合図のようです。
ドット拍手が沸き立ちます。
少し遅れて
「一の的当たりました」
アナウンスされると会場全体が盛り上がります。
 
お相撲も神事、流鏑馬も神事。
神事は姿形が「美しい」、神業を感じるものでなくてはいけないな!
思います。
 
流鏑馬は2時半まで、延々と続くようです。
「いい物を見たなあ!」
少なからず興奮します。
馥郁とした梅の香りを満喫したし、富士山も良かった・・・満ち足りた気分です。
 
次は4月17日、鶴岡八幡宮で、5月には三浦でも流鏑馬は見られます。
9月には鶴岡八幡宮で、小笠原流の流鏑馬が催されます。
流鏑馬は奥が深いようです。
又、出かけることにしましょう。
 
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   (向こうが御殿場線、線路の土手に沿って流鏑馬会場が続いています。会場自体は田圃です)
 
 
 
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円覚寺の「浮世絵のような百観音像」

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日本一の「開かれた禅道場」とも言うべき円覚寺です。
「開かれた」とは在家のままで座禅が出来るという事、お坊さんが禅に励むのは当然で、仕事や勉強をしながら、本分を果たしながら・・・・座禅をする事にこそ現代的な意味も価値もあるのでしょう。
そんな円覚寺に登ると、秘めた楽しみがあります。 
 
山門、仏殿と真直ぐに伽藍が配置されています。
仏殿の後ろに杉林があって、その下草の位置に花壇があります。
花を愛でながら、更に進むと唐門(勅使門)があります。
門には菊花紋が飾られています。天皇の勅使を迎える時等に開門されるのです。
方丈とはご住職の居間のようなもの、
この建物で勅使を、そして現代は私のような見学者を迎え入れてくれます。
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    (円覚寺勅使門、奥が方丈。今日の話題は方丈前庭に置かれた百観音像です)
 
方丈の北側には夢窓疎石の庭園が開けています。
南側が方丈の前庭です。
前庭の半分は白槙の古木が茂っています。
開山時に植えられたと伝えられる、巨大な、生命力溢れる槙です。
円覚寺の雲水さんも、歴代の住職様もこの白槙を見上げて、開山「無学祖元」を想いおこす事でしょう。
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  (方丈前庭の右半分を覆っている百槙、左半分に百観音像が祀られています。ピンク色は腐った幹の治療跡)
 
白槙の西側、前庭の半分の空間に百観音像が祀られています。
私達在家の者は座禅に没頭する時間もなければ、西国観音霊場を巡る余裕もありません。
まして、坂東観音霊場や秩父観音霊場は巡りたくても、会社や学業に穴を開けることは出来ません。
そこで、江戸時代には便宜を図る者が出現しました。
村や町のお山に、菩提寺の裏山に33観音や、時に百観音の石仏を刻みました。
その観音像を巡ったのでした。
身近に設えた観音の石仏を巡れば、観音霊場を巡って結願したのと同じ霊験がある、そう考えたのでした。
 
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                         (円覚寺百観音像、右手が勅使門。左が白槙)
 
円覚寺方丈前庭の百観音像の脇には説明がなされています。
 
江戸時代,拙叟尊者(せっそうそんじゃ)が境域に岩窟をうがって、
百体の観音石像を祀ったことに由緒を発し、その後荒廃したが、
明治21年に洪川禅師が発願して西国三十三体の観音像を新たに刻み、
補陀落迦観自在窟と名付けて境内の一部に安置した。
そして昭和58年にこの方丈前庭に移されました。
 
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                                    (円覚寺百観音像は浮世絵美人画を思わせます)

「拙叟尊者」とはどんな人だったか全くわかりません。
尊者とは敬称でありますから、お坊様では無くて「在家でありながら尊い人」、そんな人だったのでしょう。
拙叟さんが塔頭(松嶺院)の奥の岩屋に閉じこもって、観音像を彫った訳でした。
其処までは良くある事です。
 
でも、円覚寺の観音像は一味も、ふた味も違っているのです。
観音像はどれも「浮世絵」から出てきたような細面、かぎ目、厚い唇の美人なのです。
時代の雰囲気や美意識は絵にも彫刻にも現れるものです。
でも、仏像、観音となると「儀軌/決まりごと」が決められています。
その中で自由に表現した訳でした。
 
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(円覚寺百観音像、表情や脚の組み方など浮世絵から出てきたような美人観音です)
 
 
以下は私の妄想です。
予め言っておきます。
妄想の根拠は無く、私が百観音像を拝観して、想像をたくましくしたものです。
 
拙叟尊者は大の浮世絵好きでした。
こっそりと歌麿の美人画を買い求め眺めていました。
江ノ島に行けば歌麿裸婦像は沢山買い求める事が出来ました。
美しい花魁や町屋の娘の浮世絵もありましたが、拙叟尊者のお好みは裸婦像でした。
特に好きなのは「海女の図」でした。
 
江ノ島の海女さんがに海に潜って鮑(あわび)を採って岩場にあがります。
濡れた黒髪、暖をとる為一重を着ます。
でも、略全裸ですから体の線が見えています。
体の輪郭線は墨ではなく肌色で描かれています。
健康な、大人の女性を美しく描いています。
 
拙叟尊者は岩屋の中で歌麿の「海女の図」をしばし眺めて、やおら観音像に鑿を振るいました。
結果は火の目を見るより明らかです。
「浮世絵観音像」が出来上がりました。
艶っぽい観音様です。
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                                              (歌麿の江ノ島鮑図)
 
でも、此処は円覚寺です。
仏教には5戒があって、その4番目は「不邪淫戒」です。
余りにも色っぽい観音像は隠されていました。
若い雲水さんには刺激が強すぎます。
そこで、江戸時代は陰に追いやられていました。
 
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                    (円覚寺方丈の前庭に並んだ百観音像。紅梅・白梅の樹下です)
 
明治21年に洪川禅師が登場します。
山岡鉄舟や鈴木大拙に強い影響を与えた傑物でした。
百観音とは思わずに「羅漢」と思いました。
羅漢なら、色っぽくたっていいじゃないか、憂鬱な表情も一層美しく見えるもの・・・それも人間であろう・・・・、
そんな訳で、塔頭の奥に潜んでいた観音像を事もあろうに勅使門の横に並べて見せました。
 
流石に明治時代、抵抗もあった事でしょう。
「あんまりに俗っぽいのではないか・・・・・」などなど。
でも、洪川禅師はそんな皮相な批判に耳を貸しません。
在家の人が仏殿で本尊に合掌したら、次いで方丈に回って欲しい、
方丈に誰も居なければ百観音を巡って欲しい・・・・・、
そう思って拙叟さんの観音像を表に並べました。
 
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時代が下って、浮世絵観音に淫らな妄想を抱く人も居なくなりました。
もう、この程度は常識になってしまいました。
 
円覚寺に登った人は百観音に思い思いの想像をし、教えを受けるようになりました。
拙叟尊者や洪川禅師は観音像の陰で笑っている事でしょう。
ありきたりの観音像より「浮世絵観音像」の方がずっとインパクトがある、と。
 
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   (円覚寺方丈と方丈庭園。方丈と言えども壮大で厳しい建物と、庶民的な百観音が面白いコントラストです)
 
 
 
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賽の川原の千鳥(玉縄首塚にて)

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鎌倉の辻には六地蔵様がを良く見かけます。
由比ガ浜通りと御成通りの交差点の六地蔵さんは和田塚辺りに処刑場があったから・・・・、
刑場に露と消えた方を祀ったと伝えられています。
そして、玉縄の「首塚六地蔵さん」にも悲しい謂れがあります。
 
大永6年(1526)11月、南総の里見義弘が鎌倉に攻め入りました。
鶴岡八幡宮を落として、北条氏の玉縄城に攻めあがります。
玉縄城主は北條氏時(早雲の孫)、豪士大船甘糟等を従えて柏尾川の西岸で迎え撃ちます。
柏尾川の川原で激戦が繰り返されました。
北条方は里見を打ち破り潰走させます。鎌倉は兵火から免れました。
この時の戦死者の首を両軍から預かり、首塚に収めて、敵味方無く祀ったものでした。
(昔は敵将の首を打ち落とし戦功を上げた証拠としました)
玉縄首塚の六地蔵さんは彼等を弔ったものでした。
 
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                                              「チッ・チッ」イメージ 2
                                               (柏尾川の精霊流し)
 
 
雪が降りました。
六地蔵さんが雪景色の中でどんな表情かしら・・・・遣って来たのでしたが、雪は溶けるのが早くて期待通りではありませんでした。
やむを得ず、柏尾川を上流に遡ることにしました。
 
雪開けの好天気、一晩経ったら春の陽気です。
川べりには様々な野鳥が戯れています。
「鴨」は生え出し水苔を食んでいます。
もうじきシベリアに帰るのでしょう。
カイツブリやカルガモは仲良くしていますが、お別れです。
 
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     (生え出した水苔を食む鴨夫婦。もうじきシベリアに帰ります)
 
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                            (子育ても終えて、またカップルのカルガモ夫婦。此方は留鳥です)
 
セキレイはせわしなくあっちこっち飛び回りながら、尻叩きをしています。
もうカップル探しなのでしょう。(セキレイの尻叩き:尾羽をチョンチョン上下させる行為、生殖行為を思わせる)
護岸の上にはカワセミが水面を見詰めていますし、護岸の下の草叢には水鶏(クイナ)が隠れています。
田鴫(タシギ)は日向に出てきて、なにやら一生懸命食んでいます。
クイナもシギも春になれば姿を消してしまいます。
 
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            (日陰でジッとしているクイナ、周りは氷柱がまだ溶けないでいました)
 
私はセキレイを目で追って行きます。
川原には小石が洲を作っています。
其処に思いがけなく「白千鳥」を見つけました。
私の視線に気づいたのでしょうか、白千鳥は静止していましたが、またやおら動き出します。
脚を跳ねるように使って、ピョン・ピョン飛び跳ねます。
「ああ、これが千鳥足か!」想いおこします。
サラリーマン時代は酒に酔っては千鳥足で帰ってきました。
 
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     (今日のテーマは白千鳥。柏尾川の洲で確認しました)
 
向こう岸を眺めると「小千鳥?」らしき姿も確認できます。
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私は童謡の「浜千鳥」を口づさみます。
   青い月夜の 浜辺には
   親を探して 鳴く鳥が
   波の国から 生れでる
   濡れたつばさの 銀の色
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          (千鳥は千鳥格子を初め蒔絵、手ぬぐいなどの模様に多く使われています)
 
千鳥は悲しい情景を想いおこさせます。
柿本人麻呂は次のように歌いました。
   淡海の海 夕波千鳥が が鳴けば 心もしのに古思ゆふ
 
千鳥の泣き声が「チッ・チッ」と物悲しいからでしょう、・・・加えて姿形が丸型で可愛らしいからでしょうか・・・・。
 
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     (千鳥は冬の季語ですが、夏の暖簾にも使われています。「波に千鳥」は日本人の普遍的模様です)
 
 
水辺の鳥は物悲しさを催させます。
千鳥も鴫も日本人の情感に強く訴えてきます。
西行法師は河口に近い鵠沼で・・・・歌いました。
 
   心なき身にも哀れは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ
 
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                         (田鴫、西行法師の鴫立沢はこれだと確信しています)
 
川原は賽の川原を想いおこさせます。
川(三途の川)を越えれば向こうは「あの世」です。
薄幸に早逝した子供、突然流行り病に亡くなった身内、戦争で落命した名も知らない人・・・・、
様々な魂が川原にとどまって、「チッ・チッ」と啼いて・・・・彷徨うがように歩いて・・・・・いるのでしょう。
だから、日本人は千鳥や鴫に思い「無常観」を託したのでしょう。
 
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柏尾川に千鳥が戻ってきている・・・・、
嬉しい限りです。
 
文化は自然と伴ってこそ、意義があると思います。
歴史資産は自然資産と共に大切にしたいものです。
書き終えたので、これからYOUTUBEで筝曲「千鳥の曲」を聴いてみましょう。
 
 
 
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大楠山「滝不動尊」の有難味

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三浦半島の海岸通を三崎に向けて進みます。
葉山の御用邸を過ぎ、長者ヶ崎を過ぎると海岸線が開けます。
左手に丘陵が迫ってきます。
丘陵の最高峰が大楠山(標高241メートル。関東百名山の百番目)です。
三浦半島の最高峰であり、最高のハイキングコースでもあります。
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           (大楠山登山道、前田川沿い。正面正行院辺りは石仏が多い。お寺の背後から大楠山に続く)
 
大楠山は名前の通り、楠の大木を初めスダジイ・コナラなどが茂った照葉樹林です。
樹陰には様々な下草が生い茂っていますし、昆虫や野鳥が生息しています。
 
私はふと「南方熊楠」を思い出します。
熊楠は世界的な生物学者であり民俗学者でもありまいた。
昭和天皇にご進講した事でも有名です。
 
和歌山県の田辺湾沖に神島があります。
この島は照葉樹林に囲まれています。その下闇で膨大な粘菌類の標本を採取します。
 
私は神島の樹林は屹度大楠山に似ているのだろうな・・・・・想像します。
昭和天皇も葉山の海岸で採取され、大楠山を歩かれて熊楠を偲ばれたのではないかな・・・想像もします。
 
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     (立石にある瀧不動尊の入り口、柱上の像/不動明王の脇侍の制多迦(せいたか)童子?)
 
大楠山の魅力は「頂上からの360度の景色」「様々な動植物」そして「歴史・民族」であります。
山に降った雨は照葉樹の腐葉土に浸みて、根っ子に蓄えられます。
腐葉土や根は少しずつ水を流します。
渓流になって水は四方に流れ出します。
北に流れると木古庭(きこば)に出ます。
不動滝があって、木古庭不動尊が祀られています。
衣笠城攻防戦で戦勝祈願されたお不動様です。
 
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                               (お瀧不動尊本殿、右奥に瀧があります)
 
西には関根不動尊が祀られています。
湧き水が美味しいので、多くの人が水をもらいに遣って来ます。
葉山の洒落たレストランは大きなタンクに一杯の水を汲んで帰ります。
そして、南東に流れ出した水は立石不動尊に出てきます。
立石不動尊は最高に良いのです。
南方熊楠みたいなお不動様なのです。
前書きが長くなりましたが、今日紹介するのはこの立石不動尊です。
 
名勝「立石」を過ぎると大楠山は海岸に迫って来ます。
山から渓流が流れ出ています。
川に沿って山側に入ると直に目指す不動尊があります。
 
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           (お瀧不動尊本殿の前、前方に海が見えます。日陰の畑は未だ雪が残っていました)
 
不動尊の境内の最深部に10メートル余りの瀧が見えます。
その東側の崖には青いビニールシートが懸けられています。
数年前崖崩れが発生して、更に崩れないよう保護しているのです。
危険なのでしょう・・・・境内に入れないようフェンスが張られています。
でも、信仰に勝るものはありません。
フェンスの端っこは一人人が通れるよう開けてあります。
私達はこの隙間を通り抜けます。
誰かがお参りした形跡もありますし、欠かさずお掃除をしているようです。
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       (お瀧不動尊の馬頭観音像。ふくよかな女性のお顔です)
 
境内には藪椿が落花してしています。
滝壺にも、石仏にも真っ赤な椿が色を添えています。
 
瀧の飛沫がかかるからでしょうか?
はたまた大楠山の伏流水が湧くためでしょうか?
境内は湿っています。
従って石仏の苔むしています。
苔深いので石仏に刻まれた文字も判読できません。
もともと、良く出来た石仏が自然によって苔むして、風化して、一層味わい深くなっています。
 
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       (三猿と名号が刻まれた古いタイプの庚申塔。二基ありました。梅ノ木苔の生えた姿が美しい。梅ノ木         苔は環境指標植物です)
 
不動尊ですから不動明王が多いのは自然です。
次に目立つのは馬頭観音像が2基(この辺りは牛頭漢音も目立つのですが)、
そして青面金剛が2基、書体庚申塔が1基、墓標塔が数基祀られています。
そして、宇賀神様が1基あります。
 
宇賀神とは日本書紀に登場する宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を起源とする「穀霊神・福神」で、
弁天様やお稲荷様に展開します。
体は蛇で頭は人(多くは翁、女性)です。
この宇賀神様は端正な青年のお顔です。
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                       (珍しく端正な青年の表情の宇賀神様)
 
様々な動植物が群棲しているように、様々な民俗の神仏が並んでいます。
其処が、実に南方熊楠的である、実感する所以です。
 
 
このブログでも「子安石・子産石」を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44671128.html(葉山子安の里の謂れを考える)
近くの庚申塔の三猿には男女の性区別があることも発見しました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44319988.html(三猿・股間に見つけた”性器”の意義 )
何れも生殖に係る神仏です。
「大楠山の豊かな自然が様々な神仏、民俗信仰を残して来た」と考えてよいでしょう。
 
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   (もう一基の庚申塔。此方も三猿のみ刻まれていました)
 
私達は瀧不動尊を参拝して細道を戻りました。
突然に拝殿の扉が開いてお婆様がお顔を出されました。
お婆様は瀧不動尊の拝殿に住まわれて、この小さな神社を守っておいでなのでしょう。
「足元が悪い中良くお参りされました」言われます。
私は「崖が崩落したままで・・・・どうするんでしょうかね?」尋ねると。
「先日測量して帰りました。今年の予算で工事して下さると思いますよ!」
嬉しそうに答えてくださいました。
 
庭先の畑にはえんどう豆やそら豆が元気に育っています。
葉山は暖かいのでもう蕾が出ています。
お野菜が収穫出来る頃、工事が始まるのかも知れません。
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                   (お婆さんが作っていると思われる野菜畑、奥がえんどう豆)
 
 
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春の魁「アオジ」(鎌倉中央公園で)

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先日、雪の朝に柏尾川でクイナを見詰めていました。
その時、隣のバードウォッチャーから教えて貰いました。
「最近はこの辺りでもクイナが見られるようになって、鎌倉中央公園にも出ていますよ」
そこで、久々に鎌倉山崎の鎌倉中央公園に出かけてみました。
 
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                   (鎌倉中央公園の棚田、右の尾根を越えると魯山人の星山窯に続く)
 
鎌倉中央公園は鎌倉西部の山並みが柏尾川に下る傾斜地にあります。
江戸時代に谷間に灌漑池を作って、棚田が続いて、里山が広がっていたのでしょう。
開発を免れた一帯を「広域里山公園」として保存したものでした。
一時は棚田が放置され一面蒲や葦が茂っていましたが、最近は小学校の野外学習ため、ボランティアの活動フィールドとして、棚田も復活してきました。
そうした、活動の結果見違えるように野鳥が増えてきたのでした。
鴫もクイナも・・・・・、棚田復活が呼び込んでくれたものでしょう。
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                    (もう、4日も経つのに雪が残っている鎌倉中央公園の棚田)
 
 
自然が元気になる秘訣は、「人間が放置する」のではなく、程よく手入れをする事のようです。
人間も、動植物も一緒に「自然の恩恵に浴したい」と思うと良いようです。
 
鎌倉中央公園は今は閑静なものです。
農作業もお休みで、落ち葉を腐葉土に積み上げたり、下枝を伐採し、下草を保護したり・・・・、
春に向けて助走期間のようです。
 
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                              (アオジは若菜が保護色になります。 ♂)
 
葦原も枯れています。
蒲の穂が崩れて、綿毛が飛んで行きます。
私の足元から様々な野鳥が飛び立って行きます。
ムクドリもいれば、赤腹もいます。
私を怖がる事も無く、レンズの距離でポーズをとって、シャッターチャンスをくれているようです。
 
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  (ジョウビタキの止まった梢も春を感じさせます)
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                              (白腹?が葦原の下で私の動向を伺っていました)
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                                              (此方はシメ)
 
一番に数が多いのが「アオジ/青蒿」です。
殆どが二・三羽が一緒に行動しています。
屹度棚田の端に溝萩や葦の実が落ちているのでしょう。
種子を拾って食べています。
 
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     (アジサイの枝に止まったアオジ♀、下にもう一羽居ます)
 
アオジは雀の仲間です。
雀は里に降りて人間と一緒に生活するようになって、その数を増やしました。
一方アオジは山に棲んでいます。
山に雪が積もって食べる種子や昆虫が見当たらなくなると、里に下りて来ます。
でも、山に雪が消えれば又戻って行きます。
ですから、鎌倉中央公園のアオジも桜が咲きだすと見えなくなってしまいます。
渡り鳥なのです。
 
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でも、名前が悪かったのでしょう。
文学にも余り出てきません。
「青」は灰色のこと、「蒿」はヨモギの事、
ヨモギの新芽は摘んでヨモギ餅にします。
あの「草もち」の緑色の素材です。
香りも良いし、健康にも良いのです。
ですから、アオジとは「よもぎ」「餅草」のような小鳥の意味でしょう。
そう考えると、アオジの興趣が深くなります。
 
 
   春日野の  若菜つみにや  白妙の  袖ふりはへて  人のゆくらむ
奈良の若草山の麓に広がる原っぱが春日野です。
「春日野に若菜を摘みに行くのだろうか、白い袖をわざわざ振って人がゆくようだ・・・・」
長かった冬があけて、待ちに待った若菜摘みです、「春が来た」喜びに満ちています。
若菜の中からは屹度アオジが驚いて飛び出したことでしょう。
若菜はアオジの保護色なのですから・・・・。
 
アオジは姿も色も、春を迎える喜びに満ちています。
そして、随分増えて来ました。
 
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  (金魚藻を掻き分けて餌を漁る青鷺、鎌倉中央公園の池で)
 
 
 
 
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古仏巡礼「香薬師像のこと」

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今、鎌倉山之内には「香薬師像」のポスター写真が貼られています。
香薬師像は奈良新薬師寺にあった金銅仏でした。
2尺少しの小像ですが、たった1枚のポスターでも、鎌倉でもまるで奈良に居るような印象を与えます。
町の景色を一変させるインパクトを持っています。
ポスターは東慶寺宝物館の案内です。
 
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                               (今日の話題、香薬師像。東慶寺のポスターから)
 
東慶寺は梅の名所、梅の香にあわせて展示されたのか、
春への想いが盛り上がるこの季節に相応しい・・・思って展示されたのか、
日本の仏像のルーツを知ってほしい・・・・展示されたのかもしれません。
 
私が故浅子教授に連れられて新薬師寺に登ったのは、昭和44年の残暑厳しい季節でした。
浅子教授は様々な学部の生徒を連れて、奈良の仏を巡って下さいました。
新薬師寺の本尊は貞観時代の薬師仏です。
そしてその周囲を12の神将像が囲んでいます。
弩迫力であります。
私を含めた学生達は薄暗闇の中、仰ぎ見ました。
でも、浅子教授は香薬師の話を訥々とされました。
 
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                             (今、東慶寺は梅の香に包まれています)
 
 
一方、亀井勝一郎は大和古寺風物詩でわざとこの天平の仏たちを無視しています。
そして、金堂の西側、小さなお堂の主「香薬師像」を誉めちぎります。
 
「新薬師寺」の名は後世の人が西ノ京の薬師寺(天武・持統天皇開基)と区別して名付けたもの。
本来の名は「香山薬師寺」でありました。
「香り立つ山」とは春日奥山のことでしょう。
春日奥山を背にした薬師寺・・・・が正しい名前でしょう。
時代は白鳳時代、
前の飛鳥時代には、北魏様式の仏像が日本人を圧倒しました。聖徳太子や法隆寺がそれでした。
で、時代が下ると、仏像も日本人好みに変化してきます。
杏仁形の目は閉じられました。細め、薄目に変わります。
ギリシャ風の角張った細面は、丸い童顔になりました。
そして、私達を圧倒するような神秘性は無くなり、小さなお堂の親しみ易い仏になりました。
 
天武天皇は伊勢神宮の式年遷宮を始めた方です。
我が国に伝来した異国の仏像は国風化、日本化しはじめました。
まるで、「日本文化に春が来た」そんな白鳳文化でした。
 
そんな香山薬師寺の歴史や尊さを示したのが香薬師像でありました。
 
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      (東慶寺の仏像展の核、水月観音。岩上の観音様が水に映ったご自身の姿を眺めている姿。女人のお          寺に相応しい小像です。)
 
 
浅子教授は亀井勝一郎氏と同感だったのでしょう。
そこでお話を始められました。
「このお堂に香薬師像があったのですよ。会津八一は同像を白鳳の薫り高くうたいました」
 
            みほとけの うつらまなこに いにしへの 
                やまとくにばら かすみてあるらし
 
              ちかづきて あふぎみれどもみほとけの
                    みそらはすともあらぬさびしさ
                                      秋艸道人  (二首めが歌碑建立されています)
歌の意は以下の通りでしょう。
香薬師像は、この春日奥山、高円山の山麓から大和平野を遥かに見渡しておいでです。屹度春霞の中で、大和の国原は霞んで見えていることでしょう・・・。
私は、香薬師様にもう一歩近づいて仰ぎ見ました。でも、香薬師様は私を見向きもしないで遥か彼方の大和平野を見ておいでです。私を少しも見向いて下さらない、寂しいのですよ・・・・。
 
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                              (東慶寺本堂前庭の四方仏)
 
 
そして、昭和17年、後者の歌碑が境内に建てられました。
その翌年、香薬師像は盗難にあってしまいます。
会津八一は大きな衝撃を受けます。
その悲しさを三首の歌に残します。
 
浅子教授の話は続きます。
 
実は香薬師像は明治時代以降3回も盗難の災難を受けました。
「香薬師像は余りに美しい、香しい、それは仏像の体内に金の地金が隠されているからだ・・・・」
そんな噂が飛び交いました。
その為に盗まれたのでした。
盗人は、足首を折って、手首を切り落としました。
でも、金の地金は見当たりません。
そこで、泥棒は折った手首・足首を揃えて寺に戻したのでした。
ところが、三度目の盗難では結局戻りませんでした。
 
時の新薬師寺のご住職は悲嘆にくれました。
東大寺の海雲師は文芸春秋社長の佐々木茂索氏に相談します。
幸いに新薬師寺に石膏摸型が残っていた事などから、新たに三体の摸像を作ります。
摸像と言えども大変に精巧で、当初の面影を伝え、童顔の面相、薄い衣等、深い感銘を与えるものでした。
三体のうち一体は新薬師寺に、もう一体は国立博物館に、そしてもう一体は佐々木家が菩提寺の東慶寺に寄贈したのでした。
 
盗難は災難で非難されてしかるべきでしたが・・・・・、
沢山の人の善意や香薬師像への愛着が湧き上がりました。
摸造する作業を通して、大切な事を訓えてくれました。
 
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                                    (東慶寺に咲いた福寿草)
 
考えてみれば仏像は再三盗難や略奪の憂き目を見ています。
白鳳時代を代表する興福寺仏頭も元は飛鳥の山田寺のご本尊でした。
興福寺の僧兵は平家に焼かれてご本尊が無くなったものだから・・・・
山田寺を襲撃して奪い去ったものでした。
飛鳥で眠っていれば良かったのでしょうが、
騒がしい南都の真ん中に行ったものですから、兵火に焼かれて頭しか残りませんでした。
また、新薬師寺にしてもご本尊の薬師如来を初め12神将像も別の寺にあったものです。
ですから、光明皇后が聖武天皇の病気快癒のために建立したといわれるお寺ですが、
今当初の仏像は殆ど無いと思われます。
ご夫婦で病まれる日本国の快癒を願ったのが奈良大仏ですから、
最初の奈良の大仏は「香薬師像」に近かった事でしょう。
 
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     (白鳳時代を代表する仏頭も興福寺が略奪したものでした。旧山田寺薬師像。香薬師が童子のお顔なら      此方は青年の顔です。最初の東大寺大仏様のお顔は屹度こんなだった事でしょう)
 
浅子教授は私達を連れて奈良や鎌倉の寺寺を巡ってくださいました。
「古寺巡礼」と言うに相応しい実地授業でありました。
巡礼とは聖地や霊地を巡る事でしょうが、ただ個人の心の傷を癒すために回るのでは無いと思われます。
「大切な事、物の見方、考え方・・・」それらを若い人に教えながら巡る事こそ貴重な事でしょう。
私は実業から去って今、浅子教授に感謝する日々であります。
もうじき半世紀前の古寺巡礼の思い出です。

 
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                                   (東慶寺、女人の寺らしい、二十三夜塔)

 
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