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「チマチョゴリ」と「如意輪観音像」

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「チャングムの誓い」「イ・サン」と韓国歴史ドラマを見ていて、女性の立ち居振る舞いの美しさに見入りました。
立ち姿はすっきりと、高松塚古墳の女性群像のような優雅さです。
そして、座ると、胡坐をかきます。
でも、脚はチマチョゴリの裳(スカート)に隠れてしまいます。
その動作の中で、右脚は立ち膝姿になる事があります。
正座と立座の中間動作のような姿です。
ああ、この姿は「半跏思惟像」、如意輪観音さんの姿だなあ・・・・思い出します。
和服なら太股が丸出しであられもない姿ですが、チマチョゴリだから美しい姿になるのだな・・・・思いました。
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        (胡坐座と立ち膝姿はチマチョゴリだから可能な姿です。チャングムの誓いHPから転載)
 
弘法大師空海が中国から持ち帰った仏像が歓心寺の如意輪観音像と言われています。
それより前から中宮寺や広隆寺には半跏思惟像があって、一般には弥勒菩薩と呼ばれています。
いずれも、右膝を立てて、右手で頬杖をついて座っています。
右手を頬にあて物思いに耽る姿は如何にも物憂げです。
菩薩が「・・・でも現実がある、どうしたら人々を苦しみから救済できるだろうか?」
考えていられる姿である・・・・と説明されてきました。
 
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                    (河内歓心寺の如意輪観音像/国宝、近畿大画像ファイルから)
 
石仏巡りをしていますと、一番多く目に付くのがお地蔵様です。
墓標塔の場合、子供を弔った場合は間違いなくお地蔵様です。
そして次に目に付くのが如意輪観音像です。
その大半が成人女性です。
出家した尼さんも、在家でお百姓のおかみさんも如意輪観音さんが墓標になっています。
 
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                   (没年もお名前/珍しく童女 も明記された墓標仏、玉縄で・・・・)
 
 
鎌倉時代以降、亡くなった人の墓標に五輪塔が使われました。
「死んだら自然界の元素に戻るんだ・・・・でも、生きた証をこの地上に残しておきたい・・・」
そんな想いが、石を積んで五輪にしたのでしょう。
でも、大半の人は墓標も無く、土饅頭に埋められて、その上に卒塔婆が立てられました。
卒塔婆が腐って無くなる頃、遺体は骨だけになったのでしょう。
 
元禄時代頃まで時代が下ると、墓標も様々な姿に変わりました。
お坊さんは卵塔に、武家は宝篋印塔に、庶民は角塔や仏像を選びました。
石仏を選んだ場合、その仏が死者を守って冥土に送ってくれる・・・そんな期待もあったでしょう。
亡くなった人の生前の信仰もあったでしょう。
そして、何よりも死んだ人の面影を宿してくれる仏像が選ばれたように思います。
 
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                           (葉山の山口 新善光寺、 椿の樹下の如意輪観音像)
 
亡くなった人が優しい人で、いつも口数少なく、思慮深かった。
何かの重圧に耐えながらも、子供たちの幸福の為に必死であった・・・・・、
そんな江戸時代の女性の姿に一番似ていたのは半跏思惟の姿の如意輪観音だったのでしょう。
如意輪観音は本来六臂像ですが、6本も手があっては異様です。
そこで二臂像にしました。
そうおもうと、韓国歴史ドラマのヒロインは如意輪観音が似合いそうです。
 
加えて、江戸時代に入ると宗教界にフィクサーが出現します。
十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、「講中」に信者が集ってお月様を拝み、お経を読んで、悪霊などを追い払います。「月待ち講」と呼びます。
勿論、飲食を共にして、悩みを語り、お喋りを楽しみます。
女性にとって一番の人気が「二十三夜講」、次いで「十九夜講」でした。
 
二十三夜講の主尊は勢至菩薩で、十九夜講の主尊仏は如意輪観音様である・・・喧伝したのでした。
子供が欲しい、安産でありたい、お乳が出て欲しい、立派な跡取りに成長して欲しい・・・、
女性だからこそ深い祈願を聞いて下さるのが如意輪観音でした。
「産後のひだちが悪くて、亡くなった・・・・」
必ず、如意輪観音様が納められた事でしょう。
 
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              (十九夜講の記念塔として奉納された如意輪観音、本来の本来六臂像です)
こんな事も重なって成人女性の墓標には多くが如意輪観音が刻まれたのでしょう。
石仏の背中には女性だからこその「優しさ」「悲しさ」が宿されています。
 
姿が美しい事が如意輪観音の魅力です。
浄智寺の方丈の裏は竹林です。
私達は、竹林の傍を通り抜けて、鎌倉七福神の布袋様に詣でます。
竹林の脇は大岩がせりだしています。
その岩に櫓が掘られています。
櫓には二体に如意輪観音が仲良く並んでします。
その美しさに、驚いて立ち止まります。
 
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                   (竹林の向こうに櫓あって、中には二基の如意輪観音像が並んでいます)
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(上記の右側如意輪観音像、林月妙吟禅定尼(戒名)元禄15年と記されています)
 
家内に咎められます。
「貴方は墓地に入っては如意輪観音を見詰めてばかりいる。貴方は背中に誰かをおぶっているのと違う?」
と。
でも、「チマチョゴリ」の美しさは家内も認めていて、一緒に韓国歴史ドラマを見詰めています。
 
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                   (玉縄玉縄の如意輪観音、享保年間の墓標仏です)
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   (同じく玉縄の如意輪観音、光背には過去帳程の住所、名、没年が記されています。墓標塔に合掌。)
 
 
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藪椿の花と八百比丘尼伝説

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我が家の庭の藪椿が咲き始めました。
私が植えたのではありません、野鳥の贈り物でしょう。
何時の間にか芽吹いて、自生しました。
花が少ない季節ですから、玄関に仏前に活けて重宝しています。
 
真っ赤な花弁、白い花芯、そして雄蕊の先に黄色い花粉が付きます。
驚く事は長持ちする事です。
花弁は決して腐ったり変色したりしません。
真っ赤なまま萎れて、ポタンと散ってしまいます。
桜や梅のように花弁が一枚一枚散る事はありません。
 
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      (藪椿の美しさは寒い季節に耐えて健気に咲く姿です)
 
もうじき、3月になります。
3月2日は若狭の小浜では「お水送り」の神事が行われます。
神宮寺で神事を執り行い、遠敷川の鵜の瀬に水を流します。
 
3月12日には東大寺二月堂の若狭井でお水取りが行われます。
鵜の瀬に流した聖水を三笠山の麓で汲む次第です。
「修二会は天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正に始まる」
そう伝えられていますから、この伝統行事は1300年も続いているのです。
太古から「春を告げる業事」として日本人をワクワクさせてきたのでしょう。
 
 
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若狭神宮寺から松明を焚いて鵜の瀬から水送りします。(YAHOO画像から)
 
若狭小浜は藪椿の自生地です。
少し北に上れば、海沿いの海岸に「千本椿」と呼ばれる藪椿の自生林があります。
「鵜の瀬」に散った真っ赤な藪椿の花が流されて、
二月堂の若狭井に浮き上がった・・・・、
だから・・・・「水が送られて、水を汲んだ・・・・・」 
そう確信した・・・とも考えられます。
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(二月同修二会のおおとり大松明、舞台下左手の若狭井から水を汲みます)
 
藪椿の自生地は殆どが暖流が洗う海岸です。
藪椿の名所と言われる伊豆大島も、湯河原も、そして北限との男鹿半島も津軽や夏泊も、
総て海岸沿いです。
そして、その地には必ずと言ってよいほど「八百比丘尼/やおびくに」伝説があります。
 
八百比丘尼伝説は地域によって多少の違いがあっても殆ど同じです。
八百年も生きた比丘尼(尼)さんが長寿に耐えかねて自ら命を絶つ、悲しい話です。
 
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                        (鎌倉の藪椿)
 
若狭の庄屋の家で人魚の肉が振舞われました。
誰もが知っていました。
人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入るのです。
でも、人魚と言えども人の肉、食べたふりをして持ち帰りました。
だが、一人だけ話を聞いていなかった者いました。
人魚の肉だとは知らずに娘は口にしてしまいました。
娘はそのまま、十代の美しさを、真っ白い肌のまま何百年も生き続けました。
村の人々に疎まれて尼となり、国中を回って善行を積みましたが、矢張り老いない悲しみは拭えません。最後には世を儚んで岩窟に消えてしまいます。
岩窟の周囲には真っ赤な椿が咲くようになりました。
 
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       (葉山新善光寺の裏山は藪椿の森です)
 
人魚の話は古今著聞集(鎌倉時代)に出てきます。
「体は魚で、顔だけが人間」が出現した話でした。(少し前話題になった人面魚)
未だ八百比丘尼伝説には遠いものがあります。
そこで、日本霊異記(鎌倉時代)にはあるだろう・・・・探しました。
しかし、ありませんでした。
そこで、今昔物語(鎌倉時代)なら採取されているかも知れない・・・・、今の所見つかりません。
 
今のように「下半身が魚で上半身が若い女性」という姿は江戸時代に始まったような気がします。
西洋からマーメイドの話が伝えられ、インパクトを受けたと考えるのが妥当でしょう。
 
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江戸時代には高野山の修験者が「高野聖」となって全国を行脚して、社会事業をして、布教しました。
その結果、弘法大師の霊験譚は膨大な数が生まれました。
同じように熊野の巫女は全国に散った熊野神社を詣で、布教に務めました。
熊野神社は海岸沿い、藪椿の自生地に近くに多く在ります。
巫女さんが布教するとき、字が書けて読める訳でも無いでしょうし・・・・・、
一番効果があったのは「お話」です。
そして、「絵」でしょう。
そこで、巫女さんが信者を集めてお話しました。
「八百比丘尼」の話だったと思われます。
 
「美しくありたい、長生きしたい・・・誰でも願います。
でも、老いなければ、死ななければ、それは辛く酷い事です。老いて皺だらけになって、亡くなって、孫子に命を繋ぐ事が幸いなのですよ・・・・・」
話したと思われます。
又、人々は巫女さんのそれなりに老いたお顔を見詰めて・・・・「自然に老いる幸福」を思ったことでしょう。
 
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  (箱根にも八百比丘尼の墓と伝えられる遺跡があります)
 
鎌倉にも熊野神社は数多くあります。
藤沢の遊行寺境内には熊野神社が祀られています。
一遍上人の遊行する姿(一遍絵巻)には沢山の信者が従っています。
大半が女性です。
私は、熊野神社の巫女さんでは無いかな・・・思っています。
(仮説ですが)
 
藪椿の美しさが際立つ季節です。
古代の人が決して腐らない花に神性、霊性を感じて・・・お水取り行事を始め、伝え、
そして八百比丘尼の伝説に成熟したと思います。
あくまで仮説ですが・・・。
 
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(葉山新善光寺裏山の尾根道、藪椿の花は腐りません)
 
 
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「鎌倉の泊まり」で磯あそび

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天候不順が続いていましたが、2月22日は漸くの好天気でした。
天気に誘われて、先日来気になっていた「和賀江島」で磯遊びをしよう・・・・出かけました。
 
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  (沖合いの石碑がある所が和賀江島、遠方左手が江ノ島、右稲村ガ崎、霊仙山に続き、向こう側が極楽寺)
 
和賀江島は鎌倉の東南、逗子より位置する材木座の浜辺にある磯です。
鎌倉幕府を建造するに際し、沢山の建築需要が発生しました。
材木も、堅い石も、運ぶためには海運が重要です。
鎌倉の前浜は東を披露山(逗子)が、西を霊仙山から稲村ガ崎によって囲まれています。
二つの山の間に横たわる砂浜でした。
立地的に恵まれ、滑川にも近い東南部に船が着きました。
しかし、遠浅ですから荷捌きも厄介ですし、嵐にもなれば船が座礁したり難破してしまいます。
 
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   (干潮になると和賀江島跡の略前景が見えてきます。磯でワカメ拾いしている人が見えます)
 
1232年(貞永1年)往阿弥陀仏が執権方丈泰時に築港の申請をします。
極楽寺に属した社会事業家だったのでしょう。
材木座の前浜の先に石を積んで港にしよう・・・とするものでした。
小坪「正覚寺」に近い岩場から沖合いに向けて石を積み上げて「堤」を築きました。
普段は積荷の上げ下ろしに、そして嵐になれば堤の内側に避難しました。
堤は防潮堤の役割をしました。
こうして、現存する我が国最古の港が出来上がりました。
遠くに富士山、そして江ノ島が眺められる景勝地です。
「鎌倉の泊まり」と呼ばないで「和賀江島」と名付けたのは江ノ島の霊験を仰いだのかも知れません。
 
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                                 (手前が和賀江島、奥が江ノ島)
 
 
港があって、市場(材木座)があって、鎌倉随一の賑わい「大町筋」が通っていました。
材木座の浜辺には沢山の人が集まったことでしょう。
 
今は親父サーファーが跋扈しています。
そして、私を含めて市民が磯遊びをしています。
和賀江島の石が崩れて、長い磯を作っているのです。
満潮の時は和賀江島の石碑しか見えませんが、干潮になれば築港の跡が顔を出します。
其処が磯遊びの適地なのです。
幸いにして、此処だけは漁業権が設定されていません。
砂をほじくればアサリが採れますし、ワカメも拾えます。
岩の陰には沢山の魚貝が顔を出します。
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   (ワカメ拾いをする叔母さん、足元の海草はワカメに似ていますが堅くて食べられないそうです)
 
実は私の狙いは「ワカメ拾い」でした。
10日ほど前、由比ガ浜のワカメ干しを見て、どうしても「鎌倉ワカメ」を食べたいと思いました。
坂下の竜神丸さん(漁協)にも出かけましたし、魚屋さんにも尋ねましたが、買えませんでした。
ならば、自分で採取しよう・・・・そう思って和賀江島に来たわけでした。
 
和賀江島の遺跡の間を数名の市民がワカメ拾いをしています。
彼等はその積もりの装備できています。
近くには、そんな姿に触発されたのか、おばさんが膝まで濡らしてワカメを拾っています。
ビニール袋に一杯採れています。
私の足元にもワカメに似た海草が波で吹き寄せられています。
でも、たずねれば「堅くて食べられない」そうです。
私は、カメラを持っていますので、また水没させたら困ります・・・・・・、
で、諦めて、今度は小坪漁港に廻る事にしました。
もしかしたら、お裾分けしてくれるかも知れない・・・・・思ったのでした。
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                       (小坪漁港のワカメ干し風景、奥逗子マリーナ)
 
 
小坪の仲買市場にはもう「初鰹」が並んでいました。
四分の一身が800円です。
でも、ワカメは商っていません。
漁港では漁師が家族でワカメ干しに精を出しています。
「少し分けて戴けませんか?」
尋ねましたが・・・・、
「家のワカメは全部買い占められています。この辺りは全部同様でしょう。市民の方が買えるのは3月中旬でしょうね・・・・」
「地産地消」「旬は生産地で・・・」云われますが、
矢張り資本の論理で美味しいものは買い占められているようです。
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   (葉山森戸のワカメ作業、採取したワカメを湯がいてから、砂浜に干します)
 
仕方が無い、小坪まで来たのだから「子育て地蔵」さんをお参りして帰ることにしましょう。
 
この辺りはシラス丼屋が並んでいます。
誰か初めて欲しいものです。シラス丼にワカメの味噌汁をセットにして・・・・
「鎌倉名物、シラス丼に鎌倉ワカメの味噌汁」で800円・・・・・。
我が夫婦は早速に食べに行くのですが・・・・・!
 
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                                   (手前材木座の砂浜に出来た砂紋、奥親父サーファー)
 
 
 
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前浜の「砂の漣」にも春を感じます

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もうじき弥生、磯に吹く風もどこか春めいてきました。
私は、鎌倉の材木座海岸に「ワカメ拾い」にでかけました。
引き潮で、広い砂浜が広がっています。
冬から春にかけて、海底に育った柔らかいワカメが波にちぎれて、砂浜に吹き寄せるのです。
 
ワカメは和賀江島の外洋寄りに流れ着いているようです。
私の格好では其処まで行けそうもありません。
諦めてワカメ拾いの人を見つめると、相当の収穫のようです。
ビニール袋に納まりきれないようです。
膝まで浸かって、ワカメ拾いは楽しそうです。
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                               (手前「和賀江島」、奥が江ノ島・・・春の磯の風景)
 
近くの砂浜では潮干狩り(アサリ)をしている人も居ます。
「どうですか?採れますか?」
尋ねれば
「採れますよ、アサリが、でも未だ小さくてね」
バケツを覗けと、見せてくれます。
たとえ小さくても、良い磯の味が出る事でしょう。
全身で春を感じているようです。
 
今の季節、春を見つけるのは喜びです。
野にも、山にも、春が忍び寄っているのでしょうが、
生き物が沢山生息する、磯の春が一番早いようです。
 
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  (鎌倉の前浜は歴史の舞台、其処には砂が不思議な模様を刻んでいます。これを「砂漣」と呼びます)
 
カラスが砂を掘っています。
見ていると、砂イソメでしょうか?それともゴカイでしょうか?
砂の中からミミズ状の生物を摘まみ出して、器用に食べています。
セキレイもなにやら漁っています。
 
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                   (砂に刻まれた砂イソメの跡をカラスが穿って、餌にしています)
 
砂が網状の模様を作っています。
多分、遠浅の砂浜に僅かに海水が残されて、
海風が漣(さざなみ)を引き起こしたのでしょう。
漣が砂を運んで、「波の跡」を残したのでしょう。
裾は沖に向かっては平たくて長く、
岸に向かっては短くて急峻です。
 
私はふと思い出しました。
俳優の「大杉蓮」さんを。
本当は「大杉漣」としたかったそうです。
漣は「さざなみ」・・・・岡本理研のゴム製品の商品名だそうです。
でも、常用漢字に無かったので、「蓮」で我慢したそうです。
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            (砂漣の上に砂イソメ等の生物の跡がクッキリ残っています)

風が吹けば「砂紋」が出来ます。
漣が立てば、砂漣(すなさざなみ)ができます。
風も波も捉えどころはありませんが、その跡はしっかりと残って、美しい模様が出来ます。
砂漣が波が生じていた証拠です。
 
夫婦の間も、愛情の証が子供なのでしょう。
ならば・・・・・岡本理研の「」は自然の摂理に反しているようにも思えます。
 
此処までブログを書いて、ふと気づきました。
果たして、私は何を書いているのだろう。
「鎌倉の前浜の砂漣が綺麗だよ!」
ただ、それだけ伝えたかったのですが・・・・、
「大杉蓮」さんを思い出したのが間違いでした。
(大杉様、ご免なさい。でも貴方が変な名前を名乗っているのがいけないのです)
 
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                           (仏像の衣文/「飜波」を思わすような砂の跡)
 
 
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東浦賀干鰯問屋「湯浅屋」の変遷をたどる

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私の友人、橋本さんのルーツは浦賀である事は承知していました。
偶々、「浦賀の歴史・美術を鑑賞しよう」という事で、浦賀の町に出かけました。
この機会に同氏のルーツをたどってみようと思います。
   (浦賀の資料には橋本家はよく出ていますので隠す意味も無いと考えました。悪しからずご納得下さい)
 
京浜急行の最初の幹線は「品川~浦賀」でありました。
その浦賀駅を降りると目の前が「浦賀ドック」(休業中)です。
この辺りから、東側が東浦賀町です。
浦賀湾の北側一帯に浦賀ドックの工場が立地しています。
その前の国道を東に向かって、工場が途切れる所に三叉路があります。
国道の東西に顕正寺、乗誓寺。右折するとその先が東叶神社です。
この角に湯浅屋(橋本家)がありました。
今では屋敷の面影は唯一稲荷神社だけでしょう、角地にコンビにが出店しています。
 
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   (東浦賀町の町並み、右端に東叶神社の社殿が見えます。左端の辺りに湯浅屋がありました)
 
浦賀が最初に日本史に出てくるのは古事記です。
日本武尊が浦賀水道を走水から安房に向かいました。
荒れ狂う海を鎮めるために弟橘比売命が身を投げ、東国平定を助けました。
古代、東海道は足柄山の麓を海老名に向かい、更に藤沢から鎌倉、三浦半島を浦賀に続いていました。
中世には、源頼朝は石橋山で挙兵、しかし敗走して浦賀から安房に逃げ延びます。
そして再起を図り、古代東海道の要衝鎌倉に幕府を開きました。
 
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                                            (橋本家(湯浅屋)文書
 
江戸時代になると紀伊・湯浅の商人はいち早く江戸に向けて進出します。
醤油屋さんは野田で醸造、幕府の御用醤油に指名を受けます。
現在のキッコーマンになります。
一方、浦賀に進出した橋本家は「湯浅屋」の名号で「干鰯問屋」を営みます。
江戸時代急速な商品経済の発展は、膨大な綿花需要を生み西国で綿花栽培を促したのでした。
綿花が立派な綿毛を生産させるためには、肥料としての鰯を必要にしました。
鰯を干して畑に撒いたのでした。
 
干鰯1俵はお米4俵に相当しました。
お米4俵が1石、成人男子が1年間食べるお米に相当しました。
加賀百万石は100万人の経済規模があったことを示します。
言い換えれば干鰯で換算すれば25万石でありました。
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      湯浅屋文書から大福帳
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                (湯浅屋文書から貸し金帳)
 
湯浅屋の大福帳には干鰯の買い手、金額、条件。
干鰯の売り手の金額が記載されていました。
干鰯の生産は安房の漁師と思っていました(大概の浦賀の案内には書かれています)
資料を見ると多くは江差・松前などの名が続いていました。
従って浦賀の干鰯問屋は、東国、北国の鰯を買い集め、西国に売っていたのでしょう。
そして、割賦の販売は貸金業に発展し、東浦賀には24軒もの金融業が成長していました。
また、江戸にも干鰯問屋が進出、浦賀と競います。
浦賀では中小の生産者に「前貸金・仕込金」を融通します。
総合力で江戸の干鰯問屋を制します。
その、リーダーが「湯浅屋」だったのでしょう。
 
また、橋本氏のご先祖は細々メモ魔だったそうです。
何を食べたか、何があったか、毎日日記に残したそうです。
「武士の家計簿」が最近もてはやされていますが、それを遥かに超える「大店の家計簿」だったようです。
「食事や栄養の歴史」の上でも貴重な記録だそうです。
 
 
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(湯浅屋の跡を示す案内板を見入る私の仲間。説明しているのは湯浅屋の御曹司橋本氏)
 
鰯で蓄積した資金は明治維新に活躍します。
浦賀奉行所の与力であった「中島三郎助」は浦賀に咸臨丸の修理する工場を建設させます。
咸臨丸は浦賀から出航します。
更に、日本最初の乾ドック「浦賀ドック」に発展させます。
浦賀の裏山を越えた位置にあった「横須賀製鉄所」は明治10年横須賀軍港になります。
そして海軍の最大の拠点軍港になります。
 
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(今の浦賀ドックの場所は干鰯問屋が並んでいたようです)
 
干鰯で栄えた湯浅屋でしたが、開国されて海外から安い綿花が輸入されると、転業を余儀なくされました。
橋本家の祖父は倅をお医者さんにしたのでした。
軍隊には優秀な軍医が係っていたのでしょう、海軍は尚更でしょう。
勝海舟ですら「船酔いで役立たずだった」、云われています。
横須賀には優秀な医者が集められ、最高の病院が建てられました。
そこで、湯浅屋は大切な跡継ぎを医者に教育しました。(海軍病院に勤められたかは知りませんが)
その倅が橋本氏であります。
 
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(東耀稲荷神社の甍、神社は小さいものの意匠の隅々まで工夫されていました。私はこのお稲荷さんは湯浅屋の屋敷守と考えました。その上で顕正寺に湯浅屋が管理を依頼したものでしょう)
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                                        (屋根飾りの大黒さん)
湯浅屋から細道を隔てた位置に小さな神社が在ります。
名前は「東耀稲荷」、
でも、神社の扁額には「須賀神社」と書かれていますし、ご神体は「権現つくり」の宮殿に祀られています。
多分、須賀神社(須佐之男命を祀る、祇園神社と同じ)が本来で、
商売繁盛、火災など厄除けの意味で稲荷神社を併せて祀ったのでしょう。
位置的には顕正寺に付属しているというより、湯浅屋の敷地内にあった「屋敷守」のような感じです。
というのは、お寺さんより一歩前に、南寄りにあります。
本堂より遥かに南にあるのは奇妙に見えます。
また、稲荷神社の敷地は橋本氏の所有であります。
叔父様が湯浅屋の敷地から分筆して、お父様が橋本氏の名義にしておいた・・・考えるのが自然です。
湯浅屋がお医者様になってしまったので、管理を顕正寺に委ねた・・・想像します。
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                    (屋根瓦の恵比寿様)
 
湯浅屋の跡地横には案内が掲げられています。
浦賀の町が干鰯問屋で栄えた事が記されています。
浦賀の干鰯問屋の活躍が、商業資本になり、更にドックの工場資本になったのは幸いでしたが・・・・、
今は浦賀は廃れてしまいました。
産業資本に転じなかったのは、浦賀の町の自然立地の制約があった為でしょう。
狭いので、浦賀ドックで精一杯でした。
 
でも、お金や人には脚が付いています。
人材も産業資本も横浜から、東京に進出した事でしょう。
 
 
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(お稲荷様の内陣、格天井、欄間、宮殿などの彫刻が目を奪います。後藤義光の作/1840年頃と思われます)
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        (欄間のふくろう。浦賀の町は狭いので大きな神社が建てられません。その分細部の意匠/彫刻に           贅を競いました)
 
 
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「廓通い」と「浦賀庚申塔」

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昨日、浦賀の干鰯問屋「湯浅屋」の話をしました。
小さくても贅を尽くした東耀稲荷は湯浅屋の屋敷守と考えられる・・・とも推論しました。
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                       (今日の話の舞台も昨日と同じ東浦賀町。正面が東叶神社)
 
 
その東耀稲荷の北側(裏)に乗誓寺があります。
その境内に素晴らしい造形の「庚申塔」があります。
茶褐色の苔が生えて、いい塩梅です。
主尊は青面金剛像ですが、体がねじれていて、憤怒・憎悪の表情です。
お顔の横には髑髏と蛇がとぐろを巻いています。
そして、左手には半裸の女性の髪の毛をムンズと掴んでぶら下げています。
女性は豊満な乳房を露にしています。
そして腰巻一枚の姿です。
私は、真っ青な体の金剛像、白い肌、真っ赤な腰巻・・・・・、想像が一気に膨らみます。
 
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(東耀稲荷裏の庚申塔、左手に吊るした女性像を説明します)
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(金沢文庫称名寺山門前の庚申塔、これが普通形)
 
ところで、神奈川県ではこの浦賀界隈の庚申塔だけにこうした半裸女性像(一般にショケラと呼ぶ)が見られます。鎌倉や葉山では珠にありますが、戸塚など旧鎌倉郡部には先ずありません。
左手第三手はロープ(索)を持っています。
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(半裸女性像・一般呼び名ショケラの豊満な肉体)
 
興味は、何故鎌倉郡部にはショケラが無くて、浦賀には在るか・・・・ということになります。
 
井原西鶴の出世作「好色一代男」が流行りました。(1682年、天和2年、西鶴41歳)
文章は西鶴が、挿絵は菱川師宣が描いた、ベストセラーの文庫本(草草紙)でした。
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(お町/中村玉緒と世の助/市川雷蔵。GOOのDVDのHPから)
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(夕霧太夫/若尾文子、と世の助 同上)
 
話は8歳で性に目覚めた大旦那の倅「世之介」の女性遍歴の物語です。
源氏物語と同じ54帖の大作で、各帖とも「素敵な女性」との交わりが綴られています。
隣の女房、念者、撞木町の遊女、兵庫の湯女、清水坂の私娼、仁王堂の飛子、後家、人妻、奈良木辻町の遊女、街道のとめ女、江戸の私娼、等と関係を持ちます。
 
19歳の時に父から勘当を受けますが・・・それでも懲りません。
橋本の私娼、京の妾、鞆の髪長、大坂の蓮葉女、大原の雑魚寝、寺泊の遊女、坂田の勧進比丘尼、追分の遊女、江戸の屋敷女中、島原の遊女、等等。諸国を放浪して色道修業に励みます。
 
両親は倅の道楽で失意の中亡くなりますが、その遺産25千両を持って、島原の吉野、好三笠、藤娘、吉原の吉田、小紫、高雄など有名な遊女と遊びます。長崎の丸山を最後に海の彼方にあるという「女護が島」をめざして船出してしまいます。
 
好色物が売れた背景には、「遊郭ガイドブック」とも云うべき黄表紙が良く売れたのでしょう。
そして、男達は金が出来ると遊郭の噂を種に、好みの女性を物色して、通いつめたのでしょう。
昨今の薬物中毒同様に、遊郭通いは蟻地獄に嵌る恐れがありました。
 
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                         (西叶神社の銅製灯篭も浦賀遊郭の寄進でした)
 
浦賀の町には少なくても5軒の遊郭がありました。
彼等の名前は西叶神社の青銅の灯篭に刻まれています。(1833年寄進)
一軒5人の女郎が居たとすれば、25人の女郎とその関係者が食べていた事になります。
湯浅屋の女将がメモ魔で日記に事細かく書いていた背景には、丁稚や奉公人の生活を管理する意味もあったことでしょう。
「しっかり働いて、仕事を覚えて、コツコツ貯金する・・・・」
その為には生活姿勢の指導が欠かせません。
「世之助」のような放蕩息子、好色狂いが生まれたら、身上は一代で潰れてしまいます。
 
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   (灯篭を寄進した遊郭の名は5名、右から3人目が洗濯屋と呼ばれた「江戸屋久三郎」)
 
そこで、「豊満な乳房、真っ赤な腰巻、強い脂粉の匂い」には気をつけろ・・・・・、
とばかり、青面金剛像に半裸女性像を掴ませた・・・・・、そのように考えます。
 
仏像の持物には一つ一つ意味があります。
それは、信仰する人が考えるのもでした。
民間信仰や俗信になれば一層です。
左手第三手にロープがあっても、「悪いことをしたら縛られるな・・・」思いますが、
好色男性の自制心を惹起しなかった事でしょう。
でも、「女は遊びが過ぎると身を滅ぼす悪魔だぞ・・・・・」と言いながら、髪の毛をむんずと握っていると・・・、
ギヨットした事でしょう。
 
湯浅屋の前を西に行くと100メートルくらいで「東林寺」があります。
その境内で相撲興行が催され、雷電も登場したそうです。
その門前に「南無阿弥陀仏」の六字念仏塔が立っています。
建てたのは江戸屋久三郎、「洗濯屋」と呼ばれた遊郭の経営者でした。
余りに豪奢な遊郭のため、奉行から取り壊しの命令も受けたほどでした。
である時、祐天上人(祐天寺の開基)の教化を受けます。
その為か判りませんが、洗濯屋を畳んでしまいます。
そして、財産を遊女に分与し、寺社に寄進し、自身は得度して京都黒谷の青龍寺に入ってしまいます。
何故、そんな大きな転向をしたのか・・・・・、解りませんが・・・・・、想像すると・・・ワクワクします。
 
若しかしたら井原西鶴の「世の助」のような気持ちになったのかもしれません。
 
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          俗名「江戸屋久三郎」が寄進した六字名号塔/東林寺
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                              (境内で雷電が相撲興行した東林寺)
 
 
 
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北条高時の「腹切り」を考える

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宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居を東に折れた突き当たりにあります。
鎌倉の中心にあるお寺さんです。
秋の白萩、そして早春の梅が名物です。
今年も見事な白い枝垂れ梅、そして火炎のような紅梅が咲きました。
私は、ご本尊の地蔵菩薩を拝んで、寺の築地塀を裏山に向かいます。
東勝寺跡の先、祇園山の上り口に岩屋があって、其処が第14代執権北条高時が自害した場所です。
宝戒寺ご住職がたてた卒塔婆が並んでいて、櫓の中には小さな五輪塔が祀られています。
それが高時の墓標です。
 
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                                    (宝戒寺の枝垂れ梅)
 
新田義貞は鎌倉を攻めあがります。
私の住む戸塚には「耳塚」があります。
働きの悪い兵士の耳をそぎ落とし、埋めた塚だと言い伝えられています。
稲村ガ崎を超えて鎌倉府内に入ると、火を放ちます。
坂下から長谷にかけては火の海だったそうです。
目指すは北条高時の首です。
荒くれの新田義貞は、鶴岡八幡宮の東北条屋敷に攻めあがります。
 
北条高時は、鎌倉の城壁とも言うべき「切通し攻防戦」では全力で戦わせますが、府内に敵兵が入ると抵抗戦を諦めたようです。
自邸の裏山に入り、腹を切って果てます。鎌倉幕府滅亡となる、1333年の悲劇でした。
 
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                                                (宝戒寺本堂と紅梅)
 
前述の岩屋は「腹切り櫓」として有名です。
「腹切り」と言うと保元物語のヒーロー「源為朝」が最初と云われますが、果たしてどうか・・・・。
歴史的意味のある最初の「腹切り」は間違いなく「北条高時」であると思います。
 
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                        (宝戒寺の枝垂れ梅)
 
高時は14歳で執権になります。
「太平記」はじめ「増鏡」「鎌倉九代記」など揃って「田楽」や「犬追い物」などに興じた暴君・暗君と評されています。しかし、最初に夢想疎石を遇したのは高時です。田楽はお能に、犬追い物は流鏑馬に発展します。
芸術的に深い理解があった・・・評するのが自然です。
また、野にあった道元を鎌倉に呼び寄せます。識見豊かであった人物と考えるのが妥当でしょう。
 
高時が「鎌倉府内に新田軍が攻め入った・・・」報告を受けた時の判断を想像します。
祇園山に登って稲村ガ崎方角を眺めました。
浜辺と其処から繋がる松林は火の海です。
其処は庶民・貧民の住居がありました。
山の麓には長谷寺があり鎌倉大仏があります。
火の海が伸びるのは時間の問題でしょう。
自分が戦えば、武士の都「鎌倉」は全部が灰燼に帰す事でしょう。
鎌倉幕府、執権北条氏の歴史的役割は終えた・・・・、自覚しました。
「死の方」を選択を思い巡らします。
 
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                                 (宝戒寺の裏山祇園山を登り口にある腹切り櫓)
 
 
平家の公達は壇ノ浦から投身自殺しました。
彼等の怨念は「平家蟹」になった・・聞いていました。
源頼朝の死因は落馬事故でありました。
何故落馬したのか・・・・、目の前に安徳天皇の怨霊が出現したから・・・・、聞いていました。
菅原道真、平将門など皆怨霊になって祟っています。
自分の死は・・・・・、
先ず、自分自身に怨念は無い事を示したい・・・・、
思いました。
怨念の宿る場所は「腹」です。
腹腸を掻き出して、「腹蔵は無い」ことを示そう・・・・、思いました。
自分は「武士として死を選択した・・・・、次代の武士に対してメッセージを託した」・・・考えます。
 
高時の死に方は、後世「武士道とは死ぬことと見つけたり/葉隠れ」、究極の一節に結実いたします。
高時の腹切りを確認して、最も評価したのは敵方のトップ「後醍醐天皇」でした。
「自分は死んでも恨みは残しませんよ・・・・」高時初め北条一族のメッセージを尊く受け止めました。
そこで、高時の自邸の跡にその冥福を祈り、感謝する意味で「宝戒寺」を建立しました。(1335年)
高時らが冥土に行くために、地蔵菩薩をご本尊に致しました。
 
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                        (宝戒寺本堂の提灯、よく見れば小田原風)
   
高時の腹切りはその後の「武士道」の展開に大きなインパクトになりました。
古代から中世前半にかけて、「思いを地上に残して死んだ人は必ず怨霊になる・・・」信じられてきました。
次代の為政者は先ず怨霊の慰撫に精魂を尽き果たしてきました。
高時が私憤を残さないで自害したので、後醍醐天皇も尊氏も怨霊の負担がありませんでした。
後世の浅野内匠頭も切腹させたので、怨霊になる事はありませんでした。
そんな次第で「日本唯一」とも思われる「切腹」が伝統になりました。
 
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         (腹切り櫓、中央五輪塔は北条高時の墓標。我が国伝統「死に際の美意識」の始まりと思います)
 
韓国歴史ドラマでは切腹ではなく、服毒自殺しています。
腹には死者の怨念が溜まっています。
更に毒が上乗せされるわけですから・・・・・怨念は倍増されるでしょう。
 
日本文化は逆の方向で考えます。
怨念を残さないように・・・・・、
腹を切って、怨念など地上への思いを残さないように・・・・禊ぎ清めます。
 
私は、そんな次第で北条高時を愛し尊敬するのです。
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     (宝戒寺の境内は白梅をはじめ、様々な梅と椿が見事です。高時を追善しています)
 
 
 
 
 
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梅盆栽「思いのまま」にかこつけて

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早咲きの冬至梅も散って、今は花梅の「思いのまま」が咲き誇っています。
 
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 (「思いのまま」は紅白、一重、八重の梅の花が同じ梢に咲くので、この名が付けられた新種です。宝戒寺で)
 
梅は変異性が強く、様々な種が開発されて来たようです。
奈良時代遣唐使が持って帰り、平安時代は貴族達が花を競いました。
菅原道真もご自慢の梅が屋敷に咲いていたのでしょう。
梅への愛着が「飛び梅」の伝説を作り、美しい「梅花紋」を形作りました。
全国の天神様の紋はシンプルで雅な梅の花です。
 
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              (片瀬常立寺のシンボルツリー、「思いのまま」の枝垂れ梅)
 
梅の花は庭木として、特に盆栽として美しさを競ったのでしょう。
江戸時代、盆栽好きの旦那が「白梅」を自慢し、「紅梅」を愛でていました。
でも、盆栽は別々です。
一つの盆景に紅白の梅を植えてみました。
これこそ「新春を寿ぐに最適」自慢してみました。
ところが、隣の旦那は「私の盆栽は一つの樹に紅白の花をつけている、それこそ『思いのまま』だ・・・・」
見せ付けました。
こうして、新種「思いのまま」が開発されたのでしょう。
時代は大正か昭和の初めと思います。
何故なら、「思いのまま」のネーミングが新しい感覚だからです。
そして、「思いのまま」の大樹、古木が見当たらないからです。
 
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      (藤沢遊行寺、宗務所前、放生池の畔の「思いのまま」)
 
 
鎌倉には梅の名所が数多くあります。
でも、一番大きな「思いのまま」は宝戒寺の本堂手前左にあるそれでしょう。
精々私と同年齢と思います。
最近、片瀬の常立寺は梅の寺として人気です。
本堂前の枝垂れ梅が「思いのまま」であり・・・・その美しさが人気の的になっていると思います。
此方も、程宝戒寺と同様の樹齢でしょう。
 
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                                (遊行寺の「思いのまま」は今が花盛り)
 
最も大きな「思いのまま」は遊行寺の放生池の畔にあります。
良く陽の当たる場所ですし、庭が広いので思う存分梢を伸ばしています。
花数も多いですし、香りも豊かです。
沢山のメジロを呼んでいます。
でも、百歳には満たないと思います。
「思いのまま」はどれも女ざかりの奥方風で、梅の古木の風格には欠けています。
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                                    (沢山のメジロを集める「思いのまま」)
 
先日新聞に記事が載っていました。(毎日・産経)
「管首相、梅の使節表敬に苦笑い」と題されています。
菅首相は太宰府天満宮の西高辻信良宮司の表敬表敬を受け、「思いのままの盆栽」を贈られた。
予算国会が「思いのまま」になるように・・・・激励を受けたが、首相は「とても国会がそうなるとは思えませんけども」と苦笑いしながら、梅の花を眺めていた。
凡そそんな内容でした。
 
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(管首相と大宰府天満宮の巫女、「思いのまま」は白梅に紅梅の雄蕊を受粉させたものですから、白が基調です。左は「思いのまま」かもしれませんが、右は違います。/毎日新聞HPから転載)
 
新聞社のHPを見ると紅白2鉢の盆栽が確認できます。
どうみても紅梅・白梅で、「思いのまま」ではありません。
「又、国会を思いのまま進めてください」・・・・そんなエールを宮司がする筈は無いと思います。
私は新聞記者の脚色を感じます。
まして、前例があるからと言って、高価な盆栽を宗教法人から贈与を受けて良いものだろうか・・・?
思います。
 
童謡「とおりゃんせ」を思い出します。
子どもの遊び歌として流行 しました。
『 通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道 じゃ 
天神様細道じゃ ちぃっと通して 下しゃんせ・・・・』
 
管首相にすれば「予算案の可決」は細道でありましょう。
天神様にお願いして「通してください・・・・」願う気持ちでしょう。
宮司さんは「首相が予算案をちょっと通してくださいな!」お願いされるなら・・・天神様にお伝えしましょうか?
そんな話なら解るのですが。
 
でも、道真公は時の権力に抗して亡くなり、天神様になったものでした。
民主党が約束した事と、管首相の国民への提言のギャップが気がかりです。
PTTも税と福祉の一体改革も、首相が「思いのまま」提言し、民主党の仲間にも国民にも説明が不十分なようです。
多くの国民は「民主党は変節した・・・」と思っているでしょう。
まして、4月9日統一地方選に立候補する民主党地方議員は自分の主張と国政レベルとのギャップを埋め尽くせないで居る事でしょう。
予算案の細道は、統一地方選の隘路に続きそうです。
 
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                    (天神様の紋は梅の花です。王朝文化を感じる雅な美しいデザインです)
 
宮司さんは管首相の「予算案を通したい」願いを天神様に届けるのは無理なような気がします。
天神様はもともと野党精神に始まるからです。
もっともっと、「血の出ないほど歳出削減」努力をする必要がありそうです。
そして、野党精神を失わないで、国民の信任をベースに「思いのまま」振舞えば良いのでしょうが・・・・。
天神様は仰るでしょう。
「初心に帰ってやり直せ・・・」
 
話が飛びましたが・・・・梅の新種「思いのまま」の名前が一人歩きしていましたので・・・・・、
いたたまれず書いてみました。
 
「思いのまま」は人間の「思いのまま」ではなく、
梅の木の精霊が「紅白の花を付ける」ことに因ります。
 
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                      (我が家の「思いのまま」も咲いています。玄関に活けてみました)
 
 
 
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女工さんに見せたかった「つるし雛飾り」

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多摩丘陵に降った雨は大半が多摩川に注がれます。
でも、丘陵の西部や地中に潜った雨は境川に流れます。
境川は武蔵国と相模国との「境」でありました。
ですから、町田市は東京都の飛び地になって、神奈川県に食い込んでいます。
 
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    (和泉町の湧き水を活かした「わさび畑」、もう新しい葉がふいてきています)
 
境川の河岸段丘に「泉」が湧いています。
横浜市泉区はそんな事からネーミングされたのでしょう。
その豊富な湧き水を活かして「製糸業」が発達しました。
泉区和泉町に「天王森泉公園」があります。
泉館はまるで村の分教場のような木造建物です。
これが 清水製糸場の本館でした。
 
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   (泉館は明治の製糸工場の再利用です。つるし雛教室の方が展示しています/3月21日まで)
 
「製糸業」は明治日本の中核産業になります。
泉の農家は養蚕を営みます。
出来た繭玉を清水製糸場に納品しました。
工場では湧き水を使って繭玉を茹で上げます。
緩んだ繭から一筋の生糸を引き出します。
数本の生糸を撚糸して糸に紡ぎます。
作業をするのは、地元泉の農家の娘さんたちでした。
若い娘の良い目と指先から、我が国は外貨を稼いで成長して行きます。
 
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   (清水製糸場の女工さん達、桶の中に茹でた繭玉が浸かっていて、糸を頭上の糸車に送ります)
 
今年も清水製糸場本館(泉館)で「つるし雛展」が開催されています。
女工さん達の子供の世代が、つるし雛を作っているのです。
つるし雛は古布や端布を使って手作りした「縫い物」です。
「猿っこ」は「災いが去る」、兎は赤い目に呪力があるから、「這い子人形」は子供が健康に育つように・・・、
どれもこれも「縁起物」です。
11個の縁起物を糸で繋いで5本用意します。
それを福傘につるします。
55個もの縁起物を用意するには長い時間が懸かります。
 
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                      (中和田の学校を卒業して、女工さんとして働いた事でしょう)
 
時間をかけて、可愛い孫子の幸福を祈る・・・・・、
時代の期待も集めたのでしょう。
年々泉町の「つるし雛教室」も盛況のようです。
 
自分達も、その親世代も貧乏な中で育ちました。
お金持ちの「雛飾り」を羨ましく見て育ちました。
でも、娘が健康に成長してくれて、良縁に恵まれ、また健康な孫を見たい・・・・・、
お金持ち、貧乏人に分け隔てなく、誰でも願っていた事でしょう。
 
境川を越えれば藤沢です。
有名な「お雛様」メーカーもありますので、泉のお婆さんは買うことも出来ます。
でも、手つくりするのです。
縁起物の中にお婆さんの思いも縫いこめます。
 
 
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                         (飾る隙間も無いほど天井から吊るされたお雛様)
 
 
「つるし雛」は江戸時代末期に伊豆稲取で始まったと聞きます。
でも、長い間忘れ去られていました。
稲取の商工会が復活させたのが平成10年と聞きます。
折からの不況感と、エコ意識の向上、幸福感、地域の活性化・・・・などなどが背景にあって、
「つるし雛」は稲取から全国に広がっていったのでしょう。
今では、私の町の倉田コミュニティーや高齢者施設にも飾られています。
 
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清水製糸場の建物には女工さんの魂が遊んでいるかもしれません。
彼女等は屹度つるし雛を見上げて歓声を上げていることでしょう。
「まあ!綺麗」
「私も欲しいわ!」
「お婆様、私にも作り方教えて下さいな!」・・・・・。
 
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私は女工さんらに耳打ちしてあげます。
「貴方は娘ではなくて・・・・・そこの婆様のそのお婆様ですよ・・・・、明治は150年も前なのですから・・・・」
女工さん言うでしょうか?
「もっと、遅れて生まれれば良かった!」・・・・・と。
 
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   (昔ながらのガラス戸の向こうは廊下で・・・・吊るし柿が並んでいました)
 
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    (帯が敷かれてその上に沢山のお雛様が飾れていました。お雛様の数だけ「思い」があるのでしょう)
 
 
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蕎麦屋の笑顔(段葛「こ寿々」にて)

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今日は暖かく、陽射しも風も心地良い。
こんな日は、冷たくて美味しい蕎麦を戴きたいものだ・・・・、
何処で?
暫くご無沙汰してた鎌倉段葛の「こ寿々」に決めました。
 
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           (段葛から見た「こ寿々」)
 
 
若しかしたら、日本人は稲作をする前から蕎麦を栽培していたのかもしれません。
そう思うほどに蕎麦好きが多いようです。
特に鎌倉は蕎麦好きが多いようで、蕎麦屋が多く在ります。
私は狭い鎌倉の町をあっち、こっち出歩きますが、何処に行っても蕎麦屋さんがあります。
鎌倉の蕎麦屋は神田の喫茶店ほどの密度であるような気がします。
多くは静かな住宅街の路地裏の中にありますから、知らないと通り過ぎてしまいます。
 
段葛に入ると、二の鳥居を過ぎて雪ノ下教会、鎌倉彫会館が見えてきます。
その続きに瀟洒な町屋が蕎麦屋の「こ寿々」です。
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   (「こ寿々」では店の外の縁台で席が空くのを待っているのが通常です)
 
若宮大路に面して連子格子が設えてあります。
連子越しに店の中が窺がえます。
勿論店に座れば、段葛の桜も行き交う人並みも見えます。
店先に縁台が置かれています。
縁台に腰掛ければ名物の「蕨餅」も戴けそうです。
街道にあった茶店のような風情です。
蕎麦屋は佇まいも「味」の内です。
 
  
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   (店内の照明ランプ、全部和風で統一せず、アールヌボー風な所が鎌倉らしい)
 
店先には10人弱の人が開店を待っていました。
「貴方も蕎麦好きね!」そんな目で見られていることでしょう。
神田のラーメン屋には、若い人が行列を作ります。
鎌倉の蕎麦屋では、小父さん叔母さんが縁台に座って待っています。
春の日よりは待ち時間も「一刻値千金」です。
 
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   (蒸篭を戴きました。前方に蕗の薹を活けてありました)
 
蒸篭を一枚注文します。
お茶を戴きながら、店内の造作を鑑賞します。
天井際には神棚が祀られています。秋葉様でしょうか?
天井からはランプが吊り下がっています。
目の前の土壁は「桑染め色」です。
長い時間がこんな微妙な色を作ったのでしょう。
壁の中に小さな棚が設えてあります。
「此処が床の間よ」そんな顔つきです。
床の間ならば「生花と掛け軸」が・・・・・、
水盤と水彩画が飾られてあります。
見れば、水盤には「蕗の薹」が活けられています。
「ああ、もう季節が其処まで進んだか?」思います。
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       蕗の薹」がお客様に季節を知らせてくれていました。
 
私の頭には鎌倉の蕗の薹の名所が駆け巡ります。
建長寺奥の回春院の参道、土手ですがあそこは日陰ですから、まだまだでしょう。
ならば、光明寺の裏、五輪塔のある辺りは日当たりも良いし咲いているかもしれない・・・・、思います。
 
光明寺には「薊」と言う名のサンマー麺の美味しい店がありました。
寒い日には家内と良く戴きました。
でも、半年ほど前に閉店してしまいました。
店主ご夫婦の歳が進んだから、卒業されたのでしょう。
また、路地の奥には蕎麦屋の「梵蔵」もあります。
この店は昨秋にミシュランガイドで一つ星になりました。
私の贔屓の「こ寿々」を凌いだ事になるのでしょう。
「こ寿々」も「梵蔵」も蒸篭が800円程度、お値段は変わりません。
どちらが美味しいか?
もう好き好きでしょう。
「行列が出来る店は、客を待たせない店より劣る・・・・」
判断されたのでしょうか?
であればファーストフードが一番です。
 
私は蕎麦湯を戴いて、「蕨餅も一皿欲しいな・・・・!」思います。
向かいのテーブルでは、お蕎麦より先に蕨餅を戴いています。
 
「蕨餅は今度家内と一緒に来た時にしよう・・・」
決めてお勘定に向かいます。
今日最初のレジ打ちです。
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   「こ寿々」の名物、蕨餅。東大寺二月堂のそれに比べると葛餅に近いのですが)
 
「ありがとうございました」
私は質問します。
「教えて下さい。あの水彩はどなたの作品ですか?」
「いや素人さんの作と聞いています」
「では、店主さんですか?」
「いいえ」
「ならば、お客さんですね?」
すると笑ってつり銭を出してくれました。
私は笑顔から「その通りですよ、貴方と同じ蕎麦好きですよ」と聞こえました。
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         「こ寿々」の店内には二枚水彩画か飾られています。
 
笑顔は蕗の薹に似ているな・・・・。
ではこれから光明寺に蕗の薹探しに出かける事にいたしましょう・・・・。
 
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   「竹林に顔を出した蕗の薹)
 
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  光明寺五輪塔は「蕗の薹」の群落の上にあります。頭上は早咲きの桜です。
 
 
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河津桜と踊り子街道

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三浦や葉山に濃いピンクの桜が目立ち始めました。
雨の中、朝早くから河津桜の本家「伊豆の河津浜」に出かけました。
箱根も伊豆スカイラインも積雪のため通れません。
里は桜が咲いて、お山は積雪、高低差によって季節は段違いです。
 
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                                      (今日の話題は河津桜です)
 
昭和元年、川端康成は「伊豆の踊り子」を発表します。
青年時代引きこもりであった作家は、自身の19歳の時、伊豆での経験を筆にしました。
私は湯ヶ島から天城峠を越えて下田に向かいました。
そこで、あどけない少女に出会います。
少女は旅芸人一座の踊り子でした。
 
私(主人公・薫)は可憐な少女に次第に心を惹かれました。
旅が終わってしまう頃、私の病も癒れた気がしました。
 
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                 (踊り子街道、奥が天城、手前に河津川が流れている川沿いの道です)
 
 
踊り子の通った道は「下田街道」、でも一般には「踊り子街道」と呼ばれています。
天城から先は河津川に沿って道です。
河津7滝など風光に恵まれた道でもあります。
其処此処に河津桜が咲いています。
桜色と言うより、濃い桃色です。
木々や民家の間に点々と桜が咲いています。
「桃源郷」と言う言葉がぴったりです。
今、川端康成が「伊豆の踊り子」を書いたなら、秋ではなくて「春」にしただろうな・・・・、思います。
川端康成が筆をとった時には河津桜はありませんでした。
 
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        (河津川の両堤は桜のトンネルです)
 
河津川が河口に近づいて流れも緩やかになります。
川の両岸に河津桜が植えられています。
桜のトンネルが出来て、桜見物の人波です。
河津桜は総じて云えば未だ若木です。
私は万歩計をポケットに、カメラを持って歩きます。
家内は足湯に入って、満足げです。
 
町役場の職員に聞きました。
「河津桜」は若木から咲き始めます。
若木は散り始めているから、成熟期の樹を巡ったら良い・・・、とのことです。
其処で私達は来宮神社を参拝、河津桜の原木を見に回ります。
 
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       (丹塗りの橋は来宮神社/平安時代、に続きます)
 
河津桜の原木は踊り子街道に面した民家の門脇にありました。
昭和30年、飯田勝美氏(故人)が河津川沿いの冬枯れ雑草の中で桜の苗木を見つけて、
自宅の庭(現在地)に植えただそうです。
10年後(昭和41年)から開花がみられました。
極端な早咲きで淡紅色、その上開花期間が長いのが特長でした。
伊豆の人たちの注目を集め、43年頃からこの桜の子供を植える運動を始めます。
今では、河津から伊豆高原、伊東、更には神奈川県下(三浦海岸・松田ハーブ園)にも拡がっています。
 
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            (これが河津桜の原木です。精々50代ですから、未だ「踊り子」世代です)
 
桜の代表「ソメイヨシノ」でしょう。
江戸染井町の植木職人が「日本一」の桜を作ろう・・・・、職人魂をこめて創作したものでした。
大島桜の樹に江戸彼岸を受粉させ、出来たものだそうです。
 
一方、河津桜は・・・・・・?
一見すれば解るような気がします。
河津川の上流に自生していた大島桜(注)の樹に、緋寒桜の花粉が付いて出来たものでしょう。
誰がこう配したのか・・・・?
それも、河津桜を見ていれば解ります。
メジロに間違いないでしょう。
沢山のメジロが河津桜の花から花に飛び回っています。
人間も桜が咲くと嬉しいのですが、メジロはもっともっと嬉しそうで。
群れを成して集まっています。
群れる事は結婚する事、
そして、桜の花は食事なります。
花粉を食べているのです。
花粉を食べれば、その嘴でこう配させながら飛び回っていることになります。
大島桜の実がついて、川を流れて、下流の川原で発根したのでしょう。
その苗を偶々飯田の爺さんに拾われました。
なんか、「桃太郎」と「花咲坂爺さん」を併せたような実話です。
 
職人は名を残しません。
「ソメイヨシノ」を作った植木職人の名は残されていません。
勿論、メジロさんにも名はありません。
「偶然」が重なった、見事な種が出来上がりました。
 
川端康成にも見せてあげたい・・・・、
そして、伊豆の踊子(早春編)を書いて欲しい・・・思ったりします。
文豪は薫り高い文章に、美しい河津桜が情感を深めて書く事でしょう。
自閉症で、親を亡くした青年(作者)には、「秋/原作の季節」より「河津桜の咲く春」がピッタリです。
 
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   (桜のトンネル。左手に踊り子会館があります)
 
  注記:大島桜は天城に多く自生しています。松崎町は大島桜の葉(桜餅を包む)を名産として、全国の7割を生      産しています。
 
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五百羅漢の歓喜の合唱(長八を偲んで)

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伊豆半島の臍、修善寺温泉の南に湯ヶ島温泉があります。
東に行けば下田街道、昨日話題にした桜の河津に行けます。
西に行けば土肥温泉から松崎に出ます。
松崎は大島桜が名物です。
若葉を採取して「桜餅」を包みます。(全国シェア7)
 
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              (入江長八の故郷、松崎のなまこ壁。これも漆喰の技)
 
私は学生時代、故浅子勝二郎先生の訓育を受けました。
その講義に「鏝絵の入江長八」がありました。
当時の私は鏝絵も知らなければ、まして入江長八など全く知りませんでした。
「高々江戸の左官屋さんを何で熱心に講義するのだろうか?」
解らずに、漫然と受講していました。
 
しかし、職人の技が廃れて久しい現在です。
もう左官の職人は居ないでしょうし、まして鏝絵の技は消えてしまいました。
講義の意義がようやく解ってきました。
 
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                            (松崎 浄感寺にある入江長八像)
 
漆喰壁は高松塚古墳にも法隆寺の金堂でも使われています。
書院造りから城郭建築、更には数奇屋から町屋建築まで存続してきています。
真っ白い漆喰の表面に絵を書けば「フレスコ画」になります。
江戸時代末期、想像もつかない左官屋が出現しました。
左官の鏝を使って、漆喰の白い壁に造形を施したのでした。
鮮やかな色彩、立体感、そして風雨にも強い、造作でした。
職人の名は「伊豆の長八」、造作は「鏝絵」、高い評判を獲得しました。
 
長八は文化12(1815)松崎の貧農の家で長男として生れ落ちます。
11歳で左官の「関仁助」に弟子入りします。
天保4年(1833)には20歳で江戸に出て喜田武清(谷文晁の高弟)に絵を学びます。
絵画や彫刻技法を生かして、漆喰壁を飾る「新製作/鏝絵」を発表します。
 
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                                    (今日のテーマ五百羅漢の東福寺)
 
日本橋茅場町の薬師堂、浅草寺の観音堂、目黒の祐天寺等の鏝絵は江戸っ子の人気を博します。人々は「伊豆の長八」と言って誉めました。
しかし、関東大震災や太平洋戦争の爆撃で大半の作品は崩壊してしまいます。
高輪の泉岳寺、品川の寄木神社、千葉の成田山新勝寺等に残されています。
幸いな事に故郷松崎には浄感寺等に70点が残されています。
でも、浅子教授は松崎までは「一緒に行こう!」とは言われず、
奈良や鎌倉に連れて行って下さりました。
 
 
私は家内と浅子教授の思い出を話しながら、松崎の浄感寺から東福寺に向かいます。
このお寺には鏝絵の大作「五百羅漢」があるからです。
 
東福寺は「羅漢寺」とも言います。
五百羅漢のある寺と言えば大寺を想像します。
でも、こじんまりとしたお寺でした。
 
本堂に隣接した庫裏に声をかけると、大黒さん(住職の奥様)が出てこられました。
「本堂に回ってくださいな、直ぐに戸を開けますから」
 
本堂の戸が開けられ、私達は梯子段を上って本道に上がりました。
途端、私も、家内も感動の声を発してしまいました。
普通は本堂の天井は「天蓋」と呼ばれる装飾があります。
天蓋が天井全体にあるのです。
 
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    (東福寺の天井全面を飾った五百羅漢の群像。龍の下に田村利光の名があります)
 
天井の真ん中に「龍」が睨みをきかせています。
そして、その周囲を五百羅漢がてんでの格好で囲んでいます。
四方には天女が舞って、音楽を演奏しています。
天空からは散華(蓮の花びら)が散ってきています。
漆喰壁に舞い落ちてきています。
天上世界で「歓喜の歌」を歌っている、そんな造作です。
 
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                    (漆喰壁に蓮の花が舞い落ちてきます)
 
本堂の天井全体が「組入格天井」になっています。
天井の棹も桁も黒い漆が塗られて、その間は白い漆喰壁になっています。
格天井の各小間に羅漢が描かれています。
本堂天井全体では屹度500体あるのでしょう。
 
一人一人の羅漢様は下半身が天井に組み込まれていて、上半身は浮き上がっています。
鮮やかな法衣を着て、褐色の皮膚、黒いひげ、お顔が目立ちます。
そして聖人である事を示すリンクは針金で出来ています。
 
 
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        (組入格天井の四方には天女が音楽を演奏しています。この天女は鼓を・・・)
 
 
「写真を写しても宜しいですか?」
「良いですよ、でもね、フラッシュは焚かないでくださいね、
光でやけてしまうといけないから・・・」
 
私は夢中で天井にカメラを向けます。
大黒さんは
「どちらから来られましたか? 何故当寺に来られましたか?」
声を掛けて下さいました。
「鎌倉からですか! 当寺は建長寺の末寺ですよ・・・・」
 
以下は奥様から伺った話を核に私が推測したものです。
 
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      (施主佐野さんのご両親。ラクスをかけて数珠を握って、お婆ちゃんはご主人を見詰めています)
 
 
檀家の佐野さんは、両親の供養のために菩提寺寄進する事にしました。
大正末期の事でした。
「何をしたら、故人が、お寺が、他のお檀家が喜んでくれるだろうか?」
考えました。
お寺に墓参りするのは・・・・、死んだ両親に会いに来るようなものです。
ならば、本堂に五百羅漢を描かせよう。
羅漢像は何処かに亡くなった人の面影を残しているもの。
だから、長いお経の間に天井を見詰めていれば、
天上の親爺から「頑張っているな!」声を聞く事も出来るでしょう。
どんな五百羅漢を、誰に依頼するか・・・・、考えました。
 
故郷の英雄「入江長八」は既に他界していません。
そこで、長八が長く住んでいた浅草に行きました。
その弟子の「田村利光」を東福寺に呼んできました。
 
通称「呑んべえの安さん」です。
酒飲みの職人は仕事が生き甲斐です。
師匠の故郷のお寺に五百羅漢を・・・・”
「それは、私にやらせていただきましょう」
二つ返事で請け負ってくれました。
 
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   (こっちの天女は 「笙」を演奏しています。笙は天上から差し込む光を表現します)
 
でも、職人は合点が行かないと作業が止まってしまいます。
気合が入ると仕事は加速します。
出来上がるまで5年弱の歳月を要してしまいました。

「五百羅漢」は其処此処にあります。
仏像も、石仏も、絵画もあります。
でも、鏝絵はありません。
又、本堂の天井全面を埋めた五百羅漢はありません。
五百羅漢による「歓喜の世界図」は此処だけです。
 
車に戻って家内と話しました。
「浅子教授はこの五百羅漢群像をどう仰るかしら?」
私は答えます。
「教授は職人の魂や技を見ておいででした。
 だから、屹度“素晴らしい”評価すると思うよ」
「でも、長八に比べると洗練されていないと言うか、少し野卑な感じがあるけれども・・・・・」
「仏師の仕事なら評価は劣るかもしれないけど・・・・職人の仕事だから、注文主の期待が第一、五百羅漢のお顔に亡くなった親爺の面影が在れば良いのだから・・・、上品であったはいけないのだよ・・・」
 
暫くの間、「五百羅漢の歓喜の合唱」に酔っていました。
故浅子教授はこの五百羅漢図をご存知だったでしょうか?
解りませんが、もしも見ておいででなかったら、報告したいものです。
江戸っ子の教授の事ですが、何と言われるでしょうか?
 
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               (本堂内陣、須弥壇の裏の天井は従来型の鏝絵で花鳥を表現してありました)

 
 
 
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「マラ・クボ話」と「流し雛祭り」

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門構えに馬と書いて闖」闖入等に使います。
では門構えに牛と書いて何と読むのでしょう。
 
「マラ」と読みます。又、門構えに也と書いて「クボ」と読みます。
「マラ」とは男根のこと、「クボ」とは女陰のこと、
何故知ったかと言えば日本霊異記に使われていたからでした。
日本霊異記は平安時代薬師寺の僧景戒の作ですから、その時代には一般に使われていた漢字なのでしょう。
でも現代は使われません。
ワードのIMEパッドにも出て来ません。
 
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     (今日の写真は淡島神社の雛流し祭りです。神奈川新聞HPから)
 
今、日本霊異記を読んでいます。
日本最初の仏教説話集と言われていますが、
当寺の民間信仰や精霊信仰が目立ちますし、興味深いものがあります。
日本最初の「霊の話」と紹介した方が適切です。
 
私が一番興味深く読んだ話に「写経僧」の話が2つあります。
当時も今もお寺では写経に集まる人が多くて、寺には写経を指導する僧が居たようです。
熱心に写経に励む人は女性が多かったのでしょう。
 
ある日寺の境内に茣蓙を敷いて写経をしていたら、突然に強い雨が降って来ました。
写経をしていた人たちは本堂に逃げ込みました。
雷雨が通り過ぎるのを待っていたのでしょう。
暫くすると、狭い堂内は人いきれでムンムンして来ました。
写経僧の左右前後は女性が取り囲んでいます。
僧は目の前の女の「クボ」に「マラ」入れたくなってしまいます。
自制出来ずに、とうとう遣ってしまいました。
入れたは良いが、二人とも仏罰に当たって絶命してしまいます。
 
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  (淡島神社の祀られた「マラ」、底抜け柄杓が奉納されて、真ん中の繭玉石は玉のよ    うな子供の意味でしょう)
  
又、別の写経僧は瓜の蔦が這っている野に出ます。
瓜を収穫する為の小屋がありました。
その小屋で突然に催してしまいます。
「マラ」を「クボ」に入れたくなってしまったのでした。
そこで、蛇と交わってしまいます。
 
こうした話を「マラ・クボ話」とでも呼ぶ事にしましょう。
カタカナで書くと少し「いやらしい」感じがしますが、漢字で書くとそんな感覚が全くしません。
不思議なものです。
あからさまで、逆に爽快な気がしてきます。
多分、平安時代には「マラ・クボ話」は日常的に話されて、特段邪悪な漢字、卑猥な感覚は無かったのでしょう。
井原西鶴の好色物には「視覚的な誘惑/覗き見」等が多く出てきます。
時代が下って、社会的な枠組みが強くなって、儒教的な倫理観が人の心を縛るようになってしまいました。
私達は平安時代の「マラ・クボ話」に感心するのでしょう。
 
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    (横須賀芦名漁港はお祭りで・・・・砂浜から流し雛をします)
 
実は今日はこんな話をするつもりでは在りませんでした。
「流し雛」の話をするつもりで、キーボードの前に座ったら・・・・「マラ・クボ」を書き出してしまったのでした。
 
一昨日3月3日「お雛様」で、横須賀芦名港にある「淡島神社」に行きました。
「流し雛」のお祭りが催されるのです。
普段は寂れた芦名の町ですが、
この日は「流し雛」に「浄楽寺」の運慶像のご開帳で大賑わいです。
私も、人の流れに沿って、浄楽寺から淡島神社に向かいました。
 
 
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(流し雛は水に溶ける素材で出来ています)
 
寂れた漁港を見下ろす高台に神社があります。
急な石段を登るとこじんまりした社があって、其処が目指す淡島神社でした。
祭壇には・・・・流し雛の用意もできて、立派な「マラ」が左右に立っています。
マラの根元には目がついています。
私はキョロキョロ見回します。
「クボ」が無いのです。
「マラ・クボ」セットでなくてはならない・・・・思っているのですが・・・。
 
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                            (淡島神社の絵馬)
 
石段の踊り場で「底抜け柄杓」を求めて、神社に奉納します。
「水が抜けるように安産」との願いを込めるのです。
平安時代から続く祭礼だそうですが、最近はエコ意識の高まりから、流し雛は形を変えて、水に溶ける紙でできたひな人形を海に流し、和船に乗せた雛人形を港の湾を曳航します。
私は岸壁の腰掛けて長い間流し雛の開始を待ちました。
 
淡島神社の「クボは何処に行ったの?」考えながら・・・・・。
 
 
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      (流し雛の現在のやり方はエコ意識の高まりから・・・産経新聞HPから)
 
 
 
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満願寺の春

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神護寺の僧「文覚」は伊豆の蛭ヶ小島に源頼朝をたずねます。
そして源氏の旗揚げを促します。
更に東海道を下って、衣笠の三浦義明に挙兵を促します。
「お前が三浦から兵を挙げて、頼朝を頭に都に上り平家を打倒せよ。
これは単に源平の争いではなく、末法の世の大変革だ。」
そして、両者の間に入って「源氏再興、新時代の創出」を焚きつけました。
僧侶でありながら、三浦台地に畑を開墾する力強い生き様に、三浦義明は感動します。
そして、挙兵を決行します。
 
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         (今日の話題は三浦佐原にある満願寺です。落ち着いた建長寺の末寺です)
 
三浦から伊豆石橋山に参戦するには、東海道の平家を超えて行かなければなりません。
三浦義明は石橋山から敗走する源頼朝を確認、安房に逃げ落ちさせます。
そして、有力武将を倅達につけて、頼朝に従わせます。
そして三浦義明は衣笠城で自刃します。
「源氏再興・新時代創出」の夢を子供や孫達に託しました。
三浦義村、和田義盛等に並んで末子の佐原義連が居ました。
 
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                        (満願寺は川原なでしこの寺ですが、春は様々な花が咲きます。馬酔木)
 
 
佐原は三浦半島の先端に近く、安房には海を隔てています。
佐原義連は安房に隠れた頼朝を再起させ、鎌倉に送ります。
頼朝は義経を大将に、平家討伐の軍勢を送り込みます。
佐原義連は平家討伐軍の先陣を切ります。
親父の敵討ちであり、二代に亘る祈願でもありました。
「一の谷」に勝利し「鵯越の逆落とし」では真っ先馬を駈って平家を蹴散らかします。
 
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                                                   (満願寺の侘び助)
 
平家を壇ノ浦に滅亡させた佐原義連は故郷佐原に凱旋します。
そして義明の墓前に「満願」を報告します。
更に、寺を建立、名を「満願寺」とします。
「寺の仏を彫る仏師は誰にするか?」
心中では決まっていました。
「運慶」に頼みたい。
 
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                      (お檀家の方が山野草を見守っています)
 
お釈迦様は予言していました。
自身の生きた時代は「正法」、次に「像法」の時代が訪れ、やがて末法の時代がやってくる。
末法の時代は釈迦の教えが及ばなくなってしまう、混乱の時代だ。
釈迦の悪い予言は東大寺や興福寺が焼け落ちると現実味が一層に強くなりました。
絶望的な時代・社会風潮を打ち破るのは・・・・・誰か?
政治は源頼朝、知性は兼好法師、宗教は日蓮など、そして形で示す仏像は運慶でありました。
 
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      (佐原義連の墓、威風堂々とした五輪塔は骨太な義連を偲ばせtれくれます)
 
頼朝は新時代のリーダーになることを意識していました。
ですから東大寺や興福寺の復興を財政面で支援します。
焼け落ちた大仏の修復建立も最後の段階になりました。
お体を包む金が必要になります。
平泉の藤原氏を倒し、金を確保します。
焼失した仏像を大量に彫像する必要が生じました。
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                (満願寺地蔵菩薩像、慶派の作で、重文指定。寺のHPから転載)
 
仏像はお釈迦様の様々に変えた姿であります。
お釈迦様は元来神ではなく人間です。
ですから、仏像を彫ることは「人間の理想の姿」を実現する事でありました。
「人間の理想」を実現するみは・・・・知性を磨きました。人間の体を観察しました。
そして、人間性を仏像に表現する事に励みました。
 
幸いな事に運慶の生れ落ちた奈良には天平時代(像法時代)の諸仏がありました。
運慶は天平仏をお手本に、力量を発揮、仏師の世界で新潮流になりました。
 
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    (満願寺不動明王、浄楽寺運慶の不動に酷似しています。慶派仏師の作であることは間違いありません。           寺のHPから)
 
 
運慶の仏像には新時代を担おうとする武士達の精神に強く訴えました。
和田義盛も佐原義連も執権北条氏も競って運慶に造仏を依頼しました。
運慶も慶派仏師団の棟梁でありながら、京都は盟友の快慶に束ねさせ、奈良は倅の康弁らに委ねました。
そして自分自身は鎌倉に、三浦に足利に出向いて造仏に励みました。
 
佐原義連は従兄弟の和田義盛の建立した浄楽寺の運慶に魅せられていました。
「満願寺にも運慶が・・・ほしい・・・・」
しかし、大仏師運慶はなかなか下向してくれそうもありません。
全国各地を飛び回り、興福寺北円堂の仏像群も佳境を迎えていました。
仕方なく、運慶の残した弟子達に満願寺の仏を依頼しました。
浄楽寺の運慶像は半丈六でありました。
従兄弟には負けたくない・・・・・、
そこで、義連は倍の大きさの丈六像にしました。
 
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      (竹薮の中に義連の墓があります。その奥に熊野神社があります。義連と熊野水軍との関係を想像さ            せます)
 
満願寺は横須賀横浜道路の終点佐原ICの近くにあります。
周囲は市街地化された中にこじんまり佇んでいる、建長寺の末寺です。
今年も3月12、13日に「春の文化祭」が催されます。
お檀家の皆さんが計画実施するスタイルです。
一番の魅力は「春蘭展」です。
お檀家の方々がてんでに「春ラン」を栽培して、本堂に飾ります。
本堂の諸仏やご位牌は天幕の陰に隠れておいでです。
でも、天幕の中央が少し開いて、その隙間からご本尊が覗いておいでです。
「今年も春ランが咲いたか・・・・、檀家の衆も蘭の栽培に腐心したようだな・・・・」
植物を育てる事は仏を見守る事に通じます。
 
寺と檀家の良い関係が続いていて・・・・いいところです。
ケンチン汁(無料)を戴いて、竹林で野点を楽しんで・・・・「満願寺の春」が盛りです。
 
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             (お檀家の方の寺に対する愛着が其処此処に見られます。満願寺の良いところです)
 
 
 
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「台湾りす」と「椿の木」

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「椿」は木を扁にして春と書く、和製の漢字です。
その字の通り今が見頃です。
もう、30年も前でしょうか、南関東一番の椿と言えば、龍口寺の本堂左の白い椿でした。
龍口寺は「龍口の処刑場」の前にあります。
岩屋には洞窟があって「牢獄であった」説明がなされています。
その前に二本の名物椿がありました。
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   (龍口寺、本堂左に白椿、その左が土牢があって、手前砂浜に処刑場があった)
龍口寺の正面が江ノ島です。
江ノ島タワーの下に「江ノ島植物園」(江ノ電系列)があります。
植物園で1951年に伊豆の大島から54匹の台湾リスを持ってきて、見世物にしました。
ところがリス小屋が台風で壊れて、リス達は逃亡しました。
 
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                           (今日の悪役、台湾リスが椿を食べる)
 
リスは江ノ島の橋を渡って、対岸の龍口寺の山に棲みつきました。
食べるのには事欠きません。
お墓のご供物もあれば、椿をはじめ様々な樹木やその実がありました。
本堂前の名物椿も標的になりました。
 
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         (台湾リスの口元は黄色い椿の花粉まみれで・・・・)
 
その結果、見る見る白椿は樹勢を削がれてしまいました。
龍口寺ばかりではありません、鎌倉中の椿は食害に遭いました。
扇ガ谷の英勝寺(尼寺)では天然記念物の侘び助椿が樹皮を剥がされてしまいました。
こんな状況を見て鎌倉では台湾リス対策を声高に叫び出しました。
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                                    (雛侘び助の花/宝戒寺)
 
2005年には外来生物法における「特定外来生物」に指定され、駆除対象になりました。
しかし、駆除すると言っても天敵など全くいない台湾リスです。
方法は大きな「ネズミ捕り」を樹上に設置して捕獲するだけです。
お寺さんでは捕獲した台湾リスを籠ごと水中に没し、「南無阿弥陀仏」手を合わせるだけだったでしょう。(多分?)
台湾リス対策は遅々として進みません。
 
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                                             (これも侘び助椿)
 
龍口寺の白椿は次第に細くなり、花数も減ってしまいました。
弱りを見せるとその根元に「キクイムシ」が食いつきました。
洞が出来てしまいました。
洞は次第に目立ち始め、終に昨年大風で太い方の一本が弱った根元から折れてしまいました。
残されたの一本は応急処理され、太目の枝に四方八方から支柱が立てられました。
でも、洞はそのまま空いたままです。
首の皮一枚残って・・・・同様に木の皮が二枚残って、かろうじて立っています。
でも、流石に樹木、皮だけでも花を付けました。
健気と言うか、強い生命力と言うか・・・感心するばかりです。
銅版画家は瀬川潔が
「一木一草をつかもうとするとかならず神に突きあたる。・・・・・中略、・・・・・なぜ木がこんなにたくさんあるのか、と。この問いを徐々に押しすすめていくと地球全体の問題となる」(白昼に神を見る)
と言いますが、実に神々しい椿です。
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                             (龍口寺の白椿、左右の樹皮で立っているようなもの)
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                                  (龍口寺本堂を背に咲いた白椿)
 
椿が女神とすればさだめし台湾リスはデビルでしょう。
先ず柔らかい花を食べます。
それも、美味しい花蜜の溜まった雌蕊の根元を、次いで美味しい花粉を・・・・・・。
そして、樹皮を食べだします。
前歯が出っ張って来るので、削るため樹皮をトコトン削って行きます。
皮をはがれてしまえば、椿はもう生きて行けません。
 
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惨状は江ノ島植物園のミスに始まりました。
せめて、龍口寺の白椿に
  「ご免なさい・・・・治癒させていただきます・・・・」
申し述べれば良いものを・・・・。
でも、そんな素振りは全く在りません。
もしかして、思っているのでしょうか?
『龍口寺の椿の病と台湾リスとの因果関係が証明されていません・・・・・』
 
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                                                        (これも侘び助椿)


 
 
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春の小川で「亀の甲羅干し」

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NHKの「ブラたもり」を見ていたら、渋谷区代々木が出てきました。
小田急線代々木八幡駅傍に「春の小川」の歌碑があって、
この辺りに河骨川(現在暗渠)が流れていて、宇田川との合流点、
そこを高野辰之が散歩していて作詞したと言います。(作詞は 岡野貞一)
90年前はあの辺りが田園地帯とは、今では想像も出来ません。
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、小ぶなのむれに、
今日も一日ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。
昨日は中学校の卒業式でした。
18日、19日は小学校の卒業式です。
学校に出かけたら、生徒さんの「春の小川」を聞けるでしょうか?
町内会で作ろうとしている「小学生見守り隊」の試作品をお見せしながら、授業参観したいものです。
私の地元は小学校も中学校も合唱が上手なのです。
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      (東戸塚小学校の合唱/1年生)
 
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(このカード(案)を首からぶら下げて外出、子供達の見守りをする計画です。PTAの活動を見習ったものです)
 
 
東戸塚小学校も、戸塚小学校も柏尾川に面しています。
堤防から岸辺を眺めれば、先ず目に付くのは水鳥です。
白鷺、蒼鷺、カワセミ、カモメ、川鵜に鶺鴒・・・・・、
馴れて来れば千鳥や磯鴫も見つけられます。
そして、中洲にジッと動かない奴がいます。
 
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                             (亀さんの目の前を磯鴫が横切りました)
 
 
そう、亀です。
でも、昔から見慣れた石亀や草亀と少し表情が違います。
先ず、2周りは大きいのです。
甲羅の径は20センチは超えているでしょう。
そして、気持ち良さそうに伸ばした首筋に朱色の筋が走っています。
まるで「山かがし/蛇」のような不気味な印象です。
噛み付かれたら「毒」が回りそうな気持ち悪さです。
毎日眺めても、同じ場所で甲羅干しです。
「こいつらは冬眠しなかったのかな?」
思うほどのお目立ちです。
 
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                             (首筋の朱色の筋が不気味なミシシッピアカミミガメ)

 
 
自宅に戻って調べてみれば「ミシシッピアカミミガメ」でした。
夜店などで売られていた小さな「緑亀」、
それが大きくなって手に負えなくなり、川に捨てしまったのでしょう。
ところが、在来種を圧倒するほどに繁殖して・・・・・・、
今では・・・此処柏尾川はアメリカ南部ミシシッピが故郷の亀の占拠状態です。
そういえば、亀にすればここには「牛かえる」「アメリカザリガニ」二種の先輩がいます。
三種目ですから、棲みやすいのは自然な事なのでしょう。
 
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 (桜の柏尾川、今年は4月2日(土)に桜祭りの予定、この堤防水際を周回5.4を安全にキロジョギング出来るよう     工事中です。工事施主・神奈川県治水課)
 
小川の主人公、メダカもフナも川えびも皆食い尽くされて、今では希少種(メダカは絶滅危惧種)です。
私は心配になって奈良公園の猿沢の池の亀を調べてみました。
一番多いのは草亀・・・安心です。
でも、二番目はミシシッピアカミミガメ、そしてドンドンシェアアップしているそうです。
屹度お目立ちでは在来種は圧倒されている事でしょう。
 
亀は変温動物、恒温動物に比べれば体力を消費しません。
少し食べれば充分なのです。
で、日中は日向で体を温め、近くにメダカや小フナが近寄ってきたら・・・・食いつくのでしょう。
勿論、自然の戻った柏尾川の中洲には虫も多く棲んでいます。
ミシシッピアカミミガメは思っていることでしょう。
「この中州は蓬莱島だなあ!」
 
マア、アメリカ原産の亀は嫌いだけれど・・・・・、
居ないよりはましでしょう。
まして亀に罪がある訳ではなく、此処に流した人間の仕業なのですから。
 
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 (柏尾川堤防の水際をジョギングも出来るように整備中です。
          写真は鉄板橋の滑り、躓き防止工事を終えたもの/柏尾川にジョギングコースを整備する会)
 
もうじき、信州中野(高野辰之の生家)にも春が来る事でしょう。
豪雪が消えれば、川原を菜の花が埋め尽くします。
そして「朧月夜」が見られて、秋になれば「夕焼け小焼け」になります。
私は、春の小川は河骨川で「故郷の川」を思い出しながら作詞した・・・・そうとしか思えません。
中野は自然も人も美しい日本の故郷です。
「阿弥陀堂便り」の舞台でもあります。
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「川が繋ぐ町作り」(戸塚ハートプラン地区計画)

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昨日(3月10日)は「戸塚ハートプラン」の地区別計画発表会が戸塚公会堂で午前中開催されました。
私はこの2年間をかけて「上倉田南舞岡」の地区別計画の作成委員長、お役目によって壇上発表をしました。
発表してみると味気ないもの、
そこで地区別計画に続く実施プランの一つを「柏尾川」を素材に説明してみます。
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      (戸塚ハートプラン地区別計画発表会場/戸塚公会堂)
 
昭和26年社会福祉法が施行されました。
平成12年には同法が改正され、市町村は「地域福祉計画」の策定に取り組む事になりました。
戸塚区では平成18年から5年をかけて「戸塚区地域福祉保健計画」(戸塚ハートプラン)を作成、「子供から老人まで、国籍や障がいに拘わらず自分らしく暮らせる街」を実現します・・・・決定しました。
昨年赴任した葛西区長は「もに どい っきある街作り」上手に語呂合わせ「とつかプラン」を標榜され、好評です。戸塚ハートプランの前半3年が戸塚区の全体計画、後半が地区別計画でした。
地区別計画は23年度以降「実施計画」に移ります。
 
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      (戸塚ハートプラン名瀬地域計画発表会場/戸塚公会堂)
 
この間私達の住む戸塚も激変しました。
福祉と言えば「高齢者・障害者」と言った考えから、「総ての人に福祉を・・・・」と考えるようになりました。
「ほっとけば育った子供が、ほっとけば殺されたりする社会です。
致し方ありません。
 
この間「福祉の為に沢山の施設が建築されました。
福祉施設を使う人は先ず心配ないのですが、家に閉じこもる人が増えました。
また財政の逼迫は「見直し」、「効率」を迫りました。
また、国から県に市町村に上意下達されてきた「地域福祉計画」は漸く地域に届きました。
これから「下意上達」、ようやく本来の形で「地域福祉保健計画」が動き出します。
 
 


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      (柏尾川の東(左)が上倉田地域になります。今年も4月2日が桜祭りです)
 
私達の住む町は西に柏尾川がながれ、東側は丘陵が続いています。
丘陵には舞岡里山公園があり、舞岡八幡宮など歴史資産が集積しています。
尾根路は「鎌倉古道」であり、町の真ん中を「鎌倉路」が通っています。
鎌倉路、奥州古道が街を南北に通じています。
明治学院大学が立地、小中学校も地域に開かれています。
実は毎週のように「お祭りだ、学校行事だ、講演会だ、展示会だ、高齢者食事会だ、健康講座だ、赤チャン教室だ・・・・」催事が行われています。
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  (戸塚の小中学校は合唱、合奏が上手で熱心です。写真はTBS合唱コンクールで連続金賞を受賞した戸塚    小学校。もっともっと、例えば閉じこもり高齢者に聞かせたい・・・・思っています)
 
でも、催事主催者は「人が集まらない」「人材が不足している」と嘆きますし、
家に閉じこもった高齢者や一人っ子の子育てに悩むお母さんが絶えません。
サービスを提供する人も受ける人も嘆きがあります。両者を接着するツールが出来ていないのです。
問題は施設が足りないのではなく、「集い合おう」とする仕組みやモチベーション作りが不足しているのです。
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    (舞岡八幡宮では鎌倉時代から湯花神楽が催されています。餅撒きで興奮します。もっと、もっと祭事を      周知し、多くの人が集まれば良いと思います)
 
平成20年、私達は戸塚区役所区政推進課を訪ね、県の治水課に声を掛けました。
そして、明治学院大学も加えて「柏尾川の水際でジョギングも出来るように整備して欲しい」要望を致しました。
偶々、柏尾川を担当している某治水課長が親切な人で、一緒に考えてくれました。
勿論「沈下橋を作って周回できるコースがほしい」とした当初の計画を私達は引っ込め、現実的な案に修正しました。
結果、22年度は工事を着工、周回5.4キロを安全にジョギング出来るように、工事も竣工する見込みです。
全コースを舗装する、鉄板で作った橋(6箇所)を滑ったり転んだりしないよう工事をする。コンクリートブロックを積んだ凸凹を平たくする、日立の橋脚を迂回させる・・・・様々な難所も工事が略終わってきました。
 
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                            (柏尾川ジョギングコースの計画案)
 
 
 
堤防を散策する人も目立ちます。
堤防を下って水際に行けば、魚も鳥も昆虫も身近に観察できますし、川風や水音は爽快です。
今後は水際に降り易くなりますし、散歩する人も増えるでしょう。
で・・・ジョギングする人も増える事でしょう。
散歩する人も、自然観察する人も、ジョギングする人も、水際に人が増す事でしょう。
で、ジョガーとの接触事故も起こるかもしれません。
そこで、ジョガーにマナーが必要になるでしょう。
ジョガーは左回りに走る事、一般人を追い越す場合は「ケアー責任はジョガーにある」と考え、右側を通過する事、雨の日や日没後は走らない事・・・・・、安全のためにはジョガーのマナーも重要でしょう。
皇居前は左回りで走っています。
柏尾川も・・・・・思います。
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                                 (親水公園と併せて未舗装部分は全部舗装します)
 
また、現状ではトイレは一つしかありません。4つは欲しいものです。
又、距離標示もして欲しいものです。
ジョガーはラップを付けて、励みにしています。
また、SNSを使って、ジョガー同士の交流や演出もしたい、思います。
今後とも県に市に支援をして欲しいものです。
 
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   (鉄板橋6箇所は表面を滑り止めし、そのエッジを処理転ばないようにしました)
 
加えて私達には目標があります。
戸塚は箱根駅伝の2・3区中継地です。駅伝は大好きです。
来年度は区民駅伝大会も65回になります。因みに私と同じ年です。
22年度は57チームも参加しました。
戸塚区役所は支援サイドですが、チームも作って参加しました。
 
その駅伝の開催地をこの柏尾川に代えて欲しいのです。
体育協会は道路幅が狭いので、青年の部、少年の部分けてスタートしようか・・・・・等と検討しているようです。
私達の狙いは、柏尾川の土手に腰掛けて応援する事です。
土手の上から駅伝を眺めれば・・・・・抜いた、抜かれた一目瞭然です。
応援で元気がもらえます。
そして、部屋に閉じこもっている人達に柏尾川に出てきて欲しいのです。
走る人も、応援する人も、健康になります。
私達は自然資産「柏尾川」を活用した「地域福祉保健計画」を実施する事にしています。
 
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  (今でもジョギングする人は多いのですが、すれ違い事故を無くす為にも、左回りにする必要がありそうです)
 
 
 
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鎌倉の早咲き桜は今が満開です

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小学生の私は祖母に連れられて大船芍薬園(農業試験場の一部)に行きました。
祖母は菊作りが上手でしたが、芍薬も関心がありました。
そして、大船には「龍宝寺/組寺」もありましたので、顔を出していました。
もう半世紀も前の事です。
 
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                (今日の話題は鎌倉の早咲き桜(玉縄桜)今が満開、花期が長いのも嬉しい)
 
 
農業試験場には沢山の使命があったことでしょう。
食用蛙もアメリカザリガニで最初に飼育しました。
屹度、西洋野菜や生薬の研究もされたのでしょう。
たまたま実生から育てた染井吉野が早咲きし、1ヶ月も咲き続けました。
そこでその桜を「玉縄桜」と名付けました。
農業試験場は鎌倉市「岡本」、お隣は「植木」ですから「玉縄」の響きが好きだったのでしょう。
私なら迷わず「鎌倉桜」としたのですが・・・・。
 
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        (これが玉縄桜の原木、向こうの丘陵が玉縄城の跡、清泉女学院、栄光学園が立地しています)
 
 
小田原を居城に戦国の勇「北条早雲」は相模を席巻します。
武蔵から下野に向けて出城として「玉縄城」を築城します。
早雲は「灰で縄を結う」故事に因なんでこの名を付けたのではないか?・・・・・想像します。
農業試験場の技官は「玉縄桜」を特段PRする事も無く、試験場の西南の端に植えました。
その木も40歳になりました。
今年も見事に花を着けました。
染井吉野より少し原種の大島桜の淡い色を残している、爽やかな色です。
 
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                               (玉縄桜の花を食べに集まるヒヨドリ)
 
2012年は玉縄城の築城500年祭を迎えます。
そこで、数年前から「玉縄桜を広めよう」運動を起こしました。
龍宝寺にも苗木を持ち込み、10月桜を伐採して玉縄桜を植えました。
植木、玉縄小学校の校庭にも・・・・屹度玉縄城址の建てられた清泉女学院にも、栄光学園にも植えられた事でしょう。
そして、今年解説される「武田薬品の試験場」も囲むように玉縄桜が植えられました。
 
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           (玉縄桜とメジロ)
鎌倉の桜の名所と言えば「鎌倉山」、八幡様の「段葛」、少し離れて逗子の「桜山」でしょう。
何れも、染井吉野です。
いずれも、樹勢は衰えて名所の面影は無くなって来ています。
何処に行っても「染井吉野」、パッと咲いてパッと散る・・・・。
玉縄桜なら20日も早く咲いて、1ヶ月も咲き続けます。
典雅な薄い桜色です。
「鎌倉桜」の名なら鎌倉山にも段葛にも桜山にも植えられて自然です。
屹度、40年前には鎌倉桜とネーミングするのは気が引けたのか・・・・、それとも「玉縄」にこだわりがあったのか・・・解りません。
 
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    (玉縄桜とメジロ)


「東戸塚小学校地域防災拠点長からメッセージ」
 
今回の「東北地方太平洋沖地震」、余りの大きな脅威に驚くばかりです。
被害地の皆様にお悔やみ申し上げます。
チリ地震の時、大津波に大被害が生じました。
あの時の猛威が広い海岸線を襲ったようです。
TVの画面を見詰めながら、心が痛みます。
 
 
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                                (電車を降りて線路を歩く人、向こうは戸塚駅)
 
私は東戸塚小学校地域防災拠点の拠点長であります。
昨日気づいた事を記します。
①地震の大きさに驚き、3時過ぎ、戸塚区の東戸塚小学校防災拠点担当のT氏に連絡する。
  その他含めて電話する。携帯も使う・・・・連絡不能。(緊急電話連絡網は有効でない)
②地域防災拠点に徒歩で出かける。(震度4.5以上の場合を目安に拠点設置する予定)校庭に避難者100名程  在り。学校職員は冷静。確認後帰宅。
③コンビニ、スーパー、レストランなど総て緊急に店じまい。役に立たない。
④道路渋滞、線路上を歩く人多数。
⑤停電(夜8時半復旧)、水は出る。
⑥ラジオはNHKは被災地情報を流す、FM横浜は地域情報を流し、交通情報などライフライン情報を流し有益。
  被災した場合にはFMが良い。地域防災拠点の開設情報などに使ったらよい。
⑦暗闇の中、LEDのランタンが心強かった。
 
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   (LEDランタンの下でありあわせの夕食、電気が通じたのは8時半、倅の帰宅は午前1時、疲れ果てて蒼白でした)
 
⑧今朝区役所との連絡した結果は次の通りでした。
 ・拠点地域での人災は報告なし。
 ・小学校は夕刻に「帰宅困難者」向けに学校を開放しましたが、8時過ぎ皆さん帰宅されました。
 ・学校施設に若干被災在り。
 
 
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露座の大仏と津波

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(東北地方太平洋沖地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。TV画面で自然の猛威を見詰め、今更ながら恐れ戦きます。そして、私は鎌倉の露座の大仏を思い起こしました。)
 


 
東北地震のビデオがTVに写し出されます。
高台に避難した撮影者は町をご自身の家を見詰めます。
津波は防潮堤を超えて町を襲います。
木造の家々は浮き上がって流されて行きます。
車も、コンテナも、船も、家と一緒に押し流されて、コンクリートの壁に打ちつけられます。
肉親を財産を一気に失う・・・・・恐怖が目の前で見せ付けられます。
 
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         (今日の話題は津波によって大仏殿が流され、露座になってしまった鎌倉大仏。現在のお姿は祐           天寺の祐天上人のお力によって綺麗な表情になっています)
 
 
明応7年(1498年)8月25日、和歌山沖で発生した地震によって、津波は東海から相模湾に魔手を伸ばして行きます。
橋本(浜名湖)を破壊し・・・、稲村ガ崎の先端に津波の先端が顔を出し、ゆっくりと長谷の浜辺に向かいます。
浜辺には庶民の掘っ立て小屋が並び、市が開かれています。
 
浜辺で物の売買をして、遊んで、生活の総てが浜辺で営まれていました。
人々の足元に塩水が届きます。
音も無く、ザーッと、不気味に水嵩が増えて行きます。
驚いて海を見返ります。
潮は次第次第に潮位を高くしてきます。
 
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(鎌倉近辺には無縁の石仏が残されています。その中には津波で犠牲になった人も多いと想像します)
 
潮位は稲村ガ崎では大して高くは無かったのでしたが、地獄谷の奥に向かうと急激に高くなり、潮と潮がぶつかり合い、勢いを増しました。
津波はその本性を露にして、地獄谷の最深部にあった大仏殿を襲います。
大仏殿は一瞬に浮き上がって、山肌に打つ付けられます。
 
津波が去った跡には露座になってしまった大仏だけが残りました。
大仏の眼からは、何も無くなった長谷の浜辺が見渡せました。
長谷観音の石段を駆け上がった人だけが命を保ちました。
 
鎌倉の大仏建立は頼朝の悲願でした。
平家の暴挙によって奈良の大仏は燃えてしまいました。
「国家平癒」は大仏建立から始めなくてはならない・・・・・、
頼朝は重源の勧進を物心共に支援しました。
奈良の大仏再建が為されました。
次は武士の都鎌倉にも大仏が欲しい・・・思いました。
でも、冷静な頼朝は未だ鎌倉幕府にその力は無い、判断していました。
不慮の死に際して、北条政子や乳母に想いを託した事でしょう。
 
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                                         (日陰茶屋に近い海宝寺の無縁仏)
 
源氏政権が短命で終わると、得宗家「北条氏」は頼朝の悲願を実現しようとします。
大仏建立する事で、頼朝の正当な後継者である事を全国の武士に知らしめるためでした。
奈良の盧舎那仏は天平風のおおらかな表情でした。
鎌倉の大仏は阿弥陀仏にしたい、運慶の弟子達に依頼しました。 
阿弥陀如来も運慶も武士の魂に響くものでした。
建長4年(1252年)8段に分けて鋳造に着手します。
そして、大仏殿も完成します。
 
室町時代も末期には戦国時代の様相を濃くしてきます。
1495年北条早雲(後北条家)が小田原を奪取、鎌倉に勢力を広げようとしていました。
不安な世相は、津波によって一層暗くするものがありました。
 
津波によって肉親や財産を失った人達は、長谷観音の前に、お隣の極楽寺の境内に集まりました。
そして、先ず、死者の弔をしました。
更に、炊き出しをして、励ましあいました。
数日後には長谷の浜辺には小屋が立ち並ぶようになりました。
 
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                              (正行院の無縁仏は藪椿の樹下に並んでいます
 
一方北条早雲は、戦い上手でもあり、財政にも通じた「経世家」でありました。
人々は逞しく「おらが国」の復興に立ち上がります。(司馬遼太郎「箱根の坂」)
露座の大仏は黙って人々を見詰めておいででした。
 
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今回の地震に伴って、三浦の海岸通は通行禁止になりました。
入り組んだ入江は小さいながらも三陸海岸のそれと似ています。
もし、津波が起きたら・・・・、規模は小さくても同じような惨状を見せ付けられることでしょう。
江戸時代以降現代まで三浦半島を襲った津波は3度あります。
元禄16年(1703)の元禄南関東地震、安政2年(1855年)、安政江戸地震、大正12年(1923)の関東震災です。
海を見下ろす高台に「無縁仏」が数多く並んでいます。
殆どが墓標の仏です。没年と戒名が刻まれています。
元禄16年、安政2年・・・見つけると、津波の犠牲になられた人・・・思って手を合わせます。
 
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     (正行院は大楠山登山道に面しています。石仏群)
 
改めて・・・・今回の地震災害を、お悔やみ申し上げます。
 
 
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   関東大震災で三浦半島は隆起しました
 
 

 追記
もう2年も前でしょうか?
地震の予知をラジオ等で伝える事になりました。
「ピ・ピ・ピ」と鳴って「地震が来ます」予知するのでした。
予知してくれても、直下型地震なら直ぐに来ます。準備の時間もなさそうです。
遠くの地震なら、準備も出来るでしょう。でも、被害はなさそうです。
「どこか、変な仕組みだな?」思った人は多かったでしょう。
 
でも、津波の現実を見ると、「予知」が無ければ人類史上最大の自然災害になっていたのではないでしょうか?数十万人の被害者が発生した事でしょう。
素人の私が「無意味じゃないか?」思った仕組みが大惨事を極小で押しとどめた気がします。
矢張り、日本人は秀でている・・・・思っても良いでしょう。
海外では「津波の猛威」を私達と同じようにTVで見詰めて・・・「日本沈没」を懸念する事でしょう。
でも、次の瞬間思うことでしょう。
「このビデオ誰が撮ったのか?」
「こんな惨事なのに死者が思いの他少ないじゃないか・・・・!」
そして、日本人の「地震予知」を知って、賞賛する事でしょう。
 
原発についても、放射能汚染を防ぐ事が出来れば「原子力発電は日本が世界一」評価が定着するでしょう。
震度8.8もの大地震であって、大津波が起きても、原発の二次災害を防いだ・・・・、世界一の危機管理能力だ・・・・。
 
そんな評価が「禍福はあざなえる縄の如し」、復興の路を開く事でしょう。
菅首相も頑張れ、枝野官房長官の説明も適切でしょう・・・・。
民主党も今が剣が峰、最期の挽回のチャンスでありましょう。
 
 
 
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御霊を癒す「紅梅の林」

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今日の写真は貞宗寺の紅梅です


  
今朝6時20分から3時間「計画停電」と聞いていましたが、実施を見送る事になりました。
線路を見れば東海道線も横須賀線も走っていません。
それでは、おとなしくブログを書く事にしよう・・・・・・、キーボードに向かいました。
 
大地震は予測されていました。
でも、今回の東北関東地震は予測の8倍の大地震だったそうです。
こんな大自然の猛威を知らされるとは・・・・・、
 
博識な人の報告では我が国有史以来、貞観時代に同規模の地震があったそうです。
お釈迦様の生きられた「正法時代」、それに続く「像法時代」が終わると何れ「末法時代」がやってくる。
大地震に遭遇して、人々は「矢張り末法時代に陥った」実感したのでしょう。
支配階級の貴族等は阿弥陀如来を造像し、そのお手から5色の布を垂れてもらい、その端を握って往生を願いました。
現代も末法時代に似た社会世相にあります。
一億総中流と思って、世界一の個人所得をセッセセッセと故人貯蓄に励んできました。
ところが、個人の貯蓄に国の借金が匹敵するほどになっていました。
皆中流と思っていましたが、大半が下層であることが判明しました。
学校は卒業したけど、就職は出来ない・・・・・。そんな場面は昔は想像もできませんでした。
そして、今回の大災害です。
悪い方の予感だけが重なりました。
 
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                            (貞宗寺の裏山は梅と椿、竹林の下には紫大根が咲き始めました)
 
TVでは自衛隊の人達を映しています。
津波の瓦礫の中を一人でも救出したいと探索を続けています。
M7クラスの地震の再発する恐れが7割と報道されているのに・・・・・。
二次災害にならないのか、津波がきたら・・・・ライフジャケットを着ているのかな・・・・、見詰めます。
瓦礫の下に瀕死の人が居る筈だ・・・・・、
危険を顧みず救出する姿を、子供も老人も見詰めています。
 
高度成長時代から私達世代は「人間は自然を好き勝手に活用するものだ・・・!」思ってきました。
「お前達は驕り昂ぶりすぎているぞ!」神仏のメッセージが今回の地震かもしれません。
私達は改めて自然の大きさを思い知り、人間と自然との位置関係を見直すことでしょう。
 
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                           (梅林の向こうは貞宗寺の庫裏。御霊屋横からの眺め)
 
 
世界のメディアは日本人に好意的です。
世界中から「激励のメッセージ」「救助の手」が差し伸べられています。
「未曾有の大地震なのに、破壊された家屋が少ない。日本は耐震建築に秀でている」
「日本人は寡黙に耐えている、素晴らしい国民だ・・・・」
「被災地やその周辺が整然としているのは感動した・・・」 などなど。
 
こんな日本人の特徴を和辻哲郎は指摘していました。(風土)
アジアモンスーン気候の下で、日本人は「自然の猛威」に従いながら、
灌漑の技術を駆使して田畑を開墾してきました。
 
今回の災難を克服して、日本人の真骨頂を指し示し、世界の賞賛を受けるのは今後課題です。
 
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       (貞宗寺の参道は椿が散っています。右手が御霊屋)
 
募金やTwitterには日本中からの被災地への激励に満ちています。
政府が無駄使いばかりしているから、財布の其処には2000億円しか残っていません。
 
でも全国各地の人は思っています。
「東北の方はお気の毒だが、被災者は自分自身だったかもしれない・・・・」
だから・・・・・個人も国も精々救援を差し向けたい。
 
貞観時代の貴族は大地震に遭遇して阿弥陀様に祈るだけでした。没落しました。
代わって雄雄しく時代を切り開いたのは武士でした。
平成の大地震では・・・・・、
後世の人たちに、胸を張って話せるような復興の路を歩みたいものです。
 
どうか、被災地の皆さん、生き抜いてください。
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                                     (貞宗寺御霊屋からの眺め)


 
今日の写真は大船の貞宗寺の梅林です。
寺の梅林には植樹した人の「思い」が込められています。
梅干を取るためなら「冬至梅」「南高梅」など「実梅」を植樹する事でしょう。
でも、貞宗院は二代将軍「秀忠」の生母「お愛の方」の母親でした。(お江から見れば義理の祖母)
その私宅の跡地を遺言に従い尼寺にしたものでした。
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            (正面が貞宗寺の御霊屋。最近ミモザを植えました)
貞宗院の御霊屋から見ると正面にこの梅林を見渡せます。
そこで、紅梅を主にして、すこし白梅を混植しました。
貞宗院に「春が来ましたよ・・・」お慰めするためでしょう。
境内には山野草が楽しめる散策路があります。
きっと、御霊もご満足の事でしょう。
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       貞宗院像 出典、貞宗寺 www.geocities.jp/teisouji/taka0210/yurai.htm
 
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      (今が盛りのミモザ)
 
 
 
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