此処二・三日南風が吹きました。
千曲川小諸の雪はもうとけたでしょうか?
こんな日には「小諸なる古城のほとり」 を詠いたくなります。
「小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす繁縷は萌えず
若草も藉(し)くによしなし」
「小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす繁縷は萌えず
若草も藉(し)くによしなし」
鎌倉にも、小諸城址に似た場所があります。
「長尾城址」がそれです。
(長尾城址は広域農地ですが、大船駅徒歩20分の立地ですから、住宅の波が押し寄せています)
大船駅の西側に大船観音があります。
観音山の丘陵を北に向かうと、細長く広い台地が続きます。
台地の上部は「広域農地」に指定されて、市民農園が広がっています。
この台地一帯が「長尾城址」なのです。
台地の東、柏尾川に面して長尾一族の居宅があったようです。
台地の中腹に御霊神社 長谷寺(無住)がひっそりと建っています。
その上、柏尾川から鎌倉道を見渡せる台地の上に名門長尾一族が構えていたと思われます。
今は「長尾氏居館の跡」と記した看板が竹薮の脇に立っているだけです。
でも、素人目にも小規模な段郭や腰曲輪状の地形を確認する事ができます。
(久成寺にある長尾一族の墓)
長尾氏は戦国時代には長尾影虎(後の上杉謙信)を輩出する名族でした。
歴史は鎌倉時代に始まります。
治承8年(1180)8月に源頼朝が挙兵します。
長尾為宗と定景兄弟は大庭景親と共に頼朝軍を石橋山で破ります。
しかし、源氏が勢力を盛り返し鎌倉を本拠とすると長尾兄弟は捕えられ三浦氏預りの身となります。 北条氏と三浦氏が敵対すると長尾氏は三浦氏に加担し、一族は自害し長尾城も廃されてしまいます。
戦国時代には北条早雲の玉縄城の出城となります。
そして、上杉謙信と後北条氏との確執が始まります。
後北条氏は秀吉、家康の連合軍によって滅亡してしまいます。
玉縄城も長尾城も大長寺住職「暁誉源栄」の尽力で平和裏に開城します。
(長尾城址に芽吹いた蓬、若芽を摘んで蓬餅にします)
長尾一族は植木の久成寺に祀られています。
長尾城址は江戸時代には家康のお鷹場だったのでしょう。
台地の下、柏尾川には「鷹匠橋」があります。
農業をしながら、家康が来た時には鷹匠として活躍したのでしょう。
私の住む倉田には「笈川」の姓を名乗る人が沢山います。
彼等に聞くと、こういいます。
(野蒜、根に球根があり、青葉と共にゆがいて味噌和えにすると酒のつまみに最高です)
柏尾川の洪水で、家康公を背負って川を渡ったのでした。
家康公から「褒美を取らせる」と言われて、「姓を賜りたい」と答えました。
「私を背に負って川を渡ったので『笈川』と名乗れ」農民でありながら姓を戴きました。
(雲雀の上る畑、台地の真下に柏尾川、遠くの山並みは岩瀬から円覚寺に通じる。)
畑の上には雲雀も上がり始めました。
猫柳も開いてしまっています。
繁縷も地面を覆っていますので、青年藤村ならこの上に寝転んで空を見上げた事でしょう。
傍には「ふぐり」の青花が、仏の座の紫花が、咲いていますし、
蓬(餅草)やノビロが摘み草して欲しい・・・とばかりに芽吹いています。
蓬は祖母の好物でしたし、「ノビロの味噌和え」は父の好物でした。
(青いのはオオイヌノフグリ)
もう、私の歳になると「お終いから逆算して、後何年の命かしら・・・・」思います。
あと、数年?
何をして過ごそうか?
思いながら、長尾城址に寝転んで、青い空を見上げます。
(仏の座)
ナズナ、種は三角の三味線の撥に似ています。細工して廻すとペンペンと鳴るので「ペンペン草」と呼びます。
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