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長尾城址の「はこべ」に寝転んで

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此処二・三日南風が吹きました。
千曲川小諸の雪はもうとけたでしょうか?
こんな日には「小諸なる古城のほとり」 を詠いたくなります。         
                           
      「小諸なる古城のほとり                   
        雲白く遊子悲しむ                       
        緑なす繁縷は萌えず                     
        若草も藉(し)くによしなし」 
 
鎌倉にも、小諸城址に似た場所があります。
「長尾城址」がそれです。
 
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     (長尾城址は広域農地ですが、大船駅徒歩20分の立地ですから、住宅の波が押し寄せています)
 
大船駅の西側に大船観音があります。
観音山の丘陵を北に向かうと、細長く広い台地が続きます。
台地の上部は「広域農地」に指定されて、市民農園が広がっています。
この台地一帯が「長尾城址」なのです。
 
台地の東、柏尾川に面して長尾一族の居宅があったようです。
台地の中腹に御霊神社 長谷寺(無住)がひっそりと建っています。
その上、柏尾川から鎌倉道を見渡せる台地の上に名門長尾一族が構えていたと思われます。
今は「長尾氏居館の跡」と記した看板が竹薮の脇に立っているだけです。
でも、素人目にも小規模な段郭や腰曲輪状の地形を確認する事ができます。
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                                               (久成寺にある長尾一族の墓)
 
長尾氏は戦国時代には長尾影虎(後の上杉謙信)を輩出する名族でした。
歴史は鎌倉時代に始まります。
治承8年(1180)8月に源頼朝が挙兵します。
長尾為宗と定景兄弟は大庭景親と共に頼朝軍を石橋山で破ります。
しかし、源氏が勢力を盛り返し鎌倉を本拠とすると長尾兄弟は捕えられ三浦氏預りの身となります。 北条氏と三浦氏が敵対すると長尾氏は三浦氏に加担し、一族は自害し長尾城も廃されてしまいます。
戦国時代には北条早雲の玉縄城の出城となります。
そして、上杉謙信と後北条氏との確執が始まります。
後北条氏は秀吉、家康の連合軍によって滅亡してしまいます。
玉縄城も長尾城も大長寺住職「暁誉源栄」の尽力で平和裏に開城します。
 
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     (長尾城址に芽吹いた蓬、若芽を摘んで蓬餅にします)
 
長尾一族は植木の久成寺に祀られています。
長尾城址は江戸時代には家康のお鷹場だったのでしょう。
台地の下、柏尾川には「鷹匠橋」があります。
農業をしながら、家康が来た時には鷹匠として活躍したのでしょう。
私の住む倉田には「笈川」の姓を名乗る人が沢山います。
彼等に聞くと、こういいます。
 
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    (野蒜、根に球根があり、青葉と共にゆがいて味噌和えにすると酒のつまみに最高です)
 
柏尾川の洪水で、家康公を背負って川を渡ったのでした。
家康公から「褒美を取らせる」と言われて、「姓を賜りたい」と答えました。
「私を背に負って川を渡ったので『笈川』と名乗れ」農民でありながら姓を戴きました。
 
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 (雲雀の上る畑、台地の真下に柏尾川、遠くの山並みは岩瀬から円覚寺に通じる。)
 
畑の上には雲雀も上がり始めました。
猫柳も開いてしまっています。
繁縷も地面を覆っていますので、青年藤村ならこの上に寝転んで空を見上げた事でしょう。
 
傍には「ふぐり」の青花が、仏の座の紫花が、咲いていますし、
蓬(餅草)やノビロが摘み草して欲しい・・・とばかりに芽吹いています。
蓬は祖母の好物でしたし、「ノビロの味噌和え」は父の好物でした。
 
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  (青いのはオオイヌノフグリ)
 
もう、私の歳になると「お終いから逆算して、後何年の命かしら・・・・」思います。
あと、数年?
何をして過ごそうか?
思いながら、長尾城址に寝転んで、青い空を見上げます。
 
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                                             (仏の座)
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 ナズナ、種は三角の三味線の撥に似ています。細工して廻すとペンペンと鳴るので「ペンペン草」と呼びます。
 
 
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未曾有の天災、倍する人災?

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今回の東北地震、被災地の方々お悔やみ申し上げます。
震災後の状況を見るにつけ、いたたまれない気持ちになるのは残念な事です。
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「日本は今まで世界中を援助してきた『援助大国』だ、今回は国連が全力で日本を援助する」
 国連からの日本国民宛のメッセージです。
そして、何時もは辛口のウォール・ストリート・ジャーナル誌は「不屈の日本」と題して、社説を発表し、日本へのあついメッセージを述べています。
 
上記誌は、日本は地震大国である事を確認したうえで次の2点を評価しています。
建築工学を駆使した耐震建築技術、そして更に2007年に導入した「地震予知システム」です。
 
日本が地震の準備態勢を整備していたので、7万人が死亡した四川大地震、ハイチ地震に比べて対照的な被害に留められた。世界中が日本の地震予知システムを導入する事を提言する。
最近の日本は経済が低迷し政治家の失政に評判が悪い。
しかし、日本は依然として産業大国だ。
11日の地震は壊滅的なものでは在るが、近代国家として日本は「自国を守る」と確信している。
世界中から暖かい支援と激励を受けています。
 
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14日(月)、東京市場はこの未曾有の天災を株価に反映しました。
600円に及ぶ暴落でした。 
15日(火)、東京市場は更に1100円、10%余りも株価を下げました。
既に天災の規模は解っていましたので、
天災が日本経済に対してどの程度ダメージを与えるか判断した結果でしょう。
菅政権の能力を見て、「これでは日本の立ち直りは期待できない!」
失望売りをかけたのでした。
人災の評価は天災を倍するショックでありました。
 
週末に地震が起きてまる二日余りたった14日朝私達は「どこか変だぞ?」思いました。
官邸に集まった歴々を残して、菅首相は被災地の上空にヘリで向かっていました。
この初期動作の過ちと遅れがその後の失策の始まりでした。
14日に集まった歴々は「情報」を共有し、適時的確な指示が為され、対策を協議決定しよう・・・思っていたでしょう。
それが、肩透かしで終わったばかりか、「自分達は信用されていない」、
首相がスタンドプレーするつもりだ・・・・・思ったことでしょう。
案の定、菅首相のパフォーマンスの幕が開きました。
 
14日からは被災状況に加えて、東京電力の迷走振りを報道していました。
先ずは福島原子力発電所の事故でした。
「原子炉は止まった、でも冷却装置が大津波で破損してしまったのでクールダウンが思うに任せられない・・・・・」、状況でした。
 
「安全工学」の集大成のような原発でさえ、この大津波は想定外だったのでしょう。
国民の大多数は「日本はチェリノブイリやスリーマイル島」とは違う、信頼しています。
ところが、首相も首相官邸も「大変だ!大変だ!東電には任せられない・・・・!」
と民心を混乱させています。
首相は、「炉心融解の事態だけは避けて欲しい、君等技術者を信頼している」と言うべきところ、
自分で見て、大変だ大変だ・・・・と逆の行為をしています。
更に「東電には任せられない・・・!」言わんばかりです。
 
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11日には東電は考えていたでしょう。
需要は38,000kw、一方能力は33,000kw、1割強のアンバランスがある。
どうしようか?
供給サイドにすれば「計画停電」が混乱を免れない。
しかし、電気はライフラインの重要な一つであるし、停電すれば総ての生産活動に影響する・・・・。
躊躇せざるを得ません。
 
もう一つの選択肢は、「1割強を節約するよう国民に産業界に依頼する」
その上で、電力不足が生じれば、電圧や電流が下がってしまいます・・・・。
二つの選択肢を用意して、官邸に協議したのでしょう。
まあ、数年前中国やメキシコを旅すれば経験した事でした。
毎日のように夕方になれば電灯は暗くなっていました。
電力が弱まってしまったのです。
後者の選択が妥当です。
 
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     (カリフォルニアに打ち寄せた津波/同上)
 
官邸は迷いに迷って、13日の夜8時に発表しました。
「明日から計画停電します」(本来は東電が発表すべきでした)
 
月曜日は大混乱です。マス交通は運休を決めました。
大企業は数日間の工場停止を決めました。公的施設は1週間の休館を発表しました。
お陰で関東一円の経済・社会活動は停止してしまいました。
停電状態は4月まで続くそうです。
そこで庶民は生活防衛のために買出しに走りました。
スーパーなど店舗の棚は空っぽになってしまいました。
 
実業家は後者の提案(節約目標を提示し、時刻によっては電圧・電流が下がる)を期待します。
また節約する人なら後者を選択するはずです。
誰もが思っています。
「被災地の人達が瀕死状態なのだから・・・・電気やTVを消す事など苦労にならない・・・」
生産活動の停止は更なる失業など困難を請来します。
 
でも、生活感が欠けて、実態経済に音痴な内閣はパフォーマンスを優先します。
かくして天災は人災によって被害拡大の一方になってしまいます。
 
菅首相の「政治主導」は方向が間違っているようです。
 
今回のような天災に端を発した未曾有の危機に際しては、様々な機関(行政機関・交通機関・企業・医療機関・救済者など)の役割分担や調整こそ大事です。君達は信頼に値しない・・・そんな素振りは禁じなくてはなりません。
調整をしないで、「自分がやるんだ・・・・・」としたのでは事態は悪化する一方です。
悲しい事ですが、15日の株式市場は菅首相、民主党政権の幕引きを望んでいるようです。
 
ところで、今回の大地震、当初は「東北太平洋沖地震」と呼んでいました。
その後「東北関東地震に」と改めました。
今マスコミはこの政府表現が不適切と考え「東日本大震災」と言っています。
ですから、三つもの名前があります。
政府が「東北」に加えて「関東」も加えたのは、福島原発の放射能が北風に乗って関東に降って来る・・・・、そんな予測をしていたのか?
戸惑うばかりです。
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                      (毎日新聞HPから)
 
首相も官邸も「大変だ!大変だ!」煽る様な行為はせずに、
技術者は地方行政に委託して、全体の舵取りに腐心して欲しいものです。
 


 
癒しに一枚、白いジョウビタキ
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「白いジョウビタキ:この変異種は既報告しました。未だ舞岡公園にいますがもうじき旅立つ事でしょう」 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44487199.html
 
 
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「片栗の花」のメッセージ

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東北大震災に右往左往しているうちにも、季節は進んでもうこの週末は彼岸の中日です。
私達日本人は、春秋の彼岸の度ごとに先祖を敬い、歴史に想いを馳せてきました。
 
随分昼が長くなってきましたし、お日様も高くなりました。
太陽は先ず地面を温めます。
地下に隠れていた昆虫も動物も這い出してきます。
植物の根っ子は地温の上昇に気づいて、活動を始めます。
そして、誰よりも早くに花を咲かせようとする花があります。
 
         もののふの 八十をとめらが くみまがふ
              寺井の上の 堅香子の花
 
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                               (今年も咲き出した片栗の花)

 
大伴家持は越後の国に赴任しています。
鄙では沢山の乙女がお寺さんの井戸に集まってきて、水汲みをしている。
乙女達の笑い声が弾んで、楽しげなのは春が来たからでしょう。
私は井戸端に咲いた堅香子(かたかご)の花を見詰めます。
奈良の都でも越後と同じように娘達が楽しげにしている事だろう・・・・。
  (家持のもう1首には都大路を懐かしむ歌があります)
 
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                     (片栗と同じように咲き出した雪割草、どちらも越後の山野草です)
 
堅香子とは片栗(かたくり)の花のことです。
ゆり科の植物で球根が栗の実に似ているのでしょう。
栗の実は「いが」に3個から5個入っています。
その両端は一方が扁平で「片・栗」の形状になっています。
片栗は「クヌギ林」等の落葉樹の林に群棲していました。
落葉樹林は晩秋には葉を落としてしまいます。
村人は米の収穫が終わると林に入って枝を伐採します。
葉っぱをかき集めます。
冬越の薪炭にするためです。
雑木林には冬日が良く差し込みます。
彼岸が近づくと真っ先に地温があがります。
そして、片栗の葉がいち早く芽吹いて、花をつけるのです。
 
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       (ヒキガエルも出だして、蝦蟇合戦開始の合図待ちのようです)
 
何も無かった雑木林に一面片栗の花が咲きます。
昆虫は片栗に群がります。
そして、受粉して子孫を残します。
他の雑草が背丈を伸ばし、雑木が芽吹いた頃には活動も終えて、球根に全生命力を蓄えます。
 
2010年、歌会始におよせになられた、秋篠宮紀子妃の一首。

 早春の光さやけく木々の間に
           咲きそめにけるかたかごの花
 
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                    (欅の足元を埋め尽くした片栗の花、昨年3月25日)
 
何処で詠まれたのかは知りませんが・・・もしかしたら御所の中に咲くのかもしれません。
または、学生時代の旅をされた折の思い出かもしれません。
木曾にも越にも片栗の群生地は数多くあります。
片栗の花は俯き加減に、可憐に、上品に咲きます。
妃殿下の面影にピッタリです。
                http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42655259.html
 
片栗の球根は滋養分の塊です。
粉にすれば「片栗粉」です。
和菓子に使われます。(大福餅の粉)
胃腸を痛めた時にはお湯を注いで「片栗湯」にしていただきます。
私は子供の頃、少し多めに砂糖を入れて、片栗湯を「くず湯」代わりに戴きました。
 
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万葉の昔から現代まで、日本人の生活に密着してきた片栗の花でした。
今では雑木林が減ってしまったので、環境指標植物に指定されています。
残念な事ですが・・・・・、最近は見直されて大切に扱われています。
 
昨年は彼岸の中日には満開でした。
今年は少し遅れているようです。
例年訪れる某所に行くと、10輪ほど咲いていました。
見頃はあと1週間と言うところでしょうか・・・・。
 
東北の被災地を見下ろす高台に咲き出すのは更に2週間後になるでしょうか・・・・?
この花を見つける頃には、被災された方々は如何にされている事でしょう。
東北は旱魃に冷害、そして飢饉に耐えてきました。
南に始まった稲作を日本一の穀倉地帯にしたのは、頑張りのお陰でしょう。
1000年に一度の大災害をこの頑張りの歴史に上乗せするのは過酷に思います。
 
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    (肩を寄せ合って咲く様が片栗の魅力です/昨年の写真です)
 
でも、片栗の花が咲いたら、是非とも可憐な花を見向いて・・・・、
また「生き抜こう」気力を湧き起こして欲しい、思います。
ラジオでは昨晩の天皇陛下の「被災地の皆様に・・・・」お言葉が流れています。
昨夜の停電中にも聞きました。
被災地の方々を癒され、救済などに身命をかける人達への感謝に満ちたお言葉でした。
 
日本人は太古から「天皇と心を一つにして生き抜いてきたのだな・・・・」
しみじみと思いました。
 
学生時代「天皇制」と言うと、条件反射のように「反対」と言ってきた人が多かったのですが・・・・、
天皇のお言葉が「頑張りのスイッチをオン」してくれます。
代替する人も物も何もありません。
これが「民俗の底力」なのでしょう。
 
 
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沈丁花と三椏の花

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今日は横浜の小学校では卒業式です。
一昨日は東北大震災被災地での卒業式がTVに映っていました。
体育館は被災者を収容しているので、教室で行われます。
子供達にマイクが向けられると、「皆大変なのに、自分は卒業式が出来ただけでも幸せです」答えます。
子供達のやさしさが浸みてきます。
このやさしさが折れないように、はやく援助の手が届くように願っています。
 


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                                 (街角の沈丁花/鎌倉)
 
街角で、漂う芳香に気づき足を止めます。
庭先に「沈丁花」を見つけます。
ああ、もう此花が咲いているのか?
桜の開花はもう1週間だな・・・・期待が膨らみます。
 
沈丁花の名は「沈香」も「丁子」も香木の名、二つの香木を併せた様に「芳香の強い花」の意味でしょう。
春を待ち侘びたように咲くのですから、古代人も心を揺すぶられた・・・・、
思うのですが万葉集にも古今集にも詠われていないようです。
調べてみると、日明貿易で中国から渡ってきたそうです。
強い香りがインパクトで日本に持ち込んだものでしょう。
でも、茶道では「禁花」にされてしまいます。
狭い室内で「沈丁花」は香りが強すぎる・・・判断されたのでしょうか?
それとも、当時から厠の芳香剤に使われていたからでしょうか?
 
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           (月桂冠のような葉っぱ、個性的な花、強い香り、沈丁花は個性が強い)
 
  淡き光立つ 俄雨(ニワカアメ)
  いとし面影の沈丁花

  溢るる涙の蕾から
  ひとつ ひとつ香り始める
ユーミンの「春よ来い」の歌い始めです。
一雨ごとに春がやってきて、沈丁花の花が開き始め、香り始めます・・・・・、
私達の季節感に共感を呼んでくれます。
この歌のお陰で沈丁花も市民権を得たようです。
 
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(三椏の花。沈丁花に比べれば大人しく、下向きで、香りも薄く、色も淡い)
 
でも、最近は沈丁花よりも。その弟分の「三椏/みつまた」の方が目立ってきたように思います。
三椏は沈丁花に比べれは香りはうっすらとしています。
枝が太く伸びだすと枝分かれします。
枝分かれが三本の股になっている事から「みつまた」の名を頂戴したのでしょう。
その皮を剥いで、和紙の原料になります。
古代から中世まで和紙の原料は楮(こうぞ)やガンピでしたが、
近世になると「みつまた」も材料になる・・・・発見されました。
草双紙や黄表紙、庶民向け出版物が増えると和紙需要が爆発します。
徳島(蜂須賀)や越前(松平)等は和紙製造を奨励します。
三椏はガンピと共に其に空き地で栽培されます。
明治維新になると紙幣にも使用されました。
 
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    (東慶寺、釈迦如来像の後ろに三椏が見えます。光背のようです)
 
東慶寺に入ると正面に釈迦如来様が迎えてくださいます。
その後ろに、三椏が咲きます。
まるで、光背のようです。
 
お隣の浄智寺の方丈庭園にも三椏が数本あります。
低木ですから、どの程度の樹齢か解りませんが・・・・随分古いと思います。
最も見事な三椏は建長寺回春院の「脇道」だと思います。
 
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     (回春院、池畔に続く道の山際に挿し木された「三椏」)
 
建長寺の最深部にある塔頭が回春院です。
天園に降った雨が巨福呂谷に流れ込みます。
蘭渓道隆が建長寺造営に際し、その雨水調整ダムに「大池」を用意しました。
その池畔にあるのが回春院です。
その土手に一本の三椏がありました。
その枝を挿し木にして、三椏の道ができました。
まだ、10年も前に挿し木したばかりですから・・・・これからが楽しみです。
毎年毎年、早春に赴きます。
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                                         (回春院の三椏。親木)
 
この池畔では長い間、山羊が飼われていました。
私達夫婦が赴くと、やおら立ち上がって「何しに来たか?」顔を向けました。
私達は「三椏や木蓮、藪椿・・・・花を見て、蝦蟇を見て、コジュケイを探して・・・」帰るつもりでしたが・・・・。
 
その山羊は3年位前に天寿を果たしました。
山羊小屋は残されたままです・・・・。
いずれ、山羊が飼われるかもしれない・・・・、思いました。
 
牛乳が無かった時代、お寺では山羊が貴重な栄養源でした。
屹度、回春院の老住職の健康を見詰めていた山羊だったのでしょう。
三椏は相棒が居なくて寂しい事でしょう。
 
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   (東慶寺、一番奥に三椏が咲いています)
 


今日のブログも書き終えました。
ソロソロ、礼服を着て卒業式に出かけます。
今日午後は区連会、戸塚区災害対策本部(本部長葛西戸塚区区長)の説明もあるでしょう。
私は地区災害拠点である「東戸塚小学校」の拠点長です。
みんな、真剣でしょう。
 
 
 
 
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こぶし咲く「北国の春・卒業式」

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「卒業証書授与式に先立ち、今回の東北関東大震災で犠牲になった方々を悔やみ1分間の黙祷を奉げます」
東戸塚小学校の卒業式が始まりました。
 
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           黙祷に続いて君が代、横浜市市歌を斉唱します
 
 
眼を瞑れば、TV画面が浮かびます。
大津波に呑み込まれる町、
瓦礫の中を肉親を探す人の姿・・・・、
避難所で過酷な状況下、健気に懸命に生きる人、
そして、不気味な原子力発電所の姿・・・・。
 
 
子供達も、先生方も ご父兄も思います。
「自分達は幸いだ・・・・こうして卒業式ができる、
             でも被災地の子供達は・・・・、」
「運が良かった、悪かった」それだけでは分ち難い程の違いの大きさです。
 
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  (紅白の辛夷の木の下で、1年生と卒業生の交流会。今の小学校は異学年の交流で「思いやりの      心」等を育てています)
 
今年の冬は寒かったので、校庭の辛夷は例年より遅れました。今が盛りです。
誰が植えたのか、真っ白い辛夷が3本、端っこに1本が赤い辛夷です。
卒業生をお祝いするために、紅白の辛夷を植えたのでしょう。
そして、桜吹雪の中で入学式です。
花木が多いことが東戸塚小学校の良いところです。
それだけで子供達は情操豊かに育っています。
 
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     (教室の窓から見た辛夷は綺麗な事でしょう。鳥も来ますし・・・。)
 
コブシの名は花の咲き始めが子供の拳のような形だからでしょう。
最初が「グー」なら、今朝はもう花びらが開いて「パー」です。
日本人はこの花を見て、子供の拳のようだ・・・・思ったのでしょう。
でも、漢字にする時「辛夷」の字をあてました。
「辛い」のはその実が赤くて七味唐辛子のように「辛いから」でしょう。
そして「夷」の字が問題です。
夷(エビス)とは「都を離れて遠い北の田舎」事。
だから「辛夷」は「北の田舎の辛い実のなる木」の意味でしょうが・・・・・、
エビスは「恵比寿様」に通じます。
七福神の筆頭、大きな鯛を釣り上げて笑顔満面のあの神様です。
そんな「想いも」込められているのでしょう。
 
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        (校庭で異学年交流を終えて、体育館での卒業式に向かいます)
 
私の耳に千昌夫の「北国の春」の歌声が響いたようです。
   白樺 青空 南風
   こぶし咲くあの丘 北国の
   ああ 北国の春

「こぶし」が咲けば「田起し」が始まります。
ですからこぶしは別名「田打ち桜」と呼ばれます。
 
稲作で最大の重労働は「田起し」でした。
鋤を振上げて、固まった田圃の土を掘りあげるのです。
空気を土に送り込まなければ地中のバクテリアも目を覚ましません。
田起しで曲がった腰を上げた時、里にはこぶしの花が咲いているのです。
そして、桜が咲き出したら田植えを始めます。
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紅い辛夷の花
 
もう1月もたてば、南相馬にも、三春にも、盛岡にも有名な桜が咲きだす事でしょう。
桜を見れば被災者の家族はまた涙をもよおす事でしょう。
日本人は人生の各場面に必ず桜花を見てきました。
 
千昌夫の故郷「陸前高田市」も壊滅してしまいました。
 
私は感慨深く思い出します。
あの「えびす顔」を、いかにも北の田舎人の懐かしい顔です。
偶々、3月東北新幹線が青森までひかれました。
千さんが「ふるさと歌手」で一生を終えなかったのは・・・・・、
東北新幹線の用地として土地が高値で売れたものでしたから、土地の魔力に取り付かれたのでした。
田舎人は「土地への思い込みが強いもの」・・・・、
とうとう終着駅まで突っ走ってしまいました。
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「雨にも負けず、風にも負けず・・・・雪にも夏の暑さにも負けぬ・・・」
宮沢賢治は花巻の生まれ、農業の指導員として一生を終えます。
お喋りな千昌夫、寡黙な宮沢賢治、正反対な生き様のように見えますが、
私には同郷人に見えます。
どちらも縄文人のような「土の匂い」がします。
 
卒業式は進みます。
全員が立ち上がって「君が代」を斉唱します。
続いて「横浜市市歌」を歌います。
臨席の人が「蛍の雪」も「仰げば尊し」は歌わないのですね・・・・、呟きます。
それでも、子供達は感極まって落涙しています。
 
袴羽織姿の生徒が混じっています。
屹度お母様のお下がりでしょう、良く似合います。
着せたご両親の笑顔が後姿に宿っているようです。
細い腕が袖から覗いています。
屹度父親は思ったことでしょう。
「うちの娘も女らしくなってきた・・・と」
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                 (羽織袴姿が目立った卒業式)
 
千昌男も、宮沢賢治も挫折しても逞しく立ち上がって、
挫けないところが、東北人の「土性骨」なのでしょう。
    大地震にも負けず
    大津波にもめげず、
    放射線にも立ち向かい・・・
    そんな故郷と一緒に生き抜き・・・・
    そんな人に私はなりたい・・・・・、
 
「こぶし咲く北国の春」がもう直ぐやってきます。
被災地の人達は屹度
「こぶしの花」に励まされて、隣近所と手を取り合って、再起されるでしょう。
 
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    (蛍の光や仰げば尊しは歌わなくても、涙一杯の卒業生)
 
 
遠く離れた横浜でも、今の子供達はお利口でやさしいのです。
大人以上に、被災者の「痛み」がわかっています。
ですから、北国の大災害を人生の糧にして育って行くことでしょう。
 
子供達が大人になる頃、平成23年3月の大災害が歴史になって居る事でしょう。
関東大震災は日華事変から第二次世界大戦に転がって行くきっかけにもなりました。
でも、東北大震災は・・・
「日本人がエコノミックアニマルからエコライフにチェンジした」きっかけになりました。
あの惨事以来、日本人は自然とも隣人ともやさしく共存する生き方を選択しました・・・。
 
そして、福島原子力発電所の遺跡は、
『GNP至上、成長主義』の愚かさの象徴として眺められる事でしょう。
でも、遺跡の中には立ち入る事は出来ません。
放射線は100年も経たなければ減衰しませんから・・・。
歴史評価するのはこの卒業生達です。
期待しましょう。
信頼しましょう。
 
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                          卒業式は半日を要しました
 
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半僧坊の「コジュケイ」

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鎌倉の建長寺に入って方丈の脇道を奥に進むと、半僧坊に出ます。
此処から丘陵の尾根道が始まります。
半僧坊から瑞泉寺までの約5キロ、山歩きは「天園ハイキングコース」のハイライトです。
見晴らしが良く、石仏や「鎌倉のやぐら」が点在しています。
樹木が茂って、山野草や野鳥が豊富で、実にロハスな楽しみに満ちています。
小学生の同窓会ハイキングなど思い出も残されています。
奈良の三笠山から若草山、春日奥山のハイキングコースに似た、歴史・自然歩道です。
 
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     天園ハイキングコースのマップ
 
天園を歩くと、遠くの谷間から呼び声が響いてきます。
「ゴジュケイ!ゴジュケイ!チョッと来い チョッと来い」と聞こえます。
でも、鳴き声が近づくと、鳴き止んでしまいます。
過ぎてしまうと、また鳴きだします。
「チョッと来い チョッと来い」と、
「行ってやれば黙ってしまうなら・・・・呼ぶなよ!」苦笑いしてしまいます。
実に用心深い野鳥なのです。
 
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                          東北大震災で人影の消えた建長寺
 
東北大震災の影響でしょう。
建長寺の観光客用の駐車場には車一台もありません。
広い境内も人影が見えません。
私は半僧坊道をたどります。
渓流沿いの道はやがて四辻に出ます。
真直ぐ進めば鳥居、狛犬を通って半僧坊に続きます。
左折すれば川村瑞賢の墓から鎌倉学園のグランドに出ます。
右折すれば大池とその池畔の回春院に向かいます。
 
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                   (半僧坊の竹林も手入れされ、見違えるほど綺麗になるようです)
 
この辻に庚申塔があったのですが・・・見当たりません。
探してみれば玉雲庵の門前に移されていました。
この辻を広くするための処置でしょう。
達磨大師像が建立され、孟宗竹の林も手入れさ、見違えるほど綺麗になりました。
もう土手には立ち壷スミレが咲き出しています。
 
突然に、足元からコジュケイが飛び出しました。
3メートルも飛んだでしょうか・・・・・そこで、この親父は安全だ・・・とでも思ったのでしょうか?
竹の落ち葉を掻きながら、なにやら摘まんでいます。
落ち葉の下で隠れていた小虫でも啄ばんでいるようです。
 
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     (半僧坊のシャガの葉陰に向かうコジュケイ)
 
静岡の奥山半僧坊が建長寺の権現(守護神)として勧請されたのは明治時代でした。
その後、コジュケイが台湾から日本に持ち込まれました。
持ち込まれたのは神奈川県、里山が多かった事、農業試験場が在った事など好都合であったのでしょう。
コジュケイも狩猟の対象として、美味であった事など、様々な事情があったのでしょう。
鶉より二周りほど大きく、山鳥に比べれば尾羽が短い、チャボのような野鳥です。
里山の環境はコジュケイにとって幸いしていました。
そこで、そこかしこで繁殖、野生化しました。
でも、殆ど飛べない鳥です。
人間をはじめ犬・猫・鼬など様々な敵がいます。
命を守ってくれるのは竹薮です。
藪に逃げ込んで、ジッとしていれば天敵から身を守れます。
臆病な性質は神奈川の里山時代から培われました。
 
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     (池畔で虫や種を啄ばむコジュケイ、尾羽を付ければそのままで小型の山鳥です)
 
でも、東北大震災で人影が減ったからでしょう。
コジュケイが藪の中から出てきたのです。
そこで、私に出会いました。
 
改めてしみじみと見ます。
綺麗な縞模様は藪の中では保護色になるのでしょう。
山鳥に似ています。
楕円の体型も可愛いものがあります。
鶏と違って鶏冠が小さい(無い?)ようです。
鶏の鶏冠は仲間の識別の役に立つ・・・そうです。
コジュケイが盛んに鳴くのは仲間の識別のためなのでしょう。(小西正一著、小鳥はなぜ歌うのか)
鶏が「コケ・コッコー」鳴くように、「コッチ来イ、コッチ来イ」と鳴き続けます。
 
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               (コジュケイが隠れた竹薮、此処に逃げ込めば枯れ藪が身を守ってくれます)
 
もう、恋の季節です。
コジュケイは二回(年)子育てするそうです。
6月にもなれば、子連れのコジュケイが見られることでしょう。
その頃までには、東北大震災の前の参詣客の溢れる建長寺に戻って欲しいものです。
門前の茶房も心配なことでしょう。
 
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             (建長寺大池、対岸が回春院本堂、この環境がコジュケイの天国です)
 
 
 
 
 
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孟宗竹と藪椿、そして無縁仏(竹の寺にて)

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宮古も気仙沼も津波でやられてしまいました。
東京都民は心を痛めている事でしょう。
落語の「目黒の秋刀魚」にちなんだ「目黒区民祭り」では秋刀魚が焼かれて振舞われます。
二つの町の漁協が競ってくれているのです。
江戸っ子は義理と人情にあつい者、
お隣の(魚鱗坂)一心太助は「しっかり恩返ししたか?」心配している事でしょう。
 
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               (今日の写真は鎌倉報国寺の孟宗竹の林です。写真は竹林の入り口の花生け)
 
今朝は雨が降っています。
この雨で屹度筍も伸びていることでしょう。
目黒は秋刀魚で有名になりましたが、本来は「筍」で知られていました。
何故かと言うと、5代将軍綱吉の時代、薩摩藩邸の孟宗竹を目黒不動に株分けしたのだそうです。
そうしたら、グングン伸びた、
直に目黒不動の門前の茶屋が建つようになって、軒を連ねた。
江戸中の文人墨客が門前茶屋にやってきて、「筍料理」に舌鼓を打ったそうです。
筍は採り立てが一番美味しい、時間がたてば「えぐみ」が出て不味くなってしまいます。
 
春の雨が降ると、もう筍が食べたくなって疼いた事でしょう。
     筍や目黒の美人ありやなし  (正岡子規)
若い子規には「食い気」も「色気」も・・・・あったのかもしれません。
 
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                                 (竹林の真ん中にポツンとお地蔵様が佇んでいます)
 
 
私は今「今昔物語/鎌倉時代」を読んでいます。
「孟宗竹」の名は孝行者「孟宗」の故事による事だと知りました。
時は三国時代、場所は呉、親思いの孟宗は母に精をつけたい、食事に気配りをしていました。
そこで魚を食膳に出します。
ところが母から咎められます。
「お前は漁師を管理する役人、魚を食べれば疑われます・・・・」
 
寒い冬に母が「筍が食べたい・・・」言います。
竹林に入っても未だ筍は出ていません・・・・、で哀願します。
「私は親孝行をしたいのです・・・・」
すると、目の前に筍が芽を出して、母に食べさせる事ができました。
日本人は江戸時代まで、孟宗竹が美味しい事を知らないで、「本朝弐四孝」を読み聞きしていたのでした。
 
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                                        (孟宗竹と藪椿)
 
孟宗竹は深い緑、真直ぐ伸びた幹、清々しさが魅力です。
「竹を割ったような人・・・・」はこの上ない大和男児の誉め言葉でしょう。
竹が男子なら椿は大和撫子、青竹と艶やかな赤い椿は、お互いを引き立てます。
椿の方から青竹に身を任せたようにもみえます。
青竹の方が太い腕でグーッと椿を引き寄せたようにもみえます。
どちらが誘ったのか、「風」が決めたようです。
 
孟宗竹と椿のツーショットが見たくて、私は鎌倉浄明寺の竹の寺に行きます。
竹林は本堂や方丈の裏山にかけて茂っています。
藪椿の紅い花が梢の先に無数に咲いています。
そして、竹林に散っています。
笹音がして、孟宗竹の棹先が頭の上で大きく揺れて、本堂の甍に消えて行きます。
衣張山からの山風が吹き抜けたのでしょう。
 
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竹林の真ん中にぽつんとお地蔵様が立っておいでです。
私達は竹林の最深部の御茶屋、その奥の小滝に向けて歩を進めます。
路地に入るとじきに石仏が並んでいます。
まるで、私達を出迎えて呉れたようです。
私は、改めてこの無縁仏を見詰めます。
竹林の路地には石仏が並んでいます。
まるで、竹林の入り口で私達を出迎えてくださった・・・・そんな位置です。
 
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     (竹林の入り口近くの石仏。笹の音を聞いているようです)
 
入り口にはお地蔵様が二体、お一人の名は「早世秋栄童女」、亡くなられたのは宝永7年9月3日でした。
未だあどけない、乳幼児だったようです。
そのお隣は「秋露童女」明和年間に逝った少女のようです。
クッキリした顔立ちの良い子のようでした。
奥には如意輪観音が瞑想に耽っておいでです。
細面の浮世絵美人です。
お名前は「雪窓知春禅尼」、元禄年間に逝かれました。
禅尼という事は、尼さんだったか、在家だったか・・・・、寡黙でいつも何か静かに瞑想されていたのでしょう。
童女達を連れてお地蔵さんに「この子達をよろしく・・・」お願いに行くような風にも見えます。
竹の寺の門前、坂道を下ると石屋さんがあります。
屹度其処に住み込みの石工がいて、これ等の石仏を墓標に刻んだ事でしょう。
 
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                                (竹林の入り口近くの無縁石仏、左から年齢順?)
 
本来、お釈迦様の前では、貴賓の差はなく、仏心の深い、浅いの差もなく平等であります。
でも、江戸時代は階級社会、死んだ後の戒名にもランク分けをします。
この無縁仏等は最下層の名前です。
でも、戒名さえも貰えない、お葬式さえ出して貰えなかった子供達は沢山居ました。
ですから、この石仏の主たちは幸せなのかもしれません。
 
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               (出口近くにも無縁石仏が並んでいます、まるで見送ってくれるようです)
 
「明日に紅顔ありて夕べに白骨となる」
「無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん」
道元禅師の教えでした。
だからこそ「此の一日の命は尊びなさい、貴ぶべき形骸です」と日々を大切に生きなさい・・・・と戒めているのですが、なかなかそうは出来ません。
石仏のお名前は
  「貴方の突然の死に無常を痛感します」と記されています。
仏教の教えを私達に諭してくれているようです。
 
東北大震災の惨状を見るにつけ・・・・「無常」を痛感します。
今回も膨大な『無常戒名』がつけられることでしょう。
 
被災を免れた人の話を聞きました。
消防団員が津波から逃れるようにマイクで呼びかけて呉れていた。
その人はマイクを握ったそのままの姿で発見されました。
 
また、大災害に負けじと必死に生き抜こうとする被災地の方々の姿も報道されています。
「無常と生きる事」は葉っぱの裏表のようです。
 
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(報国寺、方丈のガラス戸に映ったお庭の花、黄色いのは山茱萸、手前のモチノキも花がついています)
 
 
 
 
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瑞泉寺門前茶屋「もみじや」にて・・・・。

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北条時頼が建長寺を建立した、北条時宗が円覚寺を建立した。
それは、歴史に書き留められますが、
北条高時が夢想疎石を瑞泉寺に招いた・・・・事実は顧みられることもありません。
瑞泉寺は五山ではありませんし、高時は鎌倉幕府最期・・・・とだけしか記されません。
 
瑞泉寺は「山に登る」と言う言葉が最も似合うお寺です。
渓流沿いに谷戸の細道を辿ると、石段の下に出ます。
石塔には「夢窓国師古道場」と刻まれています。
日本中世を代表する文人夢想疎石が子孫に残した「人生の鍛錬場」なのです。
そう覚悟して「山に登る」のです。
石畳の模様を眺めながら、山楓の下道を登ります。
中腹で路地は分れています。
左手は急な石段で、鎌倉石が積まれています。
今日は晴天、滑らないでしょうから私は此方を登る事にします。
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                         (瑞泉寺石段、チリ一つ無く掃き清められています。道場の所以です)
 
京都周三街道「神護寺」の石段はゴツゴツした御影石が詰まれています。
神護寺川の大石を砕いて積んだものでしょう。
奈良室生寺の石段は室生寺川の川原石を積んだものでしょう。
丸い柔らかな石段です。
女人高野に相応しい石段です。
そして、此処瑞泉寺は鎌倉石の石段です。
石積み自体がお寺の生い立ちを示しています。
味わいも深いものがあります。
石段を上り詰めた頃には山門をくぐる心用意が整う筈です。
 
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       (瑞泉寺山門、彼岸ですから句がかかっていました)
 
山門に出ました。
   彼岸会や 双手について 老いの杖    (助次郎)
門柱に句が掛けられています。
 
書はよく見慣れたご住職のものです。
句作は「助次郎」氏、・・・高名な俳人なのか、ネットで調べても解りません。
お檀家の方なのかな?・・・・・、それとも瑞泉寺には俳句教室があるのかな?
想像します。
でも、助次郎は職人のような名だな・・・・、出入りの庭師か?石工か?
私の叔父の句を思い起こしました。
 
  彼岸会や 親爺に会いに  墓参り
 
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                          (瑞泉寺境内、山楓の梢が新芽で赤く染まり始めました)
 
 
夢想疎石は瑞泉寺の方丈庭園を造形します。
地表から草木を除いて、土を剥ぎ 岩盤を露にします。
更に岩盤をくりぬき池を作ります。
岩屋も彫って、ほこらを作ります。
正面の岩盤には「天女洞」を掘ります。
その岩屋に座して真下の池に映った月を観想する道場(水月観)にします。
東側の岩屋にもほこらを掘ります。
此方は坐禅のための「葆光窟(ほうこうくつ)」とします。
 
私はぼんやり想像します。
夢想疎石の鍛錬とは、自然界から移ろいやすい草木等を除いて岩を露にして・・・・、
自分自身からも欲望や迷い、移ろいやすい心を削って、不動な心を探す・・・・・・。
これは、身も心も緊張する・・・・・・。
 
蘭渓道隆(建長寺開祖)も無学祖元(円覚寺開祖)も南宋から帰化したお坊さん・・・・、
学者として執権北条氏をサポートした事でしょう。
他方、夢想疎石は純粋日本人、アウト寸前の鎌倉幕府、北条高時に対し、「不動心」を説いたことでしょう。
私は瑞泉寺に登るたびごとに北条高時と夢想疎石を畏敬する気持ちが強くなります。
 
私は山門をくぐってお山を下ります。
今度は新しい石段を辿ります。
もう、山楓の梢は芽吹いていて、赤みをさしています。
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              (新しい石段、お年寄りが登り易いように設えたのでしょう。でも模様が流石です)
 
瑞泉寺川には藪椿が散って、川底を埋めています。
花の下に小虫でも隠れているのでしょうか?
鶺鴒が花を嘴で返しています。
 
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        (瑞泉寺川に散った椿を鶺鴒が返していました)
 
ソロソロ昼食にしましょうか?
私は「もみじや」に入ります。
もう、30年以上も前からある古い門前茶屋です。
でも、5年ほど前でしょうか・・・全面改築されました。
高齢ご夫婦が廃業するのは良くあることです。
「お爺さん、お婆さん、私達も良く頑張った・・・・、これからはゆっくりとして人生を楽しみましょう!」
でも、もみじやさんは新築して、
「瑞泉寺のお帰りには、綺麗なお店でお蕎麦を食べてください・・・・」
メッセージが伝わってきます。
お昼の定食は火薬ご飯とお蕎麦のセットで1,200円、
盛りそばが600円です。
鎌倉市内で最もお安いお店でしょうか?
因みに覚園寺山門近くのお蕎麦や「武士」は有名ですが・・・・1,200円(10割そば)もします。
神田の藪そばでも、虎ノ門・室町の砂場でも盛りそば、蒸篭そばは700円前後です。
 
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   (蒸篭が二段で600円、値段も変わらず、味も変わらず・・・・・良いお店です。瑞泉寺のお帰りにお勧めです)
 
私は、店番のお婆さんに声をかけます。
「この大地震で、お彼岸と言うのにお寺に登る人が少ないようですね・・・・・」
「そうなんですよ・・・・・、でも、お店は開けないと、楽しみにして来られる人もいるので・・・・」
私は壁に掛けられた平山郁夫画伯の「散華」を見ながら尋ねます。
「お近くの平山画伯も来店されていたのですか?」
すると、期待に反してこう話されました。
「平山さんには良く散歩されていました。ですから挨拶もしていただきましたが、お蕎麦を食して戴いた事はありませんでした。」
もう、亡くなられたのですから、正直に話されなくても良さそうなのですが・・・・・・。
 
散華は薬師寺の玄奘三蔵殿落慶の際描かれたものでしょう。
「瑞泉寺・散華」を描いて戴いたら嬉しかったのになあ・・・・・・、
思い起こされます。
平山画伯のお宅は静まり返っています。
お庭は東南に向いています。
真向かいが守永親王の墓山です。
山の稜線は北条高時の首塚に続きます。
玄関の北は道路を挟んで永福寺の跡です。(義経の霊を弔う寺)
この谷間は鎮魂の谷のようです。
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私はぼんやり思います。
私達世代は「散華」を喜んで戴きます。
栞にしたり、お仏壇に飾ったりします。
でも、父の世代は散華は嫌いでした。
何故か?
「貴様と俺とは 同期の桜 ・・・・・・ 咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと 散りましょう 国のため」
散華思想は悲惨な特攻攻撃を生みました。
美しい仏教業事もまかり間違えると悲惨な行為を促してしまいます。
夢想礎石は無為な死を厳しく慎まれたのではないか・・・・思いながらもみじやを後にしました。
 
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                    守永親王墓の前が理智光跡、その背側に平山画伯のお宅がありました
 
 
 
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可愛そうな「法蓮草」(遊行寺にて)

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東日本大災害で日本人は悲しみに沈んでいますが、初めて確認した「うれしい事実」もあります。
世界中からあつい支援のメッセージが寄せられている事です。
「私達日本はこんなに好かれていたのかしら?」
驚く事実です。
飢餓問題に苦しむ国からも、パン価格の高騰が政変に代わったアラブ諸国からも・・・激励を戴いています。
「今世界中で一番愛されているのは日本人では無いかしら・・・・・」思います。
 
ブログ仲間から次の大震災の記事を照会して頂きました。
韓国の方の作品だそうです。
私も涙しました。
津波災害の画面は現実であり、自然の力に圧倒されます。
しかし、生きようとする人間の姿勢は崇高であります。
そして、編集した韓国人の日本人への愛情や激励に満ちていました。
 
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  (遊行寺本堂前で開かれる野菜朝市に集まる人の風景、後ろの方に並んでいる紫の作務衣やシャツを着て    いる人は雲水さん。野菜が残ったら求める予定です。)
 
TVでは出荷されたほうれん草を廃棄する姿が映し出されています。
食卓で眺めながら思わず言ってしまいました。
「ほうれん草がかわいそう! 私なら戴くのに・・・・」
家内も同意してくれます。
 
我が家では、今頃は毎日のように食卓にほうれん草が出てきます。
昨晩のすき焼きも葱にほうれん草でした。
今朝は残ったすき焼きを犬が食べ、雀も裾分けしてもらっています。
家内の実家は日蓮宗、ほうれん草は「法蓮草」と書くのかな・・・思います。
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                   ほうれん草のすき焼きを人が食べ、犬が食べ、最後は雀が食べます。
 
 
 
ほうれん草が廃棄されているのは、食品衛生法の基準を遥かに上回る放射線量が測定されたから・・・・、
でも、枝野官房長官は「その程度を食べても健康上は問題ありません」説明します。
更に、「風評被害に気をつけてください」「放射線は水で洗えば落ちます」とまで言っています。
「えっ!風評被害を生んでいるのは食品衛生法か?」思ってしまいます。
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                           遊行寺朝市でほうれん草等を求める人達
 
口に入れるものです。
毒や有害物質が付いていては困ります。
でも自然界には元々毒や有害物質があるもの・・・・全く排除する事は不可能でしょう。
法律はその上限に近い水準を示しているかと思ったら、全く関係ない「理想値」を示していたようです。
1年間毎日ほうれん草を食べる人等居る筈はありません。
もしも、そんな人が居ても健康に害は無いという水準だそうです・・・
いったい「商品衛生法の基準」とは何なのか、理解できません。
 
世界中で飢餓に苦しんでいるのは9億人、
方や、洗えば問題ない放射線塵が付いているから食品を廃棄するのでは
・・・・・世界の理解は崩れてしまう事でしょう。
「何だ、日本人は地震で苦しんでいるのかと思ったら・・・・金満人の贅沢な悩みではないか・・・!」と。
 
政府の役目は、
「放射線物質が付いても洗えば流れてしまいます。たとえ放射線物資が付いたままでも食べても大丈夫です。
でも、1年間毎日食べるのは止めましょう。念のため」
とアナウンスする事ではないでしょうか・・・・・?
 
有機水銀やカドミニューム汚染とは違うのでしょうに・・・。
 
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遊行寺放生池に咲いた白木蓮。「放生」は生命の命を戴いて生きている人間の感謝の気持ちを表しています。
 
私達夫婦は水曜日に藤沢の遊行寺に出かけます。
午前中に川名(藤沢の郊外・柏尾川沿い)のお百姓さんが「野菜市場」を開催するのです。
待っている人は沢山居ます。
軽トラックに山盛りした野菜は1時間ほどで完売してしまいます。
朝広い境内を掃き清めた雲水さんたちがネコ(手押し車)を押して待っておいでです。
私達が買い終わったら残りを買うのでしょう。
それから、典座(食事番)に向かいます。
清々しい遊行寺の朝の光景です。
 
私達は手一杯野菜を買って、満足です。
それから、お決まりの放生池をめぐります。
つい先日までは梅が咲いて、今は白木蓮の盛りです。
私が知る限り南関東最大の白木蓮です。
 
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    法生池の白木蓮
 
仏が天から来迎される時、音楽が流れ蓮の花びらが舞い落ちるとされています。
蓮は泥沼に育ちます。
その花弁が何故天から舞い落ちるのか・・・・不思議に思っていました。
でも、白木蓮ならこんな疑問を払拭してくれます。
 
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        (放生池の中には観音様が立っています、白木蓮の散華が見られます)
 
私は雲水さんに尋ねてみました。
「何故、遊行寺さんは花が多いのですか?」
雲水さんは
「さあ・・・・何故でしょうかね・・・」
素っ気ありません。
で、私は重ねて聞きました。
「でも、そこの椿はわざと掃かなかったのでしょう・・・・?」
雲水さんは
「椿は散ってからも暫くは綺麗ですからね・・・・」
やはり、花が好きで・・・・理由は無いのだ・・・・、
それだけの事だ・・・・。
 
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                      朝の勤行でわざと掃き残した藪椿の落花、向こうは本堂
 
 
 
池畔のベンチに腰掛けて今年も見事に咲いた白木蓮を見上げます。
至福の時間が過ぎてゆきます。
白木蓮さんが終わったら・・・・・次は私の番よ!
言いたげに枝垂れ桜の大木が、ボタンの若芽が膨らんでいます。
今しばらくの間は水曜日には遊行寺に詣でる楽しみが続きます。
 
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               (もう、境内には杏の花が咲き出しました。花のバトンは枝垂れ桜に継がれます)
 
 
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ヒキガエル、合戦より帰還する!

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門扉を開けると、足元に物体があります。
濡れ雑巾のように、ズシンとタイルの上に置かれています。
何かと思えば、ヒキガエルです。
我が家に居座って、もう7年にはなるでしょうか?
「あやまあ!今頃冬眠から覚めたか・・・・」
そういえば、昨秋にも挨拶して行った。
「暫く寝てきます、春また会いましょう・・・・」とお別れした居候です。
 
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                                          昨年秋のヒキガエル
 
 
でも、顔を近づけてみれば、冬眠明けではもなさそうです。
体中負傷しています。
眼は濁って閉じ加減で、左の前足が踏ん張れません。後ろ足もダランと伸びたままです。
体全体が左に傾いてしまっています。
まるで、関が原で敗れた侍のようです。
見れば、目の前はレンガです。
レンガを超えられないで、棲家に帰還できないでいるようです。
こんなところに長居していれば、ゴミ溜めを漁っていたカラスに食べられてしまうかもしれません。
 
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  ヒキガエルの棲家はこのレンガの先、植え込みの中です。でも、レンガを超えられないようです。眼も白濁、
  生気を欠いています。色が黄土色から灰色になっているのは保護のため変色するのです。
 
 
私は、思い出しました。
小林一茶の名句を。
  やせがえる 負けるな一茶 これにあり    (小林一茶 7番日記)
 
一茶は3歳の時母を亡くしました。
継母に育てられましたが、弟が生まれます。継母の愛情は弟に注がれます。
一茶は小さなもの、弱いものを見詰め愛情を注ぎます。
この句を記した7番日記には「4月20日蛙合戦を見に・・・・」と注書きしてあります。
一茶爺さんは信濃柏原の遅い春を迎えて、ヒキガエルの合戦を池に見に行ったのでしょう。
一般に「蝦蟇合戦」と呼ばれます。
 
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  蛙合戦で左前足に負傷したようで、力が入りません。傾いています。顔面に血が滲んでいますし、眼には「疲  れた・・・」言っているようです。
 
 
蛙の合戦は集団の求愛行動です。
一匹の雌蛙が排卵しそうになると、沢山の雄達が集まります。
雌の背中に乗って、両の腕で膨らんだお腹を「グイッ」と押します。
そのまま押し続けます。
お陰で雌は尻の穴から「トコロ天」の卵を排出します。
すると、雄は白い精液を排出します。
背中に乗れなかった周囲の雄も一斉に精液を排出します。
冬の間静まり返っていた池は俄かに賑やかになります。
こうして、体外受精は完了です。
一匹の雌の排卵が終わると雄達はまた別の雌を探します。
それらしい雌が見つかると数匹の雄が先を争って奪い合いをします。
最高のポジションを掴んだもの、その上から圧し掛かるもの、またくんずほぐれず蛙の合戦が始まります。
 
 
一茶の目は蛙合戦で極めて劣勢な痩せ蛙に注がれます。
「負けるな!負けるな!」
今流に言えば
「負けないで・・・・、負けないで・・・・・」声援したのでしょう。
 
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                         ミミズのプレゼント、直に気づいてパックとゆきました。
 
我が庭に帰還した蝦蟇蛙は明らかに大負傷をしています。
屹度、合戦で体力を消耗しつくしたのでしょう。
蛙の事です、たとえ骨折していても静養すれば再生は早いでしょう。
私は腐葉土を掻いてミミズを探します。
蝦蟇蛙の口の先に置いてあげます。
蛙は上目遣いして私を一瞬見たようです。
瞬時にミミズを食んで、呑み込んでしまいました。
 
貧乏所帯で肉親の愛に恵まれなかった一茶でした。
52歳で遺産を相続します。
27歳も若い「菊」を晴れて嫁に迎えます。
句日記はこまめに書き綴ります。
文化13年8月、54歳の日記には
「晴 菊女帰ル 夜五交合」と書きました。
可愛い菊が何処かに出て行って、帰ってきたのでしょう。
「夜、5回も愛してしまった・・・・」
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                      我が家前の路地を帰還中のヒキガエル、これは少し若造です
30分もしてまた我が家の居候蛙はどうしたかな?
見に行きました。
もう、タイルの上には見えませんでした。
屹度、何時ものポジションに戻った事でしょう。
まあ、ゆっくり傷を癒して欲しいものです。
 
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                      ヒキガエルの棲家はこの弥勒さんの植え込みの中です
 
 
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花咲爺さんの話(彼岸桜の話)

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戸塚区と泉区の境に「深谷通信隊基地」がありました。
この一帯で一番の丘陵で、お椀を伏せたような形です。
ですから、軍部の通信基地として活用されたのでしょう。
戦後は米軍に接収され、今「跡地利用計画」が進行中です。
現在は市民農園と野球場に活用されています。
 
その真ん中を中和田から汲沢に向けて一本のバス通りがあります。
その両側に花木が植わっています。
白木蓮に江戸彼岸桜、
誰が植えたのか・・・・・?
白とピンクは少女趣味ですが・・・・。
米軍でしょうか・・・・、それとも道路局かはたまた市民でしょうか。
 
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 (米軍に接収された深谷通信隊基地は返還され跡地は野球場や市民菜園に利用されています)
 
バス停の江戸彼岸桜が大きくなりました。
バス待ちのお客さんの頭上にピンクの傘がかけられます。
その傘に沢山のメジロが寄ってきています。
お客さんは花を愛で、メジロの姿を眼で追います。
お彼岸になったら咲くので「彼岸桜」です。
 
彼岸桜と大島桜を合体させたのが「江戸彼岸桜」です。
「江戸」とつけたのは江戸っ子が開発したから・・・、
花といえば吉野か嵐山・・・・、いや江戸にもこんなに見事な桜があるんだぞ・・・・、
そんな意気込みが感じられます。
小さな花が密集して咲き、見事な姿は、江戸小紋を召した女将さんのようです。
 
染井吉野は100年の寿命、方や彼岸桜は1000年を優に越します。
全国各地の桜の名木は大半が彼岸桜です。
概して丘の上にランドマークのように咲いています。
水はけの良い土地が好きなのでしょう。
 
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               (周囲は相鉄の延伸に伴い住宅地に開発され、貴重な空間になっています)
 
 
奈良の寺寺は平地に建てられましたが、平安時代になると寺は山に入ります。
同時に法華経の教えが広がります。
お坊さんは「人の命も動物や木の命も同じもの・・・・」教えます。
教えはお経よりも、説話やお話で伝えます。
漢文で書かれた「日本霊異記」は、平仮名書きの御伽草子や古今著聞集に発展して行きます。
字も内容もドンドン日本化して、浸透して行きます。
勿論説話自体も変容して行きます。
そうして、説得力を増し、日本人の情操を育みます。
 
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                                               (花咲き爺さんの切手)
 
「花咲き爺さん」は江戸時代になって赤本に登場します。
でも、その前から広く口伝されていた説話だったのでしょう。
お話は皆さんご存知でしょうから紹介しません。
で、私はこのように類推しているのです。

 
平和な山村に心優しく堅実に暮らす老夫婦がいました。
お爺さんは毎朝丘の上のお寺さんにお墓参りし、境内を掃いて、草木の面倒を見ていました。
子供はいませんでしたが、一匹の白い犬がいました。
ある時シロは墓地で「此処掘れ・・・ワンワン」をします。
シロの訴えに気づいたお爺さんは鋤で掘りました。
金貨が出てきました。
「命と同じようにお金を大事にした人」が埋めておいたものでしょう。
お爺さんは和尚さんに報告して、村の人に分けてあげました。
 
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                         (江戸彼岸桜に集まったメジロ、今頃は群れをなしています)
 
 
それを嫉んだ意地悪老夫婦が無理やりシロを持ち帰りました。
そして「私にもお宝を教えろ!」強要します。
しかし、シロが教えた場所からはガラクタしか出てきません。
怒った意地悪爺さんは鋤でシロを打ち殺してしまいます。
 
優しい爺さん夫婦は泣く泣く犬をお墓に埋めました。
お墓は桜の木の下でした。
爺さん夫婦は桜の木を「シロや・・・シロや・・・」といって可愛がりました。
毎年、彼岸になると桜の木は見事な花を咲かせてくれました。
 
ある夜シロが夢に出てきました。
「桜の木を切り倒して臼を作りなさい。」
そこで、夢の通りにして臼を作り、彼岸に餅をつきました。
すると、餅は財宝に変わりました。
 
再び意地悪老夫婦が登場します。
無理やり臼を借り受けます。
そして餅をつくと、再びゲテモノに変わってしまいました。
怒った意地悪爺さんは臼を焼いてしまいます。
 
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優しい老夫婦は悲しく灰だけを返してもらいます。
そして、その灰をシロのお墓に供養しようとすると・・・・、シロが囁きます。
「桜の枯れ木に灰を撒いて御覧なさい・・・・・!」
 
ある日、お寺の下を大名が行列をして通り過ぎようとしていました。
優しい爺さんが枯れ木の桜に登って灰を撒きました。
すると、枯れ木が見事に花をつけました。
(実は優しい爺さんは大名行列の合わせて桜が咲くように温度調整をしていたのです)
お殿様は大喜び、お爺さん夫婦にご褒美をあげました。
 
それを見た意地悪爺さんは「私も・・・・・」言って枯れ木の登って釜戸の灰を撒きました。
ところが花が咲かないばかりか、灰がお殿様の目に入ってしまって、罰を受けてしまいました。
 
 
私達は心優しい爺さん夫婦のように、過ごしたいと願っています。
シロと桜と可愛い婆さんと・・・・・お迎えが来るまでの間を心穏やかに過ごしたいと願っています。
被災地のTVを見るごとに、ペットはどうしているだろうか・・・・・?見詰めます。
ペットは避難場所には連れてゆけないでしょう・・・。
ペットの食事はどうなっているのかしら?
ペットどころではない事は百も承知です。
悲惨な状況になればなるほど、人間の本質が露になります。
文化の質も目に付きます。
被災地中に花咲き爺さんが溢れていて、今も苦しんでいる事と思います。
でも、ペットともども生き抜いてください。
御伽噺の先人からのメッセージです。
 
 
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(丘陵の西端、境川を見下ろす高台にある蜜蔵院は花一杯です。花咲き爺さんの話はこんな風なお寺に伝わる説話だと思います)
 
 
 
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「色好み」と「双体道祖神」

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東北大震災が発生して2週間が過ぎました。
連日、被災された方々の姿が映し出され、その姿に深い感銘を受けています。
一方、福島原発の状況に眉を曇らせます。
まるで、私達の足に結ばれた鎖のようです。
鎖が解かれないと本当に復興に集中できません。
 
 
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     (今日の話題は双体道祖神、これは箱根湯本のもの、千曲川流域の意匠です。今では安曇野タイプとも      ども目立つようになりました。これは歴史資産ではないようです。)
 
我が家でも大揺れしました。
本棚から本が崩れて落ちました。
床に落ちた数冊の中から、学生時代いつも携えていた文庫本を拾い上げました。
本の名は「性の石神/双体道祖神、伊藤堅吉著 昭和44年」でした。
ページをくくると、其処此処棒線が引かれ、写真の道祖神を探しに千曲川に、安曇野に出かけた日々を思い起こしました。
当時は一人で出かけていました。今は愚妻が同行します。
 
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「藤沢市西俣野177北の窪」双体道祖神。元文元年(1736)造像、施主9名の名が台座に刻まれている。サイズは(49*45*像高35 )奥は日大農学部の試験農場に続く。
 
 
今は時間も余裕があります。
出かければ、路傍の庚申塔に馬頭観音にそして道祖神に眼が行きます。
カメラもデジタルになりました。
整理も随分楽になりました。
そして、私も少しは勉強しました。
道祖神を見る眼も、スキルもそれなりに進歩しました。
そこで、近年改めて考えを整理しています。
今日の写真は藤沢境川沿いの双体道祖神を掲載します。
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 (藤沢市渡内日枝神社下の双体道祖神、文政4年 願主四谷村 H44・W26・像高34 襟元の飾りが可愛い和装神像。状態極めて良い)
 
双体道祖神は江戸時代初頭、箱根の山の周囲で突然に発生します。
小田原から山北にかけては古さ、数共に全国トップの位置にあります。
近世になって、江戸を中心とした物流の活発化、旅人の増加は農村社会に変革をもたらしました。
今までは口伝でしか信仰を伝えなかった農民に偶像を産ませました。
「集落は全員仲良くしなくてはいけない」「嘘をついたり盗みをしてはいけない」・・・禁忌(タブー)を司る神は「庚申信仰」になりました。
そうして「五穀豊穣であって欲しい」「健康な子孫に恵まれたい」・・・願望は「双体道祖神」を生みました。
 
旧約聖書の創世記では神が総てを創ります。
最後に人間の男女アダムとイブを創ります。
日本の神話では既に大地はありました。
イザナミはイザナギと仲良くなり、受け入れます。
そうして、二人の愛の交わりが沢山の命を産みます。
それを社会宗教学者はシャーマニズムとかアミ二ズム(原始宗教)と呼びます。
でも、自然を観察して、畏敬の念を抱けば自然な発想でした。
 
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  藤沢市亀井野1358-1双体道祖神2基 左元文2年、右寛政9年造像、五輪塔の頭頂部が置かれているのは男  性器を模していると云われる。女性器は川原石の事が多いが此処には無い)
 
平安時代には光源氏や在原業平が理想の男性として尊敬されました。
次から次に、様々なタイプの女性と接触します。
色好みは「色情狂」ではありません。
大変な老婆の相手もします。
男女の機微がわかる男性は「色好み」と評されました。
「色好み」な男性が持て囃された訳ではありません。
和泉式部は誰からも愛されましたし、かぐや姫は色好みの男性を5人もあしらいました。
女性の家に男性が通いました。
男女は平等で自由恋愛でした。
どんなに偉い人でも、お金持ちでも、女性は好きに男性を選択できました。
 
でも、仏教が浸透し、儒教が広がると自由恋愛は束縛されました。
女性は「貞操」を求められ、男性は「純潔」を期待されました。
明治になると法律で「一夫一婦制」になりました。
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藤沢境川沿いには杏が花盛りです。遠くの塔は薬科大(昔の横浜ドリームランドのランドマーク)
 
でも、農村では事情は異なっていました。
元気な青年が「夜這い」する事は特段問題ではありませんでした。
また鎮守の祭りは「婿探し、嫁探し」の場でありました。
年長者はカップルをまとめた数の多さを競いました。
勿論娘は働き者の男を、青年は気立ての良い娘と結婚したい・・・祈りました。
両親は倅・娘に良縁が出来て、沢山の孫を抱きたい・・・願いました。
で、願いは偶像を作らせました。
イザナミ・イザナギにような・・・・多産の神様でした。
キリスト教やイスラムの世界には無い、カップルの神でありました。
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藤沢市渡内日枝神社下の双体道祖神、文政10年 願主半谷重右門、H47・W27・像高33 状態極めて良好
 
古代に普通であり美徳であった、「色好み・通い婚」が農村社会では連綿として続き、
江戸時代初頭に双体道祖神を出現させたと思われます。
 
で問題は何故、相模の国の西部で出現したか・・・という事です。
此処は二宮尊徳をうんだ農業先進地であり、街道の要衝であり、大山寺や大雄山最乗寺(道了尊)の信仰の厚い土地柄でした。
そして、箱根石仏群のある場所でした。
その意匠が日本独特の双体道祖神を生んだと思っています。
この段は、別の機会に説明させてもらいます。
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  箱根石仏群(鎌倉時代・重要文化財)から、巨岩に六地蔵尊を彫るに際し、二体づつ配した。この意匠が双体    の地蔵尊、双体の僧形道祖神に展開下・・と仮説します
 
 
 
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ドリームランドの記念塔

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武蔵と相模の境を流れている川が「境川」です。
片瀬海岸から海に流れ出します。
下流になるにしたがって、河岸段丘が広くなってきます。
段丘の西側が藤沢市、東側が横浜市です。
平安時代から室町にかけては、西側に大庭が東側には俣野が居城を構えていました。
横浜側の段丘の上からの眺めは素晴らしく、俣野町には住友家が別荘を建てたほどです。(重要文化財)
その丘陵の真ん中にタワーが建っています。
昔は塔屋の上に九輪(五重塔の頂にある)が立っていました。
一見してランドマークタワーである事が解りました。
これが「横浜ドリームランド」の宿泊施設「ホテルエンパイアー」であり、広告塔の役割も果たしていました。
 
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    (在りし日の横浜ドリームランド大観覧車、今は小山遊園地で働いているそうです。YAHOOより)
 
横浜ドリームランドは栄枯盛衰の激しいプロジェクトでした。
今思い起こしてみても、時代ニーズに合ったプロジェクトなのですが、運が悪かったというか、気の毒な案件でした。
昭和の高度成長期を象徴するようなプロジェクトで、
清算の憂き目を見てしまいました。
今は横浜薬科大学の教室になっています。
此処で学ぶ学生達もこの建物がホテルであって、巨大遊園地のランドマークであった事は知らないでしょう。
そして、教室の窓から富士山や相模湾に浮かぶ江ノ島を眺め、湘南を実感している事でしょう。
一方私達はいつも下から眺めています。
何処からでもこの高い塔が見えます。
ですから車を運転しても方向感覚を誤ることはありません。
あの塔の下、500メートル東が原宿である、誰もが知っています。
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  (近隣は住宅が囲んでいます、何処からでも高層建物が確認できます
 
(株)ドリーム観光は大阪南に歌舞伎座を所有、奈良にはドリームランドを経営し順風満帆な優良会社でした。
関東への進出を計画、戸塚区俣野に昭和39年(1964年)横浜ドリームランドを開業します。
私は未だニキビの中学生でした。
何だかドエライ遊園地が戸塚に出来た・・・・、興奮していました。
加えて大船駅から遊園地までモノレールという新しい乗り物まで設備されました。
オーナーの松尾國三は「日本にディズニーランドを作る」標榜したのですから、先が読める人物だったのです。
更に、チャチなものではなく、遊園地やボーリング場、スケート場にショッピングモール、シネマコンプレックスまで設備した当時日本屈指のレジャー施設でした。
総面積40万坪、総工費200億円の壮大な事業でした。
160万人/年を集客します。
 
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      (杏の花の向こうにランドマーク)
 
しかし、開業二年目の1966年、思いもかけない躓きが発覚します。
モノレールの橋脚に亀裂が生じていたのでした。
モノレールの重量と橋脚の強度計算に過ちがあったとも思えません。
コンクリートが乾ききらないうちに大量のお客さんを運んだのでしょうか?
原因は闇ですが、モノレールが運転できなくなってしまいました。
一方、原宿交差点は名うての渋滞地帯、大船駅からドリームランドまで本来15分で着けるところ、1時間以上も要する事態に突入しました。
ドリームランドは、辿り着くのが大変だ・・・悪評が立つと客足が遠のき始めます。
遊園地事業はひとたび蔭りが生じると加速度的に斜陽化します。
昭和45年(1970)に敷地の東側を住宅地に売却して運転資金に充当します。
それでも1980年代初頭にかけては、京浜地区ではトップの施設でした。
それなりに事業を継続していました。
私達家族も再三子供達と出かけました。
しかし、1983年東京ディズニーランドが開園すると急速に客足が遠のきます。
 
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           (花応院の裏山から眺めたランドマーク、手前は辛夷)
 
日本ドリーム観光本体は松尾國三の死去してしまいます。
すると遺族と経営陣の経営権争いが泥沼化します。
ダイエーの中内功は遺族側を支援し、同社の経営権を掌握します。
当時のダイエーはプロ野球球団南海ホークスを買収、力もありました。
しかし、バブル崩壊によって沈みます。
ダイエーが銀行管理になると、もう遊具の入れ替えなども出来ずドリームランドの客足は遠のきます。
1995年にはホテルエンパイアも閉業、廃墟同然な状態になります。
 
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            (辛夷にムクドリ)
 
2001年ダイエーでは中内功氏が退任に追いやられます。
横浜ドリームランドはリストラの対象になります。
不動産としての価値が評価され、巨大遊園地は整地して売却する事になります。
2002年横浜ドリームランドは37年弱の一生を終えます。
一時、中古車売り場としての計画が立ち上がりますが、渋滞に閉口していた地域住民が大反対します。
結果、用地の大半が公園墓地と野球場に、そしてホテルエンパイアーの建物が横浜薬科大学に売却されて、現在に至ります。
 
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    辛夷の花は仏前の花のようにも見えてきます
 
境川の河岸段丘は何故か辛夷の大樹が自生しています。
真っ白な花越しにランドマークの建物を見詰めます。
遊園地事業は人に遊びを提供するもの、人間そのものが移ろいやすいものですから、時代の変遷にも係らず「夢を売り続ける」ためには様々な外部経営環境変化にしなやかに耐えられる体制が必要なのでしょう。
横浜ドリームランドの生死を制した東京ディズニーランドは浦安の砂地を埋め立てて建てられました。
「青べか物語」の土地に作って大丈夫かな?・・・・・心配もありました。
しかし、湾岸道路が出来、京葉新線が開通、一層外部環境は追い風になって一人勝ち状態が続いていました。
華やかな遊園地の足元が砂で、それこそ砂上楼閣である事を忘れていました。
今次の大地震では液状化現象によって休園し続けています。
様々な試練を乗り越えて事業を継続する事は難しい事です。
 
横浜ドリームランドの跡地霊園に眠っている人は、遊園地の時代を経験している事でしょう。
各地の遊園地が故人の魂が安息する場所にならないように・・・・、
期待しています。
 
 
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故郷の誇り「関の羅漢槙」

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色々の事が重なって、義父母の墓参りが遅れていました。
家内は牡丹餅を仏壇に供えながら、気にしていた事でしょう。
横浜では墓石こそ倒れませんでしたが、灯篭は随分倒れていました。
 
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     (写真は千葉県長生郡関の槙の木亭、庭の倒れた石灯籠)
 
湾岸道路から川崎、木更津を経て茂原に向います。
その先に長生郡白子町があります。
長い九十九里浜があって、その陸側に松林があります。
松林の端には1メートル余り高い堤が出来ています。
これは先人が築いた津波対策だったのでしょう。
このお陰で、田圃が海水に浸かる事も無く、また人々の命を守ってくれたのでしょう。
津波は千葉でも多くの命を奪いました。
九十九里浜の北では13人が津波で亡くなりました。
2.4メートルの高さであったそうです。
入り江の奥ではもっと高い津波だったのでしょう。
 
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  (長生郡の屋敷森風景、周囲を槙の生垣、庭に羅漢槙の丸刈りが並んでいます。家の格を決めているのでしょう)
 
お墓も無事でした。
菩提寺にも挨拶して、田圃委託先の農家に挨拶もしました。
さて・・・予定は総て終えた・・・・後は歴史散策でも楽しみながら帰るとするか・・・・・、
先ずは昼飯に地の魚を食べよう・・・・・、
家内が帰途につく前に「関の羅漢松」を見ましょう・・・、
「千葉県の歴史散歩/山川出版」を片手に、槙の写真を見せます。
 
長生郡には槙が目立ちます。
屋敷森の垣根は必ず槙で作られています。
垣根の素材は「犬槙」です。
その上に形良く刈り込まれたのが「羅漢槙」です。
写真の「関の羅漢槙」は樹高9メートル、樹齢800年、天然記念物・・・・とも記載されています。
 
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  (槙の畑の向こうにあるのが「まきのきてい」の割烹棟)
 
槙の字は木偏に真実と書きます。
沢山の樹木を図に描けば、「真ん中に位置する樹である」との意味でしょう。
曼荼羅でいえば大日如来みたいな位置にあります。
犬槙は犬走り(築地の外側の、壁 と溝との間の狭い地面)に植えられる「槙」の意味でしょう。
槙は常緑で、病気にもならず、毛虫も付かない・・・・福の神も依ってくる好ましい木として生垣に愛用されました。
 
犬槙の葉っぱを二周りも小さく細い木が見つけられました。
丸刈りに刈り込めば最高の庭木になりました。
江戸時代、南画が描かれ、羅漢様が刻まれました。
そこでこの珍しい槙に「羅漢」の名を冠せました。
庭の中心木に羅漢槙を植えて、最高の技術で刈り込みました。
そして、その姿を愛で、自慢した事でしょう。
勿論、槙の実は托が紅く、実が青く、達磨(羅漢の先達)のようでありました。
晩秋になれば無数の羅漢が実って、地上に落ちました。
 
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  (羅漢槙の正面姿、句碑は楠本健吉「羅漢槙泰然として 此処に在り」)
 
関の羅漢槙は樹高9メートルですから、お屋敷の中にあっても頭は出ているであろう・・・・、
関の屋敷森の中をめぐりました。
でも、中々見つかりません。
農家の中に入って尋ねます。
お爺さんが話してくれました。
 
『ああ、関の羅漢槙を見に来なさったか・・・・、
「槙の木亭」の中に入りなさい。
お庭の真ん中にありますよ。
道路を巡っても、屋敷が広いから見えないでしょう。
私が子供の頃は羅漢槙に登って遊んだものでした。
でも、名主さんが東京に去って、新しい人が買われて、囲ってしまいましたので・・・もうそんな事はできません。
でも、天然記念物ですから、見るだけでも応じてくれると思いますよ・・・・。』
 
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            羅漢槙の後姿
 
私達は「まきのきてい」で昼食をする事にしました。
西側が割烹の造作で、東側はドライブインになっています。
今日は法事会席もあって大賑わいのようです。
大半がテーブル席で、予約が入っていました。
私達は小上がりに案内されました。
天井が葦で葺かれていて、丸木の骨組み・・・何処か東南アジアのレストランに来たようです。
なんとなく嬉しくなって、パクチの匂う料理を食べたくなります。
でも、何処にもあるような日本食が案内されています。
「コーヒーセットで1000円」・・・リーズナブルなメニューが並んでいます。
 
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                                   アジアンテーストなドライブインの店内
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                     これにコーヒーがついて1000円でした
 
 
流石に立派な羅漢槙でした。
私は元来嫌味な性格・・・、槙の周りを何度も回って見ました。
どのアングルが良いか・・・・、
どのアングルが悪いか・・・・、
盆栽なら正面からの形を意識して作られているでしょう。
でも、庭は回遊するもの、何処から見てもシンボルツリーでなくてはなりません。
何処から見ても姿が良いのですが・・・・割烹玄関口が最高で、歴史散歩の写真にも載っているのでした。
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        長生郡関の一般的な景色 両側の生垣は総て犬まき
 
 
私は家内に言います。
「関の羅漢槙流石に立派なものだ、長生郡の自慢じゃないか。
どうしてお父さんはこの店を案内しなかったのだろうか・・・・?
これなら自慢できたろうに・・・・!」
 
家内は言います。
「父の時代には無かったのじゃない・・・・」
私は店に尋ねました。
『「槙の木亭」はお店を開いて35年になります。』
 
私達は父の一生を思い起こします。
長生郡の秀才?として東京の大学に出て来て・・・、
一流の金融機関に勤めて・・・・、
定年を迎えて・・・独立して・・・・、故郷とは遠ざかっていたのでしょう。
 
未だ、私達の背中には父母が立っていて、呟いているようです。
「美味しかった!・・・・良かったね・・・・」
昔から此処は住みやすい土地だったのだよ・・・・、
だから、長生郡とつけられたのだ。
羅漢槙も人間も長生だよ・・・・。
 
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                    「まきのきてい」の庭には野鳥が飛来してきていました。写真はジョウビタキ
 
 
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竜骨のある寺の「木藤の花」

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義父が芙蓉グループの某社に勤めていたので、藤沢の「芙蓉カントリークラブ」のメンバーでした。
何度も誘われてラウンドをしました。
距離が無く、左右に曲げられないコースですが、庭園のような美しいコースでした。
西には大庭城址公園と湘南ライフタウンの家並みが眺められました。
真直ぐ飛ぶ人にはスコアが出て、ラウンドを楽しめるコースでした。
総じて、義父がフェアーウェーを、私はラフからラフに走っていました。
 
宗賢院は芙蓉カントリーの脇にありました。
多分、お寺の裏山がゴルフ場になったのでしょう。
私が義父とラウンドした頃には全く気付きませんでした。
屹度グランドデザインに際して、設計工夫したのでしょう。
お墓や境内に打ち込まないように、そして双方がお互いから見えないように・・・・。
 
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                            (宗賢院の本堂、左側に龍骨を祀るお堂があります)
 
境川と引地川の河口が交叉する辺り、広い湿地帯でありました。
海川の湘南高校の向こうは「鵠沼」であります。
古代末期、その大湿地帯にを見下ろす台地上に大庭景親は「大庭城」を築きました。
更に中世には太田道灌が修復致します。
後北条氏が勢力を伸ばすと、1505年には宗賢院を建てます。
山号を「幡龍山」と名付けました。
 
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                             (龍骨にちなんで山号を「幡龍山」とつけられました)
 
北条早雲等は此処の治水に腐心したのでしょう。
川下に築堤し、灌漑池としても活用できるようにします。
そんなさなか、台地上から大きな骨を発見します。
今なら「太古の時代、●○恐竜の骨だ」として大騒ぎした事でしょう。
でも、北条氏らは「これは龍骨だ!」信じて、宗賢院に祀ります。
そして、飢饉があれば農民に竜骨を貸し出し、祈祷します。
龍骨の霊験はあらたかで、一帯は豊かな穀倉地帯になりました。
 
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      (今日の花は今満開の木藤の花、藪の中の潅木ですが中々雅な花が咲きます)
 
宗賢院は静かで美しい谷戸の奥にありました。
本堂前には白木蓮とミモザが咲いています。
何処か湘南らしいお洒落なお寺を感じます。
本堂の南側のあるお堂が「龍骨」を祀ったお堂のようです。
周囲にはもう木藤が今が盛りに咲いています。
木藤が多い寺だなあ・・・・・、木藤が美しい寺だなあ・・・・、思います。
木藤は龍の簪のようです。
 
庭先には鶏が飼われています。
流石に放し飼いではありませんが、健康そうです。
我が生家では10羽余りの鶏を放し飼いでした。
 
私の役目は境内を卵探しする事・・・・家族の分だけ卵を探さなければ食事にありつけませんでした。
私が普通に成長すれば、どこかのお寺の住職であったろうに・・・・・、心の底には多少の感慨もあります。
東北大震災では無住だった寺が廃寺の憂き目に遭おうとしている事でしょう。
 
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                  目立たない木藤ですが藪に同居している椿と並ぶと目立ってきます
 
 
宗賢院の山門を出て、大庭城址に向います。
その最も低い位置に「船地蔵」さんがあります。
治水に係る悲しい話が伝承されています。
私は、双体の道祖神を調べに回っています。
この辺りは街道が交差して、農村も豊かでした。
そんな所には「美しい道祖神」が残されています。
「美しさ」も「悲しさ」もお互いに際立たせるようです。
そう、藪の中の「椿」と「木藤」のような関係です。
 
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                  宗賢院から大庭城址に向うと双体の道祖神が祀られています
 
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                                     (もう一基、双体の道祖神、これも宗賢院近くです)
 
 
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竹林の「花大根」(貞宗寺にて)

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春らしい暖かな陽気になりました。
靖国神社の染井吉野が開花したそうです。
鎌倉の寺寺には花大根の花が目立ち始めました。
 
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                                     貞宗寺の裏山竹林に咲きだした「花大根」の花
 
 
畑の端に大根が忘れたように残されて、花をつけました。
お百姓さんが来年のために種を取る積りでしょう。
根元を見れば艶やかな白い肌が覗いています。
眼には「うまそう!」に見えますが、中身はスカスカで栄養は花に、種に吸い上げられています。
 
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                (大根も花をつけました。こちらは真っ白な花です)
 
花大根も大根も同じ「アブラナ科」の十字花植物です。
ですから、花大根にも太い根っ子がありそうですが・・・・、それがありません。
最近韓国料理で流行の「紫大根」は同じような青い花が咲いた上で、短い大根が取れます。
根っ子が青紫で「私は大根の高麗人参よ!」
そんな表情をしています。
 
ラデッシュ(二十日大根)は紅い肌をしています。
若しかしたら、紅い花がつくのでしょうか?
同じ大根と名が付いても、随分違います。
でも、日本人は「大根の白い肌」が好きです。
 
上野の芸大キャンパス辺りは花大根が群棲しています。
頭上に桜が覆って、足元は青紫の花大根・・・・コントラストが鮮やかです。
何処に行っても「桜に菜の花」がセットですが、花大根の方がお互いに映えると思います。
 
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花大根が日本に伝わったのは江戸時代だそうです。
私の推測では「湯島の聖堂」辺り、儒学者が好んで植えたのではないかと思います。
何故かと言うとあの青い花が儒学者好みだと思っているからです。
韓国歴史ドラマでは青い官服を着ているのは学者ですし、義直で、誠実、忍耐、冷静なイメージがあります。
花大根は別名を『諸葛菜』と言います。
三国志のヒーロー「諸葛亮」が栽培を奨励したからでした。
菜を食べ、花を食べ、根も食べられる。
加えて種をまいてから早くに収穫も出来るし、荒地でも育つ・・・・・・、
まさに戦時下には貴重な野菜だったわけでした。
花大根の青紫の色が諸葛亮の冷静、聡明、義直さを髣髴させてこの名がついたのでしょう。
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   竹林の中に細道が通っています。三椏はもうおしまいです
 
写真は鎌倉植木の「貞宗寺」の竹林に咲きだした花大根です。
孟宗竹の下に一斉に咲きだしています。
竹薮には沢山の山野草が咲きだします。
風鐸草やマムシ草が自生しています。
そんな中にシイタケ栽培をしておいでです。
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今日は春の風が吹いています。
お霊屋の扉も開け放たれています。
貞宗院の御霊も春風に誘われて境内を楽しまれていることでしょう。
そして、花大根を愛でて、未だマムシ草は咲き出していない・・・・・、
回っていられることでしょう。
私のカメラを覗かれて「下手ねえ・・・・」
呟かれたかも知れません。
 
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お霊屋の頭上には白玉のような椿が咲いていました
 
 
 
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山の神の使徒「カタクリの花」(城山にて)

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金町浄水場の放射能汚染が報道されました。
都内全域の水道を「乳児は飲んではいけない」、大きなショックでした。
隣の神奈川は大丈夫かしら・・・・?
県民の水源は相模川の源流、相模湖があって道志川から津久井湖、城山湖の一帯です。
何時もはピクニックの場所ですが・・・・、今回は熱い視線が注がれました。
私の住む戸塚は小雀浄水場から送られてきます。
その発表は3月23日56べクレム、微妙ですが安全と案内されました。
その後、低減し、今では未検出です。www.city.yokohama.lg.jp/suidou/os/20110322153218.html

採水箇所 ※1
小雀浄水場
西谷浄水場
川井浄水場
国の指標値※2
単位:Bq/Kg
(ベクレル/Kg)
 採水日時
 平成23年3月30日
9時00分 
 平成23年3月30日
9時00分
 平成23年3月30日
9時00分




 Cs 134
 不検出
 不検出
 不検出
 合計で200未満
 Cs 137
 不検出
 不検出
 不検出
 I 131
 不検出
 不検出
 不検出
 300未満
 
城山はその名の通り、中世から戦国時代にかけて「山城」があったからでした。
山城の下は橋本や相模原の町があって、更に「紫に煙る相模野」の肥沃な平野が広がります。
城山は大昔から平和な里山風景が広がっていたのでした。
ところが、近年は市街化が進み、工場も立地、「美しい村」は蚕食されていまいした。
こんな光景は何処にでも見られたのでしょう。
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                                        (城山/カタクリの丘から八王子の町を望む)
 
農薬や化学肥料がばら撒かれて、里山には「蛍」や「カジカ蛙」は見られなくなりました。
雑木林は手入れされなくなったので、藪が野放図に広がりました。
その結果、神奈川の県花「山百合」は消えてしまいました。
マツタケも取れなくなりました。
そして早春の魁「かたくり」も消えてしまいました。
山の神様はセッセと山で働く人に微笑んで用意したのでしょう。
「マツタケ」も「カタクリ」も「山百合」も・・・・・、
でも人が山に入らなくなり、振り向かなくなったので・・・・・これ等「山の神のプレゼント」は引っ込めてしまいました。
そして、更に「罰当たりな行為」を続けるのなら・・・・・、美味しい水は恵んでやらないぞ・・・・、
放射能の雨を、汚れた水を洗浄してあげないぞ・・・・・・、そんな警告を感じます。
 
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                                        (古木の足元を埋め尽くしたカタクリ)
 
でも、城山には奇特な人がいました。
小林さんでした。
家は城山湖の東側、深い谷戸にありました。
家の前からは田畑が連なっていて、西側は裏山でした。
裏山の中に先祖から伝わるお墓がありました。
お父様もお母様も亡くなればあの世やお寺の墓地に行くのではなく、裏山の墓地に眠っていました。
ですから、裏山を放置したり、藪にしたり・・・・そんな事は出来ません。
高度成長だ、大学が立地してきた・・・・・、浮かれた話には耳を貸さずに山を畑を大切にしてきました。
 
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   (傾斜地なのでカタクリが俯いていても、お顔を覗く事が出来ます。するとお洒落な模様が見えます)
 
お墓の周りは雑木林でした。
秋に枯葉が散れば、熊手で掻き集めました。
雑木の枝木を伐採して冬の薪炭にしました。
昔から藪が生える余地は無く、庭続きの裏山でした。
其処に春の彼岸になれば、カタクリが咲きました。
仏前花も要りません、自然が花も線香も用意してくれました。
小林さんが気付くとカタクリは希少な環境植物になっていました。
また、都会人がカタクリの美しさに魅了されて・・・・押しかけるようになりました。
 
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  (山の神の使いの妖精のような可愛らしさです。山風が吹き降ろすと花弁が揺れます)
 
カタクリは芽が出て直ぐに花が咲くわけではありません。
7年間も栄養を球根に溜め込んで、8年目に花をつけました。
「8日目の蝉」ではありません、「8年目のカタクリ」でした。
そして、咲き始めて7年程度で萎れてしまうのだそうです。(案内板に記載されていました)
ですから、カタクリを咲かせ続ける事は一代では難しいのです。
祖先が大切にしてきて、自分も手入れをして、子供達にも大切にするよう・・・伝えなくてはなりません。
まるで「匠の口伝」の世界のようです。
一朝一夕で美しいカタクリは出来ない・・・・、だからこそ貴重なのでしょう。
 
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                     ところどころ、白いカタクリも咲きます。バレリーナのような表情です
 
3月30日、カタクリは見頃になったようです。
今週末は最高でしょう。
福島原発事故は様々事を教えてくれました。
「想定外の大津波であった・・・・」
その言い草に海の神は怒ったことでしょう。
「ワシは津波の最大規模を約束した覚えはない・・・、想定する事自体が不遜である。未だ解っていないようだ・・・もっともっと懲らしめてやろう・・・」
そんな声が聞こえて来るようです。
 
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今回は山の神の方が相談し易いようです。
 
「カタクリの花と会話して・・・・、元気を出して・・・・・、自然(神)との距離感を考え直しなさい・・・・」
囁いている様な気がしてきます。
 
   追記:●駐車無料、入場料500円(平日400円)
       ●「両墓制」:農村には「埋め墓」「参り墓」二つのお墓を用意されている事があります。
               肉親が亡くなると、生活地域の山の上などに埋めました。 これを「埋め墓」と呼びます。               一方菩提寺等の墓場に「参り墓」を用意しました。これを「参り墓」と呼びます。小林さん               のお墓は両墓制(埋め墓)だと思います。
               先祖を敬う気持ちが「カタクリの丘」を育てたと思います。
      
 
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城山に咲いた「山野草」の美しさ

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昨日は「城山のカタクリの花が見頃です」案内を書きました。
我が家に戻って「綺麗だったなあ・・・!」家内と思い出話をします。
 
茶箪笥の奥からカタクリのお皿を出しました。
町内会で出されたコンビニのロールケーキを半分に分けました。
「猩々」も「岩団扇」も「菊咲きいちげ」も花を見るのは初めてでした。
私は花の名前と花の印象が一致しないと納得が行かない性質です。
何で古人は「猩々袴」なんて名前を被せたのかな・・・・・、お茶の話題です。
 
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ところで、山野草が着目されたのは1970年頃、私が大学を卒業した頃だったと思います。
高度成長・GNP至上であった時代に、エコロジーが叫ばれていました。
エコロジーは反公害、反農薬、反化学肥料・・・・・など「反」がつきました。
人間の営みを「自然破壊」から「自然に順応」と、ベクトルの向きを変えようとするものでした。
 
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                       城山の山野草、薄いブルーは「菊咲きイチゲ」、カタクリに負けず美しい
 
皮肉だったのは山野草でした。
エコロジー活動家が「野に出てみれば、こんなに美しい花が咲いてますよ!」
照会しました。
その美しさに感動した人は野山に分け入り、僅かに生き残っていた山野草を引き抜いて、
自分の庭に移植しようとしました。
結果、山野草は概して希少種から絶滅危惧が叫ばれるようになりました。
春蘭やエビネのように広まった種は僅かでしょう。
 
そんな山野草です。
名前は聞いていても、花を見ることはありませんでした。
春の山野草の花はほんの僅か、1週間くらいの間に咲いて、種子を残さなくてはなりません。
ですから、私のような者が野山を歩いてもお目にかかる僥倖には滅多に遭いません。
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此方は「雪割り草」、カタクリ共々越後に自生地が数多くあります。今春見られれば幸いです。
 
 
初めて知りました。
山野草は自然環境さえ揃えてあげれば、強い生命力に漲っているのでした。
腐葉土が溜まりすぎて、過栄養でない事、
どちらかと言えば荒地で、渇き気味の地質である事、
そして、クヌギなど広葉落葉樹林(雑木林)の下であること・・・・、
 
雑木林の隅々まで陽射しが差し込んで、大地が僅かに温まるのでしょう。
それを山野草が先ず最初に気付いて、花芽を伸ばし、葉っぱを広げます。
そして花をつけます。
雑木林の地面には一斉に山野草の花が広がります。
蝶も蜜蜂も雑木林の木の洞などで越冬していました。
彼等も起き出します。
女王蜂等は山野草の蜜を吸って子供達を産めや増やせや、活動し始めます。
青葉が広がるまでのほんの瞬時が山野草の勝負の時です。
 
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     「猩々袴」 猩々は伝説上の獅子のような猛獣、連獅子の頭のような姿です。酒を飲まされて成敗されて     しまいます。屹度朱色の花があるのでしょう。
 
花を咲かせる環境が普通でないからでしょう・・・、
山野草の花は奇妙な花が多いようです。
ある時はメルヘンチックで、ある種は伝説上の花でありました。
どれにも共通するのは、花が目立つ事、
上空を飛ぶ蜜蜂などに見つけてもらわなくてはいけません。
「私は此処よ・・・・!早く見つけて下さいな・・・・・・!」
そんな姿です。
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   「岩団扇」、これは葉っぱが団扇のようで、岩場に良く咲いているからでしょう
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                       「菊咲きイチゲ」の花
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                                    同じ菊咲きイチゲ
 
 昨日も書きましたが、城山の「花守り・小林さん」に感謝、感謝です。
 
 
 
 
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四谷の辻の「道祖神」

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高校野球も今日が準決勝、神奈川の東海大相模も実力を発揮しています。
「生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」
選手宣誓に感動しました。
 
大震災で失われた命や財産は膨大でしたが、一方で私達に大切な事を思い起こさせてくれました。
それも、若干18歳にも満たない青年に、
瞬時「明るい未来」を直感した人は多かった事でしょう。
 
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     今日の話題は藤沢市城南、四谷辻の道祖神です。真ん中の双体の石神です。
 
東海道を下って、藤沢宿の手前に遊行寺があります。
その前に丹塗りの「藤沢橋」があって、鳥居が建っていました。(安藤広重/東海道53次版画)
鳥居は「江ノ島神社」の参道(江ノ島道)を示していました。
今は鳥居はありません。
渋滞交差点です。
 
藤沢橋から東海道はダラダラ坂を上って行きます。
坂の上が何故か「四谷辻」です。
辻は平塚宿への道と大山道との三叉路になっています。
此処に石つくりの立派な鳥居があります。
そして分岐点に大きな不動明王が目をむいています。
此処から「大山神社」の参道が始まります・・・・そんな案内の役割を担っています。
 
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        大山神社の鳥居、東海道から見える位置にあります
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               東海道に面した不動明王像、玉眼が入っていますし、光背は木造です。
 
道の分岐には「道祖神」が立っているものです。
昔から私はこの辺りに出かけていました。
 
そして改めて道祖神を尋ねて歩いています。
 
多くの地方の道祖神は若い男女の神像が並んでいて、
手を握ったり、肩や腰に手を廻したり「仲良き事」をアピールしています。
それは、若い愛が孫子を育てるから・・・でしょう。
でも、相模の道祖神には「若い愛の表情」ではなく、大人の愛と言うか、信頼の姿が表現されています。
 
「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」(福翁百話)
偕老同穴とは「死んで夫婦が同じ墓に葬られる事、転じて夫婦関係が一生硬い事」を言い表しています。
福沢諭吉先生も諭しておいでです。
 
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                   川島さん宅、庭先の道祖神がありました。右は野菜の無人販売
 
四谷の辻に「川島さん」という篤農家がいました。
お宅は裏山は芙蓉カントリークラブです。
農家の庭先は何処からが道路で、何処からが畑か不明瞭でした。
道路から覗けば梨の木の根元付近に道祖神が立っていました。
 
茅ヶ崎バイパスが出来たりして、開発が進んだ地域です。
今回出かけてみましたが、道祖神が見当たりません。
私はキョロキョロ探し回ります。
川島さんも東南の角地を特別養護老人ホームに開発して、農業はサイドビジネスになったようです。
でも、道路わきには無人の野菜販売所が設けられています。
もうじき「筍」も並ぶ事でしょう。
 
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     遠くの見えるのが川島さんの特養ホーム、手前が川島さん宅入り口
 
特養ホームの玄関口に道祖神は移っておいででした。
お洒落な茶色のレンガタイルの塀を背にして立っておいでです。
春の陽光が照らして笑顔が際立って見えます。
お着物は僧衣のように見えます。
頭の上は男の神は烏帽子を、女神は長い髪の上に角隠しのような頭巾をかぶっておいでです。
「一生仲睦まじく過します」・・・・そんな姿です。
 
川島さんの道祖神への想いが特養ホームを建てさせ、その玄関に移させたのでしょう。
道祖神の脇には五輪塔の頭部や丸い石が置かれています。
 
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   特養ホーム玄関口の双体道祖神
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 文化5年(1808)、H42cm W28cm 像高35cmの双体の道祖神。一生夫婦相睦まじく・・・教えているのでしょう
 
梨の木は今年も沢山の花をつけようとしています。
白い蕾が膨らんでいます。
沢山のメジロが開花を待ちきれずに蕾のうちから突っついています。
 
         年年歳歳花相似        年年歳歳花あい似たり
         歳歳年年人不同        歳歳年年人同じからず
 
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                                   未だ蕾の梨の花
 
 
白頭になってしまった翁が人の変遷を嘆いて詠った詩です。
でも、紅顔の青年も老いて白髪になってしまうのは自然の理です。
そして、人間である限り「変わらない事」もあります。
高校野球の選手宣誓は「不変の真理」を思い起こさせてくれました。
頑張れ、被災地の人、そして高校球児たち・・・。
 
PS,上倉田町では4月1日300枚に及ぶ毛布を被災地に横浜市経由で送らせていただきました。
    協力していただいた方々お疲れ様でした。
 
 
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川上町「熊野神社」の道祖神

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名門の戸塚カントリークラブや横浜カントリークラブに行くには、横浜新道川上ICを降ります。
横浜の副都心「東戸塚」に行くにも川上ICを降ります。大変に便利なICであります。
 
横浜新道は昭和11年に開通します。
戸塚カントリークラブは昭和26年に開場します。
更に横浜新道が昭和43年に第三京浜や首都高と直結します。
すると、川上IC周辺を横浜の副都心に開発する計画が着手されます。(東戸塚再開発事業着工昭和56年)
JR東戸塚駅が出来て高層マンションが林立し始めます。
川上ICは川上町を一変させました。
 
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            川上町の貴重な田園風景、桜の木の丘の向こう側に横浜新道川上ICがあります
 
「川上」の名は柏尾川の上流だからでしょう。
更に川を遡ればお隣の「信濃」に繋がります。此処が分水嶺です。
まるで、千曲川の源流に近い「信濃川上」を思い起こさせてくれます。
 
川上ICが出来る前、とりわけ東戸塚駅の開発に着手する前のこの一帯は山や畑の田舎でした。
でも歴史は古いものがあります。
信濃の北天院は宋から招聘された「無学祖元」が最初に構えたお寺です。(円覚寺の前)
そして川上の熊野神社は天長6年(829)に創建されたと伝えられています。
熊野神社の社史を読むと、川上町に社殿を構えていましたが、
明治33年東海道線の開通にしたがって現在地に移転した、と記されています。
 
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                      熊野神社の社殿 社殿前(左)に町内の石神が合祀されています
 
熊野神社に「双体道祖神」がある・・・・ネットで調べて確認に出かけました。
大山道に面して横浜新道川上ICの西側に川上団地進入路があります。
広い道が湾曲します。
其処が熊野神社の杜です。
杜の西側は畑が続いていて、その先には丘陵が繋がっています。
杜の梢の先には東戸塚駅前の高層マンションが見渡せます。
実はあの丘陵の真下には横浜新道が走っているのです。
ですから、熊野神社と横浜新道に囲まれたこの空間が昔の面影を残しているのです。
 
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                          川上町熊野神社の道は信濃川上のようです
 
手前の杏の木があって、見事に花を咲かせています。
遠くには彼岸桜が今を盛りに咲いています。
畑を農夫が耕しています。
今は夏野菜の種蒔きでしょう。
春野菜はもう収穫適時を過ぎようとしています。
カリフラワーも菜の花を咲かせていますし、葱も葱坊主の花を咲かせています。
若いお母さんは
「お野菜も花を咲かせるの?」
「でも、お洒落じゃない・・・・!」
なんて素頓狂な声を発する事でしょう。
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   手前が葱坊主、その向こうに杏の花 丘の向こうに高層ビル(第一生命)が透けて見えます
 
 
足元には「冬知らず」が花をつけています。
冬知らず、なんて名前ですが春になれば花数も花輪も大きくなります。
やっぱり、春が待ち遠しかったに違いありません。
 
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                        手前、きんせん花のような花が「冬知らず」、右奥が川上団地
 
 
熊野神社の社殿はコンクリートで出来ていました。
神様のお住まいが社殿です。
やっぱり木や石であることが望ましいに決まっています。
「何故?コンクリートなのかしら・・・?」
 
社殿の脇に案内が為されていました。
平成5年10月8日、真昼に不審火で全焼してしまったのでした。
そこで、氏子が協力して65百万円、地元の大洋建設によって新社殿を建築したのでした。
開発事業のお陰で町は繁栄したものの、不幸な事件もあったのでした。
「もうこりごりだ!」
そんな想いがコンクリートの社殿を実現したのでしょう。
 
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                                       熊野神社から東を望む
  
社殿の手前に近隣の石神が集められていました。
開発の域内にあった神々が移されて、合祀されたのでしょう。
私の目指した「道祖神」は・・・・、
お可哀相にお二人ともお顔を壊されておいでです。
此処の道祖神は「地域の人や、大山詣での旅人を守る神様」です。
ところが、お地蔵様のような丸坊主で僧衣を着ておいでです。
多くを知らない人が「廃仏毀釈」の熱にうかされて、壊してしまったのでしょう。
 
「人間を守る」役割の神像を、仏像と間違えて損傷を負わせるとは・・・・、
残念な事ですが・・・・これも人間の仕業なのでしょう。
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     熊野神社、道祖神 宝暦13年(1763年) 高さ50cm 幅30cm 像高35cm お顔を壊されています
 
熊野神社の道祖神を確認したので、次は北天院の道祖神に巡ります。
北天院は東海道線のトンネルの上にあります。
 
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  北天院の道祖神、戸塚周辺の道祖神はこのようにお地蔵さんを二体並べた形をしています。此方は真ん中   に「道祖神」と大書されているので廃仏毀釈の難を免れたのでしょう。熊野神社道祖神もこのような姿であっ   たと思われます。
 
 
 
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