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春の名残を「花水川」に惜しんで・・・

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昨日は吹き降りで,春雷も聞こえるか?思いました。
私は連合町内会の総会でした。
屋根に響く雨音に「今日の遊行寺の放生会どうなっただろうか?明日に順延したら・・・見に行けるので良いのに・・・!」思いながら議長を務めました。
合会長も辞任出来たので、これからは毎週曜日が事由になります。
これからは、日本文化研究会(毎週土曜日)にも参加できますので、嬉しい事です。
日文研の皆様、久々の復帰です。よろしくお願いします。
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                  今日の話題「花水川」流域の双体道祖神
 
このブログで最近道祖神を記事にしているのは、私の発表が「双体道祖神の宗教社会的考察」と題して64日に予定されているので、道祖神が頭を離れないからでしょう。
230分から慶応日吉キャンパス来往者中会議室)
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            花水川の上流、金目川、「金目薬師」の風景、手前薬師橋
 
平塚の西、大磯との境に小河川が流れています。
名前は「花水川」、鼻水なら汚いのですが、
「花が水に浮かぶ川」「花筏の美しい川」と美しいイメージが膨らみます。
イメージ通りの美しい河川です。加えて万葉の時代からの歴史に富んだ小河川です。
花水川の上流の名は「金目川」です。
丹沢と大山の山峡から流れ出します。渋田川と合流して、相模湾に流れ出すまで2.5キロの間を花水川と呼びます。
この辺り一帯を花水と呼んでいたのでした。(万葉仮名で「波奈美頭」)
川の西側に丸い「高麗山」があります。
鎌倉時代には高麗山一帯は桜の名所であったそうです。
源頼朝も花見に出かけました。
ところが前夜半に春の嵐が吹いて、せっかくやってきたのに花は散っていました。
そこで「花見ず川」と呼ばれるようになったそうです。
万葉時代が正しいのか、鎌倉時代の言い伝えが正しいのか解りませんが、
美しいところである事は間違いありません。
 
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                                                     高麗山
もう、高来神社の桜も散ってしまいました。
私は桜を惜しんで高麗山の裏、湘南平に登って周囲を見ることにしました。
此処は小学校の遠足の場所、私も来た筈ですが、景色の記憶はありません。
登山道は桜並木です。
来年は桜の咲いた季節にやって来よう、心に決めながら徐々に登ると、景色も開けてきます。
山頂に展望台があって、その上に上れば360度の展望が開けています。
眼下に開けた相模湾、江ノ島辺りはかすんで見えます。
その先に鎌倉、三浦半島が続いている筈です。
目を右に向ければ箱根から伊豆の山並みが続いています。
背を見れば丹沢から大山の山並みが屏風のように続きます。
その上に富士山が望めるはずですが、これもかすんで見えません。
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                    湘南平から伊豆方面を望む
 
近景に目を移せば高麗山の向こうに大磯漁港が見えますし、松林が続いて吉田屋敷、プリンスホテルから国府津に続いています。
あの辺りに島崎藤村宅があったはずだな・・・見つけられる筈はありません。
小さな平屋建てなのですから。
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            大磯の町並み、手前の戸建住宅群の中に島崎藤村の宅があります
 
文豪としての地位も名声も確立した島崎藤村が何故温暖な湘南に転居したのか・・・?
昔から不思議に思っていました。
大磯の長所は避寒地である事、魚も野菜も美味しい事・・・、景色が良い事・・・、歴史がある事・・・・、様々あげられますが・・・木曾の印象の濃い島崎藤村には相応しくないような気がしていました。
 
でも、此処湘南平に登ると背中は山また山で、馬籠にも似た景色のようです。
時折、湘南平に登って、富士山の左の方を見詰めて、木曾に想いを馳せていたのでしょう。また、その翌日は大磯駅から品川駅に出て、白金の明治学院大学に向った事でしょう。
 
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                         住宅開発の進む大磯辺り
 
身近な湘南平ですが、今は人気も無い様で、今日は展望レストランも休業です。
私が遠足で来た頃には、賑わっていたのでしたが。
 
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湘南平からの大磯方面を望む
 
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露地を埋めてシャガが咲く「長寿寺」

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巨福呂坂と亀ヶ谷坂とのT字路に長寿寺があります。
このお寺はもう10年も前になるでしょうか、大普請をして、本堂も方丈も建て替えました。
その折に庭をデザインしました。
梅林を切り開いて前庭は全面に京風の「杉苔」を張りました。
山門を入れば池の向こうに本堂が見渡せる、そんな風に前庭を杉苔で埋めました。
そして、裏庭園に向けて本堂の周囲を周遊出来る様に意匠されています。
鎌倉に唯一京風の庭園も良いもんだ・・・と感心しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42402994.html/紅葉の長寿寺庭園を報告しています)
 
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 (長寿寺裏庭から方丈庭園・枯山水を望む。赤茶けた地面は息絶え絶えの杉苔。白い花はドウダン躑躅)

長寿寺は尊氏の第4子で関東公方であった足利基氏が父の菩提を弔う為に建立した、記録されています。
尊氏の法名「長寿寺殿」をそのまま山号にしています。
京都の庭の杉苔が美しいのも、お野菜が美味しいのもその地下水が豊富だからと聞いたことがあります。
町の地下になるでもうひとつの琵琶湖があるんだ・・・・、
だから豊潤な水分を必要にする「杉苔」が美しく育つのだと・・・。

長寿寺の杉苔は5月も近いと言うのに、赤茶に枯れています。
やはり、砂を敷けば良かったのかも・・・思いながら観音堂の脇を小山に登ります。
小山の中腹に櫓が掘られていて、其処に足利尊氏のお墓が祀られています。
 
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 尊氏の墓から裏庭に続く露地、両側傾斜地を埋めるシャガの花。筍ももう人の背丈も伸びています)
 
 
お墓から竹林の脇を通って、裏庭に露地が続いています。
その山側に一面シャガが咲いています。
大普請に際して傾斜地を切り開き、雑木を伐採しました。
その傾斜地の保護のために孟宗竹を植え、その根元にシャガを植えました。
シャガは元々一帯に自生していましたし、乾燥した地質を好みます。
自然のままだと他の背丈の高い雑草に負けてしまいますが、
草刈などされていれば中々生命力の強い植物です。
人が手入れをしないと育たない・・・・その意味では雀のような「里山植物」でしょう。
 
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シャガは年々自生地の領域を増やしています。
アヤメの仲間ですから、地下茎が張ってその先に新しい芽をふきます。
花が咲くので、種も出来るかと思えば、そうではありません。
種無しスイカと同じ三倍体(染色体)ですから、種子も出来ません。
従って、突然変異も花変わりも発生しません。
どの花も同じ色で顔をしています。
 
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                   傾斜地を埋めたシャガの花

花弁の真ん中に黄色が入って、縞の青が混じって、大半が真っ白です。
竹林には筍も頭をもたげています。
負けじとシャガは傾斜地全面を白く飾っています。
夏の甲子園球場のスタンドを見るような思いです。
屹度この環境こそシャガの天国なのでしょう。

杉苔は鎌倉に馴染まず、シャガは大好き・・・・、自然を見れば自明な事でしょう。
花の盛りはもう1週間でしょうか。
ボタンも咲き始めました。
週末、公開日を確かめてお出かけ下さい。
 
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 山楓の根元を埋めたシャガの花
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アップしてみれば、アヤメの仲間であることを納得します
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椎茸のホダ木の向こうに咲いたシャガの花。左手花大根はもうおしまいでしょうか
 
 
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遊行寺「睡蓮鉢の藤沢めだか」

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藤沢の名は遊行寺の山号「藤沢山」に拠ります。
藤沢は遊行寺の門前町である事は間違いありませんが、
遊行寺が開山する前から、古代の東海道・奥州道の通る町として重要でありました。
沢山の故事旧跡が残されています。
歴史資産・自然資産に恵まれた住み良い都市です。
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   花水木が咲き出し、遊行寺の本堂を飾っています。天幕は開山忌であるから
 
明治以来多くの文人がこの都市を愛し、住みました。
彼等は藤沢の住みやすさを一番に発見したのでしょう。
温暖で風光明媚で、そして遊行寺が育んできた「日本人の情操」に引かれた、と思います。
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                               本堂前の大銀杏も新緑です
 
志賀直哉の日記には、
1907年(明治40)鵠沼の東屋旅館で武者小路実篤と「白樺」の発刊を話し合った、記されています。
以来、有島武郎、里見 等がこの地に住み、
柳宗悦、中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、ら日本有数の画家を育てた土地です。
また、絵本画家「黒崎義介」も鵠沼に住みました。
黒崎は遊行寺国宝館の委員長も勤めています。
   blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42513336.html
 
私は大正時代に盛り上がった白樺派の文学活動、そして洋画活動は近代日本人が始めて西洋文化を消化して、日本人の文化にした活動だと思います。
飛鳥文化が圧倒的な中国唐文化を受容し、日本化した「白鳳文化」のような位置にあります。
 
西洋文化に触発された文化人がそれが遊行寺の門前に始まったのは、偶々かもしれません。
でも、一遍上人の教えや、遊行寺国宝館に収められている「一遍聖絵」の影響ではないかと想像しています。
萩や桜の咲く大自然の中、風の吹くまま、雲の流れに従って旅から旅にあけた生き様を描いた絵巻物が、大正から昭和の始めにかけて日本人に改めて強いインパクトを与えていたのではないでしょうか?
文芸活動に不安を感じた時、遊行寺を詣でれば、
「それでいいんだよ・・・、お前達は子の日本の地に育っているのだから・・・」激励されるような・・・。
 
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         放生池の中に佇む聖観音、背後は石楠花の光背が飾っています
 
423日は春の嵐が吹き過ぎました。
翌日24日は快晴で、富士山は裾野まで真っ白に冠雪していました。
私は、23日予定されていた「稚児行列」や池に金魚を放す行事が雨天順延、24日になったのではないか・・・期待して出かけました。
午前8時過ぎ、雲水さんが大勢で広い境内をお掃除されています。
満開だった八重桜が散っています。
楠木は新緑の葉を広げていますが。古い葉はオレンジ色に染まって、そして散っています。
箒で掻き集めた落葉はまるで秋、紅葉した葉っぱのようです。
 
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                     春に黄葉して散った楠木の葉を掃く若い雲水さん
 
 
雲水さんに声を掛けます
「楠の葉は今頃紅葉するんですね!」
「そう、紅葉してから散るんですよね」
箒で掃くのが楽しげです。
それでも、毎日毎日広い遊行寺の境内を掃くのは大変です。
それに、他の大寺とは違って遊行寺の境内は舗装されていません。
地面のままです。
だから、夏になれば地中から蝉の幼虫が這い出してきて、せみ時雨が聞かれます。
せみ時雨も、野鳥のさえずりも、雲水さんの読経も同じように聞こえてきます。
私は白樺の文人達は遊行寺に度々参詣し、この広い境内で深呼吸して、遊んだ事でしょう。
そして、放生会をはじめ様々な行事を眺めた事でしょう。
 
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    手前が放生池、奥本堂、八重桜ももうおしまいで・・・・青葉が濃くなってきました 
 
雲水さんは言われます。
「昨日は大変な雨でした。桜の花が流されているでしょう。でも、お稚児さんは本堂で勤めました・・・・」
予定通り進められたのでした。
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                                宗務所前の咲き出した牡丹
 
私は放生が行われる「放生池」に回ります。
今年も、池の淵には石楠花が咲き始めました。
咲き始めのボタンは雨に打たれて、湯上りの美女のようです。
躑躅も咲き始めました。
池を覗き込むと、金魚が群れて泳いでいます。
昨日放たれた金魚でしょう。
でも、近くには境川が流れていて、鷺が住んでいます。
狙われてしまう事でしょう。
金網でガードする事も必要なようです。
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       花筏の脇を泳ぐ金魚、早く隠れ場所を探さないと鷺に食べられちゃうぞ!
 
睡蓮の鉢には真新しい金網が張られています。
中を覗き込めば、今孵化したばかりのメダカがいます。
此処で暫く育てて、いずれ放生池に放たれるのでしょう。
昭和30年代まではこの辺りも小川があって水田が広がっていました。
メダカはそんな所が格好の棲家でした。
でも、数が急速に減って、1995年神奈川県「絶滅危惧種」に指定されました。(国の指定は1999年)藤沢市内では近所のお屋敷の池に棲んでいたメダカを保護し「藤沢めだか」とネーミング、市民の力で保護育成しています。
 
睡蓮鉢の中の藤沢メダカも、遊行寺の広い境内も同じように思えてきます。
多分、藤沢の町も、天から見ればこの睡蓮鉢と同じでしょう。
藤沢の町の中でせわしなく動いている私達は、屹度藤沢めだかと同じようなものでしょう。
改めて、金網の間から水面を覗くと、目が天を向いているメダカは、目ざとく私の気配を感じて水中に隠れてしまいました。
私は危険でないから、じっくり姿を見せて下さいな・・・・・・!
 
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 宗務所から中 雀門を望む。手前睡蓮鉢に金網がかかっているのは藤沢めだかを育成しているから。こうした睡蓮鉢は3つあります。
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                 今週末が見盛りになりそうな石楠花。室生寺に行きたいな
 
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相模国「現代の道祖神」事情

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道祖神を調査していて気付く事があります。その第一はあるべきところに無い事です。
でも、屹度神社の境内や公園の端っこに移されているだろう・・・、
行ってみれば見つかる事が多々あります。
道祖神は本来は道の分岐点など交通量のある祀られていたので、
排気ガスを浴びたりしていて、気の毒です。ですから、移転した方が良い環境です。
私達も交通量の多いところでは見詰めたり拝む事もし難い訳で、移転は好ましい事かもしれません。
多くが庚申塔や馬頭観音などと一緒に並べられていますので、
民俗信仰や石造美術を調べる人には好都合でもあります。
 
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右側二基の僧形道祖神(相模型)が風化したことから、新しく左祝祝言道祖神(安曇野型)が新造された。願主は腰越福満寺(義経腰越状で著名)住職。願文に「腰越交差点の交通事故撲滅」が記されています。平成1年8月建立。
 
 
もう一つは、紛失している事が多々あります。
教育委員会などの発行している資料にも「紛失」の字が目立ちますが、
近年一層紛失が目立っているようです。
そこで、地域では道祖神の足元をコンクリートで固めたり、檻にしまって鍵をかけたりしています。
盗まれた道祖神は料亭や愛好家の庭に置かれたりしているのでしょう。悲しい事です。
盗まれている事は、一方で道祖神の美しさやその形「あい睦まじいカップル」が評価されている証です。
時代は「道祖神」にフォローの風が吹いているようです。
 
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 藤沢川名の農家庭先の平成道祖神。子孫繁栄、夫婦和合を祈った農家らしい道祖神です。
 
新造の道祖神も目立ってきています。
窪田雅之氏が「現代道祖神事情/信濃」を著しておいでですが、松本市街では戦後建立される道祖神が多く(75基)、江戸時代以降建立された道祖神(332基)の二割弱にも及ぶと報告されています。
300年の間に300基建立されたのに較べ、60年に75基建立されているのですから、
現代の方が多い訳です。
 
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  藤沢高倉大日如来社内道祖神、渡實氏奉納。平成16年。道祖神が風化したことから兄妹型道祖神   を奉納したもの。現代的な意匠です。
 
神奈川県下を調べていても同じような傾向があります。
戦前に建立された道祖神に比べ、新造の道祖神は約2割の実感があります。
津久井湖など観光地は安曇野型道祖神、千曲川型道祖神が新造されています。
観光客を多く呼びたい・・・そんな期待で建立されたのでしょう。
 
横浜、藤沢などの市街地にも多くの新造道祖神が祀られています。
その姿を見ると、現代社会の縮図を強く感じますし、
一方で「昔も今も変わらない」そんな実感があります。
 
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   茅ヶ崎小和田スーパー前の道祖神。昭和36年、小和田本宿郷と前面刻む。基台石に個人名あり
  千曲川型男女握手(和合)神像
 
道祖神について、多くの研究者が「信仰の有無」を判別基準にして、戦前・戦後で区分しています。
①戦前の道祖神は信仰がベースにあった。
しかし②戦後の道祖神は信仰は無く、客寄せ、事故防止などの機能重視だ・・・、と。
 
私はこうした考えに反対です。
実は道祖神は昔も「機能」を期待された神様だったと思います。
 
道祖神自体が様々な功徳が期待される「福の神」でありました。
道祖神は道端の「お稲荷様」、畦道の「田の神様」のようなものです。
福を授けてくれる、その「福」が「厄病よけ」「長寿」「夫婦和合」「子孫繁栄」「五穀豊穣」だったりして、それを授けてくれる、そんな「機能」を期待されていました。
そんな期待は江戸時代も現代も大して変わりません。
 
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        茅ヶ崎市濱竹高野神社境内道祖神、平成2年9月建立、175cm*145cmの巨大な翁媼像        であり、長寿を祈ったものでしょう。願主は氏子中。
 
かえって、現代は隣近所、時としては親子兄弟までが遠い存在の「無縁社会」と呼ばれています。
せめて夫婦は一緒に穏やかな一生を過したいものだ・・・・、思っています。
そこで「夫婦の和合」を祈った道祖神が目立ちます。
昔は「部落で仲良く」祈ったものが、現代は一人で、又は夫婦で祈っています。
 
また、神奈川県の場合県西部は良質な安山岩(小松石)を産するものの、過半が砂岩、凝灰岩である事から風化が早く、形を留めない事が多いのです。
そこに道祖神の作り変え需要が発生します。
前の道祖神を意識して建立する事もあれば、最近の人気デザインを採用する事も多いのです。その場合、道祖神として最も人気のある安曇野型、千曲川型の道祖神が建立されています。
 
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 平塚不動院(真言宗)境内の道祖神、ご住職の祈り(期待?)を込めて、庫裏横に祀られています。現 代の道祖神は殆どが硬質の花崗岩で作られています。
 
相模国は道祖神のルーツである事は間違いありません。
道祖神は街道の整備、旅人の急増を背景に1600年代後半に箱根山の江戸寄りで発生しました。(足柄より)
一帯では地蔵信仰が盛んであったことから、お地蔵さんの意匠が採用されました。
お地蔵さんが賽の河原で黄泉に行く人を守護すると信じられました。
そんなお地蔵さんが現世では道祖神と呼ばれ、箱根の山越えをする旅人を守り、厄病を防ぐと信じられたのでしょう。
 
相模の国でありながら、安曇野のような道祖神が増えている事は少し残念ではありますが、情報化時代の現代ですから致し方ありません。
道祖神こそ、現代人が最も欲している先祖からの贈り物、伝えたい信仰のように思います。
 
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    藤沢市天神天神社内道祖神、抱擁道祖神(妻恋型)昭和61年、道祖神が風化したことなどから、    天神社新築に際し奉納したものと思われます。
 
    神奈川では本来の相模型道祖神の方が珍しいようです。本来は次のような僧形(地蔵)道祖神     です。
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                      鎌倉腰越交差点の道祖神(前出のアップ。
 
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美しい鎌倉石の石段(浄智寺にて)

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今、鎌倉にはシャガの花を其処此処に見ることが出来ます。
石段を覆うように咲いたり、五輪塔や櫓を飾ったり、切り通しの岩場に咲いています。
日陰でも構いません。
根っ子は横に伸びて行きますから、岩場でも落ち葉の上を這うようにして繁茂して行きます。
でも、草丈が低いので高草が生えると負けてしまいます。
人間が草刈をするなど手入れをしてやらないとなりません。
お寺の石段や墓地に多いのは、其処が最適な生育環境だからでしょう。
シャガが散れば、同じ仲間のアヤメや菖蒲の季節になります。
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     鎌倉山にあるシャガ、某氏が手入れをされています。今日は鎌倉石の石段の話です
 
鎌倉の山を切り開いてお寺を開きました。また切り通しを拓きました。
表土を除くと地下から石が出て来ます。
比較的に軟弱で加工貸し易い凝灰質の粗粒砂岩です。軽石も多く含んでいます。
鎌倉石と名付けられています。
お寺の土台石や石段に、民家の石垣などに利用されています。
 
鎌倉石は耐火性が高いことから、竈にも使われていました。
農家の竈も、刀鍛冶の釜戸も鎌倉石が使われてきました。
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 浄智寺の石段は穏やかな表情の鎌倉石を積んで出来ています。両側からシャガの花が覆っています 
 
鎌倉の石仏や五輪塔などは大抵が小松石で作られています。
相模湾を隔てて対岸の湯河原、真鶴から運ばれた石でした。
溶岩が急速に冷えて出来た安山岩で硬い事、表情が深い緑灰色だったりして武士好みでした。
小田原城も江戸城も小松石を石垣に積みました。
鎌倉の石屋さんは大半が伊豆出身と思って間違いありません。
鎌倉や横浜などの石仏は伊豆の石工が彫ったものです。
鎌倉は鎌倉石と小松石の取り合わせで築かれた・・・言っても過言でないようです。
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 小松石(伊豆産の安山岩)で作られた五輪塔と石仏。櫓の壁が鎌倉石(浄智寺櫓で)
 
鎌倉石が加工し易い事は、一方では摩滅しやすい事であります。
鎌倉に観光客が大挙してやってくると、鎌倉石で出来た石段は角が摩滅して滑りやすくなってしまいました。そこで御影石など硬質の石に敷き換えなくてはならなくなりました。
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  手前はシャガの花。竹林の向こうの岩壁に櫓を掘って石仏が祀られています。戦前には鎌倉石の採  石場が数多くあったそうです。
 
 
でも、鎌倉の人は鎌倉石の表情が好きなので、そのまま石段を保存しています。
真直ぐ石段を上がれば、本堂に通じるのに、わざわざ脇を回って横から本堂前に出るようししています。
杉本寺でも浄光明寺でも鎌倉石の石段は通れなくしています。
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               鎌倉石の石段、でも摩滅して通れません。(杉本寺)
 
 
鎌倉石の石段で歩けるのは瑞泉寺、浄智寺です。
もう数年で歩けなくなってしまう事でしょう。
だから、私は石を摩滅させないように心して歩きます。
夢想礎石のような高僧も草履で一歩一歩この石段を登ったのか・・・、思うと尊い石段だと思います。
 
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   浄智寺石段
 
浄智寺の石段に木漏れ日が差し込みます。
優しい石段の表情が際立って見えてきます。
石段の両脇はシャガが今を盛りに咲いています。
その脇には桜草も咲いています。
方丈庭園に咲いた桜草の種が流されてきて、この石段の隙間で発根したのでしょう。
先人が汗を流して積み上げた石段に花が咲き、一層美しくなりました。
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  石段の両脇にところどころ桜草が咲いていました。(浄智寺) 甘露井の向こう太鼓橋も鎌倉石で出   来ています。
 
でも、良い気持ちになって油断して登ってゆくと驚かされることがあります。
鎌倉石は保温力に恵まれているので、陽が傾いても温かいのです。
体の冷えた青大将や蜥蜴が暖を取っていることが多いのです。
むかし、青大将を踏みつけて大騒ぎになった事がありました。
 
鎌倉が美しいのは鎌倉の石をはじめ風土を大切にしてきたからでしょう。
風土を守り伝える事は生物を育む事にもなるのでしょう。
 
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                        シャガに埋もれた観音様(東慶寺)
 
 
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震災を癒す?鎌倉の「花の公園」

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毎年4月は町内会の役員交代に当たります。
役員の任期は12年が多いようです。
漸くお役目が終わった、旧役員の安堵感が漂います。
私の属する連合町内会の役員慰労会の席上、某会長がこんな話をしました。
「TVで東北・関東大震災の有様を見てから、私はトラウマが蘇ってきました。
今でも、眠りが浅いし立眩みがするので困っています。晩酌をして寝ているのですが・・・・」
 
横浜は大空襲によって中心街が一面の焼け野原になってしまいました。
その時の恐怖感が晩年に蘇って、苦しめているようです。
 
私は、慰める言葉も無く
「大船のフラワーセンターに行ったら、美しい草花が元気にしてくれるかもしれませんよ・・・」
話しました。
 
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       横浜大空襲の惨状。今次の震災がこの記憶を蘇らせているそうです。
 
私は戸塚区の区連会の席で話題にしました。
「東北大震災の津波が相模湾沖から発生したら、戸塚の町はどうなるでしょうか?」
誰もがキョトンとして「上倉田連長は何を言い出したのか?」怪訝な顔をしています。
私は言を繋ぎました。
 
「戸塚は柏尾川の河口(片瀬)から10キロ、高低差は1.5メートル、堤防の高さは7メートル程度でしょう。片瀬は三浦半島・伊豆半島に囲まれた湾の深部に位置しています。津波は増幅して柏尾川の堰堤を越えて押寄せる危険があります。」
多くの連長は戸塚土木所長、戸塚消防署署長の顔を見ました。
でも、彼等は発言しませんでした。
私の発言の「河口部との高低差1.5メートルが過ちだ」批判が多く出ました。
私は上倉田の貝塚を説明、この辺りが昔は海であった事を説明しました。
会議場は蜂の巣を突っつく状況になりました。
 
区長が「重大な指摘ですから、来月の区連会で報告します」収めてくれました。
私は同じTV画面を見ながら、トラウマに悩む人、安穏としていられる人、様々だと思いました。
 
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                    大船フラワーセンター、フィネリアの花は今が見頃です。
 
今柏尾川には二つの警報装置が用意されています。
一つが人工衛星で天候を観察、洪水の危険等があればサイレンで警報を発する装置です。(全国瞬時警報システム/Jアラート)。
もう一つが柏尾川の上流で集中的に降雨があった場合、川から退避するよう警報を発する仕組みです。(六甲山で集中降雨、夙川に遊んでいた人が流された事件から導入した)
何れも集中豪雨対策です。
でも、下流から襲ってくる津波に対しても警報することが重要です。
 
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                        フラワーセンターは叔母ちゃんたちの別天地です
 
私は、人に勧めるだけでなく大船フラワーセンターに出かけました。
フラワーセンターは柏尾川沿いにあります。
此処は神奈川県立農業試験場だったところ、昔は畑と田圃でした。
ただ、芍薬畑が広かったので、5月になると芍薬見物の人が集まりました。
花が好きだった祖母が私を連れてよく出掛けてくれました。
私の花が好きな性格、趣味はこの頃から育まれました。
それが高度成長期になって、昭和37年「神奈川県立大船植物園・フラワーセンター」に改称され、目的や機能も変わりました。
今は都市近郊住人の「花の公園」であります。
 
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                奥の朱色の花は西洋石楠花
 
お客さんの大半が高齢者です。(一般入場料350円、高校生以下・高齢者100円)
ボタン園では写生している人が大勢います。
牡丹は花の王様、絵に描きたくても中々手に入れられません。
でもフラワーセンターなら沢山の種類の牡丹が咲いていて、自分の好みで選べますし、画材を置いてスケッチに没頭する事ができます。
流石に此処は鎌倉ビックリするほど上手か方が居られます。
お顔を見てしまいます。若しかしたら高名な画家かも知れない、思ったりします。
鎌倉には沢山の画家がお住まいです。
 
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            牡丹もチューリップももうじきおしまい、次は主役の芍薬が順番待ちしています。
 
花は戦争の傷も、津波の傷も癒してくれます。
大船フラワーセンターも財政危機下、処分計画(平塚フラワーセンターと併合?)もあったようですが、もう話題にもならなくなったようです。
知事も市民感覚に秀でた人に代わりました。
大切な「花の公園」です。しばらく安泰のようです。
 
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アナウンスが鳴り響きました。
「これからエビネの講習会を始めます・・・展示場にお集まり下さい!」
 
さあ・・・芝生に腰掛けて「押し寿司」をいただくことにしましょう。
 
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     緑陰での栽培講習も楽しみです。この日はエビネの株分けでした。
 
 
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「黄色いハンカチ」と、牡丹を食う「紅カミキリ」

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昨日は鎌倉大船の県立フラワーセンターの話題を書きました。もう一回お付きあい下さい。
 
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                   フラワーセンターの藤棚、今週末(30日)からが見頃でしょう
 
「幸福の黄色いハンカチ」
フラワーセンターには「ハンカチの木」が数本(4本?)育っています。
場所は中央の小山の中腹です。
毎年ゴールデンウィークの頃、躑躅など潅木の上に白いハンカチを落としています。
私達はハンカチを拾ってお土産にします。
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                         風にはためくハンカチの葉っぱ
 
この樹は中々育ちません。
傍の案内板には「15年程度経たないとハンカチを附けない」書かれています。
桃栗三年柿八年といいますから、随分おくての樹です。
今はハンカチをつけはじめです。枝先に一列に並んでいます。
色は未だ黄色っぽいのです。
なんだ、ハンカチははじめのうちは「幸福の黄色いハンカチ」なんだ・・・・、嬉しくなってしまいます。
 
山田洋二監督、高倉健・倍賞千恵子主演の泣かせる映画でした。
もう四半世紀昔でしょうか?
若しかしたら映画のヒットを見て、「ハンカチの木」を植えよう、決めたのかもしれません。
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                   未だ白というより黄色いハンカチ、枝先に一列に並んでいました。
 
私達は樹下から見上げます。
ハンカチの花は、山法師の花を反転させて、下向きに咲かせたようなものです。
ハンカチの中心にまん丸の坊主頭が見えます。
床屋でエプロンをさせられたような姿です。
多分、ハンカチは葉っぱで坊主頭が花なのでしょう。
今日は薫風が吹いています。映画同様に黄色いハンカチがはためいています。
 
花にしてはお粗末な格好で、虫を呼ぶ事も出来ないでしょう。
でも、素朴な形が人気のある事由でありましょう。
 
紅いカミキリムシ
牡丹はもう散り始めています。
花の女王様もお疲れのご様子です。
でも、強い芳香が牡丹園を包んでいます。
絵を描いている人は半日この香りも楽しんでいます。
色も姿も香りも素晴らしくて、半日花に対座できるのですから、
フラワーセンターで「牡丹描き」は贅沢な趣味です。
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                                       盛りを越そうとしている牡丹の花
 
私は「花のことは花に聞け・・・・!」一遍上人の言葉を思い出し、顔を真っ白な牡丹に近づけました。
すると、花の芯に紅い甲虫が蠢いています。
そう、紅カミキリです。
どうも、雌蕊の一番大事な部分、蜜が出る子房の部分を齧っているようです。
私は「なんだ、高貴な女王様を齧るなんてとんでもない虫だ・・・・」睨みつけます。
朱の兜を着たこの虫は黄色い花粉を全身に浴びています。
隣の花にも、その隣にも「緋色の兜」を着た兵士が蠢いています。
 
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                                 黄色い花粉に塗れた紅カミキリ虫
 
カミキリムシには我が家での手を焼いています。
姫林檎にも付いていますが、未だ木はしっかりしています。
よくコゲラが来ていますから、カミキリムシはコゲラを呼んでいるのでまあ良いか・・・思っています。
でも、イチジクに付いてしまうカミキリムシにはお手上げ状態です。
幹に食いつき、卵を産んで、幼虫が髄を食いちぎります。
木屑が出て・・・・食われた部分からイチジクの木は枯れてしまいます。
イチジクは満足に食卓に上れなくなっています。
でも、根がしっかりしていますので、後から新しい脇芽が伸びて来ます。
カミキリムシが卵を産むには牡丹の幹は細すぎるようです。
向こうの桑の木辺りに巣食っているのでしょう。
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                                         牡丹に付いた紅カミキリ虫
 
まあ、花もおしまいなので、カミキリムシが食っても良い事にしようか・・・・、
フラワーセンターの職員は大目で見ていることでしょう。
 
花が咲けば、何も人間だけじゃない、蝶も虫も鳥も集まります。
皆して楽しめば良いじゃないか・・・・・、そんな声も聞こえたような気がしました。
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                       牡丹の花、ところどころにカミキリ虫の糞が落ちています
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                                          アオスジ揚羽
 
 
 
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放生池の「メダカの幸せ」

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今年の春は藤沢遊行寺の放生池の話ばかりしています。
気が引けますが、もう一つお伝えします。
池の奥に観音像がたっています。
その奥に石楠花が咲いて、頭上の八重桜(関山)ももう散り始めました。
 
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  遊行寺放生池、水面に浮いているのは八重桜、観音様の背は石楠花、その左にクレソン。
 
風が強いためか、八重桜が花の軸から折れて池の面に浮いています。
風のままに漂って、今日は南風だからでしょう、観音様の北側の岸に吹き寄せられています。
石楠花が観音様の光背なら、八重桜は散華のようです。
こんな美しい姿を見て、平安時代の仏師は法華寺の観音像を彫ったのでしょう。
光明皇后のお姿と伝えられる観音像の光背は石楠花ではなく蓮ですが・・・・。
 
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                                      浮いているのは八重桜、手前はクレソン
 
観音様の背後、池の淵に白い花が咲いています。
クレソンです。
何故、クレソンが此処に自生しているのか、私は知りません。
遠目には芹の花のようにも、山葵の花のようにも見えますが、望遠レンズでアップしてみると西洋料理に添えてあるあの緑の葉っぱです。
 
クレソンが日本で最初に自生したのは、上野の不忍池が最初と聞きました。
精養軒のお料理で、クレソンの軸が池に流れ出して、池に自生したのだそうです。
ならば、遊行寺の典座(台所)からクレソンが流出したのかも知れません?
でも・・・・、此処は時宗の総本山、お肉料理は法度でしょう。
鳥料理でもしたのかな? 想像したりします。
 
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                                      クレソンの群落
 
今日の目標の一つがこの池で養生している「藤沢メダカ」の観察です。
メダカは名の通り、目が上についていて、岸辺を見詰めています。
人影があったら、早速に水中に隠れてしまいます。
人の気配が消えれば、また水面に浮いてきます。
 
屹度、水面近くが水温が高く、プランクトンが発生しているので、それを食べているのでしょう。
プランクトンは、今年咲いた白木蓮に「想いのまま」(花梅)そして枝垂れ桜に八重桜、花弁が散って、それを食べて大量に発生致します。
 
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    桜の花に寄ったアメンボ-は夫婦で合体しています。 右上にメダカがアメンボーを避けています。
 
メダカは日本人が水田耕作を始めて以来伝わってきた小魚です。
小川を堰き止め、水田水路に水を取りました。
水路や田圃はメダカの生育地になり急速に数を増やしました。日本人には馴染みの最も深い魚でした。ところが、農薬が大量に使われ、水田自体も数を減らし、環境庁の絶滅危惧種になりました。
湘南ではいち早く「メダカを守ろう」動き出し、僅かに居たお屋敷の池のメダカをここ放生池に放流しました。
睡蓮鉢で孵化させ、大きくなったら池に放します。
また、池の中に浅瀬を作り、鯉など大きな魚に呑まれないよう、避難場所も用意しました。
今では、藤沢メダカもその数を増やしています。
なんだ、藤沢メダカと地域名が付いていても、私の記憶に残っているメダカと全く変わりはありません。 
 
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一遍上人流なら「花のことは花に聞け、メダカの事はメダカに聞け」という事です。
メダカさん、放生池の住み心地は如何ですか・・・・?
聞いてみたくなります。
勿論「当り前ではないか!此処は観音様の足元だから別天地である、・・・・。
だから仲間も一杯だ・・・・。」聞こえてくるようです。
 
先日放生会で放たれたメダカさんは直に大人になって卵を産むことでしょう。
秋までに何世代が出現するのでしょうか?
孫、から曾孫(ひまご)玄孫(やしゃご)、ひしゃご ・・・・、
幸せな事でしょう。
 
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   宗務所前の牡丹は今が見頃です。天水桶の隣の睡蓮鉢がメダカの孵化器になっています
 
 
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三渓園に「惜春の想い」を深めて・・・

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名勝「三渓園」には12件もの重要文化財に指定された古建築があります。
そして、春秋のトップシーズンにその中から1.2件を特別公開しています。
この、ゴールデンウィーク中は「臨春閣」が公開されています。
51日、今にも泣き出しそうな曇天下、家内と一緒に出掛けました。
藤の花と臨春閣の見学が楽しみです。
 
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                              三渓園の藤棚から大池を望む。 
大池の周囲に藤棚が三つもあります。
藤棚の下にはベンチが置かれていて、座ってゆっくり三渓園を楽しむよう、配慮されています。
大池越しに三重塔が眺められます。
今日は海風が吹いています。
藤の長い房が揺れて、芳醇な香りを送ってきます。
目の前の池には北国に帰る事を忘れた「鴨」が餌をねだって集まってきます。
お気軽な亀は甲羅干しを続けています。
気の早い菖蒲が咲き始めています。
藤棚が最も美しい季節です。
 
人影も少ないので、ゆっくり座って魔法瓶のほうじ茶を戴きながら、目まぐるしく移る季節を楽しみます。
先日まで桜が目立った山肌はもう青葉に覆われて、所々に山藤が見られます。
藤棚は勿論、山藤も良いものです。
 
 
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                                          もう藤も後半戦です
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                藤棚から大池越しに三重塔を眺める。この下にベンチがあって・・・最高です。
 
原三渓は外苑の造作が終わると、内苑の整備にかかります。
大正6年(1917)紀州徳川家の別荘「巌出御殿(いわでごてん)」を移築して、内苑の中央に置きました。名前も「臨春閣」としました。春を楽しむ建物・・・そんな思いでしょう。
その後、渓流を隔てて山の中腹に聴秋閣をおきます。
「秋を耳でも楽しむ」そんな命名だったのでしょう。
秋は美しいに決まっていますが、青嵐もよいものです。
 
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                                   青楓に囲まれた聴秋閣
 
臨春閣は元々な紀ノ川の畔にあって、「夏を涼しく過ごす」、そんな意匠の数奇屋建築でした。
室町時代に始まった書院建築は戦乱の時代から桃山時代を経て数奇屋建築に展開します。
名前のとおり「数寄者」の美意識、生活観によって洗練された建物でした。
「暑い夏を快適に過すには・・・・」「お月さんをより美しく眺めるには」「四季をより深く楽しむためには・・・・」創意と工夫を凝らします。
その結果、最も日本人らしい美に洗練されましたし、モダニズムにも通じる普遍性も兼ね備えました。
その代表が桂離宮(古書院1617年)であり、この巌出御殿(慶安2年1649年)でありました。
 
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    第1棟から第三棟を眺める。ガラス戸が除かれているのでスッキリしている。
 
臨春閣は雁行型に並んだ三棟の建物から出来ています。
玄関を入った第1棟は武士の控えの間であります。
お殿様に謁見を求めた人は暫くこの建物で待たされたわけです。
第2棟がお殿様と謁見した建物です。
そして、第3棟はお殿様が家族と一緒に過した建物でした。
従って数寄者らしい意匠の詰まった空間でした。
 
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                    第2棟、「謁見の間」欄間に百人一首が色紙状に嵌められています。
 
原三渓は巌出御殿の移築に際して大きな改造をしてしまいます。
第二、第三棟は周囲を縁側が廻っています。
縁側は通路であり、同時に室内と外とを繋ぐ空間でありました。
秋には縁側に出て月を眺め虫の音に耳を立てます。
冬には長い陽射しが縁側から畳みまで伸びてきます。
室内とお庭を繋ぐ「融通無碍」の役割を担っていました。
その縁側にガラス戸を嵌めてしまいました。
 
本来は如何だったのか?良くわかりません。
何もなければ台風の日、障子戸が吹き飛んでしまうかもしれません。
桂離宮や修学院離宮にはぬれ縁の外に雨戸が設えられ、雨戸を納める戸袋が用意されていますから・・・・、
これが歴史的に正しい処理だったでしょう。
 
でも、原三渓は大正風のガラス戸を張り巡らします。
「雨風を防いで、光を通す」ガラス戸を採用しました。
快適に過すためには、新しい製品や意匠を躊躇なく採用します。
これもモダニズムでした。
 
臨春閣はガラス戸に囲まれている・・・・、
何時も目にしていると「そんなものか」感じなくなってしまいます。
でも、特別公開にあわせてガラス戸を外してあると、
矢張りガラス戸は美しさを損なっていた・・・気付きます。
 
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    第3棟天楽の間、欄間に楽器の「笙」がデザインされています。襖絵は狩野安信です。
 
 「臨春閣」ももう5月、「惜春閣」だなあ・・・思いを深くして、さらに三渓園の奥に足を運びました。
桜の季節、菖蒲の季節賑わう三渓園です。
今頃がお庭を見るにも、古建築を味わうにも最高のチャンスです。
是非、お出かけ下さい。
なお、65歳以上の方は「濱ともカード」を作ればタダで入場できますよ・・・。(通常500円、65歳以上350円) 
 

 
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                                聴秋閣から臨春閣を眺める
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      秋の臨春閣、第一層にガラス戸が嵌っています。左奥が聴秋閣
 
 
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季節を写す「鎌倉の石垣」

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江ノ電の腰越駅を降りると直ぐ脇を川が流れています。
神戸橋の手前を川沿い、露地を登ってゆくと目指す双体道祖神が見えてきます。
民家の石垣を崩してコンクリートで祠を作り、収められています。
祠の上は生垣で初老のお婆さんが慣れない手つきで刈り込みバサミを使っています。
躑躅が咲こうとしているのに・・・躑躅も可愛そうですが、お婆さんも心配です。
私は石垣の下からお婆さんに声を掛けます。
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     腰越の露地に祀られている道祖神、鎌倉石の石垣を崩して祠を作って祀られました。此処から     手前が生垣です。最近付近にお住まいの方が千羽鶴を折って注連縄にして飾っておいでです。
 
「落ちないで下さいよ。今日は道祖神様をお参りに来ました。
何時も綺麗にされていて感心しています。この道祖神様は何処にあったものですか?」
お婆さんは嬉しそうに応えてくれます。
 
矢継ぎ早の私の質問のお答えを纏めると以下の通りでした。
1、    この道祖神は川沿いの小道にありました。
   一帯の庚申塔さんも集めてどこぞに纏めて祀りたい…と言うので我が家が手を上げました。
   石垣を崩して祠を建てて、道祖神4体と庚申塔2体を祀りました。もう、20年も前の事でした。
2、    当時私は子供が生まれたばかりでした。そして、道祖神は「子供を守ってくださる」と信じていたからです。期待通り子供達は成長して立派な社会人になりました。
   でも、今は家を出てしまいました。何れ戻ってくると期待しています。
3、    鎌倉石の石垣が素晴らしい・・・誉めて下さっても・・・。
   この石垣は緩いので大雨が降ると崩れてしまいます。
   つい先年も崩れて、積みなおしました。今でも大雨が降ったら心配しています。
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                     鎌倉石は精々この高さの石垣が限度のように思えます。
 
私は鎌倉石で積み上げられた石垣を見上げます。
石垣といえば四角い石を積み上げるものですが、この石はもう角が丸くなってきたようです。
改めて積み上げてコンクリートで繋いであります。
亀の甲羅のような模様を描いています。
雨風が石垣に当たって、鎌倉石はさらに風化が進んでいるようです。
コンクリートが浮き上がって来ています。
でも、鎌倉石を積み上げたのは、この石への愛着があるのでしょう。
 
私は石垣を誉めます。
「鎌倉石は水気を含むでしょう。だから苔や羊歯が生えるのですよね。
すると表情が出てきます。其処が良いんですよね・・・・。
此処が路地であって、道祖神が祀られていて・・・・鎌倉石の石垣と生垣が在る風景が「鎌倉らしい・・・」思います。
お大事にしてくださいね。」
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   鎌倉石は風化しやすいのが欠点です。でも、崩れかかった姿に美しさもあります。
 
鎌倉石は鎌倉の山を掘れば地下に眠っています。
凝灰質の粗粒砂岩です。
砂が長い間地下に眠って地圧で固まったものです。
建長寺を切り開いた時にも大量に出土した事でしょう。
そこで、鎌倉石を境内から持ち出すことなく、石段や石垣にも致しました。
堂塔の地下にも使われている事でしょう。
地産地消です。
 
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 建長寺の僧堂を支える石垣。様々な石が積まれ美しい表情をしています。牡丹の美しさをj引き立てて  います。
 
深い茶色、緑色の鎌倉石は建長寺の景色に陰影を刻んでいるようです。
僧堂が石垣の上に築かれています。
力がかかる需要な部分には小松石が使われて、大半は鎌倉石のようです。
形も違えば、色もサイズもバラバラです。
石屋の匠としてのセンスが、堅牢で美しい姿の石垣にしたのでしょう。
 
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 建長寺方丈を支えている石垣、強靭な根っ子が石垣の崩れを守っているように見えます。四つ目垣と のバランスも美しい。
 
石垣を背にして、今は牡丹が咲いています。
もう一月も経てば、岩タバコの花が咲くことでしょう。
鎌倉石に保水力があることから、苔が付着して、岩タバコや菫、地縛り等の植物が成育し、花を着けるのです。
 
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             石垣に咲いた岩タバコ(5月下旬)の花。
 
これから、暫くの間鎌倉石のキャンバスの上に季節の美しさが描かれて行きます。
鎌倉の石工は名を残さず、美しい石垣を残して呉れました。
まさに職人技です。
20年も経てば石垣は崩れてしまうかもしれません。
でも、季節を写すにはこんなにすぐれたキャンパスは他にありません。
職人に感謝せずには居られません。
 
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 石垣の間から蕗が生えて 躑躅が咲いて・・・・石垣は自然を写すキャンバスに使われています。こん  な技は鎌倉石でなくては出来ません。建長寺鐘楼脇で。
 
5月4日追記
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                    鎌倉石の石垣に咲きはじめた源平草、晩秋まで咲き続けます。
 
 
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長谷寺・建長寺「牡丹較べ」

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日本一の牡丹の名所は奈良の長谷寺でしょう。
私は学生時代には当麻寺、長谷寺、室生寺を牡丹、石楠花を見るため飛び回っていました。
今年は出掛ける訳も無くて、毎日のようにブログを探して、                          長谷寺のホームページを見ながら「行った積り」をしています。                                                       
53日の時点で未だ五部咲きだそうです。
 
長谷寺は仁王門から本堂まで長い登廊(廊下状の石段)が繋いでいます。
段差の低い石段、庇の付いた建物、スイッチバックした設計、何れも長谷寺に籠もった宮中人が登りやすいようにデザインされたものでしょう。
そして、その登廊の両側を牡丹が覆っているのです。
長谷寺のホームページにはこの牡丹は1000年の歴史がある、7000本の牡丹である、案内しています。
唐の僖宗皇帝の妃「馬頭夫人」が大和長谷寺の十一面観音に祈願(馬のような顔を美顔したい)したところ、願いは成就したそうで、その御礼として牡丹を献上したのが始まりだそうです。
 
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 今日の話題「牡丹」、写真は総て建長寺です。仏殿前の牡丹。灯明が東北大震災を弔っていました。
 
紫式部、清少納言、和泉式部等、綺羅星のような宮中人が長谷寺に籠もります。
そして、心身ともに健康になって都に戻りました。
鎌倉時代にも更級日記、蜻蛉日記にも「初瀬詣で」が記されています。
ですから、牡丹は彼女達を優しく慰めた・・・想像します。
しかし、彼女等には牡丹の記述は無いと思います。
日本文化に牡丹が出てくるのは桃山時代から江戸時代にかけてでしょう。
獅子が動物の王者であって、牡丹が花の王様である事から、時の権力者の好みになり、
豪華絢爛に飾る花になりました。
狩野山楽や酒井抱一が好んで牡丹を障壁画に描きました。
牡丹が和歌や俳句の素材になってきたのは江戸時代以降のようです。
しかし、豪華絢爛に咲き誇る牡丹ではないようです。
蕪村は散った牡丹を、子規は病身の自身と対比して牡丹を詠んでいます。
    牡丹散って  うちかさなりぬ  二三片        与謝蕪村  
               
    一輪の  牡丹かがやく  病間かな         正岡子規 
 
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                                               仏殿前の牡丹
牡丹は漢方には欠かせられません。長谷寺に近い大宇陀は漢方薬の産地です。             そこで、盛んに牡丹や芍薬が栽培され、長谷寺にも植えられたのではないでしょうか?          とりわけ江戸時代は伊勢詣でが盛んになります。                                大阪から伊勢まで伊勢街道は長谷寺の門前を通ります。
そこで、全山に牡丹を植樹したように想像します。                                長谷寺に詣でたご婦人達は婦人病の妙薬を買って帰ったものと思います。
家内が「牡丹が見たいなら建長寺が良くてよ・・・・!」言います。
 
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                              僧堂に続く坂道に咲く牡丹
私の知る建長寺は牡丹があっても、長谷寺には遠く及びません。                      矢張り鎌倉の牡丹は「鶴岡八幡宮」が最高なように思っています。                      でも、53日出掛けてみました。                                          前日雨でしたので、花弁には滴も宿していました。                               その見事な事に驚いて、翌朝8時半開門前にもでかけました。                        そうしたら、既に開門して「お好きに入山してください・・・・、入山料金は帰り際にどうぞ!」嬉しい掲示がされています。
 
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        花守りの和尚様、昨日は黄色い法衣で話してくれました。
 
昨日窺がった和尚さんが牡丹を見回っていられます。                              花が重すぎて折れそうな枝を支柱に支えたり、愛しんでおいでです。
和尚さんのお話です。
「牡丹を植栽し始めたのは10年前から・・・・、                                  せっかくお寺にお参りいただくのだからお花を見せたいものだ・・・・、そお思って牡丹を始めました。
栽培は若い雲水が行います。                                           見事に咲かせる秘訣は冬場に寒肥を行う事です。                               境内の腐葉土ではなく油粕を牡丹の根元に50センチほど掘って埋め込みます。              多くが力仕事ですから、若い人でないと無理でしょうね。                            今では500株になりました。長谷寺に較べられたらまだまだですが・・・・・、                 誉めていただくと嬉しいですね。」
私は答えました。                                                   「長谷寺の牡丹は老木ですので風情が違うようです。此処の牡丹は若いので勢いがあります。     花弁も大きいと感じます。                                              お若い雲水さんの愛情を精一杯吸い込んで、見事に咲いていますから、尊いと思います」
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                          槙の大樹の陰が牡丹を引き立てている
 牡丹は建長寺の塔頭寺院でも栽培されています。                                普段は嵩山門(すうざんもん)の奥には入れません。                              何故ならその奥に僧堂があって座禅道場になっているからです。                       また開山蘭渓道隆のお墓も祀られています。                                  門から僧堂までの坂道に牡丹が並んでいます。
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    嵩山門の坂道に咲いた牡丹、シャガの花と白さを競っているようでした
 
読経が流れます。                                                   時々「これより○△堂に出掛けます!」報告がなされて、若い僧侶がダッシュして行きます。         まるで軍隊みたいだな・・・・!思ったりします。                                  修行は座禅に限らず広い僧堂の雑巾かけ、東司(便所)拭きから、典座(食事作り)そして、       境内の植物の手当てまで・・・何から何にまで及びます。
屹度牡丹作りは僧侶が修行を終えて寺院の住職になったら・・・境内に植えられる事でしょう。      自分のお寺の牡丹を見れば、建長寺の修行時代を思い起こす事でしょう。
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 若い僧侶が修行中に石の破片に六地蔵を刻んだものでしょう。ギリシャ風の列柱の間にお地蔵さんを 並べたのは若い感覚で素敵だと思いました。
 
建長寺は参拝客を圧倒する大きな伽藍です。                                  大きな堂塔の間に7本もの槙(樹齢750年)が生い茂っています。                     植えられたのは開山の蘭渓道隆と伝えられています。
濃い常緑の梢が、太い幹回りが牡丹を引き立てています。
開山が建長寺に植えたのも、平成の現代に伽藍を牡丹で埋めようとするのも、               何処か共通するところがあるように思います。                                  蘭渓道隆はお弟子達が柏槙のような人物に育つよう期待したでしょう。                   そして、牡丹は縁あって建長寺に詣でた在家の人に・・・・大切な事を伝えようとしています。
 
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            柏槙の根元を埋めた牡丹の花、素晴らしい香りが辺りを包んでいました
 
矢張り、建長寺は名実共に鎌倉五山筆頭だな・・・その思いを強くしました。
長谷寺の老木の牡丹も良し。
若さ漲る建長寺の牡丹も、それで良し・・でしょう。
建長寺の牡丹は生命力に満ち満ちています。
 
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被災地への呼びかけ「共に生きる」

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最近はラジオをつけたままでパソコンに向う時間が増えました。
国会中継(参院予算委)が流れていて震災対応が討議されています。
私は次第に、無性に腹がたってきました。
日本人は原爆を二度も経験している国民です。
ですから原子力発電と核兵器とは使用目的が違うだけで、原理は同じ事を充分に知っています。
平和利用のつもりが間違えば三度目の原爆被災になってしまう危険は誰しもが承知していました。
ですから、東電や政府当事者が充分に危険を回避する措置をしてくれる筈である・・・・、
信頼して「原発の安全神話」がうまれていました。
 
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今日の話題、建長寺の大庫裏得月楼で開催された「金澤翔子展」
       
浜岡原発で、柏崎原発で事故があったそうです。
その時には数十分の間非常時電源が確保出来ずに冷却不能に陥っていたのでした。
30分が3時間になった場合、どんな事態になるのか想像できた筈でした。
東電も原子力安全委も神様が事前に二度にわたって警鐘を鳴らしていたにも拘らず、
ピンチを検証もせずに過してしまいまいした。
大津波で非常時電源も壊されてしまいました。
しかも、無策に3時間を過した事から原子炉はメルトダウンしてしまいました。
 
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                           得月楼玄関からは牡丹の花が眺められました
 
5月2日にはJR西日本の脱線事故を検察審査会は業務上過失致死傷罪で起訴相当と判断しました。東電の経営陣は刑法に問われないのか・・・・?思ったりもします。
与党も東電もそして原子力安全委も余りに無責任で、腹が立って仕方ありません。
始めは原発事故はレベル4の積りでいたが・・・・、実はレベル7であった。
私達は「最初からレベル7の積りで対応していなかったのか」声高に聞いてみたくなります。
 
Jリーグもプロ野球もスタートしました。芸能人のチャリティー活動も目立ちます。
フィギアの世界大会で表彰台に立った小塚選手も安藤美紀選手も「東北大震災に被災した人達に元気を届けたかった」、申し合わせたように同じ言葉を発します。
 
個人が夫々に自分の本分を尽くす事が被災地へのエールになります。
野球の選手も芸能人もフィギア選手も、そして名も無い私達も同じです。
被災地に向けて、夫々が出来る事を今実行する・・・・それが大切な事は痛いほど承知しています。
 
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                       建長寺法堂の天井から睨みをきかす龍(小泉淳作画伯)
 
私は5月3日、4日と建長寺に牡丹見物に出掛けました。
仏殿の前は見事な牡丹が咲き誇っていました。
そして、その向こうに看板が立っていました。「金澤翔子書展」と書かれていました。
私は最近の女流書家の展覧会が建長寺で行われているのか・・・・、ならば、きっと禅の書なのだろうな・・・、その程度の認識でした。
 
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                         仏殿前に掲示された金澤翔子展の案内
 
展示場所が方丈の隣「得月楼」というので、興味が湧きました。
私は方丈庭園(蘭渓道隆作)に行くたびに、庭園を見下ろすこの二階建ての建築に上ってみたいと思っていたからです。
「池に映った月を掴む」、「瓢箪で鯰を掬う」等は禅に馴染みの話です。
「方丈庭園の池に映った月を見下ろす建物」には一度上ってみたいものだ、思っていました。
その貴重な部屋を会場にする展示会とはどんなものだろうか?興味も次第に湧いてきました。
 
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                   方丈から庭園の東側に得月楼が建っています。2階が展示会場
 
金澤翔子氏は若干23歳でした。
そして、ダウン症の女性でした。
ダウン症は染色体の異常による先天的症候で様々な疾患を生じる難病だそうです。
1000人に一人の割合で発症し、特に高齢出産の場合は100人に一人の割合で発症するそうですから・・・、時々目にします。
私の地域の小学校でも特別学級があります。
IQも身体能力も健常な人に較べると劣っているようです。
 
しかし、金澤翔子氏の書を見た時に驚愕しました。
男性的な筆致による、しっかりした書でした。山岡鉄舟を髣髴させるものがありました。
風が吹いても雨に濡れても、微塵も揺るがない、威風堂々とした書でした。
彼女がダウン症など歯牙にもかけずに真直ぐに生きてゆこう・・・そんな気概や姿勢に溢れている、
と感じました。
 
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                             展示会場風景、若い人が多いのが特長でした
 
今年は寒山拾得を素材に準備していたそうです。
ところが今般の大震災で、被災者へのエールに変えました。
大きな衝立に「希望」と大書、そして「共に生きる」と書きました。
金澤翔子氏は「被災者の皆さん、希望を持って私達と共に生きましょう!」
とメッセージを託したのでしょう。
でも、「私は母と共に生きています」そんな感謝にも読めます。
「隣人と共に生きて行きます」とも「家族と共に」とも「自然と共に生きて行きます」とも読めます。
人間である以上、一人では生きてゆけませんし、自然から離れる事も出来ません。
「共に生きる」は自明な事ですが・・・、
金澤翔子氏の書は感動を呼び覚まして、その通りだ「私も、共に生きたい」衝動を与えてくれます。
 
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                                     今展示のメインテーマ(メッセージ)
 
書展ですが若い人の見学者が圧倒的に多いのも感心しました。
金澤翔子氏は若い人にファンが多いのでしょう。
私も、他の見学者も翔子氏の作品に圧倒され感動して見入ってしまいます。
そんな人達を金澤翔子、金澤泰子氏(お母さん)の母子は嬉しそうに眺めておいででした。
 
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       金澤親子、娘さんも素晴らしいのですが、お母様の生き様が感動を呼びます。
 
私達は見学を終えて方丈庭園を見下ろす部屋で憩いました。
テーブルには湯飲みが置かれてセルフでお茶をいただけます。
その脇に義捐箱がさりげなく置かれていました。
 
ダウン症は様々な疾患を伴うようですが、人間の尊厳さは全く変わらないのです。
反対に、逆境を逞しく克服する姿勢にその人間らしい感性が研ぎ澄まされ、自己表現が可能になる・・・・のでした。
 
お母様は翔子さんを産んで、一緒に死のうか・・・、思ったそうです。
でも、運命に立ち向かった結果、今日の幸いがありました。
その生き様こそが被災地の方々へのエールにもなっているのでしょう。
日本の国には素晴らしい才能が其処此処に満ちている・・・確信させる清々しい展示会でした。
 
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                                   ポスターから、「親子と共に」情景
 
翌朝の朝刊には電力料金の値上げ記事が踊っていました。
政府も東電も「持ちつ持たれつ関係」にあることは独占企業、基幹産業である以上承知しています。
しかし、この大惨事を国民が納得するには「考える順番」があります。
原発事故の原因や対応が充分解明される事が始まりです。
 
日本の国は素晴らしい民間人と、性懲りの無い政府人と玉石混交のようです。
 
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                                                寒山拾得から
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                       床の間の帝釈天も金澤親子の展示を楽しんでいるようでした
 
 
 
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白旗神社の藤の花

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白旗神社の「白旗」とは源氏の旗頭です。
ですから、主祭神は源頼朝かと言うと、必ずしもそうとは限りません。
私の住む戸塚の信濃にある白旗神社は源義経を祭神としていますし、藤沢の白旗神社も義経です。
三浦の白旗神社は源氏の御家人和田義盛です。
頼朝を祭神としているのは西御門の白幡神社位でしょう。
神様の世界では義経は頼朝を凌いでいるようです。
数もそうですが、藤沢白旗神社は西御門の白旗神社の数十倍の規模です。
江戸時代歌舞伎の世界でも義経はヒーロー、方や頼朝は悪役だったのでしょう。
藤沢白幡神社には寄進が相次いだ事でしょう。
こどもの日、元気で知恵のある子に育って欲しい・・・・祈願する先は義経様でした。
出世栄達して欲しいと願えば、間違いなく頼朝様なのでしょうが。
 
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   今日の話題は藤沢の白旗神社。悲運の人源義経を祭神にしています
 
藤沢白旗神社の由緒は悲話です。
元々は寒川神社末社でありました。
文治5年(1189)義経は頼朝に攻められ自害します。
すると、義経・弁慶の主従の首は新田冠者高平によって鎌倉に持ち帰られます。
腰越で和田義盛、梶原景時が首確認をします。
ところが夜になって二つの首が無くなってしまいます。
二つの首は潮に引かれて沖に浮かび、
再び満ち潮に乗って川を上ってこの地に辿り着いていたのでした。
そこで、寒川神社を白旗神社に改め、義経の霊を慰撫したのでした。
白旗神社の東100メートル程度の場所に「首洗い井戸」が残されています。
漂着した主従の首を洗って、神社に届けたのでした。
 
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                                   義経主従の首を洗ったと伝えられる井戸
 
こんな歴史を知れば、子供が義経のように育って欲しい・・・・願う親は少ないように思うのですが・・・・。でも、義経人気は高く、境内には毎年沢山の鯉幟がはためいています。
 
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                             弁慶藤 スノコの前に芭蕉句碑(文化2年1805年) 
白旗神社の境内には藤棚があります。
藤沢の花は勿論「藤」です。
県の花が「山百合」ですから、マンホールの蓋は藤(雨水溝)と山百合(県営水道)が並んでいます。
藤沢の花「藤」を代表するのが白旗神社の「義経藤」「弁慶藤」なのです。
本殿に近いほうが白藤で「義経藤」です。
境内の北端に大きな紫の藤があります。こちらが「弁慶藤」です。
弁慶が咲き出して、1週間ほど送れて義経も咲き出します。
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弁慶藤は花房が1メートル近くにも及びます。
藤棚の前に、江戸時代に藤沢の蕉門のお弟子さんが芭蕉句碑を寄進しています。
   くたびれて 宿かる頃や 藤の花
ですから、江戸時代には白旗神社の藤は旅人を慰めていたのでしょう。
 
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                                       (義経藤は白く上品な花房です)
 
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       (社務所の横に白藤の棚があります)
 
どちらの藤棚も「献上・小室一郎」と案内されています。
小室氏とはどんな人物か?
少し気になりますが、街道を観察していると直ぐにわかります。
 
白旗神社に近い国道に面して小室一郎商店があります。
配管工事の会社です。
確認してみると藤棚も水道配管を組んで出来ています。
江戸時代には古式ゆかしい「藤棚」が整備されていたのでしょうが・・・・、
今は水道配管の廃物利用で済ませたいものだ。
ならば、氏子の小室一郎に任せよう・・・・、そう決まったのでしょう。
 
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   (道路の突き当りが白旗神社、左手に小室一郎商店があります。この店が藤棚を寄進しました)
 
5月5日、薫風の中泳いだ鯉幟も旗先から降ろされました。
氏子達は集まって「ご苦労様・・・」慰労会で盛り上がっています。
こどもの日が終われば、立夏(5月6日)です。
 
それはそれで良いのですが、やっぱり遊行寺に立派な藤が復活して欲しい・・・思うものです。
 
 
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   (藤沢橋の欄干にデザインされた藤の花、向こうの紅い橋の右手が遊行寺、此処から江ノ島弁天   の参道が始まることから朱色に塗られていると思います。川は境川でこの先に白旗神社があります)
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                   遊行寺裏山に自生している山藤の花。山道を歩くと花が散っています。
 
 
 
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雉の夫婦は「婦唱夫随」で・・・

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ここは横浜市泉区にある森泉公園の里山です。
境川の支流が流れています。
せせらぎにはクレソンが白い花を咲かせています。
土手にはヒメジオンに卯の花、白い花が目立ちます。
もう、「夏も近づいたな・・・!」実感します。
 
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                                   小川に咲いた「クレソンの花」
 
「ケン・ケーン」けたたましい叫び声がします。
見れば、一羽の雉が歩いています。
その2メートルほど先には雌の雉も居ます。
叫んだのは雄の雉です。
「雉も鳴かずば撃たれまいに・・・・」諺を思い出しました。
“なまじ無用な発言をしたために、わざわいを招く”ことのたとえです。
そう謂えば私も随分無用な発言を繰り返してきたものです。
今思い起こせば雉のようだったな・・・思います。
長銀破綻した時「長銀部店長会議」等執筆していなければ、私の人生も随分変わっていたでしょう。
 
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                   タンポポも綿毛になって、雌が先に、雄が従う雉の夫婦 
雉の夫婦を観察します。
5分ほど経つと、雄はまた「ケン・ケーン」雄叫びのように鳴きます。
同時に両の翼をはためかせます。
まるで「俺は妻を娶ったぞー、嬉しい!」叫んでいるようです。
また、他の雄に「俺は結婚した、この辺りは我々の縄張りだぞ」宣言しているようにも見えます。
多くの鳥は結婚する前、恋の季節に囀ると聞きますが、雉は結婚した後でも鳴くのです。
 
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      卯の花が咲いた土手を勝手気ままに歩き回る雉の雌、雄は後から従います。
 
雌は勝手に歩き回っています。
土手に繁茂していた「カラスのエンドウ/えんどう豆」の種を啄ばんでいます。
時々嘴で地面を掘っているような仕草です。
甲虫や昆虫、そしてミミズを食べているのでしょう。
でも、大きな体です。蛇や蛙も食べるに違いない・・・・、
期待しながら土手のこちら側を雉の夫婦と一緒に進みます。
 
雉の夫はもう私の存在に気付いています。
でも、無害と判断して全く警戒していません。
雉の夫は妻の安全を確認しながら・・・・後を歩いているようです。
雉の世界は「夫唱婦随」ならず「婦唱夫随」なのだな・・・・、感心します。
 
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雉は国鳥です。勿論美しく立派な姿が愛されたからでしょう。
でも、それだけでは無さそうです。
 
桃太郎の子分は「猿、犬、雉」の三匹でした。
猿と犬は人間に親しかったから・・・雉は特段に親しいわけではありません。
なぜ、子分に選ばれて鬼退治に行ったか・・・・、
それは勇気が誰よりも勝っていたからでしょう。
 
雉の巣を鷹や鷲、狐などに襲われると、雄が「食うなら俺を食え・・・!」とばかりに飛び立ちます。
そして、これ等の危険な動物を子供や妻から遠ざけるのです。
昔の人は雉の勇気に感服して、桃太郎の子分に選抜したと思います。
 
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さらに、方位的に鬼は鬼門の方角に居ます。
丑(牛/角が生えている)寅(虎/鬼のパンツ)の方角の反対が謂わば「福門」です。
此処には猿・鳥・犬になります。
福を授ける方角の「鳥」、その中で、鬼退治の武器を持っているのは嘴の鋭い雉だったのでしょう。
勇気があって、美しくて、武勲をあげる・・・・雉だから国鳥であって、桃太郎の子分に選ばれたのでしょう。
 
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雉さん、雉さんのんびり食事中ですが、もうマイホームは出来ているのですか・・・・一寸心配です。
何故なら、この辺りは野良猫が多いのです。
雉の巣は草叢と思います。
猫の来ない場所を選べているのでしょうか・・・・・?アライクマも増えています。
 
でも、この夏から秋にかけて、雉の親子も観察できたら・・・・嬉しいに決まっています。
 
 
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 雉のお父さんが目立つのは、お母さんや子供達を守るため・・・目立とうとしているからでもありましょう。
平家物語の鎧兜姿を思わせます。
 
 
 
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大楠山の山藤(春日奥山を懐かしんで)

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私が学生の頃「五月病」が流行っていました。
受験勉強して大学に入学したのだが「新しい環境にも馴染めない、目標も見当たらない」
呆然とした焦燥感に悩んでしまいます。
ゴールデンウィーク開けに多く見られました。
 
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今日の話題は山藤の花、楠やスダジイの木を覆うようにして花房を垂らします。山藤はノダ藤に較べると、左巻きで、小葉が大きく葉数が少ないのが特長です。野生ならではの逞しさが魅力です。
 
流石に今年は大震災で、そんな悠長な病気に罹る隙もありません。
加えて大学生も5月から講義が始まるようです。
私の属する「日本文化研究会」の活動も新大学生の参加を得て5月7日始まりました。
この仲間とは学生時代から奈良で過してきました・・・。
 
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  私は紫式部に聞いてみたいと思っています。「藤の花と桐の花、どちらが高貴でしょうか?」と・・・。
 
私の心は奈良の町に飛んで行ってしまい。
奈良と京都では全く違うところがあります。
京都は内裏を中核に都市計画されていましたが、奈良の一等地は春日大社であり興福寺です。
平城京は興福寺の北、春日大社の南を西に下った佐保・佐紀路にあります。
理由は藤原京からの遷都を主張した藤原不比等が奈良の一等地を自身が抑えたからでしょう。
今の興福寺の位置に内裏を置いたなら、奈良盆地の何処からでも大極殿が望めたでしょう。
そうしたら、律令制がもっと権威があって尊重されたものと想像します。
 
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              大楠山、関根不動尊渓流上の山藤
 
山之辺の道の南の端が三輪山で北の端が春日の森です。
どちらも山全体がご神体で、常緑樹林です。
屹度今頃は楠やスダジイの梢の先に山藤が咲いていることでしょう。
本来なら藤も葛、伐採した方が樹林の維持には良いのでしょうが・・・、其処はご神体の山です。
人間が手を加えるわけには行きません。
 
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  関根不動尊の清水を汲みに集まった人達、見上げているのは山藤の花。天然の水が良い、という人  は山藤がすきなのでしょう
 
山藤は樹木に巻きついて伸びて、最後には樹木を枯らせてしまいますが、山全体を枯らせる程には繁茂しません。常緑樹林の新陳代謝を促進する程度です。
 
春日大社の奥山を石仏を求めて歩いていると、石畳に藤の花が散っています。
驚いて見上げると、梢の緑陰から藤の花房が臨めたりします。
山藤は逞しく、美しいな・・・・、思ったりします。
 
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               路傍の庚申塔群、もうじきこの辺りは卯の花が一杯に飾ります
 
春日奥山を下って、春日大社に出れば、美しい藤棚が朱色の社殿を飾っています。
山藤は葉っぱが大きいのですが、花藤(正しくはノダ藤)は葉っぱが小さく花が目立っています。
山藤はマタギの娘のようで、花藤は京人形のようなものでしょう。
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                      スダジイの上に覆いかぶさった山藤の花
 
 私は山藤を求めて、大楠山の山麓を巡ります。
山麓には沢山の石仏が祀られています。
清水が湧いて、水汲みに人が並んでいます。
女性のハイカーも多く登って行きます。
 
最近は人が山に入らない為でしょう。
山は荒れて、結果として山藤が目立っています。
皮肉な現象です。
 
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   大楠山、ふもとの廃家、でも手前に新築した瀟洒な家がありました。裏山は山藤が咲いています。
 
あるは、あるは、山肌を飾っているのは山藤の花房です。
楠の葉は濃い緑、でも新芽は若緑色です。
緑のグラデーションがあって、藤色がアクセントを加えています。
 
もう、水木の花が咲いて、卯の花も咲き始めました。
でも、一番のお目立ちは山藤の花房です。
 
 
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                             農夫の頭上を飾る山藤の花房
 
 
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瑞泉寺の白雲木の花

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家内が「浄智寺さんに白雲木の花を見に行きましょう」誘います。
私は「良いけど未だ早いんじゃないか?」応えます。
家内は「去年は5月5日に行っているわよ」言います。
そこで、出掛けてみました。
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                      浄智寺の白雲木の花(2009年5月5日、浄智寺にて)
 
早朝の浄智寺では奥様が石段をお掃除されていました。
「白雲木を見に参りましたが・・・如何ですか?」尋ねますと、
「今年は未だ蕾ですね。来週末にお越しなさいな・・・」仰られます。
見上げた梢には房状に蕾が用意されていましたが、まだまだ固い状態でした。
今年の花は桜以来がずっと遅れているのです。
でも、その分花を楽しめる期間が長いのかも知れません。
 
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                      開門前の浄智寺参道、奥様はお一人で石段を掃いておいででした
 
 
自然と瑞泉寺に向っていました。
昨日大楠山の山藤を書きましたが、瑞泉寺の山藤も見事なのです。
長い石段を登ると、緑陰の向こうに端正な山門が見えてきます。
門柱にはご住職(?)の俳句が掛けられようになりました。
私が気付いたのは今年の春の彼岸でしたが、今は・・・・・、
  たけのこの根皮落として伸びにけり
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         瑞泉寺は青楓に埋まっていました。今年に入って門に俳句が掲げられています。流石          に瑞泉寺、これを見るのも楽しみです。
 
今登ってきた石段の東側は竹林でした。
筍がもう背丈を伸ばしています。
毎日数十センチ、時には一日に1メートルも伸びるそうです。
ご住職は毎朝筍を見ていられるのでしょう、
見れば、覆っていた皮や根を落として、青い幹を見せています。
命は凄いなあ・・・、そんな感慨を詠われました。
 
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          手水鉢の辺りに散り始めている白雲木の花
 
家内は、山門を潜る前に手水鉢で手を清めます。
竹筒を通って清水がひかれています。
手水の水面に波紋が広がって行きます。
家内の手元を見詰める位置にはお地蔵さんが立っています。
屈んだ家内の背にクルクル・クルクル白い花弁が散ってきます。
花弁は水面にも浮いています。
私達は驚いて頭上を見上げました。
頭上には大きな青楓が茂って、低い位置には未だ椿が残っています。
そして、重なった葉陰の向こうに、白い花房が見え隠れしています。
ああ、瑞泉寺にも白雲木があったんだ・・・・、改めて見詰めなおします。
熊蜂が集まってきていて、ブンブン唸って聞こえます。
カラス揚羽蝶も何頭も寄ってきています。
白雲木の虫を誘う力は並大抵ではありません。
 
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         山楓(左)に負けずに梢を伸ばしている白雲木、すこし椿の花が残っていました
 
家内に話します。
「なんだ、瑞泉寺にも白雲木があるんだ・・・、何度も登ってきていてもきづかなんだ。」
「白雲木は花が咲いた傍から散ってしまう。桜よりも花の命が短いんだ・・・・・!」
 
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   樹陰に咲き始めた白雲木、花が重くて、柄が細いので咲いたら直ぐに散ってしまいます。散っても美  しさが損なわれないのがこの花の特長です。
 
鎌倉の白雲木は浄智寺が最大で、形の良いのが極楽寺、そして瑞泉寺は下から眺めるだけ・・・・、
そんな順番でしょうか?
夫々に、素晴らしいお寺さんです。
 
お寺で木を植えるのはどんな場合でも小さな話が在ります。
住職が植えたのなら、住職のお寺への思いがありますし、
お檀家の方が奉納したのなら、その家庭に先祖に感謝したい・・・そんな経緯があるものです。
浄智寺は朝比奈師の「平和の塔」の傍にありますから、その記念樹として植えられたものでしょう。
私は以前浄智寺、極楽寺の白雲木を眺めた感動を書きました。
花の姿をご確認下さい。  
 
 
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      白雲木の花に誘われて数頭の揚羽蝶が集まっていました
 
仏教には三大聖樹があります。
生誕の時(無憂樹)、悟りを得た時(菩提樹)、涅槃の時(沙羅樹)、何れも樹下でありました。
屹度、ピラミッドのような形をした大樹が人の体の一部になって、宇宙と交信したのでしょう。
何れもインドでの出来事です。
中国から日本に伝わる時にその聖樹が身近な植物に指し換わります。
日本では、沙羅樹は「夏椿」と言われて来ました。
身近で、涅槃会に相応しい木だったのでしょう。
でも、白雲木がもっと身近な木であったら、白雲木が沙羅樹に選ばれていたのではないでしょうか?
 
何故なら夏椿は木が小さいからです。
小さければ、宇宙と交信するピラミッドパワーも小さくなってしまいます。
加えて、様々な動物が集まる空間が用意できません。
そして、白雲木には花が散るさまに無常感を強く催します。
お釈迦様が涅槃を迎えるその場面の荘厳さをアップさせるには白雲木が最適です。
 
浄智寺も極楽寺も瑞泉寺もお釈迦様の涅槃樹として白雲木を境内に植えられた、思うのです。
 
ところで、瑞泉寺の白雲木の樹下には一基の庚申塔(享保年間)が立っています。
この庚申塔は中々の秀作で、主尊の青面金剛はアンパンマンみたいな愉快な面相をしています。
青面金剛は怖い不動明王と閻魔大王のようなお顔をしている事が多いのですが、この青面金剛は愉快なお顔で親しみが湧きます。
加えて青面金剛の足下で踏まれている天邪鬼もアンパンマンです。
庚申塔と白雲木とどちらが先にこの場所に置かれたのか、知りません。
 
でも、私は白雲木の樹下に庚申塔が立っている・・・・、その情景が好きです。
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  庚申塔、主尊も天邪鬼もアンパンマン顔で楽しい・・・。右端の木が白雲木です。
 
 
瑞泉寺の藤棚はもうお終いです。
藤棚の下のベンチから、他に向かいの山肌を眺めます。
今年も見事に山藤が花をつけています。
私は中学の倫理の授業を思い出しました。
カトリックの牧師の授業でした。
牧師は「山藤」の幹を持ってきて・・・・・「葛藤」の意味を説明しました。
”人間の心には何時も何時も葛が棲んでいる。欲望のままに動けば自らを死滅させる事になる。心中の葛をはびこらせないように・・・・戒めて生活しなければなりません”
その牧師も亡くなりました。
嫌われた山藤も眺めれば綺麗です。
”先生、葛藤に負けまい・・・、思いますが、でも山藤は綺麗ですし、青面金剛の足下に蹲っている天邪鬼も愛らしいではありませんか・・・・。これも、私の一部分ではありませんか?・・・・。”
一緒に、このベンチに座って話してみたい気になります。
今では、感謝の気持ちで一杯です。
 
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                               瑞泉寺の谷向かいに咲いた山藤の花
 
 
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お伊勢さんの「道祖神」は残して欲しい

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横浜市民にとって「野毛山」はある種の感慨があります。
野毛山は関内地区と横浜駅地区との中間のある小山で、港を正面から見下ろす位置にあります。
南山稜には野毛山動物園があって、北山稜には図書館、能楽堂など文化施設が並んでいます。
そして、伊勢山皇大神宮の社殿があります。
東京都民にとっては「上野山」、横浜市民にとっては「野毛山」が憩いの場所でありました。
 
その、伊勢山皇大神宮の道祖神を見に出掛けました。
桜木町の駅を降りて紅葉坂を登れば、右手に文化施設群、
左手に伊勢山皇大神宮の石段が見えてきます。
二つの鳥居を潜って、振り返れば正面にランドマークタワーを初めとした高層ビル群が迫って見えます。
あんまりにも真正面なので・・・・、少し圧迫感を覚えます。
昔は紅葉坂からは横浜港全体が見下ろせました。
どちらかといえば「良い風景を奪われた・・・」そんな印象を持ちます。
 
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伊勢山皇大神宮は野毛山山頂にあります
 
この境内に5基の道祖神が祀られているのです。
私は探して周ります。
何処にあるかな?
何処に祀れば、拝まれるかな?
何処に置けば、見てもらえるかな?
 
孟宗竹の竹林の横に、
躑躅の植え込みの前に、
石段の踊り場に、
駐車場を出て、社殿への参拝路の正面に、
さりげなく、視線の方角に祀られていました。
 
作風は千曲川流域のそれです。
花崗岩の自然石の中央にお月様を刳り抜いて、その中央に双体の道祖神を陽刻しています。
塩田平や望月辺りに良く見かけるデザインです。
やさしく穏やかな表情、男神は衣冠束帯、女神も和装で長い髪、大きな丸髷・・・、正装です。
2人の神は手を握り合い、もう一方の手はお互いの肩に、腰にやっています。
お互いが愛しみあっている・・・・、そんな愛の情景です。
作者も、出来た年代も同じ、現代の双体道祖神です。
でも、中々良く出来ていますし、鑑賞に値する道祖神です。
加えて、皇大神宮にお宮参りした折に拝観するには、相応しい「平和な神様の姿」です。
 
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     (塩田平、別所温泉道祖神。私は皇大神宮の道祖神は望月辺りの石工の作だと想像します)
 
私は道祖神という字は書き改めて「童祖神」としたら良い・・・思っています。
以前鎌倉腰越で取材した時、辺りの道祖神が道路整備のため移されることになり、
自らの屋敷を割いて祠を建てられて篤信家がその動機を言われました。
「道祖神様は子供の守り神様でしょう。私の家も当時2人の子供を育てていました。ですから手を上げて屋敷の道路面を割いて祠にしました」
神社には子宝が欲しい・・・に始まって、初宮参り、七五三参り、など子育てで参る事が多いのです。
ですから、童祖神は適切なのです。
 
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 (竹林前の双体道祖神、平成13年頃の作、丸顔・正装の合いむつまじい姿が「斯くありたい」と思わせてくれます。それが道祖神の現代の教えでしょう。H62、W50像高27cm)
 
私はお巫女さんに尋ねました。
「此処の道祖神様は、どんな謂れで祀られたのですか?石工さんはどちらでしたか?」
すると、「宮司を連れて来ますから・・・・、お待ち下さい。」
奥に消えました。
暫くして宮司が出てきました。
私の質問に凡そ以下のように答えます。
 
「此処の道祖神は平成13年頃、前の宮司が独断で奉納したものである。
宮司は八ヶ岳の麓が故郷であったから、その辺りの石工に注文したものであろう。
道祖神は民間の俗信であるから、当皇大神宮とは無縁であります。」
私は先人の調査報告(ブログ)に書いてあるのを思い出しました。
「今度来られても、道祖神は在るか、無いか解りませんよ・・・・・」
道祖神ファンにとっては穏やかではないし・・・・、何処か不遜な臭いがします。
「ああ、この宮司の発言なのだな・・・・・!」思いました。
 
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    駐車場脇にある祝言型双体道祖神、H63、W43、像高28cm
 
こう言われると、私も残念です。
私は道祖神こそ現代に生き残る神道だ・・・と思っています。
そこで、この伊勢山皇大神宮の歴史を紐解いてみます。
大半の神奈川県民は知らない事だと思いますが・・・・、歴史を如実に表しているのです。
 
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                         西側石段踊り場の双体道祖神、祝言型。横顔が愛らしい
 
寒村であった横浜は明治3年(1870年)開港場になり急速に発展します。
横浜の山の手には西洋文明の住宅、学校教会などが相次いで建築されます。
キリスト教に代表される西洋文明の嵐を浴びる中で、横浜に日本人の精神的支柱を確立する必要がある・・・主張する人たちが出現します。
山の手に相対する野毛山の山頂に伊勢神宮の遥拝所を建立する建白書を提出、
許可されると、明治4年社殿が完成し、遷座が行われました。
以来、関東にあるお伊勢さん、横浜の総鎮守として知られています。(この段はホームページの表現)
ですからこの神社の祭神は伊勢神宮と同じ天照大神なのです。
 
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      駐車場から本殿前に向う坂道にある双体道祖神、男神は女神の胸に手を当てています
 
宮司一族は欲にかまけて脱線し始めます。
目の前が三菱重工の工場群であったのが、東京駅前のような都市群になる・・・・、
その情景を目の前にして、計画を立てました。
”皇大神宮の敷地も活用して、みなとみらい街区を見下ろす高級ホテル・結婚式場を建設しよう・・・”
 
宮司一族が考えたスキームか、銀行員が考えたものかわかりません。
でも、融資に際して銀行団が納得したのですから・・・・、責任の大半は銀行にあったのでしょう。
宮司一族は二つの会社を設立します。一つが高級ホテルの所有会社、そしてもう一つは運営会社「横浜開洋亭」です。所有会社はホテルの土地建物を所有する不動産会社です。
富士銀行を幹事とした銀行団(三菱、三菱信託、北陸)は総額87億円を所有会社に融資します。
勿論、担保はホテルの土地建物、そして皇大神宮の境内地でした。
所有会社は運営会社に賃貸し、その賃貸収入で借金の返済をする計画でした。
 
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                                 大和武尊を思わせる単身の道祖神
 
同じようなスキームで神社の境内を高度利用するところは幾つもありました。
でも、ホテルの運営も素人の宮司が行う計画は滅多に無かったでしょう。
ホテルの専門会社に委託したり、森ビルのような大きな貸しビル会社に委託したりしていました。
また、横浜銀行が融資団に参加していないのも・・・疑問です。
案の定、プロジェクトは早々破綻してしまいます。
バブルが崩壊した上に、MM21街区のホテルとの競争にも負けてしまいました。
2001年(平成13年)担保となっていた境内地が差し押さえられました。
神奈川県神社庁は宮司一族の事態解決が不能と判断します。
神社庁がホテルの敷地部分を除く境内地を取得して、神宮の経営を直轄する事で競売を回避します。
この結果同宗教法人は実質不動産管理会社となった訳でありました。
しかし、宗教法人が過大な債務に耐える事は出来ませんでした。
2003年「平成15年」横浜地裁に自己破産を申請し破産宣告を受けました。
 
ですから、宮司は気ままな私ごときに付き合っている余裕は無いのでしょう。
「道祖神は前の宮司の独断でした、道祖神の処分は破産管財人次第です・・・・」
そう言いたかったのでしょう。
 
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                              伊勢神宮と同じ神明つくりの本殿
 
伊勢山皇大神宮がこれからどうなるのか、行方は解りません。
しかし、はっきりしている事は幾つかあります。
一つは神社として立地してもう150年以上も経っている事です。
今更、解体する事は新たな問題を投げかける事でしょう。
存続する事が先ず求められます。
そして、第二は最大債権者が神奈川県民(神社庁)である事です。
此処は憲法にも係る微妙な問題があります。
既に神社は県民のものなのですから、固有の天照大神を祭る神社・・・の考えは許されないと思います。
八百万の神様が同居する方向しか無いと思います。
道祖神、または童祖神こそ、県民に認められる神様・・・・ではないでしょうか?
皇大神宮はお伊勢様、俗信とはレベルが違う・・・・、そんなお高く止まったような視線は問題がありましょう。
固有の神様を祀る神社に神社庁が肩入れ出来る筈ないのですから・・・・。
 
人間の欲望や思惑を別として、伊勢山皇大神宮の道祖神が良く出来ています。
地域の鎮守として再出発する覚悟が必要なように思います。
 
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        皇大神宮の西石段踊り場にある双体道祖神、双体が4基、単身が1基祀られています
 
お願い:今日の話題は微妙な問題を多く含んでいますので、事実を誤らないよう注意して書いたもので      す。それでも、事実誤認があれば、早速に加筆訂正いたします。私の主張はこの新しい道祖神     が美しい事、そして経営破綻して税金によって再出発の途上にあるのだから・・・・、地域の鎮守     になる・・・そんな気持ちが必要だという事だけです。
 
 
 
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湘南国際村「躑躅の大斜面」

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湘南国際村は横須賀の大楠山の西山麓(葉山より)にあります。
標高300㍍程の山、57万坪を開発しました。
住宅地と事業用地、事業用地は学校、企業の研修、開発研究施設向けでありました。
当時、野村総研が鎌倉市常盤の山中に進出しました。
筑波研究開発都市の湘南版と考えれば良かったのでしょう。
開発したのは三井不動産でした。
 
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        湘南国際村センター街区(三井不動産HPから転載、葉山国際ゴルフ辺りから写したもの         と思います)
 
私が長銀の融資係の課長代理になったのは昭和50年ころ、
その時に東京ディズニーランド計画が持ち込まれました。
当時の浦安は「青べか物語」の舞台、“浦安に大規模遊園地は無いだろう・・・・”
それが常識的な感覚でした。
 
銀行団が融資に協力したのは、先ずは当時の経営者(江戸英雄会長、坪井東社長)の卓見、
そして、担保力でありました。
事業を失敗した場合には用地を住宅地として処分できる、宅地指定されたのでした。
銀行には本場のディズニーランド遊んだ人は殆ど居なかったのですから、
銀行団には不動産会社の「夢」を判断できる識見が無かったのです。
次いで三井不動産は「大川端計画」、平成に変わる頃「湘南国際村」計画を発表しました。
 
湘南国際村は江戸会長が筑波の生まれであった事も関係していたのかも知れません。
我が国の将来は「研究開発、人材の育成(研修)にある」考えたのでした。
 
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                       (湘南国際村躑躅の大斜面。頭上に雲雀が上がっていました)
 
私の友人M君(中学高校の同窓生)が三井不動産の国際部に居ました。
昔からの山男でした。
ある時中国西安にホテル(現唐華賓館)を建てる・・・、計画していました。
当時の中国の内陸部にホテルを建てる・・・・・、様々な問題を指摘されました。
採算も心配ですが、いつ何時没収されるかもしれない・・・・・。
坪井社長からは「西安のホテルを建てるのは社会貢献だ」、指示されている。
Mから聞かされました。
同君は続いてモンゴールのウランバートルでホテルを建てる事業に着手しました。
しかし、山中で遭難してしまいました。
私は三井不動産の様々なセクションの人に親しくさせていただきました。
 
三井不動産の事業には大小さまざまあっても、総じて「夢」がありました。
ミニ開発の対極にあるような、「住宅、街」にかける夢がありました。
これからの日本では「こんな家に住まったら!こんな街にしたら・・・!」
ライフステージの提案がありました。
 
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湘南国際村は大半の位置から海が眺められます。
特に西斜面は鎌倉から大磯にかけての眺望が開けています。
湘南国際村の名前は「湘南が眺望できるニュータウン」の意味でしょう。
 
元々が山を削った開発ですから、大きな斜面が出来ます。
大きな雨水調整池が必要になります。
大斜面をどのように処理するのか?
有効宅地化率を上げるには、頑健なコンクリート用壁を作れば良さそうです。
でも、コンクリート壁は全くと言って良いほどありません。
桜を初め高木を植えるプランもあったでしょう。草原にしても良さそうです。
 
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                                               斜面から南を望む
 
開発者は躑躅を植えました。
それも、横縞模様に植えました。
海に寄せる波をイメージしたのだそうです。
帯のように広がる躑躅の植え込みは壮大であります。
下から見上げるとあの丘の上の生活は楽しいだろうな・・・・、充分に思わせてくれます。
景観は私達の財産です。
吉野山が下の千本、中の千本、上の千本、桜が咲きます。
先年以上も前から、修験者がこの山を愛して植えてくれたから・・・、日本人の景観財産になりました。
 
湘南国際村の斜面の躑躅を見て、その中を歩くたび毎に思います。
不動産会社は”夢を形にする会社“なんだ・・・と。
20年、100年将来の国土をデザインする会社なのだ。
 
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                                      躑躅の斜面から住区を見上げる
 
湘南国際村の住宅街を歩いていると、その美しさに感嘆します。
そして、成熟してきたなあ・・・・!思います。
日本の国には一時の力が無くなってきてしまいました。
 
湘南国際村の研究開発用にプランした事業用地はいずれ健康福祉施設に施設に変じることでしょう。
白衣の若い研究者が群れている筈の施設が、お年寄りが老後を楽しんでいる・・・、そんな光景に変わっていることでしょう。
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                      住宅区の家並み、庭も、道も美しくしようとする気持ちが快いです
 
でも、グランドデザインは変えようもありません。
それに、健康福祉施設にこそ湘南国際村のグランドデザインは適切です。
研究開発施設でも、高齢者専用住宅でも、病院でも、同じ人間が利用する施設です。
躑躅の大斜面は誰しもが誉め上げる事でしょう。
見上げれば、様々な鬱積、ストレス・・・・、皆吹き飛んでしまいます。
湘南の海風と、明るい日差しと、美しく彩られた景色を眺めれば・・・・・、元気になります。
 
M君はあの世で言っているでしょう。
「君も三井不動産に勤めれば良かったのに・・・・、それにしても私の西安のホテルに何時来るんだよ!」と。
 
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     湘南国際村の住区、電線・フェンスなど煩わしいものが無い町並みは美しい、また日当たりの      良い事から年中花が咲いています。(咲かせています)
 
 
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銀杏団地の「サイゴン・コミュニティー」

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娘は私達が夫婦揃ってベトナム好きなのを良く承知しています。
「お父さん、ベトナム料理が食べたいなら"銀杏団地"に行くと良くてよ」教えてくれました。
タイ料理は横浜の伊勢崎町や野毛の裏通りに数多くあります。
ベトナム料理となると明治学院大学の学生食堂くらいしかありません。
娘の話だと、店の雰囲気もベトナムと変わらない汚さだと言います。
これは、行かなくては・・・・、早速に出掛けてみました。
銀杏団地は横浜市泉区、長後街道が泉川をわたる辺りにあります。
 
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   右がベトナムの店が多く出店しているビル。左が銀杏団地と銀杏小学校
 
 
今からもう35年以上も前の事でした。
ベトナム戦争が終結、社会主義体制に移行しました。
大量の人々が小船に乗って自由主義の国々に脱出を図りました。
ベトナム難民、ボートピープルと呼ばれていました。
日本は難民を受け入れました。国としては初めての難民受け入れでした。
そして横浜市泉区(昔は戸塚区)の銀杏団地にも入居して、日本での生活を始めました。
そして、歳月がたって、彼等は日本に同化、子供達が生まれ、孫の世代も増えてきました。
銀杏団地8000戸のうち半数は外国人及びその子供達になっているのだそうです。
 
今次の東北関東大震災でもベトナムの方々がボランティアに出てベトナムフォー(ラーメン)を振舞っている姿が報道されています。
ベトナム人は日本人以上に日本人らしい義理人情に厚い民族なのです。
昭和30年代、40年代の「良き日本社会」「厚い絆」をベトナム人の家族や社会は持ち続けています。
必要以上に清潔好きな日本人より、汚くても構わない・・・・食事は美味しい事が大事でしょう・・・、そんな感覚が私は好きなのです。
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   ベトナムラーメンのフォー、左の生野菜を乗せて食べます。好みで調味料を入れます 
 
銀杏小学校の校門前に長屋のような二階建てビルがあって、ベトナム関係者が出店しています。
その中の、ベトナム料理店「サイゴン」が今日の目的です。
店主はもう60歳に近い親爺です。
聞けば難民として日本にやってきたとの事でした。
 
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   フォーの麺は米粉ですから口当たり、喉通りが良いのです。魚醤と香味野菜の香りが魅力です
 
ベトナム人は朝晩の食事は屋台に出てきて食べる事が多いようです。
銀杏団地の人たちも此処で外食する事がいいのでしょう。
私が入店した時もお客は全部ベトナム人で、ワイワイ・ガヤガヤうるさい事。
加えてテーブルがテレビゲームになっていますから、食事が出来るまでゲームに興じています。
20代の人たちですが、昼休みで此処で昼食、休んだ後に近くの工場に出掛けるだそうです。
職場は小田急線沿線にあるイスズや日産の協力工場だそうです。
貴重な労働力なのでしょう。
 
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    ベトナムレストラン「サイゴン」
 
東戸塚小学校でもベトナム人の子供を良く見かけます。
私は良く給食をお呼ばれします。すると聞かなくても生徒が言います。
「私のお母さんはベトナム人なの・・・」
私は瞬間何を言おうか迷ってしまいます。
「じゃあ、サイゴンは知ってるね?」
「ううん、知らないの・・・」
「小父さんはね、サイゴンが好きなんだよ。高いビルが建っていて、樹木が茂っていて、元気があっていい街だよ。でも、一番良いところは料理が美味しい事なんだよ・・・・」
子供達は日本生まれで、会話も日本語です。もう、日本人なのです。
 
 
ここ数年、日本の政治・社会を見ていると次第に内向きになってきている事が気がかりです。
私のような年寄りは日本で生活し、時々海外を旅行をしたい、思います。
でも、若くて才能のある人たちはこの閉塞した社会の雰囲気は耐え難いでしょう。
世界に雄飛したいと思うはずです。
一方で2050年までの間に日本の労働力人口は3000万人減少すると聞きます。
こうした状況下、国を開くことは大事な事でしょう。
「国を開く」事によって若い才能を日本に引き止める効果もあります。
同時に労働力人口も確保できます。
国を開く事によって、若干治安問題など生じるかもしれませんが、
そのインパクトによって社会の活力が蘇生できるのです。
 
会社の綺麗なカフェテリアで昼食をとっているサラリーマンもOLも、
時には小汚いレストランで、ベトナム料理を食べるのも良い事でしょう。
 
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       ベトナムの食材店、この香味野菜の手前にドリアが三個転がっていました
 
親爺が牛肉スープのフォーを持ってきました。
「家のフォーは美味しいよ・・・・」、言いながら山盛りの生野菜と2種の調味料を持ってきました。
私は、「もう少し量が少なくても良いのになあ・・・・」思いながら箸をつけました。
ベトナムではもっとラーメンどんぶりが小さくて、春雨など添え物も食べられるのに・・・。
でも、隣の若い人たちに適当なボリュームなのようでした。
 
隣の、食材店に入ってみました。
お店が臭い事・・・・、見れば一番の位置にドリアンが三個並んでいます。
その横には山盛りのパクチーがあって、漁醤が並んで、臭さの三重唱です。
これは、日本人除けの役割かな・・・思ったりします。
食材店はベトナム人しか相手にしていないようです。
まあ、それはそれで良いか・・・・。
思いながら横浜の片隅にあるベトナムコミュニティーを後にしました。
 
泉川沿いの田圃では大凧揚げが行われていました。
屹度、日本生まれのベトナム三世も一緒に興じている事でしょう。
日本とベトナム、極めて近い文化なのです。
歴史を遡れば、弥生時代まで辿れるのではないでしょうか?
 
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                                   泉川沿いの大凧揚げ風景
 
 
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平和の塔と白雲木

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戦後は1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇の玉音放送(降伏宣言)に始まりました。
日本人の社会も文化も大転換したのですから、同年を戦後ゼロ年とする意識が在りました。
それは、国民が戦争の原因を理解し、新しい国家観を形作る時間でもあったのでしょう。
1956年(昭和31年)経済白書は「もはや戦後ではない」名文句で始まります。
それは、国民が戦争を総括し、新しい国家観を把握した事も意味していました。
 
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 浄智寺を上る女学生。目の前の楼門の扁額には「山居幽勝」と書かれています。故朝比奈宗源住職  の思いが託されています。簡素・清貧で自然を探勝するには格好のお寺さんです。
 
昭和30年、円覚寺では朝比奈宗源師を導師にしてウォーナー博士の法要は開かれました。
ウォーナー博士とは”大戦の最中、京都・奈良・鎌倉の古都を戦火から救ってくれた大恩人”だというのでした。
米国軍部が”日本を降伏させる為には辺り構わず爆撃しろ”というのに対し、
この美学博士が”奈良・京都・鎌倉は爆撃してはならない、「文化は戦争に勝る」から”と主張した・・・、というのでした。
ですから、鎌倉を救ってくれた大恩人の法要を円覚寺で行ったのでした。
宗源師は鎌倉で「世界連邦平和都市宣言運動」を開催していました。
市議会は全会一致で平和宣言を採択して鎌倉駅西口に「平和宣言記念碑」を建立します。
記念碑の顔はウォーナー博士で「文化は戦争に勝る」刻みました。
そして、浄智寺にも平和の塔を建立します。
 
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 石段から右手に3本白雲木の若木があります。筍も何時の間にか随分背丈が伸びてきました。
 
思い起こせば、明治政府は円覚寺の参道、若宮皇路の参道を削って横須賀線を開通させます。
都心から海軍のある横須賀を結ぶ鉄道でした。
明治以来「軍事力は文化に勝る」確信して太平洋戦争に邁進した我が国でした。
日本人には「文化は戦争に勝る」主張は心底尊い主張だったのでしょう。
戦争の総括は「文化国家の建設」であったのでした。
 
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    浄智寺の本堂「曇華殿」簡素な作りです。石畳の上に釈迦を初め三世仏が祀られています
 
宗源師にとって、最も尊い平和な光景はお釈迦様の涅槃会であったでしょう。
お釈迦様は沙羅の樹下で静かに眠りに就こうとしています。
弟子も、一般人も、動物も、集まってきて、天地が一緒に悲しんでいるその情景です。
そんな場面を浄智寺の本堂の奥に設えました。
昔からあった白雲木の樹下に黒御影の丸石を築きました。
丸い玉は地球儀のようでもあり、戦争で亡くなった人の霊のようでもあります。
球は総てを円くおさめてくれる形だからでしょう。
 
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     白雲木、右手の球形が平和の塔の頭部分。この空間が”聖なる平和な光景”と思います
 
白雲木の名は樹下から見上げれば梢が高く伸びて、その先に白雲のように花が咲くからでしょう。
青空を背景にした白雲こそが「人間も斯く在りたい」思わせてくれます。
 
円覚寺で参拝者に配っている栞には次の禅語が印刷されています。
「竹筧二三升野水・松窓七五片閑雲」
 “私の山住まいには何も贅沢なものは無いけれど、筧をわたる水と松越しの窓からたなびく白い雲が見渡せます“ 清貧で簡素な生活の中にこそ悠々と自然を楽しむ消息であります。
そんな意味でしょう。
 
白い雲には大昔から人間の想いが託されていました。
その想いは白雲木にも通じます。
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  円覚寺の栞、朝比奈師は浄智寺住職から円覚寺管長になった「戦後を代表する禅僧」でした。
 
宗源師は楼門の扁額に「山居幽勝」と書かれました。
先の禅語と同じ意味でしょう。この浄智寺の住まいは自然と探勝するには格好の山住まいです・・・よ。
 
同師を慕う人達が境内に4本もの白雲木を植樹しました。
3本は参道に、1本は方丈に植えました。
若木も育ち花を盛んにつけています。特に方丈庭園に植えられた若木は姿良く花をつけています。
虫が寄ってきます。
蜘蛛の巣が張っていますが、今日ばかりは雨を捕まえるばかりで小虫は捕獲できません。
咲いたばかりの白雲木の花房に水滴が溜まります。
重くなった花は堪らず地上に落ちます。
桜以上に花期が短く、無常なところも白雲木の特徴です。
でも、落花しても真っ白い色は褪せません。
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   蜘蛛は白雲木に集まる蝶などをの巣を張って待ち構えていました・・・でもダメです。今日は雫しか   かかりません。
 
平和の塔の西横には高野槙の大木があります。
その樹下に一体の子安観音像が祀られています。
母親(観音)が乳児を抱いている姿です。
所謂「義軌に則った仏像」ではありません。昭和の作家が彫った子安観音でしょう。
この像は戦争に散った若い命、残された若い母子を思わせます。
母子観音は「聞け!わだつみの声」でもあり、若い母子の悲しみでもあるのでしょう。
 
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       高野槙の根元の母子観音(子安)像、平和の塔の一部分でもありましょう
 
ところがこの「平和の塔」には蛇足があります。
1994年米国は戦争中の機密文書を発表しました。その中に驚くことが書かれていました。
 
京都は原爆投下候補地でありました。だから爆撃しませんでした。
奈良も鎌倉も爆撃に値するような軍事施設などがありませんでした。だから爆撃しませんでした。
タダそれだけのことで、ウォーナー博士の「爆撃反対」の主張も無かったのでした。
日本人が勝手にウォーナー博士を祭り上げ、GHQも親米感情を育むには否定することも無かった・・・までのことでした。
 
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                落花しても全く色褪せしない白雲木の花(方丈庭園で)
 
この事実、そして真実が解っても「まあ良いじゃないか、美談だし」としてやり過ごしています。
間違いであっても法隆寺にも京都にも鎌倉にも(鎌倉駅西口)ウォーナー塔を建てたままです。
日本人の「平和ボケ」感覚なのでしょう。
 
奈良・京都・鎌倉が爆撃を免れた・・・・・、最も感謝すべきは昭和天皇でしょう。
玉音放送によって戦争終結を宣言した、あの英断が無ければさらに沢山の命が散って、京都の町に原爆が落ちたかもしれません。
そうしたら現代のような「日米関係」は考えられませんでした。
経済復興も成し遂げられなかったでしょう。
 
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 白雲木の花房、咲いたそばから散ってしまいます。花に較べて花を支える軸が細いのです。この週末 が最高の見頃です。
 
今回の大震災を見舞われる天皇皇后両陛下のお姿が報道されています。
暖かい激励に涙する被災者が映ります。
日本人の心の中で天皇の位置が確かになってきました。
被災地の惨状に戦後の焼け野原を思い起こしている人は多いと思います。
今後は暫くの間”震災後何年・・・”といわれる事でしょう。
賢明な国民はこの大震災が戦争にも匹敵する”転換点”である事を感じ取っています。
また、そうしたいものです。
 
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                    曇華殿(右)の向こうに聳えているのが白雲木 
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