5月30日、朝から冷たく五月雨が降り続く中、湖西市にある「本興寺」に向いました。
昨晩地図を見ていて、この寺が桜の名所であること、琵琶湖の石山寺の位置にあることから、参詣してみたくなったのでした。
山門の前に立って、この寺が日蓮宗の別院であること、「常霊山」という山号であることを知りました。
法華経の1句「常在霊鷲山」に因むのだそうですが、私は「霊が常在する寺」と読みました。
山門を潜ると本堂への参道の両側に塔頭が4寺も並んでいます。
ここは格式の高い大寺院だったのです。
壮大な本興寺本堂。右手一帯が墓地でした。
参道の左右に桜の木が目立ちます。その足元には躑躅が咲いています。
参道は本堂に向けてなだらかな坂道です。
境内の一番奥が本堂です。
五月雨の中、杉の大木の向こうに本堂がけむっています。
正面が5間半、奥行きも5間、巨大な建物です。
屋根は四方に流れた「茅葺」で、背が高く聳えています。
蛙股があって、蔀戸が組み込まれていて、「和様」が目立ちます。
細部は繁垂木であって、木鼻など唐様のデザインも目に付きます。
構造材が縦横に走っている技術は天竺様といえましょう。
見事な折衷様式です。
「何時頃の建築物かな?」見れば「国宝」の石柱が立っています。
戦前国宝、戦後重要文化財という事でしょう。
帰宅して調べると天文12年(1552)修復と記録されています。
という事は、このお寺の創建された永徳3年(1383)まで遡る事が出来るのでしょうか?
創建年代が特定されれば間違いなく国宝でしょう。
本興寺本堂の側面。正面5間半、奥行き5間の中世らしい骨太な建物です
誰もいない本堂外陣に入ってみます。
お灯明がぼんやりともって、内陣との境になっている蔀戸の影が床に落としています。
ご本尊はお厨子の扉が閉まっていて解かりません。
切り目縁に出てみます。
本堂東側は墓地が広がっています。
まだ、9時前だというのに墓参している方がいます。
今日は屹度周年忌なのでしょう。
私は改めて山号「常霊山」を思い起こしました。
本堂外陣から内陣を見る。霊気漂う堂内でした
本堂を出て、古書院に入ります。
この寺には谷文晁の壁画襖絵が15面もあって、別名「文晁寺」と呼ばれているのでした。
また、書院の庭は小堀遠州によるものだそうです。
遠州は京都の作事奉行でありました。
でも、その名の通り「遠州流」の庭が此処「遠江」には多く残されています。
遠州のお庭は躑躅の咲く季節を意識していると思っています。
何故なら石組みばかりの作庭であれば「侘び・さび」の世界ですが、
遠州は「綺麗さび」、花が欠かせません。
襖も屏風も壁絵も殆どが谷文晁、従って「文晁寺」とも呼ばれるそうです
古書院受付にはお婆さんが暇そうに座布団に座っていられました。
300円の拝観料を払って、パンフレットを戴くと、その横に「飴」がおいてありました。
竹皮に包まれて、「子育て飴・本興寺」と書かれています。
私はお婆さんに話しかけました。
「私の祖母がよく“幽霊飴”の話をしてくれました。あのお話はこのお寺の話だったのですね?
今本堂を参拝してきたのですが、霊を感じましたよ・・・」
おばあさんは笑顔です。
古書院玄関先に置かれた「子育て飴」
幽霊話は次の通りです。
300年ほど昔のお話です。
浜名湖の西岸に「鷲津」という名の漁村がありました。
八百四郎は妻と二人暮らしでした。待ちに待った子供が出来て、妻のお腹が大きくなりました。
ところが懐妊の日は冷たい雨が降りやまず、分娩出来ずに亡くなってしまいました。
八百四郎は泣きながら箕輪の共同墓地に埋葬します。
この辺りは麦と米の二期作農家が多く、麦秋を迎えていました。手前は田植えも終わっています
この箕輪の村に飴屋がありました。
麦から麦芽糖を抽出して「滋養飴」として商っていたのでした。
この頃から、毎晩見慣れぬ若い女が滋養飴を買い求めてくるようになりました。
不思議に思った飴屋の主人がある晩、女のあとをつけて、みました。
女は、村の外れを出て、更に山に向います。そして、共同墓地の中に消えてしまいました。
此方は谷文晁ならず、丸山応挙の幽霊。ぞっとするほどの美人です
気になった飴屋は翌朝墓地に出掛けてみました。
すると滋養飴の空箱が幾つも転がった墓があります。
八百四郎と飴屋はお墓を掘り起こして見ました。
すると棺桶の中から赤ん坊が泣き出しました。
八百四郎は自分の子であることを悟り、嬉しく愛しんで育てました。
赤ん坊は大変に利口な子供で、やがて成長して立派なお坊様になりました。
本興寺の名僧、日観になりました。
「飴と子育て」の話では此処からほど遠くない掛川市小夜の中山にもあります。
「飴と子育て」の話では此処からほど遠くない掛川市小夜の中山にもあります。
「夜泣き石」の話です。
本興寺古書院のエントランス。この辺りも遠州好みでした
本興寺の庭園、小堀遠州作と伝えられます
祖母は連れ合いが三河の出でしたから、夫から聞いた幽霊話だったのでしょう。
私に話してきかせた時、私が怖がったのが楽しかったのかもしれませんが、同時に若くして失った夫の思い出も重なっていた事でしょう。
古書院を出ると、躑躅の花が前にもまして鮮やかに見えました。
私は「お婆ちゃん、貴方の話してくれた”幽霊飴”のお寺に来たよ。あなたは来た事あったのかな・・・?
でも、お話の通りに良いお寺でしたよ。しみじみとしていて、霊も居座ってしまいそうな懐かしいお寺だよ」
報告しました。
書院の座敷から庭を見る
実際の話はこんな事だったのでしょう。
八百四郎と女とは禁じられた関係(身分の違いや近親者)にあったのでしょう。
でも、二人は逢瀬を重ねました。
女は何時しか妊娠してしまった。
仕方なく人里離れたお堂で出産した。
ところが、産後女は亡くなってしまいます。
八百四郎は男手一人で子供を育てました・・・・。
そして・・・・・。
これではインパクトが無いので・・・・幽霊話に仕立てました。
古書院の入り口
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