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幽霊飴のお寺(遠江の本興寺)

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5月30日、朝から冷たく五月雨が降り続く中、湖西市にある「本興寺」に向いました。
昨晩地図を見ていて、この寺が桜の名所であること、琵琶湖の石山寺の位置にあることから、参詣してみたくなったのでした。
 
山門の前に立って、この寺が日蓮宗の別院であること、「常霊山」という山号であることを知りました。
法華経の1句「常在霊鷲山」に因むのだそうですが、私は「霊が常在する寺」と読みました。
山門を潜ると本堂への参道の両側に塔頭が4寺も並んでいます。
ここは格式の高い大寺院だったのです。
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      壮大な本興寺本堂。右手一帯が墓地でした。
 
参道の左右に桜の木が目立ちます。その足元には躑躅が咲いています。
参道は本堂に向けてなだらかな坂道です。
境内の一番奥が本堂です。
五月雨の中、杉の大木の向こうに本堂がけむっています。
 
正面が5間半、奥行きも5間、巨大な建物です。
屋根は四方に流れた「茅葺」で、背が高く聳えています。
蛙股があって、蔀戸が組み込まれていて、「和様」が目立ちます。
細部は繁垂木であって、木鼻など唐様のデザインも目に付きます。
構造材が縦横に走っている技術は天竺様といえましょう。
見事な折衷様式です。
「何時頃の建築物かな?」見れば「国宝」の石柱が立っています。
戦前国宝、戦後重要文化財という事でしょう。
帰宅して調べると天文12年(1552)修復と記録されています。
という事は、このお寺の創建された永徳3年(1383)まで遡る事が出来るのでしょうか?
創建年代が特定されれば間違いなく国宝でしょう。
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                本興寺本堂の側面。正面5間半、奥行き5間の中世らしい骨太な建物です
 
誰もいない本堂外陣に入ってみます。
お灯明がぼんやりともって、内陣との境になっている蔀戸の影が床に落としています。
ご本尊はお厨子の扉が閉まっていて解かりません。
切り目縁に出てみます。
本堂東側は墓地が広がっています。
まだ、9時前だというのに墓参している方がいます。
今日は屹度周年忌なのでしょう。
私は改めて山号「常霊山」を思い起こしました。
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                            本堂外陣から内陣を見る。霊気漂う堂内でした 
 
本堂を出て、古書院に入ります。
この寺には谷文晁の壁画襖絵が15面もあって、別名「文晁寺」と呼ばれているのでした。
また、書院の庭は小堀遠州によるものだそうです。
遠州は京都の作事奉行でありました。
でも、その名の通り「遠州流」の庭が此処「遠江」には多く残されています。
遠州のお庭は躑躅の咲く季節を意識していると思っています。
何故なら石組みばかりの作庭であれば「侘び・さび」の世界ですが、
遠州は「綺麗さび」、花が欠かせません。
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     襖も屏風も壁絵も殆どが谷文晁、従って「文晁寺」とも呼ばれるそうです
 
古書院受付にはお婆さんが暇そうに座布団に座っていられました。
300円の拝観料を払って、パンフレットを戴くと、その横に「飴」がおいてありました。
竹皮に包まれて、「子育て飴・本興寺」と書かれています。
私はお婆さんに話しかけました。
「私の祖母がよく“幽霊飴”の話をしてくれました。あのお話はこのお寺の話だったのですね?
今本堂を参拝してきたのですが、霊を感じましたよ・・・」
おばあさんは笑顔です。
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                                古書院玄関先に置かれた「子育て飴」   
 
幽霊話は次の通りです。
300年ほど昔のお話です。
浜名湖の西岸に「鷲津」という名の漁村がありました。
八百四郎は妻と二人暮らしでした。待ちに待った子供が出来て、妻のお腹が大きくなりました。
ところが懐妊の日は冷たい雨が降りやまず、分娩出来ずに亡くなってしまいました。
八百四郎は泣きながら箕輪の共同墓地に埋葬します。
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   この辺りは麦と米の二期作農家が多く、麦秋を迎えていました。手前は田植えも終わっています
 
この箕輪の村に飴屋がありました。
麦から麦芽糖を抽出して「滋養飴」として商っていたのでした。
この頃から、毎晩見慣れぬ若い女が滋養飴を買い求めてくるようになりました。
不思議に思った飴屋の主人がある晩、女のあとをつけて、みました。
女は、村の外れを出て、更に山に向います。そして、共同墓地の中に消えてしまいました。
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                     此方は谷文晁ならず、丸山応挙の幽霊。ぞっとするほどの美人です
気になった飴屋は翌朝墓地に出掛けてみました。
すると滋養飴の空箱が幾つも転がった墓があります。
八百四郎と飴屋はお墓を掘り起こして見ました。
すると棺桶の中から赤ん坊が泣き出しました。
八百四郎は自分の子であることを悟り、嬉しく愛しんで育てました。
赤ん坊は大変に利口な子供で、やがて成長して立派なお坊様になりました。
本興寺の名僧、日観になりました。
「飴と子育て」の話では此処からほど遠くない掛川市小夜の中山にもあります。
「夜泣き石」の話です。
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     本興寺古書院のエントランス。この辺りも遠州好みでした
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                         本興寺の庭園、小堀遠州作と伝えられます
 
祖母は連れ合いが三河の出でしたから、夫から聞いた幽霊話だったのでしょう。
私に話してきかせた時、私が怖がったのが楽しかったのかもしれませんが、同時に若くして失った夫の思い出も重なっていた事でしょう。
 
古書院を出ると、躑躅の花が前にもまして鮮やかに見えました。
私は「お婆ちゃん、貴方の話してくれた”幽霊飴”のお寺に来たよ。あなたは来た事あったのかな・・・?
でも、お話の通りに良いお寺でしたよ。しみじみとしていて、霊も居座ってしまいそうな懐かしいお寺だよ」
報告しました。
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                                          書院の座敷から庭を見る
実際の話はこんな事だったのでしょう。
八百四郎と女とは禁じられた関係(身分の違いや近親者)にあったのでしょう。
でも、二人は逢瀬を重ねました。
女は何時しか妊娠してしまった。
仕方なく人里離れたお堂で出産した。
ところが、産後女は亡くなってしまいます。
八百四郎は男手一人で子供を育てました・・・・。
そして・・・・・。
これではインパクトが無いので・・・・幽霊話に仕立てました。
 
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                                                  古書院の入り口
 
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33観音、88大師の石仏に思う(湖北大福寺にて)

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東海道の関所といえば、「箱根関所」「新居関所」が先ず頭に浮かびます。
これに「気賀関所」加えて、東海道三関所と呼んだそうです。
本街道は浜名湖の南を通ります。湖と遠州灘に挟まれた街道の縊れに「新居関」があります。
浜名湖の北を通る道、見附宿(磐田市)と御油宿(豊川市)を結ぶ脇街道を「姫街道」と呼びました。
其処に設けられたのが「気賀関所」です。
気賀関所は天竜浜名湖鉄道「気賀駅」から程近いところにありました。
此処で桜の季節「姫様道中祭り」で賑わう・・・、はブログ仲間の情報で知りました。
今日は五月雨が降りしきっています。
無人駅舎ですから、駅員がいないのが普通、お客様もチラホラです。
暇そうなタクシーが二台、そして駅舎の過半を使っているラーメン屋さんもボンヤリ雨空を見ています。
私はここで腹ごしらえしました。
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                                 気賀駅は「姫様道中」の玄関口です
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           気賀駅(天竜浜名湖鉄道)の駅舎はラーメン屋さんに占領されて・・・。
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   徳川吉宗の時代、江戸まで象を運びました
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               気賀関所、櫓に登って門方向を見る。牢屋なども整備されいて興味深い
 
気賀関所も人影は全くありません。
気賀関所の整備は竹下登さんの時の「ふるさと創生資金」で整備した、とのこと。
同資金は歴史資産や公園や温泉の整備・開発など有効に使われているようです。
お金は国に使わせるより、地方自治体に使わせたほうが有効である・・・、そんな思いがします。
関所の中には象を江戸まで運ぶ風景が描かれていました。
「今きりの渡し」を越えるのを避けるため、姫街道を選択したのかな・・・、思いました。
結構、楽しめました。100円の見学料は安い。
 
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          摩訶耶寺の33観音石仏から
 
気賀の西に三ケ日の宿場があります。
宿場には「大福寺参道」の石碑が建っていて、此処から山に2キロも登った処が大福寺があります。
私の目標は大福寺ですが、先ず、参道を折れて摩訶耶寺(まかやじ)に向いました。
今日は雨、山門横の三十三観音像が濡れているからです。
 
摩訶耶寺も大福寺も何れも奈良時代の創建、現在は真言宗のお寺さんです。
奈良や京都なら大寺院が並び立つでしょうが、こんな田舎で仲良くしていられたのかな?
要らぬ心配もしてしまいます。
 
期待通り、観音像は雨にぬれて、陰影が濃くなっています。
33観音は、観音様が33のお姿に変化して衆生を救済してくださるから、更に西国に33の観音霊場があるからです。
此処、浜名湖に居ながらも摩訶耶寺に詣でれば、観音霊場のお遍路をした・・・・・同じ霊験があると信じたからでしょう。
江戸時代、このお寺で33観音もの石仏を彫った人は何処の誰だったのでしょうか?
一体を1週間なら、1年近くを要します。
お弟子さんが二人も居れば一つの季節で完成したかも知れません。
様々な想像をしながら、並んだ石仏を見詰めます。
面長なお顔、大きな手が私の目を惹きます。
あと2週間もすればアジサイの花が観音像を彩ることでしょう。
アジサイは色彩が移ろいます。観音像も変わります。
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   33観音像は同一の人、または棟梁一人で数人で製作したようです。穏やかな表情、掌の意匠に    特徴がある、思いました。
 
 
摩訶耶寺から山に向えば、大福寺です。
坂道の途上に、大きな山門が見えます。
真っ赤に塗られています。現代工場生産の塗料なのでしょう。
未だ、しっくりしていません。もう少し風雨に曝されないと・・・いけないのでしょう。
欄間の彫刻は極彩色で塗られていますが、木鼻(横木の先端、象の彫刻が飾られている)だけが塗り残されていました。
このままに塗り残すのかな?それとも高級な塗料を探すのかな?想像したりします。
山門から、本堂までは500メートルはあるでしょう。
畑もあれば、民家も、そして第二東名道路も建設中です。
大福寺の規模が壮大であった事が判ります。
 
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大福寺の山門、お寺から随分下った村外れにありました
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山門の蛙股などのパーツは鮮やかに塗られていますが、木鼻だけが塗り残されていました
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大福寺の案内では鎌倉時代の仁王像とされていました
 
大福とは「大きな福運」、ですから大福寺を詣でれば福運を授かる事になります。
大福納豆はこのお寺のお坊さんが始めたもの、ネバネバ納豆ではなく、山椒の味付けをした、酒の肴にもなりそうな納豆だそうです。
今の「浜納豆」の始まりだそうですが、季節商品だそうでした。
昨日書いた「子育て飴」「大福納豆」、何れもお姫様がお駕籠の中で戴いたのかもしれません。
 
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                               大福寺の本堂を見上げる
 
本堂前の石段の左右にも石仏が並んでいます。
此方は一つの台座に左が弘法大師像、そして右側が様々な仏様(阿弥陀様や観音、地蔵菩薩など)です。88組あるのでしょう。(数えませんでしたが)
石仏の脇で額アジサイが少し色づき始めています。
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88は四国の遍路道のこと、「同行二人」はお遍路さんの信心です。
「一人では無いのだ、弘法大師様がご一緒してくださる・・・・」、信じて遍路道を辿ります。
ならば、その右の観音像は自分自身と思えば良いのでしょう。
他人が見ていようが、居まいが「何時でも、何処でも」大師様が一緒してくださる・・・・・、
そんな信心を形にしたのが、この88組の石仏でしょう。
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                           山門の参道両側に並んだ「同行二人」の石仏達
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自分自身がお遍路をしていること・・・・、それは「自分と大師様」との間だけの事でしょう。
昨日もTVで首相は自分はお遍路の途上で未だ結願していない・・・・公言していました。
私は思います。
「管さんは変わらないなあ・・・・、目立ちたがり屋で・・・・・、遍路姿をTVでライブしてもらいたい・・・・」
思っているのと違いますか・・・・?
 
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でも、そうしたら、お隣の大師様がポンと金剛杖で地面を叩く事でしょう。
「私はTVには映らないよ、何故かって・・・・、それは自分自身でわかっているでしょう。」
 
遠州の人達は先ず摩訶耶寺で西国33札所を巡って、
更に大福寺で四国遍路道を辿って・・・・、心安らかに日々を送りました。
 
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    大福寺から奥山方広寺への道筋にあった民家。もう、立葵が咲き出していました。
 
お寺の麓では豊田佐吉が生まれ、様々な先進企業が立地しました。
 
そう言えば「豊田佐吉とこの石仏群と関係がある・・・・?」笑う人も多いでしょう。
でも、私は思います。
「33観音、88大師、工夫する所が・・・・共通するんです」
更に「自分の信心が自分ひとりの幸福に留まらず、地域や社会の幸福になる・・・」
そんな考えが日本を支え、育ててきたんです。
 
そんな話はまたの機会にいたしましょう。
 
湖北の寺巡りは楽しいものがあります。
それは、各々の寺が個性豊かだからです。
(日蓮宗、真言宗、臨済宗、黄檗宗、浄土宗のお寺といろいろです)
 
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 楽しいのですが・・・・、何処に行っても廃屋が目に付きました(奥山で)
 
 
 
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「砂の女」の思い出(遠州灘にて)

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私が未だ高校生だった昭和39年、町中にショッキングな映画ポスターが貼られました。
「砂の上」で、女(岸田今日子)が男(岡田英次)の体を求めて髪を乱している姿でした。
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                                      東宝映画ポスターから
状況はあり地獄に陥った男(岡田)の生命(若さ)をあさる女(岸田)を思わせました。
原作は安陪公房、監督は勅使河原宏、音楽は武満徹、そうそうたる布陣で製作されました。
話題作だったのですが、高校生には刺激がハードでした。
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                             同上
今思い起こせば、鮮やかな砂紋は二人の心臓の鼓動を、
打ち寄せる波音は性的な興奮を伝えていたのでしょう。
 
二人は砂のすり鉢の底で交わっていました。
すり鉢の上から、野卑な漁師達の眼が注がれていました。
 
男は昆虫学者、標本採取中に砂丘に紛れ込み、
この猟師達に騙されて、砂の女の餌にされてしまったのでした。
男も薄々その現実は判ってきたのでしたが、
あり地獄の底に陥ってみると、底知れない魅力を感じて、脱出を試みなかったのでした。
 
 
日本にこんな砂山風景があったのだろうか?
調べてみました。
 
場所は遠州灘の東、御前崎に近い場所でありました。
その先(東)は問題の「浜岡原子力発電所」があります。
其処が私の親友の故郷でもありました。
以来、私は遠州灘の砂浜に惹かれていました。
 
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  弁天島の鳥居の向こうに渚を走る高速道路が延々と続いています。その遠州灘よりに砂丘が広がっ  ています。
 
せっかく浜松に来たのだから、遠州灘の砂丘に行く事にしました。
海岸線に沿って黒松の防砂林が続き、その真ん中に高速道路が走ってきます。
その陸側は戸建の住宅街、砂浜が広がって、遠州灘が広がっていました。
海の彼方は太平洋であります。
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雨のせいもあったか砂浜は黒ずんで見えます。
疎らに貝殻が転がっています。
ゴミも無いきれいな砂浜が遥か彼方まで広がっています。
砂の女が撮影された頃は今にも増して広く美しい砂丘が広がっていたのでしょう。
高速道路もなく、まして住宅街も、黒松の林も、総て砂浜で、砂丘に相応しい景色だったのでしょう。
そして、原子力発電所も無かった・・・・。
 
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私は「今が悪くなった」とも、「昔が良かった」とも判断できません。
景色も随分変わってしまったのは事実です。
 
私の足元には浜昼顔の花が濡れています。
鵠沼の砂浜に咲いている浜昼顔と同じです。
でも、何処と無く淋しげに見えるのは人気が無いためでしょうか?
遠くにサーファーの姿が疎らに見えます。
でも、砂浜には人影一人も見つかりません。
 
気が付くと、真っ赤なビーチサンダルが砂浜に脱ぎ忘れてありました。
若い女の匂いがするような想いに駆られました。
その人は、今海の中なのでしょう。
 
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今の若い人が「砂の女」を見たらなんて言うのかな?
「砂の上で絡み合うなんて・・・興ざめだわ!シティーホテルがあるじゃないの!」
なんて言うのかも知れません。
「住む家が無い、寝る布団が無い、でも迸る欲求がある・・・・」
そんな時代はもう過去なのかもしれません。
でも、欲求が枯れたり、萎れてしまったら・・・・・、悲しいことです。
 
私は赤いビーチサンダルの主が一人で海から上がってくるのを、待って見たくなりました。
 
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  砂丘から住宅を分離させた防砂林。でも黒松は痛々しいほどに細く痩せこけています。
 
 
 
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明治天皇も眺められなかった「菖蒲の花」(遊行寺書院庭園)

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遊行寺(時宗本山)は毎週のように日曜日には骨董市、水曜日には野菜朝市が開かれます。
今日は梅雨の晴れ間、広い本堂の前には青空店舗が店開きです。
遅れてきた人は、いい場所はおろか、店開きも出来そうもありません。駐車場も混乱です。
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  日曜骨董市風景、正面が中雀門、明治天皇はこの門から奥の大書院に6回泊まられました。 
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             骨董市から、このオカメ・ヒョットコの夫婦はそのままで「道祖神」です。
 
私と家内も目的は寺務所内苑の菖蒲園の見学です。
何時もは入れない寺務所の内玄関から、廊下を伝って奥に奥に入ります。
幅の広い廊下にはチリ一つありません。
それでも、毎朝お掃除しているのでしょう、若いお坊さんが先ず箒で天井を払っています。
次いで、掃いて、最後に雑巾掛けをするのでしょう。
 
「今日は!」声を掛けていただきました。
私が「お早うございます!」とお返事したら・・・・・、「ああ、未だ朝ですね・・・」笑ってくれました。
若いお坊さんには懐かしさが漂います。
Tシャツが似合っています。
 
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           廊下を掃除している若い修行僧、右手が書院、明治天皇の随行員が泊まられた 
 
三方を書院に包まれた200坪くらいの空間が菖蒲田です。
数日前にはツバメが集まって、黄鶺鴒が遊んでいました。
菖蒲も咲き始めでした。
今朝は菖蒲も咲きそろい始めましたが・・・・、鳥達は未だ姿を見せていません。
お坊さんの箒姿に驚いて、放生池の方に周っているのかもしれません。
 
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   菖蒲の風景
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    菖蒲田の土を嘴で捏ねて、咥えて、巣作りの材料にするツバメの夫婦
 
明治元年(1866)3月、江戸城が開城します。
同年9月20日、明治天皇は京都を出発して東京に向われました。
1010日にこの遊行寺の大書院にお泊りになられます。(行在所/あんざいしょ、と呼びます。天皇の旅先での宮殿の意味です)
その後、天皇は同年12月、211月、58月に二回、1111月と計6回もこの大書院にお泊りになられました。
最後の随行員は山岡鉄太郎、井上馨、大隈重信、岩倉具視、西郷隆盛など50名にのぼったそうです。
明治22年東海道線が開通すると天皇のお泊りはなくなりました。
 
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 明治天皇ご一行が大書院を行在所とした記録(明治11)、随行員の名の順番は責任の順でしょうか?
 
天皇のお泊りの時は中雀門を入られて、大玄関から私が通った廊下を進まれ、大書院に入られたのでしょう。
そして随行の明治の元勲は二つの書院に入り、多くの随行員は他の僧坊や若しかしたら本堂内陣に布団を敷いたのかもしれません。
書院から庭を眺めれば遠州流の築山・庭園ではなくて、田圃があって、小さな池がって・・・・、
天皇は言われたかもしれません。
「遊行寺の庭は、田圃が在るだけじゃな・・・」  と。
 
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                               正面が明治天皇の泊まられた大書院
 
するとお坊さんは答えられたでしょう。
「田圃には菖蒲が咲きます。水無月には見事な花が田を埋めます。」
「ならば、いずれかの機会に見たいものだ・・・」仰られたかも知れません。
 
そんな想像をすると、明治天皇が見られなかった庭を眺めている事の幸運を思います。
 
件のお坊さんに聞きました。
「大屋根の切り妻に箱があるでしょう・・・・。あれはキジバトの巣として設えたのですか?」
お坊さんは、私、家内と一緒に甍の下に並んだ10個もの穴を見詰めます。
「何時頃用意したのか知りませんが、屹度そうでしょうね・・・」
相槌を打ってくれました。
鳩は今どうしているのか・・・・わかりません。
でも、あの高さなら安全でしょう。
勿論、遊行寺には沢山の鳩が棲んでいます。
 
 
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  書院の縁の下から菖蒲が咲き始めます
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寺務所棟の切り妻には鳩ノ巣が10個も掛けられています。
遊行寺ほど「鳥など命と相和して生きてゆこう・・・・」そんな想いが色濃く出ているお寺を知りません。
天皇の上に鳥がいては不敬罪(?)なんて考えたりして・・・・?
 
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「道祖神」と「水子地蔵」の役割分け

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仰々しく「双体道祖神の宗教社会学的考察」と題して講演させていただきました。
双体の道祖神が美しいのは万人が認める所でありますし、
男女が愛し合っている姿は誰しも共感するものです。
そんな道祖神を改めて宗教社会学の手法で解析すれば、
面白い素材であり、改めて現代的な意義も見出せると考えました。
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                                  講義が終わって雑談の風景(筆者撮影)
 
講演が終わって質疑の時間になりました。
他人の意見は貴重であり、改めて考察を深めるきっかけになります。
その一つが、道祖神の彩色でした。
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                                            安曇野の「彩色道祖神」
「安曇野の道祖神を子供が彩色するのは、綺麗に色塗りする事によって、
道祖神の霊力が蘇ると考えたのではないだろうか」
考えるヒントは、浄瑠璃人形の頭の色塗りだそうです。
地方によっては道祖神に小麦粉を塗る所もあります。
また、江戸の小話に「風呂敷から生首が二つ転げ出た話し」があります。
下男が鎌倉の某寺の肖像仏の首(こけしの様に首が抜けた)を江戸まで塗り直しに遣られました。
ところが、品川宿の飯盛り女に袖を引かれて起してしまいました。そこで起きたアクシデントでした。
「なるほど!」納得しました。
 
道祖神が信州、上州、相模、遠州(東部)に集中しているのは、其処が「諏訪大社文化圏」にあるからではないだろうか?意見も出ました。
同感であります。
三輪大社(奈良)出雲大社、伊勢神宮文化圏には道祖神は先ず見ません。
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             諏訪大社文化圏を象徴する、縄文ビーナス
 
もう一つ質問がありました。
「道祖神は子供が欲しい、子孫が繁栄して欲しい、そんな願いを叶えてくれる神様であります。
でも、現実には貧乏人の子だくさん。出来すぎた子供は“間引き“していたのでした。
道祖神と逆の役割をした信仰はどうだったのでしょうか?」
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               間引き絵馬
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     少年柳田国男を導いた「間引き絵馬」、母親は夜叉に、障子の向こうに幽霊が描かれています。
 
「間引き絵馬」は全国各地にあります。
最も有名なのは茨城「徳満寺」の絵馬でしょう。
柳田国男少年にショックを与え、日本民族学の門を開けさせた絵馬でしたから。
 
総じて言えば、子供は7歳になるまでは神の世界の預かり者でした。
多くの子供が症状を訴えられずに突然に亡くなりました。
そんな時、人々は冥界から呼び戻され、また直に生まれ変わるだろう、と考えました。
 
また、生計の上限を超える子供が生まれれば・・・・・、
老人が「姥捨て山」に行くか、殺してしまいました。
これを“間引き”と呼び、仕方ないことだ、思いました。
 
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        相模の双体道祖神は「双体地蔵尊」の姿をしています( 明和8年・1771)
 
1767年(田沼時代)幕府は「間引き禁止令」を出します。
1880年明治政府は「堕胎罪」を発布します。
という事は間引きや堕胎が多く行われていたからでしょう。
“間引き絵馬”はお寺に奉納されています。
寺では”間引きは人倫に外れた行為であり、夜叉の行為である”絵馬で説きました。
産まれたばかりの乳児の首を絞める母親には角がはえています。
障子の向こうには幽霊がスタンバイしています。
 
それでも・・・・、現実は「間引き」をしなくてはならなかったのでしょう。
亡くなった(殺された)子供の霊を慰め、今度産まれてくる時は幸せになって欲しい・・・、願いを込めて水子地蔵を奉納しました。
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                水子地蔵尊は現代が最も多く奉納されています(鎌倉長谷寺)
 
強いて言えば「元気な子供が生まれてほしい、子供は元気に育って欲しい」祈りは「道祖神/童祖神」が受け持ちました。
でも、産児制限・ベビーコントロールの術を知らない時代でしたから・・・・水子は無くなりませんでした。
“産児制限をしてくれる神様“は思いつきませんでした。
お地蔵様(水子地蔵)に冥福を託すことしか出来ませんでした。
 
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      鎌倉西念寺、右から「子安地蔵」「獄門図」「地蔵」「庚申塔」が並んでいます。獄門図が興味      を引きます。
 
鎌倉岩瀬の西念寺の墓地にこんな石仏があります。
獄門台の上に男女の生首が二つ置かれています。(上記写真、右から二つ目)
 
獄門は斬殺刑を執行した上で、民衆にその首を曝して、見せしめにしたものでした。
獄門の下には天秤が置かれています。
天秤は左の方が重たい・・・示しています。
重たい方にはお地蔵様が座っておいでです。
お地蔵様のお慈悲のほうが重たいのです・・・・・、説明しているのでしょう。
では、軽い方には何が置かれているのか・・・・、
何か「土嚢/どのう」のような物が置かれています。
私は「生首の人が生前に犯した罪や生まれながらの“業”」であろうと思います。
西念寺では「獄門図」を用いて説いていた事でしょう。
 
水子を生んでしまったのは「罪であり行くつく所”業”であろう」
それは重たい・・・・、でもお地蔵様の慈悲の心は遥かに重たいものがある。
お地蔵様に祈れば、救済されるであろう。
お前も、水子も・・・・。
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江戸時代になると経済力も上昇して、農民は自分達の信仰を形にし始めました。
でも字が読める人は滅多にいません。
庚申塔も道祖神も絵馬も・・・・絵解きで信仰を形にしました。
そこで、道祖神は「命の誕生を司る神」となり、
地蔵(又はお寺)は「亡くなった命の冥福を祈る仏」となりました。
役割を分担したと考えれば良いでしょう。
 
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                          道祖神の最高傑作「井筒井/伊勢物語」
 
道祖神は受容の幅が広いことが特長です。(これは私の講義のメインテーマでしたが)
そして農民から見れば「生と死」、最も厳粛な場面を使い分けていました。
これが、質問に対する回答です。
皆さん、ご静聴下さり、ご意見を頂き感謝します。
 
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                  私を石仏に誘ってくれた、双体道祖神(姥捨の北、修那羅にて)
 
 
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「目に菖蒲、耳に邦楽」(横須賀菖蒲園の楽しみ)

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梅が咲いた、桜が咲いたと言っては名所を探訪し、藤や菖蒲が咲き始めてもソワソワしてしまいます。
では何処に行こうか?調べます。
今年のように天候不順で、開花が遅れる年にはインターネットが便利です。
開花状況を確かめて、今年も横須賀の菖蒲園に出掛けました。
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                         横須賀菖蒲園の八橋ゾーン。6月中旬が最高だと思います
 
 
三浦半島の背骨「大楠山」の北のふもと、
傾斜地(3.8ha)に400種、14万本の菖蒲が植えられています。
昔は棚田だったのでしょうが、横須賀市は昭和63年「横須賀菖蒲園」として開園しました。
グランドデザインは、自然形状に活かして山側に藤や石楠花を植えました。
そして谷を菖蒲田にいたしました。
棚田の下段は雨水調整池を兼ねて、睡蓮池にしました。
 
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木々の足元はクリスマスローズが埋め尽くしていますし、傾斜地には山百合も花を咲かせます。
出口にはイベントや食事が楽しめる管理棟を建てました。
野菜や花の直売も賑わっています。
開園して四半世紀、菖蒲園も風格が出て来ました。
菖蒲田が広がった事もありますが、何と言っても菖蒲の株が大きく育ってきた事です。
関係者の丹精の賜物でしょう。
 
遠目で見ても色も形も背丈も・・・・様々な菖蒲です。
何れが菖蒲か杜若(かきつばた)」という言葉があります。
一般には美人が沢山いて甲乙つけられない、目移りがしてしまう・・・・、そんな光景を言うのでしょう。
確かに菖蒲も杜若もあやめも、私達素人には判別できませんが・・・。
様々な種が夫々に美しくて、見入ってしまいます。
 
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                                          水車小屋に菖蒲の花
家内とお遊びです。
遠目で見て、鮮やかに咲いている菖蒲を「江戸系」か「伊勢系」か「肥後系」か言い当てるのです。
日本人は、500年も前から、地域で、階層で、競って菖蒲の花を競いました。
歴史や人々の気質が花の姿に反映します。
綺麗に着飾った女性を「貴方はお江戸の生まれでしょう?」言い当てるような楽しみです。
 
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                                            此方は江戸系「和夫の誉れ」
江戸の町民が栽培したのが「江戸系の菖蒲」です。
矢張り「粋」でなくてはなりません。
スッと背が高く、雨風にも強い体でなくてはなりません。
それでいて、花には見栄えが大切です。
花弁が横に広がって咲きます。
花弁の中心には蕊(しべ)が立っています。
まるで花弁が蕊を守っているように見えます。
江戸の花魁は背筋が立って、スタイルが大事です。
 
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                               伊勢系「涼花」 
 
江戸系の菖蒲を見て、紀州藩の侍が開発したのが「伊勢系菖蒲」です。
「雅(みやび)」である事が重要です。
花は大輪で、花弁が優雅に大きく垂れている姿が特長で「良く垂れていますね・・・」が誉め言葉なのだそうです。
「だらりの帯」の舞妓さんを連想させます。
 
主として部屋の中で眺めることが多いので、草丈は低く、鉢植えに適したサイズです。
伊勢の三名花といわれる伊勢菊、伊勢撫子は何れも草丈が低く優雅であるところが特長だそうです。
 
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                                  美吉野(伊勢系)が一番目立っていました
 
 もう一つが肥後系です。
肥後熊本の藩主細川斉護公が工夫に工夫を重ねて育てた菖蒲だそうです。
お殿様が水前寺(現在公園)に遊びに出掛けられました。
書院の廊下から庭を見晴らします。
前景には鉢植えの菖蒲が咲いています。
そんな状況をイメージすれば良いのでしょうか。
風格があって、力強く、堂々としていて、花も在る、立派な武士が並んでいる・・・・。
花の中心にある「雄蕊」を侍の精神に見立てて、横から眺めた時に大きな雄蕊がすっくと立って、花弁はたおやかに垂れている姿を尊びました。
武士道を花にした姿とでも言えましょうか。
門外不出だったそうですが、大正時代に横浜から全国に広がったそうです。
 
まあ、肥後の殿様は花好きで、「椿」「朝顔」「芍薬」「山茶花」「菊」と併せて「肥後6花」として主の開発に心血を注いだそうです。
江戸幕府から見れば加藤清正以来の武勇の大名が「花作りにほうけている」姿は安心感をもたらしたのでしょうが・・・。
 
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                                      花柄を摘む娘さん(?) 
菖蒲の産地当て遊びも直に飽きてしまいました。
何故かというと、400種もあると言うのに、早咲きの種は限られているのです。
遠目に華やかに咲いている菖蒲も、
近くで見ると「美吉野」「涼花」「薫の君」「揚羽」と限られているのです。
 
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私達は11時に管理棟の「菖蒲園コンサート」会場に行きました(無料)。
私達にとっては初めてでしたが、6月の毎日曜日にコンサートを始めて8年経っているのだそうです。
屹度、横須賀市民のバンドかな・・・・・?
想像しながら会場に足を運んだのですが・・・・とんでもない、一級の演奏でした。
以下、その会場風景をお話します。
 
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                                       演奏者紹介の手作りチラシ
 
琴は「馬場信子氏」、17弦は「城ヶ崎美保」、尺八「善養寺恵介」、パーカッション「よしうらけんじ」の4人でした。
前の三人は芸大OBで邦楽では実績のある人のようです。
またパーカッションのよしうら氏は慶応法学部卒の経歴ですが、
ジャズ、ロック、ポップスそして邦楽と幅広い「多国籍音楽家」のようです。
 
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  右から、尺八:善養寺恵介、琴:馬場信子氏、17弦:城ヶ崎美保、パーカッション;よしうらけんじ氏
 
尺八の善養寺さんの挨拶です。
「何時もは”五穀豊穣“を祈った曲です、と紹介すると、『今時、そんな曲は流行らないよ』笑われました。ところが大震災があったので、みんなが熱心に耳を傾けてくれるようになりました。
今日も、菖蒲は綺麗に咲きました。日本の美しい自然と共に生きる・・・幸いを思います。
此処から美しかった被災地に向けて・・・エールを送りたいと思います。」
 
「尺八は竹の7節6管で出来ています。此処から様々な音が響きます。
管中無尽蔵と云います。竹の響きを聞いてください・・・」
                  (筆者の記憶を辿っていますので必ずしも正確ではありません)
 
演奏者も多士済済でしたが、演奏曲も様々でした。
バッハのシシリアーノもあれば宮城道雄の初鶯もありました。
1時間があっという間に終わってしまいました。
 
 今後の邦楽演奏のスケジュール 
6月12日(日)
馬場 信子(琴)
姜 小青(中国古筝)
善養寺 恵介(尺八)
6月19日(日)
八木 健一(ハープ)
八木 ゆみ子(シンセサイザー)
ミウラ1号(パーカッション)
6月26日(日)
佐藤 一美(オカリナ)
前田 佳代(キーボード)
小針 寛史(パーカッション)
ゲスト 馬場 信子(琴)
 
 
演奏会場を出ると、大楠山の山風が菖蒲田越しに吹いていました。
 
目で花を愛でて、耳で邦楽を聞く、勿体ないような時間が過ぎました。
 
さあ、これから美味しい魚でも戴くことにいたしましょう。
何時ものすし屋にお出かけです。
 
 
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名月院道の楽しみ

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6月5日(日曜)のラジオでは朝から名月院参道は大混雑と報じていました。
「一方通行(車では入れない)で、指導員の指示に従ってください・・・」
例年なら今がアジサイの花も盛りなのですが、今年は遅れています。
海岸寄りの長谷寺や成就院でさえ咲き始めですから、名月院のアジサイは未だ蕾も固いのです。
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                           アジサイの名月院(今年は6月20日過ぎになるでしょう)
名月院への道は落ち着いた如何にも鎌倉らしい小道です。
京都の「哲学の小道」、奈良の「ささやきの小道」に匹敵するような、鎌倉の細道です。
「癒しの小道」とでも名付けましょうか?
 
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   (名月院門前の庵、此処までが小道の前半部分です。この先がまた良いのです)
 
六国見山から流れ出す谷川が名月院道に沿って流れています。
其処は民家の表に当たります。
各家は橋を渡らなくては室内に入れません。
川幅は狭いので橋は高々1間程の距離ですが、各家は橋に凝っています。
鎌倉石をアーチ状に積んだ橋が目立ちます。
鎌倉石は砂岩ですから様々な植物が根を張っています。
雪ノ下の白い小花が飛んでいますし、岩タバコの紫色の花は星のように綺麗です。
 今が最も美しい季節です。
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    名月院道のアーチ橋、鎌倉石が美しい。欄干には橋の名が刻まれています。
    石積みには雪ノ下や岩タバコが咲きます。
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                   石積みには雪ノ下が好んで自生しています。今頃白鷺が群舞している                    ような花が咲きます
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        鎌倉石にを好んで根を張る岩タバコ(写真は長谷寺、名月院道は6月20日前後でしょう)
 
雨で濡れた小道に白い花が散っています。
花は風車の形をしています。
道行く人は驚いて頭上を見上げます。
お屋敷の庭に大きな楡の木が繁っています。その幹にビッシリと蔓が絡んでいるのです。
蔓の名前は「定家蔓」です。
謡曲「定家」の素材になった蔓です。
屋敷の主人は良くわかっておいでで、楡の木には気の毒ですが蔓を這わせているのでしょう。
   (定家は斎宮の式子内親王への未練を絶ち難く、定家蔓に化けて内親王の墓に絡んでしまいま    す。式子内親王の亡霊は成仏できずに漂っています・・・。そんな金春禅竹の謡曲です)
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                               楡の大木に絡んだ定家蔓、白い花が咲いています。
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                定家蔓は風車の形をしています。芳香も魅力です
 
最近は名月院道にお店も増えました。
何時しかお屋敷のガレージで「こ寿々の蕨餅」を商うようになりました。
何時見ても人が並んでいるようです。
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   段葛にある「こ寿々」が蕨餅を商っています。奈良二月堂の蕨餅を思い出します。(奈良の方が溶    ける様な優しい味です)
 
名月院を越えると、細道は急に曲がりくねって、おまけに坂が急になります。
左に右に山が迫って来ます。
岩屋を掘って庚申塔が祀られています。
その頭上には卯の花が咲いています。
もう半月も経てば藪カンゾウの花も咲きます。それが終われば山百合です。
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              名月院を越えると人影は見えなくなりますが、此処がまた素晴らしい小道です
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       庚申塔が迎えてくれます。周囲は鎌倉らしい卯の花です。手前に薮萱草が咲き出します
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              庚申塔の前には薮萱草が自生しています(昨年撮影)
 
この細道は天園ハイキングコースの西端になります。
コースの東側が瑞泉寺、西側が名月院です。
ハイカーが山から下りてきます。
快い疲労と、喉の渇きを覚えています。
こんな所に喫茶店があります。
名前は「笛」です。
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   喫茶店「笛」の室内
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   愛煙家はオープンテラス(?)でコーヒーを戴きます
 
 
聞けばもう30年も開いているそうです。
壁には隙間も無いほど管楽器、音楽CD、植物図鑑などが並んでいます。
そして、今は油絵の小品展も開催されています。
一服したい人は屋外テーブルで休んでいます。
 
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   店内ではオカリナ初め様々なものを販売しています。店主の友人の作品でしょうか?
 
様々な人が入ってきます。
二人に一人は入店と同時にトイレに入ります。
ハイキングコースにトイレが無かったのです。
 
雑然としていて、温かみのある喫茶店です。
「写真を撮って良いですか?」伺えば快く「どうぞ!」
友人でしょう、70歳を越えていそうな人が野菜を持ち込みました。
軽食も用意するのでしょうか?
 
 
この細道は今泉台の住宅地に続きます。
変化にとんだ、素晴らしい小道です。
 
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      名月院道は今泉に出ます。峠辺りには見事な躑躅の刈り込みがありました
 
 
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三途の川の「岩タバコの花」

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【長谷寺の脱衣婆】
鎌倉には源頼朝が幕府を開く前から幾つもの寺が在って、人も住んでいました。
長谷寺もそんな一つ、奈良時代の創建と伝えられています。
一帯は地獄谷と呼ばれていましたから、地獄の淵に建った観音様のお寺だったのでしょう。
古代から中世にかけて「地蔵信仰」がたかまりました。
お地蔵様は現世にも来世にも行き来して亡者を救済してくれる仏様と信じられました。
三途の川の淵にいて、亡者を導いて下さります。
長谷寺は観音様のお寺ですが、お地蔵様のお寺と見間違うほど境内はお地蔵石仏で埋められています。
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         アジサイの季節を迎えて賑わいだした長谷寺参道、左は歴史的建物「対僊閣」
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          長谷寺のお地蔵様の大半は水子地蔵さんです。水子にはアジサイがお似合いです
 
人が亡くなりますと巡礼姿で頭陀袋に六文銭を持って、三途の川の畔まで遣って来ます。
すると、意地悪そうな婆さんが身包みを剥がします。
衣服を衣領樹(えりょうじゅ)に架けます。
その時の枝のしなり具合で亡者の罪の重さを計量します。
そして、罪の重さに準じて三途の川の横断ルートが決定します。
勿論罪が浅ければ浅瀬を渡りますが、重ければ深くて恐ろしい川を渡らなければなりません。
川は急流で巨石が流れて、川底に大蛇が隠れている川です。
勿論善人は綺麗な橋を渡って極楽に向います。
この意地悪婆さんが「脱衣婆」です。
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長谷寺の脱衣婆は少し変わっています。
婆さんなのにはだけた胸には豊満な乳房があるのです。
まるで、三途の川に遣って来た乳飲み子に
「まあまあ可哀想に、お腹がすいたでしょう・・・、私のオッパイをお吸いなさい・・・」言っているようです。
脱衣婆の乳房は大きく垂れていて、胸は肋骨が出ているのが普通ですのに・・・。
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              自由が丘九品仏浄真寺の脱衣婆、婆さんのお乳は垂乳根でなくてはなりません
 
古代仏教が伝わると、経は漢文で書かれていました。それを音読していました。
経を聞いていてもチンプンカンプンでした。でも、読経する人は凡そ意味は解かっていました。
それが漢字の良いところでした。
鎌倉時代親鸞や道元は平易な言葉で布教しました。
またお弟子さんはその説法などを平仮名で書き残しました。
更に、江戸時代には経も平仮名で書いて、読みはじめました。
これを「和讃」と言います。和讃の代表は「地蔵和讃」でした。
地蔵和讃は日本人の心琴に強く響くものがありました。
とりわけ水子を生んでしまっ人の悲しみには強く訴えました。
地蔵和讃の素晴らしさが、水子地蔵の流行を生んだと思います。
 
【岩タバコの花】
江戸時代になると、鎌倉長谷寺は水子供養で賑わいました。
水子地蔵としては普通の地蔵菩薩を刻んで、施主名や年次を加えて奉納しました。
ところが、明治時代に画期的なお地蔵さんのデザインが流行りだします。
佐渡の外海府海岸で奉られていた「子法師像」でした。
お地蔵さんの赤ちゃん(坊主)のようなデザインでした。
「坊主のこけし」と言ったらよいでしょうか?
水子のイメージも重なって、大半がこのデザインを採用しました。
そして、一体、一体刻むのではなく、鋳型を作って、
コンクリートやプラスチックを流し込んで量産しました。
 
長谷寺は山の斜面に作られたお寺です。
石積みの壇上に小法師像を並べました。
一体一体は可愛いものの、同じ子法師像が数千体も並ぶと流石に不気味になりました。
 
 
私の傍には外人さんが興味深そうにカメラを向けています。
堕胎も認められていない人達から見ると、この膨大な水子地蔵は興味をそそるのでしょう。
 
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               石積みには岩タバコが咲いています。その上には水子地蔵が並んでいます。
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   水子地蔵は「地蔵こけし」のようなデザインの「小法師像」、明治時代からの流行でしょう。
 
石積みには「岩タバコ」の花が今を盛りに咲いています。
大きい葉っぱが煙草の葉に似ていて、
岩壁に好んで生えているから「岩タバコ」の名前を頂戴しているのでしょう。
タバコの無かった万葉集の時代は「やまぢさ」と呼びました。
   山萵苣(やまじさ)の白露重みうらぶるる 心を深み吾が恋止まず (万葉集巻10)
    (歌の意味)
 (私は山ぢさが露に濡れて重たく垂れ下がっているように、うなだれてひたすら貴方を恋続けています)
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 葉っぱの形でネーミングした「岩タバコ」より、花の姿を言い表した「やまぢさ」の方が私は好きです。
 ひたむきに恋焦がれる少女のように・・・俯いて咲いています。露が涙のようです。
 
岩タバコは日当たりの悪い、岩壁で、湿気が多い場所を好みます。
苔や羊歯しか生えない逆境にこそ、岩タバコは群生するのです。
長谷寺の石積みは岩タバコには最高の環境だったのでしょう。
例年以上に今年は良く咲いています。
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                      長谷寺の岩タバコ、石積みの境目に根を張っています。 
 
水子地蔵は横一直線に並んでいます。
一方、岩タバコは自生していますから、好き勝手の方を向いて花を咲かせています。
昨夜の雨で花が散っています。
花は紫と桃の絵の具を混ぜたような少女好みの色です。
お星様の形をしています。
花弁がバラバラにならずに星の形のままで地上に散っています。
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                    井戸の蓋いに散った岩タバコの花
 
外人が言いました。
「此花、セントポーリアね・・・」
言われてみれば、そのとおりのような気がします。
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                    今年の長谷寺のアジサイは6月15日頃から見頃になるでしょう
 
 
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恋の亡者「藤原定家」に思うこと

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【定家蔓の花】
昨夜来の雨が明け方になると風が強まって,さながら「嵐」になっています。
これでは、菖蒲の花も傷んでしまうでしょう。
定家蔓は全部散ってしまう事でしょう。
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         鎌倉石の石段に散った「定家蔓/かずら」の花。風車の形です。今日の話題はこの定家蔓です。
 
 
研究ならば実証可能な材料を積み上げて構成しなければなりません。
小説ならば少しの材料だけでも、推論を重ねて物語を進めれば良いのです。
実証資料が少ない場合、小説のほうが真実に迫れるケースが多くなりますし、楽しく読めます。
NHKの大河ドラマは小説の代表でしょう。
歴史学問にすれば、面白味が無くなってしまいます。
 
ブログはどちらでも構わない、便利なツールです。
私は研究にしたいのですが、資料が足らず推論を重ねているテーマに「幽霊の転換」があります。
ずっと「定家蔓/かずら」を見る度に思い出しています。
花が散ってしまう前に現在の考えの大綱を書いてみます。
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                                 定家蔓のアーチ
【幽霊になるのは男か女か】 
ところで、日本の文化で世界をリードするものの一つに「幽霊」があります。
時々、ジャパンホラー映画が世界中を席捲するのを見ると、日本の幽霊はグローバルなんだ・・・、確信します。
 
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応挙の幽霊「お雪」
 
良く日本の幽霊には足がない・・・と言われます。
でも、古代の怨霊には足がありました。
足の無い幽霊は円山応挙が描いたのが始まりとか、人形浄瑠璃が始まりだ・・・とか言われています。平家物語に出てくる幽霊(怨霊)はクッキリ・ハッキリ描写されています。
 
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建長寺半僧坊で山桜に絡んだ定家蔓。白くぶら下がっているので、霊のように見えたりします。
 
もう一つ、幽霊になるのは総じて女性です。
大半が愛情を裏切られて、幽霊になって現世に出現して恨みを晴らします。
女性の性格が幽霊になるのに最適だ・・・、考えられています。
でも、これは江戸時代、雨月物語や四谷怪談、牡丹灯篭などがヒットしたからで・・・、
でも、その前の時代は男が幽霊になっていました。
 
平家物語は非業の死を遂げた平家の公達の怨霊が再三登場します。
「忠度」も「敦盛」もそして兵士達も怨霊となって出現します。
平家物語のヒロイン「祇王」「仏御前」「横笛」も幽霊にはなりません。
まして、常盤御前や静御前は芯の強い女性で運命に抗して生き抜きますし、
巴御前に至っては武勇で男勝りに描かれています。
幽霊に驚いて落命したのは源頼朝で、妻の政子は頼家を殺しても幽霊に怯える素振りも見せません。
女は強く、男性が女々しかったのです。
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        鎌倉雪ノ下の某神社では槙の木に定家蔓が絡まって、いずれ槙は枯れる運命のようです
 
 謡曲「定家」は室町時代金春禅竹の書いた名作です。
主人公は当時の最高の歌人(文化人)藤原定家・・・・・、の筈ですが、定家は登場しません。
「定家蔓」が登場して、定家のイメージだけが全巻を通じて謡曲のテーマになっています。
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                迫力の定家かずら、まるで海坊主が顔を出したよう・・・で。 
 
謡曲「定家」の話は凡そ以下の通りです。
 
旅の僧が京都の都千本辺りで日暮れを迎えてしまいます。
すると俄かに時雨が降ってきます。やむを得ず雨宿りをしていると若い女が現れます。
この庵は定家の建てた「時雨亭」だといいます。
女は僧を式子内親王の墓に案内します。
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式子内親王図、探幽画、学研「百人一首」より撮影
 
式子内親王は後白河法皇の娘、賀茂神社の斎院でありました。
神に仕える身の上ですから定家の愛情を受け入れる事もできません。
不遇の中で亡くなりましたが、定家の執心が消えずに内親王の墓にまで絡み付いてしまいます。
従って内親王の魂は休まる事が出来ません。
女は言います、「自分こそ内親王なのです、どうかこの定家の執着を解いて、私を救ってください・・・。」言い残して女は消えてしまいました。
僧が読経して弔うと、内親王の霊が墓の中から現れ、成仏したことを喜び、報恩のためと舞を舞います。
やがてもとの墓の中に帰り、再び定家葛にまといつかれて姿を消してしまいました。
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この謡曲は先ず定価蔓の美しさや墓にも大樹にも絡みつく姿が素材だったのでしょう。
そして式子内親王の次の歌(百人一首)がヒントになっています。
 
      玉の緒よ絶えなば絶えね 長らえば忍ぶることの弱りもぞする
 
歌の意味は凡そ以下の通りでしょう。「玉の緒」とは「「魂の緒」の意味です。
「わたしの命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。生きながらえていると、秘めていることができなくなるかもしれないのです」
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 杉本寺、無縁仏の五輪塔群。式子内親王の墓も五輪塔で定家蔓が雁字搦めに這っていた事でしょう
 
私達の感覚と違うのは男女の立ち位置が逆転している事です。
死んでも愛されている式子内親王が喜ぶわけではなく、迷惑がっている事、
そして未練を断ち切れないのは藤原定家であることです。
雨月物語などとは男女の立ち居地が逆転しているのです。
 
多分、男女が逆転したのも、女性が幽霊になるのも江戸時代からでしょう。
私の関心はこの逆転が何故起こったかにあるのです。
もう、随分長い事考えてきましたし、友人に意見を求めてきました。
でも、確信を持つような充分な材料が見つからないのです。
 
 【妻問い婚だから】
平安時代も鎌倉時代も女性は家に居ました。
男性が女性の家に通って愛情を伝えます。一般に「妻問い婚」と呼ばれる愛情表現でした。
ですから、かぐや姫の話では5人もの男性から求婚をせがまれ、何れも無理難題をかけて最高の男性を袖にしてしまいます。
妻問い婚の場合、女性側に選択の優位性が在ったと言えます。男は女性に振られると必死に和歌を作ったり、あの手この手で凋落にかかります。女性は男性の文化レベルなどを観察します。この男女間の遣り取りが「王朝文化・色の文化」になったといえましょう。
この場合、振られた側は男性になります。だから、男が幽霊になるのでしょう。
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    古代・中世は「妻問い婚」が一般でした。この時代、男性が恋の亡者・幽霊になっていました。
 
【嫁取り婚だから】 
江戸時代になって、状況が一変します。
武士や大きな商家は主人が居て跡取り息子がいます。
息子の嫁に誰か女性に白羽の矢を立てます。
そして嫁を家に迎えます。一般に「嫁取り婚」と呼ばれます。
この場合には男の立場が優位になります。
結婚前の約束を違えても、浮気をしても、嫁を立身出世の材料にしても・・・良いとは言いませんが・・・それが可能になってしまいます。
女性が辛い立場になってしまいました。
そんな訳で女性が犠牲になる、恨みを残す・・・幽霊になる・・・、そう考えるのですが・・・・。
 
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【風車の意味】
最近は手入れをしていない山が増えました。
お陰で、定家蔓が目立っています。
香りも良いし、白い花も雅です。そして何より花弁が風車に形をしています。
 
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                                        墓地の風車
 
風は目には見えません。「空/くう」です。空は「うつ」とも読み「現実の無いこと」です。
でも、風車が回ると「空/うつ」は「現実/うつつ」になります。
目に見えるからです。
 
墓地で風車が回っていることがあります。
多分、水子で亡くなった子供を慰めようと玩具として奉納したものでしょう。
でも、静止していた風車が突然に回り始めると、思います。
「空/うつ」が「現/ウツツ」に転じたと・・・。
式子内親王が斎宮のまま空想の恋愛に一生を終えた・・・・現実と、恋に埋没したかった・・・空(うつ)に思い遣ります。
 
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                                   水子地蔵に奉納された風車(杉本寺)
 
追記:昨年もこの時期に定家蔓を書きました。今年は幽霊に一歩踏み込みました。
 
 
 
 
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坂ノ下の「畳シラス」作り

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昭和30年代の初め、私(中学生)は極楽寺坂を登っていました。
そこで、凄惨な光景を目の当たりにしました。
巨大な青大将がのたうち回っているのです。
長い体の尾の方を車に轢かれたのでしょう、
その痛みと、安全な岩陰に隠れようと逃げようとするのですが、体が動かない。
体を捻ろうとするのですが、下半身が不随で体がのけぞってしまう。
必死に腹の鱗を立てるのですが、前に進まないのでした。
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                                            青大将
 
多分、青大将は夏の日の夕方、アスファルトの温もりを楽しんでいたのでしょう。
「今日もたらふく食ったし、住まいの石積みもある、此処は極楽、極楽・・・・」
思っていたかもしれません。
ところが、突然に車に轢かれてしまった。
頭や胸だったら即死だったろうに、下半身を轢かれると、苦痛が耐えがたく、もう、餌を捕獲する事もできない。苦しみながら死ぬ運命に嵌った。
 
私は、蛇に睨まれたような気がした。
「こいつが自分の背骨をへし折ったのか」恨めし気に睨まれた。
 
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                                 赤く実った蛇苺(極楽寺の月影地蔵にて)
 
極楽寺辺りは今も蛇イチゴが群棲している。
真っ赤で毒々しいイチゴであるが、毒は無い。
でも、口に入れる気はしない。この苺が蛇の好物と聞くが、食べている姿を見たことは無い。
多分青大将は肉食で苺など見向きもしないことだろう。
蛇は苺を食べに来る小動物を狙っているから・・・・、蛇苺の群棲している所は必ず蛇が潜んでいる・・・・、この方が適当なネーミングの謂れであろう。
蛇苺を極楽寺で見ると、私はトラウマのように青大将の断末魔の姿を思い出してしまう。
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                    坂ノ下の路地。正面が表通り(星の井通り、左に折れると極楽寺坂)
 
極楽寺坂を下りると「坂ノ下」になる。
今の季節は長谷寺から御霊神社そして成就院に人波が続く。
何れもアジサイの名所であり、加えて民家の庭先や江ノ電の線路脇などにもアジサイが咲いている。
 
メイン通り(星の井通り)から路地を由比ガ浜方向に折れると、磯の香りが強くなる。
元々坂ノ下は漁師町だったが、今も数軒の漁師が住んでいる。
春先の「鎌倉ワカメ」と「湘南シラス」が名産である。
 
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 坂ノ下は漁師町でありました。 今は若い人がシラスのお店を出しています。向かいは海
 
お爺さんが路地にデッキを出して、ドッカと座っている。
サーフボードの預かりを業務としているようである。
昔は漁師だったが、今は庭先にボードの管理小屋を建て、預かりを業務にしているようだ。
「いいお天気で、気持ち良さそうですね・・・!」声をかける。
「風が吹いてくると、人が出てくる・・・・、風がなければウィンドサーフィンも、波乗りも出来ないから・・・・、今日は風も無いので暇だよ・・・」
「でも、風が吹かなくても稼ぎになるから・・・・いい仕事ですね」言えば、
「此処から海風を浴びていると・・・・、極楽だよ。それに畳イワシを見ていなければならないから・・・」
 
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    漁師さんだった(?)世代はサーフボードの管理業を始めたようです。                      この位置からシラス干しを見ています。 
 
見れば、路地にスノコが置かれていて、その上に畳シラスを天日干しにしている。
若い男女3人が共同事業のようにして、シラス屋を始めたのだそうだ。
生シラスを長方形の畳シラスに加工する。
手順は海苔作りと似ている。「海苔ます」の4分の一程度の枡に生シラスを掬って、「海苔簾()」の上に並べる。
梅雨の合間の天日に干せば畳シラスが出来上がる。
 
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男女は畳シラス作りが一段落して、今は蛸を洗っている。
生コンミキサーのような容器に蛸を入れてハンドルを回すと、容器はグルグル回転する。
蛸は目を回していることだろう。
泡を吹いて、何時しか体中のヌメヌメも臭みも洗い落とされてしまう。
黒板に商品一覧を書き出して、シラスや蛸を店頭販売している。
 
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                                                  蛸の洗濯機
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                                若い人のシラス店舗、商品・価格を案内している。
 
一昔前までは「畳シラス」とは言わないで「畳いわし」と呼んでいた。
でも、湘南シラスが人気になって、畳シラスに名を変えたのであろう。
漁師の世代交代も関係して、売りやすい名前に変わっているのだろう。
 
シラスも元々は鰯の稚魚、体長が2㎝程度で色も白い。
そこで「白子/シラス」と呼んだまでの事でした。
でも、シラスを天日干しにしたのは「畳いわし」と呼んでいた。
鰯の稚魚がシラスより大きくなったら「かえりじゃこ」と呼び、
更に大きく5センチ以上になったら「鰯/いわし」と呼びました。
 
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  由比ガ浜、材木座海岸辺りから眺める。向かいが坂ノ下になります。 
 
畳シラスは10枚で750円、高いのか安いのか分からないが、美味しい事は間違いない。
サラッと焼いて、ビールのつまみには最高だ。
若い人はこの香ばしさが解らないで、マヨネーズをつけて食べるんだろうな・・・・思いながら戴いた。
鎌倉も随分変わったが、美味しいものは変わらない。
頑固なまでの手作りが嬉しい。
 
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  油が浜の海の家を建てる風景、今年は数が少ないようです。原発の影響でしょうか?
 
由比ガ浜は今海の家の準備中だ。
でも、海の家は滑川河口部分に集中しているようで、ここ長谷の砂浜には建てられないようだ。
不景気な為でしょうか・・・、昔の盛況を思い出すと寂しくなる。
年に一度海水浴をすれば健康になることは間違い無いのに・・・。
昔は「禊ぎ」と呼んだが、近年は「海水浴」と呼ぶ。
それも、人気が無くなって来たとしたら・・・・・。
「原発の祟り」かも知れない・・・・・?
そんな事を言われない様に、しっかりやってほしいものだ。
海の水、砂浜の安全宣言が待たれます。
 
私はもう年齢、たとえ少しくらい汚染されていても美味しいものは我慢できない・・・!
 
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  坂ノ下から長谷海岸を見る。一軒も海の家は出店しない模様、昔の賑わいが懐かしまれます。もうタ  チアオイが咲いて、夏直前です。
 
 
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霊屋門(お江)の改修における小さな疑問

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日本の大手ゼネコンも多くが宮大工を前身にしています。
関西から進出した竹中工務店も大林組も寺社建築からスタートした会社です。
昭和天皇の大葬の儀も両社がお霊屋などを建築されました。
 
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              建長寺仏殿は元増上寺にあって、お江の方のお霊屋でした。
 
松井建築(築地・一部上場)は江戸生まれ、寺社建築の老舗ゼネコンです。
長い時間をかけて建長寺の唐門(重要文化財)を修理していました。
方丈の前に玉砂利が敷かれて居ます。
皇族が來山された時にこの門を開けてお迎えするのでしょう。
相当痛んでいて、見栄えが悪いな・・・・思っていましたが。
 
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   改修前の唐門。お江の方のお霊屋の門 でした。
 
先月、牡丹を見物に来た時には未だ工事の白い幕に覆われていました。
ところが6月7日、岩タバコを見に来た時には・・・・修理も竣工して、実に荘厳な門が、全く別のような門が出現していました。
工事概要は以下の通り報告されています。
工事着工22年1月、竣工22年5月30日、総工事費117百万円、国費8割負担。
余りに見事な仕事に、嬉しくなって笑ってしまう出来栄えです。
改めて、この門の謂れを説明しましょう。
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                                          改修を終えた唐門 
 
昨晩のNHK大河ドラマ「江」ではお茶々に鶴松が生まれ、いよいよ佳境に入ってきました。
改修された唐門は、その主人公お江の霊屋の門だったのでした。
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             現在は方丈の勅使門として役立っている「お霊屋の門」向こうにあるのが法堂、そ              の向こうが仏殿、南向き一直線に伽藍が整備されています
 
寛永5(1628)に崇源院(お江)が亡くなると、芝の増上寺には唐様建築のお霊屋が建築されました。
同時にその門として桃山風建築の唐門も建築されました。
その後、2代将軍秀忠が亡くなり、新たにご夫婦の霊屋が増上寺に建築されることになったことから、
正保4(1647)に仏殿とともに建長寺に移築されたのでした。
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                  勅使が建長寺に来ると唐門から方丈に入ることになります
 
その後、唐門は大正13(1924)に解体修理が行われて、更に今回解体修理され、全面的に塗り直されたものです。
 

門全体が黒漆に塗られて、各所に金細工された金具が貼られています。
いかにも桃山時代の雰囲気を伝えています。
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                              黒漆に金細工は見事です
 
ただ、本来は柿葺(こけらぶき)であったものを明治時代に銅板葺きにしてしまいました。
今回もまた銅板葺きが踏襲されています。
 
最初の状態に戻すのが正しいのではないでしょうか?
矢張り、東本願寺唐門のように柿葺きの姿を眺めたいようにおもいます。
序に言えば、燦然と輝く「三つ鱗紋/北条氏の家紋」も最初の「葵紋」に戻したら・・・・良かったのに、思います。
 
確かに建長寺の開基は北条時頼ですから、三つ鱗門がしっくり行きます。
でも、増上寺から移築された時、家紋も変えてしまうのはすこし抵抗があります。
薬師寺や唐招提寺の改修に際しては可能な限り原型に戻そうとしました。
それはお寺さんの意思であると同時に、国民の期待であり、学問的な姿勢ではないでしょうか?
ところが、建長寺のこの唐門改修に際しては、原型には戻さずに、改修直前の状態にしました。
少し疑問に思いながらも、立派に改装出来たから門を見入ります。
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  建長寺法堂に描かれた天井の龍(小泉淳作画伯作)、
  建長寺には常に新しい文化が吹き込まれています。 
 
今回の改修は長年の課題であった、偶々国費補助が付いたので実施したのでしょう。
でも、運がよいことに、NHKで毎週大河ドラマをオンエアーしています。
お江人気もあって、建長寺を訪れる人も増える事でしょう。
松井建築の出来栄えを是非見て欲しいものです。
こういう技術を伝えるゼネコンがあることは誇らしい事です。
私の小さな疑問は文部官僚に向けられています。
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  建長寺もアジサイが色づいてきました
 
 
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望月の「万治の石仏」

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石は人類が最初に手にした「道具」の素材でした。
石器時代、尖った石を使って「ナイフ」にしました。
石を磨いて米を収穫する鎌や木の実を粉にする臼を作りました。
そうした記憶が石には神が宿ると信仰させました。
だから、日本の国歌「君が代」は「石の歌」でした。
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       今日の話題は五郎兵衛米の産地、塩名田辺りの美しい田園風景。正面が浅間山
 
一般に仏教美術は天平時代、平安時代、鎌倉時代、三つの山を迎えて、その後は衰退して見るものも無い、と学校では教わりました。
天皇を中心にした鎮護国家の時代、貴族が政治文化の中心であった平安時代、そして武士が台頭した鎌倉時代、夫々特徴のある仏像が造像されました。
しかし、室町時代、戦国時代を経て江戸時代には見るべき仏像は無いかのように扱われてきました。
でも、近年円空や木喰が評価され、そうした考えが見直されてきています。
江戸時代の主役は町民や農民、彼等は自分達の信仰を形にしました。
部落を守護するお堂に円空らがご本尊を造像し、集落には膨大な数の石仏を祀りました。
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     円空、万治、五郎兵衛何れも1600年代前半に活躍しました。共通するのは金剛心で初心を貫徹     していること。そして農村の共同体に貢献した事でした。
 
長い戦乱の時代を経て、江戸時代には漸く平和が訪れました。
戦争に費やされてきた資源(人や財)は平和利用に回されました。
全国で新田が開発され、川には堤防が、溜池も整備しました。
技術革新が生産性を高め、鎌倉時代の人口(全国500万人)は飛躍的に増大します。(江戸時代末期3000万人)。軍馬が農耕馬に変わって、農業革新が為されました。
 
諏訪地方では戦乱で傷んだ諏訪大社を再建しようといたします。
今まで城郭建築に励んできた石工達も諏訪大社に呼び出されます。
社殿を作るには基礎になる石が必要です。
諏訪大社下社春宮に近い砥川の川原に巨大な石がありました。
これを割って、社殿の基礎石にしよう、石工達は楔を入れる穴を彫ろうとします。
ところが、彫った傷から血が滲んで出ました。
驚いて巨石を割る事を諦めます。
同時に改めて巨石の神々しさに感動して・・・・・、
この石を使って、諏訪の平和を祈る「阿弥陀仏」にしよう・・・、考えを改めます。
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                      諏訪大社、下社、春宮に近い「万治の石仏」
 
巨石は高さ2.7m、幅4mのお結び形の輝石安山岩です。
この巨石を阿弥陀仏の胴体にしよう、考えます。
そこで、先ず楔を入れようとした穴を大きくして阿弥陀様の頭を嵌める事にしました。
阿弥陀様の仏頭は矢張り川原石を使って作ろうと決めました。
約70cmの野球のベースのような頭です。
大きな三角形の鼻、飛び出した耳、落ち込んだ目窪・・・・、作ってみるとモアイ像のようになりました。
石工の技術は石垣作りのそれでした。
仏像の知識も無い俄か作りに仏師でした。
「平和を祈る気持ち」を形にすると・・・・農民自分自身の顔かたちになってしまいました。
出来上がった仏頭を胴体に刻んだ穴にはめ込みました。
次いで、胴体に腕に鑿の刃を向けました。
神経を集中したのは阿弥陀定印(両手に印相を結ばせる)を浮き彫りさせる作業でした。
大事な印相ですから、指を一本一本丁寧に刻みました。
でも、出来上がってみると、仏の手は関節が骨ばった、農民の手が出来上がっていました。
最後に「南無阿弥陀仏」の六字が刻みました。
そして「万治三年十一月一日/1660年 願主 明誉浄光 心誉広春」と刻みました。
願主とは農民達の信仰を導いたお坊さん(神職)でありました。
石工の名前はありません。職人には名前を残さないのが常識でした。
 
昭和になってこの石仏は話題になりました。
拙いと思われたデザインが、シュールだと評価されました。
このユニークな石仏を彫った人を「万治」と呼んで有難がりました。
万治の石仏はモアイのような印象を与えました。
万治には仏師としての基礎技術はありませんでした。
しかし、技術が無いからこそ、斬新で強いインパクトがある石仏を彫り上げました。
その強い個性が農民に支持されました。
お百姓は「おらが仏だ・・・!」有難がりました。
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                  万治の石仏は自然に在った巨石に石頭を作って差し込んだもの
 
諏訪大社春宮の「万治の石仏」は強烈な印象を与えたのでしょう。
とりわけ、昭和の時代、円空が評価されると、全く同じ時代に「石工の円空」がいたぞ・・・・、と言うように有名になりました。
すると、長野県中央部には同様な万冶(風)の石仏が数多く発見されだしました。
諏訪からは中仙道を和田峠を越えた北の宿場町、望月にも発見されました。
 
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                                望月の宿(右 真山家/重文)
 
望月の万治の石仏は望月宿を出て南に、笠取峠に向かう高台にありました。
近くには入り組んだ急流を越す橋が何本も架かっていて、
その雑木の林の中に一体ポツンと佇んでいました。
最近建てられたのでしょう、標識「万智の石仏」が建っています。
これが無ければ探せません、そんあ石仏でした。
 
望月の万治の石仏の胴体は角張っています、お顔も角張っています。
相似形が二つ積み上げられたようなデザインです。
此方も諏訪と同じように頭と胴体を別々に作って合体下のかと思えば、そうではありません。
一塊の大きな四角い石から体と頭を同時に彫りだしています。大変な労力です。
そして此方も濃い灰色の安山岩です。
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                 望月の万治の大日如来。制作年代、施主名が刻印されています
 
金剛界大日如来で智拳印を結んでいます。
左手は人差し指を伸ばし、中指、薬指、小指は親指を握って、
右手は掌を丸めて左手人指し指を握り、親指と左人指し指は上を向かせる。
忍者が気を統一させる、変幻自在の活躍をする直前の、あの姿です。
実は万治の石仏はこの姿の大日如来が圧倒的に多いようなのです。
私は金剛界大日如来である事に意味があると考えています。
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        矢張り万治の石仏の作者は城郭の石垣を作っていた職人と思います。何故なら大日如来         の体が角ばっているからです。 
 
生命は男女が交わって初めて生まれます。
そして、自然界を見詰めれば陰と陽、静と動二つが交互に出現します。
大日如来は宇宙を神格化したものと考えます。
一切の生命は先ず大日如来に胎蔵される(胎蔵界)と考えます。
そして機が熟すと顕現します(金剛界)。
胎蔵界大日如来は座禅をしている静の姿です。
一方金剛界大日如来の指の形は忍者が活躍する形です。
智に基づいて、金剛心を持って行動する事の重要性を説いています。
その姿は左手(男)と右手(女)が交合する形でもあります。
 
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   塩名田宿から川向こうの御馬寄の集落を眺める。此処のはずれに大日如来が祀られています。
 
お百姓も、お坊さんも子供が生まれなければ絶えてしまいます。
欲望のなすがままに行動する事はなりませんが、
交合する事によって命は将来未来に繋がってゆきます。
お百姓は寝ている時間は短くて、働く時間が長く、充実していなければなりません。
万治の石仏は働く事、工夫する事、沢山の収穫を確保して、孫子を繁栄させる事の重要性を説いているようです。
 
望月宿から中仙道を10キロほど下る(北に向う)処に御馬寄(みまよせ)の集落があります。
塩名田の宿の南外れです。
御馬寄とは馬を集めて競りをする場所・・・といった意味でしょう。
望月で飼育された馬を千曲川と中山道と交叉する場所で「馬市」したのでしょう。
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         御馬寄の大日如来、万治よりも100年遅れて造像されました。台座に刻まれています
 
御馬寄には浅間山を背に大日如来像がたっています。
一見すると万治の石仏と良く似ています。
「此処にも万治があった・・・」思えば間違いでした。
その台座には明和8年辛卯(1771)と刻まれています。
ですから、万治の石仏よりは100年ほど後に彫られたことが解ります。
 
大日如来は千曲川の段丘に開墾された美しい田圃を見詰めて、大きく目を開いています。
目の先には一面に田植えを終えたばかりの青い稲が広がっています。
田圃の名前は『五郎兵衛新田』と言われます。
 
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                           まん
元和9年(1623)上野国南牧に住んでいた市川五郎兵衛は徳川家康からこの地の開発許可朱印状を受けて、移り住みました。
市川五郎兵衛は領主の小諸藩主松平因幡守から新田開発状をもらい、私費を投じて新田堰(高さ約6尺・横約5尺)の開鑿、用水路等の工事に着手しました。
山側の望月宿(先の万治の石仏がある)から延べ20キロの用水路を整備しました。
 
1000年も続いた放牧場は見事な美田に生まれ変わりした。
地質が良かったからでしょう。現在は「五郎兵衛米」というブランド米で売られています。
この品種はコシヒカリだそうですが、魚沼産のコシヒカリを凌ぐといわれているものだそうです。
1キロ500円で売られています。
 
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        大日如来に腹巻をさせていますのは、お地蔵様と勘違いかも知れません。印を見るためず          らせて頂きました。
 
万治の石仏は大半が大日如来です。
多くの集落では観音や地蔵が彫られている時代に、
万治はモアイ像の様な大日如来を彫って集落の期待に応えました。
田圃を増やしたい、美味しいお米を育てたい、子孫を増やして幸福にさせたい・・・・、
人間誰しも持っている願いでしょう。
この願いを金剛心を持って実現する・・・・そんな姿は五郎兵衛の一生であり、農民の姿であり、万治二世の大日如来の姿でありました。
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                               五郎兵衛の用水路(佐久市作成パンフレットから)
 
道の駅「浅科」は隣が 五郎兵衛米の精米工場でした。
普段はレストランと野菜、何と言ってもお米の販売をしていました。
でも、私が訪れた6月14日は定休日でした。
五郎兵衛米を味わうのは次の機会にしましょう。
 
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マロニエの樹下の「馬取百観音」

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私の友人が南軽井沢に山荘を新築しました。友人5人を招待してくれました。
「君は石仏好きだから、案内するよ!」と言って、山荘近辺の石仏を案内してくれました。
 
軽井沢町石仏を丁寧に案内しています。
「此処は姫街道で、旅人を守る意味もあって石仏が多く祀られています」
 
中山道の脇街道と言えば「下仁田街道」を思います。
本庄宿から妙義山の東を富岡、下仁田を経て八幡宿に至る街道を言います。
でも、もう一つ脇街道があったのだ・・・、初めて知りました。
地図で確認すると下仁田から和美峠を越えて仮宿に至る道がありました。
関所があった横川や山坂の険しい碓氷峠を避けることが出来ます。
いかにも「姫街道」とか「女街道」の名が相応しい街道です。
もっとも姫街道は女性や老人子供に限定されずに誰でも通ることが出来ました。
旅人は少し遠回りでも歩きやすい道が好まれます。
相当の賑わいだったようで、
軽井沢三宿(追分・沓掛・軽井沢)は連名で旅人が本街道を通るよう訴訟を起していたようです。
 
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     中山道・姫街道「馬取」集落。藤の花の下に濃い緑の大木(萱)があります。其処が薬師堂で今     日の話題「馬取百観音」が祭られています。
 
この姫街道には点々と集落が続いています。
何処も火の見櫓が立っていて、神社が目立ちます。
馬取(まとり)の集落の南外れに大きな萱の木が繁っています。
石段の上に「薬師堂」が建っています。木枯し紋次郎が雨宿りしたような粗末なお堂です。
 
お堂の北に広場があります。其処に百観音が並んでいるのです。
案内板には「88観音像に地蔵や青面金剛など併せて100体の石仏を祀っています」書かれていました。更に一歩踏み込んで「馬取の集落では村人がお金を出し合って観音様を祀って村の安全・繁栄を祈願しました」案内しています。
軽井沢町の商工観光課の職員は宗教社会学にも明るいようです。
 
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                    馬取百観音から馬取の集落を見下ろす
 
馬取とは奇妙な名前です。
旅行から戻って調べてみると「馬取萱」が正しい名前で、略したものだそうです。
鎌倉時代、源頼朝がこの近辺で鷹狩りをしました。
突然に馬が暴走して逃げてしまった。馬子が慌てて追いかけました。
馬は萱の茂みの前で立ち往生していたので、漸く捕まったのだそうです。
萱の原も開墾され田圃になっていました。ところが近年の減反政策の為でしょう。
田は耕されず、昔の萱の原に戻ろうとしています。
ブルーベリーや苺の栽培を始めている人もいます。でも、大半には萱が繁り始めています。
ヨシキリが賑やかに鳴いています。雉が鋭い声を張り上げて、縄張りを主張しているようです。
木立の向こうから郭公の鳴き声が響いてきます。
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   一初の花の向こうは一面の美田だった筈ですが・・・・、
   今は耕作放棄されて萱の原に戻ろうとしています。でも、もうじき蛍が飛び交うそうです。 
 
最も人間に近い姿の観音像は「聖観音」です。
でも、人間の願いは多種多様です。人間の願いを叶えるために観音像は変化します。
様々な願いを聞き分けるには沢山の顔や手が必要になります。
十一面観音や千手観音が救済してくれます。
大切な馬を守って欲しい・・・・馬頭観音が出現します。
 
坂東や西国などには観音霊場がありました。
誰しも観音霊場を巡り、平和な生活や子孫の繁栄を祈りたいと思います。
そこで馬取の集落では村はずれに百観音像を祀る事にしました。
村はずれの薬師堂に登れば坂東、西国、秩父の観音霊場を巡ったのと同じ霊験があると信じられました。
 
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  馬取百観音は温和なお多福顔、何れも合掌している、など特長があります。
  綺麗に下草刈をしてあり、今も大切に信仰されている事がわかります。石仏が最も美しい時期を迎え  ています。(まるい葉は蕗の薹)
 
こうした農民の期待は石工職人を生みました。
中山道には上野に優秀な石工がいました。
また、諏訪から伊那に至る街道、高遠にも石工がいました。
彼等は円空や木喰上人のように旅をしながら集落を巡って観音像や地蔵、道祖神、庚申塔などを彫像しました。
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  苔が観音像の頭に多いのは朝露が石を湿らせているから。安山岩の石の肌を白く染めているのも苔  の仕業です。苔は環境指標生物、この自然環境が美しい石仏を実現させています。
 
棟梁がいて、何枚もの型絵を用意しています。
馬取でも浅間山から飛び出した岩(安山岩)を適当な角柱に刻みます。
棟梁が墨で角柱に観音像を描きます。
弟子達が18種もの鑿を使って角柱の中から観音像を刻み出します。
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   下膨れのお多福顔、細目で優しい表情、おちょぼ口・・・・、お袋さんのようなお顔が特長です。どの   石仏も同じお顔なのは石工の棟梁が持っていた「型絵」のお陰です。
 
馬取の観音像を彫った棟梁は優しい男だったのでしょう。
観音様のお顔はお多福顔が好きでした。頬が豊かに張っていて目が笑っているようで・・・・・、自身のお母さんのお顔を観音像に写したような表情にしました。
馬取の集落の人達はこの百観音のお顔が好きでした。
野良仕事に疲れて帰宅すると、「お疲れさん!」笑って迎えてくれたお袋のように見えたことでしょう。
 
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みんなして石工を招いて観音像を彫ってもらった・・・・、そんな経験は信仰の他にも効果がありました。萱場を開墾して田圃にする為には、プランが必要になります。
知恵を出し合い合議しました、そして一緒に水路を掘って、萱や雑木を根から抜いて・・・・田圃も増やしました。
お米の収穫が終われば、冬越しの薪炭を作らなければなりません。
入会地の利用計画も合議が必要でした。
観音を百体もお金を出し合って作った、そんな実績は石仏になって、力を合わせる事の知恵を伝えました。
 
石仏は雨風が吹きすさぶ露天にあります。如何に石が硬くても風化します。
最初は人が刻んだ鑿の跡も歳月が流れるとまるくなります。
加えて苔が生えて石の表情が変化します。
6月の馬取百観音も200年弱の歳月が経って、最も美しく輝いているようです。
石工の技と、自然の営みとが合致して、今が最高の美しさです。
 
もう百年もしたら、石仏は石から砂に土に戻ってしまう事でしょう。
百年後、「また百観音を立てようか!」考えるかは判りません。
人が共同で生きる知恵を持ち続けていれば、また作るかもしれません。
もう、観音様なんて・・・・・、個人の時代よ・・考えれば作られないでしょう。
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  最近立てられた「道祖神」、これは「村おこし道祖神」でしょう。石は花崗岩、デザインは此処が本場   の千曲川デザインです
 
馬取百観音は橡(とち)の大木の下にあります。
大きな葉っぱ降りた朝露が垂れて観音の上に降りかかります。
朝露と混じって、橡の花も落ちてきます。
昔の少女が「まあ、綺麗!」落花を拾い上げます。
見れば、周辺部が白く芯が朱色の花弁はお洒落です。
馬取では橡の実餅の花ですが、パリに行けば「マロニエ」と呼ばれます・・・、
言えば「なるほど、観音様にはお似合いね!」相槌を打ちます。
日が昇れば、ヒメハルゼミやアマガエルが賑やかに啼き出す事でしょう。
 
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                     橡の花(マロニエと言えばお洒落です)
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  石仏の左上の葉っぱが橡の葉です 
 
青葉の下の観音像も美しい、落葉の秋も、雪に埋もれる冬も見てみたいものです。
屹度、四季折々、観音像は美しい事でしょう。
 
百観音から北に向えば浅間山荘事件の現場があります。
もう、40年も前に起きた連合赤軍の暴挙でした。
歳月が過ぎると記憶がかすれてきます。
 
ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代でした。
その中で日本の学生達も三里塚闘争などで社会変革を目指していました。
でも、社会の共感を失って次第に先鋭化してしまい、連合赤軍事件が勃発しました。
 
百観音像は浅間山荘事件を、そして現在の減反政策の結果萱場に帰ろうとしている田圃を、どんな気持ちで見詰めているのでしょうか?
ヨシキリの鳴き声が、笑われているように響きました。
 
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                                   萱場で賑やかに囀るヨシキリ
 
 
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今年も咲き始めた「山百合の花」案内

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季節の進むのは速いもので、もう山百合の花が咲き出しました。
私は慌てて、山百合のスポットを巡ります。
山の陰は未だ蕾ですが、陽の当たる場所では、山百合が咲き出しました。
これから半月、楽しめます。
 
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     鎌倉の海岸通、稲村ガ崎の切り通しの崖にも山百合が咲き出しました。(左上に二株あります)
     この左 名勝「稲村ガ崎」です。
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         稲村ガ崎の山百合、望遠レンズで見詰めると構苺(かじいちご)が実っていました。
 
 
私の子供の頃、昭和20年代は山に入れば何処にでも咲いていた「山百合」でした。
でも、最近は滅多に見なくなってしまいました。
それは、残念な事に人々が山の手入れを怠っているからです。
里山は薪炭になる雑木の供給地です。そこで村人が共同で下草を刈りました。
春になって草が芽を出します。
山百合も大きな球根に蓄えたパワーを一気に吐き出して背丈を伸ばします。
そして他の草本類から一歩高みにまで背丈を伸ばして、その天辺に豪華な花をつけます。
でも、最近は下草が刈られていないので、山百合の芽は茂みの中に埋もれたままです。
この為に消えてしまったのでした。
今、私が見ているスポットは、誰かが山百合のために雑草を刈っていて呉れているのです。
山百合への優しさが土手や崖に生い茂った雑草を伐採させ、百合の花を救済しているのです。
 
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  鎌倉岩瀬の大長寺裏山に咲いた山百合、此処は墓地に近いことから、お墓参りの人が丁寧に草刈  をしています。年々、山百合の群生地が広がっています。山風が通ると百合の花が一斉に揺れま   す。私は花魁道中を思い出します。大きな花は吉原の名妓を髣髴させます。「歩く姿は百合の      花」・・・、「私の美しさを見ておくんなさいまし・・・」花魁がゆっくりと、練り歩くようです。以下に記述
 
明治維新政府は1873(明治6)ウィーンで行われた万博に出展します。
世界35カ国の中に「日本パビリオン」があったのですから・・・・驚きです。
開国と同時に日本は貿易立国しなくてはならない・・・・悟っていたのでしょう。
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               ウィーン万博日本館 磁器と鯱が見えますが・・・(出典YAHOO辞書)
 
そして山百合を展示します。ヨーロッパ人はその豪華さに驚嘆します。
百合が欲しい・・・・、思います。
思惑通りに百合の球根は主要な輸出品になります。
生糸、絹、茶に次いで百合が外貨を獲得、工業化する原資を稼ぎ出します。
横浜港からは山百合、鉄砲百合の球根が輸出されました。
神奈川県では盛んに百合が栽培されたのでした。
その為、神奈川県の花は「山百合」になっています。
 
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       葉山、下山口葉山国際C.C近くの土手に咲いた山百合。此処も10株ほど群棲しています。
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       同上、葉山の山百合。球根の鱗茎が玉葱のように何枚も重なっているから「百合」の名があ       てられたのでしょう。年々球根は大きくなります。すると花数も増えてゆきます。花数の多い       株ほど歴史があるわけです。この写真の株は20以上も花をつけています。一つの花しか咲       かないチューリップとは随分違います。
 
ヨーロッパで百合は聖母マリアの象徴として聖書にも登場します。
英国王室が薔薇を尊重するように、フランスが王国だった頃「百合」がマークに使われます。
「百合こそ花の王様」に相応しい、豪華さと知性がある、判断したのでしょう。
ウィーン万博では、そんな文化の蓄積のあったところに、
直径が20センチもある豪華な花が5つも6つも咲かせる百合が登場したのです。
皆が「日本の百合は素晴らしい、この花を宮殿の庭に咲かせたい」思った事でしょう。
そして、「山百合の豪華さはそのままで、純白の百合を育てたい・・・・」育種にとりかかりました。
そして「カサブランカ」を開発して、親百合の祖国日本に逆輸出し始めました。
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   逗子「岩殿寺」も山百合の育つお寺でした。近年擁壁(ようへき)をコンクリートで固めた事から山百   合は消えてしまいました。この株だけが崖から救出されて参道脇に育てられています。この寺は泉   鏡花(27歳)18才の芸者・桃太郎と訪れました。二人の結婚は師の尾崎紅葉に大反対されてしまい   ます。ノイローゼの二人を救済したのが寺の優しさでした。
   そんな話を伝えるように山百合が咲いています。また、昔日のように山百合が増えて欲しいもので   す。
 
ひときわ目立つ山百合ですから、万葉集にも多く謳われているだろう・・・期待するのですが、
実は大半が「ささ百合」で、山百合は謳われていないようです。
何故かと言えば、山百合は関東以北で自生し、関西以西には「ささ百合」が自生しているのです。
山百合が縄文文化圏で自生し、ささ百合が弥生文化圏に咲くという事実は面白いと思います。
食べ物やデザインなどに関東・関西の区別ははっきりしていますが、
何も百合の花まで分かれる必要も無かったろうに・・・・、思います。
 
   夏の野の 茂みに咲ける姫百合の 知ら得ぬ恋は 苦しきものぞ 
                           坂上郎女(さかのうえのいらつめ)
歌の意味は以下のようなものでしょう。
夏の野の茂みにひっそりと咲いている姫百合のように、人に知られない恋は、苦しいものです
この百合は山百合ではありませんが・・・・・・、好きな歌です。
 
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   鎌倉の長谷の路地に咲いた鉄砲百合、この手前に山百合も咲いているのですが、葯の花粉が通    行人に付かないよう・・・・虐げられています。でも、家主が大切にしておいでです。
 
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 鎌倉巨福路坂「長寿寺」の山百合、もう直に咲き出すことでしょう。(昨年撮影) 石段の上に欅の古木  があります。その幹が地上10mでテーブル状になっています。多分落雷があったのでしょう。その洞に も山百合が咲きます。見事であり、奇勝です。以下に記述
 
 
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安らぎの「佐久一宮・新海三社神社」

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私は「佐久」が好きです。
私が大学に入って最初に旅をしたのが「佐久」でした。
屹度「千曲川旅情の歌」に誘われたのでしょう。
そして、今でも佐久平に行くと穏やかな気持ちになれるのです。
そして、必ず最初に「新海三社神社」を参詣します。
この古社が佐久の文化や歴史を代表しているからです。
この古社の空気を胸一杯に吸い込むと、安堵感が漂ってきます。
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        新海三社神社は三つの神を祀った神社です。社殿も三つ並んでいます。
       右奥から出雲、諏訪、そして撮影した私の背後に佐久の神様の社殿(三重塔)があります。
 
 
小海線 臼田駅 から下仁田に向けて街道を2キロほど北に行くと、木製の大きな鳥居があります。
此処から新海三社神社の参道がはじまります。鳥居を潜って、民家の間を進みます。
坂道を登ると二の鳥居があります。此処から先は鬱蒼とした杉林です。その森の奥に社殿があります。
 
静かな社殿に私達6人が参詣、急に賑やかになりました。
「家紋が三つもある」そんな声を聞きつけて、神主さんが説明に出てこられました。
その説明によると、以下の通りでした。
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          新海三社神社の拝殿前で神主さんの説明を聞く。左のご神木は欅、右には榧の大木           が聳えています。説明では樹齢800年を越えて、鶴岡八幡宮の大銀杏と同じ水準だ           そうです。
 
 
新海三社神社の新海とは元来が「新開」と書きました。「新しく開いた」意味でした。
ところが古代、佐久は八ヶ岳から流れ出した土砂によって大きな堰止湖が出来ます。
富士五湖が富士山の火砕流で出来たように、八ヶ岳の土石流で千曲川が堰き止められて湖(海)が出現しました。
そこで、「海ノ口」「小海」など「海」の字の付いた地名が多くできます。
そして「新開」が「新海」に改められてしまいました。
三社とは出雲大社、諏訪大社、そして佐久の神様、三社を祀った神社の意味だそうです。
 
佐久郡三庄三十六郷の総社として広く信仰されました。
家紋が多いのは、時の権力者が佐久地方の統治に際して当社を厚く奉ったから、
先ずは源頼朝が源氏の祖神である誉田別命を祀るように指示し、社殿の修復や社領の寄進を行いました。
源氏の血筋を主張した足利氏も、更に武田氏も、徳川氏も庇護します。
特に武田信玄は永禄6年(1565)に上州攻略(箕輪城攻略)を祈願し、これを達成すると社殿の修築を行っています。
権力者は寄進の度に自分の家紋を刻みます。
矢鱈に多い家紋は新海三社神社の家紋ではなく、寄進者、権力者の家紋だったのでした。
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                                 源頼朝が腰掛けたと云われる岩座
    
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    西社殿(重文・出雲大社を祀る)のかえる股に描かれた「竹に雀」、
    竹雀と言えば伊達や最上氏ですが、そのデザインより可愛らしく、見ていて楽しい。
 
三社の一番末(東)に祭られているのが、佐久の神様でなんと社殿は三重塔です。
鳥居の向こうに三重塔(舎利塔)があるのですから、何か奇妙なものを見たような気持ちになります。
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      佐久の神様(興波岐命)を祀る三重塔、その前に神式の拝殿、狛犬が建てられてい    ます。現代人には奇妙な光景かもしれませんが、明治以前は当たり前でした。
 
新海三社神社は典型的な神仏混淆の名残を留めているのです。
正しくは1000年も長い時間をかけて日本人が馴染んできた「神仏混淆」でした。
明治維新の「神仏分離令(明治5年)」はそれを生木を剥ぐ様に切り分けようとしたのでした。
実態は神国日本に仏は異教として、廃仏毀釈されたのでした。
文化大革命のような蛮行だったと言う事でしょう。
 
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      美しい三重塔(重文)。永正12年(1515)建立。和様を主体としながら唐様が折衷、初層の垂      木は扇状、2、3層は和様の平行垂木、こうした折衷様式は室町時代から一般化します。神主      さんの話では伊勢湾台風では1メートル以上横揺れして倒壊を覚悟したそうですが、浮いた心      柱の構造が強風を耐えて、改めてその知恵に感心したそうです。近年修復したそうですが、朱      塗りにしなかったのが良かったようです。

 
仏教が日本に伝来しました(538年)。
古来の神祇界は猛反発します。
しかし、仏教が同時にもたらした先進文化は圧倒的で、国も藤原氏等の豪族も仏教を奉じて国を守り、自身の繁栄を祈願します。
そこで、神祇界は自ら仏教に歩み寄ります。
この結果東大寺には「手向山神宮」、薬師寺には「薬師寺八幡宮」、興福寺には「春日大社」、と言うように大寺には神社が寄り添うように建立されます。
一方、仏教の方も神祇に歩み寄ります。
鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などの大社にも神宮寺が併設されます。
また、宇佐八幡神のようにご菩薩の姿をしたご神体がが出現します。(僧形八幡神)
此処佐久でも神宮寺が併設されていました。
この三重塔は神仏分離令に際して、神様の社殿になったのでした。
羽黒山神社の五重塔(国宝)は大国主命を祭神として祀っています。
鎌倉鶴岡八幡宮にも鶴岡八幡宮神宮寺がありましたが、神仏分離令によって神宮寺の堂塔は総て取り壊されてしまいました。
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                        薬師寺八幡宮の僧形八幡 (奈良国立博物館HPから転載)
 
破壊されてしまうと何も残りません。
新海三社神社には寺と神社と並んでいた姿を留めています。
こうした、懐の深さは道祖神にも現れています。
境内の脇に沢山の道祖神が並んでいます。
佐久の各地にあった道祖神を受け入れてきたのでしょう。
一般に格式の高い「○△一宮」はお高く止っていて、俗信と言われる道祖神や庚申塔は見下しています。
ですから、私は小さな鎮守を回って、石神・石仏を探して周ります。
でも、新海三社神社には沢山の道祖神を受け入れています。
道路の拡幅で、追いやられてきた道祖神でしょう。
皆が境内に並んで平和そうです。
皆、作者(石工)は同一人のようです。
笠付碑(相合傘のような形の屋根の下に二体の道祖神が仲良く並んでいる)の下の双体道祖神は佐久から甲斐に多い意匠です。
疱瘡病が部落に入らないようガードしていたのでしょう。
道祖神は言っていることでしょう。
「やあ、兄弟初めてお会いします。此処は眺めも良いし・・・・、排気ガスを吸わないで済む。天国じゃな。わし等が守った村にはもう疱瘡も流行る心配も無いから・・・、ゆっくり佐久一宮で休むとしよう・・・。」
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  20体近くも並んだ双体道祖神、子供が描く「相合傘」スタイルです。多くが同一人の石工が部落から  部落に歩いて周って、造像したものでしょう。此処で役割を終えたように憩うて居るようです。
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     神楽殿に飾られた「オカメとヒョットコ」のお面。これも、道祖神と同じルーツです。 
 
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洋風小学校校舎と山法師の花(旧中込学校)

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佐久臼田の五稜郭龍岡城(国史跡)から隣町中込にある「中込学校(重文)」に向かいました。
軽井沢では藤の花が盛りでしたから、
若しかしたら学校の前の藤棚が咲いているかもしれない・・・、期待して。
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   中込学校側面、間口7間(13m)奥行き11間(20m)高さ18mの擬似洋風建物です。手前が藤棚、随   分大きくなりました。
 
中込学校は何時見ても綺麗に整備されています。
明治8年建築された学校とは思えません。
つい最近建築された・・・、思うほど状態が良く、またデザインンも新鮮です。
何と言っても、青空にスックと伸びた望楼が目に付きます。
望楼の天辺には針が立っていて、先端が槍のように尖っています。
その直ぐ下には「東西南北」方位を示しているような飾りが付いています。
 
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   旧中込学校の目を引くのは高い望楼です。この中に時を知らせる太鼓が収納されているので「太    鼓楼」と呼びます。その頂上の避雷針のようなものは方角を示しています。望楼の天井には佐久か   ら眺められる山々やその遥か彼方の外国が記されています。「子供たちの目を佐久平の山の彼方   に、外国に向けさせる役目を担っていたのでしょう。
 
松本の開智学校(明治6年建築。現松本深志高校)も同じ二階建て、その上に望楼が建っています。
開智学校は漆喰壁に塩瓦葺き、日本の在来素材を使った洋風建築でしたが、
中込学校は板葺き、縦長の鎧窓(よろいまど、ルーバー)で一層洋風感覚が強いようです。
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        旧開智学校(松本)、信濃の学校は高い望楼が目立ちます。県民性の現れでしょうか?宇        和島などの明治初年に建てられた学校には望楼は無いものもあります。開智学校は土蔵        建築の延長のような、日本の建築らしさが強い「擬似洋風建築」です。
 
高い望楼、白い板壁、緑色で斬新な鎧窓、それらはこの学校で学びたい・・・、
憧れを強く抱かせた事でしょう。
説明では中込出身の市川代治郎氏が米国にアメリカに留学、建築を学んで帰国、
中込学校の設計をし、建築したとのことです。
 
でも、この時代に米国に留学し、更に建築を学んだ・・・とは思えません。(私の偏見かもしれませんが)
実際は、横浜か神戸に出掛けて、洋館の建築に習熟し手帰った大工さんが
故郷に錦を飾って学校を建築したのではないでしょうか?
そのように考えた方が現実味がありますし、この建物の価値も高くなると思います。
日本の大工が西洋建築を短い間に習熟し、自らデザインして建築した・・・・、
考えればその能力の高さが確認されます。
 
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               正面から旧中込学校を見る。バルコニーが斬新で、お洒落です。
 
建物の内部に入ると、目に入るのがステンドグラス、そして大きな縦長の窓から差し込む日の光です。
2階の教室の窓から外を眺めれば、故郷佐久の田圃や千曲川、そして八ヶ岳などの山なみが見渡せたでしょう。
故郷への愛着が学んで故郷に恩返しをしたい・・・想いを高めた事でしょう。
 
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          スリッパを履いて床を歩くと、懐かしい音で軋みます。廊下の向こうにステンドグラスが見えま              す。窓の向こうに「憧れ」があることを示していた事でしょう。
 
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   2階の西側は講堂になっています。オルガンが並んでいました。勿論懐かしい音色が響きます。窓   は緑に塗られた鎧戸(ルーバー)越しにやさしく光が差し込んでいました。
 
維新政府は明治5年学制を発表します。
初等教育(4年間)を総ての国民に施すことを決めます。全国に2万の学校を建てるように決めました。
しかし、明治政府にはそんなお金もありません。
実際に建てるか否かは地域任せでした。
中込も同様です。当時中込にどれほどの経済力が在ったかわかりません。
でも、少ない人口、たいした蓄積も無い中で、民間人が6千円余りの建築費を寄付しました。
そして、この学校が建築されたのでした。
中込の先には「秩父貧農党」が組織され「秩父事件/明治17年」が勃発します。
この辺りは決して豊かでは無かったのでした。
 
同じ頃新潟長岡では「米百票」の出来事がありました。
長岡は明治戊辰戦争で惨憺たる状況に陥ってしまいます。
僚友の三根山藩が見舞金として「米」を寄付してくれました。
これを小林虎三郎は学校に変えてしまいます。
「米は食べてしまえば一時の飢えを凌ぐだけ・・・、これを教育に充てれば・・・・長く効果がある」
明治3年国漢学校が建築されます。(現長岡高校。山本有三著が有名)
全国各地で「新しい日本の国作りは教育から・・・」そんな気風が充満していたのでしょう。
 
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             教室、石板、教本や算盤が 置かれていました。12人分の机と椅子ですが・・・・、              少数教室だったようです。
では明治初年、何を教えていたか?と言うと、これも面白いのです。
大学では教材は西洋の教材を使いました。
ですから、夏目漱石も正岡子規も英語で読み書きをしなければなりませんでした。
そして初等教育の教材は・・・「福沢諭吉の学問のすすめ」が第一でした。
教材に中には論語など寺小屋時代のそれも多かったのでしょうが・・・・、
学校の建物も教育内容も新時代に相応しいものがありました。
「坂の上の雲」は松山藩だけではなく、長岡にも佐久にも松本にも、日本中に見られたのでしょう。
 
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                    山法師の花が見頃でした。花越しに望楼を見る。
 
中込学校も時代の変遷に従って変化します。
開校当初は、一クラス精々16人くらいの教室で子供を教えていたようです。
(写真で見るような小さな机と椅子が12個置かれていました)
しかし、次第に子供が増え教室が手狭になりました。
そこで新しく小学校が建築され、
旧中込小学校は明治30年高等科が設置されて「尋常高等小学校」になります。
建物にはこの頃の写真が展示されていました。
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      展示されていた記念写真。高等尋常小学校時代と思われます。丸髷の16歳くらいの少女が       前列に並んでいます。中断は男子生徒、そして後列に教師が並んでいます。
      先生も生徒も女性が目立ちます。
 
私達は高等小学校が教師の養成機能を果たしていた・・・想像しました。
田舎町の教育熱は子女を学校教師になるように励ましていたのではないでしょうか?
丁度NHKの朝の連続テレビドラマ「おひさまの陽子先生」のように。
 
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藤棚は数年前訪れた時よりずっと立派になっていました。
藤の樹勢も回復しているようです。でも花は既に終わって青葉が繁っていました。
でも山法師の花が咲いていました。
山法師も「緑の葉と白い花弁」、中込学校も「白い板壁に緑の窓」です。
青葉の上に真っ白い花が咲いて、その上には青空と白い雲、燦燦と降注ぐ太陽が眩しい限りです。
白い花弁にセーラー服の女学生を思い起こします。
 
 
 
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覚山尼に山じさの花

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天気予報では来週一週間は「雨」と報道されています。
雨空が無いのは今日しかありません。
覚悟をして鎌倉に出掛けたのですが、大変な人ごみでした。
狭い鎌倉、お寺参りも大変ですが食事も大混雑、
巨福呂坂去来庵(シチュウで有名なレストラン)は通りにまで行列が出来ていました。
 
今週は岩タバコの花も見納めでしょう。
今日は「駆込み寺」の岩タバコの鑑賞が目的です。
駆け込み寺の仏殿の山側には墓地が広がっています。
その東向き斜面は大きな岩場が続いていて、岩壁全面に岩タバコが咲くのです。
その花の中心に開基「覚山尼」のお墓があります。
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  駆込み寺開基「覚山尼」の墓。大きな岩に小さな櫓(横穴)が掘られ、小さな五輪塔が墓標です。
  岩場は全面岩タバコ(山じさ)が生い茂って花が咲いています。花は紫色でお星様の形です。
 
覚山尼の父は甘縄の「安達義景」、母は北条時房の娘でした。
同じ邸内には松下禅尼(義景の妹)も同居していました。
ですから少女時代は松下禅尼の訓育感化を受けて育ったことでしょう。
徒然草で兼好法師は松下禅尼をべた誉めしています。
「女性なれども聖人の心に通へり。天下を保つ程の人を子にて持たれける、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ」
兄が安達安盛でした。10歳の時北条時宗(11)と結婚します。
時宗は北条得宗家の嫡男でしたから、この夫婦が幕府の屋台骨を荷うと期待されていたのでした。
20歳の時嫡男貞時「4代執権」を出産します。
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         小さなお地蔵様が墓地の入り口で迎えてくれます。
         もう、山じさの花は散り始めています。清水が湧いて、花に露 が溜まります。
         花は露の重みに耐えらず、落花してきます。
 
時宗が執権の職にあったとき、二度に亘る蒙古の来襲がありました。
国難には耐えたものの、時宗は病床に倒れます。
時宗が出家し西明寺と名乗ると、自身も出家し「覚山尼」と名乗ります。
時宗は34歳で夭逝してしまいます。
 
覚山尼は執権貞時の良き相談相手になった事でしょう。
そして、弘安8(1285)鎌倉松ヶ岡に東慶総持禅寺を建立します。
建立に際して「女性を救済する」寺法などを認めて貰います。
この寺法は中世に出来たわけですが、近世(江戸時代)に名って、徳川家康に認めさせたことから、極めて重要になります。
三行半(離婚宣言)は男性にしかなかった時代、
縁切り寺の寺法が女性の人権を認めたものだったからでした。
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平安時代にも政争などで敗れた人は「高野山」「延暦寺」「神護寺」等に駆け込みました。
寺院には一種の治外法権があった訳で、「此れからは余生を仏門で過します」、
宣言した人の命までもは奪わない考えが一般的だったのでしょう。
だったら、女性が夫の暴力などの非道から身を守る「駆け込み寺」があっても良い・・・・
覚山尼が考えたのは自然なことだったのでしょう。
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   山じさの花 はお星様の形、紫の花弁にオレンジの花芯が乙女のようです。 岩から清水が染み出   しますので、葉も花の濡れています。雫が溜まるとその重みで落花します。乙女の涙のようです。
 
 
覚山尼の墓は大岩の壁に掘った櫓の中にあります。
その横が用明皇女(後醍醐天皇の娘)のお墓です。その前が歴代住職の墓石が並んでいます。
どれよりも小さい五輪塔が墓標です。
東慶寺を創建した人のお墓ですから最も大きくて立派であった良さそうな気がします。
でも、とても質素なお墓です。でも、美しいのです。
松下禅尼の訓育のお陰かもしれません。
 
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        歴代住職の墓場を見渡す位置にある釈迦如来、大きな岩場には山じさが繁っています。
        ご本尊(木像)のコピーの銅像と思われます。
 
我が国に火葬の風習を伝えたのは仏教でした。
そして、火葬が一般化したのも鎌倉時代でした。
古代は大きなお墓を造営して、石棺を用意しその中に遺体を収めました。
中世になって火葬が一般化します。
岩の中に櫓を掘って、その中に骨壷を埋める。
骨壷には火葬した骨を拾って収める・・・・、そんな風習は禅の影響でしょう。
達磨面壁図にもあるように、座禅は岩に穴を掘って、その壁に向って行います。
そうした姿が最も座禅に相応しい・・・、安心立命を得やすい・・・、と考えたのでしょう。
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           達磨面壁図(雪舟・国宝)、こうした場面が鎌倉櫓の考え方にあった、と思います
 
平安時代末期から世情には怨霊・悪霊が跋扈していました。
無常に殺害された政敵、親兄弟も殺害した事実・・・、
そうした混乱から怨霊が空中を漂ってる危惧されたと思います。
そうした中で安全なのは岩の中だったでしょう。
それは、横穴住居時代から人類の遺伝子に刻み込まれていました。
ですから、鎌倉武士やその家族の墓は櫓の中に作られた・・・と思います。
同時代中国や朝鮮の為政者の墳墓が巨大であった事実に較べて、日本の為政者の見識は見事です。
でも、火葬は武士や僧侶で、一般人は土葬でした。
 
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                    山苔のうえに散った山じさの花、合弁花なので、形が崩れません。
 
その岩場には一面岩タバコの花が咲いています。
「岩タバコ」なんていう名前はタバコが一般化した江戸時代のネーミングで、
万葉の時代から「山じさ」と呼ばれ、愛されてきた花です。
 
やまじさの 白露しげみ うらぶるる 心も深く わが恋止まず
                                     柿下人麻呂
意味は以下の通りでしょう。
【やまじさの花が白露の重みにうなだれるように、心も深くしおれております。
私の恋の思いは止む時がありません。】
 
「やまじさ」の字は「山萵苣」、山に育つレタスのような植物の意味でしょう。
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     葉っぱがタバコに似ていますが、ニコチンなど一切無く、茹でて食べられるそうです。
     焼肉を挟んで食べたら・・・どうかな?
 
山じさの花は「過酷な環境のこそ耐える」花です。
駆込んだ女性にも、開基の覚山尼にも良く似合う、美しくも可愛らしくい花です。
 
 
追記:「山じさ」の生態などは長谷寺で書きました。是非見てください。
 
 
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茜色のアジサイに如意輪観音(新善光寺)

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最も多い石仏は間違いなくお地蔵さんでしょう。                                 町の辻や寺の参道の六地蔵尊、街道で行き倒れた人の冥福を祈願した地蔵尊、度々目にします。
子供が亡くなれば墓標仏は必ず「お地蔵様」が選ばれました。                        お地蔵様は子供を守ってくださる、信じられていました。                            親は次に生まれ変わって現世に現れる時には幸せになってほしい・・・願ったからでしょう。        そして、丸坊主のお地蔵様の姿も子供に似ていたからでしょう。
お地蔵様に次いで多いのが観音様、観音様は33もの変化をしますが、その中でも如意輪観音が最も多いと思います。                                                     成人女性が亡くなると、多くが墓標仏として如意輪観音が選ばれました。                  如意輪観音は正しくは「如意と法輪を持った観音様」の意味です。                        「如意法輪観世音菩薩」を略して「如意輪」と言いました。
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                             歓心寺本尊「如意輪観音(国宝)」YAHOOから転載
最初に日本に伝えたのは空海で、河内歓心寺の如意輪観音がそれである・・・言われています。    写真で見るとおり、6本の手を有し、一組の手で如意宝珠等を持っています。                孫悟空の持っているのは如意棒です。如意宝珠は何でも欲しい物を満たしてくれる道具です。     物質的欲望を満足させてくれます。                                        そして、もう一組の手は「法輪」を持っています。                                 法輪は煩悩を打ち砕いてくれる「知恵」であります。                                この二つの道具を有していることは物質的な欲望、知的な欲求を総て満たしてくれる有難い仏様になります。                                                          そしてもう一組の手は右手を頬にあてて物静かに考え込んでおいでです。                   何を考えておいでかと言うと、「どうしたら衆生を救済できるか・・・」思い悩んでおいでなのです。      平安時代初期に建てられた密教のお寺のご本尊は多くが同じ姿の如意輪観音です。           私の好きな室生寺もそうです。
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               室生寺如意輪観音(重文) YAHOOから
古代、如意輪観音を見た日本人は驚嘆した事でしょう。                            でも、心のどこかにこの仏のお姿に「異形」を感じたのではないでしょうか。                 時代が下ると変化します。この6本の手から、2本を選択してゆきます。                   如意宝珠を取り去り、法輪も捨象してしまいます。そして事物を持たない2本の手を残します。
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     新善光寺の如意輪観音像、光背の右手に戒名、左には没年(宝暦)が刻まれた墓標仏。3年ほ     ど前半身が地中に埋もれていたが掘り起こしてひな壇に並べられました。
 
右手を頬に当てて、「物憂げに悩んでいる姿」を選択します。                         弥勒菩薩半跏思惟像に似た「立膝思惟像」を考案します。                           この姿を選んだのは、先ず、お地蔵さんがお坊さんや子供に似ていたように、               母親に最も似ている姿だったからでしょう。                                    更に「慈愛に満ちた表情で思惟(しゆい)」する姿が最も尊いと思ったからでしょう。
 
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   新善光寺如意輪観音像、上の写真も同じように細面、切れ長の目、おちょぼ口で浮世絵から出て   きたような美人です。江戸時代、庶民が見た優しく美しい母親像が如意輪観音に投影したと思いま   す。
 
物質的な豊かさ、知恵や知識でもなくて・・・・優しさが最も大切だと考えました。              お金を沢山得ても幸福にはなれないし、頭が良くて知恵者になっても人に疎んじられれば幸せになれない・・・気付いていたのでした。                                           で、人間にとって最も大切な事は「優しい心」なんだと判断して、                       異形だった如意輪観音は人の姿になってしまいました                             母をなくした子供はその優しさを懐かしんで、如意輪観音を墓標仏に選びました。             そして墓参の度ごとに優しかった母に語りかけた事でしょう。
 
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 同じく、新善光寺如意輪観音像。切れ長の目に、白く長い指、茜色のアジサイがお似合いです。
 
葉山山口の新善光寺は源頼朝が長野の善光寺を勧請したものでした。                   四季折々花が咲き続けるお寺ですが、今は全山アジサイが飾っています。                  鎌倉のアジサイはブルーが多いのですが、新善光寺のアジサイは茜色(夕焼け色、ピンクや朱色など)多いのです。何故だか良くわかりません。                                    良く同じアジサイでも土が酸性だとブルー、アルカリだと赤・・・まるでリトマス試験紙のようなことを言う  人が居ます。アルミニウムが酸性に反応してイオンを排出するから・・・ブルーになる・・・と説明をする   人も居ます。ならば、「アジサイの色を変え試薬」を開発すれば楽しいと思います。              でも、実現していない所を見ると「仮説は実証されていない」ようです。
 我が家は狭い敷地ですがブルーとピンクのアジサイが咲いています。                    同じ種類なのに何故色が違うのか不思議でなりません。
 
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疑問の解決はさておき、アジサイのブルーは普通ですが、茜色のアジサイも良いものです。       茜色のアジサイの陰に如意輪観音が物思いに耽っておいでです。                      舟形光背には観音様が祀られた年、(宝暦。享保年間が目立ちます)とお名前(戒名)が刻まれています。もう、無縁仏ですからお参りする身内もいませんしが・・・・。                          それでも、この如意輪観音たちは3年前までは土の中に埋もれていたのでした。              新善光寺産のご住職が代わって、無縁仏を掘り出して、壇上に並べてくださったのでした。          新住職は毎月第一日曜日の午前中に「写経教室」を開いておいでです。                    本堂は沢山の人が集まって熱心に写経しておいでです。                             法衣を着ておいでですから直ぐわかります。でも、脚が悪いのでしょう。                     正座できないで写経をしておいでです。  
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                                 新善光寺の本堂
アジサイは「茜色が集まった花」が語源と言います。                              ですから新善光寺の紫陽花が本家本元、名月院ブルーのアジサイは分家と言う事でしょう。      
青いアジサイは咲き始めは白が目立ちます。                                  次第に青が強くなり、最後に朱が混じってきます。                                そして8月になれば緑色になってしまいます。                                    この時花弁と思っていた部分は実は「萼(がく)」で、葉に近い部分であった事がわかります。        秋になれば花は枯れて茶色に変色します。                                    花の形が損なわれないで、ドライフラワーになる訳です。  
 
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  新善光寺の裏山には無数の無縁仏が地中に埋もれていました。地中から掘り起こしてひな壇に並   べられました。前後左右を茜色のアジサイが囲っています。
如意輪観音に茜色のアジサイ・・・・、良く似合いすぎている・・・、思います。                近くに、葉山の棚田があります。是非お出かけ下さい。                             未だ咲き始めです。あと1ヶ月は楽しめるでしょう。
山百合も咲きます。
 
 
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     新善光寺の本堂、此方も前庭同様に花に埋もれているデザインです
 
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天空の集落「赤沢旅籠群」

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身延山久遠寺に詣でました。
さあ、次は「赤沢集落」を目指そう・・・、確か身延山の南斜面(南アルプス側)に在る筈だが・・・?
地図を見ても、カーナビをセットしようとしても標示してきません。
皆目解りません。
仕方なく私達は身延往還道「国道52号線」に戻って、ガソリンスタンドで尋ねました。
店員さんが早川に沿って南アルプス街道を登って、マップ上に「この辺り!」印を示してくれました。
 
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                         赤沢宿は重要伝統的建物保存地区として認定されています。
                       身延山の南斜面にへばりつく様に建っている集落です。
 
赤沢宿の事は数年前NHK甲府支局が作成し、オンエアーした番組を見て知りました。
身延山久遠寺の裏側にあり、周辺は2000メートル級の山に囲まれています。
身延山(1148)の尾根(標高400m)にへばりつくように出来ている集落です。
春木川の谷を隔てた向かいの山が霊山の「七面山(1938)」です。
 
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     赤沢宿の下村の前景、手前の大屋根が大阪屋、その向こう右側の旅籠が江戸屋、両家が名主     と百姓代を交代で勤めて来ました。山なみは南アルプス
 
赤沢宿は、修験道の山と、何と言っても日蓮宗の総本山「身延山久遠寺」があったことから、参拝者が多かったのでした。江戸時代には身延往還「興津~甲府」の宿場でもありました。
久遠寺を詣でた参拝客は、更に身延山の山頂に至り、山を下って赤沢宿で一泊した事でしょう。
多くの人はそのまま帰路についたのでしょうが、更に連泊して七面山の霊場を巡る人もあった事でしょう。
江戸時代「お万の方/家康の側室」が入山して以来この霊山は女性にも開放されたのでした。
お万の方は湯殿山をはじめ霊山の女性解放の実績が目立ちます。
こうした功績もあって、赤沢は賑わいました。
未だ、60年でも賑わいが続いていました。
 
1601年江戸幕府は赤沢を幕府直轄地にします。
元々「望月」姓の武田の家臣が住んでいた集落です。
何の意図で直轄地にしたのか・・・・・・・?
多分豊富な材木に目をつけたのでしょう。
赤沢の見事な建物を見ていると、まるで「飛騨」を思い出します。
幕府は飛騨の豊富な木材と優秀な匠を重視して天領にしました。
まして、富士川の上流、身延辺りは押さえておきたかったのでしょう。
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 赤沢旅籠で現在も民宿を経営している江戸屋さん、頑張って事業を継続して欲しいものです。
 
赤沢村の記録が残るのは慶安3年(1650)名主に「九右衛門(大坂屋)」,長百姓に「松左衛門(江戸屋)」が登場してからでした。
この二家が以後明治に至るまで交互に名主と長百姓を勤めていたようです。
 
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   此方が大阪屋さん。現在は営業されていなくて閉ざされていますが、良く保存されていて実に美し    いと思います。二階の欄干にもたれて南アルプスの山並みを眺めてみたいものです。正面が霊山の   七面山になります。
 
明治初年には赤沢宿には9軒もの旅籠があったのでした。
日蓮宗の妙福寺をはじめ恵比須屋、玉屋、両国屋、大黒屋、萬屋、喜久屋、信濃屋がありました。
けれども、今でも営業しているのは江戸屋、そして週末のみ蕎麦屋を営業する「信濃屋」の2軒だけです。  
多くの旅籠は二階建て、鉄板屋根です。
勿論ひと昔前までは板葺き屋根で、石などが置かれていたのでしょう。
現代の屋根素材としてトタン屋根が使われて、そのままで歴史的建造物群として承認されています。
木曽街道の馬籠宿と似ている雰囲気もありますが、赤沢の方が遥かに山は険しく、谷が深く、山しかありません。
田圃もなく、僅かばかりの畑があるだけです。
自然環境が厳しいものがあります。
そして木曽街道(中山道)の旅人の宿であった馬籠に較べれば、
身延往還「赤沢」は信者の旅籠,、宿坊のようなもので、性格が随分違います。
身延山、7面山の信者達の宿がこの旅籠群でありました。
彼等は2000mの山々を巡って、疲れた体をこの旅籠で癒します。
 
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     旅人は自分の属する講も名札が軒先に貼ってあれば、宿泊する事ができました。この旅籠群を     支えていたのは、江戸時代から続いてきた講のお陰なのでした。写真は大阪屋の講中札。粋      なデザインです。
 
と言っても、宿泊予約を取っている訳ではありませんでした。
旅籠の壁に貼ってある「講中札」を見ます。
大阪屋にも江戸屋にも80枚を越す講中札がはって在ります。
自分が属する講の名があれば必ず宿泊させてくれます。
長い土間にはL字型をした縁側が巡っています。
縁側に腰掛けて旅人は一斉に草履をぬきます。白装束や桧笠、手っ甲、脚絆を脱いで部屋に入りました。
大部屋には既に沢山の旅人が寛いでいます。
ここで、信者同士、一宿一飯の関係が成立します。
現代はホテルに泊まります。
隣同士は誰だか全く関心はありません。声をかけようなら気味悪がられてしまいます。
でも宿坊ならば、信者同士、行者同士、積もる話があったでしょうし、
楽しい時間が過ぎていた事でしょう。
大部屋の1畳は大人一人が横になれるスペースでした。
40畳の部屋には40人弱を収容できたのでしょう。
最盛期9件の旅籠の部屋数は38室、1000人が収容できたそうです。
そして、日中は昼食やお茶による人も多かった訳で、4月、10月のシーズンには3000人の人が赤沢で草鞋を脱いだそうです。
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        修復中の赤沢の旅籠、家の二方、L字型の土間かあって、此処が総て玄関になります。此処で草    履などを脱いで縁側から室内に入りました。
    部屋は1階に一間、2階に一間の大部屋です。建具の美しさが目を惹きます。 
 
赤沢から久遠寺までの道は石畳が敷かれていました。
大正7年、「若山牧水」もこの道を歩き、なんと31首(歌集黒松)も歌っています。
心底この赤沢が気に入った事でしょう。
宿は「えびす屋」の二階だったそうです。
その縁側の欄干に腰掛けて、七面山の山肌を見詰めていた事でしょう。
集落の中、周辺に6首の歌碑があるそうです。
秋にまた来て、宿泊して、牧水を辿るのも楽しい事でしょう。
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  若山牧水の歌碑赤沢集落から10分ほど身延山を登った位置にあります。アカショウビンの歌で、歌  は下記のとおりです。 石畳が敷かれています。
 
赤沢の集落を見下ろす位置に歌碑が立っていました。
丁度今頃の季節の歌でしょう。
如何にも牧水らしくて、嬉しくなってしまいました。
 
雨をもよほす 雲より落つる 青き日ざし 山にさしゐて 水恋鳥の声 
 
雨雲が流れてきました。その雲間から陽射しが差し込んできます。七面山の緑が陽射しに輝いています。春木川の渓流からは水恋鳥(赤ショウビン/全身が赤いカワセミ)
の鳴き声が響いてきています。鮮やかな色彩が目に浮かんできます。如何にも霊山に相応しい歌です。
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         旅籠の二階、欄干に身をもたれて、気持ちだけでも牧水になれるような気がします。
                  
今日は水曜日、期待していた信濃屋の田舎蕎麦も今日は休業です。
一軒旅籠が修復中です。家の構造が良くわかります。
そして、建具の美しさも際立って見渡せます。
こんな家の修復が出来る人は都会には居ないだろうな・・・・、思います。
伝統的な建築だから昔のままに修復されるのでしょうか?
それとも、修復の後は大広間が1,2階の2間までは無く、小部屋が沢山用意されるのでしょうか?
時代ニーズに従うのなら、小部屋を多く用意して家族連れを呼び込むことでしょう。
歴史的価値を頑なに守るのならば、大部屋でしょう。
でも、講]自体が無くなってしまった現在では、大部屋では誰も利用しない事でしょう。
40畳の部屋に家族三人連れで泊まったら、座敷童子が出てきて、気味悪い事でしょう。
落ち着かない事でしょう。
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                              集落の集会場建物。遠くの屋根が妙福寺。此処が上の集落になります。
 
人が使わなければ家は急速に傷んでしまいます。
人が居なくなれば美しい村も過疎から、廃墟になってしまいます。
赤沢集落の人が生活できるようにするには・・・・、現代人の欲求に従って改造を求めなくてはならないでしょう。その上で、久遠寺を詣でた人達を赤沢まで足を運ばせるような道路の整備も不可欠でしょう。
 
赤沢の集落には人影もありませんでした。妙福寺の墓地で老夫婦が草刈に精を出しておいででした。
赤沢宿に衰亡はもう消え入る寸前であります。
天空の旅籠は、天に最も近いユートピアであり続けて欲しいものです。
 
私が未だ学生でしたら、昔の開発銀行に入って、こうした難しい建物群の維持、保存に精を出してみたかった事です。自然や建物群の美しさはハードです。
誰でも認めることでしょう。
でも、その建物の利用を進めるのはソフトです。
ソフトが大事、でもハードが無ければ、始まりません。
もう、私は消え入るばかりですから・・・、そんな仕事をしたくても出来ません。
せめて、秋には再度訪ねて、ゆっくり泊まってみたいものです。
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   人影の無い赤沢集落、江戸屋の前の車は筆者のもの。数年後この集落自体が廃村になる危惧が   消えません。
 
 
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故郷「丸畑」の木喰像

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私が木喰像に出会ったのは大学2年生の時、駒場の日本民芸館で、自刻像を見た時でした。
その像は日本民芸運動の推進者柳宗悦氏が所蔵、同館に寄贈したものでした。
自刻像の底抜けの笑い顔に私は圧倒されました。
現代の芸術家は自画像や自刻像を必ずと言うほど制作しています。
それは、天上天下に自分は一人きりだ・・・と言う自覚に基づいた「自我意識」に拠るものでしょう。
鑑真和上像を始め祖師や為政者の肖像彫刻は幾つもありますが、自刻像はありません。
自刻像を始めて、それも何体も作ったのは木喰上人だけでした。
 
芸大の学生さんの課題は「自画像」「自刻像」と聞いています。
彼等は木喰上人の自刻像を見て・・・、その後自分の顔を見つめることでしょう。
そして一生をかけて自分の姿や顔を見詰め続けてゆく、と思います。
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      木喰上人自刻像、33観音像を彫ると、その端材で自刻像を彫りました。
 
木喰の生家は「身延町古関字丸畑」でした。
昨日書いた「赤沢」からは富士川を跨いだ反対側にあります。
身延山に較べれば無名の山ですが、栃代山や法山といった山並が続いている、その中腹にあります。
近くの谷間には信玄隠し湯で有名な「下部温泉」もあります。
国道300号線(本栖道)から西に山道を登ります。
車が一台通れるだけの細道です。
雑草が車体を擦ります。暫く登ると少し開けます。その集落が丸畑です。
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     木喰上人の生家「丸畑」は久遠寺から下部温泉を通り本栖湖に行く300号線から、山中に入っ      た所にあります。
 
丸畑の名の通り田圃はなく山ばかりの地形です。
所々山を切り開いた畑があります。でも傾斜地です。
丁度、お百姓がジャガイモを収穫しています。
傾斜が激しいので畑から転げ落ちないかと心配です。
以前は桑畑が多かったようです。
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                      畑ではジャガイモを収穫していました。山深い痩せた土地です。
 
多分木喰上人が生まれた頃(1718年)は稗や粟・蕎麦等の雑穀を栽培していた貧村だったのでしょう。木喰上人は名主伊藤家の次男として生まれます。
しかし名主といっても、貧農の次男です。
村には薬の行商人が遣って来ました。
彼が江戸の賑わいや薬の仕事の面白さを木喰少年に話しました。
少年は14歳の時に出奔し、江戸日本橋の薬屋で働きます。
 
この時に商人としての大福帳をこまめに書く生活習慣が出来上がりました。
木喰上人は小まめに記録を書き綴りました、御宿帳として暦・宿所や造仏の記録を残しています。
この結果私達は木喰上人の足跡を明確に辿れるのでした。
 
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     手前が木喰上人の生家「伊藤家」。木喰上人の生家は焼失、この建物は昭和に新築された。2     階は木喰記念館 
 
1739年、22歳の時木喰上人は相模の国の大山寺(真言宗)を詣でます。
そしてそのまま出家して高野聖の道に入ります。
大山寺の近くには「日向薬師/重文/鉈彫りで有名」が在ります。
高野聖として衆人に何をして差し上げられるか・・・・・、自問自答しながら30年間旅に明け暮れました。
『衆人のために、仏を彫って差し上げよう・・・・』決心をします。
日向薬師が導いたのかも知れません。
「造仏聖」となるのは56歳と晩年になってからでした。
衆生のため、行く先行く先で仏像を彫って差し上げる。
弟子に木食白道を従えて、日本中を回国、千躰の造仏を決心します。
以降の木喰上人の辿った道を整理すると以下のようになります。
 
名前(自称)
年・年齢
活動
1
木食行道
17731785
56歳 68
関東甲信越を中心に、北海道(有珠)まで行脚。
肉厚で民族的な作風。土の香りが濃い縄文文化風
2
木喰五業菩薩1
17851793
68歳 75
甲斐から西国・四国から宮崎まで回遊する。
仏像の表情に笑顔が現れる。確信を得た時代
3
木喰五業菩薩Ⅱ
18011806
83歳 86
四国回遊で確信を得た木喰上人は「微笑仏|を実現、故郷丸畑で四国堂建立し、造像する。更に第二の故郷越後に行脚、大作を連作する。
4
木喰明満仙人
18061810
86歳 90
甲斐から京都に向う。微笑仏は健在だが迫力が減じて温和な表情が目立ち始める
                  出典は木喰生誕290年記念「木喰展」記念誌、作成「全国木喰研究会」
 
 
造仏聖としての活動の折々に故郷の丸畑を訪れています。
そして、丸畑を起点にまた長い旅を始めます。
あの木喰上人の「微笑仏」を実現したのは83歳、四国回遊の旅先でした。
確信を得た事が余程嬉しかったのでしょう。
丸畑の生家の裏山に「四国堂」を建立、数多くの仏像を製作します(93体)。
更に木喰上人の第二の故郷越後に旅立ちます。その後の製作は以下をご覧下さい。
  http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42223936.html (小栗観音堂)
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     小栗観音堂33観音像。此処にも宝生寺33観音にも自刻像が祀られています
 
 
しかし、悲しい事に故郷丸畑では木喰上人の仏像を奪い合います。
仏像の買い手が現れたのでした。
貧農の村に現金は魅力です。瞬く間に微笑仏は散逸してしまいます。
柳宋悦氏が甲府で見つけた自刻像もコレクターが買い求めたものでした。
 
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    生家「伊藤宅」居間の奥、納戸を改造して祭壇に祭られた五智如来像
 
私と家内は木喰上人の生家伊藤さん宅に伺いました。
お婆様が庭仕事をされていました。お願いすると快く室内に導いてくれました。
生家の二階は木喰記念館の名で展示をしています。
そして1階で生活されています。
何処にでもある農家ですが、壁中に木喰上人の記事や写真が貼られています。
 
部屋の奥納戸のカーテンを引くと、其処が祭壇になっていて真っ黒な如来さんが笑っておいででした。
これが永寿庵の本尊「五智如来」です。
先の83歳の時の製作であります。
多分、真っ黒いのは家の中に置かれていたから、土間で焚かれた煤が全身を真っ黒にしたものでしょう。
越後の33観音像などはお堂の中でしたから生地の生々しさが残されていましたが・・・・、
真っ黒な仏像も木喰上人らしくてまた良いものでしょう。
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五智如来の中心、大日如来像。写真に写してみるとキクイムシの開けた穴が目立ちます。
 
お婆さんに聞きました。
木喰上人の生家だった家は焼失してしまいました。この家は昭和になって建てた物です。
更に集落にもっと木喰像が在るかと聞けば、数戸で祀ってあるものの拝観は出来ないとの事・・・・、
残念だが致し方ありません。
私達は引き続き木喰微笑館に回りましたが、
今日は休館(水曜は休み)とのこと、此方も運が悪かった・・・。
 
でも、休館はもっと準備してまた秋に来い・・・・。そんなメッセージでしょう。
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                                                 木喰微笑館
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 微笑館の裏手の畑で談笑したおばあさん。「遠くから来て休館とは気の毒だね」同情してくれました。
 畑は大豆、奥に桑の木が見えます
 
 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/32490206.html 「故郷甲府の木喰像」
 
 
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