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縁の下の「野良猫」

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連日、暑い事暑い事。
庭の植木も「参った」、とばかりうな垂れています。
我が家の番犬は植木の下に穴を掘ってスッポリ埋もれています。
日陰の土が一番涼しいのでしょう。
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                          もう、暑さで、ばてた紫陽花
 
毎年、土用に入ってから始める「梅干の天火干し」ですが、今年は早くも終盤戦です。
家内はもう30年近く梅干作りに精を出していますが、今年は良い出来のようです。
昨日の午後で三日目の天火干しが終了しました。
もうすっかり好い色に漬かって、ソソル香りがしています。
「梅の実+塩+紫蘇の葉」+「紫外線?」=梅干 ですが、
紫外線にどんな効果があるんでしょうか?
大昔からの日本人の知恵です。
中国でも韓国でも梅干は見た事がありません。
韓国がキムチを世界遺産に申請しているそうですが、
キムチが認められるのであれば、梅干だって良さそうです。
そうしたら、日本中の「梅干婆さん」がえばり出す事でしょう。
「私は無形の世界遺産だ・・・・」と。
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   我が家の梅干はこの笊二つに干しています。ベランダは梅干に占拠されます
 
先日、鎌倉材木座の光明寺に行ってきました。
記主庭園(小堀遠州作)も整備され、本堂と開山堂を繋ぐ渡り廊下が新築されました。
廊下が舞台のように造作され、蓮池を鑑賞できるよう配慮されていました。
俳句を苦吟されていらっしゃる人達が会話しています。
「何時も猫が沢山いるのに、今日はどうしたんでしょうね・・・、姿が見えない」
猫は利口ですから、涼しい所を知っていて、其処で休んでいるに決まっています。
多分、本堂の縁の下が一番、そして山門の上でしょう。
どちらも日陰で、風が通ります。
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  光明寺の記主庭園は古代蓮で埋め尽くされます。正面お堂の二階に阿弥陀様望めます。
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                蓮は未だ三分咲き、7月23,24日に観蓮会が催されます
 
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  新築された渡り廊下、観蓮の舞台が設えられました。座っているのは俳句の会のメンバ-
 
光明寺から海岸通の下、トンネルを潜れば材木座の海水浴場です。
歩いて1分もあればついてしまいます。
私は海水浴場の様子を見に出かけて見ました。
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    海水浴場の監視員は海水浴客が居ないので・・・・、でも「夏休み前だから」強がり    を言っていました。
 
もう十分暑いのに閑散としています。
監視員に聞きました。
「少し寂しいようですが・・・・?」
すると、「未だ夏休み前だから・・・、今来ているのは幼稚園児ばかりだよ」
言われてみれば、光明寺幼稚園の園児が遊んでいます。
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   僅かな人影は幼稚園児ばかりで・・・・・、少なくともグアムやパタヤビーチより綺麗   な材木座海水浴場。
 
私は暇を持て余している海の家に入って見ます。
此処が一番涼しいし、景色も良さそうです。
材木座海水浴場に人が沢山出て、その体が芋の子を洗うようであった、昭和を懐かしく思い出しました。あの頃は夏と言えば「海水浴場」に行く事くらいしか何もありませんでした。
 
猫のように涼しく夏をすごす知恵を出さなければいけないようです。
TVでは「節電対策]以上に、「熱中症対策」が扱われています。
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                 お寺のお堂の床下で涼しく過ごす、野良猫
 
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涼しげな「擬宝珠の花」(浄智寺の池の畔で)

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如意宝珠は「思いのままに願いを叶えてくれる宝の玉」の意味でしょう。
お地蔵さんの掌の上に置かれていますし、お寺の堂塔の頂上や五重塔の上に置かれています。
その形はお釈迦様の骨壷(舎利壷)の形とも、龍の頭の中にある骨とも言われています。
玉葱のような形をしています。
私はキューピーの頭のようだな・・・・何時も思っています。
西洋では球形の上に十字架に変ります。
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                                 お地蔵さんは宝珠と 錫杖 をお持ちです。 
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                         方形の屋根の上には宝珠が置かれています(鎌倉長谷寺)
 
 
擬宝珠は字の意味からして「宝珠を模した宝珠」という意味でしょう。
その形は葱坊主(葱の花)に似ています。
同じ葱の仲間の「ラッキョウの珠」や「野蒜の珠」にも似ています。
古事記で日本武尊が鹿に化けた神の目を野蒜で打ち殺します。
葱や野蒜は邪気を消し去る野草です、「魔除け」になると信じられたのでしょう。
だから、橋や神社など仏教建築以外でも使われたのでしょう。
橋は川を下ってくる災いや、川の対岸から遣ってくる病気や災難を払う意味があったと思われます。
神社でも清浄な神域に穢れや災いが来ないよう祓う意味がこめられていたと思います。
 
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                                         葱坊主は 擬宝珠の形です
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                                          蓮の蕾だって擬宝珠の形です
 
随分遠回りをしてしまいました。今日は「花の擬宝珠」を話題にしたいのです。
今、民家の庭先やお茶室の路地に咲いています。
水色の花は見るからに涼しげです。
日陰が好きな植物ですから、樹陰を大きな葉っぱが隠してくれます。
鎌倉山之内の浄智寺にも其処此処に咲いています。
 
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                                        こちらは東慶寺の擬宝珠の花 
 
喧騒な居福呂道を右折すると浄智寺の門が見えてきます。
扁額に「宝所在近」と書かれています。
意味は「立派なお坊さんになりなさい」という意味だそうです。
そのまま読めば「宝(宝珠)は身近な所に在るのだよ」そんな事でしょう。
“大切な宝を探して遠くまで歩き回らなくても、時間を要しないでも、今貴方の身近に宝があります”と読むと、納得も出来ます。
 
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                         浄智寺の門、扁額に「宝所在近」と書かれています
 
 
門の手前に「甘露の井」があります。
井戸に落ちないように竹のスノコで蓋がしてあります。その下が池です。
小さくても「心字の形」をしています。
池の縊れた部分に太鼓橋がかかっています。
沢山の人が渡ったのでもう磨り減っています。今は渡らないようにしています。
池の端に擬宝珠が咲いています。
擬宝珠は花が開く前の形でしょう。
蕾が膨らんだ時の姿が宝珠の形です。
茎の下から先端に向けて順次に花が咲いてゆきます。
それは橋の擬宝珠を遠くから眺めたように見えます。
さながら遠近法で見た感じです。
もう、日照りが続いています。擬宝珠も水が恋しくて池の方にうな垂れています。
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                 門下の心字池にかかった太鼓橋、その畔に咲いた 擬宝珠の花
 
擬宝珠の花を眺めていると、踏み切りのほうから日傘が二つ登ってきました。
日傘が傾いて、蝉時雨に気づいて樹林を見上げています。
お一人は着物でお一人は洋服です。
きっとお寺さんにお墓参りなのでしょう。
仏花をお持ちです。
こんなに美しいご婦人の墓参を受けたら、さぞかし故人は嬉しい事でしょう。
 
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       手前のスノコの下が「鎌倉10井戸の甘露の井」。花は雪ノ下です。
 
私に軽く会釈して戴きました。
「お暑いですね・・・」聞こえたような気がしました。
「私に・・・」は私の自意識過剰で、ご夫人は擬宝珠の花に言われたのかも知れません。
 
 
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明日の朝、「なでしこジャパン」の健闘を祈って。なでしこの花を
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源平の蓮花合戦はノーサイド

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京都の御所の位置に鎌倉では鶴岡八幡宮が祀られています。
鎌倉幕府の政所(行政府)は八幡宮の東奥にあります。
源頼朝は幕府造営に際して、京都の岩清水八幡宮を勧請、八幡宮を核に街作りをしました。
八幡宮は武士の魂、その神前で征夷大将軍の拝賀式を始め主要な行事を執り行いました。
武士の政は態々京都の御所に行かなくても鎌倉で執り行う、強い意志の現われでした。
二代頼家、三代実朝の叙位任官も総て八幡宮の神前で執り行われました。
今NHKの大河ドラマでは関白の授与式など大きな政務は京都御所で執り行われています。
ところが、鎌倉では八幡宮の神前で執行する事により、
わざわざ京都まで出かけてゆく必要はありませんでした。
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                     鎌倉の町は鶴岡八幡宮を核に作られています。
 
鎌倉幕府の開府に際して、鶴岡八幡宮を由比ガ浜(元八幡)から現在の位置に移します。
さらに、三の鳥居を潜った先に心字の池を造営しました。
その縊れた位置に太鼓橋を渡し、真直ぐ先が八幡宮の社殿とし、
西側の池を平家池とし、東の池を源氏池にしました。
平家池には4つの小島を浮かべ、源氏池には三つの小島を浮かべました。
そして源氏の隆盛を願って源氏池のひとつに「旗挙げ弁才天」を奉りました。(出典:吾妻鏡)
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                    源氏池には旗上弁才天が祀られています
 
造営当初は池には白蓮が植えられましたが、
江戸時代に平家池には平家の旗頭にちなんで「紅蓮」が植えられました。
ですから、太鼓橋を挟んで、西の平家池には赤い蓮が咲き、
東の源氏池には白い花が咲いていました。
江戸の人達が鎌倉江ノ島を詣でる事は大きな楽しみでした。
紅白の蓮はそんな楽しみに、もうひとつ名物を上乗せするようなものでした。
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                         (丹塗りの橋は旗上弁才天の神橋です)
 
50年以上も前、八幡宮の源平池は随分荒れていました。
葦が密生していて、蓮池というより、寂れていました。
子供達は池の周囲を巡って遊んでいました。
太鼓橋を滑り台にして遊びました。
池の周りで鬼ごっこをしたり、海老釣りをしました。
年々池の周囲は整備され、平家池には美術館が、源氏池には牡丹苑が出来ました。
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埋まっていた池は掘り起こされて、蓮が改めて植えられました。
源平池は年々整備されました。
蓮は自生し、繁茂して赤い平家の蓮は源氏池に侵入しました。
一方白い源氏の蓮は平家池を占拠してしまいました。
もう、今ではどちらが平家か源氏か判らない状態です。
まさしく、源平ノーサイド状態です。
 
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                    源氏池には平家の赤い蓮が進出してきています
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                 平家池は源氏の白い旗頭、白い蓮が占拠した状態です
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                         生き物が一杯の源平池です
 
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どっこい、「なでしこ」は健在です。

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今頃「なでしこジャパン」のメンバーは飛行機の椅子で熟睡している事でしょう。
本当にお疲れ様でした。
もう「死語」と思われていた「大和撫子」を、
改めて「その通り今も健在!」納得させてくれました。
大和男子が「北島 康介」なら大和撫子は「澤キャプテン以下のなでしこジャパン」でしょう。
ネールアートを見せられると、「可愛いし芯が強い」と思います。
 
撫子の美しさは万葉集にも古今集にも多く歌われています。
古代和歌の過半は相聞歌(恋愛歌)で、恋情を花に託しました。
撫子には「私は貴方の黒髪を優しく撫でたいのです」・・・・、そんな思いも託だれていたのでしょう。
 
  久方の 雨は降りしく 撫子が
      いや初花に 恋しきわが背        大伴家持 万葉集
 
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今日の話題は「大和撫子」に喩えられる「川原撫子」の花。藪の中で精一杯花をつけています。
 
撫子の花について 清少納言も褒め上げています。
  唐の(撫子)はさらなり、大和の(撫子)もいとめでたし。  (枕草子)
 
唐撫子とは「石竹」の事、一方大和撫子とは「かわら撫子」のことです。
清少納言の「めでたし」が発せられたのですから、川原撫子は最高級の賛辞が寄せられました。 
「かわら撫子」は川原によく咲いているからでしょう。
川原の小石交じりの痩せ地や道路脇によく見かけます。
どちらも植物が生育するのは困難な場所です。
背丈も精々50センチ程度しか伸長しません。
精一杯背伸びして、他の雑草の上にピンクの花を咲かせます。
花弁の先が切れ切れです。
その、精一杯さが健気です。
 
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「大和撫子」を誰が言い出したのか日本女性の理想のように言うようになりました。
一般には「清楚で貞淑で凛として慎ましやかで、一歩引いて男性を立てる女性」の意味でしょう。
古代の「防人の妻」に期待されたのか・・・・、明治以降の「軍人の妻」に期待されたのか・・・・・、
私には判りません。
 
でも、戦後の日本女性を揶揄する言葉のように使われてきました。
こんな批難をする人多かったことでしょう。
「日本女性は大和撫子と呼ばれて来たのに、今では女性は大変身してしまい、
慎ましやかでは無くなってしまった。」。
 
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                      こちらは「磯撫子」、石竹(唐撫子)に似ています
 
しかし、撫子の花は川原撫子も磯撫子も逆境の土地に逞しく生き抜くものなのです。
「箱入り娘」のような園芸植物ではなく、里山や漁師町で日焼けして逞しく生き抜く少女なのでした。
「撫子のような女性」はどんな逆境にも負けずに花を咲かせる、
それも、清楚で可憐な花・・・・・、山野草の意味なのです。
今回の撫子ジャパンの戦いぶりはまさしく「撫子」の生き様でありました。
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                             三浦半島佐島の磯辺に咲いている磯撫子の花
 
太平洋戦争の最中、米国の文化人類学者は「日本人や日本文化の研究」に没頭しました。
何故「東洋の小国が世界を敵に回す戦争の当事者のなったのか」、不思議でした。
「アメリカ合衆国」と日本人の目指した「満州国」とは何処が違うのだろうか・・・・?
そんな疑問もあったでしょう。
喫緊は「戦後の日本の統治に際し、日本人や日本文化を理解する」基礎的研究でした。
ルース・ベネディクトは「菊と刀」を著し日本文化の二面性を指摘しました。
菊は天皇家の紋章で平時の平和な姿でした。
刀は武士の魂、神風(台風)でした。
日本人(日本文化)は平時は菊の花の姿であるが、逆境に陥ると民族のエネルギーを爆発させ、「刀を抜く」・・・・、説きました。
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                                   台風が近づいて荒れる三浦の磯辺
 
ベネディクトは天国で言って居る事でしょう。
「菊と刀」の文化はやっぱり間違っていなかった。
でも「撫子と野分」の方が良かったかも・・・・。
 
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   撫子と並ぶ「秋の七草」桔梗の花。日本女性は花にたとられ、花の名が多くついてきました。それは日   本社会が 長い間「妻問い婚/男性が女性の家を往訪して求婚する」であったからだと思います。
 
昔から世界の男性の理想は言われてきました。
「アメリカ人の家に住み、中国人のコックを雇い、日本女性を妻にする」
それほど日本女性のしとやかさ、奥ゆかしさ、芯の強さ等の数え切れない賞賛を得てきました。
撫子ジャパンの活躍は再認識されたことでしょう。
「私の理想はアメリカ人の家に住んで日本女性を妻にする、事だ」
「コックは要らないのか?」質問が出れば・・・・、
「日本料理は妻が得意だから・・・・」答える事でしょう。
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 これも「撫子」 横浜三渓園の臥竜梅の根元に咲いています。
 撫子はカーネーションの仲間、カーネーションが母親なら、撫子は少女(処女)でしょう。
 
 
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名画「鬼百合に揚羽蝶」(熊谷守一賛辞)

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「死ぬまで生きていたい」とは誰もが口にします。
画仙人と呼ばれた熊谷守一は「欲しい物は何ですか?」尋ねられました。
「欲しい物は・・・しいて言えば“いのち”でしょうか。もっと生きたい、皆さんにさよならするのはまだまだご免こうむりたい」
もっと生きて自邸の15坪の庭で写生をしたかったのでしょう。
そんな熊谷は昭和52年(1977)8月1日に亡くなります。
享年は97歳、「揚羽蝶」が絶筆でした。
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          私達日本人は「鬼百合と揚羽蝶」のリトグラフを買っています。
          何時か実物(油絵)を見てみたいものです。
 
熊井守一の代表作と言えば「鬼百合に揚羽蝶」でしょう。
膨大な数のリトグラスが印刷され、出回っています。
原作は油絵でパリの美術館に収まっています。
私達はリトグラスの版権を買って複製画を鑑賞しています。
 
20世紀前半、世界の絵画はフォーヴィスムが席巻します。
代表作家はアンリ・マチス、作風は画家の感覚が重視され、目に映る色彩よりも心に映る色彩や形が重視されました。
19世紀末に見られた陰鬱な作風とは対照的な
「明るく伸び伸びした画面」が人々の心を奪いました。
そんなパリの美術商が熊谷守一を評価したのでしょう。
 
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        炎天下で逞しく咲く「鬼百合」、鬼百合は「姫百合」と相対の花でしょう。
 
 
私が社会人になった頃、日経新聞社が「下手も絵のうち」を出版し、
熊谷守一の展示会を主催しました。
誰しも「熊谷守一が自分は絵が下手だ」自認しているとは思っていません。
同著を読めば熊谷が同期の青木繁より絵が上手であったことがわかります。
貧乏で画材も満足に買えなかった青木が熊谷の絵の具を無断で借用していた事など、
興味深く読む事が出来ます。
 
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       光明寺の記主庭園(蓮池)の淵に咲く鬼百合の花
 
二科の若手作家に「どうしたら好い絵が描けますか?」熊谷が訊かれました。
その時熊谷は答えたそうです。
「自分を生かす自然な絵を描きなさい。
下品な人は下品な絵を、馬鹿な人は馬鹿な絵を、下手な人は下手な絵を描きなさい」
この言葉を日経新聞社が「著書の表題」にしました。
「著書を売ろうとする姿勢」が誤った情報を流しました。
熊谷の絵が「下手」ではありません。
上手の極みにあった「下手」なのでしょう。
 
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青面金剛像(庚申塔)の足下に蹲る「鬼」、これは地獄の獄卒の姿でしょう。
 
熊谷守一の生家は木曾街道の中津川から飛騨に向かった道筋に在りました。(現熊谷守一美術館)
「付知峡」と呼ばれる渓谷と美しい里山がそれでした。
父は熊谷孫六郎(衆議院議員、初代岐阜市市長)の三男として生まれ、
慶応義塾普通部に進学します。裕福な家庭の御坊ちゃまでした。
東京美術学校では早くから文展に入選し、将来を嘱望されました。
しかし、生活の為に「絵を描こう」とする姿勢が全く見られませんでした。
結婚して、5人の子に恵まれますが、進んで絵を描こうとしません。
生活苦で、奥様にも泣かれたそうです。
「せめて描いてくれれば、私がどうにかします・・・」
でも、熊谷は絵筆を執りません。
「何を描くべきか・・・」確信が持てなかったのでしょう。
寡作のまま無為に時間が過ぎてしまいます。
 
昭和23年、67歳の熊谷守一を悲しみが襲います。長女の萬が亡くなりました。
家族三人で焼き場に行きます。
お骨を抱いて焼き場から戻ります。
真っ青な青空、遠くの赤松の林からは蝉時雨が聞こえます。
家族の顔には目も鼻も口も描かれていません。
しかし、画面からは尊い命を失った悲しみに満ちています。
 
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       熊谷守一の転機になった「焼き場の帰り」
 
「焼き場の帰り」以降熊谷守一は自宅に閉じこもります。
現在の熊谷守一美術館(在池袋)が其処です。
15坪の庭に朝から晩まで閉じこもって、昆虫や花を観察します。
正岡子規がの庭を見詰めて、優れた短歌「病床六尺」を作ったように、
熊谷も庭に居て「生き物」を観察します。
 
盛夏になれば鬼百合が咲いたのでしょう。
鬼百合の色彩や芳香に誘われて沢山の昆虫が群れてきます。
最も大きな昆虫が「黒揚羽蝶」でした。
鬼百合と揚羽蝶の動きを観察します。熊谷の心に映った「真夏の景色」が描かれました。
 
それは「萬」の命を野辺に送った時、確信しました。
これから生物を見詰めながら、「生を描く・死を描く」事にしよう、確信したと思われます。
鬼百合は「鬼のように生命力に満ちた百合、強い百合」の意味でしょう。
真夏の炎天下でも次々に花を咲かせます。
そして、濃厚な甘い花蜜を出して昆虫を誘います。
一方、黒揚羽蝶は花蜜を吸って子孫を育みます。
その行為で鬼百合は受粉して子孫を増やします。
鬼百合も揚羽蝶も子孫を伝える為に共生しています。
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                    ノウゼン蔓に寄って来た紋黄揚羽蝶
 
黒揚羽蝶は「死者の魂」と信じられてきました。(小泉八雲「怪談」)
それは黒揚羽蝶の生態が起因しています。
夏の盛りに飛び回って、何時しか姿が無くなって、春になると突然に出現する・・・、
その驚きが「生と死が輪になっている」確信させました。
死んだら魂は蝶に移って空中を舞い、また何時しか再生してくる、確信しました。
 
蝶を死者の魂だと考えるのは日本だけではなく、ギリシャ時代から信じられていました。
美女プシュケーは愛の神エロスと結婚して、蝶に化身したと伝えられています。
キリスト教の「復活」もこうした伝統的な考えをベースにしていると思います。
 
ですから、熊谷守一の「鬼百合と揚羽蝶」は東洋の画仙人の奇抜な絵画である、として購入されたのではなく「生と死を表した絵画」、「東洋のマチス」として求められたのでした。
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                               交尾中の揚羽蝶
 
今では、私の家の庭には鬼百合はありません。
でも、町に出れば其処此処に咲いています。
鎌倉では光明寺の庭園(小堀遠州作、記主庭園)にも咲いています。
私は鬼百合を見ると揚羽蝶が飛んでこないかな・・・・・、待っています。
じっと、長い間待っています。
きっと熊谷守一は何時間でも待っていられたんだろうな・・・、思います。
凡人の私は待ちきれずに鬼百合を後にしました。
 
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     今週末、光明寺では「観蓮会」が行われます。蓮も鬼百合も盛りを越したかな?
 
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ミゾ萩の”歳時記”

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今日は土用の丑の日、昨日(20日)が土用の入りでした。
18日後の8月7日には立秋になります。
立秋は「暑さの極み」、その後は少しずつ秋めいてくるのでしょう。
 
其処此処に「ミゾ萩」が目立つようになってきました。
今日はこの季節感豊かな花を紹介します。
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    今日の話題はミゾ萩の花、盆には精霊花として欠かせない花です。(鎌倉大町上行寺にて)
 
私の生家は曹洞宗の寺院でした。
旧暦で「お盆」の行事をしていました。
何時もの仏事は本堂のご本尊に向けて行いますが、お盆の時は違います。
ご本尊の反対側に精霊棚(施餓鬼棚)を設えて、「餓鬼道衆生之霊」と書かれた位牌を中央に置きました。ですから、餓鬼道に落ちている祖霊に向けて供養する行事なのでした。
祖霊を迎えるために精霊棚の四方に青竹を立てます。
そして五色の短冊(施餓鬼幡とか五輪幡と呼ばれます)を吊るします。
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 施餓鬼棚の飾りつけ。神社の精霊棚と違いません。
 どちらかと言えば神社の精霊棚を真似たのでしょう。(鎌倉玉縄の龍宝寺で)
 
祖霊をお迎えして、おもてなしをするために、農産物を並べます。
そして、蓮の葉っぱの上に浄飯(炊いたご飯)を盛り上げます。
更に浄飯の横に水向けを用意します。
水向けとは水盤に浄水を満たし、その脇に「ミソハギ」の花を添えたものです。
導師(施餓鬼法要をリードするお坊さん)はやおら「ミゾ萩」の花を水に浸して精霊棚を払います。
浄水が散ります。
祖霊は浄水で乾いた喉を潤すのです。
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             鶴岡八幡宮の七夕の精霊棚。山海の産物と織物、水が並べられています。
 
ミゾ萩の名は「溝に生える萩に似た花」の意味なのでしょう。
沼地や小川の湿地に好んで生えます。
勿論寺院では施餓鬼に欠かせない精霊花ですから、庭や池の畔に自生させています。
時に「ミソ萩」とも言われます。
(みそぎ)に使う萩に似た花、の意味でしょう。
また「水懸け草」とも呼ばれます。この花を使って餓鬼に水を懸けるからでしょう。
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                                  ミゾ萩の花、もう姫蒲の穂が立っています
 
紅紫色で6弁の小さな小花を咲かせます。それも稲穂のような形に咲かせます。
若しかしたら、古代米(赤米)に似ているから、精霊花になったのかもしれません。
 
みそ萩や水につければ風の吹く   (一茶)
 妻の新盆に手向けた句と聞きます。
妻を失った悲しみと、秋風がしみじみとした思いにさせてくれます。
 
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                              ミゾ萩に止まった塩辛トンボ
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                                          ミゾ萩を背に赤トンボ

ミゾ萩には沢山の昆虫が集まります。
赤トンボはよく似合います。
蛇の目蝶が止まっていました。
沢山の甲虫(ハナムグリ?)が集っていました。
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蛇の目蝶
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この甲虫は花ムグリ?
 
そして、ミゾ萩の根元に奇妙な模様がありました。
まるで、おたまじゃくしの卵のようでした。
 
私はピンと来ました。
これはシマヘビの抜け殻でしょう。
この湿地がシマヘビの住処で、数日前に脱皮したのでしょう。
抜け殻が風に吹かれて水辺から水面に落ちて、更に広がりました。
広がっても抜け殻は繋がっています。
そして、水面一面に広がったのでしょう。
 
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    ミゾ萩の花陰に広がっている縞模様は「シマヘビ」の抜け殻?
 
シマヘビは時に真っ白い蛇を生みます。
お稲荷様のお使いとも言われます。
抜け殻をお財布に仕舞っておくと金運が授かると言われていました。
ならば・・・、拝んだだけでも福運を授かるかもしれません。
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         シマヘビ
 
ミゾ萩の自生地は沢山の生命が育まれています。
精霊が集まるスポットなのでしょう。
 
 
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お大師様の「達磨屋」さん

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東京で「お大師様」と言ったら、何処を思い浮かべるでしょうか?
弘法大師の開いた真言宗のお寺は「護国寺」「高野山別院」など数多くあります。
でも、「お大師さま」と呼べるのは「川崎大師、平間寺」でしょう。
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   川崎大師 の裏手、正面が「不動門」、左が八角五重塔(昭和59年)。
   風鈴市の屋台が並んでいました。
 
江戸の町人は江ノ島や大山に旅をするのを楽しみにしていました。
品川を発って、東海道を下れば多摩川の渡りに出ます。
「渡し舟」に乗り合いすれば、旅に出た感慨も深かった事でしょう。
多摩川の西岸には「川崎大師平間寺」があります。
旅に出られた喜びを感謝し、道中の安全をお大師様に祈願した事でしょう。
江戸名所図会や東海道53次で木版プリントした浮世絵は「川崎大師への渡し」でありました。
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        安藤広重「川崎図」多摩川を渡れば川崎大師でした。
 
平安時代末期、平間兼乗(ひらまかねのり)と言う名の武士が諸国流浪します。
ようやく多摩川の河口部(川崎)に住み、漁労をなりわいにします。
兼乗は深く仏法に帰依し、弘法大師を崇敬していました。
その兼乗の枕夢に弘法大師が現れます。
「大師が唐に居た自刻像を刻んだ。そして海に流した。ところが未だ日本で見出されていない。お前が海に網を引き、像を見つけて供養するように・・・・」
兼乗は夢で見た通りに仏像を拾い上げ、草庵に奉じ供養をします。
これが平間寺、川崎大師の始まりでした。
 
 江戸の東に浅草寺(天台宗)、西に下れば川崎大師(真言宗)、
古刹が庶民の崇敬を集めたのでした。
 
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                                  川崎大師の本堂

 
私が長銀に勤めていた頃でした。
大所帯の部でしたから結婚式は度々ありました。
男性の場合は仲人を仰せつかりました、女性の場合は主賓を勤めることが多かったのでした。
女性の場合、職場結婚や同じサラリーマンに嫁ぐ事が多かったのですが、
或る女性の場合一寸違いました。
「私、川崎大師の山門前の達磨屋さんに嫁ぎます」
私は嬉しかったのですが、羨ましくも思いました。
大師様のお膝元に棲んで、達磨様を案内出来るなんて・・・、すばらしい嫁入り先です。
 
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  京浜急行川崎大師駅から続く門前の町並み。閑散としています。
  左手「かどや開運堂」さんが私の探したお店でした。 
 
職場に居た頃には川崎大師を詣でる事もありませんでした。
退職すると、時間も出来ました。
所要もあったので、川崎大師に寄ってみました。
真夏の昼下がりです。参道には人影も在りません。
屋台も用意こそされていますが、日が暮れないと開かないようです。
今は風鈴市が立って、日本中の風鈴が並びます。
 
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         葛餅と書かずに「久寿餅」と書きます。川崎大師の名物です。人影がありません。
 
川崎大師の名物は「厄除け飴」と「クズモチ/久寿餅」です。
お土産に住吉屋総本店に立ち寄ります。
山門のまん前にある大店ですが、流石にお客も居ません。
震災の影響もあるでしょう。寂しい思いがします。
 
私は、達磨屋さんを探します。
もう、名前も忘れていますから、達磨屋さんの店先で、女将さんの顔を見て回ります。
変なお客さんです。
 
でも、じきに目指すお店が見つかりました。
住吉屋総本店のお隣「かどや(角屋)開運堂」が探したお店でした。
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     かどや開運堂の店先。
 
目が会うと「まあ、部長さんお久しぶりです・・・・、」
懐かしい表情が戻ってきました。
「大師様も夏は静かですね・・・・」言えば、
「私達はお正月だけで持っているようなものですから・・・、今はお店を開けているだけですよ。」
てきぱきとした働きぶりは変りません。
商店に嫁いで、まぶしい女将さんになっていました。
 
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                       達磨屋さんは沢山並んでいます
 
本堂から、久々に裏手に回ってみます。
墓地の入り口に「奪衣婆」が祭られています。
石像ですがお顔を撫でられて黒光りしています。
朝晩詣でる人が多いのでしょう。新盆に入って入るからでもありましょう。
朦朦と煙る線香の先に怖い顔が見えました。
 
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   人に撫でられて黒光りしている奪衣婆。唇に朱が残っていました。
 
奪衣婆の横から墓地が始まります。
其処には無縁仏が並んでいます。
川崎大師周辺の路傍にあった石仏が此処に疎開してきたのでしょう。
そんな中に、青面金剛(庚申塔)がありました。
此処はお寺さんですが、まあいいのでしょう。
神も仏も広く迎え入れてくださるのでしょう。
でも、いずれの石仏も真っ黒です。
排気ガスを被っているのです。
 
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                 排気ガスで煤けた無縁仏、右端は青面金剛像。
 
幾ら洗っても排気ガスの煤は除けなかったのでしょう。
高度成長時代の排気ガスはひどかったものです。
この黒い石仏もその被害者なのでしょう。
 
先刻食べたセメント通り(川崎のコリアタウン)の韓国ラーメンが未だ腹にもたれています。
そういえば、あのあたりも「浅野セメント(現日本セメント)」がありました。
川崎も随分変ってきました。
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    川崎は職・住・食揃った大都市でしたが、急速に変ってきているようです。
 
 
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東俣野の八坂神社(祇園祭りの伝統)

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昔の鎌倉郡(鎌倉市の周辺部)で最も多い神社は八幡宮でしょう。
八幡宮は宇佐八幡に始まる産土神、おそらく全国各地で最も多いのではないでしょうか。
鎌倉らしい神社は鯖神社(左馬神社)、境川流域に12社を数えます。
鯖神社は源義朝(頼朝の父)が祀られたもの、
義朝が左馬頭(さまのかみ)だった為「左馬」から「鯖」になった、と言われています。
もうひとつが御霊神社、もとは関東にあった平氏五家の始祖(鎌倉氏、梶原氏など)を合わせて祀ったものでした。
鎌倉権五郎景政だけが祀られるようになり、御霊神社と呼ばれるようになったと聞きます。
こちらも12社を数えます。
 
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            桃山時代の祇園祭「山鉾巡行」(洛中洛外図)
 
次に多い神社は八坂神社でしょう。
京都の八坂神社(祇園神社)が東海道に沿って、商工業者とともにひろがってきたものでしょう。
毎年7月14日、戸塚では「お天王様」が催され賑わいました。
先週7月17日にはNHKテレビで「祇園祭山鉾巡行」が実況中継されました。
 
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  戸塚八坂神社の「天王祭」のお札まき風景。
  牛頭天王(薬師如来の本地神)の霊力で病気(ポックリ病)の退散を祈願します。
 
平安時代末期、貞観の大地震が東北を襲います。
TVでは「都では復興を祈願して祇園祭が始まった」報道されていました。
読売新聞の社説も同様な認識に基づいて書かれていました。
『情報の遅い平安時代でも、復興に向けて心を砕きました。
1000年後の現在同じ規模の大地震が東北を襲いました。
歴史を学び「対策」を考える事、力をあわせて復興に向ける事・・・、それが大事です。』
そんな、主張でした。
 
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   一遍聖絵に見る加茂川4条通り、左端の鳥居の先は八坂神社。4条大橋の下では馬の手入れをし   ている者がいて、掘っ立て小屋を建てて棲んでいるものがいて、野菜を栽培している者がいます。
   八坂神社が川原を管理した事から、同神社で祇園祭が盛んになります。
 
マスコミのこうした主張に反対する訳ではありませんが、
歴史的事実やその認識は少し違うような気がします。
結論から先に言いますと、「祇園祭は貞観大地震の復興祭でも、為政者が行った祭り」ではなく、
「加茂川の川原に集まった人達の“ハレの祭り”だった」のです。
あの祭りのエネルギーは朝廷では考えがたく、民衆のパワーを感じます。
民衆の祭りが、偶々貞観の大地震に遭遇しただけでした。
 
平安時代後半になると疫病が流行ります。
朝廷では863年(貞観5年)牛頭天王を祭り御霊会(ごりょうえ)を行います。
更に66本の矛(塔婆のようなもの?)を立て、矛に悪霊を宿らせ、穢れを祓います。
穢れを加茂川に流します。
これが現在の山矛巡幸の起こりと言われています。
 
一方、様々な人が京都の町に流れてきます。
また、京都の中からも様々な立場の人が溢れてきます。
その町の略中央に加茂川が流れていて、広い川原がありました。
川原に溢れ出た人々や地方上がりの人達が住み着きました。
川原には水に流される危険がありました。
川原は無税でしたから、様々な人達が集まってきて、生業を持ちました。
牛馬の解体が行われ、死者の弔いも、見世物小屋も、娼婦も現れました。
市が立ち、様々な聖も布教をしていました。
最も目立ったのは一遍上人でした。
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   加茂川の川原は処刑場でもありました。加茂川の対岸での処刑を見守る人達(法然上人絵詞から)
 
川原が賑わいだすと、その管理を八坂神社に任されるようになりました。
川原者が力を持つにつれ、彼らが祇園の祭りの推進者になります。
山鉾の意匠や「からくり」は彼らのアイディアでした。
川原者が一躍歴史文化の前面に登場するのは桃山時代・江戸時代です。
川原者は「町衆」になり、町衆の文化を盛り立てます。
山鉾もこの頃には現在の形になっていました。(洛中洛外図)
 
東海道に沿って商工業が盛んになると、八坂神社は関東に広がってきます。
鎌倉郡にも数多く建立されました。
境川の東岸には鎌倉道(西道、又は下道とも呼ばれます)が走っています。
この道筋にも複数の八坂神社があります。
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東俣野の八坂神社もその一つです。
東俣野公園に隣接して小さな社が祭られています。
周りは美しい竹林で、西側には富士山が見えます。
風光明媚なロケーションですから、住友財閥が別荘を建立しました。
5年ほど前でしょうか、国の重要文化財に指定され、横浜市に所有管理が移されました。
ところがその途端に消失してしまいます。
大磯の吉田茂邸も消失してしまいましたので、私達地元では放火ではないかと心配しています。
その、住友別邸から10分ほど河岸段丘を横に移動した場所です。
 
眼下には境川が流れています。
東俣野は照手姫(小栗判官物語のヒロイン)の誕生地であり、
遊行寺の開基「俣野五郎景平」の治めた土地でした。
 
八坂神社、祇園、一遍上人、遊行寺などは共通しています。
支えた人達は川原者なのでした。幅広くは川原でかぶく者、商工業者であり、芸人でした。
朝廷や為政者から見れば最も遠い場所に位置する人達でした。
鎌倉時代の「天狗草子」には「加茂川の川原には最近「穢多/エタ(差別用語)」が出現している。
彼等は動物を解体して・・・・」記述されています。
穢れたもの、汚れたものを処理するから穢多と言う名が宛がわれたのでしょう。
彼らが日本一のお祭りの推進者であったと考えます。
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東俣野の八坂神社の境内には素晴らしい庚申塔が3基、双体道祖神が1基祀られています。
最も古い庚申塔は「南無阿弥陀仏」の名号と1体に神猿、その下に蓮の葉が刻まれています。
延宝3年の作です。
その隣には青面金剛の庚申塔が刻まれています。
更に入り口近くには双体道祖神が1基祀られています。
道祖神の周りには五輪塔などの残欠が転がっています。
この状態は遊行寺野山の裏にも見られます。
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八坂神社の文化が鎌倉郡にも色濃い事が嬉しくもあります。
今年も、京都の祇園祭には行けませんでした。
私は、サラリーマン時代全国各地に転勤しました。
お陰で京都の祭りには再三出かけました。
懐かしい思い出が数多く残されています。
最近は、地方の京都を探しています。
 
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    八坂神社の眼下にある瞽女(ごぜ)が身を投げた淵、向こうの堤防が境川
 
 
更に一言、
貞観の昔から為政者はたいした災害に対して対策は打てませんでした。
災害から立ち直らせたのは、川原者であり町衆でありました。
今回だって、同じ事でしょう。
政府は「民間の復興意欲」を欠かないように、邪魔しないように願いたいものです。
 
 
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蓮は浄土の花です(光明寺浄土蓮想)

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夜明け前を「かわたれ時」と言います。
「彼(か)は誰(たれ)?」と聞く時間でした。
夕方を「たそがれ時」と言います。
「誰(た)彼(かれ)?」と聞いた時間でした。
この時間は「逢魔(おうま)が時」とも言われ、魔や鬼が活躍する漆黒の時間でありました。
闇に対する恐怖感は平安時代には「百鬼夜行」の妖怪を作りあげ、
雨戸を閉め鬼に狙われないように静かにしていました。
 
3月11日の大震災から暫くの間停電になりました。
電灯が灯らない夜、暗闇の対する「怯え」を思い出しました。
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     百鬼夜行図(大徳寺真珠庵)/黄昏と同時に妖怪が出回ると信じられていました。
 
7月23日、24日は鎌倉の光明寺(浄土宗関東総本山)で「浄土蓮想」が開かれました。
私は「たそがれ」と同時にお出かけします。
毎年、楽しみにしていますから・・・・。
浄土とは阿弥陀如来の極楽浄土の事です。
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               黄昏と共に光明寺には灯明に灯がともります。
 
仏教が伝来すると、その「仏国土」に行って迷いの無い平和な時間を過ごしたい・・・、願います。
各々の仏がその「仏の国」をその膝元に作っていますが、
日本人は阿弥陀如来の西方極楽浄土を選択します。
それは、何にもまして日本が「夕焼けが綺麗な国」であること、
夕焼けの後には魔の暗闇が襲うこと・・・、
から夕焼けの彼方にある「阿弥陀様の浄土」に行きたい・・・思ったのでしょう。
安楽が現世では実現できない、思うと「来世には極楽に往生したい」願いました。
 
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     光明寺ご本尊の阿弥陀様の前にも蓮の花(樹木状)が飾られています。
 
人々は平安時代を通して「浄土を観想」しました。
より強く浄土に行きたいと願えば、来世は浄土に往生出来る筈だ・・・、と考えました。
「願う」ことは「より強く、はっきりと浄土をイメージする」ことでした。
光明寺の「浄土蓮想」は「蓮も美しく咲きました、お盆にもなりました。
蓮を眺めながら浄土をイメージしましょう・・・・」そんな集いでありましょう。
 
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   光明寺本堂内陣の境になる欄間には美しい天女、鳳凰、音楽、花・・・などなど浄土を   思わせるデザインで一杯です。
 
夕闇が訪れると浄明寺の境内に灯明がつきます。
灯明の先に阿弥陀様がお待ちです。
私達は灯りに導かれて阿弥陀様のお膝元に向かいます。
声明が流れています。
声明とは音楽のように詠じられる読経のことです。
延暦寺に始まり、円仁により「引声念仏」になります。
更に浄土宗のお経に引き継がれ「浄土教声明」になります。
以来800年も日本人に親しまれたお経の響き(抑揚)ですから、有難味も格別です。
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    右中央のお坊様が導師(緋色の法衣)、左にお稚児さんたち。まず、読経をあげて。
 
お稚児さんの舞いも奉げられます。
目に耳に「極楽浄土」を見せてくれます。
本堂と開山堂の間には蓮池があります。
蓮池の彼方に八角堂(1層は方形)が新築されました。
八角堂の二層は仏殿で阿弥陀様が見上げられます。
阿弥陀様は由比ガ浜から江ノ島、その上の富士山を見ておいでです。
もう、池の蓮の花は暗闇の中に沈もうとしています。
 
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          手前が記主庭園(蓮池)奥に阿弥陀様のお堂。
 
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   二層の窓からは阿弥陀様の光背が覗いています。子供が夕映えの海を眺めています
 
浄土宗の開祖法然上人は美作の国の押領使「漆間時国」の長男として生まれます。
ところが土地紛争により逆恨みされ惨殺されてしまいます。
伝統的な平安貴族の教養と新興勢力武士の気力を兼ね備えていました。
勢至丸(法然の幼名)は、父の遺言(私を殺した者を恨んではならない)に従い仏門に入り、
延暦寺で学びます。
法然上人の文化的深さが、浄土宗の魅力を形作ったと思われます。
それは、「鎌倉新仏教の旗主」であると同時に、平安文化の中世的体現者ともいえます。
日本の浄土教はこの後「浄土観想」から、
只管「南無阿弥陀仏」を唱える「専修念仏」に向けて進みます。
親鸞聖人から一遍上人に続くにつれて、貴族的な文化要素は剥がされて、
新時代を形作る、町衆的なパワーに引き継がれてゆきます。
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    本尊を背にして、施餓鬼棚にお経をあげる導師さんら・・・。浄土蓮想の法事はお盆    の行事(先祖が浄土で往生するよう追善する)の一つなのでしょう。
 
日中は本堂の床下で涼を取っていた猫さんが出てきました。
山門下に集まって、海風を楽しんでいました。
人間は「極楽浄土に往生したいようだが、光明寺こそ浄土だなあ・・・」
野良猫が私に呟いているようです。
 
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                       本堂の床下から出てきて、 山門下に疎開した野良猫
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                             こちらは八幡宮の蓮、池の中に島は「旗上弁才天」
 
 
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浜辺のフラの踊り(立教女学院短大 Hula Girls)

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昨日、鎌倉材木座の光明寺で行われた「浄土蓮想」を書きました。
「阿弥陀浄土に往生したい」と言う、日本人の永遠の夢を見詰めました。
 
ところが、その催しが宵闇の中で始まることから、暫く時間が余ってしまいました。
そこで、材木座の浜辺を見物しに出かけました。
もう、海水浴客は帰宅して人影も疎らな砂浜は何処か寂しげです。
一日の宴の後の静寂が漂っています。
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  夕闇の材木座海岸海水浴場。前方が稲村ガ崎。富士山が中央に見えます。
 
ただ、一箇所賑やかな海の家があります。
バーベキュウが焼かれて若い男性が集まっています。
生ビールが美味しそうです。
 
彼らの視線はフラガールズに注がれています。
砂浜にはブルーのコスチュームを装った一群と、ピンクのコスチュームを着た一群が居ます。
双方合わせて30人は居るでしょう。
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    ビールの看板がある「海の家」。此処だけが賑わっていました。
 
何処かフラガールズにしては上品な感じがします。
若くて、美しさが際立っています。
勿論、私は物好きな叔父さん、フラガールズの魅力で海の家に吸い込まれてしまいました。
 
 
材木座はその名の通り材木商が集って市が開かれたところ、
海水浴場の西側には「和賀江」の跡があります。
港に運ばれた材木によって鎌倉の寺社等が建てられました。
その遺跡も暗闇の中に消えてしまいました。
西の方には稲村ガ崎や江ノ島の島影が眺められます。
富士山もシルエットになっています。
 
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   材木座海水浴場の沖合いにある「和賀江港の遺跡」
 
赤いテールランプが流れてゆきます。
フラガールもそのボーイフレンド等も日中砂浜で遊んだことでしょう。
そのフィナーレがフラのダンスなのでしょう。
 
私にも弾ける様な青春はありましたが、
女性と海水浴場に来た事も、その水着を拝んだ事もありませんでした。
夏休みの前半は黒い衣を着て仏事に集中し、
後半は蓄えたお金で奈良や京都を見て回っていました。
こんな青春を過ごしていたら・・・・、今はどう違っていたのかな?
思ったりします。
でも、人生に「タラ・レバ」は在りません。
だから、その時々、集中して過ごして来ました。
 
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   フラを踊るお嬢様たち、右側には海の家があって、ボーイフレンド達が応援していました。
   勿論、生ビールとバーべキュウが用意されて・・・・。 
 
海の家が挨拶して、今日のフラガールを紹介します。
「彼女達は立教女学院短大のhula girls、年齢は19歳です」
大きな拍手がわき立ちます。
成る程、立教のお嬢さんだったのか・・・・、
道理で、品が良くて、綺麗だな・・・、妙に納得してしまいます。
(なお、彼女達はブログを持っています。是非ご覧ください。
ameblo.jp/welina-hula/entry-10929246549.html )
 
上手なのか、イマイチなのか、私には解りません。
銀行員時代ハワイには再三行きました。
我が国の電鉄会社・不動産会社のゴルフリゾートやホテルの開発を判断する為でした。
その折々に何度もフラを見せていただきました。
宗教的な儀式のフラ(フラ・カヒコ)も、観光のフラの踊りも見せていただきました。
 
でも、目の前のフラはハワイのフラとは随分違います。
先ず目に付くのが、フラガールの肌が白くて眩しいのです。
そして、健康そのものです。
ハワイのフラガールは小麦色です。
フラダンスも日本人の作った用語(常磐ハワイアンセンター)と聞きましたが、
「日本のフラの踊り」です。
 
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腰の振り方、腕や手先の表現に見入ってしまいましたが・・・・、
このお嬢さん方のフラの魅力は先ず品の良さ、彼女達の美しさでしょう。
19歳の魅力は何に増しています。
今晩は私は天女を観想しに光明寺を詣でに来たのでしたが、
もう材木座の砂浜でメロメロです。
歌の文句ですが「若いって素晴らしい」。
立教女学院短大のフラガールにエールをおくります。
”フラの踊りに集中する青春も素晴らしい!”
 
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       白い素肌のフラガールはハワイとは別の文化かもしれません・・・・。
 
 
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海岸通りの「夏の花」

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全国各地に「海岸通り」があります。
神戸にも横浜にもあります。
横浜の海岸通は港に面していますから、「港通り」と言った方が適切かもしれません。
湘南にも「海岸通り」があります。
大磯の「湘南大橋」から、三崎まで国道134号線を一般に海岸通りと呼んでいます。
サザンのサザンビーチから、江ノ島の片瀬浜、七里ガ浜、から由比ガ浜、逗子の浜辺から・・・、
砂浜と岬と荒々しい磯と、交互に現れます。
湘南の明るい景色と、素敵なレストランが点在して・・・・、
一方で様々な歴史を秘めた「海岸通り」です。
様々な楽しみが連なっています。
 
海岸通りには、春夏秋冬、花が絶えません。
沖合いを黒潮が流れて、一年中温暖な事もあるでしょう。
更に、黒潮に乗って様々な花の種子などが流れてきて、発根した事もあるでしょう。
藪椿は種が流れてきて、水仙は球根が流れてきて、自生したと言われます。
彼岸花はまだしも、ハマユウも、カンナも、スカシユリも黒潮が運んだ球根が自生しているのではないか?
思っています。
 
これらの花が一番輝くのが盛夏です。
真っ青な青空、群青の海を背景に原色の花が咲いている風景は生命感に満ちています。
そんな花を紹介します。
 
小動のカンナ
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 義経の「腰越状」で有名な腰越・小動(こゆるぎ)の海岸通りにカンナが自生しています。
 小動神社の社殿が右上に見えます。手前の漁港では「シラス」が上がります。このカンナの右側は江ノ電の線 路です。
 
七里ガ浜のカンナ
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 遠くに見えるのが稲村ガ崎です。小動岬との間が「七里ガ浜」になります。
 江ノ電が海岸沿いを走ります。 車窓にカンナの花が触れているでしょう。
 
長者岬のハイビスカス
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 長者岬から立岩の間も美しい海岸です。でも、このあたりは海が深いのでしょう。遊泳禁止になっています。   民家はハイビスカスが垣根にしていました。最近はレストランの廃業が目立ってきました。また、廃屋も目に付 きます。
 
長者岬のカンナ
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  遠くに見えるのが「長者岬」です。その付け根の高台に「音羽の森/ホテル」があります。
 
立岩のハマユウ
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   海の中の岩が「立岩」です。立岩は景色が良い事もあってレストランやケーキ店が数多く立地しています。    特に「夕焼け」はシルエットの富士山が眺められて人気です。ハマユウが咲きます。
 
芦名のブーゲンビリア
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      芦名には漁港があります。また、浄楽寺には運慶作の仏像が4体もあります。
     民家の庭先にブーゲンビリアの大木があって、長い間花を咲かせています。サルスベリが「百日紅」なら     ブーゲンビリアは「百日紫」です。
 
佐島のハマユウ
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 海岸通りが横須賀市に入ると佐島があります。佐島の天神島にはハマユウが咲きます。此処が北限と言 わ れていました。吉野秀雄の歌碑があります。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45295031.html
 
佐島漁港のブーゲンビリア
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 佐島の天神様の入り口にレストラン「ハマユウ」があります。その庭先にブーゲンビリアが咲きます。
 佐島は漁港ですが、最近は釣り船以上に立派なヨットが係留されて、マリンスポーツの基地でもあります。
 
 
佐島漁港の瑠璃まつり
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   遠くに見える建物が佐島の魚市場です。昔ながらの漁師の垣根に洒落な「瑠璃まつり」が咲いていました。
 
 
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 京浜急行が佐島の海を見下ろす高台に「佐島渚の丘」という住宅地を開発しました。
 その入り口にはクルーザーが置かれていました。真っ白い夾竹桃が新鮮でした。
 
 
 
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鎌倉の町にお似合い「丸型ポスト」

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私の住む横浜の町には丸型ポストは滅多に見ませんが、お隣の鎌倉の町には沢山あります。
丸型ポストをはじめポストの歴史は逓信博物館のホームページに詳しく書かれています。
 
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   今日の話題は赤い丸型ポスト、地方の高齢者にとっては「心と血を伝える」存在です。
   町に似合ったデザインです。(由比町で)
 
明治4年郵便制度がスタートして、最初は四角く黒い「書状集箱」が街角に立てられました。
江戸幕府の「高札」を思わすデザインでした。
この「お上の用意した書状の集積箱」は真っ黒い四角い箱でした。
それが、優しい丸い形になって、赤く塗られたのは明治34年の事でした。
前記の逓信博物館はこのデザインは発明家「俵谷高七氏」が考案したと書いています。
私は俄然このデザイナーに興味が湧きました。
逓信博物館は「明治の発明家」と書いています。
俵谷高七氏については富士通が日本人のオリジナルティーの代表例として、紹介しています。
sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits
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                        富士通HPから転載
 
同ホームページを参考にして俵谷高七を私なりに案内してみます。
江戸時代末期(安政元年1854年、島根の浜田町(現浜田市)の谷岩次の3男として生まれます。
小さいときから手先が器用でした。義兄の指物師(毛利藩指定)に弟子入りします。
長い封建時時代が終えて新しい時代の空気が流れていました。
江戸時代に蓄えられた木工技術、とりわけからくり技術の伝統がありました。
其処に西洋の産業革命を支えた近代技術が我が国に一気に流入しました。
「和魂洋才」を標榜した時代、地方の指物師にも発明への関心が高まり、近代化に向けて熱気が盛り上がっていました。
明治17年、高七は浜田の町から赤間関(現下関市)に飛び出します。
そして、指物師として生計をたてる一方、地元の赤間関郵便電信局で、室内用の簡単な運搬機械や、銀貨や銅貨を包む器具などを作って重宝がられていました。
指物師の傍ら発明の道に没入していました。
明治18年「「専売特許条例」」が交付されると、高七の発明への情熱は一層燃え上がります。
明治21年「タバコの自動販売機」を発明し、特許申請します。
そして特許として認可されます。(特許10年) 
この装置は硬貨の重さで真贋を判別するもので「からくり」の延長にある仕掛けでありました。
次に取り組んだのが新案の郵便箱、「赤くて丸型の郵便ポスト」でありました。
これは明治36(1903)年に大阪で開かれた勧業博覧会に展示されました。
 
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                                      鎌倉小坂郵便局前の郵便ポスト。
 
明治天皇の前で「投函から取り出しまでの実演」をします。
私達が今なお「丸型ポスト」の斬新なデザインに愛着を持っています。
明治天皇をはじめ多くの人が「これは良い!」思った事は容易に想像出来ます。
早速に逓信省から郵便ポスト110個の注文が入ります。得意満面の時代でした。
ところが、台湾総督府からも注文が入ります。
郵便ポスト100個と思い込み、借金をして100個のポストを製作します。
ところが実際は10個の誤りでした。
加えて台湾に送った郵便ポスト(鋳物)は割れていて受け取りを拒否されてしまいます。
高七は借金を支払うために家屋敷を売却します。
 
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                  鎌倉大町長勝寺前の郵便ポスト、ブロック塀にポストが嵌りこんでいます。
大正元(1912)、高七は57歳で亡くなります。彼の発明品はその努力の結晶も実際に使われる事は少なかったのでした。その遺言は一言「発明するな!」でした。お孫さんは「一生を発明にかけて財を失えば世間では発明狂と言って嘲るでしょう。祖父もその一人でしたが・・・」と言っているそうです。
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 葉山近代美術館前の郵便ポスト。葦(よしず)を立てたアイスキャンディー屋さんの店先です。因みにこの キャンディー屋さんは「新潟から昔懐かしいキャンディー」を仕入れて人気でしたが、最近店仕舞してしま いました。残念です。横の路地を山に登ってゆくと「山口蓬春記念館」があります。
俵谷高七の発明品は、先の「タバコの自販機」「丸型ポスト」に続いて「俵谷式自転機」「乗車券自動販売機」「葉書の自販機」等があります。      
自転機とは「富くじや辻占(つじうら)、籤(くじ)をポトリと落とす抽選機」です。                  現在も歳末大売出しの抽籤や御神籤の販売に利用されています。
死期の際しては発明家の一生に悔いは残ったのでしょうが・・・、発明品は今も残っています。
それにしても、丸型ポストは現在の四角いポストに比べてデザインが優位に在る事は一目瞭然です。
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  鎌倉大塔宮横の郵便ポスト。手前にバス停があってこの緑陰でバス待ちしています。左に行けば覚園   寺、右に行けば瑞泉寺になります。
鎌倉市民は丸型ポストが町に相応しい優しいデザインだから今も使っているのでしょう。           でも、郵便会社の案内では「四角ポストの方が集配が合理的だから」丸型を廃していると案内しています。ポストの中に大きな袋が吊るされていて、袋を集配すれば良いのだそうです。                丸型ポストでは袋が吊るせないそうです。                                    「本当かどうか?」は解りません。  
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 鎌倉大町、蛭子神社前の郵便ポスト。酒屋さんとよく似合っています。左に日蓮上人辻説法があります。                                        
唯明白なのは、鋳物(丸型ポスト)は重たいし、一度に数多くは製造出来ないし、・・・要するにコスト高なのです。                                                          だから四角くしたのでしょう。                                             でも、明治以降100年以上も使われて、未だ未だ使えそうな丸型ポストを眺めていると、          時間観念を加えると丸型ポストが一概にコスト高とは思えません。                        郵政会社は一度「角型ポスト」と「丸型ポスト」の販促効果(どちらが多く投函されるか?)を比較検証したら、どんな結果が出るでしょうか?
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  鎌倉浄明寺泉水橋近くの郵便ポスト。食品店と良く似合っています。地域住人にとってはポストもお店も  かけがいの無い存在でしょう。
四角いポストはダイレクトメール向きで、丸型ポストは私文書向きだと思います。
四角ポストはパソコンの打ち出し文字、デジタルの視覚があります。                      丸型ポストは手書きの文字が似合いそうです。                                  住宅地には「丸型ポスト」を配置し、私文書の良き習慣を復活させたら良い・・・、思います。        確実に丸型ポストに投函される私文書が増えると思います。
そして、俵谷高七のような日本を作った人物に再度スポットライトを当てて欲しいと思います。本田宗一郎や豊田佐吉は高名ですが、名も残さなかったものの敬愛すべき人物は数多く埋もれているのでしょうから・・・。
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   鎌倉十二社の辻にある郵便ポスト。手前の道は金沢街道。細道に行くと光触寺から朝比奈の切り通   しに続きます。
※ 鎌倉東部の郵便ポストを案内しました。西部にも素晴らしい環境の郵便ポストが数多くあります。極   楽寺駅前や、御霊神社前の力餅屋前にも・・・、いずれの機会にか紹介します。
 
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鎌倉の町の丸型ポスト②

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昨日は鎌倉の町の西部にある丸型ポストを紹介しました。
今日は、東部にある丸型ポストを紹介しようと思います。
 
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   江ノ電「極楽寺駅」の郵便ポスト。この駅は「駅百選」にも選ばれている人気の駅です。
   ポストがあるので駅の風景に温もりが生まれます。
 
この丸型ポストは島根県平田町に生まれた指物師「俵谷高七」によって、明治34年開発されました。(昨日記載)
黒くて四角い郵便物の集配箱を、赤くて丸い形に変えて、名前も「ポスト」にしたのは、大変革でした。
「良くぞ、考えたもんだ・・・・」感心して、頭から足まで眺め回します。
頭の天辺にポツンと丸い物が乗っています。
これは「帽子」のようだ・・・、思います。
顔が丸くて、真ん中に差し出し口があります。
差出口には雨が吹き込まないように、庇とパタン塞ぐ仕掛けがあります。
此処はカラクリを得意とした技の見せ所だったのでしょう。
口の下には「郵便の字とPOST」と書かれています。
そして、体の真ん中に四角い蓋があります。
鍵を開けて、此処から集まった郵便物を掻き出します。
そして、丸型郵便ポストは丸い御影石の台座に乗っています。
 
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      由比ガ浜通り、六地蔵辻にあるポスト。背中にタバコの自販機があります。
      これも最初に発明したのは俵屋高七氏。同氏の発明品が並んでいます。
 
この形は何処か「人」に似ているような気がします。
ポストは町の辻に立っていて、貴方のお便りを待っていますよ・・・・、
そう呼びかける、便りの集配人のようにも見えてきます。
その為に、頭に帽子を乗せて、丸い顔をつけたのでしょう。
赤くしたのは、丸くしたのは・・・・、
デザイン全体は北海道で使う「達磨ストーブ」のようです。
達磨さんなら・・・・、赤くて丸いのは当然です。
そして、開運を授けてくれます。
 
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                 江ノ電長谷駅前の郵便ポスト。ハワイアン「かき氷」さんの店先です。
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          ポストは駅の昇降客の方を向いています。背中から長谷寺の方を見る。
          此処では人力車が客待ちをしています。
 
日本の郵便制度を整備したのは「前島密」です。
葉山芦名の「浄楽寺」に眠っています。
「丸型ポストが良い」判断したのは同氏でしょう。
機能が良く出来ているし、デザインも優れている・・・・、思いました。
 
一方で、日本人の読み書きが出来る特長(文盲率が低い)、平安の昔から便りを頻繁に書く習慣・・・・、
等からして、郵便制度は普及し易い・・・、判断があったと思います。
しかし、こうした良い経営環境に甘えていては、事業は進捗しなかったでしょう。
郵便制度を普及させるには・・・・、国民に馴染ませるには・・・・・、江戸時代の飛脚制度を飛び越して、
新時代に相応しい「お便り交換」をさせるには・・・・・、何が相応しいのか?
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                       材木座の九品寺に近い郵便ポスト。夏花の花陰でした。
 
 
町の辻にはお地蔵さんが立っています。
そのお隣に、達磨さんが立っていても良さそうなものです。
双方、私達にとっては馴染みの仏や人ですから・・・。
その達磨さんが「丸型ポスト」であった、と思います。
 
昭和34年、郵便物の増加に伴い、効率化能率化を求めて四角い郵便ポストにチェンジしました。
四角い箱ですから、ポストではなくボックスなのですが、慣れ親しんだポストの名は残しました。
従って、新しいポストはボックス型になりましたが、
従来の丸型ポストで十分なところ(古い住宅地など)はそのまま残したようです。
鎌倉で丸型ポストを見ようと思えば、古い住宅街を歩くのが良いのです。
また、達磨さんのようなデザインは古い町並みに似合いますし、住人もそれを意識していて、
新型に変えることを拒んでいるのではないでしょうか?
 
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   横浜本牧の三渓園まえの郵便ポスト。赤い靴人形と相対道祖神と・・・・、四角いポストが並んでいます。
   丸型ポストの方が・・・・、良いと思いますが。横浜は古町も四角いポストです。
 
ネットで調べると「丸型ポスト」の残存率が最も高いのは兵庫県の芦屋だそうです。
半分以上は丸型ポストだそうです。
日本屈指の高級住宅街の住人は、町並への愛着が強いのでしょう。
デザインの優れている方を選択しているのでしょう。
 
私の住む横浜は殆どが四角いポストです。
でも、お隣の鎌倉はまだまだ丸型ポストが多く見られます。
丸型ポストの口に手紙を差し出すとき
「お便り預かりました。大切にお届けします」
そんな声が何処からか聞こえてくるような気がします。
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   鎌倉山「マウンテン/喫茶店」前の郵便ポスト
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   マウンテン前を右折するとその先に「棟方志功記念館」があります。
 
時代はデジタル、TVも先日から変ってしまいました。
でも、デジタルについてゆけない人も多く居ます。
「コミュニケーション」はアナログでなくては不可能です。
「四角いポスト」「丸型ポスト」、使い分けが長く続いて欲しいものです。
 
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    七里ガ浜駅前の郵便ポスト
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   五霊神社の辻、餅屋前の郵便ポスト。アジサイの季節は花に埋もれています
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                            鎌倉浄智寺前の郵便ポスト
 
 
 
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「脱原発」の判断は次世代に!

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今週はじめ、ソウルは大洪水で大きな被害が発生していました。
あの大雨が新潟に移ってきたのでしょう。
只見川も、魚野川も水が堤防を越えて、橋も鉄橋も流されたようです。
横浜も朝から豪雨です。
被災地にはお見舞いを申し上げます。
世界は旱魃で苦しんでいる国が多いのに、局地的には大雨が降ります。
自然はなかなか思うに任せません。
だからこそ、昔の人は「自然を神意の表れ」と思ったのでしょう。
古代なら「管首相は神意に無頓着である」理由に更迭されていたかもしれません。
 
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   今日の話題と写真は無関係です。藤沢の新林公園の棚田から「夏の風景」。花はミゾ萩。
 
ノーベルはダイナマイトが戦争に活用されている事実に憤って「ノーベル賞」を創設しました。
科学技術の平和利用を訴えたのでした。
科学技術は利用の目的や管理を怠れば大きな災いを及ぼします。
目的を果たすには厳格な管理や自覚・自己規制が必要です。
コンピューターだって、ウィールスを作ってみたくなるのが人間です。
人間の心には悪魔(天邪鬼)が棲んでいるからです。
 
核技術だって、原子爆弾にもなれば平和利用で大きな幸いをもたらしてくれます。
現在の最大の平和利用は原子力発電でしょう。
日本の企業は原子力発電の技術を売ってきました。
ベトナムもトルコも日本の原子力技術を信頼して、自国に原発の設置を日本企業と協議してきました。
更に、今次の「福島原発事故」には、「日本の国は津波の被害で原発事故に遭遇したが、この被害を超えて安全な技術開発をする筈だ・・・!」と言って、日本の技術や良識に期待してくれています。
ところが肝心の日本の首相は「脱原発」を発言しました。
「自国では辞める技術を輸出するのか?」矛盾が生じています。
原子力発電を受注しようとしていた会社は日本政府の対応に当惑している事でしょう。
「当社は日本脱出を余儀なくされる」考えも生じているでしょう。
 
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  「へのへのもへじ」は「二条川原落書/鎌倉時代」に始まるようです。
  庶民には「落書の精神」が息づいてきました。
 
管内閣は原発事故の原因を闇にしたままで、「原子力発電からの撤退」を提言、
更にこの選択を政局にしようとしているようです。
 
この風潮は、長崎市長をして「長崎の原爆を平和運動から反原発」を発言させました。
“原爆に反対だから・・・、原発も反対だ、(管理が出来ない以上)”
 
長崎市長の主張は世界全体から見れば理解しがたい「偏屈者の意見」と受け止められるでしょう。
「自然災害が生じても、原発は冷却しなくてはならない!」
今回の災害で世界は始めて教えられたのでした。
これから人類が挑戦する課題です。
 
その矢先に長崎から「反原発」のメッセージは理解されないでしょう。
本来の「長崎の平和運動」は世界の同意を得られなくなるでしょう。
 
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ミゾ萩の花の中でハエを食べる赤とんぼ。トンボの色はこれから茜色に染まります。
  
原発塔屋が水素爆発で吹き飛びました。
その時、放射能を含んだ粉塵が空中に飛び散り、風に乗って各地に飛び散りました。
散った放射能は牛の飼料になる「米わら」に付着しました。
今になって、牛肉に規制値を超える放射能が確認され、大混乱を生じています。
監督する農林省だって、思っているでしょう。
「原発事故の初期発表が過ちだった」と。
正確に発表してくれていたら・・・・、適切に畜産農家を指導したのに・・・・!。
 
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   ミゾ萩の自生地は花に誘われて集まる昆虫を狙って、女郎蜘蛛が構えています。
 
私達国民は説明を受けていました。
「この爆発は水蒸気爆発の延長のようなもので、原子炉はメルトダウンしていないから、特段の心配は要らない。今は原子炉の冷却こそが課題である」
 
しかし、諸外国は懸念していました。
「日本は危機レベル4と主張しているが、チェルノブイリ(レベル7)に近い状態である」
 
今になってみれば諸外国の判断が正しく、私達は騙されていたのでした。
もしも、管内閣が「現状の原子炉はメルトダウンしたかもしれない」発表したら、
東日本は放射能対策をした事でしょう。
そうしていたならば、少なくとも畜産農家の困惑は生じなかった事でしょう。
管内閣の「初期発表の誤認(故意?)」は数々の被害を生じさせています。
中国の鉄道省よりも確信犯だとおもいます。
 
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   水辺の昆虫採集に夢中な親子、夏の懐かしい昼下がりの光景です。
   福島の子にも遊ばせてあげたいものです。
 
国民は、福島原発事故や大震災の復旧を政局にして欲しくありません。
与野党力をあわせて復旧を速やかに達成して欲しい・・・期待しています。
ところが、復旧は遅々として進まず、復旧予算20兆円が先行しました。
20兆円という砂糖に沢山の蟻が群がろうとする事でしょう。
 
大火傷を負った後は火も見たくないものです。
反原発の決議は時間を置いて判断すべきでしょう。
そして判断するのは「原発の管理」に失敗した世代ではなく、次世代の人達の判断でしょう。
反原発の判断を政局にしたい管首相は「脱原発」を発言し、
流石に海江田経済産業大臣初め多くの閣僚に反対されました。
枝野官房長官も内閣の責任は「震災の戦後処理にある」発言しました。
慌てて「脱原発は個人的発言であった」コメントを加えました。
国民も菅さんには愛想をつかして、退陣を待ち望んでいます。
そして、「日本の進路選択」を冷静に行いたい・・・、思っています。
 
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              柏尾川の瀬を子供を導くカルガモのお母さん。
 
企業は産業のファンダメンタルズである電力に懸念がある国には立地できないと考えました。
更に核技術にアレルギー反応をする国も敬遠せざるを得ません。
加えて円高が加速しています。
このままでは、優秀な企業の海外移転が加速するでしょう。
企業が日本を脱出すれば、国民は就労の機会を失います。
膨大に膨れ上がった国債(借金)を返済する歳入(税収)欠陥が膨れ上がります。
今次の円高の遠因であるギリシャの破綻は、日本に飛び火する事でしょう。
国債の借り換えが出来なくなるからです。
 
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                                       日向で羽を乾かす「鵜」、(柏尾川で)
 
今は、「脱原発」を判断する時期ではありません。
少なくても10年後、冷静な判断を下せるよう、その準備をすべき時でしょう。
歴史の流れは「核も含めて、技術の進歩」にあります。
暫く時間を置いて原発から撤退をするのか、改めて原発の危機管理を徹底するのか検討すべきであると考えます。
 
その選択をする権限は次世代にあります。
私達世代の責任は「選択する材料を準備しておく事」にあります。
「どうして原発事故を忌避出来なかったのか。どうして放射能被害を拡大してしまったのか。」
「日本の選択」はそうした万全の準備を整理したうえで、明日の日本を背負う世代に判断してもらう事だと思います。
歴史は教えています。
天災(?)や不幸な事故(災い)を克服して、次の時代が動き出す、
災いから福(チャンス)が生まれる、と。
 
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            トンボを追いかける少年。ミゾ萩の向うは半夏生の群落です。
 
 
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「実朝の首塚・胴塚」の不思議

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神奈川県秦野市は大山の麓にあります。
山麓の田圃の中に「源実朝」の首塚と言われる五輪塔が祀られています。
国道246号を県道70号(秦野清川線)ヤビツ峠方向に進みます。
懐かしい里山風景が続きます。
その中に「波多野城址」があり、実朝首塚も在ります。
秦野には大田道灌の首塚・胴塚もあります。
偶々でしょうが、頭と体が別々の、気の毒なお墓が数多くあります。
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                  秦野の「実朝首塚」前から大山を望む。
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                                             実朝の首塚 
 
一般に「首塚」が発生した経緯は以下のように、中世の武士の台頭が理由だと言われています。
武士団や朝廷に対決した者を成敗した時、その証拠に「首」を改めます。
そこで、首を胴体から切り離して、為政者に確認させたわけです。
また、敵を討ち取った者は「首」を持参する事によって、褒美をもらいます。
 
 
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将門首塚、背後のビルが旧長銀本店。
沢山の蛙が奉納されています。これがサラリーマンの本音です。
 
最も有名な首塚は「平将門」でしょう。
私が勤めた日本長期信用銀行(長銀)は将門の首塚に隣接していました。
将門は神田明神の祭神です。
従って、長銀は大手町の氏子代表のようにして首塚のお世話をしていました。
役員になれば、首塚を背にして机を構える事は憚れました。
我々クラスは、転勤の度に首塚を詣でました。
 
将門は939年常陸の国の国司を廃止します。
京の朝廷は驚愕して征討軍を派遣します。世に言う「平将門の乱」でした。
将門の首は塩漬けにされ京の都に運ばれます。
そして都大路に晒されます。
ところが雷鳴が轟き将門の首は宙を飛んで消え去ります。
そして、大手町の葦原に落ちたのでした。
その場所が大蔵省の所管となり、長銀に払い下げられ、本店を建設したわけでした。
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                           晒し首(?)鎌倉「西念寺」の人頭杖(にんとうじょう)
 
将門の首塚には「蛙」の置物が奉納されています。
首が戻って来たように、地方や海外に転勤するサラリーマンが無事に本社に戻れますように、
祈願したものです。
ところが、長銀は本店を首塚の隣から移転した数年後国有化さえてしまいます。
私は「将門の祟りだ」思っています。
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                       百合の花の後ろ、樹林の中に実朝の首塚があります。
 
 
実朝は1219年、鎌倉八幡宮で催された右大臣拝賀式の参殿する途上、公曉によって惨殺されました。公曉は前の将軍頼家の長男でした。
その名の通り京の三井寺で出家し、八幡宮に戻っていた僧侶(禰宜?)でありました。
そんな公曉を暗殺に唆したのは「三浦義村(乳母夫)」と言われています。
そして、公曉の野心を承知していたのは北条時政と思われます。
吾妻鏡等の記録によれば、公曉は暗殺と同時に北条時政に追われます。
そして、三浦義村私邸に行く途上、北条時政の追っ手によって殺されてしまいます。
この事件によって源氏の血統は絶えて、北条家が鎌倉幕府をリードする事になります。
実朝の首は公曉から波多野氏(三浦の武山にある一族)にわたされます。
そして、波多野一族の菩提寺「金剛寺」に埋められます。
 
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      公曉が頼った波多野一族の菩提寺「金剛寺」、実朝首塚は この寺の前にあります。
 
実朝の遺体は鎌倉の寿福寺に埋められます。
寿福寺には母「政子」の墓もすぐ近くにあります。
政子にすれば、長男頼家も次男実朝も実父「北条時政」に討たれた訳でした。
さぞかし無念であったろうし、業の深さを実感したと思われます。
ましてや実朝は歌人であり、政治には関心の薄い人物でした。
従って、その墓の隣に埋もれたのでしょう。
 
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            鎌倉寿福寺の櫓群。手前白い塔の横が実朝の墓。奥の櫓が政子の墓。
 
しかし、尼将軍政子であれば、首と胴を一緒に葬ることは出来たはずです。
実朝が哀れと思えば首も合葬してあげる事も出来たと思います。
「首」「体」を別々に葬る事にどんな意味があったのだろうか・・・、疑問が生じます。
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                   実朝の墓。壁が白いのは漆喰で塗られていたから。 
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               此方が政子の墓、安養院の宝篋印塔も政子の墓と言い伝えられています。
 
中世から「首塚」「胴塚」が頻繁に出現しますが、
実は古代から体を別々に葬ることは行われたのではないでしょうか?
 
もう数年前でしたが宮崎駿監督の映画「もののけ姫」が発表されました。
その最後の場面で、巨大は獅子神様(夜はデイダラボッチに化す)が首を奪われ、森の中を首を捜して歩き回る場面がありました。
アシタカとサン(姫)の活躍で首を荒れ狂う獅子神(胴体)に差し出します。
すると獅子神は満足して怒りを静めます。
銅山の開発も停止されます。森はまた緑を取り戻します。
獅子神様は体が一体になる事によって、再生可能になったわけでした。
森はまた再生を永遠に続けるようになりました。
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       もののけ姫の獅子神様。(YAHOO画像から)
 
死体を切断し、ばらばらに葬るというのは古代にも数多く見られます。
『日本書紀』崇峻天皇即位前紀の捕鳥部万にも記述されていますし、
大化の改新で殺された蘇我入鹿もバラバラに埋葬されています。
また、時代は下りますが酒呑童子はじめ魔物(妖怪)もバラバラに埋められています。
これらは「怖い人や魔物が再生しないように」したと思われます。
バラバラに埋葬すれば再生しないと信じられていたと想像します。
 
政子は息子を哀れに思って首を秦野から戻して、寿福寺に合葬使用・・・、思わなかったのでしょうか?
息子に悪い事をしたと言う悔悟の念以上に「祟り」を恐れたのでしょうか?
「源政子」と呼ぶ事はありません。
嫁しても、尼将軍と言われても結婚前の「北条政子」のままです。
(これは吾妻鏡が北条家が書かせた為でしょうが)
母性が薄く、北条時政の娘で居続けたのでしょか?
実朝のバラバラ遺体と同じように、政子の心はバラバラであったように思われます。
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                                       寿福寺、櫓の前にて。
 
実朝の首塚の横に実朝の歌碑が建てられています。
 
     もの言わぬ 四方のけだもの すらだにも
        あはれなるかなや  親の子をおもふや
 
書も選者も佐々木信綱です。
従って、この歌の意味は字の通りでしょう。
でも、「獣さえ親は子供を思う・・・、」実朝は歌っています。
死に際して、更にバラバラのままで放置された実朝は何と思っているでしょうか?
自分の親、母にどんな感慨を抱いて眠っているのでしょうか?
私は佐々木信綱の選に感服しました。
 
 
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真夏の柏尾川の水鳥

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新潟に被害をもたらした雨雲が横浜にもやって来たのでしょうか?
一昨日は大雨で、柏尾川では緊急警報で、川に近づかないよう注意を促していました。
緊急警報施設は昨年設置しました。
試験放送では近隣住民から「五月蝿い!」苦情が出て、神奈川県治水課は苦労していました。
今回が、初めての実働でした。
実際大雨が降って、市民の理解が進んだ事でしょう。
 
私は、川辺の鳥達の事が心配です。
また、見事に咲いていた「水金梅」の花も傷んでしまったでしょう。
今年、再度満開の花園を見せられるか?
少し気がかりです。
 
今日は、数日前の柏尾川の野鳥を紹介します。
 
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                                 柏尾川に合流する小河川で遊ぶカルガモの赤ちゃん
 
最も気がかりなのは、子育て中のカイツブリやカルガモです。
7月末、今年二度目の子育てでしょうか?
カルガモのお母さんが5羽の子供を引き連れていました。
柏尾川には野良猫が住んでいて、その危険もあります。
加えて空からはカラスが襲ってくる危険もあります。
最近は「隼」等の猛禽類も目立ってきました。
だから、お母さんは何時でも注意深く見守っています。
 
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                                   子供達を見守るカルガモの母さん
 
カルガモは「カルガモ農法」の主役です。
柔らかい雑草も食べれば、昆虫も、草の種も、人間の食べ残しも、何でも食べます。
強力な雑食性の為でしょう、一度に沢山の子供を産んで、育てます。
そして、良く見かける場所は、支流が流れ込む辺りです。
家庭から流れ込む生活廃水が餌を運んでくるのでしょう。
子供達は思い思いに歩き回り、せわしく嘴を動かしています。
そんな子供達を母親は見詰めています。
 
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                                          瀬を渡るカルガモの家族
 
食事が終われば直に移動です。
何時も穏やかな柏尾川も浄水場(長沼)辺りは瀬になっています。
子供達は懸命に母親の後を追いかけます。
母においてゆかれたら・・・、それは死を意味するのでしょう。
暫く頑張れば、また穏やかな流れに出ます。
川の中州が憩いの場所です。
水草は食べ物にもなれば、身を隠す場所にもなります。
まだ、水草を編んで作った巣も残っている事でしょう。
 
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                                            中洲で翅を乾かす川鵜
 
カルガモが平和な存在なら、鷺と川鵜は危険な存在のようです。
鷺は何時見ても餌を漁っています。
待ち伏せを得意にするのが、五位鷺、青鷺です。
小魚が水金梅の花陰に集まることから、そこでジッと立ち止まって待ち伏せしています。
白鷺類はせわしなく動き回って、飛び出してくる小魚や昆虫を捕食しています。
 
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                             水金梅の花の陰に集まる小魚を待ち伏せする「青鷺」
 
川鵜は日向で羽を干しています。
早朝に水に潜って捕食して回るのでしょう。
私が見る頃は大半が電線や水道管の上で濡れた羽を乾かしています。
レンズを通して見れば真っ黒だと思っていた翅には模様があります。
絽の着物のような粋な模様です。
喉元は黄色く、青い目は意地悪そうです。
加えて、嘴の先は曲がっています。
根性悪のような顔をしています。
剣を極めた宮本武蔵は、
鵜のこの表情に、そして、常に翅を乾かし、万全の体制を準備していて怠らない姿に共感したのでしょう。
 
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                水道管の上で翅を乾かす川鵜、背景のビルは新築した武田薬品湘南研究所
 
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宮本武蔵の鵜図
 
柏尾川にはクイナや千鳥、鴫類も数多くすんでいます。
水金梅の花の陰で、小さな水鳥が餌を食んでいます。
せわしなく動き回るので、望遠レンズに収まりません。
ヤゴ(トンボの幼虫)を探しているのでしょうか?
毎年毎年、水鳥が増えてきているようです。
見た目では水が綺麗になっているのか判然としませんが、農薬などの汚染が無くなり、
水鳥の餌さとなる小魚や昆虫は目だって増えてきています。
 
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                          蚊帳吊り草の陰でヤゴなどの水生昆虫を漁る水鳥(タカブ鴫?)
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                        水金梅も今度の大水で傷んだことでしょう。(今回の写真は7月29日撮影)
 
 
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「空蝉」に思う王朝男女の交い

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蝶は完全変態(卵・幼虫・さなぎ・蝶)をします。一方蝉は不完全変態(蛹が無い)です。
古代の人は動かない蛹の背中が割れて蝶が飛び出して、虚空を舞う姿を見て確信したのでした。
蛹は死体で、蝶は体から浮遊した「魂」だと。
従って蝶は「魂」「霊」として畏怖しました。
野辺送りの道や墓地には蝶が飛んでいるものです。
そこは「蝶の通り道」になっている事が度々あるからです。
特に昔は蝶が最も目立つ半夏生の頃に亡くなる人が多かったのでした。
そんな事もあって、葬儀には度々蝶が参加してきて、涙を誘います。
蝶を見て、故人の霊魂が体を抜けて天に昇った・・・、思いました。
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                     虚空を舞う蝶は死者の霊魂を思わせました 
 
遅れていた蝉が急に鳴き出しました。
地面に1cmほどの穴が空いています。
蝉の幼虫が這い出して来た跡です。
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          地面に空いた穴は蝉の幼虫が抜け出た跡です。
 
蝉は7年間も地中で幼虫として過ごし、地上に出て飛び回り、1週間もしたら死ぬと聞きます。私の子供の頃の記憶では網で捕まえて籠に入れても翌日には死んでしまいました。
1週間かどうかは解りませんが、地上生活がはかない事は間違いないでしょう。
子供の頃は「可哀想」思っていました。
地中の生活が苦しくて、地上が楽しいと思っていたからです。
でも、今は考えを改めました。
地中で生活する事は羨ましい・・・、思います。
年中快適な温度で湿度も守られ、天敵に食われる心配もありません。
ひたすら木の根に口先を差込、樹液を吸い取るだけです。
で、地上に出れば「女が欲しいよ!」と叫びまわり、交尾をしたら直ぐにあの世行きです。
可能な限り地中で長く生きたいものでしょう。
 
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                恋に焦がれるように鳴き続ける蝉。夏には欠かせません。
 
蝉の脱け殻が目立ちます。
幼虫が蝉になった後の「外骨格」です。
中世の騎士の鎧のような姿です。
古代人は現実に生きている人を「現人/うつせみ」と呼びました。
それが平安時代に「空蝉」と言う漢字を充てるようになりました。(広辞苑)
何故か? それは実際に自分の目の前に居る人が「本当の人」なのか、それとも「仮の人」か疑問に思ったのでしょう。
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               曙杉の枝先には空蝉が沢山着いていました。
 
蝶や蝉が「変態」して姿を変えるように、人間も姿を変えるのかもしれない?
で、目の前に居る人は「仮の人」で、「本当の人」は目に見えないところに居るのかも知れない・・・、思ったからではないでしょうか。
平安時代になって、王朝文化が華やかに咲きました。
その繁栄は表であって、実は空しいものかも知れない・・・、思いました。
 
そう思って自然を見ると「空蝉」が目に付きました。
肝心の蝉は儚く死んでしまっています。
そこに「無常」を感じ始めていたのではないでしょうか?
そこで、「空蝉」と言う漢字を充てました(作りました)。
実態は無常で、自分達は空蝉の世界に漂っているのかもしれないと・・・。
 
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源氏物語の始まりに「空蝉」が出てきます。
源氏は既に「葵上」と結ばれています。
しかし、母(桐壺の更衣)の面影を宿す「藤壺の女御」に恋情抱きます。
そんな或る晩殿上人が集まって、好みの女性談義をします。(雨夜の品定め)
源氏は様々な女性が居る事を聞き知り、関心を高めます。
翌日、源氏は女性談義で触発された気持ちも手伝って、「空蝉」の館に忍び込みます。
空蝉は中流貴族の某老人の後妻に迎えられた女性で、慎ましやかな女性でした。
しかし、空蝉は執拗に迫る源氏を拒みます。
源氏は堅固な空蝉にかえって執着を強くします。
或る夏の夜訪れて、物陰から透き見をします。
空蝉は若い女(軒端の萩)と碁を打っていました。
 
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  源氏は碁を打つ空蝉(右側の女性)を透き見します。空蝉の弟に案内させて寝所に入ります。
 
源氏は女の寝所に忍び込んで女を抱きます。
抱いた女は空蝉ではなく「軒端の萩」でした。
源氏は空蝉の着物を抱いて悲しみます。
空蝉の 身を変へてける 木の元に なほ人柄の 懐かしきかな
 蝉が脱皮して飛んでゆくように、貴方も衣だけを残して逃げていってしまった・・・。   
私は貴方の衣の温もりや香りに懐かしさを耐えかねています。
 
すると、空蝉は返歌します。
    空蝉の 羽に置く露の 木がくれて 忍び忍びに 濡るる袖かな
私は源氏さまを無視し続けたけれど、本心は貴方の一途な姿勢が嬉しくて、ひそかに涙しています。
 
源氏物語の恋の遍歴のスタートは「空蝉」でした。
平安の昔も今も、男性は未亡人や後妻に惹かれるものです。
でも、源氏が抱いたのは別の女で、意中の人には逃げられてしまいました。
想い人の着物を空しく抱くだけでした。
源氏物語の行く末を思わせる結末でした。
それは「男女の恋・愛」は「仮の姿」儚いものであります・・・、
平安時代の貴族の世界観を示していると思います。
 
また、品良く慎ましやかで、操の堅い空蝉は作者「紫式部」を思わせもしています。
 
私は緑陰で蝉時雨を浴びて、梢を見上げて蝉を探します。
居ます、居ます、そこかしこに居ます。
空蝉はドンドン増える事でしょう。
御霊神社の狛犬にも空蝉が着いています。
私は「狛犬さんも煩わしそうだな・・・?」覗いてみました。
そうしたら、狛犬が答えました。
「蝉如きは我慢が出来るが、団子虫は困ったもんだ。俺の鼻の穴に入り込んで、息苦しくてならない・・・。」
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                 御霊神社の狛犬にたかった空蝉と団子虫(鼻の穴)
 
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竜舌蘭が咲き始めました

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神奈川テレビを見ていたら、江ノ島植物園の「青の竜舌蘭(りゅうぜつらん)」が咲いた、報道していました。
昨年は咲き終えてから其の実を見ましたので、何時かは花を見てみたい、思っていました。
でも、「竜舌蘭は70年経って咲く」と聞きます。
花を見るには、予め咲きそうな竜舌蘭を調べておかなければなりません。
江ノ島植物園で見ても面白くない、出来れば自然のままの竜舌蘭の花を見たい・・・・。
調べておいた場所に向けて、家内と一緒に出かけました。
 
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        昨年咲いた「青の竜舌蘭」、花が咲いたので枯れてしまいました。 竹の花も同じです、花         が咲くと枯れてしまいます。三浦海岸にて。
 
先ず最初は逗子と鎌倉の境にある小坪の岬です。
小坪マリーナの先、崖の下に数株の竜舌蘭があります。
(小坪マリーナは1965年建設、マンションを含むマリーナ)
マリーナ建設の際に雑草対策もかねて植えたものでしょう。
小坪の辺りは石仏が多く残されています。
石仏散策の際に此処に竜舌蘭が自生しているのを確認していました。
 
佛乗院(真言宗)の奥様が声をかけてくださいました。
「竜舌蘭を見に来たなんて・・・(奇特な事で)、実は昨年も一株咲いたんですが・・・・、今年は未だ早いと思いますよ・・・」
 
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 小坪の岬の竜舌蘭、沖合いには波乗りしている人影が見られます。手前に小坪マリーナが建っていま す。 真ん中の伸びているのが竜舌蘭の花茎です。
 
小坪マリーナの成功を確認して、対岸の岬を埋めて「逗子マリーナ」を建設したのでしょう。
未だ8時過ぎなのに、もうヨットが沖合いに出ていますし、岬の先には波乗りに興じている人がいます。
岬の先端に続く細道の脇に竜舌蘭の茎が伸びて、7メートルにもなっているでしょうか。
5月に葉っぱの真ん中から茎が伸びて、日に10センチも伸びるのだそうです。
其の茎の先が枝分かれして、枝の先には無数の蕾がついています。
でも蕾は未だ緑色です。
黄色い蕊が顔を出す筈なのですか。未だ4,5日先でしょうか?
「残念、又来ることにしよう」
道を戻ると、佛乗院の奥さんは未だ道路を掃いておいででした。
「ヤッパリ未だ咲いていないでしょう・・・」声をかけてくださいました。
 
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           佐島の天神島の竜舌蘭。白い建物は「自然観察園の管理塔」。
           竜舌蘭の根元には「北限のハマユウ」の案内が建っています。
 
次の行き先は佐島の天神島です。
此処はハマユウの北限自生地として有名ですが、
数株の竜舌蘭があって、今年は入り口の1株と砂浜の一株が茎を伸ばしているのです。
流石に佐島の方が黒潮に近いからでしょう。
もう咲き出していました。
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         竜舌蘭の花、筒状の蕾の先が割れて、黄色いオシベが伸びています。
 
7,8メートルも伸びきった茎の先に黄色い蕊が伸びて、もう咲き出しています。
一つ一つの花は細長い筒状ですが、其の筒が集まっているのでまるで剣山(生花の用具)です。
 
竜舌蘭にはさぞかし濃い花蜜が出るのでしょう。
剣山の花には沢山の昆虫が群れています。
蜜は細長い筒の奥底に溜まっているのです。
昆虫達は夢中で筒の奥に入り込んでいます。
確実に受粉できる仕組みです。
 
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                                      天神島の 竜舌蘭
 
竜舌蘭はメキシコが原産の彼岸花の仲間だそうです。
花が咲くのは成長して凡そ70年後だそうです。
ですから、私達夫婦の目の前の竜舌蘭は私達より高齢です。
多分戦争中の生まれでしょう。
そして、70年をかけて厚い葉っぱ等に澱粉を蓄え続けました。
其の蓄積を一気に吐き出して花をつけ、種子を作るわけです。
 
四方八方の昆虫を集める為に、5月から茎を伸ばし始めて、夏になったら一気に花をつけます。
そして受粉して、子孫を残します。
自分自身は其のまま枯れ尽きてしまいます。
地面に無数の種子を落下させ、同時にひこばえ(小さな子株)を出します。
 
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                            これが竜舌蘭の花、まるで剣山のような形です。
 
茎や葉っぱに蓄えられた澱粉を原料にして造ったお酒が「ぺキーラ」です。
70年分のエキスが凝縮されたお酒だから、強烈な香りと高いアルコール濃度が特徴です。
私のサラリーマン時代にはメキシコにマキラドーラ工業団地が多数建設され、其処への進出を検討する企業が数多く在りました。(マキラドーラは優遇税制の意味)
其の関係で米国国境に近いメキシコに出張しました。
でも、竜舌蘭のプランテーションやぺキーラの工場は見たことがありませんでした。
でも、痩せた大地、強い太陽、乾燥した空気、の中で生き抜くには竜舌蘭は適合していると思いました。
因みにメキシコでは虫の他に「蝙蝠」が受粉を媒介するのだそうだ。
蝙蝠が鳥なら「鳥媒花」であろうが、獣なので「獣媒花」と言う事になるでありましょう・・・、
いずれにしても迫力が違います。
 
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                   身延山久遠寺仏殿、鏡天井に描かれた竜の図(加山又造画伯作)
 
竜舌蘭の名前は、この植物の葉っぱが厚くて、大きくて、堅く、触ると危険で(葉の淵に棘がある)・・・・、まるで竜の舌のようだ・・・、と言う事から名づけられたのでしょう。
でも、何処から見ても「蘭」のような美しさや優雅さはありません。
同種のユッカ蘭が白くて高貴な花なので、度々竜舌蘭と間違って言う事が多いようです。
 
何故「蘭」とついたのか・・・・、
それは竜舌蘭が「草」であり、単子葉植物(平行脈の葉っぱ)だからなのでしょう。
木でなく草だから、花が咲けば枯れてしまうのは必定です。
 
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          建長寺法堂の鏡天井には小泉淳作画伯による「雲竜図」が描かれています
 
竜はお寺の天井に描かれています。
建長寺の法堂には小泉画伯の見事な竜が描かれています。
竜は雨の神様ですから、火災から寺を守るのでしょう。
そして、法堂(住職が仏法を説く場所)の天井に描かれていることは、
仏法を「天の声」と聞け・・・、そんな意味なのでしょう。
 
でも、竜の舌はどんな形になっていたかしら・・・・? 気になりました。
蛇の舌なら先が二股に分かれています。
日本人の絵画でも彫刻でも、大半が舌は描かれていません。
竜が迫力を増して、大きく口を開いていても、舌は確認し難いものです。
舌を出すと・・・・、だらしなく見えてしまうからでしょう。
また、大きな髭がありますから、舌も出したのでは煩わしくなります。
だから、舌は出していないけれど、若しかして竜が舌を出したなら・・・、
竜舌蘭の葉っぱのような形だろう・・・・、想像したのでしょう。
 
花は「華」である・・・、日本人は思っています。
竜舌蘭の花は地味で期待するほど「華」はありません。
でも、子孫を確実に増やす・・・、本来の役割に徹しています。
 
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                    三浦海岸のユッカ蘭、此方を「竜舌蘭」と呼ぶ人も多くいます。
 
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「北限のハマユウ」今が盛りです

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昨日、三浦半島「天神島」に「青の竜舌蘭」が咲いた、とお伝えしました。
実は、其の根元に咲く「ハマユウ」が今、見ごろなのです。
このハマユウは私が敬愛する「吉野秀雄氏(歌人)」が楽しみにしていたものなので、
初夏の咲き初めにも報告しました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45295031.html
でも、満開の状態はまた見事なので、再度案内致します。
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        この浜辺と、岬の先端にハマユウが咲いています。
        森の中に天満宮が祀られているので、天神島と呼びます。
 
先日の台風は関東には上陸しませんでした。
でも、海は荒れたのでしょう。砂浜には沢山の漂流物が打ち寄せて、それを食べに鮒虫等が集まって、
其の虫を食べにツバメやセキレイが群れています。
天神島の磯には黒潮が洗っています。
だから、一年中温暖ですし、海底にはさんご礁があるとも聞いています。
だから、ハマユウの自生地北限でもあるのでしょう。
でも、最近は地球温暖化の影響で、都心の「浜離宮恩賜公園」でも見事に咲いています。
でも、「天神島はハマユウの北限です」、案内が「自然観察園/横須賀市」でしています。
 
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                                                満開のハマユウの花
 
黒潮は南の国から「ハマユウの球根」を運んできた事でしょう。
それが、台風などで陸地に打ち上げられて、発根、自生したものでしょう。
「名も知らぬ遠き島より流れ着いた」のが椰子の実であったように、
水仙も椿も、そしてハマユウも海岸に漂着したものでしょう。
 
ハマユウの名は「浜に咲く木綿垂(ゆう・ゆうしで)」の事でしょう。
「木綿垂」とは麻や楮(こうぞ)等の繊維を晒して垂らしたものです。
神主さんが榊の木に木綿垂を垂らして「祓い賜え、清め賜え・・・」と振り払います。
 
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                                   野生のハマユウは花弁が細く、オシベが紫です。
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          此方は園芸用のハマユウの花(鶴岡八幡宮で)、百合のようで木綿垂の味わいはありません。

 
古代の人の衣料は大半が楮や藤などの繊維を使いました。
ですから、木綿(ゆう)がもともとあった衣料品でした。
今では木綿と書いてコットンを意味しています。
でも、コットンが日本に伝わって、幅広く生産されたのは江戸時代でしょう。
で、「木の綿」をそのままコットンに充てました。
 
古代の人は木綿は大事な衣料でありました。
砧を叩いて晒して、白くて暖かい衣服の素材にしました。
大切な衣料を神に奉げたものが幣だったのでしょう。
そして木綿(ゆう)や幣を神主が振り払う動作は、禊ぎ、清める以上に、呪術の意味があったと思います。
神々は幣を依代(よりしろ)にして降臨します。
幣を大きく振り払う事によって、「神々が活性して、その土地や氏子に幸いがもたされる・・・・」
期待したと思います。
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                                                  神社の木綿垂
 
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                                         三浦の庚申塔に奉げられている木綿垂
 
奈良の初瀬や室生、吉野宮川等に行くと渓流に注連縄が渡されて、木綿垂がヒラヒラしています。
此処からは神々の住まい、結界ですよ・・・、一般にはそんな意味だと考えられています。
でも、風にはためく様を見ていると・・・・、花のように綺麗ですし・・・・、元気が出ます。
私は木綿垂の意匠は「神々の霊力を覚醒させる、活性化させる」ことにあると思います。
 
浜辺の木綿垂を見ていると、勿論元気が出ます。
吉野や初瀬、室生の木綿垂も懐かしく思い出します。
 
     泊瀬女の 造る木綿花
         み吉野の 滝の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや
 万葉集6-912  

    (解釈)
    泊瀬の汚れ無き女が作る木綿垂が、吉野川の滝の飛沫の中に、花のように咲いているではないか !

 
 
 
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秋の先駆け「桔梗の花」(海蔵寺)

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ブログの友達にt​o​t​o​n​n​b​o​ さんがいます。
毎日のように水彩画と俳句が載せられて居ます。
優しい筆使いと俳句が季節を伝えてくれます。 http://blogs.yahoo.co.jp/b_tannwo/5167379.html
私は毎日読むのを楽しみにしています。若干の羨望を抱いています。
と言うのは、私が絵を描けたのは小学生の頃が最高でした。
歳を重ねるに従って絵筆から遠ざかり、これではいけない、思って画材を購入したりするのです。
でも、下手さ加減に自己嫌悪になってしまい、また机の袖に収納してしまいます。
昨日のt​o​t​o​n​n​b​o​ さんのブログの絵は「秋海棠」でした。
葵のような円く大きな葉っぱ、海棠のような濃いピンク色、初秋の花です。
無造作にヤカンに活けられているのは、庭先に咲いた「飾りの無い花」だからでしょう。
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                    今日の話題は「桔梗の花」古典的な「星型」の花です
 
 
 
今頃が盛んな花に「桔梗」があります。
山上憶良が「秋の七草」を選んだとき、「朝顔」をあげました。
万葉の時代、朝顔は桔梗の事だったのだそうです。
今の朝顔は夏の花ですから、やはり「朝顔」は桔梗なのでしょう。
で、私達は桔梗は秋の七草の代表と思っていますが、実は立秋前に咲いてしまいます。
少し、疑問に思ったりします。
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 万葉の時代桔梗は「朝顔」と呼ばれていました。後から朝顔が進出、桔梗は名を奪われてしまいました。 
 
昨日の朝のNHK(アサイチ)で美しいアナウンサーが浴衣で登場していました。
模様は、撫子ジャパンにちなんで「撫子の花」でした。
今年は「撫子には負けるわ」、桔梗の花は思っているでしょう。
撫子も秋の七草です。
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              桔梗が男性なら撫子は女性、どちらも秋の七草の代表です。
 
でも、日本人は秋の七草で最も愛してきて、文化にも影響を及ぼしたのは桔梗で間違いないでしょう。
茶道具に絵画に度々描かれてきました。
風船のように膨らんだ蕾が開くと五枚の花弁が開きます。
蕾も花も端正で秋の風情に満ちています。
ですから、桔梗の家紋は数多く採用されました。
美濃の山県氏、土岐氏、更に明智光秀も桔梗紋でした。
また安倍清明の五芒星(ごぼうせい)を桔梗印と呼んで、神紋としています。
 
 
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                          明智光秀の桔梗紋 
 
全国各地に桔梗の花が咲く寺があります。
明智光秀の首塚(丹後亀岡の谷性寺)、遠州森町の香勝寺等が有名で、数千本の桔梗が咲くそうです。
 
「一面の桔梗の花」は見た事がありません。
見れば、また好きになってしまう事でしょう。
 
鎌倉の寺寺にも桔梗は今が盛りに咲いています。
東慶寺にも海蔵寺にも瑞泉寺にも・・・・咲いています。
でも、何処も一叢の桔梗の花です。
路地の傍やお堂の前にひっそりと、寂しげに咲いています。
賑やかに咲くよりも、儚げに咲くほうが似合っているようです。
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                                        鎌倉瑞泉寺の桔梗の花
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                                               鎌倉海蔵寺の桔梗の花
 
桔梗の花も種の改良が進んでいるのでしょう。
最近は、トルコの桔梗や八重咲きの桔梗、白い桔梗もよく眼にします。
でも、青紫が基本なのでしょう。
ピンクや朱色の桔梗は見た事がありません。
でも、バイオ研究がすすんで居る昨今です。
トルコ桔梗のようにピンクの桔梗も何れ出現する事でしょう。
実際、そんな「異端の花」を見ると、必ず「ピンクも行けるじゃないか!」私は思ってしまいます。
 
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                                          白い桔梗も涼やかです(海蔵寺) 
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                                      八重咲きの桔梗の花、白い桔梗の花
 
 
桔梗を秋の七草にしておくのが適当なのか、新版「秋の七草」を発表して、
コスモスに入れ替わってもらうのが良いのか・・・、わかりかねます。
でも、紫色は秋の色です。
桔梗は秋の先駆けを届ける花なのでしょう。
秋海棠と同じように。
 
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                                    新善光寺(葉山)の石段に咲いた桔梗の花
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                              花を支えきれず苔の上に倒れてしまいました(海蔵寺)
 
 
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