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箱根の「地蔵25菩薩来迎仏」

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神奈川県で最初に秋色が深くなるのは箱根です。
そこで、家内を誘って箱根に出かけました。
大震災で行楽客も減ったのでしたが、流石にシルバーウィーク、賑わいも戻って来ていました。
 
箱根は交通の難所でした。
古代は箱根越えを避けて、北の足柄峠を越えて、都と相模は結ばれていました。
鎌倉時代になると、早川沿いの道が開発されます。
道は急峻でした。
最高地点に芦の湯があって、その先に精進ヶ池がありす。
池から急坂を下れば芦ノ湖です。
源頼朝は再三この道を通って、箱根権現(現箱根神社)三島大社等に詣でました。
この道沿いには温泉が点在していました。
そこで江戸時代遊山客が多く通り、「湯坂道」と呼ばれました。
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                            今日の話題は箱根精進ヶ池畔の地蔵石仏群の話です。
 
江戸時代、湯元温泉の南側、須雲川沿いの道が整備されました。
この道が東海道になりました。
湯坂道に比べれば、少しは歩き易い道だったのでしょう。
畑宿や甘酒茶屋などが旅人を迎えました。
今も林間に石畳が残っています。
現代人にとって、石畳道は中々歩き難い道です。
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                                                       箱根旧道石畳の道
 
箱根湯元の正眼寺には巨大な地蔵像が祀られています。
今日お話する精進ヶ池の畔にも地蔵が多く祀られています。
箱根には地蔵信仰が盛んになる、そんな景色があります。
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   箱根湯元の正眼寺には大小様々な地蔵菩薩が祀られています。これは明和年間(1700年半ば)の作です。
 
鎌倉時代、都の歌人飛鳥井雅有は紀行文「春の深山路」を書きます。(1280年)
その中で箱根をこう書いています。
「この山には地獄とかやもありて、死人常に人に行きあひて・・・」
旅人にとって、箱根山はこの世の果てで、地獄もある、と思われていたのでしょう。
 
湯坂道は両子山と駒ケ岳の間をすり抜ける道です。
強い風が吹き抜けるので木は育ちません。
藪が広がっています。
殺伐とした景色の中に精進ヶ池があります。
池の向こうに駒ケ岳が眺められます。
旅人は池の畔が三途の川、死人の魂は駒ヶ岳の頂に棲むものと考えたのでしょう。
餓鬼(成仏できない霊)は喉が渇きます。
精進ヶ池に水を飲みに下ってきます。
そして、山の頂に戻ります。
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     精進ヶ池、正面左に駒ケ岳、左に両子山が聳える。池畔の散策路に突き当りに地蔵石仏群が祀られて      います。その上道路が国道1号線。相応の交通量ですがトンネルがあるので国道を忘れてゆっくり散策     できます。
 
池の畔に巨岩が露出していました。
巨岩はピラピッドのような形をしていました。
岩は西向きで、太陽は精進ヶ池の向こうに沈みました。
巨岩は夕陽で朱く染まりました。
巨岩は霊気、神気漲るものがありました。
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                三角錐の巨岩の西側の面に石仏が彫られています。岩に舟形を彫りくぼめてそこに                 厚肉彫りで彫られています。山城当尾の石仏群に匹敵する秀作です。
 
奈良西大寺の叡尊の弟子に「良観」がいました。
良観は貧者や病者の救済事業を、治水土木事業を良く行いました。
奈良から鎌倉に下って極楽寺において救済事業を始めることに致しました。
名前を忍性に改めていました。
鎌倉下向に際して、奈良の石工集団「大蔵」から「大蔵安氏」を連れていました。
大蔵安氏は寄進者に石仏や五輪塔等を彫って差し上げていました。
社会事業にかかる資金は先進地奈良の石工の技によって捻出されていました。
 
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        下段中央が阿弥陀如来立像(96センチ)、左に地蔵菩薩像(90センチ)。地蔵菩薩像は大小25体あり        ます。阿弥陀如来が25の地蔵を従える「聖衆来迎図」です。
 
忍性には、険しい箱根街道を整備する仕事がありました。
また、荒涼として地獄の様相であった精進ヶ池を怖くない場所にする事も大切と考えました。
 
幸いなことに精進ヶ池の畔に例の巨岩がありました。
このピラミッドを使って地蔵菩薩を彫ることにしました。
石工は先の大蔵安氏でした。
デザインは「阿弥陀聖衆来迎図」をヒントに、阿弥陀地蔵来迎図に決めました。
一般の阿弥陀来迎図は阿弥陀如来がお立ちになって、観音菩薩や勢至菩薩をはじめ沢山の菩薩を従えて、
死者の魂を迎えに天上から降りて来られる絵です。
箱根では、阿弥陀如来の他、菩薩像は総て地蔵菩薩にしました。
地蔵菩薩は25体,阿弥陀様を含めて26体を彫りました。
 
地蔵菩薩を祀る・・・、その資金は「地蔵講結縁衆」が拠出しました。
地蔵講とは地蔵信仰を共にする信者集団の組織のことでした。
数名のお金持ちの善意で地蔵を祀るのではなく、
沢山の人々が資金を供出しあって、奈良の石工による尊い地蔵を彫って貰ったのでした。
地蔵講の集まった人達の先祖が地蔵様の導きで成仏できるように、
そして自分達も現世でも幸いがあるように、旅人が安全に箱根を越えられるように、祈願しました。
   (この段根拠は巨岩の脇に、「永仁元年(1293)癸酉八月十八日 一結衆等敬白 右志者為各□聖霊法界衆   生平等利益也」の記銘かある。)
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江戸時代、芦の湯には沢山の文人が逗留しました。
芭蕉もその一人でした。
芭蕉は湯元の正眼寺に泊まって、芦の湯に逗留しました。
芦の湯には東光庵と言う「文人サロン」も出来ました。
文人達にとって精進ヶ池は宿から近く、格好な散歩コースにありました。
大蔵一派による巨大な五輪の塔が3基ありました。
何時しか、1基を虎御前の墓と言い、並んだ2基を曽我兄弟の墓と呼ぶようになりました。
江戸っ子にとって、箱根のヒーロー、ヒロインはこの三人をおいて他はありませんから。
彼らの墓は大磯の鴫立庵をはじめ、東海道の其処此処に出来上がりました。
 
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                       芦の湯の文人サロン「東光庵」。現庵主は中曽根元首相です。
 
初秋の精進ヶ池はススキの穂が光っています。
散策路には嫁菜やホトトギス、吊り船草の花が咲いています。
私が最初にこの地蔵群を見学したのは昭和43年、故浅子勝次郎教授に連れられて来た時の事でした。
当時は散策路など整備されていなくて、国道1号線を行き交う車が神経を逆なでしていました。
浅子先生の穏やかな説明もそぞろに聞いていました。
今は国道の下にトンネルが2本出来ています。
静に季節に溶け込みながら石仏を巡る事が出来ます。
勿論、本格的な石仏ですから、他に匹敵するものも無い見事な出来栄えです。
 
 
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    嫁菜が咲いた散策路
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        散策路にある宝篋印塔、一般には八百比丘尼の墓と言われています。多分、江戸時代、芦の湯の        紀伊国屋旅館(?)など頭の良い人が言い出したものでしょう。 後ろが駒ケ岳。
 
 
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懐かしい「生麦の町」

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午後3時に川崎市役所で所要が生じたので、少し早目に出かける事にした。
思い出の深い「子安」で名物の穴子を食べようと計画、第一京浜国道を北上した。
学生時代(昭和40年代)子安の浦島町に友人が住んでいた。
友人は麻雀が上手で私は滅多に勝つ事は出来なかった。
彼の家は運河に近い、景色の良い二階家であった。
麻雀のジャラジャラする音がご近所に迷惑だろうな・・・、気にしながらも遊ばせて貰った。
何時も「穴子」を戴いた。
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            江戸前の穴子とは「子安産」の穴子の事です。
            多摩川や鶴見川の滋養が穴子を育てています。
 
その友人も高島屋に勤めて、未だ現職で活躍しているようだ。
友人の父君が碁の名人で、私の父も子安の碁会所に良く顔を出していた。
親父が碁で、倅が麻雀で子安の友人に指導いただいた。
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      子安運河、右が首都高羽横線。釣り船が係留されています。
 
運河沿いを歩いたが、友人の生家が何処だったか見当たらない。
京浜急行の新子安駅から歩いて見ても、その家が見当たらない。
町の表情が一変してしまったのだ。
友人の実家もマンションに変わってしまったかも知れない。
 
江戸前の穴子と言えば、羽田から子安の沖合いが漁場であった。
砂と泥の入り混じった海底に、強靭な尾で穴を掘り、穴に体を埋めている。
顔だけは泥から出していて、小魚や蟹が近づけば噛み付く、そんな生態である。
夜になると、餌を漁りに穴から出て泳ぎまわります。
この子安の真穴子が最も美味しいと評判であった。
そして、穴子の旬はもうじき終わろうとしている。
道行く人に「子安の名物穴子料理屋はありませんか?」   聞いてみる。
「夜になれば何処の居酒屋でも穴子は出てくるが、昼日中は無理だよ・・・。」
あしらわれてしまう。
厳島神社には穴子料理店が軒を並べている。名物である。
東の江戸前穴子なら子安が老舗、でもかって在った筈の運河が見える辺りは、人影は無い。
此処に「穴子料理屋」があって、しもた屋の二階で穴子の丼を戴いた記憶が在るのだが・・・。
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     子安の穴子漁師の船、昭和40年代までは穴子を食べさせる店があったのでしたが・・・。
          (今の南品川のように・・・) 南部市場に卸しているのでしょう。
 
子安の隣は生麦、「生麦事件」で有名だ。
薩摩藩主「島津久光」の行列を馬上で横切ろうとしたイギリス人が殺傷された。
非礼を詫びない薩摩藩と英国は「薩英戦争」に陥って行く。
薩摩藩は攘夷の誤りに覚醒する。
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    麒麟麦酒横浜工場(生麦)の正面ゲート。工場見学施設(キリンビバレッジ)が待ち受けています。
 
京浜第一国道は生麦入る。海手に麒麟麦酒横浜工場の前を通る。
国道に面した1000坪ほどで工事をしている。
ショッピングセンターを作るのであろうか?
「ビールのアウトレット店?」そんなのあるかしら。
何れにせよ、ロードサイドの好立地を活かして消費者に直接アピールする施設が出来るのであろう。
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    キリンビール工場の前面(第一京浜道路沿い)で工事が始まるようです。
    何が出来るか楽しみです。
 
横浜市民は総じて麒麟麦酒が好きだ。
何故なら同社は横浜に生まれた大会社なのだ。
明治18年(1885年)、横浜山手の高台に「ジャパン・プレワリー・カンパニー」が出来る。
これが麒麟麦酒の前身でした。
明治21年にはドイツ風ラガービールを「キリンビール」の商品名で発売、明治屋を通して市場に出す。
しかし、同工場が関東大震災で倒壊した事から、生麦に新しく横浜工場を建設し、本社を移転する。
既に稼動していた神埼工場(大阪尼崎)仙台工場と併せて主幹工場になった。
偶々立地したのが「生麦」だったのか、
それともビール会社だから「生麦」に立地すれば発展する、考えたのでしょうか。
生麦の麒麟麦酒工場の玄関を入ると「横浜キリンビバレッジ」がある。
此処を私の町内会では何度も工場見学している。
人影の無い工場で次々にビールが出来上がる様は目を見張るものがある。
出来たばかりのビールも戴ける。(1杯は無料)
そして芝生の向こうにレストランで食事も楽しめる。
麒麟麦酒のCSR(社会貢献活動)である。
 
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      第一京浜道路沿いにある朝日湯。午後3時に開店します。
 
麒麟麦酒の少し先に大きな銭湯がある。古風な大きな建物である。
唐破風の屋根には鶴の透かし彫りが飾られている。
その上にネオンサインで温泉マークが付いている。
夜になればネオンが点くのであろうか?覚束ない古さである。
更に「ラジウム」と大書されている。
銭湯の地下を掘って温泉が湧いて、その泉質にラジウムが含まれている・・・・、想像される。
とすれば、泥炭層を滲み出す湯水なのだから、黒いお湯なのだろう。
その湯にラジウムが含まれているのだろうか?
 
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       朝日湯玄関の唐破風屋根には鶴の透かし彫り、ネオンサインが設えてあります。
 
銭湯は周囲は道が囲んでいて1ブロック全部を利用している。
建物の裏は庭で、薪が積み上げられている。
先頭の主人は大地主でもあるだ。
でも、建物はペンキが落ちていて、外観は手入れが不充分だ。
「営業しているのだろうか?」通行人に聞いて見た。
「朝日湯さんの開店は午後三時からですよ」
私が「銭湯大好き人間」に見えたようだ。
ぐるっと回って国道に出ると、銭湯は隣地でコインランドリーも併営しているのだ。
    (朝日湯の内部写真は次に出ています。中々立派なものです)
     横浜市鶴見区生麦3-6-24京急生麦駅徒歩すぐ  入浴料\450 営業時間3時~11時
     blog.livedoor.jp/yossan_yumeguri/archives/50449102.html
 
 
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   朝日湯の外観、この左手にコインランドリーがあります。塀は漆喰壁で埋められてしまっています。   出歯亀君が覗いたので、蓮子窓を潰してしまったのでしょう。
  屋根に鶴が居て、軒下に亀が居る、なんて良く出来たデザインだと思うのですが。
 
 
この辺りは大きな工場に混じって町工場も沢山あります。
セメント通り(浅野セメント)やゴム通り(横浜ゴム)と言う名もあります。
若い人は知らないと思いますが、昔は浅野セメントや横浜ゴムの工場があったのでした。
それらの工場で働く人にとっては銭湯は身も心も洗い流す場所だったのでしょう。
今では工場も無くなってしまいました。
存続している工場も省力化、無人化が進んでいます。
「夢見通りの人々」は宮元輝の書いた小説です。
商店街に住んでいるひと癖ふた癖ある住人たちの心が触れ合います。
子安も生麦も「夢見通り」でありました。
その面影が微かに残っています。
朝日湯さんはそんな生き証人のようです。
長く頑張って生業を続けて欲しいものです。
 
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総持寺の門前、鶴見が見えてきました。
さあ、遅くなった昼食にしましょう。
 お蕎麦を戴きながら思いました。
「夢見通りの人々」の分かる世代はもう過去の人かもしれません。
 
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                  生麦事件現場の風景(YAHOO 百科事典から)
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                  関東大震災で倒壊した麒麟麦酒山手工場。出典麒麟麦酒HP
                   http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/history1.html
 
 
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葉山の民家

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秋らしくなってきました。
葉山の海岸通りは、人影もまばらになりました。
御用邸のお巡りさんも手持ち無沙汰のようです。
今は天皇家の皆様もおいででは無いのでしょう。
でも、外壁の蔦も少し色づいてきました。
 
浜辺も閑散としています。
数人のサーファーが波乗りを楽しんでいます。
ぼんやり海を眺めている水着の人もいます。
松林の樹陰には外人家族が食事を楽しんでいます。
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   葉山御用邸の外壁に絡んだ蔦も色づき始めました
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      御用邸前の砂浜、江ノ島が眺められます。
 
葉山には古民家が多く残っています。
有名な和菓子屋だったり、豆腐屋だったり、雑貨屋だったりします。
古民家を活用したレストランもあります。
蕎麦屋の「恵所」は、お妾さんの住いだったのだそうです。
流石に誰のお妾さんだったのか?聴けませんでしたが・・・・。
 
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   和菓子店「永楽庵」。杉板の外壁、長く出た庇、白壁と格子窓の対照が綺麗です。
   ショウウインドウには「お月見団子」が飾られていました。
 
古民家は空家が目立ちます。
空家のお寺も幾つかあります。
現代人にとっては住み難いので敬遠されてしまうのかもしれません。
家は人が住まないと急速に朽ちてしまいます。
存続の危機にある事は間違いないと思われます。
 
大半の民家が昭和初年に建てられたものと思われます。
約80歳前後でしょうか?
新建材が市場に出る昭和40年代以前に建てられた建築です。
私世代が生まれて育った、あの家です。
一般にその頃の建物を「昭和モダニズム建築」と呼ばれます。
 
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 以前は「海の民宿」でも商っていたのでしょうか?2階が宿部屋のような民家。
 路地の突き当りが御用邸前の砂浜です。ブーゲンビリアが似合います。
 
19世紀、ヨーロッパでは市民革命、産業革命を経て建築も大変革します。
建築デザインは、「市民意識」を反映しました。
市民は「平等なる主権者」を意識し、「合理性」を標榜していました。
そして鉄骨やコンクリート等、産業革命で得た新しい建材を使用しました。
この建築の新風を「モダニズム建築」と呼び、パリのエッフェル塔はその代表でした。
 
日本にも明治から大正にかけて、世界のモダニズム建築の波が押し寄せます。
そうして、昭和初年になると、モダニズム建築の日本化が始まります。
その始まりが上野の博物館、奈良博物館でした。
そして奈良県庁など馴染みの建物が全国各地で建築されました。
広い空間を確保する構造的・合理的な設計でありながら、屋根は寄棟にして瓦を載せました。
構造や建材はモダニズムでありながら、印象は日本伝統建造物、そんな建築を実現しました。
 
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     雑貨屋さん。農具や野菜の種も商っていました。葉山は農家も多いのです。
 
そうした流れは木造建築にも現れます。
鎌倉の御成小学校講堂は寺社建築を得意にした地元の大工さんが建てました。
日本の「昭和モダニズム建築」でありました。
民家も昭和モダニズムの影響受けたと思われます。
個室が増えた、洋風の応接間が作られた、土間が無くなり台所に水道、ガス等の施設が導入された、・・・・等等あることでしょう。
数奇屋建築の合理化、現代化・・・・とも呼べましょうか?
でも、民家は公的な建物ほどには評価されていません。
 
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        昭和22年、御成小学校講堂。保存問題は次に書きました。
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   空家のような古民家、西洋朝顔が自生して毎年花を咲かせます。主人を待っているようです。
 
昔ながらの葉山の景観は捨て難いものがあります。
葉山は交通の便が悪い、でも自然に恵まれて豊かな食生活が楽しめます。
日本有数の避寒地に山口逢春はじめ多くの画家や文人が余生を過ごしました。
 
私は蕎麦を戴きながら思います。
昭和初年にお妾さんを住まわせた人のことを。
事業に成功して、週末はゆっくりと葉山で過ごす。
其処には瀟洒な数奇屋が建っていて、
綺麗な女性が待っていてくれる。
小さな台所でかいがしく夕餉の用意をしている。
「今朝、鐙摺の港にあがった”あいなめ”を煮付けたのよ・・・」
そんな時間がこの家で過ぎた事でしょう。
「昭和初年・・・、良い時代だったなあ・・・・!」
宇野宗佑さんは総理大臣就任と同時に女性スキャンダルが発覚、
直後に辞任された。
戦後の市民の目は矢鱈に厳格なのです。
 
葉山には未だ良かった昭和の風が街角に吹いているようです。
 
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    葉山の渡邊家、敷地を割いて庚申塔を祀っておいでです。
 
 
  ※ 葉山の古民家と言うと「日陰茶屋」を思いますが、現建物は明治末年です。デザインは350年前、元禄を      踏襲していると思われます。従って今回は書きませんでした。
 
 
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霊気に満ちた「地蔵やぐら」

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台風15号、南海上から何処に行こうか?考えたのかもしれません、
1回りしてから、ゆっくり歩くようなスピードで東北方向に進みだしました。
四国沖では時速15キロ、自転車程のスピードでした。
横浜では時速45キロ、北海道では時速70キロにもなりました。
横浜が暴風雨に曝されたのは3時間程度でしたが、停電が3度も在って心細いこと。
南国、特に12号では大被害にあった紀伊半島では二日も三日も雨風に曝されては・・・・、大変だな、思いました。
今年は、神にも見捨てられたかのように「天変地異」が続きます。
天地神に改めて詣でなくてはならないようです。
被災地の方々にお悔やみ申し上げます。
 
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   今日の話題は鎌倉瓜ヶ谷にある「地蔵やぐら」です。中央に地蔵菩薩、後ろ壁に阿弥陀如来、左右の壁に    十王像が彫られています。
 
北鎌倉駅の南口を降りて、少し西に下ります。
巨福呂川を跨ぐ「十王堂橋」を渡ってすぐに左折します。
昔此処に在った十王堂(閻魔堂)は円覚寺に移され、弓道場として利用されています。
 
この辺りの谷戸を「瓜ヶ谷」と呼びます。
瓜畑があって、円覚寺のお坊さんに食べて戴いたのだそうです。
私の目的地は「瓜ヶ谷やぐら群」です。
 
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        梶原団地に向かう道を左折して、細道を行きます。葛原ヶ丘の麓に瓜ヶ谷やぐら群があります。
 
鎌倉にはやぐら(横穴墳墓)が2千から5千もあると言われています。
最大で最も美しいのが「名月院やぐら」です。
で、鎌倉市の史跡に指定されているのは「瓜ヶ谷やぐら群」ただひとつです。
「歴史的に価値がある」と認められているから史跡なのでしょうが、実際に確認すると「不思議だらけ」です。
「ミステリーが一杯だから・・・」史跡に指定されているようなものです。
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    「名月院やぐら」中央壁に二尊(釈迦・弥勒)、左右に16羅漢が彫られ、
    中央に死者の墓が祀られています。偉い人一人のお墓だと思われます。
 
鎌倉の府内から進むと、扇ヶ谷の海蔵寺の後ろ山に当たります。
化粧坂(けわいさか)を上ると、葛原ヶ丘になります。
此処は鎌倉幕府の処刑場があった所、日野資朝も此処で露と消えました。
葛原ヶ丘の西側斜面、藪と雑木の中に「瓜ヶ谷やぐら群」が潜んでいます。
葛原ヶ丘から行くのは道も消えているので困難です。
北鎌倉から回るのが賢明です。
 
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             棚田の奥、山の裾に瓜ヶ谷やぐら群があります。右の花は「玉アジサイ」
 
地元の人に「瓜ヶ谷やぐらは何処ですか?」
何度も聞きましたが答えは決まっています。
「この辺りは何処に行ってもやぐらだらけ・・・・ですよ」
「史跡で、中央にお地蔵さんが祀られていて・・・・・」
「この辺りはお地蔵さんは沢山あって・・・・、地図でもお持ちでないですか?」
 
梶原住宅地に向かうメイン通りを竹林の下を左折して、坂道を下ると棚田が見えてきます。
棚田の向こうの山裾に目指す「瓜ヶ谷やぐら群」があります。
草薮に隠れた畦道を進みます。
マムシが隠れていそうな、気味悪い道です。
まだゲンノショウコ(現の証拠/夏草、漢方薬)が咲いているのは山影だからでしょうか?
急峻な崖にロープが架かっています。
ロープに身を委ねて崖を上ります。
滑りやすくて危険です。
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     棚田の畦道に咲いているゲンノショウコの花
 
狸や狐が棲んでいそうな穴が幾つもあります。
それが瓜ヶ谷やぐら群です。
5つのやぐらの中で最大なのが「地蔵やぐら」です。
羊歯が茂った岩屋に間口横幅5m、高さ2m、奥行き7mの横穴が掘られています。
壁には鑿跡も鮮やかに残されています。
壁面が白いのは漆喰が塗られていたからでしょう。
ただ、漆喰か黴か見分けがつかない状態です。
天井も総じて白いのですが、「弁柄(べんがら)/赤色塗料、酸化鉄、京都一力の壁の色」が塗られていた・・・、聞いていたので、確認します。言われてみれば錆びた朱色が散っているようにも見えます。
霊気が漂っています。
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    ロープに掴って崖の上に上ると横穴が見えてきます。これが瓜ヶ谷やぐら群です。
 
暗闇に目が慣れてきます。
中央に地蔵菩薩坐像が祀られています。
壁には阿弥陀像、閻魔十王、五輪塔が浮き彫りされています。
岩壁には中段があります。
この段には五輪塔か石仏が並んでいたのでしょう。
床には穴が空いています。
穴の大きさからして、ここに骨壷を収納し、その上を五輪塔や石仏などの置いて、墓標にしたように思います。
 
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    岩壁に棚があって五輪塔が並んでいます。
    この五輪塔の下に穴があって火葬された遺骨を収めたと思われます。右の大きな五輪塔は浮き彫りされ    ています。この岩は鎌倉石(凝灰質砂岩)で暗い色なのですが、総じて白いのは漆喰のためと黴かもしれ     ません。天井は赤錆色の弁柄が塗られていたと言われています。
 
地蔵菩薩を先頭にして、十王像、最後に阿弥陀如来が西方を見ていることになります。
死後は自身の魂が阿弥陀浄土に救われたい・・・、究極の願望だったのでしょう。
しかし、生前の行為を閻魔大王をはじめ十王によって厳しく咎められる。
悪業の数々を思い起こせば、地獄に落ちるのは必定だと思われます。
ところが、中世になって地蔵信仰が盛り上がりました。
お地蔵様は実は閻魔大王の別の姿で、死後の魂を導いてくれる。
無明と呼ばれる闇の中から、三途の川を渡りきれない死者を導いて、浄土に送ってくれる・・・。
そう信じたのでしょう。
地蔵やぐらに身を置いていると、鎌倉時代人の信仰がわかるような気がしてきます。
そして、沢山の霊を一生に葬った形になっています。
 
此処に葬られている人たちはどんな人だったでしょうか?
考えられるのは、有力な御家人一族の共同墳墓でありましょう。
また、この辺りは新田義貞の鎌倉攻めの激戦地でありました。
化粧坂の攻防戦に埒が開かない、と判断した新田義貞軍は稲村ガ崎に向かいます。
この時の戦死者の合葬墓地かもしれません。
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      此処の棚には五輪塔か石仏が置かれ、その下に遺骨が収められていたと思われます。
      地面には幾つも穴が空いています。きっと遺骨を収納したものと思われます。
      遺骨の墓標であった石造物は盗難にあったと思われます。
 
鎌倉時代、府内の人口は5万人と言われています。
現在の同市の人口と変わりませんが、今は大船や手広など府外も含めています。
狭い府内にこれだけの人口を収容するのでしたから、墓も作れません。
そこで、岩に横穴を掘って墳墓にした。
 
この墳墓のことを「岩窟(イワクラ)」と言った。これが訛って「やぐら」と呼ぶようになった、と言われます。
江戸時代の相模風土記等では「窟」と書いて「やぐら」とルビをふっています。
でも、一般に「やぐら」と言えば「祭りやぐら」「相撲やぐら」「火の見やぐら」「歌舞伎やぐら」のように、四角く囲った入れ物を言います。
 
「やぐら」を石で囲めば古墳の玄室になります。
蘇我馬子の墓と「石舞台古墳」はその玄室が晒されています。
高松塚古墳やキトラ古墳の玄室の壁画は有名です。
「地蔵やぐら」の中でじっとしていると、此処は古代の古墳の玄室と同じだ・・・、思います。
そして「やぐら」とは玄室の意味だ・・・、おもいます。
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石舞台古墳の玄室。この形は「やぐら」です。
鎌倉の横穴墳墓を「やぐら」と呼ぶのはこの形を言い表したものと思います。
 
 
 
 
その妥当性は別にして、確かなことがあります。
同じ鎌倉時代のお墓には五輪塔が一般に使われました。
でも「やぐら」を使用したのは鎌倉だけです。
同じ北条氏が治めた上田の塩田地方(信州鎌倉)では平地に五輪塔を置いて墓にしています。
京都でも奈良でも「やぐら」は滅多に見ません。
鎌倉にしか「やぐら」が見られないのは鎌倉武士や僧侶が土地を大切にしたのが第一でしょう。
パールバックは「大地」において、中国では耕地敵地を巨大な墳墓にしているので近代化を疎外している・・・、指摘しました。
中国も日本も同じ農耕民族、祖霊信仰でくくられます。
でも、農地や住宅地を大切にするために、寺は谷戸に墓は岩に横穴を掘って作りました。
「質実剛健」を示す墳墓です。
鎌倉時代を背負った人達を尊敬します。
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                                          雪舟画「達磨面壁図」国宝
 
一方で、禅宗の影響もあります。
禅宗の始祖は達磨大師です。
達磨さんは横穴に閉じこもって修行しました。「面壁8年」と言われ、始祖の姿が禅機画として描かれました。
三方を岩に囲まれ、入り口は扉で閉ざしました。
この空間が最も落ち着けたのでしょう。
だから、鎌倉の武士や僧侶は好んで「やぐら」を掘って墓にしたのでしょう。
 
私は、「地蔵やぐら」の床に彫られた穴に落ちないように気をつけながら、外に出ました。
岩壁には一段と小さいのですがやぐらが作られています。
蜘蛛の巣に顔をやられながら、見て回りました。
 
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    葛原ヶ丘の東斜面には銭洗い弁天があって賑わっています。西斜面に瓜ヶ谷やぐら群があります。
 
 
 
 
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台風一過のサザンビーチ(ホームレス訪問)

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15号台風は凄い風だった。
我が家は3度も停電をしたし、庭木も折れた。
庭の老ウサギも犬も寝られなかったのであろう、食事を終えると眠りこけている。
老ウサギは「いよいよ、ご臨終!」勘違いするほど、動かなかった。
一応の整理を終えて、茅ヶ崎海岸に向かった。
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           筆者宅の老いたウサギ、触っても動かないので死んでしまった・・・、思いましたが、実は昨晩            寝られずに、今朝から熟睡していたのでした。
 
 
茅ヶ崎駅海岸口を降りると、そこは「雄三通り」と言う。
海岸通りとの交差点に「パシフィックパーク茅ヶ崎」と言う名のホテルがあった。
加山雄三の親族の共同経営であった、だからこの道を「雄三通り」と呼ぶようにしたのだろう。
そのホテルも今は無くなって、跡地はマンションに変わってしまった。
加山雄三から横井秀樹に売却され、更に転売されたのだった。
 
茅ヶ崎海岸は今は「サザンビーチ」と呼ぶ。
パシフィックホテルでアルバイトをしていた桑田佳祐のバンド名「サザン」を取ったものだ。
 
相模湾の筋向かい、葉山には石原裕次郎が育ったが、同町には「裕次郎ビーチ」も「裕次郎通りも」無い。
加山雄三も桑田佳祐も凄い人気だ。
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             サザンビーチに打ちあがった杉の木の根っこ。向こうに烏帽子岩が見える
 
サザンビーチには流木が打ちあがっている。
まだ生木で、樹皮がついているものもある。
どうしたわけか魚網を絡めた流木もある。
パワーショベルで砂を掘って、大きな穴を作っている。
浜辺に打ちあがったゴミを捨ててしまう積もりなのだろうか・・・・?
良くわからない。
 
沖合いには烏帽子岩が見える。
東を向けば、江ノ島が目と鼻の先に見える。
波乗りに興じる人影が眩しい。
今頃の時間に波と遊んでいる人は、私と同世代が多い。
 
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                          サザンビーチ、向こうは江ノ島、その彼方が葉山になる
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                            サザンビーチで波乗りする人達
 
私の今日の目的は、海岸の松林の中に住んでいるホームレスの様子見だ。
私は例年12月に入るとこの松林に「松ぼっくり」拾いにやってくる。
松ぼっくりは子供達がクリスマスのお飾りに使う。
子ども会の人数分拾うには、此処の松林に来る他は無い。
 
その松林に何時しかホームレスが住むようになった。
「上野公園のホームレス」は有名だ。
新宿地下街のホームレスは機動隊に撤去された。
その場所に動く歩道が作られた。
都庁職員は通勤し易くなった。
大都会のホームレスが追いやられる姿がTVに映ると、子供たちは「ホームレス虐め」をして遊んだ。
時々、死んでしまう人もいる。
 
「人の目に付かない所でひっそり生活したい」ホームレスの人達の気持ちであろう。
しかし、それでは餓死してしまう。
都会に近いところで生きなくてはならない。
サザンビーチの松林は格好なホームレスの「ホーム」なのだ。
 
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     サザンビーチの松林の中に青いシート。湘南ホームレスの住まい。
 
海岸通りも松葉が散って車が走り難いのであるが、松林の中は一層混乱している。
大きな幹や枝が折れて、歩き難くしている。
中には、根っこごと倒れている木もある。
此処の所有者は多分国(国交省、関東地建管轄)であろう。
植林したのだが、間伐して居ないので、木がいつまでも痩せ細っている。
従って、台風にも弱いのだ。
 
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   ホームレスの横で根こそぎ倒れた松の木。太い松の下に小屋を作っていたので、助かったそうだ。
 
ホームレスと雑談する。
「昨日の夜は怖かったでしょう?」
「そう、大変だったよ。怖くて寝られなかった。メリメリ、と音を立てて木が折れる。其処の木が倒れて来るし・・・、死ぬかと思った。でも、一番しっかりしている木の根元に小屋を作ったので、木が災難を除けてくれた。
寄らば大樹な訳だ・・・。」
「それは良かった。知恵ですね。」
「朝から、松の残骸を片付けているんだ。何れ、役所が片付けるとは思うのだが、少しは働かないと・・・」
「去年はお仲間が居たのに、随分減りましたね・・・」私が聞くと、
「一時は6人も居たんだが、今は二人だけになってしまった・・。他の場所に行っているんだよ。」
 
このおじさん、白髪ではあるが、洗濯された衣服を着て、風呂にも良く入っているようである。
写真も写させてくれるし、偏屈なところはまったく無い。
津軽、五能線の沿線で、太宰治の生家の近くの出身だそうである。
 
私が雑談している間に、友人が遣って来た。
「これから仕事に行くんだ!」
仕事とは「アルミ缶拾い」
一人では物騒だし・・・・・、いつも友人と出かけるのだそうだ。
傍らには自転車が置いてある。
 
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   ホームレスの友人と今日の缶拾いの相談をします。
   私はこの松林整備(間伐材の切り出しや、下草の刈り込み)を委託すれば良い・・・、と思うのですが。
 
私が話しました。
「私の身内に箱根の仙石原で生活している人が居ました。
すぐ隣がゴルフ場で、よく「ウワー!」キャディーさんの声がして、トタン屋根に大音響がしてロスとボールが飛んできました。
昼間はこれを拾って、夜はゴルフ場の中で、ロスとボールを拾っていました。
ロストボールを集めて、卸していましたが・・・・。」
 
ホームレスは不服そうでした。
「それじゃあ、社会の役に立っていないじゃないか・・・!」言いたげだ。
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 海岸通りは落ち葉がアスファルトを覆って、滑りやすく危険です。左の松林の先が海です。
 主として右側の松林の中にホームレスさんは住んでいます。
 
サラリーマン時代同僚が「ホームレスの実態調査」をしたことがある。(10年以上前)
当時は小泉改革が進んでいた時代だった。
急激にホームレスが増え、「何処か変だぞ!」気づき始めた頃だった。
記憶している要点は以下の通りある。
1、ホームレスは全国で5万人以上居て増加基調にある。
2、ホームレスの人は大半が定職者であったが、定期職員から臨時雇用にになり、解雇された経緯がある。
3、ホームレスの大半は働く意欲があるにも拘わらず、仕事に就けないで居る。(主として中小企業の加工業)
4、ホームレスは男性・中高齢者が目立つ。(女性や子供が少ない保護施策が整備されているからだ。)
5、ホームレスの基本パターンは次の通りであり。
「田舎から出てきて、町工場で働いていた親爺に仕事が無くなった。働きたいのに仕事が無い。子供や女性と違って保護施策も無い。止むを得ずホームレスになってしまった。「働きたいし、社会の役に立ちたい・・・」
そこで空き缶拾いに精を出す。
でも、体に悪いし、危険も多い。せいぜい3年で終えないと、命が持たない」
実は世を捨ててのんびりしている様に思うかもしれないが、あせっているのだ。
ホームレスは仙人では無い。
 
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                  ホームレスさんは一際太い松を大黒柱にして小屋を組んである。
 
厚労省は政策の過ちに気づいたのでしょう。
2002年に「ホームレスの自立に関する支援特別措置法」に基づいて実態調査と自立政策を進めている。
2020年にはホームレスの数は2.5万人に減少している。
「効果が現れた・・・・」胸を張っているようだ。
しかし、中小企業の倒産、海外移転が進んでいる。
「ホームレス対策」は「就労対策」である・・・・、根本のところはなおざりのようである。
 
社会の役に立つ仕事は、「高付加価値、国際競争力に富んだ仕事」だけでは無い。
昔は「にこよん」と言う仕事があった。
日働きで240円貰えるので、にこよんと呼ばれていて、道路の整備(凸凹を埋める)等をしていた。
 
台風一過のサザンビーチ、様々な表情がありました。
ニューヨークのホームレスはヒッピーと呼ばれる若者で「自然回帰」を主張するムーブメントであった。
平壌のホームレスは子供達である。
東京のホームレスは中高齢者である。
私は、この順で社会の病巣が深い・・・、と思う。
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                       津軽出のホームレスさん。清潔な身なりですし、筆者と同年代です。
 
 
 
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島崎藤村の「終の棲家」

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日本の文学の一つの流れに「私小説」があります。
自分の体験や心の内を吐露します。
ですから、作家自らの「醜い現実」を赤裸々に描いたものになります。
視線が作家自身の心の中に向かえば「内省的」になるし、社会に向かえば「社会批判」になります。
「自然主義」とも呼ばれます。
作家や編集者に倫理観が乏しいと、「悪露趣味」に陥ります。
現在マスコミの「ワイドショー」や「写真週刊誌/FOCUS等」その流れになるでしょう。
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                 今日の話題「島崎藤村夫妻」。藤村は自然主義文学の大家。
                 写真は大磯町作成のパンフレットから転載
 
15号台風一過、大磯の「島崎藤村」の最期を迎えた家に行きました。
昭和16年2月、藤村は大磯に転居して、静子夫人と二人だけの生活を送ります。
この家を「静の草屋」と呼びました。
「静」は閑静な事と、奥様の名に拠るのでしょう。
更に、「そろそろ、静かに人生の幕を閉じたい」、そんな思いも込められていたことでしょう。
4畳半の書斎と控えの間だけの簡素な住居です。
 
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                     島崎藤村の終の棲家、藤村の時代、この家から海が見えたそうです。
 
屋根に風蘭が自生した瀟洒な冠木門をくぐります。
何処かにセンサーがあったのでしょう。
チャイムが鳴って、声がします。
「庭先からどうぞ・・・・!」
女性が一人で、台風で荒れた庭を掃除されていました。
此処の管理は大磯町ですから、女性は町の職員かボランタリーでしょう。
国道沿いの鴫立庵と同じです。(藤村邸は無料)
訪問者記録に名前を書かされます。
今日は私が最初の見学者です。
 
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                                                       藤村宅の門
 
縁側に腰掛けて、庭や室内を眺めていると、管理の女性が声をかけて下さいました。
彼女の話を核に最期の藤村を表してみます。
 
戦争の気配も濃くなった昭和16年2月、藤村夫妻は転居することにします。
明治学院大学(品川高輪)の名誉教授でもあったので、大磯に決めていました。
大磯の砂浜は古事記にも登場、「こゆるぎ浜」と呼ばれる白砂青松の名勝であります。
加えて、「左義長・ドンド焼き/藤村の故郷馬篭では三九郎と呼ぶ」が大磯の名物でした。(無形文化財)
現在も9基もの「どんど」が砂浜に立ちます。
 
小正月の夕暮れ、裸になった男達は海に入って身を清めます。
砂浜に上がって、「どんど」に火をつけます。
火柱が天に昇ります。
男達の体から湯気が昇ります。
 
「海が見える、どんど焼きも眺められる、簡素な家が良い。出来れば大磯駅の徒歩圏で」
格好の貸家を探しました。
家主は地元・老舗の菓子司「新杵」でした。
同店の主商品は「西行饅頭」、藤村の敬愛した歌人の名を戴いています。
勿論、夫婦ともこの饅頭を好みました。
 
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    大磯町の和菓子「新杵」が藤村宅の家主でした。名物「西行饅頭」が取り持つ縁だったかも知れません。
    鎌倉、藤沢、逗子には文豪が立派な邸宅を構えました。藤村は先ず簡素な事では第一でした。
 
庭にはタブの木がありましたが、あとは何も在りませんでした。
故郷の馬篭には辛夷が咲いていました。
藤村は白い花が好きでした。
そこで白い椿、灯台躑躅 (どうだんつつじ)白萩を植えました。
大磯の砂浜に転がっていた岩も入れさせました。
あばた顔のような傷のある岩の表情が好みでした。
 
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     庭木の大半は藤村が探してきました。灯台躑躅 (どうだんつつじ)もその一つでした。
     春先に白いすずらんのような花が咲きます。 奥のタブの木は貸主が植えたものでした
 
私はかねてからの質問をしてみました。
藤村のお墓のことです。
石の角柱に「島崎藤村墓」とだけ刻まれています。
隣には「島崎静子墓」、まったく同じデザインです。
 
藤村はプロテスタントの洗礼を受けています。
その後、教え子佐藤輔子とのスキャダルで自責、棄教します。
角柱に横木が入れば十字架です。
棄教の経験が仏式でもない、ましてキリスト教にも拠らないシンプルなお墓になったのか・・・?と。
   
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         藤村の「人となり」そのもののような藤村の墓。大磯地福寺の境内、梅林の中にあります。
 
その答えにはならないかもしれないけれど・・・・、言いながらファイルを持ち出して来られました。
其処には「藤村記念堂」の設計者「谷口吉郎」氏の説明が整理されていた。
同氏は「藤村記念堂」と「慶応義塾大学校舎4号館及び学生ホール」を設計しました。
日本建築学会作品賞を受賞(1949)しています。
 
藤村記念堂は「馬篭の自然や人々の生活」を表した建物にした。
その意味で「馬篭記念堂」としてデザインしたのだそうでした。
藤村は木曾の山深い馬込を出て、二度と故郷に戻りませんでした。
でも、その文学に馬篭を切り離しては考えられませんでした。
だから「藤村記念」は「馬篭記念堂」と同じ意味なのでした。
馬篭の外から建材などを運ばないで、馬篭の石、砂、木を使って、馬篭の住人の労力で建築しました。
従って、素人ばかりですから設計図もシンプルで簡素に、作りやすくしました。
同氏が大磯町「地福寺」の藤村夫妻の墓を設計したのだそうでした。
藤村記念堂と共通するデザインでした。
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                                     藤村の戒名、藤村旧宅の縁側にて
 
藤村の戒名が気になります。
葬式を挙げるのは本人の意向もありますが、遺族の考え方が一番大事でしょう。
やはり普通に葬式を挙げたかった・・・・、葬式を挙げるには故人の意向に寄ろうか寄るまいか・・・・、お寺さんにお願いして「戒名」を戴かなければなりません。
そこで、地福寺の住職にお願いしました。
住職は考えたのでしょう。戒名といえども「俗名・藤村」に勝る名前は無い。
閻魔大名も「藤村」の名は聞いておいででしょう。
そこで、戒名も藤村にしました。
でも、院号を入れて最高の9字の名前に飾ってみました。
「文樹院静屋藤村居士」
「静の草屋で亡くなった藤村と言う文豪」の事でした。
藤村は言っているでしょう。
「そんなのなら、簡素に『藤村』で十分じゃないか・・・」
 
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     藤村新婚で小諸義塾で教鞭をとっていたころの家。大磯旧宅の倍の広さです。
 
この夏に私達夫婦は藤村の結婚当初の家に行きました。
小諸に在ったのでしたが、現在は佐久の貞祥寺に移築されています。
この家から藤村は小諸義塾に通いました。
そして、最初の小説「破戒」を書きました。
被差別部落に生まれた主人公「瀬川丑松」は学校教師でした。
 
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     藤村、新婚時代の家。此処で「千曲川旅情の歌」を作り、後の「破戒」の舞台になった。
 
藤村は中山道馬篭の名主の家で生まれました。
馬篭は峠の宿場町です。
牛や馬は大切な家畜でした。
家畜も年齢を重ねれば屠殺したりしなければなりません。
その仕事は「エタ・ヒニン」と呼ばれた非差別民にやらせました。
何故なら、仏教では四足動物を殺す事は禁じられていましたから。
落合川の川原で死体は解体されました。
川が真っ赤に染まって、木曽川に流れ込みました。
そんな生活が、馬頭観音、牛頭観音を多く残しました。
破戒の主人公も「川の瀬に住む丑松」にしました。
 
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     この庭石も藤村が探した、好みの石だそうです。
 
藤村の時代は、急速に西洋文明が日本に流れ込みました。
多く、西洋文明をストレートに受け入れました。
でも、何処か違う、気づいていました。
究極は、「キリスト教の教義」との衝突でありました。
 
その問題を私小説「桜の実の熟する時」に書きました。
オルガンの響きに憧れて教会の門をたたきました。
でも、どこかが違う・・・、悩みます。
主人公は悩んだ挙句にキリスト教を棄てました。
 
藤村の恋人佐藤輔子は早世してしまいます。
藤村は「家」「血」など、日本の根幹に詰め寄ってゆきます。
本人も姪の「こま子」と愛人関係になり、妊娠してしまいます。
「新生」に書きました。
 
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  藤村書斎、4畳半で桑の木製のふみ机が置かれていました。 頭の中が良く整理されていたからこの狭い空  間で「東方の門/未完」を執筆できたのでしょう。
 
 
日本社会も文化も喧騒のきわみだったでしょう。
ようやく静子夫人との静かな生活が始まりました。
大磯で「東方の門」の著作が始まりました。
日本の将来に不安を感じていたのでしょう。
静子夫人は貸家の隣の土地を購入しました。
其処に家を建て、書庫にしました。
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  藤村旧宅の隣に静子夫人が建てた家、当初は書庫とされていた。今は静子夫人の遺族がお住まいです。
 
 
藤村は「東方の門」の原稿を書き上げると、静子夫人に協力してもらい「読み合わせ」をしていたそうです。
読み合わせする事によって、文意が正確に著されているか、文章として品格が在るか・・・・、などなど校正したのでしょう。
 
昭和18年8月22日の昼下がり、広間で読みあわせをしていました。
「子ゆるぎの浜」から海風が吹いてきました。
静子夫人に言いました。
「良い風が吹いてくるね・・・・」言いながら藤村は首を傾けたそうです。
脳溢血が藤村の死因でした。
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藤村旧宅の広間縁側から海の方角を見る。藤村最期に目に映った空間です。
 
 
 
 
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小出川の道祖神の教える事

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東北大震災の大津波では、神社に避難した人が多く助かりました。
津波は田や民家を越えて、丘陵の麓まで押し寄せていました。
丘陵の中腹には神社がありました。
神社の参道が「命を救った道」になったわけでした。
この事実を、TVで検証していました。
 
相模湾の津波としては、明応地震が記録に残されています。
明応7年(1498)9月20日、大津波が相模湾を急襲し、鎌倉大仏の建物は押し流されてしまいました。
以来大仏は露座になってしまったままです。
次いで「元禄大地震」、元禄16年(1703年)12月31日に発生、富士山の大噴火もあって、徳川綱吉は失脚します。
そして、関東大震災(大正12年9月1日、1923年)、相模湾沖を震源地とする、M8.4クラスの地震でありました。
津波による死者は300人余りであったが、大火災が発生し、死者行方不明者は15万人に及んだと言われます。
この時の津波が6mであったことから、県の防災対策は「6mの津波」を想定している。
(6mという事は湾の形状では20mにも及ぶ)
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   今日は茅ヶ崎市の山側「相模台地」の話です。右の川が小出川、彼岸花の名所です。今年は不冴えです。
 
鎌倉大仏は建設した地選択の誤りだと思います。
津波の一番厳しくなる場所に寺を建ててしまいました。
藤沢の遊行寺をはじめ、藤沢から茅ヶ崎にかけて、多くの寺社は丘陵の上に建てられています。
遊行寺のある藤沢山から芙蓉カントリー、300ハンドレッドクラブと高台が続いています。
高台からは海が見渡せて、その下を東海道(国道1号線)が走っています。
この高台に寺社が並んでいるのを見ると、先人の知恵とわかります。
大仏様の誤りを肝に命じたと思われます。
 
そんな寺の一つに茅ヶ崎「浄見寺」があります。
寺の裏山が300クラブになります。
 
高台は、水田の耕作には不適当と言うことになります。
東の境川、西の相模川、何れからもこの高台に水を引く事は困難でした。
幸いな事に、小さな川がありました。幅跳びで越せるような川でした。
これが「小出川」で、1級河川です。
藤沢の遠藤を水源として、南に相模台を縦断して約11キロ流れます。
何で田圃の小川が1級河川なのか?
答えは簡単で、湘南カントリークラブの横から相模川(1級河川)に合流するからです。
 
小出川を散策すると、先人の苦労に思いを馳せます。
其処此処に水門があって、更に細い「掘割」が引かれています。
僅かな水を公平に使い切って、水田を開墾したのでした。
小さな掘割にも、小さな橋にも、名前が付いています。
多くが名主や百姓代の名が、中には比丘尼の名も付いています。
 
そして、川の両側の土手には彼岸花が一斉に咲きます。
彼岸花は堤(土手)を守るために植えたものであろう。
鼠や土竜(もぐら)が堤に穴を掘っては困ります。
彼らの忌避植物として彼岸花を植えたのでした。
また、土手や畦は田圃の境界線である。
境界を明確にしておくことで無益な紛争を避けることが出来ます。
これも先人の知恵、
私達は彼岸花が綺麗なので、うららかな秋の一日を田園歩きで楽しむことが出来ます。
 
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   小出川、正面が大山になります。
 
この辺りは幕臣「大岡家」が治めていました。
享保の改革を推進した徳川吉宗の下で、大岡忠助は江戸町奉行として活躍します。
「大岡裁き」は自著「大岡政談」に拠っているのであろうが、
この相模台地の開墾の苦労が能力を培ったものであろう。
忠助は江戸町奉行として「町火消し」制度も導入しました。
大岡家の菩提寺には「町火消し」の勧進が目立っています。
 
面白いのは「町火消し」の前に「廓」があって、その前に「米屋」があることだ。
多分大岡様の菩提寺「茅ヶ崎の浄見寺」の再建問題が起きました。
江戸の下町では相応に協力せざるを得なかったでしょう。
先ず、大金を出したのは「両替屋」、次いで「吉原(廓)」そして、数で頑張ったのが「町火消し」であったのだろう。
目黒の羅漢寺でも、江ノ島神社でも「廓」はスポンサーになっている。
廓は遊女にとっては「苦界」と呼ばれる。
遊郭の経営者は社会貢献を常に心がけていたのであろう。
掘割築造も、菩提寺再建協力もどちらも社会貢献であったろう。
 
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   浄見寺の門、門柱には町火消しの命、纏がデザインされています。
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   浄見寺寄進者の札、上段から吉原の廓、下段に町火消しが並びます。
 
浄見寺のすぐ前にも掘割がある。
安永年間、香川村の名主「三橋勘重郎」が築き、25町の美田を潤したものでありました。
掘割にかかる橋がある。
その横に道祖神が祀られている。
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   右が三橋勘重郎が築いた掘割。左の道を行くと浄見寺に至る。橋の脇に道祖神が祀られている。
   道祖神の頭上に柿木が生えている。
 
 
道祖神は小さいものの、なかなかの秀作である。
表情も良い。
でも、興味深いものがある。
舟形光背に男女の神像が並んでいる。
男女の神が並ぶことは、子供に恵まれ健康に育つこと、そしてお米が豊作になるように・・・・、そんな祈りが込められている。
舟形光背には奉納した年が刻まれ、奉納した「講/信者集団」の名が刻まれている。
その上に、光背の上部に「庚申塔」と刻まれている。
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         道祖神二基、地蔵尊1基、五輪塔の残欠が祭られています。
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  明和6年(1769)の双体道祖神、でも、庚申と刻まれている。奉納したのは庚申講であろう。
  黄色スズメバチが男神にたかっていました。柿の実に集まる昆虫を待ち構えているようでした。
 
これは「道祖神」か、それとも「庚申塔」か、議論が分かれることであります。
で、奉納したお百姓に尋ねると・・・・・、多分こんな答えが返って来るでしょう。
「道祖神様は私達の家族を守ってくださる神様だぞ。
庚申塔は私達が正直で勤勉に働くか、見ている仏様だぞ。
人を騙したり、怠っていれば罰を与える、閻魔様みたいなもんだ。
私達は両方信じているし、感謝している。
でも、日頃は庚申様とは呼ばないで、道祖神様と呼んでいるんだ」
 
信仰とはそんなものでありましょう。
先人の信仰を受け継いで、自分は信仰を形作ってゆきます。そして後人に伝えます。
親鸞の阿弥陀信仰も、師を「法然上人」に導かれています。
法然上人も先を辿れば、比叡山の「不断念仏」や、源信の「往生要集」に導かれています。
親鸞の後には一遍が続きます。
先人の成果の上に自身の苦労や経験を重ね、後人に伝えました。
 
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                      掘割を築いた三橋家の住宅が浄見寺裏に保存されています。
 
まして、字の読み書きが出来なかった人達です。
閻魔様を核にした「十王信仰」、閻魔様の別の姿「地蔵信仰」が近世になると民間に浸透します。
それらを現世利益に描き直して「庚申信仰」が隆盛します。
更に、江戸時代中期(「元禄時代)以降は道祖神信仰が一般化します。
「私達の家族の繁栄と豊作」を守ってくれる道祖神が一番ありがたい・・・・、だから田圃の掘割に道祖神を祀りました。でも、その信者組織は一昔前の「庚申講」を使いました。
そんな現実の現われが「庚申塔」か「道祖神」か判別できない、混交した石仏なのです。
 
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                 三橋家の庭に置かれている善光寺式阿弥陀三尊像。伝統的な作風です。
                 何故、此処にあるのか疑問が沸いて来ます。
 
大岡忠助の判断も「現実や実態」を尊重したものだったのでしょう。
浄見寺の本堂、お賽銭箱を見て最初驚きました。
お金を入れる「巾着」が置かれています。
直ぐに気づきました。
此処の本尊は「弁財天」だから・・・・・。
 
豊作を約束してくれる美田も理屈だけでは実現できません。
沢山の掘割を築き、水門を設けて・・・・・、労力を惜しまないで開墾しました。
その結果、相模台地に「吉田/きちでん」が出来ました。
日本の人口は1000万人あまりから3000万人に急増しました。
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        浄見寺本堂。赤い巾着のお賽銭箱が目立ちます。
 
 
浄見寺近辺の春の景色は以下に書きました。
 
 
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「逗子マリーナ」の防波堤壊れる!

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ブログ友人の記事で「逗子マリーナの防波堤が先日の台風で破壊された」とあった。
私は驚いて早速自分の眼で確認してきた。http://blogs.yahoo.co.jp/kichizaemon15th/64773455.html
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  今日の話題は逗子マリーナの防波堤が台風15号で破壊された事です。
           稲村ガ崎から江ノ島が見えます。
 
逗子マリーナの突端の海には無数の「波消しブロック」が積まれている。
更に、防波堤が築かれて、逗子マリーナを守って居る。
その突端部分の防波堤が10mに及んで壊れている。
そして、マリーナの外周道路に飛ばされていた。
数人の見物人が見詰めている。
「波の力って凄いのね!こんなに分厚いコンクリートを飛ばしてしまうのだから。」
「でも、この防波堤は、欠陥品じゃない?」
言い合っている。
壊れた防波堤から海に出て、釣りをしている人が居る。
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   テトラポットと防波堤で埋立地「逗子マリーナ」が守られています。
   破戒された断面には鉄筋が一本も見えません。 これでは波から守れません。
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コンクリートは分厚い、しかし、鉄筋と思われるものは全く無く、コンクリート型枠を維持した鉄線が残されている。
その部分から断裂して飛ばされていた。
私達市民の常識では「棒鋼」を網の目に組んで鉄筋にする。
そして、砂と小石と水を決められた割合で混ぜ、攪拌した生コンを入れる。
それが「鉄筋コンクリート」です。
こんな防波堤では台風で壊れてしまったのは何の不思議も無い。
「張子の防波堤」である。
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  波で飛ばされた防波堤には細い鉄筋(コンクリート型枠の残存)が見えるだけで、
  棒鋼は1本も入っていません。 
 
神奈川県(横浜市?)は6mの津波を想定して地震対策をしている。
6mとは関東大震災(M8.4)クラスの地震である。
東北大震災(M9.2)クラスは想定外という事だろう。
まして、この防波堤である。
津波が一気に防波堤を吹き飛ばして、逗子マリーナからその奥の小坪の住宅を壊滅させる事であろう。
これでは命を預けられない。
私は、誰がこの防波堤を作ったのか?
誰が、認可したのか?
誰がレビューしたのか?
考えた。
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                                    逗子マリーナのクルーザー係留地。 
 
昭和34年頃の事だった。
小学校の教室で「映画に出演したい人居ますか?」尋ねられた。
松竹大船撮影所の仕事で「紀伊国屋文左衛門」の撮影が小坪漁港で行われていた。
そのそのエクストラとして学校に協力依頼があったのだった。
お調子者の私は手を上げた。
でも、生徒は略全員手を上げた。
そこで、先生は算数の問題を出した。
最初に正解を出した10人余りが、早めに終業となって、小坪漁港に向かった。
その頃の小坪は江戸時代の紀伊国の港の雰囲気を持った美しい漁港であった。
私達は文左衛門が江戸に向けて材木を船に乗せる、そんな場面を飾った。
 
堤清二氏が率いる西武セゾングループは、義明氏が率いる西武鉄道グループに対抗心を持っていた。
西武百貨店、西友の成功からホテル事業、不動産事業に進出した。
事業主体は「西洋環境開発」、西武鉄道グループのプリンスホテルや西武不動産、国土計画の事業に比べれば遥かに後発であったが、新鮮なものがあった。
 
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    逗子マリーナのセンター街区にある「リビエラリゾート」。
    レストランやプール、パーティー会場があります。 
 
「公有水面埋立て法」という法律がある。
海や湖、河川を公共財と考え、それを埋め立てる時の準拠法であった。
海などを埋め立てる際の許認可権は「知事」にあった。
鎌倉も逗子も山は急峻で土地が狭い。
そこで、西洋環境開発は鎌倉12社の山を造成して「鎌倉霊園」を開発する計画を有していた。
山の廃土を如何にかしなくてはならない。
そこで、小坪の海を埋め立ててしまえ・・・、考え付いた。一挙両得のアイディアであった。
鎌倉市(鎌倉霊園)、逗子市(逗子マリーナ)共に税収がアップする。
 
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                 鎌倉12社にある鎌倉霊園。鎌倉の山は山桜が多い。海が見える。
 
当時は「海」も「山」も大切な環境であり、公共の財産である、そんな認識は薄かった。
そこで、神奈川県は地元市町村の期待通り開発を許可した。
鎌倉の北の山は削られて大規模な霊園に変わった。
昭和46年、材木座海岸と小坪漁港の間に「逗子マリーナ」が出来た。
 
大正12年立法以来手付かずであった「公有水面埋立て法」は東京湾沿岸の大半が埋め立てられてしまった事態を確認した。
市民やマスコミが問題にして、昭和48年改正された。
逗子マリーナは既に竣工しており、人気が更にアップした。
 
 
西洋環境開発は平成13年(2001)バブル崩壊で多額の負債を抱え特別清算された。
同社の巨額の負債が西武セゾングループ解体の大きな要因となった。
投資ファンド会社が手を上げて、逗子マリーナの受託運営に乗り出した。
管財人は㈱リビエラリゾートに逗子マリーナを委ねた。
 
逗子マリーナや小坪の住人は同社では防波堤問題を解決できない事を知るであろう。
開発主体は清算されてありません。
許認可、検査責任を自治体に糾す事でしょう。
 
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     リビエラリゾートのオープンテラス
 
鎌倉市は世界遺産として手を上げた。
「武士の都」がテーマだそうです。
狭い地方都市から日本全国を支配した。
「質実剛健」「簡素な衣食住」等が評価される事でしょう。
将軍実朝、尼将軍北条政子などの横穴墓(やぐら)が驚嘆されるでしょう。
「為政者トップが横穴墳墓に眠っている事実」を素晴らしいと評価されるでしょう。
ユネスコの審査員は見つけるでしょう。
山肌が削られて大規模な霊園が出来ています。
そして海を見ると逗子マリーナの威容があります。
「何だ!これは地中海のリゾート「リビエラ」のコピーではないか。加えてリビエラの名まで使っている。
「800年前の”武士”は素晴らしかったが、現代の日本人は如何なってしまったのか?」
首を傾ける事でしょう。
更に、ノーベル賞を受賞した川端康成を思い起こします。
川端康成はノーベル受賞に際し「美しい日本の私」と題して記念講演をしました。
同氏が逗子マリーナで死んだ事、そのお墓が鎌倉霊園にある事を理解に苦しむ事でしょう。
これは世界遺産検討委員会の目では「美しい」と思わない。
「日本人は変わってしまった!」
 
私は鎌倉も逗子も好きである。
でも、ユネスコの世界遺産審査委員会でどのように審査されるか、少なからず心配している。
800年前の文化に「世界遺産」と胸を張るのは良い、
でも、私達世代は800年前の倫理観を葬り捨てて来たのではないか?
「日本の主張は矛盾していないか?」
審査委員が口にするかどうかは判らないが・・・。
私達は「世界に大恥をかくのではないか!」
この、張子の防波堤の残骸を見ていると・・・・・、そう思う。
 
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     鎌倉の誇りの一つ横穴墳墓(やぐら)。写真は北条時宗夫人「覚山尼墓」
 
 
 
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葉山の馬頭観音石仏

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「葉山」の名は「照葉樹に覆われた山」の意味であろう。
湯殿山の手前にも葉山があって「霊山」として信仰されている。
奈良山の辺「三輪山」は常緑が美しい「ご神体」であり、葉山である。 
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               葉山の山道(子安の里)。この道を馬の背に物資を乗せて運びました。
    
三浦半島の葉山と言えば御用邸のある避寒地のイメージが強い。
葉山の名は「大楠山」が聳えていて、楠やスダジイに覆われた山であるから付いたものであろう。
山を覆った照葉樹の森からは沢山の渓流が流れ出ている。
精々2キロ程度の川であるが、瀬や淀みがあって、滝がある。
木古葉(きこば)には「不動の滝」がある。
荘厳な滝の岩場に不動明王が祀られている。
 
子安村の道筋には「関根お滝不動尊」が祀られている。
此処は崖崩れの中から不動明王(石仏)が出現した。
そこで、不動明王を祀ったものだそうだ。
不動尊の横には水汲み場がある。
大楠山の湧き水が出ているのだ。
週末には細い山道が渋滞する。
この水を沸かして飲むお茶やコーヒーは美味しいのだそうだ。
我が家も戴いている。
 
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   道路から谷に舞台を張り出して「関根お滝不動尊」が祀られています。
   左に見えるのが水汲み場です。不動尊の背は渓流を挟んで大楠山になります。
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    関根お滝不動尊の主尊の不動明王。崖崩れで発見されたと言う。
    破損の修復技術が稚拙であるが、逆に凄味や霊力を感じさせる尊像です。
 
関根お滝不動尊の道を海岸に下ると、有名な「立石」がある。
海中から10m程の岩が垂直に立っているのだ。
岩の頭には緑もある。
二見ヶ浦の夫婦岩を思わせる姿だ。
でも、立岩の岩は一つだけだ。従って注連縄は張られない。
ただ、彼方に富士山が見える。
 
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   葉山の名勝「立岩」。安藤広重も描いています。この山側に「立岩不動尊」が祭られています。 
 
立岩から大楠山に入った所に「お滝不動尊」が祀られている。
大楠山は霊気溢れる山だから、その山麓には神仏が多く祀られている。
不動尊、庚申塔、そして馬頭観音も多く見かける。
 
大楠山を越えるために、馬の背に海・山の物資を乗せて運んだのである。
此処は「浦賀道」にも近いところにある。
馬が急な坂で足を痛めてしまう事も度々であったであろう。
足を痛めた馬は屠殺する他は無い。
痛ましい馬の霊を癒すため馬頭観音を祭ったこともあるであろう。
そんな事にならないように、大切な馬を守って欲しい、
祈りを込めて馬頭観音を祀ったのであろう。
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        立岩不動尊境内の馬頭観音像、見開いた目、ふくよかな顔が印象的。
        怒りで髪が立っています。指は馬口印を結んで、頭には馬の顔が乗っています。
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       立岩不動尊は崖崩れで入れませんでした。5年ぶり(?)で崖工事を終えて、
       この秋から詣でられるようになりました。
       不動明王の背景の崖は修復を終えたもの。その左に10m程の崖があります。
 
 
馬頭観音が馬の守り神、馬の成仏を見届ける仏になったのは江戸時代からである。
江戸時代、日本では農業の革命が行われた。
従来は人力のみで農作業をしていたものが、牛馬を使い始めた。
力のある牛は田起しに使われ、馬は運搬に使われた。
灌漑工事も行われ、様々な農機具も開発された。
農業革命の成果で、日本の人口は1千万人から3千万人に急増できた。
姥捨てや間引きの風習は「悪い事」として戒められ始めた。
そして、大切な家族「馬」を守る「馬頭観音」を祀ったのだった。
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   立岩不動尊、もう一体の馬頭観音。渇を入れるかのように大きく口を開いています。
   光背の左 に「立岩」と読めますので最初からこの辺りに祀られていたのでしょう。
 
平安時代、大宰府観世音寺には巨大な馬頭観音が開眼した。
宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩である。
優しい表情の観音仏の中で、馬頭観音は唯一恐怖を与える表情である。
「馬頭明王」が適切な名前である。
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                大宰府の観世音寺の馬頭観音、四面八臂(手)の巨像です。頭上の馬の顔、                 憤怒の顔・・・・・、馬頭明王が似つかわしい名前です。
 
平安時代に入って阿弥陀如来の脇待であった観音像が単独で信仰されるようになる。
観音は様々に変化して衆生を救済してくださる。
その姿は33もある。
聖観音、十一面観音に如意輪観音、千手観音・・・、
人間が様々であるから、救済するには観音様が変化するのが有難かったのである。
変化した観音像は各地に散って、衆生を救済してくださる。
救済を求める人達は各地に分散した観音霊場を巡るようになった。
観音様は優しい、美しい、慈愛に満ちた表情をしている。
母親の顔を髣髴させる。
 
唯一、馬頭観音は違った。
人間は叱ってもらわなくてはならない状態に陥る事がある。
母親が子供に総じて優しく接するが、時に心を鬼にして叱らなくてはならないように・・・。
馬は草を貪るように食い尽くす。
その様子を見つめていた人間は思った事であろう。
自分の心に宿った煩悩・欲望をこの馬のように食い尽くしてくれたなら・・・・、自分も成仏出来るかもしれない。(成仏とはお釈迦様のように悟る事、死ぬ事ではない)
自分の心にはいくら戒めても、善行をつんでも、時に悪魔が棲み付いてしまう。
刈っても刈っても生えてくる雑草のように。
この馬のように、観音様が煩悩と言う名の雑草を根こそぎ食い尽くしてくれたら良いのに・・・・。
そんな役割を負ったのが「馬頭観音」であった。
だから、平安時代には盛んに造仏され、祀られていた。
 
ところが、中世に入ると馬頭観音は忘れ去られてしまう。
煩悩からの脱却は至難な事であるから。 
お釈迦様にはなれませんでした。
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                 筆者の住む倉田の馬頭観音。此方には怒りの表情は全くありません。
 
そして、江戸時代中期(近世)におきた農業革命で馬頭観音が再登場したのでした。
全くと言って良いほど仏教の儀軌(仏像の容姿の決まり)を無視していました。
頭上の馬の顔、両手で組んだ印相(馬の口の形)だけ採用されて、
馬頭観音は優しい表情になりました。
 
馬頭観音は山深い信州、とりわけ木曽路や伊那路には秀作が多くあります。
此処葉山の立石不動尊にも二体の馬頭観音は何れも目を惹きます。
舟形光背には何か刻まれています。
でも、風化と苔で何も読めません。
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             子安道の彼岸花。この500m程下に関根お滝不動尊が祀られています 
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                子安道の無縁仏。大半がお地蔵様です。 
 
 
 
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鐙摺・日影茶屋の不思議

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海岸通り(国道134号線)を鎌倉から逗子、更に渚橋を渡って右折すると、葉山の旧市街地に出る。
左右は山で道は曲がりくねった坂道である。
右手には漁港と市場施設が見えている。
ここが鐙摺(あぶずる)、聞き慣れない地名である。
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  今日の話題は葉山の入り口にある「日影茶屋」です。一番左の客室棟と一番右の石蔵   が国登録有形文化財です。手前の鉄の階段が鐙摺山の登り道。
 
 
(あぶみ)は乗馬の際に脚を乗せる馬具である。
源頼朝此処にあった山城に登ろうとして、狭い坂道を通る際に鐙を岩に擦ってしまったので鐙摺の名が付いたのだそうだ。
頼朝の死因は相模川に架かった橋の祝賀式に際して落馬して水死したと聞くので、
乗馬は得意でなかったようだ。
奥方の政子は乗馬が得意で私の町に「洗馬」「洗馬川」の名が残っている。
馬も気性も奥様が優位にあったようだ。
 
源頼朝挙兵の際、頼朝に加勢した三浦義澄がこの 山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名が付いたそうだ。
頼朝は三浦一族の加勢を期待して伊豆の石橋山で挙兵した。
しかし、期待の三浦は畠山や大庭に妨げられ、戦場に行けませんでした。
頼朝は葉山の森戸神社を眺めながら海路を房総に逃げ延びます。
旗立山に三浦の旗を恨めしげに見た事であろう。
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    鐙摺山の頂上、此処が山城であった。日影茶屋やこの山陰に隠れたようにある。
 
日影茶屋はこの鐙摺山が西に、桜山の続く裏山を背に立地している。
朝日も西日も当たらない、まさに日影にある御茶屋です。
更に鐙摺山の陰になって、海も富士山も眺められない。
何が売り物の茶屋であったのか?
不思議に思うものです。
「暑い夏の昼下がりに、日影で一服する」のには良いのでしょうが。
 
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  鐙摺山の西側はヨットハーバーになっています。その右に漁港と魚市場があります。
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   鐙摺漁港、遠くに江ノ島が見えます。
   空気が透き通っていれば富士山が正面に位置しています。
 
日影茶屋は寛文1年(1661年)創業、350年もの歴史を持った老舗です。
でも、此処は浦賀に至る古東海道の街道です。街道としてはローカルな存在でした。
幕末になれば浦賀も賑わいましたが江戸時代初期には寂れていた事でしょう。
沿道には森戸神社やその先の立岩(安藤広重が浮世絵に描いている)があります。
江ノ島、鎌倉の来た遊山客が更に足を伸ばして、日影茶屋を利用したのかもしれません。
お茶屋であり旅籠でもありました。
 
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   手前が日影茶屋のレストラン棟、次の土蔵が和菓子棟(夜はバーになります)その奥が   客室棟です。
 
明治時代になると葉山は脚光を浴びます。
御用邸が出来ました。
名士が競って葉山に別荘を建てたことから、お客が増えました。
またそうした上流階級の人達のセンスによって磨かれました。


 
五街道には御茶屋が沢山ありました。
でも現存している御茶屋は箱根の甘酒茶屋や駿府丸子の丁子屋(とろろ芋で有名)くらいしか知らない。
 私の住む戸塚(東海道の宿場町)にも米屋があった。
鎌倉にもお茶屋はあったが数年前由比ケ浜通りの川宗園も閉店してしまった。
鳩サブレーの豊島園も新参者である。
旅籠も殆どが苦戦し、江ノ島の岩本楼(鎌倉時代創業) 恵比寿屋(江戸時代初期の創業)が暖簾を守っている。
そんな中で、ローカルな葉山のお茶屋が年々隆盛なのは畏敬の眼差しで見るばかりだ。
「永谷園」も「山本山」も元々は御茶屋であったが、主としては幕府献上のお茶を商っていたものである。
 
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                       日影茶屋の石蔵。国の登録有形文化財。
 
今年の1月26日、「日影茶屋本店」が国登録有形文化財(建造物)に登録された。
と言っても、看板がある訳でもないし、見学を受け付ける訳でもない。
日影茶屋は「国の文化財に登録されても、なんと言うわけではない。受け継いだ建物や暖簾を守るだけ・・・」そんな風に主張しているようである。
全部が指定されたのではなく、昔の面影を残し、建築年代が分かる本店客室棟と隣接する石蔵の2件が登録の対象になった。
 
客室棟は1923(大正12)年に再建されている。
南北棟と東西棟がL字型に連なり、老舗旅館の面影を残す。
石蔵は客室棟の南側にあり、鋸山から切り出された房州石で積み上げられた重厚な建物だ。(1921年建立)
 
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   和菓子店舗の入り口。「秋の栗茶巾」の案内が貼られていました。
 
私は、「栗巾着出来ました!」案内に誘われて、木造の蔵に入った。
此処は日中は菓子店舗、夜はバーになる。
中々渋い、歴史を感じる建物である。
高齢の売り子に尋ねた。
「この土蔵は約180年前に建てられたものです。
道具庫として使われていましたが、今は和菓子を商っています。
客室棟は更に古いのですが、再三修復を重ねています。」
文化財審査委で大正時代の建物、と評価されたのが迷惑気なようだ。
お役人の発表する文書が、大正時代の建設記録があったので、そう発表したものであろう。
日影茶屋の歴史が350年では無く、100年の歴史に改められたわけではない。
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                       土蔵の内部。柱や梁と壁が構造美を示しています。
 
昭和9年、昭和40年にも大改装工事を行っている。
商品も次々に新作を発表している。
洋菓子も、イタリアンも、別業態で展開している。
どんな企業も「伝統と創造」「暖簾と新機軸」の両輪が大切です。
日影茶屋は創業以来の逆環境(ロケーション)にあることから、創造に軸足があるようです。
暖簾に胡坐をかいていれば直に苦境に陥ってしまう・・・・、そんな感覚があるのでしょう。
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   棚の上には戎様がいられました。右手に大黒様もいられました。ここは道具の蔵だったそうです。
 
 
この日も御斎(おとき・法事の後の食事会)にお客さんが入って、駐車場も忙しそうでした。
 
私は、「栗茶巾」を求めました。
「栗茶巾は、栗きんとん(中津川の「すや」がはじめた和菓子)のようですね・・・」
言えば、少し不満そうな表情でした。
「当店は他店のコピーは致しません」言っているようです。
でも、季節は栗菓子です。
私は「栗きんとん」を期待して、家内とお茶請けにしました。
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「すや」栗きんとんは、山栗を茹でて、こねて、茶巾に絞ったものです。
日影茶屋の栗茶巾は餡に小豆が入っていました。
栗きんとんとは別の味でした。
「秋の香り」では栗きんとんに負けていましたが・・・・。
 
日影茶屋が4世紀も頑張っている秘密は・・・、未だ解りません。
葉山や鎌倉の「うるさいお客さん」が支持し、そのニーズを先取りして経営に反映していることは間違いないのですが。
どのようにしたら「伝統と先進」の調和を保ちながら、
「しなやかな経営」「したたかな経営」が出来るのか?
不思議です。
 
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                                            日影茶屋の栗巾着
 
 
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金沢文庫称名寺の浄土庭園

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六浦の金沢文庫「称名寺」は伽藍全体が浄土を表しています。
六浦の港から北に登ると、丹塗りの総門が見えてきます。
更に、山門を潜れば目の前に大池が出てきます。
大池には半円の太鼓橋が架かって、中島に、更に平橋を渡れば阿弥陀様のおわす金堂(阿弥陀堂)があります。
金堂の裏は一面の草原ですが、此処に講堂がありました。
沢山の僧侶が修行し学門をしていました。
講堂の後ろは屏風のような山が連なっています。
この山中に称名寺の開基「北条実時」等の墓が祀られています。
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   称名寺浄土庭園。虹の様な太鼓橋を渡ると金堂(阿弥陀堂)にわたれます。
   池の此方が現世で向こう側が浄土(来世)です。今年の彼岸花は少し遅れています。
   10月前半が見頃でしょう。
 
称名寺浄土庭園が最も美しいのは春の桜の季節です。
境内の桜が散って、水面を花筏で覆いつくします。 
そして、秋には彼岸花が咲きます。
池の畔から、裏山にかけて彼岸花を追って歩けば、実時等のお墓に辿り着いてしまいます。
 
池の南に立って、阿弥陀堂から屏風の山を眺めると、鎌倉武士の死生観が良くわかります。
 
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  称名寺講堂跡、向かいの山の中腹に北条実時等の墓があります。
  死者の霊は山に登ると信じられていました。浄土の小山に往生している・・・・、形にしたものと思います。
  お墓への道は彼岸花がぼんぼりの様に飾ります。
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                                       北条一族の墓
 
キリスト教もイスラム教もそして仏教も共通している事があります。
”人間は「体と霊」二つで出来ている”と教えています。
死とは体の滅する事で、そのとき霊は体から離れてしまう。
霊は体を離れて、審判を受ける、・・・・生前の行為を審議され、浄土(天国)や地獄等に行く事になる。
生前に悪業を重ねた人間は地獄などでその償いをすることになる。
 
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   北野天神絵巻(重文)地獄図。獄卒が半裸の女房を引き連れている。因みに左の髪を掴れた女房は   庚申塔のショケラそのものです。全く同じような場面が柄柄天神絵巻にも描かれています。
 
古代、仏教が日本に伝来した時から、浄土の教えはありました。
多くは親が亡くなると、その子孫が「霊が浄土に行って欲しい」願って供養しました。
そんな浄土の教えでしたが、「現実が苦界である」と認識するようになると、貴族や僧侶の関心を集めました。その契機になったのが「往生要集(おうじょうようしゅう)」でした。
比叡山の横川で隠遁していた 源信が、寛和元年(985年)に、沢山の仏教の経典等から 極楽往生に関する文言を整理、解説したものでした。
冒頭に「厭離穢土(おんりえど)」と言う四字熟語が出てきます。
この言葉は地獄など六道の有様を説明したものでした。
 
地獄では熱した糞尿に落とされる。
糞尿の中には鋭い歯を持った虫がいて、皮膚を食い破り、肉を食んで、骨が露になる・・・。
そんなに醜く辛い世界なのだ・・・・、ときます。
そして「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を説明します。
浄土を求める気持ちが強くなります。
浄土教は「先祖が浄土に行けるように」南無阿弥陀仏と 称名を唱えるものから変換します。
自分自身が浄土に往生出来るように、毎日浄土を念じます。
美しい浄土をイメージして、その主尊阿弥陀如来の膝元に居る自分を想いうかべながら念仏を唱えます。
これを「観想念仏」と呼びました。
観想念仏を徹底させるために、貴族は浄土をこの世に出現させました。
それが浄土庭園でした。
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   称名寺、浄土庭園にかかる太鼓橋。彼岸と此岸をつなぐ虹のアーチです。
 
源信の往生要集は中国にも逆輸出されました。
更に、法然から親鸞、そして一遍と日本仏教の主流になりました。
また、庭園や寺院、仏像、絵画、源氏物語等文化に強い影響を与えました。
 
更に600年後、家康はその旗印に「厭離穢土 欣求浄土」と書きました。
上杉謙信が「毘沙門天」、信玄が「風林火山」、旗印にしたのは自分達が勇猛であり神仏に加護されている・・・、記したものでしょう。
真田幸村が六文銭を旗印にしたのは「死を覚悟している」心意気を示したものでしょう。
家康が往生要集のエッセンスを旗印にしたのは明らかでしょう。
「自分はこの穢土のような現実世界を浄土に変えるのだ、その為に戦うのだ」
そんな「大義」を旗印にしたのでしょう。
家康が長い戦国の乱世を鎮めて、平安な時代を築けたのにはその精神からして違いました。
 
称名寺は鎌倉武士の建てたお寺です。
でも、浄土にかける想いは平安貴族とさして変わらなかったのでしょう。
 
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彼岸花は別名を「曼珠沙華」とも呼びます。
仏典では「天上の花」の意味です。
ですから、浄土に咲く花の意味で、浄土庭園には最適な花です。
でも、同じ花を「死人花」「幽霊花」「地獄花」・・・・、忌む名もつけられています。
同じ花なのに人間は勝手なものです。
彼岸花は思っている事でしょう。
山口百恵さんのように「曼珠沙華」に統一して下さいな・・・。
 
私は「彼岸に咲くから彼岸花」が最適だと思います。
彼岸と言う言葉は日本人の心に根付いておます。
先祖が彼岸に行って欲しい、自分も彼岸に行きたい・・・。
彼岸とは浄土庭園の此方側(此岸)からみて、彼岸です。
阿弥陀堂のあるあちら側です。
 
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    羽がズタズタに破れたアゲハチョウが彼岸花に寄っていました。
    台風15号で傷めたのでしょうか?
    揚羽蝶は平家の紋所、矢尽き刀折れた平家の落人の様です。卵を産めば役目を終えて死んでし    まいます。
 
 
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現代の「戒名」を考える(会津藩士の墓前で)

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彼岸の一日、家内を誘って三浦の鴨居に「会津藩士の墓」を詣でる事にしました。
先ず、横須賀に「戦艦三笠」を見学して、もうじき再開される「坂の上の雲」のお勉強をしました。
どぶ板通りで、海軍カレーで腹ごしらえを終えました。
国道16号線を観音崎灯台を超えれば、鴨居です。
その先が浦賀になります。
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   戦艦三笠は日露戦争「日本海海戦」で戦功を上げました
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                                            東郷平八郎像
 
鴨居は静かな浜辺です。
今年も小正月に「どんど焼き」を見物に来ました。
小さな岬があって、戦艦「村雲」の慰霊碑がたっています。
紫色の御影石が海峡に向けてたっています。
その基壇には100名ほどの名が刻まれているでしょうか?
 
村雨は日本海軍の駆逐艦でした。
昭和18年3月5日、ソロモン群島沖で米駆逐艦の夜戦攻撃を受けます。
一方的に沈没され、約半数の兵隊が海に沈みました。
海中から救われた人達が毎年慰霊の神事を続けておいでです。(kouyoukai.exblog.jp/12944528/ )
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   駆逐艦村雨の慰霊碑。黒御影石の右に村雨の記録、左側に尊名が刻まれています。
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 村雨の慰霊碑に続く鴨居の浜辺。右奥に観音崎灯台、小山の中に会津藩士の墓が祀られています。
 
村雨慰霊碑から少し手前、小高い丘の中腹に「会津藩士」の墓があります。
スダジイ等の常緑樹が小山を覆っています。海に向けては桜が植えられています。
その樹陰にやく30坪ほどの墓地があって、23名の会津藩士が眠っておいでです。
 
墓標は素朴な石の角塔です。
表面には、「会津藩 俗名」が、側面には没年、反対の側面にはプロフィールが漢文で刻まれています。
俗名ではなく戒名が記されているものと思いました。
戒名が正面で、俗名は墓碑か側面や裏面に記されるものです。
戒名が無かったのか・・・・、
又はあっても俗名と会津藩士であった誇りが優先されたのでしょう。
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                                                      会津藩士の墓
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                          俗名と会津藩士であった事のみを記す、シンプルな墓標です。
 
私は、「戒名」についての疑問が頭をもたげます。
仏教の祖「釈迦」は王子様の名前でした。
お釈迦様には戒名は無く、俗名だけでした。
お釈迦様はお弟子さんに戒名を付けた訳でもありませんでした。
 
釈迦が亡くなると、お弟子さんたちは祇園精舎をはじめ各地の寺院に集い、修行を続けます。
教団が、寺が大きくなるとルールが必要になります。
それが「戒」でありました。
そして、修行僧は自分自身を律する事を求められました。
教団の拡大に伴って「戒律」の重要性が脚光を浴びました。
 
仏教が中国にわたると、戒律は更に微細に決められます。
戒律を守る人が解脱し、仏になれる(成仏)と考えました。
更に日本に渡ります。
平安時代には天皇や貴族にも生前に戒名を貰う人が現れます。
戒名は自分自身が仏教を信仰し、戒を守って生活します。
そんな姿勢の現れでした。
戦国時代には戒名の方が優先します。
「信玄」も「謙信」も「早雲」もみんな「戒名」でした。
出家はせず、武将として領内の統治拡大に努めますが、仏門に入っています。
そんな姿勢でした。
 
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   墓標側面には故人のプロフィールを漢文で記しています。反対側には没年が刻まれています。
 
中国で、戒名を戴けない段階で突然に亡くなる僧が現れました。
「戒名も無いままであの世に送ったのでは可哀相だ!」考えたのでしょう。
死後に戒名を与えるようになりました。
こうした習慣が日本に伝わると、江戸幕府の「宗門改め制度(キリスト教の禁教施策)」や戸籍を寺に任せた事もあって、「死後戒名」が習慣化しました。
 
死んだら、お寺のお坊さんが戒名をつける。戒名をいただいたなら葬式をお寺であげられる・・・・。
そして、お寺のお墓に埋もれる事が出来る・・・・。
こうして、生前は仏教を信仰しなかった人も、死んだら戒名をいただきます。
そして、あの世では戒を守って、修行に励みます・・・。
そんな仕組みが一般化しました。
お陰で「葬式仏教」と揶揄されるようになりました。
お釈迦様の考えとは随分違った形が日本で生じています。
 
会津藩は幕末維新で気の毒な役回りを果たしました。
文化7年(1810)、会津藩は江戸幕府の命を受け藩士とその家族を三浦に送り込みます。
任務は三浦半島の海岸警備、台場構築でありました。
ペリーが来航すると(嘉永6年/1853)房総半島を含めて海上警備を任せられます。
そして、江戸幕府に代わって長州藩などと対抗します。
幕府軍の名代のようにして薩長土肥連合藩と対峙します。
戊辰戦争では会津は抵抗します。
敵討ちのように痛めつけられます。
白虎隊のような若者も「義」の為に命を散らせます。
 
そんな会津藩士にとって、死後戒名をいただくような姑息な事は考えなかったのでしょう。
死後、故郷から遠い鴨居の坊さんにつけて貰う戒名より、
両親から付けて貰った俗名の方が大切だったのでしょう。
 
更に、鴨居には会津藩士の家族は居ませんでした。
戒名は「亡くなった故人が成仏して欲しい・・・・」 
と言う期待よりも遺族の都合がありました。
遺族はその土地で生活を続けなくてはなりません。
世間並みに葬式を挙げて、世間並みに戒名をいただいて・・・・、期待します。
でも、会津藩士は故郷を離れた防人のような存在です。
任地で死んでも誰かが墓参りしてくれる訳でもありません。
お坊さんにお金を払って戒名を戴く必要も無ければ、戒名料を払う人も居ません。
そこで、このような素朴なお墓になったのでしょう。
 
そうして、現代の世相は良くわからない戒名に高いお金を払う事に疑問を持つようになってきました。
また「世間体」で立派な戒名を貰う事の意味を考え始めました。
近所や社会関係が希薄になれば世間体は意味を為さなくなります。
 
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   鴨居のどんど焼き、向こうの岬に駆逐艦「村雨」の慰霊碑があります。
   左側の小山の続きに会津藩士の墓があります。
 
先日島崎藤村の戒名を紹介しました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45575763.html
9字の院号戒名でしたが、飾りの文字を外すと「藤村」としか書かれていませんでした。
藤村は”そんな戒名なら「藤村居士」4文字で十分だよ・・・” 苦笑されたと思います。
でも、天下の島崎藤村のご遺族が葬儀を執り行います。
粗末な戒名では笑われてしまいそうです。
社会的な立場があります。そこで9字の院号居士を戴きました。
先日は川端康成の戒名も紹介しました。
ノーベル文学賞受賞者です。
戒名は藤村より一段上の「院殿居士」で11文字でした。
ご遺族が一番立派な戒名を望んだのでしょう。
 
筆者は寺の生まれですから得度は6歳の時にしました。
戒名も親父に付けて貰っておけば良かった・・・、思います。
お飾りはいらないから「正敏信士(しょうびん・筆者の名前)」としでもして貰いたい気持ちです。
親父は何処かの住職にさせる積りだったのでしたから、俗名こそ戒名です。
そして、アバウトですが自らを律して生きてきました。
会津藩士のように下手で貧乏籤を引き続けて来ましたが。
 
弘法大師空海は名前(戒名)を何度も変えて、8度目の「空海」が気に入りました。
 
空海のように自分自身で戒名を名乗って、仏教を信仰し、自分自身を律して日々を送るのなら、
それも良いと思います。
死して後閻魔様の審判を仰ぎます。
「閻魔様から●○△(戒名)は居るか!」大音声で聞かれます。
亡者は戒名なんか知りません。
「それ誰の事?」皆が思う事でしょう。
「此処に居ります!」手を挙げなくてはバレバレです。
自己戒名なら、俗名なら直ぐに答えられます。
 
私は、会津藩士の墓前で暫く考えていました。
そろそろ「死に際」を考えなくてはなりません。
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 鴨居漁港 右奥に浦賀になります。写真は今年の「ドンど焼き」風景です。書初めを燃やすと字が上手になりま す。 今でもこうした伝統行事を頑なに続けている所が、鴨居らしいのです。
 筆者は会津のドンド焼きを何度か見に行きました。
 雪の中にドンドの火柱が登りました。昔も今も会津での人は背筋がピンとしており、故郷愛が深いものがありま す。会津は徳一上人が布教した土地。奈良時代から反骨の精神が脈打っているようです。
 会津藩士の霊もドンド焼きを眺めて、故郷を思い起こしている事でしょう。
 
 
 
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「浅葱まだら」の文化

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我が家の垣根に「ヤブカラシ」の蔓が伸びている。
漢字に転換すると「藪枯らし」、藪も枯らす蔓であるから垣根など直に枯らしてしまう。
せっせと引き抜くのだが、敵もしたたかで直にまた芽を出してくる。
 
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       今日の話題は「浅葱まだら」です。藤袴の花に集まります。(東慶寺にて)
 
「藪枯らし」には沢山の蝶が集まってくる。
9月の半ばには「浅葱まだら」が来ていた。
藪枯らしの葉陰で休んでいるような仕草であった。
 
今年は花の咲くのが遅れている。
浅葱まだらが山から下りてきたのに、未だ大好きな「藤袴」も「薊(あざみ)」も咲いていない。
蜜を吸いたいので「藪枯らし」に寄ってみたが、こんなに不味い蜜は吸えない。
青筋揚羽やカラス揚羽等は何でこんなに臭い蜜が吸えるのだろうか?
がっかりしたので、少し休んで行こうか・・・・・。
そんなように見えた。
 
鎌倉の東慶寺、葉山の新善光寺には藤袴が咲く。
花が咲く頃の日中に行けば大抵は浅葱まだらを見る事が出来る。
大型の綺麗な揚羽蝶で、色は「浅葱色」で、鮮やかな縞が入っている。
これが「斑模様」なので浅葱まだらの名前を戴いたのであろう。
 
浅葱色は平家物語「那須与一」の鎧の色であり、新撰組の羽織の色である。
最近では精霊流し(さだまさし)の義母が着ていた着物の色でもある。
日本の伝統色であるが、少し混乱がある。
「浅黄(あさぎ)」と書く事もある。この場合は「薄い黄色」であろうが、「浅葱」が本来で葱の青い色の事である。
緑色とも青色ともいえる爽やかな色である。
日本人は緑色も「青」と呼ぶ。
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     白い藤袴に集まる浅葱まだら。浅葱まだらを見たければ、藤袴を庭に育てたら良いのです。
 
この蝶が鎌倉や葉山で十分に栄養を補給し、1500キロの旅に出る。
行き先は台湾や南西諸島である。
そこで、雌雄が遭遇し、ガガイモの葉に卵を産む。
幼虫はカガイモの葉を食べて育つ。
カガイモには毒性があって、毒(アルカロイド、カルデノライド)が体にたまる。
従って、鳥に食べられる事も無い。
 
浅葱まだらは25度位の適温が好きで、台湾の春は暑すぎるのであろう。
台湾で蝶になると、日本に渡る。
日本の山で夏を過ごし、何世代か交代する。
そして、秋に成長した蝶が鎌倉の浜辺からはるばる台湾に渡る訳だ。
 
「渡り鳥」のツバメは同じ固体が南の国と日本を行ったり来たりする。
「蝶の渡り」は幾世代もかけて同じ距離を渡る。
季節風に乗るのであろうが、柔らかそうな羽で1500kも、「凄い」と感心する。
 
勿論、藤袴にも薊にも毒性がある。
 
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               此方は赤い藤袴、袴のような細長い花の奥に長い管を伸ばして蜜を吸います。
 
東慶寺の藤袴も咲きはじめた(9月29日)
1年中で一番爽やかな風が吹き渡っている。
浅葱まだら君は未だ遣ってこない。
台風15号で吹き飛ばされてしまったのであろうか?
少し心配だ。今年は浅葱まだらの当たり年だと期待したのに・・・・。
暫くすれば、送れて羽化した蝶が見られる事だろう。
それでは、新善光寺に行ってみる事にしようか・・・・!
 
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                        この幼虫は何でしょうか?もうじき蛹になりそうです。
 
日本の国蝶は「大紫」である。
残念なことに国蝶でありながら関東では見る事は滅多に無い。
国の花は桜(菊)、鳥は「雉」、日本人にとって馴染みがあって、日本を象徴するに相応しい文化的伝統がある。
大紫が嫌いな訳ではないが、馴染みが無いし、伝統や文化になっていない。
「最も大きい」とか「尊い紫色だ」、と言うのなら判りはするが、単純すぎるようだ。
国蝶の選考でどんな議論があったのか、知らない。
    
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                日本の国蝶「大紫」(YAHOOから転載)
 
日本の中世は平家に始まる。
平清盛の家紋は「揚羽蝶」である。次が源頼朝。此方の家紋は笹竜胆。
以降、平家・源氏は交互に覇権を握る。
平家の北条、源氏の足利、平家の織田、源氏の徳川。
先祖が桓武平家を標榜する武家は「揚羽蝶」を家紋にした。
 
蝶紋を見ると、明らかな「斑紋」が描かれている。
平家の蝶紋は「何て言うちょうちょなのかしら?」
「虫愛ずる姫君(※)」に聞かれたら・・・・・?
私は自信を持って答えます。
 
「お姫様、貴方の家の蝶紋は浅葱まだらですよ」
お姫様はきっと言われるでしょう。
「まあ、素敵。浅葱まだらは見る角度によって色も変わるし、飛ぶ早さもあるし・・・・、浅葱まだらののような殿方何処かに居ないかしら・・・・!」
 
浅葱まだらは大昔から日本人に愛された蝶である。
DNAに「渡り」を刻まれた、尊い蝶である。
大事に見守りたい。
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               「平家の蝶紋」、鮮やかな斑模様は浅葱まだらをデザインしたものだと思います。
 
「虫愛ずる姫君」:堤中納言物語に一編。宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」のヒロイン「ナウシカ」のモデルと言           われている。日本の古代から中世にこうした物語が語られていた事実は見直されて良いと思い           ます。
 
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    蝶は見る角度によって色が変わって見えます。
    蝶が死者の霊と信じられたのは、「黒揚羽」や「カラス揚羽」が黒紋付に似ていたからでしょう。
 
 
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双葉小、お嬢様の稲刈り

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横浜の最高峰は鎌倉との境にある「円海山/153m」です。
「丸い海に面した山」の意味でしょうが、東山麓にある「円海山御念寺」の山号でもあります。
南側(鎌倉)にある称名寺(今泉不動)は弘法大師が開いたと言われる古刹です。
円海山は照葉樹が覆っています。
森が水源になって、四方に渓流が流れだしています。
水源に古刹が建てられた訳でした。
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   瀬上遊歩道に咲く「嫁菜」。道の向こう側が渓流です。今日の話題「双葉小学校の自然教室」は左を400m    程いったところにあります。この辺りは蛍が乱舞します。
 
円海山の西山麓には瀬上池があります。
江戸時代流域の農民が作った潅漑池です。
池からは瀬上川が流れ出し、棚田が続いています。
川は「鼬/いたち川」に名を変え、笠間で柏尾川に合流します。
瀬上川に沿って「瀬上遊歩道」が続いています。
四季折々自然観察には最高に良い遊歩道です。
卯の花の咲き、蛍が飛び交う初夏も良いのですが、最高の季節は秋の深まる季節です。
 
 
渓流の上にはアケビがぶら下がっていますし、
畔には吊り船草に溝蕎麦が群生していて、一斉に花を咲かせます。
藪からは小綬鶏(コジュケイ)が飛び立ちます。
もうじき、冬鳥が姿を現します。
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  初夏の遊歩道、ねむの花が癒してくれます。
 
棚田は何時しか放置されてしまいました。
棚田を守るようにして植えられた桑の木は野放図に育って、繁ってしまいました。
最近ボランティア団体が棚田の復活を進めています。
棚田を増やす事が蛍を復活させ、野鳥を増やす事になる、気づいたからです。
お陰もあって、毎年のように蛍は増えて、隼や大鷹の猛禽類も見られる様になりました。
 
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  渓流の淵に水木の巨木が繁っています。私は「菩提樹」を思います。向こうにある橋を渡ると「双葉小自然教  室」があります。橋の先に教室と畑があります。道の左に棚田があります。
     
 
9月29日(木)私は瀬上遊歩道を歩きました。
先日の台風の爪跡が吊り船草や溝蕎麦をいじめて居ました。
でも、健気に咲いています。
もう、百舌が甲高い声が谷間に響いています。
今が、縄張り争いの時なのでしょう。
上流から子供の歓声が聞こえてきます。
「ああ、今日が棚田の刈り入れなのです」
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 青いネットの下が棚田です。手前の軽4輪は棚田を耕しているお百姓さんのもです。
 完全武装で運動会の帽子をかぶって、子供達は先生の指導を聞いています。
 
 
瀬上池の下、少し広場があります。
棚田も此処だけ少し大きくなっています。
此処が「横浜双葉小学校自然教室」なのです。www2.yokohamafutaba.ed.jp/old/index.html
私は春夏秋冬たびたびこの道を歩いていますが、初めて生徒さんに会う事が出来ました。
 
横浜市民にとって山手にある女学校は憧れであり、誇りでありました。
フェリス女学院は明治2年、ヘボン施療所で始まった女子教育機関でした。
プロテスタントに遅れたものの、カソリックは明治33年「横浜紅蘭女学校(双葉女学院の前身)」を開校します。
以来、横浜山の手で女子教育の成果をあげ、名門女学校とし伝統を築いています。
その小学校が何時から円海山の棚田を「自然教室」として活用し始めたのか・・・、知りません。
私が会社勤めを切り上げた10年前には既にこの教室はありました。
私の家内が「横浜双葉はこんな所に教室を持っているんだわ」
感動したように言いました。
そう、私の家内は中高の乙女時代を双葉の訓育を受けました。
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  木道にリュックを置いて、いよいよ稲刈りを始めようとする子供達。手前の白い小さな花が「溝蕎麦」。
 
お母さん達が20人ほど棚田の外で嬉しそうに見つめています。
聞けば小学2年生全員だそうです。
子供達は棚田の周囲を囲んだ木道の上にリュックを置いて、棚田に下りています。
手足は長袖、長ズボンで完全防備です。
可愛いおみ足や柔い肌を傷つけては大変です。
此処は無農薬、無化学肥料で育てられた田圃なのです。
毛虫も居れば、蛇が飛び出すかもしれません。
それに、お米の籾も藁も鋭い部分があります。
箱入り(?)のお嬢様にはキツイかもしれません。
 
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稲刈りの風景。子供も父兄も稲刈りは初めての事でしょう。でも・・・、どうにかこうにか刈進めていました。
 
先生が大声を張り上げて指導します。
『三班に分かれましょう。
最初は1班の人が稲刈りをしてください。
2班の人は稲を束ねて、3班の人に渡してください。
3班の人は稲束を稲木に干して下さい。』(稲木は地方によって呼び方が違う。横浜では稲袈(はさ・はざ)と呼ぶ)
 
説明が終わると子供達は鎌を持って並びます。
お百姓が田植えした稲は立派に育っています。
子供の力では刈り取れるほど柔くはありません。
先生や父兄が懸命に指導します。
鎌は危険である。
でも、上手に使えば稲の根元をスッパと切れる・・・、身をもって知ります。
稲を束ねて天日で干せば、お米は美味しくなる。
お百姓なら骨身に染みて知っている事を身をもって知る事でしょう。
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     刈られた稲は青いシートの上に並べられます。
     これを2班の人が稲束にして、天日に干す係り(奥の方)に持ってゆきます。
 
田植えは上郷のお百姓さんがします。
ネットを張ったのは、カルガモを育てて、カルガモに働かせたからです。
田圃には蛙が沢山育ちます。
蛙を狙った蛇も度々姿を見せます。
自然は様々な姿を見せます。
怖いとか危険だ・・・、思うのは人間の見方でありましょう。
危険と恵みが連関しているからこそ、自然なのでしょう。
イナゴが飛び出します。
飛び出す動物を狙って、百舌が青鷺が傍で見つめています。
彼らも、危険を承知で恵みをゲットしようとしているのです。
 
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     稲刈りまで田圃は地元のお百姓さんが丹精されました。
     お利口な鷺がネットの中に入って蛙を食べています。
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   飛び出してくる小動物を待ち受けている鷺
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                                             梢の先の百舌
 
私は、傍らの嫁菜の園に腰を下ろして見物です。
嫁菜もマーガレットの仲間です。
セーラー服を「もんぺ」にして、
マーガリートを「嫁菜」にすれば、キリストの教えも日本に土着出来たかもしれないな・・・・?
思ったりしました。
 
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              再び、嫁菜の花。嫁菜と言えば「野菊の墓です」。二周り大きくすればマーガレットです。
 
 
自然教室の畑には南瓜も転がっています。
里芋も、薩摩芋も収穫できます。
これらは他の学年がするのでしょうか?
 
判りませんが、自分達が収穫した作物を食べる事は素晴らしい事だと思います。
私達世代は「知育」に偏っていました。
最近は「徳育」「食育」の大切さも叫ばれています。
田圃や畑に下りて、手を汚せば、様々な事を一度に学べます。
生命が輪環している事、収穫するまで育てたお百姓やカルガモに感謝する事、薬や化学肥料が自然の摂理に反しやすい事・・・・、様々学び、感謝する気持ちを呼び覚まします。
そして、何よりも「美味しく戴くこと」を学びます。
自然に出来た命をバランス良く戴く事で、自分自身の体が強く健康になる事を知ります。
知育、徳育、食育、三位一体で円満な人格が育成できる事でしょう。
 
双葉小学校の「瀬上自然教室」は素晴らしいと思います。
もうじき、学校の給食で、「ハロウィーン」で収穫物が活躍する事でしょう。
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                            双葉小学校の下段にはボランティアの棚田が続きます
 
 
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鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の「彼岸花」

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遅れていた「彼岸花」も10月に入ってようやく見頃になりました。
「彼岸」も、別名の「曼珠沙華」も仏教用語ですから、
彼岸花はお寺にあって、神社には縁が無いように思います。
 
江戸の町から江ノ島を巡った遊山客は、腰越から稲村ガ崎、そして由比ガ浜を滑川まで来ました。
そして、北に折れれば「若宮大路」に入ります。
道はなだらかな上り道です。
坂道の頂上に立派な石の鳥居(一の鳥居)があります。
此処からの鶴ヶ丘八幡宮を遥拝します。
八幡宮が一番神々しく見えるアングルです。
この鳥居は立派な白い御影石で出来ています。
寛永8年(1668年)崇源院(徳川家綱の祖母)が建立したものでした。
石は瀬戸内海の犬島から海上を運んだものでした。(明治36年国宝指定、現在は指定なし)
 
段葛はこの「一の鳥居」から八幡宮の太鼓橋(三の鳥居)まで続いていました。
ところが、明治22年横須賀線が開通します。
若宮大路を跨ぐ事から段葛を壊してしまいました。
その結果、二の鳥居から三の鳥居まで当初の約半分、500mの参道になってしまいました。
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         彼岸花の小道(後掲)に近い民家では「買いあわせ」の展示会をしていまいした。
 
若宮大路は明らかな遠近法で作られています。
一の鳥居から見れば、二の鳥居、三の鳥居、遠くなるほど道幅が狭くなっています。
遥拝した時に荘厳に見えるように、工夫したのでした。
 
段蔓に桜を植えたのは何時からか判りません。
江戸時代、広重の名所浮世絵は「雪の段葛」です。
松が数本描かれ、その向こうには裸の木が描かれています。
これが桜だったのではないでしょうか?
現在の3000本の桜はソメイヨシノですから、江戸時代末期から明治時代に植えられたものでしょう。
 
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             二の鳥居から見た段葛。両側の木は手前こそ松ですが、
              奥は葉が落ちているから桜でしょうか?(広重名所図絵)
 
ところで、段葛の桜の根元に彼岸花が咲いています。
段葛に桜を植えた時、鼠や土竜(もぐら)の忌避植物として意図的に植えたものでしょう。
盛り土を堅固にするには彼岸花は格好な植物です。
皇居のお堀にも彼岸花が咲いています。
これも、土が崩れないようにしたものです。
 
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   (段葛も此処八幡宮神苑の彼岸花も土盛りを堅固にするために植えられたと推測しました)
 
鶴ヶ丘八幡宮は明治まで「鶴ヶ丘八幡宮寺」と呼ばれていました。
八幡宮であると同時に25もの坊を擁したお寺でした。
ところが、明治維新の廃仏毀釈によって寺の堂塔はすべて壊されてしまいます。
この時、八幡宮寺に咲いていた彼岸花は「抹香臭い!」として追い遣られたのではないでしょうか?
何故なら、広い境内であるのに彼岸花が見つかりません。
 
ところが、八幡宮の東側、塀の外には小道に面して、彼岸花が咲いています。
此処は小道は、突き当りが名門「横浜国大付属小学校」正門になります。
と言っても、小学生は八幡宮の境内を横切って登下校しています。
斜めに行った方が遥かに近いからです。
私が小学生の頃は源平池の周囲はススキの原でした。
ところが、池の南側の淵を整備して牡丹の神苑にしました。
その時に柴垣も石垣も整備しました。
この時に彼岸花を八幡宮の塀の外に移植したのではないでしょうか?
 
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    突き当りが付属小学校正門。柴垣の内側が八幡宮神苑で「牡丹苑」になっている。
    筆者は八幡宮の境内の自生していた彼岸花をこの道に移植したものと想像しました。
    壁は蔦と瑠璃蔓が貼りついています。
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  民家の壁一面に瑠璃蔓の花が咲いていましたが、台風で殆どが散らされてしまいました。
 
自生の彼岸花は田圃の畔や土手でかたまって咲いています。
水仙と同じように球根が太って繁殖するから・・・・、彼岸花も親株が大きくなって、一気に子株が増えます。
だから、数箇所に群れて咲くのです。
八幡宮の彼岸花は万遍無く土手の上に咲いています。
意図的植えたからでしょう。
 
台風15号の塩害で、欅の葉も茶気てしまいました。
小道のお屋敷の瑠璃蔓の花も吹き飛ばされてしまいました。
他の植物が瀕死の状態ですから、彼岸花の元気が一層目立ちます。
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 筆者の目の前を若奥様が自転車で颯爽と行きました。駅や商店街から遠いので自転車が活躍します。
 
【追記】
 この彼岸花の小道は「お家で鎌倉」さんも書いておいでです。9月22日の記事ですから、未だ蕾です。
今年は開花が遅れたので10月1日の方が見ごろです。今週一杯見られるでしょう。
由比ヶ浜の和田塚(和田一族終焉の墓所)も身頃です。
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                                                 和田塚の彼岸花
 
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垣根に咲いた「白花夕顔」の儚さ

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私の住む町は横浜の戸塚です。
JR戸塚駅のホームの下を柏尾川が流れています。
流れに沿って川の東岸が私の住む上倉田町で、鎌倉道に沿っています。
対岸が戸塚町、此方が東海道に面した宿場町です。
上倉田町では四半世紀前から防犯パトロールをしています。
略毎週土曜日の夜7時から役1時間、10人程度で町内を一周します。
柏尾川の堤防もコースに入っています。
 
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   精霊流しの柏尾川、戸塚駅が正面です。   橋の右岸袂で夕顔を見つけました。
 
10月1日(土)に柏尾川堤防で夕顔の花を見つけました。
戸塚駅西口に行くには旭日橋を渡りますが、その橋に近い家です。
ごく普通の白い壁の二階建ての家でしたが、10年位前に1階を改装して「お好み焼屋」を始めていました。
その白いアルミフェンスに「白花夕顔」が咲いています。
暗がりの中で、大きな真っ白い花が浮かんでいます。
何で今まで気付かなかったのだろう?
「先週までは咲いていなかったのだろう」思います。
今年は遅れて、ようやく10月にはって花の盛りを迎えたようです。
 
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  白いフェンスに絡んで白花夕顔が咲きました。
  蛇の目傘をデザインした帆布がお好み焼屋の看板代わりです。電灯で少し黄ばんで写っています。
 
 
私は家に戻って夕食を終えて、夜9時頃カメラを持って出かけました。
お好み焼きの店は人気があります。
大半が日立製作所戸塚工場(上倉田にある)の職員さんです。
この堤防を1.5キロ程下ったところにあります。
朝晩、堤防を通勤されます。
その人達がお客さんです。
9時過ぎでも、満席の賑わいです。
座敷に座って、職場の仲間と一杯やるのは楽しい事でしょう。
私もサラリーマン時代は、新橋や神田ののガード下でやっていました。
 
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    フェンスの白花夕顔。電灯光で少し黄色く写りました。
 
「白花夕顔」の名は多分「坂田種苗」の園芸種の名前でしょう。
赤い花も開発したので「白花」としたものの、「赤花夕顔」は人気が出ませんでした。
坂田種苗は柏尾川の下流、鎌倉市にありました。
数年前横浜駅近くに移転しました。
ですから、「白花夕顔」は鎌倉生れの園芸種です。
東慶寺でも栽培されていますが、わざわざ「白花夕顔」と案内しておいでです。
蕾が右回りに捻じれています。
「捻り飴」のようでもあり、トンネルを掘るドリルのようにも見えます。
そんな蕾が夕暮れと共に咲くのです。
花弁は深く裂けて、5弁です。
花弁の繋ぎ目が人手の形をしています。
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   川堤にありますので蛾が集まりそうですが、右下に小さな蛾がいるだけでした。
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此方は東慶寺の「白花夕顔」
 
昔ながらの夕顔(最後に掲載)は南瓜やスイカの花のようです。(どちらも瓜科の植物、朝顔は昼顔科の植物)
ボヤボヤ、シワシワです。
此方は大きな実がなって、皮を剥くようにして干瓢にします。
栃木に行けば、冬陽に干瓢を干す風景を見る事が出来ます。
干瓢の夕顔が木綿の肌触りなら、白花夕顔は絹の感触です。
花弁に艶と光沢があります。
園芸種は花が見事、栽培種は実が見事なのでしょう。
 
私は、垣根の夕顔を見つめました。
蟻が寄って花の芯に集っています。
蛾も見えます。
私は「オオミズアオ」(ヤママユガの仲間)が来ていないか探します。
夕顔にピッタリの大きな青白い蛾(山繭になる)なのです。
私の父は酒に酔うと話しました。
「小坊主の時、通夜で枕経を読んでいた時、棺から大きな蝶が舞い上がった。腰を抜かすほど驚いた!」
その時の蛾が居ないかしら・・・・、期待したのでしたが・・・・。
見当たりません。
 
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       私が期待した蛾「オオミズアオ」、夕顔に似合う蛾です。(YAHOO転載)
 
夕顔と聞けば「源氏物語」を思い出します。
多くの男性が、源氏の女性の中で一番人気にあげます。
紫式部も頭中将の言葉を使って「一番好い女は”中流の女性”である」言わしています。
 
源氏は中流の女性を求めて、空蝉から夕顔に女性遍歴を重ねます。
正妻「葵上」が上流でツンツンしている事から、優しい気遣いのある女性に憧れたのでしょう。
また、ライバルの清少納言が「草花は撫子、おみなえし、朝顔(桔梗)・・・が良い」と言うのに対して、
夕顔の方が素敵でしょう・・・・、そんな思いも込められていたかもしれません。
でも、「夕顔は垣根に咲いて、花が終われば実がなる・・・・・」
貴族と言うよりは庶民の庭に似合う花(野菜)だったのでしょう。
 
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 明け方見に行った時には、もう総ての夕顔は萎んでいました。夜頑張ったので朝までもたなかったのでしょう
 
翌朝5時過ぎ、夕顔が咲いているだろう・・・・、期待して出かけました。
ところが、未だ陽が上る前だと言うのに萎んでしまっています。
仕方ない、夕方薄暗くなる6時頃出かけました。
そうしたら、もう咲き始めていました。
朝見たときより明るいのでしたが。
 
多分、明るい日中から光が弱くなる・・・・、その変化に応じて花を開くのでしょう。
そして、精一杯開いて、夜だから一番目立つ白い花弁を広げます。
そして、蛾を誘います。
でも、一晩中花を開いているのは相当に疲れるのでしょう。
明け方、陽が上る前には萎れてしまうのでしょう。
 
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   夕方6時の風景。既に今晩咲く花は総て開いていました。
 
一日で枯れてしまう花は「一日草」と呼びます。
”花の命は短くて・・・”を思い起こします。
夕顔は一晩で萎れてしまいます。
”一夜草”です。
その儚さが時代感覚(無常観)を表わしていたのでしょう。
 
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    夕方一斉に咲いた白花夕顔。タイル張りの堤防道の突き当たりに戸塚駅のホーム南端が見えます
 
「今晩、蛾さんが来てくれなければ、私は受粉出来ません。
命が繋がりません。
蟻では駄目です。
一番に待っている殿方は「オオミズアオ」ですよ・・・。」
そう訴えているようです。
 
 
日立の社員はご機嫌に一杯遣っています。
 
 夕顔や 酔いて顔出す 窓の穴  (芭蕉)
 
芭蕉が最晩年50歳で詠んだ句でした。
暑い夏の夕暮れ、一杯やって上機嫌の芭蕉翁がトイレに立ち上がりました。
厠の窓から庭を見ると宵闇の中で夕顔の花が咲いている。
そんな句です。
日立の社員は未だ若いのでこの味は解らないでしょう。
でも、酔いどれていても、夕顔の花に気づく事でしょう。
それから、クラブかバーに梯子するのかも知れません。
 
私は、夕顔とオオミズアオの逢瀬を覗き見したい・・・、
今晩も「お好み焼き屋」の垣根にお出かけです。
 
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   蕾は右巻きに捻じれいます。 捻じれが解けるようにして花が開き始めます。傘の骨のように花の脈が開き   ます。花の脈は人手のような形になります。
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      人手が精一杯開いて、花を大きく見せているようです。蟻が花蜜を運んでいるようでした。
 
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    此方が野菜の大長夕顔の雄花。南瓜(黄色い花)を白くしたような花です。
源氏物語の夕顔はこの花でしょう。出典は下記ブログです。花も実も干瓢の作り方も詳しく書いておいでですので参考になります。www.biwa.ne.jp/~futamura/sub62.htm
 
 
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忘れられた「田浦の倉庫群」

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JR横須賀線の田浦駅北口を降りると、目の前は倉庫群です。
刑事もの映画に出てくるような、人影の無い、寂れた倉庫です。
昔も、寂しかったのですが、今は建物は錆びているし、JRへの引込み線は全く使えない状態です。
私は、好奇心が湧いて、入ってみました。
 
Warning」米軍の立ち入り禁止の警告が立っています。
どうも、倉庫群の突き当りが田浦港で、其処に米軍用の燃料庫があるようです。
燃料庫の門には警備員が居ます。
其処までは自由に行ける・・・・、判断しました。
幾つかの倉庫には「大蔵省」の看板が立っており、国有地である事が明記されています。
幾つかの倉庫には「相模運輸倉庫」の看板が貼られています。
素人目には活発に使われてはいないようです。
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     今日の話題は使われていないと思われる「横須賀田浦の倉庫群」です。
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  按針塚(三浦あんじんの墓)登り口から見た横須賀の町。
  有料道路の突き当りが米軍横須賀基地。左の湾が海上自衛隊が使っている長浦湾。
 
明治政府は横須賀に海軍施設を集中させます。
横須賀港、長浦港を軍港として整備します。
両港に近い田浦には倉庫と海軍兵学校を整備しました。
倉庫は軍艦に積み込む物資や燃料の補給庫でありました。
明治22年には横須賀線を開通させます、
明治37年には横須賀駅の手前に田浦駅を設置しました。
 
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 手前倉庫群、引込み線は使われていません。
 トンネルの先に横浜ベイスターズの練習場があって、その先が米軍基地になります。
 
 
戦後、横須賀港は米軍に接収されます。
昭和22年、米軍はイエズス会に協議します。
長浦港にあった海軍工廠を教育施設に転用させます。
上智大学の歴史科学長であった「グスタフ・フォス師」を校長にして、栄光学園が開校します。
 
昭和34年、私はこの中学校に通学し始めます。
当時の田浦駅は今ほどでありませんでした。
駅舎には海上自衛隊術科学校の生徒さんの姿がありました。
倉庫や沿岸の関東自動車工業に働く人も利用していました。
駅舎南口には賑わいもありました。
 
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 相模運輸倉庫のF号庫。左の入り口はアーチ状、大正6年建築と言われています。
 現在はモルタルですがレンガ積みだったとも言われます。
 左に看板があって「国有地・大蔵省」の表示があります。
 
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  此方は相模運輸倉庫の使われている倉庫。米軍送油施設の隣になります。窓の上部がアーチ状でレンガ積  みのところが大正、昭和初年の雰囲気です。上のF棟と同じサイズに見えます。
 
私は、田浦駅北口を降りて約4キロ、国道16号線沿いを歩いて通学しました。
京浜急行「船越駅」を利用して通学するする人も居ましたが・・・・、彼らは通学が楽なので羨ましく感じました。
ある日、「横須賀線の東逗子駅の方が近いのではないか・・・・」友人と話題になりました。
で・・・直ぐに試してみたのですが、東逗子駅からは山坂がきついので、田浦駅の方が遠くても楽である、
結論付けました。
 
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    引込み線が田浦駅から倉庫群から横須賀港(米軍使用)迄通じていたようですが、今は全く使われていま    せん。線路施設は放置されたままです。
 
栄光学園は長浦湾の北側に位置していました。
二つの埠頭があったのですが、その南側の脇にタグボートが接岸して、
自衛隊や米軍の残飯を搬出していました。
持ち込むのは兵隊さん、貰い受けるのは業者ですが、最期は養豚業者に渡るのでしょう。
沢山の軍艦から出される残飯がごちゃ混ぜになると、耐え難い異臭を発していました。
人気の海軍カレーも残飯になると、大変な臭いを発するのでした。
 
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   田浦倉庫群の中で唯一(?)人気があるのはこの道の突き当たりにある「米軍送油施設」でした。
   立ち入り禁止の表示は米軍の関係でした。
 
長浦港には素晴らしい光景がありました。
毎年、今頃の季節に捕鯨船団がこの軍港から出航するのでした。
自衛隊の戦艦が像なら、捕鯨船は蟻のような小さな船です。
小さな船に満タンの燃料を積んで出航するのでした。
60隻もあったでしょう。
豊漁祈願の幟を立てて、沢山の見物人が見送る中、遠い南氷洋に向かいました。
横浜は、大洋漁業(現マルハ)がありました。
沖合いには大洋漁業の母船が待機していたのでしょうが、少年の目には小さな捕鯨船が勇ましく見えました。
 
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昭和30年代は活気もあった田浦の倉庫群でしたが、
平成10年(1998年)にはもう使われなくなってしまいました。
在日米軍の田浦送油施設だけが使われています。
同施設があるので、この天然の良港の再開発が行われず、捨て去られているのでしょう。
東逗子には米軍の「池子弾薬庫」があります。
横浜港にも米軍の専用埠頭があって、厚木基地に物資を輸送しています。
沖縄ばかりが問題になっていますが、神奈川中央部にも多くの問題が残されているようです。
喉もとに刺さった棘を抜かなければ、再開発は出来ません。
 

 
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  トンネルの先には「横浜ベイスターズ球場」がありました。
  マルハ前身の大洋漁業の施設(捕鯨基地)の関係でしょう。大洋球団が優勝した時には缶詰が売られました。
 
 
 
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蕎麦の花と焼畑(ミゾ蕎麦に思う)

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季節の変わり目には雨が良く降ります。
春先には、「一雨ごとに春めいてまいります」と言います。
秋の末には、「一雨ごとに寒さが加わって参りました」なんて言います。
昨日からの雨で朝夕の寒さが、一日中続いてしまいました。
私は鼻水を垂らしながら・・・・・、でもお出かけします。
行き先は、「鎌倉中央公園」です。
私達の気持ちでは、鎌倉の中央は八幡様です。
でも、地図上に置くときっと鎌倉市の真ん中に位置しているのでしょう。
源氏山や葛原ヶ丘の山並みの西端、鎌倉市梶山から山崎にあります。
「鎌倉里山公園」の方が間違いを起させないでしょう。
 
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   今日の話題は鎌倉中央公園のミゾ蕎麦の花。棚田跡地に赤いミゾ蕎麦が10月一杯楽しめます。
 
私の目標は「赤いミゾ蕎麦の花」を見る事です。
ミゾ蕎麦とは湿地に咲く「蓼科/たでか」の植物です。
小さな花が密集して咲きます。
その姿が「蕎麦の花」に似て、可愛らしく美しいのです。
蕎麦の花も白・赤二種類あります。
ミゾ蕎麦も紅白二種類あるのもそっくりです。
鎌倉中央公園の棚田跡地には主として赤いミゾ蕎麦が咲きます。
雨の日は蕎麦の花が美しいのです。
 
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  此方は円覚寺仏殿裏の蔓姫蕎麦、これも蓼科の植物です。日本人のDNAには「蕎麦好き」と書き込まれて   いるのか、小さな花は「蕎麦」の名が多く付いています。写真は昨年12月です。
 
ミゾ蕎麦は「蓼/たで」の仲間です。
「蓼食う虫も好き好き」と言われる蓼です。
とても辛いのに好んで食う虫もいる・・・ので、「人はさまざまである」と比喩します。
葉っぱは未だしも、花は虫が好きで沢山の昆虫を集めます。
この点も蕎麦と同じです。
 
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           此方は白いミゾ蕎麦の花。ミゾ蕎麦には昆虫が吸い寄せられています
 
鎌倉には駅と八幡宮前に蕎麦屋「一茶庵」があります。
  信濃では月と仏とおらが蕎麦
俳句の作者「一茶」を店名にしたものでしょう。
信濃は蕎麦が美味しい地方です。
昔は蕎麦畑が多く見られたことでしょう。
 
蕎麦は焼畑農業で育てられました。
八ヶ岳と霧が峰の間に「蓼科山/タテシナ山」があります。
麓には尖石遺跡(縄文)や和田峠もあります。
遺跡からは栗やどんぐりと混ざって豆類が発見されています。
縄文時代から農耕が行われていた証拠です。
 
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                  此方が本家の蕎麦の花、白い花が多いのですが赤い花もあります。
 
焼畑は晩秋に木を切り倒すことに始まります。
そして幹や枝は薪等にします。
葉や小枝は放置されます。
そして冬が過ぎ初夏になると枯れた枝に火をつけます。
焼畑が出来ます。
焼畑には滋養分が蓄えられていますし、灰(病虫害を防ぐ)も含まれて居ます。
焼畑に最初に蒔くのが蕎麦です。
翌年には、粟や稗(ひえ)を蒔きます。
翌々年には小豆、その次は大豆を蒔きます。
5年目には・・・・、もう焼畑には切り株から新しい芽が伸びています。
そうして、最初に焼いてから20年から30年経ったら、また焼畑します。
伊勢神宮の「式年遷宮」に似た(もとになった)循環農業です。
 
蓼科の地名は「タデの花が科(しな/階段状)に咲くやま」の意味です。
「焼畑で蕎麦の花が咲く山」が蓼科山(百名山)の謂れだと確信しています。
そう思うと、蕎麦の味が一段と深まります。
勿論、蕎麦の実を粉に挽いて「蕎麦がき」にして食べました。
因みに「更科/さらしな」の更(さら)とは蕎麦の実(黒い三角錐状)を白い粉に挽いたものです。
更科とは「白い蕎麦の花が階段状の畑に咲く里」の意味でしょう。
    
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            ミゾ蕎麦の花、頭の上にある黒い実は数珠玉。お手玉にします。
 
流石に寒いので鎌倉中央公園には人影も疎らです。
でも、こんな日には良い事もあるようです。
翡翠も寒さが応えたのか、羽根を膨らませて佇んでいます。
 
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私も体が冷えました。
足元も濡れてしまいました。
「何処の蕎麦屋に行こうかな?」
モノレール町屋駅近くには「更科」もあるし・・・、
迷ってしまいます。
鎌倉は蕎麦屋が多いのです。
 
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    ミゾ蕎麦は露草の引き立て役でもあります。
 
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横須賀海軍カレーの文化論(魚藍亭)

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「今日は三浦鴨居にある会津藩士の墓に行こう」家内と出かけました。
昼は「名物横須賀海軍カレーの魚藍亭」にしよう、決めました。
「元祖横須賀海軍カレーの店」ですから、開店早々の11時半に入店する事にしました。
 
綺麗になった「どぶ板通り」を西に折れると諏訪神社の坂道に入ります。
この通りが「浦賀道」である、記されていました。
浦賀道は東海道を戸塚宿八坂神社前から分岐し、浦賀に至る街道でした。
浦賀には奉行所が置かれ、国防上の重要地になった事、また天然の良港であった事から、物流の拠点でもありました。
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   米軍基地前の「どぶ板通り」もう、綺麗になって「どぶ板」の面影はありません。英語の看板が目立ちます。
    この先を右折すると諏訪神社、その手間に魚藍亭があります。
 
魚藍亭は名前の通り「魚の料理屋」でした。
その脇で「海軍カレー」をはじめたものでした。
料理屋と海軍カレー店の入り口は別ですが、店内では繋がっている気配です。
日比谷公園のレストラン「松本楼」はフランス料理店ですが、
その1階でグリルを開店、廉価なカレーを名物にしています。
同じような位置づけです。
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   魚藍亭玄関、此方は魚を食べさせる料理店、右側に「海軍カレー」の入り口がある。
 
細い通路を歩いて魚藍亭のテーブル席に着きます。
軍艦の船室内のような暗さです。
カレー屋さん特有の芳香が店内に充満していて、入店すると即、腹が空いてきたようです。
店内には若い男女のワンカップルが楽しそうにしています。
私達は今日二番目のお客さんでした。
でも、暫くするとこの店は中高年のグループが続々入ってきました。
「横須賀を歩いて、此処で昼食・・・・・」 人気のコースのようです。
 
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  魚藍亭のカレーコーナーの店内。
  お土産や雑誌・TV取材記事、有名人の色紙等が所狭しと飾られていました。
 
私は「元祖海軍カレー/850円」をオーダーしました。
マスコミ受けしそうな様々なメニューと、トッピングが用意されていました。
勿論、ビールも売れています。
元祖海軍カレーは懐かしい味でした。
小麦粉を炒めて、様々なスパイスを入れて、野菜をゆっくりと煮込みました。
肉は、豚と鳥の合挽き(?)が、味付け程度に入っていました。
「中濃ソースをかけて食べたい・・・」 思うようなカレーでした。
 
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  元祖海軍カレー、牛乳が付くほど辛くは無いのですが、海軍では牛乳セットだったのかお知れません。
  昭和30年代の味と雰囲気を持ったカレーでした。
 
インドネシアやマレーシアに行くと、屋台や外食店が多いのに驚きます。
彼らは暑いので、自宅では食事をしないで朝から晩まで外食する事が多いようです。
インド人の店、マレーシア人の店、チャイニーズの店、分かれています。
インドレストランは何処でも深夜まで開店していて賑やかです。
インド人が最も元気で人生を楽しんでいるように見えます。
私は、それらを食べ歩きました。
 
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   大船笠間にある「アカス・ディープ」インドスタイルですが味付けは日本カレーとの中間です。
   チャイ(ミルク紅茶)がついて900円です。
 
南インドがカレーの発祥の地でした。
イギリスは植民地化します。
イギリス兵は暑さに体力負けして、活気が湧きません。
ところが、インド人は全く暑さを苦にしていません。
打開策に苦慮していたイギリス兵は「インドカレー」を食べ始めます。
暑さに耐える食生活が始まります。
イギリス兵は自国にカレーを持ち帰ります。
そして、シチューを作るように、カレーを作ってパンと一緒に食べました。
 
日本海軍はロシア海軍を撃破します。(明治37年日露戦争)
海軍は英国を手本にしていましたから、カレーが体力、気力の維持に効果がある・・・、教えられます。
でも、主食は腹持ちが良く、蛋白質の含有量が多い白米です。
白飯のおかずに適したカレーを模索します。
その結果、「日本スタイルのカレー」を開発し、「カレーライス」として食べ始めました。
 
インドのカレーはまるで日本の味噌汁です。
水っぽいのです。
カレースープの中に肉の塊が転がっていたりします。
そのスープにナンを浸して食べます。
 
海軍カレーは小麦粉を炒める事から始まりますので、「とろみ」があります。
そして、煮込み料理の感覚があります。
海軍カレーが日本カレーになりました。
現在、大半のカレー店は日本スタイルです。
それは、米を美味しく食べるには・・・・・、
インドの味噌汁カレーを素材に、イギリスを経て、日本スタイルに消化したものでした。
絵画をはじめ多くの文化が海外から日本に受容される時、同じようなプロセスを経ています。
 
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  アカス・ディープの店内。
  マハラジャ時代はインドの旅行代理店の雰囲気で楽しかったのですが・・・・、でも随分清潔になりました。
 
日本カレーは作った日より、一日置かした方が美味しくなる・・・、よく言われます。
カレーは煮込む時間、置いた時間が長いほど味が落ち着いて、深みが増す、思われます。
それは、日本の国の気温が影響している事でしょう。
インドやインドシナでは出来上がったカレーは即日食べてしまわないと、腐ってしまいます。
暑いので、調理を終えた食べ物は早く食べなくてはなりません。
日本では、真夏は別として、2、3日は持ちます。
 
インドスタイルのカレー店も良く見かけます。
数十年前から大船の笠間に「マハラジャ」と言う良い店がありました。
賑わっていましたから、10年位前に上大岡に姉妹店を出店しました。
私と家内は良く出かけていました。
「スパイスを楽しむなら、インドスタイルが勝っている」思いました。
「ランチはインドスタイルで、夕食なら日本スタイルで、余ったカレーはスープにして翌朝食べる・・・」
思います。
 
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  大船笠間の「アカス・ディープ」(マハラジャの跡に出店したもの)。インドの叔父さん3人組の経営です。
 
マハラジャは2年前に閉店してしまいました。
そして、全く違うインド人が店の造作をそのまま、看板を変えて営業しています。
「日本で稼いで、故国に錦を飾った」のでしょう。
こんな、事業スタイルもインド風なのでしょう。
「食糧も資本も長持ちしない。あれば、使い切ってしまうか、持ち帰る」
 
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     「アカス・ディープ」のメニュー。
 
 
   追記:今日の記事は「肉食の思想」(鯖田豊之)、「食べ物と日本人」(河野友美)を参考にしています。
 
 
 
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美しい伝統の観音様(京三観音像)

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曹洞宗では始祖を達磨大師、高祖を道元禅師として仰ぎ見ます。
10月5日は達磨さんの命日です。達磨忌の法要が営まれます。
農作業も一服して、季節感のある「感謝の一日」になります。
 
総持寺には全国から信徒がバスに乗って集まり、広い宿坊も埋まります。
バスを見れば、島根の一畑鉄バス、越後の魚沼観光バスなど裏日本各地から来られた方が目立ちます。
総持寺の丘陵並びには寺が点在しています。
丘陵のふもとの星道を辿って、庚申塔を探していると、小さなお寺がありました。
石段の下から見上げると「龍泉寺と書かれています。
私の母は狛江の竜泉寺の長女でした。
今は私の従兄弟が住職(某国大教授兼任)をしています。
名前に惹かれて「生麦山無量院龍泉寺」に上りました。
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                                      生麦山無量院龍泉寺の門を見上げる
 
こじんまりとしたお寺です。海(東)に向けて建っており、北側はお墓です。
南側は庭と庫裏が建っています。
十一面観音が出迎えてくれます。
境内は金木犀の香りが漂っています。
私は本堂に合掌すると、直ぐに香りを追って金木犀を探します。
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   龍泉寺本堂、その右手に金木犀の大樹が見えます。
   この樹の前に祀られている京三観音が今日の話題です。京三製作所の皆様是非ともお参り下さい。
 
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                   境内の十一面観音像、丁寧に11面が刻まれていました。
 
本堂の北側に大きな金木犀がありました。
形が丸く整っています。
見れば、樹の前に観音様が祀られています。
金木犀はまるで観音様を引き立てる屏風か光背のような役割をしています。
金木犀の陰影が観音様のお顔に落ちています。
美しい観音様です。
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           京三観音像全景、金木犀の大樹が観音像の聖域を作っています。
 
                         
観音様はブロンズ製です。
背丈は光背も含めて1メートル程度の小像です。
しかし、小ささは感じません。
台座には「京三観音」と記されています。
京三て何かしら?
思います。
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                  観音像の足元から見上げます。京三観音と大書されています。
 
傍らに簡単な説明があります。
説明文の行間を生めて案内すると以下のようになります。
 
信号機のトップメーカー「京三製作所/1部上場」は東京の「京橋三十間堀」にありました。
今では堀は総て埋め立てられてしまいましたが。
創業者は小早川常雄でした。(創業1917年大正6年)
終戦も近い昭和19年、引退に際し、観音様の造立を発願して、菩提寺であった龍泉寺の住職に相談します。
しかし、大戦も断末魔、とても造像どころではなかったのでしょう。
観音様は昭和22年ようやくのこと開眼の法要を行います。
観音像は京三製作所の中に祀られました。
 
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    天平・白鳳の美しさを髣髴させる観音像。でも、古代の模倣ではなく現代の知性を感じます。
    宝珠の光背の懸仏の透かし彫り感心します。
    観音のあまつ乙女の衣手に 匂うが如き 木犀の花 (会津八一のコピーです)
 
台座の裏に回ります。
観音像造立の発願趣旨が書かれていました。
『群生をして観音菩薩の慈光を浴さしめ、併せて今大戦禍の犠牲なった人々、
会社の業務の為職に倒れた人々の冥福を祈る。』
更に観音経の最後の一節が刻まれています。
 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
 
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小早川常雄が引退した昭和19年は東京大空襲、横浜大空襲(死者10万に及ぶ)があった年でした。
焦土を眼前にして、産業界のトップとして指導してきた小早川氏の心に何があったか?
そして、観音信仰が彼の行き着くところであったのは容易に想像できます。
更に、戦後の日本立ち直りも観音様に祈らずに居られなかった事でしょう。
 
終戦前後の日本人は誰しもが観音信仰に思いを寄せました。
社会的な地位や戦争責任の大小に拠らずに、観音様や、観音経に思いを馳せました。
私の祖母は終戦によって農地を総て失い、貧乏に陥りました。
以来熱心な「観音信者」になりました。
東急電鉄の創始者「五島慶太」は着工後放置されていた「大船観音」の竣工に向けて尽力します。
日本復興に向けては、観音信仰が必要と思ったのでした。
志は小早川常雄と同じでした。
でも、鎮魂の思いや悲しみは小早川の方が数段深かったでしょう。
 
平安時代から日本人は観音様に祈りました。
戦争に、飢饉に、天変地異に・・・・・、
窮地に陥り社会が変動する度毎に、観音様が現れてくれました。
そして大戦においても、
「耐えなさい、良い事もあれば辛い事もある。耐えればいずれ幸いがある!」
激励してくださいました。
 
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でも、ただの観音様であれば、私は特段の留意はしません。
この「京三観音」は素晴らしく美しいのです。
第一印象はふくよかでやさしさを感じます。
白鳳の仏様のような印象ですが、綺麗な二重まぶたである事など、現代的でもあります。
更に「美しいなあ!」感服するのは光背です。
光背は観音様の慈悲の光が眩しく輝いている・・・、その様子を示すものです。
多くが舟形光背ですが、京三観音像は「宝珠光背(ほうじゅこうはい)」です。
如意宝珠の形をした透かし彫りです。
光背には天女居られます。
私は薬師寺東塔の水煙を思い起こします。
作者は、天平や白鳳の仏様に深い造詣があったことでしょう。
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                      薬師寺水煙の天女
 
作者(仏師)は誰だったのか・・・・、沸々と疑問が沸き起こります。
作者の名は先の案内板に書かれていました。
大内青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1981年2月21日)
高村光雲に師事した昭和の仏師でした。
同氏の代表作は永平寺東京別院(麻布)にある長谷観音像です。
奈良や鎌倉の長谷観音に匹敵する大きさの、昭和の観音様です。
 
奈良の長谷寺には美しい五重塔があります。
「昭和の名塔」と呼ばれています。
そして「昭和の長谷観音」です。
私は素晴らしいと思っています。
私達昭和世代は余り誉めませんが、いずれ後世の人は評価してくれるのものと思います。
 
麻布も週一位は出かけていましたが、
もう此処数年出掛けていません。
たまには出掛けて見ることにしましょうか?
永平寺別院に・・・・。
 
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