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金木犀と桂

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京都の保津川は渓谷を過ぎて、嵐山渡月橋を越す辺りから名を「桂川」に変えます。
そして山崎を超えた辺りで、淀川に合流します。
桂川が「月の名所」であった事から、藤原道長が別荘を立て、桂宮家は桂離宮を数代に亘って建築しました。
中国では「月には桂が生えている」故事があります。
 
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       桂林の名は金木犀(中国では桂)が多い事に拠っています。(桂林観光局のHPから転載)
 
私が中国の景勝地「桂林」に始めて訪れたのは30年前でした。
勤務先の銀行が職員に”兵隊から管理職になるのだから、少し視野を広くしなさい”そんな意図で『研究休暇』をくれました。有給休暇ですから「レポート」の提出が義務付けられています。
当時は中国本土への経済窓口は「広州」で「広州広益会」「広州特別区」等の活字が躍っていました。
香港から広州に入り・・・・・、研究報告はそこそこに、ボロい飛行機で桂林に入りました。
「南画の世界を目で見てみたい」思っていましたから。
 
私は桂林の名から、「桂の林」がある地だと想像していました。
ところが、中国の桂とは「金木犀」の事で、
桂林は「金木犀が林のように沢山植えられている地」の意味であると言います。
偶々、金木犀の花が盛りの季節でありました。
何故、金木犀のような潅木を植えるのだろうか、材木としては価値が無いじゃないか?
思いました。
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                         金木犀の花を漬け込んだ桂花陳酒は桂林の名産です。
 
疑問は直ぐに解けました。。
金木犀の花を酒に浸けた「桂花陳酒/けいかちんしゅ」が此処の名産品であったからでした。
何処の酒家(レストラン)でもこの酒が出されました。
その度ごとに現地ガイドが説明します。
「貴方達は幸いです。今が桂林は桂花が盛りです。
桂花陳酒とは、桂花(金木犀の花)を白ワインに漬け込み、2,3年熟成させて香りづけをしたものです。
楊貴妃が命じて造らせたお酒です。清朝時代には宮廷の秘酒でありましたが、今では盛んに作られています。」甘くてフルーティーで、芳醇な味わいを楽しみました。
 
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  金木犀の良さは「強い芳香」が第一、次いでは落花の美しさでしょう。写真は東慶寺の門前です。
  この花を酒に漬け込んで、芳香をお酒に移します。
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      金木犀を日本酒に入れてみました。当然花は浮いてしまい、香りは酒に移ってくれませんでした。
 
日本人は奈良時代の桂の字を「桂の木」に当てました。
木偏に「圭」ですから、
見た目も綺麗だし、木目も美しく、柔らかいので加工もしやすい、加えて良い香りもする・・・・・、
「良い木」は桂だと直感したのでしょう。
佳人とは「美人」の事であります。
 
 
同じ頃「椿」の字を「木偏に春」だから「つばき」を当てました。
中国ではchun(ちゃんてん)と言う栴檀科の潅木で、日本名「庭漆」でありました。
欅(けやき)も中国では胡桃(くるみ)の事です。
 
日本人の感性で漢字を大和言葉に当てはめたのでした。
万葉仮名はそうした日本人の創意の成果でしょう。
 
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                                金木犀も鎌倉ではこの1週間でお終いでしょう。
 
私は「桂」の木が大好きです。
小学生の頃、初めて版画を作りました。
その時、「良い香りのする木だなあ」鼻に押し当てて嗅いで見ました。
 
秋、一番早く黄色くなります。
葉っぱはハートの形をしています。
でも、薄い葉ですから、光を通してしまいます。
風が吹けばヒラヒラ大地に散ってしまいます。
地上に落ちた瞬間から素晴らしい香りを発します。
味噌蔵の香りです。
馥郁とした、醗酵する香りです。
きっと桂の葉は醗酵菌に直ぐに溶けてしまう性質があるのでしょう。
 
平安時代、京都仏師の定朝はヒノキの木を使って阿弥陀様を彫刻しました。
桂の木の方が彫刻はし易いし、木肌も細かいし、割れる事もありません。
でも、ヒノキを使いました。
私は想像します。
きっと木肌が白くて、京女の雅や色香があったからではないでしょうか?
ヒノキを使っても白い木肌は金箔の下に隠されてしまいます。
衣を彩った塗料に塗られてしまいます。
でも、仏像の材をヒノキに限ったのは、「雅」を追い求めたからでしょう。
 
同じ頃、東国の仏師は好んで桂の木を使いました。
桂の香りや木肌を愛しました。
だから、金箔や塗料の使用は抑えて、意図して木肌を活用しました。
でも、丸い彫刻刃でリズミカルな模様を彫ってみました。
これを後世の人は「鉈彫り」と言ってほめあげました。
ヒノキが京女なら桂は東男でしょう。
 
定朝が弥生文化なら、鉈彫りは縄文文化でした。
 
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        日向薬師は桂の素材を活かした「鉈彫り」で有名です。(伊勢原観光協会HPから転載)
        桂材と仏像のについてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43981421.html に書きました。
 
鎌倉時代、興福寺仏所の運慶は鎌倉で数体の仏像を仕上げました。
その迫力は東国武士の心を打ちました。
その伝統は仏像需要が廃れても、仏具の彫刻、そして江戸時代にか家庭の家具や食器具に活かされました。
「鎌倉彫」と呼ばれるブランドになりました。
鎌倉彫は今も桂の材を使います。
伝統は1000年、革新は片時もストップしません。
伝統と革新を両輪にして文化は前に進みます。
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  鎌倉中央公園の「桂の林」。香りが良いので子供達がこの林で遊んでいます。
  一番早く秋の訪れを知らせる樹木です。
 
鎌倉では近年意図して桂の木を植えているようです。
鎌倉中央公園には桂の林があります。
桂の街路樹もあります。
桂の木が大きくなったら、倒して子供達の使う版画板に、お箸置きなどの家庭具に使ったら良いと思います。
鈴かけの街路樹も良いのですが、桂はもっと素敵ですし、文化の伝統があります。
太くなりすぎた街路樹は伐採し、新しい木に植え替えるべきだと思います。
その時には桂を植えて、「桂の木は1000年の歴史がある」教えて欲しいと思います。
 
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    桂の樹下から梢を見上げると、総ての憂いが消えるような爽快感があります。
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  桂の梢が好きな四十雀。虫が多く集まるので野鳥が集まります。コゲラも良く見かけます。
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                         湘南で最大の桂は遊行寺にあります。姿形の良い樹です。
 
 
 
 
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街中アートフェスティバル・イン極楽寺・稲村ガ崎

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10月の鎌倉は町の其処此処から金木犀が香ってきます。
露地に入れば、生垣や草むらから虫の音が聞こえます。
連休で観光客が増えたのは八幡様と鎌倉駅の間、建長寺と北鎌倉駅、長谷寺と大仏様の間だけです。
道を折れて、一歩街中に入れば、いつも変わらない静かな鎌倉です。
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長谷寺門前の賑わい。左の旅館は対せん閣(昭和2年建築)。この建物も昭和モダニズムのアートです。
微笑ましいカップルが「浅羽屋/うなぎの名店」の前で協議中でした。「昼、どうする?」聞こえてくるようです。
 
 
今年は江ノ電100歳のお祝いの年だそうです。(明治33年創業、大正15年開通)
親会社の小田急電鉄の新宿小田原間開通が昭和2年、
京浜急行電鉄の品川浦賀間の開通が昭和6年ですから、
江ノ電は実に長い歴史があるもんです。
露地をつないで鉄道にしたようなもので、民家の軒先や、商店街の真ん中を走っています。
でも、自転車程の速度で走っていますから、接触事故は滅多に無いようです。
 
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           今日の話題「極楽寺・稲村ガ崎アートフェスティバルのポスター。artfestival.jp/
 
長谷寺駅で大半の観光客は降りられます。
そして、観音様と大仏様を詣でます。
その人波を、「たまには極楽寺坂を越えてみなさいな・・・・!」言わんばかりに、
「極楽寺・稲村ガ崎アートフェスティバル」が行われています。
 
江ノ電駅舎で配られているパンフレットを見て初めてこの催事を知りました。
今年で15回目を迎える、「街中フェスティバル」なのです。
私はパンフレットを片手にして極楽寺から稲村ガ崎に向かいました。
ガイドを見れば34箇所でアートを展示、音楽を演奏、落語や琵琶を語っているのです。
「実に大変だなあ・・・!」感心します。
主催は「極楽寺稲村ガ崎アートフェスティバル実行委員会」、後援は江ノ電や新聞社、鎌倉市観光協会等です。
 
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稲村ヶ崎駅、この駅は江ノ電が単線なので上下電車の待合をします。
                
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   極楽寺駅、お嬢さん二人はフェスティバルのパンフレットを見ています。
   「此処から稲村ガ崎に行く?長谷に行く?」協議中のようです。会場は34もあるので迷ってしまいます。
 
ベルギーやオランダの街を歩いた事を思い出します。
レンガや石積みの街には長い歴史を感じます。
尋ねれば、外観は中世のままだそうです。
500年に及ぶ街の表情をそのまま保存しようとするとは、「頑固なものだ」感服します。
でも、歴史のある街中に自分の体を置くと安心感に浸る事が出来ます。
町並みは外敵の攻撃を防御し、旅人をやさしく迎える、そんな役割を果たしています。
レンガの家の中ではクラフトしています。パンやケーキが焼かれています。
「町中がアートだなあ!」感心しました。
 
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   稲村ヶ崎駅の駅前。左のポストの前を折れるとパン屋さんがあります。
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            今日のお昼は「RICHARD LE BOULANGER」で。
            ハワイアンの流れる店頭で戴けます。テラス席もあります。これで約500円です。
 
「街中アートフェスティバル」を思いついた人達は、そんな体験を鎌倉でも案内したい・・・・、
と考えたのではないでしょうか?
 
日本では外敵に襲われる事はありませんでしたが、
快適な街を作りたい・・・、そんな愛着は誰しもが持っています。
また、アートやクラフトの技を持っている人は近所に住んでいるものです。
アートを作る人は「見せてみたい・・・」思うでしょうし、
見てみたい、聴いてみたい、触れてみたい・・・・思う人も沢山居ます。
 
普段は入れないお屋敷の庭先や家の中にお邪魔して、
アートや陶器、刺繍などを見学する事は楽しいものです。
そして、街に対する愛着が一層深まるものです。
 
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         手芸の店「比呂」の風景。母屋ではコーヒーと作品展示が為されていました。
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                       極楽寺門前の展示場では陶器が展示されていました。一つ2000円でした。
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         展示場のオーナーの如意輪観音像、これも現代作家のアートです。(信仰とは別です)
 
「極楽寺、稲村ガ崎の町並みが綺麗だ・・・」 気づいたのは相当前のことでした。
映画やTVのロケが頻繁に行われました。
江ノ電の駅舎も街の風景に溶け込んでいて・・・、アートのようなものです。
 
「街中がアートであって欲しい!」
私の住む戸塚では、夢のまた夢の思いがします。
でも、何時かはそんな時が来て欲しいものです。
駅前再開発のテーマは「カルチャーのある街戸塚」でした。
でも、「戸塚にカルチャー?」、疑問符をつける人が大半でしょう。
 
「素敵ね、稲村ガ崎て・・・・、住んでみたいわ!」
叔母さんの声を聞きながら・・・思いました。
素敵な所に引っ越すのは容易いかもしれませんが、
自分の住む町を素敵にするのは容易ではありません。
それには、おばさん自らが素敵に、アートになって貰わなければ始まりません。
 
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   海岸通りの珊瑚礁(カレーレストラン)は人気で長い行列が出来ていました。
   鎌倉への道は何処も渋滞でした。
 
 
 
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麻布観音物語(三番目の長谷観音)

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明治神宮の表参道は東洋一のファッションストリートになりました。
世界中のブランドが出店していますし、集まってくる老若男女もそれぞれに個性的な装いをして、楽しんでいます。
明治通りとの交差点が賑わいの中心で、その先、青山通りまでは楡の並木がやさしい木陰を作っています。
青山通りを越えて、西青山は青山墓地も近いので昔は閑静でしたが、今ではCartier等が進出してきています。
この道は根津美術館に突き当たって、数本の細道に別れてしまいます。
その先に目指す麻布観音(永平寺東京別院長谷寺/ちょうこくじ)があります。
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   麻布観音(長谷寺/ちょうこくじ)観音堂。今日の話題は此処の昭和の「麻布観音」の話です。
   遠くのビルは六本木のビル群です。
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   長谷寺本堂で雲水さんが行事の練習をしていました。行事予定を見ると「仏前結婚式」とありました。
   私達夫婦も仏前でしたが・・・、そろそろ葬式も考えなければならない年齢になりました。
 
徳川家康は江戸幕府を開府すると、幼馴染で曹洞宗の坊主であった「門庵宗関」を呼び寄せます。
そして、渋谷ヶ原(現在の青山)に寺を建立させます。
この地が江戸城桜田門から真っ直ぐ西にあって、軍略上の要衝になると判断したからかも知れません。
2万坪の用地を寺領を与えました。
更に堂塔を建立しました。
更に、渋谷ヶ原には小さな観音像が祀られていました。
観音様は奈良の長谷観音を刻んだ木片である、言い伝えられていました。
そこで、江戸第一の観音像を建立しました。(正徳6年、2丈6尺/4.5メートル)
麻布観音は江戸屈指の観音霊場として人々の尊崇を集めました。
 
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                         麻布観音像、3.3丈は人間の3.3倍の大きさ(10m)と言う事です。
                   4時頃に参詣しましたので、夕日がお顔に当って少し赤味を帯びておいでです。
 
門庵宗関は今川義元の孫でありました。
家康は宗関に命じて品川高輪に泉岳寺を建立させ、義元の霊を慰めました。(慶長17年、1612年)
更には世田谷の豪徳寺を中興させました。
因みに義元の倅「今川氏真」は家康の庇護を受け、東京都杉並今川の観泉寺に埋もれています。(同寺は私の祖母の姉が嫁いだ寺です)
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            お顔のアップ、私の第一印象は湖北石動寺十一面観音を昭和の知性で悔いたものでした。
 
 
1945年(昭和20年)3月10日、5月25日深夜東京は大空襲に遭遇します。
B29爆撃機の低空爆撃によって青山界隈は焦土に化しました。
麻布観音も、青山学院大も灰燼に帰しました。
麻布観音は東京の観音様、その再現を願う気持ちは強いものがありました。
そこで、曹洞宗、永平寺は大観音の再建に乗り出します。
 
日本芸術院会員の大内青圃(おおうちせいほ)に依頼しました。
青圃氏は高村光雲に師事した昭和の仏師として評価されていました。
先ずは昔からの信仰を大切にしました。
麻布観音は奈良の長谷観音の流れを汲んでいます。
1000年を超える長谷観音に注がれた民族の信仰を大切にしなければ、後世の日本人に伝える事は出来ません。
長谷寺観音の特徴は先ず伝統的な十一面観音であること。
その上で、右手には錫杖(しゃくじょう)を、左手には水瓶(すいびょう)をお持ちです。
錫杖はお地蔵様や弘法大師の持物です。
「観音様のように慈悲に満ちて、お地蔵様のように身近に・・・・」そんな観音様でした。
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当時、水上勉「湖の琴/昭和41年(1966年)」、 井上靖「星と祭/昭和47(1972)」が発表されていました。
青圃も琵琶湖の湖北に1000以上も前から静かな里で祀られてきた十一面観音をめぐってきていました。
数多くの観音像の中でも「石動寺の十一面観音」に心を奪われていました。
この、人間の背丈ほどの観音様は細面で優しい母のような眼差しでした。
更にこの観音様は金色の体も、華麗である筈の衣も色褪せていました。
唇だけが朱を留めていました。(仏像には儀軌(ぎき)と呼ばれる決りごとがあります。儀軌を守れば異様な神のような印象を与え、お地蔵様のような親しみを疎外されます)
観音像に木本来の美しさを残したい・・・、と言った考え方は法華寺の十一面観音(光明皇后生き写しと伝えられる)をはじめ、関東の鉈彫り(弘明寺十一面観音など)、そして江戸時代の円空、木喰仏に繋がる”日本人伝統の感性”でありました。
 
『石動寺十一面観音のような優しい観音様を、長谷寺本尊と同寸で作りたい・・・・』
基本のコンセプトは決まりました。
でも、問題は二つありました。
「長谷寺と同じような大きな材木が探せるだろうか?」
朗報は九州筑後川の河口にある「大川市」から伝えられました。
「筑後川流域に大きな楠がある」と言うのです。
樹齢は600年以上ある、それ以上は年輪が細かくて数えられない・・・・、と言う事でした。
楠は箪笥などの家具に使われる木目の細かい、虫が着かない樟脳の材料になる良木でした。
大川市は下村湖人の生家も近い土地柄です。(次郎物語の舞台)
観音計画には快く協力してくれました。
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   筑後川河口橋、この手前側が大川市。川で運んだ楠などを使った家具の産地です。写真はブログ友人の    作品をお借りしましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/taketake5295/32556514.html
 
 
次に課題は「昭和の長谷観音」を作る事でした。
石動寺の観音像を拡大コピーするのでしたなら、誰でも出来る事でしょう。
百済観音(法隆寺)をはじめ美しい仏像は国の総力を挙げてコピーが作られていました。
CTスキャンや立体映像技術を持ってすれば、容易に石動寺観音像の3.3倍(10m)にすることは可能です。
(下着メーカーが女性の体をデータ化する技術を持っています)
 
此処が青山で東京大空襲で集中爆撃された事実がありました。
だから、昭和の長谷観音を建立する事にしたのでした。
戦争の誤りと、その悲しみを後世に伝えて、将来の幸いを祈る為に「昭和観音」を作らなければなりません。
科学技術が進んで、兵器が開発されました。
それを「知性の伸展の成果」でありました。
陰惨な戦争は知性の無作法で野放図な伸展の結果でありました。
知性は一方で倫理観や人間観を育成しなければ、人間の幸福に役立ちません。
見た目の優しさや広大無尽な慈悲だけではなく、知性の美しさを表現してこそ、「昭和の長谷観音」である、
考えたのでした。
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  楠の一木から削りだされた観音像の基台。基本技法は鉈彫りです。
 
昭和52年(1977年)念願の麻布観音像は開眼供養の法会を開きました。
奈良の長谷観音、鎌倉の長谷観音に続く3代目の観音様でした。
昭和60年8月12日、坂元九さんが日航機と共に落命されました。
麻布観音の前は沢山の人が集まりました。
その墓苑に九さんが埋もれました。
墓参者は麻布観音の眼差しの先に九さんが埋もれた事を確認しました。
そして、観音様に手を合わせて九さんの冥福と感謝の気持ちを伝えました。
 
冥界の青圃(昭和57年没)は麻布観音の参拝者が多いのに驚いた事でしょう。
そして、昭和の麻布観音に満足している事でしょう。
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       人間の丈の聖観音が脇待の位置においででした。此方は童顔で居られます。
 
 
 
 
  お詫び:これから外出します。夕方6時過ぎ帰宅しますので、其処頃少し校正します。
 
 
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「小江戸川越」の醤油屋の革新(金笛醤油)

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「久しぶりに川越に行って見ようか、評判が良いようだから・・・!」
家内と、朝7時過ぎにお出かけです。
出かけに一寸調べてみました。
川越の観光客数は、昭和50年には100万人だったものが、平成元年には330万人、そして平成21年には630万人に増えているのです。
一人3000円、街で食べたり、お土産を買ったとすれば200億円になります。
鎌倉(1900万人)には及びませんが、小江戸川越は「町興し」の成功者です。
 
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  川越のシンボル「時の塔」は薬師堂の楼門(3階建て)に鐘をつるして時を知らせたもの。
  戦前は白い蔵が主流だったと想像します。
 
 
10時前、喜多院門前の大駐車場に入りました。
此処に駐車(一回500円)、ゆっくりと町中を歩く作戦です。
今日は万歩計に誉められそうです。
 
出掛けに「YAHOO食べろく」で調べておきました。
今日の昼食は「金笛醤油の”うんとん”」にしよう。
”うんとん”とは聞きなれません。
多分、川越では江戸時代「うどん」のことを”うんとん”と呼んだのでしょう。
濁音「ど」が無いわけですから、ずっと美味しそうな響きがあります。
  
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  此方はお芋の和菓子で有名な「亀屋」さん。
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         真ん中が今日の話題「金笛/きんぶえ」 左が大沢家住宅(重要文化財)
         間口が狭く、奥行きが深い町屋が連なっています。
 
家内と話します。「金笛/きんてき」とは面白い名前だね・・・?
家内は和弓を長くやっています。
ですから「金的/和弓の的/金的を射る」を思って微笑んでいます。
私は男性性器(睾丸)を思い浮かべます。
男性の最大の急所です。
私のような誤読を予想して「金笛」にはルビがしてありました。
「きんぶえ」と読みなさい。
寛文元年(1789)創業の笛木醤油のブランド名が「金笛/きんぶえ」なのですよ・・・。
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       蔵の町、もうひとつの重要文化財「リソナ銀行川越支店」
       大正7年(1918)に第八十五銀行の本店として建てられました。
       近代金融史のシンボル的な洋風建築で、ネオ・ルネッサンスの意匠です。
 
ブラブラ、蔵の街を散策して、腹も空いてきます。
どの蔵も真っ黒な壁、塩瓦の屋根です。
勿論江戸の町の急所(金的)は大火事です。
厚い壁、窓も防火で金属製です。屋根の平瓦も江戸時代の発明品です。
NHKの美の壷では町人が「粋な黒」を競った、と案内していましたが・・・・・、本当でしょうか?
出来れば、白壁(なまこ壁)も良いものです。
白壁が主で、お大尽が黒く塗って、磨きこめたのではないでしょうか?
そして、先の大戦で白壁の上から黒い壁を上塗りした・・・・、
その証拠に偶々傷んだ黒壁には白い色が覗いていたりします。
 
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 200年もの歴史を持つ大沢家住宅。外から見ても、中に入っても呉服屋さんです。
 でも、重要文化財ですから「土産物店」の看板は掛けられません。
 黒い筈の壁も色褪せて来て、下地の白壁が 透けて見えます。重文指定の不便さです。
 
 
”うんとん”は蔵の町略中央にありました。
平成に建てられた蔵ですから、川越で一番新しい蔵です。
1階が醤油店、2階が「昔絵/松下紀久男氏作」の展示場になっています。
そして、その奥がうどん屋(甘味・喫茶併営)さんです。
人気店(大半のお客さんは女性)で名前を書いて入店を待ちます。
待っている間、店先で醤油やドレッシング、味噌漬けを見ています。
試食や試飲も可能ですから、待っている時間も楽しいものがあります。
 
 
私は、三河岡崎の「味噌煮込みうどん」が好物です。
八丁味噌に煮込まれたうどんの味は格別です。
”うんとん”は金笛醤油に商ううどん屋ですから、基本的には醤油味です。
でも「ピリ辛味噌味」のコピーにつられて「角煮うどん、古代米ご飯つき」を注文しました。
美味しかった事、間違いなしです。
古代米も食べさせたいのかもしれません、うどんの量は少な目、ご飯セットでちょうど良い量でした。
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           関東風の真っ黒な醤油汁に辛し味噌が乗った「角煮うどん」1050円
         赤米(古代米)が添えてあって十分なボリュームです。
  
 
私は「醤油蔵を見せて欲しい」聞いてみました。
3年も蔵に寝かしてから出荷するそうです。
味噌蔵、醤油蔵、同じものです。
醗酵する香りは堪らなく良いものです。
「川越にはありません、お隣の川島町にお出かけ下さい・!」との事でした。
と言う事は、平成になって金笛醤油は蔵の街に進出してきたのでしょう。
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随分前でしたが、岡崎まるや(八丁味噌の老舗、創業延元2年・西暦1337年)が、
NHKの朝の連ドラに登場した事があります。
今では、バスが連なってくる「工場見学・食事・みやげ物・味噌ソフト」の人気スポットです。
「まるや」に比べれば小さくても、同じような経営センスをうかがうことが出来ます。
全国各地のあった味噌、醤油の醸造屋さんは大半が店じまいをしてしまいました。
金笛醤油は川越に進出して、成功している事でしょう。
 
 
道路向かいが「祭り会館」、そしてお隣が重要文化財の「大澤家住宅」です。(寛政4年・1792年建築)
昔は呉服店だったのでしょう。
畳の敷かれた広間があって、お客さんがそこで反物をあててみたりしたのでしょう。
大店である事を示す棚や金庫、古時計や神棚が見えます。
女将さんは相当の年齢です。
呉服店で娘時代を過ごしたのでしょうが、蔵の街を売り出してから、土産物屋に変身したのでしょう。
「昭和46年、重要文化財に指定する」
文化庁の通知が長押に貼られていました。
蔵の街で最大で最古の民家です。
が今は、土産雑貨を商っておいでですが、店構えは「呉服店」です。
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    大沢家の店内、重文ですから造作は変えられません。商売をしているのだから、自由裁量を増やしてあ     げればいいのに・・・、思いました。おでこが見えるのが女将さんです。
 
 
半日楽しむには十分楽しい「小江戸テーマパーク」です。
焼き芋、醤油せんべい、ウナギの蒲焼の香りが町中に漂っています。
誰もが、食べながら歩いています。
店先にはベンチがあって、ソフトクリームを舐めている女性も目立ちます。
食べる事、見る事、嗅ぐ事、触る事、聞く事(祭囃子)五感で江戸を感じさせてくれます。
 
川越が昔ながらに事業をしてきたのなら、他の商店街と同じように人気が消えて、廃れていた事でしょう。
一人一人の事業者が、伝統を活かしながら、現代に即応して事業を変革してきた事でしょう。
金笛醤油は川越に店を開き、都会から全国に情報を発信し、市場の動向を把握しているのでしょう。
12代目の若い経営者は青年商工会議所のリーダーとして活躍しているようです。
大沢呉服店は200年の商いを断念、土産物屋に変更しました。
夫々に「革新」であった事でしょう。
 
「小江戸テーマパーク」としては「屋台村」がありませんでした。
屋台は江戸時代に店をもてない人が始めた「革新」でありました。
また、近郊農村との交流「朝市」や「物産店」もありませんでした。
ユニバーサル・グリーン・ツーリズム(自然を求めるトレンドを背景に農村と都市の住人が交流する事業)
への関心は日に日に強くなっています。
川越の将来は前途洋々でありましょう。
 
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       ”うんとん”の露地風景、左の黒い人形はうどんのマスコット(?)。川越は食べる楽しみ満載です。
 
楽しい半日でした。
今日は三連休の最終日、関越は大渋滞する事でしょう。
午後2時過ぎ、早めに帰路に着く事にしました。
今週末は「川越祭り」です。
15もの屋台が出るそうです。(一基製作中)
祇園祭の山鉾巡行(29基)には及びませんが、高山や長浜は凌駕しています。
加えて、川越には情熱があります。
秩父、川越を加えて「日本五大山車祭」と呼ばれる日が来る事でしょう。
 
 
 
 
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五百羅漢像の系譜(喜多院羅漢像に因んで)

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昨日は小江戸川越の「醤油・金笛」を紹介しました。
川越と言えば喜多院、今日は「喜多院の五百羅漢」を案内します。
 
日本で最初に作られ、日本人が最初に見た「羅漢」像は法隆寺五重塔にあります。
五重塔の初層の4面には塑像群で釈迦涅槃に始まる「仏法の伝播」が表現されています。
北面にはお釈迦様が静かに横たわって最期の時を迎えています。
お釈迦様の向こう側には菩薩が並んで、見つめています。
お釈迦様の手前には、悲しみの余り大声で泣き叫んでいる一群が居ます。
これが羅漢(又は弟子)です。
飛鳥時代以降、釈迦涅槃図は度々描かれ、其処には「羅漢の慟哭」する姿がありました。
でも、羅漢像や釈迦のお弟子さんが注目を集めるのは江戸時代になってからでした。
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  法隆寺釈迦涅槃図、お釈迦様の前列で泣き叫んでいるのがお弟子さんと羅漢。
  711年作、法隆寺図録から転載
 
法隆寺の五重塔の西面にはお釈迦様の遺骨を分骨する場面が表されています。
東面には維摩居士と文殊菩薩が仏法議論を戦わせ、
沢山の弟子が聞き入っている場面が描かれています。
日本に伝わった仏教は「釈迦の遺骨尊崇」と「仏典/お経」が中心に広がってゆきます。
大乗仏教の流れは「国を平和に守って欲しい/古代」、「氏族や武士団を守って欲しい/中性」と流れてきます。
肝心の「個人を救済して欲しい」願ったのは近世になってからでした。
近世になって日本は改めて羅漢に見向きました。 
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   北条にある羅漢寺の羅漢像群(400体) 中世、近世過渡期に位置する羅漢像。
   「石仏の円空」と評される意匠であるが、石工の名は解らない。石工の名前の研究は最近の調査研究であ   り、万治の石仏(諏訪大社)を契機にしています。筆者大阪勤務時度々訪れました。
 
中世「応仁の乱」に始まる長い戦乱を経て、ようやく平和な時代がやってきました。
兵庫県加西市北条にある「羅漢寺」では5百羅漢が造仏されます。
この地に産出される白御影石を使った、特異な羅漢群です。
方形の石塔に深い眼差しの羅漢が林立しています。
モアイ像のような羅漢像は、再び戦乱の世にならないように、睨みをきかせているようです。
 
慶長十五年(1610)に始まります。
ちょうど、円空が諸国を行脚し、鉈彫りの仏像を建立していた時代です。
「石仏の円空」を思わせます。
上の写真でお解かりのように呪術的な、密教的な印象があります。
中世と近世、双方を併せ持つ羅漢像です。
 
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  喜多院の5百羅漢像、墨染めの衣を着た何処にでも居る坊さんの姿です。
  喜怒哀楽様々な表情をしていますが、笑いが一番多い(三分の一)、次に「困ったもんだ」の表情です。
  庶民の話し相手になる羅漢像です。
 
曹洞宗の寺院では必ずと言っていいほど、羅漢像を祀ります。
楼門の二階に祀って、門を潜る檀家信徒を迎えます。
羅漢像は仰ぎ見る尊像であると同時に、信徒にとっては肉親縁者の姿でありました。
住職にとっては自身の理想像でもありました。
修行を積んで、自分自身も羅漢になりたい・・・・、目標の姿でありました。
 
川越喜多院では5百羅漢の造仏を発願する人が現れます。
志誠(しじょう)と言う名のお坊さん、蔦右衛門(名主か商人?)が発願し、
喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」で広く寄進を募りました。
こうした手法は全国各地で行われていました。
 
羅漢像はの寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。
肝心の「石工は何処の誰であったか?」未だ解りません。
石はどれも黒っぽい安山岩(火成岩、浅間山等で産出)です。
江戸時代、最大の石工集団は上州に居ました。
大凡の見当はつきますが、調査・研究が待たれます。
   
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   喜多院5百羅漢の全景。中央に釈迦、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊を祀り、その周囲に345体居られます。
 
30年の間に535体の羅漢像と、釈迦像を中央にした仏像を含めて540体の石仏を奉納しました。
毎月2体弱の石仏の注文があった訳でした。
同じ石工の棟梁が総て刻んで収めたのかもしれません。
素材、技法、大きさ、表情、特に笑顔にこだわった人間観察を見ると同一人と考えます。
若しかしたら、石工の二世代に及ぶのかもしれません。
 
石工の名を「与平」としましょう。
坊主の志誠が書いた「五百羅漢建立募縁疏(勧進帳のようなもの)」を蔦右衛門が持って回ります。
「喜多院真珠院に5百羅漢を奉納しよう・・・・
その功徳は、第一に寄進者の幸い、第二に子孫の繁栄を請来する事が出来ます。」
川越は商業の町として繁栄していました。
目黒の5百羅漢寺の羅漢像も見聞きしていました。
「何でも大奥のお局様から吉原の太夫さんも寄進しているそうだ。羅漢は誰しも等しく救済してくれるそうだ」
そこで、快く勧進に応じました。
 
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                 狆(チン、ペットの犬)を可愛がる羅漢像。
                 市井に居る庶民の姿、庶民の坊さんの姿が刻まれているのが魅力です。
 
 
近世から現代、昭和になると5百羅漢は一層親しい存在になりました。
それは、「自我や個性が一番大事だ」、時代の共通感覚になったからでした。
西村公朝師(仏像の補修を行った人)は京都嵯峨野の愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)の改修に取り掛かります。
その中で、五百羅漢の造像を呼びかけます。
喜多院のような勧進帳スタイルからもう一歩進んだ「仕掛け」をします。
 
「羅漢像を彫ってください。そして愛宕念仏寺に奉納しましょう」
呼びかけました。
羅漢像を彫ることは自画像を描く事、お世話になった親父や爺さんの刻む事・・・
人間の洞察になりました。
それは、自分自身の胸の中にもお釈迦様が居る・・・・・、自覚に繋がりました。
それは、羅漢像のテーマ「ラゴラ(お釈迦様の子供)」の姿でありました。
5百羅漢は1200体にもなってしまいました。
喜多院の羅漢は松の木の下にありますが、
愛宕念仏寺の羅漢は紅葉の樹下にあります。
もうじき、散った紅葉が羅漢を彩ります。
 
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     ヒソヒソ話をする羅漢像、僧衣も貧弱で偉い大和尚とは程遠い檀那寺の貧乏坊主の表情です。
     どの羅漢も美男ではなく、どちらかといえば醜い方です。
     だから親しみも沸くし、身近な人に見えてきます。
 
日本仏教は鎮護国家の成立を促すことに始まりました。「大乗の教え」でした。
でも、近世になって「個人の救済」が最も大切・・・・、お釈迦様の最初に戻りました。
それを原始仏教とか「小乗の教え」・・・、と呼んだりします。
羅漢がNAWい所以です。
 
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             ラゴラ像(お釈迦様の子供)です。
             「私の心にはお釈迦様が居ます」と胸を開いた表情が、
             「誰しもの心には仏性が居ます」共感を呼び、羅漢像の最大のテーマになりました。
 
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    わしは蕎麦と団子に目が無いんじゃ・・・、粉を挽く羅漢像。何処にでも坊さんです。
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   お棚業(檀家周り)から帰って、袈裟も脱がずに、小坊主(倅)に按摩にして貰って、夢心地の羅漢像。
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   般若湯と呼んで酒に目の無い羅漢像。
   仏法の厳しい戒律や難解な教義、四諦(生老病死)とは無関係のように人生を楽しんでいる姿が魅力です。
   江戸時代の人もこんな羅漢像のように生きたい・・・、願ったものと思います。
   それを「自我の尊重」と呼び、中性と近世を分ける思想です。 
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          石を抱いた羅漢像。石を抱くのは悟りを示す事。
          「この石は重たくて難儀だなあ!」 
          「禅の難しい教義も、疲れる修行も苦手なんだが」 溜息が漏れているようです。
          村の坊さんは民衆の目には共感を持って眺められたのでしょう。
          川柳を読むような「軽々な表現」に江戸末期を見る思いがします。
 
 
 
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前田青邨画伯の「筆塚」が導くこと

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北鎌倉を歩いていたら、「筆供養/東慶寺」のポスターが目に入った。
そうか、もう前田青邨画伯の命日(10月27日)が遣ってくるんだな・・・・、しみじみとした気持ちになります。
昨年は「洞窟の頼朝」が重要文化財になり”おめでたい”と思っていたら、
愛弟子の平山郁夫が亡くなられました。
同時代に生きた私にはある感慨があります。
「お墓参りでも・・・」 思い東慶寺の墓地に入りました。
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             東慶寺「筆供養」の案内ポスター。供養のシンボル13重石塔は前田画伯の寄進です。
 
前田青邨は明治18年、岐阜県中津川に生まれます。
中津川宿は中山道45番目の宿場であります。
大河木曽川の中流にあり、中津川、四つ目川、落合川など大きな川が流れ込みます。
木曾や飛騨の物産の集散地でもありました。
河岸段丘に街並があります。
恵那山や御嶽山が望める美しい街です。
 
お隣の馬篭の名主の家に生まれた島崎藤村が東京に出たように、
中津川に生まれた人は文化への志が高かったのでしょう。
前田少年は明治31年(13歳)で上京します。
中津川付知の地主の家に熊谷守一が生まれます。(明治13年)
守一少年は明治30年慶応大学普通部に入学します。
しかし、じきに慶応を中退し、洋画の道に入ります。
同じ中津川から日本画、洋画の「昭和の大家」が出現したのは、奇遇でしょうか?
 
私は、中津川には文化の蓄積と美しい自然があったからだと思います。
そこで、幼少期を過ごした二人は洋画、日本画の将来を切り開きました。
まるで、藤村の「夜明け前」のように・・・・。
 
ただ、熊谷守一は頑なな所がある「画仙人」で文化勲章を辞退しています。
前田青邨は香淳皇后(昭和天皇の皇后)の絵を指導するほどの円満な人格者で居られました。
 
 
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釈宗演(しゃくそうえん)老師が若き前田青邨に与えた軸。
出典は東慶寺HPwww.tokeiji.com/info/fudekuyou/
 
前田青邨は自分の画風に確信が持てずにいました。
すゑ夫人は円覚寺の老師、釈宗演への参禅を奨めました。
前田青邨(34歳)は大正8年松が岡に上り、釈宗演老師の指導を受けます。
二人の間にどんな会話や指導があったのかわかりません。
ただ、「画禅入三昧」と大書した一軸を与えます。
既に老師は夏目漱石はじめ多くの文人に強い影響を与え、厚い人望を得ていました。
無名の新進画家を指導した事実は、前田青邨に「光る物」を見たのでしょう。
同年、釈宗演老師は東慶寺で亡くなります。
まさに「一期一会」でありました。
 
「画禅入三昧」を前田青邨は生涯の指針(モットー)にしました。
昭和52年、前田青邨画伯は亡くなります。(92歳)
軸は東慶寺に返されました。
 
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      前田青邨画伯代表作「洞窟の頼朝」(昭和5年)、昨年重要文化財に指定された。
      大和絵の伝統を繋ぎ、洋画の影響を受けた昭和の歴史画です。
      歴史の考証と鮮やかな色彩(緋色の鎧)で画面を構成しています。
      石橋山で挙兵したものの大庭・畠山連合軍に蹴散らかされ洞窟で7人と協議している場面です。
      洞窟の外の気配を窺う緊張感があります。前田画伯は黒澤監督の「7人の侍」の時代考証も致しまし        た。
 
前田青邨画伯のお墓は小さな五輪塔があるだけです。
お隣との間は数本の女竹が植えられています。
地面は山苔が覆い尽くしています。
画伯の絵を見るような、簡素で美しいお墓です。
横には墓標が刻まれています。
「前田青邨 萩江露友」並んで刻まれています。
「前田すゑ」では無いのだ・・・、気づきます。
夫人は「荻江節宗家五世」でもありました。(荻江節は国の重要無形文化財。長唄を母体とする三味線音楽)
 
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       前田夫妻の墓標、墓誌にご夫妻に名が並んで刻まれています。
       奥様が前田青邨の画境を切り開いた、と言える二人三脚でした。
       二人は下村観山の媒酌で結婚します。そして、平山郁夫夫妻の結婚を媒酌します。
       院展の主流になります。
 
 
前田夫妻の関係は愛弟子の平山郁夫夫妻にも共通します。
平山美智子氏は芸大では主席であったそうです。
しかし、郁夫氏の才能にかけて、自らは絵筆を置きます。
女学校で絵の教師をするなどして家計を保ちます。
(私の家内は女学校時代教えられました)
二人三脚で実現した日本画でした。
 
釈宗演老師が書かれた「画禅入三昧」が昭和の日本画壇を導いたと言えましょう。
 
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                この阿弥陀様の右奥に前田青邨夫妻が並んで眠っておいでです。
 
 
筆供養は其処此処の寺院で見受けます。
大半が「寺小屋」があった記憶です。
筆にも命があるし、まして筆の材料になった豚や鼬・鼠などの動物にも感謝したい・・・・、
そんな、生命観が筆供養を行わせました。
美しい、日本らしい美俗です。
 
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          前田青邨筆塚は青楓の中にあります。美しい十三重石塔です。
 
前田青邨夫妻の東慶寺釈宗演老師に感謝する気持ちが「筆塚」を作らせたのでしょう。
自身のお墓に比べれば、遥かに立派です。
「小さいけれども、美しいお墓」
それが、実に前田青邨画伯に相応しいと思います。
そして、こんな画家と同時代を過ごしてきた事実に嬉しさがこみ上げてきます。
 
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          墓地入り口のお地蔵さん。綺麗に咲いた岩タバコも黄ばんできました。
          境内に咲いた紫苑の花が奉げられていました。
 
 
 
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昭和超レトロなカレー屋さん(葉山で)

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数年前から気になっている店がありました。
名前は「卯月」、そしてわざわざ「I LOVE RABBIT MOON」と加えています。
卯月とは4月、「卯の花が咲く月」ですから、ラビットムーンではなくてラビットフラワーでしょうに・・・?
「レトロなカレーの店」とも書かれていますし、店頭に古い自転車が置いてあり、
そのサドルの下に「カレー」と案内されています。
「ああ、何かこだわりのあるカレー屋さんなのだ」判ります。
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   「卯月」の全景。1階が店舗、二階は住家。車からの目線では「カレー」の看板は目に入りません。
   お地蔵様の横、縄暖簾を潜って入店します。杉板で葺いた壁は室内に続きます。
 
場所は逗子駅から葉山町役場に向かう通りに面しています。
桜山トンネルを超えて、長柄(ながえ)交差点の先にあります。
大きな「卯月駐車場」の看板が目印です。
駐車場に止まって、「カレー屋は何処にあるのかな?」探してしまいます。
そして、歩道に置かれた古い自転車に付いた「カレー」の看板を見つけます。
 
石仏の置かれた玄関を入ると、そこは「昭和レトロ」の空間です。
「昭和レトロ」へのこだわりは、インテリアとかデザインと言った次元ではありません。
博物館か映画のセットです。
壁には鎌倉御用邸の写真も貼られています。
私の母校「御成小学校」が御用邸の跡地であった、耳では聞いていました。
でも、御用邸の写真は初めて見ました。
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                 店内、左がレジ、右が調理場。
 
丸いちゃぶ台が置かれています。
アニメ「巨人の星」で、星飛雄馬 の父、星一徹が癇癪を起してちゃぶ台をひっくり返します。
あのセットを思い出します。
 
壁にはホーロー看板が架かっています。
勿論大塚の「ボンカレー」が目立ちますが、一番は由美かおるです。
スラッと伸びた長い足は現代感覚なら「太い」おもう、健康美です。
由美かおるはインパクトが強くて記憶に鮮やかなのですが・・・・・、
何の看板だったか?忘れてしまっています。
「アース蚊取り線香」の看板でした。
素足を丸出しでは、蚊に食われっ放しだろうに・・・・、思ったりします。
 
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                        丸いちゃぶ台のコーナー。「ちゃぶ台返し」を思い出します。
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       室内の壁は露地の板塀を表しています。板塀に貼られた由美かおるのホーロー看板。
       右手の町内掲示板には石原裕次郎などのプロマイドが等が貼られています。
 
まあ、よくよく此処まで集めたもんだ!感服します。
店員さんはレトロではなく聡明なご婦人です。
私は、メニューの中から「コラーゲンたっぷり、牛筋カレー/990円」を注文しました。
そして、立て続けに質問です。
私の他にお客さんも居ないので,店員さんは笑顔で付き合ってくれました。
 
『この店は2004年に開店しました。
店内展示はオーナーが個人的にコレクションしてきたものです。
オーナーの名は「遊佐博」、店名(ラビットムーン)はオーナーが四月生れだったから。
特に兎に拘りがある訳ではないと思います。
オーナーは厨房でフライパンを握っています。』
拘りのオーナーの笑顔が厨房に覗けました。
 
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      牛スジカレー。温泉卵がついています。「月に村雲」の意匠でしょうか?
      カレーと言うより、ハヤシライスかシチュウの味です。ライスにはオニオンフライがトッピングされていま      すし、全く辛くは無いのです。店はレトロですが、カレーの味はモダンなものでした。(カレーと思わない      方が美味しいです。土日はラーメンも出すそうです)
 
店員さんが声を掛けてくれました。
「お座敷もありますので、見ていってください!」
 
厨房の向かいに和室が二間ありました。
古いミシンやラジオ、初期の白黒TVが所狭しと置かれています。
グループで来た場合、落ち着きたい時には和室の方が良いでしょう。
 
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私が質問します。
「赤いポスト、いいですね。何処で取得されましたか?」
「それは、秘密です!」
笑顔が素敵でした。
これだけのコレクション、一つ一つ謂れや出所を聞けば、時間が足らなくなるでしょう。
此処はカレー屋サンではない。
シチューライスのお店だ。
そして、昭和レトロ博物館だ。
そう思えば、実にお安いお店です。
 
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   店内のテーブル席。赤い丸ポストは素晴らしく良い状態です。
 
 
 
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浄智寺の静かな秋

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北鎌倉の浄智寺に上りました。
庫裏の前庭一面に白い秋明菊が咲くのです。
庭は理屈っぽい枯山水でも、色々と凝った遠州流の庭園でもなく、自然を楽しむ庭です。
春先に咲いた白雲木も、初夏に咲いた牡丹も、もう葉を落とそうとしています。
老いた百日紅は今年も花をつけませんでした。
 
四季を彩った花木の根元には、山野草が交代で花を咲かせます。
今はホトトギスや女郎花が終わって、秋明菊に出番を代わろうとしています。
 
草木の根元、庫裏の縁の下、四方八方から虫の音が響きます。
私には、閻魔コウロギ、鈴虫までは判断が出来ますが、もっともっと、様々な秋虫が棲息しているようです。
「もうじき、冬が来るぞ!急いで準備をしよう・・・・!」そんな風に聞こえてきます。
 
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   秋が深まり行く浄智寺庫裏の前庭。ホトトギスの花の向こうに「姫蒲」も見えます。
   この縁の下で猫が子を産む気配です。
 
お腹が膨らんだ猫が縁の下に消えました。
縁の下の暗闇で、出産する積りなのでしょう。
来春にはもっと猫が増えるのでしょう。
 
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  庫裏の裏山との間に孟宗竹の林があります。秋は竹を伐採する季節です。今年は大鉈をふるいました。
  その結果、大きな岩が現れて、暗闇に祀られていた石仏が明るみに晒されました。
 
庫裏の庭から、裏を回ります。
孟宗竹の林に出ます。
 
随分明るくなりました。
思い切って竹を伐採したのでした。
時々、伐採する事で、また美しい竹林が再生されるのです。
竹林が覆い隠していた大きな岩が顔を出しました。
岩の下にあった櫓(やぐら)も陽の光に晒されました。
櫓の中で眠っておいでだった石仏も日なたに出されて、戸惑っておいででしょう。
岩の上には猫が陽を浴びて寝ています。
きっと、岩の温みが快適なのでしょう。
 
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                                 岩場で休んでいた猫が起き上がって私を見つめました。
 
私はお茶室の横にでます。
名前は「龍淵荘」、多分、井戸の淵にある庵の意味でしょう。
井戸は竹で編んだ蓋がしてあります。
茶室の東縁にはまだ簾が懸かっています。
まだ、日差しが強いからでしょうか?
まだ、酔芙蓉が咲いています。
台風で総ての花を吹き飛ばされて、慌てて蕾を膨らませたようです。
真っ白い花と、真っ赤に染まって落ちようとする花と、夏には見せなかった鮮烈なコントラストです。
同じ花が、一日のうちにこんなに彩りを変えるのは、驚きです。
 
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        龍淵荘、左が茶室、右側が書院(?)。右の山楓の樹下に井戸があります。
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   龍淵荘の縁側の先にまた咲いた酔芙蓉の花。一日花の芙蓉が真っ白から深紅に変わるのは驚きです。
 
小さな門の横にでます。
大きな葵の紋が門戸に描かれています。
扁額には「梅花樹下」と読めます。
門の傍には柿の実が色づき始めています。
秋は「柿果樹下」だな・・・、思います。
春と秋と名前を変えてあげれば良いのに・・・、おもいます。 
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  浄智寺全景、右側の門が「梅花樹下」、実は梅と柿の樹下にある門なのです。
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   この柿は見事に染まります。野鳥が楽しみにしています。四十雀や山雀が良く来ます。
 
門の傍らに東司(トイレ)があります。
地面は金木犀の落花で金色の絨毯を敷いたようです。
見上げれば東司の屋根の上まで金木犀が茂っています。
 
そうそう、私の生家にもトイレの横には金木犀と沈丁花が咲いていました。
どちらも、強い芳香が東司(トイレ)に最適だったのでしょう。
 
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  右側擬宝珠の横が東司(トイレ)。左の回廊を辿ると本堂(曇華殿)に出る。
  地面は金木犀の絨毯でカバーされます。
 
南風が吹けば金木犀の香りはお茶席まで漂う事でしょう。
金木犀は強い香りの為、”禁花”と聞きます。
でも、茶室の外から匂っているのは仕方が無いでしょう。
 
「和敬静寂」とは自然や人を敬い、物事に動じない心を表すものでしょう。
自然を敬う事は解りますが、その後はなかなか出来ません。
人は様々ですから、嫌いな人も居ます。誰でも敬う心境には中々なれないものです。
まして、物事には動じる一方です。
千利休のようにはなれません。
でも、浄智寺に来ると・・・・「和敬静寂」でありたい・・・、思います。
 
金木犀も庭の向こうから香って来るんだから・・・・、良いじゃないか・・・。
私は、早くにそんな気持ちになれたら、世渡りも上手に出来たのでしょう。
 
 
 
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                                            秋明菊が咲き始めました。(庫裏玄関横)
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                庫裏の玄関、向こうに秋草が茂る庭が覗けます。
 
 
 
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川崎宿の最大・最古庚申塔

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川崎駅東口から、暫く市役所通りを行くと、第一京浜の手前で旧東海道に交差します。
此処を左折すると「砂子(いさご)町です」、未だ10時過ぎなので、シャッターも閉まっています。
この辺りが川崎宿があった所で、浮世絵博物館や、陣屋跡の表示が「川崎宿」があった記憶を留めています。
ただ、当時の面影をとどめる建物は何も残っていません。
シャッターに「箱根」や「戸塚」の浮世絵がプリントされています。
「何で”川崎宿”を貼らないの?」不思議な気がします。
私の目的は「真福寺」という真言宗のお寺さんです。
その境内に、川崎で最も古く、最大の庚申塔があると聞いています。
 
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    安藤広重による「六郷渡し図」、江戸時代初めには橋がありましたが、
    元禄時代には舟で渡していまいした。渡しの向こうに川崎宿の町並みが見えます。
    渡しから、左に行けば直ぐに川崎大師になります。
 
街路表示は「堀の内」に変わります。
此処が、吉原に次ぐ「ソープランドの街」だそうだ。
旧東海道に面してもイカガワシイ店が目立ち始めます。
此処から第一京浜までの100メートル四方の街区は堀の内で、ソープランドの店が軒を連ねています。
 
黒塗りのベンツがあちこちに駐車しています。
黒い服の運転手や、ソープの職員の姿が見えます。
私はカメラをバックにしまいます。
ベンツはソープランドのオーナーのもので、早朝に出店し従業員に気合を入れているのです。
何れの業界もしのぎを削って、楽な経営は出来ないのでしょう。
 
このビル群の中に真福寺があるのですが、中々見つかりません。
この街では通行人に訊く事も出来ません。
ただ、朝からソープ街を庚申塔を探して、ひたすら歩き回るだけです。
 
ふと思い出しました。
つい先日、家内と横浜の野毛に”大道芸”を見に行きました。
家内が、伊勢崎町に近い角で、立派なビルに「英国屋」看板を見つけました。
「洋服屋かと思ったら・・・・!」
還暦を過ぎて暫く経ったのに、「カマトト」は変わりません。
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    ソープ関係施設の間に真福寺が隠れていました。門扉右側の木戸を潜ると直ぐに庚申塔が祀られていま    す。手前が第一京浜。
 
堀之内の東側、第一京浜に面して真福寺がありました。
北と西がソープビル、南が駐車場(ソープ客が多く利用する)、気の毒なようなお寺さんです。
「堀の内」と言う名からは、中世は武士(郷士)の館があって、お堀で囲まれていたからでしょう。
真福寺はその武士団の菩提寺であったのでしょう。
堀の内の地主さんだったのに、今は傍らに追い遣られてしまっています。
 
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     庚申塔、庚申塔の前にある鉢形香炉台も貞亨5年(1688)と刻まれていました。
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                            庚申塔の隅でカタツムリが冬眠に入ろうとしていました
 
近くの川崎大師があります。
中世に平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が諸国を流浪した挙句に、
川崎に住み着いたものでした。
漁猟を生業にし、貧しい暮らしを立てていました。
兼乗は深く弘法大師大師を崇信していました。
篤い信仰が川崎大師の霊験奇瑞を呼び起こします。
きっと、真福寺の方が立派だった事でしょう。 
 
真福寺の鉄の門扉は閉ざされていましたが、
目指す庚申塔は大きくて、門扉の近くにあったので直ぐに見つかりました。
加えて、丁寧に案内も書かれている。
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      高さ221cmの川崎最大で且つ最古の庚申塔。庚申信仰は初期では坊主が指導する事が多かった。
 
案内書きも参考に纏めると以下の通りでしょう。
 
多摩川と鶴見川に挟まれた川原地に少し高い場所がありました。
中世には武士団が住まい、古館を構えていました。
近世になると古舘は取り壊され、川崎宿になりました。
東海道は品川に次ぐ宿場町になりました。
六郷の渡しを超えると、川崎宿になります。
三大大師の筆頭です。
江戸の町から参拝客も多く川崎宿に泊まって、翌朝江戸の町に旅立ちました。
そんな宿場町の人達の絆として、庚申塔が建てられました。(寛文5年・1665)
 
庚申信仰の先達(指導者)は真福寺のご住職が当りました。
武州橘郡河崎(昔はこう書いた)新宿の旅籠12人が造立者に名を連ねました。
信仰のご本尊は「阿弥陀如来」でありました。
江戸からの宿泊客も驚くほど立派な庚申塔にするようにしました。
舟形光背には阿弥陀の願文と、河崎新宿の気負いを刻みました。
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    正面向き三猿の上には12人の旅籠オーナーの名を連ねました。
    この猿が無ければ単なる「阿弥陀立像」です。
 
多摩川寄りにこの真福寺庚申塔を祀りました。
そして、その西側鶴見川との渡しにも庚申塔を祀りました。
二つの大河に挟まれた川崎の東西に、素晴らしく立派な庚申塔が並びました。
 
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                  此方は川崎宿から鶴見川の堰堤に祀られている庚申塔。大事にされている。
                  河の向こうは横浜市鶴見区です。
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    刻文に朱が入っているので解り易い庚申塔。元禄10年12月15日 菅澤村と刻まれています。
    青面金剛像がダンスしているようで、楽しくなります。
 
 
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「生麦・魚河岸通り」の風景

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昨日「川崎宿」の庚申塔を書きました。
二つ目の鶴見川の堤防にある庚申塔から2キロほど下ると、漁船の係留地があります。
この辺りが「生麦」です。
江戸時代は半農半漁の寒村だったのでしょう。
次の村が「子安」その先が「神奈川宿」になります。
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          神奈川宿を上る官軍。この辺りは半農半漁の村でありました。生麦もこんな風であったしょう。
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                    現在の旧東海道(魚河岸通り)。
                    京浜工業地帯の真ん中で、忘れ去られたような昔の面影を留めています。
 
 
江戸幕府二代将軍「徳川秀忠」の行列が通りました。
ところが、道路に水が溜まっており通れませんでした。
村人は街道脇の収穫前の麦を刈り取って、道に敷きました。
秀忠は感謝して、村を「御菜八ヶ浦/幕府に野菜や魚を献上する村」に指定し、「生麦」の名を賜りました。
品川沖から神奈川沖まで、魚貝があがると「生麦産」と言う事で江戸前にあがったのでしょう。
以来、生麦は魚河岸として繁栄しました。
 
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  生麦事件発生現場に建てられた案内。我が国内では重要機密事項だが生麦の名主が事件を記録していた。
  一方、英国では大々的に報道され、幕府は恭順しているが、
  蛮行の首謀者「島津はけしからん」と世論が沸いた。薩英戦争に展開します。
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                      生麦事件を報じたロンドン新聞
 
今では、旧東海道の面影は見当たらなくなりました。
京浜工業地帯の真ん中にありながら旧東海道が生麦に残っています。
名前は東海道から「生麦魚河岸通り」と変えてしまいましたが・・・。
 
文久2年(1862年8月21日)島津藩主「島津久光」が江戸に上ります。
ところが、行列を馬上で横切る英国人一行がありました。
英国人は「切捨て御免」の慣行を知りませんでした。
生麦事件が勃発します。
 
魚河岸通りの南寄りに事件の現場の案内があります。
京浜急行生麦駅に近い民家に「生麦事件の資料」が展示されています。
犠牲者は横浜山手の外人墓地に埋められている・・・・、資料館では案内しています。
私は外人墓地に出かけてみましたが、学校創立者や宗教人ばかりで、
犠牲者の名前も生麦事件の記録も外人墓地には見当たりませんでした。
多分、外人墓地を作るきっかけになったのでしょうに・・・。
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生麦「水神宮」は鶴見川の堰堤の下にあります。この辺りは天井川になっています。左の黒御影石に
氏子(漁協組合員)180名の名が刻まれていました。江戸前の寿司ねたは此処から運ばれました。
 
 
水神宮が祀られていました。
漁業関係者の鎮守です。
境内には氏子の名前が180名も刻まれていました。
今では、80名だそうです。(出所、生麦漁協商組合www.navida.ne.jp/snavi/3840_1.html )
魚河岸通りには空き家も目立ちます。
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   10時過ぎの魚河岸通り、すし屋や天麩羅屋の買出しは終わって、後片付けが始まっています。
 
魚河岸の朝は早いのでしょう。
私が訪れたのは10時過ぎ、後片付けが始まっています。
でも、出遅れた買い付け人がチラホラ見えます。
彼らは近隣の寿司屋や天麩羅屋、料理屋です。
みんな、信用買しています。
 
伝票に寿司ねたが書き込まれ、「合計25千円」です、サインを済ませて商品は持ち帰ります。
プロを相手の魚河岸ですが、素人さんも相手にしてくれます。
小売は現金決済です。
目の前で、アナゴをさばいて、赤貝やシャコを剥いてくれます。
美味しそうですが、次回はクーラーボックスを持参する事にしましょう。
 
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   鶴見川の岸辺、砂浜ではなく貝殻浜です。それだけ魚貝が濃い汽水域なのです。
 
この辺りは鶴見川と東京湾の汽水域です。
干潮になると砂州が現れます。
一面貝殻です。
歩けば貝がバリバリ砕けます。
堰堤をジョギングする人も居ます。
 
爺さんがお孫さんを遊ばせています。
背広を着た人が居ます。
見れば、亀を遊ばせています。
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                                       親父のペットは亀(くさ亀)でした。
 
亀の甲の尾のほうに穴を開け、釣り糸を通してあります。
亀は水が嬉しいのか、それとも逃げたいと思ってか、一気に沖合いに向かいます。
5mほど行くと、糸が緊張します。
背広の親父が糸を引っ張ります。
川岸に亀は戻されます。
暫く、親父の様子を見て、また一気に沖に向かいます。
亀も早く歩けるものです。
 
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   主人の様子を仰ぎ見る亀さん、この後脱兎(亀?)のごとく素早く沖にダッシュします。
 
私は声を掛けます。
すると、何を思ったのか親父は赤いパスポートを出しました。
日本語が判らないのです。
私を誤解したようです。
 
この亀は10歳位だろう、
「亀のお散歩だ」
タドタドしい英語で話します。
 
親父に何があって、生麦で生活しているのか全く判りません。
 
私は、ふと思い出しました。
親父が私を刑事と思ったのです。
 
魚河岸通りの始まりが鶴見線「国道駅」です。
そのガード下が「野良犬/黒澤明」の撮影場所でありました。
野良犬は我が国最初の刑事者映画でした。
 
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   生麦魚河岸通りの始点駅「国道/鶴見線」線路架橋下で「黒澤映画・野良犬」のロケ地でありました。
 
かってのお孫さんが亀を見つけて走って来ました。
私は思いました。
「親父にも家族が待っている事でしょうに。」
何れ、野良犬の事も書きましょう。
写真の鉄道高架下には昭和の歴史が缶詰のように保存されているのです。
 
 
 
 
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華頂宮邸に空けられた啄木鳥の穴

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「重要文化財」は”文化史的・学術的”に重要な文化財について文化丁が指定するものです。(文化財保護法)
国の基準や手続きに準じて、各地の自治体も文化財を指定しています。
でも、予算が無いので、「文化財として価値が高いし、市民にも愛されている」のだが、指定できない・・・、そんな事情もあるようです。
 
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  今日の話題は鎌倉浄明寺にある「華頂宮邸」。建物は南に向けて大きな芝生の庭が開けています。1階左右
  に応接間があり、その横に金木犀が植えられています。バラと紅葉、しだれ桜に百日紅、一年中花が切れま  せん。
 
鎌倉市には洋館が数多く建てられています。
多くは、昭和一桁に建てられたものです。
鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸/昭和11年建築)が最大です。
次いで大きいのが華頂博信(ひろのぶ・1905年~1970年)侯爵邸です。(昭和4年・1929年建築)
どちらも国の登録有形文化財に指定されています。
鎌倉市内には鎌倉市の文化財指定を受けた洋館の数多くあります。
 
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           華頂宮邸正面。ロータリーに3本、玄関左右に2本金木犀が植えられています。
 
10月の初めに「華頂宮邸」の見学に行きました。
(お庭には随時入れますが、建物内部は特定の日にしか入れません)
谷戸の奥にあるのか、未だ金木犀が咲いていました。
随分、金木犀があるんだなあ・・・・、
数えてみました。
玄関前のロータリーに5本、建物東側に3本、そして南側庭園に2本、計10本も植えられていました。
どの樹も建築当初から植えられたのでしょう。
 
私は管理人(ご近所にお住まいの方のボランタリー)に声を掛けました。
「華頂宮様は金木犀がお好きだったのですね・・・・?」
「きっと、そうでしょうね。ところで、その金木犀の脇、建物の壁を見てください。」
東南の角にある柱を指差されました。
5センチほどの穴が空いています。
 
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                                  東南の角の柱に空けられた啄木鳥の穴。
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        啄木鳥の中で一番数の多い”コゲラ” 鎌倉では赤ゲラ、アオゲラも見かけます。
        上段写真は大きさから”アオゲラ”かもしれません。
 
今年の春、”コツン・コツン”早朝から響いていたんです。
未だ、開門していないのに誰が居るんだろう?
確認すると啄木鳥が穴を空けてしまったのです。
西側にも穴があります。
国の文化財ですから追い出しましたが、啄木鳥だって困っているんでしょう。
山には適当な樹が無くて。
最近は啄木鳥を良く見かけるようになりました。
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                           玄関西側の金木犀の花、こちら側にも啄木鳥の穴があります
 
洋館の主「華頂博信」は、伏見宮博恭の第3男子(1905年生まれ)で、
1926年(大正15年)に臣籍降下により華頂の姓を賜り侯爵を授けられました。
海軍兵学校を卒業し、若くして海軍の要職を歴任します。
昭和6・1931年に「華子女王」と結婚、この洋館で結婚生活を始めます。
昭和10年貴族院議員、昭和14年海軍大学校の教員になります。
終戦(昭和20.-・1946年)時は海軍中佐でありましたが、戦犯には当りませんでした。
学校の先生には戦争責任は問われませんでしたが、心には深い傷を負ったことでしょう。
終戦直後に海軍大佐に昇進、予備役(引退、非常時に召集)になります。
 
日本海軍は英国に学んだもの、だから、こうした洋館が好みであったのでしょう。
そして、誰しも羨む新婚生活の舞台でありました。
 
NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」では、「安曇野の帝王」の住まいとしてロケされていました。
令嬢「相馬真知子」のお部屋は二階応接間でありました。
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                   南側の応接間前にも金木犀があります。右端の柱に穴が空けられました。
 
華頂宮の晩年はお気の毒でした。
奥様「華子女王」氏が戸田豊太郎氏(徳川慶喜の孫)と恋仲になってしまい、世上話題になってしまいます。
結局、旧皇族最初の離婚になってしまいます。(昭和26・1951年・46歳)
華子女王氏は豊太郎氏を選択しました。
思い出の鎌倉浄明寺の洋館に残るのは辛かったのでしょう。
洋館を手放します。
昭和45・1970年に亡くなります。
 
心には大きな穴が空いていたことでしょう。
戦争には負けるし、晩年になって奥様には捨てられるし・・・・、散々な事です。
まるで、啄木鳥に穴だらけにされた柱のような気持ちだった事でしょう。
 
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華頂宮の話題に走ってしまいました。
今日は「文化財指定の疑問」を呈する積りでしたのに・・・・。
 
実は鎌倉市には「御成小学校旧講堂」(1933・昭和8年)があります。
設計者は不明と言う事になっていますが、
多分施行の蔵並長勝・鈴木富蔵・三橋幾蔵が図面を引いたのでしょう。
彼等は鎌倉で寺院建築をしていた宮大工でした。
伝統技術と新しい潮流「モダニズム」を組み込んで、建築したものでした。
「鎌倉御用邸」の廃止が決まったのが昭和6年、跡地に御成小学校が出来たのが昭和8年でした。
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    二つの望楼が印象的な御成小学校講堂。文化財の価値としては洋館にひけをとりません。しかし、荒れ     放題で物置になっています。筆者は此処で卒業証書を戴きました。現状残念でなりません。建物は使わ     なければ傷みは一層進みますし、文化財の価値も見向かれなくなってしまいます。
 
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   此方は鎌倉比企ヶ谷にある幼稚園。法隆寺夢殿と同じ八角堂です。
   御成小学校講堂と同じく「宮大工の技術・意匠」で幼稚園の空間を実現した。
   使われているので状態は極めて良好です。
 
「御用邸跡地を学校にしよう・・・!」決めた事、自体が
大正から昭和にかけて吹いた「民主・市民」意識の高揚を示していました。
講堂の大空間を伝統の技術をベースに実現しよう・・・、昭和モダニズム建築であります。
 
洋風建築も価値があるでしょうが、和の伝統技術による近代建物も重要です。
更に、私には御成小学校講堂は美しいな・・・・!思うのです。
だから、早期に国の文化財に指定して欲しい・・・、思うものです。
 
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    御成小学校校庭、向こうの建物が鎌倉市役所(昔は御成中学であった)
    手前の山が御成山、向こうが源氏山。写真は秋の運動会風景。


 
 
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野良犬の似合う景色(鶴見線・国道駅)

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鶴見線が開通したのは昭和5年(1930)であった。
国鉄鶴見駅から川崎の扇町まで、京浜工業地帯の貨物と労働者を運ぶ鉄道として生まれた。
一帯は既に家屋が密集していたので、線路の大半が高架であった。
鶴見駅を出て、最初の駅が「国道駅」である。
開通当初、国道1号線(現国道15号、第一京浜)を跨いで、その高架上に出来たから着けられた名であった。
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         手前が第一京浜、高架線路が鶴見線(手前が鶴見駅)高架下通路が昭和の面影を残しています。
 
高架の橋脚はアーチ状に出来ている。
最近の橋脚は単純な門構えに作られている。
アーチは昭和初期の流行であり、同時にPSコンクリートなど無かった当時の技術の成果だったのだろう。
高架下、アーチ状の橋脚の歩道は開通当初のままである。
 
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      JR国道駅、左が無人改札口、スイカをかざして通ります。
      右が高架下通路。戦後は通路の両側が闇市でありました。東京から食糧を初め様々な物資が商われ      た「泥棒市場」でもあったのでしょう。
 
 
 
唯、何時ごろからか歩道の両側に人が住むようになった。
2階建てで、1階は居酒屋や商店が、2階は住居として活用されていた。
昭和初期、とりわけ終戦後の「何も無い、生きるだけに必死だった」時代の風情が漂っている。
 
アーチの上や柱に裸電球が光っている。
でも高架下は暗闇である。
電線は剥きだしで、電気を盗もうなら容易に出来そうだ。
闇市には盗電が欠かせない。
 
矢鱈に塩酸の刺激臭がある。
臭いはトイレからしてくる。
覗いてみると真っ白い衛生陶器の男性・小便用が2基、和式が1基設えてある。
男女共用であるが、女性は入り難かろう。
 
綺麗に掃除されている。
塩酸臭は掃除の残しものであろう。
誰が掃除していられるのか、知らない。
焼き鳥屋の向かいである。
 
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      電車が止まっても降車客は4人ほどの寂しい駅です。カメラはホームの通路から写しました。
      電球が点灯していないのは此処だけ太陽光が射し込むからです。
 
ホーム自体が大きくカーブしている。
電車とホームの間に大きな隙間が出来る。
「ホームから落下しないように!」注意書きが目に付く、また、無人駅である。
簡易SUICAの改札機や監視カメラが設置されている。
 
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                 国道駅のホーム。庇の切れた辺りの下を旧東海道が通っています。
 
高架下の異様な雰囲気が醸し出された駅として人気がある。
昭和24年、黒澤明監督はこの高架下を「闇市」の場面のロケとした。
最近では「華麗なる一族」で主人公の鉄平(木村拓也)が電話をするシーンで使われている。
 
 
   
今では釣り舟屋が一軒、焼き鳥やが一軒あるだけである。
他の店はしまわれている。でも、表札が出ている。
誰かが住んでいるのであろう。
表札の脇にはJRの用意した認証が貼られている。
認証は「昭和62年3月に利用を許可し、期限は昭和82年3月、20年間に限る」書かれている。
 
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   二階は空家のような住居が続く。軒にはJRの利用にかかわる認証が貼られていました。
 
焼き鳥屋の女将は中々の働き者で、綺麗でもある。
偶々、朝早く見た事がある。
明け方までお客が帰らなかったのだろう。
お店を片付けていた。
カウンターに止まり木が六つ程の狭いお店である。
椅子を上げて掃いて、表も店内も拭き清めていた。
盛り塩が崩れていた。
前述のトイレもこの人が掃除しているのかもしれない。
 
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    働き者の女将が経営している焼き鳥「国道下」、明け方まで営業している事もあるようだ。
    綺麗に掃除して帰って、夕方の開店まで準備する事になる。盛り塩が女将の気合を感じさせます。
 
不動産の仲介看板が残っている。
神奈川県の認可を得ている事が大書された、古い看板である。
撤去すれば良いと思うが、看板のままの方が見てくれが良いのだろう。
看板の上、横の壁(柱)に穴が空いている。
米軍の機銃掃射の弾痕である。
山側から来た爆撃機が駅をめがけて掃射したのであろう。
弾は斜めに入っている。
 
 
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不動産(三宝住宅社の看板、営業していない)の上、横には機銃掃射の弾痕が生々しく残っています。
 
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        機銃掃射の弾痕がモルタルの壁を貫いています。柱には1cmほどの弾痕になっています。
 
昭和20(1945)年5月29日の昼間、米軍は横浜を空襲する。
B-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機が低空を飛んで標的を探す。
機銃掃射を行い、雨のように焼夷弾を落下さた。
 
焼夷弾は爆撃対象を焼き尽くす弾丸であった。
横浜では1万人が、先に行われた東京大空襲では9万の市民が命を奪われた。
大半が焼夷弾による死亡であった。
黄金町駅にはトタン板で運ばれた遺体が一面に並んだ。
どの遺体も真っ黒に焼けている。
 
世界のマスコミがその写真に抗議した。
「市民を標的にするのは国際法違反だ!」
米軍はこう言い訳しました。
「米軍は市民に銃を向けたのではない。軍需工場を焼き払ったのだ。
唯、日本は中小企業が多く民家の間に工場があったのだ。」
戦争にかかわる国際法は、所詮勝者の報復を阻止する論理だ。
 
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   東京・横浜大空襲の死者は10万人に及びました。大半が焼夷弾によって焼け死にました。写真は黄金町駅   前に運び出された黒焦げの遺体。トタン板は遺体を運ぶ担架にされたもの。
   国道駅も似た景色が出現したものと思われます。        出典:横浜経済新聞
 
 
焦土の下から人達は立ち上がった。
生き抜くために必死であった。
 
 
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                                             東宝DVD「野良犬」から。
 
そんな時代を巨匠「黒澤明」は野良犬に描写した。
 
新米刑事の村上(三船敏郎)は満員バスの中でピストルを掏られてしまう。
ピストルには7発弾が装填されていた。
ピストルは闇市を通して遊佐(木村功)の手に渡った。
村上刑事はベテラン刑事佐藤(志村喬)とペアを組んで、ピストルの行方を追った。
渦中に最初の犠牲者が出でしまった。
次々に犠牲者が出現しまう。
弾は未だ残っている。
緊迫の場面が連続する。
栗沢の眼は正義の筈の刑事にも、悪者の筈のアウトローにも等しく注がれている。
勧善懲悪では割り切れない・・・、日本中が太平洋戦争を通して知った。
逞しく、しなやかに生き抜かなければならない・・・・!
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   裸電球では昼間も暗がりです。良く見ると盗電気の跡がありました。この下で「闇市」を開きます。
   今でも東南アジアの泥棒市場に行けば良く見かける光景です。
 
追いかける刑事も、アウトロー(遊佐)も生き抜くことに必死である。
暮らしが貧しいから、かえって生き抜こうとする生命力が旺盛である。
まるで、アスファルトに生える雑草のように・・・。
まるで、野良犬のように。
みんな「熱く」生き抜いていた。
それが昭和の感性だった。
    
 
その「野良犬根性」が昭和30年代「3丁目の夕日」になり、高度成長の原動力になった。
 
国道駅の高架下は昭和の歴史を写してきた。
 
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    落ちてしまった二階のモルタル壁。
    窓も外してベニア板で蓋をしているのは鳩やカラスが住まわない為でしょう。
 
 
今では国道駅は昇降客500人程度しか無い。
250人程度しか利用していない寂しい駅である。
電車が停車しても日中では4人、5人しか降りてこない。
 
終点の扇島駅の駅前は野良猫が沢山棲んでいる。
野良犬は生き方がギコチ無いのだ。
野良猫はしなやかに生き抜く。
何時しか野良猫撮影ポイントになっている。
 
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   高架下の東端、魚河岸通りからの眺め。鉄骨は地震対策の補強でしょう。
   閉ざされた窓の外にはピンクのバラが咲いていました。
 
【追記】国道駅は生麦魚河岸通り(旧東海道)の降車駅でもあります。此方も昔の面影を良く残しています。
     http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45662656.htmlで書きました。2枚目の写真は国道駅のホームの    上から足下の魚河岸通りを俯瞰したものです。
 
 
 
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夫婦の神樹(日野春日神社①)

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横横道路日野ICを降りると鎌倉街道に出ます。
その横に常緑の小山があります。
これが春日神社の社叢林(しゃそうりん・指定天然記念物)です。
 
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                       日野の春日神社の社叢林、手前が神社別当寺の「報恩寺」
 
 
春日神社は奈良の春日大社の末社です。
春日大社は藤原不比等(鎌足の倅)が和銅3年(710)藤原京から平城に遷都した時に始まります。
不比等は藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日三笠山に遷して祀ります。
平城宮と「春日大社・興福寺」の建築が平行して行われます。
 
その後、平安時代を通して、藤原氏が荘園を開拓し、また国司として地方に散って行きます。
そこで藤原のほか、佐藤、斉藤等と苗字を変えて土着して行きます。
土着して豪族となった不比等の末裔は同じ春日(鹿島)の神を祀ります。
ですから、全国各地に春日神社が祭られています。
鎌倉近辺にも此処日野と小菅ヶ谷に古代のルーツとする春日神社があります。
 
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          宮川を渡ると急で長い石段が続きます。誰が数えたのか94段だそうです。
 
今日は日野の春日神社の社叢林と石仏を案内します。
明日は権現造りの社殿の彫刻、天上絵を案内する積りです。
社殿は感動の美しさであり、保存状態なのです。
 
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      春日神社社殿、常緑樹に囲まれているので、神々しさが増幅されています。
 
 
深い社叢林の麓に宮川が流れています。
丹塗りの神橋を渡ればご神域になります。
橋の袂にスダジイの古木があります。
その根が四方に張っています。
複雑に張った根に挟まって庚申塔が立っています。
庚申塔の建立は天保9(1838)年、その時は根元だったのでしょうが、スダジイが200年をかけて太ったのでしょう。
そうしたら、何時しか庚申塔を根っこに挟んでしまいました。
庚申塔も素晴らしい迫力ですが、スダジイの根っこが庚申塔の雰囲気を増幅しています。
 
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   天保9年(1838)の庚申塔、青面金剛の将棋駒型の光背は椎の根っこに食い込んでいます。
 
その右横には六地蔵が、そして右端には真新しい庚申塔が祀られています。
この庚申塔は享保元年(1716)の庚申塔が激しく傷んでしまったのでしょう。
そこで、最近に真新しいものに差し替えました。
享保のデザインを模して建立したのでしょうか?
私は、現代人の感覚で建立、唯造立年月日と光背だけを写したように思います。
 
白御影石の新しい庚申塔は漫画に出てきそうな三猿と大日如来が主尊になっています。
祀ったのは地元の吉原村です。
私は、この新しい庚申塔にも感心します。
大日如来を主尊に祀る庚申塔は珍しいものです。
説明をすれば、春日神社の別当寺がお隣の「報恩寺(真言宗)」、同寺のご本尊が大日如来(?)だからでしょう。
でも、社叢林の神々しさが大日如来、と感じます。
だから、大日如来と三猿をデザインした、そう思います。
 
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   手前に真新しい庚申塔が立っています。三猿と大日如来だけの庚申塔です。
   現代人の感覚を見ます。でも、良く出来た庚申塔です。
イメージ 6
   上記庚申塔の西側にも3基の石造物が祀られています。左から不動明王,二十三夜塔、そして庚申塔です。
 
急な石段が真っ直ぐ社殿に向かっています。
足腰が弱くなったな・・・・、息を切らせながら登ります。
女坂が右横にあったので、そっちを選べば良かった・・・、思ったりします。
宮司(禰宜かも知れない?)が先日の台風で折れた枝を整理しています。
どの機も古樹、大樹です。
椎の樹は枝が折れても折れたままでぶら下っています。
山が急峻ですから、足元が確かではありません。
折れた枝を切り落とすのは命がけです。
これらの樹は何れも根を張って、山が崩れるのを防ぐように、根っこが土を抱いているように見えます。
この樹が無ければ、山が崩れ、社殿も傾きそうです。
 
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      台風で折れた枝を整理している宮司。急峻で足場が弱くて危な気です。
      大樹の根が張って崖崩れを防いで鋳るように見えます。
 
深い常緑樹が社殿を囲んでいますから、神社は一層神々しく見栄えがします。
同時に防風林としても役立っているのでしょう。
社殿の西側にこの神社の「ご神木」があります。
 
およそ3mの間を置いてシラカシ(白樫)とウラジロカシ(裏白樫)の二本の大樹があります。
二本の幹(根?)が地上2mの位置で繋がっています。
 
白楽天の「長恨歌」を思い出します。
楊貴妃を失った玄宗皇帝は「天にありては比翼の鳥になり、地にありては連理の枝になりたい」
と嘆きます。
 
以来、比翼連理の四字熟語は結婚願望になりました。
”深い絆で結ばれ一生を供にする幸福な結婚をしたい”人類不変の願望を言い表しました。
多分、昔も今も神社での願い事のトップでしょう。
だから、春日神社に詣でる人はこのご神木に良縁祈願をします。
 
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白樫も裏白樫もブナ科コナラ属の常緑高木です。(裏白樫は葉っぱの裏が白いのでこの名がある)
木を扁に堅いと書くように材は堅く粘りがあります。
木刀や心張り棒(戸や窓が開かないようにする「つっかい棒」)、調理用具、更には炭にしました。
団栗の実もなりますし、田舎暮らしには懐かしい樹です。
 
写真で見るように、左側の裏白樫の樹は崖っぷちで育ちました。
もう少しで宮川の谷間に落下しそうです。
そこで「私を助けて・・・・!」隣の白樫に助けを求めました。
白樫は幹を横に伸ばしました。
そして、裏白樫の体を支えました。
夫婦の姿になりました。
 
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     黒っぽい樹皮が白樫、白い樹皮が裏白樫。二種の根が入り組んでいます。
     まるで”樹の二見ヶ浦”のようです。
 
【追記】 春日神社の由来(主として神社の案内を転記します)
承徳2年(1098年)武蔵野国守となった藤原成実は、紫冠帯剣の神像を護持して武蔵に下ってきました。
翌、康和元年(1099年)京都仁和寺の尋清僧都(坊さん)が延命菩薩像を背負いこの地にやってきた。
尋清は夜、光明を発する泉を見つけました。
この泉は旱天でも水は涸れず、これを飲むと万病に効きめがありました。
尋清はここに居住して教えをひろめたので、国守藤原成実は先の神像を僧に授けたのでした。
尋清は山の中腹に祠を建てました。
これが春日神社の前身で、尋清が別当として住んだ堂が徳恩寺の前身、真如(しんにょ)坊でありました。

その後、正慶2年(1333年)鎌倉幕府滅亡の攻防戦にまきこまれて焼かれるなど、幾多の興亡がありました。
現在の神殿は安政2年(1855年)、時の領主久世大和守源広志の助けを得て、名主高梨林右衛門が発起人となって再建したものである。
 
 
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”江戸匠・後藤利兵衛”の彫刻(日野春日神社)

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昨日は日野春日神社の「ご神木」と、根に埋もれた「庚申塔」を案内しました。
今日は本殿とその装飾について案内します。
 
神社は日本人の作った漢字、古くは「宮」と呼びました。
宮とは天皇や皇后など高貴な方の住まいの事です。
多分「御屋/みや」と書いたのではないでしょうか?
神様のお住まいが神社でした。
ですから、出雲大社は大国主神のお住まいであり、出雲地方の高貴な人の住居形式だったのでしょう。
それが「大社造」でした。
伊勢神宮は天照大神のお住まいであり、伊勢地方の権力者の住居形式だったのでしょう。
それが神明造でした。
出雲大社は正面が切り妻でありのに対し、伊勢神宮の正面は「平入り」になっています。
デザインが全く違っています。
各地方の民家が風土によって特徴があるように、神社の意匠は全く違って地方色が色濃く残っています。
大社造り、神明造りは日本の記紀の時代に遡る建築様式でした。
 
春日大社は遅れて建築されます。
仏教が日本に伝わり、平城京遷都(710年)を進めた藤原不比等が建立しました。
先ず目に付くのが「丹塗りの柱に緑のれんじ窓」です。
白木の出雲大社や伊勢神宮に比べて派手です。
「青丹よし」は平城宮のカラーです。
春日大社の意匠は多分、不比等の住まいであったのでしょう。
 
日本の神社建築はこの和洋2形態と仏教様式1形態から展開してゆきました。
 
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  今日の話題は日野春日神社の社殿とその装飾です。
  春日大社と全く違った、権現つくりの社殿。
  それは建立された時代雰囲気と建立した人達の判断の結果です。
 
江戸時代になると、神社建築は「権現造り」が主流になります。
京都北野天満宮に代表される桃山風の豪華絢爛な建築様式です。
この建築は八幡造りを前身にしており、武士、とりわけ源氏には好まれました。
 
徳川家光は祖父家康に「東照大権現」の名を朝廷から戴き、日光にその霊廟を建立します。
権現造りは神社建築の今風でありましたが、江戸時代を通して主流になりました。
権現造りを飾る彫刻や絵画が盛んに描かれます。
折からの平和な時代もあって、匠たちは腕を競いました。
「左甚五郎」の名声は天下に響き渡ります。
でも、誰が左甚五郎なのか、不明でした。
腕利きの彫工は左甚五郎で済みました。
 
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  社殿の正面(これを拝殿という)、左右の柱、唐破風の下、三匹の龍が参拝者を迎えます。
  彫工はこのポイントに全精力を集中します。
 
日野の春日神社は荒廃していました。
名主高梨林右衛門が発起人となって再建に奔走します。
相模の国々を巡ってお手本になる神社を見て回りました。
「立派な、神々しい神社を建立したい・・・」 願いました。
その頭には、春日神社は奈良の春日大社の末社である事など意識にありませんでした。
「俺の村の鎮守に相応しい神々しい神社にしたい」その思いだけがありました。
 
浦賀の西叶神社を見て、当世最高の彫工であると確信していました。
そこで、同社と同じく建物は「権現造り」で、彫刻は「安房国の彫工・後藤利兵衛」に決めました。
   (西叶神社の彫刻については下記に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43952964.html)
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                                     日野春日神社の左拝殿柱に絡んだ龍
 
利兵衛は文化12年(1815)安房国千倉に生まれました。
江戸の後藤三次郎の門で修行をしていましたが、西叶神社を手がけていました。
西叶神社は天保13年(1842)、利兵衛27歳の時の仕事でした。
日野春日神社は安政2年(1855年)40歳、腕も脂も乗って自信の仕事になりました。
 
後藤利兵衛も指名した名主高梨林右衛門もしっかりと社殿に自分の名を刻みました。
日光東照宮で名を馳せた左甚五郎は名だけが残った彫工で、伝説上の人物でした。
この間、約200年間が経っていました。
彫工が自分の名を大事にし、作品を主張するようになっていました。
「自分の名にはこだわらない、匠として良い仕事をしたい」そう願ったのが中世の人です。
所謂「職人」でした。
「自分の名にこだわる。自分の作品を以って社会にアピールする」ようになっていました。
職人から「アーティスト」に変わっていました。
我が国の彫工の世界も、何時の間にか中世のから近世の思想にチェンジしていました。
 
幸田露伴は「五重塔」を書きました。
上野の谷中にある感応寺に五重塔を建立することになりました。
十兵衛の親方・源太が仕事を引き受けます。
十兵衛は自分の名を残す好機と考え、「ぜひ私の手で」と住職に懇願します。
親方の源太は二人で協同してやろうとと言うのでしたが、十兵衛は拒否します。
そして住職から単独で仕事を引き受けます。
十兵衛の姿勢を「我侭」と思った同僚に襲われて耳を失います。
でも、鬼気に迫る姿で五重塔を完成させます。
落成式の前夜、大暴風に襲われます。
「塔の倒れるときが自分の死ぬとき」と心に決めて、塔に上ります。
そして喉元に鑿を突き当てて、天空を睨みます。
日が明けると江戸中は大きな被害を受けていました。
でも、十兵衛の建てた五重塔は無傷でした。
 
江戸時代末期には既に日本人の思想には「近世」が用意され、明治維新を準備していたのでした。
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   龍の背面、彫工後藤利兵衛の名が刻まれた木片が貼られています。
 
 
神社に登った人は拝殿の前に進みます。
正面に鈴がぶら下がっています。
ガラン・ガラン鳴らして、神様に私がお願いに参りました。
二礼して拍手を二度打って祈願します。
動作の度ごとに、向拝の彫刻が目に付きます。
彫工はこの向拝彫刻に全精力を傾注します。
後藤利兵衛も同様です。
唐破風の真ん中に、そして左右の柱に龍を彫りました。
三匹の神龍が参拝者を見つめる・・・・、眼に力を注ぎました。
龍の周囲には「波の伊八」の伝統の波を刻みました。
波の間には亀を刻みました。
 
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  木鼻の位置には獅子頭が飾られています。
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     東の端の貫には獏(悪い夢を食ってしまう想像上の動物)が飾られていました
 
春日神社ですから、1箇所、蛙股の中に鹿を刻みました。
これで御免なさい・・・、そんな気持ちだったでしょう。
春日灯篭が2基ある他、春日神社の面影はありませんでした。
 
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   唯一、蛙股の股の間に鹿が刻まれ、春日神社を表現していました
 
私が、後藤利兵衛の彫刻に感動している姿に気付いたのでしょう。
宮司が出てこられて、内陣に引き入れて下さいました。
まだ、建築後200年です。
内陣を材木は未だ真新しく、木肌が輝いています。
とりわけ目を奪うのが天井の絵画です。
格天井は縦に7列、横に14列、合計98の枡(格)があります。
一つ一つの枡(格)に絵が描かれています。
宮司は蛍光灯を消してくれました。
自然光の方が綺麗に見えるからです。
そして、私の質問に答えてくれました。
 
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この天井絵は狩野派の絵師の仕事です。
でも、絵師の名は書かれていません。
でも、相当の腕であると思います。
西叶神社の格天井は龍の彫刻でした。
流石に、龍が沢山居ると・・・・、薄気味悪く感じます。
花や鳥が天井を埋めているのを見ると、安堵しますし、日本らしさを感じます。
宮司はこの中に干支が全部描かれていますよ・・・・、見つけられますか?
アドバイスしてくれました。
 
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天井画も彫刻も状態が良いのに嬉しくなります。
意外な所に文化財が埋もれているもんだ・・・・、思います。
江戸時代後半の文化は高く評価されては居ないようです。
でも、これからは評価がアップするでしょう。
 
 
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                              どんな説話が表現されているのか・・・?
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 追記;我が国神社建築の変遷を辿ると、出雲大社、伊勢神宮、春日大社に行き着きます。
    各末社は本社の意匠を継承するよりも、その時代の感覚や建築主の希望により建築様式を選択しまし      た。 このため、本稿のように春日神社でありながら春日大社とは全く意匠の違う武士の感覚を汲む権現     造りに拠りました。(下表資料は山川出版社歴史事典より作成しました)
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東戸塚小学校創立60周年(地域を教育実践する)

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明治5年、我が国では「学制」が交付されます。全国に8つの大学、256の中学校、53760の小学校が設立されます。
フランスをお手本に近代的な教育制度整え、近代国家を支える人材の育成に着手しました。
戊辰戦争で榎本武揚等が降伏するのが明治2年ですから、「教育が国つくりの基本」と考えていたのでしょう。
私が生まれた横浜の戸塚にも「戸塚小学校」が設立されます。
 
昭和26年、戸塚小学校から分かれて「東戸塚小学校」が出来ました。
戦争も終わって、戸塚の町に人が増え、子供が増え始めたからでした。
学校は、戸塚小学校の東、戸塚駅や柏尾を挟んで反対側に作られました。
其処は、戦中まで「競馬場」があった大空間でした。
その北側半分を進駐軍(PX・現日立製作所)が、南側半分を東戸塚小学校が使用しました。
 
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                 創立60周年記念事業は開始前雨でしたが、開始と同時に雨は上がりました。
 
その後も戸塚の人口は急増し、東戸塚小学校から5つの小学校が分かれてゆきます。
昭和45年矢部小学校、昭和49年日限山小学校、昭和56年南舞岡小学校、昭和57年倉田小学校がそれです。
 
昨日、10月22日は東戸塚小学校の「創立60周年」でした。
私は上倉田の代表として、記念事業実行委員会の副委員長を務めました。
2年前、この話題が持ち上がった時には「ヤレ・ヤレ、また公務が増えた」感じましたが、
これが大変に楽しかったのでした。
 
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    PTAの合唱隊と一緒に校歌斉唱に始まりました。(筆者は壇上に居ました)
 
 
私が東戸塚小学校に関り始めたのは9年前、町内会長に仰せ付かった時でした。
学校の評議員として、運営に参加したのでした。
毎年2回評議委員会が催されます。
学校側の説明を聞きます
「今年の教育目標を作成しました。こんな風に実行しました。この程度の成果が上がりました」
私は、「ISO作業も浸透したもんだ・・・・」感心します。
 
地域委員が質問します。
「学校内で暴力はありませんか?」
「モンスターペアレントが居るでしょう!」
「生徒が挨拶してくれません・・・・!」
(私は決してそんな質問はしません。)
校長先生が説明されます。
「暴力もモンスターペアレントも居ません。学校内では良く挨拶が出来るようになりました。」
私は思います。
「地域の教育力が劣ってきたから、こんな問題が起こって、話題になるんだ・・・、
昔はしっかりした親父が居て、喧嘩はしても弱いもの虐めはさせなかった。
滅茶苦茶なお母さんも叱った。挨拶も家庭や地域で教えた」
でも、地域にはそうした自覚が無いので、毎回同じ報告がされ、同じ質問が繰り返されてきました。
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    焼き釜が使えないままで放置されていました。これを25万円を要して修復しました。資金は記念事業委員    会が捻出しました。(横浜市の財政が逼迫しているから、そのしわ寄せでしょう)写真は土鈴です。振るうと    「カラカラ」となります。藁で土塊をまいて芯にすれば、鈴が出来ます。
 
東戸塚小学校の定時移動で鈴木校長が就任されました。
2年前の4月でした。
「昔遊び授業では地域の人に先生をしていただきます!」
「学校開放で授業を参観していただきます!」
学校に引っ張り出される機会が矢鱈増えました。
そして、創立60周年記念事業です。
10回の委員会を終えて、ようやく無事に、盛大に記念事業は終えました。
私の手元には沢山の記念が残りました。
記念誌、副読本(生徒が地域や産業・歴史を学ぶ教科書になる)子供が焼いた陶器の箸置き、ランチョンマット(60年前の新聞と学校が写っています)
そして「60周年記念事業に参加して楽しかったな!」
充実した思いが残りました。
 
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   恒例の鏡開きですが、小学校でとなると・・・・、気になる人が居るかも知れません。筆者は左端。
 
実行委員の反省会(慰労会)が始まりました。
ギターを抱えた鈴木校長が登場しました。
私の手元にも「乾杯/長淵剛」の楽譜が配られます。
合唱が始まりました。
テーブルの上には記念式場で残ったお食事とお酒が置かれています。
 
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    吉田元町の「祭り囃子会」の舞台、3人の生徒さんも含まれて居ます。お祝いには最適でした。
 
東戸塚小学校には出来過ぎた物があります。
それが「校歌」です。
昭和30年、作られました。
作詞が詩人の「サトーハチロー」氏でした。
作曲はN響のコンサートマスター「前田環/たまき」氏でした。
サトー氏は”百舌が枯れ木で”を作詞しています。
同曲と並ぶ名曲の校歌であると確信しています。
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校長のギターで、校歌を歌います。
肩を組んで、輪になって歌いました。
もう部屋の外は陽が沈もうとしています。
若いお母さん方は夕飯の準備が気がかりです。
でも、楽しそうです。
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                  校長はエンタテナーです。肩を組んで「乾杯」「校歌」を歌いました。
 
こんな事は初めてです。
大学の部室でも酒を飲んだ事はありませんでした。
まして、小学校の交流室で、お酒を飲めるなんて・・・・!
二年も準備して、期待通り役割を果たしたのだから、お酒くらい許されるものでしょう。
でも、これから真っ赤な顔をして、私が校門を出たら・・・・、
五月蝿い人は避難するかも知れません。
「小学校で酒を飲むなんて、町内会長は見識が無い!」
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                             シャボン玉は卒業生「杉山兄弟」の演出です。
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   地域バンドの「胡(中国胡弓)」演奏も場内を盛り上げました
 
鈴木校長に「地域の教育力の復活」を教えられました。
”素晴らしい60周年記念事業でありました”
私が言えば自画自賛、自慢話になります。
でも、『地域の教育力』を教育実践された・・・、のが実態でした。
ソロソロ、10年もやったんだから町内会長は卒業したい・・・、日に日に思いが強くなります。
でも、こんなに楽しい場があるのなら・・・・、続けたくもなります。
 
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子供達の作品から。生徒の作品が動植物を良く観察して生き生きしているのに驚かされます。
サトーハチローさんの作られた校歌の効果ではないでしょうか?
つくずく思います。「素晴らしい校歌」です。
 
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まるでシャガールのよう、2年生の作品です。東戸塚小では才能が育っている、確信します。
 
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智満寺(島田)の頼朝杉

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紅葉の気配を求めて寸又峡に行く事にしました。
静岡県の島田から大井川に沿って南アルプスの懐に登ります。
其処が目的の寸又峡です。
途中の風景、とりわけ蒸気機関車の走る景色に期待がたかまります。
助手席では家内が嬉しそうです。
久しぶりのお出かけですから。
私は何時もは事前に調査してから出かけるのですが、今回は準備不足です。
家内が「郷土資料事典/静岡県・人文社」のページを括りながら、
アレコレ何処に行こうか、アドバイスします。
偶には私は素直に従います。
 
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    今日の話題は島田市の智満寺です。
    智満寺本堂(重文)私の参詣時、屋根の茅の葺き替え工事中でしたので、島田市のHPから転載しました。    
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     本堂は葺き替え中でした。作業はもう最後のステップ、綺麗に刈り込む作業です。
     足場が屋根全面に設えてあります。(日曜なので作業は休み)
 
私達は島田市の背後、屏風のように聳える「千葉山・.496m」に向かいます。
その頂上付近に「千葉山智満寺」があるのです。
家内はその本堂が重要文化財であること、天然記念物の「頼朝杉」があること・・・、俄か知識を喋ります。
 
平安時代、天台宗を開いた伝教大師(最澄)の教えは、
”宇宙の万物の本来は「仏」であるという”一乗の思想が基本でした。
仏教は「自分自身の中に「仏」を探す教えですから、その探求の姿勢には様々な個性があります。
まるで名山の登山道が様々あるようなものです。
浄土真宗の親鸞も、 臨済宗の栄西も、曹洞宗の道元も、日蓮宗の日蓮も、時宗の一遍も、
各宗の祖師も皆 比叡山で「天台一乗」を学びました。
そして、自分に最適な「仏への道」を切り開き、始祖になりました。
ですから、伝教大師(最澄)こそが我国仏教の大先達です。
                 
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          千葉山の登山道には石仏が並んでいます。この石仏は頭が変わっています。まるで鬘の島田のよう       です。多分、千手観音の手を頭のデザインにしたものでしょう。
       島田は遊郭もあり「農兵節」でも有名でした。
 
駿河の国にも延暦寺が建てられました。(宝亀2年・771年)
それが智満寺で、開山は広智菩薩でした。
光仁天皇より智満寺の勅額を得て勅願寺となります。
 
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   智満寺の石段、麓に杖が用意されています。気合を入れて登ります。
 
平安時代末期の事でした。
石橋山で蜂起した源頼朝は一敗地にまみれます。
房総に逃げ延びた頼朝は安房の国から再挙します。
頼朝の兵は高々300騎、其処に安房の豪族「千葉介常胤」が2万の兵が加わります。
関東、甲斐国、駿河国からも豪族が参戦しました。頼朝軍は富士川では20万にも達します。
 
平泉に身を隠していた義経も駆けつけます。
富士川の東岸に源氏軍、西岸に平維盛率いる平家軍が対峙する筈でした。
ところが、俄かに組織した平家軍の志気は低く、水鳥の羽音に驚き、撤退してしまいます。
富士川の戦い(治承4年・1180年11月9日)でした。
 
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                            石段の半ばに二王門があります。本堂は目の前です。
 
戦わずして(?)大勝した頼朝には平家を追って都まで攻め上る事も考えられました。
しかし、自らは鎌倉に戻り体制の整備に注力します。
そして、千葉介常胤に命じて、戦場になった駿河国の勅願寺「智満寺」の再興を行わせます。
智満寺の山号は「千葉山」になります。
以降、駿河国の治政者は、今川も徳川家康も智満寺を手厚く保護します。
現在の本堂(重文)も家康が再建させたものでした。(天正17年・1589)
 
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   本堂内陣、厨子の中にご本尊の千手観音が祀られています。写真は前仏が写っています。
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                    須弥壇の左がわ、格天井の絵画、光背に架けられた仏像群、荘厳な空間です。
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        須弥壇の右がわの光背。曼荼羅の様にも見えれば、仏像や神像の配置が・・・・・?
        様々な信仰が並列されているのが有り難いのかもしれません?
 
 
正面5間側面5間、入母屋造の堂々たる本堂です。
今屋根(茅葺)の葺き替え工事の最中でした。
膨大の茅を山上まで持ち上げるのは大変だったのでしょう。
まだ、ケーブルが残っていました。
そして、茅を刈り込む作業中でした。
 
本堂は奥行きがあります。
真ん中厨子の中にご本尊「十一面観音」が祀られています。
厨子の前仏が置かれています。(写真で見ると良く似ています)
左右に大きな光背があって、仏像が沢山架けられています。
暗闇の中ですから、何が祀られているのか解りません。
天台の教えは様々な考えや教えを包含していたように、仏像も山岳の神々も様々な信仰を抱えているようです。
 
まるで、民俗学の教室のような空間です。
大きな絵馬を見上げます。
誰も居ないので、絵馬の話も解りません。
解る事は、昔も今もこの寺は駿河の国の人達の拠所になっている事です。
 
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  ど迫力の絵馬
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                                  儀規通りの馬頭観音
(この段は私の想像です)
千葉介常胤の智満寺再建事業には植樹事業も含まれていたのでしょう。
全山に杉を植樹しました。
100年後、200年後この寺に修復の仕事が出来る事でしょう。
その日の為に、植樹しておく事が望ましい、判断したのでした。
今川義元も、徳川家康の杉の木を切り倒して、智満寺の修復、再建を致しました。
でも本堂の周りの大杉は残しました。
堂塔を大風から守ってくれるし、荘厳なお寺にするには伐採してはならない・・・、考えたからでした。
 
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                                          薬師堂とその後ろの「頼朝杉」
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                                       太い幹周りの頼朝杉、後ろが薬師堂
 
家康の修復後、偶々10本の大杉が残りました。
その後、「子持ち杉」と呼ばれていた一本が倒れてしまいました。
でも、頼朝がお手植えされたと言う杉を初め、9本は今に残っています。
どれも、樹高は40m、幹周りは9.5mに及びます。
頼朝杉は薬師堂の目印のように聳えて居ました。
でも、山側に少し裂け目が出来てしまいました。
割れ目からは樹の髄が腐ってしまっている事を告げています。
 
私は鶴ヶ丘八幡宮の大銀杏を思い出しました。
見上げれば立派な大樹でした。
倒れてみたら、樹の髄が腐っていました。
倒れた姿を見て、樹の偉大さを知りました。
同じような見過ちをしないように、頼朝杉を含めた10本杉を大切にしたいものです。
 
樹を残す事、山に手入れを惜しまない事・・・、それが伝統の継承になります。
 
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   薬師堂の内陣、厨子の中に本尊の薬師如来が祀られています。
   厨子の前仏が見えます。12神将像が並んでいます。
 
 
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文化の地溝帯をつなぐ「世界一の木造橋」

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カーナビを大井川中流にある川根町「塩郷の吊り橋」にセットしました。
車の左右は一面の茶畑です。
お茶の木は白い花を咲かせています。
山茶花(さざんか)より二周り小さい、白い花です。
蕊(しべ)に黄色がさしています。
素朴な花です。
 
 
茶畑の丘陵を越えると、眼下に大井川が飛び込んできました。
川幅の広さに驚きます。
砂の上を何本にも別れて水が流れています。
所々に流木が見えます。
先日の台風15号が残していったものでしょう。
大井川には何本も橋がかかっています。
一番上流にかかっている橋には、欄干が無いようです。
沈下橋のようにも見えますが、端桁はソコソコ高いようです。
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    島田大橋から「蓬莱橋」を見る。川の真ん中3本の橋脚が台風15号で流されてしまいました。
    川の中央までしか行けません。全長897m、幅2.4mです。
 
木造橋の名は「蓬莱橋」でした。
橋の東袂は公園になっています。
案内板が建っています。
案内の主は国土交通省静岡河川事務所です。
 
大井川は赤石山脈(南アルプス)に源を持つ全長168k、流域面積1280K平方の河川です。
島田の町は大井川が作った扇状地です。
大井川の治水は古代からの課題で、平安時代「飛田堤」、天正18年(1590)の志戸呂堤、慶長9年(1604)の向谷堤、御囲堤等を築造しました。
治水の歴史は大洪水の歴史でもありました。
そんな事を教えてくれます。
 
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国周(くにちか)作大井川徒行渡し図。大井川は急流であり川が低いので架橋が困難であった。
加えて、江戸幕府を軍事的に守る意味で橋が作られなかった・・、といわれます。
「箱根八里は馬でも越すが、越す残されぬ大井川」と言われました。
 
江戸時代を通して大井川には橋が架けられませんでした。
再三にわたって仮設橋(舟を並べて橋にする方法)の申請が為されましたが、幕府は許可しません。
お陰で、島田宿は「渡し場」として繁盛します。
渡しの人足は1000人に及びます。
渡し料は一分(約2万円)を要しました。
6人ほどの人足が輿を担ぎますから、輿には3人ほど乗れます。
相乗りすれば6千円位の費用になります。
一方大名行列は大変です。紀伊や尾張藩は参勤交代で300人程度の行列で遣って来ました。
大井川を渡るだけで2千万円を要します。
まして川止め(水嵩が高いので渡しが禁じられる)になれば島田に足止めを食ってしまいます。
島田の町には遊郭ができ、「島田髷」をした遊女が時間潰しの相手をしてくれました。
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     蓬莱橋、遠目には欄干の無い「沈下橋」と思いましたが、低い欄干がありました。
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明治戊辰戦争に際して、明治元年2月24日には仮橋が完成します。
明治天皇の行幸では再度仮橋が架橋されたようで、国輝の錦絵「東海道五三次」に描かれています。
翌、明治2年の皇后の行幸時にも、再度仮橋が渡されます。
ようやく明治12年になって、恒久橋が架橋されます。
それが蓬莱橋(現存)でした。
 
 
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渡し場の人足が橋を作りました。
橋が出来たら、自分の仕事が無くなる。
まるで、自分の入る棺桶を作るような気分がした事でしょう。
彼等は橋が完成すると大井川の向かいの丘陵「牧之原台地」を開墾します。
御狩場が一面の茶畑に変わります。
ニーチェに「脱皮しない蛇は死ぬ」と言う言葉があります。
島田の人足は脱皮が上手だったのでしょう。
 
蓬莱橋は昭和40年(1965)に橋脚がPCに変えられ、頑強になります。
そして平成9年(1997)にギネスブックに載ります。
「世界一長い木造の歩道橋」と言う事が認められました。
 
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地図を見ると、太平洋に注ぐ大井川、日本海に注ぐ糸魚川、両河川をつなぐ「フォッサ・マグナ(地溝帯)」が確認できます。
フォッサ・マグナは地質的に日本列島東西に二分するだけではなく、日本文化も東西に二分します。
江戸の文化は西に伝播します。
 
例えば江戸の「お握り」は三角です。切り餅は四角です。
雑煮は切り餅を焼いてすまし汁に入れて戴きます。
大井川の東岸「吉原」まで江戸の文化に染まります。
一方、京都大阪の上方文化は東に伝播します。
「お握り」もお餅も丸型です。雑煮も汁に入れて煮て戴きます。
東西の文化は大井川の両岸で対峙し、文化交流の境い目になりました。
 
川の向こうも渡ってみれば、大して変わらないものです。
でも、川の向こうに憧れが生じます。
蓬莱橋を渡れば蓬莱山に渡れる・・・、思ったことでしょう。
蓬莱橋は日本庭園には欠かせません。
良い名前です。
 
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                        橋の向こう側が「牧之原台地」になります。一面の茶畑です。
 
 
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愉快な川根茶の農家

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車は大井川の東岸を寸又峡に向けて走ります。
幾ら上っても大井川は大河の趣があります。
殆ど停止信号はありません。
どうも、川の西岸が町のようです。
東岸の人は西岸が羨ましい事でしょう。
西に行くには橋が架かってません。
 
                          
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                                           塩郷のつり橋
 
集落の背は茶畑が続いています。
丸い川原石を積んで石垣を作って、段々畑にしています。
そして、お茶の木は蒲鉾状に刈り込んで、畝(うね)をつくっています。
畝は幾重にも重なって、綺麗な模様を描いています。
もう、今年の収穫はお終い。
所々に茶色の畝も見えます。
この秋、強く刈り込んで、来春の新芽を期待しているのでしょう。
多分、強く刈り込んだ木から摘んだ茶は高級茶になるのでしょう。
 
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道路の彼方に何か妙な物が見えてきました。
夜店の「お面屋」のように見えます。
セルロイドで出来た、狐やパンダそしてウルトラマン等ヒーローのお面です。
「何だろう?」
その家に向かいました。
 
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                       奇妙な風景に惹きつけられて、農家を訪ねました
 
道路からは高い石垣が何段も詰まれて居ます。
石段を登って、お面に向かいます。
 
お面のように見えたのは「扇風機の羽」だったのです。
数百の扇風機の羽をカラフルに塗って、風見鶏のようにしてお茶農家の庭先に並べているのです。
家内が言います。
「TVの何これ、珍百景のようね。」
「もう、出たんじゃない・・・?」答えます。
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農家の前後左右は茶畑です。
とりわけ背後は延々と茶畑が続いています。
今は出かけて誰も居ないようです。
道路から人が登って来ました。
ご老人です。
老人はこの家に所用があって来たようです。
でも、まるで主人のように案内してくれます。
 
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これ(扇風機の羽)はね、茶の葉が霜げないようにする装置なのだよ・・・・・、
説明を要約すると以下の通りでしょう。
 
一般に「静岡は茶所」と言われるが、地方によってブランドがある。牧ヶ原もあれば掛川もあります。
大井川流域では地勢を活かして「川根茶」を生産しています。
 
大井川流域は谷が深いので日照時間が短く、昼夜の寒暖の差も激しい特徴があります。
加えて川には霧が湧きます。
その為に茶の木の葉が薄いし、繁りません。
更に、大井川の清流と、肥沃な大地です。
香りの高い、上品なお嬢様のような茶葉が出来ます。
それが「川根茶」です。
 
でも、新茶の季節に恐ろしい事があります。
風が無い、満天の星の見える夜です。
放射冷熱で地表の温度が急激に下がります。
霜が降りてきます。
しもげてしまったらお終いです。
そこで扇風機を回します。
地表6m辺りにある暖かい空気を地表に送るのです。
これを「防霜ファン」と呼びます。
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    此処が農家の玄関に通じる道です。石垣の間から茶畑、大井川が覗けて見えます。
 
屋外に設置して、一年中で滅多に使わない防霜ファンです。
度々老朽品が出てきます。
でも、お世話になったファンです。
捨てるのはしのび難い・・・・、そこで庭先に並べたのです。
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                              庭先の下には大井川が流れています。防霜ファンも見えます。
 
ご老人はコッチモ見てゆけ!
私達を屋敷の中庭に案内します。
 
其処には家の壁一面に徳利が吊るされていました。
酒屋がお得意さんに配ったものでしょう。
様々な地域ブランドがあります。
でも、行きつけの酒屋の名が多いようです。
見ているだけでも楽しくなります。
この茶農家は先祖代々飲兵衛だったのでしょう。
川根の庄助さんだったのかも知れません。
 
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      販売店の名前が目立つ大徳利。川根の庄助さん?
 
一升瓶もぶら下がっています。
キリンのラベルが貼られています。
キリンが一時日本酒を醸造していたのかな?
思ってみましたが、矢張り「キリンビアー」印刷されています。
一時、麒麟麦酒は大瓶の上に一升瓶でビールを販売していたのでしょう。
 
まあ、愉快な茶農家が居るものです。
楽しませて貰いました。
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                                         真ん中が一升瓶の麒麟麦酒
 
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川根茶房「ひらら」の井戸端で妄想する。

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出掛けにカーナビを「寸又峡・紅竹(くれたけ)食堂」にセットしました。
今日の昼食はそこで「蕎麦」を戴こう、きのこも味わえるかもしれない・・・・、期待しました。
ところが、SLが見えたり、茶農家に寄ったりして、もう昼を過ぎてしまいました。
カーナビには、目的地まで30kと出ています。
所期の計画は変更して、此処川根町辺りで食事をする事にしました。
それにしても、川根は広い、寸又峡が川根本町、島田市のまで40k程度ありましょう。
大井川に沿いに、国道473号線にそって延々と続きます。
 
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大井川の沿ってSLが走ります。国道はその上です。
 
左カーブのコーナーで、「蕎麦・うどん」の幟が目に入りました。
瞬時、立派な屋敷が見えます。
私の嗅覚が「今日の昼は此処にしよう・・・」決めました。
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                 川根茶房「ひらら」のエントランス。 トンボの暖簾からして粋を感じます。
 
期待した「きのこ」はメニューにありませんでした。
岩魚もありますが、私は「とろろ蕎麦」に決めました。
此処は「丸子の丁子屋/(東海道中膝栗毛に出てくる)も近いのですから。
注文は若いお嬢さんが取ってくれました。
 
私は尋ねます。
「この家はどの位経っているのですか?」
「百年くらいです」
「いや、もっと古いでしょう?」
「明治5年(1872)に建てられました」(何のことは無い、140年経っている)
「この家は名主さんのお宅で、苗字が”ひらら”なのですか?」尋ねれば、
「いや、違います。代々庄屋を務めてきました。苗字の”ひらら”を店の屋号にしました。」
ああ、しまった。
上方では「名主」とは呼ばずに「庄屋」と言うんだ、何時しか大井川の西岸に来ていました。
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             茶房「ひらら」は庄屋「平良」の屋敷を蕎麦屋にしたもの。 
             土間から見た室内。陶器が陳列されています(販売します)
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                              庄屋「平良」の間取り
 
お蕎麦が出来るまで、庄屋「ひらら」の屋敷を見て歩きます。
家は典型的な「田の字型農家」です。
戸口を入れば大きな土間(三和土/たたき)が広がっています。
其処にトイレと調理場、そして土産物売り場と精算所を設置しました。
続いて広いデイ(広間)がありました。
囲炉裏が切ってあって、その前には大黒柱、背には仏壇とその長押に神棚が祀られています。
板間でしたが、改装して座敷にしました。囲炉裏も蓋をしました。
その奥に二間あります。
一つが主人の居る、座敷です。縁側を介して庭が望めます。
庭の向こうには茶畑とその向こうに峰が見えます。
その横にも座敷があります。
此方は家族が寝泊りしたのでしょう。
デイの奥にももう一間あります。
此処は家族が食事をした台所でした。
私の生家と良く似た造りです。
 
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      奥の10畳間。床の間があって、調度が楽しめました。
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                                                  奥の座敷、床の間の生花
 
実は家に戻って「川根路茶寮ひらら 」をネットで検索してみました。
此処は有名店だったのでした。
ネットでは、次の順で評価されているようでした。
1番、「女将が美人である事」。2番、古い民家を利用している事。 3番、お蕎麦が美味しい事。
 
私は、美人女将の美形を拝めませんでした。
でも、お嬢様と会話できました。(少し損した気もするが、まあ、良しとするか・・・・。)
 
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   大広間から奥の座敷(左右10畳間)を見る。
   右壁に仏壇、正面大黒柱の右長押に神棚、先祖の写真額が祀られています。
 
部屋の其処此処に陶芸が陳列されています。
茶碗が2千円程度です。
安くはありません。作家物なのでしょう。
部屋の調度品も、瀟洒な暖簾も、女将の匂いがします。
 
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    奥座敷の調度。右に枝垂れ桜の暖簾が掛かっています。 美術品です。
    縁側の手前に庭を干渉できる座敷もついています。
 
先刻から頭に浮かんでいます。
わらべ歌の「ずいずいずっころばし」です。
一読して「お茶壷道中」を揶揄した歌詞です。
 
お茶壷道中は江戸時代お茶を江戸将軍家に献上する為に運んだものでした。
将軍が召し上がると共に、東照大権現・家康様に奉げるものですから、お茶壷道中に遭遇すれば徳川御三家でも馬から降りて見送らなければなりませんでした。
庶民は何か粗相があっては打ち首になります。
戸を閉めて、お茶壷道中が通り過ぎるのを待ちました。
 
    ずいずいずっころばし
    ごまみそずい
    茶壺に追われて
    (中略)
    とっぴんしゃん井戸のまわりで、
    お茶碗欠いたのだぁれ
 
女の子が両手を拳に握ります。
そして肩の高さに差し上げます。
親指と人差し指の間、掌側に穴が出来ます。
男の子は人差し指を突き立てて、穴を指して回ります。
最後に掌を指された人が負けです。
次の指立てに回ります。
 
「芋茎/ずいき」を茹でで胡麻味噌をあえれば、美味しいご馳走が出来ます。
一生懸命に井戸端で胡麻味噌造りをすればお茶碗が欠ける事も多々あることでしょう。
そんな他愛ない歌詞です。
 
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     庭に枝垂れ桜の古木がありました。春は綺麗でしょう。
 
童謡にあわせて遊び仕草から、不順異性交遊の童歌だという人も居ます。
『茶碗を欠く』とは処女喪失を意味する・・・、と説明します。
最近は童謡や童話を込入って解釈する事が流行っているようです。
 
また、島田の遊郭で遊女と客の遊びだった・・・、言う人も居ます。
お大尽が今晩のお呼びを誰にしようかな・・・・・?
遊女を集めて、阿弥陀くじで決めるようなものです。
上方と言うより江戸風な、少し野卑ではあるものの、皮肉が込められています。 
私はこの童謡のルーツは、遊郭の遊び歌ではないかと思います。
 
私は妄想に耽りながら庄屋さんのお部屋でお蕎麦をいただきました。
 
「蕎麦の味は・・・どうだった?」訊かれれば
「美味しかったですよ。しっかりしたお蕎麦で、特に自然薯が良かった。加えてボリュームも十分だった」
 
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   とろろ蕎麦(1050円)、お蕎麦も量があって、しっかりそば粉の香りがしました。
   加えて古代米のご飯がついています。しっかり腹ごしらえが出来ました。
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                  庭先の柿も良い色に染まってきました。
  
  【追記】今回で大井川はお終いです。
 
 
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横須賀軍港のフランス庭園

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終戦後、横須賀の軍港は見直しされ、「臨海公園」が整備されていました。
平成13年隣接地域の大規模再開発に際してフランス式庭園にリニューアルされました。
青い海に面して、高層ビルとフランス風の庭園が整備されて、「横須賀も変わったなあ!」
思っていました。
今は秋バラが綺麗です。
ベルベットのような深紅のバラに誘われて、初めて「ヴェルニー公園」に寄ってみました。
臨海公園からヴェルニー公園に名もチェンジしていたのでした。
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   高層ビル、モールに隣接した「臨海公園」はフランス式庭園にリニューアルしました。
   バラもフランスの種「クリスチャン・ディオール」を選びました。
 
庭園に入ると、旧海軍の慰霊碑が並んでいます。
入り口から「沖島」「長門」そして「山城」です。
そして、その横に正岡子規の歌碑が立っています。
                              横須賀や 只帆檣の冬木立
 
慰霊碑は、貝塚息吹の垣根を背にして、向かいが桜並木です。
此処に慰霊碑が建てられたのは、此処が旧海軍の聖地で、英霊の第二の故郷だったからでしょう。
また、横須賀港のお隣、長浦港には軍艦建造のデッキがありました。(現在も残っています)
沖島を初め撃沈された戦艦の誕生地だったのでした。
 
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   戦艦山城の慰霊式の用意がされています。
   その右が戦艦長門、戦艦沖島、そして子規の歌碑が並んでいます。
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山城の前にパイプ椅子が50脚ほど並んでいました。
お婆さんが一人、手持ち無沙汰にしておいでです。
訊いて見ました。
「今日、10月25日は山城がレイテ沖で撃沈された日です。(昭和19年)
山城は1917年(大正4年)横須賀海軍工廠で建造されました。
毎年慰霊式典を行っていますが、今では参列者も少なくなってしまって・・・、寂しいばかりです。」
 
見れば、慰霊碑の前に白いものが一つ奉げられていました。
この一年でもう一人関係者が亡くなられたのでしょう。
今頃、関係者はモールに並んだレストランで食事をしているか、
一変した横須賀の港を見物されているのかもしれません。
 式典は午後1時からだそうです。
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     一面の深紅のバラ、クリスチャン・ディオール。公園はバラの芳香が満ちています。
 
公園の略中央部に「開明広場」があります。
フランス人技師「ヴェルニー」と「小栗上野介」のブロンズ胸像が建っています。
ヴェルニーは横須賀製鉄所を初め近代日本の工業化の基礎を築いた人物だそうです。
小栗上野介は幕府の勘定奉行として、ヴェルニーに指示した人物でありました。
上野介は幕臣の開明人物で、勘定奉行、海軍奉行として製鉄所や洋式軍艦の建造を進めました。
大政奉還の後は上野国に蟄居しましたが、維新政府によって斬首されてしまいます。
しかし、最近は司馬遼太郎が「明治の父」と評するように、評価が急変してきています。
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   手前、最後の幕臣「小栗上野介」、向こうがフランス人技師で近代化の技術指導をした「ヴェルニー」
   目線の先が海で、その向こうに製鉄所の在った辺りが見渡せます。
 
 
ヴェルニー公園は深紅のバラばかりです。
青い海、緑の芝ですから、深紅のバラが最適・・・、デザインしたのかもしれません。
バラの根元には小さな案内板がたっています。
「バラの名前はクリスチャン・ディオール。有名なフランスのデザイナーです」
2000本のバラの半分はディオールです。
案内板はその数だけたっています。
若しかしたら、ディオール社のプレゼントなのかも知れないな?
思いました。
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戦艦山城の慰霊式の開始までは未だ1時間ほどあります。
私は先刻確認しておいた「アジアンレストラン」で食事をする事にしました。
目の先の港からは遊覧船が出航します。
1時間足らずで横須賀港を遊覧するのだそうです。
名は「軍艦めぐり」です。
私は何故か「岬めぐり(60年代ダ・カーポの歌ったフォークソング)」を思い出しました。
あの船には山城の関係者、ご遺族が乗っていられる事でしょう。
 
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    モールの前から横須賀港巡りの遊覧船が出航します。
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     遊覧船の「売り」は軍艦巡りです。
 
みんな、歴史の巡り合わせを不可思議に思っている事でしょう。
人生に「運・不運」は必ずあります。
悲しい事に公正・公平ではありません。
 
アジアンレストランの名は「SAWASDEE」、良い雰囲気のお店です。
タイ式料理は味に深みがあって、美味しいもんです。
牛スジ麺セットには生春巻き、粽(ちまき)、ココナッツのスープも付いて、880円です。
人気店のようで、沢山の予約が入っていました。
お腹が出来たら、慰霊式に遠くから参列する事にしましょう。
 
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       ランチは880円で、12のメニューから選べます。牛スジ麺をいただきました。
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                    素敵な支配人
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