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路傍の「カタバミの花」と「庚申塔」

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ヴェルニー公園を後にして、私は鴨居に向かいました。
観音崎灯台とその先の浦賀との間、山間にある漁村が鴨居です。
鴨居にある小さな岬の先端には「戦艦・村雨」の慰霊碑がたっています。
戦艦・山城の慰霊式を見て、村雨の慰霊碑が気になったのでした。
 
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   今日の話題は「芋カタバミ」の花です。鴨居、海岸通の路傍に咲いています。
 
村雨慰霊碑は海岸通(多分16号線)を左折、細道を50mほど辿った突き当たりにあります。
海峡に面して、東京湾に出入りする船を見渡せる位置です。
村雨がヴェルニー公園では無く、岬にあるのは同艦が長崎三菱重工で産まれたからでしょうか?
それとも、横須賀港では沖行く船が見えないからでしょうか?
 
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       鴨居の浜辺と、土手に咲いた芋カタバミの花。
       この手前に小さな岬があって、その先端に村雨の慰霊碑があります。
 
「村雨」とは秋に突然に降り出すにわか雨です。
村雨が降るごとに季節が冬に進みます。
何とも、優しい名前で、戦艦に相応しい勇ましさはありません。
名刀にも「村雨」の名があります。
大昔から日本人は戦いに臨んで、優しい心を大切にして来たのでしょう。
戦いに臨んで、鬼になるのではなく、菩薩の心を重んじたのでしょう。
 
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   鴨居の断崖で、海岸通りを見下ろしている庚申塔、周囲の岩場は芋カタバミの花が飾っています。
 
 
村雨慰霊碑に入る細道の角に庚申塔が二基立っています。
岩場の中段に祠があって、その隣に並んで、海を見下ろしています。
背の高い庚申塔です。
村雨慰霊碑が海峡を出入りする船を見守っているように、
庚申塔は鴨居の漁村に出入りする人を見つめている、そんな位置にあります。
 
6手合掌型の青面金剛が一基、もう一方は2手の青面金剛像です。
此方は彫りも深く、特に左手にはショケラを吊るしています。
ショケラは一般に半裸の女性像で、その黒髪を金剛に捉まれていますが、
このショケラは比丘姿のこけしのようです。
 
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   此方は、隣の東浦賀「顕正寺」の庚申塔、秀作のショケラがある。
   腰巻半裸の女性像です。此れが伝統の基本形と考えられます。
 
青面金剛の周囲は芋カタバミの花が咲いています。
カタバミは生命力が旺盛で、こんな岩場に種子が飛んできて根を下ろしたのでしょう。
一度根を張れば、根の先には鱗塊(芋)が出来ます。
芋が年々太って、立派な株になります。
沢山花をつけて、種子は周囲1mも飛ばして、仲間を増やします。
周囲はカタバミが群生してしまいます。
 
葉っぱはハート形の小葉が三枚並んでいます。
徳川の三つ葉葵がハートになったようなものです。
その生命力の強さ、したたかさに驚愕した中世の武将は好んで家紋にしました。
四国を平定した長宗我部家を初め今太閤と言われた田中角栄もこの紋でした。
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                                    カタバミ(片喰)紋
 
 
 
カタバミは畑の畔に良く咲いていました。
掘り起こして、土の中に埋めてしまいました。
蓮華草やクローバーと同じように、土中で腐って肥やしになってしまいます。
雑草でもないし、はたまた益草とも言い切れない、路傍の草でした。
でも、秋から冬にかけて咲きます。
群生すると見事なピンクの絨毯のように目立ちます。
 
畑仕事をしていて、虫に刺されたりすると、祖母が教えてくれました。
カタバミのハートの葉っぱをむしって、扱きます。
すると青汁がにじんできます。
此れが、消毒薬になりました。
舐めれば酸っぱいのです。
硝酸が含まれているのです。
だから、カタバミは酢漿草(サクショウソウ)とも書かれます。
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    鴨居の畑の縁に咲いた芋カタバミの花。秋が深まると驚くほど目立ちます。
 
山本有三の作品で「路傍の石」がありました。
昭和12年朝日新聞に連載されました。没落武士の倅「愛川吾一」が主人公でした。
尋常小学校6年で、学業優秀な吾一でしたが、進学を断念します。
そして、奉公に出されます。
勘案辛苦して・・・・・、
その時代、何処にでもいるような少年でした。
まるで、路傍の石のような・・・・、
でも、吾一少年は野口英世か下村湖人か、中江藤樹のように偉い人間になる筈だ・・・・、
期待して読んでいました。
ところが、昭和14年、警察によって検閲されてしまいます。
プロレタリアート文学の匂いがしたのでしょう。
 
山本有三は筆を折ってしまい、二度と執筆しませんでした。
私達は吾一少年がどうなったのか知りません。
ただ、想像するだけです。
 
「路傍の石」は「路傍の花」のままで一生を終えるのかもしれません。
そんな人無名のまま一生を終えた人は世に沢山居ます。
または、矢張り期待通り「野口英世」になったのかもしれません。
どちらにしても、路傍の花も、路傍の石仏も私は好きです。
「路傍の石」は無駄なように、無意味なままに転がっています。
されど「石」は硬くて真実を指しているように思います。
村雨と一緒に南海の海に沈んだ人も、「されど、路傍の石」だったのでしょう。
路傍の石には芋カタバミの花がお似合いです。
 
   
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コンクリートに咲く「黄花コスモス」

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「涙の数だけ強くなれるよアスファルトに咲く 花のように 
見るものすべてに おびえないで 明日はくるよ 君のために』
岡本真夜 「TOMORROW」に出てくるの名言です。
 
私の町内の西外れに「柏尾川」が流れています。
その堰堤はコンクリートブロックでしっかり護岸されています。
その継ぎ目や水抜きパイプに根を張って「黄花コスモス」が咲いています。
さながら「コンクリートに咲く花」状態です。
 
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      今日の話題は柏尾川の堰堤、コンクリートブロックに咲いた黄花コスモスの花。
      この株は水抜きパイプに根を張っています。
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               この黄花コスモスはコンクリートブロックの隙間に根を張ったのですが、
               充分に根を張る事が出来ずに倒れてしまいました。
 
ウィキペディア(ネット上の百科事典)によると、コスモスが日本に伝わったのは明治20年、
黄花コスモスは大正になってから、と言う事になっています。
でも、黄花コスモスは近年急に目に付くようになって来ました。
 
私が地域公団(現UR都市機構)の都市事業部に出向したのは昭和50年から2年間でした。
建設省の都市局が上部組織で、
長岡NTやいわきNT鳥取や宮崎の学園都市など地方中核都市の町造りを手助けしていました。
建設省道路局の課長補佐の机の上で、「黄花コスモス」の種を発見、戴いて帰りました。
当時は排気ガス公害が問題になっていた時代でした。
街路樹には何が良いのか、中央分離帯の低木には、そして土手には花が良いのか・・・・、
調査をしていました。
「黄花コスモス」「風蝶草」など、様々な乾燥地にも、荒地でも、排気ガスにも強い花を推奨したのでした。
 
「長岡NTの道路端には黄花コスモスが最適だよ・・・・!」アドバイスしてくれました。
全国各地の地建にコスモスの種が配布されたのでした。
以来、高速道路のICやSAには黄花コスモスが自生しています。
 
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   堤防の上部に植えられた黄花コスモスの種が護岸のコンクリートブロックの上に落ちて根を張りました。
   水際を歩いている人が居ますが、此処を周回ジョギング出来るように、昨年工事されました。
 
 
柏尾川には沢山のボランティア団体が作られ、活動しています。
戸塚区も区政推進課が事務局になって、応援しています。
お掃除するグループ、桜の木を守る会、等などです。
カワセミの会は野鳥を観察すると共に花を植えています。
菜の花に芝桜、そして向日葵などを植えています。
殆どがコンクリートで覆われた堰堤ですが、所々僅かな隙間があります。
高島橋の袂にも幅1m程地面が顔を出しています。
其処に黄花コスモスを蒔きました。
 
宿根草の黄花コスモスは自生して、種子をこぼします。
種はコンクリート護岸の隙間に落ちて根を張りました。
何時しか「コンクリートの上に黄花が咲きました。
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  柏尾川の右岸が私の住む上倉田町です。左岸が戸塚町です。
  遠方に見えるのが2年前オープンした戸塚西口の再開発です。
 
私が作った「桜堤防ジョギング愛好会」もカワセミの会の同僚として認められました。
昨年、柏尾川の堤防中段を周回ジョギング出来るように整備していただきました。(工事は県の治水課)
今年はジョギングする人も一層目立つようになりました。
堤防は様々な人が利用します。
散歩する人、草花や野鳥を見る人、通勤通学する人、保育園児・・・・・などなど。
更にジョギングする人が増えれば、事故の危険性も増します。
ジョガーのマナーやルールも必要になります。
トイレも1箇所しかありません。
そんな事を健康つくりの傍ら実施する事にしています。
11月3日、戸塚区の実施する「ふれあい区民祭り」にも参加します。
 
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                                 カワセミの会は花も植えています。草むしりも大変です。
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  水際から1m程の位置にある中段(土砂搬出用の道路)を周回ジョギング出来るように整備されました。
  此処で戸塚区民駅伝を開催するよう働きかけています。
 
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                                     柏尾川は区民の憩いの場所です。
 
 
 
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長浦港に眠る「宝物/旧海軍補給庫」

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先日、横須賀田浦の倉庫群を報告しました。
田浦駅の海側を降りると、古風な倉庫が続いています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45615823.html
人影も無く、タイムスリップした感覚に陥ります。
時々、自転車に乗った若い自衛官が走り去ってゆきます。
長浦湾から横須賀湾に広がる海上自衛隊施設です。
自転車が脚になります。
 
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      長浦湾の倉庫群、殆どが使用されていませんし、朽ちるに任せられています。
      倉庫の向こう側が岸壁で、旧日本海軍の物資補給が目的でした。
 
私は、中学・高校時代を此処長浦湾に面した栄光学園で過しました。
昭和22年、米軍は長浦湾に面した「旧海軍工廠跡地」の再利用をイエズス会に持ちかけました。
上智大学歴史科の科長であったドイツ人神父グスタフ・フォス師が学校を創立します。
栄光学園(新制中学校、生徒数72名)が産声を上げます。
 
昭和33年、私は入学しました。
昭和39年、同校は海上自衛隊より校地の返還を求められます。
そこで、現在地(鎌倉市玉縄)に移転します。
 
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      旧海軍施設を使って栄光学園がありました。現在は「自衛艦隊司令部」があります。
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   長浦湾西側から対岸を見る。右端の2棟は昔のまま。その他は新築。小山の向うが日産自動車追浜工場。
 
横須賀線田浦駅から約4キロを朝晩歩きました。
バスも通っていましたが、歩くのが約束のようになっていました。
長浦湾の陸地を略一周する感覚でした。
 
教室の窓からは長浦湾の対岸が見えました。
田浦の倉庫群が見えて、ガントリークレーン (岸壁に設置され貨物の積み卸しを行うクレーンのこと)
が何本も建っていました。
その西側にはドッグがありました。
 
長浦湾は横須賀湾に隣接しています。
横須賀港は幕末以来の重要港湾で、フランス人技師ヴェルニーと幕府勘定奉行、小栗上野介によって「横須賀製鉄所/造船所」が作られました。
軍港であると同時に、横須賀工廠があって,沢山の戦艦が建造されました。
長浦湾はその戦艦の修理やメンテ、火薬や食糧等の補給基地だったのでした。
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  栄光学園の入り口は「東芝ライテック」の工場になっていました。旧海軍司令部の建物もそのまま使用されて  いました。その手前を左に折れて、長浦湾を半周出来る道が通っていました。
 
私は中学生の頃、対岸を飽きずに眺めていました。
土曜日の午後はクラブ活動をサボって、岸壁で釣を楽しみました。
でも、目の先の建築群で何をしているのか、全く興味はありませんでした。
ただ、唯一南氷洋に捕鯨船団が出航する時は、感慨深いものがありました。
巨大な戦艦の間を縫うようにして小さなボートが出て行きました。
大漁旗を翔かせて、マーチが鳴り響いて、沢山の家族が見送っていました。
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 長浦湾の西側、まともに使用されている施設は一つも無い・・・、状態でした。
 
栄光学園のあった場所は「自衛艦隊司令部」の看板があって、守衛が2名いました。
フェンスの上には有刺鉄線が張られて、人を寄せない雰囲気です。
カメラを向ければ、没収されそうです。
 
守衛に詰問されました。
「私は此処に在った学校の卒業生でして・・・・・」
「そんな事で、用が無ければ近寄らないで下さい。」
遠目で見れば、私の学んだ学舎は2棟、海よりに残っています。
でも、2棟を残して岸壁も、建物も、裏山さえも昔の面影は残していません。
あの裏山を越したら、日産自動車の追浜工場なのですが。
 
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   倉庫の前の岸壁に残された鉄の構造物。石積みも古風です。
 
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                            ガラン・ガランの倉庫。これでは勿体無い。
 
長浦湾の入り口は「東芝ライテック」が使っていました。
旧日本海軍の軍事司令部の建物が残っていて、今も使われています。
昔は無かった(?)道が岸壁沿いに続いています。
初めて、対岸を歩くのは、わくわくします。
 
真っ赤に錆びた鉄骨の構造物があります。
大昔のクレーンの跡でしょうか?
基礎の石積みも鉄骨もかなり古いものです。
ペンキで「横須賀工作所」と書かれています。
現在は「海上自衛隊横須賀造修補給所」管理しているようです。
 
建物は素晴らしく立派な倉庫です。
奥行き200mも在るでしょうか。
天井クレーンが整備されています。
でも、全く使用されていません。
駐車場になっています。
クルーザーが1艇修理中です。
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立派な倉庫がクルーザーのペンキ塗りに使用されていました。
 
この一帯は旧日本海軍軍需部のあったところです。
軍需部とは砲弾、魚雷、機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服等一切の軍需物資を集めて保管し、軍艦や前線に送り出した、バックヤードです。
現在の海上自衛隊が必要にするバックヤードは旧日本海軍の規模に比べれば、遥かに小さくなっています。
 
素人目には「海上自衛隊艦船補給所食糧庫」として利用されているのですが、
実際に使われているのは十分の一も無いでしょう。
 
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      岸壁で釣を楽しむ人。正面が「自衛艦隊司令部」。前面2棟は昔のままだと思います。
 
この施設も財務省理財局の所有地でしょうが・・・・、有効活用されているとは思えません。
一般会計を司っているのは主計局、特別会計は理財局。
シオジイ(塩川正十郎)が「母屋で目刺を食べているのに、離れではすき焼きを食べている」
評してから20年も経ちました。
特別会計の杜撰さを指摘したものでした。
民主党も此処を削ぎ落とせば、20兆程度財源が捻出できると読んだのでしょう。
しかし、財政改革は進まず、国の財政は転げ落ちています。
フローもストックも理財局の在り方が問題にされてしかるべきでしょう。
           
 
 
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カメムシ大量に発生、真弓の木に集る

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昨年の今頃私は友人達と一緒に山形の月山の麓に注蓮寺を詣でていました。
境内には「森敦文庫」がありました。
森敦が丁度今頃の季節にこの寺を訪れ一冬を過して下山します。
その時の体験が「小説月山」に著されました。
 
主人公は「死」を思い悩んで山に入りました。
そこで、この寺の「即身仏」を見ます。
即身仏とは飢饉に苦しんだ時代、生きながら食を断って、土中に入り、仏になったお坊さんの事でした。
そして、一冬、カメムシを見つめて過します。
主人公の周りには夥しいカメムシが居たのでした。
 
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                                     月山、注蓮寺に祀られている「即身仏・鉄門海上人」
 
私達は「月山」の霊地「湯殿山」に近いホテルに泊まりました。
部屋に入ると壁に注意書きが貼られていました。
「カメムシには触らないで、備え付けのガムテープで虫の甲を貼りつけてテープごと棄てて下さい。
間違って触ると部屋中臭くなります」
 
都会育ちの友人は何のことかわかりません。
私は「適切な処置」であると合点が行きました。
見渡せば、カーテンに数匹、壁にも天井にも居ます。
お掃除の僅かな時間に飛んできたのでしょう。
私のお手本に従って、カメムシ退治が始まりました。
もしも、誤って布団の中にでも入ったならば大変です。
寝糞を垂れたような悪臭が漂って、一晩中寝られなくなります。
 
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         冬が近づくとカメムシは突然に目立ちます。多分集団になって生殖するのだろうと思います。
 
真弓の実がなっています。
その殻が割れて、中からオレンジ色の果肉が覗いています。
カメムシがその果肉に集っています。
果肉を舐めているのかな・・・・・?
見詰めてみると、違います。
針を果肉に刺して、果汁を吸っているのです。
蚊が皮膚を刺して、血を吸うのと同じような仕草です。
でも、血液は皮膚を刺せば自然に吹き出してくるから楽に吸えます。
果汁の方は大変な吸引力を要する事でしょう。
果肉にはべりついてじっと動きません。
でも、私のレンズが近づくと地上に落下します。
危険予知能力の発達した虫なのです。
スズメバチを怖がっているのでしょうか?
 
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                                   真弓の実の集まってきたカメムシ
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下のカメムシは細長い針を刺して果汁を吸っています
 
カメムシの悪臭は脚の付け根に器官があって、其処から発せられます。
悪臭は自分自身を守る・・・、訳けではありません。
仲間に危険を知らせるのです。
そして、悪臭自身の為に個体は死んでしまうそうです。
ですから、「仲間に危険を知らせる為に自分自身を犠牲」にしているのです。
「大義に為に命を懸ける」・・・・・・カメムシは「儒教の虫」なのです。
 
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真弓の木にすれば迷惑な虫です。
期待しているのは「ムクドリ」でしょう。
実を食べて、種子を遠くの山に運んで欲しいのに。
その為に、オレンジ色の目立つ果実を用意したのに、
カメムシに果汁を吸い尽くされたら・・・、種子を運んで貰えなくなってしまいます。
我が家にはもう25年も前に運ばれてきて、立派な庭木に成長しました。
そんな風にして欲しいのに。
 
真弓の木は実もなるし、紅葉もします。
そして、私達の祖先は縄文時代(?)からこの木を使って弓を引いて、狩をしていました。
人類が利用した貴重な樹木なのです。
 
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                                真弓の木、若い木には沢山の実が付きます
 
梢で百舌が鳴いています。
もう冷たい風が頬をなでてゆきます。
月山は直に雪の便りでしょう。
 
月山のカメムシは茶碗に落ちてしまいます。
茶碗の底は蟻地獄のようです。
何度這い上がろう、努力しても底に滑り落ちてしまいます。
何度も、何度も必死にトライします。
そして、ようやく茶碗の縁に這い上がって、ブーンと飛んでゆきます。
主人公はその有様を見て笑ってしまいます。
「何だ!飛べるのならば、最初から茶碗の底から飛んで行けばよいのに・・・・!」
「カメムシは無駄な事をする!」
 
そう思った瞬間、生きる意味を知ったような気がします。
 
丁度、雪解けの季節になっていました。
月山を下りる事にしました。
 
 
 
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石仏の運命(枯葉に埋もれた馬取百観音)

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大きなお寺さんに行けば必ず「大黒様」が祀られています。
仏殿ではなく、庫裏(くり、僧侶の住まう建物)玄関や台所に置かれています。
大黒帳という言葉もあるように、寺の運営・収支を司る神様です。
台所の神様でもあります。
商人が、そのふくよかなお顔を見て「此れは、良いお顔だ。福を呼ぶお顔だ! 私の店にも祀りたい!」
思って「福助」を考えたのでしょう。
同じふくよかなお顔に、ちょんまげ、裃を着せました。
それが、福助人形なのでしょう。
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       日本人に最も親しまれている「大黒様」(写真は東浦賀東耀稲荷の屋根瓦)
 
中仙道の碓氷峠は険しい山道でした。
女子供には難儀しました。
そこで、姫街道(女街道)も用意されました。
街道には「馬山」「馬越」「馬取」と馬の名の付く地名が残っています。
馬方が居て、馬借サービスをしていたのでしょう。
「馬取」は南軽井沢、72ゴルフコースの東にある集落です。
馬の手綱捌きの上手な馬子が住んで居たから、この名になったのでした。
 
小さな峠の入り口に
小さな薬師堂があります。
女街道から少し登った位置です。
急に村雨が降り出して、旅人が慌てて雨宿りしたいそうな、寂れたお堂です。
お堂の暗がりに「木枯し紋次郎」がいそうです。
その、庭に百観音像が祀られています。
 
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   今日の話題「馬取百観音」は馬取集落の南に祀られています。此処は中山道の姫街道です。峠を越えると   「発地」の集落に出ます。今は葦原でその向こうに浅間山が雄大な姿を見せてくれます。
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   馬取の東は妙義山があります。馬取は二つの山の間、中山道の姫街道にあります。
   妙義の石は黒い安山岩(溶岩が固まった)です。写真は妙義神社,ご神体は妙義山です。
 
百観音は江戸時代後半から盛んに作られました。
巡礼が流行りだします。
旅行がブームになります。
一生に一度、霊験のあるという「西国観音霊場」を巡りたいものだ・・・、庶民の願望になります。
「東国の観音霊場」も、「秩父観音霊場」も、いっそ、百観音霊場巡りをして、その霊験に与りたいものだ・・・、
思った事でしょう。
 
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              馬取百観音像は薬師堂(奥に見える御堂)の庭に祀られています。
              6月の表情は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45190440.html
 
一方、戦国時代に築城需要が盛り上がった為、全国に石工が活躍しました。
湯河原(小松石の産地)の石工は有名は一夜城を築きましたし、江戸城の石垣も造りました。
信州伊那には高遠の石工、そして近江坂本には「穴太衆」と呼ばれた石工集団がいました。
彼等は戦争需要が無くなると、集団で出稼ぎを始めます。
新しく農村部の「石造需要」を求めて、全国を廻ります。
石工の棟梁が2、3人のお弟子を連れていました。
ヨーロッパも日本も「職人」のスタイルは変わりません。
 
馬取の集落にも石工が遣って来ました。
此処中山道は、上州、高遠、二大石工職人が相互の腕を競いました。
上州石工の棟梁にも気合が入っていました。
(馬取百観音は上州石工の仕事だと思います。何故なら上州の方が概して表情が豊かだからです)
 
此処には近場に二つの石がありました。
浅間山の火山灰が積もって出来た「凝灰岩」と、妙義山の「安山岩」でした。
棟梁は凝灰岩を選びます。
黒い安山岩より、人肌に近い凝灰岩が良い、判断したのでした。
 
若い弟子にが石を切り出し、一尺四方程の立方体に割りました。
棟梁が墨で大凡の輪郭を描きます。
輪郭線と完成形をイメージしながら、弟子達が粗彫りをします。
棟梁がチェックして廻ります。
 
最後は棟梁自らが鑿を立てて完成させます。
100体の観音像を三月で完成させなくてはなりません。
棟梁に2名のお弟子さん、昼夜をおして鑿を振るい続けました。
 
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       馬取百観音の特徴は「福を呼ぶ表情」にあると思えます。
       それは大黒様、福助人形の山村版だと思います。
       石仏は枯葉の音に耳を傾けておいでです。
 
棟梁の頭には「お寺の大黒さん」、商人の「福助さん」・・・・・、をベースに
山村の「観音様」のイメージが出来ていました。
1尺の観音様です、台座に乗せても小さなお姿です。
小さくても、大きく見せるのが石工の腕の見せ所です。
必然、お顔が大きな三頭身になってしまいます。
お顔は福を呼ぶような「三角」にしました。
頬っぺたが下がったお顔です。
そして、笑顔が優しいお顔です。
馬取の住人に馴染みのある「馬頭観音」「十一面観音」「千手観音」そして基本形の「聖観音」が並びました。
観音様ですから、怖いお顔も、複雑な持事の仏もありますが、威圧感や恐怖感を与える形は止めにしました。
そして、どの観音様も手を合わせました。
合掌する姿に刻みました。
 
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    如意輪観音の他は総て合掌する姿に彫られています。
    観音様が手を合わせている姿が並ぶと「かくありたい」と感動します。それは「南無」の姿だからです。
 
私の友人がポツンと言いました。
「南無観世音菩薩」と刻まれてるが、”南無”とはどういう意味かしら?」
南無観世音菩薩、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・・
何れにも、”南無”といって両の手(掌)を合わせます。
私はしばし考えます。
 
 
万葉仮名に意味はありません。
まして、インドから中国(呉)から日本に伝わった仏教です。
お経に”ナム(梵字、サンスクリット語”と言う響きが矢鱈に目立ったので、「南無」と言う漢字で表音しました。
でも、元々漢字には意味があります。
万葉仮名では意味を無視してしまいました。
 
”南/な”と言う漢字より「汝」または「己/な」が相応しかった事でしょう。
仏様の言葉にすれば「汝は自らを無くして、ひたすら観世音菩薩を信じなさい」、
人の言葉に変えれば、「己(な・私)は自らを無にして仏様を信じます」
そんな意味のある漢字にすれば良かったのに・・・・。
 
インドの日常の挨拶言葉は「ナマステ」と言うそうです。
「今日は!」程度の言葉です。
意味は「私は貴方を尊敬します」と言う意味だそうです。
合掌する姿は「信じる」事を示しているのでしょう。
だから・・・・・、馬取の百観音の観音様は合掌する姿にしました。
 
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百観音の前には栢(かや)の大木があります。
頭上には栃の木の巨木があります。
そして、山栗の梢も覆っています。
どの樹も実がなります。
とりわけ、栃の実は沢山なります。
誰かが拾って帰りました。
山栗も棘棘のイガが残っています。
 
栃の葉っぱを「此れ朴葉の代わりにならないかしら?」家内が聞きます。
私は朴葉味噌に目が無いのです。
「此れじゃ燃えてしまいそう・・・?」言葉を続けます。
「柿の葉の方がマシと違うか?」答えます。
 
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                               観音様に栃の実を奉げました。
 
この秋、百観音の頭にには何度も木の実がぶつかった事でしょう。
栃の実は痛かったでしょうし、栗のイガが刺さったかもしれません。
でも、微笑んで合掌を続けておいでです。
今年の初夏訪れた時は、沢山の苔がむしていました。
苔は凝灰岩の体に根を張って、風化を進めてしまいます。
元の浅間山の灰に近づけてしまいます。
あと、100年経てば石仏の表情は消えてしまう事でしょう。
福のお顔が消えてしまうのは残念ですが、それが運命と言う事でしょう。
 
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      夏には体を覆っていた苔も秋が深まると寝てしまうようです。お陰で石仏の表情が浮かんで来ます。
      浅間山の凝灰岩から出来た石仏は、何れ灰に帰ってしまうのが「石仏の運命」です。
      強いて言えば、人間の体も死んでしまえば土に戻ります。地蔵様の所以です。
 
 
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小町の無常観(吉井町の小町伝説)

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群馬県高崎市の郊外に「吉井町」があります。
「下仁田街道」に面した古い町です。
利根川の支流である鏑川に沿って街道は続き、国境を越えれば信州の佐久に出ます。
鏑川の両側には妙義山や荒船山が望めます。
全国各地何処にでもあるような、山紫水明な田舎町です。
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  吉井にある「得成寺」からの眺め、小山の下に鐙川が流れていて、高崎で利根川に合流します。
 
 
この吉井町の河岸段丘の上に、長銀不動産といった会社が広大な宅地用地を有していました。
「何れ、高崎のベットタウンを造成しよう」考えたのでしょうが、
都市計画法が施行され、開発許可を得るまでハードルが高くなります。
結局、ゴルフ場にしてしまえ・・・・。という事で「吉井カントリー」になりました。
 
先週末”SANKYOレディースオープン2011”の戦いの場になっていました。
「開発会社や銀行は転んでも、ゴルフ場はやって行けるものだ」
懐かしく、立派になったゴルフコースを見詰めました。
その、吉井町に「小野小町」の伝説がある、聞かされていたのでしたが、
サラリーマン時代には行きませんでした。
 
時間に余裕が出来て、初めて訪れてみました。
先ずはご住職の説明から案内します。(少し、補注を加えます)
 
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  吉井「得成寺」の本堂
 
【得成寺ご住職の説明に沿って案内します】
小野小町は平安時代初期の歌人でした。(6歌仙の一人)
古今集に18首も採択され序文を書いた紀貫之は評しています。
    ”いはばよき女の悩めるところあるに似たり
             強からぬは 女の歌なればなるべし”
歌に訴えるところが強くないのは、女性の歌なので、それなりに良い・・・・。
と言ったところでしょう。
平安前期、女流歌人の先がけでありました。
 
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                得成寺本堂玄関の天井画。創建当時のままだそうです。
 
小町は大和長谷寺の観音様のお告げで「故郷の出羽」に帰る事にしました。
其の旅の途上、吉井でライ病を患います。
絶世の美女と言われた己が顔を井戸に写して眺めます。
そして、覚悟を決めて庵を結んで、治癒と仏道の日々を送りました
 
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                          小野小町が自らの病の顔を写したと伝えられる井戸
 
石薬師に祈願を重ねても小町の病は一向に良くなりませんでした。
そこで、小町は歌で薬師を責めます。
”南無薬師 まづは諸願の叶はずば 身より仏の名こそ惜しけれ”
すると、薬師仏が夢枕に現れます。
”むらさめは唯一時のものぞかし おのが身のかさここにぬぎおけ”
返しの和歌を詠まれました。
 
小町が「私の病気治癒の願いが聞き入れられないならば、薬師如来の名が廃れますよ」と責めた所、
薬師如来から
「村雨でさえ一時降るものです。雨が何れ止むように貴方の病気も瘡蓋が落ちるように治癒しますよ。
身の笠を此処に脱いで置きなさいな・・。」
歌のやり取りが行われました。(同じ歌は各地に残っています)
 
夢の通り小町の病は快癒しました。
そこで、庵を寺にしました。山号を「小野山」と言いました。
また、石薬師に大量の塩を寄贈しました。
以来「塩薬師」と言われるようになりました。
 
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                                    塩薬師の門、奥に見える仏塔が塩薬師塚
 
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    塩薬師塚、手前の歌が「薬師如来の返歌、病気は何れ治癒します。村雨が上がるように・・・・」
    向うの川が鐙川、富岡製糸工場の用水になります。
 
平安時代末期得成寺では心全和尚が高野山より不動明王を勧請して再興します。(貞応元年・1222)
桂昌院が懐妊し得成寺に「男子出産」を祈願します。
徳松(五代将軍徳川綱吉)が出生すると、朱印地30石を得ます。
小町の襖絵を描かせ、「小町無我無心像」(伝・運慶作)が寄贈されます。
 
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    運慶作と寺伝の小野小町像。毎年4月8日に公開するそうです。
    乞食姿で胸を裸だけています。絶世の美女の老いさらばえた姿を描く事は、無常観の表れであると同時     に、「一時の美しさに溺れるな!」戒めでも在ったと思います。
 
【私の小町伝説の評価】
小野妹子以来「小野」は貴族として、学者の家として評価されます。
小野 篁(おののたかむら)閻魔大王の記録係と言われる程の俗信を呼びます。
小町は出羽の郡司小野良真の娘、小野篁の孫と言い伝えられています。
実在の人物であり、天皇の更衣クラスの高位の女官だったのでしょう。
「和歌に秀で、絶世の美女であり・・・・」
その才色を鼻にかけた所もあって、貴族の間、女官の中でも嫉妬を受けた事でしょう。
 
嫉妬心は人間の本性に根ざすものです。
まして小町は次の歌を詠み万人の共感を得ています。
 
  花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に
  (花は色褪せてしまっ たなあ。我が身を徒にこの世に置き、むなしく時を経るばかり で、気付いてみたら・・・・)
 
そこで、二つのタイプの伝説を生みました。
 
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  得成寺ご住職の説明風景。向うの板戸に描かれた小町像は狩野派の作品。
  12単が花魁風でも在って、細面で・・・、元禄風です。褪色していないのは岩絵の具が良いからだそうです。
 
【百夜通伝説】
小町には多くの貴公子、貴族が言い寄ります。小町は冷たくあしらいます。
深町の少将は「百日通えば、好きになってもね・・・・」言われます。
体の弱い人でした。でも、体に鞭打って毎晩通います。
しかし、百日目を前にして息絶えてしまいます。
 
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   小野小町を描いた板戸(襖絵と案内していました)。美女は後姿を描くそうです。そう聞かされると紫式部は横   顔でありました。珍しくお顔が描かれているのは絵師の自信の表れでしょうか?
 
【髑髏小町伝説】
大江匡房の「江談抄/1104~1107」に載っています。
在原業平が東下りをして、陸奥の国・八十島に来ました。
業平はかって知り合いでもあった小野小町がこの地で死んだと聞きます。
旅の枕に、夜中声がします。
   秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
 
翌朝、声のした辺りを調べると、髑髏の目からススキの芽が生えていました。
「あなめあなめ」は「ああ目が痛い」というのです。
業平は涙を流して、
    小野とはならずススキ生ひけり
と詠んで手厚く葬りました。
 
こうした伝説は更に尾ひれがついて広がってゆきます。
髑髏小町とか通り小町と呼ばれます。
 
絶世の美女が老いさらばえて各地を放浪します。
それも、「花の色は移りにけりな・・・」の歌の力でした。
無常観は中世の我国を席巻し、近世から現在にも引き継がれてゆきます。
平家物語の共感が、美女小町の晩年に、ライ病や乞食にして、更に次の遺言を述べさせてしまいます。
  我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹を肥やせ
 
能の卒塔婆小町を初め様々な文化の素材になって行きました。
小野小町の評価は文学(和歌)の世界から民俗学のフィールドに移って行きます。
柳田国男は全国の小町伝説を収集します。
日本全国に小町伝説が残っている事実は、小町が日本人の心の深くに根付いている事を示していました。
 
勿論、京都や琵琶湖周辺に小町伝説は多く残っているのですが、主として
伝説は東に広がってゆきます。
厚木にも、そして吉井町から福島県(喜多方市)、
出羽(米沢市小野川温泉町)から秋田県(湯沢市雄物町小野)に広がってゆきます。
主として北に広まったのは、無常観の所以でしょうか?
西行も芭蕉も実方も無常観を形作った人は、北に向かいました。
 
藤原氏も、平家も栄華を誇ります。
しかし、何れも廃れて、滅亡してしまいます。
まして、個人の一生も若いうちに良い思いをすれば、晩年は悲惨になる事が多々あります。
日本人にとって、無常観は国家から個人まで、等しく免れ得ない普遍的な真理と思えました。
それを端的に示し、共感を呼ぶのは小野小町でありました。
 
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    塩薬師の塚は一見して無縁仏を集めた仏塔のような姿です。
    石仏は何れも近世以降の作のように見えます。何れも地蔵菩薩であって、墓標仏ではありません(墓標仏    の場合は命日や戒名が光背に刻まれているものです)
    病気の治癒に塩薬師に祈願した、病気が快癒した、そのお礼に地蔵菩薩を奉ったものでしょう。
    地蔵ばかりであるのは、此処が三途の川の畔に見えたからでしょう。
    この仏塔の後ろにはコンクリートのゲートがありました。川を使った運輸施設の遺稿だと思われます。
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笹竜胆(ささりんどう)が見頃です

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逗子の市の花は「ホトトギス」です。
勿論、徳富蘆花の「不如帰」の舞台であったから、蘆花旧宅を初め随所に咲いています。
鎌倉市の花は「笹竜胆」、でも滅多に見ません。
海蔵寺や東慶寺の境内で自生しているだけだと思います。
市の花であり、美しい花ですから、もっと栽培すれば良いのに・・・・・・、常々思います。
 
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   今日の話題は笹竜胆です。笹竜胆は地上を這うようにして咲きます。
    私たちが花屋の店先で求めるのは蝦夷竜胆です。(写真は何れも東慶寺です)
 
竜胆の花と言うと、私達は「蝦夷竜胆」を想い浮かべています。
スックと伸びた茎の両側に対生して咲いている、紫ブルーの花です。
活花にしたら見栄えがします。
”白い菊とジャパンブルーの竜胆”秋の仏前花のお定まりです。
 
笹竜胆は、茎が細くて地面を匍匐して花をつけますから、生花には難いのです。
苔を張った庭園、草むしりした露地等であれば自生できます。
普通家庭の庭には難しいのが滅多に見ない理由でしょう。
 
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   笹竜胆は上には伸びないので雑草に覆われると枯れてしまいます。
   写真のように「龍のひげ」や「蔓姫蕎麦」とは相性が良いのです。(東慶寺本堂の前庭で)
 
 
昔は道端や雑木林で笹竜胆の花を良く見かけました。
農家が下草を良く刈ったからでした。
草刈をして、散った落ち葉を掻き集めて、堆肥や火種に利用しました。
下草は田圃の肥やしにしました。
ところが、最近は下草を刈りませんから、片栗も山百合も、そして笹竜胆も見かけなくなってしまいました。
 
鎌倉市の市章は笹竜胆です。
源氏の家紋が笹竜胆だからでしょう。
熊笹と竜胆の花の合成ではなくて、笹竜胆の花をデザインした紋章です。
5枚の葉っぱは笹のように直線模様です。
笹の葉の上に3つの花が乗っています。
五・三の桐と同じように座りの良い家紋になっています。
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                         源氏、そして鎌倉市の紋「笹竜胆」
 
村上源氏の家紋が笹竜胆だったから、源頼朝(清和源氏)も笹竜胆にしたのでしょう。
でも、頼朝の旗頭は白旗だけで、笹竜胆紋は見ません。
江戸時代に笹竜胆紋を頼朝縁故の寺や神社に付けたのではないでしょうか。
北条縁故の寺(鎌倉五山など)が三鱗(みつうろこ)の家紋を付けたので、
ならば「当寺は源頼朝だ、源義経だ」と主張したのではないかと思います。
江戸時代、葬式仏教になると、寺院や神社が格式を家紋で競うようになりました。
鎌倉時代前半は源氏、平家、藤原、橘と言った「氏」は大切でしたが、
「家」の意識は薄かったと思われます。
家紋を競うようになったのは室町時代末期からです。
 
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      このような形を笹竜胆の家紋にしました。葉っぱが笹の葉に似ているのです
 
源氏の家紋を笹竜胆にしたのは・・・・・もっともらしい話があります。
北条政子が源頼朝にプロポーズした時、「笹竜胆の花」に気持ちを託した・・・、と。
 
木枯らしが吹き始めた晩秋に、凛として咲くから「りんどう」なのかな・・・?
思ったりもします。
如何にも鎌倉武士に相応しい、飾り気の無い、芯の強い花です。
 
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              東慶寺本堂の前庭は四季折々の花で飾られます。
              今は竜胆に蔓姫蕎麦、春になれば枝垂れ桜が彩ります。花はご本尊を荘厳に飾ります。
 
 
「りんどう」漢字に改めれば、龍の肝(竜胆)です。
根っこを使って丸薬にします。
苦い苦い漢方薬です。
「熊の胆」と同じように胃腸に効果があります。
「龍の肝」は「熊の肝」より効果がありそうです。
富山の置き薬の中にあったような記憶があります。
富山の薬売りは、置き薬を販売して町から村に歩く途中で、竜胆の根を採取しながら歩いた事でしょう。
「竜胆のように、逆境にあっても凛として生きたいもんだ!」
そんな武士の心意気を伝えているように思います。
 
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素晴らしい富岡製糸場

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世界遺産暫定リストに記載された「富岡製糸場」を見学しました。
良く、「聞くと見るとでは大違い」言いますが、その通りでした。
「これは、世界遺産の価値あり!」感心しました。
富岡製糸場の概要はそのホームページを見ていただければ解ります。www.tomioka-silk.jp/
私は、「明治の建築」「女工哀史」二面からその価値を説いてみます。
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                   今日の話題「富岡製糸場」正面入り口。突き当たりの建物は西繭倉庫棟
 
いち早く産業革命を達成した英国はインドに進出「東インド会社」を設立して貿易にいそしみます。
しかし、寒冷地に育った英国人はインドの暑さ、強い日差し、病虫害等に悩まされます。
現地人の建築を参考にして、植民地住宅を開発します。
庇が深く、アーチ状の窓を多く、窓にはジャロジーで目隠しし、広いベランダで建物の周囲を囲みました。
建物は板張りで白いペンキを塗りました。
そして、ベランダに椅子を出して、読書をしたり紅茶を楽しみました。
 
インドで生まれた「植民地住宅」はバンガローと呼ばれ、英国を初めヨーロッパには無いものでした。
英国人はアメリカ大陸に渡り、西部を開拓します。
其処でも、新しいスタイルの「開拓住宅」を実現します。
水車を使って、木材を板に挽きます。
柱を建てたら、周囲を豊富な板で囲ってしまい、ペンキを塗りました。
西回りしてきた植民地住宅に開拓住宅の板張りスタイルが採用されます。
こうして、幕末明治維新にバンガロー建築が日本に伝わりました。
 
長崎のグラバー邸(文久3年・1863重文)を皮切りに、大浦天主堂(文久4・1864・国宝)、
明治に入れば、リンガー邸(明治2・1869・重文)、そして富岡製糸場のアンリ・ブリューナー邸(指導者の住居/明治5年・1872・重文)が建てられました。
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     日本最初の西洋建築長崎グラバー邸(木造建築協会HP転載)深い庇、周囲を巡るバルコニーな     どの特徴は、英国人の植民地住宅だったから。
 
日本の大工職人の技術は高いものがありました。
植民地住宅を建築する事は容易な事だったでしょう。
漆喰や瓦等伝統的な職人技術も取入れられ、急速にバンガロー建築は日本中に広まりました。
明治の学校は大半がこの植民地様式が採用されました。
 
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    富岡製糸場の指導者アンリ・ブリューナー邸。
    植民地住宅に板張り(西部開拓住宅)が導入されています。
 
富岡製糸場の正門を入ると、巨大な倉庫が視野を覆います。
それが、生糸の原料になる繭を収める倉庫です。
正倉院の数倍ある巨大な倉庫が東西二列並んでいます。
繭は生き物ですから、良い生糸を作るには大切に繭玉を保管する必要があったのでしょう。
古風なレンガが積まれています。
でも、レンガは建物の壁を覆っているだけです。
構造材は太い材木です。
梁から上、屋根の構造材も木材でした。
屋根はフランス式の瓦で葺かれました。
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    巨大な繭玉倉庫が二棟も並んでいます。レンガが積まれていますが壁が建物を支えているのではありま    せん。構造材は木材です。右端に小学生が実地勉強に来ていました。
 
構造材は金具やボルトで固定されました。
「木造・レンガ壁」の奇妙な倉庫が出来ました。
近代建築上も貴重な建物群が残されました。
 
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   東側繭玉倉庫の1階には展示会場になっていました。写真は繭を煮て、糸を紡ぐ行程を説明しています。
   レンガの内側は漆喰壁で、天井や梁は材木である事が解ります。
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  工場棟の内部、構造材が木材であり、金具をボルト・ナットで固めている事が解ります。
   随所に説明がビジュアル化されていて、世界遺産正式登録に向けて気合が入っています。
 
工場の北側は福祉ゾーンになっていました。
先ず、女工さんらの宿舎がありました。
中は見られません。
でも、外観はとても素敵です。
こんな寄宿舎なら・・・・、少女の憧れであったでしょう。(実際は指導者の住宅であったようです)
その横に、治療所が建てられていました。
説明では、フランス人の医師が常駐していて、職員の健康指導をしていたそうです。
そして、展示室には当時の工場内を写した写真が掲示してあります。
白い作業着を着た女工さんが体操をしていました。
しっかり、休憩時間をとって体操をして、また作業に入ったのでしょう。
 
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   女工館(女工さんの寄宿舎)此れも、植民地住宅。
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    女工さんの診療所
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    女工さんの体操風景
 
私の頭は混乱してしまいます。
今まで明治の女工さんの劣悪な労働環境、搾取された人達・・・・、そんな風に思っていました。
「女工哀史(大正14年・1925、細井和喜蔵のルポルタージュ)」では紡績工場で働く女性労働者の過酷な実態が究明されていました。
「ああ野麦峠/山本茂実・1968・昭和43年」では飛騨の農家の娘が野麦峠を越えて諏訪や岡谷の製糸工場で働きに出た。彼女等が劣悪な環境の下で命を削り働いて、生糸を生産した。富国強兵策を支えた・・・。」
そのように思い込んでいました。
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でも、富岡製糸工場の施設群は私の理解が間違いである・・・・、教えています。
日本の近代を切り開いた工場が社員の福祉に心配っていた・・・・、驚愕する事実のようです。
そう考えると、諏訪の片倉館も女工さんの福祉施設でした。(女工さん用に作った温泉施設)
一方で、女工さんの働きを評価し、ランクを分ける管理手法も実施していました。
富岡や諏訪の工場が「官営模範工場」であって、大半の工場は「女工哀史」の世界だったのかもしれません。
たとえそうだとしても、理想としていた姿が、
女工さんの福祉環境の整備であった事は間違いなかったようです。
 
プロレタリア文学が実態を伝えているのか?
それとも、富岡製糸場に残っている施設が・・・・・、実態を伝えているのか?
私は、実物を目の前にすると、従来の自分の理解が間違っていた・・・、思われてきました。
明治維新を切り開いた官営工場は江戸時代をかけて培われたと「徒弟関係」をベースに、工場主は親のように従業員を大切にしていた・・・、教えられました。
 
こうしたソフトも含めて、富岡製糸場は世界遺産の価値があります。
TVではAKB48のCDが初日で100万枚も売れた・・・、伝えています。
私は良く解りませんが・・・・・、少なくても以下のように考えます。
 
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簡明に上手に説明して貰えるのも嬉しいのです。
 
AKB48のお嬢さんは毎年人気ランクで分類され、長くても3年程度で償却されてしまいます。
3年の間に幾らペイして貰えるのか解りません。(たいした金額ではないでしょう)
一方、富岡製糸場で働いたお嬢さんは、技術がアップすれば、ランクが上がって給料も上がります。
更に、技術者として他の工場で働く機会も与えられました。
明治初年と現在と、どちらが「人間を大切にしているのか?」
「そんなの、疑う余地ないじゃないか!現代の方が良いに決まっている!」
大方の人はそう答えるでしょう。
でも、明治の人は女工さんの一生を考えてくれていました。
福祉も大切のにしていました。
現代は、随分違います。
「人は使い捨て」
理由を問えば、「グローバル経済だから」
日本の労働者は中国の労働者と価格競争させられています。
 
歴史の歯車は「人間尊重」の視点から見ると、逆回転し始めて久しいようです。
 
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  富岡製糸場から上州の山並み(荒船山方角)を望む。目の下を鏑川が流れています。
 
 
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古典菊と野紺菊

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11月6日は朝から雨が降っています。
雨降りは花を見るか、石仏を巡るか、しています。
我が家の土手にも野菊が咲いています。
「菊見物に三渓園にゆこう!」
家内と一緒に出かけました。
 
大池には無数の鴨が遊んでいます。
枯れ蓮がもう冬が近い事を教えてくれます。
見事だった花が散って、残骸が水面に浮いています。
園内の道端に野紺菊が咲いています。
三渓園に自生している菊は野紺菊一種のようにさえ見えます。
この野菊を少女にイメージして、伊藤左千夫は「野菊の墓」を書きました。
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     今日の話題は野紺菊です。一つ一つは小花でも、茎が横に伸びて大きな塊になって咲きますから、目      立ちます。(本牧三渓園で)
 
野紺菊とは「野原に咲く紺色の菊」の意味でしょう。
葉っぱに毛があります。
良く似た「嫁菜菊」はスベスベした葉っぱです。
湯がいて菜として戴きます。
我が家の土手菊は嫁菜菊です。
嫁菜菊は少女、野紺菊は少年のイメージです。
 
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   黒松の根元を覆った野紺菊、向うは菊花展の主会場(本牧三渓園)
 
三渓園では「秋の菊花品評会」の準備中でした。
訊けば、「明日11月7日(月)」が審査日なのだそうです。
出展者は菊の葉っぱを磨いて、花弁をお箸で揃えています。
綺麗に見繕いさせて、審査員の眼に訴えるのです。
 
私の祖母も菊作りに精を出していました。
狭い境内でしたが、秋も深まれば境内を菊が埋め尽くしました。
そして区役所で開催された「菊花展」に出展していました。
品評会が終われば、直ぐに茎から切ってしまいます。
若芽を出させて、苗場に刺し芽して、三本仕立てに育てます。
菊作りはお米の栽培に似ています。
菊が上手に育った年はお米の収穫も良いものでした。
菊作りの達人は、野菜もお米も上手に育てました。
 
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      野紺菊の花の向うで「福助・三本立て」の出展準備をする出展者。
      娘を発表会に出す心境なのでしょう。お箸で菊の花弁を揃えています。
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            横浜菊花会のジャンパーを着た出品者、菊の花弁を一枚一枚揃えて行きます。
 
私の手元には「万葉花」という本があります。
先輩から戴いた図鑑です。
何度見ても「野菊」が出ていません。
野紺菊も嫁菜も万葉のずっと昔から咲いていたでしょうに・・・・、
万葉人が見向かなかったのは不思議でなりません。
身近過ぎて、歌にならなかったのでしょうか?
それとも、忌み花だったのでしょうか?
全く解りません。
 
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     先ず、集められた三本立・厚物の菊。
     これから花弁を揃えたり、葉っぱを磨いたり・・・・・、お化粧をしてもらいます。
 
朝鮮や日本の野菊を素材にして中国で「園芸種・家菊」を開発しました。
奈良時代末期、家菊が日本に伝播しました。(牧野富太郎博士の解析)
家菊は平安時代急速に広がりました。
当初は薬草としても評価されました。
宮中では、中国に倣って
9月9日の宴、重陽の節会に飾られました。
盃に菊の花を浮かべて飲む菊酒も行われました。
 
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   懸崖作りの小菊達。こちらも「頑張ろう日本」と大書されていまいした。
   中国人が驚嘆していました。
 
菊の花に綿を被せて置きます。
一晩経つと菊の体から滲み出た露で綿が湿っています。
菊の香りも綿に移っています。
祖母は、嬉しそうに綿で顔を拭いていました。顔が一段と”お亀”になりました。
菊の香で、若返る、長寿になれる・・・・、信じていたのでした。
私は、菊の花の酢の物を戴き、菊の葉の天麩羅を食べると、
「菊は体に良いのだな!」実感しました。
 
菊の仲間に蓬(よもぎ)があります。
お灸は蓬を乾かして、粉砕したものです。
蓬の若葉はお餅に入れて「蓬団子」にします。
平清盛は蓬を炊いて病気治療しました。
蓬の菜っ葉と書いて「蓬莱」と言い、病気や死の無い「理想郷」と考えました。
蓬が長寿に効果絶大なのですから、菊も若返り位の効果があるのは当然でしょう。
 
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   此方は一文字作りの菊。明日の品評会を目標に開花準備してきました。
   明日までもって欲しい・・・、そんな出品者の声が聞こえてきそうです。
 
時代が下って、江戸時代には、
菊の栽培が盛んになりました。
江戸庶民の間でも、菊を栽培し、露地や軒先に飾り、菊酒がたしなまれました。
菊の園芸熱が高まり
品種改良も盛んに行われました。
 
文化初年(1804年)江戸の庭師が菊人形を作りました。
東京の狸穴で展示すると、話題になり各地で菊人形や展示会が開催されるようになりました。
江戸の他伊勢、肥後、京都(嵯峨)など、地方により特徴のある菊(古典菊)が栽培されます。
江戸時代末期には中国に逆輸出され、中国人を驚かしてしまいます。
日本に家菊がやってきて1000年の時間を経て、栽培種は大変な進化を遂げていたのでした。
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     本牧三渓園の菊花展のメイン会場。
     明日の品評に向けて準備が忙しく進み,出展者の緊張感が漲っていました。
 
今では、西洋種も含めて多種多様な菊が栽培され、生活を潤してくれています。
菊を仏前花にしてしまったのは西洋の習慣でしょう。
様々な民族、文化が入り混じって菊を育ててきたのは、交配の容易性も影響した事でしょう。
 
栽培種、古典菊が集められ、品評会の準備が進んでいます。
その傍らで、野生の野紺菊が楚々と咲いています。
やはり、野菊は良いもんだ・・・・、思います。
 
  心あてに折らばやをらむ初霜のおき惑わせる白菊の花 (凡河内躬恒-百人一首)
 
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   手前が自生している野紺菊、向うが菊花展の会場。
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     祖母が生存中は私の生花に家も菊花に囲まれていました。
     私は堆肥作りを任され、雨風が吹くと菊鉢を玄関や物置に運びました。
 
 
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懐かしい「洋館付き和風住宅」(根岸の柳下家)

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家内に誘われて、横浜根岸の「柳下家住宅」に出かけました。
場所は根岸丘陵の中腹にあります。
丘陵は八幡神社の森が茂っています。
柳下家を含んで一帯を「根岸なつかし公園」として綺麗に整備されています。
今日は雨ですので子供は居ませんが、ブランコと滑り台がある公園で、
近所の若いお母さんが子供の送り迎えしています。
「なんで?なつかし公園なのか?」
気にかかります。
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    柳下家住宅の全景。柳下家は明治からの銅鉄の金属卸業者(現代の金属商社)横浜港に近い根岸丘陵     に家を建てた。大正12年洋館を追加建築現在の屋敷になった。関東大震災にも横浜大空襲にもめげずに    残りました。平成8年横浜市に寄贈され、14年から一般公開されています。(無料)
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      裏山も含めて一帯が公園として整備されています。山は八幡神社の森に続いており市天然記念物に       指定されています。
 
少し、遠回りになりますが、柳下家住宅をご理解いただくために日本の近代の住宅を説明します。
 
幕府は日米修好通商条約(安政5年1858年)を結び、神奈川(横浜)を開港します。
関内地区を外国人の居留地にします。
外国人の住宅地として、山手地区を併せて居留地にしました。
同時に山手には、治安を理由に英仏両国には軍の進駐を認めました。
関内地区には擬似洋風建築が並び、山手地区にはベランダコロニアル建築(植民地住宅)が並びました。
日本各地から大工が横浜にやってきて、洋風建築を見学し、中には手伝いをして習熟しました。
彼等は地元に戻ると、学校や役場に「洋風建築」を実現しました。
佐久の「中込学校」松本の「開智学校」などがそれで、何れも「擬似洋風建物」でした。
本格的な洋風建築は明治10年代、コンドル(英国・東大建築)を迎えて、上野博物館(M13)鹿鳴館(M16)まで待つ事になりました。
 
 
山手の丘陵は南の根岸丘陵に続きます。
根岸には日本最初の競馬場も出来ました。
ベランダコロニアル建築や擬似洋風建築は根岸に連なってゆきました。
私達は山手の洋館巡りをしながら、何時しか根岸の「和風洋館」に足を向けます。
 
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    大正8年追加建築された二階建て洋館がシンボルです。南国風の棕櫚と、屋根は急勾配でスペイン瓦    が葺かれています。でも和風な切妻です。こうした洋館が時代の憧れであったと思われます。
    根岸の森を背景に高台に洋館が人目を引き付けた事でしょう。 
    この洋館は木製の柱を構造材にして外壁はレンガ風タイル貼り、室内側は白い漆喰壁になって     います。勿論靴を脱いで入ります。建築技術は和風が中心で、デザインが洋風です。
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     洋館二階の室内。大きなデスクがあって、数多くの伝票・帳票が整理し易いデザインです。
     真っ白い漆喰壁(和)がカーテン(洋)とマッチしています。明治維新から反省記して洋風意匠が日     本に浸透した成果でしょう。窓の外に和様の蔵(塩瓦に漆喰壁)が見下ろせます。
 
 
怒涛のごとく雪崩込んだ西洋文化でした。
半世紀が経つと西洋文化の消化も進みました。
社会は大正デモクラシー、民本主義が標榜されます。
文学界は白樺派(武者小路実篤等)、新思潮(芥川龍之介等)に加えて、
耽美派(谷崎潤一郎)等等、個性が開きます。
絵画の世界でも個性が目立ちます。
中村彝(ツネ)、村山槐多、岸田劉生等、が排出します。
「西洋に追いつけ!」とスタートした日本人が、清国、ロシアの大国を戦争で破り、
ようやく自信を取り戻し、日本人として、日本の文化に自信を確固にした時代だったのでしょう。
 
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客玄関。お客様は靴を脱いで上がります。玄関に始まり大半が和風生活を前提にしています。
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トイレも和風です。ガラス戸に繊細な格子戸が美しいのです。
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風呂は古い五右衛門風呂です。ヤジロベエキタハチ(東海道中膝栗毛)では下駄を履いて入ります。
鉄の鍋ですから、触れる事は出来ません。でも、モルタルで周囲を囲って、良く出来ています。
写真では写していませんが天井は組み入れ格天井で、窓も含めて仏式を感じます。
 
 
山の手の洋館も変化してきました。
基本的には書院作り(室町時代に始まる)であり、畳が敷かれて、縁側が囲んだ和風住宅でした。
でも、洋館を一間つけました。
中には洋館だけを二階建てにしてシンボルにしました。
もう、和洋折衷住宅とか擬似洋風住宅とか言われる事はありません。
「洋館付き和風住宅」が一般化しました。
政治に、社会に、文化に、日本人が自信に満ちていた時代でした。
「パックス大正時代」が急変してしまうのが「治安維持法」の施行でした。
日露戦争に敗れて、ロシア革命が勃発すると、日本中が「赤化」を怖れます。
戦争に転げ落ちる歴史が始まります。
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   芝生が張られた庭から洋館、客間棟を望む。右端は道具蔵。
 
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      客間から廊下を介して庭を見る。
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       客室前、庭石が続きます。竹のスノコの先は手水鉢があって、その下には水禽窟が設えて       あります。私も聞いて見ましたが・・・・、音が小さかったです。手水鉢の周囲は不如帰や女        郎花、秋草が茂っていました。
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    この家の主人柳下氏のライフスタイルは和様でした。趣味も古風でした。
    でも、ビジネスは商社のオーナーらしく、合理的でした。
    洋館の二階でビジネスを練って、1階の洋風応接まで商談もしました。
    和様住宅の一角に洋館を整備し、其処が自宅でビジネスに励みました。
    こんな”使い分け”に私達は慣れて来ました。 
 
1988年(昭和63年)宮崎駿監督は「となりのトトロ」を発表、大ヒットします。
主人公はお隣の森に住む「トトロ」ですが、脇役が「サツキ」と「メイ」の姉妹です。
二人の家は「洋館付き和風住宅」でした。
最も、日本人が自信を持っていた、懐かしい家でした。
この、柳下家住宅が明治村の「サツキとメイの家」よりもトトロに相応しい家でした。
そこで、「懐かし公園」のシンボルにしたのでしょう。
”懐かしい公園”それはトトロを懐かしむ意味でしょう。
 
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                   となりのトトロ「サツキとメイの家」。
                   (洋館付き和風住宅)が昭和世代の懐かしい家です。
 
どれ程に「洋館付き和風住宅」であるのか?
それは、写真に青字で説明しました。
 
 
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大日如来と蟷螂の「智拳印」

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先日(11月2日)一泊で友人と軽井沢から笠取峠に出かけました。
その折「馬取百観音」をこのブログに載せました。
                 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/28490944.html
すると、友人から駄作と謙遜されながら、6句寄せられました。発句は
 秋深し天を区切るや浅間山 で、最後は 
 柿と酒信濃にありて恋心   でした。
 
茂田井宿のつくり酒屋に行き、求めた冷酒を戴きました。
”恋心”が連作の最後でした。
若山牧水の事なのか・・・、友人や私の青春の一ページを想いだしたのか?
様々な想像が交錯します。
石仏の句が二句ありました。
 信濃路や辻のわかれの石ほとけ
 蟷螂の斧定まりて印結ぶ
 
”蟷螂の印”と言った表現が言い得て妙だな、感心して今日は書いてみます。
 
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               信濃路や辻のわかれの石ほとけ
               中山道の姫街道路傍に佇む馬頭観音像 背景が浅間山                             
 
俳句を寄せてくれた友人の生家は茅野市から霧ケ峰に向かう街道沿いにありました。
学校は名門の諏訪清涼高校ですから、朝晩の通学は大変だったでしょう。
生家の近くには尖石遺跡がありました。
学校の近くには諏訪大社があって、有名な「万治の石仏」がドンと座っておいででした。
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                     諏訪大社・春宮の万治の石仏。万治3年(1660)作
                      http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45186815.html で書きました。
 
諏訪大社文化圏と言ったものがあります。
鎌倉にも諏訪神社は数多くあります。
玉縄城の天守閣は「諏訪壇」と呼ばれ、諏訪の神が祭られています。
奈良、京都の中央に比べて異質な地方文化圏が諏訪湖や諏訪大社を核に主として東に展開していました。
私が興味を持っている道祖神や庚申塔は諏訪文化圏に沿って展開しています。
尖り石遺跡から出土した「縄文ビーナス」の豊かなボディーを見ると、
諏訪文化圏の核は縄文文化で、多産・豊穣の神々であったと推測しています。
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諏訪大社の万治の石仏は阿弥陀定印を結んでいます。
また、肩から腰にかけて「南無阿弥陀仏」と刻まれています。
ですから、阿弥陀如来である・・・、といわれる事に異を挟む余地はありません。
この石仏を刻ませた願主として「明誉」「心誉」の名前が刻まれています。
この2人は「念仏遊行の聖」だったのでしょう。
だから、阿弥陀如来を刻ませた。
でも、刻んだ石工は・・・・・、どう考えていたでしょうか?
 
石工は「縄文ビーナス」と同じような”豊穣への祈り”で、石仏を彫りました。
石工には仏像の決まり事(儀規)の知識はありませんでした。
「宇宙の中心にある豊穣の神仏」を形にしたい・・・、思いました。
それを、一般に大日如来と呼ばれました。
胎蔵界大日如来(法界定印を結ぶ瞑想している大日如来)を髣髴させる石仏になりました。
それは、縄文ビーナスの流れにあるものでした。
石仏の体に造立年代、万治3年と刻みました。
そこで、一般に「万治の石仏」と呼ばれ、人々に崇められて来ました。
万治は石工の名前ではありません。
 
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       望月の万治の石仏(万治2年1659)作。筆者は石工を春日大社の万治の石仏と同一人と考えます。
 
万治の石工は諏訪宿から江戸方、望月宿に呼ばれました。
宿外れ、川の淵の天神社に石仏を彫って欲しい、注文でした。
宿場は天神社の下に広がります。
此処は宿場にとっては水源に位置しています。
水は命の源です。
金剛界大日如来が相応しい、思いました。
 
自然界を見詰めれば陰と陽、静と動二つが交互に出現します。
命は雌雄が交わる事で生まれます。
お米も子孫も交わらなければ生まれません。
一切の生命は先ず大日如来に胎蔵される(胎蔵界)と考えます。
諏訪大社の大石仏の姿です。
 
でも瞑想しているだけでは何にも有難味がありません。
慈悲の心は行動して貰わないと困ります。
行動する大日如来が金剛界大日如来になります。
金剛界大日如来の指の形は忍者が活躍する瞬間の姿です。
左手の人指し指を右手の掌が包む、忍者の印(智拳印)を結びます。
深い瞑想の後、実際に行動に移します。
脚を組んで、丹田に気を集中して、一気加勢に行動します。
両眼はカット見開いて、肩には力が入ります。
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     望月の万治の石仏。首から上と体・台座の二部に分かれて彫られています。
     台座には願主の名前が肩には彫られた年や願文と思われる文字が刻まれています。
 
 
私達は塩名田宿の外れにある、大日如来を訪れました。
望月は馬の産地、育った馬を塩名田の馬市に出します。
塩名田は千曲川と中山道が交差する市場町でもありました。
目指す大日如来は田圃の中にあります。
 
この辺りの田圃は『五郎兵衛新田』と呼ばれ、江戸時代に開墾されたものでした。
そんな努力を見届けるように大日如来は座っています。
浅間山が大日如来の光背の様に広がっています。
”此処にも万治の石仏があった”一瞬そう思いますが、
台座には明和8年辛卯(1771)と刻まれています。
望月の万治の大日如来より100年も遅れて刻まれました。
 
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    塩名田宿の望月寄り、ごろべえ新田の中に建立された大日如来。此方も金剛界大日です。
    前記大日より100年後の作ですが、強い影響を受けています。
 
万治の石仏のインパクトを受けて塩名田の石仏は刻まれました。
二周りほど大きくしたものの、四角い体、楕円のお顔、丸く見開いた目、太い百姓の指で結んだ印・・・・、
酷似しています。石材も同じ濃い灰色の安山岩です。
 
石段に蛇の抜け殻がありました。
縞蛇でしょう。
温い石の上で殻を脱いだのでした。
大胆な事です。
脱皮するときが一番危険なのに・・・・。
天敵の猛禽類も居なくなったからかも知れません。
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    石仏の石段に残された縞蛇の抜け殻。弁天様のお使いと信じられ、お財布にいれたものですが。
 
突然の私たちの足音に驚いて沢山虫が飛んで逃げます。
大きな蟷螂が飛び出して、大日如来の体に乗り移りました。
そして、上へ上へと登ってゆきます。
最後は大日如来の頭の天辺に登りました。
そして、これからどうしようか・・・・・、躊躇しています。
此処では、産卵できないし、適当な梢が無いかしら・・・、探しているようです。
草原の縁には芭蕉の句碑があって、その後ろは垣根が植わっている・・・・、其処まで飛ぼうか、歩こうか?
思案中にも見えます。
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  蟷螂の斧定まりて印結ぶ   大日様の頭に登った蟷螂
 
蟷螂には天敵が沢山います。
冬鳥も大挙来ています。
大日様の頭の上に長居しては命が危ない・・・・、
百舌に見つかったら、お陀仏です。
 
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             塩名田の大日如来は五郎兵衛新田の守り神のような位置に祭られています。
 
仏教の要諦に「煩悩即菩提」と言う言葉があります。
お釈迦様の教えは”煩悩を滅却して仏(菩提)になられる”・・・、教えでした。
人間の煩悩は108もあると聞きます。
ひとつ、ひとつ減らして・・・・ゼロにしたら、仏になれるのでしょう。
ゼロはインド人の発見で、お釈迦様の教えでもあったのかもしれません。
 
でも、日本に伝わるとお釈迦様の教えは変質してしまいます。
煩悩と菩提とは事象の裏表で分けることが出来ない・・・・、と考えました。
人間が、お百姓が生きてゆく限り、殺生をしなくては餓死してしまいます。
セックスしなければ子孫は絶えてしまいます。
「煩悩と悟りは分けられない、宇宙の裏表だ」そんな教えに変わってしまいます。
 
大日如来に二つの世界があるのも・・・・・、お百姓が金剛界大日如来を身近に考えたのも、
こうした考え方のお陰でしょう。
 
友人が蟷螂のポーズと智拳印を結んだ大日様を見て句作しました。
そして、私に話しかけます。
「この辺りは大日如来が多いんですね?」
私は、何気なしに応えます。
「此処は真田の忍者の里だからじゃないかな?」
言ってから・・・・・・、本当かな?自問自答します。
「やっぱり、尖り石の縄文ビーナスの里だからかな?」
後者のほうが少しだけ正解かな?
でも20点(百点満点)位でしょう。
 
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                   ハイ、大蟷螂のお決まりの「定印」ポーズが決まりました。
                   この格好から瞬時に鎌を伸ばして獲物をゲットします。云わば「蟷螂の智拳印」です。
 
 
 
 
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江ノ島「岩屋洞窟」の石仏達

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江ノ島・鎌倉は古代の道「東海道」にありました。
従って、鎌倉幕府の開府前から由緒ある寺や神社がありました。
源頼朝は東海道の西端に京の都があるのなら、東海道の東に武士の都を作る事にしました。
其処は、源氏温故の武士も、平家一党の武士団も割拠していまいした。
源氏も平家も古代の遺風(公地公民の制度等)を覆しながら勢力を伸ばしていました。
”武士の都を創設する”事には源氏にも平家にも共通する”喜び”でありました。
 
鎌倉の西の外れに江ノ島がありました。
古代から寺社が集積していました。
鎌倉時代、江ノ島に参篭する人の宿坊として「岩本坊」が建立されました。
岩本坊に草履を脱いで、先ず江ノ島弁才天を詣で、更に「岩屋巡り」をしました。
そして、翌日は向かいの片瀬の山から藤沢山の寺や神社を巡りました。
 
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    前身を岩本坊に始まる江ノ島の岩本楼。江ノ島の歴史と共に約800年の歴史を刻んでいます。
 
伊豆の北条一族は源頼朝の外祖父として伊豆から鎌倉に拠点を移します。
新参者の北条ですから、其処此処の神社に詣でます。
江ノ島の弁財天を詣で、奥津宮から岩屋に入ります。
岩屋の最深部に弁天宮が祀られています。
其処には竜神が棲んでいる、信じられていました。
北条時頼の眼にピカッと光るものが映りました。
近づいてみると、鱗でした。
蛇の鱗か、魚の鱗か、三枚の鱗を拾い上げます。
「これは竜神の鱗だ!」確信します。
以来、北条氏は「ミツウロコ」を家紋にします。
「我が一族は江ノ島弁才天の竜神に加護されている!」・・・・と標榜します。
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                           北条家紋「三つ鱗紋」
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   江ノ島洞窟「岩屋巡り」の奥にある、龍神の祠。
 
 
ところで、江ノ島の洞窟「岩屋」を説明しておきましょう。
相模湾の外洋に向いて、大きな洞窟が二つあります。
一つは152メートル、もう一つが112メートル、海の波が浸食して出来た洞窟です。
大波が江ノ島の断崖絶壁に打ち寄せます。
すると、少し岩盤の弱い所が崩されて凹みます。
其処に更に波が打ち寄せ、崩れた岩が岩盤に激突して凹みは洞窟に伸びたものでしょう。
 
古代の人は、この岩屋に入りました。
神秘性を感じました。
此処こそ、竜神の棲家であり、確信しました。
そして弁財天を祀りました。
 
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    岩屋巡りはこの「奥津宮」の左背後、断崖の下が入り口です。
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  「岩屋巡り」の入り口は「稚児ヶ淵」、鎌倉相承院の稚児白菊がこの淵に投身したことに由来してこの名が付   きました。関東大震災で1m隆起したので、格好の釣り場になっています。
 
 
宿坊「岩本坊」は商売上手でした。
江戸時代になって、江ノ島には沢山の遊山客が訪れるようになります。
江戸から江ノ島詣での旅行が大流行したのでした。
鳥居の周囲には遊郭が出来ました。
岩本坊も名前を岩本院に変え、更に「岩本楼」に名を変えました。
もう、看板も吉原の遊郭と変わりません。
 
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                                                     岩屋の入り口
 
お客は岩本楼に宿を取って、風呂を浴びます。
江戸からの旅の疲れを風呂で流そう、とします。
「洞窟風呂」が待ってくれています。
江ノ島詣での目標「岩屋の弁財天」を思わす、洞窟風呂でした。
浮世風呂(式亭三馬)がヒットしたように、江戸町民の風呂好きが嵩じていました。
でも、露天風呂には驚きでした。まして、「岩屋の洞窟風呂」など驚嘆しました。
 
勿論、江戸時代は男女混浴です。
岩屋の奥に生きたお弁天様を拝んだ・・・・、なんていった助平親父が沢山居た事でしょう。
 
岩本楼では岩本坊時代からの江ノ島の歴史文物を展示もしました。
更に歌舞伎で「弁天小僧」が大ヒットします。
旅人は、江ノ島で沢山の土産話を仕込みました。
 
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   天然の洞窟に弁天様を祀り、随所に石仏を配置し、「岩屋巡り」を案内しています。江戸時代には人気で安   藤広重も浮世絵で案内しています。平成7年、洞窟内を整備して再ど公開しています。(500円)
   私達は蝋燭の炎を片手に、恐る恐る石仏を見て廻ります。
 
人間は洞窟に強い”思い”を抱いています。
それは、自分自身の出生の記憶があるからでしょうか?
それとも、先史時代洞窟に篭って、暗い夜を過したからでしょうか?
それらもあると思いますが、何より近世になってこう考えるようになったからでしょう。
 
古代の庶民の葬儀は・・・・、基本的には「野棄葬/のすてそう」でした。
死ねば、近くの山に埋められました。
特に葬儀が行われた訳ではありませんでした。
 
行基菩薩が出現、仏教による「火葬」が行われます。
火葬場は奈良の高円山辺りにあったと思われます。
京都に都が移ると、火葬の場は鳥辺山周辺に出来ます。
在来の寺院(法隆寺や興福寺など)は財源がありましたから、葬儀には無関係でしたが、
新興の寺院は財源がありません。
そこで、火葬に財源を求めます。
 
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  洞窟の左右には石仏が迎えてくれます。洞窟は「地獄への細道」と思われたのでした。でも、地蔵菩薩は一   体で、様々仏が混在しているのが特徴です。左は弘法大師像。
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                 左から「毘沙門天」「馬頭観音」「愛染明王」像、何れも怖い仏像です。
 
葬儀を執り行うには・・・・・・、葬儀を盛大に行い(お金を落とさせる)、死後の世界を説きます。
法然や親鸞道元等の始祖がどう説いたか、関係なく新興寺院や教団は「葬式仏教」に変質してゆきます。
そうした中から・・・・、各宗同じような説法をします。
 
「死んだら・・・・魂は何処に行くのか?
死後の世界は地中の奥深くにあります。
神話で説かれた黄泉(ヨミ)は実は地中の奥深く、洞窟の向うに広がる死後の世界の事である。
其処を仏教では地獄と呼ぶのだ。
長い、長いトンネルを潜って、その先に三途の川があって、閻魔様が居られて・・・。
生前の行為の審判を受ける。」
そんな説法でした。
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                                    不動明王
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                                                     馬頭観音
 
庶民はお坊さんのこんな説法を聞いて、身近な所にある地下への通路を想い浮かべました。
身近な洞窟がきっと「地獄への細道であろう」イメージしました。
 
お坊さんは言葉を続けます。
地獄から抜け出す為には・・・・、立派な法要を営み、
遺族が年忌供養(追善)を行なわなければならない、と説かれました。
 
庶民は頷きながらも、本当かな?思いました。
そして、「地獄を一度は見てみたいものだ」、思います。
怖いもの見たさに地獄への通路「洞窟」に行きたい、と思いました。
 
そこで、江戸時代、各地に洞窟が掘られ、その壁面に様々な仏像が祀られました。
鎌倉にも長谷寺や田谷に洞窟が掘られて、壁面には仏像が彫られました。
 
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                         弁財天
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                     十一面千手観音
 
庶民は、蝋燭の炎に照らされた仏像を拝みました。
お寺に行けば十王図や閻魔様を見る事が出来ました。
また、念仏宗の信者の「生き返り譚」を聞きました。
自分は一度死んだんだ、長い長い洞窟を地底に向けて歩いてゆきました。
そうしたら、急に開けて、川が流れていました。
川の向うには様々な地獄が待ち受けていました。
自分が何処の地獄に行くのか・・・・・、それには閻魔大王の裁きを受けなければなりませんでした。
「南無阿弥陀仏」10回声を上げて唱えました。
そうしたら、自分自身は布団の上に居たのです。
そんな信仰を皆が共有していました。
 
江ノ島「岩屋」の石仏は多分何れも江戸時代の作でしょう。
東海道の戸塚から、藤沢から江ノ島道の道標が数多く並んで、江ノ島に人々を導きました。
そして、江ノ島ではあの手、この手でインパクトのある誘客手段を講じました。
その一つが「地獄への細道」である「岩屋道」であったと思います。
それは、日本人の民俗信仰の奥深くに根ざしてゆきました。
 
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   一番多いのは巳像。白蛇は弁天様のお使いだから。
   同時に弁財(財産をなす)を導いてくれるから、江ノ島詣での目的であったのでしょう。
 
 
 
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農夫とエンゼルトランペット

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町にエンゼルトランペットの花が目立つようになってきました。
10月のはじめには咲き出していましたが、花が少ない季節、気になります。
エンゼルトランペットとは園芸種の名前だそうで、正しくはDatura(ダツラ)木立朝鮮朝顔と言うのだそうです。
茄子科朝鮮朝顔属に分類されています。
朝鮮が原産地かと思えば、中南米やインドだそうです。
中南米とインドでは地球の裏表です。
まあ、熱帯地方が原産と言うことでしょう。
でも、庭植えされているのですから、耐寒性の園芸種が開発されて、近年目立つようになって来たのでしょう。
地球が温暖化したとはいえ、霜も降りれば氷も張ります。
茎を切り倒して、根株を藁で保温すれば、春になると新芽を出すのでしょう。
皇帝ダリアといい、エンゼルトランペットといい、冬が近づくと突然目に付きます。
でも、我が家の狭い庭には不向きのようです。
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   今日の話題はエンゼルトランペットの花です。撮影場所は横浜磯子の峰です。円海山の山麓にありました。
 
磯子の”峰”に阿弥陀寺があります。
峰と言う地名は円海山の事でしょう。
名門ゴルフ場「磯子カントリー」もあります。
多分、阿弥陀寺の山を開発してできたものでしょう。
サラリーマンの頃はゴルフに、今はお寺巡礼に峰を歩くようになりました。
”この道行き止まり”表示された道の奥にエンゼルトランペットの花が見えました。
オレンジ色の花に誘われて、小道に入ると、ピンク、純白のエンゼルの花が見えます。
小道の奥から農夫がネコ車を押して遣って来ます。
ネコ車には堆肥が積まれています。
これから、正月野菜を種蒔きするのでしょう。
この小道は農夫の家の私道のようです。
 
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   峰の阿弥陀寺、菊はお寺が栽培しています。
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                                          阿弥陀寺、産道の子安地蔵尊
 
「あんまり、エンゼルの花が見事なので、お宅に入ってしまいました」
挨拶しました。
「このおおらかな花が好きでね・・・・、畑の縁にあったのが、いつの間にか畑を占領してしまいました・・・。」
「夕方になると良い香りがするんですよ・・・・」
きっと農夫が一日畑作業に精を出して、疲れた体を癒してくれるのでしょう。
そう思うと、垂れ下がったように咲く花も納得します。
こんなに大きな朝顔が空に向いて咲いたら、見るだけで肩に力が入ってしまいそうです。
阿弥陀寺の梵鐘が峰に木霊して、農夫は家路をたどるのでしょう。
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                                      この道の奥に農夫の家があります。
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                    ガードレールに「この道は行き止まり」の案内が書かれています。
                    行き止まりの位置に農夫の家があります。
 
エンゼルトランペットを初めて見た時には、異様な感じがしました。
何時の間にか日本の風景に馴染む様になってきました。
俳句に読まれるには、名前を短くして貰わなくてはならいでしょうが・・・・。
矢張り「朝顔」と同じ秋と言う事でしょうか・・・。
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   畑を占領してしまったエンゼルトランペットの花。オレンジ、ピンク、純白の三種がありました。
   右奥に阿弥陀寺があります。
 
 
 
 
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舞岡公園の「汚染椎茸」

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我が家には椎茸の原木が2本あります。
2010年3月10日の夜明け、氷雨が降って、強い北風が吹きました。
鶴ヶ丘八幡宮の大銀杏が倒れてしまいました。
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それから、数日後舞岡公園の小林事務長から電話がかかってきました。
「公園内のクヌギを伐採したのだが、利用方法が無いか?」
と言うことであった。八幡様の銀杏を聞き、急遽公園の大木の対策を進めたのでした。
「廃木にしてしまうのは容易い、でも、活用してあげなくては申し訳ない」
それが、事務長の考えであった。
 
そこで、100本程の丸太を貰い受けることにした。
丸太を倉田小学校の校庭に持ち込み、椎茸の菌床を植え込んだ。
2メートルほどの丸太は体育用具倉庫の裏に持ち込んだ。
井桁に組んで、茣蓙をかぶせて置いた。
細くて短い丸太は、作業した仲間が家に持ち帰った。
我が家には2本、池の上に置いたママであった。
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              舞岡公園のクヌギを伐採して用意した椎茸の原木(2010年3月)
 
その椎茸の原木が二度の梅雨や秋の長雨を過ぎて、この11月初めて椎茸が生えたのだ。
今週はじめには、もう食べごろになた。
「食べようよ・・・、でも、もう少し眺めるとするか・・・・。」
旬を過ぎた気配も見えてきた。
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     舞岡公園の廃木を使った椎茸つくり、我が家では初めて芽を吹きました。今が食べ頃です。(11月3日)
 
 
10日朝、舞岡公園からファックスが入った。
公園のボランタリーが栽培し、販売した乾し椎茸から検出された放射能が2770Bq/kgだった、(横浜市衛生研究所)報告であった。
夜、NHK-TVで舞岡公園の草木灰から高濃度の放射能が検出された、報道されていた。
今朝(11日)の読売新聞によると公園のボランタリーが販売している「草木灰」から2651べクレム/1㎏(国の暫定基準値400ベクレム)が検出され、商品の回収を進めていると言う。
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   舞岡公園は戸塚区、港南区に跨った里山をそのまま保存した(開発を規制した)もの。大半がクヌギの雑木   林です。これを適度に伐採しないと環境を保存できません。枝木は炭や椎茸にして、枯葉は草木灰にしてボ   ランタリーが販売しています。売り上げは公園の維持管理費用に充当されます。ボランタリーを上手に活用   することが「運営の秘訣」です。
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   毎年11月23日に「舞岡公園収穫祭」が行われ、たくさんの人が集まります。餅つきがあって、古代米のおに   ぎりが出て、焼き芋を戴きます。写真の大根は沢庵になります。
   
「おやまあ!これじゃ倉田小学校にプレゼントした椎茸は給食で使うことも出来無そうだ。
でも、原発事故の1年前に椎茸菌を植え込んだのだから・・・・、あの椎茸原木は汚染されてはいない、と考えるのが順当だろう。我が家の椎茸も汚染されていないかもしれない」
いや、待てよ、舞岡公園の椎茸や草木灰が放射能汚染されているは、この付近一帯に放射能汚染されているのかもしれない。東戸塚小学校の放射能は度々測定され、排水溝辺りでさえ無視できる程度しか測定されていないと聞きます。と言うことは、少し高台に放射能が降って、汚染されたのかもしれない。」
 
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      舞岡公園には溜池が4つあります。翡翠をはじめ鴫が見られます。
 
どんな経緯で放射能汚染が発見されたのか・・・・、インターネットで確認してみた。
どうやら、「横浜ママパパの放射能だより」yokohama-konan.info/yokohamamap/maioka
が調べたようだ。
同会が舞岡公園で販売している乾し椎茸に高濃度の放射能を確認した。
同ニュースを東京新聞が10月4日、報道した。
乾し椎茸が汚れていたのなら、草木も、従って草木灰も怪しい・・・・、
調査が連関しているのだろう。
 
既に、足柄茶も狭山茶も汚染対策として、今春の出荷を停止している。
来年はどうなるのか?戦々恐々の有様であろう。
来年も検出されれば、廃業も覚悟しなくてはならないかもしれない。
原発事故、身近な問題であることに改めて知らされた。
 
でも、我が家の椎茸は、私の胃袋に収めてあげるつもりです。
せっかく、芽を出してくれたのですから、捨てるわけには行きません。
 
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   もう、食べ頃を逸してしまった椎茸(11月12日) でも明日にでも食べる積もりです。
 
 
【追記】
舞岡の里山から出てくる廃木や枯葉をゴミとして焼却場で廃棄する事は簡単です。でも、それでは資金も費消しますし、「自然循環」の摂理にも反します。公園が沢山のボランタリーの協力を得て、椎茸を作り、草木灰を作り、炭を作り、沢庵を作り・・・・、販売してその資金をまた運営に充当する・・・、そんな考えは「理」に適っています。そこに放射能が降っていた・・・・、そのリスクまで考えが及ばなかったまでのことでした。それを、横浜市が調べて対策を講じればこれほどニュースにはなりませんでした。民間の環境オンブズマンが最初に調べた・・・・のでした。
この間、横浜市は学校など放射能弱者の施設を丁寧に調査し、市民に報告していました。
「まさか、自然豊かな舞岡公園に放射能が濃かったとは・・・!」驚いたことでしょう。
私は。当局に同情を禁じえません。横浜市の喫緊の課題は「少ない予算を効率的に配分し、財政の効率を上げる」事にあります。お金がふんだんにあれば全域調査する事も可能でしょう。
舞岡公園まで目が届かなかった・・・、当局は責められないと思います。
それよりも「廃棄草木を舞岡公園の域内で処理する」姿勢こそ尊いと思います
 
 
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公園のとかげ

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鎌倉中央公園に出かけました。
此処は、鎌倉の西部、山崎の里山を公園にしたもの。
昨日の舞岡公園と同じように、自然に触れて農作業をしたり、野鳥を観察したり、遊ぶ事が出来ます。
何処かの保育園児が、てんでに遊んでいました。
力シバの生えた草むらを走ります。
イナゴやバッタが驚いて飛び出します。
「大きな虫を捕まえた者がチャンピオン・・・・!」そんな遊びのようです。
若いお母さんが子供たちの姿を目で追います。
子供も、お母さんも、保母さんも眩しく見えます。
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     鎌倉中央公園の桂の林。もう葉が散って、良い香りがしています。
     味噌蔵の、お味噌が醗酵する香りです。この香りで桂の葉が土に戻っているのだと思います。
     桂の林には沢山の野鳥が集まります。
     今は四十雀や山雀(やまがら)が集まります。樹下で野鳥を見上げる時間は至福です。
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                       力シバの草むらで、バッタを探す保育園児たち。
 
保育園児が3人、一斉に駆け出しました。
どうも、大物を見つけたようです。
子供達の先を何かが逃げてゆきます。
追いかけること、5メートル、
「捕まえた!」
自慢げに坊主が目の先に獲物を差し出します。
お母さんが、歓声を上げます。
見れば、茶色いトカゲです。
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      トカゲを捕まえてお母さんに見せる坊主。目が輝いていました。
 
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     普通トカゲは窮地に陥ると尾っぽを切って逃げます。でもその時間も無かったのでしょう、捕まってしま      いました。でも、この後、草むらに放たれました。
 
 
私は、
「僕、すごいね。これはトカゲの仲間で、カナヘビっていう名だよ・・・・。
草むらにいてコオロギなんかを探して食べてるんだよ。歯があるだろう、これでかむんだ。大きくしたら恐竜だろう。僕、すごいな、怖くなかったの?」
「ちっとも、怖くなんか無いよ!」
坊主はつまんだ指に力を入れます。
カナヘビは大きく口を開けました。
ギザギザの歯が姿を見せます。
お母さんが声を発します。
「怖いね・・・、恐竜だね、これは!」
図鑑で見るのも勉強になります。
でも、野外で見るほうが遥かに面白いものです。
 
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    刈り終えた田圃に入って、実習をする高校生。
 
 
棚田はもう稲刈りを終えて、
刈り跡からは、新しい稲の芽が出ています。
草木は枯れ始めているのに、田んぼだけが黄緑色で新鮮です。
高校生が棚田に入っています。
引率の先生に聞けば、観察実習だそうです。
田圃の土を実感するのが目的なのか、それとも刈り後だから見つかる生物を観察するのか?
良くわかりません。
でも、観察しているよりは、遊んでいるようです。
 
里山は、年齢によらず、楽しい「遊び場」です。
 
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   上段の棚田は姫蒲が群生しています。
 
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                                        桂の梢の四十雀
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                                   バッタの夫婦
 
 
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大雄山の「花咲く里」

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箱根外輪山「明神ヶ岳」の中腹に大雄山最乗寺があります。
麓の大雄山鉄道の終点「大雄山駅」からまっすぐ参道が続いています。
その、仁王門の手前を右折、車もすれ違えない細道を約1キロ登ると、「花咲く里山」があります。
 
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    大雄山最乗寺仁王門、正面が参道、右手の小道を辿ると「花咲く里山」に続きます。
 
明神ヶ岳の山襞を渓流が流れ落ちます。
その山間に棚田を切り開いて、数戸の家が(集落総てが山崎さん)細々と農林業を営んでいたのでしょう。
「命を繋ぐ渓流は最乗寺から流れてくる」
それだけで、最乗寺にも、明神ヶ岳にも篤い信仰心が700年も前から脈々と受け継がれてきました。
でも、麓の開成町に比べたら、棚田は狭いし、収穫は細々として、貧乏村だった事でしょう。
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    「花咲く里山」の山崎家、棚田を作る石垣に蔓姫蕎麦の花が自生していました。
 
 
山崎さんは菊作りが趣味でした。
今から約10年も前、ドーム菊を育てていました。
小菊を東京ドームのように丸く育てて、無数の花を咲かせる・・・・、そんな菊でした。
大菊や古典菊に比べれば、育てるのは容易ですし、病虫害にも強い性質がありました。
そして何よりも沢山の花が一斉に咲いた姿が見栄えがしました。
一つ一つの花は小さくても、一斉に丸く咲いた姿は見栄えがしました。
マンションのベランダにも、瀟洒な戸建住宅の狭い庭にも、季節を届けてくれました。
都会の園芸店でドーム菊の鉢は人気で良く売れました。
 
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  山崎さんは10年前棚田を菊畑に転作しました。
  菊田の奥には売店を設置して菊苗の販売、甘酒のサービスをしています。
 
そこで、山崎さんは棚田をドーム菊作りに転作しました。
そして、最乗寺仁王門の前に「右折、花咲く里山」の看板を立てました。
そしてドーム菊の名を改め「笊菊」としました。
農作業で使う竹製の笊(ザル)を伏せた形に似ていたからです。
最乗寺の土産物店で売られる笊を夜なべして編みます。
笊を編む作業と笊菊を育てる作業は何処かで似ていたからでした。
 
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     売店で熱い甘酒を飲みながら様々な花を観賞できます。
     皇帝ダリアやエンゼルトランペットが笊菊に花を添えていました。
 
山崎さんは7年前、笊菊の販売を始めました。
笊菊作りに転作した田圃の脇に売店を作って甘酒も販売し始めました。
口コミで人も多く集まるようになりました。
50年前、戯れに植えた枝垂れ桜も艶やかな花を咲かせるようになりました。
そこで、収穫を終えた棚田に水菜を植えました。
冬には水菜を採って販売しました。
桜の季節には菜の花畑になりました。
そして、桜の足元を黄色く飾ってくれました。
 
土手には石楠花を植えました。
皇帝ダリアもエンゼルトランペットも植えました。
季節が巡れば次々に花を咲かせてくれました。
 
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    田圃の野菜は水菜、手前が皇帝ダリアの花、奥に山崎家の笊菊が見えます。
 
都会の庭先で咲く皇帝ダリアもエンゼルトランペットも見慣れていました。
でも、里山に咲く花は別の顔を見せてくれました。
遠く離れた熱帯の花も、明神ヶ岳の里山に似合うものでした。
 
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    「花咲く里山」は明神ヶ岳を越えて来たハイカーの通り道になっています。緑の垣根は石楠花です。
 
明神ヶ岳を越えて来たハイカーは最乗寺を目指して山を降りてきます。
そして、「花咲く里山」を通って麓の駅まで歩きます。
棚田に咲いた笊菊を見て、「桃源郷」を思い起こします。
桃の花が綺麗だから桃源郷なのでしょう。
でも、桃源郷とはこの世にある理想郷の事です。
菊であっても桃源郷です。
 
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 穏やかで静かな里山です。加えて四季折々花が咲き続ける里山です。
 誰でも、こんなところが好きでしょう。
 
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   棚田の石垣には蔓姫蕎麦の花が自生しています。
 
 
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チョーク絵で、生徒へのメッセージ(川澄先生)

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昭和30年代、足柄山の麓の中学校です。
Aさんはニキビが出始めた女学生です。
毎朝、町の学校に登校する時、楽しみがありました。
それは、校舎のはずれ、部室棟のある渡り廊下の端にある「黒板」を見る事でした。
そこは各部の連絡掲示板でした。
「テニス部は小田原中学校と対抗戦を行います!応援を頼む!」
なんて書かれていました。
 
掲示板は古い黒板でした。
大抵は何も書かれていませんでした。
ところが、川澄暹(かわすみ・のぼる)先生がチョーク絵を描いて、短なメッセージが添えるようになりました。
それは、「皆さん、おはようございます。今日も○○に過ごしましょう・・・・」
そんな呼びかけでした。
純情で敏感な中学生には、先生のメッセージが大地に降った雨のように、吸収されました。
今日は、そのメッセージ黒板を紹介します。
 
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                                         青麦
 
この朝は、真っ青な小麦が描かれていました。
霜柱の立つ冬に芽吹いた小麦でした。麦踏されて育ちました。
そして4月になって、青い穂を見せ始めました。
一本一本、スックと伸びて、春の日差しに向けて伸びていました。
Aさんは青い麦の逞しさや美しさに気付いていました。
でも、川澄先生のメッセージを見て、気付きました。
私は、サッカー部の少年に恋心を抱いている事を・・・・。
青麦を見る私の胸のときめきは、
サッカー少年を見る時と変わりませんでした。
 
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                                       朝顔
川澄先生がチョーク絵を描き始めたのは、一寸した戯れからでした。
先生は何も書かれていない掲示板が寂しそうに見えたのでした。
そして、その朝は沢山の花をつけた朝顔が実に綺麗で生き生きしている・・・、思いました。
その感動を生徒たちに伝えたい、思ったからでした。
 
生徒たちと同じ、さわやかな朝の空気を一杯吸い込んで、大地から精一杯水分を吸い上げて、
その勢いで薄い花びらをパラソルのように張るのです。
でも、精一杯は長くは続けられません。
朝の間だけです。
朝顔は「朝だけに咲く」から朝顔なのです。
生徒は、上手な先生のチョーク絵に見入りました。
そして、そのメッセージに「その通りだ!」共感しました。
沢山の生徒が黒板を見つめているのを確認しました。
それから、毎朝のように掲示板にメッセージを描きました。
 
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                                     露草
 
学校への通学路にも、田圃の畦道にも真っ青な小さな花が咲いています。
何処にでも咲く雑草でありました。
その名を「露草」と呼ぶのも、Aさんは知っていました。
それは、朝露が似合う花なのだな・・・、露が上がったら萎れてしまう花である事も知っていました。
青い花弁を摘んで、絞るとブルーのインクが出来ました。
小さな時には、インクを絞って遊びました。
 
そんな、他愛の無い露草の花に託して万葉の人が恋心を打ち明けた事は知りませんでした。
1200年も昔の名も無い人が、「私の貴方への恋心は、まるで露草のようです・・・・」
奉げたのでした。
 
歌を戴いた女性はきっと田舎娘で、露草のようだった事でしょう。
朝露に輝く、素朴な美しさに満ちた村娘だった事でしょう。
若しかしたら、私も露草に似てるかもね・・・・?
思ったりしました。
万葉集の時代も、自分の時代も、人間の恋心は変わらないんだ・・・、教わりました。
 
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                                                           原爆ドーム
今日は、8月6日、学校は休みですが、クラブ活動は有ります。
川澄先生のメッセージボードには、広島の原爆ドームが描かれていました。
そして峠三吉の詩「人間をかえせ!」が書かれていました。
Aさんは「人間をかえせ!」詩を始めて読みました。
 
この日は原爆が投下された日で、広島で式典が開かれ、全国各地で黙祷される事も承知していました。
でも既に年中行事化して、原爆への怒りは風化していることも感じていました。
 
「怒り」「悲しみ」を風化させてはいけないんだ・・・・、先生のボードから教わりました。
 
原爆ドームの横を大田川がゆったり流れています。
川の彼方には復興された広島の市街地も描かれています。
でも、この川が死体で埋まった記憶も褪せさせてはいけないんだ・・・、思いました。
 
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                                                  タンポポの綿毛
私は、酒匂川の土手に出て、タンポポの綿毛で遊びます。
綿毛は川風に乗って、宙を彷徨うように飛んでゆきます。
 
実は、私のハートも綿毛に乗って彷徨っているんです。
私は、自分で言うのも妙ですが、か細くて、移ろいやすい、乙女なんです。
自分で自分が分からない事が度々有ります。
「どうすれば良いんだろう?」
「どう、なってしまうのかな?」
思うと、綿毛を飛ばして遊びます。
 
私には恋人は居ません。
でも、恋したい自分が居る事は知っています。
私のハートは今日もタンポポの綿毛に乗って、風のまにまに、ただよってゆくんです。
若しかしたら、綿毛は未だ見ぬ恋人に届くかも知れない・・・、思っています。
 
でも、川澄先生は親爺のくせにして、
私の心を知り抜いているようで、気持ち悪いんです。
 
川澄先生はもう7年も前に学校を退職して、今は瀬戸屋敷(開成町)の館長をしておいでです。
だから、先生に会いたいと思えば何時でも瀬戸屋敷に行けば良いのです。
先生のチョーク絵も瀬戸屋敷の蔵を使ったギャラリーで見る事が出来ます。
 
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チョーク絵は長くもちません。
絵の具が黒板に定着し難いからです。
でも、メッセージの強い絵ですから、油絵の具で描いたら良いのに・・・、おもったりします。
 
先生は言われるでしょう。
乙女だった貴方も、今ではお母さん、あの時の姿は消えてしまいました。
消えるから尊い事もあるし、
消えるからこそ、長く伝えたい事もある・・・・。
 
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      川澄先生のメッセージ「チョーク絵の始まり」
 
私は、思い出しました。
チベットのお坊さんが描く曼荼羅絵を。
お坊さんが宝石を砕いて岩絵の具を作ります。
岩絵の具は宝石の砂です。
砂を漏斗に入れて、漏斗の細い先から砂を落として絵を描きます。
絵には沢山の仏像が描かれます。
数ヶ月をかけて曼荼羅が出来ます。
美しい曼荼羅に人々は歓声を上げます。
そして、山に登って祈ります。
川辺に下りて祈祷します。
 
そして、曼荼羅絵は水に流されてしまいます。
宝石を砕いて描いた曼荼羅なのだから、上から樹脂を吹きかけて固定すれば、永遠に保存できるのに・・・・、
惜しいなあ、と思います。
でも、チョーク絵と同じ事なのでしょう。
 
曼荼羅絵を固定してしまえば、毎年同じ絵を見る事になります。
曼荼羅を描く技術や心は病んでしまいます。
毎年描いては流され、描いては流され・・・・、繰り返す事によって、大事な技術やハートが伝わるのでしょう。
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                                    チベットの曼荼羅(国立民族博物館HP)
 
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                 川澄先生が館長を務める開成町の瀬戸屋敷
                 川澄先生のチョーク絵は次に案内されています。ashigarart.jp/art/794.html
 
 
 
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難を転じる「サザエさん・道祖神」

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相模新編風土記によると、酒匂川とは汐が満ちると川が逆に流れる「逆さ川」による、と書かれています。
江戸時代後半(天保)にはそのように考えられていたのでしょう。
でも、漢字の通り「酒の香りが匂ってくる川」の方がロマンがあります。
 
小田原は日本橋から82㌔です。
普通の人は戸塚で一泊目、二日目は箱根山の麓で宿泊しました。
東海道最大の宿場町で賑わいました。
広重の東海道53次浮世絵には、手前に酒匂川、奥に箱根の峰峰を描いています。
川を見れば川越しの様子が描かれています。
大名駕籠は大高欄蓮台に乗せられて、十数人の人足に担がれています。
槍持ちの肩車に、武士は蓮台に・・・・、興味深い景色です。
この川は「酒匂川」、本当に酒が香るか舐めてみる侍も居た事でしょう。
 
東海道を下って息吹山が見えてきます。
峠を越えれば琵琶湖が見えます。
関が原を鈴鹿の方に折れれば「養老の滝」があります。
東海道の東西にお酒の名所が在っても良かったでしょう。
 
 
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酒匂川の中流域に開成町があります。
箱根外輪山、明神ヶ岳に降った雨が滝沢川をとなり、
「洒水(しゃすい)の滝」を下って、開成町で酒匂川に合流します。
町の歴史はその名の通り、治水と新田開発の繰り返しでありました。
大雨が降って大洪水になり、富士山の噴火で降った火山灰でも大災害を生じました。
酒匂川は恵みの川ですが、時に災難を生じさせました。
その時々に名主さんは大きな指導力を発揮しました。
何しろ此処は二宮尊徳の膝元ですから。
 
開成町の名主は瀬戸家でした。
その家は平成7年町に寄付されました。(町の重要文化財)
そして、四季折々町興し活動の拠点になっています。
初夏にはアジサイ祭り、そして秋には「玉手箱祭り」が行われます。
私は「何か良い事ありそうだな・・・・・、」期待して出かけました。(11月13日)
 
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  開成町の地域フェスティバル「秋の玉手箱」が行われました。
  メイン会場「瀬戸屋敷」で駐車場には様々な出店がなされていました
 
開成町は水が良くて、米所でもあります。
今も瀬戸家は造り酒屋を行っています。
瀬戸屋敷の庭先に巨大なお釜が陳列しました。
もう、使わなくなったお釜で、お米を蒸す為にお湯を沸かしたのでしょう。
叩いて見れば、乾いた音がします。
珍しいアルミの釜です。
東淀川の会社(明石製作所)が作ったもので、鉄製大釜より良かったのでしょう。
 
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             瀬戸酒造の使った大釜。これで湯を沸かし、釜の上に蒸篭を積んでお米を蒸した。
 
私は団子汁(先着1000名無料)を戴き、栗おこわで昼食にします。
この秋、最初で最後の栗おこわでありましょう。
味噌漬けの沢庵を食べろ・・・、と面倒見が良い事、
お茶まで注いでくれました。
もう少し、お金を落とさなくては「町興し」に協力した事になりません。
でも、右を向いても左を見ても、無料ばかりです。
 
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今日の昼食は栗おこわ(400円)団子汁は無料です。
 
今日は、岡野地区の道祖神を見て回る事にしました。
岡野の町内会館の横に「サザエさん」のような道祖神がある筈です。
ボランテイアの人に聞いてから出かけますが、道の説明は難しい・・・、とのこと
凡そ、あっちの方角で・・・・、目星は煙突とのこと・・・・、
まあ、石仏巡りはこんなものです。
 
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    町内会館の玄関よりに祀られた双体道祖神。南天の木の下です。
    町内のモットー「挨拶で始まる心と心のお付き合い」が共感を呼びます。
 
町内会館は狭いもの、掲示板がありました。
その玄関に南天の木があって、その根元に二体の双体道祖神が祀られていました。
その、右側の道祖神です。
双体ですから、右が男神、左が女神です。
女神が何処から見ても長谷川町子さんの「サザエさん」似なのです。
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                                         左の女神がサザエさん風で、楽しいのです。
 
 
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     瀬戸屋敷の入り口に双体道祖神が二基祀られています。後ろのテントはお祭りの出店
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                                   開成町の瀬戸屋敷
 
 
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保土ヶ谷・香象院の大釜

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お江戸日本橋を七つ(午前4時)に出発すると大半の人は戸塚宿で一泊目を迎えます。
でも、明けつ(午前8時)に発てば保土ヶ谷辺りで宿を取ることになったでしょう。
戸塚宿と保土ヶ谷宿の間には権太坂があります。
権太坂では行き倒れる旅人が多く、その遺体を谷間に投げ捨てたのだそうです。
追い剥ぎが出ない日中に越えたかった事でしょう。
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   権太坂の投げ込み塚。行き倒れの旅人が遺棄されました。
 
最近は横浜三宿(神奈川・保土ヶ谷・戸塚)をウォーキングする人が増えました。 
ウォーキング同好者のブログを見ると必ずと言って良いほど「保土ヶ谷・香象院の大釜」が記事になっています。
旧東海道に面して門前に二つの大きな鉄釜が据えられているのです。
「何のためにあるの?」みな不思議がっています。
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  マンションの合間にある香象院(真言宗)、
  旧東海道に面して大きな鉄釜が据えられています。
 
私は生家がお寺ですから凡そ検討がつきます。
でも、間違っていたら問題です。
そこでご住職に確認してみました。
その結果は以下の通りです。
この鉄釜は本堂に前に置かれた「天水桶/本堂の屋根に降った雨を溜めておき、火事が起きたとき消化に使う。」でありました。
戦時中には鐘は供出させられましたが、天水桶は若しもの時(火事や炊き出し)に使えると供出を免れました。
本堂の再建に当たって門前に持ち出しました。
その時、子供が大釜に嵌ったら事故になると危惧して、大きな蓋をつけました。 
蓋を載せた大釜がまるで「横川の峠の釜飯」のようなので、人気のようです。
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                   巨大な鉄釜、蓋をした姿が「峠の釜飯」のようです。
 
それで難問解決なのですが、これからが私の推測です。
最初からお寺の天水桶を作るのなら、高価な鉄は使いません。
鉄の釜であるのは、最初は違う目的が在った筈です。
何かの目的で作られた大釜が、当初の目的を果たしたので天水桶に転用されたのです。
 
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先ず考えられるのは「鰯を煮た釜」です。
保土ヶ谷宿からは浦賀道が分岐しています。
浦賀は鰯の商いで栄えていました。
東京湾や房総沖で揚げられた生の鰯は茹でで乾かします。
その時に使う鉄鍋と思われます。
干鰯(ほしか)が化学肥料に変わると、鉄鍋は用無しになりました。
そこで、お寺の天水桶にしました。
更に、お寺なら大震災の時の炊き出しに、お風呂に、種種役立つ事でしょう。
 
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  中山道茂田井宿「大澤酒造」の鉄釜。お米を蒸す「蒸篭」を乗せた。
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     同じ大澤酒造の鉄釜
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                                   足柄「瀬戸酒造」のアルミの大釜
 
もうひとつの可能性は醸造業者のお米を蒸す為の釜です。
お酒も味噌、醤油を作るにも糀(こうじ)作りが重要です。
糀は先ずお米を蒸す事から始まります。
その為の大釜であった可能性があります。
昔は何処の町にも味噌・醤油の醸造業者が居ました。
それが、大手資本に追いやられて、今は殆どが廃業してしまいました。
保土ヶ谷の醸造業者が廃業に際し、
大切にしたお釜をお寺に寄贈した・・・、そんな推測も成り立ちます。
 
 
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        五右衛門風呂、風呂の底に見える板を沈めて風呂に入ります。
        ホウロウ風呂は五右衛門風呂の進化形です。
 
五右衛門風呂は十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく)の東海道中膝栗毛で有名です。弥次郎兵衛、北八が小田原の宿で風呂の底を踏み抜いてしまいます。二人とも五右衛門風呂は浮き板を沈めてその上に腰を下ろす事を知らなかったのでした。
十返舎 一九の愛弟子五返舎半句は同じ保土ヶ谷の福聚寺に眠っています。
 
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   保土ヶ谷宿、呉服屋のシャッターに描かれた広重の浮世絵
 
五右衛門風呂は私の親戚も使っていた実に体が芯から温まる良い風呂です。
一説に拠ると朝鮮征伐の折に戦場で使ったお風呂だそうです。
考えてみれば、五右衛門風呂は戦後の「ドラム缶風呂」と同じようなものです。
非常時にも使われる風呂だったのでしょう。
五右衛門風呂の名は天下の義賊「石川五右衛門」によります。
彼ら一党が三条川原で釜で処刑されたのでした。
どうも、大釜の風呂は秀吉に縁があるようです。
 
香象院の鉄釜、何処にあったものなのか・・・、興味は尽きません。
でも、大切にする気持ちが尊いと思います。
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                             香象院の延命地蔵
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                     寺名の由縁の香象は密教に欠かせません。
 
 
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奈良井・伊勢屋が伝えてきたもの

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11月19日、屋根を打つ雨音に目が覚めました。
轟々と水音が響いてきます。
昨日までは好天に恵まれた木曽路の旅でしたが、今日は大雨のようです。
雨の宿場町も良いでしょう、
何より、紅葉も、石仏も晴天では見せない美しい表情を見せてくれます。
でも「傘が無いなあ・・・」心配事がよぎります。
 
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                                   雨の朝、奈良井宿。右が伊勢屋、番傘も伊勢屋です。
 
私の泊まった宿は木曽・奈良井の伊勢屋です。
 
木曽谷の民家は「板葺き石置き屋根」が特徴です。
材木だけがフンダンにある木曽ですから、屋根も平板で葺きます。
木曽谷を吹き抜ける強い風に飛ばされないように、軒の低い家にします。
屋根も家も吹き飛ばされないように屋根の上に川原に転がっている石を置きます。
 
街道にの左右に切妻を揃えた家が並びます。
家々は同じ高さで、地面に平たく伏せて、強風に耐えます。
どの家も、梁を街道に突き出して、その上に屋根裏部屋を設えます。
これを「出梁造り」と呼びます。
宿場の家が屋根の高さを揃えています。
その下の「雨樋/鼻隠板」の位置も、更にその下の出梁も揃っています。
宿場町はまるで絵画の「遠近法」の教科書のように、一直線に揃っています。
黒く細い格子、白い漆喰で作られた袖うだつも揃っていて、
きっと江戸時代の宿場の面影を留めているのでしょう。
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   切り妻の側面、低い屋根、雨樋を隠す板、出梁、そして道路面が揃っているので美しい奈良井の宿場。
   夕暮れ時です。
 
奈良井千件の家並みのほぼ真ん中に「御宿・伊勢屋」が在ります。
時計を見れば未だ明け方の5時過ぎ、外は真っ暗です。
でも、二度寝をすると不調になってしまいます。
 
私は起きだして、宿の番傘を持ち出して、外に出ました。
驚いた事に雨は強くありません。
あの雨音、水音は何だったのだろう?驚いてしまいます。
多分、家のい中にいると音が太鼓のように響くのでしょう。
民家はその土地の風土に最適な形になります。
宿場町全体が厳しい気候に耐えるように形成されると、結果的に最高に美しくなります。
その形は隣近所の連帯を強めます。
 
伊勢屋の屋号はこの祖先が伊勢商人だったからでしょう。
伊勢商人は近江商人に並ぶ商人でした。
大変に几帳面で、綿布の商いを得意にしていました。
筆頭は江戸に呉服屋「越後屋」を出店した三井高利でしょう。
財閥に成長します。
伊勢屋の祖先も同じ伊勢商人だったのでしょう。
同店の案内では文政元年(1818年)創業と伝えています。
脇本陣、下問屋を勤めており、現在の母屋は天保年間の建築、約160年を経ています。
伊勢屋の向かいが「越後屋」でした。
伊勢屋の分家かもしれません。
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            伊勢屋の屋根の梁組。二階の部屋から見えました。
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     伊勢屋の中央を土間(今はタイル張り)で左が馬屋、その向かいが下問屋の帳場、勝手が並んでいた。
     そして、二階(出梁の上・屋根裏)が旅人が寝た。典型的な「馬役宿」でありました。
     現代的な接客宿としては多少不便はあっても、伝統文化を伝えています。
 
私の部屋から廊下に出れば、屋根組の梁が見えます。
その下に、通路があって、右に大部屋、左に風呂場があります。
風呂場は馬屋があった所を改築したものです。
ですから、馬屋は二階の部屋からも、一階の帳場からも常に確認できます。
木曽は山の中、馬は大切な交通手段でした。
旅人は枕元に馬を繋いで旅をしたのでしょう。
 
 
 
私の仲間は17人、親爺に、おばサンの集団です。
共通するのは学生時代、日本文化の研究会に属し、今も変わらず興味を持っている仲間です。
既に定年を迎えたものの、未だ働いている人も過半です。
昨日は馬篭の「但馬屋」に宿泊しました。
宿に二度電話があり、部屋割りの希望を摺りあわせようとされます。
男性は「保存指定をされた伝統的建物」に宿泊できる事、
女性は快適と期待される新館にする事、後はお任せします・・・、伝えました。
「丁寧な事、几帳面な事」は伊勢商人の長所です。
 
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  お母様、せがれで経営する伊勢屋さん。丁寧で心温まるご接待を受けました。この写真は見送り風景。
  写真にお顔が出ているのは、伊勢屋のブログに私達17名も出ているkらです。伊勢屋は「奈良井・伊勢屋」で  検索すれば出てきます。
 
昭和47年生まれの店主は実に良い男でした。
178センチの長身で、ルックスも良し、身のこなしも旅館の主人、番頭、下働き、総てをテキパキこなしています。
「傘が無ければ、6軒隣の漆器やを開かせましょう」
朝8時、電話をかけて下さいました。
お母様も働き者です。
もう、腰も曲がり始めておいでですが・・・・・・、
「早く、嫁が来てくれたら・・・・、何も心配事は無くなるんじゃが・・・」
顔に書いてあるようです。
 
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   伊勢屋の二階からの景色。看板の下、3尺ほど出ている梁の上に二階が乗っています。
   これが出梁造りです。
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    夜の伊勢屋、障子越しの明かり、シルエットの格子が美しい。二階の8畳間3室が私達の部屋でした。
 
私達は、早速に番傘を普通の傘に代えて、早朝の奈良井宿を散策します。
昨日は人込みのあった宿場ですが、朝は静寂、人影も私達だけです。
紅葉の山に雲でかすんでいます。
カケスのにぎやかな鳴き声が響き渡っています。
私の足は昨日見た「マリア地蔵」に向かいます。
石仏は雨に濡れると、ひときわ美しいのです。
 
家の前にはペットボトルが置かれています。
ボトルの中には天麩羅油が入っています。
「これで車を走らせるのですか?」伺えば
「石鹸にするんですよ・・・、皆さんが使われたでしょう!」
と返事が返ってきます。
宿場を大切にする気持ちはエコ活動にもなります。
店先の菊の花ももう冬が近い事を教えてくれています。
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   各家が使い済みの天麩羅油を供出していました。木曽川を汚さない、資源を大事にする試みです。
 
奈良井の伝統的建物はしっかりと保存されています。
そして、旅人を快く迎えて、翌朝元気に旅立っていただこう・・・・、
そんな気持ちも変わらず伝えています。
伊勢屋さんの親子が揃って、旅立ちの私達を見送ってくれました。
その姿に、
日本人は変わらないなあ・・・・、いいもんだ!」
思います。
今朝の私達の目的は、宿場はずれの200地蔵です。
 
街道は人が通りました。
物資が運ばれました。
信仰をはじめ様々な文化が交錯しました。
変わらないもの、変わってはならないものが、街道の、宿屋のもてなしでしょう。
これを試みに「旅籠文化」とでも呼びましょうか?
伊勢屋さんのもてなしに感謝して、これを受けて私達は旅立ちました。
旅をする人も「旅籠文化」を継承する一員です。
 
 
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           NHKの朝の連ドラ「ひまわり」のロケが行われた(飴や)中村屋
 
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    奈良井の火の見櫓、手前のブリキ屋根だけが不調和でした。先ず、屋根の勾配が違います。
    加えてブリキ屋根が灰色です。(総て”茶”に統一されています)消防団の施設です。
    こうした事は批判されます。ヨーロッパの中世都市にはこんな公共施設はありえないことです。
 
 
 
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