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奈良井宿、マリアの面影(土着キリシタン)

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奈良井の宿伊勢屋さんに荷を置いて、早々に私達16名は宿場町を散策しました。
全員で先ず大宝寺に向かいマリア地蔵を拝観する事にして、それからは分散する事にしました。
 
大宝寺は表通りを山側(左手)に折れて、突き当たりにありました。
山門と本堂の間に拝観受付があります。
「拝観料100円」案内されていますが、お留守のようです。
庫裏に回っても人の気配が在りません。
そこで、マリア地蔵探しです。
裏山の奥、墓地の中に潜んでいれば、中々見つけられそうもありません。
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   奈良井宿の表通りから左、山裾に大宝寺があり、その墓地の本堂寄りに「マリア地蔵」が祀られています。
 
墓地の入り口にブロンズの水子地蔵、聖観音像が祀られています。
二体の間から山裾を見ると、小さな木のお堂があって、その中に子安地蔵が納まっておいでです。
マリア地蔵は今回の旅行の目的のひとつでしたから、拝む事が出来て嬉しくなります。
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                水子地蔵の右奥に見えるお堂にマリア地蔵は祀られています。
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                                                 マリア地蔵の全身像
残念な事にお地蔵さんのお顔、抱かれた乳児の顔、いずれも在りません。
明治の廃仏毀釈の騒動で、壊されたのでしょう。
そして、竹薮の中に捨てられてしまいました。
この、木曽谷の美しい奈良井でさえ、狂気が駆け巡ったのでした。
 
竹薮に埋もれていた子安地蔵が再び日の目を見たのは昭和7年でした。
草刈をしていた農夫が発見します。
掘り出してみたら、子安地蔵です。
お顔が無くても、袈裟を着ています。
乳児を抱いています。
子安地蔵に間違いありません。
でも、二箇所見慣れない所がありました。
袈裟の下に聖衣を着ています。
聖衣とはマリア様がキリストをお産みになられた時の衣装です。
そして、お膝の上に抱かれた赤子は・・・・、
蓮を一本お持ちです。
スッと伸びた茎の先端が十字架になっています。
その先に、花と蕾が付いています。
「変わった子安地蔵様だ!」
思いは誰しもが持ちました。
何時しか「マリア地蔵」さま、と呼ばれるようになりました。
 
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私は、夜、布団に横になって「マリア地蔵」を思い起こします。
この木曽谷には「隠れキリシタン」と呼ばれる石仏が何体も発見されているのです。
 
木曽町には「折畳マリア象」、大桑村の天長院にも子育て地蔵がマリア像である・・・、いわれています。
大桑村の妙覚寺にはマリア観音像は千手観音です、ただその左手に持った”鉾”の先端が十字架なのでした。
古典的な仏像には儀規と呼ばれる約束事が細々決められています。
石仏も仏像ですから儀規に従うのが普通ですが、地方によって様々に変化します。
加えて近世の石工自体が城郭建築に携わった職人でしたから、彼等は儀規に束縛されません。
彼等の創意工夫が加わりました。
 
 
 
織田信長は自身の領内で楽市楽座を実施します。
安土や長浜には沢山の商人が集まります。
信長は比叡山延暦寺をはじめ守旧の寺院は制しますが、基本的には信教の自由も保護します。
パードル(神父)も安土や長浜を拠点に、
北には東海道、東山道(近世の中山道)に足を伸ばし、布教に努めます。
美濃から木曽谷にかけてキリスト教信者が増えた事は想像できます。
 
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      路傍のお地蔵さん、合掌する指先を組ませれば「キリシタン地蔵」になるでしょう。(奈良井で)
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            馬頭観音(?)の左1手、鉾の先端を十字架にすれば「キリシタン観音」です。
            隠れキリシタンを探そう・・・、そんな思いで石仏を見れば随分発見できそうです。
 
島原の乱(1637年)を経験して、江戸幕府はキリシタン弾圧に乗り出します。
その役を寺院に任せます。
総ての住人の身元を寺に調査させ、寺の信者として確認させました。(宗門改め制度)
奈良井の寺も、村の全員を6つの寺院何れかに属させました。
そして、結婚から新生児の届け出、死亡など戸籍の管理を行わせました。
住人の中には、寺に無縁だった人も、パードルの教えを受けた者も居たでしょう。
 
仏教では両手の掌を合わせて”合掌”します。
パードルは神に祈る時両手の指を組ませました。
少しだけ違いましたが・・・・・、細かな仕草に拘る必要はありません。
6世代も7世代も引き継がれると、パードルの教えは木曽谷の土着の信仰に融合した事でしょう。
袈裟の下に聖衣を着せても、蓮の茎の先端を十字架にしても・・・・、子安地蔵に変わりありません。
まして、ローマ法王に認められた神父に接する事は全くありませんでした。
キリスト教は既に土着化し、十字架の上のキリストの教えは記憶の彼方に霞んでしまった事でしょう。
 
貧しい生活、苦しい日々の中で子供を失う事が多々ありました。
祖先が拝んだ事であろう、「キリストを抱いたマリア像」が数世代を超えて、
何時しか「賽の河原で赤子を抱き上げて下さるお地蔵様」に変換したのでしょう。
人々の悲しみを解ってくれたのが「マリア様の面影を残した子安地蔵」であったのでしょう。
 
これはもう「隠れキリシタン」というよりは「潜入キリシタン」とか「土着キリシタン」と呼ぶべきでしょう。
ベースは地蔵信仰であり、信仰の原点は「乳児を失った悲しみ」の救済でありましょう。
「パードルが盛んに木曽路を布教した」そんな十字架やマリアの記憶が、
数世代、数百年を超えて、石仏の小さな表現に残されたのでしょう。
 
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 大宝寺の垣根は「カラタチ」です。鋭い棘は野茨を凌ぎます。
 キリストの「茨の冠」を思わせます。
 
私は早朝に伊勢屋さんの番傘をさして再びマリア地蔵を詣でました。
お堂の中ですから地蔵様は濡れていません。
でも、しっとりしておいでです。
昨日より表情があります。
街道は人や荷を運ぶ道です。
それと同時に文化が交錯します。
そして、独特の地域文化を育んでくれます。
文化のフラスコのようなところです。
 
 
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奈良井200観音

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11月19日、昨夜来の雨で奈良井川は水嵩も増して、轟々と流れています。
奈良井の名前は「奈落の底」の意味だそうです。
西が鳥居峠、東が天照山にはさまれた谷間です。
午後にはつるべ落としに陽が沈みます。
朝には中々陽が差し込みません。
伊勢屋さんのブログでは、昨日(21日)は午前中降雪だったそうです。
生活するのは大変に厳しい宿場町だったのでしょう。
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    中山道奈良井宿、鳥居峠の茶屋には名物の「お六櫛」の看板があります。
    木曽御岳が目の前です。谷間の底(奈落)に奈良井の宿があります。渓斎英泉画
 
 
朝一番で鎮目神社に向かいました。
神社の先から山道で、その先が鳥居峠になります。
此処からの宿場の眺めが最高です。
40年も前に来た時には石置き屋根が眺められました。
今では、同じ低い勾配の屋根ですが、石が置かれていません。
トタンと言った新しい素材が出来たからです。
鎮目神社の脇には沢山の石仏が並んでいます。
庚申塔が目立ちます。
 
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   鎮目神社からの奈良井上町の眺め。
   置き屋根は手前左右に1軒あるだけで、大半がトタン屋根になってしまいました。
   右奥が奈良井下町でその先に八幡神社があって、その麓に200地蔵が祀られています。
 
 
宿場は上町・中町・下町の三区から構成されています。
上町と中町の中間には「鍵の手」と呼ばれる屈折路が設えてあります。
その脇には双体道祖神が置かれています。
これは、新しく観光の為置かれたようです。
安曇野スタイルの道祖神です。
そう、奈良井川は茶臼山を水源にし、梓川と合流します。
信濃川水系です。
道祖神は松本平文化圏なのでしょう。
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   奈良井川、太鼓橋は「木曽大橋」。奈良井の旧宿場町は右側、中央本線の西にあります。
   向こうの森が鎮目神社、その足元から鳥居峠への山道が始まります。
 
宿場の東に八幡神社があります。
その脇に200地蔵が祀られています。
私達は奈良井とのお別れに、この石仏を訪れる事にしました。
 
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早朝の奈良井宿下町(江戸方)、右端が伊勢屋さん、奥の店舗は伊勢屋の電話で開店をさせられた漆器やさん。店先に雨傘を出して私達の注文に応じてくれました。石仏は此処から1キロ程先にあります。
 
奈良井町の作成した案内では、
「鉄道や国道の敷設で奈良井周辺の石仏をこの場所に集めました・・・・・」と書かれています。
私達は「奈良井の石仏が様々見られるのか・・・・、先ずは地蔵で庚申塔に道祖神、馬頭観音も多かろう、
きっと奈良井の石仏博物館だな。」
期待します。
 
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         この杉並木の先、山側に地蔵堂があって、200体の石仏が祀られています。
 
中山道の面影を残した杉並木を通って、その奥に200地蔵はありました。
鬱蒼と茂った樹下です、大きな雨垂れが落ちてきます。
200体(正しくは194体)の石仏は左右、4列に整然と並んでいました。
その真ん中にお堂があって、中には4体の石仏の地蔵菩薩が祀られています。
正しくは「地蔵堂石仏群」なのです。
此処は奈良井宿の東・北のはずれ、町にとっては鬼門に相当します。
宿場町を守り、災難や厄病が宿場に入らないよう守っていた地蔵なのでしょう。
其処に、近在の石仏も集められたのでしょう。
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   200地蔵の全景。中央お堂が地蔵堂、奈良井の魔除け、厄除けの役割を担っていたと思われます。
 
石仏には以下の特徴がありました。
大切な順に記載します。
1、石仏は200体弱、総て観音像です。目立つのが千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、聖観
   音・・・、人気の観音像が並んでいます。
2、総てが舟形光背を背負っている、40cm余りの像高です。
3、苔むしていますから判読できませんが、微かに「文政7年、1824年」と刻まれている観音像があります。
4、観音像はお顔が大きく、ふくよかで、像風が同じです。ですから、同じ頃、同じ石工が、同じ石材を使って
  造像したと推測されます。
5、石仏に多い「墓標仏/お墓の標識になる石仏、故人の戒名と物故年月が刻まれている」がありません。
  祈願する対象になる仏であります。
 
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    石仏の規格やデザインが統一されています。同時期に同一の石工によって造像されたと思われます。
 
 
 
上記を繋ぎ合わせると、以下のように私は推測しました。
 
江戸時代も文化文政時代になると、旅行ブームが出現しました。
奈良井には「伊勢詣」「御岳講」、そして「観音霊場巡り」の旅人が泊まりました。
天保4年(1848)の「中山道宿村大概帳」によれば奈良井宿の戸数は409軒、本陣1軒、脇本陣1軒(伊勢屋)、旅籠5軒であり、人口は2155人になっています。
この規模は中山道68宿の中で最大級でありました。
勿論、職業の大半は林業でありました。
でも、「曲げ物」と呼ばれる木の器つくり、馬方、茶屋など旅人目当ての職業もあったでしょう。
 
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   石仏の環境が良いので良く苔むしており、優しい表情を浮き彫りにしえいます。
 
奈良井下町の人も、上町の人も、「巡礼の旅人」を送迎しながら考えました。
自分も一生に一度は観音霊場を巡ってみたいものだ。
そのご利益を受けたいものだ・・・、
でも、時間もお金もありません。
ならば、せめて奈良井の町の近くに観音霊場あったら幸いなのに・・・・。
 
そこで、石工を呼び寄せました。
この辺りでは高遠の石工が有名で、彼等は注文に応じて出稼ぎして石仏を彫ってくれました。
東国33観音、西国33観音に加えて秩父34観音、合計100観音も欲しい・・・、注文でした。
下町が終わったら、上町にも造像して欲しい・・・・・、注文は200観音に膨れ上がりました。
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        千手観音の右下に微かに「文政7年(1824)」と読みました。左上腕に掲げた「輪宝」が目立ちます。
 
そこで、石工の棟梁は200体の石仏を刻む準備に取り掛かりました。
弟子を指図して、横1尺、縦1尺5寸、奥行き半尺の直方体の石を用意させました。
棟梁は石仏のデザインブックを取り出しました。
また奈良井住人の期待を確認しました。
奈落のように自然の厳しい土地柄です。
峠の向こう、江戸や上方への憧れが強い事も承知していました。
「憧れ」は観音様の表情に出しました。
怖い観音は避けました。
優しい、笑みのある、そして明日から将来に期待を膨らませる表情の観音にしました。
そのモチーフを、石材の表面に墨で黒々と石仏のデッサンを書き込みました。
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              右手の宝剣は不動明王の持物です。でも左手の如意宝珠は観音の持物です。
 
弟子たちは直方体の石材に鑿を振るいました。
次第に100観音の形が見えてきました。
最後に棟梁が鑿を加えて100観音は完成しました。
 
そして、村の外れに、中山道の道沿いに、33観音づつ祀りました。
村人は喜んでくれました。
33観音を一度に巡れます。
3箇所巡れば百観音巡りが完了します。
気が向いたら、上町の百観音を巡る事も出来ます。
奈落の町にあっても、2百観音巡りが出来ます。
観音巡りを終えれば清々しい気持ちになりました。
一生を木曽の谷間に終えようとも、未来は明るく思えました。
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              これは。大きな馬頭の目立つ観音様
 
木曽にも国道が出来ました。
明治42年(1909)、奈良井駅も完成しました。
明治44年には中央西線も全通しました。
そんな工事の折に、33観音が用地に当たってしまいました。
そこで、住人は協議しました。
奈良井下町、上町合計で200観音もある。
この機会に一箇所に集めて祀ろうではないか?
元々一緒に造られた観音さまなのだから、再び一緒にして差し上げようではないか?
そおすれば、観音巡りも一度で済むし・・・・・。
場所は、村外れの「地蔵堂」にしよう・・・・。
こうして、200観音は天保の時のようになりました。
200体の観音を並べました。
棟梁が大仕事を終えた満足の笑みを浮かべた時のようになりました。
また、観音像も兄弟が一同に会して嬉しそうでした。
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    並んだ観音像は33観音である事に疑いの余地ありません。如意輪観音(十六夜)も目立ちます。
 
欅の葉は総て散ってしまいました。
その落ち葉に上に雫が音を立てて落下します。
石仏は雨音に聞き入っていたでしょう。
賑やかな叔父さん叔母さんたちの突然の往訪を受けました。
嬉しそうでした。
その、二日後には雪に埋もれました。
 
現在の奈良井は過疎化が進行しています。
街中を歩けば空き家も目立ちます。
昭和40年に480戸(1992人)もあったのに、平成17年には337戸(902人)にまで減少しています。
天保年間の半分以下です。
加えて通過観光客が多いのに腐心しています。(年間来訪客35万人)
奈良井は観光客には懐かしく、癒される空間ですが、
生活する人には厳しい環境です。
これからは寒い冬、宿泊客は激減する事でしょう。
伊勢屋の若旦那はじめ、住人は様々な工夫をしておいでです。
夏の雪洞に変えて、冬は氷のキャンドルを宿場の道に並べるそうです。
 
観音様が「其処まで心配するなら、空き家に入ったらどうだ・・・!」
囁いている様な気がしました。
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                     木曽路は馬頭観音の里です。それは「馬屋宿」にも見る事が出来ます。
                         (この段、伊勢屋の記事を見てください)
 
 
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木曽「等覚寺」の円空像

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中山道、三留野宿(みどの)を見下ろす高台に「日星山等覚寺」があります。
お寺への道は細道ですが、辻辻に「等覚寺はこっちです」案内板が立っています。
その脇に円空似の仏像が据えられています。
「円空を拝観したいのなら・・・こっちにいらっしゃい」
誘っているようです。
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      等覚寺の全景。如何にも木曽の曹洞禅のお寺の佇まいです。
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                              道筋の円空の案内がしてあります。これは等覚寺門前です。
 
等覚寺は小さいながらも山門があって、仁王像が睨みをきかしています。
不許葷酒入山門」、山門の内は清浄な修行の地、「臭いものや酒は入れません」、
その戒めの通りに、境内は隅々まで掃き清められています。
本堂は真新しいのですが、曹洞禅寺に相応しい端正な美しさを具えています。
 
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   本堂は新しいのですが、山門は歴史が感じられます。
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     本堂、薫り高い檜で、古式にのっとって新築されました。
 
「どんな円空様なのかな?」期待がたかまります。
拝観を請うのですが、誰も出て来られません。
ご住職は働きに出ているのでしょう。
ご家族は・・・・、畑仕事かもしれません。
何処のお寺も「兼業寺院」です。
仏事は週末にさせていただきます。
「日中留守」は木曽のお寺の常識なのでしょう。
 
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      小さなお堂に円空像はおさまっているので、拝観は順番待ちでした。
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   お堂は閻魔堂でした。でも、円空堂と案内されていました。
 
 
見れば、本堂左手前にお堂があって「円空堂」と書かれています。
観音開きの扉は鍵がかかっていません。
「私が不在の時は勝手に拝観してお帰りください・・・!」
ご住職の案内のようです。
私達は扉を開いて拝観しました。
でも、精々二人しか拝観できません。
狭いのです。
16人が順番待ちです。
 
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       円空55歳の時の作、天神像(烏帽子が無ければ如来です)。小さくても雄大な像容です。イメージ 11
     弁天像、周囲に8体の童子像が囲んでいます。童子は弁天様の子供なのでしょう。
     案内には15童子となっているのですから、他の7体はどうなったのでしょうか?
 
円空堂は元々は「閻魔堂」です。
閻魔十王像が祀られています。
その前に樹脂製のケースがあって、その中に二体の円空像が納まっています。
右が弁天像、左がが天神像です。
何れも像高が20cm程の小像です。
写真では中央に韋駄天像があるはずです。
こちらはずっと大きい筈ですが・・・・、見つかりません。
本堂の奥なのか・・・・、それとも何処かにご出張なのかもしれません。
  (韋駄天像は庫裏にあります。次のブログに掲載されています。)
 
仲間は飛騨の千光寺や天川村(奈良)の栃尾観音堂に円空を詣でた経験があります。
その時の迫力に較べたら・・・、少し気落ちもします。
でも、小像ながらも円空の雰囲気、風格があります。
等覚寺の三体を含めて南木曽には6体の円空像が発見されているのです。
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          等覚寺門前の6地蔵。6本の組物卒塔婆がたてられていました。
 
美濃に生まれた円空は12万体の仏像を刻みたい・・・、祈願して諸国を回遊します。
北海道から奈良まで・・・、行基菩薩や高野聖がしたように、遊行聖をします。
ただ、鑿を持ってその土地土地の材木を使って、住人に期待される仏像を刻んで歩き回りました。
現在確認されている円空像は4500体余りです。
その内4200体余りが愛知(羽島など)飛騨に集中しています。
何故、長野県には6体しか発見されていないのか・・・、不思議です。
木曽と飛騨は御嶽山を挟んで東西にあるのですが。
生国の美濃からは飛騨も木曽も同じ程度の距離だと思うのですが。
 
 
貞享2年(1685)円空(54歳)は飛騨丹生川村千光寺で弁才天像など三体を刻みます。
(年号は厨子の扉に記載されている)
そして、貞享3年(1686)年8月12日、此処等覚寺で三体の韋駄天など三体を刻みます。
(弁天堂の棟札に書かれている)
奈良天川村栃尾観音堂は寛文12年(1672)42歳と言う事になります。
円空は元禄8年(1695)64歳で亡くなります。(墓碑銘、岐阜県関市弥勒寺跡)
従って、等覚寺の円空像は、円空成熟期の仏像と言う事になりましょう。
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     奈良県天川村栃尾観音堂の円空、1994年「円空展図録/朝日新聞」より転載
 
私達が去れば寺は元の静けさが戻る事でしょう。
小さいけれども、如何にも円空、晩年の円空を拝観して満足でした。
等覚寺を見返りすると、掲示板がありました。
西村公朝さん(芸大名誉教授、仏師、平成15年没)のお地蔵さんがありました。
 
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【追記】
飛騨千光寺は以下に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/6810742.html 
 
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木曽の美しさを引き立てる「桃介橋」

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妻籠宿を散策した私達は中山道を遡って、三留野宿(みどのじゅく)に向かいました。
馬篭の峠道(県道7号線、落合~三留野)を降りて、国道19号線に戻ります。
再び木曽川の東岸を走ります。
木曽川の西岸は急峻な山が迫っています。
発電所が見えます。
「読書発電所」と書かれています。
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”どくしょ”と呼ぶか”よみかき”と呼ぶか考えます。
発電所以外の表示にも”読書”の表示が見えます。
小学校も、郵便局も”読書”とついています。
此処は「読書村」なのです。
では、何故”読書”なのか・・・・・、町名の付いた経緯が話題になります。
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 桃介橋西岸にある「天白公園」から橋を見る。向かいが三留野宿。昨日書いた等覚寺は山裾にあります。
 
 
明治7年、与川(がわ)、三留野(どの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併することになりました。
新しい村の名前は、の先頭4文字を合成しよう・・・・・、と言う事で「読書村」ができたそうです。
学制の交付が明治5年でしたから、読み書きを覚えて地域や国の発展に役立ちたい、
と考えたのでしょう。
 
前方に三留野の宿場町が見えてきます。
この辺りは木曽川も川幅が広く、川原には真っ白な花崗岩が転がっています。
町の真ん中に美しい吊橋が見えます。
ワイヤーが橋桁を鉛直方向に吊るすと同時に、水平方向にも張っています。
きっと、水平方向のワイヤーが橋の揺れを防止しているのでしょう。
橋桁トラスは木造です。
橋長は247.762m。3基の橋脚のうち中央の橋脚には川に下る石段が見えます。
これが「桃介橋」です。
 
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     桃介橋の上から川面を見下ろす。真っ白な花崗岩が転がっています。清い水と映えています。
 
 
福沢桃介は木曽川の地勢が水力発電に適している、判断し相次いで水力発電所の建設に取り組みます。事業主は大同電力(現在の関西電力)でした。
「読書発電所」の建設資材を運ぶ為の橋を建設する事にしました。
橋には線路を敷設し、トロッコで資材を運びました。
大正11年(1922)橋は完成します。
橋の名を「桃の橋」としますが、何時の間にか「桃介橋」の名が一般化します。
橋の西端、木曽川や三留野の宿場町を見渡す位置に別荘を建築します。
読書発電所の建築資材運搬橋は何時しか「桃介の別荘」の玄関通路になりました。
桃介橋を渡って財界人や川上貞奴(女優・愛人?)が渡って来ます。
 
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     ワイヤーや材木(カラマツ?)は新しくしました。吊り上げる橋塔は昔のままのようです。
 
昭和25年、南木曽町に寄贈されます。
両岸を繋ぐ通学路として利用されました。
ところが老朽化が進行し、昭和53年廃橋寸前になります。
廃棄するか、「保存・活用するか」議論が沸きあがりますが、
付近一帯の天白公園整備に整備して、近代化遺産として復元しました。
平成6年、国の重要文化財の指定を受けました。
 
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       トラスは材木を金具で繋いで、シンプルな構造です。
       白木ですから、30年程度で作り変えなくてはならないでしょう。
 
                                                 
木曽川は激しく蛇行しながら下ります。
大雨が降れば、必ずと言っていいほど被害が生じます。
木曽には「蛇」の字がつく地名が数多くあります。
大雨が降った後、必ず沢崩れがあって、削られた山肌がまるで蛇が下った後のように見えたからです。
人々は蛇行する木曽川の安全なサイドに集落を営み生活しました。
従って、集落や町は川の左右に点在する事になります。
左右の町を繋ぐには「橋」が重要になります。
   (筆者は子供の頃中津川の宋泉寺で夏休みを過ごしました。何度も水難者の葬儀に係わりました)
 
橋は同時に景観に調和する事が重要でした。
地域住人にとっても、旅人にとっても、美しい、愛着を増すデザインの橋が期待されます。
桃介もたとえ建設資材の運搬橋であっても、木曽川で最も美しい橋を作りたい・・・・、
橋を渡ればその先は「桃源郷だ!」思わせるような橋にしたいと思った事でしょう。
橋の設計者の名は解りません。
でも、桃介橋のお手本が近くにありました。(この段は私の推測です)
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                        桃介橋の教材になったと思われる河童橋(明治24年)
 
上高地に河童橋がありました。
全長37mの小さな橋ですが、穂高岳や焼岳を背景に梓川に架かる姿は、
上高地を象徴する美しさでありました。
桃介は木曽川の美しさを引き立てる橋、三留野を木曽11宿で一番に印象付ける町にするように・・・、
計画しました。
それには、「河童橋を木曽川に移せば・・・・・良い」と考えました。
そうして、桃介橋は完成しました。
 
 
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   桃介橋東岸に掲げられた桃介の看板。写真に見比べると良く描けています。
 
ここで、福沢桃介を説明します。 
福沢桃介は1868年(慶応4年)、武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉井町/先日書いた小野小町伝説の村)で生まれました。六人兄弟で田圃が一反しかない貧乏所帯でした。
桃介は神童の誉れ高く、その才を惜しんで慶応義塾に入れる人がいました。
 
慶応の運動会で、颯爽と駆け回る桃介の姿が諭吉婦人の目に止まります。
福沢諭吉は4人の男子、5人の子女がありました。
「諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家すること」
諭吉は条件をつけて、養子縁組を認めます。
 
桃介は米国に留学、帰国後北海道炭鉱に入社します。
しかし、結核を患い、病床で株式投資に嵌ります。
日清、日露の戦争を通して我が国株式市場は急騰していました。
桃介の手元には大金が残ります。相場師として成功を収めます。
日露戦争後、株式相場から手仕舞いをします。
資金を元手に様々な事業に手を染めますが、終生の事業は「電気事業」である、決断します。
自分の足で探査、木曽川に注目します。
何故なら、水力発電に必要な水量、落差の大きさ、消費地に近いなどの条件を全部満たしていたからでした。
 
桃介の似顔絵が桃介橋の東岸にありました。
人のよさそうな・・・・、でも俗物の表情です。
およそ、福沢諭吉とは対極の人物の印象がします。
福沢の養子コンプレックスを直感します。
 
                           
桃介は晩年、鎌倉円覚寺の朝比奈宗源に師事しようとしました。
初対面で「一回、いくらで聞かせてくれますか」聞いてしまいます。
宗源師はたしなめます。
「私は、金なんかもらっても話はしません」
桃介は平謝りして週一回法話を聴きます。
しかし、法話が佳境に入ると家人を呼びつけ、ブローカーに電話を命じたりします。
ついに宗源師に「度し難い」と見放されたそうです。(この段はWkipediaより)
 
如何にも俗物であり、拝金主義者の感をいがめません。
でも、俗物である事は万人の欲求を良く承知している事でしょう。
そして、米国留学の経験があることから、美しい吊橋を実現したのでしょう。
大正時代から昭和にかけては我が国の幸せな時代でした。
時代雰囲気を良く表した、「景色に調和した橋」であります。
近代化資産にふさわしいと思います。
 
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左が上流の鳥居峠、木曽川の分水嶺になります。峠の向こうに降った雨は奈良井川になって、梓川に合流、
信濃川に名を変えて越後の海に注がれます。
 
 
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貴重な妻籠の家並み

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朝早くに馬篭の宿を発って、峠道をくだり妻籠宿に向かいました。
峠の茶屋も、男滝・女滝(宮本武蔵がお通を押し倒したものの拒否された場面)も素通りです。
妻籠宿は人気の宿場です。
人混みにならないうちに見学する・・・、そんな目論見でした。
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            早朝の妻籠宿、見学している人は筆者の仲間です。向うの山が馬篭峠に続きます
 
大きな駐車場に停めて、蘭川をわたります。
上流に妻籠発電所が見えます。
未だ人影は見当たりません。
ただ、一軒「澤田屋」サンの店先には人だかりしています。
全員が礼服を着ています。
今日は光徳寺さんで法事をするのでしょう。
会葬者へのお礼に名物の「栗きんとん」を注文しておいたのでしょう。
朝早くに貰い受けて・・・、法事は一日仕事です。
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   暖簾が出ている店が澤田屋さん(山口村)、予約した栗きんとんを求めておいででした。
   手前の舟は馬の水飲み場
 
 
永楽屋のお婆さんは働き者です。
もう、店を開いています。
脇の木桶には大きな菊の花束を生けてあります。
下駄は此処の名物です。
ネズコの木を使った下駄は履き心地も、木目も最高なのです。
私の仲間は良く知っていて、お婆さんの店で物色しています。
好きな鼻緒があれば、その場で付けてくれます。
男物の関東の下駄は角ばっています。
関西物は男物でも門が丸くなっています。
木曽は双方が並んでいます。
下駄ひとつでも、木曽路は東西の文化が入り混じっているのです。
 
お婆さんは「幾ら働いても儲からない・・・!」
ブツブツ言っていますが・・・・・、でも、働く事が楽しげです。
そんな、永楽屋さんを正面から馬頭観音が見ています。
 
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   ねずこ下駄の永楽屋さん。お婆さんが下駄の鼻緒をすえています。
   手前の木の葉は檜のようですが、ネズコも檜の仲間でよく似ています。
 
昔と殆ど変わらない妻籠宿の景色です。
昭和40年代初頭、私の仲間(先輩)が開銀に居ました。
以下はその人の経験談をベースに書きます。
 
高度成長に邁進した時代を振り返って、失ったものを見直す気運が生じていました。
従来は個別の建物を保存してきたものを、点から線に、線から面に保存の対象を広げるようになりました。
その先頭を切ったのが妻籠宿でありました。
中山道に沿って、中央西線が走り、国道19号線(名古屋~長野)が開通しましたが、
馬篭峠を迂回していたものですから、妻籠は宿場機能を失い、陸の孤島として取り残されていました。
 
過疎化が急速に進みます。
妻籠の住人は見直しました。
故郷を捨てる事は何時でも出来る。
今は故郷で生きてゆく事に全精力を注ごうではないか!
その為には・・・・、妻籠を見直してみると、
此処には「昔ながらの家並み」しかありません。
この家並みを生かして、生き抜く事が出来ないか・・・・、挑戦が始まりました。
「売らない、貸さない、壊さない」原則を作りました。
そして、江戸時代の宿場をそのままの景色をインパクトにして、生計が成り立つか?
問う事にしました。
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開銀は法律で規制を受けています。
妻籠観光協会を融資対象にすることも、町並みを担保に融資する事も出来ない事でした。
しかし、計画作りに参加し、文部省が所管した「文化財保護法」の改正に知恵も出した事でしょう。
 
昭和43年妻籠は日本最初の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
同年から保存活動が実施に移されました。
昭和44年を初年度とする3カ年計画が作られます。
リーダーは先輩の相方でした。(現妻籠観光協会会長)
町屋を解体復元・大修理・中修理・小修理に分類し、復原・修景を実施します。
妻籠の観光開発は、『自然環境も含めた宿場景観、藤村文学の舞台としての景観保存』を確認します。
山深い木曽谷の集落として宿場景観を保存に成功しました。
 
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 一般の旅籠(嵯峨の屋) 旅人は囲炉裏の湯で干し飯を戻して食べました。
 木賃宿の由来は板間でお湯を戴く代金より言われたそうです。
 
現在(2011年)全国に91箇所の重要伝統的建造物群保存地区が指定されています。
最も成功しているのが「埼玉・川越」でしょう。
「小江戸テーマパーク」は大人気で、一日中楽しく過ごせます。
食べる楽しみ、見る喜び、作る面白さ・・・・・、に満ちています。
でも、大半が苦戦しているようです。
身延の赤沢(講中宿)は3戸しか残っていませんし、宿は1軒しか営業していません。
木造建造物は人が住んでいなければ早くに朽ちてしまいます。
町並みを保存する事は、その屋根の下で生計を立てる事です。
 
天保14年(1843)年の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒でした。
うち本陣、脇本陣が1軒が含まれて居ます。
人口は418人でした。
きっと宿内戸数は変わらず、人口のみが三分の一程度に減少している事でしょう。
あと、20年経ったらどうなるのか?心配です。
 
永楽屋のお店が「売らない、貸さない、壊さない」3原則を守りながら継続できるのか?
お婆さんに跡継ぎが居るのでしょうか?
 
本陣の前を通ると、煙が立っています。
「わちのや」のお焼は囲炉裏で焼くのではなく、蒸篭で蒸すのです。
囲炉裏端でかじかんだ指先を暖めながら、お茶をいただきながらお焼を頬張っています。
私も「くるみお焼」をいただきながら、宿場道を下りました。
山側に光徳寺が見えてきます。
この寺に登ると、妻籠の家並みが一望できます。
春には見事な枝垂れ桜が咲きます。
 
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    光徳寺から眺めた妻籠宿、昔は石置き屋根が続いていました。
今は右手の嵯峨の屋さんしか石置きされていません。幟は23日の予定されている時代祭りの準備。
左手、お掃除している人の前で屈んでいる人は私の仲間で「寒山拾得」像を見つめています。
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「わちのや」のお焼、蒸しパンのような感触です。
 
私は驚きました。
木曽の名物「石置屋根」が見えないのです。
木曽の屋根は低い勾配で、板葺きで、その上に重しの石が乗っていたのです。
私の記憶では大半の屋根が石置きでした。
今は、トタン板葺きで、黒い屋根が光っています。
 
私は木曽の民家は礎石の上に柱が立っているので、屋根が重くないと強風で家自体が吹き飛ばされてしまう。
その対策として、石が屋根に置かれている・・・、理解していました。
いまは、もっと合理的な手法が開発されているのでしょう。
「壊さない」原則が、見えないところで崩れつついあるようです。
「こだわり」と「私権」の狭間に石置屋根があって、私権が優先しているのでしょう。
 
多少は変わっても、妻籠宿は長く歴史を伝えていって欲しいものです。
下駄を商うのも良し、お焼きも、栗きんとんも、栗ソフトも・・・・、
旅人の求めるものを商いながら・・・、妻籠の自然景観の中で宿場町を頑なに守って欲しいものです。
 
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昭和前半の木曽の石置き屋根の家並み(木曽福島)
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右手、馬頭観音像向かいに永楽屋さんがあります。
 
 
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馬込宿の夜明け時

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11月18日、馬篭に着いた時には、辺りは真っ暗でした。
私はこの辺りの地理には詳しいのですが、流石に暗闇の峠道は不安です。
宿場の散策は、明日の「夜明け前」にしよう・・・、布団に潜り込みました。
 
馬篭は馬の背のような峠に在ります。
西に下れば落合宿、美濃の国です。
東に下れば妻籠宿、信濃の国になります。
どちらも急峻な滝坂道です。
 
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                                       馬篭宿の夜明け、遠くの町が中津川になります。
 
こんな峠に宿場が営まれていました。
木曽街道の宿場町は木曽川や奈良井川の淵にありました。
ですから、材木だけで作った家でも火事は少なかったのでしょう。
しかし、馬篭は別です。
宿場には水こそ引かれていますが、喉を潤す程度の水量でしかありません。
 
明治28年、大正4年、二度にわたり大火に見舞われます。
古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失してしまいましたが、
その後復元されて現在の姿になります。
隣の妻籠には築200年、300年の民家が沢山あって、何れも国の重要文化財となり、
宿場全体が伝統的町並みとして保存されています。
馬篭は妻籠に較べれば更に逆境にあったと言えます。
 
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    馬篭宿の本陣が藤村記念館になっています。馬篭宿の略中央にあります。(写真右側)
    大火で全焼した馬篭の復興は藤村記念館の建設が契機になりました。新しい宿、土産物店等は藤村堂を    訪問する客が作ってくれたようなものです。
 
大正4年宿場は略全焼してしまいます。
国道からも鉄道からも遠く離れた馬篭は忘れ去られていました。
 
昭和30年、観光客数は8千人でありました。
昭和40年でも50千人にとどまっていました。
ところが昭和50年代には高度成長の見直しの機運が高まり、
お隣の妻籠宿の保存とも相乗効果があって、馬篭に観光客が集中し始めます。
昭和50年には40万人、平成22年でも51万人に及んでいます。
この間、馬篭の宿場では自治憲章を作り、昔ながらの景観の保持等に努力します。
                   (出典/中津川市都市整備計画評価ノート)
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  正面が恵那山、右の坂下から馬篭の集落が始まり、左の坂上まで約1㌔が宿場になります。
 
馬篭には重要文化財はひとつもありません。
唯一のセールスポイントは島崎藤村の生誕地であったことでした。
 
藤村は処女詩集「若菜集」を発刊します。
ロマンがあふれ気品の高い文章は日本人に愛唱されました。
初恋で歌われた少女に思いを馳せました。
少女の名は馬篭の「大黒屋」の「おゆうさん」でありました。
そして、夜明け前の主人公「青山半蔵」が藤村の父「島崎正樹」でありました。
初恋も青山半蔵も明治を象徴する人物であり、歴史でありました。
 
馬篭の村民は「藤村堂」の建築を決めました。(昭和22年)
そして、東工大建築学科の谷口吉郎氏に設計を依頼します。
そして、実際の建築は村民総出で行いました。
この時の経緯を谷口氏は以下のように回顧しています。
 
『あの記念堂はあの村の人の手仕事によって作られたということが特色です。
これは他の建物と非常に違う点です。
外国でいうと、山の中で小さい教会堂を作るようなものですね。
外国の教会は神に捧げたんですが、藤村記念堂は藤村の詩に捧げられたものですから、
造形もまた詩でなければいけないんです。』(谷口吉郎著『建築に生きる』より)
 
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 石畳の両側に民家が建ちました。「うだつ」は谷側に建てて類焼を避けています。
  (左手奥には屋根のうだつが見えます)
 
藤村記念堂は慶応大学にて第1回日本建築学会賞を受賞します。
堂内には島崎家から5000点もの藤村の思い出が寄贈されました。
馬篭の住人や、藤村を敬愛する人の思いを「藤村記念館」に注がれました。
 
私達は、馬篭の峠から遥か中津川から美濃を見渡します。
青山半蔵が、藤村が抱いたであろう「明治維新」に思いを馳せます。
 
青山半蔵は馬篭宿の本陣の主でした。
宿場には様々な人が通り過ぎます。
幕末維新の震動が馬篭宿にももたらされます。
半蔵は平田派の国学に心酔していました。
封建制度の圧迫を脱して生命の自由な発展を願っていました。
王政復古に狂喜します。「この世に王と民しかなかつたやうな古代」が実現する・・・・。
しかし、維新後の改革は西洋化一辺倒の文明開化でした。
半蔵は木曽の山林問題にみられた圧政や神道軽視の風潮に失望します。
自分の意見を表した歌を明治天皇に献じます。
その結果、罪に問われ、しだいに狂気に陥ります。
菩提寺に放火し、座敷牢で悶死します。
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                                             右端が島崎春樹の墓(永昌寺墓地)
 
藤村の青春を描いた「桜の実の熟する時」では、憧れたキリスト教を棄教します。
そして、晩年の大作では「明治維新、近代化」の挫折を描きます。
何れの問いかけも未だ私達は解決できないでいるように思います。
もうじきNHKでは「坂之上の雲」が放送されます。
楽しみにしています。
第三部では軍国に傾斜する日本が描かれる事でしょう。
でも、山の中では様々な挫折や悲劇が在った事も事実でしょう。
そんな、日陰にこそ真実が隠れているものです。
 
 
明日は私達の宿泊した但馬屋さんの記事を書きます。
藤村記念館建築と同じような馬篭への愛着と努力が滲んでいます。
 
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    馬篭の展望台、左の山が「恵那山」、山の向うが伊那谷の飯田になります。
    馬篭城は小牧長久手の戦いにおいて領主島崎重道は秀吉に組し、家康軍に対峙しました。
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         展望台の横を妻籠への街道が通っています。双体道祖神は新しいものです。
 
 
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馬籠宿「但馬屋」の三代記

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「秋の陽はつるべ落とし」と言いますが、言葉通りに陽が飛騨の山に傾いたと思うと、
間もなく辺りは真っ暗になってしまいました。
私は馬籠には何度も行っています。
でも、泊まるのは初めてです。
今晩の宿「但馬屋」さんの位置は凡そ承知しています。
でも、駐車場探しが大変です。
何度も間違いながら、
挙句に但馬屋さんの女将さんに同乗して貰って、
ようやく駐車場に辿りつきました。
 
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   真っ暗で解りませんでしたが但馬屋の駐車場は栄昌寺の大駐車場の一角でした。写真は同寺の33観音
 
大正4年、馬篭宿は大火に見舞われます。
村の過半が燃え尽きてしまいます。
馬籠の宿は「馬の背」にあります。
炎は登り窯のように宿中を吹き抜けて、瞬く間も無く焼き尽くしたと思われます。
 
勿論、村の中央に在った本陣も焼けてしまいました。
でも、馬籠の住人は離村することなく、再建に乗り出します。
但馬屋さんは明治28年の大火で焼け落ち、大工だった原家4代目が建築したものでした。
大きな”うだつ”の効果があったのか、焼失を免れました。
ですから、大正の大火後住人を励まし、家屋の建築に奔走した事でしょう。
 
昭和22年藤村記念館の建築が始まりました。
 
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  火の手は登り窯のようにして各家々を燃やして、坂を駆け上がったと思われます。右手天水桶。左細道を辿    ると駐車場。
 
藤村 (本名春樹、四男三女の末子)の生家の「島崎家」は代々馬籠宿の本陣であり、
問屋・庄屋の旧家でありました。
更に、大著「夜明け前」は馬籠を舞台に書かれています。
馬籠の村民は村のモニュメント「藤村記念館」の建立に立ち上がります。
設計は谷口吉郎氏(東京工大)に依頼する事にしました。
谷口氏は「藤村の詩に奉げる記念館」をプランします。
「まだあげそめし前髪の・・・・・林檎の元に見えしとき・・」
初恋の少女の背景に似合う記念館をイメージしたのでした。
それは、飾り気の無い、素朴で、でも毅然とした、美しい設計でした。
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   右手が但馬屋、左右の”うだつ”が類焼を防いだのでしょう。吊るし柿の二階が女子の部屋、男子は増築部   分でした。総じて但馬屋は女性歓迎、で若旦那はフェミニストかな(?)
 
村民の指揮を執ったのが大工の但馬屋4代目でした。
村民が総出で大工や左官の仕事をします。
まるで、ヨーロッパ中世の村で聖堂を建てる・・・・、そんな光景が馬籠村で出現しました。
藤村記念館が竣工します。
そのデザインと、村民が総出で建築したと言う事実が・・・、高く評価されました。
藤村記念館の建立を契機に馬籠を訪れる旅行客が増えだします。
 
昭和40年代に但馬屋さん(5代目)は大工から宿屋に転業しました。
馬籠は元々は中山道の宿場町でしたが、鉄道と国道から離れていたので、宿場の機能は無くなっていました。。
そこに、藤村記念館を見たい、夜明け前の舞台で宿泊したい・・・、観光客が向きだしたのでした。
但馬屋さん1軒であった宿屋・民宿は次第に増えだします。
造り酒屋であった大黒屋(脇本陣)は御茶屋を営み、栗おこわは人気商品になります。
蕎麦屋も繁盛します。
但馬屋さんは増築して、増加するお客さんを受け入れます。
お陰で、複雑な建物になってしまいます。
 
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    初恋で歌われた「おゆう」さんは藤村記念館の隣、脇本陣でありました。
    今は人気の栗おこわの食べられる御茶屋です。
 
但馬屋の潜り戸前では、狸(剥製)が出迎えてくれました。
入れば囲炉裏が切ってありました。
食後、夜7時半から「木曽節」の講習会があるそうです。
我が家に戻って、雑誌を見て発見したのですが、この食後の木曽節講習会は、
但馬屋5代目原和英さんがはじめた、名物なのだそうです。
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   但馬屋玄関、夜は客引きの狸も室内に納まっています。 黒光している框は栗の木で、風格を感じます。
   この囲炉裏端で木曽節の講習会が開催されました。
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       但馬屋の5代目原さん、木曽節を聞かせて人気だったようです。
       6代目は振り付けをプリントして踊りも教えてくれました。
       (写真は日本の川紀行/木曽川。学習研究社.2004年から転載)
 
自在鉤の前に胡坐座になって若旦那が説明します。
『男風呂は「木曽ヒノキ」で出来ています。
良い香りでしょう・・・・!』
男達は満足します。
『女風呂は高野槙で出来ています。』
高野槙の方が遥かに貴重です。
『女風呂に入りたい!』
声がして、笑いを誘います。
 
 
若旦那の木曽節の説明があります。
『木曽の中乗りさん、とは・・・・、木曽の材木は貴重品で・・・・、先ず丸太にして木曽川に流しました。
バラバラの丸太を大井宿で筏に組みます。筏には船頭が3人乗りました。先頭を「舳乗り」(へのり)、後ろを「艫乗り」(とものり)、真ん中を「中 乗り」と言いました。バランスをとる中乗りは重要で、粋で、人気がありました。
木曽節は木曽義仲の霊を慰める踊りで、お墓のある興禅寺の境内で盆に踊られました。
ですから、供養の踊りです。この手振りは・・・・』
張りのある美声が宿中に響き渡ります。
歌詞と踊りの図解が配られます。
歌と踊りの講習が始まります。
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     木曽節の歌と踊りを講習してくれた但馬屋の若旦那。歌詞カードと踊りの振り付けがプリントされた紙を     配ってあります。
 
但馬屋の100年を超えた建物は馬籠では最古の建物です。
目の前の囲炉裏には薪がくべられ、勢い良く燃え出しました。
赤い炎が顔を照らします。
自在鉤の鯛が浮き上がります。
鯛は松材だそうです。
鉤を吊るす芯は梅の木、そしてその周囲は真竹が覆っています。
「松竹梅」を揃えたのはお爺さん(4代目)でしょう。
中乗りさんに劣らず”粋”だった事でしょう。
 
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     木曽節の踊りを教えて貰う私の仲間。囲炉裏の向かいに若旦那がいます。
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   私達の集合写真を撮ろうとする5代目若旦那、中々いい男です。
   奈良井宿の伊勢屋さんといい、馬籠の但馬屋さんといい、良い後継者に恵まれています。
 
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   但馬屋の二階。正面に恵那山、欄に乗り出せば馬籠の全景が見渡せます。
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   馬籠の石仏。さすがに、中央お地蔵さんの他は4体とも馬頭観音でした。
 
 
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木曽義仲の興禅寺

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馬籠宿の但馬屋さんで教わりました。
木曽節に合わせて躍る「木曽踊り」は木曽義仲の慰霊の踊り(盆踊り)であると。
木曽踊りの発祥の場所は、木曽福島の興禅寺の境内であるとも・・・・、教えてもらいました。
言われてみれば、動きがスローで、静かな踊りです。
今の興禅寺看雲庭のあった場所で、躍られているそうです。
 
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                                                         興禅寺山門
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        興禅寺の前庭。奥が宝物館。庭は小口基實の作「昇竜の庭」。全体に京風です。
 
信濃源氏の武将源義仲(木曽義仲)は以仁王の令旨に従って、平家討伐の為挙兵します。
倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破って上洛を果たします。
しかし、後白河法皇と不和になり、源頼朝が派遣した源範頼、義経連合軍に宇治川の戦いで敗走します。
琵琶湖畔の粟津で首を取られてしまいます。
巴御前はその墓所に庵を建てて、墓守をします。
庵は「義仲寺」になります。
 
後世、義仲を哀れみ、思慕する人たちが墓参し、義仲寺も格好がつくようになりました。
松尾芭蕉は義仲を愛しました。
湖南の景色も好きだったのでしょう。
遺言により義仲寺に埋もれます。
その結果、芭蕉忌は義仲寺で営まれます。
     木曽殿と背中合わせの寒かな  (又玄)
 
また、西行法師は木曽谷(大井宿)に3年留まったと言い伝えられます。(西行塚)
    木曽人は 海の怒りをしずめかねて 死出での山にも 入りにけるかな 
                            (西行著聞集/義仲を弔んだ歌が4首ある)
この首が西行作と言うには、真偽の程は解りませんが、西行も武士でありました。
武士の宿命を思っていた事でしょう。
 
巴御前は義仲の遺髪を木曽の興禅寺に持ち帰ります。
興禅寺にも義仲の墓が建立されました。
 
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真ん中の宝篋印塔が木曽義仲の墓、一帯は木曽源氏一族、山村一族の墓が並んでいます。
 
重森三玲(しげもり みれい1896-1975)は絵画に志します。
本名は重森計夫でしたが、「ミレー」の名を戴き「三玲」と名乗った程でした。
しかし、画家の道は断念します。
作庭家として、日本庭園史の研究家として名を為します。
「絵画を勉強した」事実は作庭に活かされました。
画布が庭の空間に変換したようなもので、視覚(絵画)的な処理が際立っています。
 
京都東福寺の作庭で最高の評価を受けます。(1939年・43歳)
次々に、力強く、大胆で、モダンな庭を発表し続けます。
木曽の興禅寺枯山水は1963年(昭和38年、67歳)の仕事でした。
 
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                                             東福寺庭園(重森三玲作)
 
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   興禅寺「看雲庭」 手前が庫裏の座敷。座敷に座って庭を見るように出来ています。
   手前の市松模様のテラスで木曽の踊りが演じられるよう出来ています。
 
作庭する場所は興禅寺庫裏前の大空間でした。
座敷から眺めれば眼前に木曽の山が迫っています。
その手前は木曽谷で、底を木曽川が瀬音を立てて流れ下っています。
川の淵には中山道が通っており、関所跡が保存されています。
しかし、谷底は見られません。
見えるのは昔ながらの自然だけです。
 
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    看雲庭、庭の中央に向けて石(峰)が進行しているように見えます。白砂の中に堤があって、雲が流れてい    る様子が表されています。東洋一の大画面の枯山水だそうです。
 
庭を雲海に見立てました。
比叡山の山麓から白い砂(白川砂)を運び、雲を表現する事にしました。
雲海の上に聳える峰を模して岩を置きました。
木曽川の花崗岩では峰の高さや険しさを表せません。
そこで、瀬戸内海の沖ノ島から岩(緑泥片岩)を取り寄せました。
岩を庭の三角から中央に向かって並べました。
岩で峰の並びや動きを表現しました。
峰の列は7,5,3三群にしました。
 
雲海にも雲の流れがあります。
白砂に中にコンクリートで雲と雲の境目を描きました。
雲の流れの堤防のような役割を持たせました。
庭の前面に堤防が張り巡らされました。
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                                                 看雲庭の西側の5石の石組
 
 
こうして座敷に座って庭を眺めれば雲海を表した枯山水が眺められました。
雲海は大気の流れにのって、右から左に、左から右に揺れ動いてゆきます。
雲が流れると、山の頂が顔を出します。
峰は黒く高く聳えています。
そして雲海の彼方に没して行きます。
庭の名前は「看雲庭」としました。
 
「行雲流水」は日本人の叡智です。
”物事に執着しないで自然の成り行きに 任せて行動しなさい、さすれば・・・・・・”
 
座敷の先には長い縁側があって、縁側と庭との間には幅にあるテラスを用意しました。
このテラスで木曽踊り演じられるように意図しました。
 
盆の夜半には向かいの山の頂に月が昇ることでしょう。
看雲の庭の手前に木曽節にあわせて躍る人達がシルエットになって見える事でしょう。
悲劇の人、木曽義仲の鎮魂に相応しい”盆踊り”でしょう。
 
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                                                         門前の観音像
 
 
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浦島太郎の「長寿そば」(越前屋)

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木曽路の旅、昼食はご当地の「蕎麦」が魅力です。
上松の「越前屋」に予約しておきました。
朝早く馬籠を発って、妻籠、三留野を経て上松まで来たのでしたが、昼食には少し早すぎました。
そこで、越前屋さんの駐車場に車を置かせていただき、景勝「寝覚めの床」に向かいました。
 
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                           中央西線、線路の下が寝覚めの床です
 
臨川寺に入ります。
本堂の向かい、北向きに弁天堂がありました。
弁天様は浦島太郎が残したものと伝えられています。
確かに弁天様のお姿は竜宮城の乙姫様に似ています。
 
竜宮城で長居した浦島太郎は故郷に帰ります。
しかし、故郷を離れて300年も過ぎていました。
知っている人は誰もいません。
寂しさから旅に出ました。
 
木曽川の美しい里に出ました。
竜宮城を懐かしみ、乙姫から戴いた「玉手箱」を開けてしまいます。
玉手箱からは白い煙が立ち上り、白髪の翁になってしまいました。
浦島太郎は、今までの出来事が「夢」であったと思います。
そして、現実に「目が覚めます」。
自分の居る場所を見れば大きな岩の上です。
そこで「寝覚の床」と呼ぶようになりました。
 
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       奇勝「寝覚め床」 巨大で真っ白な花崗岩、エメラルド色の水面が美しいコントラストです。
 
「寝覚めの床」は、古くは中山道の景勝地として多くの旅人が訪れました。
芭蕉も、沢庵和尚も。
     ひる顔にひる寝せふもの床の山  芭蕉
     旅なれば泊りもはてず行くもをし寝覚の床を見帰りの里    沢庵禅師 
 
真っ白で巨大な花崗岩、その間を木曽川がエメラルドブルーに淀んでいます。
木曽川の激流が造形したと説明されても、奇勝としか思えません。
奇勝だから伝説も生まれたのでしょう。
 
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                     臨川寺弁天堂、浦島太郎が納めたと言われる弁天様が祀られています
 
旅人は寝覚の床で遊んで、蕎麦を戴きました。
蕎麦の名は「寿命蕎麦」、浦島太郎にあやかった長寿を約束してくれる蕎麦だったのでしょう。
蕎麦屋の屋号は「越前屋」でした。
十返舎一九も「木曽街道膝栗毛」で越前屋を訪れています。
   蕎麦白く 薬味は青く 入れ物は赤い蒸篭に 黄なる黒もじ
陰陽五行の5色を入れ込んで、如何にも「長寿」の効果が期待できそうです。
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       越前屋店先図(歌麿筆)、木曽街道膝栗毛の挿絵。旅人が蒸篭蕎麦を喜色満面で食べています。
       駕篭かきもお客が食べ終わるまで一休みしています。左の女は大きな釜で蕎麦を湯掻いています。
       店の外には「寝覚ノ床」の標識が見えます。
 
越前屋の案内では創業は寛永元年(1624)だそうで、直に400年にもなります。
蕎麦掻き(練った蕎麦)で食していたものを、江戸時代はじめに「蕎麦切り」にしたのだそうです。
ですから、越前屋さんの創業者が細い蕎麦を打ったのでしょう。
 
江戸っ子は「木曽の上松で、寿命蕎麦を食ってきた!」と言えば蕎麦通として自慢できた事でしょう。
それは、浦島太郎の「土産話」も出来るし、長寿も確信できるし・・・・。
良いこと尽くしです。
 
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    越前屋(旧店)、できればこのお店でお蕎麦を戴きたかったのに・・・、残念使われていませんでした。
 
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 左「多瀬屋」右越前屋。手前の坂道が寝覚めの床に続きます。上松宿の賑わいのT字路でした。
 春には正面の枝垂れ桜が美しいでしょう。
 
 
「蕎麦定食・1650円」は蒸篭蕎麦の他にアマゴ(?)の煮付け、味噌汁、ご飯のセットでした。
蕎麦は木曽と飛騨の間の「開田高原」の産だそうです。
良く戴くお蕎麦です。
まあ、こんなものでしょう。
国道沿いの新店舗は何処にでもあるドライブインです。
 
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       越前屋の蕎麦定食、先にアマゴ(?)の甘露煮が出たのですが、食べてしまいました。
 
現在の越前屋さんは国道19号に面しています。
何処にでもある、国道沿いの蕎麦屋です。
特段の旅情も味わえません。
 
聞けば江戸時代からのお店は旧中山道に面して居たのだそうです。
現店舗の脇の道を約300mほど登ると古い建物が見えてきました。
右手に越前屋、道を挟んで左手が立場茶屋の多瀬屋です。
   立場:全国各地にある地名。街道の峠のような難所。馬や駕篭の「繋ぎ場」でもありました。
 
現在の多瀬屋は民宿を営んでいるようですが、繁盛している気配は感じません。
深い「せがい造り」の建築は風格があって、往時の賑わいを思わせてくれます。
 (せがい造り:主屋の柱から腕木を突き出して桁をのせ、深い軒先を作る工法。格式ある家の象徴です。和船の  両舵にある船棚(船がい)に似 ているものでこの名があります)
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  茶屋だった多瀬屋は民宿になっています。大きな軒先が張り出した格式のある建物です。
  向かいが越前屋です。その間の坂道を下ると国道19号に出て、その先が寝覚の床になります。   
 
越前屋も今は玄関にオートバイを置いていて、使用していないようです。
越前屋には二階建ての洋館(?)が付いています。
ガラス張りで、ガラス戸の桟は「亀の甲羅」にデザインされています。
聞けばこの部分は大正元年の増築だそうです。
旧中山道に二つの店がしのぎを削って賑わっていた事でしょう。
今では人影もありません。
賑わった時代からの便りを運ぶように赤い郵便ポストが立っていました。
旧中山道を見渡すと、辻があって、祠が祀られています。
朽ちかけた桂の古木が祠のメモリアルのようです。
 
越前屋も多瀬屋も旧建物はこの桂の古木のようなものです。
 
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                                上松宿の辻に立つ、桂のご神木。祠は「津島神社」
 
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                   越前屋の洋館、亀の甲羅デザインの窓。明治から大正の時代雰囲気がします。
 
【追記】
越前屋さんにお願い:私達(16人)のように食事にお部屋や器、そして周囲の景色を楽しみたい・・・、思う人には
国道沿いの新店舗は味わいがありません。旧店舗で戴ける様なサービスを期待します。
また、お蕎麦の香りは「可もなく不可も無い・・・」普通でした。
横浜鎌倉でも、最近は香り高いお蕎麦を出してくれるお店も増えました。
老舗は新進気鋭の新店とも競争しなければなりません。
”大変だな・・・・!”思います。
香りの差別化は歴史にあると思います。
 
 
 
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雅な「須原の定勝寺」

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 三留野宿では、木曽川は川幅も広く、悠々と流れていました。
木製の吊橋「桃介橋」から木曽川を眺めました。
木曽川の瀬です。
大きな花崗岩の岩が川原にゴロゴロ転がっています。
しぶきを立てて、岩の中を水が下ります。
岩は擦れて砂になります。
砂は川原に溜まります。
私は友人に話しかけます。
「木曽川はそのままで”仮山水”だね。!」
友人は答えます。
「しかし、川原に下りて岩や砂を運び出すのには大変な苦労を要するよ。」
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                                           白い岩、砂の木曽川。
大桑村の須原宿に向かいました。
木曽の古刹「定勝寺」は旧中山道から、石段を登った丘の上に在りました。
須原宿の入り口で、門前には舟形の馬の水飲み場が設えてあります。
江戸時代の面影を残そう・・・・、地域の努力でしょう。
石段の両脇は山楓の木が紅葉し始めています。
樹下には16羅漢が隠れていて、染まり始めた紅葉を見上げています。
 
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                                                   定勝寺の16羅漢像
 
石段の上には小ぶりな山門が建っています。(重要文化財)
四脚門です。切り妻造りで屋根は檜皮で葺かれています。
もう、十年も前でしょうか、室生寺の五重塔が壊れました。
修復に際し、檜の皮が問題になりましたが、お寺の裏山の檜に寒い思いをしていただき、事なきを得ました。
此処は、木曽ヒノキの産地ですから・・・・・、檜皮には事欠かないのでしょう?
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                                                   定勝寺の山門
 
山門を潜ると、左手に本堂が、その奥に庫裏が建っています。(双方とも重要文化財)
堂塔の間はお庭が整備されています。
京都のお寺に入った気がします。
妙心寺か竜安寺か、はたまた天竜寺に舞い込んだようです。
 
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                               木曽定勝寺の佇まい、京風の雅を感じます。右端が山門
 
本堂は正面が9間、奥行きが6間もの豪華な桃山風の建物です。
惜しい事に屋根は銅板で葺かれています。
勿論、時代的にも檜皮で葺かれていたものです。
これだけの屋根を葺くには十分な檜皮が集まらなかったのかも知れません。
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   正面が9間もある、壮大な本堂
 
内陣の廊下は大きな音のする「鴬張り」です。
「お前は重すぎるぞ!」
ご本尊の釈迦如来の叱責を受けているような気がします。
ご住職(?)が無口で本堂の扉を開け放ってくださいました。
一面砂です。
まるで奉行所の”お白州”のようです。
でも、砂には紋が描かれています。
その上に紅葉が散っています。
砂庭の西側の一角に山楓が植わっていて、今盛んに染まっているのです。
普通なら、菩提樹や沙羅双樹を植える一角です。
あえて、紅葉を植えたのは・・・、みやびな気持ちなのでしょう。
見上げれば塀の外の大きな枝垂桜が見えます。
春になれば、桜を眺める枯山水になるのでしょう。
竜安寺の石庭を彷彿します。
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                               本堂の鴬張りの廊下から庭を見る
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   白砂に紅葉が散りました。塀の外には枝垂れ桜の古木があります。
 
本堂から庫裏に回ります。
その渡り廊下の襖に墨絵が描かれています。
右端から奥に雲水さんが行進しています。
皆後ろ向きですから、中心に向けて突き進んでいるのでしょう。
そして、今度は折り返して、こちらに向かってきます。
”禅機画”のようです。
和尚さんに伺います。
「これは、妙心寺の管長さん(松堂大閑師(?)が登られた時、突然に筆を取られたものです」
「何かのお祝いのようですね?私には自分の過去、現在、未来を問われているような・・・、気がします」
尋ねると、
「お好きなようにお思い下さい・・・。」
と、そっけない。
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昭和62年(?)妙心寺の管長さんが書かれた襖の絵。木曽節の踊り(?)とは違う?
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        右が庫裏、正面の唐破風の玄関正面に上記の襖絵があります。左本堂
 
庫裏は正面を切り妻が向いています。
白い壁に柱と桁が美しい模様を描いています。
広い土間が玄関です。
大きな釜戸があって、大黒様が迎えてくださいます。
来訪者は先ずお寺の勝手口に入って、来意を告げる・・・、そんな感覚です。
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         明治天皇がご休憩されたお部屋で
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         庫裏の大広間、庭の紅葉が映えていました。
 
和尚さんは口数は少ないものの、とても親切でした。
庫裏の障子も開け放って下さり、お庭を見せて下さいました。
明治天皇の座られて位置から、お庭を眺める事も出来ました。
 
定勝寺は室町時代初頭に木曽氏が建立した妙心寺派(臨済宗)のお寺です。
現在の建物は1598年木曽義在によって建立されました。
木曽は矢張り京都に近い、京風文化の色濃いお寺だなあ・・・、痛感します。
そして、何より枯山水庭園に感心します。
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   庫裏前のお庭
 
京都のお庭の砂は「白川/比叡山から流れ出す、祇園を流れる川」から採取しました。
岩は瀬戸内海や紀伊から取り寄せています。
木曽の枯山水は木曽川の砂を使ったのでしょう。
鎌倉をはじめとした関東には綺麗な白い砂はありません。
庭園は京都に勝ることは無い・・・、のは致し方ないのでしょう。
 
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                                 須原宿の風景、右の丘の上に定勝寺があります。

 
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大黒屋の「房子」お婆さん

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樋口一葉「たけくらべ」の美登里は大黒屋の娘でした。
藤村の「初恋」のモデルは大黒屋の娘「おゆう」さんでありました。
大黒屋の看板娘は何時の時代も共通した面影を宿しています。
真っ白な肌、黒髪に、大きな瞳・・・・・、器量よしで気立てが良くて・・・・・、「箱入り娘」の苦労知らず。
細久手宿の本陣「大黒屋」の娘「酒井房子」さんも、そんな娘だったのでしょう。
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  大黒屋の全容。左が玄関口、右端がギャラリーの入り口。屋根の左右に大きな卯建(うだつ)が見えます。
  1階の軒高に較べて、二階が低くなっています。二階の格子戸等には京の風情を匂わせます。
 
 
朝8時、東名高速横浜ICを入って、一路多治見の「永保寺」から細久手に向かった私達でした。
昼食は「大黒屋」さんにしよう・・・・、「昼食1時」の予約を入れておきました。
でも、大黒屋さんに着いたのは2時近くになってしまいました。
途中、連絡は入れて置いたのですが、遅いので心配されたのでしょう。
房子お婆さんは道路に出て、私達の到着を待って戴いていました。
「よう、いらしてくらしゃった・・・!」
満面の笑みで出迎えられて・・・・、一層恐縮してしまいます。
 
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    右がギャラリー、左が1階の大広間
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   大黒屋の玄関、高い上がり框に武家風の格式を感じます。
 
 
大黒屋は尾張藩専用の本陣でありました。
御三家の一つ尾張藩は領内の宿で他家の殿様との同宿を嫌ったのでした。
そこで、細久手の問屋役「酒井吉衛門」に命じて、「尾張家定本陣大黒屋」の開業させました。
大黒屋は尾張の殿様の定宿です。
流石に格調高く、武家の構えです。
玄関を上がれば、普通の本陣であれば板の間があって、奥に座敷が広がっています。
大黒屋さんは大広間で、畳が敷かれています。
 
大広間に16人分の「昼食」が並んでいました。
「百合根」をはじめ心をこめたご馳走でした。
 
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   一階の広間で食事。板の間ではなく、座敷であるのも定本陣だからでしょう。(国の登録有形文化財)
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  大黒屋の昼定食。右から「グレープフルーツのゼリー。ゴマ豆腐、酢のもの、百合根の煮物、岩魚の塩焼き、  五平餅、栗羊羹、豆乳の蕎麦、これに炊き込みご飯と味噌汁がついて1500円でした。
  心底「ご馳走さまでした」
 
一階の広間は床の間、違い棚のついた武家の部屋構えです。
二階に上る階段からは数奇屋の意匠が覗けます。
二階の部屋も見学したいのですが・・・・・・、時間が押せ押せです。
明るいうちに馬籠(宿泊)に着かなくてはなりません。
心残りですが、食事を戴いて、細久手宿を見学して・・・・、早々に旅立つことにしました。
 
「もう、お帰りですか?」
房子お婆さんのお顔に出ています。
 
「これは、私の文章です。読んで下さいね・・・!」A4二枚のプリントを下さいました。
一枚は「吉之助爺さんのこと」と題して、13代大黒屋主人「酒井吉之助」さんの記憶が書かれていました。
房子お婆さんの祖父に当たります。
漢詩や弓道をたしなんだ、明治気質のお爺さんで、
房子さん(孫)は漢詩を覚え、矢を的から抜く役をしていたそうです。
 
もう一枚は「晩秋の細久手宿」と題されています。
文化10年の記録では宿屋が25軒、戸数65軒、住人256人、通行人が550人、と記録されているそうです。
ところが、現在は宿屋が1軒、戸数60戸、人口は180人になっているそうです。(見た目では、もっと寂れています)
時代が下ると共に、前、向かいの家が無くなり、宿場町は歯が抜けたようになって、
気がつけば大黒屋をはじめ数件が残っているだけだそうです。
 
お婆さんの代になって、昭和26年大黒屋は料理旅館稼業に転じました。
しかし、当初房子さんはこの商売が嫌いでした。
お殿様を泊めていた宿を、何処の馬の骨か解らない輩を泊めるには、意識変革が迫られたのでしょう。
しかし、食ってゆかなければ、大黒屋の家も残せません。
大黒屋の箱入り娘は、身を粉にして働きました。
 
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    大黒屋の駐車場から建物を見る。手前の黄色い花が「冬知らず」
 
現在の大黒屋の建物は安政6年(1859)12月に建立されました。
前年に大火災があって、大黒屋も消失、再建されたのでした。
縁の下から木片が出て、建立年と棟梁の名「清七」と、「米9合」と書かれていました。
一日の労賃が米9合と言うのは、一日3食、1食1合とすれば、
一日分の労賃は大人3人分の食事に相当した、そんな待遇だったのでしょう。
 
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大黒屋二階への階段、店天井などに数奇屋建築を見ます。
この階段の下は箪笥になっています。大きな「箱階段」です。
 
皇女和宮が江戸の下った時、一向は中津川宿に泊まります。
細久手の外れ、琵琶峠では次の首を残します。
 『 住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび 』 
京を出発して9日目、文久2(1862)年10月28日、和宮16歳でありました。
 
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     大黒屋の和宮降嫁の図。何故か行列の先頭を歩く武士の顔が狐になっています。
     「狐の嫁入り」をもじったのでしょうか?
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                      こちらは自治体が作った陶板の和宮降嫁図。若い世代向けでしょうか?
 
 
房子お婆さんは今年88歳です。
先の「晩秋の細久手宿」には、
「そのうち、皆さんと同じように中山道を歩いてみたいな・・・・、思っても足が弱ってしまい思いは叶えられそうもありません。春には花が咲き、秋には実が熟れる、この人情味あふれる山里が好きである」
と結んでおいでです。
お好きなコスモスは枯れてしまいましたが「冬知らず」が咲き始めています。
お婆さんにはコスモスより、冬知らずの方がぴったりです。
 
でも、88歳で簡潔な、深みのある文章を纏められる力量は感服します。
 
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   右手の竹薮の入り口に石仏龕(せきぶつがん)があって、観音様が祀られています。
   一般に「穴観音」と呼ばれて親しまれています。右奥の集落が細久手宿です。
 
私は尋ねました。
「お婆さん、細久手の穴観音さんは何処ですか?」
大黒屋さんの前の坂(旧中山道)を下って、約1キロ、竹薮の麓にあるとのことでした。
何れかの機会に再訪して、ゆっくり泊まって、房子お婆さんの話をじっくり伺いたい・・・、思いました。
私の母も、同じ年代でした。
 
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  穴観音は古墳の玄室の入り口のような場所にあります。千手、馬頭観音のような意匠です。
  青や緑、黒の黴(苔)が生えてきて、不思議な印象です。
  この辺りで昭和56年、農道拡張工事を行った際に、十字架が刻まれた石や、マリア像など隠れキリシタンに  まつわる遺品が発見されました。
 
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夢窓疎石と永保寺の庭園

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11月18日、私達は東名横浜ICから東海環状自動車道多治見ICを降りて、永保寺に向かいました。
永保寺は夢窓疎石が開いたお寺です。
生憎、国宝の観音堂も開山堂も屋根の葺き替え工事中でした。
建物が工事用天幕の中で見られません。
建物が囲われていると折角の名勝庭園もピンボケに見えてしまいます。
紅葉の盛りで、美しかっただけに、残念でありました。
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                         永保寺観音堂と前庭(出典永保寺ウィキペディア)
 
そんな事もあって、今日は夢窓疎石の庭を書いてみます。
と言うのは、鎌倉には瑞泉寺、円覚寺の庭が疎石の庭であり、日頃良く見ています。
そして、「庭を見る事は禅」に通じていると思うからです。
 
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   永保寺観音堂前の庭、太鼓橋の先にある観音堂は屋根葺き替え工事中でした。
 
疎石は伊勢に生まれます。(建治元年1275年)
しかし母方一族の紛争(霜月騒動)により一家で母方の故郷、甲斐に移住します。
9歳の時、平塩山寺に入って天台・真言二宗を学びます。
更に正応五年(1292、17歳)、東大寺戒壇院にて具足戒を受けます。
疎石「疎山」「石頭」という禅寺で修行する夢を見ます。
”達磨大師の半身の画像を得る”という夢を見て、禅宗に目覚めます。
そして、京都建仁寺で無隠円範に学びます。
この夢にちなんで、後に自らを夢窓疎石と称しました。(夢窓国師語録、20歳)
 
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     永保寺開山堂、右が夢窓疎石、左が元翁本元と思われます
 
鎌倉に下向します。
建長寺・円覚寺などに参じます。
円覚寺の一山一寧・高峰顕日のもとに参禅します。

ある時一人で坐禅していた時に、眠気に襲われます。
そこで、背中にある筈の壁にもたれて仮眠を取ろうとします。
ところが、背中には何も無くて、そのまま倒れこんでしまいます。
俺のしたことの馬鹿馬鹿しさに、大笑いしてしまいます。
この時、悟りを得ました。
浄智寺にて印可を受けます。(悟ったと公認される)
 
しかし、円覚寺をはじめ大寺との折り合いに嫌気がさしたのでしょう。
疎石は再び旅に出ます。
故郷の甲斐に一旦帰国後、下野・陸奥・常陸・美濃・土佐・上総などを巡歴します。
 
美濃では元翁本元と共に長瀬山を目指して、土岐川の畔で道に迷ってしまいます。
白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事がありません。
そこで夢窓は歌で尋ねます。
 空蝉の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり
すると女性は
 教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は
と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現します。
夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立します。(虎渓山略縁起)
 
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                                     永保寺は土岐川の畔、山峡にあります。
 
土岐川は山峡で、大きく蛇行します。
谷間に大きな空間が出来て、巨岩がゴロゴロ転がっていたのでしょう。
そして、流れに乗って山紅葉が茂っていたことでしょう。
巨岩は霊の拠り所です。
紅葉や苔の間に立った岩が観音様に見えたのかもしれません。
奇瑞がおきて、永保寺を建立します。
疎石が出現するまでの庭は、寝殿造りの庭園や浄土庭園でありました。
見た目が美しいこと、浄土を観想できること、庭を逍遥出きる事に主眼が置かれていました。
疎石は既に正悟した禅僧です。
従来とはまったく違った発想で庭園を造ります。
 
禅の悟りは形がありません。
また、言葉でも表し難いものです。
でも、後進を教え導く為には、言葉を使い、形に示さなくてはなりません。
疎石は漢詩も和歌も堪能で、言葉も巧みでした。
禅を教えるには充分のツールを持ち合わせていたのでしたが・・・・、
最も的確に教えられるツールが庭でありました。
 
庭は座禅をする場所でもあり、自然や宇宙の摂理を石、砂、苔、松や紅葉で表す事が出来ました。
そこで、夢窓は永保寺の自然環境を生かして、禅寺の庭園を作り始めます。(1311年/36歳)
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                             永保寺の寺務所棟の紅葉
 
夢窓は永保寺を元翁本元に任せて京都に上ります。
後醍醐天皇に請われて南禅寺に入ります(1325年/50歳)
更に鎌倉幕府の執権北条高時に請われて鎌倉に再度下ります。(1326年/51歳)
鎌倉では瑞泉寺を建立します。(1327年/52歳)
瑞泉寺も紅葉の名所でした。
 
山裾の木を伐採します。
そして、草を剥ぎ、土を除けると、大きな岩が露出してきました。
凝灰岩を削って、座禅石を作りました。
座禅石の横には大池を掘りました。
向かいの岩盤には洞窟(櫓)を削りました。
達磨大師が面壁8年した、そんな岩屋をしつらえました。
無駄なもの、仮のものを削り去る作業は、まるで煩悩を消し去る・・・、修行の姿に似ていました。
こうして、鎌倉武士好みの禅宗様のお庭が出来ました。
 
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       瑞泉寺庭園 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43997425.html
 
1333年(疎石58歳)には鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉にとっては敵方の後醍醐天皇は夢窓を招きます。
京都に戻った疎石は臨川寺を建立、さらに西芳寺(苔寺)を整備します。(1339年64歳)
日本人の一番好きな(?)苔寺の庭園が造られました。
 
瑞泉寺では削り取った苔や樹木が苔寺では主役になります。
此処の変化の理解が難しいのですが、私は次のように考えます。
①疎石は庭の場所・場所の素材を活用しました。
 苔むす土地では苔を、岩が隆々としている場所では岩を使って、宇宙の真理を表そうと試みました。
②日本国歌「苔むす巌」の思想で書かれています。石にも霊があって成長し変転すると考えられていま した。人間にも霊があって、輪廻します。
 輪廻の摂理を理解し脱する事を「悟りを得る事」と考えます。
 露座の石の上で座禅するも修行ですし、苔むす石を見る事も修行です。
 そして石の中に潜む悪霊(人に災いしたり夜鳴きしたりする)を追い払い、
 善霊(仏性に通じる)を表面に出す事が修行です。
ですから、禅寺の庭園は瑞泉寺方式もも西芳寺方式ももどちらも良いのです。
 
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                    夢窓疎石像(京都・妙智院)
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                                                    西芳寺庭園
 
後醍醐天皇は1339年崩御します。
夢窓は足利尊氏に天皇の霊を慰撫する為「天竜寺」の建立を進言します。
その費用捻出を目的に「天竜寺船」を使った貿易振興も提言します。
 
方丈の前に大きな池泉回遊式の庭園を造営しました。
それは、後醍醐天皇好みの寝殿造り庭園であったからでした。
でも、石組には禅宗の趣を残しました。
 
西芳寺にしても天竜寺にしても、実際の工事をしたのは鴨川の川原に住んでいた職人でした。
職人たちには時代のフロントで特有の人生観がありました。
「自分達は何時、増水して死ぬかもしれない。今は貧しいが昔は貴族であった、栄華盛衰は変遷する・・・・、人間の運命などまったく解らない」
職人は枯山水を生んでゆきます。
枯山水は疎石の功績でありました。
 
疎石は同時に沢山の弟子を育てます。
彼等は室町時代の主流「五山文化」の主役になります。
 
夢窓は歴代7度にわたり国師の称号を天皇から賜ります。
夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師の名がそれです。
鎌倉から南北朝時代にかけて政権はめまぐるしく変遷します。
その都度権力者から「師」として招かれます。
敵も味方も誰もが一番尊敬すべき人物と評されていたからでしょう。
その驚異的な行動力と共に畏敬する人物です。
1351年76歳で死去します。
 
永保寺庭園から、駆け足で疎石の庭園を巡ってみました。
 
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    開山堂を横から覗いて見ました
 
【追記】
夢窓疎石の国の名勝庭園(古い順)
・永保寺庭園(1311年、36歳)
・瑞泉寺庭園(1327年、52歳)
・恵林寺庭園(1330年、55歳)
・西芳寺庭園(1339年、64歳)
・天竜寺庭園(1345年、70歳)
 
 
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洗馬宿の長興寺

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塩尻とは言い得て妙な地名です。
千国街道は糸魚川沿いに内陸部に入って、善光寺から松本、塩尻に至る街道です。
一方三州街道は岡崎から飯田、光前寺、伊那を経て塩尻に至る街道です。
どちらも日本を代表する「塩の道」で、塩や海産物を売る商人が往来しました。
塩嶺峠が分水嶺で、塩商人も日本海側、太平洋側に別れていました。
塩の道の終着地点であったから「塩尻」なのでした。
 
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                  今日の話題は塩尻の郊外洗馬宿にある長興寺です。その本堂。
 
塩尻の郊外に「洗馬」があります。
同名の地名は各地にありますが、此処は歴史に残る”洗馬”です。
源義仲(木曽義仲)は清和源氏の嫡流「源義賢」の子として上野の国多胡庄で生まれます。
しかし、父義賢は悪源太義平に討たれます。
義仲は母小枝御前に手を引かれ信濃の国府(松本)に落ち延びます。
小枝御前は長興寺に葬られます。
一方義仲は以仁王の「平家打倒」の令治にいち早く応じ、挙兵します。
 
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  木曽義仲の母小枝御前は長興寺の裏山に眠っています。雨が降っていましたので墓参はしませんでした。
 
「馬を洗う」とは軍馬の休息をとると共に、近隣の兵を募ったのでしょう。
木曽義仲の家臣、今井兼平がこの大役を果たしました。
義仲の軍勢は木曽から松本平、多くの加勢を得ます。
そして、北陸を倶利伽羅峠に向けて進軍します。
 
私達の木曽の旅の終着も塩尻の洗馬宿です。
洗馬は中山道と善光寺街道が交差する宿場町です。
洗馬宿の高台には「長興寺」があります。
戦国時代は軍事上の要衝になりました。
武田信玄をはじめ徳川家もこのお寺を庇護します。
普段はお寺でも、いざとなれば「お城」の役割を果たすと期待されたのでしょう。
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   長興寺に至る里山の一本道。参道に6地蔵尊が立っていました。
   寺の山号は「青松山」ですが、付近一帯は杉林でした。遠くに塩尻の市外が眺められます。
 
幸いな事に長興寺が戦場になる事はありませんでした。
しかし、明治41年に焼けてしまいます。
その時に本堂を残して消失してしまいます。
従ってたいした文化財は残っていません。
しかし、その山寺としての佇まいが素晴らしい・・・、と言われています。
 
私達は次第に本降りになる雨の中、野中の一本道を辿って、長興寺に向かいました。
向かいの山は名前の通り「青い松の山」なのでしょう。
松山は煙って見えませんでしたが、お寺は杉林の中にありました。
 
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   長興寺庫裏はザル菊が飾られていました。
 
大正、昭和と本堂、庫裏を再建し立派な伽藍が整備されています。
玄関口には丹精込めたザル菊が見事に咲いています。
 
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 長興寺の見物は美しい庭園です。小堀遠州風の池泉庭園ですが、石組以上に植え込みの意匠が見事です。
 
拝観を申し出ると、お若い坊さんが出て来られました。
「私は副住職です、ご自由に見学なさって結構です。でも、法事があって外出しなくてはなりませんので・・・」
仰います。
「予約連絡をしていなかった私の落ち度ですが・・・・・・、少し伺いたい事もあるのですが・・・・・・」
すると、ご住職が出て来られ、案内して下さいました。
最初は少しご機嫌が斜めのようでしたが・・・・。(あいすみません)
 
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   方丈の間、この辺りの視線が庭の中心でしょうか?紅葉は終盤、今はドウダン躑躅が染まっていました。
 
美しい、綺麗なお庭に歓声を上げてしまいました。
ご住職は気分を入れ替えて説明をしてくださいます。
「実は数日前はもっと紅葉が鮮やかだったのですよ、もうお終いの紅葉です。
この庭園の作者は・・・・・・、」
私達は「遠州流の誰某」と期待します。
「作者は庭師さんです。間違いないでしょう」
笑われます。
”職人は名を残さない、作品を残す。塩尻の職人は見事な腕であろう!”
言いたげです。
「しかし、庭が出来た年代は解っています。
 
「安永年間(1772)から天明年間(1788)の間に整備されました。
安政7年(1860)にも手が加えられました。江戸では桜田門の変があって、幕末に向けて加速していた時期にあたります。」
比較的新しいものの、良く手入れが為されていて、年々美しさが際立ってきているのでしょう。
お庭は、歴史を重ねると美しさが増すようです。
でも、手入れを怠れば直に自然に戻ってしまいます。
竹林や里山と同じで、人間の適切な手入れを必要にしているのでしょう。
 
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    本堂横から方丈、庫裏の方面を見る。
 
ご住職の用意されたパンフレットには「蜀北林」と書かれています。
江戸時代を通して学問を修めるお寺でもあったのでしょう。
「当寺はお墓ではありません。学問や修行をする学林です・・・」そんな自負が感じられます。
ご住職は何時しか説法調に変わって、説明されます。
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   床の間の牛、洗馬焼だそうです。昔は庭に置かれていたのですが、
   貴重なものなので床の間に移ったそうで・・・・、牛さんもびっくりしているでしょう。
 
床の間に牛が寝ています。
愛嬌があります。
そういえば、此処から見て向うの山の裾、美ヶ原の上り口に古刹「牛伏寺」があります。
その関係化と思えば・・・、違いました。
此処には「洗馬焼」と呼ばれる焼き物があって、お寺の裏山(横)に和兵衛釜(写真で見ると登り窯)があったのでした。ところが、明治になって鉄道が出来ると瀬戸焼に凌駕され、洗馬焼は消滅してしまったそうです。
その、残り少ない作品なのだそうです。
「皆さんは柳田国男はご存知ですね?それでは”菅江真澄”は知っていますか?」
はてな!私は知りません。
「柳田国男は我が国民俗学の創始者と言われますが、その柳田を導いたのが菅江真澄です。」
では「熊谷袋蔵先生は知っていますか?」
私はこの人も知りません。
「なんだ!何にもご存じないのですね!この人は洗馬の出身で漢方医でしたが、世界で最初にインシュリンを発見しました。本来ならノーベル賞ものなのですが・・・、時代が早すぎた。」
「皆さんは何も知らないのだから、洗馬歴史の里資料館に行って勉強してください。私が電話しておきます。」
 
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            長興寺裏山にかけて100観音が祀られています。この観音様は小枝御前似かな・・・?
 
こう言われてしまっては、資料館に寄らなければなりません。
明日は洗馬の里の歴史資料館をご案内します。
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  洗馬への情熱をもって説明して下さったご住職。方丈の床の間で、牛の洗馬焼を説明していられる。
 
 
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洗馬の菅江真澄(江戸時代の民俗学者)

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「菅江真澄も知らないのか!熊谷岱蔵も知らないのか!ならば洗馬歴史の里資料館に行け!」
長興寺のご住職にけし掛けられて、私達は資料館に向かいました。
長興寺の山門まで下って、西に折れれば直に案内板が見えて、資料館に行けます。
細い道を登れば、何のことは無い長興寺から直線距離にして僅かです。
寺領内に建立された資料館なのでしょう。
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                               菅江真澄像
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                  菅江真澄の逗留した釜井庵。遠くに塩尻盆地が開けて見下ろせます。
 
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                                                 釜井庵の全景
 
私達を学芸員が待ち受けて呉れていたようです。
そして、珍しい見学者(有料150円)だったのでしょう。
丁寧に説明してくれました。
通常の展示の他に熊谷岱蔵の額や絵が展示されていました。
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      熊谷岱蔵の書。熊谷氏は洗馬で生まれました。
      インシュリンの分離に成功、ツベルクリンやBCG接種、結核治療等に功績があり、東北大学総長を勤       められた方です。昭和37年亡くなられました。(文化勲章受賞)晩年は洗馬で地域や人々を愛し好々爺      として過ごされました。書や絵を多く残しておいでです。
 
天明3年(1783)5月、三河の国出身の文人菅江真澄は此処洗馬に遣ってきます。
長興寺住職洞月上人や医師可児永通ら村人たちのあたたかく迎えられました。
そして、1年余り「釜井庵」に滞在しました。
釜井庵とは戦国時代この地を支配した三村氏の山城の跡に建てられた庵でした。
菅江真澄は洗馬滞在中に和歌や古典を指導したり、薬草学・医学の面でも洗馬の人に貢献します。
そして、この庵で見聞した事を絵日記風に執筆します。
「伊那の中路」「わがこころ」「すわの海」等の作品がそれでした。
1735年7月には浅間山の大爆発をこの地で体験し記しています。
その後、越後から東北、北海道へ渡り、秋田に戻って76年の生涯を閉じました。
行く先々で、風俗・習慣・伝説・民謡などを記録します。
記録は文章と図会を併用しています。
今風で言えば文化人類学のフィールドノート(野帳)と言ったスタイルでした。
(真澄遊覧記)89冊 平成3年国の重要文化財)
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   菅江真澄の記録絵、左に記事が載っている。数奇屋の軒先に吊るされているのは「七夕人形」
   縁側寄り座敷にも七夕の人形が飾られています。現在の七夕は笹の葉飾りばかりですが、江戸時代、洗    馬では随分違ったようです。
 
菅江真澄を世に紹介したのは柳田国男でした。
柳田国男は我国民俗学の創始者として賞賛され、大きな存在ですが、
「自分より100年も前に菅江真澄と言う先学が居て、こんな記録を残している!」
紹介したのでした。
そして、昭和3年、此処長興寺で三日間講演会を開催します。
同学、同好の士が全国から洗馬に集まりました。
講演会なら東京でするのが何かにつけて便利です。
しかし、柳田国男にすれば大都会で行うより、民俗学のフィールド(現地)で行い、
先学の菅江真澄の庵で、その作品を見て欲しい・・・・、思ったのでしょう。
そして、民俗学者の姿を見せ付けたのでしょう。
その姿こそ「地域への愛情であり、先人や地域文化への敬意」だった事でしょう。
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   左折口信夫、右柳田国男 昭和3年、長興寺で講演会をした記念写真。
   写真は長興寺庭園で写されています。
 
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   長興寺での講演会写真のアップ。中央ラクスをかけているのが長興寺住職、その左3人目が柳田国男
 
洗馬焼とは江戸時代後期から明治にかけて塩尻郊外で焼かれた民窯でした。
しかし、鉄道が開通すると瀬戸焼の圧倒されてしまい大正時代には廃業してしまいます。
今、此処で展示されているものは大物の壺や花瓶ばかりです。
何れも高取焼(博多黒田藩御用窯、茶器で有名)に似て、流れ落ちる釉薬が特長的でした。
最近は改めてその良さが見直され、窯も1基復活したそうです。
世情が安定し、地域が見直されて、窯が復活する事は嬉しい事です。
あの、頑固そうな長興寺のご住職も窯の復活には貢献した事でしょう。
床の間の臥牛も展示(写真)されていました。
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                   洗馬焼の大きな甕
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             洗馬焼の壺(どぶろくでも造ったのでしょうか) 家庭雑器も見てみたいと思いました。
 
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江戸末期遊歴の文人管江真澄が当地に逗留し、当山15世洞月和尚他文化人と詩歌を通じ交友多く、
  地方文化発展に寄与した。昭和初期、柳田國男が此の寺で「民間伝承論大意」を講じ、洗馬の里が日本
  民俗学発祥の地として、全國的に関心を高めた。


漆の故郷平沢の現況(山加荻村漆器店)

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11月19日、奈良井の200地蔵うぃ拝観して、次の目的地「木曽平沢」に向かいました。
木曽平沢は中山道の宿場ではありません。
贄川宿(にえかわ)と奈良井宿の中間にあって、漆職人の住む集落です。
奈良井では職人が檜の曲げ物を作ります。
そして、平沢は漆を塗り、様々な細工を施します。
伝統職人が住む町としては、有田や益子などがありますが、職人同士が軒を並べている町は平沢だけではないでしょうか?
慶長3年(1598)中山道を奈良井川右岸(東側)に移設します。
以前は奈良井宿と同じ左岸にあったのでした。
付け替えに際して奈良井川が大きく湾曲した河川敷に職人の集落を建設します。
寛永2年(1749)の大火後には、現在の町並み計画が実施されました。
主屋と街路との間にはアガモチと呼ばれる空地を設けたり、
各職人の仕事場である「塗り蔵」への通路を必ず造って、隣同士の間に空間を用意しました。
この空間が類焼防止に効果があった事でしょう。
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     奈良井川の東岸に中山道は移転しました。写真は200地蔵から。
     左(北)に2キロほど下ると平沢になります。この山に漆が栽培されていたと思います。
 
 
主屋は2階建てで、切妻、平入、板葺石置屋根としました。
どの家も間口が3間でありました。
漆器の町として特徴のある美しい町並みが出来ました。
平成18年重要伝統的建物群保存地区に選定されます。
400年の歳月をかけて出来た、木曽の山間に軒を並べる集落です。
私達日本人の郷愁を捕らえて放しません。
でも、悲しい現実もあります。
 
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     平沢の裏山、紅葉した樹木の中に漆が多くあると思います。
 
私達は木曽漆器のリーダー「山加荻村漆器店」に出向きました。
旧中山道に面してギャラリーがあって塗り蔵も見学できる・・・・、HPには書かれていました。
そこで、旧道の店に向かいました。
店頭には製品が並んでいるのですが、電気も付いていません。
未だ早いので開店前なのかと心配して、店内に入ってみればお婆さんが炬燵でうずくまっておいででした。
「風邪気味なので、案内は出来ません。上の作業所に行ってください!」
上とは中山道旧道の上段に出来たバイパス(国道)に出来た作業所兼店舗です。
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                             山加荻村の店内。同社は中野の哲学堂にも出店しています。
 
 
山加荻村漆器店は長野オリンピックのメダルも作りました。
我国を代表する会社です。
私達に詳しく説明してくれました。
改めて漆器の製作工程が多い事、そして漆が気難しいこと、精魂を込めなくては出来ない事・・・・、
感銘を受けました。
 
中国はCHAINA(陶磁器)の国です。
JAPANとはは漆器の事です。
日宋貿易も日明貿易も日本の輸出品は漆器が第一でした。
古代から日本の漆器は世界で認められてきたのでした。
興福寺の阿修羅像は漆で固めて出来ていますし、薬師寺の諸仏も体に漆を塗って金箔を貼っています。
仏の体は金色に輝いている・・・・、お経に書かれているのです。
実現した基礎技法は漆技術でした。
 
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   漆を塗る30余りの工程を説明される。壁の板は工程を説明している。
 
しかし、明らかに木曽平沢には人影は疎らです。
旧中山道には200戸ほどの家が軒を連ねていますが、
空家も散見されるようです。
漆器は「斜陽」を思わせます。
私の住む相模にも小田原には漆器店がありました。
全国各地に漆器はありました。
今では数が少なくなって、漆器を地場産業にしている町は10箇所程でしょうか?
漆器の出荷額は平成になって十分の一になってしまった・・・、そんな事も聞きます。
 
平沢の町を眺めていて私の脳裏に浮かぶのは、ベトナム漆器です。
ホーチミンのドンコイ通りを歩いていると漆器店が目立ちます。
その中に「トンボ」「金魚」「案山子」等日本語が目立ちます。
何れも日本人を主ターゲットしたお店です。
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         ホーチミンの漆器店。日本人が集まります。
 
ベトナム漆器は日本の漆器に較べれば少し明るく派手です。
寂びた味は欠けますが、現代的な感覚がします。
さらに、ベトナムでは若い人が漆器作りに励んでいます。
ベトナムの方がヨーロッパ感覚にも近く、現代感覚もあるし、技術者も若いのです。
日本人の好みも理解し、日本人旅行客受けする漆器も製作します。
私達は高級家庭雑器と思っていた漆器が、驚くほど安価に購入できます。
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   縄文漆器と書かれていますが、久留米の地場産業「籃胎(らんたい)漆器」として活躍しています。
 
ODA(政府開発援助)でベトナムでは南北に高速道路が整備され、
メコンデルタには「カントー橋」がかかりました。
その先には埠頭があって、日本を含めて世界各国にベトナム製品が輸出されます。
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       メコンデルタのカントー橋、ODAにより大成建設等のJVで完成した。平成7年工事途上の事故により       現地人60人が死亡した事から問題にされた。(出典ウィキペディア)
 
この美しい平沢の町も、平沢の職人もベトナムの漆器産業と直接に競い合っています。
ODAは、平沢をベトナムの片田舎の漆器産業と同じ土俵に登らせた、とも言えましょう。
平沢の漆器産業は無口で大声上げて糾弾する人も居ません。
一方、ODAと言う砂糖に群がる人達は数多く居ます。
日本のルーツ「JAPAN/漆器」はもう次世代では消えてしまう事でしょう。
漆器の原料の漆は99%輸入品です。
原料に始まり、加工まで日本には消えてしまう事でしょう。
デザインも・・・・、負けてしまいそうです。
漆器は国立博物館の仏像等の修復部門だけに細々伝わる事になるかもしれません。
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      展示商品の中から
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   現代的な意匠の作品の展示です。
 
 
蝋燭は消え入る瞬間に明るく輝きます。
平沢にいると、蝋燭の明かりを見ているような錯覚に陥ります。
そういえば、蝋燭も漆も同じハゼ科の植物です。
木曽の山にもハゼの紅葉が寂しく輝いています。
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   伝統工芸師「荻上文峰氏」蒔絵作家としては第一人者です。工程を説明してくださいました。
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    工場内の漆蔵。高い湿度の中で乾かす、と言った技だそうです。
 
【追記】
筆者はODAが無用だ・・・・、などと考えているのでは在りません。
ベトナムのファンダメンタルが整備されれば、日本の伝統産業はベトナムの家内手工業と同じ土俵で戦わなければならなくなる・・・、事実であります。
それでも、我国伝統産業を存続させようと考えたならば、その施策が必要です。
其処のところが欠落しています。
平沢が気の毒でなりません。
 
 
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ホテルニューグランドと銀杏の黄葉

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横浜港に面した「山下公園通り」は今最も輝く季節を迎えています。
通りの左右に植えられた銀杏が金色に輝いているのです。
通りの海側が山下公園で、氷川丸が係留されています。
そのまん前に、横浜の迎賓館「ホテル、ニューググランド」があります。
 
未だ、飛行機が飛んでいなかった時代です。
海外に出入りする玄関口は横浜の大桟橋でした。
明治3年(1870年)旧グランドホテルが開業しました。
チューダー様式の豪華なホテルは日本人も目を見張るものがありました。
横浜や鎌倉の洋館にチューダー様式が多いのは、このホテルの影響も多かったでありましょう。
  注:チューダー様式とはイギリスチューダー王朝で盛んに使われた建築様式。腰はレンガを積んで、その上     は木の骨組(柱・梁)を漆喰壁で固めた概観が特徴的。
 
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    明治のホテルグランド、道路が「山下公園通り」、と言っても山下公園は未だ海ですが・・・・。
                                             (出典:開港記念館)
 
 
ところが大正12(1923)年の関東大震災で横浜は略壊滅してしまいます。
関内地区の建物も大半が瓦礫に化してしまいました。
再建に際して、瓦礫を海に埋め立て、山下公園にします。
横浜市は震災復興予算の中に迎賓館になるホテル予算を優先してつけます。
横浜市は生糸輸出が経済基盤を支えていたからでした。
その為には、バイヤーが宿泊するホテルは先ず整備しなくてはなりません。
 
横浜の財界を牛耳っていたのは原富太郎(三渓園開設者、横浜正金銀行創業者)でした。
新ホテルの用地は横浜市が提供し、経営は民間が担いました。
今で言う第三セクター事業の「魁/さきがけ」になりました。
そうして昭和2年(1927)ホテルは開業します。
名前は公募によって「ホテル、ニューグランド」になりました。
 
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                     黄葉の山下公園通り、18階建てのニューグランドタワー棟が見えます。
 
設計は気鋭の建築家、渡辺仁が行いました。
我国の本格的洋風建築はコンドル(英国人、東大建築学科創設者)に始まりますが、
その弟子が渡辺渡(東大工学部総長)、で渡辺仁はその倅になります。
渡辺仁はこの後、服部時計店(銀座のランドマーク)、第一生命ビル(有楽町のランドマーク)等を手がけます。
大変な才能の持ち主で、ホテル、ニューグランドは当時の流行「アール・デコ」様式を採用します。
服部時計店はネオルネッサンス様式、第一生命ビルやお隣の農林中金ビルは歴史主義(ギリシャローマ)様式を採用しました。晩年には昭和モダニズム建築も手がけます。
 
建築の使用目的にあわせて、様々な建築様式の中から最適な様式を採用したのでした。
その才能や経験は上野の国立博物館(原案)に結実します。
 
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      ニューグランド旧館(近代化資産)、2階がロビーになります。マリンタワーが見えます。(撮影11月中旬)
 
コンドル(ニコライ堂・岩崎本邸/重文等の設計者)は日本文化を敬愛し、
日本画を学び、日本に骨を埋めた人物です。(護国寺に眠っています)
明治政府は最高の人物を招聘しました。
その第三世代でこうした多才な人物を排出したのでした。
 
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   二階のロビー。柱や天井の装飾がアールデコ、照明やエスカレーター等に日本趣味が見えます。
 
 
ホテル、ニューグランドの設計図には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」
とあるそうです。
建築の骨格は古典主義で、表面装飾はアールデコです。
圧巻は2階ロビーです。
漆喰(しっくい)彫刻の天井にはアールデコで飾られています。
壁は黒光りのするマホガニーで、床は青を基調にした絨毯で、照明は真鍮の吊り燈籠です。
春日大社や東大寺を髣髴させます。
アールデコはパリ万博をピークにした装飾です。
洋の東西の装飾が共存しても特に違和感がしません。
 
豪華なホテルロビーはありません。
ホテルのドアーを押して入ると、すぐに階段です。
青い絨毯を踏んで登ります。
二階がロビーなのです。
目線の先はエレベーターが見えます。
その壁に飛天像が描かれています。
数人の天女が飛んでいます。
そう、法隆寺の金堂壁画を思わせるデザインです。
うす暗い光の中で見ますので、漆喰画なのか絨毯(織物)なのか解りません。
 
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                                       法隆寺金堂の壁画を髣髴させる飛天像
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                     ホテルを入ると目線は二階に続く階段に注がれます。
                     此処での結婚式は「浜っ子」の憧れです。
 
この二階ロビーにはマッカーサーも、マリリンモンローもベーブルースも登りました。
「東洋の国、日本に来たのだな・・・・!」
実感させる空間でした。
 
窓を見やれば、金色の銀杏の葉が見えて、その向うには氷川丸が見えます。
横浜の家具が置かれて、何処も空席です。
ユックリ腰掛けて文庫本を読んでいても、とがめられる事はありません。
おまけに、此処のランチは安くて美味しいのです。
 
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   窓からは山下公園が見えます。公園の向うには氷川丸が接岸されています。
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                    山下公園に係留されている氷川丸。ホテルの前です。
 
しかし、航空機時代が到来して、横浜は日本の表玄関の位置を羽田や成田に譲ります。
新しいホテルが横浜駅西口に進出しました。
関内地区の地盤沈下は激しく、シルクホテルは閉業し、商工会館に転じます。
ニューグランドも苦戦が囁かれました。
 
社長の原範行会長(三渓園の原家4代目当主)が起死回生の投資を決断します。
タワー新館建設と本館の全面改修でした。(平成3年/1991)
 
評判は良いようです。
経営は順調なのでしょう。
また、順調であって欲しい・・・・、横浜市民は期待しています。
何より、ニューグランドは横浜のランドマークなのですから。
 
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ホテル前の植え込みは銀杏だらけです。
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                               ニューグランドのラベル。
 
 
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大山のキリシタン地蔵尊

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昔は「ボロ市」で有名だった世田谷の三軒茶屋は大山道の茶屋がありました。
江戸の町からは大山参りの道として親しまれました。
江戸の町から大山に向かった旅人は、大山や富士山を眺めながら三軒茶屋で一服したのでしょう。
大山道は古代律令時代は東海道の本道でありました。
江戸時代に箱根を越える道が整備されると、大山道(東京・沼津間)は東海道の脇街道になります。
現代は国道246と呼ばれ、時代を代表する道であります。
都心から渋谷までは「青山通り」、渋谷から用賀までは「多摩川通り」、
その先沼津までをを含めて全体を246号と呼ばれているようです。
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   今日の話題は大山の茶湯寺です。本堂も民家のような姿の質素なお寺です。
 
大山は雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、雨乞いに霊験のある山として昔から信仰されてきました。
大山阿夫利神社は五穀豊穣を約束する雨乞いの神様が祭られていました。
宝暦年間には20万人が詣でたと言われています。
江戸の住人が100万人ですから、その人気振りが想像できます。
 
その大山には大山寺が祭られていました。
神の山は同時に仏の山でもありました。
仏の山と言う事は、死者の霊は大山の峰の頂に行ってしまった・・・、考えられてきたのでした。
死ねば地獄に、はたまた極楽に行く・・・、とは観念上の問題で極楽は目に見えません。
目に見えるのは大山の紫に煙る峰でした。
ですから、相模や武蔵の人々は死ねば霊は大山に上る・・・、考えていました。
 
大山阿夫利神社のバスの終点からケーブルカーの始発駅まで1㌔余りあります。
道幅は狭く、坂道は所々石段になっています。
土産物店や湯豆腐屋さんが軒を連ねています。
香川の金毘羅様も門前町が延々と続きますが、大山程長く細くはありません。
その真ん中辺り、谷川を西に渡った山峡に茶湯寺(ちゃとうじ)があります。
このお寺は「百一日参り」で有名なのです。
 
例えば親爺が亡くなったとしましょう。
葬式を済ませて、荼毘に付します。
大きかった体は小さな骨壷に納まってしまいます。
白木の位牌には墨で戒名が書かれています。
親爺の霊は親爺の家に留まって、あの世への旅立ちの準備をします。
49日の法要を済ますと、親爺の霊は黄泉(よみ)に旅立ちます。
名前は・・・・、戒名を戴いています。
100日目に親爺は極楽の門前まで辿りつきます。
そして、百一日目に仏に成るのです。
其処には、親爺の両親をはじめ、先祖達が顔を揃えています。
この間、残された家族は毎日ご飯を供え、水を汲み、線香を奉げます。
そして、成仏する百一日目に大山寺を詣でます。
「親爺も無事に成仏できました・・・。」お礼詣でです。
親爺は仏になって、今日から子孫を守ってくれるようになります。
長い石段に親爺が腰をかけて・・・・、お礼詣でしてくれる家族を迎えてくれます。
茶湯寺は「百一日参り」のお寺さんでした。
 
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  茶湯寺の参道。故人はこの石段に腰掛けて、成仏して家族を迎えてくれる、と信じられていました。右から二  つ目がキリシタン地蔵と言われています。
 
でも、現代は寂れたお寺です。
人影は私達以外にありません。
20m先の賑わいが嘘のようです。
谷川には紅葉が輝いています。
谷底には寒椿も散って見えます。
 
私の目的の一つが石仏の拝観です。
大山が祖先の霊が集まるところですから、霊が成仏できるようにお地蔵様が多く祀られています。
茶湯寺の境内にも沢山のお地蔵様が祀られています。
その中の一体が「キリシタン地蔵」と言われています。
目的はキリシタン地蔵を確かめる事です。
 
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                                        キリシタン地蔵の全姿
谷川を跨ぐ橋を越えると、石段を上ります。
その山側に4体の地蔵が迎えてくれます。
その一体が目標のキリシタン地蔵です。
高さ1.2メートル程のお地蔵様です。
灰色の安山岩が素材です。
舟形光背の舳先の位置に丸に十の字が刻まれています。
お地蔵様の頭の上です。
普通なら何も刻まれないか、刻まれていれば梵字でしょう。
一番目に付く位置に十字架が刻まれているのです。
 
加えて、お地蔵様の袈裟は襟首がU字型に垂れ下がっています。
こうした衣紋は袈裟に無い訳ではありません。
京都の清涼寺にはこうした衣紋の仏像(宋代の影響)が多く残されています。
でも、キリスト教聖職者の衣服もこんな形です。
 
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光背には何か刻まれています。
カメラでは判読できません。
拓本を採れば読める事でしょう。
多分、お地蔵様を奉納した人の「願い文」が刻まれている事でしょう。
 
お寺の奥様に伺いました。
この他にもキリシタンと言われる似たような石仏が無いのかどうか・・・。
残念ながらこれ一体だけだそうです。
きっと、お墓を探してもキリシタンの遺物・・・、思われるのかこのお地蔵様一体限りなのかもしれません。
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境内には「わらべ地蔵」と言った新しい意匠の六地蔵も祀られています。
子供の表情は羅漢のような自由さが感じられます。
また、坐像の六地蔵、立ち姿の六地蔵・・・・、数多くのお地蔵様が祀られています。
お地蔵様の足許には「マムシに注意」案内が為されています。
もう、この寒さです。
マムシも地中にうずくまって、来春を夢見ている事でしょう。
でも、どのお地蔵様もお顔がありません。
お顔の位置には川原の丸い石が置かれています。
丸い石は苔むしています。
 
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大山は神仏混交の霊地でした。
明治維新の廃仏毀釈の騒動は過酷を極めた事でしょう。
大山は神の聖地で仏は関係ない・・・・、
妄信が地蔵の顔を壊してしまいました。
マムシは人の心に在るもんだ・・・、
お地蔵様が身を呈して諭しているようでもありました。
 
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                                六地蔵(坐像)
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                                          現代的な意匠のわらべ地蔵尊
 
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鈍翁の白雲洞(近代数奇茶)

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一般に親鸞上人と呼びますが、道名は「愚禿」で法名が「親鸞」でした。
ですから「愚禿親鸞」がフルネームになります。
同じように、良寛様は「大愚良寛」がお名前です。
「愚」とは「おろかな者」ですから、親鸞は「剥げ頭の愚か者」、良寛は「大馬鹿者」の意味です。
と言っても、誰も「愚か者」とは思っていません。
”自分自身が愚か者である”と自覚して、それを名前にして・・・・・・更に修行に励むんだ、
そんな自戒の気持ちが伺えるようです。
 
「益田孝」は三井物産を明治9年に創業した実業家です。
三井財閥の大番頭としてその発展に貢献しました。
そうして、晩年は小田原板橋に別邸「掃雲台」を建て、茶の湯三昧の日々をすごしました。
茶人としての号(名前)が「鈍翁」です。
”鈍い老人”と誰も思いません。
頭脳が明晰で、利に目ざとい・・・・、頭の切れは抜群だ・・・、誰しも思っていた事でしょう。
茶の湯に係わると幼子のように”好き者”になってしまう・・・・・、
茶の湯仲間とお茶をするのが大好きで、
茶の道具には盲目になってしまって・・・、何でも買い求めてしまう。
自然が好きで。
美しいもの(書画)が好きで・・・・・、好きなものは何でも自分のものにしなくては気がすまない。
そんな自分自身を”号名”にしたのでしょう。
 
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  初冬の強羅公園。紅葉が未だ残っていて、右手には10月桜が咲いています。向かいの山が金時山、その右  手が大文字山(明神ヶ岳)になります。今日の話題の白雲洞は左手のレストランの裏側です。
 
明治の日本には個人所得税はありませんでした。
益田をはじめ実業で成功した者は桁違いの富豪でありました。
彼ら成功者は、気候温暖で、魚も野菜も美味しい、
温泉も沸いて、美しい自然や歴史資産に富んだ箱根を好みました。
益田は小田原城の西、箱根温泉郷の上り口に3万坪の敷地を購入しました。
自分自身は掃雲台と言う名の別邸を建てました。
そして、山県有朋(古希庵)、大倉喜八郎(共寿亭)、田中光顕(現白秋童謡館)等を誘います。
特に茶の湯仲間として、高橋義雄(箒庵/三越)、藤田伝三郎(芦庵/藤田組)、岩原謙三(謙庵/NHK初代会長)、
松永安左衛門(耳庵/電力王)などが集まります。
 
益田鈍翁をコアにして、茶人が集まります。
彼等に共通したのは、
実業界の成功者で、大金持ちであった事、
美しいものに金銭を惜しまない”好き者”であった事、(これを桃山時代から”数寄者”と言いました)
そして、仲間内で自分の数奇者としての自慢を披露する事でした。
 
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                   白雲洞の待ち屋。茶席に呼ばれた人は此処で主人からの案内を待ちます。
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      白雲洞の寄り付きから待ち屋を見下ろす。主人は客人が来られた事を此処で確認して迎えます。
 
明治45年、小田原電気鉄道の草郷清四郎は益田鈍翁に相談、協力を求めます。
スイスのアルプス登山鉄道を参考にして、箱根に登山電車を通し、小涌谷の真下、強羅をサン・モリッツのような高原リゾートにする計画でした。
世界の大商社を育てた益田鈍翁のアドバイスを受けて、登山鉄道は建設が始まります。(大正8年開通)
鉄道に先行して大正3年、強羅の開発分譲事業(36万坪)を始めます。
 
強羅の駅前にフランス式庭園「強羅公園」を造ります。
そして、その一角に益田鈍翁は「白雲洞」と言う名の山荘を結びます。
 
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   白雲洞の寄り付き、ここで客人はコートを脱いで(衣文掛けがありました)階段を上ります。右に曲がれば温   泉岩風呂(白鹿湯)があります。ここで俗界の塵を流してください・・・、そんな意匠でしょう。右の小部屋には   「安閑」の額(小堀遠州)がかかっています。白雲洞に来られたなら「安らかに、のどかにお過ごしください」庵   主の語り掛けでしょう。
 
前段の説明が長くなってしまいました。
12月7日、私たち8人の日本文化サークルの仲間は「益田鈍翁」の遺跡を巡る事にしました。
 
今年の紅葉は台風の影響で見るも無残なのです。
ところが箱根は台風の塩害を峰峰が防いでくれたお陰で美しいのです。
先ず、第一は紅葉を見たかった事、そして紅葉の中のお茶室を巡ろうと考えたのでした。
 
強羅公園には中央のヒマヤラ杉をツリーにしてクリスマスモードです。
未だ少し紅葉は残っていますが、冬桜が目立ちます。
公園の西外れ、崖状の地形に白雲洞が建っています。
 
巨岩がゴロゴロ転がっています。
一般の住宅地にするのは巨岩を撤去しなければならないでしょう。
開発に邪魔な巨岩を逆に利用して、南画に出てくるような田舎屋風の山荘を建てました。
山荘を上段にして、お茶席等を四戸設えました。
そして、それらの真ん中に岩風呂(白鹿湯)を造りました。
4棟の建物は階段や渡り廊下でつなぎました。
 
その後、益田鈍翁から譲られた原三渓は一回り大きな建物を作りました。(8畳間。水屋付き)
「対字斎」と名づけられた増築建物は真正面に明神ヶ岳(大文字山)が眺められます。
そこで、この名が付いたのでしょう。
 
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                                      白雲洞に付随した白鹿湯(岩風呂・温泉)
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  白雲洞を益田鈍翁から譲り受けた原三渓は下段に「対字斎」を建てました。
  この席からは正面に大文字山が見えます。
 
白雲洞は数奇者のリーダー、益田鈍翁が設えた山荘です。
明治時代を切り開き、実業を成功させた意気がそこかしこに見えます。
従来の茶道の縛りや規則に拘らない近代茶人の自由な発想や近代人の「機知」があります。
 
先ず、8畳間と言う広さでしょう。
そして、縁の無い畳も多くの人を融通無碍に招き入れる事が出来ます。
更に、障子戸や簾が用意されていて、室内が明るいのです。
茶席に寄り合った人が自由に会話を楽しめる・・・、そんな空間であります。
「近代人のサロン」とも呼べる「茶」でしょう。
それは、茶道をグローバル化するには、避けられない試みだった事でしょう。
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   白雲洞の屋根。箱根宮城野の農家から譲り受けた小屋を「田舎屋風の茶席」にしました。
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   寄り合いから白雲洞を見上げる。隠居した好々爺が迎えてくれそうな期待が高まります。
 
私たちは点茶を戴きました。
落ち着いた物腰の女性が点てて下さいます。
私は一番の末席に座った積もりでしたが・・・・、
最初にお茶が配されました。
用意されたお茶碗から・・・・、あれが良いな・・・、視線を向けると気づかれたのでしょう、最も優雅な、お茶碗を下さいました。
サラリーマン時代、クラブに遊んで、一番好みの女性が相手をしてくれた・・・、
そんな時の嬉しさを思い起こします。
 
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    白雲洞での点茶風景。お菓子とも500円で、抹茶をいただけます。気さくな明るい女性が点ててくれて、     説明をしてくれました。
 
目の前のお茶花は裏手に咲いていた侘び介です。
花瓶は伊賀風に見えます。
床柱は、ホゾが切ってあります。
ホゾは茶杓の節のようにアクセントになっています。
このホゾに横木が通されていたのでしょう。
奈良の当麻寺から古材をとり寄せたものだそうです。
釘の跡が見えます。
 
天井は船形天井(舟の底のような形)で、素材は漆喰壁だそうです。
屋根を支える梁組は赤松の丸太が・・・、まるで青大将のようにうねっています。
 
炉は農家の囲炉裏端のような意匠です。
其処には小さな自在鉤が降りていて、鉄瓶が架かっています。
自在鉤は竹の筒で、山女のような魚が吊るされています。
田舎屋がピッタリの景色です。
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                  炉は小型の囲炉裏です。(私達のお点前は奥の水屋で用意されました)
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  白雲洞の床、柱は当麻寺の古材で、伊賀の花瓶、庭の侘び介が活けられていました。
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    私には優しい志野茶碗が配られました。模様が冬桜のように見えました。
 
 
当麻寺は小堀遠州の庭園でも有名です。
お隣の三畳の寄り付きには「安閑」と書かれた軸がかかっていました。
白雲洞に来られたら「安らかに、のんきにして下さいよ」そんな庵主の気持ちなのでしょう。
それは、同時に鈍翁の晩年の気持ちだったのでしょう。
 
そこで、先ず岩風呂(白鹿湯)で温泉浴びて、俗界で浴びた塵を洗い流してから、茶席に臨んだのでしょう。
明るい茶席で、自由な気持ちでお茶を楽しんだ事でしょう。
 
床の間の背に半畳ほどの納戸がありました。
何時の時からか此処が「持仏堂」になりました。
其処に祀られているのは、益田鈍翁、原三渓、松永耳庵、三人の近代数奇茶風をつくった人達でした。
 
私は茶道には疎いのですが、こんな風に思います。
千利休の時代と明治時代は似ていた事でしょう。
そして、千利休の商才や生涯は小田原に集った数奇者に通じるものがあったことでしょう。
江戸時代300年を通して、茶道が様々なしきたりや縛りにあってしまいました。
鈍翁達は「茶道の初めに戻ろうとした」ものでしょう。
 
私たちは実業からリタイヤして・・・・、少なくとも私は到底鈍翁のような境地にはなれません。
けれども、「安閑」として、季節の中で人と語らい、美しいものを見たい・・・、
そんな欲求は益々盛んです。
貧乏人でも数奇者でありたい・・・・、思いながら持仏堂を後にしました。
庭には枯れた敦盛草が残っていました。
 
 
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     白雲洞、床の間の裏は持仏堂になっていて、近代三人の数奇者が祀られています。
 
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   【追記】  お仲間にお願い、
           間違いがあったら指摘してください。(M.T)
 
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秋を聞く「老欅荘」(松永耳庵の寓居)

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益田鈍翁は白雲洞を原三渓に譲ります。
その後、原三渓は対字斎を増築し、白雲洞には多くの人を迎えられます。
昭和13年12月28日、益田鈍翁は90歳で亡くなります。
その翌年、昭和14年8月16日、原三渓も相次いで亡くなりました。(79歳)
白雲洞は松永耳庵に譲られます。
益田鈍翁の始めた近代数奇屋、茶サロンを継承したのでした。
 
私達は白雲洞から松永耳庵が晩年すごした「老欅荘」に向かいました。
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                                    山楓の樹下に老欅荘は佇んでいます。
 
老欅荘は小田原板橋にある「松永記念館」の裏、高台にあります。
お隣が益田鈍翁の別邸「箒雲台」です。
鈍翁の承継者として、友人として最高の立地だった事でしょう。
 
門前に樹齢400年を越すケヤキの巨木がありました。
その風雪を耐えた姿に自分の人生を重ねあわせて「老欅」の名を冠したものだそうです。
その足許に巨岩を置きました。
黒部から運んだものだそうです。
そう、松永耳庵は本名を松永安左衛門といい、日本の電力王と呼ばれた実業家でした。
欅の巨木の下に平たい巨岩を置き、その上で瞑想する、座禅する・・・・、そんな姿が思われます。
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                     老欅荘の由縁になった「大欅」手前の大石は黒部の石。11月末撮影
 
松永安左衛門は長崎の壱岐の島で生まれます。
壱岐中学の時、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動し、上京します。
明治22年慶応義塾に入学します。
同僚に福沢桃介がいました。(福沢諭吉の娘婿)
松永は日本の端の小島の生まれ、福沢は埼玉の貧農のせがれ、
二人は友人になり、期せずして同じような人生を切り開きます。(二人とも電力王と呼ばれる)
 
日本が次第に軍国に傾く中で、松永安左衛門は強い反対意見を述べます。
「戦争に訴えなくとも、日本が生きていける」として、
「国家による管理」や「軍閥に追従する官僚」を声高に非難します。
既に日銀から東大官僚を追放し、慶応など私学をメインにしていた松永でした。
こんな松永を「財界の共産党」と揶揄する人も現れます。
本当はリベラリストだったのでしょう。
松永の言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と批判が集中します。(1937年)
「貴人は重大なリストに載っているから、引退しなくては危ない」
忠告を受けました。
国家総動員法の施行に伴い、電力会社は9つの会社が配電事業を行う事になります。
松永は東邦電力を引退します。
 
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             庭への木戸、築地に山楓が映えていました。木戸の右手に待合があって茶室があります。
 
還暦を迎えて松永安左衛門は茶の湯に情熱を傾け始めます。
戦争に転げ落ちる日本を見ていられなかった事でしょう。
そして、鈍翁の「茶サロン」に集まった人々との交流に魅せられたことでしょう。
益田鈍翁の指導があったことでしょう。
千利休以来、茶の湯は硬骨漢が多くたしなみとしていたようです。
 
柳瀬山荘(新座市/現在上野の国立博物館の中庭に移築されています)に茶室をつくり「耳庵」と名付けました。
論語の
「子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所慾踰矩」から取ったものです。
自分の耳が「福耳」である事もあってこの名が気 に入り、自分の雅号も耳庵としました。
 
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  老欅荘案内図。真ん中10畳間(黄色)が居間。手前床付きの3畳の部屋が茶室。隣のピンク色の10畳間が婦  人の部屋。上段の鶯色の部分が昭和28年増築部分。4畳半の付け書院、8畳間、3畳半の茶室がある。
 
戦後の昭和21年12月、耳庵は老欅荘に移り住みます。
前述したように欅の大木が好きだったこともありましょう。
何より、山楓の錦秋に魅せられたのではないでしょうか?
と言うのは、小さな高台が全面山楓の木に覆われているのです。
山楓は葉っぱも小さくて、京都のイロハ楓のように雅ではありません。
でも、鄙や山里、谷川に染まる紅葉だからこそ心を打つ侘びた味があります。
晩年は奥様と一緒にこの楓の木の下で貴重な時間を過ごしたい・・・・、
決めた事でしょう。
お二人の生活は昭和46年まで、25年間も続けられます。
箱根神社の神様が、最後まで戦争に反対した硬骨漢にご褒美の時間を用意されたのでしょう。
 
生憎な事に12月7日、老欅荘の室内には入れませんでした。
予約が入っていたのでした。(7千円で一日貸切が可能)
私の仲間にもこの寓居で長く連れ添った夫婦の25年間を思い浮かべて見たかったのでしたが・・・・。
(夫人の部屋にはお写真がかかっていました)
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   どの部屋からも山楓の庭先が見渡せます。これが真ん中の居間です(10畳)、左に控えの間(6畳)があっ     て、左奥に奥様のお部屋(10畳)がありました。11月末撮影
 
老欅荘は当初は和室三室よりなる簡素な造りです。(除く茶室)
東南の角には付書院のある三畳大の床間付きの部屋があります。(増築部分)
主屋の東北の角にも三畳の寄付茶室があります。
その二つの部屋の真ん中に居間(大広間)があります。
また、昭和28年には広間の西南に四畳半台目の茶室を増築しました。
付書院を設けた耳庵好みの数寄屋です。
お茶室が三間もあるのは、様々なグループが同時に訪れる事があったからでしょうか?
また、季節によってお部屋を使い分けたのでしょうか?
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                                       奥様のお部屋、10畳間。11月末撮影
 
大工は地元の大工棟梁古谷善造と孝太郎の父子だそうです。
老夫婦がああじゃない、こうでもない・・・・、親子の大工にあれこれ注文します。
どの部屋からも、どの茶室の障子越しにも、山楓の錦秋が眺められる・・・・、
そんな意匠だったことでしょう。
 
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                                                    庭から木戸を見る。 
秋は目で見るもの・・・・、風で感じるもの・・・・、そして耳で聞くものです。
風に舞って紅葉が散ります。
散る音、山風の囁き、渡り鳥の鳴き声・・・・・、野猿の気配・・・、
様々な秋の音が耳庵さんの福耳に届いた事でしょう。
 
三人の数奇者は何れも長寿でした。
でも、耳庵さんは最もご長寿で昭和46年6月16日、天寿を終えました。(96歳)
抹茶がカテキンを含んで、長寿効果がある為でしょうか?
それとも、実業で成功をした人は、元来生命力旺盛で、長寿なのでしょうか?
 
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大倉喜八郎晩年の棲家(共寿亭)

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益田鈍翁は小田原板橋に3万坪の丘陵を購入し、自らは「箒雲台」を建築、晩年を過ごしました。
お隣には松永耳庵が「老欅荘」を建て移り住みました。(昨日一昨日書きました)
香林寺を挟んで北側の丘陵には山県有朋が「古希庵」を建立しました。(明治40年)
古希庵の向かいには大倉喜八郎が共寿亭を建てました。(土地購入明治41年、建築大正9年)
益田鈍翁は、山県有朋には土地を寄贈し、大倉喜八郎には売却したものと想像します。
大倉喜八郎にとっては、山県有朋はかけがえのない恩人だったから、
有朋のお隣を大倉は欲しいに違いありません。
 
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                    山形有朋の古希庵の門。この筋向かいが共寿荘です。
 
私達は老欅荘から、香林寺の門前を通って共寿荘に向かいました。
竹林の間の細道を抜けると古希庵の門前に出ます。
古希庵は休日しか見学が出来ません。
竹垣の隙間から中を眺めながら、道を隔てて南側の共寿亭に入ります。
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       老欅荘から共寿亭への小道。左の竹林の中に共寿亭があります。
       竹塀に花瓶があって柚子がいけられていました。
 
大きな御影石の門柱が立っていて、旅館「山月」の看板が立っています。
数年前、また旅館が再開されたのでした。
重要建造物に指定されて、空き家のままにしていたら傷みが進んでしまうから、再開させたのでしょう。
私達は山月で昼食を戴き、共寿亭を見学する予定です。
 
5年ほど前に来た時には竹林も荒れ放題、庭も草が茫々でした。
今は、手入れもし始めて、竹林は見事に甦りました。
庭師も入っています。
でも、3月11日の大震災によって転がってしまった庭の石塔類はそのままです。
3500坪の大邸宅の維持は容易では無さそうです。
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    神像の間から入って左折、石段を登ると共寿亭の玄関に出ると思われるが、
    草木が生い茂って通れません。手前の道を入ると旅館山月の玄関に出ます。
 
池の横から玄関に続く石段があります。
でも、草叢に石段は隠されてしまっていて、通る事が出来ません。
旅館山月の玄関は共寿亭の玄関を迂回して、その裏から入ります。
長い廊下を通って、台所の横に出ます。
その先が、共寿亭の洋風応接間、玄関に出ます。
本来なら玄関から入る筈です。
裏口から入ったのですから、見学の順が逆になってしまいます。
 
私達は二階の部屋に通されました。
この部屋は共寿亭では一番落ち着いていて、景色も良いのです。
でも、建物の中でどんな役割があったのか、不思議なお部屋です。
そこで、女将さんに尋ねてみました。
 
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     二階からの眺め。紅葉の彼方に相模湾も垣間見られます。右側の部屋が私達が通された部屋。
     此処が晩年大倉喜八郎の居間として使用されました。楼閣風であり、中に入ると洋室だか数奇屋か混沌     とした部屋です。でも妙に落ち着きます。
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    上記部屋の床の部分。
熊倉勲/国立民族博物館教授は仏間と案内しています。
でも、女将さんは居間と呼んでいました。
 
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   左花頭窓の下が玄関、窓から下を眺めると来客が誰なのか判断できます。二階からの階段を下ると隠し部   屋があります。玄関は鉄扉を含めて三重の戸があります。危険(暴漢など)から身を守る仕掛けであります。
 
この部屋が大倉喜八郎の居間だったのです。
当初は洋室だったのですが、晩年になって畳が敷かれました。
畳の厚さだけ床が高くなってしまいました。
女将さんは床面の扉を開けて見せます。
なるほど、畳の厚みが邪魔をして物の出し入れが不自由です。
床の間も当初は無かったのですが・・・・、
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         二階居間の板襖、渋沢栄一からのお祝いと伝えられる。
         作家は「小川樋笠」と案内されていました。水仙、蕗が蒔絵でデザインされています。
 
共寿荘の設計は大倉組技師の松田登三郎であり、工事は大倉組でありました。
自社のオーナーの別邸です。
最高の材料を使って、丁寧に作ったことでしょう。
今も寸分の狂いもありません。
建て付けも建具も完璧です。
庭の石組は倒壊しても建物は歪みませんでした。
そう思うと、関東大震災も経験した建物です。
改めて、感心しました。
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                      昼食風景。(蕎麦をメインにした定食だけ用意してくれます。1500円です)
 
これだけの建物を預かって、旅館業を営んでいるのが女将さんと板前さんの二人だけです。
昔の荒れ放題を知っていますから・・・・、
「随分綺麗になって・・・、お掃除も大変ですね!」
申し上げました。
すると、女将さんは大声で言われます。
「いや、手足が足りないので荒れ放題です。加えて漆工芸が多いので大変です。当初は雑巾がけして叱られました。夜になれば大きな足音がして・・・・、野猿が屋根を駆け巡るのです。」
そう言われて銅葺きの屋根を見ると、団栗の実が転がっています。
屋根の上で木の実を食べたのでしょう。
糞も転がっています。
何れ、雨が降って流してくれる事でしょう。
 
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    1階の応接室の天井。箱根は細工の伝統があります。透かし彫り細工で蝶と雀が描かれています。
    江戸時代の俗曲に由来していると思います。"本望遂げし曽我兄弟 誉れゆかしき蝶千鳥 ♪ ストトンス      ト ”この辺りは曾我神社が多くあります。
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 二階居間の天井と照明。ランプはフランス製で鳳凰のデザインだそうです。火の鳥のようです。
 (コードは吊るした紐の中にあるようです。)1階天井の照明は複製だそうです。
 この部屋は日本版の「アール・デコ」と言えるでしょう。(フランス万博のテーマ)
 古今東西の装飾が五目のお寿司のように散りばめられています。
 
共寿亭は大倉喜八郎が晩年を過ごした最後の別邸です。
応接室が沢山あり、恩人を偲ぶ大部屋があり(4賢堂)、別邸は同時に商談にも使われたのでしょう。
(4賢人:木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山形有朋)
大倉喜八郎は益田鈍翁や松永耳庵のように悠々自適に過ごす事は出来ず、
死ぬまで商人魂を貫いたようです。
それは、一方で隠れ部屋を用意し、玄関を三重にしなくては落ち着いて寝られない・・・・、
そんな時間だったのでしょう。
考え方次第で、私のような貧者の方が幸せかもしれません。
 
 
 
【追記】大倉喜八郎について
幕末維新の政商としては岩崎弥太郎(三菱)と並ぶ人物。
天保8年(1837)年越後新発田の商人の三男に生まれ、江戸に登り「鰹節商人」をする。
早くに鉄砲商人に転じ、戊辰の軍事需要に潤う。明治維新後は貿易の他建設、化学、製鉄等実業に手を広げる。西南戦争、台湾出兵、日清・日露戦争など軍需によって大儲けをしたことから「死の商人」と揶揄される。
晩年は公共事業や教育・文化活動に惜しみなく資材を投じる。大倉商業学校(東京経済大学)を設立、大倉集古館、ホテルオークラ、帝劇、帝国ホテル等を設立した。
共寿亭は大倉喜八郎の江戸趣味を匂わせる建物であります。
 
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   山月の玄関の眺め。朱色はハゼの大木
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    竹林はお正月モードです
 
 
 
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