奈良井の宿伊勢屋さんに荷を置いて、早々に私達16名は宿場町を散策しました。
全員で先ず大宝寺に向かいマリア地蔵を拝観する事にして、それからは分散する事にしました。
大宝寺は表通りを山側(左手)に折れて、突き当たりにありました。
山門と本堂の間に拝観受付があります。
「拝観料100円」案内されていますが、お留守のようです。
庫裏に回っても人の気配が在りません。
そこで、マリア地蔵探しです。
裏山の奥、墓地の中に潜んでいれば、中々見つけられそうもありません。
奈良井宿の表通りから左、山裾に大宝寺があり、その墓地の本堂寄りに「マリア地蔵」が祀られています。
墓地の入り口にブロンズの水子地蔵、聖観音像が祀られています。
二体の間から山裾を見ると、小さな木のお堂があって、その中に子安地蔵が納まっておいでです。
マリア地蔵は今回の旅行の目的のひとつでしたから、拝む事が出来て嬉しくなります。
水子地蔵の右奥に見えるお堂にマリア地蔵は祀られています。
マリア地蔵の全身像
残念な事にお地蔵さんのお顔、抱かれた乳児の顔、いずれも在りません。
明治の廃仏毀釈の騒動で、壊されたのでしょう。
そして、竹薮の中に捨てられてしまいました。
この、木曽谷の美しい奈良井でさえ、狂気が駆け巡ったのでした。
竹薮に埋もれていた子安地蔵が再び日の目を見たのは昭和7年でした。
草刈をしていた農夫が発見します。
掘り出してみたら、子安地蔵です。
お顔が無くても、袈裟を着ています。
乳児を抱いています。
子安地蔵に間違いありません。
でも、二箇所見慣れない所がありました。
袈裟の下に聖衣を着ています。
聖衣とはマリア様がキリストをお産みになられた時の衣装です。
そして、お膝の上に抱かれた赤子は・・・・、
蓮を一本お持ちです。
スッと伸びた茎の先端が十字架になっています。
その先に、花と蕾が付いています。
「変わった子安地蔵様だ!」
思いは誰しもが持ちました。
何時しか「マリア地蔵」さま、と呼ばれるようになりました。
私は、夜、布団に横になって「マリア地蔵」を思い起こします。
この木曽谷には「隠れキリシタン」と呼ばれる石仏が何体も発見されているのです。
木曽町には「折畳マリア象」、大桑村の天長院にも子育て地蔵がマリア像である・・・、いわれています。
大桑村の妙覚寺にはマリア観音像は千手観音です、ただその左手に持った”鉾”の先端が十字架なのでした。
古典的な仏像には儀規と呼ばれる約束事が細々決められています。
石仏も仏像ですから儀規に従うのが普通ですが、地方によって様々に変化します。
加えて近世の石工自体が城郭建築に携わった職人でしたから、彼等は儀規に束縛されません。
彼等の創意工夫が加わりました。
織田信長は自身の領内で楽市楽座を実施します。
安土や長浜には沢山の商人が集まります。
信長は比叡山延暦寺をはじめ守旧の寺院は制しますが、基本的には信教の自由も保護します。
パードル(神父)も安土や長浜を拠点に、
北には東海道、東山道(近世の中山道)に足を伸ばし、布教に努めます。
美濃から木曽谷にかけてキリスト教信者が増えた事は想像できます。
路傍のお地蔵さん、合掌する指先を組ませれば「キリシタン地蔵」になるでしょう。(奈良井で)
馬頭観音(?)の左1手、鉾の先端を十字架にすれば「キリシタン観音」です。
隠れキリシタンを探そう・・・、そんな思いで石仏を見れば随分発見できそうです。
島原の乱(1637年)を経験して、江戸幕府はキリシタン弾圧に乗り出します。
その役を寺院に任せます。
総ての住人の身元を寺に調査させ、寺の信者として確認させました。(宗門改め制度)
奈良井の寺も、村の全員を6つの寺院何れかに属させました。
そして、結婚から新生児の届け出、死亡など戸籍の管理を行わせました。
住人の中には、寺に無縁だった人も、パードルの教えを受けた者も居たでしょう。
仏教では両手の掌を合わせて”合掌”します。
パードルは神に祈る時両手の指を組ませました。
少しだけ違いましたが・・・・・、細かな仕草に拘る必要はありません。
6世代も7世代も引き継がれると、パードルの教えは木曽谷の土着の信仰に融合した事でしょう。
袈裟の下に聖衣を着せても、蓮の茎の先端を十字架にしても・・・・、子安地蔵に変わりありません。
まして、ローマ法王に認められた神父に接する事は全くありませんでした。
キリスト教は既に土着化し、十字架の上のキリストの教えは記憶の彼方に霞んでしまった事でしょう。
貧しい生活、苦しい日々の中で子供を失う事が多々ありました。
祖先が拝んだ事であろう、「キリストを抱いたマリア像」が数世代を超えて、
何時しか「賽の河原で赤子を抱き上げて下さるお地蔵様」に変換したのでしょう。
人々の悲しみを解ってくれたのが「マリア様の面影を残した子安地蔵」であったのでしょう。
これはもう「隠れキリシタン」というよりは「潜入キリシタン」とか「土着キリシタン」と呼ぶべきでしょう。
ベースは地蔵信仰であり、信仰の原点は「乳児を失った悲しみ」の救済でありましょう。
「パードルが盛んに木曽路を布教した」そんな十字架やマリアの記憶が、
数世代、数百年を超えて、石仏の小さな表現に残されたのでしょう。
大宝寺の垣根は「カラタチ」です。鋭い棘は野茨を凌ぎます。
キリストの「茨の冠」を思わせます。
私は早朝に伊勢屋さんの番傘をさして再びマリア地蔵を詣でました。
お堂の中ですから地蔵様は濡れていません。
でも、しっとりしておいでです。
昨日より表情があります。
街道は人や荷を運ぶ道です。
それと同時に文化が交錯します。
そして、独特の地域文化を育んでくれます。
文化のフラスコのようなところです。
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