12月7日、早朝私達夫婦は日本文化サークルのT先輩夫婦を誘って箱根に向かいました。
目的は昨日まで書いてきた益田鈍翁の「数奇茶文化探訪」ですが、箱根の紅葉探勝も魅力です。
車は西湘バイパスから箱根湯本に入ります。
此処からは早川に沿って登ります。
箱根温泉、7湯が続きます。
最初が「湯元」、最高地点が「芦の湯」です。
温泉街道ですから一般に「湯坂道/ゆのさか」と呼んでいます。
何処も紅葉の名所です。
この道は鎌倉時代に開通した箱根越えルートです。
箱根磨崖仏を初め六道地蔵(正安2年/1300年)、箱根宝篋印塔(文永4年/1267年)、早雲寺、阿弥陀寺等の歴史遺産が並びます。
箱根のメインルートです。
箱根の湯坂道、千歳橋から見る早川
江戸時代になって、箱根越えの新道が開発されました。
新道は須雲川に沿って登る道で、湯坂道の東側に位置しています。
この道を「箱根旧街道で」と呼んでいます。
今も石畳の道が続き、甘酒茶屋があります。
早川沿いの湯坂道(バス通り)が新街道で、須雲川沿い道が旧街道・・・、
錯覚します。
湯坂道が古街道、そして須雲川の道が旧街道なのです。
勿論、旧街道の方が道は登り易いのでした。
ですから、急いで箱根を越えたい旅人は旧街道を行きました。
一方箱根で湯治をしたい、遊山をしたい、そんな人は湯坂道を辿りました。
同じく早川の渓流。
湯元温泉の登ると、美しいアーチ橋が見えてきます。
鉄筋コンクリートで出来ています。
名前は「旭橋」です。(昭和8年、橋長39m、幅10m)
続いて同じようなデザインのアーチ橋が出てきます。
名は「千歳橋」です。(昭和8年 橋長23.5m、幅9m、鉄筋コンクリート)
細部の装飾が違います。
旭橋は和風ですが、千歳橋は洋風です。
千歳橋、ランプが和風です。
千歳橋もアーチ橋を支える列柱が特徴です。
二つの橋の中間に「函嶺洞門」があります。
ゲート(門)を等間隔で建てて、其処に屋根を覆って、山から崩れてくる土砂を防ぐ・・・、そんな構造です。
「土砂崩落防止用の覆い」が正しい名前でしょう。
でも「函嶺洞門」と言う名前には箱根らしい響きがあります。
唱歌「箱根八里/滝廉太郎」で歌われた・・・、
箱根の山は、天下の嶮
函谷關も ものならず・・・・
を思い出します。
函嶺洞門の名が付いた経緯は解りません。
若しかしたら・・・・、唱歌の影響かな?
思ったりします。
函嶺洞門は箱根駅伝の舞台でもあります。
この三つの土木遺産は何れも美しき、訪れる人に”箱根に来たなあ!”感慨を呼び起こします。
橋の下を見れば早川の渓流が白い波しぶきを立てています。
川面に接すかのように紅葉が垂れています。
洞門の周囲も紅葉が飾っています。
門柱の間からは早川の急流が見渡せます。
宮ノ下温泉に向かいます。
道の前方に富士屋ホテルの本館が見えてきます。
唐破風の付いた豪華な建物です。
和と洋と合わさった、摩訶不思議な建物です。
聚楽第が残っていたら、こんな建物だっただろうか?
思わせます。(明治24年、登録有形文化財)
宮ノ下、富士屋ホテル本館(明治24年)正面玄関は巨大な唐破風が付いた神社のような構えです。
お隣には「花御殿」と名が付いた竜宮のような建物が見えます。
壁は校倉造りを模しています。
千鳥破風も複雑です。(昭和11年 登録有形文化財)
どちらも「これが日本建築?」疑うような建物です。
大半の日本人は好きになれないでしょう。
でも、この肌に合わない建物が日本の観光の草分けなのです。
富士屋ホテル「花御殿/昭和11年」日本建築の様々な意匠がてんこ盛りの不思議な建物です。
明治4年(1871)20歳の山口仙之助は単身でサンフランシスコにわたります。
3年間寝食を忘れて働いて、溜めたお金で乳牛7頭を買って横浜に帰りました。
「日本に欠けているのは牧畜業だ!」そんな確信があったのでしょう。
しかし、明治初頭の横浜で充分な牛乳需要がありませんでした。
加えて、乳牛を世話する知識もありません。
たちまち2頭が死んでしまいます。
たまたま、駒場勧業寮(東大農学部の前身)が繁殖用牛を求めていることを聞きつけ、
5頭を売り渡します。
この金を元手に何をしようか?考えます。
サンフランシスコでのホテル経験が思い浮かびます。
そこで、「箱根で外国人向けホテル」をやろう!立ち上がります。
明治11年(1877)箱根宮下にあった旅館「藤屋」を買い取ります。
そして、外国人受けする「富士屋」に屋号を変えます。
横浜から洋風建築に慣れた大工を呼んで、外国人受けする3階建てホテルを建てさせます。
花御殿前の紅葉
日本人の月給が6円と言う時代に横浜に居留していた外国人の月給は300円と言う時代です。
外国人専用のリゾートホテルと言ったコンセプトは大当たりします。
周囲の旅館は1泊2食50銭でした。
富士屋ホテルは2円でした。
でも、外国人には人気でした。
富士屋レストランのある建物。権現造り(神社)ようでもあり、寺院の塔の様な建物がある。
日本人にとっては奇妙な印象だが、外国人には”受ける”思ったのでしょう。
日本の近代化建築には和洋の混交と同時に、和様でも神仏混交していたようです。
その後明治17年(1883)宮下の大火災で富士屋ホテルも全焼、立て替えます。
宮下には「奈良屋」と言う名旅館がありました。
両者は競いながら、現在まで発展してきています。
でも、現在は「外国人専用」の看板は下げて、どうも「セレブなご婦人をお待ちしてます」
チェンジしたような気配です。
RC造りの橋や洞門が土木遺産であるのと同じように、富士屋ホテルの建物も登録有形文化財であります。
どちらも、我国の近代化遺産であります。
そして、もう私達世代は見慣れてしまっています。
紅葉に飾られて、どちらも良いもんだ・・・、なんて思ったりもします。
富士屋ホテル、エントランス。
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