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箱根湯元の近代化遺産(千歳橋に富士屋)

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12月7日、早朝私達夫婦は日本文化サークルのT先輩夫婦を誘って箱根に向かいました。
目的は昨日まで書いてきた益田鈍翁の「数奇茶文化探訪」ですが、箱根の紅葉探勝も魅力です。
車は西湘バイパスから箱根湯本に入ります。
此処からは早川に沿って登ります。
箱根温泉、7湯が続きます。
最初が「湯元」、最高地点が「芦の湯」です。
温泉街道ですから一般に「湯坂道/ゆのさか」と呼んでいます。
何処も紅葉の名所です。
 
この道は鎌倉時代に開通した箱根越えルートです。
箱根磨崖仏を初め六道地蔵(正安2年/1300年)、箱根宝篋印塔(文永4年/1267年)、早雲寺、阿弥陀寺等の歴史遺産が並びます。
箱根のメインルートです。
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                                            箱根の湯坂道、千歳橋から見る早川
 
江戸時代になって、箱根越えの新道が開発されました。
新道は須雲川に沿って登る道で、湯坂道の東側に位置しています。
この道を「箱根旧街道で」と呼んでいます。
今も石畳の道が続き、甘酒茶屋があります。
早川沿いの湯坂道(バス通り)が新街道で、須雲川沿い道が旧街道・・・、
錯覚します。
湯坂道が古街道、そして須雲川の道が旧街道なのです。
勿論、旧街道の方が道は登り易いのでした。
ですから、急いで箱根を越えたい旅人は旧街道を行きました。
一方箱根で湯治をしたい、遊山をしたい、そんな人は湯坂道を辿りました。
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            同じく早川の渓流。
 
湯元温泉の登ると、美しいアーチ橋が見えてきます。
鉄筋コンクリートで出来ています。
名前は「旭橋」です。(昭和8年、橋長39m、幅10m)
 
 
続いて同じようなデザインのアーチ橋が出てきます。
名は「千歳橋」です。(昭和8年 橋長23.5m、幅9m、鉄筋コンクリート)
細部の装飾が違います。
旭橋は和風ですが、千歳橋は洋風です。
 
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                                                千歳橋、ランプが和風です。
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    千歳橋もアーチ橋を支える列柱が特徴です。
 
 
二つの橋の中間に「函嶺洞門」があります。
ゲート(門)を等間隔で建てて、其処に屋根を覆って、山から崩れてくる土砂を防ぐ・・・、そんな構造です。
「土砂崩落防止用の覆い」が正しい名前でしょう。
でも「函嶺洞門」と言う名前には箱根らしい響きがあります。
唱歌「箱根八里/滝廉太郎」で歌われた・・・、
  箱根の山は、天下の嶮
  函谷關も ものならず・・・・
を思い出します。
函嶺洞門の名が付いた経緯は解りません。
若しかしたら・・・・、唱歌の影響かな?
思ったりします。
 
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                                       函嶺洞門は箱根駅伝の舞台でもあります。
 
この三つの土木遺産は何れも美しき、訪れる人に”箱根に来たなあ!”感慨を呼び起こします。
橋の下を見れば早川の渓流が白い波しぶきを立てています。
川面に接すかのように紅葉が垂れています。
洞門の周囲も紅葉が飾っています。
門柱の間からは早川の急流が見渡せます。
 
 
宮ノ下温泉に向かいます。
道の前方に富士屋ホテルの本館が見えてきます。
唐破風の付いた豪華な建物です。
和と洋と合わさった、摩訶不思議な建物です。
聚楽第が残っていたら、こんな建物だっただろうか?
思わせます。(明治24年、登録有形文化財)
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    宮ノ下、富士屋ホテル本館(明治24年)正面玄関は巨大な唐破風が付いた神社のような構えです。
 
お隣には「花御殿」と名が付いた竜宮のような建物が見えます。
壁は校倉造りを模しています。
千鳥破風も複雑です。(昭和11年 登録有形文化財)
どちらも「これが日本建築?」疑うような建物です。
大半の日本人は好きになれないでしょう。
でも、この肌に合わない建物が日本の観光の草分けなのです。
 
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   富士屋ホテル「花御殿/昭和11年」日本建築の様々な意匠がてんこ盛りの不思議な建物です。
 
明治4年(1871)20歳の山口仙之助は単身でサンフランシスコにわたります。
3年間寝食を忘れて働いて、溜めたお金で乳牛7頭を買って横浜に帰りました。
「日本に欠けているのは牧畜業だ!」そんな確信があったのでしょう。
しかし、明治初頭の横浜で充分な牛乳需要がありませんでした。
加えて、乳牛を世話する知識もありません。
たちまち2頭が死んでしまいます。
たまたま、駒場勧業寮(東大農学部の前身)が繁殖用牛を求めていることを聞きつけ、
5頭を売り渡します。
この金を元手に何をしようか?考えます。
サンフランシスコでのホテル経験が思い浮かびます。
そこで、「箱根で外国人向けホテル」をやろう!立ち上がります。
明治11年(1877)箱根宮下にあった旅館「藤屋」を買い取ります。
そして、外国人受けする「富士屋」に屋号を変えます。
横浜から洋風建築に慣れた大工を呼んで、外国人受けする3階建てホテルを建てさせます。
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                花御殿前の紅葉
 
日本人の月給が6円と言う時代に横浜に居留していた外国人の月給は300円と言う時代です。
外国人専用のリゾートホテルと言ったコンセプトは大当たりします。
周囲の旅館は1泊2食50銭でした。
富士屋ホテルは2円でした。
でも、外国人には人気でした。
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  富士屋レストランのある建物。権現造り(神社)ようでもあり、寺院の塔の様な建物がある。
  日本人にとっては奇妙な印象だが、外国人には”受ける”思ったのでしょう。
  日本の近代化建築には和洋の混交と同時に、和様でも神仏混交していたようです。
 
その後明治17年(1883)宮下の大火災で富士屋ホテルも全焼、立て替えます。
宮下には「奈良屋」と言う名旅館がありました。
両者は競いながら、現在まで発展してきています。
でも、現在は「外国人専用」の看板は下げて、どうも「セレブなご婦人をお待ちしてます」
チェンジしたような気配です。
 
RC造りの橋や洞門が土木遺産であるのと同じように、富士屋ホテルの建物も登録有形文化財であります。
どちらも、我国の近代化遺産であります。
そして、もう私達世代は見慣れてしまっています。
紅葉に飾られて、どちらも良いもんだ・・・、なんて思ったりもします。
 
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                                              富士屋ホテル、エントランス。
 
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早雲寺の香爐峰庭園

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箱根湯元の紅葉が見事でしたので、一寸古刹「早雲寺」寄ってみました。
湯元の温泉街の奥、閑静な佇まいです。
何時来ても心が洗われる思いがします。
とりわけ、塵一つ、木の葉一枚無く掃き清められた本堂前庭に出ると、心身とも引き締まる思いがします。
 
本堂の周囲は、年が明けると高野槙の赤と緑の実が散り敷かれます。
お坊様がその実を掃きます。
放って置くと赤い実を踏みつけますので、清浄であるべき庭が汚れてしまいます。
掃く後から、実が散ってきます。
”すぐ散ってしまうのですから・・・・、暫く放っておいて、まとめて掃いたら如何ですか?”
訊いてみたくなります。
でも、そんな事訊いたら、叱られそうです。
 
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   早雲寺の本堂前の高野槙の古木。本堂横にも数本の巨木があって、冬から早春にかけて赤と緑の実を落   とします。庭をお地蔵様と句碑、歌碑が取り囲んでいます。
 
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                              早雲寺本堂前庭。左手に宗祇句碑がたっています。
 
 
本堂の裏には築山があって、頂上に開山堂があります。
開山堂が本堂の背中を見詰める・・・・・、そんな位置にあります。
北側に書院(茶室付き)があります。
これらの建物から眺められる空間に枯山水庭園があります。
枯山水は「史跡、北条幻庵作、香爐峰庭園」案内されています。
銀杏の巨木の根元です。
開山堂の屋根も、茶室の屋根も、金色の葉で覆われてしまっています。
香爐峰庭園は、雪ならず銀杏の黄葉が覆っています。
 
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                            早雲寺、築山の上から本堂を見る。手前が方丈、茶室です。
 
北条玄庵は北条早雲の三男でした。
若くして僧籍に入り、箱根神社の別当をし、三井寺に修行します。
生涯還俗せず、後北条氏のご隠居、精神的な支柱として生涯を終えます。(享年97歳1587年)
玄庵が亡くなると秀吉は小田原攻めを敢行、8ヶ月後には後北条氏は滅亡し、
玄庵等が創建した早雲寺も全焼してしまいます。
 
玄庵は多才な人物でありました。
名前の通り「茶道」に始まり、和歌、連歌、庭園の他尺八の製作(一節切り)、鎧兜等も作ったそうです。
その才能が多くの文人に慕われました。
飯尾宗祇の墓があり句碑も建っています。
そんな玄庵の作った枯山水庭園が”香爐峰”なのです。
 
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                     宗祇は西行、芭蕉と共に漂白の詩人と呼ばれます。
                      ”世にふるも更に時雨の宿りかな”
                     句碑は時雨の中を歩む宗祇の旅姿でしょうか?
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       飯尾宗祇墓。文亀元年(1501年)2月越後を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら       駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文亀2年(1502年)7月30日箱根湯本で客死した。(享年82歳)。
 
庭と言えば夢窓疎石でしょう。
疎石は土岐川の山峡に立って仏教の聖地「廬山」を髣髴しました。
そこで、永保寺を建立、庭園を造営します。
玄庵も、早雲寺の方丈庭園に廬山を模した枯山水庭園を造った事でしょう。
沢山の峰が連なって、雲、霞がたなびき、遠くに東林寺や遺愛寺の甍が霞んで見える・・・・、
そんな景色を枯山水で表しました。
 
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               北条玄庵作、枯山水庭園「香爐峰」 正面が開山堂、右奥がお茶室付き方丈
 
廬山と言えば、私達日本人は清少納言の枕草子で教わっています。
「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」
 
白居易の詩「香爐峰下・・・」の冒頭です。
  日高睡足猶慵起
  小閣重衾不怕寒
  遺愛寺鐘欹枕聽
  香爐峰雪撥簾看
私は廬山の麓に小さな庵を建てて住まいました。
陽が上って、充分睡眠をとっているのだが、なお起きだすことが億劫だ。
何故なら、寒さでお布団を重ねて寝たので、寝床は暖かく、布団から出難いのです。
布団の中から、遺愛寺の鐘は枕を傾けて聞きます。
香爐峰の雪はすだれをはね上げて眺めます。
   (以下略)
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                                          早雲寺の紅葉(12月7日)宗祇句碑の前
 
玄庵は箱根山を廬山に、遺愛寺を早雲寺に重ね合わせて、枯山水を築いた事でしょう。
そして、方丈の間に布団を敷いて寝ながら・・・・・、白楽天の言うとおりだ・・・、
思った事でしょう。
 
急に寒くなったから、紅葉も見事に染まりました。
早雲寺は幾星霜を重ねて、栄華盛衰を見つめてきました。
 
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    早雲寺山門、門の向うは山で、一夜城のある石垣山に続いています。
  【注記】霊峰「廬山」ですから香廬峰が正しいと思っていたところ、「香爐峰」と書かれ、香炉峰も使われていまし       た。”爐”や”炉”の字では意味がぼやけてしまうようです。
 
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葉雨庵(野崎幻庵の茶室)

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12月7日、小田原板橋にある老欅荘に行きましたが、室内には入れませんでした。(貸切していたのです)
そこで、12日再訪してみました。
7日も山楓が鮮やかに染まっていたのですが、12日には一層に朱色が濃くなっていました。
今年は紅葉の染まるのが遅かったのですが、長い間楽しませてくれるようです。
期待通り室内にも入れました。(紅葉は外から見た方が綺麗でした)
 
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                老欅荘、この10m程下の段に池があって、その畔に葉雨庵があります。
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               老欅荘の紅葉は1週間で一層深い朱色に染まりました。未だ楽しめそうです。
 
老欅荘は丘の中段にあります。
下段に大きな池があります。
丘に降った雨水を受けていますが、庭の片隅にポンプ小屋があります。
地下水をポンプアップしているのでしょう。
かなり、作為的ですが、ここ松永記念館の中心です。
夏には菖蒲が咲きますが、今は寂しげで池の縁に姫蔓蕎麦が咲いているだけです。
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  松永記念館の池。こだわりの塊のような老欅荘なのに、この池に名が無いのは不思議でした。
 
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   松永記念館は松永耳庵の別邸を展示場にしたもの。左手池が中心です。正面にキリシタン灯篭があって、   その後ろにポンプ小屋があります。池の水は雨水を溜めただけでは不十分なのでしょう。
   この池の縁を辿って、葉雨庵の木戸に向かいます。
 
目線の中心に石造五重塔があります。
笠(屋根)が欠けているのは関東大震災で倒壊した時の傷でしょうか?
大震災は横浜の被害が大きかったので、横浜が震源のように思われていますが、実は相模湾沖が震源でした。
松永記念館は老欅荘のある山側から流れ出る雨水を池が受けています。
この五重塔は奈良山辺の長岳寺に在ったものだそうです。
石橋も長岳寺、老梅の木の根元にも大きな石があります。
これは不退寺(在原業平が開基なので在原寺とも呼ばれます)の礎石だったそうです。
平城天皇が建てた寺ですから、当初の伽藍は大きく、こんな礎石を要したのでしょう。
池の周囲は数奇者と呼ばれる通りに、様々な石造文化財が置かれています。
キリシタン灯篭、双体道祖神、東大寺の石棺(石池と案内されています)、
播磨国分寺の礎石、羅漢像(鈍翁のプレゼントと案内されました)と様々です。
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        池の中島に長岳寺から取り寄せた石造五重塔が立っています。
        島に渡る橋も長岳寺にあったものだそうです。
 
昭和34年、松永耳庵は収集した古美術品を広く愛好者に親しんでもらおうと、
自邸の敷地内に展示用建物を建築し、松永記念館(財団)を設立しました。
耳庵の没後、敷地と建物が小田原市に寄付されました。
その後、小田原市は改修工事を施し、昭和55年に公開を開始しました。
(この段パンフレットを抜粋)
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                                                 葉雨庵と露地
 
公開に際し、葉雨庵(登録有形文化財)を移築します。
この数奇茶室は、野崎広太(幻庵)が小田原の別邸「自怡荘」内にありました。
野崎広太は日経新聞者社長から三越社長に転じた実業家でした。
また、耳庵に続く現代茶人で、茶会漫録を新聞紙上に連載(21年間、12冊、今の交遊録の前記事?)
した人でした。
                                 
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   葉雨庵。錦木が見事に染まっていました。
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                                                 四つ目垣に実かずら
              
客人は瀟洒な門を潜って、露地を伝い、お茶室の横に出ます。
垣根には実かずらが真っ赤な実を垂らしています。
錦木が染まって、障子に影を落としています。
私達は玄関横からお茶室の中を覗き見します。
同行したYさんが要所を説明してくれます。
彼も耳庵同様、定年後お茶をはじめたのでした。
 
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葉雨庵の全景。にじり口から室内を覗いて見ました。
屋根は塩瓦、庇部分は杮葺きです。(苔の生えている屋根)
   
茶室のサイズは三畳台目中板入で、二間四方の水屋が付属しています。
現代数奇者らしい特徴があります。
中板と中柱出炉の形や、床脇に設けた背の低い茶道口、点前畳の対面に開いた貴人口の等・・・。
 
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葉雨庵室内。茶席は3畳しかありませんが、床も水屋も広いようです。
   快適にお茶を点てて少ないお客をもてなす配慮でしょうか?
 
お隣にもう一つ茶室があります。にじり口から室内を覗きました。
烏薬亭(うやくてい)と言います。
葉雨庵の付属建物として設えたものです。
葉雨庵は3畳ですから、市民が使用するには狭すぎると判断した事でしょう。
小田原は漢方薬の町でもあります。(ういろう在り)。
漢方の烏薬を植えて、この名をかぶせたのでしょう。
 
小田原市には数奇茶室が数多く保存され、市民の使用に供しています。
”ソロソロお前もYさんを見習って・・・”諭されるような気がします。
今日みたいな日は、ユックリお茶室で初冬の季節を味わいたいものだ・・・・、思ったりします。
グループを優先してお茶室を借りられる・・・・、
そんな施設や仕組みは文化都市小田原市らしい試みだと感心します。
因みに松永記念館は拝観料も駐車料も無しです。(横浜の三渓園は拝観料500円、駐車料500円です) 
 
でも、今日の予定は大磯の鴫立亭で「コーヒー・ケーキ」の予定です。
これでは、メタボは一向に改善しそうにありません。
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    達磨の赤い実が熟してきています。足許に双体道祖神がありました。
    明和年間、小田原スタイル(蔵様形)です。耳庵は美しいものは何でも集めたようです。
 
 
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未だ、熱海梅園では紅葉が楽しめます

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もう12月も半ばになりました。
未練がましいのですが、もう少し紅葉を見たい・・・・・・、
熱海梅園に出かけました。
と言うのは、小田原の紅葉が見事でした。(12月13日)
ならば、熱海も見事であろう・・・・、類推したからです。
南側を山で囲まれた地形が似ているのです。
それに、熱海梅園は「日本一早く梅が咲き、遅くまで紅葉狩りが出来る」、言われていますから。
 
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   熱海梅園。背の低いのが梅ノ木。高木の山楓と混植されています。
   梅の木の下を遊歩道が網の目のように通じています。
 
熱海には度々訪れたのでしたが、梅園には入った事がありませんでした。
熱海から11号線(熱海・三島を繋ぐ)を3キロほど走ると、山峡に出ます。
谷川の両側を、自然地形のままに公園にしたものです。
公園と言うより、”渓谷回遊式庭園”と言った方が適切かも知れません。
 
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    橋の向うに滝が見えます。滝の後ろにも道が通っています。滝上には澤田美術館があります。
    澤田雅博は熱海生まれ、高村光雲のお弟子さんでした。
 
南画によく描かれた風景があります。
瀑布があって、渓流が流れ落ちています。
大きな岩場があって、脇には小さな庵が建っています。
人が岩の上から山峡の景色を愛でています。
ああ、これが桃源郷か・・・・・、思う景色です。
熱海梅園はそんな南画を庭園にしたような景色です。
 
園内に案内板があって、プリントも取れるようになっています。
それらを総合すると、次の歴史を経た庭園なのでした。
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                          紅葉の中に中山晋平の疎開した家が移築されています。
 
高崎の商人(質屋)であった茂木惣兵衛は横浜に進出します。
生糸商人として大富豪に成長します。
また横浜伊勢崎町に野沢屋呉服店(後の野沢屋百貨店、平成20年閉店)を出店します。
その惣兵衛が明治19年(1886)に2.5haの庭園を熱海に開きました。
明治21年には皇室に献納され、熱海御料地に編入されます。
戦後の昭和22年(1947年)国有財産になります。
更に昭和35年、大蔵省から熱海市に無償で払い下げられました。
その後、園内整備を進め、昭和41年熱海梅園をオープンしました。
 
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     道は谷川の沿って、川の右の左右に渡っています。数多くの橋があって趣を深くしています。
 
園内には熱海生まれの彫刻家「澤田政廣」の記念美術館を設立、
また、戦時中熱海に疎開した中山晋平の居宅を移設しています。
(この段は別の機会に案内します)
晋平居宅のお隣が「韓国庭園」です。
この空間だけが少し異質な感じがします。
平成12年森善朗内閣総理大臣が大韓民国の金大中大統領を熱海に招きました。
日韓首脳会談の翌日、両首脳が梅園内を散策し歓談されたそうです。
それを記念して園内に韓国庭園を整備したのだそうです。
 
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     紅葉の間に建っているのが澤田政廣記念美術館。後ろの山は熱海峠に続きます。
 
1万坪の大庭園です。
梅の花を愛でながら散策できるように道が整備されています。
梅には及びませんが、楓も沢山植えられています。
楓はもう散ってしまった木もありますが、今が盛りの木もあります。
冬日の斜光に透かされて、朱色は一層鮮やかに輝きます。
紅葉や山茶花を愛でながら、歩くと、橋を渡って、瀑布の前に出て、更にその裏側にも回れます。
私の歩数計も知らず知らずのうちに1万歩を越えています。
 
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                       熱海梅園の正面ゲート。遠い山並みの向うが三島になります。
 
もう、早い梅は咲き出したかも・・・・、探しますが蕾は膨らんでも未だ花は見つかりませんでした。
梅の根元には水仙が盛んに咲いています。
穏やかな冬の陽射しの中で、家族が昼食をとっています。
ベンチが幾つも在って・・・・・、坂道を歩きつかれた人には優しいのです。
観梅の季節には「足湯」も使えるようです。
 
紅葉の向うに相模湾の海が輝いていました。
 
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  熱海の海。この写真は熱海梅園より海より、MOA美術館近くから見た相模湾です。
 
 
 
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戦争と中山晋平

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熱海梅園の南斜面に簡素な家屋が建っています。
梅園の点景に相応しい、日本家屋です。
冬の陽射しが燦燦と降り注いでいます。
これが、中山晋平の居宅です。
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                                       中山晋平の居宅。南、東が開放された作りです。
 
昭和10年、中山晋平は熱海の西山町に別荘を建築しました。
空襲が激しくなった昭和19年、東京の中野から別荘に転居します。
そして、昭和27年、この居宅で息を引き取りました。
西山町に近い熱海梅園に寄贈されました。
 
中山晋平は明治20年(1887)信州の日野村(現中野市)に生まれました。
妙高高原の登り口で、坂を下れば信濃川の川岸に出る日本の原風景のような美しい村です。
沢山の愛唱歌はきっと故郷の景色や人情を思い起こしながら作曲したのだろう・・・・、想像させます。
 
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                                   玄関に置かれたピアノ。向うが玄関口です。
 
小さな門を潜って、小さな玄関から入ります。
玄関には白いピアノが置かれています。
玄関左には4畳半の和室(書斎)があります。
此処は作曲に使用した部屋のようで、黒いピアノが置かれ、楽譜などが陳列されています。
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                            1階4畳半に置かれた黒いピアノ。この部屋だけ縁側がありません。
 
 
1階も2階も総て畳が敷かれた和室です。
南側、東側に広い縁側が作られています。
ガラス戸越しに陽光が差し込んできます。
日なたで温るむには最適です。
晋平の育った北信州は雪深く、冬は陽射しがありません。
ですから、熱海の冬は夢のように思えた事でしょう。
 
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        1階の茶の間(?)総じて江戸趣味の数奇屋です。 向うが玄関。
 
中山晋平は縁があって島村抱月の書生になって上京します。
東京音楽学校、ピアノ科を卒業し、浅草の千束小学校音楽専科教員を務める傍ら作曲を行います。
島村抱月は松井須磨子ろ「芸術座」を旗揚げします。
晋平も参加し、復活(トルストイ)公演に際して劇中歌「カチューシャの唄」を作曲し、評判をとります。

 
島村抱月が死去すると芸術座も解散してしまいました。
晋平は野口雨情と組んで童謡を発表します。
創作民謡も手がけ、西條八十、北原白秋の作詞によって、多くの作曲をします。
ラジオや蓄音機(レコード)などが普及した事も追い風であった事でしょう。
竹久夢二の表紙画の中には、晋平の美しい旋律が収まっていました。
 
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                                   蓄音機の普及が中山晋平を後押ししました。
 
作詞家の山田耕作らが軍歌を作り、大人も子供も軍歌を愛唱し始めます。
画家も音楽家も戦意を高揚し、神国日本を喧伝するような作品を発表します。
そんな中で、晋平は沈黙してしまったようです。
きっと、軍歌のメロディーは苦手だったのでしょう。
熱海の別荘に籠もって、ボンヤリして過ごすしか術が無かったのかもしれません。
音楽家としての公職は勤めても、作曲家としての活動は低調だったのでした。
 
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      1階の広い縁側、大きなガラス戸でまるでサンルームのようです。
      左に大広間があります。この広間で穏やかな死を迎えたのではないでしょうか(?)
 
終戦を迎えました。
戦争責任について、世上意見が交錯します。
多くの音楽家が「天皇が責任を取らなかったのだから・・・、自分如きは(戦争責任は無い)・・・・」開き直ります。
 
軍歌などの作品が殆ど無かった中山晋平を責める意見はありませんでした。
でも、中山晋平は沈黙したままでした。
戦争の傷跡が優しい晋平の心を深く抉っていたことでしょう。
沈黙を守る以外の生き方は見付けられなかった事でしょう。
山田耕作のような臆面の無い生き方は、信州人は知りません。
 
その日、熱海では黒澤明監督の「生きる」が放映されました。
晋平は映画館に居ました。
きっと、自らの生き様と照らし合わせて、主演の志村喬を見詰めたことでしょう。(癌で死期が宣告されている)
晋平の「ゴンドラの唄」が流れます。
 
そして、その翌日に倒れ、昭和27年12月30日息を引き取りました。(享年65歳)
死因はすい臓炎でした。
その日も、この家の縁側に、室内に、燦燦と陽が射していたいた事でしょう。
 
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   2階の広間から縁側を見る。冬の陽射しが部屋の奥深く差し込んでいました。
 
主要作品  
 童謡
   シャボン玉、証城寺の狸囃子、あの町この町、背比べ、鞠と殿様、砂山、雨降りお月様、兎のダンス
 流行歌
     カチューシャの唄、ゴンドラの唄、船頭小唄、東京行進曲
 新民謡
     波浮の港、出船の港、東京音頭、天竜下れば、さくら音頭
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   後列中山晋平、前列西條八十
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      酒席で即興で書いた楽譜、西山町の酒屋さんが所有していた。晋平のお人柄が偲ばれるようです。
 
  母さん お肩をたたきましょう
  タントン タントン タントントン

  母さん 白髪がありますね
  タントン タントン タントントン

  お縁側には日がいっぱい
  タントン タントン タントントン   (作詞西:條八十、作曲、中山晋平)

響いて居たかも知れません。
 
 
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瑞泉寺の紅葉はこれからです

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今年は鎌倉の紅葉は期待出来そうも無い・・・、諦めていました。
でも、台風の影響が少ない、南を山で囲われている場所なら・・・・、期待できるかもしれません。
そんな、期待を抱いて鎌倉の瑞泉寺に出かけました。
”瑞泉寺が駄目なら・・・、諦めよう”そう思って。
 
境内入り口で、声をかけられました。
「未だ、上段で染まり始めたばかりですよ・・・」
「今年の紅葉は如何ですか?」尋ねれば、
「大変に遅れていますが・・・・・、例年通りではないでしょうか?」
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          瑞泉寺参道、頭上の紅葉は紅葉が始まったばかりです。(12月15日撮影)
          例年ですと石段に散った紅葉を掃く姿が見られます。
 
例年ですと、もう散った落ち葉を掃いていられる筈です。
広い境内を掃き清めるのは大変な作業です。
それが、散るばかりか未だ梢の先には緑の葉もあれば、染まり始めた程度です。
 
山門にいつも額がかかっています。
額を見て、境内を歩くのが私の楽しみです。
 ”西吹けば 東に溜まる 落ち葉かな” 蕪村
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    瑞泉寺山門は紅葉の樹下にあります。右の柱に額がかけられています。
    ご住職が参内者に「問いを投げかけている」ようです。
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             紅葉の瑞泉寺山門(昨年撮影)、今年はクリスマスの頃が見ごろでしょう。
 
ご住職の大下一真氏(歌人)の選であり、書なのでしょう。
瑞泉寺でなくても、少し庭の広いお宅なら、この季節は落ち葉を掃くのが苦労です。
西風が吹いた朝なら、東に、北風なら南に、落ち葉は吹き溜められているのです。
ただ、当たり前の現象ですが、ご住職に示されると、自分に置き換えて捉えてしまいます。
 
私は正岡子規の言葉を思い起こします。
”禅の悟りとは、いつでもどこでも死ぬる覚悟ができていることだと思ったが、それは誤りで、
    いかなる場合でも平気で生きることであることがわかった”
 
額の向かいには山崎方代氏の歌碑が建っています。
    手のひらに 豆腐をのせていそいそと いつもの角を曲がりて帰る
              http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43773232.html
ご住職は物心共に山崎方代氏を支援し、没後もその作品を紹介されておいでです。
 
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   正面本堂、手前の南天が増えました。方代は次のように歌っています。
   「一度だけ本当の恋がありまして 南天の実が知っております」
 
大きな楓の樹の下には書院(茶室付き)があります。
長い間修復工事をしていましたが、見事に工事を終えました。
あの、丸窓からお庭を眺めたら・・・・、どんなにか紅葉が美しかろう・・・、思います。
嵯峨野の祇王寺のように・・・・、美しかろう・・・・、想像します。
あの茶室にお呼ばれしたら・・・、”夢”かも知れません。
 
庭に紅葉が散り敷かれるのは、クリスマスの頃になりそうです。
 
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   改修工事を終えた書院、右側がお茶室と思います。この3本の楓が見事に染まります。
 
小菊はもう霜枯れています。
代わって水仙が、椿が咲き始めています。
椿の蜜を求めて小鳥が群れています。
私の出現に驚いて、梅の梢に飛んで逃げます。
 
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    本堂、方丈裏の庭園、昨年来の樹木伐採工事で大きな岩屋が露出しました。
 
本堂の裏は夢窓疎石の庭園です。
疎石は永保寺庭園(36歳)に始まり、天竜寺庭園(76歳)まで数多く造園します。
北条高時は南禅寺の疎石を鎌倉に招聘します。(1326年51歳)
そして、瑞泉寺に入ります。(52歳)
その折に造園しました。
 
裏山の樹を伐採し、土を捨てると凝灰岩の岩山が現われます。
この岩を削って、洞を堀り、池を穿ち、滝を設え、座禅石を置きました。
そうして、如何にも禅宗にふさわしい庭園を造りました。
疎石は間違いなく室町時代を代表する人物でした。
 
瑞泉寺庭園は、昭和45年、大々的に発掘工事をしました。
でも、それから40年を過ぎると木々が茂って岩が隠れてしまいました。
 
昨年から、木々を伐採していましたが、驚くほど大きな岩場が露出してきました。
小さいと思っていた庭園は雄大でありました。 
 
何時訪れても瑞泉寺は新鮮です。
 
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    夢窓疎石の面目躍如たる枯山水庭園。凝灰岩の岩屋を削って造った「岩山水庭園」です
    昨年までは土や草が覆っていました。
    山百合が咲いたりしてそれは良かったのですが、本来の姿が一番です。
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   霜枯れし始めた小菊。もう水仙が咲き始めています。
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    水戸光圀お手植えと案内されている10月桜。マダマダ咲き続けるようです。これでは100日桜(?)
 
 
 
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錦秋の横笛庵に思う

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明治の実業家「原富太郎」は茶人であり、書家であり、南画家でもありました。
雅号を「三渓」と言いました。
三渓は本牧に建立した自邸の名(国の名勝三渓園)でもありました。
邸内にはその名の通り、三本の渓流が大池に注いでいます。
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  今日の話題は横浜本牧にある名勝「三渓園」の横笛庵。渓流の脇にあります。この辺りは初夏には蛍が飛び  交います。平安時代、女性の恋心は蛍になって体外を飛んで出る・・・、思われました。
   ものおもへば 沢のほたるもわが身より あくがれいづるたまかとぞ見 (和泉式部)
 
 
東北(辰の方角)の渓流が最も大きく、初夏には蛍が飛び交います。
その畔に、ぽつんと草庵が建っています。
園内の建物は過半が重要文化財ですが、この建物だけは何の指定もありません。
そう、敢えて言えば数奇屋建築ではありますが、お茶室にも使えますし、
芭蕉庵や楽柿舎のような類の”侘び住まい”といえましょう。
 
どうした経緯があって三渓園にあるのか、案内されていません。
ただ、この建物には「横笛像」が祀られていたので、”横笛庵”とよぶ、横笛像は戦争中に焼けてしまった。”
とだけ記されています。
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                             横笛庵の全景。山楓の樹下に佇んでいます。(撮影12月16日)
 
横笛は平家物語巻10に語られています。
小松中将維盛卿は屋島から、高野山に向かいます。
高野山のいる斎藤時頼(滝口入道)を頼りにしたからです。
高野山で心身ともに準備を済ませ、熊野に向かい、入水して果てます。
そこで、物語は”横笛”の悲話に寄り道します。
 
横笛は建礼門院の侍女でした。
ある時、滝口の武士(宮中の辰の口を警護する)であった斎藤時頼(出家して滝口入道)に見初められます。
横笛は暫くその愛を拒んでいましたが、余りの熱意に心が揺れてしまいます。
ところが時頼は父から結婚を反対されてしまいます。
出世の為にはもっと家柄の良い女が良い・・・、家族の意見だったのでした。
 
直情な時頼は出家してしまい、嵯峨の往生院に入ってしまいます。
横笛は嵯峨野に時頼をたずねます。
しかし、時頼は横笛に会えば修行の妨げになる・・・・、会いません。
そして、高野山の清浄心院に移ってより厳しい修行に励みます。
高野山には女性は入れません。
 
時頼の消息を聞いた横笛も尼になります。
そして、奈良の法華寺に入ります。
しかし、物思いに沈んだままで・・・・、亡くなってしまいます。
 
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                                                      横笛庵、裏から眺める。

法華寺にも横笛堂があります。
お堂には30セントほどの小像が祀られています。
像は紙粘土で作られています。
お寺の案内では、横笛が時頼から戴いた手紙を使って、自身の像を形作った・・・・、としています。
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             奈良法華寺の横笛像(日本の古典平家物語/集英社から)
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             三渓園の横笛庵に祀られていたと言う横笛像(三渓園の案内板)、
             両像は同じ型で作ったと思うほど酷似しています。
 
純粋な青年と、無垢な女性の恋です。
少しのすれ違いが、悲恋に転じてしまったのでしょう。
 
西行法師は北面の武士(佐藤義清)でありました。
西行は妻子を捨てて仏門に入ります。
二人には何処か似た性格があって、同じようなすれ違いがあったのでしょう。
 
仏門に入った横笛は時頼の文が修行の邪魔になる・・・、未練を断ち難かったのでしょう。
と言って、落ち葉と一緒に焼いてしまう事も出来ず・・・、
水に溶かしてしまいます。
そして”時頼様の愛が私の総てです・・・”言わんばかりに小像にしてしまいます。
きっと、仏の国で一緒になりたい・・・、念じたのでしょう。
 
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    渓流を見下ろす位置に横笛庵が建っています。谷川が山楓を増やしています。
 
法華寺の横笛像は鎌倉時代の作・・・、と案内しています。
真偽の程は解りません。
 
しかし、横笛庵の小像写真と酷似しています。
二体が同時に出来たか、
法華寺像が有名であったから、似せた像が作られて三渓庵に祀られた・・・、
どちらかだと想像します。
 
和紙を紙粘土にした民芸品は江戸時代各地で作られました。
法華寺も「紙張子/犬張子」人形を案内しています。
達磨人形も起き上がりこぶしも、赤べこ(会津)も紙人形です。
横笛像はそうした民芸品に先行するものでしょう。
 
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    横笛庵裏のお地蔵様。大漁地蔵と案内されていますが、元々は建長寺にあったお地蔵様と言う人もいま     す。伏せ目と言い、何処か尼さんのようなお地蔵様に見えるのは、横笛が乗り移ったからでしょうか?
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京都の嵯峨野はこの秋も紅葉が綺麗だった事でしょう。
人々は祇王寺に、その門前の滝口寺に集います。
横笛も、祇王も、仏御前も、更には静御前も・・・・・、みんな悲しく美しく散ってゆきます。
共通するのは美人でインテリで、和歌や踊り、音曲などに秀でていた事です。
きっと、没落貴族の子女だった事でしょう。
 
紅葉が散り落ちて谷川を流れ落ちるように、歴史の大きなうねりに流されたのでしょう。
そんな想いが、横笛庵がたいした草庵ではないものの、私達の心を掴んで離さない理由でしょう。
 
 
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三渓園の秋(聴秋閣)

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三渓園内苑の中心は「臨春閣」です。
桂離宮に匹敵する書院です。
臨春閣の姿を映す池にもう一本の渓川が流れ込みます。
渓流の縁に二階建ての書院が配置されています。
独創的な意匠が目に付きます。
この建物を原三渓は「聴秋閣」と名づけました。
 
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  三渓園内苑の中心、「臨春閣」、今年の紅葉は不冴えです。
  例年ですとこのアングルでハット驚く美しさなのですが・・・。残念。 
 
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   今日の話題の聴秋閣全景。渓流の面しています。
   二階を支える屋根を葺き替えました。建具屋が作業中でした。
 
二階は仏間です。
窓が蓮花の形をしています。(花頭窓)
金閣や銀閣の最上階と同じ意匠です。
その2畳しかない、四方が障子で囲まれた空間に座って、
目を伏して耳を澄ませば・・・・、秋の気配が聞こえてくる・・・・。
だから「聴秋閣」と名づけたのでしょう。
前にあるのは臨春閣、そして背にあるのが「春草」です。
季節が巡るように、建物も巡るように配置されています。
 
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    舟や橋のような欄干があって、障子が嵌められています。
    開けた方角(池の方)の窓が花頭の形をしています。仏間である証です。真新しいコケラの屋根、その陰に    水漏れ対策の銅板が光っていました。
 
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  聴秋閣の奥にある春草。銀杏の黄葉は例年通りでした。銀杏は塩害に強いようです。
 
聴秋閣は夏から工事用テントに覆われていました。
でも、テントが外されました。
工事は、一階部分の屋根(杮葺き)の葺き替えと、建具の差し替えのようでした。
杮(こけら)とは細かな材木の事で、檜やサワラの薄板を竹釘で止めて、屋根にします。
材木の油脂が水をはじくので、屋根として役割を果たすのですが・・・・・。
見れば、二階との接続部分に銅版が貼られて、輝いています。
二階屋根は葺きかえられていないところを見ると、雨漏りでもしたのでしょう。
コケラはビッシリ貼り合わせないで、隙間を作ります。
空気を通す為です。
でも、其処から水が染み込んで、腐ったり、雨漏りしたりし易いのです。
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   このアングルだけ紅葉が映えているのは、谷間で台風12号による塩害が無かったからでしょう。
   折角の屋根葺き替えだったのですから、全面葺き替えすれば良いのに、茶亭部分と二階の屋根は葺き替    えしませんでした。予算が厳しかったのでしょう。(国の重要文化財)
 
ようやく、紅葉の季節にテントが外せた・・・・、安堵の溜息が聞こえそうです。
今日(12月16日)は建具の差し替えです。
新しく障子が張り替えられました。
襖も用意されています。
建具屋の若い職人がキビキビ働いています。
 
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 キビキビ作業する建具屋さん。彼らが乗っている石が「舟着き石」此処から建物に入って、タイルの上で草履を 脱いで上ります。舟遊びの感覚です。
 右が待ち寄り、左奥が茶室。雨戸が無いので建具の傷みも早い事でしょう。
 
聴秋閣は佐久間将監(さくましょうげん)の作と伝わります。
徳川家光が京都二条城の中に建築させ、後に春日局に下賜したと言われています。(元和3年1623)
銀閣を模したような書院です。
ただ、時代は太平に移ろうとした時代、お遊びに移っています。
1階の建物の周囲は欄干で囲われています。
まるで、舟のような意匠です。
お客さんは露地を伝って、大きな船着き石から建物に入ります。
床はタイル(木板)張りです。
草履を脱いで畳に上る動作は乗船するような形です。
正面に二階への登り口があります。
山側の小部屋は待ち受けのようです。
でも、障子を開ければ谷川が流れて、峰への道が眺められます。
お茶席は池側に用意されています。
此処でお茶を戴いて寛ぎます。
障子戸の隙間から、池の水面に映える紅葉が見渡せます。
二階の仏間に上れば・・・・・、四方八方が紅葉です。
秋を楽しむには最適な建物で、ロケーションです。
 
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   聴秋閣から三重塔を望む。
 
聴秋閣を出て、左の山に登ると「月華殿」があります。
月見の書院でしょう。此処の紅葉は痛みが激しかったようです。
月華殿前にもう1本の渓流があって、滝が落ちています。
昨日案内した横笛庵前の渓流と合わせて、三本の谷川が流れています。
ですから、原富太郎氏が雅号「三渓」としたのでした。
今年は塩害で三渓、それぞれの秋のようでした。
 
 
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二股大根のお釈迦様(若冲戯画)

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12月17日(土)、私の属する日本文化研究会の研究会が午後4時から、打ち上げ会が6時から開催されました。
開催場所は研究会の指導者T氏のお宅で。参加者は大学生と私達OB合計25名でありました。
研究会はY氏が「蜻蛉日記」の考察を報告、随分盛り上がりました。
因みに私は1週間前の「幽霊の文化論」を報告したのでしたが、盛り上がりはイマイチと感じました。
”大学生が興味を持つようにな提起の仕方”が大切だと痛感しています。
学生が議論の中に入れば、報告は成功です。
この会は今年で10年を過ぎました。
改めて、T氏ご夫妻の献身に感謝するものです。
終電車に飛び乗って帰宅しました。
 
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      日本文化研究会はTさんのご好意でそのお宅で開催されてきました。
      今年は10年目でした。学生と社会人が一緒に勉強するところが最もユニークなところです。
 
 
T氏の奥様がお料理されました。
メインは”フロフキ大根”、学生にお野菜の美味しさを知って貰いたい・・・、そんな配慮があったそうです。
 
和服姿のKさんがお話されました。
”今日今まで、金田中(新橋の老舗料亭)で煎茶の会がありました。
私はお水屋が割り当てられ、今まで面倒を見ていたのでしたが、今日のお料理が驚きでした。
大きなお皿の真ん中に三浦大根の煮つけが一本。大根の姿は葉付きで、周囲に鰤の煮つけが囲んでいます。
お料理の意匠は伊藤若冲の「大根涅槃図」に拠っていました。
大根が涅槃を迎えるお釈迦様(2月14日が涅槃会です)、鰤がさしずめ羅漢様なのでしょう。
煎茶の納会(?)でお客様が大根涅槃に感謝しながら、お箸をつけたことでしょう。
Kさんに”今日のお着物は素敵な色ですね、何色ですか?”
伺うと”敢えて言えばモスグリーンでしょうか?”
応えられました。山葵のような色で、大根の葉を煮たような色でしたのに・・・。
 
私の脳裏には京都、石峰寺(黄檗宗)が浮かびます。
寺の境内には200体に及ぶ羅漢像が祀られています。
羅漢をプロデュースしたのが若冲でした。
お煎茶を始められたのは隠元和尚、黄檗宗を伝えた人です。
若冲の心には隠元の教えが根ざしていたのでしょう。
 
何処のお寺にも1幅の釈迦涅槃図があります。
2月14日「涅槃会」にはこの図をかけて、お釈迦様に感謝し、自省します。
涅槃とは死ぬ事のように思われていますが、仏になる事、悟る事を意味しています。
涅槃会は感謝するだけではなく、自分自身もお釈迦様の示された道を歩もう・・・、自省する日です。
 
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          若冲「野菜涅槃図」京都博物館、最も多いのは蕪、全体で88の野菜が描かれています。
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            釈迦涅槃図、沙羅双樹の樹下でお弟子や動物の見守る中横臥し、そのまま亡くなられます。
 
若冲は京都錦小路の青物問屋の長男に生まれます。(正徳6年1716)
22歳で家業を継ぎますが、頭は絵筆を握りたい・・・・、集中していました。
家業は弟に譲り、京都の寺寺を巡って模写に集中します。
しかし、模写では原作を越える事は出来ない・・・・、そこで観察に集中します。
庭に鶏を飼い、写生に集中します。
若冲と言えば鶏です。
その基礎は鬼気も迫る観察、写生を通して、鶏の体に宿る「神性」を描き出した・・・、
言われています。
 
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   鎌倉宝戒寺の提灯、二股大根が絡んでいるデザインが歓喜天のしるしです。
   豊穣とか子孫繁栄を叶えます。
 
釈迦涅槃図は宗教画でした。
ですが、江戸時代中期になると多くの寺も僧侶も葬式の埋没してしまいます。
僧侶がお檀家を集めて「釈迦涅槃図」を吊るし、涅槃会を催す姿は・・・・、
僧侶の胃袋(生活)を満たす光景に写っていたかもしれません。
 
お釈迦様に代わって「芭蕉」や「業平」や「利休」、更には歌舞伎役者が描かれました。・・・
これらは「変わり涅槃図」と呼ばれます。
始祖が始祖の人格を離れてしまって、”飯の種”として扱われている・・・・。
”浄土双六”も作られて遊びになります。
パロディー、戯画が盛んに持て囃されます。
1700年代には観察に始まり、批判の思想が出来ようとしていました。
 
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   三浦の大根畑風景、今は大半が青首大根が栽培されています。短時日で収穫できること、甘い事、適当な   サイズである事、漬物にも最適である事・・・、などが人気の理由です。
 
 
若冲は相国寺や石峰寺の面倒を見てもらっていました。
ですから、あからさまにお寺や僧侶を批判したとは思えません。
しかし、若冲もそうですが、先ず自分の目でしっかり観察をします。
その上で、実態が観察結果と異なっていれば、”間違いだ”批判が起きてきます。
 
狩野派の絵画は形式に堕してしまい、人の心を打たなくなりました。
若冲の絵画は観察を基礎のしていますから、新時代の絵画になります。
若冲の絵筆は自然と既存の狩野派などを批判する結果になります。
 
そして、京都の寺寺の僧侶には元来批評家の伝統があります。
私は、お寺が批判されたが、心ある僧侶には若冲は歓迎されたと思います。
だから、膨大な羅漢像も作られました。
 
若冲の「野菜涅槃図」は88の京野菜が描かれています。
一つ一つ数えながら、”良く描けている”賞賛します。
そんな中で、批評の心を満足させています。
 
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                                               首が緑色なので「青首大根」です。
 
大根がお釈迦様なのは、ごく自然な事です。
大根が冬野菜の王様だからです。
そして、大根は何処を切っても真っ白です。
様々な迷いや煩悩を吹き払った・・・心の断面です。
加えて、二股大根は豊穣の神様です。
二股から様々な命が生れ落ちるように・・・・・、
自分の子孫も繁栄して欲しい、来年も再来年も豊作であった欲しい・・・、願った事でしょう。
一昔前なら神仏に祈ったのに・・・、現実の寺では・・・、あてにならない。
そこで、”二股大根に祈ろうじゃないか”
そんな絵が賞賛されました。
 
 
 
でも、涅槃会に飾られる軸です。
臭い野菜は避けなくてはなりません。
葱に韮、芹等は描かれませんでした。
 
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                          三浦の大根干し風景。向うが房総の鋸山です。全部青首大根です。
 
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                 大きくて太くて真っ白なのが三浦大根、大根足にピッタリの姿です。
 
 
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「来宮神社」のご神木(日本第二位)

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サラリーマン時代、会社の慰安旅行などで熱海には何度も泊まりました。
ホテルを出ると決まって足は海岸に向いて「お宮の松」に出てしまいました。
何度見てもたいした事は無いのですが、不思議な習慣でした。
そんな事もあって、山側の「来宮神社」を詣でた事はありませんでした。
 
JR伊東線「来宮駅」を降りて、北に100m程下ると来宮神社の森があります。
来宮神社の本社であり、有名な割にはこじんまりした神苑です。
30mほど背丈はあるでしょう、クスの大木が何本も立って本殿を囲んでいます。
来宮は古代から「木宮」と書いたそうです。
ご神体が大樹である、そんな神社と思われます。
 
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   木宮神社本殿。周囲は楠の樹林が囲んでいます。
 
「大国主命(出雲大社)」「日本武尊(伊勢神宮)」「五十猛命(いたけるのみこと」の3柱が主祭神だそうです。
五十猛命は林業の神様ですから、本来は林業に携わった人達の神様であったものが、
村の形が変わって、農業(穀物)の神様、国家統一の英雄を併せて祭神としたのでしょう。
鬱蒼と茂った森の下にたたずむと不思議な安堵感に浸ることが出来ます。
私達の祖先は「森の民」だったからでしょう。
 
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    ご神木の全景(東側)、このアングルが綺麗です。
 
家内が言います。”来宮神社には樹齢2000年を越えると謂われるご神木があるそうよ”
神殿を囲っている楠も稀に見る大木です。
でも、樹齢2000年の風格には欠けています。
壮年の大樹です。
 
参拝客は本殿に拍手を打って、左に回って本殿の奥に奥に回りこみます。
そこで、二回目の拍手を打って、帰ります。
ご神木は本殿の更に奥にあるのです。
 
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    ご神木の西側面。地上5mのところで切れてしまっています。
    枯れた部分を覆い隠す勢いで東側の幹が伸びています。
 
ご神木の前に出ました。
余りの大きさに、そして神々しさに圧倒されてしまいます。
嬉しくなって、笑ってしまいます。
大木の根周りは23.9m、樹高は26m以上で、日本の木では二番目だそうです。
        (平成元年環境省「第4回自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査)」
緑の国勢調査では、屋久島の縄文杉等がランクアップされていません。
想像するところ、地上1.3mの位置の幹周りでランキングしたものだそうです。
こうした基準で図ると、上位の大半が楠になるのでしょう。(楠は根元が太い、杉は同じ太さで伸びる)
樟脳の薬効が木を腐らせないから、樹齢も幹周りも長く太くなるのでしょう。 
    
大樹のランキング一位は鹿児島の蒲生の大楠(幹周り24.2m)でした。
二位の来宮神社の大楠を除けば上位は九州に集中しています。
黒潮に沿って、熊野、伊豆、三浦に楠が茂っています。
このような大楠を切り倒して、舟にして海に出たのでしょう。
「海幸彦・山幸彦神話」を思い起こします。
二人の兄弟がお互いの道具を交換する話です。
釣り針を失った山幸彦は海幸彦に虐められます。
でも、最後は海幸彦を攻め滅ぼします。
木の神(山ノ神)が海の神を支配下にします。
 
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      ご神木の北側面。根元が腐って洞(うろ)が出来ています。
     洞の奥に神様が棲んでいて、子孫を増やしているように思いました。
 
 
ご神木を周ります。
1周すると1年寿命が延びるそうです。
この間は黙っていないといけないのだそうです。
でも、家内と一緒だと話通しです。
 
左の幹が枯れています。
1974年の台風で地上5mの位置で折れてしまったのだそうです。
切り傷から腐らないようにトタン板で囲われています。
こんな応急処置で天然記念物でご神体が守れるかと、心配です。
北側の位置に洞が空いています。
洞の奥に神様がお住まいのような気配がします。
 
何処から見てもこの楠は第一世代が左側(枯れた部分)、
第二世代が右側で枯れて部分に覆い被さっています。
そして、現在神苑を覆っているのがその孫、ひ孫世代なのでしょう。
 
二千年と言うのは途方も無く長いのです。
大国主命も日本武尊も、居なかった時代です。
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      ご神木前から本殿の横に戻る。右奥のドリンク自販機の横が御茶屋です。
 
本殿手前に御茶屋がありました。
”ランチは何処かで魚でも食べようか!”
思っていましたが、此処で昼食する事にしました。
美味しい空気の下で食べたら、長生きしそうな気もします。
 
注文は「桜海老蕎麦」です。
お客さんは私達二人だけです。
叔母さんが梅昆布の茶を出してくれます。
精がつくようなお味です。
加ト吉(四国の食品メーカー)の蕎麦を湯がいて、
桜海老の掻揚げてんぷらを乗せて出てきます。(500円)
私も家内も多くは期待していません。
観光地の蕎麦で、まして500円です。
期待することは無理です。
 
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    天ぷらそば(500円)木の器は木の宮神社だから? 右端が梅昆布茶。
 
ところがこれが実に美味しかったのです。
冷えた体が温まった、桜海老の風味が出ていた、お出汁が良かった・・・、様々でしょう。
この前の道を南に進んで、熱海峠を越えればもう駿河湾です。
桜海老が海底から湧き上って、黒い砂浜に干している事でしょう。
由比の桜海老料理に思いを馳せます。
峠を越せば三島大社さんです。
 
 
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楽寿園の”雅”の悲しさ

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私達夫婦は日本全国何処に行っても、大概は私の方が詳しく、家内は私に従っています。
でも、三島は別です。
三島大社での和弓の稽古があって、家内は三島に詳しいのです。
家内のリードで、婦唱夫随です。
定年から楽しく過ごす秘訣は婦唱夫随にあるようです。
 
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                                     寒いのに学校帰りに水辺で遊ぶ中学生
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   今日の話題、三島にある「楽寿園」の園内から湧き出る富士山伏流水。
   楽寿園は湧き出る水を生かして小松宮彰仁親王の作られた別荘(離宮)です。
 
三島大社の西門を出て、水辺の道を歩きます。
柳の街路樹が続きます。
清流です。水量も豊かです。
川底には冬だと言うのに水草が茂っています。
初夏になれば(梅花藻/バイカモ)の白い花が咲くのでしょう。
 
大都市の町の真ん中に清流が・・・、驚きです。
沢山の文人が三島の町をほめました。
せせらぎの道には「文学碑」が並んでいます。
15分も歩いたでしょうか?
白滝公園に出ました。
公園の中に水が湧き出ています。
富士山に降った雪が溶けて、地中に潜って、三島の町の其処此処から湧き出しているのです。
 
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          楽寿園を正門から入る。(撮影は12月13日です)
 
 
家内は白滝公園の西、「楽寿園」に案内します。
私達も「齢を重ねるのを楽しむ」年齢になったもんだ・・・、思いながら入園します。(拝観料300円)
 
小松宮彰仁親王(あきひと)は弘化3年(1846)伏見宮家の第八皇子として生まれます。
仁和寺に入り門跡に就任します。
しかし時代は幕末、門跡として優雅な一生を過ごすことは許されませんでした。
 
慶応3年(1867)王政復興の大号令に際し、還俗を命じられます。
慶応4年には鳥羽伏見の戦いが始まると徳川慶喜追討の軍事総裁になります。
有栖川宮熾仁親王(東征大総督)に従い、西郷隆盛らに補佐されて江戸に向けて進軍します。
官軍の東征を歌った「トコトンヤレ節」の宮さんとは彰仁親王(この頃は仁和寺宮嘉彰親王と改名)のことでした。
  宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいなトコトンヤレトンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ・・・・・・、
彰仁親王は引き続き会津戦争の指揮を執ります。
 
颯爽として、凛々とした姿が庶民の人気や歓迎を集めた事でしょう。(銅像が上野公園にあります)
彰仁親王は明治新政府の軍人として佐賀の乱、西南戦争の征討総督として指揮を執ります。
山県有朋と並ぶ陸軍大将に任じられました。
陸軍大将として富士の演習に参じた事もあったでしょう。
三島の町が好みになり、三島別邸「楽寿園」を建築します。(明治24年頃)
 
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   正面が楽寿館、左にも書院が続き、茶室が設えてあります。 池の左端に舟着き場があります。
   まるで明治の修学院離宮です。
 
園内から湧き出る水を使って庭園を造成します。
堰堤を築き、小浜池を作ります。
湧水を此処で堰き止め、大池にしました。
池の正面に楽寿館と名づけた高床式数奇屋建築を立てました。
それは修学院離宮や桂離宮を彷彿させる、「池泉回遊庭園」と「書院つくり」の別荘建築でした。
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楽寿園から小浜池を見る
 
楽寿館の玄関を入ると、左右に回廊があります。
左に回ると「柏葉の間」「不老の間」を経て、「楽寿の間」に出ます。
正面に小浜池が広がっています。
松の緑と紅葉の朱が新鮮です。
水面には渡り鳥が遊んでいます。
つい見とれて、欄干に手をかけると、監視員に咎められます。
「老朽化していますので・・・、触れないで下さい」
改めて建物の構造を見詰めます。
数奇屋建築でありながら、大広間を作るのは相応の無理もあったようです。
 
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   渡ってきた鴨の群れ
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     深井戸、昔は此処からも充分な湧出があったようですが、枯れてしまいました。
工業用水の取水が原因だそうです。写真は黄鶺鴒。
 
 
京好みの建物です。
軍人の別荘には見えません。
まるで、京風美術館に来たような思いがします。
釘隠しにも工夫があって、格天井には160枚もの花が描かれています。
違い棚には大和絵が描かれた扉が付いています。
勿論、杉戸にも、襖にも・・・・、装飾絵画の満艦飾です。
明治20年代の日本画壇の総力を挙げて描かせたものであったでしょう。(残念な事に作家は案内されていません)京都、東京双方の画壇が競った事でしょう。
 
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      楽寿の間の違い棚(太陽別冊、日本の別荘から転写)/室内は撮影禁止でした。
 
彰仁親王には京の雅が染み込んでいたのでしょう。
戦は好きでない・・・、好みは「雅な文化」・・・、
でも、幕末維新のうねりはそれを許しませんでした。
 
三島の町は箱根山の西にあります。
明治10年和宮内親王は箱根山塔ノ沢温泉で亡くなりました。
病気療養の為、温泉の逗留していたそうです。
病名は脚気と言われています。
32歳の若さでありました。
周知の通り和宮は孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約していました。
 
箱根の山の東西に歴史が刻まれています。
どちらも、時代の激動に翻弄されました。
”京の雅”は何処と無く悲しく見えました。
 
彰仁親王には実子が居られませんでした。
小松宮家は彰仁親王を最後に廃絶してしまいました。
 
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  楽寿園の主室「楽寿の間」の「次の間」。野口幽谷作「池中鯉魚図」(太陽別冊、日本の別荘から転写)
 
 
 
 
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伊豆山神社から初島の眺め

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源実朝は頼朝の次男です。
期せずして三代将軍になります。
政治家として、武人としては適正は如何だったのでしょうか?
しかし、歌人としては高い評価があります。
代表歌は次でしょう。
 箱根路を 我が越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ
 
詞書に次が記されています。
箱根の山を出て、(峠を越えると海が開けて)波の寄せる島が見えた。
従者にこの海の名前を知っているか? 尋ねると「伊豆の海」と申します、と言う。
   
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     初島、対岸が熱海、背後の山が十国峠、最高峰が日金山。(熱海ホテル水葉亭のHPから転載)
     上空写真でも島はリゾート開発で変わってしまいました。実朝の時代は緑の小島だったでしょう。
 
おそらく実朝は快晴の冬の日(今日のような日)箱根神社を詣でて、
次いで伊豆山神社に参詣すべく馬を進めていたのでしょう。
十国峠(日金山、伊豆山神社の奥の院)を越えて、山路を辿れば伊豆山神社に出ます。
境内には父母(頼朝、政子)が逢引した腰掛石もあります。
打倒平家、源氏再興の旗揚げも此処伊豆山神社で行います。
三島神社、箱根権現と併せて、三社は源氏が崇拝し、再三参詣していました。(三社詣で)
熱海の海を見下ろす位置から、相模湾を眺めたのでしょう。
遠く三浦半島が見え、その付け根辺りが鎌倉です。
水平線には大島の島影が見えます。
大島には源為朝が配流されました。
関東全域が見渡せます。(伊豆山神社は関八州総鎮守と呼ばれます)
”此処が我が源氏のルーツだ!”身の引き締まる重いがしたでしょう。
 
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  伊豆山神社の長い石段。海岸にある「走り湯神社」、山腹の「伊豆山神社」、十国峠の「日金山神社」、おそら  く三社が一体で起源であり、信仰されたと思われます。
  と言うのは伊豆山神社は火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命  (いざなみのみこと)の3柱を祭神としますが、火牟須比命(火の神様)が共通した祭神であり、地歴的に共通し  ているからです。
 
実朝は”あの島は何て呼ぶのか”訊いたのでしょう。
従者が名前を知らなかったのか、鎌倉時代は名前が無かったのか・・・・、
”「伊豆の海」です” 当たり前の事を答えます。
実朝は”そんなら知っている、あの小島の事じゃ”怒りもせず、そのまま記しています。
穏やかな、いい人だったのでしょう。
 
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                                  伊豆山神社の拝殿。(撮影は12月13日)
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  伊豆山神社拝殿、唐破風下の龍の彫り物。拝殿に龍の塗装をしたいので寄進願いがしてありました。
  朱の部分(漆塗り)は終えていますので、最後の作業のようです。
  
伊豆山神社の麓、海岸に「走り湯神社」があります。
洞窟から温泉が湧き出し、海中に注ぎます。
だから、熱海の名が付いたのでした。
小島はその沖合い10㌔の位置にあります。
名前は”初島”です。
名前の起源は、、多分悲話「お初」でしょう。(”日の出”や初木媛の神話起源かもしれません)
 
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   伊豆山神社の本殿、右奥の小道を辿ると白山神社を回る遊歩道に続きます。
   更にその奥に東光神社(伊豆山神社の別当寺)があり、その後ろが日金山です。
   日金山は鉱物が産出されたと推測します。一体が神の宿る聖地であり、信仰されたと考えます。
 
小島には「お初」と言う娘が住んでいました。
お初は陸(熱海)の若者を恋してしまいます。
若者の実家は「百夜通ってくれば妻にしてやる」と言います。
お初は夜毎「たらい舟」に乗って海を渡ります。
若者の家で灯す明かりが目当てだったのでした。
いよいよ、百日目の夜の事でした。
若者の家では灯りを消してしまいます。
暗夜に方向を見失ったたらい舟は転覆してしまいます。
お初は溺死してしまいました。
 
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     熱海の町を見下ろす。右奥に下田から石廊崎に続きます。
     沖合いに大島が見える筈ですが写りませんでした。
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                                    相模湾を望む、紅葉の陰に初島が見える筈です。
 
実朝の和歌は素直で初々しい感動が伝わってきます。
 
”島の娘”には日本人は思い入れがあります。
民謡の「佐渡おけさ」「大島おけさ」、歌謡曲の「島の娘」は小唄勝太郎にはじまり、
「瀬戸の花嫁」まで、幾度と無く歌われました。
文学では「潮騒(三島由紀夫・三重の神島が舞台)」が著名です。
どの島娘も万葉集に出てくるような、一途で純粋で、熱い恋心のある娘が主人公です。
 
私には初島には悲しい記憶が残っています。
此処に私の勤めた銀行が「初島ホテル」と言う名のリゾート開発をしたのです。
海外のリゾート開発に融資をしてきた銀行でしたから・・・・、国内では自社で開発会社を設立して、
開発しようとしたのでした。
当時の頭取はリゾートホテルが好きでした。
 
拓銀が洞爺湖を見下ろすApexリゾートで失敗、破綻の端緒になりました。
私の勤めた銀行も初島では苦い経験をしました。
ホテル開業期がバブルの崩壊の当たってしまいました。
開業当初から経営は暗礁に乗り上げてしまいます。
私の同僚後輩はホテルのマネージャーに転進させられました。
大変な苦労をして・・・・・・、
でも、苦労は報いられませんでした。
 
伊豆山神社から熱海の沖合いを眺めていると、様々な感慨がわいて来ます。
実朝だけで十分だった、
島娘「お初」伝説で十分だった・・・・思います。
 
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  伊豆山神社「役の行者像」 役の小角は大島に配流される途中、伊豆山神社、日金山で修行したと言い伝え  られます。修験道の霊地でもありました。
 
 
 
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「朝比奈切通」と地蔵さん

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今朝(12月23日)は随分冷え込みました。
でも、体が火照っているのは昨晩の柚子湯のお陰でしょうか?
天皇誕生日が冬至やクリスマスに重なるので、
”オレンジウィーク”とか”パンプキンウィーク”とでも呼べましょうか?
 
久し振りに「朝比奈切通し」を歩いてみました。
何時もは六浦側から入るのですが、昨日は鎌倉側から歩き始めました。
 
鎌倉12所(じゅうにそう)に光触寺があります。
ご本尊は「頬焼阿弥陀如来」です。
運慶作と伝えられる本格的な鎌倉時代の仏様です。
ただ、お体を覆っていた金箔が剥げ落ち、お体は地塗りの黒漆が出ています。
ふくよかである筈の頬がまるで「焼けたコテ」を押し付けたように傷ついています。
漆が割れてしまったようです。
その姿が「信心深い少女の身代わりになられた・・・」説話になりました。
光触寺に絵巻「頬焼き阿弥陀縁起図」が保存されています。
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   光触寺「頬焼阿弥陀如来像、伝運慶作」。
   時宗のお寺には説話が付き物のようです。(写真は鎌倉御仏巡礼から複写)
 
阿弥陀様の前庭に小さなお堂があって、お地蔵様が祀られています。
「塩なめ地蔵」と案内されています。
等身大の大きなお地蔵さん(坐像)と、その前に小さな6地蔵尊が並んでいます。
どの地蔵尊も風化が進んでしまっています。
 
江戸時代、六浦(金沢)の泥亀等には大きな塩田が出来ました。(広重の浮世絵に描かれています)
潮汲みに浜辺に出ると、夜な夜な波間に光るものがありました。
潮汲み人夫が確認すると、一体のお地蔵様が引き上げられました。
そのお地蔵様を朝比奈切通しの鎌倉側の登り口、光触寺に祀りました。
 
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    光触寺「塩嘗め地蔵尊」。赤いゆだれ掛けに隠れていますが風化が進んでいます。
    前仏の六地蔵尊もお顔が崩れてしまいました。
 
六浦の商人は塩を天秤棒に担いで、鎌倉まで行商に出かけていました。
朝比奈の切通しを越えて、光触寺まで来れば目の先は二階堂です。
お地蔵様の前で一休み、汗を拭いて、身じまいを正し、お客様周りを開始します。
一つまみ初穂の塩をつまんで盛り塩にして、お地蔵様に供えました。
「今日一日、塩が良く売れますように・・・」
「今日一日、無事に商いが出来ますように・・・」
商売繁盛と厄除けをお祈りしました。
 
行きは天秤棒がしなる程の荷でしたが、帰りは身軽です。
懐には売り上げの銭が溜まっています。
再び、お地蔵様の前に出ます。
感謝と、帰路の安全をお祈りします。
目をやると、朝に盛った塩が消えて無くなっています。
”ああ、お地蔵様が嘗めなさったのだ・・・”
ならば、帰路も安全だ・・・・。
思いなが薄暗くなった朝比奈切通しを越えてゆきました。(光触寺塩嘗め地蔵伝来記)
塩は人に限らず動物にも大切なミネラルです。
彼ら(牛馬)が嘗めたのでしょう。
 
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   此処からが登り道になります。
   真っ直ぐ行けば切り通し、お滝の右に回れば果樹園から逗子の池子に行けます。
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     クヌギと紅葉の枯葉が切り通しを覆っています。道は沢と一緒です。
     ボヤッと歩いていると、滑って転ぶか、水に落ちてしまいます。
 
朝比奈切通しは鎌倉七口の一つでした。
(鎌倉7口とは屏風のような山で囲まれた鎌倉の出入り口。何れも切通構造で、岩場には櫓(墓)や切岸(侵入を防ぐ為、石を落とし矢を射るスペース)等が用意されています。)
仁治2年(1241)北条泰時が朝比奈切通しを切開きます。
六浦には信頼を寄せる北条実時率いる北条氏が居ました。
軍事的にも経済的にも重要な切通しになった事でしょう。
 
朝比奈切通しは鎌倉7口の中で最長の切り通しであり、釈迦堂切通しと並んで往時の雰囲気を残しています。
でも、大半は沢のような道で、岩がゴロゴロ転がってますし、その中を清水が流れています。
足許は滑りやすく、加えて落ち葉が散って、落とし穴が隠れています。
これでは、歩くか牛馬で越えるだけで、荷車は通れません。
土砂崩れで土木工事も度々行われたのでしょう。
工事に携わった人の慰霊塔(墓標)も見えます。
 
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    切り通し、見上げれば未だ少し紅葉の残り香が見られます。
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   崖に茂った常盤忍や岩苔の緑が新鮮でした。真冬になると大きな氷柱がぶら下がります。
 
坂道の踊り場にお地蔵様が一体立っています。
願文を見ると江戸時代の墓標のようです。
勿論、崖の中腹には櫓も数多く見えます。
鎌倉時代のお墓だったのでしょう。
 
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      奈良滝坂道の首切り地蔵のようなお地蔵様が佇んでいます。(剣豪荒木又衛門が試し切した伝説があ      ります)この地蔵も良く似た位置で割れています。 延宝3年(1675)建立されたと刻まれています。
     墓標塔と考えるのが自然でしょう。(右側が欠けていますが、其処に戒名が刻まれていたと思われます)
 
切通しの最高地点に巨岩があります。
硬い岩を削った鑿の跡がハッキリ残っています。
岩壁の下部にお地蔵様が線刻されています。
お地蔵様の前には幾つも小石が積まれて・・・・、
「賽の河原」に、死者を弔うために積んだケルンのようです。(地蔵和讃の世界)
でも、お地蔵様は一体だけです。
岩壁には「何時、何の為に、誰が」刻んだか何も残っていません。
 
私の直感では、それほど古いお地蔵様では無いようです。
修験道等の行者の仕事なら、この大壁全体にお地蔵様の世界にした事でしょう。
江戸時代の修復に際して、
此処で亡くなった職人、人夫や追い剥ぎに殺された人の慰霊に奉納されたのでしょう。
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   切り通し最高地点にある地蔵菩薩の線刻。
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岩壁全体を地蔵の世界にすれば良かったのに・・・、思われます。
 
大壁を越して、尾根道を右の登れば熊野神社が祀られています。
この方角も鎌倉の鬼門に当たるそうです。
まるで、7つの切通し総てが鬼門のようです。
真冬になれば、この切通しには北風が吹きぬけて、其処此処に氷柱が見られるようになります。
今は常盤忍が茂っています。
小綬鶏が啼いています。
「コッチ来い、コッチ来い・・・」
 
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   切り通しを見上げる。岩場の上に切岸と呼ばれる棚場があって、
   此処から下を通る敵に石を落とし、矢を射って侵入を防ぐ計画だった。
 
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   朝比奈切通しは金沢道の峠道です。始点は八幡宮三の鳥居前です。傍に宝戒寺があります。
   宝戒寺は最期の執権北条高時の霊を慰撫するお寺です。ご本尊は地蔵菩薩。高時の霊が成仏するよう導   いたものと思います。鎌倉は地蔵像の秀作が多くあります。(写真は鎌倉御仏巡礼から複写)
 
 
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心霊スポット「釈迦堂切通し」

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昨日は鎌倉7口の一つ「朝比奈切通し」を書きました。
そこで、続いて人気の「釈迦堂切通し」を書いてみます。
 
釈迦堂切通しが人気なのは、鎌倉時代の面影を残しているからです。
それは、同時に「霊が宿っていそうだ」とか「薄気味悪い」「幽霊を見たことがある」、
そんなパワースポットとも言われているからです。
 
釈迦堂切通しは鎌倉府内、浄明寺町と大町(名越寄り)を繋いでいます。
切通しと言うよりは洞門です。
洞門の上部には「唐糸やぐら」などの遺跡群があります。
もう、4年ほど前に崩落があたので、以来通行禁止になってしまいました。
ですから、今は以来釈迦堂切通しにも、唐糸やぐらにも行く事が出来ません。
遠くから眺める事も出来ません。
 
だから私は、通行禁止のネットを避けて、横から忍び入った次第です。
 
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釈迦堂切通しに通じる道には「通行禁止」、遮断されています。
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   釈迦堂切通し(洞門)北側(浄明寺方面)から見る。
   岩場の断層面とやぐら(墓場)が重なって異様な雰囲気になっています。
 
鎌倉の東側に張り出した山があります。
名は衣張山です。
この山の北裾に北条時政の屋敷がありました。
衣張りの名は北条政子が出産に際して、魔除けで山の斜面に白い布を張った・・・、
言い伝えに拠りのだそうです。
 
釈迦堂の名は、その屋敷の近くに、三代執権北条泰時が、父、義時の菩提を弔うために釈迦堂を立てた建てたからだそうです。でも、いまだ釈迦堂が何処にあったのか不明です。
北条義時に人気が無いからかもしれません。
また、沢山の政敵を殺した事からその寺が破壊されて、跡形も無いからでしょう。
 
北条時政は別邸を名越に有していました。
ですから、別邸から本邸に行くには、釈迦堂切通しを通れば最短になります。
本邸から御門(政所)はすぐ鼻の先です。
ですから、釈迦堂切通しは幕府の御門から、名越から三浦に向かう最短の道だったのでしょう。
そして、北条氏の便利道だったのでしょう。
 
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    釈迦堂洞門を南側(名越)から見る。
    洞門の上は唐糸やぐら群、洞門の上部に3つのやぐら(墓)が見えます。
 
二代将軍「源頼家」の妻は比企能員の娘「若狭局」でありました。
また、比企能員の叔母「比企局」は頼家の乳母でありました。
従って頼家が将軍になると、比企能員の政治的ポジションが急上昇します。
更に、若狭局は頼家の長男「一幡」を産みました。
執権北条時政の危機感が増してきます。
 
そこで、比企能員を名越の別邸に誘って殺害します。
更に、鎌倉に居た比企一族を殲滅させます。
比企能員の屋敷は衣張山の西の裾野「比企谷」にありました。
現在は比企一族の屋敷跡には妙本寺がありますが、さながら比企一族の鎮魂場であります。
 
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     妙本寺「一幡」の墓には墓参の花が切れる事がありません。
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                                              妙本寺、比企一族の墓
 
妙本寺から山に登るとハイキング道になっています。
暫く北に歩けば北条一族最期の「腹切りやぐら」に出ます。
何処もかしこも”人の恨み”の宿った場所です。
ですから、釈迦堂切通しが最高の(?)心霊スポットと言われるのでしょう。
 
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   岩壁には複雑な断層が確認できます。鑿の跡は鎌倉時代のものでしょう。
   大小のやぐらが掘られていて、中には墓標の五輪塔が覗いています。
 
少し話は飛びますが、古事記の話をします。
 
登場する神々は凡そ三つの世界を行き来します。
第一が天上の世界「高天原/たかまがはら」です。天照大神の住まいがあります。
高天原見下ろす位置に「芦原中国/あしはらのなかつくに」があります。
日本列島の事です。
天照大神は孫「ニニギ」に命じて地上の国を統治させます。(天孫降臨)
 
問題は死後の国です。(黄泉の国/よみのくに)
それは、地上から坂を下って、千引の岩を越えて、地中の底にあります。
地上や天上世界の人が死者を損ねると、黄泉の国から駆け出して来てクレームをつけます。
私達の心霊スポットは古事記に書かれた、地上と黄泉の国の出入り口を思わせる場所なのです。
この意味でも釈迦堂切通しは心霊スポットの要件を満たしています。
日本人は仏教伝来の前から、こんな心霊スポットに畏怖を感じていたのでしょう。
 
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      黄泉の国は地中の奥深く、坂、トンネルの向うにあると考えられていました。
      仏教以前の国民の感覚です。
 
でも、私は此処で怖い思いをした事が一度もありません。
骨肉の争いを続けた鎌倉時代に思いを馳せます。
 
 
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金沢文庫の消防訓練に思う

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写真は、金沢文庫称名寺での消防訓練です。
12月の日曜日の朝9時、消防車2台とポンプ車1台が本堂横に集合しました。
消防団の親爺が20人整列して、一斉に放水を始めます。
1台は浄土池から水をポンプアップして、放水車で放水します。
もう1台は文庫の横にある消火栓を使って放水します。
”町の至宝称名寺を守るんだ・・・・”、強い意気込みがキビキビした動作に満ちています。
 
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 金沢文庫称名寺の浄土庭園。紅葉の名所でもあり「謡曲六浦」の舞台です。
 今年の紅葉はイマイチでしたが・・・、たまたま消防団の訓練に遭遇しました。
 
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                          阿弥陀様の本堂には浄土池に架かった太鼓橋を渡って行きます。
 
二本の放物線が浄土池に架かりました。
その中に虹が現れます。
今朝は寒かったので薄氷が張ったかもしれません。
水面は青空を映して群青色です。
浄土池には太鼓橋が、彼岸(阿弥陀の本堂)に架かっています。
太鼓橋も、虹も同じ浄土への架け橋です。
 
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                                       放水によって、虹が架かりました。
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     二箇所から一斉放水致します。手元にも虹がうっすらと架かりました。
 
この秋、私の町内で3件の放火事件が発生しました。
12月になるとお隣の南舞岡長で火事があり、2人が焼け死にました。
南舞岡の火事も放火と推測する人が多いようです。(何れも横浜市戸塚区内)
 
もう、3年ほど前でしょうか?
戸塚の股野町にあった住友家別宅(昭和モダニズム建築、重要文化財)が放火され、全焼しました。
その、1ヶ月ほど後に、大磯町の吉田茂別邸が放火されました。
実は股野町のお隣、小雀町の神社もその数ヶ月前に小火事件が発生していました。
 
その年のお正月元旦の夜、私の町内の子之八幡社で小火事件がありました。
ご近所にお住まいのKさんが火に気づくのが早かったので、惨事は免れましたが、屋台施設が焼けました。
その後、町内では車上放火が3件同時に発生しました。
 それら一連の事件の犯人は逮捕されていません。
それよりも、私(町内会長)は犯人追尾の聞き込みを受けた事も、町内会の主催する「防犯教室」で報告を受けた事が事もありません。
防犯教室の派遣される職員は「生活安全課」の警察官で、
犯人追尾は刑事課が行っているので、解らないのです。
 
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最近、訳のわからない報道が為されています。
お隣の藤沢警察署での警察官が東急ストア放火事件(昭和53年・時効成立)の犯人と思われる人物(犯人グループと言っている)を執拗に尾行して、中傷している、と言うのです。
同グループの尾行行為は戸塚図書館でも行われています。(神奈川県警・人権侵害で検索してください)
人権擁護を主張している組織の「警察を告発するHP」ですが、要領を得ないアナウンスです。
放火は市民の命も財産も一瞬に奪う犯罪ですから、
放火犯に時効は無い・・・・、市民の感覚だとおもいます。
犯人逮捕以外に放火の抑止力は考えられません。
 
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                  辻堂駅前、東急ストアの放火事件報道
藤沢警察署の管内では東急ストア(時効成立)の後、サイカ屋もイトーヨーカ堂も放火されています。
藤沢警察署はこれらの事件を追っているのでしょう。
犯人追尾のプロセスで時効成立した事件を追うことは批難されないでしょう。
立件が出来ないだけです。
もしも、この犯人追尾の中で、犯人グループが撹乱の戦術で大磯や横浜で放火を繰り返しているのなら、
本当に困ったものです。
 
我が町内では防犯パトロールを継続しています。
消防団(戸塚17分団)は夕刻に巡回パトロールしています。
28日には、歳末警戒の激励会も催します。
 
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                              吉田茂大磯別邸放火事件(2008年3月21日毎日新聞)
 
神奈川県警や戸塚警察のHPを見ると、犯罪発生状況が報告されています。
今は、お定まりの①コンビに警戒 ②振り込め詐欺対策 ③不審者対策です。
そして、町の安全情報として ①ひったくり ②車上狙い ③空き巣対策を挙げて、
全体として減少傾向にあると主張しています。
 
町の安全の指標は先ず①性犯罪 ②放火の2件です。
今年1月大船警察署が二人組みの強姦魔を検挙しました。
事件は私の町で起きました。
犯人も私の町に住んでいました。
私の町には某大学が立地していて、女学生の住むアパートが沢山あります。
安普請のアパートは防犯設備も不十分ですし、アパートのオーナーにも防犯意識が希薄です。
町内会では防犯カメラの設置を訴えていますが・・・、機密を理由に危険な場所にカメラが設置されたのか全く知らされていません。
同じ場所(大学とアパートの間、尾根道など)で相変わらず事件が起きています。
 
もう少し、警察は市民の感覚に近づいて欲しい・・・、思います。
 
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            裸坊主の銀杏の木の上の台上で「六浦」が演じられます。
 
 
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円覚寺「妙香池」の翡翠

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鎌倉五山第二の円覚寺には、池が二つあります。
鎌倉道に面して、白鷺池があります。
この池は小袋谷川、明月川、西瓜川と三本の川の合流地点であったので湿地帯であったのでしょう。
宋国から日本に渡った無学祖元(仏光国師)が寺院の立地を探していたところ、
白鷺に導かれてこの湿地に辿りついた、と言われています。
開山時からある由緒のある池です。
 
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                        円覚寺の山門下、まだ紅葉が残っています。(12月25日撮影)
 
山門を潜ると仏殿、方丈等の伽藍が南北に一直線に並んでいます。
その略真ん中にもう一つの池「妙香池」があります。
この池の西側は大岩があって、その奥に舎利殿(国宝)があります。
お釈迦様の遺骨を祀った建物です。
法隆寺で言えば五重塔にあたる、重要な建物です。
仏舎利にお香を焚いてさし上げる・・・・・、そんな意味で”妙香池”と名づけたのでしょう。
名付けた人は多分夢窓疎石でしょう。
この池を含んだ方丈庭園を造った人が疎石だったのでした。
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    円覚寺の妙名池。昔は杉林でしたが昭和53年に古地図に従って発掘作業をして、庭を露出させました。
    写真左が虎頭岩で横目で方丈を見詰めています。大岩の台上奥に舎利殿があります。この池を見下ろす    位置に方丈庭園があります。双方合わせて庭園であります。
 
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   妙香池の上段にある方丈庭園。此処は日陰なので未だ氷が張っています。方丈の縁側では雲水さんが雑   巾がけをしていました。
 
夢窓疎石は多治見に「虎渓山永保寺」を建立し、見事な回遊式庭園に着工します。(1311年36歳)
この庭は多分に京趣味の庭です。
美濃の国の立地と疎石の育った伝統文化がこの庭を作らせたものでしょう。
執権北条高時の招聘によって二度目の鎌倉入りをします。(1326年/51歳)
鎌倉では瑞泉寺を建立します。(1327年/52歳)
そして、円覚寺に入ります。
瑞泉寺を建立し(1327年/52歳)、円覚寺に入ります。
どちらの庭園も同じ手法で造ります。
先ず、木を伐採し、土を剥ぎ、その下の大岩を晒し出します。
大岩を中心にして、庭を形作りました。
禅の修業の場に相応しい、禅機を諭すに相応しい庭でした。
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選仏場(出家者の座禅道場)に箒で煤払いする雲水さん。もう梅が膨らみ始めていました。
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仏殿を大掃除する雲水さんたち。タイルはモップがけでした。
 
鎌倉幕府が滅亡すると(1333年)
後醍醐天皇の要請に応じて疎石(58歳)は京都に戻ります。
臨川寺を建立、さらに西芳寺(苔寺)を整備します。(1339年64歳)
鎌倉で作ったような荒々しい庭園ではなく、緑と水と岩や砂の織り成す、美しい庭園でした。
同じ禅寺の庭園でありながら、京の都と鎌倉とでは随分違った庭園でありました。
京都にあるのは庭や池を巡って遊ぶ目的の庭や、座敷に座して瞑想する為の枯山水です。
鎌倉のお庭は禅機を諭す為のお庭です。
疎石にはこの三種類の庭があります。
私は”禅機の庭”が疎石の面目であると思います。
 
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   妙香池の住人翡翠、この日は長い間日向で冬日を浴びていました。
   嘴と脚が紅葉の枝先と同じ朱色でした。
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虎頭岩上の翡翠、頭をもたげると、嘴の下がハートマークでした。
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        此方は虎頭岩上のアオジ。寒いので膨らんだままでした。
 
何処の庭園にも共通した”者”がいます。
円覚寺妙香池には「虎頭岩(とらずいわ)」、永保寺の山号は「虎渓山」ですし、南禅寺には「虎の子渡し」の庭園を造りました。
何れにも”虎”が居ます。
虎は精悍で大きな眼で正面から見詰めます。
その姿が”禅を求道する”姿に通じるものがあったのだと思います。
疎石は正悟を得たいのなら虎になったつもりで、真実を見詰めなさい・・・、教えたのでしょう。
 
お隣の仏殿の天井には龍がいます。
此方の庭には虎が居ます。
円覚寺に修行する僧侶はなまじな気持ちでは居られません。
 
今日は円覚寺も大掃除です。
大きな竹を箒にして、煤払いをして、雑巾かけをして・・・、
若い雲水さんはキビキビ掃除に勤しんでいます。
池には薄氷が張っています。
日の光が射した池の面を翡翠が見詰めています。
寒いので小魚も池の底から動かないのでしょう。
狙いも見つからないようです。
そのうちに、毛を立てて膨れてしまいました。
”ふくら雀”ならぬ”ふくら翡翠”です。
”あおじ”も膨らんで日向ぼっこをしています。
白鷺だけは妙香池に入って足で池の中を探っています。
鷺の足に驚いて飛び出す小魚を探しているようです。
私が子供の頃小川で魚を網で掬った、あの時の動作に似ています。
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                                暮れの25日、日曜日でも人影の無い円覚寺
 
虎頭岩が横目で鷺を睨んでいます。
”そんな姑息な方法では悟りは掴めないぞ”
言っているようです。
 
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    妙香池の白鷺。長い脚で水を掻いて小魚を探しています。
 
 
 
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狸と和尚の話(浄智寺・瑞泉寺)

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鎌倉山之内の浄智寺に狸が三匹います。
良く、田舎の宿屋や酒屋、一杯飲屋の店頭に置かれている「信楽」の陶器です。
大きな一体が親爺ならふくよかなのがお嫁さん、そして一粒種の子供が一匹、
家族三体が山裾に並んでいます。
背後には穴が開いていて、此処が狸家族の棲家のようです。
場所は方丈の裏、墓地の入り口で、周囲は竹林です。
目の前に古井戸があって、お檀家が此処で桶に水を汲んでお墓参りします。
 
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     鎌倉浄智寺裏山の三匹の狸。竹林の中、墓地の入り口にあります。
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                          子狸は酒屋の大福帳を下げています。奥が狸の棲んでいた穴です。
 
もう、10年も前でしょうか、
この狸に卒塔婆が立てられていました。
能筆で「たぬきのお墓」、背に「浄智寺山内居士建立」と書かれていました。
尋ねると、お檀家の方が朝方道路で命を落とした狸を見つけて、お寺に持って来たそうです。
そこで、和尚さんは狸が棲んでいた穴の前に葬ってあげたのだそうです。
きっと、その後に狸の陶器が置かれたのでしょう。
 
4年ほど前、私の町内(戸塚)に都市計画道路が通りました。
4車線の素晴らしい道路です。
駅までの生活道路は狭くて朝晩大渋滞ですから、
こんな道路を作るお金があるのなら生活道路の拡幅をして欲しい・・・・、思いました。
信号や横断歩道の設置場所について、戸塚土木、警察、地元で協議しました。
 
「最初の犠牲者が出たぞ!」
報告がありました。
狸が轢かれたのでした。
狸は気が弱いので、ヘッドライトに身がすくんで、車の前で止まってしまったのでしょう。
瞬間、私は浄智寺の狸を思い出しました。
 
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            狸の隣は櫓が並んでいて、冬の陽射しが石仏を優しく照らしています。(右端が狸です)
 
私の生家もお寺です。
本堂の縁の下に狸が棲んだ事がありました。
お墓の供え物を食べたり、裏山の小動物を食べたり、防空壕に保存しておいた芋などを食べていたのでしょう。
同じ屋根の下に住むのですから・・・・、可愛い奴でした。
 
狸は夫婦になると何時も一緒です。
どちらかが死ぬまで夫婦の絆は守られます。
狸の夫婦に嘘偽りはありません。
一緒に食事して、同じ場所で糞をします。
 
”獣”を篇にして”里”と書いて”狸(たぬき)”です。
”里に住む獣”とは良く出来た漢字です。
もうじき、干支は兎から龍に変わります。
私が選者なら、狸と狐、そして猫を加えます。
親しい動物を干支に加えないのは残念です。
架空の動物や害を為す動物を干支にするのなら、身近で心の通った動物を選ぶべきです。
 
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   瑞泉寺のムジナ塚。沢山の石仏の真ん中に法衣を着た狸が鎮座しています。
 
 
鎌倉二階堂の瑞泉寺には「ムジナ塚」があります。
山門を見下ろす小高い丘の上です。
頭上は藪椿が覆っています。
その上には山楓ですから、とても綺麗です。
 
10体ほどの石仏が車座に座っています。
石仏の輪の中心に狸がいます。
狸はお坊さんの法衣を着ていて、偉そうです。
周囲の石仏はお地蔵さんだったり観音様だったり、様々です。
たとえ狸が仏になったとしても、地蔵や観音よりも上位に座るのはシックリ行きません。
所詮狸は畜生でしょう・・・・?
でも瑞泉寺の和尚さんは、地蔵や観音より狸を上位にしたのです。
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                              何処のお寺にも居そうな狸和尚のお顔です。
 
この狸にも説話があります。
和尚さんと狸との交流です。
一寸した事故で狸が亡くなってしまいます。
それを悼んだ和尚様が立派な塚に葬ったのでした。
(この話は以下に書きました) http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/12959212.html
 
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                              瑞泉寺、ムジナ塚からは山門が見渡せます。
 
千葉の木更津に証誠寺があります。
童謡で有名な「狸囃子」のお寺です。
狸が和尚さんを驚かそうと、総出で腹を出して鼓を打ちます。
和尚さんは負けじと三味線を弾きます。
三日目の晩、狸の腹の皮が破れてしまいます。
 
何処のお寺の伝説だか忘れてしまいました、こんな話がありました。
和尚さんは寂しく暮らしていました。
狸が庭先に姿を現すようになりました。
和尚さんは狸を可愛がってあげました。
ある、寒い晩、囲炉裏で暖を取っていると、雨戸をたたく音がしました。
和尚さんが雨戸を開くと、美しい女が居ました。
 
和尚さんは、狸が遊びに来たか・・・・!直感しましたが、囲炉裏に招いて、残りの雑炊を奨めました。
美女は腹は満ちたし、暖かいのでついウトウト寝てしまいました。
和尚さんが見れば、美女から尻尾が出て、着物の前がはだけて白い太ももが覗いています。
”狸を驚かせてやろう・・・”
和尚さんに悪戯心がわきあがって・・・・、囲炉裏の残り火を持ちます。
未だ、少し赤いものが見える炭を美女の太ももに差し込んでしまいます。
美女は飛び上がって驚きます。
その瞬間に心臓が破裂して死んでしまいました。
囲炉裏端に狸が一匹息絶えていました。
 
和尚さんは、心底悔やみます。
そして、懇ろに葬ってあげるのでした・・・。
また、寂しいわび住まいが始まりました。
 
どの、話にも和尚さんと狸の心の交流があります。
ただ、瑞泉寺の和尚さんも美女の和尚さんも、悪戯心が災いになってしまいました。
でも、中世から現代まで狸と和尚さんは心の通う関係にありました。
 
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    正月前の閑静な浄智寺、正面の茅葺屋根が方丈、その向うに竹林があって狸のお墓があります。
 
 
 
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淡竹の春

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私の生家は盛徳禅寺と言います。
本堂の裏山一帯は竹林でした。
今では珍しい淡竹(はちく。呉竹とも呼ぶ)の竹林でした。
”でした・・・・”と過去形で述べるのは、今は総て伐採され大規模な霊園になってしまったからです。
 
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         今日の話題は淡竹(はちく)です。円覚寺仏殿の東側に淡竹の竹林があります。
 
竹取物語は”なよたけのかぐや姫”が正しい名前です。
”なよ竹”とは「しなやかな竹」と言う意味で、女竹とも書きます。
では、どんな竹だったのでしょうか?
現在日本で育つ比較的大きな竹は、先ず孟宗竹、ついで真竹、そして淡竹です。
孟宗竹は日本に帰化したのが江戸時代と言われています。
ですから、先ず候補から落ちてしまいます。
 
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    此方は孟宗竹。円覚寺も大半の竹は孟宗竹です。太く硬のですが、伝統細工では淡竹に及びません。
 
結論から先に述べると、”なよ竹”に相応しいのは淡竹だと思います。
理由は以下の通りです。
1、淡竹の方が姿が美しく、幹(?)も一回り太い。三寸のかぐや姫が潜んでいそうな雰囲気がある。
2、淡竹は緑1色です。いっぽう真竹は黄色い部分があります。で、美しいのは淡竹です。
3、淡竹の内側には竹紙と呼ばれる薄い皮があって、かぐや姫を大切に守っている・・・、雰囲気がある。
4、竹取の翁は竹を採って加工する事を生業としていた。淡竹は細く割れるため茶道具(竹筅や茶杓/ちゃしゃく)
 竹箒、花器、楽器(正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八) 筆(正倉院の筆)もなども淡竹製でした。
 
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                          円覚寺大掃除に使っている竹箒、淡竹の先端部分を使っています。
 
 
盛徳寺に淡竹が植えられていたのには訳がありました。
関が原で西軍に組した蜂須賀家は四国阿波に移されます。
参勤交代で遥々江戸まで上ります。
身重であった奥様は戸塚宿で産気づいてしまいました。
そこで養東院(天台宗、尼寺)で出産しましたが、お姫様を残して亡くなってしまいました。
奥方を葬り盛徳院としました。
4人のご家来を(全員鈴木家)を寺守、墓守にしました。寺には田を与えました。
淡竹を植えたのは奥方の霊を慰める為であったと思われます。
 
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       瑞泉寺、お茶屋の上の竹と紅葉。ここ数年お寺では竹林を伐採しました。お陰で竹が素晴らしく美しく       なりました。 竹林も杉林も人が手入れをしないと荒れてしまいます。
       手を入れると驚くほど美しい姿を見せてくれます。
 
 
季節になると毎食淡竹の筍が食卓に上りました。
孟宗竹と違って地上に伸びた所で採ってきます。(スコップで掘らなくて良い)
サッパリしていて、歯さわりも良いのです。
灰汁も在りませんから、糠と一緒に茹でる必要もありません。
孟宗竹より美味しいのは間違いありません。
でも、量が集まりませんから八百屋さんには並びません。
 
私の親戚(殆どがお坊さん)も淡竹を褒めてくれました。
大変に強いのですが、積雪の翌朝には覆い被さった雪落としをしました。
”私は貴方を待っていたのよ”
言わんばかりに淡竹は残った雪を払って、跳ね上がりました。
竹林には小綬鶏をはじめ沢山の生き物が住んでいました。
私は、こんな竹林だからかぐや姫の話が出来たのだろう・・・、確信しました。
 
 
円覚寺の仏殿の東側に淡竹が自生しています。
大掃除の竹箒も其処の淡竹で作っていました。
役に立っているな・・・、見詰めました。
 
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                                  瑞泉寺の紅葉と竹林。建物は修復工事を終えた御茶屋。
 
淡竹も伐採するのは冬です。
この季節が最も材質が硬くなって、充実しているのです。
竹春とは秋のことです。
樹木は春に芽吹いて花が咲きます。
ところが竹は花が咲きません。
春には筍が地下茎から伸びてきます。
竹は栄養を新しい命に集中させます。
その為に、竹は笹の葉を落とします。
竹の秋になります。
筍が成長して立派な姿になると、栄養は竹林全体に行き渡ります。
ですから、秋に最も見栄えがするようになります。
そして、材が最も充実した冬に伐採して、加工をするのです。
冬の間中、竹取の翁は土間に出て竹細工に精を出しました。
蓑もザルも魚篭も・・・・・、淡竹が最も細工しやすいのでした。
 
竹も紅葉も秋が最も美しく輝きます。
紅葉の赤も竹の緑もお互いを引き立てあいます。
 
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   竹林の女郎蜘蛛。もう虫も蝶も架からないと思いますが、巣を張っています。空しく紅葉の葉が蜘蛛の糸に   架かっています。右の方の丸いのが蜘蛛の子だと思いますが・・・・。
   この母体はもうじき息絶えてしまう事でしょう。
 
 
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修復竣工した「妙本寺二天門」

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鎌倉比企谷の妙本寺では昨年の春から二天門の修復工事をしていました。
このお寺は4月中旬の海棠、7月のノウゼンカズラが見事です。
二天門の臙脂色の壁や黒い屋根をバックにして咲きますので、一際美しさが引き立ちます。
枯淡であるべきお寺に、こんなに妖艶な花が許されるのか・・・・?
疑問に思うほどの艶やかさです。
昨年、今年二年間に渡り花を見る環境が揃いませんでした。
来年からまた美しい花、背景の二天門が見られることになりました。
来春が今から楽しみです。
 
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      花海棠の妙本寺、手前が二天門、奥が祖師堂。
      この花を見詰めながら中原中也と小林秀雄が語り合った。小林は「略奪愛」の言い訳はしなかった。
      この話は以下に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44941017.html
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    花海棠を引き立てる黒い屋根、臙脂色の壁の二天門。来春は3年ぶりに見られることになります。
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           五月雨にぬれるノウゼンカズラ。背景は二天門の木鼻(獅子頭)
           ノウゼンカズラは以下に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/41223479.html
 
妙本寺は祖師堂(日蓮上人を祀る)を中心に伽藍が配置されています。
夷堂橋(滑川)から祖師堂まで一直線の坂道と石段です。
その間に、先ず総門があって、途中左手に方丈門がみえます。
この門を潜れば方丈と本堂に進めます。
でも、参詣人は鬱蒼と茂った杉木立の坂道を登って、石段を登ります。
石段の上には二天門が聳えています。
三間の門の左右に持国天(右)、多聞天(毘沙門天左)が睨みを効かせています。
真ん中が通路です。
 正面の中央には飛貫を虹梁とし、その上に彫刻欄間があります。
この欄間には飛龍(翼のついた龍)が彫られています。
虹梁の上には出組みと蟇股で軒を支えています。
 
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  修復工事を終えた二天門、老夫婦が二匹の飛龍(虹梁の上欄間彫刻)を見上げていました。
 
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   左が雄、右が雌と想像される二匹の飛龍。見事に彩色されています。
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  修復前の飛龍。漆が剥げてしまうと腐食が進行してしまいます。
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修復後、塗り直した飛龍
 
門の下でポンと柏を打つと、龍が応えてくれる・・・、言われています。
柏手が祖師堂や山間に木霊して返ってくるのでしょう。
木霊の戻る方角に龍が居るのです。
 
見事な二天門ですが建設は嘉永元年(1848)頃と推定されています。
ですから、200年ぶりの修復と言う事になるのかもしれません。
1年半の長い間、工事用テントの中でしたが、屋根から壁総て取り外して組み直したようです。
そして、濃い朱の漆を塗り直しました。
朱色と言っても濃淡の幅が大きく分かれているようです。
私の好きな朱は奈良春日大社の壁や柱の明るい朱色です。
お巫女さんの袴の色でもあります。
次いで濃いのが法隆寺の柱の朱、枕詞の”青丹良し”の色でもあります。
妙本寺の朱色は最も濃く、もう臙脂色と言っても良いような色です。
妙本寺が比企一族の鎮魂のお寺だから・・・・、悲しみの深い色にしたのかもしれません。
でも、濃い朱だから花を引き立ててくれるのも事実でしょう。
 
もう3つ寝るとお正月です。
二天門の下で拍手を打って、辰年が飛龍のように舞い上がるように、お祈りしたいものです。
 
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        向かって左、多聞天(毘沙門天)像。江戸末期とは言え秀作だと思います。
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                                           修復工事竣工した妙本寺の二天門
 
 
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黄梅院の”実かずら”に思う

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垣根の山茶花もお終いに近づきました。
代わって柊木犀(ヒイラギモクセイ)の垣根が楽しませてくれるようになりましょう。
最近はブロック塀かアルミフェンスばかりになって、生垣は少なくなってしまいました。
ですから、花が咲く生垣は稀少です。
 
生垣、特に竹を四つ目に組んだ垣根(四つ目垣)は滅多に見ることは出来なくなりました。
ところが、意外なところが生垣が揃っています。
それは、鎌倉円覚寺、その塔中寺院の庭先です。
 
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                 円覚寺で夢窓疎石を祀る塔中寺院「黄梅院」。露地は四つ目垣は設えてあります。
 
円覚寺の管主さんが引退すると、境内の片隅に小庵を営んで其処に移り住みました。
亡くなれば、お墓が建てられます。
このお墓の事を「塔所」と言います。
そして、塔所のあるお寺を塔中寺院と呼びました。
歴史のある円覚寺さんですから塔中寺院は42も数えられました。
今でも19もあります。
 
 
 
大本山円覚寺の庇の下の塔中寺院です。
何処から何処までが自分の敷地なのか、お隣の塔中寺院との境は・・・・?
あって無きが如きものなのでしょう。
そこで、四つ目の垣根が設けられます。
垣根は猫や狸にとっては何の障害にもなりません。
自由気ままに行き来出来ます。
お互いの視線も行き交います。
そして、四季折々の花が咲きます。
 
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     黄梅院の四つ目垣には様々な花木が植えられています。手前が実かずら、向うはお茶の木です。
 
夢窓疎石は一時円覚寺に入りました。
でも、数年で円覚寺を出てしまいます。
私は無学祖元以来の守旧派と折り合いを欠いたのではないか・・・・、想像します。
 
鎌倉幕府が滅亡し、円覚寺も変革を迫られるようになります。
そんな中で疎石が亡くなりました。
すると、円覚寺の最も奥、全体を見下ろす位置に疎石の塔所が建てられます。
塔所を建てたのが疎石の門弟「方外宏遠」でした。
そして、塔中寺院「黄梅院」を建立します。1354年(文和3年)
 
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室町幕府、足利氏は黄梅院を保護します。
1368年(応安元年)、室町幕府二代将軍足利義詮の遺骨が分骨されます。
三代将軍義満は、塔主として義堂周信を派遣します。
円覚寺、とりわけ黄梅院を中心にして五山文化が花開きます。
こうして、臨済宗は栄西を始祖としながらも、
京都も鎌倉も夢窓疎石を中興(第二の始祖)としたように展開します。
 
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                                                  四つ目垣を飾る寒菊
 
 
円覚寺の石段を登ります。
左右は四つ目垣の生垣です。
樹木は団栗です。
山門下に閻魔堂(桂昌庵)があります。
現在は弓道場に利用されています。
此処から暫くは山茶花の四つ目生垣が続きます。
 
黄梅院も四つ目生垣です。
境内の奥に観音堂が建っています。
露地の両脇が低い四つ目垣です。
今は寒菊が咲いて、所々から水仙の花が顔を出しています。
もう、右側がお茶の木の垣根です。
もう、小さな可愛い白い花は散ってしまいました。
左側に”実かずら”の赤い実が実っています。
 
 
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食いしん坊の私はこの実を見ると”大納言鹿の子”を思い出します。
1センチ位のアンコを丸めて、その周囲に甘く煮詰めた小豆を載せたものです。
小豆の上に薄く寒天を馴染ませると、鹿の子は美しく輝きます。
そして小豆が落ちなくなります。
 
 名にし負(お)はば 逢坂山の さねかづら
   人に知られで くるよしもがな      (
三条右大臣)
 
百人一首で有名です。
きっと、真っ赤な実かずら小枝にこの歌を添えて贈ったのでしょう。
 ”人目を忍んで貴方に会って一緒に寝たいものです・・・・”
現代文に直せば実も蓋も無いあからさまな歌ですが、雅な言葉を技巧を凝らして連ねると・・・、
心を揺さぶるものがあります。
お姫様は何と返歌したのか・・・・、興味が湧きます。
 
 
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                          最深部にある武山堂。武藤山治が寄進した観音堂だからです。
 
 
前に観音堂と書いたお堂の名前は「武山堂」と言います。
このお堂を寄進した”武藤山治”の名前を取ったものでしょう。
 
武藤山治は三井銀行から倒産寸前の鐘紡に転じ、これを立て直した人物です。
その手法は「経営家族主義」であり、
「小泉純一郎、竹中平蔵」ラインは大量の臨時雇用を導入しました。
その結果常時雇用は急減し、沢山の失業者を生み、企業の雇用対策は大転換しました。
我国経済は景気の波を柔軟に受ける機構を失いました。
改めて「企業家族」が好ましい・・・、思っても失った美俗は回復できません。
 
無党は単なる財界人ではなく、ジャーナリズムに転出(時事新報します。
そして、渋沢栄一やその配下の政商、徳富蘇峰等の御用新聞記者を告発します。
帝人事件を告発しますが、権力者から睨まれます。
鎌倉の別邸を出た所で狙撃され、死亡します。
狙撃犯も自爆してしまいます。
時代はファッショの嵐が吹きすさびます。
 
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武藤は茶人としての号を「柴庵」と言いました。
友人に高橋掃庵(王子製紙、時事新報社長)の誘いもあったことでしょう。
 
和菓子の虎屋の記録に以下があります。
大正7年(1918年)高橋掃庵(一ツ木高橋)から大量の「栗鹿の子」の注文あり。
掃庵の日記『萬象録』には「柴庵翁追善茶会」の記述があって、
注文と茶会(8回催された)が一致しているとの事でした。
「伽藍洞茶会 故柴庵翁追善」の項に、
「…栗製の菓子を味ふて復た寄付に中立し、…」等の記述があるそうです。(虎やHP、高橋掃庵と栗鹿の子)
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         大納言鹿の子、実かずらの意匠です。小豆の代わりに栗の甘露煮を付けたのが栗鹿の子です。 
 
 
此処からは私の推測です。
高橋掃庵は柴庵の追善茶会を催し、お菓子に栗鹿の子をお出ししました。
きっと、柴庵がお好きだったのでしょう。
武藤の出生地は岐阜県であって、栗の名産地です。
中津川の栗きんとんは故郷の味だったでしょう。
でも、和菓子は生物です。
そこで、虎屋に注文しました。
”中津川のす屋のような栗きんとんを用意して欲しい”
 
でも、天下の虎屋です。
す屋の真似は出来ません。
そこで、栗きんとんの外側に細かく割った甘露煮した栗で覆いました。
出来たのが”栗鹿の子”と名付けました。
 
黄梅院でも武藤山冶を弔んで垣根に実かずらを植えたのでしょう。
私は想像します。
観音堂を覗けば、美しい檀像が祀られていました。
きっと、柴庵もお好みの観音様だった事でしょう。
 
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                    武山堂の聖観音増。木肌の美しい檀像でした。
 
 
白四つ目垣は様々な人の思いを宿して、それでこそ美しいのです。
 
 
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