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明月院ブルーの紫陽花

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紫陽花の綺麗な季節です。
我が家にも、数本の紫陽花が咲いています。
生花に切って花瓶にさせば、長く咲いています。
玄関に、仏間に爽やかな空間を作ってくれています。
 
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  (明月院の紫陽花、明月院ブルーが色濃くなり始めました。全写真、明月院で撮影しました)
 
 
紫陽花と言えば、明月院。
今年は如何かな?
雨の降る6月13日、出かけてみました。
驚いた事に、境内入り口から長蛇の行列です。
驚いて帰宅、翌14日開門の8時半前に出かけました。
 
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   (明月院 方丈への参道。鎌倉石を積んだ石段が優しい)
 
紫陽花は字の如く、赤紫のイメージですが、明月院の姫紫陽花は、水色です。
水色は涙色、悲しみに耐える色でしょうか?
明月院が女性に人気なのは、きっとこの水色が癒してくれるからでしょう。
たまの雨の日曜日、鎌倉を詣でて、心を洗い流してスッキリして帰る事でしょう。
そして、紫の紫陽花を見ていると不思議に明るい気持ちになれます。
 
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紫陽花は日本原産の植物です。
シーボルトはオランダ商館の医師として、長崎に赴任します。
27歳の血気盛んな青年でした。
鳴滝塾を起し、日本青年に西洋医術を講義します。
そんな青年を17歳の少女が面倒を見ます。
名前は「お滝」さん。
シーボルトは紫陽花に魅せられます。
何枚も植物画を描き、科学者の目で、紫陽花の美しさを紙上に表します。
故郷に紫陽花を持ち帰ります。
そして「滝さんの花」と言う学名をつけます。
屹度、雨に濡れて咲く紫陽花の美しさ、強さにが「お滝さん」を見たことでしょう。
二人の間に娘が生まれます。
名前は「稲」、後年「楠本イネ」、日本最初の女医になります。
 
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  (細道を抜けると、露で濡れてしまいました)
 
シーボルト事件によって強制退去されたシーボルトは全財産をお滝さんに残し、去ります。
そして、明治維新を経て、35年後に再来日致します。
シーボルトは、心底お滝さんを愛していたのでした。
で、女性が紫陽花が好きなのは、屹度そんな「愛」に思いを託しているからでしょうか・・・・。
 
だとすれば・・・紫陽花の花言葉「七変化」「移り気」は不適当かもしれません。
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紫陽花は昨夜来の雨に濡れています。
木漏れ日が紫陽花に陰影を下ろしています。
足元の石段も丸味をあって、やさしげです。
渓流が流れ、紫陽花の香が境内を包んでいます。
現代人は、しばし、明月院の静寂に癒されて、活気を回復します。
そして、又明日から喧騒の都会で働きに出陣します。
 
 
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                         (此方も日本女性の美しさを象徴する、川原なでしこの花)
 
 
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美しい櫓に眠る(覚山尼五輪塔)

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私も60歳を越えると、その日の為に心の準備を考えてしまいます。
死んだら、何処のお墓に埋もれようか?
戒名はどうしようか?
植木葬(お墓は作らず樹木の根元に埋める)なんかも心惹かれます。
 
日本人のお墓も時代によって随分変ってきました。
仁徳天皇陵のような巨大墳墓から、鎌倉時代になれば五輪塔が墓標になります。
鎌倉幕府の将軍も執権も、権力者でもマル・三角・四角の形に石を加工した五輪塔を墓標にし、半坪にも満たない狭い横穴(櫓)に骨を埋めました。
その後、この形が日本人のお墓の主流になりました。
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鎌倉には一説には3千を越える櫓が残されています。
そんな中で、最も美しいと思われる櫓が覚山尼のお墓です。
特に、6月はじめ、山ぢさ(岩タバコ)が咲く季節は、その美しさが際立ってしまいます。
 
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  (お墓入り口、山ぢさを背にしたお地蔵様が迎えて下さいます)
 
覚山尼は縁切り寺の開山です。
寺の裏山、大きな岩壁に横穴が掘られて櫓になっています。
この岩山は砂岩でできています。
鎌倉の海にあった砂が地中で固められ、隆起して地上に現れたものです。
従って、櫓には柔らかく褶曲した地層が見られます。
 
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 (覚山尼のお墓、中央の五輪塔が墓標です)
 
この岩山は鎌倉の山の大半を占めています。
山続き、鎌倉市台には鎌倉石の石切り場がありました。
明月院や杉本寺の優しい石段はこの石で出来ています。
 
鎌倉石は水を含みます。
ジメッとした、岩壁が山ぢさには最適な生育環境なのでしょう。
苔と山ぢさが櫓の周囲を囲っています。
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(右端の櫓が覚山尼の墓地です。周囲を山ぢさが飾っています)
 
 
平安時代末期、時代が大揺れして末法の時代を迎えます。
武士は自らの力で時代を切り開こうとします。
彼等は、物質が「地、水、火、風、空」の五大要素で構成されている、考えたのでしょう。
人間の五体も死ねば、五大要素に分解される。
そこで、地の段に埋められます。
そして、何れかの時に巡り巡って、五体に還元するのではないか・・・・。
 
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  (背後の漢詩は墓地に埋められた方々の回向と思われます)
 
岩ぢさの花も、岩壁に根を張って、地から水を吸います。日の光を浴びて、空気(風)を吸って、花をつけ、種をまきます。種を残せば、自らは枯れてしまい、また分解して地中の栄養素に戻ります。
そして、春になれば、芽を吹いてまた花をつけます。
自然や社会を観察していれば、五輪によって動いている事が解ります。
因みに五輪の「輪」とは「徳とか真理」と言った意味でしょう。
 
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鎌倉中のお墓の中で、覚山尼のお墓はこの季節、美しく輝いています。
是非、駆け込み寺に参詣された折には、お墓参りされる事をお奨め致します。
 
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薄紅色の紫陽花(新善光寺にて)

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一昨日、明月院の姫紫陽花を書きました。
明月院ブルーと呼ばれる水色は、人の悲しみを洗い流すのかもしれません。
で、同じ姫紫陽花でも、薄紅色の花があります。
少し、紫かかった薄紅色は乙女チックで、眺めていると元気になります。
「箸が転んでも笑ってしまう・・・・」
そんな、明るさでしょうか?
 
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   (葉山新善光寺の姫紫陽花。中央は梟の置物)
 
鎌倉時代、ルネッサンス運動が起こります。
頼朝を筆頭にした武士団は、長野善光寺を深く信仰します。
そして全国各地に新善光寺を建立します。
善光寺式阿弥陀如来が祭られます。古風ながらも、新時代を築く清新な気風が漲っています。
頼朝は鎌倉名越に建立、北条氏が権力を握ると、葉山の新山口に移転します。
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   (新善光寺、本堂前庭から山門を見る)
 
 
御用邸にお越しの美智子妃殿下はこのお寺がお好きで、突然にご訪問されると聞きます。
私達夫婦も再三参詣していますが、一度もその警備に接した事はありません。
でも、日本蜜蜂を栽培したり、自然豊かです。
そして、優しく、美しいのです。
妃殿下がぶらっとお寄りになられるお気持ちは、良くわかります。
 
 
山門を潜ると、石段の両脇は薄紅色の紫陽花が埋めています。
その根元に、三羽の梟が迎えてくれます。
目がくるっと丸い、石造の梟です。
「ふくろう」は、「福来郎」・「不苦労」・「不苦老」と呼ばれ、縁起物です。
また、首がよく回るから商売繁盛に、目がよいから先を見通すとも言われます。
でも、この梟はどちらかと言えば、西洋風です。
 
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哲学者ヘーゲルは、著書『法の哲学』のなかで、「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏をまってはじめて飛び立つ」と書いています。知恵を象徴するのが「森の賢者」梟です。
私は、このデザインに、どちらかと言えば、西洋ルネッサンスを惹起した梟を思い出します。
 
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                                   (石段を登ると本堂が見えてきます)
 
石段を登りきると本堂が見えてきます。
四方流れ作りの美しい和洋建築です。
本堂はオープンで、写経教室などに開放しています。
欄間には美しい天女、四弁の花模様がデザインされて、とても綺麗です。
 
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境内から裏山にかけても、薄紅色の紫陽花が咲いています。
裏山には無縁仏が数多く埋もれていたようです。
最近になって、埋もれ仏を掘り起し、綺麗にしてひな壇に並べました。
孤独だった仏が集まって、ワイワイガヤガヤ賑やかにしている様子です。
私達は、薄紅色の紫陽花の隙間から石仏群を拝します。
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ブルーの紫陽花も、薄紅色の紫陽花も、良いものです。
 
 
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                        (紫陽花の向こうに膨大な数量の無縁石仏が祀られています)
 
 
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無住寺の山百合の花(葉山松葉山観正院)

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新善光寺で薄紅の紫陽花を楽しんだ私達は、次に木古庭に向いました。
川沿いの街道には、庚申塔や馬頭観音、不動明王などの石仏が並んでいます。
石仏の傍らに山百合が咲いている・・・・・筈なのです。
 
ところが、昨年咲いていたところに、山百合は消えてしまっています。
何処も、かしこも。
山百合の街道は味気なくなってしまいました。
 
誰かが車でやってきて、採取してしまったのでしょう。
自宅の庭に移植したのか、はたまた山野草として売却したのか、百合根を食べてしまったのか・・・・・?
残念に思う人は私一人では無いでしょう。
山百合は関西以南では殆ど見られません。
神奈川県の花であります。
一昔前までは関東の里山に咲いて、見向かれもしませんでしたが・・・・。
最近は稀少になってしまいました。
そして、稀に残された花も、心無い人が盗んで云ってしまいます。
 
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   (新しく発見した、観正院脇の山百合の花)
 
 
 
木古庭から下って新山口へ、更に子安里に向かう事にしました。
「こうなれば、必ず山百合を見つけてやるぞ!」
花暦を愛する野郎の意地のようなものです。
 
葉山カントリーの入り口を入ります。
此処には無住の寺「松葉山観正院」があります。
元禄時代創建、新善光寺の末寺として創建されたと記録されているようですが、現在は無住です。
ご開帳の日には西港寺のご住職がお勤めされるそうです。(三浦33観音巡り、第26番)
 
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                                                       (松葉山観正院)
小さな、民家風のお堂は昭和11年の建築、既に棟は傾いて、雨戸のたてつけも悪くなっています。
応急処置のアルミサッシが妙に目立っています
トタンの屋根は錆びて、じきに雨漏りもしそうです。
 
本堂前に角柱が立っています。
本尊の十一面観音像は葉山教育委員会の文化財に指定されていること、そしてご詠歌が記されています。
 
   行きつきて この山口の観世音 大慈大悲のあるじなるまじ
 
 
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お堂のガラス戸に顔を押し付けて中を覗いてみます。
天井にも長押にも千社札が貼られています。
ま新しい千羽鶴が天井から吊り下げられています。
その真ん中に十一面観音が、背丈1メートルあまりはあるでしょうか?
金箔が貼られて未だ日も浅いようで、鮮やかです。
 
寺伝では運慶作となっていると聞きます。
この先、衣笠は三浦一族のお城があった場所、
一族の建立した満願寺にも、浄楽寺にも運慶作と言われる仏像が祀られています。
このあたりの古い仏像は先ず「運慶」と言われるのかも知れません。
真偽は別として、山百合と同じく盗まれないか、すこし心配です。
鎌倉大船警察署には仏像の盗難届が数多く出されています。
お堂は粗末でも、監視カメラが必要な気もします。
 
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観正院をでると、芳香が漂っています。
土手の上を見上げれば、あります、あります、山百合が咲き誇っています。
 
一本の茎の先に、十余りの大きな花がついて、咲き始めています。
花が大きく、重たいので茎は90度も傾いてしまっています。
 
大楠山から吹き降ろす風に花は大きく揺れます。
揺れる姿が美しいから「ゆりの花」の名がついたのでしょう。
「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」
美人の極めつけは百合の花です。
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見上げれば、土手の彼方此方に百合は咲いています。
種がこぼれて、次々に芽を出し、群生化して来たようです。
まるで、花魁道中を見るようです。
勿論、白い花が白粉の顔、長い雄蕊は簪です。
鹿の子マダラはは裾模様でしょう。
ゆらり、ゆらり、花魁道中は私の方に向ってきます。
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十一面観音を詣でて、その功徳に山百合を見せて戴きました。
 
土手を見れば、草刈をしてあります。
刈られた草はイタドリをはじめ背丈の高い雑草です。
草刈をしなければ、山百合は草に埋もれて溶けてしまうでしょう。
誰か知りませんが、山百合の「花守」が居られます。
その人に感謝すると共に、大切にしたいものです。
今年も花が終って、種が散って、土手にもっともっと山百合が増えたら、嬉しいものです。
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(山百合が自生している土手)
 
 
 
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脅威の生命力「ど根性茄子」

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大船駅西口に接して、柏尾川が流れています。
川の流れに沿って、北に上ると長尾台の城跡が見えてきます。
「鷹匠橋」が架かっています。
この辺りに鷹匠が住んでいて、御狩場があったそうです。
 
鷹匠橋のふもとにあった六地蔵を改めて確認しました。
何のことは無い、6基のお地蔵さまは何れも子供の墓標仏でありました。
中1基は「秀玉童子」と刻まれていました。
暴れ川の柏尾川、水死した玉のように可愛い子供が葬られたのでしょう。
 
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バスの停留所がありました。
名前は「宮ノ前」
歩道にベンチが置かれて、バス待ち客の便利に供されています。
その足許に、一見して「茄子の花」が咲いています。
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                                      (手前が歩道のアスファルトを破って育つ茄子)
 
歩道はアスファルトでガッチリ舗装されています。
茄子はアスファルトを割って茎を伸ばしているように見えます。
アスファルトの割れ目に沿って、10本以上も伸びて、背丈が40センチにも伸びているものもあります。
今流に言えば「ど根性茄子」と言う事になるでしょうか。
バス待ちのお客様をガードする為フェンスがあって、歩行者が少ない事が茄子の成長を促しているのでしょう。
 
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                            (何処から見ても茄子)
 
マジマジト花を見詰めてみます。
マル茄子に比べれば、紫色の花が少し褪せているでしょうか?
でも形は全く変わりありません。
葉っぱも鋭い棘も茄子の特徴そのものです。
 
「親の小言と茄子の花は、千に一つの無駄もない」
昔から言い古された言葉です。
この季節、茄子は次々に花をつけ、ドンドン実がなります。
1株あれば、夏中一人が食べる分成り続けます。
その生命力に畏敬を込めて、この言葉が出来たのでしょう。
 
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                                      (普通のまる茄子)
 
茄子の原産地は東インド、奈良時代に中国から日本に伝ったそうです。
多分、三蔵法師が伝え、遣唐使と共に日本に・・・・。
仏教の伝播と同じように・・・日本に定着したのでしょう。
 
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                                             (大きく育った野生茄子)
 
 
それにしても、物凄い生命力です。
家に戻って調べてみると、名前は「悪餓鬼」ならぬ「ワル茄子(なすび)」。
名づけたのは牧野富太郎博士、
何のことは無い、博士が千葉のお宅のお庭に生けたところ、ドンドン繁殖して困ってしまいました。
抜いても抜いても、生えてくるし、鋭い棘もある・・・・・。
野生の茄子退治に閉口して「この野郎」とばかり「悪茄子」と名づけられたそうです。
「悪太郎」の感覚でしょう。
 
そんな牧野博士を驚愕させた生命力です。
安普請のアスファルトを破って生育するのは簡単なのでしょう。
どんな実がなるのかな・・・・・。
楽しみです。
 
 
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笠智衆の眠るところ

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横須賀線に乗って、大船駅を過ぎて北鎌倉の山陰に入ろうとするところ、小菅ヶ谷の踏み切りがあります。
その線路脇にお寺の甍が見えます。
このお寺が、浄土真宗「成福寺」です。
 
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   (成福寺山門、山門の外は小菅ヶ谷の踏み切り)
 
 
鎌倉幕府に向けて、鎌倉新仏教の始祖達は向います。
一般に幕府と争ったのは日蓮と言われています。
でも、日蓮は府内に数多くの寺院を構え、毎日のように辻説法をしていました。
政治論争さえしなければ、特段問題になる教団ではなかったのでしょう。
 
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   (成福寺本堂前、紫陽花は同好会の鉢植え。愛好者に分けていただけるそうです)
 
幕府が最も警戒した相手は親鸞に間違いありません。
「悪人正機説」は社会を根底から覆す、そんな危険な考えだ・・・・・直感的に感じていたと思われます。
親鸞は越後に配流されます。
許されて全国行脚を始めます。
上野、下野を経て鎌倉に向います。
しかし、幕府は府内に入れません。
親鸞はやむを得ず、鎌倉の外側で布教をします。
私の住む倉田でも天台宗、真言宗の寺寺が相次いで親鸞の弟子になります。
 
最も鎌倉府内に近い位置にあったのが、天台宗「成福寺」でした。
このお寺も親鸞を師に仰ぎます。
 
私はかねてからこのお寺を詣でたい、思っていました。
目的は笠智衆さんのお墓参りをしたいから。
 
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                             (松竹HPから)
 
私も家内も特に映画が好きなわけでもありません。
でも、笠智衆さんの人柄や風貌には惹かれるものがありました。
もしも、私が映画プロデューサーなら、「良寛・貞心尼物語」を企画するでしょう。
良寛を笠智衆、貞心尼を貫地谷しほり、に白羽の矢を当てたいと思います。
そんな映画を観てみたいものです。
 
成福寺の墓地に入っても、笠智衆さんのお墓が見つかるはずありません。
あのお人柄から目立たないお墓にされたに決まっています。
でも、「笠」という名は滅多にありません・・・・・。
早朝の墓地を変な小父さんがうろついています。
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  (山門を入ると、無縁仏が並んでいます)
 
お寺の大黒さんがゴミ捨てに出てこられました。
私は大黒さんに連れられて笠智衆さんのお墓参りが出来ました。
何処の墓屋にも用意されている角塔に企画された狭いお墓です。
 
奥様が平成12年に亡くなられ、笠さんはガックリされたそうです。
山田洋次監督の「男はつらいよ 寅次郎の青春」が遺作になりました。
笠さんは平成15年、奥様を追うように旅立たれたそうです。
享年88歳でいられました。
 
笠さんは熊本県玉名市で来照寺(浄土真宗)に生まれました。
「智衆」は本名であったそうで、お父様が大衆を教え導く人になって欲しい、名づけられたのでしょうか。
実家を継ぐと偽って上京、東洋大学に学びます。
しかし、卒業後大正14年、松竹蒲田撮影所の1期生として入所します。
蒲田撮影所は大船に移転、笠さんも大船に居る時間が長くなります。
小津安二郎監督に見出され、「父ありき」など主役を演じます。
俳優として大衆に敬愛されたのでした。
 
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  (蓮が並んでいます。漬物樽ですね、というと、前は睡蓮鉢を使ったのですが、駐車場で車が当って壊れたものですから・・・・。飾らないお人柄の大黒さんでした。)
 
 
笠さんは奥様の墓所として、撮影所に近い成福寺を選びます。
 
お寺生まれは私も同じ、慣れたお経は母の子守唄のような懐かしさがあるものです。
そして、ご自分も同じお墓に埋もれます。
墓誌にはもうお二人刻まれています。
ご子息だそうで、お一方は大船駅で蜘蛛膜下で亡くなられたそうです。
 
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                                     (葉書の木)
 
大黒さんは私を本堂の前に連れ出します。
「この木をご存知ですか?」
見れば、珊瑚樹のような丸い厚い葉っぱが生茂っています。
花が黒く縮れて、未だ着いています。
私が怪訝な顔をしていたのを喜んで・・・、
「これが葉書の木なのですよ。名前は”多羅葉(たらよう)”。昔の人はこの葉っぱに字を書いて伝達した。葉書の名はこの葉っぱに始まったのですよ。」
言われながら、頭上の一枚をちぎってくださいました。
私は、「成福寺」書いてみました。
見る見る、傷跡が黒々として、「成福寺」字が浮かび上がりました。
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葉書の寺は何日経っても消える事はありません。
不思議な葉っぱです。
 
このまま、北鎌倉駅前まで進んで、「光泉」のお稲荷様を求める事にしましょう。
小津監督も笠さんも光泉の稲荷ずしが好物であったそうです。
甘党だったのこも知れません。
地下の笠さんは仰っている事でしょう。
「順番を間違うてる。先ず光泉に行って、求めて来い。それから参れ・・・・」 と。
 
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光則寺の「花曼荼羅」

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梅雨時が鎌倉が最も賑わうのではないでしょうか?
観光客や自由研究の小中学生が大挙して狭い鎌倉の町にやってきます。
今頃は紫陽花や岩タバコ、花菖蒲が咲き、半化粧や夏椿など次の主役に入れ替わります。
最も季節の移り変わりが美しく感じられます。
私も、そんな楽しみを求めて鎌倉に出かけます。
 
紫陽花ウォーキングの人が群れるのが、長谷地区でしょう。
大仏様から長谷寺、その裏の御霊神社、更には極楽寺の切り通し、成就院に向けて、観光客の群れが続きます。
適当な間隔に冷菓や和菓子屋さんが並んでいます。
食べ歩くにも、楽しい街です。
 
長谷寺の手前、細道を右折します。
谷戸の奥に目指す光則寺があります。
 
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  (長谷の光則寺、本堂のスックたった姿は鎌倉武士の風貌を思わせます)
 
このお寺は縁起を説明すると、わかりやすいのです。
 
日蓮上人は佐渡に配流されます。
その高弟は牢獄に監禁されます。
日朗上人は執権北条時頼の重臣「宿屋光則」に預けられ、土牢に監禁されます。
ところが、光則は日蓮師弟の姿に感服し、その主張「立正安国論」を方丈時頼に上申します。
更に、日蓮上人が放免されると、開山に日朗を招き、私邸を寺とします。
 
ですから、光則寺は宿屋光則の私邸なのです。
光則の人柄や面影がお寺に残されています。
裏山には二箇所の土牢が保存されています。
弾圧されても、自らは曲げずに正しいと確信する事を、社会に向けて主張し続ける、
そんな気概や尊さを伝えているのでしょう。
 
本堂前には巨大な石碑が立てられ、立正安国論を上申した経緯が誇らしげに記されています。
 
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                                                     (本堂前の定家カズラ)
光則寺を訪れる人の楽しみは、大黒さん(お寺の奥様)の「園芸」にあります。
山門の下にはB4サイズのプリントが置かれています。
境内のマップが書かれてあり、山野草の名前が記されています。
私達は、花を見て、マップを見て、照合します。
名前を知る事によって、山野草が急に身近に感じられてきます。
解らない時は、境内で園芸作業中の大黒さんに聞きます。
丁寧に教えていただけます。
 
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  (手前クレナイという名の山紫陽花、蓮の蕾も膨らんでいました)
 
私は、カタクリの花を見たのはこの寺が最初でした。
しかし、カタクリの花は年々減少してしまい、数年前には消えてしまいました。
山野草も環境の変化について行ける種と。ついてゆけない種があるようです。
 
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                                       (今が見頃の夏椿、熊蜂が群れていました)
 
お寺が園芸に熱心で、参詣客に見せたいと思っているのは、屹度「法華経」の教えを目で見せよう・・・、
されているように思います。
様々な種の草花が同時に地上に咲き誇る様にこそ、法華経の世界が思われます。
スマップのヒット曲「一つの花」のテーマです。
鎌倉の「おんめさま」の本堂は格天井です。
天井の一こま、一こま毎に草花が描かれています。
 
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                 (青梅は収穫期ですが、成るに任せ、落ちるの任せているようです)
 
紫陽花は様々な種が植えられています。
特に山アジサイの種が多いのが特長です。
紫陽花ももう後半戦、来年も見事に咲かせるため、花柄摘みを始めています。
 
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境内には梅の実が其処此処に落ちています。
梅雨の字の通りです。
定家カズラもおしまい、金枝梅も散り始めました。
美容柳の花柄と青梅の実が一緒に掃かれていました。
 
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                           (美容柳、根元に熟した梅の実が匂っていました)
 
代わって境内の主役は夏椿に、蓮に、ギボウシ(擬宝珠)に・・・・・。
出番待ちが大挙しています。
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                                       (露地の金枝梅の花)
 
境内の外れに孔雀小屋があります。
メスが二羽、オスが一羽です。
オスが尾羽を広げて、その勇姿を見せ付けています。
尾羽は広げたままで閉じようとしません。
尾羽の模様を見ていると、ああ此処にも「法華の教えがある」・・・思ってしまいます。
小屋の奥に卵が沢山無造作に置かれています。
メス達は抱卵することも無く、小屋を歩き回っています。
オスの求愛を避けているように見えるのは、私の思い違いでしょうか?
 
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愛らしい「庭のヒキガエル」

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今朝(6月23日)は雨です。
今日は10時過ぎから選管の打ち合わせ会など、あんまり楽しくない寄り合いが続いています。
何とは無く、鬱陶しい気持ちです。
 
ガラス戸の外には咲き始めたくちなしの花が見えます。
我が家の花は八重です。
まるで、白い薔薇のようです。
屹度芳香が漂っている事でしょう。
でも、雨が降っているので、ボーっと見ています。
 
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小屋で寝ているはずの犬が飛び出しました。
「どうしたのかな?」見れば、
一匹のヒキガエルが庭先に、庭を縦断しようと犬小屋の前に出現したのでした。
犬はヒキガエルの横腹に鼻を近づけます。
ヒキガエルは歩みを止めて身構えます。
心なしか、体が膨らみました。
イボイボも大きくなりました。
犬は、小屋に引き返して、また寝てしまいました。
イボイボから、毒液が滲み出して、これは危険だ、悟ったのでしょう。
 
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(庭に出現したヒキガエル(別名蝦蟇蛙)、警戒表情で少し膨らんでいます)
 
私の生家には古池がありました。
ヒバの大木があって、その根元に弁天様の祠があって、弁天池と呼んでいました。
その池は、春先「ガマ合戦」で賑わいました。
裏山に棲息しているヒキガエルが大挙出てきて、ギャーギャー、ゲコ・ゲコ、騒ぎ出すのです。
一匹のメスカエルを数匹のオスが奪い合います。
戦いに勝ったオスがメスの背に乗っかって、両手で脇腹を強く押します。
メスは押されると快感が走るのかも知れません。
太いトコロテン状の卵を産み落とします。
同時にオスは精液を放出します。
こうして体外受精が行われます。
 
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戦いに負けたオスは諦めがつきません。
勝った筈のオスの背中にの乗っかって、オスの横腹を押さえます。
中には首筋を押さえつける輩も出現します。
結果、ガマ合戦が終了すると、古池には数匹のヒキガエルが戦死して、腹を上にして浮かんでいます。
オス同士の腹上死です。
 
ヒキガエルと言えば「児雷也」でした。
江戸時代からの読み本で、歌舞伎の演題でもありました。
正義の忍者児雷也はガマカエルの背に乗って出現します。
「なめくじの妙術」を得た美女綱手と力を合わせて、大蛇丸(おろちまる)と戦います。
蝦蟇・蛇・なめくじの3すくみの構図がに魅了されてしまいます。
戦いの舞台等には鶴岡八幡宮、江ノ島弁財天、箱根湯治場等、馴染みです。
ですから、子供達にとってヒキガエルは正義の味方でした。
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                                    (歌川豊国・歌舞伎絵)
 
わたしは、庭に出て、ヒキガエルさんにご挨拶です。
カメラのレンズを睨んでいましたが、暫くすると別に危険は無い、悟ったのでしょう。
睡蓮鉢を迂回して、朝顔鉢の間を抜けて、露草の茂みに隠れてしまいました。
今年の夏も、このあたりで過ごす事でしょう。
屹度、家内が草むしりをして、また悲鳴をあげることになることでしょう。
 
草叢には昆虫も多く居ます。
団子虫にオサムシ、腐った葉っぱの下にはミミズも居ます。
昆虫を主食にするトカゲも居れば、門灯に集まる虫を食べようとヤモリも出て来ます。
どれもこれも、ヒキガエルはペロッと呑んで胃袋に収めてしまいます。
 
ヤモリもヒキガエルも縁起物です。
こんなに縁起物が多く棲んでいるのだから、我が家にもソロソロ運が向いても良さそうな気がします。
 
 
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(朝顔鉢の間を抜けるヒキガエル。体表のイボイボに毒が溜まっていて、緊張すると体が膨らんで毒が滲み出てきます。この毒に免疫があるのはヤマカガシ(蛇)だけで、ヤマカガシの顎下に蓄えられた猛毒はヒキガエルの毒の滞留物と言われています)
 
 
 
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「燕のように・・・・・」偉大な詩人の子供へのメッセージ

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戸塚駅東口、バス待ちの行列の人たちが一点を見詰めています。
そして、ニコニコ微笑んでいます。
目の先はパチンコ店の入り口、ジュースの自動販売機の上部です。
其処には丸い屋根があって、屋根とビルとの隙間に燕が営巣しています。
もう、大きくまるまる育った坊主達が5羽も並んで、外を見詰めています。
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父親、母親がビルの裏柏尾川の堰堤から青虫を啄ばんで、運んできます。
親の姿が見えると、顔より、頭より大きく嘴を開いて
「私に頂戴!」
「今度は僕の番だ!」
必死です。
 
 
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「黄色い嘴」とは良く言うけど、これこそ黄色いな・・・・!
思います。
 
私は、ふと思い出します。
直ぐ傍にある東戸塚小学校の校歌の歌詞を。
そして、ハミングしてみます。
バス待ちの多くの人も同じ思いの事でしょう。
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           (パチンコ店のジュース自販機の上、黄色い屋根の上に燕の巣があります)
 
私が評議員を勤める東戸塚小学校は昭和27年に開校しました。
今年還暦を迎えます。
地域全体でお祝いしたい、そんな気持ちから地域で実行委員会を組織、準備に取り掛かっています。
 
東戸塚小学校の校歌は、サトウハチローさんの作詞、まえだたまきさんの作曲です。
校長室には興味深い原稿が掲示されています。
 
  雨の降る日も 風の日も
  胸は青空 晴れた空
  心もかろく 友達と
  東戸塚の 学び舎へ
 
  訓えみちびく 先生の
  いつもかわらぬ やさしさよ
  つばめかりも のぞいてく
  東戸塚の 学びやを     (3番以下は省略)
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  (原稿Cはボツになっています)
 
鉛筆で書かれた原稿の中に、興味深い歌詞があります。
多分、サトウハチローさんがボツにした段落でしょう。
でも、採用された歌詞とあわせて見ると、興味が倍増するのです。
 
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  (原稿A、B、C何れもボツのなっています。
 
とりわけ真骨頂の段落は次の通りです(上記写真B)
  窓をかすめたつばくらめ
  見たかひょろ長 まるまる坊主
  クリクリ目玉
  チビあたま
  はげみまなんでよくあそべ
 
サトウハチローさんは子供達が元気にやさしく育って欲しい・・・・
メッセージを「燕の子供のように」・・・託したのでしょう。
 
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ボツ原稿は動物達のパレードです。
「かたつむり」に「もぐら」。
「おたまじゃくし」「みずすまし」「メダカ」「笹がに」「手長エビ」「なまず」「うなぎ」
と続いて、最後は
『どれもみな おさななじみだ 友達だ』と結んでいます。
 
多分サトウハチロウさんは思いのままに詩を書いてみて、改めて見直したのでしょう。
初稿のままでは「動物愛護の歌」みたいだな」そんな意見を予測してか、学校校歌らしく収めたのでしょう。
でも、初稿こそサトウハチローさんが小学生に送ったメッセージだったのでしょう。
「自然界の動物と友達で居て欲しい・・・・・」
 
そんな動物の代表が「つばめ」だったのでしょう。
で、採用校歌の二番に
「つばめが窓から教室を覗いてく・・・・・」の段を入れています。
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今しがた、サッカー日本代表がデンマークに勝利しました。
日本中が心を一つにして湧いています。
60周年行事にはサッカーの奥寺さん(東戸塚小学校卒業生)の話でもお願いしようかな?
でも、奥寺さんは今の子供達は知らないだろうな・・・・?
最初にヨーロッパに出たプレーヤーで、中田選手や本田選手の先駈けなのですが・・・・。
 
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 パチンコやさん、燕を可愛がってくださり有難うございました。
 来年もまた、よろしく。
 
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弘法大師様は何とお書きかな?(鎖大師にて)

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鎌倉の手広から腰越に通じるきり通しに、鎖大師青蓮寺があります。
このお寺も、境内にお花が絶えません。
奥様がお手入れされ、石仏を飾っています。
石仏好きの私は、季節の花が咲いた頃合を見はかりながら、参詣しています。
 
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                                       (不動明王に俵グミが捧げられていました)
もう、夏至が過ぎました。
夏至と言えば半化粧(半夏生・かたしろくさ)でしょう。
半夏生とは雑節の一つで、夏至から数えて11日目があたります。
この頃、葉っぱが名前の通りに真っ白になります。
絽のお着物を召されたご夫人が、日傘をさしているようで、心惹かれるものがあります。
鎖大師さんは4年前池の整備をされました。
その折、淵に半化粧を植えられました。
半化粧が咲く頃、梅雨が明けます。
でも、大雨になり大被害を起こす事が度々あると聞きます。
「半化雨」と言われ畏怖されています。
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                                       (半化粧も綺麗に白くなりました)
 
境内の其処此処に擬宝珠(ぎぼうし)が咲いています。
爽やかな水色です。
その蕾の形が、擬宝珠(ぎぼし)の形に似ているのでこの名前(字)があてがわれたのでしょう。
擬宝珠とは京都の五条大橋の欄干に飾られた、「逆さ玉葱」のようなデザインです。
団扇のように大きな葉っぱも魅力です。
 
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      (擬宝珠の花陰に弘法大師像)
 
金枝梅はもう後半戦です。
梅雨が明ければ、散ってしまいます。
鮮やかな金色の向こうに、苔むした石仏が並んでいました。
 
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         (手前が金枝梅)
 
夾竹桃も咲き出しました。
この花は広島で原爆が投下された後、最初に咲いた花だそうです。
都心も横浜も空襲で焼けました。
私の母も、夾竹桃の花が咲くと、必ず戦争の思い出を話しました。
母は終戦を迎えて、フィリッピンに出征していた弟が帰国する事を待ち望んでいました。
でも、帰還中、河川を渡ろうとして、隊列に遅れ沈んでしまったそうでした。
母はフィリッピンの川原で拾った小石を遺骨と思って狛江の生家の寺に捧げました。
母の世代は、真っ赤な夾竹桃を見ると、様々な思いが交錯したのでしょう。
 
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   (夾竹桃)
 
梅の木の下に、弘法大師様が文机に座られ、筆を使われています。
「何とお書きかな?」
机の上を覗いてみました。
「和」と読めました。
 
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境内は、様々な花が咲いてそれぞれに鮮やかです。
そんな状態を「和」と言うのでしょう。
 
苦い体験、苦しい思い、激しい怒りも時間が経てば、収まるべきところに収まってくれるかもしれません。
そんな状態も「和」かもしれません。
戦争が終って60年余り、「和」が生まれるには相応の時間が必要なのでしょう。
 
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天邪鬼とねじ花に思いを寄せて・・・・

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相模の国は庚申塔ではおそらく全国一では無いかと思います。
数も種類も、とりわけデザインの面白さは、他の地域の追随を許しません。
そんな中でも、心惹かれる庚申塔が、鎌倉瑞泉寺の山門脇、草叢の中に佇んでいます。
多分、寺のふもとの二階堂村の辻に立っていたものが、余りの素晴らしさに、現場所に移されたものでしょう。
 
 
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主尊青面金剛のお顔がアンパンマンのようで、「怖い」と言うより「楽しい」とか「親しみ」を覚えます。
下段の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿もテンでバラバラの方角を向いています。
そして、主尊の足に踏みつけられているはずの天邪鬼も「アンパンマン・ジュニア」のようなお顔です。
 
小学生の運動会、騎馬戦の馬のようです。
騎馬戦の勝敗を決する一番の役割を果たす、馬の先頭の顔です。
庚申塔は漫画を見るようです。
 
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仏教で言う天邪鬼は、人間の心に巣食う煩悩と説明されます。
四天王や執金剛神の足に踏みつけられ、苦しそうにもがいている筈です。
私達は、自分の心の中には天邪鬼が居て、それを抑制しなければならない、訓えられます。
でも、瑞泉寺の天邪鬼は主尊を肩車にして、支えています。
騎馬戦と同じ「仲間」です。
 
皮肉れた心は誰にもあります。
それが出易い人を「ひにくれ者」と呼んだり「つむじ曲がり」とさげずんだりしていました。
天邪鬼と呼ばれる子鬼は人間に共通しています。
仏教伝来前から妖怪は数多く居ました。
でも、私達は知っています。
「煩悩」が無い人間は居ないし、もしも居たら、そんな人間は魅力が無いと・・・。
「ひにくれ者」とは「人間味」が強い者だと。
 
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                                     (明治学院大学チャペル前の広場)
 
明治学院大学のチャペルの前、広場に雑草が繁茂しています。
6月までは「地しばり」の黄色い花が占拠していました。
黄色い花も枯れて綿毛になりました。
今では、白詰草が目立っています。
 
そんな中に、「ねじ花」が咲き出しました。
ユニークな形の花です。
米粒ほどのピンクの花が、列を作って咲いています。
小花は真っ直ぐではなく、捻れてついています。
「何で捻れているの?」思います。
明らかな事は捻れて居なければ、面白くありません。
でも、何かもっと理屈がある筈です。
 
捻れているから、茎は真っ直ぐ天空に向って伸びることが出来ます。
捻れていなければ、多分茎は花の咲いているほうに倒れてしまって、ピンクの花は泥まみれになってしまうことでしょう。
 
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ねじ花は右巻き、左巻き、勝手気ままです。
でも、小花一つ一つはとても綺麗で可愛いのです。
「私達は蘭ですよ、綺麗で当然よ!」
一寸小生意気な顔をしています。
ねじ花の向こうにチャペルが見えます。
尖塔は真っ直ぐ建っています。
 
古代の歌人は、こんなねじ花を見て、自分の恋心と同じだ、思いました。
    (ねじ花は古代「もじずり」と呼ばれました)
 
   みちのくの  しのぶもじずり  誰ゆえに    
                 乱れむと思ふ  我ならなくに       

                                       古今集  河原左大臣    
 
       歌の意味:陸奥の国のしのぶもじずりのねじれ花のように、私の心は捻れ乱れている。これは私のせ              いではない。みんな貴方のせいなのだよ。
 
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天邪鬼もねじ花も同じでしょう。
煩悩が強いから面白い、人間らしい。
捻れているから魅力がある。
そして、そんな煩悩があるから・・・・捻れがあるから・・・・・高みに憧れたり真っ直ぐ伸びることが出来るのでしょう。
 
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   (チャペル前の広場にて、紅シジミ)
 
 
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古池の草魚(光明寺にて)

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鎌倉は紫陽花も後半になってきました。
「次のお花は何かしら?」
歳時記という名のプログラムを見るような気持ちで、期待します。
「次は睡蓮だな!盆の入りの頃満開になるし・・・・」
未だ一ヶ月も先ですが、先日訪れた光則寺ではもう咲き始めていました。
 
「材木座の光明寺はどうかな?」
気が早いもので、出かけて見ました。
 
何時見ても大きな山門です。
多分、芝の増上寺よりも大きいと思われます。
三門前には立ち葵が見事に咲いていました。
これを「花葵」と言うのだ、先日の新聞には案内してありました。
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光明寺では7月の末には観蓮会が催されます。
蓮を眺めて、歌のようなお経を聞き、現世でありながら極楽を観想する機会です。
そういえば、このお寺には当麻曼荼羅図も保存されています。
 
夕闇に献灯が並び、ぼんやり辺りを浮かび上がらせます。
鎌倉のお嬢さんが浴衣姿で参集します。
花葵はお嬢さんの浴衣の模様のようで、鮮やかであり上品でありました。
 
本堂の北、書院との間に古池があります。
小堀遠州が作った庭園であると伝えられています。
浄土宗三祖・記主禅師お名前を冠しています。
 
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古池に蓮が植えられているのは、先ず蓮の花が綺麗だからでしょう。
更に、蓮は泥沼に根を張って、花をつけるから・・・・、泥沼は現世、花は極楽を思わせます。
極楽の花の上、蓮華座には阿弥陀様が座られます。
 
蓮の花はお盆の頃に咲きます。
お盆は正しくは「盂蘭盆会」とか「施餓鬼」で呼ばれ、不幸に亡くなられた霊や無縁になってしまった霊を救う行事です。
蓮の葉っぱの上にお米など食べ物をお供えする(精霊棚)のも、そんな意味でしょう。
蓮は花は勿論、葉っぱも根っこもお盆には欠かせません。
 
その蓮池も何時しか古代蓮(大賀蓮)が目立つようになってきました。
縄文土器の底から発見された蓮の種が、現代になって光明寺の池を占拠しているのは不思議な気もします。
 
トンボが飛んで、亀が甲羅干しをして、穏やかな平和な時間です。
未だ今日はカワセミは飛んできません。
もう、30分も待っていたら、屹度縄張りを巡って、やってくることでしょう。
「待つとするかな?」
本堂と書院を繋ぐ渡り廊下に座ってぼんやり池面を眺めていました。
鯉が群れて、池を巡っています。
一匹、黒い魚体が泳いでゆきます。
鯉よりも二周りも大きいでしょう。
細く長く、背びれも小さいようです。
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お坊さんに伺いました。
「黒くて大きい魚、あれは何ですか?」
お坊さんはゆっくり話されます。
「あれは草魚ですよ、何時しかこの池に棲みついて、でも一匹ですからね・・・(増殖しないので大丈夫)」
「名前の通り、草しか食べないのですか?」聞きますと。
「鯉の仲間ですから、雑食性ですよ。でも鯉も大きいから大丈夫でしょう・・・・」
 
お寺の池は放生池ですから、ペットも此処に放流してしまえば生きながらえるのでしょう。
でも、柏尾川の亀も巨大な外来種が目立ってきました。
この古池も荒川と同じように、草魚が主になっては・・・困るのかな・・・・・
良くは解りません・・・・。
でも、地下の小堀円州は驚いている事でしょう。
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家に戻って調べてみると、草魚の寿命は7年程度だそうです。
大きくなるのは早くても、死ぬのも早いようです。
ならば、いずれ私のブログに書く事になることでしょう。
「古池の草魚昇天する・・・・」
まあ、いいか・・・?
生態系は何れ元に戻るものでしょう。
 
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光明寺、五輪塔群。寺の近隣は三浦党との古戦場。膨大な数量の五輪塔が発掘され、最近に光明寺本堂北側に祀られています。周囲は紫陽花が咲いています。
 
 
 
 
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横浜「みどり税」の嘘

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昨年、横浜市では「横浜みどり税」なる新税が導入されました。
推進者は前市長の中田氏でした。
「横浜みどりアップ計画」推進の為、市民税均等割りに900円を上乗せしてください!
そんな内容でした。
横浜市は全国的に見ても税負担の高い都市です。
更に均等割りで上乗せするのは如何なものでしょうか?
 
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           (横浜緑税の目的をアナウンスする緑アップ計画パンフ)
 
1年経過しました。
新税は92億円の歳入効果がありました。
市の農政局員が説明に来ました。
地域は資源循環局公園課が説明に来るものと思っていました。
「誰が誰の為にこの新税を使ったのか」、馬脚が現れました。
「市街地に農地を持っている人の為に、農政担当者が新税を使っている・・・」のでした。
税金は土地の所有に関係なく、貧乏人も金持ちも900円でした。
 
新税導入時横浜の被緑地率は31%でした。
新税を導入、有効に使った結果、被緑地率は29.8%になりました。
「おい、待てよ、中田市長はみどりアップ計画を発表し、その為に新税を導入したのだろう。なのに何故緑地が減少してしまうのだよ・・・・・。」
驚いてしまいます。でも、大半の市民はこの事実を知りません。
マスコミも報道しません。
 
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       (新税導入後も緑地の減少が止まっていません。)
 
私の住む町上倉田地区連合会で市当局と「地区懇談会」が開催されました。
私達は、都市計画道路「桂遠藤線」の進捗状況の説明を求めました。
用地の買収率は70%、竣工は早くても5年後との説明でありました。
地域住人も様々です。
でも、非土地持ちにとっては交通量が増すし、騒音はするし、何も良い事は無い、判断でした。
 
加えて都市計画道路は尾根道を取り崩し、造成する計画でした。
尾根道とは「野庭道」と呼ばれる歴史のある生活道路です。
 
事前に当局に質問状を提出しておきました。
「都市計画道路の計画時点と今で社会状況も大きく変化しています。この機会に実方塚高島橋区間1キロは取りやめる勇気もあって然るべきではないか・・・・?」   と。
 
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 (上倉田町、中央の尾根道を崩して1キロの片側2車線道路が計画されています。出来れば緑地は半減して、残りは神社やお寺の境内程度になります)
 
グーグルアースの写真マップを見ても明白です。
上倉田町の残された緑は野庭道(尾根道)沿いしかありません。
これを都市計画道路に開発すれば、30%あった緑地は半分近く減少してしまうでしょう。
 
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  (野庭道、歴史と生活が匂う、遊歩道です。この道を壊して都市計画道路にするプランです)
 
「緑を残したい」公約は誰もが賛成します。
しかし、公約に哲学がありませんでした。
開発を見直すことなく、緑を残したり、増やす事は不可能です。
緑アップ計画の最初の手順は、開発計画の見直しでしょう。
でも、この仕事は農政局に委ねました。
農政局には「農地を残す」「都市型農業を計画」を考えても、横浜全体で緑地を確保する施策も権限もありません。所詮無理な組織です。
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  (野庭道に咲いた立浪草)
 
 
結果、貧乏人から税金を徴収し、土地持ちに「農業を続けてくださいよ・・・・・」とばかり、新税92億円を使ってしまいました。
 
今回の「横浜緑税」、中田市長の「嘘」に横浜市民は今更ながら唖然としています。
林新市長においては、緑税を取りやめるか、もしも継続するのなら、エコの哲学から建て直し、担当部局も都市計画や公園セクションに代えて下さい。
 
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(道路計画に組み込まれている棚田、倉田小学校の生徒が作っています。右側細道が蛇坂。尾根に野庭道が走っています)
 
 
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故人の面影(小田原五百羅漢寺)

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明治維新まで相模の国の最大都市は小田原でした。
従って、小田原には横浜以上に歴史資産が蓄積されています。
小田原の魅力の一つが自然で、小田原駅から箱根登山鉄道に乗れば、強羅に運んでくれます。
もう一方が信仰で、小田原駅の逆方向、大雄山線に乗れば、最乗寺(道了尊)に行くことが出来ます。
 
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                                 (玉宝禅寺/五百羅漢寺の本堂)
 
小田原駅から大雄山線に乗って三つ目の駅が五百羅漢駅です。
駅から近く、山際に目指す五百羅漢寺があります。
 
もうじきお彼岸です。
お檀家の方でしょう、総出で境内や墓地の清掃に励んでおいででした。
私と家内は伺ってみます。
「五百羅漢様を参拝したいのですが・・・・・」
すると、手拭で汗を拭きながら言われます。
「本堂は開いていますよ。どうぞ、どうそ・・・・」
私達は、重たい扉を押し開いて本堂に上ります。
ご本尊の左右、後ろの位牌堂にかけて、五百羅漢が並んでおいでです。
本堂の薄暗闇に目も慣れて、私達は一体一体、羅漢像を巡ります。
どれもこれも、昨年他界してしまった、M君のようにで、喜怒哀楽が鮮明です。
 
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     (羅漢像。頭を掻いておいでです。『いやあ すい臓癌に気づかなかった。失敗失敗』言っているようで)
 
門前に簡単な案内が掲示されています。
その最後に歌が記されていました。
 
 我が親に 似たる仏もあるらかん 廻りて拝まん たこの寺かな
                                  (原文平仮名)
 
「たこ」とはこの辺りを「多古」と呼ぶから、山の中腹にお多古城があったそうです。
本堂裏には経塚のあともあります。
 
小田原北条家が曹洞宗を重んじました。
五百羅漢寺も曹洞宗ですが、旧くは密教系のお寺だったのでしょう。
寺の背後は箱根外輪山、前には水量豊かな酒匂川が流れています。
修験道が盛んであった雰囲気が今も残されています。
 
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  (須弥壇上の五百羅漢像)
 
本堂内に縁起が書かれた栞がおかれていました。
多古村に住んでいた添田さんが出家して「智鉄」と号します。
智鉄は浄財をあつめ、五百羅漢像の造立を発願します。
時は享保15年(1730年)徳川吉宗の時代です。
智鉄の遺志は弟の真澄に継がれます。
526体の羅漢像は宝暦7年(1757)に完成しました。
 
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                                      (須弥壇の裏に並んだ五百羅漢像)
 
智鉄の発願の契機は詳しくは解りませんが、先の栞には次のように書かれていました。
智鉄は酒匂川の洪水の始末に流木を拾って、築堤の工事をしようとしていました。
流木に鳶口(大工道具)を打ち込もうとすると、それが大蛇でありました。
驚愕した瞬間、羅漢像の造立を思いついたそうです。
 
箱根から足柄に降った雨は一気に酒匂川に流れ込みます。
治水工事・洪水は再三再四繰り返されます。
人々は水神に祈りながら、治水工事に励みます。
蛇は水神のお使いですから、工事中に大蛇が出現すれば、吉祥と思われます。
 
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多くの仏は死後の幸福を約束してくれます。
「現世は・・・誰が?守ってくれるのか?」気になるところです。
1700年代にもなると、現世の幸福は先ず自身の力で勝ち取る、そんな考えも一般化してきたのでしょう。
江戸時代、彼方此方に現世の幸福を掴む、その仏として羅漢像が造立されました。
江戸目黒の羅漢寺、川越の喜多院などにも五百羅漢が奉納されました。
此処小田原でも同様にして五百羅漢が造立され、治水を成功させ、五穀豊穣が祈られました。
 
五百羅漢が完成してから半世紀後、1787年お隣の栢山村(かややまむら)に二宮尊徳が生まれました。
5歳の時(寛政3年1791年)酒匂川が氾濫し、田畑が流失しました。
尊徳の一生のテーマ「治水灌漑事業」が決定します。
築堤工事をはじめ様々な成果を挙げます。
さながら羅漢の如き活動を率先して実行します。
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                                          (二宮尊徳生家)
 
逸材二宮尊徳が出現した素地は此処五百羅漢寺にも残されているのだな・・・・!
そう思いながら、五百羅漢寺を出ました。
酒匂川の堤防には黒松の並木が見渡せました。
二宮尊徳が植えたものか、はたまたその二代目か知りません。
 
数多くの太公望が鮎つりを楽しんでいます。
五百羅漢像は寺の本堂が狭いとばかり、林立しています。
廻れば、必ず死んだ親爺に逢えるのだそうです。
親爺に会って、現世を平和で幸福を実現できるよう励まされて、元気を回復して帰るのでしょう。
 
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(酒匂川の松。二宮尊徳の築堤の築堤に拠る・・・)
 
 
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幽体離脱とアゲハ蝶

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二宮尊徳記念館には、尊徳の生家が保存されていました。
尊徳は家族に見守られ生まれた家です。
そして日光今市で70歳の高齢でありながら、仕法の仕事に励みます。
その途上、家族や多くの弟子に見守られながら亡くなります。
 
 
私は家族に見守られながら、一生を終える幸いを思いました。
私達は、病院で生まれて病院で死にます。
誰しも、「家族に見守られて抱き上げられ、家族に見送られたい」 と思っていると思います。
その方が遥かに人間の尊厳が守られているからです。
 
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(二宮尊徳生家。1間、囲炉裏、土間の簡素な作りです。此処で生まれて死んだのですから、生死を家族に見守られていた事になります)
 
 
二宮尊徳の生家は木立で囲われています。
露地を歩いていて、「ギョッ」驚きました。
私の目の前に、得体の知れない真っ黒い物体が遮蔽したからです。
足を止めて物体を凝視しました。
 
二頭のクロアゲハ蝶です。
金木犀の梢の先で、二頭は交尾中なのです。
裾模様に朱色の模様が鮮やかな方がオスでしょう。
腹部は太く短くなっています。
オスもメスも全身の力を籠めて生殖しているのです。
腹筋が縮まっています。
 
風が吹いてきます。
二頭は合体したまま揺らめいています。
でも、決して離れまい、
強い意志が感じられます。
 
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   (金木犀の梢で交尾中のクロアゲハ)
 
日本人は古代から蝶を魂だと思ってきました。
とりわけ、大きくて真っ黒なクロアゲハ、カラスアゲハ等は霊魂だと思いました。
野辺送りや墓送りの葬列の前後に揚羽蝶が舞っていました。
その蝶を見て思いました。
幽体離脱した魂が、その緒(※)も切れてしまったので、体に戻れないでいる。・・・・・・仕方なく葬列に従って・・・・・自分の体が埋められるのを見ているのだ・・・・・。
    (※臍の緒と同じように緒で体と魂がつながれていると考えていました。緒が切れた時、死んでしまいます)
 
私はお寺に生まれ育ったので、何度かお通夜を供にしました。
通夜は古代の「もがり」に発していると言われます。
人は死んでと思っても、復活するかもしれません。
体に変化が生じて、死んだ事を確認するまで、見守ります。
これが「もがり」です。
 
最近の通夜は一晩といわずに、1時間程度で解散してしまいます。
これでは、人間の尊厳さ、命の尊さを訓える事はできません。
 
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通夜の席で私は父の話を思い出します。
父が未だ幼かった頃、通夜は夜通しでありました。
 
若い坊主は一人で枕経を詠みました。
家族は別室に退きました。
部屋には若い坊主と、薄幸にして亡くなった妙齢なご婦人が残されました。
若い坊主は、美しかった死者の面影を確かめてみたい・・・・・
衝動に駆られました。
美人のお顔を覗こうとお棺に身を乗り出した瞬間です・・・・。
「フワー」「ユラー」
一頭の蝶が飛び立ちました。
青年坊主は霊魂が離脱した、瞬間に立ち会った。
確信しました。
 
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クロアゲハには木漏れ日が射しかかっています。
普段は見えない羽の模様が浮き上がって見えます。
まるで、絽の着物のようです。
喪服のようです。
 
思い出しました。
私の友人、蝶博士のO君の話を。
オスの蝶は必ず同じ道を通って、縄張りを巡ると。
だから、蝶道に待ち伏せすれば必ず蝶は捕獲出切るそうです。
 
オスは自分の縄張りに入ったメスをゲットしようと追い掛け回します。
メスは疲れて梢などで休もうと止まります。
そのチャンスにオスは交尾します。
 
メスは一度交尾しますと、後は卵を産み落とすだけです。
生殖孔は埋めてしまって、オスを寄せ付けなくなってしまいます。
で、ゆっくりと葉っぱを捜します。
幼虫が食べるに適した葉っぱを探して、その裏に卵をポツン、ポツン産み落として廻ります。
卵を産んだら、もう役割を終えました。
ご臨終です。
一方オスの方は、また縄張りの蝶道に戻って、良いメスが懸らないか、頑張ります。
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友人Oから得た知識を踏まえて、二頭のクロアゲハを見直します。
必死の姿が崇高に見えてきます。
家内も傍で見ています。
「ゆっくりしているのね・・・・・・・・・」
 
「生」も「死」は人間も昆虫も尊厳なものです。
バーチャルは駄目です。
観察していると、しみじみ解ります。
 
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               (尊徳生家の裏の運河。これも尊徳の事業か?)
 
 
注意:当初、この生家で尊徳は亡くなった、と書きましたが、日光の仕事の途上今市で亡くなった事実を確認、訂     正しました。
 
 
 
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綿帽子のように真っ白な紫陽花(開成町にて)

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7月に入りました。
庭の紫陽花も青から紫に、色も濃く染まってきました。
久々に、西湘の開成町に出かけて見ました。
この町は紫陽花の名所になっています。
 
開成町は西から北を箱根外輪山、東に酒匂川が流れています。
扇状地に青々とした田圃が開けた農村です。
でも、道路沿いにはお洒落な戸建て住宅も目立っています。
お隣が松田町、小田急線で新宿にも通勤可能なエリアなのでしょう。
 
開成の名は全国に見られます。
とりわけ学校には沢山あります。
私の身近には逗子開成中学・高校がありますし、東京、長野、岡山等にもあります。
此処でも明治時代に「開成学校(現開成小学校)」が創立し、同名をもって開成町になりました。
 
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                              (開成町の風景、紫陽花に田圃)
 
農村であった開成町は昭和53年、町の花を「紫陽花」に決めました。
農道や畦道に紫陽花を植えました。
生命力があって、手入れが不要、病気にも強い紫陽花は急速に成長しました。
平成に入れば、沿線の名所になりました。
水鏡の水田に、紫陽花が映っている景色、
早苗が植えられた田圃を背景にした紫陽花、
観光客は、そんなポスターなどにひかれて、開成町にやってゆきます。
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                    開成町の花「紫陽花」、町のHPから。
 
開成町の紫陽花はもう後半戦です。
紫陽花も濃い紫が目立ち始めています。
所々、立ち葵も背伸びしながら花をつけています。
青田の向こうに藁葺き屋根が見えれば・・・・雰囲気も昔風なのですが・・・・
スペイン瓦のお洒落な住宅が並んでいます。
屹度、若くて綺麗なお母さんと働き盛りのお父さん、聡明そうな子供が住んでいる事でしょう。
近くには富士フィルム・アサヒビール・第一生命・日産など大企業もあれば、小田急線沿線には技術優位の新興企業も目立ちます。
「紫陽花の花を町の花にしよう」
そんな選択は旧来の農民にも、転入してきた新町民にも歓迎された事でしょう。
 
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紫陽花は根を張って、水を含んで、柔らかい土壌を作ります。
その土の中で蛍の卵が産み落とされ、幼虫は育ちます。
幼虫は清流のカワニナを食べて蛹に成長、羽化して蛍になります。
開成町は蛍でも有名です。
夕闇に紫陽花の花に蛍がとまって、灯りに花が照らし出される・・・・夢のように綺麗でしょう。
そう言えば、蛍も人の魂と信じられていました。
(昨日アゲハ蝶は人の霊だと信じられていた・・・と書きました、が)
 
畦道は真っ直ぐです。
紫陽花は一直線に並んでいます。
角を曲がれば、また別の畦道に入ります。
誰かが、発案したのでしょう。
真っ白な紫陽花が並んでいます。
白無垢の花嫁の頭を飾る綿帽子のようです。
大きな花は直径が30センチもあるでしょうか?
未だ若いうちは薄緑のようです。
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見事なものだ・・・・
最近は様々な紫陽花があるものだ・・・感心します。
名前はアナベル、別名アメリカ紫陽花と言うそうです。
屹度米国で開発された紫陽花なのでしょう。
百合も紫陽花も日本原産です。
それが世界中に愛されて、新種が次々に開発されました。
楽しいのですが、「日本が祖国だ」「柔道と同じだ」・・・・などと叫びたくなるのは、連日血を沸かせてくれたワールドカップのお蔭でしょうか?
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紫陽花を見終えて、巡礼街道を東に、酒匂川を越えれば飯泉観音です。
奈良時代の観音様をお参りして、帰路につく事としましょう。
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 (遠くの松並木が酒匂川、その東が松田町、西が開成町)
 
 

山門の山百合

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数日前、葉山の無住寺の土手に群れ咲いている山百合を紹介しました。
同所は日当たりも良く、暖かいので早咲きしたのでしょう。
半夏生の今頃が鎌倉の百合の盛りです。
建長寺半増坊辺りにも咲いていますが、何処よりも見事で、雰囲気に富んでいるのが、亀ヶ谷切通しの三叉路にある長寿寺さんです。
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(今日の話題は長寿寺近辺の山百合の花)
 
北鎌倉駅から駆け込み寺や明月院を巡ってきた参詣者は巨福呂坂を登ります。
そして、三叉路前で真っ直ぐ行こうか、右折しようか立ち止まります。
目の先に建長寺の伽藍が見えます。
でも、右折すれば、扇ヶ谷の浄光明寺や海蔵寺に行けます。
亀ヶ谷の切り通しは緑陰の中で、鎌倉らしい詩的な雰囲気です。
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  (亀ヶ谷切通し、頂上付近には百合が咲いています)
 
角にあるお寺が長寿寺さんです。
紫陽花が土手に、石段の左右に咲いています。
そして、強い芳香が辺り一面に漂っています。
「この香は?」
見回します。
石段の脇に群れ咲いている、山百合を見つけます。
更に目を上げれば、欅の古木の中に山百合を見つけます。
「あんな高いところでも咲いている、何故?」
不思議に思います。
 
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  (長寿寺山門前、石段に咲いた山百合)
 
何の事故か、古木の幹が折れて、洞ができて、洞に枯葉が詰まっていたのでしょう。
其処に、何の拍子か山百合の種が舞い込んで、芽吹き、根付いたのでしょう。
石段の両脇が桟敷なら、欅の樹上は天井桟敷とでも言えましょう。
演題は「観音様のお招き」、「マリア様が見ている」でも良いでしょう。
私達は、百合の花に誘われて、石段を登ります。
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 (背後の欅の古木、樹上にも山百合が咲いています)
 
神奈川県の花は山百合です。
幕末から明治維新にかけて、横浜港から盛んに輸出された品目は生糸、そして百合根でした。
明治6年、ウィーンで開催された博覧会に山百合が出品され人気を博します。
横浜植木株式会社は明治27年立派なパンフレットを作成し、百合根の輸出に精を出します。
欧米諸国は、百合の花の見事さに惹かれます。
そして、真っ白い高砂ゆりにはマリア様のイメージを重複させます。
輸出された百合は欧米諸国の好みに合わせて工夫され、カサブランカのような新種が里帰りします。
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   (生垣の向こうには観音堂が佇んでいます。山百合は観音様の案内役?)
 
 
そんな日本を支えた百合の花ですが、最近は余り見かけなくなってしまいました。
私の家の近く、南舞岡小学校の生徒は舞岡公園の山百合保護運動を推進しています。
里山が無くなってきたのが、山百合が少なくなった原因です。
 
此処、長寿寺の山門から、亀ヶ谷切通しに咲いている山百合を見ていると、安堵し懐かしい思いに耽ります。
もう1週間で今年も見納めになることでしょう。
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庭先の緋扇水仙の花

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先日足柄の開成町の田圃に咲いた紫陽花を話しました。
その町に「瀬戸屋敷」があります。
瀬戸家は江戸時代の名主の名前、宝永4年(1707年)富士山が大噴火します。
その後、大飢饉に襲われます。
多くの家が壊れた事でしょう。
瀬戸屋敷はその後建築されました。
 
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  (瀬戸屋敷は七夕祭モードでした)
 
江戸時代の豪壮な名主の家、と言うと越後の旧家を思い出します。
それに匹敵するほどの大きな屋敷で、武家のような格式があります。
二宮尊徳の生家に比べれば、大きな違いです。
 
書院作りの主屋には、客を迎える座敷があります。
座敷に座れば、中庭が見えます。
客は主人の出を待つ間、庭に目をやります。
庭の中心は池です。
運河の水が池に注がれていますので、透明度の高い水です。
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            (瀬戸屋敷、中庭から座敷を見る。右端に檜扇の花が咲いて、池面に映っています)
 
池の淵、鮮やかな緋色の花が眼を奪います。
緋扇水仙の花です。
私にはとても懐かしい花です。
と言うのは、私の生家の庭に群れ咲いていました。
日当たりが良くても悪くても、何処でも良く咲く花で、抜いても抜いても株が増え、梅雨明けの頃一気に咲き出すのです。
この花が水仙と言うのは水仙に似た球根があるから・・・・。
茎を掴んで引っこ抜くと球根がついてでてきました。
それを、捨てると捨てた先で根付いて、咲き続けるのでした。
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                           (緋扇の花は廊下から眺めると良い)
 
「緋扇」と書かれますが、「檜扇」でも良いように思います。
と言うのは、花の色に着目すれば、「緋色の扇」でありますが、花の形を捉えれば「檜の木で作った扇」だからです。
檜扇は奈良時代、宮中の女性が用いた口元を隠すお道具、木簡を束ねて作られました。
それが、現在ではご婦人の使う扇子になりました。
檜の薄板を何枚も作って、それを束ねて扇子にしたものです。
使えば、檜の香りがして、透かし彫りのデザインと併せて、奥ゆかしいお道具です。
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瀬戸屋敷の座敷から出て、廊下に立てば、中庭をじっくり眺める事ができます。
池には金魚が泳いでいます。
池の上にも、緋色の金魚が揺らいでいます。
檜扇の花色は、和金(琉金等)の色と同じです。
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(瀬戸屋敷は明治時代に改築されています。したがって越後の目黒家屋敷のように重要文化財になれないと思いますが、1700坪ものお屋敷は足柄地域の民力を示して居ると思われます。もうじき町には酔芙蓉の花が咲き、観光客をお待ちする事でしょう)
 
 
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浜木綿の花と八地蔵さん

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町に浜木綿の花が目立ち始めました。
浜木綿の花は三浦の砂浜に自生しています。
三浦市も横須賀市もこの花を市の花に指定しています。
屹度、北限が三浦半島と言われていますので、市花に最適、と決めたのでしょう。
浜に咲くので、木綿(ゆう)とは神主さんが使うお道具です。
榊の木に白い紙をヒラヒラとつけて、お払いをします。
昔はこうぞの樹皮を使ったそうですが、昨今はお習字用の和紙を切って作っているようです。
 
私が通った大学のキャンパスにも浜木綿が数株ありました。
でも、花は見たことはありません。
7月初頭から咲き始めますから、私はその頃には夏休みに入っていたのかもしれません。
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  (鎌倉街道清水橋交差点、手前に庚申塔、奥に八地蔵が祀られています)
 
鎌倉街道は栄区公田から横浜関内までを結ぶ国道です。
鎌倉が起点で無いにも拘わらず鎌倉街道と呼ばれるのは、鎌倉古道に平行して走っているからでしょう。
この道の南側には浜木綿が街路樹の根元に植えられています。
今が見頃です。
街路樹はネズミモチだったり、ハナミズキだったり、銀杏だったり、とりとめが無いのですが、浜木綿は秀逸です。屹度排気ガスにも、水不足にも強いのでしょう。
 
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                (街路樹の根元で咲いた、浜木綿の花)
 
鎌倉街道の清水橋交差点を関内側に10メートルも行った所に、4基の庚申塔と、八地蔵があります。
庚申塔は元禄13年12月2日建立と記されていますから、忠臣蔵討ち入りの直前だったのでしょう。
4人のお名前が記されています。
清水橋には浄岸寺という寺があったと伝えられ、奥に旧名主高梨氏の墓もあります。
水の湧くところは人が住んでいたのでしょう。
 
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八地蔵さんは最近屋根が建築されました。
8人ものお地蔵さんが赤いチャンチャンコを着て並んだ姿はユーモラスでもあります。
浜木綿の花越しにお地蔵さんを拝する事が出来ます。
近寄ってよく見ると、お地蔵さんのお顔は風化してしまって、容貌を留めていません。
砂岩質の石材を使っているので、致し方ないことでしょう。
丸いお顔が、柔和にも感じます。
 
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「何で八地蔵なのかしら?」
調べてみると、浄岸寺の六地蔵に二体の厄除け地蔵が加わったのだそうです。
外側の二体は背が低いのです。
元々は小坪(逗子)の分かれ道にあったものが、何度も移転され、当所に収まったそうです。
行商の鮮魚商人が鎌倉道を通っている時、追い剥ぎに襲われ殺されたそうでした。
その供養の為に建立されたのだそうです。
私の住む倉田には野庭道があります。
いまでも、追い剥ぎが出そうな、寂しい尾根道です。
倉田からは農作物が、金沢等の漁港からは魚が運ばれていました。
 
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赤いチャンチャンコに白い浜木綿の花、追い剥ぎに殺された行商人は貴の毒でしたが、なかなか美しい仏様です。近所の方々に大事にされている事も嬉しい事です。
 
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口蹄疫問題に見る「日本文化のローカル性」

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    (藪カンゾウの花、道の突き当たりに馬頭観音が祀られています。日本人と家畜との関係を端的に示すのは馬頭観音像です。写真は馬頭観音像です。)
 
 
口蹄疫問題で、宮崎は揺れています。
県当局は初動に誤り、拡大を招きました。
非常事態宣言も遅れ、その対策も種牛を保存したい、感染していない牛を殺処分するのは、忍び難い、と言った気配が濃く、対策が徹底しないようです。
殺処分を実施、暫くして非常事態宣言を解除すると、その途端に都城で発生、7月2日にも「封じ込め成功」と発表するや4日には感染牛が発見されています。
他国からは、世界最大級の家畜汚染として問題にされ、徹底した対策の実施を要望されています。
私は事態を見聞するに付け「ヤッパリ日本は特殊だな」思います。
 
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   (藪カンゾウの道の馬頭観音像、横浜倉田)
 
NHKBSテレビで「蒼穹の昴」がオンエアされています。
私は家内に誘われて見入って来ました。(ところが1ヶ月前からBSの調子が悪く、見れません)
貧家の子、春児は宦官になって西太后に出仕します。
春児の兄史了は、科挙の試験に主席合格し、光緒帝に出仕します。
清朝崩壊のお話です。
 
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(馬頭観音は本来戦いの神で、三面六手の恐ろしい神様でした。それが日本では愛馬の守り神になります。小田原で)
 
 
遣唐使などで日本は中国の文化を移入します。
漢字に仏教・・・・・日本文化の骨格が出来上がってゆきます。
でも、中国文化の中から、宦官・科挙の二つは移入しませんでした。
男性のシンボルを切断する事は、日本人には受け入れられなかったのでした。
 
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          (愛馬が亡くなると、その菩提を弔う観音様になりました。)
 
梅棹忠夫先生は「狩猟と遊牧の世界」において、遊牧文化の特徴を説かれています。
植物が良く育たない中央アジアでは牧畜が生業になります。
牧畜業には去勢が欠かせません。
大半の雄は去勢してしまいます。
去勢された牛は食用になります。
去勢によって良い種が開拓され、群れのリーダーを育てます。
 
そんな中で、疫病が発生すれば、先ずその群れを殺処分してしまいます。
殺処分が遅れれば、他の群れにも感染してしまいます。
その分負担が大きくなります。
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  (此方も栗毛の馬の菩提を弔う馬頭観音像。もうじきオグリキャップの馬頭観音像も出来るかな?)
 
人間社会でも、黒死病などの疫病が発生すると、その村を皆殺しにしてしまうこともありました。
ですから、遊牧文化人にとって、今回の口蹄疫問題に対処する日本人の不徹底は理解し難いことなのでしょう。
勿論歴代中国王朝は中央アジアからやってきた遊牧人です。
一方華南には農業社会が綿々として続いていました。
牧畜を育てた技術が去勢であり、人間に去勢したのが宦官であります。
双方とも同じ文化です。
 
文化人類学者は今回の口蹄疫問題を興味深く見守っている事でしょう。
でも、ソロソロ、発言する事を期待しています。
 
 
 
 
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