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冬の筍(浄智寺にて)

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また「竹の話」をさせていただきます。
日本の竹の物語なら「かぐや姫」でしょう。
そして中国なら「孟宗の孝行話」でしょう。
 
元の時代に”郭居業”(かくきょぎょう)と言う人が24人の孝行者の話を纏めました。
孝行話は日本に伝わり、24の話のうち幾つかは、鎌倉時代の今昔物語、その後の御伽草子に採録されました。
最も日本人に人気を博したのは「孟宗の孝行話」だったのでしょう。
神社の欄間や唐戸や脇障子の彫刻、お神輿の装飾彫刻に”孟宗の孝行”は取り上げられています。
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       大船龍宝寺の孟宗竹の筍。旬が来ると朝取り筍を本堂前に並べてくれます。(持ち帰り自由)
 
中国、三国時代の話でした。
名は孟宗と言う青年が居ました。
小さいときに父に死に別れ、母と二人暮らしでした。
母が老いて、病気勝ちでいました。
病気が進行して、もう先が知れている・・・・、そんな状態になりました。
冬が来て、雪が積もって・・・・・、ひもじい季節になりました。
老母が話します。
「私は筍のなますが食べたい・・・」
孝行者の孟宗ですが、筍は春まで待たなくてはなりません。
でも、雪の中を出かけてゆきます。
朧月夜の竹林を彷徨います。
真冬に筍が見つかるわけが在りません。
でも、母親に筍を食べさせてあげたい、一心でした。
そこで孟宗は竹に抱きついて大声を上げて泣きました。
孝行者の一心に天地も動じたのでしょうか?
孟宗の目の前の地面から筍がいくつも生えて出たのでした。
孟宗は筍を戴いて走って戻りました。
筍を煮てなますを作りました。
母親は涙を流してなますを食べました。
病気も奇蹟的に快方に向かいました。
この孝行話から、竹の名を「孟宗竹」と呼ぶようになりました。
 
日本でも中国でも竹は精霊の宿る植物なのです。
だから、門松、精霊だな、地鎮祭等には竹は欠かせません。
 
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    股に刻まれた「竹に泣き、筍を生じる図」 南禅寺襖絵(重文)、祇園祭り山車をはじめ多くがこの図です。
 
 
孟宗竹は冬には芽を出さない・・・・、思っていました。
ところが、孟宗竹の筍を見つけました。
場所は鎌倉山之内の浄智寺の裏です。
先日「狸のお墓がある」と報告した場所、其処から10m程山に入った場所です。
まるで、狸が化かしたようです。
 
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          狸の前一帯が竹林でした。その奥半分が伐採されました。
          そこから筍が出てきました。これは狸の仕業かしら?
 
 
其処はこの夏までは孟宗竹の林でした。
ところが大半の竹を伐採したのでした。
竹林を狭めて、その場所を墓地拡幅する事でしょう。
孟宗竹は丸坊主、露地がになってしまいました。
ところが、其処から一本、二本と筍が顔を出しています。
流石に春の筍に比べたら痩せ細っていますが、れっきとした筍です。
 
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                                    櫓の前に大小二本の筍が出ていました。
 
竹林は秋になって伐採されたので、慌てて種の保存に精を出したのでしょう。
筍を芽吹かせました。
”此処は私達孟宗竹の居場所なの・・・・!お墓になどしないでおいて・・・・!」
訴えているようです。
 
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   櫓の前が竹林でした。手前半分が伐採されました。今まで日陰にあった石仏に陽が当たる様になりました。
 
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  竹林背後の櫓に眠る梅貞妙春信女さん。江戸時代前期(貞亨5年1668)に亡くなられました。
  もうじき、浄智寺は梅の香で満ちるでしょう。

 
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城ヶ島の水仙に思う

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穏やかな良いお正月を迎えました。
でも、震災の爪跡がに苦しんでいる人や町が多いだけに、”あけましたおめでとう”とは素直に言えません。
”まだ、あけないんだよ、あけたのは暦だけだよ” 怨嗟の声が聞こえて来そうです。
で、水仙の花にかこつけて、震災の話をさせていただきます。
 
 
お正月になって、何処の家でも飾るのが水仙の花と赤い千両の実でしょうか?
水仙の花は春を寿ぐに相応しい花です。
とりわけ、日本水仙とか寒水仙には新春の悦びが溢れています。
 
水仙の名所と言えば先ず禅宗の寺院でしょう。
その境内に良く咲いています。
鎌倉では瑞泉寺や東慶寺をはじめ水仙の名所が数多くあります。
心を鎮めて、ひたすら座禅に励む・・・・、そんな修行の場に水仙は相応しいものでしょう。
 
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                                  瑞泉寺の水仙。背景は方丈庭園の座禅石
 
もう一つ、自生している水仙があります。
有名なのは淡路島、越前岬、爪木崎、館山・・・・・などでしょう。
何れも、暖流(黒潮または対馬海流)の洗う磯近くにあります。
ですから、私はてっきり水仙は暖流が南国から運んできたものと思っていました。
浜木綿や彼岸花と同じように、暖流が球根を運んで、磯の砂浜に根付かせたものと想像していました。
 
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             葉山からの富士山、沖の鳥居は森戸神社のそれです。この辺りも水仙が自生しています。
 
念のため・・・・、と思って福井県のHPなどを調べました。
その結果では「平安時代末期中国から伝来した」と言う考えが主流のようです。
確かに万葉集にも源氏物語にも水仙は登場してきません。
あれだけ魅力的な花ですから、紫式部が水仙を知っていたら、「水仙の姫」が居ても良かったでしょう。
 
と言う事は日宋貿易で平清盛が運ばせた・・・・、と言う事になりましょう。
清盛は武士でありながら水仙の花を好んだ・・・、
平家納経などの雅な文化を思い出すと、解るような気がします。
清盛が愛した祇王など白拍子は、水仙の花のようなイメージがします。
 
でも、水仙の花がメジャーな存在になったのは室町時代からでしょう。
書院造りが一般的になり、床の間や違い棚が設えられました。
住空間に生花が必要になって・・・、更に茶の湯が盛行して、茶花が必要になりました。
たった1輪だけで、春の悦びを伝えてくれる花は・・・・、水仙だったのでしょう。
 
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   城ヶ島の水仙。篠竹の根を抜いて花壇にしました。これだけ咲くともう沈丁花を越えた香りです。
 
 
 
松任谷由美は”春よ来い”で沈丁花に思いを託しました。
沈丁花は姿が愛らしく、強い香りが春を教えてくれます。
でも、お茶室の狭い空間に一輪沈丁花をさしたら、強い香りが部屋中を満たしてしまって狂おしくなってしまいます。だから、沈丁花は禁花になってしまったのでしょう。
沈丁花にすれば”人間は勝手でありすぎよ・・・!”非難する事でしょう。
 
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                                                    既に満開の水仙の花
 
水仙を最も愛されたのは江戸時代前半でしょう。
尾形光琳などの琳派の人達は水仙を好んで描きました。建物の釘各隠しや茶器や軸に描きました。
 
神奈川県の水仙の自生地と言えば城ヶ島です。
三浦岬の台地の先に海峡があって、その先に屋島のような台地の島があります。
これが、城ヶ島です。
北原白秋が「城ヶ島の雨」を書いた頃には橋が無かったので、渡し舟で海峡を越えたのでしょう。
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                    城ヶ島と三浦台地を繋ぐ城ヶ島大橋。この下に北原白秋の歌碑があります。
 
この台地の東側は篠竹が密生しています。
強い海風が他の植物、特に樹木を拒んでいます。
篠竹の根元に水仙が咲いています。
きっと、強靭な篠竹が海風を防いでくれるので、水仙が咲くのでしょう。
三浦市は篠竹を抜根して水仙を植えました。
今では50万本も咲くのだそうです。
 
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  城ヶ島は四国の屋島に似た台地です。海側半分は篠竹が群生しています。その中に水仙が咲きます。
 
見晴台の上に乗ります。
東の沖合いに大島が見えます。
その左に館山があって、鋸山から鹿野山に房総の山並みが続いて見えます。
大島の右側には伊豆半島が見えます。
一際高いのが天城山です。
稜線を右に追ってゆけば箱根の山から丹沢山、大山に紫色に山が染まって見えます。
その上に富士山が見えます。
360度のパノラマです。
 
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                           城ヶ島の北にある安房崎灯台。向かいが房総半島鹿野山
 
この城ヶ島の沖合い10kmが震源地でした。
1923年、関東大震災が勃発します。
神奈川県下の死者数は33千人でありました。
東京都(死者7万)も含めれば死者数は10万人を越えました。
横浜の町は壊滅し、その土砂を埋め立てて山下公園を造成しました。
つい、90年前、犠牲になった仏に今次の東北大震災の話をすれば・・・、きっとこう応える事でしょう。
”2011年3月11日、東北の大津波・・・、それは大変な事だった。でも、立ち直る事に勇気を持たなくてはならないよ。90年前には立派に立ち直ったのだから・・・・”
 
関東大震災で城ヶ島は1m程隆起したと聞きます。
展望台の足許には隆起して出来た磯の岩が顔を出しています。
宮崎の名勝「鬼の俎板」のような景色が続いています。
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  城ヶ島の展望台からの眺め。関東大震災で隆起した磯は奇岩が続いてさながら”鬼の俎板”です。
 
 
 
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三渓園の「臥龍梅」

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私の住む上倉田の鎮守「子乃八幡社」の元旦祭神事は10時から始まります。
終わったら草々に本牧の三渓園に出かけます。
お正月らしいユックリとした気分に浸れます。
”今年の梅はどうだろうか?”
私と家内の足は三渓園の東、三重塔のした、梅園に向かいます。
 
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                  本牧三渓園の臥龍梅(昨年撮影)、今年はこれ以上に沢山に花が咲きそうです。
 
梅園の中心は「臥龍梅」です。
字の通り臥した龍のような形をしています。
古梅が自らの重みを耐えかねて臥してしまったのでしょう。
幹は地面側の半分が腐ってしまって、もう皮一枚残っているようです。
10本位はあるでしょうか、臥龍が揃って此方に頭をもたげています。
 
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    臥龍梅(昨年撮影)、花数が少ないのですがこれでも大幅に改善されました。
    今年は梅ノ木の南側の樹木を総て伐採しました。梅が一層生き返る・・・、期待できます。
 
臥龍梅は毎年衰弱し、花数も減ってきていました。
もう駄目なのかな?
心配する人も多かったことでしょう。
2年前、南側に覆い被さっていた竹を伐採してみました。
その効果でしょう。昨年は息を吹き返したように花数も増えました。
確信したのでしょう。この春臥龍梅の南側を崖下まで伐採しました。
辺りは光が射すようになりました。
臥龍梅は日陰から日向に出て、一層輝いたように見えます。
今年は昨年にも増して花をつけるのは間違いありません。
まだまだ蕾は固いのですが・・・・・、確信もてる状況です。
 
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  今年の臥龍梅の全景、上の写真と較べると梅の背の位置にあった「ねずみもち」や竹林が伐採されて、
  光と風が通るようになりました。これで、必ず臥龍梅は復活する事でしょう。
 
臥龍梅は全国各地に見られます。
大体が江戸時代の始めです。
大名庭園に臥龍梅は欠かせないアイテムでありました。
三国志で、「劉備玄徳」が在野の賢人「諸葛孔明」を三顧の礼をもって迎え入れます。
その時の殺し文句が「臥龍・鳳雛」でした。
「臥龍」とは在野で隠れている逸材の事・・・・、
志を果たす機会が持てれば天に昇り、鳳凰のように飛翔する・・・。孔明さんよ私と共に飛び立とう」
そんな呼びかけだったのでしょう。
大名には好まれるお話でした。
だから、各地の臥龍梅は樹齢400年程度です。
 
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                                         臥龍梅樹下の水仙と野アザミの花
 
”桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿” と呼ばれます。
梅は枝を切られ、皮を剥がされた、逆境にあったほうが強く逞しく育つのでしょう。
でも、陽射しと風通しだけは欠かせません。
我が家ににも古梅が二本あります。
枝を落とさないで居ると形も悪くなるばかりか、黒さび病が発生します。
大変な思いをして枝を落とします。
風が通るようになると黒さび病は綺麗に直ります。
 
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     右端の東屋が初音茶屋、梅が盛りになると、ここでお茶のサービスがあります。
 
昨年の記憶ですと三渓園の梅が開花するのは2月上旬でした。
その頃は梅園の略中央にある「初音茶屋」で熱いお茶のもてなしがあります。
今年は昨年より暖かいので少し早まるかもしれません。
きっと、昨年を上回って始めてみるような立派な花を咲かせる事と期待します。
まるで期待を込め、予祝するかのように樹下に水仙が咲いています。
どうした事か野アザミも満開です。
初秋に咲き、今は綿毛になっているはずの野アザミです。
狂ったように・・・、花盛りのようです。
 
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        翡翠の止まった枝には桜の蕾が固くついていました。この日は2箇所で翡翠を見ました。
        今年は幸運かも・・・、期待します。

 
 
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百間廊下の雑巾がけ(総持寺)

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今頃の能登の総持寺は雪に埋もれている事でしょう。
曹洞宗の本山永平寺も総持寺も雪の季節が最も美しい事でしょう。
曹洞宗は始祖を道元禅師とし、4世瑩山禅師を太祖とします。
今日の大教団の基礎を築いたのが瑩山禅師だったのでしょう。
瑩山禅師が開いたお寺が能登の総持寺でした。
 
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                            鶴見の総持寺の山門、お正月を迎える準備も完了しました。
 
ところが、明治31年4月13日(私の誕生日)折からのフェーン現象の強風下、総持寺は焼けてしまいます。
天災に際して、総持寺は横浜に移転し本山を標榜します。
明治44年横浜鶴見山の山上に伽藍が竣工し、盛大な遷祖式が執り行われました。
能登の総持寺は「元総持寺」と改めます。
都心近くに本山を有した事は大英断でありました。
曹洞の教えを田舎で、都会で普及させる事、若い人に教える上で大きな功績を残していると思います。
 
昨年に続き大晦日、鶴見に総持寺を参詣しました。
まだ秋の香が残る総持寺の大晦日は雲水さんが元旦の準備をされています。
その動作を見ると、お説教を受けたような清々しい気持ちになるのです。
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  総持寺の中心の一つ、仏殿。
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   仏殿の東側にある太祖殿は瑩山禅師を祀ったお堂です。
 
 
山門にも仏殿にも紫の堂幕が張られました。
沢山の注連縄が張られます。
お札返しの箱には四方に竹がかけられ、注連縄で結界が張られています。
総持寺のお正月準備はまるで神社と変わりません。
穢れを無くし、全山を清めています。
沢山の神社を快く迎えたい・・・・、そんな気持ちが満ちています。
そう思うと、ふと明治神宮を思い出しました。
明治神宮より少しだけ歴史がある事になります。
神宮の森がもう太古から続いてきたような風格が出来たように、総持寺も樹木が茂っていいお寺になって気ました。
 
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  伽藍の東西を繋ぐ回廊(渡り廊下)、多分直線では日本一の長さでしょう。(長谷寺も長いけど・・・)
 
総持寺には長い一直線の回廊があります。
香積台(伽藍の東にある社務所、庫裏)と衆寮、大僧堂(伽藍の西端に在る)を繋ぐ廊下です。
学校の校舎間を繋ぐ渡り廊下のような建物です。
この長い廊下を「百間廊下」と呼びます。
1間が1.8mですから180mもあると言う事でしょうか?
雲水さんが雑巾かけをしておいでです。
両手を前に出して、腰を屈んで、湿した雑巾で拭き清めます。
廊下の縁やガラス戸の桟を拭いてゆきます。
墨染めの衣に素足、素手が良く似合います。
”雑巾がけは疲れるでしょう・・・・” 声をかけると、雲水さんは笑っておいでです。
私の倅よりずっとお若いようです。
”モップにすれば楽でしょうに・・・・・?” 性格のひねた私は変な質問をします。
雲水さんは”変な親爺!”思ったでしょうが、相変わらず笑顔だけで応えます。
”百間廊下、どのくらいの距離ですか?”私は重ねて尋ねました。
”152メートルですよ”応えていただきました。
笑顔が『お掃除が楽しいですよ!』 言っています。
京都や鎌倉の禅寺は公案を課して、悟りを得る事を目的に座禅を組みます。
曹洞宗の教えは”お掃除等の作務(さむ)を行うこと事(修行)自体が成仏である”と諭します。
この教えを「修証一如」と言うようですが、お掃除に精を出す雲水さんを見ていると、解るような気がします。
 
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      東の端から廊下を見る。日本一の長い廊下を調べると宇和島の米博物館(109m)だそうです。総持寺       の廊下は、仏殿通路に当たる部分で切れています。考え方次第でしょう。
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                                        一心に雑巾をかける雲水さん。
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              節目だらけの廊下板。つなぎ目も沢山あって、質素です。でも美しく磨かれています。
 
広い境内の堂塔を巡って、最後は香積台に戻ります。
此処だけは床下暖房がしてあって、暖かです。
ホット安堵します。
売店の叔母さんが雲水さんに声をかけています。
”甘酒出来てますから寄って下さいね!”
叔母さんにすれば雲水さんは倅の歳なのでしょう。
私はふと思い出しました。
高野山の麓(九度山)に弘法大師のお母様が息子を気遣って転居されました。
女人禁制ですから、これ以上は上がれません。
弘法大師様は遥々高野山を降りなくてはなりません。
そんな優しさが叔母さんにはあるのでしょう。
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   回廊の東端にある香積台(宗務所) 禅寺の庫裏に相応しい切妻です。
 
入り口の左の大柱には布袋様が祀られています。
布袋さんの背中には大きなおしゃもじが立てられています。
右の柱には大黒様が祀られています。
此方の背中には「すりこぎ」が立てられています。
此処は、総持寺のお台所なのでしょう。
   
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           大黒柱に祀られた布袋様、背中におしゃもじが立っています。
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                  大黒柱を背にした大黒様。背中にすりこぎが立っています。
 
私が寺で育った所為でしょう。
総持寺に上ると安堵します。
総持寺は何処に行ってもお掃除が行き届いています。
 
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                            仏殿の内陣。花頭窓から暗い堂内に光が差し込みます。
 
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芋畑のリス

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私が台湾リスの害の大きさに驚いたのは、
片瀬龍ノ口の龍口寺の名物「白椿」が見る見る花数が減って、幹が細り、朽ち始めたのを見てからでした。
寺ではリスに餌付けをしないよう依頼すると共に、裏山に捕獲用のトラップを取り付けました。
しかし、椿の樹勢は回復せず、先年台風で根元から倒れてしまいました。
   この記事は以下に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44443789.html
 
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                                         里山の台湾リス。
 
湘南では一般にこういわれています。
1951年、江ノ島植物園(江ノ島タワーの下にある)では台湾リスを飼い始めました。
リス小屋が台風で倒壊し、江ノ島に放たれました。
リスは江ノ島から対岸の片瀬から鎌倉に増殖しました。
見る見る隣の横浜の戸塚にも姿を表しました。
 
我が家にも度々姿を見せ始めました。
姫林檎や棗の実を好んで食べています。
未だ暗いうちから、庭の番犬が吠えています。
犬が吠えている先は木の上で、其処にも”ワン・ワン”吠えて返す動物がいます。
それが、台湾リスでした。
台湾リスは頭が良くて、様々な動物の鳴き声を真似するのです。
 
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                            我が家の庭先の白木蓮、葉が散ったらリスの巣が出現しました。
 
姫林檎の木のお隣に白木蓮があります。
冬になって葉っぱが枯れ落ちました。
すると、その樹上に細い枝を組んだ巣が見つかりました。
昨年の夏中此処でリスは子育てをしていたのでした。
カラスの巣と見間違うほどの大きさです。
冬枯れの林にはリスだかカラスだか判別し難い巣が目に付きます。
カラスも台湾リスも同じような大きさで素材です。
でも、生態系にダメージを与えているのは先ず台湾リスが第一でしょう。
 
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   里山のマユミの実を食べる目白
 
樹の幹に穴を開けて巣にしているのは、コゲラ等啄木鳥の仲間、四十雀や山雀など雀の仲間・・・・、沢山います。台湾リスは3センチ余りの巣の入り口を広げてしまい、中の命を急襲します。
野鳥には天敵は数多くいました。
鷹の仲間、カラス、蛇などが昔ながらの天敵でした。
でも、彼等には対抗手段もありました。
ところが、台湾リスにはお手上げでした。
なにしろ、巣の入り口を開いて侵入してくるのですから・・・、お手上げです。
 
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                                                     里山のコゲラ
 
台湾リスの恐ろしさは雑食性にあるでしょう。
椿の樹皮や花を食べます。
木の実も大好きです。
芋や瓜も食べます。
そして、野鳥やその卵など、肉食でもあります。
他方、台湾リスには・・・、天敵は見当たりません。
 
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観光芋畑で捨てられた芋や茎を食べる台湾リス
 
江ノ電グループの企業が斯様な迷惑の震源であった・・・・、観光企業としては不名誉極まりない事です。
せめて、その責任を感じて”台湾リス対策”を講じて欲しい・・・、思います。
捕獲用トラップの寄贈や捕獲した台湾リスの引き取り・・・・、などなど期待は数多くあります。
でも、素知らぬふりです。
 
繁殖を終えて、餌も無くなった我が家からは台湾リスが姿を消しました。
ようやく、静かになりましたが、一時の静けさでしょう。
舞岡公園の里山に行けば台湾リスが目立ちます。
今は、サツマイモを食べています。
 
昨秋”芋ほり”で賑わった観光農園の縁には芋の蔓が捨てられています。
中には小さな芋も付いています。
折れてしまった芋も捨てられています。
台湾リスはこの芋を好んで食べています。
食が満ちれば、また繁殖です。
1年に三回くらい生殖する、そんな話も聞きます。
兼業農家の無自覚な行為が台湾リスに餌付けをして、増やしている・・・、考えられます。
農家も江ノ電も同じ程度に無自覚です。
 
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大事そうに両手でお芋を持って食べるリス。土手は若芽が吹いています。
股間に立派な一物が見えています。もうじき活躍させるのでしょう。
 
栄養が満ち足りればリスの前歯が伸びます。
リスは前歯を削る為、椿や水木等の樹皮を削ります。
皮を剥かれた樹木は枯れてしまいます。
里山もお庭も枯れ木が目立ち始めます。
 
芋を食べるリスの姿は可愛いですし、台湾リスが悪者では無いのですが・・・・、
古来の生態系が壊されるのは困ります。
地域全体で対策を講じなくてはいけない・・・・、そんな段階にあると思います。
 
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   里山の麦畑。秋まではお芋が育てられていました。
   手前はアメリカセンダン草、くっ付き虫で嫌われています。
   里山を歩くと動物も植物も帰化したものが目立ちます。
 
 
 
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八幡宮で正月牡丹を観る

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”正月だから綺麗な晴れ着を見たいものだ・・・・”
思って鎌倉の八幡様を詣でました。
今日は1月4日・・・・・ですが、境内には人並みが続いています。
大変な賑わいです。
八幡様は入り口は広く、奥に行くほど狭く出来ています。
段葛(若宮大路の参道)も、石段も奥細に出来ています。
遠近法で計画したのは、八幡宮をより荘厳に見えるように配慮したのでしょう。
 
お陰で、本殿前に上れる人数は整理しなくてはなりません。
石段下の舞殿の周囲は順番待ちの群集が出来ています。
整理の人が、看板を表にすれば”進め”裏にすれば”暫く待て”、信号の役割をしています。
 
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    鎌倉鶴岡八幡宮は本殿に向かうほど狭く出来ています。荘厳に見るような配慮です。
 
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   石段の下で本殿前の混雑が消えるまで暫く待ちます。石段横の大銀杏の跡から”孫生え”が芽生えました。
   これを保護する為でしょう周囲の樹木が伐採され随分明るくなりました。晴れ着の人は全く居ません。
 
残念な事に晴れ着の人は全く居ません。
昔は違いました。
晴れ着を着て年始周りをして、初詣もする・・・、習慣でした。
だから、八幡宮には晴れ着に白いショールの女性が艶を競っていました。
今では”年始周り”の習慣もなくなってしまったのでしょう。
 
そう、昨日の東証大発会も晴れ着の女性が晴れやかな気分を盛り立てていました。
昔はもっと沢山の晴れ着が見られました。
私の勤めていた銀行でも晴れ着が一杯でした。
午後1時頃から講堂で頭取が挨拶して、その後は交歓会が開かれました。
普段は行動的なOLさんが着飾るとその美しさに見まごう思いがしました。
普段は意識していなかったのに、実はお父様は偉い人なのだな・・・・、見直したりしました。
 
交歓会が終われば、
若い男女が散ってゆきました。
”先ず首塚に詣でて、後は北に向かえば神田明神、西に向かえば赤坂日枝神社”
 
私を含めて、おじさん職員が定刻まで職場を守って、赤提灯に消えてゆきました。
もう、あんな習慣は消えてしまったのでしょう。
余裕が無くなったのか・・・・、合理的になったのか・・・・・、わかりません。
私は何か、浦島太郎のような感覚に陥ってしまいます。
私の意識は何処かに”バブル感覚”が残っているのでしょう。
仲人もしましたが、彼等は今どうしているのでしょうか?
年始に来られても困りますが・・・・・、少し気懸かりです。
 
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          若いお嬢さんを意識してか破魔矢がキューピットの矢のような可愛いデザインです。
          晴れ着に似合いそうなのに・・・・。
 
八幡様は随分明るくなったなあ・・・、感じます。
大銀杏が倒れたのは2年前の3月9日でした。
       (次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43003015.html)
第二世代の大銀杏はしっかり芽吹いています。
その若芽を労わる様に周囲の樹木を剪定しました。
無為に茂っていた楠や銀杏の樹も強く剪定しまいた。
それは、再び大樹が倒れないよう配慮だったのでしょう。
で、剪定されないのは桜だけです。
急に桜の樹が目立っています。
 
晴れ着は見られなかった・・・・、
でも、”正月牡丹”が見られます。
 
昭和55年八幡宮は創建800年を記念して牡丹庭園を開園しました。
源氏池の南淵を、太鼓橋前から斎館前まで回遊式庭園にして、牡丹を植えたのでした。
 
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   牡丹園の入り口から源氏池を見る。赤い橋は旗上神社(弁天様)の神橋。木を伐採したので良く見えるように   なりました。源氏池は桜蓮の名所です。牡丹を含めて一層綺麗に咲くことでしょう。
 
 
春牡丹は4月から、連休までが見頃です。
でも、春牡丹は正月中は固い蕾です。
お正月にも牡丹を見せてあげて、新春を寿ぎたい・・・・・、思ったのでしょう。
元旦からは、冬牡丹)を鑑賞することが出来ます。
春ボタンの木の間に藁囲い等をして、冬牡丹が咲いています。
 
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                                     藁囲いの中で愛らしく咲く正月牡丹
話は松江に飛びます。
松江城は西に宍道湖、東に中海に囲まれています。
宍道湖の更に西は出雲大社、北に一畑薬師があります。
そして、中海の東は弓ヶ浜で先端が境港、付け根に米子市があります。
美しい風光と歴史、神仏のおわす土地です。
 
中海の真ん中に小島があります。
名前は「大根島」です。
と言っても大根の産地だと言う訳ではありません。
どうも、奈良時代から朝鮮人参を栽培していたようです。
百済からの帰化人が伝えたのかもしれません。
火山灰の土質が朝鮮人参の栽培に適していたのでしょう。
本格的な栽培は江戸時代、松江藩主の奨励によって始まりました。
”朝鮮人参が良く太ってまるで大根のように育つ” というので大根島というのではないか・・・、
私は思っています。(鷹が蛸を落としたのでタコ島、タコ島から”た根”となまった説が有力です)
 
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  回遊庭園の道の両側に牡丹が咲いています。生垣も短くなったような気がします。
  桜以外は深く刈り込まれました。牡丹の周囲にあるのが自生の春牡丹です。1000株もあります。
 
高価値の朝鮮人参の栽培から牡丹の栽培を始めるようになりました。
昭和30年代、芍薬の根に牡丹の茎を繋ぐ技術を開発しました。
更に、寒期に咲くように調整する技術を開発します。
そうして、牡丹を全国に行商するようになりました。
大根島の叔母さんがもんぺ姿(隣が弓ヶ浜絣の産地です)で全国の神社を訪ねて、言った事でしょう。
”大根島の正月牡丹を使ってください、参詣者が大喜びでしょう”
そして、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の正月牡丹も咲かせるようになりました。
 
今朝の天気予報ですと松江は大雪のようです。
大根島も一面の雪の原でしょう。
雪原の中に雪囲いがしてあって、其処に穴が空いている事でしょう。
その穴こそ、冬牡丹の育った跡です。
3月になれば、また穴に戻ってきて、来春の出稼ぎ時期まで体力を蓄えます。
リース、とかレンタルと言った現代的な事業スタイルでしょう。
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     奥の建物が斎館。源氏池には5つの島があります(写真は3つ写っています)冬鳥が島に憩っています。
 
大根島は出雲の八束群です。
山側が八頭群です。
もう、神話の世界です。
更に江戸時代、松江藩(松平)の産業奨励があって、現代の”寒牡丹のレンタル事業”に続きます。
心根の優しい”文化産業”です。
 
私は晴れ着は見られませんでしたが、正月牡丹が見られたのだから・・・・、充分満足です。
(正直に言うと、花も良いけど晴れ着も良いもんです。)
 
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ヒヨドリの好きな赤い実

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我が家は坂道の途中にあります。
道を歩いている人は、アスファルトの上に散った赤い実に気付きます。
そして、やおら見上げます。
頭上に赤い実がなっています。
直径8ミリ程度の丸い実です。
”何ていうのかしら?”  尋ねられます。
私は説明します。
”ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)と言うんですよ。ヒヨドリは今よく見かける野鳥で、
ヒヨドリの好きな実と言った意味でしょう”
 
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    藪椿の上にも進出し始めたヒヨドリジョウゴ。陽の光に透かして見ると、ほうずきのようです。
 
でも、良く見ると赤い実を食べて、嘔吐した形跡があります。
ヒヨドリの本音はこんな事なんでしょう。
「この実は美味しくないんだ。でも、他に食べ物が少なくなったからやむを得ず食ってみたが・・・、やっぱり不味い。加えてこの実は毒があるんだ。食べすぎはいけない。食べ過ぎたと思ったら吐き出さないと・・・」
 
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                             道路に吐かれたヒヨドリジョウゴに実
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                                           頭上には赤い実が・・・・。
 
ヒヨドリジョウゴが我が家の庭に出現してもう10年以上は経ったでしょう。
ボケの木に見慣れない朝顔のような蔓が延びてきました。
見慣れない雑草です、観察することにしました。
夏になったら茄子のような小花が沢山咲いて、そして秋になれば真っ青な実がなって、冬になると青が赤に変わる・・・・、折々に楽しませてくれます。
でも、庭が寂しい冬には赤い実がボケの木の上一杯に付いて、華やかになります。
そこで、そのまま増やしました。
もう、ボケの木が悲鳴を上げるほどに繁茂しました。
 
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       ヒヨドリは群れていると煩わしい感じもありますが、一羽になると可愛さが目だって、
       まるで”隣のトトロ”のデザインのようです。
 
我が庭に赤い実を届けたのはヒヨドリです。
夏は山にいて、食べ物が少なくなると群れて里に下ってきます。
そして、モチの実、イイ桐の実、タラヨウの実、ガマズミの実などを好んで食べます。
どれも、赤い実です。
それ等を食べ尽くすと、ヒヨドリジョウゴも食べ始めます。
そして、我が家の庭に糞を落として、種まきしました。
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          ネズミモチの実を食べつくしたヒヨドリ。
          冬空に”ヒーョ、ヒーョ”と啼くのでヒヨドリなのでしょう。
 
お正月も明日でお終いです。
我が家の玄関飾りは何処でもあるような松と竹と菊の花です。
それだけでは少し寂しいので、ヒヨドリジョウゴの実、クコの実を飾り付けました。
秋から飾り続けてきた花梨の実はまだ元気です。
正月飾りはもう10日も経ちましたので、大分疲れてしまいました。
明日には”お役目ご苦労様”です。
 
竹もクコも萎れてしまいました。
でも、ヒヨドリジョウゴはマダマダ元気です。
どうも、ほうずきと同じ種類の毒素があって、それが腐敗を防止しているのでしょう。
ほうずきもヒヨドリジョウゴも同じナス科の植物です。
 
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       玄関の花生け、蔓に付いた赤い実がヒヨドリジョウゴ、奥の俵状の赤い実がクコ。
 
ヒヨドリジョウゴは正月も飾ってくれたし、今しばらく我が庭も飾ってくれるし、
ヒヨドリの嬉しいプレゼントです。
今しばらく、好き勝手に繁茂させることにしましょう。
 
我が家を建ててもう30年、子供たちも全員が30歳を越してしまいました。
ボケの木も子供達と同じ年齢です。
でも、ヒヨドリジョウゴの攻勢を受けて、年々細っています。
”もう、いい加減にしてくれ、今春は咲いてやらないから・・・・”
猛クレームが聞こえてくるようです。
 
ヒヨドリが食べ尽くしたら・・・、そろそろ折り合いをつけてあげなくてはならないようです。
 
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      ボケの木に覆いかぶさり、実を付けたヒヨドリジョウゴ。ボケは死に絶え絶えのように見えます。
 
 
 
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狐火のように咲き続ける”アロエ”

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正月、誰も見ていないTVで”おせち料理がバカ売れした”報道していました。
昨年、上げ底おせちが問題になっていただけに、”今年は人気薄か?”と思えば、そんなことは無い。
”そんな便利なものがあったのか!” 逆に認知度がアップして、ならば信用の置けるところに予約しておこう・・・、そんな人が増えたのだろう。
TV局がランキングしていました。
その一番が”博多の老松”・・・・・・、懐かしい名前を聞いてびっくりです。
私は、TV画面に見入りました。
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                              老松の「お試しおせち」 岩田屋HPから
 
”老松”は博多ではそれ程大きな、敷居の高い料亭ではありません。
部屋数も少ないし、何処か家庭的な雰囲気があります。
今頃はふぐ会席で繁盛している事でしょう。
老松の名は謡曲の老松(世阿弥)に由来するものです。
大宰府天満宮(飛梅で有名)の入り口で老松を標榜している訳ですから、生半可な気持ちでは居られません。
 
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    今日の話題はアロエ、その花が”狐火”を思わせます。写真は三浦の三戸浜
 
その板前さんが「アロエの刺身」を出していました。
様々な能書きは省略して、その美味しさに驚きました。
そると、太ったアロエの茎(葉?)を1枚持ってきて、”こんな手順で刺身にするんだ”教えてくれました。
”お客さんのように長い間博多で単身生活する人は体に毒がたまっている筈だ・・・・。
アロエは医者要らずだ。食べるのが一番よい” 
生活指導も受けました。
 
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   相模湾沿岸はアロエが自生していて、秋から春先まで半年花をつけています。
   これほど肉厚になれば食用になることでしょう。
 
あの板前さんが商売上手(岩田屋)に口説かれて、おせち料理をはじめたのでした。
"売りたい筋”は3万円程度なのでしょうが・・・・、500円おせちも売り出しました。
私は、慎ましやかな老夫婦のお正月をイメージしましたが・・・、そんなことは無い。
”どんなお味かしら・・・・・?”
確かめて見たい・・・、そんな「お試しおせち」がバカ売れして、お陰で3万円のおせちもよく売れたのでした。
なるほど・・・・、博多商人は商売上手だ!
嬉しくなりました。
 
刺身になったアロエは「アロエベラ」が正式名称、
庭先などで良く見かけるのは「キダチアロエ」です。
板前さんに訊けば・・・、
「お客さんの庭に咲くアロエは肉薄だから・・・・、食べられますが、食べた感じがしないでしょう。
青い所は苦味がありますから・・・、避けて下さいよ・・・・。透き通った所だけですよ・・・。」
何でも食べないと収まらない私の性格もお見通しです。
 
キダチアロエは湘南の海岸べりに良く咲いています。
地質や天候が適しているのでしょう。
日当たりさえ良ければ、次々芽を出して繁茂して・・・・、邪魔になるほどです。
花は秋に咲き始め、春先まで続きます。
花の少ない季節ですから、よく目立ちます。
 
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        狐火はフサフサした狐の尻尾の先が光ると考えます。
        アロエがまっすぐ上を向いて花を咲かせる姿は狐の尻尾のように見えます。
 
私はキダチアロエを見ると「狐火」みたいだな・・・、思います。
祖母は良く見た・・・、という狐火ですが、私は見たことがありません。
祖母の話を思い出すと・・・・・、狐火はアロエの花のようだったに違いない・・・・・、確信します。
 
狐火は炎のようなオレンジ色だから火の字で書きますが・・・・、発光現象の一つです。
秋から冬にかけて観察された・・・、といわれます。
人が寝静まった真夜中に赤い炎が点いたり消えたりします。
炎は延々と続きます。
祖母は言います。
狐が行列して・・・・、お嫁入りするか? ご葬儀か? 提灯の灯りは尻尾の先なんだよ。
尻尾の先を擦ると炎になって、後から続く狐の足元を照らしているんだよ・・・。
祖母が現代の小学生に説明すれば、
「何だ大ばあちゃん、それならプラズマの因る発光現象じゃないか!」
答えるかも知れません。
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    豊川稲荷狐塚の狐さんたち。 どれもこれも立派な尻尾をピンと立てています。
    この先が発火すると狐火状態になります。それにしても、数百の狐様に見詰められると背筋に冷たいもの    が走ります。
 
墓場や松の枯れ跡で生じる発光現象を「鬼火」とか「人魂」と言います。
此方は総じて青白く、私も生家で見た事があります。
遺体や松根から生じるリン化水素ガスの自然発火現象でしょう。
人魂は怖くは無い・・・、理解していても薄気味悪いことに違いはありません。
でも、狐火は何処か”良い事がある”予兆現象のように受け止められていました。
東京北区の王子稲荷神社には大晦日に狐火が見られた、と言われます。
関東中の狐が稲荷神社の榎の木下に集まるそうです。
狐火が多い年は豊作になると言われていました。
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         歌川広重「王子装束ゑの木大晦日之狐火」 大晦日の晩に大榎の樹下に狐が集まりま          す。冠位に従って整列して王子稲荷に向かって行進します。
        狐火が多いほど豊作と信じられています。
 
祖母の連れ合いは豊川稲荷東京別院(赤坂)の会計係でした。
同社は荼枳尼天(だきにてん、インドの女神)を鎮守にします。
稲荷は稲作(豊作)を司る神様でしたが、仏教の荼枳尼天と習合します。
狐の背に乗った荼枳尼天の導きで、寒巌義尹が豊川稲荷に入ります。
ですから、祖母にとっては狐火は・・・・・、有難い光であったに違いありません。
 
老松のアロエの刺身から、狐火に飛んでしまいました。
とんだ”アロエつなぎ”です。
 
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    アロエの花ももう”狐の残り火”状態です。場所は三浦の名勝「立岩」です。岩は右端に見えます)
 
 
 
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小さくなった出初式の”虹の橋”

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昨日(1月7日)は横浜市の消防出初式でした。
メイン会場は赤レンガ倉庫前広場(MM21内)、きっと華々しく挙行された事でしょう。
私の住む戸塚区では例年通り町内の柏尾川堰堤で挙行されました。
私は、毎年のように出初式を見物に出かけています。
ですから会場には知り合いの消防関係者に挨拶します。
”今年もよろしく、今日は天気が良いので綺麗な虹が見えることでしょうね!”
そして、
”今年は消防自動車が随分減ってしまいましたね!”
と続きます。
消防関係者のお答えは、
”そう、今年は16台です。2年前の三分の一に減ってしまいました”
残念そうです。
 
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       2011年の出初式、48台の消防車が勢揃いし、一斉放水をしました。
       http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44564985.html に書きました。
       当時も放火の激増を問題にしていました。
 
昨日は博多や浅草の見番でも”仕事始め”でした。
古い町では見番制度がまだ残っています。
花柳界の楽しみを手際よく満たしてくれるのが見番です。
芸妓の芸を楽しみ、贅を尽くしたお部屋で寛ぎ、季節の料理やお酒に舌を鳴らせる・・・、
そんな楽しみを満たすには、見番に頼めば全部手配してくれます。
お客様の趣味(三味線や踊り)や健康年齢生い立ち等は見番が全部承知していて呉れます。
見番と良い関係を保っておくのが地方支店の役目、
随分お世話になりましたが、自分自身が楽しんだ事はありません。
 
報道では京都の舞妓さんが写っていました。
100人もの舞妓・芸妓が揃った様は壮観だったことでしょう。
 
多分、見番制度は江戸時代初めに出来たことと思います。
忠臣蔵では大石蔵之介が祇園で遊ぶ様子が描かれています。
きっと、見番さんを通した事でしょう。
 
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            舞妓さんの仕事始め(京都甲部歌舞練場、産経新聞)
 
同じ頃、江戸では明暦の大火があって、江戸城までが灰燼に帰してしまいました。
そこで、幕府が大名の火消し隊を統率して「武家火消し制度」を整備します。
老中の稲葉正則は上野の東照宮前に武家火消しを集合させ、気勢を上げます。
これが最初の出初式でした。(万治2年/16591月4日)
江戸中の人たちが出初式を見物して、”これからは安心だ・・・”、期待した事でしょう。
今次の大震災で、私たちが被災地を命がけで救済する消防や自衛隊員を見ました。
出初式の見物人は同じような目で出初式を見詰めたことでしょう。
 
「武家火消し」は「町火消し」に発展します。
享保3年(1718)南町奉行の大岡忠助は各町内の消防自衛制度を整備します。
彼等は1月4日に集まって町内を練り歩き、気勢を上げました。
纏(マトイ)を振って、梯子乗りや木遣り歌を披露します。
町人は”頼もしい、粋でいなせだ” 喝采しました。
 
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                  明治の錦絵 警視庁の出初式(歌川広重3代目)梯子芸と木遣が描かれています)
 
昔から警察と消防は一緒でした。
ところが、戦後警察権力から消防が分離されます。
 
消防は自治体の責任だ・・・、判断され、昔からの消防組織が「消防団」という自主組織が中核になりました。
町内会がお金を積み立てて消防自動車を購入し、消防団に預けました。
横浜市では今も大半の消防自動車が町内会の名義になっています。
私は昭和30年代前半まで戸塚小学校の校庭で行われた出初式、梯子芸や木遣を覚えています。
 
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                 今年度の消防自動車は16台でした。このうち3台以上は日立の企業内消防隊です。
 
 
ところが、約5年前裁判所の判断が出ました。(原告:横浜市民オンブズマン 被告:中田横浜市長)
従来町内会が消防団に資金支援をしていたのでした。
その支援を寄付として受け付けろ・・・、判決でした。
「消防・防火」は自治体の基本サービスで、消防団員は準公務員、
彼等に対する資金支援は寄付として受けなさい・・・、判断で、横浜市はこれに従いました。
 
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                                             一斉放水を始めると虹がかかります。
 
司直の判断に対、し横浜市は消防団員に対し日当を払うことになりました。
ところが、横浜市は慢性的な財政逼迫状態にありました。
林市長が就任すると出初式も規模縮小せざるを得なくなった・・・、思われます。
 
大震災で”消防団の存在が改めて重要・・・”
再認識された時期だけに、縮小するのは市民の期待に背いているような気がします。
少なくとも会社勤めの上に消防団で働く関係者はお気の毒でなりません。
 
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ところで、4年ほど前から戸塚近辺で放火事件が頻発しています。
全国に報道されたのは重要文化財の住友家別荘が放火された事件でした。
直後には吉田茂邸(大磯)も全焼しました。
昨年秋には町内の住宅3戸が放火され、11月には2人が亡くなりました。
この火事は放火とは判断されていないようです。
放火事件は一件も犯人の捕縛にいたっていません。
 
私達の窓口は神奈川県警市民安全課です。
放火犯は刑事課が所管です。
 
放火犯の追捕は消防署と警察署の隙間にあるような気がします。
戦後の過ちの一つのようです。
民主化の大儀で警察を県警レベルに分割し、警察組織内も縦割りにしました。
お巡りさんに話せば何でもしてくれる状態では無くなりました。
お金がかかる仕組みになってしまいました。
 
出初式は何れ、消防に由来する・・・・、そんな風には思われなくなることでしょう。
”舞妓さんの出陣式”と思われるかもしれません。
でも、舞妓さんの方が遥かに”季語”にふさわしい、
雅や季節感があるような気がします。
 
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                                 放水が弱まって、一気に虹が小さくなりました。
 
寒風吹きすさぶ堤防で長い間待っていました。
放水は瞬く間に終わってしまいました。
見る見る小さくなってしまった虹を見守ります。
”今日の虹は小さくても鮮やかだった・・・!”
”今年は慎ましやかでも、小さな虹のように美しく過したいものだ・・・・!”
思いながら、堰堤を後にしました。
 
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                                     見物人は毎年増えてきています。
 
 
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永福寺跡の工事

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鎌倉二階堂にある永福寺跡は一面のススキの原で人気がありました。
特にススキが”枯れ尾花”になる初冬は多くの人を惹きつけました。
永福寺が源義経の冥福を祈って、兄頼朝が発願して建立した(東鏡)とされていることから、
歴史ロマンに想いを馳せさせてくれました。
 
昨年世界遺産に指定された平泉毛越寺には、
”夏草やつわものどもが夢の跡”芭蕉の句碑があります。
永福寺跡は”枯れ尾花 つわものどもに夢の跡”とパクリたいような史跡です。
此処は2006年にも次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/4850513.html
 
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長い間発掘調査をしていました。
その度にススキを伐採して、また埋め戻していました。
その結果、中央に二階大堂、左右に阿弥陀堂と薬師堂が並んでいたこと、
その前面が大池がある、浄土大寺院である事が確認できました。
 
頼朝は文治5年(1185)9月に奥州征伐をします。
この時に平泉の浄土寺院建築に感動し、その年の12月に永福寺の建築着工した・・・、とされています。(東鏡)
 
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   永福寺のCG図(湘南工科大学作成、同HPから転載
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    永福寺の発掘図面(湘南工科大学作成、同HPから転載)
 
昨年10月、永福寺跡地で工事が始まりました。
工事看板によれば上図左側の中島の周囲を整備します。
そこに、川原石を置いて大池の一部を再現し、見学できるスペースを確保することにしています。
何れ、出土した膨大な瓦、経筒、漆製品などを展示してくれる事でしょう。
 
お知らせ看板は施主は鎌倉市になっています。
同市の財政の範囲で少しずつ工事をするようです。
 
鎌倉が世界遺産に指定されたら・・・・・、建物も含めて再現の道が開けてくるかもしれません。
将来はどう開けるかわかりません・・・・。
でも、”精一杯努力しよう・・・・!”
そんな姿勢が窺がえるようです。
 
工事予定は今年の2月15日です。
今年の桜が咲く頃には、浄土池のイメージが現実のものに見えるかも知れません。
 
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事のお知らせ看板から、(看板図面を90度回転させ、道路側からの視点にあわせています)
CGの左側、浄土池を工事します。
 
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   永福寺浄土池の工事、右ユンボのある盛り土部分が中島であろうと推測します。
   奥山裾に阿弥陀堂があって、回廊で二階堂につながっていたと思われます。
 
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    手前が薬師堂跡地と思われます。続いて二階堂その西に阿弥陀堂があったと思われます。
     正面の山の奥に瑞泉寺があります。
 
頼朝は9月に義経などを殺して、12月には冥福を祈る為大寺院の建立に着手します。
凡人には”そんなら・・・・・、殺す前に許す道が無かったのか?”不思議でなりません。
もしも、そんな寛容さがあれば、源氏三代、瞬時に途絶えてしまう事は無かったろう・・・・、
憶測します。
 
私の学生時代「愛と憎しみ/宮城音弥」が発表され、話題になりました。
心理学者からは「愛と憎しみは紙の裏表ほどの違いでしかない・・・」、記憶に残っています。
昨年の殺人事件報告では、殺人は半数以上が肉親間の事件である・・・・、なっていました。
”愛している・・・、愛されている”
期待や信頼が裏返ると、憎しみに転じてしまうのでしょう。
人間とはわかり難いものです。
 
もう、永福寺跡の枯れ尾花も僅かになってしまいました。
でも、木枯らしに揺れています。
夕暮れになれば、きっと”幽霊か”見間違う人も居ることでしょう。
 
”幽霊の正体見たり枯れ尾花”(芭蕉)
は幽霊の正体を看破しました。
幽霊は人間の心の深層に隠れているものでしょう。
でも、”人間の正体”はなまじな人には見破れないものです。
頼朝の心も解りません。
 
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    工事現場、テニスコートの向こう、平屋建てのお宅が平山郁夫(故人)邸です。
    平山画伯も復元を期待されていたでしょう。
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                                 永福寺跡の枯れ尾花。何れも撮影は昨年12月末です。
 
 
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片瀬の「岩谷不動」のこと

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私の住まいは「倉田町」、北が「吉田」、南が豊田、名前のとおり奈良時代からの穀倉地帯でありました。
町を流れる柏尾川には高瀬舟が行き来して、お米を港に運び出しました。
柏尾川の西方には「境川」が流れています。
名前は武蔵国と相模国の境を流れているから・・・・「境川」と呼ばれたのでしょう。
両河川は大船の南、藤沢市川名で合流し、片瀬川と名を変えて江ノ島の海に注がれます。
片瀬の港から穀物等が運び出された事でしょう。
 
一般に頼朝が鎌倉に幕府が開かれた理由は、
「鎌倉は三方を山に囲まれた難攻不落な地形だったから」説明されます。
私は、それよりも「鎌倉は背後地に穀倉地帯が広がり、水運の便に恵まれていたから」、
考えています。
 
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    今日の話題は片瀬の岩谷不動尊。山蔭に横穴がいくつもあって、そこに不動尊が祭られています。
    丘の上は三井不動産などが開発した住宅地です。
 
川名から片瀬川の西側は湿原がひろがります。
「鵠沼」と呼ばれました。
東側には山が迫っていました。
「片瀬山」と呼ばれ、この丘陵は鎌倉山から極楽寺山のつながっていました。
片瀬の地名は、東側が山で、瀬が西側に偏っていたから・・・・、
又は砂浜が広がっていて、寄せ波と、引き波の間隔が広く、一方の波だけが見られたから・・・、
憶測します。
 
片瀬も鵠沼も憧れの住宅地です。
近年は開発が進んで、名前の由来も想像し難くなってしまいました。
 
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江戸時代になると江ノ島詣でが盛んになります。
遊行寺前には江ノ島神社の一の鳥居が立って、江ノ島まで約2キロ参道が続いていました。
参道脇には杉山検校(高名な按摩さん)の道標が立っていますし、庚申塔や馬頭観音が並んでいます。
江戸からやってくる善男善女を温かく迎えよう・・・・、そんな気持ちが町に残っています。
 
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                              岩谷不動尊横の櫓はお地蔵様が祀られていました。
 
 
参道横に「岩谷不動尊」の標識が立っています。
「何だろうか・・・?」
興味が沸いて住宅街の中に不動尊を探しますが・・・、迷路になっていて中々不動尊の前には出ません。
片瀬山の住宅地(三井不動産が開発)の麓に祠があって、それが目指す岩谷不動尊です。
 
この辺りは横穴が多くあって、石器時代人の住居だか、鎌倉時代の櫓だか、先の大戦の防空壕だか・・・、
混在しているのです。
 
石の鳥居(嘉永6年1852)の横に藤沢市の案内が立っています。
要約すると以下のとおりです。
石籠山不動尊(いしごめやま)と言います。
平安時代弘法大師が穴居修行したところでした。
元禄時代快祐上人がこの場所に石籠山救法教寺を開きました
この岩窟に入って即身成仏したと伝えられています。(延享元年1745、82歳)
その後は寺の住職は不在で、近くの泉蔵寺が別当をしたと伝えられています。
 
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       これが岩谷不動尊像、洞窟の暗闇に、光った目にギョッとしました。
 
説明は以上のとおりです。
 
快祐上人とはどんな人だったのか?
私の疑問が広がります。
以下は私の推測です。
”即身成仏”とは弘法大師の教えです。
人間が生きたままで仏になる事を言います。
真言密教では”大自然の中に我が身を投げ出して、自然と感応道交して、本来自分自身にあった仏性を見出す事”とでも言えましょうか?
でも、凡人からすれば抽象的で解り難いものです。
偉いお坊さん、修行を重ねた高僧しか解らないし、出来ない世界です。
 
でも、江戸時代も元禄を過ぎて人口爆発すると、即身成仏の意味も変わってきます。
「修行を続け、生きながら息を引き取る・・・」と言う形は同じです。
でも、生きたまま成仏して、再びこの世を救済する事を期待されます。
そのため、成仏して、ミイラになって、ミイラが弥勒仏として信仰される・・・・、
そんな形が現れます。
新潟(弥彦)や山形(湯殿山)には数多くのミイラが残されています。
 
快祐上人のミイラは聞いた事がありません。
また、江戸に近い片瀬江ノ島にミイラがあったら、有名になっていた事でしょう。
 
快祐上人は青蓮寺(手広の不動尊)等をめぐって、最後に岩屋に入った・・・、
と案内されています。
と言う事は、元来は高野聖として全国を回り、
晩年になって片瀬の岩谷不動に入ったのでしょう。
そこは温暖な片瀬であり、江ノ島の参詣客で賑わっていました。
従って、様々な寄進もあって生活も可能だった事でしょう。
 
旅人は江ノ島の弁天様にお祈りして、
岩谷不動尊にお祈りして・・・・、江戸に戻った事でしょう。
快祐上人の”老いの棲家”と言えばお叱りを受けるかもしれません。
私は、良寛様の五合庵を彷彿しました。
 
今年は”皆のために役に立つ”事の意味が問われているようです。
 
 
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鮨屋の”道祖神”

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横浜の本牧通りを三渓園入り口を折れて、三渓園に向かいます。
その丁度中間に交差点があって、その角にお城のような建物があります。
これが美奈登鮨総本店です。
総本店と書いてあるので・・・・、そのとおり書きましたが、支店が何処にあるのか知りません。
この辺りは美味しい店も多いし、少し走れば中華街ですから・・・・、他所に流れる事が多いのです。
でも、駐車場も広いので時々寄らせて頂きます。
 
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              本牧の実奈登鮨総本店。ポストの右に道祖神、左に「赤い靴の少女像」があります。
              左500mで三渓園です。
 
お城は、店主の出身地「大垣」にちなんで、大垣城のやぐらを模したものだそうです。
昭和40年代に作りました。
いろいろと”こだわり”を持った店主なのでしょう。
 
三渓園参道に面して道祖神が祀られています。
木製の祠に一体あります。
千羽鶴やお人形が周囲を飾っています。
ご神体は男神一体です。
赤味を帯びた御影石で出来ています。
御影はこの辺りに産出しないので、関西以南から運んで刻んだものでしょう。
それ程古いとは思えません。
その横にもう1基、新しい道祖神が祀られています。
此方は現代人のデザインです。
男女のカップル道祖神です。
 
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                                      小さな祠に道祖神が祀られています。
 
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                                                    道祖神は男神一体です。
 
右に少し背丈の高い男神が座っています。
左に少し背丈の低い女神も並んでいます。
二人して何か紐のようなものを持っています。
更に面白いのは二人の脚です。
胡坐をかいているのですが、脚は一組しかありません。
阿弥陀坐像の上半身が男女の神様になった形です。
”連理の枝”(同じ根から生えた二本の木、夫婦仲の良い喩え)、
と言いますが、”連理の脚”です。
 
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             新しいカップル道祖神。舟形光背に二体が仲睦まじく並んでいます。脚が一組です。
 
 
カップル道祖神像は江戸時代300年をかけて造像されましたが、
ドンド祭り(相模では左義長、信濃では三九郎と呼びます)で火を浴びますので、損傷が激しくなります。
ですから、新しく造像する事が度々あります。
 
再度造像しようとすると・・・・、石工は才能を活かして、アレコレ工夫します。
施主も注文を出します。
その結果、大半が千曲川風か安曇野風が採択されています。
男女神が仲良い事がアピールしています。
相模スタイルは僧形ですから、抹香臭い、敬遠されているようです。
時代を良く表した神様のデザインになるのでしょう。
 
持ち物も時代を反映しています。
江戸時代は”笏・剣・宝珠・薬壺・扇・徳利”などが普通でした。
中には大福帳(酒屋など)を持っているものもありました。
最近は”桃”を持っているものも見かけます。(ボケ防止)
 
改めて、美奈登鮨の道祖神を見てみます。
先ず想像されるのは、最初は男神一体の道祖神だったのでしょう。
やっぱりカップル道祖神の方がインパクトがある・・・・。
そこで、男女神の双体にしました。
そして持物です。
すし屋のモニュメントですから・・・、徳利・お調子で充分のような気がしますが・・・、
店主は”此処は横浜、お店の奥は三渓園”と意識したのでしょう。
男女神に生糸を持たせました。
 
更に、地域意識はもうひとつ、モニュメントを誘致しました。
道祖神の隣に立てました。
それが「赤い靴を履いた少女像」です。
 
大正11年、童謡「赤い靴」が発表されます。
野口雨情作詞・本居長世作曲で発表 されたメルヘンでありました。
何処の港だったのか?
イメージの沸く港町は北海道の小樽、函館、青森の鯵ヶ沢、東京は麻布十番、横浜、焼津・・・・・、
皆が手を上げました。
でも、横浜はいち早く山下公園に「赤い靴を履いた少女像」を建立します。(昭和54年1979)
そして、ブリュッセルの「小便小僧」、コペンハーゲンの「人魚姫」、横浜の「赤い靴」
この三像が世界のメルヘンだ・・・・、発表します。
 
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きっと、美奈登鮨の店主もこの運動に共感したのでしょう。
自店の前にも一体置く事にしました。
私は、三渓園に行く度にこの三体を眺めます。
そして、少し派手な店を眺めます。
アイディア店主が長く健康で、鮨を握り続けてゆけるように・・・、道祖神が守ってくれる事でしょう。
 
 
 
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片瀬の松の消長『名勝西行戻り松』

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「白砂青松」は美しい景色を言い表します。
日本中の海岸の美しさは松林が彩っています。
博多と唐津の間、虹の松原も、由比に近い三保の松原も、見事な松林です。
羽衣伝説に相応しい美しさです。
 
海岸の松は殆んどが”黒松”です。
山の松は”赤松”が目立ちます。
黒松は龍のように寝そべったりします。
強い浜風に耐える姿です。
海浜に黒松が多いのは、潮風に強い(塩害に耐える)からでしょう。
そして、松ぼっくりが浮かんで、隣の砂浜に流れ着いて・・・・・、砂浜全体が松林になります。
松林は防砂林として役立ちます。
また、枯葉(松葉)は貴重な燃料になります。
海女が枯葉や枯れ枝を燃やして暖を取ったり、
製塩の燃料になったりします。
ですから、大昔から海岸沿いの黒松は大切にされてきました。
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             広重の江ノ島図、手前の西向きの松が”名勝の西行戻り松”と思われます。
             西行戻り松は多くの人が書いています。私も次に書きました。
              http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42995092.html
 
江ノ電江ノ島駅の地下道に1枚の陶板が飾られています。
歌川広重の「片瀬から江ノ島」を眺めた浮世絵です。
江戸の町民はこの絵を見て”江ノ島詣でをしたい”思いを強くした事でしょう。
遠景の江ノ島を近景の松、遠近のポイントです。
松を見て江戸町民は「西行戻り松」を思い出します。
 
片瀬の「西行戻り松」の東には「日蓮袈裟かけ松」が、更に東には「鎌倉権五郎景政の弓立て松」があります。
鎌倉時代、鎌倉七里ガ浜一帯は松林に覆われていたのでしょう。
私の記憶でも今の鎌倉プリンスホテルの辺りは松林でした。
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                        鎌倉権五郎景政の弓立て松もも枯れてしまっています。
 
杉山検校は江ノ島道に道標を48本立てました。(現存12基)
黒い火成岩の角柱(高さ120cm幅20cm)の正面に「恵乃之満遍(草書体)」、右面に「一切衆生」左面に「二世安樂」と彫られています。
目の不自由な方のために、100m間隔に立てられて「点字ブロック」のような役割を持っていたのでしょう。
その中の一本に「西行戻り松」の案内が刻まれていました。
この松を見て、「江ノ島神社はもう目と鼻の先だ・・・・」心を躍らせたことでしょう。
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                 左手ブロックに囲まれた中に細い松が一本、道標が1基立っています。
                  これが名勝「西行戻り松」の今の姿です。
 
何時ごろ、西行戻り松が枯れてしまったのか解りません。
元禄時代には浮世絵のように大きな松でしたのに。
 
枯れ跡に新しい松が植えられました。
しかし周囲は商店街が並んでいます。
お隣はクリーニング店だし、背はアパートです。
狭い空間に真っ直ぐ伸びる他ありません。
太い幹に伸びる事も出来ません。
西行が見たように、西を向く事も出来ません。
 
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         江ノ島道に面して古刹「泉蔵院」は松を大事にしておいでです。
         樹下には馬頭観音や庚申塔が祀られています。石仏の背後は片瀬小学校のグランドです。
 
流石に近くの泉蔵院等のお寺は江ノ島道に面して形の良い黒松を植えておいでです。
800年も前からの名所を残したい・・・・、そんな心意気でしょう。
黒松の下に、馬頭観音が祭られ、いつも人参が奉げられています。
見事な庚申塔も立っています。
松の枝が傘の役目をしています。
 
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                       江ノ電江ノ島駅。此処から沢山の参詣客が江ノ島まで1.5キロ歩きます。
 
江ノ電駅を通り越すと「石政」と言う旅館があります。
何故、”石”の名があるのかわかりません。
昔は石工であって、旅館に転業したのかもしれません。
その旅館も・・・・、寂れてしまってもう閉めたままです。
名所にあっても、時流に置いて行かれたのか、はたまた経営者に事情が出来たのか・・・・、
老舗旅館を閉じてしまうのは寂しいものがあります。
鍵のかかったガラス戸から中をのぞくと、漆器や陶器が並んでいます。
”捨ててしまうのは心残りだから・・・・、可愛がってくれる人が引き取ってくれたら・・・・有難い”
そんな心情が偲ばれます。
火鉢もいいし、梅干壷もほしい、米ひつも味がある・・・・、
どれも、これも欲しくなりますが・・・・、店主はいません。
 
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    閉店してしまった旅館『石政』には立派な黒松が二本もあります。
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        瀟洒な旅館の玄関口。黒松の樹下にありました。
 
玄関横に黒松の大木が立っています。
松葉は”人”の字のように二枚の葉が支えあっています。
この松の幹は、松葉のように二本で、支えあっていました。
旅館が閉店になって・・・・、誰かが買って・・・・、リゾートマンションにして・・・・、
松の大木は切られてしまう事でしょう。
そうすれば、片瀬、江ノ島の松はもう見る影もなくなってしまう事でしょう。
寂しくなる事・・・・、間違いありません。
 
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                                石政玄関、お道具を販売されています。
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松の根元には立派な春日灯篭が立っています。
鹿さんが心なしか寂しげでした。
私と同じで、片瀬の松を惜しんでいるのでしょう。
 
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                                           玄関横の黒松の大木
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                                            玄関口
 
 
 
 
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”目ん無い千鳥”の恋模様

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私の近くの柏尾川に出かけました。
土手に沢山黒い土が盛り上がっています。
モグラの仕業です。
モグラが堤防にトンネルを掘って、トンネルに落下してくるミミズを捕らえようとしているのです。
河川管理者の県治水課にすれば困ったものです。
このトンネルが堤防決壊の原因にもなりかねます。
でも、モグラが多いのは自然が豊かな証拠です。
 
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                  柏尾川の土手にボコボコ盛り上がった”モグラの空気穴”春が近い証拠です。
 
堤防から波打ち際に目をやれば・・・・・、います、います。
今日も「こ千鳥」が二羽、恋をしています。
もう、自然は春の準備が進んでいるのです。
 
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   波打ち際で戯れる”小千鳥”、左がオスと思います。これ以上は近づけませんでした。
 
一羽が私の気配に気づいてサット飛び立ちます。
直ぐにもう一羽が後を追います。
対岸に行ってしまいました。
そこで、また二羽の恋の戯れが始まります。
一羽が素早く脚を回転させて、波うち際を走り出します。
5m程走って突然止まります。
後を追いかけてくるもう一羽(多分オス)を気遣っているようです。
オスが直ぐに追いつきました。
すると、またメスが走り去ります。
オスはまた追いかけます。
これも、鬼ごっこ遊びです。
二羽の距離は最小でも30cmが限界、それ以上は・・・・、
メスはもっともっと、オスをじらしているようです。
もう少し、春が近づいて、川原に餌になるコムシやミミズが増えたら・・・・・、
オスを受け入れてあげる・・・、心つもりなのでしょう。
 
二羽は嬉しそうに”チッ、チッ」啼き続けます。
 
 
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    川岸の千鳥、恋の駆け引きを楽しんでいました。私は飽きずに眺めていました。
 
日本の模様は大概が自然を素材にしています。
私の好きな模様に「波千鳥」があります。
若いご夫婦が波千鳥の浴衣なんかで、浅草寺界隈を歩いていたら、
もう、参ってしまいます。
 
波間を二羽の千鳥が飛んでゆきます。
飛沫が翼を濡らしています。
でも、二羽の千鳥は先に、後に連れ添って飛んでゆきます。
 
波は世間を表しているのでしょう。
”世上、どんな艱難辛苦があろうとも、私達は連れ添って行くんです”
そんな心が波千鳥には表されています。
 
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                           波千鳥模様  出典:日本橋人形町手拭専門店「千鳥屋」のHPから
 
盛夏に氷り屋の暖簾が翻ります。
伝統的な波千鳥の模様に”氷”の字が染め抜かれいます。
私達夫婦は甘党で、この暖簾には弱いのです。
”この夏最後になるかも知れないから・・・、戴いておこう”
決まり文句で暖簾をくぐります。
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                                           お決まりの「氷屋の暖簾」
 
 
 妻とする目んない千鳥花野みち    (後藤比奈夫)

”目んない千鳥”
とは目隠しした状態でしょう。
手拭で少女に目隠しして、花咲くの道で遊んだのでしょう。
”鬼さんこちら・・・手のなる方へ・・・”
わらべ歌を謡って、遊びました。
少女が私を捕らえました。
私の顔を触って・・・・私の名を当てます。
当たったら・・・、私が次の鬼にならなくてはなりません。
私は、息を殺して気配を消します。
でも、何の拍子か、少女の手に触れてしまいました。
余りの暖かさに、柔らかさに驚いて手を引きました。
 
何時しかあれが初恋だった・・・、気づきます。
でも、もうあの時の少女は行く方知れずです。
 
目ん無い千鳥と呼ばれても、最も目に付く「こ千鳥」は金色の鮮やかな輪が目の淵にあります。
それこそ”目が目に付く”野鳥です。
 
 
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大磯の左義長が伝えるもの

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NPO法人地域資料デジタル化研究会( デジタルアーカイブズ )の調査(平成23年)では、
ドンド焼きは「日本の国民行事」として紹介されています。
同じ、小正月の火祭りでも、祭りの内容も名前も地域によって随分違っています。
 
秋田県横手の「かまくら」もドンド焼きですし、
大分県臼杵のドンドはギネス記録になっている37mもの高さを誇っているそうです。
同NPOの調査報告書を読むと、多くのドンド焼きは自治体の無形民族文化財の指定を受けていますが、
国の無形民俗文化財の指定を受けているのは「大磯町の差義長」、「久留米(福岡)の鬼夜火祭り」、「長崎県五島市のヘトマト」の3件だけになっています。
 
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      今日の話題大磯の左義長、13日は北浜に1基だけでしたが、14日には8基も並び火祭りになります。
 
 
今晩(1月14日)夜7時からは大磯の左義長がクライマックスを迎えます。
そこで、13日家内と一緒に大磯の町を”道祖神巡り”をしてきました。
 
大磯町では何処の町内でも左義長を祭っていますが、一番盛んなのは北浜に面した8町内です。
旧東海道に面した町で、南側は相模湾、西側は国道とJR線路に平行に連なっています。
車がようやくすれ違える狭い道です。
昔は商店街だったのかもしれませんが、今は静かな住宅街で、新興の瀟洒なミニ住宅も目立ちます。
 
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   左義長のお仮屋が並ぶ旧東海道北浜地区、人通りもなくて魚屋は開きを干していました。
 
そんな町内が団結して、また競って左義長を祝っています。
各町内でお仮屋を建てて、その中に道祖神を祭っています。
道祖神はカップル道祖神が多いのですが、中には幣を祭っただけのものもあります。
「お仮屋」とは字の通り、お正月に町内(家)にお迎えした歳神様が仮に入られるお家の意味でしょう。
お仮屋の事を”セエノカミサン”と呼びます。
”賽の神様”が訛ったものでしょう。
 
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   お仮屋の中にはカップル道祖神が祀られて、周囲を飾っています。
   松や竹は霊力がある依代です。(子の神町)
 
お仮屋の周囲には青竹に紙飾りが立てられ(オンベ竹)、青い松が囲んでいます(大松)。
綺麗に彩られた小田原提灯には道祖神と大書されています。
明日は子供達がこのお仮屋に入ってお祝いするのです。
心は横手の「かまくら(雪穴を掘って子供がお祝いする)」と同じです。
形が違うだけです。
 
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各町内の境目には注連縄が張られています。
注連縄の真ん中に奇妙なものがブル下がっています。
大根の輪切りに幣が刺されています。
ご近所の叔母さんに呼び名を聞きますが”シメ(注連縄)”と言うだけで特別な名は無いようです。
勿論、お隣の町内から災いや不浄なものが立ち入らないよう、結界を張る役割です。
 
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お婆さんが団子を丸めて小枝に刺した「繭玉団子」を持って歩いておいでです。
お仮屋の奉じるのですか?
尋ねると、酒屋さんにお祝いで上げるのだそうです。
酒屋の若旦那は小枝を切ってきて、店頭に並べています。
明日、この枝の先に丸い餅を刺して、差義長の火で焼いて食べるのです。
 
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   繭玉を作ったおばさん、ご近所の酒屋に飾られました。これも、左義長に欠かせないアイテムです。
 
町の作ったチラシには左義長の説明がされています。
子供達が石を縄で結んで「●○さんにいい嫁さんが来ますように・・・・・」言いながら、石で玄関先の土に叩くのです。昔は若い衆が大根で作った「性器」をお盆に載せて家々を訪問し子孫繁栄を祈ったそうです。
多くの地方であるように、左義長は「子孫繁栄の予祝行事」だったのでしょう。
その上に、養蚕(繭玉)を初め様々な変化が加わって現在の形になったものでしょう。
 
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    お仮屋に建てられた「オンべ竹」、今晩これを海辺に立てて周囲に松飾等を積み上げて火を放ちます。
    竹が爆竹と鳴って、その音が”ドンド”の所以だと想像します。
 
 
現在8つあるお仮屋は今日(14日)壊されて、北浜の海岸に移されて、オンベ竹の周囲に正月の松飾やお札達磨などを積み上げます。
そして7時今晩一斉に火が放たれます。
お仮屋に奉納されたお賽銭は子供たちに”ご苦労様”お祝いに分けられるそうです。
子供達には”楽しかった”思い出に残ります。
そんな愛着が将来にわたって左義長が存続してゆける理由でしょう。
そして、「火祭り」のクライマックスに至るまでの民族行事が守り伝えられている・・・、
これが「国の無形民族文化財」に指定されている根拠でしょう。
 
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         隣町の境には注連縄が張られ、中央に「大根に幣」が結ばれて、海風に揺れていました。
         賽の神の象徴でしょう。
大磯の北浜から5分も西に歩けば島崎藤村の寓居です。
昨年秋の木曽の旅行では馬篭で道祖神を見ました。
きっと、藤村もこの左義長祭りを見入った事でしょう。
北浜は小田原まで続く長い砂浜です。
隣が「こゆるぎの浜」です。
日本武尊が東征の浦賀水道を房総に渡ります。
暴風を鎮めるために弟橘姫命が入水します。
その後弟橘姫命の櫛が流れ着きました。(二ノ宮の吾妻神社)
大磯の砂浜は民族の思いを伝えています。
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    このカップル道祖神は昭和25年奉納されました。
    そこ頃はもっと盛んにしたい・・・、気持ちが充実していたのでしょう。
 
 
 【お詫び】10時からNPOのお祝い会があります。未だ校正前ですがそのまま載せます。今晩校正します。
 
 
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夜空を焦がす祭りの炎(大磯左義長本番)

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昨日大磯北浜町内の左義長「お仮屋」を案内しました。
14日はいよいよ本番”火祭り”です。
 
松の内(1月7日)が明けると、子供たちは正月のしめ飾りや松飾りを集めて回ります。
町内だけでは足りません、松飾の豊富な上町から平塚方面まで足を伸ばしします。
そうして集めたしめ飾り、松飾はお仮屋に集めます。
 
14日、小正月の早朝、各町内(8つ)のお仮屋は片付けられます。
集められたしめ飾り、松飾は北浜の砂浜に運ばれます。
そして、8つのドンドが出来ます。(大磯漁港の南こゆるぎ浜を加えれば9つになります)
大磯ではドンドとは呼ばずに、セエトと呼びます。
先ず丸太で基礎を組みます。
その中央にオンベ竹を立てます。
その周囲を松で囲って、更にしめ飾り、松飾などを置いてゆきます。
最後に藁で囲って形を整えます。
円錐形のセエト(ドンド)出来上がります。
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    美しいセエト、神の寄代は清潔で美しくなくては始まりません。これが8基並ぶのですから壮観です。
 
実に美しいセエトです。
収穫を終えた稲藁を高く積み上げて干す「稲藁ボッチ」に形は似ています。
アイヌの村でも見たような気がします。
長野の大岡村(聖高原)の稲藁道祖神も髣髴させます。
(アイヌの人形のような道祖神です。興味があったら検索して下さい)
 
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   夕日がしんずんで、火祭りの開始を待ちます。しばしの静寂が波打ち際に訪れます。奥が大磯漁港。
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      火祭りで砂浜に移された道祖神様。
      お豆腐が奉げられています。(写真の手前にあります)奥が西湘バイパス。
 
私は大北町の宮元(世話人?)に尋ねます。
「道祖神に奉げられたお豆腐の意味は何ですか?」
以下、私の疑問にお答えいただいた概要です。
「お豆腐は真っ白いでしょう。嫁さんの肌のようでしょう。綺麗な娘さんを嫁に貰いたい、嫁さんは家に来たら家の色に染まって欲しい(馴染んで欲しい)」そんな意味だと思いますよ。
「実はセエトは助平なお祭りでしてね・・・・・、昔は新婚の家にアレがお祝いとして贈られたのですよ。お盆の上半紙を除くと、大根と人参で作った男女のシンボルが置かれていて・・・・・、赤面ものだったのですが・・・・・、多分私が戴いた最後ではないでしょうか?」
「昭和16年、無形民俗文化財の審査を受けました。その時、こう言われました。”大磯のセエトは少し上品過ぎる、下品にしろ・・・・、と言うわけではないが、・・・・・民族の色を消すな・・・・、と言う意味だったのでしょう。助平な部分は都会化しても残せ・・・、お役人の指摘だったのでしょう」
矢張り、大磯のドンド祭りも子孫繁栄を祈願する予祝行事なのです。
セエトを背にして夕日が沈みます。
未だ人影は疎らですが、期待に胸が膨らみます。
 
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       セエトに火が入りました。最初は火と煙が濛々と上がり、次第に炎が勝ってゆきました。
 
夜7時、随分冷え込みます。
只今の温度は5度、でも北風が吹いています。
星も沢山輝いています。
もう、セエトの周囲は人で埋まっています。
 
宮元が火入れを行います。
今年の恵方(北少し西寄り)のセエトの裾に炎が上がりました。
一気に火が回って、火柱になりました。
8基ものセエトが燃え上がる様は圧巻です。
私は風下、波打ち際に居ましたので、もう煙に巻かれそうです。
もう、随分生きて汚れきっていますから・・・・、火で清めて貰った方が良さそうです。
段々、火の勢いが高まって、煙が減りました。
波に炎が映ります。
 
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     磯に炎が映って実に神々しい光景です。
 
 
セエトの脇には藁舟が置かれています。
藁舟はロープで繋がれています。
藁舟には大の大人が5人程乗っています。
ロープの両端を持って氏子が引き合います。
綱引き状態から、藁舟は次第に波打ち際から、沖合いに流れてゆきます。
”溺れるー”
叫び声も聞こえます。
この行事を”ヤンナゴッコ”とよびます。
”ゴッコ”は子供の遊びでしょうから、”若衆の遊び”程度の意味でしょか?
大磯は漁師町ですから、海方が強いのは最初から決まっています。
 
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   セエトの脇で出番を待つ藁舟
 
沖合いに藁舟が流れて行く光景はお盆の精霊流しに通じます。
大磯のドンド祭りセエトは最初は子孫繁栄の予祝行事、エンディングは祖先が海に戻る”祖霊行事”のようです。
正月とお盆が融合したお祭りのようです。
 
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    陸方、海方に分かれて綱引きをします。真ん中に藁舟があって、船は次第に海から沖に流されます。
 
子供も大人も、セエトの残り火で団子を焼きます。
細長い篠竹の先に3色のお餅が刺されています。
これは駅前の物産店で商われていますが、地元の人は自作しているようです。
このお餅を食べれば一年中健康で過ごせるのです。
昔は流行り病がありました。
最初に命を失うのが子供でした。
特に疱瘡が猛威をふるいました。
予祝行事、祖霊行事の真ん中に”子供が健康に育つように”祈りが込められていたのでした。
だから、子供たちは「お仮屋」に閉じこもって、遊んで・・・・・、セエトの準備に勤しんだのでした。
 
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                                   藁舟は沖に流されて氏子が陸に戻ります。
 
流石に無形民俗文化財・・・、大磯のセエトは民族の勉強になる”素晴らしい行事”です。
 
真夜中の9時前、帰宅しました。
私は奈良三月堂のお水取りを思い出していました。
奈良も底冷えしていました。
でも、火祭りの興奮が心を熱くしていました。
 
大磯のセエトは流石に国指定の無形民俗文化財です。
心も形も末永く伝えてゆきたいものです。
 
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   繭玉餅を竹の先に刺して、セエトの火で焼いて食べます。
   道祖神の歳神さまが体に入って、一年健康で過ごせます。
 
 
 
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思い違いの”ドンド焼き”(金沢海の公園)

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私はこのブログで他人や団体組織を批難する事は控えているつもりです。
でも、耐え難い「ドンド焼き」を見てしまいました。
当事者には”こういう意見もある”、聞いて欲しいのです。
 
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     本日の話題金沢区にある「海の公園」。 海の向こうにあるのがシーパラダイス。
 
横浜市金沢区には「海の公園」と呼ばれる人工の砂浜があります。
約、1キロの美しい砂浜で、前には”金沢シーパラダイス”が、背には美しい松林が囲んでいます。
初夏には潮干狩りが出来ますし、海水浴場にもなっています。
 
昭和51年頃だったと記憶しています。
私は京浜急行電鉄の融資担当者でありました。
同社の計画していた釜利谷開発(180ha)を見学しました。
釜利谷の丘陵を住宅地に開発するために、大規模に切土しました。
西ドイツから中古の石炭の露天掘り機械を山に設えていました。
巨大な水車(切削機)で、その先端に歯がついていて、グルッと回ります。
すると、岩も土も綺麗に削られました。
削り取った土砂は竪穴坑に落とします。
地中にはトンネルが金沢の海まで掘ってあり、
土砂はベルトコンエアーに載せられて海の埋め立てに使われました。
ですから、ダンプカーが区内を走る事も無く、区民が知らない間に開発が行われました。
 
金沢の工業団地やベイサイドマリーナ等が造成されました。
その一角に海の公園も計画されたのでした。
綺麗な砂は対岸の千葉内房から運びました。
横浜市はこうして出来た造成地に三菱重工(横浜駅東にあった)に移転してもらい、
その跡地をMM21として開発する事が出来ました。
”一挙両得”と言いますが、山を崩して”海山両得”したのでした。
 
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               海の公園には3基のドンドが立てられ。1月14日2時から火入れが行われました。
 
前置き説明が長くなってしまいました。
こうして、金沢は海に山に急速に発展してきました。
そこで、金沢観光協会が主催して、海の公園でドンド焼きを始めたのでした。
今回で17回目ですから、相応の実績もできた事になります。
 
会場に着いて驚きました。
一つは見物人が多い事、そしてもう一つがドンドの姿がイマイチの事でした。
 
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      作られたドンド、本来の姿は藁ボッチのような紡錘形です。この形が綺麗に焼けない理由です。
      因みに昨日書いた大磯のサイトを見てください。
 
砂浜直径10m程の穴を掘ってその中心に青竹を立てて、その周りにしめ飾りや門松、縁起達磨などが積み上げられています。
まるで、正月飾りのゴミ捨て場のようなゾンザイさです。
お嬢さんが晴れ着を着てみたものの、格好がついていないようなものです。
キチンと着れば凛とした美しさに見とれるのに・・・、グズグズですから眉を歪めてしまいます。
 
 
主催者が説明します。
”ドンドとは尊いが訛ったものです。尊い火で厄災を払って・・・・、東北大震災の復興を祈願しましょう”
続いて金沢観光協会会長が挨拶します。
”金沢は金沢文庫があるように歴史と文化の町です。先祖から伝えられた伝統を守って・・・・”
仰る事は至極まともです。
でも・・・・・、ドンドを見ると、伝統の美しさは微塵も感じられません。
形は出来ても、形の隅々から見える筈の”こころ”が感じられません。
 
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  火入れが行われると濛々と黒煙が立ち上ります。
  理由は明瞭、石油を撒いたからです。こんなドンドは神様から見放されています。
 
いよいよ火入れがなされます。
観光協会長や区長、町内会長や文庫小学校の生徒さん、18名が紹介されて火入れです。
突然に石油の嫌な臭いが流れます。
私の背後から”嫌ね!灯油をまいて焼くのよ・・・・!”囁かれています。
 
何処でも、火入れは神主さんか宮元が行います。
火入れの前に祝詞が奏上され、ドンドの周囲はお神酒で清められます。
そうしなければ道祖神様が降りてくれないからです。
まして、臭い石油など撒かれたら・・・・、道祖神様も歳神様も祖霊も・・・、みんな敬遠してしまいます。
 
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                                              燃え盛るドンドの炎
 
火入れが行われます。
灯油ですから・・・、黒煙が昇ります。
見物人はロープの外まきから見詰めます。
子供も若いお父様お母様もこれが”ドンド焼きだ”間違った知識に染まってしまいそうです。
 
私は少なからず腹立たしくなりました。
”これじゃあ、まるで正月飾りの焼却催事じゃないか!神を畏敬する気持ちが微塵も無い。胸糞悪い”
 
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                       石油を撒いた所だけ焼けて、肝心の青竹が残ってしまったドンド。
 
私が小学生の頃、鎌倉の天園ハイキングコースは尾根伝いに金沢文庫まで繋がっていました。
小学生の頃は先生と、中学生になってからは同窓会で何度も歩きました。
その後、横浜横須賀道路が縦断して、釜利谷などの開発が進んで、山は無くなって住宅地に変貌しました。
その結果出来上がった開発地の上で・・・・・、伝統や文化を説くのは如何かと思います。
少しでも開発に詫びる気持ちがあれば、ドンド焼きをこんな形で行う筈がありません。
 
まあ、横浜市なんて文化の程度はこの位のものでしょう。
”成り上がりものの文化”です。
形あって心がありません。
幸いな事にお隣の鎌倉や藤沢大磯等には伝統を重んじ、文化の心を大切にしています。
 
海の公園の入り口には有名な「瀬戸神社」もあります。
神主さんの指導を受けて、”ドンド祭りの心”を伝える行事に変えて欲しいものです。
 
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     子供たちはドンドの聖なる残り火ではなくて、おこした炭火でお餅を焼いて食べます。
     これでは健康に育つ・・・・、神事になりません。
 
【補足】
ドンド焼きの事を様々に呼びます。相模は「左義長」が多く、サイト(歳徳)焼、三九郎(さんくろう、松本)等です。でもドンド、ドント、ドンドン焼き・・・、など”ドン”が一般化しています。
”ドン”は尊いが訛ったものとする意見は少数意見です。
この行事は鎌倉時代には一般化していて(徒然草に出てきます)、青竹が熱せられて竹簡にある空気が爆発する音を”ドン・ドン”を取ったものと言うのが最大意見のようです。もうじき春節です。中国ではお祝いに”爆竹”を鳴らします。
漢の時代に山に入った青年が焚き火をしていました。
其処に山の怪物(山姥のようなもの)が出現、食い殺されようとします。
その時、竹が”ドン・ドン”破裂しました。
怪物は驚いて逃げさります。青年は竹の破裂音で命を救われました。
以来、爆竹は災いや魔物を追い払う・・・・、聖なる音として尊ばれ春節には欠かせない鳴り物になりました。
1月23日には横浜中華街では 関帝廟で春節が祭られます。
爆竹が鳴って、龍が練り歩きます。
私は、日本の小正月のドンド祭りは、日本版の春節ではないか?
憶測しています。
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   石油が燃えてしまうとドンドの炎は下火になってしまいます。全体がこんがりと、いい香りを出して焼ける為    には・・・、伝統に沿って行う事が必要です。鍵は藁を上図に使う事だと考えます。
 
 
 
 
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こゆるぎ浜に”火龍”が昇る

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昨日は金沢の「海の公園」で催されたドンド焼きが上手に燃えなかった・・・・、
ドンドの形が悪かった事、その為もあって、火付けに際し石油を撒いたこと等を指摘しました。
 
ドンドの形は・・・・如何ならば良いのか?
「稲むら」でなくては上手に完全燃焼しません。
 
今日は、大磯こゆるぎ浜のドンド焼きで、燃え尽きるドンドの炎を案内します。
 
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   大磯こゆるぎ浜のドント焼き風景、遠くの灯りは小田原の町。右端は西湘バイパス
 
昔は「稲むら」を良く見かけました。
田圃や農家の庭先に作られた円錐形の造作物でした。
 
先ず垂直に丸太を立てて、その周囲に刈り取ったばかりの稲束を積み上げてゆきます。
しばらく天日に干す事で、籾に栄養分が集中し美味しくなります。
また、脱穀作業もし易くなります。
 
幾つもの稲むらが田に連なった里の風景は、美しいものでした。
今では、天日で干す事は滅多に無く、石油を燃やした温風で乾かしています。
だから「稲むら」と言っても知らない人が多いのです。
 
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  夕方のドンドの姿。雲がかかった箱根山、右端が明神ヶ岳、雲の中に駒ケ岳。
  手前の丘陵が曽我。二宮にかけて3基のドンドが立っています。
 
安政南海地震(安政元年1854)紀伊の広村での出来事です。
浜口梧陵は地震に驚いて庭先に飛び出します。
そして、沖を見渡します。
沖合いに黒い線を認めます。
”津波が来る!”
村民に危機を知らせなくては・・・・なりません。
庭先の稲むらに火を放ちます。
 
村人は”庄屋の家が火事だ!”
続々と高台に登って来ます。
 
有名なノンフィクション”稲むらの火”です。
米国の教科書では”a Livinng God”として紹介されているそうです。
 
こゆるぎ浜は大磯港の南にあります。
吉田茂邸や大磯プリンスホテルの直ぐ真下に続く美しい砂浜です。
この砂浜に3基のドンドが並びます。
南側は二宮辺りに立っていますので、遠くて三つを見て歩くわけには行きません。
夜、6時に火付けされます。
北浜のドンド焼き(左義長、7時に火付け)と大して違いはありません。
大きく長い砂浜、少ない見物人、人間の祈り”ドンド焼き”が小さく見えてきます。
 
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           神事の後三方から火がつけられました。瞬く火が上に走ります。
 
ドンドの上には宵の明星が輝いています。
夕日が明神ヶ岳の上に落ちて、箱根の山並が近く迫って見えます。
ドンド焼きが始まるまで・・・・、焚き火をして待ちます。
焚き火をしなくては寒くて耐えられません。
焚き火にあたっているのは町内の顔役さんに宮元のようです。
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          ドンドの表面を火が走って、全体が一気に燃え盛りました。
 
やおら焚き火に砂をかけて消してしまいました。
漆黒の暗闇に戻ります。
 
先ずお神酒をドンドの裾にかけます。
お祈りして、火がつけられます。
炎は真っ直ぐに上ります。
稲藁の表面を走ったのでしょう。
瞬く間にドンド全体に火が回りました。
 
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    火が踊り始めました、火龍が出現しそうです。
 
 
炎が舞います。
火の粉が天空に舞います。
書初めも天空に舞います。
子供の歓声が上がります。
これで、字が上手に、お勉強が進む事・・・、神様が約束して下さいました。
 
炎が龍のように蠢きます。踊ります。
字の如くの火龍で、それも昇り龍です。
明星に向けて昇ってゆくようです。
竹が破裂して”ドーン、ドン”鳴り響きます。
昇竜の合図のように聞こえます。
 
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                                       火龍が天に昇った・・・・、思いました。
 
火の勢いが下りました。
子供も大人も用意してきたお餅を竿の先に刺して、ドンドの残り火にかざします。
ドンドの聖なる火で焼いたお餅を食べれば一年中健康で過ごせるのです。
 
波が砕けて、小砂利が鳴ります。
この音を「潮騒」と呼ぶのでしょう。
騒ぐのは波であり、人間の心臓の鼓動でもあるような気がします。
久々に火の祭りを見て、私の血も波打っているようです。
久々に自分自身の命を実感する事が出来ました。
 
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    ドンドの火で餅を焼いて食べるのです。
 
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   7時からは北浜の左義長です。私は後ろ髪を引かれる思いで、こゆるぎ浜を後にしました。
 
 
 
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岩殿寺の水仙と鏡花

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平安時代、観音様への信仰が盛り上がります。
それまでの仏教は国家や氏族を護る教えで、ひたすら瑠遮那仏や薬師如来を祈願していました。
個人個人の懊悩が深まると、観音様を祈願の対象にしたのでした。
各地に観音様が祀られたでしょうが・・・・、第一は初瀬観音でした。
初瀬川の上流、山峡のその奥に徳道(とくどう)上人が十一面観音を祀り、長谷寺を建立しました。
(神亀4年727)
霊気満ちる環境が尊ばれたのでしょう。
平安貴族の厚い信仰を集めます。
源氏物語の玉鬘、清少納言、菅原孝標の女(更級日記)、藤原道綱の母(蜻蛉日記)でも、
初瀬での参篭が描写されています。
貴族たちは初瀬観音に籠もり、気力や健康を回復していたのでしょう。
 
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   岩殿寺、門から観音堂への参道を見る。扉に笹竜胆が飾られているのは源頼朝の信仰厚かったから。
 
長谷観音を建立した徳道上人が逗子に建立したのが岩殿寺でした。(721年/寺伝による)
ですから、寺の雰囲気が奈良の長谷寺と似たところがあります。
ご本尊十一面観音は行基菩薩の造立、
山中に祀られている爪彫地蔵は弘法大師の作と言い伝えられています。
歴史的真偽は別として、我国古代の仏教立役者が揃っています。
 
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    観音堂への石段。左右を季節の花が埋めています。今は水仙です。 左手に見えるのが子育て地蔵尊
 
明治24年、18歳の泉鏡花は上京して、尾崎紅葉の書生となります。
紅葉の指導と援助で作家としての道を切り開く、途上にありました。
そんな折に神楽坂の芸者桃太郎(伊藤すず)に巡りあい、恋仲に陥ります。
 
当然のように紅葉は二人を認めてくれません。
鏡花には師に反論するような意気地はありません。
と言って、恋を諦める事もままなりません。
胃腸病を患い、精神も傷めて逗子に転地療養します。
看病するのはすずでありました。
時折、二人して岩殿寺を詣でるようになります。
紅葉先生を説得すれば済むのでしょうが・・・・、ナイーブで潔癖症の鏡花にはそんな胆力はありません。
すずはそんな鏡花を見守るしか術はありません。
観音様に自然と足が向いたのでしょう。
 
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水仙の背後は鐘楼です。
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逗子は暖かいので、未だ紅葉が残っています。
また暖かいからこそ水仙ももう満開です。(1月17日撮影)
 
 
岩殿寺の観音堂は長い石段の奥にあります。
石段の両側には石仏が苔むしています。
暖かい逗子です、
正月を過ぎても未だ紅葉が残っています。
足元には水仙が、頭上には藪椿が咲いています。
梅の蕾も膨らんでいます。
初夏になれば、紫陽花が彩ります。
長谷寺のボタンのような派手さはありませんが、鏡花の心身の健康を取り戻すには効果があった事でしょう。
 
加えて、素晴らしい住職(先代)ががいました。
生きた心地の無い二人に、親身な相談相手になってくれました。
最初にお会いしたのが明治35年でした。
曹洞宗の坊さんです。
”良寛と貞心尼”の話でもしたでしょうか?(この段のみ私の推測です)
 
明治36年5月、二人は同棲生活を始めます。
紅葉は同棲の事実を知り激怒します。
しかし、同年10月、師の紅葉は亡くなります。
鏡花は師の葬儀を取り仕切ります。
そして、結婚します。
岩殿寺でふっ切れて・・・・・、前に進んだのでした。
 
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結婚した鏡花は明治40年(1907)「婦系図」を発表します。
主人公「お蔦」は妻の”すず”がモデルでした。
 
お蔦は叫びます。
「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉。私には死ねとおっしゃってくださいな」
この言葉は、お蔦の口をかりて、鏡花が師紅葉に「苦悩」を表現したものでしょう。
紅葉から飛び立った鏡花が居ました。
 
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                       爪彫地蔵尊に奉げられた水仙の花。水仙は仏花としても最適です。
 
近年岩殿寺は参道の崖工事をしました。
自然のままの傾斜地をコンクリートで固めました。
お陰で自生していた山百合は壊滅してしまいました。
同時に雑木の枝おろしもしました。
お陰で石段に陽が当たるようになりました。
お陰で水仙の元気が回復しました。
昨年までは頭を垂れてしまっていた推薦の花でしたが、今年はスックと立った茎の頂部に咲いています。
 
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   岩殿寺の水仙は大半が一重の日本水仙ですが、八重咲きとこの白い花、三種が咲いています。
   紅葉しているのは卯の木です。
 
美女は頭を垂れて憂いをこめた姿も良いものです。
でも、矢張り健康な美しさには及びません。
 
同棲は日陰です。
日陰ではどんな美女でも手弱女でしょう。
陽が差して、”鏡花夫人”になって・・・・、
本来の美しさが発露したことでしょう。
 
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                  鏡花と桃太郎(伊藤すず)出典日本近代文学館
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            観音堂の前には「瓢箪池」があります。池は鏡花夫妻が報恩寄進したものだそうです。
 
 
 
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桜貝拾い(材木座・逗子海岸で)

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学校の帰りに由比ガ浜に遊びに行く事がありました。
ランドセルの脇に巾着袋を提げて、中にはアルミのコップとお皿が入っていました。
昭和30年代、給食の食器は持参していました。
由比ガ浜では、鬼ごっこに興じ、貝拾いをしました。
給食袋が貝拾いに転用されました。
美しい貝殻、宝石のような貝殻、探した者が勝者でした。
照準は”桜貝”でした。
形が整っている事、大きい事、そして、二枚揃っていれば最高でした。
 
鎌倉の砂浜も汚れてしまいました。
数十年前”桜貝(ニッコウガイ)”は絶滅危惧種に指定されました。
もう、桜貝など在りはしない、はなからそう思っていました。
ところが、今年になって”お家で鎌倉”さんのブログに
「材木座海岸で桜貝が拾える。風の吹いた翌朝が狙い目だ」・・・、と案内されていました。
 
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   鎌倉の材木座海岸、向こうは逗子マリーナ。
   無数の小貝が散っていますが桜貝はこの中では探せませんでした。
 
大風と言うほどではありませんが、15,16日と寒い日が続きました。
そこで、17日材木座海岸に出かけました。
 
流石に人影もすくないのでした。
沢山の小貝が砂浜に打ち寄せられています。
そんな中に、桜貝があるかな・・・・・、探しますが見当たりません。
”これじゃあ、美ヶ原でコンタクトレンズを探すようなものだな・・・・”
もう、30年も前でしょうか、
美ヶ原高原の遊歩道で家内の失くしたコンタクトレンズを探したことが思い出されます。
 
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     私と一緒に貝拾いに夢中(?)のカラス君
 
思いがけない所に桜貝が一枚ありました。
 
波は寄せて、引いてゆきます。
引くときに、貝殻を砂浜に残してゆきます。
残された中に、偶々、桜貝を見つけました。
 
私は妙に合点が行きます。
桜貝は綺麗な砂の中、20センチほどに住んでいます。
それが、海が荒れると波に洗われて砂浜に打ち上げられるのでしょう。
でも、最も軽く、薄い貝殻です。
波の先(砂浜の奥)まで押し流して、置いて帰るのでしょう。
だから、寄せ波、引き波の折り返し地点辺りを探せば・・・・、見つかるようです。
コツを掴んだら、幾つも見つける事が出来ました。
 
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引き波が置いていってくれた桜貝を発見!
 
桜と言えば西行法師です。
桜が命なら、桜貝にも想いをかけたに違いない・・・・、山家集を確認してみました。
 
 風ふけば 花さく波のをるたびに 桜貝よる三島江の浦
「風が吹くと白波が幾重にも寄せてくるが、その度毎に桜貝が打ち寄せられてくる三島の江之浦だよ・・・・」こんな歌意でしょうか。
江之浦は淀川の淵高槻辺りだそうです。
平安時代はこの辺りまで入り江であったのでしょう。
 
友人の藤原定家はこれを本歌にして次を謡います。
 伊勢の海たまよる浪にさくら貝 かひある浦の春の色かな
砂浜こそ違いますが、波が桜貝を運んでくる点では共通しています。
そして、薄紅色の桜貝に春を待つ気持ちが込められています。
 
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                           拾った桜貝で遊んでみました。
 
更に西行法師は桜貝拾いを謡います。
 
 汐そむるますほの小貝拾ふとて いろの浜とはいふにやあるらん
増穂とは福井県敦賀の浜辺です。
この砂浜で桜貝などの買い拾いをしようとしたのでしょう。
そうしたら・・・・、色とりどりの貝で砂浜は埋められていました。
 
芭蕉は西行の歌に惹かれて増穂の浜に寄ります 
  ”ますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す 海上七里あり
      小萩ちれますほの小貝小盃  芭蕉 (奥の細道)
 
要領がわかると桜貝は面白いように拾えました。
でも、他の人も拾えるように、残しておく事にしましょう。
 
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   浪子不動下にある「桜貝の歌」歌碑
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  人影の無い逗子海岸。正面の岬の下に浪子不動尊、左奥に江ノ島、その上に富士山が望めます。
 
 
私は逗子海岸に行く事にしました。
何故なら・・・・・、逗子海岸こそ桜貝の本命と思っているからです。
 
材木座海岸の東が小坪漁港、披露山をトンネルで潜るとその先に逗子の海が見えます。
浪子不動尊が祀られていて、その前に”桜貝の歌”の歌碑が建っています。
 
昭和24年、ラジオ歌謡で歌われた「桜貝の歌」が大ヒット、暗い世相を明るくしました。
私世代さえ、桜貝と言えばこの歌を思い出します。
     うるわしき桜貝ひとつ
     去りゆける君に捧げむ
     この貝は去年の浜辺に
     われひとり拾いし貝よ
 
作詞土屋花情は歌のイメージを逗子の砂浜で拾った桜貝で作っていたそうです。
作曲八洲秀章は病で失った恋人の面影を抱いて鎌倉に住んでいました。
八洲は「あざみの歌」「マリモの歌」と次々とヒットを飛ばしました。
昭和60年2月鎌倉山之内の自宅で亡くなります。(没70歳)
 
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     逗子海岸では面白いように、楽に桜貝が拾えました。
 
逗子の砂浜は材木座や由比ガ浜に比べれはこじんまりとしています。
波は更に無く、夏の人ごみが嘘の様に閑静です。
今は丁度12時過ぎです。
午後になれば逗子開成学校の生徒さんが砂浜をランニングし始める事でしょう。
 
実に砂浜は清潔です。
少しは海藻が打ち寄せられていたり、ペットボトルが散っていそうですが・・・・、
ゴミ一つありません。
小貝も材木座に比べれば少ないのですが・・・・・、
もう、私は要領を取得済みです。
砂浜に出るや否やホンの5分で7,8枚の桜貝を拾えました。
桜貝で少し遊んで、少し持ち帰ることにしました。
 
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ワンパターン、桜貝を花弁にして桜を作ってみましたが・・・・・。
 
割れ易い桜貝です。
カメラのパーツ入れを空けて、その中にしまいました。
貝拾いには巾着袋が最高なので・・・・、これからは常備する事に致しましょう。
 
でも、1,000年も昔の西行法師や定家が”春を待ちながら”
海浜を桜貝拾いに夢中であった・・・・、と思うと嬉しくなります。
美しい事も、風に(波に)舞う事も、儚い事も、桜の花びらと桜貝は共通しているのです。
 
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  拾った桜貝。紫で長いのは馬刀貝(まてがい)と思います。
  貝殻の背に小さな穴が開いているのは巻貝に食べられた傷跡です。
  さて、これからこの貝殻で何を作ろうかな・・・・・?
 

 
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