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逗子の浜辺でワカメ拾い

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2月7日は夜半から暴風雨が吹き荒れました。
今年の春一番は春の嵐です。
これで、遅れていた梅の開花も進む事でしょう。
そして、楽しみは湘南の砂浜歩きです。
大風が楽しみを運んできてくれている筈です。
私は、先日の経験から逗子海岸に出かけました。
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   逗子海岸風景。正面が江ノ島。浜辺を走っているのは逗子開成の生徒達。
 
若干の人が砂浜に出て、”拾い歩き”をしています。
若いカップルがガラスの破片を拾っています。
長い歳月をかけて、波がガラスの破片の角を削って、磨いて”サンドグラス”を作ります。
サンドグラスを拾い集めて、アートを作ります。
”愛の合作”は花瓶になるのでしょうか?
それとも大皿になるのでしょうか?
二人はとても楽しそうです。
 
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  逗子の海は春らしい”光る海”、手前は不如帰碑(徳富蘆花)人はヨットやサーフィンで、
  鵜も碑の上で春を喜んでいるようです。
 
 
叔父さんが桜貝を拾っています。
長靴を履いて、手には熱帯魚屋さんが使っている小さな網を持っています。
網を使って、波が運んでくる桜貝を掬うのです。
スタイルからして私とは違います。
もう、ビニール袋の中には大量の桜貝が拾われていました。
こんなに拾ってどうすのでしょうか?
気懸かりです。
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                                 叔父さんが拾った桜貝。
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嵐が海藻を運んだのでしょう、大量の海藻が砂浜に打ち上げられています。
海藻を拾っている人も見られます。
勿論、若布(わかめ)を探しているのです。
 
湘南の旬は何といっても若布です。
でも、若布は滅多に見つけられず目に付くのは荒布(あらめ)ばかりです。
両社は見分けがつき難いのです。
私は早速に荒布(あらめ)と若布を見分ける要領を聞きました。
メカブを見れば判るんですよ・・・・、
海藻の根元を見るように教えられました。
海藻の根元には花に似た生殖器があって、其処から胞子が出てきます。
若布で最も美味しい部位です。
若布は若女とも書きます。
私は納得すると共に妙な妄想に陥ります。
 
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                          私が拾った若布、一株でもこのボリュームでした。
 
私も”湘南の旬”を食べたい・・・・・、一心で荒布をひっくり返して見ます。
暫くして、一つ、大きな若布を見つけました。
大喜び・・・・・・、でも収穫後の用意はありません。
ビニール袋でも持参すれば良かったのに・・・・。
仕方なくタオルに包んで、持ち帰ることにしました。
 
湘南若布は漁業権が設定されています。
厳密に言えば持ち帰る事は許されないのでしょう。
でも、一株だけ、慎ましやかな夫婦の一食文だけ・・・・・、許して下さい、念じて持ち帰りました。
 
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      茹で上げた若布。上部のメキャベツのような部位がメカブと呼ばれる生殖器(花)です。
 
自宅では、先ず茹で上げました。
褐色の若布が瞬間に青葉若葉の色に変じました。
マジックを見るような驚きです。
同時に部屋中に磯の香りが充満します。
”慎ましやかな夫婦の一食分”と思いましたが、一株で1週間分近くありそうです。
今晩食べる分を残して、ベランダで干す事にしました。
 
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                                       ベランダの物干しに干された残りの若布
 
若布の酢味噌和えを食べながら・・・・、家内に思い出話をします。
関門大橋の下に若布の神社があります。
名前は和布刈神社(めかり)です。
旧暦正月元旦の日の午前3時、干潮の磯に出てメカブ(和布・ワカメの花)を採取します。
メカブを神前に供えて海産物の豊作を祈願します。
古代人にとってはワカメの生殖器は驚異であり畏怖される存在だったのでしょう。
石の性神は各地にあって、道祖神と呼ばれますが・・・・・、
磯の神はワカメのメカブだったのでしょう。
そのメカブは朝廷にまで献上されたそうです。
 
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         私の晩御飯、ひじきに若布(右端)、何れも好物です。
 
神社の脇には古い料亭の「枕潮閣」があります。
磯料理の名店で、伊藤博文の書などが残されています。
 
勿論湘南のワカメは関門海峡の枕潮閣に負けない春の味でした。
メカブの部位は明日の晩に戴く事にしましょう。
 
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      逗子の砂浜は年配にとっては「春の海」であり、若い人にとっては「光る海」であります。
      誰もが楽しめる別天地です。
 
 
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横浜山手から仰ぐ富士山

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今年の寒波は厳しくて、越後では平年を倍する積雪だそうです。
きっと小栗山の観音堂も宝生寺の観音堂も雪に埋もれている事でしょう。
誰も訪れる事の無い観音堂で、木喰上人さんの観音様たちは寂しくしていそうです。
行くにしても、車は通れないかもしれません。
 
大風が吹いて、横浜も素晴らしい青空になりました。
我が家のベランダからもすっかり冠雪した富士山が見られます。
でも、公団の高層マンションが邪魔しています。
そこで、富士山スポットを探して出かける事にしました。
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     横浜戸塚区の倉田の丘から見る富士山。右の山並みが大山、その後ろに丹沢。
     富士山右下のタワーが薬科大(昔の横浜ドリームランド)。彼岸の頃にダイアモンド富士が眺められる。
 
横浜の山手と言うとベーブリッジやランドマークタワーなど、海を眺める景色が有名です。
でも、富士山を真ん中に、右に大山丹沢、左に箱根伊豆の山々を従えた景色こそ素晴らしいものがあります。
明治時代、山手の居留した外国人たちは海より富士山を眺めて暮らしていた事でしょう。
 
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   横浜山手イタリア山公園からの眺め。手前下がJR石川町駅。高速道の下が運河でその東(右)が元町商店   街。駅から真っ直ぐに東(右)に登ると坂道、石段道が並んでいます。
 
JR石川町の駅は登下校の女学生で混雑します。
男性は老いも若きも大勢の女学生には恐れをなして、石川町駅には近寄り難いものがあります。
明治の宣教師が婦女子の布教こそ大切・・・、考えて
カソリックもプロテスタントも新教諸派も競って女学校を建てたのでした。
私の幼馴染もフェリス女学院に双葉女学院に、共立女学院に・・・・・、通っていました。
今では、きっと可愛いお婆さんになっていることでしょう。
 
石川町の駅から、山の手の高台には何本も坂道が通っています。
大半が石段道ですから、車や自転車は登れません。
海よりから「百段坂」「汐汲坂」「代官坂」と続きます。
浅間神社の石段が百段あったから「百段坂」、
海から汐を汲んで担いで揚げたから「汐汲坂」
石川徳右衛門と言う代官の屋敷があったから「代官坂」と石川町・・・・、
地名にはそれぞれ謂れがあって、名前を知るのは花や昆虫の名を知るのと同じように楽しいものです。
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    石段坂(通称)から西側、富士山・大山を仰ぐ。左手の丘の上にイタリヤ山公園があります。
    イタリヤ山のオレンジの瓦が「ブラフ18番館」その奥の尖塔が「外交官の家」。西洋館が続きます。
 
私は汐汲坂と代官坂の間の通称石段坂に行きました。
此処は西南の方角に視界が開けていて、正面に富士山が、東に山の手のイタリヤ山が見え、北にランドマークなど沿海のビル群が見晴らせます。
今日も、期待通りの雄大で爽やかな景色です。
 
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                           山手百段坂公園。桜が咲けば人気です。正面ランドマークタワー。
 
私は石段坂を上り下りして写真のアングルを探します。
富士山の頂にかかった雲が動くのを待って佇みます。
もう、若草が芽吹いて、大犬のフグリが青い花をつけています。
フェリス女学院に行った幼馴染が言っていました。
「駅から急な石段坂道を登校するんですよ。だから、足が太くなってしまって”大根坂”って言うの・・・」
私は、目線を足元に下ろしました。
スカートを膝の下まで伸ばして・・・・・、恥ずかしげな仕草でした。
大根坂は最悪で、石段坂も味が無い・・・、「乙女坂」が最適なのになあ・・・・、
思います。
 
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                                          石段坂からの富士山の眺め(望遠)
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                               外人墓地のの梢の向うにも富士山が眺められます。
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    乙女達のお守り山手教会のマリア様。枝垂れ桜の樹下に居られます。もうじき花に飾られます。
    この像は明治元年フランスから寄贈されたものでした。数年後には文化財の指定を受けるものと思いま     す。
 
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母の麦踏の思い出

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私の母は狛江の泉龍寺の長女として生まれました。
同寺は映画(黒澤監督・地獄門)ロケ地にもなった、古風な寺で、母はお嬢様でした。
そんな母に薦める人がいて、戸塚倉田の盛徳寺に嫁ぎました。
盛徳寺は阿波の蜂須賀家のお寺、寺領があって不自由なく暮らせる・・・、期待されていました。
しかし、戦争、終戦、農地解放・・・・、多くの近郊寺院と同じく寺領を失いました。
お嬢様育ちの母は初めて農作業をしました。
蜂須賀の家人が寺守として寺山の裾に住んでいました。
そんな人に農作業の手ほどきを受けて・・・・・、白い手が土に染まりました。
そんな母の句です。
 
    朝霜や 百姓の手ほどき 不馴れにて   
    子を負いて 星をいただき 麦を踏む     (一江)
 
子とは戦後生まれの私の事でした。
星とは明けの明星のことでしょう。
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もう、枇杷は綿のような衣を着て、花を咲かせています。星ではなく、月を写しました。
 
盛徳寺は農地開放で略総ての田畑を失いましたが、少し、家族の食べる分は残されました。
自分で耕作していた・・・・・、説明が通ったのでしょう。
耕作人が全部取り上げたら・・・・、先祖に叱られる・・・・、配慮したのかもしれません。
残された農地の一つに柏尾川堰堤沿いの畑がありました。
倉田から戸塚駅西口に向かうと旭橋(旭町通りに続く橋)があります。
その橋を”カンカン橋”と呼んでいました。
鉄橋を下駄で渡ると、カンカン鳴ったから・・・、
それとも駅舎傍にある踏み切りの”カンカン”が響いてきたからかもしれません。
カンカン橋の畑は冬は麦畑、刈り取りが終わると落花生畑、芋畑になりました。
度々洪水になるので、背丈の伸びる野菜や雑穀は栽培出来ませんでした。
 
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  雨が降らなくてもホウレン草が育つのは霜や霜柱が降りて・・・、水やりをしてくれるから。
  今頃の野菜が一番に美味しいのは、寒いからです。
 
冬の日の朝早くから、母は私を負ぶって麦踏に精を出したのでした。
父は住職でしたが、寺の仕事は稀にしかないので、事業をしていました。
ですから・・・・、良くあるように・・・・・・畑作業は女一人でした。
麦踏は未だ背丈の低い麦を踏む作業です。
地下足袋を履いて、霜柱の上を踏みつけます。
霜柱はザック、ザックいって折れてしまいます。
霜柱で浮き上がっていた麦の根は地面に戻ります。
日が射せば霜柱が溶けて、水遣りになります。
地面に戻された根が水を吸い上げます。
更に、踏まれた麦の若芽は株を増やします。
麦は上に伸びるよりも、横に伸びて根株が太く大きくなります。
麦踏を怠れば、数本の穂が立って、微量の収穫しか出来ません。
麦踏をシッカリ行えば、根株が張って沢山の穂がたって、大量の収穫が可能になります。
 
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                                                     舞岡の麦畑
 
母が昔話をすると必ず言いました。
私が母に小言した・・・、と言うのです。
”学校の授業参観に来る時は、こ綺麗な身なりに着替えて来て欲しい・・・”
私にはそんな事を言った・・・、記憶はありません。
でも、教室の後ろに並んだお母さんの中で私の母だけが農作業の姿で居た事は記憶しています。
それを、子供心に気にしてもいました。
 
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      今頃の麦は上に伸びず、横に育つ事が大事です。その為に麦踏をしました。
 
我が家の居間には1枚の油絵がかかっています。
伊那の高遠を遠望する絵です。
遠い山並みが南アルプスの仙丈岳です。
中程の桜が高遠の城址公園です。
手前の畑でモンペ姿の女性が草むしりをしています。
葱が青々と育っています。
モンペ姿の女性が母の姿を髣髴させます。
 
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                                           母の後姿を宿す高遠の絵(向山僚一)
 
倉田と隣の舞岡の間には畑が残っています。
今年も麦が育てられています。
観察しているのですが・・・、麦踏をした形跡も、麦の柵(さく)を土盛りもしていません。
種を撒いた儘のように見えます。
昔の麦作りに比べれば、随分手抜きです。
だから・・・、麦踏と聞いても若い人には何の事か解らないでしょう。
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母の歌が聞こえてくるようです。
それは、早春賦です。
  春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
 
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                 風の寒さは鳥とて同じ、毛を立てて啼きもせず、膨らんでいます。
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  麦畑の土手には大犬のフグリの花が咲いて春が来ています。空の色も陽の光も春になっています。
  青い葉は彼岸花です。今光を浴びて秋に咲く花に向けて滋養を球根に蓄積しています。
 
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                                        舞岡の麦秋は5月末ごろになります。

  追記:母は89歳で天寿を全うしました。私は生前に句集を発刊しました。(馬と鹿との歩いた蓮華道)
      文中句はその中から紹介しました。
 
 
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放射能の憂鬱

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一昨日(2月9日)全国紙に報道されました。
横浜市内で販売されている干し椎茸から基準値の4倍に達する高濃度の放射能が確認されたと言うのです。
(2077ベクレム/基準値500ベクレム)
昨年の11月5日には舞岡公園の干し椎茸からも同程度の放射能が確認されました。
舞岡公園の椎茸は民間ボランタリーが園内の伐採木を使って、園内で栽培し、販売しています。
その売上代金は公園の運営費に充当されます。
影響が大きいことから、矢張り全国紙に報道されました。
また、同じ頃(11月12日)には舞岡公園の草木灰からも、2651ベクレムの放射能が確認され、椎茸に続いて全国紙に書き立てられました。
 
横浜市は原発から距離があるので、高を括っていたのかも知れません。
慌てて学校のグランド、町内の公園の放射能を測定しました。
私の住む町内には「子之八幡社子供公園」があります。
私も立ち会うよう言われて、公園の遊具や花木の下を測定しました。
公園内5箇所を、地表1センチ、地価50センチで測定しました。
結果は0.08(50㎝の深み)から0.16(地表)でした。
基準値は地表が0.59、50㎝の深さで0.23ですから・・・・、問題は無く自然界と同様である、と言った評価でした。
 
結論から言えば、私の町内は谷間等は放射能が水に流されて溜まっている・・・・・。
でも水捌けの良い場所は安全である・・・、と言う事でしょう。
だから・・・・・、市民は「水溜りを避けて生活してください」と言わんばかりです。
 
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   舞岡公園内の湿地(溜池跡)、此処に様々な生物が集まって、命を繋いでいます。
   でも、放射能の溜まり場になっているのです。
 
でも、私のように生物観察を趣味とする人は水溜りに吸い寄せられてゆきます。
小学生も校庭の片隅に池を掘ってビオトープとかバイオトープと言って自然観察しています。
そもそも生命はビオトープで生まれたものですから、其処に吸い寄せられるのは自然な事です。
学校のビオトープは遠くから眺めましょう・・・・、手を汚さないようにしましょう・・・、と指導しているのでしょう。
嘆かわしい事です。
 
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                我が家の椎茸。木は舞岡公園で急遽伐採されたクヌギです。昨年秋初収穫でした。
 
我が家には2本の椎茸の「ほだ木)があります。
2年前の3月大風が吹いて鎌倉の八幡様の銀杏が倒れた時です。
横浜市では舞岡公園の大木の枝おろしをしました。
公園内はクヌギが多いのです。
町内ではクヌギの伐採木を譲ってもらい、100本の椎茸のほだ木にしました。
60本は倉田小学校の山裾に並べました。
少し湿っていて、日陰で、風通しが良い場所を選びました。
そんな場所は・・・・、椎茸のビオトープなのです。
きっと、放射能を蓄積している事でしょう。
我が家にも2本のホダ木を池の淵に置いてあります。
昨年の秋初めて収穫でき・・・、美味しく戴きました。
放射能のリスクはわかっていましたが・・・・・、
初めて出来た椎茸が”私を食べてくださいね!”
呼びかけていましたから・・・・。
収穫して捨ててしまうのは悲しすぎます。
収穫しなければ・・・、腐って黒ずんでしまいます。
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       舞岡公園で出た伐採木を利用して、倉田小学校のグランドで椎茸菌を植え込んで、椎茸のホダ木に       しました。当時は給食で食べてほしい・・・、期待したのですが、・・・・・・
       今は厄介ものになっていることでしょう。
 
舞岡公園の放射能測定は昨年秋以降していません。
横浜市当局は”触らぬ神に祟りなし”と思っているのかもしれません。
または、特に除染作業もしていないので・・・、変わっていない、と考えているのでしょう。
発覚後調査もしていないのか、何の発表もありません。
 
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                 舞岡公園の湿地を餌場にしている田鴫、咥えているのはミミズのようです。
 
 
昨日も舞岡公園の湿地に生物観察に出かけました。
私の目の先には今日も田鴫が無心で枯葉を長い嘴で突っ突いています。
時折、何かゲットしたようです。
望遠レンズを拡大してみれば、大きなミミズです。
 
ミミズは枯葉を食べて育っています。
枯葉は基準値の4倍に汚染されています。
従って、ミミズはモットひどく汚染されている事でしょう。
そんなミミズを食べている田鴫は更に深刻な放射能で体内被曝していることでしょう。
報道では、東海村から遠く離れた只見川辺りでも今年は猪狩は止めたそうです。
猪はミミズも食べます。
だから・・・、猪は放射能が高くて・・・・、山の鯨で無くなってしまったのだそうです。
 
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    田鴫は長い嘴を枯葉の布団の奥まで射しこんで・・・・、なにやら探しています。目標はミミズです。
 
もうじき、我が家の椎茸は一斉に坊主頭を見せる事でしょう。
私は、この春も食べるつもりです。
もう、汚染されても自己責任の範囲内で済むでしょうし、
放射能の憂鬱に、精神までも汚染されたくないと思うからです。
 
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    田鴫が咥え出したのは・・・・、カタツムリでした。枯葉の下で寝ていたのでしょう。
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    舞岡公園の土手には、もう福寿草が咲いています。
 
 
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干鰯問屋の社会貢献(浦賀灯明堂)

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最初に春が訪れるのは海辺です。
家内と浦賀の灯明堂に出かけました。
東京湾の入り口、岬の先端に木造のお灯明があります。
多分、日本で最も有名で、役になった灯台でありましょう。
石の基壇の上に木造二階建の灯台が出来ています。
その二階部分は障子が張られて、中には灯明が設えてあり、灯をお供して灯して海を行く人の安全を守ったのでした。
築造されたのは慶安元年(1648)年、観音崎灯台が出来てバトンタッチするまで(明治5年・1872)220年余り人の命を守ったのでした。
 
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  浦賀の岬はいち早く春が訪れます。ストックの花も満開です。
  向かいは房総半島、江戸に向かう船が必ず海峡を通ります。
 
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   これが灯明堂です。東浦賀の干鰯問屋が建て維持して来ました。
 
灯明堂は岩場の上に建っています。
周囲は磯遊びをするには格好な場所です。
様々な海の生き物と遊ぶ事が出来ます。
叔父さんが岩に張り付いている「浜海苔(磯のり)」を採取しています。
プラスチックのボールには真っ黒な海苔が一杯になっています。
磯の香りが強くて、旬の味なのでしょう。
 
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    美しい砂浜、澄み切った海、遊ぶ子供たちには燦燦と春の光が降り注ぎます。
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砂場ではアサリが、岩場では浜海苔が採取できます。
 
砂浜では裸足で子供たちが走り回っています。
海水に足を浸して、ドンドン沖に向かいます。
冷たくないのかしら?
私は心配です。
子供は、”春が来た”嬉しさを行動で、体一杯現しているようです。
 
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此処には一体のお地蔵様が立っています。
そして、その横には石柱が建っています。
石柱の正面には「南無妙法蓮華経」日蓮様のお題目が刻まれています。
側面には「衆罪如霜露   恵日能消除」と刻まれています。
観普賢菩薩行法経の一文です。
この後に「是故応至心 懺悔六情根 」と続きます。
 
『人間の罪は霜や露のようなものである・・・・、
春の日差しが照れば霜も露も消えてしまうように、
春の光が照らされれば衆生の罪も消えてしまう・・・・、
だから、心を清くして懺悔をすべきである』
そんな意味でしょう。
角柱の背には「元禄年間に東漸寺の日鳴(多分住職)が建立した、と刻まれています。
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    灯明堂の建つ場所は処刑場でもありました。亡くなった人に引導を渡した角柱。正面にお題目が    刻まれています。裏面に施主の名、建造年月が刻まれています。
 
私は思い当たります。
友人のH君の実家が湯浅屋という東浦賀の干鰯(ほしか)問屋でした。
東漸寺の道路の向かいにありました。
その東浦賀の干鰯問屋が灯明堂を建て、毎晩一升の菜種油を灯して海を行く船に位置を知らせたのでした。
そして、その檀那寺の住職が死んで行く人に引導を渡したのでした。
”お前の生前の罪は霜や露のように消えてなくなる。仏の慈悲はまるで春の光のように・・・・、罪(霜・露)をとかしてしまうから・・・・”
 
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   東浦賀も家並み、中央が東叶神社。勝海舟が水垢離した。向かいから咸臨丸が出航した。
 
最近になって、企業が社会の公器である自覚が求められてきました。
社会的責任(CSR)がそれです。
企業が公器であるといった自覚が欠けているから・・・・・、改めて問題になってきたのでしょう。
JR西日本の脱線事故、東電の対応など見るにつけて、法的には罪科を追求できないまでも、その欠陥は目に余るものがあります。
それにつけても、江戸時代の初めに民間の人達が灯台を立て、死者を弔った・・・・・、事実に畏敬の念を深くします。
日本人の心も社会も退歩してしまった・・・、思わざるを得ません。
 
補足:干鰯問屋とは江戸時代に干鰯(魚肥)を扱った問屋のこと。 魚肥は木綿・菜種の栽培に適して即    効性があったので貴重であった。米の4倍の価値があったと言われています。浦賀の干鰯問屋は   湯浅屋のように紀伊の国から進出したものが多かった。
 
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山赤蛙の産卵と百舌

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友人が言いました。
「瀬上の尾根道を歩いていたら、天から兎が降ってきた。驚いて見上げると空に大鷹が舞っていた・・・」
本当かな? 半信半疑です。
でも、行って見たくなります。
 
瀬上は横浜と鎌倉の境にある丘陵地です。
両市が自然環境の保全に努めています。
横浜市の「山の家」があって、市民の自然観察の場になっています。
「ウィーンの森」の横浜版のような場所です。
私は瀬上川に沿って尾根に向けて歩きます。
何時もは雀の仲間の姿を良く見かけられるのですが・・・・、今朝は見かけません。
猛禽類が出現したので、野鳥は警戒しているのかも知れません。
 
小鳥が枝先から地面に急降下、また枝先に戻っています。
ヒヨドリと雀の中間くらい、綺麗な小鳥です。
ああ!百舌だな・・・・・。
小さいながらも、綺麗であっても、百舌は肉食の猛禽です。
「今頃、何を狩猟しているのかな?」興味が沸きます。
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    百舌の雌。小さくて綺麗ですが、嘴の先が鋭利で尖っているので、猛禽である事に納得します。
    可愛い眼で地上に動いた生物を狙っています。
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百舌の雄 今回はもうカップルになっているようでした。瀬上では一年中居る(留鳥)ようです。
        でも、晩秋は良く高啼きしますので目立ちます。
 
 
百舌がハンティングしていた場所は、湿地で小さな水溜りがある、その淵です。
その水溜りの淵に何か百舌の狙いになる生物が隠れているのです。
まだ、氷が張っていますし・・・・、冬眠中の生物も多いのですから、獲物が居るとも思えません。
 
湿地の淵には看板が立っています。
慶応大学と鶴見大学の「蛙探偵団」が立てたものです。
「此処は蛙の産卵調査をしていますので、生き物を持ち込んだり持ち去らないで下さい」
書かれています。
更に”カエルツボカビ症”が深刻である・・・、
蛙の世界にも深刻な病気があるんだ・・・、教えられます。
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                                        かえる探偵団のメッセージが書かれた看板。
 
私は長年歩いていますが、昔はありませんでした。
最近出来たもののようです。
”探偵団”と言う名からは研究会と言うより愛好会とか観察会のニュアンスが窺がえます。
鶴見大学(総持寺)は環境教育に熱心です。
近くの慶応大学(日吉、環境経済学)と一緒に蛙探偵団を組織しているのでしょう。
 
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    木道の両側に水溜りを作って、蛙の産卵場所にしています。
    看板は「生き物を持ち去らないように、持ち込まないように」メッセージが書かれています。
 
私は水溜りの中をのぞいてみました。
葦の根元に蛙の卵が産み落とされています。
寒天状の塊の中に、真っ黒な点々が無数に散っています。
あっちの葦の根元にも、こっちの葦の根元にも、卵が産み落とされています。
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               あっちにも、こっちにも山赤蛙の卵が産み落とされていました。
卵は山赤蛙です。
里山に良く見られる赤蛙です。
小さい時は真っ黒で、背中にイボイボがあるので嫌われ者です。(2㎝くらい)
大人になると赤味が増します。(5㎝位になります)
私が子供の頃良く掴まえて、海老を釣る餌にしました。
焼いて食べれば濃厚な味と匂いがありました。
牛蛙が鳥の笹身なら、赤蛙は山鳥のような印象でした。
酒飲みは淡白な笹身より濃厚な山鳥が好みです。
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     もう、産卵してから1週間も経っているのでしょうか? 黒い卵核が大きくなっているものもあります。
 
その山赤蛙が里山が無くなったので・・・、稀少種になったのでしょう。
そこで、蛙探偵団が此処に山赤蛙の格好な環境を保全したのでした。
 
山赤蛙は他の蛙や生物が冬眠から覚める前に動き出して産卵して・・・・・、お玉杓子から、蛙になってしまい・・・・、結果として他の生物に捕食されない・・・・、工夫なのでしょう。
そこで、氷の溶けた水溜りに入って、葦の陰で産卵して・・・・・、また里山に隠れる積もりなのでしょう。
百舌は、産卵で精根尽き果てた山赤蛙を狙って、梢の先から見詰めて居るのです。
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大鷹は見つかりません。
空を見上げれば雄大に滑空している鳥がいます。
チョウゲン坊(隼の仲間)、ノスリ(鷹の仲間)でしょうか?
私のカメラでは遠くて良くわかりません。
見上げていると・・・、カラスが遣って来ました。
”此処はワシらの縄張りだ”
言わんばかりに猛禽を追い出しにかかります。
見る見る、もう一羽カラスが応援に参じました。
猛禽は逃げ出しました。
カラスはトコトン追いかけて・・・、縄張りの外に追い出してしまいました。
 
人間世界もカラスのような輩が増えたような気がします。
大鷹には会えませんでしたが・・・・・、山赤蛙が復活していることを確認できました。
百舌の夫婦も上手く行っているようです。
私はソロソロ帰る事にしました。
 
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            右の猛禽に向けて飛び立ったカラス。最後は二羽のカラスに追い払われてしまいました。
            鳥が何だか、トンビでない事くらいしか解りません。解る方は教えてください。
 
 
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近代化資産の競馬場(根岸競馬場跡)

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横浜山手の尾根道を南に進むと、右手に根岸森林公園が見えてきます。
これが、日本最初の競馬場でありました。
冬枯れの梢の上に、競馬場の一等スタンドが眺められます。
日本の近代化資産に認定されていますが、中に入る事は出来ません。
遠くで眺めるだけです。
東側から、北側から写真を撮ります。
更に南側からスタンドを写そうとカメラを構えました。
 
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     北西側から見上げた根岸競馬場の一等スタンド
 
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                    南東側から見上げるスタンド。右側フェンス(鉄条網)の中が米軍宿舎。
 
予知していたのですが、米軍兵士が飛んで出てきました。
”ダメ・ダメ”大きなゼスチャーで撮影を禁止されます。
私は日本の近代化資産、競馬場の一等スタンドを写すのだ・・・、主張しますが、認めてくれません。
何故か・・・・・?
それは、手前に米軍の宿舎があるのです。
43万㎡に385戸の米軍宿舎があって、スタンドを写すとその前面に米軍宿舎が写ってしまうのです。
 
米軍宿舎に軍事機密など無いでしょうが・・・、
写す事さえ許されないのですから、スタンドに上がることは出来ません。
登れば米軍宿舎が真下に見下ろせるからです。
 
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       根岸台の米軍宿舎(赤い線の中) 右端の楕円が根岸競馬場跡(現根岸森林公園)その境に競馬場        の一等スタンドが残されている。(横浜市のHPから転載)
 
横浜開港と同時に結ばれた「横浜居留地覚書」に基づいて、
慶応2年(1866)根岸の高台に競馬場が開設されます。
運営は外国人に任されました。(周囲1.5k・5万㎡)
1905年には明治天皇によって御賞典が下賜され、エンペラーズカップが始まります。(現在の天皇賞)
1929年(昭和5)にはJ・Hモーガン(米国人建築家)によって、スタンドが整備されます。
私達が眺める一等スタンドはこの時建築されたものでした。
しかし、終戦後競馬場を含めた一体は米軍によって接収され、
主として横須賀の米軍に勤務する兵士の宿舎になっています。
 
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     森林公園の欅の梢の上に聳える一等スタンド
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                               森林公園の芝生、クロスカントリーに最適。 左側が馬場。
 
米軍による横浜市内の接収面積は1200haに及びました。
戦後60年にあたる平成17年に小柴貯油施設(53 ha)が返還されました。
横浜開港150周年にあたる平成21年に横浜ノース・ドックの一部(2.7ha)及び富岡倉庫地区の全域(2.9ha)の返還が実現しました。
この結果、横浜市内の米軍施設は、現在6か所470haだそうです。
このうち、上瀬谷通信施設(242 ha)、深谷通信所(77 ha)、根岸住宅地区(43 ha)、池子住宅地区及び海軍補助施設の横浜市域の飛び地(1 ha)については、平成16年10月に日米政府間で返還の方針が合意されています。
(この段横浜市のHPを要約。私の住む戸塚区でも深谷通信施設跡地利用の要望を提出しています)
 
従って、数年のうちにはこの米軍宿舎が返還され、森林公園との一体利用が始まる事になるのでしょう。
そうすれば、あの一等スタンドから360度の眺望を楽しめるのでしょう。
楽しみであります。
 
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                                                 競馬博物館の前庭からの眺め
 
日本で最初の競馬場の跡地です。
横浜の中心地とも近いし、景色も素晴らしいのです。
尾根道に戻れば、ドルフィン(イタリアレストラン、荒井由美の歌で有名)もあれば、
山手に向かって歩けば、蕎麦屋も中華料理店もあります。
「馬の博物館」もあれば、トレーニング施設もあります。
 
乗馬のトレーニングを見ているだけで・・・・・、馬の気持ちが解るような気がします。
上手な人が乗ってくれると、馬は嬉しそうに何周もトレーニング馬場を回っています。
馬と人との交流は有史に遡ります。
私は馬券はやりませんが、馬と人間の関係は文化遺産だなあ・・・、つくづく思います。
丘の道には大きな馬頭観音もあります。
 
大人も子供も一日ゆっくり遊ぶ事が出来ます。
早く米軍宿舎が返還されれば、横浜が一皮剥けた文化都市になることでしょう。
まだ、横浜には少し活力があります。
 
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                                         森の中に設えられた根岸競馬記念公苑」
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  根岸「馬の博物館」のシャッターの絵。根岸競馬記念公苑に相応しいデザインです。
 
 
 
 
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白滝不動尊とユーミンが歌ったドルフィン

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京浜東北線の終着駅は桜木町駅でした。
桜木町駅の先(南)元町、石川町、本牧に行くには市電を活用していました。
1964年、桜木町から大船まで国鉄(現JR)が延伸し、根岸線となりました。
市電を支えていた厚い御影石は一般に案内し、再利用を促しました。
私の生家のお寺でも、敷石になっています。
 
首都高速道路湾岸線が羽田から延伸してきました。
横浜ベイブリッジが出来て、金沢の並木で横浜横須賀道路に接続したのが1999年(平成11)でした。
鉄道が出来、高速道路が出来、根岸から磯子金沢にかけては開発が進みました。
山側は住宅開発が進み、海は埋め立てられて工場団地になりました。
今、JR根岸駅は朝晩混雑しています。
駅から横浜・東京の都心に通勤する人、駅を降りて工場で働く人・・・・、人の流れです。
勿論住人は山側の瀟洒なマンションから、勤労者は海浜を埋め立てた工場団地に消えて行きます。
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     根岸の高台からの眺め。首都高の手前に根岸線が走っています。高い煙突は電源開発の火力発所。水蒸気は新日本石油だと思われます。晴れていれば東京湾の向うに房総半島が見渡せます。
 
根岸駅前の道を西に進みます。
200m程で国道16号線(本牧通り)との交差点に出ます。
交差点の名前は「根岸不動下」です。
少し山裾に行くと古い石の鳥居が立っています。
鳥居の脇には「白滝不動尊」の石柱も立っています。
地名表示は根岸不動尊、でも一般には白滝不動尊として信仰されてきたようです。
 
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                                 一般には白滝不動尊として崇められてきました。
 
石段は急勾配です。手摺が付いていますから、握って、足元を確かめて登ります。
90段もあるそうです。
登るにつれて海側の眺望が開けてきます。
一面が新日本石油の石油コンビナートです。
石油精製の過程で出てくる資源を使った化学プラントもあるようです。
電源開発の火力発電所もあります。
濛々と水蒸気を排出しています。
冷却プラントなのでしょう。
勿論、鉄道や道路がもたらした開発だったのでしょう。
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        根岸不動尊の参道石段。急勾配なので手摺を握って登ります。
         高台の上の住宅から駅までの近道なので意外と人が通ります。
 
 
お滝はチョロチョロ水が垂れているだけでした。
この冬に雨が降っていない為でもあるのでしょうが・・・、余りにも貧弱です。
でも、滝は20mほどの落差があります。
滝上にはタブの古木が生い茂っています。
滝上にも、中段にも不動明王が祀られています。
カメラのレンズで覗けば、古いものでは無さそうです。
精々明治後半でしょうか?
そう、この辺りは鉄道、道路が設備されなかったので、開発から立ち遅れていたのでした。
しかし、横浜では珍しい滝がありました。そして「白滝」と名づけられるほど水量があったのでしょう。
滝は龍が昇るように見えました。
だから・・・・・、不動尊として信仰されたのでしょう。
でも、今のように水量が無くなってしまえば・・・・・、お参りする人も居なくなってしまいました。
原因は根岸の高台一帯が住宅に開発されてしまったからです。
水源に樹木が無くなれば・・・・・、滝は消えてしまいます。
参道の石段が、マンションの住人が根岸駅に行く近道として利用されているだけです。
 
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                                              根岸不動尊(白滝不動尊)
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       お滝不動尊。でも、滝は枯れてしまって・・・・、チョロチョロです。
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        これが白滝、この滝の中段からお不動様が現れた・・・・、不動尊の謂れです。
 
根岸不動尊の上にレストランの”ドルフィン”があります。
昨日書いた根岸森林公園から、少し坂を下った位置になります。
私が社会人になった間もない頃(1974年)に荒井由実(現松任谷由実)が「海を見ていた午後」を発表しました。
その歌詞中にある「ドルフィン」です。
 
主人公は失恋して、一人山手高台のドルフィンに座ります。
ソーダ水を注文します。
グラスの中には白い泡が次々と昇って・・・、消えて行きます。
主人公は泡を見詰めます。
透き通ったグラスの向うには海が見えています。
海峡を貨物船が渡ってゆきます。
やおらテーブルの上の紙ナプキンを取って、
「忘れないで・・・」書いてみました。
インクが滲んでしまって・・・・・・、
 
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私達世代は、日本人は昭和70年代夢中で走って来ました。
でも「忘れてはいけないものを・・・・、忘れそうだ!」
そんな危うさを何時も何時も心配していました。
だから・・・・、ユーミンの歌に共感しました。
私も家内と来た事がありました。
 
忘れてしまったものが何であったのか・・・・!
今になって解って来ました。
ドルフィンの下の白滝不動尊の滝が枯れてしまったように・・・・、
自然が枯れてしまいました。
人の心にも潤いが無くなってしまいました。
でも、人生は二度ありませんし、まして歴史に”もしも”はありません。
取り返しは出来ないのです。
原発事故のように・・・。
 
ユーミンの歌のお陰でドルフィンは40年も順調な経営をしているようです。
でも、歌った景色はもう見る影もありません。
目の前は石油コンビナートに高速道路の橋脚です。
房総半島は見えますが、ビルの陰で三浦は見渡せません。
 
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 ドルフィンからの眺望は1970年代とは様変わりです。
 
 
 
 
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藤沢七福神の手拭

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先ず、我が家の玄関を見てください。
壁に七福神が染め抜かれた手拭をかけました。
玄関から福が来そうですし、カレンダーにもなりますので、便利です。
私はお気に入りです。
今年の正月藤沢の七福神巡りの記念で戴きました。(記念頒布)
家内は手拭を持ち歩いているようです。
 
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                        我が家の玄関は「開運藤沢七福神」の手拭が飾られています。
 
私の生活圏では、鎌倉七福神、三浦七福神が歴史も深く有名です。
藤沢の七福神は藤沢市観光協会がプロモートして始まり、今年が15回目でした。
勿論、藤沢市の寺社を巡るのですから、古い寺社ばかりです。
でも、七福神巡りを始めたのはごく最近で、町おこしの一環、七福神人気にあやかったものでしょう。
 
最近作った・・・、という事は良く検討も為されている事でもあります。
インターネットの案内をはじめ、スタンプラリーの要領、色紙に朱印を押す仕組み、斬新で且つ古風なポスター、各寺社に立てられる藤色の「七福神の幟」、そして記念品の手拭・・・・・・、よく出来ています。
 
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巡るモデルプランは皇大神宮(鵠沼・803年創建、恵比寿)に始まっていました。
藤沢駅に最も近いので・・・・、JRや小田急に乗って来た人を想定しているのでしょう。
時計回りに養命寺(大庭・布袋尊)、常行寺(本町・福禄寿)、白旗神社(白旗・毘沙門天)、熊野神社(大鋸・大黒天)、感応院(藤沢橋・寿老人)と回って六つが済みます。
遊行寺通りを藤沢駅に戻ります。
駅から江ノ電か小田急に乗り換えて江ノ島に行きます。
龍口寺(腰越・毘沙門天)、江ノ島神社(弁財天)で七福神巡りは完了です。
七福神とは言いながら8つのスタンプが並びました。
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                               8つのスタンプが並んで、七福神巡りが完成です。
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                              白旗神社の毘沙門天(真ん中左のお厨子の中)
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               江ノ島弁才天は七福神詣での人に限り100円で拝観できます。(撮影禁止でしたので)
 
私は江ノ電の観光案内所に出向いて記念の手拭を貰います。(100円で記念頒布)
前載のように玄関に貼りました。
序に訊ねてみました。
「七福神と言いながら8寺社を巡るのは何故ですか?」
「毘沙門天様が白旗神社、龍口寺に祀られていますので・・・・、片一方を落とす事は憚れました。」
「でも、同じ毘沙門天様を二箇所で巡ったら・・・・、妬まれたりしないのですか?」
「そんな事はありませんよ。8寺社を巡らないといけません・・・」
「そういえば鎌倉七福神も弁天様が2箇所ありますね・・・」
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                                             皇大神宮の恵比寿様
 
それにしても、七福神とは日本らしい・・・・、思います。
七福神を横に並べると、向かって右から「恵比寿・大国」(日本の神)、「毘沙門・弁天」(ヒンズー教の神、仏の守護をするようになる)、「布袋・寿老人・福禄寿」(中国道教等の神)となっています。
日本、インド、中国の神(仏)で構成されています。
でも、スターは恵比寿・大国の日本の神です。
紅一点は弁天様です。記念撮影の場合は弁天様の周囲に全員が揃います。
 
万福招来するにはアジア連合軍の神仏を揃えました。
神仏習合も極まった感がします。
世界広し・・・、といっても播神(異民族、異国の神々)が自分達の神々と並存出来るのは日本だけかも知れません。
勿論、インドにも中国にも七福神のような信仰は無いようです。(中国には8仙人がありますが性格が違います)
 
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                   感応院の寿老人。鹿は1000年以上生きて おり、その肉を食べると2000才の長寿                   を得るとの伝説がある。
 
こんなアイディアを考えるのは・・・・、江戸の町人に違いない・・・、考えました。
ところが、最初に思いついたのは京都の町衆のようなのです。
室町時代末期、湖北の竹生島(弁財天)を含めて、「都七福神」を巡ったようでした。
 
江戸では谷中七福神と山の手七福神が最古と言われています。
谷中七福神は、江戸時代中期宝暦年間に始まり、盛んになりました。
上野の忍池にある弁天様に始まります。
隅田川七福神、山の手七福神、深川七福神等江戸の街中に七福神が整備されます。
町人の欲求・願望(家内安全・商売繁盛・縁結びなど)が形になり、
一方で寺社も生き残ろうとする意欲がありました。
また、寺社の門前には市場があったり、商店街、飯屋、茶店がありました。
七福神といったグループ企画は町人、寺社、地域三者が望む、
「江戸時代の町おこし、地域おこし」だったのでした。
 
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             常行寺の福禄寿。桃を右手に掲げています。中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・             禄・寿を象徴します。認知症を防いで・・・・下さりそうです。   
 
”昔も今もたいして変わらないな・・・・!”
思いながら藤沢七福神を巡りました。
でも、七福神を巡っている人は・・・、高齢者ばかりです。
江戸時代は人口が三倍増になりました。
七福神めぐりは若いエネルギーで盛り上がったのでしょう。
この点が大きな違いです。
 
次の初夢は七福神の手拭を枕に巻いて見ることにしましょう。
 
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          白旗神社の土鈴。徐々に縁起物を案内してくれるようになってくる事でしょう。
 
 
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168枚の天井画(養命寺)

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藤沢の町を旧東海道に沿って南に下ります。
引地川の橋を渡ると、藤沢本町から城南になります。
城南とは大庭城の南と言う意味です。
引地川の川上1kに山城の大庭城があります。
引地川を見下ろす位置に養命寺があります。
養命寺の背はメルシャン(ワイン)藤沢工場です。
寺の道路向かいには有名な「化粧地蔵」が祀られています。
寺伝では元亀元年(1570)に宗賢院(本寺)第三世の暁堂元龍によって創建されたことになっています。
近年、竹林を伐採し大規模な霊園にチェンジしてしまっています。
小さなお寺さんですから、寺院経営には墓苑は欠かせないアイテムなのでしょう。
 
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   養命寺本堂、この中にご本尊の薬師如来が祀られていて、天井画があります。
   数年前まで後ろは竹山でしたが、今は大きな霊園になっています。
 
養命寺は大変立派な薬師如来がご本尊です。(国の重要文化財)
解体修理に際して建久8年(1197)銘が出てきて、鎌倉時代初期の作である事が確認されました。
大庭城の主「大庭景兼」の守護仏であったと言い伝えられています。
 
これからNHK大河ドラマ平清盛でも大庭氏は登場する事でしょう。
少し説明しておきます。
大庭城は桓武平氏を祖とする名門大庭氏の居城でありました。
大庭城主「大庭景義」は保元の乱(1156)で源義朝に従います。
しかし、敵将「源為朝」の矢を足に受け負傷してしまいます。
すると家督を弟の「大庭景親」に譲って茅ヶ崎に隠居してしまいます。
 
 
大庭兄弟は平治の乱(1159)に際して意見が分かれてしまいます。
兄の大庭景義は源氏の恩顧を主張し、源氏に組します。
弟(大庭景親)は桓武平氏を祖としていること、平家の勢いを主張し平家に組したい、主張します。
源頼朝が挙兵すると弟(大庭景親)は頼朝を石橋山に敗走させます。
しかし、再挙した源頼朝によって富士川の戦いで捕らえられ、処刑されてしまいます。
 
大庭景義は源頼朝に所領を安堵され大庭氏は存続します。
その倅「大庭景兼」の守護仏が養命寺のご本尊なのです。
どんな経緯を経てこの小さな本堂に収まったのか・・・・、ロマンであります。
と言うのは引地川沿い、大庭城の周囲には廃寺が幾つもあります。
 
この薬師仏は運慶の作だと主張する人がいます。
運慶は1197年に東大寺南大門の金剛力士像を収めています。(推定24歳、東宝記)
従って運慶本人が彫ったとは考え難く、その一門の作品と考えるのが妥当でしょう。
この薬師様は12年に一度、寅年の4月12日に開帳ご開帳されます。
前回は平成22年の4月でしたから・・・、もう10年も待たなくては拝観出来ません。
 
写真で確認すると一見して鎌倉12所、光触寺の阿弥陀像(国の重要文化財)に似ています。
此方も、運慶作とよく言われています。
お顔にひび割れができている事から・・・・、頬焼き阿弥陀像としても有名です。
説話絵巻(国の重要文化財)共々有名です。
 
両仏像ともお体の金箔が剥げ落ちています。
金箔の下地であり接着していた黒漆が乾いて、割れて表面に出てきてしまったのでしょう。
運慶一門が鎌倉に下った時に漆や金箔職人を連れて居なかったのかもしれません。
京都や奈良の漆に比べて鎌倉の漆は品質が劣っていたのかもしれません。
でも、漆の傷みが風雪を耐えてきた仏像の変遷を語っているようで、情趣に富んでいます。
運慶らしい、理性的なお顔、美しい体躯とあいまって、惹き付けられます。
 
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            養命寺ご本尊阿弥陀如来像(写真を写す) 運慶一派による優れた仏様です。
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          光触寺頬焼き阿弥陀像、此方も運慶作と言い伝えられています。
 
 
養命寺の本堂は小さくても中々に良い建物です。
薬師像が収められているお厨子の両側に十二神将が置かれています。
収蔵庫のガラスが光っていて良く見えませんが、精々室町時代に遡れるか・・・、そんな十二神将です。
ご本尊を何処かの廃寺から移してきて、
その折に薬師様には眷属が必要として急遽製作したものでしょう。
 
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          養命寺の本堂。正面お厨子の中に薬師如来、その前にお写真が置かれています。
               左右のガラスケースの中に12神将像、格天井に絵画が。
 
私の目は本堂の天井に釘付けになりました。
所謂「格天井(ごうてんじょう)」です。
太い竿が正方形を形作っていて、そのマスの中に家紋や絵が描かれています。
絵の淵には多分この本堂の建築に際して寄進した人の名前と出身村名が書かれています。
半分くらいが当村(城南村)と書かれています。
鵠沼や本町、辻堂等の名が目立ちます。
私の住む豊田村(古名)が無いか・・・、探しますが見つかりません。
この格天井は慶応2年(1866)の製作ですから・・・・、多分本堂と同時に出来たものでしょう。
幕末には藤沢は「ええじゃないか」騒ぎで熱したと記録されています。
天から「世直しのお札」が舞って降りてきた・・・・、
そんな熱気も手伝って格天井に家紋を描いたことでしょう。
家紋は限られた人が持っていたので、絵を寄進した人も居たのかもしれません。
格天井の数は12×14で168枚、168人も本堂には入れません。
落慶式には大半の人がお庭から、建物を、天井を、その向うのご本尊を仰ぎ見た事でしょう。
 
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   格天井の144コマに一枚ずつ家紋や絵が描かれ、寄進者の名前・出身村が記されています。
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                          寄進者には鵠沼村の人も目だっていました。
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                         大庭、羽鳥、当所(城南)、本町、山中等近在の村ばかり・・・・です。
 
 
 
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恋には早い?二羽の田鴫と翡翠

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秋の訪れは風によって、春は日差しに気づくと言われます。
今日も最高気温が5度と、寒い一日でしたが、
水面で照り返す日の光に”もう春ですね・・・!”気付かされました。
 
私は舞岡公園の棚田を巡って、葦原に出かけます。
もうじき冬鳥は北に渡ってしまいます。
ですから冬鳥観察も残り少ない季節です。
シッカリ見詰めておきたい・・・、そんな想いがバードウォッチングに駆り立てます。
 
今日はもう水溜りの氷も溶けています。
水面がキラキラ照り返しています。
何か居ないか・・・・!、葦原を見詰めます。
様々な冬鳥が、餌をあさっています。
 
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今日の舞台は舞岡公園の葦原(左手)、もう猫柳が芽吹いています。
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      刈り取った葦原に田鴫が二羽(左上・中央やや右)がせわしく餌をあさっていました。
 
居ました、居ました、今日も田鴫にご面会です。
今日の田鴫は動きも活発です。
先日はジッと動かない、鴫の看経(かんぎん)を見せられました。
今日は、餌も沢山ゲット出来るのでしょう。
せわしなく動き回ります。
 
水溜りに嘴を入れます。
嘴をせわしなく動かして、ミミズ等を探します。
嘴の感覚で餌を判断できるのでしょう。
水面に轍が出来て、次々に広がって行きます。
光が眩しく照り返しています。
 
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                        水溜りを嘴で餌を探る田鴫。水面に轍が広がりました。
 
田鴫は二羽います。
二羽とも連れ添って動きます。
一羽が何かに驚いたように走ると、もう一羽も直ぐに従います。
一羽が水溜りに入れば、もう一羽も入ります。
 
私は、隣のバードウォッチャーに訊きます。
「あの、二羽の関係は何でしょうね?夫婦でしょうか?それとも兄弟でしょうか?」
「田鴫の雌雄は見分けできないのですよ。それに、シベリアに帰ってから夫婦になって、子育てすると思うのです。兄弟と言う事もあると思いますが・・・・、もうあの位大きくなれば兄弟の意識は無いでしょうね。」
「仲が良いのは、仲間だからでしょうかね。一羽で居るよりも二羽の方が安全ですからね。
鴨のように渡る時は仲間になるのでしょうかね?渡ったらまた離れ離れになるとか?」
会話には結論はありません。
 
同じように見えた田鴫でしたが、写真で見れば、随分違っています。
体全体が太いのと細いのと分かれています。
でも、葦原の保護色は二羽とも一緒です。
 
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レンズを通して見れば同じ田鴫でも、太目と細身とはっきり違いがありました。
こうしてみると矢張り夫婦なのではないか・・・・・、思ったりします。
 
溜池には翡翠がいます。
此方も二羽居ます。
2mほど離れた位置にいます。
 
溜池の岸辺から数メートル先に杭が打たれていて、ロープが張られています。
”このロープの先は池の深みなので入らないように・・・・”、そんな”印し”なのです。
その杭やロープを使って、二羽の翡翠が鬼ごっこをしているようです。
一羽が近づくともう一羽が飛んで逃げます。
でも、距離は数メートルです。
もう一羽は直ぐに近寄ります。
逃げた一羽は相手の気を惹いている・・・・・、そんな感じです。
私はてっきり恋人同士なんだ・・・・・、気を惹いているのは雌で、追いかけているのは雄だろう・・・・、思いました。
 
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         ロープの上で鬼ごっこをしていた二羽の翡翠。水面は春の気配です。
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                                               追いかけっこに興じている翡翠
 
で、矢張りバードウォッチャーに聞いてみます。
「二羽は恋の駆け引き中でしょうかね・・・・・?」
すると
「二羽とも雄ではないでしょうか? 
何故かと言うと、雌の嘴の下の方は赤いのです。この翡翠は上下の嘴共に黒っぽいです。
それに、二羽共に同じように綺麗です。
カワセミは翡翠と書きますが” 雄を翡と云い、雌を翠と云うのです。
背中の緑色の中に紫色が加わっているのが”翡”で、雄なのです」
 
私はそうなんだ、二羽とも男なんだ・・・・・、改めてじっと見詰めます。
でも、肉眼では遠くて見分けられません。
 
という事は・・・・・、今年育った雄の翡翠が育った溜池にやってきた・・・・、
そうしたら、お父さんに出くわしてしまった。
この溜池はお父さんの縄張りです。
でも、日陰の溜池は凍っているので餌場になりません。
「勘弁してちょうだいな・・・・!僕の餌場は凍っていて食べ物にありつけないんです・・・!」
甘えながら、お父さんを慕っているのかもしれません。
 
私が思い付きをバードウォッチャーにぶつけると・・・。
「そんな事かも知れませんね。この時期餌場も限られているので翡翠同士が接近して・・・、親子という事もあるでしょうね・・・」


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                   雄同士の翡翠、半年振りに遭遇した親子だろう・・・・、という事になりました。
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                              此方が翡翠の雌。上下の嘴の色が違います。
田鴫は渡り鳥、翡翠は留鳥です。
でも今は冬と春の境目の季節、二羽が仲良しでも・・・、どんな関係か・・・・、果たしてこれが恋なのか?
想像するのも楽しいものです。
 
私にもそんな時があったような記憶もあるのですが・・・、
”春は名のみの風の寒さ・・・”   でした。
 
 
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鎌倉古道、道端の福寿草

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鎌倉古道とは鎌倉から関東以北の各地に向けて放射状に整備された道でした。
幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と言った緊急時に馬で馳せ参じて幕府を守る・・・・、その為に整備されました。
私の住む戸塚の倉田には、鎌倉古道中道(なかつみち)が通っていました。
奥州古道(古代の道)に平行して、丘陵の尾根を通っています。
奥州征伐に際して幕府軍はこの道を通った、といわれています。
 
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 今日の話題は鎌倉古道、道端に咲く福寿草です。
                    農家が土手を広くして、福寿草を大事に育てているので・・・、毎年楽しめます。
 
由比ガ浜から、常盤、村岡、俣野、飯田を経て町田、多摩、小川町、更に児玉から安中、松井田を結んだ道が「鎌倉古道下道(しもつみち)」でした。
元弘3年(1333)5月8日に上州新田村の生品神社の境内で新田義貞は倒幕の旗揚げをします。
配下はわずか150騎だったと記されています。
それが、古道を上る途上で呼応する者が増えて幕府軍を圧倒する軍勢に膨れ上がります。
 
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     俣野鎌倉古道に面した庚申塔。 「右鎌倉、左八王子」の道標を兼ねています。
     向うの森は龍長院、同寺の計画している墓地開発計画に反対する運動も起きているようです。
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     俣野八坂神社、前を鎌倉古道が通っています。
     素晴らしい庚申塔が3基、双体道祖神が一基祀られています。正面に富士山が仰ぎ見られます。
 
鎌倉古道下道は境川の河岸段丘を通っています。
境川は名前の通り、武蔵の国、相模の国の境であり、穀倉地帯です。
有力な武士団や豪族が連なっていました。
幕末になると、彼等が幕府を見限って、自分たちと似た存在であり、
所領を安堵してくれる新田義貞を歓迎したのでしょう。
境川の下流を牛耳っていた俣野一族もそんな豪族でありました。
 
俣野は境川の東の段丘にあります。
多分、鎌倉道と古代の東海道の分岐地点だったので、この名があるのでしょう。
この一帯は景色が良いのです。
西に富士山を仰いで、大山などの山並みが裾をひいて、夕焼けが見事です。
だから、明治時代住友財閥が別邸を築いたのでしょう。
残念な事に住友別邸(国重要文化財)は4年前全焼してしまいました。
別邸消失後1ヶ月、大磯の吉田茂邸も消失しました。
どちらも、不審火と噂されています。
吉田茂邸は募金等で再建の見通しが立っているそうですが・・・・・、
住友別邸はどうなる事やら・・・・、心配です。
 
俣野辺りは鎌倉古道の景色、雰囲気が見事に残されています。
と言うのは、境川が度々洪水をし、一帯が農業振興地域の指定がされたので、
開発から取り残されたからでしょう。
新田軍の史跡があり、俣野の観音堂や説話(浄瑠璃で有名な「小栗判官・照手姫」)があり、
道筋には石仏が佇んでいます。
四季折々素晴らしいのですが、冬から早春にかけてが最高です。
彼岸の頃にはダイアモンド富士が見られますし、
辛夷が咲きます。
某所には片栗も咲きます。
 
 
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農道の土手には・・・・・、福寿草が咲いています。
毎年咲きます。
年々花数が増えています。
他の雑草が芽吹く前に花芽を出して、一気に咲きます。
日の光が強くなると、花弁を目一杯に広げます。
まるで、アンテナを広げるように花弁を開くのです。
艶々した花弁が陽の光を花の芯に集めます。
花芯には蜜があって、虫を誘います。
曇ってしまえば・・・・、花を閉じてしまいます。
虫も来ないからです。
風が、空気が冷たくても太陽が射せば花弁を開きます。
ですから・・・、時々霜げてしまいます。
凍った花弁は先が白くなってしまいます。
 
私は、日の光を浴びる福寿草を見る度に思います。
岡本太郎は福寿草を見て「太陽の塔」をデザインしたのではないだろうか?
 
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福寿草を見て暫く歩くと、珍しい光景を見ました。
一面の果樹が見慣れない姿なのです。
樹形は梨か林檎のようだが・・・・、木肌が違う。
木肌は百日紅のようだが・・・、樹形が違う。
じっと見詰めると・・・・、
木下に小枝や樹皮が散っています。
そして、果樹園には塩ビの水桶が置かれています。
そう・・・、此処は柿の畑のなのです。
下記の樹皮はコルク層が厚いので、その中に虫が巣食って越冬します。
そこで、この季節にコルク層を剥いで、虫を除去するのです。
洗浄機を使って勢い良く水を噴射します。
すると、樹皮が剥け落ちます。
虫も裸にされて冷気に曝されます。
でも、裸にされた柿木は風邪を引かないのか・・・、少し心配です。
柿木はまだ眠っているから・・・・、大丈夫なのでしょうか?
それとも、寒さに曝した方が健康になるのでしょうか?
寒布摩擦のように・・・・、
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     洗浄機で樹皮を剥がされた柿木(手前)、これもこの季節の風物詩です。
 
様々に思いを馳せながら・・・・、鎌倉古道を進みます。
ようやく、遅れていた梅の花も咲き出しました。
 
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                                       古道脇の梅もようやく咲き出しました。
 
 
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鎌倉の竹炭「すざく」

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鎌倉の由比ヶ浜通り、長谷観音も近い位置に「すざく」と言う名の”炭屋”さんがある。
昔は何処の町にも「炭屋」があって、木炭や練炭などを商っていた。
それらの店は大概プロパンガス屋さんに転業している。
「すざく」は随分変わった炭屋さんで、主力は「竹炭」であり、
その長所を生かした建材や食べ物、インテリアなどを商っている。
 
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     鎌倉由比ヶ浜通りの「すざく」。近年「鎌倉の炭」を商い始めました。
     金魚の行灯は近くの「矢沢屋」さんのオリジナル商品です。
 
第一に「すざく」と言う名からして変わっている。
朱雀門といえば平城京や平安京の南門(正門)である。
鎌倉で言えば、朱雀門の位置は由比ヶ浜通りの起点である下馬か、由比ヶ浜に近い一の鳥居であろう。
「すざく」の位置は南西の角であって、朱雀門の位置ではない。
朱雀門とは言っていないので・・・・、「鎌倉の南」と言う意味で使っているのだろうが・・・・。
 
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     「すざく」の店先。京風の格子戸の下段に朱雀がデザインされています。
     さざれ石のタタキも良くマッチしています。右手の赤い毛氈の上にはコーヒーの案内がされています。
 
朱色の雀と書いて「朱雀」である。
中国では四方を四神が守護している。
東西南北、それぞれ青竜(東)、白虎(西) 朱雀(南)、玄武(北)である。
東南アジアには「紅雀」という声がカナリアのように美しい小鳥が居るが、朱雀とは異なる。
想像上の鳥”鳳凰”のことである。
南から吉祥が訪れるので縁起が良い鳥であり、同時に孔雀のように強い・・・、のであろう。
 
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     「すざく」の店内。レジの後ろは禅寺の花頭窓があって、床の間風です。
     床は全面が炭を使って、真っ黒です。禅寺の法堂を思わせます。
 
「すざく」は由比ヶ浜通りに面して3店もある。
鎌倉文学館入り口近くにある店が建材店で、最も古い。
竹炭を使って、床や壁を作って・・・、健康な家で、家族健康に過ごしませんか?
そんな事業をしているようである。
勿論、建築設計を得意にするようである。
 
少し、長谷観音側に2店ある。
どちらも竹炭の小売店舗である。
どちらも、出店して間もない。
相当のベンチャーである。
竹炭自体が生活に馴染んでいないので・・・・、
効能の説明からしなくては・・・・、小売は進まない。
 
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                     「すざく」の上がり部屋。喫茶室に使われています。
 
年号が昭和から平成に変わった頃、我国は米不足に陥った。
古米や、インディカ米(細長い・インド型でパラパラしている)を美味しく食べる・・・・・、工夫が様々に凝らされた。
その時に最も脚光を浴びたのが「竹炭」であった。
お米を洗って、暫く竹炭と共に浸して、竹炭と一緒に炊き上げれば・・・・、美味しいご飯になります・・・、
そんな呼びかけであった。
竹の細かく整然とした細胞が炭化すると、古米の匂いや酸化した不純物を吸収してしまう・・・・、
そんな効能の説明であった。
当時私は銀行の財形部長・・・・、財形貯蓄の販促グッズに「竹炭」を用意した。
総じて評判が良かった・・・、そんな思い出がある。
 
流石に今は竹炭でご飯を炊きましょう・・・・、そんな呼びかけはしていない。
”水道しに竹炭を入れて、カルキ臭や塩素を吸着しましょう。同時に竹炭に含まれるカリウム・マグネシウムなどが溶け出すので、それを吸収しましょう”とか。
”竹炭を部屋に置いておけば、建材に含まれるホルムアルデヒトや、タバコなどに含まれるベンゼン、塗料等に含まれるトルエンなど、有害物質を吸着してくれます。また加齢臭、アンモニア臭も無くなります”
そんな呼びかけが多いようだ。
 
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  「すざく」の店先、鴨居を削って、吉祥雲と朱雀をデザインしています。
  この店を含めて由比ヶ浜通りには昭和初年の民家が多く残されています。
  軒が大きく出て店先を庇で囲っています。これを出桁造り(せがい造り)と言います。
  いずれかの機会に紹介します。
 
竹炭を微粉にして、漆喰壁に含ませれば「黒壁」になる。
また、床材(タイル)などに含ませれば・・・・、禅寺の床になる。
黒い壁や床は心を落ち着けますし・・・・、体にも良いものでしょう。
鎌倉時代から炭の効果は利用されていたのでしょう。
 
それが、最近になって空気や水が汚染されて・・・・・、改めて認識されてきたのだ。
そうして、竹炭を食べればミネラルの不足が解消し・・・・、便臭も改善される・・・・、
案内されている。
蜂蜜に竹炭を混ぜた物も・・・、オリジナル商品だそうだ。
胃腸に入って、体内の有害物質を吸着して、便と一緒に排出してくれる・・・・、そんな効能なのであろう。
一度、室内の有害物質を吸着した竹炭であれば、これを食べると良い結果は望むべくも無い。
竹炭も扱い方や管理が問題なような気がする。
 
でも、昨今の健康補助食品、サプリメントは何から出来ているか心配です。
竹炭は目で見れば判断が出来るし、遥かに安心である。
 
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   「すざく」のオリジナル商品「竹炭・蜂蜜」2000円。壁ははちく竹の美しさを活かしています。
 
 
”何処で竹炭を作っているのですか?”
質問しました。
”工場は木更津です”
何の事はない、房総の竹を使って、房総で製造して、鎌倉で販売しているので・・・・”鎌倉の竹炭”なのだ。
精確には「房総の竹炭」であるが、それでは商売にならない。
「鎌倉」「禅寺の花頭窓」「朱雀」何れも、竹炭に商品イメージを高める、工夫なのであろう。
 
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      「すざく」のコーヒーセット、550円。お煎餅は近隣のお店のものです。
 
わたしは、古くて斬新な店のデザインが気に入った。
そこで、訊ねてみた。
「この店は大正15年に建築されました。オーナーが2年前に当店用に改装したものです。」
「なかなか、良く工夫されて、美しいお店ですね!」
誉めて差し上げると・・・・、
「そうでしょう。当店は店主が建築デザイナーですから、お手の物です・・・・。」
私は思った。
大正15年なら、昭和元年。何故昭和元年と言わないのだろう・・・・!
「対僊閣(長谷観音前の旅館、昭和2年建築)」も含めて由比ヶ浜通りには昭和初年の建物が多いのに・・・!
建築の世界では昭和が評価されますが、
デザイナーの世界では、大正時代が評価されているのかも知れない。
 
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    鎌倉扇ガ谷の英勝寺(尼寺)の竹林。此処に「姫御殿」がありました。左手の煙は炭焼きではありません。
    枯れた竹等を焼却しているのです。今の時期が竹林の手入れの季節なのです。
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                一年中で今頃が一番竹が美しく輝く季節です。(英勝寺の竹林) 
                今が炭焼きの季節でもあります。
 
昨日から暖かくなりだした。
雨も降ったので地下の筍も伸びている事であろう。
また、”筍が旬”の季節が巡って来る。
 
私の町の炭焼き小屋(舞岡公園)も今フル生産で竹炭を作っている。
古い竹は冬の間に伐採して、竹林の手入れをしなくてはならない。
伐採すれば・・・・・、竹炭にする。
竹炭を待っている人が沢山いる。
我が家の下駄箱もその一つである。
 
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   舞岡公園の炭焼き小屋、左のレンガ積みが竹炭用、フル生産です。右の土釜が木炭用。殆んど使っていま   せん。木炭は燃料用でホームセンター等で販売しています。竹炭は生活環境材で余り販売していません。   勿論竹炭の需要が高いのです。
 
 
昨年の 11月12日、公園の草木灰から基準値の6倍ものセシウムが確認された。
(2651セシウム/1キロ、基準値400セシウム。全国紙で報道)
公園では草木灰を土の改良材として200円/600グラムで販売していたので、批難気味の報道であった。
その後、草木灰は販売を控えているようだ。
横浜市も触らないようにしている気配がある。
でも、竹炭は・・・・・、今も販売している。
 
あの時の報道は、
「草木灰には場所によってセシウムが多量に確認されたが、人気の竹炭にはセシウムは確認できなかった・・・・」が正しかったのであろう。
それでは記事にならなかったから・・・、
草木灰が、その次には「乾燥椎茸から」セシウムが確認された・・・・、
連日の報道になった。
 
叩かれた舞岡公園の運営委員会であったが、彼等も逞しい。
竹炭の生産を続けている。
きっと、放射能測定機器を手にしながら・・・・、竹炭を製造し、販売しているのであろう。
マスコミや環境マニアに詰問されたら・・・・、直ぐにデータを示す積りであろう。
 
新聞で叩かれたから・・・、中断してしまうのでは、舞岡の竹林は荒れてしまう。
竹林に手を入れれば・・・、伐採した竹の再利用を進めなくてはならない。
したたかに・・・・・・、放射能測定機器を左手に持って、今日も竹炭を作っている。
雑木林の上に濛々と炭焼きの煙が昇ってゆく。
”放射能が心配だ”
叫ぶより、自分で測定し、自分で自身や家族を守る・・・・、そんな時代なのであろう。
 
我が家にも竹が生い茂っている。
屋根が腐るから・・・・、軒先より上に育たないようにしてください・・・、
先日屋根屋に叱られたばかりだ。
五分の一くらい伐採したのだが、未だ未だ膨大な量だ。
竹箒にするだけでなく、竹炭にでもしなくては・・・・、収まらない。
4斗缶に穴を開けて、竹炭つくりを始める事にしようか・・・・!
思うまではするが、実際に行うとなると・・・、大変だ。
 
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                                 舞岡公園の炭焼き小屋。煙は竹炭のものです。
 
 
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お婆ちゃんの「甘夏みかん」

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境川沿いの「江ノ島道」を歩いていると、良く見かける果樹があります。
甘夏みかんがそれです。
2月の真っ青な青空と艶やかな緑の葉っぱ、そしてオレンジ色の大きな実が鮮やかなコントラストです。
民家の庭に植えられています。
多くの場合、実は多くの場合食べられないで、落果したまま放置されています。
草むらや道端に転がった甘夏みかんですが、誰も見向きません。
腐ることなくゴロゴロと転がっています。
 
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                     江ノ島道・片瀬の民家の庭先に茂った甘夏みかん。
 
私が子供の頃、昭和30年初頭でした。
我が家に大分から「甘夏みかん」が送られて来ました。
贈り主は叔父で、鉱山技師でした。
受取人は祖母でした。
甘夏みかんは津久見の川野果樹園で偶々発見された新種の夏みかんでした。
酸っぱいのが夏みかんですが、2月ごろから酸が抜けて、甘くなるのでした。
親思いの叔父が美味しいよ、と贈ってくれたのでした。
 
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   江ノ島道・片瀬の家並みの中に聳える甘夏みかん。棘が生えているし、木が大きいので剪定も大変だっ     た・・・、と想像します。でも、地主さんが大切にしているのでしょう。
   きっと地主サンの大切な思い出を宿しているのだと思います。
 
 
 
祖母は甘夏みかんの種を畑の隅に撒きました。
庭にも撒きました。
”美味しいから、大事に育てようね”とか、
”何れお前等がたらふく食べられるようになるから・・・・”
話してくれました。
畑にか桃、柿、甘夏みかんが育っていました。
 
甘夏みかんはもう半世紀も経ちました。
大樹になりました。
甘夏みかんの実が落果します。
で・・・・・、植えられたのがお寺の野菜畑ですから・・・・・、
実は参道をコロコロ転がって県道まで到達するものもあります。
自動車に轢かれてしまう憐れな甘夏みかんもあります。
 
祖母が育てた甘夏みかんは、津久見の甘夏みかん程には酸が抜けなかったのです。
家内は酸っぱいみかんが嫌いではないので、時折口にしてますが・・・・、
多くの場合”すだち”の代わりに使われています。
”おばあちゃん、甘夏みかんは甘くならなかったよ・・・・!”
報告せずばなりません。
あの時の甘夏みかんは実生ではなく、接木だったので・・・・・、
本来の酸っぱい夏みかんが出来てしまったのでしょう。
祖母は”私がした事が・・・”   言いながら頭を抱える事でしょう。
 
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                              草むらに落ちた甘夏みかん。誰も拾ってくれません。
 
江ノ島道の甘夏みかんも、私の祖母と良く似た経緯をもって育てられている事でしょう。
孫も、ひ孫もグレープフルーツが大好きです。
夏みかんも、甘夏みかんも・・・・、見向かれません。
津久見の果樹園も、甘夏みかんから、
デコポンやオレタチと言ったオレンジとの「掛け合わせ新種」にシフトしているようです。
 
季節は木枯らしから南風に変わりつつあります。
もうじき甘夏みかんの樹には蝶ちょが卵を産む事でしょう。
揚羽蝶の幼虫は柑橘の葉しか食べません。
鎌倉に青筋揚羽が多いのは甘夏みかんが多いからです。
それは、戦後昭和の頃に甘夏みかんが大歓迎された歴史があったからでした。
 
期待通り甘くなったらば、今頃が食べ頃になるのですが・・・・・、
食べられずに放って置かれたままです。
祖母の観音様が甘夏みかんを見下ろしています。
 
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    筆者の生家の甘夏みかん。右手の観音様(大川観音)は祖母が篤く観音様を信仰したので、その貯蓄で     建立したもの。筆者は昭和60年(1985)に京都太秦に頻繁に通い、像姿の決定・造像に立ち会いました。
    同年は御巣鷹山に日航機が墜落するし、阪神タイガースが優勝するし・・・・、銀行の大阪支店に勤務し、    公私にわたり激務でありました。ですから、大川観音は日航機犠牲者の慰霊にも通じるものであります。
 
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                                    遅れていた梅の花もようやくほころび始めました。
 
 
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湯島天神の蟇股(かえるまた)

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梅の花の名所と言えば「天神宮」です。
大宰府天満宮にも、北野天満宮にも見事な梅園があります。
華麗な権現造りの社殿を背景に、梅の花が見事です。
毎月25日には「天神さん」の市がたち、骨董品や古着・衣料品などの露店が並びます。
特に12月25日は「終い天神」、1月25日は「初天神」と呼ばれ、何処の天満宮は賑わいます。
 
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     湯島天神の社殿と白梅。泉鏡花の小説『婦系図』でも有名です。
     湯島通れば 想い出す お蔦主税の 心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師・・・・・、歌謡曲でも     お馴染みです。
 
江戸っ子にとって天神様と言えば、「湯島天神」です。
東大をはじめ大学が立地する文京区湯島の高台にあります。
梅の木の梢には先には神田の家並みが見渡せます。
受験シーズンにはポツリ、ポツリ咲き始めた梅の花に思いを託す受験生の姿が見られます。
 
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              ”梅の花ほころぶ”  吉報を待つ受験生の想いが枝垂れた梅の花に繋げられています。
 
大宰府天満宮も、北野天満宮も、湯島天満宮も、亀戸天満宮も・・・・・、
総じて天満宮は「権現造り」の社殿です。
権現造りは安土桃山時代から流行った豪華・華麗な建築様式です。
日光東照宮がこの様式で建てられたので「権現造り」と呼ばれるようになりました。
偶々、天神様(菅原道真)が篤く信仰され始め、
各地で新築造営されたので、時代の流行「権現造り」が採用されたのでしょう。
 
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              鎌倉柄柄天神社の絵馬。お願いは菅原道真公に、御礼は白馬の絵馬を奉納します。
 
菅原道真は遣唐使を廃止します。
それから200年、平清盛が日宋貿易を始めるまで日本は鎖国状態になります。
国風文化の盛期を迎えます。
江戸幕府が鎖国を始め、約300年弱の間に江戸文化を醸成したのと似た状況になります。
 
 
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   湯島天神の社殿正面の蟇股。股の間には梅に囲まれた牛が描かれています。
   梅は「飛び梅」、臥牛は天神様のお使いで、臥したのは「道真公の亡骸を大宰府に葬るように、臥したから」
   故事に拠るものでしょう。
 
中国から伝播した寺社建築でしたが・・・・・、平安時代に日本風に変化し、発展します。
それは、奈良の平城宮と京都の平安宮を見比べれば解ります。
建築の細部も平安時代に独特の変化をします。
その典型が「蟇股/かえるまた」です。
蟇(がま)と書いて”かえる”と読ませます。
やせ蛙の股では貧粗で弱々しいので、”蟇かえる”にしたのでしょう。
蟇が脚を広げてふんばった姿勢と似ています。
だから、蟇股です。
 
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        蟇股に朝顔。
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       蟇股に紫陽花。蟇股は額縁のような役割もしています。湯島天神社殿の側面。
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                                               蟇股にクレマチス。
 
 
屋根の重みを梁(はり)で受け止めます。
梁と梁の間を支える構造材に短い柱を置きました。
法隆寺(飛鳥時代)には間斗束(けんとずか)」と呼ばれます。
天平時代になると、装飾を重んじて板状に変化します。(板蟇股)
更に軒下を飾っていた複雑な斗栱が姿を消すと、蟇股の装飾性が重んじられるようになり、
我国独自の発展を遂げます。
 
大工は蟇股を腕の見せ所にします。
日光東照宮を仰ぎ見れば視線は先ず蟇股に注がれます。
華麗で力感のある股の姿に眼を注ぎ、更に股の間の装飾彫刻を見ます。
東照宮では股の間に「眠り猫」を置いて見せます。
それが「左甚五郎」と言う名で呼ばれる伝説の彫刻士になります。
 
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                                              蟇股に兎
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                        天満宮の神紋を奉げる唐子の彫刻
 
和風建築の発展のルーツは菅原道真の遣唐使廃止にありました。
それが、蟇股発展の与件になったのでした。
ですから、湯島天神の蟇股も工夫を凝らしています。
 
蟇股見て歩きます。
デザインの妙に感心します。
どれも、何らかの故事や思いや祈りが込められています。
つくづく、日本人は自然が好きで、平和な民族だな・・・、痛感します。
 
 
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蟇股に飛天女像(鎌倉白旗神社)
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                                           蟇股に白兎(豊川菟足/うたり神社)
 
【説明】 
様建築は我が国古来の建築様式ではありません。
飛鳥時代、奈良時代を通して我国に伝わった中国の建築技術をベースにして、
我国独自に、日本人の生活様式や風土に沿って発展したものでありました。
 
中国では椅子に座って、室内でも履物を脱きません。
日本は室内では座して、履物も脱きます。
日本では、天井は低くて済みます。床下には通風が大事になります。
そうした生活の中で、衣・食・住が発展したのでした。
そのきっかけになったのが菅原道真の実施した遣唐使の廃止でした。
日本人の感覚に沿って国風文化が自律に展開して行きました。
その一つを蟇股に見出す事が出来ます。
 
 
 
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尼寺の干支(英勝寺)

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昨日は湯島天神の蟇股(かえるまた) を紹介しました。
蟇股は中国大陸から伝わった建築技術が、日本の風土や生活習慣に順応して行く中で生まれ育ちました。
和様建築の”華”であります。
鎌倉でも随所で蟇股を見かけます。
特に印象に残る蟇股が扇ヶ谷の英勝寺にあります。
 
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    英勝寺仏殿(南面)、真っ直ぐ進んで仏殿の前に佇むと自然と蟇股に目が向きます。
    この週末には梅も開花していると思います。
 
英勝寺は現在では鎌倉唯一の尼寺です。(尼五山の筆頭東慶寺は僧寺になり、多くの尼寺は廃寺になりました)
家康の筆頭側室「お勝の方」の法名が英勝院であり、家康没後同院が此処で髪を下ろしたのでこの名があります。
徳川頼房(家康の11男、水戸徳川家創始者)や、徳川家光から庇護をうけました。
はじめ玉峰清因(徳川頼房の娘小良姫)を門主に迎えて開基したこともあって、
代々の水戸徳川藩の子女を門主に迎えました。
従って、「水戸御殿」とか「水戸の尼寺」ともいわれたと言います。
仏殿、祠堂、唐門、鐘楼など随所に葵の紋が見られます。
 
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                   5年間を要して修復なった山門。遠目で見ても古材を尊重して、新材で補強してい                   る事が解ります。苦心の作が・・・・、長い時間を要した事が解ります。
 
水戸のお姫様のお寺ですから、随所に女性らしさが窺がえます。
春の椿、梅に始まり、初夏の山吹(太田道灌の家紋)や白藤、秋の紅葉、彼岸花そして冬の竹林と、四季折々の表情が楽しめます。
伽藍の中心は阿弥陀三尊が祀られた「仏殿」です。
流石に禅宗様(浄土宗の寺ですが)の建物ですが、細部には女性好みの優しさ、たおやかさが見えます。
その一つが、蟇股彫刻なのです。
 
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 三間の柱の間、梁の上に蟇股があります。蟇股を額縁のようにして干支の彫刻が飾られています。
 この写真は東面ですから、右から虎、兎、龍です。(建物の南北線が少し西に振れていますので下表とずれて います。)
 
禅宗様の大きな屋根があって、柱が支えます。
柱の上部に梁(頭貫と言う)が通っていて、屋根の重みを均等に柱に伝えます。
梁は二本あります。(下段の梁を長押・なげしと呼びます)
二本あるから重たい屋根を支えても歪まないのです。
二本の梁の間に蟇股があります。
蟇股は構造材であるよりも、装飾の意味が多いのです。
 
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蟇股に鼠、葡萄を彫刻してあります。(北)
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蟇股に猪、植物は萩でしょうか?
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蟇股に鶏が刻まれています。花は菊でしょうか?
 
 
山門(昨年5年がかりの工事で修復されました)を潜ると、眼前に仏殿が聳えています。
参拝者の目線は、仏殿正面に注がれます。
三間の左右に花頭窓、真ん中には桟唐戸、欄間は弓の形をしています。
そして蟇股の装飾彫刻に目が留まります。
 
尼寺の蟇股ですから、細い、柳腰のような小股です。
その中に干支の彫刻が為されています。
南から入ったので、干支は馬、羊、猿です。
左に回れば西ですから、鳥、犬、猪になります。
北に回って鼠、牛、虎。東に回って兎、龍、蛇になります。
 
         【干支と守り神、方角の関係。この外に時刻があります。】 

12神将
干支
方角
12神将
干支
方角
毘羯羅(びから)大将像
珊底羅(さんていら)大将像
招杜羅(しょうとら)大将像
 
(あにら)大将像
 
真達羅(しんだら)大将像
 
安底羅(あんていら)大将像
 
摩虎羅(まこら)大将像
迷企羅(めきら)大将像
西
波夷羅(はいら)大将像
 
伐折羅(ばさら)大将像
 
因達羅(いんだら)大将像
 
宮毘羅(くびら)大将像
 
 
仏殿のご本尊は阿弥陀三尊で、寺伝では運慶作となっています。
桟唐戸は目線の高さで明けられる様に、便宜を講じてくれています。
暫く見詰めていると仏殿の暗闇に目が慣れてきます。
すると、阿弥陀三尊の立像が見えてきます。
先日常楽寺の阿弥陀三尊立像が定慶の作である事が判明しました。
(従来は室町時代の作と言われていました)
英勝寺でも、解体してみれば、作者が誰だか判明するとも期待されます。
印象としては常楽寺阿弥陀三尊に似ています。
 
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    仏殿の内陣。阿弥陀三尊は寺伝では運慶作となっています。
    この華麗な仏殿に座して門主様がお祈りしたのでした。
 
年齢も干支で表します。
方角も干支で表します。
時刻も干支で表します。
だから、仏殿の蟇股に干支をデザインしたのは、必然性があったのでした。
 
干支はお月様の満ち欠けを見ていて、思いつきました。
お月様を観察していると、12回満月が巡ると1年が経つと解りました。
そこで、1年を12ヶ月にしました。
1ヶ月の間は月の満ち欠けで(月齢)で細分しました。
そして、春夏秋冬、3回づつ満月が見られる・・・・、区分しました。
 
月齢は農作業にも、漁業にも、生理にも符合していました。
ですから、アジアモンスーン気候の地帯は、総じて太陰暦の文化が共通していました。
 
天井の鏡板には龍と天女が描かれています。
四方の壁板には鳳凰が飛んでいます。
華鬘(けまん、金属で出来た花)や天蓋も華麗です。
お姫様の門主様が阿弥陀様の前に座られて朝に晩にお勤めをした事でしょう。
 
尼さんが、お勤めを終えて本堂を出れば燦燦と光る陽の光です。
太陽の位置で時刻を知ります。
時刻は干支で表します。
そして、干支は自分自身の守護神をも示しています。
尼さんたちは本堂の蟇股の干支を見上げて、
暦や時刻を知り、更に様々な思いを託したのでしょう。

 
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  此方は修復した山門の蟇股。仏殿の蟇股に比べると背が高い(足が立っています。力があると表現します)
  彫刻も故事が多くなっています。図は鯉に乗った琴高仙人、おめでたい話です。木食い虫の開けた穴もある  し、・・・修復の困難さが窺がわれます。
 
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                仏殿蟇股、彫刻は波に龍。山門の龍に比べて背が低く、総じて繊細です。
 
 
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鎌倉古道の蕎麦屋「なむいち」の贅沢

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BS-TVで歴史街道を放送しています。
甲州街道編で、深大寺を映していました。
門前の蕎麦屋「嶋田家」では、蕎麦に精進揚げを添えていました。
近くの山野で採取した「タンポポ」「蕗の薹」などを揚げて・・・・・、
旅人は旬を食べて、また旅立ちました。
 
私も、蕎麦と旬を戴きたくなりました。
そこで、泉川沿いに在る「なむいち」に出かけました。
前回家内と訪れてから、もう数年経っています。
横浜の蕎麦屋というと、必ず紹介される名店です。
 
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    横浜の下飯田の田園風景。この辺りは境川、泉川の合流地点で湧き水も多い。その為「泉区」の名があり    ます。山裾の道が鎌倉古道で、道筋左(町田寄り)に蕎麦屋の「なむいち」があります。「なむいち」は地下    鉄下「飯田駅」、相鉄線「ゆめが丘」駅からそれぞれ13分、15分と不便な場所です。
 
もう、相当昔のこと、店主角守俊則氏はJR戸塚駅近く、柏尾川の脇で居酒屋を営んでいたそうです。
ところが、柏尾川の堰堤工事で立ち退きを求められました。
そこで、田園に戻って蕎麦屋を始めたそうです。
田畑は以前料理店で出す野菜を作っていた所でした。
店の周りを蕎麦畑、、野菜畑にしました。
お客は、五感を満足させる贅沢です。
田園風景を目で楽しみ、丘陵を渡る風を頬で感じて、その土地で出来た蕎麦や野菜を舌や咽喉で味わう・・・、
そんな贅沢なら・・・・、駅から遠くてもお客さんは来てくれるだろう・・・、
そんな確信で、田園に戻ったのでしょう。
イメージはNHKドラマ「おひさま」で陽子が営んだ御蕎麦屋「百白花」のようなお店です。
 
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     畑の中の立派な家の庭続きに「なむいち」があります。
     周囲の野菜畑が店主の自家菜園です。此処で蕎麦も作っています。勿論自家蕎麦畑では不足します      ので、各地から仕入れています。手前の五輪塔には「南無阿弥陀仏」刻まれています。
     私は「なむいち」の「なむ」は「南無」だと思っていました。
 
昔の人は春の七草を食べて・・・・、旬を体に取込んで・・・・、冬の間に病んだ体に精をつけました。
今年は遅い春でしたが、もう七草は里に茂っています。
私は七草の中でも「仏の座」を天麩羅で食べてみたい・・・・、かねて思っています。
紫蘇や大葉の天麩羅が少し苦味があって、美味しいのですから、仏の座も美味しい筈だ・・・、
期待しているのですが。
勿論、タンポポも食べたいのですが・・・、未だ天麩羅で食べた事はあありません。
「なむいち」なら、山野草を天麩羅にしてくれるかもしれません。
 
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     仏の座ももう美味しそうに茂っています。紫蘇のような味がするのではないか・・・、期待です。
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      たんぽぽの煮しめは食べた事がありますが、天麩羅は食べた事がありません。
 
「なむいち」は平日40食、50食程度しか用意しません。
売り切れると、暖簾を下げてしまいます。
「何故か・・・・?」訊ねると、蕎麦打ちは大変な重労働なのだそうです。
 
殻の付いた蕎麦の実を脱穀して、石臼で粉に挽きます。
そして、つなぎは用いず、蕎麦粉10%をねって、蕎麦に打つそうです。
だから、用意した蕎麦が売切れ次第、翌日の蕎麦打ちに精を出すのだそうです。
 
店の中には脱穀機があります。
懐かしい形で、蕎麦の脱穀機は米と同じ形でも少し小型のようです。
石臼は沢山あります。
趣味で集めたようです。
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「なむいち」のエントランス。石臼が並んでいます。右側が母屋です。
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                                                  昔懐かしい、脱穀仕分機
 
盛り蕎麦が900円、精進の天麩羅が300円です。
このほか、デザートや小鉢ものが100円で並んでいます。
蕎麦の他は居酒屋時代のメニューであり、お値段であるようです。
お客さんは8割方女性です。
ランチセットも無いので、盛り蕎麦に様々な添え物をオーダーしています。
親爺一人で恥ずかしいような気がします。(家内と一緒でないと・・・)
 
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                        盛り蕎麦は900円ですが、小鉢やデザートは100円均一です。
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   これが筆者の注文。精進揚げは300円。盛り蕎麦が900円(税別)。お味は横浜で一番水準です。
 
美味しかったか・・・・、説明は不要でしょう。
満足しました。
店名の由来を聞いてみました。
”「坊の上 なむいち」の名前は住所表示のままです・・・・、”
此処は泉区下飯田671番地です。
でも、戸塚区から泉区が分区してからの表示です。
戦前は「字坊の上」と呼んだのでした。
”坊”とは古刹の東泉寺のこと、200mほど下(鎌倉より)にあります。
671番地を”なむいち”と呼んだまでとのこと。
店主は居酒屋の駄洒落親爺のようです。
 
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                                 東泉寺。山門前右200mに「なむいち」があります。
 
蕎麦に満足しましたが・・・、山野草は食べられませんでした。
私が採取して、家内に天麩羅にしてもらう事にしましょう。
「なむいち」の近くには双体道祖神や馬頭観音が祀られています。
お参りしながら・・・・、帰路に付く事にしました。
道端では彼岸花の球根を植えているご老人が居られます。
みんな、田園が好きなんだな・・・・、思います。
鎌倉古道上道(西道)は楽しみが尽きません。
 
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                藪椿下の双体道祖神、安政5年
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                              馬頭観音(文政10年奉納)
  【追記】 「なむいち」の案内
   月・火定休。11時半~2時半。売切れ次第閉店、横浜市泉区下飯田761、電話045-801-2942
   市営地下鉄 下飯田徒歩13分、相鉄いずみ野線「ゆめが丘」徒歩15分。鎌倉古道、東泉寺が目標。
 
 
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横浜の山葵田の苦労話

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境川は武蔵の国と相模の国の境を流れる川です。
北側が横浜市泉区、南側が藤沢市になります。
川の北側から「多摩台地」、南側が相模台地になります。
二つの台地の狭間に川が流れ、広い河岸段丘が出来ています。
河岸段丘には清水が湧き出しています。
ですから、横浜市泉区の名が付きました。
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    境川の河岸段丘の上が多摩台地になります。台地に降った雨が段丘の中腹に湧き出します。
    正面に「森泉公園」があります。
 
昨日紹介した蕎麦屋の「なむいち」も湧き水を活かしたものですし、
数多くの製糸工場が立地していたのも、湧き水を利用したものです。
段丘に作られている「森泉公園」はそんな自然と文化を伝える公園です。
建物は清水製糸場の社屋でした。
まるで、村の文教場のような木造二階建てです。
今はつるし雛飾りを展示しています。
泉区はつるし雛つくりや、邦楽など文化活動が活発なのです。
 
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             森泉公園の主屋、製糸工場を移転して使っています。吊るし雛を飾っています。今日の話              題「山葵田」はこの建物の裏、山裾にあります。
 
泉には蛍が生息しています。
蛍の研究所もあります。
湧き水を活かして、山葵を栽培しています。
湧き水は清く、夏冷たく、冬暖かいのです。
ですから、山葵の栽培が可能です。
森泉公園の山裾に小さいながらも山葵田があります。
 
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    山葵田の全景、右半分と左と山葵の出来が違うのは日当たりの所為です。
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                         山葵の生育を妨げているのは右側の白樫です。
 
山葵田にボランタリーの叔父さんが何やら作業をしています。
何をしているのか、聞いてみました。
「今、やっているのは山葵田の畦を修復しているのですよ」
見れば、田の畦を作っている石積みが壊されています。
これを積み直しているのです。
不思議そうな私の顔を見て、叔父さんは補足説明をします。
「山葵田の中に清水蟹が生息しているんです。蟹を食べようと洗い熊が畦を壊すのです。私が昼に石を積んで、夜、洗い熊が石を壊すんです・・・」
私は地蔵和讃を思い起こします。
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              手前の枯れた花は「つわぶき」 向うは山葵。石が散っているのは洗い熊の仕業
 
山葵の葉っぱは冬も見事な緑です。
大きな葉っぱに木漏れ日が当たります。
清水が絶え間なく流れています。
私は尋ねます。
「この山葵、食べた事はありますか?」
叔父さんは答えます。
「残念だが、未だ口にしたことはありません。もっと大きく育てたい・・・・、思っているのですから。
田の水深が浅いので、根が太くなりません。砂地を深くして、水深を保てば山葵が太くなるのですが・・・。
この辺りの山葵の生育が良く、大半が痩せているのは日当たりが悪いからなのです。
もう少し、落葉樹を多くする必要があるんですが・・・・」
言いながら、山葵田の上を指差します。
そう、山葵田の上は白樫の大樹が覆っています。
この木を伐採すれば日当たりが良くなります。
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          山葵はからし菜の仲間です。白い菜の花のようなもので、4月ごろ花が咲きます。
 
「でも、白樫が段丘を守っているので、伐採すれば土が流されてしまうし、樫の実は野生動物の餌にもなっているし・・・・・、それに樫の下闇で蛍が飛ぶ姿が最も綺麗なんですよ。普通は適当に飛ぶのですが、此処だけは上下に飛ぶんですよ。まるで雨垂れの様に・・・・。だから伐採出来ないで居ます。」
 
なるほど、最小の手を加えて生態系を守るのは難しいものだ・・・、思います。
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      菌打ちされて3年目のホダ木、もう盛んに椎茸が坊主頭を出してました。
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ブルーシートの下が菌打ちされた椎茸のホダ木、手前のクヌギの丸太がこれから菌打ちするもの。
 
別の場所ではクヌギの丸太に椎茸の菌打ちをしています。
椎茸のホダ木を作って販売し、ボランタリーの活動資金にしているのです。(800円/1本)
私は舞岡公園の椎茸を思い起こして・・・・・、少し意地悪な質問をして見ます。
「椎茸を栽培して・・・、放射能は心配ないんですか?」
すると、
「放射能は総てのホダ木について測定していますから。データは総て保存して、質問に答えられるようにしています。基準値を遥かに下回っていて、原発事故前に近い水準です・・・・。」
”15万円余りする測定器を購入してあるんだ・・・・”感心します。
私達の町内会では区役所に行って、貸し出しを受けているんですが・・・・・、
「森泉公園は進んでいる!」
私は言いました。
「私達の町内でも椎茸の菌打ちをしていました。倉田小学校には60本のホダ木をプレゼント、去年から収穫が始まっています。でも、放射能騒ぎで・・・、迷惑になっていれば撤収しようかと思っているんですが。私のような世代はもう用済みだから・・・・」
 
すると、教えてくれました。
放射能は高齢者ほど負担が大きいんですよ。
古い細胞が死んで、新しい細胞に入れ替わります。
新陳代謝は新しい細胞が生まれるか否かにあります。
高齢者は新しい細胞が出来にくいんです。
其処に放射能汚染されると・・・・・、深刻なことになりやすいのです。
 
そうか・・・、感心しながら山葵田を後にしました。
 
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      竹林の端にはフキノトウが芽吹いていました。
 
 
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庭先雀の文化誌

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窓を閉めたら、家の中に雀が入って居ました。
しばし、様子を見ました。
窓辺に止って、恨めしげにガラス戸から庭先を見詰めていたのですが、
私を怖がってなつく気配は全くありません。
ガラス戸を開けたら、一目散に飛んで逃げて行きました。
 
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                               我が家の居間に迷い込んだ雀の子
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                                         鳩の餌箱をあさる雀。
 
我が家には数家族の雀が棲んでいます。
鳩や鶉の餌を頂戴していますから、餌も豊富であるし、安全だと思っているのでしょう。
人家には天敵である猛禽類や獣が近づきません。
私は巣箱を用意していますが、雀も四十雀も全く見向いてくれません。
雀は「自分の棲家は自分で探す、命がかかってるんだから・・・」
言いたげで、軒下(樋の中)に巣作りしているようです。
 
実は、人間と雀の関係は、多分稲作を始めた時に始まると思われるのです。
 
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     柏尾川の中洲にススキが茂っています。其処が雀の棲家があるように、何時も賑やかです。
 
絵本に雀の話がありました。
さくらんぼの大好きな王様が、熟したさくらんぼを食べる雀を見て怒ります。
”予の大好きなさくらんぼを盗むとはけしからん鳥だ、討ち取れ・・・・”
見る見る雀の数が減りました。
王様はさくらんぼをひとり占めして、食べられるようになりました。
 
ところが、翌年さくらんぼは実りませんでした。
毛虫が大量に発生して、さくらんぼの葉っぱを食べ尽くしてしまったからです。
何で毛虫が発生したのか?
それは、毛虫を食べてくれていた雀を、王様が殺してしまったからでした。
王様は深く反省しました。
 
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         葦原の雀、葦の実を食べ尽くしたので、茎を齧って、潜んでいる虫を探しているのです。
 
 
人間の生活に益する鳥を「益鳥」と呼びます。
鼠やモグラを食べる梟、毛虫を食べるツバメなどは常時益鳥と言えるでしょう。
合鴨農法のカルガモも役に立つ鳥です。
逆に人間の生活の邪魔をする鳥を害鳥と言います。
ゴミを荒らすカラス、養殖魚を食べる鷺、ベランダに糞をする鳩、集団で啼くムクドリ・・・、
有害と指摘される鳥は沢山居ます。
 
 
 
  雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
 
一茶の句です。
雀が最も可愛らしいのは、幼鳥が親鳥に食べ物をせがむ姿です。
我が家でも、良く見かけます。
冬を除けば一年中子育てをしているようです。
年間、少なく見ても2回は卵を産んでいます。
毛虫が増えた季節に合わせて子育てをしています。
観察していると、幼鳥は栄養価の高い毛虫しか食べないようです。
最近は雀の数が減って、8千万羽と言われています。
昭和30年代はその十倍、8億羽は居たと言われているようです。
 
当時は、田圃に落穂が散っていたから・・・・、
雀は毛虫が食べられない冬場、田圃に出て残った米を拾っていたのでしたが・・・・、
コンバインが普及したので落穂が出なくなってしまった・・・・・、
だから、冬場の餌に事欠いて・・・、雀が減ってしまった・・・、と言うのが通説のようです。
お米に比べれば、腹の足しにはならないでしょうが・・・・、ススキの種なんかを食べて、冬越しをしています。
ススキも葦も米科の植物です。
 
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                    大きな毛虫を親鳥に食べさせてもらう幼鳥、一番可愛らしい光景です。
 
舌切り雀の雀は、お婆さんの糊を食べて、舌を切られてしまいました。
お婆さんにとっては害鳥だったのでしょう。
でも、殺さなかったのですから・・・、まだお婆さんには仏心があったのでした。
心優しいお爺さんは雀のお宿を訪ねて、宝物を戴きます。
お爺さんにとっては心の通う益鳥なのでした。
一方、欲張りお婆さんは・・・・、
つづら箱を開けると妖怪や邪悪な者が飛び出してきます。
外国風に言えば”パンドラの箱”でした。
 
現代人から見れば、お爺さんには生活観が無い”お人好し”でしょう。
間違いなく1億2千万人はお婆さん化しています。
人間のあり方次第で雀は益にもなるし害にもなる。
でも、益の側面を見詰める事が・・・・・、福をもたらしてくれるのは間違いないようです。
平成50年には日本人は雀と同じ8千万人に減ってしまうそうです。
 
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                                      竹薮の雀。伊達家・上杉家等の家紋になります。
 
舌切り雀は御伽草子(鎌倉時代)に取られています。
腰折れ雀(説話)や童謡(雀のお宿、雀の学校)落語(抜け雀)等等、日本人に最も親しまれた鳥でしょう。
竹も雀も”福”をもたらしてくれます。
ですから、”竹に雀”は最も縁起の良い、座りの良いデザインです。
 
雀は良く竹薮にいます。
ですから、どれもこれも「雀のお宿」は竹薮の中です。
多分竹薮が雀にとって最も安全な場所なのでしょう。
天敵の青大将も竹が滑って上れないし、猛禽類は笹に邪魔されて、竹薮に降下出来ないのです。
でも、竹取物語(日本最古の物語)を筆頭に日本の文化誌は竹に根ざしています。
かぐや姫がお大尽や帝の求愛も拒否して月に帰ったように・・・・・、
金や名誉や権力に媚びずに生きるのが日本人の美徳でした。
心の澄んだお爺さんが誉められて、強欲のお婆さんが懲められてきたのでした。
でも、現代人は”欲張りお婆さん化”しているように思えます。
 
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                                陽だまりを楽しむ雀の家族
 
 
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小田原郷土愛の「梅園」

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今年の梅の花の咲くのは例年より半月以上遅い。
昨年は遊行寺境内、満開の紅梅の下で、節分会の豆撒きを見ました。
2月も末になって、ようやく咲き出しました。
曽我梅林は未だ開花し始めたばかりですが、梅祭りは終了してしまいました。
名物の流鏑馬も、風流な野点も花が無い中で終わったのでした。
きっと、恨めし気に梅の木の梢を見上げた事でしょう。
 
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   曽我梅林の梅も三分咲きの状態で、梅祭りを終了しました。左上部の線路沿いが流鏑馬会場です。
   右手前に二宮尊徳の墓(遺髪)があります。
 
 
身近な観梅の名所は先ず小田原城公園です。
所謂梅園こそありませんが、石垣やお堀の水を背景に咲いています。
この城内に200本、梅を植えたのはが小峰三代次氏でした。
「小田原は昔から梅の産地であったが、白梅(実梅)ばかりで華やかさが足りない。全国から華やかな梅を集めて、皆に見てもらおう・・・。」
として、昭和42年、小田原市に寄贈したのでした。
小田原城には二宮尊徳を祭った「報徳神社」がありますが、尊徳以来の考え方だったのでしょう。
素晴らしい郷土愛であり、社会観だと思います。
 
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                   小田原城、天守閣下の梅、紅白の梅が”連理の花”状態でした。
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                   外堀に咲いた紅梅。堀の向うに有名な藤棚が続いています。
                   春から暫くの間小田原城は次々に花の主役が交代します。
 
昔は花見と言えば梅の花でした。
江戸時代に入っても暫くは花見と言えば「梅」でした。
ですから、徳川光圀は偕楽園を梅の花で埋めて見せました。
好文亭の好文木(こうぶんぼく)とは梅の木の事です。
尾形光琳は紅梅白梅図屏風を描いて見せました。
享保の改革で徳川吉宗は上野、飛鳥山、御殿山に花見を整備しました。
桜の木を植樹し、花見と言えば桜になりました。
 
小田原城の梅は今週末に満開になる事でしょう。
小峰三代次氏が小田原市に寄贈したもう一つの梅の名所「小田原フラワーガーデン」に向かいました。
細い街道が箱根外輪山の山裾に縫うように走っています。
この辺りは縄文遺跡が点在しています。
また、生活道路の左右には双体道祖神が祀られています。
また、由緒のあるお寺が散在しています。
私達夫婦にとってはユートピアのような場所です。
 
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                                     小田原諏訪の原の双体道祖神。
 
 
大きな温室「トロピカルドーム」がランドマークです。
園内に渓流が流れて、池があって、その周囲に200種、480本の梅ノ木が植えられています。
今日は日曜日、偶々ガーデンの延長サンの説明がありました。
私は金魚の糞のように、園長の後を追って説明を聞きます。
 
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      小田原フラワーガーデンには渓流沿いに梅園があります。今週末に満開になると予想されます。
 
梅には「野梅/やばい系」と「緋梅系」と「豊後系」の三種があります。
野梅は白梅、緋梅は紅色が殆んどです。
樹皮からして赤い色素で染まっています。
豊後系は梅と杏の交雑種です。
杏の性格が混じっていますから、花は大輪で桃色が多いのです。
「3系9性」に分けられます。
この梅園には総て植えられています。
見比べてください・・・。
私達夫婦はにわかに梅の知識が増えました。
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    野梅(上)と緋梅(下)、花で見分けるのではなく、樹皮で見分けます。
    緋梅でも白い花弁で蕊が赤い種があります。
 
園長が質問します。
「今年は梅が遅いのですが、何故だか解りますか?」
全員が答えます。
「それは、今年が寒いからです。」
「間違いではありませんが、正確にはこういうことです。
梅も冬眠します。冬眠から開けると俄に活発になり、花を咲かせます。
この冬は冬眠を開始するのが遅れたのが原因なのです。
7度以下の温度が100時間経験すると梅は冬眠します。
ところが12月に入る頃暖かかった。暖冬と言われました。
だから、冬眠が遅れたので・・・、開花も遅れたのです。」
 
「序に説明すると、桜の開花条件は違います。15度以上の外気温の日が続くと・・・・・、開花します。」
私は、今年の花見スケジュールを作るにあたって、梅の開花が遅れた分ずらせれば良い・・・、思っていました。
でも、それでは間違いのようです。
言われてみれば、小田原城公園の寒緋桜はもう咲き出していました。
今年は北国のように、梅と桜が同時に花見出来るのかも知れません。
 
でも、梅の花は「花告木」とも言います。
桜より、桃より先に春を告げてくれなければ・・・・、主役は張れません。
それにしても、梅の花を郷土に寄贈した小峰三代次氏を尊敬します。
”死して郷土に花を残す”
そんな人は稀になってしまったようです。
 
私はせめて、小田原の梅干や梅菓子を買う事にしましょう。
小田原は和菓子の名産が多くあります。
外郎(ういろう)や笹梅もありますし、
餡子を梅干を漬けた紫蘇の葉で巻いた「しそ巻梅干し」や甘露梅もあります。
小峰三代次氏の商品は何だったのか・・・、ネットで調べたので解りませんでした。
 
 
イメージ 5
                                           小田原フラワーガーデンの梅の花
 
 
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