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富士山爆発の克服を学ぶ

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政府の原子力事故調査委員会の報告が為されています。
原子力安全委員会の班 目委員長のが無視され(同氏にも責任大であったが)、
菅首相が独断専行し、現場が、官僚が、バラバラに動いて、
「まるで初めてゲームするサッカーチームのようであった」報告されました。
原子力発電には、テロも、津波も、地震も避けて通る・・・、考えていた事実は唖然とさせました。
 
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      今日の写真は小田原の報徳二宮神社です。ご神体は二宮尊徳です。小田原城内に祭られています。
 
宝永4年(1707)10月4日、太平洋沖を震源地として大地震が発生しました。(M8.4)
死者2万人、流失家屋2万戸、壊れた家屋11万戸と言われています。
その50日後の11月23日、富士山の南山麓6合目で大爆発し、12月8日まで続きました。
(新井白石/折炊柴の記)。宝永山が出来上がります。
噴煙は西南の季節風で運ばれ、江戸の町も火山灰に覆われます。
 
その後100年間、酒匂川をはじめ南関東の河川は水害に見舞われます。
と言うのは、河川に火山灰が流れ込み、底が上がってしまいました。
天井川に水害がつき物になります。
水害対策、飢饉に小田原藩の財政は破綻します。
この窮時に出現したのが、二宮尊徳でした。
尊徳の業績は別の機会にする事にして、先に進みましょう。
   
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                                          社殿前の梅は満開になりました。
 
二宮尊徳を発掘したのは明治維新政府でした。
とりわけ、小田原板橋に別邸を有した山県有朋は熱を込めて話しました。
維新国家建設の「期待される人間像」だったのでした。
また、内村鑑三(キリスト教、代表的日本人)、幸田露伴(小説、二宮尊徳翁)も執筆します。
広い層から支持され、1904年以降は修身の教材に扱われます。
とりわけ、露伴の小説の挿絵に使われた「薪を背負って本を読む姿」が二宮金次郎の姿として、
国民の間に定着しました。
 
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                            この梅には沢山のメジロが集まって、それは賑やかでした。
 
こうした中、明治27年(1894)4月、報徳社(二宮尊徳翁の教えを慕う社団)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。
それが、報徳二宮神社でありました。
 
1910年、京都の彫金師岡崎雪聲(おかざき せっせい)は二宮尊徳像を発表します。
私達の目に馴染んだ「薪を背負った金次郎」でした。
昭和3年、昭和天皇の即位式に際して、中村直吉氏はブロンズの金次郎像を1000体製作し、
全国の尋常小学校などに寄贈します。
当時尺貫法に慣れ親しんだ日本人に国際基準のメートル法に親しんでもらう事を目的に、
背の丈を1メートルにしました。
 
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ところが、太平洋戦争も末期に、1000体の尊徳像は溶かされて、大砲等にされてしまいます。
お寺の鐘も、金次郎像も・・・・、何でも兵器に変えようとしたのでした。
現代人から見れば、狂気の沙汰で、戦争に勝てるはずありません。
早期に敗戦を認めて、国民の命を守るべきでした。
 
そんな狂気の時代でも、報徳二宮神社の金次郎像だけが残されました。
きっと、小田原市民の反対があったのでしょう。
 
 
修身の教科書に採用されたので、戦争世代は金次郎像に反感があるのかも知れません。
しかし、意外な事にGHQは金次郎像の撤去は求めませんでした。
昭和天皇の戦争責任を追求しないのと同じように、金次郎像は戦後日本の復旧に欠かせない、
精神的シンボルと考えたのでしょう。
 
期待通りに、日本人は慎ましく生活し、社会の復興に努めました。
お陰で、GDPは世界のNO2まで急成長しました。
 
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                                   報徳神社は学問の神様であるようです。
                         
宝永大地震、富士山の爆発後、復旧に100年を要したように、
今回の東海原発事故や大震災の復旧には相当の年月を要す事でしょう。
でも、天災の復興には人々の心を集中させれば自ずとシナリオが出来上がり、時間を要しないようです。
一方、人災については、復興のシナリヲが書けないので・・・・・、難しいようです。
 
事故調査委員会の報告を聞く度に、暗然とした思いに沈みます。
日本には人材が居ない。
薪を背負った金次郎のような姿をリーダーにして、人々はその背を見て歩めば良い・・・、
 
臨調の土光さんが居た頃に比べればGDPは1.4倍に増えました。(1981年、増税なき財政再建)
でも、歳入は減る一方です。
国債の発行残高ばかりが加算されてきました。
このままでは、国が滅んでしまうかもしれない。
後世の世代から糾弾されたくない・・・・、
誰しも覚悟は出来ています、それを「一体改革」ネーミングはどうでも良いのです。
国民が心を一にできる改革案が望まれます。
消費税を増やすだけなら・・・・、税率が毎年のようにアップして、平民(古い言葉ですが)だけが疲弊します。
 
人災は心の貧弱が引き起こします。
人災の克服こそ難しいのです。
 
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                                 曽我梅林の中にある金次郎像(二宮尊徳の墓)
 
 
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雪中で観る牡丹(鶴岡八幡宮)

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久しぶりの大雪です。
でも、展示予報は午後から雨に変わる予測です。
雪景色の鎌倉を見るために、朝早くから降りしきる雪の中を出かけることにしました。
で・・・、何処に行こうか?
最初に思い浮かんだのは、寒牡丹鑑賞でした。
お正月に八幡宮の牡丹苑に行ったのでしたが、雪を被った姿を見てみたい・・・・、かねて思っていました。
 
寒牡丹は花期が長いのです。
正月から3月一杯咲いている筈です。
牡丹は花の王様です。
雪が積もればその美しさ、強さが引き立って見えるのです。
 
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       鶴岡八幡宮牡丹苑の景色。藁で作った雪囲い、傘で守られています。
       花守の人が雪を払って回っていました。
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         雪が降りしきる源氏池。鴨が浮いています。手前が牡丹苑です。
 
八幡宮の牡丹苑は源氏池の南淵にあります。
池の鴨も今朝は静かにしています。
水面に浮かんでいるのもあれば、島に上がっているものもあります。
何れも静止したままです。
冬鳥ですから、雪はお手の物なのでしょうが・・・・・・、眠って雪をしのいでいるようです。
 
雪が降ると辺りは静寂です。
苑内には未だ人影もありません。
ただ、花守の人が牡丹囲いの蓑や傘に積もった雪を払っています。
雪囲いが雪の重みで倒れて、牡丹の木を折らないように・・・、予防措置でしょう。
肝心の花は?
放ったままです。寒牡丹は雪には強いんだ、いずれ自力で雪を撥ね退ける・・・、
考えているようです。
 
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                  藁で囲われた牡丹。 牡丹苑の背中は源氏池です。
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       寒牡丹の周りにあるのが春牡丹です。春牡丹は自生しています。
 
 
牡丹苑の寒牡丹は大根島で育てられています。
大根島は松江城に臨む中海の中に浮かぶ小島です。
西には宍道湖にも接しています。
奈良時代には献上された朝鮮人参が良く育ったので・・・・、
”大根のように大きな人参だ”と言う意味で大根島の名前を頂戴したのでしょう。
人参が芍薬になり、昭和30年代芍薬の茎に牡丹を接木する技術を開発しました。
以来、今では寒牡丹が島の産業になりました。
 
島では正月に咲くように寒牡丹を世話します。
そうして、咲いた牡丹を鎌倉の八幡宮を飾るのです。
ですから、元々寒冷地で、雪の中でも耐えて育った牡丹です。
雪が積もれば牡丹は「私の美しさが際立って見えるの・・・・!」
得意気です。
雪が総てを覆い隠してしまいます。
葉の緑、花の艶やかさ、豪華さを引き立てて呉れます。
これから、昼にかけて沢山の花好き達が見物に来て、誉めてくれるでしょう。
牡丹も、”見て、見て、私、綺麗でしょう”
主張しているようです。
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寒牡丹の横には春牡丹の赤い芽が噴いています。
お正月には見られませんでした。
寒牡丹はよそ者でしょう。
”花が散ったらまた大根島にお帰り・・・・、次は私の番ですから・・・・”
呟いている様に見えます。
美人同氏は仲が悪い、妍を競う関係でしょうから・・・・。
 
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雪の鶴岡八幡宮

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2月29日、久し振りの大雪です。
八幡宮はすっぽり雪化粧します。
咲き始めた白梅も、どうだん躑躅の赤い芽も、雪帽子をかぶっています。
私は、八幡宮の神苑をグルッと一回りしました。
 
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   手前太鼓橋から眺めた鶴岡八幡宮。私が子供の頃は此処に上れました。
   晴れ着のカップルが太鼓橋の上で記念写真を撮っていました。
 
鎌倉の人は、八幡宮に強い思いを抱いています。
京都の人がお内裏さんにかける思い、それに似たものでしょう。
いや、鎌倉は町が狭い分京都以上に強い愛着があるように思います。
京都の街が朱雀大路を中心に条理を組んでいるように、八幡宮からまっすぐ若宮大路を作り、街を造りました。
 
源頼朝は鎌倉の街の造営に際して、「公家人の内裏(天皇)にかける思い」のように、
武士の心の真ん中に重いものを置きたいと考えました。
”武士の精神的なシンボルは・・・・・・?”
考えた時、前九年の役で出征した源頼義が祈願した岩清水八幡宮を思い起こしました。
 
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      石段は滑ると大変、通行止めになっていました。
 
頼義は鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)岩清水八幡宮を勧請し、
土地の名前を取って「鶴岡八幡宮」と呼んでいました。
また、逗子には亀ヶ岡八幡宮を造営しました。
 
保元の乱に際して八幡太郎義家(源義家)は鶴岡八幡宮を修復しました。
源頼朝は、武家の、とりわけ源氏の崇敬を集めていた岩清水八幡宮を改めて勧請し、
上宮、下宮の2宮体制にします。(材木座の八幡様は元八幡と呼びます)
八幡宮と同時に神宮寺を創建し、境内を整備、鎌倉の町に条里制を敷き、幕府を作りました。
 
 
征衣大将軍に任じられたのも八幡宮、
源氏が三代で終焉を迎えるのも鶴岡八幡宮、
総てが八幡様を舞台にして時代は変遷して行きます。
歴史の喜びも、悲しみも、それらを総て包んで、慰めるように雪が降り積もります。
 
今年も、八幡様で遊ばせて戴く事になるでしょう。
 
 
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   源頼朝、実朝父子を祭神にした白旗神社。
 
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          雌竹が頭を垂れています。笹竜胆が眩しかったです。
 
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      参拝客は舞殿を回って、八幡宮の社殿を見上げます。
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                                   大銀杏の二代目も雪を被りました。
 
 
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                                     旗上弁天社の社殿
 
 
 
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雪の命日(小林秀雄墓参り)

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2月の15日頃、東慶寺に上りました。
そろそろ、同期生から同窓会を開くよう期待が高まりました。
私は永年の幹事役、そこで、先ず最初は”早春の鎌倉で”開こう・・・・、
と言う事になり、その下見に出かけた次第でした。
早咲きの紅梅も未だ固い蕾でした。
 
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                                          写真は2月29日、雪の東慶寺
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     パネルが水月観音像。東慶寺の水月堂のご本尊。
     満月の夜、水鏡に映る己が姿を見ている・・・、と言われます。
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                             雪を被った紅梅、向かいの柴垣はお茶室
 
松ヶ丘宝蔵館では「仏像展」を開催中でした。
もう、40年以上前の事でした。
大学の日本文化研究会の部室に集まった仲間が言い出しました。
”東慶寺の水月観音を拝観しに出かけようじゃないか!”
この尼寺に相応しい美しい観音さまです。
でも、当時の私は好きにはなれなかったので・・・・・、同行しませんでした。
 
久し振りに拝観しよう・・・・、パスポートを見せて宝物館に入りました。
 
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       小林秀雄氏のお墓には江戸彼岸桜が奉げられていました。正面に阿弥陀様が彫られています。
 
更に、なにげなくお墓参りをしました。
小林秀雄氏のお墓には、江戸彼岸桜が奉げられていました。
小林氏は桜がお好きだったのかな・・・・、想像しました。
墓参者が花屋で買い求めたもの・・・、未だ桜の蕾は固い様子です。
お墓に活けて、ちゃんと花が咲くのだろうか?
少し心配です。
 
墓標の五輪塔は小林氏が晩年に墓所を東慶寺に決めて、墓標を求めたものでした。
白洲正子氏を頼って、京都の骨董品店を探し回りました。
五輪の下から二台目、丸い部分の正面に阿弥陀様が刻まれています。
この部分は小林氏が彫らせたものではないか?
私は想像しました。(この段は次記しました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45529107.html)
 
昭和58年3月1日、20世紀日本の知性と言われた小林氏は旅立たれ、かねて用意された墓所に眠られました。
行年80歳で居られました。
 
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                                小林氏墓所に通じる井戸の横に佇む墓標の石仏。
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         このお地蔵サンの前を左折して、真っ直ぐ先、谷川の畔が小林氏の墓所です。
         小林氏は石仏が墓案内してくれる・・・・、思った事でしょう。
 
2月29日の雪の朝・・・・・、私はあの彼岸桜がどうなったか?
気になったので、小林氏のお墓の前に向かいました。
 
墓所入り口にある小さなお地蔵様の前を左折して、真っ直ぐ行けば、細い水路の脇にお墓があります。
きっと、江戸彼岸の蕾は寒さに凍えて散ってしまっただろう・・・・、私の想像でした。
ところが、蕾は総て大きく開いて、シャーベットになった雪の重みを受けています。
逞しく、美しく・・・・・・、桜ってこんなに根性の座った花だったのか?
感服しました。
 
春風が吹けば散るのが早くても、北風には負けることは無い・・・・・、そんな花なのでした。
そんな所が小林氏がお好きで、その事をご遺族も良くご存知で・・・・、桜を活けられたのでしょう。
 
 
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                                      2月29日、雪にも負けないで咲いた彼岸桜
 
 
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                        3月2日の小林氏の墓所。もう一束彼岸桜が活けられました。
 
一昔前までは墓前の花といえば、白い菊でした。
別名が電照菊、電灯で照らして長日処理して冬でも咲かせる菊の花でした。
最近は違います。
故人が喜んでくれそうな花・・・、季節を教えてくれる花が選ばれるようです。
そして、板卒塔婆も使われなくなりました。
極楽に往生した故人に卒塔婆は必要あるまい・・・・、考えたのか、
それとも、薄気味悪い卒塔婆を敬遠しているのかも・・・、
エコ意識の高揚もあるのでしょう。
 
小林氏の命日に奉げられた彼岸桜には心打たれるものがありました。
20世紀の知性は、ご遺族にも知性を痛感します。
 
 
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雛祭りの「市松人形」

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観梅の序に南足柄まで足を伸ばし、開成町の瀬戸屋敷に行きました。
瀬戸家は当地の庄屋さんのお家柄、現在も醸造業に、建築に事業は発展しておいでです。
その、ご本家のお屋敷を地域に提供し、様々な催事が行われます。
有名なのは「紫陽花まつり」「蛍祭り」、そして「雛祭り」でしょう。
開成町の農道は紫陽花が植樹され、酒匂川に注ぐ清流は蛍が飛びます。
地域の人の愛情が美しい自然と文物を育んで来ています。
「雛祭り」は瀬戸家のお雛様を飾って、
同時に地域の婦人会が作品の展示や、甘酒やおでんのサービスをしています。
一年中の催事の中で、お雛祭りだけは入場料300円を必要にしています。
一方で、駐車場は無料です。
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     開成町の瀬戸屋敷。雛祭り会場でした。
 
何代にもわたる庄屋サンのお雛様です。
何組もの7段飾りを一緒に展示しました。
壮大です。
保存の状態も良くて、全く崩れや汚れはありません。
大切にされてきたのが良くわかります。
私の直感では大正時代か、精々明治の中頃の作が多いようです。イメージ 2
                                             瀬戸屋敷の奥座敷のお雛様
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                                                       瀬戸屋敷の玄関
 
7段飾りの足元に、三人の市松人形が置かれていました。
私達の目はお人形に釘付けです。
上品で、まるで、作られたばかりのように綺麗です。
 
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                                               瀬戸屋敷の市松人形
 
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                                              瀬戸屋敷の市松人形
 
市松人形は江戸時代に始まった「着せ替え人形」でした。
名前は歌舞伎俳優の佐野川市松に似ていたから、とも、子供の名前に「市松」が多かったから・・・・・、
言われています。
子供なら、7段飾りのお雛様を見て・・・・・”わあ!綺麗”・・・・、触ってみたくなります。
其処を、我慢して市松人形を抱いて、着せ替え遊びをして・・・・・、楽しんだ事でしょう。
 
ところで、私が普段から思っている事を一寸、話させていただきます。
鎌倉の鶴岡八幡宮、江ノ島神社には弁天様が祀られています。
どちらも、重要文化財で、木像です。
お肌は白い胡粉(蛤を粉に挽いたもの。人肌に似る)を塗って、すこし艶めいて見えます。
そして、着物を着ているのです。(現在、江ノ島弁才天は着せていませんが)
着せ替え人形に似て、着せ替え弁天様です。
 
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        鶴岡八幡宮の弁天様(重文・鎌倉国宝館)常時はこのように着物を着せてありますが、
            腰には裳を着せてあります。一方江ノ島の弁才天は素っ裸で琵琶を抱いています。
 
 
鎌倉時代、仏像の世界でもルネッサンス運動が起こります。
日本のミケランジェロは・・・・、さながら運慶でした。
理想的な人体の、知性の美しさを仏像に再現しようとします。
木を削って、仏像の衣装を、神将像の甲冑を表現しました。
 
奈良の市井では地蔵信仰が盛り上がりました。
中核は奈良町(市場)にあった元興寺でした。
近くの伝香寺などでは裸のお地蔵様が彫られました。
お地蔵様のあそこの部分には菊の花が描かれました。
そして、法衣を着せました。
 
元々、仏像とはお釈迦様で、人間の姿です。
究極的に似せたい・・・、考えれば衣文の彫刻や彩色に苦心するより・・・、
着せ替えの方が合理的だったのでしょう。
こうした試みがあって、江戸時代着せ替えの「市松人形」が始まったのでしょう。
着せ替え人形の伝統はリカちゃん人形になります。
 
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              吊るし雛は開成町の婦人会の人の手作りと思います。
              俵鼠は多産で子孫繁栄を祈願して・・・・、一つ一つが福を呼んでくれます。
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    こちらのポックリは元気に歩いて欲しい・・・、祈願して作ったのでしょうか?
 

       

                                        
昭和2年(1927)日米間の政治的緊張が高まっていました。
文化的にその緊張を和らげようと、米国宣教師ギューリックの提唱によって、
日本の子供に13千の「青い目の人形」が贈られました。
お人形は全国の小学校に配られました。
 
これに対し、御礼として渋沢栄一らは58体の市松人形を贈りました。(58は米国の州の数でしょう)
お人形による戦争を避けたい・・・民間外交の願いは叶えられませんでした。
でも、お人形は大切に保存され、歴史の証人になっています。
 
横浜の山下公園前にはマリンタワーがあります。
タワーの下に「人形の家」があります。
沢山のお人形の中に「青い目の人形」「市松人形」が揃って展示されています。
”子供達のにも、平和を実現して欲しい”
思いは人間がこの世に現れてから・・・・、ずっと引き続いてきた願いでありましょう。
お雛祭りは”平和で健康に・・・・”
祈願するお祭りでもありましょう。
 
30年も前までは雛祭り展は日田市など限られた町でしか行われていませんでした。
町の名は「小京都」と呼ばれていました。
最近では、各地で行われ、町おこしに役立っています。
お雛様が一年に一度飾られるのはいい事です。
我が家も長女のお雛様が座敷に飾られています。
亡くなった祖母が浅草の道具屋の娘だったので・・・・、
伊勢丹で気張って求めました。
娘の家は狭いので、嫁に行っても持って行きませんでした。
主も見てくれないお雛様ですが・・・、奥座敷ですましておいでです。
今日も娘は顔を出さないでしょう。
明日には、家内がお片づけしてしまいます。
 
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   雛祭りは開成町の婦人会の尽力で盛行です。子供のお祭りと言うより、ご婦人のお祭りのようです。
   それ程、おばさんたちは生き生きとお祭りをしておいででした。
 
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                                瀬戸屋敷の縁側に平和な時間が過ぎて行きます。
 
 
 
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雪を溶かす石仏の温み(円覚寺百観音)

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久し振りの大雪の日、私は円覚寺に上りました。
もう、八幡宮から東慶寺を回って、暫く雪中を歩いています。
靴の中にまで水が浸みてきて、感覚も麻痺してきました。
朝、長靴を探したのでしたが・・・・、何処にしまったのか、見つけられませんでした。
足元だけに注意を集中しておくわけには行きません。
良い気持ちで、傘をさして歩いていると、空から雪が落ちてきます。
山門や仏殿の屋根に降った雪が、まとまって落下してきます。
爆弾のような雪に当たったら・・・・、大変です。
建物の庇の下が最も危険なのです。
 
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     ボーッとして円覚寺を上ると、屋根の上から雷のように雪が落ちてきます。
     山門の下で庇の先を確認してから、境内を進みます。
 
私は、方丈前庭に辿り着きました。
此処には、紅梅があって、その下に小さな石仏が並んでいます。
”百観音”案内されていますから・・・、きっと百体の観音様なのでしょう。
雪に埋もれた石仏は、普段は見られない表情をしている・・・・、筈なのです。
 
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   座禅場の前、白梅も雪が被ってしまいました。
   堂内にはお地蔵様が座禅を指導するかのように立っています。
 
写真(下)の観音様は良く見かける如意輪観音さまです。
”衆生は度し難し、どうして救って差し上げようか・・・・!”
憂いをこめた表情で考え抜いて・・・・・、ヒョット傍らを見ました。
そうしたら、頭上に咲いた緋梅に気づきました。
いつの間にか・・・・、春が来ていたのか?
観音様は呟きました・・・。
そんな表情の観音様です。
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                                咲き始めた緋梅の樹下の如意輪観音様
 
冬の禅の修行は大変です。
寒さ対策が必要です。
温石(おんじゃく)という対策がありました。
石を温めて綿などで包んだ、懐炉の原型のような道具でした。
石は温まりやすく、熱を長く保つので防寒の効果があるのでした。
加えて、胃腸等の治療効果も期待されます。
温石が懐石料理に発展したとも言われます。
 
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                                           円覚寺方丈庭園前の百観音石仏。
 
次々に百観音の頭上に、膝の上に雪が降り積もります。
でも、温石効果があって、雪は溶けてしまいます。
雪が溶けて、石の肌を濡らしてゆきます。
濡れた石仏はまた表情が変わります。
石仏の温もりが出てくるのです。
 
私の大好きな歌を紹介します。
原文は書家の作品で平仮名ばかりですが、解り難いので漢字を入れておきます。
 奈良坂の 石の仏のおとがいに 小雨流るる 春は来にけり   (会津八一)
 
場所は奈良から京都に向う歴史街道です。
坂を下れば木津川、北に折れれば柳生、南に向かえば難波です。
古代から中世、中世から近世、時代の境目には必ず戦場になりました。
その度ごとに大仏殿が焼け落ちました。
奈良坂では沢山の命が散りました。
その慰霊に、石仏が佇んでいます。
その石仏に春の雨がふって、涙が頬を濡らして、更におとがい(あご)を濡らして行きます。
八一氏は薫り高く歌いました。
奈良のお水取りに次ぐ歳時記です。
 
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春雨ならずも、春の雪はいっそうに”春が来た・・・・・”、感慨を深くしてくれます。
此処に集まった石仏たちは話しているようです。
”もうじき、3月11日が巡ってきますね。この一年ほど惨めだった事は無かったですよね。
でも、今年も緋梅が咲いて、季節の変わり目の雪が積もって・・・・、
自然は少しも変わらないのです。
人々も私達の温もりに気づいて、自然の優しさに改めて目を向けていただいて・・・・、
元気を取り戻して呉れると・・・・、良いんですが。”
 
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    ご存知舎利殿。このお堂は茅葺ですから、雪は降り積もったままです。
    山門も仏殿も今は銅板で葺かれていますが本来は茅葺だったと思われます。
    勿論、茅葺が最も美しいのですが、素材不足ですから致し方ありません。
 
 
 
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バーになった銀行ロビー

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京都と鎌倉、何れも”古都”ですが、町を見ていると似ている事があります。
それは、お寺が多い事と、古い建物と、新しい建物が混在している事とです。
とりわけ、町屋が多く残されています。
先日、TVで東山魁夷画伯が描かれた「京洛四季」の「年暮れる」が放送されていました。
二条城近くのホテル(多分京都国際ホテル)の一室から見下ろした景色でした。
窓の外には、町屋の家並みが見渡せます。
小さなお寺の甍が見えます。
その手前に・・・・・、整然と町屋の屋根が連なっています。
夜の静寂の中、除夜の鐘が響きます。
今晩は未だ誰もが起きています。
町屋にはぼんやり明かりが灯っています。
折から、ボタンの花弁のような雪が降ってきました。
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      東山魁夷画伯、「年暮れる」は京都の町屋の美しさを切り取っています。
      「人と自然」「人と寺」などの関係を教えてくれます。
 
町の家並みが美しいのは、伝統を大切にしているからでしょう。
古い建物を大切にする事は、新しく建設する時に少し”革新”をいたします。
常に”伝統と革新”を繰り返して、古都の魅力が連綿として続いて来ました。
 
由比ヶ浜通りは若宮大路の下馬から長谷観音前まで続く大通りです。
古い町屋が見られます。
その多くが昭和一桁に建てられています。
そして、今も使われています。
それらは、別の機会に説明する事にして・・・・、私が何時も気になっている建物を案内します。
 
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    今日の話題は明治30年に建築された鎌倉銀行の社屋。
    2階建ての上部に社章「か」の字が描かれています。
 
建っている場所は、御成通りと由比ヶ浜通りの交差点近くです。
その五差路にある2階建ての細いビルです。
一見すると木造モルタル作りかと思って壁を叩くと、コンクリート作りのようです。
 
見上げると、BANKの文字が見えます。
その上部に由比ヶ浜出張所と書かれて、肝心の店の名前は取り外されています。
BANKの名前があったのでしょうが、閉店に際して取り外したままなのでしょう。
 
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    鎌倉銀行の正面、THE BANKの文字の上部に由比ヶ浜出張所と書かれています。
    その上に、多分鎌倉銀行と書かれていて、横浜銀行に合併された時に消されたのでしょう。
    二階の上部に「か」の字があります。鎌倉銀行の社章だったのでしょう。
 
この建物は銀行だったのでした。
でも、とうの昔に廃業になって、今はBANKの看板で「バー」を営業しているのです。
横浜の馬車道か本牧辺りにありそうなお店構いです。
でも、鎌倉の住宅街を背にした表通りにあるとなると・・・、お客さんが集まるのだろうか?
少し気になります。
そこで、ネットで調べてみました。
すると、大変評判が良いようです。
カクテルが人気で、8割方お客は女性で、毎晩が女子会状態だそうです。
と言う事は・・・・、
のこのこ私が出かければ御成小学校の同窓生に会えるのかも知れません。
(昨今の「食べログ」は信用できないようですが)
 
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     バー「BANK]として活用されています。
     アンチークな雰囲気が好まれてTVのロケにも利用されています。(最後から二番目の恋/中井貴一・ふ     じTV画面)
 
建物の上部にBANKのマークが浮き彫りされています。
平仮名の「か」の字に見えます。
可の字を変体仮名で書けば、「の」字に傘を載せます。
鎌倉銀行の社章で、同銀行の店だったのです。
 
 
 
銀行データベースによると、明治30年㈱鎌倉銀行が創業、由比ヶ浜出張所を設営します。
鎌倉の地域発展を促す勧業銀行でした。
鎌倉銀行は、昭和5年には㈱町田銀行、㈱相模実業銀行を合併し、存続銀行になります。
昭和11年には㈱瀬谷銀行を合併します。(戸塚に在った銀行)
しかし、昭和16年(株)横浜興信銀行に合併されてしまいます。
更に、同銀行は昭和31年、横浜銀行に合併されます。
横浜銀行は鎌倉駅の西口にもありますから・・・・・、此処由比ヶ浜出張所は閉鎖されたのでしょう。
鎌倉の地域に勧業を目的で創業した銀行は100年余りの間に様々な変遷をして、結局は最大手の地銀に吸収されてしまいました。
でも、こうして建物が残っている事は鎌倉銀行の生き証人であり、尊いものです。
 
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   懐かしい顔をした「蕎麦屋の峰本」。ここで、親爺の蕎麦を戴いてみたいものです。
 
BANKを300mほど西に行くと、蕎麦屋の峰本があります。
看板に峰本の字と電話番号が書かれています。
電話番号が大書されているのは、出前注文を受けていたのでしょう。
もう、相当前から閉店したままです。
看板も歴年そのままですから、ペンキが剥げてしまっていて、よく読めません。
このお店が鎌倉市内、横浜にも出店している「峰本」とどういう関係か・・・、わかりません。
この店が創業の店で、湘南の各地に出店を重ねて、本家本元が見捨てられているのかもしれませんし、
同じ峰本でも、経営者は違うのかもしれません。
 
経済が地域から地方に、地方から国に、次第に広域化します。
広域化、グローバル化は必然です。
しかしもう一方で、地域の文化、歴史、愛着など・・・・・、ローカルなものが最も大切な”味”であります。
味付けが無ければ・・・・・、グローバル化の中で生き残る事が出来ません。
グローバル化の中で地域は地域の文化を大切にしなければ生き残れません。
ローカルゼーションが大事だ、言われる根拠です。
「伝統と革新」「グローバル化とローカリズム」、文化を考えるキーワードだと思います。
京都にも鎌倉にも、この二つは健全に育まれていると思います。
 
何時の日かバーBANKの片隅で、小学校の同窓生とカクテルを傾けたいと思います。
きっと私は、半世紀前昔にも増して意気軒昂な女子に圧倒されてしまう事でしょう。
 
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   此方は峰本から更に100m程西にある鎌倉彫の寸松堂の社屋(昭和11年)。
   御成小学校と同じ西井喜一氏設計施行の城郭、寺社、民家の折衷建築です。伝統と革新を教えてくれま    す。
 
 
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三渓園の臥龍梅と弱法師

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原三渓は本牧に私邸(三渓園)に梅林を整備します。
明治39年(1906)早春、梅の香る日に沢山の客人を招いてお披露目します。
客人の中には、芥川龍之介や下村寒山の姿もあったことでしょう。
以来、戦時下中断した事もありましたが、三渓園では毎年観梅の催しが行われてきました。
三渓園が横浜市に寄贈されてからも、観梅会が行われてきています。
もう100年を越す観梅の催しです。
 
 
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       三渓園の梅園は大池の東、三重塔の下に広がっています。
       今年の観梅会は3月4日に終了しました。未だ3部咲きといった所です。
 
 
梅林は大池の東に、渓流に沿って広がっています。
緋梅、野梅など様々な梅が植えられていて、楽しませてくれます。
大凡200本もあるでしょうか?
その中でも、最も見事なのは「臥龍梅」と呼ばれる野梅です。
梅の幹がまるで寝そべって、鎌首を持ち上げた龍のような姿をしています。
勿論、熟練をした梅匠が精魂込めて、臥龍に仕立てたものです。
三重塔のある高台の真下ですから・・・・、まるで八岐大蛇(やたのおろち/出雲神話)が、
酒を飲んで、立ち上がろうとしているようです。
観梅の客人は”流石に三渓サン、素晴らしい臥龍梅ですね”
誉めちぎったと思われます。
 
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 三渓園の梅園、右端煙が立っているのが「初音茶屋」、観梅会期間中は此処で熱い麦茶が用意されます。
 今日の話題臥龍梅は正面竹林の下です。昨年竹林が伐採されたので、少し梅の花数が増えた気配です。
 手前の渓流が三渓園の名前の謂れです。蛍が飛び交います。
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                                             臥龍梅の全景、右端が初音茶屋。  
 
 
まだ、駆け出しであった下村寒山も臥龍梅の見事さに酔いしれた一人でした。
寒山は原三渓宅に居留していましたから・・・・、直ぐにその感動を絵筆にたくします。
 
臥龍梅を幅広な屏風に描きました。
そして、咲き誇る臥龍梅の中にポツンと、合掌する法師を右端に描きました。
法師は頬骨が出て、痩せ細っています。
良く見れば盲目です。
芳しい香りの中に身をおいて、心の目には満開の臥龍梅を見ているのでしょう。
馥郁とした梅の香りに、梅林の全景を見て、思わず感謝で合掌してしまいました。
 
下村寒山は絵の名を「弱法師」と名づけました。
 
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          下村寒山作「弱法師」、梅は三渓園の臥龍梅でした。東京国立博物館HPから転載。
 
弱法師は鎌倉時代の説話でした。
難波の古刹四天王寺の霊験譚でした。
加えて室町時代、世阿弥が謡曲に仕立ててなので、有名になりました。
 
難波の長者通俊には聡明な倅「俊徳丸」がいました。
しかしは、継母の讒言により俊徳丸は追放されてしまいます。
俊徳丸は放浪し、病になり盲目になってしまいます。
仕方なく、俊徳丸は乞食坊主となり各地の寺寺を渡って生きながらえていました。
彼岸の中日に難波の四天王寺にやってきました。
四天王寺の西門からは真西に沈む太陽が見られます。
四天王寺の夕日を拝めば、極楽浄土に往生できると信じられていたのでした。
彼岸の中日は難波中の信者が夕日を拝もうと集まって来て、賑わっていました。
 
父の通俊は俊徳丸を追い出した事を悔いていました。
そこで、四天王寺に出かけて貧者に施しをすることで罪滅ぼしをしていました。
彼岸の中日、群衆の中に倅の俊徳丸がいることに気づきます。
 
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    初音茶屋、初音とは鶯のこと。背後の竹林は鶯が好んで生息します。
    でも、今年は未だ鶯は啼かず、梅も咲きだしたばかりでした。
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    初音茶屋の囲炉裏には大きな鉄瓶がかけられて、熱い麦茶が配られていました。
    3月4日(日曜)はお茶会が開けれ和服のご婦人が紙コップの麦茶で掌を温めていられました。「お抹茶も     いいけど、囲炉裏の麦茶が一番ね!」顔に書いてあるようでした。
    三渓園には月影の茶屋・雁ヶ音茶屋などが並んでいます。
    梅の香りよりもお蕎麦の鰹の出汁の匂いが勝っていました。茶屋を食べ歩くのも楽しみです。
 
俊徳丸は夕日を拝むと祈りが叶ったのか、見えない目でも見えるようになっていました。
 気分が高揚して、俊徳丸は四天王寺の境内を歩き回ります。
そして、雄大な伽藍を見て回ります。
しかし今日は正月のように賑わっています。
行き交う人にぶつかってよろけてしまいました。
 
途端に現実に引き戻されてしまいます。
 目が見えたと思ったのは、ただの錯覚だったのでした。
 そんな俊徳丸を見て周囲の人々は嘲笑います。
日が暮れると夕方の賑わいは潮を引いたように、四天王寺は静寂に包まれました。
一人佇む俊徳丸に父は寄り添います。
 話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じて逃げようとします。
 通俊はそれに追い付き、彼を家へと連れて帰るのでした。
 
世阿弥は俊徳丸を「弱法師」と呼んで、謡曲の題にしました。
作品は下村寒山の代表作になり、国の重要文化財に指定されました。
 
原三渓臥龍梅を育て、観梅と言うサロンを開きました。
偶々下村寒山が居て重文の名画を描きましたが、
盛大にお茶会が開かれ、サロンは今も健在であります。
 
 
 
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                                                   大池の畔の緋梅
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                 月華殿(重文)前の白梅、障子が明るいのは中で大茶会が開かれているからです。
 
 
 
 
 
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春菜摘みの季節です

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2月末の大雪以来、雨が多くなりました。
三寒四温、一雨ごとに春めいて・・・・、
そんな言葉が実に良く似合っています。
 
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               今日の話題は「春菜摘み」です。もう舞岡の里山は春菜が噴いています。
 
我が家の椎茸も丸い頭が出たと思ったら、傘が広がり始めました。
野原の土筆(つくし)も・・・・、蕗の薹(ふきのとう)も出始めたに違いない・・・・、
期待して出かけました。
期待通り、あっちこっちに顔を出しています。
きっと、雨が芽吹きを促したのでしょう。
 
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                      雨が椎茸も、筍も、土筆も・・・・・・、眠りから呼び覚ましてくれます。
 
”草冠に路”と書いて”ふき”と読むのはきっと日本人の当て字でしょう。
里道の土手、草むらの中に顔を出すのが”蕗”です。
 
同様に”土から出た筆”と書いて”つくし”と読ませるのも日本人の創作でしょう。
荒地からニョキニョキと頭をもたげて来ています。
頭が筆先のような形をしています。
”春が来た”・・・・、喜びがこの当て字に表れているようです。
 
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                                      蕗の薹があっちこっちに芽吹いてきました。
 
昨日は家内が足柄の弓道場に出稽古して帰りました。
道場主がお土産に蕗の薹を用意してくれたそうです。
お陰で・・・・・、今春初めて、春の香りが精進揚げになって食卓を彩りました。
私の胃袋に納まりました。
強い野の香り、苦味を残して・・・・。
この苦味が冬の間に私の体に精を呼び戻してくれた事でしょう。
 
若菜摘み、春菜摘み、と呼ばれます。
古来、春菜を摘んで食べるのは不老長寿、健康の神事でした。
 
 
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                   我が家の玄関を飾った蕗の薹
 
私はお婆ちゃん子でした。
春菜摘みの楽しさを教えて貰いました。
土筆も、蕗の薹も、蕨も、野蒜(のびる)も・・・・・、野に出て摘んで帰りました。
父は野蒜の味噌和えが好きで・・・、酒の肴に最高だ!
誉められました。
どれもこれも、子供の口には合いませんでしたが、父母や祖母の笑顔が見られる分、嬉しかったものです。
今では、私も春菜の美味しさが解る歳になりました。
 
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祖母は春菜を使った遊びも教えてくれました。
土筆は大きな頭があります。これが胞子体で、枯れ際に胞子を飛ばす、生殖器です。
それを支える白い茎がスッキリ伸びています。
茎には三から四段の節があって袴が囲っています。
引っ張ると袴の部分で節が切れます。
これを接いで・・・・・・、何処で接いだか? 当てさせるのです。
当った、外れた、勝った、負けた、他愛のない遊びでしたが・・・、
春の喜びに満ち溢れていました。
 
私の住む戸塚の倉田には、土筆も、蕗の薹も、野蒜も多く自生しています。
でも、春菜摘みの楽しさを知る人も居なくなっている事でしょう。
一人で春菜を摘んでも、少しも楽しくありません。
愛する人と一緒に摘めなくては・・・・・、楽しくありません。
 
    春山の咲きのををりに春菜摘む 妹が白紐見らくしよしも
                                    (万葉集・巻八・春雑歌・一四二一)
 
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我が家の土手の野蒜。字の通り”和製の大蒜(にんにく)”です。
 
 
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      地蔵と土筆はどこかで似ています。
      頭が坊主である事でしょうか?どちらも”土”から生まれているからでしょうか?
 
 
 
 
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創業15年、京急百貨店の成功を『大東北展』に見る

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プリンターのインクを買いに上大岡のヨドバシカメラまで出かけました。
買うたびに思います。
何故、インクはこんなに高いんだ!
万年筆のインクに比べれば、一桁間違っているのではないか?
思います。
価格カルテルがあるんじゃないかな? 疑ってしまいます。
誰かに風穴を開けて欲しい・・・、ものです。
 
私が住んでいるのは戸塚、インクを買いに遠い上大岡まで出かけるのは、ヨドバシのポイントが少し残っているからです。
ポイント制はお客の囲い込みの為でしょうが、私のような消費者は大幅な値引きの方が嬉しいのですが・・・・・。
私は、このような商行為は生活文化の向上の見地から見て・・・”間違っている” と思っています。
 
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ヨドバシカメラは上大岡駅ビルの8、9階です。
その下は全部京浜百貨店です。
平成8年の秋、私はこの百貨店の開店記念会場に居ました。
京浜急行は関東の私鉄8社の中では最も多角化が遅れていました。
よく言えば頑固に本業の顧客輸送業に特化していましたから。
しかし、立地の良さを生かそうと品川パシフィックホテルを、釜利谷等に宅地開発事業を推進し、
最後に上大岡駅ビルに百貨店をオープンさせたのでした。
 
当時危惧しました。
もう陳腐化した百貨店という業態を、いまさら進出して大丈夫なのか?
でも、バックが京急だから・・・・・、融資を問題視する人は居ませんでした。
 
開店のコンセプトは「地域生活文化の貢献、地域の文化交流の拠点・・・・」
などなど・・・、特段目新しいものはありませんでした。
東急百貨店も、東武百貨店も改めて聞けば同じようなコンセプトでしょう。
”沿線住人の地域文化の発展に貢献したいのです・・・・”
 
 
当時、既に百貨店は守勢に回っていました。
三越の赤字化が報道され、八王子のそごうも、吉祥寺の伊勢丹も相次いで撤退しました。
どちらの駅ビルもキーテナントの撤退によって、地域のイメージを損い、地域文化が後退してしまいました。
私を含めて他行の融資係も・・・、京急百貨店も撤退を余儀なくされるかもしれない・・・・、
少なからず心配していたと思います。
 
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                       京急百貨店催事場「大東北展」会場風景。仙台銘菓「萩の月」
 
京浜急行駅から、人並みが京急百貨店に流れて行きます。
エレベータ前には沢山の人が待っています。
TVの報道クルーも居ます。
京急百貨店は頑張っているんだ・・・・!
私の心配は杞憂である、確信しました。
 
私はヨドバシカメラからワンフロアー下って、京急百貨店7階の催事場に向かいました。
今日から1週間『大東北展』(3月8日~13日)が行われるのです。
東日本大震災復興キャンペーンの一環なのでしょう。
東北の美味いもの、東北の民具・雑貨などが並んで・・・、
数店では行列ができています。
行列の最後尾には百貨店の職員が”此処が列の最後尾です”プラカードを立てています。
 
販売ブースの中では、職人が夢中になって商品(弁当や和菓子)を作っていますが、お客の数には及びません。
 
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    福島県/元祖 輪箱飯(わっぱめし)田季野(たきの・実演販売)。
    店員の笑顔が素敵でした。家に戻ったらこの人が店主の馬場 由紀子氏のようでした。

並べてみると・・・、東北には美味いものが多く、素晴らしい民芸品が揃っているのです。
共通するのは、素材の良さを活かして・・・・・、頑固な手造り・・・で。
 
私の目は岩手の高倉工芸のコーナーに釘付けされてしまいました。
自家栽培した箒草を乾燥させて、丁寧に座敷箒を作っています。
私の生家にもあった、本堂の畳を掃いた箒です。
母は大事に扱っていました。
使い終わればカバーをして、しゅみ壇の裏に吊るしていました。
高いんだろうな・・・・?
思ってみれば21千円でした。
電気掃除機が買えそうな値段です。
でも、プリンター・インクのように”高い”とは思いません。
職人サンの手先が、21千円でも買得だよ・・・、囁いています。
 
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            岩手「高倉工芸」の座敷箒の実演販売コーナー。”生活文化”を実感しました。
 
山形県丸口の戸田寒風さんの実演販売に叔母さんが惹き付けられていました。
私のような素人にもバッグの良さが解ります。
家内がかねてアケビ蔓のバッグが欲しい、言っていました。
このバッグは吾妻山に自生する山ぶどうを素材にしています。
アケビに比べれば山葡萄は数段とも希少な素材です。
使い込むほどに素朴な光沢と高級感が感じられる事でしょう。
正札は8万円です。
おばさんは長く、迷っておいででしたが、買い求められました。
笑顔です。
”良いお品を求められましたね!”叔母さんに声をかけると、
日本橋の高島屋では倍のお値段ですから・・・、良い機会でした。
満足気で居られました。
 
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                      山形県丸口の山葡萄の蔓を使ったバックの実演販売。右が求めたご婦人
 
私は秋田大館の「まげわっぱ」の実演販売にの前でも止ります。
有名な職人なのでしょう。
TVで報道されたビデオが液晶画面で映されています。
天然の秋田杉を薄く剥いで、熱湯につけて柔らかくして曲げ加工をします。
最後に山桜の皮で とめて完成です。
生き物のように、手早く、次々に曲輪箱(まげわっぱ)が出来上がって行きます。
佐竹藩武士の副業でした。
 
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   秋田大館の曲輪箱作りの実演販売。背中はお隣、”帆布 トートバッグ”のコーナーです。
 
 
 
最後に青森の”こぎん刺”が目に止りました。
刺し子は寒風吹きすさぶこの地方で、麻布の強化と暖房効果アップを目的に始まりました。
農家の娘は麻の着物しか求められませんでした。
麻布は目が粗いので風通しが良いのですが、冬場には寒くて耐え難いものがありました。
そこで、麻布に木綿糸で刺し子をして、防寒効果と布自体の強化を果たしました。
乙女にはお洒落心があります。
少しでも綺麗な刺し子にしたい・・・、デザインの工夫が為されます。
少女たちは前掛けや着物のポイントに綺麗な刺し子を加えて、お洒落を競いました。
 
でも、現代は着物を着る機会は無くなりました。
伝統となった刺し子のデザインです。
デザインを復活させ、巾着やトートバックに活かしました。
伝統デザインは現代の感覚にも斬新なデザインとして評価されるようになりました。
美しいデザインは北欧の刺繍にも似て、グローバルデザインになりました。
 
大東北展、その成功は疑う余地ありません。
これこそ、京急百貨店の創業コンセプト”生活文化の発信”でありましょう。
創業15年、地道な活動が全国視野で見ればローカルな上大岡で、
震災1周年を機会に『大東北展』を開催する・・・、白羽の矢が当ったのでしょう。
 
期間中、もう一度出かけてジックリ手作業を目に焼き付けておきたいものです。
 
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   刺し子は布目を拾うのですから、幾何学模様になります。その美しさを再認識させる…、巾着。8925円
   (京急百貨店のHPから転載)
 
 
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冬野菜が高騰している訳を畑に探る

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私の実父(住職を兼業)の趣味は野菜つくりでした。
狭い畑でしたが、数種類の野菜を栽培していました。
境内に散った落ち葉を堆肥にして、畑に施していましたから、完全な有機栽培でした。
今頃の季節は、ホウレン草に白菜、大根と収穫して、毎日のように我が家に持って来てくれました。
霜が降って、耐えた野菜は甘く柔らかいものでした。
私も冬野菜は好きでしたから・・・・、セッセ・セッセと食べました。
毎日大量に持ち込まれるので・・・・、「自分は青虫になってしまう・・・・!」悲鳴を上げる程でした。
 
今年は冬野菜が高値です。
一般にニュース解説では「寒いから・・・冬野菜が不出来で・・・、」片付けられています。
これが間違いでありましょう。
冬野菜は寒いほど美味しくなります。
暖冬であれば・・・・・、美味しくなりません。何故なら・・・・・、
冬が寒ければ寒いほど冬野菜はミネラルを多量に含み、糖度を増し、美味しく栄養価が増すのです。
水耕栽培など促成栽培の野菜は寒いと成長が鈍くなりますが・・・・・、それらは本来の冬野菜ではありません。
ミネラルが少ない以上に、硝酸濃度が高くなり腎臓などに負荷を生じ、有害になります。
 
そこで、野菜畑がどうなっているのか?
観察に出かけました。
場所は倉田から舞岡の農地です。
写真は葱畑です。
葱の種類は長ネギで、湯豆腐やすき焼きに使う、最も普通の白葱です。
逆光で見れば、浅葱色が新鮮です。
白い肌も柔らかそうで・・・、実に美味そうです。
でも、少し成長が鈍いようです。
多分、12月から1月にかけて雨が全く降らなかったので・・・・、生育の妨げをしたのでしょう。
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        舞岡の長ネギ畑。外側が枯れているのは防寒の為です。
        こんな葱のほうがミネラルを多く含んで糖度が高いのです。
 
白菜畑に出かけてみました。
白菜は収穫された気配が残っていますが・・・・、大半の白菜は収穫されないで畑に放置されています。
放置された白菜の芯は多分腐り始めている事でしょう。
商品にならないから・・・・、畑に放置してしまって・・・・、春野菜の種まき時期まで捨てて置く積もりなのでしょう。
所々、新しい白菜が芽吹いています。
葉っぱが腐っても根が生きていたのでしょう。
根は新しい芽を吹き出させたのでしょう。
 
白菜は木枯らしが吹き出すと、自衛の為に丸まります。
外側の葉っぱで体を守って・・・・・、春の準備を始めます。
菜の花を咲かせる用意です。
丸くなろうとする12月から1月にかけて、葉っぱが育ちませんでした。
何故なら雨が降らなかった為です。
少雨が美味しい霜降り白菜が出来なかった原因です。
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    収穫されなかった白菜、もう芯には塔が立って(茎が伸びて)菜の花を咲かせる準備が進んでいます。
 
隣は大根畑です。
大根も同じです。
収穫してみよう・・・・、ぬいてみました。
そしてカットしてみました。
すると、大根の髄がスカスカなのでした。
水不足と、春を迎える準備で・・・・・、瑞々しい大根になる時期を逸してしまったのでしょう。
スカスカ大根も、畑で腐るのを待つだけのようです。
このままでは4月には大根の花が一面に咲く事でしょう。
 
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   見捨てられたスカスカな大根畑。これもこの冬に全く雨が降らなかったのが原因です。
 
 
冬野菜は冬なりに雪や雨が降らないと生育できないのです。
人間の血液にそが心臓で循環して営まれますが、野菜は根が水を吸って葉で蒸発させる事で、営まれます。
野菜では血液に相当するのが水です。
充分な水が補給されないと、生育出来ません。
2月29日、大雪が降ったのですが、流石に遅すぎました。
 
惨憺たる冬野菜の畑を見ると、心が荒びます。
美しい田園を見たい・・・、と思って三浦台地に出かけてみました。
三浦台地は元々水が不足する場所です。
溜池があって、給水の設備があります。
それに、専業の野菜農家も多いのです。
 
もう、冬野菜は終わって春キャベツが出番を待っていました。
青々と育って、これまた美味しそうです。
春大根も白い肌を露にしています。
生足の女学生が整列しているように・・・・、見えます。
大根を見ると女学生を思い起こすのは・・・・、きっと私の青春のサブリミナル効果でしょう。
(サブリミナル効果:深層心理に刻み込まれた映像。オウム問題の時話題になった。)
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   三浦台地の春キャベツ畑。
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                                               三浦台地の大根の行列
 
美味しい冬野菜を食べたい・・・・、欲求が高まります。
実父の手作り野菜が懐かしく思い出されます。
野菜作りだけならば、父は立派な禅僧だったなあ・・・・!
思い起こさせてくれます。
 
私も野菜つくりをしたい・・・、思いますが、肝心の畑がありません。
 
 
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猫の”独立自尊”

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滅多に無駄吠えしない我が家の犬が、怒った様に吠えています。
”どうした?”聞けば、
離れのログハウスの縁の下が問題だ!言います。
私は直感しました。
”野良猫が縁の下で出産しようとしているな”
これは大変です。
犬の指摘に従って、今のうちに対策しないと大変な事になります。
私の脳裏に悪夢が蘇えります。
 
昔は犬も猫も繋がれて居たそうです。
ところが、江戸時代になって「掟」が出ました。
”今後猫を繋いで飼う事はまかりならぬ”
鼠(農作物を荒らす)対策として猫が見直されたのでした。
猫さんにシッカリ鼠を退治してもらうように・・・、猫を繋ぐ事を禁じたのでした。
以来、400年も自由に出歩いてきた猫さんです。
今更、繋がれたら・・・、狂いだす事でしょう。
 
猫は出産に際し、最も安全な場所を選びます。
空から猛禽類に襲われる事も無い、
野犬などからも襲われる心配も無い・・・・・・、
勿論、雨露がしのげて、風当たりも無いし・・・清潔な場所。
餌場が近ければ最高だ!
そんな場所がログハウスの縁の下だったのでしょう。
 
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        柏尾川の堤防を堂々と歩む野良猫。筆者は思わず道を譲ってしまいました。
        多くの猫がコロニーを築いていますが一匹猫も相当数います。
 
 
発情期の猫の鳴き声は耐え難いものがあります。
また、雌猫を巡るオス猫のバトルも・・・・大騒動で、私は寝不足になります。
更に、野良猫が縄張りを主張するマーキング行為(糞尿でする匂い付け)・・・も困ったものです。
その、頭痛の種の震源に我が家の縁の下になったら・・・・、困りものです。
 
私のバードウォッチングのフィールドである柏尾川の堤防に野良猫のコロニーがあります。
自転車叔父さんが荷台一杯にキャットフードを積んでやって来ます。
チリン・チリン、鳴らせば夥しい数の猫が出現します。
トレーの上に盛られたキャットフードを仲良く食べています。
お陰で周囲は猫の糞尿で堪らない臭さです。
人々は眉根を寄せて自転車叔父さんを見ています。
私は、野良猫が稀少な生物を、生態系を破壊しているだろう・・・、危惧しています。
 
私はこの野良猫を「ホームレス猫」と呼んでいます。
人間のホームレスに、何故ホームレスになったのですか・・・・?
訊ねれば、きっと筆舌に尽くし難い人生を語る事でしょう。
ホームレス猫に訊けば・・・・”飼い主に捨てられた”人間の不誠実が糾弾される事でしょう。
だから・・・・・、ホームレス猫を切り捨てる訳にも行きません。
何といっても固有の命なのですから。
 
猫に訊いてみましょう。
猫族の中で誰が一番偉いのか・・・・?
すると、答える事でしょう。
 
”野猫です。一番偉いのは。(野猫:人間の生活圏から離れて野山で生息している猫)
何故かと言えば自分の命を自分のスキルで守っているからです。
最大の猫、ライオンや虎のように生きているからです。”
 
次は野良猫です。
野良は人間の生活圏で生きています。往々にして人間の台所や犬の食事を盗んで腹を満たしています。
上手に盗むのもスキルです。
三番目はホームレス猫です。
彼等は、人間の施しを受けて生きています。
 
最低ランクは家猫です。
食事も寝る所も総て人間に依存して生きています。
最低の家猫が野良の縄張りに出てきたら・・・、コッピドク焼きを入れてあげるんです。
 
要するに”独立自尊”の割合で、偉さがランクされるのです。
 
総論としては野良猫の野生は尊重するとしても、我が家の縁の下で野生を発揮するのは・・・・、勘弁して欲しいものです。
暫く、頭痛の種になりそうな気配です。
犬を放せば済むのですが・・・・・。
それも可哀想だし・・・・。
 
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   青大将と向き合うホームレス猫。既に野生の闘争本能のスイッチがオンされています。(柏尾川堤防で)
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                      青大将のフライイングアタックを猫パンチで応戦するホームレス猫
 
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                          柏尾川でススキの種を食べる雀。雀は野良猫の標的です。
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雀は川岸の野草の種を食べに来ます。それを待っている野良猫
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筆者の気配に気づいて振り向いた野良猫。
飼い猫が野良に出て長い時間が経ったのでしょう。皮膚病が出ているようです。孤高な顔つきです。
 
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雀を捕まえた野良猫。筆者の動向に注意をしている・・・、そんな目つきです。
 
 
 
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高島屋の池坊(立花)のメッセージ

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3月11日、日本橋の高島屋に出かけました。
日本橋前の広場には福島から物産販売のキャラバンが出ています。
未だ、10時と言うのに屋台で喜多方ラーメンを食べている人が沢山居ます。
そう、今日は東日本大震災から1年、鎮魂の日なのです。
”あれから一年、よく耐えてきた”
”天に神は居ないのか!恨みもしたが、矢張り春が巡ってくる”
思っている人が多い事でしょう。
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   高島屋日本橋店。昨年重要文化財の指定を受けました。勿論百貨店では最初で唯一です。
   屋上庇の垂木(寺院の屋根を支える細い角材)や柱頭は和様(寺院様式)が目立ちます。でも、全体西洋ル    ネッサンス様式です。当時(竣工1933年、設計高橋貞太郎)主流の和洋折衷様式の代表事例です。
 
私達夫婦はおのぼりさんです。
変わってしまった町並みは新鮮に見えます。
ショーウィンドウには春が満開です。
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         高島屋正面のショーウィンドー。春色が満開で楽しくなります。
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                                 玄関正面で迎えてくれるエンジェル。
 
 
お買い物の予定は特段なくて・・・、法隆寺展と京都物産展がお目当てです。
それでも、百貨店に入る時は心が躍ります。
おのぼりさんにとって、百貨店は”ハレの舞台”です。
 
1階正面ステージに大作の生花が飾られています。
一目で池坊専永(45世家元)とわかる、池坊らしい・・・・、池坊しか出来ない渾身の大作です。
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満開の彼岸桜が一足早い春を謳歌しています。勿論桜は日本の象徴です。
そんな桜の花を荒々しい白樺の木、地味な桐の蕾が引き立てます。
桜の足元には石楠花が可憐な花を咲かせようとしています。
桜の花の裏にはレンギョウの黄色い花が・・・・、福を呼ぶかのように咲いています。
オウ梅も・・・・、早春の花木の出会いが感動的な場面を現しています。
 
厳しい冬が去れば、総ての命が芽吹きだす春が来ます。
きっと、池坊氏のメッセージは”皆さん春が来ました。”と言う事でしょう。
「一年前、私達民族はかってなかった過酷な試練を受けました。
どんな試練を受けても、植物は何事も無かったように春になれば花を咲かせます。
春になれば健気に芽吹いて、蕾が膨らみ、花を咲かせます。
私達の祖先もそんな”春の到来に”勇気を貰って、生き抜いてきました。
親から子供に、子供から孫に、勇気のバトンを引き継いで発展してきました。
池坊は、応仁の乱の戦火の中で咲く花を見て、
花を仏に献花する事に始まりました。
花を愛でれば、逞しくいく抜くことが出来ました。
人々は、京都の街が災害や戦禍に見舞われても、それを乗り越えて生きる勇気を花から貰ってきました。
花を愛でて、花を活ける技を、師から弟子に、更に孫弟子に伝え伝えて、45代にもなりました。
植物のように、花のように、桜のように・・・・、
私達は、私達民族は・・・・・・、明日への勇気を貰って生き抜こうではありませんか・・・・・!
 
池坊専永氏のメッセージは、高島屋の提言でもあるのでしょう。
私のように理屈っぽい事は言わなくても、この立花を見ると、お客さんは”まあ綺麗!”声を発します。
花の生命力に感嘆するのです。
 
立花の上、天井はお寺の天井と同じ意匠の「格天井」です。
本堂に本尊が居るように・・・、その位置に立花が飾られています。
流石に百貨店に仏様は相応しく無いのですが・・・・・、
立花も仏様も・・・、あんまり変わりません。
同じように、人間を励まし続けてきました。
     (格天井:本堂の天井、広い天井を支える為に格子状に竿を組んだ天井。寺院、和様の特徴です)
 
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エレベーターに乗って、催事場(8階)に直行します。
エレベーターガールが、深く腰を折って挨拶してくれます。
こんな光景はバブルの時代にはありませんでした。
人手が足りないので、エレベータは顧客の自動運転になりました。
今では、元のように挨拶から商売は始まるようになりました。
 
私達夫婦はウキウキ高揚した気分で、法隆寺展会場に入ります。
 
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                               高島屋、エレベータガールのお人形。
 
 
 
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性教育の教材?(蛙合戦)

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雨が降って、我が家の椎茸が沢山芽を出しました。
同時に菌打ちした倉田小学校の椎茸はどうかな?
確認しに同小学校を往訪しました。
 
倉田小学校は30年ほど前に東戸塚小学校から分かれて出来た小学校でした。
倉田の丘陵を開発して出来た、生徒数500人ほどの学校です。
高圧線を支える鉄塔がありましたので、その部分だけが森のまま残されました。
椎茸のホダ木はその森陰に置きました。
椎茸の生育環境に森が適当だったからです。
 
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倉田小学校のビオトープに集まったヒキガエル。
           どれも若いのはこの池で産れたヒキガエルで、未だ歴史が浅いからです。
           筆者の庭のヒキガエルは二周りほど大きく、風格が在ります。
 
 
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    ヒキガエルを観察し、触ってみて確認しようとする生徒達。
    活けの淵5㎝足らずをヒキガエルは乗り越えられません。
 
森裾に小さな池を作りました。
名前は在りませんが”ビオトープ”の看板を立てて、柏尾川の魚などを入れて飼育しました。
3年前の今頃ですから・・・・、鎌倉の八幡様の大銀杏が倒れた頃です。
ヒキガエルが数匹出現して、蛙合戦(後述)が繰り広げられました。
約10日間、賑やかに蛙合戦が行われ、後を見た生徒達は愕然として声を発しました。
勿論、沢山のかえるの卵を確認しましたが、沢山の蛙が仰向けになって死んでいたのでした。
生徒達は先生に報告して、何故ヒキガエルが全滅したのか考えました。
 
蛙の死体を見れば、溺れ死にした・・・・、解りました。
”何で溺れたのだろう?蛙は泳ぐのが得意なのに?”
考えました。ビオトープと自然の水溜りの違いを考えてみました。
ビオトープの周りはコンクリートで固めてあり、表面を綺麗にする為タイルが張ってありました。
ヒキガエルが卵を産んで、棲家の高圧線の森に帰ろうとして・・・・、
タイルの淵を乗り越えられなかったのだろう・・・・、意見は一致しました。
そう思ってみると、気がつきました。
 
ヒキガエルの体は大きく、大きな手足にには吸盤が付いていないのです。
山赤蛙や雨蛙はピョン・ピョン飛び跳ねて、木の幹や葉っぱの上止れるのは吸盤が指先に付いているからです。
吸盤も無いし、体の重いヒキガエルは”ヤレヤレ子供も産んだから家に帰ろう・・・!”
とした時、池から出られなかったのでした。
生徒達は、帰れなければ一生ビオトープに居れば良いのに・・・、思ったかもしれません。
でも、ビオトープは危険も多いのです。
本能は安全で餌が多いのは森である・・・、早く森に帰れ!
命じています。
 
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    左のヒキガエル、下が雌、上が雄。近寄ってきた右側雄を足蹴にして、近寄るな威嚇しています。
 
生徒達はビオトープを改造しました。
森へ帰りやすいように、池の北側、森の方角を土で埋めました。
以来、ヒキガエルの水死事件は無くなりました。
去年、今年とヒキガエルの数を増しました。
だから、此処のヒキガエルは皆若いのです。
 
生徒達は池の淵で蛙合戦を観察します。
元気な男の子は素手で合戦中の蛙を触ったりしています。
女の子が悲鳴を上げます。
”何か?押しくら饅頭遊びをしているみたいね・・・”言います。
男の子が知った風に言います。
”ヒキガエルは交尾に夢中なんだよ・・・・”
”交尾て何なのよ?”
男の子は何か言いたそうでしたが・・・・・、黙ってしまいました。
 
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蛙合戦も佳境を迎えています。一番下に雌が居ると思われます。
こんな状態で雄は興奮して一斉に精子を放出します。受精の確立は一層増します。
さんご礁が満月の夜に精子卵子を一斉放出するのと同じ「確立アップ」の仕組みです。
 
叔父さんは説明したくなりましたが・・・・、勇気を持って黙っている事にしました。
 
動物が子孫を残すには「受精」しなくてはなりません。
受精は、精子が卵子の中に入り込み、細胞分裂によって成長 可能な状態になることを言います。
受精の方法には体内受精と体外受精があります。
雄が自分の遺伝子を持つ精子を雌の体に挿入して、確実に受精させるのが体内受精です。
生殖器は通常身体の尻尾の位置にありますから、体内受精する行為を交尾と言います。
 
蛙は体外受精します。
だから、生徒が答えた”交尾”ではなく”受精行為”が適当です。
雌がトコロテンのような物質の中に卵子を包んで体外に排出します。
その瞬間にオスは精子を放出します。
精子は水中を泳いで、寒天質の中に入り込み、受精します。
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イメージ 7 良く、受精行為に快感が伴うのは人間だけだ・・・・、
言われますがヒキガエルだって気持ち良さそうな顔に見えます。
更に賑やかな蛙の声は”楽しいな”歓声に聞こえます。
 
受精の確立を高める為に沢山の仕掛けがあります。
雄の方が雌より多いのは、無駄になる精子が多いからです。
また、蛙合戦にも優秀な種を保存っする為に必要なプロセスです。
雄は雌の背に乗って、両手で精魂込めて雌の大きなお腹を押してあげます。
雌はキット良い気持ちなのでしょう、目を細めます。
すると、また雌の体からフェロモンが出るのでしょう。
オスの両腕には一層力が入ります。
 
合戦に負けた雄も近寄ってきて、お尻を雌に向けます。
そして、自分の精子を放出します。
この、間男のような行為をストリーキングと呼びます。
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                           左は合体中のカップル。右がストリーキングしている雄。
 
以上が叔父さんの講義なのですが・・・・・、変態叔父さんだ!言われかねません。
だから・・・、勇気を持って沈黙です。
ただ、一言教えてあげます。
 
君達小林一茶さん、知っているかな?
 痩せ蛙 負けるな一茶此処にあり
俳句聞いた事があるかな?
一茶さんには病弱な倅が居たんだよ。
そんな一茶さんが蛙の姿を見て、倅を応援したい・・・、と思って作ったんだよ。
負け蛙が一杯居るね・・・。
      (この俳句は小布施の岩松院の池で詠んだ・・・と言われています)
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   右の2カップルは蛙合戦に勝利した。左の一匹は負け蛙ですが、ファイトする意欲は充分のようです。
 
 
性教育、難しい事で、先生方も困っておいででしょう。
でも、子供たちは観察する事が得意です。
 
今年も、蛙合戦の後には数匹の死体が浮く事でしょう。
種の保存は命をかけて、孫子を残そうとする、 厳粛な行為である事に気づく事でしょう。
叔父サンの詰まらない説明は無用な好奇心を駆り立てるだけで、不要でありましょう。
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    蛙合戦の最中、既に窒息死したと思われる蛙の足が左に出ています。
    白く変色して空を向いてしまっています。
 
 
 
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江ノ島道の”思いのまま(梅の代表種)”

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東海道は境川を藤沢橋で渡ります。
東海道の東に熊野神社、西が遊行寺です。
そして、藤沢橋から江ノ島神社の参道が始まりました。
広重の浮世絵(東海道53次、藤沢宿)にはこれ等が描かれています。
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    広重作、藤沢宿。手前が江ノ島神社の鳥居、奥の山の上が遊行寺。橋が藤沢橋。川は境川です。
 
藤沢橋から江ノ島までの距離は約5キロ、境川沿いの楽しい細道です。
四季折々に楽しい道ですが、何と言っても春先が最高です。
と言うのは、梅の花の名所が多いのです。
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   新林公園の池と、梅林。総てが豊後梅で、その半数ほどが”思いのまま”と言う種です。
 
最初の梅の名所は新林公園です。
藤沢の中心市街地も間近な藤沢市川名字新林に残っていた里山を公園にしたものです。
江戸時代の溜池「川名大池」がありました。
此処から渓流が流れ出し、棚田と湿原を残して新しく池をデザインしました。
池のほとりにメタセコイアに似たシンボルツリーを植えました。
夏には爽やかな緑陰を作ってくれます。
その脇から、30本はあるでしょうか、梅園が広がります。
藤沢市には優れたグランドデザイナーが居るのです。
 
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                                     新林公園の池、緑の藻が繁茂します。
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   池はビオトープです。山赤蛙の卵からもうおたまじゃくしが孵化し始めています。
   (右手前は孵化を終えています。左上はこれからです)
 
 
昔の梅園は白梅が多かったのでした。
と言うのは、梅の実が沢山収穫できる種でしたから・・・。
でも、公園の梅ですから、実よりも花、綺麗な花を求めたのでしょう。
白梅も緋梅も見栄えの良い種を選択しました。
結果、八重咲きの、大輪の梅が数種選択されました。
特に多いのが”思いのまま”と呼ばれる、紅梅、緋梅が一緒に咲く種でした。
もう40年も前ですから・・・、これからは”思いのまま”が人気になる・・・、先読みしていたのでしょう。
 
”思いのまま”が有名になったのは平成16年大宰府天満宮が小泉首相に盆栽をプレゼントしたからでしょう。
その美しさがクローズアップされました。
 
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                 枝先によって八重の白梅、ピンクの花を咲き分けるのが”思いのまま”の所以です。
 
”思いのまま”を開発したのは、何時ごろ、誰だったのか?調べてみましたが、一向に解りません。
解っている事は”思いのまま”が豊後梅の代表種、成功種なのでした。
肥後(熊本)と豊後(大分)は大昔からのライバル同士でした。
それが、江戸時代になったら・・・・、花の開発競争になったのでしょう。
総じていえば、肥後(細川藩)が優勢で、豊後(松平藩)は守勢だったのでしょう。
椿も花菖蒲も肥後が勝っていました。
でも、梅は・・・・豊後が日本一でした。
梅の銘木は大分に集中しています。
 
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       これが咲き始めの”思いのまま”です。後4日で満開になることでしょう。
       ”思いのまま”が遅咲きなのも杏の性質でしょう。
 
(次段は私の想像です)
きっと、豊後の盆栽職人が工夫しました。
野梅(小さい白い花、一重)に杏を交配して、新種の開発に取り組んでいたのでしょう。
杏は濃いピンクで、大輪で、八重咲きで・・・、華やかです。
沢山の見事な新種を開発しました。
ところが、ある日全く新しい、驚きの突然変異種を発見しました。
白い花と濃いピンクの花の中間が出来たのではなく、
枝ごとに白い花とピンクの花が咲き分かれるのでした。
江戸で開発したら「源平梅」なんて言う平凡な名をつけたのでしょう。
まるで梅の精の気まぐれで、枝によって白とピンクの花を咲き分けさせました。
そこで、”思いのまま”の名をつけたのでしょう。
 
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   この紅梅も豊後梅です。杏との交配では大半が白かピンクの花が咲きます。
   一本の木で白とピンクを咲き分けるところが”思いのまま”の面目です。
 
江ノ島道を海に向けて歩いて龍口寺の手前に、常立寺があります。
此処の、枝垂れ梅も有名です。
本堂の手前に二本の豊後梅が見事な花を咲かせます。
既に満開です。
白い花が勝っていますが・・・・、これも”思いのまま”です。
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                                常立寺の”思いのまま”。此方は枝垂れ梅です。
 
幕末に、江戸染井町の庭師が”染井吉野”を見つけて、瞬時に桜の代表種になりました。
植木職人さんの名前は解りません。
職人は名を残さない・・・、ことを自負しています。
豊後の盆栽職人も名を残しませんでした。
この様子では、”思いのまま”は梅の代表種になる事でしょう。
 
今日も、”思いのまま”の木の下で、
湘南婦人が茣蓙を敷いて、お弁当を広げて、”思いのまま”に来る春を楽しんでいます。
ご主人はシッカリ働いている事でしょう。
今晩、一言言われるかも・・・・?
「お前、日焼けしたんじゃないか?」
小泉純一郎は思いのまま行動して人気でした。
湘南婦人も・・・・・、素敵です。
 
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大鷹の採餌場面

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「今朝は野鳥が姿を見せませんね!」
「この冬は野鳥が少なかった、何故でしょうね?」
バードウォッチング仲間と舞岡の里山を歩いて行きます。
ようやく、鶯もそれらしく啼く様になって、向うの山、こっちの山蔭から響いてきます。
良い季節になってきた・・・・、しみじみ思います。
池のほとりには今日も翡翠がダイブを繰り返しています。
水が温んで、お魚も底から泳ぎだしてきたのでしょう。
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    舞岡の里山風景。”山笑う”には少し早いのでしょうが、柳の芽が吹き、鶯の谷渡りが聞かれて・・・・、ウキ    ウキする季節になりました。田圃に居るのはカラスです。
 
池の畔に沢山の羽毛が散っています。
キジ鳩の羽毛でしょう。
此処で、誰かに殺られてしまった。
その時、羽毛が散ったのでしょう。
殺ったのは、野良猫か、洗い熊か、鷹の仲間でしょう。
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                                              キジ鳩が殺られた現場跡。
 
この冬はノスリを何度も見ました。
トンビは、海辺に行けば沢山居ますが、舞岡では滅多に見ません。
舞岡はカラス天国、カラスとトンビは同じ雑食なので、犬猿の中です。
海辺でトンビが勝って、里山ではカラスが優勢なのは・・・・、多分気流の関係でしょう。
海辺は上昇気流が多く生じます。
大空を風に乗って滑るように飛ぶトンビは、海辺が得意、
一方里山では、力で飛ぶカラスが優勢なのでしょう。
 
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   これがトンビ。姿だけ見れば立派な鷹なのです。
   しかし、鳴き声の軽さと、採餌行動の浅ましさから、馬鹿にされています。
 
ノスリもトンビも鷹の仲間です。
諺の「鳶が鷹を産む」は、「鷹が鷹を産む」と言う事で、至極当然なのでしょうが・・・・、
トンビが雑食で、人間の食物を掠めたりするので、最低ランクの鷹だと判断されているのでしょう。
一方、鷹とは大鷹の事で、鳥類の王者の風格に満ちています。
平凡な親が立派な子供を産むことの喩えになっています。
でも、トンビも黙って止まって居れば、立派で風格もあります。
鷹と見間違えるようです。
肝心なのは行動でしょう。
 
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今日の主役は「大鷹」です。両足の頑強な爪で獲物を掴んで離しません。
   
里山の尾根を見ていると、見慣れない大きな鳥が居ます。
大鷹です。
昔風に言えば「鷲」です。
胸毛がゼブラ模様で、お洒落です。
ガッシリとした体躯です。
両足も太く、大きな鋭い爪で獲物をゲットしてます。
鋭い眼で辺りを窺がっています。
やおら、先端が曲がった嘴で、獲物を裂いて、少しずつ呑み込みます。
 
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               獲物を嘴で引き裂いて、呑み込みます。辺り一面に白い羽毛が散ってゆきます。
 
引き裂く度に、獲物の羽毛が辺りに飛びます。
獲物は真っ白い羽をしています。
多分白鷺でしょう。
白鷺の首は既にありません。
首のあった位置からは鮮血が散っているようです。
先ず、白鷺の内臓を探して食べたようです。
次いで、胸肉を食べようとしているようです。
時折持ち上げて、獲物の位置を変えたりしています。
凄惨というより、崇高な場面です。
一つの命が散って、一つの命が育まれる・・・・、
もうじき、大鷹も子育てしなければ、種の保存がままなりません。
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からすの気配に気配りする大鷹。この後飛び立ちました。
             
大鷹は私達を全く無視しています。
人間は怖くはない・・・、思っているのでしょう。
唯一、心配しているのは・・・・、カラスの動向のようです。
暫く、遠くでカラスが啼いていましたが、次第に近づいてきました。
そして、次第に仲間が増えてきたようです。
”此処に、大鷹が居て、食べ物があるぞ。皆で奪い取ろう・・・!”
誘っているのでしょう。
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 獲物の白鷺を掴んで、飛び立つ瞬間。白鷺に識別の足輪が付いていました。
 
大鷹は両足で、ムンズと獲物を掴み揚げました。
そして、サット飛び上がって、篠竹の中に身を隠してしまいました。
篠竹の中ならカラスは集団攻撃出来無い・・・・、知っているのでしょう。
カラスは、大鷹が食事をしていた跡に行きました。
そして、食べ残しを拾い食いしています。
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                                        大鷹の食べ残しをあさるカラス
 
大船に「鷹匠橋」という地名があります。
その名の通り鷹匠が住んでいたのでしょう。
お狩場は長尾台でした。
鷹狩をしたのは徳川家康。
ある時、お鷹狩からの帰路、柏尾川が洪水でした。
倉田の百姓が家康公を背に、まるで蓑を負うように背負いました。
洪水から脱した、家康公は”褒美を取らせる”言いました。
百姓は言いました。
”それでは私の名前(姓)を下さい”
苗字を負うのは武士など支配階級だけの時代です。
”百姓代から、名主にしてください”そんな願いだったのでしょう。
家康は快く、
”私を蓑のように負ぶって川を渡ったのだから・・・、笈川(及川ではない)と名乗りなさい”
名前をあげました。
 
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                 柏尾川、鷹匠橋近くで小魚を漁る白鷺。この種が今回の犠牲者のようです。
 
 
そんな言い伝えもあります。
長尾台から倉田にかけて、戦前まで鎌倉郡豊田村は大鷹に縁が深い土地でした。
そこで、初めて大鷹を目の前に見る事が出来ました。
 
この辺りの自然が回復して、大鷹の獲物が増えてきた事も原因の一つでしょう。
でも、大鷹の餌場になるような草原は殆んど無くなっています。
大鷹の環境適応力も増して来ていることでしょう。
何しろ、目と鼻の先に居る私達をまるで怖がって居ません。
草原こそ無くなりましたが、道路脇や田圃の畦、堤防など開けた場所は案外多くあります。
其処に出現する、鼠やリス野兎、猫やモグラ、そして鷺やキジ鳩など・・・、獲物は沢山居ます。
大昔から鷹は人間になつきました。
だから、環境適応力も旺盛なのでしょう。
 
暫くの間は大鷹出現で、野鳥の多くは姿を隠してしまう事でしょう。
でも、里山の食物連鎖の頂点が見られて・・・、私は満足です。
家内は残酷だ!、思って私の写真を見ようとしませんが・・・・、
でも、羽の写真を見せれば、目を輝かせる筈です。
鷹の羽は矢に欠かせないものですから。
 
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                 鷹の羽は武門の家の紋です。(九州の菊池家や浅野家の家紋)
                 鎌倉では御霊神社、権五郎神社の紋が鷹の羽です。
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    矢には大鷹の尾羽を使います。(藤沢小山弓具店) 大鷹の事を鷲と呼びます。
     
 
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倉田小学校での椎茸の原木栽培の顛末記

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2年前の今頃の季節でした。
3月だと言うのに霙(みぞれ)が降って、強い北風が吹きすさんでいました。
その未明に、鎌倉の八幡様の大銀杏が根元から折れて、前庭に倒れてしまいました。
 
その、数日後、舞岡公園から電話が入りました。
「雑木林の大樹を伐採したので、雑木が大量に出た。何かに使いませんか?」
私は、倉田小学校に連絡して、丸太をトラック一杯貰う事にしました。
農家のS氏に頼んでトラックを出してもらい、6人ほどで丸太を約70本学校のグランドに運びました。
そして、椎茸菌の菌打ちをして、丸太(ホダ木・原木)を山裾に運びました。
柵をこしらえて、60本のホダ木を井桁に組みました。
グランド端にも置きました。
我が家にも2本、持ち帰りました。
椎茸の原木栽培を倉田小学校で始めたのです。
 
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     椎茸の菌打ち風景。ドリルで1cm大の穴を掘り、菌の籠もった木っ端を埋め込みます。
 
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  椎茸の原木を井桁に組みます。椎茸栽培には通風と日陰、湿り気が大事です。左の崖の上が森です。
  全員が上を向いているのは、森で鶯が上手に啼いたからです。
 
我が家のホダ木にも昨秋から椎茸が出来ました。
18ヶ月でホダ木全体に椎茸の菌糸が浸透したという事でしょう。
そして今年は、3月になるとまた、椎茸が小さな頭をもたげています。
そこで、倉田小学校に出かけて、椎茸がどうなっているのか確認しました。
 
出ていました。
我が家より立派に、大きく育っています。
もう、食べ頃を過ぎて、傘が大きく開いてしまっているものもあります。
そんな中に、真っ黒な塊があります。
昨秋できた椎茸が、胞子を撒き散らして、役割を終えて、枯れて(腐って)残っているのです。
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   食べ頃の椎茸がニョキニョキ生えています。
   所々、ビラビラのは昨秋出来て放置され、腐ってしまった椎茸です。
 
副校長先生に話しました。
”椎茸、よく育ちましたね。成功ですね!”
副校長は申し訳なさそうに、弁解されます。
”貴方のアイディアでは、舞岡公園のクヌギを使って、学校で椎茸を栽培して、給食に使おう!、という事でした。ところが、例の放射能疑惑で・・・・、給食に使う事は出来なくなりました”
私は答えます。
”それは、仕方ないですね。椎茸の生育を観察して、美味しそうに育った椎茸も放射能を蓄積し易いのですから・・・、食べられない。悲しがったり、憤ったりするのも教育でしょうから・・・。”
     注記:2011年11月5日、舞岡公園の干し椎茸から2770べくレムの放射能が確認された。(国の基準値500         べくレム。全国紙に報道された。
 
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   傘が開ききってしまった椎茸。「早く、食べて頂戴!」訴えているようですが・・・、
   舞岡公園の椎茸に高濃度の放射能が含まれていた事から、収穫されていません。
 
「典座教訓」(道元)に出てくる、有名な話があります。
青年道元が南宋に渡ります。
船が寧波の港着いた・・・、というので沢山の人が日本の物資を買いに出てきています。
その中に年老いた僧がいます。
日本の”干し椎茸”を求めに来たのでした。
老僧は阿育王山広利寺の炊事係(典座和尚)なのでした。
道元は尋ねます。
”貴方のような志の高いお坊さんがどうして炊事係をされているのですか?座禅やお経や、公案をなされたらよろしいのに・・・。”
すると、老僧はたしなめます。
若い外国のお客人よ、惜しいことに貴方は修行や求道の意味がお解かりではありません!”
炊事や便所掃除・・・・・、立ち居振る舞いの総てが修行です・・・・・、教えられたのでした。
 
平安時代末期には干し椎茸は日本の特産物で、人気があったのでした。
そして、精進料理には欠かせない食材(主としてダシを取る)だったのでした。
 
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     右上、真ん中にある真っ黒い物体が昨秋に出来た椎茸です。
     道元禅師が見られたら”喝”いれられそうです。
 
椎茸の原木栽培の始まりは江戸時代中期です。
経済の進展に伴い各藩が商品作物の栽培に熱心になる中で、現在の椎茸の原木栽培が始まったと思われます。(文化文政時代)
昭和初期、西岡京治はブータンで、椎茸栽培を普及させます。
東日本大震災で一番に弔意を示し、ブータン国王ご夫妻が来日されたのは、
西岡京治氏のような人が居られたからでした。(もう数年前NHKで特番した事がありました)
 
そんな、歴史のある食材が椎茸です。
今では精進料理だけではなく、中華の肉まんに椎茸は欠かせません。
ですから、小学校に椎茸の原木栽培をさせるのは、究極の”エコ教育”だと思います。
生徒達が食べられないなら・・・・、私が食べます・・・。
言いたい所ですが、惨めな姿の椎茸の姿を確認する事も、子供たちの勉強になる事でしょう。
「あんな失態を決してしてはいけないのだ・・・・!」
思ってもらうために、役立つ事でしょう。
 
 
 
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法隆寺展の円空の意味

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日本橋高島屋で、法隆寺展を見学に行って来ました。(3月20日まで)
私の仲間(先輩)のT氏もブログに書かれています。( http://blogs.yahoo.co.jp/gonana180/33533934.html)
Y氏も(http://tachibana.blog27.fc2.com/ の3月15日の記事に載せていられます。
3月は奈良の町はお水取りもあって、観光シーズンの幕開けです。
法隆寺の宝物が高島屋にご出張では・・・・、法隆寺では寂しくはないか?
心配しましたが・・・・、展示品の多くが摸作品であり、法隆寺を描いた絵画でありました。
国宝、重文は展示されていませんでした。
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                  増長天、持国天像が案内されたチラシ。重文クラスの宝物が展示されていました。
 
法隆寺展は法隆寺の宝物の展覧と言うよりも、日本文化の歴史の中で、法隆寺が脈々と伝えて来た文化のエキスを展示したものでした。
現代作家の後藤純夫画伯の「百済観音」まで展示されています。
日本文化は法隆寺や聖徳太子と共に歩んできたのだ・・・、教えられる展示です。
 
日本人は傷つくと法隆寺に戻る・・・、不思議な繰り返しをしているようです。
古代、壬申の乱の直後、古代から中世に移る源平の争乱の直後、関が原の戦いの直後、維新戦争の後、そして太平洋戦争の後、何れも法隆寺が見直され、聖徳太子信仰が盛り上がりまし。
傷ついた民族を癒し、誇りを回復させ、新時代を切り開く勇気を持たせたのは・・・・・、法隆寺であったようです。
法隆寺は1400年の間がこうした役割を演じて来ました。
そして、未来永劫にこの尊い役目を果たして行くのかと思うと、”有難や、有難や”拝まずば居られません。
 
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     法隆寺の大日如来像(円空作)台座の岩こそ円空らしい作風ですが、仏座を含めて全体的に丁寧な穏      やかな作風です。法隆寺の諸仏の影響を受けたものでしょう。そして、この法隆寺にいて円空は仏師と       しての確信を得たものと思います。また、法隆寺ではこの大日如来を見て血脈を与えたものと思われ      ます。一方、円空は仏像の笑みと立像のスタイルを飛鳥仏から習得したと思います。
 
 
展覧会場の一角に円空の大日如来像が置かれていました。
円空と言えば「鉈彫り」です。
鉈を振るって荒々しく材木をカットして彫った・・・・ように言われますが、実際の作業は違います。
鉈で木を切り出して、鑿(のみ)で大凡の輪郭を彫り出して、最後は細い丸鑿(彫刻刀)で仕上げました。
でも、荒々しい表情、天地の神の造作はまるで鉈一本で仏像を彫り上げた・・・・、そんな印象です。
でも、法隆寺の大日如来像(上写真)は少し違います。
 
頭上に仏のお顔が彫られているので、十一面観音のようですが・・・・、智拳印(ちけんいん/忍者の印)を結んでいるから大日如来です。
隅々まで、 丁寧に、丁寧に彫られています。
円空らしい荒々しさは台座(岩)にしか現れていません。
仏像の笑顔も、穏やかです。
法隆寺の飛鳥仏はアルカイックスマイル(古拙な微笑)が特徴だと言われますが・・・・、
円空版の穏やかな、優しい微笑です。
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                                円空でありながら、飛鳥仏のような笑みが出現します。
 
円空が仏像を彫りだしたのは1663年(寛文3/円空33歳)でした。
美濃の美並村の神明神社で天照大神を彫ります。(長谷川公茂氏調査)
1671年(寛文11/円空39歳)亡母33回忌の年、法隆寺に入ります。
そして法相宗の血脈を受けます。
仏教の教法は祖師から弟子に、またその弟子に教え伝えられます。
その法脈がまるで血液のようだ・・・・、と言うので”血脈”と言い表されます。
法脈を繋ぐ時・・・、わざわざ図に朱色を入れます。
ですから、円空は晴れて法相宗の法脈を繋いだお坊さんとして認められたのでした。
法相宗と言うより、法隆寺宗の血脈を受けた・・・、と言った方が適切だったのでしょう。(円空自筆の血脈図在り)
 
以下は私の想像です。
きっと円空は法隆寺の法堂の暗闇の中で、日夜仏像を見詰めた事でしょう。
毎日、お経を唱え、講義を聴き、寺の掃除選択などを行い・・・・、空いた時間は仏像の前に正座し瞑想しました。
円空の瞼には1000年前の仏像の姿が焼き付けられました。
最も強いインパクトは・・・、アルカイックスマイルで、次は立像の衣文処理でした。
あの、衣の裾が三段に、ギザギザに流れている・・・・、独特な姿です。
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       飛鳥仏、立像の衣の処理。円空の立仏像もこの処理を模していると思われます。(法隆寺菩薩立像)
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                 円空、十一面観音。衣文のギザギザ処理は飛鳥仏に通じる。
 
当時も今も法隆寺夢殿の救世観音は秘仏でした。
フェノロサ、岡倉天心が白衣で巻かれた救世観音を白日の下に曝します。
あの救世観音像を円空が見ていたかも知れません。
円空は法隆寺で血脈受けたのですから。
たとえ円空が救世観音を見ていなくても、秘仏の話は聞いていたでしょう。
その姿は、数多くある飛鳥仏の立像に確認する事が出来ました。
以来、円空の立像は法隆寺夢殿の救世観音スタイルになりました。
 
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       天川村の栃尾観音堂の阿弥陀三尊像。感動の大作であり、瑞々しさです。
       この諸仏も法隆寺での修行、血脈を受けた事実が・・・・、実現させたものでしょう。
 
円空は法隆寺において、仏師としての確信を得たのではないでしょうか?
1673年(寛文13/円空42歳)円空は修験道の霊地大峯山に入ります。
天川村の栃尾観音堂で10体弱?の諸像を刻みます。(天川村には16体の円空仏があります)
もう、10年ほど前、栃の木の黄葉の中、粗末で小さな観音堂を日本文化研究会の仲間と詣でました。
その時の感動は、何時までも新鮮です。
 
昨日切り出したばかりのような、瑞々しい杉の肌です。
円空仏が”良くも、この鄙びた村まで来てくれた!”笑ってくれました。
続いて円空は1675年(延宝3/円空44歳)大峯山で役行者像を彫ります。
この役行者像の裏面に「延宝三乙卯九月於大峯円空造之 法印二之宿」とあります。
この像はどんな経緯をたどったのかわかりませんが、
現在は法隆寺に近い松尾寺の秘仏になっています。(年1回開扉)
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                                    役行者像
中世から近世に、時代の境目には応仁の乱以後長い戦乱に明け暮れました。
戦乱は聖徳太子の教え「以和為貴」を身に沁みて解らせました。
平和の訪れと共に、人々には聖徳太子を思い起こしました。
聖徳太子、法隆寺は時代の境目で必ず現れる現象でした。
きっと、今が時代の境目なのでしょう。
だからこそ・・・、法隆寺が見直されているのでしょう。
 「以和為貴」そして「以愛隣人」・・・愛を持って隣人に接しろ・・・、なのでしょう。
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    栃尾観音堂の弁才天像。お母様の面影?
    杉の木肌が瑞々しく、木目が美しい像です。(尚、写真は円空展/朝日新聞社目録平成6年から複写しま    した)
 
 
   
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”仰げば尊し”歌われない卒業式

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317日は横浜市立小学校の卒業式でした。
町内会では手分けして来賓として参列しました。
私は戸塚区内で最も生徒数の多い東戸塚小学校に出かけました。
生憎の大雨で、体育館の屋根を打つ雨音がけたたましく鳴っていました。
私が参列するのは今回で8回目、初めて雨に見舞われた卒業式でした。
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                        61回目の東戸塚小学校卒業式
 
卒業式は先ず国歌を斉唱し、続いて横浜市「市歌」を歌います。
市歌は森鴎外が作詞しました。
文語の入り混じった難しい歌詞ですが、流石に文豪、今日歌っても歌詞は現在の横浜市にピッタリです。
横浜市民は大抵歌える、愛唱歌です。
校歌も歌います。
東戸塚小学校の校歌は詩人のサトー・ハチロー氏が作詞しました。
実に素晴らしい校歌です。
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       サトー・ハチロー氏の自筆元稿「東戸塚小学校校歌」 A,Bは採用、Cは不採用
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私は参列しながら自分自身の卒業式を思い出していました。
もう、半世紀も前の事です。
子供たちの洋服は大半が普段着でした。
詰襟を着た児童は裕福な家庭の子でした。
今日の卒業式は全員が紺色のブレザーで、女子はバーバリーチェックのスカート、男子はズボンでネクタイでした。
先生に聞けば、ここ数年来の流行だそうです。
 
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    卒業式は男女とも紺色のブレザーです。紺ブレはまるで正装です。
 
昔は、在校生が「蛍の光」を歌い、卒業生が「仰げば尊し」を歌いました。
卒業生の総代が卒業証書を受け取り、答辞を読み上げました。
今は、全員(147)が登壇し校長先生から卒業証書を受け取りました。
また、答辞を読むのではなく、シュプレッヒコールをしながら、
小学校生活を振り返り、先生や父兄、在校生、地域に御礼を言います。
自ずと時間が掛かります。
9時に登校、9時半に卒業式典が開始しましたが、帰宅したのは12時半でした。
 
卒業生は「旅たちの日に」を、在校生は「君が輝く時」を歌いました。
先生に、「仰げば尊し」は歌わないのですか?聞けば、
「もう、古い!もうずっと前から歌っていません」 答えられました。
家内に聞けば自分の子供達の卒業式でも「仰げば尊し」は歌われなかったそうです。
 
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     一人一人、卒業証書を戴きます。平等な扱い・・・、が長時間の式典になる原因です。
     一方で平等を主張し、子供には競争社会で打ち勝つよう煽る・・・、
     何処かに偽りがあるように感じます。
 
私はYOU-TUBEで「仰げば尊し」を聞いてみました。
歌詞は現代にも通じる普遍的なものと思いました。
「先生、有難うございました。教えを忘れず私達は学び舎を旅立ち、立派な人間になります」
述べています。
今日の校長先生やPTA会長の挨拶にも通じています。
でも、先生からは”古い”決め付けられてしまいました。
 
歌詞全体を覆った儒教的な香りや、
2番のフレーズ「名を為し、身を立て」が嫌われたのでしょう。
でも、現代の教育ママは「立身出世」「大会社への就職」を是として、子供の尻を叩いています。
卒業式ソングの選択もファッションみたいなものかも知れません。
「旅たちの日に」も悪くは無いのですが、私は「仰げば尊し」の方が普遍性があると思います。
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     在校生を代表して5年生が卒業生を送る歌を歌います。
 
もう、全国的に「仰げば尊し」は歌われていないのか?
懸念してインターネットで調べてみました。
保守的、と思われる奈良県や茨城県の卒業式ソングは何だろう?
「旅たちの日に」が定番で、
『栄光の架橋』(ゆず)、『YELL』(いきものがかり)『さくら』(森山直太朗)、『手紙』(アンジェラ・アキ)、『贈る言葉』(海援隊)等が歌われるそうです。
 
ところが、思いがけない記事を見つけました。
そして、YOU-TUBEで聞きました。
それは、台湾の卒業式の定番が「仰げば尊し」なのでした。
流石に歌詞は台湾の風土、景色の中で、学び舎を離れる心を歌っていますが・・・・。
きっと、戦前に日本人が半強制的に歌わせたものなのでしょう。
でも、台湾では”いい歌だ”共感して、現代も変わらず歌い続けているのでしょう。
 
今回の東日本大震災でも、台湾の募金活動は他国に先んじていて、
日本人は隣国の慈善を深く心に刻みました。
流石に儒教の国だ・・・・、心底隣国だ・・・・・、思いました。
その感慨を改めて、「仰げば尊し」で思い知らされました。
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   クラス主任の先生は涙が一杯でしたが・・・、卒業生は意外に笑顔でした。
   卒業式ソングが明るい歌だからでしょう。
   私達世代は「仰げば尊し」「蛍の光」でいよいよお別れ・・・・、自覚して涙しました。
 
先日、木造校舎の消火実験が行われました。
3億円もかけて建てた木造校舎に火をつけて、
どんな風に焼け落ちるのか実験したのでした。
そんな実験をしなくても・・・・、コンクリート校舎より、木造校舎の方が子供達の情操が豊かに育つ・・・、間違いない、と考えます。
私は、木造校舎が戻るように、卒業式ソングも昔に戻る・・・、
そんな事を期待します。
 
最後に「仰げば尊し」の歌詞を紹介します。
小学生は「児童」と呼ばれます。
中学からは「学生」です。
学生に旅立つに際して、先生や父兄友人に感謝する気持ちが最も大切です。
 
 
       あおげば尊し、わが師の恩。
       教の庭にも、はや幾年。
       思えば いと疾し、この年月。
       今こそ 別れめ、いざさらば。

       互にむつみし、日ごろの恩。
       別るる後にも、やよ 忘るな。
       身をたて名をあげ、やよ はげめよ。
       今こそ 別れめ、いざさらば。

       朝夕馴にし、まなびの窓。
       螢のともし火、積む白雪。
       忘るる間ぞなき、ゆく年月。
       今こそ別れめ、いざさらば。
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   去年は雪柳や辛夷が咲く中で卒業式が行われましたが、今年は未だ固い蕾です。
 
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佐倉の藤沢周平ワールド

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3月18日、家内と一緒に千葉白子海岸に墓参りをしました。
午前中に墓参りや、お寺さんや、先祖の関係者に挨拶を終え、午後はショートツアーです。
両親が亡くなってもう十数年、春・秋の彼岸に同じことを繰り返しましたので、房総は詳しくなりました。
そこで、今年は佐倉に向かいました。
 
佐倉は印旛沼に近く、成田街道(水戸街道)の成田の手前にあります。
中世以来の城下町です。
石高こそ11万石と小さいものの、江戸の東を守る要衝にあった事から、幕閣の重要人物が居城しました。
松平家、小笠原家、武田家、稲葉家などが入れ替わり藩主になります。
1746年(延亨3年)には出羽山形藩から堀田正亮が移封してきます。(老中首座)
また幕末には藩主堀田正睦は老中として、ペリー来航以来の難局に処します。
井伊直弼の大老就任と共に、蟄居します。
 
イメージ 1
    佐倉の武家屋敷のある「鏑木小路」、道の両脇に土塁が囲って、その上に生垣が植わっています。
    馬屋や長屋門などが無い、シンプルで質素な江戸時代の官舎です。武士は藩主から住まいを借り受けて    いました。出世、降格すれば官舎を明け渡し、相応な官舎に移りました。
 
私は武家屋敷に向かいます。
佐倉城の北側、鏑木小路に3戸の武家屋敷が保存され、見学が出来ます。
幕末には27戸の武家屋敷があったのだそうです。
でも、町並みは当時の面影を良く残しています。
萩や角館、鹿児島の武家屋敷に比べると、屋敷は小さく狭く、質実な印象です。
 
それは此処の武家屋敷が、中、下流武士の住居であった事にもよるでしょうが・・・・、
上杉鷹山(出羽、質素を旨とした藩運営で有名)以来の伝統かもしれません。
私の最初の印象が「藤沢修平ワールド」でした。
実際に「川の辺で」のロケが行わたようです。(写真が置かれてありました)。
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    武家屋敷復元イメージ図。(佐倉市教育委員会作成)
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      旧但馬家住宅の木戸から座敷を見る。(右手前に玄関在り)この家は100石クラスの住居のようです。       210円の見学料で3戸を見学できます。
 
海坂藩の藩士戌井朔之助には幼い頃からの親友佐久間森衛がいました。
妹の田鶴は森衛に嫁しました。
ところが、森衛は藩政を批判し、脱藩して江戸に逐電します。
藩命によって朔之助は妹夫婦を討つことになります。
父は理不尽であろうと主命に従え・・・・、命じます。
母は案じながら、涙を流します。
 
朔之助は行徳に近い小川の辺に慎ましく生活する森衛と妹の田鶴を見つけます。
そして、刃を交えます。
田鶴は酷い運命に健気に耐えます。
武士の妻として、矜持を失う事はありません。
 
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     旧但馬家住宅の南面から見る。家庭菜園、枇杷の木、茶など、生活に役立つ樹木が植えられていま       す。右(東側)には旧武居家住宅が四つ目垣を介して接しています。
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                        土間と釜戸。このような台所で田鶴は働きました。
 
下級武士の森衛に嫁した田鶴です。
海坂藩に夫が勤めていた時は、幸せでした。
朝早くから、庭先の井戸で水を汲み、朝餉をを土間に出て用意します。
釜戸に火をつけて、ご飯を炊きだします。
もう一口の釜戸で汁を準備します。
汁の具も、薬味も庭先の畑で収穫します。
もうじき、筍も出てくる事でしょう。
梅干も田鶴が作ったことでしょう。
 
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                                  玄関脇の梅の花
 
家は藩主から宛がわれた・・・、現代の社宅(官舎)です。
北側に道路(鏑木小路)があって、小さな木戸があります。
木戸の両側は土塁が積んであり、その上には生垣が植えられています。
木戸から玄関まではホンの2間ほどの距離です。
何故、玄関と木戸の距離が無いか・・・、と言う事は家の南側を見れば良くわかります。
家の南面を広く使う為です。
南面に庭があります。
庭には野菜畑があります。
庭先を耕作して、野菜は自家栽培する為です。
畑の脇には枇杷の木が植えられています。
この木からは枇杷の実が収穫できます。
加えて枇杷の木は常備薬のようなものでした。
 
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田鶴の悪夢はあの日、突然に降って沸きました。
森衛は熱心な余り、藩政を批判してしまったのでした。
核心をつかれた家老は激怒します。
田鶴の慎ましやかで、平安な生活は一変してしまいます。
事もあろうに兄が自分達を追って来るのです。
 
考えて見れば現代でも森衛のような人は沢山居ます。
バブル崩壊後、リストラに邁進する経営陣をいさめようと、
ブリジストンの人事課長(?)は職場で抗議の自殺をしました。
行政(小泉-竹中平蔵)はリストラを支援しました。
臨時雇用が増大し、中間層が傷み、日本人の責任感も希薄になりました。
失ったものの大きさを知り、改めようとしましたが・・・、遅きに失した感があります。
 
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                               隣は何するものぞ? 四つ目垣が境なので、良くわかります。
 
 
昨年、東日本大震災がおきました。
被災地には田鶴のように運命の悲惨さに打ちのめされた人は、数万に及んだ事でしょう。
しかし、自然や社会を恨むことなく、凛として矜持を失わず生きていられます。
 
数年前「人間の品位」が問われました。
日本人に失われてきている・・・・、自覚があったのでしょう。流行語になりました。
しかし、今回の震災を見ると、それが東北では杞憂でした。
被災地の人々の復興に力をあわせる姿勢に賞賛が寄せられています。
天災は日本に世界の耳目を集めさせ、
次の瞬間、「日本人は素晴らしい」賞賛にチェンジさせました。
1周年、世界中で改めて追悼と激励のミサが開かれました。
 
田鶴のような人が沢山居て、日本を支え、日本を復興させる・・・、確信させました。
私は、佐倉に来て、また藤沢文学が好きになりました。
 
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