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遊行寺の枝垂れ桜と石灯籠

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4月9日深夜、湘南鎌倉病院に搬送されました。
以来4日、12階の病室で過ごしました。
窓からは玉縄の丘陵が見晴らせ、桜と若葉、そして瀟洒な家並みが見渡せます。
あの辺り、桜の下で私の高校生時代がありました。
そして、目線を西に向ければ、教会の尖塔があって、その向こうに私の好きな遊行寺があります。
遊行寺は屹度枝垂れ桜の見頃です。
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                             遊行寺の一遍上人像、もうじきツツジが周囲を飾ります。
 
4月13日、午前中に退院しました、この日は偶々私の誕生日です。
私は、早々に遊行寺に家内を誘いました。
来週は遊行寺も「開山忌」、準備が進んでいます。
 
本堂の周りも、一遍上人像の周りも桜が満開です。
そして、目標の放生池の畔の枝垂れ桜も、今が見頃です。(今週末が最高)
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    大銀杏も新芽を吹き始めた遊行寺
 
今から700年も前でしょうか?
一遍上人が此処藤沢で別時念仏を行うと、不思議なことに天から花が散って来ました。
そして、空には紫雲が現れました。
信者達は奇瑞に大騒ぎを始めました。
一遍上人は”念仏はそんなものではない” 言い放ち・・・・、
奇跡については、
  花のことは花に聞け
  紫雲のことは紫雲に聞け
  私は知らない。
述べました。
 
”花のことは花に聞け”の言葉は、日本仏教の白眉でありましょう。
私はこの言葉以上に真実を捉えた言葉を知りません。
 
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            放生池の枝垂れ桜。私は湘南で最大だと思います。奥が明治天皇の行在所となった書院
 
その為でしょうか?
時宗(一遍・宗祖)のお寺には必ず四季折々花が切れません。
桜の花の下で花見に興じている人を見ると・・・・、踊念仏を思い出します。
 
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      枝垂れ桜の下、左に見えるキリシタン灯篭。
 
枝垂れ桜の下にキリシタン燈籠があります。
高さ1.3mほどの大きな灯篭です。
白い御影石で出来ています。
私は前々から、何故キリシタン燈籠がお寺の境内にあるのか?
不思議でなりません。
そこで、遊行寺の寺務所に出かけて尋ねてみました。
若いお坊様から逆に尋ねられました。
「キリシタン燈籠って何ですか?」
 
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                 遊行寺キリシタン灯篭
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            隠れキリシタン資料館(澤田美喜よ記念館)のキリシタン灯篭。
    全体が十字架の形であること、基壇部(灯篭の足)に刻まれた背の高い像は地蔵のようにも見えますが、     合掌して法衣を着たマリア様と思われます。ですからマリア灯篭とも呼ばれます。マリア像の上部に奇妙    な文字が陰刻されているのも特徴です。
 
私は、少し説明しました。
「戦国大名で茶人でも有名な古田織部がデザインしたと言われるのが織部灯篭でした。
江戸時代にかけて茶庭や数寄屋造り庭園の点景として普及しました。
戦国大名にキリシタン大名が居た事から、隠れキリシタンの仮託礼拝物となりました。
以上が一般的な説明ですが、隠れキリシタンと無縁という人もいます」
 
お坊さんは、奥に戻って年長のお坊さんをつれて来られましたが・・・、
やはりこの灯篭に特別な謂れは知らないとのことでした。
 
私の直感ですが・・・、一遍の教えは日本人の最下層に普及し、
難しい教義や厳しい修行を経ずして救済される・・・教えでした。
それは、隠れキリシタンとして地下に潜伏した教えと近い教えだったのではないでしょうか?
一遍の教えが宗教的に純粋で、究極的であったから・・・、隠れキリシタンにも寛容であった・・、と思います。
 
まだまだ、興味の尽きない宗教文化財です。
 
 
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                                      枝垂れ桜の後ろの新緑は湘南最大の桂です。
 
 
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桜の富士「大石寺」

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4月8日、9日一泊で身延路を旅行してきました。
日本文化研究会のメンバー11人と一緒でした。
今日から5回、同旅行記を載せることにいたします。
 
東名富士JCを降りて西富士道路に入りました。
最初の目的地は大石寺です。
カーナビの目的地設定に際して大石寺を「ダイセキジ」「ダイシャクジ」・・・様々読みましたが、
正しくは「タイセキジ」でした。
 
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                             大石寺山門前駐車場の風景。手前側に山門があります。
 
富士の裾野がなだらかに広がって、その彼方に堂塔の甍が並んで見えます。
周囲は桜色で囲まれています。
ああ、有名な大石寺は彼処か?
始めて訪れる大寺は、人里離れてポツンと大自然の中に屹立しているように見えました。
この辺は数万年前溶岩が流れ、火山弾が落下したのでしょう。
大きな石が一面を被った野原で、「大石ヶ原」と呼ばれました。
日蓮の亡くなり、身延山に埋められると、久遠寺が日蓮宗の本山になりました。
すると、池上本門寺(日蓮の亡くなった寺)が本山であると主張し、
日蓮の直弟子日興は久遠寺を離れてこの大石ヶ原に移り住みました。
それが大石寺の始まりです。
で・・・・、自分を「日蓮正宗」と名乗りました。
日蓮のお弟子さん6人は誰しも自分が日蓮の教えの正統だ・・・、思っていたでしょうが、
「日蓮正宗」と主張する激しさがあったのでしょう。
 
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                              大石寺山門、富士山を背に南面して建っています。
 
大石寺の周囲には駐車場が沢山あります。
最も遠く辺鄙な場所が一般参詣者用の駐車場でした。
お寺を参詣するには、山門より入らなくてはなりません、
駐車場から入れば本堂(御影堂)の裏から入ることになります。
山門脇にも広い駐車場があって、空車スペースの十分でした。
そこに回りました。
カメラを持って駐車場を降りると、大声で叱られました。
激高しながら喋る話をまとめると、こんなことなのでしょう。
”大石寺は物見遊山に詣でる寺ではないのだ。信者の霊地であるのだから、彼方の駐車場に入って、信者のためにこの場所は空けておけ・・・・!”
私達を含めて、沢山の人が遠巻きにして見守ります。
でも、無難に・・・、山門前の駐車場は避けて、そこそこの距離を置いて駐車します。
後味の悪さが残ります。
 
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     大石寺の参道。正面が御影堂。参道の両側に塔頭坊が並んでいます。
     石積みが美しく、桜が見事でした。
 
何処のお寺も門前町があるものです。
参詣者を「遠路はるばる良く来られました」言わんばかりに、茶店や土産物屋が並んで、
旅館も・・・・・、門前町を作っています。
ところが見渡しても門前町はありません。
信者だけが参拝し、塔中坊に宿泊して、修行をして帰る・・・・、それだけの場所なのでしょう。
考えてみれば釈迦様の始められった鹿野園・誓多林・大慈山等の寺は修行の場所で、
一般人の物見遊山は想定していませんでした。
カメラ片手の遊山客であっても、お寺を参詣したい・・・、そんな人には気持ち(菩提心)があります。
日蓮正宗の信者には多かれ少なかれ、一般人を見下し、誤った考えを叩き直してやろう・・・、
そんな気持ちがあるような気がします。
 
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          大石寺参道には枝垂れ桜が混植されています。
 
境内にはると、駐車場での冷めた気持ちを吹き消してくれる美しさがありました。
南面した山門から真っ直ぐ参道が続いて、突き当りが御影堂でした。
本堂に当たる場所に祀られているのが、日蓮であり正しい後継者日興なのでしょう。
生憎工事中で入ることも出来ませんでした。
参道の左右は築地状に石が積まれています。
石壁の奥に塔中坊(たっちゅうぼう)が並んでいます。
どの塔頭坊も新しく、コンクリート作り、屋根は塩瓦で葺かれています。
信者を迎える宿坊を一気に立て替えたのでしょう。
どれもこれも・・・、同じように和風ですから・・・、一見すれば綺麗です。
でも、違和感が残ります。
円覚寺や建長寺、東福寺等も沢山の塔頭寺院がありますが・・・、それぞれ違っています。
人それぞれが違っているように、塔頭も姿形がちがっているから・・・、楽しいのですが。
それに、今日は4月8日、花祭りです。
お釈迦様のお誕生日ですから・・・・、仏教寺院ではお祝いします。
故事に因んで、甘茶を誕生仏のかけてお祝いし、感謝致します。
大石寺にも塔頭の何処にも「今日は花まつりです」
案内はありませんでした。
 
「何故、大石寺では花まつりをしないのですか?」
尋ねれば
「花まつりは浄土宗のお寺が江戸時代に始めたもの・・・。」
答える事でしょう。
でも、桜の咲く季節にお釈迦様が生まれて・・・・、
大石寺でも、4月8日はお祝いしたら・・・良いのに、
思います。
 
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          大石寺塔頭坊の庭から見た富士山
 
私は浄土宗のお寺の「花まつり」が好きです。
何でも、誰でも優しく迎え入れてくれる優しさと、文化的な懐の深さがあります。
今年は、身延路でしたから・・・、4月8には、甘茶を飲めませんでした。
 
創価学会は日蓮正宗の在家団体として、牧口常三郎、戸田城聖が創世します。
終戦を迎えると戸田は第二代会長になり75万世帯の折伏を目標に掲げました。
宗門である日蓮正宗としばしば摩擦を起こします。
1991年、創価学会は日蓮正宗から破門され、袂を分けます。
私の記憶でも、昭和30年代、私の生家は創価学会の攻勢を受けて、苦労したようでした。
今日では創価学会は社会的な存在感が増して、折伏の激しさは表から消えたようです。
 
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                          大石寺の重要文化財五重塔
 
 
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木喰上人の生地「丸畑」の景色

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私たちは大石寺を出て、次の目的地「身延町古関丸畑」に向かいました。
そこが木喰上人の生地だからです。
2年前、越後路で小栗観音堂(小千谷)、宝生寺(長岡)に33観音や自刻像を拝観しました。
その興奮や「木喰上人」への関心を深めるには、生地を訪れるのが良い・・・、思ったのでした。
 
   http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42223936.html(長岡宝生寺 木喰33観音)
   http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42278054.html(小千谷小栗山観音堂33観音)
 
本栖湖と身延山久遠寺を結ぶ道が「本栖道」です。
本栖道は谷間を走っていますが、丸畑はそこから折れて山間の細道を上ります。
車はすれ違えないばかりか、枝や草が車体に触れます。
下駄代わりの車でなくては、登れない道です。
 
峠辺りに集落が4つほど点在しています。
四方を栃代山(とじろ山)法山等が囲っています。
馬の背のような丘に小さな畑が点在しています。
油断して農作業をしていたら、谷底に転げ落ちてしまうかもしれません。
平たい畑はない、丸い畑ばかりだ・・・、そんな意味で「丸畑」の名が付いたのでしょう。
 
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            丸畑の集落はこの細道の左右に点在しています。右上が美粧館です。
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   丸畑の集落は4軒ほど家で構成されています。こんな集落が4つ程度あると思われます。
   梅が終わり杏が咲いていました。
 
寛保1年(1741)14歳の木喰少年は江戸に向けて出奔します。
庄屋(伊藤家)の倅といっても次男です。
この寒村で一家を持つことは不可能である・・・、子供心にも理解していたのでしょう。
江戸時代も後半に入ると、貨幣経済がこの寒村にも浸透し、江戸日本橋の薬の行商人が時折村を訪れました。
木喰少年は行商人から江戸の話を聞きます。
「商才があれば・・・財をなせる」
少年の心は踊ります。
「自分も江戸に出て商人になろう・・」心に決めます。
薬の行商人に連れられて、山を降りて、身延路から甲州街道を辿って江戸日本橋で奉公し始めます。
 
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         これは丸畑でも広い畑です。向こうの黒い木は蚕の「桑」です。
 
商人としての自分に満たされないものを見つけていたのでしょう、
45歳の時に木喰戒を受けて、生涯を全国を回って修行の道に入る決心をします。
そして60歳の頃から仏像を彫り始め、93歳で亡くなるまで全国を回って、
人々の求めに応じて仏像を彫って差し上げました。
 
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                                          微笑館の33観音像(復刻)
 
遊行僧になって27年後寛政12年(1800年)、木喰上人は故郷丸畑を訪れます。
かねてからの大願であった全国回遊を終えていました。
そして、その仏像には独特な微笑が現れていました。
微笑仏と呼ばれる笑でした。
 
仏の両頬もおでこもまん丸でした。(丸畑のように)
鉈を持ち、鑿を振るいながら呪文のように呟きました。
 「みな人の こころをまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸」 (木喰上人短歌)
 
遊行僧として確信を持てたのでしょう。
その自信が「自刻像」も増えました。
自刻像とは自分自身を彫った仏像です。
修行を積めば人間誰でも仏になれる・・・、確信が仏を彫った端材で自刻像を彫らせました。
木喰は自分自身を次のように自覚していました。
 「木喰の裸の姿をながむれば 蚤や虱のえじきなりけり」
自分自身をストレートに見つめる目も出来ていました。
 
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             木喰上人自刻像、柳宗悦氏が求め、日本民芸館の目玉です。
 
丸畑の人の苦しみは全国何処の人にも共通していました。
人が生きてゆくには殺生もしますし、嘘もつきます。
綺麗事では家族も自分も、命を守れません。
生きることは仏の教えを破る事でもありましょう。
罪を意識した人は、木喰仏の微笑に許され、助かる気持ちになりました。
1000年余りの日本の仏像の歴史の中で、始めて見せた仏像の慈悲であり、笑みでした。
「解っている。痩せこけた土地丸畑に生まれたお前だから・・・、殺傷するのも致し方ない。しっかり悔る事だ・・・」
 
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丸畑の人たちは木喰上人の帰還を歓迎しました。
「四国堂」を建立し、木喰上人の仏像を並べました。
 
それから、100年後(1924年大正13年)民芸運動の旗手「柳宗悦」が偶然に甲府で木喰仏を見つけます。
木喰は全国に紹介されました。
その魅力に俄然注目されます。
丸畑には全国から美術コレクターが日参し、瞬く間に各家々に祀られていた木喰仏は散失してしまいました。
気付いた時にはもう、跡形もありません。
 
微笑館を建立し、木喰上人の遺物を保存展示しました。
木喰上人には商人としての良い習慣がありました。
大黒帳を書くように日記を残しました。
生家の伊藤家は二階を「木喰館」という名の博物館にしました。
 
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    木喰上人生家の伊藤家。五智如来始め数体の仏像が祀られています。
 
春の陽光を満身に浴びながら、木喰の生地「丸畑」を歩くと・・・、
日本の原型が肌で感じられるのでした。
 
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微笑館の展示場。展示物の資料的な価値はしっかりしたもの。ただ、仏像は復刻したものが大半です。
 
 
 
 
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鰍沢の硯作家「雨宮弥兵衛(13代)」

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私達は木喰上人の生地丸畑から、次の目的地鰍沢(かじかざわ)に向かいました。
私たちの仲間が三越美術部の責任者がいます。
同氏が
”身延路には素晴らしい「硯作家」が工房を開いている、見学しようではないか!”
アレンジしてくださいました。
 
工房は鰍沢宿の南に位置していました。
本来は本栖道を身延に向けて走り、身延道を富士川沿いに登るのですが、
カーナビは細い山道を右に左に指示します。
道の左右に桜が咲いています。
 
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                         北斎「冨嶽36景鰍沢」図。
 
甲府盆地には東西に暴れ川の「笛吹川」「釜無川」が流れています。
両河川が盆地の南で合流し、日本三大急流の「富士川」になります。
鰍沢はその下流に位置して、水陸交通の要衝として古くから栄えた宿場町でした。
鰍沢口留番(かじかざわくちとめばん)と呼ばれる関所がありました。
 
京都の豪商「角倉了以」は富士川の川筋を開削します。(慶長12年1607)
甲府盆地や流域の物産(材木等)を通船する事を可能にしました。
鰍沢から駿河の岩渕まで18里(71キロ)、物産の集積地として鰍沢はおおいに賑わったそうです。
 
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        右が富士川、桜の木の下が雨宮弥兵衛工房の石置き場。桜の木の下オブジェが無造作に置かれ        ています。雨宮弥兵衛氏が若いとき作ったモダンアートが錆びたものです。
 
硯の作家(匠)の名前は雨宮弥太郎氏、その父君の雨宮弥兵衛氏でした。
「雨畑硯」は有名ですし、その作品も何処かで見た記憶があります。
(産地商標が雨畑硯、でも創業家は作家の道を歩んでおりその作品名を雨端硯(あめはたすずり)としています。
その作家親子が私達を待っていてくださり、ギャラリーで作品の説明、
材料の雨宮石(泥板岩)の切り出しから、加工・彫刻の手順を説明してくださりました。
 
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                    雨宮弥兵衛工房に向かう。手前にギャラリーがあります。
 
1690年身延山久遠寺に雨宮孫衞門は富士川支流で黒々とした石を拾います。
この辺は山は金が取れるので砕石は禁制でありました。
でも、川原で石を拾う行為まで禁じられません。
川原に流れ落ちた石を拾って硯を作り始めました。
江戸時代末期には鈍斎(8代目雨宮弥兵衛)が将軍から砕石の許可を得ます。
採石した石を使って「風字硯」を作り将軍に献上します。
鰍沢には硯の職人が集まります。
昭和前半には40軒を越す硯工房・商店が鰍沢には在ったそうです。
 
最近はお寺の塔婆でさえインクジェットプリンターが主流です。
ご住職が筆で書いてくださるお寺さんが少なくなりました。
加えて今では、筆ペンが主流です。
硯の注文は無くなってしまったことでしょう。
鰍沢の硯産業は衰退してしまいました。
残された道は・・・、なくなるか・・・・、美術工芸としての道を進むしかありません。
 
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            鈍斎(8代目雨宮弥兵衛)風の硯。これは月の字をデザインしています。
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                             雨宮工房伝統の風字硯を現代風にアレンジした硯
 
11代雨宮弥兵衛(静軒)は湯河原に住む竹内栖鳳の下で日本画を学んだそうです。
丹念な観察に基づいて写生をし、作品の源泉にします。
有名な鰍硯は写生から出来ました。
また、同氏は東京美術学校(現芸大)で西欧の彫刻を学んでいました。
そこで、図案を基に型を作り、常滑から取り寄せた粘土を使って・・・・、立体的な硯を作ること、硯の量産の道を開きました。
   
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   11代雨宮弥兵衛(静軒)の鰍硯。5匹の鰍蛙が硯の土手に座って硯の陸(墨をする平たいところ)や池(墨の   溜まるところ)を覗いている写生のデザインです。(当写真を含めて3枚雨宮弥兵衛HPより転載しました)
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右側が11代雨宮弥兵衛(静軒)、左が10代雨宮弥兵衛(英斉)のモニュメント
 
 
12代雨宮弥兵衛氏にも会うことができました。
ご子息の説明を黙って聞いておいででした。
東京美術学校では仏師としても有名な北村西望、平櫛田中に学びます。
私がギャラリーの作品を見つめていると、近寄って来られこう話されました。
「この硯は、皇居の新宮殿の落成(昭和43年、東山魁夷で有名)に際して、
お祝い用にお買い上げ戴いた作品です」
12代雨宮弥兵衛さんはおっしゃいます。
「日本の美しさは仮名文字あります。その美しさを硯に表します」
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熱い情熱が迸りさせながら説明する13代雨宮弥兵衛氏。
後ろ静かに息子の説明を聞いていられる12代雨宮弥兵衛氏。
昨年、母屋を焼失した事から、建て替え基礎に座って居られます。
 
庭先には無造作に素材の石が置かれています。
その脇に桜が咲いていて、その根元に金属製のオブジェが二つ、置かれています。
もう錆び付いていますが・・・・・、いかにも現代的で、何を表現しているのか、私には解りません。
そのオブジェが13代雨宮弥兵衛氏の若い頃の作品なのです。
東京芸大の彫刻科を卒業した同氏はモダンアートを志します。
遠回りをしながら30代で家業でもあった硯に取り組みます。
モダンアートは現代を、自分自身を表現する事が特徴でしょう。
硯といった小さな宇宙で、現代を、現代を生き抜く自分自身を表現するんだ・・・・、
そんな意気込みが伝わってきます。
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13代雨宮弥兵衛は作務衣を着るわけでもなく、と言ってジーンズ姿が似合うのでもなく・・・、
街中のガソリンスタンで見かけるような普段着です。
これが、伝統工芸「硯石作家」とは思えない出で立ちです。
ですが、笑顔が素敵な快活な作家でした。
全身の体重を右肩から鑿にかけて、石を削ります。
薄い表皮を剥ぐように、石が削られて形が現れてゆきます。
鑿の刃先は決して鋭利ではありません。
作家の全神経が刃先に集中して・・・・、作家は石に向き合います。
 
その姿を見ていると、禅画を思い出します。
石の上に座って瞑想する禅僧や達磨大師の姿を彷彿させます。
筆で写経をしたり・・・・、書道は自分の心と向き合います。
その用具である硯を作る作業も書道と同じ精神的な世界のようです。
まだ若い13代雨宮弥兵衛しですが、目指している世界は精神的な世界のようです。
「硯といった器に現代を自分自身を表現する」・・・・、それは日本の伝統文化であると思われます。
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         精神を鑿の刃先に集中して、石の一皮一皮を削ぐ作業。何処か禅の修行に似ているようです。
 
春とはいえ、日が傾くと底冷えがする鰍沢です。
私たちは「良い作家に会えた!」
興奮を抑えながら、富士川川べりから南アルプス街道を登って赤沢に向かいました。
この早川の河原が雨宮石の発見地だそうです。
 
 
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雨宮弥太郎氏は三越本店、伝統工芸展(4月18日~23日)で出展されています。
4月19日会場でお会いできることを楽しみにしています。
 
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逢魔時の海棠の花(妙法寺にて)

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今年の梅の開花は約1ヶ月平年より遅れました。
でも、桜の遅れは約1週間、その後の花も立て続けに咲いています。
花好きには次々に急かされる様に見物に出かけなくてはなりません。
なんか、慌ただしい今年の春です。
鎌倉の海棠の花も今が見頃です。
 
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     夕暮れどきの妙法寺、海棠が闇に浮かび上がります。ライトアップされている訳ではないので、暫くの間     だけの美しさです。(今日の写真は何れも妙法寺。撮影4月15日)
 
枝垂れ桜も、海棠も・・・・・・、一番強く美しさを示すのは夕暮れでしょう。
夕暮れどき、あたりは闇の中に消えてしまいます。
でも、花だけが暗闇の中でボーっと浮かび上がります。
花の表情にも陰影がはっきり現れます。
花の下に、花の霊が出てきて、現世の汚れや矛盾を悲しんでいるように思えます。
 
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                                              妙法寺仁王像(上が阿像、下が吽像)
 
桜の花の樹下には狂女が出現する・・・・・、そんな話は数多くあります。
現代では坂口安吾「満開の桜も森の下」でしょう。
謡曲「桜川」(世阿弥作)では、孝行者の少年が出てきます。
貧乏な為, 病気の母を助けられません。
そこで、我が身を人買いに売ってしまいます。
母は尼になり倅を探して旅に出ます。
3年後、母は常陸国に居ました。
桜川の畔、満開の花の下で、踊ります。
「倅の名は桜児、此処も桜川、この花も・・・・桜」
母は散った桜を拾い上げ, 狂ったように踊り興じます。
狂女の噂を聞きつけた僧がお稚児を連れて出現します。
僧はお稚児の母が狂女である・・・、確認します。
親子は嬉し涙にくれます。
親子は連れ立って故郷宮崎に帰ります。
 
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                                  海棠の花、後方は枝垂れ桜
 
                                
桜の花は人を呼び寄せます。
生きた人も、亡くなった人も、特に若くして亡くなった美女も(霊女/りょうのおんな)も・・・。
霊女の現れるのは・・・・、夕暮れです。
だから・・・・夕暮れ時を「逢魔時」と言って外に出ることを憚りました。
百鬼夜行に出くわさないように・・・・。
でも、怖いものを見たいものです。
特に霊女のような美女であれば・・・、
取り憑かれてしまっても・・・、本望です。
 
そんな気持ちは男性なら古人も現代人も変わりません。
落語の「応挙の幽霊」も・・・、そんな男心を巧みに取材しています。
 
鎌倉の心霊スポットとして有名なのは比企ヶ谷の妙法寺です。
比企一族が皆殺しにあった慰霊の寺だからです。
寺の祖師堂の前、比企一族の墓が見守る先に、海棠の花が咲きます。
家内を誘って
「妙法寺の海棠を見にゆこう、逢魔時に・・・」 出かけました。
 
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                                     街道の花、背後の墓標は比企一族の墓群です。
 
 
闇に沈もうとする自刻、同じように考える人もいるのでしょう。
数人が境内で、ボーっと花だけが浮かび上がる時刻を待って居るようです。
こんななら・・・、霊が私にとり憑くリスクは分散されそうです。
アッチのぼんやりした人に取り憑くはずです。
 
修復された二天門の中に、仁王像が浮かび上がっています。
改めて見れば、よくできた仁王像です。
玉眼がピカッと光ります。
 
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        妙法寺の海棠が美しいのは山楓の緑が引き立てているからです。八重桜も出番待ちです。 
 
峰から風が吹き降ろしてきます。
霊は昼間は尾根に隠れていて、夕暮れになると山風にのって降りてくるのでしょう。
海棠の花が揺れます。
余りの妖艶さに背筋に冷気が走ります。
日本人は桜に、中国人は海棠に・・・・・・、心を寄せました。
白楽天は楊貴妃の妖艶な美しさを海棠の花になぞらえました。
楊貴妃の入浴シーンの妖艶さです。
私は、海棠の花の白と紅の入り混じった様子が、
楊貴妃の白い肌が、温まって血の気が満ちて、火照った肌や乳首に思いを馳せます。
 
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             満開の海棠、右は祖師堂、左は5m先から墓地です。
             この細道は墓地から祇園ハイキングコースに続きます。
 
 
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                                               庭の海棠を玄関にいけてみました。
 
 
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「赤沢宿江戸屋」30代目への期待

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4月8日、私たちは鰍沢「雨宮弥兵衛硯工房」を後にして、赤沢の江戸屋に向かいました。
暫く富士川の西側を降って、更に支流の雨宮川に沿って上ります。
道は身延道から「南アルプス街道」に変わります。
南アルプスの懐ろ深く分け入ります。
雨畑湖の少し前、角瀬トンネルを超えて左折、急峻な山道を上ります。
谷間には「春木川」が流れています。
東側の山が「七面山」、修験道の霊山です。
周辺は暗くなるし、道は細い、対向車があったらすれ違え出来そうもありません。
赤沢を知っているのは私達夫婦だけ、同行の11人は
”何処に行くのか?”  不安気です。
 
赤沢宿は身延山(標高1148m)の西斜面にへばりつくようにある集落です。
身延山や七面山(標高1983m)に参詣する信者の宿でした。
身延山は日蓮宗の本山「久遠寺」があり、日蓮上人が眠っておいでです。
七面山は修験道の霊地である事に加えて、日本で唯一女性の入山が許されています。
女性解禁、の大挙を成し得たのは「お万の方(徳川家康の側室)」の力があったことから・・・・。
赤沢宿は二つの聖地に詣でる拠点として江戸時代後半から、
たくさんの信者が「講」組織を作って、この聖地を訪れました。
久遠寺奥の院から約4キロの位置にあります。
 
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    身延山山頂から西方を見る。手前尾根道が身延山参詣路、道が隠れた辺りが赤沢宿。
    手前左が七面山。遠くの雪をかぶった山が南アルプス「白峰三山」
 
現代社会はもう「講」を忘れ去ってしまいました。
でも、昭和30年代までは講はワークしていました。
 
例えば、江戸の「大根河岸」に10人の河岸仲間がいたとしましょう。
彼らは毎年身延山を参詣したいのですが、皆が参詣したのでは河岸は休んでしまいます。
そこで、代表一人が久遠寺を詣でます。
そして、10人分のお札を戴いて戻ります。
御利益は全員に行き渡ります。
全員が信仰を同じくしているから・・・、一人の参詣は全員の参詣であるから・・・、「講」が機能したのでしょう。
翌年はまた別の人が代表として身延山を参詣します。
いつも、同じ宿に宿泊します。
宿には「江戸、大根河岸」の札が架けてあります。
宿から見れば旅人を招く札(マネギ札)であり、旅人から見れば「講中札」と言うことになります。
「大根河岸様定宿」の看板です。
粋なデザインです。
 
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                                   赤沢宿の宿屋軒先に架けられた「講中札」
 
登り始めて約2キロ、突然に視界が開けます。
山道の踊り場に・・・・、赤沢宿がありました。
昭和の初めには9軒あったという講人宿は今では江戸屋一軒が営業をしています。
他の7軒は、使われていませんが、戸を閉ざしたまま「空家」状態です。
若山牧水の常宿「えびす屋」も、江戸屋と交代で名主、長百姓を務めた「大阪屋」も、閉ざされたままです。
大阪屋の納屋は「博物館」になっていますが。
1993年赤沢宿は国の「重要伝統的建造物群保存地区」として指定を受けます。
全国各地に同じ指定を受けた宿場町は数多くあります。
でも、「信仰の宿」は屹度ここだけでしょう。
講がワークしていないことから・・・・・、「空家の保存地区」は此処だけでしょう。
胸に痛いものが走ります。
「消えてしまう前に講人宿に泊まっておこう・・・」
そんな気持ちから、宿に予約を入れたのでした。
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夕暮れの赤沢宿江戸屋。駐車場には私たちの車だけが置かれていました。
 
赤沢宿は標高700m程度でしょう。
夜は早く、寒さがきついものでした。
加えて、明治の建物はすきま風が吹き込んで・・・・、私たちは一つのコタツを囲みます。
寒いのなら・・・・、体の中から温めなくては、食事の前にチビリチビリ始めました。
今日の宿泊客は私達13人だけ・・・、少し心配です。
7時の食事時、女将さんにお願いしました。
「江戸屋さんの歴史を話してください」
すると、女将さんは、
「それならお祖母ちゃまがいいわ!」
そんな訳で、お祖母様が話してくださいました。
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   100畳の宿に泊まったのは私たちだけ・・・・、奥がおばぁ様、
   膳を運んでいるのがその娘で、この宿を切り盛りしています。
 
私は赤沢で生まれて、江戸屋に嫁に入りました。
今年で88歳になりますが・・・・、娘と二人、お手伝い一人をお願いして江戸屋の暖簾を下ろさないでやっています。この写真が孫(曾孫?)になります。
江戸屋を継いでくれれば代30代目になります。
嬉しそうに曾孫さんの写真を見せて下さいます。
 
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    お婆さんは写真を見せて「江戸屋30代目」への期待を話されます。
 
江戸屋は100畳の部屋があります。
ですから、100人を泊める事ができました。
仮眠休憩客を加えれば1日で400人も休んでゆかれました。
休んだ人は大半が握り飯を持って出かけます。
毎日、毎日、握り飯を用意しました。
昭和30年代も大変に繁盛しました。
皆んな手甲脚絆の白装束姿でした。
写真は、江戸屋から久遠寺奥の院に向かった人たちの記念写真です。
 
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     赤沢宿に泊まって、久遠寺奥の院前で記念撮影した身延講の人たち。(昭和40年)と写っています。
 
 
最後に言われました。
「この春の予約は100人も入っています。楽しみもありますから・・・、頑張って江戸屋を守ります。」
屹度、私たちの質問が・・・、こんな話をさせたのでしょう。
でも、昨年の大震災で私たちの考え方もライフスタイルも変わってきました。
若しかしたら赤沢宿が見直される・・・、そんな機運があるのかもしれません。
 
600年も続いた家を守り続けるのは並大抵の努力では不可能なことです。
 
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   講人宿はL 字形の土間が特徴です。お客は何処からでも土間に入って縁側から室内に入ります。
そして、休憩し、仮眠をとって身延山に七面山に向かいます。
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夜になると、框の上に障子で閉め切ります。二重の障子で雨戸は使いません。
二重障子ですが、思いのほか熱を遮断します。明るくなると自然に目が覚めます。
 
「山の料理ですから・・・、なんにもありません」
言われましたが、ご飯が美味しいこと・・・、懐かしいお味でした。
「若しかしたら釜戸炊き・・・!」
台所に入ってみると、ガスがまで炊いていました。
川魚の塩焼きと、鴨肉がメインでした。(1泊2食7500円)
 
天井には沢山の千社札が貼られています。
札を見上げ、貼った人を想像しながら寝ようとします。
 
外では、鳩が鳴いています。
犬が突然吠えだしました。
屹度、猿が出てきたのでしょう。
友人が言います。”満天の星空だ!”
布団から抜け出します。
山に囲まれた狭い空です。
でも、数え切れない数の星です。
月は何処に隠れているのか? 見られませんでした。
 
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                                天井にも千社札が貼られています。
 
翌朝は、鶯の鳴き声で眼を覚ましました。
七面山の頂に光がさし、次第に山陰が消えて明るくなって来ました。
 
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      向かいが七面山、手前が大黒屋さん。
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                                        大黒屋さんのモニュメント
 
 
 
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久遠寺の江戸彼岸桜

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4月9日、鶯のさえずりに目覚めました。
障子越しに柔らかい光が差し込んでいます。
此処は赤沢の講人宿です、昔から此処の宿に泊まった人は、優しい自然に
”もう朝ですよ”・・・・・、起こされた事でしょう。
外に出れば、冷気に思わず首を縮めてしまいます。
もう、とっくに山猿たちは歩き回っています。
目覚めの良さが”今日一日が最高の日”約束してくれているようです。
  (赤沢の講人宿の話は昨日しました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46214400.html)
 
今日は、この旅の第一の目標”久遠寺に詣で、江戸彼岸の枝垂れ桜”を見る事です。
月曜日といえども、桜の季節は大混雑の久遠寺です。
車では久遠寺には入れません。
でも、早朝であれば、石段した、ケーブルカーの横まで車づけできます。
早起き、早行動は、旅を楽しく過ごす要領です。
 
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   久遠寺門前は塔頭坊と土産物店等が並びます。建物の間を桜が埋めます。桜は江戸彼岸が目立ちます。
 
久遠寺の門前町は富士川沿いから約2キロ、参道の左右に続いています。
家並みの間に桜が咲いています。
勿論、桜は”染井吉野”が多いのですが、枝垂れ桜が目につきます。
枝垂れ桜の艶やかな姿は、まさに桜の極みでしょう。
柳のように垂れた枝に小さな花が並んでつきます。
咲き始めは濃いピンク色、日が経てば次第に色が白くなります。
濃淡のピンクのグラデーションが、木の頂きから、吹き上がり滝のように、地表スレスレまで垂れ下がります。
”滝桜”とか”糸桜”と呼ばれます。
 
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       江戸彼岸桜の中でも、枝が枝垂れたものを「滝桜」とか「糸桜」と呼んで愛でます。
 
祖師堂前、庫裡前、二本の枝垂れ桜は今が満開です。
桜の周囲には人垣ができて、見事な桜を見上げています。
皆んな、見事な”咲きっぷり”に感嘆の声を漏らし、自然に笑顔です。
与謝野晶子を真似れば”桜見る人、皆美しき”ということでしょう。
 
 
久遠寺の案内では”樹齢400年”という事です。
400年の星霜を経て、今朝も美しく咲き誇っていてくれます。
そして、人に”生きる悦び”を諭してくれています。
”有難い・・・・・”、つい合掌してしまいます。
桜の古樹に神仏、御神体を仰ぎ見る思いがします。
 
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                        久遠寺庫裡の前の枝垂れ桜。樹齢400年と言われています。
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                               祖師堂前の枝垂れ桜も樹齢400年と言われています。
 
桜といえば「吉野山」でしょう。
吉野は桜の別名でもあります。
今から1300年以上も前のことでした、大和の国葛城山に「役行者/えんのぎょじゃ」が現れました。
実在の人物でしたが、雲に乗って、呪法に秀でた、人智を超えた伝説の人物でした。
修験道の開祖と呼ばれます。
 
役行者は吉野の山上ヶ岳に分け行って修行を重ねます。
そして、蔵王権現を感得します。
一見すれば神将のような仏像、良く見れば神像です。
その姿を桜の木に刻みます。
そして山上に祀ります。
その後、修験道は盛んになり、たくさんの修験者が吉野山に登りました。
修験者たちは手に手に桜の苗を持って吉野山に登り、植えて帰りました。
”御神木を献木する” 信仰が吉野山全山を桜で埋め尽くしました。
 
今から800年前、日蓮上人は南部氏に招かれて、身延山に道場を建設します。
日蓮宗の本山、聖地久遠寺の始まりでした。
日蓮上人は池上で没しますが、ご遺言で久遠寺に埋められます。
以来、久遠寺は日蓮宗題一の聖地、霊地になってあつい信仰の的になります。
 
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     向こうの山間を富士川が降って、駿河湾に注ぎます。 手前が久遠寺です。
     桜は麓から山上に登ってゆきます。(身延山山頂にある久遠寺奥の院からの眺望。写真には写っていま     せんが左手に富士山が望めます)
 
日蓮上人が久遠寺道場で説法されていると、毎日聴衆の中に妙齢なご婦人がいます。
人々は余りの美しさに見とれます。
そして、いつしか「日蓮上人の愛人ではないか?」 人の口に登るようになりました。
実はその女性の正体は、七面山の山の神「白蛇」だったのでした。
七面天女は日蓮宗信徒の守護神として崇拝されます。
 
七面山は2000m足らずの山ですが、幾筋もの沢崩れがあります。
山容を数多くの沢によって・・・・、七つの顔がある・・・・、だから七面山の名がついたのでしょう。
大雨が降れば沢崩れが発生します。
沢崩れ(土石流)のことを「蛇が走った」と言います。
霊山の主は蛇である事が普通です。
 
七つの顔はお題目「南無妙法蓮華経」七字にも符合します。
七面山の西(奥)の沢は雨畑湖に崩れ落ちました。
その石を素材にして・・・、雨畑硯が出来ました。
今から4百年前のことでした。
 
徳川家康の側室「お万の方」は日蓮の教えの信者でした。
日蓮宗と浄土宗の宗論には命懸けで「日蓮の教え」を擁護します。
日蓮の教えは男女の差別はありません。
七面天女は男女の差別なく守護してくださる・・・、確信します。
修験の聖地七面山を「女人禁制」とするのは誤りだ・・・、抗議して七面山麓の白糸の滝に7日間うたれます。
そして、山に分け入ります。
”女人禁制”の誤りを身をもって示します。
お万の方の行動力によって、全国の女人禁制の霊山の中で唯一七面山が禁制を解かれました。
身延講が人気になり、赤沢宿が繁栄したきっかけでした。
 
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   甲州街道と身延道との追分近くにある、実相寺の神代桜。樹齢2000年、日本最古の江戸彼岸桜です。(日   本三大桜の一つ) 筆者はこの桜の存在と信者(修験者)の桜を敬う心が久遠寺の枝垂れ桜を実現したと考   えます。
 
400年前から、江戸の人たちは「身延講」「七面講」「富士山講」等を作って、久遠寺に詣で始めました。
内藤新宿を出て、甲州街道を甲府まで下って、追分から身延道に入ります。
追分の辺りに実相寺(日蓮宗)がありました。
その境内には「神代桜」が咲いて、有名でありました。
今では樹齢2000年と言われていますから、江戸時代初頭の人は「樹齢1600年」と言って崇めた事でしょう。
信者は江戸彼岸桜で、久遠寺も飾りたい・・・、思ったことでしょう。
以来、身延道は枝垂れ桜が多く植えられ、守られてきました。
 
私は、江戸彼岸桜が美しいだけではこれほどの枝垂れ桜が守られてきた・・・、とは思いません。
信仰の力・・・、法華信仰の強さの成果が見事な枝垂れ桜に結実して来た・・・、
そのように考えます。
 
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    矢張り甲州街道と身延道との追分に近い韮崎、武田にある「王仁(わに)の桜」これも江戸彼岸桜です。樹    齢も久遠寺桜と同じ程度と評されています。
 
久遠寺境内の見事な枝垂れ桜を仰ぎ見ながら思います。
この花は「七面天女」のお姿の生き写しであろうか?
それとも、お万の方の精神の強さを誉め上げたのが、この花なのだろうか?
江戸彼岸桜は美しい事も素晴らしいのですが、それ以上に病気にも嵐にも強いのが驚異です。
「人に花のように生きろ!」
教えて続けているのでしょう。
西行にも、誰にでも・・・、もちろん私にも・・・。
 
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   久遠寺は美しい自然と、自然を神と敬う信仰とが為した傑作だと思います。
   自然と人為の調和こそが最も美しく尊い・・・、と思っています。 
   それは、吉野山にも身延山にも共通する美しさ、だと思います。
   写真、五重塔(重文/江戸初期)の背後が身延山山頂。その向こうに七面山が連なります。
 
 
【追記】
昨日書いた江戸屋も江戸時代の初め、一帯が幕府の天領になり江戸屋が名主になったことに始まります。鰍沢で硯石の製造が始まったのも江戸時代の初めです。
お万の方の力によって修験の霊地「七面山」の女人禁制が解かれたのも江戸時代はじめです。
身延路の桜の古樹は殆どが同じ江戸時代初頭です。
それらを繋いで・・・・、上記の説明をしてみました。
 
 
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王仁塚の神桜

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横浜・鎌倉の桜も散ってしまいました。
桜を惜しんで、家内と山梨に向かいました。
目標は北杜市、馴染みの無い名前です。
平成の大合併で、山梨の北巨摩の八市町村が合併して出来ました。
八ヶ岳の麓の長坂町・高根町・大泉町・小渕沢町、金峰山の麓の須玉町・明野村、甲斐駒ヶ岳の麓の白州町・武川村・・・・、彼らが協議したのですから、なかなかまとまりません。
昔から川を挟んだ集落は仲が悪かったのです。
 
”山梨県の北部にある市”その意味で杜(森、山)に北を合わせて、新しい名前にしたのでしょう。
無難で、良く出来た名前でしょうが・・・・、私は地誌を大事にします。
だから、”昔の名前が良かったなあ”  言いたくなります。
 
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      今日の話題は釜無川の河岸段丘上に神々しく咲く「王仁塚の桜」です。
      遠景の山並みは秩父の連山です。この角度で見ると古墳である事が解ります。
 
是等、3000メートル前後の山が甲府盆地に裾を引いています。
美しい自然を「山紫水明」と表現しますが、字の通り”高い峰と澄んだ水”とが北杜市の特徴です。
特に桜の咲く季節は、見事です。
山は冠雪していますし、里の近くの山肌は芽吹き、辛夷や桜が咲いています。
春の山を「山笑う」、冬の山を「山眠る」・・・・、言いますが、
ひとつの山でありながら、
麓は笑って、頂きは眠っているのです。
 
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    今頃を「山笑う」と言いますが、その通りの山肌です。 この山の中に武田八幡社が祀られています。
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    武田八幡神社からの眺め。向かいが昇仙峡のある御岳から秩父連山。
    参道左に王仁塚の桜、右に願成寺があります。
 
 
台風の雨雲が四方の山にぶつかって、大雨を降らせます。
水は一気に沢を下り、中小の河川に注いで、谷間の釜無川に集中します。
戦国時代には武田信玄が、信玄堤を築堤して治水に腐心したのですが・・・・、
自然の猛威はいつも人智を超えています。
 
昭和34年8月、台風7号はこの山間に襲いかかりました。
見る見る、釜無川水系の橋は流され、堤防は決壊してしまいます。
釜無川は水量が多いこともありますが、高低差があって激流であったこと、
土石流には硬い花崗岩の岩が混じっている事・・・・、何れも台風の猛威を増幅しました。
この年、9月の伊勢湾台風が有名で、木曽川等の河口一帯が水没してしまいました。(死傷者102名)
実は被害は1ヶ月前の釜無川水系がより甚大だったのでした。
   (流失家屋6536戸、死傷者851人行方不明33人)
 
私達世代は「釜無川」と聞くと、「底無しに恐ろしい川」と言う想いが隠っています。
橋の上から川面を見渡します。
川幅が広いのは増水対策、築堤が頑丈なのは土石流対策でしょう。
白砂の上に丸い川原石が転がっています。
 
人々は、丸い川原石を拾って道祖神の祠に祀ります。
甲斐国一帯の道祖神だけが川原石です。
他の地域は夫婦の神像が刻まれますが・・・・。
甲斐の道祖神は特異です。
同じ川原石が時に恐ろしい土石流になって人名を奪います。
でも、普段は丸く、人を慰撫します。
「丸い」のは卵であり繭であり・・・・、”たま”であります。
霊を”みたま”と呼びます。(この考えは何れのかの機会に説明します)
 
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   釜無川の支流「武川」の河原。正面左、雲に隠れて甲斐駒ヶ岳、右手は八ヶ岳が位置しています。
   山に降った雨が駆け降りるので河原は広く頑強にできています。向こうの橋の左上に山高の「神代桜」があ   ります。
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   「関の桜」、この辺に身延道の関所があったことからこの名があります。これも江戸彼岸桜です。
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                「関の桜」の根元に祀られた祠。丸い川原石が置かれ道祖神と思われます。
 
 
甲斐駒ヶ岳は好きな山です。
降った雨は伏流水になって、白州町で湧きあがります。
サントリー社はこの名水を使ってウィスキーを醸造し、水自体も売り出しました。
 
その段丘の上、山麓に「王仁塚の桜」があります。
釜無川の河岸段丘の中段に、ポツンと一本、「丘の上に盆栽を置いた」ように立っています。
渦巻いた台風の雨風を全身で受けたことでしょう。
でも、何の傷跡もなく、スックと立っている姿は神々しいとしか言い表せません。
 
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                      王仁塚のさくら。右奥は八ヶ岳、左奥隠れた位置に甲斐駒ヶ岳があります。
 
「王仁」と書いて「わに」と呼びます。
此処は古墳時代「王仁一族」が住んでいました。
王仁一族の父は日本武尊と言います。
その古墳(市の案内では前方後円墳という事ですが、現在の姿は円墳です)の頂上に、
江戸彼岸桜を植えたのでした。
 
樹齢320年(市の案内)ですから、江戸時代始めという事になります。
長い戦乱の時代が終焉し、新田の開発や河川の治水を熱心に行なった時代です。
釜無川の河岸段丘でも新田開発と治水工事が同時に行われた事でしょう。
工事地の真ん中に大きな古墳がありました。
「王仁塚」として崇められていました。
粗末にして、祟ったら・・・・、また大災害が発生するかもしれません。
でも、大きな古墳の裾を削って、田圃にさせていただきました。
死者の霊を慰撫するため・・・、塚の上部に美しく強靭な江戸彼岸桜を植えました。
 
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「王仁塚の桜」は王仁一族の古墳の頂に植えられた江戸彼岸桜です。
 
江戸彼岸桜も320年も生き続ければ・・・、風格が出てきました。
王仁の霊は桜の樹上から四方を眺めます。
西には八ヶ岳、時計回りに北に秩父の連山、東には富士山、
そして、自身の背には甲斐駒ヶ岳に始まる南アルプスが望めました。
 
王仁塚の桜から、丘の道を上れば数百メートルで「武田八幡宮」があります。
丘の道を下れば古代の名刹「願成寺」が建っています。
街道は身延道、江戸時代には白装束の身延講や富士山講の信者が往来しました。
古墳時代から現代まで・・・・・、美しい天然は少しも変わらないことでしょう。
そして、人間が自然への敬意を忘れた頃、猛威を振るって見せました。
 
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                        武田八幡宮への参道、武田八幡宮は古色蒼然とした神社です。
 
王仁塚の大桜・・・・・・、それは”自然”と言う名の神様に捧げた”玉串”のようなものなのでしょう。
桜の梢には沢山の野鳥が集まって、賑やかです。
「この木なんの木・・・不思議な木。この木、王仁様のご神木・・・・・」
歌っているようです。
 
向こうの願成寺の森から”ケーン・ケーン”
鋭い雉子の鳴き声が響き渡ります。
「古墳詣でが終わったら・・・、古刹にも参詣して帰れ・・・」
命じているようです。
私達は願成寺に下ります。
 
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         この日は甲斐駒ヶ岳の頂きは雲に隠れて眺められませんでした。写真は「真原の桜並木」
 
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     耕地整理された田んぼの中の王仁の桜。風雨に耐えて来ているのは江戸彼岸桜が強靭だからでしょ      う。加えて病虫害にも強いのです。桜の真近に高圧線を通す電力会社の無神経には呆れます。
 
 
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遊行寺の八重桜

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”桜の花は散り際の潔さが良い・・・”、とは言われますが、咲いたと思ったらサッと散ってしまいました。
未だ心残りです。
TVでは大阪造幣局通り抜けの桜が、赤坂御苑の桜が咲いた・・・、報じられています。
そう、桜が散ったら、次は八重桜が咲いて楽しませてくれます。
私は、藤沢の遊行寺に出かけます。
遊行寺の八重桜は湘南随一だからです。
 
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遊行寺の参道には両側を八重桜が覆っています。
 
私の生家は大家族でした。
お正月には家族全員でカルタ取り(百人一首)に興じました。
でも、末っ子の私に取れる札はありません。
   いにしえの奈良の都の八重桜 今日九重に匂いぬるかな   伊勢大輔(いせのたいふ)
この八重桜の歌が私の得意札でした。
祖母が私の目の前に「けふ ここのえに においぬるかな」 取り札を置いてくれました。
”いにしえの・・・・・” 読まれれば、
「ほら!マーちゃん(私の渾名)八重桜だよ・・・!」
私の手には八重桜の札が握られました。
 
大人になって、何度も奈良公園に、春日奥山に”奈良の八重桜”を探しましたが、
見つかりませんでした。
「奈良の八重桜」は病虫害に弱い種なのでしょう。
 
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遊行寺は4月21日から23日まで開山忌です。
毎日遊行念仏が奉じられ、最終日にはお稚児さんが行列します。
遊行寺は、遊行四代 呑海上人が開山で、その法要が毎春営まれます。
八重桜は開山忌を飾るように、この時期見事に咲く八重桜を植樹したのでしょう。
 
八重桜は参道の両側に植えられています。
この辺は白い色が目立つ典雅な八重桜です。
普賢象と呼ばれる種です。
普賢菩薩を背に載せる白い美しい象の事でしょう。
沢山の花弁の重なった花の真ん中から、長い雌蕊が伸びています。
雌蕊が伸びた姿が象の鼻のように見えます。
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    花の顔が象に似ているから? 普賢象の花
 
本堂前の大銀杏も芽吹き始めました。
その周囲にも、本堂前にも濃い桃色の八重桜が咲いています。
此方は関山と呼ばれる種だと思います。
妙心寺は関山慧玄(かんざんえげん)が建てました。
紅白の八重桜を植え分けたのは・・・、開山忌を盛り上げたい・・・、
開山忌に集まる信者を”良く来なさった!”誉める意味でしょう。
 
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    奥が本堂、手前がシンボルツリーの大銀杏。その前の八重桜が「関山」 右手に見えるのが「普賢象」
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    本堂前の八重桜「関山」、後ろは本堂に張られた五色幕、開山忌の法要準備が進んでいます
 
私は放生池に向かいます。
畔の枝垂れ桜の花はもう散ってしまっただろう・・・、思いながら。
先週満開の花を見せて戴きました。
ところが、まだ満開を維持しているのです。
お隣の桂の大木は先週芽吹いたばかりだったのに・・・、もう青葉です。
桂の緑に枝垂れの薄紅の花が良く映えます。
    満開の枝垂れ桜は次に書きました(4月9日)。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46202685.ht
 
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                            枝垂れ桜、樹下には静雲さんの句碑と墓があります。
 
”1週間も満開で、よく頑張ってるね・・・・”
私は枝垂れ桜の幹を撫でてみます。
 
枝垂れ桜は答えたようなきがします。
”開山忌までは頑張らないとね・・・・”
 
枝垂れ桜の樹の下には句碑が建っています。
        生きて居て 相遇ふ僧や 一遍忌  静雲(じょううん)
静雲さんは若い頃、此処大本山遊行寺で修行をしたのでしょう。
同じ年頃の青年僧と寝起きも修行も一緒でした。
修行を終えて地方に散って、それぞれ老僧になりました。
開山忌はお坊さんたちの同窓会のようです。
”貴僧は老けたな、白髪だらけじゃないか”
”貴人こそ、読経の声も細ったじゃないか!”
言い合いながら・・・・・、来年の開山忌にも生きて顔を合わせたいものだ・・・、
思ったことでしょう。 
     (静雲さんのことは次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44937375.html)
 
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                                 枝垂れ桜、背景は桂の青葉です。
 
そんなお坊さんたちに見て欲しい・・・・!
枝垂れ桜は、開山忌まではと、風に雨に耐えて来たのでしょう。
 
八重桜も、枝垂れ桜も、遊行念仏も今週末は見頃(聞き頃)です。
遊行寺は誰にでもやさしい、いいお寺さんです。
 
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甲斐国は桃源郷で・・・・。

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もうじき、GWです。
サラリーマン時代は、ワゴン車を駆って、子供三人時には父母もを乗せて遠出をしました。
 
朝自宅を出て中央高速に入ると、昼頃に甲府盆地勝沼に着きます。
先ず、大善寺に詣で、近くの野辺にビニールシートを敷いて、昼食です。
辺り一面、桃畑です。
でも、大半の桃の花は摘花済みで、華やかさはイマイチでした。
「少し、遅かっようね!でも、綺麗ね。」
母は少女のようにはしゃいでいました。
満開の桃畑、段々畑が桃色の絨毯で敷き詰められた景色は想像するばかりでした。
4月の中旬までに来なければ、桃源郷は拝めません。
 
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   今日の話題は甲斐の桃畑、背景は八ヶ岳です。桃畑には脚立が立っていて摘花の作業が進んでいます。
 
4月16日、私は家内を誘って甲府の桃畑に出かけました。
甲府盆地は文字通り「桃源郷」です。
遠く八ヶ岳は雪化粧しています。
甲府の街は霞に曇っていますが、その周辺から近景は桃色のパッチワークで飾られています。
私たちは母の遺品を持ってこなかった事を悔やみます。
「お母さんにもこの桃畑、見せたかったね・・・・」
呟きます。
「これからは小旅行でも遺品を一つ持ち歩こう・・・、お守りになるかもしれないし・・」
 
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一宮辺りの桃畑、峠の向こうは富士五湖になります。
                        
六朝時代の詩人陶淵明(365~427年)が桃花源記を著します。
 
武陵と言う漁師が船を漕いで上流に、更に上流に上ります。
何処までやって来たかわからない程の山奥で、大きな岩の前に出ました。
その岩には、狭いトンネルがありました。
武陵はトンネルをぬけました。
すると、目の前に一面満開の桃の花が咲いています。
そこは、田圃も畑も桑畑もあり、里人は楽しそうに農作業をしています。
人々は外界との係わりを避けてこの別天地で、
慎ましやかに力を合わせて生活しているのでした。
 
武陵は里人に聞きます。
里人は言いました。
「自分たちは秦の時代の戦乱を避けて、家族や村人共々此の地に隠れて住んでいるのです。
この、誰も人が訪れない山奥を協力して開拓したので、今では平和な生活を送っています。
私たちのことを口外しないでくださいね!」
 
桃源郷は今でも中国の山奥にはありそうです。
西洋のユートピアとは似て非なるもの・・・、原始共同体のような平和郷です。
 
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一面の桃畑、冠雪した八ヶ岳、雲雀の囀りを聞きながら好きなスケッチをする・・・、最高でしょう。
 
桃畑の中に点在している白い花はさくらんぼでしょうか?
それともスモモでしょうか?
濃い桃色の中に白い花が混じって、アクセントになっています。
所々鯉幟が上がっています。
甲府の鯉幟は鯉よりも幟(のぼり/旗のようなもの)が立派です。
鯉幟の上がっている家は、若い働き手もいるし、次世代も育っている幸せな家なのでしょう。
 
桃の花の摘花は重労働です。
花を摘んで、桃を実らせる花だけを残します。
残酷なような作業ですが、これをしなければ大きな果実を収穫出来ません。
脚立の上で、一日中花を摘むのは高齢者には不向きな重労働です。
 
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                さくらんぼ(?)それともスモモ、白い花が桃畑に混じっています。
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                        家族、近所全員で摘花作業に勤しんでいます。重労働でしょう。
 
此処は釈迦堂遺跡に近い桃畑です。
農家のお母さんが小屋を立てて、茶店や土産物を商っています。
私達は「焼き草餅」を注文して、渋茶で戴きます。
傍には桃の切花を販売しています。
一束300円の大廉売です。
叔母さんが一束求めました。
 
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         釈迦堂遺跡に近い茶店。桃の切り花を商っていました。
         私たちは縁台に座って焼き草餅をいただきました。
 
叔母さんは呟いておいでです。 
「昨年は主人と二人して来ました。
此処で飽かずに桃の景色を眺めて帰りました。
今日は一人です。
墓前に桃の花を奉げます・・・・」
言われました。
 
綺麗な桃の花ですが、見つめる人によって様々です。
悲しみもあれば、辛い思いもあるようです。
私は好き勝手やってきて・・・、たいして成果も挙げられなかった人生ですが・・・、
せめて長生きすれば・・・・、支えてきてくれた家族を悲しませなくて済みそうです。
 
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                              南アルプス地蔵岳(?)を背景に、桃畑。
 
 
 
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江戸城で始まった「さくら草」ブーム

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江戸時代の寛文年間(1661年~1672)のことでした。
ちょうど今頃、4代将軍徳川家綱は荒川沿いの田島ヶ原(旧浦和市)にお鷹狩りに出ていました。
江戸の東には隅田川、荒川、中川が江戸湾に注ぎ込んでいます。
何れも暴れ川でしたが、特に荒川はその名の通りの暴れ様で度々氾濫を起こしていました。
その対策として流域には広い原を置き、大雨の際に薄い調整池の役割を果たしていました。
荒川は日本一、幅の広い川なのです。
 
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  日本桜草の原種「田島」。名前は自生地田島ヶ原よりとった(特別天然記念物)。
  この鉢は鎌倉さくら草会の作品です。
 
将軍は足元に可憐な紅色の花を見つめます。
”桜のように可愛い花じゃのう・・・!”
もう散ってしまった桜を懐かしみます。
将軍に従った武士達も、一緒に持ち帰りました。
そして、江戸城内では「さくら草」のブームが沸き起こりました。
 
荒川は秩父と信濃の国境にある甲武信岳(こぶしだけ)に源を発する大河です。
源流域のどこかにさくら草が咲いていたのでしょう。
その種子が流されて、下流域の田島ヶ原に自生した。
湿地であって草刈もされた・・・・・、さくら草には最適な環境だったのでした。
更に、下流の浮間ヶ原(北区)には白いさくら草が自生していました。
江戸城内では、紅白のさくら草をルーツにして、様々な育種改良が競われました。
 
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   白い日本桜草のルーツ「浮間」。こちらも自生地の地名が取られています。(鎌倉さくら草会の作品)
 
紅白のサクラ草を掛け合わせると・・・、白地に紅の縁が入ったさくら草ができた、
花弁の縁に切れ込みが入った・・・、
さくら草を気に入った鉢に入れて、江戸城内で、江戸下屋敷内で展示品評会が行われました。
お互いの花を愛で、誉め合って・・・・、その素晴らし花の種子をいただいて、
また、花を咲かせ、花粉を掛け合わせて、新種の開発にいそしみました。
 
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                    日本桜草の一品種「落ち葉衣」。鎌倉さくら草会の大船フラワーセンター展示場にて。
 
さくら草は多年生草本です。
秋には茎は枯れてしまいますが、根は越冬します。
翌年、新たに芽吹いて花を咲かせます。
でも、種を蒔いて、苗を育てて、花を咲かせるのが楽しみです。
去年は負けても、今年は新しい種で勝るかもしれません。
盆栽のように積年の努力を競うのとは異なります。
 
そこが、武士たちの張りあいでもあったことでしょう。
以来、200年間に300種もの新品種が開発されました。
 
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          日本桜草の一品種「浜千鳥」。鎌倉さくら草会の大船フラワーセンター展示場にて
 
ちょんまげ、裃の怖い武士が、可愛いさくら草を育てて、
見比べて、お互いの作品を褒め合う光景は如何にも平和です。
町人達はさくら草より朝顔やほおづきの方が好みだったようです。
でも、長屋の路地にも鉢植えがなされ、様々な花が咲いていました。
 
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                  日本桜草の一品種「千鳥」。鎌倉さくら草会の大船フラワーセンター展示場にて
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    大船フラワーセンター内で展示されている「鎌倉さくら草会」の作品。同会はフラワーセンター内に日本桜    草を自生させています。菖蒲田等に自生して花を咲かせています。
 
さくら草ブームは明治維新や太平洋戦争の戦時下では下火になってしまいました。
武士や軍人は戦時下ではさくら草どころではなかったのでしょう。
でも、平和な時代が続くと、さくら草ブームはまた復活してきました。
 
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    西洋さくら草のプリムラポリアンタス(P. polyanthus)、
    日本桜草に較べれば花が上に上に重なる様に咲くので、目立ちます。
 
戦後ルースベネディクトは「菊と刀」を発表します。
平時は菊を育てている日本人ですが、追い込まれると「刀」を握る、二面がある・・・・、と説明しました。
ベネディクトが日本桜草を知っていたら表題を「桜草と刀」に変えていたことでしょう。
そして、日本を開戦と言った袋小路に追い込んだルーズベルト大統領を批難したかもしれません。
 
さくら草には三兄弟があります。
先に紹介したのが「さくら草科日本桜草目」です。
私たちが花屋の店先で購入する園芸種が西洋さくら草で(P. polyanthus)、プリムラ・マラコイデス(P. malacoides)、プリムラ・オブコニカ(P. obconica)等です。
そして、九輪草と呼ばれる種もさくら草の仲間です。
 
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       これが九輪草。九輪は五重塔の天辺にある九輪に似ているから。茎の周りに線香花火のように咲き       ます。花は茎の成長に合わせて上に上に伸びて咲き続け、九つの輪にもなります。
 
さくら草は世界で400種あると言われます。
でもその内300種は日本桜草で、種を開発したのは江戸時代の武士という事になります。
歴史も愛情も西洋さくら草を圧倒しています。
勿論、可憐さや雅さも・・・、一番ですが、派手さは西洋さくら草に、背丈は九輪草に負けてしまいます。
でも、改めて日本桜草の良さが見直されているようです。
 
日本女性もプリムラのようではなく・・・・、日本桜草のようであって欲しいものです。
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                                 鎌倉浄智寺境内のプリムラポリアンタス。
 
 
 
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木の芽時の花「紫大根」(北鎌倉で)

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山の木も、街の街路樹も一斉に芽吹きました。
言葉通りの「木の芽時」です。
山菜摘みやお花見など自然とのふれあいが楽しい季節です。
でも、人の体は季節の変化について行けずにだるかったり、病気勝ちになりやすいものです。
心も、何もする気が起こらなかったり、ブルーな気持ちに陥り、ふさいだりします。
 
私の世代は「五月病」と呼びました。
大学に入って、新社会人になって、意気軒昂だったはずが・・・・、何にも手がつかず、
昔の友人を懐かしんだり、人を恋しく思ったり・・・・、一人で塞ぎ込んだりしてしまいました。
 
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                     駆け込み寺門前「旧松ヶ岡」の紫大根の花、今日はこの花が話題です。
 
授業をサボって、上野の森に出かけて博物館に入ったりして・・・、ぼんやり過ごします。
博物館の庭にも、隣の芸大の庭にも、寛永寺の境内にも・・・・、ブルーな花が咲いていました。
花の名前は「花大根」「紫大根」・・・・、どこにでも芽吹いて群生しながら花を付けます。
花期も長い、したたかな植物です。
 
花弁は4枚、菜の花と同じ十字花植物です。
紫大根と言っても、根は大根のように太くはなりません。
「紫菜の花」と言ったほうが、名が体を表していると思うのですが・・・・、
何故か「大根」と言われています。
 
北鎌倉駅を降りて、駆け込み寺の門前に出ます。
「駆け込み寺」は江戸時代、離婚の申し立て権利のなかった女性が唯一駆け込む事のできる「裁判所」でした。
離婚訴訟の場所・・・、ですが用命皇女の御所の名をとって「松が岡」と呼ばれました。
その、お白州のあった場所に割烹の「松ヶ岡」がありました。
屹度オーナーが歴史好きだったのでしょう。
わざわざ、真っ黒い壁、太くて四角い格子戸も奉行所を思わせるデザインにしました。
その黒い格子戸を背景にして、紫大根の花が咲きました。
花の余りの存在感に街ゆく人は足を止めました。
でも、奉行所なんて入るのはためらわれます。
昨年、惜しまれて閉店してしまいました。
店はイタリアンレストランになりましたが・・・・、紫大根は変わらず咲いています。
逞しいのがこの植物の第一の特徴です。
 
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                             松ヶ岡の後はイタリアンレストランになりました。
 
20日大根(はつか大根)の名もあるとおり大根は収穫が早いものです。
まして、紫大根は荒地でも、多少の日陰でも・・・、場所を選ばず発根して直に食べられます。
「諸葛菜」の名は 三国志の英雄「諸葛孔明」がこの種を持ち歩き、
出陣の先々で蒔いて食料にしたからだそうです。
真偽のほどは別にして、青い花が常に冷静に明晰な判断をした諸葛孔明のイメージに似ていたからでしょう。
”諸葛菜の青菜炒め”なんて中華料理にあれば直ぐに注文したい私ですが・・・、
日本でも中国でもお目にかかった事はありません。
 
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                                            浄智寺境内の紫大根の花
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   浄智寺竹林の紫大根の花。上段の境内に咲いた花の種子が流れてきたのでしょうか?
 
駆け込み寺のお隣、浄智寺は一昨年竹林に手を入れました。
伸びるに任せていた真竹の林を間伐したのでした。
同時に生い茂っていた木も伐採しました。
地面に光が差し込むと・・・、なんと一斉に紫大根の花が芽吹きました。
諸葛孔明のように竹林に種を蒔いたのかも知れません。
はたまた、境内に茂った紫大根の種が雨水で流されて来たのかもしれません。
 
此処には白雲木が二本あります。
5月になれば、頭上に白雲木、足元に紫大根・・・、同時に楽しめそうです。
 
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                                           貞宗寺竹林の紫大根の花
 
竹林と紫大根は相性が良いようです。
浄智寺の先の建長寺でも半蔵坊の竹林にはこの花が自生しています。
大船に戻って貞宗寺の竹林にも自生しています。
竹林に生育できる下草は限られています。
やはり、たいした生命力なのでしょう。
 
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由比ガ浜に咲く「浜大根」の花

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4月24日は久々の快晴で、強い日差しに照らされて今年最初の夏日になりました。
私はヒートテックの下着を着ていた、もう汗だくになりました。
こんな日は海岸に出かけるのが楽しいもの・・・、もう浜大根の花は散り際で、浜えん豆が咲き始めた事でしょう。
鎌倉の由比ガ浜に出かけました。
 
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     鎌倉由比ガ浜4丁目辺りの砂浜、飛砂防止柵の周りは春は浜大根、夏にかけて浜えん豆、浜昼顔が群     生して開花します。
 
由比ガ浜には三本の川が注いでいます。
西から稲瀬川、滑川、豆腐川です。
稲瀬川の河口辺りの砂丘には浜大根が群生しています。
今年も見事に咲きました。
もう、散り際で、花が散った後には種子が出来ています。
種は菜種と同じですから・・・・・、菜種油が採れるはずです。
栄養価が高いので、雀も好物なのでしょう。
浜大根の花陰でチュンチュンと食事中です。
 
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                   浜大根の花、黄色ければ菜種と全く変わりません、同じ十字花植物です。
 
 
沢山のサーファーが出て波乗りに興じています。
犬と散歩したり、貝殻拾いに、甲羅干しに・・・・、様々に海風を楽しんでいます。
海風は体を元気にするもの・・・・、湘南の海岸沿いには結核病棟が建ち、多くの作家が療養をかねて住みました。
私も、胸一杯を海風で満たそうと、浜大根に囲まれて腰を下ろしました。
耳元に蜜蜂がやってきます。
向こうではカラスがお嬢さんのお弁当を狙っています。
 
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                          浜大根のむこうでは波乗りに夢中なサーファーが・・・・。
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         甲羅干しのお嬢さんの周りに、泥棒カラスがぐるぐる回って・・・、お弁当を狙っているようです。
 
西側の小山が霊仙山、その山を超えれば極楽寺があります。
由比ガ浜の管理は極楽寺の忍性が行なっていたそうです。
と言うのは、このあたりを前浜と呼んで、普段は市が開かれ、
粗末な掘建て小屋が建って、庶民が住んでいました。
彼らが亡くなれば・・・・、前浜から海に流されました。
砂浜は京都の鴨川と同じで・・・・・、庶民・町人・乞食等の生活の場でした。
京都なら「川原者」、鎌倉なら「浜辺者」とでも呼ぶものなのでしょう。
 
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                                  ワンちゃんとお散歩で・・・、遠くは逗子マリーナです。
 
元弘3年(1333)年、新田義貞は稲村ヶ崎の先端を徒歩で回って前浜に攻め入りました。
そして、前浜一帯に火を放ちます。(太平記)
前浜に住んでいた人々は命からがら山に逃げた事でしょう。
落命した人も多かった事でしょう。
幕府執権北条高時は抵抗することなく、割腹自殺してしまいます。
その墓は祇園山登り口の「腹切り櫓」に小さな五輪塔です。
その潔さのお蔭で鎌倉の市街地は焦土に化すことなく守られました。
鎌倉市歌では、何故新田義貞が謳われて、北条高時が歌われていないのか・・・、
私は少し不満です。
最後の将軍「徳川慶喜」、最後の執権「北条高時」・・・・、どちらも心が惹かれます。
新田義貞は荒くれ者であり、高時は将来を見る眼を持っていた・・・、思います。
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   由比ガ浜から稲村ヶ崎方面を見る。埋め立てられたので新田義貞が攻め入った時の面影はありません。
   岬の向こう、七里ガ浜から見れば昔の面影が楽しめます。
 
鎌倉時代には未だ菜種油を灯りにする事はありませんでした。
お寺や高貴な武士は蜜蝋で作った蝋燭やハシバミ(ナッツのような木の実)や胡麻油を使っていました。
一般人が、蝋燭が使えるようになったのは櫨の実から蝋燭を作る事を発明したからでした。
また、菜の花を育てて菜種油を使えば、良い行灯になる・・・・、知ったのも江戸時代からでした。
この、浜大根の花から・・・、菜種油を採取したら良かったのに・・・・、思ったりします。
 
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                                 海を見つめるお地蔵さん。向こうの小山が霊仙山
 
海開きの準備でしょうか?
重機を使って砂浜を掃除しています。
「此処は海面4メートルの高さです」
「地震が来たら、高台に避難しましょう」
標識が建っています。
此処から一番近い避難場所は?
長谷観音の裏山でしょうか。
私の足では20分くらいかかりそうです。
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                                   此方が三浦大根の花・・・・、浜大根と変わりません。
 
 
 
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澤田美喜記念館(隠れキリシタン資料館)を見学する

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JR大磯駅はスペイン瓦の明るい建物です。
緑の中に、湘南の海に、よく似合います。
駅舎を降りると、駅前ロータリーの前に小高い岡があります。
その岡の頂上に「ノアの方舟」風の建物があります。
二階が教会で、1階が「隠れキリシタンの資料館」です。
施設名は「澤田美喜記念館」です。
私は細い道を、スダジイなどの樹下を登って、方舟の前に進みます。
踊り場に「キリシタン燈籠」が立っています。
実に美しい燈籠です。
灯篭の前で、教会を仰ぎ見ます。
ノアの方舟の舳先が迫って見えます。
 
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      緑陰の向うに教会の建物が見えます。建物は方舟の形です。
      この1階が澤田美喜記念館で、隠れキリシタンの遺品が展示されています。
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    茶人の古田織部がデザインした灯籠。織部はじめキリシタン大名がこのデザインの灯篭を作って祈りの     対象にした、と言い伝えられ、別名をキリシタン灯籠と呼びます。
    全体が十字架の形であること、アルファベットの組み合わせ文字、
そして最下段にマリア像を思わせる像が彫られています。
 
澤田美喜は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として生まれ、外交官の澤田に嫁ぎます。
そして、長年イギリスで生活します。
イギリス滞在中にキリスト教の信仰を深め、偶々見学した孤児院に深い感銘を覚えます。
 
戦後三菱財閥も解体を命じられます。
岩崎本家は大磯駅前の別邸も財産税として物納します。
一方戦後社会には孤児が溢れ出てきます。
若い米軍の占領兵士が父親でした。
母親は売春婦だったり、自由恋愛であったり、強姦された事もあったでしょう。
街に孤児が溢れるのはベトナム戦争を描いた「ミス・サイゴン」と同じでした。
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澤田美喜は混血孤児の救済に立ち上がります。
かって、自分が遊んだ大磯別邸を買い戻すことを決意します。(買い戻し金額400万円)
自分の全財産を投じます。更に寄付を募ります。
しかし、基金は不足しています。
困り果てていた時、英国人エリザベス・サンダースが英国大使館を通じて、170ドルが寄付されます。
この寄付が勢いをつけ基金が出来ました。(1948年)
澤田美喜は孤児院を「エリザベスサンダースホーム」と名付け、その厚意を長く伝えることにしました。
此処で守られ育った、孤児は1400人(2010年)を超えました。
 
 
混血孤児が次第に成長します。
孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見迫害を受けたりします。
そこで、1953年小学校を、1959年中学校を創立します。
今では一般家庭の子女も教育しています。
 
 
熱心なキリスト教徒であった澤田美喜は生涯をかけて隠れキリシタンの遺品の収集しました。
昭和63年、美喜の遺志を伝えるため「澤田美喜記念館」を竣工します。
記念館をはいると、美喜の次の文章が案内されています。
 
「(私は)10数年の海外生活の中で、日本人は飽きっぽいと批評されてきました。
日本に帰って日本のキリシタンの歴史を見たとき、移り気であると云われている日本人が真理と信仰のためにかくまで命を落とし、血を流して戦い抜いた跡を見て、改めて全世界に向かって叫びたくなった。
我々日本人は宗教史上比類のない試練と迫害を受けても毅然として正義に突き進む勇気と信念を持っていたことを。(中略)
何れも、尊い殉教の人々、朝な夕なの手擦れの品々、人たちの身辺にありしものと思えば、この一つ一つに朽ちざる生きた魂のあえぎを覚える。    (中略)
最後の審判の日は近い。それと共に天国に近づいている。
幾多の殉教者たちの祈りととりなしは、その愛する子孫のために、その終わりの日の美しき準備のために、いよいよ盛んに捧げられいることが感じられる。」
 
この信念が記念館の建物を「ノアの方舟」にしたのでしょう。
生コンクリート打ち出しで、木の素材を生かした・・・・、昭和60年代流行のモニュメント建造物です。
 
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少し、前置きが長くなりすぎました。
肝心の隠れキリシタンの遺品を紹介しましょう。
一言で表現すれば「本物は違う」という事です。
 
先ず、度肝を抜かれたのは記念館の入り口長押の上に置かれた蟇股です。
館長に聞けば千葉県にあった廃寺の門上にあったものだそうです。
    (館長さんに撮影を許可されました)
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右がイエスを抱くマリア様、左がヨセフ、キリストが厩で誕生する場面です。
背景にある樹木は棕櫚の木、そして二人のあいだには何故か「釜」が置かれています。(本来ならパン箱のような形です)
 
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上はマリア地蔵尊です。10Cm足らずの小像です。
硬い石を丁寧に刻んで出来ています。
唇と額に朱が残っています。
上品な面差しで、女性らし優しさに満ちています。
そして、背中に十字架が刻まれています。
 
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上記は襖の取っ手です。楕円の長径は10Cmに足りません。
銅銭がデザインされていますが、下の銅銭には十字が刻まれています。
取っ手を裏返すと、十字架が浮き出されています。
記念館を訪れた美智子妃殿下はしみじみと見詰めておいだったそうです。
生活の中に、信仰を大切にした日々が想像されます。
 
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中央はマリア像、右手にキリストを抱いておいでです。左手にはイチジクの葉をお持ちです。
これは宣教師が持参したもので、スペインの像だそうです。
周囲の黒く煤けた像は多くが日本人が隠れて刻んで、拝んできたマリア像です。
飛騨で発見されたもの等もあり、一見すると円空風ですが、勿論違います。
飛騨の匠ならこれくらいは刻めそうな、素人ぽい、民芸風の諸像です。
 
展示品を分類すると、宣教師が持参した外来もの、キリシタン禁教令だだされる前の遺品、
そして禁教令が出されてあと、地下に潜って隠れキリシタンになった後の遺品・・・、に分けられます。
私の興味をそそるのは三番目の隠れキリシタンの遺品です。
 
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踏み絵が4点程度展示されていました。
2枚はブロンズ、2枚は彫刻板のような木版にキリスト像やマリア像が描かれていました。
どれも、数万人が踏みつけたのでしょう。
お顔もお体も磨り減ってしまっています。
 
奉行所にしょっぴかれたキリスト教信者の疑惑をかけられた者は、踏み絵を踏まされました。
踏み絵を踏めばよし、躊躇えば命を失うことになります。
仏教の信者でも、他の人の信仰は尊いと思います。
キリスト教徒が命よりも大切にしている像です。
 
阿弥陀様を信仰していない人でも、阿弥陀様のお顔を踏むことはできません。
阿弥陀様でマリア様でも、これを人の信仰を足蹴にする事は憚れます。
自分自身の人間性を否定するような気になります。
だから、踏み絵を迫られた時、躊躇する人も多かった事でしょう。
 
私は館長さんに尋ねました。
「遠藤周作さんは沈黙を書くにあたって、この踏み絵を見られたのですか?」
綺麗なお声の館長さんは答えられました。
「遠藤さんはこの記念館の発起人になってくださいましたが・・・、
沈黙を書かれるきっかけにこの踏み絵がなったか・・・、それは解りません。」
 
キリシタン禁教令が出て200年間、我が国には宣教師も聖書も無い時代が続きました。
その中で、親から子にキリストの教えが綿々と引き継がれました。
自ずから、日本人の民族性や、日本列島の風土が隠れキリシタンに色濃く影響したでしょう。
本家本元のキリスト教とは似て非なる教えになっていたことでしょう。
 
禁教を厳しいものに変えたのは「島原の乱」でありました。
天草四郎時貞の檄文は願文も展示されています。
展示場は狭い空間ですが、一つ一つが命をかけた信仰、血を流して守り抜いた信仰の証です。
信仰を失った現代にあって・・・・・、貴重でありましょう。
 
 
私は館長さんに話しました。
「この展示は実に疲れました。一つ一つの展示は小さくて・・・、十字架を探すのに”謎解き”のような面白さがありました。でも、その十字架に数百年の間、隠れキリシタンと呼ばれた人々の命が注がれていたと思うと、その重みで圧倒されました。」
館長さんは優しげに見送ってくださいました。
 
私は全国各地で、隠れキリシタンの遺品を見てきましたが・・・、何時も”本物かな?”思っていました。
隠れキリシタン・・・、言われればそのようにも見えますが、
そうではない、思えば何のことはない観音様やお地蔵様です。
 
矢張り”本物”を見ると違います。
命懸けで守った信仰の遺品には、圧倒されます。
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   阿弥陀如来立像。背面が扉になっていて、その中に象牙の十字架が隠されています。十字架にはキリスト   の磔姿が刻まれています。蟇股以外は「澤田美喜記念館」の見学ガイドブック、絵葉書から転写しました。
 
 
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菜の花畑のソレイユの丘

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昨日も今日も雨が降りしきります。
今のうちに雨は降ってしまえば、GWは五月晴れになる事でしょう。
この長雨は「たけのこ梅雨」と呼びます。
「雨後のたけのこ」とも呼ぶように、この雨で筍はニョキニョキ頭を地表にもたげます。
でも、私はこの春、胃を患ったので、大好物の筍は当面眺めるだけです。
 
3月末から4月の初めに降った長雨が「菜種梅雨」、そして「たけのこ梅雨」の後には「卯の花くたし」が降って、
6月になれば「梅雨」の本番になります。
どれもこれも、植物の名が付いています。
植物は雨が”命”なのでしょう。
 
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   今日の話題は横須賀の長井にある「ソレイユの丘」の菜の花です。 
   正面は門で右が事務所、左が物産の販売店です。
 
もうじき菜の花も菜種の収穫期になります。
私は菜の花を見に横須賀長井にある「ソレイユの丘」に出かけることにしました。
南フランスのプロヴァンスを模したという公園は一面に菜の花が育てられているのです。
出かけたのは3日前、たけのこ雨が降り出す前日でした。
三浦半島長井でさえ黄砂が出て、遠くは霞んでしまっています。
富士山はまだしも、大山も丹沢も箱根山も全く見えません。
江ノ島までボヤットしか見えません。
 
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                                      ソレイユの丘、一面の菜の花。
 
ソレイユの丘は入場料も無料です。
門を潜ると、目の前は一面の菜の花が目に飛び込んできます。
もう、私の背丈程に成長しています。
花は茎の先に咲き始め、先に先に花を付けます。
最初の咲いた花は、もう種を実らせています。
農家であればもう収穫して、乾燥させて、菜種を採取する、そんな時期に来ています。
根元にはヒナゲシが咲き始めました。
秋の主役コスモスの種まきまで、菜種は咲かせ続けるのでしょう。
古人がみたら「もったいなに!」叫ぶことでしょう。
菜種は灯りのもと、大変に高価でした。
 
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   もう収穫期になった菜の花ですが・・・・、野鳥の食事になっています。
 
菜種を食べに、雀が群れをなしています。
上空には雲雀が上がって、騒がしく囀っています。
見上げても、青空が眩しいばかりで、姿は確認できません。
ヒワが来ていそうな気配ですが・・・・、雀も雲雀もヒワも逆光で見分けがつきません。
 
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                       これはヒワです。羽の先が菜の花色なので、花畑では見いだせません。
 
私は窓口で「定食・お風呂」のセット券を購入しました。(1280円)
先ず、お風呂に入って、ゆっくりして、
それから、レストランで定食を食べる作戦です。
でも、胃病ですからビールはご法度です。
 
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                 ソレイユの丘の入り口。私の利用したお風呂ランチセットが案内されています。
 
露天風呂は長井港から相模湾を見下ろす高台にあります。
廊下には夕焼けの富士を望む写真が飾られています。
夕焼けの富士を眺めながら、露天風呂に浸る・・・、なんて贅沢なものです。
未だ、午前10時過ぎ、こんな時間に風呂に入るなんて、
磐梯山の庄助さんでなければ出来ない贅沢でしょう。
最初は、お客は誰も居なかったのですが・・・、一人二人、次第に庄助さんが集まり始めました。
皆んな私と同じ定年世代のようです。
 
お孫さんにせがまれて、ソレイユの丘にやってきて、娘と孫は外で遊んでいる・・・、
爺さんと婆さんはお風呂に入って・・・、ゆっくり腰を伸ばす・・・、そんな家族が多いようです。
お昼にはレストランが良いか、バーベキュウが良いか・・・、お孫さんのご意見次第でしょう。
どちらにしても、生ビールが美味しいことでしょう。
 
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    お風呂の入り口。園内はラベンダー始めハーブがたくさん咲いています。
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       左の岩の中に露天風呂があります。右はプール状の風呂です。
       正面崖の下が長井港、左の岬の先が荒崎です。
 
ソレイユの丘(27ha)は、戦前横須賀航空基地でした。
戦後は米軍に接収され、米軍の住宅になり、
日本に返還されると航空自衛隊の航空無線基地として利用され、
平成7年、横須賀市の体験型農業公園「ソレイユの丘」として利用されています。
 
今は、園内で「イチゴ摘み」「大根やキャベツの収穫」「トマトの収穫」が楽しめるようです。
    (休日は実施、平日は不定期実施、イチゴで150円/100g、トマトで90円/100g)
体験型と自認しても、収穫ばかりです。
耕作もさせてもらって、種蒔きから草取り、追肥・・・、等等農作業で汗がかけたら・・・、良いのになあ!
思います。勿論耕作は無料奉仕です。
 
出来た作物もお金を払って収穫します。
それでも、汗をかいて、風呂に入って、食事をすれば最高です。
セット券1280円にビール、そしてお土産の野菜代金位はお金を落としそうです。
農作業は心も体も健康にしてくれます。
長野県の医療費が掛からないのは、農業をしている人が多いからです。
 
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   収穫体験が出来る・・・・、農業体験型公園です。
   キャベツ畑の左上に大きな温室があって、イチゴとトマトを栽培しています。
 
露天風呂の湯船に浸かって、同僚の爺さんと世間話です。
「富士山の見える方角は此方ですかね・・・」
見事な黒松の梢の先を指差します。
「それにしても、黄砂は年々酷くなりますね」
「ところで、このお風呂なんで”美人の湯”なんでしょうかね?
ただの沸かし湯なのに・・・、せめてお隣のハーブ園のハーブでも浮かせれば、格好が付くのですが。
”美男の湯”と書いていないと女湯に間違って入ってしまった・・・、ような気がしますな・・・・!」
「もう、このお風呂も開業7年だそうで、綺麗に使っていますな、儲かっているんでしょうかね?」
「いや、こんなにお客さんが少ないのでは・・・、到底儲からないでしょう。横須賀市だからやって行けるんですよ」
「小泉純一郎さん・・・、サマサマの施設なんでしょうかね?」
「他人様の懐は別にして・・・、朝風呂は気持ち良いもんですなあ、これは止められない・・・」
 
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                                      子供の遊び場と、手前はカート場です。
 
 
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相模川の芝桜は日本一です。

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ブログ仲間が「相模川の芝さくら」を案内してくれていました。
今年は開花が遅かったので、まだ十分楽しめるという。
場所は、JR相模線の相武台駅前から、西に向けて5分も歩けば相模川の堰堤に突き当たり、
長さ、1.4キロの土手が一面芝さくらが咲くのだそうだ。
未だ、神奈川県下でも知らない名所があるもんだ・・・、思いながらでかけてみました。
 
相武台駅(相模原市)は小さな駅で、昇降客も少なそう・・・、
駅舎には「日本一の大凧」の案内がしてあります。
芝さくらの案内は無いので・・・、少し心配です。
未だ、新しい名所なのでしょう。
大企業のJRが案内するには・・・、まだ駆け出しなのでしょう。
 
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            相模原市の相模川土手には芝さくらが植えられました。むこう岸は海老名市です。
 
この辺は、相模川の中流域です。
川幅も広く、流れもやや急で、川砂利の採取には最適なのでしょう。
広い河原には砕石プラントがあって、堤防の外側には採取した砂利が積み上げられています。
もう、新しい葦の芽も伸びて、ヨシキリが騒がしく啼いています。
 
もう、堤防の桜は散ってしまいましたが、その土手には芝桜の花が咲いています。
長い、長い、帯を広げたような美しさです。
 
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    原色の芝さくらを使って、グランド上に模様が描かれています。まるで、金襴の帯のようです。
 
芝桜はどの花も原色です。
別の場所で見たら、朱色は「スカーレット・フレーム」で、
”風と共に去りぬ”のスカーレット・オハラを想わせます。
白い花は「モンブラン・ホワイト」、青い花は「オーキントン・ブルーアイズ」
ピンクの花は「マックダニエル・クッション」と案内されていました。
 
芝桜は和名で、原産地は北米なのでしょう。
青葉若葉に原色の芝桜は見事なコントラストです。
花越しに春の川風が爽やかです。
鯉幟も勢い良くハタメキ始めました。
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私は、タンポポの咲いた草原に腰掛けました。
この、タンポポも北米産ですから・・・・、景色はアメリカナイズされているようです。
こうして、タンポポに囲まれていると、サラリーマン時代、長女に恵まれた札幌時代を思い出します。
草原のタンポポを”炒りタマゴ”呼びましたが・・・・、実にその通りです。
 
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  草原で元気に鬼ごっこの幼稚園児。
  右の細工物は5月4日・5日に挙げられる日本一の大きさの凧です。123畳の巨大さです。
 
堤防に案内板が出ていました。
この相模川堰堤に最初に芝桜を植えたのは地元の「新戸老人クラブ寿会」だったそうです。
平成14年5月、きっと伊勢原市の渋田川の芝桜に感銘したのでしょう。
自分の郷土も美しい芝桜で飾りたい・・・、思ったことでしょう。
でも、最初は根付かなかったようです。
国交省にお願いして、堰堤の表土を削って、20センチも黒土を客土しました。
そして、水はけが良く、日当たりのよい、相模川東岸に芝桜を植えました。
4回も試行錯誤を重ね、渋田川から芝桜の苗を譲っていただき、アドバイスも受けました。
総ては、老人会の皆さんの郷土愛から端を発し、
「相模川新戸芝さくら愛好会」だ組織され、
地元の相模原市新戸小学校の生徒さんも協力しました。
地元の人達の郷土愛が、日本一の長さの芝桜の花園を作りました。
日本一は芝桜の長さだけではなく・・・・、新戸の幅広い世代に共通する郷土愛も日本一でしょう。
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私も横浜戸塚の地元町内会長になって・・・、もうじき10年です。
柏尾川の堰堤をジョギングできるように整備してもらいました。
ジョガーには喜ばれており、その数も増えましたが・・・・、
なかなか、地域の気持ちが一つになれません。
私はもう、引退を表明して、今年は3年目です。
でも、首尾よく引退を許してくれません。
郷土愛は誰でも持っていますが・・・、気持ちを一つにするのは難しいようです。
この芝桜プロジェクトと同じ頃始めたのですが・・・・・・。
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   女の子はタンポポの花摘みに夢中です。お母さんに「花の首飾り」をプレゼントするのでしょうか。
   私は作り方を教えてあげたい・・・、衝動でしたが・・・、先生を心配させるといけないので止めました。
 
タンポポの草原に幼稚園児が大挙やってきました。
男の子は鬼ごっこに、女の子は花摘みに夢中です。
子供は直ぐに心を一つに出来るのに・・・、
年寄りは滅多なことには心を一つに出来ません。
妬っかみが生じます。
難しいものです。
芝桜の花言葉は忍耐だそうですが・・・。
新戸の老人たちは忍耐を越えて、「美しい花の帯」を実現しました。
お立派なことです。
 
 
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植木屋さんの西洋石楠花

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石楠花が目立つ季節です。
室生寺も日本石楠花が彩っていることでしょう。
日本石楠花は薄紅色で、檜の大樹の下で寄り添うように咲きます。
他方、西洋石楠花は花が大きく、花色もカラフルで数多くの品種があります。
日本石楠花を圧倒する花の大きさであり、鮮やかさであり、種類の多さです。
園芸好きな日本人が何故石南花に限っては種の開発をしなかったのか、不思議です。
躑躅は色々と種の開発を極めた日本人が、石楠花は”生のままが良い”と思ったのは、何故でしょうか?
 
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                     今日の話題は厚木市飯山にある坂本園さんの西洋石楠花です。
 
藤沢の菖蒲沢の少し先、厚木市飯山に「坂本園」という名の造園屋さんがあります。
そこの植木畑が不思議なのです。
造園屋さんの植木畑は展示場でストックヤードのようなものでしょう。
だから、様々な樹木を植えて、お客さんの注文を受けるのが普通です。
躑躅もあれば、藤もある。
松も置かなければならないし、紅葉も必要でしょう。
でも、坂本園には西洋石楠花しか無いのです。
大きな楡の木があって、竹林があります。
これは植木ではありません。
 
植木は西洋石楠花オンリーです。
でも、西洋石楠花は朱もあれば、夕焼け色もあれば、白も紫もあります。
西洋石楠花なら、色も大小も何でもござれ・・・、そんな風です。
 
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  大きな楡木と孟宗竹以外は石楠花しかありません。しかし、西洋石楠花なら何でも揃っています。
 
 
その上、石楠花畑の足元はクリスマスローズばかりです。
だから、
「当社は造園業です。石楠花とクリスマスローズなら総て揃ってます。
それ以外の花木や草花なら・・・・、他店から取り寄せて・・・、貴方好みに造園して差し上げます」
そんな風に言っているようです。
 
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                           西洋石楠花の下にはクリスマスローズが植えられています。
 
 
石楠花は屹度、他の植木と混植されるのが嫌いなのでしょう。
同じ仲間でないと・・・、嫌な性格なのでしょう。
 
でも、私の感覚では石楠花は低木、灌木と思っていましたが・・・、
坂本園の西洋石楠花は見上げる高さに成長しています。
こんなに大きな石楠花は他では見た事がありません。
一品種に特化すれば、こんなに大きく育てられるんだ・・・、
そんな意気込みが感じられます。
 
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    街中で坂本園の一角だけが別天地のようです。多くの人が足を止めて見入っています。
 
感心するのは花柄が地面に落ちていないことです。
これだけの花数ですから、あとから次々に落花しているはずです。
その花を毎日拾っているのでしょう。
下草は刈っていますし、土はフワフワの布団のようです。
悪い病気にかからないように・・・・・、悪い虫がつかないように・・・・。
”箱入りのお嬢さん”のように育てられています。
 
私は美しいお嬢様を飽きずに見上げます。
空模様は雨が降りそうです。
祖母が小言を言いそうです。
「石南花の花は猛毒だから、花を伝った雫が目に入ると大変だよ!」
美しい花には、人間も植物も、毒があるものです。
 
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下野国分寺の「天平の花まつり」

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昭和41年、下野の国「国分寺跡」の発掘が始まりました。
渡良瀬川を超えて、思い川をわたって、麦畑をしばらく走れば、「風土記の丘」です。
この先は、栃木県都賀郡、ゴルフ場が多くありますので、サラリーマン時代良くやってきました。
当時は素通りでしたが、
今日は家内と一緒に、「国分寺跡」「薬師寺跡」等、天平の歴史を見学にお出かけです。
下野市は近隣の町村が合併して、平成18年に出来たのだそうです。
そして、天平時代の遺跡発掘も37回を数え、平成18年に「天平の丘公園」など一帯の整備を完了しました。
 
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   思い川、川の左奥、雑木林の中に風土記の丘や国分寺、国分尼寺等の遺跡が発掘され、
   公園として整備されています。
 
天平の丘公園の東に「下野国分尼寺跡」があって、大きな薄墨桜が10本弱植わっています。
手入れがよくて、素晴らしい樹勢ですし、形も美しい・・・、巨大な盆栽のようです。
花期は3月末で、もう青葉が茂っています。
本家本元の御母衣の薄墨桜が今が見頃でしょう。
 
天平の丘公園の西側に国分寺跡があります。
此方は広いこと広いこと、門から金堂までは300mもあるでしょう。
余りの規模の大きさに唖然とします。
総国分寺の東大寺に勝るような広さです。
 
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   国分尼寺のあと、礎石が芝生の中に残されています。
   丸い木は「薄墨桜」樹齢30年余りでしょうが、見事に育って、もう風格があります。
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   此方は、国分寺跡、あまりの広さに唖然とします。東大寺に匹敵(上回る)する規模だったようです。
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                        国分寺7重塔の復元模型(風土記の丘資料館)
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                                             国府庁の跡、国分寺より数段狭い
 
周囲は雑木林が囲んでいます。
雑木林の中に「防人の道」が延々と続いています。
道の途中には「カラクリ水車小屋」があり「万葉植物園」があり、紫式部の墓と伝えられる五輪塔があります。
この辺りの地名が「「紫」であったことから、
雑木林の中に残ったお墓を紫式部の墓・・、と言い出したのでしょう。
そして、この雑木林の中で「染料・紫」の原料となる「紫草」が採れたのでしょう。
今も、様々な山野草が芽生えています。
 
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   馬がすり抜ける程の幅の「防人の道」が雑木林の中に通っています。 
   鎌倉時代の五輪塔は「紫式部の墓」と言い伝えられています。
 
天平の丘公園は八重桜で埋められています。
桜の樹の下ではお花見の家族が陣取っていますし、屋台も並んでいます。
思い川で採れた「鮎の塩焼き」が私の鼻腔を強く刺激します。
 
屹度開園に先立って、「万葉の花」として何を植えるか・・・、検討したのでしょう。
そして、早咲きの薄墨桜と、遅咲きで見事な八重桜を選びました。
 
万葉の花といえば、先ず「萩」でしょう。
春の万葉の花なら、梅が一番、次が桃でしょう。
桜は先ず思い浮かびません。
桜といっても、大半が「山桜」や「大山桜」です。
八重桜は先ず思い当たりません。
でも、人々は八重桜を選びました。
 
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ところが「天平の花」となると、万葉集の時代でありながら・・・、違うイメージがあります。
”天平”というと聖武天皇や正倉院に代表される、華麗で壮大な、国際性豊かなイメージがします。
万葉は鄙なイメージですが、天平は文化が咲き誇る大らかな古代国家の響きがします。
だから、天平の花木として、八重桜を選択したのでしょう。
  いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔)
 
古今集の歌ですが、天平文化の大らかな響きがあります。
「天平の花」として八重桜が最も相応しい・・・判断したのでしょう。
私は”その通り”拍手したくなります。
 
そして、奈良の平城宮跡公園も、この天平公園を参考にして、
「八重桜」を、そして古式な「奈良の八重桜」の名所に育てて欲しい・・・・、思うのです。
吉野山は山桜、平城宮跡は八重桜・・・、二つの桜の名所が揃ってこそ、
「大和は国のまほろば」として誇れます。
 
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  下野薬師寺跡から発掘した鐙瓦と平瓦。南都の七大寺と変わらぬ優雅さです。
  下野薬師寺には東大寺、筑紫の観世音寺(太宰府のお隣)と並んで天平時代戒壇が置かれました。  また、道鏡が流されたのでも有名です。何れにせよ下野は奈良時代東国の文化の中心だったので  しょう。
 
 
 
 
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大正ロマンの色濃い街「栃木市」

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「小江戸」と言えば、川越、佐倉、そして栃木市でしょう。
何れも、川に沿った水運の街として発展しました。
栃木市を流れる巴波川(うずまがわ)は、渡良瀬川、更に利根川、そして荒川を経て、
江戸に食料や材木を運びました。
栃木市は戦災もなく、鉄道も遅れた事から江戸の町が良く残されています。
 
私は下野国分寺跡から、「小江戸・栃木」に向かいました。
道路脇には栃の木が目立ちます。
もうじき薄紅色の花が咲くことでしょう。
街路樹の名は「マロニエ」、そう呼べばお洒落な木ですが、
栃の木と呼べば、鄙びた響きがあります。
その「栃の実」は縄文時代の主食品で、貯蔵も可能でした。
栃木市の名前は、栃の木が多いから・・・・、考えられます。
でも、神明宮の千木が10本あったから「10本の千木」が由来・・・、と言った説もあるようです。
まあ、いずれも太古の時代に溯ります。
 
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  屋根の上にある千木が10本在るので、「とちぎ」と呼ばれた、との説もあります。(茶臼山古墳出土の埴輪)
 
車を栃木市役所の駐車場に停めて、旧市街に向いました。
私の目には、洋風建物が飛び込んできました。
大きな「ヒマヤラ杉」の陰に建っています。
ペパーミント色と白のツートンカラーがなんともお洒落です。
 
建物の正面に塔屋を立てて、時計塔にしています。
明治初期に多く建てられたコロニアル建築、近代洋風建築の流れにある事は間違いありませんが・・・、
2階のハーフティンバーにはアーチのデザインがあり(アールヌーヴォー風)、
1階の玄関にはセセッション装飾も目立ちます。
大正初期の息吹・流行が色濃く感じられます。
でも、屋根は純和風の塩吹瓦で葺かれています。
中々、いい味が出ていますし・・・、洋風建築の日本化・・・、という意味では重要な建物でしょう。
                                           (国の有形文化財)
それにこの建物は、現在も使われていることが心憎いものがあります。
(日曜日なので中に入れませんでした)
設計は市職員だった堀井寅吉氏で、竣工は大正10年だそうです。
アールヌーボーはウィーンで起こった「新しい芸術運動」で、20世紀への過渡期に一世風靡しました。
我が国にも影響し、竹久夢二もこの頃に活動します。
良い時代でした。
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   栃木市役所別館建物。手前に堀切の運河があって、蔵屋敷が面しています。 
   手前建物は教会で、教会の似合う街でもありました。
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  市役所別館の側面玄関。2階ベランダ上のアーチ模様や玄関周りの装飾がアールヌーボー様式です。
 
ヒマヤラ杉の下に看板が立っています。
私はこの擬似西洋建築の説明かと思って確認しました。
ところが、意外でした。
「廃藩置県(明治4年)で栃木県と宇都宮県が置かれました。明治6年、二県は合併し、栃木県となり県都は栃木に置かれました。ところが県令三島通庸(みしま みちつね)は宇都宮に県庁を移してしまいます。」
県庁を移された栃木市の”恨み節”とも読める短い文章です。
    ※三島通庸は薩摩藩出身の政治家、維新戦争後の東北地方の県令として実績を残した。会津、酒田、鶴      岡等で土木事業を起し、街作りをした。東北地方に擬似近代建築が多く残されているのはその為で        す。しかし、力で民意を屈服させる手法は批判されている。
 
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  塔屋は時計塔になっており、四方から眺められます。この建物のシンボルになっている”時計塔”です。
  (札幌の時計塔はビルの谷間で時計は正面からしか見えません。此方は何処からでも眺められます)
 
栃木市は明治10年代後半、自由民権運動が最もヒートアップします。
加波山事件(三島暗殺未遂事件)が起こります。
三島は民権運動を弾圧、更に国政に戻って「保安条例(明治20年)」を施行、
尾崎行雄、中江兆民、星享などを名指して、弾圧します。
 
田中正造も1890年(明治23)に国に足尾鉱毒問題を訴えています。
短な、味気のない文章ですが、私には栃木人の「地域愛」や「正論」を感じられました。
 
地域愛があるから・・・、古い建物でも大切にして使っているのでしょう。
貧乏市だから、近代的な市庁舎が建てられないのではないのです。
 
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         例幣使街道沿いにあった喫茶店。此方はピンク色を主にしたコロニアル建物です。
 
「蔵の町・栃木」ですから、江戸時代の建物は数多く残されています。
その中に、大正デモクラシーの洋風建築も散見されます。
ピンク色のコロニアル建築を見つけました。
近寄ってみれば喫茶店でした。
川沿いの理髪店には竹久夢二風の”ハイカラさん”が看板になっていました。
 
明日は小江戸と呼ばれる所以「蔵の町」を案内します。
栃木市には江戸も大正も、何れも調和していて、いい街です。
 
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   巴波川(うずまがわ)を背にした床屋さん。右上看板が竹久夢二風でした。
 
 
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例幣使街道の「蔵の町」栃木

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巴波川(うずまがわ)とは”渦巻き波の激しい川”の意味でしょう。
でも、今日は堰止めています。
名前のような急流の面影はありません。
流れの止まった川を、ゆっくりと乗合船が行き来しています。
まるで、水郷の柳川のようです。
柳の若葉は風で揺れています,
川に渡した鯉幟も風をはらんで気持ちよさそうに泳いでいます。
川幅も狭いので、鯉幟も小型です。
のどかな、懐かしい光景です。
 
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         小江戸・栃木を代表する巴波川沿いの景色。右は木材回漕問屋だった塚田家。
 
幾つも橋がか架かっています。
富士見橋があるのは、此処からも富士山が見えるのでしょうか?
そして「湊橋」があります。
海の無い栃木でも湊があるのは、巴波川の川沿い一帯が港だったからでしょう。
米や材木等北関東の物産は栃木市に集められ、荷造りされ、筏に組んで巴波川から渡良瀬川、
更には利根川を経て荒川に入り、江戸の町で売られたのでした。
そうして、商都、小江戸・栃木ができました。
 
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    どの蔵屋敷も川沿いに船付場が設備されています。この橋も名前通りの「みなと橋」です。
 
蔵の街栃木は、巴波川の東を川に沿って続いている「例幣使街道」にそって続いています。
例幣使とは天皇から幣帛を遣わされた神官のことでした。
元和3年(1617)、徳川家康の霊柩は久能山から日光東照宮に移されます。
同時に天皇から「東照大権現」の名を戴きます。
以降毎年京都から幣帛をつかわされた勅使が往復したのでした。
勅使は中山道を倉賀野まできます。
此処で北関東を横断して日光街道の今市に行きます。
この北関東横断道を「例幣使街道」と呼び、13宿がありました。
220年もの間、50~60人の一行が半月をかけて日光にでかけ、また半月をかけて京都に帰りました。
 
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  向かいは「横山郷土館」。横山家は店舗の右半分で麻問屋、左半分が銀行を営んでいた明治の豪商でした。
  両袖切妻造と呼ばれる建物には、当時を偲ばせる帳場などが再現されています。
店舗の両側には鹿沼産の  深岩石で作られた蔵が、左右相対して建てられており、右が麻蔵、左が文庫蔵です。
 
幸来橋の上で30人ほどの青年男女がゴスペルを歌っています。
200人程の見物人が集まって、応援しています。
橋のたもとには「塚田歴史伝説館」があります。
 
塚田家は木材回漕問屋を営んできた豪商でした。
当時は木材を筏に組んでこの巴波川の港を発って、翌日には江戸深川の木場まで運んだそうです。
帰路は干し鰯等を積んで、三日程要したのだそうですが・・・・・、
材木は北関東の主要産物だったのでした。
山形・酒田の米倉庫に匹敵する、材木の倉庫です。
120メートルほどの黒塀、土蔵の白壁、柳の緑、鯉幟・・・・、
どれもこれも美しい街並みに欠かせません。
一泊してゆっくり見て回りたい・・・、懐かしい香りのする街です。

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                         幸来橋の上でゴスペルを歌う若者たち。此処だけ賑わっていました。
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   左が木材回漕問屋だった塚田家。
   現在は「塚田歴史伝説館」として、人形劇で栃木の伝説を上演しているそうです。
 
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   「栃木蔵の町美術館」。200年前に建てられた土蔵3棟を改修して美術館にしました。栃木市ゆかりの作家    の作品を中心に収蔵しています。
   この蔵は「善野家土蔵」で通称「おたすけ蔵)と呼ばれていました。飢饉などの対策として食料等を備蓄して   いたものでした。
 
 
 
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