JR大磯駅はスペイン瓦の明るい建物です。
緑の中に、湘南の海に、よく似合います。
駅舎を降りると、駅前ロータリーの前に小高い岡があります。
その岡の頂上に「ノアの方舟」風の建物があります。
二階が教会で、1階が「隠れキリシタンの資料館」です。
施設名は「澤田美喜記念館」です。
私は細い道を、スダジイなどの樹下を登って、方舟の前に進みます。
踊り場に「キリシタン燈籠」が立っています。
実に美しい燈籠です。
灯篭の前で、教会を仰ぎ見ます。
ノアの方舟の舳先が迫って見えます。
緑陰の向うに教会の建物が見えます。建物は方舟の形です。
この1階が澤田美喜記念館で、隠れキリシタンの遺品が展示されています。
茶人の古田織部がデザインした灯籠。織部はじめキリシタン大名がこのデザインの灯篭を作って祈りの 対象にした、と言い伝えられ、別名をキリシタン灯籠と呼びます。
全体が十字架の形であること、アルファベットの組み合わせ文字、
そして最下段にマリア像を思わせる像が彫られています。
澤田美喜は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として生まれ、外交官の澤田に嫁ぎます。
そして、長年イギリスで生活します。
イギリス滞在中にキリスト教の信仰を深め、偶々見学した孤児院に深い感銘を覚えます。
戦後三菱財閥も解体を命じられます。
岩崎本家は大磯駅前の別邸も財産税として物納します。
一方戦後社会には孤児が溢れ出てきます。
若い米軍の占領兵士が父親でした。
母親は売春婦だったり、自由恋愛であったり、強姦された事もあったでしょう。
街に孤児が溢れるのはベトナム戦争を描いた「ミス・サイゴン」と同じでした。
澤田美喜は混血孤児の救済に立ち上がります。
かって、自分が遊んだ大磯別邸を買い戻すことを決意します。(買い戻し金額400万円)
自分の全財産を投じます。更に寄付を募ります。
しかし、基金は不足しています。
困り果てていた時、英国人エリザベス・サンダースが英国大使館を通じて、170ドルが寄付されます。
この寄付が勢いをつけ基金が出来ました。(1948年)
澤田美喜は孤児院を「エリザベスサンダースホーム」と名付け、その厚意を長く伝えることにしました。
此処で守られ育った、孤児は1400人(2010年)を超えました。
混血孤児が次第に成長します。
孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見迫害を受けたりします。
そこで、1953年小学校を、1959年中学校を創立します。
今では一般家庭の子女も教育しています。
熱心なキリスト教徒であった澤田美喜は生涯をかけて隠れキリシタンの遺品の収集しました。
昭和63年、美喜の遺志を伝えるため「澤田美喜記念館」を竣工します。
記念館をはいると、美喜の次の文章が案内されています。
「(私は)10数年の海外生活の中で、日本人は飽きっぽいと批評されてきました。
日本に帰って日本のキリシタンの歴史を見たとき、移り気であると云われている日本人が真理と信仰のためにかくまで命を落とし、血を流して戦い抜いた跡を見て、改めて全世界に向かって叫びたくなった。
我々日本人は宗教史上比類のない試練と迫害を受けても毅然として正義に突き進む勇気と信念を持っていたことを。(中略)
何れも、尊い殉教の人々、朝な夕なの手擦れの品々、人たちの身辺にありしものと思えば、この一つ一つに朽ちざる生きた魂のあえぎを覚える。 (中略)
最後の審判の日は近い。それと共に天国に近づいている。
幾多の殉教者たちの祈りととりなしは、その愛する子孫のために、その終わりの日の美しき準備のために、いよいよ盛んに捧げられいることが感じられる。」
この信念が記念館の建物を「ノアの方舟」にしたのでしょう。
生コンクリート打ち出しで、木の素材を生かした・・・・、昭和60年代流行のモニュメント建造物です。
少し、前置きが長くなりすぎました。
肝心の隠れキリシタンの遺品を紹介しましょう。
一言で表現すれば「本物は違う」という事です。
先ず、度肝を抜かれたのは記念館の入り口長押の上に置かれた蟇股です。
館長に聞けば千葉県にあった廃寺の門上にあったものだそうです。
(館長さんに撮影を許可されました)
右がイエスを抱くマリア様、左がヨセフ、キリストが厩で誕生する場面です。
背景にある樹木は棕櫚の木、そして二人のあいだには何故か「釜」が置かれています。(本来ならパン箱のような形です)
上はマリア地蔵尊です。10Cm足らずの小像です。
硬い石を丁寧に刻んで出来ています。
唇と額に朱が残っています。
上品な面差しで、女性らし優しさに満ちています。
そして、背中に十字架が刻まれています。
上記は襖の取っ手です。楕円の長径は10Cmに足りません。
銅銭がデザインされていますが、下の銅銭には十字が刻まれています。
取っ手を裏返すと、十字架が浮き出されています。
記念館を訪れた美智子妃殿下はしみじみと見詰めておいだったそうです。
生活の中に、信仰を大切にした日々が想像されます。
中央はマリア像、右手にキリストを抱いておいでです。左手にはイチジクの葉をお持ちです。
これは宣教師が持参したもので、スペインの像だそうです。
周囲の黒く煤けた像は多くが日本人が隠れて刻んで、拝んできたマリア像です。
飛騨で発見されたもの等もあり、一見すると円空風ですが、勿論違います。
飛騨の匠ならこれくらいは刻めそうな、素人ぽい、民芸風の諸像です。
展示品を分類すると、宣教師が持参した外来もの、キリシタン禁教令だだされる前の遺品、
そして禁教令が出されてあと、地下に潜って隠れキリシタンになった後の遺品・・・、に分けられます。
私の興味をそそるのは三番目の隠れキリシタンの遺品です。
踏み絵が4点程度展示されていました。
2枚はブロンズ、2枚は彫刻板のような木版にキリスト像やマリア像が描かれていました。
どれも、数万人が踏みつけたのでしょう。
お顔もお体も磨り減ってしまっています。
奉行所にしょっぴかれたキリスト教信者の疑惑をかけられた者は、踏み絵を踏まされました。
踏み絵を踏めばよし、躊躇えば命を失うことになります。
仏教の信者でも、他の人の信仰は尊いと思います。
キリスト教徒が命よりも大切にしている像です。
阿弥陀様を信仰していない人でも、阿弥陀様のお顔を踏むことはできません。
阿弥陀様でマリア様でも、これを人の信仰を足蹴にする事は憚れます。
自分自身の人間性を否定するような気になります。
だから、踏み絵を迫られた時、躊躇する人も多かった事でしょう。
私は館長さんに尋ねました。
「遠藤周作さんは沈黙を書くにあたって、この踏み絵を見られたのですか?」
綺麗なお声の館長さんは答えられました。
「遠藤さんはこの記念館の発起人になってくださいましたが・・・、
沈黙を書かれるきっかけにこの踏み絵がなったか・・・、それは解りません。」
キリシタン禁教令が出て200年間、我が国には宣教師も聖書も無い時代が続きました。
その中で、親から子にキリストの教えが綿々と引き継がれました。
自ずから、日本人の民族性や、日本列島の風土が隠れキリシタンに色濃く影響したでしょう。
本家本元のキリスト教とは似て非なる教えになっていたことでしょう。
禁教を厳しいものに変えたのは「島原の乱」でありました。
天草四郎時貞の檄文は願文も展示されています。
展示場は狭い空間ですが、一つ一つが命をかけた信仰、血を流して守り抜いた信仰の証です。
信仰を失った現代にあって・・・・・、貴重でありましょう。
私は館長さんに話しました。
「この展示は実に疲れました。一つ一つの展示は小さくて・・・、十字架を探すのに”謎解き”のような面白さがありました。でも、その十字架に数百年の間、隠れキリシタンと呼ばれた人々の命が注がれていたと思うと、その重みで圧倒されました。」
館長さんは優しげに見送ってくださいました。
私は全国各地で、隠れキリシタンの遺品を見てきましたが・・・、何時も”本物かな?”思っていました。
隠れキリシタン・・・、言われればそのようにも見えますが、
そうではない、思えば何のことはない観音様やお地蔵様です。
矢張り”本物”を見ると違います。
命懸けで守った信仰の遺品には、圧倒されます。
阿弥陀如来立像。背面が扉になっていて、その中に象牙の十字架が隠されています。十字架にはキリスト の磔姿が刻まれています。蟇股以外は「澤田美喜記念館」の見学ガイドブック、絵葉書から転写しました。
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