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病院のロビー

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胃癌の摘出手術が終われば、次はリハビリです。
先ず、問題は大傷を負った胃腸で食事をすること・・・・、
食べ方の指導を受けて、重湯に始まり、お粥を戴きます。
ダンピング症状を起こさないよう、恐る恐る食べ物を口に入れます。
実は私はヒャックリこそ出ますが、ダンピング症状は今日までの所発症していません。
O医師に聞いたところ、食道と胃の間に腸を入れたこと、12指腸のバイパスを用意したこと・・・・、
はダンピング症状対策でもあったのでした。
 
朝晩の食事を終えると、私は1階のロビーにおります。
そのベンチに腰掛けて読書に時間を過ごします。
其処が最高の読書空間なのでした。
誰にも邪魔されないし、ガラス張りの明るい空間です。
加えてベンチは緑陰にあります。
朝は食後10時頃、外来客が増える迄、夜は夕食後8時頃まで読書をロビーのベンチで楽しみました。
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                    湘南鎌倉総合病院建物。右手がロジェマン(マンション)高層塔の左右に男女が                  分かれていて、クロス部分にエレベータとナースステーションが設置されています。
 
湘南鎌倉病院は1988年沖縄徳洲会の第25番目として、鎌倉市山崎に建設されました。
湘南モノレール町屋駅の近くですが、立地としては最高とは言えなかったでしょう。
2010年9月鎌倉市岡本に移転し、病院名に「総合」を加えて、湘南鎌倉総合病院にしました。
鎌倉ロジェマン(大型マンション)の背後、武田薬品との間には鉄工所があったと思いました。
其処に病院の建築が始まりました。
設計は「日建設計」、施工は熊谷組、矢板で囲まれた建設地には看板が建てられていました。
”リゾートホテル”でも建てようとするのかな?
そんな取合せだと思いました。
 
建築途上も、まさか自分がこの病院にお世話になるとは露とも思いませんでした。
 
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                                         湘南鎌倉総合病院のロビー。
 
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        湘南鎌倉総合病院のロビー。向かいのマンションがロジェマン。外来客が座って精算や薬の配布を        待っています。驚くほど早く事務は完了します。奥がシースルーエレベーター。
 
 
玄関を入ると吹き抜けの大空間が待っています。
ロビーは4階までの吹き抜けなのです。
壁は無垢の木目板で、床はベージュの大理石で、
南国の樹木が植えられています。
とりわけ竹の葉が優し気です。
奥にはロビーを見下ろせるようにシースルーのエレベーターが設えてあります。
エレベーターの乗って上階(6階~15階)はホテルのルームだろう・・・、推測させます。
 
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                        筆者は朝食後、夕食後このロビーのベンチに座って読書を楽しみました。
 
日本人の感覚からすれば、健康の時は”ハレ”で、病気になれば”ケ”という事でしょう。
ハレ(晴れ)はケ(曇り)の始まりであり、ケ(穢れ)はハレの始まりです。
病気になれば行動を抑えて控え目に過ごす他ありません。
ですから・・・、病院は陰気であるのが普通でした。
薄暗い空間と、特有の病院臭と・・・・・・、入院するとなればそれも覚悟の上です。
そんな常識からすると、湘南鎌倉総合病院は反対の”ハレ”の空間です。
それを端的に表すのがロビーの大空間です。
 
私の病室は8階の消化器外科病棟でした。
エレベーターに乗ると、2階から4階までが様々な検査室が続きます。
5階には手術室があって、6階が「お産センター」です。
エレベーターのドアが開くと赤ちゃんの鳴き声が聞こえます。
エレベータの乗員は赤ちゃんの泣き声に思わず笑顔になってしまいます。
湘南中の妊婦がこの病院で出産しよう・・・!
決めているのは多分ロビーの空間を見たときに決めたのでしょう。
お産は現代人の感覚ではこれ以上嬉しいことはありません。
゛ハレ”でありましょう。
だから、病院こそ”ハレ”であって然るべきでしょう。
 
私は手術の前にこんな質問を受けて驚きました。
「手術中のBGMは何にしますか?」
全身麻酔の私がBGMに耳を傾ける筈がありません。
BGMが選べるのなら、執刀医のO医師の好みを聞けばよいのに・・・・・、
でも・・・・・、バロック音楽にしてもらいました。
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   ロビーの植木は総て本物で、時々パラッと葉が散って来ます。落ち着いた寛げる空間でした。
 
湘南鎌倉総合病院のモットーは「命だけは平等だ」と記載されています。
患者の立場では「総ての患者は差別されることなく最適な治療を受ける事ができる」・・・、
経営目標が其処此処に記載されています。
ですから、患者は毎日の健診結果を確認することができます。
私は検診の度ごとに自分のデータをパソコン上で確認できました。
定期健診では血液検査の三分の一は「要注意」だったものが・・・・、2箇所しか赤塗りはありませんでした。
入院中に血液が軽くなりました。
唯、赤塗りが二つ、一つは血糖値が110台にとどまっていること、もう一つは・・・・、
炎症反応(手術跡を治癒しようとする体の反応)でした。
主任医師が「超順調」と評してくれました。
 
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   私の医療データはパソコンに打ち込まれLANで確認することができます。
   患者は基本憲章で自分のデータを確認することができます。
 
リゾートホテルのような寛ぎの空間、設備は最新の医療機器を揃え、明確な経営目標の設定を決め、、
各組織毎にはより具体的な目標を設定し・・・・・、その結果を公表しています。
もう、浸透したISOがこの病院の経営には確認できます。
 
私が読書していると、目の前を沢山の人が通り過ぎますた。
顔を上げると、民族服を着たインド人が施設の見学に来ていたのでした。
”ああ、医療は日本の先端産業になるのか、何れインドや中国の患者がこの病棟を埋めるのかもしれません。
 
病院という文明は随分変わりました。湘南鎌倉総合病院は実感させてくれます。
いずれこのロビーでコンサートでも開くことでしょう。
それもまた、楽しみです。
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                                      大型バスで施設見学に来たインド人の一行。
 
 
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病院の壁

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私の入院は、出血後の緊急入院、胃癌摘出の入院、合計で16日で終えることができました。
体の痛みは致し方ないこと、でもメンタルには健康を維持する事ができました。
これも、湘南鎌倉総合病院の明るさに後押しされていると思います。
私は15年前右腎臓に癌が確認され、全摘しました。
当時は銀行の本店営業部長でしたから、「病気は気力で治癒させる!」そんなスピリットに満ちていました。
もしも、今回もあの病院の暗い空間に置かれていたのならば・・・、屹度気力は滅入ってしまった事でしょう。
今日は「湘南鎌倉総合病院の壁」をご案内します。(今日で病院の話題はお終いです)
 
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                                             病室のスッタッフ自己紹介のポスター。
 
各病室に入るには必ずナースステーションの前を通らなくてはなりません。
パソコン画面を見つめていたスタッフが顔を上げ、笑顔で挨拶してくれます。
天井には監視カメラが設えてあります。
その伝言板には、週間献立表が貼ってあり、上記写真のようにスタッフの自己紹介が貼られています。
看護婦さんが多いのは、近々に辻堂駅前に大規模病院ができるからでしょう。
そして、看護婦さんは美人が多く、出身は多くが沖縄で、時々静岡や福島県人が居ました。
点滴をやめて重湯を食べ始めるとき、薬剤師がやって来ました。
「今日から食事ですから、食前に六君子湯(リックンシトウ)を飲んで下さい。
六君子湯は食欲を刺激し、整腸する漢方薬です。O先生の指示です」
「6っつの素材は何ですか?」  私は素直な疑問を呈します。
「そんな事、知りません」
薬剤師は漢方薬には関心が薄いようです。
病人は自分の体に入れる物の実態は何で出来ているのか・・・、知りたいだけです。
  {蒼朮(ソウジュツ) 茯苓(ブクリョウ)  人参 半夏(ハンゲ)  陳皮(チンピ)  大棗(ナツメ) 生姜 甘草(カン    ゾウ)がその6つです。何れも私たちのみじかな植物です。}
 
 
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                         台風4号襲来、こんな日に限って緊急外来は忙しいのです。 
 
入院受付は緊急外来の脇にあります。
その脇に大きな油絵が架かっています。
初々しい舞妓さんが二人、縁台に腰掛けている図です。
額縁の下には「1997年 岡本羊三」の作である事が記されています。
この洋画はこの病院の前身「湘南鎌倉病院」に飾られていたものでした。
私は銀行の取引で何度かこの絵を見て来ました。
油絵は寛いで貰う為に掛けられたのでしょうが、
舞妓の気遣いでおもてなしします・・・、そんな気持ちが伺われます。
朝、この絵の横に徹夜で過ごした家族の姿が見られました。
昨晩救急車で緊急入院し、このベンチの上で過ごしたのでしょう。
ご家族はうつらうつら、眠られない眼に、初々しい舞妓さんを見たことでしょう。
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外来の長い壁には20枚ほどの絵が貼られています。
何れもパステル画で、それをシルクスクリーンに写したものです。
100分の3のサインが為されていますから・・・、誰かが20枚のパステルを100枚シルク印刷して・・・、
その3枚目を湘南鎌倉総合病院に納めたのでしょう。
作家名も経歴も絵の下に貼られていますが、いずれも若い人で、これからの人が多いようです。
ただ、体に不自由があったり、早く逝ったりしています。
徳洲会がこうした画家を支援するため購入したのかもしれません。
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                                        1階外来の廊下に貼られたパステル画
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                                七海進治(1970~2007/神奈川県)作、「大きな葉と昆虫」
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原田正則(1974~)ふるさとを描こうシリーズから、「ひまわり」
 
 
絵画はロービーの壁にも、喫茶室の壁にも随所に架かっています。
パステル画は生命の躍動ら神秘、そして人間の集いが楽しい事・・・・、そんな題材が多いようです。
体の弱い人は自然や人の営みに優しい目を向けるから・・・・、作品にも優しさが滲んでいます。
病気になった人を癒すには効果的です。
私はリハビリを兼ねて毎朝画廊を往復しました。
 
最後にディスクロです。
ロビーの一角に掲示コーナーがあって、アンケート用紙をおいています。
来院者の意見やその対応が貼られています。
勿論高い評価が並んでいます。
また、意見に対してはクイックな対応をしているようです。
昨日も書きましたがISOが浸透した病院です。
私はその景色にも恵まれて快適な病院生活が過ごせました。
湘南鎌倉総合病院には感謝しています。
これから長い間通院生活に移ります。
若しものことがあったら・・・・、病院のシステムやハードについては保証します。
お医者さんの腕は・・・・、
私のかかった総合内科、消化器外科は高い技術があります。
他の科は知りません。
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                                病室の窓からは富士山が見えました。
 
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切通(切岸)の山百合の花

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退院時に確認しました。
回復を早くする要点は何ですか?
看護婦さんは笑顔で答えられます。
「何の病気でも同じです。よく水を飲んで、よく歩いてください。」
そこで、退院2日目、家内に見守ってもらいながら、鎌倉朝比奈切通に出かけました。
何故?切通なのか?
それは、切通やその一部切岸に山百合が咲くからです。
二連続台風が通過した直後ですから・・・・、多くは期待できません。
でも、切通の道を歩いて、見上げれば急峻な土手に山百合が咲いて、下行く人を見下ろしている、
そして「良く来た・・・・」言わんばかりに体全体を揺すってくれる・・・、そんな風情は鎌倉ならではの風景です。
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                      今日の話題は鎌倉切岸の山百合の花
 
”日本の山野草が世界一だ” 最初に確認したのはシーボルトだったでしょう。
日本全国を採取して歩き、多くの標本を残し、アジサイをはじめ沢山の種をオランダに持ち帰りました。
大著「日本」の「花ごよみ」においてこのように書いています。
「貧しい田舎の藁葺き屋根緑の葉や花をつけた山野草が小さな場所を得て、家の神々を助けている。(中略)豊かな自然は日本人に永遠の暦を与えた。自然は四季を象徴する山野草を与え、日本人は其処から花暦を作り出した。」
 
明治維新になり、外国人は大挙して日本にやってきます。
そして、異口同音に世界一の大都市「江戸(200万人)」の不思議に感嘆します。
ロンドンやパリ、ウィーンは石で囲われた城塞都市でありましたが・・・・、
江戸は全く概念の異なり緑園都市でありました。
農村と都市が融合した異空間の美しさや居心地の良さに驚嘆します。
モースも、シッドモアも、ベルクも褒めちぎります。
フォーチュンやオールコックは江戸の花文化を西洋に輸出する事を目的に、
江戸郊外の団子坂や染井をめぐります。
江戸時代日本人が腐心して作り出した「花菖蒲・椿・桜・菊」そして百合を買い求めます。
江戸は彼ら花の貿易商人にとっては「宝の山」でした。
 
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     鎌倉を防衛するため設備された切岸の土手一面に山百合が咲きます。
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明治10年代横浜港の輸出品は第一が生糸、ついで茶、ついで花(主として百合)でした。
生糸も原料は行き着くところ桑ですから、日本の近代化を支える外貨は植物が稼いで呉れていました。
 
100年前、緑園都市であった江戸近郊はもう往年の姿を留めていません。
私の生家は茅葺き屋根で、屋根の棟には山百合や露草、ススキ等が自生していました。
それは、裏山に続いて広い「入会地」があったのでした。
入会地では茅を伐採し、越冬用の薪炭を作りだしました。
秋には村民が入会地の下草を刈って、枯葉をかき集めました。
だから、入会地は何時も手入れが行き届いていて、様々な動物が棲み、
春先には片栗をはじめ様々な花が咲きました。
そして、初夏には山百合が咲いていました。
言を返せば片栗や山百合は人間が手入れをしないと自生できないのです。
 
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                  一株に一体幾つ花をつけたのでしょうか・・・・、重そうですが・・・、やはり美しい。
 
農地解放後入会地には何時しか私権が登録され、高度成長期になると手入れをしなくなりました。
雑木林は手入れされないので・・・・・、野放図に伸びてしまい、下草は無くなり、藪になってしまいました。
片栗は絶滅し、山百合も稀にしか見ることは出来なくなってしまいました。
そんな変遷の中に日本人は生活してきましたから・・・、
片栗や山百合を筆頭にした自然資産を失った事実に無頓着でした。
しかし、シーボルトやモースが生きていたら、日本の喪失資源を鋭く指摘した事でしょう。
「美しい国日本は消えてしまった。」
「日本の文明は失われてしまった。」
 
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幸いなことに自然は時間の大きなウネリの中で回復してくれます。
放射能で汚染された大地も、絶滅した朱鷺も、回復の軌道に乗っているようです。
未だ、日本の国土の66%は山林であり、12%は田畑です。
宅地は僅か5%、道路も3%余りです。
自然に目を向ければ、手入れを怠らなければ江戸時代末期の「緑園都市」に回帰出来ると思います。
 
切岸は自然の要塞都市鎌倉を軍事的に守るための施設でした。
手入れさえすれば800年も前から・・・・・、岩場に山百合が咲き誇ります。
でも、岩場の草刈をするのは命懸けでしょう。
しかし、命懸けで下草を刈れば・・・、美しい花が報いてくれます。
鎌倉の園芸業者には素晴らしいスピリットが脈々繋がっています。
私は、鎌倉の切通や切岸を山百合で埋め戻せたら・・・・、
ユネスコの世界遺産登録と同じように価値があると思います。
シーボルトもモースも賛同することでしょう。
 
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  モース等が指摘した茅葺き屋根の棟の上に植えられた植物。写真青い花を咲かせる”いちはつ”(川崎民家   園清宮家住宅/相模の民家) これが東北に行くと赤い鹿の子百合になります。簪のようなお洒落です。
  箱根の芦之湯東光園では棟に山百合が咲きます。
  
 
私も家内も山百合に話しかけます。
「ダブル台風にも負けずに良く咲きましたね・・・、美しいですよ・・・」
山百合はうてなを揺らしながら応えます。
「運がよかったのよ、台風が過ぎてから開花したの。今が一番よ・・・、綺麗なときにじっくり見てくださいね・・・」
私は家内に話しかけます。
「山百合を見るにはラッキーだったね。これからも幸運が続くといいね・・・」
 
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【追記】
①、シーボルト以下西洋人の見た江戸近郊の景色は、主として以下に記載されています。
「逝きし日の面影」(渡辺京二)
②、自生している場所が「切岸」である・・・、確認はできていません。 しかし形状は切岸風なので上記のようにかきました。
 
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再建されなかった江戸城本丸(民本政治とは)

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昨日も今朝もラジオは国会を中継しています。
野田首相は「(消費税をあげなくては)この国は持ちません」 力説して頭を垂れます。
一方野党は、民主党の公約は全敗である。"詐欺のような公約で政権を奪取したのだから・・・・、"
もうその先の解散総選挙を迫ります。
私たちは誰もが解っています。消費税を10%にしてもこの国は持ちません、せめて25%にしなくては・・・。
先ず国会の定数を削減して歳出削減をしなくては・・・、
でも、歳出削減のシナリオを作って、実施する気配は全く見えません。
 
私は、1657年「明暦の大火」を思い出します。
 
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                                         明暦の大火(wikipediaから転載)
 
江戸本郷にある本妙寺では施餓鬼会で振袖も焼いていました。
振袖を火元にして江戸の町の三分の二が焼け落ち、10万人の死者が出ました。
江戸城本丸も焼け落ちてしまいました。
 
江戸町民は日本一の大きさ、5層の天守閣を仰ぎ見て生活していましたし、
お城の彼方に見える富士山を信仰していましたから・・・・・、天守閣の再建を期待し、確信していました。
 
将軍は徳川家綱(3代家光の子)、補佐したのが家光の弟「保科正之」でした。
保科正之は江戸城天守閣の再建を認めません。
江戸城を再建すれば・・・、町人の住まいの再建が難くなるではないか。
江戸の町の再建を優先し、広小路を造り・・・、火災に強い都市に作り変えます。
更に、玉川上水を江戸市中に引き込み、水道の整備を図ります。
保科正之には「武断政治」の象徴が高層の天守閣に見えていたのでしょう。
これからの政治は「文治」を旨とする・・・・、その為には敢えて天守閣を再建しない事を誓ったのでした。
 
以来、江戸城は日本一の大きさを誇り、幕府の中枢であり、本丸はその象徴でありながら・・・、
本丸は4再建されていません。
将軍も、武士(官僚)も本丸の石垣を眺めながら・・・・、期待される政治に邁進すべく自らを諌めた事でしょう。
それが、朱子学の考え方「仁を以て、民を第一に政治をとる」ことだったのでしょう。
「生活が第一」民主党の公約に似ていますが、実行力がまるで違いました。
 
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  葛飾北斎作「富嶽三十六景」の中から江戸日本橋。日本橋の黒い擬宝珠が見えます。日本橋川の向こうは  外堀に繋がります。倉庫街の彼方に江戸城天守閣が見えてその彼方に富士山が仰ぎ見られる江戸っ子の   大好きな景色です。でも、北斎は元禄時代の絵師、実際は江戸城の天守閣はなくこの部分は青い空でした。  江戸っ子は天守閣の無い江戸城を仰ぎ見て、将軍や江戸幕府に信頼を置いたものと思われます。
  今はこのアングルは首都高の橋脚によって視覚が塞がれています。
 
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                                 明暦の大火以後敢えて再建されない江戸城本丸。
 
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  文京区の区庁舎から江戸城方面を見る。わずかに外堀がビルの隙間から覗けました。
  富士山は大山の上に聳えているはずです。
 
保科正之の復興対策が功を奏し、江戸の町は見る見る復興し(元禄復興)、
幕末には200万都市に成長してゆきます。
直後に元禄時代が実現し、江戸の町には明暦大火の傷跡は無いばかりか・・・、
香り高く元禄文化が花咲きます。
江戸の町が「農業・商業・住宅」の循環都市であり、極めて上手にエコが実現されていたのでした。
最近はよく話題になります。
 
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  小石川植物園(三戸徳川家下屋敷)の築地基壇の石垣には江戸城外堀の石が使われています。
  石に大名の字が刻まれています。江戸開府(1603)後、内堀が完成したのは慶長19年(1614)、外堀の完成は  寛永13年(1636年)でした。5層の江戸城天守閣の完成は寛永15年(1638年)でした。
  明暦の大火は1657年ですから、江戸城天守閣は20年しか見られなかった事になります。 
 
 
国会中継を聞いていると「日本には保科正之は再び現れないのか!」
嘆かわしく思います。
国家の再建は税収アップを優先することでは先ず不可能でしょう。
自らが身を切って歳出削減に努め、大事なポイントに、民生に資本を投下し・・・、民の生活が豊かになり、生産が活発になり、人口が増加し、将来に不安や憂いが無くなってこそ・・・・・、天下が緩やかに前に向かって転がり出します。
 
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   日本橋をねる12基のお神輿。江戸山王祭の風景。江戸っ子は京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに 日本   三大祭 、と呼んでいます。保科正之は庶民(農民・町民)の復興を第一に、江戸の町の復興を果たしまし    た。現在の「経済復興」は大企業優先が目立ちすぎで、庶民の事は忘れられているようです。
   何故、庶民の選んだ政治家が庶民の為の政治を軽んじてしまうのか? 
   二代将軍秀忠の倅「保科正之」が庶民のための政治をしたのか・・・、まるで訳が解りません。
 
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擬宝珠の意匠

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街に擬宝珠(ギボシ)の花が目立つ季節になりました。
涼やかな水色が素敵ですし、蕾が開こうと膨らんだ形が可愛らしいものです。
花弁の下半分が球形で、先端が蕾んでいます。
まるで、熟し始めた桃の実か、桃太郎と呼ばれるトマトのような形です。
その形が「宝珠」に似ているので、擬宝珠(ぎぼし)の尊い名前を頂戴したのでしょう。
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                擬宝珠は水気があれば日陰でも花を咲かせる、涼やかな花です。
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   石仏の弘法大師を隠すほどに咲いた擬宝珠の花。(鎌倉手広の鎖大師で)
 
宝珠とは如意宝珠(にょいほうじゅ)のことです。
仏教で様々な霊験を表す宝の珠のことです。
お地蔵様や虚空蔵菩薩、如意輪観音、吉祥天等が左手の掌に載せておいでです。
仏様が信者の願いを「意のままに叶える宝の珠」なのでしょう。
仏塔の相輪の最上部に取り付けられ、仏堂の屋根の頂上にも、堂塔の縁側の先にも確認できます。
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                     鎌倉妙本寺の宝珠。キリギリスの雌が何故か乗って動きませんでした。
 
街に出れば橋の欄干にも置かれています。
流石に此方は「宝珠」とは呼ばずに「擬宝珠」と呼び、”宝珠を模したもの”と少しへりくだっています。
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   鎌倉鶴岡八幡宮太鼓橋、橋の欄干を飾る形に擬宝珠が載っています。橋に災いが無い様に、橋をわたって   お参りする人の幸いを叶えたものでしょう。
 
 
西洋文明では「宝珠」は球形の上に十字架が載っています。
「十字架が載った球体」は中性を通してキリスト教(神聖ローマ帝国?)の権威の象徴として扱われます。
キリストが宝珠を持てば、世界の救世主の意味で有りましょうし、ローマ皇帝が宝珠を持って描かれれば、キリストに代わって地上に降りて人々を救う・・・、意味でしょう。
また、王様も宝珠を持って描かれます。
領民は王様を支配者として崇めたことでしょう。
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               お地蔵様は左手に錫杖、右手掌に宝珠を載せるのが基本です。(足柄地蔵尊)
 
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    西洋中世はローマ教皇もキングも左手の掌に宝珠を持っています。何故かお地蔵様と同じ意匠です。
    写真はフリードリヒ5世像(在位1610~1623)
 
 
同じ球体をベースにして、同じ宝珠と呼ばれながら・・・・、その役割は随分日本と西洋では違いがあるようです。
日本人は宝珠の形に権威を感じることはなく・・・、病気避け、長生きや裕福を実現してくれる・・・、現世利益を満たしてくれる”形”と考えました。
一方西洋は、キリストに指示・承認されてこの世を治める・・・、そんな権威の象徴だったようです。
 
私は直感的に「宝珠の形」は桃の実をデザインした・・・、思います。
すこし、遠慮しても仏教が伝来して、宝珠を度々見た日本人は・・・・、
あそこにも”桃”の実がある、此処にも”桃”の実がある・・・、思ったことでしょう。
だから、素直に尊い形だと思ったことでしょう。
だから、古墳からは大量の桃の種が出土し、桃から桃太郎が生まれました。
 
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シーボルトが指摘したように、日本人は「花暦」を作り出し、歳月の過ぎるのを楽しみました。
この、涼やかな初夏の花に擬宝珠・・・、名づけたのは素敵だと思います。
擬宝珠の傍らにもう萱草が咲きだしました。
こちらも、素敵な花です。
 
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                                          擬宝珠と萱草が同時に咲き始めました。
 
 
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実験農場の麦の収穫

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昭和30年代は横浜でも麦畑が其処此処にありました。
戸塚吉田町の八幡山の麦畑を写生した時、風が吹いて黄色く実った麦に砂が混じってしまいました。
無茶苦茶な気持ちになって、思い切って絵の具の上に砂を乗せて描いたら・・・、上手く描けました。
先生には大変に誉められ、どこかのコンクールに応募されました。
そんな、八幡山も今では住宅地に変わって、昔も面影も、麦畑も無くなってしまいました。
 
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                                       栃木「下野薬師寺」近くの麦畑。4月中旬。
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           下野薬師寺辺は小麦の二毛作が一般に行われています。畑の中にあるのは墓地です。
 
私の母は狛江にある竜泉寺の長女として生まれたお嬢さんでした。
戸塚の聖徳寺に嫁いだまでは良かったのでしょうが、戦争、農地解放によって経済的に窮地に陥ります。
僅かに残された農地を女手で耕しました。
     朝露や 百姓の手ほどき 不馴れにて
 
朝から晩まで働き通しだったようです。
小学校の授業参観にはもんぺ姿で出席していました。
私は、そんな母に言ったそうです。
「お母さん、授業参観には少し綺麗な身なりで来てよ・・・・。」
 
私は、母の句集を整理して出版しましたが・・・・、
最も母の面影を残した句は次でした。
 子を負いて 星をいただき 麦を踏む
背中の子は私でした。
朝露を踏んで畑に出て、星空の下で麦踏みをしていたのでした。
だから、麦を見ると母を思い出します。
 
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                         私の母の面影を宿しているので買い求めた油絵、
                         遠くに見えるのが高遠城跡公園で、遠くの山は仙丈です。
 
11月、コメの収穫を終えた田圃を干して、麦を播きます。
麦の若芽が霜柱で浮き上がらないように・・・、踏むのが麦踏みです。
踏まれた麦は必死になって株分けを行い・・・、日が長くなるに応じて育ちます。
そして、春が過ぎて夏の日差しが強くなる頃、収穫を迎えます。
麦にとっては収穫の秋ですから・・・、麦秋と名付けられたのでしょう。
でも、直ぐに梅雨が始まるので、麦秋は短いのです。
二十四節気のうち「小満」の末候「麦秋至」としています。
 
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              倉田の横浜市大実験農場での小麦の収穫作業。一戸建て住宅は小田急分譲地。
 
もう、麦秋も過ぎたし・・・、半夏生の花でも見ようかな・・・、思いながら舞岡の溜池に向かいました。
すると、思いがけない光景に遇しました。
小田急住宅地と舞岡里山公園の間に実験農場があるのです。
今の季節は農場の約半分で麦を栽培しています。
白衣を着た人たちが、麦を収穫するわけでもなく、何やら作業をしているのです。
私は、聞いてみました。
 
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木原研究所の収穫作業。麦の背丈を図り、穂の長さ粒の数を確認し、補をオレンジの袋に収める。
残りは・・・・、雀が食べ放題。
 
「私たちは横浜市大の木原生物学研究所です。此処で麦の種苗実験を繰り返しています。
約三百種の麦を作っています。今日は、麦の背丈、穂の長さ、粒の数などを調べます。
私はインドから来ました。私はパキスタン人です。
木原生物学研究所では日本の気候や土壌だけでなく、世界各地に適した種を研究しているのです。」
 
私は素朴に尋ねます。
「大麦と小麦は解りますが・・・、この麦は見慣れませんね。随分背丈が高い。
それに背丈は低く、収穫の多いのが期待される麦なのでしょう・・・?」
すると、パキスタンの研究者は言います。
「パキスタンの西からアフガニスタンにかけては屋根は麦藁で葺くのです。だから背が高い方が好まれます。」
 
私は、たくさんの雀が麦穂に群れているのを指さして・・・・。
「この麦畑は麦の種の開発プロジェクトと言うより、雀の保存プロジェクトですね・・・・!」
「そうですね、種の開発を終えれば、残りはみんな雀さんにあげるんですよ・・・。」
屈託なく笑われます。
 
「7月27日には私達研究所も横浜市大の文化祭で研究を発表します。
是非お越しください。説明して差し上げますよ・・・。」
 
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                                      麦畑は雀の天国です。
 
そう言われてみれば、パンの味も麦の種によってずいぶん違うし、
カレーにつきもののナンもチャパッティーも日本の小麦とは違う気がします。
実験室で種の交配をして、この農場で育種してみるのでしょう。
 
私は銀行員として過ごしてきた訳ですが・・・・、就職時小学校の友人に言われました。
「銀行員は君には不似合いな職業のような気がするが・・・・、いいのかな?」
 
私は、ぼんやりインド人と麦の種の開発をするのも・・・・、楽しそうだな・・・・、思います。
美味しいナンの材料になるし、藁は屋根材にもなる・・・・、
研究者達の若さが眩しかったのでした。
 
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    此処も麦畑、既に雀に食べつくされました。奥に溜池があります。
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                             収穫された麦穂。これが次の実験のベースになるのでしょう。
 
 
 
 
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逢魔ヶ時の半化粧の花

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明後日(7月1日)は半夏生(はんげしょう)です。
暦の上では夏至から11日目に当たる日だそうです。
「半分夏」と書くのですから、暑い日と梅雨冷えの火が入り混じった、天候不順な季節で、
体調維持に気をつけろ・・・、そんな意味でしょう。
井戸には蓋をして毒気が井戸水に混じらないように戒めた、とか
生野菜は食べないようにした、とか
田植えを終えて疲れた体を癒すために働かないようにしたとか、言われています。
 
この季節に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言うそうで、
大雨になり地滑りなど被害をもたらす危険があるそうです。
九州の長雨も心配です。
 
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                    鎌倉中央公園、遊歩道沿いに咲くのは百合の仲間「ヘメロカリス」
 
半夏生(半化粧)の花を見に、鎌倉中央公園に出かけました。
例年、眺めている半夏生の生い茂る田圃ですが、今年は周囲を四つ目の竹垣で囲い、
庭園風に整備されました。
同時に蓮池と半夏生の田圃と特別しました。
昨年より一層綺麗になりました。
 
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         少し整備された半化粧の自生する田圃。夕暮れ時になると白い花が怪し気に目立ち始めます。
 
片白草(カタシロクサ)を半夏生と呼んだのは「半夏生」の頃に咲いたからでしょう。
そして、漢字にすれは「半化粧」をイメージしたと思います。
と言うのは、花の周囲をの葉っぱが半分だけ白粉を塗りかけた・・・、
つまり半分だけ化粧したように見えたからでしょう。
 
半夏生は見た目のとおり、「どくだみ」の仲間です。
ドクダミは花序の下に4枚の白い苞(ほう)を持っています。
これが花弁のように見えます。
半化粧は花序の真下の葉っぱが部分的に白化を起こします。
葉っぱが未だ苞になりきっていないという意味で、どくだみより原始的な植物であり、花だと言えるでしょう。
白化現象は未だ若葉のうちは葉緑素が無い状態で、夏が深まるに連れて緑になります。
林に絡んだマタタビの葉と同じ現象です。
 
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                                 一面の半化粧。今が見頃です。
 
人間は洞窟に住んでいた時代から、夜が恐しいと思っていました。
昼間は綺麗に飛んでいた蝶が、夜になると不気味な蛾に変わります。
昼間の鳥は姿も鳴き声も美しかったのに、夜になれば気味悪い蝙蝠(こうもり)が飛んでいます。
不思議な能力を蓄えた狸や狐が出てきますし、恐ろしい狼の遠吠えも聞こえます。
だから、夕暮れ時を「逢魔ヶ時」と呼んで家の中に閉じこもっているように戒めました。
 
逢魔ヶ時に目立つのが半化粧の花でした。
 
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                                    夕顔の花、毎年旧盆の頃に咲きます(昨年撮影)
 
逢魔ヶ時に咲く花・・・、と言えば先ず第一に「夕顔」でしょう。
源氏は六条の草深い里の垣根に咲いた夕顔に目を止めます。
そして、その家の主人「夕顔」に情を通わせます。
ある日、夕暮れどきに夕顔を寂しげなお寺に誘います。
ところが、夕顔はある女(六条御息所?)の生霊に取り憑かれ・・・、息絶えてしまいます。
逢魔ヶ時の惨事でした。
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                                  「夕顔の花」 月岡芳年。生霊は六条御息所?
 
夕顔も烏瓜も半化粧も純白の花です。
日暮と共に咲くか、目立つ花です。
蝶や昆虫を誘う訳ではないので・・・、香りも無ければ花密も多くは出ないことでしょう。
ただ闇夜に目立つ白い花です。
 
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               カラスウリの花。夕顔も烏瓜も半化粧も夜に飛ぶ蝶(蛾)を誘います。
 
「お兄さん!少し遊んで行かないかしら・・・・?」
夜鷹が声をかけます。
厚化粧は年齢や顔に出た病を隠すためでしょう。
頭巾や手拭で顔を半分隠しています。
 
「夜鷹」は江戸時代の最下層の遊女でした。
隅田川の永代橋や両国橋、鴨川の三条大橋の橋の袂で客を誘い、
川原の設えられた筵の小屋で春を商いました。
川原の脇には半化粧も月見草も咲いていたことでしょう。
半化粧の名には「夜鷹」の怪しさや危さを伴っていたことでしょう。
 
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    半化粧の花。苞の周りに蜘蛛の巣を張って、
    白化した葉っぱの上で蜘蛛が獲物がかかるのを待っていました。
 
 
妖怪も人間の心の底に根付いた病理でしょう。
百鬼夜行が往来する逢魔ヶ時も、人間の弱さや深層病理が生み出したものでしょう。
夕顔も烏瓜も半化粧もそれ自体は美しいものですが・・・、
同時に人間の深層心理を刺激する怪しげな花です。
だから・・・、私は心惹かれますし、好きです。
 
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   こっちは白化した葉っぱの上で、待ち伏せする蜂がいました。怪しい白さには危険が隠れています。
 
 
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円空と法隆寺

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誰でも真似できそうで、真似しにくい「円空仏」は独特です。
でも、円空仏が突然に出来たのではなく、江戸時代初期、円空以前に「弾誓」一派の仏像がありました。
円空は故郷岐阜羽島の観音堂でその仏像を眺めながら育ちました。
円空仏の素朴さは円空以前の仏像に由来すると考えられます。
 
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                    法隆寺百済観音を彷彿させる円空の11面観音像。円空の母の面影?
                    写真は本件も含めて朝日新聞社円空展(1994年)のアルバムから転載。
 
1665年、35歳になった円空は伊吹山太平寺を出て、遊行の旅に出ます。
行き先は最果ての地、蝦夷松前のでした。
蝦夷から下北半島、恐山や津軽を遊行し、1669年39歳で故郷に戻り粥川寺で得度します。
そして再び旅に出て、1673年42歳の時、斑鳩の法隆寺に入山します。
法隆寺西円堂は円空が尊敬する行基菩薩が創建したもので、行基を慕う遊行僧が全国から集まっていました。
遊行僧と言っても様々な人がいて、土木が得意な人、火葬が得意な人、石工の技がある人、造仏が得意な人・・・・、様々な得意技を持った坊主がいたことでしょう。
勿論円空は作仏聖ですから・・・・・、仏像の研鑽を積んだこと事でしょう。
 
勿論、法隆寺には飛鳥時代以降の優れた仏像が並んでいます。
朝から晩まで円空は法隆寺の仏像を見つめて、自らを励ましたことでしょう。
その成果を法隆寺で大日如来像に顕します。
法隆寺で円空が彫った大日如来は不思議な笑みを湛えています。
それはアルカイックスマイル(古拙な微笑)、飛鳥仏特有の笑みでありました。
技術的には一木を正面から少しづつ削って、仏像を彫り進める「一木造り」でしたし、
仏像は真正面から眺める「正面観照性」を重視していました。
(後半生の円空は一木を割って、半分で主尊を残りの半分を二つに割って脇持仏にする「一木三尊」が目立つようになります)
法隆寺は円空の大日如来を評価して、「法相宗の血脈」を与えます。
「法隆寺の修行を終えて、法相宗の教えを受け継いだ立派なお坊さんである」承認されたのでした。
 
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      円空作大日如来像、円空は初めて法隆寺で血脈を受けます。丁寧な彫りは晩年の円空とは随分違う      ように見えますが、円空の技法の骨格になっていると思われます。三角形のフォルム、独特の笑み、       正面観照性が特徴です。
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                                                          法隆寺釈迦像
 
法隆寺で血脈を受けた円空は故郷羽島に戻り、亡母の三三回忌の法要を営みます。
そして再び奈良を遊行し、修験道の聖地大峰山に入ります。(1673年42歳)
大峰山から天川村に出て高野山に近い栃尾観音堂でも造仏に励みます。
更に円空は志摩に現れます。(1674年43歳)
 
志摩三蔵寺では大般若経を修復し、43枚の添絵を描きます。
この2年余りの間に法隆寺、大峯山、伊勢志摩をめぐります。
法隆寺は日本仏教の生誕の寺、大峯山は修験道のメッカ、伊勢は日本神道の中核でした。
日本宗教の骨を一時にお覚めたことになります。
円空体を巡る血液が仏教・修験道・神道、何れにも馴染んで、一緒に流れたことでしょう。
同時に円空の肉体や精神が、日本の長い伝統、日本の風土に根ざしている・・・、自信を得た事でしょう。
 
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         天川村栃尾観音堂の観音像。笑みは法隆寺大日如来像に共通しますが、
         衣紋等の処理は鉈彫りの豪快さが出てきています。
 
法隆寺の飛鳥仏にはもう一つ特徴があります。
立像の場合、その衣紋が三段にギザギザに流れていることです。
一段目より2段目が大きく流れ、更に3段目がもっと大きく流れます。
まるで、飛鳥風が仏像の衣の裾を吹き返しているような形であり、音楽を感じます。
円空はそのデザインを自作の立像にも採用します。
 
円空が法隆寺で学んだのは法相宗の奥義出会ったのかもしれませんが、
その大部分は飛鳥仏の技法だったような気がします。
飛鳥時代の仏像の技に、木地師としての技術がオンされて、円空独特の仏像ができたと思われます。
それは、「伝統と革新」、永遠のテーマを円空が成し遂げた秘訣だったと思われます。
 
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円空の立像の衣紋処理・・・、ギザギザの意匠は飛鳥仏の影響と思います。(写真は埼玉の薬師堂)
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法隆寺菩薩像。衣紋処理は円空に影響を与えた?
 
次回、何れかの機会に晩年の円空を案内するつもりです。
それは1676年45歳の円空が荒子観音寺で大きな丸太から観音立像を彫っているとき、閃きました。
円空は巨大な檜の丸太を池に浮かべて、鉈をふるい落とします。
見る見る、木っ端が池の表に浮かびました。
檜の丸太は観音になります・・・、ならば、檜の木っ端も仏であるはずです。
仏教には『悉有仏性』という言葉もあります。
円空は偶然出来た木っ端を活かして「木っ端仏」を彫ります。
融通無碍な作仏聖の晩年がスタートします。
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                  荒子観音寺の木っ端仏、最も円空らしい「自由無碍」な円空の仏でしょう。
 
  【追記】 当原稿は5月28日日文研で円空研究を発表した時の一部分です。①円空以前 ②青春の円空 ③伝統を学ぶ円空 ④円熟の円空、構成の③になります。
 
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純愛と霊(浅茅と二人静)

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昨日(6月29日)は久々に日分研の例会に出席しました。
私の快気報告をかねて出ましたが、研究会のレポーターはO氏で、「霊界を歩く」と言った表題でした。
いささか、人生論が前面に出て、研究がお仕着せに聞こえたのは私の素直でない性格からでしょうか?
 
そこで、今日は私は日本らしい、花に憑依した霊の話を二題させていただきます。
霊も一つの文化で、歴史と共に変遷し、風土によって形を異にするからです。
 
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                   浅茅の茂る草原。背丈の低い茅が茅萱(浅茅)です。
                   廃屋の庭等に最初に咲くので寂寥を感じます。
 
【浅茅の露の話】
今の季節、草原に出ると茅萱の穂が銀色に光り輝いています。
茅萱は背が低いので、浅茅とも呼ばれ、浅茅の生い茂った草原を「浅茅が原」と呼びます。
「浅茅が原」には民話が多く残されています。
 
京都に身分の低い侍が住んでいました。侍には世話焼きで慎ましい妻が居ました。
ある時、侍の主人が国司になって地方に赴任することになりました。
侍は主人に従って地方に旅立つ事になりました。
所が、旅立ちに際して別な女が現れて、お仕着せがましく旅立ちの準備をしてくれます。
侍は慎ましやかな妻を置いて、新しい妻と旅立ってしまいました。
 
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                                   浅茅(茅萱)が光って眩しい景色。(鵠沼海岸で)
 
侍は任期が終えて都に帰りました。
急に前の妻が恋しく思われて、旅装束のまま元妻の家に行きました。
門は閉ざされ、家は荒れ放題でした。
とても人が住んでいるとは思えないあばら家で、朽ちていたのですが、元妻が一人で出迎えてくれました。
侍は言いました。
「明日になったら家を立て直して、従者を雇って・・・、一緒に住う!」
元妻は嬉しげに侍の腕に抱かれました。
 
                                             
翌朝侍は降り注ぐ朝の光に目を覚まします。
侍の傍らには何と骨と皮になったミイラが横たわっていました。
侍はミイラと一夜の契を交わし、抱いたのでした。
驚いた侍は隣家に走って聞きます。
「隣の家の女はどうなりましたか?」
すると隣人はこう答えました。
「お隣の方は長年連れ添った夫に捨てられてしまいました。
女は深く嘆き悲しみとうとうこの夏に死んでしまいました。
野辺送りしてくれる人もいないので・・・・・、死んだままです。」
   浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど
        あまりてなどか 人の恋しき   (源等/後撰集)
    (出典:今昔物語巻27-25話、後に上田秋成によって「雨月物語」に再録される。)


 
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                                                  浅茅が原図 歌川国芳
【浅茅が原の鬼婆の話】
現在の台東区花川戸に伝わる鬼婆伝説です。
奈良時代、用明天皇の御代の話です。
隅田川の浅草寺の近くに浅茅が原と言う草原がありました。
この道が奥州や下総に通じる唯一の細道でした。
荒地が続き、一面に浅茅が生えていて、寂寥感の深い草原でした。
旅人は明るいうちに浅茅が原を越えようと足を早めるのでしたが、秋の日はつるべ落としで、
往々にして日が暮れてしまいました。
 
浅茅が原には一戸だけあばら家がありました。
仕方なく旅人はあばら家の戸を叩いて、一泊の宿を借りました。
家には老婆と美しい娘が住んでいました。
 
深夜、旅人が寝静まると、老婆は起き上がり、寝入っている旅人を襲って石枕で頭を叩き割るのでした。
旅人の亡骸は隅田川に投げ捨てて、旅人の金品を奪って生きているのでした。
 
娘は婆の非道さをが諌めていたのですが、鬼婆は一向に聞き入れる風ではありませんでした。
老婆の殺した旅人が999人に達しました。
ある晩、1人旅の稚児が宿を借ります。
老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石枕で叩き割ってしまいます。
しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘でした。
娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めたのでした。
 
老婆はハット気付きました。
自身の行いを悔いて生活していたところ、稚児が現れます。
実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身だったのでした。
鬼婆に人の道を説くためにこのあばら家を訪れたのでした。
観音菩薩は娘の亡骸を抱いて消えてしまいます。
 
同じような話は全国にあります。
福島市の北、安達が原も有名です。
 
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【二人静の話】
写真は山野草として人気の「二人静」の花です。
大葉に似た緑の大きな葉の上に二本の茎が伸びて、白い鈴のような小花を茎の周囲に咲かせます。
「静」とは義経の愛人「静御前」のことです。
花軸が一本なら「一人静」、二本なら「二人静」です。
 
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                                     二人静かの花。(軽井沢の友人I君の別荘で)
 
二人静のネーミングは多分「世阿弥」です。
世阿弥はこの山野草を眺めていて・・・、謡曲「二人静」を創作いたします。
 
吉野勝手明神の正月行事でした。
美しいお巫女さんが野に出て、若菜を摘んで正月の神前に供えます。
若菜を摘んでいると、突然に女が現れます。
女は巫女に訴えます。
「貴方は吉野勝手明神に帰るのでしょう。帰ったら託けて下さい。私は罪深い女です。でも罪の深さを哀れんでお経を書いて弔ってください。」
 
巫女は神社に戻ると神主に不思議な体験を報告します。
でも、報告する最中に巫女は顔つきも言葉も変わってしまいます。
驚いた神主は尋ねます。
「お前の正体は誰なんだ!」
巫女の体に憑依した霊が答えます。
「私は静です」
神主は哀れんでこう言います。
「それでは、静御前の霊をねんごろに弔うから・・・・、その前に舞を見せて欲しい」
すると女は昔自分が吉野勝手明神に納めた衣装を取り出して舞いはじめます。
何時しか、静は巫女と静の霊と二人になって・・・、舞い続けました。
 
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                                                謡曲「二人静」
浅茅も二人静かも、今が見頃です。
どちらも、霊が憑きそうな、怪しく美しい山野草です。
日本の文化はこんな山野草を素材にしながら・・・・、育ってきました。
 
 
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鴎外が始めた「美術解剖学」講座

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横浜市民なら必ず歌える歌があります。
横浜市歌です。
小中学校の入学式や卒業式、賀詞交換会や各種の表彰式、先ず全員で横浜市歌を斉唱します。
君が代は歌わなくても、横浜市歌は必ず歌います。
横浜市民であることを特段誇りに思っている訳でも、横浜市が好きな訳でも無いでしょう。
唯、歌詞が素晴らしいのです。
横浜市民の”進取の精神”を見事に表現していて、100年以上経っても少しも色褪せないのです。
何しろ作詞者は明治の文豪森鴎外なのです。(作明治42年)
   わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に
   連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ
   されば港の数多かれど 此横浜に優るあらめや
   むかし思へば苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし處
   今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや
   果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港
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                森鴎外胸像。木本諒 2012年作「森鴎外もうひとつの顔」展示場で許可を得て撮影。
森鴎外の文章は文語体です。
だから、私達世代は読み難いのです。
夏目漱石と並び評される文豪なのに、遥かに馴染みが薄く、評価も低いのではないでしょうか?
 
その鴎外のスケールの大きさを教えられる展示会が文京シビックセンターで開催されました。
私の大学での同期生Y女が文京区の文化事業局に転職し、この企画展の事務局を担ったのでした。
 
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                         今日の話題「鴎外もう一つの顔」展示場フロント。6月10日。
 
 
岡倉天心は明治20年東京美術学校を開校します。
明治24年、伝統美術と合わせて西洋画等幅の広い教科が増えます。
岡倉天心は森鴎外に「美術解剖学」の講師を依頼しました。
森鴎外は陸軍の軍医であり、ドイツから帰国したばかりでした。
鴎外は「芸術解剖学」という名の教科書を用意し、明治27年まで東京美術学校で教鞭を振るいます。
講座は久米桂一郎(洋画家)に引き継がれます。
 
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                                           ベルリン時代の森鴎外の展示パネル。
 
「美術解剖学」なんて聞いた事もない学問でした。
でも、ギリシャ彫刻や運慶の東大寺金剛力士像等を見ると、人の骨格や筋肉の動きを見る思いがします。
皮膚の下に隠れて見えない肉体を解剖して、知り尽くしている・・・、
そんな眼力が隠されているように思います。
人体に関心を科学的に進めたのがルネッサンスのスーパーヒーロー「ミケランジェロ」だったのでしょう。
以来、西洋美術の土台には美術解剖学があったのでしょう。
岡倉天心が西洋画にまで、美術の講座を広げようとした時、美術解剖学が必要だ・・・、気づいたのでしょう。
そこで、軍医の森鴎外に白羽の矢を当てた・・・、のでした。
マルチな鴎外はその期待に応えたのでした。
 
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日本の解剖学と言えば、誰でも杉田玄白等の解体新書の翻訳を思い起こすでしょう。(安永3年1774)
小塚原で罪人が処刑されました。
杉田玄白らはターヘルアナトミアを片手にして腑分けに立会います。
そして、蘭学書の正確さに驚愕し、ターヘルアナトミアを翻訳します。
 
でも、腑分けをしたのは杉田玄白でも前野良沢でも中川淳庵(何れも蘭学医)でもありませんでした。
腑分けをしたのは名前もない被差別部落民でした。
一番の功績は腑分けを実施した被差別部落民だったのでしょう。
彼らは牛馬の解体を職業としていましたし・・・・、死体の検視も行なっていましたから・・・、
屹度杉田玄白等が興奮している姿を見て・・・、不思議だったでしょう。
人体を解剖すれば・・・・、様々な器官や組織で構成されている・・・・、決まっているじゃないか!
皮の下に筋肉があって、骨格を前後左右に動かすようにできている。
体腔の中には五臓六腑があって・・・、その上には肺があって心臓がある・・・。
 
浮世絵美人には美術解剖学は感じられませんが・・・、
日本美術には天平時代から美術解剖学の素養があった。
まして、被差別部落民にはその見識が伝わっていたのでした。
 
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                                        美術解剖学の教材(資料集から複写)
 
葛飾北斎の漫画を見ても、伊藤若冲の鶏を見ても・・・、描かれた動物の骨格が把握されているように思います。
日本人の絵画も美術解剖学で鍛えられた眼力があって、初めて描写が出来ているように思えます。
と言う事は、美術解剖学を学べば、より描写力がアップし、
迫真の絵画が描けるし、彫刻を刻める・・・、ということでしょう。
 
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                             北斎漫画 秀作には作者の美術解剖学的な眼力を感じます。
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                             東大寺金剛力士像、美術解剖学の力量を感じます。
 
当展示を主催したのは東京芸大の「美術解剖学研究室」(布施英利准教授)でした。
どうみても地味な教室のようですが・・・・・・、そのマルチな興味は森鴎外に遡るもののようです。
現代美術も人間そのものに対する興味が渦巻いているようにおもえました。
「○○馬鹿」はダメで「マルチ関心」が訴求力に満ちているように思いました。
布施准教授に期待します。
今、東京博物館での展示の企画もあるそうです。
 
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                                           文京シビックセンター展望層からの眺め
 
 
【追記】
当展示は終了してしまいました。筆者は6月10日見学し、翌日入院しました。
 
 
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樹上に咲く「山百合の花」

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鎌倉の山百合は6月25日に「切通の山百合」で書きました。
今朝はもう一つ、今が盛りの山百合を紹介します。
早朝に北鎌倉駅を降り立って、円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院等の古刹を参詣し、巨福呂坂を登る頃にはお腹も空きます。
巨福呂坂にはそんな参拝客向けに茶店や料理店が幾つもあります。
初夏の日差しの中を歩いていると、突然に頭上から芳香が漂って来るのに気付きます。
”何が香っているのだろう”
見上げると、石段があって、その先茅葺きの門の下に、一群の山百合が咲いています。
参詣客の群れは長寿寺の石段の下でしばし佇んで、山百合の花に見とれます。
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                                    長寿寺石段の上に咲いた山百合の花
 
石段の上の山百合は一本の茎に沢山の花をつけています。
高々5ミリ程度の針金のような細い茎に、直径20センチにも及ぶ大輪の花が5つも6つも咲いているのですから・・・、
花が重くて石段に垂れ下がってしまいます。
参詣客の衣服に花粉が付いたら汚れは落ちにくいのです。
花が垂れないように支えが為されています。
葛原ヶ丘から山風が吹き下ろします。
山百合の花がイヤイヤするように、花の顔を横に振ります。
矢張り「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」の言葉通りです。
芍薬も牡丹も中国の花です、百合の花だけが純国産です。
日本女性は山百合に似て、歩く姿が美しい・・・・・・、菱川師宣の「見返り美人」を思い起こします。
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石段の脇に楡の古木があります。
大きな崖の上の長寿寺を土砂崩れから防ぐように立っています。
地上10メートル辺りのところで幹が断絶して、そこから細い枝が沢山生えています。
屹度その位置に落雷があって、雷は幹を下って地中に走ったのでしょう。
落雷箇所から上部は吹き飛んでしまい、大樹の幹に裂傷を作りました。
落雷箇所が腐って洞になって、洞に落ちた落ち葉が積もって腐葉土になって、その上に百合の種が落ちました。
何時からか楡木の地上10mの位置に百合が自生しだして、花を咲かせるようになりました。
石段の上に百合を見つけた人は、次に楡の木の樹上に咲いた百合の花を見つけます。
そして、その奇跡に感嘆の声を発します。
「あんなところにも百合が咲いてる!様々な偶然の巡り合わせなんでしょうが、奇跡ね!」
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                                  右側の楡木の樹上に4輪の百合の花が確認できます。
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          楡木は崖の上の長寿寺を土砂崩れから守るように立っています。
          まるで長寿寺の「守り神」のような大樹です。はるか上空に百合の花が見えます。
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                                     百合の花のイメージ、見返り美人図
 
円覚寺も建長寺も禅寺の大寺には三門(三門)があります。
法隆寺なら中門、東大寺なら南大門の位置にあたります。
禅寺で三門と呼ぶのは「三解脱門」の意味です。
禅寺の三門には扉がありません。
誰でもこの門を通って境内に入り、修行を収めて解脱するチャンスがある・・・、そんな意味でしょう。
解脱の道には空門・無相門・無願門(空、 無相、無作)の三つのハードルがあります。
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       円覚寺三門、間口3間奥行2間の門は扉が無くて「誰でも、何時でも入る事が出来る、三解脱門の意       味です。2階には禅を修めて解脱した先覚を祀っています。
 
三門は間口三間、奥行二間、そして二階建ての楼門である事が普通です。
楼門の上には、お釈迦様、禅の後継者「迦葉尊者」、そして羅漢が祀られています。
三者とも禅を修めて、解脱した人達です。
「三門に入る」とはお釈迦様を初めとした三者に倣って、禅を修行し覚醒しよう・・・、そんな意味でしょう。
 
千利休が大徳寺の三門上に自らの像を祀った・・・、それが秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられた・・・、
言い伝えられています。
真偽のほどは解りかねますが・・・・、本来お釈迦様が祀られるべき位置に自刻像を祀ったとなれば・・・、
不遜というべきでしょう。
せめて、釈迦如来像が無かったならば・・・、長寿寺のように「百合の花」を生けておけば良かったものを・・・、
そう思います。
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長寿寺は足利尊氏の長寿を祈った寺ですから・・・、建長寺のような三門はありません。
寂びた茅葺きの門です。
でも、三門のような楡の古木が立っています。
 
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                                三門の上の釈迦を想わせる?、百合の花。
 
 
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海開きされた「由比ガ浜海水浴場」

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7月1日、鎌倉の由比ケ浜を筆頭に材木座海岸も片瀬海岸も「海開き」でした。
今年は、その直前に台風4号に襲われ、建てかけの海の家が流されてしまったので、
どうなるのか少し心配でした。
どうなったのだろう・・・、海を見に、7月2日梅雨の合間に由比ガ浜に出かけてみました。 
 
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                       長谷海水浴場から由比ガ浜を見る。右端が逗子マリーナ。
 
もう、材木座海岸から長谷海岸辺まで、ビッシリ海の家が建ち始めています。
数店は開店していて、多分大学生でしょう、客の呼び込みをしています。
私を見るなり
”ビール、冷えてますよ”声をかけてくれます。
1ヶ月前の私なら(胃癌手術前なので)・・・・、ホイホイと入店したのでしょうが・・・、
今の私には飲む物も食べる物もありそうはありません。
 
覚えたてのマニュアルに従って、声かけしているのでしょう・・・・。
”今年こそ、儲けてやるぞ!” 海の家業者の意気込みが伝わってきます。
 
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               左が開店されて間もない「海の家」、笹竹は海開き神事で使われたものでしょう。
 
こんなに砂浜が広かっただろうか?
人混みの無い砂浜が広がっています。
もう、甲羅干しの女性も散見されます。
何時もは沢山のサーファーが遊んでいる渚ですが、海開きすれば此処は海水浴場、みんな禁止です。
精々浮き輪や浮きボートを使って、波と戯れるだけです。
流石に未だ海は冷たいのでしょうか?
泳いでいる人は見当たりません。
 
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   中央が滑川の河口。河口の手前が由比ガ浜、河口の向こうが材木座海岸。
   甲羅干しの人が散見されます。
 
私は滑川河口から西に500メートル歩きました。
稲瀬川河口に出ます。
河口のコンクリート護岸の上に腰掛けて海を見ることにしました。
中学生の一団が私の横にやって来ました。
「何処から来たの?」
聞けば、所沢から、鎌倉自主研究でグループで由比ガ浜に来たのだそうです。
「川越と鎌倉とどちらが楽しい?」
聞けば、
「鎌倉には勉強に来たのです。」
私はたしなめられてしまいました。
 
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   中央が稲瀬川の河口、右(西)が長谷海岸、左(東)が由比ケ浜。 
   コンクリート護岸の上で寛いでいるのが所沢中学の生徒。 スカートを脱いで渚遊びを始めます。
 
 
少年が私との会話より、渚で遊びたい・・・、波打ち際に走って去りました。
すると、少女が私の目前でスカートを脱ぎだします。
ビックリしている私を無視して・・・・、
スカートの下は紺色のトレ―ニングパンツを履いていました。
安堵する親爺を後にして、
少年を追って、彼女らも波打ち際で戯れます。
 
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                                        カメラを片手に、友達を撮ろうと走る少女
 
私の背後にはもう浜木綿(はまゆう)の花が咲き出しています。
浜木綿はお隣の横須賀市の花でもあります。
今では、どこの公園でも大学のキャンパスでも見かける花ですが・・・・、
横須賀の天神島が浜木綿の北限自生地と言われてきました。
 
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                                              由比ガ浜で咲き始めた浜木綿の花。
 
由比ガ浜の浜木綿も天神島の浜木綿も、その球根が黒潮に乗って流されてきて・・・、
この砂浜に活着したものでしょう。
万年青(おもと)のような葉っぱの中央から茎を伸ばし、夏になると先端に白い花をつけます。
 
白い花が神事に使う”ゆう”に似ています。
”ゆう”とは神主さんが使う神具です。”ゆう”を振るって穢れを祓い清めます。
楮(こうぞ)の枝を切って、その先端の樹皮を細く裂いて、繊維を露にして作った「白布」になっています。
その”ゆう”を砂浜に押立たように咲くので「浜木綿」とよぶのでしょう。
 
鎌倉時代の海岸線は現在よりも200m近く北(内陸部)にあったそうです。
そこは今の由比ガ浜通りに近く、古東海道と呼ばれていました。(湯が浜通りには標識が出ています)
御霊神社も甘縄神社も元八幡宮も古東海道に面して建っていました。
何れの神社にも”ゆう”が海に向かって立っていた事でしょう。
この渚が穢れや悲しみを洗い清めてくれていたのでした。
 
稲瀬川の”ゆう”は渚で戯れる中学生の青春を守るように立っている・・・・・、
そんな風に見えてきました。
勿論、昨日の海開きでは鎌倉の神職を代表して、
鶴岡八幡宮の神主が”ゆう”を振るって海の安全を祈願したのでしょう。
 
今年は、鎌倉の海も、日本中の海が安全であって欲しいものです。
 
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緋色の「カンナ」と「すかし百合」

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梅雨も終わりに近づくと、緋色の花が目立つようになります。
もう、街には「凌霄花」「檜扇の花」「萱草」などが咲き始めました。
暑い夏には涼しげなアジサイの花や擬宝珠の花に代わって、火のように熱い「スカーレット色よ!」
言わんばかりです。
真っ青な青空に入道雲、それらを背景に緋色の花が咲くと・・・・、
”盛夏”を感じます。
 
葉山の長者岬から少し東、子安浜の間に高い断崖があります。
その中腹に毎年緋色のカンナが咲きます。
今年も咲いただろう! 期待しながら出かけてみました。
ところが、数本花の軸(茎)が出ているものの、花はみすぼらしく萎れています。
さらに、肝心の大きな葉っぱは黒ずんで萎れてしまっています。
そう、先日の台風4号で波を被ってしまったのでしょう。
6月に台風が来襲することも珍しいのに、満潮時に合わさってしまいました。
生き残ったのが幸い・・・・、言わんばかりの惨状です。
       (昨年の記録は http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45279048.htmlです)
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                                 昨年の子安海岸に咲いたカンナの花
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             今年の子安海岸、断崖の中腹に咲くカンナの花。 台風で傷みつけられてしまいました。
 
 
仕方ないので、次のカンナの自生地「立岩海岸」にでかけました。
名勝の「立岩」から400mほど東側、小さな砂浜があって、その岩場にカンナが自生しているのです。
もう、甲羅干しの海水浴客が数名います。
その背後に・・・・、緋色のカンナは咲いていました。
でも、昨年に比べれば貧弱な限りです。
カンナの根っこは波に洗われて、楕円の大きな芋が出てしまっています。
流されなかったのは、強いヒゲ根が大地に踏ん張っていたからでしょう。
「これでも、私は精一杯咲いてみたの・・・・、盛夏も近いのだから…、しっかり私を見てね・・・」
叫んでいるようです。
痛々しい程の健気さが心を打ちます。
 
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   立岩海岸のカンナの花。向こうの垂直の岩が「立岩」です。カンナの芋が海流で流されて此処にも活着し、    自生したものと思います。
 
 
日本で最も高貴な色は紫でした。
次いで高貴な色は少し黄色の加わった朱色の・・・・・、緋色でした。
平安時代高級官僚は緋色を着ました。
緋色は「火色」に通じ、すべての穢れを焼き尽くす色だったのでしょう。
炎の色でしょう。
古代人は火色の神聖さ、驚異に畏敬していたのでしょう。
巫女の袴にも、公達の鎧にも火色(緋色)は使われました。
 
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                                      緋色の鎧(春日大社 国宝)
 
私は更に東、横須賀の佐島の先端、天神島に向かいました。
天神島には「すかし百合」が自生しているのです。
鬼の俎板のような岩場にせり出した瓦礫の上に様々な海浜植物が自生していて・・・、
その中で女王様のようにして”すかし百合”が咲くのです。
 
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                    天神島の先端の岩場、この手前が海浜植物の自生地です。
 
でも、すかし百合の自生地は海面上2m程の高さです。
加えて、カンナよりも小さなすかし百合です。
期待薄・・・・・、です。
 
 
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                                     かろうじて花をつけた「すかし百合」
 
でも、咲いていました。
昨年のように群生して花をつける…、状態ではありませんが。
あっちにパラパラ、こっちに一叢・・・・・、咲いています。
波に洗われて、葉は腐っても・・・・・、蕾だけは落とさずにいて・・・、咲きだしているのです。
植物が種を残したい・・・、その逞しさに驚きます。
私は改めて花を見つめます。
”よくぞまあ、台風の波に洗われても…、咲いたもんだ!”
すると、すかし百合は答えます。
「私はなまじ花を咲かせているのじゃないのよ! 私の色は緋色よ・・・・!」
そう言っているようでした。
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                                  浜木綿などの陰で助かったすかし百合の花
 
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   渚で貝や海藻採取に夢中な高校生。
 
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鯖神社の謂われ(鎌倉古道)

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NHK大河ドラマ「平清盛」も平治の乱になり、今週末では源義朝も殺されることでしょう。
平治物語絵巻では二条天皇も後白河上皇も脱出を図り、清盛側に移ります。
たちまちに、義朝は朝敵になり、都での戦いに敗れ東国に落ち延びようとします。
ところが、尾張の国野間で頼りに身を寄せた家人「長田父子」の裏切りに遭い、
入浴中に殺害されてしまいます。
”せめて木立一本あれば!”
恨みを残してこの世を去りました。
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                                       平治物語絵巻、二条天皇脱出成功
 
境川は武蔵国と相模国の境を流れる河川です。
鎌倉から町田を経て上州に通じる「鎌倉古道」も境川の河岸段丘を通っています。
鎌倉古道沿いに12社に及ぶ「鯖神社」が祀られています。
鯖以外に左馬、佐婆、佐波等とも表記されていますが、いずれも源義朝を祭神としています。(3社は源満仲)
12社の大半は江戸時代に建てられたものですが、
飯田神社(上飯田)鯖神社(下飯田) 左馬神社(和泉)の3社は創建が古く鎌倉時代に遡ります。
 
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   泉川の右岸にある「左馬神社」参道、源義朝を祭る神社を総称して鯖神社と呼ばれています。
 
鯖神社の説明には「源義朝の官位が左馬頭(さまのかみ)だった為・・・・、記されています。
私には「左馬頭」が「鯖」に変じるのには疑問があります。
表音文字とは言えども、「馬の管理をする職位」と「魚の鯖」とは脈絡がありません。
 
私の直感ではこのあたりは泉が多くあり、良質の水が飲めます。
ですから「澤の神」(さわの神)と呼ばれる水神社や神名社が数多く祀られていた・・・・、
それが江戸時代疱瘡等の大流行等によって、鯖の神に転じた・・・・、と思います。
 
鯖には病を治す霊験があると思われていましたから。
鰯の頭も厄除けになります、まして鯖はもっと厄除けの効果が信じられた事でしょう。
京都や若狭では半夏生に焼鯖を食べて、健康を祈ります。
 
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                                          下飯田「左馬神社」の鳥居
 
義朝が非業の死を遂げました。
境川流域は元々大庭氏(平家)の所領でした。
飯田氏は大庭の下で虎視眈々と独立領主になるチャンスを待ち構えていました。
 
そんな時、源頼朝(義朝の嫡子)が平家打倒の旗を揚げます。
飯田氏は源氏に期待します。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、領内に頼朝の父「源義朝」を祀って、
頼朝への恭順を示したのではないでしょうか。
 
江戸時代になり徳川家康は源頼朝を敬愛します。
境川流域では次々に鯖神社が建てられ(社名変更を含めて)ます。
七鯖巡り(七副神に習って鯖神社七社を巡れば病気にならない…、と信じられた)が流行ります。
 
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                       左馬神社(石柱には鯖神社と表記されています)の不動明王
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                        社殿横、鎌倉古道に祭られている石仏(中庚申塔、左右馬頭観音)
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                   下飯田左馬神社 社殿奥に祭られている庚申塔。
 
ところで、平清盛は大きな祭神にはなっていません。
清盛が建てた厳島神社は宗像3女神をまつったもので、清盛自身は祭神ではありません。
 
日本では古代から「非業な死を遂げた人」は祀ることによって守護神になりました。
菅原道真も平将門も天神になり「天満宮」や「神田明神」に祀られ・・・・・、信者の守護神に転じます。
祀らなければ、とんでもない「祟り神」になってしまいます。
源義朝も祀りこめることによって境川流域の守護神になったと考えます。
一方、平清盛は神にはなりませんでしたから神格化・・・・、
という意味では源義朝はライバル清盛に圧勝した…、ということになります。
                           (厳島神社の末社に清盛神社があるものの…)
 
NHK大河ドラマで鯖神社が紹介されるのを楽しみにしています。
 
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   こちらも鎌倉時代創建の飯田神社。
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【追記】1 日本の死霊の類型。死者が現世に恨みを残して非業の死を遂げた場合、祀れば「守護霊」、祀らなければとんでもない「祟り神」になるとしんじられました。
死者の類型
死霊の行方
生前功績あり、満足して死んだ
霊は神になる
東照大権現(徳川家康)
豊国大明神(豊臣秀吉)
平凡な一生を終え、子孫に資産をのこした。
霊は仏になる
祖霊(子孫を守護する)
生前に活躍したが、恨みを残して死んだ。
死霊を放置する
霊は祟る(水子は祟る)
    丑の刻参り
死霊を祀る
霊は守護霊になる
(義民:佐倉惣五郎)
悲劇のヒーロー(平将門、源義経、源義朝)
大飢饉に際し即身成仏する
霊は仏になる。
鉄門海上人(湯殿山)など
生前特段の業績も残さず、ただ恨みを残して死んだ
死霊を放置する
死霊は幽霊になり恨みを果たす。
死霊を祀る
死霊は往生する
 
【 追記2】
鯖神社12社は以下の通りです。
藤沢市 鯖神社(湘南台)  佐波神社(石川)  七ツ木神社(高倉) 左馬神社(西俣野)
横浜市泉区 左馬神社(和泉町) 佐婆神社(和泉町) 鯖大明神(和泉町) 中之宮左馬神社(和泉町) 鯖神社(下       飯田町)
横浜市瀬谷区  左馬社(橋戸)
大和市       左馬神社(上和田町) 左馬神社(下和田町)
 
 
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雉の親子の連れ歩き

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昨日は境川沿いに連なる12もの鯖神社の中から、鎌倉時代に遡る下飯田の鯖神社を紹介しました。
その近くの田圃に昔から雉が住んでいるのです。
 
田圃は大雨がふれば、雨水調整池の役割を担っています。
川沿いの湿地で、一面の田圃の中に休耕田もありますので、葦原の化けて、野鳥が多く住んでいます。
鷺や鵜は夜になれば近くの山に戻って過ごし、朝になると湿地に出て、餌をあさります。
 
一方、雉はこの湿地の王者の風格で住み着いています。
田圃を見渡せば雉がどこかに見つかります。
3月、4月、恋の季節には”ケーン・ケーン” と鋭い鳴き声が響きますので・・・・、すぐに見つかります。
「雉も鳴かずば撃たれまいに」
ことわざ通りで、鳴き声で簡単に見つけられて…、猟師に鉄砲で撃たれてしまいました。
私は、何度も独り者の雉の雄を見つけました。
その度ごとに「良いお嫁さんが見つかれば良いのにな・・・」
思っていました。
 
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     今年の3月、独り者だったころの雉(雄)
 
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                                 雉の住んでいる横浜和泉区、森泉公園近くの田圃。
 
もう、白い浜木綿の花が咲きだしました。
その向こうに田圃が連なっています。
更にその先に葦の茂った休耕田があります。
そこがヨシキリなどの巣になっています。
 
その畔を鮮やかな羽根の雉の雄が歩いています。
時々、立ち止まって、首を伸ばして辺りの気配を確認しています。
雉が用心するのならば・・・、人か野犬か野良猫でしょう。
水が張られた田圃の中ですから、誰も近づけません。
用心することも無かろうに…、思います。
 
雄雉の後ろに雌の雉が連れて歩いています。
雌は茶褐色の地味な色です。
秋なら保護色でしょうが、今は緑が一杯…、保護色にもなっていません。
雄よりも一層用心深くして、首を長く高く伸ばして周囲の気配を確認しています。
 
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   周囲の気配を確認するために首を伸ばした雉の夫婦。左の鮮やかなのが雄、右の地味なのが雌。
   背後の葦原に巣作りしているものと思います。
 
私は、確信しました。
このカップルはこの春に結婚して、今は子育ての最中なのだ。
湿地の王者が用心深くしているのは・・・・、子供を従えているのだ・・・。
そこで、雌の足元付近を目を凝らして見つめます。
立ち止まった雌の少し先に・・・、小刻みに動く茶褐色の物体があります。
まるで、ウズラのような大きさ、色、せわしない動作です。
 
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    お母さんの左手前にウズラのような子供が見えます。
    残りの二羽もお母さんの横、後ろにいるのですが・・・。
 
お茶目な子供たちは新しい世界に興味津々で・・・・、親の前後でウロチョロ・・・・・、真に危険な存在です。
でも、雌の前後50㎝位の位置から外には出ません。
やはり、子供は母性の近くが安全…、先天的に知っているのでしょう。
どうも、子供は3羽はいるようです。
三羽共に写したい・・・・・、カメラを構えますが、若い稲や雑草が子供の背丈より伸びているので・・・・、
隠れてしまって中々写せません。
 
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                                              小川の橋を渡る雉の親子
 
桃太郎は犬、猿、雉をお供にして、鬼が島に討ち入ります。
雉は鬼が島の城壁の上に飛んで・・・・、偵察の役を果たします。
犬は「仁」、猿は「智」、そして雉は「勇」…、指揮官として最も必要な資質を備えています。
桃太郎は彼らの優れた働きによって、最強の敵「鬼退治」に成功します。
日本の国鳥は雉です。
古事記の昔から、大切にされ、親しまれた野鳥なのです。
 
巣のある葦原を出て、アスファルト舗装された農道を超えて、カボチャ畑に向うようです。
私は、農道の上なら雉の親子5羽を写せるだろう…、身構えました。
ところが、農道を渡る時のスピードが速いこと…、速いこと…、瞬時にサトイモの陰に消えてしまいました。
その先がカボチャ畑なのです。
 
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雉の夫婦はカメラを構えた私が気になっているようです。
 
田圃の中よりサトイモ畑、カボチャ畑のほうが、子供の餌になるミミズや昆虫が多く捕れる事でしょう。
巣のある葦原からこのカボチャ畑までは100mもありません。
これから暫くの間はカボチャ畑と葦原の間を行ったり来たりすることでしょう。
親子5羽の連れ歩く姿は冬まで見られるのでしょうか?
これから暫く楽しみが続きそうです。
 
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  舗装道路の前で、母親と子供一羽・・・・・、全員そろったら道路を渡る…、思っていたら
  バラバラに飛ぶように横断してサトイモ畑に消えてしまいました。
 
 
 
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七夕飾り「笹の霊力」

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今年は胃癌が発覚した。
七夕の笹飾りには短冊に「五運六気隆昌」と書いて吊るして、軒下に飾った。
 
七夕飾りは竹を使う。
「恵比寿祭り」も笹竹を使う。
何れも呪物であって、神々を迎え入れるため神霊の依代として、竹を使うのであろう。
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                                             我が家の笹飾り、軒下に置きました。
 
お寿司やお刺身にも笹の細工切りを添える。
祝い食を笹で包むのは、その霊力で清める為であり、
笹の葉の殺菌力を活かす工夫でありました。
もう、最近は廃れてしまいましたが、葬式のお棺は笹で囲ったものでした。
葬列を飾る笹も死霊を清めるものでした。
 
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                          鶴岡八幡宮、巫女さん手創りの七夕の笹飾り。これが一番です。
 
左義長は小正月の火祭りです。
三本の竹を組んで建てて、その周囲を松飾や注連縄などを積み上げて、村境や辻で焼くのです。
竹の火力は凄まじく、夜空を焦がします。
竹の節が破裂して”ドン・ドン”鳴ります。
日本式の爆竹です。
だから、左義長は一般的に「どんど焼」と言われます。
爆竹もどんど焼きも爆竹音の大きな年は吉年と言われました。
 
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大磯の左義長。中核は三本の竹です。
 
 
東大寺二月堂の修二会のクライマックスは大松明です。
根の付いた孟宗竹に杉や松等の常緑樹を束ねた松明を括り付けます、
二月堂の舞台の上から松明が燃え盛り、火の粉は滝のように落ちてきます。
火の粉が見上げる人々の頭上に降りかかります。
竹の火力が人間の煩悩や罪障を焼き払う…、信じられてきました。
1200年も昔から欠かさず続けられてきた祭事です。
 
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    七夕飾りがなされた鶴岡八幡宮。手前の葉っぱが梶の木。桑の仲間のこの葉も神の依代です。
 
呪物としての竹笹は古事記にも度々現れます。
櫛名田比売(くしなだひめ)は竹の櫛を黒髪に飾っていましたし、
芸能の女神 天鈿女命(あめのうずめのみこと)は岩陰に隠れてしまった天照大神を誘って、ストリップになって、笹竹を持って、踊ります。
乳と陰部を露出する行為は邪気を払い万物の豊穣を祈願する呪術だったのでした。
 
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             舞殿の四方を飾った七夕飾り。 舞殿が神域であり、笹竹が結界であることを示します。
 
竹の民族誌を書き始めると止めどもありません。
でも、何と言っても「七夕飾り」の笹竹が最も詩情豊かです。
”竹の葉サラサラ・・・・” 優しさに満ちています。
 
昨今ほど、天変地異が続く事はありません。
昔の人なら”国土を覆った邪気を払う” 天地神明に祈った事でしょう。
”竹のように素直になって・・・・天地の神様に祈る”
素朴で清純な気持ちが大切なように思います。
日本各地で七夕を飾って、安静な国土を祈っている事でしょう。
 
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      鶴岡八幡宮、太鼓橋に飾られた吹き流し
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    今年は一段豪華になった本殿前の吹き流し。花の球が生花でありました。(多分?)
 
 
 
【追記】
7月3日、退院後最初の外来検診してきました。摘出した胃癌は根をリンパ層まで伸ばしていましたが、転移は認めらず、放射線や薬の投与は不要とのことでした。胃は三分の二が残ったことから術後のダンピング症状も軽いだろう…、との判断で、私の希望した栄養食(ドリンク)は使用せず、胃袋の復活に努力しろ…、とのことでした。多くの方のご心配、お見舞いを頂きましたが、そんなことですのでご安心ください。あわせてご心配いただいたこと、感謝申し上げます。
 
 
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平塚・七夕祭りの陰

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七夕だというのに涙雨が続きます。
久々に平塚に七夕祭りを身に行こう、狙っていたところ、
7月8日ようやく午後からは晴れ間も見えそうだ…、というので早朝から出かけてみました。
というのは、メインステージで午前中に高山市、花巻市から芸能が被露されるということでした。
でも、小雨が降って、音響機器が使えないというので取りやめられてしまいました。
午前11時からの天城太鼓を見物しました。
 
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私が初めて平塚の七夕を見たのは高校生、昭和40年代前半でした。
その時の印象は「大きな竹に見事な吹き流し」が飾られていました。
その時の印象に比べたら・・・・、現在の七夕飾りは質量ともに貧弱に見えました。
まず、七夕飾りは短冊も吹き流しも・・・、すべて紙(天然資源)で手作りされていました。
それが今は、ビニールやプラスチックで作られています。
化学資源を竹竿に吊るして・・・・いました。
神様は笹竹に憑依するのであって、笹の無い竹には憑きません。
榊に葉っぱがない、梶に葉っぱが無ければ神様に奉げられないと同じです。
 
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                                            七夕飾りは「片野屋」の「日本昔話。
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七夕飾りはオーイズミダイニングの「平清盛」(特選)
 
平塚には海軍火薬廠がありましたから、昭和20年空襲によって市街地の70%が焦土に化してします。
しかし終戦と同時に、「戦災復興五ヶ年計画」が始まります。
昭和25年には『復興まつり』として「平塚七夕」が開催されました。
そして、ちょうど7月前半が近隣農家の野上りの時期とも重なり非常に多くの人出を見ました。
平塚商工会議所、平塚市商店街連合会など「平塚商人」が核になって、
昭和26年7月に第一回「平塚七夕祭り」を開催します。
 
仙台の七夕まつりを模範にして、平塚商人の逞しさが七夕行事を開催させました。
7月7日は近在の農家も作業が一段落した時期になります。
沢山の人が集まり・・・・・・、伝統では仙台に及ばないまでも関東一の七夕祭りとして定着しました。
私が初めて見た昭和40年代には200万人近い見物人が集まりました。
 
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ところが、平成10年345万人の集客をピークに人は減少し、平成21年には230万人、平成22年には北日本大震災による自粛ムードで120万人に減少してしまいます。
今年は・・・、どこまで復活したやら?
天候不順で多くは期待できなかったような気もします。
(データは平塚市HPwww.city.hiratsuka.kanagawa.jp/tanabata/ )
 
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平成7年、第45回七夕飾り。このころは330万人の集客がありました。今年は第62回どれほど集まったか?
60回(平成21年)は230万人、昨年は120万人でした。平塚市HP(前述)から転載。
                     
私は主催者の老舗商店主に伺いました。
「私は昭和40年代に見学に来たのですが・・・・、当時に比べると冷めた感じがするし、
人も減った気がしますが・・・・?いかがなものですか?」
すると老店主は堰を切ったように話はじめます。
「昔の商店街は全員が協力した。ところが昨今は協力する者が減ってしまった。そこの三井銀行は本店の稟議が通らない・・・・、と言い出して協力もしてくれない。駿河銀行も・・・、みんな右に倣えで・・・・・、湘南スターモール(旧東海道)から銀行は出て行ってほしい程だ。」
そんな、口吻です。
 
言われてみれば、銀行の店頭だけが七夕飾りが切れていて・・・、人影は疎らでした。
わずかに、露天商が玩具を商っています。
私も、福岡天神の岩田屋デパートの真ん前で支店経営の一翼を担っていました。
夜は暗くなってしまうし、土日にはシャッターを下ろしてしまう・・・、
苦情を言われました。
老店主の言い分も、三井住友銀行の支店責任者の立場も分からない訳ではありません。
 
しかし、七夕祭りの現場を歩いてみれば事情は氷解すると思います。
商店街が協力して地域振興に人事を尽くしているのに・・・・、
銀行だけがシャッターも駐車場も閉鎖している現状は異常です。
 
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                                  人並みが途絶える旧三井銀行の支店前歩道。
 
そもそも、経済は「物の流れ」と「金の流れ」でできています。
日中に商店街が商品やサービスを販売して・・・、夜になると今度はお金が流れて決済されます。
そして、各商店のバランスシートができます。
物の流れが動脈なら、お金の流れが静脈です。
銀行は物の流れが活発でなければ・・・、金の流れが滞り、閉店しなくてはならなくなります。
地方のシャッター通りのようになります。
銀行には未だそうした自覚が希薄なのでしょう。
 
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                              こちらは紅谷パールロードの「花咲き爺さん」
 
「七夕飾りコンクール」が成績が掲示されていました。
特選は「オーイズミダイニング」と「片野屋」、準特選が「梅屋」と「平塚信金」となっていました。
物見高いのが私の特徴・・・、
オーイズミダイニングを探してみました。
「月のあかり」という名で落ち着いた酒肴を商う居酒屋さんでした。
片野屋も湘南スターモールで商う「総合衣料品店」でした。
「平塚梅屋」に至っては、平塚駅に近い地場百貨店です。
この8月に閉店の予定で、1階で花屋、3階で喫茶店を営業中でした。
閉店の理由は建物の耐震化が遅れていたためとか・・・。
地場百貨店が苦戦なのは何処も同じこと・・・・、
でも、「梅屋がんばれ!」
思うのは平塚住人でなくても、七夕祭りを見た人は誰でも思うことでしょう。
 
華やかな七夕祭りにも「陰」があるものです。
でみ、人に嫌われる三井銀行のような陰にはなりたくないもです。
「梅屋のように…、人にエールを受ける」ような陰になりたいものです。
 
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文化のルツボ「祭り屋台」

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昨日は「平塚の七夕飾り」を報告しました。
平塚駅から溢れ出た見物人は旧東海道(湘南スターモール)を西に、七夕飾りを見ながら流れてゆきます。
その先で幅の広い大通り「プラザロード」にクロスします。
この大通りが約500m、屋台通りになっています。
また、その交差点が七夕祭りのメーンステージになります。
人々は、先ず、湘南スターモールで、七夕飾りを目で楽しみ、
その次はプラザロードの屋台で、舌で楽しむ・・・・、そんな流れです。
加えて、ステージでは様々な催事が演出されています
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                                  プラザ通りは「屋台通り」になって大変な人出でした。
 
駐車場には椅子やテーブルが並べられて・・・・、屋台の食事やビールが飛びように売れています。
昔はこんなに沢山の屋台は出ていませんでした。
人々の楽しみは、七夕飾りの見物よりも・・・、屋台で買い食いする楽しみにあるようです。
 
屋台はまるでB級グルメのコンテスト会場のようです。
富士宮焼そばもあれば、シロコロホルモンもあります。
富士宮焼そばも名前だけでは売れないのでしょう。
「目玉焼きサービス」として、一層豪華に見えるように工夫しています。
でも、私の目では「横須賀風焼きそば」が圧勝しているようです。
焼きそばの上にカラカラに焼いたベーコンが乗っています。
焼きそばをオムレツ風に包んだ「オム焼きそば」もあります。
焼きそばを「バーガー」にした「ラーメンバーガー」もあります。
勿論、ハンバーグではなく、チャーシューを包んでいます。
どれもこれも、1品500円です。
500円で、より食欲をそそり、手際良くつくり、香りを立てる・・・、
競争は熾烈です。
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                          B級グルメの富士宮焼きそばも目玉焼きのおまけつきで500円
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                                   B級グルメのシロコロホルモン、ビールに最適?
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長蛇の列ができていた横須賀風お好み焼き。ベーコンを使って味の工夫をしたから…好評なのかな?
 
キャベツの千切りも、ジャガイモ皮むきも機械だやっています。
電子レンジも活躍しています。
手際良く商品(食べ物)を作るための工夫は驚くばかりです。
 
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                             オーソドックなオオタコ焼き、店主の姿もタコ似でした。
 
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           オオタコ焼きでは足りずに、ウズラの卵を上乗せしたたこ焼きの屋台
 
「たこ焼き」といえば、大阪のそれを思い起こします。
でも、平塚では全国各地のたこ焼きが激戦の様相を示しています。
「浪速の大たこ焼き」も頑張っています。
店頭にはブツ切りされたタコが山盛りされていて・・・・、
ピンポン玉大のタコ焼きの中に投げ入れられてゆきます。
テニスボールに近い大きなたこ焼きもあれば、
一匹入っている「たこ焼き」も出店しています。
良く見れば飯蛸が使われています。
タコといえば、湘南には佐島のタコがブランドです。
でも、さすがに「佐島」だ「明石」だ、ブランドを争うたこ焼きはありません。
タコの大きさを競っているようです。
中にはタコに加えて「ウズラの卵」を入れている店もあります。
ウズラの卵は味が濃いので、屹度美味いだろうな・・・・、想像します。
もう、たこ焼きは乱戦模様です。
 
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                                     飯蛸一匹入りのたこ焼き屋台(もんじゃ風)
 
 
日本の居酒屋は江戸時代に「江戸の町のファーストフード」としてスタートしました。
それが、近年のB級グルメブームや、東南アジアで「屋台の楽しさ」を知った観光客が増えたので・・・・、
大爆発したのではないでしょうか?
台湾やシンガポール、マレーシア、ベトナム、香港等では朝から屋台で食事をしています。
でも、人々が集中するのは夕方からです。
暑かった日中が過ぎ、夕風が吹いてくると街の広場や公園に人が群れてきます。
屋台があって、様々な民族食が提供されています。
屋台には現地人の会話が弾み、民族の味が並び、そして安いのですから・・・・・、
日本人はホテルを飛び出して屋台を楽しみます。
東南アジアから日本にかけては巨大な「屋台文化圏」が形成されています。
 
日本の屋台には食品健康保険法に基づく保健所の許可、道交法に基づく警察署の許可が必要になっています。だから、私達は安心して屋台を楽しむことができます。
北京の屋台では廃油から作った「再生油」が使われたりして、健康被害が問題になっている…、聞きます。
ムカデやサソリなどゲテモノ食いはも食文化ですが、健康被害が出ては文化とは評せません。
「欠陥文明」でしょう。
 
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                                 浴衣もお似合いのお嬢様。でも、食い気先行で・・・・。
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                立ち食いもし易い「箸巻き」は二本のお箸にお好み焼きを包んだもの。(300円)
 
平塚の屋台は、焼きそばもお好み焼きもたこ焼きもみんな豪華になっています。
2点食べたらもう腹一杯です。
後は、金魚すくいのようなお遊び、そしてお土産・・・、合計で一人平均3千円くらい使うでしょうか?
今年は200万人超の人出であったでしょうから・・・、60億円くらいが地域に落ちたことになるでしょうか?
車・電車代や七夕飾り等への波及効果を加えても経済効果は100億に及ばないでしょう。
 
でも、それ以上に地域に元気と愛着を呼び起こすのが「七夕祭り」です。
 
歩き疲れた私ですが…、私の胃は未だ修復途上です。
たこ焼きは食べられません。
そこで、休み所に入って児玉スイカを注文しました。(冷えたスイカ丸ごと1個で300円)
 
テーブルの真ん前に親子におばばちゃん4人が仲良く焼きそばを食べています。
子供が嬉しそうに言います。
「此処の焼きそば美味しいね!お婆ちゃんの焼きそばよりズット美味しいね!」
 
お父さんはお婆さんの機嫌を損ねまいとフォローします。
「お婆ちゃんはお前達の体に良いように・・・・、お野菜を沢山入れているんだよ。だから、味が違うんだ。」
お婆ちゃんは、孫の意見に従います。
「今度作るときは、此処の味になるように工夫するからね・・・・。」
 
私はついつい、言ってしまいました。
「お祭りの屋台で食べる焼きそばには、屋台の味が上乗せされているから美味しいんだよ。
家に帰って食べればお婆ちゃんの焼きそばが一番美味しく感じられるんだよ・・・」
お婆ちゃんが笑ってくれました。
 
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手前が私の注文冷えた児玉スイカ(300円)
 向かいが焼きそばを食べて「かき氷」に手を伸ばし始めた三世代親子
 
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流しソーメン屋の鎌倉メダカ(?)

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鎌倉の正面入り口は鎌倉時代から巨福呂坂でした。
円覚寺や建長寺が面している道で、八幡宮に通じます。
巨福呂坂の途中、右折すると亀ヶ谷切り通しに通じます。
その角に昔から営業している「流しソーメン屋」があります。
店の名も「角屋」です。
 
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    角屋の店先、正面が巨福呂坂、左手凌霄花の面した道が亀ヶ谷切り通し道になります。
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                                  亀ヶ谷切り通し道、向かいは長寿寺です。
 
角屋の店先、亀ヶ谷道に面して、凌霄花 (のうぜんかずら)が咲きます。
竹で組んだ昔ながらの棚に、凌霄花の花が垂れて咲きます。
私は毎年この季節に、角屋に入ります。
窓際に腰掛けて、凌霄花を眺めながら、蕎麦を味わう事を楽しみにしています。
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朝11時過ぎ、店は開いていてもお客さんはいません。
私は女将さんに頼みます。
「卵とじうどんをお願いします。実は胃癌を手術して未だ1箇月でして・・・・・・、出来るだけ柔らかくしてください。」
女将さんは笑顔で答えられました。
「それは、大変でしたね! リハビリ向けに調理させますから・・・」
「私の主人は3年前膵臓癌で亡くなりました。お店を閉じようかとも思ったのでしたが・・・、お店を続けるのが主人も喜んでくれるだろうと思ったし、
こうして3年も経つとお店を続けることが生甲斐になっていることが解るんですよ。
主人は鎌倉湘南病院で亡くなりました。」
なんと、私が手術を受けた同じ病院でした。
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    庭先に設えられた「流しソーメン」のスタート部分・
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                            流しソーメン会場の全景。グループで食べるには最適?
 
店は庭に池があります。
池の先は亀ヶ谷の崖で、一面岩タバコが自生しています。
この庭に「流しソーメン」が設えてあります。
水道の蛇口が二つ用意され、蛇口の下から水樋が二本通っています。
お客は目の先の水樋を流れてくるソーメンを箸で掬って食べる・・・・、そんな仕掛けです。
学生時代、三輪山の麓、大神神社(おおみわじんじゃ)の門前で流しソーメンを楽しんだ記憶があります。
でも、今日は一人です。
病み上がり身で、一人で流しソーメンを食べる気にはなりません。
午後になれば、この椅子に若いグループが座って、ソーメンを戴く事でしょう。
 
水樋を流れ下った水は・・・、池に流れ込みます。
その池の水面には・・・・、沢山のメダカが泳いでいます。
黒くて俊敏なメダカです。
私は女将に尋ねます。
「この野生種のメダカは…、鎌倉メダカではありませんか?」
女将は答えます。
「鎌倉に住むお客さんが持ってこられたメダカです。でも、鎌倉メダカかどうか・・・・、わかりません。」
 
メダカは他の魚と違って・・・・・、他の川にはメダカと交雑することはありません。
自生種が幾世代も交雑することなく生き続けると・・・・、河川毎に特徴のある種が出来ます。
滑川に自生してきた種が「鎌倉メダカ」、お隣の柏尾川に自生してきたメダカが矢沢メダカ(横浜メダカの一つ)、
そのお隣の境川に自生していたのが「藤沢メダカ」・・・・・・・、それぞれ違う種なのです。
先日ガラパゴス諸島、ピンタ島に住んでいた”ロンサム・ジョージ”が亡くなりました。
この結果ビンタゾウガメが絶えてしまいました。
ガラパゴス諸島には島の数だけ亜種のゾウガメが育っていたのでした。
同じような現象がメダカの世界で30年前に起こっていたのでした。
原因は水田で多用された農薬でした。
 
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    池のメダカ。 子持ちのメダカもいます。ソーメンの栄養が池に流れ込んで…、福々しく太っています。
 
相模の国は「メダカの天国」でした。
有名な”メダカの学校”は小田原を流れる酒匂川で作られた唱歌でした。
小田原は北原白秋ら童謡作家が住みました。
童話作家の茶木滋氏も戦後の食糧難の時代に長男と買出しに出かけました。
小田原の西部の丘陵地でメダカを見つけます。
息子は”お父さんメダカがいるよ!」荻窪用水を指さします。
お父さんが見ると・・・・、メダカは人の気配を感じて姿を隠してしまいました。
父はいいます。
「お前が大声出すから…、メダカは隠れてしまった・・・。」
息子は答えます。
「大丈夫だよ。メダカはまた来るよ。何故なら此処は”メダカの学校”なんだから。」
こうして童謡「メダカの学校」が出来ました。
息子は学校の行き帰り、メダカを観察していたのでしょう。
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     凌霄花の先に見えるのは長寿寺の山門です。此処は山百合の名所です。(先日記述 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46421201.html)
 
今の滑川にメダカが住んでいることは間違いありません。
容易に見つける事ができるでしょう。
でも、滑川のメダカが鎌倉メダカであるかといえば…、多分その可能性は低いでしょう。
と言うのは・・・、家庭でメダカを飼って、川に放流したでしょうから・・・・、
もう純粋種は残されていない可能性が高いのです。
滑川のメダカも…、今棲んでいるのは交雑種でしょう。
上流の朝比奈の滝のあたりまで行けば・・・・・、純粋種の鎌倉メダカが棲んでいるかもしれません。
 
女将さんが言います。
「私はメダカでは地味すぎるから・・・、金魚にしたいのですが。
何か、主人の居たころと変え難くてね・・・」
私は答えます。
「鎌倉メダカであるかどうか・・・・、は別にして、野生種のメダカは金魚より希少ですよ。私は何処にで見みられる金魚よりメダカの方が好きですね。それに、若しも”鎌倉メダカ”なら…、価値がありますよ。」
 
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素晴らしい「秩父銘仙館」

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桔梗の花は今が見頃です。
なのに何故か「秋の七草」に数えられています。
薄紫色の凛とした姿が、夏よりも秋に相応しい・・・、と山上憶良が思ったのでしょうか?。
桔梗の花を見に秩父の多宝寺に出かけました。
 
706年(和同元年)秩父で銅が発見され、献上されました。
日本最初の銅銭「和同開珎」を鋳造します。
713年(和同6年)秩父の絹が「調(絹織物・税金)」として認められ、秩父地方では養蚕事業が普及します。
ですから…、山がちの秩父では古代から養蚕事業や絹織物事業が盛んなのでした。(秩父銘仙館ガイドより)
 
明治維新になり、繊維事業は日本の生死を分かつ事業になりました。
秩父地方では養蚕業に集中します。
略7割の家が養蚕を営み、横浜から全世界に向けて輸出します。
でも、養蚕農家の手元に屑繭(売り物にならない繭玉)が残りました。
その屑繭を使って、農家は独特の絹織物「秩父銘仙」を開発しました。
そして、農閑期、養蚕の無い冬場には、「秩父銘仙」の生産に励みます。
 
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     秩父銘仙館 左が事務所棟、奥が展示棟、右が工場棟。総て昭和5年竣工。国の有形文化財です。
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    大谷石の石積みの上に木造モルタル造り。
    アーチや窓枠等のデザインにアールデコが採用されています。建物の内も外も楽しい。
 
秩父銘仙には他に見られない特徴がありました。
第一が横糸が表・裏二方向から組まれていました。
その結果、強靭な織物になり、同時に裏表がありませんでした。
表面が疲れたら・・・・、打ち直して裏面を表にすれば…、二度使えました。
もう一つがデザインの素晴らしさでした。
江戸時代を通して育まれた模様の伝統を、新時代の感覚に活かして・・・・、
斬新であり、同時に伝統を踏まえたデザインが採用されました。
 
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        渡り廊下から外を見る。植木も花も草木染に使われます。(左から柏、合歓、海棠) 下は藍。
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「秩父銘仙」といえば、私も家内も祖母を思い起こします。
祖母が毎日着ていた着物も、羽織も、座布団も、布団も・・・・・、秩父銘仙に囲まれていました。
そんな、思いを改めて確かめたい・・・・、思って秩父銘仙館に出かけました。
 
建物を見て嬉しくなりました。
私が好きな「昭和モダニズム」の建物なのです。
大谷石の石積みの上に木造平屋の建物が乗っています。
玄関のアーチも、窓枠も、壁や破風を飾るデザインもアールデコ風です。
案内板には建築設計はアメリカ人建築家ライトであること、
渡り廊下や工場棟も含めて2001年に国の登録有形文化財に指定されたこと等記載されています。
秩父銘仙を展示するには最適な建物です。
 
受付でお嬢さんが聞いてくれます。
「説明をしましょうか?」
私は「銘仙の製造工程を教えてくださいませんか?」お願いしました。
 
初老の職人が案内してくださいました。
『最盛期、秩父では500の工場(戸)があって秩父銘仙を織っていました。
ところが、現在は7社(戸)しか残っていませんし、
秩父銘仙を織っているのは私を含めて3社(戸)しか残っていません。
私は、家内と二人で細々遣っていたのですが、娘夫婦が突然に戻ってきて、
孫と含めて6人住まいになりました。
だから、私は此処で案内したり生徒さんの指導をしたりしているのです。』
製品展示場で分かった事ですが、この初老の職人さんは「新啓織物」のオーナーでいられたのです。
 
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「秩父銘仙」の展示場。受付にいる人が「新啓織物」のオーナー。この人が丁寧に教えてくださいました。
新啓織物のホームページには詳しく案内されています。www.arakei.com/銘仙と技法
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                          新啓織物(あらけいおりもの)の展示コーナー。
 
応接室に「竹久夢二」の「黒船屋」の切り絵が飾られていました。
竹久夢二の美人の着物が秩父銘仙であった・・・・・、そんな意味でありましょうし、
秩父銘仙が日本中に普及した良き時代を代表する絵画だったのでしょう。
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     応接間には織姫像や黒船屋が飾られていました。
 
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                                 繭玉、1週間以内に湯がいて生糸を紡ぎます。
 
先ずは繭玉から糸を紡ぎます。
7個の繭玉を湯がきます。
お蚕さんは蜘蛛と同じようにゲル状の粘液を吐きます。
粘液は空気と反応して直ぐに固形化します。
断面は三角なので艶々していて、良く光を反射します。
一つ繭には1.5キロの繭糸が取れます。
7本の糸を紡いで一本の生糸にします。
 
次いで「整経」プロセスに移ります。
整経とは 経糸(たていと)を整えることです。
さらに「仮織り」工程に移ります。
仮織りとは経糸を織機にかけて、本番で糸がずれないように粗く仮織りしておくことです。
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整経機に入れて、縦糸を整えます。この機械は新しく古い織機は竹櫛の間を通して整していました。
 
 
次いで捺染(型染め)工程に入ります。
仮織りをした経糸に職人の手により、ひと型づつ丁寧に型染めを施します。
シルクスクリーン印刷と同じ技法です。
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   手前がシルクスクリーンの型、背面にあるのが印刷された経糸。模様は経糸だけに描かれています。
 
一方緯糸(よこいと)を撚糸します。
撚糸は右巻き、左巻きの二種類を用意し、縦糸に絡めます。その結果、強靭で裏表両面に模様が浮き出ます。
 
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  緯糸(よこいと)の撚糸装置、上下二段になっているのは、右巻き、左巻きの二種類を用意するため。
  工場棟は北側に窓があります。北側窓は一年中優しい光が差し込むので実際の色が良く解るからだそうで   す。
 
最後が「本織り工程」です。
型染めをした経糸を再び織機にかけます。
この時、仮織りした糸を解しながら緯糸を織り込んでゆきます。
事前に準備する作業が大切で難しいそうです。
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           本織りが最後の工程になります。経糸緯糸の準備が大切で、一時も目を離せません。
 
明治から昭和前半にかけて秩父銘仙は全国的な人気になりました。
女性は竹久夢二に代表される「おしゃれ着」として、強靭で扱いやすい着物としてひょうかされました。
秩父銘仙館では新啓屋のオーナーのような職人さんが実際に指導してくれます。
毎年12人の生徒さんが教室に通っているそうです。
流石に女性が多いそうですが、秩父近郊の人は自転車で、西武線沿線の住人は電車に乗って、
教室に通っているそうです。
彼女らは一シーズン1着の秩父銘仙を手創りして帰るそうです。
12期余りの機織り機が並んだ様は爽快でした。
未だ7月、機織りは準備プロセスなのでしょうが、秋から冬にかけては様々な模様の銘仙が織りあがっている事でしょう。
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  工場棟北側の窓を背にして並んだ木製の織機、お嬢さんが12人も並んで教わる景色が今もあるということ   は…、日本も捨てたものではありません。
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                                     銘仙を織る女性(秩父銘仙館のHPから転載)
 
七夕祭りや夏祭りのなると、日本女性の浴衣姿が目立ちます。
浴衣も良いもんだ・・・・、思いますし、若い女性も浴衣姿で「私を見直して!」アッピールしていることでしょう。
そんな姿も可愛いもんです。
浴衣から、着物に進んで欲しいものです。
秩父銘仙は女子大の卒業式だけでなく・・・・、お洒落着に着てほしいものです。
 
 
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