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浄土を観想する蓮の花(光明寺法然上人800年忌)

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睡蓮の花が終れば、次は蓮の花です。
ベトナムなど南の国では一年中咲いている蓮の花ですが、日本ではお盆の頃に咲きます。
仏像は蓮華の花の台座にお座りですし、蓮の花は日本人の琴線に触れる大切な花です。
今年は未だかな?
咲き具合はどうかな?
気がせいて、鶴岡八幡宮や成福寺などを巡りました。
まだまだ蕾が固く、最後に鎌倉で最も南、材木座の光明寺に向いました。
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いつも閑静で広い境内が、今日に限って賑やかです。
駐車場も満杯です。
 
光明寺は此処数年前から工事をしてきました。
今年が宗祖法然上人の800年忌に当るからです。
そしてその法要がこの7月初めから実施されてきました。
何と言っても光明寺は関東の大本山、芝の増上寺と並ぶお寺さんです。
近隣から大勢のお坊様がお集まりで、法要が営まれるのです。
私と家内はこれは僥倖、悦んで本堂の周り廊下に座って、おこぼれに預かります。
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驚いた事に、最初に雅楽の演奏が始まりました。
続いてお経が沢山のお坊さんによって読まれます。
広い本堂に共鳴してゆきます。
浄土宗のお経はまるで音楽だな・・・・良いなあ、
つくずく感じます。
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私の前、花頭窓のガラス戸にはアジサイの花が映っています。
見返せば一面の紫陽花が咲いて、その花陰には夥しい五輪塔が並んでいます。
此処材木座は三浦党が戦った地、屹度古武士のお墓でしょう。
お墓も、法要のおこぼれを預かって、悦んでいるようです。
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光明寺には国宝が一点あります。
当麻曼荼羅図です。
中将姫の伝説を、絵解きにしたものが当麻曼荼羅図です。
美しい観音様、その奥に阿弥陀様が天空から降りて来られます。
中将姫を浄土にお迎えする為に・・・・・。
周囲には雲上仏も数多く、音楽を奏でておいでです。
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光明寺の本堂、西側にはこの曼荼羅図の複製が飾られてあります。
逆の東側には地獄絵図も掲げられています。
信者は地獄は避けて、浄土に往きたい、観想します。
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奈良当麻寺の浄土曼荼羅図は蓮の維管束を紡いで出来ています。
蓮は泥沼の中に根付いて、泥水を漉して水を吸い上げます。
水は頂上に届いて花を広げます。
日本人は地下に地獄があって、天空に浄土が在ると信じました。
それは空間で繫がっていると・・・。
蓮の花を観察する事からこの思いが強くなった事でしょう。
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本堂と書院の間に浄土池があります。
小堀遠州の作、と言い伝えられる古池です。(記主池が正式の名)
この池に咲く蓮が今日の目的でした。
見事に咲いています。今が見頃です。
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この池も改修されました。
池の向こうに大聖殿も出来上がりました。
飛騨の匠による八角形の建物です。
屹度、法然上人はじめ浄土宗の発展に関係された方々が祀られているのでしょう。
 
耳からも、目からも浄土を観想出来るのが、ありがたいものです。
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(渡り廊下からは大聖殿楼上の阿弥陀様のお姿が崇められます)
 
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「忘れ草」と「忘れられた神」(明月院道の庚申塔)

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紫陽花の花期は長いので、明月院道は相変わらず人どうりが多いのです。
いつもは閑静な住宅地も、紫陽花の間だけは忍耐でしょう。
道は下りだけの一方通行、でも狭い道だけに事故がおきないよう交通指導員も大忙しです。
 
明月院の門前を越えてしまえば、山間は一層狭く、住宅も疎らになります。
峠を越えれば、その先が今泉、お不動様の霊地になります。
鎌倉瑚と呼ばれる古い溜池もあります。
私の小学生の頃は、名越トンネルと鎌倉湖が幽霊が出るスポットといわれ、恐がられていました。
 
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   (明月院から今泉に抜ける道、正面に庚申塔が祀られています)
 
峠の坂道が険しくなる踊り場に庚申塔群があります。
道にせり出した大岩に祭壇を削り出しました。
庚申塔を数体並べておきました。
峠を越えようと歩いてくれば、必ず目線が庚申塔に注がれます。
「今日も一日嘘をつかずに真面目に働きます」
石仏に約束して、峠を越えて行きます。
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 (庚申塔群。榊が奉げられていました)
 
道端に鮮やかなオレンジ色の花が咲いています。
藪に咲くので「藪カンゾウ」の花です。
カンゾウとは中国名、「萓草」のこと。
中国から伝わると、万葉人は「忘れ草」と和名をつけました。
和名は「悲しい事、憂う事、皆忘れてしまう草」の意味でしょう。
鮮やかな花が長雨の間に積もった鬱積した、湿った気持ちを一気に晴らしてくれる、そう思ったのでしょう。
また、花を摘んで、煎じて呑むと興奮剤の効果もあったようです。
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 (明月院道、庚申塔前に咲いた忘れ草、花陰にイナゴの幼虫が居ました)
 
春先、お雛様がのような若芽が顔を出します。
摘んで湯がいて食べた事もありました。
 
庚申塔も、馬頭観音も私達は忘れてしまったようです。
でも、庚申塔を信じた精神は日本の近代化に重要な役割を果たした、と思われます。
主尊青面金剛の姿は、私達が大好きな阿修羅像にも似ています。
その姿は興福寺の絵画(お札)にルーツが在るとも言われます。
三面六臂の特徴在る姿で居られます。
 
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   (明月院道の6手合掌型の青面金剛。青面金剛像は三面が通常。宝永7年作)
 
 
 
わすれ草  わが紐に付く  香具山の
   故(ふ)りにし里を  忘れむがため  (万葉集 大伴旅人)

大伴旅人は大宰府に出仕する為、故郷を旅たちます。
勿論、遠い任地に向うのは、憂い、悲しかったのでしょう。
そこで、着物の紐に忘れ草を結んでおきました。
花を身につけておけば、憂いことを忘れる事が出来ると聞くので・・・。
香具山の麓、私の故郷を忘れられないから・・・・。
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                              (青田の畔に咲いた忘れ草/舞岡公園で)

年齢を重ねると、物忘れが気になりだします。
万葉人はわざと忘れてしまいたい・・・・でも、忘れられないほどに愛おしい・・・・
そんな思いを残して、今も私達の心に響きます。
 
でも、私達現代人は忘れてしまう病気を「認知症」とネーミングしました。
顕在した患者だけで200万人と聴きます。
本人も家族も大きな負担になります。
 
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   (遠くに祀られているのは馬頭観音像/倉田)
 
認知症の原因は不明だそうです。
ただ、悲しい事にも打ち勝つ、憂いごとも乗りこれる・・・・そんな生き様には認知症のリスクは無いようです。
喜怒哀楽が重なる事が反って幸福なのかもしれません。
 
   道端に 仏も花も 忘れ草  (拙作)
 
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(もう忘れられた?日活スターで事故死した赤木圭一郎のブロンズ像、周りに忘れ草が咲く。長勝寺)
 
 
 
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「白い桔梗の花」に自分を言い表す。

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6月から「撫子」も「桔梗」も咲き始めています。
山上憶良は秋の七草を選択するに際し、秋を随分長い期間と捉えたのか、1年間を春秋の二期間として捉えたのかもしれません。
 
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                      (撫子は今が盛りです)
 
 
昨日「忘れ草」を書きましたが、ブログ友人(先輩)の小池さんからコメントを戴きました。
同氏のブログhttp://blog.livedoor.jp/koike631/を覗くと、漱石の禅修業の記事がありました。
明治27年英語教師であった漱石は悩みを深くして、円覚寺帰源院に釈宗演を訊ねます。
釈師は「貴方の生まれる前からの本来の意味は何ですか?」と訊ねます。
漱石は座禅に没頭し、その問いについて、瞑想の中自問自答します。
 
   仏性は白き桔梗にこそあらめ
 
答えを提出します。
でも、釈師は「マダマダ」として、座禅を続けさせます。
このときの経験は、漱石の中期三部作「三四郎」「それから」「門」の最終作に結実します。
「則天去私」に到る重要な契機になったものでしょう。
 
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                            (白い桔梗、海蔵寺にて)
 
人間の核(種)を仏性と言うようです。
仏性が自在に発露できる状態を「悟り」とか「成仏」と言うのでしょう。
「父母が生まれる前の本来の自分は何ですか?」との問いは、
漱石自身の仏性探しになりました。
難しいのは「仏性を探すこと」、次いで「仏性を表す事」です。
漱石は自身を表すのに「花」を以ってすることにしました。
香は無い、
形は・・・・桔梗の花だ、色は?
色は桔梗色(青紫)ではない、白だ。
思い至ります。
 
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                       (海蔵寺玄関への露地。桔梗、続いて花菖蒲が自生しています)
私は家内に言います。
日本人は「男は桔梗」「女は撫子」と言うけど、何故かな?
家内は答えます。
「撫子は日本女性を表現しますが、桔梗は大和男を云い得ていますか?」
 
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    (6月の海蔵寺、露地には花菖蒲が迎えてくれます)
 
 
私は説明します。
桔梗の花は凛とした美しさがある。
5枚の花弁は角の取れたダイヤ形。
花弁の淵を辿ると、「カクッ・カクッ」と正五角形になります。
武士の正装「肩衣長袴」を思い起こします。
武家の家紋は「桔梗紋」が最も多かったようです。
美濃の土岐氏に始まり、明智光秀も加藤清正も桔梗紋でした。
誠実で、一途で、気品に溢れているようです。
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                                                 (桔梗の家紋)
 
家内は弓道読本を取り出し、射の振る舞いを説明してくれます。
「男は威儀正しく質実剛健、従容典雅である事」
「女子は優雅のうちに容姿凛然なこと」
私は思います。
「男は桔梗のように、女は撫子のように・・・・」
こっちの方が解り易いと。
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          (海蔵寺の桔梗)
 
私は思い出しました。
鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の桔梗の花を。
本堂に到る露地に桔梗が自生しています。
ずっと、青紫の花が咲いています。
私達は桔梗に迎えられて、玄関に到ります。
その最後に、一株の白い桔梗が咲いているのです。
「ああ、桔梗には白い花も在るんだ!」
白い花を見詰めます。
つい先日まで。花菖蒲が咲いていました。
白いたおやかな花でした。
今は散ってしまって、細い葉っぱが天を指しています。
 
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桔梗の花の正面が薬師堂です。
諸仏が、花を、花を愛でる私達を眺めておいでです。
小乗仏教では仏性は総ての人に在るとは説かれていないと聞きます。
大乗仏教では悪人も性悪の人にも総ての人は仏性を宿している、と説きます。
我国では生きとし生けるもの総て、植物にも仏性が在ると説明する者も居ます。
総ての命を大切にする、最も優れて、現代的な教えと思います。
 
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      (薬師堂、白い百合が供花されていました)
 
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凌霄花(のうぜんかずら)の思い出

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うっとうしい長雨ですが、時々晴れると、ぎらつく太陽、熱暑です。
「ヤッパリ梅雨の方が良いかな?」
人間の思いは勝手なものです。
 
梅雨が明けると真っ青な青空、灼熱の太陽が顔を出します。
そんな季節を待って登場するのが、凌霄花(のうぜんかずら)です。
「凌」はしのぐ、「霄」は青空、ですから「青空を凌ぐほどに鮮やかに咲く花」の意味でしょう。
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   (三叉路ソーメン屋さんの凌霄花)
 
 
北鎌倉駅を出て、巨福呂坂を登ってゆきます。
鎌倉学園の生徒さんの真っ白なシャツが眩しく映えています。
亀ヶ谷切通しとの三叉路にソーメン屋さんがあります。
その棚に、壁に凌霄花が咲き出しました。
向かいの和菓子さんにはカキ氷の幟が出ています。
ご婦人が、入店しようとして、お迷いです。
「掻き氷にしようか、それとも餡蜜にしようか?」
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私の生家では母が鎌倉のお友達から凌霄花の花をもらってきました。
ご子息が湘南高校を卒業、大蔵省に勤められました。
子育てを卒業すると、蕨餅屋さんをはじめられました。
「子供は子供、私は私」・・・立派な方でした。
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(子供を背負って、お母さんは変らず頑張りやで・・・・)
 
 
瞬く間に凌霄花は成長し、5年もすると高いところでも咲くようになりました。
余りの見事さに見上げていると、母が諌めて言いました。
「凌霄花の花粉を吸うと脳を損い、雫が入ると眼が潰れますよ」
私は驚いて身を退きました。
私はボヤーと思いました。
「悪女は毒があっても美しいので、虜になってしまう・・・」と。
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(凌霄花に寄ってきたモンキアゲハ)
 
鎌倉で一番美しい凌霄花は比企ヶ谷の妙本寺境内のそれでしょう。
多分先代ご住職が植えられました。
祖師堂前に左右二本、左側は桜の古木の根元に植えました。
凌霄花は見る見る育って、桜の木を覆い、山門の甍に達するほどに育ちました。
桜の木肌に凌霄花の気根が食い込みました。
一気に桜は樹勢を失い、衰えて枯れてしまいました。
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(凌霄花は桜の古木に絡んで育ちました。未だ芯に枯れ木がありますが、数年の内に棚が必要になるでしょう。正面妙本寺祖師堂)
 
私が中学時代、倫理の授業はチェルマーク先生(チェコ生まれの牧師さん)が担任されました。
在る時、何処からかカズラの幹を切り出して来て、それを教室の床に叩きつけました。
「君達は誘惑に次々襲われるであろう。君達の良心は薄らいで葛藤を繰り返すであろう。私はカズラを憎む。」
「何処から、あの憎しみが生じるのだろうか?」
私は先生の表情を凝視しました。
「先生、カズラだって必死に生きているのですよね?」
反論したい気持ちは、先生の弩迫力に封印されていました。
あのカズラは凌霄花だったのでしょう。
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       (正面日蓮像、花を見下ろして、その先に一幡の袖塚が在る)
 
昨年、玉縄の龍宝寺さんでは桐の古木が枯れてしまいました。
此方も凌霄花に絡まれて、枯れ死にしてしまったもの。
植物好き、花好きの先代住職が凌霄花を植えたのが原因でした。
桐の古木は言っていたでしょう。
「和尚様、その花だけは植えないで。花は綺麗ですが、それが罪なのですよ・・・・」
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 (正面青楓の下に一幡の袖塚と言われる五輪塔がある。源頼家の子一幡を若狭局が生んだ事から、北条家、比企家の確執が発生、比企一族はこの谷で滅亡します)
 
 
妙本寺では山門の修復工事中です。
木組や甍が隠されていますので、凌霄花は咲いたものの、バックがイマイチ、引き立っていないようです。
でも、鎌倉市内は其処此処に凌霄花が咲いています。
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洋館のカサブランカ(百合)

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7月10日(土)からの週末、本牧の三渓園は早朝6時に開園します。
蓮の花が咲くさまを見せてくれるためです。
ホントに「ポン」と響いて咲くのかな?
でも、どんな花も目覚めが綺麗です。
とりわけ、蓮の花は。
・・・・てな訳で、家内を一緒に出かけました。
でも、未だ花は咲き始めでした。
蓮の花は水面に花弁を散らした状態も良いものです。
私は欲張りなので、両方一度に見たいのです。
来週末頃再訪することにして、今日は、横浜山手の洋館に向かう事にしました。
 
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       (山の手の洋館、エリスマン邸喫茶室からの眺め。土手にはカサブランカが咲いています)
 
山手公園は、元町側の麓から、尾根の公園通りまで広がっているいます。
文字通り「山の手に跨る公園」です。
谷戸の入り口には弓道場もあります。
弓道に熱を入れっぱなしの家内の縄張りエリアです。
 
その尾根に昭和57年、エリスマン邸が解体移築されました。
エリスマンとは生糸の買い付け人シーベルへグナー商会の代表者の名前です。
スイス生まれのエリスマンは建築家アントニン・レーモンドに設計させて、大正15年(1926)に建築させました。
簡潔なデザインで、白と緑のツートンカラーは新鮮です。
山の手では洋館を巡り歩くのが人気、特にエリスマン邸は沢山ある洋館の中心ですので、いつも賑わっています。
 
1階の厨房では喫茶コーナーがあって、何時も満席です。
今日も順番待ちです。
(この喫茶は従来山手地域の奥様がサービスしていましたが、何時の間にか業者委託されて居ました)
 
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      (エリスマン邸のエントランス。何処もカサブランカが咲いています)
 
 
 
エリスマン邸は鬱蒼とした樹木の中にあります。
周囲には、スケッチをする人、ベンチに腰掛けて読書する人、おもいおもいです。
インターナショナルスクールの生徒さんが地べたに座って、お話に夢中です。
 
何れの人も緑陰を満喫しています。
木漏れ日は人を優しくしますし、谷風を一層爽やかにしてくれます。
真っ白い大きな花が風に揺れています。
 
花は「カサブランカ」です。
「揺れる花」だから「ユレ」、それが「ユリ」になったと云われます。
大和言葉「ゆり」を漢字で「百合」と嵌めたのは、百合根(球根)が沢山の鱗片(りんぺん)で組み合わされているからでしょう。
万葉人は観察に優れていました。
私達現代人は、その恩恵に浴しています。
 
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ところで、鎌倉には湘南白百合学園というカソリックの女学校があります。
私の通った栄光学園は男子校でしたから、姉妹校という事になります。
その校章は百合の花です。
何の百合かな?と学校のHPを見ると鉄砲百合でした。
鉄砲百合は高砂百合(台湾原産)を品種改良したものです。
勿論、百合は神話や聖書にもよく出てくる花です。
聖書や賛美歌では白ユリは聖母の花とされています。
アダムの妻イブは、蛇にだまされて禁断の果実を食べ、エデンの楽園を追われてしまいます。
ハラハラ涙をこぼします。
大地に落ちて、ユリになったと云います。
 
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以来、西洋人は百合の花を地球上に探します。
高砂百合から鉄砲百合を作りました。
更に、シーボルトは日本には山百合が在ると伝えます。
この種は、最も華麗で大きな花でした。
「オリエンタル・ハイブリッド」とネーミングしました。
幕末から明治維新にかけて、山百合が横浜港から輸出されます。
輸出商社「横浜植木」は浮世絵で培われた技術を使って豪華なパンフレットを作成しました。
一気に世界中に山百合が広がりました。
この時、横浜植木が「ジャパン・ハイブリッド」と書いたら、日本のPRに効果があったと思います。
百合の代表種の名がジャパンになったでしょう。
 
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       (エリスマン邸、書斎からの眺め)
 
西洋人の百合の花にかける思いは「純白・清廉」です。
真っ白くさせたい・・・・・。
品種改良が重ねられ、アメリカで突然変異種「純白のオリエンタルハイブリッド」が開発されました。
名前を「カサブランカ」としました。
 
私はカサブランカというとモロッコの港町を思い起こします。
映画や歌謡曲(カサブランカダンディー)の記憶が強い所為でしょう。
調べると、カサブランカには「白い家」「大きい」と言った意味が在るそうです。
「白くて大きな百合・カサブランカ」は日本にも里帰りしました。
 
里帰りした山百合は結婚式に愛用されました。
純白のウェディングドレスのイメージに重なったからでしょう。
葬式にも使われました。
「白い菊」ばかりでは能も無いし、「見事な生花を供えたい」 そんな思いにピッタリだったからでしょう。
 
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でも、何れの場合も雄蕊の先が「チョン」カットされてしまいました。
そうすれば、花が長持ちするし、着物を汚す事が無いからです。
でもチョンするのは痛々しいと感じます。
もしかしたら、日本のお嬢さんは「カサブランカには雄蕊も雌蕊も無い」と誤解しては無いか?
少し心配でもあります。
カサブランカは山百合とお同じ、でも山百合の鹿の子の模様が無くなっただけです。
虎のホワイトタイガーみたいなものです。
 
150年前、横浜港から旅立った山百合が色を変えて、純白で世界中に愛される花になって戻ってきました。
ローカルな里山の花がグローバルスタンダードになって・・・・・。
 
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 (山百合、長寿寺にて)
 
 
  今日私は、横浜第20選挙区の選挙管理人として6過ぎから9時前のお勤めです。そろそろ、出かけます。
 
 
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桜堂に集まった庚申信者達

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昨日は第22回参議院議員の選挙、投票箱を選管に届ける時には雨も降りだし、帰宅したのは夜9時前ぐったり疲れました。今回からは費用削減の為、弁当代も出ないという事でした。毎回選挙の度ごとに「今回が最終回」と決めるのですが、実際に誰もやり手が居ないので、・・・・。
ワールドカップのライブを見て、テレビのスイッチを切って・・・・パソコンに向いました。
 
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  (舞岡の田園風景、左上住宅を左に辿ると桜堂交差点につく)
 
 
今日は舞岡桜堂にある阿弥陀庚申塔を書く事にしましょう。
主尊が来迎印を結ばれた美しい庚申塔です。
それが、紫陽花の花に囲まれて、一年中で一番美しく輝くのです。
 
桜堂という名は全国各地にあります。
舞岡町はl鎌倉街道中道(なかつみち)が走っています。
この先は、港北ニュータウンを越えて荏田から上野に向います。
中道と環状道路の交差点が桜堂です。
今はお堂こそありませんが、屹度お堂があって、美しい観音様が祀られていたのでしょう。
何故って? 坂の上に日限地蔵(ひぎり地蔵)があります。
南には薬師堂が残されています。
観音様が居なくては・・・・・収まりが悪いのです。
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  (舞岡農道脇の庚申塔、青面金剛が主尊です。江戸中期。上部に日・月が描かれています)
 
 
道の途中に「かまくら」という名のうどん屋さんがあります。
その入り口に阿弥陀庚申塔と一基の道祖神が祀られています。
 
庚申信仰は江戸時代になって爆発的に信仰されます。
平和の時代がやって来て、町民や農民が力をつけてきて、団結力が強まってきたのでしょう。
新時代を背負う人達は自分達の信仰を固めてゆきます。
古代から中世にかけて、日本の信仰の主役は阿弥陀様から観音様、そしてお地蔵様に多様化してきました。
支えた人は、荘園領主や名主、武士など支配階級でした。
農民も町人も「阿弥陀様やお地蔵様」は尊い存在で、人を救済してくださる・・・・知っていました。
 
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 (桜堂の阿弥陀庚申塔。この辺りでは最も古く(寛文2年10月)美しい)
 
 
前の時代の信仰、支配階級の信仰、それらを上手に取捨選択して自分達の信仰を形成してゆきます。
農業には太陽・月を観察して暦を決め、最適な判断を下します。
タイミングを外せば、収穫はお覚きしません。
日待ち、月待ち信仰が身に染みています。
これらを総合する教えが道教にありました。
庚申の日が重要視される素地がありました。
 
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   (阿弥陀様の足下の三猿)
 
私達現代人は「信教の自由」を教えられています。
でも、江戸時代人にとっては個人の信仰はさして意識されませんでした。
家族、地域共同体といった団体の信仰こそが問題でありました。
そこで、江戸時代当初は阿弥陀様を主尊にした庚申講信仰が盛んになりました。
屹度、桜堂の念仏講のお坊さんが主導したものでしょう。
毎月庚申の日、桜堂に集まった農民は徹夜で過ごしました。
皆の信仰を確かめる為に。
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私達は良く「虫が知らせる」とか「虫が悪い」等と言います。
私達の体の中には三尺(さんし)の虫 」が巣食っている、と信じられていました。
形は回虫とかギョウチュウのようなものです。
この虫が庚申の夜に体から抜け出して、1ヶ月の間の素行を天帝に報告に行きます。
でも、寝なければ虫は抜け出す事が出来ません。
そこで、桜堂に集まって徹夜するのです。
徹夜は際しては酒も肴も出たでしょう。
また、何処の娘が綺麗だとか、農作業の話も出たでしょう。
徹夜することによって講仲間の意識や絆は固まりました。
 
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  (長雨で其処此処にキノコが生えてきました)
 
 
「嘘をつかない、一生懸命に働く、働いて得た蓄積はまたより良い生活の為に使う・・・・・」
こんな考えが浸透しました。
二宮尊徳の報徳思想は庚申講の教えによって、一般化していました。
ですから、小田原や関東の農民は尊徳の教えを信奉し、新田作りに、灌漑池工事に、河川改修工事に精を出しました。
 
同じ様な考えは大阪でも町人の間に吸収されました。
教えたのは石田梅岩、世に「心学」と呼ばれました。
 
マックスウェバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著し、近代化の素地が新教徒の社会倫理観に在った」と説明しました。
良く似た考えが我国庚申講信仰にも出来上がっていたことになりましょう。
 
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(此方は、目出度い!目出度い!と幣や扇子を振る三猿。鎌倉坂下の御霊神社。江戸庶民のバイタリティーは類型化し難いほど多様な意匠を生んでゆきます。それが魅力です)
 
 
 
 
一寸、話が重くなってしまいました。
自説の妥当性は別にして、桜堂の阿弥陀庚申塔は中々の美しさです。
台座下部の三猿も可愛く、目や耳や口を噤んでいます。
三猿が庚申講のシンボルになっているのは、お猿さんが山王様のお使いだからです。
そして、天帝に「告げ口」をしないからです。
 
お猿さんが天帝の前で
「俺は見なかった、俺は聞かなかった、俺は言いません。この男がこの1ヶ月何か悪事を働いた事など・・・・」
 
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(舞岡庚申塔 正面金剛足下に押さえつけられた天邪鬼が表情豊かで・・・・)
 
 
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あなた、一緒に寝ませんこと!(ネムの花)

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梅雨ですから、晴れ間が貴重です。
家内はお洗濯に、私はウォーキングに、晴れ間を縫って出かけます。
舞岡自然公園を歩くと、「ネムの木」が多いのに今更ながら驚きます。
ネムの木は大和言葉、「寝る木」に依っていると思います。
その葉っぱが、夕方になると閉じてしまい、ぐったり沈んで、寝てしまったように見えるからです。
 
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 (舞岡公園内に佇む双体道祖神、近くにネムの木があります。信濃の道祖神は和合の形をしています)
 
ネムの木を漢字で書くと「合歓の木」と書きます。
合歓とは「合い歓ぶ」のですから、男同士でも可能でしょうが、男女が喜悦を共にする、艶っぽい世界です。
花を見れば、この意味がわかります。
夜になると、花は葉っぱの上に押し出て咲きます。
淡紅色のおしべが長く、まるで女性が頬に紅を刺す刷毛のようです。
雄蕊の先端が紅色で、根元は白いのもお洒落です。
何のことは無い、葉っぱが閉じるのは、その水分を花に注ぐからです。
葉っぱが茂っていては夜咲く花が見えないから、葉っぱが閉じてしまうのです。
夜、誘う花ですから、艶っぽいに決まっています。
香りは桃のように甘いのも納得です。
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私は、ネムの木が咲く農道を先に進みます。
道端に双体道祖神が佇んでおいでです。
高校の時の「奥の細道」授業を思い出します。
碇井先生は奥の細道序文を覚えるように命じました。
次の授業で、覚えこんだか、テストしました。
 
芭蕉は陸奥の道祖神の招きに応じて、旅立ちました。
行く先は、松島か、象潟か・・・・・。
 
 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 
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芭蕉は長雨の中、あこがれの象潟に着きます。
ネムの花が雨に濡れています。
その美しさを、傾国の美女西施になぞらえます。
碇井先生の講義は西施は中国を代表する美女である、その程度でした。
未だ、高校生には理解が出来まい、そう思ったに違いありません。
 
紀郎女(紀貫之の娘)は恋人の大友家持に歌を贈ります。
 
 昼は咲き 夜は恋い寝る ネムの花 
       君のみ見めや わけさえに見よ
                 (万葉集)
歌の意味は以下の通りでしょう。
昼は咲いて夜は慕い合って寝るネムの花を、私一人で見ているので良いでしょうか? 貴方も此処に来て一緒に見ましょうよ!
 
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勿論、家持は返歌します。
「本当ですか? 夜這いしたら、追い返すのでは無いでしょうね!」
そんな意味の返り歌でした。
 
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大和言葉では「ネムの花」です。
ところが、芭蕉は濁音にして「ねぶ」と歌っています。
何故、濁音にしたのか、それが問題です。
それが、高校生には「まだ無理かな!」と思ったのでしょう。
(本当は詳しく講義したかったのに・・・・)
 
呉・越が戦を重ねている春秋戦国時代のことでした。
越王「匂践」は会稽の恥そそぐ為、国中に美女を探します。
西施を得て、呉王「夫差」に献じます。
 
作戦通り、呉王夫差は西施の色香に溺れてしまいます。
政治を怠り、国は傾きます。
美女西施目的を果たして越に戻ります。
しかし、その美しさを妬まれ、また呉王も同じように色香に溺れてはならない、そう確信した家臣のために揚子江に流されてしまいます
 
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     (舞岡公園で、ネムは高木にもなります)
 
中国では、家が狭いからでしょう、恋人達は一晩中公園などで戯れています。
彼等の頭上に合歓の花が咲いています。
漢字はストレートに「男女が共寝、和合の木」と表現しているのです。
 
ネムの木を見たとき、芭蕉は薄命の美女西施を思い浮かべました。
象潟という何処か悲しげな風景の中に、ネムの花が咲いて、濡れているのを見ると、
西施が美しさと、美しすぎる為に歩んだ凄絶な一生を思い起こしました。
 
歴史をうごかしたエロテイシズムを表現する為に、ネムより「ねぶ」濁音にしたのでしょう。
 
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  (明治学院大学の横浜キャンバスは舞岡公園に隣接しています。ネムの木が沢山自生しています)
 
 
 
1967年、私が未だ学生だった頃でした。
伊勢志摩にヤマハグループがリゾートを開発しました。
ネーミングは「合歓の郷」でした。
若いカップルの共感を得て、成功していました。
婚前旅行にも、当然新婚旅行にも、グループの合宿にも様々に活用されました。
 
2007年、運営はヤマハから三井不動産に移されました。
でも、看板「合歓の郷」は変えませんでした。
万葉の時代から、「合歓のさと」は日本人の憧れでしたから・・・・・。
 
象潟は芭蕉の死後100年、地震によって海底が隆起してしまい、その美しい景色も消えてしまったそうです。
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      (舞岡公園、草刈しているのは公園事務長等・・・。ネムが優しく見守っています)
 
 
 
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修復なった鎌倉地侍の住まい

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鎌倉の関屋の旧家、石井家が母屋を取り壊し、新築すると聞いて、龍宝寺のご住職(先代)は残念に思いました。
400年も生き続けた家が壊されるのは忍び難い。
「ならば、拙寺にてお預かりしましょう」
 
                (平成21年、修復前の石井家住宅。土間にバケツが置かれ雨漏りを受けていました)
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昭和44年、移築に際して重要文化財に指定されました。
「何故、小さな民家が重要文化財になったのか?」
それは、この民家が「三間取り四方下家作り」であったからでした。
こうした家は相模の国では一般的な農家の家です。
押し戸を入ると、広い土間に出ます。
土間は夜なべの農作業をする場所、雨の日の仕事場、そして釜戸や塩・味噌樽が置かれていました。
土間を上がれば、板間で囲炉裏が切ってあります。
その奥に二間があります。
此方で就寝します。
 
通常、茅葺は二十年ごとに葺き替えます。
石井家住宅がその倍も放置されてきたのは、修復費の地元負担分二割が工面できなかったからでしょう。
私は、雨が降ると石井家住宅を再三訪れました。
土間に入ると、古家の臭いが鼻孔を刺激しました。
土の臭い、萱の臭い、味噌の臭い、
何かが発酵する匂いでした。
麹菌とか納豆菌とか・・・日本の発酵菌の醸しだす、複雑な匂いが雨の日は一層濃く匂いました。
そして、バケツに雨音が、ポタン・ポタン、「民話古家の雨漏り」が字のままでした。
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                         (茅葺屋根は山側、北側に激しく腐って崩れ落ちていました)
 
栃木県に佐野市があります。
其処に住む、地侍の家にある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を乞います。
主人の名は「佐野 源左衛門常世」、囲炉裏に招いて雑炊を馳走します。
でも、雪は深深と降り、寒さは一層厳しくなります。
佐野は盆栽の梅・松・桜を割いて、僧に暖を取らせます。
僧の質問に佐野は答えます。
「私は貧乏をしていても、御家人です。鎌倉殿に大事があれば、一番に駈け参じます」
有名な「鉢の木」の舞台です。
 
その後、佐野は鎌倉に瘠せ馬を駆って昇ります。
余りのみすぼらしさに御家人の嘲笑を受けます。
でも、精神は、鎌倉武士の気性骨が貫いていました。
執権北条時頼は佐野を誉め、旧領を回復させます。
「ご恩と奉公」鎌倉幕府を支えた精神を表していました。
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                               (土壁も傷んでいました)
 
佐野が鎌倉に馳せた道も鎌倉中道(私の住む倉田も通ります)、新田義貞が攻め上がったのも同じ鎌倉中道でした。皮肉を感じます。
 
石井家住宅は江戸時代初頭の建築ですが、鎌倉地侍の精神を良く示していました。
質実剛健で、謹厳実直で、華美を戒め、質素を旨としました。
だから、小さくても重要文化財に指定されたのでした。
 
 
今年に入って、ようやく修復工事が開始されました。
施行業者は寺社建築のトップ『松井建設』でした。
私は、工事の進捗を見守ってきました。
でも、矢板とテントの向こうでした。
出来上がってみると、丁寧な仕事と、旧材を出来るだけ活用しようとした姿勢が判ります。
 
腐った萱は全部捨てました。
代わって新しい萱で葺きなおしました。
萱を支える竹は和竹(八竹)で編みました。
でも、軒先に新しい材を使い、棟に近い部分は旧材を使いました。
煤けた黒い竹、新しい黄土色の竹は一目で区別できます。
土壁は、壊れた部分だけを新しくしました。
北側、地面近く(水滴の跳ね返りを受けていました)は新しい壁にしました。
何故か、新しい部分はねずみ色(塩分を含んでいる?)、古い部分は黄土色でパッチワークになってしまいました。
土間や地面も手を入れました。
多分関東ロームの粘土質を使ったのでしょう。
タタキもま新しく感じられました。
 
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(修復した石井家住宅、西側から見る。桁行き7間、最も北側だけ修復したのだが色が変わっている)
 
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     (屋根の竹組、庇近くが新材、棟近くに旧材が使用されている。右側人影は亡霊ではありません)
 
修復なった石井家住宅を遠望するため、本堂に昇りました。
ご住職が新盆の準備で、聖霊棚を準備されています。
今年はようやく修復も出来たので、先代住職の魂も迎え易い事でしょう。
「良く出来ましたね・・・・私が就職した頃先代が熱心にやられていましたよ・・・」
声をかけると、丸々太られたご住職は汗を拭きながら、笑ってくださいました。
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本堂から遥かに石井家住宅を見渡すと、棟飾りがお洒落に見えました。
女性の髪留めのようで・・・笑ってしまいます。
その手前にノウゼンカズラの緋色の花が鮮やかです。
此方は髪飾りとも言えましょうか。
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  (石井家住宅、新しく葺き替えられた茅葺屋根、手前にノウゼン。桐の古木はこのカズラによって枯れてしまいました)
 
龍宝寺の、今年のお盆は張り合いがあります。
 
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          (修復後の土壁パッチワーク。地面に近い部分の壁を修復した。この部分だけねずみ色)
 
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                                       (龍宝寺本堂前の緋扇水仙の花) 
 
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天王祭りの「お札撒き」

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戸塚は近世に入り宿場町として発展してゆきます。
旧東海道の道筋には北側の吉田町に「江戸見付」が、南の戸塚町には「上方見付」があり、その間約2キロが宿場町でした。
本陣が二つ、南の藤沢宿には少し小規模ながら、北の保土ヶ谷宿よりは規模の大きな宿場でありました。
私の住む倉田村は宿場の助郷役を供出する位置にあり、その負担を減免して貰うために、苦慮していたようです。
 
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                             (今日の話は戸塚八坂神社の例大祭/天王蔡)
 
1867年(慶応3)の夏に突如として、「大衆運動/ええじゃないか」が沸き起こります。
伊勢神宮のお膝元から発生した民衆運動でした。
「ええじゃないか・ええじゃないか・ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ」と囃子歌を歌い、、「踊りまくって憂さをはらそう」「身分も貧富も関係ない」と主張、大衆の背中を強く押し、新しい時代への期待を膨らませてゆきました。
歌って踊って練り歩く民衆の頭上に、神の護符が舞い落ちます。
お伊勢様の神意が民衆に乗り移った、そんな感覚に陥った事でしょう。
宿場町を東に東に伝播しました。
伝播すると同時に、「尊皇攘夷」運動が盛り上がり、「勤皇の志士」が江戸に向けて広がってゆきました。
 
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                                  (ええじゃないか運動、唯一天王祭りに残されています))
 
東海道の宿場町、何処にでもあった「ええじゃないか祭り」は今では戸塚宿を除いて消滅してしまいました。
何故、戸塚宿にだけ残されたのか、理由は不詳です。
お札撒きは戸塚町、八坂神社の例大祭で行われます。
毎年、7月14日がその神事です。
戸塚町の氏子が八坂神社を中心に団結していた事がこの無形歴史文化財を残してきた事でしょう。
八坂神社の本社は京都の鎮守です。
勤皇の志士のシンボルでした。
 
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10人を越える踊り子が群舞をしながら、戸塚町を練り歩いて来ます。
囃子歌を歌いながら。
人々は踊りに誘われて、群舞に加わります。
残照も漆黒に変る八時頃、群舞の一団は八坂神社の境内に到着します。
境内を練り歩き、最後に舞台に昇ります。
 
踊り子は全員男性です。
でも、桃色の襦袢を着て、オレンジの着物で、
真っ白く化粧して、頬は日の丸に紅をさして、
クネクネ体を捻りながら、裾を乱して踊りまくります。
お祭だから許される、趣味の悪いいでたちです。
 
一際背の高い女性が真ん中に立って、囃子歌を歌います。
私は聞き耳を立てます。
今年は何と歌うかと・・・・・!
 
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(観衆は手拍子で踊りを盛上げます。でも、懐かしげなカメラを持った高齢者ばかりが目立ちます)
 
 
 さあ来い 子供
 天王様は
 泣く子が嫌い
 喧嘩も嫌い

 お囃子の方が大好きで 
 ワイワイと囃せ
 囃した者には
 お札を授けるぞ

 ありがたいお札
 授かった者には
 病も逃げる
 コロリ(ペスト)も除ける

 ワイワイ囃せ
 赤青黄色
 いろいろ混ぜて
 油断をすると
 お札を拾えぬぞ
 
お札を拾えば病気にならない、コロリ(江戸時代子供の大半はペストで死んだ)にも懸らない・・・・・。
その後に、次のような囃子歌があったと記憶しているのです。
 
 蜂にチンチン刺されても
 痛いとも言わずに・・・・
 祝え、祝え・・・・・・・・

半夏生もすぎて、田植えもようやく終えた頃に行われる例大祭です。
植えた稲が豊作を招いてくれなくてはなりません。
その、予祝歌も期待されます。
 
早乙女が着物の裾をまくって田植えをします。
男達は「もっと裾をまくれ、もっとまくれ。まくらないと着物が汚れるぞ」と囃し立てます。
そんな男が田の畔で立ち小便しながら、早乙女におチンチンを見せびらかせます。
小便が蜂にかかります。
蜂は怒って、おチンチンに針を刺します。
刺されてチンチンが大きくなれば、今秋の大豊作は確約されます。
そんな概要であった、確信しています。
 
 
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何で、囃子歌の一番しか歌わないのか?
私は大いに不満です。
全国各地の神事は予祝行事です。
豊作を祈願すれば、性的な表現が多くなるのは当然です。
あけすけに、おおらかに性を歌い褒め上げるのは、責められる事ではありません。
でも、「品が無い」「教育上懸念がある」 等として一番だけが歌われているのでしょう。
 
二番以降、全部を紹介する事が、この「民衆運動」を記録する上で重要だと確信しています。
今度、お隣の戸塚町連合会長にお尋ねして、全文をメモする事に致しましょう。
 
10分ほど舞台上で踊ったでしょうか?
手拍子も疲れた頃、踊り子達は舞台の前端に揃って出ます。
そして、手元の団扇でお札を扇ぎます。
5色のお札は夜空に舞い上がります。
氏子は競って、お札を奪い合います。
「取れた、取れた、拾えた、拾えた」
小さな短冊状のお札を大切に持ち帰ります。
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(祭りの最後は、お札撒きです。団扇で扇られたお札を競って拾います)
 
天王様のお祭が明ければ、もう直ぐ梅雨明けです。
27万都市、戸塚区民が揃う、200年にわたるお祭です。
 
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貴方の笑顔が好きだから・・・・(昼顔の花)

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柏尾川の堰堤を下ってゆくと、鼬川(いたちかわ)の合流点に出ます。
鼬川の水源は円海山で、緑豊かな自然林です。
家庭から放流される雑排水も混じりますが、綺麗な水質です。
魚影も濃いので、水鳥が多く集まります。
水中から、突如川鵜が顔を出します。
大きな魚を呑みこんだのでしょう。
食べ飽きると、岩場に止まって、羽根を干しています。
時折、両翼を広げて威張って見せます。
 
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 (柏尾川に鼬川が合流する地点は水鳥のたまり場です。もうボラが遡上してきましたので、川鵜が集まっています)
 
堰堤の東側は東海道線です。
その間の狭い空間、JRの所有地か、河川の付属地(国有地)かわかりませんが、横浜市民の農地に指定されています。
畑作を楽しむ人が目立ちます。
 
堰堤にはバードウォッチング、お散歩、ジョギングなど、様々に自然を楽しむ人の姿が目立ちます。
足許には、可愛い昼顔の花が咲いています。
 
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  (柏尾川堰堤はアスファルト舗装されていますが、その割れ目に昼顔が根を張って、群生しています)
 
 
夏の日盛りに花を咲かせるので、昼顔の名前がついているのでしょう。
朝顔が朝に咲くものの、日が昇ると萎れてしまいます。
昼顔には「昼も咲く逞しさ」が印象付けられます。
 
私は4人兄弟の末っ子として生まれました。
末っ子が良くあるように、祖母に可愛がられた、甘えん坊であったようです。
「ソフトクリームを食べたいな!」
そう、祖母におねだりしたかったのですが、名前が言えません。
アレコレ説明してその挙句、道端の昼顔の花を指差しました。
昼顔の蕾がクネクネ捻られていて、ソフトクリームの形だったのでした。
祖母は大笑いして、戸塚にあった憧れのデパート「菊屋」の4階、食堂に連れて行ってくれました。
 
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         (昼顔の蕾はソフトクリームのように捻れています。湿度が高くなると早くに開くようです)
 
昼顔は蕾も蔓も左巻きです。
人間もつむじが左巻きの人は、頑固者と思います。(これは私の体験的判断で、一般的な見識ではありません)
左巻きの植物は、生命力が旺盛なのだと思います。
 
万葉の時代、朝顔といえば「桔梗」でした。
朝顔が日本に伝来した時期は不詳のようです。
朝顔が史上に登場するのは桃山時代でしょう。
千利休が当時未だ貴重であった朝顔を育てたところ話題になりました。
秀吉も垣根一面に咲いた朝顔を見ようと出かけました。
ところが、千利休は一輪を残して花を切り落としてしまいます。
 
茶の湯が流行して、朝顔も愛でられたのでしょう。
桔梗は朝顔の名前を奪い取られてしまいました。
以来、江戸時代、朝顔は主として町民によって種の改良が進み、俳句にも数多く詠まれました。
 
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(昼顔が揃って此方を向いていると、子供が笑顔で挨拶してくれた・・・・そんな気持ちになります)
 
 
同じように、私達が「昼顔」と呼ぶ花を、万葉人は容花(かほばな)と呼んでいました。
万葉集に容花は4首歌われています。
何れも、恋情を託しています。
 
美しい花は美しい女性の例えになることはしばしばです。
日本なら百合、中国なら芍薬・牡丹・虞美人草等等・・・・。
でも、女性の表情、面影を捉えた花は少ないようです。
「容花/かほばな」はその数少ない花の一つです。
 
  高円(たかまと) の 野辺の 容花 ( かほばな ) 面影に 見えつつ 妹 ( いも ) は 忘れかねつも
 
歌の意味は以下のようなものでしょう。
『高円山の野辺に咲く容花(かほばな)のように、わたしはいつも貴方の面影が浮かんで、出来ません』
作者は大伴家持。万葉集巻8 相聞歌1630に載っています。
長歌(1629)に続いていますし、1632も家持の恋情が綴られています。
贈歌の相手方は坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)でした。
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二人は恋の歌を遣り取りする間ではあったものの、同棲する間柄ではありませんでした。
同じ屋根の下に住めなかったので、高円山の山裾(山之辺の道)に咲いた昼顔を見れば、最愛の坂上のお嬢様を思い浮かべられたのでしょう。
その愛らしい笑顔が忘れられません。
 
上記の返歌ではありませんでしたが、坂上大嬢はチョンチョンと家持の恋情を刺激しています。
 
  月草のうつろひやすく思へかも 我が思ふ人のことも告げこぬ   (万葉4-583)
 
貴方は私のことを月草(露草)のように移ろいやすいと思っているからでしょう。
私の思う人が何とも言って寄越さないのは・・・・。
 
二人は刺激を繰り返し、数多くの相聞歌を残して、結婚します。
坂上大嬢は万葉の代表歌人、家持の正妻に収まります。
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  (露草の群生、玉縄の貞宗寺の裏山で)
 
 
私が、昼顔にレンズを向けていると、怪訝そうに農婦が言ってきました。
「こんな雑草は、畑の邪魔をして困るんですよ。根っこは地中深くに走っているので、抜いても抜いても出てくるんだよ・・・・・」
強靭な地下茎、生命力は農婦にとっては害草のなのでしょう。
 
害草扱いされても、昼顔には表情があります。
この花が、沢山咲くと明日は雨になると言います。
でも、明日こそ梅雨明けのようです。
 
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白蓮の思い出(鎌倉成福寺にて)

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鎌倉小菅ヶ谷の成福寺さんに出かけました。
そろそろ、蓮が咲いたかな?
そんな期待で。
 
咲いています、咲いています。
真っ白な蓮の花が。
場所は駐車場の西側に、蓮鉢が並べられて、咲き始めた様子です。
私の姿を認めて、老住職が出て来られました。
私をお檀家と間違えられたのでしょうか?
それとも、一寸話し相手に良さそうだ・・・・思われたのでしょうか。
 
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(成福寺は小菅ヶ谷踏切のまん前にあります。山門脇から蓮鉢が並んでいます)
 
 
私は、尋ねます。
「この蓮は白い花ばかりですが、何か謂われでもあるのですか?」
老住職は笑顔でお答えなさいます。
「何も謂われもありません、白い蓮が好きだからですよ・・・・。貴方も白い方が好きですか?」
「私の義母の戒名に”白蓮院”を戴いたので、思い出しておりました。ところで、ご住職、蓮鉢は漬物樽なのですね・・・・・?」
わたしは、蓮鉢がブルーのプラスチック製の漬物樽を見ました。
「いや、昔は陶器製の鉢を使っていたのですよ。ところが此処は駐車場なので、バックしてきた車がぶっつけるので、割れてしまう。対策として漬物樽の廃棄物利用にした。これなら、少しの衝撃なら吸収してしまう。」
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(並んだ蓮鉢。青い漬物樽が利用されている。陶器の蓮鉢はプランターでバックする駐車場の車から保護されています。)
 
蓮には一鉢ずつ名前が付いています。
白蓮と云ってもたくさんの種類があるものです。
今盛んに咲いているのは、「廬山白蓮」という名の八重の白蓮です。
そのお隣は・・・・未だ蕾ですが「真如蓮」と書かれています。
良く見ると、蓮の根元に落花が残っています。
一重で花の下部に緑色が刺した、清純な花のようでした。
もう2日も前に来れば観れたのでしょう。
蓮は花期が短いから・・・・・。
 
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(雄大な廬山白蓮)
 
私は、学生時代、友人等と一緒に、汗を拭き吹き京都を古寺巡礼した記憶が醒まされます。
法然院の本堂に入りました。
薄明かりの中に阿弥陀様が座していられます。
私は、その前に、板間に座って、見上げます。
薄目の阿弥陀様は、私を見下ろしておいでです。
「若い衆が友達と一緒に来たか・・・それは良い事だ・・・・」
お言いでしょうか?
 
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                                    (真如蓮に近い一重の白蓮)
 
何時しか、汗も退いて、目も薄暗がりに慣れてきました。
板間(床)の其処此処に白蓮の花弁が散っているのでした。
私達は、阿弥陀様に向けた視線を落として、板間の白蓮に注いでいました。
板間は、水面で、水面には蓮が咲いています。
その上に阿弥陀様がいらせられる・・・・そんな意匠でしょう。
 
法然院の庭に出ると、廬山白蓮が咲いていました。
毎朝、この花を戴いて、板間を飾っておいでなのでしょう。
私達は、法然院を下ると、真如堂に向いました。
真如堂には「見返り阿弥陀像」がおいででした。
 
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「三宝を敬え、三宝とは仏法僧のことなり」
「僧」とは「お坊様」と思っている人が多いと思います。
間違いではありませんが、「僧」は「サンガ」の訳であり、サンガとは「修行する集団」の意味で、さらには「仲間、友人」の意味です。
道元禅師の教えのエッセンスを纏めた『修証義』には「僧は勝友なるが故に敬う」とあります。
大昔から、人間は友人を大切にする事の重要性を説いてきたのでした。
 
老住職との話では、この蓮はお檀家の方々と、毎年春先に手入れをするとのこと。
根を掘り上げて、ご自宅に持ち帰る方も多いとのことでした。
お話はまだまだ尽きなかったのです。
長くなるのでこの辺りで、筆ならぬキーボードから離れます。
実は、古井戸の話を伺ったのですが、次の機会に報告します。
 
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                       (成福寺本堂前の葉書の木。この葉っぱが葉書の名のルーツ)
 
 
 
 
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美しい井戸、美味しい水(成福寺で)

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昨日に続いて、成福寺の老住職のお話をします。

蓮の花に続いて、私は井戸について訊ねました。
「美しい井戸ですね、現役で使われているようですが?」
庫裏の前にある井戸を指差しました。
古井戸のようですが、その周囲は茶褐色の川原石が積まれていて、アンダルシアの井戸のような雰囲気です。
井戸の奥には墓参用の手水桶が整然と並んでいます。
お檀家の方が墓参に際して、この井戸水を木桶に汲んで、お墓に水掛するのでしょう。
老住職は話されます。
 
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                                             (成福寺の井戸)

「あの井戸は、美味しいですよ。
地下10メートル以上も深く、固い岩盤に届いています。
地中深い水を汲んでいますから、私は専ら井戸水を使っています。
庫裏の新築に際して、見た目を綺麗にしてあげたんですよ・・・・(感謝の気持ちで)。
拙寺にはもう一つ墓地の上段に古井戸があるのですが・・・。
こっちの方は7メートルほどしか掘っていません。
地表近いので、雑菌もいようと思い飲まないように注意しているのですが、皆さん汲んで帰られます。
お茶にも、湯豆腐にも、美味しいのだそうですよ」
 
「屹度ミネラルが多量に含まれているのでしょうね・・・・」
私は相槌を打ちます。
 
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(此方は浅い井戸)

「そう、円覚寺の裏、六国見山に降った雨が、地中深くに侵みいって、其処此処の井戸に出ていたんですよね、そんな井戸も残り少なくなって、・・・・その一つがこの井戸なんですよ」

「そうですよね、お寺サンは水の美味しい処に建立されたのですから、井戸水が美味しいのは古人からの贈り物ですよね・・・・・」
私は答えながら、先年亡くなった父の思い出を覚醒します。
 
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私の生家にも、その周囲にも古井戸がありました。
その一つを宅地造成のため埋める事になったのです。
父はやおら竹を伐採してきて、その節を刳り貫きました。
管状にした竹を古井戸に差込、お経を読んで、それから土建屋さんが井戸を埋め始めました。

未だ学生だった私は不審に思って訊ねました。
「お父さん、何かのおまじないなの?」

父は真顔になって言いました。
「古井戸には命があるんだよ、竹を入れたのは息が出来るように。命が井戸から出て、何処か別の所に往けるように、そんな配慮だよ」
 
私は思い出しました。祖母から言われた事を。
「井戸を覗いてはいけませんよ、井戸の水に映った自分の顔を見てはいけませんよ。井戸に引き込まれてしまうから」
 
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子供の頃から私の祖母も、その倅の父も「井戸には妖怪が住んでいる」、信じていたのでした。
その名前は「井戸神様」とか守宮(いもり)とか・・・・様々に呼ばれていたのでしょう。
 
「死んだら魂は何処に行くの?」誰もが考えてきました。
「天空に昇る」「風になる」そうした「異次元空間に移る」と言った考えは一神教の世界に多いようです。
 
多くの日本人は、死んでも「地上の連続した空間に移る」と考えてきたようです。
村落を見下ろす峠に移る、とか地下に潜るとか。
地下に潜った場合、地上との出入り口は「井戸」になります。
地上世界(人間世界)と地下世界(霊界)の出入り口は古井戸と信じてきました。
そんな日本人の思いの込み入った井戸です。
日本文化のエキスが古井戸にあります。
ホラー映画「リンク」とか「貞子の話」は日本文化の深層に根ざしています。
 
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                                 (鎌倉十井、首座の甘露の井、浄智寺山門下)
使わないで放置しておくのは勿体無いし、祖先にも申し訳が立ちません。
老住職のように大事にしてゆくことは、尊い事だと思います。
 
鎌倉山之内には鎌倉十井(江戸時代の名所記に鎌倉には10の名水、名井戸があると伝えられています)の第1位甘露の井(浄智寺)と甕の井(明月院)があります。
 
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                                           (浄智寺の井戸)
大寺の門前には豆腐屋と魚屋があると謂います。(一説には銘酒もある)
円覚寺の門前には2軒のお豆腐屋さんがありましたが、今では関口豆腐店一店になってしまいました。
 
美味しい水が貴重であることは関西の生活で痛感しました。
淀川水系の水は臭くて不味くて飲めません。
六甲水系は美味しい水でした。
会社(御堂筋)は飲めませんでしたが、社宅の水は美味しいものでした。

 
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           (葛原が丘に降った雨は北に甘露の井に出て、南には銭洗い弁天に湧き出ます)
 
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                                           (瑞泉寺、茶室横に湧き出る清水)
 
 
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飯泉観音は相模の祈願所で(坂東札所5番)

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坂東33箇所札所巡りは、源頼朝が発願し、実朝が制定したと伝えられます。
勿論、四国の霊場や西国札所巡りを参考にした事でしょう。
ですから、鎌倉で最古のお寺杉本寺を札所一番にし、前山を越えて逗子の岩殿寺を二番、名越の山を越えて安養院が3番、由比ガ浜通りを経て、長谷寺を4番にしました。
此処から、一気に小田原に向って、飯泉にある飯泉観音(勝福寺)を5番に、大山の麓に向って厚木の飯山観音を第6番に数えます。
5番から6番にかけては巡礼道の名が今も残されています。
この後は埼玉県に飛んで、再び相模の国に戻るのは14番横浜南区にある弘明寺観音です。
 
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                                            (飯泉観音、仁王門)
 
最近は、お遍路さんの姿も良く見かけます。
一人で巡る人もあれば、何処からのお寺さんの信徒さんでしょう、集団で純白の巡礼装束に身を固めておいでです。
巡礼装束は死に装束と同じ、覚悟で旅立つのでしょうが、交通事故だけは避けたいものです。
巡礼者がホット安心して景色を楽しめるのは、酒匂川も近い飯泉観音でしょう。
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                         (飯泉観音、観音堂、拝んでいるのは二宮尊徳)
 
 
 
私と家内が飯泉観音境内に入ると、”ギャー・ギャーガヤガヤ”騒がしい事。
何があったか、どうした事か?
騒音のする先を見張りました。
境内の北側、西側、欅の大木が観音堂を守っています。
その梢の先が鷺達が営巣していて、今若鳥たちが、「俺に餌をくれ!今度は私の番よ!」
主張しているのです。
カラスも五月蠅いのですが、鷺の叫びは金切音で、人の感性を逆なでします。
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                     (樹上の青鷺、五月蠅い事・五月蠅い事)
 
我が家の庭では、今年も雀が5羽程度生まれて、幼鳥が親を追いかけて、走り回っています。
お隣のニャンコが狙っています。
近くの柏尾川にはカイツブリかカルガモが子供をつれて泳いでいます。
大半の野鳥の子育て姿は私達を癒してくれますが、鷺は気持ちを荒々しくしそうです。
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                      (龍の背で手を洗う、観音様が見守る。意匠の素晴らしい手水鉢。)
 
酒匂川は鮎の名所、美味しい魚をたらふく食って、境内も観音堂の屋根も、白い糞が飛び散っています。
鳥の糞は臭くは無いのでまあ良いのですが、今しばらくこの騒音は続く事でしょう。
 
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                                 (観音堂の外陣、密教の臭いがプンプンしていました)
 
奈良時代の末期、道鏡が出現します。
道鏡は光明皇后の実子「孝謙上皇」の信頼を勝ち得ます。
しかし、上皇が没してしまうと、反対勢力が台頭し、下野の国薬師寺に左遷されてしまいます。
上皇から賜った十一面観音を携えて、奥州古道を小田原までやってきました。
小田原にあった弓削寺氏に逗留します。
弓削一族としては都落ちとはいえ一族の成功者であった道鏡を歓迎し、慰めた事でしょう。
暫く小田原に逗留し、弓削寺に東院堂を建立し、自らの誇りでもあった観音様を収めた、と伝えられています。
 
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      (観音堂からの眺め、高野山御影堂に良く似た大日堂)
 
 
当時の十一面観音は鑑真和上が唐から請来、孝謙天皇から道鏡に渡ったと伝えられていました。
きっと、長い歴史の中で事故に逢ったのでしょう。
現在のご本尊は新しいようです。
 
現在のお堂は何度か被災、建立されてきたようです。
現漢音堂は1706(宝永3年)に建立されたものです。
小田原城の鬼門の方角にあることから、町を守るお堂とされてきたようです。
深く暗い本陣の奥では、密教に拠る加持祈祷が行われてきたようです。
地方色濃い堂宇であり、鬱蒼と生い杜であります。
 
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          (観音堂の周囲には88観音像が、巡れば此処だけで四国札所を巡ったご利益があります?)
 
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源平池の蓮花(今年は当たり年)

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私はかねてから「日本で最も美しい蓮は横浜三渓園の大池の蓮だ」思っていました。
手前の池全面に咲いた蓮、水面の彼方、小高い岡に立つ三重塔、その姿が日本人の美意識にフィットするからです。
鶴岡八幡宮、源平池の蓮は歴史的産物だ、思っていました。
ただ、あんまり美しくは無い、と・・・・・
でも、今年の八幡様の蓮は見事です。
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                      (八幡宮源平池の蓮、平家側なのに白い蓮ばかりで・・・・)
 
 
鎌倉の町は源頼朝が幼児期育った京都の町を模して造営しました。
内裏に位置するのが、京都岩清水から請来した鶴岡八幡宮。
朱雀大路に相当するのが若宮大路。
行政府「政所」は鶴岡八幡宮の東側に造営しました。
何故八幡様が中心だったのか?
それは武士達の心を一つに纏めるには、八幡宮、源氏の棟梁の権威が必要だったからでしょう。
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         (早朝の八幡様、箒を立てる巫女さん、神主さんの姿が見られるだけ)
 
由比ガ浜から一の鳥居、段葛の始まる位置に二の鳥居、そして八幡宮の太鼓橋前に三の鳥居があります。
若宮大路は道幅も半分ほどに縮小してしまいます。
一の鳥居から遥拝する八幡宮は、遠く・高く、荘厳に見えるから、遠近法が使われています。
 
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                          (赤い蓮、背景は旗上弁財天の幟、勿論白旗で)
 
 
三の鳥居から橋を渡って八幡様の境内に入ります。
橋の下を覗くと左右に池が広がっています。
源平池と呼ばれる「放生池」です。
幕府の公式記録「吾妻鏡」によると、頼朝が「弦巻田」と呼ばれた3町ほどの田圃を止めさせ、専光坊と大庭景義に命じて「放生池」を作らせた、とあります。
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   (鎌倉江ノ島名所図会/江戸時代、源平池。平家池は近代美術館が出来たので半分ほどに狭くなってしまいました。明治の絵では池の周囲に競馬の馬場も見えます。時代と共に大きく変遷しているのです)
 
 
 
ただそれだけですが、後世の人はわざとらしい講釈をたれ、それが伝わってきました。
作らせたのは妻の北条政子、東側の池は源氏池で中に三つの池(三は産に通じる)を作り源氏の発展を祈願した。西側の池は平家池、島を四つ作らせ(四は死に通ず)平家の滅亡を祈願した・・・と言い伝えられます。
勿論平家池には赤い蓮、源氏池には白い蓮を植えました。
 
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放生池は東大寺大仏殿前にもあります。
日々人間は生物の命を戴いて命を繋いでいる訳ですから、その罪(業)を意識しました。放生会では魚を池に、鳥を空に放ちました。
八幡様は明治維新の廃仏毀釈まではお寺でもありました。
頼朝の宗教観を示した池であった訳です。
 
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東側には沢山のカメラマンが集って、蓮を撮影しています。
旗上弁天から望むと、紅白の蓮が混在しています。
「呉越同舟」ならぬ「源平交歓」の様子です。
池の向こうには、横浜国大付属中学の生徒さんが歓談しながら登校してゆきます。
池面を渡る朝風は蓮の葉っぱの青い匂いがします。
朝の斜光に蓮の花弁の脈が透けて見えます。
一重の花弁が重なった部分だけが濃く、シルエットに見えます。
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親指姫はチューリップの花に腰掛けて登場します。
蓮の花にも妖精が出そうです。
琵琶を奏でる天女のような・・・・妖精かもしれません。
 
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                 (旗上弁財天、社殿欄間の天女図)
平家側の池に行きました。
此方は狭いので、カメラマンも数えるほどです。
でも、今が盛りです。
一斉に咲いています。
また、スックと花茎が伸びて、先端の蕾が膨らんでいます。
蓮の花は大きいので、長くは持ちません。
咲き始めて、5日目には散ってしまいます。
今日から1週間が見頃でしょう。
私は60年近く、源平池の蓮を眺めてきました。
でも、こんなに見事な蓮は初めてお目にかかりました。
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お巫女さんも若い神主さんも、箒目を立てて、境内を掃き清めておいでです。
数日来雨も無いので、埃も立ってしまいます。
水色の袴、朱の袴も新鮮です。
 
私は老いた宮司さんに伺いました。
「今年は蓮の当たり年です。特に池の工事をしたわけでも無いし、橋の根を掘り起して植え替えたのでもありません。蓮は蓮に任せて、勝手に育って、自然に咲いたまでのことです。まして、源平に分けて紅白の蓮を育てた訳でもありません。蓮が咲いて、種がこぼれれば、水の流されて池の四方に流れてゆきます。お前は源氏だから東側、平家だから西側、なんて事は出来ません。為すがままです」
話しながら、笑っておいでです。
 
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私はかねてからの疑問をぶつけてみました。
4年程前竹中工務店の仕事で、舞殿が新築されました。
その垂木や欄間のデザインです。
何れも4弁の花がデザインされています。
欄間は桔梗色、垂木は朱色です。
「あの花は何の花ですか」
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(新築された舞殿、静御前が義経恋し、とまったと伝えられます)
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           (欄間の花、十字花です)
 
花は牡丹でしょう。
群青色なのは、水の色で火災除けの意味かと思います。
「でも、牡丹は花弁が重なっていますよね?」
再度聞きなおしますと。
「あの花は牡丹です・・・!」
 
「まあいいか・・・・」
 
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地蔵盆も近づいて(覚園寺の蓮に思う)

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ミソハギの花も満開です。
百日紅の花も咲き始めました。
もう直ぐ、旧盆です。
鎌倉二階堂の覚園寺の「黒地蔵盆会」ももうじきです。(8月10日)
 
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  (覚園寺十三重石塔、初層に刻まれたお地蔵様)
 
夏休みがソロソロ終ろうとするころ、京都の町では町の辻辻で地蔵盆がとり行われます。
地蔵盆は町内のお地蔵さんをお祀りし、子供達の健やかな成長を祈願する、美しい行事です。
京都では室町時代町衆の台頭と共に盛んに信仰されてきました。
しかし、町衆が成立しなかった地域では地蔵盆は流行りませんでした。
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奈良の奈良町、江戸の下町などでは江戸時代にかけて地蔵盆が浸透してゆきます。
鎌倉は商都でこそありませんでしたが、地蔵盆が続いてきています。
 
地蔵菩薩はお釈迦様が入滅してから弥勒菩薩がこの世に現れるまで、人々を救済します。
人は死ぬと、その罪行・善行によって「地獄・飢餓・修羅・畜生・人間・天」の六道に赴きます。
その六道すべてにおいて、地蔵菩薩は人間を導きます。
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   (今日の話題、十三重石塔と蓮の花)
 
覚園寺の黒地蔵は名の通り、火に焼けて黒ずんでいます。
人々は、焼け煤けているのは、地獄の火炎の中から人々を救済してくれるからだ、有難いお地蔵様だ、信仰を集めたのでした。
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二階堂の山襞の最深部に覚園寺はあります。
此処には重要文化財の宝篋印塔(ほうきょういんとう) が二基もあります。
一般に「覚園寺大燈塔」と呼ばれる開基のお墓です。(正慶1年13332年)
また、山門を潜った左手には大きな十三重の石塔があります。
奈良般若寺の十三重塔(鎌倉時代)を髣髴させる美しい層塔です。
何時出来たのか、わかりません。
茶色が混じった御影石です。
その基壇が丸い円座になっています。
その円座にお地蔵様が彫られています。
何度数えても、14体のお地蔵さんです。
層塔は三、五、七、十三と奇数が多いのに・・・・不思議な数です。
一体一体、お地蔵様の持物も違うし、表情も異なります。
人間愛ならぬ地蔵愛に満ち満ちた石工の技量です。
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円座の上層はサイコロ状の軸部です。
その四方に如来が刻まれています。
こちらは、威厳に満ちた表情です。
 
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石塔の前には蓮鉢が置かれていて、今が見頃です。
蓮の花越しにお地蔵様や薬師如来を拝みます。
仏座は蓮華座と呼ばれます。
その意匠は、蓮の花です。
仏は、蓮の台(うてな)に乗って出現し、人を救ってくださいます。
人は蓮池に漂っています。
池の底は地獄です。
池の底から天空を見上げれば、蓮の花が見えます。
その上に仏が座していられます。
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弥陀は水底のカンダタを救ってあげようと、一筋のくもの糸を水中に垂らして下さいます。
カンダタは喜び勇んで、細い蜘蛛の糸を掴んで、天空に登ろうとします。
水面に達しようとした時、水底を見下ろせば、数多くの餓鬼共が蜘蛛の糸にしがみ付いています。
「糸が切れたら・・・」
大声を上げた途端、プツン糸は切れて、カンダタは再び池の底に落ちてしまいます。
芥川龍之介の大乗仏教を素材にした寓話です。
 
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弥陀は掌に縵網相(まんもうそう)と呼ばれる水かきをお持ちです。
笊で救う様に、水底にお手を差し伸べて、カンダタを救うことも出来たはずでした。
それをしないで、カンダタをテストしたのは、地獄の辛い生活の中で、仏心が少しでも生じているか、確かめたのでしょう。
 
沢山の菩薩や如来が人間を救おうと様々な形で出現してくれます。
四季折々様々に変化する度ごとに、人間は救われるチャンスがあるようです。
 
もうじき、覚園寺の地蔵盆、縁日で善男善女で賑わう事でしょう。
 
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鴫立つ沢には、蓮が咲いています(鵠沼蓮池)

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家内が言います。
「鵠沼に蓮池があるそうよ・・・・」
ならば出かけよう。
先ず、八幡宮の源平池の見事な白い蓮を見せなくては・・・・・。
次いで、急ぎ藤沢鵠沼に向います。
 
鵠沼の「鵠」とは白い鳥のこと、本来は白鳥でしょうが、白鷺やユリカゴメなら沢山居ます。
水鳥が多く群れている場所、そんな意味でしょうか?
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此処は境川と引地川が相模湾に流れ込みます。
その沖積平野でした。
蛇行する川が葦原に数多くの三日月湖を残したのでしょう。
その一つが、蓮池になって残されているようです。
 
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西行物語に出てきます。
1186年、西行は鎌倉に寄ろうと、「砥上原(とがみがはら)」にやってきます。
名前からは小石がゴロゴロしている原っぱと言ったイメージです。
其処で、歌を残します。
 柴迷(まど)う 葛の繁みに妻篭めて 砥上原に雄鹿鳴くなり
 
更にその日の夕刻
 
 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮
 
とあります。
「柴まどう」の歌は茅ヶ崎、「こころなき」の歌は大磯と各自治体は主張しているようです。
でも、歌に透徹する「寂寥感」は矢張り鵠沼以外に考えられないようです。
鴫は”磯鴫”ではなく”田鴫”でなくては、寂寥感は増しません。
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西行法師は鵠沼から片瀬で「見返りの松」の遺跡を残し、更に駒止め橋橋上で頼朝に呼び止められます。
頼朝から下賜された銀器を子供に与えた西行は、陸奥の平泉を目指します。
 
その後、奥州征伐に成功した幕府軍は義経の生首を腰越まで運びます。
和田義盛・梶原景時は頼朝の命で、首を確認します。
「義経に間違いない」確認し、首は海に流されます。
潮の乗った首は、磯から河口を登ってきます。
鵠沼の葦原に漂着します。
人々は義経の首を確認、藤沢白旗神社に祀ります。
 
鵠沼の風景は中世の時代を通して、寂寥に満ちていたようです。
 
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今では、鵠沼は垂涎の住宅地であります。
白砂青松、海も近く、閑静な土地です。
瀟洒な住宅も建っています。
かって7つもあった三日月池は次々に埋め立てられ、住宅に変ってしまいました。
地域住民が鵠沼の面影を残そう、努力した結果、僅か2つが残されました。
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                                 (散った蓮の花、それは散華と呼びます)
 
その一つが蓮池として、地域公園として残されました。
公園の北半分は鬱蒼とした樹木に覆われています。
緑陰にはベンチが置かれ、読書している人が居ます。
そう、此処は文学運動「白樺派」の旗揚げの場所でありました。
南半分が池で、その淵は木道が整備されています。
私達は、木道と樹下を歩いて公園を一周することが出来ます。
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幼い子供が池の淵で海老釣りに興じています。
水面には無数のミズスマシが漂っています。
蓮の葉陰にはアメリカザリガニの姿が見えます。
牛蛙がグェー・グェー、鳴いています。
「釣れないよ、無理だよ」 意地悪を言っているように聞こえます。
若いお母さんが、日焼け止めの重装備して、見守っています。
そう、今日から夏休みです。
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中世から近世まで、鵠沼は大きく変化しました。
でも、何時の時代も鵠沼は人々を惹き付ける処でした。
三日月池の南半分は木道が整備されています。
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   (池の周囲は新興住宅地で・・・・)
 
 
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    (蓮池はビオトープでして・・・・)
 
 
 
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霊前の蓮の花(三渓忌に寄せて)

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全国に蓮の花の名所は数多くありましょう。
そんな中でも、横浜本牧三渓園の蓮は心に響きます。
目の前の大池には蓮の花が群れ咲いています。
そして、蓮の花の向こう、高台には美しい三重塔が見え渡せます。
三重塔の堂内には薬師様が祀られて居た筈です。
薬師如来は浄瑠璃浄土にいて、私達を救ってくださいます。
私達は、蓮の花越しに、浄瑠璃浄土をイメージする事が出来ます。
 
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1939年8月16日、稀代の実業家「原三渓」は亡くなります。
葬儀は原三渓のご自宅、三渓園で執り行われました。
勿論日本中の実業家から文化人が参列した事でしょう。
富丘製糸場、横浜銀行、生糸商社の創業者として、また画家、小説家、歌人等のスポンサーとして、多才な活躍をしたひとでした。
各界からの参列者は、その成果を偲びました。
 
一般には、「盛大な葬儀、大きな祭壇には白い菊の花が飾られて・・・・」を想像します。
ところが、三渓記念館には葬儀の様子が展示されています。
「花は三渓の愛した蓮が飾られました」。
 
「三渓園をより多くの人に観てほしい・・・」と念じていた原三渓です。
沢山の弔問客が蓮の花が咲く三渓園を観て”美しい”感じてくれる、それが満足ででしょう・・・。
それが故人の供養になります、そお言いたげです。
 
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                              (蓮の花を愛でる人。残念ながら表情を潰しました)
 
三渓の死後、三渓園も変遷し、現在では横浜市の所有に変っています。
園内も手が入っています。
最大の変化は大池でしょう。
三渓の時代、池全体に蓮が生けられていました。
それが、現在では門を入って右側だけです。
蓮池の面積は当初の二十分の一程度に狭くなってしまいました。
また、赤い蓮だけが植えられています。
葬儀に生けられた蓮は白かったでしょうし、三渓さんが描かれた南画も白い蓮でした。
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                                                      (三渓園HPから)
 
「蓮は赤、睡蓮は白」 誰かが決めたのでしょう。
蓮池は赤い花だけです。
狭くなった池です。
赤白混じるより、赤一色のほうが綺麗だし・・・・観光客にうけるのは「赤」だ、思ったのでしょう。
 
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ところで、奈良の北、京都との境に木津川が流れています。
歌人会津八一は加茂村の浄瑠璃寺に向います。
先ず、奈良坂を越えます。
般若寺に近い路傍の石仏が雨に濡れていました。
お地蔵さんの頭から、顎に雨が流れて色が変っています。
   奈良坂の石の仏の頤に 小雨流るる春は来にけり  (原文は平仮名)
 
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                                (合歓の花、向こうに燈明寺三重塔)
 
 
奈良坂を越えると木津川の堰堤に出ます。
此処を北側に折れて上流に向います。
山峡は次第に険しくなります。
左岸の上、山上に五重塔が望めます。
海住山寺です。
聖武天皇の御世、遣唐使の無事な航海を祈って建てられたお寺でした。
 
五重塔を過ぎると、地名は加茂から笠置になります。
山峡は一層険しくなります。
この辺りで、木津川を渡って、右岸に出ます。
丘陵を登って行きます。
その山頂に浄瑠璃があるのです。
  浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る 春の山辺を一人行くなり  (原文は平仮名)
 
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                                         (夾竹桃も咲いて)
 
此処に廃寺があります。
名前は「燈明寺」
お寺の名残はもうありません。
ただ、寺の鎮守であった「御霊神社」(社殿は重要文化財)が残されています。
 
燈明寺も聖武天皇の勅願によって行基が開創したものと伝えられています。
室町時代天台の僧「忍禅」が復興、本堂と三重塔を建立します。
しかし、廃仏稀釈によって衰退、明治34年川合芳太郎の手を介して、原三渓の手に渡り、三渓園のランドマークとして移築されました。
次いで、昭和22年その本堂も三渓園に移築されます。(三重塔・本堂共に重要文化財)
 
 
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実業家原三渓は、横浜関内の職場から、車で本牧の自宅に戻ります。
自宅でも来客があって、会食予定も詰まって居たことでしょう。
そんな三渓さんを優しく三重塔は迎えて呉れたことでしょう。
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でも、三渓さんには多少の後ろめたさがあったと想像します。
あの美しい加茂の村から、三重塔を移築して良かったのだろうか・・・・?
「祈の建物」を移築して観光客の目に曝して、良かったのだろうか?
「時代の要請があったから」「保存の為止むを得なかった」・・・・・抗弁してみます。
 
夏目漱石、芥川龍之介、などなど高名な文学者が三渓園を訪問します。
しかし、早稲田大学の後輩会津八一は訪れません。
歌人であり、書道家であった八一は 三渓さんのコレクターの行為を無視することで、非難しているようです。
 
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 大倉集古館のコレクションの石塔(新羅時代)にゆいて、韓国人民から返却要請が出ているそうです。
コレクションの難しい問題です。
 
 
 
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みそ萩の花が咲いて、お盆になります

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旧盆は8月13日に始まります。ご先祖の霊をお迎えします。16日にはお送りしてお盆もお終いです。
この時期に合わせたように咲く花があります。
一つは菊芋の花、もう一つはみそ萩の花です。
私の生家はお寺でした。
お檀家は井戸水を汲んで、黄色い菊芋の花を手折って、お墓参りをされていました。
本堂には精霊棚が組まれて、蓮の葉っぱにご飯が盛られて、その上にミソ萩のの花が一枝置かれました。
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     (精霊棚、龍宝寺にて)
 
普段の仏事は本堂のご本尊を正面にして営まれます。
でも、お盆のお経(施餓鬼会)はご本尊にお尻を向けて、精霊棚に向って詠まれます。
小坊主の私は末席で、他のお坊さんの真似をしながら、それこそ習わぬお経を詠んでいます。
普段は坊主らしからぬ父もこの時だけは神妙です。
精霊棚の前に突き進んで、やおらみそ萩の花を水に浸して払います。
花の露が辺り一面に飛び散ります。
そして、宣言します。
今日盂蘭盆会のお経は精霊たちが仏の大悲・大慈によって浄土できるよう奉げたものである・・・・と回向します。
 
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            (鎌倉大町辻に近い上行寺のみそ萩の花。昔は何処のお寺にもこの花が咲いていました))
 
 
みそ萩の名前は「みそぎ」に使われる「萩」の花、という意味でしょう。
人間は亡くなると生前の罪行・功徳行を審判されると信じられてきました。
「死んだら火炎地獄に落されるかもしれない」地獄絵図を見ながら私達は恐れおののきます。
地獄絵図では、人間は火炎の中赤鬼、青鬼に追いかけられています。
捕まってしまえば、切り裂かれ、釜戸にくべられてしまいます。
喉を潤す水が欲しい、必死です。
でも、水も無ければ、三途の川の水も飲めません。
僅かに飲めるのは、みそ萩の花に溜まった露だけです。
 
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                          (鎌倉材木座の光明寺、本堂欄間に架けられた火炎地獄図)
 
金子みすずは「みそ萩」を詩にします。
 
    みそはぎ
 
 ながれの岸のみそはぎは、
 誰も知らない花でした。
 
 ながれの水ははるばると、
 とおくの海へゆきました。
 
 大きな、大きな、大海で、
 小さな、小さな、一しづく、
 誰も、知らないみそはぎを、
 いつもおもって居りました。
 
 それは、さみしいみそはぎの、
 花からこぼれた露でした。
 
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                             (みそ萩の花は岸辺に良く咲いています)
 
 
川の岸辺にひっそりと「みそ萩」が咲いています。
誰も、地味で寂しげな花に気付きません。
でも、小さな花には露が溜まります。
露が花からこぼれて、川に落ちました。
 
川は流れて海に注ぎます。
大きな海の中に入ってしまえば、みそ萩の露なんて、大変に小さな存在です。
 
みすずの人生は悲しい事ばかりでした。
みそ萩の露のように、涙を何度も流した事でしょう。
涙は海に注ぎます。
海に入れば、みすずの涙も、他の人の涙も、大勢の人間の涙も ごしゃ混ぜになってしまします。
大きな悲しみの海があります。
仏様の大悲の海です。
 
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                                            (池の淵に咲いたみそ萩の花)
 
 
純粋で熱心な浄土真宗の信者であった「みすず」でした。
盂蘭盆会の行事は生活に密着していた事でしょう。
人間は誰も地獄に陥りたいと思って生きているわけではありません。
偶々、人間として生を得た以上、命を、生活をつながなくてはなりません。
そのためには、本意でなくても悪い事をしなければならないことも在ります。
嘘をつかなければならないこともあります。
他の人を悲しませる事をしなければならない事もあります。
だから、涙を枯らす事も出来ません。
次から次に悪事を重ねます。
 
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こんな考えは親鸞上人の教えに通じます。
「かねこみすず」 の魅力はその眼が自分自身に向けずに、大勢の方に置いている事です。
一匹の鰯でなく、鰯の群れに、一滴の涙ではなく、涙で出来た「川」に向けられています。
 
それな、みそ萩の花と同じです。
みそ萩は一つ一つの花を見詰めると、五弁の可愛い花です。
でも、小さな花が揃うと、小さな株が群生になって咲くと、見事な花になります。
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          (みそ萩の花、クローズアップすると意外に可愛い)
 
盂蘭盆会、旧盆の行事、施餓鬼会・・・・・、呼び名は様々ですが、美しい日本の行事になっています。
日本人の心の琴線に響く行事です。
 
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秋葉原無差別殺人事件、最も恐いのは写メールする人々!

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毎年7月は法務省の呼びかけで「社会を明るくする運動」を実施、私の住む上倉田地区でも幾つかの活動をしています。
中でも「地域の集い」は行事の中核、今回で第60回を迎えました。
私が地区連合会長(上倉田10町内会自治会で組織)に就任した昨年は、「震災時、要援護者救助体制」を検討しました。寝たきり老人や孤独老人などを先ず助けるのは先ず隣近所、では、どうして一人残らず救助しようか?考えました。
そして今年は「低年齢化する薬物中毒問題」を取り上げました。
第一部は神奈川県で薬物問題を担当する本田氏に現況を報告いただきました。
第二部は本田氏に加えて、戸塚警察署生活安全課長伊藤氏、東戸塚小学校長鈴木先生、豊田中学生徒指導永井先生(古谷副校長も出席)、明治学院大学松下課長(学生の生活指導)によって座談会を致しました。
参加者は約50名でした。
 
本田氏には薬物問題を考える基礎的なデータをご報告戴きたい・・・・お願いしておきました。
世間常識的で無難な私の注文に対して、「基本的な認識」が報告され、先ず驚かされました。
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上記は秋葉原無差別殺害事件を報じた号外記事です。
この時点では3人死亡2人心肺停止、歩行者天国が一瞬のうちに地獄に化した、現場がリアルに報じられています。真ん中にいるのは瀕死の被害者、懸命に救助する医師。
本田氏は医師の言葉を報告しました。
「人だかりが出来て、血を噴出している被害者を写メールしている。止血の手伝いをするのでもない・・・・。ぶん殴ってやりたいと思った。衆人を・・・・。」
現在の社会は、そして現代人はそれ程に貧困な精神に陥ってしまったのです。
それが、子供達の薬物中毒の原因になっているし、また、子供以上に主婦層の薬物中毒の方が実は深刻なのです。
 
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                  (産経新聞HPから)
上記は昨年12月8日、逮捕された押尾学容疑者です。そして次は薬物中毒ショックに陥った死亡者の脳の出血写真です。(事件の被害者ではない)
現在東京地裁審議中です。
しかし、本田氏は放置致死は明確で、「命を粗末に扱った押尾容疑者は断じられるべき」・・・主張します。
 
果たして、もしも私があの時秋葉原で居合わせたら・・・・・救助だけに走っただろうか?
また、もしも自分が押尾被告のように、不倫相手と予期せぬ事態に陥ったら、隠蔽工作に走らず、人命救助に走っただろうか・・・・・?
一寸心配に思ったりします。
 
そんな精神の貧困さが、其処此処に事件を頻発させているのです。
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     (本田氏提供パワーポイントデータから)
 
私のこのブログでさえ、出会い系サイトのトラックバックが書き込まれます。
主婦世代に「犯罪に自ら飛び込もうとする」者が目立っています。
その精神の貧困が嘆かわしいのです。(それを支える男性も同に穴の狢ですが)
 
今、我国の薬物中毒は2.9%の浸透率だそうです。
という事は、上倉田では2万人×2.9%=580人、580人もの人が薬物に染まっている事になります。
私達は、町内で薬物患者は見たことがありません。
でも、お隣の藤沢善行では大麻草が発見され、裏の六浦では関東学院の生徒さんの大麻栽培事件もつい先日の事件のようです。
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              (藤沢善行で証拠没収される大麻草)
 
 
戸塚警察署の安全生活課長は個人的意見として述べられます。
薬物患者が事件を起こすとそこで明るみに出る。
大麻草を栽培していれば逮捕する。そうして事件として認知される。
事件こそ発生していないが、皮膚感覚で危険が昂じている、そお感じています。
 
明治学院大学の生活指導課長は言います。
関東学院大や慶応大学で事件が連続しています。
本学では事件になってこそいませんが、学生の指導を行っています。
麻薬についてのみならず、タバコ、酒など全般にわたって指導しています。
上倉田に下宿している生徒も多い事ですし、地域でも見守って欲しいのです。
 
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                                               (地域の集いの風景)
 
 
私が報告します。
今夏、痴漢事件が二件発生、何れも犯人は30代男性で、舞岡方面に逃げたそうです。
痴漢は現行犯で逮捕出来れば幸いですが、それも難しい。
戸塚駅西口が再開発され、明るくなると連続する上倉田の暗さが目立ち、事件も増える気配です。
先月の地域懇談会でも「防犯カメラ」の設置が検討されました。
今後協力をお願いします。
 
豊田中学の永井先生に伺いました。
中学では二十年も前、荒れた次代もありましたが、最近はクラブ活動や勉学に集中、良い状況です。この夏も地域で勝ち抜いて関東大会に出る水泳部など活躍が目立っています。
少し心配といえば、夜間(11時以降)徘徊の生徒が出たこと、最近の転校生ですが・・・・。
家庭にも問題があって、生徒だけを責める訳ではないのですが。
指導もしていますが、地域で見つけたら連絡してください・・・・。
 
警察が言を挟みます。
この四月から、夜間徘徊で補導した中学生は100名余り・・・・・。
 
最後に、本田氏が締めくくってくれました。
「生徒を守るのは先生、家庭、そして地域です。
勇気を持って、正義感を強くして、明るい地域(上倉田)にしましょう。
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                          (十三夜のお月様も煌々と照って、小田急分譲地の夏祭り)
 
本田氏が情熱を持って、ストレートに当問題を扱ってくれたので、本音で討議できました。
多少の満足感を持ちながら、小田急分譲地自治会主催の「小田急祭り」に出かけました。
この自治会も出来てから40年近くなります。
第一世代は引退して、高齢化率も30%に近づいています。
親子三代、盆踊りに興じて、模擬店を楽しんで、大賑わいです。
 
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                             (焼きイカの向こうで、盆踊り)
 
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「暑いので近寄らないで!」蝶の拒否姿勢

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7月27日は舞岡公園の評議委員会、鎌倉古道のスダジイの移植の状況確認もかねて、公園内を歩いてみました。
昼下がり、流石に昆虫採集の子供の姿も見えません。
堆肥を作っている落ち葉ボックスは掘り起してみればカブト虫の幼虫が育っている事でしょう。
棚田の横を登ると河童池(溜池)があります。
先日まで咲いていた合歓の木ももう散ってしまって、種子が作られています。
畔には一面みそ萩の紫の花が咲いています。
シオカラトンボが休んでいます。
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  (昼下がりの舞岡公園、子供の姿は無く、草履を編んでいるお爺さんだけがいました。鬼百合が咲いて・・・)
 
 
大きなミズキが日陰を作っています。
その緑陰に腰掛けて、スケッチをしているお年寄りの一団が居ます。
10人ほどのお婆ちゃんに、3人ほどのお爺ちゃんです。
「お上手ね・・・・!」
誉めあっている様子が微笑ましい感じです。
私の義父を思い起こします。
会社を引退後は、スケッチに、スケッチ旅行に余生をエンジョイしていました。
 
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(水木の緑陰でスケッチに夢中なおばあちゃん達)
 
 
そのお婆ちゃんの傍らの草叢に、モンシロチョウが舞っています。
此処はモンシロチョウのたまり場のようです。
流石の暑さ、モンシロチョウもお婆ちゃんと同じ、水木の日陰が誘われているのでしょう。
 
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(棚田の淵に咲いたみそ萩の花)
 
良く観ると、草叢に蝶が休んでいるようです。
それも、翅を下にして、尾を立てています。
尾の先端が生殖器です。
ですから、仰向けになって、大事な部分を天空に向けているのです。
奇妙な格好です。
 
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(草叢で仰向けに休んでいるモンシロチョウ)
 
夏型のモンシロチョウ雌雄判別は難しいのですが、メスは前翅の黒い部分が多く、前翅のつけ根が灰色をしています。でもモンシロチョウの目では、メスは白く、オスはグレーに見えるそうです。
モンシロチョウは紫外線を感知しているので、紫外線を当てれば雌雄が一目で判別できます。
 
モンシロチョウの世界では、灰色の野郎が純白な女性を探して飛び回っているのです。
この暑い盛りも、「女は居ないか、処女は居ないか」探し回ります。
 
一方メスは、一回の交尾で充分な数の子(卵)を産むだけの精液を受け入れています。
ですから、一回交尾を終えれば後は体を休めて、花蜜を吸って、産卵だけに集中します。
一方オスは何度でも交尾をするのが役割です。
メスを探し回り、白い女を見つけると、近寄ってきて、執拗にアタックします。
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 (下がメス、上がアタックしようとするオス。)
 
 
メスは「私はもう出来ちゃったの!」
「私のアソコはもう塞いじゃったの!」と生殖器をお立ってて居るのでしょう。
まるで、既婚の女性がお歯黒にしたように・・・・・。
でも、遊び好きな男性はお歯黒女性の方が好みだったりして・・・・。
人間はモンシロチョウより遥かに奇奇怪怪です。
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(此方のシオカラトンボもとまりながら、水辺にメスがやってくるのを待っています)
 
そんな事を考え観察していました。
私が草叢を熱心に見詰めていたので、「何かしら・・・・?」
お婆ちゃんがスケッチの手を休めて、覗きに来ました。
私は、説明しようか、どうしようか?迷いました。
 
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(此方は交尾中のタテハ蝶)
 
こんな話を、見ず知らずの人に話したら、どうなるのかな?
お婆ちゃんに喜ばれるのなら良いのだけれど、
もしも、・・・・「奇人が出現した。要注意!」警戒されたら困ります。
 
それに、この夏、倉田に出現した痴漢は、必ず舞岡公園方向に逃げているのです。
 
そこで、草叢に寝転がっているのは「メスのモンシロチョウだ」、識別までに留めました。
 
まあ、なんだか難しい世の中です。
 
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(カラスアゲハも交尾中で・・・)
 
 
 
 
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