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横浜花火大会(山下公園からの眺め)

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8月1日は横浜花火大会が催されました。
鎌倉の打ち上げ花火に味をしめて・・・、出かける事にしました。
インターネットで、見物スポットを調べます。
何処も「大黒埠頭」「山下埠頭」「像の鼻パーク」等を推奨しています。
打ち上げ場所は横浜・みなとみらい(MM21地区)臨港パークの沖合です。
臨港パークは椅子席が6000円、芝生席は2000円だそうです。
船に乗れば4000円・・・・・・、何れも当日では取れないでしょうし・・・・・、
横浜らしい所から眺めたい・・・・、と思って山下公園に出かけました。
 
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                             夕焼けが近い山下公園。薔薇の向こうが氷川丸です。
 
私が大学生になった頃、ヨーロッパに行こうとすると多くの人が横浜大桟橋から出かけました。
出国手続きが済んだら、船でウラジオストックにわたり、シベリア鉄道でロシアを横断します。
私は何度か友人を見送りました。
そのあと、見送った友達と山下公園を歩き、中華街で食事をしたものでした。
当時の山下公園には貨物の線路が残っていました。
山下埠頭の倉庫群と国鉄とを繋ぐ線路でした。
当時は公園と言っても芝生があるだけで、何もありませんでした。
ただ、横浜港に面していることだけが魅力でした。
 
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      夕焼け時のMM21街区。この日は大型客船が3隻も大桟橋(右側)に接岸していました。
 
大正12年(1923)関東大震災で横浜の町は壊滅してしまいます。
沢山の瓦礫を撤去することが、復興対策の第一ステップでした。
そこで、横浜市は瓦礫を使って大桟橋と山下埠頭の間、1㎞に渡って埋め立てをします。
そうして出来たのが山下公園でした。
 
山下公園は今も昔も横浜観光の拠点であり、市民の憩いのスポットです。
 
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                             右端が氷川丸、花火の打ち上げを待ちます。
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                              いよいよ花火が始まりました。
 
40年ぶりで入った山下公園です。
バラ園もあれば幾つものモニュメントが立っています。
随分綺麗になりました。
 
氷川丸が係留されています。
「氷川丸」は戦争を耐え抜いた日本郵船の主力貨客船でした。
終戦を迎えると、戦地から沢山の兵隊さんを故国に運びました。
辛うじて帰還した兵隊さんにとっても、出迎える家族にとっても氷川丸はかけがいの無い船でした。
 
引き上げ船としての役割を終えると日本郵船の国際線で活躍し、1960年に除籍されました。
山下公園に接岸され、見学やユースホステルに利用されます。
近年は暫く利用されていませんでしたが、
2008年船体の修繕、内装の改装を終え一般公開し始めたようです。
 
私は懐かしく、氷川丸を眺めます。
今日の花火大会、出来れば氷川丸の船上から見たいものです。
でも、夜になると見学者の受け入れは行っていません。
残念なことです。
臨港パークのいす席が6000円ですから、氷川丸ならもっと価値があるでしょう。
MM21の高層ビルを背景に花火が見える・・・・・、そんなロケーションですから。
 
屹度大きな船なので、花火見物客の安全対策が出来ないのでしょう。
 
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                              大型客船の上に打ち上げられた花火
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            大桟橋には大型客船が3隻も接岸していました。外国人観光客も見上げている事でしょう。
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夕暮れが訪れました。
夕焼けが見えたと思ったら・・・・、ビル群に灯がともり・・・・、7時15分打ち上げ花火が始まります。
公園に集まった見物客から拍手が湧き起ります。
この日は水曜日、会社帰りのOL,サラリーマンもいますが・・・・、大半が花火見物の服装です。
勿論浴衣姿も多く見られます。
缶ビール片手に、から揚げを食べている人も目立ちます。
私も手術が無かったら・・・・・、缶ビールと焼売餃子を楽しんでいたことでしょう。
 
一際派手に花火を連続して打ち上げます。
これが、終了の合図です。
8時半、綺麗だった花火は終了です。
山下公園の集まったお客さんは関内駅や中華街に向けて歩き出します。
 
見上げれば東の空に大きなお月様が出ていました。
”横浜の町も大人になった” 感じます。
 
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座間の高台に咲く”一面の向日葵”

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暑い日が続きます。
天気予報だと、来週になれば暑さも峠を越すとか・・・・、少し期待してしまいます。
でも、暑い時こそ「夏らしい景色」を見たい気もします。
向日葵(ひまわり)の花を見に、座間の栗原に出かけました。
 
インターネットで調べると、一面の向日葵は55万本、と案内されています。
55万本がどれ程かは・・・・、想像がつきません。
 
私が大学一年生の夏、始めて知り合った仲間と、八ヶ岳の麓にある野辺山のキャンプ場に出かけました。
買い出しには近くの清里に出かけました。
清泉寮でソフトクリームや焼きトウモロコシを楽しみました。
その途上に一面の向日葵畑がありました。
丘陵の向こうに八ヶ岳の山々が見渡せました。
同じ、丸顔が一斉に自分のほうを見て、笑ってくれている・・・・、
向日葵をバックに写真を撮りました。
その時の仲間も今は御爺さん、お婆ちゃんです。
あの時の写真はアルバムの中で黄ばんでしまった事でしょう。
 
最近は野辺山高原は余り人気が無いようです。
もう、あの向日葵畑は無くなってしまったかもしれません。
 
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             座間の向日葵畑、正面の山が大山。 野辺山高原の向日葵畑に似ています。
 
 
私は、北京の胡同に近い食堂でビールを飲んでいました。
隣のテーブルも、その隣も、中国人は向日葵の種をツマミにしています。
日本人は向日葵の種はハムスターかインコの餌だと思っていますから、…・奇妙に見えます。
観察すると前歯に挟んで、舌で奥歯に送って、”ガリッ”と噛み砕きます。
其処までは我慢できるのですが・・・、”ペッ”と皮を床に吐き出します。
”ガリッ” ”ペッ”、”ガリッ” ”ペッ”
床は向日葵の黒い皮が散乱して行きます。
 
屹度美味しんだろう…、思いますが、
私には”ガリッ” ”ペッ”と食べる術を知りません。
でも・・・・・、日本人は大豆の若い豆を「枝豆」と言って、ビールのツマミにしているいます。
中国人は私達を”可笑しい”、と思っているかもしれません。
食文化とはそんなものです。
 
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           座間栗原地区のの向日葵畑、8月中頃からは相模川堰堤地区が見頃になります。
 
 
良く、一面の向日葵畑、一面の菜の花畑の写真を見ます。
何処の景色かな?  調べてみれば中国です。
中国では向日葵も菜の花も”植物油”を搾り取り、一部を人間の食用にするのでしょう。
”向日葵はハムスターの餌だ”と言えば・・・、”もったいない”と笑われることでしょう。
 
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                                青い山並みがあると向日葵は一層綺麗です。
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本題から随分ずれてしまいました。
座間の向日葵は8月の中頃までは、栗原地区で咲いています。
8月中ごろからは相模川の川堤に沿った地区で咲きだします。
夏休み中咲くように…、育成時期をずらしているのです。
 
栗原地区は丘陵にあります。
高台ですから見晴らしも良いのです。
直ぐ近くに大山が眺められます。
野辺山(明野)の向日葵畑を思い出させてくれます。
 
座間といえば米軍キャンプで有名です。
向日葵畑の上空を米軍機が飛んでいます。
相模原に米軍基地があります・・・・、その滑走路の延長上に向日葵畑があるためでしょう。
爆音が轟きます。
皆が青空を見上げます。
爆音は私のような暢気者には「狂気」を呼び起こすようです。
私は突然にゴッホを思い起こしました。
 
座間も相模原も・・・・・、複雑な問題を抱えています。
 
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                                 向日葵の上空を飛ぶ米軍機
 
 
栗原の向日葵は今が花の盛り、見頃です。
みんな、東を向いています。
東に回れば、向日葵と向き合います。
西に向かえば、背中しか見えません。
もうじき・・・、種が膨らめば頭が重くなって、頭を垂らす事でしょう。
青い、葵のような大きな葉っぱも破れてしまうことでしょう。
 
真っ青な青空、白い夏雲を背景に・・・・・・、向日葵の花は鮮やかです。
座間市は大凧上げ、向日葵・・・・、空に係る名物が揃っています。
 
昭和40年代までは日産自動車の座間工場があって・・・・、
「ダットサン」ブランドの小型トラックを生産していました。
一時は元気が無く、工場のリストラもあったようですが…、
今は電気自動車の先進工場になって期待を担っているようです。
 
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                 ゴッホを思い起こすような向日葵畑。通路(迷路?)が畑の中に通っています。
 
『座間が向日葵の町にしよう…、決断したのは「ダットサン」に因んだのかも知れない・・・』
考え過ぎでしょうか?
私の父は同工場の工機部門の下請けをしていました。
毎日のように座間に通っていました。
「宝会(下請け工場の会)」の名は嘘のようで・・・・、
金型ばかり作っても、宝にはならない・・・・、
宝船ではなくて「貧乏船」に乗ったようだ・・・、
呟いていた・・・・おぼろげな記憶です。
 
40年も前に向日葵は咲いていたのでしょうか?
父に尋ねてみたいものです。
 
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    向日葵を見に来た大学生の一団。向日葵の前で記念撮影です。 
    女性がカメラを構えて、男性が被写体・・・・、現代の大学生の感覚は私の時代と逆転しているようです。
 
 
【補足】
向日葵畑は土埃が激しいので・・・、汚れても良い靴で出かける事をお奨めします。
 
 
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作仏聖は荒野を目指した・・・(円空・木喰比較論)

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私の学生時代、行事が終わると必ず肩を組んで合唱しました。
「若者たち」と題するフォークソングでした。
君の行く道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君は行くのか そんなにしてまで
 
   君の行く道は 希望へと続く
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める
 
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める
 
その頃の仲間が時々議論する話題があります。
「木喰は円空をどの程度意識したか!」と云うテーマです。
円空、木喰は江戸時代の遊行僧で作仏をしながら全国を廻行しました。
遊行先で求めに応じて鉈を振るって木を伐りだし、鑿をふるって仏像を刻みました。
生き様も支えた人(主として農民)も同じです。
でも、作られた仏像は随分違っています。
 
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                                円空の代表的な自刻像(関市円空館)
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                         木喰の代表的自刻像(日本民俗館)
 
165423歳の円空は故郷を出奔し伊吹山太平寺(修験道)に入山します。
そして、166535歳の時初めて廻国の旅に出ます。
行き先は北前船に乗って蝦夷の松前でした。
西海岸帆越岬の断崖に「太田権現の洞窟」があります。
此処で一心不乱に鉈を振るいます。
1676年菅江真澄は紀行記に,
「円空と云う法師が彫った鉈つくりの仏が沢山立っていた」と記しています。
 
177861歳の木喰は二度目の旅に出ました。行き先は蝦夷の松前でした。
弟子の木喰白道を従えています。
蝦夷地で木喰と白道は突然に造仏を始めます。
高名な民族学者五来重氏は
「木喰が突然に造仏したのは太田権現の円空仏に触発されたから」断言されています。
 
二人が刻んだのは「子安観音像・子安地蔵像」でした。
多分、道南一帯は疱瘡が大流行し、夥しい子供達が病魔に命を落としたのでしょう。
その冥福を祈って、子安像を刻んだのでした。
 
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   木喰の処女作(?)と言われた子安地蔵像。(江差金剛寺)
   松前には近年赤外線調査により白道の作と判明した仏像が多い。(五来重著「微笑仏」から転載) 
 
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    これも初期木喰の地蔵像。一般に「白粉地蔵」と呼ばれます。
    佐渡両津に「金沢楼」という遊郭がありました。遊女が白粉を塗って願をかけたと言われます。
 
 
二人が触発されたのは「円空仏」だけでは無かった事でしょう。
厳しい蝦夷地の自然、それに比べて人の命の儚さを疱瘡に教えられました。
 
木喰は遊行僧になっても「大山不動尊(相模国)」のお札を配って旅をしていました。
お札は、木版を擦って、朱印を押して、梵字等を書き足して・・・・、
作ったお札を配って回る自分に疑問を抱いて居た・・・、と思われます。
そんな時に蝦夷地に行きました。
私は「蝦夷」「疱瘡」「円空」三者が木喰をして鑿を持たせた、考えます。
 
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            此方が初期円空の仏像。(函館/称名寺)
 
 
蝦夷地での木喰は61歳、弟子の白道は20歳そこそこでした。
造仏は白道のほうが盛んでした。
従来、木喰の処女作仏像(門昌庵、子安像等)と思われていたものが、
赤外線を使った調査の結果「白道作」と判明してきています。
多感な青年遊行僧の白道が先ず鑿をふるって、子安像を刻み、子供冥福を祈ったのでしょう・・・。
木喰は驚いて、白道の鑿の先を見詰めていたと推測されます。
 
 
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          百道の作風は師木喰に似ています。木喰に比べると控え目な作風でした。
 
 
円空の仏像は天才の鑿の冴えがあります。
それは木地師の持つ技でした。
白道も木喰も円空に触発されても、真似る事は適いません。
勿論、二人は修験者です。真似る気持ちも無かった事でしょう。
素人の二人が、宗教的衝動を受けて仏像を彫ろうとしました。
コツコツと鑿を振るって・・・・、石工のように仏像を彫るより技はありませんでした。
 
木喰の初期仏像は着ぶくれて鈍重で、衣文線や輪郭が渋滞しています。
手や顔が体に比べて大きく、左右相称が崩れています。
野暮ったい、泥臭い印象を与えます。
要するに素人仏師の作品になりました。
 
加えて出来た仏像はどれも「暗い」もでした。
疱瘡の大流行、暗い世相の中で刻んだ仏像でしたから・・・・・・、暗くなってしまったのでしょう。
しかし、暗い仏像では拝む人々は救われません。
屹度、蝦夷地での仏像は人々の心を捉えなかったと思います。
と言っても、木喰は自らを偽って「救われる想いのする…、美しい仏像、荘厳な仏像」は刻みませんでした。
 
後年木喰は仏像の表情に「微笑」を湛えます。
五来重氏が「微笑仏」と絶賛した、「救われる思いのする…、微笑」です。
木喰自身の心に「微笑」が生じて・・・・、その自分自身の宗教的境地を刻んだのでしょう。
 
蝦夷地に始まり、佐渡、栃木等で初期木喰像が刻まれます。
どれもこれも木喰の真面目で実直で、努力を惜しまない姿勢が明らかです。
そんな姿勢の行き先に「達人」としての境地があったのでしょう。
 
問題は真面目で鈍重な木喰が、何時から、どんな精神的遍歴を経て、達人の境地に到達したか?
そして、あの独特な「微笑仏」を刻みだしたか? と云う事です。
 
 
その説明は何れかの機会にすることにしましょう。
 
「若者たち」も「青年は荒野を目指す(作詞五木寛之」も同じような若者の前に進む姿を表してヒットしました。
果てしなく遠い道のりを歯を食いしばって進むのは、何も青年だけの生き様ではありません。
江戸時代の遊行僧だった円空も木喰も
「蝦夷地は荒野の向こうにあるチャレンジ」だったのでしょう。
 
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   円空が初めて廻国の旅に出た…、行き先は何と蝦夷松前の太田権現の洞窟でした。
   この洞窟に十数体の円空仏が祀られていたと思われます。
   五来重氏は「木喰はこの洞窟で触発され作仏聖になった」と主張されています。
 
【補足】当原稿は文中の五来重氏の著書のほか、木喰の諸仏を各地で見学し、展覧会で    鑑賞し、その目録等を参考に書いています。
 
 
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唱詞 「洗い給え、清め給え」

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8月4日(8月第1週の土曜日)は根之八幡社の例大祭です。
明治の末、鎌倉郡豊田村(上倉田町から長尾台町に跨る農村、東海道線に沿った戸塚駅から大船駅までの間)の戸数は300戸でした。そして、上倉田町の戸数は50戸と記録されています。
私の住む町内に「根之八幡社」はありますから、まさに宮本ということになります。
 
豊田村が四文五裂氏し、上倉田町も東西南北に分かれました。
新しい町内は皆子供神輿を用意し、例大祭を盛り立ててきました。
所が、宮本の我が町内はお神輿を持ちませんでした。
理由は、担ぎ手の子供が少ないから・・・・、御旅所を用意しても担ぐ距離が無いから・・・・、
理由は色々あっても、要は面倒くさい……、が本音でした。
 
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                              私の町内では昨年から子供神輿を担ぐようになりました。
 
昨年子供神輿を買いました。
子供用の半纏50着、大人用の半纏25着も準備しました。
そして、町内を練り歩きました。
御旅所はお神輿を一時置く場所ですが・・・、
お祭りの日の「懇親会場」になりました。
今年はご祝儀があっても、精々25人だろう・・・・・、タカを括っていましたが・・・・、
沢山人が集まって・・・・・・・、買い足しに走る状態でした。
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                                               御旅所の前を通過する子供神輿
 
午後1時、子供神輿は町内を練り歩きます。
普段は姿の見えない子供達ですが、30人余り集まってくれました。
学区域の東戸塚小学校からは、校長先生副校長先生、1年生のクラス担任が”「子供の顔」を見たい・・・”、
来て下さいました。
 
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         10時の御霊入れ神事では、炎天下で脱水症状の子も現れました。 
         休憩を取って、十分にジュースを飲まなくちゃ・・・!
 
 
午後2時、例大祭が始まりました。
私は役目がら社殿の奥に入っていました。
祝詞が奏上されているとき・・・、目の前に大きなカラス揚羽蝶がヒラヒラ飛んできたかと思うと、
壁にピッタと止まり、羽を休めてしまいました。
一向に動こうとしません。
その直後、強い、強い雨が降り出しました。
蝶には雨を予知する能力があるのでしょう。
 
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突然の豪雨で・・・・したが・・・・、反って楽しかった?
 
インターネットでは”横浜は3時から雨”と予測されていました。
「3時に神輿の帰還祭」と決めていましたので・・・、雨に降られなくても良さそうだ・・・、
思っていたのでした。
でも、横浜の西果ての上倉田は2時45分に豪雨になったのです。
 
新しいお神輿にはビニールシートを被せました。
でも、子供達に雨具の用意はありません。
バケツをひっくり返したような雨で…、見る見る全身がずぶ濡れです。
でも、肝心の子供たちはずぶ濡れが嬉しそうです。
先生も「プール上がりのようだね・・・」暢気です。
お母さんのほうが気遣っています。
 
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      お母さんガ雨具を用意しても、子供達は濡れることが嬉しそうで・・・・。
 
「神様は賑やかなのがお好き」「神様ははしゃぐ事がお好き」です。
新しいお神輿の上で揺すられて、すこぶるご機嫌だったのでしょう。
景気づけにバケツの雨を降らせて…、子供達をずぶ濡れにして、大喜びしているのでしょう。
子供達は神社で用意したお駄賃の「学習ノート」とジュースを貰うまでは帰りません。
 
私は祝詞や唱詞(となえことば) を思い出しました。
  「祓い給え、清め給え、守り給え、幸え給え」
唱詞は改めて、
 「洗い給え、清め給え」の方が適切ではないのかな・・・・?
 
芋の子を洗うように、子供達は神様の悪戯心で洗われてしまいました。
お蔭で・・・・・、涼しくなるは、土埃は立たなくなるわ…、良い事ばかりでした。
 
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楽しみな「圓朝祭り)

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私は江戸文化が好きでありながら、判らないことがあります。
落語家、講談師の違いは解りますが、噺家となると・・・、どう違うのでしょうか?
落語家も講談師も含めて、お喋り、お話を職業とした人が噺家なのでしょうか?
 
8月11日は初代「三遊亭圓朝」の命日で、法要(圓朝忌)が行われてきました。
圓朝さん(本名/出淵次郎吉)は1839年(天保10年)に生まれて、明治にかけて活躍した、
別格の旨さを評された落語家でした。
でも、お笑い(滑稽話)よりも、人情噺や怪談噺が得意でしたから・・・・・・、
落語家と言われていますが、講談師に近かったのではないでしょうか?
特に「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」など怪談噺(何れも新作)を得意にしました。
ですから・・・・・、落語家というより噺家と云うのが適当なような気がします。
 
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         圓朝さんが眠る下谷の全生庵。正面本堂の1階が座禅場で此処で落語会が催されます。
 
噺家の新作ですから・・・・・・、当然のように「口語体(現文一致体)」で書かれました。
圓朝さんの新作噺が二葉亭四迷に影響を与え、「浮雲」を口語体で発表させましたし、
我が国近代文学に多大な影響を与えた人でした。
 
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  初代三遊亭圓朝さんの墓。法要は8月11日に行われるのでしょう。昨年の卒塔婆が立っていました。
  施主は日本落語協会とその関係者でありました。
  戒名は「三遊亭圓朝無舌居士」と刻まれていました。
  「無舌」とは噺家としては二人と無い・・、といった意味で  しょう。
 
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      線香たて(蓮の台の形をしています)、水差し(四方仏が刻まれています)
      共に、趣味の良さを伺わせていました。
 
江戸時代には様々な話芸があったものの…、現在は落語の一人勝ちです。
講談などの話芸が今も盛んなら・・・・、圓朝さんを落語家とは呼ばなかった事でしょう。
 
 
平成14年(2002)、(社)落語協会は落語協会は圓朝忌を企画替えして「圓朝祭り」にしました。
実施日も8月の第一日曜日(今年は8月5日)に変更しました。
(社)落語協会のファン感謝祭であり、江戸の下町「下谷」の町興しイベントです。
 
私と家内は朝8時半に圓朝さんのお墓まりを終え、圓朝祭りに出かけました。
会場は圓朝さんのお墓から見下ろせる、「下谷防災広場・ 初音の森」に用意されていました。
 
開場の1時間前なのに…、すでに200m程の長蛇の列です。
お客さんのお目当ては「福扇」なのです。
「福を招く扇子」を先着順に販売します。
福扇には福引きも付いていて、当りが期待できるのです。
 
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     手前は演芸台、向こうは福扇を求めようと並んだ人たち。正面の森の下に圓朝さんのお墓があります。
     森の向こうに屋根が全生庵の本堂です。
 
「落語協会」は総力を上げているようで、前座ばかりでは無く、TVで見知った顔も揃っているようです。
「凄いですね!こんなに芸達者を集めたら・・・、何処の落語会場も…、閉店ではありませんか?」
訊けば、
「此処に集まっているのはくだらない芸人ばかりですから…支障はありませんよ」
「本当かな?」
圓朝さんの菩提寺「全生庵」では11時、13時に坐禅道場で落語を演じる予定です。
この日ばかりは落語を聞きたい人は池の端から下谷まで足を延ばすのでしょう。
 
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       20近いテントで様々なグッズの販売や焼き鳥等の模擬店がありました。
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                                        似顔絵のサービスもあります。
 
落語家さんは口達者であり、芸達者です。
似顔絵もあれば団扇やストラップなど様々なグッズを販売しています。
落語ファンからすれば、直に交流できる楽しい一日なのでしょう。
女性の落語家も随分多くいます。
女性は落語が好きですから・・・・、女性の落語家が増えてきたのは自然なことなのでしょう。
 
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                                圓朝さんの十八番「四谷怪談」をもじった「四葉」のストラップ
 
 
圓朝忌から「圓朝祭り」に架け替えする時には色々意見もあったでしょうが・・・、
圓朝さんは後進がファンと一緒に交流するお祭りが自分の名前で、自分のお墓の下で催される事に満足している事でしょう。
 
掻き氷をを戴きました。
見上げると掻き氷と同じような、百日紅の花が咲いていました。
 
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                     圓朝祭り会場には百日紅が咲いていました。氷イチゴのようです。
 
 
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庭先に甲虫が大量発生した事情

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8月4日(土曜日)2時半から30分ほど、強い雨が降りました。
神輿を担いでいた子供達も、面倒を見ていたお父さんお母さんもずぶ濡れになってしまいました。
雨が止んだら・・・、涼しくなりましたが、むっとするような湿度でした。
 
8月5日、今年初めての夕顔が咲きました。
今年は夕顔を植木鉢、西側の垣根、そして玄関脇の3箇所で育てました。
夕顔と朝顔の混稙です。
朝も夕べも、一日中花が愛でれる…、欲張った園芸です。
 
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           我が家で咲いた夕顔の花。朝顔は右巻きで夕顔は左巻き…、自然は不思議に満ちています。
 
写真を撮り終えて、頭をあげると昆虫の気配がします。
大きな姫リンゴのあたりです。
私が家を建てた記念樹として、玄関脇に植えました。
花も、実も長い間楽しませてくれたのでしたが、」
この夏、姫リンゴは枯れてしまいました。
毎年沢山の昆虫が集まっていました。
カミキリムシによって樹の髄を食べられてしまったからです。
 
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                            カミキリムシに髄を食われて枯れてしまった姫リンゴ。
 
姫リンゴの近くに、サンゴ樹を二本植えました。
その枝先に蠢く昆虫がいます。
甲虫(カブトムシ)です。
目が夕闇に慣れてくると・・・・、あっちの幹にも、こっちの枝分かれにも・・・・、
居るは居るは・・・、15匹、いやもっといます。
サンゴ樹に付けられた傷から樹液が流れています。
それを吸おうと大量の甲虫が集まっているのです。
 
此処には昨年も甲虫が見られました。
夜には門灯に飛んでくる昆虫の中に甲虫も見られました。
でも、こんなに大量発生した場面を見たのは初めてです。
私は家内を呼んで、見せます。
家内も驚いています。
 
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       サンゴ樹の枝で愛を交歓する(?)甲虫の雌雄。左手に新しい恋敵が出現しました。
       サンゴ樹の樹上は恋のバトルは一晩中繰り広げられます。
 
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                                    甲虫の前にクワガタが2匹出現しました。
 
実は甲虫大量発生の原因を作ったのが家内なのです。
毎朝、庭や道路を掃いて掃除します。
落ち葉をサンゴ樹の根元に積み上げて…、堆肥にしています。
堆肥は園芸で欠かせません。
堆肥作りに、落ち葉だけではなく米糠も加え始めました。
この春も朝顔、夕顔の鉢植えに堆肥を使いました。
落ち葉は朽ちて、もう土に変わってきています。
この、腐葉土作りに…、甲虫の幼虫(おおきな芋虫)が活躍しているのです。
ですから、堆肥の中には沢山の白い芋虫が見つかりました。
 
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    サンゴ樹の根元にも大量の甲虫が集まっていました。大地に近いところには雌が多く、高いところに雄が     多いのでした。蛍も蝉も雄は高いところに上りたがります。 人間も同じかな?
    右側の伐採木の下に堆肥が出来ています。
 
久々の大雨が降って、湿度が高い夜でした。
サンゴ樹も大量の樹液を出していました。
こんな夜でしたから・・・、甲虫の大量発生があったのでしょう。
 
 
「雨後の筍」と言います。
雨が降ると、筍が沢山芽を出す…、諺です。
「雨後の椎茸」とは余り言われませんが・・・、雨が降ると椎茸が芽を出すのも事実です。
「雨後の甲虫」とは全く聞きませんが・・・、甲虫の大量発生を確認すると…、間違いないでしょう。
 
少し考えてみれば・・・、夏が暑いのは自然なこと・・・、
でも、雨が無ければお米も野菜も育ちません。
夏には、強い日差しと、適量の雨が生物にとっては欠かせないのでしょう。
 
当面、家内の堆肥作りは進行する事でしょう。
来年はもっと沢山の甲虫が現れる事でしょう。
 
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   子供会にプレゼント用の甲虫。目線の高さで採取したら…、雄ばかりになってしまいました。
   でも、人気は兜のついた雄ですから…、子孫を増やすためにも…、雄ばかりを採取するのが妥当かな?
   
私は甲虫採取して虫かごに入れて・・・・、子供会にプレゼントすることにしました。
子供達には、
「会長の庭には甲虫が居るぞ!」
人気になる事でしょう。
堆肥を掘り起こせば、卵こそ探すのは難しいものの、幼虫、蛹も確認できます。
私は子供達に説明します。
「甲虫とは成虫のこと、卵から幼虫(芋虫)になって、さらに蛹に変わる。そして最後が甲虫の成虫だ。
土の中に居るのが1年間、地上にいるのが約1ヶ月だ。
これを完全変態と呼ぶんだ。蛹の変化が無いのが…不完全変態。」
 
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              此方は多分大クワガタだと思います。私の気配を感じて割れ目に隠れてしまいました。
 
 
子供達は甲虫が何度も変身することに驚くことでしょう。
私のことを会長と呼ばずに、「完全変態おじさん」なんて呼ぶかもしれません。
家内も相槌を打つことでしょう。
 
私は説明する積りです。
『甲虫が大好きな環境は落ち葉が腐って土に帰る環境です。
君達は絵本やミュージカルの ”葉っぱのフレディ いのちの旅”を知っているだろう。
葉っぱのフレディーが甲虫を育てるんだよ・・・・・。』
 
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                                         楓の木の高みに登ろうとする甲虫。
 
 
今日から立秋、直に庭先からは虫の音がしげく聞こえる事でしょう。
昔、祖母から貰った鈴虫を、庭に放ったところ、
数年は茂みで啼いていたのですが…、最近は聞こえません。
鈴虫もほしいな…、欲は止まりません。
 
 
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禅寺の「幽霊掛け軸」(三遊亭圓朝コレクション)

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今日の話題は谷中「全生庵」の圓朝幽霊画コレクションです。
圓朝さんも全生庵も「圓朝祭り」で書きましたので、そちらをご覧ください。
 
平安時代末期、京都の町には怨霊(妖怪)が再三が出現します。
政争に敗れた上皇や貴族、時には豪族が怨霊になって恨みを晴らそうとするものでした。
怨霊と言えば力のある男だけでした。
幕末明治維新も、殺戮が日常茶飯で、混乱した世相が覆っていました。
この時代にも死に切れなかった霊が怨霊に化けて出現します。
大半が愛情を裏切られた女性の恨みが、幽霊になって仕返しに出現したものでした。
 
日本の絵画の伝統は、山水画、花鳥画、そして頂相等の人物画であります。
ところが、1825年鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が歌舞伎興行されると、幽霊画といったジャンルが出現します。
歌舞伎の舞台に、興行のポスターに「おどろおどろしい幽霊の図画」が描かれたのでした。
以来、歌舞伎に、落語(噺家)に、浮世絵に幽霊は多く表現されてきました。
 
歌舞伎界では尾上菊五郎(5代目)が幽霊の絵画をコレクションします。
また、落語界では三遊亭圓朝(初代、1835~1900年)が幽霊の掛け軸をコレクションしていました。
 
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   圓朝コレクションの代表作、丸山応挙の幽霊図。応挙の代表作「江口君図」に似ていることから応挙作と言
   われています。真偽は解りませんがふくよかなお顔の輪郭、気品の良さがうかがえます。足が描かれてい
   ない事、俯き加減で涼やかな眼差しに「恨めしや・・・」が感じられます。
 
 
圓朝さんは「人情話」が得意でした。
人情が人一倍強い人は・・・・・、自分の情愛を裏切られると幽霊になってしまいます。
人情話と怪談話は紙の裏表でしょう。
圓朝さんは、「真景累ケ淵」「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」「文七元結(もっとい)」等の怪談を創作します。
創作落語は高座で演じられましたが・・・、夏には柳橋の料亭でも話されました。
”圓朝の怪談噺を聞く会”とでも名付けていたでしょうか?
お座敷には電燈を暗めにして・・・・・・、
床の間には幽霊の軸が掛けられています。
東京の旦那方が固唾を飲みながら圓朝さんの名人芸に聞き耳を立てた事でしょう。
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      江戸時代以降の幽霊は殆ど女性でした。下半身が血まみれの若い女性の後ろ姿からは赤子の両足と
      左の乳房が見えています。お産で死んだ女性が「産女(うぶめ)」と呼ばれる幽霊に転じた…、そんな図 
      でしょう。未練を残して死んでいった若い母親の悲しみが伝わってきます。
      (尾上菊五郎のコレクション、慶応大学所蔵)
 
 
幕末維新は人間の凶暴性を垣間見せました。
何時も冷静な人が突然に狂気に走る…、そんな現場を多く見ていたことでしょう。
人間の正気と狂気が人格の裏表である…、そんな自覚が生じてきていました。
そんな世相が怪談噺を聞きたい…、欲求を高めていたことでしょう。
 
奇々怪々の幕末を代表する浮世絵師が「歌川国芳」であり、その弟子の「月岡芳年」でした。
更に明治になると川鍋暁斎等が出現します。
尾上菊五郎も圓朝さんも芳年や暁斎と親交がありました。
画家たちは圓朝さんの芸に聞き入り・・・、幽霊画を描いて寄贈したのかもしれません。
昔から「百鬼夜行図」や「化け物草子」が描かれてきました。
そんな例に倣って怪談話には「百物語」が一つのスタイルになっていました。
怪談会に集まった人が一人一人「怖い話」をして聞かせるのです。
99番目で怪談会は終了してしまいます。
100番目を話してしまうと本物の怪が現れてしまうのです。
 
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    国芳作「相馬の古内裏」。山東京伝の「善知安方忠義伝」の場面。ワイド画面の左に平将門の遺児「滝夜
    叉姫」が妖術で巨大な骸骨を呼び出し、勇士大宅太郎光国を襲う場面です。
    (全生庵コレクションではありません)
 
 
圓朝さんは全生庵(谷中・三崎坂にある臨済宗寺院)に幽霊掛け軸のコレクションを寄贈します。
すると、「圓朝の怪談噺を聞く会」のメンバーが全生庵に自分のコレクションを寄贈するようになりました。
その大スポンサーが築地野菜市場を仕切っていた藤浦周吉、富太郎親子でした。
藤浦家から全生庵に寄贈された軸は40幅に及ぶとされています。
藤浦家では圓朝さんのスポンサーとして同氏の日記や原稿を多数預かっていたそうです。
幽霊の軸は圓朝さんの墓所である全生庵に寄贈しました。
その直後に関東大震災、圓朝さんの原稿などは焼失してしまいました。
でも、掛け軸は難を逃れました。(この段は安村敏信氏の調査による)
 
全生庵では8月中に本堂脇の控室で軸の虫干しをかねて展示しています。(寸志500円)
50余りの軸があるそうですが、部屋の広さの都合上一年毎に掛けかえるのだそうです。
だから…、二年続けて拝観すれば全部観られます。
本堂1階の座禅場では落語会が催されていました。(8月5日、圓朝まつり)
私達が掛け軸を見つめていると、お寺の若奥様が親切に説明してくださいました。
 
「幽霊の軸は怖い事ありませんよ、(幽霊は十分に祀っていますから)観る人を守護して下さいますよ」
仰られます。
冷房の効いた室内の奥に仏壇が祀られてありました。
 
菅原道真、平将門、後鳥羽上皇・・・・、怨霊が祟りました。
でも、人々が霊を手厚く祀って慰撫すると・・・・、守護霊に転じます。
幽霊も怨霊と同じように、怖い存在から守ってくれる神様にチェンジするのです。
 
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        歌川国歳「こはだ小平次」図。山東京伝の「復讐奇談安積沼」を歌舞伎にした「こはだ小平次」の 
        図。小平次は幽霊役が得意の歌舞伎役者であった。お塚という女房が居たのだが、女房は鼓打ち
        の安達左九郎という男と密通していた福島の安積に旅興行に出た。
        小平次は安積沼に突き落とされ落命してしまいます。
        小平次は幽霊になって江戸にもどって・・・・、蚊帳の中を覘いています。
        蚊帳の中、布団にはお塚と佐九郎が睦んでいるのでしょう。
        夏になると蚊帳の中で寝ました。見上げると青い海の底に居るようでした。
        天井には節目があって…、幽霊が見下ろしているような気味悪さがありました。
 
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   伊藤晴雨作「怪談乳房榎図」。伊藤晴雨が圓朝さんの同名の新作怪談を取材して描いたもの。
   滝壺の中から子供を抱いて現れた幽霊は「菱川重信」。重信は美人女房「おせき」が居たのだが、浪人磯貝
   浪江に懸想されてしまう。重信は磯貝に殺されてしまう。重信の子「真与太郎」は松月院にお預けられてし 
   まう。松月院には榎の大樹があって、その瘤は乳房のように垂れていました。ですから「乳房榎」と呼ばれ、
   お乳の守り神として信じられていました。
   磯貝と暮らし始めた「おせき」でしたが、乳房に腫物が出来て…、自殺してしまいます。
 
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    明治の狂画家「川鍋暁斎」の幽霊図。暁斎はコンドル(明治の建築家)が弟子入りした事でも有名な超絶技
    巧の絵師。霧の中に消え入りそうな幽霊は「怨念」よりも「諦念」が感じられます。
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   月岡芳年作「宿場女郎図」。 藤沢の妓楼で病み衰えた宿場女郎をスケッチしたもの。
   病魔に犯されて衰弱しきった姿は既に幽霊を思わせます。藤沢の遊郭跡は駅と遊行寺の間にあり、未だ昔
   日の面影が残っています。
 
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   歌川広重(三代目)作、「瞽女(ごぜ)の幽霊」。瞽女とは「瞽女」とは三味線を弾いたり唄を歌ったりする、
盲目の旅芸人のようなものである。彼女は左目を大きく見開いて、川を下ろうとしているようであります。
   この絵を見ると泉鏡花の「高野聖」を思い出します。
   高野聖が飛騨の山奥で薬売りと会います。分かれ道で薬売りは「近道」を選びます。高野聖は冠水した本
   道を進みます。本道は距離があっても安全だと聞かされていたのでした。
   薬売りは近道を選んだものの、蛇や蛭に悩まされます。
   すると絶世の美人が現れます。薬売りは美女に誘われてゆきます。
   一方、本道を選んだ高野聖も美女に誘われます。
   高野聖の足は蛭に座れてあざだらけになっています。
   美女はあざを水で洗って、高野聖のあし面倒を見てくれます。
   いつの間にか美女は全裸になっています。
   怖くなった高野聖はお経を唱え、山を逃げるように下ります。
   里で教えられます。
   女は魔性で実は素顔は醜く化けているのでした。
  そして、自分の色香に迷った男たちを動物の姿に変えてしまうのでした。
  山中に巣食っていた蛭も蝙蝠も蛇も・・・・、すべて色香に嵌った男達であると言うのでした。
 
【追記】
圓朝さんの幽霊画は撮影禁止です。当写真はそのアルバムを複写しました。
 

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谷中・根津で「路地裏の教会巡り」

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三崎坂の全生庵で幽霊の掛け軸を拝観し、私達は坂を下りました。
坂の上は谷中から上野の森が広がります。
そして、坂の向かいの丘陵には東大のキャンバスが見渡せます。
その谷合に不忍通りが走っています。
だからこの界隈を谷中というのかもしれません。
 
谷中には、狭い路地が張り巡らされまるで迷路のようです。
私のサラリーマン時代、上司だった竹内宏氏は「路地裏の経済学」を発表し、人気の経済学者でいられました。
同氏の母校東大は弥生坂の上です。
「路地裏」のネーミングはこの辺り、谷中から根津・池の端辺りを思い浮かべられたのでしょう。
 
伊勢辰(千代紙屋)の隣は「乱歩(喫茶店)」で、そのお隣は銭湯です。
筋向いがお寿司屋に煎餅屋さんです。
路地裏の細道はやたらに曲がりくねっています。
「蛇道」と案内されています。
蛇が生息していたから、蛇のように曲がりくねった道だから・・・・、でしょう。
人懐っこい竹内さんはこの路地裏で江戸人情を味わったことでしょう。
『日本の社会経済はごっちゃ混ぜであるように見えても、それぞれが柔構造で連関している・・・・。
それが日本社会経済の特長で強みである…、説明されました。』
接着剤の役割を果たしたのが・・・・、隣近所の人情だったのでした。
 
 
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     三崎坂「伊勢辰」の辻。左手に喫茶店の「乱歩」がある。もう一本右側の路地が「蛇道」です。
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                               根津駅近くの(はん亭/串揚げ屋)
 
 
私達の次の目的地は、根津神社の近くにある「教会」巡りです。
明治時代大挙してやってきた宣教師は、文教地区に進出しました。
文教地区には進歩的な人が住んでいた事、そして何よりも学生が多かったからでしょう。
オーム真理教など新勢力が大学を布教のターゲットにしたのは、維新の宣教師を真似たのでしょう。
そこで、東大に近いこの辺りに教会を多く建てたのでした。
 
夏目漱石旧宅前を過ぎて、真っ直ぐ南に進むと権現坂(根津権現)との三叉路にぶつかります。
ここに「聖テモテ教会」があります。
聖テモテ教会は1903年(明治36)米人宣教師ウェルボーンによって設立されました。
モルタル平屋建ての簡素な建物は隣近所の民家より低そうです。
でも、一点豪華に尖塔が建っています。
尖塔の屋根は鱗のようなスレートが張られています。
真っ直ぐな尖塔は「神を崇める心」を示しているのでしょう。
そして、簡素な建物は・・・・・・・、宣教師たちの生き様を示しているのでしょう。
少しでも倹約して、出来た浄財は社会活動や布教活動に使ったのでしょう。
教会の庭先には「葡萄の家」があります。
難病苦病を治癒するため上京した子供やその家族の滞在施設だそうです。
 
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                            聖テモテ教会。右側が権現坂で根津権現に出られます。
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                                                聖テモテ教会の尖塔。
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                                  ステンドグラス。教会の中から見上げてみたい・・・・。
 
 
権現坂を下って、根津権現の前を南に折れると、もう一つ夢のように素敵な教会があります。
「根津教会」です。
教会建物を特徴づけているのは第一に真っ直ぐ青空に伸びた尖塔です。
そして、第二に板張りの外壁です。(下見板張りと言いコロニアル建築の特長です)
 
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        根津教会の全容。お隣の二階建てアパート(長屋風)とのマッチングが良いのです。
        薄いブルーのペンキが塗られた外壁が「下見張」で、近代建築の特長の一つでした。
 
 
薄く板を製材する技術は、イギリスで開発され、開拓時代のアメリカで急速に広がりました。
木の柱の上から長い薄板を水平に打って外壁を作る工法です。
ですから、アメリカ人宣教師が下見張建築で教会を建てたのはごく自然な事でした。
まるで、アメリカ西部の開拓村に建築された教会のようです。
教会の影から「誇り高き男」が現れそうです。
 
屋根の上には尖塔が建っています。
尖塔は中世ヨーロッパで「ゴチック建築」の特長として現れました。
石やレンガを積んで、柱の少ない大空間を実現させるための工法でした。
垂直に伸びた尖塔は神の国を憧れさせ、
聖堂を大空間は人々に教会権威の圧倒的な存在を見せつけたことでしょう。
 
でも、此処は根津の路地裏の教会です。
敷地は狭いし、隣近所は江戸時代からの下町です。
圧倒的な空間ではなくて…、親しみのある聖なる空間を設えたようです。
 
1919年(大正8年)に竣工しました。(国の登録有形文化財)
日本も良い時代でした。
竹久夢二や白樺派文学が人気でした。
     (根津教会の近くに竹久夢二美術館もあります。)
下見張の外壁にアールデコ風の丸窓や装飾をつけています。
親しみのある、一寸寄ってみようかな! 思わせる教会です。
 
1923年(大正12)の関東大震災でも、1945年(昭和20)の東京大空襲でもこの教会は焼けませんでした。
周囲の街並みも、路地裏のまま残されました。
教会と街並みと共に生き残った事が・・・・、大変に懐かしい空間を残しました。
 
 
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    教会のお隣は長屋風のアパートでした。 道の突き当りの緑が東大で、三四郎池のあたりになります。
 
 
今日は日曜日です。
今の時間は礼拝の時間でしょう。
鍋谷牧師の説教が案内されています。
「どんな牧師さんかな?」少し気がかりです。
家に戻ってインターネットで調べました。
福井県出身で、三井物産にお勤めになり、依願退職し、牧師になられた・・・・、異色の経歴の持ち主でした。
中学の頃、親の目を盗んで今東光の「春泥尼抄」を読んだとか。
そういえば、私も父が読み残した週刊誌のページを開いて、同書を読みました。
大人の世界を垣間見て心をときめかせました。
ますます、心惹かれる教会であります。
 
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                                  根津教会の礼拝堂内部。(根津教会のHPから転載)
 
 
 

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八幡様の「ぼんぼり祭り」

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暑い中にも朝晩は涼しく感じられるようになりました。
加えて、日が短くなってきたような気がします。
暦の通りの「立秋」です。
鎌倉鶴岡八幡宮では立秋の前日から3日間、ぼんぼり祭りが催されます。
私は日中、そして夕暮れ、二度にわたって出かけてみました。
    ( 昨年のぼんぼり記事は次に書きました。
                   http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43821079.html  )
 
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                                                        昼の八幡宮
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                                            ぼんぼりに灯が点った夜の八幡宮
 
「昔からぼんぼり祭りはあっただろうか?」
「戦後始まったものかな?」 想像します。
そんな疑問は、鶴岡文庫で開催されている「回顧展」を見学すると、その歴史が解ります。
 
1938年(昭和13)に始められた催事だったのです。
そして、今年で74回目になります。
1934年(昭和9)には大仏次郎、久米正雄氏の発案で「鎌倉カーニバル」が始まりました。
そして、1936年(昭和11)には鎌倉ペンクラブが始まります。
鎌倉に棲む作家、学者、漫画家など所謂文士が連携して社会文化活動を始めたのでした。
そんな気運の中で、「ぼんぼり祭り」が始まった事でしょう。
キーワードは「鎌倉への愛着」でした。
 
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                                          昼間のぼんぼり。(酒に肴の場面です)
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                                                         夜のぼんぼり。
 
この8月の暑い最中に鶴岡八幡宮では、夏越し祭り(茅の輪巡り)、立秋祭、実朝祭りが行われていました。
実朝祭りを除けば何処の神社でも行われる祭事でしょう。
暑い陽射しの中では人も集まりません。
で、三つの祭りに共通するイベントとして「ぼんぼり」を思いついたのでしょう。
 
「ぼんぼり」の制作には文士や鎌倉の著名人、住民の協力を仰ぎました。
奈良には春日大社の万灯篭が綺麗です。
「鶴岡八幡宮には石灯籠は無くても…、心のこもった「ぼんぼり」を飾って、参拝客の足元を明るくしよう・・・・。」
考えたとも思います。
 
鎌倉カーニバルは交通事情が悪くなって・・・・、1953年(昭和38)から取止められてしまいました。
でも、ぼんぼり祭りは続けられて来ています。
 
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                                                     土田直敏氏の作品
 
浴衣を着て、団扇と懐中電灯を持って・・・・、鎌倉の住人は夜の八幡宮散策を楽しみます。
太鼓橋から本殿の前まで、400本のぼんぼりが幻想的な景色を見せてくれます。
「この書は誰の作かしら?」
ぼんぼりの足元を懐中電灯で照らします。
ぼんぼりの字や絵を見て、作者のことを確認して…、作者の意図を察します。
 
昼間見れば…、ぼんぼりの絵は静止した作品です。
でも、ぼんぼりに蝋燭が点されれば・・・・、絵は闇の中に浮かび上がり、ユラユラと揺れ動きます。
作者の思いが、炎のように伝わってくるような気がします。
 
作者も八幡宮の闇の中に浮かび上がる状態を思い浮かべながら…、ぼんぼりの絵や書を筆にするのでしょう。
 
二年前に平山郁夫氏は亡くなられました。
もう、同氏のぼんぼりを探す楽しみはありません。
今、鎌倉を代表する絵描きは誰なのかな?
思いましたら、本殿の右に「松尾敏夫氏」の龍が立っていました。
後藤純男氏は団扇絵も描いていられました。
私は後藤氏のファンです。
団扇を求めました。
御巫女さんに尋ねました。
「この塔は何処のお寺さんのですか?」
すると
「これは後藤画伯の心の中に映った塔だそうです。」
 
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                                             松尾敏男氏のぼんぼり
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     後藤純男氏の作品。同氏は富士山の絵もぼんぼり出品されていました。
     これは興福寺の五重塔で向こうは生駒の山だと思います。
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                                                     後藤純男氏の団扇絵
 
この日は舞殿で、筝曲の演奏をによって行われていました。
確か、昨年も同じ舞台を見た気がします。
一日ずらせれば、白拍子舞も見られたのかもしれません。
 
白拍子姿で静御前が舞った…、言われる八幡宮の石段下です。
来年は中日に来よう…、思いながら石段の上の腰を掛けて眺めました。
 
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舞殿では筝曲が演奏されていました。
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                                                演奏は森川浩恵氏
 
鎌倉ですから、お坊さんの書も多く出されています。
400点もの作品です。
見て歩けば…、思わず笑ってしまうこともあれば、
深く思い沈んでしまうような示唆を与えてくれるものもあります。
 
時間がたてば、ぼんぼりの絵や書が「回顧展」に出展されて・・・・、歴史の証になる事でしょう。
 
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                                             円覚寺の管長「横田南嶺氏」の書
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                                   光明寺 蕉風明昭彦師のぼんぼり
 
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成福寺の百日紅(永観堂には行けないまでも)

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私は大学生時代から日本文化研究会に属していました。
その頃からの友人は(愚妻も含めて)大切な存在です。
毎年8月の20日過ぎから4日間程度、奈良・京都を訪れ、合宿していました。
浅古教授(故人)の指導を受けて、古美術を鑑賞して歩く毎日でした。
 
8月の京都は鍋の底に居るような暑さでした。
手拭いで汗をかきかき・・・・、寺から寺を巡礼しました。
南禅寺から永観堂(禅林寺)に、築地沿いに歩きました。
「この、築地の向こうに見返り阿弥陀様が居られる」
見上げた青空に百日紅(さるすべり)の花が見えました。
この時、初めて「白いさるすべり」を見ました。
永観堂には紅白の百日紅が咲いているのでした。
     
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                                    永観堂「見返り阿弥陀像」(同寺院HPから転載)
 
「さるすべり」の樹皮はツル・ツルしています。
これでは木登り上手の猿も滑るだろう…、ということでこの名があるのでしょう。
 
百日紅(ひゃくじっこう)の名は花の時期が長く、百日も紅である・・・・、という事でこの名があるのでしょう。
「白いさるすべり」は百日紅ではありません。
あえて言えば「百日白」(ひゃくにちしろ)でありましょう。
 
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                                          ライラックのような「さるすべりの花」
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                                            淡いピンク色の「さるすべりの花」
 
町を歩いていると、百日紅の花が良く目につきます。
もう、まるでライラックと見間違うような、色で大きな花房の百日紅も見られます。
紅い百日紅から、「白いさるすべり」を開発し、藤紫色やピンクのさるすべりを次々に開発したのでしょう。
人間の綺麗な花を見たい・・・・、欲求は飽きることを知りません。
でも、こんな欲望なら・・・・・、誰もが歓迎することでしょう。
 
友人のブログに「今京都に居る」書かれていました。
学生達と一緒に古美術散策をしているようです。
羨ましい・・・な・・・、思いますが、私は鎌倉で百日紅を見て歩くことにします。
 
鎌倉の友人の話では「今年の百日紅は外れだ!」そうです。
言われてみれば、本覚寺も宝戒寺も花数が極端に少ないようです。
それで・・・・みんな外れかな? 思うと、見事に咲いているところもあります。
 
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   鎌倉小袋谷踏切に近い成福寺の「さるすべりの花」は伝統的な紅色です。
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           お墓の奥、櫓の前にも百日紅があります。右側が笠智衆さんのお墓です。
 
 
鎌倉小袋谷の成福寺には2本の百日紅があります。
昨年は花数が少なくて心配だったのでしたが・・・・・、
幹に出来ていた洞を治療して…、今年は以前にも増して見事に咲いています。
本堂の甍を背景にして咲いている様は見事です。
 
樹下には茗荷が芽を出しています。
その地面は穴だらけです。
蝉が百日紅の根で育ってきて、この夏地上に出たのでしょう。
百日紅を見上げる位置に笠智衆さんのお墓があります。
また、笠智衆さんに似たお地蔵さんもあります。
 
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                              笠智衆さんを髣髴させるお地蔵様、百日紅の手前にあります。
 
 
今年は百日紅は概して外れのようですが・・・・、
養生の良かった成福寺や本興寺は見事に咲いているようです。
 
屹度京都の永観堂の百日紅は見事に咲いて・・・・、
線香花火のような花弁を、枯山水の砂の上に落としている事でしょう。
 
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   百日紅の根元に散った花弁。線香花火を思わせます。
   地面の穴は蝉が出た跡です。右上に茗荷が芽を出しています。
 
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  本堂脇に立てかけられた竹箒。父から「箒目(掃いた跡)を見れば人物が解る」と聞かされました。
  成福寺は何時も気持ちよくお掃除されています。箒自体を見れば…少なくても掃いた人の癖は解ります。
 
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伝えたい「小田原提灯」の民芸美

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小田原城内堀の蓮を見に出かけました。
外堀を歩くと、沢山の提灯がぶら下げられています。
小田原の小学校毎に櫓を組んで、沢山の提灯が吊るされています。
良く見れば、電灯がつながれていて・・・・、夜には一斉に灯りがつくのでしょう。
灯りがつけば、まるで秋田の竿灯のように闇に浮かんで、お堀の水にも映るのでしょう。
屹度、美しいこと間違いありません。
でも・・・・、夜まで此処で待つわけにはゆきません。
 
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                                                      小田原城の外堀
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                                  外堀に吊るされた市内小学生作、小田原提灯
 
 
小田原は後北条氏の城下町、江戸時代になると東海道最大の宿場町として賑わいます。
夜に出歩く人も多くいますす。
そこで、小田原在住の職人・甚左衛門が工夫します。
旅人等が携帯に便利なような「提灯」を新作しようとします。
提灯を畳めるように、畳んだ時には小さくなるように蛇腹状の構造にしました。
 
すると、作業工程が簡単なので安くできましたし、大量生産が可能になりました。
また一工夫、曲木の材料に道了尊の山域からとれた神木を使ったので・・・・「魔除け」になる宣伝しました。
駕籠屋の天秤棒の鼻先に吊るせば、夜道も照らしてくれるし、目立ちました。
そして、魔除けもしてくれたのでした。
 
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                                            民芸美の際立つ小田原提灯
 
今では夜間外出には懐中電灯が当たり前です。
夜道を歩くのに「小田原提灯」をともしていたら・・・、変人に思われかもしれません。
唐傘や番傘が洋傘に変わってしまったように・・・・、小田原提灯は使われなくなってしまいました。
でも、小田原提灯の民芸としての美しさはピカイチだと思います。
先ず、形がシンプルであることが特筆されます。
そして、提灯の面に書かれた書体の粋な事に心惹かれます。
時に家紋が描かれている提灯も良く見かけます。
家紋が美しい事は言うに及びません。
 
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街角民芸館に吊るされた山崎勇氏作の小田原提灯。独特の書体も魅力です。
同氏はJR小田原駅構内にある5mの大提灯を作った人でもあります。
 
小田原提灯を紅い紙で貼れば・・・・・、赤提灯です。
赤提灯なら、庶民的で家族的な居酒屋です。
お父さんは安心して暖簾をくぐる事が出来ます。
小田原提灯の与える親しみ易さや安心感は大きなものがあります。
居酒屋が、岐阜提灯ではお客は来ません。
 
昔、小田原提灯を作る職人は10軒位はあったそうです。
それが現在では、兼業で2軒が手間が空くと作っていると聞きます。
 
でも、小田原の小学生は小田原提灯を手作りして、提灯祭りを飾ります。
また、市内の街角交流館では提灯作りを指導してくれます。
 (毎月第2、第4日曜日、街角交流館で、材料費とも千円)
小田原住人の地域文化、伝統文化への愛着が感じられます。
 
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小田原と言えば蒲鉾があって、干物も美味しくて、外郎をはじめ和菓子が色々あって・・・・、
寄木細工(箱根)に提灯・・・・・・。
様々な文物が伝わっています。
それらを味わい、楽しむのも魅力です。
私の町内は毎週土曜日夜9時から防犯パトロールを実施しています。
防犯ジャケットに、防犯キャップ、そして懐中電灯、笛を携帯しています。
防犯と大書した「赤い小田原提灯」を作ってもらおうかな?
思ったりしますが・・・・。
「おふざけが過ぎる!」小言も出そうです。
 
夏休み工作や自由研究に「小田原提灯作り」は如何かな?
私は、良いとおもうのですが。
インターネットで調べれば・・・・、材料を案内してくれていますよ。
 
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百日紅の物語

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お釈迦様の一生で重要な場面は必ず樹の下で演じられました。
お亡くなりなられたのは沙羅双樹の樹下で、沢山の人や動物の悲しみの中でした。
悟られたのは大きな菩提樹の樹下でした。
そして、お生まれになられたのは無憂樹の樹下でした。
摩耶王妃はルンビニの農村で真っ赤な花が咲いた樹を見つけます。
その花を手折うと背伸びしたとき、王子ガウタマ・シッダールタ(仏陀)を産み落とされました。
 
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           無憂樹の花。筆者もベトナムなどで良く見ました。
           日本で見られる似た花として百日紅があります。WIKIPEDIAから転載
 
お釈迦様には程遠くても、私たちの人生でも重要な場面を演出してくれたのは…樹であったような気がします。
入学式を飾った桜の木、学校の校庭にあった楡の大樹、庭先のイチジクやクリの木・・・・・、
人生の場面場面を樹が飾ってくれていました。
そんな樹と共に歩んだ人の一生は幸せなものでありましょう。
物言わぬ樹と共に、樹下で樹の声を聴きながら生きなさい・・・・、
それが仏陀の教えの一面のような気がします。
 
 
 
私の生家である盛徳寺は今夏も見事に百日紅の花が咲きました。
今日は、その百日紅の話をいたします。
百日紅は無憂樹に似て樹上に真っ赤な花を咲かせます。
でも無憂樹は南国の木で日本には育ちません。
そこで、良く似た木・・・・・、として百日紅を聖樹として探したものでした。
 
明治19年佐々木ノブは世田谷弦巻の禅寺「実相院」の次女として生まれました。
豪徳寺の副住職「竹内周三」と縁があり結婚、
明治42年(1909)6月10日新婚夫婦は鎌倉郡豊田村倉田の盛徳寺に参りました。
この禅寺を世話してくれたのは豪徳寺住職松本方丈でありました。
 
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                              筆者の祖母「ノブ」。ハイカラ好きのお嬢様でした。
 
盛徳寺は阿波の蜂須賀公の開基で、檀家は8軒しかないものの、寺納米50俵田畑山林を有し、
檀家は取らない・・・・・主義でありました。
といっても、当時は無住の寺でした。
8軒の檀家は新婚住職を歓迎しました。
荒れた寺を少しでも気に入ってくれるように…、考えました。
そこで、小野省三氏(故人)は鎌倉の造園屋を探し回って…、百日紅を境内に植えました。
「お寺には百日紅が無くては恰好がつきません。これが大黒さん(ノブ)の結婚記念樹ですよ。」
 
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                                          今年も咲いた盛徳寺の百日紅。
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                         筆者はこの百日紅の樹下で遊んで育ちました。
                         昔のお寺は子供たちの遊び場でしたから。
 
家族は百日紅を大切に育てました。
庭の落ち葉を掃いては根元に積みました。
黒さび病にかかることも、山蚕が大量発生し、丸坊主になることもありました。
でも、基本的にはこの樹の生命力が旺盛だったのでしょう。
ノブの丹精で植木屋の手を煩わせるまでもなく・・・、大樹になりました。
 
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      左奥の観音像は筆者が父の指示に従って京都の太秦で鋳造してもらいました。
      「大川観音」として祀られています。
 
身軽な私は梯子をかけて百日紅の樹上に上りました。
二月頃にはノブ(祖母)の指示に従って枝を下しました。
3㎝ほどに太った枝を切り落とします。
成長枝を切り落とされた木は慌てて新しい枝を伸ばします。
その新枝の先に翌年花が咲きます。
 
百日紅は6月ごろ、樹皮を剥ぎます。
ツルツルの樹皮が表面に出ます。
猿でも滑り落ちる…、樹名の謂れです。
屹度、樹皮も剥いで…、木の全生命力、栄養を花に集中させるからでしょう。
皮が無ければ虫も病気も着きません。
それでも…、冬になれば寒くて困ります。
そこで、再び冬には樹皮が覆います。
 
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   百日紅の樹皮がツルツルなのは・・・、一気に沢山の花を咲かせ、
   それを100日も咲かせる…、そのに樹全体のエネルギーを花に集中させる為だと考えます。
 
百日紅は盛徳寺の境内に植えられて100年余りになります。
関東大震災があり、本堂は傾きました。
戦争中には学童の疎開があって、子供達で賑わいました。
そして、今は・・・・・・、山寺が沢山の墓地に囲まれたお寺に変貌しました。
 
百日紅には大きな洞が出来ています。
早く、治癒しなければ年々腐った体が増えて…、樹勢は衰えます。
若い住職も、その家族も、檀家も百日紅の声が聞こえないのでしょう。
「私の体の髄は腐って、洞になっています。
早く腐った体を取り除いて、樹脂で埋めるような手術をしてください。」
樹の声が聞こえるのは…、木を育てた人だけにできる事です。
 
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    大きな枝が枯れて、体の髄まで洞が広がってしまいました。
    洞の中は落ち葉や木が腐って…、次々に洞が広がっています。腐った部分を取り除いて、消毒して、樹脂    で洞を埋め尽くす手術が急務です。
 
百日紅の木の下に茣蓙を敷いて・・・・・、近所の友達とお飯事遊びをしました。
小さなプラスチックの器に赤飯を盛りました。
赤飯は?   勿論百日紅の花でした。
百日紅の花は丸い浮き輪のような形で・・・・、
天空からお飯事の茣蓙の上に…、クルクル回りながら落下してきました。
止まることを知らないで・・・。
本堂からは、父の読経の声が響いていました。
お盆の季節の…、当たり前だった幸せな光景です。
 
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   百日紅の花、小輪の花がリング状に咲きます。花が散るときリングがクルクル回りながら落ちてきます。
   筆者は子供のころ、樹下でお飯事遊びに付き合いました。
 
 
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                                      筆者が生前、死後編纂したノブの遺稿集
 
 
 
祖母ノブの事は下記に書きました。
また、下記(地球のしずくさん)の紹介記事もあります。
 
 
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木喰「微笑する仏」の近代史的な意味について

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廻国聖「木喰行動」が鑿を取って仏像を彫り出したのは、61歳の時でした。(安永7年/1778)
蝦夷松前の太田権現山に登り、その洞窟で膨大な円空上人の仏像群を見て、感化を受けました。
でも、円空とは全く似ていない鈍重で怖い「子安像」ばかりが残りました。
子安像ばかりを彫ったのは、当時蝦夷では疱瘡が流行していて、子供達が次々に死んでいったからでしょう。
過酷な大自然、軽い子供の命・・・・、その極端すぎる対比の中で「自分は如何すべきか?」悩んだと思います。
悩みがそのまま仏像になりました。
木喰行道には悩みは脇に置いて、荘厳で美しい仏像を刻む・・・、そんな器用な事は出来ませんでした。
だから、蝦夷でも、そのあと訪れる佐渡でも・・・・、「暗い仏像」を彫り続けました。
 
「暗い仏像」は庶民の人気もなく・・・、拝みたいと思う人も少なかった事でしょう。
「暗い」のは仏像ですが、木喰行道自身の心が沈んで居たからです。
人気のない木喰は弟子の白道と共に旅を続けました。
同じ遊行僧でも、人気のある僧とは違いました。
 (この段は下記に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46503740.html)
 
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                                        初期の木食像(下野栃窪12神将像)
 
 
天明8年(1788、71歳)木喰行道は四国88霊場を巡り海を渡って、日向国分寺に入ります。
国分寺の住職になります。
ところが、在職時に火災に遭遇し、国分寺の再建に奔走します。
九州中を勧進し浄財を集め、自らも大工仕事をしたことでしょう。
寛政5年(1793、76歳)国分寺は竣工します。
木喰行道は自信を深めます。
そして初めて自分で自分の名を改めます。
「天一自在法門 木食五行菩薩」がその名です。
”私は既存の宗門に拘束されません。五行戒を守って菩薩道を追及します”
そう宣言したのでした。
  
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      九州からの帰途山口県防府で刻んだ子安観音像。この頃中国地方を中心にに9体もの立木仏を残し      ています。何れも、霊的な仏像で独特の微笑する手前の仏像のような気がします。
 
木食五行は国分寺を辞し、中国から四国霊場を再度めぐって甲斐の丸畑に帰郷します。
既に日本中を廻国する…、最初の本願は達成されていました。
14歳の時故郷を捨てて江戸に登ってから、二度目の帰郷でした。
 
木食五行にとっては驚きの事態が出現します。
丸畑とその近在の村人が揃って訪れ
「村に四国88霊場を作ってほしい・・・、」依頼されたのでした。
故郷の人々は木食五行が「国分寺の住職として実績がある。その仏像も霊験がありそうだ」
評価して、そんな依頼をしたのでしょう。
故郷を捨てた木食五行にとって嬉しい依頼でありました。
越後行きの計画を遅らせて「四国堂」を竣工させます。(寛政13年/1801、84歳)
四国堂には88体仏、そして自刻像など91体もの仏像を納めました。
 
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   柳宗悦が発見して木食ブームの発端になった木食自刻像。四国堂に祀られた自刻像と思われる。
      笑顔は故郷を離れて60年、故郷に迎え入れられた歓びが微笑を生んだと想像します。顔の数倍大き      な徳利を抱えている所など、天一自在な境地でありましょう。(木喰展のアルバム/朝日新聞社から転       載)
 
 
この時の自刻像が柳宗悦氏が発見し、日本民芸館に収められています。
見事な、心の底から笑いがこみあげてくる・・・・、そんな印象の自刻像でありました。
台座には徳利も置かれています。
 
四国堂の計画は貧困な丸畑では少し過大なものだったのでしょう。
竣工時の協力者は少なく、木食五行の負担は大きくなったようです。
でも、故郷に四国霊場を作った…、満足感は大きかったと思います。
その時の木食五行の笑みが木食仏の笑みに現れたと考えます。
”自分は故郷を捨てて70年随分遠回りしたが…、今は故郷に恩返しが出来た。これで良かったのだ”
両親は既に亡くなっていましたが、地下で私の菩薩行を喜んでいてくれるだろう…、確信していたことでしょう。
そんな喜びが素直に仏像の表情に「微笑」で現れました。
 
 
  
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                      小栗山観音堂の33体仏。微笑む仏像が並んでいます。
 
享和3年(1803,86歳)木食五行は越後小千谷に居ました。
”小栗山観音堂の本尊(行基菩薩作)が無くなってしまった。
自分達の守り神を作って欲しい…、”  依頼でありました。
木食五行を「行基菩薩の再来だ」信じてくれる人々がいる・・・、
嬉しさがこみあげてきました。
 
銀杏の大木を切り倒して、小栗山に運びました。
そして、33観音を刻みます。
どれも、微笑仏でありました。
  (小栗山観音堂は http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42223936.html に書きました。)
 
小栗山に「微笑する仏を刻む菩薩が来ている」 噂が越後中に流れます。
長岡の宝生寺も33観音像を彫って欲しい…、依頼してきました。
宝生寺の境内に大きな銀杏がありました。
これを切り倒し33観音と自刻像を刻みます。
越後では群像の中に自刻像を残しました。
自刻像の笑みは仏像の笑みと変わりません。
自分自身の心の底から湧きあがる笑みが…、そのままに仏像のお顔に出たのでした。
   (長岡宝生寺はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42278054.htmlに書きました)
 
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宝生寺33観音像に添えられた木食自刻像。
照り輝いているのはおびんつる様代わりに扱われたから。
 
 
古代には「止利仏師」がいます。
法隆寺の諸仏を造像しました。
アルカイックスマイル(古拙な微笑)を湛えています。
止利仏師は如何にして「霊的な仏像」を造像するか…、腐心しました。
人間ではない、霊的な仏像、神々しい仏像を表現すると・・・、古拙な微笑、杏仁形の眼等を形にしました。
拝む人は古拙な微笑に薄気味悪さを感じます。
でも、古代の人は仏は人間を超えた存在で神に等しい…、思っていましたから、ひたすら拝みました。
 
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          法隆寺釈迦三尊像。古代にアルカイックスマイルがあり、以降仏像に笑顔はありませんでした。          近世になって突然に木食の微笑が出現します。でも、同じ微笑でも大違いであります。木食仏           の微笑は、「人間の延長上に仏がある」との自覚から発しています。
 
中世に運慶が居ます。
運慶の仏像も人間を超えた存在でした。
何時も「神々しい仏像」を刻んで、拝観する人を感動させたい…、思っていましたから、
ひたすらに「超人間的な仏像」を形にしようとしました。
18歳の時に刻んだといわれる円成寺大日如来像と、
晩年に刻んだ興福寺の弥勒菩薩と、大差はありませんでした。
 
ところが木食行道の場合は違います。
初期の仏像と晩期の仏像では大違い、同じ人の作とは思えないほど違っています。
原因は、仏師の精神が変わって、成長したからです。
 
近世になると「人間が修行を積んで行く末は仏になる」考えるようになります。
ですから・・・・、自分自身の理想の姿が仏像でありました。
仏像はその時々の自分自身の姿であり表情でありました。
木食の若い時には暗く鈍重なのは・・・・、当時の木食の心が重かったからでしょう。
それから、廻国の目標を達成し、経験・修行の積み重ね、そして精神遍歴の行く末に・・・
ようやく、「微笑する境地に到達できた」のでした。
こうした意味では木食行道は既に近代の芸術家に似た精神構造を持っていました。
 
現代の絵かきでも、彫刻家でも13体もの自刻像(自画像)を残している人物は少ないと思います。
19世紀初めには日本には、
「自分自身を見詰める」「自分自身を追及する」近代的な精神構造が鍛えられていたのでした。
筆者は木喰の廻国の旅程を追い、その仏像の変遷を確認すると、
微笑には大きな意味が隠されていた・・、確認します。
 
実は木喰の和歌には現実への批判精神、現世への皮肉が込められています。
和歌にも近代的な精神を確認する事が出来るのです。
 
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          京都蔭涼字の自刻像(前記朝日新聞社のアルバムから転載)
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           新潟柏崎の薬師仏。筆者は数ある微笑する仏の中で最も美しいと思います。
           写真では如意輪菩薩のように見えますが、地域では薬師如来として「イボ取り」「虫歯」の薬師           様として信じられています。
 
 
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ガマガエル君、実は生きていました。

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8月13日、迎え火を焚いた。
何時もと同じ門柱の脇に、オガラ(麻の茎の枯れたもの)と枯れた笹竹を積んだ。
盆提灯を夕顔の棚に吊るした。
オガラの火は笹竹に燃え移って、パリ・パリ音を立てて燃える。
これだけ目立てばウッカリ者の義母も間違えずに戻って来るでしょう。
 
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   我が家の迎え火。石段の上に「牛と馬」がつながれています。祖霊が乗られるように、用意です。
 
 
8月14日、雨音に目が覚めた。
慌てて盆提灯を取りに出た。
そんな私の足元にノッソリ、ガマガエルが現れた。
久々の雨が気持ちよくて、もっと雨を浴びようと叢から顔を出したようだ。
思えば、このガマガエルはもう十数年長い付き合いで、このブログにも紹介しました。
 
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                                       ガマ合戦で奮闘中のガマ君。
 
 
ガマガエルのホームグランドは我が家の庭である、
一年中庭の叢、木の根っこ、離れの縁の下に棲んでいる。
地下で越冬を終えると痩せ細ってしまう。
しかし3月、雨に急かれるように起き出して、ガマ合戦に馳せ参じる。
そこで、男の面目を果たして・・・・、ヨレヨレの体で帰還する。
今年ばかりは、もう死ぬ直前、体を運ぶのも大儀そうであった。
 
私は叢にガマカエルの体を移し、菊鉢で囲んであげて…、
”此処で、お休み”
死に場所を用意してあげたつもりであった。
死んだら・・・・、ガマの体に無数のダンゴ虫がたかって、……やがてガマカエルの体は消えてしまうことだろう。
ガマカエルにすれば、ダンゴ虫を食べて命を繋いで・・・、死んだら今度はダンゴ虫に恩返しをする。
こんな、食べて、食べられる関係を何て呼ぶのか、私は知らない。
 
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                    5か月ぶりで再開した我が家のガマ君、良く肥えて体調は最高のようです。
 
 
諦めていたガマガエルは菊鉢の陰で生き長らえ、体力を回復していたのでした。
座っていれば、後から後から次々に獲物が目の前に現れます。
それを、大きな”がま口”を開いて、ネッチョとした舌べろで捕食したのでしょう。
もう、良く肥えて、目も体も良い色をしています。
『お主、元気じゃないか!』 声をかけます。
ガマガエルは私に遭遇して…、叢に引き返そうか? 思案中です。
 
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                                    幾分太ったせいか風格が出てきたガマ君。
 
私は前々から思っていました。
天邪鬼(あまのじゃく)とはガマカエルがモデルではなかった・・・・かと。
天邪鬼とは四天王や仁王像の足元に蹲っている邪鬼(妖怪)です。
背中や腹を軍神に踏まれて、もだえ苦しんでいます。
人間の心には純粋な心と邪悪な気持ちとが混在しています。
友人が幸福であれと祈る気持ちは何時もあるのですが、
突然に友人の幸福を妬む気持ちが現れて・・・、慌てさせます。
それは、人の心に潜んでいた天邪鬼が突然に現れたからだ…、考えました。
四天王が天邪鬼を踏みつけているのは・・・・、
心の中に潜む邪悪な心を抑制しなさい・・、と諭していると思われます。
 
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                                四天王の足下で蹲る天邪鬼(鎌倉長興寺で)
 
”邪悪な心”の原因である妖怪をどうのように表現しようか?
考えたとき、身近にカエルが居ました。
陸上でも、水中でも生きてゆける…、得体の知れなさ、
大きな口を開いて何でも食ってしまう強欲さ、
ヌルッとした触感、
何といっても大きな口とグロテスクな姿が・・・、妖怪に最適でした。
 
ガマガエルは思っている事でしょう。
「俺を見て、妖怪・天邪鬼を想うのは勝手だが・・・・、俺はそんなに邪悪な性格ではないよ。」
私は答えます。
「私はガマ君を愛嬌がある…、思うのですが、昔の人が君に似て邪悪な妖怪をデザインしたんだよ!」
まだまだ、ガマ君と日を送れる幸いを感じました。
 
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   此方は殆ど寝たきりのウサギ君。こちらも長寿で15歳は超えています。この夏を越せるか心配です。
   ウサギ小屋に穴を掘って涼を取っている事が多いのです。
 
 
 
 
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百日紅が散って…夏が去ります(本興寺にて)

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8月16日、明け方です。
朝晩は随分涼しくなりました。
裏山では蜩(ひぐらし)が盛んにないています。
カナ・カナ・カナ・カナ 鳴声も何処か侘しさを感じます。
朝晩になく蜩です・・・・・、「日を立ち上げる」とか「あけぼの」とかは言いません。
「日を暮れさせる」と名付けたのは…、屹度「夏を去らせる」・・・そんな感傷も加わっているのかもしれません。
矢鱈にうるさい「アブラゼミ」や「ミンミンゼミ」に比べて、晩夏に鳴く「蜩」や「ツクツク法師」は哀愁が漂います。
 
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                                  歩道を絨毯に変えた百日紅の落花
 
100日も咲き続けるという名の「さるすべり」も散る季節です。
桜が散れば「花筏」、素敵な呼び名がつきました。
百日紅(さるすべり)が散ると…、地面に緞通(毛の長い絨毯)を敷いたように見えます。
桜に劣らず見事なのですが・・・・・、特段名前は無いようです。
あえてつければ「花絨毯」でしょうが・・・、花絨毯では「芝さくら」を想像してしまいます。
 
散った百日紅は色褪せません。
桜は直に色が白化してしまいますが・・・。
百日紅の紅色は水にも溶けないのでしょう。
百日紅の落花が見事なのは・・・・・、落花を掃いた人しか知りません。
 
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         鎌倉大町本興寺の「散り百日紅」、この日は前夜の雨で花が流されてしまっていました。
 
百日紅の散る様や、散った花を見ようと鎌倉大町の「本興寺」に出かけました。
辻薬師に近いこのお寺には一本見事な百日紅があります。
境内一面をアスファルトで舗装してしまって、駐車場に貸すようになってから・・・・・、樹勢に陰りが出たようです。
加えて2年前から本堂の大屋根の葺き替え工事始まりました。
重機が入って・・・、花の付き具合が心配でもありました。
 
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             今年の本興寺の百日紅。工事も終えて回復基調ですが、往時に比べればマダマダです。
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                                   山門の外が辻薬師になります。
 
大工事が終了して、百日紅は息を吹き返したようです。
でも、昔に比べたら花数も少なく、色も褪せて見えます。
昔はもっともっと色が濃かった…、記憶していますが。
これから養生すれば、屹度回復することでしょう。
 
もう5年も前、この境内を家内と訪問しました。
その時はお孫さんを子守をして…、お婆さんと子供が二人百日紅の樹下で遊んでいました。
長閑な…、幸福な光景でした。
「いいね!」家内と話しました。
 
昨日から我が家にも孫が来ました。
今日はアンパンマンミュージアムに行くことになっています。
もう2年もすればディズニーランドに連れて行かれることでしょう。
私が義母(故人)を誘ってディズニーランドに行ったのはつい昨日のように思うのですが・・・。
 
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2007年の本興寺百日紅。花の房も、花の数も見事でした。
今年は回復したといっても往時の6掛けかな?
 
梅も桜も南の国から咲き始めて…次第に北上します。
百日紅は南から咲き始める花のトリになります。
 
これからは北から咲き始める花の季節です。
もう今頃北国ではススキや山萩、葛も咲き始めている事でしょう。
秋から冬に咲く花は北から南に足早にやってきます。
 
我が家の仏壇に飾られた竜胆も岩手で咲いたものでしょう。
鎌倉の笹竜胆は未だ一か月先です。
 
百日紅の絨毯は夏に咲く花と秋に咲く花との境目なのです。
 
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                                               此方も2007年の百日紅です。
 
 
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「精霊流し」に見る海の記憶

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古事記にも日本書紀にも「海彦・山彦」の神話が出てきます。
山彦には兄の海彦が居ました。
ある日兄の海彦を誘います。
「偶には持ち場をチェンジしたら、面白いじゃないか!」
山彦は釣り道具を持って海に出ます。
海彦は狩り道具を持って山に入ります。
でも、慣れない二人は収穫もありません。
加えて山彦は釣り針を紛失してしまいました。
 
釣り針を失くされて海彦は怒りに震えます。
山彦は自分の剣を潰して1000本の釣り針を返しますが、海彦は怒りを納めません。
「俺は、失くされたあの釣り針が欲しいのだ・・・」
 
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  今日の写真は柏尾川の灯篭流しです。
  写真奥の工事中のビルは戸塚区の新庁舎(文化センター)、桜橋の袂から灯篭を流します。
 
悲しくなった山彦は磯で泣いています。
すると老人に声をかけてもらいます。
老人の作った竹の船で山彦は「海の国」に行きます。
そこで、綿津見の神(ワタツミノカミ/海神)に会い、その娘豊玉比売(トヨタマヒメ)を娶ります。
 
故郷に戻った山彦は綿津見の神の言われた作戦で、兄の海彦を攻めます。
海彦は「お前の兵隊になるから・・・」命乞いします。
山彦の子が神武天皇になります。
一般に山彦は「大和政権」の祖先、海彦は九州の隼人一族と言われています。
 
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  次第に暗くなって、灯篭が浮かび上がります。川面に揺れる炎は故人の思い出を誘います。
 
大和朝廷の成立の過程で、海彦・山彦の争いは各地で戦われてきたことでしょう。
それは、縄文人と弥生人の争いであり、海の民族と山の民族との争いでもあった事でしょう。
戦いになっても比較的平和裏に大和朝廷の統一が出来た…、神話が伝えています。
 
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  箱根明神ヶ岳の大文字焼(神奈川コミュニティーサイトから転載)
 
 
8月16日「灯篭流し」から帰ると、ニュースには京都の大文字焼を流していました。
 
私は、最初に大文字焼を見物した記憶を思い出しました。
1985年8月1日の人事異動で私は銀行の大阪支店副長として赴任していました。
取りあえず甲子園球場に近い単身寮に入りました。
この年はバース・掛布・岡田の連続ホームランが出るなど、
阪神タイガースはジャイアンツを圧倒、優勝しました。
琵琶湖に青子が湧いて、水道水が不味い事に閉口しました。
そして8月12日、日航機が御巣鷹山の山稜に墜落しました。
         
 
銀行は御堂筋にありました。向かいが北御堂で毎日のように葬儀が行われていました。
私は通常の業務のほかに午後1時、午後3時に会葬しました。
痩せ細る毎日でした。
 
8月16日、淀屋橋から京阪電車の乗って京都河原町三条に出て・・・・・、渡月橋に出ました。
「精霊流し」と「五山の山焼き」両方を見物しよう…、欲張ったからでした。
 
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                                    少女が灯篭を見詰めていました。
 
精霊流しは船に乗せって「先祖の霊」を川に流す行事です。
先祖の霊は灯篭船に乗って川を流れ…、海に流されます。
海の彼方には「海の国」があって、其処には「綿津見の神」が居ます。
熊野の「維盛入水」も、壇ノ浦の「平家一族の入水」も、
海の底に竜宮城か「綿津見の国」があると信じたからでしょう。
「死んだら海の底に帰る」海の民族の伝統的な信念です。
 
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   この日は南風(下流から吹き上がる)に押しやられて、灯篭は流れずに溜まってしまいました。
   まるで、精霊さんが海の底に帰るのを嫌がっているようです。
 
山焼きは先祖の霊を山の上に案内する行事です。
先祖の霊は山の上に棲むと考えました。
恐山も月山も明神ヶ岳も京都の五山も・・・、先祖の霊は里を見下ろす山頂に居ます。
お盆には山を降りて里の家に戻ります。
その時に夜道に迷わないように山焼きをします。
家では盆提灯をともします。
秋田では盆提灯をまとめて竿灯に吊るします。
これ等は総て山の民族の伝統行事です。
 
流石に京都は日本の都です。
海の民族、山の民族両方の伝統行事を一緒に見せてくれます。
 
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お盆に詣でる「庚申塔」

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庚申塔が一番綺麗に見えるのは…、お盆過ぎです。
私は、心して盆過ぎの今頃に庚申塔巡りをします。
神奈川県下で庚申塔の宝庫と思うのが三浦の台地です。
未だ庚申塔が大事にされていて、庚申塔を巡る景色が素晴らしいのです。
私は水筒を持って、カメラを担いで出かけます。
 
庚申塔の願文(がんもん)に最も多いのが「二世安楽」、
次いで「息災延命」とか「諸願成就」「現世安穏」などと書かれています。
 
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   三浦市初声町の三叉路、右に六地蔵、左の庚申塔が並んでいます。
   綺麗に草刈りして生花が供えられています。
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   六地蔵には家族の名前が記されたゆだれかけがなされています。家族の幸福を祈願したものでしょう。
   お地蔵さんも庚申塔も信仰されている…、思わせます。
 
悪行を禁じ、善行を勧めるのは、仏教だけではありません、キリスト教もイスラム教も同じです。
悪いことをすればあの世で地獄の責め苦を受けます。
善いことをすれば、来世は天国に生まれ変わります。
こう教えたのは主として中世まででした。
 
近世になると人々は『死後の世界よりも、現世』を中心に考えます。
庚申信仰では「善いことをすると現世で幸いがもたらされる」
「悪いことをすれば現世で不幸が生じる」
と考えました。
良い事と言えば「健康で長寿」「豊作で金運に恵まれる」「良い結婚や子宝に恵まれる」などでしょう。
悪い事はその逆です。
 
来世が地獄か極楽か?  それよりも明日・明後日の現実を祈ったのでしょう。
「二世安楽」と書いたのは家長として子供たちの幸いが一番大事だったからでしょう。
”自分はまだしも、子供たちが幸福に裕福に栄えてほしい”
これに勝る願いは無かったのでしょう。
 
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三浦市初声町の庚申塔(前掲)(宝暦8年)
 
自分自身は・・・、親から見れば「二世」であります。
「二世安楽」は親から子に、子から孫に、孫からひい孫に…、子子孫孫につながります。
お盆は自分が親やその先の親…、先祖に感謝する日なのです。
子供を愛しむ気持ちは、親や先祖に感謝する心と変わりません。
だから…、お盆には先祖の墓に参り、庚申塔のお掃除をします。
 
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               三浦市三戸町は畑の中に新興住宅が進出してきています。
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  大きな区画に整理された畑の脇に祀られた庚申塔。お盆に新しい供花がされて嬉しそうです。
 
もう、誰にも見向かれなくなってしまったような庚申塔ですが…、
お盆の季節には草刈りされて、新しい花や榊が飾られます。
お盆の迎え火を庚申塔が祀られた辻で焚かれる・・・、そんな光景も良く見ます。
 
 
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   三浦市三戸町の庚申塔。「かごめ・かごめ」のわらべ歌の絵解きにもなっています。               下から、赤鬼がいてその右に「見猿」がいます。
青面金剛の両の手の上には日輪・月輪(朝から晩まで)があります。多くは左右に鶏がいます。
 
 
♪かごめ かごめ かごのなかのとりは 
 いついつでやる
 よあけのばんに つるとかめがすべった
 うしろのしょうめん だぁ~れ ♪
 
わらべ歌です。
中心に鬼役が眼を隠してしゃがみます。
その周りを手を繋いだ子供たちがグルグル回ります。
わらべ歌が終わったとき、子供たちがストップします。
その時鬼役の真後ろに居る人を当てるのです。
 
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  三浦市初声町(前掲)の庚申塔。中央青面金剛の周囲に下右に見猿、左右に雄鶏雌鶏、上方に日輪・月輪が  描かれています。子供達はわらべ歌を歌いながら教えられていたと思います。天空には恐ろしい青面金剛が  居て、悪いことすると罰せられます。60日に一度天に悪行を報告する儀式があって、その晩は籠の中(結界)にこもって、悪行は見なかった(聞かなかった・言わなかった)事にしました。
 
中央に屈んでいる鬼役は「見ざる」…「見猿」でしょう。
「かごめ」は鳥のカゴメではなく・・・・、篭目で鶏を飼育していた鳥かごのことでしょう。
籠の目は五芒星(結界)の形をしています。
「夜明けの晩」・・・、そんな時刻はありません。
朝から晩まで…、一日中の意味でしょう。
「後ろの正面」とは「後ろの青正面金剛」の意味でしょう。
要するにこのわらべ歌は庚申信仰の絵解きに似た…、解説だったのでしょう。
 
大人は60日に一度やってくる庚申の日に集まって徹夜で過ごします。
子供達は、カゴメ・カゴメのわらべ歌を歌いながら、遊んで過ごします。
大人は子供達が健康に育って、幸福な一生を過ごせるよう・・・、天帝(帝釈天など)に祈ります。
何処にでもあった…、平和な光景だったのでしょう。
 
一つ難しいのが「鶴と亀が滑った・・・」です。
亀は超安定していますし、鶴は飛べます。
どう考えても鶴も亀も滑りそうもありません。
一番に縁起の良い象徴が二つも滑ったのですから・・・大凶(若しかしたら大吉兆)を表しているのでしょう。
大凶を遣り過す祈りが…、カゴメ・カゴメのわらべ歌遊びだった…、と想像します。
そう思うとわらべ歌が祝詞のようにも、今様のようにも聞こえてきます。
 
私は江戸時代を中心に「二世安楽」を祈った庚申信仰に想いを馳せます。
良い時代だったんだ…、しみじみ思います。
 
昨年まで綺麗にお掃除されていた庚申塔を詣でました。
農家の前の三叉路にあります。
大きな楠の根元に5基の庚申塔があります。
最も新しいものは明治27年でした。
例年、庚申塔の前には迎え火が焚かれ、お精進が供えられていました。
ところが…、今年は草が茫々と生い茂っていました。
 
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   昨年のお盆の庚申塔(三浦の上宮田)精霊棚が供えられ迎え火を焚いたと思われます。
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      上記場所の今年の光景。庚申塔は深い草に隠れてしまっています。寂しい光景です。
 
誰も見向かなくなってしまったのでしょう。
ずっと、丹念にお掃除をして守ってきた人は、もう亡くなられのかも知れません。
残念であり…、寂しいものであります。
 
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見飽きない庚申塔の細部。下から三猿、邪鬼(この豚顔の邪鬼は5品指です)青面金剛に吊るされたショケラ像
三浦市三戸の庚申塔(前掲)
 
 

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川鵜が集団で涼んでいるスポット

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柏尾川は藤沢市川名で境川と合流、片瀬川と名を変えて片瀬の海に注ぎます。
川名辺りから片瀬山にかけては近年川鵜が数を増しています。
 
今年の6月湘南鎌倉総合病院に入院しましたが、窓から川鵜が何処に帰るか見ていました。
日没の30分前ぐらいになると、片瀬の方角から病院の西側、貞宗寺の裏山に向けて飛んでいました。
貞宗寺の裏山にも川鵜のコロニーがあるのでしょう。
勿論川の東、鎌倉中央公園の山にもコロニーがあると思います。
コロニーから餌場の片瀬川まで10分弱、食住接近の距離です。
 
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                              電線に止まっている川鵜。何時もより数が少ないようです。
 
 
川鵜の活動は日の出とともに、朝早くから始まります。
10時頃になれば、もうたらふく食事を終えて、電線や水道管の上で休憩しています。
時々羽根を開いて、濡れた体を乾かしているのです。
真っ黒な体なのは・・・、屹度早く体を乾かしたいからでしょう。
遠目では解りませんが、川鵜の羽根は水が浸み込んでずぶ濡れです。
十分乾かさなくては、俊敏に動き回れないでしょう。
動き回れなくては餌の魚もゲットできません。
 
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                                      濡れた体を乾かしている川鵜
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 川鵜の羽根はオイルで固められていると思っていました。ところが水が浸み込んで、意外にずぶ濡れな川鵜。
 これでは乾かすまで相当長時間が必要です。
 
 
真っ黒な体の川鵜ですが、アップして見ると中々見どころのある鳥です。
先ず、真っ黒だ思っていた羽根毛が「絽の着物」のような透けた模様があるのです。
加えて顔の下半分が黄色です。
グリーンの眼も印象的です。
嘴の先が鉤のように曲がっているのは魚を逃さない為でしょう。
 
でも、ここ数日暑い日が続いています。
電線の上の川鵜も数を減らしています。
川の中洲で遊んでいるのも数羽です。
暑い昼の最中はコロニーに帰って…、昼寝でもしているんだろうか?
邪推してしまいました。
 
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                                                川の中州で寛ぐ川鵜。
 
いました、いました。
境川橋、片瀬橋、橋の下に居ます。
橋にはボートを係留させるロープが張ってあります。
そのロープに沢山の川鵜が止まっているのです。
 
此処は橋のお蔭で陽射しが遮られています。
加えて川風が通ってゆく、涼むには最高の場所なんだよ!
川鵜はこの橋の下で涼んで、羽を乾かして・・・・、
また、気が向いたら川に入って漁をするのでしょう。
まあ、良い場所を探したものです。
 
もう少し川を下れば片瀬浜の海水浴場です。
ビキニ姿のギャルが甲羅干しをしている事でしょう。
川鵜のように日陰で憩う事をお奨めいたします。
 
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   境川橋の橋の下で涼んでいる川鵜。鵜の止まっているロープはボートを繋ぐ為のものです。
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                                     ボートを繋留するワイヤーに止まった川鵜
 
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                片瀬海岸(東浜)海水浴場に片瀬川はそそぎます。体を乾かすには日陰が適当です。
 
 
 
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500年前の霊に感謝する「首塚」の灯篭流し

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昨年は大震災を憚って「玉縄首塚まつり」は行われませんでした。
今年は「首塚500年」と言う事でもあって・・・、盛大に行われるだろう・・・、出かけました。
 
夕闇が濃くなってきた6時半過ぎ、柏尾川(旧名/戸部川)の西堰堤、山裾に首塚があります。
首塚の前に近隣6ヶ寺の住職さんが法要を営みます。
導師は黙仙寺(曹洞宗)の住職で、補佐役が龍宝寺(曹洞宗)の住職です。
私の生家盛徳寺も組寺でしたから…、私は先代住職には随分可愛がられ期待もされました。
法要も観音経も曹洞宗のそれですから…、私には懐かしさがあります。
 
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   首塚の法要。中央立っていられるのが導師(黙仙寺住職)、木魚を叩いているのが龍宝寺の住職。
   龍宝寺が中核寺院ですが住職がお若いので導師役を譲られたのだと想像します。
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  首塚の六地蔵、昭和10年に奉納したものだそうです。(由比ヶ浜通りの六地蔵をモデルにしたのかな?)
 
永正10年(1513)北条早雲は三浦半島に進出しようとして、三浦同寸を滅ぼします。
三浦進出の拠点として大船に玉縄城を築きます。
城の外堀(柏尾川)が相模湾につながり、西に行けば小田原城(早雲の居城)、
東に行けば三浦から安房に進出が可能になります。
安房の里見義豊は後北条氏に対抗します。
大永6年(1526)里見義豊は玉縄城(城主北条氏時に攻め込みます。
両者は柏尾川の川原で戦います。
 
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   良くできた玉縄城の絵図。正面奥、天守閣(諏訪台)の位置に清泉女学院があり、その手前に栄光学園が立   地しています。いずれも龍宝寺の裏山です。山城の手前外堀の位置に戸部川が流れています。
 
 
里見氏は鶴岡八幡宮を焼き落とします。
そして八幡宮に接していた大平寺(尼寺五山一位)を攻め、里見義弘は許婚者だった青岳尼を奪います。
彼女は大平寺のご本尊だった聖観音を持ち去ります。
金泥塗・切金・土紋、玉眼などの細工が巧妙な、 南北朝時代作の美しい精細な観音様です。
北条軍は観音像を再奪取します。
この聖観音を現在東慶寺に祀られています。(松が丘文庫展示室正面胃置かれています)
 
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                里見氏との攻防で奪われ、取り返された東慶寺聖観音像(旧大平寺ご本尊)
 
論功行賞に際して重要なのは「首」です。
武将は敵の首を集めていました。
里見氏を撤兵させます。
お互いに首を交換し合い、柏尾川の畔に敵味方の首を祀りました。
それが「玉縄首塚」で今年が500年忌に当たるのです。
 
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    柏尾川の戸部橋の袂から灯篭を流します。灯篭は片瀬の海に向けて流れて行きます。
 
昔は仕掛け花火(ナイアガラ)が打ち上げられました。
市長は甲冑を着て、ミス鎌倉も参列したと聞きます。
一昨年は5人の武者(トンボの会)が行列していました。
ところが今年はたった一人きりです。
訊けば「暑すぎるから?」とのようです。
 
一年休むと・・・、武者行列も出来ないようになってしまったのかも知れません。
でも、武者が一人になっても新しいキャラクターが出現しました。
大船観音寺の「ノンちゃん」だそうです。
大船観音のモデルは法華寺の十一面観音、光明皇后生写しと言われる仏様です。
その大船観音のキャラクターがノンちゃん。
光明皇后も余りの姿にびっくりされている事でしょう。
 
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   大船観音をモデルにした「ノンちゃん」、綺麗な声で話すなかなかハイテクのキャラクターのようです。
  
戸部橋の上に「川施餓鬼棚」が祀られています。
夜7時、法要の場所は川施餓鬼に移りました。
500年前に沢山の命が川の底に散ったのでした。
その霊を灯篭に載せて、相模の海に流すのです。
灯篭流しの始まりです。
 
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        川施餓鬼棚。この下から灯篭が流されます。向こうの白いビルが大船駅ビル。
 
昔に比べれば灯篭の数は減ったような気がします。
でも、風向きも良く、滑るように片瀬に向けて流れて行きました。
灯りを川面に長く引いて…、流れます。
灯篭が揺れますのです・・・・、川面に映った灯も揺れます。
 
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  柏尾川を流される「灯篭」。突然に中央の灯篭が燃え出しました。 
  川の東側、塩釜神社前の道に夜店が並び、こちら側だけから見物できるようになりました。
 
一つの灯篭が燃え出しました。
そこだけ、灯が大きく鮮やかに見えます。
運よく海まで流れる灯篭もあれば、燃え尽きてしまう灯篭もあります。
運よく長生きして、往生出来る人もあれば、生まれて間もなく終えてしまう人生もあります。
人間の運命もどこか灯篭の灯に似たところがあります。
 
柏尾川の上流、戸塚の灯篭流しの主催者は「戸塚観光協会」です。
首塚まつりの主催者は「鎌倉史蹟の会」です。
史蹟の会の内容は解りませんが…、市民の自主的な組織なのでしょう。
「500年前に外敵と果敢に戦い故郷を守った」そんな霊に感謝する…、鎮魂の祭りである、
そんな目的が素直に解ります。
それは、お祭りの最中に流れる読経やお線香の香り…、手作りのぼんぼり(絵灯篭?)など、
随所に伺われます。
それに比べれば戸塚の灯篭流しは…、観光協会の主催する「町おこし」です。
 
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                                  戸部橋の下から灯篭を一つ一つ流します。
 
戸塚の灯篭流しはボードの上に沢山の灯篭を乗せて流します。
「灯篭のご送船団」のようなものです。
ボードに載せれば・・・、灯篭の回収や後片付けが簡単に終わるからでしょう。
私はボードを回収する様を見ていて…、突然に思い起こしました。
東海道四谷怪談の「戸板返し」の場面です。
戸板の裏表に 「お岩」と「小仏小平」の死体が釘打ちされています、
その戸板を悪人伊右衛門が川から引き上げるのです。
 
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やはり、灯篭は手間がかかっても一つ一つ流さなくてはなりません。
人間にも灯篭にもご送船方式はありません。
これからは「市民主導のお祭り」が良いようです。
細かなところ、大事な事に十分配慮が為されるためには・・・、
沢山の人を動員して、市民視線で運営することが重要です。
 
近くの大船フラワーセンターの芝生の上で・・・・、盆踊りが出来たら…、最高です。
 
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                                     手作りのぼんぼり(絵灯篭?)が飾られます。 
 
 
 
 
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天神様の細道に咲いた「狐の剃刀」

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 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細通じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 
 この子の七つの お祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ
 
わらべ歌の「通りゃんせ」の歌詞です。
子供達はジェンカのように、両手を前の子供の肩に挙げて、列を作って通ります。
鬼役の子が遮断機のように手を下して、挟まった子が負けで、次の鬼になります。
わらべ歌ですがその歌詞は何やら不可思議で、空恐ろしいものがあります。
 
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        秦野にある天神様(菅原神社)の細道。今日の話題は同神社に群生している「狐の剃刀」です。
 
細道に迷い込んだ人が「通してくださいな!」と関所役人に頼んでいるのでしょう。
この細道は何処に通じているのかも解りません。
すると関所役人は厳めしい顔で答えます。
「この道は天神様に通じる道だ。無用な者は通さないぞ!」
「この子の7歳のお祝いで、お札を返すのです。」
関所役人は答えます。
「ならば、通っても良いが、帰りは怖いぞ、厳しく吟味しなければ通しはしないぞ!」
脅かします。
遊戯では歌が終わった瞬間に子が捕まります。
 
江戸時代まで子供は神様からの預かり者だと考えていました。
天神様に丈夫に育つように願をかけ、お札を戴きます。
この間に亡くなれば、神様が子供を一時引き取ったまでのこと、
両親の責任ではないと考えました。
でも、7歳を境に子供は人間界のもの、育てるのは親の責任であり、子供の生命力次第であると考えました。
だから、天神様にお札を返したら…、その後は自己責任、親権者の責任で成人まで育てなければいけない・・・、
険しい道だと自覚しました。
「カラス何故啼くの・・・、カラスは山に、可愛い7つの子があるからよ」
童謡も同じように、7歳以降は自分の力で生き抜かなければならない・・・、
そんな思いが背景にあります。
 
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     天神様(菅原神社)の参道の両側には梅ノ木が植えられていて・・、
     木の下はオレンジ色の「狐の剃刀」が群生しています。
 
此処は秦野市郊外の天神様、「菅原神社」の参道です。
道の両側は梅の木が植えられています。
その梅の木の下草に鮮やかなオレンジ色の花が咲いています。
花の名前は「狐の剃刀(かみそり)」です。
 
参道の細道を登りきると石段があって、登れば菅原神社の社殿です。
石段の下に萱(かや)の大木があります。
その下にはもう狐の剃刀が群落になっています。
ここで天神様につながる参道と山道とが交差しています。
 
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                               萱の大木の根元に群生している狐の剃刀
 
 
大木の下に群生している「狐の剃刀」を見た瞬間、
私は安藤広重の江戸名所百景の尻「王子稲荷神社の狐火」を思い出しました。
大晦日に関東中の狐が王子稲荷神社の榎の大木の下に集まるのだそうです。
沢山の紅く燃える狐火が闇夜に浮かんでいます。
勿論狐火が沢山燃えれば翌年は豊年になります。
 
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         安藤広重江戸名所百景の「王子稲荷神社の狐火」。
         野山にボーッと灯ったのを見ると、赤ければ狐火で、青ければ人魂と信じたのでしょう。
 
 
昔の人は天神様の細道でオレンジ色の花を見た瞬間に何か神々しいもの、霊的なものを見た気がしました。
オレンジ色の花を「狐火」と勘違いしたのでしょう。
だからこの花を「狐」と名付けました。
そして、花が咲く前繁茂していた葉っぱが細く長い・・・剃刀のように見えます。(水仙の葉のようです)
だから「狐の剃刀」といった、妙な名前を頂戴したのでしょう。
 
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                                     萱の大木の下に群生して咲いた狐の剃刀
 
もう一月もすれば彼岸になり、「彼岸花」が咲きだします。
此方は日当たりのよい土手などに群生します。
狐の剃刀は同じ彼岸花の仲間でも、
木の下闇など、日陰を好みます。
花数は少なくても、日陰に咲く花は強い印象を与えます。
 
天神様の細道には「狐の剃刀」が良く似合います。
 
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             細道を歩いてきて、突然にオレンジ色の花を見つけると「狐が出た!」と思います。
 
 
 
 
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