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水田に咲いた「オモダカ」の花

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相模川の中流域、座間の休耕田では「向日葵」を咲かせて、「町おこし」をしています。
家内を誘って一面に咲いた向日葵を見に行きました。
青田では今稲も花を咲かせる季節です。
私は向日葵も良いが、稲の花も見たいと田の畔を歩いてみました。
もう稲穂が伸びています。
 
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     座間の稲田。もう花が咲いています。遠くの山は大山です。稲田との境、黄色いのが向日葵の花。
     手前は廃品のマネキンを使った「色っぽい案山子」。
 
稲の花には花弁はありません。
昆虫に見てもらう必要が無いからです。
緑色の「えい(もみ殻になる)」が二つに割れて、雄蕊が飛び出しています。
雄蕊の根元に雌蕊があって、風に吹かれて受粉が完成します。
「えい」は受粉の確立を上げるための防風の役割をしています。
稲の花は2時間もしたら閉じてしまいます。
素人目にも今年は豊作に見えます。
稲の株が沢山に分かれて大きな稲束になっていますし、稲の花穂が長いように見えるからです。
 
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   稲穂の先に出ているのが稲の雄蕊。その下に3枚花弁の白い花が見えます。
   これが沢潟の花で、もう種が出来ています。
 
私は稲の株を見詰めました。
稲の根元に白い花が咲いています。
一つ一つの花は小さくて可愛いのですが・・・・、
白い花は稲田の端から中まで万遍なく咲いているのです。
家内に声をかけます。
「沢潟(おもだか)が咲いているよ!」
沢潟は家内の実家の家紋でありますから…、馴染みもあります。
   畔沿い
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                        沢潟は最初に畔沿いに生え、次第に田圃の中央に進出しています。
 
 
沢潟は白い三枚の花弁で、総じて地味な感じがします。
でも、葉っぱは細く長く、三枚に切れていますから特長があります。
沢潟が福島正則や毛利元就の家紋になったのは、その葉の形が「矢じり」だったからでしょう。
戦いは先ず矢を射る事から始まります。
沢潟紋は攻めて良し、守って良し、武勇の誉れ高い家紋だったのでした。
 
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                                                   沢潟紋
 
「おもだか」は和名で「面が高い」という意味でしょう。
葉っぱの形だけ見れば「面長」ですが、花を見下ろす高いところに葉っぱがあるので、
「面が高い」と名付けられたのでしょう。
 
我が家も稲作をしていました。
農地解放後十反余りの田圃が残されました。
それを、近くの農家の応援を得て、田植えから稲刈りまでしていました。
でも、その間の「田の草とり」だけは母が一人で担う仕事でした。
田圃に生える雑草(粟や稗、そして沢潟等の湿性植物)を抜くのです。
腰をかがめて、指先を開いて未だ幼い雑草を引き抜きます。
この作業を4、5回程度は行うのでした。
母一人の作業としては重労働でありました。
 
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   沢潟の特長は何と言ってもユニークな形をした葉っぱです。これが「オモダカ」の名の由来になりましたし、
   矢じりの形なので武家の家紋になりました。右下の緑の球は種です。
 
小学校の父兄参観日など、母は田の草取りを終えたそのままの姿で現れました。
晩年母によく言われました。
「お前だけが、父兄参観に少し小奇麗な格好をして来て欲しい!」言われたもんだ・・・、と。
私はそんなにストレートに言っただろうか?
疑問なのだが・・・、母がもう少し綺麗でいてほしい…、思っていたのは間違いありません。
 
我が家の田圃は十分田の草取りが出来ないので・・・、多分沢潟の花が咲いていたことでしょう。
農家の人が「盛徳寺の田圃は稲を育てているのか?沢潟を育てているのか?多分両方育てているのだろう。」
思った事でしょう。
 
今は田の草取りの機械もありますし、カルガモ農法も馴染みになりました。(カルガモに雑草を食ってもらう)
でも、減反政策で休耕田も増えていますので…、休耕田を根城に沢潟の種が田圃に流れてきているのでしょう。
いっその事、稲刈りを終えたら…、沢潟の根っこを彫り出して塊茎(くわい)を収穫したら良いと思います。
クワイはおせち料理に欠かせないのですから、厄介者が使えます。
でも、野生のクワイは固くて料理市し難いのかも知れません。
 
母が聞いたら…、屹度真顔で言うことでしょう。
「そうだねえ、沢潟(花くわい)も食べてみようかねえ・・・、里芋よりは栄養価が高いようだし・・・。」
 
 
弥生時代の稲田遺跡から沢潟の種が発見されています。
稲作当初から…日本人は沢潟と顔を突き合わせてきたのでした。
最後に万葉集から、
 あしびきの山澤(やまさは)回具(ゑぐ)を採みに行かむ
                      日だにも逢はせ母は責むとも
現代語訳は次のようなものでしょう。
”たとえ母が責め様と、私は山の沢に入って沢潟の花を摘んで貴女に奉げ、逢瀬を楽しみましょう。”
 
この歌の回具(ゑぐ)が何の花であるか諸説ありますが、沢潟である、とした説もあります。
エグい味のする山野草は数多くあります。
でも、沢潟ならば・・・、やはりエグい(苦味・辛味がある)ので一工夫必要だということでしょう。
 
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相模川の向日葵の花

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もう50年も前だったでしょう。
映画で「路傍の石」を見ました。
少年「吾一」が石合戦で負傷する場面がありました。
子供心に「危険な石合戦なのだから・・・、安全な場所で身を守ったら良いのに・・・」思って見ました。
水の権利や土地の争いを、石合戦の勝敗で決したのでしょう。
命がけで石合戦をする…、もう私達には理解できません。
川は「生活の場」から、憩いの場に変わってしまいました。
 
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                             今日の話題は相模川沿いの休耕田に咲く向日葵の花です。
 
相模川中流域の座間は対岸が厚木です。
屹度、江戸時代までは「石合戦」が行われていたのかも知れません。
川原を見ていると座間・相模原側(東)は土手も高いし、堤防下には広い草原があります。
座間側の堰堤草原では「大凧あげ」が実施され、春には土手が芝さくらで飾られます。
相模川が”地域おこし”に上手に使われていて、市民が川に親しんでいるように見られます。
厚木側(西)は砂州が拡げっていて・・・、魚とりやキャンプに興じている人の姿が見られます。
 
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                                        向日葵は全員東向きに咲いています。
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                   西から見れば向日葵の背ばかりが見えます。入道雲が湧きあがっていました。
 
座間では休耕田を利用して向日葵を植えています。
8月前半は栗原地区(丘陵)に咲いていますし、8月後半は相模川地区に咲きます。
     (栗原地区の向日葵は次に書きました http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46501373.html)
「夏休み中 向日葵で町おこしをしたい」、そんな思惑で順次に咲くように、植え付けをずらしているのでしょう。
今年は栗原地区、相模川沿い、両方見ましたが・・・、相模川沿いのほうが観光客も多いように見えました。
向日葵見物にはマイカーが欠かせません。
相模川の堰堤に駐車出来るので、
大半のお客さんは相模川沿いの向日葵の開花を待って出かけているのでしょう。
 
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                         遠くの山が大山、銀杏の木は相模川の土手に当たります。
 
お客さんが多いのですから・・・、模擬店が並びますし、農家は野菜の露天販売をしていますし、
子供に「ポニーに乗って、高いところから向日葵を見ない!」なんて誘っています。
花を見るのが目標なのですが・・・、あれこれ楽しい事は増えていたほうが魅力もあれば、お金も落ちます。
 
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                              座間の農家が軽トラで露天販売をしていました。
 
野菜販売の農家が怒っていました。
「あっち(本部テント)で販売しているのは千葉産の野菜、こっちは地場産の野菜だよ。
座間に来たら座間の野菜を買ってよ!」
千葉産の野菜を販売しているのは座間観光協会です。
地場野菜を売りたくても、数や種類が揃わないのでしょう。
仕方なく千葉産を仕入れたまでで、叱られる事でもなさそうな気がします。
 
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                                       本部テントは模擬店が並んで賑わっていました。
 
青田の中に、一面の向日葵の花。
青い空にもくもく湧き上がる入道雲、
紫に染まる大山の峰・・・、
山紫水明・・・・、何処を見ても夏の景色です。
 
テントの下ではトウモロコシを焼く匂いが漂います。
厚木のホルモン焼きも賑わっています。
どれもこれも食欲を刺激しますが…、胃の手術後の私には過激です。
仕方なく・・・・、カキ氷で我慢です。
目の前に「向日葵酒」を販売しています。
どんなお酒か興味がわきますが・・・・、これも飲めません。
まあ、仕方ないか・・・、諦めです。
 
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                  様々な「向日葵酒」 どんな味がするのか試してみたかったのですが・・・。
 
 
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大山参道の「絵灯篭」

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8月19日(日)大山に出かけました。
大山阿夫利神社の麓にならぶ「先導師旅館」を見る事、
そしてこの日まで行われている「絵灯篭」を見る目的です。
先導師旅館は別に書くことにして、今日は絵灯篭を書きます。
 
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    大山道(こちらは旧道のバイパス)に飾られた「絵灯篭」 巨大な御柱が二本立っています。
    諏訪神社のそれを思わせます。
 
絵灯篭祭りは今年で第7回だそうです。
大山道の両側に約80基の灯篭が並びます。
民家の庭先には夏の花が咲いています。
絵灯篭は花を背にしていますので、趣きが一段と深まります。
 
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   大山の奥山から切り出された御柱の前の絵灯篭。奇妙な組み合わせに感じるのは私だけでしょうか?
 
絵灯篭は大きなもので縦2m横1.5mで、多くが縦1.4m横1mです。
中には縦2m横3mの巨大な絵灯篭もあります。
まるで、駅のホームから見る「電飾看板」のような大きさです。
 
絵灯篭ですから和紙を使って、染料で描かれているのでしょう。
灯篭には電球が仕込まれていますから、夜になれば闇の中に絵が浮かび上がるのでしょう。
夜に来なければ絵灯篭を眺める価値も無いのでしょうが・・・・、
今回は昼間に見るだけです。
 
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                                                  向日葵に囲まれた絵灯篭
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                                                 百日紅を背にした絵灯篭
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                                            これが最大の絵灯篭でした。
 
絵灯篭の半分は専門の絵師によって描かれています。
絵師は着物美人画が得意なようで…、面長美人が並んでいます。
幾分艶めいて見えるのは…、致し方ない事でしょう。
残りの半分は地元の小・中学生や高校生等が描いています。
作者(寄付者?)は絵灯篭の側面に大書されています。
 
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                                       地元小学生作の絵灯篭、正面が大山山頂です。
 
正月に桜や紅葉の季節には沢山の参詣者で賑わう大山です。
50軒余りの先導師旅館が軒を連ねています。
温泉旅館街でもこんな規模のところは多くは無いでしょう。
夏場の客寄せのために、知恵を絞って「絵灯篭祭り」を始めたのでしょう。
 
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                                          アメリカ芙蓉に囲まれて絵灯篭
 
でも、こんなに着物美人が多いと、今晩は美人のお酌が楽しめる・・・、
なんてあらぬ期待をして…、空振りに終わりそうな気がします。
なにしろここは「阿夫利神社」と「大山寺」の淨域なのですから・・・・、色気は期待できません。(と、思います)
流石に先導師旅館は百人一首の「取り札」を絵にしたりしています。
 
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       先導師旅館に飾られた百人一首取り札の絵灯篭。
       美人画もいいけれど百枚の取り札を並べたほうが人を呼べそうな気がします。
 
 
  (注)【「先導師旅館とは】
     大山山麓にあった「宿坊」。宿坊に先導師が案内します。講中が到着すると先導師が祈祷や山上堂塔      の案内をします。元文4年(1739)22歳の木喰青年は大山の宿坊で先導師に誘われて得度をします。
     仏師木喰が誕生するきっかけは「大山山麓の先導師旅館」だったのでした。
 
 
 
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先導師宿の一夜(木喰の出発点)

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木喰(幼名不明)は享保3年(1718)甲斐の国丸畑の庄屋「伊藤六兵衛」の二男として生まれました。
丘陵がまるで馬の背のように連なった痩せた土地でした。
住人は林業の傍ら、丘陵を開墾し畑にして雑穀を栽培していたのでしょう。
少しでも油断すれば、丸い畑から転げ落ちて谷底に落ちてしまいました。
庄屋の倅でも次男です。
木喰少年には一家を構えるような将来性は無かった事でしょう。
   
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   昭和40年ころの丸畑。一番右端が木喰の生家伊藤家。痩せ地の畑は今は竹や雑木が生えています。
   (五来重氏著、微笑仏から転載)
 
 
享保16年(1730年)木喰少年は薬売りに連れられて故郷を出奔します。
江戸日本橋の薬問屋に奉公します。
牛のように鈍重な少年が大都会江戸に馴染めなかったことでしょう。
加えて商売は不得手だったことでしょう。
大福帳の記帳やこまめに日記を書く習慣をつけて、転職します。
江戸には馴染めず、と言って故郷には帰れず、悶々として転職を繰り返します。
 
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   大山の麓の先導師の宿。様々に変遷しながらも50軒前後あります。
   注連縄が張られているのは神道系の先導師が営んでいるからでしょうか?
 
元文4年(1739)22歳の木喰は当時流行だった相模の国「大山石尊参り」をします。
大山山麓の宿坊に一泊して、翌朝の山頂登りに備えます。
宿坊には様々な人が投宿しています。
宿坊の主は妻帯した修験者で、一般に「先導師」と呼ばれています。
関東一円から信者を大山に先導する山伏の意味でしょう。
彼等を大山に招き、大山を案内し、お札を配りました。
大山は不動堂から上は女人結界で清僧(妻帯しない僧侶)が住んで、本尊の燈明を守っていました。
一方、妻帯僧は山上から下され麓で宿坊を営み、護摩札を配札して生活を守っていました。
そんな宿坊が50もあったと記録されていました。
その晩、木喰青年は古義真言宗の高野聖の誘いを受けます。
そして、得度してしまいます。(得度:剃髪し仏門に入る事)
木喰は得度した理由や精神的変化を「因縁によりて・・・(四国堂心願鏡)」とだけ記しています。
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                先導師旅館。石碑に東京神酒講の宿であったことが記されています。
                こうした講人宿だったのでした。
 
木喰は大山で出家しただけではありませんでした。
大山不動尊のお札を関東一円に配って、先導師の役割をしながら生活していました。
しかし、お札配りの生活に何処か満たされないものがあったのでしょう。
宝暦12年(1762)48歳の木喰は常陸の国で「木喰観海」に木喰戒を受け「木喰行道」と改名します。
そして、全国を回遊する事を誓います。
全国回遊の出発地を大山(麓の伊勢原)とします。
 
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   栃木の栃窪薬師堂の12神将像、銘に「相州伊勢原の木喰行道」が彫ったと書かれていました。
 
木喰の日本廻国は一遍上人のそれと似ていますが、基本的に異なる部分もあります。
金剛杖と鉦を持ち、背に笈を担ぎ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えます。
でも、五穀を絶った山伏の姿でした。
 
木喰は蝦夷の江差に渡り、突然に仏像(子安地蔵・観音)を彫ります。
次いで佐渡や下野栃窪で薬師仏群を造像します。
12神将の背に「相州伊勢原町 日本廻国行者行道」と署名しています。
木喰の出家してからのホームグランドは大山であり、その宿坊の一夜であったのでした。
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                    初期木喰の大黒天像。 磨崖仏の彫方を思わせます
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   国東の「熊野磨崖仏」不動明王像。平安末期に修験者が彫ったものでしょう。
   木喰仏像を見ると修験者の技を思い起こします。
 
改めて、木喰の仏像を見ると「六郷満山」国東の石仏群を思い出します。
それは修験者が大岩によじ登り、鑿で刳り貫きながら石仏を穿り出す技法です。
謂わば「山の聖」の伝統であります。(逆の概念が「俗の聖」と呼ばれる妻帯僧です)
怖い威嚇的な磨崖仏の表情が印象的です。
 
木喰の微笑仏が出現するまでには、まだまだ多くの精神的な遍歴、充実が必要になります。
 
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          此方は立派な先導師宿、今は一般的な旅館で昼は豆腐懐石等を案内しています。
 
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   木喰の仏像に独特の微笑が現れるには、まだまだ時間と修行を要したのでした。
   写真は越後柏崎の薬師堂の薬師如来。(朝日新聞目録から転載)
 
 
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夏の終わりに咲く「高砂百合」

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今年の夏も百合を随分楽しみました。
夏の初めには「山百合」を探して野山に分け入り、禅寺の境内を散策しました。
                         http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46421201.html
夏の盛りには「鬼百合」を眺めました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46468081.html
そして、夏の終わりは「高砂百合」の名を持つ白百合が随所に咲いています。
私の生活圏では「横浜横須賀道路」の崖地に群生しているのが最も見事です。
屹度、日当たりが良い土地を好み、
乾燥地でも育成するのでしょう。
ただ、背丈がそれほど高くないので、毎年背丈の高い雑草を刈り込んである・・・・・必要があります。
高速道路の切り通しが最適な環境なのでしょう。
球根でも種でも増えます。
崖に根を下ろすと、種が辺り一面に散って、数年のうちに群落になったようです。
 
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                                       常楽寺仏殿の周囲に群生している「高砂百合」
 
 
アダムの妻のイヴは、蛇にだまされて禁断の果実を食べてしまいました。
エデンの園を追い出されてしまいます。
楽園を去る時、懐妊に気付いてイヴが涙を落とします。
涙は白百合になりました。
 
修道院に最も似合う花が白百合でしょう。
湘南白百合女学院も、関東学院も校章に白百合がデザインされています。
真っ白な花が純潔を表しているのでしょう。
 
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                           白さが魅力の高砂百合、香りもありません。(大船龍宝寺にて)
 
白い百合と言えば「鉄砲百合」でしょうが、鉄砲の名の通り真横を向いて咲きます。
花の前に立つと「鉄砲を向けられた」感覚があります。
その点「高砂百合」は少し俯き加減に咲きます。
野生種であることも素敵な事です。
女学生に相応しいのは「高砂百合」でしょう。
 
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                                      朝露に濡れた高砂百合(大船の常楽寺で)
 
     匂い優しい 白百合の
     濡れているよな あの瞳
     想い出すのは 想い出すのは
     北上河原の 月の夜
 
私が中学生のころヒットした「北上夜曲」です。
北上川の川原に咲いていたのは・・・、何という名の「白百合」だったのでしょうか?
 
多分高砂百合だったのでしょう。
北上川原を想像しました。
高校の修学旅行は東北でした。
北上市から東に行けば遠野でした。
 
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                             夏の終わりに一斉に咲いた高砂百合(これも大船の常楽寺で)
 
高砂の名がついているのは、台湾から日本に帰化した百合だからでしょう。
でも、日本人にとって「高砂」は結婚式の祝いの小謡です。
「高砂の松」と「住吉の松」は夫婦である…、という伝説がありました。(高砂神社と住吉神社)
この伝説を素材に世阿弥は能の「高砂」を作りました。
 
私達夫婦も銀婚式(25年)は忙しい中に過ぎ、金婚式(50年)が近づきました。
金婚式の祝い花は「高砂百合」にしようと思えば、今から庭に高砂百合を移植しておかなければなりません。
町の園芸店では鉄砲百合は並んでいますが、高砂百合は販売していません。
「欲しければ荒れ地に出かけて採取してきたら良いんじゃない!」
そんな風に思えます。
せめて、龍宝寺の住職に頼んで、種を貰って庭に撒いてみる事にしようか・・・!
考えます。
10月になれば種子も出来る事でしょう。
 
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                  涼やかな高砂百合。蜩の声も境内に響いていました。(大船龍宝寺にて)
 
 
 
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東京大空襲の記憶(善福寺逆さ銀杏)

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六本木の国立新美術館に出かけました。
その合間に「麻布山善福寺」に参詣しました。
今日は8月26日(日)麻布十番商店街は「納涼祭り」が行われています。
未だ午前中、その準備に忙しくしていて、有名な狸煎餅も開店前です。
善福寺は商店街を越して、参道の突き当りにあります。
参道には大きな柳があって、その根元に井戸があります。
弘法大師が柳の木の下で杖を立てたところ、水が湧きだしたと伝えられています。
 
私の祖母は度々善福寺の話をしていました。
祖父が赤坂の豊川稲荷に居ましたから・・・・、ご近所でお付き合いがあったのでしょう。
私はこの日参詣するまで「禅福寺」と書いて同じ曹洞宗のお寺さんだと勘違いしていました。
お寺に登って初めてこの寺が真言宗のお寺さんから、
親鸞聖人が越後配流を許されて戻ったとき、改宗したことを知りました。
以来浄土真宗本願寺派の寺院として、都内の古刹として信仰されてきています。
 
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                                手前が善福寺本堂。奥が元麻布ヒルズの威容。
 
一般に寺の参道を登り、入山する時の気持ちは格別です。
善福寺を登ると、本堂の上に異様な建物が見渡せます。
高級・高層マンション「元麻布ヒルズ」の威容です。
 
元々は善福寺の所有地をバブル崩壊の直前(1983年)に森ビルが譲り受けて、建設したものです。
森ビルは港区のお米屋さんが貸しビル業に発展したもの、
地元の古刹を見下ろすマンション建設に際して、景観などに配慮してこうしたデザインにしたものでしょう。
下層階が細くて、上層階が太い姿はついつい目を惹かれます。
建物自体を仏具の和蝋燭(燭台)にしたもののようです。
でも、麻布の山の頂上に立った和蝋燭は異様に見えます。
美しいとは思いません。
てらいもなくシンプルなビルのほうが良かったのではないでしょうか?
森ビルは愛宕山の青松寺にも高層ビルを二棟建てています。
 
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                                  善福寺に米国公使館が置かれていた記念碑
 
私の目的の一つが有名な「善福寺の逆さ銀杏」を見学することです。
本堂前にも大きな銀杏の木がありました。
樹下には記念碑が建っていて「安政5年(1859)日米修好通商条約に基づいて寺院内に米国公使館が設けられ、タウンゼントハリスが在留した」と記されています。
でも、この銀杏は次世代のようです。
逆さ銀杏は墓地内の東北の角にありました。
「逆さ」と名づいているのは通常枝は上に向かって伸びて行きます。
ところがこの銀杏の枝は、下に向かって伸びているからです。
 
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   逆さ銀杏の西側。こちらは傷もなく、樹皮も健康です。巨大な乳根が垂れ下がっています。
 
親鸞聖人がこの地で杖をつきました。
杖から根が出て、枝が伸びました。
でも、杖が逆さだったので、枝も逆さに伸びている・・・、そんな言い伝えのようです。
越後の国でも親鸞聖人の杖が大木に成長した…、言い伝えは複数あります。
奇瑞を説話に発展させるのは、布教のツールだったのでしょう。
 
驚くのはこの樹の生命力です。
樹齢は親鸞聖人の説話にも符合して750年と言われています。
でも、幹の上部は既に損なわれてしまっています。
幹回りは10.4メートルあるそうです。
何しろ圧倒的な幅です。西側から見れば樹皮はしっかりしていますが、
東側から見るともう痛みが進行しています。
幹の一部は炭化していて焼けた事実が解ります。
 
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            大銀杏を東から見ると大樹の髄が炭化してボロボロと落ちてきていることが解ります。
 
六本木には陸軍司令部がありました。(新国立美術館の敷地)
米軍は六本木を標的に空襲をします。
焼夷弾が雨・あられと落され麻布山も焦土に化したのでしょう。
麻布十番の町に燃え盛った炎は麻布山の山上に向けて走ります。
善福寺にも火の手が襲ってきていました。
「逆さ銀杏」は身を呈して火の手を防ごうとしました。
 
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                            六本木の陸軍司令部ビル(模型)新国立美術館にて
 
一般にお寺や神社に銀杏の木が植えられているのは・・・・、銀杏が防火の役割を果たすからです。
木も、葉も燃えません。
善福寺の逆さ銀杏も我が身を焦がしても本堂を守ろうとしたのでした。
結局逆さ銀杏を残して善福寺は全焼してしまいました。
 
逆さ銀杏はその威容に敬意を抱きます。
更に、東京大空襲の記憶を留めている事に、一層に畏敬の念を深めます。
国の天然記念物ですが、同時に歴史資産でもあります。
 
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  逆さ銀杏の乳根(ちちね)この樹は雄なのですがお乳が出来ます。
  乳根は料理用の「すりこ木」を思わせます。
  精進料理では多用する道具です。元麻布ヒルズの建物は「すりこ木」か「お杓文字」を思わせます。
 
 【追記】 善福寺には福沢諭吉先生の墓所があります。
 
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桃の実を股間に向けて…(筑土八幡・庚申塔)

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昔は真っ暗な夜を過ごすことが怖かったのでしょう。
とりわけ庚申の晩は怖いので、平安時代の貴族社会では夜を明かして「碁・詩歌・管弦」の遊びで夜を過ごす「庚申御遊」が貴族の習わしになっていたようです。
鎌倉時代以降、この遊戯的な習慣は武士階級に波及し、酒や魚が振る舞われるようになります。
江戸時代になると一般庶民に普及します。
僧侶によって「庚申縁起」が作られ、庚申の遊びは仏教的な倫理・信仰に組み込まれます。
日吉(ヒエ)山王信仰とも集合し、山王の神使である猿を描くものが著しくなります。
庚申信仰は仏教、神道、道教様々な信仰が集合する中で、猿が共通するシンボルになります。
仏教は帝釈天、青面金剛(帝釈天に似る)を主尊に、神道は猿田彦神を主尊にします。
どちらにも共通する者が「言わず、見ざる、聞かざる」の3猿でした。
 
庚申塔にはおどろおどろしい青面金剛を描かずに猿を描くものもありました。
多くは山王権現の「烏帽子狩衣」を着た猿ですが、中には変わった猿も多く描かれます。
 
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)にそんな庚申塔を見に出かけました。
場所は神楽坂にあります。
でも、正確な位置は解らずに「神楽坂の真ん中だったろう」、
適当な推量で出かけた先は「神楽坂毘沙門天」様で…、そこから筑土八幡神社には相当な距離がありました。
何と、熊谷組本社の北側でした。
銀行員だった時代に度々熊谷組を心配し、同社を訪れました。
同社から真っ直ぐ駅に向かわずに、一寸見回せばこの八幡様に気付いたでしょうに・・・。
 
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                                              筑土八幡神社
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                              社殿。写真右端の大きな石塔が今日の話題の「庚申塔」です。
 
熊谷組と升本(料理や)が奉納した鳥居、石組が参詣者を迎えてくれます。
お手水の横に目指す庚申塔はありました。
私の背丈は十分にある巨大な庚申塔です。
 
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                                                 庚申塔の全景
 
寛文4年(1664)に造立された古い庚申塔です。
全体が舟形をしていますし、基台の花立ては蓮弁がデザインされています。
遠目に見ればお地蔵様が祀られているように見えますが、少し近づけば二匹のお猿さんであることが解ります。
お猿さんは「見ざる、言わざる、聞かざる」に三猿ではなく、雄と雌です。
 
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立って、歯をむき出して歓喜の表情をしているのは雄の猿です。
右手には桃の枝を持ち上げています。
枝先には二個もj熟した桃の実がついています。
屈んでいるのが雌のお猿さんです。
雌猿も桃の実を持って差し出しています。
桃の実は雄猿の股間に向いています。
雄猿の一物は元気になっています。
雌猿の大切なお顔は破損されていて良く解りません。
雄のように歯を剥いてはいません。
雌猿は慎ましやかに、微笑んでいるのでしょう。
「まあ、お父さん元気になってよかったわね・・・・・、これも桃のお蔭でしょう」
とでも呟いているのでしょうか?。
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一般の宗教は死後の世界を説明し約束します。
善行を重ねれば死後に極楽に往生出来る、悪行にふければ地獄に堕ちる・・。
江戸時代の庚申信仰は大いに異なりました。
善行を重ねれば、その成果が生前にこの世で受けられる。
長生きでき、夫婦も円満で、子孫も繁栄する。
悪行をすれば災いがこので起こる。
病気になったり、子供が出来なかったり・・・・・。
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                                                  群猿庚申塔(江の島)
 
一方、桃の実は「魔除けがあって、若返り長寿効果がある」と信じられてきました。
桃太郎は桃の実から生まれましたし、箸墓古墳からは大量の桃の種が出土しました。
筑土八幡神社の男女のお猿さんが桃の実を掲げているのは、
「不老長寿で夫婦円満に過ごしたい」そんな庶民の願いを形にしたものでありましょう。
中々に良く出来た庚申塔です。
 
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                                                   山王権現の烏帽子猿
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                                                   護国寺庚申塔
 
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「読売書法展」の見学記

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8月21日、読売新聞紙上に「第29回読売書法展」の作品が全二面に掲載されました。
一般に「書道」というのに、聞きなれない「書法」と主張するのは、屹度深い意味があるんだろうな?
ぼんやりと思いながら、紙上で受賞者の作品64点を眺めました。
 
突然に日文研2期の先輩H.Tさんから招待状2枚が送られてきました。
夏の初め毎日書道展に「日文研6期のS.Aさんの作品を見た・・・」報告を当ブログで書いたことから、
気遣いをして貰ったのでした。
何かなければ都心に出かける事も無い生活ですから・・・、出かけるきっかけになりますし、
会場の「国立新美術館」には思い入れもあって・・・、8月26日夫婦で出かけました。
 
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          読売書法展第一会場「国立新美術館」。設計は黒川記章氏
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読売書法展第二開場「池袋サンシャイン」の入り口付近
 
私は美術館は朝9時開場と錯覚していました。
すこし時間潰しをして、開場と同時の10時に入場しました。
 
読売書道展は2万7千点もの作品が池袋サンシャイン会場を併せて展示されています。
先ず、そのボリュームと作品の持つ熱意に圧倒されました。
見学で目も脳も疲れました。
日本の書道人口は凄いものがあるんだ・・・・、実感しました。
 
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                展示場の風景。目録で出展者の展示室を確認して目的の部屋に向かいます。
 
私の実家のお寺でも母が書道教室を行っていました。
子供達を集めて、教えていました。
お習字を書くには姿勢が大切で、
背筋を伸ばして、体と机の間には拳一つ置いて、机の面がお臍の高さにして・・・・・・、
紙面全体を見下ろしながら…、肩と手頸の力を抜いて・・・、運筆しなさいよ。
母が教えていましたが…、子供は直に飽きてしまって・・・・、膝を崩してしまいました。
 
書法には中国の言葉で・・・・、「書の形式」ということでしょうか?
読売書法展は1984年「伝統の書を継承しながら発展向上を目指してスタートしたそうです。
そして、約30年書壇を代表する公募展に発展しました。(読売新聞記事)
 
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   今井凌雪さんの遺作(昨年88歳で亡くなられました。奈良在住)「老馬識途」。
    春秋時代、斉の国で管仲が王の供をして 遠出した。ところが帰路、道が判らなくなり王は途方に暮れた。    その時管仲が「年老いた 馬を放して帰還することが出来た。凌雪さんの心境通りの故事でしょう。
 
書の形式を習熟すれば…、自ずと作家の個性や題に対する理解が現れるのでしょう。
同じ万葉集の家持を書にしながら、書家によって作品の趣は大いに違ってきます。
先生の作品を模倣ばかりしていては…、書法に適さないでしょう。
書法に徹すれば…、作品は多士済々になるのでしょう。
 
同じような作品が陳列されると…、飽きてしまいます。
読売書法展は個々の作品に個性が強いので…、見て面白いのですが…、疲れました。
公募展が充実している限り、読売書法は発展し続けているということでしょう。
 
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  杉岡華邨(すぎおかかそん)さんの遺作。今年3月98歳で亡くなられました。(奈良在住)、2000年文化勲章。
  月待ちの のぼる光のきわまりて 大きくもある冬最上川
  死者の魂が帰るといわれる月山に月があがりました。
  山裾には最上川が月明かりに照らされて大きく蛇行しながら流れています。
  最晩年の杉岡さんの心情が私にも解るような書です。同氏は書法展の今日の盛況の礎を築かれたのでしょ  う。
 
 
H.Tさんの作品はサンシャイン会場の3階第1室にありました。
同氏は実績があり、既に会友扱いと聞いていますから…、
この部屋は会友の作品が展示されていたのかもしれません。
 
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                                                         H.Tさんの書
 
家内と何と「書いてあるんだろう?」 意見を出し合いました、万葉集は中々読み難いものです。
H.Tさんにも確認しました。
 
   暇なみ来まさぬ君にほととぎす 我かく恋ふと行きて告げこそ
中々会いに来てくれないつれない人に…、ホトトギスよ”私が恋焦がれている”と伝えてくださいな!
そんな意味でしょう。
 
二首目は
     言繁み君は来まさずほととぎす 汝れだに来鳴け朝戸開かむ
 
噂が立ったので愛する人は来てくれません。ホトトギスよ、おまえだけでも来て鳴いておくれ。
朝の扉を開け放って置きましょう。
 
屹度H.Tさんがこの作品を仕上げていたころはホトトギスの啼く季節だったのでしょう。
今年は鎌倉でも明月院裏で何度も聞いたホトトギスの鳴声です。
H.Tさんがお住まいの多摩丘陵も自然が豊かで、ホトトギスの啼き声を心待ちする・・・、
そんな場面もあった事でしょう。
 
一首目と二首目は応答歌ではありません。
でも、まるで男女二人の応答歌のように聞こえます。
血を吐いて啼くといわれるホトトギスです、昔も今も度々恋心を表しました。
だから、この二首を一緒に書かれたのでしょう。
 
ご本人は”私はマダマダ”と謙遜されてい居られましたが、
少しも媚びた所が無い、おおらかな良い書と思いました。
私は好きな書です。
長年の研鑽の成果でもありましょう。
 
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   津金孝那氏の書。 夢と題して鴎外の三首を書いておいでです。
     わが夢の曠野には 汝いかでいでて見ん
     阿古屋貝 蔵せる珠 汝が夢の楽園に
     ともすれば われゆかん 清冷の淵なる 魚
   良い書だな…、ほれ込みます。でも、もう遠い昔の記憶です。
 
幾つかの作品を見ていて「書道」とは呼ばず「書法」とい聞きなれない名をつけた事由が解ったような気がしました。
書道が芸道に堕するのではなく、「書法」という書を書く形式を大切にすることは、
書家の個性や題の内容を大切にすることのようです。
そう思うと、HTさんの書も「書法」に徹していると思いました。
 
九月二日まで展示されています。
 
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軽井沢湿原の蜘蛛の巣

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「軽井沢で暇しているから来いや!」
大学時代からの友人I君の誘いで、同じ仲間のH君と軽井沢の別荘にお邪魔しました。
I君は軽井沢で仲間も出来たようで、友人手作りの有機野菜や軽井沢で栽培したお蕎麦を戴きました。
 
I君は話してくれました。
別荘の辺りには狸が出る事、
蛍が増えている事、
一方で山野草の盗掘が増えて、花が減っている事・・・・・。
 
私は、ブナ林の中から赤ゲラ(啄木鳥)、アオバズク(梟)が顔を出さないか…、聞きます。
私は運が無いのか、前回も昨日も見つけられませんでしたし、
啄木鳥の木を叩く音も、梟の夜啼きも聞けませんでした。
 
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   向かいが浅間山。手前が発地湿原。霧が流れて行きます。細道の左が八風山の麓になります。
   今日の話題はこの湿原の生命多様性です。
 
もう夜が明けたかな?
目が覚めます。
木立の上の空が朱色です。
朝焼けです。朝焼けを見ようと外に出ます。
I君の自転車を借りて、別荘地を下ります。
 
別荘地の坂を下った先は湿原です。
200haもある広大な湿原です。
名前は無いようです。
地名を取って「発地(ほっち)湿原」とでも呼びましょう。
発地湿原には蛍の保存会の看板が立っています。
 
この湿原は数十年前前までは一面の田圃だったのでしょう。
それが、減反で放置された・・・、
その結果今は湿原に戻りつつある。
湿原の東側は群馬県境との山脈が囲っています。
北から大山(1183m)、日暮山、八風山(1315m)で、I君の別荘は八風山の麓にあります。
西南の方角には浅間山(2526m)小浅間が見張らせます。
私もI君も発地湿原越しに見える浅間山が一番好きです。
浅間山の8合目あたりにある大きな崩れが魅力です。
 
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                                   自転車で出かけたところ、湿原は霧の中でした。
 
 
湿地には周囲の山から谷川が集まっています。
水はブナ林の栄養を湿原に溜め込みます。
だから…、湿地は四周のブナ林の恵みがストックされます。
そのお蔭で、湿地は沢山の命を養っているのです。
 
見る見る霧が立ち込めて、朝焼け空を覆ってしまいました。
5m先はもう見えません。
道の向こうに動物がジッと此方を見ています。
「狸かな?」期待します。
 
少し大きいし・・・・、細長いので野犬のようです。
蝙蝠も、ツバメも飛んでいます。
彼らは霧に影響されないのでしょうか?
 
大待宵草の群落があります。
その先には蕎麦畑があります。
昆虫が喜ぶ花が沢山咲いています。
昆虫たちは此処に集まってきます。
霧が晴れたら・・・・、花と虫の楽園になります。
 
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                                            蕎麦畑の霧が動いてゆきます。
 
霧が動き出しました。
東の山端の上にお日様が昇り始めたのです。
湿原の全容が現れ出しました。
すると、驚きの光景が目に飛び込んできました。
無数の蜘蛛の巣が、朝露に濡れて、沢山の珠を輝かせています。
 
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                                    大待宵草の群落の手前で巣を張りました。
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                                         アザミの奥に巣を張っていました。
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近づいてみれば蜘蛛の巣の主は「長黄金蜘蛛」です。
私の住まいに棲んでいる女郎蜘蛛の仲間ですが、すこしズングリしていて、色が黄金色です。
蜘蛛は巣の中央にデンと構えています。
獲物が架かったら瞬時に絡め取る姿勢です。
私はこんなに目だったら、蝙蝠に簡単に捕まってしまうだろう…、心配です。
梟もツバメも蜘蛛は食べないのでしょうか?
 
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              湿原全面に張られた蜘蛛の巣。朝露が珠になってまるでビーズのようです。
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軽井沢にこんなに豊かで広い湿原があることが貴重です。
偶々減反政策のお蔭で復活しているのでしょうが・・・・・。
 
湿原には鴫が棲みます。
私は未だ見つけていません。
鷺の仲間やヨシキリは良く見かけますが…、鴫が最も美しいと思います。
そして貴重です。
「鴫の棲む湿原」なんて最高です。
 
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   霧が晴れたらまた浅間山が顔を出してくれました。畑では農夫がキャベツを収穫していました。
   朝露が深いので野菜に水を撒かなくても柔らかいキャベツに生育するのでしょう。
 
 
 
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浅間山と蕎麦の花

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昨日は軽井沢湿原(仮名)に棲息する「長黄金蜘蛛」を報告しました。
辺り一面「蜘蛛の城」と化した湿原は生命多様性を示していました。
何故無数の蜘蛛の巣が張っているのか?
最大の理由は「蕎麦の花」であろう…、憶測します。
 
軽井沢の発地辺りは元々は湿原であったのでした。
江戸時代になると、発地は中山道の姫街道が通り、開拓もされます。
人々は湿原に鍬を入れて、新田を開拓しました。
葦が茂っていた湿原に稲穂が波打ちました。
 
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                霧が晴れようとしている軽井沢発地の湿原。向こうの山は上州国境に近い八風山。
 
ところが、高度成長下に減反政策が実施されました。
田圃は何時の間にか湿原に戻ってゆきました。
湿原には蛍が飛び交い、鴫などの野鳥が営巣し、山野草が生い茂りました。
湿原そのものの美しさ、多様な生命が人々を魅了しました。
 
そして、何時しか湿原を埋め立てて、ブルーベリーやイチゴを栽培する人、
蕎麦を育てる人が目立つようになってきました。
 
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                   軽井沢発地の湿原も西に向かうと畑が増えてきます。 正面が浅間山です。
 
蕎麦の花は昆虫が大好きです。
蜜蜂は鉄分の濃い蕎麦の蜜を好んで集めます。
蜘蛛の巣が多いのはこうした昆虫を捕獲しようとする為です。
 
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                                   軽井沢発地の蕎麦畑。今が一番綺麗です。
 
蕎麦は2ヶ月程で収穫できます。
春に種をまいて夏に収穫し、収穫と同時に種をまけば秋にも収穫できます。
今夏の終わりに咲いているのは秋型の蕎麦で、10月末には収穫できます。
「新蕎麦出来ました!」私が誘われる蕎麦は今咲いている花が実ったものです。
 
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   1mも伸びた蕎麦。蕎麦は稲や麦の仲間とは違う蓼科(双子葉植物)です。
   荒れ地でも育ちますが、やはり適量な水分と滋養のある地質が良い蕎麦を育てるのです。
   背景は浅間山、山頂近くに追分火口が見えます。
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霧が露になって花を潤しています。霧が適量な水遣りをして立派な蕎麦を育てます。
         霧下蕎麦と呼びます。蜘蛛の糸が絡んでいます。
 
蕎麦は縄文時代人も食していた穀物です。
そして、荒れ地でも生育するので、飢饉対策としても大切な穀物でした。
「飢饉の心配」が生じたら…、蕎麦を撒けば2か月後には食べられます。
葉っぱなら1か月足らずで食べられます。
私の好きな木喰上人の生地「丸畑」も蕎麦や粟を栽培していた貧村でした。
上人の骨格も精神も蕎麦が育てた…、確信しています。
芭蕉が奥の細道で食していたのも「蕎麦」が一番でした。(曾良日記から)
 
蕎麦の産地と言えば北海道、山形、福島、長野の順です。
北海道を除けば何れも江戸時代に飢饉に悩まされた地方です。
蕎麦の有難味が骨身に浸みた地域でした。
 
その地方地方で育てられた蕎麦の種も違えば、食べ方も異なりました。
蕎麦切りにするのは共通しますが、ツナギも違えば、そばつゆの味付けも異なります。
その違いが、また私達を楽しませてくれます。
 
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小林一茶が「信濃では月と仏とおらがそば」と吟じたように、長野は蕎麦の名所でした。
長野でも、南信州、北信州でも蕎麦の味は随分違います。
更級蕎麦、戸隠蕎麦と言えば全国ブランドです。
地方出身者が東京で同名の蕎麦屋を成功させたのでしょう。
浅間山の麓の蕎麦は・・・・・・、美味しいのに特にブランドは無いようです。
 
浅間山山麓の蕎麦が美味しいのは秘密があります。
昨日も書いたように軽井沢湿原には濃い霧が降ります。
夏の昼夜の気温差が大きく、明け方に深い霧が下りるのです。
霧が降りれば、適切な水遣りになります。
蕎麦の体は立派に育ちます。
実が締まって、たんぱく質やグルテンを豊富に蓄えた美味しい蕎麦になっているのです。
霧が育てた蕎麦の意味で「霧下蕎麦」と呼ばれます。
 
蕎麦好きな私ですが、今年6月に胃の部分摘出をしたことから…食事制限中です。
蕎麦は何時ごろから食べられるか?
病院では蕎麦は胃の負担が大きいので・・・・、控えるように言われています。
麺のなかでは、うどん、スパゲッティー、ラーメン、ソーメン、最後に蕎麦だそうです。
まあ、新蕎麦の頃には食べられるだろう…、想像していました。
ところが、I君の別荘の隣人が蕎麦をプレゼントしてくれました。
「蕎麦打ち」は、一定量ないと纏まらないのでしょう。
お蔭様で・・・・・、術後初めて、大分早すぎる蕎麦を食する事が出来ました。
野沢菜のわさび漬けを添えて、風味豊かな・・・、少し固すぎる蕎麦を、
良くかみしめながら、胃袋の様子を気遣いながら味わえました。
 
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    種蒔きから育てて、そば粉を挽いて、蕎麦を打った・・・・、真心のこもったお蕎麦を戴きました。
 
私の瞼には軽井沢湿原の蕎麦畑が浮かんでいました。
このように蕎麦自体を自家栽培して、粉に挽いて、蕎麦打ちをして・・・・、食べる人が増えたのです。
だから・・・・・、浅間山の麓には蕎麦畑が増えました。
 
浅間山を背景に咲く蕎麦の花が一番綺麗だ・・・、実感します。
 
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    浅間山をバックに咲いた蕎麦の花。”浅間山には蕎麦の花が似合う” 太宰治の「富嶽百景」をコピーして。
 
 
 
 
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姫街道の88観音像

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昨日までは軽井沢発地の湿原を報告しました。
周囲をブナ林に囲まれた湿原は様々な生物を育んでいました。
その湿原の西脇に細い道が通っています。
道の西には軽井沢72ゴルフコースが、東には三井の森カントリークラブがあり、
その他にも幾つものゴルフコースに隣接しています。
 
この細道が中山道の「女街道・姫街道」なのです。
姫街道は上州の下仁田から和美峠を超えて借宿宿で中山道に合流します。
碓氷峠の難所と横川の関所避ける事が出来ました。
もっとも、利用者は女性に限らず老若男女一般の旅人も姫街道を使いました。
軽井沢3宿(軽井沢・沓掛・追分)にとってはライバルだったわけでした。
今では中山道(国道18号線)以上に江戸時代の面影を残し、文化財も豊富に保存されています。
 
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                      中山道の姫街道、借宿近くの景色。正面は浅間山。追分火口が見えます。
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                 発地から借宿に向かう途上に祀られた観音像(左右)、道祖神(真ん中)。
 
上州無宿者と言えば古くは国定忠治であり、最近は木枯らし紋次郎でしょう。
何れも飢饉の頻発した時代に、弱いものの味方で義民のように活躍します。
そんな舞台を髣髴させる村と村、宿と宿を繋ぐ細道です。
路傍には地蔵さんや馬頭さんが祀られ・・・・・、お堂に宿って雨露を凌ぎました。
そんな映画の小道具がそのまま残っています。
 
発地地区のほぼ中央に「馬取(まとり)」と呼ばれる集落があります。
馬の鼻取りをする馬子(まご)が住んでいたから「馬取り」と呼ぶのでしょうか・・・、
民謡の「信濃追分馬子唄」を思い起こすような名前です。
馬取り集落の南に薬師堂があります。
街道から石段を5m程登った位置です。
石段の両脇に大きな栢木が立っています。
栢木には葛が絡んで、もう紫色の花を咲かせていました。
 
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      馬取の薬師堂、左右に大きな栢木がたっています。右の庭に88観音が祀られています。
 
薬師堂の庭に「馬取百観音」が祀られています。
昭和48年軽井沢町の文化財に指定されました。
その時に軽井沢町教育委員会、文化財審議委員会が案内板を立てて説明しました。
「此処の石造物は破片を含めて100体があり、うち百体観音像は88体あります。馬取地区の人々が生活の安穏と豊作を祈った民間信仰の様子を示す資料です。」
以来、82文化財団(多分地元銀行が設立したものでしょう)をはじめ多くの案内はこの文言を使っています。
私は通り一変で面白味が無い…、思います。
 
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  馬取観音像群。石仏の目の前に沢山の栃の実が転がっていました。筆者はこの石仏を次にも書きました。
 
 
  
此処の石仏群は少なくても2種類があります。
一つは圧倒的に多い観音像群です。
88体あるのですから・・・・、四国観音霊場と符合します。
最初から四国霊場を馬取に勧請したのではないのか?
思います。
 
建立された江戸時代末期は各地で百観音が建立されました。
その時には基台に西国何番、坂東何番、秩父何番と霊場の名が刻まれていますし、
多くの場合寄進者の名も刻まれています。
馬取の場合は何も刻まれていません。
 
馬取の人たちは一度は弘法大師の霊場巡りをしたい…、思っていても遠い四国には行けません。
そこで、石工に頼んで88霊場を村はずれに立てて貰ったのでしょう。
霊場巡りは「同行二人」と言います。
村外れを詣でれば弘法大師に巡り会える・・・、そう思ったことでしょう。
 
観音像は二つの特長があります。
一つはお顔が大きく、笑顔で、お結びのような形なのです。
もう一つは合掌型が多いのです。
聖観音も十一面観音も千手観音も皆合掌しています。
如意輪観音だけが手を頬に当てています。
 
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                         殆どの観音像は合掌しています。
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                                   お結び顔が特徴です。少し笑みも見えます
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                                         如意輪様だけは合掌していません。
 
もう一種類は庚申塔に見られる意匠です。
まるで蜘蛛のように6本の腕を伸ばしています。
望月辺りで良く見かけるデザインです。
 
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                 観音像とは違う石工が建立した特徴のある庚申塔。望月辺りで良く見かけました。
 
 
私は思います。
軽井沢72はじめ多くの開発が実施されるまでは、馬取地区のあっちこっちに散っていた石仏を、
昭和48年頃にこの薬師堂の前庭に集めたのではないのか?
背の高い二十三夜塔や庚申塔は奥のほうに並べました。
そして88観音像を前に並べてみました。
馬取地区の住人の様々な信仰がこの場所に集められ展示されました。
 
昨年は6月と10月落葉の季節に訪れました。
今年は夏の終わりに登りました。
薬師堂は未だ萱の実は熟していません。
でも、栃の実は沢山落ちていました。
6月にはマロニエの花が散っていたのでしたが…、今日は実が散っています。
観音様の目の前に沢山転がっていますが、誰も拾わないようです。
栃の実の丸さが何処か観音様のお顔に似ているように思いました。
 
姫街道は自然が豊かです。
同時に歴史資産も豊かです。
私は自然を大切にすることは、歴史を愛しむ事に通じていると思っています。
自然と歴史が混然として守られている・・・、そんな姿を見ると心底から安堵します。
軽井沢姫街道は珠玉の道です。
 
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                        栃の実、花を言う場合はマロニエと呼ぶ事が多いようです。
 
 
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コスモスの咲く姫街道

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発地湿原から嬬恋に向かいました。
I君が助手席で右に左に案内してくれます。
車は突然に人だまりの前に出ました。
こんな田舎に、どうした事か?
思えば、此処は信濃追分駅、若い女性が大挙して押し寄せているのです。
駅から20分ほど落葉松林を抜ければ、追分宿です。
追分宿には堀辰夫や立原道造の文学碑があります。
文学少女(?)が大挙して押し寄せてくるのです。
今の季節、彼女たちの脳裏にあるのは「夏の旅」でしょう。
 
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                  姫街道借宿近くからの浅間山の眺め。 向こうの林の中に追分宿があります。

   村はづれの歌     立原道造
 咲いてゐるのは みやこぐさ と
 指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
 
右は越後へ行く北の道
 左は木曾へ行く中仙道
 私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
 さうして 夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
 馬頭観世音の叢に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立つてゐた
 
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                            姫街道の石仏、左から馬頭観音、道祖神、聖観音。
 
立原道造は追分宿の油屋旅館に逗留します。
室生犀星は「我が愛する詩人の伝記」で道造のことを書いています。
24歳で夭折した才能を惜しんでいます。
 
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         発地の農道に咲いたコスモス。200m右に姫街道が通っています。
 
昭和52年狩人はコスモス街道を歌います。
歌のサビは次の通りでした。
 右は越後に行く北の道
 左は木曾まで行く中山道
 続いている コスモスの道が
「村外れの歌」は「コスモス街道」に書き直され…、ヒットしました。
 
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下仁田から岩村田に通じる内山街道が早速にヒット曲に応じました。
中世には武田信玄が進軍し、江戸時代になると中山道の裏街道として利用された内山街道でした。
村興しのため、道の端に休耕田にコスモスを咲かせました。
追分宿からは少し離れているのですが・・・・。
でも、追分は18号線に面していて、コスモスを咲かせる余裕はありません。
何時しかコスモス街道と言えば内山街道のことになりました。
 
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               コスモス街道(内山街道)のコスモスの花。遠くの山の向こうが下仁田です。
 
発地湿原を通る道が(中山道の姫街道)があります。
追分の隣「仮宿宿」で中山道に合流します。
この姫街道には馬頭観音も道祖神も数多く立っていますし、
コスモスも良く咲いています。
東京から進出してきた人たちが農作業の傍ら、姫街道沿いに花を咲かせているのです。
コスモス街道のイメージに相応しい街道です。
 
 
桜は南国から咲きだし、桜前線は北上します。
逆にコスモスは北から咲きだし南下します。
もう軽井沢はコスモスが満開です。
明治時代に日本に伝来して、瞬く間に日本の風景に馴染んだ珍しい花です。
この秋も楽しませてくれそうです。
 
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                                    姫街道の発地に咲いたコスモス
 
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                                           白いコスモス。左は百日草です。
 
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軽井沢湿原に群れる「月見草」

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軽井沢発地湿原の草花の話をもう一つさせてください。
 
湿原は元々は田圃だったもの、それが休耕田として放置されたことから、湿原に戻っていたまでのことでした。
ところが、近年になって湿原を埋め立て、イチゴやブルーベリーを栽培する人が目立ってきました。
道路沿いの湿原に土が運ばれ、埋め立てられました。
そんな所には大待宵草が群生して、黄色い花を咲かせています。
 
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         軽井沢の発地湿原に咲いた大松宵草。4枚弁の一日花で良く目立ちます。
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                                       朝霧の中で大待宵草の花だけが目立ちました。
 
 
大待宵草の隣、湿地側には溝萩が紫の花を咲かせています。
横浜では旧盆の頃に咲いていた溝萩ですが、軽井沢は今頃花盛りです。
昨日書いたコスモスは横浜では未だ咲いていません。
溝萩は南の地方から咲き出し、開花前線が北上する・・・・、夏の最後の植物なのでしょう。
そして、コスモスは北から咲き出して開花前線が南下する・・・・、秋の最初の花なのでしょう。
夏花と秋花の開花前線が今、軽井沢で交差しています。
コスモスも溝萩も軽井沢では色が濃く、鮮やかに見えます。
 
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   朝霧が晴れると大待宵草の隣、湿地側には溝萩が咲いていました。横浜に比べれば1か月遅れです。
 
待宵草はその名の通り、夜を待って夕方先出し、朝には萎れてしまう一日花だからでしょう。
夜に飛ぶ蛾(雀蛾)に種を勾配してもらうために、夜だけ咲いているのでしょう。
だから、闇でも目立つ黄色い花になりました。
 
大正2年(1913)竹久夢二は「宵待草」と題して詩を創作します。
でも、発表に際して「待宵草」と改めます。
詩人の感性が逆転させたほうが語感が良いと判断したのでしょう。
詩を素材に歌謡曲もヒットし、「待宵草」は「宵待草」に変換されてしまいました。
  ♪ 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな ♪
 
 
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                                   浅間山には吾亦紅が似合うように思いました。
 
 
昭和14年(1939)太宰治は破滅に瀕した生活を立て直すため富士山麓を旅行をします。
この時の紀行を「富岳百景」として発表しました。
書き出しの「富士には月見草が良く似合う」フレーズが人気を博します。
 
壮大で秀麗な富士山は誰でも知っています。
太宰はそんな富士山に対峙するかのように咲いている「月見草」を美しいと感じたのでしょう。
でも、月見草は別の白い花で、御坂峠に咲いているのは「大待宵草」なのでした。
若い作家の感性は「大待宵草」ではなく、「月見草」だったのでした。
 
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                                   霧の中で浮かび上がって見える大待宵草の花
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                                  霧が晴れると、辺り一面大待宵草が咲いていました。
 
「大待宵草」の名は良くその体を表しているのですが、詩人や作家の感性は別の名前を選択させました。
お蔭で、別の名前が今では一般化しています。
 
田園都市線の「月見野」は憧れの住宅地です。
元々は多摩丘陵の端っこ、大待宵草の咲く丘陵地だったのでしたが・・・・、
東急電鉄は宅地開発の先だって公募しました。
私の友人は「月見野」で応募しました。
大待宵草が咲いていました。
でも、太宰治に従って「月見草の咲く街」といった名を付けたのでした。
「待宵草野」とか「宵待野」では幸い薄く貧乏臭い感じがします。
 
軽井沢発地湿原の大待宵草は埋め立ての結果群生したものです。
このまま放置したら…、湿原の生態系はまた変化して・・・、何処でもあるような荒れ地になってしまうでしょう。
大待宵が消えて葛やセイタカアワダチソウが生い茂って・・・・、
今のまま、葦やススキ等の湿性植物が生い茂って…、野鳥が棲む。
そんなままであって欲しいものです。
大待宵草は綺麗ですが、この湿原では見たくありません。
 
埋め立てには何らかの規制も必要なのでしょう。
 
霧が晴れたら…、頭上に賑やかな啼き声が聞こえました。
驚いて頭をあげると、無数の雀が電線に止まっていました。
昨晩も電線の上で過ごしたのです。
 
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ツバメはこの夏に成鳥に育って、今体を鍛えているのでしょう。
一日中湿原を低く飛び回って、たらふく虫を食べて、立派な体に育って・・・、
今月末には大挙して南の国に渡ります。
渡りはもうすぐです。
来年もこの湿原で子育てするように…、この環境を守りたいものです。
ツバメが渡れば、鴫等の冬鳥の姿を見る事が出来るでしょう。
 
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                                 湿原で十分な餌に恵まれ、太ったツバメの子供達
 
 
 
 
 
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霊場「閼伽流山・百観音」

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私も友人も日本文化研究会のメンバー、今回の逗留でも歴史文化財を見学しようと思います。
でも、佐久地域は既に何度も逗留し、私達にとって初めての文化財はそれほど多くはありません。
山川出版の歴史散歩も歩き尽くしました。
佐久市作成の観光マップを見ていたら、歴史の臭いのする地名に気付きました。
閼伽流山(あかるさん)1027mです。
山腹には上信越自動車道「閼伽流山トンネル」が通っています。
 
どうも道が狭隘で、通れないかもしれない。
そこで、I君が別荘に備え付けにしている日産マーチに乗り換えました。
これなら、少し道が狭くても大丈夫でしょう、
でも、カーナビが不調で、山の姿と観光マップを見ながら閼伽流山に向けて走りました。
昔はずっとマニュアルでした。
 
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                 閼伽流山明泉寺への道。紅蜀葵(こうしょくき)が盛んに咲いていました。
 
閼伽流山は上州との国境八風山(1315)の山続きです。
ですから、昨日まで書き続けた軽井沢発地の東側にあります。
軽井沢側から見れば何処にでもあるようななだらかな山なのですが、佐久側から眺めると、
山頂はテーブル状の岩場が続いています。
霊山・修行地の臭いがします。
 
閼伽とは仏様に奉げられる聖水のことです。
霊気に満ちた巨岩があって、その割れ目から聖水が流れだしている・・・・、
自ずと信仰を集めたことでしょう。
 
 
天長3年(826)、慈覚大師「円仁」がこの地に寄り、自らが刻んだ千手観音を安置しました。
山上から眺めた景色が琵琶湖とその彼方に仰ぎ見る比叡山に似ていたのでした。
佐久の盆地に朝霧が降りていたのでしょうか?
その彼方に聳える蓼科山から八ヶ岳に連なる山脈が比叡の山に見えたことでしょう。
そこで、閼伽流山の麓に明泉寺(天台宗)を建てました。
 
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      9合目辺りから佐久盆地を眺める。盆地に朝霧が降りていたら…、琵琶湖・比叡山に見えたでしょう。
 
寺は一時、荒廃しましたが、建久年間には源頼朝が三重塔を建立して諸堂を修復しました。
天文16年(1547)には武田信玄が村上義清との戦いを前に戦勝を祈願しました。
天正年間には武田勝頼が寺領35貫文を寄せ、諸堂を修造しました。
閼伽流山には閼伽流城の案内もあります。
関東進出を目論んだ武田一族にとっては戦略地点だったのでしょう。
ところが、文禄年間(1592-1596)火災により全山焼失し、65世海舜法印が重興して現在に至っています。
 
明泉寺脇からは山上に登る細い道が通っていました。
案内板を見れば車も通れるように描かれています。
でも、道は傷んでいますし、幅の無いマーチでさえ葛や萩の葉の小枝が車体に触れて行きます。
唯一の確信は大正時代に皇太子(後の昭和天皇)が登られた…、事実です。
皇太子様が昇られたのだから・・・屹度、観音堂までは車で登れるに違いない・・・、
細心の注意を払いながら前進あるのみです。
 
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登り出すと直ぐに第一ゲートがありました。
更に2㌔ほど登ると第二ゲートがありました。
第二ゲートには7丁目の案内石塔が建っています。
後で分かったのですが、目的の観音堂が10丁目、そして閼伽流山の山頂が12丁目です。
屹度お寺に依頼して鍵を預かってくれば、第二ゲートも通れたのでしょう。
此処で、下車して800m程登ってゆきます。
 
歩けば様々な発見があります。
和讃を刻んだ石塔が数多く立っています。
石の観音様も祀られています。
芭蕉の句碑もあります。。
「觀音の甍翁見や李つ花の雲」 と刻まれています。
芭蕉翁は桃の花の上に観音堂の甍を見ながら登ってこられたのでしょうか?
芳香が漂ってきました。
匂いの彼方には「くさき」が花を咲かせていました。
「くさき」は花は芳香ですが、枝を伐採すると強臭を発するのです。
 
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     登り道には観音様が出迎えてくれます。 基台に奉納者の出身・名前が刻まれていました。
 
杉林の向こうに観音堂が見えてきました。
観音堂は30mもある岩場の下にあります。
岩の下に石仏が並んでいます。
観音堂(東北端にあります)に近い位置から、坂東33観音霊場、秩父34観音霊場、そして西南に西国33観音霊場を示す観音石仏が並んでいます。
石仏の意匠は皆同じです。
舟形光背に、観音像が浮き彫りされています。
どの石仏も端正なお顔立ちで、確かな石工の腕を感じます。
高遠石工の仕事である・・・、そんな話もあるようですが…、納得するような石工の技量です。
 
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          30m余りの巨岩・絶壁の下に観音堂が建っていて、その岩の下に石仏が並んでいました。
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                              奥の巨岩に沿って約100m、観音石仏が並んでいます。
 
舟形光背の前面右側に「坂東7番」などと霊場の名が刻まれています。
左には石仏寄進者の出身地と名前が刻まれています。
当所と書かれているのは「佐久郡香坂」なのでしょう。
大半が佐久一帯の人の寄進であるようです。
 
”沢山の観音様を造仏する”、そんな信仰は平安時代三十三間堂の千手千体観音像が有名です。
群像の迫力や有難味が深い信仰を促したのでしょう。
江戸時代庶民に信仰の主体が移ると、盛んに百体観音だ造仏されました。
高遠石工の「貞次(1765~1832年)」は各地を回って石仏を彫りました。
建福寺(高遠)をはじめ海岸寺(北杜市須玉町)等で百体観音を刻みます。
西国観音霊場を巡りたい…、願っても行けるものではありません。
そこで、身近な霊地に観音霊場を勧請してしまうわけです。
 
観音霊場のご本尊を石仏に刻んでもらい・・・・、それを一番から結願の33番まで並べました。
その隣には秩父観音霊場を、その隣に坂東観音霊場を勧請しました。
北佐久の人々は閼伽流山に登れば百観音霊場を巡ったと同じ霊験が預けられる…、信じたのでした。
 
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                        何と言っても石仏が置かれた背後の巨岩に圧倒されます。
 
私の直感では閼伽流山の百観音像はそれほど古くはないと思います。
江戸時代末期…、直感します。
何といっても巨岩の下に並んでいます。
大きな岩はそれ自体霊感に溢れています。
その下に一列に並んでも…、岩の大きさ、自然の雄大さを引き立てるばかりです。
その光景が素晴らしいのです。
 
 
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                                                 石工の確かな技量を感じます。
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     光背の右に観音霊場の番号、左に奉納した人の出身地名前が刻まれています。
     石工の名前も奉納した年も分かりません。
 
観音堂に参拝者ノートが置かれていました。
ノートを見ると参拝者が如何に少ないか良く解ります。
前回の参拝者は20日も前でした。
だから、道路は草や雑木が生い茂っています。
でも、車のすれ違いは滅多にありません。
素晴らしい自然に、秀逸な百観音が祀られているのですから・・・、
もう少し、参拝者があっても良さそうなものです。
 
 
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百体の道標観音(北軽井沢)

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昨日は軽井沢の南、佐久の閼伽流山山頂に祀られた百観音を紹介しました。
今日はもう一つ、北軽井沢に集められた百体の観音像を案内します。
 
中軽井沢から国道146号線(日本ロマンチック街道)を行くと、峰の茶屋に出ます。
この三叉路を多くの人は「鬼押し出し有料道路」にハンドルを切ります。
真っ直ぐに旧道を進み、竹内ゴルフを目標に南に折れると桜岩地蔵尊に出ます。
石割桜が咲く名所で、お地蔵様が祀られていました。
お地蔵様の前庭に百体の観音様が並んでおいでです。
この観音様は一般の百観音とは少し違った歴史を経ています。
 
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        正面が桜岩地蔵尊。その左建物は分去茶屋を髣髴させます。今日の話題は百体の観音像です。
 
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                          桜岩地蔵尊に円空似の像が奉納されていました。
 
天明3年(1807)浅間山は大噴火します。
溶岩流が一気に北西方向に流れ下りました。
その凄ましさは今も鬼押し出しの溶岩に見る事が出来ます。
溶岩は更に北西に流れ、六里ヶ原を埋め尽くします。
六里ヶ原から更に鎌原観音堂に流れ着き、多くの人を呑み込みました。
 
六里ヶ原は交通の要衝で、分去(わかされ)茶屋がありました。
茶屋を北(高崎方向)に行けば狩宿の宿場(長野道)に行けました。
東南(上田方面)に行けば沓掛に出ます。
西(草津方向)に向かえば大笹宿に出ます。
 
長野街道と草津道の分岐点が一面の溶岩で覆い尽くされてしまいました。
霧が出たり天が曇れば、山が見えないので方向感覚を失います。
旅人が真っ黒な溶岩の中で道に迷ったら…、命を落としかねません。
 
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   今も分去茶屋には3軒の休憩施設があります。正面(西)に白根山が見えます。大笹宿の方向です。
 
天明4年(1808)旅人の苦難を見かねた分去茶屋の助四郎は提案します。
「道標(みちしるべ)観音像を祀ろう!」
1丁(60歩、約110m)毎に一番観音から33番観音まで祀れば、
旅行者は無事に溶岩原を抜け出る事が出来るから良いじゃないか!
そこで、分去茶屋に基点になる観音像を祀りました。
そして志を同じくする人を募りました。
 
暫くすると、狩宿、高崎方向に向けて坂東1番、2番……、と並び始めました。
沓掛、上田方向に向けても、西国1番、2番、3番・・・・、と並びました。
何時しか33番まで並びました。
旅人は溶岩に躓きながらも、1丁毎に配番された観音様を拝みながら…、
無事に溶岩原を脱出できたことでしょう。
”賽の河原のお地蔵様のようだ”
溶岩原の観音様に感謝しました。
 
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            桜の樹下にある基点観音像(馬頭観音)。この像を0番として、3方向に33観音像が祀られ、
            道標となって旅人を導きました。
 
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          西国17番の十一面観音、奉納者の名と住所(信州須坂の田○)が刻まれています。
 
 
旅人の命を守った観音像でしたが・・・、今ではその役目を終えたようです。
そればかりか、観音像が路傍から消えて…、跡形も無くなってしまいました。
 
1914年草軽電気鉄道が信越線軽井沢駅から草津温泉まで敷設されました。(全線55キロ)
浅間山の高原を走り、草津を結ぶ鉄道はスイスアルプス鉄道の日本版だったことでしょう。
温泉客を運び、農産物をや硫黄鉱石(火薬の原料)を運びました。
戦争が終わり火薬の需要も減りました、
さらに1945年国鉄吾妻線が通ると、草軽電鉄は役目を終えたのでした。
同社は今は草軽バスとして北軽井沢・草津の交通機関として役割を果たしています。
 
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      此方は坂東19番の観音像。比丘の姿、4手合掌型なので、羅漢のようにも見えてしまいます。
      奉納者の名が大書されているのが共通する特徴です。
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         此方は秩父(?)16番吾妻群狩宿村が共同で奉納した観音像。帝釈天を想わすな姿です。
 
草軽バスは「六里ヶ原の道標観音」が消えている実態を見て、心を痛めていたのでしょう。
その保存に立ち上がります。
街道の路傍に立っている観音像を分去茶屋の基点観音の周りに集めてしまおう…、考え実行に移しました。
百体あった観音像は30体余りに減ってしまっていました。
 
平成3年、地元の人によって百体の観音像に戻されました。
分去茶屋の助四郎の志を尊いと思い、長く伝えて行きたい…、地元や草軽バスの想いがそうさせたのでしょう。
 
 
でも天明年間の石仏と200年後の石仏を見比べると、少し残念です。
天明年間のほうが遥かに優れているからです。
平成の石仏も天明に負けないように、心を込めて造仏すれ良かったのに…、思います。
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         前列が天明年間の石仏、後列が平成の石仏。消滅した石仏を補って百体にしたもの。
 
道標になっている石仏は数多くあります。
私の周囲にも鎌倉道や江の島道の辻辻にあり、左「江の島・右八王子」等と書かれています。
また、峠道や登山道にも道標観音が祀られています。
昔の人の優しさや、社会観が尊く思われます。
 
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   此方は文化8年(1811)造立と書かれています。十一面観音の頭頂部にお地蔵様が居られます。
   意匠も民俗的です。1808年から数年をかけて百観音が整備された・・、と考えられます。
 
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              この石仏は石工の屋号が左上に記されています。山屋、とでも呼ばれたのでしょうか。
            高遠石工の流れを受ける越後の太郎兵衛は¬○のしるしを残しました。
            こうした記しや特徴を追って石工を調べるのでしょう。
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                                            六里ヶ原道標観音像の案内板
 
 
 
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お父様からの贈り物(蓮華升麻の花園)

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I君が別荘の庭を案内してくれる。
庭と言っても何の造作もない。
建物の脇から崖を下って、平地に出る。
ブナの樹下、下草が生い茂っている。
植物を観察できるように細道が通っている。
細道は下草に隠れているので、遠目には唯の叢のように見えるだけである。
実は、この叢が山野草の宝石箱なのだ。
 
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             別荘の庭先で山野草の種付き状態を確認するI君。花は今日の主役「蓮華升麻」
 
I君が教えてくれる。
「これがレンゲショウマだ、可愛いだろう」
私は腰をかがめて、花を覗き込む。
レンゲショウマは草丈が50㎝ほど、茎の先に下向きに花が咲く。
花を見るには花の下に顔を差し込まなくてはならない。
私は「レンゲショウマと女性は下から見なければならないな!」
冗談を言いながら、痴漢事件で放擲された植草一秀氏(経済学者)を思い出す。
 
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               蓮華升麻の花。俯いて咲いていますが上向きにすれば蓮の花に似ています。
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      俯きに咲くのは地面に近い所に棲んでいる虫に見つけてもらうため?
      もう水引が咲いていました。横浜の水引よりずっと色鮮やかでした。
 
 
下から花を覗き込めば納得する。
蓮の花にによく似ている、
蓮華は上向きに咲くのだが、レンゲショウマは下向きに咲いているだけ。
でも、蓮華に比べれば蓮台に当たる部分がふっくらしていて、桃割れ(少女の頭髪)のようだ。
横から見れば提灯のようにも見える。
実に愛らしい花だ。
漢字に直せば「蓮華升麻」と書く。
升麻とは漢方薬の名前だ。
 
山野草の愛好家が垂涎の的とする、絶滅危惧種の蓮華升麻が辺り一面に咲いている。
有難い空間だ。
滅多に拝めない景色だ。
 
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       鮮やかな橙色で、撫子のような姿の節黒仙翁。下向きに咲いている蓮華升麻も見えます。
 
 
I君は蓮華升麻の傍らを指し示す。
鮮やかな橙色の花が咲いている。
「フシグロセンノウ(節黒仙翁)と言うんだ、茎の所々が節になっていて其処から枝分かれしている。
節のところだけ黒くなっているだろう、だから節黒というんだ。」
仙翁とついているのは、仙人が好んだのだろうか?
    (家で調べると京都の仙翁寺に因んだとのこと)
”橙色の撫子”といった感じだ。
 
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傾斜地に背丈の高い草がある。
茎の先に小さな花が沢山ついている。
でも、全体としては地味な花である。
近づいて小さな花を見詰めると、実に綺麗な花である。
薄紫の花弁の真ん中から金色の蕊が数多く出ている。(実は花弁に見えるのは顎へんで花弁は無い)
I君が名前を教えてくれる。
「シキンカラマツと言うんだ」
漢字に直せば「紫錦落葉松」であろうか?
 
紫は花弁の色、錦は蕊が金色で花弁と合わせて錦だからだろう、
落葉松とつくのは・・・・・、
落葉松草の仲間で、雄蕊の形が落葉松に似ている為だそうだ。
これも希少種で人気が高い。
園芸店では良く似た「雲南落葉松」を商っている。
 
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                               アップで見るとその美しさに見惚れてしまう「紫錦落葉松」
 
この他にも秋の用意をしている山野草が数多くある。
 
I君のお父様が山野草がお好きで・・・・・、先ず山野草が好みそうな地勢に別荘地を購入し、
歳月をかけて山野草の花園をプランされた。
深山幽谷を歩いて山野草を見つけておく。
花が終えて、種が実ったらそれを採取して、別荘地に種蒔きしたものであろう。
長い歳月をかけて愛しんだ結果・・・、現在のように珠玉の山野草が見事に自生し、花園になった。
 
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                                              秋本番を待つ「山牛蒡」の蕾
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                   I君に教わったのですが、忘れてしまいました。教会の鐘のような花です。
 
I君の娘夫婦も、孫も理系で山野草が大好きだそうだ。
従って、I君の家系は理科系でII君だけが文系ということになる。
で、I君を含めて親父も子供も孫も全員が山野草に理解が深い。
 
私も学生時代何度かお父様にお目にかかったのだが…、満足なご挨拶も出来ないでいた。
こうして、手塩にかけた山野草の花園に身を置くと、お父様のお人柄が解るような気がする。
まして、I君をはじめ親族の人は花園に居れば、お父様に会うような気がするであろう。
 
花が咲くのは一時のこと、咲く前後には長い地味な時間がある。
ブナの落ち葉の下から芽吹いて、草丈を伸ばし、自分が咲く順番を待ち、体の準備をする。
一気に花を咲かせれば・・・、体は枯れても種を残し、地表に落とす。
種の上には又ブナの枯葉が落ちて、発芽を促す。
I君も次世代もそのサイクルをジッと見詰めて、生育を妨げるものがあれば適切な対処をする。
お父様の花園は孫子に受け継がれ、沢山の眼で大切に守られている。
素晴らしいプレゼントになっている。
 
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       初夏に咲いた軽井沢テンナンショウは実をつけていました。秋には真っ赤に染まる事でしょう。
 
【追記】
初夏の花園は下記に書きました。軽井沢テンナンショウの花、九輪草、瑠璃草、二人静などが咲いていました。
 
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鎌原観音堂の馬頭観音群(浅間山大噴火からの復興)

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富士山が大噴火したのは宝永4年(1707)でした。
以降、火山灰が原因で飢饉になります。
酒匂川をはじめ関東の河川は洪水を繰り返すようになりました。
この天災の復旧には四半世紀を要します。
一方で、二宮尊徳のようなリーダーを送り出しました。
 
天明3年(1783)は春先から浅間山が小噴火を繰り返します。
ついに7月8日火口は大爆発をします。
灼熱の溶岩流が火口から北に噴出しました。
溶岩流は「鬼押し出し」の溶岩群を形成し、山麓を溶岩原(六里ヶ原)に変貌させました。
火口から13キロも下った鎌原では、火砕流(土石流)に変わっていました。
一瞬のうちに鎌原村を埋め尽くしてしまいます。
当時の人口は570名、この災害で477名もの命が奪われました。
大爆発があれば火砕流が襲ってくるかもしれない・・・、知っている人は少なかったことでしょう。
避難する先は高台にある「鎌原観音堂」しかありません。
いち早く非難した人は僅か93名でした。
 
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   北軽井沢、群馬県嬬恋村の鎌原観音堂。 赤い橋の下に35段の石段が隠れています。観音堂は村から20   メートルほど高い位置にあった事が解ります。橋の右側の角塔は被災者の墓標です。
   訪れた時刻は夕闇でもう電燈が点き、観音堂も記念館も閉じていました。
 
 
鎌原観音堂は50段の石段の上に祀られていました。
娘は年老いた母を背負って50段の石段を登り始めました。
”観音様の足もとに辿り着けばきっと助かる”、信念があった事でしょう。
ところが、三分の二登ったところで、躓いてしまいました。
立ち上がろうと力を入れても・・・、足腰が言うことを聞いてくれません。
足元には火砕流が近づいています。
娘は観音様を念じながら・・・・、お母さんを背負ったままで立ち上がろうとしました。
でも、疲れ切った体は母の重みの耐えられませんでした。
観音様は母と共に殉じて行く娘を愛おしみながら見詰めるだけでした。
 
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  紅い橋の下に石段が35段埋もれていました。この橋の下が地獄である。そんな意味でしょう橋の袂に奪衣   婆(地獄で亡者の衣服を剥ぐ役、「うばいババア」と案内)が置かれていました。火山岩を使ったオブジェです。
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     鎌原観音堂石段の人骨発掘写真。頭蓋骨が二つあって娘(?)が母(?)を背負っている姿が確認され       る。娘は母を背負ったままで必死に生き抜こうとしているようだし、背の母は自分は諦めて背から降りた     いようにも見える。 (案内板の写真を複写)
 
 
大半の人を失った鎌原村でしたが…、生き残った人々は村を離れませんでした。
観音堂が自分を守ってくれた…、感謝の気持ちは離村を踏み留めたのでしょう。
亡くなった家族を弔い、再び畑を開墾し始めました。
今では嬬恋高原野菜のブランド産地になりました。
 
現在の石段は15段が地表に出ています。
火砕流に埋もれた石段はどうなっているだろうか?
人々は観音堂の石段を掘ってみました。
掘り出してすぐに、白骨化した人の手が出てきました。
指先は這い上がろうと石段を掴もうとしています。
もう少し、もう30センチ前に進めば助かったもしれない…、思いながら掘り進めます。
すると、その背にもう一体の白骨が現れました。
人々は火砕流に呑み込まれる断末魔の光景を見る思いがしました。
 
背中の母を放り出せば自分は助かるかもしれない…、けれども娘はそうはしませんでした。
娘の背に負われた母は手を放して、娘だけは助かった欲しい…、思ったことでしょう。
でも、娘は母の思いを拒みました。
結局、二人とも天命を運命に曝すだけでした。
 
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 浅間山大噴火の案内板。左下図は火口から火砕流が北に向かって流れだし、鬼押し出しから六里ヶ原、鎌原 村を経て吾妻川に流れ込んだ事を示しています。
 
 
人々はポンペイの家族を思い出しました。
ヴェスヴィオ火山が大噴火して、火砕流に沢山の人々が呑み込まれました。
父が娘のかばって、その体を抱えるような姿で亡くなっていました。
鎌原村の悲劇を、火砕流の恐ろしさを知らしめたい・・・、
郷土資料館を作って展示しています。
 
北軽井沢から嬬恋も観光開発や農場の大規模化か進行しました。
道路整備が進むと、何時しか観音堂の境内に村内の石仏が集まりました。
並んでみると・・・・・、天明の大噴火があった、その後暫くの間に造られた石仏が多い事に気付きます。
もっとも多いのが文化年間、次いで文政、天保年間です。
大災害が起きて信仰心が強くなったからでしょうか?
それとも、災害後の復旧が上手くいったからでしょうか?
 
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   鎌原観音堂境内に集められた石仏群。驚いたことに総てが馬頭観音像でした。
   そして、大半が浅間山大噴火の復興期間中に造仏されていました。
 
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気が付くのはどれもこれも馬頭観音像だということです。
どの馬頭観音も所謂墓標仏ではありません。
建立された年月日が刻まれています。
その日が何の記念日なのか解りません。
農家や馬子の大切な馬が亡くなった日かもしれませんし、
旅行者の安全を祈願した日かもしれません。
 
馬頭観音ばかりが祀られている光景は…、人間と馬の係りを良く示しています。
 
私は推測します。
多分、火砕流で埋もれてしまった畑を開墾するために馬が字の通り”馬車馬”になって働いたことでしょう。
畑に落ちた火山岩を掘り出して石垣に積みました。
火山灰の畑を耕しました。
どれもこれも重労働で、馬がいたからこそ達成されました。
だから・・・・、人々は馬に深く感謝しました。
感謝の気持ちが、次々に馬頭観音を祀らせました。
 
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   三体とも文化年間(1810年代)の造仏でした。誰が何の為に造仏したか…、刻まれていません。
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     頭上に馬頭が無ければ馬頭観音とは気付きません、可愛らしい馬頭観音。左右とも天保年間の造仏。
 
 
鎌原観音堂の白骨は大噴火の悲劇と”人の絆の深さ”を示しています。
また、石仏(馬頭観音)は人と馬(家畜)との関係のあるべき姿や、人の努力の尊さを教えてくれます。
 
 
地震も、津波も、大噴火も奇妙なことに80年周期に起こるようです。
そして、天災からの復興に四半世紀を要しました。
人の知恵も努力もその都度求められます。
200年前の人は天に唾することなく、懸命に努力し、成果を収めました。
 
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                   一番左が文政年間(1820年代)、その他は文化年間(1810年代)の造仏でした。
 
 
 
 
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嬬恋村の「愛し合う道祖神」

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”「嬬恋村」にはユニークで素晴らしい道祖神が祀られているから、見に行こう”
私は日本文化研究会のI君、H君を誘って軽井沢から浅間山の脇、峰の茶屋を超えて吾妻川渓谷を下った。
嬬恋も吾妻も日本武尊の東征伝説によるもの、
街道(長野街道・国道145号線)は記紀の時代に遡る歴史や文化財に恵まれている。
 
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                    吾妻川上流、少し下ると名勝の吾妻渓谷になる。東吾妻村はこの下流。
                    新しい橋は河原湯に新設される八ッ場ダム(やんばダム)につながるもの。
 
道祖神の「祖」の字は示す扁に「且」と書く。
且は甲骨文字で男根の意味だそうだ。
だから…、道祖神とは「路傍に祀られた男根の神様」を意味している。
 
道祖神として目にする形は様々である。
石柱に漢字で「道祖神」書かれたものもあれば、円石(甲斐地方)や性器に似た自然石を祀ったものもある。
荘厳な社殿に祀られた神像もあるし、路傍に佇む神主の姿をした神像(単身)もある。
多様な石像の一形式に男女のカップルを刻んだ道祖神もある。
これを一般に「双体道祖神」と呼ぶ。
 
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        道祖神とは「祖」、すなわち男根を祀る信仰です。神奈川県茅ケ崎で撮影。
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                        座間神社(相模)の僧形の道祖神、右手に男根も祀られています。
 
道祖神は全国にあるものの、双体道祖神は関東を中心に信濃地方にしかない。
私は直感的に思っている。
「双体道祖神は江戸時代、縄文文化圏に突如現れた形態である」
そして双体道祖神がユニークなのはその形態が地域地域によって全く異なる事にある。
あどけないこけし人形のようなもの(相模地方)もあれば、夫婦の僧侶が佇むようなものもある(相模地方)。
結婚式の祝言のようなもの(千曲地方、安曇野地方)もあるし、夫婦を鮮やかに彩色したものもある。(安曇野)
そして、新婚の歓びを男女の神が体一杯に表現したものもある。(吾妻地方)
土地により像碑によりその表情を著しく変えているのが双体道祖神の特色であり、魅力である。
 
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                     安曇野の祝言型道祖神。着色が特徴で、平安貴族の正装です。
 
私は助手席に座って路傍に目を凝らす。
辻や集落の入り口、橋の袂や神社の鳥居の下に目を遣る。
そんなところに双体道祖神は祀られている事が多いのだ。
ところが、なかなか見つけられない。
私の視力が落ちたのか、感が鈍ったのか、道祖神が何処かに隠されたのか…、いずれかであろう。
 
私達は東吾妻村岩島にある「応永寺」で尋ねる事にした。
ゲートボールに興じていたお年寄りに伺った。
「この道祖神様、何処に祀られているかご存知ありませんか?」
私が示した数枚の写真を見て教えて下さる。
「これはアベック地蔵尊だべ、国道を南に登って・・・○○にあるだべさ!」
「こっちは新しいもんだべ(昭和)、○○の家ではこなんなものが好きで新しく作って祀ったんだべさ。
岩島駅の越して、石上橋の北、コンビニの真向かいにあるだべ!」
教えてくれた。
 
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      岩島の双体道祖神。道は長野街道。民家の板塀に大黒様と並んで祀られていました。
 
お年寄りの言われた通り、「岩島の道祖神」は○○家の板塀の前に祀られていた。
左に大黒天、右に道祖神と書かれた石碑がたっている。
真ん中に堂々と誰にも憚らず、何にも臆することなく、男女二神が恍惚の表情で睦んで居られる。
 
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   男神の姿が大黒様風(帽子など)であり、女神の姿が島田の髪を結った大店の奥方風である所が面白い。
   従来の双体道祖神は神主の衣装であった。
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                   この像は村内にある像を昭和になってから複製したものだそうです。
                   勿論このお屋敷の主人が子孫の繁栄を祈願したものでしょう。
 
男神も女神も目を瞑っている。
着物の裾を割って、女神の太腿が露わに剥きだしている。
待てよ、この図は何処かで見たような気がする。
私は江戸時代後半狂気の浮世絵師と評された「歌川圀芳」を思い出した。
圀芳は浮世絵の範疇に収まらず奇抜な作品を多作した人であったが、
作品の中では妖怪図や化け物図が有名である。
その作品の中に「あぶな絵」がある。
多分「あぶな絵」は「危ない絵」という意味であろう。
春画とか枕絵に似たジャンルであるが、春画に比べれば猥褻ではなく、浮世絵に比べれば隠しておきたい・・・、
そんな浮世絵であろう。
浮世絵作家とすれば「お上に捕まるかも知れない危ない絵」だから、作者名も隠して発表するのだが・・・、
矢張り、江戸時代も末期になると抑制に抗しきれず、描きたいものを描いたら、
相歓図になってしまったのだろう。
江戸の町で流行った「あぶな絵」が上州の山間で双体道祖神になった、そうかんがえる。
 
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                                           国芳のあぶな絵。
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                         筆者は上州の道祖神には江戸の浮世絵が影響したと考えます。
 
面白いと思うのは『双体道祖神が、田舎である吾妻村で大胆な姿態になり、
江戸に近い相模国で地味な僧形であったのか?』  という事である。
儒教の影響のない素朴な田舎のほうが、人間性を素直に表せたのであろう。
 
吾妻村では夏祭りの最中であった。
週末には村の鎮守で盛大に催され、神輿が村内を練る事であろう。
でも、ゲートボールのお爺ちゃんでは昔風の重たい神輿は担げまい。
過疎、高齢化では少し心もとない。
田圃に目を移せば稲が花をつけている最中でもある。
『そうか、夏祭りは夏の後半、稲刈り前の空いた季節に行う、と同時に
稲が花を咲かせて受精する、最も大事な季節に行うのか?』
 
稲も受精しなければ実らないし・・・、人も男女が睦む事で子孫が繁栄する。
睦まなければ…、子孫は途絶えてしまう。
道祖神は「祖」をフルに働かせて、子孫を産めよ増やせよ、・・・・人の背を押す神様であったのだろう。
過疎高齢化の村を巡ると、道祖神の有難さが良く解る気がした。
 
 
思えばこの世に生を受けた男女が肉体で結ばれて行く姿を、石に留めて信仰する形は他に例が無い。
江戸時代になって、人間性の解放を信仰にまで昇華したのであろう。
男女相歓の姿には中世的な儒教の臭いは全く無い、あるのは大らかな人間性の解放図だ。
そこが道祖神の魅力でもある。
 
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             諏訪「尖り石古墳」出土の縄文ビーナス。筆者は道祖神のルーツだと思っています。
 
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松ヶ岡の「夕顔の花」

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今年は我が家の庭で夕顔を栽培しました。
旧盆の入りには咲き出して、今が盛りです。
これから、晩秋まで咲き続ける事でしょう。
朝顔に比べれば花期が長いし、花数も多く、感心するばかりです。
 
北鎌倉の「松が岡東慶寺」に夕顔が咲いています。
私は楽しみにして、今年も昨夕観に出かけました。
東慶寺は閉門が5時です。
私は閉門と同時に門を潜ります。
「夕顔を観に参りました。直に出ますから・・・」許しを請うと、
「門は鍵をかけてしまいます、帰りは寺族の使う通用口から出てください。」
快く通していただいた。
 
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      東慶寺のお茶室の縁側から見える位置に夕顔が栽培されています。この辺りは花菖蒲の田圃です。
      赤い花は大犬蓼。
 
夕顔は御茶室の入口、菖蒲田に沿って栽培されている。
地面から50㎝ほど高い位置に竹を井桁に組んで、夕顔の蔓が竹に絡んで横に広がっている。
常緑の葉の上に白い蕾が朝から伸びて、夕刻にかけて少しずつ開いてゆく。
花が咲き揃うのが夕方の5時頃になってしまうわけだ。
それから、一晩中咲き続け、朝陽が出るころ萎れてしまう。
クシュクシュに縮まって、ポトリと蔓から落ちてしまう。
 
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                                                   東慶寺の夕顔の花
 
歳時記で「夕顔」を調べると「夏」と出てくる。
私の感覚では、夕顔の花が咲くのは秋なのに、歳時記と違っている。
因みに「夕顔の実」は秋であり、実を削って作る干瓢は冬ということになる。
夕顔は晩夏から秋にかけて盛んに咲くのに、歳時記と違っているのは納得できない。
 
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            東慶寺の夕顔の花のアップ。艶やかな花弁。花が右巻きに捻られている所も印象的です。
 
実は私が夕顔だと思って栽培していた花が「朝鮮朝顔の改良種」であることが解った。
今年の夏「お盆の迎え火」を記事にしたとき、”玄関には夕顔が咲き始めました…”、と案内したところ、
「この花は夕顔ではありません、朝鮮朝顔です」教えられたのであった。
 
私が栃木の叔父さんのお寺で見た夕顔はカボチャのようであった。
ただ、花は白くて、実が丸い冬瓜のようなものであった。
蔓も葉っぱも夕顔はカボチャに似ていた。
 
カボチャでは庭先では栽培し難いし、花も雅さに欠ける・・・、
そこで、種苗会社が朝鮮朝顔を輸入して改良に改良を加え、「夕顔」と評して販売したものであろう。
歳時記では「朝顔は秋」であるから、この改良種(朝顔系)が秋になると盛んに咲くのも納得できる。
改良種(朝顔系)は普通の朝顔と同じで、実を付けない代わりに、少し大きめの種を残す。
 
東慶寺さんでも、改良種(朝顔系)を夕顔です、と題して栽培している。
本家本元の夕顔の種は肩身を狭くして、
野菜の種のコーナーで「干瓢」と表して案内されているのだろう。
夕顔が欲しければ野菜の種を求めなくてはならないのだろう。
 
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                                   此方は垂直に絡まった蔓に咲いた夕顔の花
 
紫式部も清少納言も夕顔を愛している。
日本人が1000年もの間愛してきた夕顔が見捨てられて、
近年になってから朝鮮朝顔系の改良種に伝統の名を奪われてしまうのは、忍び難い。
夕顔は平安の昔と同じ夕顔であるのが当然で、
輸入種をベースに改良種を開発したのならば、輸入種(朝鮮朝顔)と名を付けて販売するのが良識であろう。
朝鮮朝顔という名でも、美しい事には変わらないし、白い光沢のある花弁はシルキーな感触があって美しい。
民族服チマチョゴリの上着「チョゴリ(襦)」を見る思いがする。
 
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            旧松ヶ岡(割烹)の窓際に「グリーンカーテン」として栽培された夕顔。現ピッザレストラン。
 
東慶寺参道入口左に「松ヶ岡」という名の割烹があった。
この場所が「駆け込み寺(江戸時代妻の側から申し立てる離縁訴訟)」のお白洲があった。
だから松ヶ岡は真っ黒くて、太い、四角い格子戸が張り巡らされている。
奉行所を思わすデザインであった。
鎌倉を代表するような割烹であったが、数年前閉店していた。
今年ピッザのレストランとしてオープンした。
その格子戸に面して夕顔を栽培している。
鎌倉散策を楽しんでいる人が、足を止めて眺めて行く。
 
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                 夕暮れとともに次々に咲き始める夕顔の花。昨日の花も萎れてついています。
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でも、少し不思議な気がする。
東慶寺も松ヶ岡もお客さんが来なくなった時間に花を咲かせる・・・事になる。
皆さんが見ない時間にこそ美しく咲いているんですよ・・・、
そんな働きかけが「奥ゆかしい…」 という事であろうか?。
 
でもくどいようだが、夕顔の名は日本古来の夕顔にこそつけておいてほしい。
外来種や改良種と混乱するようなネーミングは避けてほしいものである。
 
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              松ヶ岡旧跡を示す標識を背に咲いた夕顔の花。木下春氏の「ほおずき」も印象的でした。
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                                       此方が日本伝統の夕顔の花。
 
 
 
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夕顔納涼図の疑問

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昨日に引き続いて「夕顔」の話をします。
私は毎年朝顔を育てていますが、今年は一袋夕顔の種を買いました。(実は朝顔の改良種)
8粒ほどの種は総て発根・発芽して育ちました。
ウロ抜くのも可愛そうなので、家の西側フェンス、門の脇、植木鉢…、あちこちに植えました。
お蔭で、家中が夕顔の花に囲まれています。
朝顔はもうお終いで、茶色の種に変わっていますが、夕顔は今が盛りです。
案内によれば、晩秋まで咲き続けるそうです。
 
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                                         我が家のフェンスに咲いた夕顔
 
 
昨日も日中は33度、朝晩は25度に満たなかったです。
今日の天気予報も同じで、彼岸までは「夏日」が続くと予測されています。
でも、朝晩は過ごし易くなりました。
今も我が家の庭先では四方八方から虫の音がすざいていますし、
空には薄く月が出ています。
 
学生の頃東京国立博物館で、「夕顔棚納涼図」を見て少なからず衝撃を受けました。
この時初めて久隅守景(くすみもりかげ)を知りました。
 
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     「夕顔棚納涼図」 作/久隅守景 農家の庭先に夕顔棚があって、その下で夕涼みを楽しんでいる一家      の図です。親子三人には涼風が吹いてきます、月も出て来ました。目線の先には畑があって作物が順      調に育っている事でしょう。秋の虫の音が響いてきます。サトーハチロー風に”小さい秋見つけて”いま      す。(東京国立博物館のライブラリーから)
 
家族三人は夕顔棚の下に茣蓙を敷いています。
農夫は頭を剃っていますが…、昔は武士だったのでしょうか? 
丁髷のように頭の後ろに黒髪が残っています。
裸でなく単衣を着ているのも・・・、
インテリ風の顔をしているのも・・・・、昔は武士であった事を暗示しているのでしょうか?
一方、妻と思われる女性は、腰巻一枚で上半身は豊かな体、白い肌を露わにしています。
腰巻を紅くしなかったのは・・・・、全体の調和を重んじたのでしょう。
夏でしたら…、蚊に食われて痒くて痒くてこんな露わな格好で庭先には出られません。
一粒種の男の子も視線の庭先に向けています。
家族全員で虫の音を楽しんでいるようです。
 
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                                                         同上アップ
 
久隅守景(生没年不明)は寛永年間から元禄時代にかけて活躍した絵師で、
前半生は狩野探幽の弟子として活躍します。
探幽の姪「国」という娘を妻にしたことですから、期待は大きかったと想像されます。
国との間に生まれた倅「彦十郎」娘「雪」ともに絵師になったが、彦十郎は所業非行、雪は駆け落ちします。
加えて守景も狩野派の技量を批判します。
この結果守景は狩野派を追放されてしまいます。
江戸を追われた久隅守景は、金沢から京都に移り、流浪の絵師として生涯を過ごすことになる。
「夕顔棚納涼図」も、流浪中の金沢で描いたものと言われています。
親子三人が揃って夕涼みする光景は幸福で何の心配も無く絵師として活躍した守景の追憶の景色だったのかも知れません。
 
絵から見る限り棚に絡んだ蔓は夕顔には見えません。
夕顔なら夕顔の花が描かれる筈ですが、花は一輪も無く、ブラリ・ブラリと実が垂れ下がっています。
私にはこのぶら下がりが瓢箪のように見えます。
夕顔よりも細長いし、気持ち真ん中辺りがくびれている様に見えるのです。
 
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                                                     瓢箪
 
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                                  夕顔の実はこんな大きさで恰好をしています。
 
一般にこの図は木下長嘯子の短歌に依って描かれていると言われています。
その為に短歌に従って「夕顔納涼図」とネーミングされています。
 
      夕顔の咲ける軒端の下涼み
             男はててれ女はふたの物

「ててれ」とは粗末な単衣もの、「ふたの物」とは腰巻のことです。
夕顔の咲いている軒端の下で家族が夕涼みをしているよ・・・、
男はステテコ姿で、女性は腰巻一枚で・・・・、何もわだかまりの無い至楽の光景であるなあ・・・!
そんな意味でしょう。
守景は師の狩野探幽と異なり訥々とした墨絵が特徴で、
耕作図等の農民の生活を描いた風俗画が多く残されています。
探幽以降狩野派はその画風を絶対視する中で形骸化し見るものが無くなってしまいます。
守景の絵は農民風俗を描きながら、雅で高貴な趣きを残しています。
国宝の評価を受ける所以です。
 
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                                              我が家の鉢植えの夕顔
 
木下長嘯子とは歌人としての名で本名は「木下勝俊」です。
豊臣秀吉の正室「寧子(ねね)北政所」の弟木下家定の嫡男です。
北政所の甥となる武人です。
兵庫県龍野の城主を経て若狭小浜の城主になります。
関ヶ原の合戦では東軍に組しますが、開戦直前に守りを解いて敵前逃亡します。(一説では京都の天皇を守ろうとしたと言われています)
徳川家康が天下を取ると封を奪われて、京都東山で隠棲し歌人として一生を過ごしました。
先の「夕顔の歌」のように風景描写を得意とし、芭蕉などにも強い影響を残したと言われています。
 
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                         朝顔は秋の季語です。今が最も盛んに咲いています。
 
久隅守景と木下長嘯子は似た境涯にあったと言えましょう。
また、風景を描くに際し点景として農民の姿を描いた事など、共通する歌論(画論)を持っていたと思われます。
守景が瓢箪棚の下で夕涼みする農家の家族を描きました。
それを見た人が「素晴らしい!」と評しました。
「まるで、長嘯子の夕顔の歌のようだ!」
その結果、瓢箪が夕顔に見えてしまい「夕顔納涼図」と呼ばれるようになったのでしょう。
 
私は守景の苦笑いが聞こえてくるような気がします。
「夕顔なら白い花を描くよ、わざわざ干瓢の実を描くことは・・・しないよ。
瓢箪を夕顔に見られては私の技が劣るのかな?
でも、長嘯子の歌に通じるというのは我が意の通りだよ。
江戸時代になって平安な一時が訪れて…、初めて美しい風景と、風景に溶け込んで生活する尊さが解った。
それを画面に描いたまでだよ・・・。」
 
この時代京都では桂離宮が営まれ、伝統の雅な中にも新しい感覚の文化が咲きました。
一方では琳派が活躍し、もう一方でミレーのような久隅守景が生きていました。
気高く生き抜こうとした姿は夕顔に似ています。
 
まあ、私も守景とは程遠いながらも、夕顔を楽しみながら・・・、
残された人生を味わいながら送ることに致しましょう。
 
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